1 :
考える名無しさん :
2011/05/22(日) 14:32:27.43 0 哲学のみならず経済学や歴史学の分野でも業績を遺した、 スコットランドの啓蒙思想家デイヴィッド・ヒュームについて語ろう。
全物質主義の元祖なんで、藤原雅彦がろくでもないと批判してましたが、 今の技術至上系のダーウィニズム(国際競争殲滅思想)は彼が原因じゃないでしょうか。 ハイテクがもたらした弊害の殆どは彼の因が大きい。形而上学には。
3 :
考える名無しさん :2011/05/22(日) 14:53:35.33 0
どの本のどの部分が国際競争殲滅思想?
3 というか、結果的にそうみちびかれたという話では? 物質主義とダーウィニズムが結べば当然そうなります。ハイテクが勝つ。 スコットランドの技術志向も彼に一つの源があるのか。
5 :
考える名無しさん :2011/05/22(日) 14:56:39.50 0
そもそもヒュームってダーウィニストじゃないよね
原理主義に対しては一つの解答を示してますね。 「物しかない」と言えば脱構築vs原理主義 の普遍論争も終わる。 にも関わらず語りえないことを語ろうとする第三諸国(英・大陸・その他の意味で)はオリエンタリズムで処理できる。
ヒュームのせいで人類はお先真っ暗 明日、太陽が東から昇ってくれないなんて! という理解でよいですかw
7 聖体論争の時代ですから。 結局ルターとカルヴィンがその辺は宗教学面で奪った。 結局ヒュームが残したのは「物質独立起源説」ではないか? これをいまだにホーキングも信じてる。
9 :
考える名無しさん :2011/05/22(日) 20:45:06.88 0
まあライプニッツやスピノザ、カントのうちの形而上の部分、 ヘーゲル、ハイデガー このあたりと比べれば、英米思想ってのは現代日本人にもすんなり入っていけるもの が多くないか?近世から現代まで 最終的に納得できるかどうかは別としても、きり口としてはね
10 :
考える名無しさん :2011/05/22(日) 20:47:11.87 0
英米の方が歴史的にしがらみが少なかった分、何かを気にして思想がくねくねまがることなく、ストレートなんだよ
大物感がないという批判がありますが、小物らしさに利点がある。 この「利点」というのが曲者で、やはり哲学とみれば小さなスケールでしょう。 物質主義はどうすべきか、の問いではない。しかしヘーゲルもハイデガーもべきの問い、 普遍倫理の本質を求めようとしている。物質主義はただの科学補修の説です。 当時あった魂と肉体の論争、デカルト的世界観をしりぞけた、という島国の論理。
12 :
考える名無しさん :2011/05/22(日) 21:47:26.47 0
まあほんとは経験論的観念論をおしすすめると 物質主義にはまったくならないけどね。 科学も同様。当方、理系だけど物質主義でもないし唯物論でもないです。
12 とは?
14 :
考える名無しさん :2011/05/22(日) 23:53:53.39 0
まあヘーゲルよりヒューム、もっとくだれば分析哲学のほうが知的営みとしてはまっとうだと思うけどねえ。
そもそも哲学に大物なんてないんじゃないか?フレーゲみたいな斬新な切り口の天才はいても
誇大妄想もいい加減にしろよ、なにが精神の自己展開=現実だよ、
誇大妄想をあげつらって大物扱いするのはおかしいんじゃねえか?と思っちまう
>>11 物質主義で何を意味してるんだ?なんか悪いもんなのか?
それが経験論と何の関係があるんだ?
経験論は脳の力学です。以上
>分析哲学のほうが知的営みとしてはまっとう 自作自演のどこがまっとうだよ? 分析哲学は自らの偏狭さで問題を山ほどつくりあげてから、 解決策を議論したり、提示された解決策の批判を繰り返してるだけ。
具体例をどうぞ
>>7 ヒュームに対する誤解の代表乙。
ヒュームの主張は、因果関係は論理的な関係でなく自然的な関係であるということ。
この辺、自然の斉一性原理とも関連してる。
因果関係が存在しないと主張してるわけではない。
>>8 物質独立起源説って何よ?
ぐぐってもこのスレのあんたのレスしかヒットしないぞw
>>18 自然的な関係というのは因果関係がアプリオリに存在してるということ?
それで人間がその因果関係を見いだす時は恣意的でしかないみたいな感じですかね
21 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 00:56:26.08 0
ヒュームはヒューマニスト
22 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 00:58:50.88 0
なんか経験論と物質主義?の関係がわからねえ。 経験論的観念論って、 そもそも つきつめればアプリオリなものなんてのはない ってことじゃねえのか? 因果関係は自然にあるものではなく、われわれが経験から帰納して勝手に結論づけているだけ。 つまり因果は経験内容を勝手に解釈したアポステリオリな代物ってことにならないか? 世界も物質も科学も懐疑される。 因果関係は論理的な関係でなく自然的な関係ってのはヒューム独自なんだろうけど、なんでそうなっちゃうんだろ? カントはこの因果律ってのは人間の悟性能力としてアプリオリに備わっていて、 「経験」を悟性の因果律のワクにあてはめていくとした。 つまりヒュームがアポステリオリとした図式にのっとったまま、解釈を変えてアプリオリに読み替えたわけね。 このへん、カントは因果関係は論理的な関係でありかつ経験的な関係ということにできたということか? しかしカントの悟性概念やカテゴリーってのも、やっぱり独断的な前提にすぎないんだよな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86 ヒュームの原理(Hume's Principle、HPと略称される)とは、数Fsと数Gsの間に一対一対応(全単射)
があるとき、FsとGsは等しいとする原理。ジョージ・ブーロス(George Boolos)によって命名された。
ヒュームの原理は二階述語論理の考え方に沿って定式化できる。
ヒュームの原理は、フレーゲの『算術の基礎』において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』
第1巻第3部からの引用というかたちで言及されている。この著作でヒュームは観念と観念の基本的
関係には7種類あると述べている。その1つである量や数における比例についてヒュームは、量に関
してわれわれがおこなう推論は幾何学によって表現されるが、それが「完全な厳密さと確実さ」に
達することはありえないと述べている。幾何学の原理は感覚認識に由来しているからである。これ
に対して、ヒュームによれば、数や算術について行われる推論は厳密さと確実さに達しうると述べ
ている。
それゆえ、われわれが、推論の連鎖をどれほど複雑に続けても、完全な厳密さと確実さを保持する
ことができる学問としては、代数学と算術だけが残る。われわれは、数の等しさと比を測定するた
めの正確な基準をもっており、数がこの基準に一致するかどうかによって、誤る可能性なしに数の
間の関係を決定するのである。われわれは、二つの数が、一方の数が他方の数に含まれるすべての
単位〔数の一〕をに対応する単位〔数の一〕を含むように構成されているとき、それらの数をたが
いに等しいと言う。そして、幾何学を完全で誤ることのない学問と見なすことがほとんどできない
のは、〔空間的〕延長においては、等しさのこのような〔正確な〕基準がないからである[1]
24 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 01:23:24.35 0
やはりヒュームは近世では最重要古典だな。 カントからヒュームにたちかえってもう一度立て直す。 ドイツ観念論が日本で中心にあったのは大日本帝国の特殊事情だろ。
25 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 01:39:22.57 0
認識論が懐疑主義的であることと政治哲学の業績があることではカントもヒュームも共通している。
26 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 02:08:31.86 0
>>22 例えば全ての人間が梧性、感性等で成り立ってると
必ずしもそうではないではないかと言いたいのであろう、その前提に根拠がないと
言いたい事は良く分かる
しかし、そこを批判しちゃったらそもそも人間の前提を批判しちゃって
何にも成り立たなくなっちゃう、カントはそういうものを前提にしているように思える
そしてヒュームとかの懐疑論だと懐疑論の懐疑論になっちゃって話が進まない
一方、近現代の哲学者でカント(プラトンもそうだが)を批判しているのは
批判のピントがずれてるように思える
例えば人間の自然のままの性質、こういうものを批判しないとカントやプラトンを
真に批判した事にならないように思える
カントやプラトンは人間の自然の絶対的な性質を前提として
その上でありのままに生きるのが正しいのではないかという哲学を展開
しているように思える
カントやプラトンの前提というか縄張りみたいなものを批判できるのか?という
大陸とは別の理念、というのが骨ですよ。それを見越してる。 大陸哲学と同一地平で争ったら負けだからニュートン力学の形而上学解釈に進んだ。 こういう意味で、プラトンからカントへの王道は決して辿らない、というのが英吉利なんですよ。
>>24 おそらく伊藤博文が一人の主犯ですよ。彼がドイツ憲法を輸入した。
そのせいで福沢-ミルのラインから傾いたんです。
物質主義系譜はその後、京都学派の成立で途絶えました。
29 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 14:21:20.26 0
>>27 むしろ経済力や軍事力、自然科学、工学、政治力などの実質面で
近代の英米に太刀打ちできないから
ドイツなんかは形而上学的な哲学思想に引きこもってきた傾向があるとおもったが。
>>28 君、物質主義ていってるけどどういう意味でいってるの?
イギリス経験論的な観念論と、自然科学と、機械論的唯物論と、産業経済とすべていっしょくたにごっちゃになってないか?
物質主義?むしろそういう時代を通り過ぎた第三次産業中心の記号的消費社会だとおもうけど。
>>26 >>例えば全ての人間が梧性、感性等で成り立ってると
必ずしもそうではないではないかと言いたいのであろう
>>人間の自然の絶対的な性質
いえ、そういうことでもない。悟性や感性自体まで疑ってはいませんよ。ヒュームも
そうではないでしょうか。
ただ、絶対的な性質、というと人間のイデア(神のような)やら定言命法やらという形而上
な慣習法や律法主義のニュアンスが出てくる。
私としては現代的にはより広くおおきな意味でのプラグマティズムでこれらも包括し解釈した方がいい気がするんですよ。
(実利だとかいう意味ではないですね。
あなたがいうように、社会的便宜としての形而上学的概念だととらえるということ。
しかし自由な思考はもっと疑い、西欧の伝統的呪縛の外で自由に他の可能性を探ってみてもいいのではないだろうか。)
というより、本来は認識のしくみというのは認知科学や心理学、神経科学などの知見を待たねば何も断定的なこと詳細なことは
いえないはずでは。(これらでもわかりようがないといえばどうしようもないけど。)
一方で、「論理構造」の部分については矛盾がなくうまくいくならそういう独断的前提もあっていいのでは。
議論の混ぜ返しはルール違反だと思いますね。よみかえせば分ることを。聴けばいいのですよ分らないときは。
Pragmatismが支配的思想というのは植民地の自虐ですよ。別に其れだけが思想じゃない。 大陸哲学との関係は日本にとっても似た条件であり、国家単位の問いに返ります。 つまりナショナリズムですよ、どれかの思想を他に包括させようとは。 それと、物質主義自体は確立した用語。実際元祖の一でしょう。
32 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 17:27:45.65 0
お前の方がルール違反だろ。 論破されるのが怖いのか?
経験論と、カント以後の形而上学を接続したのがウィトだった。 この経験論の胴元がいわばヒューム。「科学」とは何かを最初に定式化している。 当時の物質主義は人間との関係を失っていた(無神論に漸近していた)が、彼が懐疑的認識を肯定した。 その後の産業革命、社会ダーウィニズムな帝国主義時代も実際は科学利用という意味でヒュームが胴元でしょう。 ウィトはこの後にきて、語りえないこと=論証の不能さ、を科学認識へも持ちいれた。 要するに、大陸との関係とみてヒューム胴元とその物質主義的傾向のイギリス哲学は、一貫して形而上学の成立を否定してるんですよ。 机上の空論を全面否定しているとみてもいい。科学認識が物への確信でしかない、といったのはヒューム。その上にウィトが「他は語るな」といった。
34 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 19:24:44.01 0
>>物質主義自体は確立した用語 >>聞けばいいのですよ、わからないことは 聞くのは三度目だが、今度こそ説明してもらおうか。君が物質主義という言葉で何を 意味しているのかを。 >>経験論と、カント以後の形而上学を接続したのがウィトだった たしかに古い経験論とカントの影響を受けている部分もあると思わされるが、彼は認識論や存在論の 問題は(公的には)棚上げにして議論している。私はこの姿勢は正しいと思っている。 カント以降の形而上学?それは関係ないと思うが。 >>Pragmatismが支配的思想というのは植民地の自虐 アメリカ発の思想方法だが、別にアメリカの専売特許でもない。 Pragmatismを法的にアメリカから強制されているわけでもない。 Pragmatismであることがナショナリズム?賛同する奴はここにはひとりもいないだろう。 別に君に強制するつもりも毛頭ないし。 政治的文脈を切り離して、素直なアタマで諸学の概念や社会通念を反省してみればよいという提案だよ。 (数学や論理における公理の選び方から定言命法的とされる律法までね) 批判は論説に内在する論理そのものや経験にもとづいてやるべきであり、君のは単なるぼんやりとした被害妄想。 (話はそれるけど、まあ今の日本やドイツ=植民地でもいいだけどね。はっきりいって長い間日本国民が背負ってきた絶対的貧困は 解消されたし、言論の自由も拡張されたし。プロイセンやドイツ帝国、戦前の大日本帝国の一元論的権威主義(そしてそれに一役買ってきたドイツ観念論)よりはるかにましだよ)
35 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 19:45:13.08 0
>>科学認識が物への確信でしかない ヒュームの経験論的観念論からすれば、科学はモノへの確信ですらないだろう。 知覚や経験に立ち現れる現象の帰納的な規則(とおもわれるもの)、これが科学ということになるだろう。 つまりヒュームは科学の基礎付けなど行っていることにはならずその根本から懐疑的である。 むしろカントの悟性的認識までの議論の方が科学の肯定になってるくらいだと思える。 イギリスの経験論や分析哲学が物質主義?百歩譲って功利主義を挙げるにしても、 ミルのいう功利主義は単純な物質主義などといえる代物ではない。より大きく広い意味での高尚な人間の功利・幸福も視野に入れたものだ。 >>その後の産業革命、社会ダーウィニズムな帝国主義時代も実際は科学利用 産業革命では物理学や化学の成果を応用しているが、工業と純粋な科学とはその精神性も 目的意識も全く違う。分けてかんがえるべきものだ。(確実にあるいは高確率にいえることを見極める)純粋科学のどこが問題なんだ? 科学からはなれていうならば、産業革命からつづく現代ということで批判されるべきことと、生産力拡大による絶対的貧困の撤廃と、余裕ができたことによる庶民の教育・文化・生活水準の向上いう成果 をトータルで考えるべきもの。君はどういう文脈で批判しているのかな?
36 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 21:01:35.77 0
さらに付け加えれば、 物質主義とはフェティシズム(モノへの崇拝)のことだと思っていたが。 理科系で自然科学やってきた俺は別に物質主義ではないし(いまの西欧先進国の多くの人間もそうだろう)、 唯物論ですらない。 またヒュームの懐疑的な経験論的観念論と物質主義とは関係ないと思ってきたが。 ヒュームの経験論的観念論とフェティシズム(モノへの崇拝)とどう関係あるのか論理的に示してほしい。
37 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 21:35:54.87 0
ウィトゲンシュタインの有名な箴言を換言すれば「わからないことは考えるな」。 これじゃ哲学にはならんでしょ。 ウィトゲンシュタインやその後継は、哲学の主題をすべて言語体系という狭い領域に押し込めて 言語がすべてを表現しうるものとして自明視してしまってる。 それではヒュームの言う「触発」は起こりえない。 ドゥルーズはそこを批判したんだ。 実際、われわれ人間は言語で考えてる(思考してる)わけじゃない。 言語化される以前のイメージ(表象)で考えてるわけで。 ちなみにプラグマティズムの直接の期限は南北戦争にある。 南北間の埋めがたい溝を解決するひとつの思考実験としてプラグマティズムが生まれた。 また明治日本がドイツ憲法を範にとったのにはシュタインの影響が大きい。 彼の憲法学(ある意味ホッブズ的)が伊藤や西園寺に引き継がれ日本に移殖された。
38 :
訂正 :2011/05/25(水) 21:40:01.78 0
>ちなみにプラグマティズムの直接の期限は南北戦争にある ちなみにプラグマティズムの直接の起源は南北戦争にある
39 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 21:47:45.56 0
>>わからないことは考えるな 言語がすべてを表現しうるものとして いやちがうと思うよ。ウィトはわからないことも考えてはいたしそういう領分の尊重を否定してもいなかったよ。 そうではなく現代の学として「語る」という点で、「語りえぬことには沈黙しなければならない」 という自明なことを確認しただけだろう。 また言語ですべてを表現しえないが、学的には言語で表明するしかない以上、 言語で表現しえない領分を学的な対象にするわけにはいかないという姿勢ではないか。分析哲学は。 ある意味、カントの理性批判の方向とも重なるのでは。 その着眼点や手法はちがうが。
40 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 21:49:48.97 0
現代人における哲学の主題とは?
41 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 21:55:05.76 0
>>36 >理科系で自然科学やってきた俺は
哲学科卒でもないのに哲学を語るな!
>そうではなく現代の学として「語る」という点で、「語りえぬことには沈黙しなければならない」 >という自明なことを確認しただけだろう。 現代の学を「成り立たせる」ためだけに、分からない事は語るなと言うのなら、 それは魔女狩りをした宗教と大差無い暗愚ですよ。
43 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 21:59:22.50 0
>>39 それじゃたとえば映像については説明できないわけだよね?「学的」には。
そこでは「学」というものの範囲が極めて限定されることになる。
そんなものに存在意義はあんの?
ベルクソンは否定的ではありながらも、このことをしっかりと考えていた。
ウィトゲンシュタインやその後継たる分析哲学に足りないのはそこだよ。
これだけ根拠不明なイメージが幅を利かせてる時代に。
少なくともスターリン=ヒトラ−以降の哲学としてはポンコツでしかない。
44 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 22:03:54.66 0
>>これじゃ哲学にはならんでしょ そりゃ伝統的哲学の独善的なアフォリズムやなぐりがき散文、定義や用法の混乱に乗じた煙幕・ごまかし・誤解を一層して あらたにメタ学問・メタ科学としての現代的な哲学を立て直そうっちゅうとこじゃないか? 存在の神秘だとか神の神秘だとか自我の謎だとかを問題設定にしたければしても良いけど、 それはもはや現代の学となるものではなく伝統的な秘教の延長だよ。それは各自が瞑想でもして究めるべきこと。西欧がこういう領域にまで 理性や言葉(ロゴス)で語りつくそうとしたことが誤り。このあたりに関心のあり、合理化したいものには謙虚で限定的で慎重すぎる分析哲学や諸学では不満があろうがね。
45 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 22:16:44.08 0
>>44 現実がよく見えてないようでw
現実の政治や経済は言語化される以前の根拠不明なイメージで回ってる。
政治家や企業経営者がなぜあれほどまで執着的にイメージにこだわるか、
イメージが人間の社会を回してるからであり、戦争も革命も大虐殺も、
こうしたイメージと深く関わってるからだよ。
そうした現実に対して深く切り込まないのならば、哲学はその名を返上して
修辞学にでも道を譲ったほうがいい。
まぁそれこそ中世的な「秘教」への回帰だけどねw
46 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 22:19:05.70 0
>>41 話の内容自体を批判・検討してください。
>>43 >>それじゃたとえば映像については説明できないわけだよね?「学的」には
映像については、どういうことなら学的に語れるが、
こういうことは語りえないということはあるだろう。
映像ということであなたが何をさしているのかはわからないが。
>>42 言論封鎖しているわけではない。
私は禅の姿勢は正しいと思っている。
そして経典を著した禅の大家たちも、その境地が本来語りえぬものであり、
書物や文言はその領域の本質をさししめしていない、本来的にできないと自覚している。
それは媒介(触発)の道具である。ハイデガーやヘーゲルをそのような位置づけで読むのはいい。
そういう書物や文言は学といえる代物ではない。
言葉どおりに学としてとってはいけない。「境地」の周りを永遠にめぐるだけでたどりつけないだろう。
カントでもウィトでもいいが、きちんと区別せよ、ということではないか。
>存在の神秘だとか神の神秘だとか自我の謎だとかを問題設定にしたければしても良いけど、 >それはもはや現代の学となるものではなく伝統的な秘教の延長だよ。 それは、答えが出せないからかな? ならば問おう。答えを出す為に問題設定をするのか? それは、救いという答えを求めて、聖書を読み耽るのとどれほど差があるだろう?
48 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 22:28:12.97 0
>>45 イメージを否定しているやつなどこの世にはいない。
言語がすべてというやつもいない。ウィトも分析哲学屋もそんなことを考えてはいない。
学として明晰に物事について「語る」という観点から言っている。
学的には「語る」しかないのだ。
もちろん、分析哲学のような言語主義は問題や文脈、語彙のごちゃまぜをふせいでいえることをいう一つの方法。
人間理解には心理主義もくわえるべきだろう。
言語、心理、生命原理、これらが人間の基本であると考える。
言語や論理に比べて、心理や生命原理についてはいえることはまだ限られている。
だが、たんなる言語的論理的関心にとどまることはないだろう。
正義っ何色なのかな? 愛の血液型って何かな?
50 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 22:35:00.23 0
>>47 それは、答えが出せないからかな?
そうとはいいきれない。
道元和尚にとっては答えは出ているであろう。
問題はそこではない。
>>答えを出す為に問題設定をするのか
そうであるといえるし、それだけではないともいえる。
論理学上、物理学上の問題設定、工学上の問題設定は救いという答えを求めて、聖書を読み耽ることとはちがうであろう。
51 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 22:40:32.24 0
>>46 映像は映像でしょ。
視覚を使って光学的に受け取るもののことでしょ。
つか
>映像ということであなたが何をさしているのかはわからないが。
こういう物言いこそおまえさんの批判する伝統哲学の常套手段「誤魔化し」じゃないのかい?
スターリンが始めてヒトラーが踏襲した政治的プロパガンダの手法はその後東西の枠組みを越えて
世界中に広まったし、経済においてもマーケティングという手法で映像は強力に利用されてる。
そういう現実に対して「わからないことは言わない」じゃ、現状に為すに任せよ(レッセ・フェール)
と言ってるのと同じだ。
まぁだからこそ大体の論理実証主義者は政治的に西側陣営についてきたのだろうけど、
プロパガンダの普及に見られるように、西も東も関係ないからね、そんなものは。
52 :
考える名無しさん :2011/05/25(水) 23:01:20.35 0
>>51 >>映像は映像でしょ。
視覚を使って光学的に受け取るもののことでしょ
それだけの意味であるならば、それは語りうるだろう。
色のクオリアについては語りえないだろう。
もっと意味をもたせているのかと思っただけだ。
別に何もごまかしてはいない。むしろはっきりさせようとしているだけだ。
>>マーケティングという手法で映像は強力に利用されてる そういう現実に対して
そういう商業主義の問題の文脈で話をされているようには見受けなかったが。
であれば、映像は視覚を使って光学的に受け取るもの、とだけいえるものではない。
それは(まだまだ不確かで弱い科学だが)経済学や心理学によって(物理学ほど精度はよくないが)語りうる事象ではないだろうか。
それともこういうことをあえて形而上学や形而上学批判、弁証法、存在論で語りたい欲求を抑えられないということだろうか?
映像を使ったマーケティングは企業の商業的プロパガンダであるということであるが、
大衆が喜んで便益を受けて来ている以上、ただスターリンやヒトラーのそれと同じくくりで並べてしまうのは
単なるルサンチマンや劣等感ではないか?そうではないというなら、問題点について具体的にあげてくれれば一緒に考えよう。
53 :
考える名無しさん :2011/05/26(木) 05:30:02.61 0
次は「ヒュームと解離」ってお題で
>>50 >論理学上、物理学上の問題設定、工学上の問題設定は救いという答えを求めて、聖書を読み耽ることとはちがうであろう。
私は、そこは違わないと思いますね。少なくとも、根本においては。
宗教、論理学、物理学の出す解答とは、どれも不確かな物です。明日も成り立つとは限らない…。
そのいずれもが、明日も成り立つであろうという確信の上に成り立っています。
ですので、それらは極端に、その確信を崩されるのを拒みます。神を、言葉を、疑って語ってはならないなんてね。
ミルらとの合流はまだしてないと思いますね。違う系譜じゃないですか。 ミルの時点で物質主義的傾向は消えている。それとは違うのが科学ー物質主義系譜じゃないか。 自分はベーコン、ホッブズ、ロック、ヒュームの系譜をまとめて仮に物質主義とよんでいる。経験論は要は物質主義ですよ。 脳を物としてとらえる。生物機械論とかはそうやってでてくる。 にほんでも水戸学と京都学はやはり系譜がちがうわけです。武家系と公家系として。それと似た状況ではないですか。
分析哲学・言語学派は、ホーキングに批判されてるわけですが、彼はやはり物質主義ですよ。 唯物論とまではいってなくて心は認めている。人間らしい心を。けどそれはやはりホッブズ経由で彼にとって生物機械の働きです。 神がいなくていい、ってのは物質主義。宇宙に神がいなくていいと。 こういうわけで、ヒュームの時期に「確信」という意味合いでもう理性と科学の関係は総合されてると思います。 その時点で確信にすぎないが、実証知識だけを語れ、という暗黙の了解ができあがった。カントはそれを古典的形而上学にひきもどした。 ある意味では、語りえないことは沈黙しなければならない命題(沈黙命題とします)は、定言命法への反命題でしょう。 この形而下学限定派と、大陸的な形而上学の伝統派はいつもやりあっている。ホーキングがその先鋒で、デリダとかを馬鹿にしている。
ウィト以降は、ヒュームも学問じゃないといえるでしょうよ。沈黙命題の一つなんだから。 「確信」という語も定義というか実証できない。だから黙っておいた方が得策となる。 語り得ることは語ってもよい、という意味で形而下学しか認めない。これが英吉利流じゃないですか今も。 功利主義はどっちかといえば傍流じゃないか。それは基督教との便宜的調和の為でしょう。あまり信じてないのではないか。
形而上学は遊びでしかない、ってのが英吉利哲学のかたほうの根っこにあるのではないか。基督教は利用しつつ。 ホーキングは完璧にけなしてますからね、言語学派を。 デリダらはやはり律法の解釈学とかで大陸型の主導権をにぎりたかった。けど遊びである、と。 沈黙命題の前では何も言えてないもしくは定義の錯誤なのだから。
にほんでは、モギケンさんはもう物質主義でしょう。彼の思想は脳をどう扱うかにしかない。 ホッブズの後継でしょうよ。 唯物論というのはいいづらいですからね。それは神学用語ではないですか。 ヒューム級のゆるい唯物論は物質主義・materialismといえるのではないか。
60 :
考える名無しさん :2011/05/26(木) 14:36:08.42 0
みてるとヒュームスレというかイギリス思想スレみたいだが、 功利主義はイギリスの本流のひとつだよ。 古典経済学(スミスからはじまる自由主義経済学)の発想にも影響を与えている 現在もだが。 功利主義を信じていないというのはどういうことか。 それですべて説明できるとは言い切れない問題点はある、が 多くの現代的課題や生活において功利的観点で考えることのないやつはいないと断言してよい。 無意味な道徳的縛りややせがまんはいらん多くの場合で合理的な処方として採用することはある。英米の強さはここにもあったと思う。 あるいはプロテスタンティズムを強く擁護することも可能である。
61 :
考える名無しさん :2011/05/26(木) 14:36:45.88 0
>>私は、そこは違わないと思いますね。少なくとも、根本においては。 宗教、論理学、物理学の出す解答とは、どれも不確かな物です そこはむりやりすぎるだろう。その構造、方法、出自、精神性も全く違う。 また徹底的な懐疑主義をとるにしろ確かさ、不確かさの度合いはある。 明日も成り立つとは限らない。これは帰納法の限界というやつでたしかにそのとおりではある。どこまでいっても暫定的な知識で推測的しかありえない。 だが明日、万有引力の法則が成り立たないかもしれないといって物理学を使わず聖書と同列にする人間はどこにもいないだろう。 確実性の面でいまのベストはそれしかないし、それでうまくいかなかったことはないからだ。うまくいかない事態があればさらに改良(相対論・量子力学)、それを繰り返して近づけばよい。 完全である必要はないし不可能なのだ。その時点でのベストでしかない。だがそれは検証なく受動的に聖書にすがることとは異なる。
62 :
考える名無しさん :2011/05/26(木) 14:38:50.52 0
>>経験論は要は物質主義 >>神がいなくていい、ってのは物質主義 ここはかなり論理の飛躍・思い込みによる一般化があるだろう。 それぞれの言葉の意味からいっても即物質主義だということにはならんし無神論ということにもならんだろう。 これだけの理由でヒューム=物質主義、科学者=物質主義、 イギリスの思想=物質主義だと主張しているのか? 論理的帰結によってではなく、ホーキングのような単純な精神を例に出して勝手に一般化しているにすぎない。 伝統より深い意味での神(という言葉が適切かどうかはわからんが)を信じている科学者、分析哲学者、数学者は多い。 シュレーディンガー、ハイゼンベルグ、アインシュタイン・・・ そういえばウィトゲンシュタインも神を信じていた そしてそれぞれ特有の思想をもっていたようだ だがそれを学的なものとは考えなかったし学術論文として発表もしなかった。 日記にでも殴り書きしておく類のものだ。
モギケンが物質主義ってことはチャーマーズも物質主義ってことになるのか
いいえ、チャーマーズが陰謀論者でモギケンがネオコン陰謀の手先です ところで、いつからウィトなんて呼ぶようになったんだ? 大昔からずっとヴィトがデフォだと思ってたんだが
Wienと書いてウィーンと読むが、WittgensteinはそのWienで生まれた。
ヒュームよりロック派
ものすごく簡単にしてしまうと、ダーウィニストは殲滅思想でしょう。弱肉強食の肯定。 ただゆるい殲滅をそのほかの傾向がゆとり巾として保っている。米資本はダーウィニズムでしょう、原理。 ネオコンサバとかは、ネオリベと同じでどっちにせよ殲滅思想でしょ。中国共産党も、官僚主義なだけで同じでしょう。 ヒュームはそこまでの路程表を書いたんじゃないですか、今となっては。物しかない、感情も大事、だから信じろってとか言って。
やっぱり『国家の品格』は売れただけもあって一発屋ではあるが重要書ですね。 あれはナショナリズムでしょう、単に。けど細かなところではするどい指摘がある。 武士道の復興とか、あれ対ダーウィニズムでしょう。けど、イスラム原理主義もあるから、 その辺りはナショナリズム論争という話にすぎないでしょうけどね。精神論だし。 哲学的に価値は低いでしょうが、いいあててるのはネオナショナリズムで、 反社会ダーウィニズムという第三諸国での流行でしょう。柄谷がこまかくいろいろ言ってるが、 にほんは帝国主義化しそうだししなさそうというのは政治原理がない、ということで、 ネオナショナリズムに国勢を傾かせたいわけですよ、留学した二流学者は。一種の反動形成として。
69 :
考える名無しさん :2011/05/26(木) 17:48:18.29 0
『国家の品格』は間違いや思い込みが多すぎるからそのまま真に受けずに ちゃんと自分の頭でよくよく考えて検証した方がいいよ。科学や思想の勉強・考察もしたほうがいい。 君はよく考えてみもせずに人の言うことを鵜呑みにしたり、すぐに物事を結び付けすぎる。 あとはなんでもかんでもすぐに政治的文脈にもっていく癖。 それといまはネオ・ダーウィニズムだよ。 もはやイデオロギーではなくれっきとした科学 (遺伝学やフィールド実験の検証に耐える)になっている。 ところで、生命や生態系の法と人間社会をそのままイコールにするのはあらっぽすぎるし弁証法並みに問題があるが、 人間も生命であり社会もその生命の生態系である以上、それが妥当に成り立つ要素はある。 ここは感情的に受け入れにくいからといって、すぐ強者の政治的イデオロギーととるのではなく、 ちゃんと科学的に考察・検証しなければならない。 でなければ弱者が難癖つけているだけになってしまう。 (戦後の日本の、虚勢を張らず前向きで裏ではしたたかな姿勢は正しかったと思っている。 だからといって日本人や日本精神が失われたわけではない。そうとらえるのはロマン主義にすぎない。大多数にとってはろくでもなかった。)
英国経験論と観念論と唯物論の関係を勘違いしてる人がいるので簡単に解説します。 ・ホッブスは唯物論です。 ・ロックは心身二元論です。 ・バークリーは観念論です。 「存在するとは知覚される事」で有名ですが、人が実証的に検証しうるのは、 直接に「経験」可能な知覚のみであるから、観念論に達しました。 ・ヒュームは観念論であり、懐疑主義でもあります。 バークリー流の経験論を徹底すれば、自我や因果関係さえも諸観念から帰納的に 想定されたものと懐疑することが出来るからです。
71 :
考える名無しさん :2011/05/26(木) 23:10:09.37 0
>>70 だよな。
ヒュームは観念論の極致であるのに、
ヒュームは物質主義だとかいいつづけるやつがいて、しかも政治と結びつけるなどというお粗末。
なんでそうなるのか意味不明だったが結局まともに答えてはくれなかった。
経験主義=科学=物質 みたいな浅はかな思い込みでいってたのだろうか
72 :
考える名無しさん :2011/05/27(金) 03:15:55.35 0
>>52 まったくわかってないようだね。
映像が哲学と直接的にかかわるのは、それがまさに形態を扱うものだからだ。
少なくとも、ヒュームにおいてはそうだ。
おまえさんは(伝統的)哲学を形而上学(観念論)と一緒だと捉えて、
それに論理実証主義や分析哲学を対立させたいようだけど、
ことヒュームに関していえば、おまえさんの捉えかたは180度間違ってる。
ヒュームは形態について徹底的に考えた哲学者だ。
その遺産はたとえば日本では大森荘蔵に受け継がれてるし、
大森を観念論だというバカはどこにもいないだろう。
実際、現在の自然科学においては物理学でも生物学でも、
観念論的な「実体」の存在など否定されてる。
形態はわれわれ人間が器官的感覚的(ヒュームの言葉で言えば「情念」)に受け取る
ひとつの像でしかない、ということだ。
それがわれわれの社会を動かしてる、ということの重みを感じたまえ。
ヒュームの言うハビトゥスとは、われわれの認知パターンをも意味してるのだ。
ロックが心身二元論的故に唯物論的ではない、とはいえないと思います。ロックは異端? 彼が心の独立を認めていた記述ってあるんでしょうか。そうは思えないんですが。
経験が心(というのが心臓以外の何物か、形而上学的事物だとして)から起源する、という観点は、ロックはとってないと思うんです。 デカルトはそうだったかもしれないが。そうでないと以前に確立されたホッブズ時代の思想の批判、にならない。観念についての論究が、 単に心身二元論です、故に唯物論ではないんです、という読み方はできない。 イギリスは大陸哲学とは系譜がちがうと考えていいと思います。デカルトがいう良識(心のうまれもった性質でしょう)もロックは認めていない。 だから経験論はやはり物質主義ですよ。物の働きにしか神の現れも観ない。そもそも神を疑っている。
>>69 >>71-72 この人はいつもいるみたいだから、名乗ってもらった方が分かり易いと思います。
この人は議論をまぜかえす。分っていないことを聴かず、相手の記述を間違っていると言う。
この人への直接の返答は無限大の多さをもってしまうでしょう。だからこの人だけをピックアップできた方がいい。
返答するにせよしないにせよ。そうでないと話が進まないと思います。
76 :
考える名無しさん :2011/05/27(金) 10:33:29.89 0
>>74 >>75 別に名乗る義務はないね。
ロックは晩年において本質的に心身二元論に回帰した。
それまで、そういった言説を批判していたのにも関わらず、だ。
バークリーもヒュームも、そのことを批判した。
経験論は神を疑ってるんじゃなく、現実を超越したものとしての神(の像)を疑ってるんだ。
そのことを知らずして何が「物質主義」だ。
現在の審級においてしか語ってないだろ、そんなのは。
たとえば、スピノザ。
汎神論と経験論の隔たりは意外に小さい。
イギリスでそもそもドイツ観念論ってどこまで知られてるのかね。 レインの本でヘーゲルの本を渡したら、 「統失患者の面白い例だった」と一笑に付して終わりみたいなの書いてある。 中島義道なんかも、 大陸合理主義とイギリス経験論をカントが批判哲学で折衷したみたいなのは、 それ自体ドイツ哲学の解釈の仕方でイギリスではヒュームの方が偉いのは当然だし、 カントなんてせいぜい道徳哲学者の扱いだ、と言ってるんだが。
78 :
考える名無しさん :2011/05/27(金) 13:52:33.23 0
>>72 >>映像が哲学と直接的にかかわるのは、それがまさに形態を扱うものだからだ
??
>>52 の内容へのレスには全くなっていないようだが。
映像を形態として考えるの考えないの、それを哲学として扱うの扱わないの話は全くしていないよ。
それと、ヒュームスレのなかで申し訳ないが文面をみてもらえればわかるようにヒューム的な視点だけでは全く語っていない。
>>形態はわれわれ人間が器官的感覚的(ヒュームの言葉で言えば「情念」)に受け取る
ひとつの像でしかない、ということだ。
それがわれわれの社会を動かしてる、ということの重みを感じたまえ
君はなんだ?広告代理店の人間か?
認識論上のどの立場をとるのもかまわない。ヒュームには余計物が少なく現代的思考につうじる古典としては最良のもの
のひとつだと思っている。
それはともかくとして、
映像について、心理法則への作用、生理機能への作用、経済原理・構造、など
から語れる範囲内のことを現代の学として具体的に語ることについての話。
それからヒュームの否定はまったくしてなくて、そこはむしろ肯定的・発展的に受け取っている。
それから観念論=形而上学だとも考えてなどいない。ヒュームがまさに実例。当たり前。
>>現在の自然科学においては物理学でも生物学でも、
観念論的な「実体」の存在など否定されてる
そこもちがうな。自然科学は認識論を問題にはしていない。
科学自体は観念論的な「実体」の存在を否定も肯定もしない。
観念論か唯物論か、実体をとるかとらないか、
どちらをとっても科学はできる.
科学の本質とはそういうことではない。
79 :
考える名無しさん :2011/05/27(金) 14:04:33.89 0
>>75 >>分っていないことを聴かず
一部にだけレスして、
核心的なところのほとんどをスルーしてまぜっかえして逃げてるのはあなたでは。
ほかの人はだいたいちゃんと議論や提示をしてるように見受けられるが。
>>76 ここはIDが出ない板だから、発言者の同一性を明らかするために名前欄に何か入れろって話だろ。
あんたは、自分のレスがわかるから不自由しないけど、周りにとっては迷惑なんだよな。
まあ、典型的な長文駄文レスだから、まともに読んではいないがねw
81 :
80 :2011/05/27(金) 14:08:00.58 0
たとえば、こんな感じに自分が書いた最初のレス番号を名前欄に入れておくだけで、 スレの流れがずいぶんわかりやすくなるって話
82 :
考える名無しさん :2011/05/27(金) 14:08:03.45 0
>>73 >>ロックが心身二元論的故に唯物論的ではない、とはいえないと
あなたは唯物論という言葉で何を指してるの?
唯物論である時点で二元論ではないはずだけど。
ロックはヒュームとちがって、大陸由来の形而上学の影響を残した経験論だよね。
83 :
78 :2011/05/27(金) 14:35:51.71 0
名前つけといたほうがよかったかな。
それはいいとして、
>>76 氏と議論した方が勉強になりそうだ。
多分、頭から莫迦にしてるんだと思うんです。遅れていると。直接きいても権威がいないから雰囲気で。 ただ仏蘭西系はちょっと影響力あると思います。彼岸の火事って雰囲気ではあると思います。 それに、今現在イングランド功利主義と、スコットランド物質主義の間にも少しへだたりがある気がする。ミルが王道だと思ってる人は、 どっちかといえばイングランドの側に集積していて、スコットランドは思想の母国ですが、眺めているんだと思います。経済規模とは別に。 多分、オーストラリアの功利主義者らはあまり相手にされていないし、根本的には倫理命題は無視されている。キリスト教でいいと思っている。 哲学の意味が、大陸とは違うと思います。ニュートンの上にあると。ニュートンは哲学者、と言って疑問にされないと思います。 自然科学者は哲学者です。だから大陸合理論の系譜(プラトン→カント→ハイデガー)は、ニュートンの段階で自然哲学の系譜で打ち消されている。 彼らが感心をもっていないのは、合理論→構造主義→言語学派という大まかな形而上学の流れで、遊んでいるだけだということではないか。 ふざけ気味に、ケインズが「神が来た」とウィト訪問について言ったのは、そういう知性(≒悟性)重視の雰囲気が言わせている。
なぜ大陸より数学自体(言語学派としてではなく)への論究が盛んかというと、数学はもう彼らにとっては明白に道具だと思うんです。 大陸は数学とは何かを考えている段階にある。けど「確信」という概念で、ヒュームらによってもうその疑問は解かれているのではないでしょうか。 とりあえず使える、という点で別に数学とは何かなんて相手にしてない、というのは極論ですが、アメリカとのつながりをみているとそうじゃないか。 解釈学派は、地味に仏蘭西デリダの影響下でドイツに主流化してるみたいなんですが、ハイデガーも解釈学派でしょう。 当人のいた時点では成立してなかった用語・語義だけど。けど、イギリス自体は全然今後も関心もたないでしょう。ウィトも、マルクスもそうでしたから。 ウィト『論考』の解説をラッセルが書いている。それが一番イギリス本国の現代哲学の事情を照らしていると思います。
86 :
78 :2011/05/27(金) 18:39:26.03 0
>>多分、頭から莫迦にしてるんだと思うんです。遅れていると。直接きいても権威がいないから雰囲気で。 別にあたまからバカにはしてないと思うよ。 ここは匿名だし、権威とかポジションだとかに配慮はいらないし、みんなしてない。 みんな対等な立場で話の中身自体を検討・考察してるんだよ。ケンカの勝ち負けを競ってるわけではないんだから。 各自が自由に相手に疑問点を問い、自分の頭でよく検討して考えてみて答えていけばよい。 きちんと答えているか?考えてみているか?ということだよ。 検討不足のひとりよがりの思い込みだったと気づくかもしれないし、逆に持論をより強化するきっかけにもなりうるし。
イギリスも19世紀後半にはヘーゲル主義が盛んでヒュームの 全集を編んだトマス・ヒル・グリーン---日本では河合栄治郎の紹介で 新自由主義(ネオリベラリズムではなく、ニューリベラリズム。社会自由主義とも)の思想家として知られる--- もヘーゲル主義者だった。 ムーア、ラッセルら今日分析哲学の祖とみなされる哲学者たちもヘーゲルの影響から出発し やがてカント、ヘーゲルと決別した。
88 :
考える名無しさん :2011/05/27(金) 19:20:04.10 0
プラグマティズムのパースもカントから、 デューイもヘーゲルからはじめて乗り越え、決別、だったな。
×プラグマティズムのパースもカントから、 ◯プラグマティシズムのパースもカントから、
90 :
考える名無しさん :2011/05/27(金) 19:22:48.27 0
デリダ自体、大陸の伝統哲学を批判しまくってるからなあ… 批判そのものが彼の哲学だよ。
ポストモダンを信じちゃいかんでしょ 子供の遊びだよあれは
92 :
考える名無しさん :2011/05/27(金) 19:32:47.38 0
>>合理論→構造主義→言語学派という大まかな形而上学の流れで ていうか、構造主義も現代言語学の応用も現象学も伝統的な形而上学から離脱した 言説の在り方を探る中で出てきたんじゃないか? カントも少なくとも純粋理性に関する考察では、言説の峻別をはかる苦闘をしていたのでは。 形而上学批判という意味では大陸も一緒だと思う。 ヘーゲルからカント(あるいはもっともどってヒューム)へ、 ハイデガーからフッサールへ、立ち返って組み直すというのはわかる。
個人的には、カントの哲学は捨ててしまった方が良いと思う。 カント哲学を絡めようとするから、何もかもが台無しになってしまうのだ。
言説の有り方を探る、というのは、過去の哲学が執着していた点でもありますね。 厳密な言葉を探るのは何故か。それは答えを導くためですが…。 ではここで、そもそも答えを導く必要があるのか、という疑問が湧きます。 哲学とは問う事であると考えます。そこに必ずしも答えは必要では無いのではないか? 逆に言えば、答えを必要とするあまり、『望まない物を見ないよう』にしているのではないか? それは、疑問を問う事とは対極にある考え、つまり疑問を語らない事へと繋がります。
>>93 カントの何がいかんというのか。
理由を書かんといかんぞ。
カントって三回も言ってる
97 :
考える名無しさん :2011/05/28(土) 10:22:04.55 0
>>94 言説の有り方を探る、というのは、過去の哲学が執着していた点でもありますね。
厳密な言葉を探るのは何故か。それは答えを導くためですが…。
厳密な言葉を探るのは答えを導くためではない。
きちんと問題点を把握し、明晰に適切に考察していくためだ。
そして双方のコミュニケーションを成立させるためだ。
科学や論理学、法規定ではないのだから、最終的に同意形成できる答えはでない。
ただ考えてしまうというだけだ。
だが考え、対話し、言葉を用いるのなら、上記の点には配慮しておきたいというのも。
というわけで、
>>94 の後の2段落の文章で言ってることは少なくとも私には関係がない。
>>93 カントだけの問題ではないな。カントには
形而上と現象界の峻別や、悟性認識の図式、カテゴリーなど、
頭の使い方・物の見方という点で学ぶべきところは多いが、
その古い図式はとうていそのまま使えるものではない。
理性(悟性ではない)をめぐる話や形而上学的議論のくだり、形而上学的な倫理学のくだり。
現代においても説得力・必然性があるだろうか?
日本でヒュームの哲学の再評価を主張した先駆者は、渡部昇一。 渡部昇一『新常識主義のすすめ』が先駆けだった。
99 :
考える名無しさん :2011/05/28(土) 11:56:11.75 0
>>97 しかし何が現代に必要かなんて断言できるのであろうか
それこそ独断論であろう、それはヒューム哲学とは違うと思う
100 :
考える名無しさん :2011/05/28(土) 19:10:41.75 0
>>97 ヒュームのことはなんにも言ってないんじゃ・・・
カントの話だな あとは分析哲学や論理実証主義での姿勢のようなものか?
どうもヒュームの話からそれるな このスレ
101 :
考える名無しさん :2011/05/29(日) 00:35:30.48 0
どうしてヒュームへの批判者は揃いもそろって外面しか見ていないのだろう
哲学は新鮮な喜びを与えるよねー!?♪。
>>95 哲学と日常を切り離すために、神を規定した事です。彼の哲学は、そこに終始しているとも言えます。
カントやヘーゲルと違いヒュームって日本語だと訳が古く読みにくい、高い、入手困難などでなかなか読めないし 英語だって難しい。 ヒュームについて議論しようにもちゃんと読んでる人って少ないでしょう。
105 :
考える名無しさん :2011/05/30(月) 12:13:24.41 0
英語で読めばいいだろう。 ヘーゲルよりは読みやすいと思うが。
106 :
考える名無しさん :2011/05/30(月) 13:48:50.31 0
中公クラシックスの新しめの訳があるじゃないか 岩波のはなんで四分冊なんだ?
108 :
考える名無しさん :2011/06/01(水) 22:30:19.37 0
中公の抄訳と、英語のペーパーバックに 手ごろな値段のものが出てたんで、 まずはこれらから求めてみようと思う。 認識論自体に興味があるわけではなく、英米思想の古典の確認なので もっとつっこむかは後でまた判断。 ということでよろしいですか?
109 :
考える名無しさん :2011/06/02(木) 04:48:35.35 0
岩波文庫『市民の国について』(1952年) 安倍能成(戦前の文部大臣)の序文より カントの哲学は日本で最も多く流行した哲学であるが、 殊にその因果論でカントがヒュームの刺激を受けたことは、哲学学徒の誰もが知っている事実である。 しかし我々は哲学史で、ヒュームが因果法を根幹とした認識を、我々の主観域内のものにした、 カントはそれを受けて認識の主観性をみとめつつも、ヒュームと違ってその認識主観内におけるアプリオリを見出したことによって、 人間認識の客観性――必然性、非偶然性――を保証した、というくらいのことを知っているに止まり、 進んでヒュームの書いたものを読み、ヒュームの真意を把み、 カントとの思想関係を文献的にまた実証的に批判することは、あまり試みなかったのである。 ヒュームの哲学的主著である「人性論」、「人間悟性に関する探究」の訳は、世に出はしたけれども、あまり世に行われず、 ヒュームの著作の翻訳もその学問の研究も、まだこれから進められねばならぬと信ずる。
110 :
考える名無しさん :2011/06/02(木) 10:45:02.93 0
>>その認識主観内におけるアプリオリを見出した
それがアプリオリであるということがなぜわかるのだろうか。
あるいは論理主義的な意味でアプリオリと設定している部分はともかく、
心理面、認知面、脳機能面に関しては
認知科学や神経科学、発達心理学などの成果を待つべきものではないだろうか。
まちがってる?
とりあえず、カントにすすむにしても、カントとはちがう方向にいくに
しても(分析哲学でも心の哲学でもなんでもいいが)
ヒュームは読んでおくべきだ。
その上で、その先を考えようと思う。
なんで日本ではヒュームをちゃんと読まないひとが多く(出版もあまりされずに)、いきなりカントやヘーゲルにばかり
行く人が多い傾向がある(あった)のだろうか。
西欧独特の形而上学の伝統とのすりあわせというより、純粋に人間の認識作用そのものに向かおうとした古典であるぶん、
今読んでも不自然さは他のものより少ないのかもしれぬ。
ということで
>>108
「よく独断のまどろみを正された」とカントがいうのは、 経験に基づいて認識が成立する、という点についてじゃないですか。 主観的な確信だがその認識は疑いえなければならない。さもないと独断に陥る。 こういう事をカントはヒュームの著述からさとった、といえるはず。 だからカント哲学そのものが経験論系譜と異なるものではない。 よくいわれてる様、経験論と合理論をうまくまとめたのが三批判書。 数学的厳密性から「学ぶことのできる」唯一の学識=純粋理性として経験論を再構築した、と。 しかしまた現代ではこの数学的厳密性そのものが疑われている。 実際には自己論証できない不安な体系とみなされ道具視されるにとどまっている。
112 :
考える名無しさん :2011/06/06(月) 22:35:44.89 0
>>111 プラトニズムに立つとするならば数学には数学的対象があると言えるけれど、論理には論理的対象があるとは言えない。
論理は諸対象の関係でしかない。
数学も論理学も記号を用いるけれども、似て非なるものってこと?
113 :
考える名無しさん :2011/06/06(月) 23:24:50.52 0
「数」をどうとらえるかだな。 数を論理に回収する立場、 数学的プラトニズム、・・・・ おれは前者のつもりで数学を使っている。
>>112 数学基礎論は、論理式に全ての数学手法をかえしていこうとしたもの、と捉えることもできるか。
ラッセルが有名だが、この方針が論理式へ図形操作(幾何学系)も代数系も回収しようとしている。
そのプラトニズムな数学的対象というのは、「数式」か「代数式」のことですか?
a+b=c
こういったものは、
aたすbはc
と同等、というのが数学基礎論の本質ではないでしょうか。つまり、代数は論理の拡張です。
幾何学は既にデカルトの時代に代数へ統合されていたから、今日の全ての数学の発展は単に論理の拡張とみなせる。
ただし、論理式には自己言及さがあって、正しさを証明できないとすると、ここに「哲学的論理」が必要になる。
感情などの重視は、この哲学的論理に厳密さよりも包括さ、補いとしての意味を見るとき生じる。だから批評も詩さえ哲学的論理は扱える。
>>114 >>23 のようなヒューム自身の数学観とはズレるが、学問的には解析よりも、グラフ理論つまり
離散数学の方に可能性はあるし、そうした立場に立って初めてヒュームの重要さもわかると思う。
確率論などは、解析と離散の折衷であって、代数で片付けられない問題を表現している。
つまり一対一対応のヒュームの原理はそういった現実に対応し、通分出来ない対象を浮き彫りに
するもので、数式万歳とだけ言っているわけではない。当然カントが描写した様に不可知論とい
うわけでもない。
ゲーデルの不完全定理も、一対一対応が万能な解析を準備するとともに、返す刀でその不完全さを
明らかにしているわけで、これは実は離散的なヒュームの思想の再評価を準備するものでもあった
ろう。
より具体的に言うなら、
東電が出した放射能と将来のガンの因果関係を証明出来るか?
これには11日以降のメモに書かれた自分の居場所と自身の身体の一致(一対一対応)が明らかな
ら、裁判で有効だろう。
つまりヒュームの思想にヒュームの原理で対抗する。そんな時代なのだ。
116 :
考える名無しさん :2011/06/09(木) 10:27:13.56 0
>>115 あずまんみたいに、伝聞だけで全体を話すなよ。
うちの管理組合はそんなことしていないよ(w
監視したほうが安全管理としてコストがかからない、そのために
自らの自由を放棄しても良いという考えは否定できないし。
これを否定するには、監視なしに治安を回復する方法を
示さないと。
>>115 貴方は大変に鋭いですね。
>一対一対応が万能な解析を準備するとともに、返す刀でその不完全さを
>明らかにしているわけで、これは実は離散的なヒュームの思想の再評価を準備するものでもあった
離散的とは、読解としては解釈学のことじゃないでしょうか。どちらに転んでもよさ、ということ。
>確率論などは、解析と離散の折衷であって、代数で片付けられない問題を表現している
これがもし真なら、確率論の上にヒュームを超える何かがありそうですね。原理として。
ヒューム的確信は、いわば確率論的理性のことなんじゃないでしょうか。 解釈学も、この的な理性と合わせられると別のものになる。 科学の緻密な厳密さは、解釈の確率ではないですか。 だからそれはパーセンテージ、割合でしかない。 学校で教えてるみたいな「正解」は確率のよさ、ではないでしょうか。 究極では全単射というものは数学概念上にしかない。それは抽象概念にとどまっている。 だから自然界への知識、道徳、学識は、確率論のよさ、に返る。感情とはある文脈の確率のよさじゃないですか。 こうしてみなおしてみると、知性・理性・感性といった三分法はあまり意味をなしませんね。 もし確率よさでしかないならどの認識も、ただ確率の割合にもどっていく。事実の一致であれ、当為の設定であれ。
119 :
考える名無しさん :2011/06/13(月) 13:31:14.10 0
う〜ん 確率のよさというのは ある条件におけるその命題の成立の可能性の度合いではないかな。 そしてアポステリオリな現象経験に根拠をもつ命題というのはどこまでいっても確率の良さでしかない。 だから現象の記述(自然現象、感情などの心理現象、社会現象など)については、 その厳密性というのは論理を共有していればあとは確率のよさに帰るだろうけど。 しかし知性・理性についても確率のよさに帰るというのはよくわからない。 どういう意味ですか?
120 :
考える名無しさん :2011/06/13(月) 13:41:05.94 0
ウィトゲンシュタインをよんでたんだけど、 彼は確率を条件付き確率としてとらえていたような。 ある条件Pが真となる状況の数を分母として、 その条件の中である命題Qが真となる状況の数を分子として。 P∧Qが真となる状況の数 / Pが真となる状況の数。 こうすると、アプリオリな知性(論理)による判断(現象経験による確証はなし)にも確率の良さというものを設定 できるということでしょうか。
121 :
考える名無しさん :2011/06/13(月) 13:44:45.87 0
そして、経験によってさらに絞り込まれていく、と。 確率の精度は一気に上がる。 しかしどこまでいっても確率の精度である、と。 数学と形式論理学だけが確率=1の命題の成立を達成できるんですね。
122 :
考える名無しさん :2011/06/13(月) 13:46:24.16 0
ということは、 数学はたんなるトートロジーなのでしょうか。
トートロジーって意味分かってるか?
124 :
考える名無しさん :2011/06/13(月) 14:26:52.74 0
すべての定義域(変項における真と偽の代入の組み合わせ)において真の値域をとる 真理関数となる命題のことでしょ。
125 :
考える名無しさん :2011/06/13(月) 14:30:07.79 0
ある公理、ある条件のもとでは、 数学の定理は恒等的に真なのだからトートロジーなのかなと思ったんですが。
あらかじめ決められた確率空間から外れた事象は排除するということ。 例えば、サイコロを振って、振ったサイコロが割れてしまったとか、 どこかにひっかかって2つの目のどちらが出たとも判別不能な事象とか。
そもそもがサイコロを振ったらどの目も出る確率が1/6である というアプリオリな保証はないわけで、サイコロの製造工程で 重心とか人間がコントロールできる要因に偏りが出ないように して、後は品質管理でどれかの目が明らかに出やすいサイコロ を不良品として排除する。
いや、確率の妥当性の話をするなら、 製造工程におけるばらつきのような要因を度外視して、 完全に均等なサイコロを想定したとしても、 確率 1/6 とは言えないってことでしょ。
129 :
考える名無しさん :2011/06/14(火) 19:58:06.71 0
とりあえず確率と統計の勉強やりなおそうぜ 経験論について語るのはそれからだ
130 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 07:36:03.34 O
イングランド史読んでる人っているの?
131 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 12:24:56.94 0
哲学はもう二十代でカタがついたから、 余生は歴史編さんで過ごしたんだろ。 ヒューム哲学とは関係ないと思うけど。どうなの?
132 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 12:40:48.03 O
そういう括りでもってイングランド史とか誰も読まないよな、俺もそうだったし。実際、ヒュームの認識論理解に資することはないだろうけど、ヒュームの総体を理解する上では読んでもいいと思うんだが。 そういうわけでamazonでさっき注文してみたが、ただの歴史書なんだろうね。
133 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 13:18:17.42 0
政治論集なら読んだことがあるが、普通の政治思想・経済学の本だった。 ロックの社会契約説に対する批判が書いてあった。
「100名の最も偉大な英国人」には入って無いんだな。 ダイアナとかブレアが入ってるのに。
一般投票だからな。ロックもアダム・スミスも入ってないし。 ダーウィンとニュートンはベスト10入りしているけど、哲学者はトマス・ペインくらい。
136 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 16:23:36.52 0
そもそも一般的にイギリスって哲学の評価があまり高くないんじゃね。伝統的に。 科学ならともかく。
でも「西洋近代思想家100人」とか選んだら確実に入るよね? 10人、だと入るかどうか微妙だけど。
10人に入れてもいいだろう。哲学史上ではカントよりは上。 観念論と懐疑主義を極限まで進めて因果関係の論理性と自我の存在を否定したのは、 哲学史上において大きなターニングポイントを作った。
>>136 そうでもないと思いたいけど。そういや、一般向けに書いたものも多いし、
ノーベル賞までもらっているのに、ラッセルも入ってないんだ。
>>137 西洋近代というくくりじゃ10人の中にかなりの確率で入るんじゃね。
140 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 17:17:54.93 O
センスのいい哲学ヲタには評価が高いだろうけど、一般受けしないのは昔も今も同様。
ヒュームの著作の中で特に大衆的人気を得ることに成功したのはイングランド史だったので 大英図書館やケンブリッジ大図書館では今だにヒュームは歴史家として登録されているそうだ。 当時は文学というものが内包するものが今よりずっと広くて ヒュームは哲学、思想というより 広く文学での成功を求めてその中に今日の哲学、経済学、歴史学的なものが含まれていた。
>>136 >>139 社会思想家は多いが「形而上学の大家は?」と言われると困る。
好事家が片手間でやっているイメージ。
143 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 18:10:24.64 0
ヒュームが出てきたり、 分析哲学が隆盛を誇ったりする時点でさ・・・。 一般化できることではないが、傾向としてイギリスにはどこか形而上学や、 たんなる知性偏重主義にたいする軽蔑感、警戒感があるんじゃないか。
観察は信用するが推論は信用しない、というのがイギリスの知識人の価値観だから、思弁的なものは意識的に排除される傾向がある。 代わりに博物学(今の地球科学や人類学)の方面では網羅性と客観性で歴史的に他国を圧倒してきた。
145 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 20:45:26.18 0
博物学だけでなく、物理学に代表される精密科学も強いな。 ヒュームや分析哲学はむしろ単に思弁的な哲学の芽を殺す方向なだけじゃね? そりゃあ評価されるべきはヒュームではなくニュートン、 ムーアではなくディラックとなるよな。 生産的で威力も大きい。
ヒュームの価値は、あの結論をどう扱おうとするかで変わってくると思う。 「不可知なんだから、何をやっても無意味だ」と考えるか、 「不可知にもかかわらず、とりあえずうまくやってきたんだから、 例え分からないことがあっても絶望する必要はない」と考えるか。
147 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 23:59:03.58 0
後者はプラグマティ(シ)ズムに通ずるんじゃないか
_.. -―――- .._ ヽ そ 因 / , '" `丶. i う 果 / / \ | 考 に / ./ ヽ | え 蓋 /_ ,' ∧ `、 | る 然 / | / \ |\ |\ | | 習 性 / | | \_\| \ !_,ハ. | / 慣 な / | | \| | | / が ん / .| |<〇> <〇>l | ` ̄''‐┐ お て / ! |\| --‐' ト|┼H ||/ | | / 前 な 〈 | | l│| ! | | / ら い \ / | ,.,.,.^ ^、、、 | | / に ん \ _/ ! lエエエエl ! \ / あ だ | ̄ ̄ /´7 \ |ェェェェェ| / ヽ ̄`\  ̄/ る よ |  ̄|/| /^x, ,x''^! \ | ̄` \ / だ | |,/ l ´'l┼┼┼l'` | ヽ! / け | \ / / ! デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)
l::::::::::::::::::|_!::lヽ:::::::::ハ::::::::::::::::::::::::::::::::i、::! ノ !:::::::::::::::::l-‐ェ!;ト ヽ:::::l ´!:::::::::::::::::::::::::::::l ` ヽ 幺ク 亡 月 | ┼‐ .|] |] l:::::::::::::::::「(;;;)ヽ、__、::レ'´l:::::::::/l、:::::::::::::l / 小巴 三l三. ヽ_ノ / こ o o !:::::::::/l:::l__,,,rタ"゙、;!)、__!::::/ノ 〉、::::::::l \ l::::/ lヽ! _ _ l;/´ ! >、::l / 実験や検証しても ノノlヽ、_! r――‐┐ /_ノ:::| / 真理に近づけない不可知性に絶望した!! l::::::>、 レ,二二ェ! /i:::::::::::l  ̄ ̄|_ /ヽ、 /\ /\ / l:::/ /::ヽ、 `ー-―-' ,ィ'::::!\:::::l (ヽ、//\/ \/ \/ \/ レ' ム-''´lヽ、 _,,./! ゙ヾ!__ヽ! ヽ´ヽ、ヽ !  ̄ レ;'´ | (,ゝ、 \ ヽ l、 /| _,,.-/´ ;; .,,,-! ヽ、 ヽ、 | | ! l / 斤'"〇 /´ ,;;:''" _,l_ ヽ ヽ/ l | l /; l、」_,,/ '' ゙;;/ ヽ、 〉 `ヽ l/ /!,r''´!/ / ';,/"゙''':;,,,,;;'' \ / ,! / l ,;; |l /`'';, ,, / ,;;''"゙'' l /
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151 :
考える名無しさん :2011/06/19(日) 09:11:44.41 0
次はカントのAAでも貼ってくれ。 そう考える習慣=アプリオリなカテゴリー・悟性形式 と読み替え、保証される。 しかしまあ勝手な前提の措定だがな。
不可知、不可知っていってるけれどな みんな自分のことだってワカンネーんだからよお どうでもいいんだよぉそんなことは
>>148-149 間違ってる。
ヒュームが主張したのは因果には「必然性」がなくて「蓋然性」しかないということ。
因果関係は「論理的関係」でなく「自然的関係」であるということ。
ヒュームは自然の斉一性原理を提唱している。 この点から実験や検証しても不可知とは結論しない。
156 :
考える名無しさん :2011/06/19(日) 15:59:28.48 0
なぜ不徹底なんだ?
なんで不徹底かって言うと、論理的に無理があるからかじゃないですかね。 論理は疑えるけど、自然は疑えないって、どういう判断ですかね
159 :
考える名無しさん :2011/06/19(日) 18:29:41.79 O
ヒュームは論理は疑いうるという大雑把なことは言っていないよ。論理的関係としての必然性を自然に当て嵌めることが妥当性に欠けているということを言っている。その上で自然も疑いうるからこそ自然の斉一性原理で高度な蓋然性を確保しようとしているわけだよ。
160 :
考える名無しさん :2011/06/19(日) 20:38:43.93 0
私の思うにはヒュームとは ヒュームについて語る事が必然性や蓋然性がないという そういうものだと思う 観察者の存在というものが抜けているのだと思う 例えばフィルムだけがあって、だれもそれをみる事が出来ないという ヒュームの哲学とはそういうものだと思う 意味はなかろう
161 :
考える名無しさん :2011/06/19(日) 21:02:16.98 O
観念の連合であるフィルムの連なりのようなものがあるばかりとして、それが見るものと見られるものの対立、すなわち主客の対立をそもそも廃棄しているところにヒュームの可能性を感じるんだが。
162 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 00:32:00.91 0
しかし、観察に関する視覚にせよあらゆる感覚というものは 例えばドーパミンのような何か液が分泌されてるような現象であると思われる つまり刺激を受けるとかいや、刺激それ自体が何か人間の体内で 何かが分泌されて、それが脳か何かに反応している事なのだと思われる つまりは観察をする事自体に必然的に人間の例えばイデアなどという何か 不思議な代物が関わってくるのであり であるとすればヒュームの考えは問題になりようがない
163 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 03:45:01.26 O
ここはヒュームを問題にするスレである以上ヒュームを問題にしていない者は他に書くべきだな。如何に思考が成り立つかを知ったとしても如何に軽やかに意地悪く思考するかは他で学ぶしかない。 ということでまずは人性論を読もう。
164 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 12:24:19.71 0
観察者の視点が欠けているのではなく、 自然現象そのものについて語ろうとして、 しかし経験主体である観察者の感性・視点がそこに入り込んでくる ことを指摘しているという点ではカントといっていることは一緒。 記述の仕方、前提を変えただけ。 >>自然の斉一性原理で高度な蓋然性を確保 はっきりいってこれは無理がある前提だと思う。 ヒュームの経験論らしくない。 それこそ自然を見る際の勝手な偏見だろう。 「自然の斉一性原理、高度な蓋然性」があってほしい、あると信じたいという単なる信念表明だろう。
165 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 13:12:38.63 O
ヒュームからカントが学んだわけだから類似するのは当然なわけだが。 俺はヒューム哲学は賭博者の哲学だと思っているから、信念表明だとか疑念は重要なものだと思うが。 サイコロを振る人間は冷静に明日、太陽が昇るだろう蓋然性におおかた賭けるのは明らかだ。 それを不徹底と断じてみても賭博に於いて負けるのは一体どちらだろうか?
自演
なんて哲板って馬鹿でモノ知らないのに哲学者同士の類比とか大ざっぱな話が好きなやつ多いの? 馬鹿だからなんだろうけど
で、お前はどんな話が好きなの?
169 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 15:45:07.01 0
>>165 >>それを不徹底と断じてみても賭博に於いて負けるのは一体どちらだろうか?
なにか勘違いをしているようだが。
純粋な経験論哲学の論調を貫く立場としてどうなのよ、という話で、
プラグマティックな観点からどうよ?という話とは別。
そりゃうまくいってるんだから、ヒュームはいらん。ニュートンでだけでいい、ということに
なるが、それじゃ不満で、根本から問い直すのが哲学だろ。
困った時は、自然の斉一性を勝手に保証する、だなどど、それでは形而上学的な神学者のような論法ではないか。
論理的、自然的の区別がついてない人がいるんじゃないか。 なぜ「自然科学」という言葉があるか考えてみればいい。 ヒュームからすれば万有引力の法則は論理的には無くてもいい。 しかし自然世界ににその法則があるなら、それには斉一性があるということ。
171 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 16:35:05.97 0
>>167 バカはお前。
具体的にどこがまずいor浅いと思われるのか提起してから物を言え。
哲学者や思想同士を比較してみるのは当然。
デカルト―ニュートン―ヒューム―カントのように影響関係があるならなおさら。
172 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 17:38:59.03 0
>>自然世界にその法則があるなら、それには斉一性があるということ そういう仮定つきの命題をなぜ主張できるのか? 経験からとは言わねえよな。 われわれが所有し使用する論理形式の前提(カントなら悟性形式というだろうが) として、うまくいくようにあるものを設定するというのならわかるが、 自然そのものについてそういう前提を勝手に設定するというのは問題があると思うが。 ヒューム自身の論調とも合わない。
173 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 17:43:49.98 0
ヒュームは自然界の法則を「科学的に論証しうる」という人間の傲慢を批判しているのであって、 「自然界に法則はない」などとは一度として述べていない。
>自然世界にその法則があるなら、それには斉一性があるということ だからその「法則」と「斉一性」の関係が、論理的でなく自然的だと理解しろよ
175 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 18:08:50.60 0
「法則」と「斉一性」の関係が、「自然的」とはどういう意味か?
176 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 18:15:19.66 0
経験による帰納からも、確証できるわけでもない。 もちろん演繹できるわけでもない。 だが、ニュートンの成果を本気で信じられないわけじゃない。というか信用してはいる。 ヒュームは経験論的観念論を推進していく中で説明や説得(自己の納得)に困っただけじゃね? 自然的にあらかじめ備わってるなどと例外的な規定を頭ごなしに設けちゃってさ。 だからカントが出てきたり、のちには論理主義や分析哲学なるものがでてきたんでしょ。
177 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 18:22:10.49 O
観念連合の法則だって自然の斉一性の例だろ。論理的必然性ではない人性(自然性)に基づくわけだから。
178 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 18:54:09.23 0
自然の斉一性ってのも結局人性(自然性)によるものか? そういう風にどうしもみちゃう、おもっちゃうっていう。 悟性形式とかわらんな。
179 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 19:12:45.85 O
台風は人性によらんだろが、human natureも自然の一部だろ。
180 :
考える名無しさん :2011/06/20(月) 19:29:02.51 0
自然とはどういう意味で言ってるの?
>>128 アインシュタイン「神はサイコロを振らない」 これはtautology:同語反復:くりかえし論、への否定でしょう。
確率のよさ、は知識といわれる。Knowledgeのくりかえし論へしか科学らしさはない。
アインシュタイン的主知主義と、ヒューム的確信主義は違う。
数学は絶対の真理を示すわけではない。その限度も確率よさの元にある。
ラッセルの試み(数学基礎論)よりも、この観点の方がより現代的形而上学の状態だと思います。
脱構築もいわば解釈学的確率への倫理でした。
数字含む記号が真理を示すのは、確率よさ或いは確信度によってでしょう。倫理学式、道徳律はいうまでもないでしょう。
>>179 斉一さは、神の仮定に基づく「知的設計論」の一部として機能してると思われます。
しかしそれは徐々に批判されていってる。神の仮定を外しても機能する形而上学を欲しがっている人々がいる。
キリスト教の桎梏を抜け出したい人はそれをのどから手が出るほど欲しい。日本など仏教圏には、斉一さの悩みははじめからない。
結局、創造神、クリエイターを認めるかどうか、が焦点になると思います。彼がいた場合、斉一さは保たれねばならない。
人性と自然をとりちがえることは、「理性」の前ではできません。旧約聖書によれば、それは神の命に背いた人間唯一の特徴だからです。
この理性の仮定もない日本人の(思想、思考、形而上学)多くには、human natereを単に斉一さに含まれるとみなすのが多数派でしょう。もののあはれ論など。
西洋的理性の桎梏が個人主義をもちこんできて、はじめて日本人の中にも上述の斉一さと宇宙の関係が問われはじめた。科学はその行為です。
natere→nature
そうかね? フレーゲや数学基礎論の影響は受けてると思うけど、 古典との関係は薄いと思うな。 まぁその辺見抜くのはド文系クンには難しいかもしれないけどね(笑)
185 :
考える名無しさん :2011/06/25(土) 04:14:09.93 O
ヒュームは信念論でデカルトのような基礎づけ主義的アプローチでなしに、知識の外在主義を取っているんだから human natureを生得的であるという含みをもつ人性という訳語はおかしいのでは? ヒュームは人性論のなかで社会の発展までを含むhuman natureの解剖を行っているわけだから「人間的自然」という訳語を用いるべきかと。
186 :
考える名無しさん :2011/06/25(土) 23:26:56.86 0
ヒューム 道徳・政治・文学論集 [完訳版] [単行本] デイヴィッド・ヒューム (著), 田中 敏弘 (翻訳) Like 1309011922 false -1 0 0 0 (0) -------------------------------------------------------------------------------- 価格: ¥ 8,400 内容紹介 文明社会の「人間学」へ ------ 。生前のヒュームが最も苦心して改稿を重ね、 政治・経済・社会思想から道徳哲学・批評を含む広大な領域を横断的に論述し たエッセイ集。多くの読者を獲得し、賢人ヒュームの名声を世に知らしめたも う一つの主著が、本邦初訳を多数含む「完訳版」としてよみがえる。 -------------------------------------------------------------------------------- 登録情報 単行本: 500ページ 出版社: 名古屋大学出版会 (2011/7/6) 言語 日本語
おぉ〜
自然には法則性なんてないし、人間がでっち上げてるだけなんだがな。
189 :
考える名無しさん :2011/06/26(日) 10:37:01.64 O
>>185 human natureを人性と訳すのは既に定着しているけどだいたい50年ぐらい前の翻訳センスだよね。
「人間的自然」とか「人的自然」と訳した方が素直でいいと思う。
190 :
考える名無しさん :2011/06/26(日) 12:02:51.29 O
ただ「人間本性」がどうやら今のトレンドらしいな
自然に法則性なんてないし、人間がでっち上げてるだけなんだがな。 傾向性はあるだろうが、人間の視点、都合で決まってるだけ。 人間的自然とか法則性を前提にする本性とか自然主義とか、 誤謬推理なんだけどな。 いくら法則性語ろうが次の瞬間、否定されるかもしれない。 そしたら、人間の都合で解釈し直さないといけない。 自然は本性はそこから仮構されるフィクションであり、 わかってない馬鹿がとらわれる物象にすぎない。 明日、太陽が昇らないかもしれない。 自然の斉一性があるわけじゃない。 人間が尺度であって自然は尺度に合わせて作り出されるものにすぎない。 語るのも愚かだが。人間的自然とかコントだろ?
192 :
考える名無しさん :2011/06/26(日) 12:58:34.81 O
>>191 そんなことを言いたくなる気持ちも分かるが、君の主張が明日反転する可能性もあるわけだから、あんまり固執するな。
「法則性なんてない」とまで言ってしまうとまた違う。 「法則性があるかどうかはわからない」ってだけ。 人間は自然に本当に法則性があるか知りえないが、「誰もが等しく知りえない」のだから、 少なくとも人間の賢愚は、その状況でどう考え行動するかで計るしかないだろ。 例えば、「知りえないから全てはギャグだ」って言って、勉強もなにもせずにホームレスになるのと、 「知りえないけど、とりあえず役に立つから」って勉強して高収入の職に就くのを比べたら、 どっちが愚かか?みたいな。
194 :
考える名無しさん :2011/06/26(日) 19:34:40.02 0
>>193 どこまでも経験の演繹であり確率であり、本来論理的必然性のあるものではない。
法則ではなく傾向。
それがどうした?傾向をより精密に把握する努力をすればいいだけだ。
できることをやろう。現代人はもはや真理などと大げさなものを求めてなどいない。
といって懐疑主義にとどまり、なにもせず、
後ろ向きになり、物理学もその他諸学もなにも勉強せず、何も知らず、哲学書をながめるだけ
っていう段階はとっくに乗り越えたっていう人は多いだろ。
やはり、いま人間に(あるいは私に)できるベストのひとつなのだ、精密科学は。
195 :
考える名無しさん :2011/06/27(月) 03:25:57.97 O
自然概念を人間に限定するなら人的自然、人間的自然でもいいと思うんだけど。 ヒュームが念頭に置いてるのは、社会なり道徳なり人間が歴史的に作り上げてきた合法則的なものを自然だって言ってる訳じゃない?
196 :
Rev.Y.S. ◆xPmNiQwsF. :2011/06/27(月) 03:54:29.33 0
人間らしさ、人らしさというのがhuman natureの真相では? nature born:うまれつき。 人らしさは感情にある、故に傾向論―つまり確率的知識の認識―としての理性(human reason:知恵の実)偏重はおかしい。 これがヒューム的批判では? ならば感情とは何か? これをカントがのちに判断力批判で解説した。
197 :
考える名無しさん :2011/06/27(月) 12:05:07.86 O
ヒュームの用語法での「自然」ってかなり問題を含んだ複合観念だよね。 晩年も自然宗教に関する対話とか宗教の自然史とか書いてるくらいだから。宗教の自然史なんてニーチェの系譜学とかに通じるものがあるわけだが、常にキーワードとしてヒュームは晩年まで「自然」を使っている。 ニュートンが世界を研究したように俺は人間を観察と実験で研究するぜってことでのhuman natureの研究だろうけど。人工的・歴史的なものを含んでるのも確か。 ヒュームは論証は緻密な割に概念設定が曖昧というか錯綜としてるというのが俺の昔からの感想。
自然自体は法則なんかあるわけないだろ? 法則は人間の都合ででっち上げられるもので自然自体は関係ない。 自然には法則があるかないかわかんないじゃなく、無いんだよ。 片腹痛い。 人間離れて法則なんかないし、各人の都合でその法則も違う。 馬鹿じゃないの?
>自然自体は法則なんかあるわけないだろ? そう断言できる論理的な根拠は?
法則性ということの自然の法則はあるかもよ 多様性が法則をもたらすということ そして多様性は一様性から生じる 互いのランダムは重なり合えば組織化する
人間が法則作るんであって、自然は法則とは関係ないだろ。 人間の都合で傾向性にラベリングしてるだけ。 明日もそうなるか、常にそうじゃなければならないか、 三次元の局所的な人間や自然から法則なんか確定できるわけない。 人間がラベリングして都合よく、扱うだけ。その都合、 主観離れた客観性なんかない。自然自体は法則はない。 あくまでも人間が作るもの。結論は出てる。
202 :
考える名無しさん :2011/06/28(火) 19:08:34.92 0
>>人間離れて法則なんかないし、各人の都合でその法則も違う。 前半は同意だが、後半は良く考えてみるべきだ。 さすがに自然科学の強力さと共通性と信頼性はみとめるだろ。 自然という複合観念には法則性を認めざるをえんだろ。はなしはそれからだ。
203 :
考える名無しさん :2011/06/28(火) 19:15:16.74 0
アポステリオリな命題であるかぎり確率的法則。一方で、万有引力のあの式はアプリオリにああでなくてはならぬ。 これは(論理)法則だ。 法則が主観に属するか自然に属するかというより、人間の言語に属する。 現象はただあるがままに起こるだけだ。知らん。 そしてもはや観念論だろうが二元論だろうが我々はこのように法則的に見ることしかできないのだ。
>>202 だから、強力な傾向性あるにしても、結局人間の選択だし、
その中のより強い意見と言うことでしかないよ。
自然に法則らしきものが実在したとして、人間がそれを並べ順序つけなければ、
法則ではない。
人間の物語、順序づけ、選択離れて法則なんかないし、
同じように語っても一人一人法則に込めてるものは違い、
人間の社会の積み重ねでしか法則はでず、
主導権代われば法則は変わる。
自然自体は無記だよ。
あくまでもその瞬間瞬間の人間の選択、順序づけ、離れて法則はない。
205 :
考える名無しさん :2011/06/28(火) 20:47:14.96 0
>>204 ヒュームはもろに観念論でしょ。
人間の観念がすべてで、世界や自然も観念なんだから
法則も人間の所産である観念となるのは当たり前。
だが、こういう観念論自体は当たり前とはいえない問題をはらんでいる。
自然という観念のとらえ方・扱い方からして混乱している。
科学や世界について懐疑的な見地を抱いただけで、なにか哲学をわかった気になるのははやすぎですよ。
>>201 人間に法則が作れるなら、熱力学の法則とか、
人間にとって不都合な法則をなんでわざわざ作ってるの?
207 :
考える名無しさん :2011/06/28(火) 21:53:15.53 O
ヒューム哲学において観念の起源が印象にあるというのがまずもって大前提。
問題は、法則が持つ必然性の否定ではないでしょうか? 法則が成り立つ確率の大小を問うのは、脇道に逸れている気がします。
210 :
考える名無しさん :2011/06/28(火) 22:55:38.66 0
はあ? 科学法則は経験からくるんだから、必然性のないのは当たり前。 必然性があるのは論理の規則だけで導かれるトートロジーだけでしょ。 論理命題とか数学命題とか。 その科学のデキは結局確率の大小でしかない。
211 :
考える名無しさん :2011/06/28(火) 23:27:42.40 O
カントの純粋理性は、必然性を保全するのにやっきだったが、現代ではもはやその維持は無理で、ヒュームの必然性を否定した確率論的理性が有効なのは明らか。 自然的関係への適応に限ってだが。
宇宙開発の妨害に為る相対性理論も不都合な法則じゃねーの!?♪。
213 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 00:23:21.50 0
>>211 そうそう。その通り。
それから、都合うんぬんは法学や政治理論、経済学説の対立、工学、には目的から考えてもおおいにありうる
けど、純粋な自然科学ではそれはないだろう。
ルイセンコとダーウィニズムを同列にならべたり、社会主義対資本主義だとか解釈したりする
科学を知らないアホな文系批評家がたまにいたりするけど。
>>213 資本主義と社会主義を勘違いしているのは理系では?
215 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 02:21:05.53 0
基本的に哲学の話からはズレてるみたいですね ヒュームはそんな立派な事はいってないと思う 懐疑論じゃないって主張してるけど、ヒュームは懐疑論 で、科学を信じるってのは哲学いらないってことでそれはヒュームとは違う話 例えば人はなんで生きるかって事に全然答えてないでしょ 哲学っつうのはそういうもんだから 形而上の事なんだよね
>例えば人はなんで生きるかって事に全然答えてないでしょ >哲学っつうのはそういうもんだから それは人生哲学では?
217 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 14:13:06.59 0
>>216 だよね。
イギリス経験論の認識論は人生うんぬんとは関係ない。
そういうのをもとめて近世哲学の古典に向かってるのだとすると、
著作の問題意識とそれこそずれているだろう。
まあキルケゴーかサルトルかニーチェか聖書でもよんだらいいがな。
おれはそういう問題は言語や論理をろうするものではないと思っている。
まじめにヒュームや分析哲学、
そして言語、自然、心理の諸科学に向かいたい。
確率こそ人間の観測解釈結びつけ次第だろ。 グルーのパラドックス。 帰納も確率も法則などではない。主観都合以外の何物でもない。 いい加減客観主義やめれば? 自然には法則はない。人間が作るもの。 ヒュームはかなり革新的だけどまだ中途半端なんだよな。
219 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 16:52:14.40 0
>>218 いや、現代知識人(自然科学者、社会科学者など)はみんなやめてるでしょ。
おれは自然科学畑だけど、法則は主観的な確率だと自覚しているよ。
そもそも数学とちがって完全に経験由来だし。偶然的なものでしかない。
でも、だからどうということもないでしょ。
精密な知的営みとして人間にできる最善はこれだけ。
真理などというのはおこがましい。無限に精密さを増して前に進むが、無限に観察主体の主観である。それでよい。
客観などないからと言って後ろ向きになって、懐疑論振り回して何の生産的なこともせず、寝たようにして生きる理由はどこにもない。
だからそれが違うだろw 人間の欲望の果てまで食い尽くし他者とのギリギリのせめぎ合いすべきで。 相対的だがその中でぎりぎりとか馬鹿じゃないの? 何だっていいんだから、相対的だからこそ喜ばしいんであって。 宇宙、世界全てが欲望の対象でしかない。
221 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 19:05:47.64 O
>>220 お前は自分のことを客観的に見つめるべきだと思う。客観主義を放棄したお前には無理な相談ではあるが。
222 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 20:25:59.18 0
俺はヒュームは評価しないんだが それはそうとして、精密な客観主義などとされてる考えは どっちかというとデカルトの哲学っぽいと思うけど 歴史とか科学とかは抜きにして純哲学的な問題で、俺の方法序説みたいな でヒューム哲学を探求するのは有意義だと思うんだが 懐疑論がどう実践されるのか、こういうのは哲学的にはかなりいい話題と思う
223 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 21:19:43.57 0
>>懐疑論がどう実践されるのか
まあな。生産的な方向でどう活かせるか。誤謬を正し、前に進めるか。
>>220 のように、何だっていいんだから、相対的だからこそ喜ばしいんであって
などといったところで何も始まらない。
なんだっていいわけはない。もちろん思想の自由・表現の自由はあるし各自自由だが、
明らかにその内容の優劣や有効性の差はある。そこを見極める試金石を探らねばならない。
これなくして「相対主義的な多様性の喜び」などは沸いてこない。
内容の評価に絶対的な平等などなくて当然。
苦闘と発展の人類の営みの歴史の結末はそんななんだっていいというような浅はかな相対主義で片づけられるものではない。
だからこそ近世・現代の相対主義者たちも頭をひねって、悩んできたのだ。
おれは間主観的理性を信頼する。科学を信頼する。
それはそれが客観的真理だからではない。
224 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 21:28:00.48 0
まあヒュームやポストモダンの言説を 表面的に読んで、わかった気になって真に受けて無気力になってるとしたら残念な子だな。 自殺するしかないのでは。 おれが高校一年生のころを見ているようだ。 取り返しがつかなくなる前に次の段階に早くすすめてよかったと思う。 懐疑主義や相対主義は一時の休息所にすぎん。
225 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 21:37:20.39 0
>>223 しかしそれはやはりデカルトの哲学ということじゃないのか
実験して、確実なものを吟味して、良い物を抽出するというのは
デカルトがどっかの宿屋かなんかで発見した驚くべき原理とかいうやつ
哲学としてはそれは結局自分で決めつける部分がある
それでカントのいう独断のまどろみということになる
一方イギリス経験論というやつはかなり批判しづらい
が、恐らく実践的にはならないんだろうと思う
226 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 22:00:21.10 0
>>225 おれがデカルト的な思想の持ち主かどうかはわからない。
二回よんだだけだ。
だが、自然科学畑の人間が哲学問題を考えると、どうしてもその始祖のひとりである
デカルトに似てくるということはあるのかもしれない。
>>実験して、確実なものを吟味して、良い物を抽出するというのは
哲学としてはそれは結局自分で決めつける部分がある
そうか?むしろこの部分はイギリス経験論がデカルトから引き継ぎ、
さらに徹底した部分だと思うが。
たしかにデカルトには余計な論証や、吟味不足の断定的な理性・人間・神への信頼があるから。
経験論自体は大陸の形而上学の伝統の泥沼よりも実践的で有望だと思う。
要はヒューム的な懐疑では終わらない・終われないということ。
客観主義とか、片腹痛い。 百パーセントの客観なんかあるわけないだろwww 傾向性があっても百パーセントズブズブにそれで従うとか、 決定されてるとか馬鹿も休み休み言えw 百パー恣意で動けるわけもないけど客観なんかあるわけない。 だからこそ喜ばしい。 語るに落ちる馬鹿だな。こんな当たり前もわからないとか。 客観、馬鹿じゃねーの?それはお前の都合押し付け投影した妄想だ。 それも過去のちんけな傾向性から投影した。 そういうの止めようと言う議論してんだが理解できないの? 理解できないの? 理解できないの?
他の奴も、つまんない尺度で作った自分の主観を、 客観とすり替える嘘は止めようや。 全てはそれからだ。 ヒュームは惜しいところまで行ったが道を間違えたし。 デカルト、カント、皆間違えてる。そういう間違いはもう止めようや。
229 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 22:28:39.64 0
物自体至上主義者というわけか まあ哲学的にもっと完成度が欲しいところだな
230 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 22:37:03.96 0
>>227 はは。
いまさら百パーセントの客観とか言う人は
理系も含めていないよ。すりかえてなどいない。主観で一向にかまわない・相対で一向にかまわないのだ。
だが、だからといって何でもいいとかそういうことではない。
間主観性の設定の仕方にも妥当性の優劣はある。
絶対>>相対、そして絶対はないからすべて所詮相対、
ではなくてそのすべてである相対のなかにも間主観上の優劣はどうしようもなくあるということだ。
もはや「相対」という言葉を使う意味もない。
客観>>主観、そして客観はないからすべて所詮主観、
ではなくてそのすべてである主観のなかにも優劣はどうしようもなくあるということだ。
>>230 その妥当性の根拠にテメェの主観押し付けてるだけだって、
いい加減気づいてんだろ。
客観密輸入して、自分のプライド慰めてるってわかってるのに、
認めらんないだけだろ。馬鹿だね。
馬鹿はめんどくせぇ。
232 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 22:44:43.03 O
馬鹿には科学は難しい でもラディカルな懐疑論なら馬鹿でもわかるし、科学に(口先だけなら)勝てる 哀れ…
ヒュームは死の直前、アダム・スミスにこんなお話を披露したという ヒューム「ちょっと待ってください。私が頑張ればあと少しで人類を迷信から開放することができそうなのです」 死神「何を言っているんだ。そんなことはいくら待ったって無駄だ。はやく来いこの怠け者め」 これが懐疑論の実践だ
234 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 22:58:08.25 O
すべては主観に過ぎない!(だからどうしたという話だが)等のなげやりな論説(論ですらないか)って 理解に何の努力も要さず、そこから発展のしようもなく(実際、彼は「無駄、諦めろ」としか言えない)、 言ってること自体は正しいから(正しいだけで何ら知的な貢献をしないが) 理解力も思考力もない馬鹿にはウケるんだろうな。
哲学は理想を追求するよねー!?♪。
236 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 23:03:03.75 0
>>その妥当性の根拠にテメェの主観押し付けてるだけだって、 いい加減気づいてんだろ。 それを「だけ」といってしまうところに客観への羨望と主観への 一方的な貶めがあるのでは。 客観なる絶対物が理念上にあらかじめもっていて、そうではない主観そのものがすべて悪(?)、だから(?)なんでもいい(?)、という発想がある。 そうではない。主観しかないのだ。 そして主観には優劣があるのだ(ここでいう優劣はたんなる時の社会権力とかなんとかいう意味ではないことはわかってるな。) 認めざるをえない間主観的命題というものと、質の悪い、とうてい間主観に達しない主観というものがあるのだ。 我々にできるのは、ここの見極めの方法を考えることである(君のいう主観の押し付けにあたるが、すべては主観であるかぎり、 すべての言説は主観の押し付けである。そして、それ自体がすべて即悪いのではない)。 それから、君のいう客観の密輸入とは、「間主観性」のことだろう。 だが、客観とは意味がちがう。もちろん物自体なるものとも関係がない。 納得できる共通ルールの設定と共通確認によって得られる共通了解だ。科学はそのよいモデルだ。
237 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 23:09:43.06 0
そして実験と観察による確認、形式論理の使用、という共通ルールによる 共通了解を、 すべて主観による蓋然性(たとえ99.99%であろうと)≠客観、という理由で 拒絶し、好き勝手なことだけ言っていたいのならそれも構わないだろう。 思想の自由・表現の自由は、(内心にとどまる限りは)どんな馬鹿者にも絶対的に無制限に保証される。
何だか荒れてるがw 馬鹿はみっともなさすぎ。 不安なんだろ、科学とか根拠でもなんでもないのに、馬鹿みたい。 客観なんかあるわけないのに。 「このもの」例えばこのキーボード、この携帯、このディスプレイ。 それだって客観じゃないだろ? 当たり前だよな。欲望、主観がそう配置して、認識し並べたててるだけ。 法則がないように、このもの、この実在だってない。 なのにでっち上げないと科学も客観性も妥当性もない。 逆だろ?そんなもの否定なくて人間が欲望が宇宙を変え作り替える。 そういう営みが根源的で、その配置、過程でディスプレイをでっち上げてるだけ。 あるのは不定形の定まらぬもので人間が変える行いの配置の中でこのものがでっち上げられる。 考えたことなかった? 客観的な物なんかないんだよ。 全ては欲望との関わりで、それを主観を偽って人に押し付けるために、 客観だ妥当性だ科学だウンコを撒き散らして。 いい加減反省しろ、恥ずかしい。 そこまで突き詰めて考えたことなかった?馬鹿すぎ。
客観だとか、妥当性だとか、実験だとか、科学だとか、 本当にそんなもんで何かを言ったつもりとか、馬鹿じゃないの? 本当にそんなもんで何かを言ったつもりとか、馬鹿じゃないの?
240 :
考える名無しさん :2011/06/29(水) 23:58:28.97 0
だから〜 間主観性の設定の問題だっていってんじゃん。 アタマ悪いなあ・・・ あした太陽が昇らないかも〜不安だとか思うわけないじゃん。 間主観的ルールに同意でき、そのもとでの共通了解に達し、生活世界においてその通りの観測がなされ続けるわけだから、 べつに客観的真理だとか言う幻想を保つまでもなく(ていうか不要)、肯定される。 客観だなんだと一人で気にしてるのは、ここでは君だけだよん。全部客観じゃない=全部ダメだなんてことはない。 ここは一応哲学板なんだし、懐疑主義の見方があることはみんな当たり前だとわかってるよ。 その先・その次にいかないと。
懐疑主義を受容するかどうかってのは、正しさとか妥当性とかの問題というより、 思想というものを全てそのまま額面どおり行動に反映させるべきという行動主義 (疑うということは全否定であって、疑ったものに基づく行動は一切しない)と、 思考は思考、行動は行動、っていう現実主義(?) (疑いはするが、他に代替案がなければ警戒しつつ使い、問題が無い間は使い続ける) の違いのような気がしてきた。
242 :
考える名無しさん :2011/06/30(木) 00:20:37.12 0
>>241 その通りです。
無為な懐疑主義におぼれる奴は情弱。
上手に使える奴になりましょう。
何言ってんだか。 人間が万物が欲望が世界を宇宙をこのものを変えていく。 客観とかはその残滓、ウンコなんだよ。一般化平均化したゴミだろ? 科学だ妥当性は。 欲望が論理的に先行すんの。 馬鹿はいい加減黙れ。 始めに動的な主観、宇宙に取り組み何物もそのままにしない、 変化と欲望ありき。 客観なんかない。 何でこんな当たり前のこともわからない幼稚園児しかいないんだwww
244 :
考える名無しさん :2011/06/30(木) 08:00:48.92 O
>>243 お前、自分のごみみたいな文章得意になって色々なスレに貼って回るのやめろよ。
頑張ったのを色んな人に読んでもらいたいとか低脳児すぎる。
245 :
考える名無しさん :2011/06/30(木) 12:36:30.46 0
>>243 このスレに来てるだれもお前の論理性もない、説得力もない、中味もない意見など聞いていないぞ。
共通了解などない・どうでもいい、好き勝手にやりたい欲望しかないとお前が思ってるのなら、
もう書き込むのもやめたら?無意味だから。
246 :
考える名無しさん :2011/06/30(木) 13:24:46.70 0
>>243 「意思と表象としての世界」でも読んで、鵜呑みにしちゃったクチだね。
万有引力の法則の公式のあの形も、熱力学第二法則も、お前の言う欲望から形成されたのかどうかはしらんが
(世界を把握意したい⇒どうしてあの形になるのかは意味不明だが)、
おまえのように根拠薄弱の思い込みを信じ込むのを警戒するための懐疑主義なんだろうがよ、と。
土屋俊「文学者に出番はない」
>>243 ニーチェとヘーゲルを貼り合わせたような思想だなw
ド文系くん御用達だな<ニーチェ・ヒューム
250 :
考える名無しさん :2011/06/30(木) 16:57:56.47 O
法則も定理も幻想に過ぎない以上、あらゆる予想が的中することは偶然(こういう表現も嫌うのだろうか)であるわけか。 天気予報を見て傘を持っていこうだとか、何時に出発すれば間に合うだろうとか、今こうしてキー入力して文章を送信しようだとか、 すべての予想は等しく幻想であり差はないと考える人にとっては、さぞかし生きるのは辛いことなんだろうね。 数学で赤点とって叱られたあの頃。みんなママがいけないんだ!
251 :
考える名無しさん :2011/06/30(木) 17:07:53.03 0
>>すべての予想は等しく幻想であり差はない まあすべては人間の観念にすぎないとしても、 その観念の内容には差があるわけだがね。 懐疑論に立って科学や数学を否定しておきながら、賛同者のいない自論は懐疑せずにハマるって どういうことよ。
>>250 いやいや、ヒュームの言っていることは、
「合理的根拠は無い」ということであって
必ずしも「幻想に過ぎない」ってことじゃないだろう。
まあ、「幻想に過ぎない」という言葉の意味によるとは思うけど。
仮にそれ(「幻想に過ぎない」の意味)を「行動の指針とできない」と仮定するなら、
「すべての予想は等しく幻想であり差はないと考える人にとっては」確かに、
「さぞかし生きるのは辛いこと」だろうけど、
ヒューム自身を含めて、ヒュームの考えを認めてる大部分の人は、
「合理的根拠は無い」ことが必ずしも「行動の指針とできない」ということになるとは
考えていないと思う。
客観的じゃなければ全てが幻想かよ。おめでてえな。 そんなこと言ってねーだろ、 客観だ妥当性だなくたって現実とは関われるんだよ。 そっちのが豊かでまず選択ありきだっつーの。 目を覚ませ。 馬鹿じゃねーの。 恥ずかしくないのかよ。カス。
>>249 また変なのがw
文系というならニーチェ、ショーペンハウアーだろ。
数学に依拠してたヒュームは全然タイプが違う。
>>252 そう。
ヒューム思想の根幹は因果関係が論理的でなく自然的な関係であるということ。
だから自然の斉一性原理を提唱してる。
255 :
考える名無しさん :2011/06/30(木) 17:33:42.23 O
「幻想に過ぎない」という言葉が気に入らないのであれば 「妥当性はもちろん、確かさの差もない」と読み替えればよい。
現実というのは偶然的真理の集合です。 現実的なものは偶然的なものです。常識ですねw
257 :
考える名無しさん :2011/06/30(木) 17:48:51.07 0
現象世界が偶然的であっても一向にかまわないだろ。 偶然(経験)と必然(論理、悟性など)のアタマの整理をしたんだよ。ヒュームもカントも。 偶然であることと、たんなる妄想的な思想とは別物。
>>255 まあ、対象とする問題によると思うけど、「生きるのは辛いこと」云々という話をしようとするなら、
その言い換えは意味が無いんだよ。
現実の生活への影響という意味では何も言ってないに等しいという点では変わらないから。
「幻想に過ぎない」であろうが、「妥当性はもちろん、確かさの差もない」であろうが、
それらの観念レベルの判断を現実の行動をどう反映させるかについては、
人によって考え方が異なるでしょ。
「幻想に過ぎない」し、「妥当性はもちろん、確かさの差もない」と思うけど、
当面この方法しか無いし、それで困らないから、この方法を使うもんねー、
それで人生結構楽しくやってるもんねーという人が大多数だろうから、単に、
「幻想に過ぎない」し、「妥当性はもちろん、確かさの差もない」ということを認めるかどうかということであれば、
認めるからといって、「生きるのは辛いこと」と予想することが一概に妥当とはいえないじゃん
259 :
考える名無しさん :2011/06/30(木) 20:59:13.00 0
まあたんなる抽象的で中身のない神学や形而上学の権威を脱して、 経験論に到達したアングロサクソンは勝ち組ってことさ。 結局、そこから功利主義だのプラグマティズムだの分析哲学だの 自然科学・工学・経済学だの、ビジネスだの軍事だのが発達していったけど、 懐疑⇒後ろ向き・無為に解釈して終わった奴はあんまりいなかったってこと。
ヒュームの言う自然的とは、人間の恣意的な観察と言う意味でしょうか? 大体の人間が同じように思っている(斉一性)ので、ある程度確かであると言うことでしょうか
261 :
考える名無しさん :2011/07/01(金) 00:06:17.62 0
あらかじめ自然として備わっていることが保証されるんなら それはアポステリオリとはいえず、経験論にも差しさわりがあるよな。
経験論でも経験を通して観念を取得する能力は生得ってことになってるんじゃね?
超越論的経験論
264 :
考える名無しさん :2011/07/01(金) 13:40:53.14 0
それじゃカントではないか ヒュームよりカントという意味がわかってきた
265 :
考える名無しさん :2011/07/01(金) 16:11:31.17 0
私が考えるヒュームの哲学とは
・世の哲学者の言説の前提自体に不確かさ、問題点がある
(それはその通りで間違いはない)
・ただし自らは一歩も進まない
(そりゃ一歩すすんだら同じく前提に不確かさがあるってことになるからな)
これがヒュームの考えで何か結論を出したり、一歩進んだりすると
もうそれはヒュームではない、し、不確かさが出てくる、だから
>>259 のような考えは哲学として本人の思索として抽出すれば
デカルト的であると、ヒュームではないと思えるのだが・・・
>>261 私などはそのようの事はロックの経験論にさしさわりは無いと思う
つまり、自然として備わってる完全な保証などはないからだ
馬鹿げた話だけど哲学的な批判がしづらい
それが経験論というものだと思う
266 :
考える名無しさん :2011/07/01(金) 16:38:12.92 0
>>265 なにもアングロサクソンの経験論的風潮=ヒュームの思想の延長とはいってないさ。
おれは理系で法学には疎いが、
ドイツなどが成文法主義的なのに比べ、英米が判例主義なところも経験主義な風潮のなせるわざなのか?
という基本的な疑問。
267 :
考える名無しさん :2011/07/01(金) 16:40:58.63 0
ロックもデカルトに近いのでは? より経験を重視し、よけいなものをそぎおとし、再編成した。 形而上は必要最低限だけ残した。 それすら不要だといってすべてのぞくとヒュームになってしまう。
268 :
考える名無しさん :2011/07/01(金) 20:28:55.40 0
>>266 歴史がどうだったかは実際には分からん、人類は未来も知りえないが実は過去も知りえない
それはそうとして純粋に哲学的、思索的な観点から考えうることがあるのではないか
とにかくヒューム自体は歴史がどうだからこうだ、という事は(人性論の中では)いってないはず
で、歴史的、科学的事実としてこうなのだから哲学は要らないというのは
又、別の話だと思うのだ
>>267 ロックはかなり適当だからね、人間論、最も影響のあった政治論、宗教論、すべて前提が違う気がする
>>262 それまさにカントなわけだが。
自我の存在を認めないヒュームの立場からすれば、
「観念を取得する能力」の持ち主もいないから、
諸観念は自然の法則によって生成消滅してるだけ、と考えることができる。
だから、「居ない」とは言ってないんじゃね? 「居るかどうか確かめようが無い」って言ってるだけでしょ。
居ること懐疑するということは、居ないことを前提に理論構築するということ。
272 :
考える名無しさん :2011/07/02(土) 00:49:01.45 0
自然も観念なんでしょ? そしてあるのは自然=観念の生滅だけ。 なんだか唯物論と紙一重。 きにいらねえ。カントの方がまだまし。
273 :
考える名無しさん :2011/07/02(土) 00:49:44.99 0
唯物論の裏=観念論
>>271 それは違うと思いますね。二元論でしか物事を考えられないわけでは無いですから
275 :
考える名無しさん :2011/07/02(土) 08:40:49.84 0
ヒュームの懐疑論や、観念論的経験論まではそういうモノの見方もあると 理解できるけど、 ヒュームの言う観念論的かつ斉一的かつ自我の不在な「自然」については理解できない私であった。
例えばさ、国士が積まれてたとしても、 積まれてるってこと知らなかったら、まず上がれないじゃん。
>>274 わからないの?
つまり、自我の存在がなくても認識作用を説明できるから、自我がないかもしれないと懐疑できる。
自我の存在を認めないと認識作用の説明ができないなら、そんな懐疑はできないでしょ。
>>273 まさにそう。
だからヒュームの観念論は自然科学が暗黙の前提にしてる素朴実在論と表裏の関係で相性がいい。
ジョン・サールの見解によれば、現代の哲学者のほとんどは自我を否定するヒュームの
考えに同意しているという。
これは現代の哲学者のほとんどが、自然科学の知見を前提とした上で哲学を行っているから。
もし、超越的な自我や魂というものを認めるなら、肉体や精神を超えた「何か」を想定せざるを得ない。
しかしヒュームの立場を取るならばその「何か」を想定する必要が無い。
カントはヒュームが解体したデカルト的コギトを、物自体を想定した上で、 さらに全ての表象に「我思う」を伴わせる能力として悟性の統覚の能力を 想定して「形式」として復活させたわけだが。 しかしその物自体も厳密に分析すれば、時間や延長さえ必要のないものになり、 最終的には表象をもたらす「能力」にまで還元できる。 そのことを見抜いたショーペンハウアーは物自体を「意志」と置き換えるわけだが、 ヒュームからすれば、その「意志」は自然の法則であり、かつ斉一性があるということになる。 結局、カントの認識論もヒュームの哲学を超えていないと見ることも出来る。
とはいえ、ヒュームは知覚の重要な原則として、 1、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、 2、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、 という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていたとは重要で、 ヒュームの研究者も頭を抱える部分。 これはおそらくヒュームが自我を「共和国」との類比で理解していたことと関係するのだと思う。 共和国の成員は時代によって変わるが、共和国はそのままであるというが、ならば そもそも共和国という「枠組み」は何によって成り立つのか、と疑問が生まれるからだ。 そのことからカントは統覚の能力を想定したのだろうが、しかし生成消滅する観念が真に 個別的であるというなら、 数ある観念のうちには「我思う」という個別の観念の紐帯となる反省的な タイプの観念がある、と考えればいいだけのはずである。 こうしてヒュームの観念論を拡張解釈すれば、自我や魂をイレギュラーなものとして回避する 自然科学と親和的なものになる。
>共和国の成員は時代によって変わるが、共和国はそのままであるというが、ならば >そもそも共和国という「枠組み」は何によって成り立つのか、と疑問が生まれるからだ。 ウィトは解にはならないのかな。
ヒュームは一対一対応を数学の基礎として提出したが(これはカント仮言定理の系列的思考にあたる)、 フレーゲの再評価を待つまでもなくこの原理で最初に体系を作ったのはスピノザだ。 思惟と延長、精神と身体といった一対一対応が無限遡行して実体に到る、スピノザ自身の 記述順はむろん逆だが。 カントはヒュームを自分の体系に閉じ込めたつもりが、矮小化しただけだった。 ただ一人スピノザだけが対ヒュームのあからさまに真逆の思想的ポジションにも関わらず、 ヒュームの先行者でありかつ導師なのだ。 ちなみに一対一対応を、自然数とゲーデル数、素数に対応させたのがゲーデルの不完全性定理であり、 社会学に応用したのがプルードンである。
283 :
考える名無しさん :2011/07/02(土) 23:25:56.06 O
>ゲーデル >プルードン こういうコジツケすると、なんちゃらカウンセラーや占い師みたいに胡散臭くなるからやめた方がいいと思う。
284 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 01:13:13.22 O
現代のヒューム解釈で求められるのは錯綜したヒュームの懐疑論・観念論を脱構築することだろうな。 現代哲学の状況を作り出しているのは紛れもなくヒュームだろう。 言語哲学然り、現象学然り、政治哲学然り、すべてはヒュームに依るところが多いはずだ。
285 :
Rev.Y.S. ◆xPmNiQwsF. :2011/07/03(日) 07:40:16.41 0
>>210 自然が完全に無法則なら、人間脳も自然なので法則性がないことになります、故に矛盾ですね。
全ての法則も言葉も人間脳か人類の脳細胞が紡ぎだした一定の記号規則で綴られている。
完全な無法則さも完全な法則さもないのではないですか、この世には。
その両極界は単に理念として止揚されるべきではないでしょうか。
例えば、「酸素原子」は一つとして細部に完全同等のものがないかもしれません。しかし呼吸はできている。
286 :
Rev.Y.S. ◆xPmNiQwsF. :2011/07/03(日) 07:45:50.23 0
ヒュームは形式主義の模範を示した点では重要だが、倫理的内容論がない。
しらないというか読んでないだけかもしれないが。
>>266 は、上が教える通りだと考える。
形式主義では倫理行動への直接の指針がない。「〜すべき」というものがない。
成文法系譜は内容主義が引きやすい。
デリダもだから内容主義を脱構築でありえないと批判していると思う。聖書含め。
287 :
Rev.Y.S. ◆xPmNiQwsF. :2011/07/03(日) 07:52:59.43 0
>>284 買被りではないですかw
一言で、「物」の問いだと思う、ヒュームまでのイギリス的哲学の核心は。
いまだに「物」を問うている。物理学がはやるのもそれ。
人倫が極端に薄いくらい彼らはキリスト教を血肉化した(清教徒革命以来)ので、
他の倫理思想がつまらなく見える気がする。
ただ、神についてだけは解かれていない感じがあの国には残っている。Godとは何か、実在するか。
物理学者の権威の方がイギリスで高いのは、物を創り出した神が何者かについて示唆してくれうる期待だろう。
288 :
Rev.Y.S. ◆xPmNiQwsF. :2011/07/03(日) 08:03:48.58 0
キリスト教の文脈の上では、つまり多数の国民がその信者の形式をもっている場では、 内容論が他の宗派のそれとは異なるうえ、Godへの懐疑へ導かれるのは自然。 キリスト教を教育から切り離す工夫はされてるらしいが、どっちかといえば宗教を科目的に分けている節。 異教徒をキリスト教系の授業には出さない。豚蟹牛は食べなくてもいい。 日本で道徳教育は忌避されるようになったが、 日本の多くの場、特に地域政治的に神道や仏教の強い場にGodの理念がないことから同じ命題を彼らと共有するのは難しい。
>>285 >自然が完全に無法則なら、人間脳も自然なので法則性がないことになります、故に矛盾ですね。
>全ての法則も言葉も人間脳か人類の脳細胞が紡ぎだした一定の記号規則で綴られている。
いや、ヒュームが言ってるのは、そういう事が法則の存在の証拠にはならない、って事じゃないの?
290 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 15:39:36.58 0
正直な感想として、 「論考」のウィトは認識論の問題にはあまり介入していないとはいえ、 その構図はヒュームの経験論的観念論というより、カントの構図におっている 部分が大きいように思われたのであった。 悟性形式を、論理形式として読み替えるのです。 分析哲学の祖として取り上げられることが多いが、やはり彼は根っこのところでゲルマン人なのであった。
291 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 15:40:21.96 0
ゲルマン文化の人間、ね。補足。
292 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 15:47:16.33 0
自然という観念の斉一性は、経験によっては保証されないのでしょう。 カントが頭ごなしに主体の機能として悟性形式を設定したのと、 頭ごなしにある種の観念の性質を決めつけたのとはまったくおんなじことなのではないでしょうか。 むしろカントの方がいさぎよいと思います。 どこまでも経験論をおしすすめねばならないヒュームの場合は苦しいと思います。 やはり、ヒュームの構図では自然科学者がイレギュラーだとみなしたものを 避けることに成功しているようには思えません・・・ 形而上学は殺せないのです・・・。科学にも形而上は必要です。 どのようなものなら認めてもよいか・認めざるを得ないか・どれが不要か、という問題だと思います。
293 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 16:10:11.49 0
例えば科学で全てが解明したとして、どう哲学すればよいのかの正解がでて と、ここまでは形而下だけど実際哲学すると形而上のものになるんじゃなかろうか
>>292 >自然という観念の斉一性は、経験によっては保証されないのでしょう
経験によって帰納的に法則が見出せるというのがヒュームの論理
295 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 20:54:51.37 0
>>294 どこまでも過去の蓋然性であって、それができないから、
ヒュームは自然という観念の斉一性を導入したんでしょう?
科学をマジで信頼してないわけではなかったから。
信頼というものの意味を変えた、ってことじゃないの。 真理が信頼の絶対要件じゃないってことでしょ。
297 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 21:10:35.44 0
いずれにせよ、 経験的には、法則は見出せないはず。 いままでそういう現象傾向があったからといって、次の因果の保証はない。 カントは主体による認識機能(悟性形式)として因果形式のワク組みがあり、 その眼鏡でモノを見るから法則があるようにみえる(法則はアプリオリに内面に存在) ヒュームは自我・主体を認めず、客観的実在も認めず、 ただずべては観念で、観念=自然の生成消滅はあらかじめ観念=自然に備わっている「法則」にしたがって 起こる、とした。 勝手に前提として法則を保証しちゃった点では同じ。法則の存在の証明はない。公理だ。 でよろしいか?
>>297 経験的に法則は見出せる。(自然の斉一性)
ただし、いままでそういう法則があったからといって、
これからもその法則があるとは限らない(グルーのパラドックス)
299 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 21:30:25.46 0
結局、 「信頼」とは、形而上の架空の絶対の領域にしかない。 それはわかってるが、われわれはそれを設定せざるをえないのだ。 自然の斉一性でも、悟性でも、定言命法でも、なんでもいいがね。 ただし、「自覚」はしておかなくてはならない。
300 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 21:39:01.76 0
>>298 観念の「経験」を得たあとの帰納で法則を認めることができるのは、
あらかじめその観念に斉一性を認めているから、でいいんですか?
301 :
考える名無しさん :2011/07/04(月) 07:22:19.86 0
ところで、「自然の斉一性」については、ヒュームの主張って 「自然には斉一性がある」と言ってるわけじゃなくて、 「我々にはそれを(無意識に)前提にして思考する習性がある」 (そして自然の斉一性自体にはそれを正当化できる根拠は無い) と言ってるんじゃないの? 私の勘違い?
303 :
考える名無しさん :2011/07/04(月) 11:01:17.10 0
>>302 「我々には」というところが違うと思う。
それはカント。
われわれの認識機能(悟性形式)として、そういう色メガネでものをみるから、ですね。
ヒュームは独立した主体・自我はみとめず、
ただ自然(ただし実在ではなく観念)の生成消滅の傾向に「私」とは無関係に斉一性がある、と決めつけている
「決め付けている」というのがどうもピンとこない。 ヒュームは自らの懐疑的立場による反証の対象として、 斉一性だけを埒外に置いているわけではないでしょう? つまり、(そのようになる論理的根拠は無いにもかかわらず) 経験的には自然には斉一性が見られる (しかし、将来にわたってそれが必ず現れると考え得る根拠は無い) ということじゃないの?
305 :
考える名無しさん :2011/07/04(月) 12:34:22.19 0
過去の経験についての、主体の決めつけです。 カントはそう読み替えたわけですね。 経験的にも演繹的にも断定できませんから。 主体(カント)あるいは観念的自然(ヒューム)の原理として、 定立しておくしかなかったんですね。 正直、ここは経験論の苦しいところだと思います。
どうも、あなたのいう「決めつけ」という言葉の意味がよくわかりません。 誰が「決めつけ」ている、という話ですか? それと、経験論に関してのヒュームの役割って、引導渡しじゃないんですか?
308 :
考える名無しさん :2011/07/04(月) 17:28:00.12 0
>>306 われわれ科学者が「決めつけている」のです。
309 :
考える名無しさん :2011/07/04(月) 17:29:40.87 0
ヒュームのいう自然の斉一性、 素朴実在論とるにせよ、観念論とるにせよ、信じないとやってられません というはなし カントの悟性形式でもいいですけど。
310 :
考える名無しさん :2011/07/04(月) 17:53:35.52 0
つまり経験則でも演繹でもなく、 信念の域を超えないと?
つうか、「絶対的真理の追究」みたいなものが、 実は「いらん子」だということに、近代のある段階で気づいたわけでしょ? そのもっとも顕著な例がプラグマティズムなわけだけど、 実際には、そういうパラダイムシフトはプラグマティズム以前から起きてた。 ではそれはどこか、とたどっていくと、ヒュームというものが、 大きな節目として存在してるということじゃないの? だから、パラダイムシフトが起きる前の「「絶対的真理の追究」至上」のパラダイムで ヒュームを見ると、単に絶望的なことを言っているように見えるし、わけがわからない。 逆に、プラグマティックな観点から見ると、「絶対的真理の追究」という 不毛な束縛から人類を解放した実に素晴らしい発想の転換に見える。
312 :
考える名無しさん :2011/07/04(月) 23:25:54.85 0
>>311 でもそれはヒュームの哲学じゃないし
信憑性ゼロの独断論
313 :
考える名無しさん :2011/07/04(月) 23:28:03.74 0
>>312 >>311 とは別人だけど、
ヒュームの思想そのものについて忠実に語ることだけがここの趣旨じゃないでしょ?
関連して、他にどんなことが考えられるか。も含む。
314 :
考える名無しさん :2011/07/05(火) 01:31:14.81 0
>>313 いや関連してないでしょ
ヒュームは関連なんかしない
>>311 真理の追究にしか価値を見出せない人は、何時の時代どんな時代もいる。
つまりは「その程度」の人間が、足を引っ張るのは「斉一性のある」現象じゃないかな?
っていうか、なんで信憑性が問題になるの? なんか新しい史料でも示されたの?
317 :
考える名無しさん :2011/07/05(火) 14:43:12.10 0
318 :
考える名無しさん :2011/07/05(火) 20:26:32.27 0
>>316 でも信憑性のないヒュームなんて何の意味もないじゃん
信憑性を武器に他の哲学者を批判してるだけなんだから
319 :
考える名無しさん :2011/07/05(火) 21:10:16.44 0
そりゃヒュームも自分自身を懐疑してるさ 梯子をのぼりきってみれば、 ナンセンスだとわかるということだ
>>318 ヒューム自身の主張について信憑性なんて言葉が出てきたのは初耳だが。
どういった著作のどの部分で、どのように信憑性の話をしてるの?
321 :
考える名無しさん :2011/07/06(水) 13:15:08.70 0
>>320 ヒュームの見解にしたがってヒューム自身の思想や設定も懐疑できる
ってだけの話じゃね?
>>321 ヒュームが懐疑してるのは、信憑性じゃなくて(論理的)妥当性じゃないの?
323 :
考える名無しさん :2011/07/06(水) 14:11:09.66 0
言葉を変えても同じさ 信憑性なんていったのはおれじゃないけどね 経験はそのままでは何物でもない 経験は言語・論理によって編成されるが、その言語による論理的妥当性を 懐疑している以上、自身の見解も懐疑される
うそつき「僕はうそつきです」←これは真か偽か?
>>324 そこまで一般化してしまうと、
人の言ったことを一度でも疑ったことのある人の言うことは、
すべて疑わしいことになっちゃうんじゃね?
というか、うそつきのパラドックスは哲学上の大問題だぞ
327 :
考える名無しさん :2011/07/06(水) 14:40:25.10 0
結局哲学的懐疑など コドモの屁理屈を高級にしたにすぎん
328 :
考える名無しさん :2011/07/06(水) 14:42:27.95 0
そして苦しくなって 少数の「原則」を定立するにいたり、 懐疑の火の粉を自らかぶるということだ。 梯子をのぼりきってみれば、 みずからすべてがナンセンスだったとわかるということだ
あんまりそういう気どりがないのが英米哲学のいいところだと思うのだが
330 :
考える名無しさん :2011/07/06(水) 15:48:15.79 0
そうだ しかしつきつめると困ることが出てくる、 そして大陸系の駄弁がまたもたげてくる、というわけだ。 このくりかえしだ
>>323 >その言語による論理的妥当性を
>懐疑している以上
誰かが言語でもって主張したことの妥当性を疑うなんて、
ヒューム以前も以後もやってる人間はいくらでもいるわけだから、
それだと、ヒュームに限った話じゃなくね?
というか、あなたのその主張自体がそうだよね?
332 :
考える名無しさん :2011/07/06(水) 23:02:06.44 0
>>あなたのその主張自体がそうだよね そんなん、哲学とか思想とか自体全部そうですやん。 ソクラテスのころから、揶揄されてきたんじゃん。 それでも考えるのを止められないよ、というだけ。 ヒュームも二十代で哲学をやめ、 ウィトゲンシュタインも二十代で哲学を止めた(彼は再開したけど) からなあ・・・ 適度な付き合い方ってのがあるんじゃないか しおどきというか。 若いうちに一度突き詰めてみるのもいいけど、結局は何にも残らない堂々巡りだから。 できることならもっと違う知性の使い道にいった方がいいと思う(別に社会的・経済的意味じゃないよ)。
適度な付き合い方ってのも下らん話だな。 何も残らないってのは、全ての事物に言える。違いは、何か残ると無邪気に信じている(憶見)だけや。 ソクラテスは最期までやりたかった。ヒュームはそうじゃなかった。それだけ。
>>332 >そんなん、哲学とか思想とか自体全部そうですやん。
じゃあ、要するにスレ違いじゃね?
哲学全般の話がしたければ、別に相応しいスレがあるっしょ、多分。
無きゃ立てれば?
335 :
考える名無しさん :2011/07/07(木) 00:52:05.87 0
ヒュームは司法資格持ってて、 また、余生は歴史編さんをして過ごしたんだったな。たしか。 ニュートンの遺産を学ぶのとヒュームの遺産を学ぶのとで、 残るものの違いってことでっしゃろか? そら哲学には具体的な知識なんてあれへんがな。 討論にはなっても、講義や教科書にはなりにくいこと自体がそれをあらわしてるんや。 ヒュームの責任やない。 哲学という知的営み自体の虚しさの問題や。
336 :
考える名無しさん :2011/07/09(土) 23:16:22.90 O
思いつきだが、ヒュームの自然の斉一性(uniformity)と実存主義の反復の概念を関連づけて論じたら面白いの書けそうだな。
イギリス哲学と実存主義くらい縁の遠いものもないよな イギリス哲学の研究論文でニーチェとハイデガーが引用されるのを見たことがない
338 :
考える名無しさん :2011/07/11(月) 11:59:18.69 O
四角四面の教科書通りのご回答ありがとうございます
永井均とか<分析哲学とハイデガー
永井はヒューム関係ないな。 実存主義って啓蒙思想の主知主義に対する遅ればせながらのカウンターだから、 啓蒙思想自体必要なかった最先進国イギリスじゃ流行りようがないんだよね。
341 :
考える名無しさん :2011/07/11(月) 21:07:46.08 O
俺が嫌いなのはヒュームではなく必要以上に熱狂するファンなのだ 結局奴らは学校や仕事先でがんばれてなかったり、勝ててなかったりする奴らの 集まりで、それをひいきのヒュームに託し、ヒュームが頑張れば自分も頑張った気になるし、 それで成功すれば自分も成功したような気になるのだ 俺の様に毎日2chで戦ってる人間なら人を応援する余裕なんてある訳がない
何言ってんのお前
>>341 とっくに死んでるヒュームが「頑張れば」とか何言ってるのやらw
どっかのコピペなんだろうけど的外れ。頭わるすぎw
>>341 それヒュームと全然関係ないな。
「ヒューム」のところに何入れたって(イチローでもAKB48でもw)
同じだろ。
345 :
考える名無しさん :2011/07/11(月) 23:53:09.01 O
おまいらスマンwww 西田幾多郎スレで見つけて他にも貼ってある有名なコピペらしいのでまさかこんなにユーモア欠損のマジレスされようとは思わなかったわw ユーモア欠損団塊乙とか入れたいところだが、まじ俺が悪かった許せww
ユーモアセンスのない奴に限って他人にユーモアセンスを求めるの典型
ファイヤーワイヤー野郎「レベル低ww 俺にはまらないじゃんw」
>>289 法則がない、とはいえない。ヒューム式にいえば法則は働くが超越でも絶対でもなく主観な確信。
>>348 >法則がない、とはいえない。
いや、「法則がない」なんていってないけど。
ヒュームは主観的な確信とは別に客観的な法則の実在を認めている。 「原因と結果の恒常的な結合」や「自由に対する必然性」という呼称で頻繁に著作に登場する。 自然界に法則が実在するからこそ、人間は主観的な確信をもって自然の法則を認識することができる。 逆ではない。つまり、「法則は人間の主観に過ぎないから、法則なんて実在しない」のではない。 ヒュームによれば、「法則は客観的な実在である」と「法則は主観的な認識である」は両立する。
それを、「自然界の法則と主観の関係」と解釈すると、「客観的な法則の実在を認めている」 ということになるんだろうけど、「自然界の法則に関する主観の振る舞いの法則」と解釈するなら、 「客観的な法則の実在を認めている」ことにはならないんじゃないの?
>「自然界の法則に関する主観の振る舞いの法則」と解釈するなら、 そのように解釈することがまず間違い。 ヒュームは、人間の知性さえ分析すれば自然界の現象まで解明できるようになるとは考えない。 「人間の心の中に自然がある」のではなく、「自然の中に人間の心がある」のだから、 「人間」を「自然」から乖離したものとみなすドグマは狂信者と同じ。 だいたい、「法則」が存在しないと言いながら「自然界の法則に関する主観の振る舞いの法則」という発想に至ることが荒唐無稽。 自然には法則がないが人間の心には法則があるという理屈は成り立たないのだから。
>>352 >ヒュームは、人間の知性さえ分析すれば自然界の現象まで解明できるようになるとは考えない。
自分もそう思ってるんだけど。
>「法則」が存在しないと言いながら
>>349
>>353 では、客観的な法則は実在するということでいいね?
それを否定するならば、まずあなたの自説をはっきりと示す必要がある。
>>354 >では、客観的な法則は実在するということでいいね?
違うよ、実在するかどうかを知ることはできないってこと。
つうか、これってヒュームの思想で一番有名なところだと思うんだけど。
ヒュームスレでこんな質問が出てくること自体不思議。
>>355 違う。
仮に自然の法則が実在しなければ人間が法則を認識することはあり得ないとヒューム自身が断言している。
>>356 へえー断言してるんだ。
じゃあ、自分の勉強不足ですね。
法則を神格化・偶像化させるのをやめさせた、なぜなら確信という認識作用の使い道に過ぎないから、といった部分が上5レス程の議論の核心ではないか 「法則」、少なくとも自然法則の有用さ、ある程度使えることは変わらない。地球の通常の大気では酸素が燃えるくらいの法則でも。 しかし、それが神とか自然の創造とかと神秘的にまじわっている、という事を哲学・形而上学として否定している。人間の頭脳の働きからくる確信でしかない。 倫理法則、道徳法則とそれらとは異なる議論ではないか では自然法則を超えた道徳法則とは何か、はカントに受け継がれた命題になった
359 :
考える名無しさん :2011/07/24(日) 16:52:42.18 0
ヒュームはどうでもいい話しかできなかったんだよ 実は、数学の成績が今一な子供だったの
361 :
ほらよ。おまえらの仲間だろ? :2011/07/25(月) 01:23:03.16 0
「ノルウェー連続テロ事件、背景は」 News i - TBSの動画ニュースサイト news.tbs.co.jp/20110723/newseye/tbs_newseye4783402.html - キャッシュ1 日前 – また、容疑者はジョン・スチュワート・ミルやデビッド・ヒュームといった思想家に傾倒していたそうです。そして犯行の数日前にツイッターのアカウントを立ち上げ、 「1人の信念ある人間は10万人の凡人に値する」というような趣旨の ...
362 :
考える名無しさん :2011/07/25(月) 12:51:47.39 O
ヒュームからラスコーリニコフに至ったわけだな しかしあるのは信念ではなく情念だろう これほどの凶行でもノルウェーじゃ終身刑という…
363 :
考える名無しさん :2011/07/25(月) 14:45:11.55 0
終身刑じゃなく、禁固21年。
364 :
考える名無しさん :2011/07/25(月) 15:17:12.44 0
ほんとは死刑でも軽いぐらいだよな。 ラスコーリニコフどころではない。 警官の制服着て、整列させて、 マシンガンで90人射殺とか人間じゃねえ。 いくら寛容な北欧政治に不満があったとはいえ。
365 :
考える名無しさん :2011/07/25(月) 17:51:56.38 0
366 :
考える名無しさん :2011/07/25(月) 18:11:27.02 0
じゃあなんだったのかと。 米路線シンパ(ただし移民には排他的)か?
367 :
考える名無しさん :2011/07/25(月) 18:19:48.00 0
ヒュームスレで北欧ネタを持ち出す奴も同罪。
369 :
考える名無しさん :2011/07/25(月) 21:00:53.11 0
移民政策を推進する労働党の青年キャンプの子供たちを殺したの。 いずれ彼らが労働党のエリートになるから。理屈はあってる。
370 :
考える名無しさん :2011/07/25(月) 21:03:32.72 0
371 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 00:15:48.31 0
おねねすってなんかえろいなーっておもってぐぐったらわんねすだった
372 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 00:16:23.04 0
でわんねすって何?
373 :
おまえらの仲間なんだろ? :2011/07/26(火) 00:18:32.58 0
ノルウェー連続テロ事件の犯人「爆弾は自分で作った。隣の百姓のせいで80日もかかったわ」
374 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 05:40:37.22 0
375 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 16:55:01.08 0
376 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 22:53:51.04 0
ころしかぁ いいなぁ
377 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 04:22:25.28 0
日本も他人事じゃないよ。 すでに在日外国人の中では中国人が一番多いのに、 これから中国人を1000万人入れるって言ってる政治家もいるしね。 中国人に土地もどんどん買われてるし、日本人は、中国の土地買えないのに。 そう遠い話ではない。
ブレイビクはネトウヨの神になるのか。最低だな。
まあ、日本でも秋葉原の例の事件のとき 2ch で犯人を称賛するレスがたくさんあったし、 スレが立ったりしたからな(確かこの板でも)。
380 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 11:09:15.38 0
http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-22352120110725 IHSグローバル・インサイトの欧州専門家リリト・ゲボルギャン氏は、「ノル
ウェーで起きた2つの攻撃が(移民問題に関する)率直な議論のきっかけになら
なければ、過激派を孤立化させ、状況をますます悪化させる可能性があり、回り
まわって、将来的に似たような事件が増える可能性がある」と指摘。さらに「こ
の問題はノルウェーだけのものではない。スカンジナビアや東西欧州でも、開か
れた議論がないことにイライラしている人は大勢いる」と述べた。
英国のキャメロン首相、ドイツのメルケル首相、フランスのサルコジ大統領は
ともに、過去数カ月の間に口をそろえて多文化主義は失敗だったと語った。
保守派は早速ブレイビクに便乗かよ。ひでーな。
ひどいのはろくに保守派の言い分も聞かず 教条主義的に愚痴を垂れて満足している自称革新派でしょ。
イスラムのテロとは断固戦うが、極右テロにはテロリストの動機を肯定する保守派
384 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 17:10:05.20 0
ヒュームの懐疑論を適用するとどうなるの?
本人は国際的ネットワークの一員であると主張し、弁護士は
「精神障害者」との見解
北欧では素人に爆弾の作り方を教えるのは普通のことらしいよ。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/jul/26/norway-attacks-anders-behring-breivik >On Tuesday, a Danish businessman revealed that he had discussed
>methods of creating explosions with Breivik. In an interview
>with the Danish newspaper Ekstra Bladet, Glenn Jensen said he
>had met the gunman several times over the past five or six years.
なぜ訳と原文が違う
386 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 08:25:28.45 0
387 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 16:04:28.05 0
388 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 22:01:56.48 0
ガイジンとこういう哲学の議論がしたいんですが、 どういうところにいったらいいんでしょうか?
389 :
考える名無しさん :2011/07/29(金) 15:00:20.21 0
ヒュームは方程式を丸暗記してばっかりのタイプだから意味ない 金属蒸気みたいな名前だね
391 :
考える名無しさん :2011/07/30(土) 12:09:33.72 0
http://www.twitlonger.com/show/c1dqum フジテレビ内部者からの告発
フジテレビは内部で戦っています。
ホリエモン買収対応で、ソフトバンク系SBIに助けてもらったので、
朝鮮系グループが 経営側でチカラを出してきましたが、
報道部はサンケイ新聞とともに、朝鮮系グループに喧嘩を売って戦ってます
どうかみなさんの応援で助けて下さい。
朝鮮系グループのしつこさとえげつなさには、正攻法では戦えないです。
テレビ側が言うのはおかしいですが、ネットで話を盛り上げて助けて下さい。
盛り上がれば多くの芸能人の耳にも入り、さらに話が大きくなると思います。
日本のメディアは瀕死状態です。 助けて下さい。行動を起こして下さい。
応援お願いします。
392 :
考える名無しさん :2011/07/30(土) 15:16:23.03 O
今イングランド史読んでるが、人性論の六倍近い分量でマジめまいしてきた。 質はともかく量から判断するならヒュームが歴史家と言われる理由がよく分かったわ。
361 :ほらよ。おまえらの仲間だろ?:2011/07/25(月) 01:23:03.16 0 「ノルウェー連続テロ事件、背景は」 News i - TBSの動画ニュースサイト news.tbs.co.jp/20110723/newseye/tbs_newseye4783402.html - キャッシュ1 日前 – また、容疑者はジョン・スチュワート・ミルやデビッド・ヒュームといった思想家に傾倒していたそうです。そして犯行の数日前にツイッターのアカウントを立ち上げ、 「1人の信念ある人間は10万人の凡人に値する」というような趣旨の ...
>>392 実はヒュームのイングランド史が出るまで、
イギリスに体系的な通史の本は全くなかったらしい。
ソースはヴォルテール。
ヒュームはイギリスの水戸黄門ということか
ご協力お願いします。 正義はいかにして成立したか。 また、なぜ人間が正義を必要としたかという問題についてヒュームはどう考えたか。 教えていただけませんか。
397 :
考える名無しさん :2011/08/03(水) 05:48:37.02 0
ボダンの七人討論会をヒュームはどう思ってたかな。
399 :
考える名無しさん :2011/08/07(日) 15:32:23.21 O
ボダンの七人討論会って何ですか?
ボダンの書いた対話篇っぽい著作で、 登場人物が自然宗教対話+4ってな感じの作品。 ボダンもキケロあたりを踏襲してるんだろか。 ウィキみたけど貨幣数量説ってヒュームがオリジナルだと思ってたけど、 ボダンのほうが先だったのかな。
401 :
考える名無しさん :2011/08/08(月) 13:40:11.30 O
>>400 ありがとうございます。
ボダンって寝耳に水の名前だったが、ウィキだと王権神授説の最初の提唱者で、魔女裁判にも深く関わってとか結構有名なお偉いさんらしいですね。
402 :
考える名無しさん :2011/12/04(日) 00:58:03.31 O
岩波思想特集あげ
403 :
考える名無しさん :2011/12/29(木) 17:28:16.62 0
そして最も卑小なるスレも永劫に回帰するということ、これが私の嫌悪であった! ああ、嘔吐、嘔吐、嘔吐!
404 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 02:49:24.47 0
保守
405 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 23:17:37.91 0
ヒュームは古典としてライプニッツ・ヘーゲル・キルケゴールあたり以上に 重要だとおもうけど本が売ってないのはなぜ?岩波は翻訳売らんのか? 英語の原書を注文するしかないんか?まあ英語なら理系の俺でもなんとかなりそうだが。
406 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 23:19:49.57 0
ヒュームの文体は哲学書にしては明晰でわかりやすいと聞く。 そうなのか? それは英語圏の特徴なんだろうか?
407 :
考える名無しさん :2012/02/27(月) 13:01:29.88 O
300年も前の人の文章なのに馬鹿な俺でも原文で読めるんだからヒュームはたいした奴だぁよ
408 :
考える名無しさん :2012/02/27(月) 15:08:02.33 0
というか近代英語は300年間あまり変わってないと言うことでは。 日本語だと江戸時代〜明治初期の文章ですら読みにくいし内容もはっきりしないぞw 漢文調であることを差し引いても。 ドイツ語も読みにくいらしいな。哲学もドイツより英米の方が明晰。 だからといって英米が本質を踏み外しているとは思えない。カントももっと要旨をすっきりまとめられたろうにな。
英米哲学の本なんて図書館行ってもほぼ無い
410 :
考える名無しさん :2012/03/04(日) 23:19:47.31 0
ヒュームは語彙が平易なだけでなく思想の内容も現代的だと思う。 導入部や論理構成は当時の読者層に合わせて宗教的な観念を持ち出すこともあるが、 死生観の章で唱えている結論などは、現代の一般的な教養人の意見と大差ない。
「私の指の掠(かす)り傷よりも、全世界の破滅の方を 好んだとしても理性に反することにはならない」(ヒューム) ノルウェーの爆弾テロ犯の“情念について”解説しているかのようだ。
人種差別主義者の「苦痛」を私達はうまく捉えきれていないかもしれない ヒュームは理性も感情によって基礎づけられていると言っているが、その 「情念」をああいうテロリズムによって解消しようとしたのではないのか。
413 :
名無しさん :2012/12/04(火) 21:52:18.83 0
大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて、
心も身体も壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるか、
どこかの家の床下に埋められるか、ドラム缶に詰められて
大阪湾に沈められるかもしれへん。それで誰にも発見され
へんかったら、永久に行方不明のままや。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
http://www.shimamotocho.jp/ikkrwebBrowse/material/files/shimamoto_iti_map.pdf
グロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロい
415 :
島本町でイジメを受けて島本町から逃げ出した元島本町民 :2013/01/15(火) 06:01:21.56 0
>>413 名無しさんの言う通りや
名無しさんも早う島本町から逃げ出す方がええ
島本町なんか陥没して地球上から消滅したらええんや
416 :
考える名無しさん :2013/01/18(金) 00:38:37.06 O
ヒュームってカントに批判された人なのにそんなに大事なの?カント読めばいいんじゃないの?
417 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/01/18(金) 00:51:41.57 0
結局、哲学が意味があったのはヒュームまでだよね。 カントはヒュームの懐疑論だけ抜き取って、 超越論を考え出した。 それはあまりによくできた言葉遊びなので、 その後の哲学はこの言葉遊びから抜けられなくなった。 そしてただのニッチな分野落ちぶれた。 そしてヒュームの本質の慣習論は ウィトまで埋もれてしまった。
418 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/01/18(金) 22:33:33.04 0
カントが編み出した超越論をざっくりばっさっといえば、 たとえばビンのワインを一枚の布でラッピングするのを想像するといい。 きれいなラッピングのやり方は、ビンを一枚の布でくるめば当然シワがよる。 なるべく余計なシワがよらないようにつつみ、そのシワをビンの頭の部分に集めてそこをリボンで隠すことだ。 ヒュームはきれいに包むことなどできない。 でも現実に包まれている現実が重要だといった。 それに対して、シワを一ヶ所に集めるて、人の認識を越えた超越的な部分へと集約する。 すると論理的に包まれたように見える。きちんと包まれることに救った。 この新たな方法により哲学は救われた。 ヒュームのように現に包まれてるではないかといってしまえば美しくラッピングする方法を探求する哲学は終わる。
419 :
再送 :2013/01/20(日) 10:38:57.64 P
論理主義の代表フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。
数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。
「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻
第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が
等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86 実感を強調したヒュームは数学を分析的なものと考え、あくまでも実体を重視した。カントはそれに対して数学を総合的なものと捉え、様相を擁護した。
ちなみに、フレーゲの立場は、数学体系を準備しうるものだということがわかっており、再評価されている。
ヒュームは、カントが独断的に述べたような不可知論者では断じてない。
420 :
御子柴.A 宗光 ◆WalkyrieuQ :2013/02/21(木) 09:35:09.22 O
ヒュームって実はかなり弁証法的な思弁を内に孕んでいる 例えば「理性は情念の奴隷である」は有名なテーゼだけど これは一種のレトリックで 情念=主人,理性=奴隷の関係で考えたとき ちょうどヘーゲルの主人と奴隷の弁証法が成り立つわけだ 実はヒュームは理性が最終的に情念よりも自由である,ということを言っている
422 :
考える名無しさん :2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN O
ヒュームは自由貿易論者と見なされがちだけど、中野剛志はそれを否定し、実は経済ナショナリストだと論証してる。 ヒュームに関しては、まだまだ研究の余地があると思う。
デイヴィッド・ヒューム(David Hume、ユリウス暦1711年4月26日(グレゴリオ暦5月7日)- 1776年8月25日)
@イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日) Aジョン・ロック(John Locke, 1632年8月29日 - 1704年10月28日) Bルネ・デカルト(仏: René Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日) Cアダム・スミス(Adam Smith、1723年6月5日(洗礼日) - 1790年7月17日) Dバールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日) Eトーマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588年4月5日 - 1679年12月4日) Fジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806年5月20日 - 1873年5月8日) Gジョージ・バークリー(George Berkeley, 1685年3月12日 - 1753年1月14日) Hジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2日) Iゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日) Jゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日) Kルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 - 1951年4月29日) L第3代ラッセル伯爵、バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell, OM, FRS、1872年5月18日 - 1970年2月2日) Mアリストテレス(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης - Aristotélēs、羅: Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日) Nプラトン(プラトーン、古代ギリシャ語: Πλάτων、Platon、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年) Oフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 - 1900年8月25日) Pアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)1788年2月22日 ダンツィヒ - 1860年9月21日 フランクフルト) Qカール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper、1902年7月28日 - 1994年9月17日) Rトマス・アクィナス(羅: Thomas Aquinas, 1225年頃 - 1274年3月7日) Sフランシス・ベーコン(Francis Bacon, Baron Verulam and Viscount St. Albans、1561年1月22日 - 1626年4月9日)
科学的因果法則を観念連合心理学で打ち破るあたりを 仮面という言葉も入れて説明してくれ
なんすか、試験問題みたいなその問いは
ヒュームの知性論:
知覚(perception)=意識
/ \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接 |再現、反省
複数 |
想像
/ \
比較する原理 連結能力
/ \/ \
/ /\ \
_量_質_反対_類似 因果 接近
| 同一性_時空_ |
| ||
(数学的、確実性) (蓋然性)
ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」
に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、
また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」と
いう語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。
ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、
そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、
その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。
ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」
の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」
「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」
は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して
「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html
429 :
考える名無しさん :2014/03/26(水) 05:08:04.52 0
431 :
考える名無しさん :2014/07/26(土) 04:14:33.30 O
テスト
432 :
第三の波平 ◆kpxxLE2Sh. :2014/07/26(土) 07:35:24.59 O
ヒュームは神
因果性は思い込みである AがBの原因であることを証明することはできない
人性論以外にももっと読まれないといけない人
435 :
考える名無しさん :2014/08/08(金) 19:30:24.92 0
ヒュームは共同体主義者 サンデルはヒュームのパクり
436 :
考える名無しさん :2014/08/14(木) 14:23:31.01 0
ヒュームって渋いよね。
437 :
考える名無しさん :2014/08/16(土) 00:49:45.08 0
ヒューム専攻の犬塚元って、業界的にはどうなの?
438 :
考える名無しさん :2014/08/17(日) 08:11:35.49 0
一ノ瀬先生の本は面白いある。
439 :
考える名無しさん :2014/08/17(日) 19:42:42.77 0
犬塚元、西部スレのながれみれば、何すべきかわかるんじゃね?
440 :
考える名無しさん :2014/08/17(日) 22:00:25.26 0
苅部直、犬塚元についての見解は、あるの? 業界的には、杉田敦がキーマンなんでしょうか? 関係者さま。
441 :
59 :2014/08/17(日) 23:11:29.19 0
なお、川出良枝先生の文章は、 日本近代史上に残るでしょう。 森鴎外、向田邦子レベルですな。
442 :
考える名無しさん :2014/08/18(月) 00:09:17.60 0
犬塚、しっかり働け! 川出先生が仕事できないだろ。 明白な他者危害だと思うぞ。
443 :
考える名無しさん :2014/08/21(木) 20:37:51.69 0
犬塚、お前、 石井明先生が、岩波から、 ああいう本出したことの意味、 よく考えろ!!!!!
ヒュームってカントに批判されたんだよね じゃあダメじゃね?
445 :
考える名無しさん :2014/08/30(土) 11:26:12.06 0
>>444 カントがロック、ヒュームにおうているものは、
甚大。
哲学では批判される先行者のほうが偉いというのが常識
人性論
ヒューム哲学って現在人には割りと理解し易いと思う。 さほど難しい事言ってねーしw 「精神」を「知覚の束」に例えた部分なんて先進的でイケてるぜ。 とくに科学万能主義となった今の時代にはトレンドだと思う。
デーヴィ〜〜〜ット ひゅ〜〜〜む〜〜〜♪
451 :
考える名無しさん :2014/11/21(金) 21:55:00.61 0
>>11 自分の中ではヒュームは科学万能主義の先駆けというイメージだが違うのん?
>>451 だいたい、そのイメージで合ってる。
ちなみに、アインシュタインが相対性理論構築の際にヒューム哲学の影響を受けたことは有名。
>>451 はなぜ全く関係のない安価を付けているのかが謎
454 :
考える名無しさん :2015/02/15(日) 02:41:38.20 0
すべては主観に過ぎない!(だからどうしたという話だが)等のなげやりな論説(論ですらないか)って 理解に何の努力も要さず、そこから発展のしようもなく(実際、彼は「無駄、諦めろ」としか言えない)、 言ってること自体は正しいから(正しいだけで何ら知的な貢献をしないが) 理解力も思考力もない馬鹿にはウケるんだろうな。
つーか、ヒュームの主張ってのは、哲学みたいなムダな事はやめて 科学のような実用的で役に立つ事をやれって事だ。 科学者に受けがいいのは当然や。
スピノザもヒュームも退屈なのは現代思想に近いから