何故、人を殺してはいけないのか?PartV

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399GEN ◆MWwfLbUq6g
>>396
>ただし私には、前者の不全を後者が補完している、という偏見がある。
前スレでも少し触れましたが、私は「理性とは生物としての人間の可能性を著しく増大さ
せたとともに、本能を抑圧し極小化させた。つまり、人間は理性に依存する事で可能性を
広げた分、本能に刻まれているものを、理性で読み取らねば理解できなくなってしまった。」
と考えます。

人間は何かを”理解する”というプロセスを”理性”や”知性”、つまり論理的または抽象的言語
に依存していると考えられると思います。(すいませんあくまで私の感覚的な物言いですが。)
もちろん「体で理解する」とか「感得する」とか「悟る」なんてのもあるのでしょうが、こと社会性の
高い事柄について「理解する」というプロセスは、言語に依存すると言っていいのではないでし
ょうか。そういった言語による理解は、言語によって共同体内に於ける他者との認識の共有性
(コミニケーション)を高めるには、とても効率的であり人間にとっては不可欠なものですね。
しかし、言語というものは、いかに論理的であり明確であっても、常に誤謬をはらみ曖昧であっ
たりもします。おそらく言葉とは、それによって顕れた事物については雄弁であっても、言葉以
前にあるものについては、語りえぬ領域があるのだと思います。

例えば「自然の摂理」という言葉も、実際何を指している言葉なのか非常に曖昧ですね。
言葉にしてしまうと、「それは一体何か?」という”言葉による回答”を求める思考が働いてしまう。
しかし、言葉はそういった事柄の構造を示す事は出来ても、本質自体を表すことは出来ない。

このスレで語られている事や哲学による問い(回答)の多くは、「物事の本質を探究する」と言
意味に於いてはある意味で無意味とも言えるのでしょうね(無意味とは思いませんが)。
ミミズの嘲笑・・・。

「何故、人を殺してはいけないのか?」という問い(言葉)の答えは、不文律に本能(自然)に書
き込まれているのだと思います。人間はそれを理性(言葉)で読み取り、理解し、表し、共有しよ
うと試みる。でも本質自体は決して語れない。そういった意味では、ある意味無意味な事ですが、
人間と言う知性を持った社会的な生物には、有意味であり大切な事なのだと思います。
400考える名無しさん:2009/11/05(木) 23:36:32 0
■GEN >55-56 GENは平下流に挨拶しつつ登場している/GENは前スレで「元ヴェテ参上」をどう捉えていたか
     >58   ピクセル君に「論じてる範囲内では全面的に同意」

■ピクセル君 基本スタンス >339 ←へのコメント >374
         前スレPartUの998に、ピクセル君関連の全レスアンカーまとめあり
         >4,6,52 前スレ後半で「ワードとピクセル」で仕事ができる男を気取り自滅
         http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1256541459/1-3,14  重複スレ立て
         >314,318,319-320,324,329,338 文脈という語すらまともに扱えない
401カオル:2009/11/05(木) 23:42:44 0
>>127
はじめまして、ゲンさん。
むずかしいお話しはよくわかりませんが、 
それでもよければ、よろしくお願いします。