マルテイン・ハイデガー Martin Heidegger W
1 :
Sein :
2009/10/22(木) 21:15:51 0 『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
でも、日本語版全集は訳者の一部分も認める トンデモ訳語方針により、あるのに使えない残念全集に!
3 :
考える名無しさん :2009/10/22(木) 21:33:51 0
やくざ
マルテイン(笑)
5 :
考える名無しさん :2009/10/23(金) 21:37:14 0
>1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ >そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 べつに木田に関係なく、当時から通説だったのでは? > 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。 全集はべつに木田の仕事と関係ないのでは? そもそも木田がハイデガーに関して(一般向き解説書以外に)とくに重要な仕事をしたとも思えないが。 >現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。 かりにそんな事実があるとしても、そもそも問題にするに値するのか? >吉本隆明幻想論との近接性。 だれがそんなこと言っているの? なんの関係もないと思うが。 概して1はハイデガーの位置づけが通俗的すぎて、ハイデガーの哲学的意義と無関係に思える。
ここまでテンプレ
7 :
考える名無しさん :2009/10/23(金) 21:49:14 0
そんなことより、そもそもハイデガーってなにか意味あるの?
8 :
考える名無しさん :2009/10/24(土) 09:30:51 0
9 :
しみ :2009/10/24(土) 09:33:11 O
あるよ
まあ、
>>5 みたいなのは、
ハイデガーが構造主義だと思い込んでるから、
逆に誤解してしまう。
素直に木田元を読めばわかるよ。
一般的な、自称ハイデガー読めてる人の言う、 『真のハイデガー像』ってのは、大体何個か特徴がある。 ・木田元の仕事を別に大学教授でも無い名無し(=素人)が批判 ・実存主義に傾きそうになったら直ぐに批判する名無し(=分析好きの為) ・結局、『転回以後のハイデガーは言語に目覚めて分析好きになったよ』的な結論にこじつけ こんなところだろう。
で、この分析が持って行きがちな 『自称ハイデガー読めてる人の真のハイデガー像』ってのは、 結局は、ウィトゲンシュタインの前期/後期の勝手な転写に 過ぎないのだが、残念ながら、ネットで一般的に流布しているのは、 このハイデガー像だ。 残念ながらね。
13 :
考える名無しさん :2009/10/24(土) 22:46:56 0
純一氏の話の論旨とはずれるかもしれませんが、木田元さんの本にもウィトゲンシュタインが ハイデガーの「形而上学とは何か」に理解を示していたことを示す弟子の回想が引用されていた。 実際、なにげにウィトゲンシュタインの本をひもとくと、所々にハイデガーを想わせる着想に出 会うことがある。『哲学的文法』に次のようなくだりがあります。 《3.文章の経験について、語ることができる。「私は単にこれを言っているのではない。言うことで何 かを意味するのだ。」われわれが言葉を意味するとき、われわれにおいて何が進行しつつあるのか、 われわれが熟考するとき、何かが言葉に伴っているかのように私たちには思える。そうでなければ その過程は無為である。われわれにおいては、言葉を意味することは何かと関係しているかのよう だ。》 《9.だが解釈とは記号と遭遇することで与えられる何かである。他でもないこの解釈、なのである 。もしも「いかなる文でも、一つの解釈の必要性においてある。」と言わねばならないとすれば、それ はこういう意味である。乗り手なしで解釈される言葉などない。》 これらにもしも時間、歴史の問題を足せば、まさにハイデガー的な領域に近くなる。しかしそう はならなくて、というところがこの人の思考だったんだろうと思えます。久しぶりにウィトゲン シュタインの言説を辿ったが、やっぱりこの人の視点は面白いな、と思いました。
14 :
考える名無しさん :2009/10/24(土) 23:00:52 0
上に引用されたウィトゲンシュタインですが、3.は以下のように書き直します。 《われわれが言葉に意味を託すとき、何が起きているのかを熟考するならば、われわれには、 言葉に連れ添う何かがあると思える。そうでなければそれは何にもならない。われわれに おいて、言葉は別の何かと関係しているかのようだ。》
でも、ハイデガーやってる人って頭いいんだろうかぁ
鳴門
17 :
あめのみやつこ :2009/11/15(日) 18:06:15 0
「存在と時間」のなかに「遠投」が出てきたが精神と時間の関係は精神の真ん中に由来する。 精神の中心とは時間そのものを意味する。時間は赤から黒に変化する場合点綴される。 点綴するばあい時間は制約を受けてなる。制約は宇宙の統覚によってなっている。では 宇宙の統覚が成されたときに悪いことが起こるのは何故か?それは時間が早まるということである。
18 :
考える名無しさん :2009/11/17(火) 01:36:16 0
プロテイン
19 :
教えてくれ :2009/11/18(水) 13:08:53 0
ハイデガーってどこが面白いんだ? 『存在と時間』はわりあい丁寧に読んだ(ところどころはドイツ語で)し、 木田はもちろん轟までも通読してみたが、どこが面白いのかさっぱりわからない。 カントやフッサールは(べつの意味ではニーチェとかも)ふつうに面白いと思うんだが…。
>>19 講義録読むと良いよ。哲学史に切り込むハイデガーの思考の面白さがよく分かる。
「ニーチェ」とか「シェリング講義」とかオススメ。
木田はもちろん轟までも
シェリング講義のクライストについての形容が泣けた
23 :
考える名無しさん :2009/11/23(月) 18:02:40 0
「ニーチェ」読み始めたが面白くないぞ! ニーチェ自身のほうが遥かに面白いぞ!
最初は美学の話だしそのへんに関心ないとね カント趣味論の存在論的解釈とかそれをプラトンに 繋げていくとことかわりと面白い
ニーチェ自体で面白いと思える人には、あの講義はつまらないでしょう
26 :
考える名無しさん :2009/11/24(火) 00:34:11 0
ハイデガーのニーチェ論というのは、ニーチェの力への意志を形而上学の完成として捉え、そこで 或面までは、近代の批判としては共感しながらも、最終的には敵と見なさざるを得ない、その辺の 思想的分岐線を読み取る必要があるでしょう。力への意志と、自らの有論を対決させた記録として 読める。で、ニーチェの力への意志というのは、読む者をして虜にし、離れられなくなる魔力という か、麻薬性を持っていると思うんです。人間の考える哲学の、最終的な場所のようにも見える。実際 、あれを読むと、そう思えてくる。これが真理だと。ハイデガーはその力への意志が自分の有論と どうクロスするか、あそこで考えた。ニーチェによる批判に同意しながらも、ギリギリで訣別する 、その共感と訣別が、現代人にとっての切実さと重なるものだった。そこでやっぱりハイデガーの 『ニーチェ』が古典になってる。力への意志というのは、現代人を絡めとる魔力であり、誰も逃げられ ない。避けられる人間なんていないわけです。国家も、企業も、知識人も、つまるところ、それに 帰着してしまう。個人もね。ハイデガーがニーチェのそういった魔力にどう対峙しているかが一つの 見所でもあるでしょう。
クロソウスキやドゥルーズのニーチェ理解だと、 ニーチェに対して批判的視座を持つことが不可能になる、 そういう論述の在り方になっていたね。 80年代以降の日本流ポストモダニストはそうしたニーチェ理解の罠に、 自分からはまり込んで嬉々としていた。 ハイデガーの「ニーチェ」はそういうポストモダンのニーチェ理解から 距離を置く切っ掛けになるんじゃないかと。
28 :
考える名無しさん :2009/11/25(水) 00:28:12 0
前にも書いたことだが、唐沢寿明の『白い巨塔』てあるでしょう。唐沢が演じた財前五郎という人 物、あれこそ力への意志に取り付かれた人間の姿であって、あらゆる存在は力の増大のための素材 なわけです。ニーチェはいう。 《すべてのものは偽である!すべてのものは許されている!》《すべての意味は権力への意志である 。(すべての関係的意味は権力への意志のうちへと解消されてしまう)》 これらは気味が悪いほど財前五郎の内なる哲学に合致する。で、ドラマの中で財前はガンで死ぬ が、現実社会には無数の財前五郎がおり、ドラマと同じく、誰も彼の台頭を止めることはできない 。財前的なものはすでに『権力への意志』の中にあり、つまり、あらゆる解釈は、力の高揚か衰弱か 、を基に判断されなければならない。財前的な存在は、すべてが力への意志に貢献するか否かで 判断される。ニーチェはいう。 《世界は無限に解釈可能である。あらゆる解釈が、生長の徴候であるか、没落の徴候であるかなの である。》 財前的な存在に支配されてゆく時代、というとあのドラマを持ち上げ過ぎかもだけどw、あの脚 本家はハイデガーとニーチェの関係を読んだのか、と疑りたくなるくらいに『権力への意志』的だ ったと思いますね。
ローマ字打ち「ィ」を出す方法をそろそろ誰か
>>1 に
教えてやるのだ。
30 :
27 :2009/11/25(水) 02:57:44 0
>>28 こう書くと、お前もドゥルーズと距離とれてないじゃん、と言われそうですが、
ニーチェの「力への意志」はもっと不定形な、社会秩序内での
パワーポリティクス的な枠組みとは無関係じゃないかと思うんですが。
ドゥルーズやクロソウスキのニーチェ理解の問題点は、
そういう社会秩序の枠組みを超えていく運動としてのニーチェを語った結果、
ニーチェのテキストを再検討する枠組みすら放棄してしまって、
ニーチェをまるでフィクションの中の人物のように軽くする。
そして日本のポストモダニストはその「軽さがいいんだ」と
そのニーチェ像にしがみついた。
ハイデガーのニーチェ対決は、ニーチェをテキストを読む、とことんテキストとして考える、
その姿勢において素晴らしいですね
31 :
考える名無しさん :2009/11/25(水) 09:36:47 0
そうかね。 どこまで読んでもつまらんが。 ついでにいえば、ドゥルーズやクロソウスキも少しも面白くない。 ニーチェそれ自体は百倍も千倍も面白いのに。 なんであんなにつまらなく出来るのかね。 渡辺二郎の『ニーチェ』がいちばんよかったよ。 引用だけだから。
単に理解できてないだけでしょ。 読めないんだから、無理に読まなくていいよ。
33 :
考える名無しさん :2009/11/25(水) 10:25:14 0
愛人を持っている文学者はなぜか許せるけど 愛人を持っている哲学者は絶対許せない
34 :
考える名無しさん :2009/11/25(水) 10:28:55 0
存在と時間について質問です。 “存在者の存在は、それ自体一種の存在者「である」のではない。” という言葉がいまいち納得できません。 木田元によると、存在は存在者を存在者たらしめるものなのだから、 それ自体は一個の存在者ではありえない、という理屈なのだそうですが、 でも、そのような「存在者を存在者たらしめている何か」に対しても、我々は「ある/ない」と言えるわけですよね。 およそこの世のあらゆるもので、「ある/ない」という判断から逃れられるものはないと思います。 そして、そのような判断の対象になりうるものはすべて存在者なのではないでしょうか? なぜ「存在者を存在者たらしめている何か」だけが、特別扱いされなければならないのでしょうか。
>>34 >、そのような「存在者を存在者たらしめている何か」
>に対しても、我々は「ある/ない」と言えるわけですよね。
その通り。だから、ハイデガーが問題にしているのは、
何に対しても「ある/ない」が言えてしまうという認識のあり方そのものなわけ。
「ある/ない」で物事を捉えたことそのものが逃しているものはないのか。
全てを「ある/ない」の二分法で語ることはできるのか。「ある/ない」で捉えた
瞬間に認識から逃れるものはないのか。
「存在」の次元では「ある/ない」では語れない「/」が問題になっているともいえる。
というのも「/」を「ある/ない」で語った途端、さらに説明しなければならない上位
レベルの「/」が出てきてしまってどこまでいっても語りきれない「余り」が出ること
が分かる。いわば、その「余り」がハイデガーが問題にしている「存在」です。
36 :
考える名無しさん :2009/11/25(水) 11:05:08 0
>>35 なるほど。
ハイデガーの問題意識は理解できました。
ただ、やっぱり納得しがたいと思うのは、
そのような”「ある/ない」といえてしまう認識そのもののあり方”や”余り”に対しても
やはり「ある/ない」と言えてしまうという事ですね。
「存在者を存在において規定しようとしてもその規定自体が存在者になってしまう。
そのような、どこまで行ってもキリのない循環性こそが存在のありかたである。」
というような言い方だったら納得できるんですけども、それを
「存在は存在者ではない」と言い切られちゃうと、それはおかしいだろうと思っちゃうんですよね。
なんだか恣意的に循環性を断ち切っているような気がして。
>>36 言い換えると、存在をつねに存在者としてしか認識できない人間の有限性が問題になっている。
つまり、いつも存在を存在者に落とし込んで把握してしまっているわけ。
そういう有限性のなかでは、存在「そのもの」は認識不可能だけれど、この「存在」が
「そのもの」としては捉えられない次元があるなにものかであるということ自体は
理解はできるでしょう。ここでは、次元の違いが問題になっているのであって、
そう理解できれば「存在は存在者ではない」は全くおかしくはない。
>>37 変なところがあった。ちょっと訂正。
×「そのもの」としては捉えられない次元があるなにものかであるということ自体は
○「そのもの」としては捉えられない次元にあるなにものかであるということ自体は
39 :
考える名無しさん :2009/11/25(水) 13:28:58 0
>>37 人間の認識の外にあるものだから、人間の認識によって「ある/ない」と判断できない、
そのようなものが「存在」なのだ、という事ですかね。
こういう風に言葉にしてしまうと、相変わらず「ある/ない」の対象になってしまうわけだから、
本来なら言葉にもできないわけですね。
想像することもできない。想像しちゃうとそれも「ある/ない」と言えるから。
そういうわけのわからんもんだという事ですね。
そうなってくると、これはもう感覚的に納得する/しないの話に思えてきます。
そういう理解であっているでしょうか?
>>39 >これはもう感覚的に納得する/しないの話に思えてきます。
>そういう理解であっているでしょうか?
違う。
感覚的な問題ではなくて、存在者的にしか語り得ないという人間の有限性が、
存在の次元を要請するのだということは論理的に理解できるでしょ。
感覚的に納得できるかできないかは関係がない。
後は『存在と時間』をよく読んでくれ。ハイデガーはこのことを
このうえなく正確に語り尽くしている。
41 :
考える名無しさん :2009/11/26(木) 00:30:34 0
『哲学への寄与』、久しぶりに開いてみたんだけど、やっぱりいいですね。本人による説明がやは り一番解りやすい。改めて気付くのが、ハイデガーにおける真理という概念の特異で、通常の哲学 でいう真理概念と違い、実存的な開性、ハイデガー的にいえば有の開性のことを指しているんです ね。開性というのは鍵概念で、現有のことを、彼の開示性のことだ、とハイデガーは『有と時』で明 言している。あと、有・Seynというのは気遣われるべきものであり、気遣うことが為される場合で も、「有るもの」扱いされたり、空虚な表象とされたりする、としている。(『哲学への寄与』477-479 頁)というより、有・は気遣われないという必然を考えるべき、ということになる。つまり、有が 有るものとしてしか考えられなくなる、という事態をハイデガーは視界に入れている。当然とい えば当然、でもあるでしょうが、流石だと思えますね。
42 :
考える名無しさん :2009/11/26(木) 20:19:25 0
たしかにハイデガーを含めてニーチェについての本はあまり面白くないとはいえる しかしその理由はニーチェが本質的に文学だからだと思う 説明する言葉を撥ね付ける力があるからだろう いわば音楽評論が音楽の感動を生まないのと同じことだろう ハイデガーといえども単なる一評論家にすぎない 評論としての出来はよい方だと思うが ニーチェ自体の方が「百倍も千倍も面白い」のはやむをえないことだ
43 :
考える名無しさん :2009/11/26(木) 20:59:37 0
ニーチェについてならハイデガーなんかより、 バタイユとか別の意味ではシェストフなんかの方がよく捉えているのではないか。 ハイデガー(やその圏内の人々)は何か本質的に的外れのような気がするんだが。 根本関心事がずれているのに無理に自分の中に引きずり込んで論じているような。
ディオニソス的という初期のニーチェのキータームから考えても、 ヘラクレイトスといったプラトン以前のギリシャの思索と、 プラトン、アリストテレス後の哲学の変化を考える軸から ニーチェと対決していくハイデガーのニーチェ論が 「根本関心事」からずれているとは、とても思えないんだが? むしろシェストフのほうが自身の関心事に ニーチェを矮小化して引き摺りこんでいると思える。 ハイデガーは、「論者自身に都合よく解釈できるようなニーチェ」から ニーチェのテクストを切り離す試みをまず試みていて、成功しているにせよ失敗しているにせよ 「面白い」「詰まんない」という枠組みで読みを終わらせていい水準ではないと思う。
45 :
考える名無しさん :2009/11/26(木) 22:37:59 0
バタイユは? 一部42の言う意味での音楽になっているように思うが。 音楽には(音楽評論ではなく)音楽そのもので応えてほしい。
46 :
あめのみやつこ :2009/11/26(木) 23:05:41 0
ハイデカーの「倦怠」は分離個体化の未分化のさい 時間に余裕のないうさぎの話になるがルイス・キャロルの不思議の国 では存在はトランプのスペードではなくハートのQになるわけであって 時計の針が12を点していようが35分のところにミスタードーナッツ があろうがどうでもいい話になるのである。したがってルイス・キャロルは 三つ葉のクローバーに他ならない時計は相も変わらず12のところを点している。
47 :
あめのみやつこ :2009/11/26(木) 23:14:37 0
さしておもしろいことはないのだ。12の所に針があるというだけのことだ。 能く読んではいないのだ。フランスのブルボン王朝が低学歴でもよろしいかな? ブルボン王朝が裏で手を引いていることが4つあった。ひとつはフスが引き金になって 起きた戦争もうひとつは黒死病いわゆるペストであるがフランス人というのはかねがね思うのだが どうも黒死病のように後ろに影のように張りつくのが得意らしい。かのアルベール・カミュは ほうれん草を山ほど食べたと誰が言ったか?とにかく時計の針をもとに戻そう。 そうなるとルイ16世のところではなくイングランドのヴァイキングのはなしに移行することになる。
48 :
考える名無しさん :2009/11/27(金) 00:50:31 0
ハイデガーの『力への意志』を中心としている。で、私もちくま学芸文庫で出てる『権力へ の意志』(上下)は読んだが、ハイデガーの読解はテキストに忠実であり、あれが近代的 人間のモデルとして取り上げられる理由はテキスト自体にある。別にハイデガーはこじつ けをそこでやった訳ではない。あの作品の時点の境涯を忠実になぞったに過ぎないことは 『権力への意志』をかじれば分かる。何度でも言えるが、こじつけはそこにはない。自分と 近い方法を認めながら、しかし紙一重でズレがあり、それがあることで、近代的人間のモデ ルを提示することになった。その困難はよく掴まれている。ニーチェが踏み込んだ場所が 果たして何だったか、あれだけ軽やかな思考をもつ思想家が、最後に遺した大作がそれだ った、というところに、ハイデガーは引き付けられた。あくまでそこに拘ったのはだから でしょう。
49 :
考える名無しさん :2009/11/27(金) 04:05:43 0
『寄与』のどこが面白いかわからない。フィガールがいうように、 あれはただのメモだ。学問的価値などない。いい加減なことを書くな。 ハイデガーのニーチュは面白くない、という意見は良く分かる。 精神で書いているからだ、肉体がないからだ。しかしニーチェは、 肉体を欠いては面白みが激減する。ハイデガーは音楽も知らない。 絵も知らない。文学も知らない。ギリシアについては狭隘な知識しかない。 女を論じることもない。わかるかね、所詮講談哲学者だ。 ニーチェのようにアカデミーの外側でのたうちまわる経験をしていないので、 ザインザインというだけで、世界を語った気になるのだ。 君たちはそうなるな。でなければバカにしかなれん
50 :
49 :2009/11/27(金) 04:08:09 0
48よ、お前は自分の言葉に酔っているのか。 もう少し整理して書け。あるいは、中身のないことは書くな。
52 :
44 :2009/11/27(金) 12:20:30 0
49さんの描かれているような
「アカデミーの外側でのたうちまわった」ことをその思索の後ろ盾と
考えるような読まれ方が、多くのニーチェ論の素地にあるんだろうね。
で、「論者に都合よく読まれる」
ニヒリズムの歴史的な生成過程へのニーチェの的確な分析が、
情緒的な予言(シュペングラー)と混合され、疑似科学(進化論者)に流用される。
>>45 バタイユは興味深いですね。
実のところ、「コントルアタック」でユンガーが言及されているの読んで
「哲学への寄与」をバタイユならどう読んだろうか、と気になってしまった。
ニーチェ理解に関して言えば、アフォリズム形式でニーチェに答える、
ニーチェのように答える、ということをバタイユはやろうとしているように見え、
そしてそれは高いレベルにあると思うんですが、
ハイデガーのようにニーチェと「対決」はしておらず、
そのために「狂気」から妄想されるニーチェ像にしばしば偏りがちになっているのではないか。
「非-知」の理想モデルにされていて、ニーチェを教祖化する危険持っていると思いますね。
53 :
考える名無しさん :2009/11/30(月) 01:00:18 0
ハイデガー『哲学への寄与』最初の方に以下の文があります。 《時として、底無しの深淵を基づけるあの者たちは、守護されたものの炎の中で焼き尽くされな ければならない。それは人間にとって現ー有が可能となり、そのようにして有るもののただ中 での存立性が救済されるためであり、有るものそれ自体が大地と世界の戦いの開けのなかで 回復を経験するためである。 この結果として、有るものは、有・の真理を基づける者たちの没落を通して存立性の内へと 突き入れられる。》(創文社版11頁) 次に、バタイユの「ヘラクレイトス的瞑想」という文をみると、以下のようなくだりがあります。 《私は、戦争の中でしか解消され得ないような、仮借のない運動と激烈な興奮ーその可能性には 限界がないーのことを思い描く。私は、どこの誰とも分からぬ女神が、無言の荒々しさで、血と、 切り刻まれた肉体と、死とを渇望しながら、夜の中に踊るのを思い描く。》 ここでバタイユは戦争と言ってますが、彼のいう戦争とはいわば血や肉の贈与、蕩尽であり、 そのようにして存在の個体化を侵犯し、深淵に応答するという意味をもつ。そこが、『哲学への 寄与』における性起 Ereignis と近い。そう読めることで、横断線はあると言えるでしょう。 バタイユがニーチェをどう読んだか、ですが、バタイユはニーチェの中の外部性を専ら取り上 げることで、あるいはニーチェ自体を外部だとすることで、ハイデガーのように形而上学の完成 とせずに済んでいる。問題は、にも拘わらず、ニーチェを現代社会は己の正当化の原理として 消化しているのではないか、という点にあるのではないかt思います。
>>35 から導き出された、存在者ではなく、存在を
ハイデガーはどう考えていたのでしょうか?
存在者と存在の違いは分かったつもりなのですが、その存在は
どのように問題なのでしょうか?
デカルトは「我思う故に我有り」と言いい、存在者が確立した、
それに従って存在も成立すると見えるのですが、ハイデガーと真逆
になるし。この場合唯一嘘でない存在者って意味にもとれますが?
55 :
考える名無しさん :2009/12/01(火) 00:38:33 0
まさにその、何で存在(有) Sein が問題なのか。難しいけども、ハイデガーの鍵概念を考える ことで見えてくるものがあるんじゃないでしょうか。例えば『存在と時間』だと、宿命、有限性、被投 的企投、世界、等がありますね。人間が自己として有ることの操作不可能、一人の人間とは、何者に でもなれるわけではないこと、言い換えれば、可能性は有限であること、可能性が有限、というの はあの本の鍵だと思いますが、何故なら、有限性であることで、同時に一人の人間が取り換え不能 であることも指示されている。で、単に有限であるだけでなしに、歴史的に有ることがそうさせる 、ということも重要で、で、それらの命題というのは、人間が孕む謎を指示してもいる。『存在と時 間』にもある、宿命 schicksalですね。どこかで人間が<予め>を抱えて生きている、その面を指示 してる。色々書きましたが、要するに、生の構造に迫ることは、必然として、意識の至上性を転倒させ ることに行き着く。デカルトの命題は、《我、有り。故に我思う》に転倒されなければばらない、とす る。これは第43節 現存在、世界性、および実在性 の(b)存在論的問題としての実在性 に書いて ます。この部分はハイデガーの立場を哲学史的に、特にデカルトとの対照で浮き上がらせてるんで はと思います。存在というのは文字通り、ハイデガーの場合、一人の人間にとっての実在、何が真理 か、を可能にする領域なんですね。言い換えれば、真理は存在が開く、熟す、そのことなんだという 。この辺りが現代思想と絡むんでしょう。ハイデガーの場合、人間というのは歴史において、神を 創造し、かつ自ら神たろうとするが、少なくとも理性の担い手である人間はいつか終わる、と考え ていたんじゃないか。人間という概念よりも存在 Sein が根源的だとは考えていたでしょうね。
56 :
54 :2009/12/01(火) 01:13:22 0
>>55 おもしろいですね。僭越ながらやはりハイデガーも歴史を重視しているように見えます。
ニーチェも、理性を問題点に上げます。
彼の根源は力意志ですが、これでは形而上学とハイデガー
なら切り捨てるかもしれませんし、そうかもしれません。
それでも彼は明解に言います。
それは彼の思想は増幅すること。ニヒリズムはその顕著な一例でしょう。
他にも超人なども増幅という点では、ニヒリズムとは兄弟みたいな者
に見えます。
しかし、理性(ニヒリズム)が、超人と大きく違う点、
それはより小さく増幅しようとすることです。
これは兄弟でも真逆です。つまり如何に小さくなるか。
ゆえに彼の明解さに好感をもってしまうのです。
57 :
考える名無しさん :2009/12/01(火) 11:26:09 0
こういう論理性のかけらも無い文をダラダラ書くから ハイデゲリアンはバカだと思われるんだよなあ。 増幅とか小さくとか意味不明。
58 :
54 :2009/12/01(火) 13:18:25 0
>>57 すまん。
しかし、君の知識に従って論理的に説明する責任は私にはない。
しかも私は君に興味はないとおもう。
59 :
54 :2009/12/01(火) 13:19:34 0
>>57 すまん。
しかし、君の知識に従って論理的に説明する責任は私にはない。
しかも私は君に興味はないとおもう。
60 :
考える名無しさん :2009/12/01(火) 23:10:47 0
説明できないくせにえらそうに言うな
61 :
考える名無しさん :2009/12/02(水) 00:38:35 0
存在ということで最近、ジミヘンの伝記映画のDVD版みたんだが、映画で使われなかったインタビ ューも多数使われてて、ジミヘンて生前から、自分のバンドメンバーにさえ理解されてなかった、 それは凄すぎて、てことでもあったろうが、とにかく音楽衝動は皆の手の届かないところにあった 。周囲からみても特別だった。で、唯一、父親だけが、ジミヘンがああいう生き方して、死に方した 訳を、感ずいてる。それでいて、公の場で言う必要ないから、と言わない。一個の生がいったい何な のか、という謎ってやっぱりあるな、と改めて感じた。ハイデガーが提示した有と時というのは、 存在の謎めいた部分を構造化して提示してみせた。存在に迫る方法でもあった。あれは作家論の 方法でもあると思う。
ハイデガー、否定神学的と揶揄されますが、 個人史や数学的な計測では接近できないものに対して、 「詩の言葉」でのアプローチ試みますね。 そうした謎を語れない領域とサッサと見切りつけて取り上げない 否定神学批判論者が退屈なのは どこまで接近できるか?を言語化できないままに離れていく 当人たちの自己認識と違う、論理的徹底性のなさ故でしょうか。
63 :
考える名無しさん :2009/12/09(水) 23:38:08 0
ハイデガーを否定神学的と読んだことは僕はないんです。ハイデガーを自己の思想形成の足掛か りにしたデリダは否定神学的だと思いますけどね。ハイデガーの論理は『有と時』に関する限りク リアだと思うし、時の概念も、曖昧さは感じません。 河出書房新社の『道の手帖 ハイデガー』というのが書店で出回ってます。そこで高田珠樹という 人が以下のようにしゃべっている。 《現存在は、日常生活への埋没から脱却して、孤立した後、あらためて、今まで何となく漫然と生き てきた世界に立ち返り、その中で作用し、その世界を可能ならしめているさまざまの可能性を、 先人達から自分に託された使命、遺産ちして背負い受ける、という段取りになっています。》(12頁) 高田がここで持論の拠り所にするのは『有と時』第74節 歴史性の根本体制だと思われる。上のよ うに読むことで、本来性の問いが、ゲルマン民族至上主義に陥った、と高田は言いたいのである。 しかし、第74節 での本来性の議論というのは、現有が己における既在の可能性を本来性として 反復する、という箇所なので、反復しようとするのはあくまで、現有自身の既存の可能性なので、 ドイツ民族における英雄を選び、反復する、というような論法はない。ちくま学芸文庫『存在と時 間』下巻327頁にこう訳してある。 《既往的な実存可能性を本来的に反復すること、すなわち、現存在がみずから己の英雄を選ぶこと は実存論敵には、先駆的覚悟性にもとづくものである、》 ここで、《現存在がみずからおのれの英雄を選ぶことは、先駆的覚悟性に基づくものである。》と あることが、高田のような解釈を生むのだろうが、ここでの他のセンテンスをみれば解るように、 ここでハイデガーが反復の対象としているのは、現有の有限な可能性、しかも、現有自身により、 《善きもの》(同324頁)とされるものである。ここで高田は、ハイデガーのナチス加担を理解した いがゆえに、ハイデガーの変わらぬ主題、歴史に差し向けられる存在、という概念を落としてしま った。
専門用語で内輪遊びして楽しいのかな、とハイデガースレを見るたび思う きちがいじみてて面白いから見てるけどね
65 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 00:04:38 0
同じインタビューで高田はまたこうも言う。 《現存在が運命として歴史生起するとき、同時に民族の共同体も歴史生起するのだというのです。 だから、われわれが何もしなくても、自分達が属する民族とか共同体というものがそれ自体とし て在るのではない。われわれがそれを背負い受けようと決断し、運命としてそれと一体となること を選択することによって、初めて民族も現存在の前に民族として立ち上がってくるのです。》 これも『存在と時間』第74節の実際に記述とは違う。ハイデガーはそこで、こう書いている 《個々人の運命は、同一の世界の内での相互存在において、そして(現存在の)特定の可能性への 覚悟性において、初めからすでに導かれていたのである。》 これを読むと、ハイデガーのここでの共同体の掴み方は、個体が敢えて共同体に加担することが なくとも、現存在が己の有限な可能性を反復する途上で、相互性として導かれる、という掴み方だ と分かる。してみると、高田珠樹の言うような、民族への加担の必要性などこの本のどこにあるの か、疑問が湧いてくる。
66 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 21:12:11 0
高田のこのような解釈は、一見尤もらしいし、『存在と時間』はやはり民族精神の書なのだと思わ せがちである。しかし、よく読めば、この第74節は至るところに《死への先駆における己の最も固有 な際立った可能性》《反復とは、われわれが述べたように、己を伝承的に付託する覚悟性の様態であ って、現存在はこれによって、あからさまに運命として実存するのである。》といった、単独的思想 が散りばめられ、後の引用によれば、現存在において、己に伝承されるのはやはり己、すなわち、己 の被投性としての可能性である。つまり、高田珠樹の話と対照すると明らかだが、高田はこう言って いる。 《…「死への先駆」を通じて、現存在は、日常世界への埋没から脱却して、孤立した後、あらためて、今 まで何となく漫然と生きてきた世界に立ち返り、その中で作用し、その世界を可能ならしめている さまざまの可能性を、先人たちから自分に託された使命、遺産として背負い受ける、という段取り になっています。》(『道の手帖 ハイデガー』12頁) 高田のような解釈を許すかにみえる箇所がある。こう書かれてある。 《それは、かつて現存していた現存在のもろもろの可能性のなかへ還帰することを意味する。既往的 な実存可能性を本来的に反復すること、すなわち、現存在が自ら己の英雄を選ぶことは、実存論的 には、先駆的覚悟性にもとづくものである。》(ちくま学芸文庫版327頁)
67 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 21:58:29 0
かような言葉遣いを以て、高田の言うように、《先人たちから託された使命、遺産として背負い受 ける》とする解釈は誤りだと思う。ハイデガーはこう書いている。 《現存在は、被投性において、己自身と己の存在可能に委ねられているが、それはどこまでも世界= 内=存在として委ねられているのである。》(ちくま学芸文庫版323頁) 《覚悟性は、沈黙しつつ不安を辞せずに、己の負い目ある存在へ向かって自己を投企することとして 規定された。それが固有の本来性を帯びるのは、先駆的覚悟性としてである》(同322頁) 己の既往の可能性に還り、それを反復するのがハイデガーのいう本来的企投であり、それを可能に するのは現存在の時間性である。また同時にそれは現存在における関心 Sorge である。それらは 言うまでもなく実存的概念であり、単独的なものだ。そこに高田の指摘するような、《先人から託さ れた使命》というような、民族精神の高揚を志向する力動はない。この本の当初からの主題にここで も沿っている。
68 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 21:59:28 0
かような言葉遣いを以て、高田の言うように、《先人たちから託された使命、遺産として背負い受 ける》とする解釈は誤りだと思う。ハイデガーはこう書いている。 《現存在は、被投性において、己自身と己の存在可能に委ねられているが、それはどこまでも世界= 内=存在として委ねられているのである。》(ちくま学芸文庫版323頁) 《覚悟性は、沈黙しつつ不安を辞せずに、己の負い目ある存在へ向かって自己を投企することとして 規定された。それが固有の本来性を帯びるのは、先駆的覚悟性としてである》(同322頁) 己の既往の可能性に還り、それを反復するのがハイデガーのいう本来的企投であり、それを可能に するのは現存在の時間性である。また同時にそれは現存在における関心 Sorge である。それらは 言うまでもなく実存的概念であり、単独的なものだ。そこに高田の指摘するような、《先人から託さ れた使命》というような、民族精神の高揚を志向する力動はない。この本の当初からの主題にここで も沿っている。
なにこれこわい
新興宗教の教えみたいだねw 厨二造語ばっかりで。
71 :
考える名無しさん :2009/12/11(金) 00:59:32 0
下らない揶揄はいいから、せっかく『道の手帖 ハイデガー』ちくま学芸文庫『存在と時間』の頁数 まで引用してるんだから、高田珠樹が正しいのか、私が正しいのか、判定してくれると面白いと思う。
おもろないわー
73 :
57 :2009/12/11(金) 01:59:38 0
ハイデゲリアンの最も腐った部分が出てますねえ くせえ
74 :
菊 :2009/12/11(金) 12:58:43 O
梔
全く論理的でない反論について、判定してくれと言われてもねぇ・・・
76 :
考える名無しさん :2009/12/11(金) 22:08:50 0
分かりにくいようなので論点を整理します。高田珠樹が『道の手帳 ハイデガー』で語る話によれば 、ハイデガーのいう本来性とは、ゲルマン民族精神であり、それを現存在が己に伝承することである 。すなわち《先人の声に耳を傾ける》ことである。高田が典拠としているのは恐らく『存在と時間』第 74節 歴史性の根本体制 である。この節を私も読んだが、ここで語られる本来性とは、己において 己の生の始源から継承している「善きもの」を知り、己に伝承することである。この伝承は、時の成熟 とともに将来から来る。よって本来性とは、己の生から差し向けられる「善きもの」を選びとる伝承 である。ここでは、「先人の声」はひとまずは関係ない。 言い換えると、高田の説によれば、『存在と時間』に既に、民族精神の継承という課題は展開されて いる。伝承とは民族の声の伝承である。となる。私はこの節をそのように読むべきではないと主張 。しかし高田は当然なように自説を語る。してみると、この74節とか、実はほとんどの人に理解さ れていない可能性も感じた。いかにハイデガーのいう本来性が解りにくいかの証明だろう。
77 :
考える名無しさん :2009/12/12(土) 00:33:42 0
高田珠樹は先のインタビューでこうも言っている。 《私は、ハイデガーが言う「良心の呼び声」とは、基本的に死者からの呼び声だと思うんです。死者の 呼び声は、同時にまたハイデガーを使者として呼び出す。「私たち死んだ者が民族の使命をお前に 委ねているのだぞ」という呼び声が聞こえてくる。本の中では「それは呼ぶ」という言い方で、何を 語り掛けるのかとか、具体的なことはあくまで、括弧に入れたままに語られるのですが、この「それ」 というのは、あの時代ですから具体的にはとりわけ戦死者の声、英霊の声だとおもうんです。》(『道 の手帳 ハイデガー』13頁) ここで高田は良心の呼び声の《具体的なことはあくまで括弧に入れたまま》と語っているが、ハイ デガーは、既往の現存在にあった可能性にたいして応答し、反復する、それが呼び声だとする。 やはり、高田は不用意さで先のような発言をしていると思う。
78 :
考える名無しさん :2009/12/12(土) 01:03:18 0
そもそも存在の超越的性質を最初に指摘したのはアリストテレスで、 ハイデガーの存在論はその上に成り立っているわけだから、 先人の声と言うのをゲルマン民族に限定する理由は全然ないよな。
全然ないとは言えない。 単純に切り捨てるのも、限定するのと同じくらいアホ
ハイデガーほどの偉い先生がゲルマン民族とか言い出すわけがないじゃないですか きっと誤報ですよ たとえ本当でも時代に強制されて無理やり言わされたんですよ
そもそもホロコーストなんて捏造だしな ユダヤ人にハメられた可哀想なハイデッゲル先生
82 :
57 :2009/12/12(土) 03:37:18 0
上のバカはハイデガー自身がVolkという言葉を『存在と時間』の 当該箇所で使っていることをどう理解しているのか。 あ、バカだからドイツ語読めないかwww
日本の右翼に統制派と皇道派があるように、ナチにも親衛隊と突撃隊があって、 ハイデッガーは突撃隊の方。 ただし、彼の思考はギリシア語とドイツ語とラテン語のハイブリッドだから、 単純な見取り図を想定してもズレてしまう、、、、 (晩年は東洋にもかなり興味を持っていたようだ)
>ギリシア語とドイツ語とラテン語のハイブリッド はぁ〜?
ハイデガーのリップサービスと良くあるオリエンタリズムを「東洋への関心」と真に受けるのはさすがにどうかと・・・
ハイデガーがナチである、ということから、 ハイデガーへの批判が、あらかじめ答えの決まった、矮小化した水準で 安心して完了される読み多いですね。 「決断」も「無底」「跳躍」もナチズムへのアンガジュマンの枠組みの中でしか思考されない。 ハイデガーは哲学をなにか有用で使い勝手のいいものとして考えられるのを拒絶していましたが、 いまやハイデガーを、ファシズムの存在論的規定づけとして、 ファッショ批判のために有用に活用する形で読む、 そうした形の読みが推奨されてきているよう思います。 ヒューマニズムの重力がいかに大きいか、改めて感じるのですが。
まぁでも逆に日本人だとナチ関与をまるで無視する人も多いけどね。 「哲学的には」大したことじゃないとか言って。 ヨーロッパじゃ考えられないお気楽さ。
88 :
考える名無しさん :2009/12/13(日) 02:39:24 O
アメリカ政府唯一のユダヤ系閣僚モーゲンソーの尽力で、 アメリカがユダヤ人難民の受け入れを開始したのは1944年。 それまでは国務省の反対で出来なかったそうだ。
それがどうかしたの?
名前が好きなのさ。 「モーゲンソー」。
>>87 それにしても、「ナチ関与」への批判の根拠探しのようにハイデガーを読んでいき、
たとえばレヴィナスのハイデガー批判に触れて、安心して身を委ねてしまっているような
怠惰なヒューマニズム回帰はどうかと思えます。
ナチ関与を無視するのでなく、
かといって問いを素通りして、自身の倫理規範から来るあらかじめあった
答えを再確認するような読みでもなく
ナチ関与を問いとして考えるような思考なされるべきなんでしょうね。
92 :
考える名無しさん :2009/12/13(日) 22:54:07 0
>>82 そのVolkという言葉だが、
『存在と時間』の文脈ではそれほど本質的な意味があるようには読めないのだが。
デリダは精神という言葉をピックアップしたが、ハイデガーの本来的という言葉がナチスに繋がる。 だからナチスとの関係はハイデガーが反共産主義者である限り必然的だ。 政治と哲学は実践と倫理の問題でもあるからプラトン以来続いている。むろん今も。
94 :
考える名無しさん :2009/12/14(月) 15:29:13 0
こと『有と時』に関する限り、高田珠樹のあのインタビューでの指摘とは実際は異なり、民族とは 自覚し主体的に選択しないかぎり、存在しない、という言説は書かれていない。細谷訳よりも辻村 訳で、そのことはよく出ている。どこを読めばいいかというと、創文社版『有と時』566頁、節でいう と第74節である。そこでこう書かれている。 《諸々の個々の<現有の>運命は、同じ世界の内に共に相互に有ることと一定の諸可能性へ向かって 覚悟を決めて開かれて有ることとに於いて、初めから既に導かれているのである。》 つまり、高田が当然のように指摘するような、主体的選択がなければ民族の歴運はない、のではな く、 《その<すなわち、個々の運命と運命んとの相互の>伝達と闘争との内で、歴運の威力は初めて自由に 解き放たれるのである。》 つまり、全員一丸となって主体的に民族精神と一体化しなければ本来性はない云々、とはどこにも 書いてはない。元々、本来性それ自体、既有の、だが覆蔵された諸可能性を反復する、というところに 重点がある。その選択の契機は個体における時熟にある。個体における時が熟すことが、覆蔵されて いた諸可能性を開けて行く。そこに本来性の萌芽がある。つまり時熟による到来的=既有的の概念 が本来性の図式になる。そこには過去を意固地に固守しなければならない、という平易な記憶主義 はない。ただ、ハイデガーが己の拙い共同幻想にむけて、これらを利用したことはありうるでしょう 。つまり、ファシズムか、スターリニズムか、という選択を痛感し、改編した可能性。だから彼はナチ 加担後、二つは同じ根をもつとみなし、双方否定する。そこからがハイデガーの戦後の始まりだった 繰り返すと共同体の歴運についてのハイデガーの思想とは、個々の現有が己の可能性に覚悟を決め て開かれること、そのことが、歴運を自由に開くのだ、とする。言い換えれば、共同体と個体の位相の 差があり、媒介なしに一丸ではありえない。
>>93 過去に起こったことの因と果を見つけて「必然的」とするのはたやすいんだが、
遡及的にテキストの意味を現在からみた結果に沿って当てはめていくような
読みは単純化じゃないか?
高田あたりが行っているのは、原因探し、答え探しが、
結局テキストから離れてなされている恣意だが、
そういう恣意が「他者性」を根拠づけにして大手を振って広まる危険に
無自覚な状況生まれてきている。
なんでマルテインなんだ?
誰も指摘しないんだけど高田珠樹氏の解釈は30年代中盤の ヘルダーリン講義や『芸術作品の根源』あたりのお話をムリヤリ 『存在と時間』に結び付けてナチス参加がどうちゃらの流れに してしまってるだけでしょ? そこらへんの時期のVolkがどうとかの問題を『存在と時間』に 投射してナチスとの繋がりが〜ってのはわりと広く受け入れられ てる凡庸で恣意的な解釈の一つだと思うんだけど
98 :
考える名無しさん :2009/12/14(月) 20:51:08 0
ハイデガーは最後まで党員としてふるまった。党員番号もはずさず、 金も払い続けた。それにハイデガーが否定したのはファシズムではなく、 アメリカニズムだ。彼は共産主義と民主主義の間という地政学的位置から ドイツについて考えた。が、そこからファシズム以外の何が生起するのか。
龍樹の伝言
100 :
カズイスチカ :2009/12/16(水) 17:07:38 0
ラスコーリニコフラスコーリニコフラスコーリニコフラスコーリニコフ!
101 :
カズイスチカ :2009/12/16(水) 17:11:01 0
ラスコーリニコフラスコーリニコフラスコーリニコフラスコーリニフ!
102 :
カズイスチカ :2009/12/16(水) 17:13:13 0
ラスコーリニコフラスコーリニコフラスコーリニコフラスコーリニコフ!
103 :
考える名無しさん :2009/12/16(水) 17:14:55 0
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である
サバンナのライオン
>>98 今現在の歴史的知識を前提にした、ハイデガーのナチズム加担への非難は、浅薄すぎる。
ヒトラーは崩壊したドイツ経済を再建し、ヴェルサイユ体制を打破し、失業者には仕事を、軟弱な
国家には強大な軍を再建した。
ハイデガーならずとも、過半数のドイツ人は、鳩山民主党を選んだように、ナチスを選んだのだ。
当時の状況下では、おれだって支持するさ。
それが悪いとは謂えまい。
ヒトラーが、ポーランド侵攻の前に突然死したら、ヒトラーを悪く言うドイツ人はいなかった。
ハイデガーのナチス加担はちっとも悪くない。彼の哲学と、ナチス加担はあまり関係ない。
106 :
考える名無しさん :2009/12/16(水) 23:41:50 O
「先駆的覚悟性」ってのは、余り言い訳したがらんね。
105はさすがにネタだよね?
>>105 そこで小泉でなく鳩山が出て来るのは小泉がヒトラーとは違う
傀儡独裁者だったからに過ぎないだろ。
105wwwww
>>108 宣伝戦の巧みさでは鳩山は小泉を超えたな
日本の哲学者思想家で鳩山支持なんて山ほどいるだろ
現存在の‘現’とフッサールの言う超越論的主観って何が違うの?
語られる文脈が違うが単純にフッサールは認識論的にそう言ってるのであって ハイデガーは存在論的にそう言ってる
113 :
考える名無しさん :2009/12/17(木) 23:18:48 O
>>110 芸能みたいな色物関係は相変わらず小泉利権に染まってるだろ。
宣伝するにも質が違うんじゃないか? 実のない劇場型バラエティ政治は
飽きられたんじゃ?
114 :
考える名無しさん :2009/12/17(木) 23:28:37 O
>>111 フッサールが超越論的現象学を言い始めたのは第一次大戦で
19世紀の合理主義的な進歩思想が瓦礫の山になった後ではなかった
かな? フッサールは19世紀の遺産を充分整理出来ないまま
終わった感はある。
115 :
考える名無しさん :2009/12/17(木) 23:47:41 O
ナポレオンが大英帝国の虜囚に終わって時代のリーダーシップが アングロサクソンの手に渡った。その上にダーウィンが革命的な 世界観を提出してカトリックの聖書世界が一気に権威を落とした。 大陸ヨーロッパはその後に従った挙げ句に瓦礫の山になり、 合理主義的進歩思想に幻滅した。ドイツではキルケゴール、 フランスではパスカルが読まれるようになった。合理に代わり、 非合理が蔓延した。ヒトラーが登場した。
ナポレオンの思想がパスカルに類縁性があるのは19世紀前半から 半ばを生きたフランスのサント=ブーヴが既に指摘していたらしい から、フランスでパスカルが読まれ出したのはナポレオン時代への 郷愁があったのか知らん?
>>114 フッサールは確かに惜しかったね
しかし、形而上学のリミットを示したことには意義がある
ハイデガーはフッサールよりも明らかに思考能力が低いのに
無駄なことをやっていた
「存在と時間」なんぞ、19世紀の哲学水準で語っている凡庸な本だ
ハイデッガーがフッサールに弟子入りしたのは、 第一次大戦が終わった年ではなかったかな?
日本の戦前の思想界にはハイデッガーの直弟子は多かったように、 ヨーロッパの影響は強かったから、彼の地の精神的動揺の波は 日本にも伝わった。 明るい近代は終わり、神話的超国家主義と疑似アジア主義の帳が 降り始めた。脱亜入欧から大東亜共栄圏の時代に移行した。
120 :
111 :2009/12/18(金) 00:50:28 0
レスありがとう すっきりした
121 :
考える名無しさん :2009/12/18(金) 01:00:58 O
いえいえ、午後11時45分頃、関東東海地方で世の中が揺れました。 伊東市で震度5です。
122 :
考える名無しさん :2009/12/18(金) 01:09:03 O
そういや、関東大震災は1923年だから、ヨーロッパに付き合って 瓦礫の山になったのか知らん?
123 :
考える名無しさん :2009/12/18(金) 01:37:25 O
哲学って身近な話題だと思いませんか?
本と2ちゃんだけが友達さ
125 :
考える名無しさん :2009/12/18(金) 08:48:50 0
ハイデガーは真理とは存在の真理といって、存在を歌うことに意義を見出したんですか? これは仏教の悟りに近いものがありますか? 結局現代哲学というのは仏教的真理に近づくのですか? 必ず良いとは言えませんが、仏教はすごいと思うんです
>>124 なるほど世の中というのは浅はかな場所だな。
世間虚仮唯仏是真だ。
>>125 八正道とかハイデガーとは全然関係なくね
八正道を含む四諦説とかショーペンハウアーとはほとんど同じだと思うけど
先駆的覚悟性について論じてる時のハイデッガーは四諦に 近いものを抱いてないか?
129 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 00:03:31 O
現象学の本質は反形而上学であるかも知らない。現実の認識が 観念に先立つという意味で。そういう反形而上学性は『存在と 時間』の頃のハイデッガーにも影響されている。
フッサールのベクトルは確かに反形而上学のように思える しかしハイデガーは間違いなく形而上学だよ
131 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 00:29:50 O
影響している、の間違い。 『存在と時間』を真面目に読んだら知ってるだろうが、 冒頭付近で形而上学の流行に距離を置く発言をしてる。 『存在と時間』は存在論的リアリズムとでも言うべきか知らん。 ナチ党に入党してフライブルク大学学長に就任後に書かれた 『形而上学入門』の頃のハイデッガーとは明らかな態度の 違いがある。
ナチズム肯定で悪名高い『形而上学入門』なわけだが、『存在と 時間』では全く関心を持たれなかった言語論が入って来てる。 フッサールから遠ざかるほど言語論的転回が強くなる。詩人に 傾倒し、戦後に書かれたヒューマニズム書簡では、ついに「言葉は 存在の家」とまで言っている。 『哲学への寄与』は『形而上学入門』の翌年だ。
現象学は「汝、幻想を刻むことなかれ」かな。
134 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 00:53:29 0
135 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 00:57:17 O
真面目な話してんだぞコラ
>>133 ハイデガーが19世紀中頃の哲学者なら評価できるよ
しかし実際は現代の哲学はだった
そういう意味では言語論的転回もソシュールの『講義』が読まれていた時代だから
ハイデガーに対しては、厳しい評価をせざるを得ない
なぜここでソシュールw
結局、哲学の問題は「言語の問題」にたどりつく 20世紀後半から現在に至るまで「言語の問題」が哲学最大の問題となった ハイデガーは残念ながらそこの入り口付近までしか到達できなかった ハイデガー哲学の限界だな
140 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 01:24:52 O
アンカーの落とし方が良く分からんが、現象学抜きのハイデッガーの 解釈学を戸坂潤が単に言葉の説明だと切り捨てたのは正しかった と思う。
フッサールの弟子で考えると メルロ=ポンティ>>>デリダ≧ハイデガー といったところだな
言語哲学に関して言えば 丸山圭三郎>ハイデガー だからな
忠誠度はね
144 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 01:32:50 O
薄味が好きなんだろ。
人生の謎と格闘する言語学者ってのも面白そうではあるがね。
格闘(笑) 対決(笑)
>>146 仲原孝「ハイデガーの根本洞察」昭和堂2008年6月10日9975円より
「存在への問い」を追い続けて、ついに究めることができなかったハイデガーは、後期にいたって
は道元の思想と親和性を持つにいたった。(op.cit.680)
「時すでにこれ有なり。有はみな時なり。」道元「正法眼蔵」
「存在の真理」=現存在の生は「つかのまの滞留」である、という「存在の無常性」は日本人には
馴染みのある考え方だが、西欧人は馴染みがないらしい。
仲原氏の683ページの大著を読みつつ感じたのは、「意味もなく生まれさせられ、つかのまの
滞留をなし、死んで、そのまま永遠に無となる、その生の理不尽さ」(中島義道)をきちんとみつめることなく、「存在」を新たな「唯一神」となすハイデガーの姿だった。「存在」が送り届ける運命とはなんなのか。ついにわからなかったにちがいない。
148 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 10:22:07 0
9975円。。。
小林秀雄が三木清との対談で言ってるんだが、近代科学は 学問を古典研究から解放した。 所謂、文献学って奴だが、ソシュールが共時言語に対して 通時言語というのはこれのことだろう。現代では言語学が 構造主義的なのは当たり前だが、その基礎を築いたのが ソシュールだ。 これがハイデッガーとどう関わるかだが、現代言語学は 言葉の構造をテーマにしても、基本的に言葉の意味に関心を 差し向けることはしない。 それが言葉によってしか語り得ないものであるにせよ、何事か 意味に関心を差し向けるのが哲学だとする立場からは言語学は 哲学とは言えないのではないか?
>>149 > 現代では言語学が
> 構造主義的なのは当たり前だが、
生成文法は構造主義ではありませんよ?
151 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 11:50:07 O
生成文法を云々する立場自体が構造主義的だろ。 ああ、苦しみたくない。意味なんて嫌いさ! 分かる分かる。
何を言ってるの? 構造主義にしても 少なくとも言語学において構造主義とよばれた手法においては 別に意味の消去など目指してもいなければ 方法論的にも排除できないんだけれど
153 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 11:56:44 O
消去出来ないから仕方なく取り扱うんでせぅ。
仕方なく? そもそも消去など目指してもいないんだけど、何言ってるの?
155 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 12:01:19 O
消去可能なら消去するのでせぅ?
要するに言語学が何をやっているのかも知らずに適当なこと言ってるわけね
157 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 12:13:27 O
一切の哲学は言語学に収斂する? 存在へのあらゆる問いが?
>一切の哲学は言語学に収斂する?
どこからそんな極論が出てきたんでしょ?
>>149 は二つの点で、現代の言語学について間違っている
>現代では言語学が構造主義的なのは当たり前
言語学で構造主義と呼ばれた手法は、むしろ衰退気味
>言葉の構造をテーマにしても、基本的に言葉の意味に関心を
>差し向けることはしない。
少なくとも構造主義的アプローチでは、意味と構造は切り離せない
この点で間違っていると指摘しただけ
159 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 14:31:08 O
近代主義的な地平の言語学の流行り廃りの話ではないんだって。 近代主義そのものが言語学を生んだということ。
哲学も言語に関心を持つが、それは言語そのものに真理が あるからではなく真理を探求する方途において言葉は如何 なる役割を持ち、或いは持たないかを明らかにしたいから。
161 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 14:59:06 O
かつて哲学は神学の奴卑と言われた。今では株式の奴卑にまで成長した。 我々は偉大なる存在である!
162 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 15:05:43 O
しかり、我々の背丈は株価とともに上下する! 何たる偉大! 何たる偉大!
呼び声を聞くことができるのは偉大な民族のみ。 すなわち、ゲルマン民族と大和民族である。とハイデガー先生はおっしゃっていたよ。
随分、安っぽいこと言うね。
165 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 20:17:02 0
現存在の生は束の間の滞留、というのはハイデガー的ではないですね。ハイデガーの場合、彼岸性 を問題にしていいとすれば、現有における有の開け、そこに堆積している歴史の地層が問題になる 限りのことで、であるから、人間と有・の<間>すなわち現-有が問題になる。単純な彼岸主義とはそ こが違う。有の開けとしての現-有がだから問題なわけで。言い換えれば、有が開く現 Da が問題 だった。本来性を問題にしたのも、何が有の開けなのか、自-立なのかを問いたかったから。ハイデ ガーの場合、東洋的な無常性とは無縁だと思う。もっと生にたいし積極的ですよ。ハイデガー思想は 。でなければ本来性などと言わないでしょう。まるっきり無常性に身を託すのではなく、どこかに 人間を判断する基準はある、本来的か否かを判断できる基準はある、それがハイデガーだと。“人間 なんて無常なんだから、本来性なんていっても仕様がない”というのではない。その手の無常観と比 較すると、ハイデガー思想が「生の理不尽」しか見い出さない哲学と違い、どこかに存在の意味はある 、今はなくとも、時の成熟が何かを到来させる可能性をみる、その辺が仏教的カオスとは違う。
「何か」が来る来る詐欺ですね、わかります。
167 :
考える名無しさん :2009/12/20(日) 02:19:12 0
仏教的カオスって何?
>>165 >東洋的な無常性
>仏教的カオス
新書で入手可能な『東洋の合理思想』と『インド人の論理学』をぜひ読んでほしい。
仏教が論理学であり唯物論であることがよくわかる。
169 :
考える名無しさん :2009/12/20(日) 18:30:32 0
仏教が論理学であり唯物論であること、を否定したいわけではちっともない。ただ、先の147レス とか読んでて、こういった論法というのは、つまり人間とは束の間の滞留、とかですけどね。そうい った論法や論理というのは、フランス現代思想的な、そこで展開された唯物論には似合ってるけど も、ハイデガー的ではなかろう、と言いたいわけで。というのが、先にあげた、人間とは歴史の地層 から差し向けられるものであり、それが開く場である。覆蔵された歴史と人間の交差が現ー有で あり、よって歴史のそのような非ー覆蔵としての真理を認めるか否かがハイデガーでは思索にお いて決定的な分岐線になる。それは、中島某の言うような、「意味もなく生まれさせられ、束の間の 滞留をなし、死んで、そのまま永遠に無となる」といった無常観とは違う。そういった思想とは違う 、と言ってるわけ。
>>169 >中島某の言うような、「意味もなく生まれさせられ、束の間の
>滞留をなし、死んで、そのまま永遠に無となる」といった無常観とは違う。
主旨理解しました。大旨同意です。
ただ、東洋思想に回収しようとする人は必然的に東洋思想の構造に自覚的にならざるを得ないので
この場合にはハイデガーという鏡は有効に機能すると思います。
問題なのは現象学、というよりも実存主義に回収する人でこれはあまり益がありません。
また、西欧思想ではキリスト教の別側面である神秘主義にこそその活力源であって、『哲学への寄与〜』などを
そうした視点で読み解くのも有効だと思っています。
(あくまで文献学的、哲学史的な理解が前提となりますが)
171 :
考える名無しさん :2009/12/21(月) 20:33:25 O
「言葉と意味」より「言葉と意志」の方が具体的か知らん。
172 :
考える名無しさん :2009/12/22(火) 00:32:49 0
ハイデガーを読み続けていれば、覆蔵された時の開けとしての現有、というテーマがあることは 容易に読み取れる。実は『哲学への寄与』でもそのテーマは踏襲されています。ただ、『哲学への寄与 』の場合、有の窮迫の中で自性化する有・が主題。でその有・とは比較を絶しており、言い示しも 不可能である。あの本の鍵は、有の窮迫だと思う。で、有の窮迫というのはまさの今のことで、である から、あの本の数多い解説書がやってる語源学にべったり付き合う必要はなく、ただ重要なのは、 有の窮迫というのはまさに今現在のことなんだから、今現在の社会の風景、街の風景、自分の家族や 知人とか、そういった風景を思い起こせば良い、それだけ読める本だと思いますね。私からみると、 あれは神秘主義ではなく、有の窮迫からみた風景、そこでの有・の突発的到来をやはり覆蔵された 歴史の開けとして位置付けたかったのだととる。そこは彼のいつものテーマとして。
173 :
考える名無しさん :2009/12/27(日) 15:06:11 0
フーコーが晩年のインタビューでハイデガーを若い頃熟読し、影響されたとたしか語ってますよ ね。フーコーの論文で「主体と権力」(1982)というのがありますが、そこで冒頭でフーコー自身に より整理されている主体化の3つの様式、というのを辿っていると、それはそのまま、ハイデガー が終生警告しつづけた、有の忘却を形態として整理した、という感がある。あの論文を読んでいる と、フーコーの研究した主体化とは、ハイデガー有論の外濠、という気がする。二つは並行して読め る。それによって、近代〜現代社会の暗部、見えない重要部分が浮上させられるのではないか。 善意や理性に訴え、自己を操作することを強い、すなわち主体化させる公共性。そういった近現 代の不可視な領域を浮上させられる。フーコーの主体化を念頭においてハイデガーを読む、という のが今必要ではないか。
フーコーは、初期論文「『夢と実存』序論」などでは明らかにハイデガーと距離を 置いていたが、後年は距離が近くなる。それはギリシア研究で語源学的なことを考 えればハイデガーの議論は無視できないだろうから納得できる。 アガンベンなどはハイデガーの反時代性、フーコーのアクチュアリティーを両方視野に 入れているが、美学寄りなので必ずしも充分ではない。 主体化に必要なのはあくまで経済的な分析だと思う。 だからハイデガーが、マルクス主義に対してある哲学的立場に無自覚的に 依拠したものだという批判は正しいが、充分ではない。 繰り返すが、主体化(ドゥルーズはギリシア人が現代人に替わって主体化 してくれる訳ではないと正確に述べていた)に必要なのは経済的分析だ。 ハイデガーの哲学には倫理が折り畳まれているので、経済的分析に倫理を導入 するには有益であろうが、、、、 カントの人間学に着目するフランス人(フーコー)とそこから存在論を抽出する ドイツ人(ハイデガー)とが、互いにジャンルを越えて交差するという視点は 面白いが、それもヨーロッパの経済交流があってこそありえたのだ、と思う。
175 :
考える名無しさん :2009/12/30(水) 12:41:13 0
174さんの話は一旦おいて、もう少し続けると、ハイデガーの技術論というのがあるわけです。 よく知られてる集ー立 Ge-stell というのがあります。モノの対象化と、対象化をする主体へ 向けての駆り立て。で、個体における自己知も私からみればそうである。で、集ー立は駆り立てる のみならず、駆り立てられたモノへの操作を強いていく。或は操作可能との観念を撒いていく。 対象化=操作という図式が撒かれていく。それがハイデガーが後期に出した技術論の根幹だと思う わけです。そういった図式に収まらないものはなにもない。フーコーが「主体と権力」冒頭で提起し た、主体化の3つの様式があるわけですが、その3つはそのまま、ハイデガー技術論の外濠になる。 両者を関係付けることがそこで必要だと思われる。フーコーはそこで別にハイデガーの話をしてる わけでは毛頭ない。にも拘らず、密接な関係がある。フーコーの話を総合すると、何らかの意味での 自己同一性の要請、その過程、そこでの排除や訓練・規律、それが自分の研究のテーマだったとし ている。フーコーの言葉を借りれば《「分割する実践」と呼ぶべき主体の対象化である。主体は彼自身 の内部で引き裂かれているか、他者から引き裂かれているか、どちらかである。》「善良な市民」を強 いる市民性が何なのかがそこで浮上する。フーコーはハイデガーほど曖昧難解な用語は使わない 分、問題がくっきりしている。存在とか言わないですから。しかし、両者は補足し合ってるのは確か だと思えます。で、非常に重要な問題を形成している。
176 :
考える名無しさん :2010/01/15(金) 05:10:48 O
『存在と時間』を理解しようと思ってるハイデガー初心者です。 単刀直入に聞きますが、この書が理解出来た時に世界感変わりましたか?
そのような質問をする姿勢が 常に既に哲学ではないのである
178 :
考える名無しさん :2010/01/15(金) 17:47:45 O
ではまず何をしたらよろしいでしょうか?
『存在と時間』を熟読するしかなかろう。 考える前に跳べ。
>>176 >「世界感変わりましたか?」
ハイデガーを読む前に、ハイデガーが強烈に自覚していたことを共感できなければ
、からだで実感することはできないだろう。
「自分という存在とはなんだろう。」「勝手に産み落とされて、そして、理不尽な世間
(世界)でその生を生き、無意味に理不尽に死んで、永遠に無となる。これはなぜ
なのか。」「時間とは何だろう。」
「時間と空間は直観の形式である(カント)とは何だろう。」などなど。君はこれまでの
人生で、これらのことに疑問を持ったか。自分の死を感じたことがあるのか。死の恐怖
のために、深夜ひとり震えたことがあるか。人間はみな死ぬ。「どうせ死んでしまう」は
中島義道氏の口癖だが、自分の死を想像すると、つまり、自分がこの世から消えてなく
なることを想像すると、本当に怖くなる。そして、この世の中で、すべての意味などないと
身体の底から実感する。何をしてもむなしい。なんでこんなに精神や身体を酷使して、
疲れ果てなければならないんだ、どうせ死んでしまうのに、と。
ハイデッガーは自分が死ぬであろうことを見据え、このように思索を始めた人のことを
「先駆的覚悟を決めた人」と言った。哲学はこの人たちのためにある。
君はどうか。
>>176 ハイデガー読むならその周辺も漁ってみるといいかもね。
オヌヌメはカント→ショーペンハウアー→ウィトゲンシュタイン(前期)。
そして絶望してみてはいかが?
>>176 多分、自分が元々わかっていることしかわからない。
ただ、読んで、その思考の入念さ、細心のド迫力には打たれる。
184 :
考える名無しさん :2010/01/17(日) 05:13:41 O
ハイデガーと親鸞とどっちがいいかな?日本人だし親鸞かな?
どこで比較してんだかさっぱりわからん
間を取ってスピノザ荘子
187 :
考える名無しさん :2010/01/17(日) 22:08:00 0
なぜ哲学板に古代ギリシャ、ソクラテス以前がないんだろ。 ニューアカとかサブカル系とか 戦後日本-西欧コンプ思想ばっか。
188 :
パラレルワールド :2010/01/17(日) 22:55:00 0
個人的な資料メモ:@ハイデガーには、病気で死にかけた若い頃の体験があるらしい。 続編となるはずの「存在と時間」以降の執筆を断念させたのは「ニーチェについて」の考察を経たことによるものと解釈できるだろう。 A古代ギリシャには、現代とは異なる政治体制(奴隷制)があり、哲学者の仕事と言えばワインを飲みながら屁理屈をこねることだった。 哲学者の中には、秘密結社のような教壇を結成する奴や、路上でセンズリをこく奴、浮浪者、変人等が自然に共存していたらしいという噂もある。 現代人が古代ギリシャの哲人の生活を真似ようとするならば、とりあえずヘラクレイトス風のライフスタイルあたりが参考になるかも知れない。
>>187 2chにフォアゾクラティカやディルタイ、京都学派など硬派を求める方が無理ある。
サブカル掲示板は浅田と東で自虐史観日本の哲学ゴッコw
アリストテレスのスレなどもあるよ
プラトン以降はハイデガー的には論外でしょ。
アリストテレスをプラトンによって失われたものへの回帰と見ていた時期もあるし アリストテレスの決定的な影響を考えたら、その言明は愚か過ぎる
194 :
考える名無しさん :2010/01/18(月) 08:57:35 O
『存在と時間』はドイツ語分からなきゃ真の意味は理解出来ないって本当ですか?
195 :
パラレルワールド :2010/01/18(月) 09:52:37 0
理由その@:例えば、『序論第二章第七節の[A]現象という概念』にもあるとおり、ハイデガーは語源に遡りながら論述を進めている。 それというのも、「ギリシャ存在論とその歴史とが様々の系統や紆余曲折をつらぬいて今日でもまだ哲学の概念性を既定している」という 認識があったからである。 日本語訳では、「存在」「有」「現象」「ロゴス」などと各用語が翻訳されているのだが、当然ながら西洋形而上学と同一の語源を日本語の伝統の中に見出すことはできない。
196 :
考える名無しさん :2010/01/18(月) 12:55:15 O
その2は?
197 :
考える名無しさん :2010/01/18(月) 13:53:09 0
>アリストテレスの決定的な影響を考えたら、その言明は愚か過ぎる それは一般的ななものでハイデガーに対する影響じゃないよね。
198 :
パラレルワールド :2010/01/18(月) 16:33:06 0
その2:語源学的なアプローチについては「形而上学入門(U章)」。 「我々は、この講義で絶えずギリシア人の存在把握まで遡るのだが〜この存在把握こそ今日なお支配的な西洋的把握であり、云々」 この講義の中でハイデガー自身「哲学とは、異‐常なことを異‐常に問うことである」と語っているように、 このテキストのような執拗かつ曖昧模糊とした「異‐常な」講義は語源的アプローチを抜きにしては成立しえないように思われる。
199 :
考える名無しさん :2010/01/18(月) 18:38:16 O
つまり訳された『存在と時間』は原文とニュアンスが違うので、ドイツ語を知らない者にとって完全には理解不可能という事ですか? ならばわざわざ大変な思いして和訳の『存在と時間』を読むのなら、むしろ『存在と時間』の注解書を読んでニュアンスを理解した方がマシですか?というかそれが理解出来る限界?
ハイデガーに関しては無理して和訳だけと格闘するよりドイツ語勉強して原文と照らしあわせた方が早いよ
201 :
考える名無しさん :2010/01/18(月) 20:39:55 O
数十年かかるな
202 :
考える名無しさん :2010/01/18(月) 21:03:06 0
なぜ宮台なんて隠れ左翼-電波学者を説明に入れるんだよ。 ハイデガーの格を下げるなよ1。 日本での後継者は木田と京都学派だろうよ。
203 :
考える名無しさん :2010/01/18(月) 21:03:06 0
本気でハイデガーなり読みたいならば、何とでもして読もうとする。200-201みたいな 議論はもういいよ。岩波の桑木訳は「です、ます」調が違和感があり読んでないが、現在入手 可能なその他の訳は問題ない。皆、それで文意を読み取ろうとしてきた。 もう一つ、ハイデガーほど著作や講義のなかで、哲学が大学などで科目化されていく事態 に異を唱え続けた人間はない。そういった学科となった哲学に学ぶ価値などないという立 場を固持した。彼は哲学入門とか形而上学入門といった講義をやったが、問題はそういった 名辞を真に受けてはならないという点にあり、それというのも、そのような名辞は仮のもの で、彼の重心は哲学や形而上学の入り口と出口にあったはずだからだ。すなわち以前と以後 こそが思索の重心なのであり、でなければ数多ある大学の科目と同じ、有るものとは何か、 に終始するしかない。それは現代文明に付いている尾ひれ以外ではない。前レスの人がハイ デガーの講義は異常だとか書いてるがそれはその通りで、何故かと言えば、いつでも無へと 開かれている。『形而上学入門』を持ってる人は序の1を開くといい。こう書いてある。 《なぜ一体、存在者があるのか、そしてむしろ、むしろ無があるのでないのか》 なんでこれが形而上学入門の冒頭なのか。なんでここから形而上学入門が始まるのか。 その意味を考えなきゃならない。それを考えないならこの本を“勉強”する価値などない 。「形而上学とは何か」ではこうある。 《根源的に無化する無の本質は次のことに存する、すなわち、無は現-有を初めて、有るも のとしての有るものの前へもたらすと。》 ハイデガーは<有る>を問うが、根源的な有は根源的な無と共属することも主張していた 。現-有が全体としての有るものを超越するのは無のうちへ己を投げ込んで保つからだと 。彼は『哲学への寄与』で有よりも根源的な有・Seynを書いたが、無と共属してのみ本来的 に有は可能である以上、根源的な有 Seyn が<有り損ないのもの>への殲滅をもたらすの も当然、ということだろう。その辺にハイデガーがナチスに何を期待したかも伺える。それ は一民族の殲滅でなく、一文明の殲滅のはずだったのだろう。
宮台については、北田暁大との対談『限界の思考』第一章 空虚な時代を生きる 二 アイロニー、 ロマン主義、そして社会学 の中の ロマン主義とは何か…83 「超越系」と「内在系」…97 で初期ギ リシア哲学の復権を試みた哲学者としてニーチェと並べて論じられている。多少、?というところ もないではないが、宮台自身の思想にたいし、大きな指針となっていることが伺われた。纏め方も 核心を衝いており解りやすいものである、という諸点からスレッド扉に挙げています。宮台のよう なタイプの評論家がハイデガーを取り上げ論じる。しかも核心で読もうとしている、というのが面 白い現象だと思え、注目はしています。僕は全肯定はしないものの、宮台はよく勉強しているし、 同じハイデガー読者として注目はしていますね。多くの2チャンネラーのようにバカにはしてませ ん。反対に、宮台を越えるのは難しいと思ってるくらいです。
宮台がまともに読んでるとしたらルーマンだろ。
ハイデガーへの言及など少ないし、
『存在と時間』の訳書をまともに読んでるかも怪しい。
北田との対談で述べている程度のことなら
テキストを読まなくても適当にでっち上げられる程度のことでしかない。
つーか、宮台の哲学史の知識など殆ど断片的でいい加減なものだぞ。
>>205 自身が不勉強だから、騙されてるだけだ。
207 :
考える名無しさん :2010/01/19(火) 03:33:00 0
宮台のハイデガー読みについてもう少し言わせてもらうと、一番の僕との違いは、本来性の読み方 だと思います。宮台の読む本来性とは、《ここではないどこか》です。『限界の思考』100頁に《彼の言い 方では「ここ」が非本来的で、「どこか」が本来的です。》とある。 ちなみに先にあげた箇所プラス、同書の 人間の理性は世界を覆えるのか…44頁 私たちが物事を まじめに考える理由…49頁 に、ハイデガーと初期ギリシア哲学と関連づけた話もあります。これは 通読して、非常によく読みといていると思えた。しかし、異和感がなかったわけじゃない。どこだと 言われると、宮台は初期ギリシアと関連づけて読む方法で、確かにそれによってハイデガーの核を 掴んでいる。しかし、ハイデガーの中にはそれだけでない要素もある。それは宮台がハイデガーの 思想として取り出す用語「超越」にも表れている。確かにハイデガーは超越を論じる。具体的には「根 拠の本質について」で世界の-内に-有ること In-der-Welt-Sein という重要タームと絡めて 論じている。ところが、そこを読めば分かるごとく、ハイデガーが超越をどう捉えているかというと 、有るものを越えて、世界へ向かう、言い換えれば本来性へ向かう、その構造として論じる。その背景 にこれまた『有と時』の重要タームである慮 Sorge がある。時熟 Zeitigung がある。そういっ たハイデガーによる超越の論じ方、世界の-内に-有ることの構造としての超越を読むと、「ここでは ないどこか」というよりは、自己性の突き詰め、自己とは誰なのか、への答え方だという感が強い。無論 、宮台が強調するような、「世界の根源的未規定性」へ開かれる、という面は明らかにある。有の地層 があり、精神に地層があり、深部には訳の分からないものがある、そういう洞察はハイデガーの重要 な部分である、だが、同時に、人間が自己を追い求める、という面もある。そこはハイデガーの中の 有の、Seinの幅としてある。宮台の場合、超越概念について、「根源的未規定」への開かれ、という面 に引き寄せてる、そこが特徴です。それは彼が社会学者だというところからでしょうが、そこで読ま れるハイデガーというのが、やはり社会学的で、ハイデガーのいう本来性というのは、もっとシンプ ルなもの、というのがあります。そこが異和感ですね。
208 :
考える名無しさん :2010/01/19(火) 07:21:39 0
>>207 ギリシャやハイデガーに対する発言は知ってるよ。
しかし実際現実のジャーナリズムでとってる姑息な立ち回り、
権力の犬ぶりはあいた口がふさがらないな。
言動不一致を見逃すわけにはいかない、
へタレというのは奴自身のこと。
マルちゃん・ハイデガー
210 :
考える名無しさん :2010/01/19(火) 11:33:17 O
皆さん哲学エライ詳しいですけど何者なんですか?(哲学的な意味じゃなくて)
忍びの者です
212 :
考える名無しさん :2010/01/19(火) 15:52:37 0
『限界の思考』に戻ると、個々の宮台の言い回しは解りにくいところがある。例えば<世界> の根源的未規定性に開かれる在り方を、初期ギリシア哲学と絡めて彼は推奨し、ハイデガ ーとも絡めるわけですが、これが何を指しているのか解りにくい。ある文脈では祝祭性の ように読め、またある文脈では個々の人間の入れ替え不可能を指している。?となるしか ない。ただ、よくよくハイデガーとの関連を考えていくと、ハイデガーにおいては世界とい うのは有るものの全体。それは宮台においても踏襲されており、かつ、世界が有限性や単独 性と一つである。そこも踏襲されている。となると、宮台がいう<世界>の根源的未規定性と は、祝祭性と同時に、入れ替え不可能性、つまり世界の入れ替え不可能性をも指すと考えて いいと思える。だとすると、このタームは何のことはないハイデガーと同一なわけだと分か る。ただ、ハイデガーが様々な著作や講義で別個に言ってることを一挙に宮台が言う。そこ が性急きわまりないし、<世界>という語ひとつとっても解りにくい。よく考えればハイデ ガーと同じことを言おうとしてる(笑)それも全体の道程を一挙に言おうとしてることが 見えてくる。ハイデガーのいう世界とは可能性として有限、つまり慮 Sorge は有限。か つ単独的。それが実存範疇としての世界の在り方である。ハイデガーにおける世界とは実 存と一つだと考えられる。宮台の場合、その辺を何故か言わない。言うとハイデガーと同じ で面白くないからか(笑)言わない。だけど根本的に同じラインだと思います。ハイデガー の思索に相当影響されてると思いますね。ただ先に言ったようにかなり性急だし、言い回し を変えてあるので、踏襲し切ってることは見えにくい。しかし実はかなり踏襲している。そ れは確かだと思う。
>>212 Du musst dumm sein!
214 :
考える名無しさん :2010/01/20(水) 03:37:59 0
213はドイツ語のできる人なんだろうが、英訳するとYou must be fool.で「お前はバカか」 と言いたいわけだろう。単語をみると、ドイツ語と英語って似てると分かるね。てバカじゃねえよ (近藤春菜風に)で、話はまた宮台とハイデガーに戻るが、前にこのスレだったか、宮台とハイ デガーを並べて書いてる人がいて、そこで、「宮台にはハイデガーほどの凄味はない」と書いていた 。今、『限界の思考』での論考を辿って、それを思い出してしまう。宮台という人は基本、啓蒙の人だ 。或は善導の人だと言ってもいい。人々を良き方角へ誘導したい。彼は自己をリベラル・アイロニ ストと規定しているが、アイロニカルに「敢えて」運動しようとする。その心情はあの対談から分か るが、その構えは先に書いたように、啓蒙家であり、また、思想への対し方も、ツールとして用いる のが伝わってくる。彼が語る内容はたしかにハイデガーを論じるが、だが、それも、どこかツールと してだと思える。その辺が現代っ子だと思うし、先のレスを繰り返せば、凄味では比較にならない。 最も本家?と違うのは、ハイデガーにとって、人間の行き末とはそれほど重要じゃない、それは彼の 講義や著作から伝わってくる。生き延びようが、滅びようが、本音ではどうでもいいんじゃないか と思える。重心は別にある。それは確かだと思える。人間は有の牧人、と彼は言ってたが、主題は有 Sein 、またはより根源的歴史を指す有・Seyn にある。そのような思索は、人間が善導されるた めのツールではない。善導できるか否かはどうでもよいことだ。そう考えていただろう。そこが啓蒙 家とは違う。先のレスを引用しれば、凄味が違う、というところだと思う。
宮台の話はもういいw
214さんの書いているのは宮台の話というより、 ハイデガーが現代日本でどう受けとめられているか、だと思う。
>>216 違うでしょ。どうよんでも宮台のローカルな話にすぎん。
で、宮台はどうでもいい。ホントにどうでもいい。
>「宮台にはハイデガーほどの凄味はない」と書いていた こういうことを取り上げること自体がどうでもいいなw
219 :
考える名無しさん :2010/01/20(水) 13:23:48 0
全国の院生、研究生で宮台の似非知ったか哲学論を5分で 論破できる兵がごろごろいるぞ。
では頼む、5分で。
221 :
考える名無しさん :2010/01/20(水) 17:18:23 O
院生のオヌヌメ哲学者教えて。 気になってるのが、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ニーチェ、フーコー、バタイユ。 初心者なので解りやすく、取っ付きやすいのお願いします。
222 :
考える名無しさん :2010/01/20(水) 19:04:57 0
カント、ヘーゲル
>>221 フランス現代思想は、反権力、血の気多い若者が飛びつきそうだが、
無視推奨。
ヒント:ソーカル事件
宮台を院生が論破できるかどうかはともかく、 (宮台はハイデガーや哲学史の「正確な理解」を考えてるわけじゃないから たぶん論破できないだろうが) 現代日本でハイデガーがどう理解され、流通されているか、デマゴーグされているか、は それこそその通俗化ぐあいも含めて気になるんで 214の文章は興味深かった。 ハイデガーめぐる現代の周辺事態を考えるのも たまにはいいじゃん、と思うんだか。 小野紀明の「思想」に掲載されていた「アリストテレス受容」も良かったんで 小野論文まとめられたのありがたい。
226 :
考える名無しさん :2010/01/20(水) 22:14:48 O
>>224 それポスト構造主義旺盛の時代の一部のなんちゃって哲学者でしょ?
フーコーのもそんな形骸化したような論文なの?
ニーチェ、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、バタイユなんかは関係なくない?
227 :
考える名無しさん :2010/01/20(水) 22:25:39 0
>>226 ドイツ系の哲学はいつの時代も論理的だよ。
フーコーはソーカルに直接攻撃されていないが論調は同様、
加えて構造主義受け売りだった日本のニューアカ世代も同様。
日本でハイデガーや京都学派、西田哲学があまり読まれないのは戦後左翼教育が関与してると思われる。
それは「論理」の用法が特殊ですね
>>227 偏見だらけだな。
フーコーは常に明瞭かつ明快。論理的な文章。ソーカルも批判できなかった。
ドイツ系の哲学でも後期のハイデガーは難解だし、アドルノはいわずもがな。
ドイツ系哲学でも、ドイツ観念論は、分かりやすい意味で論理的と言えるかは怪しい。
西田なんかも奇妙な文章で到底論理的な文章じゃないだろ。
230 :
パラレルワールド :2010/01/20(水) 23:03:26 0
「遊星的思考」を書いたアクセロスなどもあまり読まれていない。
おれがタイトル買いした本か
232 :
パラレルワールド :2010/01/21(木) 01:18:56 0
その他:和辻哲郎の「風土」の読者は、おそらくオギュスタンベルグしかいない。「風土」もまた、論理的ではない本なのだが 戦後「風土」が殆ど読まれなくなったのは、論理性に欠けているからではない。その理由はハッキリしている。
233 :
考える名無しさん :2010/01/21(木) 17:53:24 0
>>1 × マルテイン・ハイデガー
○ マルティン・ハイデッガー
>>229 >ソーカルも批判できなかった。
科学用語を用いてないから直接批判対象にならなかっただけ。
>>234 アホか。フーコーの歴史哲学の一端は、カンギレーム等のフランス・エピステモロジーの系譜に属している
のであって、事実、『言葉と物』や『臨床医学の誕生』『知の考古学』等、科学用語盛りだくさんだろ。
236 :
考える名無しさん :2010/01/22(金) 00:47:06 O
ハイデガーとフーコーって身長いくつあったか分かる? 二人とも超ガタイよさそうなんだが。強そう。
ハイデガー長身だったらどんだけ頭でかいんだよ
ハイデガーは割りと身長低かったような
239 :
考える名無しさん :2010/01/22(金) 17:53:20 O
皆さんが『存在と時間』を読んで何を思ったのか聞きたい。
240 :
考える名無しさん :2010/01/22(金) 18:11:30 0
イギリスの経済学者・ケインズの身長は198cm。 ウサマ・ビンラディンの身長は194cm。 ピョートル1世の身長は201cm。 エイブラハム・リンカーンの身長は193cm。 バラク・オバマの身長は187cm。
241 :
パラレルワールド :2010/01/22(金) 21:03:21 0
ウクライナのレオニード・スタドニックの身長(ワールドレコード)253p。
242 :
考える名無しさん :2010/01/22(金) 23:01:05 0
『存在と時間』に限定せず、ハイデガーから立ち上るものを概括すると、宮台さんの唱える ように《<世界>の根源的未規定性に開かれること》を称揚してるようには僕は受け取らな かったけれど、ただ、ハイデガーにおける有 Sein とはいわゆる間-主観性とか、共同主 観性とかと真反対の概念だろう、というのは、ハイデガーの有論を読んでると、有とは通約 不可能な場なんだな、と分かる。徹底してそうである。通約を阻む場なんです。で、そうだか らこそ、有は自己性や個体性の根源になる。この手の議論は柄谷の『探究2』にも出てきます けど、ハイデガーにおける単独性は柄谷にようなぬるいものではない。どう柄谷のがぬるい かといえば、『探究2』における現実性の概念にも出ている。柄谷はこう書いている。 《私の考えでは、現実性とは、諸可能性の一つの「選別と排除」である。何かが現実的なのは、 ああであったかもしれないのにこうである、ということである。いいかえれば、現実性は 「他なるもの」を排除しながらそれをはらんでいる。》(『探究2』講談社学術文庫版65-66頁 ) ハイデガーの場合、現有における可能性は、または世界は、先験的に有限である。また、その 有限性は、「他なるもの」があってもなくても関係ない。何故なら自らの経歴によって狭めら れるものだからだ。それがハイデガーにおける実存の可能性論である。そこには人間におけ る苛酷な運命が浮き彫りのされており、その暗い場所からみれば、柄谷のいう可能世界論 とか、単独的と言いながら、強度が弱くなってる。言い換えれば、社会的でありうる 余地を挟む必要があったためだろうが、個体性の突き詰め方として弱いものになってしま っている。宮台はハイデガーにおける反-啓蒙の側面をうまく逸らすことでツール化した と思う。しかし一方、宮台の思想というのは《理性的である者だけが本来性の問いに向かう 》としてるように、問題もありますね。あの理性重視はハイデガーにはないと思う。フーコ ーの研究したような主体化への反命題がハイデガーだと思いますから。
そんな野蛮性に小阪修平から「夜郎自大」と言われた
244 :
考える名無しさん :2010/01/23(土) 03:57:00 O
芭蕉の句が外国語に訳された時、句のわびさびが死んで本質が伝わらないと聞くが、『存在と時間』の和訳も感覚はそんな感じ?
キチガイの言葉が外国語に訳された時のような感じだろうよ(w
246 :
考える名無しさん :2010/01/23(土) 06:51:58 0
レオニード・スタドニクの身長は257cm。
247 :
考える名無しさん :2010/01/23(土) 14:21:02 0
ヨーロッパの哲学者にほめてもらってうれしいって思考法は 先生に褒めてもらって喜ぶ小学生のようで幼稚なので好い加減に卒業してほしい
249 :
考える名無しさん :2010/01/23(土) 22:54:19 0
ヨーロッパ>∞>糞(アジア、特に日本)
250 :
考える名無しさん :2010/01/23(土) 22:57:45 0
個人的には、人類史上最高の天才は、マルティン・ハイデッガーだと思っている。
宮台が天皇制評価に向かったのは、ハイデガーのナチコミット意識してのことかな。 しかし、どうにも論壇内での戦略レベルの言説にしか聞こえなかったが。
252 :
考える名無しさん :2010/01/24(日) 01:55:40 0
どなたかこのスレのまとめを見せて〜
宮台のは、知識階級にはネタに見えるようにわざと大仰にやってるけど あれ単に本気だから
宮台の話はどうでもいいから。
>>247 の話よく見るけど出典がまったく分からないんだよな
ハイデガーの有論は現代の公共性が要請する主体性、自己責任の類いとは根本的に相容れない。 むしろそのような主体性は覆蔵された歴史を更なる忘却に追いやる窮迫をもたらす。現代の公共 性が流布するのとは反対に、善きものとは個体における覆蔵された可能性としてある。それは公共 性とひとまず無関係である。むしろ現代の流布する主体における同一性や市民性を解毒するだろう 。ハイデガー有論と公共性は相容れない、それを接続する試みが宮台の読み方で、従ってハイデガ ーにおける理性を重視する。理性的なものだけが有の問いに引き寄せられる、と。実際は理性的で あるか否かをハイデガーが自分の論の前提においたことはない。そこが宮台のトリックであり、 公共性と接続するための方策なのだと思う。面白い試みとは思うが、ハイデガー思想の良さが一方 帳消しされた憾みは残る。公共性の建て直しのためのツール化したということ。どこかちゃちな方 法にも見える。小さくなった印象を思想的に受ける。現代の公共性の身の丈に合わせ組み替えた感 じが残る。歴史の忘却か、伝承か、というのは本来性をめぐる分岐線として位置付けられるわけだ が、理性的、公共的であることは、歴史の呼び声と両立するのか。理性的でありながら歴史に開かれ ることはありとする。その辺が、宮台さんのハイデガーをいかにも教育者然として、東大だなあ(笑) と思わせるところです。つまり本家における人間像にたいし、小さくなった印象をもたらす。
小沢、民主の犬 へタレ電波学者が小沢皇室発言をどう解釈するんだw
258 :
パラレルワールド :2010/01/24(日) 21:24:22 0
単にハイデガーの存在論をなぞるだけのような「みやだいナンとかという人物」についてはあまり興味がもてない。 「公共性の立て直し」といった議論について社会学者として語るのなら、ハイデガーよりは「日航」をネタにすべきだろう。
259 :
パラレルワールド :2010/01/24(日) 21:51:31 0
追記:「彼」は、何となく「胡散」の匂いが漂っていませんか?
260 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 00:28:24 0
福田和也のハイデガー論が日本最高の理解でしょ
福田和也(笑)
仲間由紀恵(笑)
263 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 09:14:29 O
ハイデガーの最大の過ちって、ナチスに加担した事より『存在と時間』が難解過ぎた為に様々に解釈され、結局何がいいたいのか分かり難い所だな。もっと砕けて書けばよかったのに。
ヨーロッパ大陸では伝統的に(いつからの伝統かは知らないが) 哲学者は文章の何割かを意味不明な形で書かなければならないらしい そうでないと読者から「幼稚だ」と言われるんだとさ
265 :
その他の登場人物 :2010/01/25(月) 09:57:40 0
入門書には、次のような解説もあります。「存在は、とらえどころがない、無底である。だからこそ、存在忘却が人間の運命なのである。」と。 因みにハイデガーは、「人間」ではなく、「現存在」という用語を使用している。 ハイデガーの存在論においては、個別主体はあくまで「存在」の現れの場所にすぎないわけである。この点については、 中性的(レヴィナス)な「存在」への批判、あるいは「欲望の主体」を不問に付してしまう運命論といった批判等があります。
>>263 難解だと思って嫌なんだったら、読まなきゃいいんだよ。
誰も頼んでない。
そうやって難詰する人には最初から哲学なんて向いてないから。
267 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 12:40:37 O
ハイデガー自身も『存在と時間』が自分の意図と違って解釈されていると嘆いていたらしいが、なら分かりやすく書いたらいいのにと思った。 万人が理解できなきゃ哲学として意味があるのか?
268 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 12:58:22 0
>>267 世の中には、難しいこともあるw
まぁ、万人が理解できれば、それにこしたことはないが、
万人が難しい事柄を理解できる能力を持っているわけではないから
それは無理だな・・・
師匠のフッサールが「存在と時間」に難色示したのも納得できる 「こりゃ、ダメだ」って読んで思ったのだろうな
270 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 14:42:29 0
フッサールはあんまり頭よくないからね。
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card57222.html 【「現象学」というものを始めたフッサールの一番弟子と思われていたハイデガーは、
『存在と時間』をフッサールに捧げたが、同時にそれは強力なフッサール批判でもあった。
・・・
フッサールは数学から出発しており、ほとんど哲学のこと(哲学史)を知らなかった。
その点で、哲学者である以上に哲学史家であったハイデガーから見れば、フッサールの考えは極めて幼稚なものであり、
・・・
フッサールは、始めは、『存在と時間』の意図が全く分からなかったと言われている。
彼がハイデガーの裏切りに気付いたのは、ずっと後のことだった。】
>>270 >フッサールはあんまり頭よくないからね。
そんなこと言ってると笑い者になるぞ
ちなみにその下のアドレス、書いてる奴のレベルが“アレ”だからなw
272 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 15:03:40 0
フッサールはカントの認識論を受け継いでいるから、フッサールの言う「現象」は、 あくまでも主観に対する客観なんだよね。 そういう主客対立にもとづく現象学じゃあ、存在はあらわにならない。 ハイデガーの批判はそういうことだね。 (なんてマジレスしてもしょうがないかな・・・w)
現象学系の人間で一番頭良いのだれと思う
>>272 そのハイデガーによる批判自体がフッサールを理解出来ていない
ハイデガー自身はけきょく「現前の形而上学」を抜け出ることは出来なかった
それに比べれば、メルロ=ポンティは言語と記号の問題を導入したし、身体論にも言及した
ポンティはかなり頑張ったと思うしフッサールの弟子ではトップだろうな
275 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 17:09:55 O
ハイデガーは師であるフッサールの誕生日にわざわざフッサール批判の『存在と時間』を捧げたんだろ?中々ニクイ演出するなw
フッセルル
277 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 00:45:35 0
木田元だろ
ハイデッガー後期の 思索は存在によって呼び求められ促されるって、存在は絶対的真理?
279 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 01:12:17 O
西洋哲学が東洋人に当て嵌まるのか? 逆にあいつらは日本古来のもののあわれが分かるのか?
280 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 09:45:07 0
人類史上最高の天才=マルティン・ハイデガー
ハイデガーでは存在が私の欲望に開示されて現れるという感じ?
日本語でおk
283 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 10:21:20 0
マルティン・ハイデガー>>>>>>>>>>ジョン・フォン・ノイマン
2010年01月 新刊 ハイデッガー全集 58 現象学の根本問題(58) ハイデッガー、M 著 虫明 茂他 訳 池田 喬 訳 5,000円
285 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 10:35:46 0
>>280 > 人類史上最高の天才=マルティン・ハイデガー
これは、ない。
286 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 10:55:04 0
>>280 > 人類史上最高の天才=マルティン・ハイデガー
そのとおり。
287 :
パラレルワールド :2010/01/30(土) 22:22:42 0
アドルノは、ハイデガーの大仰で勿体つけたような言い回しをひどく嫌っていた。
一方的にケンカ売って相手にされなかったけどね アドルノ
289 :
考える名無しさん :2010/01/31(日) 10:29:20 O
アドルフはハイデガー好きだったけどな。
日本語だと「存在」が「在る」とともに「いる」という活動体でもあらわせられるよな。 こういう言葉の変化を生みだしたのは、どういう存在了解なんだろうな?
291 :
逮捕 ◆4pDj9OfxcY :2010/01/31(日) 16:16:18 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
292 :
逮捕 ◆4pDj9OfxcY :2010/01/31(日) 16:17:01 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
293 :
逮捕 ◆4pDj9OfxcY :2010/01/31(日) 16:17:45 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
294 :
考える名無しさん :2010/01/31(日) 16:19:17 0
罰がなければ逃げるたのしみもない
295 :
考える名無しさん :2010/01/31(日) 16:46:19 O
「存在の真理」の思索なんて耽美的な芸術家の単なる自己陶酔じゃないですか? 後期ハイデッガーの良いところってなんですか。
だよな汚い大人の言いなりにはなりたくないよな 盗んだバイクで走り出したいよな
298 :
考える名無しさん :2010/02/02(火) 07:18:51 0
「存在の真理(または有の真性)」という場合、<有る>を可能にする歴史あるいは経歴の堆積とそこ からの有の差し向けだと思うわけです。端的にいえばまさにあの著作の表題どおり「有と時」の連関 ですね。それは「耽美的な芸術家の自己陶酔」とは関わりのない概念。どこかで誤った紹介文を読まれ たんじゃないですか。あと、後期ハイデガーというのは第二次大戦後の思索かと思いますが。僕は「ヒ ューマニズムに関する書簡」とかいいと思いますね。世界に現在流布されているヒューマニズムは 色んな言い方で人間を指し示すが、ほとんどの場合、むしろ人間を有の問いから引き離すことで、 人間を矮小化している、そこでヒューマニズムという用語にどんな意味を取り返すことができるか を書簡形式で書いている。いまだにあそこで書かれた問いは未解決で残ってる。その意味で戦後の 代表作のひとつだと思います。20-21世紀思想にとっての分岐点を指してると思う。60年代以降 の現代思想の出発点と言っていいと思います。
299 :
その他の登場人物 :2010/02/02(火) 08:21:17 0
ドイツ、トートナウベルク山荘で隠遁者のような思索を続けた西洋人哲学者の著作からの”照り返し(ハイデガー用語)”によって 否応なしに日本人は日本の「歴史」「伝統」を振り返ることになるのだが、少なくとも過去100年間の国内の文化的蓄積において顕著なのは 文化輸入とイノベーションとリフォームの蓄積だったと言える。 かつて、昭和期60年代に国内で起きた「浅間山荘事件」は既に記憶の隅に追いやられているのだが、浅間山荘にはトートナウベルク内のような思索の営みを見出すことができない。
ティンティン・チョイデカー
オマンコン・チョイクサー
もう少し話すと、有の真性 Wahrheit des Seins という語の意義というのは、真理という概 念を存在問題の範疇へ差し戻した、というところに多分ある。真理の概念を、唯物論的にいえば、 天上から地上へ引きずり下ろした。更に個体において到来する世界へ、すなわち有へ。そこで<有の 真性>とした。講演で「真性の本質について」というのもあり、真理概念の問い直しというのは彼はず っと気になってて、発表する思索のなかで、度々言及している。真理だとか真、という概念を、観念 的な場所から移行させたわけで、真性ということに本来的場所を回復させたともとれる。それも ハイデガーの功績でしょう。
ハイデッガーは存在の真理の思索を、いまは形而上学的に語ることしか出来ないと言いましたが、ハイデッガーは本来どのように語りたかったのでしょうか。 たしかにハイデッガーのしていることは形而上学を批判して、新たに形而上学を立てただけのようにみえます。
詩人になりたかったハイデッゲル先生
詩人としての才能はあったの?
『ニーチェU』(創文社全集)185頁に次のような箇所があります。 《しかしそうであるなら、「形而上学の終末」とは何を意味するのか。答え、形而上学の本質の諸可 能性が尽くされたその歴史的瞬間を意味する。》 たしかに一見、ハイデガーの語彙は伝統的哲学でしかないとも見えますが、実はそれらの語彙に よって、形而上学から有の思索への橋渡しが意図されていたと分かる。で、形而上学もまた、有の 歴運の一部であって、決していたずらに否定すればよいというものではない。
307 :
考える名無しさん :2010/02/06(土) 00:16:07 0
有の真性とか存在の真理とか、ハイデガーは言うけれども、これも要するに覆蔵された歴史が自 らを差し向けること以外ではないので、平たく言い換えれば「人はその人以外のものには決してな れない」ということでもあります。その辺のことを真っ正面から問題にしたのがハイデガーで、晦渋 なのは彼の言う「有は何より遠く、かつ何より近い」というその事を言おうとしたからなんです。 有の真性と形而上学とからめると、何故ハイデガーが形而上学で有の思索ができないと言ったかも 分かります。有の真性というのは、論理学やら倫理学やらが届かないので、つまり無効なので、有の 思索には使えない。弁証法もね、使えない。そこでは無効です。だから形而上学じゃ語れないと言っ たわけ。そこが鍵で、根拠なしの形而上学批判ではない。別に“哲学的”根拠からした形而上学批判 ではない。もっと単純な話です。ここら辺の筋道が分からなければハイデガーが分かったとは言え ない。つまり大学で操業される“哲学”でとまってしまう。つまり、形而上学から出たところに有の 論理はあり、そこをどう語るかがハイデガーの問題だった。
10月8日→8月9日
http://pds.exblog.jp/pds/1/201002/06/41/a0024841_216690.jpg <"Wer kann still sein und aus der
stille durch sie auf den Weg bringen
(bewegen)etwas so,dass es
zum ersheinen kommt?"
[Wer vermag es,stillend etwas
ins Sein zu bringen?
Des Himmels Tao. >
孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。
濁りを静め、澄みきるように誰れができようか。
動かないところから生き生き成長させるところまで、誰れができようか。
口語訳おねがいします
すいません聞かなかったことにして
真理・・・ 柄谷がハイデガーについてレヴィナスにのっかって「他者性がない」と語って以来、 ナチへのコミットとこの「他者性がない」がセットとなったハイデガー語りが インテリ間で安心されて流通し、 「他者性のなさ」をどう証明するかでハイデガーのテクストが読まれるのが流行しましたが、 その時に語られる「他者性」が倫理についての根拠「普遍的」「確実性」持った「真理」として 固定化されて用いられているのが気持ち悪かったですね。 ハイデガー批判としてどうか?という以前に、「他者性」の使われ方として安易で。
柄谷行人という人は『探究2』で単独性を論じていますね。そのことだけをみればハイデガーと問 題意識として重なるかにもみえる。しかし、一点重要な差異があり、それは、柄谷の単独性の場合、 覆蔵された歴史の開けとしての現 da というのは問題ではない。何より、柄谷の単独性においては いわゆる真性というのは、全部解釈と関係に還元されている。かつ、その関係とは、偶然性によって いる。それはあの『探究2』の第一部 固有名をめぐって で口を酸っぱくして繰り返されている考え 方であり、端的にいえばニーチェの『権力への意志』で展開されている「物自体と現象」についての考 え方と同じである。ニーチェもまた、柄谷と同様、真性を解釈と関係の為せる性質とみなしている。 ニーチェのその考え方は柄谷にそっくり継承され展開されている。ニーチェには歴史の覆蔵と開け という考え方はない。自然や生理については考えているが、ただ、真性における重要概念である時性 への眼差しがない。時性をはずす、ないし敢えて無視しているのは柄谷も同様で、現代思想が個体の 身軽さを獲得できたのはこのためだと私はとらえている。個体には、誰しも、重力のような力が及ん でおりそのため、有は有限であり、それは誰に「解釈」されたわけでもなしに有限なのである。その有 限性が真性概念にも被さり、拘束していく。それが重力の内実であり、個体が身軽にならない背景で ある。他者への眼差しにおいてもその有限性は現れる。そこでも人間は無限にはなれないし自由で はない。それは人間の存在の事実性の構造であり、悪といえばそこは悪なのかもしれない。絶えず 此方性はものごとの現れる画面-地盤としてある。
>>313 なんか、あなたの書き込みは、はっきりしないね・・・
ハイデガーは、ニーチェは「力への意志」を対象化し、その対象と認識との一致に真理を求めているとしてニーチェを批判している。
つまり対象と認識との「一致」に真理を認めることを批判しているんだね。
根源的にいえば、「存在」を「対象化」することを批判しているわけだよね。
それから、「形而上学」のことだけど、
ハイデガー「形而上学」という語を、かなり多義的に使っている。
その一つが「存在忘却」としての「形而上学」。
「存在忘却」の形而上学が存在を思惟できないのは当たりまえのことだな・・・
NAMって恥かしいよね(笑)
NAMというのは南無ということ。すなわち「はい」という肯定の思想。 世界を肯定する思想なんだと思う。 柄谷はかつて、「ゲーデル問題」とかいって自己言及性の問題(これ自体は重要な問題)に ついて述べるところで半可通の数学的知識をもてはやしていたが、これを作家の大岡昇平が 興味を持って数学者に家庭教師になってもらって現代数学を勉強をしたところ、柄谷の数学の 知識が出鱈目であることを見抜き、以後、この関係での柄谷行人の論文は無視することにすると 『成城だより』で書いていたことを思い出す。 他分野の領域と横断することは重要だが、その安易な結合は危険である旨、大岡は強調していた。
柄谷とか宮台とかいい加減スレ違いな話題やめてくれないかな?
318 :
考える名無しさん :2010/02/07(日) 16:35:21 0
314さんの話は若干間違いが混じってるので整理させてもらう。 ニーチェの真理概念の特徴とは、真理を、自己の力や生の高揚のための仮象ないし幻想としたとこ ろにある。それは『権力への意志』のいたるところにある。たとえばニーチェはこう書いている。 《真理の標識は権力感情の上昇にある。》 《すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、能動的に規定するはたらきとしてであって、-それ 自体で固定し確定しているかにみえる或るものの意識化としてではない。それは「権力への意志」の 代名詞である。》 ハイデガーはこのようなニーチェの真理概念を重く受け取ったが、同時にその真理概念が力や生の ためのものに尽きることにニーチェの限界をみていた。ニーチェには、真理概念を有の地平に置き戻す ことはない。ハイデガーは『哲学への寄与』でこう書いている。 《ニーチェの最も固有の思索が極めて困難にさせ、ほとんど妨げているもの、それは、真理の本質 現成が意味するのは現-有だということへの洞察である。言い換えると、自らを覆蔵するものの空 け透きの<只中>に立ち、そこから人間であることの根拠と力とを汲み出すこと、そのことへの洞 察である。》(『哲学への寄与』創文社全集版393頁) あと、知性と事物との一致という真理概念の検討は、『存在と時間』の第44節 現存在、開示性、お よび真理 で検証している。ハイデガーはその真理概念から、非覆蔵性としての真理概念を取り出 す。 《この関係全体-知性ト事物トノ一致-において何が表立たずに共に定立されているのであろうか。 》 《暴露すること自身の実存論的・存在論的な諸基礎がはじめて真理の最も根源的な現象を示すのである 。》 よってニーチェからハイデガーが受け取った真理の問いとは、生や力の高揚のための「でっち上げ」とし ての真理概念、その重さと限界だったといえる。
というか、ハイデガーの性格から考えて、 ナチのイデオローグであるニーチェと表面上手を切ったと 思わせる為に、本当は思ってもいないニーチェ批判なんて やったんじゃないの?
>>319 ニーチェはナチのイデオローグではない。
「力への意志」とは、ナチズムの全体主義のことだと思っているのか?
純一サンよ。
ハイデッガーの存在の哲学とナチス加担は無関係だ。
でたらめを書き込んでもいいなどどなめてはいけない。
321 :
考える名無しさん :2010/02/07(日) 22:38:52 0
ここなっつてろりろり? なっつろりん? ,,r''"二 ̄二丶、 /二三彡"ミ三ミ\ . /彡 `ミヾ ___ {/ ,,\ /,, ヽ} ____ ゙=c_ \ l|<●), 、(●>|l /_っ='  ̄ く:::\ (6| (o_o)・ .::::|6) /:::>' . \::::\ l ll .::l /::::/ ( ,--一''" ~`〜〜''"~ ー--、 ) ___ ――― | 〈 〉 |  ̄ ̄ ̄ _/ { } \_ (__,-、__} {__,-、__) `┻━┻ ┻━┻
322 :
考える名無しさん :2010/02/07(日) 23:49:12 0
ハイデガーのニーチェ解釈は、ヘーゲル解釈と対比させて考えてみると、その特徴が 浮かび上がるのではないかと思ったのですが・・・。
323 :
考える名無しさん :2010/02/08(月) 00:08:27 0
宮台が話題に上るのは(本質的に、宮台真司などどうでもいいと思いますが)、おそらく、 最近つとに目立つ哲学の社会学化に対する苛立ちがあってのことではないか。 哲学と社会学とは全く別物でしょうし。似たようなところもありながら、全く異なる。
社会学は一貫して存在者を問題にするから、ハイデガーとの相似も理解できる(ケア=配慮の問題もある)。 ただし、哲学(存在者ではなく存在の問題)を時事問題に還元されても困るといったところだろう。 その点で、ニーチェよりもライプニッツを持ち出した方が、ハイデガーの重要性がわかりやすいと思う。 存在の蓋然性と必然性を論理的に述べたのがライプニッツだからであり、そのことに着目したのがハイデガーだからだ。 ラッセルによるライプニッツ評価(20世紀初頭を記念するのは夢判断でなくてこっちだ)の取りこぼしを掬い上げた と言うか、、、、 柄谷のハイデガー評価は基本的にはラッセルの集合論的な立場をわきまえたものだが、それほど単純に全否定している 訳ではない。
>>318 >314さんの話は若干間違いが混じってるので整理させてもらう。
「間違いが混じってる」と書いてあるけど、あなたがどこを「間違い」だと思っているのかは書かれていない。わからなかった。
はっきり書かない癖があるのかな? それとも自信がないからはっきり書けないのかな?(と煽ってみる)
私が「対象化」について書いたのに、あなたはそれに全く触れていないのはなぜだろうか・・・
> ニーチェの真理概念の特徴とは、真理を、自己の力や生の高揚のための仮象ないし幻想としたとこ
>ろにある。それは『権力への意志』のいたるところにある。たとえばニーチェはこう書いている。
このへんも非常に曖昧。
何が曖昧かというと、このへんが『ハイデガーによるニーチェ解釈』なのか、『あなたによるニーチェ解釈』なのかがはっきりしない。
その二つをはっきり区別しないと、滅茶苦茶になりますよ。
(読書感想文を書く時に、筆者の意見と自分の意見を区別しないとわけがわからない文章になるのと同じこと)
『あなたによるニーチェ解釈』であると仮定して、反論しておきます。 あなたは、ニーチェが真理を「自己の力や生の高揚のための仮象ないし幻想とした」と書いて、二つの箇所を引用しているが、そのどちらにも 「自己の力や生の高揚のための」ということも書かれていないし、「仮象ないし幻想」ということも書かれていない。(したがって引用する意味がない。) ニーチェが「真理を置き入れる」ことを「能動的に規定するはたらき」と書き、「それは『力への意志』の代名詞である」と書いていることからも分かるように、 ニーチェは「真理を置き入れる」ことを、肯定的にとらえている。というより、ニーチェの考え方からすれば、それを肯定的にとらえざるを得ない。 ここで「真理を置き入れる」と書かれていることは、「解釈する」ということと同じ意味です。 世界は力への意志であり、力への意志は、解釈作用そのものとしてある。そしてその解釈作用連関によって世界は成り立っているのだから、 「解釈する」働き=「真理を置き入れる」働きがなければ、世界は成り立たない。だから、ニーチェの考え方からすれば、肯定的にとらえざるを得ないわけです。 > よってニーチェからハイデガーが受け取った真理の問いとは、生や力の高揚のための「でっち上げ」とし >ての真理概念、その重さと限界だったといえる。 これも、「でっち上げ」がどういうことを意味しているのかの説明がないので、意味がわかりません。 何が、何故、「でっち上げ」であるのかをもっとはっきり書かないと・・・
> ニーチェはナチのイデオローグではない。 イデオローグではないっていうよりも、 史実はイデオローグだけど、君が思うには 本当はイデオローグじゃないって事を言いたいんだろ? つまり史実的には立派なイデオローグじゃないか?
328 :
考える名無しさん :2010/02/08(月) 13:31:06 0
たしかに僕は「ニーチェの真理概念の特徴とは云々」と書いたが、それはニーチェを読んでいれば 目に入ってくること、『権力への意志』を読んでいれば目に入ること、という意味で断らなかったの です。引用にはたしかに「力や生を高揚させる云々」はないが、《真理の標識は権力感情の高揚にある 》てのはそのまま、権力感情を高揚させるのが真理、ととれるので、ニーチェの考えを引用するなら これでもいいと思ったまで。まずかったですか(笑)。ニーチェの考えが伝わった方がいいと思った だけなんですが。僕は貴方ほど書き込みに厳密さや脈絡を要求しないんです。その方が気楽に書き 込みできるし、よく分からなきゃ引用されてる本なり読めばいいし(笑)それで、その書き込みが 合ってるか、分かりますしね。あと、「でっちあげ」という言葉は『権力への意志』(原佑訳)552番 に出てきますよ。《真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものを でっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変える ことである。》と。文脈が飛んでると言われれば、その通り。誰の考えか分からないと言われればそ の通り。いい加減と言われればその通り、僕も他人に一々要求してないし。気楽さはここでは大事 と思ってるので。何となくそう感じた、でもいいと思います。その辺の幅がないと、窮屈ですよ。別に レスで質されれば答えることはできる。しかし、必ずしも答える義務もなし(笑)なわけで。大学に 来て教授と向かい合ってるわけじゃなし。お気楽でいいと思いますけどね。勿論、俺は厳密にやる、 という決意に水を差す気はないんだけどね。で、「間違い」というのは、「認識と対象の一致」が真理、 という考えは『存在と時間』で有の問いへ遡行するための考えとして展開されてるが、ニーチェ の力への意志が対象化されてることを重要視して、がためにニーチェを批判した、というのは違う のでは?ということです。そこはニーチェ論にあったかどうか記憶にないが(笑)そう重要な箇所 ではなかろう、という意味です。
繰り返すと、314氏がハイデガーによるニーチェ批判と書いているのが、『有と時』における伝統 的真理概念の批判とごっちゃになってる気がして、それで「若干間違い」と書いたわけです。ごっち ゃになってるという意味で。 貴方が326に書いてくれたそれがニーチェの真理論の核心にあると僕も思う。まさにそこにハイ デガーは、自分との重なりを見たと思います。ニーチェは誰しも己の遠近法をもつ、と主張する。 で、ハイデガーはニーチェのいう遠近法に、自分の有論における有の理解との親近性をみたと思う わけです。そこでニーチェの思索が自分と同様、形而上学の克服を狙うという意味で、近さを感じた と思うんですね。しかし、最終的にはニーチェの思索を有の忘却の一様式として見なされることに なる。《それは、有・の真理と真理の本質とへの根源的に-超克しつつ〔有の問いを〕なされる立場に は到らない。》(『哲学への寄与』創文社版233頁)と言うようになる。その辺がハイデガーvsニーチ ェの今だ考えさせる箇所じゃないかと思います。
おお、ネチネチした争いになってきてるな〜
> ニーチェの思想はナチスのイデオロギーに利用されたが、 > ニーチェの思想がナチズムや反ユダヤ主義と相容れないものであるという主張は、 > ジョルジュ・バタイユをはじめピエール・クロソウスキー、アンドレ・マッソン、ロジェ・カイヨワらによる > フランス側での同人誌『無頭人(アセファル)』(1936年 - 1939年)などが有名である。 wikipediaには、↑の様に、 > ニーチェの思想はナチスのイデオロギーに利用されたが、 って書いてあるから、やっぱニーチェはナチスのイデオローグで あった事は間違い無いと思うがね〜?
というか、俺が
>>319 で言ってんのは、
ニーチェが史実的にナチスのイデオローグかどうかって事よりも、
ハイデガーがナチスの思想と縁を切りましたよ〜という、
一種のパフォーマンスとしてニーチェって本はあるんだから、
あんまりまともに受け止めたら駄目だろ。
分析哲学が好きな人は、分析用に歪められた哲学史を 受け入れるんだろうが、ハイデガーがナチスと縁を切って、 ニーチェの思想も最後に捨てたと思うのは誤りだろう。 普通、ナチスがこれだけ拒否反応を持って眺められる 状況で、たとえニーチェ好きであっても、批判を書かない訳にはいかない。 大体、シュピーゲル対談ですら正直にナチス加担を認めないハイデガーが 著作の中で正直にニーチェ批判を展開する訳がなかろうに。
言ってしまえば、表向きに公明党が創価学会との 関係を認めないようなもので、実際には、一時的誤って 関わったとかじゃなくて、ハイデガーとナチズムは 深い相関性がある、とか言われているね。
まあ、ニーチェ批判が以上の状況や動機に基づく限り、 ハイデガーのニーチェ批判はナチと手を切った事を 強調するパフォーマンスの為に、わざとニーチェを 矮小化して批判し易くした上で分かり易い図式に当て嵌め、 ナチスのイデオローグであるニーチェを乗り越えましたよ〜 というパフォーマンスな訳だ。
しかし、分析哲学者はアホなので、 この『ナチを乗り越えましたよ〜という空々しいパフォーマンス』を 真面目に受け取ってしまい、 分析哲学者『なるほど、実存は超えられ、構造主義なのですな!』 という勘違いをしてしまうのです。
分析哲学者は、往々にして実存とか、主体とか、 ニーチェが嫌いなので、言語の権威を脅かす あらゆるものを排除しようとする。 そこで、ハイデガーは根には思ってもいない ニーチェ批判を真に受けてしまい、ハイデガーが 構造主義に目覚めた、という展開に持っていきがちになるが、 これは分析によくありがちな誤った哲学史の理解だね(太郎とかはそういう間違った理解)
ナチスのプロパカンダ映画と言われている、 レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』なんか、 凄く映像が綺麗だが、これなんかも、 この監督は今ではナチとは何の親和性も無かった、と 言ってるがそれは嘘だろう、それと同じくらいに ナチと無関係というハイデガーは嘘であるくらいは分かる。
さて、ハイデガーの主著である存在と時間の 書かれなかった後半部分は、木田元によると、 どうやらニーチェづくしになる予定だった様で、 もはやこの時点で、ハイデガーのニーチェとの 親和性は根深いものだったという事が分かる。 たまたま後半が出版されなかったので、 ハイデガーは後半部分を無かった事にしたんだろうね。
そもそも、俺純一はハイデガーの本質的な 思想が解体にあるとすれば、それはニーチェの 悲劇の誕生辺りからの、ギリシャ的な思想観の 復活なんだから、↑から影響を受けてる事は明らかじゃないか〜 大体、それがデリダに受け継がれて脱構築になるんだからさ。
逆に言えば、デリダの脱構築が思想的に存在するとすれば、 それはハイデガーの解体的思想から来ている事になり、 とすれば、それはニーチェの悲劇の誕生以来の伝統から 来ている事になる、とすれば、そう簡単にニーチェ越えなんて できんだろう?というか、まんま中心の影響じゃないか。
ただ、ハイデガーの場合、ニーチェを中心にして、 やりたかったんだが、周りに反ユダヤとギャーギャー騒がれたので、 戦犯として裁判かけられ無い様に保身の為に、思ってもいないのに ニーチェ批判をやらざるを得なくなった、というだけの話だろう? どう考えても思想的には中心はニーチェじゃないか。
哲学者や知識人は8割ぐらいはユダヤ人だから、 ナチというよりも反ユダヤ主義として反発を受けた、 というだけで、オリンピアも存在と時間も 中身自体は良いじゃないか。 大体、パレスチナ人を殺しといて、 反ユダヤ主義も何もないだろうにね。
太郎とかポールみたいな分析哲学者は、 ハイデガーの後半の言葉、という項目を 分析的言語だと理解しているから話がおかしくなる。 そこで、ハイデガーがニーチェって本で ニーチェ越えをしたので、実存主義は負け、 構造主義は勝った、という図式、更に、 後半に言葉と言い出すので、分析哲学の言語に目覚めた、 という図式に無理矢理持って行くが、俺の考察では、 そもそもそういうニーチェの乗り越え事態、↑で書いたみたいに 表面的なもんだろうにって話さ〜
当時のナチに利用されたニーチェ像を真っ向から批判した 積極的解釈こそハイデッガーのニーチェ講義ってことなんだけど この糞固定はニーチェ講義読んでから言ってるの? 結果的にニーチェ批判を含むとはいえ内容読めばハイデッガーが ニーチェを「乗り越えた」なんて片付けられるものじゃない
ニーチェを形而上学の完成者という 矮小化した評価に陥れるのがハイデガーの 『ニーチェ』で、これによってニーチェ=ナチスを 乗り越えたとするパフォーマンスが完成した。
347 :
考える名無しさん :2010/02/09(火) 00:34:41 0
ヒトラー自身はニーチェなんかあんまり読んでなかったみたいですよ。 妹のエリザベートがニーチェをナチズムに近づけようとテクスト改竄したとか 疑われているし。 ヒトラー自身はニーチェよりヘーゲルを好んで読んでいたみたいですね。
純一氏の話は面白かったが、「形而上学の完成者という矮小化した評価」、というのはハイデガー によるニーチェ論を辿ってみて、感じなかったですね。むしろこうまでしつこくニーチェについて 論じるか、と思わせるほどの思い入れ、を痛感した。あと、ハイデガーが自分へのナチ思想家という レッテルを払拭するためのアリバイがあの本、というのは、まあ、そう読みたければどうぞ、という 感じだけど、ハイデガーはニーチェへの多大な共感と異和感について、やはりはっきりさせたかっ た、という見方を僕としてはとりたいですね。ナチの問題を度外視しても十分面白い本だし。あの 本でニーチェの思索を細かに追跡する執念はすごいと思う。ハイデガーがニーチェから多くを受け 取ったとする解釈は木田も書いていたような…。あのニーチェ論は宇野邦一は比較的最近読んだと かで、「実に読みごたえがあった」と『現代思想 ハイデガーの思想』に宇野は書いてますね。
>>328 >「でっちあげ」という言葉は『権力への意志』(原佑訳)552番
>に出てきますよ。《真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものを
>でっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変える
>ことである。》と。
その「でっちあげ」は、ニーチェ自身の真理概念について書いているのではなくて、従来の形而上学を批判している言葉でしょう?
552番のあなたが引用した箇所の後ろにこう書いてある。
《人間は真理へのおのれの衝動を、おのれの「目標」を、存在する世界として、形而上学的世界として、『物自体』として、
既在する世界として、或る意味ではおのれの外部へと投影する。》
ニーチェはこのことを「でっちあげ」としているんですよ。
つまり、プラトンはイデアを、カントは物自体を、「既在する世界」として(つまり発見されるべき或るものとして)考えているけれども、
実はそれらは、彼ら自身によって「投影」され「でっちあげ」られたものなのであり、その根底には彼らの力への意志が働いているのだ、ということ。
>>329 >繰り返すと、314氏がハイデガーによるニーチェ批判と書いているのが、『有と時』における伝統
>的真理概念の批判とごっちゃになってる気がして、それで「若干間違い」と書いたわけです。
一致説批判は『有と時』にだけあるのではないですよ。
例えば“Nietzsche T”の620頁以降でハイデガーは、ニーチェの真理概念は一致説を脱却していないとして批判している。
ハイデガーによれば、ニーチェは恒常的存在を否定することによって、認識と対象との一致という意味での従来の真理概念を否定しようとしている。
しかしニーチェの新しい真理も、生成との「一致」を意味する。なぜなら、さもなければ従来の真理が誤謬であると言うことはできないから。
したがってニーチェは依然として「一致」としての伝統的真理概念を保持している。
ハイデガーはこういう論理で、ニーチェによる「プラトニズムの逆転」は、あくまでも「逆転」であって「脱却」ではなく、
したがってニーチェは従来の形而上学の枠内にとどまる、と批判しているわけです。
>最終的にはニーチェの思索を有の忘却の一様式として見なされることに
>なる。《それは、有・の真理と真理の本質とへの根源的に-超克しつつ〔有の問いを〕なされる立場に
>は到らない。》(『哲学への寄与』創文社版233頁)と言うようになる。
何故ハイデガーは、ニーチェの思索を「有の忘却の一様式」と見なしたのか・・・そこが肝心なところでしょう?
肝心なことが書いてない・・・
既に私は「対象化」ということがポイントだと書いたんだけれど、あなたはどう思っているの?
マルちゃん
つか、アリバイに使われてんだから、 仮に矮小化しないでやると単なるニーチェファン本になっちゃうじゃん。 俺が言ってるのは分析哲学者である君達が思ってるのは、 アリバイ本の矮小化した評価で、ハイデガーにおいては根本的に ニーチェが使われている以上、ニーチェって本を読んでも何も出てこないよって事さ。
まず249レスについてです。テキストはちくま学芸文庫『権力への意志 下』(原佑訳)で。 貴兄のあげている552番もそうですが、真理概念の叙述はこの本の中心課題になってますね。す ごくスリリングな叙述が続いていく。まさにこの作品を傑作に、(ニーチェの生前には刊行されな かったとはいえ)していると思えます。何か、読んでるとゾクゾクしてくる。鳥肌たつ、とかいうけ ど、思想書で読者の鳥肌立たせる本てそうないんではないか。この本はそういう数少ない本です。 で、そのスリリングな叙述がどこに由来してるのかといえば、読んでると分かるんだけど、これは 一種の暴露、哲学にたいする、暴露を施し、揺さぶる、脱がしていく、そういうことを延々やってる 本だと分かってくる。じつにしつこくそれをやっていく。一見うぶな淑女が実はいやらしい願望を 隠していることがみえた瞬間、僕らは発情しますよね。いやらしい、と思いながら、発情する。それ と似て非なる魅力がこの本にあるんじゃないか。貴兄と僕がとりあげた552番とか、その部類です 。読者を発情させる、悪寒をおこしながら悪へ引きずり込む魅惑というか、蜜の匂いがするところ です。 349レスで貴兄は色々書いてますが、ニーチェがあそこ(552)で書こうとしたのも、伝統的に 行われてきた真理概念の内実の暴露であるととらえてよい。誰の真理概念、かといえば、当然これ まで真理を語ってきた者らのことです。その意味で、やはりこの本の中心課題に沿った箇所だと いえる。誰の真理概念かといえばそう答えるしかない。それがニーチェの意図に沿っているでしょ う。で、そこでの真理概念の暴露について、他に、どこかにそうでない立派な真理概念があるかを ニーチェが考えていたかといえば、真理の内実を普遍的にとらえ叙述するのがあの作品の課題の 一環なので、それはない。真理という概念自体を引きずり下ろすのがニーチェの企みなわけだから 、それにかわって「これぞ本当の真理!」と胸はってしまえば、またそれはニーチェにすれば喜劇に なる。真理という概念自体を王座から引きずり下ろすのがニーチェの意図なのだから、「本当の真 理」なぞ提出する必要はないわけです。
続いてレス351についてです。 このレスも色々書いてありますが、この351もそうだし以前のレス314もなんですが、 根本的に疑問をもつのが、ニーチェという人は或種の真理を否定し、かわって別の種の真 理概念を提起しようとしたのではないだろうということです。むしろ、伝統的な真理概念 の内実、成立の仕方を意地悪く解きほぐし、あることは真なり、と断定することは己の力 への意志の現れである、力の高揚の要因であるとした、そこがニーチェの真理批判の特質 です。ある種の真理を克服し、本当の真理を立てようとしたんではない。たとえばニーチェ はこう書いている。 《「これは何か?」とは、何か当のものとは別のものからみられた一つの意味定立である。》 《要するに、事物の本質はやはり事物に関する一つの私見でしかない。》(ともに『権力への 意志 下』556番) 真なり、という断定、定立は力の発楊であり、そのためにむしろ必要かつ重大である。だか らこうも言える。 《「事物」の成立は、徹頭徹尾、表象し、思考し、意欲し、感覚するものの作品である。》(同556 番) つまりニーチェの真理批判とは、真理を放り投げよ、と言ってるのではない。むしろ、真理 概念を解体し、結果、力への意志に奉仕させるために必要不可欠、と言いたかったという のがニーチェの立場でしょう。540番ではこう言ってる。 《多種多様の眼がある。スフィンクスんもまた眼をもっているー、したがって多種多様の 「真理」があり、したがっていかなる真理もない。》
どんどん行きます。350レスで貴兄は《ハイデガーによれば、ニーチェは恒常的存在を否定 することによって、認識と対象との一致という意味での従来の真理概念を否定しようとし ている、…》と書いている。これも既におかしいわけです。なぜなら、『権力への意志』517番で ニーチェはこう書いている。 《存在するものを想定することは、思考し推論しうるために必要である。論理学は恒常不変の ものにあてはまる公式のみを取り扱うからである。》 《主観、実体、「理性」などという虚構された世界は必要である―すなわち、秩序づけ、単純化し 、偽造し、人為的に分離する権力が私たちの内にはあるのである。》 ここから、むしろ恒常的存在を虚構することも、権力への意志であり、必要だとニーチェが 考えたことはたやすく分かる。恒常的存在を否定などしていないわけです。認識と対象との 一致という真理概念、にしても、そもそもハイデガーが名付けるように、「認識としての力 への意志」なんだから、認識とはニーチェにとり力への意志なのだから、認識が対象化する のは当然、必要である。ニーチェがそれを否定するわけがない。 貴兄は次に《しかし、ニーチェの新しい真理も、生成との一致を意味する。》と書いている 。むしろニーチェ的には一致しなきゃまずい。真理定立は力への意志なのだから、むしろ ニーチェからすると生成と一致させなきゃいけない。《したがってニーチェは依然として 「一致」としての伝統的真理概念を保持している。》でなければ認識としての力への意志で なくなるのだから、生成との一致は不可欠である、と補足させてもらいます。ニーチェは こう書いている。 《すなわち、認識しうるものたらしめようとする一つの意志が先行していなければならな い。一種の生成自身が存在するものという迷妄をつくりあげなければならないのである。》 (517番) つまり、ニーチェからすれば力への意志としての真性定立は不可欠なので、否定などする ことはない。それはハイデガーも把握してるはずです。貴兄のまとめはそこが変で、誤って る。対象と認識の一致という真理概念がニーチェに継承されてることをハイデガーが指摘 してるのはその通りですね。今回読み直して気が付いたところです。
356 :
考える名無しさん :2010/02/09(火) 19:01:59 0
ハイデガーがニーチェの思想を有の忘却の一様式とみなすのは何故か、という問題です が、これは『哲学への寄与』234番 真理への問い(ニーチェ) に詳しく書いてあるので、 これを参照するのがよかろうと僕は思います。そこでハイデガーはどう言ってるかという と、要するにニーチェにおいては真性の本質が根源的には問われないまま残る、それゆえ にやはりハイデガーからすると不満、ということですね。《真理の本質現成が意味するのは 現-有だということへの洞察》がない、ということ。で、貴兄はレス314で《ニーチェは「力 への意志」を対象化し、…》と書いているけれども、ニーチェによれば、《存在の最も内なる 本質が権力への意志であり、…》(693番)また690では《「権力への意志」は生成しおえるこ とはありえない。》としている。それらによると、ニーチェが力への意志を対象化している 、でそれをハイデガーに批判されている、というのは分からないんですが。できれば詳しく 引用と説明してほしいですね。ニーチェにおいて存在の対象化があり、よってハイデガーは ニーチェを批判している、と貴兄がしているところです。
>>353 > 貴兄のあげている552番もそうですが、真理概念の叙述はこの本の中心課題になってますね。す
>ごくスリリングな叙述が続いていく。まさにこの作品を傑作に、(ニーチェの生前には刊行されな
>かったとはいえ)していると思えます
なんとなく誤解があるような気がするので、念のために、『権力への意志』という本の成立事情を書いておくと、
この本は、反ユダヤ主義者であるニーチェの妹がペーター・ガストの協力を得て、
ニーチェの遺稿を恣意的に選択し、『ニーチェの主著』として、まさに「でっちあげ」た本です。
本来一続きである文章を、勝手に幾つかに分割したりもしている。
ニーチェの妹エリザベートはナチ党の支援者であり、彼女の葬儀にはヒトラーも参列した。
そういう事を承知の上で「傑作」と言っているのであれば、それはそれでいいんだけれど。
>>354-355 私がハイデガーのニーチェ批判をまとめた部分に対するレスだから、あなたはハイデガーを批判していることになるのかな?
とすれば、私が答える筋合いではないわけだけれど・・・、おかしい点を指摘しておきます。
>ここから、むしろ恒常的存在を虚構することも、権力への意志であり、必要だとニーチェが
>考えたことはたやすく分かる。恒常的存在を否定などしていないわけです。
ニーチェは恒常的存在を否定している。(都合のいいところだけ引用してもだめですw)
少しだけ引用します。
「そもそも存在するものを認めてはならない。なぜならそのとき生成はその価値を失い、まったく無意味で余計なものに見えてくるから」(遺稿11[72])。
「持続的で究極的な単一体は存在しない。アトムもモナドも存在しない。ここでもまた、まずわれわれによって『存在するもの』が置きいれられているのだ」(遺稿11[73])。
あなたの考えは、一つの側面としては間違ってはいないけれど、それだけではニーチェを理解することはできない。
確かに、ニーチェの思想には一つの側面として、『一切は力への意志であり、その力への意志の現れとして一切は必然である』
という考え方がある。(それは「一切肯定」「運命愛」の思想につながる。)
しかし、それはニーチェの思想の一面にすぎなくて、それだけでは、ニーチェが何故あれほどキリスト教-プラトニズムを批判し、
「神」を代表とする「恒常的存在」を批判したのかが理解できなくなる。
実際、分量的にはニーチェの著述の大半は、そういう批判に当てられているんだから。
それは何故か・・・?
一切は力への意志であるけれども、力への意志は、さまざまな現れ方をするからです。(あなたの考え方にはそういう視点が欠けている)
さまざまに歪んだ形で、力への意志は現れる。ニーチェはその「現れ方」を批判するのです。(歪んだ形で現れた力への意志の典型が「ルサンチマン」です)
>つまり、ニーチェからすれば力への意志としての真性定立は不可欠なので、否定などする
>ことはない。
これも上と同じことで、一面的。
その「真性定立」が、いかなる力への意志によってなされたものなのかをニーチェは問題にする。
「いかなる種類の人間がこのような考え方をするのか?・・・非生産的な、病んでいる種類、すなわち生に疲れている人間である」(遺稿9[60])
そしてニーチェの著述の多くは、こういうデカダンス批判にあてられている。
>>356 >ニーチェが力への意志を対象化している
>、でそれをハイデガーに批判されている、というのは分からないんですが。できれば詳しく
>引用と説明してほしいですね。
手元にないので引用できないけど、『ニーチェ』という本は、ニーチェを「形而上学の完成者」として位置づけることによって、
従来の形而上学全体を批判するという形になっていて、その批判の中心概念が「対象化」あるいは「表象(前に立てること)」だと思う。
つまり、人間主体を中心に世界を計算可能なものにしようとする態度への批判が中心になっている。
木田センセは根本問題を重要な 講義録としながら、いつになっ たら訳を出してくれるのかなぁ
361 :
考える名無しさん :2010/02/09(火) 23:27:06 0
力への意志としての真性定立がデカダンスとなっている、というのはあの作品の前半に該当して ますね。よって厳しく断罪すると。後半では前半のメインだった徳の担い手の批判よりか、より普 遍的な理論形成が断片的に為されていく。それだけのことではないですか。恒常的存在への言い方 にしても、貴方が引用した箇所と全く違うことを私が引用したとは思えないな。言ってみれば、 恒常的存在はない。しかし、真性定立においては虚構されていく、必要性に従って、ということでし ょう。修辞として、「必要」「虚構」となるわけで、それは恒常的存在は実在する、またはしない、という 議論のいわば向こう側ですよね。そこを言った方が、いたずらな対立点を避けられるでしょう。無駄 な議論はしたくないのでね。
362 :
考える名無しさん :2010/02/10(水) 01:11:01 0
ニーチェの哲学が意志の哲学であること自体が、 形而上学が辿った主観性の哲学に連なり、その最終形態たらしめている。 ハイデガーからすれば現存在において終始し集約してしまう そのような射程では全く不十分なんだ。
363 :
考える名無しさん :2010/02/10(水) 07:16:26 0
真理定立は力への意志であり、これをニーチェが否定などしない云々、についての議論も、恒常的 存在をめぐる議論と同じように考えればいい。恒常不変の真理など存在しない。だが人間はにも 拘わらず真理を力への意志として必要とする。よって、真理とは誤謬であるが、そのような誤謬を 、認識は力の発楊のために必要とする。ニヒリズムの徹底によるニヒリズムの克服とはそれである 。そう言ってみれば、貴方がルサンチマンによる真理定立をニーチェは否定し云々、と言うところ と、私が認識としての力への意志なのだから真理定立は否定されない、としている対立は止揚され るでしょう。ちなみにこれらは木田元の本の受け売りで、結論としては僕らは木田さんにはまだま だかなわない、といったことなんですが(苦笑)
なにいうてるかわからへん
>>361 >恒常的存在はない。しかし、真性定立においては虚構されていく、必要性に従って、ということでし
>ょう。
>>363 >恒常不変の真理など存在しない。だが人間はにも
>拘わらず真理を力への意志として必要とする。よって、真理とは誤謬であるが、そのような誤謬を
>、認識は力の発楊のために必要とする。
(繰り返しになるけれど、)ニーチェの著述の大半は、キリスト教-プラトニズムへの批判にあてられています。
そして『必要性に従って、虚構されていく』というあなたの視点では、何故ニーチェがあれほどキリスト教-プラトニズムを批判したのかが説明できない。
その点については、「ニヒリズムの克服」という視点から見るのが一番わかりやすいかも知れません。
ヨーロッパの歴史において、「神の死」によるニヒリズムは、いまだ克服されてはいない。
だからニーチェはこう書いています。
《神は死んだ。だがおそらく・・・さらになお数千年にわたり、神の影を示す諸々の洞窟が存在するであろう。・・・そしてわれわれはさらに、
神の影をも克服しなければならないのだ!・・・このような神の影が、もはやわれわれを暗くしないようになるのはいつのことだろうか?》
(『悦ばしき知識』)
「神の死」によってニヒリズムが生じたのは、キリスト教-プラトニズムによって「恒常的存在」が立てられ、
それが今まで最高価値と見なされてきたからです。
その最高価値が無価値になることによって、現代のニヒリズムが生じた。
その現在のニヒリズムを克服するために、もし仮に、あなたの言うように『必要性に従って』、
キリスト教-プラトニズムと同じ仕方で恒常的存在を虚構するとすれば、将来再び「神の死」を生じさせることになってしまいます。
だからそこに、「価値転換」の必要性が出てくる。
そして、従来の虚構の仕方への「批判」が必要になってくるわけです。
366 :
考える名無しさん :2010/02/10(水) 20:45:54 0
いやあ、それは単なる意思伝達の事故 discommunicationです。《もし仮に、あなたの言うよう に『必要に従って』、キリスト教-プラトニズムと同じ仕方で恒常的存在を虚構するとすれば、将来 再び「神の死」を生じさせることになってしまいます》まさにそうなんで、なので私はあそこで、恒 常的存在を認識することを促すかつての真理定立は否定され、しかし、仮象としての真理、力への 意志の発楊としての、生の高揚としての真理定立が新たに主張された、と言っているわけ。そこが うまく伝わっていなかったので、貴方の反論となった。日本語は難しいということです(笑) ちなみに木田元の『私の哲学入門』にも、私より巧くニーチェの真理観を解説してるところがあるの で抜粋しておきましょう。 《通常、認識とは、<真なるもの>を捉える働きであり、<真理>。つまり<真なるもの>とは、たえず 変化するわれわれの感覚的経験の彼方に、変わることなく即自的に存在するものだと考えられて いる。これに対してニーチェは、そうした<真なるもの>とは、生が現段階を確保し、しばらくのあ いだ自分をそこに安定させるためにつける目安にすぎず、その目安をつける働きが<認識>と呼ば れるのだと主張する。》(『私の哲学入門』380頁) 私が言いたかったことを木田が巧く言ってくれているので引用させてもらいました。よろしく。
367 :
その他の登場人物 :2010/02/10(水) 21:38:28 0
宗教における価値観について:あまり定かでは無いのだが、カソリック教徒はお金とその利子に関わる「金融業」の才覚に疎いという話を聞いた事がある。
368 :
考える名無しさん :2010/02/11(木) 07:00:19 0
ニーチェにたいするハイデガーの共感と異和という点について、少しやってみたい。あれだけニ ーチェに入れ込むハイデガーが、どうしても受け入れがたかった点があると私は思うわけですが、 それは『力への意志』の中では、解釈また真性の本質(という言葉が妥当かどうかは判らないけど) へ遡行し、探り当てる思索はない。それは《物自体などない。すべては関係による》とするニーチェ の哲学からすると当然の話かもしれない。それを考えれば、有を差し向けるのは何か、という問い に入っていくし、それがニーチェの拒否した最高価値の再現となると思ったのかもしれない。しか し、それが考えられなかったことで、ニーチェの思想は、近代社会、現代の企業社会でも重宝されて いるような、自由や身軽さを特質としてもつことになった。ニーチェがあれだけ歴史的な考察をし、 ニヒリズムの克服を考えたにも拘わらず、ニーチェの思想は現代的ニヒリズムの拠り所ともいえる 欠陥を宿すことになった。それが私があげた点だと思います。これはニーチェ全般的に熟読してい る人からみると違った見方があるかもしれない。私からみるとニーチェのその点がやはり欠陥にみ える。また、ハイデガーからすると有の忘却の一形態、と思えたのではないかとするところです。
>>368 >ニーチェの思想は現代的ニヒリズムの拠り所ともいえる
>欠陥を宿すことになった。それが私があげた点だと思います。
現代的ニヒリズムの拠り所?
どういうことなのか、意味がわからない。
伝えることの難しさを感じたと書いているわりには、伝えようとする努力が感じられない・・・
370 :
考える名無しさん :2010/02/11(木) 17:30:44 0
すべては解釈である、すべてはある関係からみられた視点である。自体というものはない。認識 は力への意志である。真性とは力の高揚のための仮象である。生とは力への意志である…。 こういったニーチェ的な命題は、ニーチェの意図とはいまや離れて、現代における支配-被支配 、支配-隷属のイデオロギーの温床になっている、別の言い方をすれば支配権力のイデオロギーと して君臨し、機能している。というのが私の見方なわけです。現代社会における有の軽視や蔑視、 鈍感さと連動し、有の忘却を増幅させている。 それがニーチェのせいだとまでは言わないけれども、イデオロギーとしてニーチェの唱えた力へ の意志が、寄り添ってみえる。ニーチェの思想は現代の権力イデオロギーの不可避、その根拠の 強固さを予告した。自らの思想の限界、また終着点として。そこをハイデガーは見逃してはいない だろう。ハイデガーがニーチェから多大な影響を蒙りながら、そこにどこか非難を込めることが あるのは、ニーチェの思想における先のような点を見越していたからではないのか。力への意志 を生として措定し、そこで自体の概念を徹底的に破壊した。そこで真性は、力の高揚の手段に近づ いた、というか、そうなるのを押し止めるものはニーチェにはない。ニーチェにそれがないのは 何故か、というところにハイデガーの有の問いの発想はあるかもしれないとも思える。力の増幅 のためには役立つ命題こそ真なり。物事に本質などない。力の増幅こそ優先させるべきものだ、 というのが権力の在り方として考えられる。ニーチェの思想はそれを推進すると思える。
371 :
○丸 :2010/02/11(木) 18:31:24 0
超人になる為の前段階には、まずニヒリズムの徹底があります。 ニヒリズムとは否定のことであり、このニヒリズムを徹底すると、 ニヒリズム(否定)をニヒリズム(否定)。 質的変化。 よって肯定が誕生します。お粗末様でした。
372 :
○丸 :2010/02/11(木) 18:38:16 0
ニヒリズムも超人も力意志の一形態でしかありません。 よって推進にも抑制にもなると考えたい。
373 :
○丸 :2010/02/11(木) 18:46:45 0
人が歳をとる毎に、思ったほど成長を感じないのは、 善も成長すれば、悪も成長するからです。
374 :
324 :2010/02/12(金) 02:29:22 0
平凡社ライブラリーの『ニーチェ』はハイデガーがライプニッツに言及している部分(第3部?)が
カットされている。
だから第三巻だけは薗田宗人訳の白水社版を入手する必要がある。
ちなみに第三巻でハイデッガーが絶賛するライプニッツのテクストは以下、
(24の命題)
http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/leibniz/24.html 追記:
なぜニーチェ論でライプニッツなのかと言えば、存在論的に抽出した力の概念を一番的確に表現したのが
ライプニッツだったからだと思う(ニーチェが影響を受けた事実もあるが)。
>>370 は、ほとんど誤解だと思う。
そしてその誤解は、
>>357 に書いた、ニーチェの妹が「でっちあげ」たニーチェ像からきている気がする。
日本での「権力への意志」という訳語が、そういう誤解を深めてしまったのかもしれない。
今は「力への意志」と訳す人が多いです。
>そこで真性は、力の高揚の手段に近づいた、というか、そうなるのを押し止めるものはニーチェにはない。
>ニーチェにそれがないのは何故か、というところにハイデガーの有の問いの発想はあるかもしれないとも思える。
むしろ、ハイデガーの存在の思惟は、ニーチェの力への意志の思想から大きな影響を受けていると思う。
ニーチェは「生成」を「力への意志」と名づけた。そしてその「生成」と「存在者」とを区別し、「存在者」ではなく「生成」が根源的なものであるとしている。
《そもそも存在者を認めてはならない。なぜならそのとき生成はその価値を失い、まったく無意味で余計なものに見えてくるから》(遺稿11[72])
《持続的な単一体は存在しない。アトムもモナドも存在しない。ここでもまた、まず我々によって『存在者』が置きいれられているのだ》(11[73])
このような「生成」と「存在者」についてのニーチェの思惟が、ハイデガーの「存在」と「存在者」の『存在論的差異』の思想につながっている。
ハイデガーが思惟した「時としての存在」は、ニーチェが思惟した「生成」とそれほど遠くはない。
(ニーチェがそれを「力への意志」と名づけたことが一番の違いでしょう。ハイデガーは名づけ得ぬものと考えていたと思う。)
そのようにニーチェから大きな影響を受けたにもかかわらず、ハイデガーがニーチェを批判する一番大きな点は、「主観-客観」問題に関わることでしょう。 ハイデガーによれば、《無は存在そのものであり、人間がその真理を委ねられるのは、人間が主観としての自己を克服したとき、したがって 存在者をもはや客観として表象しなくなったときである。》(出典は忘れたけどハイデガーの文章に間違いないはず) 「客観として表象」することによって「存在」は「存在者」化してしまうわけですが、 ニーチェは「生成」を「力への意志」と名づけたことによって、「生成」を、或る意味で「存在者」化してしまっている。 ニーチェにはそのつもりがなかったとしても、少なくともニーチェを読む者は(例えばあなたのように)「存在者」化して読んでしまう。 そしてもう一つ大事な点は、存在(生成)を「客観として表象」しないためには、ハイデガーが言うように「主観としての自己を克服」しなければならないということ。 これは、主体の側の問題。 ハイデガーはニーチェの哲学を「主体性の形而上学」と呼んで批判しています。 ハイデガーの『存在の牧者』という立場から見れば、ニーチェの『超人』は「主観としての自己を克服」してはいない、とハイデガーには思えたのでしょう。
378 :
考える名無しさん :2010/02/12(金) 19:37:31 0
まず、machtという単語が「権力」と訳されたり単に「力」と訳されたりする、それによって意味も 受ける印象も違うではないか、「権力」と訳されることの弊害があるのではないか、という指摘。 私もそうだと思うのです。しかし、私のもってるテキスト『権力への意志 下』(ちくま学芸文庫 )を読むと、どちらに訳されても同じだろうと思われる箇所がある、しかもそこでwille zur machtは相互に闘争し、ぶつかり合い、競い合い、支配を奪い合うwilleとして書かれている。 そうですよね。引用すると 《権力量は本質的には、暴力をふるい、暴力にたいし我が身を防衛する一つの意志である。》(63 4番) 《「原因と結果」の代わりに、しばしば敵をすすりこむということをともなう、生成するもの相互の 闘争。生成するものの数は一定していない。》(617番) 《権力への意志は抵抗に当面してのみ発現することができる。それゆえこの意志は、おのれに抵抗 するものを探し求める。(中略)専有と同化は、なかんずく、圧倒しようと欲すること、形態化し、 形成し加え形成しかえることであり、ついには圧倒されたものは攻撃者の権力領域のうちへと まったく移行し、攻撃者の力を増大するにいたる。》(656番) 上記の引用をみると、wille zur machtという概念によって、闘争や搾取、支配を意味して いる場合が明らかにある。で、そこに「生成するもの相互の闘争」とも書いているように、生成と wille zur machtは並立する概念だということも分かります。 貴方はニーチェは「生成」を「力への意志」としている、と書いてらっしゃるけれども、それでは たとえば『権力への意志 下』にある617番とか、文脈がおかしくなる。そこにこうあります。 《要旨再説。生成に存在の性格を刻印すること―これが権力への最高の意志である。》 ここでニーチェが主張するのは、ニーチェ自身の言葉を借りれば「存在の世界の捏造」であり、 存在する(させられた?)ものを<認識>にかけることによる価値授与を、力への意志として挙げて いる、よってニーチェによれば、「力への意志」とは同時に「迷蒙への意志」でもある、となる。(61 7番)
379 :
考える名無しさん :2010/02/12(金) 21:22:33 0
「生成」と「力への意志」の関係についての私の考えではそうで、これはハイデガーの『ニー チェT』の最終章をみる限り、ハイデガーによる読み方にも合致している。その最終章の 表題は、「力への意志の本質。生成の現前化のうちへの恒常化」である。生成に有の刻印を する、という617番の内容をなぞった表題をつけている。 貴方が書いていて私もそうかもしれない、と思ったのはニーチェのいう「生成」とハイデ ガーのいう「有」の近さということで、そこは否定できない問題ではあると思います。むし ろ力への意志がニーチェの主張するような形式で、生成を表象し、存在化すること、価値 評価することを力への意志とした、それがハイデガーからしてニーチェの限界だっただろ うと思います。ニーチェは貴方がいうように生成を重視しながら、結局力への意志の方を 優先させた。そこの辺りが貴兄と私との違いです。
やれやれ
俺が上で何度も説明しているのに、 まだ分からんのかね? ハイデガーがニーチェを批判するのは、 ナチスと手を切りましたよ〜というパフォーマンスであって、 それ以上の意味は無いよ。
大体、ナチスとの関与が疑われるハイデガーが 根でニーチェ信奉者であっても、それを正直に書いたら 『まだニーチェ(ナチス)を信奉しているのか!』 と戦争裁判で裁かれてもおかしくない。 そもそもシュピーゲル対談という資料を、 長々と書いてるこの名無しが都合の悪い資料だから1個も 出さない、というところがそもそも詐術じゃないか? 結局、これほど長々と書いている名無しも ハイデガーがニーチェを批判した、という自分で勝手に決めた 結論は曲げられない訳だ。 つまり、長々書こうが間違った結論を出してるのが こういう長々と書く名無しの欠陥でもある。
そもそも、この長々と書いてる名無しの文なんて 皆読めんだろう? しかし、残念ながら、 こ れ ほ ど 長 く 書 い て い て も 結 局 結 論 が 間 違 っ て い る のが実際のところだ。
批判する対象(ニーチェ)なんて、 矮小化しようと思えばいくらでも矮小化できる。 例えば、ぴかぁ〜なんぞ、 マルクスがニートだった、と言って矮小化して 乗り越えたつもりでいるがそれは矮小化した像そのものが 間違ってるだけだ。
じゆん、久しぶりだな
同じ様に、ハイデガーはナチス関与が 疑われた状態では、大前提としてニーチェ肯定は 出来ず、代わりに矮小化してでもニーチェ批判(乗り越えアピール)を 『やらざるを得ない』という状況に立たされている。 ここをまず考慮しないと話にならないが、 上の名無しの様に、そもそもここを無視して ハイデガーが本気でニーチェを批判していると考えるのは、 そもそも上の事情を把握すらしていない状態と言え、 そもそも精度を欠いていると言わざるを得ないな〜
387 :
考える名無しさん :2010/02/12(金) 22:41:49 0
lk
388 :
パラレルワールド :2010/02/12(金) 22:52:00 0
評価の問題:借金を抱えていた当時のドイツの状況の中でハイデガーは、ナチスに関与した。そして、「戦犯」というのは、あくまでも戦後における彼についての評価である。
389 :
考える名無しさん :2010/02/12(金) 22:56:45 0
ハイデガーみたいな一貫してないのは、全体像が見えないから、結局何も言ってないのと同じだ。
>>386 ときおり、すべてが空しくなり、したり顔でしゃべるすべての人間に対して、無性に腹が立つことがある。生きて働いていることが、無価値で、空虚で、無駄で、無意味で、つまらなくなる。
このニヒリストの衝動を抑え、日常生活に復帰するために、したり顔で、「有と時」の開けだの
覆蔵性と開示性だのと御託を並べるハイデガーの晦渋なもったいぶった文章を読みたくなる。
2ちゃんのこのスレの、ホントはわかってもいない、わかりもしないのに、晦渋を文字にする輩の
書き込みを読むのだ。
>>390 @ニヒリズムの第一形態
「何もないのにあるように見せかける」ユダヤ=キリスト教とプラトニズム
Aニヒリズムの第二形態
「たとえ嘘でもいいから、幻でもいいから、生きる意味がほしい。」
Bニヒリズムの第三形態
「すべてを受け入れ、すべてに耐える。」(弱さのニヒリズム)
Cニヒリズムの第四形態
「あらゆるものが無意味であることに耐え、そのことを意志し、超人への道を歩むこと。」
(強さのニヒリズム)(中島op.cit p.165)
>>391 ニーチェの「力への意志」とはなにか?
「何の見返りも求めず、何の目的もなく、何の意味もなく、ただひたすら起こるべくして
起こること、
そのこと自体を意志すること、これが『力への意志』なのである。」
「ただ意味がないということの『意味』だけを目指すこと、目的がない
ということだけを生きる目的にすることである。」「それが、いかなることが生じようとも、
”Ja”と肯定する『運命愛』にほかならず、それを文字通り実践して生きている人間が
『超人』なのだ。」(中島義道「人生に生きる価値はない」p161)
393 :
考える名無しさん :2010/02/12(金) 23:05:02 0
死ぬ時もニヒリズムでいられればたいしたものだ 確かハイデガーは死ぬ時カトリックではなかったか
394 :
考える名無しさん :2010/02/12(金) 23:30:53 0
/ ̄ ̄ ̄ ヾ=ー、_ / //官僚がやったヽ / // / ///V//| | |;\ /::::::: ̄ ̄ `ヽ 、__/| ∧-―^‐-/| /// // //"""""""| | ヾ;;;;;;;;;⌒|ママがやったi !;;;;;/ /\´ , へ ヽ、 / / // //,,.... ゚ ...,,|| | | ヾ;;;ノ ヽ:__ __丿ヾ゜ .iヽ゜...... ..........―‐‐--/| | // // -・‐ ,‐・-,.|| | | ( ____ Y __ / !( ) (秘書がやった/ヘ| |ヾー // ー '' | ー- || | |. (E] |ミミ(・ )` ´( ・)ミi|] ゜|, -・=, -・=- 6、 /) ミ三三彡// /(,、_,.)ヽ /ヾlll l. |ミミ| (__人_) |ミ|l ____.ノー(、_,、_)ー-‐' 7 /ヽ_____ (、ヾミ/`iノ ヽ---ノ /彡/ __\ミミ|_`ー'_|ミソ. \\i i i| ヒェェュュノ\ ノ i i i |// ―"―-ノ|o' ヽ`-、_  ̄_/o'l--―--――i^i^iー\=∠-i^i^i^i\\| |ヽ ヽニソ _ _,' | | | |//ヽ、 i i | | \_7´/ | | | i i.//ソ、ヽ____l i''\| | |/\\| i`ー ー --―, .i | | |// ヽ | | ゝ_ `ー――――' ノ | |//ヽイ ゜ー--, ,---´ ト、 ( \\ゝ`ー-―――-' ノ | |// ●自分の財産が第一。民主党
395 :
○丸 :2010/02/13(土) 00:03:03 0
”力への意志”の意志はベクトル。 坂の上から下へ玉は転がります。当然です。
そもそも、俺が
>>10-12 で言った様に、
ここで長ったらしく書いてる自称専門家(特にポールや太郎)といった
名無しの書き込みなんざ、実は分析用に歪められたハイデガー像でしかない↓
(正)
前 期 - 実存、独我論的 - 前期ウィト
後 期 - 構造、言語学的 - 後期ウィト
↓ 分析が勝手に転写
(誤)
前 期 - 実存、独我論的 - 前期ハイデガー(←実は単なるウィトの転写)
後 期 - 構造、言語学的 - 後期ハイデガー(←実は単なるウィトの転写)
実際には前期と後期が存在しているのはウィトのみで、
ハイデガーは書き方が変わっただけで前期も後期も内容は一緒。
まあ、こんな感じでお気楽にウィトの構図を 何でもかんでも他の哲学者に当て嵌めて理解した気になってる様じゃ、 いつまでも経っても根は分析の思考回路のままだろ? ニーチェに関しても、分析の場合、 ハイデガーがどうしても上の図式の様に後期になると 構造主義や分析に目覚めたと言いたいが為に、 単なるナチス(ニーチェ)を手を切りましたよ〜という表面的な パフォーマンスである事すら見抜けない。
しかし、分析哲学者はアホなので、 この『ナチを乗り越えましたよ〜という空々しいパフォーマンス』を 真面目に受け取ってしまい、 分析哲学者『なるほど、実存は超えられ、構造主義なのですな!』 という勘違いをしてしまうのです。
分析哲学者は、往々にして実存とか、主体とか、 ニーチェが嫌いなので、言語の権威を脅かす あらゆるものを排除しようとする。 そこで、ハイデガーは根には思ってもいない ニーチェ批判を真に受けてしまい、ハイデガーが 構造主義に目覚めた、という展開に持っていきがちになるが、 これは分析によくありがちな誤った哲学史の理解だね(太郎とかはそういう間違った理解)
>>378-379 >《権力量は本質的には、暴力をふるい、暴力にたいし我が身を防衛する一つの意志である。》(63
>4番)
>《「原因と結果」の代わりに、しばしば敵をすすりこむということをともなう、生成するもの相互の
>闘争。生成するものの数は一定していない。》(617番)
>《権力への意志は抵抗に当面してのみ発現することができる。それゆえこの意志は、おのれに抵抗
>するものを探し求める。(中略)専有と同化は、なかんずく、圧倒しようと欲すること、形態化し、
>形成し加え形成しかえることであり、ついには圧倒されたものは攻撃者の権力領域のうちへと
>まったく移行し、攻撃者の力を増大するにいたる。》(656番)
>
> 上記の引用をみると、wille zur machtという概念によって、闘争や搾取、支配を意味して
>いる場合が明らかにある。
「闘争」「搾取」「支配」などの語は、文字通りにではなく、『擬人化』された表現として読むべきだと思う。
力への意志には多様な側面があるけれども、ニーチェが『力への意志。一切の諸価値の価値転換の試み』と書いているように、
大事なのは、力への意志という思想も、従来の諸価値に対する批判の中で生まれてきたということです。
上の引用文には、まず、ダーウィニズムへの批判が含まれている。
上の引用文に似た文章で、そのことが分かりやすい断片を引用すれば、
《人間が意志するもの、生ける有機体の最小の部分のすべてが意志するもの、それは力の増加である。・・・原形質は何か自分に抵抗するものを
求めて、その偽足をのばす、──飢えからではなく、力への意志から。それに続いて、抵抗するものに打ち克ち、我がものとし、同化を試みる。》(702番)
生の本質が『自己保存』にあると考えたダーウィニズムに対して、ニーチェは『力の増大』を対置している。
上の702番は「有機体の最小の部分」という有機体レベルで書かれているけれど、617番の「敵をすすりこむ」「生成するものの数は一定していない」などの表現は、 もっと微小な原子・分子レベルで、原子論や単子論への批判として書かれているのではないかと思う。 つまり、「生成するもの」(「力への意志」)は、モナドのように「窓のない」ものではなく、数も一定ではない。 そのようにニーチェは力への意志を、基本的には「量子」レベルで考えていたと思う。 《一つの力量子、これは『存在』という性質を全く持たないのであるから、生成である》(遺稿11[73])。 《一つの力量子は、それを働かせる作用とそれが抵抗する作用とによって表される。…それゆえわたしはこの力意志を『力への意志』なる量子と呼ぶのである》(14[79])。 力への意志という思想が生まれた頃ニーチェは、マイヤーなどの当時の自然科学者の力概念から影響を受けるとともに、彼らの力概念に対する不満も書いている。 《われわれは線を使わずに運動を思惟することができない。それゆえ、われわれにとって運動の本質は隠されてしまう。 数学的な点と線で表された『力』、これがその最終的帰結なのであるが、それは全くナンセンスなものなのだ》(遺稿11[23])。 ニーチェは、彼らの力概念には、内的な駆り立てる意志が欠けていると感じたんでしょう。 だから彼らの力概念に対して、力への意志についてこう書いている。 《われわれは力への意志が存在しないような、いかなる変化も想像することができない。力が他の力に対して圧倒するということがなければ、 われわれはおよそ変化というものを導き出すことはできない。力学はわれわれに単なる結果を示すだけである》(遺稿14[81])。 このようにニーチェは「量子」というレベルにおいてすでに、「圧倒する」「抵抗する」のように、力への意志を擬人的に表現しています。
> 貴方はニーチェは「生成」を「力への意志」としている、と書いてらっしゃるけれども、それでは >たとえば『権力への意志 下』にある617番とか、文脈がおかしくなる。そこにこうあります。 おかしくはならないと思う。 「生成」=「力への意志」であり、人間も力への意志(量子レベルの力への意志)の有機的統一体として、それ自身力への意志だから。 《この世界は力への意志でありそれ以外の何ものでもない。そして君たち自身も力への意志でありそれ以外の何ものでもない》」(遺稿38[12]) 《すべての統一体は、ただ有機的組織化および戯れ合いとしてのみ統一体である。これは人間の共同体が一つの統一体であるのと異ならない》(遺稿2[87])。 >《要旨再説。生成に存在の性格を刻印すること―これが権力への最高の意志である。》 > > ここでニーチェが主張するのは、ニーチェ自身の言葉を借りれば「存在の世界の捏造」であり、 >存在する(させられた?)ものを<認識>にかけることによる価値授与を、力への意志として挙げて >いる、よってニーチェによれば、「力への意志」とは同時に「迷蒙への意志」でもある、となる。(61 >7番) 「生成に存在の性格を刻印すること」=「存在の世界の捏造」だとすれば、ニーチェがそこに「最高の」と書いていることが説明できなくなると思う。 「存在の世界の捏造」することは、《あらゆる有機体の根源的誤謬》(『人間的な、あまりに人間的なもの』)なのだから、「最高の」ではなく「普通の」wことでしょう。 この文は、永劫回帰との関連で考えなければならないと思います。 《生成に存在の性格を刻印すること。・・・これが最高の力への意志である。・・・ 一切が回帰するということは、生成の世界が、存在の世界へと最も極端に接近することである。すなわち考察の絶頂》(7[54])。 この断片は、私の解釈では、 ニーチェの「永劫回帰」と「力への意志」の思想が、哲学史における長い誤謬であった「生成」と「存在」との対立を終わらせ、 今まで「生成」に付与されていた「仮象」という性格を取り除く思想であること、そしてそれによって「生成」と「存在」という区別そのものが 無効になったのだということを意味している。 だから「最高の」が付いている。
糞固定はニーチェ講義自体も読んでないし いつから始まった講義かも分かってないんだろうなw
404 :
考える名無しさん :2010/02/13(土) 19:15:32 0
>>402 その「解釈」はもしかしたら「正しい」かもしれないがつまらない。
そもそもニーチェのこの方面の議論自体が哲学的につまらないから。
405 :
考える名無しさん :2010/02/13(土) 20:19:04 0
にーちぇなんて二流だ。
406 :
考える名無しさん :2010/02/13(土) 22:20:47 0
人類史上最高の天才は、アリストテレスか、それともハイデガーか!?
407 :
考える名無しさん :2010/02/14(日) 09:16:40 0
力への意志=絶えざる生成、ないし生成するもの、でひとまずいいんじゃないですか。 しかし、上記のような個々の問題はともかく、貴方の話を辿って、ニーチェの中に悪を肯定もしく は善悪の文字通り彼岸へ向かう傾向があることを認めたくないという性格があるように感じ、そこ がニーチェ像として、矮小化してると思えてならないですね。「闘争、搾取、支配」とかは擬人的にの み使われてるわけではなく、人間にたいしては文字通り人間世界の事実、関係として書いている。 そこを擬人的表現でしかないとしては、学者でよくいますけど、できるだけ人畜無害化し、学生に 悪影響あたえないよう配慮するみたいな人が(笑)その手のと同じ輩だと言わざるを得ない。ニーチ ェに関して言えば、ニーチェが善意や良心や道徳でいっぱいになり、結果生の本質を忘れた西欧に たいし、戦おうとした、もちろんその過程で哲学的問題の解決もやってはいるが、根本モチーフと してそれまでの西欧の歴史を司った最高価値批判をやろうとしたことの意味がすくいとられなく なる。力への意志は悪を恐れないものだ、善悪を越えるのだ、というところが換骨奪胎され、人畜 無害にされていると思えます。ニーチェの思想にあるそこの要素を貴方の書き込みは触らないよ うにし、さっきのように、《「闘争、搾取、支配」とあるがあれは量子問題で云々》とし、人間世界の 事象として取り上げないというのは、ニーチェのモチーフ―プラトニズムにより蔑まれた生の力を 取り戻す、という根本モチーフを無視するに等しいのではないですか。それが匂ってくるから貴方 の話からはどこか「誤魔化し」「偽装」の匂いがしてしまう。ニーチェにおける力への意志が最高価値 の批判を内に含む、むしろ力への意志は生の力の高揚のために善悪を恐れない、というところが 貴方の話から逸らされてしまう。それは偽造ではないですか。
408 :
考える名無しさん :2010/02/14(日) 09:52:24 0
《生成の存在の性格を刻印すること―これが権力への最高の意志である。》というのは、生成こそが 世界の本質であるにも拘わらず、力の保存と増大のために表象し、捕獲し、搾取する、それを謳う がゆえに、すなわち哲学的-認識的-真理問題よりも力を優先させ、言い換えれば、必要上行使され る認識であり意志である、そこを自ら賞賛してるとみます。そこは同じ617番の後の記述に繋がっている 。《すべてのものが回帰する》というのも、ニーチェは己が己に回帰する、と言っているのだから、 そこにあるように《存在の世界への極限的近接》である。ようするに冒頭の《生成に有の性格を刻印 すること》から繋がるとみます。そこでは存在―生成の止揚はすでに過ぎた問題としてとらえている と見た方がよいと思う。
>>407 >力への意志は悪を恐れないものだ、善悪を越えるのだ、というところが換骨奪胎され、人畜
>無害にされていると思えます。ニーチェの思想にあるそこの要素を貴方の書き込みは触らないよ
>うにし、さっきのように、《「闘争、搾取、支配」とあるがあれは量子問題で云々》とし、人間世界の
>事象として取り上げないというのは、ニーチェのモチーフ―プラトニズムにより蔑まれた生の力を
>取り戻す、という根本モチーフを無視するに等しいのではないですか。
400と401は力への意志という思想が生まれた背景として、ダーウィニズムや原子論や物理学への批判があったということを書いたのであって、
プラトニズムや善悪の問題については、書いていないだけ。(一度に全部書くのはとても無理)
力への意志とのつながりから、「善悪」について簡単に触れておきます。
人間としての力への意志を考える場合、力への意志のもう一つの側面が重要になってくる。
存在論的に見れば力への意志は「生成」であり、そしてもう一つの側面として、それを認識論的に見れば、力への意志は「解釈作用」です。
《力への意志は解釈する》(2[148])。《存在するのは解釈だけなのだ》(7[60])。
ここで言う「解釈」とは、《意味を置き入れること》(2[82])であり、
だからニーチェは、力への意志の総体としての人間の本来的な在り方を「創造者」として規定する。
《我々は、どの程度まで我々が己の価値感情の創造者であるのかを認識しなければならない。
つまり、どの程度まで歴史の中に『意味』を置き入れることができるのかを。》(6[25])
しかし、存在の根本動向である力への意志を体現する「創造者」とは対照的に、プラトニズム(キリスト教)の信奉者たちは、
力への意志を己のものとして担うことができないから、新しい意味と価値を創造することができない。
だから、彼らはそれだけいっそう既に在る意味と価値に支えを求める。
《善人たちは、創造者を最も憎む。石の板と古い価値とを壊す者、破壊者を、彼らは罪人と呼ぶ。
というのは、善人たちは創造することができないからである。彼らは常に、終末の始まりである。》(『ツァラトゥストラ』)
既に在る(普遍的な)意味と価値に支えを求める「善人たち」は、まさにそのことによって、
存在の根本動向であり、己の内に働いているはずの「力への意志」(意味を置き入れること)を放棄していることになる。
(でも、これは見せかけであって、実は弱者の内にも力への意志が働いている。そのことを明らかにしようとした本が『道徳の系譜』です)
そのような「善人たち」に対して、「創造者」は・・・
《次のように語る者は、自己自身を発見したものである。すなわち、これは私の善と悪だ、と。
彼はこう言うことによって、『万人にとっての善、万人にとっての悪』などと言うもぐらとこびとを沈黙させたのだ》(『ツァラトゥストラ』)
ここで『万人にとっての善、万人にとっての悪』と言われているのが、ニーチェの批判する「善悪」、つまりキリスト教道徳であり、
ニーチェはそれに対して、「私の善と悪」を対置している。
ところで、ニーチェはそのような「善人たち」を『弱者』としていますが、次の断片は、その場合の『弱者』と『強者』の基準を示していると思う。
《どこまで事物のうちに意味なしでいられるか、どこまで無意味な世界のうちで生き耐えられるかが、意志力の測定器である》(585番)
つまり、プラトニズム(キリスト教)の信奉者たちのように、既に在る普遍的な意味と価値に支えを求めるのではなく、
世界の無意味さに耐え、その無意味な世界の中で、新たな意味(「私の善と悪」)を創造していく者が『強者』であると考えれば、
『力への意志を体現する者』≒『創造者』≒『強者』と考えることができると思う。
>>408 は意味がよくわかりませんでした。(「最高の」の意味を説明できているとは私には思えなかった。)
411 :
考える名無しさん :2010/02/14(日) 17:14:53 0
『力への意志』617番の冒頭というのは517番の再説だと思うんですね。だから二つはよく似ている 。前にも引用したように、有るものが必要上、または虚構として作られること、《一種の生成自身が 存在するものという迷妄をつくりあげなければならないのである。》とする。それは617冒頭の文、 《生成に有の性格を刻印すること―これが力への最高の意志である。》に対応している。で、「力への 最高の意志」という文言ですが、この後をみると分かるように、生成に有の性格を刻印することが 「偽造」「捏造」であると語っている。ようするに「最高の」はアイロニーだとみればいいと思います。 詭計にすぎないけども、力への意志はそれを必要とするのだと。 「権力と意志の人間」にたいし、「背徳と放縦の人間」を対比しているところがありますね。第4書 訓育と育成 のなかの871番で。そこでは物事に価値尺度を付与する前者にたいし、後者は「反対」 だとする。871は後半に「偉大な人間」を語るけども、「権力と意志の人間」を「偉大な人間」と呼ぶの ではなく、その反対の人間を「偉大」と呼んでいることは明らかである。あと、801では「性欲、陶酔、残酷」に 「人間の最古の祝祭の歓喜」と名付けている。 価値評価し認識する力への意志にたいし、より高みに上らせる仮象として芸術としての力への意 志がある。芸術としての力への意志の方に、より根本的な場所へと至らせる力を認めてますね。つ まるところ、力への意志という分かりにくい概念も、プラトニズムで疲弊した人間に「偉大なもの」 を奪回させるのが本旨だったんだろうと思う。よって「権力と意志の人間」にたいし、「背徳と放縦 の人間」を対比する。その871の前、864では、「戦争、権力欲、冒険によって、相互に殲滅しあう」人 間がやはり「偉大な時代」とされている。ニーチェを認識論的な場所に押し込めると、「偉大さ」の 希求というところがみえなくなると思います。。
412 :
考える名無しさん :2010/02/14(日) 17:26:12 0
あと、力への意志とは生成。というのは間違いではないが、その場合、抽象的にすぎる弱さがある と思います。絶えざる自己超克としての生成、また、闘争する生成、といったように、但し書きを 付加すると、分かりいい。でないと、生成といった場合、ベルクソンやドウルーズも言ってるし、 手垢がついてる概念だと思うんですね。なので、生成のみでまとまられないと思います。
413 :
○丸 :2010/02/14(日) 21:48:30 0
「力への意志」をビジュアル化してみます。 力意志力 さらに 力意志力意志力。。。。。 つまり力と力の差があるところに意志(ベクトル)があります。 この意志が世界であり、力を生成と読んだ。
(正) 前 期 - 実存、独我論的 - 前期ウィト 後 期 - 構造、言語学的 - 後期ウィト ↓ 分析が勝手に転写 (誤) 前 期 - 実存、独我論的 - 前期ハイデガー(←実は単なるウィトの転写) 後 期 - 構造、言語学的 - 後期ハイデガー(←実は単なるウィトの転写) これ↑を踏襲すると、大体、ここで長ったらしく書いてる名無しと ほぼ同様の文章が書ける様になる。例えば、 『ハイデガーは初期こそ、実存主義的でありましたが、 ナチスへの関与を離れ、ニーチェを再読し形而上学を超克した後では、 <存在>の根底に何か、不気味なものが蠢いていると確かに感じていた筈です。 つまり、何かしらunearthlyな、あるいはuncannyと言った方が正しいかもしれません。 根底に蠢くものとは非人称的な(つまりは主体ではない)もの、それをハイデガーは 言葉に住むと表現しました。』 ↑俺が適当に長ったらしく書いた文。 しかし、これは上の図で示した、分析にありがちなウィトのなんでもかんでも 転写する誤ったハイデガー像をできるだけわかりにくく言っただけで、 つまりは中身なんて無い、このスレの名無しも結局はこのレベルと何ら変わりは 無い訳だ、この程度の事なら俺でもいくらでも長ったらしく書ける、という訳さ?
一旦、物事を用語で如何に難解に言うかに慣れてしまった人間は、 自分で言ってる事が如何に浅い図式の事を言ってるのか、 その本人にすら分からなくなる↓ ぴかぁ〜 『情報化が進んだ現代では、 形而上学的な転倒は困難になっています。 街であの娘が可愛いと思っても、直ぐに別の娘に目が行き、 脱構築が作動する。』 ↓ 翻訳 ぴかぁ〜 『情報化が進んだ現代では、 絶対的な安定は困難になっています。 街であの娘が可愛いと思っても、直ぐに別の娘に目が行き、 不安が作動する。』
このスレで名無しがプロの様に書いてる事も、 結局は、分析をベースにした誤った、単なるウィトの 転写↓であって、細かい事を書いている様でもハイデガーの実像を 捉えていない。 (正) 前 期 - 実存、独我論的 - 前期ウィト 後 期 - 構造、言語学的 - 後期ウィト ↓ 分析が勝手に転写 (誤) 前 期 - 実存、独我論的 - 前期ハイデガー(←実は単なるウィトの転写) 後 期 - 構造、言語学的 - 後期ハイデガー(←実は単なるウィトの転写)
つーか、テキストを引用してても、 結局は↑の分析の転写図式に恣意的に当て嵌めようと 無意識的に動いてるから、結局、長く書いたところで同じだろう。 しかも、俺がシュピーゲル対談というテキストを参照しろと 言ってるのに、都合の悪い資料は出さない、といういい加減さ。
ポールもフーコーのエノンセってものが、 勝手に分析の転写で分析用の言語学だと勝手に思い込んでいるし、 太郎はデリダが単なる生成だと思い込んでいる。 こういう根が分析の恣意的な哲学史の曲解しかできないのに、 さも長文で引用多数でしかし結局は分析用の偽哲学史を長文で 書く贋者は多い。
419 :
考える名無しさん :2010/02/14(日) 22:51:33 0
今読み返してみたが、「生成に有の性格を刻印することは力への最高の意志」の「最高」は アイロニー、というのは変ですね(笑)そうでなく、「最も貴重な」という意味合いでの方が 通じるんじゃないか。何故なら、有の性格を刻印することでのみ生成が認識されるように なるのだから、それなしには生成は認識されないのだから、その有るもの化は実は誤謬に は違いないが、しかし、それなしには生成な有ることはできない、よってその力への意志は 貴重かつ重要であり、力への意志としては最高のものである。こう考えた方が合ってるんじ ゃないかと思えます。 純一氏が色々書いてくれてるが、貴方ほどの知識もなく、ウィトゲンシュタインの思索も よくは知らないので応答しようがない。私はただ、ハイデガーやニーチェの思索と、自分の 日常への内省とからめて、それらの思想が私の生を照らすことがあれば貴重な読書だと 思うだけです。ハイデガーは個体に覆蔵される歴史への思索という面ではかなりな仕事を やり遂げてる。そこに惹かれて読んでいるだけなので。「私って誰?」などという問いに答え などない、と誰かが言った記憶があるが、ハイデガーの本によれば、それに答えうる手続き はある。そこも惹かれる点ですね。
ああだこうだ言ってっみても観念論は所詮徒労です。ご苦労様でしたw
421 :
考える名無しさん :2010/02/15(月) 13:18:57 0
純一氏の主張では、「ハイデガーはナチスへの共感をカモフラージュ」するために『ニーチェT・ U』を始めとしたニーチェ批判をやった。それはトリックで、本音は自分が戦後もナチス思想家で あったことを隠蔽したかっただけである。そこを飛ばしてハイデガーvsニーチェの議論などやっ ても全く無意味!ということだと思います。 それについて、ハイデガーとナチスとの関係によって断罪したがる人には、私は哲学や思想につ いての先験的な固定観念が混じっており、それがあるから本質的な議論ができなくなってるので はないか、と。何がそこで問われるべきなのかといえば、 1.ナチスの何にハイデガーは不満だったかがこれまでの研究では不明。 2.1とも関わるが、ナチスが人殺しを大量にやったことをハイデガーが非難したことは多分一度 もない。また、そこはニーチェも同様で、性欲・陶酔・残虐を人間最古の祝祭の歓喜、とみなして いる。 3.しかし、ナチスもニーチェも、ハイデガーからすると双方ともまだ有・Seyn の真理には到達 していない。有・Seyn については『哲学への寄与論稿』全編がそれにあてられている。その謎めい た概念にこの問題の鍵があるのではないか。 4.上記1-3を通して言えるのは、ナチスもニーチェも、ハイデガーの見い出した有・Seyn を意 味するには至らない。よって不満だが、それはたとえばナチスが大量に殺戮したからでは毛頭ない 。 1-4の問いが真実にはハイデガーとナチスの関係が問われなければならない。しかしこれまでそ のような問いが問われたことはない。それがこの問題の閉塞性を作っている。ただ、ハイデガーが ナチスと関わっていたからと騒ぎ立てる、それだけの思考は実は上記の問いとは全くかすることは ない。ということ。哲学は殺戮を肯定するわけがない、とか、一般社会的な観念に同一化することが 思考の前進を阻んでいるということ。
ハイデガーのナチス関与に自身の思想が関係してるか なんてどうでもいい問題でしょ 学内政治もやったことない人間が総長に祭り上げられて 結局グダグダになってすぐやめただけ ナチス関与としては結果的に当時のドイツ国内の成人男性と 同じだけの責任を負えば十分 アレントとの不倫はハイデガー自身の思想と密接に関係 してるとか言ってくれたほうがナンボか笑える
423 :
パラレルワールド :2010/02/15(月) 17:44:48 0
ハイデガーの穴:ハイデガーにとって”主体”は存在しない。 「存在の根底に何か不気味なものが〜云々」と言って見たところで、ハイデガーがそこで語り出すのは 「存在」の歴史であり運命でしかなく、自立的な知の立場に立つ人間存在は、その根底においては「Ereignis des Sein] という他性の内に投げ出されている。ここで注意すべきなのは、ハイデガーの哲学には、アレンととの不倫を語り得るような”欲望”に関わる語彙が 欠落しており、尚かつそれを隠蔽してもいる点だ。
初期のナチにある、素材と対話してモノづくりがなされる手工業優遇政策 重工業巨大資本解体政策に ハイデガーは好感を抱いていたんじゃないか? ナチの具体的政策とその変貌については中村幹夫あたりで読める。
425 :
パラレルワールド :2010/02/15(月) 21:19:25 0
ある問題設定:ハイデガーは、どのような体位やプレイを好んだのだろうか?
本来的=正常位 動物的なバックなんぞはド軽蔑
427 :
パラレルワールド :2010/02/16(火) 20:33:42 0
ラカンの言い方を借りて言えば、ハイデガーの思想は「主の語らい」であると言える。 すなわち、ハイデガーが関与したナチズムとはファンタスムとしての全体性であった。
428 :
○丸 :2010/02/16(火) 21:31:05 0
なぜ力と意志を組み合わせ、わざわざ「力への意志」と呼ぶのか? それはチョモランマが高い山であるように、そのまた深い谷でもある。 それは分割不可能である。
429 :
パラレルワールド :2010/02/17(水) 04:57:26 0
「幻想」について:かつて「幻想の郊外」というエッセイ集が業界内の賞を受賞た頃、ほとんど時を同じくして宮台某が書いていた本のタイトルが「幻想の〜」だった。
>>411 >「権力と意志の人間」にたいし、「背徳と放縦の人間」を対比しているところがありますね。第4書
訓育と育成 のなかの871番で。そこでは物事に価値尺度を付与する前者にたいし、後者は「反対」
だとする。871は後半に「偉大な人間」を語るけども、「権力と意志の人間」を「偉大な人間」と呼ぶの
ではなく、その反対の人間を「偉大」と呼んでいることは明らかである。
ちゃんと読めていませんね。誤読です。
871番には、《背徳で無節度の価値少ない人間》とか《生の偉大な達人(この達人の自主性は背徳的で放縦な者と最も鋭く対立している)》
と書かれているのだから、ニーチェはここで「背徳的で放縦な者」について批判的に書いていることがわかるはずです。
>ニーチェを認識論的な場所に押し込めると、「偉大さ」の
>希求というところがみえなくなると思います。
「強者」と「弱者」については
>>410 で触れましたが、
前に書いたように、力への意志はさまざまな形で現れます。弱者においては、力への意志は歪んだ形で現れる。
しかし(ニーチェの考えでは)キリスト教は、強さが強さとして、弱さが弱さとして、力への意志があるがままに現れることを隠蔽しようとしてきた。
871番の「偉大さ」も、そういう文脈で書かれています。
《「神の前での人間の価値の平等」という概念がこのうえなく有害である。・・最も弱い者の防禦手段が価値規範として立てられたことによって、強い人間の全傾向が悪評をこうむった。
この取り違えはきわめてはなはだしくなったので、まさしく生の偉大な達人(この達人の自主性は背徳的で放縦な者と最も鋭く対立している)が最も恥ずべき名称を烙印された。
現今でもなおチェーザレ・ボルジャのごとき人物は非とされなければならないと信ぜられている。これはまったく笑うべきことである。・・・
天国には興味深い人間は一人もいないということに、お気づきのことがおありか?》
つまりこの断片は、あるがままの「強さ」と「弱さ」が、『神の前の平等』という思想によって隠蔽されてしまっている、というキリスト教批判の文脈で書かれている。
だから、『「偉大さ」の希求』というより、ここでニーチェが求めているのは、強さが強さとして、弱さが弱さとして、あるがままに現れること、です。
それが「生成の無垢」であり、力への意志の世界です。
432 :
考える名無しさん :2010/02/17(水) 18:21:29 0
《何か或ものへの抑制しがたい欲求、それと同時にそのものに対する吐き気―これが背徳的な者の 感情をなすのである。》(『生成の無垢 下』510番ちくま学芸文庫) 《背徳への欲求がその者にあっては背徳にたいする吐き気といっしょに増大して―決してそういう 吐き気の増大によって覆われないところの、まさにそうした背徳的な者だけが不幸である。》(同 上509番) ニーチェにおいては背徳というのは吐き気を伴うもので、よって871にあるように《彼らは欲望 の価値に影響を及ぼしてそれを低下させる。》(『権力への意志 下』871番)と言うわけでしょうね 。しかし、何となくここでのニーチェの話を読んでいて、背徳や放縦が甘く蜜のような場合だって あるのじゃないか、その場合はどうなの?と聞きたくなりますね(笑)とりわけ今の時代は背徳に 吐き気、というのは、まあ背徳の種類にもよるでしょうが、ピンとこないんじゃないですかね。ニー チェは《道徳とは自然を前にして人間がもったいぶることである。》(『生成の無垢 下』461番)とも 言っており、人間の道徳心をハナからからかっていますね。そんな人間が悪を気にすることはない 。《誰かが善人に属するか悪人に属するかは、決して当人の諸行為によってではなくて、―これらの 諸行為に関する当人の意見によって決まることだ。》(同505番)とまで言い切っている。そんな ニーチェが「背徳」にたいしマイナス・イメージしかなかったというのは驚きです。背徳したら吐 き気に覆われなければ不幸だ、とか、また随分保守的というか、みみっちいというか(笑)
433 :
考える名無しさん :2010/02/18(木) 07:10:20 0
私の誤読を検討するうち、ニーチェの力への意志や最後のニーチェ思想というのが、意外にナチス に近いのではないか、と思えてきたんですが…。私の誤読というのはニーチェが退廃も認めていた んじゃないか、というところで、背徳や放縦への価値づけからして、そうではないようです。そこを 私が誤読した。私の誤読はニーチェにおける力の過剰による没落を認めていた、という―そう読める ところはあるので―というところからでしたが、そう書いているところもあるにはあるが、そこが どうもはっきりしない。871番でも、権力と意志の人間が尺度を重視すると強調されている。背徳 と放縦の者とは反対だとしている。つまり退廃的要素は徹底的に排除されていく。私が抱いていた 感じよりもニーチェ思想は広がりや深みはないな、という感じがしますね。意外に冗談が分からな い人間だった気もします。力への意志の哲学から過剰による没落の要素を排除すると、これは必然 的にある傾向に近づくだろう。それは止められないだろうという気がする。 ハイデガーは力への意志の哲学を本気で検討したのはナチス荷担の最中かもしれない。で、その 辺のニーチェ評価の転向がハイデガーによる『ニーチェ』ではないのか、という想定はあると思いま す。また、その辺りのことはニーチェが晩年の哲学を結局纏めきれなかったことも関係するかもし れない。そう考えると、ハイデガーのナチス荷担はニーチェの力への意志への評価が鍵だと見れる のではないかとも思えるんですが。
434 :
考える名無しさん :2010/02/18(木) 12:55:29 0
背徳・放縦こそ力の過剰と、それによる没落を示すと私には思われる。それは力とは無縁 ではない。この領域を排除すると、あとには価値評価する主体の全面化が待っているのでは ないか。すべてを力の増大のための素材とする有の企投がその場合の力への意志になる。 それはナチスに象徴される技術主義、素材主義、優性主義に雪崩こんでいくしかない。そこ に至るニーチェ哲学の後付けがハイデガーのニーチェではないかと思える。
↑などと書いてみたが、まだ腑に落ちないところが残る。(私ばかり書いて悪いが。)ニーチェの 哲学からして、「背徳的で放縦な者」が否定される論理はないんじゃないか。としか思えない。現に 871でも、《これはまったく笑うべきことである。教会はドイツ皇帝をその背徳のゆえに破門した。 》と書かれ、背徳などものの数ではない、という考えが伺える。しかし、それにしてはニーチェは「背 徳的で放縦な者」へ妙に手厳しく、また、ニーチェにしては不自然なほど道徳的な説明を施してい る。 あくまで仮定にしかすぎないが、ニーチェはこの言葉で、中世のキリスト教諸派における禁欲主義 とその名目との裏腹な「背徳と放縦」を指しているのではなかろうか。それらはニーチェのように 生を肯定することができない人間たちであり、欲情にたいし、後ろめたくもったいぶることしか できない。ここでの「背徳的で放縦な者」への手厳しさをみると、そうではないかとも思えてくる。 つまり、「背徳に吐き気を覚える者」、というのは聖職者のことであり、「背徳に吐き気を覚えないの は不幸」とは、キリスト教における観念ではないか。何故ならニーチェ哲学からそのような観念が 出てくるわけがない。それらの人間と「権力と意志の人間」を対比し、前者に手厳しくなるのはそ ういった背景ゆえではないかとも思える。871冒頭で《背徳的で放縦な者、彼らは欲望の価値に影響 をおよぼしてそれを低下させる。》とある。このセンテンスとか、キリスト教信者のことだとピタリ はまる気もするのだが…。
『権力への意志』871番は対立点として「強い天性の者」と「弱い天性の者」を措定している。具体的 には前者が「権力と意志の人間」、後者が「教会」だとなる。そこで両者の比較対置をニーチェは行い 、871の冒頭で言われている“真の「徳の同盟」”も、「教会」ではなく、「権力と意志の人間」だとしたい 。そこで比較対置の項目とされているのが、欲望や欲情への対し方で、「権力と意志の人間」が欲情 にも尺度を設定するのに、聖職者たちは一旦外れると何ら尺度もなく無節操に背徳的・放縦にな る。それは「戦慄すべき野蛮さ」をみせる。また、「生の偉大な達人」と違い、欲望にたいし後ろめたい ので「自主的」ではない。そのような人間は、彼らの教義―「神の前で人間の価値は平等」―とは違い、 「価値少ない人間」だと言わなければならない…。 大体このような図式を措定し、「強い天性の人間」と「弱い天性の人間」とを対置している。それが 871の構成だと言ってよいと思う。871が分かりにくいのは、「背徳的で放縦な者」というのが、文 字通りというより、キリスト教信仰者の欲望や欲情の形態を表し、それが読み取りにくいせいだと 思う。そう仮定するしかないのではないか。
437 :
考える名無しさん :2010/02/19(金) 20:09:57 0
435-436もおかしい(苦笑)これも違う。何故おかしいかというと、ニーチェは欲情に身を任すこ とを否定し、欲情を認めながら、これを制御しうる人格を力への意志とみなしているようだからだ 。それは『権力への意志』924番に書かれている。克己心こそ何より大事だということらしい。私など 、こういった克己心を唱えるニーチェの容貌は疎いので、「はあ?」となるが、私の希望的観測も虚しく ニーチェは克己心を重視している。よってしつこく食い下がっている871も、背徳や放縦の否定は 文字通りのものだというしかない。さらに、背徳についてのニーチェの考えを拾っていくうち、 ニーチェにおける遺伝的優性思想にも行き当たった。以下に抜粋してみよう。 《(…)むしろ、背徳と徳とは原因ではなく、結果にすぎないというのが、私たちの見解である。まとも な人間となるのは、その人がまともな人間であるからであり、言い換えれば、よい本能や立派な 境遇の持ち主として産み落とされたからである…万事につけ浪費ばかりで蓄積することをしなかっ た両親から、貧困のままでこの世に生まれたとしたら、その人は「改善しがたい」、言うならば、 刑務所や精神病院ゆきにふさわしい…(…)人は必然的に病弱であるごとく、必然的に劣悪なのであ る…劣悪というこの語は、ここでは、退化の類型と生理学的に結び付いている或る無能力を表す。 (…)》(『権力への意志』334番) ここでニーチェは遺伝的要素を能力評価のうえで決定的とみなす差別を信じて疑わない思考を 露にしている。ここではキリスト教の信仰に依存する人間を遺伝的弱さと規定するためにこのよ うな書き方をしなければならなかった、というのは分かるが、それにしても通俗的な選民思想で ある。 先にあげた、克己心といい、ここでの遺伝主義といい、ほとんど例の哲学を連想させる。克己心を 忘れず、欲情に流されず、しかも優秀な家系に生まれた者、それらの人間こそ己の哲学の導出する 人格だとニーチェは考えたのか。
871の「徳の同盟」や「文明」に、かぎ括弧がついてますね。
871は、一つ前の870と内容がよく似ているし、870の「徳」にもかぎ括弧があるから、
871もラ・ロシュフコーの説への批判として書かれたものなのかも知れない。 わからないけど。
このへんが遺稿を読む難しさ。謎が多い。
>背徳や放縦の否定は文字通りのものだというしかない。
否定というより、「取りちがえ」の内容を明らかにしようとしているのだと思う。
つまり、870では、弱い本性の持ち主の「程のよさ」と、強い本性の持ち主の「自制」との違いを明らかにし、
871では、「背徳的で放縦な」弱い者たちと、強い人間の行為の違いを明らかにしようとしている。
ニーチェは、「自主性」と「尺度をあたえる」ことが、「背徳的で放縦」の反対であるとしている。
だから、この「背徳的で放縦」には、『衝動(力への意志)に引きずられていく』というようなニュアンスがあると思う。
そのイメージで、870の「火のごとく猛りたつ駿馬にまたがった騎士のこの快感!」を読むとわかりやすい。
つまり、人馬一体となった騎士(強者)とは対照的に、弱い本性の持ち主の場合は、馬(衝動)に『引きずられて』いく。
>克己心こそ何より大事だということらしい。
克己も、強者と弱者では内容が違うということをニーチェは言いたいのでしょう。
870にあるように、弱者の場合は、自然の激情や衝動への「恐怖」から、「禁欲」がおこなわれる。
それに対して、人馬一体となっている強者は、一体であるから、馬(力への意志)への恐怖はない。
そして、馬を暴走させずに、一体となって乗りこなすことにおいて、むしろ最高の力が発揮される。
それは「恐怖からの禁欲」とは全く内容が違う。
(「自主性」と「尺度をあたえる」は、
>>410 で書いた「私の善と悪」と関連します。)
(人馬一体となった騎士と一体になれない弱者は、
>>409 で書いた「力への意志を体現する『創造者』」と力への意志を担えない弱者、につながります。)
439 :
○丸 :2010/02/20(土) 15:11:16 0
>>437 考えたのです。
なぜなら、抱えすぎたモノが重すぎれば
舞えません。軽く軽くいかに軽くなれるか。
身分相応に舞う。
どうでもいいが 推敲がたらな過ぎる
441 :
考える名無しさん :2010/02/20(土) 23:09:38 O
世界 内 存在の内って何て読むの?ない?うち?
442 :
考える名無しさん :2010/02/21(日) 12:23:08 0
真性はハイデガーにおいては覆蔵された歴史からの差し向け、また覆蔵された可能性の反復とし てある。それは生成への無批判な同化ではない。そこには何が己にとっての本来的か、という倫理 が挟まる。それが真性についての恣意的な選択を阻み、倫理を促す。ニーチェにおいて、真性の基準 は力への意志にあり、それに則って、解釈も無限に為される。元々物(事)自体もなきにされている ので、容易く解釈は変更されうる。 現在、かような哲学が残存する場所はどこかといえば、北朝鮮、中国をはじめとした国家のイデオ ロギーとして、また、かつての新左翼諸派や新(新)宗教諸派の権力イデオロギーとして生存してい る。また、資本が最も熾烈に競争に乗り出すところでもこのイデオロギーが出てくる。そのように 様々な権力イデオロギーとして未だにこの哲学が力を及ぼしている。ニーチェの哲学の歴史的必然 がそこにある。そこでの権力とニーチェの同伴はニーチェの意図するところではなかろうが、意図 とは無関係に哲学は同伴している。ニーチェは現代の権力イデオロギーを予告し、提出したといえる 。
443 :
壁 ◆aXC4IdBLU. :2010/02/21(日) 13:37:41 0
「一つ」と大時計が云つた。 「一つ」とスピイスブルク市民たる小さい、太つた爺いさん達が、谺響(こだま)のやうに答へた。「一つ」と爺いさんの懐中時計が云つた。「一つ」とお神さんの時計が云つた。「一つ」と子供達の時計や猫の尻つぽ、豚の尻つぽの時計が云つた。 「二つ」と大時計が云つた。「二つ」と皆が繰り返した。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と大時計が云つた。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と皆が答へた。 「十一」と大時計が云つた。 「十一」と皆が合槌を打つた。 「十二」と大時計が云つた。 「十二」と皆が答へて、大満足の体で声の尻を下げた。 「十二時だ」と爺いさん達が云つて、てんでに懐中時計を隠しに入れた。 然るに大時計はまだこれでは罷(や)めない。「十三」と大時計は云つた。 「やあ」と爺いさん達はうめくやうに云つて、鯉が水面に浮いて風を呑むやうな口附きをして、顔の色が蒼くなつて、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑つた。 「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
444 :
壁 ◆aXC4IdBLU. :2010/02/21(日) 13:38:33 0
「一つ」と大時計が云つた。 「一つ」とスピイスブルク市民たる小さい、太つた爺いさん達が、谺響(こだま)のやうに答へた。「一つ」と爺いさんの懐中時計が云つた。「一つ」とお神さんの時計が云つた。「一つ」と子供達の時計や猫の尻つぽ、豚の尻つぽの時計が云つた。 「二つ」と大時計が云つた。「二つ」と皆が繰り返した。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と大時計が云つた。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と皆が答へた。 「十一」と大時計が云つた。 「十一」と皆が合槌を打つた。 「十二」と大時計が云つた。 「十二」と皆が答へて、大満足の体で声の尻を下げた。 「十二時だ」と爺いさん達が云つて、てんでに懐中時計を隠しに入れた。 然るに大時計はまだこれでは罷(や)めない。「十三」と大時計は云つた。 「やあ」と爺いさん達はうめくやうに云つて、鯉が水面に浮いて風を呑むやうな口附きをして、顔の色が蒼くなつて、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑つた。 「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
445 :
壁 ◆aXC4IdBLU. :2010/02/21(日) 13:39:24 0
「一つ」と大時計が云つた。 「一つ」とスピイスブルク市民たる小さい、太つた爺いさん達が、谺響(こだま)のやうに答へた。「一つ」と爺いさんの懐中時計が云つた。「一つ」とお神さんの時計が云つた。「一つ」と子供達の時計や猫の尻つぽ、豚の尻つぽの時計が云つた。 「二つ」と大時計が云つた。「二つ」と皆が繰り返した。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と大時計が云つた。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と皆が答へた。 「十一」と大時計が云つた。 「十一」と皆が合槌を打つた。 「十二」と大時計が云つた。 「十二」と皆が答へて、大満足の体で声の尻を下げた。 「十二時だ」と爺いさん達が云つて、てんでに懐中時計を隠しに入れた。 然るに大時計はまだこれでは罷(や)めない。「十三」と大時計は云つた。 「やあ」と爺いさん達はうめくやうに云つて、鯉が水面に浮いて風を呑むやうな口附きをして、顔の色が蒼くなつて、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑つた。 「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
446 :
考える名無しさん :2010/02/21(日) 13:40:33 0
パスカルのパンセについて
447 :
考える名無しさん :2010/02/21(日) 22:16:02 O
ない?うち?
せかいないそんざい 【世界内存在】In-der-Welt-sein ハイデッガーの用語。常に世界に対して内的な結びつきを有し、世界に関心をもちつつあるような 人間的現存在の本質的な存在構造。 生物学、ユクスキュルの環境世界への考察が背景にあるとも言われる。 また、岡倉天心の『茶の本』内の荘子の「処世」のドイツ語訳が影響を与えているという説が ある(木田元『ハイデガー拾い読み』他参照)。
449 :
追記 :2010/02/22(月) 06:50:24 0
http://www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI3/281.html 今道友信氏によると、岡倉天心の『茶の本』に荘子の「処世」を「Being In The Word」
と英訳した箇所があって、そのドイツ語訳「Sein in der Welt」をハイデガーが剽窃して
「In-der-Welt-Sein」としたのではないかという疑惑がある。『存在と時間』の刊行
(1927年)に先立つ1919年、今道氏の恩師伊藤吉之助がハイデガーに「Das Buch von Tee」
をプレゼントしたというのがその論拠。
木田元さんは、用語についてはそういうことがあったかもしれないけれど、「世
界内存在」という概念そのものをハイデガーが荘子なり天心から学んだかどうかは
疑問としめくくっている。
>>442 誤解にもとづく批判ほど虚しくて悲しいものはない。
もっと読解力を磨いてください。
451 :
考える名無しさん :2010/02/22(月) 23:50:16 O
存在とは何ぞや?人間とは何ぞや?が知りたくて読んでみようと思うんだが、社会心理学の本とどっちがいい?
>>450 ニーチェの「力への意志」が無限に解釈を許し、
恣意性に飲まれてしまうというのはあるんじゃないか。
452氏の言う通りで、であるから『wille zur macht』の中に《真理の標識は権力感情の上昇で ある。》(534番)《多種多様の眼がある。スフィンクスもまた眼をもっている―、したがって多種 多様の「真理」があり、したがっていかなる真理もない。》(540番) 《何で価値は客観的に測定されるのか?上昇し組織化された権力量でのみである。》(674番)と言 えた。そこがニーチェの真理概念の孕む問題で、力の増大をさせる命題であるか否かが真理の標識 となる。それは支配や搾取を正当化しないわけがない。 ハイデガーの場合、真性は恣意的に変更されるものではない。覆蔵された歴史の開けとして、非- 覆蔵性として、というのがその概念を表す。それは力の増幅がその標識であるような真理とは全く 異なる。だからそこではハイデガーからみればニーチェの哲学が有の忘却の一形態であり、越えら れなければならない哲学となる。
なるほど、ハイデガーは受動的でニーチェは能動的という訳か。 これはスピノザに対する両者の姿勢とも関連するだろう。 ハイデガーは殆どスピノザに言及しない(たぶんここには反ユダヤ的姿勢が覆蔵されている)。 純哲学的に両者を測定するならスピノザとともにライプニッツを持ってくる必要がある。 ハイデガー的には唯一存在忘却をしていない思想家、ニーチェ的には自然科学における 力の概念を哲学化した思想家ということになる。
>>453 この人、一見もっともらしい書き方してるが
ドイツ語を全部小文字で書いていたり、定冠詞を付けていなかったりする時点で…
ドイツ語知らないんならドイツ語で書くなよww
できのいい高校生というところかな…
段落君は、自分で「ドイツ語できません」「でも翻訳比較してるから大丈夫です」って言ってるんだから そんなところ突っ込んでも仕方ないでしょ
前レスで「権力への意志」ではなく「力への意志」が今では一般的、という意見があり、面倒なので 原語を何気に採用しました。冠詞や大文字というのは書名など固有名詞に使われる、小文字のみ だと普通名詞になる、ということかと思います。あそこは単にmachtとだけしたかったので、あと のことは配慮していません。よろしく。ちなみにドイツ語は知りません(笑)
これは酷い・・・ コテ付けてよ NGに入れるから
>>458 >冠詞や大文字というのは書名など固有名詞に使われる、小文字のみ
>だと普通名詞になる、ということかと思います。
英語のこと?w
「知りません」なんて開き直らないで、使うなら、
調べるぐらいの努力はしないと、大人の世界では通用しない。
その状態で
>>378 とか書き込んでたのかと思うと涙出るわ
>>453 「力を増大させるか否かの命題」
クロソウスキのニーチェ読解でも、「永劫回帰」は「強度」の問題と理解されてますね。
ドゥルーズや日本のポストモダニストはクロソウスキのこの読みを引き継ぎつつ、
「強度」に彼ら好みの「脱国家」「脱領域化」の運動見ていきましたが、
しかしそれは恣意的なもの多分に含んでいると思いますね。
「強度」にベクトルを与えた読みが許されるなら
ある意味反語的に、ナチのニーチェ読解もまた可、だろうと。
フランス現代思想によるニーチェ、というのがあって、私もバタイユの思想を、バタイユがニーチ ェを取り上げているという理由から、ニーチェの近いとして考えていました。しかし、実際に『Der Wille zur Macht』を読むと、バタイユの主張する無意味な爆発や蕩尽とは若干違うことが解る。 ニーチェの思想は「生成に有を刻印すること」を力の高揚のための必要な誤謬として認めており、 それこそが力への意志だとする。また、背徳は病者のもので、生まれつき劣等な人間のものだとし ている。バタイユとは相当違うところがある。背徳への位置付けなど真反対です。私は勘違いして たんだな、と思った。実際にニーチェのテキスト読むと、思ったよりも現存する権力のイデオロギ ーや支配のイデオロギーに近い。バタイユは中国の公開処刑で生きたまま手足を切断される、 それも阿片によって神経が異常になり、手足をノコギリで切断されながら笑っている罪人の写真 を愛好して、その写真はバタイユの伝記にも入ってますが、それなど、ニーチェからすると完全に バタイユは病人で、欲情を制御できない弱者になるんじゃないか。バタイユとニーチェには相当 違うところがあると思えだした。実際にテキストを読むと違うんですね。バタイユとかより、言葉 そのものの意味で権力指向が強い。バタイユのような無意味な蕩尽を促す思想ではない。
ドゥルーズやそのチャート式解説者である浅田彰の捉えた「スキゾ=ニーチェ」像も 正直、脳梅毒で発狂したニーチェの症状から 遡及的に捉えられたニーチェになってますね。 ストリンドベリのようなパラノイアックな性闘争劇作者と連絡を取り合っていたニーチェは その読みからは排除されている。
>>463 >また、背徳は病者のもので、生まれつき劣等な人間のものだとし
>ている。バタイユとは相当違うところがある。背徳への位置付けなど真反対です。私は勘違いして
>たんだな、と思った。
>>438 では書かなかったけれども、あなたが引用していた3箇所の「背徳」の原語は、‘Laster’‘lasterhaft’。
‘Laster’という語は、『悪習にふける』という場合の「悪習」、あるいは「悪癖」というような意味です。
私は「背徳的」という訳語は良くないと思う。
あなたのように、訳語に引きずられて勘違いしてしまう人が多いから。
「自堕落な」とか「だらしのない」ぐらいがいいと思う。
「背徳」という訳語が良くないもう一つの理由は、‘インモラル’という語も「背徳」と訳される場合があるからだ。
ニーチェは、「私は最初のインモラリスト(非道徳家)である。」と、‘インモラル’であることを自認している。
では‘インモラル’と‘Laster’は、どこがどういう風に違うのか・・・?
そんな感じで考えていくと、少しずつ考えが深まっていきますよ。
466 :
○丸 :2010/02/25(木) 23:10:58 0
>>453 >それは支配や搾取を正当化しないわけがない。
これは正当化しては悪いってことなのかなぁ。
俺からみれば、悪いっていうよりこれはニヒリズムだから
別に敵対するだけで、悪いという形而上学的固定ではない。
戦って勝つか負けるかです。笑
ですから同じ力として認めるわけです。ニヒリズムを。
ですから力(ニヒリズムも含め)を増大させるわけです。
467 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 01:02:58 0
465氏の仰有るように、原語がLasterやlasterhaftであるとしても、lasterは調べると「悪徳; 悪癖、悪習;背徳行為」とあり、lasterhaftは「悪徳の。悪習のある、堕落した、邪悪な」と辞典には あります。そこには「悪習」という意味とともに「冒涜、背徳」という意味もあるとあります。で、ニーチ ェが最終的にwille zur machatに収斂していった、という問題があり、ニーチェの死後、ニーチ ェに深入りする思想家は、そこをあまり重要視しない。バタイユは、ニーチェがあの概念に入って いったのは、キリスト教による権力の否定への反発だったのだとしている。私はバタイユによる その見方は違うと思う。ニーチェがあの概念に引き寄せられたことの意味を、バタイユは軽視して いる。そこには単にニーチェの哲学の独断という意味だけではない意味をみるべきで、そこに有る ものとは何か、という形而上学の延長にある問いがあったゆえ、言い換えれば有の問いが見つから なかったゆえにニーチェはそこへ拘泥せざるをおえなかった。つまり、あの哲学の誕生は、単に ニーチェの哲学の終着点という意味だけあるのじゃあない。論理や倫理の歴史的究極点という意味 があった。それは単にニーチェ哲学の問題ではない。で、ニーチェ本人はというと、あの哲学の 草稿を重ねたあげく、結局纏めきれないまま狂気に落ちた。何か象徴的なエピソードを感じるわけ です。あの最後の哲学の孕む意味というのを、その後のニーチェ・フォロワーは掴みそこねたのじゃ ないか。バタイユを含めて。ニーチェの最後の哲学の意味と重さを掴んだのがハイデガーのニーチ ェ論の意味だとみるべきだと思います。そこに辿り着いて、それを越えられなかった。バタイユなど の言ってるよりそこには重たい難問があるとみるべきだと思います。
ん・・・ 何が言いたいのか、わからない。
469 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 11:50:12 0
様々な紆余曲折の後に力への意志に辿り着いたことの意義、それはニーチェの思考が徹底性を 持っていたがゆえにこその結論だった。しかし、その終着点に着くことは、形而上学の克服ではなく 完成を意味した。そこから先は行き止まりに見え出した。そういった意義、ニーチェの哲学的終着点 であり、同時に形而上学の終着点でもある、そういう二つの完成と行き止まりにニーチェは直面した のではないか。そこをニーチェフォロワーは掴めていないのではないか。
フランス経由のニーチェフォロワー・・・。 浅田彰が「クロソウスキ以前のニーチェ読解は忘れていい」みたいなこと何かに書いていて、 それは困る、思想家と対話するのにありえない態度だと思えたことありますね。 クロソウスキ自身はハイデガーのニーチェ論のフランス語翻訳者でもあり、 彼の「強度」論はハイデガーの「力への意志」論の批判的検討を含んだものであるだろうに。
ハイデガー研究者として著名な東京大学の門脇俊介先生が、今日未明に亡くなられたそうです。 ご冥福をお祈りします。
472 :
考える名無しさん :2010/02/28(日) 12:47:13 0
バタイユもニーチェの『Der wille zur Macht』についてこう書いている。 《キリスト教的な欺瞞に対する批判が、ニーチェを、権力を断念することへの論難に導き、それを 通じて、軍事を骨格とする結束の構想と悲劇的な自由の構想の間で混同が起こったからである。》 (『ニーチェの誘惑』ジョルジュ・バタイユ/吉田裕 書肆山田 61頁) とし、wille zur machtの意義をそのように考えている。当たっているところもあると思える 一方、ニーチェの徹底性をみていない気もする。バタイユはニーチェの根本原理をデイオニソス ―アポロンの対比にみて、非-理性と理性を対比させ、ニーチェの原理は前者の方にあるとする。 しかし、当のニーチェはあの草稿の終わり頃に、次のように論じて言っている。 《私が骨折ったのは、根本において、なぜまさしくギリシア的アポロン主義がデイオニソス的地底 から発育せざるをえなかったかを見抜くことをおいてほかにはない。デイオニソス的ギリシア人 こそ、アポロン的となることを必要としたのである。》(『権力への意志』1050番) つまり晩年の思索において、当のニーチェはデイオニソス的原理がアポロン的原理に支配される ことを不可避とし、それを以て、つまり《物凄いもの、多様なもの、不確実なもの、恐ろしいものへ のその意志》が《節度への、単純性への、規則と概念に従属する》ことを《アジア的なもの》への《ギリ シア人の勝利》だとしている。そこにニーチェ哲学の晩年の真骨頂があるのだと私はみる。《権力の 充実と抑制》を重視するようになるということ。認識論的には617番にあるような、《生成に存在の 性格を刻印すること―これが権力(力)への最高の意志である。》となる。言い換えれば、生成の原理 と有の原理をそのように止揚したと思ったのではないか。 これらをバタイユのように、ニーチェにおける思考の混乱に帰するのは、どうか。むしろ、これら は或必然、不可避な軌道のうえに為された精髄、とみるべきではなかろうか。混乱と呼ぶにはこれら の思索は理路整然としており、むしろ哲学の自己超越と見なせる。ニーチェは自身における豊穣な 可能性を最後に扼殺したとも言えるけども、自分の哲学は一段乗り越えた、と思ったのも確かだろ う。そういう問題だと思います。
バタイユの否定神学は二元論で、ニーチェの権力は一元論、ということでは? ハイデガーには両方あるからややこしくなる、、、、
門脇さんが逝った。55歳。
ハイデガーがバタイユをフランス最高の頭脳といったのはどういった理由からですか?
476 :
○丸 :2010/02/28(日) 22:58:39 0
477 :
○丸 :2010/02/28(日) 23:33:22 0
コインを中に放り投げて落下すると 表か裏かのどちらかにしかならない。 コインを1万枚を中に放り投げれば 1:1になる。 数が増えれば増える程ね。
478 :
考える名無しさん :2010/03/01(月) 09:48:31 0
門脇先生 早すぎるよ 合掌
自分はハイデガーは詳しくないが現代哲学という教科書は読んだんで寂しいな
若い死ですね。冥福を祈ります。
>>472 > つまり晩年の思索において、当のニーチェはデイオニソス的原理がアポロン的原理に支配される
>ことを不可避とし、それを以て、つまり《物凄いもの、多様なもの、不確実なもの、恐ろしいものへ
>のその意志》が《節度への、単純性への、規則と概念に従属する》ことを《アジア的なもの》への《ギリ
>シア人の勝利》だとしている。そこにニーチェ哲学の晩年の真骨頂があるのだと私はみる。
これも誤読ですよ。
その断片は、晩年の思索ではなくて、初期の『悲劇の誕生』に関連して書かれたものです。
あなたが引用した部分に書いてあるように、これは「ディオニュソス的ギリシア人」について書かれています。
「ディオニュソス的ギリシア人」とは、何のことだと思いました?
そういうふうに、わからない部分を読み飛ばしてしまうから、誤読してしまうのだと思う。
『悲劇の誕生』の第二節の題名が、その「ディオニュソス的ギリシア人」です。
後期のニーチェは、「アポロン-ディオニュソス」という対立図式を放棄しており、「アポロン」という語はほとんど出てこなくなる。
「ディオニュソス」だけが多く出てくるようになります。
481 :
考える名無しさん :2010/03/03(水) 00:26:33 0
私が引用した『Der wille zur Macht』1050番というのはちくま学芸文庫巻末の年代順対照 表のムザリオン版によれば、1888.3-6.執筆ということになっている。立派に後期でもこの対立 は維持されていると分かるわけです。しかも年代でいえばあの草稿執筆の最後が1988年9月だと されている(酒井健による)ので、草稿執筆の最後期の認識だと分かる。そこでニーチェは《デイ オニソス的ギリシア人こそ、アポロン的となることを必要としたのである。》と書いている。この 1050番というのはギリシア的であることとアジア的であることがアポロン的―デイオニソス的の 対比に同じくされ、ギリシア人がアジア的精神を挫くことを、デイオニソス的精神を挫くことと 同義とされている。ここでの書き方は、《アポロン的衝動とデイオニソス的衝動とは間断なく前進 しつづけ、一方はつねに他方の段階を採り入れて、純粋観照をいっそう深く生み出すよう強いる。 これが人間の発達であり、だから教育目標と解されるべきなのだ。》という書き方と違ってきてい る。言い換えれば二項対立は収斂されるのが必然、とでも言いたげな言い方になっている。これを 晩年のニーチェの変化と数えてもよい。同じ図式であっても、比重が変わっているとい うことです、その変化は、他の箴言にもある、欲情の抑制こそ強さだとする見方にも通じている。 《英雄的行為を衝動に基づいて為すのではなく、―そのさい暴風雨のごとく沸き立つ快感に圧倒 されずに、冷静に、理性的に為すということである》にみられる《衝動の克服》という《強者》のたとえ にも通じている。つまり、1050番は、力への意志に基づく、生成への有の刻印、それによる価値付け 、というテーマに沿っている。そういう意味です。
>>481 >私が引用した『Der wille zur Macht』1050番というのはちくま学芸文庫巻末の年代順対照
>表のムザリオン版によれば、1888.3-6.執筆ということになっている。立派に後期でもこの対立
>は維持されていると分かるわけです。
ニーチェという人は、後期になっても、初期の著作についてよく言及するんですよ。
後期になってから、初期の著作の序文を書いたりもしている。『悲劇の誕生』の序文も1886年に書かれている。
(それから、あなたは「草稿」と書いているけど、あの遺稿集は、「草稿」というよりも「覚え書き」あるいは「メモ」の寄せ集めと考えたほうがいい。
公にするつもりで書いたのではないものが多いから。
中には、人の著作からの単なる抜き書きなども混じっている。
だから、あなたが『権力への意志』という遺稿集だけを読んでニーチェを理解しようとすることに、そもそも無理があるんです。
公刊された著作を中心に読んで、遺稿は補助的に考えないとだめです。)
『悲劇の誕生』の冒頭部分と1050番の文章を比較してみるだけで、1050番が悲劇の誕生に関連して書かれたことはすぐ分かります。
『悲劇の誕生』の冒頭部分
《もし我々が以下に述べるようなことを頭で理解するだけでなく、直接具体的に確信できるようになれば、美学に寄与することは多いと思う。
すなわち、芸術の発達というものは、アポロン的なものとティオニュソス的なものという二重性に結びついているということだ。
それはちょうど生殖ということが、たえずいがみ合いながら、ただ周期的に和解する男女両性に依存しているのに似ている。》
1050番
《これら二つの自然の芸術的威力の敵対関係に芸術の発達が結びつけられているのは、人類の発達が両性の敵対関係に結びつけられているのと同じく必然的である。》
まぁ、『悲劇の誕生』を一度読んでみて。
481さんじゃないが、普通に、ニーチェの思索が最終的に「どういうところにたどりついたか?」を 論述するのに、著作晩年時の「覚書」「メモ」参照するものでは? 序文が1886年に書き下ろされたなら、なおさら「後期でもこの対立は維持されていた」故 なんじゃ?
484 :
考える名無しさん :2010/03/03(水) 07:09:47 0
まあ、アドバイス有り難う、とひとまず言っておきます(笑)確かに『Der Wille zur Macht 』という遺稿は難物であることは言えそうですね。ニーチェ自体も難物なんでしょうが、そのニー チェが最後放棄した遺稿、あなたによれば「覚書」であるから、余計に読解は難しい。実に難物です 。 バタイユという思想家は存在が生産のための素材化すること、現在が未来のための犠牲になるこ と、あらゆる予定調和に反対し、生の意味を突き詰めようとした人だと思います。体験こそ価値、 という命題により、存在が現前化へ収斂することに異を唱えてもいますね。バタイユの思想がハイ デガー受けしたであろうことは分かる気がします。ハイデガー自身、『哲学への寄与』という「有・ の痙攣」などという危うい存在を主題にしてますから、親近感は持って不思議ではない気はします 。
>>483 >481さんじゃないが、普通に、ニーチェの思索が最終的に「どういうところにたどりついたか?」を
>論述するのに、著作晩年時の「覚書」「メモ」参照するものでは?
もちろん参照するんだけれども、482に書いたように、公刊された著作を中心にニーチェの思想を辿った上で、それと比較しながら遺稿を参照しないと、誤読してしまう可能性がとても高いということです。
1988年にも、ニーチェは『ヴァーグナーの場合』『ニーチェ対ヴァーグナー』 『偶像の黄昏』『アンチクリスト』 『この人を見よ』と5冊も公刊しています。
>>484 > まあ、アドバイス有り難う、とひとまず言っておきます(笑)確かに『Der Wille zur Macht
>』という遺稿は難物であることは言えそうですね。
難物である理由の一つに、
>>357 に書いた成立事情があります。
ナチス寄りに恣意的に編纂されたという成立事情があるので、『権力への意志』という書物は、悪評高い書物でもあります。
そういうわけで、今は『権力への意志』から引用する人はかなり少なくなったと思う。
その後グロイター社から年代順遺稿全集が出版されたので、今はニーチェの遺稿はたいていそちらから引用される。
日本でも白水社からその翻訳が出版されてます。
485さんが357に書いたような成立事情がある。しかしまた、ニーチェ自身が自身の「主著」を計画 し、書簡や当時の自分の著作の帯にその刊行を予告していたことも事実ですよね。ハイデガーの『 ニーチェT』にそれらの書簡が掲載されている。 1884年6月中旬、妹に宛てて 「かくしてこの夏、私の主建築のための足場が打ち建てられるはずです。(…)」 1886年9月2日、母と妹に宛てて、 「今後4年の間に4巻の主著の完成が予告されています。書名からてすでに驚愕的です。すなわち、 『力への意志、すべての価値の価値転換の試み』です。(…)」 ニーチェ自身がそれを自身の「主著」とみなして執筆を続けていた。木田元の著書にもこの本のこ とはニーチェの哲学として取り上げられ、以下のように書かれている。 《(…)その編集方針に疑義があったため、今日ではこの本(『力への意志』として妹エリーザベトによ り整理編集され1901年、ついで増補改訂され1906年に出たもの)は偽書とみなされ、たとえばコ リとモンテイナリの編集した新しい全集では1880年代の遺稿はすべて年代順に配列され収録され ている。しかし、エリーザベトの造った本はともかく、ニーチェ自身が晩年にその哲学的「主著」を 構想し、かなり具体的な計画を立てて原稿を執筆していたことは事実である。しかも、1870年代 までは彼がショーペンハウアーとワーグナーの強い影響下に置かれており、1880年代になって ようやく独自の思想を確立したのだとすれば、未完に終わったとはいえこの哲学的「主著」はきわ めて重要である。》(『わたしの哲学入門』362頁) また木田はこうも書いている。 《妹のエリーザベトが遺稿集『力への意志』を作ったときに拠り所としたのは、ニーチェが1887年3 月19日に立てたプランであったが、この判断だけは正しかった。おそらくこの頃、「主著」の構想が もっとも熟したように思われるからである。(…)》(同364頁)
一方、この『力への意志』をめぐっては、ニーチェの愛読者の間でも扱い方に差があるのも事実でし ょう。例のMachtにしても、支配や権力をも意味するように読まれる一方で、いや、そうじゃなく、 異なる力と力の合成やぶつかり合い、を根本的には指している。という意見。果ては、「力への意志 」なんて言ってるが、あれは破綻だらけで、ニーチェ自身が破綻した人間だった。あれをまともに 読んでもニーチェの根本思想なんて分からない。むしろあの著作は「力への意志」ではなく「非力へ の意志」と読むべきだ。とする人。一方、あれを整合性をもって読み解こうとした人もいる。しかし 概して、ハイデガーとその他の思想家に大別できる気がします。どう違うかというと、ハイデガー の場合は、西欧形而上学の完成者としての、価値思想のニーチェ。他の書き手の場合、力への意志 そのものを、生成の哲学、異なる力と力が織り成す差異を表す、とする。その場合、支配のイデオロ ギーと関連をもつ要素はないとされる。大別すると読み方としてはその二つだと思います。私はと いえば、やはりハイデガーの読解が当時のニーチェの意図を指示してると思います。他の思想家の 場合、その方の思想をニーチェに反映させている、必ずしもニーチェの意図を指しているとは言え ない。とはいえ、これは私の直感にすぎないので、あの本をめぐってまだ色んな受け取り方がある だろうとも思います。
>>486 ニーチェは『力への意志』という著書を出版する計画を立てていました。
485で書いた年代順遺稿全集にも、そのプランがたくさん書かれています。
でも、あるのは目次のようなものだけです。
つまりこれはプランだけで終わってしまった幻の著書です。
>>487 ニーチェ研究という観点からは、年代順に配列された新しい遺稿全集が出版された今日では、
『権力への意志』という本にはほとんど価値はないと思います。
一般の読者が、
>>357 のような成立事情を知った上で『権力への意志』を読むのはいいけれども、
あなたのように、良く知らないで読んでしまう人が多いのではないかと危惧します。
力への意志という思想に関しても、あの本はニーチェの遺稿の中のほんの一部にすぎません。
「プランだけで終わった」「目次のようなものだけ」は事実と違うんじゃないですか。「力への意志」と いう概念を駆使して相当な原稿も書いている。プランは変更されたのは事実で著書として完成も されなかったが、相当な量の草稿は書かれている。それを基に検討をされるのは不可避でしょう。 ニーチェは生涯にわたり斬新な概念を駆使し、道徳やキリスト教への激烈な否定を繰り返した。 信奉者が多いのも分かるわけです。汚したくない、という。しかし、その天才が最後に書こうとした 「主著」の原稿に、見逃せない論理の道程があったとしたら?それは何故なのか検討せざるをえない 。名だたる現代思想家の「ニーチェ」に一抹の不信を感じるのは、それらの「ニーチェ」が絢爛たる諸 概念を使っているにも拘わらず、どこかでそういうニーチェ信仰を残しているように思えるから です。だからそういう「ニーチェ」では、最後までニーチェは有の刻印を“押されない”生成を思考し たことになる。何かそういう構造がニーチェ信仰を仄かに残すようで、ナイーブだなあ、と思わせ られるわけです。
>>489 >「プランだけで終わった」「目次のようなものだけ」は事実と違うんじゃないですか。「力への意志」と
>いう概念を駆使して相当な原稿も書いている。プランは変更されたのは事実で著書として完成も
>されなかったが、相当な量の草稿は書かれている。
ニーチェがそのプランのために、どの断片を使おうとしていたのかは、わかっていないんですよ。
力への意志という思想が生まれたのは1881年頃だから、その時からの膨大な遺稿が残っているだけです。
(489の4行目以降は意味不明・・・)
繰り返せば、グロイター社から年代順遺稿全集が出版れてからは、ニーチェの遺稿研究は、その新しい全集に基づいて行われています。 力への意志という思想についても同じです。
まっとうなニーチェ研究があまり日本では紹介されてないから
>>487 (=
>>489 ?)みたいなナイーブな読みしかされないんだろなぁ
私が思うに、ハイデガーが取り出した力への意志の哲学と、バタイユが取り出した蕩尽=没落の 哲学というのが晩年でも拮抗していたとみるといいのではないかと思う。遺稿でもその二つが拮 抗している。少なくとも力への意志を存在者の根本としていたのは確かで、そこは晩年の哲学と して否定はできないと思いますね。一方、自己を没落させる力の蕩尽を視界に入れてもいますが。 そこは拮抗している、或はバタイユのいうように、好運のように訪れる没落と捉えられる。そのよ うに捉えられると思います。そこが最後に止揚されなかったことがあの遺稿の挫折かもしれない とも思います。
489の4行目以降の言葉って、 「力への意志」や「永劫回帰」が 宗教における「教祖のお言葉」の解釈争いのように、「なだたる思想家」の恣意的な読みを 呼び込むことを指しているんじゃないの?
>>493 > 私が思うに、ハイデガーが取り出した力への意志の哲学と、バタイユが取り出した蕩尽=没落の
>哲学というのが晩年でも拮抗していたとみるといいのではないかと思う。
拮抗してるんじゃなくて、力への意志には本質的に「没落」ということが含まれていると思います。
「没落を欲する」という言葉は『ツァラトゥストラ』に良く出てくる言葉ですが、それは「自己超克」という思想と関連しています。
「あらゆる偉大な事物は自己自身によって、自己止揚の働きによって没落する。
生の法則が、生の本質に潜む必然的な『自己超克』の法則が、それを欲するのだ。」(『道徳の系譜』)
その『道徳の系譜』の文をみても、何で「自己超克」が「没落」を欲するのかよくは分からないでしょ う。そこで「拮抗」と言ってもよいと思う。普通に考えて論理が矛盾してるのだから。そこをバタイ ユは好運という概念で止揚したと思います。 私が言いたかったのは、ニーチェ信者達が、ニーチェの哲学が近代的な人間像、社会像、を予告し ていることを頑なに認めないのを、信仰による迷蒙ではないかと言いたかったということです。
ニーチェ「愛読者」とか「信者」とかそんなのどうでもいいんだわ あんただけが仮想敵にしてるだけでさ
悪 善 \ / \/ 力(徳) ニーチェは善悪の彼岸というコンセプトをスピノザから受け継いでいる。 徳および力(コナトゥス)の中に善悪の両方の根源がある、、、 というか、力の中に善悪両方が解消されてしまうだ。 ハイデガーがシェリング講義以外でスピノザへの言及を避けたのは、 スピノザの理論をもってくると彼の哲学の本質が暴露されて、終わってしまうからだ。
んだ、んだ
>>496 >その『道徳の系譜』の文をみても、何で「自己超克」が「没落」を欲するのかよくは分からないでしょう。
分かるでしょう。
またこの文を見なくても、ニーチェが永続的なものに対して移り行くもの(つまり「生成」)に価値を置き、その「生成」を力への意志と呼んだことを考えれば分かると思います。
「永遠に同じままにとどまるものの価値(スピノザの素朴さ、デカルトの素朴さを見よ)に反対して、最も短いものと最も過ぎ去りやすいものの価値。すなわち、生という蛇の腹にきらめく誘惑的な黄金の光。」(遺稿9[26])
「自己超克」による「没落」の具体例としては、
たとえば「神の死」も、キリスト教の自己超克によって生じたとニーチェは考えています。
つまり、キリスト教道徳が育てた誠実性(その中には自然科学も含まれるでしょう)が、キリスト教そのものに対して懐疑の目を向けることによって、キリスト教の信憑性が失われたということ。
501 :
○丸 :2010/03/06(土) 13:03:07 0
自己は自我に考えろと命令する。 そして、私(自我)はこうして書いているのだが、 よって私は自己でなく奴隷である。 「私は腹が減ったのだ。」 どれだけの人が自己超克の 意味を知っているのだろうか?
502 :
○丸 :2010/03/06(土) 13:04:13 0
奴隷超克を目指す人はたくさんいそうだ。
503 :
○丸 :2010/03/06(土) 13:12:19 0
よって益々、奴隷になる。
自己は、自我の回答に評価を与える。 良か悪か。 自我がこの権利(評価する権利)を奪った時代を、近代と呼ぶ。
505 :
○ :2010/03/06(土) 20:35:59 0
神は死んだ。 我々によって殺されたのだ。
死の中でも自分を保つのが神の生命だ。 ハイデガーがナチスに加担した必然性がハイデガー思想の中にある。 キリスト教以前のゲルマン民族精神=ナチス=プラトンからヘーゲル までを否定的にみるハイデガーの歴史哲学観。
507 :
○丸 :2010/03/07(日) 15:16:09 0
意味亡き時代。
すべての規定は否定的だ。死もその否定、すなわち死の死、再生を内に含んでいる。 価値というものは、存在するもの、探し出すものではなく、自分で創りだすもの。 確かに、新しいものは、もはや何も生み出せないという意味では歴史は終わった。 科学技術はトートロジーの世界だから歴史とは関わりない。 しかし時間としての歴史は終わっても、到達点を面として広げていく、人類全体に 広げていく仕事は残っている。
509 :
○丸 :2010/03/07(日) 18:04:08 0
自己超克をしようにも、その自己がいない。 神が、道徳が、常識が、ニーチェが。。。。 その自己に変わる者が無数にある時代でもある。
『Zarathustra』における「自己超克」の章で《わたしはこの一つのものを断念するよりは、むしろ 没落を選ぶ。そしてまことに、没落が行われ、葉が落ちるとき、そのとき生はおのれを犠牲にして 捧げているのだ−力のために》と書かれている。ここでの「没落」が力への意志に最初から含まれて いる、というのは…。むしろ『Wille zur Macht』868番《ひとは、徹底的没落か、自己貫徹かの二者 択一をなさなければならない。》や869番《人間の最も強力な最も危険な激情は、それで人間が最も 容易に徹底的に没落するものではあるが、徹底的に追放されたので、そのため最も権力ある人間 自身が不可能となってしまった》での意味、「自己超克」の章でいえば《冒険、危険、そして死を賭けて の博打、これが最も大いなる者の献身である。》の意味だと捉えた方がいいように思えるんですけど ね。『Zarathustra』の第一部 序説4に「没落」しゆく者への愛が書かれてるけども、それも、「自己 超克」による「没落」とは思えないですね。むしろ死の本能、浪費の本能に委ねる者らへの愛だと思え る。「没落」という語にも多様性があるということかもしれないけども。キリスト教の没落は別として 。
西洋の哲学の歴史、根底からくつがえせるほど、やわじゃない。 ニーチェ、ハイデガーらは、現代社会を批判的に解釈して見せたが、 あくまで傍流だよ。もっと2500年の人類の歴史、信頼した方がいい。 今は、今までの蓄積で相当人類の理性は進歩しているのだから。 ただ、資本主義の行き過ぎが、人類、苦しめてるけどね。
512 :
○丸 :2010/03/07(日) 21:19:32 0
理性が進歩している? 遅れて進歩し登場したモノ(理性)にどれだけの 重要性があったのだろうか? 古くからあったモノこそ重要性が高い、 高かったとは思わないか? それが歴史の証明ではなかろうか。
力への意志に没落が含まれているとしたら、『Der Wille zur Macht』949番《おのれの生命 を、おのれの健康を、おのれの名誉を睹するということ、これは、圧倒的な気力の、流れ溢れる 浪費的な意志の結果である。》同982番《戦争から学ばなければならないのは、1) 死を、そのため に戦いつつある関心に結びつけるということ−このことが私たちを畏敬に値するものたらしめる 》同916番《機を失することなく死への意志をもつよう、そのように生きよ!》等に書かれている視 点によるんじゃないでしょうか。この辺の断片を辿るとたしかに力への意志には没落が含まれて いる、という指摘もある、とは思えます。 如上の視点はおのれの生の可能性に死を睹して従う、ということを推奨する思想で、これら、「没 落する者」としての人間、というのはハイデガーの『存在と時間』における、死を睹して己の本来性 を奪取せんとする先駆的覚悟性に受け継がれている気がします。同書第52節にこう書いてありま す。 《現存在の終わりとしての死は、現存在の最も固有な、没交渉的な、確実な、しかもそのようなもの として無規定的な、追い越し得ない可能性である、と。死は、現存在の終りとしての己の終りへと かかわるこの存在者の存在のうちで存在している。 終りへとかかわる存在の実存論的構造の限界づけは、現存在がそのうちで現存在として全体的に 存在しうる現存在の或存在様式を際立たせるのに役立つ。》 こうした死の位置付けにより、現存在=存在の開示性が日常での頽落から全体として存在しうる 位相へ変換されうることを主張しましたが、この発想の背後にニーチェにおける「没落」が関係して いるのでは、と思えてきました。ニーチェは『力への意志』934番で言っています。 《次のことは純然たる力の問題である。すなわち、社会の保存条件やその先入見に反抗してどこまで おのれを貫徹するか?−たいていに者がそれで徹底的に没落するところの、己のおそるべき固有性 をどこまで解放するか?》この思想はそのまま存在の開けの問いに雪崩込んだのでは、と思えます。
>>510 >>513 >ここでの「没落」が力への意志に最初から含まれて いる、というのは…。
力への意志と没落がもともと本質的に結びついていることは
>>500 に書いたことを考えれば明らかでしょう。
>>500 の補足説明をすれば・・・
まず、ニーチェは「世界は力への意志であり、それ以外の何ものでもない」と言っているのだから、一切は力への意志です。
(つまり力への意志でないものというのは存在しない。)
そして、その世界は「生成」であるのだから、過ぎ去らないもの、移り行かないものは何も存在しない。
そういう簡単なことです。
没落しないものがあるのか?と考えてみれば良いでしょう。
没落しない価値の捏造を、ニーチェはプラトニズムと呼んで批判しました。
自己超克も力への意志に本質的に含まれるものです。
自己超克する力への意志が「生成」の原動力であるとニーチェは考えていました。
(つまり世界が自己超克する力への意志でないとすれば、世界は静止してしまう。)
そのようにニーチェは、世界は本質的に「自己超克」および「没落」であると考えていたわけですが、「自己超克」および「没落」と対照的なものが「自己保存」です。
ニーチェは、「弱者」を特徴づけるものとして「自己保存」をあげており、弱者は自己超克と没落を欲することのできない者であるとしています。
世界は本来は自己超克する力への意志であるから、そのような弱者の生は「反自然的」な生であることになります。
成る程。力への意志に没落が初めから含まれている、というのがやっと分かりました。ただ、私の 中では前レスに書いた如くハイデガーとニーチェの思わぬ近さが証明されたところで、また、ニー チェ自身のテクストの面白さが感じられたところで、最初に書いた、力への意志の哲学の孕む欠陥 についての立場は変わらないのも確かで。《真理の標識は力の感情の上昇にある。》といった命題が たいして意味はない、とみなすことは出来ない。ハイデガーならばあそこは《真理の標識は有(覆 蔵された時)の開けにある。》つまり、真性は没交渉的な世界からくる。没交渉的な時の地平が自己 性の根源なわけです。力への意志の哲学には、その概念自体によって、自己という存在についての 偏向が為されている。先の命題を言い換えれば、力の感情の高揚を促さないものは真理ではない。 となる。真性の措定において力への意志が出てくることの問題。もしかすると、この辺というのは 所謂超人の哲学を形成しようという心づもりだったのかもしれない、とも思えるんですが。下らな い唯物論に思えるんです。
>>515 >下らない唯物論に思えるんです。
唯物論というのは、デカルトのように物と心とを分けた上で、その二つのうちの「物」が根源的なものであるとする考え方でしょう。
ニーチェやショーペンハウアーが「意志」と呼んでいるものは、そのような「物」ではなく、また「心」でもなく、物と心が分かれる以前のものだと思います。
ニーチェやショーペンハウアーがなぜそれを「意志」と名づけたのかは分からないけれど、西洋には、存在を意志としてとらえる伝統があって、
その伝統は、古くはギリシャの哲学者たちの「物活論」に遡ると思います。
517 :
○丸 :2010/03/09(火) 20:54:07 0
世界はデュオニソスだが、彼を超克させるのが 妻のアリアドネとなるわけだ。
本来的なものへの回帰というラインでニーチェとハイデガーを解釈するのは正しいが、 ニーチェにもハイデガーにも哲学史という武器があって、彼らの方法論はそれなりに緻密であり、 抽象能力を駆使して獲得(奪還)されたものだ。 (彼らの東洋趣味に安易に乗っかるのも危険だ) 例えば有名なニーチェのタレス評価などは端的に抽象概念の重要性を指し示している。 また、科学技術、物理学に対してあれほど鋭敏に反応した思想家も珍しい。
519 :
大回転 :2010/03/12(金) 10:38:08 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
520 :
大回転 :2010/03/12(金) 10:39:07 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
521 :
大回転 :2010/03/12(金) 10:40:04 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
522 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 10:41:44 0
血と汗となみだを流せ
523 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 15:41:08 0
細谷訳のファンもいるよね。 一度なりとも『存在と時間』を原典でひもといたことのあるものは、細谷氏のこの訳業がいかに細心の気配りと 苦心をもってなされているかを随所にうかがうことになろう。たしかにわが国ではこれまで幾種もの翻訳が試み られて来てはいる。だがそれらは、多く原文のドイツ語をいかに忠実に日本語に直訳するかに努力が注がれた。 もちろんそれ自体は尊敬すべき誠実な態度である。だが、原文と突合せることを理解の条件とすることが、真の 「翻訳」といえるだろうか。筆者には正直いって、いまこのそれ自体<哲学的>な問題に答えを示す準備はない。 しかしひとつ次のことはたしかであろう。すなわち細谷氏のこの仕事は、もしあるとするなら唯一可能な、日本語の みによって『存在と時間』を理解する道を開いた、ということである。筆者には、今後こうした試みが、細谷氏のこの 仕事で果たした水準で現れるのを創造すらできない。その意味でこの訳業は不滅であり、それが文庫本として 安価に入手できる現在、ハイデガー哲学に関心をもつ全ての者にとっての幸福を祝う能天気に恥じるつもりは ない。 『存在と時間』をダーウィン的世界観の脱構築として読む読み方も当然、ありだな。
単純にtranszendentalの訳語だけとりあげても細谷訳はダメだと思うよ 序文に集中する哲学史的文脈も見事にグダグダにされてるし
525 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 18:49:53 0
ヴィリー・ミュンツェンベルクによるとヒットラーは「ドイツ人は客観性を重視し過ぎる」と 非難したんだが、ドイツにおける現象論(反形而上学、乃至は反観念論)的な流れの 代表例はマッハかな?
526 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 18:50:55 0
>>524 それはここで、各翻訳を並べて検証してくれたまえ。
いいねえ頼んだ
細谷は翻訳にあたって、ハイデガー本人と対面して、 いろいろ質問したらしいからな。ハイデガーは実に熱心に 相手にしてくれたらしい。
Die genannte Frage ist heute in Vergessenheit gekommen, obzwar unsere Zeit sich als Fortschritt anrechnet, die ≫Metaphysik≪ wieder zu bejahen. 原文 たとえ現代が「形而上学」をふたたび肯定することを進歩だと思っているにせよ、 存在問題は今日では忘却されてしまっている。 「世界の名著」原佑訳 われわれの時代は、「形而上学」をふたたび肯定するにいたったことを、現代の 進歩のうちに数えたてているけれども、ここにあげた問いは、今日では忘れさられ ている。 理想社 細谷訳 "obzwar"は「〜にもかかわらず」。ハイデガーは「形而上学」そのものを全否定する というより、その本質としての存在への問い(存在論)を忘却している点を非難して いるってことだな。ただし、ハイデガーの「形而上学」はスペンサー的な(ホワイトヘッ ド流のでも良いが)形而上学とは随分と性質の異なるもののように思う。 創文社訳が手元にないのが残念だ。岩波文庫の桑木訳は古本屋に売ってしまった らしい(笑
531 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 22:23:34 0
>>518 >また、科学技術、物理学に対してあれほど鋭敏に反応した思想家も珍しい。
ダーウィン学説のランプを真っ昼間の市場で照らして神殺しを喧伝したのな。
532 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 22:57:37 0
現代人たる我々は信仰と科学のダブルスタンダードに悩むことがない。 精神分裂気味であるのが正常な世界にいるからだ。
でもインターネッツは楽しいですね
534 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 23:36:58 0
しかり、虫けらも悩まない。科学も信仰も彼らのものにあらざればなり。
箴言もどきを吐いて立ち去るのがハイデゲリアンクオリティ
536 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 23:52:28 0
『存在と時間』から適当に抜き書き 生物学のなかでは、機械主義と生気主義によって与えられた、有機体と 生命とに関する諸規定の背後にあるものを問い、生命体そのものの存在 様式を新たに規定しようとする傾向がめざめている。・・・ ・・・基礎概念とは、それぞれの科学のあらゆる主題的対象の根底にある事象 領域についての諸規定であって、この領域はこれらの規定においてあらかじめ 理解され、そしてこの理解があらゆる実証的研究を先導することになるのである。 したがって、これらの基礎概念に真正の証示と「基礎づけ」を与えるためには、 それに相応して先行的に事象領域そのものを究明しなくてはならないのである。 「あらかじめ理解され」ってのは了解性のことな。
537 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 23:53:26 0
twitter的な独り言、多いよね
539 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 00:09:06 0
冷やかしの相手はせん。『存在と時間』をマトモに読めている奴はいねえんじゃねえかな。
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ニーチェの「力への意志」というのは私は20世紀以降の歴史を規定する運命もしくはハイ デガー的にいえば歴運 Geschick 歴史的運命ととらえてみたい気が強い。でなければこの概 念の大きさが正確には掴まえられない気がする。形而上学の終わりにして完成がニーチェだと ハイデガーはしますが、そのことの意味は哲学に止まらないだろう。20世紀以降の思考の地場 を指示していることは間違いないと思えるわけです。例えば福祉国家・労働者の国家を自称す る国家が力関係に敏感で策略を弄する、言論統制や翼賛体制を作る、というのは矛盾に思えるわけ ですが、形而上学の歴史の上に思考を置いている限り、そのような結末は避けられないのではない か、有るものとは何か、有るものをめぐる実証性が真理である限り、力への意志にすべては収斂し てしまう、それは避けられないのではないか。その問題が突きつけられている気がする。
542 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 09:18:03 0
>>530 は言わずと知れた冒頭箇所なわけだが、≫Metaphysik≪と括りを
入れているのは、風潮に対する若干の軽蔑的なニュアンスがないでも
ない。
≫Metaphysik≪が流行っているからには、その元祖であるアリストテレスに
注意が差し向けられるが、問題はアリストテレスの問いの根本にある「存在へ
の問い」は等閑に附されているという点なのであって、ハイデガーはアリスト
テレス自身の思索の不首尾を指摘しないわけではない。
重要なのは≫Metaphysik≪ではないということだ。
存在論への唯一の接近手段としての現象学というようなことも冒頭付近で
言明されている。後期ハイデガーとは随分とイメージが異なるように思うが。
543 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 10:23:23 0
「晩年の十数年間、ハイデッガーは精神科医のメダルト・ボスと深い親交があり、スイスはチューリッヒ近郊にある
ツォリコーンのボスの自宅で、1959年から 11年間、定期的なゼミナールをひらいていた。参加したのは50人ほど
の精神科医や臨床心理学者たち。非専門家に向かって、ハイデッガーは自分の哲学を、厳密にしかもわかりや
すく語りかけている。「存在とは何か」という根本問題を基底に、『存在と時間』から〈転回〉をへて、晩年の科学
技術や地球の危機をめぐるその思索のすべてを。わけてもここでは、心身問題が大きなテーマになっている。
ビンスヴァンガーやブランケンブルク、シラジへの鋭い批判も挿まれている。」
これはツォリコーン・ゼミナールのみすずの解説なんだが、
『存在と時間』→フライブルク学長就任→『形而上学入門』
という流れのままだな。
この〈転回〉が正しかったのか、
>>536 のような問題提起が充分に遂行されたのかが問題だ。
基礎付けを曖昧にしたまま、性急に≫Metaphysik≪にコミットを始めて大怪我したように見えるのだが。
544 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 10:37:33 0
ヒトラー宣伝にとって重要なのは、ただ非政治的人間を獲得することだけだった。 インテリは悪いことをしないように閉じ込め、彼らを敵とし刻印して孤立させる。彼らは アウトサイダーで役立たずだと軽蔑の言葉を投げかけた。ヒトラーはあざけりながら 「いわゆる分別について」話し、感情について訴えることを強調し、インテリを「ブルジョ ア的古狸」と呼び、彼らは「運動には役立たない:と言った。(ミュンツェンベルク) ・・・こんな時代だから、そもそも学問もクソもないわけだが。
545 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 13:07:37 0
>>541 いい加減にしろよ!
あのスレで今朝ID:beEfmX5.で本スレ誘導されて荒らしスレに依頼か?
以後気をつけろよ
これ以上なんかあそこでレスしたら荒らし確定だ
546 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 13:49:03 0
大騒ぎするほどのことでもなかろう。 今時、生気説なんて持ちだしたらオカルト扱いしかされない 魂の宿らない泥人形な我々でさ。
547 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 14:02:08 0
アリストテレスについてのキリスト教的コンテクストにおける 歴史的評価とそこから来る偏見も問題になるのな。 「神は理性というものをアリストテレス一人にのみ許したと いうほど物惜しみされたわけではない」とラッセルは言って いるが、アリストテレスは、ソクラテスの「無知の知」を正面から 否定したり、神的なものの超越性/不可知性について受け付け られないような現代人種とは違う。
現代人種w
549 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 15:07:43 0
どうせ、動物的本能を持ち出さないと自分の行動原理一つ、 説明出来ないんだろ?
550 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 20:00:29 0
アインシュタインがマッハの実証主義を元に相対性理論を発表したのは、 特殊が1905年、一般が第一次大戦中。 客観性とは何か、ニュートン力学的世界観が実は考えられているほどには 客観的な世界観ではないとしたら、それは何故だ?
551 :
考える名無しさん :2010/03/13(土) 20:12:34 0
ハイデガーの『存在と時間』の時間論はマッハやアインシュタインの 延長でやってるってのは、誰でも知ってますよね?
延長とまで言っちゃうのはトンデモとしてもカッセル講演読めば 問題意識としてそこらへんも踏まえているのは事実だね
553 :
考える名無しさん :2010/03/14(日) 13:13:06 0
同類にベルグソンが入ってくるし、冒頭で若干、取り扱われてもいる。 揚げ足を取るような評価の仕方だが。
ハイデガーのアリストテレスへの批判は同時代的(?)なものだな。 ニュートン力学と相対性理論の違いは、まず共主観か超主観かの 問題があげられるだろう。共主観性は時間の共有性があるからな。
555 :
考える名無しさん :2010/03/14(日) 13:57:37 0
>>553 『存在と時間』の冒頭ね。ベルクソンは生物学の基礎概念を丸呑みにして
進化論で哲学するから、ハイデガーとしては同類にされるのは心外かな。
556 :
考える名無しさん :2010/03/14(日) 18:14:20 0
生命の起源 - Wikipedia 「生命の起源を厳密に論ずるためには、まず生命や生物を定義する必要がある。しかし これらを明確に定義することは難しい。 一説には「生命とは生物に備わっているもの」であり「生物とは生命をもつもの」であると いう循環に陥ってしまうためだともいう。 人間の文化における生物と無生物の区別は習慣的、直観的である。 生命現象を元素の組み合わせである分子化合の総体として解明しようとする分子生物 学の方法では両者の区別を立てられない、との指摘がある。近代科学を錬金術の時代 から区別するのは、任意の法則で物質の振る舞いを予測・説明する、仮説と検証の方法 の確立による。この近代科学の方法は、何より研究の対象を決定論的に取り扱うことを 前提としたからである。この問題は有機化学の出発点における「生物の体内でしか生成 されない」という有機物の定義が、徐々に曖昧化してしまった歴史とも深い関連がある。」 ・・・この文章はもちろん自作自演だが(多少、他人の手が後から入って焦点が ボケてる)、一応、裏は取れたわけだな。
それは裏が取れたと言えるのか?
558 :
考える名無しさん :2010/03/14(日) 19:33:53 0
マトモな反論が帰って来たことのないのは確かだがな(ヘラヘラ
559 :
考える名無しさん :2010/03/14(日) 19:56:23 0
煽ってやらないと耳栓してスルーしようとするだけだからなw
560 :
考える名無しさん :2010/03/14(日) 23:56:01 0
「近代科学」が機械論だと言っても反論は来ないが、「現代科学」は 近代科学とどう違うのかが問題だ。 確率論でごまかそうとするが、確率論というのは「総体的に見た法則性」で あって、「ランダム」ということは意味しない。「現代科学」も機械論であることに 変わりはないのだ。
561 :
考える名無しさん :2010/03/16(火) 21:11:49 0
科学哲学、ないし科学論というのは、このハイデガーの言う 「基礎概念」についての学な。生命論もそうだ。 「科学っぽい哲学」を科学哲学だと誤解してる奴も多いが。
ハイデガーの着目したサイバネティクスが、今現在生活の中に入り込んでいる (無意識にすらなっている)のをみると、ハイデガーには先見の明があったと思う。 ただし確率論的発想は、東浩紀らが論じたようにハイデガーにはなかったと思う。
福田和也の『イデオロギーズ』がそんな話だったな
「サイバネティクス」って、つまり何?
サイバネティクスはロボット、PCを含む人工知能と考えればいい。 これは人間と同じく情報フィードバック装置を含むので人間対機械という二元論的論争に ならないのがミソ。 柄谷行人が『生けるキルケゴール』(入手困難?)所収のハイデガー論考について 『隠喩としての建築』(定本版40頁)で触れている。 ハイデガーは、哲学は将来サイバネティクスに取って替わられるだろうとまで言っているが、 この場合はサイバネティクス=情報科学技術といった幅広いニュアンスになる。 追記: ハイデガーを保守主義に位置づけるが安易だとして避けようとした場合、 ハイデガーのニーチェ読解(=科学的認識に開かれている)が鍵になるだろう。 また、ハイデガーのサイバネティクスに対する対抗心、恐怖心はスピノザ(=自由意志の否定) に対する無視と繋がっていると思う。
分かりやすく言うと「サイボーグ論」だな。『存在と時間』の 「用具的存在」論の延長だ。「サイバー空間」云々てのも 一緒。
まあ当時の夢的な部分まで含めたらそれぐらい広い話になるけど 要するに今の情報科学・情報工学のことだよ
ハイデガーは驚くなかれ1976年まで実在の人だった。 マシン語のプログラムは組んだことなかったとは思う。
569 :
考える名無しさん :2010/04/01(木) 13:04:21 0
そうだよなあ、1976まで生きてたのか。 ガダマーは2002年、102歳まで生きたけど。
ガダマー 私たちはみんな無知です(足元で猫がなく)。これは、 猫のダーザインです。猫は存在の神秘を考えないでしょう。 「池田・ガダマー対談」 決めつけは宜しくない・・・。
571 :
考える名無しさん :2010/04/01(木) 13:32:17 0
猫も、他人も何を考えているのかわからんからな。 でも、動物は非世界的だというハイデガーの踏襲じゃない。 石は無世界的だ。
重要なのは考えることでなく、生きることだとは?
柄谷が都合のいいようにハイデガー、現象学、カント哲学を流用するのに吐き気がする。 なんであんな奴にのさばらせるのかなあ、哲学業界諸君。
哲学業界なんてもうない
575 :
考える名無しさん :2010/04/01(木) 17:14:06 0
ハイデガーが都合のいいようにフッサール、解釈学、アリストテレス哲学を流用するのに吐き気がする。 なんであんな奴にのさばらせるのかなあ、哲学業界諸君。
いわゆる「ロゴス中心主義」の伝統は、コトバを持たない 存在の実存まで否定してしまうことがある。 デカルトが代表例かな。
あ、「魂まで否定してしまう」が良かったかな。
579 :
考える名無しさん :2010/04/16(金) 01:22:18 P
大学入試ってやっぱり必要やね。
580 :
どうしてこれに答えないのかな? :2010/04/16(金) 04:35:03 0
>ハンニバルが機械に論破されて撤退宣言の捨て台詞吐いて逃げてったのは論証する必要ないよ。 >過去ログ読めで終わる話 うん、だから前からいってるけど、論破されたと言い張りたいのなら、 どんな筋道で論破したっていうんだ?
大学関係者ってのは鼻毛が細そうだもんな。
582 :
松田 :2010/04/25(日) 00:20:28 P
はっきりいうて、ジャンプしか読んだことなのないやつが、カントだの ハイデガーだのニーチェだの論じるのは無理があるぞ。吐き気する板やな。
>>582 マンガは床屋で世相を推し量る時に開くだけだ。
お前ジャンプ読んでんの?
>>583 ハイデッガー=ヤスパース往復書簡の最後辺りのやり取りを
思い出す。
586 :
松田 :2010/04/25(日) 12:58:10 P
はいはい
基礎概念問題は把握したか?
いわゆる「生命論」を生物学の基礎概念についての論究と限定して 捉えて良いものかどうか、ちょっと迷う。 生物学の概念も時代と共に変化する。現代生物学では生物に 「生命」の宿りなど最初から認めていないようなところがある からな。
ハイデッガー=ヤスパース往復書簡にも、ナチ協力の経緯が 本人談で書いてあるな。夫人に「恥、恥」って責められたらしいw
生物学の客観主義偏重はダーウィン後の流れだな。 はーぶあーどだいがく(笑
591 :
松田 :2010/04/28(水) 02:39:58 P
ふあーーーあ
ボク、二桁の足し算はもうやったかい? 大学哲学なんだろ?
593 :
考える名無しさん :2010/04/28(水) 09:47:23 0
test
このコテは、スノッブの哲学ディレッタントには魅力がないらしいな(ゲラゲラ 鼻持ちならないインテリ気取りどもめ。
数学や科学の基礎概念問題はウィトゲンシュタインのスレで やってるわけだが、これは理系だ。 生物学は理系と言って良いだろうか? 文系ではないな。
科学はアートとエンタだとか言ってファンタジーに うつつを抜かしたり、ポスモダみたいな疑似科学 哲学が流行する風潮が良いと?
>>597 どっちも勘違いではないかと思う。
良く考えれば立場の違いはあっても同じ結論に近づくんじゃないかな。
599 :
松田 :2010/04/29(木) 01:11:55 P
へっくしょん!
余りに単純な割り切りなんで好きじゃないんだが、理系は客観領野に、 文系は主観領野に関わる学であると言っても良いか知らん。 「主観主義」というのは、主観一元論で客観領野までを規定してしまう ことだ。
601 :
松田 :2010/04/29(木) 14:04:05 P
つまんねーよ。
対象の仕組みを説明するのは客観的な方法が必要で、それを評価するのは主観で、両方がある程度のレベルにないと対象を適切に評価できないと思う。 従来の理系・文系への専門化はこのバランスを考慮してこなかったのではないのか。
603 :
松田 :2010/04/29(木) 14:25:48 P
「立ち小便するな!」の方がまだましだな。
肉体労働者をナメんなよ、青ガキめコラ 科学として生物学が客観性重視に傾くのは ある意味、仕方ないとは思うね。 しかし「生命」というものは了解的にしか認識 出来ないものかも知らない。
605 :
考える名無しさん :2010/04/30(金) 01:01:06 0
おまいら存在と時間ってどれくらいで読破した? ちょっと読んでは中断し、もう足掛け3年になるのにまだ読み終えてないんだが
本日のオリジナル名言公開ステージの存在は時間を裏切らない、時間も存在を裏切っては為らないのスレッド。
Wikiの「了解」の項目はなかなか参考になるが、「了解」と対置 される概念が(科学的)「説明」とか書いてある。 俺的には「了解」は「理解」と対置すべきと思う。
608 :
考える名無しさん :2010/05/01(土) 14:26:32 0
「現」を存在する、の意味がわからないのだが誰か教えて
「了解」は「諒解」の書き換えで、「諒」には「思いやる」の意が ある。漢文=日本語だと割り切りが良いんだが、ドイツ語や英語で 類語を調べると、やや面倒な話になるな。 「諒解」の原語ドイツ語verstehenは、ver-stehen(離れて立つ)と いうような原意。英語のunderstandに対応する言葉だが、細谷訳では 「理解する」をuntersuchen(分析する=examine)から引いて来ている。 「理解」という言葉は確かに分析的ニュアンスもあれば、説明を「理解 する」というような受動的ニュアンスもある。して見ると「諒解」に 対置されるのが(科学的)「説明」であるとするディルタイの態度も、 「諒解」できないこともないわけだな。
晩年の鈴木大拙の講演『禅と化学』でも、英語のsympathyに 対する日本語(実は中国語)「同情」について、これがいつ頃 から使われているのかを調べてみたいというような話をしてる。 禅問答というのは了解性が重要なキーだからだ。
ああ、『禅と科学』。「科学というのはものを分けて考える。 分かれぬ先のものを見よ」というようなことを強調している んだが、これは『存在と時間』の「基礎概念」についての 問題提起に通じるものがある。
>>608 「現存在(da-sein)」の「現(da)」は、何か指差して
「Da!」とやると、「ここ!」とか「これ!」とか「それ!」
とかになる言葉。
「現存在」は、いわば「当事者的存在」の意。
「ハイデッガーの『存在と時間』は、まだドイツ語にさえ翻訳されていません」と言った ドイツ人がいた。レーヴィトは、この本が外国語に訳せたら、それこそ奇蹟だと思うと、 どこかで書いていた。このふたつのことを考え合わせると、翻訳者はますます言葉 少なにならざるを得ないのである。(細谷訳後書き) ディルタイの打ち立てた了解性解釈を元にウェーバーが始めた社会学が日本で 「理解社会学」とか呼ばれてたりするのな。これじゃ分からんわな。
614 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 10:39:12 0
Heidegger? Quatsch!
ウィトゲンシュタインだってロクに読解できねえクセしやがって。
どうせ英訳『存在と時間』も「了解」を全部、understandで翻訳してあんだろ。 何にも分かりやしねえよ。
まぁ、こうやって西洋文明とはいかなるものかが、多少、分かるわけですね。
“da”はデフォルト空間としてのゼロ次元、存在論的超越場とでも呼ぶべきか。 存在了解の地平としての「時間」が持ち出されるのは、現象空間としての 四次元において、時間が三次元空間に対して存在論的上位性を帯びて いることから。 「アプリオリ(先験性)」が時間的概念であるともハイデッガーは指摘している。 「認識は知識に先立つ」という見地からするとあながち間違いではないとは 思うが。
我々は時間的継続性を帯びない対象を「現実には」認識出来ない。 しかし、平均的日常性の地平では我々の意識は、それをやっている。 存在了解の地平としての「時間」が強調されねばならない理由は こういう点にあると、差し当たり指摘されねばならないだろう。
620 :
考える名無しさん :2010/05/07(金) 20:19:38 0
このスレッドのレスみてても感じるんだが、ハイデガーの思想が非常に密教めいてしまって 、まあ実際わかりにくいところはあるにせよ、今日の人間を標的にして考えられているという一事 、今日の人間へむけて頽落を脱し本来性を指示したいという試みを描いているという点が外されて しまう。特にデリダのような難解な読みをするテキストが出ると、なるほどハイデガー難解!と なりやすい。しかし、デリダの読みはともかく、『有と時』は非常に倫理的な色彩を備えた書物だと いう点は忘れてはならないだろう。現実を引き受け、責任を自覚し、自由をめざして企投するとい うのはサルトルの哲学であると同時に今日の知の在り方を最も代表する。いわゆる近代的ヒュー マニズムの姿である。で、ハイデガー思想はサルトル的なヒューマニズムと相当違う。認識として の自己にたいし、有としての自己があり、そっちの方に重心がおかれている。むしろ、後者のほうに 倫理の在り方をみるという思想だと思う。むしろ、慮 Sorge という概念のように、対象と関わる 有の情態性を重視するわけですね。また、情態の根拠としての経歴 Geschehen というふうに、 情態の根拠としての歴史 Geschichte を重視する。そこに個体の倫理の根拠をみる。その辺が 今日の知的主体と異なると思うわけです。ニーチェの言葉を使えば生成ということを重視してい る。今日の知的人格の在り方と違う有を提起している。そこが今日の知的主体への批判たりえて いる。むしろ非‐知の称揚でもあると思うんですね。そこが現代の知そのものへの批判たりえてい る。
20世紀最大の思想家って誰が言い出したんだろう?
622 :
考える名無しさん :2010/05/13(木) 00:51:55 0
ペテン師という意味では20世紀最低の思想家だよね
623 :
考える名無しさん :2010/05/17(月) 08:30:29 0
勿体無い
624 :
考える名無しさん :2010/05/20(木) 18:40:46 0
ハイデガー思想の特色は一人の人間の意味というのは彼(彼女)が固有な経歴を捨象し忘却 して無限な多様な姿で現れうるというところではなく、いつでも自身の存在を引き摺っていきながら 生きるしかなく、自由もまた、己の歴史から可能性として掴まれるしかない、としたところだろう 。これは、人間は対自存在として自由な存在なのだから、現象にたいして自由であり、状況にたいし 責任を負う、とする、現代のヒューマニズムとは異なる。人間は対自的な意識に収斂するのではな く、意識はいつでもサルトルのタームでいう即自性に拘束されるし、一挙にそこから逃れた対自的意 識へ収斂はできない。ハイデガーの人間観は有の重力を繰り込んでおり軽やかに自由になれない からこそ人間たりうるという反‐教養主義がある。実存主義というより根底にあるのは自然哲学で あり現代的な市民主義とは相容れないものだ。そこがハイデガー思想の現代的な意義だと思う。
古代ギリシャの哲人の思想を読み解くにも、 やはり「了解性」が重要になるってことだな。 解釈学の基本だろう。
627 :
考える名無しさん :2010/05/22(土) 16:57:39 0
すいません存在と時間を読むと何が分かるんですヵ?
わかっていることの確認
何でもかんでもハイデッガーに同意する必要もあるまい。 > 生の解釈、生の生による自己解釈、という観点はディルタイが晩年に愈々(いよいよ)明らかにすることの >出来た哲学である。之を借りてフッセヤール[フッサール E.Husserl 1859-1938]の現象学を改革したのが> >ハイデッゲル[ハイデッガー M.Heidegger 1889-1976]の解釈学的現象学だ。人間的存在という現象を人間 >存在そのものから解釈すること、そしてその解釈はある意味に於てロゴスを通してであること、之が彼の人間 >学であり一般に彼の存在論なるものである。 嗚呼、遠い日々。人間にまだ脳ミソのあった時代よ・・・。
『死に至る病』の読み解きやすくなるような文章だな。 キルケゴールは、若い頃、マンテルセンについて シュライエルマッハの教義学を学んだらしいが。
631 :
空談 :2010/05/31(月) 03:44:16 P
ハイデガー『存在と時間』は基本的にカントの批判書と同じ構造を措定すればいいことに気づいた。 続篇は哲学史を遡行する予定だったという。 量と質は存在に、関係と様相は現存在にあたる。 事物的存在はカテゴリーに、世界内存在はアンチノミーにあたる。 _______________________________________ | | | 環境12 (範疇的、 | | | | カテゴリー?)| | 定義「存在」1 | | 12 | | (世界内存在) | | 人間学、神学、 | | 空間5 | | 心理学、生物学10 | | | | フッサール10 | | | | | | 序 論 存 在 (事物的存在)12 | | (1〜8) | 一・一〜二(9〜13) | | |定義「存在者、 | | | | 現存在」2 | | | | (時間性) | | | | 時間6 | | | | | |
632 :
空談 :2010/05/31(月) 03:50:52 P
|_________|___『 存 在 と 時 間 』_____________| |一・三〜六(14〜44) | | | | 世界性14 | | | | |道具的存在、配慮的| | | | |、世界内存在15 | | | | | 空間性23 | | | | | (非本来性38←|→本来性54、61) | | 日常的27 | | | | 情状性29____倫 理_______現存在_______目的論 二・五〜六__| 恐れ30/対象(世界内存在15) | (歴史性)(72〜83)| | 自体/理由 |二・一〜四 | |アリスト|デカルト| | 視、了解31|(45〜71) | |テレス6|18 | |解釈32 陳述33|死49〜53 | |__歴史性74〜77 |語り34 空談35|良心の呼び声56〜58 |カント7|ヘーゲル| 好奇心36曖昧性37|59 決意性62 | 現象学、 |6、82| |被投性38不安40| 到来的65 | フッサール7 | | |____気遣い39〜42_開示性68_|_________|____|____| (世界内存在、 | アンチノミー?) |
>>631-632 |
非本来的 本来的54
時間性(日常性/歴史性/
ベルグソン 66 時間内部性78〜81
日常性67
(了解/情状性/頽落/語り)
現成化 瞬視 キルケゴール68
予期 期待(先駆として時熟)
忘却
(脱自的統一)
68 歴史性74〜77(ニーチェ76)
時間内部性78〜81
時間83
634 :
考える名無しさん :2010/05/31(月) 16:37:35 0
世界内存在はアンチノミー?どういところが二律背反なんだ?
世界内存在は常に非本来性(現存在)と本来性(存在)に引き裂かれるから。 事物的存在にはそうした矛盾がない替わりに存在への開示もない。 ただし、第80節の終わりではこうした矛盾を解消し、(本人の言説とは逆に) ヘーゲルと同じ道をたどっているように思う。
636 :
635 :2010/06/02(水) 00:57:49 0
『ニーチェ』や『形而上学入門』を最初に読んだから、 あれこれ引用しながらちみちみ分析していくいかにも大学教授先生タイプっていう イメージ持っていたけれど、『存在と時間』は造語が たくさん使われているね。初期の著作はなんていうか『日常的』って感じた。
638 :
考える名無しさん :2010/06/04(金) 06:24:33 0
ビジター(V)がすごい。宇宙人がやって来て、環境破壊で困ってるとか、平和を求めてくる。 正体は、人間の皮を被った、トカゲの宇宙人。 でも、ビジターは水資源を略奪したり、人間を食い物にしたり汚い。 何だか知らないけど、裏切り者が出て、赤い粉塵を播くと引っくり返って死ぬって教えるんだよ。 裏切り者は地球人と相の子作った奴かな。 そんで、平和になるってやつ。
639 :
考える名無しさん :2010/06/07(月) 15:46:23 0
高田珠樹は『道の手帖 ハイデガー』で『哲学への寄与』を目新しさはない、と論評し、かつこの本を 理解する手掛かりとして、『哲学への寄与』と『存在と時間』を関係付けてこう言っている。 《これら(『論稿』での諸概念)は、あくまである独特の歴史、哲学史の構図を構成する概念であり、 その限りでは、『存在と時間』の中で語られる存在論の歴史の解体という主題や構想を抜きにして はありえないものだと思います。》(19頁) 『存在と時間』における存在論の歴史の解体と再構成、というのはハイデガーの思索を通低して 流れる糸であるには違いないが、『哲学への寄与』の場合、その存在論の解体・再構成とモチーフが 直結しているわけではない。私のみたところ、『哲学への寄与』の中でハイデガーが籠めている視点 とは、終末観、終末の風景、である。有・Seynというのが、有るものによってしか物事を把握できな い我々の規定を越えた真理である。『論稿』も主題のひとつは、有・の突発的出現である。有るもの による支配が貫通したときに、有・の欠在から、その突発的出現がやってくる。 《有・の突発的出現は、歴史的な人間に知らされてはいるが、決して人間に直接に自らを告げるの ではなく、真理を蔵することの諸様態の内に覆蔵されている。しかし、有・の突発的出現は、稀で それ自体がつつましく、常に有・の欠在からやってくる。有・の欠在の重みと特徴性は、突発的出 現の重みと持続性より少なくはない。》(『哲学への寄与論稿』252頁) また、没落、拒絶というのも、重要な鍵である。没落というのは死にゆく、ということだと考えて いい。 《没落は拒絶への最も親密な近さであり、性起はその拒絶の内で自らを人間に贈るのである。》(同 244頁) 有・という、それ自体が有るものを越えた真理、それが欠在の果てに突発的出現をする。性起とは 現‐有を有・へ差し向けることとしての出来事であり(同書8頁)、有るものへの拒絶の内で自らを 贈る。これらの命題を辿ることで、死ということが文明への進化にたいする反命題として対置され ていることは容易く把握される。つまりこの論稿での鍵は死である。高田の哲学史によっては何も 分からないだろう。
《没落は拒絶への最も親密な近さであり、性起はその拒絶の内で自らを人間に贈るのである。》(『 哲学への寄与論稿』244頁)といった文をみると一目瞭然なのは、ここでハイデガーが没落と拒絶 とを親密なものとしてみていることで、要するに、実存の崩壊、破滅、というこが、状況への拒絶 と同義ともいえる意味をもつだろう、ということである。ハイデガーのこの作品でいうと、没落と は、有・が自らへ指し向けるものである。つまり有・が性起として自らと対応させるものである。 没落する者が性起(有・の本質現成)である。このような論理を通して浮上するのは、人間の崩壊 と、それへの有からみた意味付け、ということである。これらの論理はそのまま、現在の高度資本主 義社会における崩壊現象に直結しているかにみえる。ほとんど、ハイデガーのここでの論理だけが そこに行き着いている。その意味で非常に重要な作品だと思える。同時にほとんどのハイデガー 研究家がこの作品のもつ意味に蓋をしたがっているかにもみえるのも確かで、それはこの作品に言及 する手付きに現れている。実際は、これほど2000年以降の時代を暗示する思索はない。それは 忘れてはならないだろう。
641 :
考える名無しさん :2010/06/17(木) 10:28:27 0
ハイデガーは、もはや廃デガー。
リーマンショックも戦争も性起(Ereignis/event)だろ。 性起とかわけわからん、日本語でなくて、普通に出来事とか訳せよな。 現有とか日本語なんかw
京都学派に言ってくれ
HegelとかKantの場合、Daseinは現実存在という訳語だったけ?
645 :
考える名無しさん :2010/06/28(月) 01:58:43 0
センスの悪い翻訳した人が悪いというより、 たいした事でもないのに思わせぶりな文章を書いたハイデガが悪い
訳語って学者の間で共通の訳語があるけどあれはみんなで点検しあってるの?
勝手に考えてやってると思う。 同じ底本でも訳者によってかなり違う。
649 :
Xへの手紙 :2010/07/01(木) 19:13:45 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
650 :
Xへの手紙 :2010/07/01(木) 19:14:41 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
651 :
Xへの手紙 :2010/07/01(木) 19:15:44 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルテイン・ハイ デガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこ そあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより生前の著作、講義、 草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり。多くの20世紀思想家ーサルトル、デリダ、フーコー等ーが蒙ったその影響力。謎 めいた思索(企投における被投性という転回。聴従的帰属性)。木田元により、「歴史的な文化形成 の限界」の書とされた『哲学への寄与』。現代日本の知識人宮台真司、福田和也への影響。吉本隆明幻 想論との近接性。 今、ハイデガーについて何を語る得るか。
652 :
考える名無さん :2010/07/01(木) 19:17:06 0
ではさよなら
何回も語られてきたと思いますが中公クラシックとちくま学芸文庫の存在と時間では註釈がよく分かりやすいのはどちらですか?
>中公クラシックとちくま学芸文庫 前者が読みやすく後者が最新研究をよく拾っている印象。 研究者には後者、一般人には前者を薦める(ただし人物写真のある 旧全一冊版、中公バックス、世界の名著版なら)。
最新研究を拾ってるってどこがよw しかも致命的な訳し分けができてないのに研究者向けとかありえない
例えばちくま文庫版は65節のギリシア語の「脱自的」を『現象学の根本問題』 を引用して註釈している。これは木田元あたりの影響だろうが、ギリシア語に 関心をもつ人間にはたいへんありがたい。 これを足がかりに原典およびギリシア語(中央版の註はこれが手薄)に向かえ ばよい。
↑訂正 中央→中公 追記: 中公世界の名著版の顔写真(肖像画)採用一覧 ブレンターノ ルター アリストテレス フッサール デカルト ジンメル リッケルト カント ニーチェ ディルタイetc 途中でやめるが、実際はこの倍はあるだろう。 (画質は悪いがこれだけ集めた編集者は当時大変だったのでは?) 本質的な哲学理解と繋がらないかも知れないが、初心者向けには哲学史の おおざっぱな把握に役に立つ、と思う。
ありがとう
>>646 全集版とかは訳語の方針が上から出てる
一部訳者は後書きで文句付けてるw
拒絶と立ち去りの関係が解らなかったんだが、つまり、全然関係ないのか、あるのかが。有・が有る もの拒絶するという場合、その拒絶とは立ち去りながら否定性を贈る、ということなんですね。そ の場合、拒絶とは一般的な用法として一先ず考えていい。立ち去りながら否定性を贈る、とは一般 的な用法である。ただそれが有・Seynと有るものの間で考えられる、ereignisとして考えられる ことで今日的事象を撃っている。そこが凄味がある。有・が立ち去ることで否定性を贈与する、と いうのが。
ソフィストが
662 :
考える名無しさん :2010/07/26(月) 20:22:09 0
西田哲学会の会長でもある哲学の権威といわれていた大橋良介龍谷大学教授が他の大学院に通う女性を強姦していた。 しかも複数回である。 通常人以上の人格とモラルを要求される大学教授、しかも哲学者が立場を使い、弱い立場の女性を脅し強姦していたのである。 事件発覚後、大橋良介は強姦を「恋愛だった」と釈明。 あまりにも卑しいではないか。大橋良介には教員や学者としての資格はおろか、人間である資格すらない。 弱者の弱味につけこみ女を犯す!これが哲学界の権威、大橋良介の正体だ! 辻本に「あほ」認定されたジジイが会長なんだから西田哲学会も程度低すぎ(爆笑)
つかまるぞww
存在と股間 でググるとハイデガーの時間論の研究書がでてくる。
ケーレ以後のわかりやすい解説書ってない? どれも存在と時間ばかりあつかっていて・・・困っています。
宗教的生の現象学でアウグスティヌス論を展開しているし、もっとアウグスティヌス読まないとダメだな。 実存論的時間についても、アウグスティヌス参照しているしね。
四方界ってなんですか?
671 :
考える名無しさん :2010/08/21(土) 10:11:13 0
ハイデガー関連では面白いのは古東哲明だけだな。 古東の本は読むに値するがその他は読むに値しない。
最後の神を存在の衝撃といっちゃうコトー先生はちと簡略化がすぎる
673 :
考える名無しさん :2010/08/30(月) 14:39:01 0
龍谷大学哲学科教授、XXXXを女子学生強姦で懲戒解雇?? しかし、東大のあの人もそうだけど、くずやね。 渡辺さんや門脇さんが泣いてるわ
674 :
考える名無しさん :2010/08/30(月) 23:05:04 P
マルチンってのがちょっといやらしいねフフフ…
わっはっはっはっはー。 マルチンと言うのは、ほんとうだね。 ところで、「民主主義って正しいのか」っていうところで、知能主義者、知識主義者もどきが うるさいのだが、君たちも何とか言ってやってくれないか? 僕は逐一返答するのが面倒で、適当に 矛盾をついているだけなのだが。 僕は、「頭がおかしい」と言われたよ。
A Journey
ハイデガーの『カントと形而上学の問題』の翻訳は、理想社のもの(絶版?) と創文社のものの二つがあるが、どちらがよいですか? 新しいから創文社の方がよいですか? それとも? 専門家のご意見を頂ければ。
創文社版はカッシーラーとのダボス討論が付録でついているので超お得ですよ。 正直、訳は理想社版の方が平易な気もしますが、、専門家ではないですが個人 的には創文社版を推します。
素早い、コメント、ありがとうございます。 了解しました。 私もド素人なのですが、最近、このあたりの問題に興味が出てきて、読んでみ たいと思っていたのです。 そのうちに質問とかするかと思いますが、その際には、ぜひともよろしくお願 い致します。