何故、人を殺してはいけないのか?PartV

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391考える名無しさん
厳めしく考えないならば、善悪とは生物が追求すべきものと否定すべきものの事だろう。
追求すべきものと感じれば善、否定すべきと感じるものは悪。
まさに主観的な感慨だが、所詮人間は他人と知覚を共有できはしないし、
客観を直接感じ取るわけでもない。自分の主観と他人の主観が完全に一致する事は無い。
各個体の主観こそが善悪の根源であり、それが言葉になり、記述となり、掟ともなる。
392ザイン:2009/11/05(木) 08:18:03 O
はじめてネコと意見が合ったな
わたしも「善悪」「正義」は言葉なくしてありえないと考える

が、共同主観的な価値観ではなく、客観的な価値観であると考える

「客観」と「共同主観」はまるで正反対だ

客観←→主観←→共同主観

こうやって見ると、客観主義というわたしのスタンスが少数派なんだろうね
393ザイン:2009/11/05(木) 08:29:44 O
・「自由」について

「自由」という言葉を端的に表現する次のような言葉がある
「あなたがこぶしをふりまわす自由は、彼の鼻が存在する自由によって制限されている」

表現を変えれば
「あなたがナイフを振り回す自由は、彼が存在する自由によって制限されている」

「あなたが殺す自由は、彼が生きる自由によって制限されている」


しかし、次のような疑問が生じる
「なぜ、お互いのこぶしを振り回す自由が最大限にならないのか?」
「あなたの鼻が存在する自由は、彼がこぶしを振り回す自由によって制限されている」
「あなたが生きている自由は、彼が殺す自由によって制限されている」

「自由」が、このような形で表現されないのはなぜか?
394ザイン:2009/11/05(木) 08:39:49 O
GEN

善のイデアなんぞ哲人王ぐらいにしか知ることはできないでしょう
が、それが存在するということはわかる

さて、「善」がなければ「悪」もない
善悪の区別がなければ、多様な価値観を比較、検討することもできない
それはケダモノの世界だ

ヘレン・ケラーは言葉を理解するまでは、ただの獣のように生きてた
ただやりたいことをやるだけの生き物
欲望に従えばそれだけでよかった
食べたきゃ食べる、排泄したけりゃ排泄する

言葉を理解し、理性による節度をもった生き方に変わった

言葉はかくもすごいものだ、とわたしは感じる
395考える名無しさん:2009/11/05(木) 08:49:42 0
善悪を追求すれば欲望のままに他人を顧みなくなるかといえば、そうはならない。
ヒトには他人の喜びを我が喜びとし、他人の苦しみを我が苦しみとする機能が具わっている。
ミラーニューロンのはたらき等による共感などがそれだが、これによって自らのみに利がある欲求を
押し通す事で他者が傷つく事を生来的に嫌悪し、そうした行為を悪と見なす。
こうした事の蓄積が善悪とういうものを形成していく。
ただし相手に非を認めた場合などでは、共感ははたらかなくなるようになる。
もしくは正義感に駆られた場合などに。正義の美名の下になされた虐殺は
端から見れば悪であっても、当人達にとってはこの上ない善行だと感じられたに違いない。
勿論この至福は盲信しきれなかった者には与えられなかっただろうが。
主観毎に善悪はあるが、客観としての善悪は厳密に見れば無い。
が、曖昧な見方をするならば(条件を制限するなどすれば)・・・
396333:2009/11/05(木) 09:52:16 0
>>389
図式化しすぎたかもしれない。「本能は壊れている」といった俗説に
囚われて「人間は脱・本能(構造)的存在」との見方に固着していた…

ヒトは自然と言語(理性)の両義性を生きているのだろう。
ただし私には、前者の不全を後者が補完している、という偏見がある。
(しばしば、その配分を過ってしまうのだが)

が、>>385や69氏が指摘するように、ヒトを支配しているのは“自然”
なのかもしれぬ。禽獣の同種の殺し合いや共食いに、ある種の“理”
がみてとれるように、ヒトも含めて動物は大いなる暗黙知(摂理)に
抱かれているのかもしれない。

しかし、こう言ってしまえば、殺人をはじめ一切の“悪”は摂理に
解消されてしまう。これも客観主義だが、ザイン君とは対蹠的な、
いわば善/悪を無意味とみなす立場である…




397333:2009/11/05(木) 10:22:55 0
>>394
言葉は節度もたらす反面、“過剰”の源泉でもある。言語は分裂している。

ファシズムやスターリニズムの暴圧、あるいは自由の護持(正義)を名目に
した戦争…、これらで幾人が虐殺されただろう。すべて言語の所産である。
禽獣の言語なき殺し合いにこそ、むしろ節度を指摘できる。