初心者の質問から、マニアックな議論まで
なんでもOKです。
なんでもおーけー、それが仏教
但し特定個人だけを崇めるのは外道
初心者の質問で申し訳ないです。
仏教の根本的な教説って言ったら何だと思われますか?
色々ググってはみましたが「五蘊」やら「三蔵」やら
どれが正解なのか計りかねるワードが結構出てきて
よく分からなくなってきてしまいまして^^;
ちなみにこれ学校の試験問題で使うワードらしく漢字2文字だそうです
お手数ですが宜しくです
無常。
仏教には救いはない
7 :
考える名無しさん:2010/01/26(火) 06:57:17 0
漢字二文字ですかぁ^^
「無常」は出たねぇ!「無我」「涅槃」「縁起」「四諦」・・って、ところでしょう。
8 :
考える名無しさん:2010/01/26(火) 07:27:09 O
ホントに救い無いな。葬式入ったよ。釈迦も葬式する金がなくて、地元の金持ちに葬式代出してもらって葬式したと言われてるからな。
>>5>>7 ありがとうございます
是非参考にさせていただきます^^
10 :
考える名無しさん:2010/01/26(火) 09:52:32 O
すくいないな
解脱
12 :
考える名無しさん:2010/01/27(水) 17:13:31 O
の光輪
きわもなし
14 :
考える名無しさん:2010/01/29(金) 23:55:18 0
ひたすらヒンドゥーとか他宗教をパクるだけで、死人と葬式の為の宗教、それが仏教。
この宗教ははっきり言って人生の道標にすらならん。
人の為になることをするなんて大それたことはいわない。なるべく人に迷惑をかけずに生きる。ただそれだけでいいんだ。
16 :
考える名無しさん:2010/01/30(土) 05:02:12 O
宗教学の板がないんで哲学の板に立ってるスレに入ってるわけだが
17 :
考える名無しさん:2010/01/30(土) 05:08:28 O
釈迦が荼毘にふされたのは旅先で、弟子たちもなすすべがなく、葬儀はその地方の富豪に金を出してもらって行われたそうだよ。
このように、葬儀主体の仏教になったのはしゃり骨信仰じゃないかと思っている。本当の仏教ではないと思う
18 :
考える名無しさん:2010/01/30(土) 05:43:09 O
本来、日本人は古墳にみられるように、死に関してのエデントロギーが非常に高い。その反面、奴隷的しじゅう関係が強く、民衆には墓すらなかった。仏教に葬儀が押し付けられているのは、神道の影響だと思うが
19 :
考える名無しさん:2010/01/30(土) 05:51:05 O
往生という概念と地獄という恐怖。そう反して、奴隷的に扱われていた、民衆統制のいっかんとして、国家事業だったのだよ。その為の仏教も衰退し、印哲を基盤とした仏教の成立を模索しようとする傾向があるが、さだかではない
そもそも仏教にとって死人なんかどうでもいいはずだったが。
生きている人生、それが問題だ。
21 :
考える名無しさん:2010/01/30(土) 07:55:56 0
釈迦は「生老病死」の矛盾について、出家した。「死」はこの世に生まれた者
の宿命であり、如何なる人間にも避けることは出来ない。問題はそれを、どう
受け入れるか、である。生老病死でも、「死」は特に重いテーマである。
仏教は、「死の哲学」とも言える。
22 :
し:2010/01/30(土) 08:04:54 0
仏教の死生観は黒死病に近い
23 :
考える名無しさん:2010/01/30(土) 08:10:21 0
人生は「儚い」。その様な視座から見ると、この世の人々は、影の様な、
幻の様な、夢の中の様な、蜃気楼の様な、脆い「生命」の持ち主に見える。
生まれては死に、若い者は老いて、この世は移り変わり、とどまる事は無い。
「諸行無常」である。
仏教では何事にも「拘るな」と言う。「執着を捨てよ」と言う。だがそれは
難題である。人間、悟りきれるものではない。
というか、人生が「儚い」と一体誰が決めたのか。それは単なる仏教の押しつけではなかろうか。
確かに宇宙的な時間からみれば、人生は瞬きのように短い。
が、同じ年月を生きても、満足、充実した人生を送れた者とそうでない者は全く違うのではないだろうか。
裕福な家庭に生まれるか貧しい家庭に生まれるかの違いだな
十分な愛を与えられる者もいれば虐待されてあっけなく死ぬものもいる
朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身也
27 :
考える名無しさん:2010/01/31(日) 05:44:45 O
未来永劫の無量寿に耐えうる精神構造は?各神々も色界にあって寿命があるという。無量寿の精神構造と現世飛来の根本的使命とはなにかとか。今のままじゃとても無量寿に耐えれそうにないのだが
28 :
考える名無しさん:2010/01/31(日) 05:58:35 O
現在の法は法にあって法でなし。仏法とはなんぞや?仏に帰依し、法をまもりしものの不遇を憂うが。
大金かかる葬儀がすべて虚偽に感じられるのですが…
祖母の葬式に来た生臭坊主は本当にひどかったです。
御経なんてただの酔っ払いの歌でした。
30 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 07:22:18 O
いい坊さんを呼ぶと、もっと金がかかるよ。たいてい京都にいるから、話を聞いてみ。ありがたいぞ
31 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 07:27:10 O
だいたい何の努力もしないで、話だけ聞こうという風潮がある。偉い人はたいてい京都にいるから足を運ばれるように
戒名に何十万も取ったり世襲してベンツ乗り回してる
坊主にはお釈迦様もびっくり。
33 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 07:39:16 O
まあ、俺たちゃ兵隊だからな。そんな文句を言われても。公務員でもないし。ぶっちゃけた話、資格は、オームや幸福の科学と同じ認可なのだよ。まあ、偉い人探して検索して、直接話を聞いてきな。ま、あなたが何宗か知らないが。俺は釈迦ではないからな
34 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 07:40:18 0
お坊さんの話を聞くのは、葬儀や法事の時。故人を偲んで、悲しみもあり
我々はすこし緊張気味。どんな話もそれなりに聞く。只それだけの事。偉い
お坊さんかどうか、そんな事は解らない。
所詮は、「葬式仏教」 それでも良いのかも知れない。
35 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 07:43:49 O
俺は安い布施でやってるよ。新しい車を買う金さえない。まあ、高いには高い理由があるから調べてみ。まともに葬儀ができる人材が減ってるんだよ。
葬儀屋が悪徳商法ってのは常識なんだがね
御経だけを覚えてる坊主じゃない場合だってある
病院と癒着してるし
37 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 07:58:44 O
まあ、葬儀屋は道具を貸してならべて、だからな。高いのは宗教的利益で、それは坊さんのおかげだということを忘れてるな。まあ、セレモニー事業はそれなりに儲かってるみたいね。派遣坊主がいるように牛耳られてる状態だよ。
38 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 08:10:20 O
まあ、最近の傾向として、社会生活を営んでる坊さんのがありがたがられるな。先生とか公務員とか。まあ、あなたたちもそこらへん考えたほうがいい
何様
40 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 08:54:38 0
悩み苦しみ、救いを求めて仏道に入る訳でなく、お寺に生まれ職業として
僧侶の道に入る。この人達に、多くを求めても無理。
お寺だけで生活出来ない者は、外に職を求めるのも理解出来る。この人達
は、この世の苦しみも理解出来て、人格的にも優れた者も多い。
金持ち寺のドラ息子はどうにもならぬ。
41 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 09:10:35 O
まあ、お経を読む艶っぽいいいお経を読めるようになるにも何年もかかるからな。人材育成のことを俺の宗派では、お育てって言ってる。まあ、あなたたちも考えてくれたまえ。
42 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 09:20:26 O
金持ちの寺の場合、それだけで食っていけるので、子供のころから仕込まれている場合が多い。俺なんか普通の寺なんで義務教育、普通高校。だから勉強を始めたのは大学のころからだよ。最初はちんぷんかんぷんだった
寺の家系出身じゃないのに僧になった人のほうが
よく勉強していて話も面白いというのはよくあること。
44 :
考える名無しさん:2010/02/01(月) 10:58:28 0
東大卒、住友銀行の役員までして、子供が就職するのを確認して
出家し高野山に入った、島村大心師と言う学僧がいます。
爽やかな老僧との噂です。
うちの菩提寺の娘婿も寺の息子だそうだが
まだ20代くらいなのにいい声で、先代よりお経がうまいと
もっぱらの評判だよ。言うことも芯が通ってるし。
俺は葬儀や49日など、ちゃんとやってやんないと
親父が冥土に行けないんじゃないかと思って祈ってたんだが
若いのいわく
「死者は仏になった時点で既に救われているから
そのために祈ってやる必要はない。
むしろこの現世に生きる自分たちを見守ってくださるようお祈りしなさい」
と言われて、なんか気が軽くなったなあ。
俺らが「死者のために祈る」なんて傲慢だってことにも気付いたし。
46 :
音楽葬を考える名無しさん:2010/02/02(火) 02:38:27 0
「千の風♪」をみなで朗々と歌って、お坊主さん外しでも
おk!?
千の風のままでは、いまだ成仏していないと妄言を吐いて商売するのが坊主
48 :
考える名無しさん:2010/02/02(火) 09:39:23 0
仏教も般若思想と如来蔵思想がある様で、大きく二つの流れの様だが、
哲学では、般若思想が研究される様だ。「色即是空」にせよ、秘密めいた
神秘性を秘めたものが、関心を引くのかも知れない。
日蓮や親鸞系は、「般若心経」は読まない様だ。
>>46 ぶっちゃけ、お経なんて死んだ後読んでやっても手遅れだからな。
50 :
考える名無しさん:2010/02/02(火) 17:45:33 0
仏教はいろいろありすぎて何が仏教なのかわからん。
日本大乗仏教は葬式仏教だし、大乗、上座部、チベットがあるし。
インドで仏教は千数百年前に衰退して滅びたし。
なぜか達磨というインド僧が中国に禅をつたえてそれが日本に伝わって禅宗になったり。
日本の仏教でも死後は輪廻転生なのか浄土行きなのか成仏なのかとわけわからん。
しかも葬式というのは仏教ではなくて儒教か何かの影響だ。
仏壇も位牌も戒名も多分中国の道教の影響だろう。
しかも神道も道教の影響を受けてるし、
道教もインドのバラモン教の瞑想やチャクラの影響をもろに受けてる。
さらに大昔の中国に入った景教(ネストリウス派キリスト教)の影響もある。
東洋の宗教は完膚無きまでにゴチャゴチャ混ぜにされとる。
もう何が何教の習慣なのかサッパリわけわからない。
だが、東洋諸宗教は宝探し的おもしろさがある。
グチャグチャに散らかった部屋で宝を見つけるのは楽しい。
一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)でも
教義やら歴史的対立やらアイデンティティーの対立やらある。
ほとんどはグチャグチャに散らかった部屋そのものを宝だと主張してる妄信者になった。
だが彼らの中にもそのグチャグチャの部屋は嘘っぱちでその中の宝(神)を探さんとする
真摯な人々がいる。
宝を見つけ難い。
だが、宝探しをしている人の方が見つけ難い・・。。
いろいろあるけど、とりあえず基本は三法印じゃないかな
+四諦ではないかな
53 :
考える名無しさん:2010/02/03(水) 07:55:46 0
田舎の職人などに、悟った様な老人がいる。仏教のことはなにも知らないが、拘りを
捨てている。欲が無い訳では無いのだろうが、諦めている。「仏心」が自然に身について
いる様だ。「ほとけ」とはこんな人かと、思う時がある。
悟っている田舎の職人て空想の産物すぎてわろた
55 :
考える名無しさん:2010/02/04(木) 06:23:29 0
色即是空 空即是色
56 :
考える名無しさん:2010/02/04(木) 06:37:39 0
悟ったところで、「死」は確実。この世は、色即是空で実体が無いと言う。それだから
悩む必要は無いと言う。実体が無いと言われても、こうして現実に「生きている」。実体
はある。「死」だけは確実にある。どんな哲学であろうと、どんな宗教であろうと、「死」
は、確実。「死」のみが真実。
57 :
↑ :2010/02/05(金) 02:58:18 0
それを“実体”って言うんですかい? 旦那。。。
一回傷つけられたら何倍にもして返したいんだが
駄目なの?
59 :
考える名無しさん:2010/02/05(金) 15:24:50 0
> 一回傷つけられたら何倍にもして返したいんだが
> 駄目なの?
四苦八苦の一つ、「怨憎会苦」の目に遭われたのですね・・・(ノД`)
60 :
考える名無しさん:2010/02/06(土) 07:48:13 0
理屈の上で、悟っても何の役にも立たない。修行無しの仏教には、真の悟りは
無い。座禅にせよ、荒行にせよ、千日回峰にせよ、心身共に悟ってこそ涅槃に至る。
心頭滅却すれば火もまた涼し
>>56 >色即是空で実体が無い
空相観では有無の概念を扱いません
心経で以下に続く、無・・は強引に解釈すれば
実体が無い、のではなく、無い実体です
>「死」のみが真実
確実=真実とは論理に飛躍がありすぎる
死が有る、のではなく、有る死です
ブッダの「悟り」と生死論は無関係です
62 :
考える名無しさん:2010/02/07(日) 06:48:48 0
[生」「住」「滅」−−まとめて「人生」?
人生は存在しない。「無自性」で「空相」 影の様な、夢の様な、蜃気楼の
様な、そして、最終的には、一切は存在しない。勝義の世界。
やはり、人生は有る。世俗の世界。
勝義、世俗を超えた世界。ブッダの「悟り」?
「無記」の世界?
63 :
し:2010/02/07(日) 08:52:27 0
ジュゼッペリーノ。仏陀の性も2000年以上前のこと。
一体どこから来てどこに向かっているのだろう?
仏教全般と言っても、印度哲学に重きを置くか、
日本仏教と日本文化の関わりに重きをおくかで
ずいぶん変わってくるよな
やっぱり人生は空しいな
職場を転々としているから実感する
歓迎会があっても、その時から別れを思うようになってきてる
禅語に一期一会ってあるが、本当に
永遠じゃない、この人たちともすぐ別れるんだろうなって感じる
もちろん自分は自分から離れることは無いけどその自己自身も無常だよな
精神肉体絶えず変化している
この世に実体などありゃしない
実在として存在するのではなく縁起として具象しているにすぎない
銀河鉄道の夜みたいなもんだな
67 :
考える名無しさん:2010/02/07(日) 23:46:41 0
人は悲しい 悲しいものですね
それでも過去たちは やさしく睫毛に憩う
人生て 不思議なものですね
アルボムッレさんの本で仏教の考え方って
感情に振り回されて感情に壊されてく
現代人にぴったりだなぁって思うようになったんだけど
実際極めると精神力や集中力高まって
ちょっとやそっとの事じゃ考えぶれなくなるって本当ですか?
自分も感情の思うがままに腹立ちキレてそのことばっかり考えて
相当人生損してるので…
69 :
考える名無しさん:2010/02/08(月) 07:51:18 0
「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」はそのとおりだと思う。
しかし「涅槃寂静」までは、道遠し。
人間、そんなに簡単には悟れない。
70 :
考える名無しさん:2010/02/08(月) 08:03:00 0
人生に実体が有ろうと無かろうと、生まれたからには、死ぬ。
71 :
(-人-):2010/02/08(月) 18:50:39 0
だから結論、「実体は無い!」
で生まれ変わりを信じて疑わないヤシも成仏できる?
73 :
考える名無しさん:2010/02/08(月) 20:57:57 0
>>71 成仏のとらえ方による
>>68 考えもぶれ、感情にも起伏は以前残る
人間は無常の五蘊の塊だから
ただ、その事にとらわれる程度が軽減するらしい
生きてるかぎり、欲、煩悩はついてまわる
そいつらとの付き合い方が変わるらしいw
74 :
考える名無しさん:2010/02/09(火) 06:09:01 0
近くの総合病院の癌末期の患者の入院する緩和ケア病棟の話。キリスト教では
ホスピス、仏教ではビハーラと言うらしい。癌末期の疼痛のケアが中心で、牧師
を求める患者も、僧侶を求める患者も、殆ど居ない。殆どの患者は、「死」を受け
入れてをり、宗教を求めたりしない。これが、日本の現状らしい。
75 :
考える名無しさん:2010/02/09(火) 09:58:09 0
汎神教徒ですから
正月に神社に初詣し
クリスマスにケーキ食べ
葬式には坊さんを呼びますから
死ぬ前に坊主を呼ぶなんて縁起でもない、と思われる風潮はあるよな(w
実際にはお経なんて死んでから読んでやっても手遅れなんだろうけど
お経の意味が分からないと唱えても意味ないんじゃないの?
死者用のお経もあるよ
意味のない、呪文に近いお経もあるよ
回向といって、唱えるだけでも、聞くだけでも効果あるとされるものもあるよ
死んだら修行しないといけないんだよね。
やだなあ
生きてることが修行なわけだがw
じゃあ死んだらもう休ませてくんないかな
84 :
考える名無しさん:2010/02/09(火) 15:22:26 0
>>50 >日本大乗仏教は葬式仏教だし、
誰かの受け売りで決め付けるな
そういう坊主もたくさんいるが、日本仏教を真剣に追い求める坊さんもいる。
千日回峰行満行の光永師、京都御所で「土足参内」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091012/acd0910121923004-n1.htm 千日回峰行
千日回峰行は、平安期の相応が始めたとされ、十二年籠山行を終え、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行である。
行者は途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意で、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と、両刃の短剣を常時携行する。
頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋ばきといういでたちである。回峰行は七年間にわたる行である。
無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝する。
700日目の回峰を終えた日から「堂入り」が行なわれる。入堂前には行者は生き葬式を行ない、
無動寺谷明王堂で足かけ九日間(丸七日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥(「臥」とは、横たわること)の行に入る。
堂入り中は、明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽を汲み、
堂内の不動明王にこれを供えなければならない。堂入りを満了(堂さがり)すると、
行者は生身の不動明王ともいわれる大阿闍梨(だいあじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、
衆生救済の化他行(けたぎょう)に入り、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、
1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻り、千日を満行する。
この行を終えた行者は延暦寺の記録では47人である。
またこの行を2回終えた者が3人おり、その中には現存の酒井雄哉大阿闍梨も含まれる。
なお、千日回峰行を終えた者は京都御所への参内が許される。通常、京都御所内は土足厳禁であるが、千日回峰行を終えた者のみ、御所へ土足のまま参内できる
葬式仏教じゃないなら戒名だの永代供養だのでバカ高い金
取ったりするの止めたらいいんだけどね
生臭が大多数なのは今に始まった事じゃない
散骨が流行りらしいぜ
これから無縁仏が増えるしな
金のことよりも、道元や親鸞の残した仏法に興味がある。
>>85 >戒名だの永代供養だのでバカ高い金
戒名って金額きまってないよね?
こっちがお礼の気持ちとして渡すんじゃなかったか。
それに良心的なお寺を選べばお墓の管理費はバカ高い金額かからないぞ。
うちなんか年間5千円でやってくれてるし。
なんだかんだ言って葬式は葬儀屋への金が一番かかる。
88 :
考える名無しさん:2010/02/09(火) 16:27:38 0
戒名にもいろいろ位が有るらしい。○○院殿○○大居士ーー殿さまの位。
○○院○○居士ーー侍の位。 ○○信士ーー庶民の位。 俗名○○ーー?
それぞれお金で買えます。
>>88 今の時代、どこの寺がそれやってんの?
というか、アンタ日本人じゃないだろ?
時代認識がむちゃくちゃww
理不尽な死、それが人生の本質だろ
おまえらは人生の土俵にたってないんだ
安らかに老衰して死んだからといってその人が
人生の土俵に立ってないとは必ずしもいえない。
92 :
考える名無しさん:2010/02/10(水) 01:15:09 O
まあ、めでたい死なんかないけどね。苦痛から救うのが仏教。
93 :
考える名無しさん:2010/02/10(水) 01:25:18 O
生老病死の四苦
94 :
考える名無しさん:2010/02/10(水) 06:32:25 0
肉体的な痛み苦しみが無いケースでは、「死」はそれ程受け入れ難いものでは無い。
夜に眠る様なものでは無いのか? とすると俺は毎晩「涅槃」に入る訓練をしているが?
95 :
考える名無しさん:2010/02/10(水) 07:32:36 O
死は苦しみである。苦しみのない世界へまいりましょう
>>89 二泊三日の生前授戒キャンペーンに参加して
親は居士を5万円でもらったよ
97 :
考える名無しさん:2010/02/10(水) 11:14:35 0
法人の理事長で、父親に院殿大居士を付けた人いるよ。やはり、お金
の次に名誉と言う人いるよ。
98 :
考える名無しさん:2010/02/10(水) 16:14:32 0
地獄の沙汰も金次第。
>>99 その意味では、程ほどの知識と常識を持った人が多い
神仏板の方が、まったりほのぼの且つほんわか、というスレが多いかもな・・。
宗教板は、「イっちゃったの」とか「馬車馬のような視界の奴」とか
「斜に構え過ぎて浮きまくりの奴」とか「知識を披露したくてしょうがない奴」とか
「目を覚ますべき袋小路の奴」とか「井の中の蛙」とか「無駄に正義感に燃えてる奴」とか、
とにかく、しょーもないのばかりだからな・・w
>>99 やっぱり、ソーシキ仏教だから・・・
なかなか政策の話まで行かず、その前段階カネ、カネ、カネ、、、で輪廻しつづける
国会よろしくでは
102 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 06:30:27 0
魂にはブッタの教えを刻み信じるが
しかし仏の教えだけで生きるには、この世界は汚れすぎているな。
だからマキャベリや韓非子の教えも私は信じている
103 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 08:53:30 0
この世は、仮の存在。「無自性」で、影の様な、夢の様な、蜃気楼の様な
「縁起」「空性」の、あえて言えば「非有非無」の世界。如来は「執着するな」
と言う。般若心経にも「不垢不浄」と言う。
この世は「汚れすぎている」とまで思いつめない。「中道」が良い。
104 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 09:07:34 0
法華経の如来寿量品にも、火事場の様なこの世でも「仏の世界」となり、極楽
と成ると、書かれている。「信仰」とはそんな世界に生きること。
「南無妙法蓮華経」
105 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 11:21:46 0
それぞれの人が、仏性を備えている。しかし、外には現れていない。
仏性は煩悩により覆い隠されて汚れてしまっている。だが人間には、
救いが有る。信じて生きよう。
106 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 11:45:52 0
仏教が煩悩をつくり
人間がそれを乗り越える
仏教が世の中を空にし
人間がそこを埋める
坊主が金をせびり
人間が働いて稼ぐ
107 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 13:05:48 0
布施と言うことは、「執着の心」「所有の心」を無くすためと言う。
施者はやってあげたと言う驕りや傲慢の心、見返りを期待する心を持たず
受者は戴いた物への執着の心を持たず、自らを卑下、媚び、諂う心を持たず
施物が悪行の結果でないことを確かめねばならない。
布施は仏教信者の重要なツトメである。
108 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 13:31:55 0
まあ 衆愚というか
多数が封建時代の悪習を続けると
それが社会通念化して
日本の金の吸い上げ構造の哲学になってしまうからな
日本て ピンはねしてるやつほど
金には興味がございません
って言うからな
ツトメ
とかいって 世の中に圧力をかけるなよ
109 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 15:15:54 0
施物はお金と言う意味のみでは無い。
それは、行為であっても良し、精神的なもの、例えば愛情の様なもの、
でも良い。人の為になるものなら、何でも良い。
見返りは期待しない。
110 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 15:30:55 0
ものに執着すると「業」となる。
業を断ち切るには、執着を捨てる事。布施はその為の第一歩。
拘らず、執着を捨てる様にしよう。
111 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 16:39:45 0
>>103 私は中道が嫌いなんです。
だってさ、中道とか中立とか言っている連中ほど偏っているもの。
しょせんは人間に真の公正中立など望む事はできないなら。
いっそ偏っているといわれようが、自分のスタンスを決めている方がよい
112 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 16:40:40 0
仏教に対する
執着をなくせ
113 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 17:33:19 0
執着を捨てることに執着するなとか?w
114 :
し:2010/02/11(木) 19:44:19 0
何か心情を吐露する。吐露すると落ち着く。
最近誰かに何か言いたくなる。誰だって最後の瞬間笑っていれたら
いい。最後に涙を流したり完全に浄化が必要だ。
2chにしつこく何かを言っているのは代替えのためである。
とにかく何かを言いたいのだが気づいてみれば
無常観ばかりが残る。哲学も所詮は伝えるための手段に過ぎない。
妙の巧妙でそれが可能だと思った。最近はいつもこの人に
あのことを言おうとか親にこのことを言おうとか思うが
それが伝えようにも伝わらないことに気づかされる。
それが本質的にどうしても伝えておくべきことを伝えられない
ことに気づく。誰に伝えればいいのか?伝えるべき人がどこかに
いてもそれが伝わらずに終わる。こころのどこかに涙が溜まっている
のに「誰だってさいごに笑っていれたらいいのに」
115 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 21:48:14 0
完全な論理なんてない
ただいえることは
仏教はある人には有効であるが
ある人には無用であるということだ
一部のオタクのものである限り
言葉の使い方に注意してほしい
116 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 06:08:28 0
仏教の「中道」だが、それは中立とか平均とか言ういみでは有りません。Aなる
考えと非Aなる考えがある時、Aを検討し非Aを検討し、Aより離れ非Aより離れ、第三
の道Bを求める事である。
Aと言うものが無自性、空性だから、と言って非Aと言うものも無自性、空性である。当然
第三の道Bも無自性、空性ではあるが、Bは「非A非非A」と言える。中論的にはそうなる?
最近「中論」を読んだので、消化不良です。
117 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 06:35:52 0
「中道」だからと言って「中論」に結びつける必要は無い。
「中道」は理想の道だが、そこに至るには「八正道」が必要。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、
118 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 07:52:39 0
どんな縁起でも、
それをわれわれは空と説く、
それは仮に設けられたものであって、
それはすなわち中道である。
「中論」より
119 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 08:00:23 0
どんな縁起でも、
それをわれわれは空と説く、
それは仮に設けられたものであって、
それはすなわち中道である
「中論」より
120 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 10:05:34 O
いわゆる小乗だな。小乗はその修行者のみを救うのであって、帰依者は輪廻するのではないか?だとしたなら、婚姻もなんもかも捨てなきゃならんわけで、まあ、現在じゃおらんな
121 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 10:14:05 O
ブラーフマンとアートマンってなんだっけ?
122 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 10:24:15 O
空の思想は実はリュージュのころにできた思想らしく、その後の経は、造経か偽経とみられているらしいが、
原始仏教の中でも、真理を表現する言葉の一つとして「空」sunyataは登場してる
ただ龍樹によって大成したのは間違いない
大乗系の経典はすべて創作です
124 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 11:00:27 O
第一結集あたりですでにあやしいのでわ?人の記憶ってあいまいだからな。だとしたらあらゆる経典より釈迦の意をくみとるしかないのでは?
125 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 11:04:43 O
その後の発展教学において、各高僧がでて発展したのならば造経も真意なのでは?それらの高僧に匹敵する人物が現在において出現しないとすれば衰退しかないな
臨済ではないが、雑草が多すぎる
釈尊の意をくみとれましたか?私は迷路に入りましたよw
127 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 11:19:47 O
私は選択本願として、南無阿弥陀仏と極楽浄土を信じてるが、選択の方法としてのやり方に興味があり、芸能という部分で実践したことがあるが結果は上々だった。やはり、源泉の仏教に本質があるとは思うが、それをわかるのは覚者だけだと思うがどうだろうか?
弘法、筆を選ばず かw
129 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 14:46:00 0
「そもそも「無自性」から「空」を導くのも疑問である。ものは認識対象と
なった時点で、「空」を備えている。縁起を待つまでも無く、色即是空で
ものは「非有非無」である。「C点による仏教論」を参考にして下さい。
「無自性」こそ「中論」の原点であるが、ここで再検討してはどうか?
130 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 14:49:46 0
勿論、この再検討は、中論の言う「戯論」そのものである。
131 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 15:27:25 0
五蘊の概念は私を人間は、敷衍して世界は幻影だと徹底して思い知らせてくれた。
客観は認識主体を支配することができない
133 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 05:52:10 0
客観がどの様なものであれ、認識対象は存在しない。依って認識行為も存在しない。
最期は、認識主体も存在しない。客観がどの様な視座であれ、それは空である。
また五蘊も空である。
「無自性」からは、一切は空となる。
134 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 06:18:01 0
この世は、空である。一切は、夢の様な、幻の様な、蜃気楼の様な、実体
の無い空である。世俗諦、勝義諦、この混然一体が、ある時は世俗を説き、
又ある時は、勝義を説き、世俗・勝義を自在に如来は説くと言う。それが
「無記」だと言う。最高の真理は、言語では説けないと言う。
釈迦如来は、本当にそう説いたのか? 記録は無い。
135 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 06:25:54 0
この世に「変化」が有る限り、一切の現象は「無自性」と言う。
136 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 07:58:26 0
「色」世俗に執着する者には、「空」を説き、「空」勝義に執着する者には
「色」を説き、世俗・勝義いずれにも執着しない。如来の真意は?
第一の存在:世俗諦、現象肯定の世界、科学
第二の存在:勝義諦、現象否定の世界、無自性の世界、中論
第三の存在:世俗・勝義を超えた世界、釈迦如来
以上の様に分けて考えたがどうだろうか?
137 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 10:17:17 0
なを般若思想とは、別の流れである如来蔵思想を、中論では無視する
事になる。それはやむを得ないが、仏性は「自性」に宿る。
138 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 10:57:49 0
般若思想と如来蔵思想の両立は、可能かも知れない。仏教として、釈迦如来の
教えとして、両立が有り得る様な気がする。
暴論ですので、お笑い下さい。
139 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 13:42:39 0
いま金剛般若心経を読んでいるのだけど。
はっきり言ってわからん。
さんざん否定してから、だからこれは正しいのだ
その繰り返しみたいな感じだからね。
そこから何を読み取れるのか、難しいものだ
>>139 色即是空(さんざん否定)、空即是色(否定して、真に正しい)と同じです。
「色」の本質は「空」、「空」だからこそ「色」でありそのもの自身であると。
その智慧、悟り、は金剛石のようにあらゆる迷いを断つということ。
141 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 17:30:08 0
>>140 >あらゆる迷いを断つということ。
アフォ?そんなことしたら死んだ仏と同じになる。
比喩として言うのならそう説明しろよボケ。
都合に応じて迷い絶つというのは道具として覚悟をする力を行使する
だけな。究極の本質や真理など極める先に何がある?
それはデタラメや無意味そのものになるだけ、それを示しても
なんの役に立たない。何故それが必要かという背景と、行うとどのように
なるがゆえ、それが必要だと論理付けができない時点で、お前の妄想
オナニーの説明にしかなっておりません。自分自信の合理性を保っても
他人の合理性に繋ぐには、その方法を熟知していないのが明白に現れて
おりますよwwwww
142 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 17:44:54 0
>>139 自分が読んでいる対象が、科学技術だというのか?
それは分類されるとオカルトの本質をもった道理である。
貴方の言うこの説明は「はっきり言ってわからん」正しい。
それは理解してはダメな。理解したら本質には辿り着けない。
信じるか信じないかそれが宗教の然。理解する問題ではない。
ドノヨウニという物事のコトワリを知るのではなく、何故という
何処からという「因果と縁」を基本に信じ悟り至り、それから
接触、対照、類似されるモノコトの有り様を知るってことだ。
貴方は客観的な道理の合理性ばかりに集積した形式を追っている。
そこにあるのは理解しようと執着しているからである。
自身に知を作るのではない、知は生まれるものである。
作られた知をもっても、歪んでいるだけ。
そこには然がない。貴方が取り入れたのは技術である。
それがテクノリジーだと言うのなら趣味的な表層である。
文章から発生する感情や要旨、主旨を読み取るのではなく
誤字脱字、文法、起承転結を評価するのと同じ。
見えるものばかり追う貴方がいる。見えないものを悟り
隠れている、秘めている、そういう不確かなものを捉える。
それができないなら(ry
143 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 18:16:08 O
迷いがあるということですね
144 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 20:05:19 0
般若思想はどうしても、縁起、空性に成ります。認識対象が無自性と捉えられ
存在を否定的に考えることに成る必然が、縁起・空性だからと言って、どうして
あるのでしょうか?
無自性と捉えず、自性ありではどうしていけないのか?
変化を自性の連続と捉えるのは、不自然か?
中論では「戯論」としているが。
145 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 20:09:51 0
諸行無常の仏教は縁起・空性は、やはり生命線の様な気がする。
146 :
あめのみやつこ:2010/02/13(土) 20:24:32 0
人と人とのかかわりで円(縁)というものには
「思う」という縁と「思われる」という縁がある。
両方相対性と哲学のかかわりになってくる。
「思う」ということは「思われる」ということと同義
なのだ。ただきもいということがある。あれは背離している
にもかかわらず「思う」からじねん・自然の道理から離れて
意識としては偽りなのである。じゃあじねんにかかわりを
持つということが自然のありのままに近づくということであり
それは力のないところでのありのままの存在を持つということに
他ならない。というわけでじねんと繋がりで考えると「恋」と
いうものが如何にそれに即しているのかがわかる。
「恋」をするということは本来本質的な意味合いがある。
「思う」ということがじねん・自然に即している以上恋するものは
恋されるものも両方が海の満ち干を感じることになる。
本質的に「思う」ということは波のような波動が心に起る。
波が満ち干ように息づかいが本来のものとは違う。ちょうど
花が咲くように溜息がでる。そのとき同時に相対的な自分以外の
存在の本質を見るようになる。こういった生命の心の作動は不思議な
繋がりと作用を創る。そして不思議なことにこれが絡まり呪詛
や束縛のような霊性を帯びることがある。まあああいったものは
ちゃんと自然に即しているものなのだが。この「恋」という作用は
研究なされてもいいと思う。変なことも多い。
148 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 23:57:41 0
諸法の佛法なる時節、得恋あり、失恋あり。
恋人なほもて昇天を遂ぐ。いはんや愛人をや。
思念と恋慕と二にして無二なること、是れ猶し波水の如し。能く思ふて見るべし。
149 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 06:05:37 0
この世は、「諸行無常」である。つねに変化し流れ、とどまる事はない。
変化は仏教では、縁起であり、「因」原因があり、「縁」条件があり、「果」結果
がある。因・縁・果と流れとどまる事はない。
すこし乱暴だが、弁証法の正・反・合と言う考えも、縁起と似ている。学問的には
どうか、それは解らないが。
縁起から直ちに「無自性」となるのは、疑問である。「空」と無自性は、別の存在
である。
吾らの恋人は、無自性では無い。彼女は「色即是空」であるが、この現象世界では
「空は認識されない」ので、彼女は「色のみ」で、君は悩む必要は無い。
150 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 06:16:56 0
彼女は色即是空で移り変る。だからいとしい。磨けば、「仏性」も現れる。
君の恋人を、信じ、愛せよ。
君の恋人は、幻の様な、蜃気楼の様な、はかない存在では無い。自性もある
確かな「しっかり者」だ。
151 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 06:17:54 O
大儀的実践能力はやはり、人の集まるというとこにあるとすると、所詮芸能人や政治家にはかなわないことがわかる。弁証法は、かつての権力者の前で行われた論争を勝つがために培われたと言われている。
その弁証で勝つということが仏教的にはどうなのかとか。和平の議論価値は弁証的勝利とは矛盾するが、
152 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 06:25:32 0
弁証法は、正直なところ、解りません。ただ「流れ」を感じさせる思考の
様ですが。
153 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 06:29:33 O
恋という概念も輪廻転生に生まれ、人間となり仏縁に会わせていただいた上での解釈かな?まあ、わからんが。極論から言うと、人類保管計画みたいなもんで、色界の苦痛より救いだし、無限の世界に誘うという、恐ろしいものかもしれない。
仏縁にあわせていただく、ということが前提なのかな?
154 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 06:35:56 O
いずれ滅び行くという解釈がすぐに滅ぶというジレンマに苛まれながら、戦争は起きるんだと思うが。自殺もそうだな。待つということが、できない人類ということかな。行き急ぎの恋は幸せを生むとは限らないように
仏縁との…以下省略
155 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 06:47:44 O
以下弁証能力不十分。まあ、そんな能力があったら、現在の地位に甘んじていないがな。だから省略と
156 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 07:04:30 0
生きている意味ばかり求めず、君の恋人の「愛」を信じて、恋に生きるのも
この世の「業」。一寸先は「闇」の人生だが、業も含めて人生。文学的には
それも可とするが、仏教では矢張り間違い。
時には、頭を休めるのも必要。
157 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 07:17:41 O
廻り合わせと縁の違いはわかりますか?
158 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 07:40:27 0
廻りあわせは偶然の産物だ。
縁というのは性質と本質がかかわってくる。
廻り合わされても性質や本質が無ければ縁は切れる。
縁があれば心が残る。まあどちらも縁の一種だろう。
159 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 08:44:16 0
縁起により変化が生まれる。この変化もとどまる事無く流れて行く。歴史は
一つしか無い。その極々一部も変えることは出来ない。
この世の人間関係も、男女の関係も、唯一つの縁しかなく、ある人は多彩な
人脈を持ち、ある人は孤独に生きる。だが人生は一つしか無い。
有神論の人は、この一つしか無い人生を「神」が導くと言うでしょう。
仏教徒は、六道輪廻と言うかもしれません。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、
天上と廻るこの世と考える。それが仏の世界と。また他の人は、諸行無情と
そして、総ては無我と。回答の無いのが、仏教徒でしょう。
160 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 11:23:55 0
現実に生きる一人ひとりの人間は、夢の様な、幻の様な、蜃気楼の様な
儚い人間では無い。「無自性」と言う様な、弱弱しいものでは無い。これが
現実である。
人間は死んで逝く。若者は老いて行く。世の中は止まる事無く、流れて移り変る。
変らぬのは、「死」と言う現実。そこで視座を「死の世界」に置くと、
どうしても「現実否定」そして「現象否定」の論となる。宗教は「死」に拘る。
161 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 14:49:12 0
社会で人々と生きて行くからには、一人ひとり「仏性」を備えていると信じたい。
それには一人ひとりが、「自性」を持つと考えたい。
「諸行無常」は、この世の常である。しかし、「諸法無我」では無い。
無常ならば無我である。
163 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 17:51:29 0
諸行無常の「諸行」とは、縁起の理法によって条件づけられたものであるから、
万象を因縁生起のものと信じない者にとっては無意味である。道元が言ったように、
諸法が佛法であるという条件下においてのみ、諸行無常は成立する。
164 :
考える名無しさん:2010/02/14(日) 17:59:35 0
>>161 現在のその考え方も、今後の縁によっては変化する可能性があるわな
そこを無自性、無我と表現してるだけよ
そう考え、そのように書き込みしてる実体はいったい誰なのだ?
ってことを示しているだけよ
165 :
あめのみやつこ:2010/02/14(日) 18:28:23 0
車に乗りながら街を眺めているとこうなった看板が立ち並ぶ。
世の中はこうなった。こうならなかった確率は山ほどある。
もう一度明治の時代まで戻しておんなじように時間を経過させても
山と企業は今と違うだろう。しかし世の中はこうなった。
こうならないということは細い線なのだ。ちょっとした一瞬の出来事
判断、選択(理解だけはたぶんみんなこのままで来るだろう)すべては
枝派というものはちょっとしたことで向きを変える。しかしこうなった。
こうなった世の中は一定の時間軸を経過した。脳もそう。ちょっとした
一瞬で向きが変わる。脳は物質だが必然はない。全部枝派が曲がって曲がって
曲がって世の中は来ているのだ。縁起。
166 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 00:03:24 0
縁起とは、因縁生起のことである。因とは直接原因、縁とは間接原因のこと。
そこには、「こうならなかったら」というものは無い。現に生じているものは、
全てが因と縁によるものであるという認識だ。
無我と無自性はシノニムである。「我」(アートマン)は常住であるというのが、
釈迦の時代の支配的な思想であった。
佛教は、常住不変なるものを否定はしない。佛教においては、縁起の理法は常住
不変である。
167 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 05:41:38 0
[変化」がある。認識対象は「無自性」であるとは、結論ずけられない。「自性」の連続でも、
縁起と言える。若者は老い、生まれた者は死ぬ。世は移り変り止まる事は無い。この世は
「諸行無常」である。認識対象は、対象となったその時点で、「空性」を備えている。検索
して「C点による仏教論」を参考にして下さい。「諸法無我」は再検討を要す。
中論からは「偽論」と言われるのは、火を見るより明らかですが。
168 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 05:48:28 0
この世は、「無自性」の連続ではなく、「自性」の連続と考えたい。如来蔵思想
より思考しても、「仏性」は「無自性」には宿れず、「自性」にこそ宿る。
169 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 06:02:43 0
般若思想と如来蔵思想との両立は可能と考えたい。般若思想の中にも「仏性」は
流れている。「無自性」のみでは、「仏性」の宿る場が無い。
170 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 06:08:50 0
これは私の妄想であるが、如来は「無自性」に拘る者には、「自性」を説き、
「自性」に拘る者には「無自性」を説くのでは無いか。
171 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 09:57:10 0
「仏性」の解釈が曖昧だ
俺の考える仏性は、「宿る場」など必要としない
172 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 10:33:14 0
「仏性」は、汚れた「我」の中にあり、穢れてはいない。如来蔵思想
は、中論とは別のジャンルの思想であり、「無自性」つまり「無我」では「仏性」
も存在しない。「仏性」も空となり、中論では存在出来ない。仏性は幻の様な、
夢の様な、蜃気楼の様なものと成ってしまう。仏性は「我」に宿る。
173 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 11:05:38 0
釈迦如来は自ら記録を残さないため、多様な思想が仏教には有るようです。
最高の真理は言語表現を超える為、「無記」としたのかも知れません。
種々の思想の中で、「般若思想」と「如来蔵思想」は二大潮流で、前者は
「無我」後者は「我」としたら乱暴でしょうか。
「我」に拘る者には「無我」を説き、「無我」に拘る者には「我」を説いた
のかも知れません。如来は自由自在に説いた様に思われます。
ダンマパダ(真理の言葉)岩波書店、第20章、道、279より
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)・・とあるな
注で、これがパーリ聖典にあらわれる古い思想である
ところがのちには「一切の事物は恒存する実体をもたない(無我)」と
解釈するようになった・・
横槍が入っちまったのか〜?w
中論、観有無品
「有る」というのは、常住に執着する〔偏見〕である。
「無い」というのは、断滅〔に執着する〕偏見である。
それゆえ、聡明な人は、「有る」ということと「無い」ということとに、依拠してはならない。
禅
常見、断見、合わせて邪見
「空」=「縁起空」だったのに、有無の乱用により虚無主義に堕ちやすい
176 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 14:11:54 0
「如来蔵」では、「諸法無我」ではなく、「諸法本浄」と言うらしい。
177 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 14:39:30 0
「如来蔵」では、「諸法無我」ではなく、「諸法本浄」と言うらしい。
なを、「如来蔵」が煩悩の中にあって、そこから離れうるのは、一方では
「空」の在り方の存在であるからとも言われている。「如来蔵」は豊富な
属性をもつ不思議な存在とも言われている。
178 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 15:26:12 0
如来蔵が永遠不滅とも言われているが、またそれが大乗仏教のベースとも
言われているが、来世までつづくとも言われているが、少し信じ難い。
来世の存在に疑問を覚えます。
創作、フィクションですから・・
>>178 無理して信じなくていい。
哲学者・仏教学者・神学者などで居続けたいなら「如来蔵は永遠不滅か?」「来世はあるか?」と
迷宮のなかをグルグルさまよい続けて下さい。
如来蔵とか来世とかはどうでもいいし、大したポイントじゃないとわかったら
次のステップでしょう。
山上にいる人が地上の人々をながめるように、哲学や哲学板をながめるステップです。
>>179 まあフィクションでもいいですよ・・・。だが、事実は小説よりも奇なりですよ・・・。
両極端を超えねばならん。哲学や仏教学や神学や宗教学は確かに2階席ですよ。
宇宙やら社会や世の中を離れて見て、分析したりして真理を見つけたりしようとしてる。
でも、哲学で2階に上っても1階に全然通用しないんです。
2階の連中がドタバタうるせえで終わりです。だから3階以上に上がらねばならん。
せっかく2階にお招きされた哲学者なのに、3階に上ろうとしないでゴチャゴチャやってるのが多すぎる。
まったく信頼のない上司が部下たちに命令を下しても、誰も言うことを聞かないような状況なんです。
2階でウジウジしてるとエレベーターで1階からいきなり3階に来ちゃう人もいるだろう。
2階は気持ちいい所だから居座ろうとする人が沢山いるんです。学者とかがその類です。
2階にいる人で3階に上ろうとする人を2階の人は足をひっぱるんです。
そっちに行くな、その道が3階への道な訳ないだろ、ってね。そこで大体が2階に引きづり下ろされます。
自分でも「そうだよな。そんな馬鹿な話はないよな。」って納得して。
3階に行く人々は行くよ。2階席の人々は執念深い。絶対3階に上らせてくれない様な人々がそろってる。
最悪、苦しくて非常口から外に出ようとしたら、その先はカルト宗教にはまっちゃった、
教えを履きちがえたとかもある。
けど道はある。2階は本当に気をつけないと一生抜け出せない。
ヒントは2階(哲学世界)よりも3階の方が1階(社会・世間)に近い。
4階以上の話は知らん。
181 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 01:04:20 O
確言的言論には異論を生じてはいけない。だとしたならば、あなたは仏教をやめるべきだ。如来真像の確定論から話は始まるのであるからな。来世の決定にもしたがわなければならない。
182 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 01:10:35 O
確言的釈迦の言論に逆らうとは。涅槃寂静の境地にいたり覚悟者にでもなったおつもりか?勘違いにもほどがある。
183 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 01:21:32 O
自分に都合のいいように解釈するならば学問をやめたほうがいいし、仏教を信じなくてよろしい。
184 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 05:46:15 0
「律」は別として、「経」や「論」は、絶対の真理として、「信じ」なければならない。
それが仏教への「信仰」なのでしょう。疑問を抱くのは間違いか?
素朴な信仰心は、現在に生きる者には求められても、無理である。
185 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 07:50:03 0
前世・現世・来世を通じ、輪廻転生を通じ、永遠不滅の如来蔵を信じようと
しても、抵抗がある。この世の人間は、それぞれ「仏性」を備えている。
ただ表に表れ無いだけである。誰でも善意は心の何処かにある。この程度
の説なら一応了解可能。しかし、現実の凶悪事件を見ると、それでも考えて
しまう。
救い難しか?
186 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 09:54:35 O
仏教には地獄説法もある。俺のひい祖父さんが研究してたらしく、文献がたくさんある
187 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 09:58:48 O
また、親殺しや仏教を守るための武力を容認している部分もある。まあ、なにが正しいかはわからんが。
188 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 10:02:34 O
いずれも懺戒の念をもち仏に救いを求め、仏性に目覚めるというストーリーなんだが、お読みになったことは?
如来蔵思想は仏教のヒンドゥー教への先祖帰り運動の産物だろう
迷うだけだ
190 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 10:21:32 O
如来に救われるしか方法がない。僧たる僧も不在の現在において、なにを信じていいか迷われるのも無理はない
191 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 10:26:03 O
信仰の方法にもいくつかあったような。如来を方便の形としてとらえ、その真像をとらえるやりかたと、無下に帰依する方法とか。勉強不足。でなおしてきます。はい
192 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 10:40:41 O
釈迦の紹介により如来を知り、如来に傾倒するということかな。
193 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 15:19:20 0
「仏性」は、宗派により多様であるらしい。「法華経」では、人々に広く「仏性」を
認めているらしいが、「大般涅槃経」では「一切衆生悉有仏性」として総ての人々に
「仏性」を認めているとの事。しかし一部にしか認めない宗派も多いらしい。
如来蔵思想は必ずしも、仏教一般に認められている思想では無いらしい。
194 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 17:30:07 0
広く「仏性」を認めねば、広く信者は集まらんだろう。「法華経」系の新宗教が
多いのはそう言うわけか。ナットク。
195 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 18:02:03 0
仏教が体系となった時点で釈迦無二の宿願が果たされないことが決定したとおもうんだけど
196 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 18:39:37 0
釈迦が形而上学的断定を嫌っていたのは確かだよ。
哲学と仏教は正反対なのさ。
197 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 22:13:53 0
近代以前において、哲学と宗教の区別はなかった。
198 :
考える名無しさん:2010/02/17(水) 05:15:53 0
日本で「哲学」と言えば「西洋哲学」のこと。輸入品でバタ臭いのが「哲学」
199 :
考える名無しさん:2010/02/17(水) 05:24:42 0
仏教も印度産で中国経由の輸入品。神道は日本プロパー。
200 :
考える名無しさん:2010/02/17(水) 09:41:49 0
言語道は迷いとはこのことかw
201 :
考える名無しさん:2010/02/17(水) 11:11:39 0
仏教やヒンズー教など、種々入り混じってシルクロード経由で、インド思想が
輸入されたので、今日の日本仏教の混乱があるのかも知れないが、それにしても
お互いに潰し合うこともなく、平和裏に今日に至っているのは、驚きでも有る。
202 :
短パン:2010/02/17(水) 19:12:25 0
あっそ。
203 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 05:44:55 0
廃仏稀釈ということも有ったが。
以前は神社と仏閣が同じ敷地に普通に共存してたそうなw
明治政府が仕分けを実行したらしい
205 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 11:41:40 0
八幡大菩薩など、八幡太郎義家の神仏混交の結果で、確かに仏教と神道の
仲は悪くなかった様です。日本人の優しさでしょうか? 草食系の?
いや、日本の仏教が吸収合併型の宗教だったというだけでしょう。
共存しやすい宗教
・神道
・仏教
・道教
・陰陽道
・バラモン教など
どれか一つあるだけで共存しにくい宗教(よーするに一神教)
・キリスト教
・イスラーム教
・ユダヤ教
>>207 後者は全て砂漠(荒地)の宗教。
そして血筋・民族(部族共同体)の宗教。
あー確かに、それはあるかもw
中学生の時の俺でさえ、駅前で「あなたは神を・・」みたいな介入された時
おもわず笑ってしまったもん
210 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 22:18:54 O
本地すいじゃく説か。すいじゃくの字を忘れた
211 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 02:11:08 0
212 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 06:24:45 0
ごちゃごちゃした世の中を離れて、仙人暮らしがしたいのだが。仏教は別として、
道教あたりは、どんなものか? 仏教が魂の救済で、儒教が君子の学なら、道教
は庶民の「本音」の世界の様なきがするが、知らぬものへの「憧れ」の様なものだが
如何だろうか?
だれか「道教」に詳しい人教えて下さい。
>仏教が魂の救済で
違いますよw
214 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 10:14:58 0
儒・仏・道の三教では、仏は心の問題と捉えて良いのではないか。
どう違うの?
死体が山ほどならんでいる状況で、内臓を無残にばらまいた人が最後の
力を絞って死にたくない。
仏教ならなんとかなるんだよな?
1分後、死亡。終わり。つぎのうめき声がまた聞こえる。
仏教なら「南無阿弥陀仏」と祈り。自身だけ仏心ってことか?
仏教は「存在」のメカニズムを明らかにしただけです
「死」に対して、「なんとかなる」などとは書かれてません
仏教=浄土信仰ではありません
217 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 15:00:25 0
色即是空 空即是色
心頭滅却すれば火もまた涼し
218 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 15:04:00 0
釈迦如来は、「執着を捨てよ」と説く
219 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 16:14:29 0
仏教∨浄土信仰 か?w
221 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 23:17:41 O
なんかおかしいやつがいるな
222 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 23:21:20 O
223 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 23:34:15 O
?各宗派に学界があるから、出世するか、それを論破するしかないが。こんなとこでなにやってるの?W
224 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 23:37:30 O
225 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 06:46:46 0
219さん
ご案内ありがとう。すこし、神仙の世界を散歩します。
226 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 07:09:40 O
阿弥陀様のおかげを持って今日も生かさせていただきます。なまんだぶつ、なまんだぶつ。
227 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 08:16:22 0
大乗仏教は、「仏性」が基礎にある。一人ひとりが、仏性を持ってをり、涅槃に達する
ことが、可能である。しかし、信じ帰依してこそ、そこに至ることができる。ぶつ性
そのものに疑念を抱くのは「無記」に触れる。
小乗も大乗も、信じ帰依無しでは、信仰と言えない。現代人には出来にくい。
228 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 08:41:44 0
「無記」かどうかは別として、「大乗非仏説」と言うのもあるが?
229 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 10:15:04 O
仏教は系統が重要だからね。誰が師匠か弟子かみたいな。系統外仏教は仏教ではないわけで。オームなんかそうだな。幸福の科学なんかも
230 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 10:17:38 O
系統が誰で、どういう説かできまるんだよ。
231 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 10:21:29 O
厳密に言うと、達磨系の禅なんかは、仏教ではない
232 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 10:28:12 O
レリジョンの観点で仏教はひとくくりにできない。
233 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 11:54:35 0
師と弟子で「秘伝」の様なものもあるらしいが?
だだとすると、系統も守り易いが。
浄土宗は仏教なのか?w
235 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 15:03:51 0
>>227 要は出家、在家の違い。
在家も信ずることで悟れるというのが大乗仏教。
即物的な質問をさせていただきます。
下記リンク先の木像のモデルの僧侶の名前わかる方いませんか?
少なくとも100年くらい前に国外に持ち出されたそうです。
その木像の中には、リンク先にあるような蓮の形を
した紙片が1500枚ほど収納されています。見たところ、
戒名のようなものが書かれているものもあります。
これは、どういった趣旨のものなのでしょうか?
また、このようなものを個人的に所持し続けることに何か問題が
あるでしょうか?
年代、由来等、どんなことでも教えていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
ttp://picasaweb.google.com/valflor
仏教全般スレは無理があるな
リンゴは果物だが、果物はリンゴとは言えないから
せめて小乗と大乗くらいは分けないと、言葉遊びになるわな
238 :
考える名無しさん:2010/02/21(日) 05:33:02 0
仏教哲学としては、「小乗」のほうが深みがあるが、仏教信仰としては、「大乗」の
ほうが深みがある様なきがする。
239 :
考える名無しさん:2010/02/21(日) 08:58:42 0
「C点による仏教的宇宙論」をまとめました。
「C点による仏教論」を検索の上、関連サイトをクリックして下さい。
241 :
考える名無しさん:2010/02/21(日) 10:23:12 O
大竹しのぶ
242 :
考える名無しさん:2010/02/21(日) 13:27:41 O
く
243 :
考える名無しさん:2010/02/21(日) 15:25:56 0
>>215 その状況において、苦しみに満ちた人生が終わることに安堵し、
生存に執着せず、「死にたくない」などという欲望が湧かない
ようにしておくのが仏教だ。
244 :
考える名無しさん:2010/02/21(日) 21:00:04 0
阿弥陀様はどこへいったの?
物理的に生きられなくなったときの作法としての仏教という元々の意味に戻るのですか
246 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 07:59:12 0
この世は、儚く蜃気楼の様な「仮の世」である。一切が「無」と言う視座に立つ事が
正しいのでは、無いか? 現象は「無自性」と言う「中論」は、真理を捉えていると
思われる。
「生」も「住」も「滅」も、瞬間でしかない。
247 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 08:06:49 0
「世俗諦」も「勝義諦」も自由自在に、視座を固定せず、あらゆる角度から
説くのが、如来の「中道」である? どうだろうか?
これらは論理学だから、仮説をなんらかのテキストから論証して学ぶべし。
249 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 10:48:55 0
この世は、長い醒めることの無い夢の様なもの。実体は、無い。
250 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 10:52:42 0
>>53氏のように仏教の【諦】をあきらめることだと勘違いしてる人多い。
日本語では諦める(あきらめる)という用法がほとんどだから仕方ないが、
【諦】は仏教では「あきらかにする」「つまびらかにする」という意味。
251 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 11:34:48 0
「あきらめる」ことも、「執着を捨てる」「拘りを捨てる」ひとつの方法の
様な気もしますが、それが「あきらかにする」ことに通じていませんか?
正しくは、250さんの言うとおりと思いますが。
252 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 12:23:10 0
で、禅宗と浄土宗は仏教ではない、でいいのか?
253 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 13:11:31 O
仏教的に自殺ってどうなの?
254 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 14:40:17 0
禅宗は、絶対自力であり、浄土宗は、絶対他力。ともに、立派な仏教です。
安心下さい。
自殺は、自己への「執着」から。しかし、自己は無自性で空性。よって自殺
にも実体は無い。単なる蜃気楼の様なもの。中論より考えると。
自己執着の自殺は阿弥陀仏への背信ではないのか?とも思う。
256 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 14:47:22 O
まあ、禅宗は達磨教だな。悟った内容が違うからな
>>251 その通りだと思う。
小我を捨てるという意味での「諦め」が「明らめ」に通じる。
そういういい意味での「諦め」の用法も、かなり浸透してきたと思うが・・・
258 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 15:28:55 0
「死」が如何なる形であろうと、阿弥陀如来は死者を「浄土」に受け入れる
のではないだろうか? 他力の教えには反するが、迷える衆生だし?
259 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 15:40:00 0
他力では「浄土」が有るが、自力では「涅槃」が有るとは言えない。これは
難問である。どう考えるべきか?
よくわからん。
浄土宗や浄土真宗も仏教だろうけど、まとめて浄土教って言い方もあるよね。
疑問なのは死後は阿弥陀如来の西方の極楽浄土っていう考え方は
いつぐらいにどこで派生した考えなんだろう?
261 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 18:16:41 0
>>253 生きとし生けるものを殺すなかれ
自分もその中のひとつですから・・
東方にも如来がいるそうなww
263 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 18:59:50 0
仏教って自殺否定してなかった気がするけどちゃうのか
悟った人は自殺しないだろw
266 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 23:17:15 O
浄土真宗は、悟れるもの一人もいずと言う一方
即得往生をうたっている。
無料寿の概念から即仏との捉え方については、本を読めばわかる。
267 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 23:22:32 O
大乗仏教への回帰は、釈迦が悟りを開いて、まず説かれたといわれ、それは伝来の仕方で変わっていったと言われている。
日本においては密教から入り、大乗である浄土思想が回帰仏教である気付きは……
268 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 23:27:47 O
釈迦の悟りの様態は3つに別れている。
1つめは、菩提樹に座るまえの荒行の期間。
2つめは、菩提樹の下で座る期間。
3つめは、悟り得たあとの説法の期間。
269 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 23:36:58 O
その様態により、宗派が別れているらしい。
270 :
考える名無しさん:2010/02/23(火) 00:41:09 O
四維上下だったかな。西方とは比喩の表現にすぎない。ちなみに東方には薬師如来がいるらしい。
271 :
考える名無しさん:2010/02/23(火) 00:43:55 O
または、西方に太陽が沈むのを見て無限の地を創造したのだろうか
272 :
考える名無しさん:2010/02/23(火) 07:53:24 0
日本仏教の最高位は釈迦如来。宇宙の支配者は大日如来。釈迦と同じことを説くが、難解。言語に
成らず「曼荼羅」と言う絵で説く。絵は如来の「教え」や如来の「浄土」を描く。特別な宇宙観は
無いようだ。
この世の支配者は薬師如来で東方に、あの世の支配者は阿弥陀如来で西方に居る。
その外にも、多くの如来、菩薩、天部、明王が居る。日本仏教のロマンである。
273 :
考える名無しさん:2010/02/23(火) 08:16:04 0
「自殺」と関係あるかどうか解りませんが、「即身仏」と言うことがあるそうです。
お坊さんが衆生済度のため、生きながら食事を減らしミイラになると言います。
その様なミイラが実在するそうです。
274 :
考える名無しさん:2010/02/23(火) 09:31:23 0
もはや末法、無茶苦茶だわな
275 :
考える名無しさん:2010/02/23(火) 11:10:47 0
即身仏と「即身成仏」とは、まったく別。仏道修行により、生きたまま、肉身のまま
「仏」になることを、即身成仏と言う。生きたまま最高の悟りに至った者のこと。
276 :
考える名無しさん:2010/02/23(火) 19:51:15 0
そもそも、釈尊自身の説いた教えと今の仏教が違っている可能性がある。
さらに釈尊自身の考え方も悟った直後と晩年で違うかもしれない。
釈尊が浄土系仏教を見たら、仏教と認めないかもしれない。
というか、日本に仏教は無いと言うかもしれない。可能性は大。
しかし、自分の説いた教えと違うと思っても、曲りなりとも衆生にとっての救いになっていると思えば、
なにも言わない可能性もまた、大。釈尊の望んだ事は、全ての悩み苦しむ者の救済だろうから。
つまるところ、真理による衆生の救済と言う根っこさえあっていれば、全て仏教と言えるのかも。
(真理による、が絶対条件だと思うが。それと釈尊は「盲信」は、はっきりと否定されている)
ちなみに、もしかしたら、暴論かもしれないが、釈尊自身は実は死後の世界を信じていなかった可能性が有る。
根拠としては「毒矢の譬え(たとえ)」。 詳しくはググってください。
>>208 後者は全て砂漠(荒地)の宗教。
そして血筋・民族(部族共同体)の宗教。
キリスト教は違うだろう。違うからこそ問題なんだが。「剣か、バイブルか」だ。
イスラムも微妙。まぁ、「貢納か」を認めている分ましだが。それに強制的改宗はコーランで
禁止されていたと思う。
278 :
277:2010/02/23(火) 23:52:47 0
>>215 仏教ならなんとかなるんだよな?
ならん。 それは天国や地獄を持ち出して、人を支配する事しか考えていない一部の一神教や権力者や
カルトに毒された考えだ。(全ての人間がそうだとは流石に思わないが、念の為)
仏教の根本原理の一つ「四苦八苦 一切皆苦」からも諦(あきら)か。
さらに釈尊は「奇跡による救済を否定している」はず。(そう言う意味で、釈尊は密法を認めないだろうなぁ。
個人的には真言宗の信徒のつもりなんだが。)
ぶっちゃけた話、あれ(南無阿弥陀仏)は特別な修行に邁進できず、仏法を完全に理解、あるいは
信じきれない衆生の現世の苦しみを和らげるための「方便」。と私は思っている。
結果的には死ぬ寸前に念仏を唱えて死の苦しみや恐怖を無くせるなら、釈尊の意思に反していないと言えるかも。
(個人的にはいまいち信じられないが。)
仏法では、「どんなに足掻こうが死からは逃れられない。ならばその事で不安や恐怖を感じるのは、無意味」。
私はそう解釈している。 死生は天命、逆らうな、と。勝手に終点を決める行為は、傲慢だと思う。
最後に、死の定めから逃れるのは全ての人間の望みだ、とある文章をどこかで読んだのだが、
そうか?
俺は嫌だが。延々と百数十年、数百年、数千年と生きたいか?俺は嫌だぞ。長くても百二十年で限界。
そういう意味においては、俺は如来にも菩薩にもなりたいと思わない。
長くなっちゃたorz
279 :
考える名無しさん:2010/02/24(水) 05:15:53 O
残念ながら仏教国というのは、滅亡したり、貧困国だったりする。現在の状況がよいとは言わないが、国と仏教の関係はそのほうがよいのだと思う。
280 :
考える名無しさん:2010/02/24(水) 08:19:39 0
チッベト仏教の問題は、嫌でも思想信条の自由を考えさせられる。政治と宗教
の有り方には、洋の東西に関係なく、長い歴史がある。今日本ではチッベト仏教
が再検討されている。チッベトに自由を、と願わずにはいられない。
それにしても、日本の仏教界は沈黙ばかりとは、どうしたことか?
281 :
考える名無しさん:2010/02/24(水) 09:36:11 0
純粋な質問です
この人
>>278も無知なんですか?
282 :
278:2010/02/24(水) 12:40:39 0
>>281 ごめん、質問の意図が漠然としてて解らない。
空気嫁って事?「あなたは解ってない」って事?それ以外?
もう少し詳しく教えて。
___
,;f ヽ
i: i
| |
| | ///;ト,
| ^ ^ ) ////゙l゙l; 心配ない全て阿弥陀様が救って下さる
(. >ノ(、_, )ヽ、} l .i .! | 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
,,∧ヽ !-=ニ=- | │ | .|
/\..\\`ニニ´ !, { .ノ.ノ
/ \ \ ̄ ̄ ̄../ / .|
284 :
考える名無しさん:2010/02/24(水) 16:45:03 0
南無妙法連華経 南無妙法蓮華経
公共ギャンブル支援金vsただの障害者
仏教的にも泣き脅しは位が高いとされています
287 :
282:2010/02/24(水) 20:03:32 0
>>283 >>284 そう言われたら返す言葉ないなww
まぁ、結局は自分が信じたいものを信じればいいのさ。
本当に信じていたか、それともただのポーズに過ぎなかったのかは、死ぬ直前になれば嫌でも解るしな。
そこんところはまさに哲学と同じ。
288 :
考える名無しさん:2010/02/24(水) 23:40:07 O
スレが荒れてきたな
289 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 07:56:45 0
前世、来世を信じてはいないが、現世のこの世は六道輪廻の世界。地獄・餓鬼・畜生・
修羅・人間・天上のいずれかに属する人間で溢れている。中には解脱した人もいる。また、
前世の業を明らかに背負っている人もいる。
業を断ち切らんと、座禅する者。阿弥陀如来にすがり、念仏を唱える者。仏性を求めお題目
を唱える者。しかし多くの人々は無関心。如来様はどこかで笑っている。
現世は六道輪廻。地獄も極楽もこの世にこそ有る。
290 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 08:33:33 O
指月のたとえにもあるように空を悟る修行をしなければいくら仏教学を極めたって悟りは得られない。
291 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 09:11:20 0
空を悟ると言う事は、最高の真理を知りニルヴァーナに入ると言う事?
無記に至ること? 修行とは?
292 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 09:13:19 O
基本は瞑想でしょう
293 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 09:22:30 O
おしゃか様は修行者用に「六波羅蜜」という修行法を用意されている。
忍辱、持戒、精進、布施、禅定、般若波羅蜜
これらの実践によって悟りの世界がひらけてくるというのであり
実践抜きにただ仏教とはああだこうだ言っても悟りには結び付かない
294 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 09:34:21 0
修行の果てに「悟り」があるのではない
「悟り」は既に眼前にある
295 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 09:48:23 O
>>294 それは悟った人の言葉であって、凡人が言葉だけ真似しても実際に悟った訳ではない。
296 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 09:54:57 0
ニルヴァーナに入るかどうかは別として、基本は瞑想だと思います。
「C点による仏教論」では、「無自性」に拘らずとも、空性は悟れますようか。
「中論」万能の現在ですが、どんなものでしょうか?
「C点による仏教的宇宙論」纏めました。「C点による仏教論」の関連サイトから
クリックして下さい。まだ検索は出来ませんので。
297 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 10:11:59 0
「中論」で失礼します。
一般に、ニルヴァーナに入ることはまづ不可能です。
298 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 10:28:50 0
仏教信仰は一部のエリートのみの、ものではない。心に安らぎを得れば
アプローチはどうでも良いのでは、無いか。ガンジーの言う様に、頂上は
は一つでも、登山道は沢山有るのではないでしょうか?
299 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 11:35:52 0
仏教は多神教で、いろいろの立場がありますし、また其れが可能です。
一神教だとこうはいきません。
300 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 11:59:24 0
駄目だこりゃ
301 :
287:2010/02/25(木) 13:17:07 0
悟りは「学ぶ」ものではなく「見つける」もの。
実践を伴わなず、口先だけで語ろうとも得られない。(ここがすごく重要)
法句経、阿含経、偉大な先達、釈尊の存在を忘れては、枝葉を見て幹、根を見ずになる。
様々な考え方、修行法(枝葉)があっても求めるのは悟り、仏法、真理(根)。
だからこそ全てが仏教となり、悟りへと至る道となる。(仏教用語 法=真理 仏法=仏の真理)
根の存在を忘れては、ただ宛(あて)もなく空を彷徨う風船と同じになる。
本来、同じ神を信仰しているはずだが対立しているユダヤ、キリスト、イスラムとの違いはそこじゃないかと。
(教え、命令を絶対視するか、根幹たる真理や神を見るか)
少なくとも私が仏教徒を名乗るのは、如来や菩薩を崇めるからではなく、仏法がその名の通り「真理」と信じたから、
そして今もそう信じるからこそ。
303 :
287:2010/02/25(木) 13:34:18 0
涅槃とは、真理を悟った者が立つ境地の事であって、現世とは違う世界、ではない。
阿弥陀仏が導く極楽浄土は「修行の場」であって、そこはゴールとは違う。そこに到った者は然るべき後、
現世に再び「誕生」し、降り立つそうだから。
父、如来に甘えきって、どうしてその子は父と肩を並べようか。
思い付きだが、真に大悟を得た者にとっては、生と死の垣根すら有って無きものとなのかもしれない。
悟っていない自分にとっては、夜空に暗く輝く星の一点の如く朧にしか見えないが。
>>302も私。
ユダヤ、キリスト、イスラムもそれぞれ
これこそが根幹たる真理であり、他の宗教は真理や神を歪めている
認めるわけにはいかん
とお互いに信じているから対立するんだろう
305 :
303:2010/02/25(木) 13:39:12 0
sage忘れた。申し訳ない。m(_ _)m
「同じ神」というのは幻想。
まぁ、仏教も様々な幻想にまみれてはいるけれども。
「真理」というのは個人幻想、もしくは共同幻想でしかない。
現に、世界的な宗教はあるけれども、文字どおりの“世界宗教”など結局、現出しなかった。
これからもそうだろう。
共通点はある。
慈悲と救い。
>>306 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
実は、そう言う意味なのかも。そう思いついた。
しかし、一切の幻想、妄想を抱かずに生きていける真に強い人間がどれだけいるだろう。
あたまの中のガラクタを捨ててみればどうだろう
311 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 14:38:45 0
仏教の大きな流れは、般若思想と如来蔵思想である。前者は「縁起、空性」をメインに
後者は「仏性」をメインに悟る。前者は「無我」に、後者は「我」に力点がある。
お説の通り、「慈悲と救い」は仏教共通の宗教的「生命」である。
慈悲と救いって、現状肯定というか
それでいいんですよ、仕方ないことであなたは何も悪くありませんよ
ってこと?
>>312 それならばどこの宗教でもあろうと思われる「戒律」の必要性がなくなる。
悔い改め戒律に従い日々精進することで慈悲と救いの意味がわかる。
戒律が宗教によって違うのはどういうわけだ?
慈悲と救いの内容も違うということか?
315 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 15:17:19 0
「律」「経」「論」のいずれに力点を置くかは、宗派それぞれである。
似たようなもの。それは人付き合いであったり食事であったり作法だったり
生活面の規律と宗教そのものの規律であったりする。前者は普通は道徳って言う。
救いの主が何なのか、このあたり一神教多神教で違うのでは?
仏教は「仏は自心に見る」って言う。
到達点は同じなのに方便が違うってこと?
しかしそれだと結局、到達点も違ってきやしないか?
山の頂上を目指すだけなら、同じ道を行けばよい。
あえて違う道を行くのは、そこに意味があるからだろう?
おっと317は316に対して。
救いも違う、戒律も違うなら
やっぱり宗教戦争は避けられない。
あ間違い。
317は315に対してだ。
注意すべきは功徳と現世利益をごっちゃにして
仏法を信者資金集めのために都合よく利用して
新しい解釈を作ってしまう輩がいるってことだ。
賢い人は一人間、教主様などと絶対視しない。
他力に帰依するとき、自力を観る
自力に帰依するとき、他力を観る
322 :
考える名無しさん:2010/02/25(木) 15:31:46 0
座禅により悟らせる。念仏を読み阿弥陀仏に縋る。お題目を唱え法華経に救いを求める。
加持祈祷を受け気を静める。荒行で忍耐力を養う。等など。
「慈悲」の表し方も様々。組織的な事業や社会奉仕など。形に拘らず。
323 :
308:2010/02/25(木) 15:32:05 0
戒は在家、出家に関わらず守るべきもの。
律は出家したものどうしで集団生活するさいの規律。本来は。
戒は在家であれば守った方がいいもの。出家であれば守らなければいけないもの。
>>314 宗派と言う事でいい? それは「自分はこれが正しいと思う」「いや、自分はこっちが正しいと思う」といった事。
悟りに到る道筋の問題。ようは
>>298が言っている事。
>>317 仏教に関しては目標は同じなんじゃないかな。
救いの手立ては無数にある。それを衆生の機根、持って生まれた、
そして今現在までの業に応じて様々に姿、形を変える。
大乗経典はほとんどこういう記され方をしている。
代表的な経典としては法華経の方便品、観世音菩薩普門品。
>>321 その通りだね。
あー荒れた雰囲気が戻ってよかった。
326 :
308:2010/02/25(木) 16:15:28 0
Don't think, feel
初期仏教はカント的なものかね
理性で証明はできないがそれを求める過程は有用で不可欠というか
>>325 しかし、枯れ木も山のにぎわい、と言う言葉もあってさ。
過疎っているのとどっちがいいだろうか。
330 :
考える名無しさん:2010/02/26(金) 08:04:00 0
生老病死が人間の苦の原点の様なもの。釈迦如来の古代とは世の中も変わった。
人文科学も自然科学も発展は驚異的。人間の「苦」の解決法も格段の進歩がある。
各分野での進歩は、仏教の必要性を変えた。残るは、「葬式仏教」。これはこれ
なりに、合理的でもある。
友人が癌になった。手術が出来ず、抗がん剤で2年が過ぎ、いよいよ医師は薬が限界
になったと告知した。友は死を待つばかりに成った。
だが彼は宗教を求めたりしない。死との対決に宗教を求めない。これも現実。これも
「仏教一般」。特別なケースではない。
331 :
考える名無しさん:2010/02/26(金) 08:27:16 0
末期癌の友は薬の副作用で皮膚が荒れ、髪が薄く、体がだるいと言う。
痛みは無いと言う。本人よりも奥さんが弱っている。しかし主人には
弱った顔を見せたくないと言う奥さんである。
どうする事も出来ない。
俺の親父も末期がんで、痛みはないものの
最期は病院のベッドで1か月ほど一切飲み食いできないまま逝った。
回診の先生に「今日の具合はどうですか」と聞かれるたび
「可もなく不可もなく」と答えていた。
先生はある時「私もそういう境地になりたいものです」と言っていた。
親父は朝日新聞と社会党と自由が大好きな無神論者・無宗教者。
他人に遠慮するあまり人づきあいは嫌いだったが
他人の背景や抱えた痛みはよくわかる人だった。
先祖の墓参りや仏壇はよく守ったが
悟りや救いのために特定の宗教に帰依しようという考えを嫌っていた。
だから葬式の時に、住職が「これから故人は仏弟子になります」と言ってるのは
なんか釈然としなかったな。別人になっちゃうみたいで。
333 :
考える名無しさん:2010/02/26(金) 09:17:55 0
如来の教えの「執着を捨てる」「拘りを捨てる」。これは、言うは易く行うは
難しである。空に徹するしかない様です。
で?
335 :
考える名無しさん:2010/02/26(金) 12:09:46 0
[生への執着」は単純には、消えない。「死への恐れ」は日常生活の至る処に
存在する。また、「危険」には絶えざる「注意」が必要。度胸のある人も、
無い人も、色即是空。気持ちの整理は、病気ばかりでなく、常に必要。
336 :
考える名無しさん:2010/02/26(金) 13:37:09 O
神風が吹いても、浅田真央は金メダルとれなかったな。当たり前だが
337 :
考える名無しさん:2010/02/26(金) 14:59:36 0
仏教国だから、慈悲の精神。勝ちたい国にメタルは差し上げましょう。
銀メダルでよろしいでは、ありませんか。
それでも銀なんだw
339 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 06:33:45 0
膨大な宇宙の中で、この世は一瞬の出来事。仏教の世界は、空の世界。ただ一夜の夢の様なものが、
この世。現象世界は、単に醒めることの無い長い夢に過ぎない。実体は無い。
340 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 06:46:40 0
現象に捉われる事無く、現象世界のみでなく、非現象世界も含めて、あらゆる視座より
瞑想する。これが如来の世界、仏教の世界ではないだろうか。
341 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 07:22:33 O
医療の進歩により、病気でも、ある程度生きることができるようになった。しかし、必ず死ぬ。その間の期間はどういうものか、考える。病苦だな。なすすべもない。悟ることもできない。
342 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 08:25:48 0
死はいろいろの姿で現れる。一つとして同じと言うことは無い。誰にでも例外無く
総ての人に訪れること意外に、総論は無い。死は総て各論でしか無い。
是までここで、論じられていた様に、現在の仏教には、ビハーラは望め無い。僧と言えど
死を論じても、死を体験した者は居ない。それに僧には、ターミナルの医学の知識が
無い。この問題は、難問である。しかし仏教の責任では無い。
だが是までも、人は死んでいる。驚くほど静かに、様々な姿で。人は死ぬ。しかし、世間は
微動だにしない。これも現実。時間が総てを呑み込む。
343 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 09:20:30 0
>>335の
>「死への恐れ」は日常生活の至る処に 存在する。
>>342の
>死はいろいろの姿で現れる。一つとして同じと言うことは無い。
死への恐怖って、仏教的には日常にどういう形であらわれるのでしょうか?
344 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 09:26:16 0
各論は無いと言うが、死因の統計的なものはある。病気では、癌が一番多い
とか、交通事故死とか、自殺とか、それぞれに考えさせられる。
345 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 10:10:49 0
343さんへ
「死への恐怖」とは、一般には漠然とした「不安」ではないかと思われます。
「恐怖」とは「現在における危険」であり「不安」とは「未来における危険」を
意味します。精神医学用語では、区別します。
危険が「具体的」に成りますと、「危険との対決」が必要となり、精神的に「構え」
ができる場合と、病的に「反応」を生ずる場合があり、またその外のいろいろの心理状態
と成ります。実体が解らずに、悩む人が沢山居ます。
仏教的にどうなるか、不勉強のため存じません。ただ、常日頃「自分は悟っているから大丈夫」と言っていた
僧が、癌の告知でパニックになったと言う話を聞いたことがあります。
346 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 10:33:48 0
諸行無常
「死随念」をやればいい。
348 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 12:50:12 0
「死髄念」ってなんですか?
>>345 パニックになったと言う話を聞いたことがあります。
それは、ただ単純に、その僧が悟ったと虚言を吐いていただけでは。(妄語戒を破っていた、と)
その僧の死に様はどうだったのですか。
仏教的には、仏の力による癌となり悟りへと導かれた、と言う考え方も一部にはあります。避けられぬ死を眼前に
突き付ける事で、悟りへと導いたと。 その僧がちゃんと正面から死を受け入れられたのなら悟っていたと言えるし、
そうでないならそれでも悟れなかったのだと考えられる。
日常に転がっているのは「死への恐れ」ではなく、「死へと到るきっかけ」と言った方が正確だと思います。
人間や生物は実際には、驚くほど簡単に死にますから。不安や恐怖を感じる暇すら無い事も割とある。
訪れるかもしれない(訪れないかもしれない)事に感じる不安など不必要な幻想に過ぎない、と理解し納得するのも、
それも悟りだと私は思います。死に限らず。
妄語戒=悟っていないのに「自分は悟った」と言う事。
350 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 14:59:27 0
仏教徒で有るなしに関係無く、告知された後、立派に死と対決している人は
確かにいます。何人も知っています。
応対する私の方が、度胸を必要とします。
351 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 16:16:49 0
愚痴を書きます。
そもそも
死=不幸 と考えている奴が多い。
なんか死んだら可哀想だとかそういう目で見てるけど
そこが大きな間違い。
だいたい死ぬという事自体よくわからないのに。
神を信じなければ滅ぶっていう宗教は明らかに間違いだってのが
わかる。それは死んだら不幸になると考えている奴が考え出したに違いない。
死んでしまったら不幸すらないだろ。地獄に落ちるっていうんならそれはまだ生きているということじゃないか。
しかも皆死ぬっていう自然法則があるにもかかわらず、
なぜただ紙(聖書)に書いてあるだけのことでそれに逆らうのかがわからん。
キリスト教やイスラム教は妄想の産物としかいいようがないな。
現実問題より大昔に書かれた書物の事なんかを重視するんだから。
ちなみに俺はテラワダ信者です。
352 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 16:41:05 0
私も聞いたことある。
講演かなんかで死生観とか心構えとかの話を壇上でしていて
それを聞いていた主治医が、これなら大丈夫と思って
壇上から降りてきた僧に告知したら、足ガクブルの顔面蒼白になったって。
見事なオチだから、たぶん都市伝説の類じゃないかと思うけど。
人間ってそんなもんだよねってゆう。
癌の恐怖は、病気の苦しさと、この世への執着の2つだと思うんだけど
癌はだいたい段階を踏んで弱っていくから、それが執着を手放す手助けをしていると思う。
1つ段階を上がるごとに、あきらめなきゃいけないことが出てきて対決して
でもその段階に慣れるころには自然とあきらめてる(受け入れてる)。
そのうちまた段階が上がって、また新たな対決が始まる。
んで気がつくと、健康だった頃には考えられないほど数々のことをあきらめて
現状を受け入れていることに気づく。
どっかの段階で止まれば、あきらめと希望もその段階で止まるけど
癌は待ってくれないから、どんどん受け入れ続けていかざるを得ない
むしろ余計な未練は感じずにあきらめた方が気持ちが楽、という判断も働くのでは?
あとは病気の苦しさが軽減されれば、もう言うことなし、とか。
353 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 16:58:11 0
末期癌で痛みの酷い人を見ると、是だけは避けられたら、と思う。
お見舞いも辛い。家族の者にも、言葉が出ない。
癌も様々らしいが、やはり、大変な病気だ。
354 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 17:17:28 0
癌の痛みは、まったく無駄な痛み
耐えることに何の意味も価値もない
って医者が言ってたな
仏教といえど病魔に対する弁明はないだろう。
何故なら時間が経てば果実も腐るからだ。
そこに弁明は存在しない。ただある自然の摂理。
仏教に求められているのは短い時間と恐ろしく長い時間の概念と
弁明。そこに流れ(空)が存在しその流れのなかにすべてがある。
限りなく0に近い時間のなかに存する業。恐ろしく短い時間の
なかに波のように舞い上がる恋心。華が咲いたような高揚感や
喜び。ああ空とはまったく止め処なく流れる時間。完全な静という
ものがない空のなかに終わりを求めるのは静の希求に他ならない。
四苦八苦(生 老 ”病” 死 愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五蘊盛苦) 一切皆苦
仏教の話ではありませんが、あらゆる災厄が詰まったパンドラの箱に希望が入っていたのは、それもまた災いの
素だったからだ、と言う説があります。
>>352 大丈夫と思って壇上から降りてきた僧に告知したら、足ガクブルの顔面蒼白になったって。
頭で理解するのと、実感を持って納得する事の違いです。たぶん、頭で理解してはいても、
それが自分の身に降りかかるとは思ってもいなかったのでしょう。
愛別離苦=愛するものと別れなければならない苦しみ 怨憎会苦=憎いものと出会わなければならない苦しみ
求不得苦=求めるものが手に入らない苦しみ 五蘊盛苦=五蘊が持つが故の苦しみ
五蘊盛苦は、五体満足にも関わらず良い考えが浮かばない苦しみ、だったと思ったのですが、
誰か御存じありませんか。
358 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 21:55:23 O
内容が濃いな。ちなみに坊主憎けりゃ、袈裟まで憎いにも精神的コンシャスがありまして……
359 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 22:01:18 O
癌というのは、昔はなかったそうです。それは、寿命が短く、発生せずに、他の原因で死んだからです。癌の原因は長生きした結果、その因子が発症するらしいからです。ほとんどの人が遺伝子的にもってるらしいです。私は医者ではないので適当ですが。
360 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 22:26:28 O
僧に癌を宣告することが、仏教的には五逆にあたらないかと心配ですが。告知する際は慎重に行ってください。
361 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 07:40:23 0
一昔前は、癌の告知はすべきか、すべきでは無いか、医師の間でも議論が有りました。しかし現在では、進んで
告知すべきとの意見に成っているようです。一つには、癌の治療方が進歩して患者の協力を必要とする様に成った事。二つ目には
患者自身が自己を認識し、残された人生を自らの意思で、選び掴み取る事が大切と考えられる事。この二つが、医師達の現在の
の考えののようです。
抗がん剤で2年以上、治療を受けていた友が先日、「是が最期の薬です。これ以上の薬は現在有りません」と主治医から告げられ
ました。二人の息子さんも同席していたと言います。
医者コワス
363 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 07:58:18 0
最近は末期の緩和ケア病棟への入院は別として、癌治療の大半は、外来診療の様です。
社会の中で日常性を保ちながら、治療を受けられるのはよい事では無いでしょうか。
家族は大変でしょうが。
>>357 五蘊盛苦
五蘊それぞれ、毎刹那に変化し無常である
我々の存在自体がままならないこと、思いどおりにいかないこと
365 :
357:2010/02/28(日) 10:59:06 0
thanks,
366 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 11:32:29 0
364さん
話は少し変わりますが、私自身は「刹那滅」論を採りません。全くの暴論
かも知れませんが、「C点による仏教的宇宙論」を纏めました。検索して下さい。
367 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 11:35:52 0
「C点による仏教論」の関連サイトからクリックしても、出ます。
368 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 12:59:55 0
[C点による仏教論」では、乱暴かも知れませんが、「無自性」も採らず
「戯論」ですが、試論しました。「C点による仏教的宇宙論」にも有ります。
369 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 16:56:41 0
「C点による仏教論」のオリエンテーション:
「第一の存在」有の世界 世俗諦 現象肯定 自性 科学
「第二の存在」無の世界 勝義諦 現象否定 無自性 空性 仏教哲学
「第三の世界」非有非無の世界 C点論 現象復活 仏教
G点による有頂天ってなんですか?
371 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 18:04:54 O
ゴルゴが絶頂になることだよ
C点はもういいよ
373 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 20:39:07 0
老兵は 死なず 消え去る
374 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 20:50:24 0
やはり、「無限・矛盾」の視座からの「瞑想」では、理解出来ない様ですね。
375 :
考える名無しさん:2010/03/01(月) 02:07:31 O
理解したのか?それはすごいね
376 :
考える名無しさん:2010/03/01(月) 06:12:03 0
[刹那滅」を否定する、また「無自性」を否定することは、これまでの「般若思想」の流れを
逆流させる様なもので、非常に興味ある試論だが、少し乱暴の様に感ずる。
全く理解出来ない「衆生」は、雑音を入れないで欲しい。邪魔になります。
377 :
考える名無しさん:2010/03/01(月) 06:31:01 0
中論的には、「戯論」であります。確かに、膨大な宇宙の中で、この世は一瞬であります。
夢の様な、幻の様な、蜃気楼の様な存在。現象世界は夢の様な一瞬。如来の教えは、現象世界
に執着せず、また無視もせず、あらゆる視座から考えると言うことでしょう。ここでこの世は
存在せず、に近い存在であり、無自性とするのが理解し易いと、思われます。
しかし如来の真意は、「無自性」に執着せず、また「自性」にも執着せず、自由自在の視座から
「瞑想」することでは、ないでしょうか?
378 :
考える名無しさん:2010/03/01(月) 06:37:13 0
「C点による仏教的宇宙論」は、仏教の膨大な世界の極一部「時空」についてのみの
思索です。理解には、「矛盾・無限」の視座と「瞑想」を必要とします。
379 :
考える名無しさん:2010/03/01(月) 08:01:05 0
人生は儚い。生きているのも、ほんの一瞬。あとは、生まれる前も後も、闇の中。
闇こそ真実。とすると、闇に視座を置くのが正しい様な気がする。
現象は、夢まぼろし。実体は無い。現象は無自性、空性。現象に執着する必要は無い。
勝義諦こそ、我らが求むべき道?
380 :
考える名無しさん:2010/03/01(月) 08:04:18 0
「C点による仏教的宇宙論」 グーグルで検索願います。
381 :
考える名無しさん:2010/03/01(月) 09:42:47 O
矛盾を理解したとは言わないが。まあ、理解してるほうかな。
>>376 >>377 >>378 >>379 釈尊の嘆き悲しむ姿が目に浮かぶ。 私がかつて何故「毒矢の譬え」をしたのか解らないのか、と。
私が何故、祇園精舎を離れ衆生の中を歩いたのか、解らないのかと。私がした事は無駄だったのか、と。
鑑真和尚、最澄和尚、空海和尚は怒っているだろう。
そして宗純禅師(一休さん)はゲラゲラ笑ってらっしゃるだろう。w
>>382 事実や真実が一つであろうと、見る人によって受け取り方が違う事の典型。
(生物である以上、意識や主感を通さずに現実を認識できないため)
思い付き
実は『金や名誉、地位などの現世的利益を求めぬもの』が全て仏教である。
故にユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教、儒教、道教、神道、
それらも全て仏教である。 暴論この上無いだろうか?
仏とは本来、「真理に目覚めし者」の意である。如来とは「真理の化身」である。
生を殺すものは死せず、生を生かすものは生きず。 by 荘子(微妙にスレチ)
385 :
考える名無しさん:2010/03/02(火) 22:46:15 0
キリスト教が本当の神教だと思うんですが。。
あ、場違いですね
ごめんなさい。。
場違いかもしれないが、比較をする事で理解できる事もあるので、必ずしもスレチではないと思う。
仏教では無分別を説いているんだけど。
一応、本当の新教だと思う理由も効かせてもらえますか?無理にとは言わないけど。
分別=比較、拡大解釈するなら区別、差別。
387 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 06:13:36 0
386さんへ
竜樹論師の偉大さは、十分認めております。この世は、現象世界は膨大な宇宙の中でほんの一瞬であり
また我々の命も、生まれる前の闇、死んだ後の闇、これらの闇に比べるとほんの一瞬です。大宇宙の中で
現象世界は殆ど「無」に等しい。
我々は、視座をほんの瞬間の現象世界、つまり「有」に置くより、「無」に置く方が正しいのでは無いか。
この世は絶えず移り変わり、止まる事無く、儚い。真理は現象世界を超えたところにあると考えるのが
正しいでは無いのか、「無」こそ真理に近いのでは無いのか。現象否定、無の世界、無自性、空性、こそ
真理への道と思われる。
有無に拘らず、有無に執着する事無く、あらゆる視座から考えるのが如来の教えでは無いだろうか?
388 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 06:32:32 0
如来は記録を残していません。如来没後の仏教論は、竜樹論師の教えを中心に、勿論他にもいろいろの論は有りましたが、
流れて来ました。しかし、現在の科学の進歩の中で、現象否定は何処かに違和感を覚えます。現実の社会は実体のある
責任のある存在の、厳しい社会で有ります。このギャップはどう考えるべきでしょうか?
389 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 06:45:08 0
なをここでは如来蔵思想は、論じておりません。般若思想を中心に考えていますので、仏教全般を
論じている訳では有りません。
兎に角、仏教は膨大な世界です。
390 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 07:52:47 0
今日も一人死んだ。だが、この世はびくともしない。入れ替わり立ち代り、人は生まれ
人は死ぬ。この世は、仮の世。実体は無い。あまりにも、人生は儚い。
>>382 妻と我が子は教化できぬと言ってたはずw
392 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 09:46:03 0
>>382 その話は有名だな。
己の煩悩が女性を美しく見えるようにさせていると気づいたんだろうね。
>>384 仏教って宗教じゃないかもね。
如来へ至る方法論なのかもね。
モーゼ如来、イエス如来、ムハンマド如来と言えなくもない。
目覚めた者を意味するブッダ(佛)もゴータマさんのことだけを表してるわけじゃないし。
393 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 10:00:38 0
日本仏教の大きな流れは、般若思想と如来蔵思想らしいが、どちらも
釈迦如来からか、どうかは解らない。
細々した事を、無視すれば釈迦のつぎは、竜樹論師とか。この二人の間は
何百年もあるが? どうしてこれが主流?
394 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 10:07:34 0
宗教と言えど背後には、政治があるが。政治史抜きでは、論じられない。
395 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 10:32:29 0
創価学会と政治はどう関係してるの。
誰か詳しくないの。
396 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 10:57:24 0
○○学会ヤバイ
さすがに、創○学会や顕○会を仏教と呼ぶには抵抗がある。(オ○ムは言語道断)
しかし、あそこは元々が日蓮上人だからな。そう考えると微妙。
まぁ、実のところ良くわからないから、論じようがないんだが。
実のところ、あそこはどう言うところなんだ?
釣られませんよw
399 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 14:21:03 0
新宗教を企業と考えると、それぞれに成功している様だ。中には
どうしようもないヤバイのもある様だが、現世利益の、幸福を売る商売は
不景気は不景気なりに、やっている様だ。
この世は、目明き千人、目くら千人。
命題
宗教=企業、仏教=企業は成立しえるか?(バチカンのような例も無きしも有らず)
401 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 15:34:47 0
仏教修行の六波羅蜜の第一に「布施」が有る。昔からの宗派も新宗教
も同じである。これは、物ばかりでなく、心でも行動でも何でも良い。
心が篭もっていればよい。
お金を出しても、救いは欲しい。仏性を磨ければ、良い。
402 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 15:35:00 0
釈迦の1人息子のラーフラと妻のヤショラダ妃は共に出家してるよwww
仏教は最高の成功哲学であり、最高の解脱の為の宗教・・・!!!
403 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 16:13:49 0
大乗的立場で、他人も助けながら、自分の仏性も磨けるなら、仮令
解脱は出来なくとも、属するグループに拘る必要はないのではないか。
出家、在家は問う必要は無いと思うが。
404 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 16:31:30 0
大乗は仏説にはあらず・・・、全く違う地盤からでてきて勝手に釈尊の名を騙っただけ。
405 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 16:43:04 0
大乗非仏説と言う立場も、有る様ですね。
如来の慈悲は、大乗的立場で良いのでは有りませんか?
如来蔵思想はそれなりに、慈悲に富んだもの。学問的にはどうかは
解りませんが、如来の教えでよいとも思いますが。
406 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 16:47:10 0
色即是空ばかりでは、ときには
南無妙法蓮華経
407 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 19:40:14 0
仏教は、巾の広い奥の深い宗教だと、つくづく思います。それだけに立場の違う宗派
が現在も残り、互いに潰し合うことも無く、政治もあまり弾圧もせず、日本の仏教は
微温湯の中で、活力も失ったものも、消滅しないのは、不思議なほどです。
日本民族が草食系で有るからでしょうか、島国のためでしょうか?不思議です。
408 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 20:35:26 0
それはね・・・、日本人の深層にある基層宗教態としての神道が世界一の許容力を
持っていたからだよ・・・。
だから、仏教は言うに及ばず耶蘇教みたいな低級でほとんど迷信のような宗教ですら
現在も細々と残っているんだよ。
いや、浄土教(浄土宗と浄土真宗をひっくるめて)と日蓮宗は弾圧を受けたはず。禅宗も少し。
仏教徒だから暴力や強権に訴えないと言うのは少し幻想が入っている。
が、しかしそれでもキリスト教やイスラム教ほどの大弾圧を行っていないのは、全ての仏教の徒に
「仏は暴力や流血を望まない」という共通認識があるからだと思う。
(ユダヤ教はイエスを処刑しているし)
まぁ、戦国時代の一向宗と言う例もあるが。あぁ、それと明治政府がやった神仏分離と廃仏毀釈も。
まぁ、宗教と金や名誉、地位が結びつくと、ろくな事が無いと言う事だな。
そこも創○学会が嫌われる理由だろうな。
410 :
考える名無しさん:2010/03/03(水) 23:23:33 O
なか
411 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 06:01:46 0
浄土教も日蓮宗も、帰依した人達は、支配階級の宮廷貴族や武士集団ではなく、農民はじめ一般庶民
でした。浄土教の農民は、「南無阿弥陀仏」を唱え団結し戦い、阿弥陀浄土に迎えられる事を信じた
のは歴史の示すところです。一方、鎌倉幕府の弾圧のもと、日蓮はめげずに布教をして一派を築き、
「南無妙法蓮華経」のお題目のもと、信者達は今日に続いております。しかし、本家の日蓮宗はマンネリ化
して、いくつもの新宗教の教団が活動をしております。
如来蔵思想に惹かれるのか、新宗教は法華経系の教団が多い様です。
412 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 06:22:51 0
今日は醒めた日本人が多いのでしょうか、多くの国民は葬式仏教で、日常生活は
無宗教です。多様化した価値観と溢れんばかりの物質文明、刹那的な行動と無気力
これはこれで仕方ないのでしょうか?
仏教徒で有る無しに関係なく、良識有る日本人も沢山いますが。
413 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 06:26:40 O
まあ、オウム事件があったからな。あの頃から変になっていったよ。
414 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 06:51:35 0
>>405 立場って言うか・・・・w
事実だろ。実証ずみ。
415 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 07:54:08 0
般若思想が「無我」がメインとすると、如来蔵思想は「我」をメインとしていますので
この両者は、対照的です。これをギャップと採り、如来蔵思想は非仏説とするか問題は
あります。
ただ如来の真意を、「無我」に執着せず、「我」に執着せず、自由自在の視座よりの
教えと考えると、大乗非仏説に拘らず大らかに考えたら如何でしょう?
416 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 08:22:12 0
しばしば矛盾も有るようですが、あらゆる視座より見守っているのが如来様。
おまえは無知か
418 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 08:56:45 0
>>412 昔の日本人も基本的に葬式仏教で
日常生活で行う宗教って言ったら、故人に手を合わせる程度だったんじゃないかな〜
ただ昔は今と違って核家族が少ないから、仏壇のある生活だった人の方が多かっただろうし
三回忌とかはもちろん故人の位牌ごとの祥月命日とか
今より葬式仏教に触れる機会が多かったんじゃないかな〜
419 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 10:45:52 0
現在は教育も進み、科学的知識も増え、それぞれに判断基準も持ち、生きる事も
昔ほど困難でなく、便利に成った。
過っては、寺が子供達の教育ばかりでなく、大人の相談や問題解決にも当たっていた。
庶民の道徳を教え精神生活にも関係していた。
前世・現世・来世を信じ、六道輪廻を信じ、因果応報を信じ、地獄・極楽を信じて素朴な
日常を人々は送っていた。仏教は、深く人々の中に有った。
現在の葬式仏教は、故人を偲ぶセレモニーであり、昔の人々の心は無いと言ったら言い過ぎか?
420 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 10:53:20 0
仏・法・僧、と昔から言われていたが、僧はエリートで、寺は学問所でも有った。
421 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 13:33:45 0
釈尊は・・・まあいいか・・
422 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 14:49:25 0
釈迦は記録を残して居ない。如来の最高の真理、勝義は記録出来ないあらゆる角度からの
視座により、つまり矛盾も含み、言語化出来ない「無記」とは、この意味もあるか?とも
思われる。矛盾の記録だから、後世に残せない。この様に「無記」を考えたらどうだろうか?
暴論には間違い無いのですが。
あらゆる視座から見ると、「矛盾」は避けられないのかも知れません。
423 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 16:50:02 O
結局人生生きる価値あるのは上位10%の勝ち組だけだな
そのことに気づくのに30年掛かった、
と同時に今までの人生すべてを恥じた
くだらない人生だったよ
424 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 16:56:29 0
生存競争なのか
役割分担なのか
425 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 17:19:14 0
日本の仏教で不思議なのは「念仏」だ。
南無阿弥陀佛とか南無妙法蓮華経とかノウマクサンマンダーみたいな。
これってマントラヨーガと同じなんかね?
>>423 オレ日本が世界の中で上位10%に入っていればそれでいいや・・・。
今はもうダメだが・・・。
426 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 18:10:32 O
念仏は秘技の一つ。感想念仏となんとか念仏。仏の像が浮かぶそうな。
427 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 18:16:27 O
勝ち組もいろいろ大変だぞ。少なくても、パソコンに向かって2ちゃんに書き込んでいても勝ち組になれない。
428 :
考える名無しさん:2010/03/04(木) 19:44:18 0
>今までの人生すべてを恥じた くだらない人生だったよ
心理学でいう自己否定の二次抑圧ですぞ
挫折からが人生の本番だったのに・・、と気づくのに時間を無駄にしますぞ
自分を蹴り続けてもろくなことにはなりません
勝ち負けなんて幻想に近いなあ
なぜそう思ったのか知らないし、何があったのかも知らん。
が、何故わざわざ自分で自分を負け組認定したいのか、俺にはさっぱり解らん。
人生なんてもんは最後の最後に満足出来さえすれば、その時点で勝者だぞ。
繰り返すが、なんでわざわざ自分で自分に負け犬の烙印を押したがるのが、全く解らん。
一体なにを根拠に勝ち負けを決めているんだ?金か、地位か、名誉か?
431 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 00:16:49 O
まあ、負け組と認識してる者が多かったから民主党が勝ったわけで。ドグマからの脱却の道具かな?仏教は。哲学的に言うと。
432 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 00:29:26 0
一切行はみな苦しみすぎない。
人生に勝利など無い。
いわんや、生きる価値などというものは、選び抜かれた
1割の人間であろうと、存在しないのだ。
>>432 それならば、あーたはどうして死なないの?
死ぬ理由が無いから、だろう。
自殺した比丘も何人かいたようだが、お釈迦さんはしなかった。
「自分は、革紐で組まれ、補強された古い荷車のようなものだ」とも言っていた。
時節が来て、荷車が崩れ、朽ちるように、自分(の五蘊)もまた滅していくのだ、と・・。
無理して強引に維持する理由(≒生きる価値)も無ければ、また、
わざわざ解体し、壊す理由(≒死ぬ、価値無きものが存在し続けてはならない所以)もまた無い・・。
>一体なにを根拠に勝ち負けを決めているんだ?金か、地位か、名誉か?
楽しい(楽しんだ)経験というか体感というかがある人もいます。
その片鱗も知らずに人生が終わっていくことの無念を感じて「負け」と表現しているかと。
釈迦は人生の一番楽しい時期はエンジョイし
下り坂になってから出家して見事に苦しみから脱することに成功した究極の勝ち組
438 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 03:40:39 O
まあ、パーソナルドグマを仏教的に保つのは困難かな。やっぱり、巨額寄付者を重用したり、極貧者を切り捨てたりしてるからな。仏教の法則でいうと極貧者が上位に立つが社会生活上のパーソナルドグマから、脱却することができない。煩悩かな
439 :
チン念:2010/03/05(金) 03:43:07 0
カネ教、ばんざい!!! by勝ち組・ぼうず
>>439 ということは・・・
やっぱり
________
/:.'`:::: :::::\
/:: \
/::. ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' ::: ヽ
|:: ン -==-∴-==- < |
,;';;;;;_-=・=- ;;;;; -=・=-;;;;;ヽ、
.. -=ニ=- 苧疾壺玖嵯夷於饅壺雅簾喜軟蛇絽?
441 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 05:22:23 0
>>436 その論を真とし負け組の定義とした場合、つまりは
人生において楽しい、楽しんだという経験、体感を持つ者が即ち「勝ち組」となる。
これは良い。これなら大半の人間が勝ち組になれる。
>>437 エンジョイした楽しい時期をもって「楽の極み」とし、出家した後の苦行をもって「苦の極み」とする。
そしてその両方を知ったからこそ、「中道、中庸」を得た、と。そうも考えられるな。
楽の中に救いは無く、苦の中にも救いは無かった。救いはそのどちらでもなく、第三の道だったと。
442 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 05:50:38 0
「負け組み」には負け組みの視座が有る。如来は「執着するな」と言う。しかし、
他に世界は無い。
○○会は、お題目を、「南無妙法蓮華経」を唱えよと言う。心から、体の底から
唱えれば、自身の「小宇宙」から、生命溢れる、本来の「大宇宙」に、解けこみ
自身も新しいエネルギーを得ると言う。
思い切ってジャンプして、○○会に来たれと言う。
君ならどうする?ニートを決め込まず、まず、行動。
443 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 06:06:01 0
どうせこの世は、六道輪廻。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上、何れかに
属する。さ迷い廻る。それはそれ、いいでは無いか。
悲しみすら、無い。私の悟り。
家族は、悲しい。諦めているようだが。
他に世界は無いように見える。しかし、本当にそうなのだろうか?
445 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 07:48:34 0
トルストイは「戦争と平和」の中で、ロシア軍の総司令官クトーゾフに、
「俺の戦士は時間と忍耐だ」と言わせ、ナポレオンに勝った。
今の日本では、忍耐しても時間まちしても、どうにも成ら無い様な気がする。
446 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 08:13:04 0
とりあえず、有るがままのこの社会で、影が有るからには、光がある。
その光は一部の勝ち組のもの。
鳩山内閣の八方美人の、ブレまくりではどうにもならぬ。大赤字で
金をバラまく。未来は無い。
公明党さん、よい案はありませんか?
宗教と政治の関係。政教分離は如何なっていますか?
447 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 08:24:19 0
仏教と政治。創○学○と公明党。どう関係するの?
449 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 09:11:50 0
仏教は、如来は、執着せず、拘らず、大らか
450 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 09:29:23 O
おまえらまさか、人間が平等だとでも思ってるの?
各政党支持宗教団体があるのは当たり前なんです!
453 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 09:51:23 0
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、 誰でもどれかに属している。
そしてさ迷い巡り巡っている。
454 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 10:28:50 0
誰にでも、仏性はあります。その意味では人間は平等です。
見かけだけでは、解りません。しかし、輪廻もしています。
この世にこそ輪廻は有ります。前世、来世は有るか無いか
解りません。
平等なのに対等でないから始末が悪いんですぜw
だから宗教なるものを生み、必死にその溝を埋めようと・・
456 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 10:56:13 O
対等に毎日宗教紛争してるぜよ!
457 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 11:12:12 0
仏教でも般若思想は、我々一般人の認識を「世俗諦」と言い、悟った人
の認識を「勝義諦」と言って区別します。中論では、確かに難解ですので
区別されても止むを得ませんが。
般若思想では、「無我」がメインで、仏性は認めていない様です。なにしろ
「空性」の世界の話ですから。
458 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 11:26:20 0
中論によれば、我々は、夢の様な、幻の様な、蜃気楼の様な存在。
仏性の有る無し以前の存在です。
自分の頭でたまには考えろ
460 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 12:11:33 O
自分の頭で考えて何を言っても、既に何もかも言われてることなんです。
やはり和みますな
462 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 12:24:28 0
では、せめて自分の言葉に置き換えて書けww
自分の言葉なんか無いんです。
すべて借り物なんです。
464 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 12:32:11 0
経験から絞り出せw
基本的に人間を人間にしているものの大半は、外部から与えられたものだ。言葉も思想もなにもかも。
しかし、そう考えた時はたと気付く。ではその借り物は、元はどこからきたのかと。
それが禅ですがな
467 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 14:12:01 0
二つ教えてください・・・全くの素人です。
コメンテーター(?)の宮崎哲弥がある番組で
「今やるべきことを全てやってるからいつ死んでも悔いは無い」っていってて
すごく感銘を受けました。調べてみると仏教の中観派?とのことで
中村元という人の龍樹という本を買ってみましたがさっぱり理解できません・・・
何か入門書というのはありますか?
あと宮台真司という人が
「下手な形で人生の目標をたてると人生が終わったときに不全感にさいなまれる。
だから曼荼羅的発想で目標と手段が同じ形をしている(?)ほうが良い」
みたいなことを言っていて、曼荼羅的発想というのも仏教の概念にあるのでしょうか?
お願いします。
469 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 16:01:40 0
467さん
竜樹論師は難解です。これは、私の暴論ですが、「無自性」を否定して論じて
みました。参考にして下さい。
グーグル検索:「C点による仏教的宇宙論」
470 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 16:05:07 0
中論では、「戯論」ですし、仏教では「無記」に触れる恐れが有ります。
>>457 >仏教でも般若思想は、我々一般人の認識を「世俗諦」と言い、悟った人
>の認識を「勝義諦」と言って区別します。中論では、確かに難解ですので
>区別されても止むを得ませんが。
>般若思想では、「無我」がメインで、仏性は認めていない様です。なにしろ
>「空性」の世界の話ですから。
禅定においては世俗諦、観行で極めたら勝義諦で般若を得て無我で空を知り、
法をも捨てる(よって仏性認めず)ということでしょう。
悟ったら並ぶ者なんかない。仏すらね。
神に会うては神をころし
仏に会うては仏をころし
>>474 たとえ、個性的な、独自路線を歩む人がいたとしても、
一神教系で1行目のスタンス(≒境涯)が採られることはないんじゃないかな・・。
スレが放逸にそれておるぞ、修行に励めよ
477 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 00:42:46 0
>>469 ありがとうございます。理系なので興味深く読めますね。
>>471 どうもありがとうございます。少し読んでみましたが本より
ずいぶんわかりやすいです。
478 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 01:14:01 0
やっぱ、仏教の本質は修行だろうね・・・。
お釈迦様もヨーガの修行で悟ったんだから。
479 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 04:02:44 O
何かを得てそれを失った時の喪失感が堪え難い時がある。
欲望は必要最小限にしたい、ほんとうは。
480 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 06:10:57 O
暇と時間と頭脳があったら、是非、桐谷順忍著「救済の理論」を読んでもらいたい。
481 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 06:22:33 0
現在の仏教学は文献学との専門家の意見ですが、記録を残さない如来の
真意は、どの文献を持って如来の真意とするのでしょうか。
サンスクリットを学び、漢語を学び、日夜学問に精進する先生方に、尊敬
を忘れる事は有りません。
仏門にて日夜修行する情熱ある若き僧侶に、未来の大成を祈ります。
しかし一般在家の私共は、現在の仏教にどう対処すべきか、迷います。
482 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 06:42:33 0
輪廻転生こそ仏教の本質の一つと言う意見が有るようです。100%無いとは断言
出来ません。もしあるとすると、あの世に帰った命が、再びこの世に戻り、あの世と
この世を、往復を繰り返し、私共の霊はラセン運動する様に感じます。
これも有るか無いか解らないのですが、ニーチェの永劫回帰は大きな円運動の様な
様なものでしょうか。
どちらも文学としては興味が有りますが。仏教としては、如何でしょうか?
483 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 06:50:37 O
解脱の手段として、仏国土に生まれ、輪廻を脱すると理解しているが。
484 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 06:54:39 O
輪廻して、弥勒を待つのも手だが、56億8千万年後だぞ
485 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 06:58:14 O
私は仏国土を開きたいが、仏になれそうもないので。
486 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 08:04:38 0
輪廻転生が有るためには、前世、現世、来世、も存在しなければ、ならない。
永劫回帰なら、現世と全く同じ世が、数億年後か数兆年後かに生じないとは
断言出来まい。一回性の繰り返しだが、過去も未来も勿論現在も決定されている。
しかし、輪廻転生の場合は、どうだろうか?霊の連続をどう考えるか?
前世は現世の中の生まれる前の世。来世は現世の中の死んだ後の世。とすると
現世と離れて、前世も来世も考えなくてよい。
理系の頭で考えると、輪廻転生も永劫回帰も、存在する可能性は極めて少ない。
487 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 09:24:06 0
昔は、輪廻転生で「業」に苦しむと信じていた。因果応報を恐れ、悪行への
ブレーキにも成っていた。いまは素朴な考えは、失われている。あの世の
地獄も極楽も信じなくなった。
しかし、この世にこそ地獄も極楽もある。この世で、六道輪廻にさ迷っている。
>>475 臨済録の古来論争のある部分ですよw
仏教では神もまだ解脱しておらず、六道を輪廻する身分です
もちろん一神教の創造神とは異なります
語弊があるけど「外道」といって、一神教やその他の宗教は対象外です
489 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 10:32:01 0
釈迦自身は輪廻転生説を支持していたのでしょうか?
たぶん、方便として、ね。
なにしろ、「あの世がどうなっているか教えてくれないなら、教団を離れる」と言った弟子に「毒矢の譬え」をした方だし。
あの方は自分の教えを自分で文字にしていないから、本当のところは誰にも分からん。
まぁ、実際にはそうではなく、信じていた可能性もあるのだが、三つ子の魂百まで理論で。
ただ、釈尊としては地獄だろうと天界だろうと、同じ苦しみから逃れられぬ地獄だと思っていただろう事は確か。
だからこそ、それら六道からの解脱を説いた訳で。
「三界火宅のごとし」や「火宅の譬え」がある事から考えても、
491 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 13:16:08 0
してたからこそ、ヨーガの修行をして涅槃寂静の悟りを求め開いたんだよ・・・。
>>488 ならば、「神」を持ち出す必要は無いっしょw
もとは「仏に会うては・・・祖に会うては・・・」だし、
488の言うように「神」も単なる衆生に過ぎない。わざわざ殺す必要も無い。
「仏を、祖を殺すこと」に意味があるのであって、一般衆生を殺すことに意味を見出したりはしない。
たとえ禅宗でもね。
だから、 >対象外 と言うなら、最初から神を代入すべきではない。
そこに代入されるのは、「単なる衆生」ではなく、特別な存在でなければならない。
だから、488のようにアレンジされていれば、
(「仏や祖の位置付けに倣って」)当然『一神教的神』と読んでしまうさw
493 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 13:48:56 0
>>491 ヨーガの修行で悟ったのではないとおもうぞ
494 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 14:27:58 0
釈迦の時代には、バラモン教の輪廻転生思想が出来上がってをり、当然のことながら、
如来は知っていたと思われる。ここは490氏の様に「方便として」如来が取り上げて
いたとするのに、賛成です。
輪廻してゆく霊を、阿頼耶識? つまり、遺伝子DNA? と言う主張も有る様ですが、この辺り
のことは、良く解りませんし、輪廻転生は非科学的とも、思われます。99%の確率で。
>>484 「それ「俺行かないよ」ってことでしょう」
ってみうらじゅんが言ってたなw
496 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 19:44:26 0
>>493 何を言う、釈迦の八正道こそヨーガの八支則ではないか。
仏教の実践面である修道論は、釈迦のはじめからインド大乗の完成態である
唯識仏教にいたるまでヨーガそのものではないか。
中国や日本の仏教の華である禅仏教なんてヨーガの瞑想面を特化したものだぞ。
唯識仏教の正式名は、ヨーガ行唯識学派と言ってヨーガ修行で己の阿頼耶識を自在に動かす事で
因縁を解脱して涅槃寂静の境地に達さんとするものだぞ。
それ大乗でしょw
498 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 20:13:45 0
アホ・・・www
初期仏教は愚か釈迦そのものでさえ、ジャイナ教の開祖ヴァルダマーナと並んで
インドの歴史上に現れた最も初期のヨーガ行者だぞ。
言いたい事は分かるんだけどね…
インド人と言うかヒンドゥー教徒は『仏教はヒンドゥー教の一派』だとほざく連中だからねぇ。
釈尊は輪廻転生やらカーストやらの、バラモンやジャイナの教義を否定する立場にあると言う事は覚えておいて。
付け加えると、自信の中に眠る力を目覚めさせ制御するのがヨガ、
それに付け加え宇宙の真理「大日如来」との融合、一体化を目指すのが密法。
もっと分かりやすく言えば、ヒンドゥー教ありきで成立するのがヨガ、仏教ありきが密法。
断言できるほどヨガには詳しくないから、異論は認める。
密法は仏教と言うには少し特殊だという問題もあるし。
輪廻転生は古代インドの発明だろうよ。飽くまで人生は平等だ、と。
仏教的には「六種輪廻の因縁は己が愚痴の闇路なり」で
たとえどの種にいようとも安心は得られると説いているよ。
つうか、安心を得られたらどの種にいようとカンケェネェ〜
501 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 22:46:57 0
はて・・・、密教は中世ヒンドゥーヨーガであるハタ・ヨーガと言う
窮めて身体生理学的ヨガの影響から出てきた本来の大乗仏教とは異質の謂わば堕落形態なんだが。
仏教・ジャイナ教とバラモン的なパタンジャリの古典ヨーガの両方の母胎になった実践ヨーガとも言うべきものが
4千年以上前からあるんだが(モヘンジョダロやハラッパのインダス文明の遺跡からヨーガのポーズをとる神像が発見されてる)。
ヨガの目的って何だっけ?
503 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 23:09:03 O
そんな俗説信じてるの?たしか拳法も釈迦はやってたという俗説もあるが
504 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 23:09:52 0
こころの止滅、こころの統一、まぁこころの操作によってある深い宗教的境地に入る事。
それによって本来の自己である真我に目覚める事(真我の独存)かな・・・。
505 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 23:40:11 O
遺跡って、国が潰れたから出てくるわけで。
506 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 23:49:28 0
国が滅んでも文化や宗教上の道統は伝わり残るwww
507 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 00:16:04 O
うーん。仏教国においては仏教が権威であり法であったと考えられる。滅亡した原因は、建造物を作るに辺り、兵士を用い、戦闘になった際にその体力が疲労でなかったと言われている。まあ、遺跡のために国が無くなったと言ってもよさそうだ
国破れて山河在り 人の創ったものは滅びようと、元から在った自然は変わらず在り続ける。
509 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 08:19:17 0
>>489 >釈迦自身は輪廻転生説を支持していたのでしょうか?
前提しています。縁起の流転、四諦の苦・集諦です。
>>490 >たぶん、方便として、ね。
縁起の還滅、四諦の滅・道諦に対しては、輪廻は二次的といえるでしょう。
>>493 もちろん違います。
止心(定)を完成し、それを前提して、縁起を観察(慧)して覚りました。
510 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 08:59:56 0
精神統一の方法として、「ヨーガ」は有効であったかも知れないが、悟りの為には
やはり、「瞑想」を必要としたと思われる。ヨーガで、「解脱」に至るのでなく、
一つの心理状態に達するかも知れないが、「座禅」のみの場合と同じだと思われる。
ヨーガの修行者の魂が、宇宙の根源の魂と合一すると感じても、それは錯覚である。
まして、ヨーガと輪廻転生は関係が無い。
511 :
し:2010/03/07(日) 09:02:18 O
しょうゆうこと
512 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 09:18:53 0
輪廻転生は、人間のみの転生でも、動物まで含めての転生でも、存在の根拠が
無い。輪廻転生は、文学的には魅力あるテーマである。
一般人にアンケート調査して、「死後の世界を信じますか」と問えば、かなりの
人が、「信じます」と答えるでしょう。しかし、それは単なる「願望」に過ぎない。
だが、100%無いとも断言は出来ない。
513 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 09:23:25 0
チッベト高僧の「転生」については、解りません。
514 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 11:42:00 0
チベット高僧の問題は、科学として哲学としての問題ではなく、宗教として認めることは、
何の問題も無い。文化であり、心の拠り所である、立派な宗教として良いと思われる。
宗教に政治が関与するのは、反対です。
515 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 12:30:47 0
>>510 >ヨーガで、「解脱」に至るのでなく
わしの言いたかったのはそれだw
4,5千年前からあるヨーガで「解脱」できるのなら釈迦まで待たずとも良かったはずだ
智慧にもヨーガやその他の修行にも偏らないところに釈迦の悟りはあるんじゃなかろうか
516 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 14:36:46 0
一体釈迦の悟りは、どこにヒントが有ったのだろうか?
古代インドの思想からか
517 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 15:44:52 0
>>515 >4,5千年前からあるヨーガで「解脱」できるのなら釈迦まで待たずとも良かったはずだ
外道のヨーガは、定しかないから「解脱」出来無いらしいです。
また、解脱といっても、定の完成である心解脱と、更に、慧の完成である慧解脱があります。
>智慧にもヨーガやその他の修行にも偏らないところに釈迦の悟りはあるんじゃなかろうか
慧(プラジュニャー)は、定を前提しての観だから、ヨーガだと思います。
三学でも、六パーラミターでも、定の次に慧が来ています。
518 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 15:49:29 O
人生に晁
519 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 15:54:18 0
だから、インダス文明や4,5千年前の古代文明にも、仏教やキリスト教のような
宗教はあったんだよ・・・。
過去七佛はただの俗信ではないぞ。
その頃にも釈迦やイエスのような聖者はいたんだぞ!!!
あまりにも近視眼だなwww
520 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 16:03:47 O
うむ。でも、これだけ広がりを見せたのは、釈迦のおかげだからな。
521 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 16:07:54 O
あと、竹林の七賢者って知ってる?あこらへんにも興味があるんだけど
522 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 16:11:57 0
そだな釈迦も、自分は仏教という新奇な宗教をはじめたのではない、
自分は草に覆われた古仙人の道を見出してその道を歩む事によって涅槃に到った、
って言ってるもんね。
523 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 17:28:13 0
まぁまぁ、迷い子に道を示すのも仏教徒の役目さ。
詩文学板に行け、だ。
525 :
SRKWブッダ:2010/03/07(日) 23:41:59 0
>>516 覚りの道の実践にヒントはいらない。 人は解脱することができると言うことが分かっていればそれで充分であるからである。
たとえば、知恵の輪は解けると言うことが分かっていればヒントはいらないようなものである。 正しく解けたときには、正しく解けたと分かるからである。 それゆえに、知恵の輪には答えさえもついてはいない。
それと同じく、人が解脱したならば解脱したという知見を生じる。 そして、そのことが釈尊以前の過古仏によって述べられていた(それが伝えられていた)と考えるのがありそうなことである。
***
526 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 00:11:44 0
>>519 あんたも実際に見てきたような感じで書くなよw
527 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 06:28:12 0
521さん
竹林の七賢は、すこしピントはずれですネ。
三教、つまり、儒教・仏教・道教のあったシナの昔話です。釈迦の古代インドとは、違い過ぎます。
儒教の政治に満たされない、「たてまえの政治」に嫌悪を感じたエリートが、竹林に集い、俗世をはなれた
「清談」を交わした。「本音」では神仙思想の道教も論じたでしょう。しかし、仏教をどの程度論じたかは
疑問ですネ。言うなれば、優雅な人達です。
竹林の七賢と言っても、貧乏仙人では無く、地主階級でしょう。ほんとの貧乏人では、役人採用試験の「科挙」
は受験出来ません。仏教を求めるほど切実でない人達で、仏教は教養程度に論じたでしょう。
現在の日本では、仏教を論ずるのは、七賢の様なものでしょうか?
528 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 06:29:51 O
苦行により、悟りを見いだせなかったから、菩提樹の下で瞑想したんじゃなかったっけ?その苦行の中にヨーガもあるんだろう。全身の毛も抜いたらしい。まあ、説法のほうが重要だね
529 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 07:02:11 O
2ちゃんねるの七賢を決めてみてはw
530 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 07:46:23 0
シナでは、庶民の願望が、「仙人」を生んだ。道教もそこから生まれた。
庶民の本音が道教を生んだが、庶民の夢は夢で終わった様だ。仙人に
なることは現実には、不可能だったが、それはそれで良かった様だ。
531 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 07:58:03 O
悟りを微分集積の期間とするとヨーガなんかも無駄ではなかったと思うが。その許容範囲といちだつした世界に魅了されるわけだが。ヨーガはパテントの一つかもしれんが全てではないと思うよ。
532 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 08:03:02 0
仙人になり空を飛ぶ事も、飛行機がそれを現実のものとした。不老長寿も医学の進歩で、病苦も減り
寿命ものびた。霞を食べなくても、食生活も豊かになり、空腹も感じなくなった。夜の男女の楽しみ
も、豊かになった。時間にゆとりが生まれ、楽しみも増えた。仙人えの願望は、今や現実のものとなった。
道教は廃れ気味だが、道教の求めた世界は、現実のものとなった。
533 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 08:09:11 0
仙人修行の中には、ヨーガはない様です。
534 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 08:26:23 0
ヨーガの精神とどうかは解らないが、道教の仙人も「天」と「人」の合一を
最終目標にしているようです。宇宙との合一は、いろいろの宗教にある様です。
535 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 10:20:22 0
道教の修行にはヨーガの影響受けたのが多々あるよ。
チャクラとか同じだし。
基本的にインドを含めた東洋諸宗教は
「主客合一」を目指してる。
536 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 10:32:38 0
仏教と道教では、人間の悩みは仏教の方が深く深刻なようです。仏教はインドでは、次第に
ヒンズー教に変わって行った様ですが、このあたりは如何なっているのでしょうか?
インド人、シナ人、ニホン人それぞれに、仏教へのスタンスが異なる様ですが。背景の社会
の違いでしょうか?
537 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 10:42:50 0
>>528 人生に疑念を抱き、まず長者(知識人)を訪ねたが納得いかず
それではと苦行を敢行したが答えを得れなかったので
河に入り沐浴し、スジャータ嬢から乳飲料をもらい生気を整え
木陰で結跏趺坐し、12月8日の明けの明星(金星)を見て解脱した
あってるかな?
538 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 11:04:45 0
解脱の光輪きはもなし!
>>536 インドでの原始仏教は出家者の為の自己救済の面が強い
玄奘によりシナに持ち込まれ漢訳された仏教は社会救世、現世利益の面が強い
聖徳太子がシナ経由で日本に導入したときは、政治利用された面が強い
鎌倉期の混迷により比叡山天台系から日本独特の仏教が爆発的に起こった
それこそ方便として「なんでもあり」だ
以前日本で開催された世界仏教大会みたいなものに招待された南方小乗系の僧侶が
鎌倉の大仏を訪ねた時、売店で大仏のキーホルダーが売られてたり
20円で大仏の中に入る日本人を見て激怒したそうなw
540 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 13:17:30 0
道教の神仙修行はヨーガそのものなんだが・・・www
インドから伝わったヨーガが中国化したものが道教の神仙修行だよ。
経絡のツボである七つの重要な経穴とハタヨーガのチャクラ理論の七つのチャクラは
まったく同じ位置で一致している。
会陰にある先天の気を頭頂の百会までまわす道教の周天法なんて、いまどきのヨーガ修行に重要な呼吸法として
取り入れられているぐらいだよ。
ちなみに、会陰=ムラーダラ・チャクラ、
百会=サハスララ・チャクラ(梵の座)、な。
541 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 13:29:27 0
ヨーガをいじめるな〜〜
542 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 13:49:13 0
>>基本的にインドを含めた東洋諸宗教は
「主客合一」を目指してる。
薔薇十字会とて同じだよ。神の子となる、と表現を変えているにすぎない。パスカルも。
たぶん、アッラーも同じ体感を異なった表現で説いているはず。
宗教の神髄はここにおいて外はない。
インドは雨季が長くその時期が通り過ぎると非常に空気が乾燥する。
その気候に適した身体技法と世界観。
544 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 14:48:14 0
座禅とヨーガは、関係しますか?
姿勢、呼吸法、などいろいろ有る様ですが
545 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 16:19:21 0
日本へは、空海がシナより持って帰った。真言・天台などで受け継がれ
546 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 16:33:38 0
関係あるよ。空海が唐より入れる。禅宗が座禅とする。
547 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 16:41:24 0
座禅は日本文化
548 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 16:51:01 0
達磨は座禅しなかったの?
549 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 16:56:10 0
達磨は座禅したよ。中国禅の開祖だよ。
550 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 17:29:21 O
面壁九年だったっけ?悟り方も違う
何で壁に向かって座るのだろうか。床が汚れて気になったのかな。
552 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 17:45:39 O
達磨はインドの人で、中国語があまりしゃべれなかったらしい。誤解を招いて、両腕を切り落とした、入門希望者もいたそうだよ。
553 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 17:49:14 0
>>551 時の皇帝に会ったが馬鹿だったから、山に入って壁に向かったらしい
予想どおり噂になり、弟子候補が集まってきたみたいw
>誤解を招いて?、両腕を?
初耳だ、誰のこと?
555 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 18:12:14 O
初耳なのか?インドでは両腕を切り落とすポーズは快諾の意味をなし、入門希望者を受け入れるという意味合いなのだが、入門者が勘違いして、両腕を切り落とせば入門させてくれると解釈したそうだ。
556 :
考える名無しさん:2010/03/08(月) 19:04:47 0
>>554 「慧可断臂図」でググれw
慧可が切断した手を持って、達磨に入門を懇願してる絵が出てくる。雪舟の画だったかな。
坐禅というと、日本にも根付いてるが、ダルマさんは中国に来たから
中国にも坐禅はある。日本の坐禅みたいに警策でブッ叩いたり、全く動かなかったりはしない。
けっこう坐禅中は自由なようだ。
昔の中国の神秀は北宗禅、慧能は南宗禅だ。
朝鮮半島は曹渓宗が残ってる。
禅は当時の日本の僧侶が中国に留学して会得してきたんだぞ。
道元も栄西も宋に留学した。
日本に禅が伝わった系図は調べればすぐわかる。
ちなみに達磨(ボーディ・ダルマ)は南インド王国第三王子とされる。釈迦から28代目。
二祖の逸話は知ってるよw
元々ひじに障害を持ってた、あるいは罪人だったとの説もある
両腕を切断した二祖がどうやって手を持つのかとおもってね・・
>>555は知らなかった、ありがとう
558 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 04:57:23 O
どおやら達磨は中国語があまりできなかったから、壁に向かって座り続けたらしい。禅は頓知といわれるように、不可解なことが、他人の解釈で、そういうふうになってくようなことが、あるようだ。
559 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 06:06:33 0
ヨーガとは、少し話が変るが、近頃「太極拳」が盛んである。ヨーガと関係あるかと、
調べたが、関係無いらしい。
中国の武術で、今は健康体操として、ブームであるが、思想的には「易経」からで、原始宇宙の
無極、未分化なビグバン以前?の状態から、陰陽二極に分かれたものを「大極」と言い、ここでも
宇宙との合一が言われている。
独特の動作などヨーガを思わせるが、関係は無いらしい。勿論、仏教とは関係無い様だ。
560 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 06:25:08 0
東洋的なものは、何かと言うと、大自然、大宇宙との一体化、合一をその道の
極意とするようですネ。
座禅。荒行、断食、唱題目、念仏、加持祈祷なども、最期は法悦の境地に?
仏教では、どう?
561 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 07:39:11 0
法悦? 単なる異常心理では。解脱とは思えないが。
562 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 09:34:18 0
>>552 その両腕を切り落とした入門希望者って誰?名前わかる?
覚悟がすごい、興味がわいた
>>562 横やりだが・・・
「慧可」(えか)だよ
中国禅の第二祖と呼ばれる人。
564 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 10:18:32 0
ぐぐると、左ひじを切ったとあり
両腕を切り落としたとはなってないけど?
他にもっと強烈な人がいるんだろ?
565 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 10:45:10 0
雪舟の絵では、右腕で左腕を、達磨の背に向けて差し出している、様だが。
記憶違いなら御免なさい。
566 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 10:48:28 0
いつ見ても、達磨の眼光は鋭いネ
567 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 11:18:10 O
?禅宗は復学はせんのか?最新の学説だぞ。
568 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 11:21:41 O
くぐったら、そう出たか。そりゃ、それが間違ってる
569 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 11:29:28 O
まあ、禅宗は不立文字、以心伝心だからな。なんのことやらさっぱり。
570 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 11:31:53 O
達磨は中国語があまりできなかったため、壁に向かって座った結果、悟りを開いたわけだから、いいんじゃない?
それが禅ですがな
572 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 11:36:17 O
2ちゃんねるのニートや引きこもりって、禅行者に似てるね。面画面何年で悟りを開けるんだろうか?
それが禅ですがな
574 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 12:06:09 O
まあ、今の尺度で考えれば昔は考えられないようなことをしていた。それだけ覚悟が違うわけだね。
575 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 12:08:51 0
>壁に向かって座った結果、悟りを開いたわけだから
俺も最初はそう解釈してたけど、最近なんだか違うような気がしてきた
達磨は最初からユニーク(独創的)な存在だったのではないかと思う
極論すると、「ある種の悟り」があったから座っていたんじゃないかと
勿論、それが釈尊の悟りとピッタリ合致するかどうかはわからないけどね
576 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 12:17:53 O
禅問答の話を見ると、お笑いみたいなことをやってるんだよな。それを本人たちは真剣にやってる。
577 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 12:25:11 O
達磨はもちろん高学者で招かれたわけだが、中国語があまりできなかったため、説く内容がないと判断したらしいよ。もし、中国語ができたら、そんなに名を残すような人物になっていなかっただろう
太極拳は中国固有(漢民族)土着の伝統的な宗教である道教と関連が深い。
道教では「道」(Tao)という字自体が一つの太極図になっていると考えられている
道教はインドにおけるヒンズー教と同じく、古くは周易に伝わるまじないやら巫術をベースに
老荘などの道家の思想を取り込んで、不老不死の神仙思想、陰陽道などの神秘思想、
ほかに呪術やら占卜(せんぼく)などが融合して出来た民間信仰。
もちろん文化大革命の時は弾圧の対象になった。
儒教や中国仏教など他の三教の教えも取り込んでいる。
宗教団体として成立したのは後漢末の張角による太平道(いわゆる“黄巾の乱”)の時だが、
信仰として大成したのは南北朝時代の北魏の寇謙之の時で、北魏では
道教は国教ともなり、その後、唐代にもさかんになった。
ちなみに達磨は南北朝時代にインドから中国へ入った仏僧で、
北魏の孝明帝の治世時に彼の地にやって来たと思われるが、
禅宗は前記のとおり漢人の弟子が付き中国に根付いて道教と同様、唐代にはさかんになった。
この唐代に遣唐使に随行して中国へやって来て禅宗を学び、
日本に持ち帰って禅宗(臨済宗、曹洞宗)を伝えたのが栄西やら道元。
禅宗では達磨大師は“祖師”とも呼ばれる。
>>578 ごめん、栄西や道元が「遣唐使に随行して」というのは大ウソねw
やっぱ日本史はダメだなw
ヨーガの次は太極拳かよ・・
581 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 12:48:39 0
583 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 14:21:37 0
プッ、アホか、中国ヨーガとも言うべき道教から派生した太極拳がヨーガと関係ないだって、
関係大有りだろうがwww
ちなみに少林寺拳法は、仏教ヨーガ、なwww
584 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 14:25:48 0
ヨーガは、道教に関係し、道教は太極拳に関係し、この三つは親戚な訳。
そしてこれ等は、極めれば、大自然、大宇宙、天に通じ合一する訳だ。
で?
586 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 14:43:43 0
シナ人は、現実の苦を和らげるため、ヨーガなり太極拳で、日常生活の中で解決を
していた。仏教の様な暗さは無く、大空の下明るく、伸び伸びとしている様だ。
大陸的と言うことか。
587 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 14:50:13 0
安上がりで、庶民的。
住職が自分の寺に放火、前日3億円の保険
約500年の歴史があるとされる寺に放火したとして、埼玉県警は8日、
寺の住職だった同県小川町、僧侶西原弘道容疑者(53)を非現住建造物等放火などの容疑で逮捕した。
捜査関係者によると、西原容疑者は火災前日に約3億円の火災保険に入り、家財道具などを運び出していた。
西原容疑者には数千万円の借金があったといい、県警は保険金目的の放火とみて調べる方針。
関係者によると、西原容疑者は昨年11月5日夜、同県東秩父村安戸の聖岩寺で、
本堂や隣接する自宅に灯油をまいて火を付け、4棟約460平方メートルとリースの乗用車を全焼させた疑い。
出火当時、各棟から同時に火が出たとの目撃情報があり、県警は放火の疑いもあるとみて捜査。
本堂や西原容疑者の寝室など数か所から油性反応が検出されたほか、西原容疑者が火災前日、
本堂や仏具などに約3億円の火災保険をかけていたことも確認された。
県警が放火容疑で西原容疑者の親族宅を捜索したところ、火災で焼失したとみられていた
徳川家光ら将軍の押印がある古文書9通などが見つかった。
さらに西原容疑者が火災前、引っ越し業者に依頼し、けさや法衣、檀家(だんか)記録など、私物や家財道具を運び出していたことも判明した。
西原容疑者は普段からリースの高級外車に乗り、寺近くの賃貸マンションを別宅にしていた。
スナックで豪遊するなどし、数千万円の借金を抱えていたという。火災後は住職を辞めた。保険金は支払われていない。
寺は500年ほど前に開山したとされる古刹(こさつ)で、焼失した本堂は約200年前に建て替えられた古い建築物だった。
寺では2006年1月にも、当時の住居の一部が燃える火災が発生しており、県警で関連を調べる。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100308-OYT1T00624.htm
ちなみに中国に渡来した達磨大師が禅宗を開いた場所とされ、
曹洞宗の本拠地ともなっているのが「嵩山少林寺」(すうざんしょうりんじ)で、
そこで発祥した中国武術が少林拳法。
ただしそれは1947年に日本の中野道臣が創始した“少林寺拳法”とは
まったく別物である。
590 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 17:03:24 O
なんだこりゃ?
591 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 17:06:26 0
宗道臣は、ちゃんとした少林寺拳法の老師から正統な拳法を習っているよ。
戦前に中国でね・・・、初代の一人娘である今の二代目宗道臣は拳法のけの字も知らない。
養子婿が拳法の達人だけどね、でも入り婿だから何の権限もないwww
592 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 17:16:01 0
なんだこりゃ?
593 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 18:41:08 0
要するに仏教も含めて、
○○教と言えないような混合が諸宗教にある。
教派を超えて貫通する真理を求めていると言える。
「真理」という山頂を求めて、
多くの「山道(諸宗教)」があると思う。
「俺はこの道を」「お前をあちらの道を」という道々がある。
邪道を往く者は地獄などに堕ちるだろう。
だが教派が対立して邪道という「落とし穴」を掘る者は自らその穴に墜ちるだろう。
同じ山頂(真理)を目指す者は山道(宗教)が違っても和合するだろう。
道を逸れる者は多い。
互いに落とし穴を仕掛けることに忙しく、
登頂を断念する逸脱者は多い。
山頂にいる者たち(仏陀・イエス・その他覚者)は彼らを笑う、悲しむ。
彼らが道を見失ったことに笑う。
彼らが道を忘れたことに悲しむ。
釈迦やイエスが笑う? こいつは無知か?
595 :
考える名無しさん:2010/03/09(火) 20:15:02 0
近年発見されたパピルス文書の「ユダの福音」には、イエスの真意を理解しない
ペテロ(カトリック最初の公認聖人)ら高弟たちを笑ったとあるが・・・。
仏陀の拈華微笑は以心伝心を現しているがの・・・。
596 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 05:09:25 O
聖書に出てくる東方の三賢者というのは、仏教徒であると考えてるが。しかし、やはり別のものと考えた方がいい。
597 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 05:18:31 O
無量寿と無限と仏国土の分割の矛盾は感じてはいるが、それを埋め合わす理論があるのだろう。仏性と仏格と同格、など、解けない点がままある。仏の介在によってこれらが解けるようになってると考えるが、悟りでも開かないとわからないのだろう。
598 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 07:57:12 0
ヨーガも太極拳も修行の極地に於いては、個を離れ大宇宙に合一する。個は
無我となり空性と成り、色即是空、非有非無、と成り、華厳経の「一即一切」
となり個を離れ大宇宙と合一する。
ヨーガも太極拳も、瞑想する訳でもないが、庶民と言えど「仏性」は備えて
いるゆえ、解脱までは行かないとしても、法悦くらいまで至るか?仏性は
磨かれて、人柄に滲み出る様に成ることも考えられる。
しかし、私自身は、ヨーガも太極拳もし無い。以上は空論。
599 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 08:25:06 0
597さん
仏性は如来蔵のこと。大乗仏教のポイント。煩悩の中にも、仏性はあり、其の儘でも
他人を救う事が出来、仏性を磨きながらも、仏道を行い、慈悲の行いもできると言う
大乗仏教の核心です。
悟りの無い儘でも、慈悲の仏道が歩めます。
>>599 >其の儘でも
その「其の儘でも」をどう捉えるかが、大問題なんだよね…
602 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 09:08:00 0
仏性については、各宗派により扱いが違う様です。法華経系は、広く仏性を認め
煩悩を沈める修行のかたわら、煩悩の有るままで、成仏の無いままで、慈悲の実践
を致します。ここが大乗の大乗たる優れたところです。
自己の救済のみの仏道修行では、有りません。
603 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 09:17:43 0
煩悩から解放された仏性が、自由自在に慈悲を行うとき、成仏と言います。
604 :
SRKWブッダ:2010/03/10(水) 09:37:27 0
仏性と名付くべき何ものも存在してはいない。 しかしながら、人は目覚めようとする一定の流れの中に存在しているのは確かなことである。 それゆえに、それぞれの因縁によって覚りの機縁を生じたとき、人は発心し、また解脱するのである。
煩悩(=本能にもとづく心の動揺)があるうちはとても覚ることはできない。 また、煩悩を心によって制することもできない。
しかし、あり得べき観(=止観)によって煩悩の根の正体を見た人は我執(我ありという思い)を離れ、愛執(我がものという思い)を捨て去ってついに目覚め、煩悩の根を断ち切るのである。
***
仏性は磨くものだろうか
仏性は煩悩から解放される対象だろうか
自己救済と他己救済は別物だろうか
>>605 そもそも「無我」ないし「非我」を建前とする仏教において「自己」とは何なのか?
自由意志により行為を行い、その果報を受ける「主体」?
そう考えると「輪廻」とは単に現生の業が新しく生まれる生命に引き継がれる現象と解釈でき、
霊魂否定の教説との整合性が取れるのだが
607 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 10:21:01 0
604さん
「般若思想」からは、仏性は説明出来にくいし、もともと仏性は「如来蔵思想」をベース
にしたもので、お説の通りです。だが、大乗的立場も宗教で、大らかに考えました。
605さん
如来蔵、つまり、仏性は煩悩の中にあるもの。煩悩から離れることを「磨く」としましたが、
表現が適切で無かったかもしれません。
608 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 10:42:00 0
般若思想では、「無我」がメイン、如来蔵思想では「我」がメイン。
大乗非仏説もありますが、どうしましょう?
609 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 10:56:59 O
不可思議
610 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 11:19:53 O
南無不可思議光如来
「無我」と「我」は別物だろうか
612 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 11:27:28 0
生まれる前の闇、死んだ後の闇、膨大な闇です。人生は、ほんの一瞬、夢の様な
幻の様な、蜃気楼の様な、儚い存在。人生は無に近い。
闇に視座を置くと、「無我」「空性」の般若思想。人生に視座を置くと、「我」
「仏性」の如来蔵思想。
釈迦の真意は不明。視座が幾つも有ったのであろうか?
矛盾を死後に残したく無い、人々を迷わせたく無い、そのための「無記」?
613 :
SRKWブッダ:2010/03/10(水) 11:42:25 0
人は、名称によって真実を知るのではなく言葉によって真実を知る。 それゆえに、名称(nama)にこだわる者はついに真実を知ることがない。
人は、問いと答えによって真実を知るのではなく観(=止観)によって真実を知る。 それゆえに、問いと答えとにこだわる者はついに真実を知ることがない。
もろもろの如来は、名称によって真実を語るのではなく言葉を用いて真実を語る。 それゆえに、真実を知ろうとする人は言葉を聞く耳を持つべきである。
もろもろの如来は、問いに答えることによって人々(衆生)を覚りへと導くのではなくあり得べき観(=止観)の真相を体現することによって人々(衆生)を覚りへといざなう。 それゆえに、覚りたいと願う人は自らの観(=止観)を完成させよ。
外的なものに心が汚されることなく、内面の静けさを目指す人が、ついに解脱する。 聡明な人は、この真実によって真実に到達せよ。
***
太極拳は中国固有(漢民族)土着の伝統的な宗教である道教と関連が深い。
道教では「道」(Tao)という字自体が一つの太極図になっていると考えられている。
道教はインドにおけるヒンズー教と同じく、古くは周易に伝わるまじないやら巫術をベースに
老荘などの道家の思想を取り込んで、不老不死の神仙思想、陰陽道などの神秘思想、
ほかに呪術やら占卜(せんぼく)などが融合して出来た民間信仰。
文化大革命の時は弾圧の対象になった。
儒教や中国仏教など他の三教の教えも取り込んでいる。
宗教団体として成立したのは後漢末の張角による太平道(いわゆる“黄巾の乱”)の時だが、
信仰として大成したのは南北朝時代の北魏の寇謙之の時で、
北魏では道教は国教ともなり、その後、唐代にもさかんになった。
ちなみに達磨は南北朝時代にインドから中国へ入った仏僧で、
北魏の孝明帝の治世時に彼の地にやって来たと思われるが、
禅宗は前記のとおり漢人の弟子が付き中国に根付いて道教と同様、唐代にはさかんになった。
やがて宋(南宋)の時代に中国へやって来て禅宗を学び、
日本に持ち帰って禅宗(臨済宗、曹洞宗)を伝えたのが栄西やら道元。
禅宗では達磨大師は“祖師”とも呼ばれる。
ちなみに中国に渡来した達磨大師が禅宗を開いた場所とされ、
曹洞宗の本拠地ともなっているのが「嵩山少林寺」(すうざんしょうりんじ)で、
そこで発祥した中国武術が“少林拳”。
ただしそれは1947年に日本の中野道臣が自身の創意工夫を込めて
創始した“少林寺拳法”とはまた別物である。
615 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 14:27:47 0
止観によって、知った真実を、言葉を用いて、語って下さい。
般若思想、如来蔵思想につき、ご意見をお聞かせ下さい。
616 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 16:31:49 0
天台宗は、云わば、仏教の総合大学。止観と言えば、天台止観。天台宗の教義は
広く、鎌倉時代には、叡山から多くの宗祖が生まれた。
これが仏教だと言う、決定てきなものは無い様ですネ。
617 :
考える名無しさん:2010/03/10(水) 23:51:33 O
そうですか
618 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 00:01:15 0
>>615 佛道とは縁起の道だということです。
中観も唯識も如来蔵も、縁起の理法の追求なのです。
因と縁の違いがよく分からない
620 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 00:51:48 0
>>619 因は現象の直接原因。縁は間接原因のことです。
ウエイトは縁にかかっています。因は縁しだいによって異なる果を生みます。
>>620 なるほど
そうして生じた果が新たな因や縁をもたらし、無限に変転するのが「無常」か
でも実際問題として、ある現象における「因」と「縁」をきっちり弁別することは可能なのだろうか?
>>622 因と縁を弁別、語ることができたら仏。
無明で因が分からず果によって振り回され
新たな因を生ず。
624 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 05:44:04 O
なるほど、政治でも言えそうですな。で、天台は自民党ですか?民主党ですか?実勢権力の蒼白図が投票という行為によっておこなわれるかぎり、まぬがれない事実ですが。
625 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 05:55:03 O
実勢の救済が国により行われる現在において、清談は不要かと思われるが。因縁果から言えば、要望、依頼、実行という形になると思うのですが。かくいう私もいざとなったら生活保護を受けようと思っています。
仏教的にはどうなんでしょうか?
626 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 06:03:54 O
実勢の信者獲得と観光の違いは?物見沙汰に毒されていませんか?やはり天台にはテレビやメディアに登場して、その宗を明らかにされる義務があると思います。
天台分派の総意と考えますが。
627 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 07:57:45 0
622さん
現象世界における因果律「因・縁・果」や弁証法「正・反・合」を解明するのは、
宗教では無く、科学でしょうネ。因果律と弁証法は、学問的には同じでは無いでしょうが
現象世界の「変化」を説明するには、共に優れた説と思われます。
総てを仏教に結び付けて考えるのは、危険でナンセンスです。
628 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 08:59:52 0
輪廻転生における因果応報などは、科学でなく道徳の問題であったが?
629 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 09:21:15 0
輪廻転生は、現象世界とは無関係
輪廻転生って動的平衡のことじゃね
631 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 10:02:39 O
単に生まれ変わりと解釈しているが。来世が現在のような社会状況とは限らないし、早めに極楽浄土に行った方がいいかな。
632 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 10:07:33 O
せっかく仏縁にあわせていただいたのだから、それにすがるしか手はないのでは?穢土を離れ、清浄世界へ生まれることにより、六道輪廻を絶つと単純に解釈してるが
633 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 10:08:59 0
動的平衡? 物理? 化学? どうなってるの?
誰か教えて
634 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 10:20:11 O
最近の傾向だよ。不可解なことが合理的に説明されることによって、快感を得る人がいるんだよ。宗教と科学。なんかこりゃあれだな。
635 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 10:25:06 O
認知領域では誇らしげに話すが、不可解なことは神とか仏とかにしてみたり。ようは要領理解能力が欠けてるわけだが、それを認めたくない、プライドの高い人が、多くいるらしい。置き換えは仏教ではない、と思うが
636 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 10:28:39 0
解脱しないと六道輪廻から抜けられないんじゃないの?
釈迦も7回転生してようやく解脱したことになってたような
637 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 10:41:31 O
釈迦は七回も輪廻しないように、教えを解かれてるのでは?
638 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 10:43:52 0
いや、確か大乗経典の中に八回目で解脱したとあったような記憶が・・
639 :
SRKWブッダ:2010/03/11(木) 11:37:33 0
善き人は、悪魔の軍勢を破ってついに全き解脱に至る。 これは真実である。
人が苦悩の根たる
1)欲望 2)嫌悪 3)飢渇 4)妄執 5)惰眠 6)恐怖 7)疑惑 8)傲慢
を(順不同)順次に各個撃破したならばついに世の一切の軛を脱して覚りに至ると説かれるからである。
***
640 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 14:35:51 0
善き人も悪き人も、死ねば全き解脱に至る。人の苦悩も其処までは追って来ない。
641 :
SRKWブッダ:2010/03/11(木) 14:46:40 0
善き人もそうでない人も、解脱したならば全きやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至る。 それは、一切の苦悩の終滅である。
***
因は種子、果は芽、縁は水。
ある程度生物(いや理科か?)を勉強していれば常識だが、種が無ければ芽は出ない。これが因果応報。
しかし種があれば必ず芽が出るわけで無く、芽が出るには水が必要。これが因縁生起。
水耕栽培の例があるように、芽が出るには必ずしも土も日光もいらない。故にこれは必ずしも縁とは言えない。
さらに芽が大木に成るには水だけでは足りず、肥えた土と日光、さらに草食動物に食われない運がいる。
この場合、因が芽、果が大木、縁は水に日光、肥えた土と強運となる。
因(種)が果(芽)となり、芽が新たに因となり新たな果(大木)となる。さらに種には水、芽には水に加え肥えた土、日光と強運と言う縁が必要。
これが縁起の理法。
以上の事を語るが如く、この世の全てを説明できるのが仏。
つうかみんな、sageようよ。
>>636 七回どころじゃなく、千を超えても始まりは見えない
と言っているように、無始なる過去から無限に輪廻してきている。
ということだと思うよ。例えで、「一人の人間が母親の為に流した涙を
集めても、海の水よりも多い」そのぐらい輪廻している、きりがない。
ってのもあったかな。
あ、例えは全然違ったw
けど言いたいことは同じかな。
「パターチャーラー、落ち着きなさい。汝が夫を亡くし涙を流した
のはこれがはじめてではない。また父母や兄弟を亡くし涙を流し
たのもこれがはじめてではない。この輪廻世界において、今日の
ように、汝は数えきれないほどの夫、子供、両親、兄弟を亡くし
嘆き悲しんだ。その流した涙の量は、4つの海の水の量よりももっと多い」
645 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 17:28:42 O
そんな輪廻してキリのないような教えに、よく信者がつくな。頭がおかしいんじゃないか?
どこから説明する?w
647 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 17:55:55 O
まあ、仏道において妻帯は最も重い罪だからな。法力的に言えば俺の方が上なんだけど
>>645 それは、菩提心、悟りを求める心ががあるから。
そして菩提心を失ったであろう地獄にも仏は現れる。
姿形を変えて。
悟りを求める心と救いは等価。
このスレのちょっと前にあった、自力と他力。
649 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 18:25:47 O
妻帯者は悟れんだろ
650 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 19:21:11 0
シッダールタはヤショーダラを愛し、妻とした。彼が成道してブッダとなった時、
彼女は侍女500人を率いて出家し、仏弟子となって最初の比丘尼グループを形成した。
義母のマハーブラジャーパティ(実母のマーヤーの妹。マーヤーが亡くなってからは、
シッダルータの母として彼を慈しんだ)や息子のラーフラもともに出家した。
シッダールタが苦行の果てにブッダとなった時、彼の身体は衰弱しきっていた。
これを救ったのが村娘のスジャータ。彼女はブッダに乳粥を飲ませ、これによって
ブッダは死から救われた。コーヒーフレッシュのスジャータは、このエピソード
による商品名。
このように、ブッダには女性の力が大きく作用している。妻帯者は悟れないとか、
女は修行の妨げとかいうのはおかしい。女性を怖れるような悟りなど悟りとは
いわない。
651 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 21:22:11 0
それは関係ないでしょwww
わずか三十前半で純潔童貞のまま十字架上で磔になったイエス・キリストも、
八十数歳(平均寿命三十代の古代だから現代なら百二十ぐらい)まで生きて
才色兼備のヤショダラ姫を妻にしてラーフラと言う子までなした仏陀も、
同格の聖者だよ。
イエスにはグラナダのマリアがいたはずじゃが・・
653 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 21:41:41 0
マグラダだろ・・・www
恋人だったって説もあるけどカトリックは認めていない、飽くまで主なるイエスは
純潔童貞なのだ、と言い張ってるねwww
ああマグラダかww
655 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 22:31:10 O
イエスが説教して回った期間は2年半ぐらいと言われている。たったそれだけで、今や世界的宗教になってるとは思わないか?
656 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 22:35:08 O
?妻帯者は仏道的に悟れませんよ。
マグラダなのか、マグダラじゃないの?
658 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 22:47:26 0
そうそうマグダラだなwww
659 :
考える名無しさん:2010/03/11(木) 22:50:01 0
マグダラのマリアってすごい美人だったんだって。
660 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 00:11:26 0
親鸞の妻恵信尼。
一休の愛人森女。
661 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 00:20:50 O
一休と対峙するなら、蓮如の名前をもってこないと。彼らは友人だったらしい。まあ、同じ京都に住んでたからあり得る話だがな。
662 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 00:32:27 O
それに親鸞も一休も、高僧ってだけで、悟りにはいたっていないよ
663 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 00:34:43 O
妻帯者は悟れないと言うのは仏教の基本だから覚えといた方がいいよ
664 :
SRKWブッダ:2010/03/12(金) 00:48:50 0
妻帯者が絶対に覚れないということは断定的には言えない。 しかしながら、妻帯者が覚るには困難をきわめるということは事実である。
それはたとえば、鎧兜を着て、裸足で、吸水ポイントも使わないで国際マラソンに参加して、世界最高タイムで優勝を勝ち取ろうとするようなものだからである。
しかしながら、その一方で、妻帯することによってかえって覚りの機縁を生じる人もある。 その本当の理由を説明することはできないが、もろもろの仏は少なからずそのような縁によって発心し、また解脱したことは確かなことなのである。
それゆえに、妻帯の有無そのものにこだわる必要はない。 すべては道を歩む人の各自のことがらであるからである。 自らの仏縁を信じて修行者はゆっくりと邁進せよ。
***
665 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 01:00:06 O
666 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 08:01:50 0
悟る悟らないは別にして、仏教者以前の問題として、人間として、妻帯すべきである。
両親あって自分も生まれたのであり、結婚出来ない病人ならいざ知らず、子育てもして
世間並みの苦労もすべきである。
悟ると言う結果では無く、悟りを求める行為が尊いと思われるが、どうだろうか?
人間完全には成れないものでしょう。
668 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 10:15:32 O
釈迦に聞いてくれ
669 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 10:27:41 0
尼僧の場合は、どうだろうか?
男の勝手な感覚からは、男と寝る尼僧は想像しただけで、淫ら。純愛もある筈
だが、そうは感じないのが、男の身勝手。どうしたものか。
実例は知らない。
670 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 10:29:35 0
「これが定説です」のカルトと同じかよw
弟子による美談のたぐいだろ
あと乗せサクサクですかw
釈迦には妻も子もいるもんなぁ
674 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 15:42:27 P
>>673 詳しくないんだが
「そんなもん捨てろって一人になれ」ってどっかで言ってなかった?
>>674 そんなことを言ってた。
ただ、家族持ちの人がブッダの元で修行したいといったときに、
ブッダはまず家族に対して責任を果たしてからこいと
いった話もある。
>>675 アリガトン
>ブッダはまず家族に対して責任を果たしてからこいと
何か体よく断っているだけの気がするんだが。。。。
結局この人はその後にまた来て、修行できたって話はあるんですかね?
「100万回死んだ猫」っていう絵本がある。
死んで生まれ変わるたびに
泥棒やら金持ちやら女の子やら色んな人間のペットになる猫の話。
猫はどの飼い主のことも好きじゃないまま
彼らに自分を適当に扱わせて、最期は彼らが原因になって死ぬんだけど
たとえ飼い主が泣こうが彼らのことは嫌いなまま。
そうして100万回生まれ変わる。
100万回目の時、猫は1匹の美しい白猫に出会う。
猫が「俺は100万回生きたんだぜ」と自慢しても
白猫は「あっそう」だけ。
それで猫は「そばに行ってもいい?」と初めて自分から働きかける
そして子猫も生まれ、猫は初めて「幸せな生活」を送っていた。
ある日白猫が死んだ。猫は号泣した。
やがて猫も死んだ。彼はもう生き返らなかった。(うろ覚え)
この話を、ナントカ山ナントカ派の坊さんが評して曰く
誰も好きではない頃の猫の姿こそが、悟りに近い。
白猫と出会ってからの猫は、煩悩と執着にまみれた姿である。(うろ覚え)
で、思ったんだけど
そうした煩悩や執着、人の世の喜びや悲しみを実感した後に悟りに至るのと
そうした実感なしに悟るのは、同じだろうか。違うだろうか。
私には、白猫に出会う前の猫は、何も知らずただ自分の殻に閉じこもっているだけに見える。
それを悟りというのだろうか。
大悟は大愚に似るというが、人の世の喜び悲しみを体験してからの悟りと
しないままの悟りでは、大悟と大愚ほどの違いがないだろうか。
そう思ってしまうのは、人の世にどっぷり安住している凡人だからだろうか。
>>677 どこの坊さんか知らないが、その「読み」は頂けんな・・・w
(また、想像・推測される作者の意図にも反してるように見える。)
絵本なので、読んだ者一人一人が感じたものが「正しい」読み方だ、という正論はさておき、
(作者の意図は別として)仏教的な読み方としても幾つか考えられる。
・a;白猫と出会う前は、「自分しか見えていず」「飼い主の悲哀にも気付かない」。
…自我に捉われ、自己のみを愛する姿。(本来、常に出会い続けていた充実の種に気付かずにいた)
b;白猫と出会ってからは、「出会う事象一つ一つに価値を見」「一瞬一瞬が大切にされる」(全力でいる)。
c;(白猫と同じく)二度と生まれ変わらなかったのは、aのように無為に過ごしたのでなく、
bのように充実して、「意味・意義ある生」を生きたからだ、と。
・a; 同。
b; 同プラス、aのような自己中心的視線・価値観を捨て、他者を見、慈しみ生きることで、
生を受けていることを最大に活用し、伴侶、子供の為の生として果たしきり、
c;それ以上望む事柄がないので、(この生で十分となったので)生まれ変わらなかった。
・a; 同。
b; 同プラス、それ(自己中心的視線・価値観を捨てること)が、安楽への道(行)であり、
(手本となる白猫(→仏)に倣い)それを成就したので、
c;生まれ変わらなかった。(≒悟りの完成。涅槃の成就。)
とかね
いずれにしろ、「白猫と出会うまでは、《真に生きてはいなかった》」という読みの方がいいんじゃないかな。
《真に生きていないから、真に生きることになるまで生まれ変わらねばならなかった》、と・・・。
(これは、作者の意図に近いのかな?)
その坊さんの読みは、単なる欲望肯定にしかならんよ。
>>678 うん。私も概ねそういう読後感を持ったし
おそらく作者の意図も最後の4行なんじゃないかと推測。
ちなみに、他の著名人も同じような書評をしていたのだが
この坊さんだけが真逆というか、斬新な(笑)読み方をしていたので
印象に残った。
その坊さんがそう言う根拠は(これまたうろ覚えだが)
猫はその飼い主たちのことを好きでも何でもないのに
飼い主に乞われるままに行動し彼らに自由にさせ、飼い主に何も要求しない。
これがつまり「無私の心」というか、悟りに近い心境だと。
形だけ見れば確かにそのとおり「無私の心」とも言えるんだろうが
自分のことも自分以外の生物も嫌いなまま、つまり「愛」を知らずして世を捨てるのと
世界への愛=「もののあわれ」を身に取り込んでから世を捨てるのとでは
行きつく先の形は同じでも、方向というか土台が大違いではないかと思うのだが
そんな感受性は必要ないものなのだろうか。
あるいは、大愚も行きつけば大悟に突き抜けることがあるのだろうか。
付け加え。
「100万回死んだ猫」じゃなく「100万回生きた猫」だった。
失礼。
>>680 作者に聞いてみないとわからんが、
タイトルが「100万1回“死んだ”」じゃなく「100万回“生きた”」であることにも
大きな意味があるとオモw
>>679 「娑婆即涅槃」、或いは禅的な意味での「あるがままに生きる、ありのままに生きる」等
という方向性(この出発点は本覚思想や如来蔵思想で、その派生であるが)で考えても、
それでも、「白猫と出会ってからの生」をこそ、そのように位置付けなきゃいけないと思う。
>大愚も行きつけば大悟に突き抜ける ってのも、その方向性じゃないと駄目だと思う。
白猫に対し、「【俺は】100万回も死んだんだぜ」と発言しているのに、
どうしてそれが「無私」だなどと言えようか。
100万回の間「自分もまたそこにいない(価値をみていない)」点を「無私」と評するにしても、
悔い、嘆いている飼い主に視線が投げかけられていない姿を、どうして仏教的と言えようか。
因により縁により生を受け、存在している今の自分(≒五蘊)を尊重せずに、どうして仏教的と言えようか。
この本は(おそらくw)世俗的生き方の全面肯定の立場から描かれたものだと思うので、
深い所で仏教とリンクさせるのは無理が出てくるけど、それでも、
100万回生きた後「白猫と出会い」そして「死に、生き返らなかった」という二つのエピが残っている以上、
出会う前のとらねこの在り方に意義を見るのは独特な読み、変種としておく方がよさそう。
でなければ(続く二つのエピを無視或いは否定する形で読むならば)、≪『この絵本を題材にする意味』が無い≫。
※強いて言えば、白猫と出会う前は「周りも自分も見えていない、盲目的な世俗の生き方」
出会ってからは「周りも自分も共に見つめ、必要なことを為す、あるべき世俗の生き方」とは言えるかも。
六方礼経の絵本版的位置付けで・・w
って、しつこいな・・w この辺にしとくわw ノシ
683 :
考える名無しさん:2010/03/12(金) 23:59:25 0
女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
一休宗純の悟りを如実に示した名歌。
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●●●●●●●●●●●●●●●●異世界●●●●●●●●●●●●●●●●●
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これを見た人は確実に【異世界】になります。どこかに3回コピペすれば実現できます。
これは本当です。やらないと一年無駄になります。
超究極∞以上を遥かに越える悟りの覚りの佐鳥の聡里の錯乱の幻覚はファンタジー哲学。
685 :
考える名無しさん:2010/03/13(土) 04:10:48 O
カルトばっかりだな
686 :
考える名無しさん:2010/03/13(土) 10:01:58 0
法華経系は、発散型でカルトは少ない? 密教系はカルトに結びつく?
禅は自分に拘り、カルトには縁が無いようだ。仏教も多彩だ。日本仏教だけ
でもそうなのに、釈迦はこんなに成るとは、予測できただろうか?
如来とカルトは、結びつかない感じ。
687 :
考える名無しさん:2010/03/13(土) 10:16:24 0
密教系でなく、ヒンズー系。
「100万回生きたネコ」では最後に奥さんの白ネコが
死んで、ネコがわんわんと泣いている。
これ奥さんに愛着を持っていたからであって、
愛着は執着の一つである。執着がないのが悟りだから
ネコはこの段階では悟っていなかった。
輪廻から抜け出せるのは悟った人だけという初期仏教の
見解に従えば、執着をもっているネコは輪廻するということになるが、
これは物語のネコがその後二度と生まれ変わらなかったことに
矛盾する。ということは、ネコの生まれ変わりと輪廻は区別するべき
だと結論できると思う。
689 :
考える名無しさん:2010/03/13(土) 23:24:57 0
密教は、大乗仏教の堕落形態・・・。
大乗仏教は唯識仏教、所謂ヨーガ行唯識学派が最高の完成形態。
三蔵法師で有名な玄奘三蔵もインドに「瑜伽師地論」(大乗仏教的ヨーガの書)を
取りにいったんだよ。
そして自分でも「成唯識論」を書いて唯識哲学を詳しく解説体系つけておられる。
仏教的にいうなら、100万回の過去生を覚えてる時点でこの猫は仏陀って話に
百万回死んだ言っていたが、そもそもただ存在する空気のような状態だった。真には生きていると言えない状態だった。
真に生きていない状態である故、真には死なない状態だった。
白い猫に出会って以降、夫婦となって真に生きたからこそ、真に死ねた、と言う考え方はどう?
著者が言いたかった事は、中身の無いただ食って寝てを繰り返すだけの人生百万回よりも、
精一杯に生きた人生一回の方が価値があると、そう言いたかったのかも。
結果を見て言うと、百万回も人生(猫生?)を繰り返している状態こそ、輪廻の輪に閉じ込められた状態であり、
白い猫に出会ってからの死でその輪から抜け出た、と言って良いじゃないかと。 少なくともこの物語、この世界の中では。
白い猫こそ、輪廻の輪からその猫を救い出すべく降臨した如来や菩薩だったと言うのも有りかと。
飛躍すると、四苦八苦は悟りの障害では無く、むしろその苦こそ悟りを得、真に死ぬために必要不可欠なもの、と言えるかも。
仏教的思考じゃ無くなる気もするけど、なぜ何度も輪廻を繰り返すかと言うと、
自らの真の本体たる「魂」が満足していないためだと、この論はどうだろう。満足できないから(もしくは生まれた目的を果たしていないから)、
何度も生まれる事で、果たせなかった目的を果たそうとする、と。↑の話はそうも言いたいのかも。
自分が考えるに、その目的とは生きているが故に存在するあらゆる楽と苦を感じる事かも。
苦しむのが嫌だからと、楽を遠ざけても意味が無いと。そんな事かな?
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これを見た人は確実に【異世界】になります。どこかに3回コピペすれば実現できます。
これは本当です。やらないと一生無駄になります。
幸福の科学はスペースオペラソフトSF小説のパクリですよねー。
輪廻転生と霊界実在は必ず絶対に確実に実際に究極の完璧な救い。
この世に絶対や永遠など在りえん。 それは現実と妄想の区別がつかない野蛮な未開人の頭の中だけに在る。
694 :
考える名無しさん:2010/03/14(日) 09:23:06 O
この年になると諸行無常だな。何事もなく回っていく周り。渦状に入っていくのは自分しかないんだな
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これを見た人は確実に【異世界】になります。どこかに3回コピペすれば実現できます。
これは本当です。やらないと一年無駄になります。
仏教=超古代哲学思想理論主義。
696 :
考える名無しさん:2010/03/15(月) 03:03:08 O
ついに荒らされたか
697 :
考える名無しさん:2010/03/15(月) 13:04:21 0
はぁ?
老婆よ 動きがトロくて電子化世界に取り残されてるぜヨ!
699 :
考える名無しさん:2010/03/16(火) 04:43:16 O
一般的に言われる極楽は違っていて、楽とはすべての煩悩が捨て去られた状態のこと。ゆえに極楽と言う。
700 :
考える名無しさん:2010/03/16(火) 07:58:12 0
河合隼雄と中沢新一の「仏教が好き!」って本読んでる人どれくらいいますか。
批判とか評価とか教えてもらえますか。
般 波 羯 即 実 呪 多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩
若 羅 諦 説 不 是 是 藐 若 夢 礙 若 得 老 亦 無 耳 故 生 復 即 舎 時 自 訶
心 僧 羯 呪 虚 無 大 三 波 想 故 波 以 死 無 眼 鼻 空 不 如 是 利 照 在 般
経 羯 諦 曰 故 等 神 菩 羅 究 無 羅 無 盡 無 界 舌 中 滅 是 空 子 見 菩 若
諦 説 等 呪 提 蜜 竟 有 蜜 所 無 明 乃 身 無 不 舎 空 色 五 薩 波
波 般 呪 是 故 多 涅 恐 多 得 苦 盡 至 意 色 垢 利 即 不 蘊 行 羅
菩 羅 若 能 大 知 故 槃 怖 故 故 集 乃 無 無 無 不 子 是 異 皆 深 蜜
提 羯 波 除 明 般 得 三 遠 心 菩 滅 至 意 色 受 浄 是 色 空 空 般 多
薩 提 羅 一 呪 若 阿 世 離 無 提 道 無 識 聲 想 不 諸 受 空 度 若 心
婆 蜜 切 是 波 耨 諸 一 掛 薩 無 老 界 香 行 増 法 想 不 一 波 経
訶 多 苦 無 羅 多 佛 切 礙 陀 智 死 無 味 識 不 空 行 異 切 羅
呪 真 上 蜜 羅 依 顛 無 依 亦 亦 無 觸 無 減 相 識 色 苦 蜜
般 波 羯 即 実 呪 多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩
若 羅 諦 説 不 是 是 藐 若 夢 礙 若 得 老 亦 無 耳 故 生 復 即 舎 時 自 訶
心 僧 羯 呪 虚 無 大 三 波 想 故 波 以 死 無 眼 鼻 空 不 如 是 利 照 在 般
経 羯 諦 曰 故 等 神 菩 羅 究 無 羅 無 盡 無 界 舌 中 滅 是 空 子 見 菩 若
諦 説 等 呪 提 蜜 竟 有 蜜 所 無 明 乃 身 無 不 舎 空 色 五 薩 波
波 般 呪 是 故 多 涅 恐 多 得 苦 盡 至 意 色 垢 利 即 不 蘊 行 羅
菩 羅 若 能 大 知 故 槃 怖 故 故 集 乃 無 無 無 不 子 是 異 皆 深 蜜
提 羯 波 除 明 般 得 三 遠 心 菩 滅 至 意 色 受 浄 是 色 空 空 般 多
薩 提 羅 一 呪 若 阿 世 離 無 提 道 無 識 聲 想 不 諸 受 空 度 若 心
婆 蜜 切 是 波 耨 諸 一 掛 薩 無 老 界 香 行 増 法 想 不 一 波 経
訶 多 苦 無 羅 多 佛 切 礙 陀 智 死 無 味 識 不 空 行 異 切 羅
呪 真 上 蜜 羅 依 顛 無 依 亦 亦 無 觸 無 減 相 識 色 苦 蜜
703 :
考える名無しさん:2010/03/17(水) 20:58:49 0
柳澤桂子
瀬戸内寂聴
玄侑宗久
は読んだ。
伊藤比呂美も読んでみる。
伊藤比呂美の試みは斬新でいいよね。
705 :
703:2010/03/17(水) 22:16:25 0
>>704 ちなみに、他にも読んでいるなら教えてください。
原訳を読む方がましだぞ
707 :
考える名無しさん:2010/03/18(木) 09:14:39 0
原訳って何のことですか。
岩波文庫も読んでますよ。
708 :
700=705=707:2010/03/20(土) 15:12:04 0
なんか、まともなレスがつかないな。
709 :
考える名無しさん:2010/03/21(日) 08:34:49 0
「814」 「副島隆彦という生き方」というタイトルのインタヴュー記事を、載せます。
最近の私の考えが分かりやすく表明されています。副島隆彦 2006.12.15
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#1501 スッタニパータと、法句経(ダンマパダ)という一番古いお経がある。どうやら仏陀本人の本当の
言葉はこの二つだけのようですね。その他のいろんな膨大なお経は、全部仏陀が亡くなった後に、
弟子たちが勝手に作ったものだ。僧侶が葬式をやったり、お盆にお経をとなえたり死者を祀ったりは、
仏陀は一言も言ってない。ブッダは死に関わるな、と言っている。勝手に後の人たちが作った制度だ。
仏陀自身の言葉は、「愛欲と煩悩を捨てて、この世とあの世のすべてを捨てて、ただ一人歩め。ヘビの
皮が新しく抜け変わるように。サイの角がひとつ進むように。」と書いてあります。
奈良の興福寺、東大寺は法相宗(ほっそうしゅう)という仏教で、中国までやって来た仏教のうちでは
一番古い仏教を伝えている。それは輪廻転生(りんねてんせい)を認めないんです。
来世はない。あの世もない。「この世とあの世をともに超える」とスッタニパータ(「ブッダのことば」
岩波文庫 中村元訳、1984年初版) で仏陀は言っています。だから輪廻転生(りんねてんしょう)
もないのです。そこで私はブッダに従うならば、ゼロ、全くないと思います。「今」という現実は有るの
だけれど、それは仮のすがたであって、すべてなくなるんだ、と。輪廻転生は、仏陀が若い頃、厳しい修行
をしたヒンドゥ教の思想なのです。ヒンドゥ教 ( Hindu 、ヒンズー教、インド教)には輪廻転生が強烈
になる。六道輪廻ですね。生命は生まれ変わる。ですから、不思議な話ですが、本当の仏教(ブッダの教え)
は、徹底的に、無神論(むしんろん、atheismエイシイズム)なんです。
710 :
考える名無しさん:2010/03/21(日) 13:49:37 0
東大寺は華厳宗。
輪廻転生は「りんねてんしょう」と読む。
輪廻転生を認める佛教はない。
>僧侶が葬式をやったり、お盆にお経をとなえたり死者を祀ったりは、
>仏陀は一言も言ってない。
当たり前だ。釈尊の時代にはそのような習慣は無かったから。これらは
中国で出来たものだ。
711 :
考える名無しさん:2010/03/21(日) 14:06:19 0
仏教が無神論だと思っている無知蒙昧の痴豚発見www
仏陀は輪廻転生を認めたうえで、それからの脱却(解脱涅槃の境地)を求めて
それを体得完成させたんだぞ・・・。
こんな仏教の初歩の初歩も知らないなんて・・・www
712 :
考える名無しさん:2010/03/21(日) 14:33:51 0
で、仏教は正しいんですか?
正しいの意味によるけど、倫理的には正しいと思う
714 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 01:33:33 0
そんなことを言われるのなら、それこそ「倫理的に正しい」の意味が全然わかんないんだけど。
常識的な意味で、品行方正というようなことを言ってんの?
715 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 08:39:20 0
>>712 正しいよ。つか、仏教以外に真の意味で正しいものはない。
習慣に合致したという意味で正しいものは色々あるけど。
716 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 09:57:06 0
輪廻転生なんて非論理的な思想を信じる人は今時の日本には少ないでしょう。
まぁ、天国や地獄なんていうのも輪廻転生のバージョンの一つですがこの思想が人類精神進化の妨げをしているのです。
717 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 11:11:24 0
身体は不浄である。
感覚は苦しみである。
心は無常である。
諸法は無我である。
輪廻思想はどうしても正しいとは思えない。
719 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 23:25:40 O
意識において、輪廻の苦道より逃れるには、仏にすがるしかありません。
輪廻が正しいかの見方について、意識の問題がクリアーされてません。どうか私に教えてください。
前世に仏縁に会ってないという境遇なのか、仏国土にうまれるのを拒んだのかわかりませんが、私は今ここにいます。
720 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 00:00:34 O
今、なぜ、ここにいるかを考えてください。輪廻転生の謎が解けるでしょう。
721 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 00:05:30 0
>>689 ちょっとだけ同感。
密教で大日如来に表されるところの光明との合一はヒンドゥー由来ヨーガの近縁だし、
密教に限らず、ほとんどの宗教、というか宗教的行為では似たようなことが顕れる。
何らかのマントラ、アーメンでもいいし、アッラーでも、実はオマンコでもいいんだが、
座って、唱えて、祈れば、程度の差こそあれ、同じようなことがおきるんだよ。
アウグスティヌスだって似たような経験書き残してるだろ。
上祐の記録を読む限り、オウムの連中ですらそれらは体験しているようだ。
ところが、釈迦ときたら、「瞑想」に別の回路も見つけた。ここがすげぇ。
光明合一じゃない方向。
絶対的経験から起きてしまう「事物の断定」に至らない回路。
これが菩提樹の下から巡り巡って俺らが禅と呼んでるヤツだよ。
この禅の系統こそが、地球上の他の宗教にある、いかなる行とも違うんだよ。
そしてそれが根っこにあるから、釈迦の死後どんな組織的教義解釈があっても
土着信仰との融合や偶像崇拝やったりしても
BuddismがBuddism足り得るのだと思う。
だから密教系や日蓮なんかはちと逆戻りだね。
でもまぁ時には派手さや毒っ気が必要なこともある。
他力本願?それで気持ち良く生きられれば無問題。
道元とかエッジなのに、曹洞宗葬式に金掛かりすぎ。
でも真面目に座るヤツもたまにいるからいいんじゃね?
722 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 07:11:41 0
仏陀は悟りを開いていたと思われます。(悟りを開く=真理を会得する)
悟りを開いた者が次に取り組む仕事は悟りを開く方法を証すことです。
しかし、仏陀は悟りを開く方法を完全には証しきれず己の教えの全てを封印するようにと弟子に伝え去ったと言われています。
「この世は無常である」との教えの意味はあの世という命の代替はなく全ては常に無にて終わるのだから命を大切に扱いなさいと言う教えです。
そして、仏陀の死後千年の時を経てブッダの意に反して仏教という商売が考えられ、時を同じくしてキリストの死後五百年後にキリスト教が作られたのです。
善の目的も幾つかありますが、本当の智慧を得ることを目的とするならば方法に間違いがあります。
723 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 10:13:06 0
よくわからないけど
>>715さん、
>>722をやっつけてください。
やっつけなくてもいいんですか。
私は全然わかってないけど。
724 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 12:22:04 0
>>723 え? なんで? じゃ、
>>722 はもしかして宗教板の生命教かな?
だとすれば、ただ適当に妄想撒き散らしてるだけだけど。
>悟りを開いた者が次に取り組む仕事は悟りを開く方法を証すことです。
伝統的には、成道の次は転法輪、つまり、悟ったら法を説いて道を示すことで、
私が知る限りあらゆる伝承資料が、そのように伝えているけど。上の根拠は何?
>しかし、仏陀は悟りを開く方法を完全には証しきれず己の教えの全てを封印するようにと弟子に伝え去ったと言われています。
こんな伝承は聞いたことないけど、根拠は何?
>「この世は無常である」との教えの意味はあの世という命の代替はなく全ては常に無にて終わるのだから命を大切に扱いなさいと言う教えです。
全く違います。様々な意味が込められています。
あらゆるものは安定せず恒常不変なものなどないから、
何かに、特に自分と自分のものに執着するなということ。
現在の十分の状態も無常で儚い、つまり何時死ぬか分からないので、
悟りのために修行に専念し精進しましょうという意味です。
釈尊の遺言と言われる言葉も、
無常だから精進しなさいという意味のものです。
725 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 12:58:08 0
>>721 違うよ・・・、禅はヨーガ八支則の七番目のディアーナの漢訳である禅那の略だよwww
達磨がインドから中国に伝えた当時は体操や呼吸法も含んだヨーガ体系そのものだったんだぞ、禅は。
今では、達磨が伝えた易筋経(ヨーガ体操や種々の肉体鍛錬)と洗髄経(プラーナヤーマ呼吸法)は、
小林拳その他の格闘技に受け継がれて、宗派としての禅には瞑想のみが伝わったんだよ。
だからその意味では禅は全ての宗教にもある訳だし、決して他の宗教の行と異なった何か珍奇なものでは無いwww
726 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 15:04:23 0
前世、現世、来世、が存在するとして、又、輪廻転生が存在すりとし、存在の可能性は
極めて少ないにせよ、存在を仮定しよう。
転生に動物も含むとしよう。今、この道路を狸が横切った。狸の前世は家康だった。君の
前世は、東條大将だったよ。君の横に笑っている紳士、君は解脱した様ですネ。ニートの君
来世は、修羅だよ。世の中、転生もメルヘンの様だ。
諸行無常も怖れるに足らず。転生は、衆生の願望。
727 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 15:20:27 0
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、の六道輪廻も、地獄も天国も、この世に
こそある。転生もこの世に、ある。解脱、涅槃もこの世にこそ、ある。
玉石混交の人の世。だが総ては、空である。
門外漢なので、門外漢らしいことを述べてみる。
「イエスは神の御子である」というのも
「釈迦は悟った」というのも
どちらも御伽噺である。
それが失礼な言い方なら、どちらも“神話”である、と言い換えてもよい。
なぜ、あのような“神話”が多くの人々を捉えてきたのか、を問うべきではないのか?
むろん、当時の人たちは御伽噺とも神話とも思っていなかっただろう。
リアルな出来事と信じていたにちがいない。
いまもなお、イエスあるいは釈迦の挿話を信じることができるのなら、
布教活動に邁進されることを勧めたい。
おそらく今日も“神話”は私たちを誑かしているはずである。
現代の神話が何か? また、その“構造”を露わにするのが哲板の任務では?
ここで、仏教にまつわる諸概念をめぐって「ああでもない、こうでもない」論議を
繰り返すことに、どんな意義があるというのだろう?
>>728 >「釈迦は悟った」というのもどちらも御伽噺である。
「イエスは神の御子である」ということと「悟り」とを同列に並べることからして、見当違いだろう。
まず、あなたは「悟り」を、どういうことだと考えているのかな?
そこから書いてもらわないと、話にならないだろうね。
>>728 >門外漢なので、門外漢らしいことを述べてみる。
>ここで、仏教にまつわる諸概念をめぐって「ああでもない、こうでもない」論議を
>繰り返すことに、どんな意義があるというのだろう?
哲学の門外漢が哲学板に「哲学なんてやって何の意味があるの?」って書いてるのと同じだw
>>729 経験したことがないので、知る由もないが、
一般的には「迷いを去って、真理にいたる」ことらしい。
もし、これがヒトに可能だと考えているのなら、君が神話の住人だからです。
人の子のイエスを、超絶対神の“御子”だと言い張るのも凄まじい確信である。
スケールは、こちらのほうが上でしょう。w
>>731 >一般的には「迷いを去って、真理にいたる」ことらしい。
>もし、これがヒトに可能だと考えているのなら、君が神話の住人だからです。
そんなに単純な話ではないですよ。
「煩悩即菩提」ということも言えるんだから。
あまり単純化してしまわないように。
>>730 全然、違うね。
仏教を批判的に吟味せずに、哲板で“神学論争”をやっても意味なかろう、
と言っているのである。せっかくここでやるのなら、やり方があるだろう、
ということだ。
業界用語をもてあそぶのなら、それにふさわしい板があるのでは?
>>732 それは、一つの解釈だね。
結局、解釈論議に明け暮れてきたのが仏教。
>>734 >それは、一つの解釈だね。
>結局、解釈論議に明け暮れてきたのが仏教。
「それは一つの解釈だね」
まさにこれは、批判のために便利な言葉の例として私が挙げたものだ。
そういう批判は「不毛」だと、この前書いたばかりだ…
やはり貴方の批判は、この程度のものなのか?
>>735 「解釈論議は不毛だ」という意味が言外に含まれているだろう?w
>>736 わかってないな…
あの時私が書いたのは、「信仰でないもの」を明らかにして書かないと「不毛」だということ。
(つまり「信仰でないもの」を明らかにすれば不毛ではないということが言外に含まれている)
だから、この場合は「解釈でないもの」を明らかにしないと不毛だと私は考えているわけだ。
>>737 わかってないねぇ。
つきつめると「一切は信仰」と私は述べたはずだ。
解釈論議は不毛である、しかし、それしか選択肢がないということである。
現に、世間でも、この2chでも様々な“宗教戦争”が繰り広げられている。w
むろん、これは私の解釈(信仰)である。
739 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 16:48:50 0
現在風に、釈迦とキリストを考えるなら、釈迦は生老病死をストレスにした神経症的
悩む患者、キリストは神の言葉を聞く妄想病的な患者。
釈迦と我らは、量的相違、キリストと我らは、質的相違。
>>738 >解釈論議は不毛である、しかし、それしか選択肢がないということである。
それはずるいね。
そういう立場を明らかにしないで
>>734を書くところが貴方のずるさ。
そういう立場を最初から明らかにすれば、
「それは一つの信仰だね」 「それは一つの解釈だね」 は、批判としての「力を失う」。
というか、批判にはならないんだ。
741 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 16:53:44 0
人間と神の違い。如来は人の子、基督は神の子。
742 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 17:02:55 0
>>734 そんなことない。解釈とか全く関係なく山で行してた僧もたくさんいた。
そのように貴方が考えるのは現代の仏教学者が、文献学者で、
思想史を構築することを学問の方法としているというただの偶然な要因から
仏教学者が著述するものが、そのような傾向を帯びているだけの話。
743 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 17:04:31 0
>>741 仏教的に言えば、キリストも神も輪廻の中、ブッタは輪廻の外。
>>740 “立場”は何か述べるたびに常に明らかにしてきたはずだ。
君に私の“私の立場”がわからないのは、君が旧態たる“立場”概念に
囚われているから。
>>744 私はわかっている。
が、
>>734みたいな書き込みは、どうみても「貴方の立場」からの書き込みには見えないんだ。
批判の書き込みに見える。
率直に言って、「二枚舌」に見えてしまうんだな…
「二枚舌」より「ダブル・スタンダード」のほうが適切か…
>>745 これは開き直っていうのではないが、私の立場は「二枚舌」が適当である。
たとえば、こういう言い方をしてきた。
「資本主義は正しい」しかし「資本主義は間違っている」
だいたい、この調子である。
この乖離(背反)を縫うように語ってみたく思ってはいるが、力量不足のため
うまくいかない、というのが実情。未完の方法的二枚舌。w
いまから出張。また、後日。
>>747 >たとえば、こういう言い方をしてきた。
>「資本主義は正しい」しかし「資本主義は間違っている」
>だいたい、この調子である。
わかってないな…
「資本主義は正しい」しかし「資本主義は間違っている」
それを同時に言うのは、何もずるくはない。
貴方のずるさ、貴方のダブルスタンダードと私が言っているのは、「全ては解釈である」と言わないで、
>>734だけを書くところ。
「ダブルスタンダード」を辞書で調べると、まさにこれ…という感じw
【仲間内と部外者、国内向けと外国向けなどのように、対象によって異なった価値判断の基準を使い分けること。】(大辞泉)
>>748 「それは解釈でしかない」
しかし「すべては解釈である」
どちらも言明できるだろう? w
>>749 だから、
【それを同時に言うのは、何もずるくはない。】と今書いたばかりなんだけど。
貴方は何を言いたいんだろう…
まぁ、ネコパンチは、この程度のものなんでしょうw
751 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 18:48:25 0
>>728 唯意味論氏。
>門外漢なので、門外漢らしいことを述べてみる。
>「イエスは神の御子である」というのも
>「釈迦は悟った」というのも
>どちらも御伽噺である。
日蓮宗では上記のように解釈する。
つまり方便(お伽噺)とする。
これは法華経の斬新さでもある。
キリスト教でも仏教でもどちらでもいい。
信じて救われた人は「救われた」とは言わない。
救われてる奴はただ突き進むよ、己の人生を。
だからキリスト教だろうが仏教だろうが、信仰の道を限定するのは選民思想の一種だと思う。
法を犯してはいけないが、誰でも歩きやすい道があるのにそれを否定するのは最悪だと思うよ。
もっと自然でいいと思う。
>>750 「同時」というのは同一レスで…という意味かな?
以前はそうしていた。それはそれで面白い反応があったけれども、
時間差ネコパンチにするのも、君のような食いつきがあるのでw悪くはなかろう。
なぜ同時ならよくて、時間差ならまずいの?
どちらのやりかたをしても、二枚舌だろう?w
>>752 >なぜ同時ならよくて、時間差ならまずいの?
だから、何度も書いているように、
「すべては解釈である」と書いてしまえば、「それは解釈でしかない」という言明(
>>734)は、批判としての力を失う。
それを知っていて、「すべては解釈である」という自分の見解を書かないところが、貴方のずるさ。
(いつものように、早めに降参すればいいのに…)
(この話題を引っ張っても無理だよ。貴方は
>>734を書いてしまったんだから。)
>>唯意味論さん
仏教は完全な無意味論なんです。
本質的に仏教と関係ないと思うんです。
キリスト教は神学で包括的に全部まとめようとしますけど、
仏教はただ坐禅や念仏を実践するだけです。
彼岸に行けたら全知者。それだけ。悟りを目指すだけ。理論はどうでもいい。
ですから、ここでは私のような
仏教学者たちが答えてくれるでしょう。
しかし、
仏教実践者は何も答えてくれないでしょう。
そういうものです。
疑を滅ぼすことをしている瞑想者たる坐禅者は疑を焼き尽くしながら歩いている・・・。
そういうわけで
仏教哲学はキリスト教神学を同じで
行わない者がごちゃごちゃ議論する遊び場ですわ。
756 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 19:03:45 0
>>724 ありがとうございました。
勉強になりました。
757 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 19:43:03 0
>>755 >仏教は完全な無意味論なんです。
縁起による無謬の因果性はどうなるの?
>本質的に仏教と関係ないと思うんです。
>キリスト教は神学で包括的に全部まとめようとしますけど、
>仏教はただ坐禅や念仏を実践するだけです。
>彼岸に行けたら全知者。それだけ。悟りを目指すだけ。理論はどうでもいい。
いや、釈尊も龍樹菩薩も一貫した理論を説いてるし、
論争もあるんですが、それらは最終的に方便で空であるとしても、
道としての論理性は一貫した整合性があるでしょう。
理論はどうでもいいというのは、一部だと思いますが?
どんな典拠を根拠に仰るのでしょう?
>>755 >理論はどうでもいい
>仏教実践者は何も答えてくれないでしょう
御馳走様でした
759 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 23:06:38 0
佛教の理論は華厳教学によって頂点に達する。
禅の宗密が華厳より出で、空海が『秘密曼荼羅十住心論』において華厳を
顕教の最高位に置くのも当然のことだ。
760 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 23:20:43 O
↑なんと、その秘法を使いこなす人物が現在においているのか。その人物の名前は?
761 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 00:38:26 0
我輩ですwww
鯖落だ・・・w orz
763 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 06:07:40 0
仏教の生命、慈悲の思想、は私には能力を超えますので、解りません。しかし、今回
仏教的宇宙論を試論しました。まだ、正式にはHPに流れていませんが、検索可能です。
グーグル検索:C点による仏教的宇宙論
元より暴論で、無記で戯論ですが、参考にして下さい。
764 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 07:36:45 O
俺も地震関連の法は習得したつもりだが。独学だが。まあ、ままならんね
765 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 07:50:13 O
キリストが処刑されたとき、地震が起こったって記述があるから。まあ、これじゃカルトか。本業の大乗にもどります。
766 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 08:24:00 0
[315] 今朝、会員の宇根君から来た学問研究メールは、すばらしいので、早速ここに載せます。
投稿者:副島隆彦 投稿日:2006/08/24(Thu) 18:28:37
http://snsi-j.jp/boards/sample1/89.html はじめまして、会員の宇根康裕です。27歳で京都で技術開発をしている会社員です。今回メールする
目的は、最近道場で話題になっている宗教に関して、最近読んだ「スピノザ」 (上野修著NHK出版)
をヒントに、私が考えたことをとを書くためです。
いきなりですが、結論は
キリスト教は、キリストを信じる「信仰」であり、スピノザ、ウィトゲンシュタインは、真理を証明する「哲学」である。
初期仏教は真理を理解する「哲学」であり、各種大乗仏教は、「信仰」のあつまりであり “仏教”ではない。
老荘思想は、儒教と対立していて、道教は、道を信じる「信仰」で、間違った政治(間違った儒教)に対抗している。
以下のブッダに関する記述は、主に宮元啓一氏と石飛道子氏の本を読み、私が理解したことである。ブッダは12因縁を
順逆に観じ、悟りを得た。ブッダが発見したのは、 西洋にはない、因果の論理学であり、ブッダはその論理学を用いて、
ついに真理を“発見”した。
これまでの ヒンズー教は、信仰であったが、信仰とは別の世界、真理の世界に入った。
仏教は真理を発見する哲学であり、信仰ではなく、必死で考えなければならなかった。考えて、考えて、考え抜いた先に、
真理を見ることができるのであって、信仰をいくらやっても、真理には到達しえない。
輪廻の輪から抜け出すということは、当時の信仰の輪(ヒンズー教)から抜け出すということである。
ブッダは信仰から抜け出して、真理の世界へ行った。
767 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 08:25:20 0
勘違いしてはならないのは、ブッダは輪廻を前提として、その輪廻から抜けたのではなく、輪廻など
考え無くて良しというところにいったのだ。輪廻は真理でないと悟ったのである。
また、ブッダは、信仰を捨てて真理の道へいくことが、自らの体験で難しいとわかっているから、
信仰をすてるための修行をさせている。しかし、民衆は修行に耐えれなくなった。そこで、民衆は
真理ではなく、信仰を求めるようになった。
これが大乗仏教である。空なんだと思え、あるいは、唱えろ、極楽を信じろ、という信仰だと考える。
大乗仏教は信仰であるがゆえ、よいと思った信仰はどんどん取り入れられる。こうして、大乗仏教は、
どんどん派生していったのだろう。大乗仏教は信仰である以上、本当の仏教(哲学)ではない。袴谷
(はかまや)氏の批判仏教からは、ハッキリみてとることができなかったが、私は初期仏教と後の
仏教は、真理(哲学)か信仰(宗教)か、の違いだと考える。
以上から、初期仏教と大乗仏教は、まとめられないことは明らかである。
宮元啓一氏と石飛道子氏の本は、ブッダの論理学の核心、大乗仏教の核心(=般若心経の核心)に
最速で迫る書物である。
768 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 08:27:56 0
[488] 私は、インド、ネパールの旅から帰ってきました。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/03/08(Thu) 19:37:46
この世の一切を、根底から批判しつくそうという、私の気迫を、横山老師なら、分かってくださるでしょう。
私が、これまでに、冗談で、あれこれの真実暴露の、恐ろしい本 を冗談で書いてきたなどど、思っている
ような連中は、全部、激しい、やけどを負わせてやろうと思います。 私の頭脳と思想が、そこらの生来の
軽度のキチガイたち程度に、負けるわけがないのです。
僧侶の河口慧海(かわぐちえかい)が、1898年(明治30年)からインドに入って、のちに、(「西蔵旅行記」
(あるいは「チベット三年記」)を書いたその足跡も私もネパールまで、行ってみて、カトマンドゥーからポカラ
まで飛んで、「彼は、こんな道を歩いて、ヒマラヤを越えて、チベットまではいっていったのか」 と実感で
分かりました。
彼ら、明治になってからの、日本の高僧たちは、本物は、すべて日本のウソ仏教への、激しい疑念の気持ちを
持って、そして、大乗仏教(だいじょうぶっきょう、Mahayana マハヤーナ)という大嘘を、暴く
ために、それで、死ぬ気で、本場の発祥の地のインドに入っていったのだと、よく分かりました。その
「大きな真実の暴き」の気迫が、他のなにものにも代えがたく何よりも大事なのだと私にはいよいよ
分かりました。
ゴータマ・ブッダその人の思想は、日本の小思想家である、小林秀雄が言った「無私(むし)」 とか、
漱石の「則天去私(そくてんきょし)」などではなくて、 無我(むが) そのものである。 日本で
だけはやった、「道心」(、どうしんみちを究める)などではない。
諸行無常の「無常」(つねなるものはない)などではなない。 無常観など、ブッダの教えと無関係だ。
ただひたすら 無我(むが、おのれの存在の否定)そのものだ。縁起(えんぎ)などでもない。
四諦(したい)まではいいけど、八正道(はっしょうどう)も怪しい。
769 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 08:28:51 0
ナーガルジュナ(竜樹)の、唯識(唯識)や阿頼耶識(あらやしき)などの中観(ちゅうがん)
ですらない。それらも、ブッダ本人は言っていない。チベット仏教で発生した、マントラ(密教、
=真言しんごん、加持祈祷 )の類も、一切、ブッダ本人とは、関係ない。
遠藤周作(「深い河」という作品がある)や、高橋和己(たかはしかずみ、「西方浄土論」のようなもの)や、
三島由紀夫(「暁の寺」のなかの竜樹=ナーガルジュナ=論 ) の聖地ベナレス(バラナシー)への言及にも、
私は、今では、大いに異論があります。現地まで行ってみて、私に分かったことがいろいろあります。私は
それらをおいおい書きます。
仏教(ブッダのことば)は、徹底的に、無神論である。ブッダは、一切の神を信じない。 空(くう)とは、
絶対的に 無 のことである。これ以外の解釈はすべてウソだ。 死ねば一切が、消える。すべては、無だ、
という思想です。出家した者は、生きている限り修行だけせよ。
ただし、いたずらに激しい修行(苦行)などはするな、という一点で、彼は、悟った。そして、悟り(正覚)
というには、解脱(げだつ)で、ブッダが6年間厳しい修行をして、35歳で到達したのですが、この「解脱
(げだつ)」というは、ヒンドゥーの思想そのものであって、仏教に中には、それに相当する言葉がない。
ブッダの80歳での死のことを、涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)と言って、入寂、仏滅ですが、こっちが、本当の悟り
(understanding、deliverence )というのではないですか。 仏教には、 悟り(解脱)というのは無いはずです。
仏教(釈迦の教え、ブッダの言葉)は、徹底的に、死ねばすべてがおしまい、消えてなくなるのだ、という思想です。
ブッダのあとから現れた、歴代の各国のアホたちが、のちのちの高僧どもとなって、何を言ったかは、一切、問題
ではない。ブッダがしゃべった言葉だけが、本物の仏教だ。それ以外は、ずべて、ウソだ。でっち上げです。
770 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 08:29:50 0
ですから、日本で、空海、最澄、親鸞、日蓮やら、栄西、道元やら、を崇拝するなら、どうぞ。それぞれの
教祖様として崇めればいい。それが人それぞれの宗教ですから。「しかし、お釈迦様本人は、そんなことは、
どこにも言っていないからな」「証拠を出してみろ」という、私からの、攻撃を彼らは受けることになります。
私は、ゴータマ・シッダールダ本人が、しゃべった言葉、以外は、絶対に、仏教(ブッディズム)ではない、
と原理的に決め付けます。そして、一切のウソを排除します。相手が、誰だろうと、いい加減なことを言う者を、
すべて言葉の力で、切り殺す。(このことの大前提として、その人が、その人の、自分の考えを言うのは、
その人の自由です。私は何も言いません。ご自由にどうぞ。 )
ブッダの思想は、全部、全部、すべては無に帰ってゆく、という思想です。 こういうこともよく分かってきました。
今から、私は日本のウソ仏教の、壮大な馬鹿な各仏教教団を、徹底的に、たたきます。
東大の、印哲(いんてつ)の教授どもの渡邊照宏(わたなべしょうこう)だろうが、前田恵学(まえだけいがく)
だろうが、平山彰(ひらやまあきら)だろうが、山口瑞鳳(やまぐちずいほう)だろうが、すべての、彼らの、
大乗仏教論の、わけの分からない、むずかしい言葉を並べつくす、虚妄の「日本仏教学」など、叩き壊すべきだ。
771 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 08:30:32 0
彼らにしてみれば、厳格な自己正当化として、「私たちは、仏教の経典の厳密なテキスト・クリティーク(文献の
読み込み、翻訳)をやっているだけです。学問とは、古典文献を正確に解読することです。それだけです。その
厳しい修練です」という一点に、立てこもっている。そのことは私にもよく分かります。 こいつらが、現代の
比叡山延暦寺(天台法華宗)であることは自明です。
やはり、日本では中村元(なかむらはじめ)が訳した、「スッタニパータ」(ブッダのことば、岩波文庫、
1984年)と「ダンマパーダ」(真理のことば、その一部が法句経、岩波文庫、1978年)だげが、ブッダ
本人の言葉でしょう。私は、中村元が、東大を定年退官してから、本当に自由になって、「お釈迦様の本当の
言葉、教えは、これだけなんだ」と、激しい真実暴露をやったことの凄(すご)さを、今更ながらに思います。
772 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 08:35:37 0
[315] 今朝、会員の宇根君から来た学問研究メールは、すばらしいので、早速ここに載せます。
投稿者:副島隆彦 投稿日:2006/08/24(Thu) 18:28:37
http://snsi-j.jp/boards/sample1/89.html 自分勝手な思い込みではなく、なるべく、世界水準(world values ワールド・ヴァリューズ、世界普遍価値)に
合致するように、日本語の各基本語(words ワード)の中の、真理、信仰、哲学(フロソフィー、知恵への愛=
愛知という訳語を私、副島隆彦は以後は使おうと思います)などを使いながら、徹底的に、これを分かり易く
してもようと思います。
仏陀(ゴータマ)の本当の言葉であり、 「真理の言葉 」である、法句経(ほっくきょう)の言葉の中村元
(なかむらはじめ)の日本語を使いながら、日本まで伝来した大乗仏教が、本物の仏教(上座部仏教=簡単に
言えば、小乗)からどれぐらい逸脱したものであるかも、も正面から考えます。
法相宗(ほっそうしゅう)こそが 大乗の中にあっても、本物の仏教であり、輪廻転生(サンサーラ、業、
ごう、カルマ、ヒンズー=インド教の思想)を否定して、竜樹(ナーガールジュナ)が再構築した「空」の
真理を、伝える宗派であることも書かねばなりません。日本では、三島由紀夫と、小室直樹が、この
ことを論究しました。
スピノザとヴィトゲンシュタインというユダヤ人が、どのように、キリスト教(人間への愛の思想、
グレイス、アガペー)を、理性(リーズン)と、合理(ラチオ)というユダヤ思想のすごさで、
切り裂いたか、を、今こそ、日本人としてはっきりさせなければいけません。
おそらく、この上野修(うえのおさむ)というスピノザ研究の学者は、相当な水準まで来ている
はずです。しかし、私が解明した、リーズン(理性) とラチオ(合理)の到達点まで来ている
かは、吟味しなければいけません。
宮元啓一(みやもとけいいち)と石飛道子(いしとびみちこ)という仏教研究学者も、君が正確に
読み破ったのだから、きっと優れた到達度を示していると思います。私も時間を見つけて、読んでみます。
773 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 08:36:58 0
「853」 「信仰(宗教) と 理性(=合理) は一致する(相反しない)思想を作った
世界の大宗教のシンクロナイズ現象の元凶(げんきょう)を見つけた。ついに突きとめた論」
を載せます。副島隆彦 2007.5.23
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200705.html#2301 私が、小室直樹先生から教えられて、習ったことは、「ユダヤ教の神のヤハウエ(エホバ)も、
キリスト教(カトリック)の神(ゴッド、God)も、イスラム教のアラー(アッラー)も、
英語で書けば、すべて、ゴッド(God)であり、彼らは、全く同じ神を共有しているのだ」で
あった。紀元前から一千年間の当時の中東、地中海世界では、彼らは、同じ神を信仰していた。
それを、ヤハウェと呼ぶか、ゴッド(ゼウズ、デウス)と呼ぶか、アラーと呼ぶかは、
どうでもいいことであった。同じ神なのだ。
それぞれの唯一の神が神として、全く同じ神であることを彼らは、知っていた。理解していた。
民族言語での表記が違うだけだとお互いに思っている。今でもそうだ。だから、これらの三大
宗教が、それぞれ違う神を崇拝しているのではない。彼らの神は、おなじものなのだ。
この点が、日本人には、なかなか分からないことだろう。
宗教がちがえば、神さまは違う、というのは、浅薄(せんぱく)な考えであって、神学者や
知識人たちにとっては、論争するときには、どの宗教であろうとも、彼らの神はおなじ神である。
774 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 08:49:41 0
副島隆彦みたいなドキュンの言葉をばらまくなよ。
775 :
721:2010/03/24(水) 10:11:29 0
>>725 ダルマが各種の行、つまりヨーガを伝えたのはその通り
でも、文献からたどるだけじゃなくて、
実際にアシュタンガやクンダリーニのヨガと座禅の両方をしてみなよ
「心身脱落」の「瞑想」はラージャヨーガと部分的には重なっても、
イコールじゃ全然無いよ?
詳細は忘れたけど高野山の研究で、
ダルマ以前の5世紀頃までの間にインドで彫られた仏像には
真言としてこの違いが反映されているものがあったはず。
つまり昔は違いが良く知られてたってことだ。
ひょっとして「瞑想」ってどれも中身が同じだと思ってる?
立禅と座禅ってだけでもその内実は大きく違うように、
方法的な繊細さがあるものなんだけど
禅の瞑想と同じタイプの瞑想が他の宗教にもあるんだったら、
是非知りたい、マジで。
776 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 10:30:55 0
>>775 禅定・三昧は方法は異なっても基本的に精神集中であることに違いない。
それを深めても無我・空は体得されないというのが、
パーリ『梵網経』以来の仏教の伝統だよん。
777 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 10:34:52 0
仏教を単純化して考えると、こうなります?
生まれる前の闇、死んだ後の闇、膨大な闇です。人生は、ほんの一瞬、夢の様な、
蜃気楼の様な、殆んど「無」の存在。
闇に視座を置いて考えると、この世は無自性の世界、空の世界。般若思想。「無我」がメイン。
人生に視座を置くと、「我」の有の世界。仏性の如来蔵思想。
釈迦如来は記録こそ残していないが、あらゆる視座より、時には、矛盾も含めて
語ったのではないか、と考えてみたのだが、どうだろうか?
778 :
721:2010/03/24(水) 10:50:06 0
>776
ありがとう。
おれは体験偏重なとこがあるから「梵網経」読んでみるよ。
識者の方々、日本語か英語で分かり易い翻訳があったら教えてくれ。
哲学は原著にあたれ、だからやっぱパーリ語でチャレンジしたほうがいいんかな?
779 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 10:57:46 0
>>724 >伝統的には、成道の次は転法輪、つまり、悟ったら法を説いて道を示すことで、
>私が知る限りあらゆる伝承資料が、そのように伝えているけど。上の根拠は何?
伝統的にはそうでしょうが、他人に法を説いて道を示してはならないのです。
何故なら、習い覚えた法や道は脳の中の記憶に収められ人の探求心や応用機能を封印してしまうのです。
つまり、法や道を習い覚えることで人の脳は記憶に頼り発育を停止してしまいます。
悟りを開く=真理を会得する⇒その為に物事の理を悟る⇒知能が発育し智恵を産みだす。
それが「広辞苑【智恵・知恵】物事の理を悟り、適切に処理する能力。」この事ですよ。
ですから、大変な時を費やし、物事の理を悟りし者は物事の理を悟る方法を見つけだして世に広める使命を持つのです。
この使命に気付かず、少し世の中が見えたからと思い、法や道を説く何て余分なことをするから世の中を乱し収拾が付かなくしてしまうのです。
780 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 11:14:17 0
781 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 11:15:47 0
>>779 辞書の語釈を根拠に妄想語られてもね。
困るよ。速く何も分かってないと気付きましょう。
782 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 11:34:05 0
輪廻は第一番に外せると思うがw
783 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 11:53:29 0
>>782 輪廻を外したら、仏教の道としての体系が崩壊するし、
輪廻は思想でなく現状認識だから、そこを外して仏教は始まらない。
784 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 12:04:41 0
ふ〜〜〜
大乗仏教は中国経由で日本に伝わったが
輪廻は当時の中国で否定された。
だから日本の大乗仏教では死後は浄土教系が発展させた極楽浄土逝きが定説になっている。
上座部やラマ教は輪廻を信じてる。
786 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 12:36:56 0
>>785 おいおい適当なことを言っちゃいけない。
シナでも輪廻は最初受け入れるのに抵抗されたが、
きっちり根付いている。輪廻なしに仏教は無理だからだ。
日本でも輪廻はかつて根付いていた。
浄土教も輪廻を前提としていたことは間違いない。
『生命は業を所有し、業を母胎として生まれ、業に固く結びつけられ、業に依存し、
善悪の業をつくってそれを相続する』
増支部経典(Anguttara Nika^ya)
『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。
ただ、結果だけがある。単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』
清浄道論(Visuddhi Magga)
行為者を認めたら、無我と矛盾するというのはなんとなくわかる。
789 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 13:42:23 0
791 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 13:49:43 0
>>689 堕落かな。まあそういう向きもあるけど
哲学的に中観、唯識論がそのまま両部大経の思想につながってる。
793 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 14:10:55 0
794 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 14:34:16 0
輪廻は実在し無い。輪廻は衆生の願望に過ぎない。
輪廻転生なしでも、仏教は成立する。私の「無記、戯論」だが、「C点による仏教的宇宙論」
を読んでください。仏陀は、「執着を捨てろ」と説いている。これが仏陀の真髄。
21世紀の仏教論は、科学も睨んでいたいもの。暴論多謝。
>>794 たしかにヒンドゥ教徒は輪廻転生を願った。
より良きカーストに生まれ変わるために。
無我なものが転生するはずがない。でもはたして無我なのか?
796 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 14:42:53 0
>>794 無理無理、それは実在論的科学観、つまり仏教的にいえば断見に基づいて無理矢理仏教を解釈しようというもの。
これを最も強力に行ったのが和辻。
ほとんど意味がない、輪廻が信じられないなら、
デレク・パーフィットとかヘアの倫理学でも学べばいいでしょう。
「C点」は勘弁してくれよ。一回ちょっと読んだ。
仏教は、思いつきや世界のあり方を説明する体系でもなんでもない。
悟り、解脱を達成するための道であり、これは過去の聖者によって
体験的に検証され実証されてきたもんなんです。
ネタにしてちょこちょこいじって面白がるもんじゃありません。
797 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 14:45:36 0
>>794 >輪廻は実在し無い。輪廻は衆生の願望に過ぎない。
根本的に倒錯してるよ。輪廻は願うもんじゃなく厭うもんです。
輪廻は苦で解脱すべきもん。それが仏教の基本姿勢。
この点は、ヒンドゥーも同じ。
>>795 願ってないつの。昇天というのは解脱できない人の次善の策。
799 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 15:08:00 0
>>798 そりゃちょっと読み誤ってると思う。
カーストを支えるのは輪廻よりも、業因果でしょ。
その意味では。それと『マヌ法典』などの神話ね。
少なくとも仏教もヒンドゥーの聖典も輪廻を苦と見てることはたしか。
それとウィキを根拠にされても、困るよん。
800 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 15:13:46 0
魂や輪廻に言及したのなら
「釈尊の教え」は当時の新興宗教に成り得なかったようなw
「仏教」の解釈がバラバラなような
801 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 15:21:44 0
>>800 意味わかんね。文から意味つかめんぞな、もし。
そりゃ君の仏教解釈が輪廻と無我は矛盾するみたいな、
アホ学者の説に依ってるからじゃないのか?
>>799 横スレ。因業果こそ輪廻転生の源じゃない?
それから抜けるのと上のカーストへの転生は意味は違えど似てるんじゃないか?
浄土思想の極楽往生のように。
>>799 昔読んだインド史に
「奴隷のように働き詰めの地べたを這うカーストも、聖なる牛を神と崇める。より良き
転生を願って」みたいな文言があったから。
輪廻が無いとか言ったら唯識とか意味がなくなる。
805 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 15:40:11 0
誰がどの主張してるなか分からん。
コテつけたらどうだ?
807 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 16:05:04 0
766、767の
「輪廻の輪から抜け出すということは、当時の信仰の輪(ヒンズー教)から抜け出すということである。
ブッダは信仰から抜け出して、真理の世界へ行った。
勘違いしてはならないのは、ブッダは輪廻を前提として、その輪廻から抜けたのではなく、輪廻など
考え無くて良しというところにいったのだ。輪廻は真理でないと悟ったのである。」
これこそが真実だと思うんだが。輪廻転生はヒンドゥ教やインドの階級社会そのもので
仏教はその概念を取っ払った。
808 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 16:07:06 0
この本は、今の時代には珍しく極端に政治的な本である。
『地獄の黙示録』や『ゴットファーザー』、あるいはクリント・イーストウッド、オリバー・ストーン、
スパイク・リーなどの監督作品は、ハリウッドで制作された商業映画でありながら、アメリカ知識人の
文脈では「政治映画」というジャンルに分類される。
本書はこれらの優れた政治映画映画を導きの糸として、そこから、欧米の白人社会内を分断する
カトリック対プロテスタントの激しい対立や、リベラル対保守という政治的対立のほんとうの意味を、
明らかにしていく。なぜなら、そこにアメリカ社会を理解 するための確信があるからだ。
同時に、欧米の白人社会の間にプロテスタントとカトリックという深い対立と差別の構造がある
ことが本書によってはじめて明らかにされる。こんなことは欧米の知識人の間では常識なのだが、
彼らは絶対にそのことを口にしないから、日本人はこれまで誰もはっきりと理解できなかったのだ。
副島隆彦 「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」より抜粋
809 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 16:11:28 0
「C点」はやはり、難解ですか?矛盾・無限の視座に瞑想では、解れと言うのが無理。
810 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 16:21:12 0
「C点」って華厳経原理主義で煙たがられて宗教板を追い出された人かい?
811 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 16:34:13 0
>>807 そんこと言ってるのは日本の一部のアホ学者だけだがな
812 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 16:35:27 0
>>809 「C点」は難解というより、仏典が正確に読めてないので、
妄想にしかみえない。
813 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 16:36:43 0
>>805 そりゃ屁理屈。ウィキペデアの略称に決まってまんがな
814 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 17:47:22 0
C点、視座、ヨーガはもういい・・
俺様はスピリチュアリズムを極めているんだよねー。
816 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 18:18:29 0
817 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 21:38:22 0
>>781 >辞書の語釈を根拠に妄想語られてもね。
辞書に記されているのは言葉の語義・語意であり、語釈とは言葉の意義=語義・語意を解釈することです。
従って、辞書には語釈は記されていません。
君はもう少し日本語を知って下さいね。
>>817 質問です。
ウォンスンイ スヂュヌィ ヌェウィ ノヌン マンシンジャ
機械翻訳ですけど、これの意味は通じますか?
819 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 22:19:17 O
なんのこっちゃわからんが、マントラと関係あるの?
820 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 22:30:28 0
821 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 05:22:43 0
言葉の使い方を知らないのはよく伝わるよw
822 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 06:28:38 0
「中論」や「刹那滅」を、理解しなをかつ、物足りないひと、及び
般若思想や如来蔵思想を、理解しなをかつ、物足りない人、できれば
唯物論者?のひとに、「C点による仏教的宇宙論」を、
無限・矛盾の「視座」と「瞑想」が、理解出来ない人には無理。
823 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 06:44:12 0
輪廻転生こそ仏教と信ずるひとは、素朴な信仰者。それはそれで、正しい。
信仰が仏教学より優先されるのは、宗教の正しい姿。屁理屈より祈り。
824 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 07:12:48 O
前世に仏縁に会わなかったと考えるのは日本では不可能なことで、現在生存しているのは輪廻を願った人と考えられる。私は前世は猫だと思うので仏縁に会った今、阿弥陀の元へ行こうと考えている。
825 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 07:36:55 O
言語釈は語感によるものが多く、その意を表してないものも多い。なんてな。
826 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 07:39:14 O
つまり気持ちよくなるものが多いと言うこと。
827 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 07:41:47 O
言語釈については、言語、記号、暗号などのところでやってくれ。決めごとでしか思考できない凡人がゆえに。
828 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 07:46:11 O
動体釈として、仏語(フランス語ではない)がマントラという見方をしているが、わからん。機能しないと、言葉が伝わったと言えんからな。まあ、なんとなく
829 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 07:51:34 0
釈迦如来も、「方便として」総てを認めている。また広い、あらゆる視座により教えを
説いている。時には、矛盾もあるが、それも含めて、真理である。
仏教の、如来の、最後の慈悲は、「総ての執着を捨てよ」と言う訓えであり、因果応報の
訓えである。善因善果、悪因悪果。仏教には、救いがある。
因果応報に執着してるじゃないかw
831 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 09:58:27 0
縁起、空性より、因果応報も「執着」の対象ではないが、「倫理・道徳」も
も対象ではないかも知れないが、そこは「方便として」、厳密には異議もあろうが
「無我」はさておき、「我」を認めて、世俗の価値を取ることにする。
勝義、世俗の諦にこだわらず、「中道」を進みましょう。
832 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 11:12:58 0
見事な矛盾だ・・
833 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 11:13:02 0
>>830 縁起・因果ってのはあるがままそうなってるもんだから、
受け入れるしかない。それを無視するのは、飯も食わない
うんこもしないようなことができれば、無視してもよろしい。
でなければ、無視しようがない、そうなってるんだから。
>>831 因果は倫理・道徳ではない、仏教に於いて善悪は苦楽をもたらすことで決定される。
楽したいなら、苦をもたらすような行為をするなということで、
その行為がどんなものか列挙される。
基本は他を害することが苦を生むということ。
だから、アヒンサーなのだ。
834 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 11:57:55 0
善因善果、悪因悪果。世俗の訓えである。倫理・道徳は少し大げさ過ぎたか。
835 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 12:11:10 0
>>834 仏教では善因楽果、悪因苦果。
果は概念でなく、感受、体験なのが重要。
善悪はそれに基づいて決定されたもので唯の観念とか習俗とは違う。
836 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 14:07:39 0
善因楽果、悪因苦果。OK。了解しました。
837 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 15:36:13 0
なんか正しく理解しているようでそうでない人が居るな。
>>835
一つの仏教用語にとらわれて全体の仏教思想が見えなくなってしまう
典型的な例。
839 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 15:50:17 0
結局愛だろ、仏教は。
ブッダが強調したのは無執着
サーリプッタは慈悲(愛着ではない愛)だったはず。
>>839-840 それについては「慈悲」と「智慧」という仏教の(特に大乗では)根本原理。
842 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 16:52:57 0
「縁起・空性」からは、「無執着」で、如来蔵思想、特に、大乗では「慈悲」と
「知恵」なのでは無いだろうか? 般若思想では、「無執着」だろう。
843 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 16:54:46 0
>>839 愛は無理だな。一語なら縁起だよ。
あと現代人一般的な用法の愛は、仏教の意味で執着だから。
仏教的な意味で慈悲・慈愛なら、それは平等・捨じゃないと慈悲でなく
ただの執着だから、そこ一緒にしちゃ、
色即是空をただの現状肯定と捉えるような、自分の思いを仏教に投影してるだけにすぎない。
844 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 16:57:04 0
>>842 いやいや、縁起・無我・空を悟れば平等なので、
自然に慈悲になるんですよ。
これが般若方便不二に他ならない。
それ以前の凡夫の意識で空と慈悲が矛盾するとか言ってもしょうがない。
845 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 17:03:57 0
仏教では「愛(欲)」と「慈悲」を区別する。
純愛だろうがプラトニックラブだろうが執著してるなら愛欲である。
愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。
愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、
憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。
どうして恐れることがあろうか?
快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。
どうして恐れることがあろうか?
欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。
どうして恐れることがあろうか。
妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。
どうして恐れることがあろうか。
法句経
847 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 17:23:07 0
848 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 20:00:54 0
いや、アガベー(神愛)的な意味での愛と言ったんだけどな〜。
執着するなというならば、あるがままでいいってことじゃないのん?
究極の無執着は生きている事そのものと違うのん?
850 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 20:52:39 0
>>848 キリスト教を持ち込まないように
>>849 執着するなというのは、気にすんなという意味ではないよ。
それじゃ動物が悟ってることになる。
全くそういう意味ではない。
仏教では凡人の普通の状態は、気が散って妄想観てる状態だから。
それじゃ話にならん。
日本の仏教書はそういう現状肯定を口当たりよく説いてるものが、
多いかもしれないが、それらは全く仏教でもなんでもない
ただの売文だから。
>>850 執着するなっていうのはどんな意味なの?
>>85 執着は仏教では取といいます。取は4種類あります。1つ目は欲取といって
欲しいものへ固執すること。2つ目は見取といって自分の求めるものに一致する
見解、原理、哲理へ偏向すること。3つ目は、戒禁取といって儀式、風習へ固執
すること。最後は、我語取といって他の存在とは無関係に独立して自分がいる
のだと思い、自分はこうであると固執すること。
仏教では取は渇愛を原因として発生すると説明しています。
>>851 手に握った氷に対し「溶けるな!溶けるな!」と思う・願うようなもの。
放っておいても溶けるのを、更に握り締めていながら、無理を願うのが、
渇愛であり、執着するということ。
せめて、握った手を離すのが、世俗的(≒凡夫的・在家的)対処。
それでも、見つめる氷に対し「溶けるな!溶けるな!」と思う・願ってしまうことには変わりない。
それをも超えて、「溶けてゆく氷」は「溶けてゆく氷」と見る、「溶けている」ことは「溶けている」と見る、
それを止まらせようと思わないのが、「執着するな」ということ。
執着も空性であることを忘れてないか?
だから同じ繰り返しになる。用語にとらわれる。
そういう意味。
>>845
855 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 06:13:32 0
仏教を厳密に分けたら矛盾になる。「無我」をベースにする般若思想と「我」をベースにする如来蔵思想
である。前者は、「縁起・空性」より現象否定の傾向の強い「勝義諦」であり、「無執着」「平等」を説き
後者は、「仏性」より現象肯定の傾向の強い「世俗諦」であり、特に大乗では、涅槃に至らぬまでも
「慈悲」の実践を「知恵」を求める。
一方は「無我」であり、他方は「我」である。如来は「無我」に執着するものには、「我」を説き、「我」に
執着するものには「無我」を説いた。如来があらゆる視座より、自由自在に「中道」を求めた結果では、
ないだろうか?如来は真実を「方便」も含めて説いている様に思われるが。
この矛盾が仏教であり、大らかな如来の訓えの真髄につづくものと思われる。
856 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 06:35:37 0
>>854 なにいってんだ。それだと虚無論でなんでもありだ。
たしかに道も仮設で悟ったら捨てなければならない。
しかし、悟るまでは道の論理に従うしかない。
今、ここで話してるのは道の論理がどうなってるかだ。
道も空、道に執着するな、それは正しい。
だからといってなんでもありの虚無論ではない。
くだらない屁理屈こねるなよ。
857 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 06:36:29 0
>>855 如来蔵も空性だよ。
そんな松本みたいな見解は話にならない。
858 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 08:36:03 0
如来蔵は煩悩の中にあり、しかも煩悩から離れうるのは、空性であるからであり、
しかも単純には言う事の出来ない多様な属性を持っている。
しかし、仏性は「我」の中にあり、大乗の訓えの中にある。中論的に考えれば、
お説のとうりです。
859 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 08:40:20 0
仏性は、煩悩の中にあります。
860 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 08:44:28 0
>>858 如来蔵とか仏性は、有無をこえた空性だから、
あるとかないとかじゃないんです。
それを凡人の存在論で有るという風に本質・実体的に考えるから
松本みたいになっちゃう
861 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 09:03:35 0
喝
862 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 09:09:55 0
如来蔵や仏性は、松本もそうかも知れないが、仏教の各宗派により見解が分かれている
のも事実。極端な宗派は、これらの存在を認めないものから、山川草木にまで広く認める
宗派までさまざま。
だが総てを中論的に、考えればよいのではない。凡人の存在論も重要。
863 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 09:10:37 0
864 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 09:18:24 0
>>862 確かに如来蔵は意見が分かれるけど、ゲルクとか唯識系は見解が低いだけの話。
もちろんチョナンは誤解。
凡夫の存在論は、ただの習慣。仏教ではそれを仮設とみる。
しかしながら、それは無謬の因果だから、尊重する。
ただの習慣、されど因果。
このような縁起を理解せずに如来蔵とか言っても始まらない。
如来蔵、本覚、密教、色即是空はただの現状肯定ではないから、
そこには三昧や空性の悟りを経た、認識の転換、
現れ・体験・知覚・概念を空性と捉える智慧がある。
それがなければただのスローガン、シュプレヒコールと変わらない。
お題目の方が分かりやすいか?
南無阿弥陀仏
866 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 10:26:09 0
864さん 了解しました。
867 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 10:41:32 0
868 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 11:06:22 0
>>867 そう思うのは勝手だが、それは仏教でいう悟りとは全く関係ないから。
869 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 12:35:20 0
不毛地帯乙
870 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 13:02:57 O
池沼が駅周辺をニヤニヤしながら走り回って
最終的にはコンビニでマンガ読みながらゲヘゲへしてた
>>864 >そこには三昧や空性の悟りを経た、認識の転換、
>現れ・体験・知覚・概念を空性と捉える智慧がある。
>それがなければただのスローガン、シュプレヒコールと変わらない。
簡潔明解だなw
乙
>>856 それを頭で分かって分かっていないという。
般若思想を一時でも宗派に入門して実践してみなされ。
実践すれば自ずと仏教用語は姿を消す。
哲学版ですからw
延々と用語の応酬が続きます
そうだったな。失敬。
しかし実践を積めば平易な言葉で説明できるようになる。
腑に落ちる平易な言葉を待っているんですが
なかなか現れません
876 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 15:14:24 0
>>875 まずは偉いお坊様の入門書を読むのがベスト。
そういった本は先に分かりやすいたとえ話を示して
それは仏教ではこういう、みたいな流れ。
そこからその意味をさらに知ろうとすればサンスクリット語とか
古代インド思想とかいろいろ勉強しなくてはならなくなってくる。
そうなると本末転倒だけど
>>873のいうようになるw
現状肯定で主体や自由を言葉遊びとする運命論はどこが間違えなのでしょうか
「精進しないことができる」という考えは豊か過ぎると思えるのですが…
適当な書籍があれば教えてください
文意がつかめないぞ
879 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 20:48:21 0
>>876 いやいや、始めに悟った聖者につかないと君みたいになっちゃうよ
880 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 20:52:34 0
>>877 >「精進しないことができる」
これは完全に悟った人の状態。
自然に縁起にそって利他ができ業を積まない。
水野弘元『仏教要語の基礎知識』
ダライラマ猊下『智慧の眼を開く』
パユトー『仏法』
この三冊が良いと思うけど、聖者につかないと、
どんな聖典も誤解するなら意味がない。
聖者は誤解を誤解と指摘してくれるから。
と悟った気になっているage馬鹿がほざいててもなあ
882 :
877:2010/03/26(金) 22:44:47 0
言葉が足りなかったですね
聖者や餓鬼がそうでなかった可能性を考えるのは、仏教で言う戯論ではないかと思うのです
修行する予定は無いので本から入ってみます
883 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 23:14:34 0
>>882 修行は出家しないと難しいね。
家で本読む、つまり仏教について知ってみようって感じ?
だったらやっぱ普通に本屋さんで売ってる本でいいんじゃない?
まあここは哲板なんで仏教の思想面はそれでいいと思うよ。
専門書は専門だからw
884 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 23:19:55 0
>>882 言葉が足りないというよりも、構文が取りにくい文なんですよ。
貴方の文は。主体が対象を動作する。というのが現代文の一般的な形なので、
それから逸脱してて意味が取りにくい。
>聖者や餓鬼がそうでなかった可能性を考えるのは、仏教で言う戯論ではないかと思うのです
例えば「そう」という指示代名詞が何を指してるか判然としない。
恐らく以下の文全体を指していると思いますが、
>>877 >現状肯定で主体や自由を言葉遊びとする運命論はどこが間違えなのでしょうか
>「精進しないことができる」という考えは豊か過ぎると思えるのですが…
そもそもこの意味がよくわからない。
>>880のように解釈したのですが、
そうではないので、以下のように言っているのでしょう?
>聖者や餓鬼がそうでなかった可能性を考えるのは、仏教で言う戯論ではないかと思うのです
あるいは「聖者や餓鬼が、それぞれ聖者や餓鬼でなかった可能性を考える」ともとれる。そう取っても
>>877とどう繋がるか分からない?
因みに仏教でいう「戯論」は、想像力、妄想力のようなものです。
知覚からいろいろ思いを展開する力です。
戯れの話とか、無駄話という意味ではありません。
885 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 23:44:07 0
何かと毛嫌いされる宗教系スレが立ってたので
久々に付き合ってみましょう。
>>884 単に所知障で括ってはいかがでしょうか。
886 :
877:2010/03/26(金) 23:59:29 0
どうもお手数お掛けします
私の文が分かりにくいという指摘は度々受けます
私は運命論者なので仏教者の上昇志向が中々理解しがたいのです
聖者や餓鬼が、それぞれ聖者や餓鬼でなかった可能性を考えるのは妄想ではないか
精進することも精進しないこともできるという考えは妄想ではないか
というのが仏教者の上昇志向に対する疑問です
887 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 00:08:16 0
>>886 つまり、先天的に決まっているからいくらあがいても無駄、という事でしょうか。
それを少しずつでも違った、善悪相対主義のつもりはありませんが
先ず、善を成せと、自心を観察せよ、世の道理を観察せよ
という事になるお思います。
>何かと毛嫌いされる宗教系
だって此処哲学板だものっ><;
889 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 06:26:53 0
890 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 06:34:36 0
>>886 仏教は運命論ではないです。行為によって果が決定されると考えます。
ですから、聖者や餓鬼になったのも行為の果です。
「精進することも精進しないこともできるという考えは妄想ではないか」
ここは信になりますね。仏教では意志は自分にあると考えます。
とっいって完全に自由ではなく、過去の行為によって思考の癖がありますから、
その範囲・傾向はある程度限定を受けます。
もはや信じるか信じないかです。
891 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 07:41:54 0
一切経を集めた全集でお勧めありますか?
892 :
877:2010/03/27(土) 07:51:42 0
>>887,890
う〜ん、主体は言葉遊びと考えたほうが楽だと思うんですが、、、
主体を引き受けることでより良い善因楽果を得るという事でしょうか。。。
893 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 07:59:14 0
894 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 08:01:48 0
>>892 楽とかそういう問題ではなくて、
仏教の縁起・業因果ですから、
縁起・業因果にしたがって説かれているわけです。
釈尊の時代にも貴方のような運命論者がいましたが、
釈尊は明解に否定しております。
895 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 08:04:47 0
>>892 主体にしろあらゆる対象にしろ、
仏教では縁起によって仮設された幻の対象と見ます。
貴方は仏教が知りたいのか、それとも自分の説と矛盾するから、
仏教を否定したいのか、どちらでしょう。
後者なら、仏教を云々しなければいいだけのことです。
896 :
877:2010/03/27(土) 08:23:48 0
> 894,895
運命論を明解に否定する理屈が知りたいです
>>877
897 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 08:38:40 0
>>896 それは信の問題で論理の問題ではないでしょう。
形而上学的選択を信と呼ぶわけです。
898 :
877:2010/03/27(土) 09:15:45 0
形而上学的選択とするのは仏教の立場では?
運命論の方では形而上学的選択を必要とするとは思えません
899 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 09:39:59 0
>>898 運命でそうなっているというのは明かな形而上学的選択でしょう。
900 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 10:00:30 O
四苦八苦といった決定的な果が示されてるのに、あなたは何の結果を運命と位置付けているのですか?煩悩の昇華は仏道の因果と関係ないように思われますが?
901 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 10:43:06 O
昇華断定が提言できるほど悟ってはいないので、それなりの人格者に聞いた方がいいと思います。今日は冴えないのでこのへんで
902 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 10:59:51 0
唯識論でいくとやはり運命はある。決められています。
苦の大元である「無明」を、阿頼耶識を智に転ずるかどうか。
それが昇華であり、しかしそれはまた昇華した、しないの相対的な関係を超えています。
>>901の昇華という言葉は適当だと思います。
消し去るのではないですから。
903 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:05:42 0
>>902 それはない。それと仏教を語るなら仏教の言葉をよく理解して語らないと無理。
>>899 運命論の立場では選択の余地がないものを選択したと考えるのは余計なことです
>>900 四苦八苦といった決定的な果を選択しないことができるという考えが妄想ではないかと思っています
>煩悩の昇華は仏道の因果と関係ないように思われますが?
すみません、意味が分かりません
905 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:08:33 0
仏教徒のくせに自演している恥ずかしいやつがいるな
数時間単位の書き込みで
>>891>>893間3分w
最低だな
906 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:11:47 0
>>903 君は唯識を理解していない。君こそよく理解するべき。
>>904 横レス。煩悩の昇華とは煩悩即菩提という意味。
907 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:22:40 0
>>904 選択の余地がない原因を突き止めようとは思われないのですか?
それが
>>902で書いたことです。
決められてしまっているならば、少しでも(その運命が限りなく苦であっても)変えることが出来る。
ここから先は信心の問題でしょうが、善行、自心の観察等々で
いつか芽吹くであろう菩提心の果、つまり悟りを目指すというのが仏教です。
908 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:26:48 0
宿命+立命=運命 by細木数子w
909 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:30:07 0
>>908 某占い師本人の言なら、へえ意外という感じですね。
まあいろいろ勉強はされているようですが
先天運と後天運というものですね。
910 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:32:13 0
違うよw
911 :
877:2010/03/27(土) 11:34:11 0
>>907 原因を突き止めて変えることが出来たのであれば、変えないことは出来ないと考えるのが運命論です
912 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:41:56 0
>>911 出来た、出来ないの時系列がおかしいような・・・
それは置いといて、「出来た」は悟った者。
ここで重要というか面白いのは、仏教ではそういう出来た出来ないの
相対関係を超えるんですね。消し去るのではないです。
913 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:53:23 O
なんか、盛り上がってるね。今日は調子悪いから。またね
914 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:53:26 0
自演スレ晒しage
877は「仏教は運命から逃れる教え」と考えているのだろうか
そうだとしたらそれはNG。因果とか用語に惹かれたのであれば
ここではその趣意が違うのでそのつもりで。
自作自演ぽいけど詳しい人が増えてから流れがおかしくなったなあ。
なんでだろ。元に戻ってほしいよ。
917 :
877:2010/03/27(土) 12:12:17 0
918 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 12:12:47 0
大乗仏教と上座仏教なのか唯識なのか立場を明確にしないと
色々ごっちゃになってgdgd
>>916 ならば拙者が一つ講釈を。
現状を否定するのは俗に謂う所「諸行無常」
上昇志向は現状を否定しつつ「現状にこそ仏」
双方ともに般若思想の「色即是空、空即是色」
清浄なる蓮華も(仏)も泥中(俗世)に咲くの如し
実りの果を種とし未来へ紡ぐもの、是縁起の法「唯識」
>>916 哲板にいると猜疑心が強くなってしまうのは仕方ないとしてもw、
「おかしい」というのは、『「伝統的解釈或いは正統解釈」が主軸になってきた』ということで、
「元の流れ」とは、≪仏教という“思想”“考え方”を俎板に乗せ、哲学的側面から解剖する≫もの、
ということ?
922 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 12:26:32 0
>>917 現状(今、現時点)から過去と未来は加工できない
こうなるべくしてこうなり、現状にて今を生き、これから先はなるようにしかならない
従って、未来に向かい今を努力することもまた運命の範囲内から逸脱する行為ではない
現状を否定する上昇志向(努力、改善思考)はナンセンスだ
こんな感じが、君の示す「運命論」かな?
>>919 明らかに上座部系の人と、十二縁起論と唯識とか
ごちゃにしてる人がいるよね。
そもそも「現状を否定する上昇志向」とは
仏教のどこから仕入れてきた概念だい?
輪廻のことか?
正覚者とそれ以外の人間(凡夫)を分けて説教してる点か?
凡夫を否定するなって主張かい?
925 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 12:44:33 0
>>924 彼なりの運命論を機軸とした造語?のようなので
理解しにくいのですが。その点がはっきりしない
そうでないと彼に対してどういう言葉が的を得るか分かりません。
926 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 12:53:01 0
>>904 >運命論の立場では選択の余地がないものを選択したと考えるのは余計なことです
それは運命論を形而上学的選択した後の話。
ある説明体系を信じるということを形而上学的選択というわけ。
だから、ある体系から別の体系を批判することは無駄なんです。
>>905 オイラは自演なんかしたことないぜ。
まあ、信じなくても結構だが。
>>906 唯識で自説を運命論なんて説くものがあるなら出してくれ。
仏教だと業因果によって説明し、運命や創造主による説明は否定される。
これはどの時代、どの国の仏教でも共通する常識だと思う。
唯識に限定されないぞ。
927 :
877:2010/03/27(土) 12:53:16 0
確かに主体性、主人公性、能動性、自尊心が欠落してるな・・・
誰か〜助けてやれ〜〜
887はこんなところにいないで、悩みを解決するべきでは。
この際、仏教の議論なんてどうでもいいじゃない
釈尊ならどう答えるかのう
931 :
877:2010/03/27(土) 13:05:52 0
>>926 う〜ん、運命論も仏教もお互いを納得させることはできないという事ですね。う〜ん
運命論というより虚無主義に近いだろう
社会人かい?
家族と会話してるかい?
心の通じる親友や恋人はいるかい?
933 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:24:45 0
仏教は、言うならば運命開拓論だろ・・・。
>>930 「寧ろ、貴方は主体に絡めとられています。そこから離れなさい」と言うかも。
仏教で、勝義として「(色んな面での)絶対的主体」は無いとは言うけれども、
「肉を持った人格」が存在すること(五蘊として顕現している・生じていること)は否定されていない。
だから、877氏にとって他者の存在が、877氏の心や行動に「因や縁として」影響を与えているように、
そのように、877氏もまた、他者に関わっている。
「殺される(死ぬ)」ということは、他者にとっての「或る一つの縁」の喪失(滅)となる。(葬儀の場面を見れば明らかだろう。)
避けられぬ縁(条件の連鎖)により死が訪れるのは甘受すべき「事象」であるけれども、
意図的にそれを為すのは、他者(の心)への、或いは自身が関わっている様々な義務・立場・仕事等の面での、
悪しき行為(→害する行為迷惑をかける行為)ということになる。
その意味で、
『他者と関わっている以上、「自身の死を願うこと・それを無問題と考えること」は、
「我執に捉われていること(自分のことしか考えていないこと)」に他ならない。』
『「主体の違和感を感じ、人には(≒自分には)主体が無い」と言いながらも、
実は主体に(→自我に)捉われている』『自己保身の一形態に過ぎない』と言えるのではなかろうか。
「お蔭様で・・」とか「ご縁があって・・」とかは慣用語と化してはいるけれども、
その意味は結構深い・・・。
935 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:32:30 0
>>926 業因果は自業自得のこと。その業の原因が分からないのが無明。
故に業に振り回され、振り回されるが故に繰り返す。
しかもそれは縁に因りて(関連性の無い縁は生じない)生ずる。
つまり決められているという事です。
あなたは唯識論を理解されていない。
因位である状態については特に。
果位にばかりに着目しすぎ、現実を軽視しすぎですね。
唯識自体は華厳唯心の如く「三界唯心」心がすべてを作り出す。
運命論ではありませんよ。
936 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:32:46 0
>>927 主体がないというのが仏教、
なるほど、仏教に共感している部分が無意識にあるんだろうけど、
ちゃんと仏教を理解してないから、そうなるわけだ。
>>923 >>919 基本は同じだ。仏教学だと差異が強調されるから、
まったく別のものという印象があるかもしれないけど。
業因果に関する限りそれほど違わない。
937 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:35:28 0
>>934 そうそう。仮設としての縁起・業因果。
たかが習慣、されど因果だ。
習慣に基づくただの認識なんだが、我執が有る限りその因果を否定できない。
938 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:35:40 0
スルーしときゃいいのに自演してないとか馬鹿がいるな
恥晒しage
>>938 「そこ」をスルーしない貴方の方が愚かに見えますが?w
940 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:39:58 0
>>935 はい? オイラは唯識を運命論などとは言ってないぜ。
言ってるのは
>>902 ちゃんと読んでくれよ。
そこまで誤読して他人の説を妄想するとは、大したもんだ。
941 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:40:51 0
942 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:41:12 0
よけいなお世話>939
恥晒しage
>>936 立場によって根本の思想が違うから
わざわざgdgdと発言したのだけど。
たとえば、色即是空は大乗が認めても、上座はそんなの知らんと
いうわけですよ。竜樹が言ったんですけど…知りませんよと。
ブッダが言ったんじゃないでしょうに
944 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:47:08 0
>>943 例えば、空解釈が違うのは確かにそうだけど。
業因果という基本は同じ。
仏教の基本は同じ。
三学にそって無我・空を悟るわけだけど。
その空や縁起の見解の高低があったり、
大乗では菩提心、普賢行、無住処涅槃など、一切智を求めるから、
そこが小乗と違うとこで、それ以外の基本は一緒。
その基本を見ずに違いばっか見てるから、別もののように見えるけど。
945 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:52:33 0
>>940 やはり理解されていない。と言いますかあなたの説ではいけません。
仏法に沿っていただかないと。
縁に因り生じる。凡夫がその縁を断つことが出来ますか?
縁を断つとは消し去る事ではありません。
宿命、運命(善悪苦楽含め定まった因)はすでに
阿頼耶識に種子として植えつけられている
ということです。それは(土壌があれば、水をやれば)縁より生じ芽吹く、という事です。
先に十二因縁と唯識を比べた人が居られましたが
基本は同じ、中身は深いですよ。しかも現実に根ざしたもの。
常に因業果、無常の視点だけから観るものではありません。
空の解釈が違って、小乗も大乗も無我・空を悟るというならば
それぞれ別のものを悟ったということになるでしょうに
>>942 典型的な哲板住人の反応ですなw
星の数ほど板あれど、どのスレ覗いても「自演認定合戦」が見物できるw
こうした、「自演」への過剰な反応は2ch随一かもな・・・w
>>943 それを、
>>936は「(説かれ方に於ける)差異」と表現したのだろう?
五蘊即是空という言い方はせずとも、
「一切法は因により縁により生ず」(縁無く因無く自立自存することはない)(縁起性である)
という意味で通底している、と936は言ってるんじゃね?
あ、本人が書き込んでらw (ちょっと違ったようだ・・・w)
948 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 13:58:42 0
典型的な自演厨の反応ですな>947
笑w
>>945 既に植えられている
||
種子 果
○→→→□
↑
とある縁
「過去の因縁或いは業により○は既に植わっている」ということを
「宿命・運命」と表現しているのでしょうか?
>>947 説明してくれて、ありがとう。なんか自分が揚げ足とりみたい
で申し訳ないけど、語義の些細な違いから、結論が分かれたりするから
立場をはっきりさせたらいいよと提案したわけです。
あんまりスレを乱したくないので失礼します。
952 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 14:13:45 0
>>949 そのようにお考えいただいてよろしいです。
植わっていることも、なぜ植わったのかも、とある縁が何かも分からない
これが無明ですね。
唯識では植える事を薫習と言います。
>>952 であるならば、(あの図式を肯うなら)
《「とある縁」を断てば(捨断すれば)「その果」は生じない》のではありませんか?
それが、修道(や戒・律)によって、或いは「縁起を見ることによって」(→無明でなくなることによって)、
「苦が滅せられる」、「宿命・運命に従わずに済む」ということになりませんか?
であるならば、それは既に「宿命・運命」という表現を当てはめるにはふさわしくないのではないでしょか?
また、「今後薫習され(続け)ないようにする」ことも可能でしょう?
それもまた「宿命・運命」の頚木から脱することになりませんか?
あの、確か三島由紀夫が「金閣寺」でアラヤシキがどうのこうのと言ってて、
結局、あの小児的な歴史的騒動を引き起こして終わっているというのを
皆様に考えてもらいたいのです。
その点で、陽明学にも禅にも似たような危険を感じます。
つまり、唯識で言う所の無分別知とか瞑想なども含めて
無意識的なものをあまり弄くるのはよくないのではないか?
という印象があるのです。鈴木大拙なども、
無謀な(思考停止的な)戦争を先導した人ではなかったかな?
ニューエイジ思想もオウムもその点では同じじゃない。
心理系のテキストでは、そういうものを妄想なり統失をもたらすとして、
避けなさいとなっているけど、結構、妥当な見解だと思っています。
955 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 14:57:05 0
>>953 上座部仏教的に、捨断すれば涅槃ですね。
大乗仏教的には先にも書きましたが昇華です。
これが「菩薩道」につながると思います。
あなたが言われんとする事もごもっともです。
結果として仏性を持つものが宿命、運命という言葉で括るのは相応しく無いと。
現状のネガティブな考えから見ればやはり宿命、運命と言えると思いますし
逆に悟りへの力と言い換えてもいいかもしれません。
反省も込め、一考します。
>>954 師に付いて修行しないと危険でしょうね。
無意識的なものを弄くる。確かに。その領域は五感や知識といった
表層的なものでコントロールできるものではなさそうですので。
このあたりは密教が近いかと。
>>955 そういった師弟論にも私は疑義を感じているのです。
そのイデアの発信源は、どうやら内田樹みたいだけど、
師匠が麻原みたいな人だったら、それこそ大変でしょう。
それに、経営セミナーやカルトビジネスのコーチにもそういった
師を僭称する者が多いような気がします。仏陀は、自灯明を勧めて
います。師に追随なんて意見はブッディズム的にはナンセンスだと
思います。だから、仏教はある意味哲学に最も近いのでは?
>>955 「背負う」(過去からの業果を引き受ける)という意味で、
日常語として(方便として)、「それを運命と思って(受け止めて)・・・」という言辞はアリでしょうが、
『それが、今後の自己の在り方を決定付け、
今後の行為によって《「予定された・予見された」果》の生起を避け得ない』とするのは仏教的でない、
また、一般的語感として、「宿命・運命」には「避け得ない、変えられない、決まっている」
というイメージが付いてきてると思うので、その表現はどうなのかな、と思うので横槍を入れました。
もとより、「既に積まれてしまった業果」は、それとして背負うべきであろうとは思います。
横から失礼しました。 ノシ
958 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 15:29:34 0
>>956 悪意を持った人の言動を信じ感化されてしまう恐怖はありますね。
卵が先か論になってしまいますが
自灯明、法灯明をという道を自ら見つけられるのか
やはり師が必要ではないか?とか。
特にヴァジュラヤーナは。(某真理教で有名になってしまいがちゃんとした「密教」ですね)
何であるかを自心に問うという哲学姿勢は仏教ですよね。
哲学板では嫌われる存在ですけど。
>>957 いえいえ、とんでもありません。
ありがとうございました。
959 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 15:40:09 0
>>945 すまんけど。オイラの説ってどれよ?
>宿命、運命(善悪苦楽含め定まった因)はすでに
>阿頼耶識に種子として植えつけられている
ああ、これは間違いだから。唯識でアーラヤとか種子、習気などというけど、
それは宿命、運命ではなく、業だから。
運命は決定されどうにもならないもの。
業は潜在的な可能性であって、それは変更可能だから。
大乗で懺悔が盛んなのはそのためだから。
違うというなら唯識で業を運命という意味で説明した典拠をしめしてくれよ。
オイラが知る限りないと思うよ。
運命なんて言っちゃったら、そりゃ完全に仏教ではないぜ。
きっちりと六師外道の一人として否定されてる。
>>949 >「宿命・運命」と表現しているのでしょうか?
言わないです。誤解を招く。ここら辺から、業思想は差別だと勘違いされる。
まあ、されても仕方がない部分は否めないけど。
>>949 >「宿命・運命」と表現しているのでしょうか?
>>956 字を習うとき、
書き順や字の形・バランス等を教えてくれる、チェックしてくれる人が居た方がいい、
という意味で捉えたらどうでしょう?
仏教という枠組みに於いては、ふさわしい書き順や字形があるのだから、
そこを指導してくれる、枠・ルートを外れていないかどうかを指摘チェックしてくれる人は必要でしょう。
でないと、めちゃくちゃな字を書くことにもなりかねない。
勿論、仏教としてでなく見るならば、(芸術の世界では特にそうでしょうが)その限りではないでしょうが・・。
また、人でなく「教則本(経典)」「解説書」によることもできますが、
実際の行為と絡む以上、自ずと限界はありそうです。
勿論、その師なりコーチ自体が逸脱していないかどうかは重要ですが、
そこのところが、四大教法として説かれ、また、
実際に於いては「(師に値するかどうかを問われている)彼」に対する観察
(―具体的には《「彼を巡る周縁の情報」や「彼の言動」》と《伝承されたおしえ(経・律)》との照合―)
によって吟味されることになるのでしょう。その上で帰依するか否かが判断されるべきなのでしょう。
*(↑はあくまで理想論の域を出ていないかもしれませんが・・・。)
961 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 16:56:50 0
>>945 >宿命、運命(善悪苦楽含め定まった因)はすでに
>阿頼耶識に種子として植えつけられている
これだともはや縁起ではないし、
仏教で異熟と言われる意味が理解できてない。
ある行為をする、その行為が癖となり、「阿頼耶識に種子」や習気、薫習されると言われる。
しかし、それはその瞬間に決定された運命となるわけではなくて、
諸縁によって異熟する、つまり、様々な形で果として現れる。
これが唯識的なアーラヤ縁起の基本構想だろう。
唯識は異論が多くてとても把握できないし、
ぐちゃぐちゃしたアビダルマ的な理論が好きではないので、
そんなに詳しくないが、運命はないだろう。
>>960 師について、そこまでの判断が出来る人が、わざわざその方に帰依する
必然性がないような気がします。習い事で先生を必要とするのは、その
人が初心者であるからであって、様々な経典を読み込んだり比較、
識別、判断出来るような人に、師匠は特に必要ないと思われます。
もちろん、師匠があってもいいとは思います。ただ、その人物に
過剰に依拠したり依存するのは、ブッディズムの諫める所の執着
であるように思われます。経典や勝義にさえ強く執着しない態度
こそが、真のブッディズム的な在り方だと思われます。
>>962 だから、最低でも「その判断が出来るようになるまでは」必要でしょう?w
それは、教科書・参考書でも同じでしょう?
一度もそれを参照せずに同様の書を書くことができるなんてことは、そうそう無いと思われます。
また、教科書・参考書ならば焼き捨てても構いませんが、(本とは後進のために残すべきとも考えられますが)、
「解りました。ハイさようなら」は「恩義にもとる」のではありませんか?
(少なくとも律蔵大品の61人の阿羅漢までは)、
格付け・上下関係こそないでしょうが、敬意を持ち続け、恩を感じ抱き続け、
隅に置かない姿勢はあったと思いますよ。
それは、順序という縁起に素直に従っているだけと言ってもいいかもしれません。
誰によって気付きがあったのか、眼が開いたのか、を忘却していいということではないと思いますが。
どうも、「帰依」とか「師」とか「指導」とかに過敏に反応しすぎじゃないでしょうか・・。
スポーツ選手でも、先生の域を超えた者が、その先生を蔑ろにしたりするでしょうか?
>>954 >鈴木大拙なども、
>無謀な(思考停止的な)戦争を先導した人ではなかったかな?
概要を簡潔に書いてもらえませんか
>>963 私の稚拙なみたてに拠ると、あなた様は何か儒教と仏教を混同して
いるように見えます。別に仏教的な書物を上梓することが、
ブッディズムではないし。お釈迦様は、何か教典を書かれたのですか?
私は儒教的な精神もそれ程否定しないけど、それが権力者の恣意的な
格差温存の(民心の飼い慣らし)ツールとなってはならないと
思います。人口の多い国には、ある意味、それが必要であったのも
当然なのですが。でも、この議論(論争)好きな態度も困りますよね。
あなたの言うように、何か私は支配されることに過敏反応してしまう
のです。支配−被支配の閉じた循環から自由でありたいと……。
横レス失礼
「ブッディズム」は、いい表現に感じます。
>>965 >何か私は支配されることに過敏反応してしまうのです。
>支配−被支配の閉じた循環から自由でありたいと
なるほど。了解しました。
ただ、「師が必要だ」「師があったほうがいい」というのは、
決して「盲目的に」或いは「執着として」ではない、ということだけは解ってほしいと思います。
(渡河後に筏を捨てる教えがあることも知っています。)
もし、まだ少し考えたいということであれば、
律蔵大品を「諸方遍歴が薦められる所まで」と、中部「界分別経」のプックサーティと釈尊のやりとり
を読んでみてください。何か見えるかもしれません。
968 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:31:26 0
>>959>>961 とっさにお勉強されても何の意味もありませんよ。
唯識三年倶舎八年ですから。
異熟も異熟果もご理解されていない。
969 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:42:35 0
>>962 ありえない。師匠なしに仏教を学ぼうなんて無理。
仏教は難しいんだよ。
何が難しいって狂人が正気になる道だから。
認識自体が間違ってるんだから、自分で本読んでやろうなんてのは無理。
正気の師匠に狂った認識が治るように指導してもらうわけだ。
結構、三昧とかに一人で入れる人は多い。
だけど、三昧に入ったぐらいじゃ悟りでもなんでもないから。
そこからも師匠に導いてもらいながら、認識を直していくんだよん。
釈尊以外に自分だけで悟ったなんて人は仏教の歴史にないから。
自灯明というのは誤訳だし、原義は自洲で、輪廻の暴流の中で、
修行できる人身という自洲を利用して涅槃の彼岸に渡れという意味ですから。
勘違いなさらぬよう。
それとブッディズムという言葉は、クリスチャニティという言葉との対比で用いられるものなので、
変ですよ。
>>965 対論者の方が遙かに分かってるよ。
970 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:47:12 0
>>969 それでは密教はすべて否定という事になりますよ?
あなたは上座部のみの人ですか?
内容から察するにそれに固執されているようですが。
あなたには唯識と同時に自内証というものも勉強されたほうがよろしいのでは?
971 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:51:39 0
>>968 オイラは20年以上学んでるんだが。
まあ、唯識はそんな好きじゃないから、『二十頌』『三十頌』
『荘厳経論』『摂大乗論』『中観荘厳論』『タルカバーシャー』
ぐらいの知識しかないよ。
だけどアビダルマの基本はきっちり入ってるつもりだぜ。
もっとも中観が好きで、細かいことは好きじゃないが。
>異熟も異熟果もご理解されていない。
どこが違うんだ。運命とする唯識の典拠が出せないならハッタリってことだぞ。
いいか、仏教のことでシッタカするのは止めたほうがいいぞ。
罪が重い。
どうみてもあんたはちょろっとしか学んでない勘違いタイプだよ。
運命はありえないし、譬喩を実体的に捉えてるとこが、
なにも分かってない証拠だ。種が根付くとか、自覚されたし。
972 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 18:57:56 0
>>970 なんでだ? あんた密教ってどうゆうことか分かってる?
密教こそ、師匠がいなければどうしようもないぞ。
弘法大師が面受を重要視なさったことにハッキリ示されるだろう。
チベットでもまったくそうだぞ。
君は主張だけでなんの根拠もないな。
オイラは真言宗のアジャリなんだが。
自内証は勉強するものじゃなくて、
体験するものだろ。
意味分かって使ってないぞ。
唯識、唯識って、唯識はそんなに重要じゃないし、
君自身言葉の意味も体系も全然把握してないじゃないか。
973 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 19:04:06 0
>>971 もう少し種子、異熟について勉強してください。
運命論云々については
>>953>>955でお話しました。
それとついでながら知ったかぶってるのはあなたのほう。
何年学んだ、これを読んだあれを読んだで
仏教を知ったつもりになって居られる。
人の身で仏法を習得したなどと思われぬように。
そういうのは単なる知識の法楽に浸っているだけです。
ついでにここはあなただけのスレではありませんので。
>>972 人の身で悟られたのは釈尊のみと書かれてるじゃないですか?
真言宗の阿闍梨様?でしたらなおさら釈尊のみはおかしいでしょう?
阿闍梨様というのはこれ本当ですか?
密教のでの嘘は、お分かりですね?
974 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 19:16:18 0
少し離れますが(それまでこのスレがあるかどうかですが)
>>972 密教に関して、私が阿闍梨などとネットで宣言される方など
見た事も聞いたこともありません。
仏教スレでは密教のお坊様に(東密、台密とあるので)
具体的なことを質問すると丁寧にお断りされて
そのまま去ってしまわれますよ?
>>968 唯識に於いては、異熟(vipAka)とは、
「時を異にして熟する」、
「因(縁)の要請と異なって熟する」(善なる因が必ずしも善なる果を結ぶわけではない)
どちらの意味でしょう?両方ですか?
>>971 兄貴・・ここは哲板。 熱くなりすぎですぜw
>>974 阿闍梨なんぞ只の法階だろ?w
禅宗なんか、道場に数年行けば坊さんだぞ。
(禅宗の法階は、もともと寺院・道場内での役職・肩書きから来てるし、たいした意味は無い。)
(研修会のような「安居会」に数回参加すれば最低限取れるというのもあるしw)
その程度のこと、という意味じゃないかい? (違うかwww
>>972)
976 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 19:22:59 0
激しい自作自演のもよう
これ以降の流れで誰が自演してるかわかるw
977 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 19:27:40 0
お時間ないのですみません
>>968 それには種子というものが関係してきます。
阿闍梨様についてはおいそれと言葉にすることも躊躇われるほどの
存在です。少なくとも弘法大師様の密教伝来の歴史を読む限り。
今日は阿闍梨まで登場かw
>>896 >運命論を明解に否定する理屈が知りたいです
それは、業果が縁已生法(縁って起った法)であって、
自生(自身から生ぜられたもの)ではないからです。
ですから、業果は異熟無記なのです。
自生では、善因善果 悪因悪果であり、宿命論です。
諸縁中に果の自体即ち自性が有るからです。
業果が縁已生だから因是善悪 果是無記=異熟であり、善因楽果 悪因苦果なのです。
だから、道の修習に拠り覚る可能性が煩悩に覆われた有情であろうが開かれているわけです。
縁起は如来が出世しようが“しまいが”法性・真如であり(縁起はそのまま空性)、
これが如来蔵ということでしょう。
唯識というのは、蔵識という主観的実体から認識内容が作られること(つまり自生)ではなくて、
蔵識とは、業果・異熟であり一切種子(一切の過去の行為の集積)であり、
その一切種子に縁って(客観・主観であるかの如くに、区別して)識らしめられたもの・ことのみ、
ということです。
例えば、諸縁に縁って旋火輪が起るとき、輪の内外が錯覚されるでしょう。
主観と客観とはそのようなものだということです。
980 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 20:19:49 0
>>973 >何年学んだ、これを読んだあれを読んだで
>仏教を知ったつもりになって居られる。
>人の身で仏法を習得したなどと思われぬように。
君が
>>968 というから言ったまでだ。
>人の身で悟られたのは釈尊のみと書かれてるじゃないですか?
>真言宗の阿闍梨様?でしたらなおさら釈尊のみはおかしいでしょう?
以下を誤読したわけか、
>>969 >釈尊以外に自分だけで悟ったなんて人は仏教の歴史にないから。
「自分だけで」ってとこをよく読んで欲しいもんだが、
密教でも師匠から伝授されて初めて学ぶんだが。
それとここは哲板だから、言及しなかったが、
もちろん、諸仏も含むよ。しかし、哲板で仏教の歴史という場合、
釈尊からだろうと思っていったまでだ。
>>974 >密教に関して、私が阿闍梨などとネットで宣言される方など
君が密教云々するから言ったまでだ。
真言宗のアジャリなんて、真言宗の坊主ならほとんどだから、
そう大したことはないが、あまりに君が何も知らないから、
密教は一応、一通り学びましたよと言っただけのこと、
ここで密教について語ろうなどとは思ってない。
全て君が言ったことに反応しただけなんだが、困った人だ。
981 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 20:21:16 0
>>975 その通り。素人は何も知らないから。いや、仏教運命論はないでしょ。
そりゃ、仏教アートマン論とか、仏教創造主論、仏教輪廻否定論と変わらない。
あるべからざる邪見以外のなにものでもないよ。
>>979 いいですね。ごもっとも。こうでないといけない。
>>979 >因是善悪 果是無記
因が善でも、業果が縁已生法である以上
果は苦に落ち着くこともある
と解釈してもいいのでしょうか?
>>981 ありがとうございます。
>>982 :考える名無しさん:2010/03/27(土) 20:23:12 0
>因が善でも、業果が縁已生法である以上、果は苦に落ち着くこともあると解釈してもいいのでしょうか
いいえ。それでは、業果は他生(無関係な他者から生ぜられたもの)となるでしょう。
そのようであれば、無関係なものからでも起るのですから、業果は任意に出来るでしょう。
>業果は他生(無関係な他者から生ぜられたもの)となるでしょう。
>それは、業果が縁已生法(縁って起った法)であって、
>自生(自身から生ぜられたもの)ではないからです。
矛盾してるように読めるんですが・・・
985 :
983さんじゃないが:2010/03/27(土) 20:54:21 0
>>984 全然矛盾してない。それこそ縁起。
幻の因から幻の果が縁起する。
因も果も仮設されただけ。
この縁起・無我・空・仮設が分かんないと仏教をキッチリ説くと、
矛盾に聞こえる。なぜなら、本質や自性が自立的にあると思っているから。
それこそ法我に他ならない。
986 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 21:59:23 0
987 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 22:33:00 0
仏教は運命論ではなくて、運命開拓創造論だよ・・・!!!
ヨーガ行唯識学派と言う仏教の完成形態がそれだよ。
988 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 00:37:11 0
まだスレがありましたね。
>>979 的確なご説明ありがとうございます。
簡潔ですな。
>>980 中観、唯識論は密教にとっても大前提のはずですが。
989 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 00:52:19 0
990 :
877:2010/03/28(日) 02:33:48 0
>>979 う〜ん、難しいですね
ぼちぼち勉強してみます
有難うございました
991 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 06:20:08 0
>>988 運命ではないよな
大前提ではないな。共通するものがあるだけで必要条件ではない。
君の知識が狭くて偏向してるだけだよ。
天台、真言、チベットと特に唯識は学ばないぞ。
992 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 06:40:10 O
なんかの新興宗教か?まあ、どうでもいいが
>>984 >>業果は他生(無関係な他者から生ぜられたもの)となるでしょう。
>>それは、業果が縁已生法(縁って起った法)であって、
>>自生(自身から生ぜられたもの)ではないからです。
>矛盾してるように読めるんですが・・・
私の方便力だと説明が難しいのですが、
自生や他生や共生というのは、「svabhAva(svaは自己、bhAvaは存在・体・性)」
つまり「自存在・自体・自性」が無ければ不可能なのです。
そして、非自己における自己同一性/自性、それが他存在・他性です。
ですから、もし自己同一性そのもの、つまり自性が不可能ならば他性も不可能です。
自存在と他存在が不可能ならば、両者から生ぜられることもありえません。
そして、もし自性=他に因待(依存)しないもの(『中論』15.2)が可能ならば、
業果は諸縁を待たずに結果し得るでしょう。そのようであれば果は任意となるのです。
つまり、諸縁に縁って業果が起るということは、自性としては生じておらず、
自生(宿命論)・他生(偶然論)・共生(宿命且つ偶然)・無因生ではないのです。
>>993補足。
業果が自生であるとは、自存在・自体・自性から生ぜられたものであること。
他生であるとは、他存在・他体・他性から生ぜられたものであること。
どちらも自性が無ければ不可能です。
また、
>>985さんが仰るように、果は無論、因も必ず縁已生法=空法なのです。
>>988 ありがとうございます。
996 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 08:34:57 0
>>993-994 おお! いいレスですね。これが分かれば仏教は誤らない。
私の見解で補足させていただきますと。
〜である、〜でないと捉える〜の部分が自性・本質と言われ、
これは仮設では世間の言葉使い通り、あるがままだけど。
それは空、実体のない仮設であり、『中論』15.1の対論者と想定される
有部のように仮設ではなく自性が三世に渡って永遠不変に実在すると捉えると、
本質的に縁起ではなくなるというのが『中論』15.2の
永遠不変の自性で、中観派も仮設の世間の言葉使いとしては
自性、つまり〜である、〜でないと言う時の〜という意味、内容、対象としての本質を
あるがままの世間で流通する適当な意味で認めてます。
認めなければ会話もできず、教えも説けませんから。
自生も他生も共生も無因もないという四句分別は勝義の話です。
つまり、四つの論理的極限という言葉使いが働かない世界を、
縁起は示し、同時に因果という世俗も示すという、
縁起はほんとうに素晴らしいものだと思います。
なんだか変な展開・・・
しばらく見ていなかったから、わからないけど、
自演というのは本当なのかな・・・
999 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 09:46:14 0
ていうか同じ人が自己レスしてるとしか思えない。
仏教が自己主張してどうする
>縁起はほんとうに素晴らしいものだと思います。
縁起は、ほんとうに素晴らしいもの?
縁起は、あたりまえの事実でしょ。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。