■ ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 6 ■
1 :
考える名無しさん :
2008/12/26(金) 17:16:57 0
『千のプラトー』文庫化まだぁ?
3 :
考える名無しさん :2008/12/26(金) 22:16:31 0
「欲望」はdésirだが、 「欲望と欲求が違う」とドゥルーズ=ガタリがいうときの「欲求」の 仏語は何ですか?
besoin
6 :
考える名無しさん :2008/12/27(土) 08:58:42 0
besoin, la demande ど、どっち? ドゥルーズの原文で使われてるのは
なんでその部分だけ仏蘭西語知りたいの? そこだけ知ってどうなるの?
8 :
考える名無しさん :2008/12/27(土) 09:05:55 0
>>7 自治厨の釣りだよ。スレを保守したいだけ。ほっとけ。
2ch脳だな
>>3 誰の訳でどこで言ってるのか書かない時点で駄目だろ。
desirを欲求と訳している訳者もいるんだよ。
>desirを欲求と訳している訳者もいるんだよ。 誰よ? それは日本語の定訳を考えるとかなりアレな気が
精神分析を意地でも認めない哲学者っていくらでもいるぜ
ガタリはドゥルーズの背に乗った猿。
マイノリティ性について書いてあるのって「記号と事件」ですか?
むしろカフカ
いたるところで
17 :
考える名無しさん :2008/12/28(日) 06:49:08 0
mainority=rizorm=nomadorogy= defferane pasokon no chousi ga warui.
スペルむちゃくちゃやな・・・ minority, rizhome, nomadlogy, defferenceじゃないか
いつぞやの批評空間の、宇野と浅田の対談っておもしろい? 二人で競って整理整頓しているイメージしかないけど、 組み合わせ的には珍しく感じる。
ドゥルーズ関係の研究者で、ブログやっている人とかいないかな? 日本語か英語で。
ドゥルーズ哲学の平面を構成する「問い」ってなんだったんでしょ? 思考のイマージュ?
22 :
考える名無しさん :2008/12/29(月) 19:36:17 0
>18 defferance(差延)では?
23 :
考える名無しさん :2008/12/29(月) 20:21:17 0
John Protevi's Blog
>>23 ありがとう!
講義資料とかもあっておもしろそうです。
25 :
考える名無しさん :2008/12/30(火) 11:50:53 0
「じゃ」さんは、もうこないの? 「間」とは「と」ETのこと、でいいのかな?
親愛なるドゥルージアンの皆さん、よいお年を。
今日からぼくはドゥルージアン
ゲーム理論もドゥルーズの敵?
アベセデールでパルネが、 あなたは数学ができないのにどうして数学を使うの? みたいなことを尋ねてたらしいけど、 ドゥルーズの受け答えがどんなものか知っている人います?
30 :
考える名無しさん :2009/01/08(木) 19:44:51 0
トポロジー数学まで引用するのはどうかと思ったよ。 ラカンの影響かもしれないけどさ。
差異と反復の第四章の解説だれかしちくりー
哲学とは何か?を読んでいるところだけど、 これ、ほとんどドゥルーズが書いたんじゃない?
↑正解。あれは実質ドゥルーズの単著
>>33 やっぱりそうなんだ?
案外分かるもんなんだね。
哲学とは何か?は ドゥルーズの著作の中では例外的なまでに読みやすい。
36 :
考える名無しさん :2009/01/12(月) 00:09:22 0
千プラはやく文庫化しておくれ
37 :
考える名無しさん :2009/01/12(月) 01:19:06 O
哲学とは何かは閉塞感がある
國分はドゥルーズの最低の著作だと言ってたね。 哲学とは概念創造だとするのは簡明すぎると。 たしかにドゥルーズにしてはストレートに図式的すぎるように思う。 外につながる力もとぼしい。 でも、哲学地理学のところとか結構好きだな。
哲学とは何かは、妙に防衛的というか単純すぎるという気はするね 概念的登場人物と哲学地勢の箇所は今でも好きだ
40 :
考える名無しさん :2009/01/14(水) 15:49:17 0
國分の恣意的な裁断をありがたがる人が多すぎる
大人から中二への生成変化
檜垣とか小泉とかよりはましだろ。
哲学とは何か?はエモーショナルなところがあるから好き。
45 :
考える名無しさん :2009/01/15(木) 11:08:08 0
俺的には、檜垣の本がいい。 檜垣は、図式的でなくて扱いにくいけど、 哲学らしさがあると思うぞ。
ミルプラトー以降のドゥルーズは難しすぎる… 精神分析、マルクス、言語学辺りは押さえたけど、 数学と物理学も勉強しないとダメなの? 専門用語が増えまくっててサッパリだ…。
あと文学・映画論・絵画・演劇・経済学・生物学・地学・政治学、 それと現象学は最低限押さえないとだめだ。
現代思想の檜垣と小泉の対談はひどかったね。 あんな愚痴を掲載するほうがおかしいよ。
49 :
考える名無しさん :2009/01/16(金) 10:47:44 0
>現代思想の檜垣と小泉の対談はひどかったね。 それ見てないけど、面白そうだな。
面白かったよ.
自前のマイナー理論つくって、サイエンスウォーズに備えろとのくだりにグッときた。
フランソワ・ドッスの評伝の邦訳、いつ頃出版?
53 :
考える名無しさん :2009/01/18(日) 09:00:30 0
ドゥルーズの良さが分からない。個人的には哲学辞典だとおもってる。 批評空間の対談は面白かったけど・・。
54 :
考える名無しさん :2009/01/18(日) 11:49:20 O
辞典として使うのは最悪の使用法 それならキッパリと忘れて君なりの仕方で考えればいい ドゥルーズもきっとそれを望む
55 :
考える名無しさん :2009/01/18(日) 13:51:32 0
やっぱドゥルーズが一番好感が持てる。人が良さそう。
バデュウとかランシエールよりはずっといいよな
(画像はドゥルーズがティンゲリーをまねて描いたと思われるカントの「機械状の肖像」。)
http://image.blog.livedoor.jp/yojisekimoto/imgs/4/3/437e52e5.jpg 1-音響装置をつけて、《自我》《自我》と絶えず反復する、牛の頭部をそなえた「私は思考する」。
2-普遍概念としてのカテゴリー(四つの大きな表題)、この図では、3の円運動に応じて外に伸びた
り引っ込んだりする四つの軸。
3-〔超越論的〕図式の可動式の車輪。
4-それほど深くない水の流れ、すなわち、図式の車輪がそこに潜ったりそこから浮上したりするその内
面性の形式としての《時間》。
5-外面性の形式としての《空間》、この図では、岸と底。
6-それら二つの形式の接合としての、流れの底にある、受動的自我。
7-時空を走り抜ける総合判断の諸原理。
8-《私》に内在する、可能的経験の超越論的野(内在平面)。
9-三つの《理念》、あるいは超越の錯覚(絶対的地平において回転する円環、《魂》、《世界》、《神》)。
(『哲学とは何か』ドゥルーズpp82-84より )
参考:
Jean Tinguely Museum in Basel
http://jp.youtube.com/watch?v=hsfvsBxVxbk
>>57 おぉ。ネタ元も見たいなぁと思っていたんだけど、これなのか。
サンクス。
バディウの存在の喧騒が古本屋で100円で売ってた。
ちょっと読んでいるところだけど、翻訳ひどくない?
読みにくいったらありゃしない。
しかし、バディウはうるさい人だね。
自分がドゥルーズの生き方で惹かれるところの一つに
ナルシス的な自分語りを決してしなかったということがあるけど、
バディウは正反対の人だね。
まぁバディウに限ったことではないんだけど。
>>55-56 は何言ってんだ?と思ってたけど、
なんか納得した。
あの本と同じような意味合いのものを 数年後に柄谷が吉本隆明について書いてるよ、きっとw 生前はぼろくそにけなしていても、 死なれると感傷的になってしまうのうは、 否定するために書いている人たちの佐賀なのさ。
存在と出来事まだかなー シモンドン翻訳されないかなーされないだろうなー
「ライプニッツは、欺かない神についてのデカルトの推論をかなり警戒し、これに不共可能性
の水準で新しい根拠を与えている。神は戯れるが、戯れの規則を与えるのだ(略)。この規則とは
可能世界は神が選んだ世界と不共可能的ならば、存在にたどりつくことがないということだ。
ライプニッツによれば*『アストレー』のような小説だけが、われわれにこのような不共可能
的**なものの理念を与えるのである。」
(ドゥルーズ『襞 ライプニッツとバロック』邦訳 p110より)
*(Lettre a Bourguet,decembre 1714)
**または「共不可能的(incompossible)」
オノレ・デュルフェ作の『アストレ(ー)』は17世紀パリの貴婦人に流行ったロマン小説で、
日本では無名だが、今度エリック・ロメールによって(小説の一部が)映画化され現在公開中。
ストーリーは映画の公式サイトに詳しい。
http://www.alcine-terran.com/wagaai/trailer.html (公式サイト予告編)
可能世界なるものがデカルトのような推論によって本質に回収されるのを嫌ったライプニッツ
がラブストーリーを念頭においていたというのは面白い。
ちょ、『グレースと公爵』以来ロメールを見てなかった間に、
『アストレ』が監督作最後だと? ロメール近辺はいつの間にやらこんなことになっていたのだ。
>>63 よ、教えてくれてありがとう。
映画館で見るかどうかはわからんが、覚えておく。
>>63 >
>オノレ・デュルフェ作の『アストレ(ー)』
フーリエがこの小説の主人公セラドンの精神的愛を概念化し、官能的愛の次に続くものとして系列的に展開し
ているが、ドゥルーズはこうしたフーリエやプルードンの系列的思考法にどれくらい意識的だったのだろうか?
ドゥルーズはマルクスに関しては意識的だったが、いわゆる空想社会主義にはあまり関心がなかったのではないか?
それは当時のフランスの思想界が、マルクスとフロイトにあまりにも支配されていたためでもあるだろう。
フーリエ、プルードン、そしてドゥルーズが採用したアンチノミーが揚棄されずに二項が進行する系列的思考は
フランス的伝統ということかもしれない。
>>65 お前馬鹿でしょ
『ドゥルーズ初期』と『無人島』の論文を読むべき
フーリエに対する言及は知っているがドゥルーズはやはりマルクス主義者だったと思う。
意味の論理学読み進めてたらドゥルーズより現象学に関心が向いてしまった・・・
そうやって外に繋がっていけるのがドゥルーズを読む楽しみであったり
70 :
考える名無しさん :2009/01/29(木) 00:05:35 0
2009/1/28 15:33 ドゥルーズ関係新刊本 哲学 以前の流儀にならって、まずはドゥルーズ関係新刊本。 まず、Pierre Montebello, Deleuze. La passion de la pensée, Paris, Vrin, 2008. 一昨年、この著者がベルクソン関係の学会で来日した際に、ドゥルーズについ て講演してもらい、それを翻訳もしたが、それの拡大ヴァージョンを含む本格的 なドゥルーズ論が刊行された。東京で会ったときには、『ドゥルーズ、パラドッ クスの哲学」という題名で刊行されると聞いていたが、「ドゥルーズ、思考の情 熱=受難』のタイトルのもと刊行された。但し、内在のパラドックス、一義性の パラッドクス、存立のパラドックス、自然のパラドックス、器官なき身体のパラ ドックス、美学のパラドックス、即自的現れのパラッドクス、と題された全七章 からなる本書は、いずれの章も「〜のパラドックス」と題されている。章の題目 からもわかる通り、ドゥルーズの存在論や超越論的経験論といった中心の主題に ついて、ドゥルーズとドゥルーズ&ガタリの基本的な著作を横断しながら、また、 ストアからシモンドンに至るドゥルーズの援用している思想家達に対する本格的 論究を織り込みながら、ドゥルーズ哲学の総体をその哲学的含意を折り開いて余 すところなく描く待望の書物。ドゥルーズ研究史上の画期をなす著作。いずれ、 翻訳が刊行されることだろう。
71 :
考える名無しさん :2009/01/29(木) 00:10:29 O
>>68 意味の論理学は遠くまで連れて行ってくれる
virtual / actual って便利だね。 なんかこの対の概念使うと、なんでも説明できるような気がしてきた。
>>67 アンチ・オイディプスの市倉訳を見てみたら、
結構たくさんマルクスの引用があった。
ドゥルーズはマルクスについての
本を書かなかったので、ドゥルーズが
マルクスをどう理解したのかわからないです。
鈴木泉氏のブログ消えてね?
ドゥルーズが好きな画家とか知っている人いますか? 著作ではセザンヌとクレーへの言及が多いイメージがありますが。 あと、ベーコンか。
アルトー
ターナーやモネについて書いてた気がする 千のプラトーでだったかな?
クロソウスキー
アンチ・オイディプスで機械絡みの絵を色々
言及だけなら、多くの画家に触れてるよね。
理論に色濃く絡ませているのは、
>>77 という印象はあるけど。
ルノワールとゴッホもかな。
印象派以降が多いと思う。
しかし、芸術とりわけ絵画への言及が多いのは、
やはりパリにあってこその哲学者だったんだなと感じる。
ちょっと歩けば、いろんな美術館があって、
いつでも直接に名品と向き合える環境というのは本当に羨ましい。
ドゥルーズがソンタグに触れている箇所ってある?
84 :
考える名無しさん :2009/02/12(木) 21:26:50 0
夜戦と永遠 この本はすごい 投稿者:保坂和志 投稿日:2009/02/06(Fri) 00:30 No.839 サブタイトルは「フーコー・ラカン・ルジャンドル」 いかにも硬派、しかも定価は6930円。 しかし、この本は絶対読むことを薦めます。 とくに何かを書いたり作ったりしている人は読んでるうちに、ふつふつと 勇気が沸いてくる。 もう勇気が沸騰すると言ってもいい。 自分が、作ること、書くこと、表現することを目指したのはなんのため だったのか、を思い出す。つまり、いまこうして生きていることを。 第一部がラカン。第二部がルジャンドル。第三部がフーコー。 で、わたしはルジャンドルという人を全然知らなかったし、今日、第一部 を読み終わったところでしかないんだけど、 それでも、もう、この本を絶対に薦めます。 たしかに難しいところもいっぱいあるけど、わからなかったらわからない 箇所にあまり拘泥せずに、とばして先に進めば、わからなかったところが 別のわかり方をするようになっている。 たしかに高いけど、2回か3回、何かの用事を飛ばせば、7000円くら いにはなるし。 なんかもうすごいんですよ。 最近の論調というのは全体として、情報いっぱい仕入れて、精密に分析 して、頭よくないとダメみたいな感じだと思うんだけど、この「夜戦と永 遠」は、そんなことは全然関係なくて、革命や新しい世界を信じていた頃 の自分を思い出せ、それを忘れることが自分をダメにしていたんだって、 そんなことは全然書いてないけど、書いてあるのはそういうこと。 とにかくすごいよ。 すごい、すごい、ばかりで、わかんないだろうけど、すごいんだ。この本。
なにこの頭悪そうなコピペ?
保坂和志って色々と悪質な奴だと思う
小説家?
色々と悪質だから興味尽きない奴でもあるね。
差異と反復は下巻のほうがおもしろいね。4章以降。
アンチ・オイディプスの「登録」って、マルクス用語? ドゥルーズはいくつかのモノグラフィー以外はあらかた読んだけど、 アンチ・オイディプスだけは流れに乗れなくて全然読めない。 1番最初に買ったのに、1番最後まで残ってしまった。 ニューアカの人たちはアンチ・オイディプスに触発された人たちが多いみたいだし、 堅物そうな國分ですらこれをドゥルーズの最高傑作に挙げている。 どうやら東もドゥルーズの中ではこれを一番買っているらしいことを最近知った。 そういうインパクトを自分でも経験してみたいんだが、 如何せん何が書いているのかさっぱり分からん。 そうして、これはガタリが書いたものだから、といつものように諦めたくなる。
ガタリ外しは哲学系の悪弊
いや、その辺理解しつつ、自虐的に言ってみたのです。
そもそも精神分析を哲学に取り入れるのは反対。
ならドゥルーズじゃなくて現象学でいいじゃん 鈴木泉ってそんな雰囲気なんだよな
ドゥルーズはガタリに催眠術をかけられて洗脳されたんだよ
ガタリがいなかったらもっと精神分析重視だったでしょう
精神分析そのものを嫌っていたのではないだろう、DGは。 そしてガタリも。ガタリはラ・ボルト系統の臨床医だぞ。 このへんを議論してる人って日本じゃ三脇しかいないのかな。 ジャン・ウリの来日が数年前に会ったらしいが、邦語で読める資料が足りんぜ・・・
國分があまりそのへんに興味ないよね
杉村の解説を読んでもよくわからないところも沢山残るので、 ガタリに接近しやすくなる補助線や明快な背景整理、議論の系譜の明確化が欲しいところだ。
げのすこオススメ
そういえば、前にもゲノスコお勧めされてたね。忘れてたわ。
雑誌のインタビュー見てたら、辺見庸が、ドゥルーズを肯定的に引用しているんで驚いた
昔から作家受けいいんじゃないの 大岡昇平とか(まああれは例外か)
>>102 過大評価は禁物だが、たとえていうならハートのドゥルーズ本のような良さ
哲学プロパーからは不満も出るけど基礎事項はほぼ網羅
記号論の使えそうなところを取り出しているのも良い
國分のように、アンチオイディプスこそがドゥルーズの最高傑作だと感じている人いる?
>>94 鈴木泉がドゥルーズと現象学の関係についてなんか言及してるの?
というより、ドゥルーズから精神分析を取っ払うと現象学になるのかと尋ねるべきでしょう
日本の哲学研究者がドゥルーズからガタリを脱色すると、 ベルクソン研究か現象学学会の枠組みでやってくしかないでしょ
>>104 大江健三郎がノーベル賞受賞後に、
「これから作家ドゥルーズのスピノザ論を読みたい」
と言っていた。
「作家」という言い方が、当時は奇異に感じたが、
今ではあながち間違いではない、と思う。
鈴木泉はそんなに権威ある存在なの? 粘着するほどの大物か?
本人の器はともかく、東大本郷の哲学科の専任 スタッフとして、日本の哲学科史上初めて ドゥルーズを哲学として教える立場にあるのだから、 責任は重大だとは言える。
今のところ、ドゥルーズのアカデミックな研究者として名が知られているのが彼ぐらいしかいないんだもん
>>112 日本におけるドゥルーズ受容のあり方に、
東大教授という地位ゆえに影響を与えるということ?
一般読者からすると、そんな大袈裟な、と思ってしまうが、
アカデミックな世界内部の人からすると、そうでもないのかな?
論文集における論者の選考に鈴木泉の偏向があるとか?
個人的には、鈴木泉って、エッセイ風味のドゥルーズ論を書いてるだけという印象があるので、
ほとんどいない人扱いです。
>>114 大学教員の教育は、旧帝大と上位私大に限られるので、
そこの教員が誰かということはけっこう重要です。
それだと、 人文系の大学院なんて、 各々が勝手に本を読んで研究しているだけだから、 指導教官の影響力なんてほとんどないと思うし、 むしろ、 東大においてポストモダンを受け入れてくれる研究室があるだけ、 鈴木泉の意義はあるように感じてしまうけど。 人事において問題があるというなら、興味あるから具体例を知りたい。 國分は鈴木泉研究室出身?
國分は外国語教師枠だね 日本の学会のしがらみから逃れるには留学しかない
あーでも、「鈴木泉」でいろいろ検索してみると、
>>109 みたいな枠組みで学会を主催しているみたいだし、
若手研究者にどのような発表の場があるのかを考慮すると、
地位的な影響力は否めないのかもしれませんね。
納得しました。
事情通がいるなw どういうしがらみがあるのか知らんけど、 こないだの現代思想の執筆人みたいなのはもう勘弁だから、 若い研究者には頑張ってもらいたい。
本邦初の研究書を出したのに地味な江川隆男…
江川は業界主流じゃないから 学閥がすべてなんだもの
江川隆男は既に十分存在感あると思うよ。 日本の本格的なドゥルーズ研究者として 認知されていると思う。 それより問題なのは一冊も著書がないのに 存在感を出している人であるわけで・・・
ブレイエに関してはすごく感謝している
>>123 全く。感謝の極みだよね。
鈴木もゲルーのスピノザ論とか訳して出してくれないかな。
シモンドン、ロトマン、リュイエ、ジルソンetc. 未開の領域は果てしない
ロトマンをちゃんと紹介すればサイエンスウオーズ云々言われなくなるよ
「襞」は難しいね。 数学知らない文系には頭が痛いよ。
>>128 そうなの?
たしかに、
バディウ「襞」論の中でドゥルーズから引用されている部分の翻訳を、
宇野訳の該当箇所と比べてみると、前者のほうがずっと明快で分かりやすかったりする。
原文参照する能力がないから、バディウの引用が逐語的なものかどうか分からないけど。
>>112 知らないならいっちゃうぞ。市倉訳の
「アンチ・オイディプス」のほぼ完全な
下訳をやったのは
岩崎武雄の弟子の
東大のカント学者(退官)
「坂部恵」だよ。
時効でないかな?
仕掛け人だよ。
>>130 本郷じゃねえしw
しかもある時期から弟子にドゥルーズ禁止令を発令したって、
山内志朗が語ってたよ
土台がホンゴウでドゥルーズを ましてやガタリでやろうってのが 本来変なんだよ。
へぇ〜、坂部恵がドゥルーズかー。 禁止令ってのもおもしろいね。
フランスでも日本と同じようになかったことにされてるの?
ドゥルーズのガタリとの共著が ガタリ自身の固有思想について別に 論を立てて検討してからじゃないと 他の著作のドゥルーズと 同じようには読めない。 非常にわかりづらい印象を受けるのは 説明をはしょっているせいだと思う。
げのすこおすすめ
最近目に付く若手の研究者・批評家の肩書きが、「表象文化論」ばかりだ。
そのへんの人たちが学問やり始めた90年代に他の分野が機能してなかったからね
日本のドゥルージアンって哲学プロパーは少ない印象がある。
長い間やっちゃだめみたいな空気があったからね
表象文化論って仏文でしょ?
ほらこういう蔑視が
日本の哲学科だとドゥルーズもデリダもフーコーも まともに研究できなかった空気がずっとあったからね。 表象文化論とかそういう分野から現代哲学の若手 研究者が出てくるのは、ある意味、必然でしょう。 実際今は哲学科は死滅する一方だし。
佐々木中のブログより >千葉さんは本格的なドゥルーズ論を準備中とのこと、実に楽しみです。 これは期待せざるをえない
千葉雅也は期待の若手ドゥルージアンなの?
そういうことです。
正直、研究者の噂話など、どうでもいい。
151 :
考える名無しさん :2009/02/27(金) 03:41:14 0
ドゥルーズも、一人の研究者だよ
>>151 馬鹿発見。
噂話などどうでもいい、と言っているのが分からないんだ。
うまいこと言ったつもりになって自らageるとはw
>>151 は確かに間抜けなレスだと思うけど、
>>152 は病的なレスだ。
気分害するほどのもんでもないだろう。
154 :
考える名無しさん :2009/02/27(金) 12:56:27 0
152は150だな 病んでるな
2ちゃんで噂話になるのはデフォだろうが。 興味ないなら流せばよろしい。 なにをいきり立っているのやら。
>>153 なぜ気分を害していると思うんだ???
気分を害しているのはお前自身じゃないのか?
「病的」という言い方が逆にお前の気分を表している。
自分の気分を他人のレスに見るお前自身が(ry
>>155 馬鹿発見。
なにをいきり立っているのやら。
自分自身がスルーできないくせにw
研究者の噂話など、どうでもいいんだよ。
気持ち悪いやつ
鈴木泉先生の弟子筋?
>>157 図星かよw
も少し頭使ったレスしろよ。
馬鹿すぎる。
話題だから千葉雅也の論文
読んでみたけど、
現代思想2008
の論文ヘタ踏んでるな。
論難があるよ。
>>160 一読の価値あるよ。
論難があるよって言い回し変じゃね? それはそれとしてどこに難があるのか知りたい まだ買ってないんだ
>>162 死の欲動と
マゾヒズム・サディズム
とのあいだの関係
付けという
狙いがうまく成功していない。
だからなぜ? 狙い自体は正しいと思うが?
あえていうと マゾヒズム・サディズム はエロスおよび タナトスの両者にかかわり 単純な形で死の欲動 へと形式化できない という理由で。
へんな改行と日本語を何とかして
件の論文を読んでないから、いまひとつ論点が分からんが、 自分で読めばいいだろとは思った。
168 :
考える名無しさん :2009/03/03(火) 16:20:34 O
流れをぶった切って悪いが(いや、一つのスレには対象もなけれは主題もない。スレは種々さまざまな具合に形作られる素材や、それぞれまったく異なるさまざまな日付けや速度でできているのだ)、『ミルプラトー』全然文庫化する気配がないので買っちゃったヨー! 重い!デかい!最高www
169 :
考える名無しさん :2009/03/03(火) 17:12:03 0
ドゥルーズってよく分からないのに数学の概念を勝手に使って 批判受けてるじゃない? 差異と反復なんて読んでると数学的に無意味な記述が非常に多いよ。 ドゥルーズなんて読んでもなんにもならない
170 :
考える名無しさん :2009/03/03(火) 18:59:05 O
役に立つ本が良いならハウツー本でも読めば?
アルベール・ロトマンをちゃんと解説するべき
172 :
考える名無しさん :2009/03/03(火) 21:06:29 0
あまり知らないのですが、 一言でいえば、ドゥルーズって どんな哲学説を主張した人なんですか。 初歩的ですいません
>>171 調べてみたら、ドゥルーズに影響を与えた数理哲学者なんだね。
翻訳は出てないよね?
>>173 ソーカルがこいつを見落としたせいで不当な叩きになってます
>>174 そうなのか。
ちょっと前にもそんなこと言っている人がいたね。
日本語だと、ほとんど情報がひっかからないけど、
鈴木泉美によると『差異と反復』を書いてたときに参照してたらしいね。
読んでみたいな。
>>173 一言では説明できない。
最初に何を読むといいか、どの入門書が良いか、ならアドバイスできますけど。
178 :
考える名無しさん :2009/03/04(水) 02:08:03 0
>>176 でも、その最大の特徴を知らない人に端的に言えないって、
致命的ですよネ。
私の周りでも何人かドゥルーズを呼んでいる人かいるんですが、
誰も明確に言えないんですよ。
初心者に説明するのって難儀なもんだよ。 せめて主要概念についてのある程度の共通理解がないと、 いちいち言葉費やすハメになって面倒でしょう。 それに、ドゥルーズ自体に定式的な理解を拒絶するところがあるからね。 単純化したドゥルーズ像を君のために提示しても、 そのせいで他の住人に議論ふっかけられるのが目に見えるから、 なんともやる気せんな。
差異と反復とかマイナー文学あたりが入り口にはいいんじゃないの 本なら『対話』で
そうかな? 『差異と反復』は最初の一冊としては難しすぎんじゃないかな。 國分が言うように、『スピノザ 実践の哲学』から入るのが一番良いと思う。 もともと入門者向けに書かれたものだし。 それから、『哲学とは何か』を読んだ後に、『千プラ』か『差異と反復』かな。 並行して、バディウのドゥルーズ論でも読んどけば、論点の簡明化によいと思う。 でも、出版順に読むのが一番の近道だったかなとは最近よく思う。
そうじゃなくて解説する概念なら「差異」「反復」「マイナー文学」あたりがいいんじゃねって意味
バディウは良くないと思う この人差異概念をわざと誤読してる
たしかに、ドゥルーズのバディウ化が否めない部分は多々あったような気がする。 ドゥルーズ初読時に読んだから、差異概念の誤読というのは自分は見落としてしまったけど、 ドゥルーズ哲学の全体を存在の一義性の変奏として捉えるのは 見取り図としては良いかなと思いまして。
存在の一義性を「一」の存在論に還元してるんだって むしろあのドゥルーズ論は、バディウの存在論の入門書として優れている
フランスの哲学者は、他人の体系に歩み寄る姿勢が希薄だからそうなる
なるほど。 ちょっと読み直してみます。
存在と出来事との読み比べってどのくらいされてるのだろう
そもそもバディウが重要だと思わないからあまり興味ないです 藤原書店筋で過大評価されてる気が
バディウはなんかうるさい
最初の一冊を選ぶ前に、アベセデールを観るという環境ができるといいんだけどね。
例の面白字幕が全部あるといいんだが
193 :
考える名無しさん :2009/03/09(月) 21:19:53 0
日本では、学問(サイエンス)というのは、欧米世界で評判を取った一流学者たちの仕事を、国内に紹介するというか、 泥棒というか、勝手に代理店を開くというか、華々しく輸入するというか、そういうことに過ぎない。これは今でもそうだ。 (中略) アメリカでは「この本を私は、翻訳して出版しました」というのは、絶対に学問業績にならないのだそうだ。履歴書の作品 欄に、書いてはないらない。「絶対に書くな」と何人かのアメリカ人の友人に、私は忠告された。「いや、そう言っても、 この本を訳すのは大変だったのだ。日本では、翻訳するだけでも大変な業績になる。翻訳書が1冊あるだけで、学者だ。と 威張ってるのがたくさんいる」と私が、反論しても、絶対に聞き入れてくれない「恥ずかしいことだから、 止めろ」としつこく言われた。翻訳は研究業績にはならないのだ。「それはインフォマート(現地人の情報提供者)の仕事で あって、学者の仕事とは、認められないのだ」と、強く言われた。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P36〜40 日本では「政治思想」なるものはいつも断片的にバラバラに、前後の脈略なしに、適当に外側(欧米世界)から 翻訳文として押し寄せ、流れ込む。しかも、世界の知識人たちが理解している全体構図とは関係なしに自分勝手な 理解を国内に広める。そしてやがて棄て去り、次の新しいものにまた飛びつく。 「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」(副島隆彦 著 講談社)
194 :
考える名無しさん :2009/03/09(月) 21:20:32 0
人は人生の年月の中で、五年、十年単位で、自分の考えが変わってゆく。その変わってゆく自分を、しっかりと 記録しつづけることだ。あのときは、ああ考えて、ああ信じていたが、今では、このように変わって、こう 考えている、と書くこと。なるべく正直に書くことだ。自分に向かってきちんと文字で書いて確認してゆく 作業をすることである。それが、知識、思想、学問なのだ。人間は年を重ねるにつれて考えが変わってゆく 生き物だから、それでいい。それが成長するということなのだ。だから知識、思想、学問というのは、何か 新しい知識を西欧やアメリカから持ち込んで、自分勝手に改造、変造して日本語で適当に売りさばくこと、 なのではない。 今の私は、このように考えている。だから私は、吉本の、「転向とは、人間が成長してゆくことだ」と 書いた転向論としての吉本の思想観を、今でも受け継いでいることになる。 昔の吉本はやっぱり偉かった。 副島隆彦「日本の秘密」P122
195 :
考える名無しさん :2009/03/09(月) 21:21:08 0
学位(ドクトレイト)は、本来、学者個人が一子相伝で伝えてゆくものです。 大学や教育相が出すものではありません。 フランツ・フォン・シーボルトは、長崎の鳴滝塾で、高野長英や小関英三に彼らが オランダ語(どうもドイツ語らしい)で書いて報告した論文に対して、「ドクトル」 の学位を授けています。 学位とは、周囲の高い評価を得た優れた学者が、個人の名前が出すものです。 福沢諭吉先生の真似を私はそのうちするぞ。日本の土人学者や、「日本的エスタブリッシュメント」 なんか、原住民のまじない師集団(欧米では誰からも相手にされない)に過ぎないから、 私は、呆れ返っているから相手にしない。だが、アキラ君は、このあとも日本のアカデミズム (まじない師集団)の中で生きゆくだろうから、私の知ったことではない。 副島隆彦「属国日本論を超えて」
196 :
考える名無しさん :2009/03/09(月) 21:21:49 0
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
197 :
考える名無しさん :2009/03/09(月) 21:22:41 0
(副島隆彦の学問道場「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用) 宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、残念ながら、 もう世界規模では捨てられた思想です。今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している病気です。 東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。 はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。 「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」の影響で、 とにかく訳(わけ)が分からないように書く。読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。 これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。 室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、 何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。 じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、 フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちは アメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、 考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。 (引用おわり)
198 :
考える名無しさん :2009/03/09(月) 21:23:33 0
冷酷な外側(欧米)のメディアは、「日本にも右(保守)と左(リベラル)の 対立がある」とは見ていない。どちらも「日本国内に立てこもうろうとする、 民族防衛言論だ」と彼らは鋭く見抜いている。 私は、この稿では、もはや、現在の日本の知識人の「井の中の蛙」問題抜きでは、 日本の未来国家を論じる気がなくなってしまった。 ここまで書いたのだから、さらに追い討ちをかけるように、嫌な言葉を遠慮なく 使わせていただきくなら、それは、「私たち属国知識人が持つ特有の精神的屈折」 とでも申し上げようか。そういう隠された劣等感である。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P27
199 :
考える名無しさん :2009/03/09(月) 21:24:13 0
私は「学問の全体像」の自分の頭による理解を目指したのだ。そんなことやって何になる、どうせ無理な話だ という自問もかつてはしたが、今は、それらを、外側にどんどん出すときがきた。ためらってなどいられない。 自分の理解力の低さを疑って、ためらってみても何にもならない。私が、「大風呂敷」をひろげて、バサリ、 バサリ、と切ってみせなければ、日本の知識層は、大きな観点からの世界水準の学問というものがどんなもの なの分からないだろう。だから、私がやるのだ。あれこれの細かいことは知らない。それらを知るための時間 投入は、もう私の人生時間に、残されていない。絶対に、忘れてはいけないのは、小さな「蛸壺」に入るな。 常に、学問・思想・知識の全体を見渡せ。その上で小さな分野にこだわれ。ということだ。思想の全体を見渡す、 という構えが、日本人には、極めて病弱である。「重箱の隅を突っつくような議論をするな」と言う割には重箱 の隅を突っついてるのが、日本の知識人層だだ。私がグランド・デザインにこだわるのは、そういう理由からだ。 私は知識と、知恵のグランド・デザイナーを目指す。各部品の不足品は、この国に生まれた以上、しかたがない。 この際どんなにみすぼらしくても、「自分の思想の家」を自力でつくると決めたのだ。 副島隆彦「属国に本論を超えて」P69〜70
>>192 ネットで手に入る字幕ファイルも英字幕はなくて、スペイン語字幕だけだしなあ
201 :
考える名無しさん :2009/03/11(水) 01:06:29 0
脱落あり, 2009/3/7 By イコカ - レビューをすべて見る 123ページ12行目に脱落あり。 「このショットは、実在的<時間>へのパースペクティヴ、すなわちショットあるいは運動とない実在的<時間>へのパースペクティヴである。」 これでは何のことかわからない。ちなみに、グーグルブック検索で英訳にあたってみたら 「it is a perspective on real Time which is not at all the same as the plane [plan] or the movement」 となっていた。
逐語訳的には すなわちショットあるいは運動とまったく同じではない実在的<時間>へのパースペクティヴ ぐらいだが、読みやすく訳すと すなわちショットあるいは運動とまったく異なる実在的<時間>へのパースペクティヴ というところだろうな
差異と反復はやっぱりすごい。
204 :
考える名無しさん :2009/03/11(水) 20:26:58 0
ドゥルーズ入門 檜垣 立哉 著 ちくま新書 新書判 224頁 刊行 04/06 ISBN 9784480064813 JANコード 9784480064813 定価756 円(税込)
檜垣はまた入門書を書くのか。 初心者相手にしか仕事してないな、こいつ。
>>205 玄人筋は『思想』連載中のドゥルーズの時間論を読むべし。
檜垣の文章は個人的になんか読みづらい
う〜む・・・ 檜垣立哉の読解って解釈が少ないよなあ。 引用を適当に切り縮めただけのようなものが多くて、ホントに分かってるのかなと、時々思う。
まぁ分かっていないとはまでは言わないけど、切り口が平坦なんだよね。 なぞっているだけというか、
文庫化に乗じてドゥルーズ読み始めたけど、 読めば読むほど夢中になっていく。
ドゥルーズほど簡単な文章を書く人はいないっていうからな
千のプラトーはやく文庫化して〜河出様
自分は文庫で差異の反復を読んだけど、 こりゃすごいってことで、ハードカバーを買いなおして、読み直しているところ。 意味の論理学の新訳もハードカバー化して欲しい。
et
215 :
考える名無しさん :2009/03/15(日) 12:38:26 0
ソーカル云々とまだ言っている人は、『ドゥルーズ/ガタリの現在』所収の 近藤和敬論文「『差異と反復』における微分法の位置と役割」は、読んだ 方がいいんじゃないの。同氏のブログのドゥルーズ・カテゴリを併読すれば なお良し、でしょう。ついでに言えば、同ブログのバディウ批判は面白かった。
何気にネットのドゥルーズ界隈で近藤を最初に持ち上げたのは、このスレであり、俺だったりする。 近藤はブログで2ちゃんで言及されたことに、困惑なのか不快感なのかちょっと不鮮明ながら書いてたけど、 あのときはすまんかった、と勝手に謝っておく。近藤みたいな黙々と論考が続くブログは大好きだな。
>>216 なるほどね。「超越論的」に全部抹消線を引いたエントリとかも、
「2ちゃん」の影響だったのかもね。鈴木泉さんのH.Pアーカイヴも
読ませるものが多いし、モンテベロの翻訳まで掲載されていたのは、
「死生学研究」を取り寄せようかと思っていた身としては有難かった。
いずれにしても現在進行中の思考過程(しかも水準が高い)を載せている
近藤氏のブログは貴重だね。単著を出して欲しい研究者だと思うし。
仰るとおり、2ちゃんで言及して、近藤氏の迷惑になっては非常に申し訳ない
ことだよね。俺もここで言及するのは止めるよ。
紹介乙、知れてよかった
219 :
216 :2009/03/15(日) 14:49:34 0
とりあえず近藤ほどの知見もガッツもない俺としては、近藤がんばれと率直に応援したい。
sono blog sukoshi yondaga kando shita arigato
221 :
216 :2009/03/15(日) 15:49:22 0
すばらしいブログでしょう。「DGの現在」が出る前の、 まだカヴァイエスについての論文ぐらいしか出してない頃にそこを紹介したんだけど、 こんな人がいるのか! と俺もそのとき感動した。
この人が絶賛してる舞城の本って「ディスコ探偵水曜日」ってやつかな
>>204 入門書はもういいよと呆れつつ、条件反射的に買ってしまう自分が容易に想像できる…
差異と反復の2章を詳述した論文とかないですか? 特にフロイトに即して三つの総合が語られるあたり。
DGの現在はいくつか読んでみたい論文があるけど、 買うには高いし、図書館には置いてないしで読めずじまい。 近藤和敬は、こないだの現代思想の特集でも、 おもしろい論文を翻訳してたような気がする。 自然科学の知見を参照しながら『差異と反復』を論じていたようなやつ。 手元にないからあやふやな記憶だけど。 理系的な素養があるドゥルーズ研究者って、日本では貴重な気がするね。
第4章の読書会しようよ
DGの現在良さげな本ですね、買わなかったけど
質問です。 『差異と反復』で、 潜在性に関わる差異化=微分化と 現実化に関わる異化=分化という二つのプロセスを統合する表現として、 差異/異 化 = 微分/分 化 differen t/c iation というのがでてきますが、 自分には、 潜在的な領野が母体としてあって、そこから部分的に現実化するというイメージがあるので、 上の表現は分母と分子が逆なんじゃないかという違和感があります。 どうして逆ではないんでしょうか? よく理解できないままに読み進めて来てたので誤読しているのかもしれませんし そもそも別に方程式ではないので、分母、分子という考え方が間違っているのかもしれませんが、 ちょっとすっきりしないので助けてくださいませ。
感覚の論理って高いね。 画集のような体裁をしている?と言っても、 フランシスベーコンはあんまり好きじゃないから躊躇してしまう。 ドゥルーズのセザンヌ論とかだったなら倍の値段でも喜んで出すのに。 まぁいつか買うだろうから、どうせならと明日買って来るけど。
洋書なら三千円で買えるのになー 日本のはたけえ
しかも原著にはいってる図版よりも少ないしモイクロばかり あんだけ待たした挙句これなんだから、読者に喧嘩売ってるのかと思った
ベーコンの図版使用はめんどくさいから
法政からだとろくなことないな
法政だと編集者と訳者のとりあわせがほぼ駄目
装丁も古めかしいしね
アンチ・オイディプス、。 初読時はそれが最初に触れたドゥルーズの著作だったんで、 わけわかめだったけど、 差異と反復と意味の論理学をしっかり読んだ後に読み直すと、 おもしろいくらいによく分かる。 そして素晴らしい。 しかし、真にすごいのは差異と反復で、 この本にはドゥルーズのほとんどすべてが凝縮されてるね。 千プラも差異と反復を読む前に読んじゃったから読み直さなきゃ。
∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 〜′ ̄ ̄( ゚Д゚)< Soyez rapide, meme sur place UU ̄ ̄ U U \_____________
河出は法政に比べるとずっと良いけど、 文庫だと注を下巻にまとめてしまうのは勘弁して欲しい。
法政がまずいのは、宇波彰みたいなミスマッチが修正されないこと
>>230 当該頁は例えば、邦訳p.316あたりでしょうか。
>潜在的な領野が母体としてあって、そこから部分的に現実化する
とおっしゃている事には、僕も同感です。
なので、ご質問の趣旨も解かるつもりです。
個人的な解釈ですが、「差異化=微分化(differen<t>iation」=理念=問題で、
「異化=分化(differen<c>iation」=理念の部分的現実化=解であり、
当該箇所は「対象の完全無欠さ、あるいは全体」を指す定式として分母分子に
これら二つの半身を割り振っているわけですね。
ところで、絶対に「差異化=微分化」>「異化=分化」なので、「差異化=微分化」を
分母にすると、値が1より小さくなりますね。これでは、「対象の完全無欠さあるいは全体」
を指示する複合的な基礎概念にならないのではないでしょうか。
言い換えれば、これでは、「十分な規定作用」と同じことになるのでは?と思います。
ドゥルーズの定式だと値が1より無際限に大きくなるので、「現実的な存在に固有な諸規定の
総和」の表現になるのではないか、と思います。
>>242 ありがとうございます。
読み返してみましたが、たしかに、
p.332では、differen t/c iationは「《理念》の全体」を表すものとして述べられているし、
>「対象の完全無欠さあるいは全体」を指示する複合的な基礎概念
の値が1より小さくなってしまうのは、おかしいですね。
自分が、differen t/c iationを現実化のプロセスを表現するものと思い込んでいたことに気づきました。
でも、現実化は異化=分化differen c iation ですもんね。
妙な勘違いをしていました。
あとは、こちらも理解があやふやですが、
同じような意味合いで、ライプニッツのモナド 1/∞を
differen t/c iationに投影するようにして勝手な解釈をしていたようにも思います。
おかげですっきりできました。
ありがとう。
差異と反復は本当に凄い
でも意味の論理学が好き
差異と意味どっちさきに読んだ方がいいんでしょうか?
書かれた順番に
差異と反復ですか
ドゥルーズは同世代で一番人気あるね(少なくとも日本では)
フーコーは読んだことあるけど、ドゥルーズは読んだことない、 という人のほうが多いと思う。
アンチが一番多いのもドゥルーズ 知ったこっちゃないが
なぜか日本だと全共闘世代にアンチが多い
軽薄だと思われてるからね、でもKさんのような人がいると変わってくるでしょ
Kって誰?
ちょっと上のレスを見よ
あぁ彼のことか。 評価するのはいいけど、ちょっと過剰だな。
アンチ・オイディプスは1章は面白いんだけど、2章になると途端につまらなくなる。
宇波彰の翻訳ってまずいの? この人が訳した、 『ベルクソンの哲学』 『プルーストとシーニュ』 『カフカ マイナー文学』 をまだ読んでない。 『意味の論理学』は小泉の訳が出た頃に、 鈴木泉がブログで、やっとまともな翻訳で読める、と書いたくらいのもんだから、 結構な悪訳みたいだけど、他のもそう? とりあえず、『マイナー文学』を次に読もうと思っているんだけど。
マイナー文学もそろそろ新訳出してもいい頃じゃないだろうか。 20年経ったし。 河出文庫さん、よろしくおま。
河出文庫のドゥルーズ関連書籍の出版予定を誰か知っている人いる? ミルプラトーとか
『スピノザと表現の問題』は『スピノザ 実践の哲学』のような高揚感はある?
262 :
考える名無しさん :2009/04/06(月) 20:24:01 0
福論文にそれをしももとめるか?
檜垣の読んだ? 今日買って帰るか。
檜垣のドゥルーズ入門を買ってきた。 まだ読んでないが、目次見る感じでは、 『差異と反復』、『意味の論理学』を集中的に論じているあたりはよいかもしれない。 でも、アンチオイディプス以降は、文学機械というタイトルの下でちょこっと触れてるだけ。 ガタリとの仕事を軽視するのは最近の流行りなのかな? それとも80年代の反動?
と言ってみたけど、 ドゥルーズ=ガタリはドゥルーズの応用編というのが檜垣の考え方だったね。 まぁそれもそうか。 新書の文量で千プラ論じるのも大変だしね。
「D」と「D=G」を別著者と考えるのが最近のトレンドっぽい
第1章だけ読んでみたけど、初学者には難解なんじゃないかと思う。 差異と反復、意味の論理学の読解という章構成からしてそうだけど、 既にドゥルーズを読んでいる人たちに向けて書かれている印象。 自分は結構勉強になると感じました。
解けない問いを生きるとセットで読んだ方が良い?
↑あんまその必要はないと思う。 檜垣氏の問題意識に共鳴するのなら別だが。
2章、3章と読み進めていくうちに、うんざりしてきた・・・ ドゥルーズを陳腐化も神格化もさせないために「通俗化」を試みたらしいが、 哲学史の中で相対化しているだけだし、 二大主著にたいする読みも逐語的すぎるし、面白みに欠ける様に感じる。 というわけで、シネマを読む作業に戻ります。
まったくの初心者ですが、 なんとなく本屋で檜垣氏の新書『ドゥルーズ入門』を手に取ったものの サッパリわけが分かりません。 もうちょっと語句の概念が分かりやすく説明されている本ないでしょうか? ありましたら教えてくださいまし。
>>271 へえ、面白いね。小泉もそんな記事書いてたのか。
そのHeideggar en Franceは興味があって、ずっと訳されてくれないかと思ってるんだが、一向に出ない。
仕方なく、より概説的なロックモアの『ハイデッガーとフランス哲学』を読んで済ましてるが、
仏内におけるボーフレ絡みについて理解するなら一応これもお勧め。
89年ぐらいにあったハイデガー問題のときにデリダが「私をハイデガー派だとするのはそれ自体、いろいろ違う」
といってたのはボーフレなどの仏内覇権などを考えると理解しやすいよ。
受容のみならず、ドゥルーズ自身、ハイデガーから結構きてると思うよ。
差異と反復にせよ、カントの読解にせよ、スコトゥス-スピノザにせよ、
近いところはハイデガーにもある。ハイデガーのシェリング論って、
シェリングを題にしながらスピノザ論やってるような面もあるしね。
ラクーラバルトを引きながら小泉が言ってる「衒学翻訳趣味」ってのは、
ある意味で日本では創文社版全集が対応するだろう。
京都系の人脈で進められてて、辻村公一以来の漢語駆使による訳語なので賛否両論だ。
まあ、翻訳そのものに潜む問題でもあるので、なかなか難しい問題だけどね。小泉が
>ある後輩は、『有と時』を指して、「鳥の本じゃ・・・」と
と書いてるところから、その対応関係の意識は明白だな。
俺なんか「うとじ」って間違って読んでた。
木田元や高田珠樹の訳は意識的に京都系から距離をとるもので、
木田が細谷貞雄 の訳文を賞賛するのもその線による。
また、デリダ系統の訳者が訳す場合にはさらに別の語彙定訳語があるから、結構ばらばらになってる。
渡邉二郎がその先にあったってのは、なるほどと思う。
コスタス・アレクソスってよく知らないけど、彼って ドゥルーズが論じたこともある小説家だよね。 アレクソスの訳はあまりないが、『遊星的思考へ』『マルクスとハイデッガー』 『技術の思想家マルクス』があって、『遊星的思考へ』は高橋允昭が訳していたりする。 >アメリカ人に対してよりはロシア人に向けられていました。 >アメリカニズム、つまり、技術的なもの、表面的なものに対してよりは。 これはコミュニズムの問題もあるかもしれないな。この問題は結構根深い。 あとはハイデガーの技術論絡みか。 Sylvia Bataille-Lacanって、バタイユの元奥さんの、ラカンと結婚した人だったかなあ。 あのへん、妙に変なつながりがあったような記憶が。 ドゥルーズ受容とハイデガー受容の類比についてはこのブログでは触れられていないけど、 近い趣旨で檜垣が書いてたってことなのかな?
>>272 同じ檜垣氏だけど哲学のエッセンスシリーズの「解けない問いを生きる」とか
「キーワード89」とかは如何
檜垣の本は逐語解題に徹し切れていないところが駄目だと思った
>>264 ガタリとの共闘以後については、続編を書こうと思っているようだ(あとがき)。
まだ最近の論文を読み込んでいないと本人が述懐しているから、まだ先なのかもしれないが。
ドゥルーズの時間論は、そのうち出すらしい。
入門本の類は既に十分あるし、代わり映えしないから、 ここらで古びてしまったいくつかの翻訳のほうをなんとかしてほしい。
新訳が必要なのはどの本かな?
プルーストとシーニュ ベルクソンの哲学 ザッハー=マゾッホ紹介(マゾッホとサド) カフカ
ほとんど宇波彰だな。んで、蓮實重彦か。 まぁ70年代や80年代に訳すのは大変だったかもね。
no.1、1990.7、「特集=Art and Conflict」 A4番変型(210×287ミリ)、右開き横組、Art Derection:坂川栄治、Design:前田英造、Photograph:大野信彦、 Cover Photograph:Felix H. Man (≪Mussolini: What is he planning?≫, Weekly Illustrated, August 4 1934.) Proof Reading:吉田文憲、Under the direction of:藤原えりみ・樋口良澄・小林康夫・松枝到・松浦寿夫・岡崎乾二郎、 English Editor:Richard Arno, Bert Winther、編集人:田崎英明、発行人:黒崎輝男 表紙文字: 「Art and Conflict FRAME NO.1 Situationist International Fenollosa Baroque/Velasques Courbet/Realism 史上最強の美術理論誌」 目次 ・ 「連載 GRAMMATOGRAPHE No.1 Infidelity of images ことば/イメージの不貞」、p.0 ※注1 ・ 「FRAME CONTENTS」、p.1 ※注2 ・ 岡崎京子(絵・文章)「[コラム] ブレイキング・グラス」、p.2 ・ 若桑みどり「[コラム] マドンナ:イメージの普遍的な力」、p.3 ・ 稲方正人「[コラム] ちびまる子ちゃんはAVギャルだ」、p.4 ・ 樋口良澄「[コラム] タデウシュ・カントール:アヴャンギャルドの空間」、p.5 ・ 荒川修作「[コラム] イメージのエチックス」、p.6 (続く) 注1 表紙の裏。同音異議語と絵文字を用いたイギリス17世紀の判じ絵が無署名の短文が添えられて掲載されている。 短文は「愛はその対象を破壊し分裂させる。すぐれた詩人なら言うように、愛する人の名を呼ぶことは、 その愛を裏切ることでもある。そして愛するものの姿を追憶するなら、その姿(イメージ)によって、 対象は幾重にも覆い隠されてしまう。それはもうここにはいない。しかし、だからこそ裏切りは、 恋愛のはじまりであり、歴史のはじまり、そう言葉のはじまりだった。」 内容からして岡崎の執筆だと思われる
あ、誤爆った ごめん
ドッスの評伝はまだか? 春頃と聞いていたけど。
ドゥルーズの芸術論の実践編として岡崎乾二郎の批評を読むことできる?
岡崎はドゥルーズあまり好きじゃないはず 彼の周りにはドゥルージアンもいるけど
>>286 彼はフーコーとデリダはある程度読んでる気配があるけど、ドゥルーズはそもそも大して読んでる形跡ないしね
>>287 作家の場合、本人がドゥルーズを読んでいるかどうかはあんまり関係ないと思うが。
ドゥルーズを読まなくても、ドゥルーズ的に芸術活動を実践する作家がいるはず。
いや、批評家岡崎のロジックに、デリダとフーコーが暗に陽に見え隠れしている、という程度の意味で言ったんだよ
檜垣のドゥルーズ入門読んだ方ご感想おねがいします。
ベルクソンだけでいいんじゃね?って印象 あとガタリが嫌いなのに無理して社会的な関心に引き寄せようとしてベンヤミンになってる
292 :
考える名無しさん :2009/04/19(日) 02:21:57 0
シュレーバー控訴院長って誰?
ググレカス
症例シュレーバーだろ しかしシュレーバー回想録ってもう絶版になったんだね・・
295 :
考える名無しさん :2009/04/19(日) 02:37:44 0
くんかくんか
296 :
考える名無しさん :2009/04/19(日) 02:41:47 0
アンチ・オイディプス読み始めたんだけと「生産はそのまま消費であり、登録である(文庫p20)」ってとこでつまづいた。「登録」ってどういうこと?
自分も厳密にはよく分からないから教えて欲しいところだけど、 もうちょっと読み進めると、離接的総合のところで、もっと詳しく述べられたような気がする。
298 :
考える名無しさん :2009/04/19(日) 15:29:39 0
ありがとうございます。もうちょっと読み進めてみますね。
299 :
考える名無しさん :2009/04/19(日) 19:11:32 0
● [95] 浜田和幸氏のグリーンスパン論 投稿者:副島隆彦 投稿日:2000/02/21(Mon) 03:55 なんにも知らないで、戦後の55年間を、日本の土俗保守派全てが、生きてきた事を、よくよく証拠だてています。 アメリカのニューディーラー(=元祖グローバリスト)が、吉田茂以下のおかしな日本保守指導者層を育てたことに 起因します。日本の保守派は、アメリカのリベラル派に育てられたのです。 (中略) どうせ大きくは、日本知識人というのは、思想知識学問の密輸業者でしか、ありませんから。 この日本語と言う 言語の壁を利用した、原住民のまじない師の集団です。 いよいよ、私のような人間の出現によって、それらの秘密が、公然と暴き出され始めているのです。 私は、もう決めたのです。もう我慢しない、と。 あらゆる種類全ての言論統制と戦うのだ、と。 (中略) なにを今更、という感じです。私が、いつも書くとおり、日本で一流とか思われている学者知識人たちなど、 欧米の高校生並みの知性なのです。 (中略) はやくこの事実をみんなで認めたほうがいい。 言葉の壁がどうにもならない、の問題についても、私が、 10年まえに『欠陥英和辞典の研究』を書いて闘ってきたのです。 (中略) 日本は、文明の周辺属国だから、特に、知識人層が、知識泥棒ぐせがあって、これが2000年間、抜けない。
300 :
考える名無しさん :2009/04/19(日) 19:12:22 0
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
301 :
考える名無しさん :2009/04/19(日) 19:14:12 0
(副島隆彦の学問道場「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用) 宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、残念ながら、 もう世界規模では捨てられた思想です。今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している病気です。 東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。 はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。 「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」の影響で、 とにかく訳(わけ)が分からないように書く。読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。 これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。 室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、 何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。 じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、 フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちは アメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、 考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。 (引用おわり)
302 :
考える名無しさん :2009/04/20(月) 01:11:43 0
だからすべては生産なのだ。 ここに存在するのは、生産の生産、つまり能動と受動の生産であり、登録の生産、つまり分配と指標の生産であり、消費の生産、享楽と不安と苦痛の生産なのである。 (アンチ 上 p20) なんとなくわかった
アンチオイディプスの1章は差異と反復の延長上で読めて、 かつポップだから最高に面白いけど、 以降、精神分析批判色が濃厚になってくるにつれて、中だるみしてくる。 結果未だに読破できず。
304 :
考える名無しさん :2009/04/20(月) 22:58:26 0
そうなんですか… <どうして人は「もっと税金を!もっとパンを減らして!」 などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをし、また別の人々がストライキをするということではない。 そうではなくて、むしろ飢えた人々が必ずしも盗みをしないということ、搾取される人々が必ずしもストライキをしないということである。(アンチ 上p62)> ってとこ、好き。あーニーチェに影響受けてるんだな、って思うし。 理性をあんまり信頼してないんだなって思う。
登録、あるいは離説的総合は、ラカンでいう所の象徴界に相当する概念だと捉えています。 そういう風に捉えないと、精神分析へのマルクス主義的生産概念の持ち込みと言うアンチオイディプスのコアが見えないでしょう。 接続的総合の生産における欲望機械の直接的な運動とは別に、それらの運動をコード化して、あるいはコード化されて繋がっていく運動がある。 それが例えばラカンならシニフィアンあるいはオイディプス、マルクスなら物神化された資本、という風に。 例えばパソコンならショートカットキーやその他コマンドで複雑な操作を簡略化したコードに畳み込むでしょう。 僕はそういうのをイメージして「登録」あるいは「登記」(例えばショートカットキーを登録するように・・・)と言う概念をとらえてますね。 そしてその登録が書き込まれるのは、器官なき身体の表面・・・と偉そうなことをいいつつ僕も完全に理解してはいませんです。
例えば離説的総合と連接的総合の違いがいまいちよく分からない。 接続的総合がリビドーで、離説的総合がヌーメンなのはまだイメージが出来るのですが、 連接的総合における「だから・・・」の次元がよく分からない。 欲望機械の傍に作り出される残余としての主体、或いは個体化の運動に関わる概念だからしっかり理解したいのですが・・・ それと関連するところでは独身機械も謎です。アンチオイディプスではシュレーバーも独身機械とみなされて語られていますが、 これは後のドゥルーズ哲学でも重要な主体性や芸術としての生といった概念に関わる項目だからこそ、つきつめて知りたい。 とりあえずの暫定的イメージとして、欲望機械における一種のフィードバック回路のようなものを想定して考えているのだけれどどうでしょう。 自らの作り出すフロー、あるいは自らがそれに属すところのフローを、部分的或いは全面的にもう一度自分に流し込む、採取する、みたいなイメージ。 ちょっと関係ない話ですけどどなたか千のプラトーの文庫化情報みたいなのリークしてる人いませんか? 貧乏人なんで、ミルプラも文庫化してくれるとほんと助かるんですけどね〜、電車内でも読めるし。
>>306 三つの総合は、andとorとif...then...に対応している
英訳を調べればあっさり解決する問題も多いぜ
高校生で英訳まで参照できればすげえぞ
ほぉ。横からだが、それは勉強なった。
309 :
考える名無しさん :2009/04/21(火) 01:59:43 0
たびたびすいませんが、 <根源的といわれる抑圧はこれと別の意味をもっているとは思われない。 つまり、それは<逆備給>などではなく、器官なき身体による、欲望機械へのあの反発を意味しているのだ。 そしてパラノイア機械はまさにこのことを意味している。(アンチ 上 p28)> とありますが まずここででてくる「逆備給」というのは何なんですか? それとここでいきなりでてくるパラノイア機械っていうのがなんなのかよくわからない。 安易に質問するのがよくないのはわかってるんですが、どなたか分かる人がいれば、よろしくです
310 :
考える名無しさん :2009/04/21(火) 02:07:48 0
309ですが補足させていただきます「逆備給」については何となくイメージがわくんですが、 なんで「パラノイア機械」というのが関係してくるのかがよくわかんないです。パラノイアが偏執病だということはわかるんですが、 それがどうこの話に関係してくるのかがちょっと
311 :
考える名無しさん :2009/04/21(火) 06:35:57 0
AOは、歴史、社会、資本の流れ等々を、精神分析用語およびその属する枠組みから、 マルクス主義および身体-欲望-機械[工場]の用語[思想]によって より外へと解放する試み。 それゆえ、その箇所はその前の部分における彼らなりの用語による記述について、 これを(読者のなじみ深い思想である)精神分析用語でいえば「抑圧」に該当するが それのいう「逆備給」(関心を別に逸らす)の発想はあやまりで、いいかえれば、 器官なき身体が欲望機械を追いやるのではなく、器官なき身体が欲望機械に反発する、 その間=闘争こそパラノイア機械問題なのである。 いわば身体一元論から身体と欲望の系列論、 もっといえば彼ら独自の機械=諸連結総合システムの多元論への導入部分。 ことごとく精神分析の説明をそうじゃないそうじゃないと、 彼ら独自の用語で説明し直しながらの論述ですからグーグルしながら読解するといい。
312 :
考える名無しさん :2009/04/21(火) 06:40:52 0
逆に言うと、予め精神分析をかじってないとこの本、 あんまり意味がないし、わからないから、共感も反発もできないのではなかろうか。 むしろ、公式マルクス主義やフロイトの精神分析入門なんかを読んでいかれて どんづまりになってから、初めてこの書物へ近づくくらいがいいのでは。
313 :
考える名無しさん :2009/04/21(火) 07:53:50 0
>>312 そらそうだね。
自己分析したくて、精神分析に手を付けた人向けだよと思うよ。
精神分析から問題点を社会現象にもとめる過程って、やった人は経験するし、
大学なんかでも昔からそういう方法論は推奨するんだよ。お約束の伝統芸の方法論。
ドゥルーズはその方法をとって、なおかつ独自の切り口でやってるから、優秀なんでしょ。
自分の問題から広がって、そこと関係する問題をねこそぎ全部さらってすっきりしてる感じが、
読んでて気持ちいいんだよ。
314 :
考える名無しさん :2009/04/21(火) 15:28:43 0
長文でごめんなさい さっき質問した者ですが、 たしかに、精神分析に対する興味も知識もほとんどなしで読んでます。 ただ、『差異と反復』と『意味の論理学』はいちよう読んだんで、 そのつぎは『アンチオイディプス』かなとおもって読んだら、 精神分析の知識が前提になってるんですよね。 でもドゥルーズの本ってそういう前提ばっかりなんで(数学とかマイナーな 哲学史的知識とか)まあしょうないかなって思いながら読んでます。 そういうわけでまた質問するかもしれません。 そのときは知ってる人よろしくどうぞ(なるべくググリますが みなさんのいろんな見解を知りたいので) それと、そういう精神医学の専門的知識なくともかなり楽しく読めてます。 いちよう基礎的な概念がわかってる(つもり)だからかもしれないです。 ただわかったつもりにならずにじっくり精読したいとおもってますね、今は。
315 :
考える名無しさん :2009/04/21(火) 17:56:49 0
「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。ひとつは本を箱のようなものと考え、箱だから 内部があると思い込む立場。これだとどうしても本のシニフィエをさがしに行くことになる。 この場合、読み手がよこしまな心をもっていたり、堕落していたとしたら、シニフィアンの探 求に乗り出すことになるだろう。そして次の本は最初の本に含まれた箱になったり、逆に最初 の本を含む箱になったりするだろう。こうして注解がおこなわれ、解釈がほどこされ、説明を 求めて本についての本を書き、それが際限なく続けられるわけだ。もうひとつの読み方では、 本を小型の非意味形成機械と考える。そこで問題になるのは「これは機械だろうか? 機械な らどんなふうに機能するのだろうか?」、そう問うことだけだろう。読み手にとってどう機能 するのか? もし機能しないならば、もし何も伝わってこないならば、別の本にとりかかれば いい。こうした異種の読書法は強度にしたがう読み方だ。つまり何かが伝わるか、伝わらない かということが問題になる。説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することも ありはしない。これは電源に接続するような読み方だと考えていい。」 (『記号と事件』「口さがない批評家への手紙」ドゥルーズ 宮林寛 訳)
こんな挿話があります。 記者から「『アンチ・オイディプス』は難解で専門家でも理解できないと言われていますが」 と問われて、ドゥルーズは「分からないのは専門家だけです」と平然と答えた。 実際に彼は、看護師や港湾労働者が読んでくれて、彼女ら彼らから熱心なファンレターを もらって感激したと言っています。ドゥルーズはそれを「遭遇」と言います。 確かに入門書も読まず学歴もなく正規の教育課程も踏まない人々に、あのような 二〇世紀屈指の難解さを誇る本が読まれるというのは「遭遇」どころか「奇跡」に 近いことでしょう。しかし、それくらいの奇跡はこの世界で簡単に起こるのです。
俺もアンチ・オイディプス、再読してみようかな。
318 :
考える名無しさん :2009/04/21(火) 22:51:10 0
質問というかみなさんの意見を聞きたいのですが アンチオイディプスにおけるスキゾ的な事象に対するドゥルーズ;ガタリの「信頼」のはどの程度の物だったと思われますか? 言い換えると「欲望」にドゥルーズはどの程度自らの哲学的な立場を賭けていたのでしょうか。 パラノ的な権力機構に対抗するかたちでのスキゾ(対抗というのは違うかも:)。 このように自分は理解していますが、 ではそのスキゾ、あるいは欲望の重要性をドゥルーズは表すために「アンチ・オイディプス」を書いたのか。 それとも、スキゾにそこまでの価値を認めずに論考を終えようとしたのか。 ニーチェ的な色彩を強く読み取ると前者のように私は感じるのですが。 みなさんはどのように思われますか。基本理解が違っていたらごめんなさい
欲望する機械は仏語あるいは英語だと複数形? 独身機械は単数形?
>>319 その批判はメチャクチャだよ
ドゥルーズは病人じゃないからだめって、まるで自分が病人であるかのような傲慢
la mashine du desir mashines desirantes Les machines célibataires
>>305 「接続的総合の生産における欲望機械の直接的な運動とは別に、
それらの運動をコード化して、あるいはコード化されて繋がっていく
運動がある。」
「例えばパソコンならショートカットキーやその他コマンドで
複雑な操作を簡略化したコードに畳み込むでしょう。
僕はそういうのをイメージして「登録」あるいは「登記」
(例えばショートカットキーを登録するように・・・)と言う
概念をとらえてますね。 」
これでは欲望的登録であるところの多義性が理解できないと思うけど。
そもそも欲望的登録は
「シニフィアンの連鎖」(p76)が実現されている体制であって、
決して排他的なコード化と同一視してはならないとおもう。
じっさいベケットの小説におけるマロウンの例(p33)のように
欲望的登録は、多様な分岐の中に位置づけられるものだ。
「拒食症の口」は器官なき身体に登録されたときに初めて成立する現象だよ。
鈴木泉のブログの最新エントリーだけど、 彼は研究室の生徒にドゥルーズを専門として選ぶことを禁止しているということ?
本郷では良くあること
哲学史による抑圧ですね
>現在の日本において世界的に最も高名な哲学者が女性である〜 これって石黒さんのこと?
>>127 鈴木泉の言う「哲学史」って、確かに、自分には
たいした他に哲学的な主張がないのに、若手を
抑圧しがる講壇哲学教員がいかにも言い出しそうな
ことなんだよな。
まぁ、教育熱心なのはいいけど、鈴木には、
ブログでそんなこと書き散らす前に、
誰もが無視できないような哲学通史の本でも出したら
どうだと言いたい。
ドゥルージアンを自認するものが、ドゥルーズが抵抗していた思考の権力機構と化しているとは、困ったものですな。
なんかずーっと鈴木泉に粘着してるやつがキモイな。
粘着かな? 鈴木泉はキャラ的にはマリオンが合ってると思う
333 :
考える名無しさん :2009/05/02(土) 21:44:08 0
アンチ・オイディプスよんでるとドゥルーズが極左だってことがよくわかる。 で自身もだんだんマルクスに興味を持っていく。 マルクスはアンチオイディプスの主要なテーマだと思う。
泉ちゃんは立場的にそれでいいんだよ 本郷なんだから
某所で見かけたんだけど、これドゥルーズ? ,:r: ´ ̄三二ー、 ,r' ニ‐ =三、:::ヽ ,rr'" '"'' ‐三ニ=-、_::::ヽ .!::l _,. = r':::::;i、_ ヽ:ヽ-‐_ _,.-,. _,,,_ ヽ:::i !::::::::::ー.、 ,r:!ヽ:!. _ _,::;'t.r::" i! .l:::::::::::::::::::::ヽ、 /::::::::::::l::i`:'フ':. ` -' .: '.ィ、::::::::::::::::::::::::::::::‐;、 i:::::::::::::::::ヽ ` ;: :.、 ::リ l:::::::::::::::::::::::::::;:':::::i !:::::::::::::::::::::i:. ヽ -'´ ,.ヽ ; ! l:::::::::::::::::::::::;r:::::::::::! .l:::::::::::::::::::::::ヽ 、ー、-‐_'´ ,:r'r、!:::::::::::::::':::::::::::::':::::::! i:::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、 ´ _ r'ノ´:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l ヽ::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ̄::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::i
336 :
考える名無しさん :2009/05/03(日) 21:22:40 0
337 :
考える名無しさん :2009/05/08(金) 17:15:06 0
写真ちっさ
338 :
考える名無しさん :2009/05/08(金) 17:20:36 0
しかしなあ。ドゥルーズも黎明期の精神医学批判しても しょうがないとは思うんだよな。 (映画についてのコメントはおもろいけど。) 進歩的な医者学者達のために人柱が立つのはやむを得ない事だよ。 君たちそう思わんかね?
なんとなく、ドゥルーズで画像検索してみたら、 クレールパルネの若い頃の写真に遭遇した。 可憐な美少女だったんだね。そりゃ愛人の噂もあがるわ。 今はどうしてんだろう?
『哲学とは何か』205頁に書かれている「ローティ家の夕食〜」のローティって、 リチャード・ローティのこと?
343 :
考える名無しさん :2009/05/10(日) 18:18:26 0
ドゥルーズの晩年、長髪ハゲは渋かっこいい
娘さんは映画監督になってたんだね。 作品観たことある人いる?
345 :
考える名無しさん :2009/05/11(月) 07:12:44 0
「新しい肌」でそ
346 :
考える名無しさん :2009/05/11(月) 08:44:04 O BE:739484238-2BP(2500)
ドゥルーズとガタリの共著で提出されている概念には、ガタリが考案したものも多いんだよね。 日の当たるほうはドゥルーズばっかりだけど。
ガタリがメタファーを提出して、ドゥルーズがそれを概念化したというイメージ。
ガタリとドゥルーズの関係は、柄谷と浅田の関係に等しい 柄谷と浅田の関係は、結局、カントをやったら、と焚きつけることで 柄谷を講壇化させることにしかならなかったけれど
ガタリはドゥルーズの概念的人物
「器官なき身体」についての理解が ドゥルーズとガタリの間で異なっていたって読んだけど、 詳しい人いる? そもそも事実?
『対話』でドゥルーズ自身が言っていたこと。
DGの現在買ってきたけど、鈴木泉の寄生虫ぶりは目にあまるな・・・ 論文のひとつくらい書いてみせろよ。
デリダの息子も映画監督じゃなかったっけ? 流行っているのか?
>>354 新刊きた!乙。
この本の評判は?
それにしても翻訳者が中山元というのはちょっとした違和感が。
でも、わざわざ彼がドゥルーズということで、ちょっとした信頼感も。
なんかタイトルだけ見るとNHKのシリーズと混同しそう でも面白そうではあるな
357 :
考える名無しさん :2009/05/26(火) 01:26:44 O
明日っていうか今日発売か
358 :
考える名無しさん :2009/05/26(火) 01:57:11 0
鈴木泉並に悲惨なスレだな
國分さんの出番だな
ドッソだかドッスだかの評伝翻訳まだかー
>>354 >ライダー デュー
名前が終わってる...
千プラ読んでると、ガタリってドゥルーズの最良の読者だったのかなと思えてきた。
そう思うよ 哲学に閉じなかったのはガタリのおかげ
MPの472頁にデリダの名前が出てきて、びっくりした。 巻末の人名索引ではデリダの項目ないのに。 他にドゥルーズがデリダについて言及した箇所ってある?
『差異と反復』の第2章注28で『エクリチュールと差異』を引用してる。
アンチ・オイディプスでも註で挙げているな
逆の例を挙げると、「差延」ってドゥルーズの差異概念がヒントなんだよな
1.器官なき身体と器官なき充実身体との違い 2.社会体と器官なき身体との違い oshiete
みるぷらとぉの文庫まだぁ?
おつ
哲学史家ドゥルーズが哲学者ドゥルーズを論じる、というのが読みたかったもんだ。
囲碁打ちとしては、千プラでの囲碁についての記述には興奮した。
>>375 そうなのか…
ドゥルーズ解説本てなかなか「当たり」がないね。
バディウとかジジェクとかみたいな「自分本」がやたら読まれちゃってるしな
ドゥルーズを語ろうとすると「自分語り」に陥りやすいのだろうか
>>378 ズーラビクヴィリとマイケル・ハートのドゥルーズ論が
訳されている解説書としては一番マシじゃないかな。
その通りだね エリック・アリエズのも悪くないが日本語がない
でも、ズーラビクヴィリもハートも『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』から逃げているからなぁ。 ドゥルーズ的な思考は『差異と反復』以前に凝縮されていると言うのは、 その通りだと思うし、だから両者の素晴らしい研究を否定するつもりは毛頭ないんだけれど、 素人の一読者としては、やはりDG以降の仕事こそが重要なわけであって・・・ 千プラが文庫化を待望されるのって、お求め安くなるからじゃなくて、 外気に触れながら、何かをなしながら読みたいからじゃない? 個人的には、そういう高揚感あってこそのドゥルーズだから、 哲学に限定した研究は勉強にはなるけど、いまひとつ物足りなかったりする。
だからアリエズって言ってるんじゃん La signature du monde, ou, Qu'est-ce que la philosophie de Deleuze et Guattari? まあ概論だけど
>>384 その本いいのか?
でも日本語にも英語にもなっていないとちょっときついな
過大な期待は禁物だけどな あとガタリについてはがいしゅつだけど、げのすこオススメ 日本のガタリの連中は全然駄目
>>384 短いんだったらさっさと訳して日本語で読めるようにしてよ
なにしてんだよドゥルーズ研究者たちは
>>389 アリエズとかジャン=クレ・マルタンは、
哲学畑の人が好きじゃないんだと思う
いいから、ドッソだかドッスだからの評伝を訳しなさい。
マルタンのはドゥルーズが『哲学とはなにか』の中で触れてたよね? 気になってはいたんだけどリアル本屋では見かけないので未読のまま。 面白い? 目次見るだけでは、いまひとつどんな本か分からない。
フランス語読めて偉いですね。 その見識生かして、もうちょい実りあるレスお願いしますわ。
そういう言い方だと、読めない方がエライみたいだね まあ2ちゃんは総じてそういう場所
ガタリいるな なんてしゃべっているんだろう
>>398 そこのコメント欄にも、
フランス語使うなとか言ってる英語圏の馬鹿がいるなw
それにしても、学生は黒板消しを綺麗にしとけよなー
>>398 サンキュ!何か楽しそうな授業だな。顔貌性についての部分だろうけど、
講義+著書だと理解がすごく進みそうな気がして、ちょっと当時の学生さん
たちやモグラーのみなさんが羨ましい(笑)ドゥルーズ結構感じのいい人だし、
芝居っ気も茶目っ気もあって、セールが「芯から心のきれいな人」(『解明・セールの世界』)
と評したのもなんか納得だ。
なんかの雑誌でもいいから、活字化してくれるといいね。
405 :
考える名無しさん :2009/06/26(金) 11:44:05 0
ドゥルーズにおける人間の超越論的 「愚かさ」 と動物への生成変化 / ジャック・デリダ (訳=西山雄二+千葉雅也) 「現代思想」2009-7
表象文化論学会だったら、来年の「表象」(月曜社)に載るんじゃない? 去年のにも千葉が寄稿してたような。
物体/非物体の二元論において、意識はどちらに所属するものなのでしょうか?
ごめんなさい。 『意味の論理学』を読んでいるところで、ストア派の分割ないし深層/表面の二元論を心身問題にあてはめて読めるのかなと思って訊いたんですが、 普通に考えれば、脳内での物体の混在(神経活動)の結果として立ちあがってくる非物体的な意識ということですね。
でも、ドゥルーズは、意識も物体とみなす徹底した唯物論者であるとどこかで読んだ気もする。 スピノザ実践の哲学では心身並行論について書かれていますね。
魂の概念のような体と独立した存在は認めないらしいね。
身体をモデルに据えてみたまえ
スピノザ的な心身並行論だと、精神と身体は、原因−結果の関係では ありえないよ。なぜなら、精神と身体はそれぞれ思惟と延長という異なる 属性の様態なので、相互に何らの「共通点」も持たず、それゆえ相互に 何らの影響も及ぼさない。精神が身体に働きかけることも、その逆もありえない、 とはそういうこと。なので、「自分の意思で手足を動かす(手足が動く)」という 風には考えない。精神と身体の関係は、因果関係ではなく、対応関係、それも 完全に同時な対応関係となる。 ついでに言うと、スピノザの心身並行論では、例えば、このパソコンも精神を持つ。 ただし、パソコンが持つ精神と人間が持つ精神とは、互いの身体が異なってるのと 全く同じ程度に異なっていることになる。 この辺の考え方は、ドゥルーズの非−有機的生命みたいな概念と共鳴すると思うけど、 スピノザ的な心身並行論をドゥルーズが完全に受け入れていたか否かは、結構難問。 ベルクソンが入ってくるからね。長文失礼。
心身並行論って意味が分からなかったのだが、そういう考え方だったのか。
スピノザの心身並行論において、なぜ精神と身体が相互に全く影響を 及ぼさないかというと、思惟と延長の各属性が、唯一の実体の二つの 表現だから。つまり、いわば、同じものの二つの側面なので、相互に 影響し合うはずがない。スピノザ的には、意思によって手足が動くと考える のは、いわばオカルト、つまり念力を肯定することになる。 だから、デカルトの松果体(精神と身体を媒介する、何か精神と身体の 混合物のような曖昧なもの)を批判している。 スピノザの存在論で面白いのは、実体の属性は無限にあるのに、なぜ人間は 思惟と延長の二つの属性しか認識できないのか?という疑問に対して、延長 以外の無限の属性には、それぞれ思惟の属性が対応しており、様態において、 属性Xとその属性Xに対応する思惟の様態がセットになって「個体」が生成する、 と答えているところ。論理的に筋を通すにはこう考える他はなくて、ドゥルーズも この点は完全に理解しているのみならず、「スピノザと表現の問題」では、 これこそ真理だとまで言っている。スピノザに関してはドゥルーズは半端なく理解 してるよ。様態の本質は強度(内包量)であり、それゆえ変化する、とまで断言する 辺りは、画期的な解釈。「表現の問題」はスピノザ研究者の間でも、非常に評価が高い。 (ネグリの「野生のアノマリー」は逆にいまいち評判が良くない)
なんであんたがスピノザ研究者を代表してるんだよw
余計なこと言わないで、こういう書ける人には気持ちよく書かせてあげてください。 勉強なるし。
そうだけど、 権威による論証はスピノザが嫌ったスコラそのものでしょう
2ちゃんみたいなところでいちいちスピノザみたいに論証してられるかよ
肝心のドゥルーズはどうなんだろう。 機械圏という概念を使っていたから、やっぱり唯物論者か。
最近流行りの脳科学というか心身問題だけど、 どこから手をつけていいかよく分からなかったんで、心身並行論という切り口で攻めてみることにした。 本当、ドゥルーズにはなんでもあるね。 というより徹底して原理的に考えた人の思考はどんなものにも立ち向かえるもんなんだね。
メタ自然学ってことさ
>>415 私見ですが、脳科学的な心身問題における並行論の場合、その殆どが
「心身並行論」ではなくて、「心脳並行論」に留まっていると思います。
つまり、脳の活動と意識の働きの間にのみ並行を認める、という立場ですね。
実証的な自然科学の方法論からすれば、これはやむをえない面があると思います。
スピノザ的な心身並行論だと、いわば、脳のみが特殊な物質で出来ているわけでは
ないので、爪であれ、石であれ、それに対応する精神(思惟の様態/観念)が無い
理由がないので、物理的な全自然に対応する精神があることになりますが、
これはやはり思考で行けるところまで行くという、哲学ならではのものだと思います。
実際、物理学者のシュレーディンガーは、「心脳並行論」までは、スピノザを評価しますが、
「全自然に対応する精神」となると、「途方もないファンタジー」と言って、これを否認しています。
ドゥルーズの場合は、特に「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」に顕著ですが、やはりあくまでも
哲学者=思考の力を信じる立場ですね。個人的には、思考の方が実証より遠くまで行ける、場合によっては、
自然科学が哲学を部分的に裏打ちする、という考え方が正しいと思っていますが。
横レス失礼しました。
>>415 の後半部分の原典を引用しておきます。
(但し、「それゆえ変化する」の部分は、当方の間違いです)
1.様態の本質は、内在的様態あるいは強度量である。
もろもろの有(諸様態の本質)の差異は内在的であると同時に、
純粋に量的である。なぜなら、ここで問題となっている量は強度量
だからである。スピノザの場合、個別化は質的でも外在的でもない。
それは、量的−内在的であり、強度的である。
(ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』p.201)
2.各物は神の無限な知性中では、無数の仕方で表現されますけれども、 しかし、この表現された無数の観念は、或る一個物の単一なる精神を構成する ことが出来ず、無数の異なった精神を構成するのです。異なった無数の属性に 関連するこれら無数の観念の各々は、相互に何らの連結を有しないからです。 (『スピノザ往復書簡集』書簡六十六「スピノザからチルンハウスへ」) 3.一方では、あらゆる属性は等しい。だがこのことは存在し・活動する力との 関係によって理解されなければならない。他方で、この存在する力は絶対者の 半分にすぎず、他のものはそれに等しい思惟する力である。思惟の属性がこの 特権を楽しむのは、この第二の力との関係によってのみである。この第二の力に よってのみ、思惟の属性は、あらゆる属性によって条件づけられる力と等しい 力を条件づけるのでる。そこにはいかなる矛盾もなく、むしろ究極の事実が あるように思われる。(ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』p.118) 以上で、書き込みは終わりにします。ご不快になられた方々にはお詫び申し上げます。
いえ、勉強になります。もっと書いてください。
427 :
423 :2009/07/03(金) 22:57:28 0
428 :
423 :2009/07/03(金) 23:38:19 0
>>426 かっこ悪いけど(笑)、ホントの最後に少し補足です。
自分の経験ですが、礼儀を尽くして(自己紹介をきちんとする、アポイントメントを
取る、相手方の著作を読み込んでおく等)、真摯に問い合わせれば、大抵の場合、諸先生方は
きちんと対応して下さいます。その際、学会に入っておいた方が、例会後の会食などの機会も
ありますから、何かと便利ではあります。自分も勉強中の身なので、気が引けますが、
哲学も数学とかと一緒で、理解する事自体は、他人に頼めませんから、関心に沿ったかたちで、
どうしても分からない事は、これ!という先生に尋ねることをお勧めします。
僭越な言で、失礼しました。
でもネグリを快く思わないのは学会の常だよな アクティヴィストは扱えないんだ ドゥルーズ本人との度量の違い
ネグリももう年なんだな。 日本講演はもうないか。
ジャズ界とかだと毎年のように「最後の日本公演!」というアオリが
でもカーターとかロリンズとかいつ死んでもおかしくないからなぁ
永劫回帰って、アンチ・オイディプス以降はまったく使われなくなったような気がするけど、どう他に言い換えられたの?
内在性
ありがとう。 ちょっと意外だったので、読み直してみます。
>434 はや
死ぬ間際に書いた「内在、一つの生」と「現働的なものと潜在的なもの」を読めばいいと思う
ドゥルーズの逆説的保守主義か…
>>433 永劫回帰は「反復」の一種なので
「差異と反復」以降前面に出なくなります。
>>439 ニーチェの反復は差異の反復じゃなかったの?
やっぱり同一の反復だったの?
>>440 「私たちは過去を構成しているそのような
様態でいったん反復し、変身の現在において
もう一度反復するという条件の下で
はじめて、何か新しいものを生み出すのである。」
差異と反復p148
>>440 続き
「つまりそれ自身絶対に新しいものは
、これまた、反復、換言すれば今度は
過剰による第三の反復、すなわち永遠回帰
としての未来の反復にほかならない。」
同箇所p148
ドゥルーズの自然哲学をテーマにしたデジタルアートみたいなのないのかな? 『差異と反復』の生成のシステム論なんかを視覚化すると面白そうだけど。
音の微粒子が飛び交うようなエレクトロニカミュージックなんかを聴いていると、 確かにドゥルーズ的だなぁと感じたりすることがある。ovalとか。 音楽シーンの知識が10年前で止まっているので、例えが古くなのは恐縮だが。 ドイツにはミルプラトーなんていうエレクトロニカ専門のレーベルがあったくらいだし、ドゥルーズにインスパイアされた音楽というのは結構ありそう。 初台のICCなんかにいけば、ドゥルーズを想起させるようなデジタルーアートがあるかもしれない。
思いっきりアナログだけど叫ぶ法王シリーズとか見てみたり
普通に坂本龍一が好きな本に千のプラトーをあげているが、やっぱりドゥルーズおたは坂本龍一は認めないって姿勢なの
B2-UNITはおk 音楽図鑑がすでに駄目
まぁB2unitさいこーとか言っとけばいいと思うよね「わかってる人」は
檜垣のドゥルーズ入門、結構よいと思うんだけど、 どうして引用文等は原典を参照するよう指示しているんだ? 翻訳本に対応させないで、なにが入門本なんだ・・・
未来派野郎って廃盤なの?
浅田彰スレみたいな流れになってきたなw
ドゥルーズが吸ってた煙草の銘柄ってなに?
檜垣の本は駄目だと思った ベルクソンに近いか否かで評価しているとしか思えない
ベルクソンが始点にあったんだから、ある程度はベルクソンから近い遠いの記述になるのは当たり前すぎて何が問題なのか分からない
>ベルクソンが始点にあった この前提が疑わしいってことでしょ。
そういうこと
「入門」と謳ってはいるけど、まっさらな初心者向けってより 一度著作を読んでみたけどワケワカメって人向けなのかしら
むしろ研究者志望の人が檜垣のスタンスを知るための本って感じ 哲学科学生向けだね
ニーチェと哲学を読んで、訳分からないなりにその解釈に圧倒されたんだけど、 ドゥルーズってドイツ語はどの程度読めたんだろう
ほとんど読めなかったってのが定説だったと思う
兄貴はナチスに虐殺 ドゥルーズの哲学の基本モチーフは、反ドイツ的、反ナチス的なるもの ドイツ語を学ぶ気には到底なれんかったってことか
ドッスのドゥルーズ・ガタリ伝記がなぜか平凡社ライブラリーに訳されてて、 驚きとともにその場で購入した という夢を見た くっそぅ いい夢だった・・・
ドイツ語できないってすごいなあ。柄谷みたいなもの?あのひとマルクスは 日英で読んでたんじゃなかったか
ドイツ的とナチス的はかなり違うような… でも言われてみればカントもヘーゲルもあんまり評価してなかったりはするな
いや、カントはある意味でこだわってるんじゃないかな ヘーゲルは字面上は反ヘーゲルと言ってるが、もっと根深い関係があるとは思う 師匠がイポリットだし、エピステモロジーと新ヘーゲル派(コイレ含む)、新カント派とのつながりもあるし、 本当はいろいろ込み入ってるんじゃないかな
デリダがドゥルーズを評して、フランス的、あまりにフランス的とかって言ってたよな 皮肉と賛嘆が入り交じった言い方だったような気がした
この前の現代思想に訳されたデリダ講演の方が、デリダによるドゥルーズ観としては興味深いよ
西山+千葉の奴か 千葉氏イケメンすぎて脱力した
トウが立ってるけどな
470 :
近刊 :2009/07/23(木) 09:21:08 0
河出書房新社 『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』 フランソワ・ドス/杉村昌昭訳 8/24 ¥4,725
杉村の勤勉な訳者としての活動にはマジで頭が下がるわ
>>461 鈴木泉の文章によると、ドゥルーズはその兄に複雑な感情を抱いていたというが
ドゥルーズの世代だと、レネの映画がショッキングだった時代だよな 兄を亡くしているとなると、結構ユダヤ/反ユダヤ的な思潮にも、一定の意識があったのだろうか
474 :
462 :2009/07/23(木) 21:22:46 0
>>470 細部はいろいろ違うが、あれは予知夢だったのか 翻訳刊行はすげーうれしい
差異と反復序論、概念の阻止の部分がいまだに分からない…
>>476 むかしその辺りについての詳細なレポートあげてくれたひといたな
英語でコメンタリー本出てるよ
>>470 おぉ。でも高いなおい。
河出書房へのこれまでの感謝の気持ちも込めて、買うか。
>>473 ドゥルーズって、どっちかというとアラブ寄りじゃない?
アラブ圏の新聞だか雑誌に請われたかなんかしてテクスト書いて送っているくらいだし、
当時はそういうふうに認識されてたのかなと思っている。
まぁイスラエル問題に限定したアラブ寄りだろうけど。
テリトリーの概念と照らし合わせて考えると面白い。
浅田の「パラノ型・スキゾ型人間」って ほんとにドゥルーズ=ガタリが言ってることなの? ドゥルーズ=ガタリは人間にではなく社会体制にそのようなタイプ分けが できるっていってるだけだと思ってた ラカンが精神病者、神経症者で二分するっていうのは知ってるけど
AOではそれに近い分類はあるけど、 パラノだから駄目みたいなアホなことは言ってない シュレーバー症例はパラノイアの典型だけど、 D&Gは彼の差別的言動も含めて、病人の言葉を歴史から切り離してはいけないと言ってる
例えばアルトーみたいな人を積極的に語りはするけど 「みんなこうあるべき、他のタイプでは駄目」って感じではないような
>483,484 DGは人間を二分せずに「全部精神病者」っていっているのかと おもってたよ。 それにしてもAOでは分裂症の例ばかりで 神経症者の例があまり出てこなかった記憶があるな
>>482 浅田彰の「スキゾ」「パラノ」の類型は、浅田彰の
オリジナルのアイデアです。(ドゥルーズのものじゃない)
当時浅田はラカンを丁寧に読んでおり、
ラカンの博論は「人格との関係からみたパラノイア的精神病」
であり、何度もその後パラノイア論
を論じている。
こうしたことから、ラカンではなく、ドゥルーズの
「資本主義と分裂症」の方にのっかって、
パラノイア的とアンチ・オイデプス
のスキゾを対立させて作った図式
だと思だと思います。
(ネタバレ)
ミスタイプ失礼
『ニーチェは今日?』ではっきり二分してなかったっけ
489 :
考える名無しさん :2009/08/05(水) 19:36:35 0
少なくともガタリ自身は医師として分裂症者の日常に接していた。 軽症者からもうずっと何事にも無反応な重傷者の厳しい日常、 またそうした重傷者の稀に見せる反応への感激なんかも語ってて もうそれはすごい肯定としかいいようがないところがある。 他方、ドゥルーズは肯定肯定といいながらも、病気はなしですませることが できるならそのほうがいい、といっている。アルコール中毒、麻薬中毒なんか も含め、なければないほうがいいし、水で酔うことが問題なのだとすら 述べている。だが、意味の論理学では、なんらかの重い怪我なんかも肯定 しようとしてるふしがあるし、依存や中毒なんかも革命とからんで 少々のつきあいならいいのか、とことんやった末に光はみえないのか、 といったような逡巡を述べていたような気がする。
490 :
考える名無しさん :2009/08/05(水) 20:43:12 0
● [95] 浜田和幸氏のグリーンスパン論 投稿者:副島隆彦 投稿日:2000/02/21(Mon) 03:55 なんにも知らないで、戦後の55年間を、日本の土俗保守派全てが、生きてきた事を、よくよく証拠だてています。 アメリカのニューディーラー(=元祖グローバリスト)が、吉田茂以下のおかしな日本保守指導者層を育てたことに 起因します。日本の保守派は、アメリカのリベラル派に育てられたのです。 (中略) どうせ大きくは、日本知識人というのは、思想知識学問の密輸業者でしか、ありませんから。 この日本語と言う 言語の壁を利用した、原住民のまじない師の集団です。 いよいよ、私のような人間の出現によって、それらの秘密が、公然と暴き出され始めているのです。 私は、もう決めたのです。もう我慢しない、と。 あらゆる種類全ての言論統制と戦うのだ、と。 (中略) なにを今更、という感じです。私が、いつも書くとおり、日本で一流とか思われている学者知識人たちなど、 欧米の高校生並みの知性なのです。 (中略) はやくこの事実をみんなで認めたほうがいい。 言葉の壁がどうにもならない、の問題についても、私が、 10年まえに『欠陥英和辞典の研究』を書いて闘ってきたのです。 (中略) 日本は、文明の周辺属国だから、特に、知識人層が、知識泥棒ぐせがあって、これが2000年間、抜けない。
491 :
考える名無しさん :2009/08/05(水) 20:44:05 0
私は、日本知識人として、己を失うまい、と心に決めている。己の立っているこの貧困なる知識の土俵が、 どんなに、東アジアの一種族としての劣悪なるものであるとしても、それは構わない、と腹を据えてきた。 しかし、嘘はつくまい、と念じきた。 この土俵と劣等な知識環境の中にあっても、知ったかぶりの高踏知識遊戯―即ち、やたらと気まじめぶった 学者の論文のこと。この知識環境で友人たちさえ読んでくれないような難解な文章を書くこと―はすまい、 決めてきた。日本の文科系の大学講師たちのほとんどは、アホである。 彼らの知識は外国に持ち出して、全く通用しない。言語の壁を横に置いたとしても。この書き方を、私は これからもやめない。どんなに嫌われようが、煙たがられようが、やめない。 副島隆彦「日本の秘密」P43
492 :
考える名無しさん :2009/08/05(水) 20:46:35 0
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
493 :
考える名無しさん :2009/08/05(水) 20:50:31 0
この数十年間で日本の政治思想・評論業界は孤絶し、かなり立ち遅れてしまった。ドイツとフランスの 古色蒼然たる百年前、二百年前の政治思想の本を。訳も分からないまま読み続けてるのが現状だ。 全くヒドいものだの一語につきる。 日本の八十年代の言論を圧倒したフランスの構造主義の大家ミシェル・フーコのような、現代もの でも、かなり癖のある思想・哲学なのであって、本当はフーコや、ジル・ドゥールズらの思想は 「人文」である。文学あるいは文化研究なのだ。政治権力なるものを生まで扱う学問ではない。 現在のフランスやドイツの本当の最高の知識人たちとは「どうやったら、自分たちが、アメリカ の支配から脱却できる」を本気で考えている人々だ。日本知識人は文化研究しかできない人々だ。 副島隆彦「日本の秘密」
494 :
考える名無しさん :2009/08/05(水) 20:57:09 0
てぽらえる
スピノザを読むとドゥルーズもわかりやすくなるね。
そりゃそうよ アフェクトとかな
497 :
のまど :2009/08/06(木) 14:43:37 0
>>489 ドゥルーズは精神病者や依存症者を、資本制適応へのひとつの型として捉えてたと思うんだよね。
『批評と臨床』における「文学とは錯乱であり、一つの健康の企てである」なんて言葉は
それをよく表してると思うよ。
>>488 ぱらぱら見たけど
この本のどこに
スキゾとパラノが出てくるのか
教えてほしい。
スピノザを読んでみると「デカルトも読んだ方がいいかな…」「ドゥンス=スコトゥスとかスコラ哲学も調べた方が…」 「マイモニデスとかも…」以下無限に続く
>>470 おいおい。
ドゥルーズとガタリ 交差的評伝
フランソワ・ドス 著
杉村 昌昭 訳
定価7,245円(本体6,900円)
みたいだぞ。高い。誰が買うんだ・・・俺が買うんだ・・・
>>498 ドゥルーズのとこじゃなかったごめん
クロソウスキーの解説の部分、神経症のあたりだと思う
AOからの引用がある
502 :
考える名無しさん :2009/08/10(月) 01:08:19 0
千のプラトー、早く文庫出ないかな…
MPの文庫化ガセネタにいつまでこだわってんだよ
504 :
kusyamiga :2009/08/11(火) 13:28:18 0
tomarann
ベーコン論をもっとお手軽な値段にですね・・・
あれはベーコン遺族の強欲のせいで……
507 :
考える名無しさん :2009/08/14(金) 01:18:46 0
>>503 いやガセネタにこだわってんじゃなく自分の希望を言ってんだよ。
そもそもそのガセネタおれ知らないんだけど(汗)
508 :
考える名無しさん :2009/08/14(金) 07:04:34 0
千のプラトーって電車で読むようなものと違うんじゃ? 家でひっそり読む本でしょ 文庫化って・・・
家で読むにも文庫のほうがいいじゃん
プラトー毎にバラして文庫してほしい。 気軽にどこでも持ち運びができて読み捨てられるような 安いペーパーバックみたいな形がミルプラトーに 最もふさわしい。
511 :
考える名無しさん :2009/08/14(金) 10:15:50 0
ジャンプ感覚で千プラ読んでもつまらんじゃろ
>>511 つまらなくはない。
千プラって、もともとジャンプ感覚で読んでくれっていう本だよ。
正典よろしく後生大事に抱え込むような本じゃない。
513 :
考える名無しさん :2009/08/14(金) 10:50:58 0
それはさあ(笑 フランス人特有の言い回しだよ。 思いを込めて書いたものほど、「読んだ後破り捨てていいよ」って言う、 定型の言い回しがあるんだよ。 そのまんま読み捨ててどうするとw
>>513 君は、ドゥルーズ=ガタリが、ポップ哲学と呼んだことの意味をよく考えた方がいい。
祖述でもいいしジャンプ感覚でもいいじゃん どっちもありだろ
千プラこそ外で読むもんだと思うけど。 道具としての本とDG自身が言っているくらいだし。
本から思想を引っぱり出して実践してみるのと 屋外で本を読むのは違う気が
AOだかMPだかをばらして持ち歩いている読者のことを嬉々として語っていたドゥルーズがいる。
519 :
考える名無しさん :2009/08/16(日) 08:06:51 0
MP本「さあ、僕をバラバラにして地の果てに棄ててくれ」 碇「そんなことできないよ・・・僕にはできない!」 MP本「シンジ・・・君はそうやって道具としての私から逃げてばかりいるんだね」 「(呆然)あれ・・・僕が泣いてる。 嫌だ、僕はエヴァになんか乗らないよ、そうしてそんな怖い事! ・・・僕を面倒見なかったのにエヴァに乗せられてるって、 要するに僕は父さんに利用されてたんだな・・・ 僕だってただの道具なんだ。でも、でも・・・」 (沈黙) 碇「ハッ」 MP本「大丈夫?」 碇「もう・・わかったんだ。僕は君を利用はしない。 父さんと同じようにはならないって決めたんだ」
例がエヴァなのは、なんかポップ哲学っぽくない
MPを分裂させるんじゃなくて、君たちが分裂しなきゃ。
なんと言うか、その ドゥルーズとガタリの共著 を読むとき、その前提となっている 共通の考えというのが、 明示的でなくて、 あるいは説明的でないのが面倒。 ガタリの「機械状無意識」か何かを 読まにゃならんようで、 だるいな。
だから哲学系の奴はガタリをハブることが多い だがそれはドゥルーズの本意ではない
ドゥルーズのカント論ていいですか
判断力批判に興味があるならぜひ
ガタリのAOの原稿からドゥルーズのパートを引き算した研究とかあるのかな
語彙の頻度検索みたいなもので、 一昔前と比べて価値を失ってる気もする
哲学系以外でドゥルーズとガタリを読む人なんているの?
俺
映画論と聞いてシネマ読みました …って人が世間に三人くらいは…
蓮實が執拗にシネマを攻撃してるよな
アレンジメントって、スピノザでいうところの様態? 実体は平面。 では、属性は?
差異と反復と意味の論理学が凄すぎるから
>>523 みたいな傾向もわかる
日本語で読めるザロモン・マイモン関連の文献ってありますか
講座ドイツ観念論の瀬戸論文かな
>>531 原書が出たときには絶賛していたよ。「まるで映画のように面白い」
とかって。たしか、「映画に目が眩んで(緑版)」に収録されてる。
批判つっても、アレが取り上げられてない、びっくりするような映画作家を
掘り出していない、これらを見ていれば映画はOKでは困る、みたいな
映画オタクの難くせでしょ。
>>532 アレンジメント=様態
内在平面=実体、でいいと思う。
属性は、事実上実体とイコールだから難しいね。
「数的には区別されないが、実在的に区別される」ものが属性。
「千のプラトー」にちょこっと出てきているけど、あれはジョークか、
もしくはガタリじゃないかな。
視聴覚と言語の関係が属性に近い。
器官なき身体(CsO)と欲望する諸機械がドゥルーズにとっての属性と言えまいか? 本来はガタリの用語だと思うが、ドゥルーズのテクスト内において、実体と様態を表現としてつないでいる のはこのふたつのコンセプトだけだからだ。 ただし、スピノザの様態、ドゥルーズのアジャスマンはカントのいう様相であり、スピノザとの対応よりも カントとの対応が重要になると思う。 ドゥルーズ哲学は単にカント的様相の哲学にすぎないのだ。 両者が着目した共通感覚もまた客観的、歴史的には様相の一種にすぎないし、ドゥルーズとカントには心理学、 倫理学、美学を批判しつつも、実体(物自体)に関しては積極的には何も言っていないという共通点がある (そこまで行けば逆にスピノザ=実体の哲学が再び重要になってくるが、、、、)。 私見ではドゥルーズがカントのカテゴリーを少なすぎると考えていた点にドゥルーズ哲学の弱点がある。 哲学がジャンル化した現在においては本質的な遊びと言えるかも知れないが、ドゥルーズはカントの様相の カテゴリーの中で遊んでいるだけだ。
お前さんの哲学の方が弱点だらけのような……
541 :
536 :2009/08/20(木) 20:34:51 0
>>538 テキストに沿って読むならば、以下の2箇所が重要でしょう。
「器官なき身体は、ことばの最もスピノザ的な意味で内在的実体であり、
種々の部分対象は、いわば、この実体の究極の属性である。これらの諸属性は、
まさしくこれら自身がじっさいに(実在的に)区別されるものでありながら、
このために排他あるいは対立の関係(数的区別)に入ることがありえない限りに
おいて、器官なき身体に属しているものなのである」(A.O p.388)
「結局、CsO(器官なき身体)に関する偉大な書物は、『エチカ』ではないだろうか。
属性とはCsOのタイプ、あるいは種類であり、実体にして力、生産的な母体としての
強度ゼロである。様態とは、生起するすべての事柄、つまり波と振動、移動、閾と勾配、
一定の実体的なタイプ(属性)のもとで、ある母体から生み出される強度である」(M.P p.177)
『スピノザと表現の問題』は、スピノザ読みにとっても、非常に明快で納得のいくモノグラフだけど、
『A.0』『M.P』になると、概念システムのズラし、転用が激しいので、「冗談でしょ」と言いたくなる。
「麻薬中毒者の身体はさらに他の属性であり、<絶対寒冷=0>から始まって、特異な強度を生産する」(M.P p.177)
と言われても「麻薬中毒者の身体」は様態でしょ?となる。整合的な解釈は難しい。
カントが重要なのは、むしろ『差異と反復』においてであって、ドゥルーズはいかにして「経験的なもの」に根拠を置かずに
(カントは「経験的なもの」を根拠に「超越論的なもの」を論証する誤謬をおかしている、というのが、ドゥルーズの立場)
「超越論的なもの」の領野の存在を論証するか、という問題を集中的に論じている。
『差異と反復』から、ガタリとの共同作業の間には、飛躍または断絶があると思う。
またガタリはイラネ論ですか。
543 :
考える名無しさん :2009/08/21(金) 21:36:02 0
ガタリかドゥルーズか、じゃなくてガタリ=ドゥルーズ、もしくは ドゥルーズ=ガタリなんだってことにやっぱりもう一度立ち返るべきだよね。 そもそも論として言えばAOはガタリがドゥルーズに奨められて、 共同執筆という形で成った書物。 だからちょっとアホっぽい表現をすれば「ガタリ feat. ドゥルーズ」とか、 「ドゥルーズプロデュースのガタリ作品」とでも言えそうな、純粋な共同作品でしょ。 ウォシャウスキー兄弟とかエラリー・クイーンとか藤子不二雄とかと同じで どっちがどうだとか言うのはまったく無意味だと思うな。 むしろふたりの相乗効果を見るべきだと思うけど。
哲学科の限界を感じるね カントとかベルクソンに落とし込まないと「厳密」にならないという通念。
545 :
536 :2009/08/21(金) 23:08:23 0
>>543 ガタリとドゥルーズの一連の共同作業には、ガタリの単著にも、ドゥルーズの単著にも
還元できない面白さがあるのは確かだね。
というか、そもそもガタリの単著は、俺には非常に難解なのだが。これちゃんと分かる人いるのか?
レベルで。ガタリいらねとかそういう単純な話ではなくて、哲学書として見るのがそもそも無理がある、
というか、間違っていると思う(哲学書じゃないからダメとかそういう話ではない)。
ガタリ読解の研究が、ドゥルーズに比べて著しく遅れているのは、理由のないことではないでしょ。
ガタリは基本アクティヴィストで、実践的な意味で豊富なアイデアを持っていた人だという印象だね。
546 :
536 :2009/08/21(金) 23:18:49 0
身も蓋もない話をすれば、それこそ「議論なんて無意味、各自が自分の思考や 概念を展開すればよい」のであって(なぜなら、全く同一の前提を持っていれば、 同一の結論に達するのであり、にもかかわらず、完全に同一の前提を持つ事は 不可能なのだから)、それこそ2ちゃんで水掛け論をしても仕方がないというね(笑)
またげのすこを勧めるところから始めるのか…… 欧米ではそこそこ進みつつある アクティヴィスト専用になってるのは日本の特殊事情ですよ
>>546 >「議論なんて無意味、各自が自分の思考や
>概念を展開すればよい」
まさにそれこそなんでもありの相対主義って感じだよな。
最悪の意味でポモっていうか。
そういう人は、文章を書いたり読んだりすること自体無意味なんじゃね?
本当にそれでいいと言い切るなら、文句は言わないけどね。
549 :
536 :2009/08/22(土) 00:29:16 0
>>548 ドゥルーズとガタリに関心があるのなら、ときには彼らの本を読んでみるのも
いいのではないでしょうか。
「哲学者はみな、「ちょっと議論しよう」という文句を聞いただけで逃げ出して
しまう。最小限言えることは、対話者たちはそれぞれけっして同じことがらを
語らないので、議論は仕事を進めないだろうということだ。肝心なことはもはや
議論することではなく、かえって、ひとが自分に割り当てる問題のために、議論の
余地なきいくつかの概念を創造することである」(「哲学とは何か」p.42-43)
「そもそも哲学は議論とはいっさい関係をもたないはずです。誰かが問題を提起するとき、
その問題はどのようなものであり、どのようなかたちで提起されたのか。これを理解する
だけで一苦労するわけですから、ただひとつ必要なのは提起された問題を充実させること
なのです。問題の裏づけとなる条件に変化をもたせ、これを補足し、連結することが
もとめられているのであって、議論している場合ではないのです」(「記号と事件」文庫版p.281)
無邪気に多を称揚しているわけじゃないんだよね
551 :
536 :2009/08/22(土) 01:05:59 0
>>550 そうですね。「存在の一義性」というと分かりにくいけど、「存在の多義性」
と対照させて考えれば分かりやすい。スピノザ的に言えば、「誤り(誤った観念)」
は、その論じている対象には合致していないという意味でのみ「誤っている」のであって、
「誤った観念」自体がリアルな対象なのだから、思惟属性全体において見れば、
「誤った観念」など存在し得ない。
人間と同じサイズの蜘蛛と同じ部屋に閉じ込められた状態を想像すれば分かると思うけど、
この場合、蜘蛛のもつ観念、蜘蛛の考えは、殆ど完全に人間にとっては「理解不能」の「狂気の沙汰」
ですね。だけど、そういう観念が必然的に存在していること自体は否定できない。
ドゥルーズやガタリは、危険な領域まで思考を展開させようとした(思考のアスリートの比喩)のは、
根底にこうした確信があったからだと思う。相対主義じゃないよ。一義性なんだからね。
評伝買ってきた
ネット上ではどこもなぜか目次を掲載していないね。
ドゥルーズを「活用」する 著者・編者・訳者 澤野雅樹 出版社 彩流社企画 発行年月日 2009年09月25日 価格 2310円 ISBNコード ISBN978-4-7791-1056-6 版型 四六判上製 頁数 ページ シリーズ第3弾! 澤野雅樹、久々の書き下ろし! 活用するという言葉は他の誰よりもドゥルーズにこそ相応しい。 ★思想の解説ではなく、実際に思想を使うとはどういうことか、本書で実践。 ★「此性」「強度」「差異」…などの概念が、生きるための糧となる。 ★難解でなる『差異と反復』『アンチ・オイディプス』他も愛読書に。 <活用>するという言葉は、他の誰よりもドゥルーズの思想にこそ相応しい。 概念は、世界の彩りを変え、人の生を変化させる道具である。 ▼われわれの時代の哲学にむけて 1此性と強度 2差異と特異性 3器官なき身体と 4欲望する生産と出自資本他 ▼われわれの生存の哲学にむけて 6現実の創造 7折り目(襞) 8仮面、地図、生成変化 9差異の反復
555 :
543 :2009/08/23(日) 16:59:04 0
>>545 >ガタリは基本アクティヴィストで、実践的な意味で豊富なアイデアを持っていた人だという印象だね。
うん、それはやっぱりガタリが精神医療の現場から入ってるって事情が関わってるだろね。
ガタリやジャン・ウリの著作を純粋に精神医療の学術書として見るなら、フロイトはもちろん、
ユングやビオンなんかの集団中心療法に匹敵する実践性を持ってると思うな。
もちろん科学的な裏付けは必要だろうけど。
つか最近古書市で1984年の『現代思想』ドゥルーズ=ガタリ特集号を入手したんだけど、
この中でガタリが「ガタリのアイディアをドゥルーズの教養が裏付けた」みたいなことを言ってて、
まさしくこの発言がAOやMPの思想書としての性格をよく表してると思ったね。
しかもガタリもドゥルーズも、「どの部分を誰が書いたか詮索することは不毛でしかない」的なことを
言ってて、ガタリ=ドゥルーズの読者はやっぱり彼らのこの言を踏まえるべきだよね。
556 :
考える名無しさん :2009/08/23(日) 20:29:15 0
「809」 副島隆彦の「ミネルバの梟(ふくろう)は夜、飛び立つ」論。 私が原著は12年前に書いた本である「決然たる政治学への道」(弓立社=ゆだちしゃ=刊、2002年)の P.174に、「本当は学問の体系はこのようになっているの表」で、私は、はっきりと、「フィロソフィー (×哲学と訳すのは嫌いだ。知恵の学)と数学は、神学(セオロジー、テオロジー)の下女、はしためである」 そして、「サイエンス(ヨーロッパ近代学問)と、この神学が、大きく闘うのである」と書いた。 神学(セオロジー)は日本人には分からない。「神学論争」なる言葉は、日本語になっているが、その中身を 日本人で分かる者はいないだろう。そして、その下に、初級学問=下等学問としての、ヒューマニティーズ (人文、じんぶん、人間の文字による記録、石碑、古文書の解読、文学部の世界)があるのだ、と書いている。 「数学は、神学の下女」なのだ。これは、ヨーロッパの学問の体系の中では、はっきりしていることだ。 数学は、決して自然科学(しぜんかかく、ナチュラル・サイエンス)には、所属しないのだ。 ただ道具として多用される。私、副島隆彦がこのように書いて、まだ反論したり、何か異論を唱えることの 出来る、日本人は、誰でもいいから、名乗りを挙げて出来てください
557 :
考える名無しさん :2009/08/23(日) 20:30:31 0
この数十年間で日本の政治思想・評論業界は孤絶し、かなり立ち遅れてしまった。ドイツとフランスの 古色蒼然たる百年前、二百年前の政治思想の本を。訳も分からないまま読み続けてるのが現状だ。 全くヒドいものだの一語につきる。 日本の八十年代の言論を圧倒したフランスの構造主義の大家ミシェル・フーコのような、現代もの でも、かなり癖のある思想・哲学なのであって、本当はフーコや、ジル・ドゥールズらの思想は 「人文」である。文学あるいは文化研究なのだ。政治権力なるものを生まで扱う学問ではない。 現在のフランスやドイツの本当の最高の知識人たちとは「どうやったら、自分たちが、アメリカ の支配から脱却できる」を本気で考えている人々だ。日本知識人は文化研究しかできない人々だ。 副島隆彦「日本の秘密」 P148~149 これ以外に下等学問としての 「人文」というのがある。この人文というのはヒューマニティーズの 日本語訳である。 ヒューマニティーズとは「人間、および記録された文学に関わること」という 意味である。 簡単に言えば現在で言う文学(部)のことである。他に歴史学があり、その内容は 古文書や石碑の文の解説などを行う。これらは、学問としては下等学問である。 これとサイエンス(学問)の区別をつけなければならない。これが日本人にはできていない。 すべてごちゃまぜなのが日本の大学制度である。国家的学問犯罪と呼んでもいい。 大欠陥学問観と呼んでもいい。日本の大学は、世界基準では高等学校程度であろう。 このヒューマニティーズとサイエンスの区別がついてる日本知識人がほとんど いない。すべてごちゃまぜである。 副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(上)」P324
558 :
考える名無しさん :2009/08/23(日) 20:32:39 0
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
559 :
考える名無しさん :2009/08/23(日) 20:33:48 0
私は、長い間考えた末に、日本のようなアジアのはずれの国に、世界に先駆ける何か新しい優れた大思想など 生まれることは、ありえないのだ、という結論に到達した。三十歳ぐらいの時である。イギリス、フランス、 アメリカでまだ実現していないものが、日本ごときで実現するはずがないのだ。私は、人間社会のあり方に 於いて、こういう進化論者(時間進歩主義者)である。日本の知識人がやること、考えること、書くことなんか、 全て、一切合切、輸入学問であり、欧米知識人の猿真似である。そうでしかありえない。 奈良。平安時代も室町時代も江戸時代も、ずっとそうであった。ずっと歴代中華帝国で栄えた思想・宗教の 輸入学問であった。私にとって、これは、もう確信だ。 日本の伝統―それは、文化の劣性遺伝子だ、と吉本隆明が書いていた。あの頃の吉本だったら、 私は今でも信じている。 副島隆彦「日本の秘密 日本では、学問(サイエンス)というのは、欧米世界で評判を取った一流学者たちの仕事を、国内に紹介するというか、 泥棒というか、勝手に代理店を開くというか、華々しく輸入するというか、そういうことに過ぎない。これは今でもそうだ。 (中略) アメリカでは「この本を私は、翻訳して出版しました」というのは、絶対に学問業績にならないのだそうだ。履歴書の作品 欄に、書いてはないらない。「絶対に書くな」と何人かのアメリカ人の友人に、私は忠告された。「いや、そう言っても、 この本を訳すのは大変だったのだ。日本では、翻訳するだけでも大変な業績になる。翻訳書が1冊あるだけで、学者だ。と 威張ってるのがたくさんいる」と私が、反論しても、絶対に聞き入れてくれない「恥ずかしいことだから、 止めろ」としつこく言われた。翻訳は研究業績にはならないのだ。「それはインフォマート(現地人の情報提供者)の仕事で あって、学者の仕事とは、認められないのだ」と、強く言われた。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P36〜40
千プラはどういう観点で読めばいいのよく分からない。
言語学の公準と記号の体制を一緒に読むと、 言語学に基づく記号学から、そうとはかぎらない記号論へという流れがみえる
観点ってまたライプニッツ的な言葉を
ライプニッツの観点がモナドとセットなのはわかるが、 ドゥルーズがそれをどう変えているのかがわかりにくい
知識と日陰の少女 動かない大図書館 引きこもり 喘息持ち 体が弱い 外に出たことがほとんどない 魔女の箒で一緒に飛ぶ
565 :
考える名無しさん :2009/08/26(水) 18:42:11 0
>>563 <ライブニッツは出来事の系列の収束と分岐からなる動的な世界像を作り出した。
にもかかわらず、それを、いまここにある単一の現実に奉仕させることしか考えていない。
出来事の系列の収束/分岐という世界像は、結局、「神の最良の選択」というドグマを
正当化するために使われてしまう。「新しい概念の創造という任務を哲学に与えながらも、
『既成の諸感情』を転倒しない限りで、という条件をそこに付け加えるライブニッツの
恥ずべき宣言文を参照されたい」(『意味の論理学』第十六セリー)>
(KAWAIDE道の手帖 ドゥルーズ
「ドゥルーズ完全著作解題 國分功一郎『襞 ライブニッツとバロック』)
>>566 第16セリーの続きと第24セリーを熟読せよ
>>567 熟読したよ
「モナド」に変わるパースペクティヴのユニットは何になるの?
>>568 ニーチェ的な文脈だが
「すでにライプニッツがわれわれに教えたように
事物に対する視点が存在するのではなく、
事物・存在が視点なのである。」
(意味の論理学p219)
「ニーチェの遠近法ー遠近法主義ーは
ライプニッツよりはるかに深い技術である。」
(同署p219)
いかにして器官なき身体を獲得するか、って、スピノザ的に言えば、 いかにして第3種の認識に到達するか、ってことなのか。
572 :
考える名無しさん :2009/08/29(土) 18:08:09 0
573 :
考える名無しさん :2009/08/29(土) 18:23:33 0
>>554 ドゥルーズを活用するか。最近そういうの流行ってるのか?「使える」弁証法、
マルクスの「活用」…みたいな本がここ数年多くなってきた気がするけど。
東浩紀がガタリの「分裂分析地図作成法」に注目していることは有名
注目してい「た」では?w
東が天才だったころの文章 ガタリは最後の著作で次のように述べている 「ラカン的なシニウィアンは二重の欠陥に覆われている 1.あまりに抽象的すぎ存在の多様な領域を根拠なく単一化し統治的にまとめあげる 2.同時に十分に抽象的でないので諸所の自己生成的機械がもつ核の特殊性を考慮することができない」 郵便的思考は否定神学的思考よりもはるかに抽象的であるがゆえに社会的アジャンスマンを具体的にとらえることができる
あの頃は天才だった
なんでラノベ評論家になったんだろう?
「地に足のついた」発想のみをよしとする風土の悲劇。
思考はその風土で孤独に耐えるべき、みたいになってればよかったのにねえ
581 :
考える名無しさん :2009/08/29(土) 22:22:38 0
>>573 ドゥルーズやポストモダン哲学の古典化に伴って再評価しようって動きがあるんじゃないかな?
弁証法、マルクスもそれに付随したものかと。
でもドゥルーズを新手の身体論みたいに仕立てる向きもあるな 日本ではずぶずぶになりかねない
やはり、マルクスとスピノザを繋ごうとした鋭意こそを重視したいなあ
それならアルチュセールでよくないですか?
いや、アルチュセールだけではまずいと思う 市田の指摘じゃないけどぶっちゃけアルチュセールはスピノザをそんなに読んでるのか疑問だし… まあ、小泉の言うようにスピノザからでは政治的立場はありえん、ネグリはその意味で不自然と言うのはその通りだが、 ネグリはそこがいいんでしょう?といわざるを得ないしなあ
でもマシュレーはスピノザ学者でしょう。 アルチュセールだけじゃなく、資本論を読むの面々を入れればよい。
スピノザ〜マルクスの線ならアルチュセールを経てバリバールでしょ。 マルクス派ドゥルージアンは、もっとバリバールに学んだ方がいいよ。
萱野乙
589 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2009/08/30(日) 06:14:51 0
今はもうまさにドゥルーズ・ガタリ的な時代に入ってるだろ こんなわけわかんない時代になるなんて夢にも思ってなかったよ リゾームとかプラトーいう言葉を久しぶりに思い出してなんか感慨深くなったよ
590 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2009/08/30(日) 06:41:43 0
いまどき大学の哲学科なんか行く連中なんて高校で数学できなかった連中だろう 数学あんまりできなくても化学や生物の勉強やって他の道を見出せたのに 思想書なんて取り憑かれない程度に片手間に読んだ方がいいよ どんなに時間をかけて理解したところでたいして役に立ちゃあしない それより技術系の専門バカになってそこから何がしかを見出す方がはるかに建設的だ
591 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2009/08/30(日) 06:44:11 0
「809」 副島隆彦の「ミネルバの梟(ふくろう)は夜、飛び立つ」論。 私が原著は12年前に書いた本である「決然たる政治学への道」(弓立社=ゆだちしゃ=刊、2002年)の P.174に、「本当は学問の体系はこのようになっているの表」で、私は、はっきりと、「フィロソフィー (×哲学と訳すのは嫌いだ。知恵の学)と数学は、神学(セオロジー、テオロジー)の下女、はしためである」 そして、「サイエンス(ヨーロッパ近代学問)と、この神学が、大きく闘うのである」と書いた。 神学(セオロジー)は日本人には分からない。「神学論争」なる言葉は、日本語になっているが、その中身を 日本人で分かる者はいないだろう。そして、その下に、初級学問=下等学問としての、ヒューマニティーズ (人文、じんぶん、人間の文字による記録、石碑、古文書の解読、文学部の世界)があるのだ、と書いている。 「数学は、神学の下女」なのだ。これは、ヨーロッパの学問の体系の中では、はっきりしていることだ。 数学は、決して自然科学(しぜんかかく、ナチュラル・サイエンス)には、所属しないのだ。 ただ道具として多用される。私、副島隆彦がこのように書いて、まだ反論したり、何か異論を唱えることの 出来る、日本人は、誰でもいいから、名乗りを挙げて出来てください
ドゥルーズのスピノザ観は 政治的なものを一切入れてない点が他と一線を画している
入れてるって
594 :
考える名無しさん :2009/08/31(月) 00:34:47 0
私は、かつて、自分が読みあさった岩波新書を、二十年振りに、書棚の奥から、ひっぱり出して、 読み直してみた。二十年前の昔、高校生・大学生だったときに、岩波新書の青版の洗礼を浴びた。 自分は岩波新書の「思想」の洗礼を浴びながら十年間ぐらいを過ごした、と言うべきであろう。 当時の学生たちのご多分にもれず、自分もその頃「新左翼」という単純幼稚で過激なだけの思想 に走ったので、岩波の影響など、脱した、と思って、「岩波スターリン主義の文化人どもなど 小馬鹿にしていた」のだが、しかし、そうではなかった。今の今に至るまで、自分たちは、岩波 文化の大きな呪縛の下にあったのだ。あの、ソビエト帝国が、目の前で、テレビの画像をとおして、 ガラガラと崩れていったときまで。お釈迦様の掌を逃れられない如く、自分は岩波・朝日文化の 縄張りから自由でなかった。 一九七0年のあの頃、これでもか、これでもかと、社会主義礼讃、資本主義打倒、願わくば、動乱の 革命を、を暗黙の合言葉にした、岩波学者たちの新書版の一般向け啓蒙書が、大変な人気を持ちながら、 次々に出版されて書店に積み上げられていた、岩波新書は、日本の言論市場で、圧倒的に強かった。 そお優勢なパブリシティの前に、黙々と着き従ったのが、私たちの世代だった。 じつに愚かなことだった。今さら、自省の気持ちも起きないぐらいに、自分を恥じるだけだ。 もっと、目を広く、かつ細心の注意を払って、もっと、本当の事実のほうに、目を向けて、書物を選ぶ 力を身につけておれば、と悔やまれる。 今さら、「転向」という言葉は使いたくないぐらいに、左翼的な人間たちは、自分の内心で、既に、 何度となく、転向に直面し、つまづきを感じているものだ。だから、私のような一番最後の左翼世代で さえ、転向という言葉には、うんざりしてしまう。これは、旧来の転向とはちがう、何ものかである。 しかし、それを、適切に言い表す言葉を、私は、今、見つけることができない。 副島隆彦「切り捨て御免」P103~104
595 :
考える名無しさん :2009/08/31(月) 00:46:17 0
私は、二十歳の頃には既に、岩波・朝日文化人たちを小馬鹿にしていた。彼らのことを、同じ社会主義 勢力内でも、「スターリン主義者」と呼びならわすのが、60年代末から70年代初めにかけての大学 闘争の影響を受けた、いわゆる新左翼に共感を感じる数十万人の若者読者人層の共通感覚であった。 日本共産党の学生組織である民青同盟員のことを「民コロ」と呼び捨てたのは、新左翼や全共闘運動 にシンパシー(共感)を覚えた人たちだけではなく、政治的発言を好まなかった多くの学生たちであった。 だから、私は、大内兵衛や、丸山真男や、中野好夫らに騙されていたと思っていなかった。しかし、 実際には、彼らの本をその後も読んでいたのである。影響を受ける、ということは、不思議なことで あって、はっきりと軽蔑していても、それでも、大きな意味で彼らの影響下にあったことになる。 そのことにようやく気がついたのが、二年前の八月のソビエト連邦の解体劇と、ソビエト共産党の 瓦解・消滅劇を、テレビでみてからである。その後の数ヶ月間、私は、ずっと不快感だった、毎日が 憂鬱で不愉快でならなかった。その不愉快さの原因をさがし求めて、考えあぐねていたのだが、 最近、たどりついた答えが、やっぱり岩波文化人にその原因があったのだということである。 副島隆彦「切り捨て御免」P106~107
評伝はどんな感じかな?
ドゥルーズが宮崎駿を絶賛していたとは知らなかった
本当に?
トゥルーっす
600 :
考える名無しさん :2009/09/01(火) 10:12:11 0
ところで、ふつうの読者には、この「左翼」という人間たちの政治思想なるものの内部の争い、 ということが、どうもピンとこないようである。そこで、ここで超簡単に説明しておこう。 日本の左翼には二種類がいるのである。旧い方の、「旧左翼」は、簡単に言えば、共産党と 社会党である。あるいは、この二つの政党に、長い間、意識的に信念を持って投票してきた人々 は結局これである。単なる反自民党ということだけではない人々だ。それに対して、一九六〇年 の「安保闘争」(この年に、「日米安全保障条約」という、対ソビエトの日米軍事同盟条約に 反対した大きな国民運動があった)の前後に日本共産党のいうことをきかなくなった学生たちが 始めた新しい学生左翼たちの運動があって、これを「新左翼」と言う。簡単に言えば、これは、 今でも「元学生運動活動家」とか「過激派」と呼ばれる連中である。評論家の西部すすむ氏や、 日本独特の思想家・吉本隆明(吉本ばななの父親)などがこっちである。その他に、現在、 大学教授や評論家になっている人々のうち、多くの人々が、昔この「新左翼」系の活動家だったり、 あるいは、その影響を強く受けた人々である。こっちの「新」方は、全部合わせると、50万人 ぐらいいる。この元「新左翼」はたちは、「自分たちは正しかったが、「旧左翼」はソビエトに 「洗脳」されていたから集団だから、愚かである」と思っている。 結論から言えば、「旧左翼」も「新左翼」もどちらも愚かだったのである。大きな意味では、ソビエト 帝国の振りまいた病原菌に冒されていた。だから、「旧」も「新」も甲乙つけがたく日本国民多数 からは相手にされなかった。 副島隆彦「決然たる政治学への道」P242〜243
ドッスの評伝はおもしろい? 貧乏人なんで買うかどうかすごく迷っているんだが。
ま、ドゥルーズやスピノザに政治がない、とか言ってる段階で、 この二人がまったく読めてないってことが明らかだわな
そうか
政治的でない理論などありえないという意味では、そりゃ政治的だけど、 そのこと自体は声高に反唱するもんでもないと思う。
選挙には非-参加
ドゥルーズ自身が現実行動において非政治的だったのは明かじゃん。 いくつかちょっとした政治声明らしきものはあるけれど、 基本は引きこもり系大学教師。 ドゥルーズの哲学を政治化しようとしてるストリート系の連中も、 まずはその点は認めなきゃ。 自伝が扱ってるのはこのレベルの話だよ。
政治の定義狭すぎw
ルソーの孤独な散歩から粛清台のギロチンが、 書斎にこもったカントの孤独な頭から革命の砲弾が。。。 みたいなことをヘーゲルだったか誰かが言ってなかったっけ? 思想ってのは、思想家のちいさな人生をこえて政治的になる恐ろしさを持ち得るってkotoka
>>602 スピノザにマキャベリやホッブズに匹敵する政治哲学があるかと問われれば、non だよ
そんなことを言ってると、ネグリにたわけとどやされますよ 誰かに匹敵などしなくていいじゃないですか、 そこにおいて力をめぐる徹底した思考がなされ、表現されていれば、 それで十分、思想的には、政治的なといい得るんです ドゥルーズもしかり
ベルグソンの次のフランス哲学会長は ストア学派のエミール・ブレイエだった 訳で、ベルグソンを引き継ぎ 「意味の論理学」でストア派を扱っている ドゥルーズも学会のメインストリーム に乗っているんだが。
誰も否定してないのに逆説を弄するのはよしなされ
失礼。 哲学会長ではなく フランス学士会員でした。
私見によれば 1970年の 「スピノザー実践の哲学」 までで、ドゥルーズ の哲学は完結を見ており、 それから後は ガタリとのコンビに入って、 書き方のスタンスが変わっている、 と思う。 ガタリとのコンビにおいては 語の字義どうりの厳密さ において書かれるのではなく、 「機械」装置としての「効果」を 狙うことになる。
そんなの哲学頭を持った奴に共通の偏見だよ
ドスの評伝では、ドゥルーズの若い頃の哲学教師ぶりについての聞き書きが 印象的だった。 〔ドゥルーズは〕聴衆と同じレベルにあるという錯覚を与えながら、大声で 自分に向かって質問して混乱を装うのである。 「さてさて、超越論というのは、何なんだろう?それは可能性の条件だと カントは言った・・・だけど、どうしてそれを超越論と呼ぶのだろう?・・・ 私にはわからないね、まったくわからない」 といった調子である。しかし、しだいにことは明確になり、問題の所在が描き 出され。話の趣旨が照らし出される。(P.120) ジャーゴンを天下り的に祖述する哲学教師が多い中で(日本では、このために、 しばしば哲学は「暗記科目」となる)、こうした概念の生成過程を上演してみせる 講義というのは、なかなかできないものだと思う。こういうところで、さすがに違うな って思うよね。
ピントのずれた質問が出ると 「ああ、それは面白い質問だね」等と言いながら ひらりとスルー…ってどこで聞いたんだろう
>>615 機械としての「効果」
のほかにも
違ったドゥルーズ・ガタリの
読み方がある、というのも
哲学頭にはあるのだけれど。
>>617 ガリマール社から
講義の録音CDが出てるよ。
ドゥルーズのアベセデールを見るだけのためにフランス語勉強している。
>>617 評伝読むとドゥルーズの授業受けてみたかったな、と思うよね。
非常に聴講生の評判が良かったみたい。
>>619 評伝面白いよ。ガタリのことも丁寧に描いていて、貴重だと思う。
同じ著者の「構造主義の歴史」(こっちは、表記がドッスだったけど)も、
面白かった。バラバラだったものが、繋がっていく感じ。
日本で書店や図書館の棚を見ていると分からないんだけど、フランスの知識人の
世界って狭いなあと思った。
日本の知識人の世界も狭いよね
>>621 ありがとう。諸事情で金が無いので借りる方向で行きたい。
図書館にはcinemaのCDがあるようなので、取りあえずそれ借りようと思う
>>625 フランス語の講義CDを置いている地域の図書館なんてあるの?
よいところ住んでるね。
それとも大学の図書館?
ドゥルーズの講義音源を置いているサイトなかったっけ? ウィキペディアにリンクあったと思うけど。
評伝たけえな
7千円くらい出せや
俺は今日買ってきた。 千プラ並みに分厚い。
631 :
考える名無しさん :2009/09/05(土) 15:47:31 0
>>616 一歩間違えれば散々な結果になるよね、そういう方法って。
それをやり通せたっていうのが、ドゥルーズの教育者としての面目躍如たるところなのかな。
>>622 いんじゃない、それも。
オレも同じようなこと考えてっけど、まだ実行してない。
なかなか時間がなくてね。
河出書房新社から10月に創刊される「河出ブックス」です。 編集長の藤崎寛之さん(紀伊國屋書店から何年か前に電撃移籍されました) 曰く、「「教養」を新しく組み立てなおす試みは、これまでも数限りなく 行われてきましたが、人間が蓄積してきた知の底力は、まだまだこんなものでは ありません。「河出ブックス」は、書き手からも、読み手からも、 道のポテンシャルを引き出すことで、ひとつの「知りたい」が次の 「知りたい」を生みだすような連鎖反応を巻き起こしていきたいと考えています」。 (中略) 続刊予定には以下のものがあります。(中略) 宇野邦一『ドゥルーズ講義』
語学の勉強なんて、風呂入っているときにするもんだよ。
評伝を読んでいるところだけど、 ラカンがDGのAO刊行前に恐れおののいて、著作の内容を両者から聞き出そうとしているくだりには爆笑した。
635 :
考える名無しさん :2009/09/08(火) 00:35:33 0
>>633 オレは逆に風呂の中ではできねえなぁ…まあ人それぞれ、
いろんなやり方があるからな。
要は自分に合ったやり方を見つけりゃいいだけの話だね。
はやくカフカを再訳しろー
奥さんと書いた『情動の思考』っておもしろい? ドゥルーズが書いたものとして読めるでしょうか?
奥さんは翻訳担当じゃなかった?
奥さんはロレンスの仏訳担当なのか。あの本、そういえば読んだことないな
和訳だと原著と違ってロレンスの別の短編が入ってるから、 情動の思考は買わなくていい
批評と臨床に入っているロレンス論と 情動の思考のそれは同じもの?
同じ だからロレンスのアポカリプス論と併せて読めばよし
ありがと。
644 :
考える名無しさん :2009/09/12(土) 19:24:08 0
>>634 ワロタwww
買いに行こうかな、明日にでも。
ところどころコミカルに描かれていて笑えるよ。 バディウなんか一刀両断ですよ。
評伝を買ったのでちらちら見てた。 この本はガタリよりだが ガタリもかわいそうだなと 思うようなところもあって。 (p22〜p23)
評伝、パルネやドゥルーズの家族のコメントがひとつも出てこないのは、 やっぱドゥルーズの意向を汲んだということなのかな?
『批評と臨床』の最初の論文って、 どこかで読んだことがあるんだけど、『対話』に同じものあったっけ?
650 :
考える名無しさん :2009/09/14(月) 00:36:40 0
ドゥルーズねえ・・・ 詩と哲学は分けて考えないとさw
652 :
考える名無しさん :2009/09/14(月) 05:15:53 0
ここの人たちはソーカル事件をどう捉えてるの?
>>652 仏哲学は思い込み激しいからw
ソーカルの指摘は図星過ぎて反論できません。
654 :
652 :2009/09/14(月) 07:59:39 0
哲学も数学も苦手な私にはよく分からないんだけど、 ソーカルの指摘が図星なのなら、その批判対象に挙げられた哲学者達は 本人でさえ自分の論旨を理解できてない或いは出鱈目な理論を展開してるってことで 彼らの論文や書物の信憑性もあやしくなるよね でもそうはならずドゥルーズやガタリ、ラカン等の哲学者は偉人のままの扱いでしょ? なんか釈然としないんだ
>>654 ま、ソーカルの指摘なんてぜんぜん図星じゃないですよ
アルベール・ロトマンとマティラ・ジカとボルダ=ドゥムランのほうがソーカルよりずっと重要
ソーカルが槍玉に挙げてるのって『哲学とは何か』だっけ?
差異と反復
659 :
652 :2009/09/14(月) 09:29:21 0
あー、すみません ソーカル事件の専用スレがあるんですね そっち覘いてきます
>>660 書き込み時間すげー
660 :考える名無しさん:2009/09/14(月) 10:00:00 0
数学的正しさと哲学的正しさは違うってことではないんですかね
2chでソーカルを持ち出す連中はドゥルーズはおろかソーカルすら読んでないのばっか。
ドゥルーズの難解な言葉はソーカル以前からも指摘されてたよ 『無人島』に数人の哲学者と議論する章があるんだけど、 「すみません、もっと分かりやすい言葉にしください」って言われる場面があった。
ドゥルーズほど平明な文章を書く哲学者はいないのに…
>>666 微積分の概念を使って説明するシーンで言われてた
当時の哲学者からみてもドゥルーズは異端だったらしい。
アンチオイディプスは必要以上に資本主義憎しの感情が全編に 漂ってて非常にうっとうしい。翻訳者の意志か?
おまえの必要なんか知るかよ
むしろ資本主義礼賛の書として嫌う左翼も多かった
>>654 ソーカルとブリクモンが『知の欺瞞』で指摘した「ドゥルーズの間違い」
に関しては、以下の論文での検証が優れていると思いますよ。
・『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社)所収
「『差異と反復』における微分法の位置と役割」近藤和敬
いまだにソーカル云々で騒いでんの2chだけだろ、馬鹿馬鹿しい
ソーカル的論法との戦いでドゥルーズ研究が進展したから万事問題なし
そういう逃げ口上も あると思います
>>671 だね。
あれは諸々笑えるし、差異と反復のダイジェストとしても読めていい。
ソーカルのは読もうとしたけど、 出だしの数行で頭きて放りだしちゃったんだよな。
理解できない人が大半でしょうね
スレが伸びてると思ったら
ドゥルーズの微分の正誤云々以前に、 ドゥルーズ哲学において微分が占める地位をそれほど重要視してないから、 ソーカル事件もふーんって感じだった。
強度をちゃんと考えるなら必須だけどな
メタファーとして読んでればいいんじゃないの?
典型的文系脳
でもソーカル厨もメタファー=文学的みたいな短絡を冒す
685 :
考える名無しさん :2009/09/14(月) 22:00:58 O
煽り一言で優越感とは、随分安っぽい次元で満足しているね
アンチオイディプス、読み始めて丁度1週間たつんですが、第一章の第3節までは完璧に理解できました。 どなたかその後の解説をお願いします。 それかアンチオイディプスのwikiがあれば教えてください。
>完璧に理解できました。 ほー
完全に理解できるくらいバカならそれ以降も完全に理解できるさ
誰も分かってないってことか。 それか、完璧に理解できることを恥じている。どういうわけだか。 完璧に理解できない自分がカッコいい。誇らしい! どういうわけだかね。 そのままにページを進めるんだと。 ドゥルーズスレは6代目らしいが、一切のコミュニケーションは行われなかったと言うわけだよ。 誰もがドゥルーズの何も理解できないままに、レスをして、 そのレスからも完璧には何も読み取れないままにレスをつける。 その流れがよしとされると。
それはあなたのそうあってほしいという願望に過ぎないよ というか、完璧に理解できたのならば、まず聞く前に自分なりの解釈を提示しなクズ野郎
クズコテにマジレスとか
自分なりの解釈と言うのは何? アンチオイディプスに書かれていることは、”自分なりの解釈”しなければならないようなことが書かれていると? 僕は、アンチオイディプスには、ドゥルーズ=ガタリによる、何かの”解釈”が書かれていたかと思っていたよ。 それを彼らはありのままに言っているんだと。 だから、僕はそれを”自分なりの解釈”ではなくて、解釈することしか出来ないわけだけどね。 第一節の第四章以降は、それが不可能だったと言ってるんだけど。 しかし、どうもここ数レスを読んでいるとそうではないらしい。 ドゥルーズ=ガタリは、何か曖昧で、そうらしいことを不適切に述べていて、それが人にどう捕らえられようとお構いなし。 アンチオイディプスはそのような本だったんだろうか。 まだ全部読んでないけど、ここで読むのやめようかな。 ドゥルーズスレに書き込んでいる人たちの程度も知れたことだし・・・
ここは学者(崩れ)が集まるスレなんである程度語学ができない人は無視される傾向あり 翻訳読んで完璧理解とか不用意なこという人は警戒されるよ
>>691 また、この>クズコテにマジレスとか と言う煽りも、定番の名無しの応答だね。
秩序を乱されて、プライドもボロボロにされてしまった名無しは、決まってこのような反応しか出来ない。
これは、哲学板だからではなく、どの板でもそう。
どの板の、どの名無しも、固定ハンドルに対してはこのような反応をしてしまいがち。
このような短絡的な対抗しかできないのだろう。そして、誰もが思いつくことではあるが、そうしてしまう。
可哀相にね。
ま、こうなるだろうな〜ってのは予想ついてたけど。
名無しは器官なき身体。欲望する機械に動かされて、つい、書き込まされた。
僕は君を精神分析して、分裂症だとは診断しまい。
分かりきってたことだし。
その点は、そうさせた僕が悪かったんだろう。
>>693 仮に僕が翻訳を読んでいたのだとしたら、翻訳の完全理解を果たした可能性もあるわけだけどね。
また、無視もされていない。
キミ達は、僕に構わずにはいられないんだろう。
>>694 にも書いたが。
696 :
考える名無しさん :2009/09/15(火) 20:23:11 0
買って一番後悔した本。 差異と反復(ハードカヴァー) 理由:1.内容が学術書の体裁をとっていない。つまり、最初に主張、結論があり、 後に根拠が続くという基本中の基本が守られていない。 2.意味不明の文章多々あり。 3.無礼にも数学を援用、かつ誤用。 君たちさ、「完全理解を果たした」とかしないとかいってるけど、 理解できない本読んでどうすんの?あまりにも権威主義的パーソナリティ。
697 :
考える名無しさん :2009/09/15(火) 20:35:38 O
どこのコピペだろ
ハードカバーってもしかして6000円くらいするやつじゃないの?
税抜5800円ですね
701 :
考える名無しさん :2009/09/16(水) 07:23:21 0
ソーカル問題は何度となく蒸し返されるので何度も書くけど ソーカルからの批判を鵜呑みにすることもややもすれば科学主義になり 哲学への無理解が裏から支える権威主義、案山子をつくって勝手に倒す独り相撲 になるんで、それはそれでやはり、ドゥルーズを権威的にもちあげることと 表裏一体でしょう。 われわれがドゥルーズの難解な著作、「差異と反復」から感銘を受ける部分は 人それぞれあると思うんで一概には言えないからなんだけど、 基本的には、そうした批判者が、われわれ読者が最も感銘を受けた部分を それと認めながらもその論理的筋道やプロセスに偽りや誤りを偶然として みつけるならば、それを受け入れることができると思うのです。 逆にたとえば哲学なんだからそういう説明やプロセスはいたしかたなき必然であると 主張するならその批判は的を射ていながらにしてドゥルーズ哲学を深く理解し 賞賛するものでもあることになります。浅田彰さんのばあいがそれで 潜在的なものの存在論は疑わしいけれども哲学者としてはそれはいわざるをえない んだろうと述べています。 もし批判者がわれわれの感銘を受けない地点をその哲学の核心だとして攻撃するなら それは文字通り案山子をつくって攻撃する独り相撲といえますし、好きにしてもらいたいわけです。、
>>689 ただ単に理解しただけでなく
自分でその本をもとにいろいろな
事柄との関係で
思索を深めるということをやらなきゃ
だめだろ。
>>696 「差異と反復」で
ドゥルーズは新しい
スタイルの哲学を創ろうと
したわけで、それを評価
できなければ駄目でしょう。
ドゥルーズが自殺した理由は、ソーカル的なことで哲学の歴史を汚してしまったことだろうね。
哲学を進歩させるはずだったのに。目先の権威に捕らわれちゃったと。
まぁ、フランスの思想家にありがちだよね。とりあえずどこからか引用しなきゃいけない! みたいな。
歴史に名を残すに当たっては、それが流行りだったからではすまされない。
ドゥルーズが一番良く分かってるんだろうけど・・・。だから、自殺もやむなしと。
ほっといても死にそうだったけどね。
ただドゥルーズ自身が本物の思想家だったってことは確か。彼は自身のエクリチュールに殺されたんだね。
>>702 そのようにしたことがないとは言っていませんが。
>>704 >ドゥルーズが自殺した理由は、ソーカル的なことで
>哲学の歴史を汚してしまったことだろうね。
あほ?
ドゥルーズはソーカル事件の前に死んでるが?
>>705 ソーカル事件があったから自殺したとか言ってるんじゃないよ。
すぐに直前に出た単語だけに捕らわれてしまうのはよくないね。
ドゥルーズが哲学の歴史を汚したことには間違いない。
そもそも、ドゥルーズがソーカル問題で指摘されたところを恥じる必要はない。
彼の主張と言うものは、文章はどうであれ立派にあったんだからね。
また、ドゥルーズの生前に、これらの関わりが世界的に認知されたのなら、ドゥルーズは自殺しなかったかもしれないし。
許されたのと変わりないから。
そもそもドゥルーズの文章が、ソーカル的であるのは、ソーカル事件そのものを知らない人にとっても明らかなんだからね。
自分自身で気が付かないわけが無いだろう。自分の名前が哲学史に刻まれるとどのようになるかって。
もっとドゥルーズになりきって考えれば分かること。
>>706 >ドゥルーズが哲学の歴史を汚した
>ドゥルーズの文章が、ソーカル的
意味が分からんよ。
ちゃんと説明しろ。
AOの話をいきなりしてきたのも、ソカ厨としての仕込みだったのか
710 :
考える名無しさん :2009/09/16(水) 16:54:08 0
ドッスの伝記はどうよ? ドッスっていつもいい本書くね。
日本にこういう思想系ジャーナリストっていないよな あえて言うなら山口昌男とか?
アンチオイディプスはいい本だって言ってるだろ。今読み終えたよ。
結局ノートに取ったのも初めの方だけだった。後は所々、フーンって思えるところがあったかな。
千のプラトーはリトルネロだけ読めとのことなので、今から読んでみます。
少し読んだけど序章は面白いです。
>>708 だから、それは本人の自覚だから。
他殺じゃないんだよ。ドゥルーズが死んだのは。
意味が分からんと言うよりは、そりゃあ他人には無理だろう。
ドゥルーズになりきって考えれば分かるよ。
日本のドゥルーズ研究の水準は着実に上がってるな、喜ばしい
>>713 ドゥルーズが数学を間違って使ったとかはどうだって良い話だろう。
未曾有が読めなかったことぐらいどうでも良い。
そもそも、数学だって哲学だって信仰にすぎないんだから、
それ自体が完璧であろうが、不完全なものであろうが関係ない。
結局は読み手たちがドゥルーズの哲学の完成形を読み取れるかどうかだし、
完成形に近づけられるかどうかだろうね。
まぁ、過去ログにもあったけど、いわゆる権威主義の恩恵なのか、僕はよく知らないけど
否定できる方が偉いとか、賢いとか思ってんだね。
でも、哲学って世界が、それに追従するようじゃダメだとか、
クリティカルシンキングだとか、そういう流れになっちゃってるから、いつまでたっても抜け出せないと。
だから、ドゥルーズの言っていることは意味不明だって言えばいいのに
自信がないから「ドゥルーズの数式は間違ってるよね」って言っちゃう
バカだねぇ
716 :
考える名無しさん :2009/09/16(水) 21:18:17 O
ぐぎゃぎゃぎゃぎゃ ジル ジル…
ま、長くなったからまとめるけど。 一人否定しだすやつがいて、それが有力だと思ったら、 釣られて「そういえば、あんな悪いこともやってたよ!」って言い出すやつっているけど そんな感じね。
>>715 率直に言って、あなたの文章は意味がとりにくいんですね。
もっとはっきり言えば、哲学書なり思想書なりを読む訓練を経た人の書く文章ではない。
古典と呼ばれる哲学書一冊をも、可能な限り理解しようとした経験が無いんじゃないですか。
数学−論理学的な天才的資質を持った人でない限り、哲学的思考を文章表現として展開できるように
なるには、テキストの読解と追思考(自分の頭の中でテキストの論理的展開を再現すること)を
継続的に行う以外に方法は無いと私は思います。
スピノザであれ、カントであれ、ベルクソンであれ、ドゥルーズであれ、実際は法外なことを
考え、述べているわけです。それに比して、あなたが書いている事は、極めて表層的で常識的です。
濃密な言説と言ってもいい。希薄(希少)な言説ではいささかもない。単に愚劣です。
失礼な物言いになりましたが、哲学自体に関心がおありなら、まずは一旦我を捨てて(ナルシシズムを括弧に入れて)、
古典を精読してみることをお薦めします。
威勢のいいタンカだけど、思想書を読む訓練しても、文章力の鍛錬にはならないような……
>>718 >>715-717 で僕が言っていたことだけど。
意味が読み取れないのなら、無理にレスする必要はないんじゃないかな。
別に何をもって、君がそう思ったかって言うのはどうだっていいけどね。
(また、僕も弁明はしないけど。ここはドゥルーズについて話すことだから。だけどこれだけは、言っておかないと。)
そりゃあ、そんなふうに思う人だっているだろうから。
おっと! これは、君の言っていることが表層的だとか、常識的だとか言ってるわけじゃないよ。
まぁでも単にそうやって無意味なレスをするよりも、
もし意味のくみとりにくい文章を読んで、意味が分かったうえで、表層的とか、常識的とか言っているならね。
それに対してのレスがあってもいいんじゃないかな〜〜とは思うけど。
どうだろうね。
>哲学書なり思想書なりを読む訓練を経た人の書く文章ではない。
と、おっしゃっていますが。このことについても、なんとなく理解は出来るんだよね。
つまり、権威がないと。そう言いたいんだろう。君は。
だけど、そんなこともどうだっていい。僕は権威なんていらないから。
ま、こういうレスのやり取りは、傍から見てて面白いもんじゃないけどね。 長文だから余計。
>>720 >第一章の第3節までは完璧に理解できました。
理解した内容を書いてくれなければ、「そうですか」としかレス仕様がないですね。
>アンチオイディプスには、ドゥルーズ=ガタリによる、何かの”解釈”が書かれていたかと思っていた。
「解釈」の定義にもよりますが、ドゥルーズとガタリは「解釈すべきものは何も無い」と述べています。
AO冒頭に「これは隠喩ではない」という一節がありますが、彼らは際限の無いテクストや事象や徴の「解釈」を
廃し、現実そのもの(思考も含む)を記述することを目指していたのです。
>一切のコミュニケーションは行われなかったと言うわけだよ。
ドゥルーズほど「コミュニケーション」を嫌悪していた哲学者もいないでしょう。
>とりあえずどこからか引用しなきゃいけない!
ドゥルーズは極端に「引用」の少ない著作家です。自己引用もしない。
自由間接話法という方法は、自著の権威付けからはほど遠いものでしょう。
>自信がないから「ドゥルーズの数式は間違ってるよね」って言っちゃう。
>>713 で紹介したエントリーでは、「ドゥルーズの数式は間違ってるよね」
というような趣旨の論は展開されていない。そもそも「数式」ではなく、「数学」
具体的には、冪・濃度・累乗を「数学的に」混同して指示している、テイラー展開と
オイラー展開を区別していない叙述がある。それは、ベルクソン的な「本性の差異」に沿った
狭義の「数学」とは異なる分割法によるものではないか、また、科学認識論のある流れに関係している
のではないか、というのが、当該エントリーの趣旨。
哲学の歴史を汚した云々については、
>>713 でレスをしているので割愛。
これだけとんちんかんな事を並べ立てていれば、あなたがドゥルーズを理解していないこと、
哲学書を読む基礎訓練すら出来ていないこと、これ以上のあなたの冷やかしに付き合う必要は
認められないこと、等は明白でしょう。
>>722 ひとつひとつにまた返信しなきゃいけないのこれ。
しかし、不毛な論点ばかりをあげるね。
アンティオイディプスの解釈においては、まるで君と同じ意見であるわけだし。
しかし、そうは言っても、それが正しいかどうかって言うのは誰が決めるの。
ドゥルーズの自殺した原因について話すのも不毛。それも誰も決められないから。
ただ、自分の方がドゥルーズのことについて知っていますと言うことが言いたいだけ。
その文章は、ドゥルーズとお近づきになりたいだけじゃない。
別に、そういうことなら、僕は君以上にドゥルーズを知っていようとは思わないし、君もそれで満足しておけばいいことじゃないかな。
君は、そういう信仰で行けばいいってだけ。
改行が長すぎますって出たから分けるけどね。
コミュニケーション云々も、ドゥルーズがコミュニケーション嫌いだからと言う理由で、
キミ達がコミュニケーションを避けてたわけでも無いだろう。
>>自信がないから「ドゥルーズの数式は間違ってるよね」って言っちゃう。
>
>>713 で紹介したエントリーでは、「ドゥルーズの数式は間違ってるよね」
>というような趣旨の論は展開されていない。そもそも「数式」ではなく、「数学」
>具体的には、冪・濃度・累乗を「数学的に」混同して指示している、テイラー展開と
>オイラー展開を区別していない叙述がある。それは、ベルクソン的な「本性の差異」に沿った
>狭義の「数学」とは異なる分割法によるものではないか、また、科学認識論のある流れに関係している
>のではないか、というのが、当該エントリーの趣旨。
とありますが。
>そもそも、数学だって哲学だって信仰にすぎないんだから、
>それ自体が完璧であろうが、不完全なものであろうが関係ない。
と答えたことに、何が不満があったんでしょうか。
ドゥルーズがスピノザについて語ることを、スピノザをドゥルーズよりも知ってると思ってる人が
「違うよ」と言っているだけ。
それは一般的なスピノザについて、ドゥルーズが語っても意味がないからだろう。
君が知ってるドゥルーズは、とかく膨大な量の情報に埋もれたドゥルーズを掘り起こしたものに過ぎないわけ。
別に付き合ってよとも言っていませんので、お気遣いなく。
また、僕がこのスレッドに書き込むにあたって、ドゥルーズに近づかなければならない義務もないし。
ドゥルーズになりきって書かなければならないわけでもない。
ま、真にドゥルーズと密接な関係になるのは、ドゥルーズを自分の手で完成させるときだとは思うけど。
そのように出来ない君が、僕に嫉妬しているようにしか思えない。
追記: >つまり、権威がないと。そう言いたいんだろう。君は。 >だけど、そんなこともどうだっていい。僕は権威なんていらないから。 権威が無いとは一言も言っていない。論理が無いと言っている。 例えば、池田晶子は、講壇哲学的な権威付けを嫌っていたけど、彼女自身が 書いたものは、少なくとも初期の著作は、論理的です。また、「口伝西洋哲学史」 を読めば判るが、古典的テキストの読みは、十分に出来ていた(スピノザの項は、 私には文句の付けようが無かった)。 独走的なマイ哲学に凝り固まることと、自己愛を抑えて、先人の思考に触れ、狭い自分の 殻を割っていくこととは、全く正反対のことだ。後者を権威主義だと思っているなら、それは違う。 後者は、先人の法外な思考に対して「謙虚」であることと、自身の思考する力を信じること以外ではないのだから。
>>725 ま、僕は哲学を読む力があろうと無かろうと、どうでも言いと思ってるけどね。
普通の話し言葉を書く要領で、頭に出てきたものを書いてるだけ。
通じるかな〜とは思ってやってるけど、それが理解できないんならごめんねー。
しかしね、もしも、君の言うような、理論を求めるのなら、2ちゃんねるから求めちゃあいけない。
いや、強要しちゃあいけないね。それは、自分自身の中でやるか、自分の友達とやってればいい。
僕も、名無しも自由にやるから。
君のように、自分の理想を熱弁することも、まぁ、自由だけど。
君の推奨する理論と言うものが、権威以外には、何も検討もつかないのだけれど、
(何故なら、哲学書をもっと読んでこいって言うから、このような人でなくてはならないと思っているじゃない)
そのようなものが無い人は書いてはいけませんとは、どこにも書かれていなかった。
そうだろう。
そして、君の推奨する、理論と言うものも、君の中にしかないもんだ。
>>723 なんとなくだけど、あなたが『記号と事件』所収の「口さがない批評家への手紙」
だけは、読んでいるように思う。あの邦訳のドゥルーズの口調に良く似ているからね、
表面的には。なりきり、という意味では、その線かな。嫉妬などしていないので、
ご心配なく。
また馬鹿コテの登場か 厚顔無恥は恐ろしい ピント外れな返答を繰り返しているところからすると、 こういうのは死んでも直らないんだろうな
ピント外れな返答と言うか、僕が、哲学書を読んでいるか読んでいないかの話をしようとするから それに対しては、読んでないとしか言いようがないんだけど どうも彼らは、納得がいかないらしくって、バカだのクズだの言ってくるんだよ。理論がないともね。 僕もドゥルーズの話がしたい! 僕のことなんてどうでもいい! って思ってるよ。 なぜか、興味を持たれちゃったみたいで質問責めだよ。 一応、レス返すのがマナーなのかと思ってね!
>ユビー ◆6wmx.B3qBE もうやめときなさい 見苦しい
今日は書き込みすくないですね! 器官なき身体たちは、欲望する機械によってしか動かされないというわけですか?
何かえらくレス番がとんでるな
馬鹿に構うのはほっといて、ドス本の話でもしようぜ ガタリの政治的来歴、当時のフランス国内左翼組織のもろもろの動向、 その中にあっての50年代からラカンを重要視していたウリ&ガタリコンビと ラボルト精神病院の組織的な試行錯誤、 ドゥルーズの40年代の哲学おの出会い、とむちゃくちゃ面白い これなら8000円台も高くはない ちなみに、p.88で出てくる映画『ル・モンワンドル・ジュスト』ってのは 日本版DVDも出てる『すべての些細な事柄』だね
秩序を乱された名無しは、現実逃避してなおも秩序を取り戻そうとするね。 しかし、現実逃避自体が、すでに秩序の崩壊を意味しているのに、それにさえ気がつけない。 不の螺旋が始まったね。 そのようなレスをしても、ああ、この人有名なんだ、ぐらいにしか思われないよ。 また、ドゥルーズの言葉を借りれば。僕自身も含めて秩序なんでしょうけど。
>>734 えらく長ったらしい「僕に構って」だね
最後に「ドゥルーズの名にかけて」までつけてくるあたり、無駄に念が入ってるな
僕に構ってとは言ってないよ。それは前にも明らかにしたけど。 しかし、キミ達が僕にレスをするときは、僕自身についての質問になってしまう。 僕の書き言葉には一切触れずにね。 秩序として、みなしたくないからなんだろうけど。 ドゥルーズの言葉を借りれば、 秩序を秩序と表記してしまうのは、人が何をもって秩序と言うかは理解出来ないからだろうね。 しかし、秩序と書けば、それは”乱されるもの”になってしまう。と。 ドゥルーズ先生、ありがとうございました。 あなたの本を読んで良かったです。
>>736 ぶっちゃけ何章がよかった?
論理がちょっとくらい飛んでもいいよ、
野次ったりしないから聞かせて。
僕はAOを何回も挑戦して(は挫折して)いるけど
第1章を読む度に毎回新しい解釈が現れてくる。
この章がいちばん深いっていったら同意してくれる?
それから前から気にしてたんだけど、
この第1章はAO全体の「公式集」のようなものとして通用すると思う?
つまりこの章に書かれていることが全てで
他の章は単にこの章の具体例にしか過ぎない?
公式ではないのでそういう読み方は無理ですよ MPの方がそういう用途向き
僕も第1章だけ10回ぐらい読み直したら、完了だと思うよ。アンチオイディプスは。
実際に第一章それぐらい読んだし。
ギリギリ第2章まで分かるかな〜って感じ。
第3章4章ともなると、何が言いたいのかはさっぱりだし、めんどくさくなったね。
一応さらーっとは読んだけど。第2章ぐらいまでにはあった、文学的な表現や言い回しさえなくなってるし。
苦行でしかない。
まぁ、それでもところどころはフーンって感じだったけど。
それは、正直に言って、第一章で言っていることについて、さらに道徳的に掘り下げて言っている部分だけで
他の大半は全くピンとこなかったし、これ以上読み直そうとも思わなかった。
特にこのスレッドを読んでからは読むスピードが上がったね。
第一章以上に言いたいことがあるのかどうかってのは分からない。
「ない」って言い切ってもいいんだけど。現在では言い切れないからね。
未来では何かあるとされてるかも知れないし。
当たり前だけど、理解できるところを理解したって感じ。
理解できるところがあるから、全部に意味があるんじゃないかって疑ってかかるのは辛くなっちゃった。
僕がこのスレに始めて書き込んだのが
>>686 だったわけだけど。本当に一人ではやってられないと思ったね。
まぁ、書いてることは分からなくもないけど、何でそう思ったんだろうってのは謎だよね。 だから、どこから読み始めても、「おっ!」って思うことはあるんだけど、 読み勧めていくうちに、やっぱり苦行と化すね。 器官なき身体とか、生産とかの意味が分かったら、どの章を読んでも同じなんじゃないかな。 第4章の第3節が、第1章の第6節と取り変わってても、フーンってなると思う。 自分はアンチオイディプスが読めたという自信はないですね。これは何度もいってるけど。 だからむしろ、第2章以降に、何かとんでもない大発見が隠されていたのなら それは、こちらこそ教えていただきたいですね。
>>737 ,
>>739 最大限のアドバイスをしてみます。理論的な書物を読む際の一種の「読書術」です。
ヒントにして頂ければ、幸いです。
例えばばこんな文章にぶつかったとしましょう。直感的には分かるような気がするけれど、
構文が入り組んでいて、意外と正確な意味が取りづらい文例です。
【対象への関心よりも、対象なきイメージへの接触というところにリアリティがずれてきている、
そしてそれが欲望を喚起し、整流する、つまり、最も私的なはずの欲望のただなかでメディアが
操作的に働きだすという指摘も、べつだん新しいものではない】(鷲田清一『死なないでいる理由』小学館より)
742 :
741 :2009/09/18(金) 06:24:26 0
まず好きな記号で、文章の意味の切れ目に区切りを入れてみましょう。 ここでは、“ 」”を使ってみます。 【対象への関心よりも、対象なきイメージへの接触というところにリアリティがずれてきている、」 そしてそれが欲望を喚起し、整流する、」つまり、最も私的なはずの欲望のただなかでメディアが 操作的に働きだすという指摘も、べつだん新しいものではない】 次に名詞的に使われている文を、“( )”でまとめてしまいます。 【対象への関心よりも、(対象なきイメージへの接触)というところにリアリティがずれてきている、」 そしてそれが欲望を喚起し、整流する、」つまり、(最も私的なはずの欲望のただなかでメディアが操作的に 働きだす)という指摘も、べつだん新しいものではない】 だいぶ分かりやすくなってきたのではないでしょうか。 最後に、指示代名詞「それ」が指している部分に印をつけて、明確にします。“ a ”を使いましょう。 【対象への関心よりも、a(対象なきイメージへの接触)というところにリアリティがずれてきている、」 そしてaそれが欲望を喚起し、整流する、」つまり、(最も私的なはずの欲望のただなかでメディアが操作的に 働きだす)という指摘も、べつだん新しいものではない】 これでこの一見難しそうな文章が、例えば、 【最近肉よりも魚貝類のほうに好みが変わってきている、そしてそれらの料理番組が 目を惹きつける、つまり、年齢とともに食べ物の好みが変化するという話も、もはや 他人事ではない】 みたいな文章と構文的には同じだなってことが分かって、内容も格段に理解しやすくなります。 ちなみに、記号や印は、定規やテンプレートを使って鉛筆で書いておくと、きれいに書けて見やすく、 あとで書き直すこと(=自分の解釈が変わったことの確認)もできるので、便利がいいです。
>>741 分からないって言うか、デジャブみたいに感じるんだよね。
もうそれ、何回も同じこと行ってるじゃんって内容のが何回も出てくるから、
これに、新たな意味を見出せるのかどうかっていうのが苦行なんだよ。
で、僕とか
>>737 に、ちゃんと対応するつもりなら
第3章や第4章に、第1章で書かれていること以上の意味があるのかどうかってことを言わなくちゃ。
それも、僕が言った、応用して道徳的に掘り下げる以外に、意味があるかってことをね。
それが、なんで読書術の話になるかが分からない。
ま、権威なんだろうね。
自分には読書術がありますってことが言いたい。
だから、何としか言えないけども。
君が、その読書術を持って、僕以上になにか読み取っているのなら、それを言わなくちゃ。
そうでしょう。
そのレスの内容自体が悪いものだって言う注意ではないよ。
きっとそのような訓練をするべきなんだろう。だけど、場違いではあったね。
「権威」を乱用しすぎ あんたに説教してる奴にはそういうノリがあるけど、 ドゥルーズは権威主義的ではないが緻密だ 緻密たれという要求をなんでも権威呼ばわりするのはよくない
ドゥルーズが権威主義なんて言ってないよ。
ほんと君のバカさ加減には呆れるわ>ユビー ◆6wmx.B3qBE
かわいいでしょ
748 :
741 :2009/09/18(金) 07:32:00 0
上に書いた「読書術」は、テクニカルな部分では自己流にアレンジしている
ところがありますが、実質的には哲学書等を読む際に、広く行われている技芸です。
例えば、高橋源一郎は、意味の切れ目に、鉛筆でコンマを付けていく読み方をしています。
やっていることは同じです。特段、「僕には読書術があります」等と自慢している訳ではありません。
>>744 の言うように、ドゥルーズの論述は緻密です。これを解凍する必要がどうしてもある。
氷を溶かすようなものです。上で書いたことは、ごくプラクティカルな事柄、効率よく氷を溶かす方法の
ひとつです。
>第3章や第4章に、第1章で書かれていること以上の意味があるのかどうかってことを言わなくちゃ。
>それも、僕が言った、応用して道徳的に掘り下げる以外に、意味があるかってことをね。
こうした大雑把で独善的な設問に答える必要は感じません。理由は何とでも憶測して下さって結構ですが、
僕の理由は、あなたが自分で解読しなければ意味が無いから、というものです。
上から目線で、「読書術」を書いた訳ではありません。単純に「実践」して頂ければ、必ず効果がある方法
だから、書いたまでです。従って、あなたが実践しなくても構わない。ROMっている人が(いたとして)、
ちょっと試してみようかなと思って頂ければ、十分にありがたく思います。
そんなことは分かってるよ。 読書術試してみます!! 僕も2ちゃんねるに書くからには、読みやすいほうがいいとも思うしね。
750 :
741 :2009/09/18(金) 07:49:06 0
自演乙w
なんにしても、
>>741 鷲田のひどい文章だなw
たぶん前後にちゃんと文脈があるんだろうが、それでもこんな文章を読まされて
こちらが勝手に解釈して、言いたいことをまとめろっていうほうがそりゃ難行苦行に等しい。
哲学の場合、たぶん外国語で書かれた文献を読むほうが多いだろうが、
読んで意味が明快でない文章を読んでいると、だんだん腹が立ってくるんだよな〜w
特にドゥルーズの文章にもそういうの多いw
そんな時、仲間うちで意見のすり合わせができれば安心だが
独りで解釈してまとめろというのは、どうとでも解釈できるぶん相当な力技が必要だ。
その強引さとまとめ方の恣意性が俺は嫌いなんだよなw
だから信頼のおけない著者の著述を読むのは嫌だし、
他の多くの人たちが吟味した文章でないと読む気がしないんだ。
自分なりの解釈が必要になる時点で駄文なのは明らかだよ。
じゃあそう書けよとしか思えない。そう書く能力がないのだとしか思えない。
ドゥルーズも犬がほえてるのと変わらないんだね。
いや、犬が「ワンワンワン」と記述しているのと変わらない。
国語が出来ない。
>>741 の例文を取ってみても。酷い文章だとは思わないけど。だから、何? って感じじゃない。
それ言って、どうなるのってね。
そのようなことをドゥルーズも人が読める文章にはかけない。
犬と自分用にワンワン書いてる。
それのどこが良いと思うのかは理解できないね。権威主義の恩恵でしかない。
理解は時間の無駄だし、哲学史は確実に汚れされたね。
自殺もやむなしと。
酒通ぶって「まずいのが旨いんだよ」とか言う人はいるけど まぁ、そんなところだろうね。 難しい文献を必死に探しちゃうと言うか。 それは良い事だとは思うけど。ある種の”マニアック”でしかない。 「まずい」と言うブランド 「難しい」と言うブランド でしかないわけで、 論点がそんなところへ言ってしまってる。
>>741 前半は、
「(人々は)対象(そのもの)への関心ではなく、(対象が不在の、それにまつわる)
イメージ(に触れること)のほうによりリアリティを感じるようになった」
ってことだよね。
この「リアリティがずれてきている」って
なんでこんな変な言い方するのかね?
そのあとの「整流する」というのも、ハァ?という感じだ。
前後の文脈がなければ、「整流」というのは電気分野の用語だろ、と。
「最も私的なはずの欲望」も、この文脈では何に対する欲望なのか分からない。
具体的に「私的な消費に関する欲望」とか「商品に対する欲望」とか書くべきだろ
それになんで「最も」私的なのかもよく分からない。
「欲望」だから最も私的なのか?と。じゃあ何と比べて「最も」私的(最上級)なんだよ?と。
それに「はず」ってのは何だよ?「はず」って。w
そのあとの「操作的に働きだす」に至っては、ひどい日本語としか言いようがないw
「操作的に」ってwww本当に日本語かよ
「メディアが、対象そのものではなく
それにまつわるイメージを操作することで
人々の欲望の流れの向きを変えていくように作用し始める」
くらいで別にいいだろw。なんだよ、「メディアが操作的に働きだす」ってww
鷲田には好意も何も無いんだが、「欲望の整流」てのはDG的にはアリな発想じゃないか ミルプラトーあたりにそういう議論があったはずだし
>>755 DG的にはでしょ。知ってるよ。
それを説明もなしに鷲田がまるで当たり前のように
持ち出してくるところがむかむかしてくるんだよね
そこでむかむかするって気持ちもわかるな
いろんな意味で鷲田風情が言うな、みたいに俺は思う
>>741 引用文みたいな言い回しは嫌いじゃないんだけど、鷲田って研究者としては微妙な存在すぎて
そういう人はガタリにも苛つきそう アカデミックじゃないから気取りにみえるのかもよ
アカデミックか、非アカデミックかが問題じゃないでしょ? それを言ったらドゥルーズ自体が ある種のアカデミックな世界では疎まれているのに それに、そんなことは一般読者には関係のないことだしね
>>758 いや、ガタリは尊敬するけどな
よくわからない議論もあるけど、ああいう資質の人には惹かれる
ドス本を読んでると、ドゥルーズはガタリが必要だったんだなあと痛感する
ドゥルーズ研究する価値があるとは思えないけどね そこそこ良いことは言うけど
何様wwwwwwwwwww
763 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 20:19:22 0
近年、卒業論文や修士論文でドゥルーズ/ガタリを取り上げる人が増えてきた。 まだ数は少ないが、博士論文も書かれるようになってきた。当然そうなるべきで あったが、随分と学界も様変わりしてきたのである。 しかし、率直に言って、内外を問わず、研究論文の水準はまだまだ低いと思う。 その理由だが、これも率直に言うが、ドゥルーズ/ガタリしか読んでいないことに、 たかだか現代フランス系とその周辺しか読んでいないことに求められると思う。 研究分野に限らず、思想界でも批評界でも言論界でも、一定の年齢以下の人々は、 現代フランス系が確固とした主流になった状況で物を読んで書き始めてきたはずだが、 そのことによって視界を狭められているのである(これは英米系についても同様である)。 私の世代は、ドイツ系から現代フランス系への激変の時期に物を読み始めた。 それもあって、ドゥルーズ/ガタリが何と格闘して何を切り開こうとしていたのかは 実感としてよくわかっていた。だから、ドゥルーズ/ガタリを読んで何かを 書くことは、その出来具合は別としても、自身の中の何ものかを批判しながら 何か新しいものを切り開こうとする格闘の産物であった。 しかし、若い世代の場合には、それに類する格闘を経ることなく読んで書いている 傾向があって、このまま推移してしまうなら、かつてドイツ系研究が大量の紙屑を 出したのと同じことが、もちろん市場が小さくなった分だけ規模は小さくなるにしても、 現代フランス系でも起こってしまうという心配がある。現にその徴候は現われて いるとも思う。 とはいえ、幸運なことに(不運なことに、ではなく)現代フランス哲学思想に取って 代わりそうな思考も行動もいまだに登場してはいない。少なくとも流行はしていない。 つまり、若い世代には、自力で新しいものを切り開くチャンスがあるのだ。 現代フランス哲学思想が旧来のものとの格闘を通じて登場してきたように、 いまや主流となった現代フランス哲学思想との格闘を通じて新たなものを切り開くと いうこと、そのための一つの手段として、本書をスプリング・ボードとして何処か別の 場所に進んでいくということ、それが本書の読者に託される務めである。
まぁ、このスレッドでも僕は生産的に扱われるのではなく、排他的に扱われているわけだけどね。
もしも、それが秩序を乱しているのであって、排除こそが真の生産性だとキミ達が思うのならば、
(余計なものを取り除いて、真に澄みよいスレッドにしたいと言うなら)
それは、ドゥルーズの文章こそ排他的に扱わなければならないと思うけどね。
ドゥルーズの書き言葉は濁りきっている。だけでなく、哲学史にも泥を塗ってしまったわけだけど。
だから、研究しない。もしくは、ドゥルーズの書き言葉を良いものとは思わずに、
そこから泥をすくい取る作業に徹しないといけない。
キミ達は、泥をすくい取る作業が楽しくて仕方ないんだろう。それは
>>741 が書いてくれたけどね。
僕はそれが生産性だとは思わないから、ドゥルーズはそのままでいいんだけど。
どう見てても、キミ達のドゥルーズに対する扱い方は。泥さらいそのものとしか思えない。
僕をこのスレッドから排除したいように。一周すればドゥルーズも排除したいと。
フランスの現代思想ってのは、まるで無いもんだよ。 それは、新しい発想でも、新しい価値観でもなくて、 従来の哲学から逃げてたどり着いただけ。
766 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 20:30:40 0
>>764 には全面的に賛同するが
>>765 には全面的に反対する。
ドゥルーズは哲学者としてはできそこないだけれど、
たとえばバタイユなんかの本を読むと本当に感動する。
バタイユのは主張が明確であり、根拠も説得力がある思想だからね。
767 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 20:33:22 0
>>763 ひとの卒論を批評する前に、君は文章が落第もの。
小泉義之落第か
769 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/18(金) 22:06:08 0
ちょっと覗いてみたんだが、ここには馬鹿しかおらんのかね? どうもにおいがイモくさいレスばかりだなw
糞コテは一匹出れば仲間がどんどん増えるな 本当に秩序を乱すゴキブリでしかない しかも何の発展ももたらさないという
771 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/18(金) 22:09:45 0
>>770 ああその通りだな。
特にコピーという奴のレスは悲惨だ。
他の名無しもどんぐりのせいくらべではあるがw
772 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/18(金) 22:19:10 0
このスレにはおそらく以下の2種類の人間しかいない。 1)ドゥルーズを読めていると思っているバカ 2)ドゥルーズは読めたものではないと思っているバカ スノッブ以下のゴミどもが何をわめいても無意味だ。 ドゥルーズを読むということがどういうことかを知らない限り、 ドゥルーズを読むことは永遠にできない。 逆に言えば、 ドゥルーズを読むということがどういうことかがわかれば、 そのときドゥルーズを読めたことになる。
773 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 22:28:55 0
774 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/18(金) 22:33:15 0
>>773 悪いが、俺の分はカウントしていない。
まだ参加しているつもりはないんでねw
俺が参加することになれば3番目のタイプが登場することになるな。
775 :
741 :2009/09/18(金) 22:38:47 0
>>751 僕は自演などしていませんよ。
>>772 >ドゥルーズを読むということがどういうことかを知らない限り、
>ドゥルーズを読むことは永遠にできない。
>逆に言えば、
>ドゥルーズを読むということがどういうことかがわかれば、
>そのときドゥルーズを読めたことになる。
「逆に言えば」って、「逆」ではなくて「裏」でしょ。あなたが書いていることは。
「逆・裏・対偶」も知らないで、他人をバカ呼ばわりですか。ここは幼稚園じゃありませんよ。
哲学も何もないじゃないですか、そんな体たらくじゃ。SPI等のテストも低い点しかつかないから、
就職もできない可能性がありますよ(笑)どうでもいいけど(笑)
776 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 22:39:13 0
>>774 3)ドゥルーズなんて著作を一つも読んでみたことはないが、
なんとなく荒らせそうなのでドゥルーズスレに来てるバカ
ですね?!わかります。
777 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/18(金) 22:42:26 0
>>775 >「逆」ではなくて「裏」でしょ。
「裏に言えば」という言い方はないw
>他人をバカ呼ばわりですか。
すまないとは思っている。
しかし、俺は本当のことしか言葉に出来ないのでねw
>どうでもいいけど(笑)
人は「どうでもいい」と思っているものに
あえて反応などしないんだよw
778 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 22:46:37 0
あらあら皆さん失礼しました。 デリダスレで興味深いコメントを見つけました。 >どうしてそんなことが言えるのかって? >決まってるじゃないか。 >俺はデリダもドゥルーズも「読める」からだ。 どうやら彼は3)ではなく1)だったようです。大爆笑
779 :
741 :2009/09/18(金) 22:48:29 0
>>777 >「裏に言えば」という言い方はないw
「裏を返せば」「裏を取れば」と書きます。
(ここまで言わなきゃ分かりませんか・・・地方公務員試験集でも買って、
論理学基礎中の基礎を勉強して下さい。ドゥルーズに言及するのは、その後で構いません)
741さんには他意はないが、コテハンの馬鹿というのは 往々にして相手にすればするほど暴れるものなので、放置するのが一番だと思いますよ 数日前までドス本の話があっていい流れだったのに、一気に馬鹿の巣窟になってしまって目も当てられん
781 :
741 :2009/09/18(金) 23:02:18 0
>人は「どうでもいい」と思っているものに >あえて反応などしないんだよw これは確かにそうですね。こちらが言葉足らずでした。 「逆・裏・対偶」すら知らない人が哲学版に書き込みをすることは、 どうでもいいとは思っていません。地方公務員の人たちの方があなたよりずっと 命題論理の基礎を理解している、即ち哲学の入り口に近いことは事実です。 その程度の人がデリダだドゥルーズだフーコーだと言うこと自体は、嘆かわしいというか、 情けないことだと思っています。あなたの就職や将来に関しては、僕には「どうでもいいこと」です。
782 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 23:03:02 0
いやーどうもすんまへん。どうもおもしろくて。 それにしても、へそが茶を沸かしますな。爆笑 しかしね、君、2chで知性を求めるというのはそれこそ知性のない振る舞い だと思わんかね?痴性を求めたまえ、ムフフ。
783 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 23:05:03 0
>>781 あなたはね、ちょっと、ムフフ、怒りすぎで痴的よ。
784 :
741 :2009/09/18(金) 23:09:47 0
>>780 そうですね。了解しました。
ドスの評伝を読んでいると、ドゥルーズがいかに「批判」に対して鷹揚だったかが
良く分かりますね。無益な批判には、ユーモアとイロニーで応答する。
「スピノザ書簡集」から見て取れるスピノザの態度と良く似ています。
あと意外だったのは、論理の飛躍を厳しく指摘するドゥルーズに、ガタリが恐れを
感じていたらしいということでした。「コンプレックス」までは、ドスの言いすぎかも
知れませんが。
785 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 23:12:03 0
いきなり申し訳ないんだけど、Difference et répétitionって、どうすれば買える? 学生の頃、P.U.F.のやつ買おうとしたら絶版だった。ここROMってたら、読みたくなってさ。
786 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/18(金) 23:19:18 0
>>780 >馬鹿というのは往々にして相手にすればするほど暴れるものなので
その通りだ。
だから、俺はバカな名無しはまともには相手にしないことにしているw
>>779 裏を返す、という空間的表現ではないのだよ、おバカさんw
逆に言う、という時間的表現をやはり君は「読めない」ようだw
たとえば、ドゥルーズがニーチェによるプラトニスムの転倒をどう読んだか、
それを考えてみてもいいだろうw
ただ裏返しにしたんじゃないだろ?w
787 :
741 :2009/09/18(金) 23:20:06 0
学生の頃は、大学帰りによく京都の至成堂書店に寄って、ドゥルーズその他 買っていたんだけど。"Difference et répétition"もそこで買った。 今もお店自体はあるようだから、問い合わせてみたらいかがでしょうか。 品揃え豊富で、人文系洋書の知識も豊富な書店です。
788 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/18(金) 23:27:55 0
>>784 >無益な批判には、ユーモアとイロニーで応答する。
まさに俺が実践していることだなw
そう、真に読むということは実践を促すものだ。
バカは空疎な「知」に留まる。
え、え、え、というドモリを恐れないことだw
790 :
741 :2009/09/18(金) 23:30:22 0
791 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/18(金) 23:52:12 0
>>782 >2chで知性を求めるというのはそれこそ知性のない振る舞い
ドゥルーズはこう語っていたのではなかったかな?w
書くということは「知の先端」で行われることだと。
「知」を求めている限りはドゥルーズを「読む」ことはできない。
「読めた」と思い込むことはできてもw
>>787 速レスmerci
早速差異と覗いてみたけど、無いようです。見方が悪いのかな?
黄土色の表紙にタイトルだけかかれたアレ、単にアイテムとしても相当そそるんだよなー、あの武骨さ。
<<Diff?Prence>>になってないとな・・・orz
793 :
考える名無しさん :2009/09/18(金) 23:57:17 0
ねえ、差異と反復なんてフランス語で読みたいの? ドゥルーズはあの著作で何を言っていたか、明晰判明に要約できる人間 なんてここにいるのかね? たとえばさ、ドゥルーズみたいな数学の濫用を読んだら、ヴィトゲンシュタインやフレーゲは どんな反応をするんだろう? 差異と反復のあの、忘れたけど… 24の2+2+10×2の「細胞分裂」だっけ?いやーお粗末。 ヴィトゲンシュタインだったら、火かき棒投げて怒り出すんじゃないかな。 ねえ、そう思わない?
794 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/19(土) 00:01:13 0
まあ俺はそんなに粘着はしないタイプの人間だ。
>>781 のようにパラノイアックな反応もしないw
俺をどう扱うか、がこのスレの住民に問われることになるだろう。
そう、ドゥルーズを読んできたことの実践がここでできるかどうか、だ。
まあ、ドゥルーズの思想をインスタント食品にパッケージした浅田のように、
「逃走の線」を引く、という逃げ道は閉ざされていないがw
795 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/19(土) 00:03:56 0
差異と反復の中であまり注目されなかったのは、 「差分化」という概念だな。 翻訳では別の用語で訳されているだろうがw CとTが上下にある奴だ。
「哲学殺しが真っ赤になって何か言ってるようだね」
ウィトゲンシュタインと関わるのはとても悲しいことだ
798 :
741 :2009/09/19(土) 00:19:28 0
>>792 黄色寄りの黄土色の表紙ね。それ実家にある(笑)知り合いだったら、
Nietzscheはどぎつい赤の表紙だし、Spinoza et le problème de l'expression は
表紙にスピノザの肖像画(スケッチ版)があしらっていた。
邦訳版の戸田ツトムの装丁イメージとはずいぶん違うので、そのこと自体が面白いね。
読者層が違うだろうなと思われる(苦笑)
799 :
741 :2009/09/19(土) 00:22:39 0
>>798 の補足:知り合いだったら、貸し借りもできるのだけど、そこは2chの悲しさですね。
アレーテーラ
801 :
741 :2009/09/19(土) 00:34:25 0
>>792 >>789 のリンク先で在庫有りになっているから、洋書取扱店に発注すれば
たぶん入手可能ですね。なんかまた原書熱が復活しそうだ、ヤバい。
ルーマンの「社会の社会」1,2を買ったばかりで、金が無い(笑)
802 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 00:35:10 0
>>796 俺は別に興奮しちゃいない。ただ、不思議なんだよ。
なんであんな無意味な文章に皆夢中になるんだろうって。
俺ははっきり言って3秒で飽きた。
それに、ドゥルーズが何を言ってるのか合理的な説明もできない
ままにフランス語だとかさ、ばからしいよ。
まあ、ドゥルーズのいうように、「哲学は趣味」かもしれないから
いいんだけど。ここの人たちみたいに、なんだか趣味で本集めてる
方もいらっしゃるしね。
>>802 「合理性」や「明晰判明」をマジックワードにしすぎ
804 :
741 :2009/09/19(土) 00:43:14 0
>>793 どうしてもすぐに読みたい本(例えばCinéma 1: L'image-mouvement,Cinéma 2: L'image-temps)
は、原書で読むけど、邦訳がある場合は、対照させるために買う。場合によっては英訳で読む。
僕の場合は、だけど、全部原書で通読するわけではない。
但し、邦訳があっても、原書を持っていた方が、疑問点が簡単に氷解する場合が多い。
逆に、原書も誤植(特に註の部分)も多かったりするけどね。
805 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 00:44:28 0
孤独なんたらは意外にも結構ドゥルーズ読んでるっぽいな
uno kuriichiとかな
807 :
741 :2009/09/19(土) 00:56:43 0
そう言えば、前スレ?あたりで、différent/ciationで、分母がdifférenciationで、 分子がdifférentiationなのはなぜか?という議論があった。 自分なりの答えを書いてみたけど、後で鈴木泉が、これはなぜか良く判らないと 書いているのを読んで、シンクロっぷりが可笑しかった。
808 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 00:57:50 0
>>804 なーるほど。これは失礼しました。
ドゥルーズ読んでる人はどういう風な理解なんだろうと、俺が
さっぱりわからんので
興味本位で挑発してみたんだけど、皆さん肝が据わってらっしゃって。
やっぱり、別の畑には手を出さないほうがいいね。
俺は分析哲学の領域でがんばります。
皆さんもがんばってね。
>>808 一つだけ警告しておくと、
そういう偏見を持たない分析哲学者の方が伸びるよ
余計な警告は無用w
「偏見を持つな」は最も無難かつ虚しい警句
うわ! めっちゃ進んでる! ほんで741からレス貰ってへん! これは確かに寂しいな。秩序乱された! コテハンとかいて、わけ分からん言い合いだけでレス進んでたら、 たしかに置いていかれた気になるな! なるほど〜〜。そういう心理があって、コテハンは八つ当たりされんねんな。
814 :
741 :2009/09/19(土) 10:09:02 0
>>813 あなたとはもう十分にやりとりさせて頂いたし、たぶん学生さんだと思うから
>>741 ,
>>742 でアドバイスもさせて頂いた。これはテクニックのひとつだから、
実践しなくては意味が無いし、あなたが実践しなくても誰かが実践して下されば、
効果があることは保証する。で、あなたが
>>749 で実践すると言って下さったので、
>>750 で御礼も述べた。これ以上のやりとりは必要がないでしょう。
まあ、騙されたと思って、2年間50冊位の哲学書をこうした方法で通読してみては
いかがでしょうか。細かいやり方はアレンジすればいいですし、ノートを作るのも
有効です。幸いに(と言うべきか)僕が学生の頃と違って、ドゥルーズの邦訳書(に限らず)
十分に読める訳書が大量にある。宇波,岡田訳の「意味の論理学」なんか、原書との対照にすら
使えなかった、原書で読み込むほか無かったのですから、隔世の感がありますよ。
という訳で、ご理解頂けたと思うので、僕も名無しに戻ります。
741からはうざい教育者臭がしてしまうのは俺だけだろうか。。。
>>815 741が教育者面していてウゼェって奴はいるんじゃね?他にも大勢。
大体さあ、戦前の日本だったら、俺も含めてドゥルーズがどうのこうの、
原書がどうのと戯言を言える奴なんか、このスレにはほとんど居ないわけよ。
超格差社会だったんだから。白州次郎や正子なんかがブームになるなんて
信じられないね。俺らの殆どは、あいつらからすれば、ゴミみたいなもんだからな。
ドゥルーズだって、フーコーだって、超エリートだよ。東大生なんかと格が違うわ。
ドゥルーズの投身自殺を意味ありげに云々する連中がいるけど、 馬鹿馬鹿しいの一言だ。エコール・ノルマール・シュペリウールや アグレガシオンを受験する過程で、どんだけ自殺者が出てるんだってことだよ。 ドゥルーズはアグレガシオンに合格して、精力的に著作を発表して、晩年肺気腫のために 何年も人工肺に繋がれながらも、限界が来るまで著述をして、その後自殺したんだよ。 しかも「内在−ひとつの生」には全くぶれがない。 十分に良き人生だったと言うべきだね。
818 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 12:24:13 0
>>741 さんは、たぶん絡んでいたコテと同じぐらいの資質何だと思う。
レスを見ていてすごく子供っぽいんだがそこに読書術における緻密さなんて
皆目感じられないところを見ると、結局、緻密な思考をすることができないんじゃないかな。
例えば、論理命題うんぬんに関する批判にしても、げんなりする。
ドゥルーズはそれこそ貴方のような読者をもっとも批判するんじゃないだろうか。
いつもおもうんだよ。緻密に読めてない、からこそ、緻密に思考することができない。
>>741 さんがレクチャーした方法で読めば、ある特定の目的に沿った意味での「読むこと」は
成立するかもしれないが、それって何か意味あるの。
まじで、741みたいな人にはげんなりする。多分そういう人は原著でいくら読んでいようが、
何も読むことができていないんじゃないかとすら思う。たぶんたずねたらすらすらと用語説明から
概念説明までしてくれるだろうけど。あほらしい。
>>817 ドゥルーズも闘病で、鬱になってしまったんだろう。
そういう時は、理性なんて糞みたいなもんさ。
ただ、苦しみから逃れたいという気持ちでダイブ…(合掌)。
読めてる読めてないバトルは一切意味がない
>>820 そのとおりだね。俺は好きなように読めばいいと思うんだけど。
特に818とか、落ち着いてスピノザ嫁
>>818 事前に意味や意義が解っていることしかやらない、勉強しないんだったら、
哲学なんてやらなくていいよ。じゃあとにかく誰でもいいから、自分に合うと
思える古典的哲学者の全集だけを読破してみれば、って言っても、それって何か意味あるの?
でしょ。実際に自分の手と頭と時間を使ってやってみなければ、何が得られるか分からないじゃ
ないか。やる前にやったらどうなるか、なんて考えているようじゃ、何も学べないだろ。
ドゥルーズが最も批判するのは、正当性を担保に他者を抑圧する言説だろ。
ヌーヴォー・フィロゾーフに対する批判に顕著だけどさ。テキストを形式的に読むことは
むしろ推奨している。ごちゃごちゃ言ってないで、指紋が消えるくらい本を読んでみればいいじゃんか。
まぁでも、緻密に考えることができない人は、緻密に読むこともできないとおもうよ。 ドゥルーズ好きな友人って周りに何人かいたけど、自己啓発本みたいな扱いで読んでるよね。 本人達はそういわれたら激怒すると思うけど、第三者からしたらそう見える。 まぁ、ドゥルーズの中にそういうものがあるのだろう。
825 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 12:54:05 0
>>823 笑った。いやだから、意味なんていらないじゃない。
だからこそ好きなように読めばいいし、緻密さなんて馬鹿らしいよ。
テキストを形式的に読むとかうんざりなんですけど。そもそも、テキストを形式化して
消化していった果てが浅田みたいな人なんでしょ。
俺の私見だけど、哲学科が文学部に多くあること自体が駄目だと思う。 ぶっちゃけ、理系、特に理学部出身者、それから法学部出身者の方が、 哲学の話も通じやすい。逆裏対偶くらいで、むかついているようじゃ、 緻密な思考力を持っているとは思えないし、スピノザなんて読めるとは思えない。 そりゃ読んで欲しいけどね。途中で、これって何の意味があるの?になるんじゃない。
827 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 13:16:19 0
>>826 いや別にむかついているわけじゃないよ。逆裏待遇、なんてことはどうでもいい。
ただ、げんなりするってだけの話だよ。スピノザも興味ない。ドゥルーズにも興味がない。
なんつーか、いろいろげんなりしただけですよ。貴方のレスにもげんなりする。
話が通じやすい、とか、何それ、みたいな。
緻密なテクストとやらを読んでいる人間がするような発言かよ、ってことですよ。
つまり、お前らそもそも「緻密だ」とか言い合ってるが、緻密を読むほどの、緻密な
思考がお前らの中にあるんですか、レスを見ているとまったくそういうのが感じられませんよ、
ということです。だからげんなりするばかりなんですよ。
まぁ、こんなもんでしょうけど人間なんて。あほらし。
>それって何か意味あるの。 vs >意味なんていらないじゃない。 で議論してくれ。自演だったら、なおさら面白い問答になる。 但し、よそでやって欲しいね。スレ立てしてさ。いくらでもあるじゃん、 そういうスレ。
鏡w
>まぁ、こんなもんでしょうけど人間なんて。あほらし。 鏡w あ、自分だけは特別なのかw
>>825 >好きなように読めばいい
スピノザ的に言えば、好きなように読む以外の読み方はできない。
形式的に読むのが好きなら、そう読むことしかできない。
でたらめに読むのが好きなら、そう読むことしかできない。
浅田彰の名前が出てきたけど、「構造と力」を読んだことがあるのか疑問。
あれは、(本人の弁とは異なり)テキストを形式化して消化していった本ではない。
テキストの一側面を裁断し、摘出して、浅田彰のパースペクティヴに配置し直した本だ。
浅田彰のパースペクティヴ自体は、形式的(ツリー)だが、原テキストを形式化している
わけではないから、「構造と力」を読んでも、各思想家のことは判らない。
実際、「構造と力」を読んで、ドゥルーズ=ガタリが解ったなんてことはあり得ないでしょ。
>>831 そうそう、「小僧と仂」は飽裂堕 空裸のご紹介本
こういう人がいますよという本だね
>>789 遅レス失。ありがとう。
2000年に再刊されてたようですね。連休中に発注してみます。
834 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/19(土) 16:09:38 0
>>807 俺が「差分化」と呼んでるやつが、différent/ciation。
デリダが一時期、ディフェランス(eとaが聞き分けられない)を特権化したようには、
ドゥルーズはディフェランシアシオンを特権化しなかったわけだ。
>>813 >これは確かに寂しいな。秩序乱された!
俺のせいだったら、すまんな。
しかし、ノモスあるいはコスモスという秩序と
カオス(混沌)とが相反しない世界こそ
ドゥルーズが描くカオスモスの世界じゃないのかね?
>コテハンは八つ当たりされんねんな。
確かにコテハンに変な奴が多いのは事実だw
まあ俺が変な奴でないという保証はないにしてもだw
ただ、コテハンというだけで煙たく思う人間もいる。
そういう「イメージ」をあらかじめ持ってしまってるんだな。
ドゥルーズが言っていた「イメージなき思考」から遠く離れて、ねw
835 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/19(土) 16:14:51 0
>>817 >>819 >ドゥルーズの投身自殺
俺はあの自殺を哲学的に考えているよ。
ドゥルーズらしいとさえいえるんじゃないかな。
>>820 ほか
>読めてる読めてないバトルは一切意味がない
意味、は何によって生まれるかといえば、
解釈、によってなんだよ。
だから、解釈という行為抜きに意味を考えても駄目だ。
「裏」で考えている限り、二項対立図式の罠にはまる。
「意味がある」の「裏返し」で「意味がない」となるのは、
問題の本質を見誤るんだよ。
その図式を「ひっくり返す=逆にする」ことこそ
ドゥルーズがニーチェに見出した「転倒」なんだからw
836 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/19(土) 16:27:05 0
>>818 >多分そういう人は原著でいくら読んでいようが、
>何も読むことができていないんじゃないかとすら思う。
↑の意見は俺が
>>788 で書いた↓の、
>真に読むということは実践を促すものだ。
>バカは空疎な「知」に留まる。
という意見と重ねるんじゃないかな。
実践をもたらさない読みは、真の「読み」ではない、ということだ。
837 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/19(土) 16:34:16 0
少し前のレスでバタイユとドゥルーズを対比してたレスがあったな。
>>766 か。あんまりバカがにじむ書き込みはしないほうがいいぞw
>バタイユのは主張が明確であり、根拠も説得力がある思想だからね。
これはバタイユの曖昧さをまったく読めてない浅はかな意見だろう。
言葉がちょっとキツイか? まあ事実だからしょうがない。
838 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 16:43:53 0
真にドゥルーズを読んだことによる実践が、2ちゃんに貼り付くことですね。 わかります。
839 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 16:48:11 0
>>837 ついでに2ちゃんで知覚されなくなることも、ぜひ実践してください。
知覚されないで存在してる方がやだろ
841 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 17:58:21 0
こいつだれかたたきのめしてくれよ
842 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 18:00:24 0
クソコテがムカツク
結局、アンチオイディプスには何が書かれているんですか。教えてください。 また、一般的に、アンチオイディプスにはこのように書かれているとされていますか? 教えてください。 そういうサイトがあればついでに教えてください。
844 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 19:35:59 0
あまりにも抽象的な質問すんな
放っておきなさいな 構うから付け上がるんですよ
846 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 19:45:08 0
コテにびびってられるかって
無意識は生産工場である というAOの主張は検証されてるんでしょうか?
848 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 22:09:03 0
>>843 「アンチ・オイディプス」要約。
・持続において存在するとは、ただひとつにして絶対的に無限な実体、
すなわち器官なき身体の変容体(様態)として、必然的に現勢化することである。
・器官なき身体は、絶対的かつ自由に存在する唯一の個体であり、その潜在的ポテンシャル、
ならびに能産的力は無限である。
・現勢化した全自然の中に、空虚や欠如は存在しえない。全ては自動機械として連続的につながって
おり、アトミックな変容体(様態)などない。自律的な個体ないしは主体は錯覚であり、従って、
錯覚としての主体化のプロセスを分析する必要がある。
・器官なき身体には、生産性しかない。従って、欲望とは、その変容体(様態)が、存在を維持しようと
する努力(コナトゥス)以外ではない。また変容体(様態)も、唯一の個体である器官なき身体の「部分」である
がゆえに、個体であるが、その境界線は実際には存在しない。
・現勢化した全ての変容体(様態)は、器官なき身体の能産的な力によるものであるから、人工物と自然の対立は
存在しない。全ては自動機械として連結している自然である。
・有機体と無機物の間にも本性上の差異はない。器官なき身体が、一個の非−有機的生命である。
・社会体もそれが器官なき身体の変容体(様態)として捉える限り、様々な様相を持ち、不断に変化する
自動機械である。原始大地機械、専制君主機械、文明資本主義機械などのタイプ分けができる。
・核家族機械と精神分析機械は、「主体」の欲望を最大限に解き放つと同時に最大限に抑圧(公理系化)する、
資本主義機械に奉仕する機械である。無際限の消費・所有欲の生産と貨幣の公理系の生産によって、
「主体」を本来の力能から分離する機能を果たしている。
・「主体」がその力能から分離される最大の原因は、権力への積極的隷属、権力への愛である(ファシズム)。
権力を愛することをやめよ。
・器官なき身体の現勢化した変容体(様態)は、権力を愛すること、所有すること、快楽を欲することが
少なければ少ないほど、本来の力能を発動すること大であり、欲望すること(コナトゥス)大である。
はい。
まぁ、
>>848 よりも、ドゥルーズの方が長々と書いたわけだけどね。
僕は一行でまとめれるよ。
要は、ラプラスの悪魔的な決定論だって言ってるんでしょ。
それを何であんなに分厚い本にまとめなきゃいけなかったの?
ドゥルーズはバカなの!?
何、欲望する生産って。器官なき身体ってなんなの。なんでドゥルーズについて語る理由があるの?
ついでに言えばアンチオイディプスはキルケゴールのパクリだし、千のプラトーはニーチェのパクリね。 このドゥルーズのスレッドが6まで伸びたのは奇跡。 早く哲学史から消えてくださいね。 お疲れ様でした。
歴史ってのは積み重ねだから、哲学史としては別に消えなくていいんじゃないの たとえば柄谷はカントの言葉で語ればいいんで、ドゥルーズとかラカンとかいらないと述べている
852 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/19(土) 22:59:17 0
>>849 >ドゥルーズはバカなの!?
まあそう思う自由は君にもあるが、
はっきり言おう。バカはお前さんだw
>>850 >早く哲学史から消えてくださいね。
まあお前さんが消えたほうが
世の中のためにはなるだろうなw
>>851 柄谷のアイディアはけっこうドゥルーズやラカンに由来してるんだよ
だからそういう形で否定する
854 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/19(土) 23:03:41 0
ドゥルーズが「アンチ・オイディプス」で「死」を扱うとき、 アルトーからかっぱらってきてアレンジした 「器官なき身体」という概念と関連づけているわけだが、 それをジジェクもデリダも読めていない。 デリダは「アポリア」で「死」を扱ったが、 基本的にそれはハイデガー経由のフレームを引きずっている。
855 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/19(土) 23:07:36 0
>>851 柄谷の言葉を楯にして語るバカがまだいるとはなw
柄谷はド・マン経由でデリダのアイデアを使っている人間で
ドゥルーズを読めるスキルもセンスも持ち合わせていない。
856 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 23:26:02 0
>>849 レスは要らない。個人的な不快感の解消だからね。
>要は、ラプラスの悪魔的な決定論だって言ってるんでしょ。
全然違う。ドゥルーズは原子論を採らないし、ベルクソン的な予見不可能な
新しいものの生成を論じている。スピノザが決定論だと言うのも、スピノザを
読んだことがない人の素朴な誤解だ。
>なんでドゥルーズについて語る理由があるの?
プラトニズムの転倒とか、入門書だけ読んで知った風なことを言う人がいるが、
ドゥルーズの業績は、カントの超越論の更新にある。経験的なもの(現象)に依らずに、
超越論的な領野を設定する端緒を拓いた。これは決定的な思考の転換だ。
人は、下劣なものの考え方や言動をするためには、それが出来るための条件下におかれる
必要がある。
>>849 は下劣さを曝け出さざるを得ない条件下にある。それは気の毒ではある。
少年ジャンプのバトルもののヒーロー気取りで勝利宣言をする、幼児的な人間はいつでもいる。
「権力の誘惑に屈服するな。権力を愛すること(喜びを引き出す事)をやめよ」というのが、
「アンチ・オイディプス」のメッセージのひとつだが、分からない人には分からないことだ。
857 :
考える名無しさん :2009/09/19(土) 23:42:03 0
ドゥルーズは「身土不二」の思想を良く表現している。
>>856 >新しいものの生産を論じてる
だからそれはなんだよ。
何にも論じてないじゃん。犬語で論じてるのかは知らんが。
859 :
考える名無しさん :2009/09/20(日) 00:34:26 0
>>856 >少年ジャンプのバトルもののヒーロー気取りで勝利宣言をする、幼児的な人間はいつでもいる。
なるほど、あなたのことですね。つーかさ、話が下劣なのはお前だよ。
ユビーとかいう人は別に人を不愉快にするようなことは言ってない。
消えろ。
返しのレベルが低すぎる
自演が吹き荒れてるのか馬鹿が大挙してるのか知らんが、 どうしようもないレスが一気に増えたのはどういうわけなんだろうな 俺は自演説に一票を投じよう
そりゃ自演でしょう、どう見たって。
863 :
考える名無しさん :2009/09/20(日) 00:50:42 0
おれも自演説に一票 ノシ この板はID出ないから自演し放題だもんな
ユビー ◆6wmx.B3qBEが、昨日から性質の良くない貼りつきをして、延々と
>結局、アンチオイディプスには何が書かれているんですか。
みたいな事を言っているし、それに誰も答えないのも問題かもしれないと思ったので、
>>848 と
>>856 を書いたのは俺だ。あとは自演か何か知らん。
連休だからじゃないの。ユビー ◆6wmx.B3qBEは子供だと思うけどね。
866 :
861 :2009/09/20(日) 03:55:07 0
いや、無論、真摯なレスまでも自演と呼んだわけではなく、 ユビーが名無しで同時にスレ誘導しながら馬鹿レスを増やしているという意味ね
867 :
考える名無しさん :2009/09/20(日) 09:32:42 0
くだらねえばかどもだな。 哲学やってて自己言及って言葉もしらんのか? 「いいえ、私は自演していません」っていったってわかるわけねえだろ
('A`)ノ くまの子みていた ノ( ヘヘ ('A`) かく ('A`) れん ∨) (∨ (( )) ヽ('A`)ノ ぼっ♪ ( ) ゛ ゛/ω\ ('A` ) おしりを出した子 いっと… (⊃⌒*⌒⊂) /__ノωヽ__ __[警] ( ) ('A`) ( )Vノ ) | | ω|
869 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/20(日) 10:56:34 0
これぞ2ちゃんねる名物「自演騒ぎ」かw
やはりこのスレのレベルは俺の想像通りのようだなw
かろうじて
>>867 が匿名BBSの基本に言及しているが、
そのほかのレス、特に
>>865 >>866 はバカっぽいなw
>>867 の言う通り、「自己言及」という言葉を知らないかのようだ。
レスの時間帯で
>>865 と
>>866 のほうが自演にみえるわけだからな。
深夜の3時台にご苦労なこったw
まあ自演と思うのも思われるのも嫌なら
俺のようにトリップをつければいい話だし、
それで駄目ならIDの出る板に誘導すればいい話だ。
コピーなり誰かが自演してるかどうかなんてまだろっこしい話より、
俺のようにバカにはバカと教えてあげたほうが「真摯」ってもんだよw
870 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/20(日) 10:57:37 0
コピーと名無しのバカ同士の掛け合い漫才は笑えるとはいえ、 ここにはもうちょっと骨のある奴はいないのかね?w
871 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/20(日) 11:08:55 0
ドゥルーズを読む意味、は ドゥルーズをどう読むか、という読み方(解釈)次第だ。 たとえば、彼を哲学史家のように読んでしまえば、 出来の悪い哲学者のように見えもする。 彼を論理学者のように読むことも同じだ。 ドゥルーズを読む場合、読む「角度」が問題になる。 それに触れない読みは贋の読みになるだろう。
741って野矢の論理トレーニングの丸パクじゃんw
そろそろ評伝を読み終えた人もたくさんいるだろうから、 できればそのへんをワイワイやりたいところなんだけどね。
875 :
子瓜キ虫白勺走召糸色文寸米青ネ申 ◆Fg3.H1LKWk :2009/09/20(日) 16:44:07 0
>>872 まあそれは外れてはいないだろう。
俺はサービス精神が旺盛なところがあるからなw
>>874 俺は評伝などにはたいした興味がないんで
そういうレスが流れたときには黙って身を引こう。
>>873 野矢茂樹の『論理トレーニング』読んでいないのに、読んでいる振りしている奴発見
正直、デディエ・エリボンが評伝を書くと思っていたのだけどね。 「思い出すこと」の完全版って、どこかで読めるのかな。 ドスの交差的評伝の出来がいいから、次はけっこう難しいかもしれない。 『構造主義の歴史』からすると、ずいぶんD&Gに好意的な評伝になっているので、 ちょっと驚いた。
>>878 どこよ、俺持っているから、頁を示してみろよ。
それに
>>741 は例題と回答じゃないだろ、そもそもさ。
おお不毛不毛
881 :
考える名無しさん :2009/09/20(日) 20:42:41 O
今こそドゥルーズを読み返す(講談社現代親書
翻訳出たルーマン「社会の社会」でドゥルーズが3箇所ほど言及されてたが ドゥルーズとルーマンは重なるところあるのだろうか
>>882 確かほとんど「意味の論理学」の参照だったよね>ルーマン「社会の社会」
オートポイエーシス的な発想という点で共通していて、それで肯定的な言及に
なっていたと思う。2箇所は註で触れてるくらいだけどね。
884 :
考える名無しさん :2009/09/21(月) 05:02:53 0
ドゥルーズが自分にとって必要がないと思ったら、違う本を読めよ。
わざわざこんなとこで「議論」を吹っかけたりするのは、
それこそ非生産的だし、合理的な行為じゃないだろ。
。
それが必要ないと思ったらさっさと違うことやれ、ドゥルーズに変なもんを投影すんなや。
>>882 社会学の稲葉がどっかで言及してた。
885 :
考える名無しさん :2009/09/21(月) 09:46:25 0
誰に何を言ってんのやら>884
ドゥルーズのなにが間違っていたのか?
あれって今読むと言いがかりなのが丸わかり
樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」 は、PC画面だと長文を読む気がしないから、ちゃんと読んでないけど、 要は、 ブルトンが存在論的にシュールレアリスム、アルトーが存在的にシュールレアリスムと言われていたのと同じように、 ドゥルーズは存在論的に分裂症etc、ニーチェetcは存在的に分裂症etcとして批判しているようなもんでしょ? でも、意外にこの論文を重要な批判と位置付けている研究者が多かったりするよね?新たなドゥルーズ論はここから始めなければならない、みたいな感じで。
ジジェクやバデュウの批判が、正当性を欠くなりに受け入れられているのと似ている
樫村晴香自身が病者のポジションを占有しているのが詐術だと思う
デリダが追悼文で言及していた、デリダとドゥルーズの対談が読みたかった。 実現しなかったのは、単にドゥルーズにその気がなかったからなんだろうけど。
>>892 そこの森って人はホワイトヘッドの若手研究者だね
>>893 なんかアワーミュージックの地獄篇に近い音楽の使い方だな
映像選択は良くも悪くもゴダールと違ってて面白いが
895 :
考える名無しさん :2009/09/21(月) 17:14:57 0
つーかシモンドンを早く邦訳して欲しい…。
ドゥルーズの名を冠された 翻訳は知る限り37冊程 あります。 この議論がAOの それも第一章のみ への言及からなされていること が、本来それだけに 議論の重要性があるかのように 提示されるのに疑問があります。 今もドゥルーズを読んでいる 私には話が偏っているように思います。
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20) フライデー事件で離脱しかけのPerfumeファン Part43 [女性アイドル] フライデー事件で離脱しかけのPerfumeファン Part42 [女性アイドル] フライデー事件で離脱しかけのPerfumeファン Part41 [女性アイドル] orz。。。。。。。。
所詮、哲学なんて趣味でしょ 囲碁・将棋と同じ
899 :
考える名無しさん :2009/09/21(月) 22:52:48 0
>>898 一生懸命考えた結論がそれか(笑)
んじゃあ論理学は?
議論で勝てる技術を学べるために有用だから、趣味じゃありませんってか?
PerfumeじゃなくせめてAKBにしてほしかった
901 :
考える名無しさん :2009/09/22(火) 23:38:51 0
Perfumeネタが出てきて一気に勢いがなくなった件について
903 :
考える名無しさん :2009/09/23(水) 00:41:29 0
大澤真幸氏の一件はショックだな。 ドゥルーズにも影響は受けているでしょ。ニューアカ後発組だし、 初期の著作は、浅田彰の放言を論理的に裏付ける感じのものがあった。 この人の著作は、ロジカルには「きっちり」しているのだけど、 何かが違う、という印象があるんだよな。『行為の代数学』は勉強になったけど。 ドゥルーズの場合、最初は異様な言説に思えても、後から深く納得が行く。 何が違うんだろ。モチーフというか、初発の問題意識が違うのかな。 非常にひっかかる。分析哲学も、近年は分析的形而上学の方向が出てきていて、 存在論なんかもやっているんだけど、どこか論理のための論理という印象がある。 現実に肉薄する、というモチベーションが希薄なのかな。
セクハラか。 この問題は外から見るだけじゃ、よくわからん。
「意味の論理学」を読むと、ドゥルーズにとってアルトーという存在は 相当大きいなと思うね。「戴冠せるアナーキー」と「神の裁き」くらいしか 読んでいなかったのだが、後期集成も気になってきた。江川隆男の「死の哲学」が 面白かったということもあるけど。しかし、アルトーを読むのは、かなりキツい経験 ではあるんだよな。相当集中して入っていかないと、わけがわからんから。
907 :
考える名無しさん :2009/09/24(木) 18:19:41 0
神の裁き、冒頭部分だけ読んだことあっけど、あれはしんどいな。 まぁ基本は統合失調症だからそうとう高密度な連想作用でやってかないと 理解できんよね。
江川隆男「死の哲学」って読みやすい? ドゥルーズの研究本は読みとおすのにえらい時間かかった。
>>908 「存在と差異」を読まれているのなら、江川氏特有の前提を捉えているわけですから、
「死の哲学」はとても読みやすいと思います。「スピノザと表現の問題」や「ニーチェと哲学」を
読んでから、「スピノザ−実践の哲学」や「ニーチェ」を読むような感じではないでしょうか。
(というか、こちらは「存在と差異」が途中で止まっているので、こんなことを書くのも恥ずかしく、
思わず丁寧語になってしまうのわけですが:笑)
アルトーとスピノザのカップリングは、カントとサドの組み合わせに匹敵する面白さだと思います。
アルトーやベイトソンはバリ島に着目すると突然具象化される。 ドゥルーズは そうしたフィールドワークの成果を使うのがうまい。 永劫回帰発見、馬に泣きすがったエピソードを見ると、ニーチェもそうした フィールドワーカーとしてみるのが正しいような気がしてくる。
存在と差異は難解だよなー
912 :
考える名無しさん :2009/09/26(土) 20:09:45 O
うめ
アルトー後期集成T,V買っちまった。本気で浸ってやる。 ツェランにどっぷり浸っていたときは、かなり快感だったけど、 アルトーはどうなのだろう。 ところで、ドゥルーズ副読本として、意外と役に立ったのが、 銀林浩の「量の世界」。もちろん、ドゥルーズの強度は哲学史も踏まえた 独特の用語なのだけど、内包量と外延量の違いを体系的に理解するには良かった。
>>554 を読んだ人いるかい?
やはり、べたな入門書なんだろうか?
>>914 一応読んだ。すごく微妙な感じで、何とも言いづらい。
ドゥルーズの「此性」概念を、具体例、例えば名人の作るラーメンを
食べたときの「これだ!この味だ!」って感じのこと、という風に説明してるんだけど、
それってクオリアじゃん?みたいな、首を傾げつつ読まざるを得ない本。
時々成る程って思う箇所もあり、え?みたいな箇所もあり。かな。
あと、著者の自負が凄い。ドゥルーズの謙虚さを讃えつつ、解説者が偉そうなのは、
他の入門書にもあるけど、こういう風潮は何とかならんのか、と思った。
まさにクオリアについて差異と反復で論じているからねえ…… (正確には「質」概念の諸契機という仕方で)
917 :
915 :2009/09/28(月) 22:34:35 0
>>916 澤野雅樹の書き方だと、ベタに茂木健一郎の「クオリア」って感じで、
ちょっと混乱するんだよね。日常生活の具体例に即してドゥルーズを
活用する、それを実践してみせるってコンセプトの本なんだけど、
違和感の原因は、澤野の書き方だと、ドゥルーズの非−主意主義、
非−人称性、非−個体性のニュアンスが実質的に消えてるところにあると思う。
どこかヒロイックというか、ナルシスティックというか、そんな印象を受けて、
間違ってはいなのかも知れないけど、じゃあ精確かというと違うなあという感じだ。
ま、俺はもともとサドッホ嫌いだしね(笑)
非人称的個体化とか前個体的特異性とか図式にすると「なるほどねー」って 感じだけど、実感としてどういうことか分かるやつはいるのか 自分のことを「私」「自我」とは別の仕方で捉えるとか想像すらできない まあ、それほど主体や人間性や理性に快適に囚われてしまってるんだろうけど
分裂してみれば?
>>919 たぶん哲学というものの捉え方が違うのだと思うんだけど、少し注意して
観察してみれば、アトミックで自律的な「私,自我,主体」と、自身の言動や
在り方はほど遠いことが実感できるんじゃないかと思う。熱中しているとき、
放心しているとき、入眠時などに、「私の自我が主体的に機能している」とは
意識しないでしょう。そもそも想起すること(思いつくこと)自体が「自由」には
ならないのに、その想起したことを行うのが「主体(私)の自由意志による」ものだとは
考えられないと思う。
>>920 は「分裂してみれば? 」と言っているけど、わざわざ分裂してみるまでもなく、
分裂しているわけでしょう、実相は。哲学というのは、そういうもので、例えば「モナドを
表現した絵です」「スピノザの様態を表したオブジェです」「ドゥルーズの潜在性をモチーフに
した建築です」等というのは、冗談としては面白いかも知れないけど、本当は意味が無い。
全て(とあえて言うけど)がモナドであり、実体の様態であり、潜在性の半身を持つのだから、
その辺の石でも塵芥でも、モナドであり、様態であり、潜在性を半身として持っているわけでしょう。
個人的な考え方かも知れないけど、哲学というのは、ヘーゲルの弁証法にしても、現実の実相そのものを
捉えようとするもので、にもかかわかず、相互に齟齬を含みながら最終的に総合されえない、というところが
その面白さだと思う。
ドゥルーズは自己責任で内在平面を構築しなさいと言ってましたけど 内在平面の段階じゃまだ主体はできてないわけですから、 責任がどうとは言えないのではないでしょうか?
>>921 そうはいうが、ドゥルーズには大量の芸術論があるわけで、作品の此物性を極めて重視してたでしょう。少なくともあなたの抱く普遍性とは違う仕方で哲学を捉えているのでは。
>>923 俺としては、誰がドゥルーズの読者としてよりふさわしいか的なことには、
関心がない。単純に蒙を啓いてくれるレスがあれば、喜んで学ばせてもらいたい、
というのが本音です。個人的には、徹底的に読んだと言えるのはスピノザの著作で、
ドゥルーズも「スピノザと表現の問題」が最も精読した本なので、ドゥルーズ自身の
哲学については、まだまだこれから学びたいという段階。
なので、あなたの仰ることは尤もかも知れないと思う。ただ、違和感を感じるとすれば、
ドゥルーズは自らを「古典的な哲学者」と規定しているし、その哲学はいわゆる一般原理という
意味での普遍性を目指したものではなくて、1回限り、ひとつきりとも言えないような、ユニックなものの
存在論(差異のみが反復する。差異=反復)だと理解している。
その上で言えば、AOに関するインタビューで「作家や文学者が精神分析医より深く分裂者について理解している
(からと言って、私たちに責任はないでしょう)」と述べていることから、作家論と言っても、思考の可能性を
拡大したか否かという観点から読んでいる傾向が強いし、美術論にしても特異な「被知覚態(Percpt)−触発(Affect)」
のそれ自体としての存立(人間が不在でもよい)を論じていると思う。
換言すれば、ここでも「身体には=精神には何ができるか」が探求され続けているし、
身体=精神の非−人間的なものへの生成変化を見い出そうとしているのであって、
シンギュラーなものの存在論、内在、新しいものの生成という「枠組み」から外れることはなかったと思うし、
そうだからこそ、「無邪気に哲学をやっていた」と言うのは事実そうなのだと思う。
俺が言ってるのはここ。
ドゥルーズがそういう対象を見出したから、作品について書いたわけだ。
だからこの言い方は、悪い意味でプラトン的な詩人追放論に陥ってる
>>921 >例えば「モナドを
>表現した絵です」「スピノザの様態を表したオブジェです」「ドゥルーズの潜在性をモチーフに
>した建築です」等というのは、冗談としては面白いかも知れないけど、本当は意味が無い。
926 :
924 :2009/09/29(火) 23:52:00 0
つまり、確かにドゥルーズは一般原理としての普遍性や全体性を鑑みることは 無かったけれども、だからと言って、この世界に「超越」が在るとか、ヘーゲル的な 弁証法が事物や出来事の生成原理だとは認めないわけで、やはり全てがユニックなものの生成であり、 最終的な全体に総合されることのないもの、汲み付くし得ないもの、消尽し得ないもの(器官なき身体、 絶対的内在)を「根底」に置いていたことは、事実だと思う。
そんなの常識ですよ ただ、あなたが「哲学すること」のドグマ的なイメージを拭い去れているのか、そこがちょっと気になったまでのこと。
928 :
924 :2009/09/30(水) 00:04:55 0
>>925 申し訳ないが「そういう対象」とは、どういう対象のことですか。
>>924 の第三段落で俺が書いたような対象という意味でしょうか。
だとしたら、考えていることは、さほど異ならないと思うのだけど。
(あと、プラトンの「国家」における詩人追放論は、ドゥルーズが論じたような
新しい被知覚態を創造する芸術家を追放しようという趣旨ではなくて、ホメロスなどを
丸暗記して、そこから自分で思考せずに、一般的な教訓を引き出す、「歩く百科事典」のような
人々を「詩人」と呼んでいると俺は理解しているので、ちょっとその指摘はよく分からない)
929 :
924 :2009/09/30(水) 00:09:00 0
>>927 なるほど、了解。気をつけますね。
但し、「そんなの(ドゥルーズを読んでいれば)常識」なことだって、実際明示的に書くのは、
俺なんかには一苦労なんだけどね(苦笑)
とにかく、 ドゥルーズは批判哲学寄りにも読めるし(ドゥルーズA)、実在哲学寄りにも読める(ドゥルーズB)。 現状ではカントを読まないでドゥルーズを読む弊害を被っている人が多すぎるので (スピノザも実はカントと比較しないと意味がない)、 個人的にはカントの様相の哲学の範疇(ドゥルーズが着目した共通感覚ではない)にあくまで ドゥルーズは収まっている、と言っておきたい。 ちなみにハイデガーはカントの現存在にクラインの壷(浅田彰が明確化した)を見出しており、 これは柄谷、東の言を待つまでもなくドゥルーズが無意識?に使用した、実在論と批判哲学を つなぐトリックである。 概念の生産性を重視したドゥルーズにとっては確信犯的行為ではあったのだろうが、、、、
931 :
924 :2009/09/30(水) 01:44:38 0
>>930 ちょっと同定が難しいので、俺がレスするべきなのか分からないのだけど、
確かに「差異と反復」を読むためには、カントの特に超越論が解っていないと、
議論を追うことすら難しいというのは、確かだと思う。
理由は簡単で、「差異と反復」でドゥルーズが行った主要な探求は、
いかにして「新しいものの生成」を肯定できるシステムを構築できるかを、
カントの超越論の枠組みを更新する形で行う、ということだったからだ。
その意味で、ドゥルーズはカントの超越論的哲学の範疇に収まっている、という
言い方も可能だと思う。
しかし、同時にドゥルーズが最も批判するのもカントの超越論的哲学のシステムであって、
具体的には、カントの哲学が<理念=問題>を<現象=解>の側から規定している点を批判
している。<現象=解>を可能ならしめる条件として<理念=問題>を設定するのでは、結局、
学校的な「答えから問題を作成する」ことにしかならないので、本来的に新しいものの生成を
肯定するシステムは作れない、ということになる。
おそらくここが一番議論になるところでしょう。俺の理解の範囲では、ドゥルーズが行ったことは、
<理念=問題>を<現象=解>の側から規定するのではなく、逆に無数の未知なる<現象=解>を
生成する位置に<理念=問題>を置きなおす、という作業だ。つまり、「あらかじめ答えが分からない
問題、無数に未聞の答えを産出する問題」を設定する試みだ。ここで初めて「潜在性」の領野が要請される
必然性が出てくる。カント哲学における「超越論的な(先験的な)条件」を、非−現実的なフィールド、
すなわち「潜在的な領野」に落とし込む必要性があるからだ。発生論的に考えるというのが、スピノザ哲学の
要諦だが、<理念=問題=潜在性>という設定し直しによって、初めて、潜在的なものの現動化というかたちで、
真に発生論的なシステム、答えに依存しない問題、新しいものの生成を肯定できるシステムが稼動するのだと思う。
個人的には、ドゥルーズは、上に述べたように、カントをスピノザ的に更新したのだと
現段階では理解している。
カントの様相君はシニカルなレスが目立つ 論文書いて欲しいね
その発想はマイモンに非常に似ている、と「ドラマ化の方法」で指摘されてましたね
なんかすごく勉強になる。
>>921 >
>>920 は「分裂してみれば? 」と言っているけど、わざわざ分裂してみるまでもなく、分裂しているわけでしょう、実相は。
DGが言うところの「プロセスとしての分裂症」は?
936 :
924 :2009/09/30(水) 22:01:49 0
>>933 「ドラマ化の方法」(「無人島1953-1968」所収)は、「差異と反復」の
最良の入門になりますよね。実質的に、国家博士号請求論文の口頭試問に近いから、
質問も厳しいし、ドゥルーズもあたう限り明確に回答している。マイモンの影響に
ついても、ドゥルーズは率直に認めていますね。
>>935 質問の意図が分かりにくいのだけど、AO第二章第三節「プロセス(過程)」を主に念頭に
置いた問いだと解します。まず、ドゥルーズが、徹底的な「非ー主意主義」の立場を取っていることを
想起してもらいたい。思考にしても、それを発動させる、外部からの暴力が駆動因としてなければなないし、
「下劣」であるにも、そうあるしかない条件下の置かれなければ、下劣になれない。
従って、「分裂しよう、分裂者になろう、自由な人間になろう」とアトミックな主体が自律的な意思を行使して、
そうなれるものではない。究極的には、自由意志が問題なのではなく、認識が問題になります。
つまり、「分裂者=自由で無責任な、孤独で陽気な人間として生み出され」る、ということは、
境界が曖昧な自然の一部としての「人間=個体」が、その本性として持つ力能の必然性に従う比率が、
最大限になる(スピノザの用語で言えば、能動>受動)ことです。そこで、能動が100%になるということは
あり得ない一方で、受動が100%になることもあり得ない。常に能動と受動の比率は連続変化し続けているわけで、
これが「プロセス(過程)」なのだから、全く分裂者であることがゼロということはない。
認識における肯定は、感情における喜びであり、精神=身体における能動ですから、
認識において肯定を増大させること、即ち自身を含めた自然=この世界の「必然性」を認識すること、
「可能性」を滅すること、これが逆説的に「自由」に結びつく。これが「プロセスとしての分裂症」だと
個人的には解しています。
937 :
924 :2009/09/30(水) 23:09:46 0
訂正:AO第二章第三節「プロセス(過程)」→AO第二章第九節「プロセス(過程)」
938 :
考える名無しさん :2009/10/01(木) 03:29:05 0
なんでお前らそんなに賢いんだ みんなの職業は何なの? 先生とか教授とかなの?
939 :
考える名無しさん :2009/10/01(木) 03:32:28 0
>>938 学部レベルで熱心な人なら理解できる内容だと思うけど・・・
賢いと思われたいために哲学やってると、ある一定レベルより上の理解は困難となる。
ドゥルーズ読んでる人とは思えない発言
スピノザ君他、できる人ってどういう勉強の仕方しているの? ノートつくったりしている?
ノートにヒダヒダ描いてまつ
むしろヒダヒダをノート代わりに
一枚読むごとに食べて体内のヒダに吸収するといいってじっちゃんが言ってた
946 :
924 :2009/10/01(木) 22:07:09 0
>>942 誰がスピノザ君じゃ(笑)まず、僕は物事の理解は遅いです。
今まで沢山頭のいい人たちを身近に見てきたから、確信を持って言えますが、
僕の頭は悪い(皆さんお見通しの通り)です。ただ「出来るだけ正確に理解したい」という
気持ちは強いです。フォローじゃなくて、アンダースタンドの意味での「理解」です。
どう書いても罵倒は免れ得ないと思いますので、率直に自己流の哲学書の読み方を書かせて
頂きますね。
まず、
>>741 >>742 >>804 で書かせて頂いた「読み方」は、徹底的に実践しています。
それでも頭が追いつかない場合は、手を使います。具体的には、岩波文庫版の「エチカ」を
十冊程買って、定義、公理、定理、備考の全てを切り抜きます。そして大判ノートの上半分に
「エチカ」本文を、下半分に証明などで言及されている、他の定義、公理、定理、備考を
全部貼り付けます。
このノートを作れば、いちいち「エチカ」の証明での言及定理等を読むために、ページを繰る必要が
なくなります。ノートの下の段を見れば、そこに貼ってあるのですから。
「スピノザと表現の問題」「スピノザ−実践の哲学」の原注で言及されているスピノザ等の文章も全て
貼り付けたノートを作りました。これで、上と同じくいちいち当該書に当たる必要はなくなります。
あとは、図表を書いたり、重要概念の言い換えや定義箇所をノートしていきます。
こんな感じです。頭の良い人は、こんな手間をかけずとも、一読すれば即理解できるのでしょうが、
僕には無理なので、とにかく手を使います。
>>946 まさにエチカを読み込もうと思っていたところなので、すごく参考になる。
948 :
924 :2009/10/02(金) 00:08:05 0
>>947 より具体的には、まず、A4コピー用紙の上半分に「エチカ」本文、
下半分に言及定理等を貼り付けた「原稿」を作ります。
そして、A4のルーズリーフ用紙(白紙)に、片面→両面コピーをして、
ルーズリーフに綴じました。各部毎にルーズリーフのカラー見出しで
仕切りをして完成です。
今ならPCでハイパーテキスト形式にして、言及定理等にリンクを貼る
(英語等では、ネットにあります。私が作った当時は無かったけど。)
という方法もいいかも知れません。ただ、紙ベースだと書き込みがし易いですから、
そこは好みですね。ご参考になれば幸いです。
949 :
924 :2009/10/02(金) 00:19:24 0
スピ君親切だなー なんか好きだ
随分と手間がかかるね・・・ でも、それくらいやらなきゃダメなのかなとは確かに思う。 『エチカ』読むとき、いつも証明を半ば飛ばすようにして読んじゃうし、 それって、いわば前提なき結果を受け取っているだけなんだよね。
>>946 >>742 は、さる超難解な英文解釈の参考書を思い出すわw
ま、知る人ぞ知るってやつですが。
思考訓練の場としての〜?
age
今個人的に進めている研究は、スピノザとカントのアンチノミーによって、(現実化した)実在論者としての ドゥルーズを救済するというものだ。。。。。 記述順としてはどちらからアプローチしても哲学者ドゥルーズが浮き彫りにされるはずだから一見完璧な計画だ。 しかし、ドゥルーズが哲学的な立場で一番近いのはライプニッツであって、 しかもその論理学の成果に眼もくれずにライプニッツに(多即一、一即多の計画に)同化するのだから先述の計画 ではドゥルーズは救われない。 本人は救われたいとも思わないだろうが、、、、、 ドゥルーズの哲学には(ライプニッツを援用した結果)他者がいないから、純粋な哲学的業績というのは歴史的には 出来事としては存在しない(出来事とは他者との出会いだからだし、読者との出会いに期待するとしたらそれは文学だ)。 結論として、哲学史家(『差異と反復』はその成果だ)及び社会学者(ガタリとの実験)としての立場を除外した とき、ドゥルーズの最大の成果は分類学としての『シネマ』だと思う。 これは見事に出来事(というよりは断絶)としての第二次大戦を質的に捉え、それ以後の消費社会というファシズム に対抗しえている。
ドゥルーズが微分法を論じることについて あまり言及されていないことだが、 多様体を論じるドゥルーズが 相体性理論の数学的裏ずけである、 「リーマン幾何学」を意識していない はずもなくて、現代数学における 「微分幾何学」の影響をまともに 考えて、練り上げた概念で あるのではないかとおもうが どうでしょうか。
『シネマ』は『資本論』に酷似してるらしいからな
958 :
924 :2009/10/04(日) 01:08:06 0
>>955 研究と論文執筆の成功をお祈りしています。
僕も某学会に所属していますし、知人から論文のプランや草稿を見せてもらう
機会があるので分かりますが、実際に論文を完成させるのは、大変な作業ですよね。
論文が完成して、紀要や学会誌、雑誌等に掲載されたときに、何らかのかたちで、
ドゥルーズ・スレッドで告知して下されば、必ず拝読させて頂きます。
そういう機会がなくても、プランを書いて下さっているので、ドゥルーズ関連の論文を
読んでいくうちに、拝読させて頂ける可能性は十分にあるでしょうから、いずれにしても、
楽しみにしています。
江川達男の文章は読みにくい・・・というか下手な気がする。
まあ悪文だよね。翻訳もフランス語の読みは正確なんだけど、やっぱり下手だと思う。
河本真理の『切断の時代―20世紀におけるコラージュの美学と歴史』を 読んだんだけど、美術に「様式」が無くなったのが近代・近代以後という 定説に対して、「(広義の)コラージュ」が近代・近代以後の美術様式だと 言えるのではないかと思った。 まあ、サンプリング、リミックス等々、微細な方法的差異を声高に言い募る 言説が優位なのは分かるけど、上述書を読むと、意外とコラージュでいいんじゃないか という気がした。「差異と反復」でも、現代における哲学史はコラージュとしてしかあり得ない、 という意味のことが述べられているしね。妙な言い方になるけど、ドゥルーズは細部でもおそろしく 鋭いことを言う人なので、こうしたコラージュ原論みたいな本を読むと考えさせられる。
その本はアメリカ嫌いが鼻についたな
エスポジストの「近代政治の脱構築−共同体・免疫・生政治」(岡田温司訳:講談社選書メチエ)が 出版されたので、早速読んでみた(全部じゃないけど)。 読んだ限りでは、しっかりした論の立て方をしていて、記述も明快。頭の整理に打ってつけ。 訳者も冒頭のイントロダクションで書いているけど、アガンベンとネグリの中間的スタンス。 単純に表象文化論系の論文読むよりは、面白いけどね。 近々、同じ訳者・版元から、「三人称−生の政治と非人称の哲学」が翻訳出版される予定で、 タイトルからも解る通り、フーコーとドゥルーズを再検討する内容らしい。 岡田温司の予告だから、本当に「近刊」でしょうね。
岡田温司も表象文化論に噛んでるでそ そういう無意味な比較よくない
965 :
963 :2009/10/10(土) 10:02:02 0
>>964 そうだね、反省。
こちらの理由を述べれば、月曜社から出ている「表象」を読んではいるのだけど、
やっぱり刺激的な論考が少ない印象があって(知識は学べるのだけど、発想の枠組みが
既定路線というか)、ああいう書き方になってしまった。
といいつつ門林岳史の「ホワッチャドゥーイン、マーシャル・マクルーハン?」(NTT出版)は
買うつもりだから、我ながらいい加減だな(苦笑)
エスポジトって昔ヴィーコ論が訳されてた人?
967 :
考える名無しさん :2009/10/10(土) 11:28:16 0
968 :
考える名無しさん :2009/10/10(土) 12:53:08 0
エスポジトというのはよくある名前みたいだな
969 :
考える名無しさん :2009/10/10(土) 12:56:18 O
ああない
>>963 そういえばエスポジトは、アガンベン/ネグリ間にあって吟味しているようなタイプの人だったな
ratioの岡田の紹介と翻訳を読んで興味は持ってたんだった
一応読んでみるわ
江川隆男氏が、「ドグマ化とは無縁 だ」という当のそれがNAMのわけだな。
レヴィストロースが死んだね。
あと30年くらい生きると思ってたから、ニュース読んだときはびっくりした。
そして今日はドゥルーズの命日。
『アンチ・オイディプス』を読んでいるところだけど、素晴らしいね。 今までは「ドゥルーズの哲学」を「理解」するためだけにドゥルーズを読んできたことに、今更ながら気付かされた。 この本を読んで、はじめて「道具としての哲学」というか実践哲学なるものを実感してる。 あと、ガタリ万歳。 食わず嫌いで随分遠回りしたもんだ・・・
>>978 やっぱり「差異と反復」「意味の論理学」をクリアしてから読むべきですか?>AO
『エチカ』読んでからがいいね
982 :
考える名無しさん :2009/11/09(月) 17:34:49 0
臭いの原因としては、インドール、スカトール、硫化水素などによる物である。 人間の場合、1日に平均して100〜250 gほどを排出するが、稀に体調の関係で、 大量に(ゆるい物が)出たり、何日も出ないこともある。 日本人が人生80年の間に排泄する糞の平均量は約15トンといわれている。 あまりに長い間出ないと、中毒症状を起こすこともあるので、 あまりに長い期間(1週間以上)出ない場合は、専門医への相談が推奨される。
983 :
考える名無しさん :2009/11/09(月) 18:01:22 0
澤野雅樹の自負が強くて気になるってすごくわかる。 とくに澤野雅樹は、自負の強さや思い込みの強さが気になって、 描いていることはなるほどと思っても、 なんだかムカついて先に進めない。 学者はこれだからいやだよな、と思ってしまう。 「ロックする哲学」とか、偏見丸出しでガンガン書いてるから 呼んでるこっちが恥ずかしい。まぁもう絶版だけど。
澤野って学者ですらないじゃん。 ちゃっかり大学教員に収まってるが、実態はただのエッセイストでしょ。