952 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 14:13:45 0
>>949 そのようにお考えいただいてよろしいです。
植わっていることも、なぜ植わったのかも、とある縁が何かも分からない
これが無明ですね。
唯識では植える事を薫習と言います。
>>952 であるならば、(あの図式を肯うなら)
《「とある縁」を断てば(捨断すれば)「その果」は生じない》のではありませんか?
それが、修道(や戒・律)によって、或いは「縁起を見ることによって」(→無明でなくなることによって)、
「苦が滅せられる」、「宿命・運命に従わずに済む」ということになりませんか?
であるならば、それは既に「宿命・運命」という表現を当てはめるにはふさわしくないのではないでしょか?
また、「今後薫習され(続け)ないようにする」ことも可能でしょう?
それもまた「宿命・運命」の頚木から脱することになりませんか?
あの、確か三島由紀夫が「金閣寺」でアラヤシキがどうのこうのと言ってて、
結局、あの小児的な歴史的騒動を引き起こして終わっているというのを
皆様に考えてもらいたいのです。
その点で、陽明学にも禅にも似たような危険を感じます。
つまり、唯識で言う所の無分別知とか瞑想なども含めて
無意識的なものをあまり弄くるのはよくないのではないか?
という印象があるのです。鈴木大拙なども、
無謀な(思考停止的な)戦争を先導した人ではなかったかな?
ニューエイジ思想もオウムもその点では同じじゃない。
心理系のテキストでは、そういうものを妄想なり統失をもたらすとして、
避けなさいとなっているけど、結構、妥当な見解だと思っています。
955 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 14:57:05 0
>>953 上座部仏教的に、捨断すれば涅槃ですね。
大乗仏教的には先にも書きましたが昇華です。
これが「菩薩道」につながると思います。
あなたが言われんとする事もごもっともです。
結果として仏性を持つものが宿命、運命という言葉で括るのは相応しく無いと。
現状のネガティブな考えから見ればやはり宿命、運命と言えると思いますし
逆に悟りへの力と言い換えてもいいかもしれません。
反省も込め、一考します。
>>954 師に付いて修行しないと危険でしょうね。
無意識的なものを弄くる。確かに。その領域は五感や知識といった
表層的なものでコントロールできるものではなさそうですので。
このあたりは密教が近いかと。
>>955 そういった師弟論にも私は疑義を感じているのです。
そのイデアの発信源は、どうやら内田樹みたいだけど、
師匠が麻原みたいな人だったら、それこそ大変でしょう。
それに、経営セミナーやカルトビジネスのコーチにもそういった
師を僭称する者が多いような気がします。仏陀は、自灯明を勧めて
います。師に追随なんて意見はブッディズム的にはナンセンスだと
思います。だから、仏教はある意味哲学に最も近いのでは?
>>955 「背負う」(過去からの業果を引き受ける)という意味で、
日常語として(方便として)、「それを運命と思って(受け止めて)・・・」という言辞はアリでしょうが、
『それが、今後の自己の在り方を決定付け、
今後の行為によって《「予定された・予見された」果》の生起を避け得ない』とするのは仏教的でない、
また、一般的語感として、「宿命・運命」には「避け得ない、変えられない、決まっている」
というイメージが付いてきてると思うので、その表現はどうなのかな、と思うので横槍を入れました。
もとより、「既に積まれてしまった業果」は、それとして背負うべきであろうとは思います。
横から失礼しました。 ノシ
958 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 15:29:34 0
>>956 悪意を持った人の言動を信じ感化されてしまう恐怖はありますね。
卵が先か論になってしまいますが
自灯明、法灯明をという道を自ら見つけられるのか
やはり師が必要ではないか?とか。
特にヴァジュラヤーナは。(某真理教で有名になってしまいがちゃんとした「密教」ですね)
何であるかを自心に問うという哲学姿勢は仏教ですよね。
哲学板では嫌われる存在ですけど。
>>957 いえいえ、とんでもありません。
ありがとうございました。
959 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 15:40:09 0
>>945 すまんけど。オイラの説ってどれよ?
>宿命、運命(善悪苦楽含め定まった因)はすでに
>阿頼耶識に種子として植えつけられている
ああ、これは間違いだから。唯識でアーラヤとか種子、習気などというけど、
それは宿命、運命ではなく、業だから。
運命は決定されどうにもならないもの。
業は潜在的な可能性であって、それは変更可能だから。
大乗で懺悔が盛んなのはそのためだから。
違うというなら唯識で業を運命という意味で説明した典拠をしめしてくれよ。
オイラが知る限りないと思うよ。
運命なんて言っちゃったら、そりゃ完全に仏教ではないぜ。
きっちりと六師外道の一人として否定されてる。
>>949 >「宿命・運命」と表現しているのでしょうか?
言わないです。誤解を招く。ここら辺から、業思想は差別だと勘違いされる。
まあ、されても仕方がない部分は否めないけど。
>>949 >「宿命・運命」と表現しているのでしょうか?
>>956 字を習うとき、
書き順や字の形・バランス等を教えてくれる、チェックしてくれる人が居た方がいい、
という意味で捉えたらどうでしょう?
仏教という枠組みに於いては、ふさわしい書き順や字形があるのだから、
そこを指導してくれる、枠・ルートを外れていないかどうかを指摘チェックしてくれる人は必要でしょう。
でないと、めちゃくちゃな字を書くことにもなりかねない。
勿論、仏教としてでなく見るならば、(芸術の世界では特にそうでしょうが)その限りではないでしょうが・・。
また、人でなく「教則本(経典)」「解説書」によることもできますが、
実際の行為と絡む以上、自ずと限界はありそうです。
勿論、その師なりコーチ自体が逸脱していないかどうかは重要ですが、
そこのところが、四大教法として説かれ、また、
実際に於いては「(師に値するかどうかを問われている)彼」に対する観察
(―具体的には《「彼を巡る周縁の情報」や「彼の言動」》と《伝承されたおしえ(経・律)》との照合―)
によって吟味されることになるのでしょう。その上で帰依するか否かが判断されるべきなのでしょう。
*(↑はあくまで理想論の域を出ていないかもしれませんが・・・。)
961 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 16:56:50 0
>>945 >宿命、運命(善悪苦楽含め定まった因)はすでに
>阿頼耶識に種子として植えつけられている
これだともはや縁起ではないし、
仏教で異熟と言われる意味が理解できてない。
ある行為をする、その行為が癖となり、「阿頼耶識に種子」や習気、薫習されると言われる。
しかし、それはその瞬間に決定された運命となるわけではなくて、
諸縁によって異熟する、つまり、様々な形で果として現れる。
これが唯識的なアーラヤ縁起の基本構想だろう。
唯識は異論が多くてとても把握できないし、
ぐちゃぐちゃしたアビダルマ的な理論が好きではないので、
そんなに詳しくないが、運命はないだろう。
>>960 師について、そこまでの判断が出来る人が、わざわざその方に帰依する
必然性がないような気がします。習い事で先生を必要とするのは、その
人が初心者であるからであって、様々な経典を読み込んだり比較、
識別、判断出来るような人に、師匠は特に必要ないと思われます。
もちろん、師匠があってもいいとは思います。ただ、その人物に
過剰に依拠したり依存するのは、ブッディズムの諫める所の執着
であるように思われます。経典や勝義にさえ強く執着しない態度
こそが、真のブッディズム的な在り方だと思われます。
>>962 だから、最低でも「その判断が出来るようになるまでは」必要でしょう?w
それは、教科書・参考書でも同じでしょう?
一度もそれを参照せずに同様の書を書くことができるなんてことは、そうそう無いと思われます。
また、教科書・参考書ならば焼き捨てても構いませんが、(本とは後進のために残すべきとも考えられますが)、
「解りました。ハイさようなら」は「恩義にもとる」のではありませんか?
(少なくとも律蔵大品の61人の阿羅漢までは)、
格付け・上下関係こそないでしょうが、敬意を持ち続け、恩を感じ抱き続け、
隅に置かない姿勢はあったと思いますよ。
それは、順序という縁起に素直に従っているだけと言ってもいいかもしれません。
誰によって気付きがあったのか、眼が開いたのか、を忘却していいということではないと思いますが。
どうも、「帰依」とか「師」とか「指導」とかに過敏に反応しすぎじゃないでしょうか・・。
スポーツ選手でも、先生の域を超えた者が、その先生を蔑ろにしたりするでしょうか?
>>954 >鈴木大拙なども、
>無謀な(思考停止的な)戦争を先導した人ではなかったかな?
概要を簡潔に書いてもらえませんか
>>963 私の稚拙なみたてに拠ると、あなた様は何か儒教と仏教を混同して
いるように見えます。別に仏教的な書物を上梓することが、
ブッディズムではないし。お釈迦様は、何か教典を書かれたのですか?
私は儒教的な精神もそれ程否定しないけど、それが権力者の恣意的な
格差温存の(民心の飼い慣らし)ツールとなってはならないと
思います。人口の多い国には、ある意味、それが必要であったのも
当然なのですが。でも、この議論(論争)好きな態度も困りますよね。
あなたの言うように、何か私は支配されることに過敏反応してしまう
のです。支配−被支配の閉じた循環から自由でありたいと……。
横レス失礼
「ブッディズム」は、いい表現に感じます。
>>965 >何か私は支配されることに過敏反応してしまうのです。
>支配−被支配の閉じた循環から自由でありたいと
なるほど。了解しました。
ただ、「師が必要だ」「師があったほうがいい」というのは、
決して「盲目的に」或いは「執着として」ではない、ということだけは解ってほしいと思います。
(渡河後に筏を捨てる教えがあることも知っています。)
もし、まだ少し考えたいということであれば、
律蔵大品を「諸方遍歴が薦められる所まで」と、中部「界分別経」のプックサーティと釈尊のやりとり
を読んでみてください。何か見えるかもしれません。
968 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:31:26 0
>>959>>961 とっさにお勉強されても何の意味もありませんよ。
唯識三年倶舎八年ですから。
異熟も異熟果もご理解されていない。
969 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:42:35 0
>>962 ありえない。師匠なしに仏教を学ぼうなんて無理。
仏教は難しいんだよ。
何が難しいって狂人が正気になる道だから。
認識自体が間違ってるんだから、自分で本読んでやろうなんてのは無理。
正気の師匠に狂った認識が治るように指導してもらうわけだ。
結構、三昧とかに一人で入れる人は多い。
だけど、三昧に入ったぐらいじゃ悟りでもなんでもないから。
そこからも師匠に導いてもらいながら、認識を直していくんだよん。
釈尊以外に自分だけで悟ったなんて人は仏教の歴史にないから。
自灯明というのは誤訳だし、原義は自洲で、輪廻の暴流の中で、
修行できる人身という自洲を利用して涅槃の彼岸に渡れという意味ですから。
勘違いなさらぬよう。
それとブッディズムという言葉は、クリスチャニティという言葉との対比で用いられるものなので、
変ですよ。
>>965 対論者の方が遙かに分かってるよ。
970 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:47:12 0
>>969 それでは密教はすべて否定という事になりますよ?
あなたは上座部のみの人ですか?
内容から察するにそれに固執されているようですが。
あなたには唯識と同時に自内証というものも勉強されたほうがよろしいのでは?
971 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:51:39 0
>>968 オイラは20年以上学んでるんだが。
まあ、唯識はそんな好きじゃないから、『二十頌』『三十頌』
『荘厳経論』『摂大乗論』『中観荘厳論』『タルカバーシャー』
ぐらいの知識しかないよ。
だけどアビダルマの基本はきっちり入ってるつもりだぜ。
もっとも中観が好きで、細かいことは好きじゃないが。
>異熟も異熟果もご理解されていない。
どこが違うんだ。運命とする唯識の典拠が出せないならハッタリってことだぞ。
いいか、仏教のことでシッタカするのは止めたほうがいいぞ。
罪が重い。
どうみてもあんたはちょろっとしか学んでない勘違いタイプだよ。
運命はありえないし、譬喩を実体的に捉えてるとこが、
なにも分かってない証拠だ。種が根付くとか、自覚されたし。
972 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:57:56 0
>>970 なんでだ? あんた密教ってどうゆうことか分かってる?
密教こそ、師匠がいなければどうしようもないぞ。
弘法大師が面受を重要視なさったことにハッキリ示されるだろう。
チベットでもまったくそうだぞ。
君は主張だけでなんの根拠もないな。
オイラは真言宗のアジャリなんだが。
自内証は勉強するものじゃなくて、
体験するものだろ。
意味分かって使ってないぞ。
唯識、唯識って、唯識はそんなに重要じゃないし、
君自身言葉の意味も体系も全然把握してないじゃないか。
973 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 19:04:06 0
>>971 もう少し種子、異熟について勉強してください。
運命論云々については
>>953>>955でお話しました。
それとついでながら知ったかぶってるのはあなたのほう。
何年学んだ、これを読んだあれを読んだで
仏教を知ったつもりになって居られる。
人の身で仏法を習得したなどと思われぬように。
そういうのは単なる知識の法楽に浸っているだけです。
ついでにここはあなただけのスレではありませんので。
>>972 人の身で悟られたのは釈尊のみと書かれてるじゃないですか?
真言宗の阿闍梨様?でしたらなおさら釈尊のみはおかしいでしょう?
阿闍梨様というのはこれ本当ですか?
密教のでの嘘は、お分かりですね?
974 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 19:16:18 0
少し離れますが(それまでこのスレがあるかどうかですが)
>>972 密教に関して、私が阿闍梨などとネットで宣言される方など
見た事も聞いたこともありません。
仏教スレでは密教のお坊様に(東密、台密とあるので)
具体的なことを質問すると丁寧にお断りされて
そのまま去ってしまわれますよ?
>>968 唯識に於いては、異熟(vipAka)とは、
「時を異にして熟する」、
「因(縁)の要請と異なって熟する」(善なる因が必ずしも善なる果を結ぶわけではない)
どちらの意味でしょう?両方ですか?
>>971 兄貴・・ここは哲板。 熱くなりすぎですぜw
>>974 阿闍梨なんぞ只の法階だろ?w
禅宗なんか、道場に数年行けば坊さんだぞ。
(禅宗の法階は、もともと寺院・道場内での役職・肩書きから来てるし、たいした意味は無い。)
(研修会のような「安居会」に数回参加すれば最低限取れるというのもあるしw)
その程度のこと、という意味じゃないかい? (違うかwww
>>972)
976 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 19:22:59 0
激しい自作自演のもよう
これ以降の流れで誰が自演してるかわかるw
977 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 19:27:40 0
お時間ないのですみません
>>968 それには種子というものが関係してきます。
阿闍梨様についてはおいそれと言葉にすることも躊躇われるほどの
存在です。少なくとも弘法大師様の密教伝来の歴史を読む限り。
今日は阿闍梨まで登場かw
>>896 >運命論を明解に否定する理屈が知りたいです
それは、業果が縁已生法(縁って起った法)であって、
自生(自身から生ぜられたもの)ではないからです。
ですから、業果は異熟無記なのです。
自生では、善因善果 悪因悪果であり、宿命論です。
諸縁中に果の自体即ち自性が有るからです。
業果が縁已生だから因是善悪 果是無記=異熟であり、善因楽果 悪因苦果なのです。
だから、道の修習に拠り覚る可能性が煩悩に覆われた有情であろうが開かれているわけです。
縁起は如来が出世しようが“しまいが”法性・真如であり(縁起はそのまま空性)、
これが如来蔵ということでしょう。
唯識というのは、蔵識という主観的実体から認識内容が作られること(つまり自生)ではなくて、
蔵識とは、業果・異熟であり一切種子(一切の過去の行為の集積)であり、
その一切種子に縁って(客観・主観であるかの如くに、区別して)識らしめられたもの・ことのみ、
ということです。
例えば、諸縁に縁って旋火輪が起るとき、輪の内外が錯覚されるでしょう。
主観と客観とはそのようなものだということです。
980 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 20:19:49 0
>>973 >何年学んだ、これを読んだあれを読んだで
>仏教を知ったつもりになって居られる。
>人の身で仏法を習得したなどと思われぬように。
君が
>>968 というから言ったまでだ。
>人の身で悟られたのは釈尊のみと書かれてるじゃないですか?
>真言宗の阿闍梨様?でしたらなおさら釈尊のみはおかしいでしょう?
以下を誤読したわけか、
>>969 >釈尊以外に自分だけで悟ったなんて人は仏教の歴史にないから。
「自分だけで」ってとこをよく読んで欲しいもんだが、
密教でも師匠から伝授されて初めて学ぶんだが。
それとここは哲板だから、言及しなかったが、
もちろん、諸仏も含むよ。しかし、哲板で仏教の歴史という場合、
釈尊からだろうと思っていったまでだ。
>>974 >密教に関して、私が阿闍梨などとネットで宣言される方など
君が密教云々するから言ったまでだ。
真言宗のアジャリなんて、真言宗の坊主ならほとんどだから、
そう大したことはないが、あまりに君が何も知らないから、
密教は一応、一通り学びましたよと言っただけのこと、
ここで密教について語ろうなどとは思ってない。
全て君が言ったことに反応しただけなんだが、困った人だ。
981 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 20:21:16 0
>>975 その通り。素人は何も知らないから。いや、仏教運命論はないでしょ。
そりゃ、仏教アートマン論とか、仏教創造主論、仏教輪廻否定論と変わらない。
あるべからざる邪見以外のなにものでもないよ。
>>979 いいですね。ごもっとも。こうでないといけない。
>>979 >因是善悪 果是無記
因が善でも、業果が縁已生法である以上
果は苦に落ち着くこともある
と解釈してもいいのでしょうか?
>>981 ありがとうございます。
>>982 :考える名無しさん:2010/03/27(土) 20:23:12 0
>因が善でも、業果が縁已生法である以上、果は苦に落ち着くこともあると解釈してもいいのでしょうか
いいえ。それでは、業果は他生(無関係な他者から生ぜられたもの)となるでしょう。
そのようであれば、無関係なものからでも起るのですから、業果は任意に出来るでしょう。
>業果は他生(無関係な他者から生ぜられたもの)となるでしょう。
>それは、業果が縁已生法(縁って起った法)であって、
>自生(自身から生ぜられたもの)ではないからです。
矛盾してるように読めるんですが・・・
985 :
983さんじゃないが:2010/03/27(土) 20:54:21 0
>>984 全然矛盾してない。それこそ縁起。
幻の因から幻の果が縁起する。
因も果も仮設されただけ。
この縁起・無我・空・仮設が分かんないと仏教をキッチリ説くと、
矛盾に聞こえる。なぜなら、本質や自性が自立的にあると思っているから。
それこそ法我に他ならない。
986 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 21:59:23 0
987 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 22:33:00 0
仏教は運命論ではなくて、運命開拓創造論だよ・・・!!!
ヨーガ行唯識学派と言う仏教の完成形態がそれだよ。
988 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 00:37:11 0
まだスレがありましたね。
>>979 的確なご説明ありがとうございます。
簡潔ですな。
>>980 中観、唯識論は密教にとっても大前提のはずですが。
989 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 00:52:19 0
990 :
877:2010/03/28(日) 02:33:48 0
>>979 う〜ん、難しいですね
ぼちぼち勉強してみます
有難うございました
991 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 06:20:08 0
>>988 運命ではないよな
大前提ではないな。共通するものがあるだけで必要条件ではない。
君の知識が狭くて偏向してるだけだよ。
天台、真言、チベットと特に唯識は学ばないぞ。
992 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 06:40:10 O
なんかの新興宗教か?まあ、どうでもいいが
>>984 >>業果は他生(無関係な他者から生ぜられたもの)となるでしょう。
>>それは、業果が縁已生法(縁って起った法)であって、
>>自生(自身から生ぜられたもの)ではないからです。
>矛盾してるように読めるんですが・・・
私の方便力だと説明が難しいのですが、
自生や他生や共生というのは、「svabhAva(svaは自己、bhAvaは存在・体・性)」
つまり「自存在・自体・自性」が無ければ不可能なのです。
そして、非自己における自己同一性/自性、それが他存在・他性です。
ですから、もし自己同一性そのもの、つまり自性が不可能ならば他性も不可能です。
自存在と他存在が不可能ならば、両者から生ぜられることもありえません。
そして、もし自性=他に因待(依存)しないもの(『中論』15.2)が可能ならば、
業果は諸縁を待たずに結果し得るでしょう。そのようであれば果は任意となるのです。
つまり、諸縁に縁って業果が起るということは、自性としては生じておらず、
自生(宿命論)・他生(偶然論)・共生(宿命且つ偶然)・無因生ではないのです。
>>993補足。
業果が自生であるとは、自存在・自体・自性から生ぜられたものであること。
他生であるとは、他存在・他体・他性から生ぜられたものであること。
どちらも自性が無ければ不可能です。
また、
>>985さんが仰るように、果は無論、因も必ず縁已生法=空法なのです。
>>988 ありがとうございます。
996 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 08:34:57 0
>>993-994 おお! いいレスですね。これが分かれば仏教は誤らない。
私の見解で補足させていただきますと。
〜である、〜でないと捉える〜の部分が自性・本質と言われ、
これは仮設では世間の言葉使い通り、あるがままだけど。
それは空、実体のない仮設であり、『中論』15.1の対論者と想定される
有部のように仮設ではなく自性が三世に渡って永遠不変に実在すると捉えると、
本質的に縁起ではなくなるというのが『中論』15.2の
永遠不変の自性で、中観派も仮設の世間の言葉使いとしては
自性、つまり〜である、〜でないと言う時の〜という意味、内容、対象としての本質を
あるがままの世間で流通する適当な意味で認めてます。
認めなければ会話もできず、教えも説けませんから。
自生も他生も共生も無因もないという四句分別は勝義の話です。
つまり、四つの論理的極限という言葉使いが働かない世界を、
縁起は示し、同時に因果という世俗も示すという、
縁起はほんとうに素晴らしいものだと思います。
なんだか変な展開・・・
しばらく見ていなかったから、わからないけど、
自演というのは本当なのかな・・・
999 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 09:46:14 0
ていうか同じ人が自己レスしてるとしか思えない。
仏教が自己主張してどうする
>縁起はほんとうに素晴らしいものだと思います。
縁起は、ほんとうに素晴らしいもの?
縁起は、あたりまえの事実でしょ。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。