>>1乙
そんなのがあるんですな。
『〈私〉の哲学を哲学する』は、10月4日発売らしいですな。
>>3 入不二基義wiki に載ってました。
しかし、よく見たら、「発売」ではなく「発売予定」だった。
>「特別講義」
「前回の続き」と書いてあるね
どんな内容なのかな
目次のようなものはネット上で出てきたけど
8 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 21:30:43 O
『倫理とは何か』のちくま学芸文庫版早く発売しないかな。
そんな予定があったの?
何でも文庫になるなあw
明後日楽しみ。
ついに出るね「私の哲学を哲学する」
『魂に対する態度』の講談社学術文庫版の予定は変更ないの?
文庫版はまた別途本人の「あとがき」が付くから
嬉しいよね。
けど殆ど訂正とかはないよね。
某HPのカレンダー、怠けがちの人には便利だな・・・
アマゾンも見てみた。
16 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 20:03:34 O
『〈私〉の哲学を哲学する』発売記念age
17 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 18:27:23 0
読んだ人は誰かここでレビューしろ
自分で読めよw
最初の永井自身の「問題の基本構造の解説」をざっと見ただけだけど、そこからして
「今までどんな問題を論じてきたか」「あの問題とこの問題はどう関係するのか、しないのか」
といったことを細かく書いてて、楽しみではあるけど相当骨が折れそうだ。
そもそも1日、2日で読めねえよw
面白そうだな。
早速amazonで注文してみるか。
だせえなレアールって単語。
普通のドイツ語 real なんすけど…。
Jポップの歌詞じゃないんだから普通に現実的とかリアルと言った方が・・・。
Jポップ…。
おまいら永井センセのテキストを勉強するときってどういう風に勉強してる?
俺は一週目は全力で考えながら読んでポイントに線引いて置いて、
二週目に線引いたところを読み直してまとめるってやり方。
特に復習に関して他の人はどうやってるのか興味がある。
なにせ永井センセの本って読んでるときは理解した気になっても
後からは全く思い出せないってことが多いから
・ 映画『第七官界彷徨』の内容を、紹介した新聞記事
(初出:2001年5月13日付「日本海新聞」)
http://www.osaki-midori.gr.jp/_borders2/EIGA/3-EIGA/3-EIGA/HYORON.htm ・小説『第七官界彷徨』の粗筋紹介部分をこの映画評から盗用した川上未映子の盗作コラム
(初出:「月刊Songs」2003年10月号)
http://www.mieko.jp/blog/2005/03/post.html 十行程度の粗筋紹介箇所で、川上未映子が元の新聞記事から盗用したフレーズは、
「詩人を夢見る」「共同生活」「従兄弟たち」「感覚少女」
「コケを(実験)栽培したり、コミック・ オペラを作曲したり」
「論争」「「恋愛」に成功するのは(栽培された)コケだけ」
「人間は(すべて)片思い や失恋ばかり」
の8箇所。全く同一だ。しかも全て小説『第七官界彷徨』には無いフレーズだ。
そして両者ともに、原作小説からの引用は1つだけで、同じ所で、切り方も同じ。
「私はひとつ、人間の第七官にひびくやうな詩を書いてやりませう」だ。
そして、元記事はあくまで映画版「第七官界彷徨」で映画用に改変された粗筋の
紹介だから、原作小説とは異なる箇所が多い。「従兄弟たち」は原作では「二人の兄と一人の従兄弟」であり、
「コミック・ オペラを作曲」は 原作では「コミック・ オペラを歌う」だ。
川上は原作小説の紹介をしているのに、なぜ映画版のことを書いているのか。
もちろんこの映画紹介記事から盗用したからだ。
そして、記事からの引用符も無ければ、参照したという断り書きもない。
川上未映子は「わたしは、小説「第七官界彷徨」が手放しで大好きなのです」とコラムで述べているが、
これは明らかに嘘だ。読んでいれば、小説「第七官界彷徨」の紹介を映画評の新聞記事からの盗用で埋め尽くすことなどありえない。
このような卑劣な作家を絶賛している批評家の信頼性について疑問を持たざるを得ない出来事である。
「勉強」と言うか、一定時間内に読んで記憶に残したり成果を上げたりとかいう目的では
読んでないなあ。
分かったと思えるまで読んでみて、思えなかったらまた後で読んでみるか、あるいは
挫折したりするだけですなw
『私・今・そして神』の第三章とか『なぜ意識は実在しないのか』の第三日とかは、
私みたいなただの素人ファンには、実に強力な挫折ポイントだ…
>>27 うん。俺も基本そうやって読むから。
記憶と言う点ではとんと頭に残らないんだw
挑戦してる時はそこはかとなく問いを解けてる充実感的なものがあったりするんだけど、
読み終わってややもすると俺何も分かって無いじゃんorzみたいな・・・
哲学出来る奴は特に復習みたいなことしなくても頭に残るんかな。
うーん、ていうか、理解したという思いがあるのに記憶に残らないというのが、よく
わからないなぁ。
>>29 高校数学とかだって一度ロジックや解法の仕組みが分かったとしても繰り返さないと
頭に残らないじゃん大抵の人は。
一回解いたら忘れないっていうのは、その人が元から記憶スペック高いからだと思うんだ。
数学の話はちょっと横において、そもそも「理解した」というときに「記憶してない」
というのは、理解という概念に矛盾しているんじゃないか?
>そもそも「理解した」というときに「記憶してない」
そういうことを言ったつもりはないよ。
俺も「理解した」というときには「記憶している」と思う。
問題はその後何日か経った後に記憶が残らないことで・・・
まあ「理解した」と言っても「(俺の中で)理解した(と思い込んでる)」だけだから、
そもそも理解してないから記憶も出来ないという部分もあると思う。
その場合、理解出来るまで考え続けるのが唯一のやり方なんだろうか。
個人的な意見なんだが、永井さんの(いや彼には限らないけど)議論には二種類あっ
て、それは argument と insight があって、前者に関してはゆっくりと順序よく自
分の頭の中で再構成すれば理解できるけど、後者に関しては、そこでの問題そのもの
を自分で考えたことがないと、そもそも何を言っているのかほとんど理解できないと
思う。
彼の本は、哲学系にしては驚くほど売れていると聞いたことがあるけど、これが本当
に不思議でならない。
あんなに難しいのに。
買っている人は、本当に読んでいるんだろうか、非常に不思議。
>>33 insightな議論って例えばどういったもの?
>>33 他の本でも言えることだけど、買っても読んでない人が多いし
呼んでも皆ちゃんと理解してるかどうか甚だ疑問。
>>35 先生。
ちゃんと理解するにはどうしたらいいんでしょうか。
一般的に、よく分からないものがなぜか結構売れることも、買ったけど読んでない本・使わないもの
などがあることも、別に珍しいことではないと思われるので、特別問題になるほどでは
ないんじゃないかと。
まさか100万部のベストセラーになったわけじゃないしw
いや、だからね、わかんなきゃ、読まなきゃいいだろ?
永井の本が面白いと思えるためには、ある程度は理解できなきゃいけないし、彼の本
を理解するためには、彼がどれだけ素人向けのセールストークをしようが、相当程度
まで哲学の素養が必要だという厳然たる事実があるとすれば、彼と出版社の販売戦略
に乗せられるのは、やっぱり愚かだと思うな。
永井自身、もううんざりしてるんじゃないかと思っているんだけど。
シロートには。
39 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 09:32:15 O
この長い先生は
帰化した人?
本読んだけど
難しい難解な言葉を使い、それらしく見せているだけで、全体的に意味がない。
「見えない糞、我々は今もはや自分が誰であるか認知できない。それは自分が誰であるかを知らない糞が、世界に拡散したからである。糞として認知される糞は、今なお地球上の一つの糞にすぎない。」
↑
哲学じゃないだろ?
「見えない糞は我々に見る目がないからで悪くない事」(これが結論?)
40 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 09:39:44 0
そんなに難しくないと思うが…
純粋理性批判だって精神現象学だって論理哲学論考だって、2、30倍は難しいぞ
西田幾多郎だってそうだ
永井程度は、まあごくふつうの哲学書の水準というもので
もしあの程度が難しくて読めないなら、ほぼ哲学書は読めないといえるのではないか
>>39 いや、だからさ、この板と同じ水準だから、ここには愛好者が多い。
滅多なこと逝ってると、さされるよ?
42 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 10:27:49 O
ウンコ理性批判
ウンコ現象学
ウンコ哲学論考
無茶苦茶難しそうだろ?
読んで理解する奴は知的優越感に浸り調子ぶっこくに違いない!
てすと
>>40 それほど異なった認識を持っているとは思わない。
が、微妙に違う。
難しさの比較対象に古典を持ち出すのは一種の権威主義なんだよ。
実際問題として、ダメットでもマクダゥエルでもいいけど、彼らの論文を読むときは
古典に対する「読みのスタンス」とそれほど違わないだろ。
それは、永井の論文に対しても同じこと。
永井の場合には、全体が見事なまでにクリアなものもあるが、どうにも難しいのもあ
る。これが、俺の率直な印象だ。
永井が熱心に「哲学を勉強するな。そうなったらおしまいだ」と言っているのに
君らはほんとにもう。。。
46 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 12:36:04 0
古典でなくてもダメットでもマクダゥエルでも同じことだ
というか、それらはもう古典に近い
明らかにまだ古典でない、1967年生まれの著者が書いた
いま一番ホットともいえる『四次元主義の哲学』だって
永井の本なんかよりずっと難しい
しかし、あれが読めなければ話にもならないだろう
そういうのを「思想」と言うのだろう
他の分野だったら多少分からないと思っても補助アプローチが充実してるので
それを利用すればある程度理解出来るところまで到達することは誰にでも可能。
が君たちの何人かの意見を聞いていると
哲学の場合はチョットでも分からない所が出てきたら理解することは不可能。
理解できる人は己で100%理解できる。と言っているように聞こえる。
もし哲学もまともな人間の営為だと言うなら他の分野と同じように、
どんな人でも理解度を上げることは可能であるはず。
それが出来ないのは哲学がアプリオリなものであって
アポステリオリには絶対に理解することの出来ない特権的な何かだからってこと?
>>48 哲学って、アプリオリな前提がバイアスとなってアポステリオリの方向性が左右されるんじゃね?
永井の思想のバイアスの掛かり方には特異な固着性があるからな。ヘンというか頭固いなとかね。
他人の哲学の書を読むのは、アポステオリに示されたアプリオリな何かを参考にして
なんとか自分のアプリオリな何かを進化させたいからだと思うんだ。
だから理解度の違い云々で哲学することの是非を決めるのはお門違いだと思う。
深い・浅いじゃなくてさ、角度が違うという話じゃないの?
せめて、アプリオリ/アポステリオリという言葉くらいは適切に使えるようにならな
いと、どうにも読めないだろ、という話。
語法の正しさとか尺度を云々されてもなあ。
異なるニュアンス表現もあり得るのに。ですよ。
なんだかなあ。
角度が違うと言うのは、
アプリオリにその問いの意味が分かるのではない限り掴みようがないという意味だよね。
でもそれって本当にアプリオリなの?
アポステリオリなものをアプリオリだって勘違いしている可能性は?
チ○コ丸出しの男がいきなり目の前に現れたので
「チ○コ○出しですよ」って言ったら
「貴様にはこのペニスケースが見えないのようだな。
このペニスケースが見えるのは選ばれし天才だけなのだよ。」
とチ○コ丸出し男に言われた。
「ペニスケースを見るためにはどうしたらいいか」と聞いても
「天才以外にケースを見る術は無い」と言い。
「なぜあなたにはペニスケースが見えるのか」と聞いても
「私が天才だからだ」としか言わない。
「天才とはなんなのか」と聞くと
「天才とは天才である」と言う。
まるで確かめようが無い。
一体誰がどうして丸出し男を天才だと確かめることが出来ると言うのだろうか。
>>52 アプリオリ/アポステリオリと言う言葉を
語法的に正しく使えるように練習すれば
哲学的な理解力が上がると言うことですか?
まあごちゃごちゃ言わんで、興味がある人は新刊を読んでみればいいではないの。
「自演の懐疑」なんて話も出てくるしw
58 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 23:09:09 O
哲学科なら
古代ギリシャ語必修ですか?
>>54 >角度が違うと言うのはアプリオリにその問いの意味が分かるのではない限り掴みようがないという意味だよね。
「角度が違う」というのは比喩だから、適当に解釈フリーでよろ。でも、あえて補足しておく。
@>51の文脈では、アプリオリ/アポステオリのような形而上学的用語は、それが使われていた
であろう中世スコラ哲学の実在論者と唯名論者ではその語法にニュアンスの差があったであろうし、
形而上学者と反形而上学者、あるいは不可知論者との間でもその語法には差があり得る。
実在論者や形而上学シンパはアプリオリな何かにより親和であろうし、反者は違和的であろうし。
だからといって、何でも人は人それぞれであるに過ぎない。と無責任に言い放つだけでもダメだと俺は思ってる。
ある人がある考え方を持つと言い得る場合、彼の考え方は、時代や地域、国家、言語、宗教や、
家庭環境、教育、経済環境などの様々なバイアスが掛かってあること。このバイアスの掛かり方は
アポステオリかもしれないが、生まれ出る際の射出角度が選択不能であったという点で、俺的には
空間とか時間のようなアプリオリな何かであるように感じられる。
>>50の前段には同意するものを感じるが、でも後段や
>>52はダメダメだなあ。片方向な独断、永井も
よく使うレトリクの臭いが鼻につく。
>>55のエセ・チューリングマシン・ネタはそんな臭さを端的に示してる?
毒蛾論とその派生思想は端的、俺イズムだからなあ。それはそれもでいいんだけどさ。もちょっと
多軸同時制御を駆使して視線の角度を変えてみて、自らのバイアスの掛かり具合を検証したり、他者の異質さ
とか眼差しの角度の違いを包愛しつつ許容したらいいのに。と思うね。
んー。
「お前の言葉遣いが間違ってる」
が簡単でいいね。
62 :
名無しさん@恐縮です:2010/10/14(木) 03:38:21 0
敏三一家のはなしクソウケた
63 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 09:15:05 0
>>59 62がクソウケたという「敏三一家のはなし」
つまり「聖家族‐ゾンビ一家の神学的構成」の282頁の注12にある
ただし注だけ読んでも何のことかわからないので全体を読む必要があるが
この論文はクソウケるだけでなく哲学的にもひじょうに興味深いものと思われる
>>63 ふむ。
最近出たやつだよな。
そのうち読んでみよう。
しかし、永井の思考実験の発想には素晴らしいものがあるよな(笑)。
なに、その「敏三一家のはなし」?
新刊をざっと見ただけで適当なことを書いてみました
『なぜ意識は実在しないのか』は、最上段とか私に見えているものとか〈これ〉と表現されているものが
あれば(あとは言語があれば?)、それと別に物質というものを想定したりしなくても、
他人とか客観的世界とかは、そこから構成されていくという方向の議論なのかと何となく思ってた。
いわば敏三がいれば(それと敏一?)、あとは特に欠けるところがない、ということなのか、と。
(もちろんそんなことはどこにも明記されてませんが)
しかし、新刊の、特に身体の話や敏二の扱いをみると、やはり物質や客観的世界をどう考えるかも
欠くことはできないということなんだろうか。
67 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:18:37 0
とくに口が大切らしい
何が何だか、わからんな。
読まないとダメか?
そらそうだw
70 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 09:01:07 0
たしかに、管直人と小沢一郎は同一人物が「自演」しているのかもしれないと思った。
しかし、そうだとすると、自分以外の人間全員が実は一人の「自演」という可能性もあることになる。
まあそれはそうなるんじゃないかね。
「自分以外の人間全員が実は同一人物の自演である可能性」が、どれくらいあるかというと、
よくわからんけど、多分、「自分以外の人間全員がゾンビである可能性」と同じくらいなんじゃないかねw
やっぱり、何が何だか、わからんな。
どうしても読まなきゃだめか?
73 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 23:08:49 0
そらそうだw
そうらそだw
依然として読んでないけど(入手もしてないけど)、誰か書けや!
新刊置いてない・・・
でかい本屋に行けや!
勢いでちょっと書いてみよう
青山拓央が、「〈 〉に入るものは何ら制限されないのか」という点について、〈私〉の現象的な経験が、
全体を含む(?)ことによって、他の〈私〉を排除するという面があるのではないか。その面がなければ、
〈私〉が唯一であるということが言えなくなる(他の〈私〉があっても構わないことになる)という意味で、
独在性ということが成り立たなくなるのではないか。
という意味のことを言ってたように思うのですが、この点はどうなるのだろうか。
何となく素朴に本を読む限りでは、確かに、「現に私からこのように見えていて、他の見え方などはない」
という面がないと、〈私〉だけが唯一特別と言えなくなるような気もするところですが。
お。
少しはわかるようなことが書いてある。
その勢い(勇気)に敬服。
んが、書いてあることだけ読むと、青山拓央って <私> という表記法のコアな部分が
わかっていないような気がするのは、俺の気のせいか?
とは言うものの、まだ読んでない。
もっと書いて。
青山拓央(笑)
永井とつるんでる馬鹿の一人か
そういう言い方、やめろよなぁ。
まるで 2ch みたいだろ (´・ω・`)
永井の<私>は「私」だよな。
他者と向き合ってできるだけのことして、他者に届こう届こうと手をつくし、
届いた果て、自他の区別がなくなった果て、
区別が無意味になった場合にそれは<私>と言っていいと思う。
永井の言葉は一般的なもので、そこには含まれないものがあるんだという議論は、
一般性じゃないんだ特別なんだという形の最悪な一般性だと思う。
永井はこれには一言もないと思うけど。
「私」を否定するのは「私」でしかない。「私」を受け入れた先にしか<私>はない。
<私>を特別だと言う限りそれは「私」でしかない。
これは自明だよね。
83 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 11:35:34 0
問題はもはや〈私〉じゃなくて無内包とか現実性とかの方にあるだろう。
もちろん、無内包とはそういう内包だし、現実性とはそういう規定(つまり実在性)であることは当然のこととして。
だとしても、伝統的な実在性と現実性の対比が、「私」にまで当てはまってしまうように見えるのはなぜなんだろう?
これはやっぱり本当に謎だと思う。
>>82 多分その指摘は概ね正しいと思うけど、永井自身がそのことを述べているよ、
確か、他者などというものは考慮されえない次元で<私>を発見するって感じで言ってたかな?
<他者>というか、他の<私>やその話は「<私>の存在の比類なさ」のp26-p62を読むといいと思う。
他者とうまく何かをなそう、とことんまで理解しよう、ぎりぎりまでやった果てじゃない私とか、
ただのナルシスティックなどこにでもいる通俗的で一般的な「私」だな。
内包性とか片腹痛い。そういうのが馬鹿みたいなんだよ。
そんなの一般的な私でしかない。
他者と生きよう、ぎりぎりまで頑張らないで私とか、全くもって<私>ではない。
他者との違いを乗り越えようとする限界の果てが<私>であって、
適当なところで違うとか私は一般的でないと言ってるのはどこまでも一般的な「私」でしかないよ。
内包性とか完璧に一般的な「私」の話でしかない。
こういう救えない断言がナルシズムだ通俗性だと腐すのはそれこそお寒いな。
永井はそうとしか考えることができない、それ以外考えることができない、
と言ってあって何かしらの立場を称揚してるわけじゃない。
それが違うんなら論駁して見せろよ。
うーん、別にそうとしか考えられないのは勝手だけどw
他者とわかりあえないこと、違うことで自分を制約するのなら、
それを乗り越えようとしない限界を超えないようとしない私なんてw
なんでそんなところにとどまって格好つけることに意味があるのか他の人にはわからないよ。
なんで何でもないどこにでもいる自分で我慢できないのか傍からはわからない。
内包性とかそのわからなさをこじつけるためのごまかしでしよ?
結局永井の<私>とか一人よがりのどこにでもいる通俗的な一般人以外のなにものでもないと思うけどね。
ナルシスティックなどこも人と違わないウンコでしょ?
あなたみたいにwウンコでしよ?
とどまることしか出来ない。
乗り越えは不可能で、乗り越えたというのは錯覚にすぎない。
内包性は制約でも態度でもなく単なる限界だよ。
こじつけだごまかしだというのは<私>が異なる構造をしていることを示さない限り意味がない。
私という制約、自分の限界乗り越えて他者との違いとかどうでも良くなる人にだけ、
本当の私がいるのであって。そんなこと自明でしょ。
ただそこまで行かないで頑張っている人に、あなたが受け入れられないでつらいのも仕方ない、
あなたは違うんだからとか言うので薬なる部分もあるから反論しづらいだけで。
永井も信者もどこにでもいるナルシスティックな一般人なんだよな。
どうしようもないほど通俗的だよ。
恣意的に私と私でないものを線引きすることで出てくるものはどこまでも「私」だよ。
<私>に達せられる人は<私>を乗り越えようとする人しかいないよ。
当たり前のことでしょ?
何を問題視して何と闘っているのかよくわからないけど、
そう思うなら(自明で結論が出ているなら)話は平行線じゃないかな?
とりあえず、気付くのは、永井信者や永井本人や永井について論じている人といった、
一般的で誰でも使えるものはここでは問題になってないんじゃないかなぁ?
無人称的に<私>に達せられる人は<私>を乗り越えられるという言い方だと、
一般的な次元に既に頽落している話なので<私>とは無縁だと思えるかな。
そういう問題意識自体が錯誤であると思うなら、繰り返すけど、平行線じゃないかな?
逆に、論点に誤りがあると思うのなら、自明と言わずに、出来るだけ解り易く
明確に精確に間違いを指摘してもらえると嬉しいし、多分哲学的な大発見をしたことになると思うよ。
91 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 18:59:26 0
他者とわかりあえないとか、それを乗り越えようとするとか、
そういった種類の(人生観的な?)話とは全く関係ない問題だと思うが。
むしろ、例えばまだ解決されていない数学の「問題」が「問題」である
というような意味での「問題」だと思う。
92 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 20:24:59 0
>コペルニクスの地動説も、ダーウィンの進化論も、そしてフロイトの
>無意識ですらも、共通しているのはひとつのこと、世界は“いまここ”
>で見たまま、感じられたままのものではない、という真理の主張にほか
>なりません。だからこそ熱狂的に受けいれられる一方で、猛烈な反発
>や弾圧をこうむってきたのです。
> しかし、すくなくとも、二〇世紀以降の科学は、こうした実感主義
>に背を向けながら進歩してきたのではなかったか。
> 茂木さんのクオリアに私がしつこく疑義を呈し続けているのは、
>それがややもすると、かつての実感主義のほうに取りこまれてしまう
>危険性があると考えるからです。もちろん茂木さんはきわめて真剣
>に、クオリアの発生機序を解明しようとされている。しかし、その
>手続きはあくまでも、“クオリアの実在性”を自明の前提にしては
>いませんか?
> 私が前々回のお手紙で、クオリアという発想をナルシシズムと結び
>つけたのは、それがどうにも“天動説の現代版”に見えてしかたない
>からです。どういうことでしょうか。つまり、事象を観察している
>自分のポジションをあくまでも不動の中心に据えている、という意味
>において、です。この種の“自己中心性”と、それを補強する実感主義
>こそが、ナルシシズムにほかならないと私は考えるのです。
この斎藤の批判の中にでてくる「クオリア」を<私>にかえれば
まんま永井批判になるのだよ。
93 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 20:33:23 0
>「そうとしか思えない」とか「私がそう感ずる」という事実は、なんら
>理論の正当性を保証するものではありません。むしろそれは、「なぜそう
>思い、そう感じてしまうのか?」という問いとして解明されるべき前提で
>す。
> クオリアを錯覚であるとするならば、その錯覚がいかにして生ずるかは
>精神分析的に検討することが可能です。しかし茂木さんは、おそらくクオ
>リアが「存在する」と考えておられる。だからこそ、脳内のニューロン
>発火パターンとの対応関係を解明しようとされるわけでしょう。とりわけ
>その同型性を。ということは、やはりクオリアを“実体化”しようとな
>さっている。そうではありませんか?
ここにでてくる「クオリア」を<私>に読み替えれば、
斎藤の批判が永井批判としてびゅんびゅん飛んでくる。
びゅんびゅん飛んでくるのがわかるだろう。
永井信者は斎藤の批判を真摯に受け止めるべきではないだろうか。
94 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 20:34:26 0
全然関係ないよ
そもそも斉藤の批判自体クオリアの意味も全く分かってないし
>>92-93 なんだ、最初からこんなふうに言ってくれれば良かったのに。
「永井の本と全然関係ないこと(少なくとも、どう関係あるのか何も説明されていないこと)を
勝手に結び付けて訳の分からないことを言っているのだ」と、最初から明らかにしてくれれば、
こっちも最初から真面目に読まなかったんだけどなw
96 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 21:12:43 0
>全然関係ないよ
そうやってすぐ予防線をはろうとする臆病な心構えをなんとかしなさい。
永井がどれだけ”実感”を自明の前提として論をすすめているか
読めば一読了然。
まさに実感主義の権化。
<私>を錯覚であるとするならば、その錯覚がいかにして生ずるかは
精神分析的に検討することが可能です。しかし永井さんは、おそらく
<私>が「存在する」と考えておられる。しかしどんなにそれが
自明に思われようとも、「そうとしか思えない」とか「私がそう感ずる」
という事実は、なんら 理論の正当性を保証するものではありません。
むしろそれは、「なぜそう 思い、そう感じてしまうのか?」という問
いとして解明されるべき前提です。
この斎藤批判から逃げずに立ち向かえなさい。
目を背けるのはやめなさい!
ところで、何故か知らないけど<私>で考えたことも一般化される(から言いたかったことは言えてしまう、故に隠蔽される)
というのはまあ経験的に事実だと思ってるんだけど、皆は私が私であることの指標を持ってなかったりしないの?
98 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 21:31:58 0
それが累進構造というやつなのでは?
99 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 21:32:29 0
><私>で考えたことも一般化される
意味不明ですね。<私>で考えるってどういう意味でしょうか?
100 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 21:39:52 0
><私>を錯覚であるとするならば、その錯覚がいかにして生ずるかは
>精神分析的に検討することが可能です。
とんでもない!
精神分析なんてより怪しいもの持ち出したのではお話にならない。
「その錯覚がいかにして生ずるか」は言語哲学的になら解明可能だろうけれど。
<私>で考えるは言い方が悪いけど、これ、を指すのに固執した結果析出されるものって言いたかった。
例えば、デカルトの懐疑を潜り抜けたコギトなんかはその一例(と言う風に一般化される)。
このような一般化が成功するから問題が隠蔽されるんだけど、失敗したらどうなるのだろうかと。
例えば、隔絶した隣人を持たない これ があるのと、同じように無限遠に これ があると信じていること。
実は信念と違って、自分は あれ の内側だったとかだと一般化に失敗するだろうから、隠蔽されなくなるんじゃないかなと。
それはどういうことか解らない、かもしれないけど、どうかなぁ?
「問題が隠蔽される」もクソもあるか。もともと隠蔽される問題なんか
何もない。
永井の<私>なんて、どこまでいっても一般的な問題に過ぎんよ。
それが他人に理解されるのも、もともと一般的な問題だからに過ぎない。
だから誰でも自分自身のこととして考えれば容易に理解できるのであって、
「言語の力がもたらす奇跡」だのなんだの、ただの寝言だ。
103 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 22:18:41 0
いや、それでも俺だけはそれを一般論でなくすることができる。
もちろん俺ひとりだけだ。
もし、俺も一般的なものの一つに過ぎなくて、そんな問題が無いとしたら?
という想定はかなり迫力あるんだよね、確か<私>の〜〜三部作のどっかの議論だったけど
自分がロボットだとしたら? という想定がそれに当たると思う。
ロボットだから全てが説明されてしまう(ただの物質とプログラム)なんだけど、
全て説明されてなお、それで手を触れさせない何かが自分にはあると言いたくなるものがある。
もちろん、同じようにそんなものは無い、と言えるけど。
医者は病気を客観医学的に扱うが、病人は自分の病気の治療こそが問題だと主張する。
哲学は医者の視点でなされるのか、患者の視点でなされるのか。
私なんて一般的なものに決まっていて、それを受け入れて、
自分の制約、他者との違いを乗り越えようとする果てにしか、
独自な<私>なんて出てくるわけないのにな。
永井の議論なんてトンチンカンもいいところで他者と違う私とか通俗的な一般性もいいところ。
吐き気するぐらい一般的な「私」でしかない。
>>104 こんな私とか一番<私>からほど遠いよな。
私が独自かどうかなんて問い出す私なんか「私」以外のなにものでもない。通俗そのもの。
永井とか永井信者とか私は独自だとか言い出す奴とか本当に馬鹿すぎ。
自分が独自であると思う奴とか一般的などこにでもいる人間にすぎない。
そんなのはナルシスティックな屑でしかない。
他者と違うという自己を縛る制約乗り越えようとする人間だけが、
真に独自な一般化されない<私>持っているに決まっているのに。
純粋なナルシズムは善悪とは無縁だろうから、
別段ナルシストであることそれ自体は間違いではなかろう。
ナルシストが問題となるのは、本人の凄さ正しさを他者に
認めさせようと働きかけたときに生じる尊大さがウザく迷惑となる場合。
ウヨサオとか電波とか通俗に堕したナルシストはダメダメだな。
そういう意味では、永井も俺も>107-108もダメダメだと思うね。w
>92-93の批判がある意味、的を外しているのだとすれば、この
ナルシズムは「誤り」とする独断を基盤としている議論だから。
「私の実在性」をことさら強調する態度は何もナルシストの専売特許ではない。
エジプトのピラミッドとかを造らせた歴代のファラオから、大川・麻原永井に至るまで諸々。
魂あるいは私の○○な存在を主張するようなアニミスティック=検証不能な考え方に
綿々としているだろ?
>世界は“いまここ” で見たまま、感じられたままのものではない、という真理の主張
これは情けない。真理が無いという主張が、真理を信じる人にはこう感じられるのかと言ったところ
「無い」と言っているのに、「無いのがある」と反論しているようなもの。お前は何が言いたいのかと問いたい
一般っていう発想自体が失笑物。一般とは何だ?そんな物は錯覚では無いのか?
通俗を批判することも、情けない。それは通俗では無いものに普遍的な価値を置いている思考だからだ
普遍的な価値を求め、通俗を批判し、自らこそ価値ある存在になろうとする。それはあまりに幼い
内包性を否定したいのはわかったが、
「内包性を認めると頑張ってる人の人生が無駄になってしまう」なんてのは、
議論でもなんでもないな。
無理して哲学書なんか読まずにサラリーマン金太郎でも読めばいいのでは。
永井は独自性と独存性を区別して使ってるけどね
むしろそういう独我論的な気分(自分が独自である気分)は
問題を考えるのに邪魔だから忘れろとさえ言ってるね
まだ先日出た最新作を読んでいないで外してしまうかもしれない。
永井の私という問題は、一般に非常に誤解を招きやすいものがあるのは確かだと思う。
ふつうは、私という問題は、まさにこの私、歴史的な一回性を担った世界で唯一の個
体としてのこの私の問題として理解されるものだからね。
でも、永井が本当に問題にしたい局面はその先にある。
たとえこの私と全てが同じ人がいたとしてもなお、という問題の展開の仕方がそれを
よく示している。
そのような一種の虚焦点としての私とは一体何か、それを一体どのようにして語り得
るのか、これが永井の私という問題のアルファでありオメガであると思う。
でもね、以上がおおむね適切な永井理解だとしても、それでもなお、このような問題
のレベルに到達するための唯一のルートはやはり歴史的な一回性を担ったこの私への
独自の感覚であり、それしかない、そう思うんだよね。
だから、一般に「独我論的な気分(自分が独自である気分)」にこだわる人の気持ち
は、少なくとも俺はよくわかる。
別に永井理解が正しいかどうかは問題にならないんじゃない?
理解が間違っててただ真理を述べてるなら、それは余計に素晴らしいことだし。
あと、そのルートが唯一かどうかはともかく、そういう所から来る人は多いかもね、俺もそうだし。
んで、永井の問題のスケッチは虚焦点としての私の意味が気になるな、
1.私はもし物理的に同一の存在者がいたとしても間違えないような仕方で私を識別(指標)している。
2.ところが、他人たちもそのような仕方で私を識別していると発見する。
1で独自のそれと混同されてしまいがちな、ある特別なものが析出されるんだけど、
析出された途端に、それは誰もが持つ指標になる、そういう仕方で皆自分を識別(指標)している。
ここで2にたどり着くんだけど、それでもやっぱり私を間違えない、
じゃあ1.で析出されたようなものは使えないのにどうやって私を識別するのか?
というところが問題になっていて、まあ累進構造だとか、そういう構造自体が取り上げられていると思ってる。
で、新しい著作はその構造が成立し、適用できるための前提を議論している感じかなぁ?
全部読んでないけど、聖家族、ゾンビ一家の神学的構成はまさにそんな議論してる気がする。
>>116 何かシューメイカーを思い出すような整理だな。
>>115 だけど、踏み込んだコメント、ありがと。
でも、永井理解という問題に、もうちょっとこだわらせて。
永井の私に関する議論は、本来、形而上学的な領域でこそ意味を持つ/発揮するとい
うことに議論の余地はない。
この意味で「俗流の独我論」的な永井理解はポイントを捉えていないという指摘は適
切なものだけど、まさにそこが唯一のルートである限り、ある意味では不可避の誤解
でもあるというのが、俺の意見だった。(おそらく永井もこれを認めるだろう)
第一、永井自身が、哲学(形而上学)的な問題領域から倫理学的な問題領域へと場面
を移したとき、彼のいう「倫理学的な存在論的差異」ということで問題として切り出
し得ているのは <私> というよりも「私」でしかないのではないかとの疑いを持っ
ているからだ。
倫理学的な議論でも、字面は限りなく近いものがあるが、その実質は果たして形而上
学的な領域で提示しているほど充分なものがあるかどうか、俺は疑問に感じている。
>>117 その誤解は注意深くやれば分離可能である、と<私>の存在の比類なさで説明されてるよ。
実際俺もそれが唯一のルートだとは思わない(親和性はあるけど)、U節を読むといいと思う。
本当に不可避な問題があってそれは不可避なので問題ですらない、とも言ってたかな?
倫理への転換の話は解らない、アインジヒトをじっくり進めてるからその内考えてみる。
>>118 『<私>の存在の比類なさ』は、大昔に読んだっきりで既に忘れている。
そのうちに読み返してみるね。
ものすごく粗っぽい言い方になるけど、一つの方向は、あの古典的な超越の概念だと
思うんだ。
でも、この方向でいけば、私や世界、神など、それなりに問題の(概念史的なものも
含めて)整理はできるけど、そこから抜け落ちるものは初発の「私へのこだわり」だ
ろう。
ここで俺は「唯一のルート」にこだわっているけど、このこだわりが一番自然な形で
出てくる場面こそが倫理的な場面であることは明らかだろう?
>>119 検討したらそうかもしれないけど、”明らか”ではないと思うよw
でも、利己的主体の私と、存在を指標する私は一致しそうだね。
でもこれまた、一致するが故に隠蔽する可能性が、、、
そのことを指摘しているのかな?(「私」の議論になっている)
>>120 そうだね。明らか、というほど明らかではないね。
永井の議論は、倫理に関するものは確かに刺激的で挑発的だけど、それほど深みを感
じないのに、他方で、形而上学的なものは何かあるな(笑)と感じるんだよな。
大雑把な話につきあってもらって、すまん。
>>114みたいな事も含め永井って恥ずかしいな。
自己が特殊とか比類ないのかとか。恥ずかしい馬鹿みたいな問題だな。
そんなこといちいちかかずりあってられる奴とか屑すぎる。
そこらへん自覚ないの?勘違いしている皆さん。
<私>の問題が哲学上の最大の問題だと永井は言っているんだから、
それに反論できないならお前が間違ってるんじゃない?w
自己の可能性まじめに追求して生きてる人間には全く意味のない哲学だよな。
取り柄は、そういう下らないことで悩んでる人間の相談のってあげ薬にはなる。
しかし、一番正しい答えは他者との違いなどどうでも良くなるまで、
頑張っている人間にしか、本当の私なんかない。
お前なんかありふれたどうしようもない人間だでしかない。
目を覚ませという事が真の優しさだよな。
お前の問題は永井の問題じゃないんだよ。
残念だったな。
>>124 素晴らしい、あなたの言うとおりだ! でも私はこのくだらない問題が好きなのだ。
真の優しさも偽の優しさも要らないし、屑であっていいから、
問題がどうでもいいとか意味が無いとか思うなら放っておいてくれないか?
哲学的ゾンビの話をサイコパスの話にしちゃうタイプの人かな
永井信者気持ち悪いな
頑張りたいなら頑張ればいいんじゃないの。勝手に。
ま、頑張ってもゾンビはゾンビだよ。
忘れたいならお好きにどうぞ。
笑った。永井信者って本当に馬鹿だな。
永井なんか読んでると人生で大切なことがわからなくなってしまうのではない。
人生で大切なことなどわからない人間でないと永井など読めないのだ。
真面目な話、一般性に還元されない自分がいるとかの議論は、
三浦みたいにそんなこと言う奴はどこにでもいる一般的な奴じゃんと言われて否定できない。
認めさせることなんかできるわけない。
答えはそんな議論どうでもいいってのが真理だろ。わかりきったことだろ。
そんな意味のない議論やめたら?
そんな意味のない議論やめたら?
そんな意味のない議論やめたら?
意味なんかないでしょ?どこに意味なんかあるの?
掲示板読んでむかっときて顔赤くして一生懸命書き込む永井信者って、
すごい笑えない?シュールだよな。
133 :
考える名無しさん:2010/11/04(木) 19:59:46 0
>人生で大切なことなどわからない人間でないと永井など読めないのだ。
でた!永井を読解できる俺って特別♪宣言ですか。
そんなに力まなくても君が永井を読めるように普通の人でも
永井を読めるから。
○○の性質をもっていないと永井を読めないとかないから。
>>133w
お前、最高w笑かしてくれるw
恥ずかしいw
もういいんじゃないか (´・ω・`)
永井の本が難解だとは思わないが、
というか永井の本の魅力は徹底的なクリアさだと思うが、
初期に比べるとだんだん話がこみいってきてる感じはする。
信者も痛いとこ突かれて。
これじゃ弁解のしようがないな。
永井の良さはクリアなとことか同意だけど、どっちにしても、
何の意味もないおしゃべりする楽しみだよな。
それ以上でもそれ以下でもない、何も残らない雑談。
ところで、何度でも可能な独在化で析出されたものに対して、
特別なあり方をしているものが、つまり私のものが、独在化によってまた考えられるんだけど、
この反復はどこら辺まで自然に想定できる?
俺は、表出などの振る舞いに対する内実くらいまでは解るけど、クオリア辺りから、同じ反復に思えてしまう。
永井はマンガの解説本書いてるくらいでちょうどいいと思う
そそ、マンガ評論くらいで止めときゃいいのに。
雑談レベルで思慮の浅い消防やら厨房ちゃまに煽りかますからな… 金川みたいな極端な信者が出現する。
稿料取りの物書きなんだから、自己総括して責任の所在をはっきりすべきだな。
もういいんじゃないか (´・ω・`)
永井「死ぬつもりなら、なにをしてもいい」
でも実践されちゃ困るんだよねw
永井の病的な個人主義とか、知と権力と戦ったニーチェやウィトゲンシュタインとは関係ない。
人は社会に埋め込まれてて、自己だって両親の家庭生活の反映からだったりする。
慣習、技術、約束事、信頼、相互関係。膨大な知識の受け継ぎなくちゃ哲学だって始まらない。
ヒュームとかの社会契約より先に盲目的な慣習がある、それなくしては社会が成立しないとか、
精神分析とかのまず他者との関係、他者が語る形でしか自己はないとか。
社会が先行しているのは当たり前なんであって、
個人はそれを受けて如何に発展させるかであって。受け継ぐこと、そこにこそ個人の尊厳はある。
サンデルなんかに言われなくても。わかりきったこと。
永井はそこらへんどうなの?
永井の場合、困るだろうけど、それでもしてもいい、と思ってるんじゃない?
呼びかけが基本的に呼びかけでしかないという立場な気がする。
同じ意味で、社会や慣習などの蓄積・実現された価値を認めたうえで
それでも個体の動機には結びつかないと思っているんじゃないか?
つまり、普通の意味の価値を認めた上でなお、私の地点でどうでもいいと思ってると思う。
>>144 そのような内容が永井の本と関係があるのか、ないのか、まず自分で読んでみれば?
『倫理とは何か』の一部とか、『思想地図』に入っている「馬鹿げたことは理にかなっている」とかが
多少関係ありそうな程度で、基本的には関係ない(あるいはだいぶずれている)ように見える。
詳しくないので教えて欲しいんだが。
ニーチェの場合、人間が歴史的存在だと知り尽くして、
近代のデカルトやカントに代表される合理的個人主義否定した上で、
近代の生権力や畜群道徳に利用され人殺すくらいなら、
生を輝かせるために、人も殺していいんだって感じだろ。単純化すれば。
実際のニーチェは反ユダヤ主義とか、暴力に反対で人殺すとかとんでもなかった。
逆説的に言ったまでで。
永井がそういう前提もなしに、切り離された個人が何も社会に負うもの考えず、
適当に個人の恣意で殺すのありと言ってんなら問題だなと。
そのへん永井はどう考えてるの?
>>145のとおりならやっぱり永井は意味のないおためごかしだな。
社会から負ったもの考えず、殺す前にできることや生かして何か生み出すとか、
考えないであくまで点としての個人考えるとか。
ニーチェやウィトゲンシュタインが聞いたら泣くな。
病的な個人主義だ。
>>147 永井のニーチェ解釈によると、そのような考慮の末に止む無く殺人をしてもいいと言ったどころか、
むしろ殺したいと感じたなら積極的に殺すべきだとニーチェは言っている、となるらしい。
それに対する永井の態度はどちらか読み取りづらい(というか態度決定はどうでもいいと思っている節がある)
永井は殺すのがありかどうか、ということを問題にせずに、
殺すのがありとしたら、どういう理由で、殺すのがなしだとしたらどういう理由で、
そのようなことが 言える(という構造がある) のかという点以外に興味はないと思うよ。
態度を決定していないという意味で、なしと言っていないが、
同じように、ありだと言っているようにはとても見えない。
>>147、
>>148 だから、何か言いたいなら読んでから言えば?
その調子じゃ、どうせ『これがニーチェだ』も読んでないんだろ。
(読んでいれば、その内容について何か言ってるはずだろう)
あ、そんなにかりかりしなさんなよ。143見ての通りすがりだから、
わかりやすく説明できないならどうでもいい。永井とか基本的にどうでもいい。
その上で聞いてるんだから。
>>149 なら、永井は屑だな。ニーチェ解釈としてもおかしいし、
構造にしか興味ないとか馬鹿らしい。
自分の生を輝かせるためにも、むかついても障害になっても人は殺してはいけないとか、
当たり前だしな。永井は馬鹿だ。
ではまた。発狂しないで。
>>147 ニーチェの発狂は脚を折った馬車馬が殺される現場を目撃して大泣きしたことがきっかけ。といわれているよね。確か。
ウィトゲンシュタインにはニーチェについて、同じ目線を持つが、文体が違う。というニュアンスで評している一文がある。
ニーチェやウィトゲンシュタイン、キルケゴールとかもそうだけど、彼らの思想には通底基盤がある。
「これがニーチェだ」に限らず、一冊でも読めば判ることだが、永井はその通底基盤を共有していない。
基盤を共有していないから、ニーチェやウィトゲンシュタインの逆説を理解しない。理解できない。
本来逆説は正論・持論の二重否定的表現なのに、永井はニーチェとかウィトゲンシュタインと正論・持論の
部分を共有していないから、逆説と正論・持論が反転している。そのくせ、逆説表現のロジックだけはパクって
私論の基盤に据えて、お墨付きよろしく額縁に入れて飾っている。ここが滑稽でダメなところ。マジ危うい。w
永井に対して特に批判的になる人々が世の中に存在するのは、よくわかる。
例えば、ある種の公共性であるとか、「われわれ」であるとか、そういったことをな
いがしろにして私に閉じこもる自閉的な見地であるとか、あるいは、私というものが
そもそも「われわれ」を前提せざるを得ないことに気がついていないとか。
その上で、永井的な発想を、要するに小児的な思考に過ぎないものとして切り捨てる。
一昔前であれば、大庭健などがその典型例だろう。
永井自身は、その程度のことは充分に考慮した上で議論を組み立てていると思うが
(そもそも『<私>のメタフィジクス』がどういった状況で出現したか、思い出すべ
きだろう)、その繊細な部分を無視しても、上記のような「雄々しくも正しい人たち」
の批判は、それはそれで一つの見識だと思っている。
ただね、素朴な疑問なんだが、なぜそこまで公共性や正義や道徳、そういったものを、
他ならぬ「あなた」が使命感に燃えて擁護しなければならないのか。
その使命とは一体何だろうか?
普通に考えて。
永井のニーチェ解釈が標準のものだとか。
永井の殺人の可能性解釈が特殊じゃないと考える奴はいないよな。
それがわからない奴は哲学を馬鹿にしている。
極論、ディベート感覚であって。それだから認められる話で。
思考実験としては有りでも現実的にはまるで意味をなさない、よくある哲学のパズルにすぎない。
まともに一般化したらヤバいだけ。
永井信者もそのくらいの客観性持とうよ。
自覚持とうよ。
156 :
考える名無しさん:2010/11/06(土) 19:54:24 0
独在性ってのは、言葉でどうにも表現し切れない
というのがポイントなんだよね?
全ての<私>がある、と仮定して、如何にそれを表現しえるか?
というのを考えて行っても、結局、どこまでも差異が
言語によって打ち消されるんだから、全ての<私>がある
という事を証明出来ない、っていう話なんだよね?
そうである限り、内向きの捉え方で全て見ることも、
そして外向きの捉え方で全て見ることも出来るのだから
何かに還元して思考を終わらせることは出来ないって話だと思ってるけど。
俺の解釈はおかしい?
>>155 ニーチェやヴィトゲンシュタインのテキスト解釈の話は、やめたほうがよくないか?
2ch ごときに出没する人間であっても、もし仮にテキスト解釈の重さと難しさを少し
でもわかっているのであれば、そう簡単な話じゃないことは理解できるはずだ。
永井信者であるかどうかは別にしてもね。
それとも、いかにも 2ch 風に、切り捨て御免の掃き溜めにしたいかい?
それから、
> まともに一般化したらヤバいだけ。
これは、どういうこと?
何がヤバい?
仮にヤバかったとしたら、どうなる?
社会防衛的なスタンスは必要だろう、これに異存はない。
ただ、哲学/倫理学でもそうしたいのかい?
>>156 は、補足すると、こうやって独在性について語り合っている限り
外向きのあり方でしか語りえないということになるんだと思う。
>>147 ニーチェは自らを徹底的ニヒリストであるとし、虚無主義に基盤を置いた
ここからは私の意見だけど、ニーチェは殺人すら無意味だと言ったんじゃね
つまり、善悪以前の問題として、無価値であると。人を殺す事も生かす事も意味が無いと
だから、畜群道徳とかはあんまり関係無いと思う。生を輝かせるため、とかも無意味としたと思う
己にとってそれが正しい事であるなら、やればいい。我欲すと吠える獅子であれ、それがニーチェの
「ツァラトゥストラはこう語った」での意見ではないかな
己にとってそれが正しいかどうかは、分からない時がある。それが苦悩であり、
それはディオニュソス的な考えを肯定するニーチェの考えへと繋がって行ったと思う
159の続き
>永井がそういう前提もなしに、切り離された個人が何も社会に負うもの考えず、
>適当に個人の恣意で殺すのありと言ってんなら問題だなと。
永井がどう言ったのかは知らないけど、適当に自分の恣意で殺すのあり、というのは
ニーチェの考えと相反しないと思う。ニーチェ自身が殺人を忌避したとしても、
それはニーチェにとっての正義でしか無い。神を否定した彼は、普遍性を否定しているのだから
ニーチェは「我欲す」まま吠えただけ。「我欲す」というところが肝であって、
殺人の忌避自体はニーチェの思想では無いと思う
┐('〜`;)┌ ヤレヤレ
>>160-161 みたいな解釈を読むにつけ、
文化基盤とういうコンテキスト無しで逆説的理解は困難。という感を新たにするな。
十字架にかけられし者 v.s. デュオニソス という比喩さえ、単なるレトリックに過ぎないんだろうなぁ。w
>>154 永井の略歴をみれば、公僕の末席に居たことがわかるだろうし、
だいたい、教師、しかも大学教師ともなれば、その発言はデフォルトで
正しいものと見なされるのが世の慣例。
だから、自称グータラ哲学者の看板など掲げないで、まっとうに思想家然としていて
欲しいもんだね。と考えるのは間違っている?
>>156 独在性という語があるじゃん。
自分らしく生きるのがベスト。ということをいいたいのなら、それでいいのでは。
銅像とか建物とか財産とか著述とかで、もし自分らしさを表現し得るのなら。
そういう残し方もあるかもしれない。
>>157 金川はそのヤバさを実証していると思うけど。
逆説的と言えば、ニーチェがナチスを批判したからと言って、
必ずしもナチスがニーチェの思想と反しているというわけでは無いんだよな
ニーチェは「我欲す」まま批判するだけであり、彼の考えに賛同する事が、
彼の思想に賛同する事とはイコールで繋がらない。逆に言えば、
彼の考えに反することが、彼の思想に賛同しない事では無い
165 :
156:2010/11/06(土) 21:33:45 0
>>163 ごめん、意味が全然わかんない…
それがどう独在性の哲学と関連すんの?
生き方とかそういうのは。それこそ好きにすればいいよ。
>>165 すまんね。17手先読み。
独在論の原型は、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の5.62以下の
いわゆる独我論。指摘の点は特に5.631の「自身を記述シタ書物の中で
唯一話題にし得ぬのが<私>という主体である」と超訳できる一文がある。
命題と名指し対象の事実との突き合わせを行う過程で「私」に至ると
実在論に接続し得る。ということらしい。で17手飛ばしていえば、ということ。
>>166 それで、何故
>>163の
「自分らしく生きるのがベスト」
なんて話が出てくるのかな?
そんな事言った覚えないけど…
結局、独在性の問題は、
<私>の特異性を消し去って
「単なる言語差異」として読み替えられる事により
無数の<私>の世界、つまり「私」となって
この世界が表出する、という事だと思ってるけど。
んで、そこまでしか言えないと。
どうやっても言語の性質の中では
その様な読み替えが必至だと。
>>163 かみ合っていない。
いいかい?
永井はかつては公務員だった、しかも大学教師でもある、であれば危険な発言はすべ
きではない、実際、金川の事件を誘発(?)した。
以上が真実だとしよう。
その上で、俺はたずねている。
たとえ議論の余地があるにせよ一定の論証を経て主張された哲学的(倫理学的)言明
は、その「危険度」を考慮して社会防衛的な見地から、差し控えられるべきか?
繰り返すが、上記の問いに対して「イエス」と回答する立場は充分にあり得ると思っ
ている。
ただ、そういう人には更に問いたい。
他ならぬ「あなた」が、その種の使命感に燃えるのは何故ですか?
そして、これは余計なことだが、かつて民衆から「悪しき神々を流布させた」として
死刑に処せられたあの極めて嫌味な古代ギリシア人を思い出しませんか?
169 :
考える名無しさん:2010/11/06(土) 22:36:52 0
永井は金川事件にどうコメントしたわけ?
170 :
167:2010/11/06(土) 22:43:17 0
そして一つ言いたいのは、
だからと言って<私>は最初から
無かった、や、消去できる、という話ではないという事。
よくそれを形而上学として退けようとする人がいるけど
それこそ一つの視点にしか立って見ていないと思う。
そもそも<私>からは、そんな全てを見渡せる世界の外には立てないのだから。
その<私>が、ある意味すべての<物種>なんだけど、
その<物種>は、語られることによって
更に誰にでもある「物種」になってしまう、という形で
絶対に言えない、という事、それがやっぱり
この問題の重要な点なのだと自分は解釈してるけど。
171 :
167:2010/11/06(土) 22:49:47 0
既に<私>と、そうでないもの
という違いを認識しながら、<私>は最初からなかった
なんて言うのは、世界そのものがなかった、なんて言ってるのと一緒だと思う。
それか、さも全の<私>を見渡せる視点にたったかの様に
言語の表向きの差異だけに囚われて、錯誤した結果なんだと思う。
つまりこの認識の時点で、<私>が「私」に読み替えられていると。
永井は、哲学者と思っちゃいけないんだね。
竹田とか茂木とか中島みたいな売文業者なんだね。通俗エッセイスト。
騙されちゃいけない。
うん、そんな認識でいいよ
>>168 あはは。じゃ、君はどう考えているの?
前提が仮定にすぎのないのであれば思考実験にしかならないでしょ。
別段使命感に燃えているわけじゃない。が、永井が金川問題について
きちんと総括することを期待している。そうなったなら
発話と誤解と理解と倫理の問題がより哲学的に明瞭になるかもしれないから。
ま、確言できないことがらはスルーが一番であるにしても。
大筋では
>>170 に異論はないんだけど、
そこでもやっぱり私に固執できる、という点も重要だと思う。
累進構造を応用的に使えば固執するのも一般化するのも、どちらもどこまでも可能で、
その終わらなさに、かろうじて特殊な(私と事物の)痕跡を見ることができる。
また、どちらもそれだけで(事物だけでも私だけでも)世界を構成可能で、
そのような世界観を可能にしているものが言語である、というようなことも言いたそう。
>>167 君のいいたいことはよくわかるような気がする。
17手の手順を説明することはとりあえずペンディングするけど、
言語表現、自然言語の一般的形態と、個の実存のあり方に調和と平穏を
もたらすひとつの方法があるとすれば、肯定的な生き方を実践すること
じゃないか。という気がするんだよ。長調(メジャー)に生きられたら、
日常に使う語も肯定的な語が主となって、懐疑を遠ざけることができる。かも。とかね。
とりあえず日本語でおk
178 :
167:2010/11/06(土) 23:23:59 0
>>175 世界が何層にもわたる構造になってて
向こう側にさらに見えない<他者>があって
みたいなそういう構造は結局は言語の性質があるからだと思います。
そして、その全てを<私>に、逆に神の視点からの世界に、
みたいに捉える事も可能ですからね。
しかしその両方がさらに<私>に… と、
そこからは、無限の累進?みたいな状態になりそうです。
そして逃れようのない<存在>とは?、という問題に純化されて行くのだと…
179 :
167:2010/11/06(土) 23:25:25 0
>>176 う〜ん、なんか違うんだよなぁ…
そういう方向性に話が触れるとはどうしても思えない。
もちろん平穏には生きたいです。
ただその問題とこの問題は、違うというか、
いや、そもそも、もっと根本の全てを成立させている、
<あり方>の問題だと思うんですよ。
永井信者になるにはまず永井語を習得しないといけないからな
意味のない空談を楽しむのはいいけどね。
そのことは何の役にもたたなくて、世間どころか一般の哲学でも通じない、
通じさせようとすれば迷惑だということは理解して欲しい。
永井の議論で他の哲学者が自分はそうは思わないと根拠持って反論できないものなんかない。ただの宗教。
そういうものにすぎないこと自覚せずに、客観性持てないなら本当に困る。
永井信者とか馬鹿の代名詞だから。竹田信者なんかとなんら変わるところなんかない。
根拠を持ってっつーのは、永井が3相手が7ってことね。最低でもそれくらい差はある。
永井のは哲学内部でも一般性のない極論だから。
まあ、抜け抜けとそれがクリアで堅実な議論に見せるのがうまさなんだろうけど。
逆にすごく不思議なのが、そこまで自信を持って永井の議論がクダラナイとか、
馬鹿とか一般的に通じないとか空談とか思える人が、
何故、事実ここまでそのことを書き込んでいるのかと言う点にある。
事実クダラナイのなら何故放っておけないのか、放っておく程度には、
くだらないと思えないのだろうか?
>>183 9割が読んでもわからないただのバカ、残りの1割が使命感に燃えている、と。
>>184 解らない人じゃなくて、親和的なこちらの方がバカである可能性はあると思う。
そもそも、そんなバカかどうかはどうでもよくて、世の中の覇権を争っているわけでも、
社会の深刻な解決されるべき問題を論じているわけでもないのに、
説得する必要性がどこにあるのかが理解できない、と感じる。
>>184 永井信者はこういう「自分が正しい」と思うやつばっかなんだよな
>>185 哲板には、箸の持ち方とか歯磨きの仕方で躾けるような君のママンはいないからね。心配ご無用。
仮にアンカー有りのコメントがあったとしても、説得されているという感触をもつのはヘンじゃないか?
だいたい、比類無き「私」を称揚する永井の考えを理解するなら、ニーチェ経由とはいえ、反道徳
を知るものであろう。だからといって、他者のイデオロギッシュな影響に反感や嫌悪感を持つのは
まだ道半ばでしかないと思うね。つまり、その次のステージとして、独我論あるいは独在論的な「遮断」
があり得る。「私は誰の意見にも左右されないし、影響も受けない。それはよきことである」というような
表現。ウィトゲンシュタインには手記にそう言明している一文がある。そしてその次が「教え伝えの道」だろう。
ツァラトゥストラを読んでいるなら、ステチェン(ステージ移行)のあり様がそこはかとなく判るかもしれないね。
とりあえず、独我論・独在論的遮断という態度、それは永井の書き物には溢れかえっているが、
それはある種の覚醒であって教わる何かではない。ウィトゲンシュタインはそうした覚醒と遮断とを身につけた
代表的な哲学者だが、たとえば、カリスマと呼ばれるような人々は、そうした遮断を自然体として身につけている。
たとえば、「god」の歌詞を読めばジョン・レノンが他人の影響を排除遮断する伝道師であることがわかるであろうし、
若いときから「歪みフィールド」というオーラを発散させていたというappleのスティーブン・ジョブスとかもそう。
今流行の龍馬伝の坂本龍馬もそうだな。
カリスマは遮断を超えて伝道師のレベルにまで達して人々に影響を与え、大衆の受容(需要)を勝ち取れる人物。
ただ、カリスマは比類無き自己存在の独自性を強調主張するが故に、多くの敵をもち、殺される場合がある。
これは伝道に脚を踏み入れたカリスマの宿命とも言えるべき道筋。なぜなら、カリスマは信者を獲得するが
その信者も彼の覚醒の道半ばで教えを説くモノに対して反動に遷移する。信者でありつづけるということは実に
つまらないからな。
まあ、いずれにせよ、俺は君のママンではないから、教え諭して躾けようなんていう考えはもっていないから心配するな。w
独我論とカリスマって全く関係ないだろう
何をどうしたらその2つが繋がるのか分からない
というか、繋げてる時点で独我論の理解が変なんじゃないかと思うんだけど
>>188 龍馬伝の坂本龍馬曰く、
「わしは、この世の中を、日本を、みなが笑って暮らせるような世の中(世界)にしたいとかんがえちょる」
このようにして、独我論的世界=私とカリスマ(眼前世界を変革する人)とは接続する。という見方もできるんだけどね。
>>189 まず、坂本竜馬の言葉のどこに独我論的思想が現れているの?
あなたは独我論と何か別の物を勘違いしていて、その上でカリスマとの関連性を語っているように思える
┐('〜`;)┌ ヤレヤレ
イデオロギー的表現の底に、認識される事実の変革が世界を変える。という表現が含まれている。
という解釈もある。ということなのだがね。
幸福な人の世界と、不幸な人の世界とは異なる。
という表現も独我論の中でふつうになされているはずなんだけどなあ。
竹田は頭悪い奴相手。中島は細木数子や野村サッチー式にウケている。
永井はそこそこ頭いいけど(馬鹿にはわかった気になれない)、
自分で考えない、自分で調べない奴をたぶらかしてんだよな。
ちょっと考えりゃ一般性のない極論とわかるからな。発展性のない不毛な議論とわかるから。
まともに受けとめる価値のない議論、黙って受け入れて俺って頭いいと思える奴食い物にしたいい商売。
内田樹とか池田晶子とか中島義道みたいな、
例えば時間は過去しかないとか。観測するまで未来はないとか。
んなら過去は実在してんのかとか、過去こそ未来のために構成されたものにすぎないんじゃないかとか。
突っ込み入り放題の受け入れがたい前提押し付け、そっから飛躍に飛躍重ねる、
哲学でも何でもないただのプロパガンダに比べたらまともに見えるんだよな。永井の議論は。
永井の議論はそれほど変ではない受け入れやすい一見普通の前提から入る。
正しいかどうかはわからなくても前提として議論するにはいいんじゃないかと素人は思う。
議論の内部では妥当で問題ない議論を積み上げる。
ただ永井はその前提はいろいろ問題あって不毛だから外されて議論されなくなったってこと、
玄人には結論がでない、出てもろくでもないことがわかっているからやらない、
そのこと良く知ってるくせに、絶対しらばっくれて隠して議論するんだよな。
だから余計始末が悪いとは言える。
点みたいな何もつながりない個人とか。今どきよくやるわ。
>>191 >認識される事実の変革が世界を変える
これは、独我論とは別の考え方ですよ
195 :
司祭:2010/11/08(月) 22:12:19 0
信者のみなさま。
おはようございます。
今日も教祖様のありがたい&すばらしいお言葉に耳をかたむけ心を清めましょうでは
ないでしょうか。
では今日のありがたい&すばらしいお言葉を紹介しましょう。
「子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が
楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものである
ことを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できないものにとっては、
あらゆる倫理は空しい。この優先順位を逆転させることはできない」
ああ、とってもすばらしいお言葉です。びゅんびゅん胸に飛び込んできます。
びゅんびゅん飛び込んできます。
>>195 浅学非才の身ではありますが、その引用部分は、実際に素晴らしく重要な(しかしひょっとしたら、
場合によっては恐ろしく悲しくもあるかもしれない)言葉だと思っているのですが、
何かおかしいですか?
何を理由に「信者」とか「教祖」とか妙な煽り表現を使っているのか、全くわかりません。
>>196 子供を教育してやろうっていう思い上がりが、自分が子供よりも賢いであろうと言う傲慢が
嘲笑すべき考え方だと思います
>>196 何かおかしいですか? と聞いた時点で負けは確定している(おかしいかどうかの問題にしているから)と思う。
俺も、永井のこの考察(教育や主張ではない!)は、その通りだと思うんだけど、
そう思う必要が無い人には解らないし、もしそうじゃなくてもその通りかどうかは予断を許す。
結局、永井の認識が、そういう認識が在ること自体が認めがたい人間が居る、というつまらない結論に落ち着きそう。
>>197 およそ教育について何か少しでも言うことは、全て思い上がりや傲慢であるという見解ですか?
それとも、
>>195の引用部分の内容に間違いがあり(例えばそのような優先順位は存在しないなど)、
その間違いについて子どものほうが正しい知識を持っているということですか?
どちらも、私にはちょっと理解・想定しがたいことですが。
>>200 哲学者は、哲学的言明の中で、ものごとの善し悪しについて語るべきではない。
ということだ。
>>194 君が、脳内理解をちょっと変えれば、似た考えですよ。ということもできるだろう?
>>201 >
>>200 > 哲学者は、哲学的言明の中で、ものごとの善し悪しについて語るべきではない。
> ということだ。
何かまた全然違う話題ですが…。
まず、「ものごとの善し悪しについて語るべきではない。」というのは、理由は何でしょうか。
また、理由とは別に、そもそも
>>195で引用されている部分は、どこが「ものごとの善し悪しについて
語」っているのでしょうか。
「こういう人にとっては、倫理は空しいと感じられる」とか、「先にこのようなことを教えなければ、
倫理を教えることはできない」ということは、それ自体は事実を述べているだけであって、(事実認識として
正しいかどうかはともかく)善悪について述べているわけではないと思いますが。
あえていえば、最初の、教育において第一になすべきことは…というところに「べき」という表現が
入っていますが、これも、つまりは、倫理を教えるにはこういう順序、方法が必要である、という意味で、
直接善悪について述べているわけではないように思いますが。
「死刑以上の重罰は(世の中に)ないだろ? ということはつまり、世の中は、
死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ」
>>200 >例えばそのような優先順位は存在しない
これに近い考えです。生を肯定するかどうかは、子供(個人)自身が決めるべき問題であり、
他人が間違ってるだの正しいだの言う問題ではありません
「私」は生を肯定するのが正しい、と思ったところで、それを他人に強要する事は思い上がりです
思い上がりだと自覚した上での発言ならば、特に問題ありませんが
>>204 >生を肯定するかどうかは、子供(個人)自身が決めるべき問題であり、
> 他人が間違ってるだの正しいだの言う問題ではありません
>
> 「私」は生を肯定するのが正しい、と思ったところで、それを他人に強要する事は思い上がりです
そういうことであれば、
>>202に書いたことと重なりますが、
>>195の引用部分は「倫理を教えるには、
まず生の肯定を教えることが必要だ」という趣旨のことを言っているだけであって、人はみな自己の生を
肯定すべきだなどと主張しているわけではないと思いますが。
とはいえ、『これがニーチェだ』全体や『倫理とは何か』など他の本も含めて、そのような主張が
読み取れるかどうかは、いろいろ議論できるかもしれません。
(とりあえずは、明示的にそのような主張をしている箇所は思い出せません。)
>>205 よく読んで欲しいんですが、>195では冒頭に
>子供の教育において第一になすべきことは
と書かれています。ですから、「倫理を教えるには、まず生の肯定を教えることが必要だ」というよりも
「子供の教育において、第一に倫理を教えるべき」という趣旨が書かれている文章だと言えるでしょう
「生の肯定」を「倫理」に置き換えたところで、私的な感情の押し付けである事は変わりません
>>206 あの文章から即座に子供を教育してやろう、自分の方が賢いと読み取るのは
少しばかり邪険に過ぎるように思われます。
前提が子供の教育において、であって、それが成立する限りにおいて、
為すべきことは生を肯定することを体に教え込むと言っているだけであって、
前提自体が成立する(子供は教育すべきだ)、と言っていないと読むのもそれほど不自然ではないと思います。
208 :
考える名無しさん:2010/11/10(水) 00:03:42 0
生の肯定とか、心にもないことよく言うわw
司祭様、興味深いお話ありがとうございます。w
さっそくではありますが、エロイ人的解釈で思考実験として書き換えコピペしてみるです。
(18禁だから未成年者は読んではダメですよ)
「子供の教育において第一になすべきことは、性道徳を教えることではなく、
セックスのある快楽的な人生こそが楽しいということを、つまり、生きているという
実感はセックスによって根源的に肯定されるそのことを、自分の体で楽しさと快楽とを経験体感させ
覚え込ませることなのである。(さらに進んで、たとえば「十四歳の母」というドラマで示された
ような妊娠出産を経験させ男女ともに親となすことも、体で覚えることであるといえるかもしれない:訳者付記)
このセックスのある快楽的な生を肯定できない者に、あらゆる性道徳はむなしい。
セックスの実践こそが性道徳の教育に先んじるという順序は逆転させてはならないのである。」
「自己の生が根源的に肯定されるべきもの」などという表現は、具体性を欠いているから子供は
おろか大人でさえ意味不明であるに違いない。その意味が判らない人は「根源的に比類無き存在者
としての<私>を解説している独在論、つまり<永井>の本をお読みなさい。ということなのだろうか?
冗談めかした翻訳ではあるけれど、観念論でしかない独在論など及びもつかないほどに
愛あるセックスは根源的に生を肯定する。恋愛とそれに伴うセックスとそこで得られる快楽こそが
「人生の楽しさ」のド真ん中にあるという人も少なくないだろう。
だけれど、愛無きファクとか性産業とか、そうしたドロドロも片方にある。それらは生の肯定・否定?
いずれにせよ、子供に、セックスしろ。快楽を体で覚える。などというのはほぼ基地外の物言いではるけれど、
発語者の本意とは無関係に意味解釈はなされ得る一例として、あえて誤解してみた。
>>209 なるほど。
誤訳に基づいて原文を批判するなんて話にならない、という教訓ですな。
注意しよう。
永井は頭いいよな。
袋小路に入るとわかってるからまともな哲学者が打ち捨てた、些末などうでもいい問題、
一般性のない答えひねり出すことで馬鹿な信者に哲学者と思われる。
ニーチェやウィトゲンシュタイン解釈とか独在論とか子供の哲学とか。
これを一般性のある普遍的な議論と思う哲学者かなんか探してもいないから。
仲間受けはともかく。
うーん。
永井の独在論の核心の一つは、、
「他者」という概念自体が独我論を前提にしなければ論理的に成立しえない、
ということでしょう。
永井の独我論が永井均本人のために作られているという理由で、
彼の最終的な結論を真に受けることができないとしても、
そこで独我論を前提にしない「他者」を提示できなければ、
普遍性や一般性という概念も不明瞭なものになってしまう。
ようするに、当然「一般性」を得られないため「瑣末」でありながら、
同時にそれが「瑣末」だと取り下げる知的な権利を剥奪してる。
そういう何とない脅しが永井の本にはあるw
だから読まれているんだと思いますよ。
213 :
考える名無しさん:2010/11/10(水) 20:15:35 0
>永井の独在論の核心の一つは、、
>「他者」という概念自体が独我論を前提にしなければ論理的に成立しえない、
>ということでしょう。
そんな話は初めてききましたよ。
うちのおじいちゃんにきいてもそんな話は聞いたことがないって
いっていましたよ。
214 :
考える名無しさん:2010/11/10(水) 20:24:54 0
>>1 中島の爺は煩いらしいからなw
放置してくれるなら一度覗きに
行きたいものだね
215 :
考える名無しさん:2010/11/10(水) 20:34:39 0
>>212 むしろ他者の存在証明は難しすぎる。
この世に存在して証明できるのは我のみだ。
デカルトまで回帰し、ウィトゲンシュタインを経て
コンピューター工学やら電子工学に大脳生理学をも
凌駕するのが永井理論の根幹だ。
永井は面白いよな。
真面目に読みさえしなければ腹も立たない。
頭の悪いナルシストに支持してもらえる。
哲学と思わなければこんな面白いものはない。
217 :
考える名無しさん:2010/11/10(水) 20:56:11 0
>>216 理系にとったら永井の理屈は分かりやすい。
工学的な哲学なんだよ。
普通は倫理的な前提、主張があって、独我論とか論じるものだ。
ただのナルシズムを満たすための哲学とか理解できないよな。
ニーチェ論とかウィトゲンシュタイン論とか本国人に読ませたら理解できないよな。
意図不明で混乱するだろう。悪い冗談だ。
永井はかけがえのない重要な哲学者、思想家。
どこにでもいる、俺は人とは違う、システムに回収されないものがあるんだ、
かけがえのない存在だと、吐き気がするほどありきたりでつまんないこと考える一般人に、
俺は人とは違うんだとその身の程知らずのナルシズム満足させて無毒化して、
ありきたりな存在にとどめ続ける飼い殺すという重要な仕事がある。
こんな下らないこと永井以外には任せられない。
世のため人のためにも役に立っているのは明らかだ。このスレの存在が立証して余りある。
>>207 >前提が子供の教育において、であって、それが成立する限りにおいて、
ですから、よく考えて欲しいのですが、教育の成立とは何でしょうか?
生を肯定しなければ教育が成立しないというのならば、それもまた傲慢な考えでしょう
私が主張しているのは、傲慢である事から目を反らすべきでは無い、ということだけです
>>220 ここにおいては、考えが間違っている、合っている、という話があるだけで、
教育がなされるべきかどうかという点については何も述べられていないと思います。
また、”教育の成立”というものはおそらく論じられておらず、
子供の教育をなすとするならば(という前提)、が成立するならば、
以下の要件が満たされなければ、倫理を教えることはできない。
という順序関係に対する考察があるだけでしょう、つまり傲慢かどうかは無関係だと思われます。
まあ、傲慢であることから目をそらすべきではない、というのは上記の問題を別にして論じられますが、
傲慢であることから目をそらすべきではないことが真理だとしても、それを語ることは、
ある種の傲慢さを持たないのでしょうか?
他人に対して何かを教えたり説いたりすることがある種の傲慢なのは事実だと思いますが、
それを語ることは本質的な困難を伴うと思いますし、語ると何か怨恨感情めいたものが透けてしまうと思います。
また、もし傲慢だったとして、何故それを自覚しなければならないのか、
何故自覚なしで語ってはいけないのか? という問いもあると思います。
自覚せよ、と呼びかけるのはキリスト教の罪に似て、何か怪しげに見えます。
>>220 そのようにこだわるのであれば、もう少し問題点と論拠を特定してもらえませんか?
まず、もとの引用部分に、どのような前提があると理解して批判しているのか。
とりあえず3種類くらいあり得るでしょうか。
1.前提を「子どもに対して、およそ何らかの教育がなされるべきだ」と理解して、その前提を批判する
2.前提を「子どもに対して、生の肯定が教えられるべきだ」と理解して、その前提を批判する
3.前提を「子どもに対して、道徳、倫理が教えられるべきだ」と理解して、その前提を批判する
4.あるいはその他?
そして、なぜそのような前提があると考えられるか、できれば補足してもらえませんか。
その上で、なぜその前提が「傲慢」などと批判されるのか、説明してもらえませんか。
例えば1だとすれば、なぜそれが「傲慢」なのか、ちょっと想像がつきません。
また2だとすれば、「生の肯定」とはどういう意味だと理解しているかが問題になるでしょう。(明示されてる
わけではないので、私にも確たる答えがあるわけではありませんが、『これがニーチェだ』のどの部分から拾えるかなど、
本の内容に従った議論ができそうだと思います。)
私は別に「傲慢」ではないように思いますが、そこは反論があり得るかと思います。
>>221-223 文章なげーよ。その上要点をついて無い。どうもグダグダなんでもう一度文章を載せるが、
「子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が
楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものである
ことを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できないものにとっては、
あらゆる倫理は空しい。この優先順位を逆転させることはできない」
上の文章が問題となっている文章。んで、下のレスについて考える
>子供の教育をなすとするならば(という前提)、が成立するならば、
>以下の要件が満たされなければ、倫理を教えることはできない。
これは飛躍した発想でしょう。少なくとも、上の文章からは読み取れない。読み取れるのは
「子供の教育は生を肯定させるべきである」と「生の肯定無くして倫理は無い」という事だけである
あるいは元となった(抜粋前の)文章からは、別な風に読み取れるのかもしれんが、
それならまずそう言って欲しい。そうじゃないとレスの意味が分からない
>>222 >また、もし傲慢だったとして、何故それを自覚しなければならないのか、
これは簡単ですよ。傲慢になるには、「自分が間違いなく正しい」という考えが必要ですが、
そのような「間違いなく正しい」物は無いからです
そして、傲慢である事を自覚した時、その傲慢の源となる「間違いなく正しい」という考えは打ち砕かれるのです
>>195の引用文は確かにそのように理解されても仕方ない面もあるが
(引用元が書いていないが、恐らく一般向けの文章からだと思うが違うか)、
永井本人のいわゆる倫理観はそういう「押し付け」とは無縁だと思うぞ。
というより、永井は通常の理解で言えば倫理的には完全なニヒリストだろ。
>>224 なんだ、原文を読んだことが全然なかったのか。
それで「傲慢」などと断定するのは、どんなもんですかねえ?
ただ、
「子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が
楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものである
ことを、体に覚え込ませてやることなのである。」
という字面だけを見れば、「子どもの教育において生の肯定を覚え込ませるべき」という主張をしている
ように見えるのは、確かでしょう。
では、それがなぜ傲慢と言えるのかについて、説明してもらえますか?
…しかし、原文を全然読んだことがないのであれば、意味のある議論にはなりそうにありませんが。
>>226 『これがニーチェだ』23頁です。
>>226-227 徹頭徹尾、>195に書かれた文章だけを論点としているのだから、
それ以外の事を言われても困りますよ
そして、>195の文章への批判を永井氏への批判と早とちりし、怒り狂うのはどうかと思いますよ
というか、それほど永井氏が好きであるなら、>195の文章を批判する方が先であるべきでしょう
>195の文章が永井氏の解釈と違うというのであれば、何故それを指摘できないのかと思います
229 :
227:2010/11/11(木) 00:24:16 O
>>228 何を言っているのですか?
>>195の引用自体は正確ですよ。
引用部分について、あなたは意見があるのではないんですか?
それを詳しく説明してもらえませんか。
230 :
考える名無しさん:2010/11/11(木) 00:29:03 0
永井信者の口調が気持ちわりい
「間違いなく正しいものは無い」という考えは間違いなく正しいな
>>225 ほぼ同意。ま、沈黙は金ということでヨロ。
子供って、個人史を振り返ったり、観察したりすればわかると思うけど、
元来生来、生に肯定的だよね。覚え込ませる必要なんてこれっぽっちもない。
生に対して肯定的でなくなるのは、成長過程のいわゆる反抗期に入って
世の中の価値とか道徳的規範とか親とか教師とかに懐疑的になる、
いわゆる「中二病」を発症の後の症状としてあらわれるだけのこと。
永井はそうした中二病発症時の少年時代の体験を繰り返し書いているよね。
だから、むしろ、中二病をどう克服するか。ということが問題なんだが、
どうやら50過ぎても中二病を克服できていないオヤジには無理なんだと思う。
というか、中二病の只中にある読者には、共感を呼び覚まして励起させかつ
論理膠着させて、中二病を慢性化・悪化させるだけ有害だと言える。
中二病は、欲求不満とか抑圧感とか、説明不足感とか、とにかく、面白くない。
という感情面が灰色化しているからよくわかる。なにかにつけ「説明してもらえますか?」とかね。w
中二病でなくても、虐待とかいじめで「生きることは楽しくない」と否定的になることもあるだろうし
逆に中二病であっても、環境や才能に恵まれていて「生きることは楽しい」
と思うこともあるわけで、中二病と生の肯定・否定は特に関係ないんじゃないかなぁ
>>225の「間違いなく正しいものは無い」というのもよく解らない
A=Aのような同一律は間違いなく正しく思えるし、逆に
>>225が正しいとするなら
「『間違いなく正しいものは無い』は間違いなく正しい」という考えも打ち砕かれるんじゃないの?
どうでもいいけど、確か入不二の「相対主義の極北」に似たような話があったな
永井の場合、論理的なことは正しいというのではなく、
論理的に明瞭でないことはそもそも意志の対象としての資格を持てない。
仮に妄想や錯覚でも論理的でないことは意志できない。
だからニーチェの「永遠回帰」は論理的に破綻した概念で、
意志の対象にはなりえず、レトリックとして失敗している、と。
世界の眺望がクリアなことばかりではないというのは自明としても、
意志の対象になるためにはクリアでなければならない。
なぜ世界は存在するのか
カント 存在は事象内容を示す述語ではない。可能な百ターレルは使えない。
神がいることは証明できない。
ヘーゲル 個々の事物、百ターレルは、あるかあらぬか偶然かもしれない。
しかし、神は個々の事物ではない。その総体だ。関係があること、その総体としての世界、
「私」「神」といった事物ではなく関係が実在することは否定できない。
関係から切り離された何かがあるとは言えない。ナンセンス。
世界イコール関係としての目的=システムとしての神の存在は証明されねばならない。ヘーゲルの目的論。
カント/永井は、可能的な神と現実の神に存在論的差異が有るという。
しかし、そのどちらも世界の中から自己を貧しく切り離した妄想だ。
カント/永井ではヘーゲルの現実的なものこそ理念的であるを拒絶しきれない。
神の代わりに哲学者が権力持つためとはみえみえだから。神の存在証明の否定とはそういうこと。
関係よりも無関係が先だから。ヘーゲルは間違い。
関係があること。あなたがあなたであることは事前に決められない。
あなたがいないこと、関係がないこと、世界もあなたも関係ないこと、偶然であり作り替えられうること。
そうでないと全ては意味をなさない。あなたの存在を自明にする、
アプリオリに仮定している哲学はヘーゲルのバリエーションにすぎない。
なぜ無ではなく何かがあるのかは、関係などない、私など何でもない、何の意味もないと認めること。
あなたがあなたでないことを認めることから全ては始まる。
なぜ、永井が神=世界のあらゆる物との関係から切り離されたらあると言えるのか、
ということを重要に受け止めるのも、結局、ポジティブな「私」を前提にしているからなんだよな。
私なんかないのに。
一般的な私、一般的でない私。そんなものは意味をなさない。無意味な問いでしかない。
世界に豊かに向かい合うためには、私などなくするしかない。
今までの関係、それしかないと縛られるのではなく無も含めた、
私には何もないと、世界も何でもないと認めて全てをなくすことでしか、
世界と本当に向き合うことはありえない。当たり前の話だけど。
同じような指摘が既出だったと思うけど、なぜ引用やページ数指定が大事なのかと言ったら、
少なくともその箇所については読んでいて、その箇所について何か言っているということは、
特定できるからなんだよな。
読み間違いがないか、実は読んでいないんじゃないか、ということも検証できるし。
(いちいち厳密にしなくても、何となくわかるくらいでいい場合も多いかと思うけど。)
ただ「永井は」「永井は」というだけで、実際にどこを読んだのか全然わからんようなことを
書き散らかされたって、意味が分からないし、つっこむ気にもならん。
239 :
司祭:2010/11/12(金) 02:03:00 0
信者のみなさまおはようございます。
今日もさわやかな一日をすごせるように教祖様のありがたい&こころにしみる
お言葉をみなさまとともに味わいましょうではないでしょうか。
では今日のお言葉はこれです。
一つの現実が成立すると、そのつどそれを出発点とする新たな諸可能世界が
想定可能になる。偶然であった現実を必然となす理性が生成してくる。その理性の
観点から見て新たな現実の生成に(いかなる仕方にせよ)有意味に参与できた人は
運のいい人である。その死を「夢」として風化させてはならないという夢に夢中に
なる人たちが現れるからである。それは未来からの救済である。だが、夢として
風化させてはならないなどと誰もゆめ思いはしない、無意味なものとなった死の
なかにこそ、歴史の真実はあるだろう。 樺美智子さんのような花形スター(可憐
ではあれ)において歴史をとらえることは拒絶されねばならないと、私は信じている。
これは心底すばらしいお言葉です。胸の奥にむひょんむひょんと飛び込んできます。
むひょんむひょんと飛び込んできます。
>>239 その部分は難解で、どう素晴らしいのか分かりにくいように思うので、
その素晴らしさを説明いただけないでしょうか。
司祭さま、おはようございます。
本日もありがたいお言葉、身が引き締まる思いでございます。
んが、信心が足りないのでしょうか、既に100回くらい唱えているのですが、私に
は今日のお言葉が難しくて…
何とか無知蒙昧な衆生をお救いくださいますようにお願い致します。
永井の論に反駁するのと
自分の中に作り上げた永井像をバッシングすることは
違うことです
ただそれだけのことなのです
哲学的ゾンビロボットを考える。「心」や「意識」や「クオリア」があるかないかは何が決めるか。
それは「私」や「主体」には決められない。
心や意識は物質として観測されない。自分の頭と他人の頭に電極突っ込んで比較できるわけない。
心があるかのように扱うことが心があること。心があって、感覚持って、
それを統合し、それに基づいて現実に対処してるかのように扱うか否か。行動するか否か。
そうすることに意味があると感じて行動するなら「心」があることになる。
扱っても馬鹿馬鹿しい、機械の反応で人格的行動とは思えないなら、心を認めない。心はない。
アプリオリに心がある、クオリアがあるは成立しない。
ゾンビロボットが周りから心があると扱われないで、それでも自分には心があると、
感覚を統合した現実への的確な反応しているとロボットが思っているなら
まわりからは心がないと思われロボット自身にとっては心がある。そこには謎はない。
それをあなたが聞いて、それでも心はあると思うなら心はある。
ないと思うならあると勘違いした心のないロボットがそこにいるだけ。
どう扱うかどう認めるか抜きに「心」は存在しない。
「私」も全く同じ。「私」の意識が別の体に飛びつきすぐまた出て行く、移動し続けるなら。
「私」が一瞬一瞬で別な記憶意識持って変化するなら。何を私と認めるか。
文法によるとしか言えない。
十日ごとに体脱ぎ捨ててあちらの体に、御神体に移動し続ける社会、
そのことが必要なこととして埋め込まれてる社会では、移動したと言われればそれまで。
記憶や知識が一貫して残っていようが私は私であっちにあり、ここにあるのは他人。
世界が別な私として、別な名前として扱うならそれを否定しえない。
私とは、他者と共に私と認めたもの。それ以外に私はいない。
他者と共にそう扱いこと認めること。現実を生きること。それを離れて私はいない。
「私」は、文法により生まれる。「私」という人称、人格的同一性もち現実に関わる、
そういうふうに社会が認めて扱い取り組み現実離れて私も「私」も<私>もいない。
とくに<私>なんかいない。それはお笑いだ。
私はいない。あとから作られるものだ。
内包性とか言語化される前の何物とも違う私とか。
何の意味もなさない妄想。
それを捨てて見えてくる私のいない現実こそが、真に語るに足る現実。
言語に他者に足かけ捨て去ることができる、関係に先立って私に無関係に基づいたものこそが真実。
>>243 永井の本と関連しなくはなさそうだが、本当に関連するのかどうか、どうにも分からない。
> 哲学的ゾンビロボットを考える。
まずそもそも「ゾンビロボット」というのが何なのか分からない。
永井が論じているゾンヒは、意識がない(?)こと以外には人間と区別が全くつかないはずで、
人間と区別できるロボットなんかではない。
>「心」や「意識」や「クオリア」があるかないかは何が決めるか。
> それは「私」や「主体」には決められない。
> ゾンビロボットが周りから心があると扱われないで、それでも自分には心があると、
> 感覚を統合した現実への的確な反応しているとロボットが思っているなら
> まわりからは心がないと思われロボット自身にとっては心がある。そこには謎はない。
> それをあなたが聞いて、それでも心はあると思うなら心はある。
> ないと思うならあると勘違いした心のないロボットがそこにいるだけ。
このあたりは、そもそも主張として整合するのかどうか、関係が分からない。
ロボット自身が「心がある」と思っていれば心がある、というなら、私が何と思おうが心があるんじゃ
ないのか?私が「あのロボットには心がない」と思えば心がないという主張との関係は?
また、私があると思えばあるし、ないと思えばないという主張と、冒頭の「「私」や「主体」には
決められない」という主張との関係は?
あるいは、全く相対的に、それぞれの人がそれぞれ思うとおりにあったりなかったりする、ということか?
> 「私」も全く同じ。「私」の意識が別の体に飛びつきすぐまた出て行く、移動し続けるなら。
> 「私」が一瞬一瞬で別な記憶意識持って変化するなら。何を私と認めるか。
永井は、このようなことは不可能ではないか、という議論を(やはり可能とも言えるのではないか、
という議論も一緒に)、『転校生とブラック・ジャック』や『私・今・そして神』でいろいろしているが、
それを踏まえているのかどうなのか全然わからない。
247 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 22:40:48 0
哲学的(笑)ゾンビ(笑)ロボット(笑)
そんなもの考えてどうすんの?
スレッドの世界観の内容を只管随分に伝えるけれども哲学的ゾンビロボットを有る得ないけれども考えるのは以外に得な事実が有るんですよねー!?♪。
249 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 22:48:01 0
>ゾンビロボットが周りから心があると扱われないで、それでも自分には心があると、
>感覚を統合した現実への的確な反応しているとロボットが思っているなら
>まわりからは心がないと思われロボット自身にとっては心がある。そこには謎はない。
永井語ではなく、日本語でお願いしますよ
>>249 それは「永井語」じゃないので。念のため。
>>231 難しかったか?ゼロは「無い」という概念で、ゼロというものが「在る」わけでは無い
>「間違いなく正しいものは無い」という考えは間違いなく正しいな
これはゼロと言う物が「在る」という考え方だな。そうじゃなくて、ゼロは「無い」んだよ
>>234 ニーチェの超人思想は確かに論理的じゃないように思えるね
ただ、それはニーチェ自身が目指した地点にある物だと思う
ニーチェは、論理も価値が無いという、ニヒリズムの極地まで行ったんじゃないかと思う
〆 ̄TTTTTTTTTTTTTTT7
| =|  ̄ ̄ ̄┴┴┴ ̄ ̄ ∨
|=|  ̄ ̄――― ̄ |
| =| 巛lllllllllllllllii ̄ ̄iillllllllllllll|
| =| ___llll lll___|
|=\人 o > / o フ<
|i⌒i| へ ̄ ̄, \ ̄ ̄ , .|
|| |.|  ̄ \ ̄ |
|| ‖ // ( | ヽ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| \| イ_ ^  ̄ ̄ | / Fack You
| ≡ ./| \王I王I王I王I王フ| < ぶち殺すぞ……・・
/| =/ | | \ ゴミめら……!
/ |/ 人 =≡≡= ノ \_________
― ̄| \ へ _ イ
| \  ̄ ̄ ̄
おまえたちは皆…… 大きく見誤っている…… この世の実体が見えていない
まるで3歳か4歳の幼児のようにこの世を自分中心……
求めれば…… 周りが右往左往して世話を焼いてくれる
そんなふうに まだ考えてやがるんだ 臆面もなく……!
甘えを捨てろ……!
お前らの甘え……その最たるは 今 口々にがなりたてている糞のような雑言や問いだ
問えば答えが返ってくるのが当たり前か……? なぜそんなふうに考える……?
バカがっ……!
救いようのない誤解だな 世間というものは とどのつまり 肝心なことは 何一つ答えたりしない
_,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,___
./=--- 、ヾい| | | / / -─ 、三、
l三!  ̄ ̄ ̄ ヾE|
!彡 -- 、 ─── ,─ lミ! 大人顔したエラそうどもが
.F!/\ ̄\三三三/ ̄_, ヘ ',ミ! 本当のことを言わないなら
F!´ `'-ニ、 、__ , -' - '"`'.ハ! 俺が言ってやる……
, -l=! 二二、ノ L二二_ F/、
| f=E! ニ‐-゚- 7 f ‐゚--‐ニ |;f_!l 金は命より重い……!
| |ソ!! __二ニ,' .! ニ二__ |kヒl! 金はオマエの存在よりはるかに重い……!
ヾ 、!;! -___/! !\_- .!ノノ
 ̄| / __ L_ _!___ \ |''" この認識をごまかす輩は
/!. / -──────--! .|、 生涯地を這う…………!!
/::::!. ヽ二二二ニニニ二ソ /:ヽ
/:::::::::ヽ、 ─ /:::::::|-、
_,、-‐ '''"|::::::::::::| ヽ、 , ' .!::::::::::|:::::::`"''- 、
_,,、-‐ '":::::::::::::::::::::|::::::::::::|\ ` ─── '" /|::::::::::|::::::::::::::::::::::`"'''-
254 :
司祭:2010/11/13(土) 02:35:34 0
>>240 >>241 自らの無知蒙昧さをさらけだしてまで教祖様のお言葉の真意を求めようとする
信仰心あふれるその謙虚な姿勢に心晴れ渡る気持ちがしました。
確かに今回のお言葉は十分に咀嚼するのが難しい面があるのは否めません。
しかしわたしは、常に信者の皆様により高きをもとめより深きを追求しつづける
姿勢をうしなってはらなない、そのような思いでこのお言葉を紹介したのです。
ですが、理解できなければありがたいお言葉も馬の耳に念仏となってしまうもの。
では、わずかばかりのヒントをだすことにしましょう。
たとえばイエスがキリスト教を生みだしたという一つの現実の歴史を
考えてみましょうじゃないでしょうか。
この現実に成立した事実をもとに、そこから、イエスがキリスト教を生みださなかった可能性が
考えられることになるでしょう。
”一つの現実が成立すると、そのつどそれを出発点とする新たな諸可能世界が
想定可能になる。”
とはそういう意味のお言葉であります。
255 :
司祭:2010/11/13(土) 02:36:17 0
では、イエスがキリスト教を生みだしたという現実の歴史は、歴史的必然的出来事なのでしょうか
それともたまたまの偶然的出来事なのでしょうか。
それは偶然的な出来事であったとお言葉はのべているのです。
しかし、そのたまたまの出来事が、いったん成立してしまえば、その成立してしまった後の現実によって
これこれこういう理由でイエスはキリスト教を生みだすことができた、と説明が与えられてしまう。
”偶然であった現実を必然となす理性が生成してくる。”
とはそういう意味のお言葉であります。
ではヒントはここまでにしましょうじゃないでしょうか。
では信者の皆様お休みなさいませ。
まず最初に考えるべきことは、キリスト教があろうと無かろうと、大した意味は無いという事でしょう
永井氏はニヒリストという事ですので、最初の一歩は必然性と偶然性の違いは無い、でしょうかね
その次に考えるとしたら、何が必然性と偶然性を分けるのか、という認識論でしょうか
>”偶然であった現実を必然となす理性が生成してくる。”
理性が勝手に事象同士を結び、恣意的に必然性を生成しているんでしょうが、
では何故理性はそのような行為をする必要があるのか、という話になっていきますね
>>254-255 なるほど、説明いただいた内容自体はよく分かりました。
しかし、原文はなお難解であるように思われます。
ある現実が成立して、それを出発点とする諸可能世界(とくにその現実が成立していない可能世界)が想定できる、
ということは、その現実は必然ではなかった(偶然であった)と捉えられることになるのではないかと思われます。
そうだとすれば、その後にその現実が必然とされる理由が分かりません。
引用部分より前の論文全体で説明されてはいますが、ニーチェ・フーコーなどの用語が飛び交っていることもあり、
素人にはなかなか理解しにくい文章のように思われます。
258 :
司祭:2010/11/13(土) 22:24:43 0
>>256 >理性が勝手に事象同士を結び、恣意的に必然性を生成しているんでしょうが、
>では何故理性はそのような行為をする必要があるのか、という話になっていきますね
>>257 >そうだとすれば、その後にその現実が必然とされる理由が分かりません。
教祖様のお言葉を咀嚼し、わが血肉としようとすることは
簡単なことではありません。
時には大いに悩み苦しむことも必要なことじゃないでしょうか。
しかしただ闇雲に考えても答えがでるものではありません。
そこでヒントとなると思われる教祖様のお言葉を紹介いたしましょうじゃないでしょうか。
これは理由と理性と根拠の関係について語っているものであり、
同時に闇雲にものを考えていてもだめだ、ちゃんと教養を身につけよ、という
教祖様の諭しでもあります。
259 :
司祭:2010/11/13(土) 22:27:42 0
では信者の皆様、今日の教祖様のお言葉をたっぷり味わいましょうじゃな
いでしょうか。
(お言葉の語尾を個人的な趣味で勝手にかっこいい表現にかえてありますので
より心に響くのではないでしょうか)
”
理性と理由と根拠は、日本語で言うとずいぶん違う印象だけど、もともとは
みんな同じ言葉なんだぜ。だからね、たとえばさ、人間という動物の持つ傾向性
とかそういうものを持ち出しても、それでは根拠にならないんだぜ。むしろ逆に
、そういうものが根拠になるのは、動物的傾向性を持ち出すことによって何か
を正当化することができるっていう理性が生成したことによってなんだぜ。
こんなことは、言葉の意味に関することで、たいして重要なことじゃないん
だけど、哲学は西洋で始まったんで、どうしてもある程度は、概念の歴史って
いうものを知っている必要があるんだぜ。それを知らないと、せっかく一生懸命
に考えても、見当外れなことを言うことになっちゃうんだぜ。”
”根拠をたずねる『なぜ?』っていう問いはね、そうなると無意味な問いに
なるんだぜ。なぜなら、それの成立とともに内的な根拠、内的な理由、つまり
理性が生成するからなんだぜ。そしていまや、その中で考えるほかはなくなる
んだぜ。”
このお言葉は、しんみ〜ん、しんみ〜んと心に染み渡ってきます。しんみ〜ん、
んしみ〜んと心に染み渡ってきます。
>>258-259 週一ならともかく、毎日毎日説教三昧とはウザイよ。偽物司教さん。
永井は、僧侶はこのようにして権力を握り(スレを)支配する。とかいってな。
それに、全ての宗教は偽物でもあると。
教祖自ら、司教様の立場をお認めになっていらっしゃらないのだから、
早々に廃業されるのが筋でしょう。
>>258 おやおや、教祖様の考えをちゃんと理解しないと。ニヒリズムを理解してますか?
>しかしただ闇雲に考えても答えがでるものではありません。
>同時に闇雲にものを考えていてもだめだ、ちゃんと教養を身につけよ、という
基本的に、答えなんて無いんですよ。虚無ですから。「私から見てそうである」という意味での答えなら出るでしょうが。
そして教養を身につける事に意味も価値もありません。虚無主義とはそういうものです。
こちらも、「ただし私から見れば価値がある」という意味での価値はありますが。
■川上未映子「おさきみどり、どう書くの?」 @ ウィキ(一連の盗用疑惑、騒動まとめ)
http://www16.atwiki.jp/osakimieko/ ■現行スレッド
【おさきみどり】川上未映子43【どう書くの?】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1289656116/ ・ 映画『第七官界彷徨』の内容を、紹介した新聞記事
(初出:2001年5月13日付「日本海新聞」)
http://www.osaki-midori.gr.jp/_borders2/EIGA/3-EIGA/3-EIGA/HYORON.htm ・小説『第七官界彷徨』の粗筋紹介部分をこの映画評から盗用した川上未映子の盗作コラム
(初出:「月刊Songs」2003年10月号)
http://www.mieko.jp/blog/2005/03/post.html 十行程度の粗筋紹介箇所で、川上未映子が元の新聞記事から盗用したフレーズは、「詩人を夢見る」「共同生活」「従兄弟たち」「感覚少女」
「コケを(実験)栽培したり、コミック・ オペラを作曲したり」「論争」「「恋愛」に成功するのは(栽培された)コケだけ」
「人間は(すべて)片思い や失恋ばかり」の8箇所です。全く同一です。しかも全て小説『第七官界彷徨』には無いフレーズです。
そして両者ともに、原作小説からの引用は1つだけで、同じ所で、切り方も同じです。「私はひとつ、人間の第七官にひびくやうな詩を書いてやりませう」です。
そして、元記事はあくまで映画版「第七官界彷徨」で映画用に改変された粗筋の紹介なので、原作小説とは異なる箇所が多いです。「従兄弟たち」は原作では「二人の兄と一人の従兄弟」であり、「コミック・ オペラを作曲」は 原作では「コミック・ オペラを歌う」です。
川上は原作小説の紹介をしているのに、なぜ映画版のことを書いているのでしょうか。
もちろんこの映画紹介記事から盗用したからです。
そして、記事からの引用符も無ければ、参照したという断り書きもありません。
川上未映子は「わたしは、小説「第七官界彷徨」が手放しで大好きなのです」とコラムで述べていますが、これは明らかに嘘です。
読んでいれば、小説「第七官界彷徨」の紹介を映画評の新聞記事からの盗用で埋め尽くすことなどありえません。非常に悪質な盗用だとしか言う他ありません。
>>261 > 基本的に、答えなんて無いんですよ。虚無ですから。「私から見てそうである」という意味での答えなら出るでしょうが。
> そして教養を身につける事に意味も価値もありません。虚無主義とはそういうものです。
> こちらも、「ただし私から見れば価値がある」という意味での価値はありますが。
こんなことを、永井がどこで言ってるの?
>>263 永井氏は自分をニヒリストって言ってるんでそ?
ニヒリストならそういう考え方だって話。永井氏なんてこれっぽっちも知らないから、
実際どういう考えかは知らない。ただ、教養に価値があると思ってるなら、ニヒリストでは無いな
266 :
考える名無しさん:2010/11/15(月) 00:28:24 0
永井はちょっとかっこつけて見ただけの、なんちゃってニヒリスト
ニヒリズムといっても色々あるからなあ。
ニーチェの「神は死んだ」って、かつて「神は生きていた」から「死んだ」といえるわけで、牧師の息子の
ニーチェはそもそも無神論者じゃないんだよな。ツァラトストラなんてゾロアスター有徳太子なほどに
徳徳大好き人間みたいだし。
>>266 世人に完璧な聖人はいないように、完璧なニヒリストもいない。みんな、「なんちゃって」だよ。たぶん。
「なんちゃって」だって?
transcendental nanchattebility を何だと思っとるんだ
>>265 え? 永井さんて自称ニヒリストだったの。しょぼ
ニヒリズムに色々あると言っても、"本質的な価値は無い"ってのがニヒリズムだろう
教養に価値があるってのは、完全にニヒリズムとは相反してるお。虚無主義としてありえなーい発想
>>267 ニーチェの「神は死んだ」ってのは、コペルニクス的転換を詩的に表現しただけでそ
かつて神は「我々の心の中に」生きていた。しかしニーチェの時代では、市井では無神論者が普通になっていた
ところが、無神論者もまた神(真理)を信じていた。その皮肉を、「神は死んだ」の一説は表現しているんだよ
271 :
考える名無しさん:2010/11/16(火) 22:18:08 0
賛成者も反対者も、永井哲学は <私> のうち < > ではなく 私 の方を主たる対象にしているかのように誤解している。
しかし永井が問題にしているのはもっぱら <> の方だから、中身の 私 は問題になってもいない。
要するには、カントのアクトゥアリテートとレアリテートの対比で、前者を問題にしているだけのことだろう。
そこからカント的な認識論的前提を抜いて、この対比の射程を広げるための分かりやすい例として、たまたま 私 を使っただけだろう。
それにしても、どうしてこんなあまりにも明白なことに誰も気づかないのだろう?
そりゃ、明白じゃないからだろw
273 :
考える名無しさん:2010/11/16(火) 22:57:25 0
いやいや、少なくとも玄人筋はみんな気づいているさ。
だから、無内包の現実性とかが、あんなに論じられているんじゃないか。
>>273 誰だ、玄人筋とは?
入不二とかですか
それは自分の哲学として消化してるんだろう
だがこのスレでは,
永井の本当の興味はどこなんだろう、と右往左往してるわけだ
貴方のようにねw
275 :
考える名無しさん:2010/11/16(火) 23:57:06 0
玄人筋って哲学科の院生レベルも含むんじゃないの?
このスレはもちろん含まれないけどw
どっちにしてもしょぼい一般性。
馬鹿みたい。
問題の明晰化には必要なことだよ。
278 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 10:18:10 0
偽と否定の議論でいえば、
偽がアクトゥアリテートで否定がレアリテートということ?
明晰化したってどうでもいい馬鹿みたいなことは変わらないけど。
哲学的ゾンビが馬鹿みたいなら永井の私も全く同じように、
馬鹿みたいという議論なのにわかんない馬鹿もいるな。
明晰化の取り得はそれくらいか。
明晰化回避の議論なんてそんなもんだよw
クオリアあるという主観、一人称重視や、神秘主義も、
クオリアなんかない物に還元されるという客観主義、物理主義も間違っている。
あるかないかはそれを認める必要とする立場の問題。
うまくいくかいかないかだけ。
永井の私、一般性に捉えられない私がいるかいないかも偽の問題。
全く同型の話なのにな。
一般性もそうでないものも、それに対してうまくいくかいかないか。どう認めるか、何でもいい話。
哲学的ゾンビロボットとかそういう話。クオリアあるかないかは決めらんない。
永井の私もクオリアと同じ。
永井の私も主観でも客観でも決められない。私には決められないのに、そこがわかってない。
思考が甘いから。
私。それは他者の都合でしか決まらない。
<>はそのことなんであって他者がクオリアを私をありとするかないとするかの都合でしかない。
初歩の初歩だよね。
>私。それは他者の都合でしか決まらない。
他者なんて幻に過ぎないでしょう。それこそ、他者の存在は決められない
ならば、他者の都合というものも当然決められないわけですよ
クオリア。それは主観でも客観でもないでしょ。そう間違えるからアポリアになる。
ゾンビロボットの話で心がある、ないの話になるけど大事なことが忘れられてる。
人間に心があるか否か誰にもわからない。
人間を道具として奴隷として異端を信じる悪魔の手先として、
心のない存在に扱う例など枚挙にいとまもない。
心なんか、相手に主体を認めて取引材料として扱う、
そういう感覚を体を統合して反応する関数として、
主体を認めることが有用だと言う必要から生まれたもの。
ゾンビに心があるかないかは人間に心を認めるか認めないかの社会、他者による要請と変わらない。
それ以前に心なんか私なんか存在しない。
他者は間違いなく実在する。私は完全にそこから派生したものにすぎない。
私も心もクオリアも。他者の必要性の中、全体の脈絡の中でしか存在しない。
全体から切り離された私なんかどこにもいない。
他者と切り離されて私なんかいない。他者から純然と切り離された私なんか意味不明の存在。
他者の様々な必要の中から生み出されるのが私。全体の中で位置付けられて私がいる。
それを切り離して私が自存しているかに考えるのは錯覚。
私を認められない人間なんか枚挙しきれない。
こんな低レベルの初歩的な当たり前の話もわからないとかふざけているの?
全体があなたに、心がない、人間じゃない、わたしはいない。
そう規定されたらあなたはどうにもできない。そのどうにもできなさこそ根源的。
全体が根源、他者が現実をどう認めるかが根源で後は派生物にすぎない。
永井の議論はその全体のところに私を置くから意味不明になる。
私は断じて根源ではない。全体が他者が認めなけりゃどうにもならない。
わかるよね?
何もないなら、そもそも話しもないはずなんだけどね。
言語哲学に見当違いな絡み方をしているようにしか見えないな。
幼児がいかに言語を習得するかも分かっていないのに、
心の哲学や私的言語の問題を棄却する方がよほど馬鹿みたいに見えるが。
なんかポストモダンみたいなこと言ってる人がいるね。
幼児w言語取得w
何も他者の言うことそのまま、他者の奴隷である必要はなくて革命の可能性は常にある。
他者は世界は変えるためにある。
しかし、その場合でもそれはあくまで他者に世界に現実の私ならざるものに関わる形でしか私はない。
原理的に私は先行的な世界に他者に関わる形でしか存在しない。
他者を世界を変える関わる形でしか私なんかない。常にそういう形でしか私はない。
そういう原理論の話であって。
頭悪い人は面白いね。
世界に他者に先行されそれに関わる形でしか私はない。当たり前でしょ?
私が神や宇宙の全体ならともかく。そうじゃないでしょ。
幼児は親から言葉を教わり食べさせてもらい現実を受け入れ教えられ認める形で世界に入る。
この言葉だって他人のもの。
永井みたいに私が先にあって、今と過去や未来、ココとアソコ、私と他者が分離するとか、
そっからはのほほんと現実に関わらない私のナルシズムの一般性の哲学しか出てこない。
赤ん坊が初めから言葉から何から何まで自分で身につけ考えだしたものかよwww
そういう馬鹿騙くらかすための哲学なんだけど本人も信じちゃってるのが痛い。頭悪いから。
永井って馬鹿の代名詞。
>>289 他の人も言ってるけど、自分解釈をダラダラ垂れ流すだけじゃなくて
反論するなら、著述をしっかり引用して
どの部分がどういう理由でおかしいという事を明確にしてかないと
誰からも相手にされないと思うよ?
哲学的センスのない馬鹿だな。
何も難しい話していないのに。
私が何であるか、規定しても意味ないだろ。
私の中身なんて他者が決めて受け入れるしかない。
私の中身なんかない。いくらでも置き換えられる。
心の哲学でクオリアや心があるかないか言い合う。
あるかないかどうでもいいから持ってきてみろという話。
わかる?
心なんて社会的必要性、全体の中でどう位置付けられるか、他者がどうするかでしかない。
心の中身は他者が決める。他者との関わりでしか有り得ない。
私も同じこと。
私なんかない。
他者や社会の必要性の中から私は作られるのであって逆じゃない。
頭悪すぎ。こんな基本的なことで引用も何もww馬鹿なのw
私なんかいくら論じても意味なんかない。
私の中身は他者が決める、他者との関わりが決める。
その関わり、言語ゲームや全体の中の位置付け。
それを論じないと意味ないのは当たり前だろ。
永井みたいに論じる価値のないものでオナニーすんなよwww
我田引水すぎて永井の本を読んでるとも思えないから、
そう言われてしまうんだよ。
>>290 だいたい、永井自身、まともな引用とか解釈とかしないし無縁だし。
こどもの哲学の冒頭。
哲学者の書いたものを学ぶことで哲学の神髄に触れることは絶対にできない。とかいってるし。
だから、こんなスレはナンの役にも立たないじゃないの? だいたい引用と解釈という
図式で何事か問題が設定され明らかになるわけもない。と思うけどね。
だって、哲学はすべからく「マイ哲学」だからね。俺的にはナルシス上等だな。
>289だってナルシスムズだろ?w というか、哲学的言明はつねに、俺の言い分は正しいという
注釈解釈付きで書かれ読まれる可能性が高いから、「マイ哲学=俺の言い分や考え」に反した
言明なら「こいつばかあ?」という断定が簡単に下され得る。そういう意味で哲板には昔から
エラソーな774ばかり跋扈していて、面白いんだよな。
言語ゲームとの関連で色々著作で述べてる部分あるよね?
そこ引用しておかしいと思った部分に反論したら?
そうしないとやっぱ誰も相手しないて。
内包性の議論とか本当に逆立ちしている。
世界に関わり他者と共に現実を変えようとする決して孤立してない、
必然的に他者に世界にのめり込んでいるそういうものとしての私しかいない。
世界や他者から切り離して考えた私とか非本来的で本来的なものから想像し、
仮構して作り上げたフィクション。決して現実ではない。現実に存在しない。
本来的な私から脱ぎ捨てられた抜け殻、蛇の脱皮にすぎない。生きてない。
その死んだ皮を有り難がって愛でるナンセンスな議論。
面白いよな。
私なんか他者や世界に規定され密接に関わる形でしかあるわけない。
切り離された現実と関わりない私なんか何の意味もないごたく。
抽象化された現実とは違う虚構。そんなもんいくら論じても意味はない。
そんな当たり前のこともわからないとか。
ゾンビの話も永井は良く使ってるだろ。
ねじ曲げて自分の好みに合うように論じてるからこっちのがすっきりしてる。
感謝して欲しい。永井を読む時誤解せず参考になるw
今までわかりもせずにただ有り難がってただけだろwww
永井信者って気持ち悪い。
何かあったの?
えらい執拗に煽ってるけど。
永井の信者ってろくに反論もできないのに、文句ばかりつけるよな。
>>289 > 赤ん坊が初めから言葉から何から何まで自分で身につけ考えだしたものかよwww
> そういう馬鹿騙くらかすための哲学なんだけど本人も信じちゃってるのが痛い。頭悪いから。
永井は、子どもが大人から言葉を教えられることについては、いろいろ書いているんだが。
なんか一生懸命「私は実は、永井の本をちゃんと読んだことは全然ありません。
私は読んだこともないことを語るアホです。」とアピールしてるみたいだがw
まあ、そんなアピールでも、やりたいなら勝手だが、このスレじゃなく余所でやれば?
恥ずかしいだけだぞw
302 :
考える名無しさん:2010/11/19(金) 23:00:50 0
>>278 そうです! ここにもまともなことを言う人もいるんだ!
「偽」がアクトゥアリテートにあたり、「否定」がレアリテートにあたる。
そこで、問題が二つあることになる。
第一に、なぜそもそも「端的な偽」ということが可能なのか?
これは、そもそもなぜ現実(アクトゥアリテート)があるのか、というライプニッツ的問題。
第二に、その「端的な偽」がなぜ否定という操作に回収可能なのか?
これがレアリテートで、なぜ第一の問題がそもそも言語で語れるかを遡及的に説明することになる。
これが要する永井哲学なるものの論理的骨格で、クオリアやゾンビはもちろん
〈私〉でさえ、問題の本質とは関係ない単なる適用例にすぎない。
こんなことは、玄人筋ならずとも、比較的最近の本をちゃんと読んでいれば、素人でもわかることよ。
>>302 出発点が私だからな。
私なんか他者から規定される何もないものなのにな。抽象的なでたらめなのに。
何でここに答えないの?
心も私も実在しないでしょ?他者との関わりから切り離せないのに何言ってんだか。
馬鹿なの?
>>301 馬鹿すぎ。私の立場なんかない。抽象的な立場から語るなと言ってるのに。
切り離された私なんかいないと永井の本質批判しているのに。
他者や世界から切り離された私から始まっても仕方ないということ理解できないとか。
馬鹿なの?
心も私も他者の必要から作られるもんでしょ?他者の関わりの中から切り離せないものでしょ?
そういう他者から切り離された私から語っても無意味でしょ?
結局、私なんか存在しないこと、他者との関わりの中にしか存在しないことから、
出発しなければ、俺は一般とは違う、一般には回収されないものがあると言う、
死ぬほど通俗的で一般的な話になる。
<>なんて死ぬほど一般的な通俗的な話にすぎない。
私はいる、いない、心はある、ないと同工異曲でしかない。
クオリアあるないの目くそ鼻くそと変わらない。
>心も私も他者の必要から作られるもんでしょ?他者の関わりの中から切り離せないものでしょ?
>そういう他者から切り離された私から語っても無意味でしょ?
それは、あなたがそう信じたいだけでしょう
他者がいなければ無意味、実在が無ければ無意味、神が実在しなければ無意味…
信じたいからと言って、それが都合よくあるわけじゃ無いですよ。つまりこの場合、
あなたの求める「意味」は初めから存在しないわけです
地動説を否定した宗教家も思った事でしょう。
「天動説を否定したら意味が無いでしょ。馬鹿なの?」と。
何故なら、かの時代の宗教家の求める意味は、天動説を否定されると成り立たない物だったからですよ
>>304 (前略)「どんな人も、社会の中で他者との関係の中に
もともと組み込まれている。道徳的価値が利己的な前提から切り離されたそれ自体としての価値を持ちうるの
は、人間ががんらい孤立したものではないからだと思いますね。そして、私たちの限りある人生に意義と価値
を与えるのは、結局は、そういう他者との繋がりなのです。私の死後も生き続けるであろうそういう他者たち
―私と繋がりを持った他者たち―の観点を自分のものとすることで、私たちは限りある人生を有意義なも
のとしていくことができるのです。」
「これはまた突如としてひどくつまらないことを言い始めたものだ。おまえの言う他者との繋がりは自明のこと
だ。だれも孤立してなどいない。しかし、問題はそんなこととは関係ないのだ。考えてもみろ。」(後略)
『倫理とは何か』217頁
最近の主要著書すら読んでないなんて馬鹿なの?
309 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 18:31:42 0
そうだね。
302らが言っているおり、
問題はアクトゥアリテート(現実性)とレアリテート(実在性)の対立にあるので、
他者とのかかわり云々という問題とはまったく関係ないんだよね。
それでも、アクトゥアリテート(現実性)の問題を提起することが
あたかも他者とのかかわりの否定を主張しているかのように誤解されるのは
なかなか興味深い現象ではないかなあ?
モニターを見ている、あなた。反論を書き込もうとしているあなた。
あなたの中身は予め決まっていない。あなたの中身は他者が現実が全体が決める。
あなたに心がないとか、あなたは人間じゃないと圧倒的な他者が決めたらどうしょうもないでしょ?
あなたの中身なんか予め何もないでしょ?社会や他者や世界の全体の都合を通してあなたは決まる。
心もクオリアも私も他者との関係で作られる。
私のいない人間なんかいくらでも作られた。
当たり前だよね。私なんかポジティブにはない。
それに反発したにしても、他者や世界と関わる、それらが先行する形でしか私はない。
永井みたいに世界に関わらない私の一般論として、<>をいくら論じても糞だよね。
切り離されたものから、<>とかいくら語っても抽象的な虚構でしかない。死んだ私でしかない。
それに気づかない馬鹿は永井のカモだよな。頭悪すぎ。
私とか<>なんかいくら論じても意味なんかない。
私の中身は他者が決める、他者との関わりが決める。
中身の決まってないものいくら論じても仕方ない。
他者、全体から切り離された抽象的な私からの一般性の分離なんか論じても仕方ない。
私は常にありふれていて他者と関わり変わらずだからこそかけがえのない。
こんな当たり前がわからないとかwww
>あなたの中身は予め決まっていない。あなたの中身は他者が現実が全体が決める。
>あなたに心がないとか、あなたは人間じゃないと圧倒的な他者が決めたらどうしょうもないでしょ?
繰り返しますが、あなたの信じている物はありません
圧倒的な数の他者の言葉に従う「意味」も「価値」もありません
あなた自身の信じる価値、すなわち「あなたの神」を崇めろと言われても、お断りします
>あなたに心がないとか、あなたは人間じゃないと圧倒的な他者が決めたらどうしょうもないでしょ?
この、「どうしようもない」という思いは、神に跪く者、つまり殉教者の考えです
死がどうしようもないから、人は来世を想像しました。川が氾濫するから、神の為に人柱を埋めました
未熟な人間が、死の運命や自然の驚異を神に見立てたように、未熟なあなたは神を作り上げたのでしょう
あなたの心は弱い。その弱さを隠そうとして、「どうしようもない」という言い訳を作った
その言い訳を正当化するために哲学にしようとしたって、それこそどうにも為らないですよ
なんかこのスレの問題点と関係のない事を
延々と書き込みしてる人がいるなぁ。。。
一体どうしちゃったの?
永井は開闢の哲学で私、今、ここがあって。それが根源的とか。とんちんかんな話している。
そこから他者や過去やあそこが派生するかに語っている。
頭おかしいよね。
他者や全体との関わり。他者や全体が先にあって、私なんか他者や全体の必要から生まれるものなのに。
私も今もここもないのに。
それがわからないと↑みたいな勘違いレスが生まれる。
>>315 このスレの問題点て、永井の一般的じゃない私で、死ぬほど通俗的な自分を慰め、
オナニーしている信者に目を覚まさせることでしょ?
いや、まあ、所詮は 2ch だから何でもいいけど、もうちょっとは、せめて永井の本
を読んでから書いてくれないかなぁ。
いいかい?
永井に対する批判や反論なんぞはいくらでもオッケーだよ、誤解もオッケー、感情的
な反発も全然オッケー。
たださぁ、せめて、読んでからにしようぜ (´・ω・`)
319 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 11:42:24 0
永井哲学と関係あるかどうかはともかく
哲学的問題としては面白いんじゃない。
>あなたの中身は予め決まっていない。あなたの中身は他者が現実が全体が決める。
>あなたに心がないとか、あなたは人間じゃないと圧倒的な他者が決めたらどうしょうもないでしょ?
>>319 それはそもそも哲学的問題なの?
圧倒的多数の他者が決めたらどうしようもない、というだけなら、ただ単に多勢に無勢という
事実を言ってるのと、何が違うのかよく分からんのだけど。
それより何より、最近続いてる馬鹿みたいなレスが一番馬鹿馬鹿しいのは、永井自身が、
他人に理解されてしまう以上は他人と共通のものしかないとも言えるのではないか、という
趣旨のことを(も)論じているのに、それに全然触れてないことだと思うけどな。
だから、実際は何も読んでないんだろうとしか思えないわけで。
>永井自身が他人に理解されてしまう以上は他人と共通のものしかないとも言えるのではないか
理解を理解するのは難しいな。
1.日本語だからおk
2.日本語でおk
3.日本語だけどおkじゃない。
読者次第だし。
>>320 それ、どの本、あるいはどの講義?
必ずそのことも一般化されて読み換えられるみたいな話はよく書いているけど、
他人と共通のものしかないのかもしれない、というのは結構読んでるけど記憶にない。
>>322 要約の仕方があまりよくなかったかもしれないけど、例えばこのあたり。
『転校生とブラック・ジャック』岩波現代文庫版161〜162頁(C君の発言)
「E君が言っていること
がひとに理解されたときは、もう同じ種類のことになっている、という点が、決定的なこ
となんだよ。たとえば、ぼくなら、Cだけが特別なんだ、という意味に理解せざるをえな
いだろう?つまり、そこに入るのは、CでもDでもEでも、何でもいいんだよ。伝わる
内容はそういう形式でしかないんだから。だから、特別の〈私〉なんてものは実在しないん
だ。」
「さっき言ったことを言い直すよ。E君が言っていることが、ひと
に理解されるどころか、E君が言っているそのときすでに「同じ種類のこと」でしかない
んだ。」」
『なぜ意識は実在しないのか』101〜102頁
「私が「他人にもこれがあ
るのか?」と自問したとき、正しい答えは「その問いが客観的・公的な意味を持ちうるかぎり、
私にもそれはもうない」でしょう。私自身もまた、伝わる「これ」など持っていないのです。」
>>323 ありがとう。 ちょっと引っかかるので読み返してみる。
325 :
考える名無しさん:2010/11/24(水) 10:10:52 0
だからそれが何度も言われている、
アクトゥアリテート(現実性)のレアリテート(実在性)への変換の問題でしょ?
永井の議論はただひたすらこの対比だけを問題にしているのであって、
他者との関係がどうしたとかいうレベルのお話とは全然関係ない。
イヴン・スィーナからガンのヘンリクスらをへて近代のカント、現代のウィトゲンシュタインにいたる西洋哲学の最も中心的な問題を指標性の領域にまで広げて考えてみただけだろう。
つまり(現実性としての)〈私〉は「存在」できないということなんだよ。
せめて、それならそのことはどうして語れるか?というレベルの話から始めないと、そもそも問題についていけてない。
>>325 ん?
気持ちはわかるような気がするが、その「変換」というのは何だ?
第一、そういう言い方で切ってしまうならば、ハイデガーとほとんど変わらないこと
になるだろ?
永井が析出した私という問題を、あたかも「応用問題」のように理解するのは余りに
も一面的に見える。
あの「形而上学」論文に典型的だが、確かに、そのような方向性があることを認めて
もなお、ね。
『倫理とは何か』のちくま学芸文庫版が来年1月8日発売という情報が出てますな。
解説は大澤真幸とのこと。
「セブンネットショッピング」などの情報なので、確実なものかどうか分からないけど。
しかし、なぜ最初の著作の『<私>のメタフィジクス』は文庫化されないんだろうな?
あの中のデカルトに関する論文には衝撃を受けたんだけど。
永井が竹田との対談(論争?)で言っている偶然についての話が面白そうなんだけど、
永井の偶然の理論についてもっとよくわかる本ってどれ?
332 :
考える名無しさん:2010/12/18(土) 01:02:54 0
先週の土曜日の「河合臨床哲学シンポジウム」に行った人いないの?
333 :
考える名無しさん:2010/12/18(土) 23:44:54 0
コメンテーターの熊野純彦はつまらない質問しかしなかったけど、
司会の谷徹が人称と格の関係とか木村敏とのアクトゥアリテート概念の違いとか
重要なところをいろいろ突っ込んで質問してくれてなかなかよかった。
>>332 そのシンポジウム、どんなのだったの?
誰が出た?
ファイナルラストクライマックスアンリミテッドアルティメットスペシャルデラックスエターナルパワーユニバースフォースインフィニティーエネルギーホーリーセイントディバインアイスコールドフリーズブラックホールブリザード!?♪。
デカルトはどんなに議論しても時間の無駄何ですよねー!?♪。
336 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 11:06:42 0
>>336 おー、これは行きたかったなぁ。
見てきた人、内容を教えて。
339 :
考える名無しさん:2010/12/22(水) 20:23:08 0
哲学初心者だけど、そして亀レスだけど、疑問に思ったから書かせて
>>311 この世界が、
無限に前から続いてる自分一人の夢だと言う可能性も否定できなくもない
と思うから、そう簡単に言い切る事はできないと思う。
どうしてココにいるかわかんない気がするし、
まぁ、他人にこんなこと言うのも変な話ですが。
あと、これイワン・カラマーゾフの最大の悩みだと思うけど
どうなんでしょう。
永井はドストエフスキー大嫌い。無関係無関心。
341 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 09:27:06 0
永井はドストエフスキー大好きだよ。
日大での最初のゼミのテキストも「カラマーゾフの兄弟」だったし。
なぜ独我論という発想が出てくるのか私には全く理解できません。
343 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 21:55:27 0
独在性をめぐる議論は独我論と何の関係もない。
むしろ独我論という観念が存在問題の誤解から生まれるという主張だろう。
じゃあ独在論ってことかいな?
どうしても永井独我論って言っちゃうんだけど
独我論の理解にもよるが通俗的な独我論と混同しないかぎりは永井独我論という言い方も許されるだろう。
346 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 08:45:00 0
永井独我論w
ぷw
>>345 通俗的な独我論って、具体的に何? 誰の論? 著作はどれ?
残念ながら独我論者を名乗った哲学者は過去に存在しないので、誰の論でもない。
哲板にはいるのかも知れないが。
しかしときおり体系的なものではないにしろ、独我論的な主張がなされるのは事実。
そのようなものを批判的に取り扱ったのが永井の著作なので、
知りたければ永井が著書の中で独我論を批判している部分を読めばよい。
永井哲学を正確に理解できるって凄いの?
そいつを利用して自分を特権化しようとする態度って
永井やニーチェが批判する思想の奴隷とどう違うの?
>>341 これがニーチェだの頃からすると随分な宗旨変えだな。w
>>348 人間だれしも我が儘だから、哲学的な耳で我が儘者の自己弁解
を聞くに付け、には独我論的な響きがする。ということなのかな。
ウィトゲンシュタインの論理哲学論考は、独我論の解説書としては
最も有名な著作だろう。というか、唯名論的な名辞操作主義的哲学
の行き着く果てが独我論で、しかも、「わたし」という極点で名辞操作
主義は純粋な実在論に吸収される(5.62)という。名辞操作主義と
実在信仰主義が実は1枚のコインの裏表であり得る。という論なのだ。
という解釈もあるかな。と。永井の独在論や入不二の無主体論は
この消点を拠り所にしてるから、仲良しなんだろ?
文脈的にアクトゥアリテートとレアリテートとは表裏一体なのかな?
エッシャー 「描く手」
http://storage.kanshin.com/free/img_38/386034/k1456352321.jpg
には独我論的→独我論的
5.62 → 5.64
永井均って構造主義、ポストモダンとは関係なさそうですね。
そのへんどうですか?
>>349 永井哲学に価値を見いだす人の中では、永井哲学をより正確に理解できる人はより高く評価されるだろう。
それを「特権」と言うなら、まあそう言ってもいいかもしれないけど、それが何か問題なの?
例えば(よく知らんけど)イチローという人は、野球の実力が優れているから、野球に価値を見いだす人の
中では「特権」があると言えるだろうけど、それも特に問題があるとは思えないけど。
ただ、より道徳的な人は、道徳に価値を見いだす人の中では「特権」があるだろうが、だからといって
何か問題があるのか、と言えるかどうかというと、微妙か?
と、適当なことを言ってみる。
日本語で書いてくれないかな
俺もそう思う。
"素朴実在論"
"素朴観念論"
"素朴独我論"
"素朴独在論"
素朴独在論ってどんなのだろなw
>>350 何言ってんの
ニーチェとドストは根本似ているよ
360 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 19:19:34 O
既読なのだが、ちくま学芸文庫版『倫理とは何か』が楽しみだ(文庫版解説しか読むところがないけど)。
NHKでやってたサンデルの講義は面白いけど、規範理論的でつまらない部分もある。
その原因がこの本だ。\(^o^)/
361 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 16:25:35 O
永井の言う(ヒントにしたのはニーチェか?)、「老人、大人、青年、子ども」の哲学区分があって、その対立の兼ね合いは白熱教室じゃ無理だよ。
永井も若い頃はフーコー・デリダ・ドゥルーズ語ってたよ。
全然注目されてなかった。当時の論文はCiNiiで読める。
永井の今の地位はウィトゲンシュタイン論によるところが大きい。
363 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 18:03:11 0
俗物哲学者じゃ売れなかったから、ニッチを狙ったわけですなw
英米哲学一辺倒になってる今からすると
「デリダのフッサール批判から」なんてもの書いてたのは意外だな。
365 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2010/12/31(金) 19:59:41 O
哲学は英米より欧州大陸かインドがいい
366 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 20:00:42 0
どれもろくに知らない奴がよくいうわw
欧州大陸www 日本語まちがっとるぞ
368 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 21:33:57 0
>>364 今だって、
岩波講座哲学の論文なんか登場人物はほぼカントとハイデガーだけで、
英米哲学者なんて一人も出てこない。
最新のモノグラフも西田幾多郎だし。
このまえ新聞でニーチェについて語っていたし。
これまでも英米系といえるのはほぼウィトゲンシュタイン一人だけで、
そのウィトゲンシュタインは厳密には英米系じゃないし…。
>>367 じゃなんて言うの?
トルコより西
トルコも行ってみたいな
ニーチェって最近流行ってるの?
知らず知らず流行にのせられてるのかな
ニーチェって言うか名言哲学は俗世間の間で流行ってるな。
なんとなく人生の真理を語ってそうな言葉を唱えてなんとか自我を保ちたいビジネスマンが
血眼になって買い漁ってる
372 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 16:34:32 O
まあ永井にも人生論的に消費される部分はあるよ。
373 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 16:55:08 0
空想上の何かから身を守るための空想上の鎧として消費されているってこと?
川上未映子の人生の師らしいしなw
ヨーロッパと言っても、
どうも東欧や北欧から見て西欧というのは別世界に見えるようであるし、
ピレネー山脈を超えたらアフリカだという感覚もあるようだし、
日本人視点の「ヨーロッパ」というくくりは結構胡散臭い。
376 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 19:04:40 0
>>376 同じじゃないの
言葉遊びにしかみえない
378 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 20:22:03 0
>言葉遊びにしかみえない
はいはい、そうおもうなら自分の言ってた方使い続けたらよろし
379 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 06:06:30 0
川上未映子とつるんでる時点でレベルが知れるなww
380 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 13:39:00 O
『ヘヴン』は結構よかったと思うよ。
381 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 14:04:54 O
いやトルコを島と仮定すればコウモリは間違ってない
川上未映子は日本語でおkって言いたくなる
383 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 22:35:34 0
永井もだろ
じゃ正しい日本語ってなんだよ?
385 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 13:02:13 0
ポピュラーな哲学者の一人として永井均は知っていたので
永井均の哲学は知りたかったから、『<魂>に対する態度』を読んだけど
この人の<私>とかって、非常に局所的な議論だと思った
そもそも例えば二千年前の日本には一人称代名詞は存在しなかったという
これは検証不可能な命題だけれども、永井の<私>だって検証不可能でしょ
なんなら文化人類学の知見をもって、その部族の言語内に一人称代名詞を持たない部族を見つければいい
永井のいう<私>や「独在性」を巡る議論を可能にするための条件は
デカルト的懐疑により獲得できる「疑いえぬ自我」=「近代的自我」が必要不可欠なわけで
それはここ数百年の西洋世界、日本では明治以降のみに出現した概念だ
つまり永井哲学なるものは、先ほども言ったように非常に局所的で、決して普遍性をもたない
永井自身は<私>の神秘性、奇跡性を著書の中で何度も訴えかけているが
「あなたがあなたの哲学を成立せしめる条件」については一切触れていない
私と類似した批判を一度竹田青嗣がおこない、永井はその批判に答えているみたいだが全然答えになっていない
だから私から言わせてもらえれば永井のいう
永井均を指示する「私」でもなく、各人が自分自身を支持する「私」でもなく、入不二基義の単独性の「私」でもない
<私>、しかしそれは語られた瞬間に上記の三つに頽落してしまう・・・、などといった議論は
脆弱な土台の上に、強固な建造物を構築しているようにしか見えない
もはや<魂>とかいったレベルの話になると、正直オカルトと何が違うのかさっぱり理解できない
全くの無意味だと言いたいわけではない
ただ永井哲学は、あくまで近代以降の、現代的な、時間的制約のある哲学にすぎないと言いたいのだ
「一つの誤解を正しておきたい。それは、方法的懐疑の結果デカルトが発
見した「私」の存在を「近代的自我」なるものの発見に重ね合わせてしま
う見解である。これはまったく間違っている。そのようなことを語
る「哲学者」がいたとすれば、彼の「哲学」はいっさい信用できない、と
言えるほどである。そして、もしかりにこの文脈で「近代」ということに
ついて語ることに意味があるとすれば、デカルト的な「私」は、明らかに
近代を「超える」ものであるといわなければならない。なぜならば、近代
的であるとは、いっさいの唯一性を否定し、すべてを同等なるものの複数
性において語ろうとする志向を持つことであるのに対して、ここでデカル
ト的であるとは、本質的に隣人(同等なるもの)をもちえない唯一なるも
のとしてのこの私の存在にどこまでも固執することを意味するからである」
「何が受け入れられるかは、その時々の偶然的諸条件が多元的に決定
するものであって、単一の根拠などはないと思います。つまり、たまたま
ソクラテスやプラトンが残ったのであって、我々はその世界の中に住んで
いるからそちらにリアリティーを感じる、というか感じさせられる。しかし、
前四世紀のギリシアでそれを感じたのはごく少数のどうしようもない連中
だけだったと思います。
僕の考えでは、面白さ、良さの原理が普遍的にあって、より面白くしよう
より良くしようということで変化が起こるんではなくて、何かが変わることに
よって面白さとか良さの意味それ自体がそこで新たに出来上がる。だ
から、振り返って見ればエロス原理のようなものが働いていたように見え
るわけです」
「ある本質的な点において、哲学はどんな高度な科学よりもはるかに難解である。
その難解さは、問題の意味(そもそも何が問題にされているのか、なぜそんな
ことが問題であるのか)が理解できないという点にある」
>>385 > ポピュラーな哲学者の一人として永井均は知っていたので
> 永井均の哲学は知りたかったから、『<魂>に対する態度』を読んだけど
> この人の<私>とかって、非常に局所的な議論だと思った
〈私〉についての議論を知りたいというなら、なぜわざわざそんな古い本を、しかも、どっちかというと
〈私〉よりそれ以外のテーマが多い本を読むの?
まあ、たまたま読んだ本がそれで、それ以上興味を持てなかったというなら、あえて別の本を
読むべきとまでは言わないけど。
<私>が局所的だと思うなら<今>とか<現実>で考えればいいんじゃないかと。。。
まぁ言語の中に「今」や「現実」という語を持たない部族もあるのかもしれませんが。。。
389 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 20:36:12 0
いや、まずは『転校生とブラックジャック』と『私・今・そして神』を読まなければ駄目だ。
すべてはそれからの話だ。
390 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 20:48:27 0
>>388 問題が〈私〉に限定されてはいないという点ではもちろん正しいが、
言語の中にその語があるないかは問題の本質と全く関係ない。
問題が「近代」なんぞとは何の関係もないことは言うまでもない。
永井の語りを理解したなら、捨て去るが由
それが永井の本望だろう
永井を語ってどうする。。。。
>>391 > 永井の語りを理解したなら、捨て去るが由
> それが永井の本望だろう
それは、何を根拠にそう言ってるの?
永井がそのようなことを言ってるとは思わないけど。
まー「語る」のは無理だろうね。
本人の好きそうな言葉で言えば、せいぜい「示す」ぐらいのところか。
394 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 21:51:15 0
A「<私>って何ですか?」
B「それは語りえぬものだ。しかし<私>は奇跡なんだよ」
A「奇跡?よく分かりません。それになんで永井信者は<私>を理解できるんですか」
B「理解などする必要はない。誰だって自分は特別な存在だと思いたい時期がある」
A「ああ、僕も中学生くらいは思ってました。恥ずかしい思い出です」
B「永井信者はそれがまだ続いているんだよ」
A「えっ、それってちょっとどうなんでしょう」
B「だから<私>はそういう病人にたいする処方箋なんだよ」
A「でも処方箋にしても<私>というものが相変わらずよく分からないんですが」
B「何度も言うようにそれは語りえぬものなんだよ。だから沈黙せねばならない」
A「あの、もしかして逃げてるだけなんじゃ?」
B「<私>に奇跡を感じないものは去れ。私は私を理解してくれる友人にのみ話しかけている」
A「ついにひきこもちゃったよ」
永井均は世界的に評価されている哲学者なの?
永井の論文はどれくらい欧米系の哲学者たちからリファレンスされてるの?
アメリカの哲学者に「Hitoshi Nagai」って言ったらどれくらいの人に通じるの?
>>395 それを聞いて、どうしようというのか?
英文で発表された論文もごくわずかであり、世界的に評価されている(知られてい
る)わけではない、そうだとして、それで?
どういう基準で物事を判断しようとしているのか、それを聞いている。
>>396 簡単な話だろ
その人の哲学が優れているかいないかの明確な判断基準になる
な〜んだ、誰からも相手にされていないのか
んじゃ、たいしたこと言ってんじゃねーな
<私>の哲学って不思議な哲学だよな。
酷くどうでも良いのにそれが無いと本当は何も始まらないという。
しかもそれを知ったとしても結局何も始まらないというこの不毛さ。
>>397 世界的に評価されていた、つまり外国の研究者からも数多くのリファレンスがあった
としよう。
そうすると、その人の研究は優れていると判断して、そして、おまえは、どうするん
だ?
なあ。
おまえみたいな白痴が、一体どうして「俺にも意見がある」とかいう顔をして発言す
るんだ?
永井や哲学なんて、どうでもいい。
おまえみたいな、どこかできあいの基準しか頼るものがないような、いいか、言葉の
真性の意味での低能が、どうして一人前の顔をして発言するんだ?
何か勘違いしていないか?
大方の欧米系哲学者は自己についてはヒュームの見解を受け入れている
つまり、「自己などない、ただ知覚の束があるだけだ」という自己否定論
まあ、自己なんて語ろうとしても徒労に終わるから誰もやりたがらないだろうね
>>399 これが永井信者の発狂した姿です
きもっ
<私>とか括弧つきで語るの、気持ち悪いからやめてくれない?
403 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 23:50:31 0
>>400 そうでもないよ。独我論をどう考えるかとか人格の同一性の問題とか、
山のように議論があり、さまざまの立場がある。永井氏の哲学は、
それらの議論を無視して自分の言いたいことだけ言うという点で、
2ちゃんねらーにかなり近いものがある。
404 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 23:53:05 0
心の哲学の主題にも大いに関係があるしね。永井氏は、自分が考えている
のはそれらとは無関係だと言うだろうが、それは言い訳だろうね。
405 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 00:18:30 0
>>403 永井は自分のオナニーに気づいていない分、チャネラーより質が悪い
406 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 00:32:28 0
ひねもすくそたれながすてつがくとかいうくだらないれんさいをしていたな
永井は一時期、人生相談とかやってたよな
個人的な意見だが、人生相談をやり始めた人間は終わりだと思う
つーか必ずどこかに「俺はお前より物事を知っている」っていう傲慢があるからね
俺は坊主とかも嫌いなんだが、その理由は大体これ
408 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 01:18:41 0
科学と哲学について考えると思うんだが
例えばニュートンがいなくても、自然科学が生まれなくても、極端にいえば人類がいなくても
重力は存在するし、電場や磁場も存在するわけだ
ということは自然科学で語られていることは普遍的なことであって、神(?)の創った法則を記述しているわけだ
一方哲学、たとえば永井の<私>なんてものは
永井が縄文時代に生まれていたり、これまた極端に言えば人類がいなければ
その永井の問い自体が成立しないわけだよね
ということは哲学で語られていることは、あくまで問いを立てる存在者が必要で
それは自然科学と違い普遍的なものではなく、神ではなく人間が創ったものだから
永井のいう<私>ってのは、本当に永井だけにとって重要なことではあるまいか
>>408 >自然科学で語られていることは普遍的なことであって、神(?)の創った法則を記述している
科学が神の法則だけを記述するなら不確定性原理なんて成立しなかったんじゃね?
>哲学で語られていることは、あくまで問いを立てる存在者が必要
その存在者も神が創ったとしたら?
>永井のいう<私>ってのは、本当に永井だけにとって重要なこと
<私>が当人にとってだけ重要って言うのは散々著書で永井が言ってきたこと。
ていうか当人だけにしか理解できないような種類の感覚だっていうのが彼の言。
翔太と猫のインサイトでも読んで彼の<私>哲学の全体像を把握してから喋ったら?
410 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 06:57:20 0
>>409 >科学が神の法則だけを記述するなら不確定性原理なんて成立しなかったんじゃね?
「さいころをふる神の法則」を記述するのが物理学なんですけど、高校物理習った?
>その存在者も神が創ったとしたら?
瑣末なこと言わないでもらいたい。ここでのポイントは「問いを立てる存在者」が可能性の制約だと言いたいのだ
><私>が当人にとってだけ〜
ということはやはり永井哲学は局所的な議論なんだな
なぜなら、もしこの哲学が可能性の制約を満たさなければ<私>は不可能なのだから
>>409 > <私>が当人にとってだけ重要って言うのは散々著書で永井が言ってきたこと。
> ていうか当人だけにしか理解できないような種類の感覚だっていうのが彼の言。
〈私〉が何らかの種類の感覚である、なんてことは言ってないと思うけど。
念のため。
>>408 どうでもいいけど、「自然科学者が、さらには人類が存在しなかったとしても、
自然科学が問題にする対象(自然の法則)は存在するはずだ」というだけなら、同様に、
「永井が存在しなかったとしても、永井が問題にする対象(〈私〉など)は存在するはずだ」と考えても、
別におかしくないんじゃないの?
>>410 サイコロを振らないのが神でしょう。
不確定な物を確定的に記述するのが科学に許されるなら、哲学にも許されてしかるべきでは?
>>410 局所的とか独自の概念で説明するのはいいけど
一々定義されてないからそういう貴方の哲学を追うのは非常に七面倒くさい。
そうやって貴方は貴方の概念"そのもの"だと思っているものを口に出すけど
それは外に出た瞬間に100%そのままの形では無くなってしまう。
貴方の思い"そのもの"は貴方の思う形では誰にも届かない物になってしまうということだ。
貴方の志向する神って言うのは何も観測機関が無くとも存在する何かのことでしょう?
そういう"そのもの"は基本的に伝達不可能。
「そう言うモノは確かめようがないよね。じゃあ黙ってようか」
というのが理知的な科学主義の立場じゃないの?
何がしかの神を志向するならばそれは"貴方が批判する"永井の<私>と同じ嗜好に堕すと思うのだが
415 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 10:43:04 0
>>412 全然同様じゃない
「人類が存在しなかったとしても、人類の中の一人が問題にする対象(〈私〉など)は存在するはずだ」と考えても、
別におかしくないんじゃないの?
と記述してはじめて、自然科学の記述と「同様」と言える
んで、そんなことはありえない
自己意識をもたない存在(即自存在)のみの世界で「私」はない。「自己意識」=「私」は<私>の前提条件だから、ゆえに<私>は実在不可能
>>413 それはアインシュタインおよびスピノザの神であって、アインシュタインが量子力学においては物理学者の集団からはじき出されてたことは知ってるよな
つまり、現代物理学者の多数派は「さいころをふる神の法則」を記述するのが物理学であるというコンセンサスがある
>>414 局所的のどこが独自の概念なんだ?普通の辞書にものってる一般的な語彙だ。永井の<私>とは明らかに違う
というはじめから間違ってるので二段目の批判は無意味
>貴方の志向する神って〜
そんなに神という言葉が嫌いならXでもいい。とにかくこの宇宙にはXという自然を統べる法則が実在する
しかもそれは物理学の教科書や、科学者の講義などによって伝達可能なもの
一方永井の<私>は、その実在するための可能性の制約があり、それこそがまさに「近代的自我」であって
これなしでは永井の<私>は実在できない
この意味で私は何度も永井の哲学を「局所」=「限られた場所」+「的」=「その性質を帯びる」
すなわち局所的な哲学にすぎないといっていわけだ
416 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 11:52:33 0
物理学者のコンセンサスも、時代によって変わっていく。
それもまた「局所的」な信念に過ぎないだろ?
>>415 辞書に載ってなくてもあなたの言う"局所的"は"局所的"なはずだよね。
それが宇宙を統べる法則Xがあるということ。
でもそれは辞書に載ってるような普遍的な言い方で表すとその性質が無くなってしまうたぐいのもの。
あなたは
>人類がいなくても重力は存在するし、電場や磁場も存在するわけだ
>ということは自然科学で語られていることは普遍的なこと
と観測者が無くてもそこに頑としてある存在性の強さを
科学が普遍的であることの根拠にしているように思えるけど
その観測方法だって人が居なきゃ無かったし、観測者がいなければそれは確かめられない。
それこそ局所的な信念じゃないのか。
あなたは「無いように見えてもあるんだ」ってことと「見える物しか無い」
ってことを同時に発言している。
418 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 12:45:50 0
>>416 中学生か?話にならん
世界を支配するほどの科学が局所的なわけがあるか
>>417 一段落目。何が言いたいのか全く不明
永井流の特殊な括弧を多用して、何か特別なことを言っている風な表記やめてくれない?
重力や電磁場がなければ観測者である人間はそもそも存在できない
人間の可能性の制約は、重力や電磁場
対自存在がいなければ、永井の<私>は実在できない
<私>の可能性の制約は、対自存在
分かる?重力や電磁場の非局所性と<私>の局所性
もういいだろう。いい加減君達を相手にするの疲れてきた
お前ら哲学の初等学習すら受けてない素人だろ?文章読んでりゃわかる
はっきりいえるが、『<魂>に対する態度』しか読んでない俺の方がお前らより永井哲学を理解している
あと哲学の訓練を受けてない奴が永井の本を読んでも、永井哲学を理解しているとは思えない
だれか学部レベルの哲学徒でいいから、そいつと話がしたい
>>418 物理学に於ける「局所性」「非局所性」とは貴方の使うような意味ではない
無用な混乱を招くような言葉の使用は薦められませんな。
>>418 >だれか学部レベルの哲学徒でいいから、そいつと話がしたい
君が学部レベルになったら、話してもいいよ。
君の文章は、長さに比べて、内容が薄すぎる・・・
421 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 12:57:04 0
ついには言葉狩りか・・・もう末期だな
まあ哲学板といえどたかが2ch、そんなところでそれなりに高度な議論を要求した俺が悪かったよ
どこかにもう少し知性と教養を備えた人と哲学的対話ができないだろうか
422 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 13:02:26 0
ちなみに物理における「Nonlocality」と「locality」の区別は理解しているので
ただ、いままでの文脈上、私の配慮として、つまり永井哲学の局所性との違いを強調する上で非局所性と言う言葉を使ったにすぎないから
どうやら私の親切からくる配慮が、言葉狩りの材料にされるとは、本当につまらん連中を相手にしてしまったものだ
>>421-422 そんな書き込みでは、全然だめ。
まず君が知性と教養を備えた書き込みをしてみればいいと思う(無理だと思うけど…)。
それができれば、自ずとそれに相応しい人が集まってくると思う。
424 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 13:06:32 0
態度の幼稚さとか本人の自負に比べて理解力や知識が不足しているのは
大目に見て好意的に解釈すれば、「われ思う故に我あり」が必然的だと
いうのは、「私には日本語が分かる」が必然的だと言うようなものであり、
間違っているといいたいんだろうな。そういう批判はあっていいし、
君の態度がもう少しましなら、多少は意味の通じる議論にもなっただろう
けれど、今の君じゃ無理だね。相手の問題じゃなく君の方の問題だよ。
>>422 物理学と絡めて「局所性」「非局所性」など言わぬ方が良かったのでは?
とても「親切からくる配慮」とは思えません。
「非局所性」と言われて、混乱無く理解できる人は少ないとは思いませんでしたか?
「言葉狩り」でしょうか?
勝手に狩られたと思い込むことによって他人の言葉を狩ってるというね。
「なぜ意識は実在しないのか」「子どものための哲学」を読んで、永井の議論を把握して、
傲慢さがにじみ出ない態度を身につけて、さらに読解力を身につけてからまたおいで
まあ、永井を嫁嫁と言う輩に対するどうしようもなさ、
というのも理解できますけどね。。。
じゃあ何読んだらええねん。
あんた方はどんな面白いテーマ研究しとるん
俺は永井の読者に媚びる態度が気にいらないけどな
とくに『子どものための哲学』とか読んでて気分悪くなったわ
媚びる精神が1mmも無かったらそもそも本なんか出してないわ
実存不安をかかえる弱者たちが永井の本に惹かれるんだろう
女にモテない?頭が悪い?背が低い?コミュ力不足?なんでもいいけど自分がちっぽけで情けない存在だと思ったとき
永井の「君には君の哲学がある。それを育てて欲しい」とかいう言葉が、有難いお言葉に聞こえるんだろうな
「そうか、僕は特別なんだ!凄いんだ!哲学やってる僕はその辺のDQNとは全く違う素晴らしい存在なんだ」とか思っちゃって
んで永井もそれを知っているから、そういう弱者たちにたいして、まさに弱者が喜びそうな言葉を投げかけるわけだ
なんか、永井って中島義道とそっくりだと思い始めた
両方とも気持ち悪い、本だけしか友達がいない文化系オタクを引き付けるという点で一緒なんじゃないか?
432 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 14:23:30 0
>>431 彼は、それを読み、考えることで、独特の「哲学的気分」にさせてくれる
文章を供給してくれてるんだろう。それは結構心地よく、また浮世の
さまざまの苦痛や恐怖からの逃避としても使える。そのうえ、自分が何か
高尚なことをしているという優越感の満足さえ与えてくれる。そんなとこ
じゃないか?
>>408 オレも昔はそう思ってた。
でも今はそうは思わない。
「<私>は局所的」って言っている人は<今>とか<現実>とかはどう考えてる?
永井の問題の中心的なポイントを、近代的自我なるものに同化・解消することは無理だと思う。
永井本人も、「<私>の存在の比類なさ」で、近代的自我と同化する誤解に関しては”はじめに”で正しておきたいと言ってる。
問題を簡単に「フィジカル(物理的)にも、フェノメナル(心理的)にも同一の存在が居たとして、それは私になるか? であるか?」
と言う風に記述できるだろう。 これは、例えば私の完全なコピーは(必然的に)私であるか? という問い。
<私>なんていうメタフィジカルでメタフォリカルである怪しげな表記が気に入らないなら、そういうところから、批判なりなんなりすると良いと思う。
>>435 それはそのとおりではないかとは思うけど、何しろ、
>>418で
> はっきりいえるが、『<魂>に対する態度』しか読んでない俺の方がお前らより永井哲学を理解している
なんて言ってるほどの阿呆がいるわけだからねえ。
これほどの阿呆なら、永井が「物理的にも心理的にも私と同じ人がいたとして、そいつは私か」
という論じかたをしている事実も知らないのは、そもそも当然だろうし、それを指摘されても、
改めて読んでみようという気も全くないだろう。
これほどの阿呆の相手をすることは、さすがに全くの無駄ではないかと思う。
437 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 23:30:45 0
ともあれ、たくさん本書いていて、とりわけ、最近、ずいぶん変化(深化?)しているので、
かなりちゃんと読み込んでからでないと、論じても意味がないということだけは言えるだろう。
まあ、あらゆる哲学者について言えることだけど。
個人的には、むかしの〈私〉について論じるよりも、もっと一般的に、最近の「現実性」について論じた方が、哲学的に普遍的な価値があるように思う。
そぉーかー?
別に『〈魂〉に対する態度』しか読んでなくても、大筋は理解できると思うぞ?
多少の進展があるのは事実だが、どの本でも結構似たよーな話繰り返してるし。
もちろん、そのことと、
>>418が全く「永井哲学を理解」していないこととは、別の話w
こいつは何冊読んでも誤読するに決まってるわw
彼が何故“誤読”とやらをしてしまうのか、
実はそこが面白いのだ、と君らは思わんのかね。
440 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 00:18:53 0
>>437 とりわけ最後のセンテンス、完全同意。
現実性で考えると、問題が近代的ではなくて、むしろきわめて中世的であることがわかるからね。
(しかし古代までは決してたどれないところも面白いし)。
そうすると、そこから逆に、デカルトが中世的な哲学者であることも見えてくる。
アンセルムス→トマス・アクイナス→デカルト。であって、
この問題に関して近代に入るのはたぶんカントからなんだ。
永井も、「カント原理」も対抗軸として出してはいるけど、基本的には中世的な問題圏の中にいる。
>>440 ちょっと待ってくれ。
> 永井も、「カント原理」も対抗軸として出してはいるけど、基本的には中世的な
> 問題圏の中にいる。
永井にとっては、まさにカント的な現実性概念こそが問題のテコとなっていたんじゃ
ないのか?
それと関連して、「基本的には中世的な問題圏の中にいる」というのは、もう少し説
明の必要があると思う。
「不道徳な倫理学の教科書」
バカが考え無しに妄想をまき散らすとこうなる
>>441 カント原理は<私>の持続。 とりわけ未来の私が私であることの根拠だと言える面が強い。
細かい議論は「転校生とブラック・ジャック」参照されたし。
現在の私については、ライプニッツ原理とカント原理が対立して、ライプニッツ原理が強い。
詳細は「私・今・そして神」を参照されたし。
ともあれ、転ブラで「この問題を考えるのにカントなんて使い物にならない」と述べていたりするので、カント原理は中心ではなさそう。
個人的な意見で補足しておくと、永井の問題は
「言語、私(現実性)、概念(形式)」の対立がどこまでも保存される(累進構造)
この構造の概念体系の側面に関する議論でカントがかなり参照されている、と感じている。
もちろん、このような議論自体が概念(形式)そのものだけど、そこに痕跡を残すのが現実で(永井の捉えたい事?)、
そのような概念体系と現実がない交ぜとなる構造を可能にしているのが、言語(理性、認識、などを含むロゴス)である、という感じ?
何か根本的に勘違いをしている気はしているけれども。
447 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 00:28:28 0
カント原理に対立するのはライプニッツ原理で、これは外部から(例えば神が)いきなり根拠なしに現実性(=存在)を与える。
この現実性(=存在)の外的付与は、イスラム神学経由で中世ヨーロッパにもたらされたもので、
アンセルムス神学に対抗してトマス・アクイナスが(暗に)前提しているものだ。
デカルトはこの存在が年を継承しているが、カントはそのデカルトを批判し、存在把握の場を統覚とカテゴリー(という内的なもの)に求めた。
これが(中世の存在論と対立する)近代的な「観念論」だ。
永井は、本質的にこの中世的な存在問題の全面的に引き受けた(というかそこに乗っかった)上で、
他者(他時点・他世界)との疎通のためにのみカント原理を受け入れるという立場だろうと思う。
なお、こちらは「現実性」ではなく「実在性」。これを混同すと何も分からない。
>>447 現実性が外部から付与されているかどうかはともかく、いきなり根拠無しにある
というのは良いとして、実在性はカント原理に適うものを「実在性」があるとみなすということ?
449 :
447:2011/01/07(金) 00:37:01 0
4行目の「存在が年を」は「存在概念を」の間違いです。
なお、447=440 で、447は441への応答です。(445、446は別人)。
450 :
447:2011/01/07(金) 00:50:15 0
>>448 >実在性はカント原理に適うものを「実在性」があるとみなすということ?
単純にいえば、そうです。
しかし、カントの場合、この「実在性(レアリテート)」は結局「カテゴリー」で、
ご承知のように、そのカテゴリーの 内 部 に「様相」としての「現実性」が 含 ま れ るという構造になっている。
つまり、ここで包含関係が逆になる(近代的な観念論の成立)。
>>450 ありがとう、概ね違和感は感じないんだけど
「他時点、他世界との疎通のため”だけ”に」カント原理を受け入れるんだろうか?
私というものを捉えるとき既に、カント原理が働いている(というかそれが根底でカント原理を駆動する)
そして、そのことによって、私を把握することによって”のみ”、他者が(逆説的に)開示される
という議論をしているようにも見受けられると感じているし、そうだと思う。
まあ、もうちっとちゃんと論じられるようになってからにするわ。
452 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 02:20:39 0
『倫理とは何か』
たしかプラトンからニーチェまでの道徳や倫理をずらーっと説明した後、全部くだらないと一蹴して
最後に倫理は語りえぬものだけど、語り続けないと社会的にヤバイよ、って内容
オチ(先生とアインジヒトの関係)も永井の結論もくだらなかったな
453 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 02:28:50 0
>>431 ま、そういう心の弱い奴の逃げ道としての哲学ってのもあるだろうね
でも大半の人は主体的に哲学をやってる
哲学はコンプレックスの隠れ蓑じゃないよ
主体的(笑)
主体的(笑)
主体的(笑)
456 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 02:47:28 0
主体とかまだあると思っているのか?
M・フーコーやN・ルーマンを読め
主体は既に解体されているから
457 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 03:06:56 0
ポストモダン(笑)
458 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 07:30:08 0
>>452 腹抱えて笑った
永井なんて突き詰めればそんなもんよ
460 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 08:36:50 0
ポストモダンが何を言おうと、永井哲学の純潔性は保持される
<私>とは永遠にして絶対、語りえぬゆえに真理である
461 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 10:57:04 0
ではなくて、
「カント原理」がそれを否定して、はじめて「実在性」は成立する、というのが永井哲学。
ということらしい。
462 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 13:22:09 0
>>459 自演ということにして目を背けたい永井信者ww
そういえば「倫理とは何か」の文庫版は明日発売だったか
永井の好きそうなマンガではある。
時期的に、大澤は川上の「ヘヴン」と土浦の殺人事件引用して解説書きそうだな。
もし俺の予想が当たったら大澤は自分のひねりのなさを反省した方が良い。
青山拓央(爆笑)
妄想系哲学者同士、仲良くやればいいんじゃない?
妄想哲学じゃない哲学なんてあり得るのか
青山は今後日本の分析形而上学を盛り上げてくれそうな期待できる書き手だよ。
マクタガートの解説としては雑だけど、
26歳の処女作で野矢茂樹に応答論文書かせるなんて中々出来ることじゃない。
470 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 17:26:44 O
ちくま学芸文庫版『倫理とは何か』発売記念age
大澤真幸の解説をとりあえず一読してみたけど、細かいところはやや違和感があるような気もしたけど、
基本的に内容を忠実に紹介しているようで、実に普通の解説だったw
あと、永井の文庫版あとがきには「内容は変更せず形式だけ整えた」という趣旨が書かれてるけど、
たまたま目に入った範囲では、M先生とアインジヒトの直接対決のところで、最後のアインジヒトの発言は
追加じゃないかと思われる。
471 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 02:12:07 0
青山は今後日本の分析形而上学を盛り上げてくれそうな期待できる書き手だよ。 (キリッ
>>470 永井って、ノージック擁護のリバタリアンだったらしいな。
この時期、「倫理とは何か」の書き換え新版が出たのは、
昨今のサンデル白熱教室のブームで、リバタリアン側が批判に曝されているから
旧版の立場を変更(形式だけを整えた?)して、ロールズ&サンデルに
おもねったニュアンスに書き換えたのかもしれないね。
そこらへん、どうよ?> 信者ちゃまたち。
>>472 『倫理とは何か』はノジックやリバタリアンの擁護などしていないし、しかも
>>470で書いた追加部分は
そんなこととは全く関係ないんだが、いったい何のことを言っているんだ?
またたまたま気付いたけど、もとの版77頁の、2番目の発言(アインジヒト)は、
文庫版では115頁の末尾の発言になるけど、ここも補足があるな。
議論の内容は変えていないんだろうけど、補足説明などは多少ある様子と思われる。
「なぜ意識は実在しないのか」の永井のチャーマーズ批判なんてどうなんだろう。
クオリアの逆転は語りえない、私たち自身も哲学的ゾンビでないとは言えない、
と語るとき、そう語ること自体、
それは暗に批判するテーゼが可能的であることを否定しえない。
つまり永井の批判はチャーマーズの想像可能性論法の内にあるんじゃないだろうか?
>最後に倫理は語りえぬものだけど、語り続けないと社会的にヤバイよ、って内容
同様に書いてた永井の別本があるが、ここが永井のおかしいなところだね。
個人的に善し悪しを話すことはいくらでもできるが、哲学的な議論の中で
定言として倫理は語るな沈黙しとけ。というのが論考の師匠の教えなのに。
478 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 15:01:55 0
直接語れないけれど、語ることによってかたられていないことが伝達できること
があるんだろう。
万が一、
>>452の紹介内容が事実だなんて思う人が増えてしまったら、よくないので、
アホらしいけど一応書いておくか。
> たしかプラトンからニーチェまでの道徳や倫理をずらーっと説明した後、全部くだらないと一蹴して
永井がプラトンとニーチェを並べてくだらないと一蹴するって、アホかw
『倫理とは何か』そのものだけでなく、永井の倫理・道徳に関する本を、一冊でもまともに読んだことがあるのかw
それにプラトンについてだって、(ちょっと趣旨を捉えにくいが)「哲学的に破格に偉大」と
評している部分もある。(文庫版58頁)
> 最後に倫理は語りえぬものだけど、語り続けないと社会的にヤバイよ、って内容
悪を弁護する議論は存在しない、という話は出てくるが、倫理は語り得ないなんて話がどこに出てくるんだ?
他の本と勝手に混同してるだけか、そうでなければ勝手な思い込みだろう。
これほど阿呆な発言に対して、賛同するようなレスが続くって、もし自演でなければ
いったい何なのやら。
>>475 「永井のチャーマーズ批判」とは、より具体的に、『なぜ意識は実在しないのか』のどの部分を捉えてるの?
例えば「はじめに」でも、
「私はゾンビではなく、他人はゾンビである」
「ゾンビはそもそも概念的に不可能であるから、私も他人もゾンビではありえない」
「ゾンビは可能であり、私自身もまたゾンビでありうる」
という主張が、議論の進展に応じていずれも主張されると明記されてるわけで。
たんに「クオリアの逆転は語りえない」とか「私たち自身も哲学的ゾンビでないとは言えない」
と言って批判してるわけではないと思うけど。
教えてほしいんだけど、永井が独我論と区別された意味での「独在論」という言葉を
使い始めたのは、どの本(論文)からなの?
また、その区別のポイントは何?
手元の書籍を調べた感じだと、<私>の存在の比類なさ(1998)の「独在性と他者」が初出かな。
区別のポイントは、独我論が他者の感覚や自我等々が”ない”ことを問うのに対して
独在論はそれらを”ある”と認めた上で、その中の一つが(これが)何故”私”なのか、を問う。
というところだと思う、より詳細に研究(?)されている方が居たらご指摘願いたい。
他者には<私>を見つけることができないと主張するのが独我論。
しかし、<私>が、真に隣人なき唯一の存在であるならば、
そもそもは独我論という立場は端的な事実の表明にすぎず、
それ自体問題にならないはずだが、
なぜそれが問題になるのか? を示そうとするものが独在論。
独在論はメタ独我論であるというのが個人的な理解。
初歩的な質問に丁寧に教えてくれて、ありがとう。
とても参考になりました。
「独在性と他者」を見つけて読んでみます。
本人は独在論の入門書が「<私>の存在の比類のなさ」だと言っているけれども、
本当に入門書になってるのは「ウィトゲンシュタイン入門」w
>>479 結局言葉では語り得ないで終わってた気がするけど。
「倫何」では倫理はどういうものだって論じてたんだっけ?
>>485 そうだね。補足するなら、99年出版の「ウィトゲンシュタインの知88」
というウィトゲンシュタイン用語辞典みたいな本で、永井は、
「独我論」「私/自我」「語りえぬもの」「神秘的なもの」の4項の解説
を書いている。その「独我論」の解説は、482-483の解釈とは違った
内容だな。興味があれば、同書を読んでみたらいいと思うよ。
>>486 > 結局言葉では語り得ないで終わってた気がするけど。
もし本当に、『倫理とは何か』で、道徳は語り得ないと論じられてると思うなら、
まずは終章を、少なくとも文庫版358〜359頁(旧版なら230〜231頁)の前後を確認してみれば?
それでもなお、悪ではなくて道徳のほうが語り得ないとされていると、根拠を示して論じることができるなら、
また別論だろうと思うけど。
>>341 亀レスだが、ルサンチマンの哲学(1997) 32-33からコピペ
現的に見えないところまでこ現の眼をとどか甘るには、たくさんの嘘を作らなけ
ればなりません。その害のほうに注目すべきです。法の網の目はくぐることができる
けど、道他の網の目はくぐることができないという説がありますが、それは嘘です。
道徳に特定の内容がある以上、それはどこまでもずる賢く利用されます。そしてちょ
っと高級な話になりますが、一般に規範が利用されているとき、その規範利用行為が
従っている規範は、我々の眼には見えないのです。クリプキが言った「ウィトゲンシ
ュタインのパラドックス」というのがありますね。私的規則の不可能性を説いたもの
ですが、あれをたとえば「良心の呵責」の不可能性の論証と読みかえてみたらどうで
しよう。どんな行動でも規則に一致させられるということは、つまり言い換えれば内
面的な「良心の呵責」は、どんなふうにでも利用できるということになると思います。
最近ドストエフスキーの小説なんか読んでみると、基本的にいま論じたような枠の
中で出来ているお話なので、僕には馬鹿らしく感じられます。今の僕には本当に笑え
るのですが、ニーチェはまだ笑おうと意志しているだけて本当に笑えてはいないと
思いますね。
こういう表現から「ドストエフスキーが大好き」だと推定するのは無理じゃないか?
現的→原理的
>>489 誤字がゲンナリするが、その通りだと思う。
現的→原理的 甘るには→せるには 道他の→道徳の
ちなみに、「ウィトゲンシュタインのパラドクス」というのは「哲学探究」の201-202節。
201. 私たちのパラドクスはこうであった ―― 規則は行為を決定できない。なぜなら、
いかなる行為の仕方も規則と一致させうるから[25]。これに対する答えはこうであった
―― いかなる行為も規則と一致させられるなら、一致させないこともできる。だから、
ここには一致も不一致も存在しないであろう。
ここに誤解があることは、私たちがこの思考過程において ―― 解釈の背後に控える
別の解釈を考えるまでは、少なくとも一瞬の安心を得られるかのように ―― 解釈に次ぐ
解釈を行っているということのうちに、既に示されている。すなわち、このことを通して
私たちが示すのは、解釈ではなく、その場その場の [規則の] 適用において、私たちが
「規則に従う」とか「規則に反する」と呼ぶものの中に現れるような規則の把握 [の仕方] がある、
ということである。それゆえ、規則に従う行為は全て解釈である、と言いたい傾向が生じる
のである。しかし「解釈」と呼ぶべきなのは、規則の表現を別の表現によって置き換えることだけである。
202. ゆえに「規則に従う」ことは一つの実践である。そして規則に従うと信じることは、
規則に従うことではない。ゆえに、人は規則に「私的に」従うことはできない。なぜなら、
そうでないと規則に従うと信じることが、規則に従うことと同じになってしまうからである。
201の前提で202がある。ということは上記の例のようによくある。w
>>491 スキャナというか、OCRの精度が悪いもんで、すまんね。
201の前提で202がある。ということは上記の例のようによくある。
→201の前提で202がある。ということが見落とされることは上記の例のようによくある。w
寝不足で逝ってよしだな→俺。スマソ。
>>489 マンガは哲学するの導入の文書を読めば、その部分がドストエフスキーに対する褒め言葉である、
と取ることもできるんじゃない?
>>495 どの辺のこと?
まさか、ここのことじゃないだろうなw(講談社+α文庫版4〜5頁)
「マンガは子どもが読むものだという
通念が、大人が読むマンガの中にまで波及していて、大人の常識に惑わされない問題
提起をゆるしているように思われる。たとえばアンデルセンなどの童話が、トルスト
イやドストエフスキー、夏目漱石や森鴎外などよりもはるかに深く、そして単純な意
味で哲学的であるのと似ているだろう。」
>>496 ごめん、思い出しながら書いたから、そもそも「マンガは哲学する」じゃないかもしれないが
手元に書籍が無いので、覚えてる範囲で思い描いてた部分を書くと。
「私が考える哲学のエッセンスとは、馬鹿馬鹿しいもの、それも徹底的に馬鹿馬鹿しくて、
それゆえに世界の型をくっきり映し出してギョッとさせるようなものである。」
「ああ、だが私が勝手に描く理想と比して、私の能力はあまりにも乏しい、
まるで下手な絵描きのように、私は作品を描く。
いつか、心の底から本当に笑える作品を誰かが描いてくれると良いのだが」
みたいな部分、まあ、そうも取れるってだけで、そうだと言いたいわけじゃない。
書いていて「私・今・そして神」じゃないかと思い始めた
499 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 22:57:45 0
>>452 大方あってるけど、ロールズの正義論なんかも扱ってるよ
あと一蹴したのは、永井ではなく、アインジヒト(永井の半分?)
>>499 またかw
「大方あってる」って、どこがどう合ってると言うつもりだ?
> あと一蹴したのは、永井ではなく、アインジヒト(永井の半分?)
なんだ、そのごまかし方はw
そんなら、千絵や祐樹やM先生はそれぞれ何分の一くらい永井で、その割合はどうやって判別するんだ?w
ついでに、プラトンをある面では偉大と評してるのは、アインジヒトなんだがな。
それも確認せずにただ適当にごまかしにかかってるのが、よくわかるわw
まあ、そう熱くなるなよ
> あと一蹴したのは、永井ではなく、アインジヒト(永井の半分?)
糞ワロタwww
503 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 01:45:49 0
<2ちゃねらー>
<2ちゃんねらー> 【2channel error】 [動名]
2ちゃんねらーそのもの。
2ちゃんを情報得たり芸能人をdisったりするのに使用するのではなく、
2ちゃんねらーであるためだけに2チャンネルを利用するもののことを指す。
〈私〉の議論とは直接には関係ない、という位置付けになるんじゃないの。
あるいは、『マンガは哲学する』で紹介されているツイン・マンのようなことは
実際にもあり得るかもしれない、くらいのつながりはあるか?
または、『なぜ意識は実在しないのか』に関しては、その二人という他人が、そもそも
「感覚」とか「思考」とか「意識」とかいう私と同じ種類のものを持っている、という理解は
本当に成り立つのか、どうやって成り立つのか、というのがまず問題だ、ということになるか?
問題は、そもそもなぜ結合”双”生児であるか、つまり”二人”である根拠。という点になるんじゃないか?
506の質問に対して、おそらく永井は「感覚」「思考」「意識」が”ある”と”理解する”と答えた上で、
何故それがその”二人”においてあるのか。と言うんじゃないだろうか?(他の問題もあるんだろうけど)
言い方に誤解がありそうだから補足させてもらうと、二人であると言える根拠ってのは。
そもそも”何を数えているか”という問題の、”何そのもの”の方(二に意味を与える根拠そのもの)であって、
”何”を数えるために身体を数えている云々の方の根拠ではない、んだと思う。
509 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 11:19:09 0
>>505 感官の一部を共有してるだけ。
哲学的にはつまらん。
やっぱ科学者(笑)って馬鹿だな。
>>509 科学者(笑)を馬鹿にして気は済んだかい?
511 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 11:24:32 0
>>511 いや、509は、科学者と、科学者(笑)の使用に明確な差異を意識しているかもしれないからね。
俺は科学者に対して敬意を持っているよ。
513 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 13:36:18 0
ファインマン「哲学者は日々、科学がどうあるべきかと延々と議論をしているが、実情はどれも取るに足らないものばかりである」
たしかにポパーの反証可能性や、クーンの共約不可能性はくだらん
515 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 14:05:35 0
その二つは下らなくないよ。下らないのはそれぞれの後に続く無意味な議論。
って言ってもどちらも理解できない奴に言ってもしょうがないか。
517 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 14:45:42 0
>>515 と、捨て台詞を吐いて逃げていく似非哲学徒であった
永井は結構読んでるけど、ど文系なのがなぁ・・・
ウィトゲンシュタインが、終生数学から離れられなかったのとは対照的。
519 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 15:24:03 0
量子力学も相対論も理解できないくせに
メタ的視点から科学を断罪する哲学オタク(笑)
520 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 16:16:42 0
科学哲学が科学を「断罪」? あまりに読解力がない。
哲学書を読むのは無理だな、こりゃw
521 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 16:26:16 0
無駄なおしゃべりで自己満足できる哲学オタに
永井哲学はお誂え向きだな(笑)
522 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 16:39:14 0
科学が科学であるためには、ある科学的命題が科学者の共同体で承認されなければならない
方法としては、有名な科学雑誌に自分の論文を掲載することなどだが、ここで大きな問題がある
それは、そもそもこうした公的な場で、自分の議論を提示したところで、それが他者に伝達可能かという問いである
科学的用語に厳密な定義が求められるのは、それがAとBの間でXという言葉の意味に相違があれば
そこから無意味な誤謬が生まれる可能性があり、それをあらかじめ排除するために用語を厳密に定義するのである
哲学においては、この用語の問題も当然ながら、そもそも「はじめに抱く問い」自体がそもそも共有できるかどうかが問題である
ウィトゲンシュタインはその観点において非常に敏感であって、それゆえに彼は『論考』以来自分の哲学の体系的な著書を出していない
用語の問題、そして―これこそ哲学的問題なのだが―問いの問題、これらを考慮すれば
一概に哲学と科学を同一の地平で論じるのは不可能かと思われる
哲学的な問題はない。というのがウィトゲンシュタインの考えでしょ。
「」用語の問題」というと、問題は用語定義で解決しちゃいそうに見えるけど、
用語法の問題というならもう少しやっかいになるよね。
永井の場合は、俺の問題が俺哲学の問題。
他と問題を共有できるかどうかは読者次第といって、ケツまくっちゃってる。
ウィトゲンシュタインの論考に似た表現があるけど、パクリ損ねてるよな〜w
524 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 20:00:08 0
じゃあ俺の哲学も展開しよう
<私>が<私>でありながら、<私>でないことは容易に想像できる
これを<X>と表記しよう。そしてこの<X>とは語りえぬものである
また<X>は<私>と「私」の関数であり、その関係式は
F(x、y)→G(x'、y')である
これは、量子力学における波動関数の収縮と、不確定性原理とのトポロジーでもある
つまり<X>は神秘なのである
J.ボードリヤール『消費社会の神話と構造』は1970年にフランスで刊行された著書だが、
これは40年以上たった今でも、現代人に重要な示唆を与えてくれる。
現代大衆社会の社会学的分析を主要な目的とする本書の最大の特徴は、
われわれの日常的現実を記号論的視点から解釈しなおしたことにある。
モノが単なる物理的対象ではなくてモノ=記号として現われるという事実に、著者は着眼するわけだが、このモノ=記号論はすでに、
K.マルクスによって『資本論』の中で論じられていたものである。
だが、ここで重要なことは、マルクスがそれを生産圏内のモノに限定したのを、ボードリヤールは社会の全現象に拡張したことである。
Blu-ray Discやipadから自然や身体まで、あらゆる財とサービスが、消費対象として人びとの目の前にたちあらわれるためには、
それらがあらゆる社会階級にとって「無差別的に接近可能な記号」となったという認識が共有されていなければならない。
かつては階級的秩序の象徴であった拘束された記号がこうして解放されることが「消費社会」の成立要件となる。
ところが、この社会がけっして真に解放された社会ではないことは、モノ=記号たちが今度は差異表示記号として
機能しはじめるという事実によってあきらかとなる。
その結果、「消費」が社会全体を均質化するようにみえて、じつは社会の内側に微妙な差異のシステムを構築し、
誰もが差異のコードに自分自身を記号化して書き込まないわけにはいかなくなるという状況がもたらされるのである。
その後消費社会の世界的規模での巨大な増殖によって、
あらゆる種類の反社会的言説が、消費社会にたいする批判的言説さえもが、消費対象として記号化され「回収」されてしまう。
つまりこの言説自体も、一つの消費対象として記号化され「回収」されてしまうのである。
>これは40年以上たった今でも、現代人に重要な示唆を与えてくれる。
一応でも哲学っぽいこと考えてる人にとっては、もはや古臭い内容だよ。
ここ最近フランス哲学の研究でまともな論文出てるのメルロ=ポンティとレヴィナスくらいなんだけどねw
528 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 02:13:06 0
でも永井均の言説も、ひとつの消費対象として記号化され「回収」されてるよね
いまではもはや一般読者さえ知っているほど有名な哲学者になったでしょ
これだけ永井についての言説が大衆に流布されればされるほど
永井哲学も一つの消費対象として、日々「回収」されてしまっていると言える
欧米はともかく、日本においては言説にそんな影響力は無いよ。
科学って、「わかりそうなこと」「できそうなこと」から、コツコツ積み重ねているのに
永井哲学って、「わからなそうなこと」「できなそうなこと」を必死に考えていて、あんま意味無いよな。
いや、一応(?)積み重ねはあると思うよ
例えば「私今そして神」三章の私的言語の必然性の議論は
カント原理の考えがないと出てこないものだったし
そのカント原理は「転校生とブラックジャック」での考察から
出てきたものだろうし
というか、強固な私秘性信念があって、その要塞を固めるための積み重ねの進歩はあるけど・・・
なんだかんだ言って、科学技術の方は、商業的には敗北したものだけど
「3D感」を、恐らくほぼ確実に、技術的に再現してるんだよな。
本来無いものをよけようとしたり、触ろうとしたりという仕草で
ほぼ間違い無く再現されていることがわかる。
>>532 それは永井との関連で何かを言ってるつもりなの?
言語的には不可能なことが、技術的には可能になるかもしれないってこと。
>>534 よく分からないが、特に永井の議論に関連させようとしたわけじゃないのね。
536 :
考える名無しさん:2011/01/25(火) 21:35:10 0
現在の社会保障制度は主として高度経済成長期に作成されたもので
経済全体のパイが毎年確実に増加することを前提としている
このような制度が、経済成長の停滞した、すなわち成熟社会において
機能不全に陥るのは必然といえる
ゆえに、われわれはこれから現在の経済状況を考慮に入れながら
具体的には年率2%の経済成長を前提とした社会保障制度を確立すべきである
およそ語りうることについては明晰に語りうる
>>536 「およそ語りうることについては明晰に語りうる」と言ってから
ノリ突っ込みをしたのが、ウィトゲンシュタイン
538 :
考える名無しさん:2011/01/26(水) 23:26:15 0
所詮哲学は真夏の夜の夢
所詮人生は夢のまた夢。
ついでだから、こっちにも貼ってみる。
以下、ウィトゲンシュタインの「論考」の独我論の部分。
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/index.html 5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。
5.61論理が世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
それゆえに、論理の内側で「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語
ることはできない。
そう語ることは、明らかにある種の可能性の排除を前提としているが、しかし、それ
は事実ではありえない。なぜなら、事実であるとすれば、論理は世界の限界を超えなけれ
ばならない。すなわち、世界の限界を超えることによってのみ、論理は世界の限界を外側
からも見ることができるのだから。
思考できないことを思考することはできない。思考できないことを語ることもできない。
5.62 以上の見解が、独我論はどの程度まで正しいかという問いの鍵となる。
すなわち、独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語ることが
できず、自らを示すだけである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一のこの言語)の限界が私
の世界の限界を意味することに示されている。
5.621 世界と生はひとつである。
5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
5.631 思考し表象する主体は存在しない。
「私が見出した世界」という書物を私が書くとすれば、その書物の中で私の身体につ
いても報告がなされ、また、どの部分が私の意思に従い、どの部分が従わないか等も語ら
れなければならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりもむしろ
ある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法なのである。すなわち、この書
物の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。
5.632 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
5.633 世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
あなたは、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。しかし、現実には、あなたは
眼を見ることはない。 そして、視野におけるいかなるものも、それが眼によって見られていると推論できる
ものはない。
5.6331 すなわち、視野は決してこのような形をしているのではない。
5.634 このことは、われわれの経験のいかなる部分もア・プリオリではないということ
と結びついている。 われわれが見るすべては、また別のようでもありえた。
われわれが記述できるすべては、また別のようでもありえた。
ものにはア・プリオリな秩序は存在しないのである。
5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致することが見てとれる。独
我論の自我は広がりを欠いた点に収縮し、自我に対応していた実在だけが残される。
5.641 それゆえ、哲学において非心理学的自我を論じうることには確かに意義がある。
自我が哲学に現れるのは「世界は私の世界である」という事実によっている。
哲学的自我とは人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱う人間の心でもなく、形
而上学的主体であり、世界の部分ではなく、世界の限界である。
542 :
考える名無しさん:2011/01/31(月) 20:25:43 O
『魂に対する態度』も文庫に入らないかなあ。
543 :
考える名無しさん:2011/02/03(木) 01:21:55 O
『マンガは哲学する』(岩波現代文庫)P48-49がややこしい。
整理できた人がいたら、説明お願い。
>>543 講談社+α文庫版で頁数が対応してるかわからんけど、ソムリエや「こじむい味」の話のところ?
545 :
考える名無しさん:2011/02/03(木) 05:53:18 0
こいつはマンガで妄想垂れ流してるくらいでちょうどいいわな
546 :
考える名無しさん:2011/02/03(木) 13:29:19 O
>>554 2愛は記憶を超える?
萩尾望都『A-A'』
中心化された視点というのは一応わかるんだけど、睡眠薬が記憶を失わせる作用を持つと仮定してるところがややこしくて‥。
547 :
考える名無しさん:2011/02/03(木) 13:29:53 0
永井ってオリジナリティをやたら強調するよな
全ての言説は、過去に誰かが言ったことの反復にすぎないのに
さも、全部自分で考えましたみたいな浅ましいところがある
『これがニーチェだ』で、「幸いこの本はどの他のニーチェ本と似てない」とかほざいてたが
どれほどニーチェ研究がされてると思ってるのか、お前と似たようなのなんてごまんとあるんだよ
永井のニーチェ論は明治以降の日本のカント研究に対するあてこすりみたいな内容が多いので、
その辺の事情が分からない人が読んでも的外れな批評しかできない。いい例が竹田。
まぁそれも大森や廣松がやってることだけど
550 :
考える名無しさん:2011/02/03(木) 15:00:16 O
筆者が「中心化された世界」という視点を提示していて、つまり、読者が読者としての記憶や性格といったものを除外して、その立場に立つことが可能だと考えてみるんですよね。
それと対立するとされた「三年間の記憶がないこと=睡眠中の記憶がないのと同じ」という説からすれば、記憶がなくとも私のままであるということですよね。
中心化世界ということは絶対的に必要な視点であって、作中の登場人物と、ないし神の視点はそもそも無関係である。
中心化状態の記憶(経験)印象が私にとっての私であることは自明であるという理解でよいのでしょうか。
551 :
考える名無しさん:2011/02/03(木) 15:28:22 O
前説と後説の、筆者のいう対立はどこにあるのでしょうか。
あまり明瞭な文章でなくて、すみません。
>>547 煽りじゃなくマジで知りたいから
例えばどんな研究者がいるのか教えて下さい
哲学業界のことは全然詳しくないので。。。
「これがニーチェだ」は結構面白かったので
似たような本があるなら読みたいです
553 :
考える名無しさん:2011/02/03(木) 20:05:44 0
幸いこの本はどの他のニーチェ本と似てない(笑
>>546 ああ、頁数は全然対応してないんですなw
その箇所なら、つまり『私・今・そして神』のライプニッツ原理とカント原理の話ですな、
とか言ってみたくなるが、それじゃ説明にならんので、こんな筋で考えてみたらどうだろう。
(原文の筋とは違うけど、このような順に考えるほうがわかりやすいと思われたので、やってみる)
まず、自分はAで、A’という複製を作った後に死んでしまい、3年後にA’が活動し始める、と想定する。
この場合、私は死んだといえるのか。
「Aである私が死んだんだから、死んだに決まってる」と考えるのが前説。
「A’が生きているということは、私が生きているということだ」と考えるのが後説。
こうやって書くと後説は非常に馬鹿馬鹿しく見えるだろうけど、そこで、私がA’で、
Aの死後にふと現れて活動し始めると想定してみる。
そうすると、3年間の記憶がないというだけで、Aが生きているのと何も変わらないのではないか。
それは結局、私が生きているということではないか、と後説では考える。
これに対して、「3年間の記憶がなく、記憶のつながりがないのなら、私が生きているなんて
いえないだろう」という反論が考えられるが、それに対しては、「記憶のつながりがないというのは、
睡眠薬を飲んだ場合だって起こることなので、私が生きているといえない根拠には、
ならないのではないか」という再反論として、睡眠薬と記憶の話が出てくる。
さらにいろいろ問題があるだろうが、とりあえずこんな整理でどうですかね。
(誤解・曲解・過度の単純化等があったら指摘ください)
555 :
考える名無しさん:2011/02/03(木) 21:26:03 0
永井信者がまた無意味なことを語ってるな
556 :
554:2011/02/03(木) 21:30:16 O
我ながら長いわりに内容がないなあ。
もし興味があるなら、その箇所にこだわりすぎるよりも、『転校生とブラック・ジャック』と
『私・今・そして神』をよく読むほうが、結局は早いんじゃないかと。
この2冊はそこと同じ問題点をよりくわしく、あるいはより整理して書いてるので。
557 :
考える名無しさん:2011/02/03(木) 23:17:55 0
S.クリプキの『名指しと必然性』を援用しながら永井は
<私>が永井均であることは、ア・プリオリな偶然的真理であって
これは、ある閉じた系の気体の圧力が、体積が一定ならば温度の関数によってのみによって決まるという
自然科学におけるア・ポステリオリな必然的真理との対比において語られているが
D.チャーマーズが言うように、もし全く同じ脳を持つ人間が二人いれば
各々の心理状態は、完全に脳という物理システムによって規定されるわけだから
<私>が永井均であることは、ア・プリオリな必然的真理ではないのかと思うのだが
>>557 根本的に勘違いしているんじゃないかな?
「各々の心理状態は、完全に脳という物理システムによって規定される」という前提
が正しいとしても、永井の言う <私> は、それに拘束されない。
仮に、全く同一物理的状態の脳がこの世に二つ存在したとして、そのうちの片方だけ
が <私> であるのは一体なぜか、これが永井の問題だ。
従って「 <私> が永井均である」という命題は、アプリオリではあるが、偶然的命題
に過ぎないということになる。
いずれにせよ、永井は、クリプキの問題設定とはかなり異なった視点から問題を見て
いる。
559 :
考える名無しさん:2011/02/04(金) 00:54:17 O
>>554 うーん、そちらも読んでみます(ほとんど読書しないくらいなので、あまり複雑な知識前提が必要であると挫折しそうですが)。
最初の中心化概念で納得しつつあるのですが、しかし依然として、それ自体の謎が強く残りますね。他の章に比べて、ここだけ不気味な感じがしました。
なぜだか吉田戦車の面白さに近い気もしますが。
可能世界論は、「で、それが何?」って話にしか思えない
あることが必然的か偶有的かを判別するための方法論なんだろうけれど
<私>が永井均であることは偶然的なことにすぎない、と永井が言ったところで
まさしく「それが何?」といいたくなってしまう
なぜなら、それがたとえ偶有的なものであっても
永井均は永井均以外のなにものでもないのだから
別に偶有的だからといって、億万長者や有名人になれるわけでもないし
長い宇宙史の中の、たくさんの人間の中に、特別な在り方をした奴がいる。
そいつが人間の中で特別だと言いたいんじゃない、むしろ我ながら凡庸でつまらないやつだと思う。
だがそもそも、その特別さが無ければ、何も無いのと同じだと思える。
そのことは、とても驚くべきことだと、私は思う。
各人の脳状態が心理状態(や他にも全て)を既定しているとしよう。
私がコーヒーを飲みたいと思った時の心理状態をA、脳状態をαとするとAがαを生み出す(A=α)
この時、私はある時偶然に同じような状況でコーヒーを飲みたくなったとする、この状態をA’、脳状態をα’とする(A'=α’)
この微細な違いを認めるか認めないかというところでまず問題がある。
もし認めないとするなら、科学は大よそ成り立たないだろうからだ(全く同じ状況などやって来るはずもなく、そうでなければ科学的説明が可能な繰り返しの状況が発生しない)。
そういう観察無しに、一挙に脳が心理状態の原因であると言える理由は何であろうか?(相関があるのは確かだろうけど)
だが、そういう細部の違いが解らないとしても、手に入る材料から推論して、脳が原因であろうとは言える(欠損が心理的な機能を不可能にするんだし)と思うかもしれない。
だが、今度は、完全な私のコピーが、私を可能にするか、という問題か、
そういう微細な細部の違いが必ずあるのなら、その徒くべ憂さを認めなければならないのではないか? という問いのどちらかに、どう答えるのだろうか。
これは攻撃しているのではなく、永井と違うルートには違うルートのアポリアがあると言う話。
酷い誤字だ、申し訳ない
徒くべ憂さ>特別さ
>>562 何を言っているのか、よくわからない。
もし仮に、(1) 心理状態と脳状態が厳密に一致することは(理解)可能か?、(2) そ
の「一致」とは原因結果の因果関係のことか?、そして、言っている意味がよくわか
らないが、上記二点を踏まえた上で、(3) 脳状態が私そのものを可能にするか?、と
いう問題を提起しているのだとすれば、残念ながら、永井の核心的な問題意識とはズ
レていると思う。
要点は、「微細な違いも含めて完全に一致したとしてもなお、これが <私> であり、
あれが <私> でないのは、一体なぜか?」という点に永井の問題があるからだ。
が、永井の問題関心は横に置くとして、上記の (1) と (2) は古典的な心身問題の範
疇であり、それはそれで通俗的な「哲学的問題、つまりはアポリア」だろうが、(3)
は問題そのものが余りにも曖昧だと思う。
>>559 個人的には、(本当にちゃんと理解できているのかと聞かれたら返答に困りますが)とりあえず読んでみるぶんには、
予備知識がないという理由で詰まった記憶はあまりないので。
他の理由で詰まったことはいくらでもあるけどw
566 :
562:2011/02/04(金) 08:52:15 0
指摘ありがとうございます(3)についてはそのことを言っているつもりだったんですが
説明がダメでしたね。
>>557 >>560 に(1)、(2)についての問題になるよ、と言いたかったわけです。
簡潔に説明していただいてありがとうございます。
とりあえず、まともな日本語を使えるようになってから書き込みなさい
568 :
562:2011/02/04(金) 10:40:22 0
実際には脳が完全に一致したら、<私>はそちらになってもいいわけですよね。
<私>を特定の脳が可能にすることが根拠が無いように、可能にしないことも根拠が無い。
その点における関係のなさこそが問題の一つでもある気がします。
こんなマイ哲学、宗教の出来損ない、恥ずかしくないの?
今日本でウィトゲンシュタイン(特に後期)やろうと思ったら永井は無視できない。
逆にいうとウィトゲンシュタインに特別興味を持てないレベルの人なら、
無理に永井は読まなくても大丈夫w
今日本でウィトゲンシュタイン(特に後期)やろうと思ったら永井は無視できない。
↑
アホ
>>557 > S.クリプキの『名指しと必然性』を援用しながら永井は
> <私>が永井均であることは、ア・プリオリな偶然的真理であって
『なぜ意識は実在しないのか』では、<私>が永井均であることはアポステリオリとされていると思うけど…
<私>が永井均であると知るためには経験による自己認識が必要だから
ア・プリオリじゃなくてア・ポステリオリだろうな
574 :
考える名無しさん:2011/02/04(金) 22:48:00 0
クリプキの議論は、水がH2Oなのは経験的にしか我々は知りえないから
もちろんア・ポステリオリかつ、水がH2Oでない世界も容易に想像できるから
水=H2Oは、「認識論的」にはア・ポステリオリな偶然的な真理となる
しかし「形而上学的」には、いったん水=H2Oだと科学が決めてしまえば
あらゆる可能世界で水は他のどれでもなく、H2Oを指示する(つまり「水」が固定指示詞になる)から
水=H2Oはア・ポステリオリな必然的な真理となる
つまりア・ポステリオリだから必ず偶然的真理になるとは限らないわけだ
575 :
考える名無しさん:2011/02/04(金) 23:01:33 0
カントなどは、ア・プリオリな判断は経験に先立つのだから
実際、「ア・プリオリな綜合的判断」という表現はニーチェが皮肉ったように
形容矛盾にしか思えないのだけれども
たとえば現象Aと現象Bに「因果律」を組み込むためには
経験に先立つ、純粋悟性概念による自発的な経験の統合が必要なのだから
ア・プリオリな綜合的判断は形容矛盾でないんだよな
永井均笑わせる。
馬鹿そのものwww
>>570 > 今日本でウィトゲンシュタイン(特に後期)やろうと思ったら永井は無視できない。
頭おかしいwww大丈夫www
アメリカやイギリス言ってそんな恥ずかしいこと言えるのかwww
やめてくれ。日本の恥www
578 :
考える名無しさん:2011/02/05(土) 00:38:37 0
>>570 なにこの「永井均は俺のもの」みたいなレス
気持ち悪い
579 :
考える名無しさん:2011/02/05(土) 00:41:10 0
永井均
(自称)哲学者。私に<>をつけるのが趣味である。
永井曰く、<>は×と同じ意味らしい。
そしてウィトゲンシュタインの言い回しが大好きでもある。
永井が中島義道を評価
「哲学者としてはたいしたことないが、どういう人物が哲学者かという彼の主張は正しいと思う」
何この上から目線www
581 :
考える名無しさん:2011/02/05(土) 02:12:49 0
マンガで哲学してる誰かさんには言われたくねーわなw
583 :
考える名無しさん:2011/02/06(日) 17:13:20 O
まあ、商売にできてんだから、ご立派だよ。
584 :
考える名無しさん:2011/02/06(日) 19:50:02 0
>いったん水=H2Oだと科学が決めてしまえば
>あらゆる可能世界で水は他のどれでもなく、H2Oを指示する(つまり「水」が固定指示詞になる)から
なんでいったん水=H2Oと決まると、あらゆる可能世界で水はH2Oを
指示することになるの?
そもそも、水はあるが元素なんかない世界だって、十分可能ではないのか?
クリプキぐらい読めボケ
587 :
考える名無しさん:2011/02/06(日) 23:17:59 0
正直、この「水とH2O」の話と、「宵の明星と明けの明星」の話は、
何回聞いても意味がわからん。
588 :
考える名無しさん:2011/02/06(日) 23:29:15 O
大人気ないな。
589 :
考える名無しさん:2011/02/07(月) 07:26:08 0
水=H2Oと「規約」したからだろ
実際『名指しと必然性』では他に、虎や熱の例が持ち出されているけれど
虎が、まさしくあの「虎」を指し示すのは、科学的に、つまりDNAによって規約されているから
他にも例えば、三島由紀夫があらゆる可能世界で平岡公威を指し示すのは
三島由紀夫=平岡公威と規約したからに他ならない
つまり三島由紀夫でありながら、平岡公威でない世界はありえないというわけだ
590 :
考える名無しさん:2011/02/07(月) 07:30:27 0
これは同時に唯物論への論理的反論へとなる
たとえば「ある痛み」が「C繊維」によって引き起こされているとしよう
唯物論者ならば、「ある痛み」はまさに「C繊維」に他ならないわけだけれども
「ある痛み」が「C繊維」以外から引き起こされることは容易に想像できる
ある痛み=C繊維にはなんら必然性がない
ゆえに唯物論は間違っている、というわけだ
591 :
考える名無しさん:2011/02/07(月) 07:39:59 0
つまり簡単にまとめれば
三島由紀夫=平岡公威はア・ポステリオリな必然的真理だが
ある痛み=C繊維はア・プリオリな偶然的真理にすぎないというわけだ
>>589 >虎が、まさしくあの「虎」を指し示すのは、科学的に、つまりDNAによって規約されているから
これっておかしくない?
科学的に虎が特定のDNAを持っているというのは、まさに経験的な事実でしょ。
(経験的な事実に過ぎない、というべきか。)
「虎」という言葉が指しているのは、ああいう形をした生物のことであって、
それがぜんぜん違うDNAを持っている世界も、あるいは虎はいるけどDNAなんて
ものがぜんぜん存在しない世界も、論理的には可能でしょ。
逆に、「虎」を「特定のDNAを持つ生物」と定義するなら、
ああいう形の生物はいるけどそれは虎ではない世界は十分可能だ、ということになるだけで。
同じように水がH2Oであるのも経験的な事実に過ぎないんだから、
水がH2Oでない世界も、H2Oは存在するけどそれが水ではない世界も、そもそも
元素なんて存在しない世界も、いくらでも可能だとしか思えないのだが。
唯物論うんぬんも、ある痛みがC繊維から引き起こされる世界も
他の原因から引き起こされる世界も、論理的には可能で、この世界で実際に
どちらかであるかは経験による、というだけの話ではないのか。
>>592じゃないけど、確かに
>>592の言う議論はわかるんだよね。
でも
>>574あたりの「認識論的」にはそうだけど、「形而上学的」には違う、
というところを鑑みるに、
>>592と何らかの別のことを言おうとしているんだよね?
だけど、
>>574および
>>589〜
>>591を見ているだけでは、何を議論しているのかわからない。
クリプキを読めボケ、みたいに思うんならそれでもよいけど、
できればもう少し解りやすく説明してほしい。 思考実験とか交えて
594 :
考える名無しさん:2011/02/08(火) 01:44:49 0
いやクリプキ読めよ
哲学にとって怠惰はあまり好ましいものではない
595 :
考える名無しさん:2011/02/08(火) 01:46:35 0
典型的でさえない。読んでないに等しい。
クリプキすら読めずになんで哲学やろうとすんのか
分からん。マジで。
597 :
考える名無しさん:2011/02/08(火) 10:19:46 0
>>596 じゃあクリプキの議論をわかりやすく要約してみろよ
できるよな?もちろん永井哲学と関連付けて
あとできれば独自の議論も織り交ぜながら
598 :
考える名無しさん:2011/02/08(火) 10:20:34 0
これでできなければこいつはただのハッタリ野郎です
599 :
考える名無しさん:2011/02/08(火) 11:05:54 0
>もちろん永井哲学と関連付けて
永井哲学w
永井なんて哲学やってねーだろアホが
カントをほとんど読まずに哲学した、ウィトゲンシュタインの立場が無いな。
哲学書をろくに読もうともしないことを
棚に上げて逆ギレとか。醜いな。
永井信者ってみんなこうなん?
602 :
考える名無しさん:2011/02/08(火) 18:58:37 O
クリプキ解釈の正当性議論自体は棚上げして当然だろ。
永井の問題提起の中にあるクリプキ解釈は、主力解釈とは本質的に関係ない。
603 :
考える名無しさん:2011/02/08(火) 19:50:07 0
いやいや永井は明確に反クリプキ派。むしろはっきりと二次元意味論派だ。
しかし、チャーマーズもそうなのだから、むしろ二次元意味論派内部の対立と見るべきだ。
ただ、哲学の議論が知りたいだけなのに、違う論争になってて残念だ
しかし、永井の本を読むのに予備知識が必要なのかどうか、必要だとしてどれくらいなのかは、
気になりますな。(知るのも恐いけどw)
『私・今・そして神』の第3章なんかは、玄人向けと明示してあるけど。
606 :
考える名無しさん:2011/02/08(火) 20:53:06 0
玄人向け(笑)
何様のつもりだよ
>>605 全くの素人だけど、哲学的な知識の前提は必要だと思ったことは無い。
ただ、投げっぱなしの問題(議論されてない、直観の段階のもの)が多くて。
他の著作も読まないと何を問題にしているのかも良く解らないところは結構ある。
永井の著書はニーチェに関するものが平易でポピュラーな人気があり平易で、
ウィトゲンシュタインに関するものが専門的な評価が高く難解。
予備知識はウィトゲンシュタインとアメリカ哲学とフーコーの解説書をそれぞれ一冊読めば足りる。
個人的には大森荘蔵と木村敏を読むのもいいと思う。
当たり前すぎるかもしれないけど、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、西田幾多朗、
その他、人の議論を紹介している本・部分については、もちろん元の人の議論を
知ってるべきなんだろうけどね。
しかし、ウィトゲンシュタインのカブトムシの話は、いろんなところで何回も
出てくるけど、そんなに好きなんだろうかw
いや好きというか重要なんだろうか。
しかし、どうしてもH2Oで引っ掛かるのは、H2Oってのはあくまでも化学分子であって
水と「=」で結ばれるものではないってところだよな。
疑問は、何故「水」がH2Oを直接指示できるようになる(固定指示詞になる)のか、
ただ、
>>574に形而上学的にはア・ポステリオリな必然的真理になる、と書いているので、
H2Oだと発見されない水は、指示対象を間違えている(そのような水は”あの”水ではない)
ということを言おうとしているのかな、と考えられなくもない。これは勝手な解釈だけど。
>>605 ニーチェ、ウィトゲンシュタインに関する永井本は読む価値があるかもしれないけど、
それ以外はやめといた方がいいと思うよ。
〈私〉についての本は一種の宗教本だから。
永井自身も〈私〉についての問題意識を発表したとき「信仰の告白だ」と言われたそうな。
>>611 科学的な発見が、必然的な真理と結び付くのが解せんよな。
科学的な発見が、更なる科学的発見によって覆されることは、しばしば起こることだし。
必然的な真理ではなくて、「発見された時点における、極めて妥当な見解」としか言えないと思う。
<私>w、閉包性w
まさか、哲学として読んでる奴がいるのかw
哲学をなめすぎ。議論の対象じゃないだろ。
英文で書いて読ませられると思うの?
心の哲学とか分析哲学として哲学者に相手にされると思うか?
>>612 どのへんがどういう理由で「信仰の告白」なの?
誰かが「信仰の告白だ」と言ったら、そのとおり信仰の告白であることになるの?
なんか神様みたいな人がいるんですなw
私+実在性=<私>≒ 魂 だからな。
しかも外部に紙を措定しない 私実在教となると
倫理の理由根拠の一切を内包しなくちゃならないからな。
結果、即神仏に即位。w
でもって、ほほ〜い、<私>教の出来上がり。
このスレ見てて思うんだが、永井に個人的な恨みでもあるのかいな?
批判であればともかく、ただの揶揄や罵倒、ヘタすりゃ、どうみても捏造としか思え
ないような中傷まで頻出する。
素直に思う、せめて無関心になれる程度の強さを持つことはできないのか、と。
独在論の英語論文は出てる
書いてるのは永井じゃなくて入不二だが
>>617 金川事件までは、ガン無視でもよかったんだがな。
ああいう構造的な事件が起こったものだから、
単なるスルーじゃだめで、叩きの積極的な継続は必要。
それを科哲やウィトゲンシュタインの研究会でやるならともかく
こんなところでやって永井をやっつけてる気になってるってのがショボイなw
しょぼい? 2ちゃんで十分だろ。
ろくな弁護もできないくせにw
>>619 永井をやっつけることや個人的な憂さ晴らし目的じゃなくて
世のため人のために叩いておく、という心意気なら理解できなくは無いな。
永井の言ってないことを言ったとして非難するやつに弁護も何もないだろう
は〜あ。
ま、永井本人がきちんと金川問題を総括してくれれば済むことだから
単なる一読者に過ぎない君の解釈的弁護など不要ですよ。
荒らしてスマソ
果たしてそれで済むんだろうか? 永井自身が何度も述べているように、
流布しておくべき”善なる嘘”があって、永井自身の言説は”邪悪なる真理”
ということを受け入れるとするなら、永井自身が正直に総括することもダメだろうし
こういう場所でさえ永井の言説をまともに取り合わない人たちが必要なんじゃないだろうか?
もちろん、これらの永井の考えが間違いである、と考えるのも理のあることではあるが。
626 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 10:52:17 0
>>610 >>611 >>613 だから二次元意味論はすでにその異議を認めているんだよ。
H2Oではなくwatery stuffが必然的に「水」であるという「水」の意味もあるってね。
だからもちろん「痛み」や「酸っぱさ」に関しては三次元になるわけだ。
永井はドヤ顔で偉そうなこと言ってる癖に、
金川問題とかが起こると言葉を濁すんだよな
これで金川を褒め称えるくらいだったら本物だが(笑
そうかぁ? 少なくとも、彼は論理的に間違っていたわけではない
と評した点で、素直ではあると思うけどな。
なるほど、金川と永井の問題(関係)は、いろんな意味でおもしろいと思う。
でもな、
(1) 永井は金川事件に関して何らかの意味で原因であったと言えるか?
(2) 仮に言えたとして、それは一体何の問題なのか?
あらかじめ自分の旗幟を鮮明にしておく。
俺は (1) に関しては「イエス」と答える。その強度には程度問題があるにせよ、影
響関係があったのは確実だと思うからな。
しかし、(2) に関しては、「仮に何らかの問題であったとしても、それは世間の問題
であって、少なくとも私には何の関係もない」と答える。
そもそも、この問題で永井を非難するとは、一体、どの立脚点からだ?
断っておくが、俺は永井を弁護する気はない。彼に借金しているわけでもないからな。
ただし、罵倒や中傷には全く与しない。
>少なくとも私には何の関係もない」と答える。
永井信者はもう永井になりきってるなw
すりかわってると言ってもいいww
>>626 つまり、永井はクリプキには賛同しないってことか?
632 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 15:41:29 0
永井先生にアンチとかいたんだ
あんな優しそうな先生なのに
>>615 >誰かが「信仰の告白だ」と言ったら、そのとおり信仰の告白であることになるの?
何この子供じみた論理?
そういう指摘があったと書いただけなのに信者の被害妄想かw
本当に永井を弁護したければ<私>について宗教的でない論理的な説明をしてみろよ。
どうせ信者は「永井の本読め」としか言えないんだろw
635 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 16:11:47 0
永井先生のような自分の社会的役割を理解し
倫理についてつねに語り続けている人にたいする態度ではない
もし永井先生のような人が全く存在せず
ただ倫理は沈黙のなかにある状況となれば、殺人はもっと増えるだろう
ゆえに、永井先生は金川をむしろ止めたといえるだろう
金川は永井先生と出会わなければ、もっと大きな殺人をしていたに違いない
636 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 16:12:40 0
というよりも、永井先生と金川との間に、明確な因果関係を立証できなければ
アンチが何を言っても無駄だと思うけど
>>635 と
>>636 は同一人物だと思うけど。
これが世に言う「永井ファン」なのか?
>>635 には全く同意できない、それどころか、何か根本的にわかっていないのではな
いかと感じるなぁ。ファン心理というヤツ?
>>636 など見ると、ここでの本当の問題は「仮に何らかの影響関係(因果は強すぎ
る)があったとしても、それがなぜ永井を非難する理由になるのか?」という点にあ
る、このことがわかっていないと思う。
もちろん、一般的にいって非難することはできるが、「それをあなたがやる理由は何
だ?」ということだ。
638 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 17:36:33 0
>>635 信者脳はすごいね
常人では理解できないね
まさに永井教の信教、狂信者
<私>真理教
>>625の内容はちょっと面白いと思った。
確かに、永井を批判して道徳・倫理の重要性を訴える人々、つまり「善なる嘘」を言う人々が
現れることは、永井自身の議論からも予想されることだし、それが社会には必要であることは、
永井自身も認めるだろう。
しかし、だからといって、デタラメ、自演、なりすまし等々も含め、ただメチャクチャに叩くことが、
「善なる嘘」になるんだろうか。
もうちょっとまともな内容でないと、「善なる嘘」にはならないのではないか。
それとも、そんなメチャクチャなものでも、社会には必要・有益なんだろうか。
あと、永井が「正直に総括する」なんてことがもしあれば、それは道徳・倫理にとっては
一番いいことなんじゃないの?
それがダメだという理由はちょっと思い当たらないけど。
642 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 18:56:25 0
永井の本によって金川事件が起きた
これは否定できない事実
643 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 19:10:05 0
じゃあ金川がワンピース読んでたら
ワンピースの作者は責任を取らなきゃいけないな
もし前日にコンビニに行っていたら
そこのコンビニは非難されなければいけないな
↑アンチの稚拙な議論にたいする答えです
小学生の質問には小学生レベルの回答を
644 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 19:12:50 0
「殺傷事件が起きた!包丁を開発したやつは責任を取れ!」
これがアンチの主張です。あまりに幼稚すぎる
645 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 19:47:03 0
ぼく:死ねばすべてが終わるのか…。
猫:死刑以上の重罰はないだろ?つまり、世の中は死ぬつもりなら、なにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ。
哲学者の永井均・日大教授が中高生向けに哲学をやさしく解説した「子どものための哲学対話」(講談社刊)の「死について」の一節だ。
金川真大被告(25)は「この本を読んでより運命を深く考えるようになった」と打ち明けた。
(中略)冒頭の一節に共感を覚えたという金川被告。被告を知る関係者は「(殺人を正当化する)彼の理屈そのもの」と驚く。
646 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 19:54:02 0
「殺傷事件が起きた!包丁を開発したやつは責任を取れ!」
これがアンチの主張です。
↑
バカ
647 :
625:2011/02/09(水) 20:11:06 0
>>640 前半の文章には特に異論は無いかな、ただ後半だけど、
正直に永井が総括したら、金川は別に考え間違いをしていない、
という”邪悪な真理”を語るんだからまずいんじゃない?
それとも、そう語らないだろうか? あるいはそう語る方が良いのだろうか?
と考えてわからなくなってきた、どう考えてます?
648 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 20:26:03 0
永井は十字架を背負ってゴルゴダの丘を登ったキリストのようだ
誰かが罪を背負わなければならない、ならば私が・・・
永井の生き様が窺えるな
一言でいえば「美しい」
649 :
640:2011/02/09(水) 21:35:36 O
>>647 > 正直に永井が総括したら、金川は別に考え間違いをしていない、
> という”邪悪な真理”を語るんだからまずいんじゃない?
ああ、いや、そういうことなら、道徳・倫理的に有害なのは明らかですな。
てっきり、「正直に総括する」というのは「無理やりにでも道徳的に改心した上、心から
反省の弁を述べる」という意味なんだろうと思ってたけど、私の用語理解が偏ってただけらしいw
>>645 >「子どものための哲学対話」
子供のために書く内容じゃないわな
651 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 21:50:17 0
中島義道の本を熱心に読んでたヤツや宮台真司の本を熱心に読んでたヤツが自殺してもなんとも思わなかったな
少なくとも著者が悪いなどと思ったことはない。AをAだといって、そのAに毒素が含まれているからといって発言者を責める気にはなれない
なぜなら、どうせ死んでしまうのも、人生に意味がないのも、著者の責任ではないからだ
それとも自殺ならば別に構わないのか?殺人事件だからこれだけ騒いでいるのか?
しかし、
>>615は、神は概念的・可能的なものを現実にすることができる、という話を踏まえた
ギャグのつもりだったんだが、全くウケなかったばかりか、
>>633のような恐ろしく頭の悪い
レスを招いてしまったのは、誠に遺憾でありますw
653 :
625:2011/02/09(水) 22:29:26 0
永井は、多分総括するべきだとは考えてないだろ。
こういう事件が起こることを想定しないで、あんなこと書いていたら、そっちの方がおかしい。
むしろ、反省した方が哲学者として失格だな。
ニーチェを援用したナチスや、マルクスの影響を受けた共産主義者が、引き起こした殺人に比べたら
金川事件なんてしょぼいもんだよ。
655 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 22:59:14 0
もしカミュを金川が読んでてかつカミュが生きていたとしたら、カミュは悪いのか?
馬鹿の議論(もどき)にはついていけんわ
せいぜいこの2chという小さな箱庭で、けっして永井本人には届くこともなく騒いでりゃいいんじゃね?
656 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 23:00:51 0
悪いとかいうより、事件に対してどういうコメントしたかだろ
金川が、自分のやったことを反省しなければ、永井的には問題無いかもしれんが
本に影響されて人を殺してしまったことを悔いてしまったら、大問題だな。
「道徳的理想の勝利は、あらゆる勝利と同じ『不道徳な』手段によって
得られる。すなわち、暴力、嘘、誹謗中傷、不公正によって」
(『これがニーチェだ』25頁で紹介されているニーチェの遺稿)
実によく当てはまっているようで、面白いよねえ。
>>657 それのどこが、誰にとって、「大問題」なの?
>>659 永井にとって大問題だろ。
「邪悪な嘘」を吐いて、人を殺させたことになるんだから。
661 :
考える名無しさん:2011/02/09(水) 23:29:58 0
永井が現代のツァラトゥストラになるか、ただの凡人になるかの試金石にはなる
でも、金川が反省するって、どういうことだ?
仮に自分が金川だったとして、何を反省する?
突然、死にたくないと思い出すことはあるかもしれないが、反省はしないだろ。死に
たくないがために、反省するフリはするかもしれないが。
他方、世間の皆様が何が何でも反省させたいと思う気持ちも、よくわかるが。
ただ、それに同調する気はないな。
>>660 >>657には「悔いてしまったら、大問題」と書いてあるんだが、660の内容は、悔いるかどうかと何の関係があるの?
>>663 >本に影響されて人を殺してしまったことを悔いてしまったら
つまりこれは、簡単に言うと「永井に騙された!」ってことになる。
>>664 本に影響されて人を殺した上、それを悔いたりもしなかった場合、それは問題にならないの?
なぜ、悔いた場合だけが問題だということになるの?
え、まさか、いきなり論理学初歩の練習問題みたいな話になったの?
悪いけど日常用語的に読んでしまったもんで。
>>665 斜め読みしたのだと思うが
>>657には、ちゃんと「永井的には問題無いかもしれんが」と書いてある。
>>658 オカルト的な〈私〉の著作で今のステータスを得た永井への批判と見た
おまいら本当に永井先生が大好きなんですね。 愛憎渦巻いてる。
>>626 に聞きたいのだが、二次元意味論ってのは、
永井の用語で言う1次内包と2次内包の話に関連するのか?
酸っぱさが3次元云々ってのは、そうすると0次内包の話として、
理解できなくもない(というかそういう説明がないとわかんないよ)。
>>666 そんなところを読み飛ばしたつもりはないよ。
「自分の本に影響されたと称して人を殺し、その後それを悔いもしない人が現れた場合」と、
「自分の本に影響されたと称して人を殺し、その後それを悔いる人が現れた場合」で、
なぜ後者だけが永井にとって問題になるの?
どういう理由で、悔いるかどうかにより区別されるの?
>>670補足
永井にとって、ではなく、社会全体にとってであれば、大ざっぱに
「人を殺した者がそれを悔いもしない場合」と
「人を殺した者がそれを悔いた場合」
では、違いはあるだろう。
しかし、その違いが問題なのであれば、「永井の本に影響されたと称して」という点は
別に意味がない、つまり永井とは別に関係ない話になると思うが、そういうことでいいの?
>>667 >>658の「道徳的理想」という言葉が目に入らんの?
それとも、まさか〈私〉に関する本が「道徳的理想」を語っているとでも言うの?
>>670 論理学初歩の練習問題みたいな話で読んでるのはそちらでは?
哲学者が、あのような内容の本を、何の信念も覚悟も無く出版したとしたら、哲学者失格だろ。
社会的影響とは無関係でいたいのなら、個人的な信念に止めておいて、出版しなければいい。
語弊を承知で言うと、論理学の本だけ出していれば、社会との摩擦はほぼ回避できる。
あくまで著書から影響を受けていることを前提とするが、実際に人を殺しており
犯人が死刑になるかもしれない事件に対して、無関係を装うとしたら、自分の言葉に対しても不誠実だろ。
永井を擁護するつもりで包丁の喩えを出している書き込みもあるが、むしろ永井を貶める結果になってると思える。
喩えとしては、包丁というより日本刀であり、むしろ殺傷能力が無かったら非難されるべきだよ。
「死ぬつもりなら何をしてもいい」という記述に衝撃を受けて、実際にそれに則って行動したとした場合
それを悔いるとしたら、「永井は適当なことを書いていた」ということで、言葉での勝負で惨敗したってことだよ。
結局、永井は「卑怯」なんだよ
>>672 >>658の「『不道徳な』手段によって 」という言葉が目に入らんの?
それとも、まさか〈私〉に関する本が道徳的な内容だと思ってるの?
>>672 >>658の引用部分は、道徳的理想(を唱える人々)が、不道徳な手段を使っているということを
批判(あるいは批判とまでは言わないとしても、気付きにくい真理を指摘)している点に
意味があるのであって、道徳的理想以外のものに対して意味のある話でないことは明らかだろう。
例えば極端な例として、
「犯罪の勝利(つまり犯罪を成功させること)は、あらゆる勝利と同じ『不道徳な』手段によって得られる。」
と言ったって、だから何なんだという話だろう。
他にも、「あらゆる勝利」と言うからには、「戦争の勝利は…」「選挙の勝利は…」「市場における
勝利は…」「将棋の勝利は…」「サッカーの勝利は…」等々、あらゆるものに当てはまるはずだが、
そうなってくれば、特に道徳を取り上げるのでなければ意味がないのは、明らかに見てとれるだろう。
(ついでに、こうなってくれば、「あらゆる」という部分は検討を要することも見えてくるだろうが)
だから、〈私〉に関する本が「道徳的理想」を語っていると言えるかどうかがポイントなのであって、
ただ適当に結びつけたって何の意味もない。
>>672みたいな無意味なことを言って、なんかうまい切り返しでもしたつもりなのかねえ?
まったく、気の毒なほど頭が悪いねえw
677 :
676:2011/02/10(木) 09:05:22 O
>>673 また、悔いるかどうかとは関係なさそうな話ばかりだねえ。
まあ、最後にちょっと出てきたが。
「言葉での勝負で惨敗した」というのは、どういう意味なの?
推測するに、相手が悔いたりしないことが成功で、後で悔いてしまえば失敗だと
言いたいのかもしれないが、何でそうなるの?
まさか、永井が、悔いなく殺人を犯すような人を養成することを目的にしてる、とでも言いたいのかね。
679 :
考える名無しさん:2011/02/10(木) 12:57:54 O
殺されたくないなら、諸々の力を持つしかない。
馬鹿みたい。永井を真剣に論じるとか。冗談だろ?
>>678 著作との関係から免罪しようとしている書き込みは、永井を擁護しようとしていながら、逆に貶めていることになっている。
「死ぬつもりなら何をしてもいい」という記述に賛同しなければ、当然犯罪など犯さないだろうし。
逆に賛同したとしても、恐らくほぼ全ての者は「死ぬつもりなどない」から、自制した生活を送る。
金川は、賛同した上で、その通り行動してしまったが
それは、永井としては意に反する事態ではなく、あり得る事態であるべきだろう。
そのような事態と関係を持ちたくないのならば、個人的な信念に止めておいて、出版しなければいいのだが
出版した以上、そのような事態と関係を持つのは当然だろ。
それなりの地位と名のある哲学者が、出版した言葉と社会の関係から逃れようとしたら
「子どものための哲学」じゃなくて、「子どもによる哲学」でしょ。
682 :
考える名無しさん:2011/02/10(木) 14:44:52 0
「子どものための哲学」(笑)
バカジャネーノ
実際、金川は死んでも良いと思ったから人を殺せた、ということはあるね。
永井の著作によってそのことに気づいた、という点で確かに永井は批難される理由がある。
だけど、そうあってもなお”ある種”の人々へ真実(普通の人にとっては嘘?)を語る”狂気”
こそが彼の魅力であって、(新聞へのコメントで彼は論理的に間違ってないというその正直さ)
その手の道徳的批判がそもそも虚しい(私のような)類の人々にとって、
ここまで議論されている批判も擁護もだからどうした、という話でしかない。
今までどおり、嘘だ卑怯だ子供だと言われようが、”ある光の下”で見たら真になるような思考を提供して欲しい。
信者といわれようがそれが素直な感覚ですよ。
いや、道徳的な批判をしているのではなく、哲学者として出版することの意味について問うている。
だから、永井の著作に衝撃を受けて、それに則った行動をして、悔いること無く一生を終えるのであれば
永井的には、問題は無いのだろうと。
逆に、金川が悔いてしまい、「永井は嘘を言っていた」と思ってしまったとすると、永井にとっては大問題だろ。
何しろ、嘘に基づいて人を殺してしまい、自分の人生も滅茶苦茶になったことになるのだから。
後で”やっぱり死にたくなかった”と後悔するならば、永井の言説が嘘なのではなく
金川の判断が的確でなかっただけだろう。 それとも、そうではない他のルートがある?
>>684 あと、道徳的批難の要素なしに、その意義を問うことが出来るだろうか?
金川にとってはともかく、永井にとって問題が起こるのは、道徳と社会があるからじゃないだろうか?
>>684 「永井は「私の著作によって殺人犯が現れることは、私にとっていいことだ」と言っている。
あるいは、そう言うべきだ。」なんてことを主張したいんであれば、ストレートに
そう主張すればいいだろうに。
そんな主張にどんな根拠があるのか知らんけどね。
どうも根本的なところが、俺にはわからんなあ。
永井についての金川「問題」というか「事件」(というより「醜聞」だと思うけど)というものが仮に存在したとして、
その唯一の証拠が、物的証拠では無い証言で、しかもその唯一の証言者が殺人者本人なんだよな。
(しかも、金川ではない他者である私(あるいは我々2chネラー)は、
その証言の文脈の無い曖昧な転記しか目に出来ないわけでね。)
証拠能力としてどうなんだ?
本当に永井が(ある意味間接的な原因としての)「共犯」あるいは「教祖(?)」であり、
金川が実行犯的に(もちろん主犯ではあるが)殺人を犯した、とどうやって証明する?
金川が永井を持ち出したのが、無実の他者を巻き込む企みとしての責任転嫁では無く、
永井は(少なくとも金川の思考の中では)濡れ衣ではない、ということを、
この状況で他者に対してどうやって証明する?
本当は金川は、例えば極端な話、自分が殺したくて殺しただけかもしれないのに?
同じ様な「精神的濡れ衣可能性」問題は、普通の殺人事件とかでも、幾らでも「思考実験」できるだろうけどね。
689 :
考える名無しさん:2011/02/10(木) 22:48:27 0
他者である私w
キメーww
>>688 多分言うとおりだから、問題の程度も、永井が法的に責任を取るとか大げさな話になってなくて、
そんな本を書くとかけしからんとか、それに類する道徳的批難の域を出てないんじゃない?
上手く悪事を働くやり方を書いた本が売れたとして、それと同時期に本の内容に類する悪事が増えたら、
作者や本と因果関係があるかどうかは別にしても、本自体は叩かれるとかその程度の話ではあるんじゃない?
で、本を出す側としてはやはりその程度の想定はしてしかるべき、という程度のことを言ってるんだと思う。
>>688 他者の名において自分の欲望を充足する偽善者は歴史上枚挙に暇がない。
神の名においてとか、父の名においてとか。
しかし、永井の哲学はその辺をカバーしないと思う。
>>690 > 上手く悪事を働くやり方を書いた本が売れたとして、それと同時期に本の内容に類する悪事が増えたら、
> 作者や本と因果関係があるかどうかは別にしても、本自体は叩かれるとかその程度の話ではあるんじゃない?
いやいや、その程度の関係もないだろう。
本の内容と悪事の内容が似ていれば(特に、その内容がそれまであまり知られてなかったりすれば)、
むしろ、それなりの関係はあると言いやすいだろう。
しかし、金川の件については、当人が何か言っていたという以外に、どんな関係があるというのか。
>>690 いや、もちろん法的な責任など全くないよ。
俺が「証拠」とか「共犯」とか言ったのも、もちろん道義的責任についての話。
>>692-
>>693 もしその次元で考えるなら、証拠をそこまで求めるのは不当にきつい要求だと思うなぁ
もちろん、その意味で誰がどこまで責任があるかなんてほとんど明確化できないけど、
むしろそうであるが故に、少しでも連関があると思われるなら責任があると(道徳的には)言うべきなんじゃないだろうか?
この場合、金川が永井の作品の影響を受けたと自分で言っているんだし、
殺人者の部屋でエロゲーが見つかったからエロゲーは禁止しろ、よりは連関あると思うぞ。
頼りある証拠しか認めない、というのも勿論、立派に理のある考えだと思う。
だけど、キリスト教やソクラテスを言説だけでも許さなかった当時の有識者たちもまた、
立派に理のある考えをしていた、とは言えないだろうか?
この場合、本人が言ってる以上の証拠ってなんだよ
自分で言ってるんだから影響受けたんだろ
>>694 改めて言うのもアホらしいんだが、そんなら、その殺人者が「このエロゲーに影響されて
人を殺した」と言ったり、「このエロゲーがつまらなかったので、むしゃくしゃして人を殺した」
と言ったりしたら、エロゲー制作者にも道義的責任があることになるのかね。
「前日、あの店の店員さんが包丁を売ってくれなかったら、この事件を起こすことはなかった。
全て店員さんのおかげです。」なんて言ったら、えらい重大な責任になりそうだねえ。
そういや、〈私〉の問題と利己主義の同型性という話はあるが、それなら、
口の問題や自演の懐疑について、何らかの倫理・道徳的問題との同型性は考えられるのかな。
>>697 実際、最初に出した例はそのような影響が読み取れる場合、道徳的責任を追及されるんじゃ?
他二つは微妙というか、俺としても責任は追及すべきだと思わんが。
今回は「死ぬつもりなら何をしても良いって、暗に認めてるのさ」とまで書いてるんだから、
その部分との連関は認められてしかるべきじゃないの? 金川もその部分に言及してるんだし。
700 :
考える名無しさん:2011/02/11(金) 00:07:21 0
「死ぬつもりなら何をしても良いって、暗に認めてるのさ」
これが「子どものための哲学」なんですって
>>697 あと、断っておくと、道徳的批難それ自体がどこまで妥当か、ってのは偏差を許すとは思うよ。
論争の争点はそれと、どこまでが因果関係(あるいは相関関係)を認めるべきかって話であって、
お互いに相手が考えている水準を誤解してそうだなぁ、と思い始めたよ。
>>700 断っておくと、その後ちゃんと、”ぼく(登場人物)”が「そうかなぁ、、、」と言って、
疑問を提示しているよ。 あと、鵜呑みにせず自分で考えて結論を出せと断ってるはず。
哲学の分野から「殺人は悪か」などを考える永井教授は
「哲学はいったんスイッチを切って世の中の仕組みを考え直そうとするもので、
毒にも薬にも作用する。金川被告は問題意識が途中で止まってしまい、
毒の方向に作用したのだろう」としたうえで、「根本から哲学的に考え直すことは、
昔からそうした危険性と隣り合わせだった」とみる。「つまらない」と繰り返し、
自分の「真実」を曲げない金川被告については「人は普通生きていたい、できれば楽しく
生きたいと願っているので、それを実現するためにいろいろな『生き方』を説得できるが、
この根本前提がない金川被告に対しては、『生き方』の説得に効力がない」
と矯正の難しさを指摘した。
YOMIURI ONLINE 戦慄 茨城・連続殺傷1年(6)哲学書の一節 曲解
http://www.yomiuri.co.jp/national/senritu/senritu090328.htm
>>699 > 今回は「死ぬつもりなら何をしても良いって、暗に認めてるのさ」とまで書いてるんだから、
> その部分との連関は認められてしかるべきじゃないの?
まず、正確には、結びの部分は(前後の文脈なしに抜き出すこと自体どうかと思うが、それを置くとしても)、
「暗に認めてるのさ」
ではなく、
「暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ。」(「認めざるをえない」は太字)
となっている。
それで、「世の中は、死ぬつもりなら何をしてもいいと、暗に認めざるをえない」ということが、
なぜ、死刑になる目的の無差別大量殺人などというものに結びつくのかね。
そこは説明が必要ないのかね。
直接結びつこうが結びつくまいが、はてはエロゲーなどという一見すると全然関係なさそうなものだろうが、
当人が「影響された」と言いさえすれば、なんでもかんでも責任を問われることになるのかね。
>>704 よく読んでほしいが、エロゲーの例は連関がより下の例として出しただけ。
エロゲーの話が以前出ていたが、私自身も馬鹿馬鹿しいと思っている。それと比べたらより連関がある、
と少なくとも世間は見なすだろうし、彼らのその要求は理解できる、という意味で述べた。
そして、道徳的責任について、世間がそう要求する、ということ以上の根拠があるだろうか?
私は常々道徳的責任なんて馬鹿らしいと思っているが、道徳的責任の根拠についてはそういうもんだろう。
あと、後半の何でも責任を問われることになるのかね? という話は事実問われているじゃないか、
という話で十分じゃないだろうか? それがそう値するかどうかなんてのは、
厳密に論じようとしたら道徳なんて上手くいかないのは目に見えているし(そういう弱いもんだし)。
個人的に、あなたは責任という言葉に異様な執着を持っておられるように見受けられるが、
私が考えている責任、少なくとも道徳的なそれはあなたの考えるのよりは随分ゆるいものだと思う。
蛇足かもしれないが補足しておくと、私が考える道徳的責任というものは、
世間的にそうやって批難される、嘘や虚偽だと扱われる、ということ以上の意味はない。
道徳というのが法律などと違って、内面的な罰によって完遂されるしかない以上、
公共的に言える道徳的責任はこの程度が関の山だろうと私は考える。
84 :(-_-)さん:2010/01/26(火) 22:26:08 ID:eB+xeSLS0
水戸地裁から死刑判決を言い渡された後、共同通信が水戸拘置支所に送った手紙に対する
金川被告からの返信の要旨は次の通り。(消印は24日付、原文のまま)
おはこんにちばんはっ!!
裁判は終始、明鏡止水の心境でしたよ。判決内容は、勝手な解釈で成り立ってますよ。
奴らは俺の言葉をちゃんと理解できていません。なので、浅い深い云々など論じても意味がないですね。
真実は永遠に闇の中です。あなた達は何も解明できていない。
あなた達の失敗は、責任能力の有無を調べるために心理学者を二人も寄越してきたが、
哲学者を手配しなかったことだと思います。
死刑制度の食い違いって何でしょう? あってもなくても何も変わらんと思うのでどうでもよいですね。
控訴は28日に取り下げます。もう会う機会はありません。天国で再会しましょう。では、さようなら。
http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122801000514.html ----
この「哲学者」とは当然、永井の事だろう。
ナムナム
>707から分かること。補足事実。
@2009年12月24日付けの手紙であること。
A2009年12月28日に控訴取り下げを行ったので、2010年1月5日には死刑判決が確定していること。
Bしたがって、金川被告は、金川死刑囚と表現される。
C地裁判決で示された事件理解と死刑囚本人の事件理解とでは全く異なる。
D死刑囚は事件の本質的な説明を行う意思はない。
E精神鑑定は二度行われた。
F逮捕後から死刑判決までの間、哲学者と面談する機会はなかった。
G哲学者との面談の不成立こそが、当局の失敗・失態であり、真相解明の道を塞いだ原因。
G死刑執行までの間は沈黙。という意思の表明。
>707から推測されること。
@事件の本質的なことがらは、心理学者ではわからないが哲学者であれば分かるかもしれない。
A哲学者との面談を要求したが、要求は結果として受け入れられなかった。
A−1:死刑囚の哲学者との面談要求を検察当局は単に無視した。
A−2:死刑囚の哲学者との面談要求に検察当局は応えたが人違いであった。
A−3:死刑囚の哲学者との面談要求に検察当局は応えたが哲学者の事情で日程調整が不調で終わった。
A−4:死刑囚の哲学者との面談要求に検察当局は応えたが哲学者が面談を拒否した。
B死刑囚が闇に葬った事件の真相は心理学的、人格障害的な問題ではなく、哲学的な問題である。
C死刑囚が事件の真相を沈黙=闇に葬ったのは、哲学者と面談できなかった腹いせである。
結論
もし、死刑囚の望みどおり、哲学者と面談できていたなら、事件の真相は語られたであろうし、
哲学者がその場で、悔悛を促すこと機会ともなったであろうが、そういうことは起こらなかった。
(続き)
カントはまさにその逆のことを言ったので、すべきことやしてはいけないことが、いかなる通常の人間的欲求とも
無関係に存在するんだ、と。そういう話なんだけど、それはきれいに裏返すことができるんですね。
きれいに裏返すっていうのは、これはもうルサンチマンとかそういう人間くさい動機の話じゃなくなって、
そういう中身がないわけだから、人間じゃなくて天使的なものは必然的に悪魔的なものに転化しうるって水準の話なんですよね。
ところが場合によってはそれに近いことが可能だっていうのが人間の恐ろしいところで、カントってのは動機は違ったけど、
実はその構造を見せちゃったんですよね。
カントの場合は、利己的欲求はもちろん利他的欲求さえも捨てて、ただ道徳法則に従うことだけを動機にして道徳法則に従うことが
可能なんだって言ったんですよね。人間っていうのは叡智的存在者でもあるんだから、それが可能であるはずだって言ってるわけだけど、
それはつまり、ちょうどその逆のことが「可能であるはずだ」ということも暗に言っていまっていることになる。
この問題はある意味でニーチェを超えていますね。ニーチェだったら、そのような転倒の背後にもさらに何か人間的な動機をさぐる
でしょうけど、そういう場合、むしろ人間的動機の方が後から捏造されてるって感じがするんですよ。
これはニーチェを超えて怖い問題ですね。
----
永井のカント解説って、定言命法・仮言命法についてなのだろうが、すごく変だよな?
>>705 > そして、道徳的責任について、世間がそう要求する、ということ以上の根拠があるだろうか?
> あと、後半の何でも責任を問われることになるのかね? という話は事実問われているじゃないか、
> という話で十分じゃないだろうか?
このあたりからすると、まず、たんに当人が「影響された」と言えばいいというものではなく、
世間(とりあえず「多数の人」くらいの意味に解するとして)がどう考えるかが問題だ、
ということになるの?
つまり当人の発言は必ずしも決定的な基準にはならないと。
それならそれで理解できる。
そして、世間がどう考えるかが、決定的な基準ということになるの?
例えば、ある人がある犯罪を犯したかどうかという具体的な事実の有無については、世間がいくら
その人が犯人だと考えようと、事実は異なること(いわば濡れ衣)があるだろう。
また、因果関係その他の関係の有無については、世間がいくら関係があると考えようと、
よく検討したら実は根拠がない(いわば迷信)ということがあるだろう。
しかし、道徳的責任の有無、追求といった場面では、世間がどう考えるかが直ちに決定的な基準になる、
つまりいわば濡れ衣も迷信もあり得ない、ということになるのかね。
(「あり得ない」が強すぎるなら、もうちょっと弱い表現でもいいが)
それならまた別の議論を要すると思われる。
>>713の続き
しかし、仮にそういうそれなりに明確な基準が立てられるのであれば、今度は、
実際にその基準を満たしているのかどうかを検討すべきだろう。
>>705 > あと、後半の何でも責任を問われることになるのかね? という話は事実問われているじゃないか、
> という話で十分じゃないだろうか?
(もし、この部分が金川の件に直接触れたものでないのなら、申し訳ないが)なんか根拠もなく断定
されているように見えるが、金川の件については、2ch内で馬鹿どもが時々勝手にわめいてる以外に、
いったい誰が永井の道徳的責任なんか追及してるのかね。
馬鹿どもが必死で引用してる記事だって、責任を追及してるような記述は全然ないだろう。
>>713 どうにも、こっちの言葉が曲解されて、極論にされて、その上で批判されている
私が考えているのは「そう書いている部分がある」、「本人がその部分に影響を受けたといっている」
そして、一般的にその関係を認めるだろう、ということ以上の意味は無いよ。
あなたはそれは一般的じゃない(つまり根拠がない)、とただ只管主張しているように見える。
それが間違いだ、と言わないが、かなり強い懐疑論だとしか私には思えないのだよ。
言い方に語弊があるだろうから、断っておくと、一般的にそう認めるだろう、
というのは、誰もが誰もそう認める、という意味ではなく、建前として、
その関係の可能性があると認める人は(特に公的な立場に立たざるを得ない人は)
それなりに多いだろう、と思うということだ、事実新聞なども影響があるという体裁で進めている。
連投で失礼するが、裁判に求めるべき根拠の強さと、
(建前上の)本の影響の心配として(一部の人に)取り沙汰されるときの根拠の強さの違いだよ。
私はそうやって(あなたの言う無根拠な)心配をする人の道徳的不安や、
永井の言うルサンチマン的な心性に、強いリアリティーを覚えるよ。
どうでもいい糞みたいな話題では
盛り上がるんだなwこのスレ
>>716-718 > 私が考えているのは「そう書いている部分がある」、「本人がその部分に影響を受けたといっている」
> そして、一般的にその関係を認めるだろう、ということ以上の意味は無いよ。
それなら、世間(の一部)の人が「当人もそう言ってるんだし、何らかの関係、影響(の可能性)は
あるんだろう」という程度のことを言うことを指して「道徳的責任」などと呼んでいたの?
私は、「道徳的責任」というからには、少なくとも「こんな本を書くなんてけしからん」
「こんな本を書いた人は、何か説明、訂正、謝罪等をすべきじゃないか」くらいのことを
指してるものだと思ってたので、それなら確かに論旨を誤解していたことになるが、しかし、
それは言ってもらわなきゃわからんよ。
(
>>706(同一人だとして)あたりの表現とだいぶ違うとも思うし)
何らかの関係、影響があるだろう、くらいのことであれば、私だって別に否定しない。
そんなことがなぜ「道徳的責任」とされるのか、と言いたかったので。
しかし、ただ何らかの関係、影響があるというくらいのことが、道徳的な意味を持つことがあるのか、
なぜそんなぼんやりした事実をただ指摘しただけで、道徳的な意味を持ちうるのか、というのは、
ちょっと面白いか。
ふつう、事実と価値は違うと言われてるらしいので。
>>720 >私は、「道徳的責任」というからには、少なくとも「こんな本を書くなんてけしからん」
>「こんな本を書いた人は、何か説明、訂正、謝罪等をすべきじゃないか」くらいのことを
>指してるものだと思ってたので
このことを指しています、で、実際そう言う人が一定数いる、という話です。
なお、ここまで言っている私自身は、実際に永井がそうすべきであるとは考えません。
あなたが、ぼんやりとした事実関係というのも最もですが、
道徳的な人間の執拗さを、侮ってはいけないと思います、
それくらいしないと多分、道徳と言うのは実効的な機能を持たないのだと思いますよ。
著書増えたな〜
参照指示がややこしくなってきた。
・前期三部作?
*『<私>のメタフィジックス』
*『<私>の存在の比類のなさ』
*『「魂」に対する態度』
・学術論文ではない試み
『翔太と猫のインサイトの夏休み』一般に「哲学」とされている諸問題に関するお話仕立ての対話篇
『<子ども>のための哲学』子ども時代の疑問から出発する自我論と道徳論入門、そして哲学とは。
『子どものための哲学対話』前書を実際の子ども向けにしたもの。
・後期三部作など
『マンガは哲学する』その序章として
『転校生とブラック・ジャック』
『私・今・そして神』哲学の古典からライプニッツとカントを利用する。
『倫理とは何か』倫理学に対する哲学的疑問。
*『なぜ意識は実在しないのか』
・その他 特定人物の哲学について関わりが深いもの
『ウィトゲンシュタイン入門』『これがニーチェだ』
*『道徳は復讐である』
*『西田幾多郎』
(*は未読)
誰か補足してくれ。
>>721 >
>>720 > >私は、「道徳的責任」というからには、少なくとも「こんな本を書くなんてけしからん」
> >「こんな本を書いた人は、何か説明、訂正、謝罪等をすべきじゃないか」くらいのことを
> >指してるものだと思ってたので
>
> このことを指しています、で、実際そう言う人が一定数いる、という話です。
なんかまた話が戻った感があるな。
まあ、このほうが、「道徳的責任」という表現の意味として理解しやすいから、意味という点では
このほうがいいと思うけど。
主張の意味は理解した上で、事実の問題として、2ch内の馬鹿ども以外にそんなことを言ってる人は
見たことがない、どこにそんな人がいるのか、ということになる。
あとは、ぼんやりした事実関係にすぎないものであろうがなんであろうが、とにかく責任を追及する
というのは、なんか永井の紹介してるニーチェみたいな話になってくる気がするな。
道徳は嘘だろうが誹謗中傷だろうが何でも使う、と。
それに対して「何の根拠があるんだ、批判するならもっとまともな批判をすべきではないか」と言うのも、
それもある種の道徳的な批判になっているように思われ、それもなんか永井の紹介してるニーチェ的だなw
>>722 関係ない話題よりはよっぽどいいけど、それは何を目指した「参照指示」なの?
永井信者って、絶望的に駄目な奴が多いな。
永井は、信念と覚悟を持って著書にしたのであろうに、正面から受け止めないで
それこそ、「子どもの世界」に逃げ込んでるようにしか見えない。
>>723 >2ch内の馬鹿ども
道徳について語るっているんだろ?
せっかくの高論持論を台無しにするだけだから
そんな表現を用いるのは止めとけ。
永井に覚悟なんてないだろ
>>726 馬鹿に馬鹿と言って何が悪い。
永井の本を読んだ上で、それなりに真面目に議論しようとしているならともかく、
ただ勝手にデタラメをわめき散らしてるような馬鹿どもに対して、何を遠慮する必要があるのか。
馬鹿どもは、どうせ、最近の本では金川の名前を出して議論してる部分もあることなど知らないだろうし、
そもそも『子どものための哲学対話』そのものすら、自分で読んだことがないだろう。
>>728 の心性に、ルサンチマン的なもの、つまり道徳と同質のものを読み取るのは容易い。
当然、このように言う私の心性にも同質のものが読み取れるだろう。 ああ、人間はかくも弱い。
<私>
爆笑
>>729 馬鹿に向かって堂々と「馬鹿」と言うようなことがルサンチマン的とは、どういう理由なのかね。
本気で言ってるなら、ちょっと面白い。
およそ言葉を使うことは、全てルサンチマン的だということだろうか。
「なぜ意識は実在しないのか」のp.22に、時間との類比の話が出てる。
そこに、通時的な記録と無時間的事実って話が出てくるんだけど、
通時的な記録が記憶、ってこと以外に具体的な例が出ていなくて、
どちらが何を指しているのかピンと来ない、例示できる人がいたら教えてください。
俺もその本読んだけど、「語りえないものについては、沈黙しなければならない」の典型じゃないかと思った。
>>732 そこはまだ出だしだということもあるし、確かにさらっと書いてるわりには難しいとも思うので、
意識・感覚・私といったことと、時間・今といったことが類比的とされていることを押さえて、
先に進むのがいいんじゃないかと思うけど。
とりあえず、「現在の出来事の通時的な記録」は、「(感覚についての)振舞いの認知」と類比的と
されているので、記憶とか記録とか証拠とか(今の出来事そのものではないけど、それがあれば
「その時にはそういう出来事があった」とされるようなもの)と考えればよいのでは。
また「無時間的事実」は、「過去・現在・未来といった時間様相を度外視した」という説明が
ついているとおり、「今」というものとも記録などとも違う、客観的な事実と考えればよいのでは。
自分で言ってて、あまりうまい説明でないともおもうけど…
>>734 いや、かなりクリアになりました。
ただ、無時間的事実がそれで類比されるんでしょうか?
例えば、通時的な記録というのは、そのまま無時間的事実に発展する、
という形で(類比的に考えるなら)、そういう感じじゃ無い気がするんです。
なんて言えばいいだろう、それは類比ではなく同じもの、と言える気がする。
例えば、科学的事実なんかがそうだというように。
スレが伸びてるがくだらん話題しているな。
名指しと必然性も理解できないレベルだからな。
クリプキは何も難しい話しているわけじゃなくて、
例えばゲーデルは不完全性定理を最初に証明した人と言われるがそうではなく、
ジョーンズという人が最初に証明していたが誰もその証明を知らないとか、
ゲーデルが成果を盗んだとかありうるだろ?
不完全性定理はゲーデルを説明指示したことにはならないが、
歴史上実在したクルト・ゲーデルはクルト・ゲーデルであることは間違いない。
人がそれについて知ってる何も持たなくともゲーデルであることは間違いない。
水が何か透明な液体であってH2Oじゃない世界がありうるとかは、
反論でも何でもない。
その透明な液体がどこの世界でも水として扱われるわけじゃなく、
水を必然的に指示することはありえない。
反論するならどう考えてもより確実に水を指示するもの持ち出さない限り意味不明。
但し水がH2Oがそれかどうかは怪しい。けど今のところはそれしかない。
モーゼは実在したか否かとか何だかわからなくなるし。
クリプキの凄さは指示の理論解決したことじゃなくて、
楽天的なフレーゲ、ラッセルの前提壊して指示の理論を壊した。
何が何だかわからなくしたことだよ。
反実仮想や他者やウィトゲンシュタインと関係することは確かだが。
>>735 そう言われると、無時間的事実とはどんなものか、よく分からないのでw
確かに、自分の感覚や振る舞いと、脳、体の物理的変化とは、はっきり違うものだ(と思われる)けど、
それに類比して、今起こっていることや記録などとはっきり異なる「無時間的事実」なんてものが
何なのかと考えても、よく分からないですな。
意識とか誰かの視点などといったものを離れた客観的なもの、ということだと思うけど。
(そこは実は予備知識や他の本の議論が必要なような?)
まあ、繰り返しのようで恐縮ですが、そこは、本全体からすれば比較的重要ではないだろう
(と思われる)ので。その先の30以降あたりの話のほうが重要ではないかと。
@「<私>は永井均である」も
A「ゲーデルが不完全性定理を発見した」も
B「水はH2Oである」も、
全部同じアポステリオリな偶然的真理だとしか思えないが。
どれも「そうでない世界」は十分に想像可能である、という意味では偶然的だし。
「<私>」や「永井均」や「ゲーデル」や「不完全性定理」や「水」や「H2O」
という言葉の意味は、とりあえずこの世界の経験に基づいてその延長で決めるしかない、という
意味ではアポステリオリだろう。
というより、本当は単純に「私」とか「ゲーデル」とか「永井均」とかの固有名詞は、
特定の世界の一部分を指しているのであって、「他の世界」の「私」とか「ゲーデル
とか「永井均」は名前や形や性質が完全に同じであっても全く別の物だ、と
考えたほうがいいように思う。
そう考えれば、「<私>が永井均でない世界」とか「ゲーデルが不完全性定理の
発見者でない世界」とかは、単純に想像不可能で無意味だから、
@やAはアポステリオリな必然的真理だというべきか。
(ゲーデルがもし本当は不完全性定理の発見者でないのなら、それは
単に「広く真理だと信じられている虚偽」だろう。)
その中で、<私>だけを特権的な地位に祭り上げようとするのは、単なる
永井一派の心理的錯覚としか思えないのだが。
>>736 おまえの説明おかしいだろ。
>人がそれについて知ってる何も持たなくともゲーデルであることは間違いない。
これに従えば、化学的な知識を持っていない人間にとって、水はH2Oではあり得ないんだから
必然性は生じ得ないぞ。
それに、H2Oは水の主要構成分子であって、水を完全に構成する分子ではないんだし。
>>738 アプリオリ/アポステリオリ、必然的真理/偶然的真理、こういった基本的な概念の
勉強から始めることを勧める。
話は、それからだ。
永井どころかクリプキがどうしたなんていう以前の問題だ。
<私>って何なのかって実は永井フリークの人も実は良く解ってないよね。
>>740 某所に
「アプリオリ」というのは、「調べなくてもわかる」という意味、
「必然的」というのは、「そうでないことが想像できない」という意味、と
あったが、もっともらしくいうとアプリオリというのは経験によらない、
ということで、必然的というのは論理的にそうでないことが有り得ない、という
意味かと思っていたが、違うのか。
もっとも、想像したり経験したりするのがあくまでも現在のこの世界の私でしか
ない、という事情が問題をわかりにくくしているだけだと思うが。
あと、
>>738を訂正すると、「<私>は永井均である」というのは、将来
そうでなくなる可能性があるから必然的真理ではないな。
「過去に<私>は永井均であった」とか「ゲーデルは不完全性定理の発見者だった」
とかいうのがアポステリオリな必然的真理(もしくは虚偽)だ、ということか。
>>728 >馬鹿に馬鹿と言って何が悪い。
わはは、懐かしい響きがするフレーズだな。
これって、自愛性が入ったネットボダのきめ台詞でな、有名な例では
voidがよく使ってたな。自愛性ボダのといっても色んなレベルがあるが
金川の例は、社会的不適合の果てまでたどり着いた最右翼。
哲学愛好者は、ま、俺も含めて自愛性の入ってる奴が多い。>728とか>736
もそうだがまだままだハンチク。自身の優越性を誇らしげに実証せんがために
もてる知識を総動員しつつヒケラカシ店して、お前ら知らんだろ? とかな。
引き篭もり型のヲタも同種の知識ヒケラカシ傾向を示す奴は多いな。
ヒケラカシ的自愛も体系化されると、ユニークな情報(あるいは芸術)発信者の
レベルに至れる。永井も自愛性を<私>と抽象するところまで辿り着いてる。
ただ、その抽象化には、さらなる先達のウィトゲンシュタインが居たから可能だったのだろう。
しかし、いくつかの点で反社会的(半道徳的)なのが惜しいと俺には思えるね。
いわゆるアスペルガーとして分類されつつ、なおかつ天才級として扱われる連中
は自愛的傾向の徹底が結果として「共感性」を勝ち得て社会貢献に結びついてしまった
幸福な例、自愛の徹底が実は社会的大成功や天なる国に至る道になりえる。かもしれない。
だから、永井の追いかけばかりじゃダメなのよ。ましてネットボダなんて卑小でつまらんだろ?
>>742 すまんが、やっぱりよくわかっていないと思う。
例えば「ゲーデルは不完全性定理の発見者だった」が、どうして必然的真理になるの
か、ちょっと驚く。
ただ、勉強を勧めたものの、こういう基本的な概念をどこで(何で)学習すればよい
のか、よくわからない。
お役に立てなくて申し訳ない。
数学は演繹的だから、その成果が形而上学的に必然的な真理を指示するのはわかるが
帰納的な自然科学の成果が、形而上学的に必然的な真理を指示するってのが
どうしても納得できん。
>>738 >>741 永井のいう<私>は錯覚という説に同意します。
本人はウィトゲンシュタインの独我論とは根本的部分で違うと言ってるけど、
<私>についての論証――累進構造や脱人格的自我の概念を持ち出しても、
ウィトゲンシュタインの独我論の根幹をなす「語りえない」を超えるものは何も無い。
ウィトゲンシュタインが「カブトムシの箱」で論証したように、「語りえない」ものは
意識の主観性そのもの、それが現象的意識の本質であり、そこにさらに<私>を持ち込むのは、
ギルバート・ライル流に「機械の中の幽霊の中のホムンクルス」とでもいうしかない。
意識が三重構造になってしまっている。
>>746 錯覚だとは一言も主張していませんよ!
ただ、使っている人は解って使ってるの? と思うだけで。
>>744 もちろん常識的にはゲーデルが不完全性定理の発見者でない世界なんか
いくらでも想像できるから、それは単なる偶然的真理だというのはわかる。
ただ、そういう可能世界の「ゲーデル」とこの世界の「ゲーデル」は、
実はぜんぜん違う別個の存在だ、という考えをどこまでも貫くこともできる
だろう、ということを考えている。
「ゲーデル」は、あくまでもこの世界の人間と呼ばれる部分のさらにある特定の
一部分を指す。
ゲーデル青年が生まれる前や、まだ学生のころ(いつ発見したのか知らないが)の
時点では「ゲーデルは不完全性定理の発見者だった」は、単なる虚偽(ないし
意味不明の言明)だ。
「ゲーデルは不完全性定理の発見者になるだろう」は、真偽不明の予言だ。
実際に発見したあとでは「必然的真理」だ。
もし仮にそれが歴史的に事実でないのなら、(それが将来判明しようと永遠に
知られないままだろうと同じように)虚偽だ。
それと同じように、<私>が最初から永井均でなくて他の人間であるような可能世界も
いくらでも想像できる、という(永井一派の好きな)話も、実は単なる心理的錯覚に
過ぎなくて、<私>というのはあくまでもこの世界の意識と呼ばれる部分のさらに
特定の一部分であって、永井均が生まれる前や、まだ物心つく前の時点では
「<私>は永井均だった」は虚偽(ないし意味不明の言明)だし、
物心ついてからは必然的真理なのではないか、ということなのだが。
(偽りの記憶を考えれば、それが歴史的事実に反する虚偽だという可能性もあるか。)
>>748 書いてあることが全体としてよくわからない。
ひょっとしてデヴィッド・ルイス的な可能主義を念頭においているのかもしれないが、
あの極端なルイスといえども「ゲーデルは不完全性定理の発見者だった」を必然的真
理と主張することはないだろう。
それから、永井の<私>という話はいろいろと難しいところがあるので、ここではいっ
たん横に置いた方がいいと思う。
>>748 そう考えたるとするなら、ゲーデルが〜〜だったとしたら、という仮想にどこで実質を与えるん?
それがゲーデルでないとしたら、ゲーデルの反実仮想じゃないし、
ゲーデルであるとするなら、どこまでも違うものだってことを言う根拠がないような?
あと、その想定じゃあらゆるものが「必然的真理」になるよね?
永井の<私>って、ウィトゲンシュタインが「語れないもの」と結論付けたものを
頑張って論じているいるうちに、ウィトゲンシュタイン「消去できる」と言った通り
「これ」になっちゃったものだろ。
>>751 「消去」は変態入不二の用語。これ豆知識な。
5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致することが見てとれる。独
我論の自我は広がりを欠いた点に収縮し、自我に対応していた実在だけが残される。
>>752 「ウィトゲンシュタイン(講談社学術文庫)」の、P240に
「わたくし」という語は、言語から消去することのできる語の一つである。
ってのがあるけど・・・
仮に自分が他人の内部に入り込めたとしても、結局自分が見るんだからだめじゃん
とか、おまえらも小学生くらいの時に考えていたろ?
>>751 永井の言う〈私〉や〈これ〉をそれなりに踏まえた上で批判を試みているのか、それとも
永井の言うことそのものからはかなり離れた上で何かを言おうとしているのかは不明だが、
前者だとすれば、明らかにおかしいだろう。
〈私〉と〈これ〉とは同じものなのだから、〈私〉が消去されて〈これ〉になる、なんてことはない。
(言い方とか表現の仕方という点で、「〈私〉」という表現が使われなくなって「〈これ〉」という
表現だけが使われる、ということはないではないかもしれないが。)
後者なら、説明がないと何のことかわからない。
−(前略)この講義が言おうとしていることも、やはり「言えない」ということになりませんか?
それはおそらく正しい解釈だろうと思います。
ウィトゲンシュタインの結論と一緒だぞ。
>>758 それは
>>757について言ってるの?
そこの引用部分で、何が「言えない」とされていると思ってるの?
そこで「言えない」とされているのは、〈私〉、〈これ〉、あるいは最上段等々と呼ばれているものだろう。
〈私〉だけが言えないとされて、〈これ〉やその他は言える、なんてことがあるとは思えない。
だから、その引用部分を指摘したって、
>>757の内容(〈私〉と〈これ〉は同一だから、〈私〉だけが
消去されるなんてことはない)に対しては意味がないとしか思えない。
いや、もし本当に〈私〉は言えないが〈これ〉は言える、などと論じることができるなら、
また別論だが、それはかなり説明を要するんじゃないの?
>>759 何その自分解釈?
永井自身が、「講義が言おうとしていること」って言ってるじゃない・・・
761 :
考える名無しさん:2011/02/12(土) 17:28:54 O
>>743 K氏ですね。
>>all
つ【哲学的議論のための要諦】
置いときますね。
>>755 指摘された藤本さんの本の元本は、講談社が昔に出してた、
「人類の知的遺産」シリーズの73巻。その元本だと210頁に
「ウィトゲンシュタインとウィーン学団」の一節として引用されていた。
と、とりあえず確認した。で、その「消去」はたぶん「省略」と訳された方が
適切だと思える。
ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」では、人はあらゆる記述を
アポストテオリな経験記述としてしかなしえない。つまりすべての記述は
「私が考えるに」「私の知見では」「私の経験では」「私の思想では」
「私の判断では」という枕詞を付与して書かざるを得ない。
結果、共通項である枕詞、「私」はすべて省略できる。
と言う意味だと私には受け取れられる。
どんな哲学的命題であっても、それら枕詞を付加して読み解くことができる。
よって、「コレコレは絶対的真理である」「これこれは絶対的な善である」
などという事を言ったとしても、「発言者においては」という条件構文
でしかないし、さらに、それらは受取り理解者の解釈的経験に回収されてしまう。
だから、語り得ぬ(真理・善)のごとき何かを私とは無関係に成立しているなどと語るな。
沈黙せよ。という結語にいたることになるのだろう。それは梯子の上から眺めるナンセンス。
だけれど、ウィトゲンシュタインは、まさにその「語り得ない何事か」
こそが最も重要なのである。とフォン・フィッカー宛の手紙で述べている。
永井にしても入不二にしても「わたし」「語り得ぬモノ」についての記述は
「存在論的味付け」が濃い。と私には味わい思えるけどね。どーでもよいことだな。
アポストテオリ→アポステリオリ
>>760 確かに原文(の学生の質問部分)はそうなっているが、
>>759の内容が違うと言うなら、
「講義が言おうとしていること」とは何であると考えてるの?
「講義が言おうとしていること」の中に、〈私〉と〈これ〉を区別して〈私〉だけが消去される
なんていう内容が含まれているというの?どこに?
おまいら、とりあえず今から教育テレビだ。
>>765 そう言われて見てみたが、つまらんかったぞw
いや、特別つまらないというほどでもないが、しょせんテレビの30分番組なんて
この程度だろうという範囲を、何も出てなかったと思う。
>762
原書の単語はわからんが、辞典だと
消去する=eliminieren
省略する=abkurzen
になってる。
学者がそこを間違えるとは思えんが・・・
>>767 消去と省略の違いについて。「省略」は私の語感。例えば次の二文を対照してみる。
1.整数は1を分母とする分数として記述できるが、有理化の要請から分母1は消去できる。
2.作者の紫式部は、最高敬語を最大限に多用する事により主語を最大限に省略している。
1では分母は有理化の要請から「無しでよい」。だから無記述でよい。
2では主語はあえて記述されないだけで主語で指し示される対象は依然と在る。
消去・省略の語法の差違は、記述子が指し示す対象の有無が無視できるか
無視できないかによると思える。
独我論的な独白の内部では「わたし」は「消去」してもよい。と考えていた。
と(わたしにも)解釈することができるかもしれない。俺的には「省略」を選ぶけども。
後文で、ウィトゲンシュタインは、複数の言語を併用する場合、あるいは
複数の人物が会話を交わすような場面では、「わたし」という語は重要だと指摘してる。
当該の文章が書かれた1930年当時は「哲学的文法」とか言語的・文法的な
観点から哲学考察を行っていた中期。「ウィトゲンシュタインとウィン学団」は
ワイスマンの聞き書き的記録で、一次的ではあるが本人の推敲を経ていない
文章であるから、それが本人の語法であるかの確証があるわけではないけど、
ドイツ語で書かれた語はたぶん>767の指摘の通りだと推測される。
であるとしても、翻訳とは辞書的な語の置換で済むわけではなく、意味了解は
コンテキストのニュアンス把握によって個々の翻訳者・読者に任されるものだとも思える。
だから「論理哲学論考」の翻訳本が異訳が溢れて数点にもなったりするのだろうね。
>>761 そそ。
ま、自愛性ネットボダという表現は乱暴で不適切ではあるんだが、
分かりやすさ重視で使ってみた。K氏とは何年も前のちょうど今頃、彼がC言語本を出版したころ
ジャコビニ流星雨が降る夜に、夜通し2ちゃんの某板でスレチャットしたことがある。
流星雨だけじゃなくて、野次馬連の罵声飛び交う中だったからしんどかったけど。
その時は、確か構成主義的なプログラミングの話題で意気投合するところがあった。
俺的には有意義だったな。
奴さんのネタ帳には文字コード、ネットワーキング、ツール、C言語、mac、用語法・文法、
ワイン、チーズ等々があったとオモ。並べてみると、コミュニケーション的なテーマが核になってる。
実際、ツール類の配布とかも頻繁にしてたこともあって、その恩恵に与った連中もけっこういたから
ファンも多かった。ただなんというか、独特な歪みフィールドを常時醸して出していたからなあ。
コミュニケーション不全だからこそ、徹底的にコミュニケーションの有り様を考察してみる。
という傾向性をK氏も持っていた。だから、単なるネットボダと断定したりはしないんだな。俺の場合。
ウィトゲンシュタインはある時期、コミュニケーション的観点の重要さに気づいて後期にそれを展開
する。共感(共観)性の重視はゲームやルールなどを考えることは、独我論者的傾向性を自覚する者
にはとても大切なことだと思えるし、その面では健常者wよりはるかに鋭く切り込めるはずだから。
歪みフィールド持ちで有名なAppleのS.Jobsがネット時代に入って後、i付きの製品群で大成功したの
も同じようなベクトルなんだと思える。
そういう意味で、某氏にも共感性豊かな思索を期待しているんだが、さてさて、さてさて。わは?
>>749 いやそう言われても、永井の<私>の話にはいろいろと難しいところなんかない、
(あるというのは錯覚だ)というのが趣旨なので。
それと、これは永井の教えの通り、哲学史なんか気にせず乱暴に考えたいことを考えて
みるというのを実践しているので、別に自分の考えが画期的だとか正しいとか
全く思っていない。不愉快だったらあしからず。
>>750 「ゲーデルが〜〜だったら」というのは、当然現実のゲーデルを「もとにして」
考えているのだが、そしてそう考えることは無意味でもないしある意味必然なの
だが、その考えられたものは現実のゲーデルとは全く別個の存在だ、
(まあ要するに現実世界のゲーデルの可能世界上の「対応物」だ)と考えれば、
何も問題ないと思う。)
>その想定じゃあらゆるものが「必然的真理」になるよね?
「過去の特定の歴史的事実に関する言明」については、あらゆるものが必然的真理か
虚偽かどちらかだ、と考えて別に問題ないのではないか。
(そういう意味では、たとえば「昨日あのコップの中にあった水はH2Oだった」
という言明も同様だ。「昨日<私>は永井均だった」も、何の違いもない。)
「もしもゲーデルが不完全性定理を発見しなかったら」と考えることは
意味があるし必然で必須ともいえるが、ただそこで考えられている
「ゲーデル」はどこまでいっても現実のゲーデルではないのであって、
現実のゲーデルそのものについて「もしも〜〜だったら」と考えることは、
論理的に不可能なのだ、と考えても別に不都合はないと思う。
よく「歴史にもしもはない」という言い方があるが、実際は歴史上の事実に
ついて「もしも」を考えることは不可避で、また考えないと歴史を学ぶ意味など
ない。しかし、そこではあくまでも歴史を「もとにして」「歴史でない何か」について
考えているのであって、「歴史自体」については、「もしも」を考えることは
よいとか悪いという以前にそもそも「不可能」なのだ、と考えれば、
このおかしな格言の意味もわかるというものだ。
>>770 素朴な言語的直感に基づく反論を一つ。
「もしもゲーデルが不完全性定理を発見しなかったら」という反実仮想が有意味だと
すれば、それはあくまでも「現実世界におけるこのゲーデルについて」語っているの
であって、どこか知らない可能世界でのゲーデルの分身について語っているのではな
い。
つまり、「もしもゲーデルが不完全性定理を発見しなかったら」という反実仮想は、
「ゲーデルの分身が不完全性定理を発見しなかったら」という文章と等値のはずはな
かろう、と。
この反論に対して、何と答える?
(749でも750でもないけど)
>>770 > 「過去の特定の歴史的事実に関する言明」については、あらゆるものが必然的真理か
> 虚偽かどちらかだ、と考えて別に問題ないのではないか。
そう考えることが直ちに無理だとは思わないが、それなら、そもそも、可能性とか可能世界とか
いうものを考えることに、何の意味があるの?
(実質的に
>>771の指摘と同じだと思うので、重複して恐縮だけど)
また、素朴な疑問として、例えば私が昨日の昼飯にうどんを食べようかそばを食べようか考えて、
結局そばを食べたという場合に、そばを食べたことが必然であってうどんを食べることは不可能だった、
ということになると思われるが、それはちょっとにわかには信じがたいと思われる。
(それとも、他の理解の仕方がある?)
あとは、何より、そのような考え方が永井の議論に対してどういう関係があるのか、何らかの
反論等になっているか、ということがある。
とりあえずは、そのように考えれば、「〈私〉が永井均でないことも可能だ」と考えることが
できなくなる、という趣旨だと思われるが、しかしそれを反論とするのであれば、
「このように考えることもできる」という程度ではなく、「このように考えるしかなく、永井のような
可能性の捉え方はあり得ない」とまで言わなければ、反論にならないんじゃないの?
(それとも、たんに違う考え方の提案という程度?)
とりあえず770を擁護してみる
770の立場は、存在するとか世界の中にある、今ある、過去に在った、未来に存在する、そうである
のような命題は意味が確定している(自明に使ってよい)、としないとまず意味が不明である。
根拠としては、実際俺らはその中で喋ってるじゃん、みたいな軽いノリで別によいと思う。
しかも、当人の意識みたいなのも所与で、各当人が世界を知覚、認識するという構造があるのだろう。
770の言う<私>は、こういう自明に使える意識であると考えないと、流石に良く解らない。
さらに道具立てとして、世界内のことについて(それが未来や過去であっても)指示したとき、
あと存在することに言明するのは必然的心理である、それ以外のことは意味が無いということも要求してみよう。
これには一定の理があって、意味の基盤はこの現実じゃないか、とも言えるからだ(この世界を切り取るのだ)。
と、道具立てを用意してみると
771や772の指摘する、この世界のゲーデルと等値のゲーデルに対する可能世界を考えた上で、
それを同じものではない、と棄却するのなら、可能世界ということに何の意味があるのだろうか?
ということに対して、各人の認知は所与なので、
この各人の認知がそもそも皆の言う可能世界ということを確保するのだ、と言える。
そして、それらの中でこの世界を切り取っていないものは、どんなにリアルに見えても、
意味が無いのだ、少なくともこの世界について述べていることではないのだ、とすることができる。
しかも、そういう意思を持ったということは、各人の意識が所与なので言えそうですね。
そして、772の指摘するように、前提でおおよその永井の問題は全部乗り越えて、
永井さんの問題は、単なる錯覚(各人の意識の中で”想像可能”なことに過ぎない)
と切り捨ててしまえば問題は終わりなのである。
770は全然違うことを考えているかもしれないけど、
これらの考えは極めて穏当で妥当(であるがゆえにつまらない)であって、
それでいいんじゃない? と言って終わりな気がする。
永井の問題は錯覚だとしても、同じ種類の錯覚に囚われないと考える価値がないし。
>>764 >「講義が言おうとしていること」とは何であると考えてるの?
「言えないという解釈が正しい」と永井が言っている以上
これに従うならば、何であるかを指摘することが不可能であることは自明だろ。
そうすれば、永井が論じてきた<私>も必然的に消去される。
776 :
考える名無しさん:2011/02/13(日) 18:34:07 O
>>775 なんだかよく分からないことを言ってばかりで、〈私〉と〈これ〉が区別されて〈私〉だけが
消去されるなどということになる理由は、全然説明されないねえ。
そんなら逆に、なぜ〈これ〉のほうは残ると言えるの?
そんなことがどこから読みとれるの?
>>773, >774 が同一人物であり、かつ、一連の「ゲーデルが不完全性定理を発見した」
ということが必然だ(と考えることは可能だ)と主張している人だとしよう。
申し訳ないけど、どうにも書いてあることが全体として要領を得ない。
これについては、それなりに面白い議論になる可能性があると思っているんだけど、
どうにもこうにも何を言いたいのか、もはや解読する元気を失う。
残念です。
繰り返すけど、永井のような、ある意味、非常に特殊な問題以前にもっと基礎的なこ
との学習が必要だと思う。
こういう点でこそ、永井は罪深い。
まあ、彼にしてみれば自業自得だと思うけど。
778 :
773:2011/02/13(日) 19:35:36 0
色々とごちゃごちゃ書きすぎたか、簡潔にする努力はしてみる。
・この世界に実在論を要求する(この世界は、時空的に我々から独立にある)
・各人の意識に実在論を要求する(全ての人は意識を持つ)
・意識は世界を知覚するという構造を認める(世界が在って、それを私たちが知覚する)
・言語が必然的真理かどうかは、この世界を切り取っているかどうかで判断する
・世界を切り取っていない知覚、および思考の存在を認めるが、それを有意味だとみなさない。
道具立てはこれだけ、実はこの時点でかなり重要な問題が隠れてるんだけど、置いときます。
771、772に対する反論としては、いやゲーデルについて考えようとして、失敗しただけだ、となる。
つまり反実仮想というのは各人の思考において許されるのだが、それに何の意味も与えないというわけだ。
つまり、在ったこと、在ること、これから在ること、以外に何の立場も認めないわけですな。
意思についても、各人の意識という形で実に素朴に達成されているので、
達成されなかった意思はその各人の意識の中にあったと言ってしまえばお終い。
反実仮想も実はこれと同じことですな。
永井の問題はだから、意味のある(つまり現実の中の)問題じゃないですよ、単なる錯覚、
思考上においてしか成り立ちません、だから意味が無いのです、となるわけですな。
俺は770じゃなくて、そうやって主張してきた人じゃないけど、
770の言ってきたことをこう解釈することは可能だと思う。
言うならば、素朴な二元論なわけですね。 世界が在って、各人に心が在ってっていう。
でも、やっぱり哲学してる身としては、もうすでにたくさんの問題が噴出してますな。
779 :
773:2011/02/13(日) 19:42:45 0
どうにも書いてるうちに自分で格闘を始めちゃうので、またややこしいかもしれない。
ただ、普通の人が信じてる、普通の世界観、という観点から見たら、770の話が出てくると思ってる。
世界が在って、たくさんの人々が居て、そいつらは心を持っていて、私はその中の一人でって話ね。
>>778 言い出しっぺでない人にあまり言うのもなんだけど、過去の事実に関する真理は
全て必然的真理だというような考え方って、そんなに普通なの?w
781 :
773:2011/02/13(日) 21:20:00 0
>>780 普通じゃないと思う、というか、話をややこしくしてるのがそこで、
アプリオリ/アポステリオリ、必然/偶然、という言葉の理解がかなり違うと思う。
770には「なぜ意識は実在しないのか」のp56-65を参考にするように薦めたい。
>>771 いや、あくまでも「現実世界と対応している可能世界におけるゲーデルの対応物」
について語っていることになると思う。
この対応関係が成立するのは、現実世界のゲーデルといえども生まれてすぐに
不完全性定理を発見したわけではなくて、「不完全性定理を発見していないゲーデル」
も過去の現実世界の一部分だからだ。何なら
「もしもゲーデルが〜」と考え始めるときの「ゲーデル」は現実世界のゲーデルの
不完全性定理の発見以前の部分である、といってもいい。それに触発されたので
なければ、そもそも「ゲーデル」なんて名前が出てくる理由がない。
しかしそこで「〜不完全性定理を発見しなかったら」と続けたら、そのときすでに
思考の全体が「可能世界における現実のゲーデルの対応物たるゲーデルの分身?」に
ついてのものに移行している、と考えればいい、ということだ。
(最初からそうだと言う方が正確だろうが)
「もしもゲーデルが女性だったら」とか「江戸時代の日本に生まれていたら」とか
「そもそも人間でなくて犬だったら」とかいう反実仮想と比べるとわかる。
これらの可能世界上の「ゲーデル」は、現実世界のゲーデルと何ら共通する
ものがないので、その対応物にならない。だからそもそも「ゲーデル」と呼ぶ理由が
ないし、反事実仮想としてもあまり意味がない。
>>772 いや別に可能性とか可能世界とかあるいは純然たる空想世界について考えることは
無意味ではないし、むしろ必然だろう。ただそれらは本質的に「過去を題材にして
(過去に触発されて)未来に向かう思考」であって、「過去それ自体」について
そういう思考を行うことは無意味とか有意味とかいう以前に不可能だと考えることも
できるのではないか、というのが趣旨。「もしも〜」と事実に反する思考を展開した
瞬間に、それはすでに「過去の現実世界それ自体」についての思考ではなくなるの
ではないか、ということ。
それから、この話は少なくとも個人的には決定論うんぬんとは関係がない。
未来が不確定でいろいろな可能性に開かれていても、一向に不思議はない。
というか、未来については経験が成立しないのだから、アポステリオリに真なる知識?
なんか成立のしようがあるまい。
永井への反論としては、まさに上の話で、「もしも<私>が永井均でなかったら」は、
「もしもゲーデルが江戸時代の日本に生まれていたら」と同型で、反実仮想としても
無意味ではないか、ということ。
仮に<私>が永井均以前に存在していて、一定の歴史を経てから永井均になった、
というのなら「もしもゲーデルが不完全性定理を発見していなかったら」と同じように
「もしも<私>が永井均でなかったら」も無意味ではないが、ごく常識的に<私>が
存在したときすでに永井均であったとしたら、江戸自体の日本に生まれた「その人」を
ゲーデルと呼ぶ理由がないのと同様、最初から永井均でない「それ」を<私>と呼ぶ
理由もないだろう。「それ」と、現実の<私>の間に対応関係なんかまったくないのだから。
そこで「いやいつどこの誰でも<私>は<私>なのだ」というのは純然たる心理的錯覚に
過ぎないのではないか、ということ。
>>773 あなたはたぶん私よりずっと頭がいいので、まあ賛成の部分もそうでない部分もあるが、
>>778に挙がっているような点が哲学的に問題含みなことはいくら私でもわかっているw
ただ、そういう問題は全部すっ飛ばして素朴に考えてみているだけ。
それと、「必然偶然」はそもそも書いたときに思いついたことなので当然一般的でない
のはわかっている。常識的には過去の経験的事実などいくらでも「そうでなかったことは
想像できる」のは当然だが、ただ考えてみたらそこで想像されているのは
過去の事実それ自体ではないので(まさにそれに触発された思考上の対応物なので)、
過去の事実それ自体について「そうでなかったと想像する」のは有意味とか無意味とかいう
以前に不可能なのではないか、想像した瞬間にそれは過去の事実それ自体とは別の何かに
ついての思考になってしまうのではないか、という単なる思い付き。
どうも「現実世界ー可能世界」と「過去ー未来」というのは何らかの対応関係にあるのでは
ないか、という気がする。
「なぜ意識は実在しないのか」は一応読んだのだが、さっぱりわからなかったw
もう一度読んでみる。文学の良心さんもご教示どうもありがとう。
どうにも、時間や世界を超えて、自分と同じとはどういうことか、という議論に近いね。
だから、<私>議論ではないと思う。
少なくとも、そんなものは認めない、ってした方がスッキリしそう。
<私>というのは何かを指示するのではなく、ある種の発見の操作なので。
<私>を囲んでるのって、要するに比喩的な箱なんだろ。
だったら、「これ」じゃなくて、<>にした方がセンスがいいと思うのだが。
>>783 全体的に正直理解しがたい部分が多いが、まあそれはそれとして、以下の、永井への反論と
されている部分に絞るとして。
> 永井への反論としては、まさに上の話で、「もしも<私>が永井均でなかったら」は、
> 「もしもゲーデルが江戸時代の日本に生まれていたら」と同型で、反実仮想としても
> 無意味ではないか、ということ。
これについても、正直何と言ったらいいかよく分からないが、とりあえずあえて言い切ってしまうと、
「もしも<私>が永井均でなかったら」なる反実仮想を取り上げて、それが無意味であることをもって
永井への反論としようとする趣旨がよく分からない。
反論のポイントは何なんだろうか、あるいは、永井の議論のポイントは何だと理解した上で、
そのような反論をしようとしているんだろうか。
永井は、確かに、字面上はそのような反実仮想に近い思考実験などをしてるように見えるけど、
その反論の仕方は、ポイントを外してるように思えて仕方ない。
(今振り返ってみると、私が
>>772の末尾に書いたこともいまいち的確でなかったようで、
その点は反省してるけど)
こう言うだけでは不親切すぎるかと思うので、私がポイントだと思っている思考実験を挙げると、
もし思考実験を挙げるのなら、ポイントとして分かりやすいのは分裂の思考実験だと思う。
(ポイントだとする根拠は、もし持っていれば『〈私〉の哲学を哲学する』25〜26頁あたり参照)
性質的に全く同じまま二人に分裂したのに、なぜか一方だけが私なのは、どういうことか。
なぜかそうなるのだとすれば、私の存在は永井均(という一定の性質を持った人間)の存在では
説明できないのではないか、永井均が存在しても私が存在しないことがあり得るのではないか、
というのがポイントのはず。
いくら分裂しても、空間占有権は共有できんじゃないか。
「空間占有権」とは何のことを言ってるの?
わからなくても、いちいち説明しない。
×わからなくても、いちいち説明しない。
○わからないから、いちいち説明できない。
同一性について厳密に考えたら、当然出てくる考えだと思うが・・・
まさか、批判ではなく疑問で返ってくるとは思わなかった。
「空間占有権」などという、永井が全然使っていないし意味もよく分からないような用語を使った上、
説明を全くしないということは、つまり、まともに相手をしなくていいことを自ら認めているわけね。
<私>
↑
何これ?w
>>795 一度だけ手がかりをあげよう。
「他の体を殴られても痛くもかゆくもないの
に、その体を殴られるととにかく痛い。他の目からは何も見えないのに、その目からは世
界が現に見えてしまう。他の体は動かせないのに、その体は自由に動かせる。などなど、
そうしたすべてが凝縮した身体が、なぜか一つだけあって、一つしかないんだよ。それが
《私》だ。端的にわかるだろ?」
(『転校生とブラック・ジャック』第5章セミナー1(岩波現代文庫版102頁))
いいかい、これは手がかりだから、あとはちゃんと自分で勉強するんだよ?
>>795 グランツーリスモとか、TVゲームの中のキャラがふつうのわたし。
それを操作しているプレイヤーが<私>。<私>はゲームの世界には
絶対に姿をみせないが、ゲームキャラのわたしとプレイヤーの<私>は
一心同体だったりする。
このわたしの分離は、精神分裂病の患者の症例によく見られる。という話は有名。
>あとはちゃんと自分で勉強するんだよ w
>>798 たぶん皮肉だろ。
>>796の説明だと「私」という用語を〈〉で囲む必要がない。
もし
>>796が本物の信者だったら、少し視野を拡大する手助けをしてやろう。
永井が〈私〉と書くときは、単に自我の唯一性や、心の哲学における「意識の境界問題」を示すだけでなく、
「それを語ろうとすると、語った時点で別のものになってしまうもの」という性質をその〈私〉に含ませている。
これはウィトゲンシュタインが既に「カブトムシの箱」で論証したもので、永井の〈私〉は要するに
ウィトゲンシュタインの蛇足なんだ。
いいかい、永井の本ばかり読んでないで、ちゃんと本当の勉強をするんだよ。
800 :
苫野一徳:2011/02/14(月) 22:29:11 O
竹田青嗣マンセー
竹田青嗣マンセー
竹田青嗣マンセー
竹田青嗣マンセー
竹田青嗣マンセー
竹田青嗣マンセー
竹田青嗣マンセー
竹田青嗣マンセー
竹田青嗣マンセー
>>794 永井が、「既存の哲学がひねくり回している問題にとらわれるな」と言っている一方で
「永井がひねくり回している問題」にとらわれているわけか。
たまーにウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては〜」とか
あるいは「言語ゲーム」とかで反論している人を見かけるけれど
そういう人は「私今そして神」の三章をどう考えてるのか
ちょっと気になります。。。
>>799 > 永井が〈私〉と書くときは、単に自我の唯一性や、心の哲学における「意識の境界問題」を示すだけでなく、
本物の信者(?)なら、永井の言う〈私〉がそのようなものを示していると考える人はいないと思うけど。
804 :
803:2011/02/15(火) 07:32:17 O
>>803 「本物の信者(?)なら、」
→「本物の信者(?)の中には、」
ちょっと表現がおかしかったので訂正
805 :
考える名無しさん:2011/02/15(火) 09:24:38 0
>>801 そのへんは宗教による「囲い込み」と構造が全く同じ
永井は、自分の哲学をするために、修行して教授まで登りつめているのだけれども
信者の方は、何か抜けてるのが多いんだよな。
永井と信者の関係は、教組と信者であると共に
ゲームのクリエーターとゲームのプレーヤーの関係にも似ている。
私はそれを「永井ゲーム」と呼ぶことにする。
しょっぱいゲームだなw
単純に、誰も知らない箱の中というものが何故一般的にあることになっているのか?
という点を無条件にウィトを受け入れている人に聞いてみたいところ。
お、プレーヤー登場?
言語ゲーム説に従えば、「意識」というものがあるかないかはさておき
「意識」という言葉で、コミュニケーションが成立するならば
そのコミュニケーションにおいては、「意識」という言葉が、それなりの意味を持つものとして存在し得る
ってことになるんじゃないかな。
ある≠存在しうるなのね。 コミュニケーションが成立しているというのは間違いなくて、
実際に意識って存在し得ることになってるわけだけど、やっぱ誰も見たことないよね。
すると、ない、少なくとも、あるかないかわからない、ことが存在し得る
となってなかなか味わい深いことになるね。
言語表現はできても、実際に存在しないものなんて山ほどあるでしょ。
言われてみるとその通りだね。出来れば具体例を挙げてほしかったが、
ともあれ、意識もそういうものだと片付けるけどいいかい?
スレ違いだけど、ウィトゲンシュタインの入門書には、何がいいんだろうか。
(永井の『ウィトゲンシュタイン入門』以外でという意味)
飯田隆、鬼界彰夫、入不二基義、A・C・グレーリング、アンソニー・ケニーを
一応読んだことがある(ような記憶がある)けど。
あんまり覚えてないものは、むしろ読み返すべきか。
片付けてよくはないでしょ。
意識という言葉でコミュニケーションが成立し得ない場合は、そうではないんだから。
脳科学の場合は、「存在するのではないか?」という憶断を前提として研究しているわけだが
まだ解明されていないのだから、研究が成功するかしないかはわかりようもない。
半永久的に失敗し続けるかもしれんしw
>>814 ハゲてる現在のフランス国王とか?w
そういう趣旨じゃないよな、すいません
言語表現できるけど存在しないものって、言いかえれば
コミュニケーションが成立するが、存在しないもの、って意味じゃなかったの?
じゃないと、「言語表現はできても、実際に存在しないものなんて山ほどあるでしょ。」
という反論が何を論駁しようとしているのか解らなくなっちゃうような?
それは、何かを論駁しようとしていないからではないか?
コミュニケーションが取れて存在しないのが変だね。
いや、そういうものは山ほどあるということなので、変ではない、ということじゃなかったの?
まあ、別に論駁でなくても構わないんだけども。
なぜか、「意識」という抽象概念を表す言葉が成立しており
多くの場合、その言葉をもって、コミュニケーションが可能である。
というのは、おかしなことでもないだろ。
科学は、帰納的推論でもって、状況証拠から「ホシは脳にある」って捜査してるんだろ。
その帰納的推論は、道を大きく外れたものではないと思うけど。
永井方式は、演繹的に一気に枠を捉えようとしているから、そもそも方法が異なる。
だから、コミュニケーションの成立は認めてるよ?
意識概念を巡るゲームが成立していて、かつそれを誰も見たことが無い。
これほど奇妙な話は無いと思うけど、、、
あと、誰も見たことがないのに、帰納的に推論するって、何を何に帰納するんだろうか?
何に、の方は確かに脳なんだろうけど。何が帰着されるんだろうね?
ウィトゲンシュタイン入門には黒田亘を読むのがいい。
日本のウィトゲンシュタイン研究は黒田の影響が大きく、
永井もまた影響を受けている。
で、黒田がうまく読めなかった晩年の著作に注釈をつけた、
というのが永井の出発点だった。
>>824 状況証拠から、帰納的に推論してるんだから、概ねどのようなものかがわかっていればいいじゃない。
「なぜか「意識」という言葉でコミュニケーションが成立する」ってのも、状況証拠の一つになり得るし。
「それと全く同じではないだろうが、ほぼ同じであろう「意識」と呼ばれているものが、自分以外にもあるはず」って推論も妥当だろ。
エーテルでは失敗したけど、「帰納的推論から、そこに○○があるはず」ってのは、科学ではよくやることだよ。
最初から「明白な何かがある」ってわかっていたら、知的能力を傾注して追究する甲斐が無い。
また逆に、よくわかっていないからこそ、「科学的解明の過程に従って、意識の再定義がされてゆく」ってことも十分考えられる。
例えば、ダークマターとか、「何があるのか、本当にあるのか」わからんから、研究者が燃える。
考えてみれば、ダークマターとか、復活したエーテルなのかもしれんな。
ちなみに、「その人がその人である」ってのは、ロボトミー手術の大失敗例からわかるように、前頭葉が司ってるんだろうな。
また、脳が萎縮すると認知が低下するんだから、脳の解明に焦点を当てるのは極めて妥当なことだよ。
最近は、科学の方が、常識外れの成果をもたらすことがあるし、何が起こるかわからんよ。
こういう考えは、楽観的な科学信奉者になるのかな。
>>809 >誰も知らない箱の中というものが何故一般的にあることになっているのか?
カブトムシの箱の論考がわかってない。
「あるかどうかもわからない」というのがウィトの論点だ。
293. 私が、自分についての場合からのみ「痛み」という語が何を意味するのかを知る、
と言うとき、 ―― 私は他人についても同じことを言ってはならないのか? もし言っても
よいのだとすれば、どうすれば一つの場合をそんな無責任に一般化することができるのか?
さて、人は誰でも、自分の痛みからのみ痛みが何であるかを知る、と語る!
―― 各人が一つの箱を持っていて、その中には私たちが「カブト虫」と呼ぶものが入っている、
と仮定しよう。誰も他人の箱の中を覗くことはできない。そして誰もが「私は自分のカブト虫を
見ることによってのみ、カブト虫が何であるかを知る」と言う。 ―― しかし、各人が持っている
箱の中にはそれぞれ異なる物が入っていることだってありうるのだ。それどころか、箱の中の物が
絶えず変化しつづけるということさえ想像可能であろう。 ―― さてしかし、この人々の
「カブト虫」という語がそれでも一つの使用を持っているとしたら? ―― その場合、
その使用は一つの物に対する記号の使用ではないだろう。箱の中の物は、そもそも言語ゲームに
属していない。のみならず、それはある何かですらない。というのも、箱は空っぽでも
ありうるからである。いや、言語ゲームはこの箱の中の物を通して「短絡させる」ことも
可能なのである。箱の中の物が何であろうと、それは消え失せてしまう。
つまりこういうことである。人が「対象と記号」という見本に従って感覚の表現の文法を
構築するとき、対象は当の考察から無関係なものとして抜け落ちてしまうのである。
>>826 >>「それと全く同じではないだろうが、ほぼ同じであろう「意識」と呼ばれているものが、自分以外にもあるはず」って推論も妥当だろ。
一番大事な問題はここです、この「自分以外」の自分って誰ですか? あなたですか、私ですか、我々ですか?
いきなり我々と言ってよいのなら、問題はそのことでいきなり乗り越えていることになります。 トートロジカルです。
あなたの、と仰るのなら、私はそれを知りません。 私の、と仰るなら、何故そのことを知っているのですか?
ここには重大な飛躍があるのではないでしょうか?
>>ちなみに、「その人がその人である」ってのは、ロボトミー手術の大失敗例からわかるように、前頭葉が司ってるんだろうな。
「その人がその人である」、と「その人に意識がある」というのは別問題ではないでしょうか?
例えば、死んでしまっても(意識を失っても?)、クレオパトラはクレオパトラです。
また、ロボトミーをしてもその人はその人でしょう。
確かに、何らかの機能が失われるのは確かでしょうけど。
それを意識やその人であることと同化してしまってよいかどうかは別の問題ではないでしょうか?
>>827 ご指摘ありがたい、ただ、問題はそれでも同じ提起になって、
「あるかどうかもわからない」ものがどうして一般的にある(=コミュニケーションが成立する)のか?
それが(漠然とさえ)わかっていないものなら、あるなしを言えないはずです。
逆に意味が(漠然とでも)わかっていて、あるかどうか判らないなら、これは不思議だと思われます。
>>827 ウィトゲンシュタイン カブトムシでぐぐればわかると思います。
コミュニケーションに「箱の中身」は関係ありません。
箱に貼ってある「ラベル」が言語なのです。
>>787 いや永井はよく「<私>が他の誰でもなく永井均なのはいかなる理由もない単なる奇跡だ」とか
言うから、「最初から永井均でない<私>は思考実験としても意味がないのだから(あると思うのは
錯覚だから)、理由がないのは当たり前ではないか」といっているだけだが。
その点では、分裂の思考実験も同様の単なる心理的錯覚に基づく混乱(悪く言うとごまかし)
だと思う。
とにかく、永井流の<私>について考えるときは、一々「いつの時点の」「どの私」のことを言っているのか、
を明確にする必要がある。
私が分裂したケースでは、分裂前の過去の時点t0の<私>と、分裂後の現在の時点t1の
<私A>と<私B>がいる。永井は最初は<私t0>の視点で考え始めながら、すぐに
<私t1A>または<私t1B>の視点に移って考えている。そして両者の区別をあいまいにして
「私はなぜかどちらか一方の唯一の私だ」と話をつなげるのだが、分裂後のt1の時点では、
<私t0>はすでに存在しないのだ。逆に<私t0>が存在する時点では、<私t1A>も<私t1B>も
存在しない。
これは分裂とはぜんぜん関係がなく。単に「過去(未来)は現在には存在しない」という、当たり前のことに
過ぎない。分裂しなくても、<私t1>が存在するときは<私t0>はすでに存在しない。ただ、
<私t1>が「自分は過去には<私t0>だった。」という記憶を持っていて、そう主張するに過ぎない。
また客観的にもその主張は正しいと認定されるだろう。
分裂の場合は、「自分は過去には<私t0>だった。」という記憶を持っている人間が2人いるという
違いがあるだけだ。<私t1A>も<私t1B>も、どちらも「自分は分裂して、なぜかこの<私>に
なったのだ」と感じるだろう。そして、どちらの主張も客観的にも正しいという他はない。
(コピーの場合だったら、コピーの方の主張は実は間違いだということになるだけの違いだ。
コピーにとっては「世界5分前創造仮説」みたいなことになるだろう。)
そして、当然ながら、どちらも<私t0>の正当な後継者?である<私t1A >と<私t1B>は、
互いに相手をまったくの他人だとみなすだろう。「2つ」に分かれているのだから、当たり前である。
結局、過去には1つだった「永井均」と<私>が、分裂して2つになりました、というだけの
話だ。ここには<私>固有の問題もなければ、深遠なところも神秘的なところも何もない。
煎じ詰めると、この思考実験は、「<私>が同一時点で2つ存在することはあり得ない(そういう事態は
想像できない)」という、当たり前のことを言っているに過ぎない。「一方だけが私なのはなぜか」
と聞かれたら「あなた自身が2人いるということは、論理的に想像不可能でしょう。世界中の誰に聞いても
同じですよ」とでも答えるしかあるまい。
それから、未来に向けて「永井均が存在しても私が存在しないこと」またはその逆は、たしかに
あり得るし(単に永井均が眠るだけでもそうなるとも言える)、別に永井的問題とは関係ないと思う。
>>831 >>832 とりあえず、<私>と永井均(などの人物)は違うものなの?
同じものだ、というなら、永井均は永井均が〜〜となって無意味だから良いとして、
<私>に何らかの内容を与えてるんだろうけど、それは何を想定してるの?
>>829 「わからない」「不思議だ」とか言い続けても、何の生産性もないじゃん。
「何かありそうだ」と考える知的専門家がそれなりにいるから、脳科学とか盛んなわけで。
例えば「神が存在しないことの証明」とか、必死にやる人いないでしょ。
>>834 だから、その脳科学が何を見つけようとしているのかという話ですよ。
例えば、ミクロなものは確かに科学の進展によって発見され、”見れる”ようになった。
でも、それが見れるようになったということが何を意味するかを理解していますか?
”ミクロの世界がこうなっていれば、こういう結果が返ってくる”という仮説を立て、
皆で共有し、その結果を実験によって得て証明するというプロセスを経るのです。
ところが、意識の問題には”意識がこうなっていれば、こういう結果が返ってくる”、
という仮説を立てることが出来ない、当の意識が何なのかわかっていないからです。
>>833 「カブト虫の箱」の比喩を援用していえば、<私>はカブト虫が入っているはずの「箱」。
その箱には生まれてこのかたのア・ポステリオリな経験・知見などの一切合切がはいってる。
もちろん<私>という意味理解やら語法の一切合財も入っている。箱は言語の限界、すなわち世界
の限界。哲学的な自我を意味する。そこで、この箱の中身全部を廃棄してみる。ぜーんぶ捨てちゃう。
そして中身を空にしたとする。そうすると空箱としての<私>だけが残るの。
5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致することが見てとれる。
独我論の自我は広がりを欠いた点に収縮し、自我に対応していた実在だけが残される。
ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で語った、独我論の徹底の結果、実在だけ
が残された自我が、この空箱。もちろん、この空箱にはすでに<私>という語法、思想
の一切も残っていないから、この空箱を指差して<私>ということはできない。
あくまで無意味な比喩、糞洒落としてしかそれは言い表せない。
ちなみに、仮に箱に「<私>という永井ゲーム」というゲームセットが入っていたとしても、
異なるはこそれぞれの「永井ゲーム」に同一性はおろか類似性の保証さえもない。同じように
見える文字グリフが見えたとしてもそれは錯覚かもしれない。らしいよ。w
わからないから研究してるんじゃない。
素粒子だって、見てるわけじゃなくて、理論と検出結果が合致しているんだし。
研究が進むにつれ、画期的な理論や検出方法が編み出されて、多分わかるようになるだろ。
838 :
836:2011/02/16(水) 23:32:25 0
異なるは ←削除
「意識」って言葉で何を指しているのか「全くわからない」なら、黙ってればいいのにな。
840 :
836:2011/02/16(水) 23:34:50 0
異なるはこそれぞれの→異なる箱それぞれに入ってる
>>837 その理論を発見するプロセス自体は、実験などではないでしょう。
そして、何を意識と見なし、何を検証するのか、ということを、
ずっと考えているわけですよ、そこを不思議と言っているんです。
>>842 ただ考えているだけじゃ埒が明かないから、脳というブツに当たるんじゃないの。
>>836 比喩表現では解らないです。 あまり上等な比喩でも無いですし。
あと、自我なるものが全ての人にあるという、想定は概して素朴過ぎるんじゃないでしょうか?
だって、誰もそんな”誰もが持っている”自我、見たことが無いのですよ。実のところ。
>>843 だから、その脳というブツに当たって、意識と連関が取れるんですか?
解るのは、せいぜい、知られていない物理的な構造や成分じゃないでしょうか?
意識素みたいなものが出てくるという話なんでしょうか?
いや、「直接的に意識を指す具体的な何か」が見つかるとは限らんから。
「脳の働きにおいて見出される関係性を意識とする」という形になるかもしれんし。
哲学的な思弁より、具体的な脳研究の方がはるかに実り多いぞ。
>>846 その言い方は既に、意識を実体化していますね、先ほど疑問を投げたように、
誰もが見たことがある意識に立場を認めません。
また、そこに飛躍があることも述べています。 詳しくは
>>829 で。
>>831、
>>832 > 分裂の場合は、「自分は過去には<私t0>だった。」という記憶を持っている人間が2人いるという
> 違いがあるだけだ。<私t1A>も<私t1B>も、どちらも「自分は分裂して、なぜかこの<私>に
> なったのだ」と感じるだろう。そして、どちらの主張も客観的にも正しいという他はない。
その想定で、現に私が〈私t1A〉であったとする。
そうすると、私t1Bは、記憶内容も身体の性質も分裂直前時点での空間的位置も全く同一であって、
重要な点・本質的な点では、〈私t1A〉と全く同一であるといえるのに、なぜか〈私t1A〉だけが私だという
決定的な違いが生じている。
なぜそんな決定的な違いがあるのか?この決定的な違いはどういうことなのか?
というところを、永井は問題にしていると思う。
「どちらの主張も客観的に正しい」というのは、それ自体はそのとおり(つまり、どちらも、もともとの私が
なぜか分裂してしまって今に至るという点では全く対等)だが、まさにそうであるからこそ、現に私であるのは
〈私t1A〉のほうだけであって、もう一方は、内容的には全く対等であるにもかかわらず、他者でしかない、
というのが問題。
この違いを検討せずに、「どちらの主張も客観的に正しい」などと言うことが批判になっていると思うなら、
全くポイントを外しているとしか言いようがないと思う。
永井の議論自体とは全く違う何かを言おうとしているなら、「ご自由に」としか言いようがないけど、
そうでないなら、少なくとも、永井の本の言及あるいは引用ぐらいはして、何を反論しているのか、
反論する理由は何かなどを、くわしく説明してもらえませんかね。
849 :
考える名無しさん:2011/02/17(木) 00:52:01 0
永井信者は日本語を勉強してから書き込んでくださいね。
>>847 話はちょっと変わるが、永井の本で安易に「神」が出てくることはどう思う?
俺の考えでは、ちょっと待てと。
「意識」はコミュニケーションとか脳とか、何となく手がかりはあるが
「神」は何の手がかりも無いだろうと。
「意識」はそんなに納得できないのに、「神」はそんなに簡単に反則的に使うのかと。
その時点で、俺的には永井の議論の説得力が8割減になってる。
>>850 神って、そもそも世界が存在していることとか、私が存在していることの奇跡を、
説明できないから神で与えてしまうというものだったよね?
別にそこまで突飛じゃないと思うけど、、、 何を所与にするのかって話だよね。
永井教乙
>>851 「神」も、見えると言い張る人以外は見たことが無いし、確かめようも無いんだが。
ほぼ同じ立場の「意識」について議論する際に、「神」を安易に使ったら反則だと思わん?
>>853 そもそも、神の話が出てきてるところって、議論の本筋には関係なくて
お前らこうなってんだぞというより、そこに難点があると示してるんじゃなかったか?
IDもコテも無いので、誰と誰が争っているのか、よくわからん。
全部独り言のように見えなくもない。
>>854 神の存在証明に関する部分はまあいいとして、「神の創造場面でイメージするとわかりやすい」
と言われても、引っ掛かってしまい、むしろわかりにくい。
他の本でも「神の視点で」ってのがあると、どうしても引っ掛かってしまう。
>>836 > 「カブト虫の箱」の比喩を援用していえば、<私>はカブト虫が入っているはずの「箱」。
> その箱には生まれてこのかたのア・ポステリオリな経験・知見などの一切合切がはいってる。
(中略)
> そこで、この箱の中身全部を廃棄してみる。ぜーんぶ捨てちゃう。
> そして中身を空にしたとする。
そのようなことをしたら、全ての知識や記憶を失った記憶喪失の人間が誕生してしまうんじゃないの?
話の一部だけ取り出して、かつ中略したことが、乱暴だということは自覚してるけど。
ウィトゲンシュタインは、一風変わった比喩を使うものの、SFじみたことは主張していないと思うが・・・
「神」という語が気に食わないなら、「我々に理解できることがなんでも実行できる存在者」とかに
置き換えればいいんじゃないかと。。。
そのような存在者になら「記憶などの同一性を捨てて<私>だけが移動する」という事態を引き起こせるか?
という問いがカント原理とライプニッツ原理の対立軸を描いて見せるのに必要だったわけで。。
>>857 >そのようなことをしたら、全ての知識や記憶を失った記憶喪失の人間が誕生してしまうんじゃないの?
たとえば、死んで土葬されて、地中のバクテリアに脳神経肉体の一切を食い荒らされたり、
火葬されて、カルシウム主成分の灰と化してしまった死者、あるいは死後の「わたし」を
想像・想定してみれば、「中身が空っぽの箱」という比喩はさほど乱暴ではないでしょ?
アニミズム的な死生観では霊魂と肉体とを二分するよね。そして誰もが肉体は消滅するだ
ろうことを知っている。しかし「霊魂」はどうなるのか。実在論者なら霊魂の存在に根拠
を与えて考えるだろうし、唯名論者なら「霊魂」とは脳神経の電位差がかもしだす幻影で
肉体の機能停止で霊魂もどきは消滅すると考えるかもしれない。
永井の<私>を不滅な霊魂説に類似した考えと解釈するなら、それはもはや宗教の語り。
それは永井教だろう。でも、そうじゃなく単なる唯名論的カラ箱。だと解釈することも
できる。かもしれない。永井が安易に「神」を持ち出してつまらない思考実験を行うの
がダメ。というダメ出し指摘が上でされてるけど、メタフィジックスと宗教の境界を
きっちり示さない。あるいは不分明のまま読み進めざるを得ない。という点は奴さんの
難点のひとつだろうね。
>>860 > たとえば、死んで土葬されて、地中のバクテリアに脳神経肉体の一切を食い荒らされたり、
> 火葬されて、カルシウム主成分の灰と化してしまった死者、あるいは死後の「わたし」を
> 想像・想定してみれば、「中身が空っぽの箱」という比喩はさほど乱暴ではないでしょ?
そんなこと、本気で言ってるの?
死者と、普通に生きている人間と、全面的記憶喪失の人間(これは私の解釈だから、
違うのかもしれないけど)を区別しない、あるいはどう区別するのか分からないような比喩なんて、
乱暴すぎて話にならないと思うけど。
いや、例えば何らかの宗教的信念など(人は死ねば無に帰す、とか)を語りたいのであれば、
また話は別だけど、そうでないなら、〈私〉の議論であれ、あるいは意識一般についての
議論であれ、そんな比喩は全く役に立たないのは明らかだと思うけど。
例えば、「意識とは、外に現れた行動等が全てであって、内面的な意識などは存在しない。
あるいは問題にならない。」というような考え方だって、普通の人間と全面的記憶喪失に
なってしまった人間を区別しないわけはないと思うし、まして死者を区別しないなんて
あり得ないだろう。
永井信者は頭がイッとる
まあ、多少なりとも頭がイッてないと、ついていけない世界ではあるからな。
そういうのに価値を見なす自分はひょっとして、いや確実に変なんじゃないか?
と思いながらやっている面はあるな。 楽しいからいいんだけど。
>>861 わけのわからん思考実験より、「脳を研究して「意識」と呼ばれているものの一端に迫ろう」
という試みの方が、はるかに理に適っていると思うよな。
>>864 そのような話が、
>>861の内容や、永井の議論と、どう関係するの?
わけのわからん同意の求められかたをされても困る(同意を求めたのでないのなら失礼)。
866 :
865:2011/02/18(金) 08:46:23 O
>>865 「同意の求められかたをされても」
→「同意の求めかたをされても」
日本語が変だった、失礼。
もっというと、「わけのわからん話に同意を求められても」と書くほうがよいか。
わけがわからないとまでは言わないが、
哲学の思考実験はわけがわからん、対して科学は理に適っている。
と無条件に言われても、同意はしかねるなぁ。
理由もいくらか書いてるみたいだけど、ブツに当たってるとか、
思弁的でなく具体的である、とか繰り返すばかりで、
それらの事実が何故妥当なのか述べてくれないんだもん。
こうしてみると
「意識なんてわけがわからない」と主張している方が、「何か」を必死に守ろうとしていて
逆に、「いやそんなことない」と主張している方が、「ほとんど何も無い」と考えているようにも見える。
カントの自由論を一歩も出てない解釈だな。
チャーマーズの心の哲学を批判する意味がない。
永井が木村敏を直接批判してる文章ってある?
>>871 それは、鋭い視点。興味深いね。
ただ、その批判の論点は、半分くらいは想像できそうだけど、でも時間論も絡めれば
面白くなるかも。
>>865 アンカーミスとかなにを云いたいのかよくわからないが、
ま、別に同意を求めたわけじゃないので。
>>861 永井本人でさえ、独在論の解説について成功していると考えたことはない。
とかいう話だから、読者が奴さんの考えをまく把握するのは難しいかも。
>861がアンチなのかシンパなのかは知らないが、「私」を一般論・客観的に
語ることは永井にとっては「頽落」だということらしいよ。
「魂に対する態度」という本の、同名の文章があって、そこに
>>860に書いた内容と通ずる部分があるので、以下に引用。P229-239。
生まれた後において人間が同一性を保つためには、身体の時空的連続性か記憶を中心とする
心理的連続性か、少なくともどちらか一方が維持されていなければならない。前者を失い、
後者だけが別の身体類似物に移植された人物、後者を失い、完全な記憶喪失と性格喪失を
体現した人物、そのどちらの人物も元の人物と同一人物であると言える根拠がある。
しかし、二つの条件を同時に両方とも失った人物には、もはや元の人物と同一人物であると
言えるどんな根拠もない。ところが、伝統的な‐‐「魂」の定義においては、この二条件を
双方とも失った場合にも、ある人物の魂はその人物の魂であり続けることがでぎるのである。
死後、人は身体を失い、レーテ河を越えて現世の記憶をすべて失っても、なお魂の持続ゆえに
自分であり続けることがでぎるのである。ということはつまり、同一性はこの場合、その人物の
いかなる性質とも独立に成り立っている、ということである。死後の生(afterlife)は、
そのような条件のもとに考えられているのである。
しかし、この観念には明らかな矛盾がある。死後において心魂は複数個存在する以上、
それらのうちどれが自分の魂であるのかを、人はいかにして知りうるのか。もはやどんな
手がかりもないはずである。この矛盾を解消するには、魂が「最も重要な意味において
隣人を持だない」ことを認めるほかはあるまい。本質的に複数性が問題となりえない存在者に
関してなら、同一性を問題とする必要もないからである。そのように認められた魂を、
〈魂〉と表記することにしよう。魂はその本質規定を維持するためには〈魂〉であるほかはなく、
その場合、それは〈私〉と一致せざるをえないのである。
P229-239 → P229-230 死後において心魂は → 死後においても魂は
>>873 > >861がアンチなのかシンパなのかは知らないが、「私」を一般論・客観的に
> 語ることは永井にとっては「頽落」だということらしいよ。
それはもちろん知っている。永井自身がそういう趣旨のことを何度も書いてるのだから。
(もうちょっと微妙なことを言ってるんじゃないかとも思うけど)
永井はそのことも含めて本を書いて議論し、シンパ(?)も、ちゃんとしたシンパ(?)であれば、
そのことも含めて本を読んで議論しているのは当然だと思うけど、それがどうかしたの?
> 「魂に対する態度」という本の、同名の文章があって、そこに
>
>>860に書いた内容と通ずる部分があるので、以下に引用。
本当に「通ずる」と思うなら、どこがどう「通ずる」のか、よりくわしく説明してもらえないかね。
>>874の引用開始部分の直前(同じ229頁の中)に、
「〈私〉には、この意味での「魂」に似た面が確かにある。しかし、まったく似ていない面もあ
る。(中略)
似ている点はどこか。
それは、いわゆる「霊魂の不滅」という信仰によく現われている。〈私〉が不滅であると言うので
はない。それはおそらく不滅ではないであろう。」
とあるし、全体の文脈からしても、死後も存続する不滅の魂などという話と直ちにつながるか
どうかは、かなり疑問だけど。
ついでに、人間の同一性の基準などの問題と〈私〉との関係については、『転校生とブラック・ジャック』
以降の本ではさらにくわしく議論されているのに、わざわざ『〈魂〉に対する態度』を出して
くることも、シンパ(?)としてはかなり疑問。
>>873 ついでに、これはどうでもいいことだけど。
>
>>865 > アンカーミスとかなにを云いたいのかよくわからないが、
> ま、別に同意を求めたわけじゃないので。
>>865では、アンカーミスなどしていない(日本語が変だったのは確かだが)。
アンカーミスをしたのは
>>864だったという話を
>>868がして、その話はそれで終わったのかと
思ってたけど。
なぜ、さらに
>>873が「同意を求めたわけじゃない」と訂正するのか、よくわからない。
(
>>864、
>>868と
>>873が同一人物?それにしては文脈等が変だが)
まあ何にしても、同意を求めたのでないなら、
>>865は無意味だったので撤回します。
ついでに、シンパ的(?)疑問を思いついたので、書いてみる。
比較的古い本には〈魂〉や《私》という表現が出てくるけど、これらと〈私〉との関係の話は、
つまりは、累進構造の最上段と二段目以降の関係の話と同じなのではないか、という気がする。
そうだとすると、〈私〉と累進構造の議論があれば、あとは、それと別の〈魂〉や《私》という表現は、
もう不要だろうか。
むしろ、何か別の意味に誤解される可能性があるとすれば(というか自分も最近まで
誤解していた感じもあるので)、〈私〉と累進構造に絞って議論したほうがよいのでは。
もちろん、どっちであろうと実質的に同じだということは、よく読めばわかると思う(自分も
反省している)けど。
でも最新刊で、青山拓央は積極的に《私》を使っているようにも見えるので、
さらによく読んでみるべきか。
880 :
考える名無しさん:2011/02/19(土) 16:11:08 0
a
881 :
考える名無しさん:2011/02/19(土) 16:15:19 0
識別できない差異について有意味に語ることがでできるのは
わたしたちが神の概念を信じているからだ、と永井先生は
おっしゃっているのです。
ですから先生の議論に神がでてくるのは当然なのです。
「神についての議論を含むような議論は、神についての議論を含んでいる。」
分析的真理?
>>848 前半は永井の「私の分裂」の思考実験の意味としては見当違いではないか。
分裂後には、<私t1A>と<私t1B>は同一の世界にあって空間的位置が違うのだから、性質が同じで
あろうとなかろうと、全然別の固体だ。(それが「2つに分裂する」という意味なんだから)
そして、永井は「私が永井均である」の意味として「なぜか永井均の目だけから見える、
永井均の手だけ動かせる、永井均を切られると痛い」等々を挙げるのだから、<私>がAの目だけで
見えてBの目では見えないのだったら、私はAであってBではないのも当たり前だ。そこに問題なんか
ありようがない。それに、その話であればまったくそっくりの双子の例でも、偶然にも私と全く同じ
性質の人間がいました、でも何でもいいので(まったく性質の同じ別の人体なんて、論理的には
いくつでも存在し得るのだから)、わざわざ私が分裂する必要がない。
「私の分裂」の思考実験の意味は、私がAとBに分裂した場合、
1.私は現にAであるかBであるか、どちらかでしかあり得ない。
2.どちらであるかは、そのときになってみないと決してわからない(予測できない)。
3.どちらになっても、そのことにはいかなる理由も原因もあり得ない。
だから、「ここにはどうにも説明のつかない神秘がある」とか、そういう話になるわけだ。
しかしよく考えると、<私t10>が存在しているときは<私t1A>や<私t1B>は存在しないし、
<私t1A>や<私t1B>が存在しているときは、<私t10>は存在しない。だから、分裂前の
<私t10>の視点に立ちながら、「私は現にAであるかBであるか、どちらかでしかあり得ない」という
言い方がすでに根本的に間違いなのだ。「<私t1A>と<私t1B>はまったく別の私だが、
主観的にも客観的にも(すでに存在しない過去の)<私t10>と同一の私だ。」で、何も矛盾もないし
問題もない。<私t1A>の視点に立てば<私t1A>が世界で唯一の<この私>=「世界がここから開けている
原点」だし、<私t1B>の視点に立てば<私t1B>がそうだし、他の誰の視点に立っても同じことだ。
<私>が出てきたら常に「それはいつの時点のどの私のことですか」と聞き直せば、永井の思考実験は
ほとんど意味がないとしか思えない。永井はおそらく「そういう言い方は<私>の意味を誤解している」
とか言いそうだが、永井のおかしいのは、「いつの時点の誰でもない、とにかく絶対的な<私>」みたいな
ものを漠然と想定していながら、「現に私は永井均である」とか都合によって言い出すことだ。
<私>も徹頭徹尾この現実世界の特定の一部分に過ぎない、と考えれば(そうとしか考えようがないと思うが)、
それですむ話だろうに。
>>883 そもそも、何で、私はAであってBでないのは当たり前なのか?
その時に、私がそいつである、というのは何を目印にしているのか?
という点が問題にされているのだから、その批判は的外れ。
いつの時点の誰かが私である、ということを自明にしてよいのなら、問題は乗り越えられてる。
>>883 分裂の思考実験は、性質を目印にしている、ということを棄却するために用いられてる。
あと、時点についてだけど、過去や未来を貫いて時空が存在すると考えるのなら、
特定の時点だけが今である、ということは何を目印にしているのか?
これもまた問題の一つ。 そこを理解せずに、その目印を自明に使っている批判は無意味としか言いようが無い。
んー、誤解があると思うのだけれど
例えば永井は「転校生とブラックジャック」の文庫版のあとがきで
「ここで論じられている問題は「何故よりによってこいつが私なのか」という問題ではない」
という形で、そういう問ではないことを強調してるわけですよ
問題の中心は、そもそも<私>が存在しているのはなぜなのか、ということなわけで
あと、「過去の<私t10>と同一」と言っているけれど、同一性を論じるのなら
既にカント原理(何かしらの内容におけるつながり具合)を前提してしまうわけで
そしたらライプニッツ原理が見失われてしまうのは当たり前のことじゃないかなぁ
>>883-884 永井の議論を本当に批判したいんだったら、まず、あなたの言う「永井の「私の分裂」の思考実験」とは、
どの本の何頁のことを言っているのか、明示してくれない?
悪いけど、はっきり言って、『転校生とブラック・ジャック』や『私・今・そして神』をちゃんと
読んだ上での批判なのかどうか、全然分からない。
目立つところで言うと、
> それに、その話であればまったくそっくりの双子の例でも、偶然にも私と全く同じ
> 性質の人間がいました、でも何でもいいので(まったく性質の同じ別の人体なんて、論理的には
> いくつでも存在し得るのだから)、わざわざ私が分裂する必要がない。
とあるが、それは、以下のような記述を読んだ上で言ってるの?
(引用する趣旨は言うまでもないと思うけど、永井自身が、必ずしも分裂の思考実験で
なくてもよいことを含んで議論していることを、知った上で言っているのか、ということね)
「世界に一人だけ、このぼくという、
他の人たちとまったく違うあり方をしているやつがいる、これはどうしようもない端的な
事実ですよ。そして、Eという人間であるということがその特別さを作り出しているので
はない、ということも自明です。それは、分裂の思考実験で確認されていると思いますけ
ど、そんな難しいことをしなくたって、顔かたちから考えることまで、ぼくにそっくりの、
ぼくの双子の弟が、ほんの少しもぼくでないということを考えるだけで、明らかなことで
すよ。」
(『転校生とブラック・ジャック』第5章セミナー3、岩波現代文庫版155頁)
「私が分裂する場合から考えよう。どちらかがマッド・サイエンティストにつくられた精
確な複製体であってもかまわないが、まったく対等の条件で分裂するほうがよけいな問題
がなくていい。」
(『私・今・そして神』120頁)』
複製体じゃなくて、複製意識を作ってもらった方が早いんじゃね?
複製体を作るのではなく「複製意識」を作る、などということを、どうやってするのか?
というか、それは何をすることなのか?
本気で言ってるのなら興味深いですな。
思い付きで書いたが、ちょっと考えたてみたら、色々話がふくらむなw
意識複製って、コントロールが増えたら”ツイン・マン”で、
そうでなかったら、何を複製したのか全くわかんなくなるねw
いやそもそもそう言えるのだろうか?
「私」とか淫祠邪教の一種だろ。くだらん。
信仰の対象を物にする物理主義がくだらんように、
私にするのも吐き気がするくらいくだらん。
クダラニストのお前が気にっているものは何?
>>885 私がそいつである、という目印は、永井自身が言っている通り(講演で直接聞いたこともある)
「そいつの目だけを通して見える、そいつの手だけが動かせる、そいつが切られると痛い」とか、
そういうことだろ。で、AとBは性質は全く同じだとしても全く別個の人体なのだから、
常識的にAだけについてそれが言えるなら私がAであってB(あるいはBの私)でないのは自明だし、
Bだけについて言えるなら私がBであってA(あるいはAの私)でないのは自明だ。常識に反して
AB両方についてそれが言えるなら、「私はAB二つの体を持っている」というだけだ。何が問題なの?
で、まさに「いつの時点の誰かが私である、ということを自明にしてよい」ことが
問題のポイントで、第一に「存在していない私」はそもそも何も考えることができない。
これはまさに、「われ思うゆえにわれあり」の裏返しだ。
「<私は>〜」とか考え始める時点で、すでにその私は存在していることは必然だ。
というか、「存在してない私」は何のことやら意味不明だから、それについて考えることも
論じることも不可能だ。
第二に、存在している私はすでにいつかの時点の特定の誰かである他はない。そうでない
私というのはかつて存在したことがないんだから、仕方がない。
「すでに存在しているこの<私>がこの人間を離れる」ことは想像できるが
「<私>が最初からそもそもこの人間でなかった」ことは、想像不能だ。
「不完全性定理を発見しなかったゲーデル」は想像できても、「江戸時代の日本に
生まれたゲーデル」や「火星人として生まれた永井均」は想像できないのと、同じことだ。
ただ、「私」の場合は、一見それが想像できるかのような心理的錯覚に陥りやすい。
これがすべての間違いの始まりだ。
>>886 「絶対的な今」の話は分裂の話とは無関係だと思うが。別に「それぞれの時点においては
それぞれの時点が今である。それ以前は過去で、それ以後は未来である」で、十分では。
>>887 「そもそも<私>が存在しているのはなぜなのか」については、永井が幼少のころに
聞かされて「的外れだ。問題自体が理解されない」と感じたという答えが、結局のところ
正解だと思う。つまり「両親がセックスしたから」だ。
これもつまり、
1.<私>と考え発語するのが誰であるかによって、<私>の指示する対象は異なる。
2.<私>と考えるためには、<私>はすでにいつかのどこかの誰かとして存在している他はない。
3.結局、<私>とは「それを発語している人間の自我」のことであって、この世界の特定の一部分
に過ぎない。それ以外の意味は、逆さに振っても出てこない。
これだけ認めれば、自明のことだ。永井均が<私>といったら、それは永井均という人の自我の
ことなのであって、他の人から見たらもちろん<私>でも何でもない。で、普通に考えれば、
まず最初に永井均という人間が発生して、そこからその自我(<私>)が発生したのだから、
永井均が存在する原因が、すなわち<私>が存在する原因だ。
なんでそれを認めるのがいやなのか、どうもさっぱり理解できない。
それから、分裂の話をするためには「同一性を論じる」ことは必須であって、同一でないなら
「分裂」したりすることはできない。(そもそも運動も変化も論じられない)
同一性を一切論じないのだったら、世界は瞬間ごとに過去とは無関係に新たに創造されていると
考えるしかないだろう。別にそう考えてもよいが、これも別に<私>特有の話ではない。
>>874-875がもしも永井の文章であれば(全く読んだことがないが)、やはり同一性を論じている
としか思えない。ただし
>>875はやはりさっぱり理解できないが。
>>888 「転ブラ」も「そして神」も一応読んだが、半分も理解できなかった。今は引っ越したばかりで
本類は物置に押し込んであるので、参照もできない。申し訳ない。
ちなみに、前は永井は何か深遠な問題について論じていると感じて、理解できないのは自分の頭が悪い
せいか感性が鈍いせいだと思っていたが(永井本人は「他人に理解できてはならない」とか盛んに
言っていたにもかかわらず)、最近どうも単に永井の思考が混乱しているか、前提が見当違いな
だけなのではないかと思えてきて、それで書き込みしている。
別に永井をけなしたりいたずらに貶めたりしたりしたいわけではさらさらないことを一応お断りする。
で、引用されているような趣旨ならこれもつまらない話で、何であれ「ある特定のものはこれこれの
性質を持っている」とは言えても、「これこれの性質を持っているからそのものなのだ」とはいえない。
第一に、そのものの性質は時々刻々変化するし(同一性を前提にするならだが)、第二に、そのものと
全く同じ性質の別のものは理屈上は同時にいくつでも存在できるからだ。別に人間でも他の何かでも
「私」でも同じことだ。
第三者から客観的に見たって、「顔かたちから考えることまで、永井均にそっくりの
永井均の双子の弟は、ほんの少しも永井均ではない」に決まっている。
仮にそういう双子の兄弟が1万人いて、そいつらを皆殺しにしたところで、永井均本人はぴんぴん
しているのだから、当たり前だ。結局これも「<私>は世界の特定の一部分なのだから、性質が同じ
だろうと違おうと、世界の他の部分とは別の存在だ」という、当たり前の話に帰着する。
分裂の思考実験の趣旨はそれとは別だと思っていた。
>>883-884に書いたような趣旨も
永井は確かにどこかで書いていたと思うが、本の名前はわからない。重ねてお詫びする。
>>897 つまり、改めて永井の本そのものに当たって自分の意見の当否を検討しよう、という気は全くないわけね?
まあ、どうぞご勝手に。
ただ個人的希望としては、今後何か言うのであれば、本の該当個所を明示するか、あるいは
「本をまだ物置から出していないので原典には当たっていないが」と前置きで明示するか、
どっちかにしてもらえないかね。後者の場合の読む手間が省ける。
>
>>883-884に書いたような趣旨も
> 永井は確かにどこかで書いていたと思うが、本の名前はわからない。重ねてお詫びする。
それも、本気で何かを言おうとしているなら、まず本を物置から出してからにしてほしいね。
ついでに、本の名前を明示しないことに謝罪しているようだけど、本の名前を明示しないままで
自分の意見だけを裏付けなしに述べ続けるけることは、何とも思わないの?
そのセンスは全く理解できない。
完全な複製体とか考えるだけ無意味だし、それを意味がある状況ってのは
結局のところ「科学のおかげ」になるんだから、永井が科学に敵愾心を持っている意味がわからん。
900 :
考える名無しさん:2011/02/20(日) 23:47:40.36 0
科学に敵愾心なんて持っていないだろう。
自分は科学的実在論者だって言っていたし。
もちろん超越論的観念論=経験的実在論の意味だろうけど。
経験的実在論ってことは、量子力学もブラックホールもビッグバンも認めないってことか。
902 :
考える名無しさん:2011/02/20(日) 23:57:13.02 0
経験的実在論なのだから、認めるに決まっているじゃん。
かんたんな哲学用語くらい勉強しろよ。
903 :
考える名無しさん:2011/02/21(月) 00:28:16.06 0
「カント原理」を重視しているから、経験科学が認めるものはすべて認めることになるだろうね。
あと、普通の常識が認めるものもね。
それと「ライプニッツ原理」とを融和させようとしているのだと思うけど、
「ライプニッツ原理」はヘブライズム、「カント原理」はヘレニズムに対応するから、
それってまさに中世哲学の課題そのものということになる。
せめて、現実性としての<私>と
中心化されている統覚としての《私》と
言語の使用者がその使用者自身を指す私とを区別しておくれ
同一性を論じるのなら、論点は《私》になると思うのだけど
その文脈で<私>という語が出てくるのは、正直言ってよくわからない
あちこち調べてみたら、喜ぶべきか悲しむべきか、自分は弁証法的唯物論者だった
>>904 <私>と《私》は、現に唯一のものを言う(言おうとしている)か、誰にでも当てはまってしまうものを言うか
という以外に、さらに内容的な違いがあるんだろうか?
ちょっと気になったので書いてみる。
私にとっての私という概念
私にとっての私そのもの
他人にとっての私という概念
他人にとっての私そのもの
世間一般で言う私という概念
私の内容的な違いってこの5つで表されるんじゃね?
永井が子供のころ質問して「両親がセックスしたから」と答えた友人は
言ってみれば唯物論者だよな。
唯物論者にとっては、永井がこだわっていることは、そもそも問題に挙がらんよな。
>>906 んー。。。あるんじゃないですかね?
例えば
>>896さんが指摘しているけど、記憶などの同一性を捨てた純粋な現実性のみの<私>を
考えるのなら、それが持続していると考える根拠がなくなるんじゃないかと
それこそ、神が毎瞬ごとに<私>を創造している、とでも考えるしか無いわけで。。
でも《私》という、中心化されているだけ(ただし現実である必要はない、別に現実であってもいいけど)
の概念を考えるなら、記憶で過去向きの同一性を作り出せるので、そこが一番違うのかなと
なんというか、中心化/非中心化と現実/可能は、それぞれ問題にしていることが違うんじゃないですかね。。。
910 :
考える名無しさん:2011/02/25(金) 08:19:22.28 0
永井信者は日本語を勉強してくれ、頼むから
日本語ができたら永井信者になんかならんよw
結局木村敏批判は書いてないのか?
「<私>の存在の比類のなさ」で木村敏に不満足感と苛立ちをおぼえたとか口にしてたから
てっきりまとまった形でもう文章にしてるのかと思った。
913 :
考える名無しさん:2011/02/25(金) 11:42:11.78 0
>>907 そして、しかし、最初の「私にとっての〜」もまた、
そう語られてしまえば一般的な意味を持ってしまう(誰にとってもの「私」の)から、
907が区別したいと望んだことは907の意図通りに伝わることは決してない、
(というこの言説もまたそのことの効果によってはじめて可能になっている)
ということから始まるお話では?
>>907 分類条件としては不足があるとオモ。
言語の人称は、1人称、2人称、3人称単数、3人称複数と分類されているのだから、
最低でもこの4区分での分類があってもよいのでは?
さらにいえば、非人称(たとえば神とか天とか国家とか共同体とか)も考慮したほうがいい。
もちろん、永井のような強度の主観主義、あるいは独我論的視点では、1人称的
であるだけで事が済むかもしれないけど。
>>752 ちょっと前、永井の「西田幾多郎-絶対無とは何か-」を読んだが、永井の<私>は
そもそも、ハイデガー、デリダが云う「消去された主体」を名指す記号として、原稿で
は、「私」という文字グリフに「×」を重ねた象形で表記していたが、出版時、印刷会社
の都合でそうした活字製作が拒否されたので、やむなく「×」を解体した「<>」で挟み込む
文字列表記にした。という話。上述本では、ちゃんと「×」重ねの「私」が使用されている。w
同書はおもしろい。特に、純粋経験から言語化にいたるある瞬間(西田的には「即」と表記
される「間」)を言語ゲームが介入できない存在論的な「場所(無)」あるいは「世界」と見る
というような点が、いかにも永井らしい。なと。
>>910 お前が永井語(つまり永井の議論の仕方、用語の使い方等)を知らないだけだろう。
別に永井語を知らないのは勝手だが、事実は正確に認識、表現すべきだ。
永井語(笑)
もう宗教だなww
どこが宗教なんだ?
独特の議論や用語はみな宗教なのか?
「言語ゲーム」とか「可能世界意味論」とか、みな宗教なのか?
永井信者ってここまでレベルが落ちてるのか…
前はそれでももう少しましな奴が永井を読んでた気がするけど
ウィトゲンシュタインが否定した私的言語と、永井が肯定した私的言語は
同じ私的言語なのであろうか?
むしろ、後期ウィトゲンシュタインは私的言語を消去しきれていないし、
隠れた実体として私的言語を考えなければ「確実性について」は分からない、
というのが永井の論。
永井語wwww
糞ワロタwwwww
永井国の公用語っすかwwww
>>919 同じとか同一とか、スレ的に、どうだろう?
完全一致>同一>同じ>類似>似てる>…
日常言語の語法とか用語法というのは道徳に類似していて
緩いが使用規則らしきもの(文法や用字・語法)がある。
ウィトゲンシュタインは日常言語の準則的秩序を遵守する型だが、
永井はその種の準則的な語の使用を軽んじる傾向というか強すぎる
主観主義擁護の立場つまり勝手でおkな傾向が顕著のような気がする。
>>920 永井流な解釈ではそうかもしれないね。ただ、そういう解釈が妥当で
あるかは別問題だろう。ウィトゲンシュタインはある閾値以下をナンセンス
とか無意味とかでオッカム的カミソリ・カットで切り捨てるけど、その切り捨て
分にこだわるのが、永井。という印象だね。
もうひとつ、付け加えておくと、「西田幾多郎」本で永井は
「我あり」と語ったデカルトは過失犯だが、ウィトゲンシュタインは
「我あり」と考えている風情を見せながら、まずに口にしない確信犯。
西田は「我あり」即「無」だ。みたいな対比をしてるように読めた。
ウィトゲンシュタインは形而上学的実在論の領域の大半は哲学と
いうより、宗教とか個人の信念・信仰の領域であるから、哲学の語り
で語るな。という確信をもっていたように思える。だから、永井が永井語で
形而上的な事柄をバンバン語っちゃうと、宗教っぽく見えるのだろう。w
というか、その人はウィトゲンシュタインとかよくわからない人で、
自分の手札で語れなさそうに見える永井を読まずに貶して安心したいだけだから、
とりあうだけ無駄。
「自分はわかってるぞ」みたいな勘違いはし勝ちなんだけどね・・・
もう永井板作れよwww
もちろん永井語(笑)オンリー
山括弧だけで会話できるだろjk
< >
<< >>
デフォルト名は
< >さん
930 :
考える名無しさん:2011/02/27(日) 03:31:00.57 O
反日アジアについて語らない知識人は逃げているだけ
めっきり人が減ったが、独我城に篭城中なのだろうか
このスレは、みんな時々独り言を呟いてるぐらいが荒れなくていいわ
>>932 永井語を使える永井の国に旅立ったんだよ
永井自身は、挑発的なもの言いが好きなのに
永井本に対する、挑発的なもの言いは気に食わないなんて・・・
そのへんが宗教たる所以だろ
>永井が中島義道を評価
>「哲学者としてはたいしたことないが、どういう人物が哲学者かという彼の主張は正しいと思う」
これかw
おまえらあんまり挑発すると
永井語で形而上的な事柄をバンバン語っちゃうぞ
平凡なのは中島本人が自分で言ってることじゃん
大森の弟子として共感してるってことでしょ
永井は大森に教わってないけどw
丹治信春・飯田隆・野家啓一・野矢茂樹...
大森の教え子って豪華だな
>>909に関して
例えば、こんな記述があって。
「だがしかし、まさしくこの私の存在の驚きから出発し、それが類例のないものであ
ることを力説したとしても、類例のなさというその規定が一般化され、類例のなさの
類例を見出すことになるだろう。独在性は不可避的に単独性に読み換えられるのであ
る。〈私〉が永井均であることは〈偶然〉であり、それゆえそうでないことが〈可
能〉であるという主張は、《私》が何某であることは《偶然》であり、それゆえそう
でないことが《可能》であるというように、読み換えられる。」
(『〈私〉の存在の比類なさ』の「独在性と他者」の3、講談社学術文庫版108頁)
このような記述だと、やはり、読み換えられたかどうか、累進構造の最上段か
それ以下か、ということ以外の違いはないんじゃないかと。
『転校生とブラック・ジャック』だと、確かに、《私》については持続性とか
同一性とかが問題になるが、〈私〉はそれとは別だ、というようにも読めそうな
印象があるけど、実際は違うんじゃないかなあ、と。
もちろん実際に精読してみないと断言できませんが。
ワロタw
944 :
考える名無しさん:2011/03/04(金) 05:37:24.65 0
私
〈私〉
《私》
>>941 <私>という概念に対しての批判は
「その<私>とは誰のことだ?」というウィトゲンシュタイン的批判と
「<私>が持続していると考えられる根拠は何か?」というカント的批判の
二つがある、と「転校生とブラックジャック」以降の永井は言っていると思うのだけど
初期の永井は明らかに前者しか考えてなくて、それは
永井の考え足りなかったことなんじゃないですかね
>>945 それは、永井自身がそのようなことを書いていると思うけど。
ただ、その言い方で言えば、〈私〉と《私》の違いはウィトゲンシュタイン的批判に
関する違いであって、カント的批判に関しては違いはないのではないか、というのが
>>941の趣旨です。
>>945 >
>>941 > <私>という概念に対しての批判は
> 「その<私>とは誰のことだ?」というウィトゲンシュタイン的批判と
あと、よく見たら気になった。
私が思ってるウィトゲンシュタイン的批判は、「唯一の〈私〉と言ったって、結局は
概念的に捉えて言語で表現するしかないじゃないか」というものなので、そうすると
「〈私〉という概念」に対する「ウィトゲンシュタイン的批判」と言ったら、冗長というか二重ということに
なってしまうんじゃないかと。
細かいことですが。
,r;;;;ミミミミミミヽ,,_
,i':r" + `ミ;;,
__,、 ≡ 彡 ミ;;;i
〃ニ;;::`lヽ,,_ ≡ 彡 ,,,,,、 ,,,,、、 ミ;;;! 人ごとのように「その<私>とは誰のことだ?」と
〈 (lll!! テ-;;;;゙fn __,,--、_ .. ,ゞi" ̄ フ‐! ̄~~|-ゞ, ≡ あなたはおっしゃったけどもね。
/ヽ-〃;;;;;;;llllll7,,__/" \三=ー"."ヾi `ー‐'、 ,ゝ--、' 〉;r' ≡
>、/:::/<;;;lllメ \ヾ、 ヽTf=ヽ `,| / "ii" ヽ |ノ <私>は自分自身を客観的に見ることはできるんです
j,, ヾて)r=- | ヾ: :ヽ;;: | l | l ''t ←―→ )/イ^ ≡
,イ ヽ二)l(_,>" l| ::\;:: | | | ヽ,,-‐、i' / V あなたの<私>とは違うんです
i、ヽ--イll"/ ,, ,//,, :;; l // l く> /::l"'i::lll1-=:::: ̄\
ヾ==:"::^::;;:::/;;;;;;;;;:::::::::::::: :::::ゞ ノ/ L/〈:::t_イ::/ll|─-== ヾ
\__::::::::/::::::::::::_;;;;;;;;;;;;;;;;;ノノ ヘ >(゙ )l:::l-┴ヾ、ヽ )
 ̄~~ ̄ ̄/ :::|T==--::::: // / ト=-|:|-─ ( l /
/ :: ::l l::::::::::::::::::/ /:::::::::::/:::::(ヽ--─ / | /
ヽ_=--"⌒ ゙゙̄ヾ:/ /:::::::/:::::::::`<==-- ノ / /
>>946 んー、確かに<私>と《私》はウィトゲンシュタインの批判に対応する区別だ
と考えられるとも思うんですよ
どちらも中心性を持つことは前提にしておいて(最上段的な意味での)現実性の有無
だけを問題にしている、ようにも読めるんですね
でも<私>というものに関しては、中心性なんかなくても(最上段的な意味での)現実でさえあればいい
みたいなことが「転校生とブラックジャック」でどっかに書いてあった気がするんですよ
どこだったか覚えてなくて、ひょっとすると勘違いかもしれないんですが
>>947 ああ、確かにその通りですね。。。
累進構造とか、上にも伸ばしちゃえば私の特権性なんかなくなるじゃん
とか思ったら、ちゃんと「意識はなぜ実在しないのか」に書いてあったわ。
「概念としての意識が成立していれば、実在してるとしていいんじゃないの?」
と思うが、そうはいかんのか?
元も子もないことを言うと、
論理空間で概念が成立していると考える時点でもう実在からは切れてるわけで、
いかに完璧に納得できる概念が成立しようともそれは実在とは何の関係もない。
意識だけじゃないってことね。
永井王国から永井チルドレンが帰ってきたようだ
つか、哲学って中世の普遍論争から、ほとんど進歩していない気が・・・
>>951 まあ、そうだね。
形而上学的な<実在>はあくまで概念。現実世界とは一切の関係を結ぶことのない
概念として記述できる。形而上学的な<意識>概念もまた、生きている人間の意識と
全く無関係な概念として記述できる。それらはあくまで概念。純粋な形而上学では
概念はただ概念を名指すだけで概念世界の中だけで円環的完結的に記述され得るから、
常に<完全同一>の<意味>さえ保持できる。言葉の中だけの世界は完全無欠であり得る。
たとえば『概念として<私>の<意識>が成立していれば、<私>は<実在>してる。』とかね。
いわゆる哲学問題は、そうした概念を現実世界にあてはめてみたり、経験的な事実世界と
関係づけて現実世界や人生世界の理解や解釈の枠組みや正しさのmy基準としようとする
場合に生じる。多くの場合、それは言葉の誤用(論考)と自己正当化に過ぎる解釈(探求)
として表出される。それこそが、ナンセンスの巣窟。というのがウィトゲンシュタインの本来の
考察。
>>954 >つか、哲学って中世の普遍論争から、ほとんど進歩していない気が・・・
そそ。永井はウィトゲンシュタインが唯名論的に実在論者の信念や信仰をせっかく保護した
というのにのに、永井はそれを逆手にとってわざわざゼロ・リセットとして、ナンセンスの山を
再構築しているだけのように見えるんだよな。
>>955 そこで、数学的な構造が、知覚の対象を極めて正確に記述できることから
関心が数学に向かうわけか。
で、お前らもナンセンスな言葉遊びをし続けているという自覚はあるのかね?
永井にしろ中島にしろ、どうも哲学オタクを惑溺させる言説が目立つ
もし自分のオリジナリティを獲得せんがために哲学やってるのなら
大道芸人にでもなった方がいい
というか、2chのこのスレに体系的に大学で哲学を学んでいるやつっているのか?
永井や入不二、ウィトゲンシュタイン(広く言えば分析哲学)をつまみ食いしてオナニーしてるだけじゃないんですかねえ
>>957 ウィトゲンシュタインがカントを読んだこともなかった、
という事実を支えにしていますw
>>950 > 「概念としての意識が成立していれば、実在してるとしていいんじゃないの?」
> と思うが、そうはいかんのか?
ゾンビだって意識を持っているんだから、立派な人間としていいんじゃないか、と?
『なぜ意識は実在しないのか』に出てきた表現を勝手に自己流にもじって言うと、
概念的でない意識のことは実はどうしても言えない、という断念を踏まえていれば
そういう言い方もあり得るけど、それを踏まえずにただ「概念としての実在があればいい」
なんて言ったって駄目ですよ、ということになるんじゃないの。
>ウィトゲンシュタインがカントを読んだこともなかった、
それは事実に反するだろ。ハイデガー、ショウペンハウワー、ニーチェ、
プラトン、キルケゴール等々、ちゃんと読んでるよ。著作で引用することが
なかっただけ。かじり読みだけで堂々と誤読を晒しちゃうどこかの哲学者とは違うだけ。
961 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 09:31:37.22 0
<<<<<<<<<<私>>>>>>>>>>
>>960 おまえの書き込みは
「ウィトゲンシュタインがカントを読んだこともなかった」という事実の反証になっていないだろw
963 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 11:19:29.02 0
永井が説いているのは輪廻転生だな
私が死んでも<私>は残る
そして私その2が次の<私>となる
言語の限界があらわれるのは、命題に対応する
(命題の翻訳である)事実を記述する場合、
まさにその命題を繰り返さざるを得ないときだ。
(これは、哲学の問題のカント的解決と関係している)
1931年10月2日 反哲学的断章 44頁
>>962 ろくに本も読まずに勝手に嘘書くなよ。w
965 :
958:2011/03/05(土) 13:05:31.38 0
言い方が正確ではなかった
「ウィトゲンシュタインはカントも読まずに論考を書いた」
が正解
>>955 > 形而上学的な<実在>はあくまで概念。現実世界とは一切の関係を結ぶことのない
> 概念として記述できる。
ここに出てくる「現実世界」とは何のことを言ってるの?
それが概念と関係を結ぶことはない、とは、どういうこと?
> たとえば『概念として<私>の<意識>が成立していれば、<私>は<実在>してる。』とかね。
この例で言えば(よく見ると趣旨のよく分からない用語使用なので誤解してる
かもしれないが)、つまり概念としての意識があれば、意識は存在している、という
ことだと思うけど、もしそのような考え方を徹底するのであれば、概念が現実と
関係を結ばないとは言えないんじゃないの?
「何を言ってるんだ、ちゃんと現実、存在、意識を説明できてるじゃないか。
それ以上のものなんか存在しない。」とでも言うことになるんじゃないの?
(このようなことに関する永井の議論とは違う話をしてるのなら失礼)
>>958 1919年1月.モンテカッシーノの捕虜収容所に移された。(中略)
ヘンゼルとの出会いは特に注目に値する。(中略)
かれらはまた、カントの『純粋理性批判』をも 読んだ。その場合、
大抵はウィトゲンシュタインが朗読をし、ヘンゼルがそれを聞くのであった。
ウィトゲンシュタインは、そうするのが好きであり、またたいへん上手でもあったという。
黒崎宏『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』 75頁
>>965=958
後出しジャンケン乙。しかし正解じゃないしw
わざわざ後出しジャンケンみたいなズルをしてまで恥の上塗りをしたいものかね?
永井信者って、こんなアホばかりなのか? 永井の名を汚したくなかったら、
しばらくの間、読書三昧でもして、静かにしてた方がいいよ。w
968 :
958:2011/03/05(土) 14:11:16.49 0
大学で「分析哲学」を勉強している身から言うと、
上の世代の後期ウィトゲンシュタインへの執着心はにわかに理解しがたい。
分析から見て重要なのは「論考」(しかも英訳の)で、
後期の著作はつまり「ちんぷんかんぷん」なものなので。
「後期ウィトゲンシュタイン業界」というのが分析業界に対して「何となく半独立的に」あるという感じ。
970 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 14:28:08.49 O
僕も在野ではなくアカデミックな雰囲気の中で、同士たちと哲学したいです
971 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 18:38:10.16 0
いまではその「分析業界」も孤立した一種のカルト宗教のように(外部からは)見られている。
それが哲学というものの運命なのかもしれないけれど。
>いまではその「分析業界」も
専門化して、ちゃんと勉強しないと分からないからな。
哲学だけじゃなくどの学問もそう。「永井語」みたいに
バカ素人が気軽に自分語りに使える雰囲気じゃない。
哲学の歴史を否定しようとした分析哲学が、
逆に分析哲学の歴史を作ってしまってることは皮肉な話ではあるのだが。
論理実証主義と区別できてる?
975 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 23:59:37.99 0
>>972 永井語だって実はちゃんと勉強しないと分からないという点では同じだ。
(アヴィセンナ・ライプニッツ由来のかなり前提の多いお話なので)。
そして一種のカルト宗教のように(外部からは)見られているという点でも。
>>974 歴史的事実として論理実証主義とつながっている。
分析業界はむしろ近年になって969の言うような後期ウィトゲンシュタイン業界の切り離しなどの事情も作用して論理実証主義時代のイデオロギーに立ち戻りつつある。
永井を批判的に読んでいる書き込みの方が、永井の主張に近いように感じるのは気のせいか?
永井語に分かるべき内容なんてないよ
ちゃんとした哲学といっしょにすんなw
信者はともかく、永井は曲がりなりにも教授だぞ。
永井本人は永井語(笑)など話してない
すると永井語(笑)には「〈私〉」とか「〈今〉」とか「累進構造」とかは含まれないわけね。
そんなら永井語(笑)とは何を指してるの?
永井語修得すると何かいいことあんの?w
>>981 永井の国に行ける(ただし行ったところで
永井自身はそこにいない)
983 :
考える名無しさん:2011/03/06(日) 11:17:37.69 O
哲学に意味はあるの?
床屋漫談、井戸端会議と何が違うの?
>>975 >分析業界はむしろ近年になって969の言うような後期ウィトゲンシュタイン業界の切り離しなどの
>事情も作用して論理実証主義時代のイデオロギーに立ち戻りつつある。
日本の分析哲学業界もゆとり化しててレベル低下してるからな。そんな業界で学ぶ学生が
「ちんぷんかんぷん」なまま放置されるのも仕方がないかもね。
何年か前、本郷で
>>940の何人かの拝顔の誉れに浴したことがある。
教師としては一流なのかもしれないが、一家を立てられるほどの迫力は感じられなかったな。
英語は鬼界さんがよく話せるみたいだった。それでも丁々発止と仕切れるほどでもなさそうな印象。
先日、「転ブラ」を読んだが、にゃ〜んたる駄本w
例によっての対話構成だが、A-L12人もキャラ用意してるのにまさに12使徒。
先生の言い分を先語りしたりなぞる個性のない同じようなキャラばかり。
「先生」の微妙なバリエーションでしかない。だから先生は「にゃーるほど」を連発するだけ。
これは、ひとえに<作者>の想像力の飛翔力が弱いからだろう。
「燦然と屹立」とべた褒めする入不二はどうかしてる。永井の金魚の糞を決め込んでれば、
単行本仕事が得られるとでも考えて営業しているのだろうか。とかね。さもしい業界だな。
「転ブラ」本文中、「人称問題」本の執筆要請がある。ということが書かれていたが、
出版社には少しは分かっている人間がしるみたいだな。要は独我論的な一人称な論理を人称拡張して
展開する学があってもいいだろうということ。スラッファの髭いじりがきっかけの一つとなった
後期ウィトゲンシュタインの思想展開は、「独我論」の人称拡張がテーマの一つ。ルールの導入は
独我論を人称拡張する場合必須だから。しかし論は錯綜して分かり難くならざるをえない。
「転ブラ」永井の<<私>>拡張は、そういう点で避け得ないのかもしれないね。しかし安易だな。
「論理哲学論考」が分かりやすいのはそれが一人称世界限定で理解できるから。最近の業界が
>>975が言うように先祖帰りしているとしたら、それは単なるゆとりの退行でしかないだろう。
人間がしるみたい → 人間がいるみたい
糞スレ立てんなカス
信者のナンセンスを「永井語」の一言で片付けた
その一点においてのみ、このスレには価値がある。
それが結論だ。次スレはもういいよ。
990 :
考える名無しさん:2011/03/06(日) 13:57:34.44 O
永井は持ち上げといて、叩き落とすタイプだな
>>989 信者は糞スレ立てんな
って言ってんだろw
>>991 そういう単純な表現なら、同意するかどうかはともかく、意味は分かる。
(何をもって糞スレと判断したのか、根拠は全く分からないが。)
>>988は、一見すると根拠付けや論理展開があるように見えるが、よく見たら
何を言ってるのか、というか何を根拠にしたりどんな論理展開をしているのか
全然理解できない。
議論しようとする時は、
>>991みたいにただ喧嘩をふっかけてるだけの文章より、
>>988のような変な文章のほうが邪魔。
>>992 ま、>991みたいな<>は気にスンナw
このスレ、哲学板の中では良スレの方だろw
アンチの批判も単なる罵詈雑言じゃないし。
なるほど…
>>988の方が信者の琴線には触れるのか
もしちゃんとしたアンチなる人々がいるのなら、
>>966、
>>959あたりの疑問には
答えてほしいんだけどなあ、個人的には。
997 :
考える名無しさん:2011/03/06(日) 15:02:04.65 O
内容ゼロの無駄な長文を書いているアホを除けばこのスレは良スレ
まあ、キモいAAが貼られてないだけ良スレかもw
アンチの茶々がスルーできないのは、茶々であっても完全な的外れじゃないからだろうな。
あ
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。