【熟女】対話スレ5【籠城】

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1考える名無しさん
2考える名無しさん:2008/12/15(月) 11:44:18 0
前スレ500k超えのため。
3考える名無しさん:2008/12/15(月) 11:46:14 0
888 名前:ナレーション メェル:sage 投稿日:2008/12/10(水) 22:06:46 0
女が敗北感と勝利感の間を必死に駆けずり回るのを、男はじっと見ていた。
発作があり、その直後は妙に落ち着いている。
しかし、と男は思った。確実に、少しずつ変化してきている。

もう女には、逃げることができないのだ、この状況から。
読み、レスを書く。読み、レスを書く。
どんなことを書かれても、女はそれを必ず読むだろう。
読まずにはいられないのだ。

ならば、と男は考えた。言葉だけでこの女を破壊することもできるのだ。
4考える名無しさん:2008/12/15(月) 11:47:02 0
895 名前:佃煮マニア 投稿日:2008/12/14(日) 11:11:35 0
なんか知的な刺激をうけるナレーションですね〜。
もし、事態がシナリオ通りの進行しかあり得ないなら、
それがどう描かれるんでしょうね。物語自体が、パーツとして装置に埋め込まれ、期限まで動力を保つしかない、その「なさ」の絶望感を。
それと、バイブの慟哭はいかにも生々しいのに、それはやはり空疎な作り物でしかない辺り、ジャンジャン盛って、個人的愉楽を超えて欲しいものです。

火の鳥の何編だったか・・・チヒロとロビタって出てきましたね?
全ロビタの、プログラム通りの集団自殺とかとか。→ロビタ
マシーンが人間としてしか認識できない知覚の暴走などなど。→チヒロ
手塚式機械論では、あくまでも人間と機械は別もの、意識がそれをつなぎ止めると主張しましたが、
大友克洋、塚本真也は、すでにマシーンと物理的にジョイントされた人間像を描いて、これに反論したんですね。でも、彼らのそれは化け物扱いだった。
一方、コナミの小島秀夫は、「メタルギアソリッド」で、
人為的に作り出された殺人機械として誕生したスネークを、人間として、
大文字の他者と同義のビッグボス、愛国者達と対峙させ、勝たせています。
他者などいないと。ある様に見えたそれは幻想で、今ある欲望と戦略、それが全てだと。何か狂気めいた、力強さを感じます。
こうして彼は、ゲームを追体験した人間に機械としてのアイデンティティを植え付け、集団的な一個の装置を作り出そうと画策します。
情感と機械化が、人間の中でどんどん切り離されいく流れを感じますが、
テクノロジーと浸食し合い、拮抗する生の議論はおもしろい・・・
5考える名無しさん:2008/12/15(月) 11:47:54 0
896 名前:佃煮マニア 投稿日:2008/12/14(日) 11:12:24 0
人間機械論は、フランス革命の際に生まれた思想です。
人間社会、また個々の肉体は、全て一個の機械でしかないのだから、
流れる重油がパイプにつまっていたら、洗わなければならない、
つまり権力や金の流れ先に偏りがあってはいけないだろう、
という事ですね。平等、革命、そのための思想です。
人間みな機械だもの。相田みつをっぽいです。
みつをは機械論を、どう受け止めるでしょうね?

そもそも、なんで人間が機械なのか。
フランス、当時押し寄せていた機械文明に、たまたま威圧的なインパクトを感じていたから、人々は、早くなじまなきゃと焦ったんでしょう。それが人情です。
人間が機械だと言われても、そんなのは医学的に厳密さを欠いていますが、
ドゥルーズなんかは必死に、「お前には欲望があるから機械だぜ」と、
迷惑な話を押し付けるので困ります。
感覚をもった肉体に機械などという固くて尖ったものを押し込む等、不快な官能話を、
正当な医学は嫌いなくせに人の頭を覗きたくって仕方のない様な変態医師ガタリと、グルになって、
十年もかけて一冊の本にまとめ、世間の素朴でまじめな人間に向かって売りさばいて利まで得ようとという、壮大なセクハラに命をかけていました。男の人ってこれだから嫌です。まったくいやらしい。思いやりってものがありません。

機械が大好きなドゥルーズは、念願かなって、
臨終間際に病院から、人工心肺を付けてもらうという、これ以上ないプレゼントをもらい、満足して言い残す事がなくなったのか、自ら命を絶ちました。
人間、欲しいもののためにかけずり回るもの。そんな機械。
だって、人間だもの。
6考える名無しさん:2008/12/15(月) 11:48:27 0
897 名前:しろ ◆3IKizwPD8k メェル:sage 投稿日:2008/12/14(日) 11:45:43 0
実はホッブスが欲望機械という概念を出してますね
ハーヴィ「血液循環説」→デカルト「動物機械論」→メトリ「人間機械論」
こんな感じですかね
ちなみにデカルトにとって、機械のイメージは「時計」ですね

いつの頃からか、「人間についての言説」における真理性、正当性は
生物学を参照基準にされるようになってしまって、決定論で言えば
たぶんこれから警戒されるのは、「遺伝子決定論」かもしれないですね
7考える名無しさん:2008/12/15(月) 11:48:58 0
897 名前:しろ ◆3IKizwPD8k メェル:sage 投稿日:2008/12/14(日) 11:45:43 0
実はホッブスが欲望機械という概念を出してますね
ハーヴィ「血液循環説」→デカルト「動物機械論」→メトリ「人間機械論」
こんな感じですかね
ちなみにデカルトにとって、機械のイメージは「時計」ですね

いつの頃からか、「人間についての言説」における真理性、正当性は
生物学を参照基準にされるようになってしまって、決定論で言えば
たぶんこれから警戒されるのは、「遺伝子決定論」かもしれないですね
8考える名無しさん:2008/12/15(月) 11:50:31 0
899 名前:吉田メロウ 投稿日:2008/12/14(日) 12:13:11 O
佃煮マニアさんの文章は非論理的で意味が通りにくいですね。
結局なにが言いたいのかよくわからない。そんなところがある。
(´-`;)y―~
9考える名無しさん:2008/12/15(月) 11:53:35 0
901 名前:714 メェル:sage 投稿日:2008/12/14(日) 16:33:52 0
>>882
>スピリチュアル系の人がよくやる、心的イメージでのメッセージは、
>そういった計算、「はからい」を捨てた、仏教で言う施し、慈悲の現れです。

ん・・・??
『心的イメージでのメッセージ』というのはたとえばどんな事なのですか?

>この直感力は生得的なものでしょうし、今は安心して接しています。
>透視とかヘンテコな名前じゃなくて、もっと気の利いた名前が要りますよ。

気の利いた名前・・ 『ふしぎ』でいいんじゃないでしょうかw
僕はその人を知らないから、それが「生得的直観」なのか「インチキw」なのか全く判断できません。
それを考えると、(また、〈信と知〉の話につなげて考えると)
佃煮さんは、その人に対するなんらかの〈信〉があるのでしょう。
そしてその人に対する〈信〉があることによって、事柄そのものへの〈信〉も生じるのだと思います。

ちょっとずれるかも知れませんが、人に対する〈信〉と事柄への〈信〉、で思い出したゾシマ長老の言葉があります。 子供を亡くした婦人への言葉です。
「そして聖者は『だからお前もそんなに泣かずに、喜んだらどうじゃね、おかみさん、
お前の子供も今では神様のおそばで天使の仲間にはいっておるのじゃからな』と言われた。
泣いているおかみさんにむかしむかしえらい聖者がこう言われたということだ。
そのお方はそれはえらい聖者だから、間違ったことを言われるはずはない。
そういうわけだからな、おかみさん、お前の子供も今では間違いなく神様の祭壇の前に立って
喜びにあふれ、浮かれて騒いだり、お前のことを神様に祈ったりしているものと心得るがよい。
だからお前も泣くのはやめて、喜ぶことだな」

『えらい聖者だから、間違ったことを言われるはずはない』
こういう言い方は仏教でもよく出てきますが、とても宗教的な言い方ですね。
僕はけっこう好きです。
ゾシマ長老がえらい聖者の言葉を引用しているのは、「権威主義」なんかじゃなくて、〈信〉です。
そして聖者に対する〈信〉が、亡くなった子供が天使の仲間に入っているという事への〈信〉につながっています。
10考える名無しさん:2008/12/15(月) 17:29:08 0
902 名前:714 メェル:sage 投稿日:2008/12/14(日) 16:37:36 0
>>883
>規則に則して行動すれば、個々の行いは、即施しになり得る、と思います。

『規則』というのは法律とか校則とか、そういう規則のことですか??

>私は彼が一番好きかな。幼児虐待についてのイワンの見解は印象的ですよね。

印象的ですね。
僕はイワンの見解そのものよりも、あの場面のイワンとアリョーシャの『からみ』が好きです。
たとえばこんなところ。
「『そこで・・・どうだい?この将軍は死刑にでも処すべきかね?道徳的感情を満足さすために、銃殺にでも処すべきかね?
言ってごらん、アリョーシャ!』
『銃殺に処すべきです!』あお白い、ゆがんだような微笑を浮かべて兄を見上げながら、アリョーシャは小さな声でこう言った」

バフチンという批評家は、ドストエフスキー文学の本質はポリフォニー(多旋律音楽)
にあると言ってますが、本当にその通りだと僕も思います。
「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした
価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。
彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の
客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、
それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件という
まとまりの中に織り込まれてゆくのである」(バフチン『ドストエフスキーの詩学』)

アリョーシャが主人公だとしても、イワンやドミートリィも彼ら独自の世界をもっていて、アリョーシャと対等な旋律を奏でている。
父フョードルやゾシマ長老、スメルジャコフだってそうだと思います。「伴奏」ではない。
決して融け合うことのない複数の旋律がからみ合うところに、無限の深みのようなものが出てくる感じがします。

そしてポリフォニーといえば・・、バッハですねw
http://jp.youtube.com/watch?v=6N7skE4d57c
一本でもポリフォニー
http://jp.youtube.com/watch?v=Dm9QsZcdGS4
11考える名無しさん:2008/12/15(月) 17:30:12 0
903 名前:714 メェル:sage 投稿日:2008/12/14(日) 16:38:49 0
>>884
>人間の情動、個性を軽視し過ぎていますよ。

たしかに構造とか関係を中心として見る考え方だと、主体は構造に対して
受動的な関係に立たされるから、そこからは真に能動的な主体性は出てきにくいと思います。

「個性」は、構造的な見方からも出てくると思います。
ソシュール以来、構造主義でもポスト構造主義でも〈差異〉という概念がキーワードになっているから。
でもその「個性」も、関係によってつくられた個性ということになってしまうのかな。
その「個性」は、他との〈比較〉が前提とされた個性であるように思われます。

それは実存的な「個性」とは違いますね。
実存的な「かけがえのなさ」。
たとえば、ハイデガーの言葉「人は私の代わりに死んではくれない」。
実存的にかけがえのない主体は、他と〈比較〉されない絶対の主体ですね。
12考える名無しさん:2008/12/15(月) 17:31:29 0
904 名前:714 メェル:sage 投稿日:2008/12/14(日) 16:39:51 0
>>886
>主体者の偏見から逃れられる認識の方法論は存在しない。
>従って、現象を構造的に把握する努力は本来的に思想を無力化
>する運命を担っている。我々に必要なのはこうしたニヒリズム
>ではなく、・・・

その時ニヒリズムが生じるとすれば、それは「偏見」という語に含まれている
ネカティブな意味によって生じるのだと思われます。
でも「偏っている」ということがネガティブな意味を帯びるのは、
「偏っていない」見方がある場合だけでしょう。
もし偏っていない「正しい」見方があるのならば、
偏った見方は、「正しくない」見方として、ネガティブな意味を帯びざるをえない。

でももし「偏見から逃れられる認識の方法論は存在しない」のならば、
「偏っていない」見方は存在しないことになるから、
「偏っている」ということをネガティブに考える必要もなくなる。
だからニヒリズムに陥る理由もなくなります。
ならばポジティブに、自分らしく「偏った」見解を持てばいい。

(・・・というような考え方が、ニーチェのニヒリズム克服の論理です。)
(ネガティブからポジティブへ。価値転換。)
13考える名無しさん:2008/12/15(月) 17:37:32 0
  692 名前:佃煮マニア 投稿日:2008/10/26(日) 21:54:43 0
   哲学的トピックの前に、私からの菜の花さんの印象など書いときます。

   一応、私は統合失調症じゃないです。検査して分かっています。

  まず、菜の花さんは「こころはいつもラムネ色」というスレでシリウス名義で
   露骨な日記を自己演出たっぷりに書き、「天文学って文学じゃね?」
   というスレッドで菜の花名義で作家やコテハンの二次制作をしている、
  いわゆる腐女子です。ネタ元として対話スレをかなり意識してます。
  ほかにも色々、2ちゃんねる内を探しまくってる事でしょう。

  例えば、対話スレで私は、「ゲイの友人との友情と中村中」、
  「ニーチェとメーテルリンク」などの事を、会話を通じてしましたが、
  私が書いた時期より少し遅れて、
  菜の花さんはまったく同様の書き込みをしています。誇張気味に。
  これは、一応フィクションではありますが、一般に、なりすましと
  呼べる手口で、名誉毀損、著作権の侵害になります。
  その事を指摘しても、逆ギレするだけです、浅ましい根性ですね。

908 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/14(日) 18:19:49 0
>>692
「一応、私は統合失調症じゃないです。検査して分かっています。」
と書いてあったけど、どういう結果が出たのでしょうね?

911 名前:考える名無しさん メェル:sage 投稿日:2008/12/14(日) 18:23:32 0
そもそもなんでそんな検査受けることになったのやら
14考える名無しさん:2008/12/15(月) 17:38:35 0
912 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/14(日) 18:31:51 0
>>802では
自分でも病気だって書いた文が貼られてる。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1161463854/501

501:佃煮マニア :2008/07/10(木) 17:50:37 0 [sage]それでもダメならお薬もありますし。
じつは私も軽いADHDで、集中力があっちこっち逸れがちなんです。

913 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/14(日) 23:30:15 0
純一もそういうこと言ってたし

914 名前:考える名無しさん メェル:sage 投稿日:2008/12/14(日) 23:34:00 0
まあ哲板にはそういうのが多いんじゃね?
現実逃避のために哲学を利用してんだよ
番号つけてる香具師もコテの現実逃避を幇助
同類ともにあわれむってやつよ

915 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/14(日) 23:43:16 0
>870に
「文学板屈指の糞コテ、美香も女だったね。」とか書いてあるから
たぶん女コテに粘着してんだろうなあ
15考える名無しさん:2008/12/15(月) 17:40:53 0
前スレ末尾コピペ完了。
161:2008/12/15(月) 18:03:48 0
ちょっと成り行きが気になってついつい立ててしまいました。
今は後悔しています。
171:2008/12/15(月) 18:06:42 0
ちょっと決まりあんまりよく知らないんですが、
確か20までは急がないといけないんでしたっけ?

18考える名無しさん:2008/12/15(月) 21:43:25 0





19考える名無しさん:2008/12/15(月) 21:46:41 0





20考える名無しさん:2008/12/15(月) 21:48:30 0





21佃煮マニア:2008/12/16(火) 20:05:42 0
スレ立て、おっつぅどす〜(^ー^* )
なんて優しい人なんだ・・・
22佃煮マニア:2008/12/16(火) 20:06:22 0
前スレ>>897>>898しろさん、武田直さん
自国への批判的な情報をぜんぶ差し止めるように、
中国がグーグルに圧力をかけてるみたいですよね。
ねらーの反動的な中国叩きはヒドすぎで、何と闘ってるのかw
英知のため?

機械論=道具信仰かも知んないですね、きっと。
「もののあはれ」が、情となって、信仰に結びつくんでしょう。
消え行く後ろ姿と言うものには、詩情がただようものです。
世界を、循環器の様な一つの機械に見立てる事で、
連綿と受け継がれる不滅の生を願ってるんですね。
同時にこの生は、最先端でどうも扱いきれない道具に、
無理にでもシンクロしようとする心理的マゾヒストの生でもありますね。

デカルトの物理原理で事象の法則性を割り出そうとしても、
条件とか、諸法則の絡み合いは流動的なものだし、今の段階では
法則性は事象の中から一部分しか見つけ出せてないと思いますよ。
人間が、事象の経過についての決定要素を全て把握するまでは、
決定論は仮説です。
23佃煮マニア:2008/12/16(火) 20:07:27 0
前スレ>>901 714さん
>そしてその人に対する〈信〉があることによって、事柄そのものへの〈信〉も生じるのだと思います。
「信」を行ないながら、「無我」の意識を保つって、結構奇跡じゃないですか?
信じたい気持ちは、欲求とは別になるのかな?よくわからない・・・

>『心的イメージでのメッセージ』というのはたとえばどんな事なのですか?
例えば、オーラカラー診断とか、ありますよね?
共感覚で、音に色を感じる人とかいますけど、これは本能的な感覚です。
彼らは人の言質じゃなく、印象について、安らぎ、危険、笑い、理知などなど、
色でサインを受け取り、性質を識別してるんです。
スピリチュアル系の人は、その感覚を仏教に整えられて、
今のあなたはこんな色、だからこういう事をしてみると楽になりますよ、と
アドバイスする訳です。これって言辞施ですよね。
24佃煮マニア:2008/12/16(火) 20:08:53 0
>>902
わ!開いてビックリ( ;@_@)
ダブルネックの早弾きなんて初めて見ました。感動・・・
口をすぼませて弾いてるのがまたクール〜
・・・バッハのチェンバロ重奏は、目覚ましにしてましたよ。

ポリフォニーと言えば、Bjojkの「Medalla」もそうかな?
http://www.lastfm.jp/music/Bjo¨rk/_/Mi<eth>vikudags?autostart
バフチン曰くの、「声のポリフォニー」ですね。

>決して融け合うことのない複数の旋律がからみ合うところに、無限の深みのようなものが出てくる感じがします。
>>903にも関わって来る話で、確かに、ドストエフスキーの話は、
からみが面白いですね。これによって、それぞれの登場人物が魅力を
出してるし、関係性が何事か物語ってもいますよね。
(関係性がネガだとすると、そこから肉感的な実存が浮かび上がるようです。)
殺された子供にイワンがあれだけ心を痛めるのは、父親絡みの原体験からでしょう。
理知的な彼は、子供を救う事で、自己治癒も果たそうとしています。
そんなイワンを、ドミートリイは「俺の中ではいくつもの哲学が渦巻いて
気が狂いそうなんだ!なのに、イワンの平静さ、あれは何だ?」と、
蒼白に打ち震えるロマンチストです。激情がまぶしい・・・
アリョーシャはそんな二人の聞き役で、涙を流しつつも、善行で自身を表現し、
人と善行で語り合う事を望んでます。
好きな箇所があるので、長いけどドバッと引用しちゃいましょう。
これもからみの妙です。
25佃煮マニア:2008/12/16(火) 21:31:19 0
↓↓↓↓↓(引用)からみがおもしろい

・・イワンは突然やって来る酔っぱらいに出会った。つぎだらけの外套を着た小柄な百姓で、
千鳥足で歩きながらぶつくさ毒づいていたが、不意に悪態をやめると、酔っぱらいの掠れ声で歌い出した。

ああ、イワンはピーテルに行っちゃった!
あたしは彼を待ったりしない!

しかし、百姓はいつもこの二行で歌を止めて、また誰かを罵り、それからまた同じ歌を歌い始めるのだった。
イワンはもうだいぶ前から、この百姓の事などまだ全然考えてもいないのに、突然この百姓を意識した。
途端に、百姓の頭を拳で殴りつけてやりたい気持ちを、抑えきれない程だった。
たまたまその瞬間、百姓が酷くよろけて、いきなりイワンに力一杯ぶつかった。
イワンは凶暴に突き飛ばした。
百姓はすっとんで、凍り付いた地面に丸太の様に転がり、
「おお!」と病人の様に唸って、意識を失い、うわ言をつぶやき出した。
「凍死するぞ!」とイワンはこう思っただけで、再びスメルジャコフの家へ歩き出した。

ドストエフスキー独特の心理描写とたたみかけですよね。
26ナレーション:2008/12/17(水) 15:35:28 0
誰かが用意してくれたこの場所に、男は来るだろうか、
と、女は考えながら、オナニーをしていた。

それにしても、と女は考え続けた。
そもそも何故わたしが、あんなキチガイ共に、こんな仕打ちを受けなければならなかったのか。

女は、まるで、何人もの男達にかわるがわる犯され続けているような気持ちになり、
被虐的な妄想の中、左手でクリトリスの包皮をめくり、右手人差し指の爪の先で
充血した先端部を嬲り続けた。

女の膣口は濃い分泌液に泡立ちながら、まるでペニスをくわえているかのように
ピクピクと締まる動作を繰り返していた。
27考える名無しさん:2008/12/18(木) 01:20:17 0
28考える名無しさん:2008/12/18(木) 01:28:36 0
29考える名無しさん:2008/12/19(金) 06:53:31 0
・・・まだやるのか
30714:2008/12/19(金) 17:13:14 0
>>22
>中国がグーグルに圧力をかけてるみたいですよね。

たぶん中国も徐々に情報公開されているでしょう。
経済も人間もこれだけ海外と交流しているんだから
情報だけ規制しようとしても無理でしょうね。

日本人の国際結婚の相手も、中国人が一位になったそうです(フィリピンを抜いて)。
年間一万二千組ぐらいで、そのほとんどは日本人夫-中国人妻。
日本人夫-中国人妻の平均年齢差は12.2才!だそうです。

>ねらーの反動的な中国叩きはヒドすぎで、何と闘ってるのかw

ネットを見ていると右傾化した考えをもつ人が多いような気がします。
実際にそういう人が増えているんだろうか・・・?
実態がよく分からないですね。
そういう人って1人で20人ぶんぐらい書いていそうだからw

政治家にも経済界にもそういう人は多いと思うけれど、
表立って本音を言う人は少ないから、それも実態がよく分からないですね。
水面下で動いていて実態が分からないところが怖い気がします。

先月マスコミでは田母神航空幕僚長の『日本は侵略国家であったのか』という論文がらみで、
アパグループと自衛隊の癒着が問題視されていましたが、あれはどうなっちゃったんだろう。
それもうやむやに消えて(消されて)しまったのかな。

田母神さんと同じく「侵略ではなかった」ということを主張して、反「自虐史観」で有名なのが
〈新しい歴史教科書をつくる会〉ですね。
その初代会長だった西尾幹二さんは、ニーチェ研究者でもあります。
彼が書いた『ニーチェとの対話』という本は面白い本だと思います。
「侵略ではなかった」という思想は僕には理解できないけれど。
31714:2008/12/19(金) 17:15:33 0
>>23
>これって言辞施ですよね。

相手がそれを快く受け入れられれば、そうでしょうね。
善意のアドバイスも、場合によっては押し付けになってしまうこともあるでしょうが・・

受け取った人だけでなく、施した人も感謝するのが布施の心だそうです。
施させていただきまして、「ありがとう」・・・

「ありがとう」の語源は、「有り難し(めったにない)」で、
もともとは法句経の〈ひとの生をうくるはかたく、死すべきものの生命あるも有り難し〉
からきているらしいです。
生きているのが当たり前と思って生活しているけれど、
生きていることは奇跡的な、〈めったにない〉ことなのかも知れません。
そういうめったにない命と命との出会いを大切にしたいという心が「ありがとう」なのでしょう。
32714:2008/12/19(金) 17:16:24 0
実はこの「ありがとう」という言葉で、或る中国関連の小さな掲示板で袋叩きにあったことがあります。
その掲示板で、或る男の人が、「セックスの後で私が『ありがとう』と言ったら、
私の中国人の彼女はものすごく怒ってしまいました。なぜでしょうか?」というような質問をして、
怒るのは当たり前だよとみんなに(特に女性に)罵倒されていました。
まあ罵倒されるのはもっともなんですが、『ありがとう』という言葉自体が悪いわけではないでしょう。
どういう状況でどういう言葉を言ってはいけないかというのは微妙な問題で、『ありがとう』と
言ってもおかしくない場面もあるでしょう。
そう僕は思ったので、罵倒に対して反論しちゃったのです。そして袋叩きですw
そして、僕が「ありがとう」の語源について法句経を引用しながらw屁理屈を並べているうちに、
管理人さんが怒ってそのスレを削除してしまいましたw

でも僕の屁理屈はけっこういい線いってたんじゃないかと思っているんです。
もし「ありがとう」が、気持ちよかったことに対する「お礼」の意味なら、たしかにおかしいと思いますが、
語源的に見ても「ありがとう」には、「お礼」というよりも、もっと深い感謝の意味があるんですよね。
「謝謝」とも「Thank you」とも違う独特の意味があります。

その人の彼女は中国人だから、「ありがとう」を「謝謝」に翻訳して理解している可能性が高いと思います。
「謝謝」という言葉は、親しい人に対してはあまり使わない言葉なのだそうです。
そう考えると、そこには異文化間の誤解もあるかも知れません。
33714:2008/12/19(金) 17:17:13 0
>>24
>ポリフォニーと言えば、Bjojkの「Medalla」もそうかな?

“Triumph of a Heart”という曲が一番ポリフォニックかな・・
ビョークはほとんど聴いたことがなかったんだけど、
ケイト・ブッシュ、ピーター・ガブリエルなんかとも共通するヨーロッパ独特の
重厚さというか暗さというか、そういうものを感じます。

ビョークが上海のコンサートで「チベット!チベット!」と叫んだのが3月2日で、
チベットの暴動のきっかけとなった大規模なデモがおこなわれたのが3月10日。
ものすごいタイミングですよね。
チベット暴動は欧米の陰謀だという説がありますが、そうだとすると、
ビョークはそれにどの程度かかわっているのでしょうね?
まあ「陰謀」というと大げさかも知れないけれど、たとえばジャーナリストの田中宇さんは
「チベット騒乱は、欧米の扇動によって起こっている可能性が高い。」と言いきっています。

チベット問題を利用して中国叩きをしようとした人々はたくさんいるでしょうね。
あの頃は、欧米も日本も、マスメディアが反中国キャンペーン的な報道に偏っていて、
うさんくさいものを僕は感じました。

あの大地震で、そういう報道が一瞬にして消えてしまった感じがします。
中国叩きしても良いという雰囲気が、あの大地震で完全に消えましたね。
不幸な出来事ではあったけれども、中国政府にとっては或る意味で救いだったかも知れません。

ところであの地震がおこる前に、「地震雲」らしき美しい雲が現れたらしいですね。
http://jp.youtube.com/watch?v=KKMTSDzU1Z4&feature=related
これも『ふしぎ』です。
34714:2008/12/19(金) 17:18:36 0
>殺された子供にイワンがあれだけ心を痛めるのは、父親絡みの原体験からでしょう。

冷たい感じのするイワンが子供たちの不幸に心を痛めるのはちょっと意外ですね。
そういう意外性が人物に立体感を与えるんでしょうね。

大岡昇平が『現代小説作法』という本で、小説の登場人物は大きく分けて、
類型的、画一的な「扁平人物」と、言葉では要約し難い「円球人物」に分類されると書いていました。
(この分類はもともとはフォスターという人の分類だそうですが)
そして大岡氏はドストエフスキーの小説の登場人物は全部「円球人物」だと書いていました。
ほめすぎでしょうね。

>好きな箇所があるので、長いけどドバッと引用しちゃいましょう。

かわった箇所が好きですね・・
35考える名無しさん:2008/12/20(土) 02:48:05 0
熟女のみなさん、熟女篭城スレへようこそ。
頑張って書き込み続けてくださいねw
ここは隔離病棟スレですから。
36考える名無しさん:2008/12/20(土) 09:33:22 O
しつこくて衆目のなかで男に惨めにふられた老婆だろ
37考える名無しさん:2008/12/20(土) 18:49:42 0
そっか。熟女って変なおばさんってイメージあったけど
熟女マニアってごく一部にいるもんな
38佃煮マニア:2008/12/21(日) 16:57:41 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1229354135/l50

貴方がもし例の3人(>>754で引用した3人)のうちの1人であるならば、
第三者を装ってそういう書き込みをしない方が良いと思うし、また、
貴方がもし3人以外の第三者であるなら、他人の争い事には口を挟まない方が良いと僕は思います。
他人の争い事に口を挟むのならば、その件についての自分の見解を書くべきだと思います。

>>770>>754で書いたように、菜の花さんがとった行動が「悪い」のかどうか、また、
菜の花さんが今も名無しで書き込みを続けているのかどうか、僕には全く判断できません。
だからその件について、僕は口を挟めません。

また、佃煮さんのログだけを見て、それが「批判」であるのか「悪口」であるのか「荒らし」
であるのかを判断することもできません。
相手があることだから、その相手との関係を見なければ判断できません。
(たとえば喧嘩している人々がいるとして、その人たちの会話のうちの1人の声だけを残して
他の声を消去して聞けば、その人はものすごく変な人に見えるはずです)

ただ、佃煮さんに対しては、人を批判するならばできるだけ具体的に批判しないと
単なる悪口になってしまうという趣旨のことは書きました(>>762


(ついでに言えば、前スレで僕が感じた「へんだな」という印象を、今も少し感じます。単なる印象です。
佃煮さんのログを他スレにも貼り付けたり、そのために新スレまで立てている人がいますが、
他人の争い事を見て、関係の無い第三者がそのように騒ぎ立てるのだろうか?という疑問をちょっと感じます。
佃煮さんが立場上強い位置にあるのなら、それも分かりますが、3人を敵にまわしているのだから)
39佃煮マニア:2008/12/21(日) 16:58:29 0
見落としてたけど、誰か立ててくれたんですね。乙です^^
前スレで私がした批判(悪口?)めいた言葉の羅列は、意図的なものです。
どうも見たとこ、強迫的な人格障害を抱えてる人がいる様なので、
第三者として必要と判断した上で、フラッディングをした訳です。
>>861-871は佃煮マニアという人が
>他の板に書き込んで荒らしてるみたいなんだけど
>そのへんのことは見ないふりですか?
>他の人もそれを見て見ぬふりですか?
>そして抽象的な哲学の話題に逃げてる・・・
>なんか現実逃避ですね・・・
↑これが本人なら、効果が出てますよ。
他人の言葉への耐性、弾力のある反応がでかかってます。的外れですがw 
40佃煮マニア:2008/12/21(日) 16:59:12 0
>>30 714さん
>ネットを見ていると右傾化した考えをもつ人が多いような気がします。
ネット右翼っていますね。三島由紀夫とか鳥肌実をイメージしてるのかな。
短絡的なネガティブキャンペーンばかりなのを見ても、やっぱり、
イデオロギーなき我が屍を、肉弾としてこの闇夜にあられと降らせよう、的な
ナルシズムの世界を感じます。

>先月マスコミでは田母神航空幕僚長の『日本は侵略国家であったのか』・・・
日本って、元寇と太平洋戦争以外で敗戦してないんですよね。
歴代の戦争の数からして、奇跡です。
戦争は、例え宣戦布告をされた側でも、受けた時点で侵略行為に加担してるんだから、
日本が侵略国家の性格がつよいかはともかく、「侵略をした国」ではありますよね?

自衛隊のシステム的な問題は、ニュースにするとマズイんじゃないかなw
米軍基地ならともかくw NHKでジャーナリストがこの手のマズイ問題を
追求すると、もう次から出してもらえなくなるらしいですよw
41佃煮マニア:2008/12/21(日) 16:59:44 0
>>32
へ〜、中国の人ってヒステリー体質の人が多いのかなw
ヒステリーの人って劣等感が強くって、それで、
対人不安を処理する為に相手を罵倒、で相手の立場を自分と同等、それ以下
と認識しようとします。必ず人を巻き込もうともします。
そうやって、相手を惹き付けるサインを出して、反応すれば、
内面の不合理をぜんぶ相手に共有する様に求めてきます。
714さんはたぶん見込まれちゃったんでしょうw

>セックスの後で私が『ありがとう』と言ったら、
エッチのあと、「ありがとう」。う〜ん、「?」となるかな・・・
ラングのことはよく分からないけど、大体共通する感覚ってあります。
肉体交渉をセックス、ファックにわけて、
セックス→肉体を通じた感情の対話
ファック→快楽を目的としたスポーツ としますよね?
セックスだと思って色々して、なんかうっとりしたあとにいきなり、
ファック的なスポーツマンシップとも取れる、「ありがとう」
(試合のあとにそう言って握手を交わすテニス選手みたいな)
を言われると、ちょっと混乱する、か、な〜。
でも、>>31のような丁寧な説明で「ありがとう」を知ると、納得。
エッチ後、「ありがとう」で誤解を力説するうちに激してきて、
またしちゃうとグーですねw
革命的なセックスは、・・・色々ありますね。
42佃煮マニア:2008/12/21(日) 17:00:23 0
>>33
>あの地震がおこる前に、「地震雲」らしき美しい雲が現れたらしいですね。
きれい!「たくさんのふしぎ」に載りそうwオーロラも電磁波で出来るんですね。

>ものすごいタイミングですよね。
ビョークは巫女的な歌姫だから、社会問題を一風景として眺めつつ、
自身の意識をとことん掘り下げる事で集団的無意識にまで貫通して、
予言性のあることを言ったりするかもしれないですね。
彼女はPVで、「唇を縫われた少女が湖面の花びらをみつめる」という
内面を表現しました。
幼少期に傷ついた性衝動が幻想へと迂回しつつ成長を求める、の暗示でしょう。
自我、身体機能などに傷を負った人が、埋め合わせの為に動物的な能力を得る
こともあるみたいですね。彼女は、ゾウとかと同じエコローケーションかな?

>チベット問題を利用して中国叩きをしようとした人々はたくさんいるでしょうね。
チベットと言えば。。。こないだ、旅館でスゴい立派な冬虫夏草を見ましたよ。
こういうの→http://image.blog.livedoor.jp/bio1080/imgs/d/4/d42c9f6c.jpg
冬虫夏草って、チベット王朝で珍重されてたらしいですね。
仏教と照らすなら、虫から植物へのメタモルフォセスには、なにか
「りんね」の様なものを感じます。そう思いませんか?
43佃煮マニア:2008/12/21(日) 17:00:55 0
>>34
>類型的、画一的な「扁平人物」と、言葉では要約し難い「円球人物」
演劇の人が、「地味〜な感じの人」「地味〜な感じで爆弾持ってる人」と
分類してましたよ。
アンビバレントな感情を、「円球」の中で融合させて鮮やかに散るタイプが、
ドストエフスキータッチの人物には多いですね。
こんな感じ?→http://jp.youtube.com/watch?v=TAESN_nqf00&NR=1

>かわった箇所が好きですね・・
なんかそう書かれると訳もなく恥ずかしいけどw
イワンは法廷で、>>25の百姓を「あの悪党」と言ってたんですよ、なぜか。
で、同じく法廷でのイッポリートの弁論が、可哀想な兄を思って狂気の淵に立たされた
イワンの情況を代弁しています。
イッポリートは、「悲劇のそもそもの原因は、冷笑主義の蔓延だ」と言ってます。
父カラマーゾフが、自身の放埒、幼児虐待をシニカルに笑い飛ばそうとした姿勢。
そんな有様の父を絶対化しつつ善に飢えたイワンを、からかった百姓。
貴族のスキャンダルを見せ物にしたがった法廷の聴衆。ナドナド。
冷笑主義という害悪が、ロシアを栄光へと導くトロイカを躓かせると言うんですね。
そしてその魔の手が、美しい兄弟たちをどんなに苦しめたかとも・・・。
こないだ引用した箇所は、理想に燃え、イデアの世界に呑まれかけたイワンが、
空回りして醜態を演じる箇所なんですよ。私はそういうとこが好きなんです。

なんか、ある小さな出来事が、のちのち重大な意味を帯びて来るとか、ないですか?
44考える名無しさん:2008/12/21(日) 18:37:13 0
>>770>>754で書いたように、菜の花さんがとった行動が「悪い」のかどうか、また、
>菜の花さんが今も名無しで書き込みを続けているのかどうか、僕には全く判断できません。
>だからその件について、僕は口を挟めません。

今度は「僕」で語りだしたぞww なんだこりゃ?w
45考える名無しさん:2008/12/21(日) 18:44:03 0
714=佃煮マニア説濃厚
46ナレーション:2008/12/22(月) 15:59:46 0
男は、その新しい場所を、しばらく見つめていた。
「これはあの3人の内の1人が立てたに違いない。なんだこのふざけたスレタイは!」(>>38)

男は、実はもう、うんざりしていたのだが、あいかわらずオナニーに明け暮れていた。
「このキチガイ女にかかわったせいでこのザマだ。こいつのせいで!こいつのせいで!」
男は以前入手した女の顔の画像をA4で出力したものに、大量の粘つく精液をまき散らした。
男の妄想の中では、精液は女の開けた口と突き出した舌から、糸を引いて滴っていた。
47考える名無しさん:2008/12/22(月) 21:05:10 0
188 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/15(月) 00:45:33 0
>>181
>>183
それ佃煮マニアってコテだよな
もっとひどい書き込みがあった
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1189126479/453-454n

189 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/15(月) 00:55:53 0
>>181とかリンク先とか見ると
もうスレ荒らしとかいう次元を超えて個人攻撃だよな
これは通報ものじゃね?

190 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/18(木) 00:13:04 0
あげ
48考える名無しさん:2008/12/22(月) 21:05:49 0
194 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/19(金) 18:35:02 O
>>188-189

ラカン 「エメの症例」 
http://www.ne.jp/asahi/village/good/lacan.htm
http://charm.at.webry.info/200809/article_13.html

エメは「同性愛的傾向」を持つ同性に攻撃的な「被害妄想の女患者」
それにしても、この荒らし、関係妄想、被害妄想、嫉妬妄想のすべてを
具現してるんじゃね?

195 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/20(土) 02:44:18 0
確かに。この症例をフロイト先生に分析してもらいたい。

196 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/20(土) 02:45:44 0
しかし熟女篭城スレに書き込み続けてるのは笑えるw

197 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/21(日) 18:41:10 0
一見の価値アリ

198 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/12/22(月) 07:54:32 0
純一やPikarrrはペインのようなもの。佃煮もペイン。
タ, 31, 8, 106, 7, 207, 15なのじゃよ。
一時消えても 何度でも復活するのじゃよ。
だから電波棒が頭にぶすぶす突き刺さってるコテどもは全てペインじゃから
全て無視するしかないのじゃよ。
49714:2008/12/23(火) 11:19:31 0
>>40
>日本が侵略国家の性格がつよいかはともかく、「侵略をした国」ではありますよね?

まあそうなんですが。「侵略」なのか「侵攻」なのか・・・?

〈新しい歴史教科書をつくる会〉の主張を見ると・・・
昭和57年に、中国政府と韓国政府が日本政府に対して教科書記述の是正を求めてきて、
日本政府は中韓両国の要求に応じて教科書検定の基準として新たに
「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から
必要な配慮がされていること」という「近隣諸国条項」を付け加えた。
そしてそれ以降「侵攻」や「進出」を、「侵略」に変える教科書が増えてきた。
・・・ということらしいです。
そして〈つくる会〉は、【教育内容の決定は重要な内政事項と言える。にもかかわらず、
教科書の検定に際して近隣諸国に「配慮」せよという何とも理解しがたい規定が作られて
しまったわけである。】(つくる会HP)と、「近隣諸国条項」のおかしさを主張しているようです。

これを見ると、〈つくる会〉の主張にも一理あるように思えます。
「侵略」という語には〈加害性〉が強く込められ過ぎているような気もします。

それから、〈つくる会〉のような主張に反対する人々も、なんかヘンなのですw
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Japanmilitarism/tukurukai-kyokasho.htm
検索するとこういう感じのサイトがいっぱい出てくるんですが・・
【「つくる会」教科書を一冊も生徒に渡してはならない!】
【不採択の闘いを広げよう! 今度で「つくる会」教科書を葬り去ろう!】
こういうシュプレヒコールは古臭いし、だいいちヒステリックでイヤですw
こういう体質、なんとかなりませんかねぇ。
ヘルメットとマスクを持っていない一般人は参加しにくい雰囲気ですw
50714:2008/12/23(火) 11:21:03 0
>>41
>肉体交渉をセックス、ファックにわけて、
>セックス→肉体を通じた感情の対話
>ファック→快楽を目的としたスポーツ としますよね?

スポーツとしての性行為は、なんとなくアメリカ的な感じがしますが、
柔道や相撲もスポーツ化している昨今、w
もしかすると日本人の性行為もスポーツ化しているのかも知れません。

でも、心身二元論的思考がなじみやすい西洋と比べれば、日本には心身一如という
考え方の伝統があると思うので、西洋的なものがそのまま日本に入ってくることはないでしょう。

誰の文章だか忘れましたが、スポーツと武道の違いについて書かれた文章を読んだことがあります。
それによるとスポーツは基本的に個々人の幸福をめざすものであり人間中心主義的であるのに対して、
武道は人間中心的ではなく「道」中心主義であり、究極的には宇宙との一体化をめざすものである、
というようなことが書かれていました。

個々人の快楽を追求するのが人間中心主義のセックスであるとするなら、
忘我の境において無心となり、二人の心身が一体となるとともに宇宙とも一体化
しようとするのが「道」中心主義的なセックスなのかも知れません。(?)

>革命的なセックスは、・・・色々ありますね。

たとえばどんな・・・色々?
51714:2008/12/23(火) 11:22:35 0
>>42
>こないだ、旅館でスゴい立派な冬虫夏草を見ましたよ。

冬虫夏草というネーミングが良いですね。
僕は知らなかったので、Youtubeでお勉強しました。
http://jp.youtube.com/watch?v=vXtL3wSzw2w
生命は不思議です。いろいろと考えさせられます。
たとえば
このビデオのナレーションの「巣を守るために、このアリは運び出されたのです」
という言い方は、はたらきアリが、巣を守るという目的のために、意志をもって
運び出したような言い方です。
アリにも〈目的〉や〈意志〉があるのだろうか?
それは普通は〈本能〉と言われるものだろうけれど、〈本能〉と〈意志〉はどういう関係にあるのか?
などの疑問が生じます。
またナレーションは「ある特定の昆虫だけが増えすぎるのを抑える役割をしていることが分かってきました」
と言っているけれども、増えすぎることを認識する〈知性〉と、それを抑えようとする
〈意志〉のようなものは、一体どこにあるのか・・・? 本当に不思議です。

>仏教と照らすなら、虫から植物へのメタモルフォセスには、なにか
>「りんね」の様なものを感じます。そう思いませんか?

このビデオを見て僕が最初に思ったのは、このアリの死は〈幸福〉な死だったのだろうか?ということです。
(アリには幸福も不幸もないと言ってしまえばそれまでですが…)
生命を全体として見れば、このような、もちつもたれつの関係はどこにでもあるのだろうけれど、
この一匹のアリを中心に見ればどうなのだろう。
もしこのアリが、冬虫夏草の菌を自分にとって不都合な〈他者〉と感じていたとすれば、
この死は不幸な死だったのでしょう。
もしこのアリが、冬虫夏草の菌を〈自己〉の一部として感じ取り、受け入れていたとすれば、
不幸な死ではなかったのでしょう。
もっともこのような見方は人間的な見方で、自己を中心に見るのは人間だけなのかも知れませんが・・・
アリはアリ、冬虫夏草は冬虫夏草と截然と分けて見るよりも、「メタモルフォセス」として、
生命全体を一つのつながりとして見るほうが真実に近いかも知れません。
52714:2008/12/23(火) 11:24:35 0
>>43
>こないだ引用した箇所は、理想に燃え、イデアの世界に呑まれかけたイワンが、
>空回りして醜態を演じる箇所なんですよ。私はそういうとこが好きなんです。

そう言われればそうですね。わかります。

>なんか、ある小さな出来事が、のちのち重大な意味を帯びて来るとか、ないですか?

それはあるでしょう。
それに、小さいか大きいかを判断するのは人間の主観だから、
視点の位置が変われば、小さいか大きいかの判断も違ってくるだろうし。

人はそれぞれ違う視点、違う角度からものを見て考えている。
だから人と人とが理解し合うのはとても難しい。
それぞれの視点を捨てること(無心)によってしか理解し合えないのかも知れませんね。
53佃煮マニア:2008/12/27(土) 07:38:42 0
>>49 714さん
>「侵略」なのか「侵攻」なのか・・・?
どっちもだいたい似た様なものでしょうw
日本人が戦争中、具体的に何をやったのか、
他国に配慮しつつ、日本人として面子も保ちつつ、中学生に面白おかしく教えるなら、
奥崎謙三の「ゆきゆきて神軍」を見せて、監督を揶揄してみせるとかしたらいいですよ。
映画自体は左翼スギでちょっと過激だけど、事実の描写として誠実なものだし、
教育現場で「食のリアリティ」の課題としてPちゃんを見守ったりするくらいなら、
(これ)→ http://jp.youtube.com/watch?v=3XKK_NDXdu8
映画の中での会話に見られる兵役経験者の
「白ブタ黒ブタ(白人、原住民)を食べた」等の様な告白も、
中学生の感受性に何事か問いかけるんじゃないかな〜。
「日本がどんな国か」のイメージは、<つくる会>周辺の変な大人が押し付けるもの
じゃなくて、子供が自分でつくってみて欲しいですよ。

>こういう体質、なんとかなりませんかねぇ。
政治、社会問題を話そうとすると、私も、なぜか批判過剰になる自分を感じます。
誰でもそうなのかな。。。
立場が違う者は階級別に分けられ、お互い闘争するもの・・・みたいな、
イデオロギー支配があるのかもしれないですね。批判対象はこのイデオロギーかな。
今、演歌を聴いてますけど、「ツヤっぽく語り合う社会問題」なんてのも・・(´∀`*)
大きな共同体内での行為遂行的な発言でも、批判は、発言の意図を強調する程度に
留めるべきでしょうね。批判がメインになっちゃうと何したいのか分かんないし。
54佃煮マニア:2008/12/27(土) 07:39:27 0
>>50
>個々人の快楽を追求するのが人間中心主義のセックスであるとするなら、
>忘我の境において無心となり、二人の心身が一体となるとともに宇宙とも一体化
>しようとするのが「道」中心主義的なセックスなのかも知れません。(?)

その宇宙って、空の上の宇宙ですか?成層圏の上らへんの・・・?

>たとえばどんな・・・色々?
ん〜と、、、
行為中に愛人の身体に夢中になりながらも、視線が合う事に耐えられず、
見られる度に殴ってしまう視線恐怖症者のサディズム的なセックスとか、

挿入中に女性を笑わせると、腹筋、内筋が痙攣するから、
男性はとても気持ちがいい、笑いに拍車をかけられるセックスとか。

見つめ合うシリアスな現場に、異質性、、、つまり、
それぞれの個人の、性を伴わないはずの社会的側面が、身体性をもって
セックスに介入して、行為の質が変わってくる例です。
55佃煮マニア:2008/12/27(土) 07:42:36 0
>>51
何か動画、腐海で身をよこたえる王蟲みたい。ナウシカので。
ラカンなら「菌類は生命の同一性をたもつ症状としての女性である」とか言いそう。

>〈意志〉のようなものは、一体どこにあるのか・・・?
アリとか菌には前頭葉がないから、フェロモンとか、遺伝子に書き込まれた
適者生存のプログラムにしたがった行動のみ、とるんじゃないかな。
例えばアリ社会に権力構造はないけど、
個体のフットワークを重くする無駄を一切省いて、集団にいるそれぞれの個体の
役割に応じて、完全に知性を分散させていますよね。その方が効率的?
その、それぞれの個体の機械的な知性が作用し合う関係という場に、
知を享楽として使いたがる人間が関わると、「それは複雑な知性の現れだ」と
認識・・・または幻想しようとするのかも。

>この一匹のアリを中心に見ればどうなのだろう。
菌に入り込まれたアリは、たぶん、乾癬とか水虫がかゆいんだろうし、
かゆがってたのを仲間のアリに葬られたんでしょう。シビアです。。。
でも、虫と植物の両者が相容れないまま、一つのまとまった形を位相として見ると、
内部に葛藤を宿したキメラとして見る事も出来ますね。
精神世界の発想だと、人間個体というのは、ひとつの器で、
そこに、意識を伴った肉が収められたり出て行ったりする。という考え方をするんだろうけど、
器に宿され、散っていく生命、の部分を広げると、人間自体にもキメラ性がありますね。
56佃煮マニア:2008/12/27(土) 07:43:46 0
>>52
>それぞれの視点を捨てること(無心)によってしか理解し合えないのかも・・・
ドストエフスキー好きのあるミュージシャンの歌の歌詞が、禅問答風になっています。
恋人と理解し合いたい男の会話なのかな、これは。
その曲の一部 A「もしもあなたのたった一人の愛する人が、
         あなたの大切なものを、否定したなら、どうしますか」
       B「私には、否定されるものなんてありはしない。
         もとより私は、たった一人の空無な存在です。
       A「じゃああなたの、大切なからっぽの、空無な世界を、
         あなたのたった一人の女の人が、否定したなら、どうしますか」
こんな感じで展開してるんですけど、
この場合、たぶん、立場としてはBさんは無心、Bさんの恋人は虚無主義者なんでしょう。
もし714さんがBさんだったら、最後の問いにどう答えますか?
ちょっと意地悪な質問かな〜。
57714:2008/12/30(火) 11:02:43 0
>>53
>「日本がどんな国か」のイメージは、<つくる会>周辺の変な大人が押し付けるもの
>じゃなくて、子供が自分でつくってみて欲しいですよ。

それはそうだと思います。 
Pちゃんの先生も、「良い先生」のイメージを聞かれて、
「子供たちを自立させることができる先生」と答えていましたが、
自分で問題解決できる自発性を引き出すことが、教育の大事な目標だと思います。

「押し付け」かどうかというのは、微妙なところです。
「押し付け」的なものは、「教育」の本質に含まれているんじゃないかと思うのです。
自発性を引き出すことが教育の目標であるとしても、それを引き出すためには、
子供たちに何らかの素材を与えて、一定方向に導かなければならない。
素材として何を与えるのか? 「ゆきゆきて神軍」を与えるのか、「Pちゃん」を与えるのか…
そこには導く者の価値観があって、価値観の「押し付け」があります。
(その素材の基本になるのが教科書だから、〈つくる会〉の問題もそれと同じで、
どの価値観を「押し付け」るか、という問題なのでしょう。教科書検定も一つの押し付けだから。)

「食のリアリティ」が欠けているからPちゃんを育てて食べちゃおう、というあの先生の発想も
かなり個人的な価値観だと思いますが、あれはあれで、とても良いんじゃないでしょうか。
あの人の主観的な価値観(信念)を出しているからこそ、子供たちと真剣に向き合えている感じがします。
58714:2008/12/30(火) 11:04:13 0
>>54
>その宇宙って、空の上の宇宙ですか?成層圏の上らへんの・・・?

そういう天文学的な宇宙ではなくて、宇宙≒自然≒存在全体、という意味の宇宙です。
存在はつながっているから、身近な宇宙と一体になれば、天文学的な宇宙とも一体になるだろうけど・・

キリスト教的世界観では、人間以外の自然は人間が「支配」する対象として、人間とは切り離されていますね。
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記)
(近代科学も、自然を支配しコントロールするというキリスト教的世界観の影響下にある。)

それに対して東洋では仏教や老荘思想のように、人間を自然の一部と見る見方がわりと普通だと思います。
人間はもともと自然の一部であり自然と一体である。であるはずなのに、実際には一体になっていない。
(だから仏教や老荘思想は、一体になることを説いている)
何が一体になることを邪魔しているのかというと、それは、自我意識だと思います。
(そこからセックスにおける「無心」の話につながりますw)

座禅は、自分以外の対象なしに、自分だけで「無心」→「一体」をめざすけれど、
僕が思うに、それは難しい。
一体になる対象があったほうが、わかりやすい。
セックスでは、対象はなまみの人間ですが、
前スレでAbsalomさんが書いていた柳宗悦の場合は、対象は器です。
柳宗悦によれば、無名の陶芸作家の、美への狙いなど何一つもたない心によって、
主体と対象が一体となり、そこに陶芸の美が生まれる。
「益子窯に〈山水土瓶〉と呼ばれる土瓶のあることは、既にご承知の方も多いことと存じますが、
その山水絵が描かれる様を見ておりますと、描き手と描かれる山水とが相対しているのではなく、
描く自らも、描く事も、何を描き、どう描くかをも忘れ去るほどに、手早く淀みなく描き続けて
おります。」(『美の法門』)
59714:2008/12/30(火) 11:05:41 0
>>55
>アリとか菌には前頭葉がないから、フェロモンとか、遺伝子に書き込まれた
>適者生存のプログラムにしたがった行動のみ、とるんじゃないかな。

プログラムとして遺伝子に知性が内在しているとすると、そのプログラムは
いつ、どのようにして発生したのか?という疑問が残ります。
生命が誕生する以前はどうだったのか?
無から有は生じないから、「何か」が「知性」に変化したのか…

そう考えると、(知性を与えた「神」を想定するのでなければ)、有機物とか無機物とか関係なく、
もともと存在そのものに知性が内在していると考えるのが首尾一貫した考え方なのかな、と思います。

そういう考え方としては、儒教の王陽明の「草木土石は悉く良知をもつ」、
仏教の「草木国土悉皆成仏」、
存在そのものを「意思」と考えたショーペンハウアーやニーチェも、そういう考え方です。
60714:2008/12/30(火) 11:06:42 0
>>56
>A「もしもあなたのたった一人の愛する人が、
> あなたの大切なものを、否定したなら、どうしますか」
>B「私には、否定されるものなんてありはしない。
> もとより私は、たった一人の空無な存在です。
>A「じゃああなたの、大切なからっぽの、空無な世界を、
> あなたのたった一人の女の人が、否定したなら、どうしますか」

意味がわかりません…
とくに「否定」の意味がわからない。

「あなたの大切なものを否定する」の「否定」の意味として考えられるのは、
〈あなたは大切だと思っているけど、そんなものに価値はないよ〉
と、大切だと思う気持ち、つまり〈価値評価〉とか〈好み〉を否定することなのかな、と思いました。
でもそうだとすると、Bさんの答えは頓珍漢だ…
Bさんの答えは〈私は空無な存在だから、否定されるような価値がもともとない〉…?
Bさんは自分の〈価値評価〉とか〈好み〉についてではなくて、自分の〈存在そのもの〉の価値について答えている。
それに対してAさんはまた「あなたの、大切な・・」と、Bさんに〈大切なもの〉があることを前提に、
〈価値評価〉〈好み〉について尋ねている…
わけわからんw
僕がAさんなら、最初に「あなたには大切なものがありますか?」と聞きます。
61ナレーション:2008/12/30(火) 20:46:36 0
男は、女とくだらない雑談を続ける内に、時として安らぎを感じることがあった。
(>>31,32,33)
まるで、熟女の、生暖かい肉に包まれているような、
むせかえる様々な臭いに包まれているような、不気味な、安心感。
それを楽しめるほど、男は熟女フェチなのであった。
濃密な空気感にうっとりとしながら、男は何度も射精を繰り返した。
(>>50)

しかし、と射精直後の男は考えることがあった。
これでは「菜の花とエートル」あのきもい二人と、いったいどこが違うのだろうか?と。
結局、おれも、このばばあも、あいつらに嫉妬しただけなんだ…

そう考えると、男は再び自分が勃起しはじめたのを感じた。
62佃煮マニア:2009/01/03(土) 15:52:54 0
        __○__
      (___)
     (____)
    (_____)
   /''''''   '''''':::::::\
  . |(●),   、(●)、.:| +
  | ///ノ(、_, )ヽ、///::|
.   |   `-=ニ=- ' .:::::::| +
   \  `ニニ´  .:::::/     +
,,.....イ.ヽヽ、ニ__ ーーノ゙-、.
:   |  '; \_____ ノ.| ヽ i
    |  \/゙(__)\,|  i |
    >   ヽ. ハ  |   ||
あけましておめでとうです。
セノイ人は、「夢を晒すといい」と言うので、初夢を晒してみます。
粘土で出来た白い室内に、1メートル程の黒い舟が浮かんでいて、見ていると、
突如なだれ込んできた濁流を漕ぎ回り、囲い込んで来る敵機を勇ましく圧倒・・・
室内にいた私はそれらに囲まれて、こわごわ眺めていたのですが、
それら全部が一斉に動きを止めて、よく見ると、敵機はカラーボール、濁流は幻想、
船はおもちゃでした。それらの向こうに男がいました。
彼は、おもちゃなどを私の前で動かして、何かを実演してみせていたのでした。
部屋を出て行く男を尾けていくと、空の青にただよう港で、巨大な黒い飛空艇に乗り込みました。
その飛空艇は、数年前に行方不明になった伝説の艇で、男はその船の船長だったようです。
おわり)船は宝船か何かかも?縁起がいい?
63考える名無しさん:2009/01/03(土) 15:53:42 0
>>57 714さん

>自分で問題解決できる自発性を引き出すことが、教育の大事な目標だと思います。
自発性で思い出すのが、牧野富太郎です。
この人は、小学校中退でその後植物にのめり込んで、
野原で草花を見つけて名前をつけたり研究してるうちに東大教授になって、
彼のあまりの博識ぶりに、研究室の教授達も肩身の狭い思いをしてるとか。
小学生に、この人の生い立ちを見せてもいいと思います。

・・・子供に何か与える事が、押しつけの様に感じられるのは、
子供のメンタルスキルを、家庭や学校が上げていないからじゃないですか?
自己イメージが小さ過ぎて、自信がないから、興味の幅も限られて、
与えられた、見つけたモノを、興味を持てないし楽しめないんでしょう。
「自分が星だとしたらどんな星か」とか、絵や作文で創作させて、
全員に独自の賞をあげるとかの授業をすれば・・・。
そうやってセルフトーク能力を上げる教育をすればいいんじゃないかな。
それで、子供達が星に与えた性質、星に設置したオブジェクトを、
他の授業で拾って授業内容とつなげれば興味の幅も広がると思いますよ。
64考える名無しさん:2009/01/03(土) 15:54:33 0
>>58
>キリスト教的世界観では、人間以外の自然は人間が「支配」する対象として、人間とは切り離されていますね。
「宇宙≒自然≒存在全体」、多分内的宇宙とかそういう意味かな〜と思ってました。

「道」的な、対象と一体になる事を目指すセックス、>>54の例から見て、
丁度読んでいたラカン、ジジェクの「女は存在しない」「性的関係は存在しない」が
なんかおかしい・・と思ってたんです。

女は存在しない→「男の居場所は本来、象徴界にあるもので、
女に欲望を抱いて、現実界にこぼれ出した途端、女は消滅する」
性的関係は存在しない→「男と女とは、性的関係という現実界を
象徴界に対置しようとして失敗した試み」   という事らしいんですけど、
個人それぞれの性的差異は、まったき自然ではなく、象徴界の干渉で形成されるものでもあるし、
例えば、社会的な言語ツールである「笑い」を、性行為に持ち込んで笑いが成立して、
それが性行為自体に作用を及ぼしたとしたら、現実界と象徴界に境はなくなります。
・ ・・ラカンは、このふたつの言葉を、医者としての良心の証として残したのかも?
で、やっぱりこの人も、性的差異を自然と看做し、それと異性愛の規範の間に、
深刻な裂け目がある、と言っています。
自然に対して支配的ではないんだけど、断絶感は持っているみたい。

>柳宗悦によれば、無名の陶芸作家の、美への狙いなど何一つもたない心によって、
>主体と対象が一体となり、そこに陶芸の美が生まれる。
こないだクリスマスに、柳宗理のリードを、うちの犬にプレゼントしましたよ。
おいしいのか、ガジガジかじってますけどw
そう言えば、名前を失念・・・日本画の大家も、
「何でもない風景が、自分に『描いてくれ』と迫って来る、だからそのままに描く」
と言ってました。
こういう、「入ってる意識」の時、脳が半睡半醒の状態になっているようです。
ゆるやかなトランス状態なんでしょう。
ユングで言う、シンクロニシティをやっているとこでしょうか。「即融」っても言いますか?
65考える名無しさん:2009/01/03(土) 15:55:13 0
>>59
>そのプログラムは
>いつ、どのようにして発生したのか?という疑問が残ります。
遺伝子は、例えばアリが、
たまたま仲間の死を目撃したとき、効率よくエサ運びや養育をしたとき、
その情報を要約して遺伝子に書き込むんじゃないですか?
それが生物誕生の頃から連綿と繰り返されて、情報が蓄積、洗練されて
行動に知性的なものが見える様になるとか。進化の起源はなんとも・・・。

生物全体が何かに操られる様に行動する、
「大きな意志」というのは、ちょっと私は半信半疑です。
人間は、バラバラなものから何か記号的なものを見つけ出し、
規則を与えて、全体に同一性を持ったものとして解釈しがちなようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/カニッツァの三角形

>そういう考え方としては、儒教の王陽明の「草木土石は悉く良知をもつ」、
>仏教の「草木国土悉皆成仏」、
>存在そのものを「意思」と考えたショーペンハウアーやニーチェも、そういう考え方です。
これがとてもムズカシイ。。。一事は万事ってことかな?
714さんはどんな解釈をしてますか?
66考える名無しさん:2009/01/03(土) 15:55:56 0
>>60
Bさんの答えは〈私は空無な存在だから、否定されるような価値がもともとない〉…?
Bさんは、多分仏教をベースにした考えの人なんですよ。
仏教に「空」ってあるでしょ?
色と表裏一体の空、Bさんが実在していても、身体があって意志があっても、
それは生滅していくあくたでしかない、だから、その存在を否定する事さえ空しいもの、
というのがBさんの考えなんですけど、その考え自体を、Bさんの恋人が否定するんです。
Bさんの恋人は能動的な虚無主義で、恋人の考えでも何でも否定して、
否定して仮象を暴き立て、真のBさんを愛そうとしているんですよ。きっと。
「空」と「虚無主義」を融合させて折り合いをつける事って出来るんでしょうか。
ニヒリストのニーチェって仏教をリスペクトしてましたよね?
超人思想の中に、何かそういう折り合った後のものがあったりするんでしょうか?
67ナレーション(第二層):2009/01/08(木) 01:33:36 0
X月X日から不思議な メイルが、毎日届いている。一部を整理して公開することにした。
できるだけ理解してもらえるよう状況説明はしたいと思うが、私自身それほどよく理解しているわけではない。
どこまでできるか。
公開する理由は、今この画面を見ている諸君からのアドバイスがほしいからだ。
池袋の雑踏のような(と教えられた)XXXXXX 上に公開したのは、実は何も知らない上品なエリートよりも、
悪いと知りながら何でもやって、なおうまく立ち回われるソドムとゴモラの住人のほうが助けになると思ったからだ。

諸君なら、当然次の格言を知っているだろう。

>Screw the Whales, Save the Clits!

ニュースグループを席巻している流行の標語だ。翻訳するのも野暮だが、
>くじらはぶっ殺せ、クリトリスを守れ!
68ナレーション(第二層):2009/01/08(木) 01:34:41 0
当然日本人は前半の趣旨には賛成だ。あの肉は美味い上に健康にいい。しかし、
なぜクリトリスを守らなければならないのか、そんなに危ないとは知らなかったという諸君には、
現存する女性のうち一億人にはクリトリスがない、という事実を、今のところは伝えるだけにしておく。
あるとぼけたアメリカ人が、くじらのクリトリスはどうするのだという質問をしていた。

さて、問題は、私の知り合いの女子高生、X嬢のクリトリスがひとつ、
一週間後に切り取られるらしいということだ。すぐ大使館に知らせて具体的な手を打たねばならない、
と思われるかもしれないが、それができないから、こうしてキーを打っているわけだ。別に冷たいわけではない。
彼女も助けを求めているわけではない。もう少し事態を見ながら、諸君からのアドバイスを待とうというわけだ。

ともかくM嬢の不思議なメイル は、不思議な自然さで、しかしとんでもない内容を書き記してきた。
なお、彼女がメイルに書いている画像については、発表が可能かどうか検討の上、なるべく早い時期に出せるようにしたい。

注意を付記すべきだろう。18歳以下の諸君には相応しくないテーであると法律はいうだろう。
実は君らに問われてる問題であるが、やはり、読んではならないと、注意しておこう。
69考える名無しさん:2009/01/08(木) 01:38:13 0
ナレーション キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
70714:2009/01/08(木) 14:27:42 0
>>62
>初夢を晒してみます。

おめでとうございます

「部屋を出て行く男を尾けていくと、」がおもしろかったw


>>63
>それで、子供達が星に与えた性質、星に設置したオブジェクトを、
>他の授業で拾って授業内容とつなげれば興味の幅も広がると思いますよ。

そうやって、教える側が自分で工夫することが大事なんだと思います。

同じ方法が同じ結果を生むとは全然限らないから、どういう方法が良いのかは難しいね。
良い方法があるからそのやり方をそのまま取り入れたとしても、教える者の精神性が伴っていないと・・
と考えると、教える者の精神性が一番大事なんだろうと思われます。(理想論かな?)

哲学でも芸術でも何でも、秀でた人がまとまって現れるケースがとても多いですよね。
師と弟子の関係だと、たとえば、ソクラテス-プラトン-アリストテレス。
日本でも、西田幾多郎-田辺元、西谷啓治、久松真一、などなど、有名どころがまとまって現れてます。
これはたぶん、ソクラテスや西田幾多郎の教え方が素晴らしかったというより、
ソクラテスや西田幾多郎の、哲学に対する態度や精神に弟子たちが触れて、影響を受けたということだと思います。

そう考えると、子供の好奇心を引き出すためには、教える者自身が牧野富太郎のようになれれば一番良いし、
子供たちの輝きを引き出すためには、教える者自身が輝いて生きていることが一番良いと思う。(理想論おわり)
71714:2009/01/08(木) 14:31:04 0
>>64
>で、やっぱりこの人も、性的差異を自然と看做し、それと異性愛の規範の間に、
>深刻な裂け目がある、と言っています。
>自然に対して支配的ではないんだけど、断絶感は持っているみたい。

ラカンのように象徴界と現実界と言ってしまうと、二つの世界があるように思われるけれど・・・
僕は言語化された世界と言語化される以前の世界を、存在の表層と深層、ぐらいに考えるほうが好きです。
そして表層ではばらばらでも、深層においては、存在は全部つながっている。

ずっとまえ仏教関係の本で読んだお話です…ある日、寺の畑のカボチャたちが大喧嘩をしているので
和尚さんはカボチャたちに座禅をさせました。しばらくたって和尚さんは言いました。「そろそろ
のぼせも下がったことだろう、おまえたち、みんな自分の頭をさわってごらん。」カボチャたちが
自分の頭をさわってみると、あらふしぎ、みんな同じつるでつながっているではありませんか。
カボチャたちは自分たちが同じ一つの命を生きていたんだと気づいて、それから仲良く暮らしたそうですw
72714:2009/01/08(木) 14:32:10 0
>「何でもない風景が、自分に『描いてくれ』と迫って来る、だからそのままに描く」

それはたぶん芭蕉の「松のことは松に習へ」と同じようなことでしょう。

「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へと、師の詞のありしも私意をはなれよという事也。
この習へといふ所をおのがままにとりて終に習はざる也。習へと云は、物に入てその微の顧て
情感ずるや、句となる所也。たとへ物あらはに云出ても、そのものよりも自然に出る情にあらざれば、
物と我二つになりて其の情誠にいたらず。私意のなす作意也。」(「三冊子」)

12万体もの木彫仏像を彫ったといわれる円空は、
自分はただ、木の中に既にある仏の姿を取り出しているだけだ、と言ったらしいです。

それに対して現代の芸術は、「創造」が「私意のなす作意」になってしまって、
わざとらしいものがとても多い感じがします。
バッハの演奏でも、独創性を出そうとして気負いすぎた演奏が多いんですよ。
そういう演奏家でも、60歳代ぐらいになって、肩の力が抜けて自然な良い演奏になる人もいますが。

(肩の力を抜いた自然体というと、またヘリゲルさんを思い出してしまう。
〈力を抜けば抜くほど、精神力の源泉は豊かに流れ出す〉
〈弓射は、「我」が射るのではなく、「それ」が射るのだ〉
肩の力を抜いた自然体は僕の理想の一つでもあるので、ヘリゲルに回帰してしまうらしい…)
73714:2009/01/08(木) 14:33:40 0
>>65
>人間は、バラバラなものから何か記号的なものを見つけ出し、
>規則を与えて、全体に同一性を持ったものとして解釈しがちなようです。

そうですね。人間はいろいろと勝手な意味づけをします。

サルトルの『嘔吐』の主人公が、意味を失ったマロニエの根っこに嘔吐を覚えるシーンは有名ですが、
存在の無意味さ(ニヒリズム)は耐え難いもので、とくに自分の存在の無意味さは耐え難い。
だからいろんな意味づけをする。そういう側面もあるでしょうね。

ニーチェは「無意味な世界にどれだけ耐えられるかが、意志力の尺度だ」と書いています。
「舞踏する星を産み出すためには、己の中にカオスを宿していなければならない」(ツァラトゥストラ)とも。


>>存在そのものを「意思」と考えたショーペンハウアーやニーチェも、そういう考え方です。
>これがとてもムズカシイ。。。一事は万事ってことかな?
>714さんはどんな解釈をしてますか?

これは前スレの>879で書いたことと関係しますが、
デカルトが物と心を截然と分けたことによって、生命なき物質の学として物理学が始まった、とすると、
仏教も、ニーチェも、ギリシャ初期の哲学者と同じように、物と心が分かれる以前を考えていたんだと思います。
(ギリシャ初期の哲学者たちの、〈物〉そのものが生命を持ち自己運動するという考え方は〈物活論〉といわれてます。)

たとえば現代の物理学では素粒子が、生命なき物質の最小単位と考えられていますが、
その素粒子の一つ一つが〈生命〉のようなものであって、〈意志〉のようなものだと想像すれば、
ニーチェの考え(力への意志)に近づくんじゃないかと思います。

力への意志という思想が形成される頃、ニーチェは当時の最先端の物理学についてかなり勉強していて、
物理学の「力」概念を批判して、次のように書いています。
「一つの力量子は、それを働かせる作用とそれが抵抗する作用とによって表される。この力意志の放射が
ないとすれば、アトムもないことになる。それゆえ私はこの力意志を、『力への意志』なる量子と呼ぶのである」
74714:2009/01/08(木) 14:35:03 0
>>66
>色と表裏一体の空、Bさんが実在していても、身体があって意志があっても、
>それは生滅していくあくたでしかない、だから、その存在を否定する事さえ空しいもの、
>というのがBさんの考えなんですけど、・・・

それだと、「空」の意味の半分ですね。
般若心経の「色即是空」の後には、「空即是色」があって、こちらは「空」の肯定的側面を表しています。
大乗仏教では、上のBさんの「あくたでしかない」みたいな否定面よりも、こちらの肯定面が強調されていると思います。

芭蕉の〈私意をはなれる〉とか〈私心を捨てる〉みたいに、否定的に〈捨てて〉いく方向が「色即是空」だとすれば、
その否定の到達点に「空」があって、それが今度は逆に根源的なエネルギーとして存在を喚起する、という感じだと思います。
肯定面を詠んだ句に「舎利子見よ空即是色花ざかり」という句があります。

>「空」と「虚無主義」を融合させて折り合いをつける事って出来るんでしょうか。

ニーチェのニヒリズムと「空」はよく似ていますよ。
既存の価値が価値を失っていく時に、ニヒリズムが生じます。(これは「色即是空」、否定的に〈捨てて〉いく方向)
既存の価値や意味を捨てて、ニヒリズムを突きつめていって到達するのが「生成の無垢」です。(これが「空」にあたる)
そして「生成の無垢」という価値も意味もない世界において、新たな価値と意味を創造するというニーチェの肯定の思想が始まります。
〈捨てる〉という否定の方向を突きつめていった所に転換点があって、そこから肯定に転じるというところが、とてもよく似ています。
75ナレーション(第二層):2009/01/08(木) 23:03:47 0
XXXXXおばさんを紹介します。XXXXXの写真、見えてますか。256色に落としたから、
あまりきれいな写真じゃないかな。本当は黒い肌がすごくきれいな、優しいおばさんです。
この人が例の専門家です。それでもって左の写真がおばさんが30年間使いつづけてきた手術道具です。
恐いでしょう。完全に錆びてます。ほとんど刃物とは思えません。

わたし、慌てて、出かけにXさんからもらったサバイバルナイフ(こんなものをくれるXさんて変な人でしょう。
Xという大きな出版社の人です。おまえは変なところにばかり行くからこれやるよ、てな具合でいただきました)を
使ってもらおうと差し出したのです。自分のことですもの、それくらいのことはしてもらってもいいでしょう……
というのは、実はあさはかでした。

おばさん、近くの籠の中から、大根を一本取り出して、錆付いたかみそりを使い始めました。柔らかく同じ厚さで、
するすると皮が剥けていきます。落ちた皮を私の手のひらに載せてくれました。
一月も前に剥いたもののようにさらりとした切り口で、ほとんど汁はでていません。
次はわたしのナイフ、大根の身がさくさくと切り離されていきます。さっきより少し深そうでなんだか身を捩りたくなります。
切り口は鋭く、新鮮な液が大根さんの全身から流れ出ています。
76ナレーション(第二層):2009/01/08(木) 23:05:07 0
おばさんがにこりと笑って、ちょっと手をすべらすと、ナイフはぐさりと食い込みまして、
太い大根のほぼ中ほどまでをえぐり抜いてしまいました。えっ、そんなことしたら、子宮までいっちゃうじゃない!
ドイツ製だから長持ちするとか、日本製だから性能がいいとか、そんなことないんですね。
XXXXXおばさんの錆びたかみそりを見てそう思います。社会勉強というやつです。

先生ならどちらを選びますか、自分の大切なところを切り取ってもらうためにです。
もちろんXXXXXおばさんのかみそりでしょう。

詳しい事情はまた明日。経過説明もしなくちゃいけないし、この一週間は考えることも多そうだしで、
先生に勝手にメイルしています。インドのXXXXさんから先生のアドレスは聞きました。
わたし先生のファンなんです。
77ナレーション(第二層):2009/01/09(金) 19:21:22 0
大分前のことになったが、友人のテレビ局のプロデューサーが、次のようなことをぼやいていた。

彼のチームが日本人としては初めて、アマゾン川の大逆流、XXXXXを取材にいった。
ボートで逃げながらの撮影を試みたドイツ隊が前年に全滅したこともあって、
テレビの教養番組の取材にしては決死の覚悟になっていたそうだ。
もっともドイツ隊は何百キロも遡る大逆流から逃げるのに百キロの航続距離もないモーターボートを使うという
信じ難いミスをおかしていたから、同情する気にもなれないほどだ。彼のチームはめでたく、迫力ある映像をビデオに収めて帰国した。

問題は放映の日におきた。撮影隊の生活を紹介したカットで、隊員のシャツがなくなった。
内心盗まれたかなと思い始めたら、現地の住人が親切にも真っ白に洗ってくれていたのだった、というささやかな感動シーンだ。
ここで局に電話が殺到し始めた。

XXXとかXXXXXとかの社員からの電話だ。その木の実の名前を教えろ、という。何の木の実だと問うと、
シャツを洗うシーンでちらりと見えた洗剤代わりの木の実だ。あんな泥流のアマゾンの水で洗って、
あんなに真っ白になるのは奇跡だ。あの木の実が、大発見なのが分からんのか。
くだらん二番煎じのXXXXXなんかはどうでもいいから、あの木の実のことを教えろ。
なに、分からない、おまえら税金泥棒か。今世界的な洗剤戦争が起きてるのを知らないとはいわせないぞ--一晩中怒鳴られた、というわけだ。
78ナレーション(第二層):2009/01/09(金) 19:23:21 0
なぜこんなことを書いたか。実は、今私も、考えもしなかった方面からの反響に仰天しているからだ。
一つは、錆びた剃刀についてもっと聞いて報告しろというもの。
日本のビジネスマンはバブルがはじけても辟易するほど仕事熱心だ。
ある果物の汁を使って処理するらしいが、詳しく分かったらここに書こう。

もう一つは、ある newsgroupe からの申し出である。”Female Genital Mutilation & Cooking”という groupe だ。
すごいね、アメリカ人は。 男女をとわず、割礼によって生じた肉片で料理をするグループだ。
もちろん女性のほうがはるかに上等であるとは文面に書いてある。

実は、この点において、女性団体が強調する点も同じだ。女性の方が上等なのだ。つまり皮と身のちがいだ。
男性は皮、女性は身。同じ割礼ではないか、女性だけ文句をいうのは勝手だ、百万回も繰り返された保守派の主張に対して、
それなら男性も身を切れ、余った皮ではなく根元から切れと、一部の女性過激派は叫んでいるわけだ。

こうした事情はさておき、”女性性器切除と料理”グループの見解によれば、とくに小陰唇は最高である。
現在、塩を振り掛けるだけがいいか、シチュウがいいか、大論争の最中である、らしい。
いずれにしろ彼らの最大の悩みは、新鮮な食材の確保が困難なことだ。

X嬢がファラオ(Pharaonic form)を受けた場合、その場で千ドル、ほかの現地人の場合はその半額、この値付けに他意はなく、
M嬢が被術者としては例外的に成熟しており、その分値が張るからとのことだ。

M嬢の回りにいるのは、これからおいおい説明していくが、間違いなくZ国の過激な民族派、文化的な伝統への回帰と政治、
経済の自立を主張している。”自立”の名のもとに、人類は麻薬も殺人も許容してきた。
この奇妙な取り引きは成立の可能性がある。一応、X嬢にメイルは出しておく。
79考える名無しさん:2009/01/10(土) 02:01:00 0
ナレーション スゲ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
80佃煮マニア:2009/01/11(日) 14:32:40 0
テレビ番組と言えば、
ドラマ「シリウスへの道」ってなんか面白かったですね。設定とかからみが。
幼なじみである、とある娼婦と、エリートサラリーマン、売れない絵描きの友情物語なんですけど。
そこに上司ののキャリアウーマンがからんで、陰謀もはじまって、みたいな。
81佃煮マニア:2009/01/11(日) 14:33:13 0
>>70 714さん
師弟は、お互い無限に高め合う関係だから、
どちらかが突出すれば、もう一方も、という事になりやすいですね。
弟子を世に送り出したがる人、出さないで側に置きたがる人、といる様です。
ソクラテスや西田幾多郎は、前者だったんでしょう。健全です。
西田幾多郎って、学習院大の教授なんですね?うちの祖父もそう。読もうかな。
何がおすすめですか?

714さんがあげた哲学者は、みんな善や倫理について考えた人ですよね。
学校って、善性の喜びを得られる人生こそ豊かだ、と教える所です。
子供のむき出しの欲望を撫でる様に加工して、理性と情熱に変えます。
情熱を動力、理性をツールに、倫理に即しつつ有利に生きる術を教えます。
こういう、「術」を使った生き方は悪だとして、カントは批判したし、
ドストエフスキーも、好対照なモチーフを「白痴」に登場させましたね。
こういう議論は終わらない。。。

善悪に基準を固定しない精神性が大事なんでしょうね。
精神性を引き出すプログラムを、「啓発」って言うんですよね。
82佃煮マニア:2009/01/11(日) 14:35:09 0
>>71
>ラカンのように象徴界と現実界と言ってしまうと、
言われてみると、いろんな世界に私が同時存在してるみたいで、SFっぽいw
ラカンの奥さんは、もとバタイユの奥さんなんですよ。
バタイユとは、たった6年で破局してます。
パラノ気質でエロ魔人のバタイユの側で、彼女は、女である事に疲れていたでしょう。
そこいくと、らかんの「女は存在しない」は、
彼女への最大の配慮と愛を含んだ言葉で、素敵だな〜と思うんです(*´∀`*)

>和尚さんはカボチャたちに座禅をさせました。
か、かわいいw
和尚さんが、注入棒でスイカ割りならぬ、カボチャ割りをしてる図、ですね。
私の頭にも、触ってみるとつるがあるといいですが、スカッと空を切ります。
沖縄空手をしている人に聞いたんですけど、
「いい姿勢とは、上から頭を糸で吊られているような立ち姿」なんだそうです。
カボチャの話と共通点ありそうですね。
ところで、714さんって、けんかとかしますか?
83佃煮マニア:2009/01/11(日) 14:35:49 0
>>72
芭蕉や円空の、そういう心理を、ゾーン状態って言うんですね。
自我の深層からダイレクトに対象にアクセスして、
普通ならその間も入るはずのノイズを、全てシャットしてるんでしょう。
だから、目的の対象と、完全に一対一になれます。

逆に、色んなモノがきになっちゃう、ノイズの多い人もいますね。
ブッダは妖怪女と闘い、キリストは悪魔と闘い、
不如意に自分をしばるノイズを頑張ってぜんぶやっつけて、
その迂回のあと、やっと、最高の真で美なるものと邂逅します。

本能的な恐怖心や、警戒心が、薄いか濃いかの差でしょう。
前者のつくったものは、迷いがない統一された様式ですっきり語り切るのに対して、
後者のは、バラエティ豊かな説明を多く散りばめて、ふくよかさを持ちます。

>肩の力を抜いた自然体
あこがれますね。老成した魅力は、なかなか手に入らないものです。
逆に、行動の全てに必要以上の力を込め過ぎな人ってのも、好きですけど。
何気なく振り向いて、その目が血走って座ってるとか。
常に目を剥いているのが、その人の自然体、みたいなのw
84佃煮マニア:2009/01/11(日) 14:36:23 0
>>73
素粒子は軌道を持っていて、通過するのに、エネルギーを発散はしてます。
で、その軌道を決めて、エネルギー放出をする意志は、どこにあるのかな。
素粒子のまとまりが、一種情感を伴った様なうねりを見せても、
それを認識後、軌道やエネルギーの様態に、人間の持つ自己決定の意識を投影して、
重なり合った部分に不思議な感動を覚えようとするのは、人間のエゴでしょう。

ニーチェは、天才のクセで、色んなモノにビッシリ意味をくっつけるのが好きです。
やり過ぎてて、私にはちょっと重い。。。
プルーストも、ニーチェのこの面を著作の中で指摘してます。
友情について。引用しますね。
「ニーチェの様な人が、ナイーブにも友情に知的価値を与えた結果、
ワーグナーの音楽にまで背を向けるのは、理解しかねる。
行為とは、表現形式としてはあいまいかつ不適切なもので、
とりわけ、友情なんていう表現形式の中で真理を実現させたがったり、
そういうのを見ていると、いつも変な気分になる。」

全く同感なんです。例えば、友情を示すのだったら、
「君に逢いにきた。名前も知らないけれど」こんな台詞は、
カオスを秘めた友情が、ささやかな行為で閉じられ、余剰を延長に残す、
そういう潔さがあって(・∀・)イイ!! のですが、
ニーチェ的に「諸君との友情という芸術の中で、世界の全てを語り尽くすのだ!」
みたいな、ツァラトゥストラのノリには、悪い酔いを覚えます。好きだけど。

意味を与えないと、サルトルの様に吐きたくなっちゃうなら、体を大事にしないとですが、
言葉の侵入を拒む領域に、手垢まみれの語彙をすりこむとかは・・・
「定義する事の罪」を、意識する事は、彼らにあったんでしょうか。
85佃煮マニア:2009/01/11(日) 14:38:08 0
>>74
>「舎利子見よ空即是色花ざかり」
この句は、きれいで面白いですね!こんな短い句なのに、劇的です。すごいなあ。

デジタル化された、神経質な社会で暮らしていて、
こまごまとしたことをあれこれ分析してみても、散歩で森に入ったりすると、
道具をさわって帯電した体から、電気が抜けていってスッキリするし、
フィットンチットを吸って思考はゆるむし、
地面がでこぼこしてるから、踏む足に注意が行って、
それまで閉じていた意識が、外に向かって開かれるんですよ。
例えば、そうやって森のエネルギーの対流にのっかるとかが、肯定的な「空即是色」?

意識を閉じたまま、観念だけを巡らせて、森の景色に気を向けないでいると、
森をさまよう幽霊みたいなのが一体できあがりますね。
86考える名無しさん:2009/01/12(月) 16:44:09 0
>>84
>「定義する事の罪」を、意識する事は、彼らにあったんでしょうか。
哲学者にはなかったでしょう。
私の知る限り 、「定義する事の罪」らしきものを持っていたのは、ルソーとドストエフスキー
あたりでしょうか?
サルトル(実存主義者)は「嘔吐」で主人公のような人を批判(否定)したのかと思っていました。
だから、サルトルも「定義する事の罪」らしきものを持っていたのかと・・・・。

87考える名無しさん:2009/01/15(木) 10:25:25 0
翼の折れた天使に告ぐ 1 2008.10.14 UP
http://www28.atwiki.jp/yasuha/pages/21.html
羽がまた生えた天使 Mへ 2008.10.19 UP
http://www28.atwiki.jp/yasuha/pages/24.html

熟女泰葉の旧ブログ。
弱い者虐め、驚愕の内容です。
88714:2009/01/15(木) 13:57:03 0
>>81
>何がおすすめですか?

西田幾多郎は難解で僕も分からないところが多いので、おすすめはしません。
永井均の『西田幾多郎-〈絶対無〉とは何か〉』という本は面白かったですよ。

永井均という人を僕はあまり好きでなかったのですが、この本を読んでちょっと見なおしました。
語り得ぬものを語るということについて、デカルトやウィトゲンシュタインとの対決を通して
比較的わかりやすく書いています。
永井均の関心に引き寄せて書いているから、もちろん西田幾多郎そのものではないし、
西田幾多郎の宗教的な部分にはあまり触れていませんが、短くまとまった良い本だと思います。


>情熱を動力、理性をツールに、倫理に即しつつ有利に生きる術を教えます。

「有利に生きる術」というのは、どういうことなのでしょうか…
「有利に生きる」という言い方も僕は引っかかるし、「術」も引っかかりますw

このまえ、『しあわせになる禅』(ひろさちや著)という本を読んで、なるほど!と思ったことがあります。
著者によれば、努力には2種類ある。一つは現在を否定した上でなされる努力。
もう一つは現在をしっかり肯定した上でなされる努力。
そして前者の努力は間違った努力である、とひろ氏は書いています。
将来に目標や理想を設定するから、現在の自分を否定することになってしまう。
たとえば一流大学合格という目標。そのような目標を掲げると、現在の自分では駄目だとなる。
将来のために現在を犠牲にするそのような努力は間違っている、もっと現在を大事にしましょう、と。
また、病気になった時には、健康を回復した自分を夢見るのではなく、病気の間の毎日を
楽しく生きる工夫を凝らすべきである。病気の期間を空白にしてはいけない、とも書かれていました。

〈将来のため〉という視点もある程度は必要でしょうが、そこに重点を置きすぎると、
自己肯定できない人間を大量生産してしまうことになるのかも知れませんね。
89714:2009/01/15(木) 13:58:32 0
で、この『しあわせになる禅』の結論ですが… 「しあわせ」になるにはどうすれば良いか?
その答えは、「しあわせ」だと思えば良い。 だそうですw
そしてそうやって「しあわせ」になれれば、禅がわかる。 だそうですw

何が起きても「しあわせ」と思う。これは徹底した自己肯定ですね。
仏教におけるこういう肯定的思想は、ニーチェの「一切肯定」「運命愛」の思想に似ています。
僕は仏教やニーチェのこういう肯定的な思想が好きです。


>>82
>ところで、714さんって、けんかとかしますか?

喧嘩らしい喧嘩をしたのは、高校生ぐらいが最後かなぁ…
喧嘩って、言い方が悪かったり悪い態度の応酬という悪循環から起こることが多いと思いますが、
僕は生まれ育ちが上品なのでwそういう悪循環には巻き込まれにくいんでしょう。

笑いながらのセックスの話がありましたが、
一度喧嘩しながらセックスしてみたいなぁ…とは思いますw

笑いながらセックスしてもたぶん僕は気持ちよくないと思うんですよ。
一度、風邪で咳が止まらない人とセックスしたことがあります。
咳をする時の締めつける力は、確かにものすごい力なんですけど、
それを〈気持ちいい〉とは全然思わなかった。
それが咳による締めつけだと認識してしまっているからでしょうね。
90714:2009/01/15(木) 14:00:22 0
>>84
>素粒子のまとまりが、一種情感を伴った様なうねりを見せても、
>それを認識後、軌道やエネルギーの様態に、人間の持つ自己決定の意識を投影して・・・

自然をあるがままに見ること、つまり何らかの〈読み込み〉(投影)なしに見ることは
できないと思うんですよね。
別の言い方をすれば、人間は自然を、キリスト教的角度から、仏教的角度から、
形而上学的角度から・・・などのいろんな角度から見ています。
それらの角度を全て取り去って、自然をあるがままに見ようとしても、
見る者が人間であるということ、つまり人間的角度を取り去ることは、どうしたってできません。

自然科学的な見方も、そういう人間的角度の一つであって、
その対象である「物質」という領域も、はじめから存在していた領域ではなくて、
人間的な〈読み込み〉によって歴史的に形成されたものです。

だから問題は、どういう〈読み込み〉を選択していくのか?ということなのでしょう。
科学的な〈読み込み〉が宗教的な〈読み込み〉よりも優れているとは一概には言えないから。
宗教家や科学者の中には自分の〈読み込み〉が〈読み込み〉であることに
無自覚である人も多いと思いますが、ニーチェの場合は自覚的、確信犯的に読み込んでいます。
91714:2009/01/15(木) 14:01:24 0
>言葉の侵入を拒む領域に、手垢まみれの語彙をすりこむとかは・・・
>「定義する事の罪」を、意識する事は、彼らにあったんでしょうか。

「罪」と言うと宗教的な感じがしますが、哲学的に言えば「誤謬」でしょうか。
そのことについて、たとえばニーチェは次のように書いています。

「本来の体験は、言葉というものを欠いている。言葉は、平均的なもの、中庸なもの、
話すことの好きな者のために考案されたものにすぎない。」(偶像の黄昏)
「自然とは、我々には近づきがたい、定義しがたいXである」(道徳外の意味における真理と虚偽)

存在そのものについては言葉では語り得ないということを、大抵の哲学者は意識していると思います。
ハイデガーは「存在」の上に「×」印をつけて、それが語り得ぬものであることを表しています。
ラカンが、言語では現実を語ることはできないが、言語でしか現実を語ることはできない、
と言ったのも、そのようなことでしょう。

西田幾多郎は、〈真の個物〉を〈語り得ぬもの〉としています。
個物を示そうとすると、「この」のような指示語を付けることになるけれども、
「この向日葵」「この文庫本」などのように、「この」の後に続くのは
やはり「向日葵」「文庫本」という、何らかの一般概念であり…
「真の個物は、有限の一般概念をもってしては規定され尽くされない。
そんなものがどこにあるのか、と問われたなら、それはここにある、としか
答えようがない。たしかにある意味では、そんなものはどこにもない。」(永井均『西田幾多郎』)

ラカンの「女は存在しない」は、たぶんこのへんに関連しています。
92714:2009/01/15(木) 14:02:29 0
>>85
>それまで閉じていた意識が、外に向かって開かれるんですよ。
>例えば、そうやって森のエネルギーの対流にのっかるとかが、肯定的な「空即是色」?

そうですね。
自然に触れることによって、過剰な自己意識が薄れて〈我〉の殻が破れる。
道元のいう〈身心脱落〉です。
身心脱落そのものは、自己を捨てて自己を忘れる、という否定的な方向ですが、
身心脱落して自己が空っぽになることによって「エネルギーの対流にのっかる」ことができるから、
これも、否定から肯定への転換点になっていると思います。

田里亦無(タザトヤクム)という人が書いた『道元禅入門』に、次のように書いてありました。
(この人のプロフィールは「学歴なし、職歴なし、禅歴も亦なし」wとなっていて
どういう人なのか知りません。亦無という名前は「禅歴も亦なし」の亦無しなんですねぇ…今気づきました)

「道元禅の本質は、一言でいえば〈身心脱落〉につきる。彼のいう人生の意義について
端的に述べれば『生き生きと生きよ。それこそ生きがいのある人生なのだ。それには、
身心脱落しなければならない』ということである。
『生き生きと生きる』とは、どういうことか。彼はそれを〈全機現〉である、という。
 すなわち、道元禅の究極の目的は〈全機現〉であって、そのためには、自己は万法と
〈一体・一如〉にならなければならない。〈一体・一如〉になるには、〈身心脱落〉
しなければならない。〈身心脱落〉するためには、〈只管打坐〉しなければならない、
ということになる。」
93ナレーション(第二層):2009/01/15(木) 23:16:41 0
先生にお知らせしたほうがいいだろうと妻とも話し合い、以下のメイルを送ります。
なにが今進行しているのか、情報を一ヶ所に集めて判断することが必要だろうと思うからです。
つまり先生が報告をされているMさんの話と、その根底において、なにか無関係でないような気がするのです。
それにしても、先生と呼び掛けながら、先生が何者かまったく存じ上げないし、実際のところ、何の先生なのかも分からない。
先生もまちろん私をご存じない。それでいてこのような他聞をはばかるような話が公然となされる、不思議な時代になったものです。
----------------------------------------------------------
6月末、安っぽいぺらぺらのプラスチックケース、スーパーマーケットのあまり上等でない刺身とか和菓子とかが
はいっているケースが二つ、クール宅急便で送られてきました。
妻はすでに思いあたっていて、少し青ざめた顔をしていました。先日、インターネットで注文したものです
(注・urlが書いてあるが、公表は今のところできない)。
94ナレーション(第二層):2009/01/15(木) 23:17:48 0
「本当に送ってきました。どうします」
跳ね上がろうとする上蓋をホッチキスで留めてあります。
わたしが片方の蓋を開けると、自前の弾力で開いたままになります。妻は横目で中身を確認すると、
もう一方のケースも引き開けました。注文どうりの品でした。
「冷凍ですか。チルドですか」適切でない質問をしますと、
「クール宅急便といっても、トラックの冷蔵庫に入れるだけですから、ふつうのナマ物です。
凍ってはいませんし、柔らかいですよ」

重量は、納品書によれば三百グラムづつ、本来大きすぎるのを無理矢理押し込んだというかたちで、
中央部が押し出されふくらんでいます。いっそう切り離される前の状態に近く、リアルです。
一つは、少しいびつになっていますが、一目で、乳房です。中央に乳首がありますから、すぐ分かります。
色白のなめらかな皮膚の端のほうで、切断面の赤い身が覗いています。胴体を失い孤立していても、
なお、たおやかで豊かです。少し黒ずんだ桃色の乳首にも弾力が残っていて、ゆっくり立ち上がってきます。
95ナレーション(第二層):2009/01/15(木) 23:18:50 0
残りのもう一つは、もっと剣呑なものです。上下端、左右をケースの中に押し入れてありますから、
割れ目が少しはじけた感じで開いています。
三百グラムの女陰。内性器も一部、含まれているようです。陰毛はありません。約束どうりでした。
片方のひだにピアスがしてあります。これも保証どうりです。
リングにXXXXXと書いてあることは、調べなくても分かっています。この肉の所有者だった人の名前です。
商品に偽りがないという保証のためのピアスです。

信用を重んずる売り主が、カタログは十八の娘、実際にお相手をするのは五十のおばさんという
歌舞伎町のセックス産業と同じ商法と疑われるのを嫌って、注文を受けると同時に、目印のピアスをし顧客に明示したのです。
この場合顧客は、風俗営業の店のように全身の一時使用権を買うのではなく、肉屋のように一部だけの所有権を買うのですから、
本当に注文どうりの商品かどうかの確認がより難しく、いかさま商法がはびこる可能性があるわけです。
96ナレーション(第二層):2009/01/15(木) 23:21:11 0
わたしも妻も、XXXXXさんの解体前の、というより生前の写真でピアスを確認しました。
この過程については、決済方法などと共に後ほど詳しく説明します。なにが起きているのかを、先生が調べられる時に必要でしょうから。
「ともかく、ちゃんとしたお皿に出しましょう」「お皿ですか」わたしが問うと、「ほかになにか適当なものがありますか」
確かに、ありません。
妻とわたしは二つのケースを持つと、台所に移動しました。妻は乳房と女陰を大切そうに右手ですくい上げると、
水道の水をさらりとかけ、表面をさすり、わずかに残った血を流すと、カレーライスを盛るほどの真っ白い皿の上に置き、
形を整えました。陰唇のピアスが皿に触れてチンと音を立てました。
「お皿に盛ると、おいしそうですね」わたしが言うと、
「こちらは少しかたいかもしれません」女陰の方をつつく。
「きれいに血抜きがしてあります。専門家の作業です」
わたしはイノシシの解体作業を覗いたことがあり、そのさいに血抜きの重要さを説明されたことを思い出しました。
罠で捉えられたイノシシは死後かなりの時間放置されることになり、処理が遅れるために、味が落ちるのだそうです。
逆に、ユダヤ人のように徹底的に血抜きをするとまた、パサパサな肉になり、まずくなります。
------------------------------------------------------
97佃煮マニア:2009/01/18(日) 13:15:57 0
>>88 714さん
おしえてくれてありがとう。
西田の用意した「無」への道程に沿って、永井がもう一筋の小径をこしらえた。
って所なんでしょうけど、本道より小径を歩いている方が楽しい時って、ありますよね^^

・ ・・人と言葉にまみれて、自分の存在との違和感に圧しをしつつ暮らしてると、
哲学で「無」と名前のついている、あの懐かしい感覚を呼び戻したくなります。
例えば、障子に映り込んだ葉の影がゆらぐのを、
そのまぶしさに目を慣らしながら、快も不快もなく眺めていると、
ふと日がかげり、くっきりと際を作っていた陰影が、紙に溶け込んで行く・・・
そういう瞬間に起こっている感覚。

>「有利に生きる術」
一言で言うと、シミュレーション能力、行動力かなあ。
物事の道理と人知を理解して、かつ能動的に立ち回れるとか。
(「じゅつ」「ワザ」とかのFFみたいな魔法じゃなくて、「すべ」ですよw)
それで、、、有利に生きる上で、将来の目標が設定されているという事は、
未来の自分を肯定している訳でしょ?だとしたら、
そこへと定石を踏む現在の自分を否定すると目標が途絶えてしまうから、出来ないくないですか?
目標を決めた時点で、未来、現在の自分までも肯定してるんじゃないかな。
98佃煮マニア:2009/01/18(日) 13:16:42 0
>>89
禅って、しあわせのための思想なんですね。知らなかったな〜。
何ていうか、幸せのカタチに物質的な豊かさがからんでいると、
見せられた方で不快になる場合があるでしょう?
「清貧」こそが美しくて、その逆はやらしい、叩くべき、という風潮があって、
これは藤沢周平が作った悪しき風習なんですけどw
そうなってしまうと、根っから幸せな人は、
カモフラージュのために、「不幸のフリ」をしなければならなくなるんですよ。
豊かさを世間に見せつけない為に、例えば、
レストランに納豆を持参して、家族全員でライスを一皿注文するとか。
その行き帰りは、殴り合いの喧嘩をして、嘘泣きを押し通すとか。
楽しみつつ、不幸のポーズをとって、申し訳なさそうに笑いをこらえていると、
表面的には、「不幸に耐えながらも笑顔を欠かさない」という事になって、
清貧の美しさを実践している、立派な人、と認めてもらえてもらえる訳です。

>喧嘩らしい喧嘩をしたのは、高校生ぐらいが最後かなぁ…
喧嘩しないんですか。
神が死んで、時代のシンボルも廃れ、マイノリティが増産され、神を自称し始める・・・
そういう、時代の空気感の中で、DQN、池沼、キモブサとの接触は、
避けて通れないものになりつつある、と思うんですよ。
それでも避けて通るよりは、徹底的に関わって、その関わりから美を見出すべきとも。
そのために、喧嘩のスキルって必要なのかなあ、と・・・。
喧嘩しながらセックスって、口論しながらとかですか?
99佃煮マニア:2009/01/18(日) 13:17:31 0
>>90
>だから問題は、どういう〈読み込み〉を選択していくのか?
どういう読み込みが最大公約数的な説得力をもつのか、と言う点は、
科学が模範を示していますよね。実証と論考の合わせワザだと。
どういう読み込みが、自分にとってのリアリティに結びつくか、
この辺に宗教は入り込みますが、洗脳という手段を主に使います。

>ニーチェの場合は自覚的、確信犯的に読み込んでいます。
確信犯・・・>>84で引用したプルーストの「変な気分」の、
彼が明言を避けた部分と併せて考えると、ニーチェの読み込みは、宗教的ですよね。
そして、根底に「モテ」への願望が渦巻いています。

ちょっと話が飛躍しますが、
彼は、自身の著作に関して、書く前から、どの層がどんな反応をするのか、
予測して楽しんでいたんですよ。
哲学の海に溺れ、無性に書きたくて書けてしまった、というのではなく、
面白い事を言って人(特に女性)をうならせてやろう、という意図がある訳ですよね。
彼にとって、哲学自体が楽しみというよりも、哲学は道具であって、
哲学を通して人々の、特に女性の心に触れるのが楽しみだったという事になります。
あっけらかんと暮らす人々に、著作で苦悩を植え付けて、
苦悩を定義する事により「俺色」に染め上げて、「俺色の空で遊べ」とでも言うつもりなんでしょう。
エロい下心が全面に出ています。(性欲の肯定という読み込みなんでしょうかね。)
でも彼は、この辺の部分に、非常にナイーブです。あまり語りません。
モテたくてもんどりうっても、「モテたい」とは絶対に明言しないんですね。
だから、かっこ付けてる部分と、下心が対比されて、女性の不信を買うんです。
実際、ニーチェ支持の人たちには、ロック系の人が多いんですが、
ロックの人って、「モテたさ」を露骨に表面に出すんですよ。

「モテたい」って情けない部分ではあるんですけど、
ニーチェも、全てを肯定するなら、そこも肯定して欲しかった。
100佃煮マニア:2009/01/18(日) 13:18:02 0
>>86>>91
けっこう、色んな人が、誤謬について言ってるんですね。
私は、ウィトしか思い浮かばなかったなぁ。

例えば、ナイフを突きつけられて懇願する際の「殺さないで」とか、
寒い日にお風呂に入って思わずもらす「ああ〜」とかは、
肉感的な言葉ですよね。生命的な欲望と言語が、直結してます。
これと比べて、形骸的な言葉は、、、
あるXを「みかん」と仮定すると、これこれこういう論理が成立する、と、体系を形作ろうとします。
言葉の枠組みを広げる事で、人間世界の生活圏を広げるのが目的なのかな。
(吉本隆明が、これについてたくさん書いていたような・・・)

サルトルの「嘔吐」って面白いですね。なんか二人とも意見が割れてます。
物事のありありとした実像に迫られて、吐き気がすることってありますよね。
キモい現場に出くわしちゃって、「リアル・・・otz」となる様に。
それと、定義する/しないって、別物じゃないんですか?
「嘔吐」を読んでいると、発端のキモい現場を見て、生理的な反応を引きずって、
自分の手までが気持ち悪くなってしまう様なんで、
サルトルは、「これがキモいってことは、あれもキモいよね?」と次々に確認をとりますが、
関係妄想のこわさばかりがクローズアップされいる感があります。

定義して、何を語るかが問題で、創造性を欠いた「たられば」は連想ゲームですよ。
・・・という事をサルトルが言いたいのなら、充分に素晴らしい意見ですが。
101佃煮マニア:2009/01/18(日) 13:18:28 0
>>92
714さんって詳しいですね〜。お家がお寺さんとかなんですか?
〈全機現〉なんて知らなかったなあ。
これってけっこう、難しいような。いつもいつもって訳にはいかなそう。
714さんは、特に日常でのどんな場面で、〈全機現〉が発揮されるべきだと思います?
なんか変な質問かも?
102ナレーション(第二層):2009/01/20(火) 23:12:39 0
----------------------------------------------------------
送られてきたsatoさんの肉の脂肪は純白です。アメリカの牛肉の脂肪のようです。穀物飼料で育つとそうなるのです。
オーストラリア産のものは黄色味がかかっています。放牧だとそうなります。味の好みは人それぞれでしょうが、
アメリカ産を日本人は好みます。

ついでに霜降りは、すき焼きやシャブシャブのような薄切り肉を好んで食べる日本人特有の嗜好で、コレステロールを考えると、
ステーキなどの形で大量に摂取する人にはおすすめできません。
マッサージは霜降り肉を作るのに効果があります。妻は風呂上がりのソファーに横たわり丹念にマッサージされることを喜びます。
わたしもテレビを見ながら、妻の全身を揉み込むことが好きです。全身を均質に、やわらかく、たわむれに、最上級の美しさと味に。

乳房と性器に男の関心は集まりがちで、ついついそちらに指がむかいますが、あくまでも全身まんべんなく揉まねばなりません。
とくに背中、大腿部が大切です。上質の肉部位はそちらにあります。乳房、性器は特殊な臓器の方に属します。
「そちらは高くは売れませんよ」妻によく注意されます。もちろん妻の肉を売るつもりはありません。しかし売るつもりはなくても、
愛するものの市場価値が上がるのはうれしいことです。もちろん現実には、その「市場価値」も架空のもので・・・・
103ナレーション(第二層):2009/01/20(火) 23:14:39 0
ところが、架空のものではなかったという状況です。
今日、現実に、わたし自身が、百グラム一万円の「市場価値」でその「商品」を買いました。
クール宅急便で現実にその「商品」は届けられました。
その申し込み方、支払い方法などについては、別に詳しくお知らせしましょう。これもインターネットが開いた世界です。

どこから切り取ってあるか、調べてみましょうということで、妻の身体で確認することにしました。
わたしはXXXXXさんの女陰の皿を引き寄せ、下半身だけむきだしにされた妻の女陰の隣に並べました。
以前からわたしは、女性の外性器を切り取る場合、数センチの厚さでぐるりと切断すれば、
もちろんクリトリスの根などを恥骨から切り離すのは当然として、きれいにスポッとはずれるのか、
それとももっと大変で、あっちこっちの腱とか腹膜とかを切断しなければならないのか、悩んだことがありました。

XXXXXさんはきれいにはずれているようです。膣と子宮の間を切断してありますが、これは器官の構造というよりも、
グラム売りという商業的な要求によるものでしょう。わたしが買ったのは三百グラムだけでしたから。

近くにあった剃刀の柄を、妻のへその真下五センチに突き立てました。そこがスタートです。
妻は指を予測していたのでぎくりとしたようです。右に五センチ引きます。
そこからゆるやかに下に曲げます。妻の肌に薄く赤い線が引かれていきます。
大腿部との付け根を少し大腿肉を取り込むようにカーブし、このわずかなおごりが豪勢です。
会陰部の中央で8の字の括約筋のくびれ部を切断し、左側を上がっていきます。
会陰部の中央、性器の下端と肛門の中程、というのが分かったのは、肉の輪郭線にそって妻の性器をなぞっていったらそうであったということです。
104ナレーション(第二層):2009/01/20(火) 23:15:22 0
もしこれが犯罪捜査なら、こうした地道な実験が発見した事実ということになるのでしょう。
切り裂きジャックの捜査員はこんな努力をしたのでしょうか。
剃刀の柄でなく刃の方で同じことを繰り返し、クリトリスの根をを恥骨から切り離すと三万円の新鮮なかたまり肉のできあがりです。
そのことを告げますと、妻は、フウと大きく息を吸い込み、女陰を脹らし、じわりと湿らしました。
------------------------------------------------------
105考える名無しさん:2009/01/22(木) 02:56:44 0
私の「嘔吐」の理解は「物(存在物)の本質を見ようとばかりすると「嘔吐」してしまって、生きるのが苦しい」
という単純な理解です。
まあ、サルトルが実存主義者なので最初からそう思い込んでいるところもあります。
106714:2009/01/22(木) 12:18:43 0
>>97
>・ ・・人と言葉にまみれて、自分の存在との違和感に圧しをしつつ暮らしてると、
>哲学で「無」と名前のついている、あの懐かしい感覚を呼び戻したくなります。

無を〈懐かしい感覚〉と感じるのは東洋人に独特なものかも知れませんねぇ。
西洋vs東洋みたいに分けるのは、ちょっと単純なんですけど、
でもやっぱり東洋的な自然は西洋的な自然とは違うところがあると思います。
東洋的な大自然には、深〜い静けさのようなものがあって、その静けさの根底には、
生の始源として、東洋的な無(空)があると思います。

西洋の思想では生の根源にあるのは〈有〉ですが(ニーチェなら「力への意志」)、
力への意志を生の始源と考えるよりも、無(空)を生の始源と考えるほうが僕は落ちつきます(日本人だなあw)。

>そこへと定石を踏む現在の自分を否定すると目標が途絶えてしまうから、出来ないくないですか?
>目標を決めた時点で、未来、現在の自分までも肯定してるんじゃないかな。

なるほど。将来の目標と現在の自分との間に断絶がなければいいのかも知れませんね。
(でもやっぱり、目標を明確に設定すると、その目標のために…、となってしまって、
目標に縛られてしまうような気がするので、僕は現在を充実させるほうに力点をおきたいです。
燃え尽き症候群の危険もあるし。)
(大事なのはバランス感覚かな? 将来の目標を見据える視点と、今を充実させる視点、
そのバランスをうまく保っていければ良いのでしょう。)
佃煮さんは将来の目標、なにかありますか?
107714:2009/01/22(木) 12:20:16 0
>>98
>そういう、時代の空気感の中で、DQN、池沼、キモブサとの接触は、
>避けて通れないものになりつつある、と思うんですよ。

喧嘩すること自体が悪いとは思わないんですけど、
喧嘩することによって自分の心が悪い状態になることは避けたいですね。
今も中東で続いている「憎しみの連鎖」のように、怨恨感情を残すことは避けたいです。

「憎しみの連鎖」といえば、チベットも、パレスチナの二の舞になりかねない状況ですが、
チベットは仏教国であるだけに、そうはならないだろうと僕は思っています。

チベット仏教の高僧であるゲシェー・ロサン・ケンラプは、質問に答えて次のように言っています。
【Q : 世界には憎悪や憎しみが渦巻いています。我々はそれにどう対処すればよいのでしょうか。
A : まず自分の心の中を覗き込み、自らのなかに怒りや憎しみがあることを知り、それを退治するべく努めてください。
自分の中の怒りを滅することで、次第に外の世界にある怒りを滅していくことも可能になります。
外の世界の怒りを、他者の怒りを消すのはとても難しいのです。それより自分の中の怒りを滅し、
自分の心をコントロールするすべを覚えたほうがよいでしょう。裸足で岩道を歩けば、足の裏は傷つきます。
その時、ごつごつした地面に腹を立てても無意味です。代わりに分厚い靴を履けば、足の裏は傷つかずに済みます。】

現実生活では、僕は嫌いな人って少ないほうだと思うのですが、ちょっと前に珍しく
どうしても好きになれない人(はっきりいって大嫌いw)が身近に現れてしまい、
一時はそのために仕事そのものが苦痛になってしまう程でした。
その人とどう関わっていけば良いのか、悩んだのですが、〈事柄批判〉をすることにしました。
その人の行動で僕がおかしいと思う点について、ズケズケと率直に批判することにしたんです。
そうするようになってからは、その人の人物そのものが嫌いだとは感じなくなりました(好きにはなれませんがw)。
彼とは喧嘩にはならないから、これは「喧嘩のスキル」ではないけれども、
自分自身の心を悪い状態にしないためのスキルですね。
108714:2009/01/22(木) 12:23:31 0
>>99
>この辺に宗教は入り込みますが、洗脳という手段を主に使います。

ん…。そういうのは一部の新興宗教じゃないですか?

宗教的なもの(宗教性)と宗教団体は別物だとよく言われますが、僕もその考えに賛成です。
宗教が戦争を引き起こすといって宗教を批判する人がいます。
でも戦争を引き起こすのは人間であって、宗教的なものが引き起こすのではないと思います。
新興宗教が起こすいろんな問題も、宗教の問題というより、
洗脳した末端の信者に働かせて暴利を貪る上層部の人間の問題です。
そういうのは宗教が引き起こす悪ではなくて、むしろ宗教性の欠如による悪だろうと思います。

大学生の時、統一教会に体験潜入wしたことがあります。
「マインドコントロール」で話題になっただけのことはあって、
さすがにあそこは洗脳システムが確立しているようです。
最初は、いい雰囲気のカフェのような所へビデオや映画を見に20回ぐらい通って、
その後、高原での一泊二日の合宿にも参加しました。
僕は統一教会にいた或る女性がめあてだったのですがw
その合宿で知り合った男性も僕と同じように女性につられて来ていたので、
それが統一教会の作戦なのかもしれません。
数ヵ月後、僕はその女性を統一教会から脱会させましたが、
合宿で知り合ったその男性は数ヵ月後、街頭で勧誘活動をしていましたw

もう一つ驚いたのは、そこに参加していた人たちは、合宿の段階までいっても
それが「宗教」だということに気づいていない人がほとんどなのです。
統一教会の手口が巧妙だからなのでしょうが、
それにしても、世間知らずの人ってたくさんいるんですね。
だからキャッチセールスとか振り込め詐欺にひっかかる人がたくさんいるんでしょうね。
109714:2009/01/22(木) 12:27:06 0
>実際、ニーチェ支持の人たちには、ロック系の人が多いんですが、
>ロックの人って、「モテたさ」を露骨に表面に出すんですよ。

このへんは根拠薄弱と思われるのでスルーですw
(ものすごい偏見だと思います…w)

>ニーチェも、全てを肯定するなら、そこも肯定して欲しかった。

「一切肯定」や「運命愛」のややこしいところは、それが「現状肯定」とは違うところです。
一切肯定だから、自分自身をも肯定するわけですが、その自分自身の中には
現状を変えていこうという意志、批判すべきものを批判しようとする意志も含まれています。
その意志をも含めて肯定するのだから、それは〈今のままでいい〉という現状肯定とは違います。

なので、〈あるがまま〉を肯定するということは、ちょっとややこしいことです。
存在そのものが時々刻々移り変わっているのだから、その流れが流れることを肯定するわけで、
しかも自分はその流れを傍観的に見ているのではなくて、その流れに参加していなければならない。
どのような形で参加するのか…。
ニーチェの場合は〈意志〉として参加します。
110714:2009/01/22(木) 12:28:19 0
>>100
>それと、定義する/しないって、別物じゃないんですか?

「定義」というより「本質規定」でしょうね。
(『嘔吐』から引用します。)
「さて、いましがた、私は公園にいたのである。マロニエの根は、
ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に、深くつき刺さっていた。
それが根であることを、もう思いだせなかった。
言葉は消え失せ、言葉とともに事物の意味もその使用法も、
また事物の表面に人間が記した弱い符号もみな消え去った。・・・
実存はふいにヴェールを剥がれた。・・・
根も、公園の柵も、ベンチも、芝生の貧弱な芝草も、すべてが消え失せた。
事物の多様性、その個性は単なる仮象、単なる漆にすぎなかった。
その漆が溶けて怪物染みた、軟くて無秩序の塊が----怖ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った。」

この「無秩序の塊」は、言葉や符号が消え失せてもなお残る、言語化される以前の存在そのものでしょう。
サルトルの有名な言葉「実存は本質に先立つ」も、そのことを表していると思います。

「ある」という語には、〈〜である〉という本質規定する用法と〈〜がある〉という用法の二つがあります。
(英語でいえば前者がbe動詞、後者がexistでそれを名詞化するとexistence〈実存〉になります)
人間はふつう、「マロニエの根〈である〉」「公園の柵〈である〉」「ベンチ〈である〉」・・・
と、既に〈〜である〉として本質規定された世界の中に生きています。
その〈〜である〉が消え失せ、「根」「柵」「ベンチ」〈である〉として
本質規定される以前の「何か(X)」〈〜がある〉が見えてきたということでしょう。

実存が本質に先立つということは、世界や人生(そのもの)には、〈意味〉も〈理由〉もないということです。
それはつまりニヒリズムですが、サルトルやカミュは、それを〈不条理〉と呼びました。
111714:2009/01/22(木) 12:33:56 0
>>101
>714さんは、特に日常でのどんな場面で、〈全機現〉が発揮されるべきだと思います?

〈いつかこういう場面で発揮しよう〉と考えるべき事ではなくて、
何をするにしても、つねに〈今此処〉で発揮されるべき事なんだろうと思います。
仏陀も「ただ今日為すべきことを熱心になせ」と言ってます。

安泰寺五代目住職の澤木興道が修行について書いた文章で、好きなところがあるので引用します。
(安泰寺は外国人修行者が多いお寺で、現住職はドイツ人です。一度行ってみたいなぁ…)
http://antaiji.dogen-zen.de/jap/abbotmuho.shtml
http://antaiji.dogen-zen.de/lynx/chara/phot-l.html
http://antaiji.dogen-zen.de/lynx/chara/phot-g.html

「今日という日を充実していくのが仏道修行である。今日を見失わぬ、今を見失わぬ、
自己を見失わぬ、此処を見失わぬように、よく踏みしめていくことである。
早く掃除をしてしまおうと急くことではない。掃除をすることそれ自体が修行である。
便所に入るのも、御飯を食べるのも、これが修行である。
ところが人間は、これを早くしてあれをしよう、その次はあれをしようと準備をしている。
小僧は和尚になる準備のような気がしている。これではいけない。
小僧の時は、和尚になる準備でなしに、一歩も浮足なしに只小僧をすべきである。
禅の修業というものは、今此処で息が切れても満足であるという、
生活をギュッと見詰めたものでなければならぬ。」(澤木興道『禅談』)

「小僧の時は、只小僧をすべきである」って、良い言葉だと思います。
〈全機現〉とはそういうことなのかな、と思います。

自分が〈全機現〉しているのかといえば、僕は全然だめなのですが…
でもこれは、どれぐらい自分の力を発揮していれば「合格!」というものではないと思うので、
目標というよりも、生きる指針、生きる方向性として僕は考えたいです。
112714:2009/01/22(木) 12:35:45 0
>>105
>私の「嘔吐」の理解は「物(存在物)の本質を見ようとばかりすると「嘔吐」してしまって、生きるのが苦しい」
>という単純な理解です。

本質規定される以前の存在が現れている時に、その存在に対して、本質を見ようとする姿勢を
とり続けているから「嘔吐」することになるのでしょうね。
見ようとしているものが、そこにない。あるはずのもの(意味・本質)が、そこにはない。
そういうニヒリズムからくる嘔吐なのではないかと思います。

その点について、井筒俊彦は次のように書いていました。

「サルトル的〈嘔吐〉の場合、あの瞬間に意識の深層が垣間見られることは事実である。
もともと言語脱落とか本質脱落とかいうこと自体が、深層意識的事態なのであって、
それだからこそ〈存在〉が無分節のままに顕現するのだ。しかしサルトルあるいは『嘔吐』の
主人公は、深層意識の次元に身を据えてはいない。そこから、その立場から、存在世界の
実相を視るということは彼にはできない。それだけの準備ができていないのである。
だから絶対無分節の〈存在〉の前に突然立たされて、彼は狼狽する。・・・
では、表層意識に身を置く人が、絶対無分節の「存在」を、どうして「嘔吐」的にしか
受け取れないのかといえば、それは無分節の「存在」を、あくまで「……の意識」の
志向対象として、しかもそれが直接に開顕したままの姿で、じかに把握しようとするからである。
これは表層意識にとって堪えられるようなことではない。 」(井筒俊彦『意識と本質』)
113考える名無しさん:2009/01/22(木) 19:47:25 0
>>110
>実存が本質に先立つということは、世界や人生(そのもの)には、〈意味〉も〈理由〉もないということです。
>それはつまりニヒリズムですが、サルトルやカミュは、それを〈不条理〉と呼びました。
カミュの「異邦人」は私にはちょっと困ったものがありました。
最後のギロチンへの主人公の堂々とした落ち着いた態度です。
主人公の気持にピッタリ張り付くことが出来たのに、最後で、つまり、ギロチンへの行進で私は彼からすばやく
離れてしまいました。
ああ、しょうがないな、と吐いて読了しました。
アラブ人への発砲も、否、それ以前に彼を挑発することもどんなに太陽が赤くても私にはできない。
その他は素敵な生き方だと思いました。生き方と書きましたが主人公はそういうこともほとんど意識せず自分に
備わった性格のままに生きました。芝居のごとく振舞われる多種多様の慣習などに満ちた社会は彼の性格には合わなかった。

ギロチンに掛けられたくなければ不条理を認めず(認めない振りをすることでもよい)、社会の掟に従いましょう。

追記)
この「異邦人」の作者が「ペスト」の作者であることに当初は大変関心がありました。
「異邦人」を書いた作者はこれでは人類は存続できない。何とか不条理を不条理を知る者たちがうまく捌かねばいけないと
思い立ち、「ペスト」を書き上げたのだと考えます。
114ナレーション(第二層):2009/01/23(金) 22:11:48 0
この問題に関しての国連・ユニセフの見解の一部を紹介する。
-----------------------------------------------スーダンにおける性器切除との戦い
-------ユニセフ発表 No.00109.SUD (サラ・マンサベッジ記)

明かりは暗く、声は静かだった。6歳のスーダンの少女ナフィサは部屋の隅のベッドにうずくまっていた。
部屋中が緊張していた。ゼイナ、25歳は、今はFGM(女性性器切除)、以前は女性割礼と呼ばれていた施術を、
自分の姪が受けようとしているのを、気遣わしげに見守っていた。この施術は麻酔なしでおこなわれ、
少女の外性器の一部、場合によっては全部が切り取られる。

ゼイナはこの施術に反対だった。ずっとナフィサの母、祖母に、ナフィサにはこの施術を受けさせないようにと説得をつづけてきた。
しかし彼女は負け、今はただ見守るだけである。ナフィサは健気にもベッドに静かに横たわっている。ゼイナは自分のときを思い出した。

ゼイナはこの施術を二度受けた。6歳のときスンニと呼ばれる”おだやかな” FGM を受け、クリトリスの包皮を切除された。
15歳のとき、一族の年長の女性たちと家族から、ファラオを受けるよう強要された。それはクリトリスと陰唇のすべてを切り取り
、陰裂を縫い合わせる方法だった。小水と月経のために小さな穴だけが残される。
ゼイナは今でも、その痛み、施術した女性の顔、自分の肉が切り裂かれる音、その後何週間にもわたる出血、苦痛を憶えている。

この究極の FGM を、最新の調査によれば、スーダンの女性の82パーセントが受ける。世界的には、現在、30カ国以上の国で、8500万人から1億1400万人の少女、成人女性が FGM を受けている。
115ナレーション(第二層):2009/01/23(金) 22:13:06 0
女性性器切除は、昔から、貞淑、男性への隷属の象徴としておこなわれてきた。
よく宗教的なものとしてとらえられるが、それは間違いである。事実、イスラム教もキリスト教も女性性器切除を認めていない。
FGM は危険である。施術の三分の二は伝統的な”産婆”の手によっておこなわれる。産婆には健康、衛生について限られた知識しかない。
しかも不潔な”伝統的な”器具を使う。
FGMの副作用としては外傷、出血、痛み、感染症(ときに致命的)、労働不能、 性交障害、出産障害、
精神的ストレス・ショック、トラウマなどがある。これらはときに生涯にわたる。

スーダン政府は、1941年、施術を違法としたが、なんの歯止めにもならなかった。その後も北部スーダンにおいては、
90パーセントの女性が施術を受けている。
なぜ FGM がなくならないのか。調査によれば、ほとんどの理由が、施術を受けないと社会的な批判を受けるから、というものである。
16-30歳の女性の多くは、FGM の廃絶に反対ではない。しかしそれ以上の年齢の女性は明確に反対である。
割礼を受けていない娘は社会的な”はぐれ者”であり、だれとも結婚できないというのである。
116ナレーション(第二層):2009/01/23(金) 22:14:10 0
それでも施術を止めさせようという努力は始められた。
「スーダンの有害伝統施術に関しての国民会議(SNCTP)」担当官のアンナ・アドベル・ラーマン博士は、
「FGM は宗教とは関係はありません。単に婦人の健康と社会的経済的生命を破壊しているだけです」と断言し、
すべての女性に反FGMのために結集するように呼びかける。
彼女はスーダン政府の指示も取り付け、FGM の廃絶は、現在、
「スーダンの子供たちの育成、保護、生存のための国家計画」の重要な一部となっている。
最初の三年は、ファラオ方式が一般的におこなわれている中央州に対して、教育指導を集中、徹底することになった。

オランダ、スウェーデン、ユニセフなどからの基金を元に、SNCTP は、地域のリーダー、
健康指導員、婦人・青年団体を対象に、意識改革の努力を開始した。
ラーマン博士は2000年までにはFGM を根絶やしにすると希望を語っている。

ゼイナとナフィサには手後れである。しかし FGM の廃絶の重要さを彼女たちに説くことは、
彼女たちの娘をこの残酷な習慣から救うことになるのだ。

1994年8月
117佃煮マニア:2009/01/25(日) 21:55:09 0
>>106 714さん
>無を〈懐かしい感覚〉と感じるのは東洋人に独特なものかも知れませんねぇ。
価値観が平均化されて出現する、密度を持ちつつ閑寂とした幽玄な「間」
のようなものに愛しさを覚える感受性が、日本人には備わってると思います。
ニヒリズムは、美徳として受け入れやすいんじゃないかな〜。
どこかの漫画家が、「ニヒリスト=やさぐれてる」ってとって付けちゃったけど、
あれはオカシイ。。。

>佃煮さんは将来の目標、なにかありますか?
ありますよ^^目標を、見積もれる達成期間の長さで分けて、
ロング(年単位)、ミドル(数ヶ月)、ショート(今日のぶん)としてます。
ロングな目標の一つは、「晴れた日には浜辺でギターをつまびくおばあちゃんになる」
ショートのは、「ものをちゃんと置く」です。
ショートの目標はギチギチに詰めて、その通りに行動して、
「渋々みたいな顔してだるそうにしつつ完璧にこなす自分」にホレボレしたり、
せっかく立てた目標を全部無視して他の事に夢中なったりして、
「涼しげに剛胆なことをしてしまうちょっとルーズな自分」に萌え〜となったり
してますw
・ ・・714さんは、まじめで熱中しやすい人なんじゃないかな。
それで、目標を見据えて、自分にいっぱい制約を設けてキツくなるとか。
でも、いい特質だと思いますよ。
118佃煮マニア:2009/01/25(日) 21:55:55 0
>>107
>「憎しみの連鎖」といえば、チベットも、パレスチナの二の舞になりかねない状況ですが、
>チベットは仏教国であるだけに、そうはならないだろうと僕は思っています。
チベットは資源もあるし、独立国なのか曖昧なとこあるから、狙われやすいですよ。
しかも、他民族国家だから、ちょっとけしかければすぐ騒乱になっちゃうし。
国民感情を逆手に取って政治利用する謀略は王道で、ネロ帝がこれの天才。

蛮虐で道徳観のうすい中国やアメリカにとって、ダライラマは厄介な相手でしょうけど、
宗教は感情を刺激するから、殺気立ってる人に「落ち着いてみんなで信じよう」
と呼びかけても、逆に危険かもだし、しかけられた罠の上で踊っているだけになっちゃう。
問題は、資源と、観光のための環境の保護と、その所有権の所在で、
ちょっかいをかけられたチベットが国連に泣きついても、
イギリスが他国を懐柔して突っぱねる所をみると、
中国、インドを侵略してきたイギリス人とっても、チベット問題が「美味い汁」だってことでしょう。
戦争は、市場経済活性化の起爆剤になるから、先進国は利用しますね。。。

>どうしても好きになれない人
自分が右と言う時に左と言って、おりあいが付けられないと嫌いになりますね^^
私も、どうしてもダメなタイプっています。陰険でナルシストのかまって厨が(汗
気になるんですけど、714さんはなんでその人の事イヤになっちゃったんですか?
119佃煮マニア:2009/01/25(日) 21:56:26 0
>>108
>ん…。そういうのは一部の新興宗教じゃないですか?
そうなんですけど。。。創価学会系企業のリストがスゴい事になってるんですよw
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111843206
ここまで手を広げてるとは!そろそろ宗教法人税の導入時期じゃないですかね〜。
日本でも、古来からの神道とか、仏教の伝統から、なぜか新興宗教だけが
分離されて扱われますけど、分岐して行った教派の一つとして、
流れの中に位置づけていくべきと思います。

>大学生の時、統一教会に体験潜入wしたことがあります。
へ〜!勇気ありますね!なんか、そこ、催眠商法みたい。
まあ、、、洗脳とか暗示って、「思いやりでかかってあげるもの」なんですよね。
思いやりって言っても、親切心とかじゃなくて、消極的な馴れ合い気分の方の。
両手の指を組んで、1、2、3、さあ手がくっついて離れませんよ〜、と言われて、
パッと離すのもはばかられるので、つい「あ、離れない」と言ってしまうw

>>109
>このへんは根拠薄弱と思われるのでスルーですw
確信があるんだけどなあwモテたい言うのは関西のミュージシャンばっかです。
音楽への姿勢をオトしつつ、本気半分の様な感じ。

>ニーチェの場合は〈意志〉として参加します。
その意志ってたぶん、自身の欲望と、良心や道徳を葛藤させてる意志なんでしょうね。
そうやって葛藤しつづけて疲弊したような青ざめた頬こそ美しい、というような。
躊躇している善良な人の背中を押してあげる為に、肯定をするのかな。
120佃煮マニア:2009/01/25(日) 21:57:31 0
>>110
>無秩序の塊
個々の描写の中にも、言語化され得ない存在を端的に示している箇所がありますし、
この作品が、一貫した物語性を強く打ち出してなく、
日々更新される日記調に書かれている所とか、は、
毎秒更新されていく肉体が、時間的に連続性を持っていない事を表しているし、
それぞれの淡い、たいわいない情景が、オムニバスのようにたたみこまれる所とか、
作品のあちこちに、共鳴し合う事もなく散りばめられた情景の、その空隙に、
主人公のモノローグが、煙のように滑り込んでは消えていく、そんな所も、
世界と自分が、鏡像の様に存在を分け合っている訳でもない、
意味すら持たないきれぎれの思考は、ただ流されていくだけ、そんな含みがありますね。

サルトルは、作品の中でしきりに「実存への恐怖」を具体的に描いていますが、
これは、言葉というメスで己自身を解体する試みへの不安から来ているのかも。
そうやって、恐怖を乗り越え、哲学的にはモラトリアムな、まっさらな意識を再発見して、
「存在と無」の執筆につなげたんでしょう。

>>111
>何をするにしても、つねに〈今此処〉で発揮されるべき事なんだろうと思います。
なるほど〜。私、今ここ感が薄い人間なんですよね。並行思考がクセなので。
でも、興道さんの言ってる事を実践すると、クセに圧しが出来るかな。
お寺で作務衣を来て修行。良さそうですね。
121ナレーション(第二層):2009/01/28(水) 23:31:30 0
XXXX在住の高名な女流作家XXXXXXから、アドバイスというか、励ましをいただいた。
---------------------------------
現在はまさにおばちゃんの時代であり、産業も言論も、おばちゃんを相手にしないと成立しない。
巨大メーカーも、役所も、テレビも、新聞も、彼女らに媚を売るのに必死だ。
知能、肉体において、ほとんど競争力も市場価値ももたない生物の群れが、なぜ支配力をもったのか、
動物行動学の格好のテーマであろう。ともかく世の中、彼女らに実質上乗っ取られた。

なぜそうなったか、少しだけその理由に触れるなら、彼女らの純粋な「物欲」のせいであろう。
知能も体力もない生物が、ただひたすら物、金を欲しがりつづけただけで、知能も体力もある生物の、
淡白という致命的欠陥をつき、勝利したということだろう。

資本主義は0.1パーセントの金利差が国を滅ぼすほどの微妙なシステムだ。わずかな執着の差が、
巨大な購買力の差となり、その差が大企業、大組織を足元にひざまづかせる。
しかし、おばちゃんはおばちゃんであり、その心と身体を形成する肥大した自尊心と嫉妬心と脂肪は、
世の中を腐敗させる。すでに多くの大企業、大組織がそのために亡んだことは、知る人ぞ知るだ。
122ナレーション(第二層):2009/01/28(水) 23:32:50 0
彼女らは敵である男族と若い女性に、かねがねから警戒を怠らない。
昨今、世の中がなにかと住み辛くなったと感じられるとすれば、それは彼女らの監視の目のせいだ。
マスコミは彼女らの代理人である。
スーダンにおける国民投票の結果をお伝えしたことがあった。
おばちゃん層は、女性性器切除の「廃絶」に断固反対であった。若い女性はやめて欲しいと投票しているのにである。
若い女性は、おばちゃん族にクリトリスと大陰唇、小陰唇を切り取られているといってもよい。

スーダンのおばちゃんが、FGM支持に投票するということは、それは間違いなく実施されるということであり、
自分の娘の性器が切り取られるということである。しかも、それを娘のためだと思う。恐るべき欺瞞性も、
おばちゃんたちは、あわせもっているのである。

おばちゃんは、日本においても、若い女性性器を嫌っている。できたら切り取りたい。
若い男性も切り取りたがっているだろうが、それは好きだから欲しいという健全な気持ちである。
おばちゃんは、しっとりと潤う性器を、嫉妬から破壊したがる。不健全である。

しかし予言的にいっておくと、現代の支配者であるおばちゃんの希望はかならず実現する。
日本においてFGMがおこなわれるようにならないと誰がいえよう。

----------------------------------
123ナレーション(第二層):2009/01/28(水) 23:34:38 0
XXXX在住の女流作家XXXXXXからいただいたメイルについて書くつもりであった。
女流作家=おばちゃん、という連想で余計なことを書いてしまった。しかも、XXXXXX女史、まったくそのような女性ではないのである。

XXXXXX女流作家、スコプチのすぐれた研究家である。
明日、早朝、こちらを発ち、一日、ご教授を願うことにした。台風が来ているが、新幹線が止まるようなことはあるまい。
彼女のメイルについても、明日の結果とあわせて、後日書くことにする。
124考える名無しさん:2009/01/29(木) 02:23:28 0
前のナレーションのほうがおもろかったなw まーいーや
このスレ死んでるみたいだから
エロAA保管庫にしちゃってOK的な雰囲気だよね
因果応報因果応報因果応報因果応報
125714:2009/01/29(木) 16:15:00 0
>>113
>「異邦人」を書いた作者はこれでは人類は存続できない。何とか不条理を不条理を知る者たちがうまく捌かねばいけないと
>思い立ち、「ペスト」を書き上げたのだと考えます。

〈不条理〉に対してカミュがどういう態度をとろうとしていたのかは、『異邦人』や『ペスト』を読んでも
僕にはよくわかりませんでしたが、『シーシュポスの神話』はわかりやすかったと思います。

岩を山の頂上まで運び上げ、山頂まで達すると岩はいつも転がり落ちてしまう、そういう無益で
希望のない労働を課せられたシーシュポスについて、カミュは最後に次のように書いています。

「かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以降もはや支配者をもたぬ
この宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、
それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心を
みたすのに十分たりうるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。」

不条理な世界に対して〈すべてよし〉と判断する… これはニーチェの〈運命愛〉に似ています。
上の引用文の少し前に、「かれの運命は、かれの手に属しているのだ。」と書かれているのを見ても、
このへんのカミュの考え方は、たぶんニーチェの思想の影響を受けているのではないかと思います。
カミュもシーシュポスと同じく〈すべてよし〉とする立場をとるのかどうかは、わかりませんが。
126714:2009/01/29(木) 16:16:14 0
>>117
>どこかの漫画家が、「ニヒリスト=やさぐれてる」ってとって付けちゃったけど、
>あれはオカシイ。。。

ニヒリズム(無、無意味さ)に直面した時にとる態度(反応)は人によって違うから、
ニヒリストにもいろいろあるのですよ。
ニーチェの分類によれば…、弱い人は無気力な受動的ニヒリストになり、
比較的強い人はアナーキストみたいな破壊的、能動的ニヒリストになり、
最も強い人はニヒリズムをそのまま肯定することができる、ということになります。。
「やさぐれてる」のは、あまり強くない人なのでしょう。

無を〈懐かしい感覚〉と思うとしても、自分の死について、そう思うことは難しいですよね。
死は誰もがいつか直面しなければならないニヒリズム(無)です。


>ロングな目標の一つは、「晴れた日には浜辺でギターをつまびくおばあちゃんになる」

浜辺でどんな曲を弾きたいですか?
おばあちゃんが浜辺でこんな曲を弾いていたら、いいですね。
http://jp.youtube.com/watch?v=MNNbFkb0gBk&feature=related
ギターは、スペイン風の哀愁が好きです。

>ショートのは、「ものをちゃんと置く」です。

メガネをどこに置いたか忘れて、探していたら頭の上にあったりするんですか?(おじいちゃんみたい…)

>・ ・・714さんは、まじめで熱中しやすい人なんじゃないかな。

そうでもないです。
基本的には、熱中する対象は女だけですねw (存在しない「女」…)
127714:2009/01/29(木) 16:17:11 0
>>118
>戦争は、市場経済活性化の起爆剤になるから、先進国は利用しますね。。。

そういう構図がみんなに見えてきたので、もうそういうやり方はしにくくなっていると思いますが、
オバマさんは、「ビンラディンとアルカイダが最大の脅威」と言っているらしいから、
〈テロとの闘い〉路線は継続するんでしょうね。(アメリカ人はそういう点では、単純だから…) 
共通の〈敵〉をつくり上げて仲間意識や団結力を高めるようなやり方は、とてもいやですね。

>気になるんですけど、714さんはなんでその人の事イヤになっちゃったんですか?

説明が難しいですねぇ。
抽象的にいえば、子供の頃から大人の顔色をうかがいながら生きてきたような、自分の無さとずるさ、かな…

でも彼には結婚していないけれど一緒に暮らしている女性がいて、
僕はその人も知っているのですが、とても良い人なのです。
そのことから思ったのは、彼女には彼の良い面が見えているのだろうということ、
そして僕には彼の悪い面しか見えていないのだろう、ということです。

自分の無さ、で思い出したイワンの言葉があります。
「俺はね、どういう基盤に立っているにせよ、しっかりした人間が好きなんだよ、
たとえそれがお前みたいな小さな小僧っ子でもさ。」
イワンの言葉の中で僕が一番共感できた言葉です。
128714:2009/01/29(木) 16:18:57 0
>>119
>そうなんですけど。。。創価学会系企業のリストがスゴい事になってるんですよw

創価学会「系」といっても、それらの企業とどういう関係にあるのかが
いまいちわかりませんが…、創価学会はとても大きい団体なのでそこを〈御得意様〉
にしておいたほうが企業にとっても有利だから、そういう事情で、企業に対して
大きな影響力をもつようになるのは、自然なことなんでしょうね。
(僕は統一教会と政界・財界との癒着を研究wしたことがあるので、
ちょっとやそっとのことでは驚きません)

>日本でも、古来からの神道とか、仏教の伝統から、なぜか新興宗教だけが
>分離されて扱われますけど、分岐して行った教派の一つとして、
>流れの中に位置づけていくべきと思います。

「全日本仏教会」のような団体の中に新宗教を入れるかどうかは難しいですね。
日蓮正宗などは、そういう団体には自ら入ろうとしないのだろうし、
オウム(アレフ)みたいなのをどう考えるのか…
カルトとカルトでないものを線引きするのは難しいですよ。

>へ〜!勇気ありますね!なんか、そこ、催眠商法みたい。

(勇気があるというより、熱中できる対象がいたからなのですが…)
壷とか印鑑の〈霊感商法〉や〈合同結婚式〉でも有名ですね。
あそこは聖書の他に『原理講論』という聖典らしきがあって、
それは600頁以上あるのですが、全部読みました(脱会の説得のために)。

統一教会・エホバの証人・モルモン教は、キリスト教の〈三大異端〉とされていますが、
たぶん統一教会はダントツに悪質だと思います。
なんであんなところがいつまでも生き残っているのかといえば、
やはりうまく政界・財界との結び付きをつくっているからでしょう。
「国際勝共連合」という反共の政治団体を持っていて、保守系の大物政治家と結びついています。
129714:2009/01/29(木) 16:20:20 0
>確信があるんだけどなあwモテたい言うのは関西のミュージシャンばっかです。

あぁ・・日本のロックはダメですねw
クラシックは小澤征爾をはじめとして一流のミュージシャンがたくさんいるし、
ジャズもそこそこいい線いってると思うのですが、なぜかロックは全然だめですねぇ。
たぶん日本人にはロックのリズムが合わないんでしょう。聴くだけならいいのだけれど。
何人かはすごい人がいると思います。
「ギターの神様」寺内タケシはジェフベックやサンタナにも影響を与えたそうです。


>躊躇している善良な人の背中を押してあげる為に、肯定をするのかな。

>>113の、カミュの〈すべてよし〉と似ています。
〈聖なる肯定〉はツァラトストラのラクダ・獅子・子供の、〈子供〉の段階で出てきますね。
シーシュポスにとっては、〈すべてよし〉によって「無益で希望のない労働」が「幸福」に変わったように、
子供にとっては、〈聖なる肯定〉によって、「世界を失った精神は、自分の世界をかち得る」と書かれています。
ニヒリズム的状況から脱却する転換点だと思います。

ニヒリズム(無、無意味さ)に直面した時に、「強さ」が問題になることをさっき書きましたが、
〈すべてよし〉そして〈聖なる肯定〉のためには、強さが必要なのだと思います。
130714:2009/01/29(木) 16:21:44 0
>>120
>意味すら持たないきれぎれの思考は、ただ流されていくだけ、そんな含みがありますね。

サルトルは無神論者なので(無神論の立場をとる哲学者は意外と少ないと思います)、
それだけいっそう、実存の無意味さということが問題にならざるを得なかったのだと思います。

もし神が人間と世界を創造したとすれば、人間が何のために生きているかも、いかにあるべきかも
既に決まっている、つまり人間と世界には、神によって与えられた〈意味〉があるわけですが、
神が存在しないとすれば、既にある〈意味〉はないことになります。

イワンが〈神がいなければ、すべてが許される〉ということを言ったのも、そういうことでしょうね。

ニーチェは無神論ではありませんが、ニーチェの場合も、「神の死」(キリスト教の神が勢力を失ったこと)
が現代のニヒリズム的状況を引き起こしていると考えています。

神は、存在の〈意味〉や生きる〈意味〉と緊密に結びついているんですよね。
131714:2009/01/29(木) 16:23:01 0
>なるほど〜。私、今ここ感が薄い人間なんですよね。並行思考がクセなので。
>でも、興道さんの言ってる事を実践すると、クセに圧しが出来るかな。

僕ももともと今ここ感が強かったわけではないです。
〈今此処〉ということを意識するようになったのは仏教の考え方を知ってからですね。

人間以外の生き物はもっと〈今此処〉に密着して生きているのだと思います。
だから動物には〈未来〉もないし〈不安〉もない(これはハイデガーが言っていたことですが)。
人間だけは、過去や未来、宇宙の果てまで思いを馳せる。
それは良い面もありますが、悪い面もあって、悪い面が出てしまうと
「地に足が着いてない」状態になったりします。

過去を悔やんだり、未来を怖れたり…
また、〈今此処〉に密着していないと、〈比較〉に基づく考え方をしがちになります。
自分と他人を比較して劣等感や優越感を抱いたり、
それで焦りが出てきてしまったりします。
過去の自分自身とも比較してしまいます。
病気になった時に、健康だった過去の自分と比較してしまえば、
〈今此処〉の自分を肯定的に見ることが難しくなってしまうでしょう。

そんな感じで・・、
仏教が〈今此処〉を強調するのは、〈今此処〉を離れることによって
人の心の状態が悪くなることを戒めているのだと思いますよ。
132考える名無しさん:2009/01/30(金) 23:46:54 0
このスレ死んでるみたいだから
エロAA保管庫にしちゃってOK的な雰囲気だよね
因果応報因果応報因果応報因果応報
133ナレーション(第二層):2009/01/31(土) 01:11:38 0
女流作家XXXXXXXは、私の土産に殊のほか喜び、「ちょっと失礼します」といったん消えてから、
一束の原稿を持って現れた。「いつかロシアとスコプチを書こうと思っていたのです。
これは下書きですが、よろしかったら、どうぞ読んでみてください」という。

私が文章を書き直すという条件なら、一部を掲載してもいいというので、ここに出すことにした。
スターリンが目の敵にした宗教、その代表例として当時有名になったスコプチとは
どんなものであったか、参考になるだろう。
---------------------------------------
「白い鳩」、これは完全な者を意味する。キリストたるピョートル三世の直近に仕え、
新しい時代を開く光栄にあずかる者たちである。その志願者たち、屈強な若者が10人、美しい娘たちが10人、
薄物を纏って、礼拝堂、高いステンドグラスの窓の明かりがさす中央あたりに控えていた。

ピョートルは祭壇の炎に両手をかざし、甲高い声をしぼって、祈り始めた。
「神よ、この者たちを祝したまえ。あなたの再臨の道を整える者を聖別したまえ。
 いま、古より命ぜられたように、この者たちに火のバプテスマを授けます。
 水と聖霊の時代は去り、開いた火の扉を・・・」

ペテルブルグ、ネフスキー大通りの元ロシア正教教会、少年聖歌隊の声がふいに大きくなり、ヨハネ黙示録をゆるやかな旋律で歌い始めた。少年たちはカソリックでいうカストラート、高い澄んだ声のために性を犠牲にした殉教者である。
134ナレーション(第二層):2009/01/31(土) 01:12:41 0
「14万4千人の清き者、われの道を備えよ。14万4千人の印ある者、われの道を備えよ」
四面の壁から夥しい数の聖画、イコンが、この厳かな儀式を見下している。
一人の青年が司祭服のピョートルに招かれ、炎の後方の十字架にかけられた。
控えていた聖職者が、青年の両手を横棒にを縛り付けた。足は肩幅に広げられ、床の金具に固定される。

巨漢の聖職者が後方から、右手で青年の口を、左手で青年の喉を押さえた。
ピョートルは祭壇の剣を取り、薄物を剥ぎ、青年の性器に当てた。
「父と子の名により汝に火のバプテスマを授ける」
青年の全身に痙攣が走り、強く押さえられた口から低いうめき声が洩れた。
青年は即座に拘束を解かれ、巨漢の聖職者にかかえられ、次の間に運ばれる。
そこにはロシア有数の医師たちが控えており、必要な処置をてきぱきとほどこしていく。
青年は苦痛に脂汗を流しながら、それでも使命を果たし終えた恍惚の表情を浮かべていた。

切り離されて意外に小さく見える青年の陰嚢と陰茎は銀の聖餐皿に載せられ、
背の低い聖職者により99999の番号が与えられた。後、4万4千人と一人である。

先頭の美しい娘が立ち上がった。
「そなたは白い鳩か、それとも白いアヒルか」
ピョートルが聞く。娘はかすれた声で、「白い鳩」と応えた。「白いアヒル」は不完全である。クリトリスの切除のみを意味する。「白い鳩」は完全である。生殖器の全てと、乳房を切り取る。
135ナレーション(第二層):2009/01/31(土) 01:14:29 0
ピョートルはいつもの儀式どおり、「白い鳩」になる義務はない、「白いアヒル」にしたらどうかと聞き直す。
娘はほとんどピョートルの腕の中に倒れこみながら、陶然と「神は最善を喜ばれます」と応えた。

「そなたは白い鳩、神に仕える者、女にして十字架にかかる者」
薄物を剥がすと、ロシアの由緒ある貴族の娘は腰と胸を差し出すように十字架についた。
ピョートルは今度は祭壇の短剣を取り、娘の前にかかげた。


この「ピョートル三世」が本物なら150歳をとうに越しているはずだ。
スコプチの創始者、セイワノフであったとしても同じだ。
この二人の帝政ロシアを代表する有名な不能者たちは、同一の人物なのか、違うのか、いまだに論議がある。

十字架の娘、エレーナはそのことは知らない。ただ自分の前に短剣を持って立っている青白い男が、
救世主、キリストであると、今は信じていた。もう自分には何にもない、その思いが強い。
愛する婚約者、ワーシャは旅順という遥かな東洋で、乗艦が撃沈されて死んだ。新聞はそのことで大騒ぎしている。
すっかり気弱くなった両親は、めったに人前にでなくなった。
召使い、農奴たちのわずかな態度の変化が、最初不快で、今は恐い、そうなのだろうと娘は思う。

沈んだのは第一艦隊ではなく、ロシアそのものかもしれない。
ペテルブルグの町では、皇帝、貴族たちを非難する声が半ば 公然と聞こえるようになった。
136ナレーション(第二層):2009/01/31(土) 01:15:29 0
「白い鳩」になろう、亡びようとしているこの国を護ろう、14万4千人の一人になろう、 と彼女は決心した。
この教会は、外を吹き荒れる社会主義運動に逆らうように、信仰の熱狂が渦巻いていた。
陰気なキリスト、「ピョートル三世」を一目見ようと、ロシア全土から、信者が押し掛けていた。
現皇帝ニコライ二世も謁見したという噂だ。

今回の20人の「白い鳩」 は、新派遣艦隊に捧げられるという。彼女は激しい衝動にかられて手を挙げたのだった。
アジアの果て、旅順にいた第一艦隊は湾外の日本艦隊と対峙しながら、増援部隊を待っていた。
有力な日本艦隊に単独では敵しえない。しかし大陸の反対側には、日本艦隊の三倍の戦力といわれる新鋭戦艦群がいる。
日本艦隊の背後にバルチック艦隊が現れさえすれば、瞬時に勝敗は逆転する。

ワーシャたちが、どんな思いで毎日を送っていたか、エレーナにはよく分かった。
エレーナ自身が不穏な首都に弱った両親と残され、毎日、毎日、迷子のように、ワーシャを待っていたからだ。
大丈夫よ、ワーシャ。エレーナは心で叫ぶ。ごめんなさい、助けに行けずに。艦隊はこれから出発します。
きっとあなたを殺した日本艦隊を屠ります。艦隊の出発は遅れて、あなたには間に合わなかった。
でも、あなたの体のある深い海の底、あなたの心のある天国に、これからわたしの体と心を届けます。

全部届けられたらいいのだけれど、それは戦争中でとてもできません。
だけど多分、あなたが一番好きにちがいないところが届きます。
14万4千人の一人になり、あなたの心を護ります。父の母のあなたのロシアを護ります。
エレーナの全身から不安が去り、逡巡が消えた。
137佃煮マニア:2009/02/01(日) 09:03:39 0
>>126 714さん
>死は誰もがいつか直面しなければならないニヒリズム(無)です。
子供の頃、自分のお葬式で告示を述べなければならなくなった時の為に、
何度も泣く練習をしてたんですけど、全く意味不明ですねw
ものをわかってない子供でも、無意識に忌避する程、死は強烈な負の体験らしいんですけど、
そうなるのは、死によって人生の何かを失うことへの恐怖があるから?かな。
人生を三つに分けて、築いてきた栄光、踏みしめてきた道のり、紡いできた夢、
とすると、何を失うのがいちばん悲しいでしょうね。悲しくはないかな?
死ぬというのは、自分でそれらの価値を踏み越えていくことなのかな。

>浜辺でどんな曲を弾きたいですか?
どんな曲でも、ゆっくり弾くと哀愁でるんですよね。でもスペイン民謡いいなあ!

>メガネをどこに置いたか忘れて、探していたら頭の上にあったりするんですか?
なくしたものが全部頭の上にポンと出てくればいいんですが。。。苦労しますよ。
「ADHDは病気じゃなくてニュータイプ説」とか、
ADHDはアルツハイマーにならないとか、
脳の糖分消費効率が低いから肥満にならないとか、利点、美点も見いだされているようですけど、
実際忘れ物無くし物が多くてダメです。

>基本的には、熱中する対象は女だけですねw (存在しない「女」…)
そういうことを元気に言えちゃう所が男らしくていいですね^^
「恋人の幻影までもが、私を孤独に追いやるのだ・・・」みたいなのも渋くていいけど。
女の人の、どういう所に熱中しちゃうんですか?
138佃煮マニア:2009/02/01(日) 09:04:14 0
>>127
>子供の頃から大人の顔色をうかがいながら生きてきたような、自分の無さとずるさ
他人の評価を気にする人は、利己的にもなりやすいですね。
でも、人に何かをしてあげるのがとても好きだったりもするから、
一緒に暮らしてる人はそこが好きなのかも。
自分を押し殺すのも立派な個性だし、クセのある人って、一旦好きになるとハマります。
合わないなら避けるべきですけど、向こうから近づいてくる時ありますからねw
事柄批判はとてもいいですよ。とにかく不快感を我慢しないこと、大事です。

私も、哲板で議論してたら、機械さんがその後ハッキングをほのめかしてきたり、
菜の花さんも、どういう脈絡からか何年も威圧的に粘着してきたり、キモイですよ。
まあ、この二人は病気らしいから仕方ないです。精神医学やっててよかったです。
139佃煮マニア:2009/02/01(日) 09:04:47 0
>>128
ダイソーとかは、創価の直轄だし、コムサも、創価の人が株主、法人株主だから
創価の傘下という事になるでしょう。
政治家、芸能人も、創価学会員なら、組織票を得られるから入っとく、そんな感じでしょう。
表向きの教義が過激なのではなく、一宗教団体が財閥化してるのが問題なんですが、
仏教の教えの、「金に執着するな」、これを省いてしまえば、
とがめられることはないでしょう。お寺も檀家との癒着で問題視されてるし。
問題とされてる部分と、教義の関係を明らかにして、
古来からの教派と、新しい団体が和解するべきじゃないでしょうかね。

無神論者がビジョンもなく批判しまくったりリスクをあげつらったりするのと違って、
「こんな世界を目指す」と明確なビジョンを持つのが宗教の美点だけど、
宗教的倫理から外れがちな人間の本性をどうフォローするかが曖昧ですよ。
140佃煮マニア:2009/02/01(日) 09:05:25 0
>>129
サンタナとかピンクフロイドは一時期ハマってたな。プログレ好きです。
いかに音楽の王道をハズしにかかるかがロックなんですけど、
歴史に積み上げられた既成の「ロックっぽさ」を忠実に再現してる人はダメでしょう。

メタルはこう、演歌っぽくしゃくる、とか、パンクはビブを不規則にする、とかw
そんなギター講座してる音楽番組は意図自体が間違ってると思うし・・・。
はっぴぃえんどはロックのリズムに日本語の歌詞をのせたからスゴイ!てのは
「だから何なの」と突っ込まずにはいられないし。

音楽性そのものに、創造性を盛り込めない所を眺めると、合わないのかと思うけど、
ボアダムスとあぶらだこは、その点面白いことやってますよ。
ボアダムスの「SUPER ROOTS#9」は、世界中の讃歌がボアのセンスでミキシングされて、
もはや怒号と成り果てていながらも、独特のポジティブなエネルギーが代わりに出芽していて、
オススメです。
141佃煮マニア:2009/02/01(日) 09:05:57 0
>ニヒリズム(無、無意味さ)に直面した時に、「強さ」が問題になることをさっき書きましたが、
>〈すべてよし〉そして〈聖なる肯定〉のためには、強さが必要なのだと思います。
そうですね。
見えた世界が全てだから、全てを肯定するには、自己評価の高さが鍵になります。
自己評価を上げるのは数々の好ましい結果で、本人はその栄光が好きなので、
結果に強化された、自分のアイデンティティに拘束されやすくなります。
そうして思考がシステム化されて、システム脳になると共感能力が落ちます。
他者を感覚で把握することが難しくなるから。そういう人にとっての世界は、不条理だらけ。

シーシュポスの、岩の体験では、自己評価を下げるイメージを植え付けられていますが、
このとき破壊されたアイデンティティに、それまで制御されていた感情が入り込み、
感情は、爆発的な悟り体験を誘引するパワーがあるから、
この感情に塗り替えられた主観によって、全てを肯定するに至ったんでしょう。

自己評価の高い人が、逆境をブレイクスルーして得た感情でもう一度世界を見る、
これが、肯定までのシナリオでしょうね。
142佃煮マニア:2009/02/01(日) 09:06:23 0
>>130
「嘔吐」の中では、ひとつの会話が長回しの様に固定した角度からえんえん描写されてたり、
個別の風景がコマ音しの様に流れていったり、サルトルの映画的なセンスを感じます。
それらを眺めている私は、一台のカメラでしかないのかもしれない、
だけど、生の実存を確認する為に、至高の瞬間「吐き気」をいつも待っている、
種々の情報に対して吟味し、感情で反応するただ一個の個体でありたいから、
そういう思いが徐々に幅を占めていって、到来する吐き気に無我夢中でしがみつくんですが、
神に与えられ、神に依存する生ではなく、自立的な生が世界に横たわっているのだ、
という発見までの経過を見ると、鳥が初めて羽ばたく瞬間に立ち会っている気がして、
訳もなくそわそわしてしまいます。
日本でニヒリストと言えば太宰ですけど、彼が書いた懊悩と競る程、蟲惑的な描写をする人ですね。この人。
この、もどかしさがタマラナイ。。。
ニヒリスト程、むきだしの生に対峙している人種はいないですよ!
143佃煮マニア:2009/02/01(日) 09:06:49 0
>>131
174さんがする、仏教の話が面白いので、最近精進料理に凝ってるんです。
かぶの味噌田楽とか、ちくわのもどき豆腐とか。
http://www.kokonoe.co.jp/recipe/index.html?n=216&ac=detail&cid_sch=yasai
もどき豆腐は写真がないな・・・ちくわのカタチに豆腐を練って焼いた物です。
「庖丁人味平」で読んだんですけど、豆腐の水分を飛ばすと、肉とかチーズに似た味になるんですよ。
味平では、貧乏だから肉が買えない、なら豆腐だ!という設定だったんですけど、
お寺はお肉買えますよね。肉に似た味を再現するなら肉を食べればいいとも思いますが、
この辺からが芸術性の始まりなんですね。中国でも、もどき料理ありますもんね。
また、料理は三徳六味、味には「淡味」という甘、辛、酸、苦、しょっぱさの次にくる味があって、
つまり「淡味」とは、味の余韻、見た目の楽しさ、香りの良さ、これが料理のできばえを左右するようです。
面白いですよ。それらを一枚の皿の上に形作ることも修行であって、
おいしさを逃さない切り方に集中したり、野菜の由来を考えたりしてると、
今ここ感もなんとなく実感できて来るし。体で覚えることって大事ですね。
144佃煮マニア:2009/02/01(日) 09:07:14 0
ちょっと長くなっちゃったけど、もうひとつ。

こないだの、アリの集団的行動とDNAの関係ですけど、これは「利他行動」で説明がつくみたいですよ。
つまり、自分とより近い近親関係にある個体の繁殖に、有利な行動をとるんです。http://ja.wikipedia.org/wiki/半倍数性
ハミルトン教授によると、女王は生まれて来るアリの性を選択できるようです。
女王が生んだメスの姉妹は、父親から100%、母親から50%
の血縁度なので、計75%の血縁度になるんです。
働きアリが自分で子供を作るよりも、女王が生んだ方が、血縁度が高くなるから、
メスや女王の世話をして、自分を犠牲にするようです。
より純度の高い自分のクローンを残す為、個体としての自分を犠牲にするなんて、
なんかSFみたいですね。
145考える名無しさん:2009/02/01(日) 11:40:07 O
機械はババ専なんだな
146ナレーション(第二層):2009/02/03(火) 00:37:20 0
ピョートルは目の前の裸の娘の体が、一瞬真っ白に変貌したのを見た。短い祈りを祈った。
またこの普通の娘から信仰を教えられたと思った。近頃、巷で騒いでいる唯物論者に見せてやりたい光景だ。
娘はみずみずしい乳房とわずかなかげりを見せる股間を、短剣の前に突きだした。

巨漢の聖職者が後方から、右手でエレーナの口を、左手で喉を押さえた。背の低い聖職者が娘の背後から腰を支えた
「父と子の名により汝に火のバプテスマを授ける」

ピョートルはエレーナの外性器をぎゅっと掴みあげた。豊かな柔肉が掌一杯になった。
さらに5センチほど前方に引っ張ると、上方から刃を当て、切り下げた。エレーナはそれでも腰を突きだしつづける。
刃が左右に引かれるたびに腰も動きそうになるが、背の低い聖職者がエレーナの尻にしがみついて、止めている。
大陰唇、小陰唇、クリトリス、膣の前方、恥丘のほとんどが、ピョートルの手に移った。
147ナレーション(第二層):2009/02/03(火) 00:38:31 0
---------------------------------------

「新時代」のなどの新聞を読むたびに、エレーナは身がすくんだ。陸軍も海軍も勇敢な戦いを展開していると書いてある。
足をもぎ取られながら、這って弾薬庫の火を消し、軍艦を救った英雄の話しが出ている。
両目を失いながら、なお敵軍の方角に射撃をつづけた若い兵隊の話しがでている。
軍艦の蒸気圧を保つために待避せず、生きながら深海に沈んでいった士官のことが出ている。

ワーシャのことだ、その度にエレーナは胸が張り裂けそうだった。
だから、ピョートルの短剣がエレーナの肉に当てられたとき、不思議な激しい歓喜に打たれた
。ワーシャ、わたしも苦しめる、わたしも苦痛がもらえる。少しでもあなたのことが分かりたい。

ピョートルの短剣が薄い陰りの上から、一センチほど切り込んできた。
エレーナは、愛しいワーシャの下腹部に大砲の破片がビシビシと食い込む光景を感じた。
刃は前後に引かれながらクリトリスの根をさらう。巨弾が真近で炸裂したようで、視界が白くなる。
ワーシャの肉が引き裂かれるように、わたしの肉も裂かれている。
もっと深く、もっと深く、エレーナは腰を突き出した。これでワーシャが救われる。
父と母と、ワーシャとわたしたちのロシアが救われる。もっと確実に、もっと深く。
148ナレーション(第二層):2009/02/03(火) 00:39:19 0
リトリスはすでに根からえぐられ、エレーナの柔らかい性器は膣壁の弾力を示し始める。
ピョートルは刃を激しく前後に引いた。これが通常の倍も大きく深い切除になっていることは、分かっていた。
この娘がロシアを救う、ピョートルもそう思い始めていた。
14万4千人の白い鳩が誕生したとき、神の国が実現する。黙示録の予言である。
ロシアは最も敬謙な信仰の国である。神はロシアを救われる。

ピョートルにとって諸悪の根源は性器であった。人であるなら、誰でも本当は分かっているはずだ。
人の美点は性欲で台無しになる。嫉妬、憎悪、闘争心、名誉欲、貪欲、すべての背後に性欲がある。
大昔からそうであったし、これからもそうだ。性欲は、男も女も性器に起源する。

ピョートルはまず自分の性器を自分で切り取った。人を動物に落としめているのが、自らの性器であったことが、すぐ分かった。
世界が見えるようになった。人を愛せるようになった。自分が皇帝であったのかどうかも、どうでもいいことになった。
自由になったのだ。

今、10万人目の美しい娘の性器を半分、切り取ったところだ。娘はむしろ恍惚として、腰を突き出してくる。
これほど深く切ったのは初めてだが、この儀式が神の作業であることの証拠を、この娘に見た。
娘は苦痛の極みの中で、救われていくではないか。
149ナレーション(第二層):2009/02/03(火) 00:40:06 0
膣口が切断された。刃を外に向けた。若い肉はさくさくと切れる。
気を付けないと、肛門まで取ってしまうことになる。浅会陰横筋で止める。後は、ロシア最高の医者たちの仕事だ。
この愛国の娘をすぐ回復させてくれるだろう。

エレーナの性器は背の低い聖職者が捧げ持つ聖餐皿に載った。100000という数字が印された。
これからエレーナたちの性器は、ドイツ皇帝が羨ましがったというロシア随一の名提督、
ロジェストウエンスキーが指揮する史上最大の大艦隊によって、現在のハルマゲドン、東洋に運ばれる。

---------------------------------------
150714:2009/02/05(木) 15:00:27 0
>>137
>そうなるのは、死によって人生の何かを失うことへの恐怖があるから?かな。

「全て」を失うことへの恐怖、かな。
全てを失って「無」に帰するということ。
その「無」が、本当はどういうことなのか、理解し難いこと。

僕は愛する人の死は経験したことがありませんが、少し前に愛猫の死を経験した時に、
「死」というものには、どこか理解し難いところがある、と思いました。
死ぬ瞬間の前と後。後に残った微動だにしない屍は、愛猫とは縁もゆかりもない物体のように思われ、
「あれ?どこへ行っちゃったのかな…」というような感覚がありました。
理屈ぬきに感覚的に理解し難いものがありました。

生と死のイメージとして僕が好きなのは、仏教の、海と波による比喩です。
生命全体が海であるとすれば、一つ一つの波は、個々の生き物の命であり、
生じては消える一つ一つの波は、生命の海によって支えられて生じ、
そして、最後に生命の海へと帰って行く。そんなイメージです。

これに似たイメージを詠んだ『生死』という詩があります。
澤木興道の弟子の内山興正(六代目住職)の詩です。印象深い詩なので引用します。

 手桶に水を汲むことによって 水が生じたのではない
 天地一杯の水が 手桶に汲みとられたのだ
 手桶の水を 大地に撒いてしまったからといって 水がなくなったのではない
 天地一杯の水が 天地一杯のなかに ばらまかれたのだ

 人は生まれることによって 生命を生じたのではない
 天地一杯の生命が 私という思い固めのなかに 汲みとられたのだ
 人は死ぬことによって 生命が無くなるのではない
 天地一杯の生命が 私という思い固めから 天地一杯のなかに ばら撒かれるのだ
151714:2009/02/05(木) 15:02:27 0
>実際忘れ物無くし物が多くてダメです。

そうでしたか。切実な問題なんですね。


>女の人の、どういう所に熱中しちゃうんですか?

相手によっても違うと思いますが、たぶん、どこに熱中しているのか
自分でもよく分からないから熱中しちゃうのかな。

「私のどこが好きなの?」と聞かれて、
「○○さんの存在そのもの」と答えたことがありますw
熱中していたから言えたことですが…、嘘ではないと思います。
「存在そのもの」って、ハイデガーみたいだ


>>138
>私も、哲板で議論してたら、機械さんがその後ハッキングをほのめかしてきたり、

決定論スレはあまり見ないから機械さんってどういう人なのか良く分からないんですけど、147スレはすごい。
唯物論と観念論、必然と自由は、対立点が明確だから盛り上がりやすいのかな。
最高位さんはいなくなったみたいですねぇ。 諸行無常・・


>>139
>古来からの教派と、新しい団体が和解するべきじゃないでしょうかね。

それはそうですよ。できればみんなが和解するのがいいです。できれば。
イスラエルとパレスチナも。
でも人間に自我があり、エゴイズムがあるかぎり、小競り合いは永遠に絶えないでしょう。
152714:2009/02/05(木) 15:03:59 0
>>140
>サンタナとかピンクフロイドは一時期ハマってたな。プログレ好きです。

僕もプログレ好きですよ、最近あまり聴かないけど。
ピンクフロイドは‘Comfortably Numb’がいいですね。
注射される時の悲鳴(?)が好きですw
サンタナの‘Hold On’も大好きな曲です。ポップな名曲だと思います。
といっても、これも前から好きだったわけではなくて
半年ぐらい前にミスドでよく流れていて好きになった曲です。

音楽ってそれを聴くシチュエイションによって、感じ方がだいぶ違いますよね。
(音楽に限らず何についても言えることかも知れないけど)
ミスドで聴くレニー・クラビッツやホール&オーツ(最近よく流れている)はとても良いのですが、家では聴きません。
家で聴くのはほとんどJ.S.Bach。でもミスドで聴く良質なロックやポップスが好きなので、よく行くのです。

>いかに音楽の王道をハズしにかかるかがロックなんですけど、
>歴史に積み上げられた既成の「ロックっぽさ」を忠実に再現してる人はダメでしょう。

まぁそうなんでしょうが、〈王道ロック〉も僕は好きですよ。
「忠実に再現」というのがモノマネの域を出なかったらダメですね。
既成の音楽を継承する中に、その人の個性が現れてくれば、
自然に新しいものが生まれるんじゃないかな、と思います。
無理に新しいものを創造しようとしなくても。

>ボアダムスの「SUPER ROOTS#9」は、世界中の讃歌がボアのセンスでミキシングされて、

Amazonで視聴しましたが、45秒なのでどんな音楽なのかも分からなかった…
153714:2009/02/05(木) 15:08:41 0
>>141
>自己評価の高い人が、逆境をブレイクスルーして得た感情でもう一度世界を見る、
>これが、肯定までのシナリオでしょうね。

「逆境をブレイクスルー」についての僕のイメージは、前に書いた道元の、
〈返す当てもない莫大な借金を抱えた人が、一番悟りに近い〉なんですよ。
そしてそれについての僕の解釈は〈あきらめ〉なのです。
逆境を〈力〉で突破するんじゃなくて、〈あきらめ〉て突破するw

内山興正さんは、道元の「この生死はすなはち仏の御命なり」という言葉を
道元の最も重要な言葉であるとして、次のようなことを書いていました。
人間は、あれは良くてこれは嫌だとか、ああしなければ駄目だ、こうしなければならない
とか、いつもくよくよしているけれども、本当は、どっちへどう転んでも、 生命の実物からは、落ちこぼれようがないのだ。
そして結局は、生きても死んでも、仏の世界からは、落ちこぼれようがないのだ。

〈どっちへどう転んでも、落ちこぼれようがない〉。
だから、「あれか、これか」ではなくて、「あれも、これも」、どっちでもいいw となります。
病気が悪くて健康がいい、逆境が嫌で順境がいい、ではなくて、「あれも、これも」です。

〈あきらめ〉というと、ちょっとネガティブな感じがするけれど、
こんな風に考えると、〈すべてよし〉に通じると思います。

>>142
>日本でニヒリストと言えば太宰ですけど、彼が書いた懊悩と競る程、蟲惑的な描写をする人ですね。この人。
>この、もどかしさがタマラナイ。。。
>ニヒリスト程、むきだしの生に対峙している人種はいないですよ!

太宰治は、「むきだしの生」に対峙していたのかなぁ・・・
太宰が見ていた生は、太宰的に色濃く着色された世界のような感じが僕はします。

不条理な世界をあるがままに見るという点では、太宰の師である井伏鱒二が書いた『黒い雨』が素晴らしいと僕は思います。
あるがままの世界をあるがままに見つめようとする強さを感じます。
154714:2009/02/05(木) 15:14:50 0
>>143
>面白いですよ。それらを一枚の皿の上に形作ることも修行であって、
>おいしさを逃さない切り方に集中したり、野菜の由来を考えたりしてると、
>今ここ感もなんとなく実感できて来るし。体で覚えることって大事ですね。

そうですね(僕は料理は全然だめなのですが…)

道元は料理をとても重んじて、食事を作る心構え『典座教訓』を書きました。
でも道元もはじめから〈今ここ感〉があったわけじゃない、というエピソードがありますよ。

道元が宋に渡り、中国の修行道場の食事係の老僧(典座和尚)と出会った時、道元は老僧と
仏法の話がしたくて、今日はここに泊まっていきませんかと誘ったけれども、老僧は堅く断りました。
(以下は『典座ネット』からのコピーです) http://www.tenzo.net/
道元禅師は言いました。「そんな食事の用意などは新入りの若い者にでもさせればいいではないですか。
あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の議論よりも、そんな食事の準備などを優先させて、
何かいいことがあるのですか。」
すると老僧は大笑いして、「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、全くわかっていない」
と言い残して帰ってしまったのです。 それもそのはず、当時の日本仏教界には、日常の実践を重視する
禅の考えは充分につたわっておらず、したがってこの時点ではまだ道元禅師自身、食事の用意などは、
修行の妨げになる面倒な雑事だと思っていたのです。

精進料理といえば…、けんちん汁は普通は「巻繊汁」と書くらしいですが、もう一つ、
「建長寺汁」からきているという(あやしい)説があって、北鎌倉の建長寺の近くに
「建長汁」を出している(あやしい)お店があります。 一度だけ食べたことあります。
155714:2009/02/05(木) 15:16:34 0
>>144
>こないだの、アリの集団的行動とDNAの関係ですけど、これは「利他行動」で説明がつくみたいですよ。

「遺伝」は、高校の生物の教科書以来ご無沙汰なんですが…

「利他」や「犠牲」という語は、道徳的な意味合いを帯びている感じがしますね。
そして、道徳は「自由」を前提としています。

もし、アリの行動が「必然」であるとすれば、「利他」とか「犠牲」という語にはほとんど意味がなくなるような気がする。
ハミルトンさんは、「アリの自由」について、そして「自由と必然」について、どう考えているんでしょうね。
156ナレーション(第二層):2009/02/06(金) 23:37:26 0
次のようなメイルをいただいた。
--------------------
先生、スコプチは14万4千個の性器を切りとることだけを目的にしていたのでしょうか?
私の読んだ本には、乳房をえぐり取る儀式の最中 に、切除された乳房を小さく切って、参列者全員に配り、
みんなでこれを食べるという習慣があったとありました。
私はこれを読んで、性器も同様にみんなで分けて食べたのではないかと思いました。

それに、睾丸を切除(小封印)した段階を「天使」と呼んだり、陰茎まで切りとって(大封印)大天使と呼ばれるところなど、
FGMのスンニとかファラオと本当に良く似ています。
結局宗教と呼ばれようと、そうでなかろうと、人間のすること考えることには自ずと共通点が生じるものではないでしょうか?

食べたいから切り取るのが「食物連鎖復帰連盟」、切り取ったから食べるのが「スコプチ」、切り取るだけが「FGM」、
食べるだけが「cooking club」みんな底流にあるものが同じで、輪の中にあるもの達ではないでしょうか?

私には現段階では、たぶん日本でその中心にいて、全てを把握しているのは加堂氏しかいない・・ということぐらいしか分かりません。
--------------------
157ナレーション(第二層):2009/02/06(金) 23:38:15 0
もう一通、紹介しよう。
--------------------
FGMに関して、女性が外性器を全て切り落としているのだから、
男性も外性器を全て切り落とすべきだという意見が出てきているようですが、正直言って違和感を感じます。
恐らくは、割礼という儀式を快楽という面でしか捉えていないのでこういう意見が出るものと思いますが、
そちらの面ばかり見ていてはいけないと思います。

私は男性なので非常に申し訳ないとは思うのですが、自然受胎をするためには、女性の場合、
理論的にすべての外性器を切除されても内性器さえ完全であれは受胎、出産する事が出来ます。
それに対して、男性の場合、どう考えても自然受胎させるために不要なものは陰茎包皮の余りのみと言う事になります。

そうした、『割礼とは自然受胎するために不要なものを取り除く儀式である』という見方を考慮しない限り、
FGM、MGMに関する論議は不毛なものとなると思うのですが、いかがでしょうか。
--------------------
158ナレーション(第二層):2009/02/06(金) 23:40:29 0
それでは、風俗誌ライターXXXXX氏のレポートである。

『風俗誌ライターの見聞録(12)』

XXXXXさんは横目に、陶器の上に載せられた自分の乳房と性器を眺めています。
傷口に張られた布巾の効果はものすごく、その部分からの出血は驚くほど少ないのです。
彼女は満足そうで、大役を果たし終えそうな喜びを見せています。
もちろん包丁式は最後まで行われるでしょうし、彼女の内臓を入れる大鉢が用意されている以上、どこかで死ぬわけですから、
それなりにしんどいとは思いますが、道の大方を進んできたことは確かです。
廊下を、和服の男女が進んできました。
女性は末席に座りましたが、男性はそのまま中央に進み、XXXXXさんのまな板の横に正座し、三方に向かって頭を下げました。
「お嬢さんは、ご立派でした」
そうXXXXXさんに語りかけ、彼女が微笑み返しました。
男性は和服を脱ぎ捨てました。
鍛えられた日本男性の裸です。サラシを巻いています。
下半身はそのままでした。

「ばっさりやっていただきます」
料理人にそう言って、頭を下げました。
末席に目をやると、いっしょに来た女性は背筋を伸ばして座っています。
多分奥さんであろうと思われます。
159ナレーション(第二層):2009/02/06(金) 23:45:15 0
男性が四股を踏む感じで股を開き、両手を後ろに組んで、料理人の前に立ちました。
陰茎と陰嚢がだらりと垂れ下がっています。
私の席ではひんやりする気温ですが、XXXXXさんの肌、男性の性器の具合を見ると、部屋の中央は結構暖かそうです。

料理人が包丁と鉄箸を構えました。
意外な趣向に、アメリカからの賓客たちも興味津々のようです。
「あなた」と鋭い声がかかりました。
男性といっしょに入場した和服の女性です。こんな場所で声を掛けられるとは、なかなか肝の据わった女性のようです。
「おう」男性が応えます。

だらりと垂れ下がっていた男性の性器が、むくむくと動き始めました。
亀頭部に半分かかっていた包皮がめくれ返り、陰茎が倍以上に膨れ上がりました。陰嚢が目立たなくなりました。

アメリカ人が驚嘆した顔で見とれています。 XXXXXさんも目を丸くしていました。
妻の声に反応したのか、自らを切り落とそうとしている包丁に反応しているのか、分かりません。

160ナレーション(第二層):2009/02/06(金) 23:47:13 0
「おう、おう、おう」と男性は気合いを入れつづけます。
背中に回した両手がきつく握られ、全身がガチガチです。
竹田さんが笛の音にのってさらりと捌かれたのに比べると、いくらか滑稽です。
日本の男性はこれまでこうして頑張ってきたのだな、そんな感じにとらわれます。

料理人が水を張った桶を、男性の股の下に置きました。
気合いを入れつづける男性の性器の根元を右から左に削ぎました。
ポチャンと桶の中に性器が落ちました。
すぐ傷口に、魔法の布巾が張り付けられました。
男性の気合いがうめき声に変わり、「あなた」という妻の声が、もう一度響きました。
いいご夫婦なのだと思います。

助手が脱ぎ捨てられていた和服を、男性の肩に掛けなおしました。
男性は肩を揺すりながら、廊下に出ていきます。
妻が小走りに後を追いかけ、背中につきました。
任侠映画を見ているようです。

会場は万雷の拍手につつまれました。
去っていく男女の肩が、誇らしげに傾ぎました。

ここに急に登場した男女は、我々がよく知っている人物である。
「あなた」と声をかけた肝の据わった女性から、ことの次第のメイルをいただいていた。
どちらのメイルを先に紹介したらいいか悩んでいたのだが、こういう形になった。
男女とは、もちろんXX夫妻である。
161佃煮マニア:2009/02/08(日) 09:02:36 0
>>150 714さん
>少し前に愛猫の死を経験した時に、・・・
猫ちゃんは可哀想でしたね。。。
いつでもストレートに愛情を向けて来る動物の死って、いたたまれないですよ。
普段ずっと一緒にいるのに、死ぬ時は人の目を避けようとするしね。

死にそうになった経験・・こないだインフルエンザになったんですよ。
全身の筋肉と関節に、ショックで絶命するんじゃないかという様な激痛が走りました。
最初背中だけだったんですけど、半日かけて痛みが首筋から側頭部の危険ゾーンに来て、
その時までにもう痛みに疲れ切っていたので、ずきんと頭が痛んだとき、
「あ・・・もういいや・・・」と、真っ白な気持ちになりました。
ウイルスに身体を解体されるなんて、自然だし平和なことだな、と思えたんです。
考えてみれば、私は身体を微生物と分け合っているから生きているんで、
私自身宿主だと言っても、外から食料を運ぶ係でしかないんだから、
たかだか食料調達係が、身体の機構をしきろうだなんておこがましいんですよ。
まして「生きたい死にたい」とか我を張っては、申し訳が立たないです。
微生物に当座の宿を提供して、おもてなしをさせて頂いてるんだ位の心づもりがないと。

私の話はいいんですけど、
新型インフルエンザのパンデミック研究が進んでるみたいですね。
これから、カミュの不条理世界が再現されたりするんでしょうか。
162佃煮マニア:2009/02/08(日) 09:03:13 0
>>151
>「○○さんの存在そのもの」
ふと、誰か好きな人をイメージする時、一つの抽象化された旋律のようなものが
引き出されたりするので、714さんの「存在そのもの」にはうなずけます。
かと思うと、「うつむいて髪に隠れた、紅潮しかけの目元」とか、
「腕時計の下で血管に押し上げられて青く浮いた手首の皮膚の透け感」を
何度も思い出したりもします。
こういうビビッドな視覚イメージも、いずれ、旋律のニュアンスを形作る要素として
記憶に溶け込んでいくんでしょうけど、
記憶からイメージを抽象化する過程って不思議ですよ。

>最高位さんはいなくなったみたいですねぇ。 諸行無常・・
あの人、ネットカフェの店長さんなんでしょ?今時期サービス業って大変なのかも。
(最高位さんに「お前はコテ付けろ」って言われたから固定にしたのに、いないんだ〜。

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1034599502/
宗教戦争について色々話してますよ、ここ。
聖地って言うのは、マニアが血眼で欲しがる場所だから、呪われますよね。
163佃煮マニア:2009/02/08(日) 09:03:44 0
>>152
>音楽ってそれを聴くシチュエイションによって、感じ方がだいぶ違いますよね。
そうなんですよね。
例えば、音楽をかけている部屋を閉め切って隣りの部屋で聴くと、
部屋の中で反響し合ってこもった、まろやかな一まとまりの音が届くので、
リラックスしたい時はいつもそうしてます。胎教音楽を聴くのと似た状態になるのかな。

>まぁそうなんでしょうが、〈王道ロック〉も僕は好きですよ。
こだわりを持ってみるのもいいんですけど、良心が行き過ぎて事なかれ主義になってもね。
今、ロックはお休み中で、よくここのを聴いてます。http://groovera.com
最近って、ITuneで音楽をいくらでもひっぱれますね。

それにしても、バッハ好きなんですね。
映画「時計仕掛けのオレンジ」で、アレックスが、
ベートーベンを聴きながら白目を剥いて痙攣するシーンがありますけど、
ひょっとしてあれくらい心酔してるのかな^^
私は、クラシックだとムソルグスキーが好きですよ。
164佃煮マニア:2009/02/08(日) 09:04:19 0
>>153
>本当は、どっちへどう転んでも、 生命の実物からは、落ちこぼれようがないのだ。
>そして結局は、生きても死んでも、仏の世界からは、落ちこぼれようがないのだ。
う〜ん、これはどうかなぁ。
制約をすべてはずしにかかると、結局、欲望あっての生を否定することに
なっていきませんか?
これは、釈迦のジャイアニズムじゃないですかね。お前の生死は俺のもの的な。
釈迦って、昔のインド人でしょ?
生きとし生けるものがみんな、誰も会ったことないパンチで半裸の外人の夢の産物ってのも、
なんか落ち着かない気分にさせますよ。と思ってしまうんですが。
165佃煮マニア:2009/02/08(日) 09:04:51 0
>太宰治は、「むきだしの生」に対峙していたのかなぁ・・・
太宰は、
「ぼくは、新しい倫理を樹立するのだ。
美しいもの、怜悧なものは、全て正しい。醜と愚鈍とは死刑である」と、
スローガンを掲げて、既成の良心をかなぐり捨てたつもりで世間に飛び出すんですが、
元々が繊細な感傷家だから、ほんの些細なことに圧倒されてしまうんです。
そんな時でも、物事を俯瞰して、事の細部を忘れようとしません。できないのかな。
だから、理想の為に冷酷な割り切り屋として振る舞いたくても、
見過ごせない悲惨な出来事についベタベタと情をからめてしまい、
自分でもどう判断していいのか分からない所まで自分を追いつめて、
結局、まとまらない考えにケリをつけるため、自殺するんです。過剰なんですよね。
ふっきれないまま過剰なことをしているから、悶絶する程恥ずかしいし辛いでしょう。
理想家なのに、いつも泥臭く地を這って、キャパシティを超えようとしています。
それを見ると、生と対峙しているなぁと思うんです。

ところで、サルトルの「嘔吐」と、ジッドの「アンドレ・ワルテルの手記」って
内容がリンクしてますよ。
166考える名無しさん:2009/02/08(日) 15:16:41 0
>膣口が切断された。刃を外に向けた。若い肉はさくさくと切れる。
>気を付けないと、肛門まで取ってしまうことになる。浅会陰横筋で止める。
>後は、ロシア最高の医者たちの仕事だ。
>この愛国の娘をすぐ回復させてくれるだろう。

ここイイ!
167考える名無しさん:2009/02/08(日) 15:18:29 0
>だらりと垂れ下がっていた男性の性器が、むくむくと動き始めました。
>亀頭部に半分かかっていた包皮がめくれ返り、陰茎が倍以上に膨れ上がりました。
>陰嚢が目立たなくなりました。

ここも注目!
168考える名無しさん:2009/02/08(日) 15:20:55 0
493 名前:心の仕組みドットコム 投稿日:2008/06/10(火) 22:15:13 0
>>491
>日常生活で他人が使っているものに習うというだけですね。
本当に君は○○だね。
言葉に意味を他人から習うのかい。
理解と言う言葉の意味を十人に問えば十人十色の答が返ってくるだろ。
その中から君の気に入った答を取るのか。
言葉の意味を知りたければ辞書を見るだろう。
そして辞書に記されている言葉の意味を理解できなければ、きみは100%無知なんだよ。

494 名前:考える名無しさん 投稿日:2008/06/10(火) 23:23:57 0
>>493
>言葉の意味を知りたければ辞書を見るだろう。

見ないし、見る必要もない。

辞書のない時代だって人間は言葉を使用してきている。
辞書に頼り切っている君はかなり頭が悪い。

誰も君のような馬鹿で無知蒙昧な人間になりたくないよ。

それに君は私を相手にしないのではなかったのかね?
無知を指摘されて悔しくてしょうがないのか、必死すぎるよ。

>そして辞書に記されている言葉の意味を理解できなければ、きみは100%無知なんだよ。

普通は辞書を見なくても理解できるのに、
辞書を見てから言葉を理解する君はやっぱり無知蒙昧なんだね。
169考える名無しさん:2009/02/08(日) 17:12:06 0
対話してださい


ハァ?
170考える名無しさん:2009/02/09(月) 00:32:11 0
無知蒙昧なんだね。
171考える名無しさん:2009/02/09(月) 07:11:15 0
>169
「言い得て妙」とは正にこの事w
172考える名無しさん:2009/02/09(月) 09:15:59 0
入院したいんですが、ここでいいですか?
173考える名無しさん:2009/02/09(月) 22:28:10 0
入院費用は身体でお支払いくださいね☆


はぃ、それでは
お一人様、お着きで〜す。
174ドクターX:2009/02/09(月) 23:56:39 0
私が診察しよう。
ただし年齢は16〜28までの女性に限る。
どれどれ服を脱いで見せてみなさい。
175考える名無しさん:2009/02/09(月) 23:58:36 0
いや、ここはおばはん専用病院なんだけどw
176考える名無しさん:2009/02/10(火) 01:34:01 0
おばはんに対しては放置ぷれい
177考える名無しさん:2009/02/10(火) 01:53:15 0
(~o~)
斐匙琶螺矧汰櫨菟魔璽斐螺禰佐都簑菟匙簾邊獅。あたりまえの話だわな。
178考える名無しさん:2009/02/10(火) 01:58:47 0
>自分で自分に催眠をかけたって「快苦」のコントロールなんかできゃしないし、
>「快」と「苦」の狭間で振れ続ける悲惨な心理的現実からは逃げられゃしないよ。

あほ。苦が快になることもあるのじゃよw

>511 :「機械的唯物論」者 ◆.p5Gp4239U :04/05/21 23:10
>今、帰宅致しました。510ですか?驚きました。
>入浴後にレスさせて戴きます。

>514 :「機械的唯物論」者 ◆.p5Gp4239U :04/05/21 23:15
>>511
>入浴てか?今日はもう出ないでよろし。

>517 :考える名無しさん :04/05/21 23:18
>コソコソ 自作バレテますよ機械さんw

たとえば上のように書かれるとカイカーンになるとかよw
179考える名無しさん:2009/02/10(火) 02:05:46 0
>そこまで行くと、ただの欲望肯定的で、ハイデガーも賛同しない。
>けど、西洋的認識論には賛成できない。
>彼が師事したフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」にも
>西洋的理性による規範主義見たいものへの批判があるんでしょう。
>そう言う意味で、ニーチェとハイデガーには共通項みたいなものがあった
>と言う事でしょう。

ニーチェを読まなかったらハイデガーの哲学なんぞないだろうに。
馬鹿か。
180考える名無しさん:2009/02/12(木) 02:40:59 0
はぁ? あんたアホ?
ハイデッガーが評価したからニーチェが歴史上で脚光を浴びたんだぜ?
181714:2009/02/12(木) 13:13:52 0
>>161
>いつでもストレートに愛情を向けて来る動物の死って、いたたまれないですよ。
>普段ずっと一緒にいるのに、死ぬ時は人の目を避けようとするしね。

死ぬ時に人目を避けるとよく聞きますが、うちの猫は死期が近づいてからのほうが
いつも僕の近くにいて、僕の方をじっと見ていました。
死ぬ少し前、もうほとんど動けなくなっていたので僕の布団の上におしっこをした時、
申しわけなさそうにしていたのがかわいそうでした。
死期が近づいたことが分かってから一週間ぐらい生きていたので、
お別れにゆっくり話ができた(つもりw)ので、良かった。

死は、ペットとの付き合いの大事な一部だと思います。
死別があることによって、出逢えた事への感謝の気持ちが深まります(有り難し!)
人との付き合いも同じでしょうね。

梅原猛が、現代文明は〈死を忘れた文明〉であり、それは危険なことだと書いていました。
死を忘れているということは、〈無常〉であることを忘れていることです。
自分自身の肉体だって時々刻々細胞が入れ替わっていていて無常である、
そういう無常が全てのものの根底にあることを忘れてしまうのは危険だと僕も思う。
無常を根底に見ない考え方は、幻想的なものになってしまい、
それがいずれ幻滅する時には、ニヒリズムに陥らざるを得ないからです。

〈死〉や〈無常〉をネガティブなものと思うから、忘却しようとする意志が働く。
だから〈死〉や〈無常〉をネガティブなものとしてだけ見ない考え方が必要だと思います。
182714:2009/02/12(木) 13:15:03 0
>新型インフルエンザのパンデミック研究が進んでるみたいですね。
>これから、カミュの不条理世界が再現されたりするんでしょうか。

わかりません…
冬虫夏草が、増えすぎた昆虫の数をコントロールしているとすれば、
新型ウィルスは、増えすぎた人間の数をコントロールしようとしているのかも知れませんね。
エイズウィルスはセックスに関わるものであるだけに、特にそんな感じがします。

でも、新型インフルエンザが現れなくても、不条理な死はたくさんありますよ。
たとえば、今世界では毎日2万5千人もの人たちが飢餓が原因で死んでいるということ。
そのほとんどは子どもたちだそうです。
毎日、毎日、2万人の子どもたちが餓死しているというのは、怖るべきことだと思います。ほんとうに…。
途方にくれるしかありません。
どうすればいいのでしょう?
183714:2009/02/12(木) 13:17:03 0
>>162
>こういうビビッドな視覚イメージも、いずれ、旋律のニュアンスを形作る要素として
>記憶に溶け込んでいくんでしょうけど、
>記憶からイメージを抽象化する過程って不思議ですよ。

その過程の中に、いろんな勝手な〈読み込み〉もたくさん入っているでしょうね。
たぶんもともとのビビッドな視覚イメージにも、〈読み込み〉が入っている。
その典型が〈あばたもエクボ〉。 
その人の声とか、性格とか、諸々のものを無意識のうちに総合して、
さらにそこに自分の思い(好きだとか、嫌いだとか、怖いとか…)もプラスして、
その結果としてイメージができてくると思います。

>最高位さんに「お前はコテ付けろ」って言われたから固定にしたのに、いないんだ〜。

最高位さんにも絡んでたんですか…w

>宗教戦争について色々話してますよ、ここ。

>1から>50まで読みました。
その中では僕の考えは、>2、>3、>14あたりに近いです。

争いというのは、エゴイズムという「囲い」と「囲い」との間に起こるものだと思います。
自我の囲いから、家族という囲い、民族や国家という囲いまで、大小さまざまな囲いがあります。
それらのどの囲いも、争いを引き起こす危険を孕んでいる。
たとえば戦国時代には、今でいえば県のような枠組みを囲いとして争っていたわけで、
また、もし宇宙人が攻撃してきたら、僕たちは地球を囲いとして宇宙人と戦わざるを得なくなるかも知れない。

自我であれ、家族であれ、民族であれ、国家であれ、一つの囲いに固執しすぎることが危険なのだと思います。
キリスト教の隣人愛や仏教の慈悲は「囲い無し」の愛ですが、人間である限りはエゴイズムから脱却することはできない。
だから、囲いを持たざるを得ない人間として、その囲いをできるだけ薄くするように努めつつ、
一つの囲いに固執せず、囲いと囲いとの争いを小競り合い程度に抑えるようにするしかないでしょう。
184714:2009/02/12(木) 13:19:14 0
>>163
>ベートーベンを聴きながら白目を剥いて痙攣するシーンがありますけど、
>ひょっとしてあれくらい心酔してるのかな^^

今年は新年早々バッハの教会カンタータ集(26枚組)を買ってそれを聴いています。
26枚聴いてもバッハの教会カンタータの3分の1。教会カンタータだけでも200曲ぐらいあります。
駄作がないのが驚きです。

(痙攣はしませんw
そういうタイプではないです。心身ともに安定しているので。
たまにブルーな気分になる時は、たいてい風邪のひき始めだったりします)

でも外では聴かないですよ。mp3プレーヤーに入れてるのはロックとジャズだけ。
電車にバッハ、人込みにバッハは、なんとなく合いません。
(セックスに教会カンタータは意外と合うかもしれません。)


>今、ロックはお休み中で、よくここのを聴いてます。

自分で積極的に聴く気はしないけれども、BGMとして流れていると心地良い音楽がありますね。
選曲のセンスが自分の好みに合ったwebradioの良さは、そういうところにあるのでしょう。

webradioとか、どこかの店で流れていて良い曲だなぁと思い、後でその曲を自分で探して聴いてみて、
がっかり…という経験が何回もあります。
185714:2009/02/12(木) 13:20:37 0
>>164
>制約をすべてはずしにかかると、結局、欲望あっての生を否定することに
>なっていきませんか?

制約をはずすってどういうことなのかちょっと分かりませんが、
「どっちでもいい」→「意欲の放棄」 ということなのかな…

たしかにそうなのです。 「あれも、これも」→「どっちでもいい」だけではだめです。
内山興正は、心のおき処として大事なことを二つ挙げています。
一つは、『どっちへどう転んでも御命』(「あれも、これも」「どっちでもいい」)。
もう一つは、『いまこの実物こそ御命』(これは、〈今此処〉を大事にするということに相当すると思います)

「その両極が大切です。その両極が片方だけになると危ない。『どっちへどう転んでも御命』
の方ばかりに重みがかかると、気が抜けてバカになる。『いまこの実物こそ御命』ばかりで進むと、
気が凝りすぎてキチガイになる。
だから大切なのは、どうせわれわれ人間はバカ、キチガイの両極をもっているのですから、
その二つを極とする軸で回転していくことです」(『生死を生きる』)

『どっちへどう転んでも御命』と『いまこの実物こそ御命』の二つは、矛盾しないと思います。
つねに『いまこの実物こそ御命』として〈今此処〉を生きつつ、その根底では、
『どっちへどう転んでも御命』と、腹を据えている。 そういう感じかな…。

『どっちへどう転んでも御命』は、佃煮さんが前に書いていた「はからいを捨てる」と同じようなことです。
「他力」ということです。
だから内山興正のいう「二つの極」は、「他力」と「自力」と言い換えてもいいかも知れません。

『人事を尽くして、天命を待つ』という言葉は、この二つの側面を言っている点でこの考え方に似ています。
ただこれは、人事を尽くせる領域と、運命に任せるしかない領域とを分けてしまっている感じがします。
そこが違うかな、と思います。(この言葉の出典を読んでいないので、たんなる〈感じ〉ですが)
186714:2009/02/12(木) 13:21:48 0
>生きとし生けるものがみんな、誰も会ったことないパンチで半裸の外人の夢の産物ってのも、
>なんか落ち着かない気分にさせますよ。と思ってしまうんですが。

〈仏〉の意味にもいろいろありますが、大乗仏教では、諸々の生命の根源にある命のことを
〈仏〉〈仏陀〉と言います。そしてその命を自分の命として生きる者のことも〈仏〉〈仏陀〉と呼びます。
〈この生死は仏の御命なり〉の〈仏〉は、前者の「根源的な命」の意味です。

「根源的」ということは、〈生〉と〈死〉を人間的に分別する以前、〈生死〉が分かれる以前、ということです。
人間的思考、とくに西洋的思考は、主観と客観、精神と物質、等々と二つに分けて考えますが、
仏教では、それらが〈二つに分かれる以前〉のところを考えます。
仏教でよく使われる〈一如〉や〈不二〉という語はそのことを表しています。〈即〉もそうです。
187714:2009/02/12(木) 13:23:15 0
>>165
>元々が繊細な感傷家だから、ほんの些細なことに圧倒されてしまうんです。

そうなんでしょうね。
ある対談で坂口安吾は、太宰の死は「虚弱」によると言っていて、
石川達三はその病弱で不健康な部分を文学に結びつけるところが嫌だと言っていました。
まぁ、へんな対談ですが…

僕も太宰治はたくさん読みましたが(新潮文庫にある15冊ぐらいはだいたい読んだと思います)
でもその後全然読まなくなったのは、石川達三が「嫌だ」と言っている理由に近いと思います。
弱さを売り物にしているようなところがイヤになってしまったのでしょう。
(好きな人にとっては、そこがまたたまらなく良いのかなぁ…?w)


ニーチェは芸術を、弱さから生みだされる芸術と、強さから生みだされる芸術の二つに分類します。
「私はあらゆる個々の場合においてこう問う、『ここで創造的となっているのは飢餓なのか充溢なのか?』と。」
「芸術は現実に対する不満の結果なのであろうか? それとも、享受した幸福に対する感謝の表現なのであろうか?
前者の場合には、芸術はロマン主義となり、後者の場合には、ディテュランボスとなる。」

ニーチェは後者の例として、ホメロスとルーベンスをあげています。
また、〈現実に対する不満の結果〉としてロマン主義を批判しているのは、ワーグナーを念頭においているのでしょう。


>ところで、サルトルの「嘔吐」と、ジッドの「アンドレ・ワルテルの手記」って
>内容がリンクしてますよ。

そうなんですか? ジッドは『狭き門』しか読んでないです。
『贋金つくり』の途中で挫折し、僕にとってジッドは終わりました…

フランス文学なら、もう少し遡って、スタンダールが好きです。
『赤と黒』は、好きな小説ベスト5に入ります。
188ナレーション(第二層):2009/02/14(土) 00:13:13 0
………………………………………………………………………………
先生、文留から頼まれてご連絡をしております。
どうしてこういうことになったのか、私、びっくりして手が震えています。
あんな可愛いXXをちょっと金に手をつけたから始末するなんて、
度が過ぎています。彼女はすっかり諦めていますが、私はほんとに怒って
います。でもXXから最後のお願いと言われると、断れません。

あの問題との関係について、私もあると思います。
XXも感じていたそうです。それでいいのだそうです。
彼女と話したままに書きます。
日本人の中には、文化大革命を素晴らしいことだったと思っている人がいて、びっくりするのですが、本当に本当に最悪のことでした。
日本人は知りませんが、私たちの広西省だけで、九万人が殺されたのです。 中国全体で何人が殺されたか、数えきれません。
話をもどして、文化大革命のときですが、私たちの広西省では、殺された 九万人の内、かなりが食べられたのです。
いっぱい記録も残っています。 日本人はびっくりするかもしれませんが、あちらではあんまり驚きません。
広西だと言うと、おお、おれを食うなよ、というジョークを言われる程度 です。
まあ、正史に食人のことはいくらでもでていますし、
魯迅は、 それを止めさせようと必死の努力をしたほどですから、珍しくはないのです。
189ナレーション(第二層):2009/02/14(土) 00:17:58 0
文化大革命では、三人の民兵が同意すれば、誰にでも死刑の宣告ができま した。
それで、ちょっといい生活をしている人は、すぐ死刑にされて、 食べられたのです。
肝臓とか心臓とかは薬と思われていますので、 病人をかかえたおかあさんたちも一生懸命でした。
性器とかは強壮剤ですから、これも大切でした。学校の先生が可愛い女生徒 を食べたくて、
一家全員を死刑にして、めでたく食べることができたという 話もあります。
もっとも学校の先生でいえば、インテリですから、食べられ た人のほうが圧倒的に多かったと思います。
先生のおっしゃるとうり、 ここに集まっている人間は、ほとんどが広西出身者です。
ボス以下、 文革の生き残りといえます。XXとか私とかの若者は、その次の世代です。
このことはいろいろ意味を深くします。先に日本に逃げて来たボスたちが 文革の被害者、
食われた側であった可能性は高いのです。XXとか私とか、 遅れて日本に来た者は、食った側の子どもです。
日本人には想像もつかない でしょうが、たとえば、ボスの妹を文留の父親が食べたということも、 大いにあるうるのです。
190ナレーション(第二層):2009/02/14(土) 00:18:54 0
ボスも、この店の従業員も、招かれる客も、みんなそれを知っている、 のかもしれません。
遅れて来たXXとか私たちだけが、そうした詳しい 事情を知らないということもありえます。
それでも、広西の人間ですから、 うすうすの見当はつきます。
彼女が、食べられることに、さほどの抵抗を 感じていないのには、以上のような理由もあると思います。
食べたから食 べられるのは、仕方がないのです。日本人には分かりませんでしょうが。
あちらの正史には、公務員の奥さんが、中央から来た高級官僚を接待する ために、裸になって、
ドボンと油に飛び込んで、天ぷらになった話が、 美談として記録されています。
皇帝の愛妾が、籠城で食料が尽きたとき、 スープになって喜ばれた話もあったと思います。
XXはこちらに来てまだ 数年です。もちろん不法滞在で、日本人の小学生に、
汚い格好のせいで苛 められているところを、ボスのロールスロイスが通りかかり、拾われたのです。
すっかりボスはXXが気に入り、また彼女もボスを心から慕っていたよう でした。
俺のかぐや姫だ、ボスは日本の昔話にたとえて喜んでいました。
XXを拾ったのが、日本料理屋の玄関の小さな竹藪の前だったのだそうです。
ボスは本土に文留の身元を問い合わせたでしょう。
191ナレーション(第二層):2009/02/14(土) 00:21:19 0
あちらの人間はかならずそうします。ボスに報告が届いたのと、ときを同じ くして、XXが店のお金を盗んだのは、
なにかの因縁としかいえません。 日本人の女の子と同じような服が着たかったのだそうです。
自分の肩までしかないような小学生に、汚い格好をからかわれ、泣いて反撃 できなかったXXです。
なにか格別の思いが、服にあったのでしょう。 ひょっとすると、XXには、わずかの時間ですが、
お世話になったボスのS へのお礼のつもりもあるのかもしれません。彼女の財産は自分の身体しか
ありませんし、ボスの一族との過去の問題を考えれば、あるいはと思います。
とくにボスの年老いた母親は先日からほぼ失明状態だと聞きます。
一族には老人が多く、回春の思いはみんなにあるでしょう。若さの盛りの、
大きな目がくるくるする娘です。大きな目は眼病の最高の薬です。
目には目を、性器には性器を、これが漢方の基本です。XXと話しながら、話しのままに、これを書いています。

ともかくしっかり見てて欲しいとのことです。なぜ、そんなにしっかり見て もらうことが大切なのか分かりませんが、そう言います。
しっかり人に見て もらっていたら、平気なのだそうです。別に証人になってもらうとか、 裁判をするのに有利とか、
そういうつもりはまったくないのです。 今だって、逃げようと思えば、いくらでも逃げられるのです。
ボスは本心 ではそれを待っているかもしれません。しかし、すっかり準備が整って、
XX自身には、他の選択が考えられなくなっているようです。 なんだか意地でも、美味しい肉になりたがっている、そういう状態です。
192ナレーション(第二層):2009/02/14(土) 00:24:28 0
XX、裸で中国酒に浸けられ、首から上だけを出して招かれた客を見まわし ています。
上等な酒の濃厚な香りと上気しているせいで、一層奇麗な肌になっております。
瞳も一層黒く、可憐に感じます。車輪をつけた樽が、 宴席の中央に置かれました。
料理長の張がXXの耳元で何かを語り、 彼女の頭を酒(年代物の紹興酒)の中に押し込みました。
飴色の液体に文留の全身が沈み、黒い髪が昆布のように揺れます。
大方の人が不安になった頃、XX、張の手を勢いよく跳ねのけて立ち上がり、
大きく呼吸をしました。上等な酒の滴と香りが店全体に振りまかれました。
まな板の鯛が跳ねたようで、新鮮、命の盛りを見せつけます。
どよめきが起きました。ここ数日間、今彼女が浸けられている同じ酒で内臓 から洗われ、
食事はとっていないXXですが、若い命の力は少しも弱まってはいません。逆に不安になります。
彼女は鯛ではないのですから、いくら日本では生造りが人気でも、もう少し弱っていた方が、
彼女にも料理長にも いいのではないかと思いました。
料理長、XXの手を取り、中央にしつらえた日本風のまな板の上に立たせ ます。
XX、本当に美しく、皮膚は輝くようです。もともと美しい娘では あるのですが、今日は格別です。
招待客から自然に拍手がおきました。 XX、ポーズに困っているようです。全裸に飴色の酒の滴を纏っただけで、
右手で胸を、左手で下を隠しています。まるで日本娘のようです。
最高の贅沢です。高級なこの店でも、今日ほどの肉が提供されるのは、
もちろん最初です。中央のテーブルのボスのSが、感に耐えぬという表情
で、紹興酒色に染まった肉に見とれています。
193ナレーション(第二層):2009/02/14(土) 00:27:26 0
文化大革命のとき、資産家、インテリの家族たちは、群集に追われ、棍棒で 半殺しにされた上で、
多くは内臓、性器等を切り取られて絶命しました。 せめて完全に死んでから切り取ってくれと、
懇願した被害者がいたことも 報告されています。ボスや招待客の家族はどうだったのか、私は知りません。
多分、似たような運命であったろうと思います。不思議なのは、自分たちが 殺されると分かっていたのに、
ほとんどの人が、逃げなかったことです。 呼び出されると、家族そろって、黙ってその場所に来るのです。
そして殺され、食べられました。中国人の不思議な性格を示しているかも しれません。XXも、まったく同じです。

静かに、まな板の端で胡座に座りました。張料理長、彼女の口に猿轡をかけました。
顎を上げて協力するXXの、喉から胸にかけての線が奇麗です。
XX、細紐で後ろ手に縛られ、胡座の両足首を結び合わされて、背中を押され、ゆっくりと前に倒れます。
まな板に顔が当たる直前に、張料理長、 XXの頬を左手で受け止め、自分の方に顔を向けて、そっと置きます。
XX、長い脚の分、高くなったお尻をかかげて、まな板の上の食材となり ました。可憐な格好です。
若い肌が、紹興酒を弾いて、新鮮です。料理長、XXの右膝を細紐で結びます。結んだ紐をまな板の下にまわし、
そのまま左膝に結びます。XXの下半身はしっかりまな板に固定されました。
つづけて、右の腕を脇のすぐ下で結わえ、同じようにまな板の下から左の腕
と結びます。高いお尻から、弓なりに背筋を下降させ、ほっぺたをまな板に
すりつけて、XX、目を大きく開き、事態の成り行きを見ています。
今、彼女に出来ることは、お尻をわずかに左右にゆすることだけです。
194ナレーション(第二層):2009/02/14(土) 00:29:45 0
解体の準備はすっかり整いました。後方から見ると、大きく開かれた 大腿の合わせ目に、左右対称の奇麗な性器が展示されています。
脱毛されています。豊かに膨れて、包丁を縦にいれられた中華饅頭です。整った典型的なおまんこです。
料理長、ボス、招待客を招きました。みんなが紹興酒の杯を持って、 XXの回りに集まります。
ボスのSさんが、料理長に、猿轡はいらないのではないか、と言いました。もし、
XXが苦痛で悲鳴を上げるのを我慢おできになるなら、というようなことを答えました。
全員が、もちろん、取ってあげてください、悲鳴をあげるくらい何でもありません。
これでは可哀想です、口々に答えます。料理長、文留の猿轡を外しました。
XX、呼吸が苦しかったのか、何度か大きな息をして、乳房とお腹の柔らかい肉が揺れました。
ありがとうございます。彼女が最初に憶えた日本語を伝えました。 大きな声は出しません。
このままで切ってください。お願いします。XX、一心に頼みます。もちろん、もちろん大丈夫、このままです。
心配しなくてもよろしい。ボスが XXの頬を撫でながら、優しく答えます。お前は私のかぐや姫なのだからな。ボスの声。
痛かったら、いくら叫んでもよろしい。大丈夫、心配するな。 XX、ボスの言葉に、涙を流しました。
よっぽど猿轡が苦しかったのでしょう。
195みうん:2009/02/15(日) 07:55:24 0
何となくそろそろコテハン変えます。
紹介してもらった地震雲がきれいだったので、
佃煮をやめて「美雲→みうん」にしようかな。
196みうん:2009/02/15(日) 07:56:00 0
>>182 714さん
>死は、ペットとの付き合いの大事な一部だと思います。
>死別があることによって、出逢えた事への感謝の気持ちが深まります(有り難し!)
犬とか猫って、生まれて5、6年もすると老い始めますもんね。
もっと小さい動物だと2、3年が寿命だったりするし。
一緒に暮らした動物の死が、人間の社会性を育てるのはそうですが、
やっぱりその死は悲しくて、先延ばしにしたい瞬間なんです。

人間と寿命が近ければ納得もできる、、、と浅はかながら思ったりもしますが・・・

家のポストに投函されていたペット屋のチラシに、
「ローランドゴリラ めす 80万円」と書いてあるのを見たことあるんです。
ゴリラの寿命って、だいたい40年くらい。原人も40年。一瞬夢が膨らみました。
繊細な感性をもち、比較的おっとりしているというゴリラ・・・でも、
ゴリラの一回分の食事量って、セントバーナードと同じバケツ一杯分なんですが、
ゴリラフードなんてないから、果物、豆、パン、魚をバケツ一杯です。
感染症のゴリラ用ワクチンもないし、それでも、絶滅種を死なせたら犯罪です。
ゴリラの売買は、密猟から始まって、ルートに必ずギャング、やくざが絡んでる様です。

全くひどい話ですよ。死を含めた動物の尊厳が、置き去りです。
714さんはそういうものを大切にしてますが、全く真逆の人もいるんですよ。
197みうん:2009/02/15(日) 07:56:30 0
>>182
>冬虫夏草が、増えすぎた昆虫の数をコントロールしているとすれば、
>新型ウィルスは、増えすぎた人間の数をコントロールしようとしているのかも知れませんね。
HIVウイルス、新型インフルエンザウイルスもそうですし、こないだNHK見たんですが、
男性の染色体が、人間誕生以来摩耗し続けていて、
500万年後には消失する計算になってる様です。つまり人間のオスが消えると。
乱交しないから、精子競争もない、それで精子が減り続けてもいて、
近い将来は、出産を人工授精に頼らざるを得なくなるとか。
地球の自浄作用って巧妙ですね。
人間があせって環境環境叫ばなくても、着実に行動しています。

>毎日、毎日、2万人の子どもたちが餓死しているというのは、怖るべきことだと思います。ほんとうに…。
自分に直接関係のある問題に接していくしかないんじゃないでしょうか。
北半球では生命が栄え、南半球ではそうでもない、という事実もありますし。
貧困国にお金を送っても、上層部が握ってしまうから、
スーパーで余る食品を全部冷凍して、コストとエネルギーをかけながら
毎日カンボシアに空輸するべきでしょうかね。または、貧困国を他国が管理する?

「それでも生きる子供たちへ」というドキュメント映画は、見ました?
どんな子供にも、幸せな瞬間はあります。
198みうん:2009/02/15(日) 07:57:03 0
>>183
>たぶんもともとのビビッドな視覚イメージにも、〈読み込み〉が入っている。
>その典型が〈あばたもエクボ〉。
読み込みが、イメージを組成するんですね。なんかスッキリ(゚∀゚)=3
男女の逢うタイミングとか、距離が離れている程、お互いについて無知になるから、
得られない情報分を理想化したイメージで補おうとする心理が働いて、
そうやって一旦恋が始まると、ホルモンが生殖を呼びかけて、
ポジティブ思考に傾く・・これは、抑えられない食欲同様、強力な作用です。
これが「アバタもえくぼ」。
まあ、でも、
恋人の特徴が長所短所の様に見える、その見方が、
捉え方の一つに過ぎないと気づいてみるのも、
愛する上で必要じゃないかな。そうすればエゴもちいさくなるし。
199みうん:2009/02/15(日) 07:57:33 0
>>184
>でも外では聴かないですよ。
バッハの音楽って、変化する和音の妙でしょう。オルガン曲が多いし。
壁のない敷地だと、和音は構成する音が多い程、音源から離れる程、濁って聴こえるし、
オルガンの音って、エレキギターとかトランペットに比べると、音質がソフトで、
ガーンと主張する音ではないですよね。(私はオルガンの音って好きです。
だから、家とかこぢんまりした空間で、音源のそばで聴く様に出来てるんじゃないですか?
耳をそばだててしんねり聴く所に、あたたかみや情緒があるんだし。

>(痙攣はしませんw
痙攣は、書いてみただけなんですけどw
・ ・・前に、ニーチェの話を一緒にした時に、ヒートアップしたじゃないですか。
それで、「714さんて熱い、鬼武者っぽい」みたいな印象があったんです。
(比べてエートルさんが、おっとり刀のみねうち侍みたいなの。)
激しいけど、論点ははずさないし、意見は力強くて的確、テキパキ問題を片付けてて、
議論慣れしてるんだな〜、すごいな〜、と感じながら、引きずられてました。
で、結構私とレベルが開いている人が、話しながら色々教えてくれるし、
熱いと思ってたら穏やかな感じなので、なんとなく不思議なんです。
勝手な主観ですけどね。
200みうん:2009/02/15(日) 07:58:01 0
>>185
>『どっちへどう転んでも御命』と『いまこの実物こそ御命』
「結果に固執しないけど、とことん打ち込む」って事かな。
例えば、勝負どころでライバルと結果を競わないといけない場面ってあるでしょ?
そういう時に、「ぜったい負かしてギャフン言わす!」とギラギラ・・なんかしてると、
仏教思想からは「ノン!」の一瞥のあと顔をそむけて目を伏せられちゃったり、
するものなんですか?
(「人事を尽くして〜」の人事には、奸計と戦謀なんかもふくまれてるのかな)

>>186
>「根源的な命」
なるほど〜。これは面白いなあ。哲学的。
ただ、「パンチで半裸の外人だけど、ブッダは根がほんとにいい人だし面白キャラだから、
そういう愛すべき人物の夢の中で生きてみるのもアリかな」と
人情で納得できる面もあると、わかりやすいのかな、とも感じます。
キリストが、身近な逸話によってフランクな存在になっているのに対し、
ブッダはどうでしょうね。
親近感をもちたいけど、追うととらえどころがあいまいで、
何か遠くの不定形物になって隠れてしまう、そんな印象があります。
201みうん:2009/02/15(日) 07:58:34 0
>>187
>弱さを売り物にしているようなところがイヤになってしまったのでしょう。
露悪的で、弱さを武器にしてイヤミだ、という面も、あるでしょうね。
ネガティブな思いに潰されて、みっともなくのたうちまわる太宰の分身を、
戯画化して笑いを誘いつつ、その笑いが偽善だとでも言う様に
かしこまって審美的なモノローグをはじめる、そういう軽妙な仕掛けも作中には多くて、
読者によってはニヤッとしたり、眉をひそめたりするんでしょう。

>ニーチェは芸術を、弱さから生みだされる芸術と、強さから生みだされる芸術の二つに分類します。
ニーチェは、
「善き気質(古い概念を超え、その状態に満足する心)が、
美しくも恐ろしい情念を浄化し、その中から真理を摘みだす喜びを、
人に伝えるのだよ。」と、だいたいそんな風に言っています。
このへんは、強い芸術(または哲学)の部分でしょう。
かと思いきや、弱さもあり・・・
http://blog.goo.ne.jp/kju96/e/17c065b25a988058afd1ec35b5de6b38
http://plaza.rakuten.co.jp/mizumizu4329/diary/200810180000/
ごっつい妹の過干渉にすっかり疲弊して、逃げた後、ニーチェは、
警鐘の様に彼を打つ偏頭痛も省みず、孤独の中でガリガリと執筆して、
そんなことしたら普通頭おかしくなりますが・・・
彼の中で、妹の支配に対する、処理できない悪感情が相当あったことが分かりますし、
エリザベート×ニーチェ×パウル×サロメのドロドロ関係の中で、首をしめられ、
ニーチェのモラルが憤死寸前だった為、「善悪の彼岸」を書いた、とも読めます。
この辺は、興味深いとこですよね^^
202ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 22:38:34 0
目はいつ取りますか。XXのためらいがちの質問、気になっていたらしい です。
大丈夫、心配しなくてもよろしい。一番最後、お前が完全に死んで から取り出すから安心していなさい。
ボスの優しい声。うれしい、ありがとうございます。XX、頬を撫でられて、また涙をながしています。
この席にいた者の名は、次のとおりです。
(リストがあるが、載せないでおこう。三十名ほどである。内、女性と思われる者が五名)
それでは、と料理長の声。招待客全員が数歩下がりました。助手が二人、XXの左右に分かれました。
料理長、長さ五十センチ、幅二十センチほどの大きな中華包丁を持ちます。XX、息を飲みました。
料理長、XXの足元にまわりました。助手の二人が左右からXXのお尻の 割れ目に手をかけ、思い切り開きました。
奥の性器と肛門がヌッと出てきました。両方の穴とも、引っ張られて横長に開いています。
うつぶせで高くあげられた股間の上の穴は小さく、下の穴は大きく、限度まで引っ張られた 縁の肉が薄く伸びています。
203ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 22:41:10 0
XX、激痛を予感して、肩を震わせていますが、声は我慢しています。
料理長、大きな中華包丁を縦に構え、右の大陰唇の外からやや内側に向けてさっと切り下げました。
XXがアアッと堪えられず叫びます。料理長、即座に包丁を外し、今度は左の大陰唇の外から切り込みます。
肛門のすぐ下で、切り込みは合致し、肉がわずかに離れ始めます。
料理長、左手で浮いた肉を掴み、引っ張りだしました。クリトリスの下で、肉はまだ恥骨につながっています。
XX、ああっ、と目を閉じ、肩を震わせて我慢しています。
料理長、XXの性器を引っ張りだし、まだつながっている恥骨とクリトリスの基部を巨大な包丁の一撫でで切り離しました。
みんなの前に示された刃の上に、XXのおまんこが乗りました。かなり大きく深く切り取られました。300グラムほどです。
私も専門ですから、肉の重さはすぐ分かります。
料理長が招待客の前に、切り取った直後の新鮮な肉を示している間に、助手たちがXXの細紐を切り離し、
丁寧に仰向けに寝かせ、汗を拭い、切り取られたあたりに薬用酒を注いでいます。
204ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 22:43:50 0
XX、いくらか安堵した様子で、乳房の上下がゆっくりになってきます。
刃の上のXXの性器、割れ目がイカの口のように、やや複雑に肉を重ねています。
XXが自分の切り取られた性器を示されて、怪訝な顔をしました。
私もちょっと驚きました。料理長がボールで水洗いし、皿の中央に形良く盛って、主だった招待客に示しながら、
XXにも見せたのです。私はXXのすぐそばにいましたから、いっしょに覗き込む形になりました。
XXは友だちである私にちょっと照れたように笑い、自分のおまんこに目を落としました。
それは変な瞬間で、切り離される前にも見せてもらえなかった大切なものが、あからさまに目の前にあるのです。
XXにとっても同じでしょう。自分でも見たことのない角度で、裏も見える形で、自分の性器がそこにあるのです。
彼女の性器は、縛られて高く上げられ左右から開かれたとき、全員に見えたのですが、
豊かではありますが、シンプルですっきりした性器でした。
奇麗に左右対象でした。それが、先程ちらと見たときに、私はイカの口のようだと思ったのです。
そして今は、花のように開いて満開になり、小陰唇の襞が二重三重にめくれかえってきたのです。
素人考えですが、子宮などの内性器に内側から引っ張られていた肉が、膣や周辺の筋肉が途中で切断されたために開放されて飛び出してきた。
そんな感じです。料理長が皿に盛るときに、中から押し出して華やかな飾り付けをしたこともあるかもしれません。
205ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 22:47:12 0
XXや私にとっては、ちょっと衝撃で、密やかなおまんこの方がXXらしくて嬉しかったのです。
もちろん切り取る前はそうだったことを、みんなが知っていますから、むきになることはないのですが、
XX本人としては、やや不満でしょう。色は奇麗です。紹興酒のせいで本来より赤っぽいのでしょうが、
完全な赤身です。XXは鹿かな、ふと思います。お腹の肉とかはそうでないことが、すぐ後で分かりましたが、
XXの性器の肉は赤、正確にたとえますと、男性のおちんちんの亀頭の色、彼女の希望どうり、思ったままを報告しておきます。

柔らかさは、本当に柔らかいです。料理長が客から客に皿をまわすたびに、XXの肉はぶるぶる震えています。
触ってはいませんが、乳房と同じくらいには柔らかいと思います。
ただ、小陰唇の少し色の濃い辺りと膣は、ボスの入れ歯では、生はむりでしょう。他は大丈夫です。
硬さも鹿肉程度といえるかもしれません。XXのおまんこが開いてしまった理由に、料理長が切り出しやすいように、
助手が左右から高く掲げたXXのお尻を思い切り開き、性器と肛門を引っ張りだしたのも関係しているかもしれません。
206ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 22:50:30 0
なにもこだわらなくてもいいと先生は思うでしょうが、XX本人が気にしていたので、私もむきになっているのです。
あんなに端正だったおまんこが、皿の上でそっくり返ったのは、XXにとっては不本意でしょう。
私が思うには、前にも書いたように、膣が途中から切断され内側に引っ張る力がなくなったことが第一。
そして、第二に、切り出しのために引っ張り広げたせいで、表面の皮膚の部分だけが伸び、内部の肉との間にずれができたため、と考えます。

あのとき、XXの性器と肛門は穴の縁の筋肉がピンクに透けるほど横に広げられていました。
本来はお尻の割れ目の奥にあるはずのものが、同じ位置まで引っ張り出されていました。
そのために料理長はたやすく中華包丁でXXの性器を切り出せたわけです。
しかし、そのとき、引っ張られて広がっていたのは、XXの皮膚に近い部分だけで、ちょっと下の肉は本来の位置にあったわけです。
そのまま切ると、肉の量の方が皮より多くなるのです。
ですから、皿に盛られたとき、XXの性器の皮膚の部分は、無理矢理伸ばされていた分、縮もうとします。
その分、下の肉がめくれてきた。また膣の開口部分では、膣の切断のため、子宮などで引っ張られていた小陰唇大陰唇などの肉が
押し出されましたが、さらに皮膚の収縮する力で、花のようにめくられた、のではないでしょうか。
でもそのことを気にしていたのは、XXと私だけでした。
ボスも招待客も、切り出されてなお動くXXの性器に驚き、料理長の腕に感嘆の声が出たのです。
新鮮なカニ肉を冷水に入れると花が咲いたように開きますが、同じような趣向と思ったのかもしれません。
207ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 22:52:41 0
XXは、自分の性器がシンプルでなくなり、華やかに開いたことにショックを受けたようだ。
張料理長がXXを抱え起こしました。招待客からどっと歓声がおこりました。料理長の技術と彼女の献身にたいする賞賛です。

料理長が、次に内臓を取ります。XXはここで死にます、と伝えた後、ボスに、どうぞご試食ください、と促しました。
ボスのSは、差し出された皿の上の肉の端を薄く切り落としました。
XXが大きな目を見開いて見入っています。薄赤の身が剥がれました。
ボス、大きく口を開けて、ゆっくりとXXの肉を舌に載せました。
口を閉じ、そのまま十秒、二十秒・・・・。
溶けていく、これは本当に溶けていく、ボスのうめき声。オウゥ、とどよめきます。
上等な牛肉は舌の上で溶ける感じがします。脂肪の融点が低いからでが、
XXの大陰唇の肉もそうなのでしょうか。
ボス、さらに一切れを切り取って、XXの元に来、口に入れてやりました。
XXの喉がゆっくり動いて、噛んでいます。
ボスがXXの耳元で何か囁きました。XXが頷きました。
多分、おいしいだろうとボスが問い、彼女が同意したのでしょう。
最高だ、甘い。早く切り分けて、お客様にお出ししなさい。ボスの宣言に、XXも料理長も安堵した顔です。
208ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 22:55:09 0
XXは元のように、まな板に横たえられました。料理長、彼女の張り詰めた乳房の下に、巨大な包丁を当てます。
XX、胸を反り返らして解体に協力します。私にはものすごく可憐に思えて、涙がでてきました。
助手がXXの左の乳首回りを掴んで引っ張り上げ、料理長が基部に分厚い中華包丁を入れました。
反り返ったXXの小さな声が聞こえました。頑張れ、XX、そんな会場の雰囲気です。
大きな中華包丁が何度か前後に引かれ、形のいい乳房が変形した後に、中華包丁の上に乗りました。
助手が掴んだ手を放すと、XXの乳房はゆっくりと横に広がり、ゆらゆらと震えました。

そのときXXは、まだ完全に意識があったようです。
自分の勤めと考えているのか、右の乳房を返して突き出し、自から料理長が切り取りやすいような形になります。
素早く、右の乳房が離れました。そのまま料理長、彼女の奇麗なお腹の皮をさすって、性器のあったあたりから、
乳房のあった中央にさあっと包丁をとおしました。瞬時に白身の肉が分かれて、内臓が出てきました。
XXもびっくりした顔で見つめています。
なんだかはらはらします。早く殺してあげないとと思う一方で、そんなのは可哀想とも思えて困ります。
料理長は冷静に、内臓の処理を始めました。
すばらしいスピードで要所要所を切断し、助手たちが、湯気の出ている内臓をそれぞれの容器に整理して収めています。
209ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 22:58:12 0
XXの目が静かに閉じられました。何を最後に考えたのか、待って、と問いかける感じで口が動きました。
ボスがXXの性器をロースターの上に置きました。意外に重量感を感じさせます。
ジリジリと音をたてて、XXの肉が焼けていきます。やがて、肉の襞の端、小陰唇の先とか、クリトリスのあたりに、脂がにじんできました。それは意外で、さらりとした淡白な肉から、どんどん脂がにじみ出てきます。
オッという感じで、まわりの者が見入ります。若さだな、ボスがぽつりと声にします。それはみんなが思っていたことでした。

途中で切断された膣の襞から、ぽたりと脂が落ち、火が大きくなりました。肉に火が着きそうになります。
ボスがあわてて息を吹きかけます。XXの性器が悶え始めました。襞のはしばしが、それぞれの方向によじれ、勝手に動き始めます。
にじみ出た脂肪分がそこここで滴っています。
それは火を煽り立てながら、なお絶対着火はさせないという勢いです。
たまりにたまった命を放出してようでもあります。XXはあのとき、さほど痛がったようには見えませんでしたが、
これだけの命を切り出されたのですから、大変だったのだな、そう、いまさら思います。
ものすごく美味しそうです。最高のステーキです。おそらく霜降りの最高級牛肉の何十倍もの細かさでさしが入っています。
柔らかそうで弾力があって幾万の小味に満ち満ちていそうです。縦17,8センチ、横7,8センチ、厚さ4,5センチ。
中央の陰裂から開くように粘膜の内肉が現れ、裏で、恥骨から切断されたクリトリスの根が無煙ロースターの鉄板に触れて震えています。
XXの白い肌が肉塊の中央でおまんこと呼ばれていた部分の形をはっきりと示しています。
紹興酒と血のせいで赤く染まっていたXXの性器が、やや白くなって焼き上がりました。
ボスが丁寧に皿の上に載せます。純粋に美味しそうです。
210ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 23:02:03 0
もともと人の性器は食品なのではないか、そう思います。
それは、もともと人の肝臓が心なのではないか、という感じと対になります。
文革での肉の順番、一が肝臓、二が心臓、その次に性器、というのは相当に精神性の勝った序列です。
さすがに中国は世界の精神文化の一つの中心です。物質中心で考えれば、断然、性器が上です。
今、XXの二つを比較して、確信を持ちました。脂がのったとは、まさに若い女性の性器を焼いたときに使われるべき表現です。
日本人は魚に使いますが、問題にもなりません



XXの願いに忠実なKくんは、パーティの出席者の数人から証言を集めた。
<匿名・男性>
味?私はタンがおいしかった。甲高い声でよくお喋りする舌だったが、あんなに柔らかいのに弾力のあるタンは初めてだったよ。
湯引きして渋皮を剥がしたとXが言っていたが、素晴らしい舌触りだった。
タンは付根の部分が大きくて、その先にちょこんとベロが付いている。
柄にもないことを言えば、ベロの部分は初めてのキッスで、付根の分厚い部分は濃厚な年増女の味だな。
最初むきになって、自分はお金を盗んでないと弁解していたXXを思い出したよ。
嘘を言うと、舌をちょっと噛んで口をとんがらかす娘だった。
一人で生きようとしたら、嘘はもっと上手じゃないとここでは残れない。
あの可愛い舌では、だれもだませないな。だからXXはみんなといっしょに生きることにしたのだよ。
もちろんXXの家族の面倒は見るよ。すでにSさん(注・ボスの名前)がむこうに伝えているはずだ。
211ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 23:05:09 0
<匿名・女性>
どこの肉?料理長がみんなにまんべんなく行き渡るようにしてくれたようですから。
これが腸、これが胃、これが腹身、これが胸肉、と説明付きでいただきました。自分を食べているようでした。
美味しくてよかったと心から思っています。
XXにしてみたら、世界最高と言ってもらわないと合わないでしょうが、確かにこれ以上はない美味しさでした。
お世辞じゃなくて、本当にそうでした。食べながら、XX頑張ったね、と思うと涙が出てきました。
あの娘は結構勝ち気な娘でしたから、歯を食いしばって我慢していましたが、女の大切なところを切り出されたときは痛かったでしょう。
わたしだったら、こんなおばさんなのに、暴れてひっくり返って醜態を演じたでしょう。
もちろんXXのようなきれいな身体ではありませんから、料理長も人前で解体なんかする気にもならないでしょうが。
あの娘は貯金をしてましたよ。家族を呼び寄せるつもりだったようです。
ほんとにわずかな金額なのに、あんまり嬉しそうに話すものですから、どう返事をしていいか困ってしまったことがあります。
こちらのお金とむこうのお金の勘算もまだ分かっていなかったのかもしれません。

あの娘は身体を売るようなタイプじゃないので、こちらでは苦労したでしょうね。
別に恋人がいたわけでもないのに、いまどき珍しい娘でした。SさんはXXを助けようとしたのですよ。
でもXXはくたびれていたらしくて、自分からこうなることを望んだということです。
自分を食べさせたら、自分の希望が叶うと分かったのでしょう。現にボスは、XXの家族を許して
面倒を見ることにしたのです。決めたら、絶対です。かならずそうします。わたしもそうしますよ。
だからXXの肉を噛みしめながら、決意をもって、いただきました。
別にわたしたちは極悪非道の野蛮人ではないのです。きれいごとばかりで絶対的な同盟とか信頼が存在しない、そんな人間ではないのです。
確かに肉を食べるというのはいかにも誤解を招きますよね。それは分かります。でももっと遥かに残酷なことがあふれていますよ、ここには。
212ナレーション(第二層):2009/02/16(月) 23:09:18 0
<匿名・男性>
感想?何にもない。食ったから食われる。それだけのことだ。 XXが可愛い娘だとか、金をくすねたとか、いっさい関係ない。
食ったから食われる。味?俺の母親はもっと美味かったろうと思うよ。 でもこれでおあいこだ。忘れるよ。XXはいい娘だった。
みんなが好きだった。妹だと思っていたよ。

<匿名・女性>
私は目が悪いので、料理長が気を利かせて、スープをつくってくれました。おぼろげにしか見えませんでしたが、
XXさんの大きな目が浮かんでいました。私はもう見えなくてもかまわないのですが、娘や息子がなんとかしたがって。
もちろんその気持ちはありがたいと思っていますが、見えなくてもかまわないという気持ちが、どうしても彼らには分からないのですね。
XXさんはお金を盗んだということですが、お金ならいくらでもあげたのにね。
目も、もし私の目が元気で、若いXXさんの目が病気なら、私の方があげてもよかったのです。逆ですね。
もう見えなくてもいいと思うもの、もう死んでもいいと思うものには、みんなが勝手に余計なことをしてくれる。
XXさんみたいに、一生懸命生きたいと思うと、なんだか邪魔される。私はもし目がよくなっても、もう何も見ませんよ。
XXさんの目をもらっただけで十分です。

もう外の世界をみる必要はないのです。あの娘を内に見つづけます。でも娘や息子のことを怒ってはいませんよ。
他に仕方がないのでしょう。XXさんの目はおいしかったか?そんなことをXXさんが知りたがっていたのですか。
私はもう年ですから、そんなにたくさんはいただけません。XXさんの大きな目は、ふつうならとても食べられません。
でも、死ぬ気でいただきました。むせそうになりましたが、なんとか全部いただけました。
鬼婆みたいだったでしょうね。自分でもそう思います。でもXXさんが可哀想で、そうするしかなかったのです。
残りの目も後で私が食べます。だれにもわたしません。そう息子に言っときました。
いよいよ鬼婆みたいですね。私が両方を食べて、すぐXXさんに届けるつもりです。
あんな若い娘が片目では気の毒でしょう。おいしかったか?自分の生涯を食べたようです。いえ、もう一つありますから、半生ですね。
213714:2009/02/19(木) 17:48:44 0
>>196
>全くひどい話ですよ。死を含めた動物の尊厳が、置き去りです。

ひどいペットショップや悪徳ブリーダーがたくさんいるみたいですね。
そういうひどい商売が成り立ってしまうのは、買う側にも問題あるのでしょう。

最近はやっているチワックスのようなミックス犬は、障害を持って生まれて処分される犬が特に多いようです。
「ミックス犬」という名称からして既に僕はなんだか違和感というか、不自然感を覚えるのですが…
その違和感は、〈生命操作〉に対する違和感だと思います。
人間は果たしてどこまで自然に介入して良いのか? 
これは特に難しい問題ですね。

臓器移植が日本であまり進まないのは、日本人は不自然な事に対する拒否反応が強いからだ
と誰かが書いていましたが、ミックス犬が流行するところをみると、日本人の不自然感も変化しているのでしょうか。

キリスト教の自然観は〈自然を支配せよ〉の自然観だと前に書きましたが、
以前統一教会の人と話した時、その人は、花は人間がそれを見て楽しむために美しく咲いている、
というようなことを言ったので僕は驚きました。自然観がちがうなぁ…と。
そういう自然観だと、生命操作に対する歯止めがかかりにくいだろう、と思いました。

その点で、日本人の自然観、不自然感は、〈歯止め〉としての大事な役割をもつと思います。
214714:2009/02/19(木) 17:49:45 0
>>197
>地球の自浄作用って巧妙ですね。
>人間があせって環境環境叫ばなくても、着実に行動しています。

500万年後とは、気の長い話ですねぇ。
この数百年、数千年で人間とその環境はものすごく変化しているから、
今から千年後だって、どうなっているのか僕は見当もつきません。

「環境環境」と叫ばれる「環境」は、人間にとっての環境だから、
人間がいなくなれば「環境」もなくなるでしょう。
環境問題も人間の都合を中心に考えるところから出てくる問題なのだろうから、
よく目にする〈地球にやさしく!〉みたいな標語は、なんだか嘘っぽい。
企業がそれを商売道具にしているから尚更いやらしいです。
〈私たちが生き続けられる環境を守りましょう〉と素直に言ったほうがずっと良いのに。


>自分に直接関係のある問題に接していくしかないんじゃないでしょうか。

身近な問題が一番大事だと思いますが、それだけだと、〈自分たちさえ良ければ…〉
というエゴイズムと紙一重になりませんか。
その気になればすぐにでもアフリカ難民の所へ行くことも可能だから、
自分に直接関係あるかどうかは、自分の考え方次第で変わります。
そう考えると、僕たちが難民と無関係なままでいるのは、関わらないことを選択しているのだ、とも言えます。

もっと身近なところでも、僕はよく見て見ぬふりをして、関わらないことを選択しています。
たとえば野良猫の子猫が(たぶんお腹を空かして)こちらをじっと見ているような時。
〈なにもしてあげられない。ごめんね。〉と心の中で思います。

(世の中にはもっと行動的な人がいるもので、近所の猫好きのおばさんが、
うちの界隈の野良猫二十匹ぐらいを捕獲、そしてまとめて不妊手術をしてくれました。)
215714:2009/02/19(木) 17:50:55 0
>毎日カンボシアに空輸するべきでしょうかね。または、貧困国を他国が管理する?

世界の経済の歪みを根本的に見直す必要があるんでしょうね。
毎年1千万人近く餓死している一方では、世界人口は毎年9千万人づつ増えています。異常な増え方です。
ネットワーク『地球村』によれば、〈貧困は人口爆発の「原因」ではなく「結果」〉であって、
人口爆発を止めるには〈先進国の自立〉が必要だそうです。
http://www.ecology.or.jp/9712/earth.html


>「それでも生きる子供たちへ」というドキュメント映画は、見ました?
>どんな子供にも、幸せな瞬間はあります。

今youtubeで「桑桑と小猫」だけ見ました。
幸せや不幸は心の内面のことだから、外的な状況からは何とも言えませんね。
どんな子供にも幸せはあると思います。

ただ、自分が関わっていける事柄については、そういう傍観者的見方だけでなく、別の視点も必要になると思います。
極端な例でいえば、子供を虐待している親が「虐待されている子にも幸せはある」と言うのは全くおかしいから。
自分はどうするべきだと思うのか? どういう風に関わりたいのか、あるいは関わりたくないのか?
そういう視点も必要だと思います。
216714:2009/02/19(木) 17:52:02 0
>>199
>だから、家とかこぢんまりした空間で、音源のそばで聴く様に出来てるんじゃないですか?
>耳をそばだててしんねり聴く所に、あたたかみや情緒があるんだし。

そうなんです。オルガンだけでなくて、バッハの時代の楽器全体がそんな感じです。
ロマン派の時代に、楽器の音量が全体的に大きくなって、音色も変化したんですね。
少し前に古楽復興運動が起こって、今ではバッハは古楽器で演奏するのが主流になっています。
狭い空間で、編成も少人数で、音量が小さくて素朴な音色の楽器で演奏されます。
たとえばこれは、カンタータ106番の冒頭部分のヴィオラ・ダ・ガンバとブロックフレーテ(リコーダー)。
ヴィオラ・ダ・ガンバはロマン派時代に一度消滅した楽器です。
http://www.youtube.com/watch?v=6Wy3Lbj8z_c

そういえば、外でバッハを弾いている人もいました。 ヨーヨー・マ。
http://www.youtube.com/watch?v=4HPdRBKixwI&feature=related
こちらは音量の大きい現代のチェロで弾いてますね。


>熱いと思ってたら穏やかな感じなので、なんとなく不思議なんです。

穏やかですよ。熱いものは内に秘めていますw
掲示板の議論はゲームみたいなところがあるから、ほんとうに熱くはならないと思います。
(ほんとうの熱さを知っているのは、惚れた女だけかなあ…ww)

議論する場合は、相手が(理性を失わない程度にw)熱くなってくれた方がおもしろいです。
哲学的立場の対立は、本来はそう簡単に決着がつくものではないので、議論しているうちに
相手の立場にも一理あることを気づかされたり、自分の考えの不備に気づかされたりして、
そうやって思考が深まり、或る地点までくると、論理のつながらない、めまいがするような事柄に突き当たります。
それを何とかして言語化・論理化しようと苦しむ。そういうところが、哲学の醍醐味wですね。
217714:2009/02/19(木) 17:53:25 0
>>200
>「結果に固執しないけど、とことん打ち込む」って事かな。

そうでしょうね。

>例えば、勝負どころでライバルと結果を競わないといけない場面ってあるでしょ?
>そういう時に、「ぜったい負かしてギャフン言わす!」とギラギラ・・なんかしてると、

そうでしょうね。仏教では何事にせよ執着することは良くないとされます。
何かに執着することが、苦を生むと考えられているからでしょう。

内山興正はそれを〈物足りようの思い〉と言っています。
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/uchiyamafc/words/words16.htm
「ギャフン言わす!」という思いも、〈自分自身で安らえず〉〈他との関係において安らおう〉とする思いなのでしょう。

〈自分自身で安らう〉ことを、〈自灯明〉といいます。
釈迦は亡くなる時、これから何を頼りにしたら良いのか心配する弟子に、次のように言ったそうです。
「アーナンダよ、それ故に、自分自身を灯明とし、自分自身をよりどころとするがよい。
他のものにたよってはいけない。 法(真理)を灯明とし、法をよりどころとするがよい。
他のものにたよってはいけない。」(大般涅槃経)

ひろさちや氏によれば、この〈自灯明〉は、〈他人のことはほっとけ!〉ということだそうですw
〈自分自身で安らう〉ことができないから、他人を気にし、他人と比較してしまうんでしょうね。
218714:2009/02/19(木) 17:54:53 0
>>201
>彼の中で、妹の支配に対する、処理できない悪感情が相当あったことが分かりますし、
>エリザベート×ニーチェ×パウル×サロメのドロドロ関係の中で、首をしめられ、
>ニーチェのモラルが憤死寸前だった為、「善悪の彼岸」を書いた、とも読めます。

妹との関係がニーチェの思想にどう影響したのか、僕には分かりませんが…
エリザベートといえば僕はなぜかこれを思い出しますw
http://www.youtube.com/watch?v=BbS6kAMP3Bs&feature=related


ニーチェの思想に大きな影響を持ったのは、なんといってもキリスト教ですね。
「善悪の彼岸」の「善悪」も、キリスト教道徳における善悪を指しています。
だから「善悪の彼岸」は、キリスト教道徳を批判解体して、「キリスト教道徳の彼方へ!」ということです。

ニーチェがキリスト教道徳の批判にそれほどこだわったのは、キリスト教道徳が、
〈生〉の持つ創造的な力の根源を弱めてしまっていると考えたからです。

ではニーチェは「キリスト教道徳の彼方」の、どこへ行こうとしたのか…

「次のように語る者は自己自身を発見した者である。すなわち、これは私の善と悪だ、と。
彼はこう言うことによって、『万人にとっての善、万人にとっての悪』などと言う
モグラとコビトを沈黙させたのだ。」(ツァラトゥストラ)

キリスト教道徳によって弱められていた創造的な力を解放することによって、
ニーチェは、〈新たな価値の創造〉という方向へ向かおうとしたのでしょう。

(〈自己自身を発見する〉という点は、〈自灯明〉〈他人のことはほっとけ!〉に通じますね。)
219みうん:2009/02/22(日) 12:00:08 0
>>213 714さん

>臓器移植が日本であまり進まないのは、日本人は不自然な事に対する拒否反応が強いからだ
>と誰かが書いていましたが、ミックス犬が流行するところをみると、日本人の不自然感も変化しているのでしょうか。
人間って、自然に介入したがる習性の生き物なんじゃないですか。
自然を加工して文化的行為をする動物って、他にもいるしね。
ただ、人間は数が多いから、活動が大掛かりなものになって、
そのぶん環境が過酷になったりして、禁忌を覚え、倫理も考える訳ですよね。
どこまで介入できるかは、環境が過酷になるかならないかの境が決めるでしょう。

ニュースで結構、無関係な他人の受精卵を植えられて中絶したとか、
点滴に異物が混じったまま数十人に使われて病人が出たとか、
ほんとだったら生理的に拒絶したい様な内容がさらさら流れちゃってて、
見る側も、情報を楽しんでるだけだからと不感症になってるでしょう。
これは、自然観とか行動をずれさせますよね。

ごはんのときは、ニュースをつけっぱなしにしないとか、意外に大事だと思います。
220考える名無しさん:2009/02/22(日) 12:00:57 0
>>214

>身近な問題が一番大事だと思いますが、それだけだと、〈自分たちさえ良ければ…〉
>というエゴイズムと紙一重になりませんか。
難しい問題ですよ。。
エゴイズムという点で見ると、
物質で溢れかえって、ちょっとでも痛めばすぐ病院で薬をもらう生活だけが幸せ、
そうでなければ不幸「なハズ」だから、
何か恵んで自分たちに似た生活をさせ、幸せにして上げよう・・・
なんていうのは、資本主義の暴走でしょう?

世界の協約で、「民族自決」というのが、あるんですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/民族自決
221考える名無しさん:2009/02/22(日) 12:01:38 0
つづき)
人の苦しみをとりのぞきたい、無私な奉仕をしたい、という気持ちには共感します。
「良心はエゴイズムを体裁よくしたもの」「奉仕は自己愛から抜け出せない」
なんてうがった見方をする哲学者もいますけど、こういうのは、
人間の営みをすべて「所詮脳内」で片付けようとする類いの詭弁で、思考停止の前兆でしょう。
少なくとも「良心」を前に当惑して何かものを言い切れない態度です。

他者に献身しようとする働きかけがもたらす、あたたかな体験の共有と、
その一体感の中で得られる喜びがストレスを下げ、意欲を上げて、
すっきりした感謝の情に守られた張りのある生活を、
いかに多くの人間間で交差させ、連鎖させうるか、
みたいなことを心に留めて生活すれば、行動は補正されていくし、
どこか遠くの、本当に苦しんでいるのかも不明な人の責任を全部背負って、
関係妄想めいた罪悪感を覚えて悲哀にくれるとか、
そういう妙な気分に立ち止まらずにいれんるんじゃないでしょうか?
222みうん:2009/02/22(日) 12:02:37 0
>>215

>ただ、自分が関わっていける事柄については、そういう傍観者的見方だけでなく、別の視点も必要になると思います。
>極端な例でいえば、子供を虐待している親が「虐待されている子にも幸せはある」と言うのは全くおかしいから。
>自分はどうするべきだと思うのか? どういう風に関わりたいのか、あるいは関わりたくないのか?

子供の幸せに関しては、民族自決というニュアンスをからめて言ったので、
傍観者的立場をとるのがいいという事ではないですよ。

虐待というのは、エリート養成を理想にしている人が、
エリートを作らなそうな親の教育に対して使う言葉じゃないですか?
体罰→「子供の頭を一回叩くと、脳細胞が500個壊れるからよくない」
英才教育→「4、5歳児に問題集ばかりやらせると、思考が固定化してよくない」
性的事故→「子供をレイプすると、トラウマから問題行動をおこすのでよくない」
あんまりこの言葉が一般化しすぎると、
「エリートと、そうなりたくてもなれなかった人」に社会を二分する発想に、
日本人が凝り固まってしまって、格差格差とパニックを起こすようになるかも。

困難な時期を経験させて、子供の精神をつちかいたい、と、もし親が言うのなら、
多少気になるしつけの場にも、介入はできないと思います。
しつけと称して親のエゴ丸出しなら話は別ですけどね。

実際、親にいじめられまくってきたヤンキーが親になって、過去を省み、
PTAで理性の人としてあれこれ手を尽くして回るパターンが多いそうです。
子供がどう間違っていくかを知ってるから、人をフォローできるんですよね。
223みうん:2009/02/22(日) 12:05:00 0
>>216

楽器のこともあるし、それと、バッハの時代って平均律がまだなくて、
バッハは独自の音階をもってたみたいですね。
私は数学が苦手で、、楽譜も一応読めるかな〜程度なので、入り込みづらいけど、
奥が深そうですね。

>・・・それを何とかして言語化・論理化しようと苦しむ。そういうところが、哲学の醍醐味wですね。
単に議論についてノウハウがあるだけじゃなくて、哲学までつなげてるんですね。
人が与えてくれた問いの中で、新しい自由を掴めることもありますし、
それを言葉にしてみる快楽は、他ではえられませんね。
議論をしていると、「その読み、その考え自体が間違いだ〜」みたいな
意味のないやりとりになることもあるのか、よく分からないけど、
714さんは考えを曲げることはないし、そのまま話してくれていいですよ。
私も、言葉をあれこれ試して、妙な文章を書く時があるけど、
からかってる訳ではないです。
224みうん:2009/02/22(日) 12:05:33 0
>>217
なるほど〜。
ギラギラしてると、こうしなければならない結果に固執して苦しいし、
自分でも咀嚼できない様な劣等感を人に押し付けようとする姿勢が、醜いですね。

自分自身をよりどころにする、という考え方は。
差異の中で自分自身を研磨して芯にある輝きをどうこう、みたいなマッチョ志向と違って、
誰にでも、ふくよかで個性溢れる特質づくりを促してくれる様な柔和さがあります。

苦しみのことでちょっとよくわかんないんですけど、
ニーチェは苦しみについて、苦しみに耽溺した先の快楽を賞賛していて、
仏教思想ではよしとされない思考をもっています。
けどニーチェは、罪をあがなう苦しみを美徳とするキリスト教を批判、で
苦しみを緩和させる仏教をほめあげてますよね?ナンカ矛盾してませんか?
彼のそういう矛盾は、味なんですかね。
225みうん:2009/02/22(日) 12:06:13 0
>>218
>エリザベートといえば僕はなぜかこれを思い出しますw
ニーチェポップってネーミングが軽過ぎてうけるw
「一粒食べれば独裁者」というありえなさが、国民意識をくすぐってますね。

エリザベートは、愛してくれないフリッツ兄さんへのあてつけで、
反ユダヤ主義の有名人と無理矢理結婚しちゃったんじゃないですかね。
話題を集めるだけ集めておいて、そのすぐ後別れちゃってるし。
ニーチェは、そんな妹の存在を否定はせず、
彼女を兄の支配に駆り立てたモラル意識の土壌にあるキリスト教的戒律を
どうにかしよう、と、考えたのかも知れません。
妹は、不気味なシステムの奴隷で被害者ということにしたかったのかなぁ。
だとすると、すごく優しいお兄さんですよね。

ただでさえ確執のある家族を受け入れ、救済する為に、
社会システムの不備をきょうだんして思想をうちたてるなんて、
なかなかできないですよ。

妹との関係に弱さが見えるとは書いてみたけど、
その関係から一歩引いて、創作に向かう過程には、落ち着いた愛と強さがあります。
226714:2009/02/26(木) 10:31:36 0
>>219
>人間って、自然に介入したがる習性の生き物なんじゃないですか。

そうですね。「自然」と「人間」を対立的に見れば、人間の行為は全て自然への介入ですね。

もっと「自然」という概念を大きく捉えて、人間も自然の内に含まれると考えれば、
人間の行為も全部「自然」の内に含まれることになり、「不自然」であるという事もなくなるはずですが、
それは無理ですね。どうしても「不自然感」を覚える場合はあると思います。
なんでだろう。 どうしても「自然」と「人間」を対立的に見るクセがついているのかな。

>どこまで介入できるかは、環境が過酷になるかならないかの境が決めるでしょう。

生命操作の場合、たとえば、日本でも遺伝子治療が始まりました。
今のところ、〈「治療」を目的とすること、つまり異常な状態を正常な状態に近づける
ための措置であり、積極的な人体改造ではないこと〉などいくつかの倫理基準の常識が
あるみたいですが、〈異常〉と〈正常〉の境目を決めることなんてできないだろうから、
あやしい基準ですね。
また、将来は選択的妊娠中絶が激増して、遺伝的に〈優れた子〉だけを産むようになり、
ナチズムの優生主義が復活する危険性も指摘されているようです。

技術の進歩によって、判断の困難な問題がたくさんでてきます。

臓器移植の場合は、将来技術が進んで、たとえば脳死者の首から下を全部付け替えることが
できるようになったら(理論的に可能なのかどうか僕は知りませんが)どうでしょうか。
首から上と下を付け替えるのは、いくらなんでも「不自然」だ(僕の感覚では)
227714:2009/02/26(木) 10:32:46 0
>>220
>何か恵んで自分たちに似た生活をさせ、幸せにして上げよう・・・
>なんていうのは、資本主義の暴走でしょう?

そうですね。でもそういう素朴な考え方をする人は、たぶん多くはないと思います。
もうだいぶ前から、物質的な豊かさが本当の豊かさなのかどうかに疑問が呈され、
『豊かさとは何か?』がベストセラーになり、また、価値観が多様化していることも
一般的に認識されていると思うので。

それに、餓死者が多数出てしまう状況は、幸せか不幸かという以前の〈生存権〉の問題でしょう。
生きていなければ、幸せも不幸もないから。
国民の3分の1以上が飢餓状態にある国が、今は20ヶ国ぐらいあるそうです。

>世界の協約で、「民族自決」というのが、あるんですよ。

民族自決というのは、抑圧・搾取されていた民族のための権利として生じてきたものだろうから、
この話とは、ちょっと文脈が違うんじゃないかと思いますが、
もし「民族自決」を拡大解釈して、〈他民族の干渉を認めない〉という点だけを強調するとすれば、
先進国は、途上国から資源や食物を輸入することをやめなければならないでしょう。
先進国で暮らす人たちの生活が、既に輸入という形で途上国に〈干渉〉しているのだから。
その関わり方が途上国の貧困を生みだしているとすれば尚更です。
http://www.chikyumura.org/environmental/didyouknow/2008/12/05-102609.html

僕たちの生活様式と、途上国における餓死との間には、〈風が吹けば桶屋が儲かる〉よりも
もっと明確な因果関係があるのだろうと思います。
228714:2009/02/26(木) 10:33:40 0
そのような比較的直接的な関係だけでなく、間接的な影響も含めて考えれば、
世界の中には孤立したものはなく、全てのものが全てのものに影響を与えていると考えられます。
世界内に存在するA,B,C,D,E,F,G,H,… の中のCの存在は、C以外のA,B,D,E,F,G,H,…の全てに何らかの
影響を及ぼしており、逆に見れば、Cは、C以外のA,B,D,E,F,G,H,…の全てによって支えられて存在している。
仏教の〈縁起〉思想は、そのように、全てのものが相互依存し合うことによって存在していると考えます。

〈友よ、たとえば、ここに、二つの葦束があるとするがよい。それら二つの葦束は、
相依っているとき、立っていることができる。それとおなじように、これがあるから、かれがあるのであり、
かれがあるから、これがあるのである。
だが、もし、その二つの葦束のうち、一つの葦束を取り去れば、他の葦束もまた倒れるだろう。
それとおなじく、これがなければ、かれはないのであり、かれがなければ、これもまたないのである。〉

これは二つの葦束の相互依存について書かれていますが、相互依存性は二つのものだけについて言えるのではなく、
全てのものが全てのものに対して重層的に関係し合います。そのような重層性を示す喩えに、鏡の喩えがあります。

〈一つのろうそくを真中にして、多くの鏡を設置する。ろうそくに火を灯すとともに、すべての鏡が
その火を映して輝きだす。それと同時に一つ一つの鏡に映る火が、他のすべての鏡に映り、各々の鏡が、
すべての鏡に映った火をかぎりなく映していく。その限りなく続く相互作用の連関が、縁起する世界である。〉

龍樹(ナーガールジュナ)は、〈空〉を〈縁起〉によって説明することで、大乗仏教の基礎を築きました。
〈縁起〉は〈空〉とともに仏教の根本思想になっています。
229714:2009/02/26(木) 10:35:30 0
>>221
>人の苦しみをとりのぞきたい、無私な奉仕をしたい、という気持ちには共感します。

ん…。僕が書いたのは、それとは少し視点が違いますけどね。
〈不条理な死〉という話の流れで、そういう不条理に対して〈無力〉であること、
というような視点で書きました。

>どこか遠くの、本当に苦しんでいるのかも不明な人の責任を全部背負って、
>関係妄想めいた罪悪感を覚えて悲哀にくれるとか、
>そういう妙な気分に立ち止まらずにいれんるんじゃないでしょうか?

責任や罪悪感を覚えるということの前に、まず
あるがまま(不条理)をあるがままに見る、という姿勢がなければならないと思うんです。
たぶん、毎日2万5千人も餓死しているという事実を知らない人が、たくさんいると思います。
メディアは視聴者が知りたがらないことをあまり報道しませんからね。

今から40年後には人口は100億人になる見通しで、明らかに破綻に向かっていると思われることも。
人口爆発をくい止めることについては、世界的な合意ができているけれども
あまり効果があらわれないのは、1人1人の人間に事実認識と問題意識が欠けているからだと思います。

現代文明は〈死を忘れた文明〉であると梅原猛が言ったように、
現代文明は、あるがままをあるがままに見る姿勢が欠けているように思います。
仏教の〈八正道〉の最初にある〈正見〉(正しく見ること)は、大事なことだと思います。
230714:2009/02/26(木) 10:36:40 0
>>222
>虐待というのは、エリート養成を理想にしている人が、
>エリートを作らなそうな親の教育に対して使う言葉じゃないですか?

〈エリート〉と〈虐待〉ですか??
僕が書いたのは、「児童虐待防止法」に書かれているような普通(?)の〈虐待〉です。
〈虐待〉にあたるかどうかを判断するのは人間だから、解釈はいろいろになるでしょうが、
〈虐待〉の定義は「防止法」に書かれています。


>困難な時期を経験させて、子供の精神をつちかいたい、と、もし親が言うのなら、
>多少気になるしつけの場にも、介入はできないと思います。

それも難しいですね。
親としての個人の権利(自己決定権)は、ときには共同体の意志によって制約されます。
「児童虐待防止法」では、虐待を発見した者は通告する義務があると定められてます。

「児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに、これを市町村、都道府県の
設置する福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して市町村、都道府県の設置する
福祉事務所若しくは児童相談所に通告しなければならない。」

アメリカなんかと違って、日本では〈子供は社会で育てるもの〉という意識が希薄なので、
虐待が発覚しにくいそうです。
最近はよその家の子供を叱るオジサンがいなくなったと言われているから、
〈子供は社会で育てるもの〉という意識が、ますます希薄になっているのかも知れません。

親の社会的な孤立が虐待の要因になる場合が多いようなので
http://www.ccap.or.jp/01/1what-abuse.html
もっと積極的に介入して良いと僕は思います。
もしそれが親としての教育方針であるのなら、その時にそれを話し合えばいいんですよ。
筋が通っていれば、親の自己決定権が認められるでしょう。
231714:2009/02/26(木) 10:38:20 0
>>224
>ニーチェは苦しみについて、苦しみに耽溺した先の快楽を賞賛していて、
>仏教思想ではよしとされない思考をもっています。
>けどニーチェは、罪をあがなう苦しみを美徳とするキリスト教を批判、で
>苦しみを緩和させる仏教をほめあげてますよね?ナンカ矛盾してませんか?

苦しみに対する態度という点で、ニーチェの考え方と、キリスト教の考え方と
仏教の考え方は、はっきりとした違いがあると思います。
(キリスト教と仏教は、あくまでニーチェが見たキリスト教と仏教であって
僕はその見方が正しいとは思いません。)

まずニーチェ自身の態度は、「苦しみに耽溺した先の快楽を賞賛」するというよりも、
快楽も苦しみも、生存に必然的に伴う不可欠な要素として、そのまま肯定するという態度です。

それに対してキリスト教は、苦しみを、原罪に対する罰として解釈し、現世で苦しんで
罪をあがなうことによって天国に入るという考え方なので、ニーチェによればそれは、
現実世界を天国という虚構のための単なる通路のように見なして現実世界の価値を貶めてしまう欺瞞です。

ニーチェはキリスト教と比べて仏教を高く評価しますが、苦しみへの態度という点では仏教を批判します。
ニーチェは仏教の〈涅槃〉を〈無〉と解釈しました。そして〈輪廻からの解脱〉を〈無への憧れ〉と解釈し、
苦しみからの〈逃避〉と解釈しました。その点でニーチェは仏教も〈デカダンス宗教〉であるとしています。

ニーチェは〈永劫回帰〉を〈仏教のヨーロッパ的形態〉と書き、それには〈無への終末もない〉と書いています。
つまり仏教が〈輪廻からの解脱〉(逃避)であるのに対して、ニーチェは〈永劫回帰を欲する〉ということです。
〈永劫回帰〉は、快楽も苦しみも必然的に伴う現実世界が永劫に回帰することです。
232みうん:2009/03/01(日) 13:39:54 0
>>226 714さん
>いくつかの倫理基準の常識があるみたいですが、・・・
例えば、遺伝子の検査を受けて、発がんリスクが50%、こういう異常があります、
と情報だけ与えられてその後放置だと、発症までの人生は潜伏期間扱いになりますね。
遺伝子差別にさらされる危険もあります。
だから、治療可能な病気以外の遺伝情報は伏せるとか、告知のタイミングとか、
リスク回避のためのケアを整備してから、遺伝子治療に踏み切るべきですね。

>〈異常〉と〈正常〉の境目
人が病院で治療を求めた段階で異常、それ以前は正常、という基準がありますよ。

・ ・・それにしても、遺伝子が流動化して、
個人を証明するアイデンティティとは言えない時代になったんですね。
そうなると、「私」とは、心の有り様なのかな、「意識」でくくるのはがさつだし。
でも心は、世界に対して受動的で、外界と分ちがたいから、
散らばってしまった機械の部品を探す様に、辺り中を観察するべきなのか、
なんて風にも思ったりします。
233みうん:2009/03/01(日) 13:41:05 0
>>227
>餓死者が多数出てしまう状況は、幸せか不幸かという以前の〈生存権〉の問題
生存権って、ドイツと日本だけでしょう。
自分とこの基準枠を他国に当てはめるのはちょっとどうかな。
それぞれの国で死生観て違う訳だし。

>民族自決というのは、抑圧・搾取されていた民族のための権利として生じてきたものだろうから、・・・
民族自決は、要するに「自国の事は国民が決める」という平和協約で、
搾取されてる国かする国かは関係ないですよ。
だから、アメリカが「世界の警察」なんてあちこち干渉するのは間違いなんです。
また、輸出入の商売と、紛争問題は別口での問題です。

食べる分だけ作物を作って、おとなしくのんびり暮らし、
音楽に、動物とのふれあってきた伝統を映しながら愛してきた、
そういうアフリカの人々を経済格差に巻き込んで、
苦しんでる瞬間だけ報道して、あれはあわれだ、そうでもない、と
享楽じみた叫び声を上げて発散するのが、資本主義社会の滑稽さじゃないんでしょうか。
なんて。

アフリカの話題になったので、最近花がついてきたサボテンの写真おいときます。
もう春ですね〜、春、春。 (*´∀`*)ノ・゜゚・*:.。..。.:*
http://imepita.jp/20090228/296530
234みうん:2009/03/01(日) 13:41:39 0
>>228
鏡のたとえは綺麗ですね^^家で、スタンドの後ろに多面の鏡置いてますよ。
面白い効果が出ますよ。

炎をブラフマン、鏡をアートマンと解釈すると、人の心に認識される世界の奥深さに
気づかされる気もします。
お坊さんが見たろうそくも鏡も、コンテンポラリーアートの作品じゃないんでしょうが、
ほんの些細な小物たちの間に、真理が無造作に置かれていたりしますね。

>>231
なるほど。クッキリ違いますね。

デカダンな仏教ってのも何か面白いですね。
ちょっとずれますが、
デカダン作家の澁澤龍彦を読んでるんです。仏教の天人の性について、面白い事書いてますよ。
「地上に住む地居天は、まだ人間と大して変わらず、人間の様に性器を挿入するが、
ただし精液は出ず、風が洩れ出る。
ところが、それより上の夜摩天になると、相手を軽く抱くだけで、すでに性欲は満たされている。
兜率天は相手の手を握るだけである。化楽天は微笑し合うだけである。
他化自在天は見つめ合うだけである。」
位が上がるに連れて、性欲自体が抽象化されてくるんですね。ほんとに神韻縹渺とした趣です。

輪廻を解脱して、己の振る舞いに遊びを加えていく過程で、衆人がランクアップしたり、
するのかな〜。
235みうん:2009/03/01(日) 13:42:18 0
>>229
>現代文明は〈死を忘れた文明〉である
誰か身内が亡くなっても、子供には目の毒だから、と、
お通夜にもお葬式にも、火葬にも立ち会わせない家が多いみたいです。
私は、祖母に兄弟が多くて、今まで十回くらい死の現場を見ましたよ。
死体を見た事ない人って結構いるんですね!
あんまりにも死に触れてなくて、
どうしたら人が死ぬのか分からない状況に、色々条件づけが重なって、
ムカついたから同級生のみぞおちをカッターで一突きみたいな、
変な子供が増えちゃうんじゃないですかね。

>毎日2万5千人も餓死しているという事実を知らない人が、たくさんいると思います。
よく、年配の人に「あなたは空腹は知ってても、飢えは知らないでしょ」
て言われます。ダイエットで六日断食したと話すと、一応驚くものの、
「食べ物がいくらでもあって、美容のためにがまんするのと、
食べたいのに食べ物が全くなくて、“ひもじい”のは違うよ〜」と笑われます。
問題意識のベースになる経験知ってものが決定的に欠けてるんですよ。
だから、リアリティを感じないんです。。。
236みうん:2009/03/01(日) 13:43:14 0
>>230
>〈エリート〉と〈虐待〉ですか??
ちょっと言葉をひっくり返したくなっただけなんですけどねw

>「児童虐待防止法」では、虐待を発見した者は通告する義務があると定められてます。
移民を法でつなぎとめて、法が頼りのアメリカと違って、
日本って、「なぁなぁ」、人情とか暗黙の了解の世界じゃないですか。
万人のための法ではあっても、「うちはうち、よそはよそ」と穢れの意識は、
日本人から取り払えませんよ。そこに法をかざすと、不均衡が起きて、
「法を盾によその事情に割り込むいぎたなさ」への違和感が出てきます。
どこかでおりあいをつけないとね。

これは、黒い心理学ですけど、
暴力に、マイルドな愛情表現を小出しにする等、ふたつをあわせワザで使うと、
相手は戸惑った後、恐怖で強化された幻影の愛の虜になり、服従します。
こういうことをやるろくでもない親の子供に運悪く生まれちゃうと、
閉塞された環境で洗脳されることになるから、当分の間、被害を認識できません。
思い切って法に訴えなくても、周りの大人が機を見て子供に助け舟を出して、
知恵をつけさせ、リスク回避をするコツを掴ませるのが大事ですよ。
237714:2009/03/05(木) 13:25:54 0
>>232
>人が病院で治療を求めた段階で異常、それ以前は正常、という基準がありますよ。

遺伝子治療における〈正常〉〈異常〉は、遺伝子レベルでの〈正常〉〈異常〉のようですよ。
遺伝子治療に関するサイトを見ていたら、当たり前のことのように、
〈異常遺伝子〉〈正常遺伝子〉という書き方がされているので、変だなぁと思ったんです。
慈恵医大のこのサイトは『異常な遺伝子』『正常な遺伝子』とカギ括弧を付けているからまだ良心的です。
http://www.akiba.gr.jp/tcp/gene.htm#遺伝子治療とは

もう少し調べてみたら、やっぱりねぇと思う記述がありました。
http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/print/sec01/ch002/ch002b.html
「特定の遺伝子が『異常』かどうかは、解釈の問題になる場合もあります。たとえば、鎌状赤血球の遺伝子は病気
(鎌状赤血球貧血)の原因となりますが、マラリアに対する防御能力も与えてくれます。したがって、異常と
呼ばれるこの遺伝子も、世界の一部の地域では病気から体を守るのに非常に役に立つといえるのです。」

もっと根本的なことをいえば、病気は〈異常〉なのか?という疑問もあります。
病気になって死ぬのは人間の普通の在り方だから、
そこに〈異常〉とか〈正常〉という概念を持ち込むのはおかしい感じがします。
それは病気や死をネガティブなものとしてだけ見る傾向をますます強めてしまいそうだし。
238714:2009/03/05(木) 13:26:40 0
>そうなると、「私」とは、心の有り様なのかな、「意識」でくくるのはがさつだし。
>でも心は、世界に対して受動的で、外界と分ちがたいから、
>散らばってしまった機械の部品を探す様に、辺り中を観察するべきなのか、

普段自分で「私」と思っている「私」は、始めからあったものではなくて、
外界との関係によって結果的にできてきたものだと思います。
親に対しては「子」であり、妻に対しては「夫」、上司に対しては「ダメ部下」、などなど…
そういう外部との関係における役割が総合された結果としてできてきたものだと思います。
だから「辺り中を観察」すれば、ある程度は「私」が見えてくるだろうし、
反対に「私」を観察すれば、周りの世界が見えてくるかも知れませんね。


この前書いた〈自灯明〉の自己は、そういう「私」よりももっと根源的なものです。
例えば道元のいう〈非思量的自己〉のような。
内山興正によればこれは、〈思っても思わなくてもなお在る自己〉。
思わなくても在る道元の〈非思量的自己〉は、デカルト〜カント〜フッサールが〈我〉を、
〈思う〉という意識を中心に考えたのとは対照的です。
239714:2009/03/05(木) 13:28:05 0
>>233
>生存権って、ドイツと日本だけでしょう。

〈国際人権規約〉(締約国153)があるし、
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/index.html
児童については〈子どもの権利条約〉(締約国193)がありますよ。
http://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_rig.html
(第6条 締約国は、すべての児童が生命に対する固有の権利を有することを認める。
締約国は、児童の生存及び発達を可能な最大限の範囲において確保する。)

>民族自決は、要するに「自国の事は国民が決める」という平和協約で、

餓死者の多い国は、餓死者を多く出すことを選択しているわけではないだろうし、
貧しさを選択しているわけでもないと思うので、そのことと〈民族自決〉が
どうつながるのか、よく分からないですが…  どうつながるの??

>だから、アメリカが「世界の警察」なんてあちこち干渉するのは間違いなんです。

アメリカのやり方については、僕もそう思います。
ただ、自決という観点から見れば、アメリカにも自決権があるわけで、
そして、アメリカがアフガニスタンやイラクなどの国に干渉するのは、
アメリカがそれらの国に自決権(自己決定能力)がないと見なしているからでしょう。

〈自己決定〉と〈干渉〉の葛藤は、国や民族だけでなく個人にも同じように生じますね。
外からの干渉を拒んで自由に自己決定できるためには〈自律〉できていなければならないんだけど、
たとえば中学や高校で校則が厳しいところが多いのは、中学生や高校生は自律できていないから、
彼らには自己決定能力がなく、外からの束縛(干渉)が必要だと見なされるからでしょう。
240714:2009/03/05(木) 13:29:10 0
>アフリカの話題になったので、最近花がついてきたサボテンの写真おいときます。

絵のような、幻想的な写真ですね。

>>234
>鏡のたとえは綺麗ですね^^家で、スタンドの後ろに多面の鏡置いてますよ。
>面白い効果が出ますよ。

2枚の鏡がお互いを無限に映し合うのは、めまいのするような不思議な魅力があります。
〈無限〉という事には、どこか理性では理解できないところがあると思います。
宇宙は無限であるといっても、無限の〈外〉はどうなってるの?と子供の頃思いました(いまだに謎ですがw)


>>231
>位が上がるに連れて、性欲自体が抽象化されてくるんですね。ほんとに神韻縹渺とした趣です。

性欲があるのに、位が上がるに連れてそれが肉体的でなくなっていくのは、
仏教の心身一如の考え方にはそぐわない感じがします。
どうせ欲があるのなら、見つめ合うだけで性欲が満たされる他化自在天より、
仙術で飛行中に、川辺で洗濯する女の脚に見とれて墜落した久米仙人のほうがいいw

仏教は幅広くていろんな考え方がありますが、欲望についての仏教の考え方は、
極端なことを避ける〈中道〉が基本だと思います。
〈少欲知足〉とよくいいます。〈無欲〉ではなく〈少欲〉。
極端な禁欲は〈中道〉から外れます。
欲望ももともとは生命力の根源から生じているはずのものだから、
単に欲望を滅しようとするという態度は、生命力そのものを損なってしまう。
欲望を滅したところに悟りがあるのではなく、〈煩悩即菩提〉。
煩悩を離れて菩提はない、といわれます。
241714:2009/03/05(木) 13:30:25 0
>>235
>誰か身内が亡くなっても、子供には目の毒だから、と、
>お通夜にもお葬式にも、火葬にも立ち会わせない家が多いみたいです。

そうなんですか。それはとても変ですねぇ。〈不自然〉だと思います。

死を忘れた文明の日本の中でも、田舎のほうでは昔からの風習が残っている所もありますね。
東北地方で知人のおばあちゃんが亡くなる時に居合わせたことがありました。
亡くなろうとしている人の枕元に、親戚でもない近所の人たちが何人か座って
世間話をしていました。入れ替わり立ちかわり…
かわった風習だなぁと思いました。
お葬式も、近所の人たち総がかりで、お祭りのようでした。

>あんまりにも死に触れてなくて、
>どうしたら人が死ぬのか分からない状況に、色々条件づけが重なって、

自然に触れる機会も少なくなっているだろうから、
昆虫を殺したりすることも少なくなっているかも知れませんね。
子供は残酷なところがあって、よく昆虫をなぶり殺したりします。
子供の頃、僕は捕まえた蜂を透明なプラスチックのコップに入れて、
それを針で刺していたことがありました。
(大人がそれをやっていたら、ものすごく不気味な光景です…)
その時、滅多に怒らない父に本気で怒られたので、その蜂のことを鮮明に覚えています。

うちの猫は、よくヤモリやリスを捕まえてきて弄んでいました。
鳩をくわえてきたこともありますw
242714:2009/03/05(木) 13:31:09 0
>>236
>こういうことをやるろくでもない親の子供に運悪く生まれちゃうと、
>閉塞された環境で洗脳されることになるから、当分の間、被害を認識できません。

「ろくでもない親」が自分を「ろくでもない親」として認識していれば良いですが、
ろくでもない親に限って、そういう認識が決定的に欠けていますw
だから、そこにも〈自己決定権〉と他からの〈干渉〉という葛藤が生じます。

その「ろくでもない親」に自己決定権があるのかないのか、他からの干渉が
必要なのかどうか、その判断はどっちみち難しいですが、指標としての
明文化された法があったほうが良いと思われるから法ができたのでしょうね。

>思い切って法に訴えなくても、周りの大人が機を見て子供に助け舟を出して、
>知恵をつけさせ、リスク回避をするコツを掴ませるのが大事ですよ。

昔はそれができたんだろうけど、核家族化、母子カプセル化が進行して、
それが今はできにくくなったんでしょう。
僕の身近にも、摂食障害のような病をもつ人がとても多いのですが、
それはそういう社会状況の変化と緊密に結びついていると思います。
摂食障害は1980年代から急増したそうです。
これは虐待とは別のことですが、関連していると思います。
243みうん:2009/03/06(金) 17:37:15 0
>>237 714さん
>病気になって死ぬのは、人間の普通のあり方
根本的な幸不幸にてらして、人間をありのまま観察すれば、
病気になる、死を迎えるなんかの変容状態も、
それほどかまえずに受け止めれそうですよね。

「ありのまま」が大切だと思います。
お医者さんにも、病院に来る人の生活様式も見ずに病名でラベリングして
機械的に処置する事に抵抗を感じている人が多い様です。
Wikipediaの病気チェックリストにも見られる様な、
身体機能のチャート化は、アメリカ式の発想ですが、
これからは改善されていくでしょう。
244みうん:2009/03/06(金) 17:38:02 0
>>238
西田哲学を少し読んでみると、、、
純粋体験の前段階として、「私」の領域がないと自覚するのが肝心・・・
と書いてあります。ちょっと厳しいです。
ドゥルーズも言う、「断層」のエレメントしての「私」に近いのかな。
綺麗な世界観だけど、私はゼリー寄せの具じゃないので・・・w

静かな日に、肌で空気をかんじて、世界との融和性を楽しむ時はあっても、
そのときに私はやっぱりそこにいるし、そうしていない時でも、私はあるし。

>例えば道元のいう〈非思量的自己〉のような。
これは好きな感じの考え方です。教えてくれてありがとう!
考えなくても、身体がすでに世界に応答している様を、
「兀兀地思量什麼」って言うんですね。
なかば自動的な、外界との沈黙の対話と言う所でしょう。
245みうん:2009/03/06(金) 17:38:34 0
>>239
どうも、文化的援助は、政治的介入にはならないらしくて、
やっぱ民族自決は直接関係なかったですねwごめんなさい。
なんか、頑張って引っぱっちゃいました。恥ずかしいな〜。

アフリカに産業が根付かないで、
安易で危険な、木材の伐採とかコカイン作りしてるのが問題なんですよね。
ほとんど人が要らないから、学校を出た子供の多くが機関銃をもつ羽目になります。

風力発電装置を砂漠に点々と置いてけばいいし、
サンドオイルを掘り出してもいいし、
土地のインテリア、布製品も産業になるでしょう。

企業を立ち上げればいいけど、まだ手を出す人がいないですね。
246みうん:2009/03/06(金) 17:39:12 0
>>240
>宇宙は無限であるといっても、無限の〈外〉はどうなってるの?と子供の頃思いました(いまだに謎ですがw)
私は、子供のとき、
みんなが時間も空間も超えて自由な存在になったらどんなになるのかな〜
とかんがえて、とうとう答えが出なかった事がありますよ。

>どうせ欲があるのなら、見つめ合うだけで性欲が満たされる他化自在天より、
>仙術で飛行中に、川辺で洗濯する女の脚に見とれて墜落した久米仙人のほうがいいw

別のベクトルで、
ゴルゴ13はガンガンにセックスしても、絶対射精しないんですよ。
仏教では、こういう境地をなんていうんでしょうね?

しかし久米仙人の話はいいなあ〜。牧歌的ですよ!仏教ってふところ深いですね。
神通力をうしなうきっかけの「ふとももの女」とその後結婚してるし、
人生も立て直してみんなに認められて、力も回復するなんて。

比べていいのか・・・「失楽園」のルシファーは、
やっぱりいたずらして雲から落とされますが、
その後、神に復讐を誓って、ゴテゴテのドグマを築いて大戦争と。
三千年前からはじまった神々の戦争は、世界中をまきこんで今も続いている様です。
神が全員わがままで事件が絶えないんだけど、
それが超美麗な感傷的タッチでつづられてるんですよね。
読者を地上から天空の旅に引き連れて、読後にどっしりとしたみやげ物を渡す
みたいな感じかな。
247みうん:2009/03/06(金) 17:40:01 0
>>241
>子供の頃、僕は捕まえた蜂を透明なプラスチックのコップに入れて、
>それを針で刺していたことがありました。
子供が遊びの中で、嗜虐性のバリエーションを増やすうちに、
社会性に組み入れて、コントロールしていくのは、
まったく健康だし、有意義じゃないですか。

それが抑圧されたまま、美的感覚とかエロスとむすびついて、
ゴッホみたいに鏡の前で耳をとっちゃったり、
四肢切断愛好家の、肉体美を競うコンペに出場とかは極端ですけど。

こうした、サディズムなんかの性的傾向をアクロバットに発展させると、
近隣者によくない影響が出る場合もあります。
日本人女性の1/3が不感症ですが、
夫や恋人の極端な性的趣向に潜在的拒否感を感じて、
心因性の不感症になる人が多いそうです。

今は、情報が多いから、極端になりやすいですけどね。
AVとかエロマンガの性を理想と考えて実際に試そうとする人って、
いるみたいですが馬鹿なんじゃないかと思います。
芸術は芸術ですよ。
248みうん:2009/03/06(金) 17:40:42 0
>>242
>ろくでもない親に限って、そういう認識が決定的に欠けていますw
例えば、子供と一緒に問題集をやって、子供が変な答えを書いたので、
威圧する様に、消しゴムを紙に叩き付ける様に使う、
これだけでもう、子供への心理的虐待ですからね。
親はなんの気なしにやっているだけでしょう。
法での追求は難しいですよ。法には罰がつきまといますから。

自覚のない虐待をする親にも、プロテクトされた人格があって、
そのよじれを根本的にほどいていくのが解決になるんだから、
カウンセラーと家族療法するのが早いんじゃないでしょうか。
249みうん:2009/03/06(金) 17:42:39 0
>僕の身近にも、摂食障害のような病をもつ人がとても多いのですが、
>それはそういう社会状況の変化と緊密に結びついていると思います。
私にも、摂食障害の知り合いがいますよ。体重36キロです。
高校生で、
「昔はモー娘に入りたかったけど、やっぱりださいし、
今はモデル事務所に入りたい」とかとか。
見ると、男性的な母親にべったりな感じです。
その人は、母親にアイスクリームを買いにいかせるのが大好きです。
男性的な包容力に支えられていないと、
女性が男性化してくるようですが、
感情をおさえて負荷がかかるので、ヒステリー的になります。
子供はまずいことになるでしょう。
母親が作って出すものに拒否感をもつでしょうし。
それを指摘する人もいない。

714さんの意見にそって、うっすらと推測はできそうですが、
摂食障害と社会状況の関係って、どうなってるんでしょうね。
250714:2009/03/12(木) 12:04:25 0
>>243
>病気になる、死を迎えるなんかの変容状態も、
>それほどかまえずに受け止めれそうですよね。

〈無病息災〉という価値観だけだと、老い、病、死、には対応しにくくなると思います。
〈老いて病んで死ぬのがあたりまえ〉ということも忘れずにいないと。

釈迦は「人生は苦である」と言われました。
安楽なのが人生の常態だと思っている人々に対して、人生は本質的に苦であるから
あなた方はそれに備えておかなければならない、と教えられたのだそうです。

とはいえ、もし自分が癌であることがわかれば、目の前が真っ暗(真っ白かな)になって、
おろおろするでしょうね。
でも、おろおろするのもあたりまえのことだから、
おろおろすることにも備えておきましょうw

>お医者さんにも、病院に来る人の生活様式も見ずに病名でラベリングして
>機械的に処置する事に抵抗を感じている人が多い様です。

標準値にもとづいて人を判断することは、〈自灯明〉(自分自身をよりどころとする)とは正反対ですね。
「理想の睡眠時間は、あなたが眠っていた時間だ」という格言のようなものがあるそうです。これは自灯明です。

ひろさちやさんは、〈いい加減〉であることをすすめています。
熱いお風呂が好きな人には熱い湯が、ぬるいお風呂が好きな人にはぬるい湯が、それぞれの〈いい加減〉である。
これも自灯明ですね。
251714:2009/03/12(木) 12:05:05 0
>>244
>静かな日に、肌で空気をかんじて、世界との融和性を楽しむ時はあっても、
>そのときに私はやっぱりそこにいるし、そうしていない時でも、私はあるし。

「私」は誰にとってもありますが、哲学で問題になるのはその「私」の位置づけです。
デカルトは、全てを疑っても疑い得ないものとして、「我」を出発点としたけれど、
西田幾多郎は、疑いようのない根源的事実は「私」ではなく「純粋経験」であると考えて、
その純粋経験を出発点としました。
だから「私」は根源的事実ではなく、派生的なものだということになります。
「肌で空気を感じて」いる時、疑いようのない根源的事実は〈感じている〉ということ(純粋経験)
であって、そこには、まだ「私」はない。

西田幾多郎は『善の研究』の最初のところで次のように書いています。
「純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交えて居るから、
毫も思慮分別を加へない、真に経験そのままの状態をいふのである。例へば、色を見、
音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいふやうな考えの
ないのみならず、此色、此音は何であるといふ判断すら加はらない前をいふのである。」

始めに「私」があって、その「私」が何かを感じるのではなく、始めにあるのは、
〈感じている〉という純粋経験であり、その純粋経験を離れて「私」はない。
「私」とは、様々な純粋経験が同じ〈場所〉に於いて生じる時に、その〈場所〉に
つけられた名前である、ということになると思います。
252714:2009/03/12(木) 12:05:50 0
だから「私」の根源、つまり本来の〈私〉は、〈場所〉だということになります。
西田幾多郎は、それを〈無の場所〉といいます。
それが〈無の〉場所であるのは、それが対象化(客体化)できないものだからです。
対象化された「私」は根源的なものではない。
なぜならその場合に根源的なのは、〈対象化している〉という純粋経験であって、
その純粋経験が起こる〈場所〉が本来の〈私〉であるはずだからです。

「肌で空気を感じて」いる時、〈感じている〉という純粋経験が生じている
〈場所〉が〈私〉なのですが、その〈私〉は対象化できないもの(語り得ぬもの)です。
「空気を感じている私がいる」と言ってしまうと、その「私」は、
〈私〉という〈無の場所〉そのものではなく、〈無の場所〉に於いて対象化された「私」であり、
だから本来の〈私〉ではないことになります。
本来の〈私〉は、「空気を感じている私がいる」ということを意識している〈私〉です。

でも、〈無の場所〉としての〈私〉は語り得ぬものだから、そのように、
「本来の〈私〉は、・・・を意識している〈私〉です」と言うことも本来はできないのであって、
そのように言うことによって〈私〉も対象化されてしまえば、
「その〈私〉を意識している〈私〉がいる」
「『その〈私〉を意識している〈私〉がいる』を意識している〈私〉がいる」・・・
と、無限に終わらないことになります。
自己を意識する時には、このような無限背進が生じます。
そういう無限背進を終わらせるものが、語り得ぬものとしての〈無の場所〉だと思います。
253714:2009/03/12(木) 12:06:50 0
>考えなくても、身体がすでに世界に応答している様を、
>「兀兀地思量什麼」って言うんですね。
>なかば自動的な、外界との沈黙の対話と言う所でしょう。

思っても思わなくても在る〈非思量的自己〉は、〈無の場所〉としての〈私〉に近いと思います。
道元は、身心脱落することによって自己は万法と一如になると言っており、
西田幾多郎は、純粋経験においては「未だ主もなく客もない」と書いています。

このような主客未分の状態、万法と一如である状態は、
神秘体験みたいなものによって生じる状態ではなくて、
誰にでもあてはまる根源的事実として考えられていると思います。

ただ、日常的意識においては、自己意識や様々な判断、解釈によって、
その根源的事実は覆い隠されている。
それらの様々な付加物を払い落としていったところにある(はずの)
ものが、〈非思量的自己〉であり〈無の場所〉だと思います。
254714:2009/03/12(木) 12:07:51 0
>>245
>どうも、文化的援助は、政治的介入にはならないらしくて、
>やっぱ民族自決は直接関係なかったですねwごめんなさい。

前にも思ったんですけど、みうんさんは〈偽善〉的なことがとても嫌いなようですね。
それは、生理的嫌悪なのでしょうか?
(それから、〈干渉〉も嫌いみたい…)

>>246
>ゴルゴ13はガンガンにセックスしても、絶対射精しないんですよ。
>仏教では、こういう境地をなんていうんでしょうね?

僕はゴルゴ13をあまり知らないのでなんとも言えませんが、
単なる遅漏でないとすれば、
ガンガンにセックスして射精しないことに喜びを感じる性的嗜好があるのかも知れませんね。

相手あってのことだから、相手の女性がそれをどう感じているかが大事でしょう。
255714:2009/03/12(木) 12:08:58 0
>>247
>今は、情報が多いから、極端になりやすいですけどね。
>AVとかエロマンガの性を理想と考えて実際に試そうとする人って、
>いるみたいですが馬鹿なんじゃないかと思います。

性に関する情報は、画一的で質の低いものが多いですね。

僕が何冊か読んだ本の中では、この本が異彩を放っていました。
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/062-seigi.htm
「男性の快楽は女性に奉仕することであり、男性が自分の性的な満足を追求することは否定されている。その一貫した姿勢が潔い。」
(ゴルゴ13はこの人の影響を受けたのかも?)
(でもこの本の基本思想wは〈オシオシ・モミモミ〉なので、〈ガンガン〉とは違うな…)
筆者の語り口からは、〈性の求道者〉と言っても大袈裟ではない真面目さが感じられます。
信奉者も多いようで、女性にも読まれているようです。
http://www.amazon.co.jp/review/product/4309473849
ただ、この本の良さは、技術的なこともありますが、それよりも求道者としての
筆者の探究心にあると思うので、バイブル視してしまうのはまずいでしょうね。

>日本人女性の1/3が不感症ですが、

そんなに多いですか。
僕が上の本を読んだのも、その時付き合っていた人がびくともしなかったからでしたが。

セックスレス率も日本はとても高いそうですが、
それは性に関する情報の質の低さと関連していそうな感じがします。
セックスを甘く見ているところがあるのかも知れませんね。
256714:2009/03/12(木) 12:09:31 0
>>248
>例えば、子供と一緒に問題集をやって、子供が変な答えを書いたので、
>威圧する様に、消しゴムを紙に叩き付ける様に使う、
>これだけでもう、子供への心理的虐待ですからね。

街中でも、いかにも家でそういうことをしていそうな母親をよく見かけます。
程度の差はあれ、多くの人がしてしまうことなのかも知れませんが。
まさにそれは>>217で引用した〈物足りようの思い〉ですね。
〈自分自身で安らえず,それゆえ,「他との関係において安らおう」という精神〉。
思い通りにならないから、「自らに安らえぬ精神」はどうにもならないものとして温存されてしまうのでしょう。

〈物足りようの思い〉は、人間関係に限らず、すべてのことに当てはまります。
僕は自分の精神状態が良くない時に、よくそれを思います。
今、精神状態が良くないのは〈物足りようの思い〉が満たされない結果なんだなぁ、と。
そして、〈物足りようの思い〉をなくすことの難しさ、〈自分自身で安らう〉ということの難しさを感じます。

>>249
>摂食障害と社会状況の関係って、どうなってるんでしょうね。

具体的な原因を探しても、推測の域を出ないだろうし、いろんな原因が複合しているだろうから、難しいですね。
母親との関係に問題があるということは、よく聞きますが…

もっと大雑把に考えて、何が欠けているのかな?何があればいいのかな?と考えると、
〈安心感〉が欠けているんじゃないかと思います。
>>153で書いた〈どっちへどう転んでも落ちこぼれようがない〉という安心感、
あるいは、「なるようになる」という開き直り、
あるいは、人事を尽くして〈天命を待つ〉という諦め、
のようなものが、親にも子にも、社会全体にも欠けてきているのかな?と思います。
257みうん:2009/03/14(土) 08:07:02 0
>>250
>釈迦は「人生は苦である」と言われました。
そうなんですか〜。
「人生は苦しみ八割楽しみ二割」なんてよく聞きますけど、仏教の考えなんですね。

>とはいえ、もし自分が癌であることがわかれば、目の前が真っ暗(真っ白かな)になって、
>おろおろするでしょうね。
>でも、おろおろするのもあたりまえのことだから、
>おろおろすることにも備えておきましょうw
苦しみに立ち止まって辛気くさく、ぐるぐる思い出をいじり回すのではなくて、
苦しみの原因を、帰納的にたどる事を<苦諦>
原因をさらってととのえることを<滅諦>・・・
これを大規模に実践してくための、輪廻、相互依存の世界観を
仏教は示してるのかも知れませんね。まあ、、、そんな単純でもないかな。

実は、最初、714さんが、世界情勢について・・
「チベットやアフリカの問題も、相互依存した原因がからみあっている」
的な事を言っているのを読んで、
「何でもかんでも問題にしてごった煮にしてたら、
現実的な解決にならないんじゃないかな〜?
決定的な原因だけ壊して、後は総崩れになるのを手入れしてく方が喧々」
と、一旦はそんな印象だったんですけど、
<苦諦><滅諦>を添えつつマクロ視してく発想なのかも?
258みうん:2009/03/14(土) 08:07:44 0
>>251>>252 714さん
<場所>に関しては、デリダも言ってましたよね。
ソクラテスは、対話を与える一つの場所であり、
対話をする人は、ソクラテスと言う場を体験する事になる・・・って。
形而上に空間を見立てる表現をしています。

同じ様に、私もソクラテスを介して、714さんという場所も体験していて、
そこで見えてくる景色も、様変わりしながら、色々見えてきます。

哲学者とは、概念の発明家だ、とも言えますが、
西田は、デリダよりも何十年も早く、
純粋体験を通して<場>の概念をつかみ出したんですね〜。
でも、誰が先に発明したから、得や損をするという流れにはならなくて、
西田―デリダーソクラテスー714さんや私の間で、
心を贈り合い、互いをアレンジしていく形に発展していくから、素敵ですね^^
259みうん:2009/03/14(土) 08:08:50 0
>>253
>このような主客未分の状態、万法と一如である状態は、
>神秘体験みたいなものによって生じる状態ではなくて、
>誰にでもあてはまる根源的事実として考えられていると思います。
どうも調べてみると、
キリスト教での「光のベールに包まれる」的な神秘体験と、
道元の「心身脱落」とは、全然質がちがうみたいですね。
キリスト教のは、疲れで感覚を鋭敏にして、ドーパミン過剰での忘我状態、
禅の安楽的な悟りは、半睡眠による、下意識と平常意識の融合なんです。

どちらも、やりこむと、意識変容してきますね。
宗教のシステムにガッチリ守られた状態で、真剣にやるか、
「いいかげん」に座禅するのがいいのかも(・∀・)
260みうん:2009/03/14(土) 08:09:29 0
>>254
>前にも思ったんですけど、みうんさんは〈偽善〉的なことがとても嫌いなようですね。
>それは、生理的嫌悪なのでしょうか?
いや〜・・・鋭いですね。参りました。

小さい頃、「狼と七匹の子やぎ」を読んで、みんなディスカッションした時に、
狼は、お腹がすいたと思って、実際はチョークを食べたりしただけなのに、
子やぎは、徒党を組んで狼のお腹を裂いて、石を詰めて井戸に放り込んだから、
裁量すると、狼より子やぎの方が罪深い、リンチの正当化だ的な事言って、
みんなに「へ〜ん!」って笑われた事ありますよwこだわりかも。

同時成立する義がからみあう時にでるダイナミズムって、好きですよ。

714さんはこだわりってありますか?
261みうん:2009/03/14(土) 08:10:02 0
>.255
>僕が何冊か読んだ本の中では、この本が異彩を放っていました。
性のテクスト書く人は、上野千鶴子しか知らなかったけど、
へぇ〜!性科学者ってのが面白いですね。色んな人がいます。
ゴルゴのセックスシーンは面白いですよ。
騎上位で女性がよだれをたらしながら、
「オオ!煮えてる!煮えてるよ〜!!」ですからねw
ゴルゴが炎、女性がケトルみたいな発想なんですね。もっとすごいのかな。

>セックスを甘く見ているところがあるのかも知れませんね。
アランは、幸福論の中で、
「幸福の障壁となる困難を一つ一つクリアしていく喜び」を説いてます。
色んな体験に適用できるとは思うんですが、
日本文化に上乗せして、セックスを罪、禁忌の設定を盛って、
それをのりこえてたのしくなろうよでは、ちょっと・・・
ハードルが高過ぎて合わないんじゃないですかね。
極端に過激な発想したり、萎縮してしまったりするし。

インディアンは狩猟民族ですが、万人の女性への賛美が前進的なんですよね。
262みうん:2009/03/14(土) 08:11:03 0
>>256
子供は成長時期で不安定だし色んな事をしたがるものだ、
とそれを見て楽しむ余裕がないのかも知れませんね。
それは疲れであったり、不安であったりして、
そういう人には今の考えをストップしてもらって椅子を差し出すのが、
まあ常識なのかな。
女性にとってのリラクゼーション施設である美容室、エステが暴利過ぎなんですね。
今、価格の見直ししてるみたいですよ。
彼らは、アーティストだから、才能や技術にみあうリバックを求めて当然、
でも、人に安楽を与える奉仕の仕事でもあるから、過剰な利益を求めるべきじゃない、
みたいな感じ。実る程、頭をたれる稲穂かな・・・

欧米式の、潜在的な女性差別を抱えた文化が導入されて、
辟易してる女性も多いでしょう。
「お前も強くなれ、女らしくなれ、やっぱり強くなるな、馬鹿だから黙ってろ」
みたいな感じ?
これを直していくのが、大切かもしれないですね。
「まともな大人」の舛添さんは何とかしてくれないのかな。
263714:2009/03/19(木) 16:51:00 0
>>257
>苦しみに立ち止まって辛気くさく、ぐるぐる思い出をいじり回すのではなくて、

思い出をいじり回しはしませんがw、苦しみに立ち止まることは大事だと思います。
「苦しみから逃れようとすることは、問題を先鋭化するだけだ」とニーチェは書いていますが、
仏教でも同じだと思います。四苦八苦の四苦(生老病死)は、なくなりはしません。
それらの苦から目をそらすのではなくて、それをあるがままに見ることが大前提です。

たとえば、病気になったら病人に成り切ることが大事だといわれます。
苦が滅するということは、苦である状態(たとえば病気)がなくなるのではなくて、
それをあるがままに受け入れることによってそれに成り切るということだと思います。

(老いを受け入れられない結果、不相応な化粧や服装をして
かえって老いを目立たせてしまっているような人をよく見かけます。
へんに開き直って早々と女を捨ててしまったような人もいたりして、
四苦のうちの老は、とくに女性にとって大問題なのでしょう…)

病気や老いなどの苦と本当の意味で一体となるためには、道元でいえば
>>253で書いたように身心脱落しなければならないのだと思います。
それは、「病気はいやだ」「老いたくない」という日常的意識を払い落として(莫妄想)、
今此処の流れに身をまかせることだと思います。
264714:2009/03/19(木) 16:51:51 0
>「チベットやアフリカの問題も、相互依存した原因がからみあっている」
>的な事を言っているのを読んで、
>「何でもかんでも問題にしてごった煮にしてたら、
>現実的な解決にならないんじゃないかな〜?

〈不条理〉の話の流れで書いたので、僕はそれを基本的には「解決」し難いこととして考えています。
万事うまく収まって、その状態がずっと続くとは考えにくいことだし。

子供の死を話題にしたもう一つの理由は、イワンの話でも出ていたからでした。

「すべての人が苦しまなければならぬとしても、その場合、子どもに
いったい何の関係があるんだい、ぜひ教えてもらいたいね。何のために
子どもたちまで苦しまなけりゃならないのか。何のために子どもたちが
苦しみによって調和を買う必要があるのか、まるきりわからんよ」

イワンは、多くの子供たちの犠牲の上に成り立つ世界なんて認めないと拒絶します。
これは神がいるとすればの話ですが、多くの子供たちの犠牲の上に
世界が成り立っていることは、神がいてもいなくても変わらない事実です。

(こういう事柄に対するみうんさんの反応が、妙な感じなので、
みうんさん好み(?)の方向へもっと進めてみることにしましょう…)
265714:2009/03/19(木) 16:53:37 0
ヤスパースは、実存に目覚めるためには〈限界状況〉に直面することが必要だと主張しています。
ヤスパースによれば、〈死〉〈苦〉などとともに、限界状況の一つに〈負い目〉があります。
人は誰もが他者に対して負い目があり、その負い目を自覚することが大事だとヤスパースは言います。
他の生き物を殺して食べること、競争に競り勝つこと、などによって負い目が生じます。
たとえば入学試験や入社試験に合格すれば、その合格は、試験に落ちた多くの人の無念さの上に
成り立っており、したがって合格した人はそれらの人々に対して負い目がある。

ヤスパースの考え方でいけば、餓死していく多くの子供たちの犠牲の上に
成り立っている世界において、僕たちはみんな、彼らの死に対して負い目があることになります。
(その負い目は、道徳的な負い目ではなくて形而上学的、宗教的な負い目だと思います。)
僕は、子供たちの死は自分とは関係ないと考えるよりも、ヤスパースのこの考え方のほうが好きです。

生き物を殺して食べる時には、そうせざるを得ないんだから仕方ないよ!と開き直るよりも、
殺して「すまない」という気持ちをもって感謝して食べたほうが良いと思うし、
餓死していく子供たちに対しては、自分とは関係ないよ!と考えるよりも、
見殺しにして「すまない」という気持ちをもったほうが良いと僕は思います。
そのほうが、目をそらさずに、あるがままの現実を見つめることになると思うので、
>>257で書いた仏教の考え方にも沿っていると思うし、慈悲心にも通じると思います。

みうんさんはどう思いますか?
266714:2009/03/19(木) 16:59:11 0
>>258
>西田は、デリダよりも何十年も早く、
>純粋体験を通して<場>の概念をつかみ出したんですね〜。

デリダはニーチェからもハイデガーからも大きな影響を受けていますが、
〈場〉に関しては、たぶんハイデガーからでしょう。
ハイデガーの〈現-存在 da-sein〉の〈da〉は「そこに」という意味で、
存在が開示される〈場〉として、〈そこに〉投げ出されてあるのが現-存在です。

それを〈無の場所〉と考えた西田幾多郎と同じく、ハイデガーもそれを〈無〉と考えています。
「現存在の無において、初めて、全体としての存在者はその最も本来的な可能性に
のっとって自己自身へと到来する。」
ハイデガーと西田幾多郎は同時代の人です。
その影響関係については僕は知りませんが、東西を代表する哲学者が
同じ頃に同じようなことを考えていたのはおもしろいことです。


>>260
>狼は、お腹がすいたと思って、実際はチョークを食べたりしただけなのに、
>子やぎは、徒党を組んで狼のお腹を裂いて、石を詰めて井戸に放り込んだから、
>裁量すると、狼より子やぎの方が罪深い、リンチの正当化だ的な事言って、

狼は子やぎを食べたんじゃないですか?
そして狼のお腹を裂いたのは子やぎの母ではなかったかな?
(いろんなバージョンがあるのかな…)
267714:2009/03/19(木) 17:00:21 0
>714さんはこだわりってありますか?

あると思いますが、「こだわり」って、何かにとらわれて自由を失っているニュアンスがあるので、
「こだわり」としてではなく、自由な「信念」として、それを持ちたいと思っています。

仏教でもそうですが、古代ギリシャでも、とらわれから自由にならなければ
真理は顕わにならないと考えられていました。
スクール(学校)の語源であるギリシャ語の「スコレー」は、「閑暇」という意味で、
それは時間的余裕を意味するだけでなく、利害損得を離れているということだそうです。
つまりスコレーは、とらわれがないということ、自由だということです。

何かにとらわれて、それに引きずられてしまえば、自己を喪失してしまいます。
そのような自己喪失の極端な場合が、ヒステリーとかノイローゼと言われる状態でしょう。

とらわれに引きずられて自己喪失せずに、自由であるためには、
自灯明のように、自己自身にしっかりと立脚していなければならない。
でも、その一方では、芭蕉の〈私意を離れて〉松のことは松に習え、のように、
自由であるためには、〈私意〉にとらわれてもならない。
自己自身に立脚して、しかも自己にとらわれない。これは難しいことですね。
268714:2009/03/19(木) 17:12:00 0
>>261
>騎上位で女性がよだれをたらしながら、
>「オオ!煮えてる!煮えてるよ〜!!」ですからねw

自分だけそんなに乱れて男が射精しなかったら、いやなんじゃないかなぁ…

この前の『性技実践講座』の山村さんも、女性のことを考えるなら
騎乗位を中心にすべきであると主張しています。
まぁ物理的に考えても騎乗位のほうが女性にとって良さそうなのは分かります。
あとは角度の調節が重要で、山村さんは風呂イスの使用を推奨しています。
風呂イスをベッドのそばに置いて男がそれに座り、背中をベッドで支える。
そうすると角度を自由に調節できる、ということだと思うのですが…、僕は使ったことありません。
(どのタイミングで風呂イスを用意すればいいんだろう…w)

>日本文化に上乗せして、セックスを罪、禁忌の設定を盛って、
>それをのりこえてたのしくなろうよでは、ちょっと・・・

セックスに罪悪感をもつということが僕はないのでよく分かりませんが、
そういう罪悪感の背景には、肉体的なものに対するへんなこだわり(とらわれ)がある感じがします。
〈心〉としての人間と〈物〉としての人間が、分裂してしまっているんじゃないかな。

物としての人間といえば、この前のサイトを書いた人も、山村さんを次のように批判していました。
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/062-seigi.htm
「本書を読んでいると、女性に奉仕する姿勢はいいが、女性を物のように扱っているようにも感じる」
でもこれは考えすぎだと思う。
たとえば医者が人を診る時だって、人を物として見る側面があるはずだけれど、
だからといってそのことが、人を物扱いしているということにはならない。
人は、心でもあり、物(身体)でもある。

「身体を軽蔑する者たちに対して、私の言葉を述べよう。・・・
『わたしは身体であり、そして霊魂である』このように子供は話す。
そして人が子供たちのように話していけないわけがあろうか?」(ツァラトゥストラ)
269714:2009/03/19(木) 17:13:44 0
>>262
>女性にとってのリラクゼーション施設である美容室、エステが暴利過ぎなんですね。
>今、価格の見直ししてるみたいですよ。

ふ〜ん。美容室やエステでリラックスするんですか…

僕は〈気晴らし〉みたいなことは求めない(求めたくないと思っている)タイプです。
(実際は、無意識のうちに気晴らししているんだろうと思うけどw)

「みじめな私たちをなぐさめてくれる唯一のものは気晴らしであるが、これこそが私たちの最大の不幸である。
なぜなら、それは私たちが自分自身を考えることを妨げて、いつの間にか私たちを破滅させるからである。」
(パスカル『パンセ』)


>欧米式の、潜在的な女性差別を抱えた文化が導入されて、
>辟易してる女性も多いでしょう。
>「お前も強くなれ、女らしくなれ、やっぱり強くなるな、馬鹿だから黙ってろ」
>みたいな感じ?
>これを直していくのが、大切かもしれないですね。

みうんさんも、辟易してるようですね。
制度的なことに問題があるんでしょうか?
もしそれが直された場合は、どういう世の中になるのでしょうか?
270みうん:2009/03/22(日) 08:20:55 0
>>263 714さん
>それらの苦から目をそらすのではなくて、それをあるがままに見ることが大前提です。

>それは、「病気はいやだ」「老いたくない」という日常的意識を払い落として(莫妄想)、
>今此処の流れに身をまかせることだと思います。

同じ立場なのかどうか・・・何とも言えないけど、
苦しみは、蓄積された価値観に変化を求められるとき生じるものでしょう。
それで、それが煩悩となる前に、座禅をして、
価値観の切り替えを悟り体験の中に回収しよう、
というのが道元の立場かな。どうでしょう。

「流れ」があるとしたら、煩悩をかかえた内在は、「よどみ」です。
そのよどみとは、払い落とされるべきものではないかも知れません。
「よどみ」は、そこに豊かな生命力をたたえて、静かにたゆたい、
時折さしこむ、「流れ」からの呼びかけに、、、光明と同時に葛藤をも迎え、
生じるダイナミズムに大いなる意志を与えられるでしょう。
それは、尊いものじゃないでしょうか。
ちょっと抽象的な話になったけど。
271みうん:2009/03/22(日) 08:22:08 0
>>264
>子供の死を話題にしたもう一つの理由は、イワンの話でも出ていたからでした。
そうでしたか。714さんの読解も読んでみたいけど。
子供と不条理・・・

あの物語の、虐げられた子供達だって、アフリカやチベットの子供達だって、
結局は、どこかに逃げていく、だれかに救われるのが運命というのではなくて、
彼らは必ず、薄い腐ったスープが飲めるから、それが彼らにとっての温かみだから、
やっぱりそれぞれの家に帰っていくんでしょう。

お坊ちゃんで、気に食わない相手は殺してやる、それで親も殺すんだ、ああ不幸だ、
といつもぐるぐるしてる、これはイワン坊ちゃんにとっての不条理なんですよ。
エゴと慈愛、それから差別意識の三つ巴が、彼の中で起きてる訳ですよね。
それが高じて、イデア世界にも触れられたけど、彼は、、、それで凶暴化して、
トーツキイがいなければ、アリョーシャがいなければ、
その世界から戻って来れませんでしたよ。
イデア世界は、人を子供に戻して、その後ランダムな成長線を描かせます。

憶測ですが、彼は、、、見たもの、景色がなんであれ、
結局は自分の原体験にてらして、意識を過去まで逆噴射させて、
悟りみたいなものを得た後、宗教ではなく、家族愛ではなく、
共同体の力で戻ってみせる、その計算が予めあったでしょう。

イワンの状況ってのは、まあそのまんま貴族な感じなんですけど、
その理知と、行動の野獣性が、パンクですね〜。
272みうん:2009/03/22(日) 08:24:31 0
>>265
>僕は、子供たちの死は自分とは関係ないと考えるよりも、ヤスパースのこの考え方のほうが好きです。
ヤスパースまで読んでるんですか!
とっても読書家で、心優しい714さんだなあ。

私は、動物愛護ですが、好きな動物はライオンと犬ですw獰猛なのが好き。
肉食や、餓死に対して、「すまない」と感じる感受性の豊かさには触れられても、
それとまったく同化する事は、できるのかな。内在は変えられないし。
例えば、ここ数年よく見かけますが、肉食反対者の作った動画あるでしょう。
屠殺場でチキンを投げたり踏んだりする飼育員、
喉に穴を開けられて血まみれの床でのたうつ牛・・・。そんなのが収められてます。
見ても「趨勢だな」と、世界について考える方向しか、私にはないです。
牛のゲップは温暖化に拍車をかける、家畜は減らすべき。でそれが幻想化して。。。

で、最近は、野菜と、果物と、ボトルに詰めたミルクコーヒーをよく飲んでますよ。
他に、出来る事があるかも知れませんね。
273みうん:2009/03/22(日) 08:25:49 0
>>266
>それを〈無の場所〉と考えた西田幾多郎と同じく、ハイデガーもそれを〈無〉と考えています。
ハイデガーと西田が同時期に同じ事言ってたなんてΣ(゚∀゚ノ)
この二人が対談でも重ねたら、哲学史はどうなってたんでしょう?
・・思想の年表ってあるといいですね。いつ誰がこれを言った、のリストが。
ところで、ハイデガーの「投企」ってどう思います?
「生まれたくて生まれたんじゃないし」みたいな意味らしいですが。
彼の哲学は、ネガティブ感情の分析も多いし、呪い節なのかなぁ。

>狼は子やぎを食べたんじゃないですか?
そうでしたね〜。忘れちゃった。
子供の時に感じた、狼と子やぎの決定的シーンを表現すると、
「招かれざる客がまばゆい後光をせおった瞬間、
彼の銀色の肢体に開けられた虚空には赤い闇が息づき、
白い子供達は、風にのって踊り、闇に戯れる」
なんかそんな風に見える、美しい絵本だったんです。
子供って、モラルより綺麗なもの優先で、拡大解釈しがちです。
274みうん:2009/03/22(日) 08:26:55 0
>>267
こだわりは、自由な「信念」・・・とらわれから自由になる・・・

とらわれって、外的な圧力のことですか?
おいらの頭が、ほんとは国なのに内政干渉でがんじがらめみたいな。
おいらの中の虐げられた子供達を救済しないと地球が危ない的な。

というか、信念の欲してきたものを実らせるために、
自分に課してきた制約、約束ってあるでしょう。
それで、己の中にたちどまり、そこに引きこもり続けるあまり、
血も乾き切って心身脱落→悟りみたいなの、ないですか?
それも、修行と言えばそうなような。
275みうん:2009/03/22(日) 08:28:03 0
>>268
>あとは角度の調節が重要で、山村さんは風呂イスの使用を推奨しています。
714さんって、性に関して現実的、具体的ですよね。
そのノウハウがスマートです!
・ ・・714さんは、性体験で「現実」をかんじるのかな。その逆かな。

私のセックス観をざっくり話すと・・・
女性器って吸盤みたいなもので、彼女は太古的な記憶を維持するために、
理性の学習よりは、細密なくりかえし運動を好む、
その性格は、言ってみれば赤ちゃんのようで、
男性は、赤ちゃんの肌に吸いつかれて、
その、無垢な蟲惑にわびながら放心していくのだよなあ。というあらましです。
幻想的です。風呂椅子はちょっとわからないな〜。

言えるのは、女性は、騎乗位で満足したら次の楽しみ方をして、
種々楽しみを満喫したら、総まとめの「オルガスム」を迎えるという事です。
周りの話を聞いてるとそんな感じです。

>人は、心でもあり、物(身体)でもある。
科学ニュース板の情報は確実な様ですが、ここにリンクできないなあ。
こんな記事がありましたよ。だいたいですが。
「男性は、女性に美を認めると、その時点で、脳の『物体を把握する部位』が起動する」
ですが、脳の働きは、連合で成り立っているので、情動との関わりもあるでしょう。
心であり、物であるは言い得てますね。
276みうん:2009/03/22(日) 08:30:12 0
>>269
>僕は〈気晴らし〉みたいなことは求めない(求めたくないと思っている)タイプです。
>(実際は、無意識のうちに気晴らししているんだろうと思うけどw)
気晴らしのないのは、心配です。。。
精神的な高みを求めるあまりうつになったんじゃ元も子もないですよ。
道元曰くの「それも本望」を地でやってるんでしょうか。
無意識の気晴らしって言うのも面白いですけどね^^
どういうことなのか聞いてみたいけど、無意識ですもんね・・・。

うんと休む修行もしたらどうでしょう。
「もうこれ以上弛緩できない」状態をさぐるみたいなの。
277714:2009/03/26(木) 15:21:33 0
>>271
>お坊ちゃんで、気に食わない相手は殺してやる、それで親も殺すんだ、ああ不幸だ、
>といつもぐるぐるしてる、これはイワン坊ちゃんにとっての不条理なんですよ。
>エゴと慈愛、それから差別意識の三つ巴が、彼の中で起きてる訳ですよね。

子供の苦しみは『カラマーゾフ』全体を通しての重要なテーマになってますね。
アリョーシャはいつも子供たちと関わっていたし、
(江川卓氏によると、イリューシャの葬儀の後のアリョーシャの演説の時、
そこに集まった12人の少年は、キリストの12人の使徒の投影らしい。)
〈童〉の夢を見たドミートリーは、苦しむ子供に心を痛める。
イワンも子供の苦しみについて話しているけど、
その苦しみに自ら関わろうとするアリョーシャやドミートリーの態度は、
エゴイストで人を愛せないイワンの態度とは違います。

「俺は童のために行くのさ。なぜって、われわれはみんな、すべての人に対して罪があるんだからな。
すべての童に対してな。なぜって、小さい子供もあれば、大きな子供もいるからさ。人間はみな、童なんだよ。
俺はみんなの代わりに行くんだ。だって、だれかがみんなの代わりに行かなけりゃならないじゃないか。」

すべての童に対して罪があるというドミートリーの思想は、ヤスパースの〈負い目〉の思想に似ています。
278714:2009/03/26(木) 15:22:25 0
>>272
>肉食や、餓死に対して、「すまない」と感じる感受性の豊かさには触れられても、
>それとまったく同化する事は、できるのかな。内在は変えられないし。

イワンのような人は同化できないだろうけど、アリョーシャやドミートリーならできるかも知れませんね。
できるかどうかは、その人のエゴイズムの度合いに反比例するでしょう。


>例えば、ここ数年よく見かけますが、肉食反対者の作った動画あるでしょう。

僕は見たことありませんが、過激な動物愛護運動はおかしい。
特定の動物だけを愛するのではなくて、全ての生命に畏敬の念を持つのならば、
過激な愛護運動ではなくて、穏やかな運動になるはずだと思います。

動物愛護は、実際に殺すか殺さないかということよりも(人間はどっちみち
他の生き物を殺さざるを得ないから)、大事なのは内面的な心の問題だと思います。

仏教の慈悲の〈悲〉は、〈呻き〉という意味で、
生きることの苦しみに対して呻き声をあげるということだそうです。
苦しみに呻き、嘆いたことのある者だけが、苦しむ者の苦しみを真に理解できる。
だから仏教の慈悲は、神の恩寵のように高い所から低い所を見るのではなく、
常に同じ高さにある者の間に生じる、穏やかな思いやりです。
279714:2009/03/26(木) 15:23:25 0
>>273
>この二人が対談でも重ねたら、哲学史はどうなってたんでしょう?

たぶん二人の間に直接の対話はなかっただろうと思いますが、調べてみたら、
西田幾多郎は弟子への書簡などでハイデガーについて結構書いていますね。

西田幾多郎の弟子の多くがドイツに留学してハイデガーの演習に出ています。
その中でも田辺元は、ハイデガーがまだ無名の講師であった時からハイデガーの
講義を聴き、西田幾多郎にハイデガーの思想を紹介しています。
逆にハイデガーが西田幾多郎の思想についてどの程度知っていたかは不明ですが、
おそらく西田の弟子を通してある程度は知っていただろうと思います。

(当時ハイデガーのもとで学んだ日本人留学生はけっこう多くて、僕の大学の時の先生も
ハイデガーのもとで学んだ一人です。つまり僕はハイデガーの孫弟子なのですw)

昭和5年、和辻哲郎への手紙で西田は次のように書いています。
「ハイデッゲルの On というものを私の無の自覚のノエシス面に於てあるとして考へれば
それは私の方からあまり異論はないのです 併しその時は Ausdruck といふより自己を
ausdrücken する即ち On がすべて Ich といふ性格を有ったものでなければならぬ
無論氏も sich selbst を auslegen するものと考へて居るのだからそれもよろしい
併し最後に氏の様に単に Erlebnis の Ich にくっついてのみ考へてゆくのでは
歴史的なものはよからうがイデー的に自己自身を vollenden した様なもの 即ち
gedachtes なもの例へば Natur の様なものは出て来ない」
280714:2009/03/26(木) 15:24:45 0
>ところで、ハイデガーの「投企」ってどう思います?
>「生まれたくて生まれたんじゃないし」みたいな意味らしいですが。

さっき西田幾多郎の書簡集を見ていたら、たまたま、ハイデガーの「投企」を
批判しているところがありました。(昭和6年、三宅剛一への手紙)
「ハイデッゲルの考では Entwurf とか Entschlossenheit とかいふものの出る所が本当に
分ってゐないのです これにはどうしても私の『無の自覚』といふ如きものを考へねばだめです」

昭和6年の頃はハイデガーはまだ無を正面からは問題にしていなかった時期だったと思います。
この手紙にあるような西田の批判を、ハイデガーは知っていたのかどうか・・・

「生まれたくて生まれたんじゃないし」は、たぶん「投企」じゃなくて「被投性」のことでしょう。
「被投性」は、人間が、どこからきてどこへ行くのか闇に包まれたままただ投げ出されているという受動的側面を、
「投企」は、自分を新たな可能性に向けて投げ込むという能動的側面をあらわします。
ハイデガーも「被投的投企」と書いているように、人間にはその両面がありますが、
ハイデガーの思想の重点は、前期では「投企」にあったのが、後期には「被投性」に移っていきます。

意味づけされる以前に、事実として既に世界の中に投げ出されているという「被投性」は、
サルトルが言った「実存は本質に先立つ」ということと同じで、
実存そのものには、意味も理由もないというニヒリズム、不条理につながります。
「生まれたくて生まれたんじゃないし」は、それをネガティブに受け取った言い方なんだろうけど、
それに対して「すべて良し」という受け取り方もあり得るわけで、
仏教の場合は、〈生かされている〉ということに対する感謝の念になります。
281714:2009/03/26(木) 15:26:37 0
>>276
>気晴らしのないのは、心配です。。。
>精神的な高みを求めるあまりうつになったんじゃ元も子もないですよ。

僕の性格は、何でもきっちりこなす優等生タイプの兄と足して2で割るとちょうどいい、
と子供の頃から言われてきたような性格なので、たぶんもともと鬱になりにくいタイプでしょう。
しかも今は仏教の知恵も学びつつあるので、怖いものなしですw

仏教の言葉で大事なものは携帯にもメモしていて、それを時々見ます。
たとえば内山興正の次の言葉。
〈自己の真実として大切なことは、逆境を捨てて順境に赴くことではありません。
かえってただ、今自分が出逢っている生命の実物通り、まっすぐに生きる姿勢こそが大切です〉

その他、〈どっちへどう転んでも落ちこぼれようがない〉〈自灯明…他人のことはほっとけ〉
こういう考え方は、精神衛生的にも良いと思います。

こういうことを、自分では分っているつもりでも、いつの間にか忘れちゃっているのです。
だから時々確認しないとだめですね。
とくに順調に事が進んでいる時ほど、自分を見失いやすい感じがします。
順調な状態が続くと、どうしても、それを〈常態〉だと思ってしまう。
そしてそれを「失いたくない」という自己保身の気持ちが出てきてしまいます。
それがエゴイズムだと思いますが、そうなると必然的に自分が閉じて小さくなり、視野も狭くなります。

内山興正の言い方でいえば、そういう時に、〈思いを手放す〉ことをしなければならない。
それは、感じとしては、〈捨て身〉に近いかもしれません。〈自己保身〉の反対は捨て身です。
捨て身になれている者ほど強いものはないと思います。良い意味での〈諦め〉ですね。
それを一度感覚的に体感すると(僕はそれが「悟り」ということに近いと思っているんだけれど)、
それがどういう心の状態なのかが分かるので、自分を見失いかけた時でも、本来の自分に復帰しやすくなります。
282714:2009/03/26(木) 15:27:20 0
捨て身といえば、道元も、徹底的に〈捨てる〉ことを説いていました。

「示して云はく、学道の人、世情を捨つべきに付きて、重重の用心あるべし。
世を捨て、家を捨て、身を捨て、心を捨つるなり。よくよく思量すべきなり。
世を遁れて、山林に隠居すれども、吾が重代の家を絶さず、家門・親族の事を思ふもあり。
また、世を遁れ、家をも捨てて、親族・境界をも遠離すれども、我が身を思うて、
苦しからん事をばせじ、病起るべからんをば、仏道なれども、行ぜじと思ふも、未だ身を捨てざるなり。
また、身を惜しまず、難行・苦行すれども、心、仏道に入らずして、我が心に
差ふ事をば、仏道なりとも行ぜじと思ふは、心を捨てざるなり。」
(『正法眼蔵随聞記』)

>>274
>というか、信念の欲してきたものを実らせるために、
>自分に課してきた制約、約束ってあるでしょう。
>それで、己の中にたちどまり、そこに引きこもり続けるあまり、
>血も乾き切って心身脱落→悟りみたいなの、ないですか?

信念は大事だと僕は思っていますが、身心脱落した本来の自己であると言えるのは、
最終的にその信念も捨てられた時だと思います。
上の文章の〈心を捨つ〉ですね。
283714:2009/03/26(木) 15:31:17 0
>とらわれって、外的な圧力のことですか?

内面的なことです。たとえば上で書いた自己保身の思いにとらわれて視野が狭くなる場合のような。
常識にとらわれて自由な思考ができないということもよくありますね。

そういう場合には、自分が何かにとらわれているということになかなか気づきにくいから、
知らず知らずのうちにエゴイスティックになっていたり、ヒステリックになったり、
胃に穴が開いたり、極端な場合は自殺したりします。
自分の内面を見つめて、自分自身の心を敏感に感じ取ることが大事だと思います。


>>275
>714さんって、性に関して現実的、具体的ですよね。

挿入角度云々…は、〈技術者〉としての視点ですw
そういう冷静な視点も、とくに男の側には必要だと思います。
それだけだと、相手を〈物扱い〉していることになってしまいますが、
それは一つの面であって、心と身体を分けるとすれば、心重視です。

しかしその心も捨て去られ、お互いが無心になれた時に、心と身体という区別も
無意味になるような、そういうセックスが理想的だと思います。
284みうん:2009/03/28(土) 05:55:26 0
>>277 714さん
>すべての童に対して罪があるというドミートリーの思想は、ヤスパースの〈負い目〉の思想に似ています。
アリョーシャとドミートリイの行動と、負い目というのが、どうもつながらないなあ。
子供に対する負い目って、子供達に何事かなしたいけど出来ない、、、
そういう時に起こる感情じゃないでしょうか?
虐待されてきた子供には、親への対処、救済策を教えればいいし、
子供同士でのいじめの現場にすれ違ったら、子供達に飴でも配ればいいんですよ。
イデア世界まで介在させて大騒ぎするまでもないと思います。
だからイワンの行動が私には面白く感じられるんですが。
ドストエフスキーは一番好きな作家だけど、
この人ってよく大風呂敷を広げる人でもありますよね^^
285みうん:2009/03/28(土) 05:56:22 0
>>278
>動物愛護は、実際に殺すか殺さないかということよりも(人間はどっちみち
>他の生き物を殺さざるを得ないから)、大事なのは内面的な心の問題だと思います。
根源的な生命の潮流があるとすれば、人間を含めた動物同士の思いやりも闘争も、
それぞれ、小さな対話の一つ一つとして見れますよね。
その視点でいくと、動物それぞれの身体は、人間に差し出された、与えられたもの・・・
というより、どんな形にでも変形しうる地球の分子ということにもなります。
だから、分子として、豊かに可能性を具現していけばいいんじゃないでしょうか。

動物を食べる食べないのキワで立ち止まり、
何頭食べると絶滅種がこんなに可哀想な事になる、
と計算しては思いあぐねたり、
血は生命の象徴だから、血を抜けばこれを享受した事になる、
とレトリックにまみれて自己満足したり、
そういう行為には、その先に何を求めているのか、と問う事ができます。
その解答が不明であって、さほど生産性もなければ、
行為は儀式=遊びという行為の中に回収されますね。
それが無駄だとは言いませんが。

可能性という事を考えるなら、
遠くはなれたゾウと音波で話ができるとか、
地面を触っただけで地中になにが埋まってるか識別できるとか、
そういう、感覚器を発達させた人に、私はあこがれを感じます。
286みうん:2009/03/28(土) 05:57:10 0
>>279
先に調べて教えてくれるなんて。714さんって、とっても優しいな〜。
私も頑張って714さんをお姫様抱っこしてお花畑にそっと下ろさないと。
ダンベル買わないと。。。

しかし、ハイデガーの孫弟子なんて、世間狭過ぎですよ。
この人が何だか、こないだ亡くなった隣りのおじいさんに思えて来ます^^

>>280
被投性を考えると、
今ここに投げ込まれた私の結果だけが存在する、
で、その、どこから投げ込まれたかっていうのは非知の領域で、
問うのは不可能、(私から見れば野暮)という事を言ってますよね。
つまり、因果律の否定という事になります。
仏教思想が根強い西田とは折り合わなかったんじゃないですかね。
西田の方はハイデガーLoveな感じだったのに、残念です。

論理を度外視して、あるいは破綻を含んだ、結果の多様性を求める姿勢は、
ニーチェと通じる部分ありますよね。でも・・・
その現実的適用として、ナチに走ったのは安易としか言いようないです。
287みうん:2009/03/28(土) 05:57:59 0
>>281>>282
>内山興正の言い方でいえば、そういう時に、〈思いを手放す〉ことをしなければならない。
>それは、感じとしては、〈捨て身〉に近いかもしれません。〈自己保身〉の反対は捨て身です。
>捨て身になれている者ほど強いものはないと思います。良い意味での〈諦め〉ですね。
確かにそうなんです。
ただ、ゲーム理論で言うと、捨て身になていいのはツいてる時だけです。
捨て身というのは、ミスを、それを狙う他者に提示する事でもありますしね。
ツいてる時って、それでもバイオリズムの支えがあるから、
ミスをさらけ出す事さえ、戦略上に挑発になり得ます。
ツいてない時は、保身しながら逃げまくるしかないです。
ゲーム理論って残酷な面がありますけど、実践的なんですよ。

>上の文章の〈心を捨つ〉ですね。
生身の人間に、それは出来ないんじゃないですか???
どんなに状況適応能力が高くて、場に合わせて内面の一切を捨てたつもりになっても、
適応させた一面ってのが必ず残りますからね。
それに、宗教自体が、信念の産物だと思いますが。どうでしょう。
288みうん:2009/03/28(土) 05:58:45 0
>>283
>そういう冷静な視点も、とくに男の側には必要だと思います。
>それだけだと、相手を〈物扱い〉していることになってしまいますが、
>それは一つの面であって、心と身体を分けるとすれば、心重視です。
714さんって、相手を安心させるのがすごく上手ですよね!
決して、耳障りのいい事ばかり選んで言っている訳じゃないのに。
例えば、このスレのログが残ってますが、
自分が相手に何をしてきたのか、それをセックスの理論に応用してもいいですよね。

ただ、それが技巧となり、技巧で心をカバーしようとして、
女性のここだけ攻略しておけば、思い通りのセックスを出来るだろうとか、
企業的な効率主義はセックスに持ち込むべきではないでしょうけど。
その場合、女性を通して技巧と向かい合っているという事になります。

ポルチオ、Gスポット、クリトリスを同時に刺激する方法とか、
上付き下付きで挿入角度をこう変えるとか、
そういう即物的な話も結構なんですが、身体によって快感はばらつきがあるし、
セックスの上手下手って、いかに相手と向き合い、安心させて感情を引き出すか
にかかってるんですよ。だから、繰り返しになりますけど、
人を安心させる術を理論化して、身体の交わりに応用しましょう( ´∀`)ノ☆
289714:2009/04/02(木) 15:05:45 0
>>284
>アリョーシャとドミートリイの行動と、負い目というのが、どうもつながらないなあ。
>子供に対する負い目って、子供達に何事かなしたいけど出来ない、、、
>そういう時に起こる感情じゃないでしょうか?

ドミートリーは第九編の八で〈童〉の夢を見て、彼はそのことを第十一編の四で、
「いちばん肝心なこと」としてアリョーシャに話しています。
「俺はこのふた月の間に、自分の中に新しい人間を感じとったんだよ。
新しい人間が俺の内部によみがえったんだ!」

夢を見て新たな人間に〈再生〉するところは、「ガリラヤのカナ」のアリョーシャや、
『罪と罰』のエピローグで、ラスコーリニコフが人体にとりつく微生物の夢を見たのと同じです。
彼らの夢は、啓示みたいなものでしょうね。

「俺たちはみんな、その人たちに対して罪があるんだよ。
なぜあの時、あんな瞬間に、俺が〈童〉の夢を見たんだ?
『なぜ童はみじめなんだ?』これはあの瞬間、俺にとって予言だったんだよ」

そして、ゾシマ長老がアリョーシャに言った「悲しみの中に幸せを見いだしなさい」
という言葉と同じようなことを、ドミートリーも言っています。

「深い悲しみにとざされたその時こそ、俺たちはまた喜びの中に復活するんだ。
その喜びなしに人間は生きていかれないし、神は存在していかれない。
なぜって、神がその喜びを与えてくれるんだからな。」
290714:2009/04/02(木) 15:06:27 0
>虐待されてきた子供には、親への対処、救済策を教えればいいし、
>子供同士でのいじめの現場にすれ違ったら、子供達に飴でも配ればいいんですよ。

虐待もいじめもほとんどは隠れた所でなされているので、実際に目に触れるのはわずかだと思います。

ドミートリーの思想で肝心なところは、〈すべての〉童に対して罪がある、というところです。
〈すべての〉童を救うことなんてできないことだから、それが負い目の意識につながると思います。

「もう二度と童が泣いたりせぬよう、乳房のしなびた真っ黒けな童の母親が泣かなくても
すむよう、今のこの瞬間からもはや誰の目にも全く涙なぞ見られぬようにするため、今すぐ、
何が何でも、カラマーゾフ流の強引さで、あとに延ばしたりすることなく今すぐに、
みんなのために何かしてやりたくてならない。」

すべての童に対して罪があるというのは、原罪の意識でしょう。
原罪というとぴんときませんけど、原罪≒エゴイズムと考えてもいいんじゃないかと思います。
291714:2009/04/02(木) 15:07:21 0
>>285
>その視点でいくと、動物それぞれの身体は、人間に差し出された、与えられたもの・・・
>というより、どんな形にでも変形しうる地球の分子ということにもなります。
>だから、分子として、豊かに可能性を具現していけばいいんじゃないでしょうか。

その考え方だと、「豊かに可能性を具現」していると誰が判断するのか?ということが問題になると思います。
人によって判断が異なるので。 とくに鯨肉の場合には判断の違いが顕著に現れています。

遺伝子組み換えなどの生命操作も、実際には、そういう根本的な問題は話し合われないまま、
大量生産、大量消費という経済効率の追求が優先されていると思います。
遺伝子組換えによって、急速に成長する牛や豚の研究が行われています。
遺伝子組換えで急速に成長する牛や豚は、「豊かに可能性を具現」していると言えるのかどうか?

人間の目先の利益と欲望を充たすため、という観点で見れば「豊かに可能性を具現」している
と言えるでしょうが、それだと人間のエゴイズムを肯定することになります。
〈少欲知足〉が人間の望ましい在り方だと考える仏教的視点では「豊かに可能性を具現」しているとは言えないでしょう。
292714:2009/04/02(木) 15:08:18 0
>>286
>仏教思想が根強い西田とは折り合わなかったんじゃないですかね。

たぶん、そうでもないと思います。
ハイデガーは東洋の思想に強い関心をもっていて、
俳句も詠んだらしいですよw

ハイデガーの重要な用語のいくつかは、(異論もたくさんありますが)仏教用語で翻訳されています。
‘Ereignis’→「性起」、‘Gelassenheit’→「放下」などの仏教語の訳が定着しています。

上田閑照氏によると‘Gelassenheit’は、「捨て切って落ち着いた自由」だそうです。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-ekuhart/ekuhart02.htm

「捨て切る」、つまり「世を捨て、家を捨て、身を捨て、心を捨つるなり」ですねw
293714:2009/04/02(木) 15:09:43 0
>>287
>生身の人間に、それは出来ないんじゃないですか???

信念を持っていることは、自己の心に重点を置いていることだと思います。

しかし道元は『正法眼蔵』で、「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。
万法すすみて自己を修証するはさとりなり」と書いています。

小さい自己を尺度にして世界を推し量ろうとしても推し量れるものではない、
だから、その小さい自己の思いを捨てて、空っぽになったところに世界が入り込む
ようにしなければならない、ということだと思います。

(でもたぶん道元のような人でも、いつもそれができているわけではないと思います。
だから、小さい自己の思いを捨てる修行がつねに必要なのだと思います。)

>それに、宗教自体が、信念の産物だと思いますが。どうでしょう。

さっきのサイトには次のように書いてありました。
「仏教も、我執を捨てよ、煩悩を捨てよ、という。修行の微妙な段階に到っては、数息観も捨てよ、
坐禅しているという意識も捨てよ(坐禅の行をやめるのではない)。坐禅中のあらゆる標準、
快い境地さえも捨てていく。経典にいう壮大な思想、ブッダの言葉(経典)さえも放下していく。
すべて捨て切ったとき、無であるところから自由なはたらきが出てくる、自己の根源に落ち着くのも、
仏教や禅の悟り、と類似するのである。」

ブッダの言葉さえも放下していくのだから、その時、〈信〉も捨てられると思います。
とにかく、小さい自己にもとづくものを捨て切らないと、〈万法すすみて自己を修証する〉
という状態にはならないのでしょう。
294みうん:2009/04/04(土) 07:06:33 0
>>289>>290 714さん
虐待されてる子供とか、されてきた大人って、
自己嫌悪が強くて、警戒心が強くて、親に依存、対人関係を持つのが嫌い・・・
とか、虐待の後遺症を少なからず持っているものだから、
親子関係を直接見る前に判断がつくことはあるみたいですよ。

虐待する親の側に目を向けてみると、
勤めてる会社が妊娠自体を歓迎しなくて子育てしたくなくなったとか、
親自身、虐待とか過剰に厳しい教育、いじめを経験してたりとか、
忙しいのに夫も過労死とか自殺して、育児放棄してしまうとか、
社会で優遇されてないからストレス過剰になってるんですよね。
優遇されてる人の代わりに、社会のひずみをしょってる訳ですよね。
ひずみが起こす不協和音を昇華できずに、身近な子供に移して、
少しでも難を逃れようとするのは、悲惨ですがありがちです。
295みうん:2009/04/04(土) 07:07:32 0
つづき)
カラマーゾフの場合、帝政ロシアの農奴制が土台にありますから、
ここで虐げられてるのは奴隷の子供で、たとえお腹を蹴り上げられるのが衆人に晒されても、
それ自体に全く重みのなかった時代なんですよね。今と違って。
自分も親と険悪なドミートリィは、それに心を痛めて、
<負い目>というニュアンスのことを言ったかもしれません。が、
貴族にとっての「救済」ってのは、労働力確保のためと決まってるし、
より人間的な感情をドミートリィが持つとしたら、
子供たちが、その状況にいながら笑ったり子供らしい無邪気な元気さを見せたり、
そういうことの数々がドミートリィにとってどれほど力を与えたか、
それに感謝の情を覚え、報いようと思ったか、ってとこを見たいです。

アリョーシャとゾシマ長老は、その辺を踏まえて地道に活動してましたよね。
イワンとドミートリィは、社会構造の改変を狙ったのかどうなのか、
「貴族の父殺し」という椿事を、法廷で釈明したんですよね。
彼ら二人のしたことは、実際は民衆を酔わせただけでしたけど。
とにかくすべてをかえてやるんだと言う意気込みを持ってるなら、
議会に入ればよかったんですよ、そうすれば効力あるし。
彼らの立場ならそれをやる力は十分あっただろうに、
激情に駆られて愚行をおかすとこがまた、魅力あったりしますけどね^^
296みうん:2009/04/04(土) 07:11:46 0
>>291
>その考え方だと、「豊かに可能性を具現」していると誰が判断するのか?ということが問題になると思います。
過剰に進化した種って、滅びるのが地球の掟です。生命摂理が決めるでしょう。
鯨が滅びつつあるのは、大きすぎるから、動きが遅く肉が美味だから、で、
捕鯨反対者の強制力が弱いと言うことは、火急の問題じゃないでしょう。楽観的かなぁ。
遺伝子組み換えの牛も、滅びないし、食べた人間に重大な問題は出ていません。
組み替えが仏教思想にそぐわないとどんな問題があって、代替案はこれ、
みたいな指摘が必要かもしれませんね。

道元のCDに日本人の宗教性のトピックがあって、
例えば、自然主義と言いながらクリスマスに遺伝子組み換え牛の中華を食べ、
暫くするとお寺に参拝しにいき、帰りにロボットペットが欲しくなる・・・
こういう、節操がないようで何でも丸呑みにしてよしとするところに仏教らしい宗教性がある、
と、お坊さんが言ってましたよ。
297みうん:2009/04/04(土) 07:13:15 0
>>292>>293
>ハイデガーは東洋の思想に強い関心をもっていて、
>俳句も詠んだらしいですよw
へぇ〜!知らなかった。物知りの714さんと話してるとたのしいなヽ(*´∀`)ノ
しかし俳句に、深い用語使ってますね。
彼の方から仏教へのアプローチがあったなら、西田とハイデガーが合わなかったのは、
単に交通の問題だけだったのかな〜。たぶん。

>その小さい自己の思いを捨てて、空っぽになったところに世界が入り込む
>ようにしなければならない、ということだと思います。
記憶喪失者でも、不意に習慣的な行動をするから、
すべてを捨てきって、一種運ごとに新しい自分になるっていうのは、
ファンタジーか気分の問題化になるんじゃないかなあ。
ただ、物質社会でこういう言葉は、とても光りますよね!
人間の道具も、受け入れるべき世界の一部としての存在とも言えますけど、
「道具への愛着」について、どう思います?
298みうん:2009/04/04(土) 07:14:46 0
こないだ、掲示板で「ありがとう」について話して大混乱になったって言ってたじゃないですか。
その、向こうの人たちの怒り方って、ちょっと変っぽいですけど、
まっとうに、効果的に怒る方法ってあるみたいです。
真顔で、ゆっくり話しながら、相手にどれくらいゆずらせたいかはっきりさせて、
それを繰り返し強調する、通ったら、お礼を言う・・・んだそうです。
これなら、怒ってもあとくされなさそうですよね。

韓国の人ってよく怒るのか、、、若い人は怒り方が巧くないのはあるかもしれませんね。
やり手の人は怒り方が巧くて、ビジネスにすんなりつなげられて、
韓国の、怒りのパワーが集まって新興国になった一面もあるかもしれませんね。
299714:2009/04/09(木) 15:47:24 0
>>294
>勤めてる会社が妊娠自体を歓迎しなくて子育てしたくなくなったとか、
>親自身、虐待とか過剰に厳しい教育、いじめを経験してたりとか、
>忙しいのに夫も過労死とか自殺して、育児放棄してしまうとか、
>社会で優遇されてないからストレス過剰になってるんですよね。

そうですね。虐待の背景には劣悪な社会環境があると思います。
ただ、そこにだけ原因を求めると、虐待の責任を社会に押し付けることになりかねないので、
もう一つの側面として、自己責任という側面も同時に見なければならないと思います。

その会社や夫を選んだのは自分だし(親を選ぶことはできませんが)
また、同じ劣悪な環境でも、みんなが同じようにストレス過剰になるわけではないので、
その人にはストレス回避能力と、問題を打開する能力が欠けていたという点にも
自己責任があると考えられます。
300714:2009/04/09(木) 15:48:21 0
>>295
>より人間的な感情をドミートリィが持つとしたら、
>子供たちが、その状況にいながら笑ったり子供らしい無邪気な元気さを見せたり、
>そういうことの数々がドミートリィにとってどれほど力を与えたか、
>それに感謝の情を覚え、報いようと思ったか、ってとこを見たいです。

すべての童に対して罪があるという考えは、「人間的」というよりも、
人間的なものを超えた「神的」なものだと思います。
この前引用した部分の後でドミートリーは次のように言っています。
「ああ、人間は祈りの中で溶けてしまうがいい! ・・・そしてそのときこそ、俺たち地底の人間は、
喜びをつかさどる神への悲劇的な讃歌を、大地の底から歌うんだ! 神とその喜びよ、万歳!」

そのような神的な愛(アガペー)に照らしてみる時に、エゴイズムの罪深さが自覚されてくるのでしょう。

無償の愛であるアガペーは、キリストの十字架での死において示されたとされていますが、
人間同士の愛もそのような愛であることが望ましいとされています。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもお互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネによる福音書)

仏教では慈悲がアガペーに近い(同じではないけれども)と言われます。
法隆寺の玉虫厨子には、捨身飼虎図が描かれています。
釈迦の前世の菩薩のお話である「捨身飼虎」は、金光明経にあります。

菩薩は山中で修行中に飢えてやつれた虎の親子に出会う。菩薩は衣服を脱いで
虎の前に横たわるけれど、虎は何もしない。体力を失って食べることもできないのだと菩薩は考え、
崖に登って竹で首を刺して血を流し、崖の上から飛び降りて虎の前に身を投げた。
その様子が玉虫厨子に描かれています。
301714:2009/04/09(木) 15:49:47 0
>>296
>過剰に進化した種って、滅びるのが地球の掟です。生命摂理が決めるでしょう。
>鯨が滅びつつあるのは、大きすぎるから、動きが遅く肉が美味だから、で、
>捕鯨反対者の強制力が弱いと言うことは、火急の問題じゃないでしょう。楽観的かなぁ。

商業目的の乱獲が原因で鯨の数は減少したけれど、商業捕鯨が禁止されたので絶滅はしないでしょう。
象の場合もそれと似ていて、象牙を得るための乱獲で象が減少したために、象牙の取引が禁止されました。

そのような場合に、「生命摂理が決める」という考え方をするとすれば、
人間が鯨や象を乱獲することも〈摂理〉なのか? そして、
人間が商業捕鯨や象牙の取引を禁止したことも〈摂理〉なのか? という疑問が生じます。
もしそう考えるとすれば、それは宿命論でしょう。
乱獲したり、それを禁止したりする人間の意志は、生命摂理の中に包摂されるのか…?

>遺伝子組み換えの牛も、滅びないし、食べた人間に重大な問題は出ていません。

遺伝子組み換え食品の影響は、食中毒みたいにすぐ現れるものではなくて、時間をかけて現れるものですが、
重大な影響が出るかどうか分からないまま、商業的・政治的利益優先で進められているのが現状です。
アメリカが経済戦略の柱として遺伝子組み換えを進めているから、そのような事になってしまっているのだと思います。

遺伝子組み換え種子は独占的状態になっていて、モンサント社とアメリカ政府との癒着が指摘されています。
http://www.greenpeace.or.jp/campaign/gm/basic/profit_html
モンサント社は、消費者の不買運動による業績不振で、遺伝子組み換え牛からは撤退したそうです。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200811231256480
また、遺伝子組み換え植物が日本にも自生し始めていて、生態系への影響も測り知れないと思います。
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/071005/sty0710050935000-n1.htm

>道元のCDに日本人の宗教性のトピックがあって、

道元のCDって何ですか?
302714:2009/04/09(木) 15:51:19 0
>>297
>すべてを捨てきって、一種運ごとに新しい自分になるっていうのは、
>ファンタジーか気分の問題化になるんじゃないかなあ。

一瞬ごとに新しい自分になるし、自分だけでなく世界の全てのものは、一瞬ごとに変化していると思います。
ヘラクレイトスはこのことを〈万物流転〉と言いました。 仏教では〈無常〉です。
全ては移ろいゆくものであり一瞬たりとも留まることはない、という無常説は仏教の根本思想です。
そしてそれは、常住不変の〈我〉はない、という無我説にそのままつながります。

このような無常説と無我説から道元の「身を捨て、心を捨つるなり」を考えれば、
〈捨てる〉というのは、何か有るものを捨てるのではなくて、もともと無いのに(無我だから)
勘違いして有ると思いこんでいる妄想(我執)を捨てることだと考えられます。

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」も、
我執(エゴイズム)という妄想からの脱却 と考えられると思います。


>「道具への愛着」について、どう思います?

道具への愛着にもいろいろあるでしょうね。
ものを大事にする事は良いことだと思います。
でも、ものを持つことによって自分の値打ちが上がったように思う事はいやです。
303714:2009/04/09(木) 15:53:30 0
>>298
>まっとうに、効果的に怒る方法ってあるみたいです。
>真顔で、ゆっくり話しながら、相手にどれくらいゆずらせたいかはっきりさせて、
>それを繰り返し強調する、通ったら、お礼を言う・・・んだそうです。

そんなふうに自分の利益を計算しながら怒るのは、かえっていやらしいので、
どうせ怒るなら、我を忘れて怒ってほしいw

とはいえ、怒ることは少ない方が良いでしょう。
釈迦の教えに、「第二の矢を受けるな」という教えがあります。

「比丘たちよ、たとえば人をまず第一の矢で刺し、ついで第二の矢で刺すとする。そうすれば、その人は
二つの矢を受ける。それと同じく、いまだ教えを学んでいない凡夫は、不快の感覚を受けて、憂え、疲れ、
悲しみ、自らの胸を打ちながら泣きわめく。彼は二種の感覚を受ける、肉体的な感覚と、精神的な感覚である。
 比丘たちよ、たとえば人をまず第一の矢で刺すが、しかし第二の矢では刺さないとしよう。
そうすれば、この人は、ただ一つの感覚を受けるだけである。それと同じように、教えを学んだ聖弟子は、
不快の感覚を受けながら、なんら憂えることもないし、疲れず、悲しまず、胸を打って泣きわめくことはない。
彼は一種の感覚しか受けない。それは肉体的感覚であって、精神的感覚ではない。」(相応部経典)

根にもつな! 水に流せ! ということでしょうね。
他人の言動によって、肉体的(生理的)に「痛い!」と感じる時はあるけれど、
そのことを根にもって、いつまでも腹を立てていたら、自分自身の精神が毒されてしまう。

だから「効果的に怒る」よりも、怒らないですむように工夫した方が良いと思います。
憎しみが連鎖するのと同じように、怒りも伝染します。
怒りの連鎖を断ち切るには、まず自分から断ち切ることが大事だと思います。
腹が立つ事は、考えないようにするのが一番良いでしょうね。
これはとても有効なストレス回避策だと思います。
304みうん:2009/04/11(土) 20:39:30 0
>>299 714さん
>その人にはストレス回避能力と、問題を打開する能力が欠けていたという点にも
>自己責任があると考えられます。
そうですね〜、自己責任は、確かにありますね。
そして、虐待をする親たちは、責任を負う能力を奪われた弱者だとも言えます。
追いつめられた弱者がとうとう理性の衣をはがされて、
むきだしにされた闘争本能で、安易に支配者の座を得ようとするのが、
ニーチェの言う、「ルサンチマン」の物語ですよね。

虐待の現場は、いわば復讐劇ですが、そこに救済が見いだされるとしたら・・・
司法や医療機関からのサポートも大事ですが、心の問題として、

取り返しのつかない悲劇を連ねた家族の、ひいては社会の、
歴史を引き受けた弱者が災難にのまれながら一人になれたとき、
親や子供たちが仰ぎ見るのは(その輪廓ははっきりしないでしょうが、)
すべてを解決して救済してくれる神的な存在かも知れません。
心に神を宿したなら、彼らは救済者の資格を得ます。当事者が救済者になり得ます。

トラブルに疲弊すると、問題解決能力やストレス耐性が下がりますが、
こういうときこそ、「自分が事態を救える」という強い意志を取り戻すことが、
親にも子供にも必要じゃないでしょうか。もちろんそれだけではないですけど。
305みうん:2009/04/11(土) 20:40:46 0
>>300
>無償の愛であるアガペーは・・・
う〜ん、福音書の言葉って心に沁みます。無償の愛っていいですね〜。

ドミートリィの中で、超越思想とエゴイズムが混濁していて、
その中継点にキリスト教があったため、心が乱れていたんじゃないかなあ。

多大な自己愛を持った人がエゴイズムをつきつめて独我論に達すれば、
自分の持つこの世界に、無償の愛を注ぐことができるでしょう。
自動的に神の視点を持つことになるから、一つの対象にこだわれなくなりますが。
でも、エゴイズムも、結構捨てたもんじゃないと思いますよ。
自己満足的な、矮小な事柄でも、道というものが存在するし、
そこから技を見いだし磨くことが、大事だと思います。
306みうん:2009/04/11(土) 20:41:29 0
>>301
>人間が鯨や象を乱獲することも〈摂理〉なのか? そして、
>人間が商業捕鯨や象牙の取引を禁止したことも〈摂理〉なのか? という疑問が生じます。

今、ちょうど、メルヴィルの「白鯨」を読んでるとこなんですよ。捕鯨の話です。

ロックの歌にもたまに出てくる、エイハブ船長と船員たちは、
敵にしてあっぱれな、大いなる海の幻獣に心酔し、復讐を誓ってもいるんですね。
鯨さんにやられっぱなしだった訳です。だからがむしゃらに鯨と戦うんですが、

現代の鯨に関するロマンは、ずいぶん穏やかなものになりました。
エイハブ船長の夢の世界の住人のような現代人は、鯨をついに打ち負かして、
大きな達成感の証として、鯨の保護を訴えている訳ですよ。
この流れを見ると、人間と鯨の力関係に、生命摂理を感じませんか?

グリーンピースから出た、アウシュビッツの写真集で激怒して、
やたら力んで読書感想文をかいた中学生時代を思い出しましたよ。
しかし、、、現代は、犯罪件数こそ減ったものの、
基準ぎりぎり以下の、緩慢な加害、被害が急増しましたね。

>道元のCDって何ですか?
NHKCDの、「こころをよむ 膳のすすめ 道元のことば」というCDです。
CDって手と目が塞がらないから本に比べて便利ですよね^^
307みうん:2009/04/11(土) 20:43:05 0
>>302
>全ては移ろいゆくものであり一瞬たりとも留まることはない、という無常説は仏教の根本思想です。
摂関政治から貴族がこぼれて、武士が台頭してきた時期に、
無常観が出てきたんですよね。すべてを捨てて、念仏をとなえ、仏になれと。
保守思想に対して、変化を求める思想でもあります。超越的ですね。
武士に圧倒されつつあった貴族にとっての我執て、どんなものだったんでしょうね?
・・・身近なとこで言うと、まあ、、青春の蹉跌だとかいろいろありますけど^^

>ものを持つことによって自分の値打ちが上がったように思う事はいやです。
いつか行ったイカットの専門店の店主さんが、こんなことを言ってましたよ。
「この布の一枚一枚に、職人は命を織り込んでいるんだよ、
そういうものに日常触れていると、布は人を高めてくれるんだ」
714さんと違う意見ですが、どちらも正しいです。
同時成立する考えって、あるんですよね。ことわざとかでも。面白いですね!
308みうん:2009/04/11(土) 20:44:47 0
>>303
>釈迦の教えに、「第二の矢を受けるな」という教えがあります。
「矢面くん」というタイプの人がいて、
人前でドードーと批判をしては物事を切り分け、推進する人がこれに当たります。

批判と強調、行為遂行って、素の状態と比べると、怒りの属性に組み入れられます。
好戦的な人なら、矢面に立つこともスポーティに楽しめそうですが、
そうすることといいことあるんだよと言われておとなしくこれに従い、
見よう見まねで矢面くんを演じてみては心をボロボロにしてる人って、
たまにいるんですよね。聖弟子になりきれない段階の人と言うかw

その人側の論理で言うと、なんとなく人に言われたことをしたら、人に怒られて、
怒られると嫌だけど釣られて感情的になる、怒った相手しか見えなくなる、
それで疲れるけど答えなきゃ・・・みたいな感じかな。

2ちゃんねらーってこのタイプ多そうじゃないですか。
309714:2009/04/16(木) 19:12:38 0
>>304
>トラブルに疲弊すると、問題解決能力やストレス耐性が下がりますが、
>こういうときこそ、「自分が事態を救える」という強い意志を取り戻すことが、
>親にも子供にも必要じゃないでしょうか。もちろんそれだけではないですけど。

とてもつらい状況にある時に強い意志を持とうとすると、かえって、強い意志を持てない
現実の自分に直面することになって、尚更つらくなる可能性が大きい気がします。

ヒステリックになったり、怒りが大爆発してしまったりするのは、
自分の中にある〈物足りようの思い〉と、それが充たされない現実とのギャップを
うまく処理できなくて、そうなってしまう場合が多いと思います。

自分で事態をすべて解決しようという意志も、或る種の〈物足りようの思い〉でしょう。
だから疲弊している時には、それは事態を悪化させる危険がありそうです。

疲弊している時には、疲弊していれば良いのだと思いますw
つらい状況から逃れたいと思うと、そのつらい状況を「いやだ!」と思う気持ちが更に高まるので、
かえって苦しくなります。 〈第二の矢〉を受けてしまっているんですね。

苦しみから逃れようとするよりも、あるがままを受け入れるほうが、苦しみは軽減すると思います。
310714:2009/04/16(木) 19:13:42 0
>>305
>でも、エゴイズムも、結構捨てたもんじゃないと思いますよ。
>自己満足的な、矮小な事柄でも、道というものが存在するし、
>そこから技を見いだし磨くことが、大事だと思います。

それはそうですね。自己満足的な自己愛をすべて否定したら、生きていけないでしょう。
キリストの愛や捨身飼虎の慈悲に徹するのは無理です。
それができないから、宗教的には、人間の罪深さの意識が生じるのでしょう。

それと、自分を大事にすることと、エゴイズムとは必ずしも同じではありませんね。

たとえばニーチェは‘Selbstsucht(我欲)’に高い価値を置いたけれど、
その〈我欲〉は、一般に〈ジコチュウ〉と言われるような事とは全然違うと思います。
それは〈自灯明〉に近いかも知れません。

ニーチェの〈我欲〉や仏教の〈自灯明〉と、〈ジコチュウ〉その他諸々のエゴイズムの
違いを考える場合にポイントになるのは、それぞれの場合の、ego(自己)の在り方だと思います。

超人の自己と、畜群wの自己は、その在り方が違うはずです。
畜群の自己が〈小さな理性〉としての〈自我〉であるとすれば、
超人の自己は〈大いなる理性〉としての〈身体〉です。

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。 万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
でも、前の自己と後の自己は、在り方が違います。
前の自己は〈小さな理性〉、後の自己は〈大いなる理性〉に近いでしょう。

〈自灯明〉の〈自〉は、後の自己だと思います。
311714:2009/04/16(木) 19:15:13 0
>>306
>エイハブ船長の夢の世界の住人のような現代人は、鯨をついに打ち負かして、
>大きな達成感の証として、鯨の保護を訴えている訳ですよ。
>この流れを見ると、人間と鯨の力関係に、生命摂理を感じませんか?

『白鯨』はたぶんアメリカの捕鯨が最盛期だった頃の話でしょう。
その頃はアメリカだけでも年間一万頭以上のクジラを捕獲していたそうです。
その後捕鯨が衰退して保護に向かったのは、クジラの数が減少したことと、
鯨油の需要が減少したことによるようです。

歴史を支配する神的原理である「摂理」論はストア哲学で発展して、
後に〈神の摂理〉としてキリスト教に取り入れられましたが、
クジラの問題については、僕は摂理よりも、人間の恣意的な欲望を感じます。
(その人間の欲望も摂理に含めて考えるとすれば、決定論的な考え方になります。)

クジラの乱獲→クジラの数が減少→クジラを保護、という大きな流れの根底には、
鯨油を得たいという個々の人間の(自由)意志があり、クジラを保護したいという
個々の人間の(自由)意志があったと思います。
(乱獲すれば数が減少し、数が減少すれば捕鯨が衰退するという点は〈必然〉でしょうけど)

今まで人間は、ベーコンの〈知は力なり〉という考え方に沿って、科学的な知によって自然を支配する道
を選んできたと思いますが、それ以外に、たとえば仏教の〈少欲知足〉を選ぶ道もあったはずなので、
そこにも、選択の余地(自由)があったと思います。

そのように、今までもそうであったように、これからも、クジラ問題(だけでなく世界のすべての問題)
がどうなっていくかは、僕たちの意志次第であると僕は思っています。
どっちへどう転ぶかは、まだ決まっていません。
312714:2009/04/16(木) 19:16:31 0
>NHKCDの、「こころをよむ 膳のすすめ 道元のことば」というCDです。

ラジオで放送されたものがCD化されているんですね。
>>296に書いてあったことは僕にはちょっと意味がわかりません。
一神教のような宗教にありがちな不寛容さに対して、仏教の寛容さを言いたかったのかな。
(挙げている例が適切とは思えませんが…)

>CDって手と目が塞がらないから本に比べて便利ですよね^^

ずっと前ですが、新潮カセットブックの『源氏物語』の幾つかの巻を寝る時に聴いていました。
幸田弘子さんの朗読が心地よくていつも途中で寝てしまうから、後半はあまり聴いていないけど、
途中までは(4分の1ぐらいw)暗記するぐらい聴きました。(子守唄がわりに便利でした)
313714:2009/04/16(木) 19:18:04 0
>>307
>摂関政治から貴族がこぼれて、武士が台頭してきた時期に、
>無常観が出てきたんですよね。すべてを捨てて、念仏をとなえ、仏になれと。

諸行無常は仏教の三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)の一つなので、
仏教の初期からの根本思想です。
日本でも無常は、10世紀の王朝文学の基本理念になっていたそうで、
藤原氏全盛の時代に成立したと思われる『源氏物語』の根底にも無常観があります。
吉本隆明の『源氏物語論』にもそのようなことが書いてありました。

でもその後の中世文学以降は、無常観は、情緒に流れた「無常感」に傾斜してしまっていると言われます。
田里亦無さんは次のように書いています。
「無常観は、日本人一般が〈あわれ〉とか〈はかなし〉とかいう語感から受け取っている
無常感とは異なるものがある。そこには、いささかもウェットなものはなく、ただ諸法は
たえまなく〈流れる〉とか〈変化する〉とかいうドライなものであるにすぎない。」

道元の場合には無常観は、(亦無さんによれば)万法の外に自己があって傍観的に〈はかなし〉
と嘆ずるものではなくて、「万法すすみて自己を修証する」時に、万法と一体・一如となっている
はずである自己が、積極的に流れの中に入り込む。
だから、〈はかなし〉と嘆く理由はなにもない、ということです。

たしかに、時の流れの速さを感じたりするのは、自分のことであっても、〈傍観的〉に一歩引いて
(自分をある程度客観的に)見ているような時だろうと思います。

それに対して、今・此処で何かに没頭しているような時は、時の流れを流れとしては感じにくいと思います。
それはたとえば、線路のそばに立って、通り過ぎていく電車を見る時に感じる速さを、
自分が電車に乗っている時には感じないのと似ていると思います。
314714:2009/04/16(木) 19:19:00 0
>いつか行ったイカットの専門店の店主さんが、こんなことを言ってましたよ。
>「この布の一枚一枚に、職人は命を織り込んでいるんだよ、
>そういうものに日常触れていると、布は人を高めてくれるんだ」

そうですね。良いものに触れて高められることはよくあると思います。
(でもそれは僕が書いた「ものを持つことによって自分の値打ちが上がったように思う」とは別です。
良いものに〈触れる〉ことで高められる事はいいのですが、〈持つ〉ことで自分の価値が上がったように思うのは
つまらないと思います。良いものに触れていたいという気持ちよりも所有欲が強くなればそうなってしまうと思います。)

織物は、柳宗悦が陶芸の器に実用の美を見たのと同じように、ものによっては、
実用品でありながら芸術作品のような側面ももつのでしょう。

柳宗悦は〈無心の美〉が宿る「民藝品」の特性を9つ挙げています。
http://www.nihon-mingeikyoukai.jp/what/index2.html
織物をつくる作業について僕はよく知りませんが、
この9つは、多くの織物にも、そのままあてはまりそうな感じですね。
315みうん:2009/04/18(土) 12:23:12 0
>>309 714さん
>とてもつらい状況にある時に強い意志を持とうとすると、かえって、強い意志を持てない
>現実の自分に直面することになって、尚更つらくなる可能性が大きい気がします。

つらいときに、自分で何が何でも切り抜けるんだ!とかいう発想じゃなくて、
焦ってむやみに事態をいじくろうとする前に、いったん様子を見て、
「トラブルは解決される」と、先の状況をただイメージするだけでいいんですよ。
そして、特にがんばらなくてもその状況に流れていくだろうと、信じる事。
つらい時って、やってしまった事を見て焦ってる場合が多いので、目先を変えるんです。

イメージを喚起する事で、いったん落ち着きます。眉間のしわぐらいは消えるでしょう。
そういう事がつらくなるときには、口角だけ上げてしまえばいいんです。
口角を上げて、しばらく待つと、脳が「自分は笑っている」と判断して、
楽しい事を考え始めます。それで気分がゆるんで、楽になってしまうんですよ。

リラックスムードと笑顔は、トラブル対処の大きな鍵ですから、
こういう方法は有効だと思いますよ。

>疲弊している時には、疲弊していれば良いのだと思いますw
疲弊の前の段階には悲しみがあり、疲弊の後には大抵怒りがありますから、
悲しいのにがんばり続けて、処理されきらない情報が混濁して感情と噛み合ず、
そのきしみに入り込むエネルギーが余剰分として怒りに変わる前に、
前の段階の、悲しみがどんな事実だったか、それがやっぱり「悲しかった」のか
と、シンプルに言葉にしてしまうのも、トラブル予防にはなりますね。

子供には、怒っている人がいかに変てこりんな道化であるかと笑わせてしまうのも、
彼らののびのびした感性を恐怖心からそらすのにもいいでしょう。
怒りは芸術ですよ。
316みうん:2009/04/18(土) 12:24:42 0
>>310
>たとえばニーチェは‘Selbstsucht(我欲)’に高い価値を置いたけれど、
>その〈我欲〉は、一般に〈ジコチュウ〉と言われるような事とは全然違うと思います。
自己中かぁ。ジコチュウな人って、狭量で人に多くを求めるんですよね。
別に排他的で狭量でも、生きてくうえでさほど支障にはならないとは思いますが・・・
求めて、他者と相互依存する形に持っていくための呼びかけが適正じゃなくて、
あの人の注文には、もう答えたくない、という気分にさせてしまうと不利に働きます。
注文の仕方もいろいろバラエティありますよね^^

>超人の自己と、畜群wの自己は、その在り方が違うはずです。
永劫回帰とは、たったひとかけらの喜びをつかみとるために、
その道程で己を鍛錬するすべての、永遠なる苦しみを受け入れること・・・
という解釈もあるようですが、↓
http://www.youtube.com/watch?v=7FG_VWVaEl4&feature=PlayList&p=23534D347CD3F09E&index=12
番組で挙げた例とにたような事ってけっこう、日常で経験してませんか?
苦しみを立ち会う事がすなわち受け入れる事なんだとしたら、誰でも超人ですよ。
また同様に、道元は、仏になるには道が必要だ、誰でもそのままで仏なのではない、
と言って、誰もが仏なんだと言う他のお坊さんと論争になったそうですが、
どう思います?超人と畜群、仏と俗人を分ける意味ってあるんですかね。
317みうん:2009/04/18(土) 12:26:28 0
>>311
ジャッカルやキウイに比べてクジラを保護したいという欧米人の発想には疑問を感じますよ。
なんたってイラク人は殺してもクジラは殺したくないんですからw
おそらくは、、、クジラに対する信仰心があるんでしょう。
鯨油も乳香も、聖なる香りとして珍重されてました。
宗教性からか香りをもとめて戦争までした欧米人ですが、
さしあたり無難な方法をみつけたから、もう殺さなくてよくなったんでしょう。
そして、昔から持っていたクジラへのこだわりは信仰に変わって。

ビーバス&バットヘッドというアニメ↓
http://intlblog.mtvjapan.com/?eid=29のゲーム版で
「やっぱりクジラ最高!潮吹きはエロいからイイ!」なんてのありましたけど、
おとなしい、愛情にあふれたクジラの母性が人間的で、ほほえましく、
意外な特性が女体のエロティックな特性と似ているとして、その特性が優雅なら、
彼らがクジラからうっすら連想するのは、聖女たちかもしれません。
クジラは、見慣れた家畜と大きな違いを持った、ただでさえ神秘的な生き物ですから。
http://www.whalelove.org/whales/life
でも、クジラおいしいから好き。竜田上げとか。やっぱ香りがいいですよ。

>(その人間の欲望も摂理に含めて考えるとすれば、決定論的な考え方になります。)
自由意志を決定論でラッピングするとどうもしっくりしないなら、
Gマークをもらってるような論に変えるか、自分でつくるか、そのままにするか
なんにしろ過剰包装ってのは困り者ですね。「エントロピーが増大」しますしw
決定論が抱えてる問題はよくわかりません・・・観念論ですよね?
318みうん:2009/04/18(土) 12:29:37 0
>>313
そっか〜。何となく中世文学に流されてたかも。さすがによく知ってますね。
714さんみたいな、マッシブな無常観っていいなぁ。じ〜っと読んじゃった。

ググっても今一ピンとこないんですけど、
「万法」ってなんですか?深そうです。ばんほう・・・といったい・・・。

>それはたとえば、線路のそばに立って、通り過ぎていく電車を見る時に感じる速さを、
>自分が電車に乗っている時には感じないのと似ていると思います。

「巨人の星」のほしひゅうまって、ただこの野球狂のために路線脇の鉄柱にのぼり、
やってくる電車中、新聞を読んでいる人の手元の新聞を読もうとしたと、
なんかそんなふうに読んだ記憶ありますが、
あれは今ここにいてごうごうたる流れにいながら、それに没頭しつつ、
向こうの時を感じない人の時系とも接合しようとしたという事かな。
四次元的です。
319みうん:2009/04/18(土) 12:34:27 0
>>312
>>296に書いてあったことは僕にはちょっと意味がわかりません。
714さんってきわどいとこ、難しいとこで批判的になるから、
ちょっとだけ困っちゃうんですが、でも面白いから、いっぱい困らせてね^^

何かを集団で実行しようとするときに、代表者の強制力がある程度必要になります。
ある個人の思想の実践と、そのの強制力が、どれくらいのものだったかで、
彼らに共感を覚える集団の方向性がととのえられます。
それ以外の人にも呼びかけ、ある程度納得させられます。
財力は強制力になるんですが、でも彼らにはそれがないので、
彼らの思想やビジョンが素敵でも、なかなか浸透していきません。
各所に点在する資本家が動いて、初めて思想が浸透する訳ですよ。
ですが、彼らは、資本家を動かす所までは、できていないようです。
そこいくと、
仏教思想の「小欲推進による科学力の抑制」というビジョンは、
(もっともだな〜、少欲って穏やかな気分になるし。と私は感じますけど)
彼ら資本家の利害と合致せず、彼らにとってまだあまり説得力をもたないので、
案をつめるか代替案が必要だ、ということになりますよね。
でも、これはすばらしく大きなテーマですよ!スゴい!〜ヽ(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)ノ

>ずっと前ですが、新潮カセットブックの『源氏物語』の幾つかの巻を寝る時に聴いていました。
寝る前に聞くと効率よく覚えられそうですね。いい夢見れそう^^
私、スポーツ施設でトレーニングしてるときとか料理してるときに、CD聞くんです。
楽しくってヤメラレナイ(´∀`) 
320みうん:2009/04/18(土) 12:35:31 0
>>314
>良いものに〈触れる〉ことで高められる事はいいのですが、〈持つ〉ことで自分の価値が上がったように思うのは
>つまらないと思います。良いものに触れていたいという気持ちよりも所有欲が強くなればそうなってしまうと思います。)

バーナードリーチは好きで、手元において、毎日触りたいとか思います。
染色のオブジェとかは現実性ないですけど、好き。織物はいいですね。
「持たずに愛する」というのは、なかなか難しくて、人間の獣性から考えると、
人でもものでも欲しいものは奪い監禁していじりまわし飽きれば次々取り替えたい、
なんてのが、欲望のはてかも知れません。
女子高生コンクリート詰め殺人からもそんなものがうかがえます。
容疑者たちはそれでも満足できず、刑務所を出てから、容疑者のリーダーは
「いつだってむかつけば殺してやる」と言ったそうですが、
手仕事で人を殺すのはたいそう骨の折れる仕事だと思うんです。
そこまでめんどくさい事ができる粘り強さがあるなら、陶芸に向いてるでしょう。

コンクリートも土と言えば土ですね。彼らは土に魅力を感じているらしい。

陶芸家は、土を求めて夜昼となく血眼でさまよい、山の傷口、断層で舌なめずりし、
スコップでこれを奪い、こっそり持ち帰ってぐちゃぐちゃにこね回し、
薬液だらけのもうもうたる空気に酔いしれながら、理性を忘れ、
恥ずかしくて見てられないような形になるま土をいじめ抜いて、
気が済んだのかと思えば今度は何時間もかけて火あぶりにし、
気に食わなければたたき割って、また土を奪いにいくんですから。
そうやって気に入ったものができれば、堂々としかるべき施設に届けて、
ものについてあれこれ聞かれ、我慢して答えて、施設から出た後で
「いつだってむかつけば作ってやる」と豪語すればいいんです。
でき上がったものには色白でまるっこい小柄な「ごはん」を詰めて・・・
321考える名無しさん:2009/04/18(土) 22:39:08 0
民主・鳩山幹事長「日本列島は日本人だけの所有物ではない」「定住外国人への参政権付与は当然。韓国は既に認めている」

1 名前: シナノナデシコ(北海道):2009/04/18(土) 09:04:02.66 ID:enYKYbsD ?PLT
「ニコニコ生討論会」に出演した民主党・鳩山幹事長
4:58頃「定住外国人の参政権ぐらい 当然、付与されるべき」
6:32頃「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから」
8:30頃「今の日本でほんとに居心地がいいんですかね、
     私は必ずしもそうは思わない」「オバマ大統領を生んだ
     アメリカはすごい、絶対に日本では起こりえない」
9:20頃「韓国だって参政権を与えてる、日本は恥ずかしい」

YouTube - 民主党・鳩山 参政権 化けの皮が剥がれた?二コ動より引用転載
http://www.youtube.com/watch?v=1BBomcbCy_s
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6775700
322ナレーション(第二層b):2009/04/21(火) 23:06:08 0
「ここは直ぐ下に恥骨がありますから、削ぎ落とさないといけません。
削ぎ取る方も、削ぎ取られる方もちょっと大変です」 彼女が微妙な辺りを
いじり廻されてもぞもぞと動きながら、「大丈夫です。暴れないようにし
ます」と答えました。 限界以上に開かれ引っ張られたた大腿筋が性器の
割れ目を横切るように膨れ上がっています。 その下方では、引き寄せられた
臀筋がボコリ、ボコリと二山盛り上がっています。素晴らしい肉のバランス
です。 処理されようとしている肉の中央で、性器と肛門がもぞもぞと動い
ています。男が、意外に近い二つの穴の丁度真ん中を指でなぞります。
「ここから切り込んで、性器の側を丸く切り出します。肛門の方までいっし
ょに切り出すと、内臓全部が一挙に流れ出て、 ショックをおこします。
なるべく最後まで見ていたいという本人の希望ですから、半分ずつという
ことにいたします」 「この筋はすぐ切った方が楽かもしれませんね」性器を
横切るように張り切って震えている大腿筋を摘みます。 ナイフを持った男
の手がスポットの光の輪に現れ、無造作にポンポンと性器から左右に伸びて
いる筋肉の盛り上がりを切り離しました。 アアアという声が彼女の口と
客席から聞こえます。
323ナレーション(第二層b):2009/04/21(火) 23:07:34 0
二人の裸の韓国娘がグリルに置かれたのは、別にそこで焼き上げるためでは
なかった。 皮膚にほんの少し焼け目をつけ、味にアクセントをつけるため
であった。 それにしてもなかなかの見物であった。気が狂ったように暴
れた。脚を突き上げ、吐き、柔らかい皮膚がチンチン音を立てている鉄網に
触れる度に叫んだ。彼女らがいくら暴れても無駄であった。男女の屈強な
シェフが二人を鉄網に押さえつけていたからである。一人に二人がかり、
しかも娘たちの手と脚は縛り付けてある。公平な闘いではなかった。 二人
はもちろん暴れることはできたが、太股の下をさけても横が焼けるだけで
ある。全身を突っ張って回転しても、裸の肉のどこかが焼けることに変りは
なかった。数分の後、この素晴らしい見世物は終り、二人はグリルから降ろ
された。しかし彼女らの拷問が終ったわけではない。シェフは最後にもう
一度、一番美味しいところの旨味を閉じ込めるかのように、二人の胸と尻を
グリルに押し付けた。これからが、焼肉の本場の娘たちの地獄である。二人
の運命は、これ以上はない恐ろしいものになってきた。二人は解体台に戻さ
れた。 手と脚は結ばれたままである。汗が二人の身体からしたたってい
る。美味しそうな乳房と太股には、グリルの網目が黒く付いていた。手のロ
ープが頭上のボルト、脚のロープが足下のボルトに結ばれた。この大きい
解体台は水平から垂直まで、自由に角度が変えられるようになっていた。
324ナレーション(第二層b):2009/04/21(火) 23:09:03 0
若者二人は裸になり、血まみれの解体台の上の娘たちの腰に乗った。瀕死の
娘たちも、本能的に微妙な反応を見せた。しばらくして若者の精液が娘たち
の膣に注ぎ込まれた。娘たちから下りた若者たちに、小さな骨切り包丁が渡
された。娘たちの性器の両側に深い切り込みを入れた。そのまま体内深く切
り込み、二人の娘の膣全体を切り離した。大小の陰唇、子宮口までの肉筒が
取り出された。二人は誇らしげに、切り出した女性性器を掲げ、そのまま
自分の席に戻った。ナイフもフォークも使わずに、二人は精液の滴る血まみ
れの性器を食べた。寿司は生に限る----彼らがそう言ったとき、どっと歓声
が上がり、全席から爆笑が興った。XXXXのXXX倶楽部では、主食の時
間がきた。客たちは当初の空腹を、焼肉コースで満たされはしたが、もちろ
ん20人の客に二人の娘では、満腹というわけにはいかない。二人の日本娘と
二人のタイ娘が、炉で焼き上がりつつあった。もう少しである。彼女らの
本日の運命について、時間を少しさかのぼることにしよう。最初、六人の娘
が倶楽部の主室に連れ込まれた。みんな十代の後半である。全裸で陰毛は剃
られている。後ろ手に縛られ、一人に一人のシェフがついている。シェフは
彼女らを乱暴に引きづらなくてはならなかった。彼女らが、自分の運命に気
付いており、良く燃えている炉を恐怖の目でながめ、身をすくませていたか
らである。娘たちは、正装の客たちの目に慈悲の光をさがしたが、自分の裸
を撫でまわす食欲の目線が返ってきた。 彼女らは三ヶ国から集められてい
たが、日本の娘だけが、事態は絶望的でどんなに慈悲をこうても駄目である
ことに気付いた。客たちの会話が聞き取れたからである。客たちは、どの娘
のどの部分が美味そうであるか、どの娘の太股が一番太いか、どの娘の乳房
が歯応えがあるか、どの娘の尻が豊潤であるか、そうしたことを話し合って
いたのである。
325ナレーション(第二層b):2009/04/22(水) 22:33:18 0
裸の美しい娘たちは、当然男性客たちを刺激した。 倶楽部の伝統も、
「食料」に対して何をしてもいいことになっている。男性客の多くは夫人
なり恋人を同伴していたが、最初から予定されていたことだったので、
また、しばらく後には確実に肉として消費される娘たちが相手だったので、
嫉妬心をだくものはいなかった。それどころか、自分のパートナーを叱咤
して、美しい娘が快楽の道具として使われる様を楽しんだのである。もち
ろん女性客のためにも、この後に格別の趣向が用意されていた。六人の娘
たちは、頑丈な木製のテーブルの上に投げ出された。内二人は、すでに述
べたように生きながらスライスされて焼肉になった娘たちである。男性客
たちは、ずぼんを脱ぎ、興奮した性器を引っ張りだした。ある者は、娘た
ちの髪を引っ張り口を開けさせて無理矢理陰茎を突っ込んだ。他の者は、
その娘の尻たぶを掴み、剃られた性器、あるいは肛門に差し込んだ。自分
の相手をしている娘が、この後に生きながら焼かれるかと思うと、全員の
欲望はいよいよ高揚し、たちまち娘たちの震える膣の中に精液が放出され
た。男性客たちは満足し、お互いにコニャックを飲み交わし、タバコに火
を付けた。女性客たちは自分のパートナーを指差してくすくす笑ったり、
おしゃべりをしたりしていた。彼女たちにも、この後に、お楽しみが用意
されている。娘たちをローストするには時間がかかるし、娘たちを性的に
使いたい客は多かったしで、仕事は効率良くテキパキとなされなくてはな
らなかった。助手が二人の日本の娘を下ろした。二人はテーブルの横に脚
を広げて立たされ、上半身をそのままテーブルの上に倒された。鋭い鉄の
槍が用意され、クッキング・オイルが塗られ、上半身を倒して剥き出しに
なった日本娘の膣に差し込まれた。6インチほどである。シェフは槍を巧み
にリズミカルに出し入れし、日本娘たちを刺激していった。
326ナレーション(第二層b):2009/04/22(水) 22:34:53 0
彼女たちをリラックスさせ、上手に串刺しをつくるためである。娘たちが明
らかに興奮して我を忘れかけたとき、突然助手が娘たちの尻を強く掴み固定
した。シェフが槍を、ゆっくり、強く押し込んだ。槍は膣の奥を子宮口で
破り、膀胱を通過し、体内に入った。あまりに突然だったために、娘たちは
叫ぶ間もなかったほどである。あっと思う間に、彼女たちは仰向けにひっく
り返され、その間にも、シェフは槍を差し込みつづけた。槍は、鼓動してい
る心臓の横をすり抜け、食道に入った。助手がテーブルの反対側にまわり、
彼女たちの髪を掴み、顔を上向きにさせた。血で光る槍先が、娘たちの口
から現れた。助手が出てきた槍先を掴み、引っ張った。シェフは押しつづ
ける。槍はスムースに娘たちの体内を移動し、4フィートづつ両端に突き出
た。小柄な日本娘たちは奇麗に串刺しになったのである。ケイコは自分に何
が起きているのか、よく理解できないでいた。判事が彼女に「死でも償えな
い罪」と宣言したのは憶えていた。裏切ったボーイフレンドとその恋人を
激情にかられて刺した。もちろんそれでも日本の法律で死刑になることは
ない。刑務所に送られるはずであった。それが、今ここにいる。鉄串に貫
かれ、炉にかけられ、生きながら食されようとしている。鉄串に取り付け
られた手回し用のクランクを回しているのは、彼女に判決を下した判事で
あった。炉で焼かれているケイコの乳房にバーベキューソースを塗っている
のは、判事の奥さんである。ケイコはぼんやりと思う。判事の言葉は「言葉
のあや」ではなかった。今、火の上で苦しみなからローストされ、じきに
脚、太股、お尻、胸を削がれ、食べられてしまうのだ。彼女の歯が口を貫い
ている鉄棒を噛んだ。全身を貫いている鉄棒を体内に感じることができた。
今その鉄棒だけが、彼女が炉の中に落ちるのを支えているのである。
327ナレーション(第二層b):2009/04/22(水) 22:36:11 0
回されるにつれ、チロチロ炎を上げる石炭が見えた。しばらくすると、煙突
の穴を通して暗い空が見えた。途中に排気扇がゆっくり回っている。星がま
たたいていた。隣でマヤがローストされているのが見えてきた。同じように
裸で串刺しにされている。ケイコはマヤの姿を見て息を飲んだ。彼女の肌に
早くも炎と熱の影響が出ていたからである。マヤの肌は真っ赤に見えた。汗
と滲んだ脂肪で光っている。お尻とか乳房のように突出した箇所は、色が濃
くなっている。きれいにローストされている。ケイコは、体内を貫いたシャ
フトを感じながら、身震いをした。痛かったからではない。自分の肌も同じ
ように色が変り、ロースト肉になりつつあるのだと気付いたからである。
数分の後、ケイコとマヤの顔が向かい合い、目線が合った。今回ははっきり
とマヤの太股と乳房に火脹れができているのが見えた。自分のそこにもチク
チクするようなくすぐったいような感触が出てきた。調理は確実に進んで
いる。ケイコは、今始めて、この調理が冗談ではなく、このまま本当に最後
までいくのだと実感した。このまま焼かれ、死に、食べられるのだ。ここで
二人のタイ娘にも串が打たれ、ケイコとマヤの隣の炉にかけられた。ほぼ
日本娘と同じような大きさ、体形であったが、わずかに乳房が大きかった。
乳輪は日本娘と同じで、濃く大きい。客たちの大好物である。調理の次第、
彼女たちの反応は日本娘の場合と同様であったので、重ねては書かない。
ただ乳房の大きい分だけ先端が早く焦げ始めたことだけは印しておこう。
女性客のための時間が来た。性犯罪者にたいする密かな処刑のときであり、
食欲増進のための一品料理の時間である。
328ナレーション(第二層b):2009/04/22(水) 22:37:25 0
10人の日本人男性が引き出された。二、三人は中年であったが、残りは若者
であった。全員が裸であった。玉も棒も奇麗に剃られている。後ろ手に縛
られ、腰、肘、太股に縄が打たれ、横に数珠繋ぎにされている。横這いに
しか動けない。処罰のときが近いことを知って、全員が緊張している。厳し
い野蛮な処罰であることを予感して、列が動かなくなった。幸運にも、炉に
はいくらでも真っ赤に焼けた火掻き棒があった。助手たちはそれで脅しな
がら、彼らを前進させた。膝をついて前進を止めさせようした者がいたが、
遠慮なく火掻き棒が脚に押し当てられ、抵抗が無駄であることが示されたの
である。彼らは、特別なレイプ犯であった。特別というのは、レイプの後、
傷害を与えたか殺したか、あるいは相手が子どもであったか、というケース
である。こうした場合の日本の刑は比較的軽い。しかし伝統社会はいつまで
もそれを許さない。 この倶楽部の処罰は裁判所のそれとは大部違ってい
た。倶楽部の責任者が、一人一人の前に立ち、罪状と受けた判決を告げた。
詳しく報告されるたびに、客たちは怒り、不快の声をあげた。彼らの犯罪の
惨さに憤り、判決の軽さにもう一度怒ったのである。しかしこの間、彼らの
目は、目の前で全裸でローストされている四人の美しい娘たちに釘付けにな
っていた。多少なりとも異常な連中である。かくも凄まじい拷問を受けてい
る四人の裸の娘の姿は、たちまち男たちのペニスを屹立させた。それは倶楽
部の計算の内にあった。女性客たちは細紐を持ち、男たちのペニスと睾丸を
根元でひとまとめにきつく結わえた。いくら興奮しても射精はできなくな
った。先ほどの男性客のお楽しみの時間につづいて、女性客の時間である。
329ナレーション(第二層b):2009/04/22(水) 22:38:34 0
目の前の男たちがレイプ犯である以上、彼らの最初の罰はレイプでなくては
ならない。それでは男たちを喜ばせるだけではないか、と思われる方は、彼
らの性器が根元で固く縛られていることを思い返していただきたい。彼らは
どれほど望んでも、オーガスムに達することはできないのである。それに、
女性客にしてみれば、先ほど自分の連れがロースト中の娘たちをさんざん楽
しんだ以上、こちらにも何かの特典があって当然であった。女性客たちは衣
服を脱ぎ捨てた。低い木製のテーブルが男たちの前に据えられた。アジア
女性の腰の高さで、彼女らが自由に動ける高さであった。レイプ犯たちは、
その上に置かれ、助手が一人づつ付いた。先ほどからの光景に全員が興奮し
ていたので、女性たちはいつでもOKの状態であった。彼女らは次々に木台に
上がり、屹立して震えているペニスを自分の性器に押し込んだ。男たちが射
精できないことなどお構いなしに、激しく腰を上下させた。十人の女性客が
いたので、一人に一つのペニスが与えられていたことになるが、サイズ、形
に飽きた女たちは、ペニスを交換して楽しんだ。全員が、五個くらいのペニ
スを楽しんだようであった。女性たちのレイプは、一時間ほどつづいた。
すべての女性が満足した。レイプ犯たちが以前にやったことをやり返したわ
けで、正義がなされたという安堵感が部屋に満ちた。また男性客たちも、
これで自分と自分の連れが五分五分になった感じで、全体にリラックスし、
気分が楽になったようであった。 男たちは、終ってホッと溜め息をつい
た。この「死よりも辛い処罰」は苦しくはあったが、なんとか耐えること
ができた。彼らは、レイプされること陵辱されることの辛さを知り、自分
たちが犯した罪の重大さを認めた。興奮の極みでオーガスムに達すること
のできない苦しみは、精神的にも肉体的にも、大変なものであった。しか
し、ともかく男たちは、処罰が終ってホッとしたのである。しかし、それは
大間違いであった。
330ナレーション(第三層):2009/04/22(水) 22:39:26 0





しかし、それは大間違いであった。




331ナレーション(第二層b):2009/04/22(水) 22:40:17 0
これは前奏に過ぎなかった。彼らの処罰は始まったばかりであった。ここは
東京倶楽部である。まだオードブルが出ていない。そろそろ、その時間であ
った。女性客たちが髪や化粧を直している間に、木台が片付けられた。助手
たちがレイプ犯の列を煉瓦の炉の前に並ばせた。炉の片側は18インチ幅で鉄
板がかけられていた。鉄板の下は真っ赤に燃える石炭である。男たちは横に
固く結ばれていたので、数人の助手だけで、列を動かすことができた。残り
は焼けた火掻き棒を持ち、抵抗する男がいれば、その尻に押し当てた。炉の
周囲には溝が切ってあり、そこに男たちは降ろされた。男たちは、自分たち
の運命を知った。ペニスと睾丸は結ばれたまま屹立していたが、それがグリ
ルのすぐ上に置かれたからである。少しでも萎えたら、たちまちジューと音
を立てて、彼らの剃られた性器は焼け始める。最初の数分は快適であった。
エロチックな感覚もあった。サウナのようでもあった。それは炉でロースト
されている四人の娘たちも同じであった。しかし、数分の内に熱が肉の内で
焼け始める。ペニスと睾丸の中で熱が脈打ち始める。直火で焼かれるよりは
いい、確かに最初の痛みは半分である。しかし、それは少しづつ、確実に増
加をつづけ、すぐに耐えられなくなる。彼らは本能的に腰を引こうとした。
しかし、すでに彼らを縛ったロープは、炉の横に定間隔で取り付けられたリ
ングにしっかり結ばれていた。膝、腰、首、肘が、しっかり炉に固定されて
いたのである。二、三メートル横で、二人の日本娘が裸で回っていた。串刺
しにされ、美味しそうな色になっている。

332714:2009/04/23(木) 15:03:04 0
>>315
>「トラブルは解決される」と、先の状況をただイメージするだけでいいんですよ。
>そして、特にがんばらなくてもその状況に流れていくだろうと、信じる事。
>つらい時って、やってしまった事を見て焦ってる場合が多いので、目先を変えるんです。

前向きに生きるのはいいことですね。
未来の良い状況をイメージするのは、一歩間違えると、
現実逃避的な妄想になってしまうかもしれませんが…

つらい時の生き方について、ひろさちや氏が「猫の道と猿の道」ということを書いていました。

中世の宗教哲学で、「猫の道か?猿の道か?」という論争があったそうです。
人間が救われるのは神の恩寵によるけれど、
救いは神に任せて、人間は何もせずにノホホンとしていて良いのか?という論争です。
ノホホンとして良いとするのが「猫の道」派。
子猫はじっとしていて、母猫が子猫の首をくわえて運んでくれる。
子猿の場合も母猿が運んでくれるのだけれど、子猿も一生懸命母猿にしがみつく。
子猿の側にもそれだけの努力が求められているのだ、というのが「猿の道」派です。

ひろ氏は、順境の時は「猿の道」を、逆境の時は「猫の道」を選ぶのが良いと書いています。
「逆境のときには、努力すればするほど、泥沼にのめり込む。そんなときには、
ほとけの加護を信じてじっとしていたほうがよい。そうして忍耐をつづけていると、
きっと逆境から抜け出せるのだ。」

僕の考え方は、猿の道派とも猫の道派とも違う〈諦め派w〉ですが、
ひろ氏の考え方にも賛成です。

>>316
>番組で挙げた例とにたような事ってけっこう、日常で経験してませんか?
>苦しみを立ち会う事がすなわち受け入れる事なんだとしたら、誰でも超人ですよ。

ん…。あんまり良いビデオではないと思います…
333714:2009/04/23(木) 15:04:11 0
>また同様に、道元は、仏になるには道が必要だ、誰でもそのままで仏なのではない、
>と言って、誰もが仏なんだと言う他のお坊さんと論争になったそうですが、

本覚思想というのがあって、それは、あるがままの世界がそのまま仏の悟りの世界であると考える思想です。
たしかにそういう側面があるのですが、その考えを極端に進めると、凡夫は凡夫のままでよくて、
修行する必要も全然ない、という考え方になります。 道元が批判したのはそういう考え方でしょう。

もし凡夫が凡夫のままで「この世界はあるがままで仏の悟りの世界だ」と考えるとしたら、おかしいでしょう。
仏の悟りの世界について語れる者が凡夫であるのはおかしいから。
だから「この世界はあるがままで仏の悟りの世界だ」と言えるのは、悟り(仏)の立場からでなければならない。

では悟りの立場とはどういう立場であるかというと、道元の考えでは、それは「行」(修行)の立場です。
〈修証一等・修証一如〉
(修行と悟りは別々にあるのではない。修行の結果として悟りがあるのではなく、
悟りを求めて修行するのでもない。修行の他に悟りはなく、修行が悟りに他ならない)
という考え方が道元の思想の基本にあります。
だから道元の考え方からすれば、自己の「行」が中心になければならない。
そういう「行」の立場から「この世界はあるがままで仏の悟りの世界だ」と考えるのならばokということです。

「この法は人々分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるには得ることなし」
(正法眼蔵弁道話)

自己の「行」(行為)を棚に上げて、他人事のように世界の物事について語ることはできない。
これは道元にもニーチェにも共通する考え方だと思います。


>どう思います?超人と畜群、仏と俗人を分ける意味ってあるんですかね。

ここまでは畜群、ここからは超人、「超人合格!」。 みたいに分けることはできないでしょう。

方向性を示すしるしのように考えれば良いのではないかと思います。
キリストの受難がアガペーのお手本としてのしるしとなっているのと同じように。
334714:2009/04/23(木) 15:06:19 0
>>317
>ジャッカルやキウイに比べてクジラを保護したいという欧米人の発想には疑問を感じますよ。

日本人の感覚も変わってきているようです。
朝日新聞の世論調査では、クジラ食賛成は中高年に多くて、20代30代の女性は賛成より反対が多いそうです。
http://www.asahi.com/food/news/TKY200802060421.html

伝統的食文化を守るといっても、伝統も変化します。
昔はイルカショーもなかったし、
うちの近所の水族館では、「クジラと泳ごう!」という
クジラと人との「心と心のふれあいプログラムw」まであるので、
それによって、Pちゃんを食べたくないのと似た心情が生じるのではないでしょうか。

食べたい人は賛成すればいいし、食べたくない人は食べなければいいし、
反対したい人は反対すればいいんだけれども、
こういう状況の変化によって、たぶん日本でも反対派はますます増えるでしょうね。


>決定論が抱えてる問題はよくわかりません・・・観念論ですよね?

観念論とは関係ないと思います。
決定論と自由意志の問題は、哲学では古くからの重要な問題の一つです。
カントのアンティノミー(二律背反)の一つにも挙げられています。
世界の成り行きと人間の行為の全てが決定されているとすれば、人間の自由な「決断」は、
実は「決断」でもなんでもなく、遺伝や環境などの〈必然〉の結果にすぎないことになってしまいます。
そうすると、道徳的責任も問われないことになります。
道徳的責任は〈自由〉を前提としています。

ニーチェも若い時からこの問題に関心を持っていて、17才の時に「意志の自由と運命」という論文を書きました。
そしてそれから約二十年後に〈運命愛〉という思想が生まれます。
335714:2009/04/23(木) 15:07:31 0
>>318
>「万法」ってなんですか?深そうです。ばんほう・・・といったい・・・。

万法は、すべてのものごと(すべての存在)という意味です。

凡人はなかなか存在そのものと一体になれないから、
(例えば人は過去や未来のことをあれこれ考えて、今此処に密着せずに、
今此処の存在から宙に浮いてしまって、うわの空で生きている。
釈迦が「ただ今日なすべきことを熱心になせ」と言ったのも、禅で「莫妄想」と
言われるのも、そういうふうな、存在の流れから宙に浮いた生き方を戒めています。)

だから(存在の流れと一体になれないから)、存在の流れを外側から見ることになり、
傍観的に〈はかなし〉と感じることになります。


>「巨人の星」のほしひゅうまって、ただこの野球狂のために路線脇の鉄柱にのぼり、
>やってくる電車中、新聞を読んでいる人の手元の新聞を読もうとしたと、

それはたぶん動体視力を鍛えていたんでしょう。
イチローは子供の頃、動体視力を鍛えるために、街を走っている自動車のナンバーを
覚えてそれを足し算していたそうです。

そのように、動体視力は訓練によって鍛えられるようですが、
それもやはり存在の流れと一体になっていないとだめでしょう。
あんなに速いのを見るのは無理だ!と思ってしまったらだめです。
「無理だ!」と思うことで、流れと一体になることを拒んでしまっているから。
(電車の中の新聞を読むのは、双眼鏡がないと無理!でしょう)
336714:2009/04/23(木) 15:10:18 0
>>319
>財力は強制力になるんですが、でも彼らにはそれがないので、
>彼らの思想やビジョンが素敵でも、なかなか浸透していきません。

その点について僕は、内山興正が『ある求道者の手記』の中で書いていることに共感します。
良い文章だと思うので、そのまま書き写します。

「まことに人間社会というものが、米櫃に入った米粒のように、たんなる〈人間の集まり〉であるにすぎないならば、
なるほど経済的にも豊かにし、政治的にも運営がゆきとどき、科学的にも便利なものを工夫してゆくだけで、〈人間〉
というお米を、かんたんに〈幸福〉という御飯に炊き上げてしまうことができるでしょう。
 しかし人間社会というものは、けっしてそんな米櫃に入っている米粒の集まりのようなものではなく、人間社会の
一人、一人が狼のように、モノタリヨウの牙をもった自分であるところにこそ問題があります。
 それでもし人間社会を、もっと根本的に向上させる道があるとすれば、それはどうしても、一人、一人の自己が、
真実の自己にどっかりと安らう以外にはありません。
 だからただわたし自身が、真実の自己にどっかりと坐って坐禅している、もはやそれだけで、わたしのなしうる
範囲で精一杯、社会を真実によくすることに力を捧げているはずです。わたし一個の人知れずする坐禅は、すでに
全社会にひびきわたっているのです。
337714:2009/04/23(木) 15:11:18 0
「しかしさらに、こんな一人のする坐禅に共鳴して、だれかほかに一人でも、坐禅するひとがあらわれたとしたら、
これはまた、じつに大した出来事だといわねばなりません。ところがお釈迦さまからこのかた、坐禅というタネは、
このようにして一人から一人に伝えられ、今日までいたっているのです。
 タネはなるほど、播かれてあっても、冬のうちはどうしても芽をふくことはないでしょう。しかし真実の坐禅の
タネさえ、この人間社会のどこかに残されてあれば、やがて春がくれば芽をふいて、大きく大きく成長するときが
くるにちがいありません。
 このときには、一人の坐禅が、連鎖反応のように多くのひとびとに伝播し、そのまた多くのひとびとの坐禅が、
ひとつひとつの連鎖反応をおこして、社会の全領域に伝わってゆくでしょう。そしてこの時はじめて、人類は
人間らしい歴史の第一頁をひらくはずです。わたしはこんな祈りにも似た悲願と確信とをもって、坐禅しています。
 いまの時代、こんなことをいえば、みなさんはわたしを夢みている人間といわれるかもしれません。
けれど狼のような〈自分〉と、〈自分〉と、〈自分〉とが、より集まっているこの社会を、ほんとうに向上させる
ためには、やっぱりまず自分が真実の自分である以外には、ないのではないでしょうか。」
338714:2009/04/23(木) 15:12:09 0
>>320
>女子高生コンクリート詰め殺人からもそんなものがうかがえます。
>容疑者たちはそれでも満足できず、刑務所を出てから、容疑者のリーダーは

前にもみうんさんから殺人の話が出た時に、僕は唐突な感じがしたのですが、
みうんさんは、殺人とか他人を傷つける事について、何か特別な思い入れがあるのですか?


>気が済んだのかと思えば今度は何時間もかけて火あぶりにし、
>気に食わなければたたき割って、また土を奪いにいくんですから。

器を叩き割る陶芸家って、メディアによってつくられたイメージのような気がするけど、
実際はどうなんでしょう。
そういう‘アーチスト’気取りの陶芸家も中にはいるんでしょうが、
少なくとも柳宗悦が高く評価するのは、そういう陶芸家ではありません。

この前の9つの条件の9番目に〈他力性〉というのがあって、
そこに、「個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、
目に見えない大きな力によって支えられているものである。」と書かれていました。
これは、〈無心の美〉が出てくるための大きな要素だと思います。
「大きな力によって支えられている」という自覚があれば、
その「大きな力」に対して謙虚になるはずだと思います。
339ナレーション(第二層b):2009/04/23(木) 21:09:57 0
娘たちの目は開かれ、十個の固いペニスと睾丸が鉄板の上で焼かれているの
を信じられない目で眺めていた。娘たちはもう、もがいても震えてもいなか
った。胸が上下するので、彼女らがまだ生きているのが分かるだけであっ
た。それももう長くはないであろう。シェフが二人、ケイコとマヤに香辛
料、調味料を振り掛け、鉄串を一段下げた。本格的なロースト、調理が始ま
ったのである。シェフたちが娘たちの調理に忙しかったこともあって、一物
焼きはもっぱら女性客の仕事になった。東洋女性の常として、彼女らは料理
を手伝うことをいやがらない。彼女らは、人間、しかも男性の性器を調理す
るのは始めてだったので、最初とまどっていた。しかしシェフが少し説明し
ただけで、たちまち要領を理解し、嬉々として一物焼きにとりかかった。
炉の熱は強く、まだ衣類を脱いでいなかった女性客、下着を残していた女
性客、ともに全部を脱いだ。なかなかに魅力的な女性ばかりである。10人の
裸の女性たちが、お喋りをし、くすくす笑いながら、熱心に仕事をしてい
る。調理用の長い火箸、フォークを使って、男たちのペニスをいじり、グリ
ルに押し付けたり角度を変えたりするのは楽しそうであった。 男たちの
叫び、嘆願は、すべて無視された。彼らのしでかしたことを聞いた以上、
まったく同情の余地はなかった。彼らのペニスを焼くのは市民の義務に思わ
れた。愚かな男たちの性器を拷問し破壊するのは、まことに適切な処罰であ
った。この常習のレイプ犯たちは、容易なことでは改心しない。しかし今夜
という今夜は、身にしみたことであろう。すぐに一物が、赤くなり、茶色
になった。火脹れになり、鉄板の上で跳ねている。焼け痕が模様になって着
いている。下、両サイドが網目になっているが、上は生のままであった。男
たちのペニスはは今、ジュージュー音をたてて、焼きソーセージになって
いる。湯気を立て、煙を吐いている。
340ナレーション(第二層b):2009/04/23(木) 21:11:37 0
男たちは全身を震わし、尻を痙攣させている。今は叫ぶこともできずに、
うめき、泣いていた。彼らの一番大切なところが、生きたまま調理されてい
るのである。苦痛は際限もなく、性器の各方角が鉄板に押し付けられる度
に、新しい苦痛が襲ってきた。長いブラシが取り出され、バーベキューソー
スが焼けたペニスに塗られた。裸の女性客たちは繋がれた男たちの間に割り
込み、オチンチンに近づいて仕事をしなくてはならない。彼女らは、もうレ
イプなんかしちゃダメよ、などと彼らの耳元に囁きながら、お尻を撫でた
り、叩いたりしていた。調理用のフォークが簡単にペニスに立つようにな
ると、ほぼ焼き上がりである。焼き始めてから10分ほどであった。丁度いい
時間である。女性たちに肉切り包丁が渡された。フォークでペニスを突き
刺し、動かないようにして、女性たちは男たちの性器をお腹の根元から切り
離した。男たちは新しい苦痛にまた叫んだが、いいこともあった。火で焼か
れる痛みがなくなるからである。同じときに始められ、一人に一人の女性客
が付いていたから、ほぼ同じタイミングで男たちの去勢が完了した。もちろ
ん運のいい者は手際のいい女性によって、さっと切り取ってもらえたが、運
のわるい者は、不器用な女性に何度も切り込みを入れられ、しかる後にやっ
と切除してもらえたのである。どちらにしても、女性客たちは堪能してい
た。正義の履行であったし、女性にとって究極のサディズムの喜びであっ
た。                      
341ナレーション(第三層):2009/04/23(木) 21:12:33 0





正義の履行




342考える名無しさん:2009/04/25(土) 19:44:20 0
>>332 714さん
>未来の良い状況をイメージするのは、一歩間違えると、
>現実逃避的な妄想になってしまうかもしれませんが…
日常生活の中で、現実からイメージが飛躍するのは、人間の欲望からして自然な事だし、有用性もたっぷりありますよ。
学問や芸術の中を通過させてふくらませるとか。
精神的生活の充実は、その度合いによって、近隣者とのトラブルも減らし、潤いも与えます。

>つらい時の生き方について、ひろさちや氏が「猫の道と猿の道」ということを書いていました。
全自動的な人生のために全方位的に欲望をカバーしたいというのは、猫派かな。
猿派って、しがみつく対象が何かによって、恥ずかしい事になりますよ。
だって、例えば714さんが何でも教えてくれてうれしいからって、
辛い時に必死にあなたにしがみついたら、恥ずかしいでしょう?
対象が、抽象的な価値観だったりした場合でも、
うしろ髪ひかれつつ、つかず離れずが、楽かなあ。猿派ね〜。
三つ目の「諦め派」って、どういうのですか?
343みうん:2009/04/25(土) 19:46:39 0
>>333
>もし凡夫が凡夫のままで「この世界はあるがままで仏の悟りの世界だ」と考えるとしたら、おかしい・・・
道元の言っている事をざっとまとめて相対化すると、
「私の立ち位置に立って、私と似た質の悟りを得れば、その人は仏、凡夫ではない。
脱凡夫のために、私と同じ行をし『なければならない』」」
道元は好きですが、こういう何でもかんでもお揃いにして空気読めよの発想は、
ガールズトークをする女子高生的じゃないですか。ちょっと批判的ですが。
彼は、その信念を核として、言語体系で制度化しました。これは素晴らしい事です。
しかし、行をし「なければならない」という強迫感も見え、これは中庸を損ないます。
これは、チャーミングな如浄和尚の毒舌、また激しい悟り体験からでしょう。

色んな人を観察してみると、、、
「ものをわかっている人」というのは、共同体をいくつかまたぎながら、
自分の熱中ポイントをうまく育てている人が多いです。
それらの人々の悟り体験の質は、実に見事にバラバラですよ。
また、「ものをわかっていない人」と言われる人でも、
現象の諸事情について、その構造を言語化しないだけで、
内部では動物的なカンによって制度化しています。これをゲシュタルトと言います。
「制度をもつ」この一点で、みんな仏だと、私は認めたいです。
344みうん:2009/04/25(土) 19:47:43 0
>>334
>朝日新聞の世論調査では、
アメリカで、FBIが動物愛護団体の人間を危険リストに入れ、
そのうちの一人をテロリストとして国際指名手配したそうですよ。
・ ・・アメリカの情報操作に、現状日本は従うだけです。
・ 世論がどう変わるかは、当座エシュロンが決めるでしょう。

ただ、かつての西ローマ帝国と似たような文化形態を持った国が、
過激な事をし続ければ、それに慣れた人々は堕落、やがて滅亡するでしょう。
クジラに関しても、なぜ保護対象がクジラ一点なのか、というのを神秘につつむなら、
動物愛護団体は新興宗教と変わらず、人は「NO」と言うでしょう。

>世界の成り行きと人間の行為の全てが決定されているとすれば、・・・
ふ〜む。ターミネーターの時系列ですね。決定論って。シュワちゃんは好きです。
時間は、一本の直線だと、言っている訳です。
ドラエもん(源流はドゥルーズ)では、時間は樹状、
ドラゴンボール(源流はニーチェ)では円環だと言いました。
これに対し、ハイデガーは「時間をモデル化するな」と言ったんですよね。
ハイデガーってすごくないですか?なんかもっとモデル化したい思いはありますが。
345みうん:2009/04/25(土) 19:51:36 0
>>335
>だから(存在の流れと一体になれないから)、存在の流れを外側から見ることになり、
>傍観的に〈はかなし〉と感じることになります。
妄想を形にすることを生業にしている人ってかなり多いですけど、
妄想を形にしながらうわの空で妄想して、妄想の入れ子構造を凡、とすると。
これはこれでなにか面白い感じがします。

ムージルが、「法則をたばねる大きな法則との合一」と書いていて、
それをやると、自己の存在を拡散させてしまう事になり、さながら狂気の淵ですが、
これと「万法との一致は」、共通点あるのかな。今ここが大事なんですね。

>あんなに速いのを見るのは無理だ!と思ってしまったらだめです。
「無理だ!」と思う前に流れに目を向けて、飛び込んだ先での集中力ですね。
大変な話です。野球狂って・・・理解に苦しみますよw彼らはUSA体質です。
346みうん:2009/04/25(土) 19:53:07 0
>>336>>337
お米と狼の話、すごく面白いです!
「座禅の連鎖反応」には、あついものがこみ上げてきますよ。
うめぼしで食べるおかゆ、丸い座布、けむるお香、鳥や木や、鐘の音と、
仏の前でととのえられた生活って美しいんですよね〜^^いいなあ。。。

ところで、714さんのお寺に行きたい話は、どうなったんですか?

お米と狼の話ですが、仏教は、檀家との癒着が、境内での商いが、と言われつつ
物質社会とも共和を図っているからいいんですけど、
例えばマザーテレサ、それからユニセフ・・・
彼らはただ単に「奇特な人」扱いになっているじゃないですか。
マザーテレサはゾシマ、アリョーシャのような地道な奉仕精神ですし、
ユニセフは、国内で少子化のさなか、子供の保護に意欲的なのにね。
彼らの意図は、緊急性を要しない議題として扱われていますね。
347みうん:2009/04/25(土) 19:54:55 0
>>338
>みうんさんは、殺人とか他人を傷つける事について、何か特別な思い入れがあるのですか?
死について理論的に考えた事がなくて、死を受け入れようと、
メディアで拾う衝撃的な死に少し反応してみるんですが、無理があるかも?
ごめんなさい。・・・哲学の中の、概念としての死に違和感があります。
この世には、連続された生のみがある、という考えが好きです。

>少なくとも柳宗悦が高く評価するのは、そういう陶芸家ではありません。
そうだなあ。ものを作っている人間の世界観って言うのは、
ロジックのような肯定と否定の二元世界じゃないんです、多元世界です。
ロジック思考は、イメージ思考と折り合いがつけづらいですね。
芸術を言葉にうつして、面白けりゃいいのかという問題もあるし。
彼ら全体の自我は、二元論の中で批判や賞賛にさらされるのではなく、
日本の現状では、まだまだ守られるべきものです、
言語による「批評」や「分析」ではなく、「表現」することが、彼らを守るでしょう。
何か変かもしれないですね。

http://www.bk1.jp/review/0000463916
この本面白いですよ。
348714:2009/04/30(木) 12:33:22 0
>>342
>全自動的な人生のために全方位的に欲望をカバーしたいというのは、猫派かな。

猫の道は、〈他力〉の道です。
仏教では、親鸞の「自然法爾」の絶対他力の思想がこれに近いです。
「自然法爾」は、〈すべておまかせ〉(仏さまに)ということです。
キリスト教なら、「汝の御旨の行われますまま」、神さまにすべておまかせです。


>辛い時に必死にあなたにしがみついたら、恥ずかしいでしょう?

本当に辛い時に、必死でしがみつかれたら、嬉しいと思います。
嬉しいというか、それ以上でしょう。
そのようなことは、一生のうちで何度も経験することではありません。

でも、辛い時に必死にしがみつくなら、
僕に〈すべておまかせ〉ということなので(違うのかなw)、それは猫の道です。
猿の道の〈しがみつき〉は〈努力〉のことを表していますが、
辛い時に必死にしがみつくのは、努力ではなくて、祈りか叫びのようなものでしょう。

349714:2009/04/30(木) 12:35:21 0
>>343
>道元は好きですが、こういう何でもかんでもお揃いにして空気読めよの発想は、
>ガールズトークをする女子高生的じゃないですか。ちょっと批判的ですが。

仏教は釈尊の教えを信じる宗教だから、お揃いでもいいのです。
でも実際は、それぞれの人にはそれぞれの個性があるので、お揃いにはならないでしょう。


>しかし、行をし「なければならない」という強迫感も見え、これは中庸を損ないます。

>「制度をもつ」この一点で、みんな仏だと、私は認めたいです。

道元の考えでも、根本的に見ればみんな仏です。
「生死は仏の御命」であり、だから仏の世界からは落ちこぼれようがない。
でも人間は、落ちこぼれようがない世界の中で、しばしば道を見失ってしまう。
だから、つまらないことで悩んだり、争ったりしています。
そのように人はしばしば道を見失うから、修行の必要性が出てくると思います。
(修証一如だから本当は、〈修行〉=〈真実の自己に安らう事〉=〈道を見失わない事〉です。)

「しなければならない」という「強迫感」は、しなければならないと思いつつも、
それができない場合に感じるものでしょう。
勉強でも仕事でも何でも、軌道にのっている時には、そういう強迫感はないと思います。
だから「しなければならない」と思う場合には、そのしなければならない事の中に
早く入り込むことが大事ですね。
流れの中に入り込んでいれば、「しなければならない」という思いもなくなると思います。
350714:2009/04/30(木) 12:37:25 0
>>344
>クジラに関しても、なぜ保護対象がクジラ一点なのか、というのを神秘につつむなら、
>動物愛護団体は新興宗教と変わらず、人は「NO」と言うでしょう。

その点は別にいいんじゃないですか。自分が問題と感じていることに対して
運動しているのだから。(あまり過激な運動は論外として)
たとえば僕は猫好きで、のら猫の現状に問題を感じているので
今から、のら猫保護運動を始めるとします(始めないと思いますがw)。
その時に、「なぜのら猫一点なのか!」「のら猫宗教じゃないのか!」
と言われたら、僕は「???」でしょう。


>これに対し、ハイデガーは「時間をモデル化するな」と言ったんですよね。
>ハイデガーってすごくないですか?なんかもっとモデル化したい思いはありますが。

たとえば、紙の上に一本の線を引いて「これが時間の流れです」と言うのはおかしいと思います。
それだと、自分は線の外、つまり時間の流れの〈外〉にいることになってしまうからです。
だから時間は、直線や円として、つまり主観に対する客観としてイメージできるようなものではない。
ハイデガーはそのように、時間と存在を自分の〈外〉に客観化しようとする思考法を批判しました。

道元の『正法眼蔵』に「有時」という巻があって、それはハイデガーの思想に似ていると言われます。
「いはゆる有時は、時すでに有なり。有はみな時なり。」
存在の流れが時なのだから、存在と時間は別々にあるのではなく、同じものである。
道元の思想においても、その有時を、〈私〉は〈外〉から見ているのではありません。
有時は、〈私〉を中心軸として展開します。
「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて、吾有時なり。」
「吾有時なり」、つまり、〈私〉=〈存在〉=〈時間〉です。
351714:2009/04/30(木) 12:38:42 0
>>345
>ムージルが、「法則をたばねる大きな法則との合一」と書いていて、
>それをやると、自己の存在を拡散させてしまう事になり、さながら狂気の淵ですが、
>これと「万法との一致は」、共通点あるのかな。今ここが大事なんですね。

共通点はあると思います。
ムージルはニーチェの影響を大きく受けた人で、「私が述べていることのすべては、
すでにニーチェやエマーソンがはるかにうまく表現している」と書いています。

エマーソンというアメリカの思想家は、仏教思想からも影響も受けた人で、
彼の思想は、自然との一体化、そして生の肯定を説く思想です。

ニーチェは高校生の時からエマーソンを愛読していて、その後もずっと、
エマーソンの『随想集』はニーチェの愛読書の一つでした。

ニーチェはエマーソンの『随想集』からたくさん抜書きしていますが、
その抜書きの中にも、〈今ここ〉がでてきます。
「脈絡のない、粗野で、愚にもつかない〈あそこであの時〉という言い草は消えて、
そのかわりに、〈今ここで〉が登場すべきである。」
352714:2009/04/30(木) 12:40:11 0
>>346
>ところで、714さんのお寺に行きたい話は、どうなったんですか?

澤木興道や内山興正が生きていれば、すぐにでも行きたいのですが、今のドイツ人住職
には彼らほどの魅力を感じないので、今すぐ行きたいという気持ちはないのです。
でも彼らの精神は受け継がれていると思うので、いつか行きたいです。


>マザーテレサはゾシマ、アリョーシャのような地道な奉仕精神ですし、
>ユニセフは、国内で少子化のさなか、子供の保護に意欲的なのにね。
>彼らの意図は、緊急性を要しない議題として扱われていますね

緊急性を要しないと考える人もいれば、緊急性を要すると考える人もいるでしょう。
要しないと考える人は、なぜ緊急性を要しないと考えるのか?
それはたぶん、自分には直接の危険が及ばないと考えるから、
つまり「自分には関係のないことだ」と思うからでしょう。

だからアフリカの子供が何千万人餓死しても、それは緊急性を要しない問題であり、
一方、豚インフルエンザは非常に緊急性を要する問題であることになります。
それは人間のエゴイズムとして、或る意味では自然なことでもあるのですが…

日本で6年間宣教活動をしていたコルベ神父という人は、ナチの収容所で、
死刑を宣告され、妻と子を思って泣いている一人のユダヤ人の身代わりになって死にました。
コルベ神父の生き方について、中学生ぐらいの子なら、
「ばかじゃないの?」と本気で思う子も中にはいるかも知れません。
でも、まともな大人なら、「ばかじゃないの?」とは思わないでしょう。
そういう生き方の理想があるということを理解しているからです。
353714:2009/04/30(木) 12:44:34 0
>>347
>死について理論的に考えた事がなくて、死を受け入れようと、
>メディアで拾う衝撃的な死に少し反応してみるんですが、無理があるかも?

こういうお話があります。
昔ペルシャに若い王が即位しました。王はペルシャの歴史を知りたいと思い、学者に
歴史編纂を命じました。学者たちは数十年を費やして、膨大なペルシャ史ができました。
そのペルシャ史を見て王は言いました。「あれから数十年、私も歳をとった。とても
これだけは読めないから縮めてくれ。」学者たちはまた数年を費やして、今度は
一冊にまとめたペルシャ史を王に届けましたが、そのとき王は既に臨終の床にありました。
王は言いました。「ご覧の通り、とても一冊は読めない。すまんが、ペルシャの歴史を
ひとことで言ってみてくれ。」学者の長老は答えました。「王様、ペルシャ人は、生まれて、
苦しんで、死にました。これがペルシャの歴史です。」 王はうなずいて、死にました。

誰も死を免れることはできないという事実が、今までも、
宗教や哲学や芸術を生み出す大きな源泉になってきたと思います。
哲学においては、その死を〈我が事〉として受け止めることが、特に大事になります。
(メディアで扱われる死は、〈他人事〉としての死でしょう)

例えばハイデガーによれば、人は日常生活において自己の死に向き合わずに逃避している。
しかし現存在が真に全体的であるためには、現存在は自らの死に直面しなければならない。
ハイデガーは、自らの死を自分に最も固有の可能性として担うことを「死への先駆的覚悟性」
と呼んでいます。この「死への先駆的覚悟性」によって、現存在は、日常性に埋没した
非本来的な在り方から、本来的に自己自身であることへと立ち返ります。
そのとき同時に〈時間〉も、モデル化された時間のような非本来的な時間ではない、本来的時間が現れます。
354714:2009/04/30(木) 12:50:09 0
>この本面白いですよ。

第一の対話だけ読んでみました。
ゼキという人の、あまりに素朴な質問がおもしろいと思います。
「なぜ人は絵を描くのでしょうか?」
「なぜわたしたちは見るのでしょうか?」

このような「なぜ…?」という問い、
そして、それに対する明確な答えを与え得ると信じているところに、
科学者にありがちな素朴さが出ているような感じがしました。

「なぜ…?」に対して答えを与えることは、〈意味づけ〉することです。
ニーチェは、「〈なぜ?〉に対する答えがないことがニヒリズムである」と言いましたが、
ニーチェやサルトルが言うように、存在そのものには、意味も理由もないと思います。

そのような〈意味づけ〉される以前の世界において、新たな意味をつくり出そうとする、
そういう所(意味と無意味とのはざま)で、多くの画家や音楽家たちは活動していると思います。
ゼキ氏はそういうことに対する考えが浅いように僕は感じました。
355ナレーション(第二層b):2009/04/30(木) 23:01:42 0
--cup をはずして 再度 片方に付き 200ml ほどづつ 注入します。--吸引
cup をかけて真空引きを行います。 --cup をはずして今度は 長い針で
脇の下あたりから大胸筋を貫通して乳房中心に針先が届くようにして 次に
cup をつけます。 --cup の中と乳房の間に 今度は空気では無くて液体を入
れ真空引きを行い、 同時に乳房内部には連続して 1000ml ほど注入しま
す。もしまだ余裕が あるようなら 追加します。 --真空引きを止め、cup
から 乳房を取り出し、観察します。--実験が終わったら 次の解剖の時ま
で、 内部の生理食塩水がほかに逃げ無いように 乳房の根元を圧迫するよう
な器具をつける。 --必要がなくなったら 一部開口部を設け 排出する。
--内容物をぬき去った 乳房の観察 1.2 正常な乳房の解剖 --正常時のまま
の乳房は、乳首もろとも縦に二つ割にします。 内部に乳腺組織や脂肪、
導管 などが医学書の通り見えるはずです。撮影時には 見やすいように 出血
した血液を 拭き取ってください。 --断面を見せるわけですから、切断個所
は 90度以上 カンシなどを使って広げて固定する必要があります。 --断面
の乳腺の乳胞を端から絞っていって やがて乳頭から 分泌される様にし、
それを観察します。 --縦割りにした 片割れの乳房の 外側半分の皮膚を
乳頭 乳輪を除いて なるべく皮下脂肪を 残して外側に取り外します。その
状態で観察します。 --次に 皮下脂肪であると思われる 乳腺を覆っている
部分を乳胞組織の集合体からはずします。 乳胞組織の集合体を観察しま
す。 --生理食塩水に 染料を混ぜ、点滴の準備をします。 点滴には なる
べくほそい針を50本以上は用意しそれぞれの末端の乳胞に刺します。
--できれば 自然に乳頭から 湧き出てくる状況まで 注入し、その後は
乳胞その他を直接搾り、各部位にどのように 伝わって行くのかを観察
1.2 ダメージを受けた 乳房の解剖--まず 解剖に先立って 乳房にダメージ
を与えます。
356ナレーション(第三層):2009/04/30(木) 23:02:32 0





ダメージ




357ナレーション(第二層b):2009/04/30(木) 23:03:08 0
基本的に ダメージを与える場合に 以下の点に 留意します。(1) 解剖を行っ
て 撮影に断面図を提供できる事 (2) ダメージの度合いは 再生不可能の
場合と 再生可能である程度の部分を造る。 (3) 刺し傷によるダメージは
注射針の 様なものと、アイスピックのような ものの両方に付いて 試みる。
--定量的にダメージを与えるために、直径4cm程度の 底面の 重さ5kg 程度
のものを用意しそれを 落下させる。乳房の下には 金床を置く。 --一回の
落下後とに高さを高くし 触診によって内部組織が つぶれた 状態を確認され
たらダメージを受けたとする。 --さらに 同じ高さから 数回 落下させた
場合を再生不可能な ダメージとする。--数時間の後に 解剖する。
358みうん:2009/05/02(土) 06:18:46 0
>>349 714さん
>勉強でも仕事でも何でも、軌道にのっている時には、そういう強迫感はないと思います。
道元は多く句を詠んだそうですが、美しい日本を詠ったモノ、
その中の一句起首で、
「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり」とありますが、
雪がすずしい?ん?何か無理がある・・・と思わせますよね、で、その句が
「鼻チント一花ツマミテ冷(スズ)シカリ不」の満尾の句につながります。
やっぱり雪で涼しいと感じるより花で涼しいと感じたい、
気持ちがついていってないまま無理をして、しばらくして素に戻ったんだな、
とニヤニヤしてしまう箇所ではあります。まぁ下世話な話ですけどw
修行中「無理だ!」と思ってはだめっちゃだめなんですが。。。
ただ、厳しい修行の中で、なにごとか真理をつかもうとした姿勢には、
例えばドストの「地下室の手記」主人公にみられるような、
さんざめくめまいのなかで光明を見いだすたぐいのドラマ性がみられて、
この人の体験が映画になったのもうなづけるな、と思いますよ。
見応えのある人生です!
359みうん:2009/05/02(土) 06:20:07 0
>>350
>たとえば僕は猫好きで、のら猫の現状に問題を感じているので
私も、のら猫によくツナ缶とかあげるんですよ。お酒も飲ませたりw
のら猫の現状ってどういうのですか・・・?

>時間は、直線や円として、つまり主観に対する客観としてイメージできるようなものではない。
そうなると、決定論の時間に関する概念はおかしいという事になりますね。
どうでしょう?

ハイデガーは、「時は自熟する」といってましたが、
ボーヴォワールの「時は物体を串刺しにする」ってのも、
食べ物を連想させて好きですよ。
なんかハイデガーはワイン、ボーヴォワールは焼き肉、道元のははダンゴかな。
今度は誰かが「時を食べ物に例えるな」と言うんですかね。

概念というものには視覚モデルがくっつきやすいです。
人間から視覚を取っ払ってしまえば、問題は解消されますが・・・
昔、五感を完全に遮断する人体実験があって、
閉鎖された部屋で48時間、特殊な服を着て麻酔を打ち続けた人を、観察したそうです。
http://pii-desu.hp.infoseek.co.jp/jikkenn2.htm
1割以外は神経衰弱になったそうですが、
生還した一割の人たちに「時間ってなに?」って訊いてみればよかったですねえ。
360みうん:2009/05/02(土) 06:21:31 0
>>351
ムージルもエマーソンも、ニーチェも仏教を愛していたんですね。
仏教というのは洗練された力づよい思想で、人を一気に束ねます。

こないだ、柳の作品と論理の関係についてちょっと触れましたが、
柳の作品に関しても、現代人はやや「もの」信仰に偏り気味です。
単なるコミュニケーションツールであったものが、幅をしめた訳です。

また、昔風刺画から漫画が派生し、やがてオタク文化が生まれましたけど、
貧民層の文化と結びつき、またキャラ信仰も生まれ、カルト化しました。

それでは人々がそれぞれダマのようになってしまうので、最近、
仏教が見直され、また仏教の実在化、普遍化ということで、
数年前からみうらじゅん氏の活躍が目立ちますが、
714さんてみうらさんの
「宗教観のない仏像マニア」「世間にあふれる種々雑多なオブジェクトのカオス化」
みたいな見地ってどう思います?
偶像が欲しいからただちに仏教というのも、はたしてどうかもとは感じでいますが。
361みうん:2009/05/02(土) 06:22:40 0
>>352
>でも彼らの精神は受け継がれていると思うので、いつか行きたいです。
私も行きたいなあ。私も行きたい(・∀・)

>日本で6年間宣教活動をしていたコルベ神父という人は、ナチの収容所で、
>死刑を宣告され、妻と子を思って泣いている一人のユダヤ人の身代わりになって死にました。
ガス・ヴァン・サント「ラストデイズ」って映画ありますが、
主人公のニルヴァーナは、は神の身代わりとして、自ら命を絶ちます。
彼があがめる神とは、キリスト、全人類の罪を一挙に請け負った人だから、
それを受けて死ぬニルヴァーナの死は重いということになりますね。
実際のニルヴァーナはステージに立つ前にパニックになったり、
色々問題抱えてたようですが、それでも、彼の死は英雄的です。

日本人には、もともと身代わりの美学ってあると思うんですよ。
武士が、忍者が、助けるべき幼い娘さんを、例えば娘が洞窟に監禁されていたなら、
監禁された洞窟をたたえた山への集中砲火が続く、戦乱の果てに崩れ行く洞窟の中で、
がらがらと落ちてくる岩石を渾身の力で持ち上げ、わずかな空隙を作り、
人間の力ではとうてい抵抗できない重力の拷問に力つきる直前、娘に
「先に行け、振りかえるんじゃない」と血管を浮き出させながら叫ぶ、
娘がようやく助かり、思わず振り返ると、塹壕だけが残されていた・・・
なんかそういう悲劇を、日本人は感情で理解できる国民なはずですよ。
コルペ神父も、人の身代わりになれる、精神性をそなえた人です。
この人はあえて英雄として、どんと前に出る感じでは、ないですね。
そこがいいかな。714さんの意見に、とても共感します。
362みうん:2009/05/02(土) 06:24:22 0
>>353
ペルシャ王のお話を読んで涙が出そうになりました。
学問は一日にしてならずですね。それは徒労なのか、私にはわかりません。

>現存在が真に全体的であるためには、現存在は自らの死に直面しなければならない。
ハイデガーはニーチェと違って堅まじめな人物のようで、
ヒトラーの言い分にもしっかりと、自分のもつ分野である哲学で答え、
戦争と死をも論文によって思想化、体系化しました。本文を全うしています。
多くの能力者を一挙に束ねたヒトラーの「我が闘争」を、
さわりだけ読んでみて、何か違和感を感じるのでネットで調べると、
http://hexagon.inri.client.jp/floorB1F_hss/b1fha400.html
予知能力がどうのとか書いてあります。
我が闘争では、こんな風に書いてあります「自分の生まれた土地を愛したい、
だからゲルマン以外の民族はいらない」・・だいぶ飛躍しているようです。

飛躍しやすい思考で、物事をながめると、その連続性にストレスを感じるんですね。
そのストレスを何とかしようと、さまざまな形而上的な学問に手を付け、
演説もまたヒステリックだったのかもしれません。
色々やって、自分を追い込むと、脳が疲れますが、脳が疲れると、
デジャビュをみたり、フラッシュバックを見たり、意識の時間配列が狂います。
それでも彼には社会分析力の素地が残っていたので、予知を出来たんでしょう。
そこまですると、万能感がでて、もう死など些事にすぎなくなるんですね。

この病理に全力で釣られノックアウトされた、ハイデガーは哀れな人です。
363みうん:2009/05/02(土) 06:25:53 0
>>354
>そのような〈意味づけ〉される以前の世界において、新たな意味をつくり出そうとする、・・・
無意味の意味性については芸術家はあれこれ工夫してると思います。
例えば、画像をお見せできなくて残念なんですけど、一枚の絵の話・・・
キスをしている二人の男女の絵があって、そのキスは互いを食らい合っているように
錯視の技法をつかって描かれています。二人は互いをむさぼり一つになっていきます。
恋人への凶暴なまなざしというのは作者にとってはリアリティがあって、
既成のスイートな「キス」の意味性を、いったん剥がして、張り替えてるんです。

そういう絵を描く人の感性というのは、いつでも子供のままです。
いつも驚きに充ち、知らない事だらけで、想像力をかき立てられています。
だから、ゼキさんのように、当たり前の事に「なぜ?」と問えるんですね。

そういう人をみると不思議な気持ちになるでしょうが、
芸術系の人間はそういう人多いです。
6歳児の精神か、15歳の精神か。性的な成長期に大きな原体験があって、
そこで体験に魅了され、意識的に無意識的に、立ち止まり続けている訳です。

小さい頃、らくがきを憶えた事がうれしくてたまらない人とかね。
通称「ラクガキング」寺田克也ののライブペンティングです。
http://www.youtube.com/watch?v=KjMNcnV3IPY
http://www.youtube.com/watch?v=7KpUhQM6hFk&feature=related
364714:2009/05/07(木) 14:54:10 0
>>358
>「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり」とありますが、
>雪がすずしい?ん?何か無理がある・・・と思わせますよね、で、その句が

「すずし」は、〈心がさわやかである、わずらいがない〉というような意味で、
「雪」だけではなく、「花・鳥・月・雪」のすべてを受けているそうですよ。
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-zen24.htm

このサイトにも書いてありますが、道元はこの歌の詞書として「本来の面目を詠ず」と書いています。
この歌は、「花・ほととぎす・月・雪」と、春夏秋冬の自然の景色を一つずつ並べているだけなのに、
なぜそれが、「本来の面目(真実の姿)」なのか…。

道元は、たんに自然主義的に春夏秋冬の景色を詠んだのではないと思います。

この歌は、十牛図でいえば、第九図に相当するのだと僕は思います。
http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_46.htm

花が咲き川が流れる第九図の自然は、第八図の「空」の世界を通過した後の世界です。
道元の言葉でいえば身心脱落した後の世界でしょう。
第一図から第八図へ向かう道が〈色即是空〉であるとすれば、
第八図から第九図へ向かう道は〈空即是色〉で、そこには、否定から肯定への転換があります。

否定から肯定への転換については前にも書きました。>>74 >>92 あたりで。
そう考えると、道元のこの歌は、あの時の「舎利子見よ空即是色花ざかり」に似ているかもしれません。


(ハイデガーは、十牛図の第九図とその偈の「水は自ずから茫茫、花は自ずから紅」の句に感動して、
「ジレジウスの詩のようだ。」と言ったそうです。)
365714:2009/05/07(木) 14:55:03 0
>>359
>のら猫の現状ってどういうのですか・・・?

のら猫の問題については実はあまり深く考えていないのですが…
一番の問題は捨て猫でしょうね。
うちの近所ののら猫は洋風なのが多いので、それは捨て猫そのものか、その子孫なのでしょう。

そういえば…
うちの裏は山になっていて自然が多いので、タヌキもいるのです、と、最近まで思っていました
が、どうやらそれはタヌキではなくてアライグマらしいことが、つい最近わかりました。
「アライグマと台湾リスの被害に注意してください」という市の広報の張り紙があったので。
アライグマも台湾リスも、捨てられたペットが野生化したものらしいです。

僕は近所ののら猫がアライグマに襲われているのを一度目撃しました。
のら猫が台湾リスを捕まえてもてあそんでいるのも、何度か目撃しました。
捨てられたペットの子孫たちが、闘いを繰り広げているんですね…

(調べてみたら、ここはアライグマと台湾リスの生息密度が高い地域のようです。)
366714:2009/05/07(木) 14:55:56 0
>そうなると、決定論の時間に関する概念はおかしいという事になりますね。
>どうでしょう?

そう思います。(決定論にもいろいろあるとは思いますが…)
ニーチェは、宿命論(≒決定論)は傍観者的態度であると批判して、次のように書いています。
「哲学的感受性の現代的形態としての宿命論でさえも、神の摂理への信仰の帰結である。
すなわち、一切がどのように成り行くかは我々次第ではないかのようだ。(我々は物事を
あるがままの成り行きにまかせて良いかのようだ。)」

ニーチェの考え方は、宿命論とは違って、「一切がどのように成り行くかは我々次第で」ある、
そして我々は、我々の行為を通して、世界に対して常に創造的に関与している、という考え方です。

「あるべき世界はあるのだ、現に存在しているのだという信仰は、あるべき一つの世界を
創造することを欲しない非生産的な者たちの信仰である。」

『ツァラトゥストラ』にでてくる〈子ども〉の精神は、そのように、世界に創造的に関わっています。
〈子ども〉は、「一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力で回転する車輪、一つの第一運動、一つの聖なる肯定である。」

この「一つの新しい始まり」「自力で回転する車輪」は、
道元の「有時」が、「吾有時」として、〈私〉を中心軸として展開するのに似ていると思います。

例えば『正法眼蔵』「現成公案」の最後の所〈ただ扇を使うのみ〉は、〈自力で回転する車輪〉に近いものがあると思います。
「麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住、無処不 周なり。
なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、
いまだところとしていたらずといふ ことなき道理をしらずと。僧いはく、
いかならむかこれ無処不周底の道理。ときに、師あふぎをつかふのみなり。 僧、礼拝す。」
367714:2009/05/07(木) 14:57:00 0
>今度は誰かが「時を食べ物に例えるな」と言うんですかね。

「時熟する」の原語は‘sich zeitigen’ですが、ドイツ人が‘sich zeitigen’という語から
食べ物を連想するのかどうか…? 僕にはわかりません。
そもそも「時熟する」という訳が、良い訳なのかどうかも問題でしょうね。
どんなに頑張っても、翻訳には限界があるから、翻訳の訳語に引きずられてしまう危険は常にあります。

ソシュールが、言語は〈差異の体系〉であると言ったように、それぞれの言語によって
差異化の仕方が異なっているので、例えばフランス語では、犬と狸の区別がないらしいし、
蝶と蛾の区別もないらしい。 だから「蝶」=‘papillon’ではない。
また、日本語では「水」や「湯」という語には温度の違いが含まれているけれども、
英語の‘water’には含まれていない。「湯」をあらわす場合は‘hot water’と言う。
だから「水」=‘water’ではない。 などなど、全てにわたって違いますね。
したがって、〈正しい〉翻訳は不可能ということになり、だから翻訳者は苦労します。

いま僕は上田閑照が書いた『十牛図』を読んでいますが、上田氏もそれに似た苦労話を書いています。
彼が若い頃、ドイツの大学で仏教思想の講義をすることを頼まれた時の話です。
彼は自分が漢語日本語として理解している事柄を、もとの言葉(つまり漢語日本語)から引き離して、
事柄として把握し得るのか? そしてそれを伝え得るのか? という疑問に悩まされたそうです。

「はじめからドイツ語で聞くドイツ人聴講者は、自分たちの思想土俵であるそのドイツ語がドイツ語として
持っている西洋思想史上の含意を込めたままで聞きとらざるを得ない。ということは、はじめから西洋思想的に
解釈されて受け取られることになるわけである。die Naturと言えば、「自然」の訳語としてではなく、
はじめからNaturというドイツ語として聞くからであり、das Nichtsと言えば、「無」の訳語としてではなく、
はじめからNichtsというドイツ語として聞くからである。」(『十牛図』)

そして、悩んだ末に上田氏が思いついたのが、十牛図をテキストとして使うことだったそうです。
368714:2009/05/07(木) 14:58:43 0
>>360
>714さんてみうらさんの
>「宗教観のない仏像マニア」「世間に是あふれる種々雑多なオブジェクトのカオス化」
>みたいな見地ってどう思います?

みうらじゅんの仏像観ってよく知らないのでなんとも言えませんが…
「宗教観のない仏像マニア」は、それはそれでいいんじゃないでしょうか。
仏像が造られるようになったのは、釈迦が亡くなってから500年以上経ってからのことで、
だから仏教にとって仏像は、それほど本質的なものではないと僕は思うので、なおさらそう思います。


>>361
>日本人には、もともと身代わりの美学ってあると思うんですよ。

それは〈潔く咲き、潔く散る〉みたいな武士の美学に通じるんじゃないかと思います。
でも、それが美学である限り、『私はそれを美しいと思う、だから私はそうしたい』というような、
〈私〉の好み、趣味を示していると思うので、その点でそれは〈私中心〉の見方なのだと思います。

コルベ神父の行為は、信仰にもとづく〈神中心〉の行為だろうから、それとは質的な違いがあるのでしょうね。
ガラテア書でパウロが「最早われ生くるにあらず。キリストわが内にて生くるなり」と言っているような、
〈私中心〉ではなく〈神中心〉の行為なのでしょう。
369714:2009/05/07(木) 14:59:32 0
>>362
>この病理に全力で釣られノックアウトされた、ハイデガーは哀れな人です。

「全力で釣られ」たのかどうかはわかりませんねぇ…。 「ノックアウト」はされていないでしょうw
ハイデガーとナチスについては、かなりジャーナリスティックな問題提起が3回ほどあったようです。
どれもフランスで起こっています。
最初は、『レ・タン・モデルヌ』という、サルトルが主宰した雑誌で取り上げられました。
でもサルトル自身は、ハイデガーのナチ加担の問題について口を閉ざして、
「この問題はあまりにも大きすぎて私には語れない」と言ったそうです。
〈アンガージュマン〉と〈ヒューマニズム〉の人であるはずのサルトルが、この問題について
語れなかったということが、これが簡単な問題ではないことを示していると思います。
もしサルトルがこの問題について語り、ハイデガーとの対話を望んでいたら、おそらく、
今よりもハイデガーの真意がわかって、そのほうが良かったでしょうね。


>>363
>そういう絵を描く人の感性というのは、いつでも子供のままです。
>いつも驚きに充ち、知らない事だらけで、想像力をかき立てられています。
>だから、ゼキさんのように、当たり前の事に「なぜ?」と問えるんですね。

ゼキ氏の「なぜ?」という素朴な問いに、バルテュスは苛立っていたようですよ。
「なぜ人は絵を描くのでしょうか?」というゼキ氏の問いに、
バルテュスが「なぜ人は何かをするのでしょうか?」と問い返したのは、
答えられない質問をするゼキ氏への皮肉でしょう。
370ナレーション(第三層):2009/05/09(土) 00:35:21 0





神の前に跪け。




371ナレーション(第二層b):2009/05/09(土) 00:40:32 0
性器の周りの肉を楕円形に切ったら、そこで小刀をいったん置く。 少し休ん
で後、両手を使って楕円形の肉を引き出す。そのまま中身が付いてくるであ
ろう。ずるずると引き出す。 まといついてくる筋や脂肪を切り払って、綺麗
に皿の上に置く。助手に素早く水洗いをさせる必要があるだろう。 この辺を
手際よくやってほしい。ついでにXXXXの全身にも桶の清水を打ちかける
といい。小刀もこの機会に脂を洗っておくのだ。 清水でXXXXの気分も引
き締まるから、いよいよ切腹である。みぞおちから真下に向かって縦に切り
下げることが、 最大の注意点である。横に切ってはいけない。それは無骨
な男のすることである。 内臓を傷つけないように、小刀を浅く保たなくては
ならない。 へその真上を切る。筋肉の筋があるために、いささかの抵抗が
あるが、気にせずにグイと切り下げる。 そのまま恥骨にぶつかる。ガツンと
音がするほどの勢いがほしい。腸が流れ出すが、かまわずに膝立ちの膝を広
げていく。 股が開いて、そのまま床に着くのが理想だが、XXXXの身体
は柔らかいのかな。 まあ、それほど心配しなくてもいい。その場になれば必
ずできる。できなかったら助手に股の筋肉を切断してもらえばいいのだ。
以後のことは、助手に任せるしかないだろう。どんなに手を打っても、ここ
でXXXXの意識はなくなる。 後は、臓器を傷つけないように、切り分け
ていくだけである。 これ以上ない新鮮な臓器である。世界中の人々がその
美しさに驚くであろう。ご苦労であった。XXXXは今年最大のスターとな
るであろう。
372みうん:2009/05/09(土) 04:18:23 0
>>364 714さん
>道元は、たんに自然主義的に春夏秋冬の景色を詠んだのではないと思います。
多分そうですよね。雪の中、というそのままの自然の中にいながら、
心身脱落し、その後のやわらかな心象を、華厳の風雪に描こうとしていた
と読み取れますね。でもやっぱり雪は冷たかったと。
それで、間接的にでも肯定に向かおうとしたんじゃないかと思います。
その辺の心の軌跡が、句の中に誠実に、鮮やかに描かれていて好きだな〜。

道元は句を詠む事で、自身の行を記し、内面も反映させましたが、
枯山水の中に自身の世界観を移し込んでるお坊さんもいるようですね。
これも鮮やかです。本人も心象を庭に構成してる、と言ってますね。
http://www.kenkohji.jp/s/japanese/majojwork/japanese_g.html
373みうん:2009/05/09(土) 04:19:13 0
>>365
しかし変わった生態系のとこに住んでますねえw
親戚の居住区も、猿、極楽鳥、イグアナと変なペット多くて、「珍獣地域」です。

人間が、動物を外国から国内にと移動させる事で、生態系は変わりますけど、
そういう、人間の社会的行動も生物の摂理は受け入れるでしょうし、
生態系が人間の存在によって変わり、いくつかの生命が絶滅しても、
大げさに問題視する事でもないかなあと。いつだってどこかで生命は絶滅してますし。

多少海外と疎通性があるからガラパゴス並みにはいきませんが、日本も島国だし、
島の中で動物が入り乱れて面白い進化をするかもしれませんね。

動物被害なんかの話もよく聞くんですが、だいたい人間のエゴイズムと商売根性が
被害を広げてるみたいです。山や川の食べ物を独占するから畑に動物がくる訳で。
意地悪しないで他の動物と分け合ったらいいと思います。
タイでは、やむなく畑に来るゾウのために、森の真ん中に果物のレストランを作ったとか。
大繁盛なようですよ。
374みうん:2009/05/09(土) 04:22:17 0
>>366
「歯車に乗ってさえいれば、自分はどこまででも運んでもらえるが、至極窮屈である」
みたいなことは、チャップリンが殺人狂時代で述べましたよね。
「成り行き任せか飛び込むか、それが問題だ」とシェイクスピアも言いました。

ビジネスの世界は、人間の行動をマニュアル化して、
「こうすればこうなる」で動いてますね。決定論的な世界です。
突発的なアクシデントも、マニュアルに組み込まれ、処理されます。

それを皮肉るように、何の映画だった失念・・・イタリア映画だったかな。
曇天、少年が巨大ながらもどこかうらぶれたテントをパラッとはだけると、
そこでは真っ黒な機械がサーカスのためにガタゴトとうなりを上げ、蒸気を噴き、
その機械に挟み込まれるようにして猿が点々と配置されて歯車を漕ぐ・・・
さながらそれは壊れたおもちゃのようで、悲しげ、恐ろしげに描かれています。
少年は、目を剥き、テントを取り囲んだ泥溜まりを踏みしめながら一目散に逃げます。
その逃げっぷりがめちゃくちゃで可笑しい映画だったんですが、
「逃走論」を浅田彰がかいたように、「逃げる」という行為は、
消極的ながらもシステムへの改革の意思を含んでもいて、人間的でもありますね。
375みうん:2009/05/09(土) 04:23:14 0
>>367
語の意味について、万人で共通の理解をいつでも出来たらいいですが、
そうはいきませんしねえ。それならって訳じゃないですが、
海外の作品の「超訳」だとか、遊び心があって好きですよ。
そうやって、一冊の本の読み方が国、地域によって変化が出るのを
分布図にまとめられるなんかしたら、面白そうですよね。

それにしても、714さんって、
「ただ一個の究極に正しい解釈」みたいなのにこだわりがあるようですね?
いつも客観的な人なのにこの点では不思議と主観的です。
どうしてかな・・・?
376みうん:2009/05/09(土) 04:24:48 0
>>368
>みうらじゅんの仏像観ってよく知らないのでなんとも言えませんが…
みうらじゅんの仏像探訪記、おいときますね。
ダルダルな感じで何となく仏教に親しむというスタンスが独特です。
http://nara.jr-central.co.jp/campaign/butsutan/murouji/index.html

仏像がなかった時代、仏陀の教えは記憶に止められ、語り継がれ、
逸話はイマジネーションで次第に肉付けされていったんでしょうね。
貴重な500年です。神秘的ですよ。原始仏教についての研究もあるようですね。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1196881.html

>〈私〉の好み、趣味を示していると思うので、その点でそれは〈私中心〉の見方なのだと思います。
武士の滅私奉公というのは、公共的に約束された構築的な美で、
それぞれがそこに関わる事で始めて成り立つから、
個人の趣味でするモノじゃないと思いますよ。
コルペ神父の行為と無理無理分ける事もないように思います。
犠牲愛というものは、どれも尊いモノです。
誰でも、何か犠牲にして成し遂げようとしている事はあるし、
それを思えば、彼らに理解や共感をする事は十分可能です。
377みうん:2009/05/09(土) 04:25:50 0
>>369
ハイデガーの急進的な改革精神の裏に、民衆への差別意識があったのは確かですね。
コーカソイドは闘争本能が強いし、だからこそ民族が入り乱れて、
結局は同居しながら互いに理解に苦しみ差別心をたぎらせるのがパターンのようです。
異質なものを見下すのは人間の動物的な側面で、殺人衝動とともに発展します。
そこに身分制度がガッチリ組まれていて、閉塞状態になりやすかったんですね。

無節操に何でもかんでも外国の文化をとりいれて喜ぶ日本人は平和かというと、
ヒエラルキーの維持と産業向上のために、お上が積極的に身分差別を推奨してて、
団結力と実践力で武士を蹴落とす勢いを持っていた農民を、あえて武士の下に置き、
苦渋をなめさせながら生かさず殺さず、なんてことをやっていましたよね。
これでよく暴動が起きていました。
今もこの制度の名残はあって、部落差別みたいなことやってる地域もあります。
外国人にとっては神秘のようで、グーグルが穢多の居住地域を3Dマップにして
世界に公開するそうです。
http://news.yahoo.com/s/ap/20090502/ap_on_re_as/as_japan_google_dark_secrets
378みうん:2009/05/09(土) 04:26:37 0
つづき)

>バルテュスが「なぜ人は何かをするのでしょうか?」と問い返したのは、
どうでしょうねえ。バルテュスさんは、学者だから、
ゼキさんの中で言葉にならないものを何とか具体化したかったんじゃないですか。
理詰めで何とも出来ない部分を何とかしたい、みたいなの。

芸術家の脳というのは心理テストで例外ばかり生み出して、常に創造的なので、
お医者さんや学者さんにとっては研究対象としてとても魅力的なようです。
のんびりやで奔放なゼキさんと、几帳面でノーブルなバルテュスさんは、
好対照で面白いです。
379ナレーション(第三層):2009/05/12(火) 00:29:56 0





男は神の前に跪き、その屹立した男根を必死にしゃぶり続けていた。




380ナレーション(第二層b):2009/05/12(火) 00:31:34 0
製材所のラインの上に全裸で縛られている若い女性について、次のことが
分かっています。 私の取材メモのままに、書き記します。 二十五歳、
九州の出身であること。 XXXXとXXの間の長女。名前はXXX。
音楽家、コントラバスの演奏家であること。 音楽大学を卒業し、そのまま
XX交響楽団に入った。これはきわめて例外的なことで、彼女の技量が並々
ならぬものであった証拠です。 今時、音大を出てプロのオーケストラに
就職できる幸運な学生は少ないのです。 そのオーケストラの機関誌に、
彼女についての記事がありました。 ちょっと変わった記事です。投稿と
あり、書き手は分かりません。以下がその全文です。
381ナレーション(第二層b):2009/05/12(火) 00:32:28 0
私はサントリーホールのP席が好きである。サントリーホールのP席とは
舞台の奥にある客席のことである。 P席の客は、普通のA席B席などの客
と向かい合って座る。そもそも、この席は安い。 舞台のすぐ前のA席と
演奏者からの距離は同じである。それでありながら、値段は半分以下であ
る。 声楽、バイオリンなどの演奏会は、たしかに顔が見えるA席がいい。
しかしオーケストラは断然P席なのである。 普通の席では、指揮者の顔が
見えない。それでは演奏会のもっとも美味しい部分を見逃すことになる。
演奏中の指揮者の形相はものすごい。笑ったり、泣いたり、怒ったり、とて
も正気とは思えない表情をする。それが楽しい。 P席に座ると、まるでオ
ーケストラのメンバーになったような気がする。指揮者と真っ正面に向かい
合う。 指揮者がオーケストラの後方の金管や打楽器に棒を向けると、まる
で自分に指示が来たようで、胸がドキドキするのである。 しかし、最近、
そんなことなど問題にもならないほどのP席の美点を発見した。 ○○響に
はめずらしい女性のコントラバス奏者がいる。彼女の後ろ姿が素晴らしい
のである。 先日もマーラーを聴いたが、やっぱり素晴らしかった。その
後ろ姿はP席からでなくては見えないのである。 マーラーの例によって
沈鬱なベースラインを、全身で演奏している姿が健気である。 すらりと
した黒いドレスの後ろ姿が美しい。高いスツールに丸い片尻をのせている
様が、色気たっぷりである。 そして、後ろから見ていると、その丸い片尻
が指揮者の棒に合わせて、終始もぞもぞと動いているのである。 上半身
と足は動かない。スツールの上の片方の尻だけが、別の小動物のように活
発に動いたり、震えたりしているのである。 なぜ、片尻だけが動き、震
えているのであろうか。若い女性が、全肉体、全官能を演奏に打ち込むと、
自然にそうなるのであろうか。
382ナレーション(第二層b):2009/05/12(火) 00:34:13 0
XX響の演奏会にいく楽しみが増えた。私はP席と彼女のファンである。
以上が○○響の機関誌に載った文章です。 コンサートの客に無料配布さ
れる上品な小冊子にしては、ちょっとお色気のある文章です。 楽団に問い
合わせましたが、郵送されてきた原稿だったというだけで、とくに印象に
は残っていないとのことです。 毎号、十通以上の投稿を紹介しています
ので、無理もないかもしれません。 さて、片尻が絶品であったという彼
女が、なぜ古い製材所のラインの上に全裸で縛られているのか、その点に
ついて、いくらかは分かっています。XXプロダクションのスタッフが当の
ビデオテープを買ったときに、売り主から聞いた「話」です。 多くの場合、
こういうケースの「話」は、誇張、歪曲、嘘のかたまりですから、まあ当て
にはなりません。 なりませんが、それは次のようなものだったそうです。

この娘は日本を代表するコントラバス奏者になるはずであった。素晴らし
く艶のある音を出していた。 時によっては、彼女のたった一本のベース音
がオーケストラ全体の響きを一変させたと言われたこともあった。 しかし
上の投稿が機関誌に掲載されてすぐ、彼女は演奏ができなくなった。詳しい
説明もなしに、退団してしまった。 ヘルペスがその原因であると噂が流れ
た。 ヘルペスの痛み痒みは、それが我慢できる範囲内であったときは、
彼女の肉体、官能を演奏に駆り立てる力になっていた。 壊れる寸前の緊張
と高揚が、彼女の音楽を支えていたのでしょう。 しかしそれはすぐ、限界
を超えるようになった。演奏どころではなくなった。 舞台に立っているこ
とさえできなくなった、ということではないでしょうか。
383ナレーション(第二層b):2009/05/12(火) 00:34:52 0
その後のことは、ビデオテープの上の彼女の姿しか分かりません。何がど
うなって、こんな撮影会のモデルになったのか、 もちろんヘルペスを憎む
気持ち、自分の性器を憎む気持ちが影響しているのでしょうが、詳しくは
分かりません。 ビデオテープの中の彼女は股間に近づいてくる丸ノコを
歓迎しているように見えます。周りの気配が緊張してくるのが分かります。
彼女の悪魔と天使の顔を持つ性器がアップになりました。死ぬほど痒かった
痛かった部分が、奥の奥まで掻いてもらえそうです。 二度と痒くも痛くも
なくなる、その喜びに震えているようです。 ・・・・ 丸ノコが、彼女が
縛り付けられた薄板を切断し始めました。 下の部分では足型に二股に分か
れていた板が、胴体の下で一枚になっていたからです。甲高い音が聞こえて
います。 コンサートの時に左の片尻をスツールの上に載せていたように、
いま彼女はわずかに左の尻を掲げ、丸ノコを迎えようとしています。 全裸
の皮膚がピンク度を増したように見えます。上気しています。 彼女の目が
キラキラと光り、自らの将来を閉ざしたヘルペスとの最終決戦に燃え上がっ
ているようです。 丸ノコは正確に彼女の股間に向かって進んできます。
どこまで直進してくるのか、その判断ができません。 通常であれば、肉に
食い込む寸前で丸ノコは止まるはずです。この異常な雰囲気からして、
あるいは一、二センチの厚みで、湿疹の部分を削り取ることになっている
のかもしれません。 フラッシュの光は間断なくつづいています。
384ナレーション(第二層b):2009/05/12(火) 00:35:38 0
ビデオカメラが接近します。アップになる彼女の性器のすぐ手前に回転する
刃が映り始めました。 シュッという音が聞こえました。わずかに浮いてい
た彼女の腰が不意に落ちました。 丸ノコの下向きのトルクで薄板に押しつ
けられたのです。彼女の割れ目が大きく映っています。 カメラは右側から
狙っていますから、刃は、中心よりわずかに左の小陰唇に触ったようです。
彼女の希望どおりです。 いまいましい疱疹が乱暴に削られます。煙が出
ているように見えますが、多分、疱疹の膿と血です。 丸ノコの音がくぐ
もり、股間が変形し薄板に押しつけられ始めます。刃が、柔らかい肉に本
格的に咬み込んだのです。 彼女の悲鳴とも歓喜ともしれない声が聞こえ
ます。 丸ノコはそのまま進み、今、腰全体が薄板に押しつけられます。
左右の腰骨が高くなり、 臍のある中央が丸ノコに引っ張られてV字型に
くぼみます。そのくぼみを、丸い刃が進んでいきます。 不意に静かになり
ました。丸ノコが止まったのです。シャッターの音だけがします。 しばらく
して、彼女の身体が丸ノコから外されます。お腹の丸みが戻ってきます。
陰裂から臍まで赤い筋が見えています。ノコギリは彼女の中にたっぷり二十
センチは切り込んだのです。 丸ノコから外しながら、その赤い筋の所々に
ガムテープを張り付ける手が映ります。傷が開かないようにするためでし
ょう。 その工作的な光景に、丸ノコが彼女のお尻の割れ目を正確に斬り分け
られたか、折り紙の時のように、ひどく気になり始めました。 彼女の顔が映
りました。目を閉じています。首を傾げています。胸は動いているようで動
いていないようで、分かりません。
385ナレーション(第二層b):2009/05/12(火) 00:36:32 0
彼女を載せた板が九十度回されました。そのままラインに戻されます。
丸ノコがまた回転を始めます。 彼女のウェストの一番細い辺りが丸ノコに
近づいていきます。 Qプロダクションで、次のような契約書のコピーを見せ
てもらいました。本気なのか、戯れなのか、分かりません。また、こうした
契約書に、法的にどれほどの意味があるのかも分かりません。 こんな契約書
があるからといって、関係者が完全に無罪放免になるとも思いませんが、そ
れでも何もない場合とは違うのでしょうか。 弁護士に見せて、相談していた
だいても結構です。 それでは、丸ノコの上の女性と、とある会社が結んだ
契約書です。

<モデル業務他に関する契約書>
甲(XXXX、東京都板橋区)と乙(株式会社○○、代表取締役○○、
東京都新宿区)は、以下のモデル業務他に関する契約を締結する。
<甲>署名・捺印 <乙>署名・捺印
386ナレーション(第二層b):2009/05/12(火) 00:38:11 0
1、乙は甲に以下の業務並びに物品の代金として、100万円を○年○月○日
までに支払う。
2、甲は乙に以下の業務の履行を約束する。 
イ、甲は乙の指定する日時に指定された場所で撮影のモデルを務める。
(1)移動、宿泊等の費用については、乙の負担とする。
ロ、甲は乙が複数の第三者を指定された場所に同行させ、カメラ、ビデオ
等で撮影させるのを妨げない。
(1)乙は撮影の権利を第三者に自由に転売できるものとする。
ハ、甲は着衣、ポーズ、他の状態について、乙の要求に誠実に従うもの
とする。
(1)完全なる脱衣状態の撮影について、甲は乙に了承した。
(2)あらゆる角度、状態の撮影について、甲は乙に了承した。
ニ、甲は乙が以下の範囲でなす行為について異議をとなえない。
(1)甲の陰裂から臍までの切断、及びそのために必要な作業。
(2)甲の腰部の切断、及びそのために必要な作業。
(3)甲の両脚大腿部の切断、及びそのために必要な作業。
(4)以上の作業中に発生した出血、内臓等の破壊。
(5)以上の全ての過程におけるカメラ、ビデオによる撮影及び録音。
387ナレーション(第二層b):2009/05/13(水) 00:18:40 0
ホ、上記の作業の結果発生した、上半身、左右の腰部、両脚の各肉塊、
及びそれらに付属する内臓等についての所有権は乙に帰属する。
(1)乙は切断後の甲の各部について、最大の敬意をもって取り扱う。
(2)特に甲の左の腰部の疱疹については、切断後いたずらに人目に触れ
ないよう配慮する。
ヘ、上記の作業をなすための設備、労働は乙の責任とする。
(1)切断の方法等については乙に一任するものとする。
(2)甲を切断する過程で発生した損害は全て乙の責任において解決する
(3)甲は苦痛、絶命等について乙の責任を求めないものとする。
ト、ロ項で撮影された写真、ビデオテープ等の複製、配布の権利は乙に
所属する。
(1)乙はその複製、配布の過程において甲の名誉を傷つけるような行為を
なさない。
3、乙は甲が自らの負担において、甲の代理人○○(福岡県久留米市)を
受取人とする生命保険に加入するのを妨げない。
イ、乙は甲の代理人が速やかに保険金を受理できるよう必要な協力を
誠実になすものとする。
(1)保険金の受理のために必要であれば、乙は、2のホの規定にもかかわらず、
甲の上半身、両脚の所有権を放棄し、甲の代理人に提供するものとする。
(2)上の規定による所有権の放棄の場合でも、乙は甲の上半身から新たに
乳房等、必要な部分を切除する権利を保証される。
388ナレーション(第二層b):2009/05/13(水) 00:20:23 0
(3)いかなる事態においても、甲の左右の腰についての乙の所有権は侵さ
れない。
ロ、何らかの理由で、甲の代理人に一年以上保険金の支払いがなされない
場合は、乙は、保険金と同額を甲の代理人に遅滞なく支払うものとする。
(1)この支払いがなされた場合は、乙の3のイによる義務は解除される。

Qプロダクションの説明によれば、甲の代理人というのは、丸ノコ上の彼
女、XXさんのお母さんのことです。 音大に入るのは大変でして、田舎から
毎週、受験する大学の先生にレッスンを受けに来なければなりません。 交通
費も謝礼もばかっ高く、大変なお金がかかります。親に負担を強いるわけ
です。XXさんはそのことを気にしておりまして、契約のときに、生命保険
のことを持ち出したようです。 最後の項目の分かりにくい規定は、そのため
のものです。 彼女の生死は不明とされる可能性が高いわけです。行方不明
では、すぐには保険金が支払われません。 ですから、万一の場合、自分の
肉体の一部を証拠として差し出してほしいという規定です。 その場合、身元
さえ分かればいいのですから、乳房等は切り取ってもらってもいいわけで
す。 XXさんは、組織に100万円を要求しただけです。それで母親を受取人
とする保険を買った。 ただそれだけで、自分は自分を殺した疱疹に復讐が
でき、母親にも恩返しができるのです。 もちろん組織にとっては大変にいい
商売で、大喜びでしょう。 100万円は、当日の参加費だけでおつりがきたは
ずです。今後、長期にわたってテープや写真がもたらす利益は膨大なもの
でしょう。 関係者全てに万々歳の上の契約は遵守されるはずです。遵守さ
れる証拠に、ビデオでは、正確に契約通りに事態が進行しています。
389ナレーション(第二層b):2009/05/13(水) 01:55:29 0





事態が進行しています。




390714:2009/05/14(木) 15:43:03 0
>>372
>道元は句を詠む事で、自身の行を記し、内面も反映させましたが、
>枯山水の中に自身の世界観を移し込んでるお坊さんもいるようですね。

この言葉が良いですね。
『禅の教えの中に「毒蛇が水を飲めば毒になり、牛が水を飲めば乳になる」という言葉がある。
言い換えれば、庭を毒にするも乳にするのも私次第ということである。』
http://www.kenkohji.jp/s/japanese/philospphy/philosophy.html

水が毒になったり乳になったりする、その中心軸に〈自己〉がある。
「〈吾〉有時」です。

あと、これは道元門下のお坊さんらしい言葉ですね。
『私にとって「庭」は造ることも、眺めることも修行であり、またその道場なのである。』
修証一如で、生活そのものを修行の場とする考え方です。

>>373
>人間が、動物を外国から国内にと移動させる事で、生態系は変わりますけど、
>そういう、人間の社会的行動も生物の摂理は受け入れるでしょうし、
>生態系が人間の存在によって変わり、いくつかの生命が絶滅しても、
>大げさに問題視する事でもないかなあと。いつだってどこかで生命は絶滅してますし。

そういう見方もあるでしょう。 その考え方を徹底すれば、
人類が絶滅しても大げさに問題視することでもない、ということになるのかも知れません。

そういう視点もありますが、それはちょっと傍観者的な視点なので、もう一つの視点が必要だと思います。
中心軸としての〈自己〉の視点です。
上の「毒にするも乳にするのも私次第」という言葉にある〈私〉の視点です。
391714:2009/05/14(木) 15:44:28 0
>>374
>「成り行き任せか飛び込むか、それが問題だ」とシェイクスピアも言いました。

『十二夜』には次のような台詞があります。

「運命よ、力を貸して。私たち人間には、自分で自分がどうにもならない。
 これが定めなら仕方がないわ。成り行きに任せるしかない。」

「ああ、時よ、これをほぐすのはお前の役目、私じゃない。
 こんなに固くもつれていては、私の手ではほどけない。」

これは決定論というより、運命に「すべておまかせ」する〈猫の道〉でしょうね。
人間の有限性の自覚、そして人間の力を超えた力への信頼。

ひろさちや氏が、逆境の時には〈猫の道〉が良いと言っていたのが、まさにこのようなことでしょう。
逆境の時に運命の力を信頼して、それにまかせることができれば、既にその人は救われていると思います。
392714:2009/05/14(木) 15:45:46 0
>>375
>それにしても、714さんって、
>「ただ一個の究極に正しい解釈」みたいなのにこだわりがあるようですね?

それはないと思います。
みうんさんは、どうしてそう思ったのですか?

「正しい解釈」なんてないというのはニーチェの思想ですが、
でも、どういう解釈でもいいっていうわけでもないので、そこは難しいところです。

>>376
>みうらじゅん仏像探訪記、おいときますね。

室生寺篇見ました。
骨董品マニアの要素が大きい仏像マニアですね。


信仰心なしに宗教芸術を見るという点は、
僕が最近ずっとバッハの教会カンタータを聴いているのと似ています。

聖トーマス教会のカントール(音楽監督)だったクルト・トーマス氏は、来日した時に、
バッハのカンタータを演奏して欲しいという日本人関係者の要望を、なかなか受け入れなかったそうです。
彼は『キリスト教国でない日本の聴衆にカンタータの意味も本当の美しさも分かるはずがない』と考えたのだそうです。

しかし日本人もバッハのマタイ受難曲や教会カンタータを聴いて感動します。
宗教的なことへの理解がなくても、音楽そのものがそれを感じさせてくれるのだと思います。
393714:2009/05/14(木) 15:47:03 0
>仏像がなかった時代、仏陀の教えは記憶に止められ、語り継がれ、
>逸話はイマジネーションで次第に肉付けされていったんでしょうね。

ほんとうは〈仏〉は、仏像として対象化できるようなものではないけれども、
今も昔も一般の人は、「色即是空」とか言われても難しいだろうから、
民衆のために分かりやすく、仏像として対象化されてしまったんでしょう。

>原始仏教についての研究もあるようですね。

『ダンマ・パダ』と『スッタ・ニパータ』が成立が古い経典で、釈迦の言葉に近いとされていますが、
仏教は全て原始仏教からつながってるわけなので、原始仏教から大きく逸脱はしていないと思います。
たとえば〈自灯明・法灯明〉は、「大般涅槃経」からよく引用されますが、
『ダンマ・パダ』にも「自己の依り所は自己のみなり」とあるし、
『スッタ・ニパータ』にも「他に依止するものは動揺す」と、同じ内容のことが書かれています。

>>377
>外国人にとっては神秘のようで、グーグルが穢多の居住地域を3Dマップにして
>世界に公開するそうです。

グーグル・アースがやっているのは、現在の衛星写真の上に世界中の古地図を
重ねて表示できる機能のようですね。その中に「穢多村」もあった、と。
そして「穢多村」の古地図を現在の写真に重ねてしまうと、「穢多村」の地区がはっきり
特定されてしまうのでまずい…ということで、国会で問題になったようですね。

ニュース記事によると、『国会で問題化して以降、問題の地名は「グーグル・アース」の
地図から削除された』とありますが、「穢多村」だけ削除したんですかねぇ…
しかし「穢多村」だけ削除するというのもへんな話です。
「穢多村」は、無かったことに…? そんなことはできないでしょう…w


「えた」→「穢多」と変換しないようになっているのもへんな感じがしますね。
圧力によるものなのか、圧力が加わる前に自主規制しているのか、わかりませんが。
394714:2009/05/14(木) 15:48:25 0
>>378
>どうでしょうねえ。バルテュスさんは、学者だから、
>ゼキさんの中で言葉にならないものを何とか具体化したかったんじゃないですか。

ん…  ゼキ氏が脳科学者で、バルテュスが画家ですよ…

第二の対話を読みましたが、やはり〈意味〉についてのゼキ氏の考え方が気になります。
ゼキ氏はセザンヌについてこう言っています。
「彼はサント=ヴィクトワール山のなかで決して変わらないものを発見することで、
サント=ヴィクトワール山の意味を見出したかったのだと思います。」

つまりゼキ氏にとって〈意味〉とは、既に在る普遍的なものであり、
それは「発見」されるべきものだとゼキ氏は考えているのです。


例えばニーチェの考え方は、これとは対照的な考え方です。
ニーチェは、〈創造〉とは〈意味を置き入れること〉であると考えます。

「我々は、どの程度まで我々が己の価値感情の創造者であるのかを認識しなければならない。
つまり、どの程度まで歴史のなかに〈意味〉を置き入れることができるのかを。」

「あるべき世界はあるのだ、現に存在しているのだという信仰は、
あるべき一つの世界を創造することを欲しない非生産的な者たちの信仰である。」
395ナレーション(第三層):2009/05/14(木) 22:03:30 0





しかしことはさほど単純ではなかった。




396みうん:2009/05/16(土) 05:21:18 0
>>390
>修証一如で、生活そのものを修行の場とする考え方です。
この人、多摩美術大学の先生やってるんですねえ。タマビにはよく遊びにいきました。
道元と言えば、激烈に厳しい修行をした人で、教えも厳格そのものです。
枡野さんの作庭も、シャープで清冽な感じです。荘厳な印象。
枡野さんの人柄についてはよくわかりませんが、タマビの半原人みたいな学生達を、
厳しい教えを貫いてる人がどう教えてるのかと思うと・・・気になります!

>中心軸としての〈自己〉の視点です。
ゲーテは、一瞬の怠りもなく自己を対象化し続けたと言います。
感化されて、私も何となく真似しています。
対象化された自己は、背景である諸事情となじんでしまうモノなんですよね。

いつでも流れとともにあり、いつ栄え、いつ滅ぶかを気にかける事もなく、
淡々と生活できることもまた、幸せではないでしょうか。
幸せを感じるのは、主体性のある自己があるから出来る訳だから、
そういう考えも一つあると思いますよ。
714さんの、中心軸としての自己ってのもたびたび考える事ではあります。

人に言わせると、どうも私は町中など人の間に入ると目立つらしくて、
よく見られて、声もかけられるし、人と関わればなんだかよく求愛されます。
そこで自分の存在をことさらに意識すると、動きがとりづらくなるんですよ。
人の津波が押し寄せてきて溺れる、変な悪夢を夜見た事もあります。
気楽でいたいので、「こちら側が傍観者で観察者」みたいなスタンスでいます。
397みうん:2009/05/16(土) 05:22:09 0
>>391
そうですね〜、予定調和と決定論は、厳密には相反するものなんですねえ。
関係性の実在を主張するのが決定論なんですか。実在性ってのは証明できるのかな。
シェイクスピアのは予定調和ですね。
ライプニッツ流予定調和なら、
神を基調にして、関係性のないモナド全体が調和している。ということになります。
この場合の神とは、なんだかよくわからないけどうまく行くと思える現象のことでしょう。
単純化すると、神=バイオリズムの変動です。情感ですよね。

運命の神様の、お気に召すまま生きる、というのは確かに猫っぽいですね。
仏教で言うと、自然法爾(じねんほうに)という所かな。面白い語感ですね^^

猫の生き方、というのは、流行にも人にも適当にあわせて、
そこに自分らしさを小出しにして、
なるべく難の少ない生き方をして恩恵を得続ける、そんなタイプのようです。
器用なんですね。自分大好きで。こわがりでもあります。
女性に多い生き方ですよね。

ある面猿っぽいのにぱっと見猫、という、キメラ的特性を持った人も多いと思います。
人格というのは流動的で、さながら錯視画のようですね。
ゲシュタルトを崩壊させないぞと意地になりつつ、ぱっと崩れてくやしい思いをするw
398みうん:2009/05/16(土) 05:23:00 0
>>392
>どういう解釈でもいいっていうわけでもないので、そこは難しいところです。
哲学書を書く学者でも、本人の考えとペンの先の動きには開きがあるし、
人がそれを読んで言葉を発した時点で、その先からは伝言ゲームです。

四国の旧家に、千年絶やさず庭の灯籠に灯をともし続けている所があるようです。
この命が絶えても代々子孫がこの火を保ち続けるのだ、そうじゃないとイカン!
みたいな意地は、
万人に共通の言質を与え続けようとする学者の意地と通底するものがありますね。
その気概はたくましくて、讃えるべきモノではありますが、いかんせん、
ファシズムの傾向を呼びやすくもあります。

ニーチェが「解釈はどのようにもある」と言いながら、ファシストに魅入られたのは、
やっぱり妹ががんばって世の権力者に兄ニーチェの力を訴えたからでしょうかね。
妹の近親相姦的な愛による内助の功ってクールですね〜。
サムくてこたつのみかんがふっとんじゃう。
399みうん:2009/05/16(土) 05:23:53 0
>宗教的なことへの理解がなくても、音楽そのものがそれを感じさせてくれるのだと思います。
いい話ですね〜。好きだなぁ、そういうの。

例えば、宗教画って、構成や色調それぞれに論理のバックボーンがあるんですよね。
エレメントそれぞれに宗教的根拠が隠れていて、隠す事で幻惑を生みます。
論理構造そのものが視覚化されたものが宗教画だから、
絵画としては、ちょっと見、重い、堅いという印象になるでしょう。

そこからメタファーを色々ひもとく楽しみは一つあるものの、
それには膨大な知識量が必要で、取っつきにくいと言えばそうなります。
神秘主義は、病理への架け橋も抱えていて、非常にやっかいです。

そこいくと、重たい、堅いなどの印象をどんどん膨らませて遊ぶ、
遊びによる無邪気な感動に比重を置いた視点というのは、
宗教芸術に体温や親しみ、柔らかみを与えてくれます。
それに、印象で叙情的にまあるく捉えるという発想って、日本人のいい特質ですよ。
400みうん:2009/05/16(土) 05:25:43 0
>>393
>仏教は全て原始仏教からつながってるわけなので、原始仏教から大きく逸脱はしていないと思います。
そうなんですか。それにしても原始仏教というのは気になりますよ。
生老病死の四苦,愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦,五陰盛苦の八苦とあって、
これを根本的に取り除くために心を入れ替えようとしたのが仏陀ですよね。
これを悟って、そして人に伝えていったわけですが、
心から心に悟りを渡すために、あえて教典に頼らなかったのかも知れません。
それが何百年も語り継がれてきたというのは、驚異的な事です!
ところで、生老病死は、最近医学の発達で物理的に解決されかけてますよね。
美容整形、強壮剤、延命措置と。八苦が問題ですよ。

>しかし「穢多村」だけ削除するというのもへんな話です。
国会にメール送ったんですよ。同意見の人も多かったとは思いますが、
戦後、日米協約で、互いの国の社会的ヒエラルキーは温存しよう、
という流れになっていたはずなのに、
アメリカは、原爆による人体実験の正当化という偏った感傷のために、
携帯電話を作りエシュロンやグーグルを設立し、キャンペーンをして、そして、
今の段になってグーグルは日本の身分制度のタブーを突こうとしている・・・
ヒエラルキーが崩れれば経済的にも混乱します。
今アメリカは不況対策に躍起になってるでしょう。
日米関係は対等なはずなのに、なんかおかしくないですか、と。
地図は削除されたんですね。ニュースの情報ありがとうございます。

私は、穢多社会のリアルな実像って知らないんですよ。
カムイ伝には耽溺しましたけど。714さんは見た事ありますか?
401みうん:2009/05/16(土) 05:26:41 0
>>394
うわ〜、ゼキさんとバルテュスさんを間違えちゃったw 参ったな〜( ;´Д`)
本を薦めといてスミマセン。。。読み返しました。

>つまりゼキ氏にとって〈意味〉とは、既に在る普遍的なものであり、
>それは「発見」されるべきものだとゼキ氏は考えているのです。
確かに、絵画の目的は形而上学の研究と本質規定で、
本質の美を再発見するために職人は絵を描いていますよ。
(セザンヌは、移ろい行く景色の中で、そこだけは変わらない、
サント=ヴィクトワール山の何がこんなに人を魅了するのか、
考え抜きながら、その魅力を何度も画布に収めたんですよね。)

作業の工程では、職人の中で頻繁に価値変換が行われています。
より普遍的な、総体的なビジョンのために、既成の価値に指摘を加えながら。
ビジョンを追求して、作業しながらその美を見出しクリアにしていく、
これが創造と言える訳です。

その価値変換は、職人の中では、
子供が、作った砂山の上にジャンプして満足し、
またお気に入りの形にこだわりながら作り上げる、
だいたいそんな気分でなされています。

ニーチェの場合は、作られた結果の作品自体よりも
作業工程での心理的な動線にクローズアップして、
そのドラマ性や、精神的価値を讃えたんでしょう。
402ナレーション(第三層):2009/05/16(土) 18:29:07 0





それはどう考えてもかなり無理があると言わざるを得なかった。




403ナレーション(第二層b):2009/05/16(土) 18:37:36 0
南フランスの深奥部の小さな町に世界一変わったレストランがある。
まったく宣伝をしないレストランだった。土地の住人はそこにレストラン
があることさえ知らなかったが、どっちみち一皿千ドルもする料理が彼ら
に食べられるわけがなかった。町中から40キロ、曲がりくねった私道を登
った先、山の上の中世の城がそのレストランである。下にバーガンディの
ワイン畑が広がり、小さな集落と教会の尖塔が所々に見えていた。さみし
い高台であり、一番近い農家からも遥かに離れていた。月に数度、夕食が
供せられる。選ばれた客は自家用ジェット、田舎道をリムジンとつないで、
厳重なチェックを受け、レストラン「肉食倶楽部」に到着する。「肉食倶
楽部」のメンバーは、5万ドルの入会金を払った上で、倶楽部の信条を受け
入れ、遵守することを誓わなくてはならない。その信条とは反・菜食主義、
メンバーは大型の肉食獣のように肉を愛し、極めなくてはならない。肉は
最高の美味である。選ばれた美食家が、いかなる動物の肉を食べても、そ
れは当然の権利である。その信条に基づき、多くの貴重な保護獣がこの倶
楽部の食事に供せられた。ライオン、虎、北極熊。キリンの首がまるごと
長いテーブルの上で調理され、50人ものパーティが開かれたこともあった。
優れた味覚をもった選ばれた男女には、たとえどんな貴重な動物の肉であ
っても、その肉汁を賞味する権利があるされ、すべての社会的、道徳的な
規範は、倶楽部の食堂、調理場で無視された。
404ナレーション(第二層b):2009/05/16(土) 18:39:25 0
何より優先されるべきは、誰も食べたことのない、絶妙な味の、地上でも
っとも珍しい肉を調達することである。この栄誉ある信条にそって、年に
四度、人の肉が供せられた。これを外の世界は衝撃的な犯罪と考えるかも
しれないが、メンバーにとっては彼らの信条、哲学の素直な実現にすぎな
かった。倶楽部で食される野生獣は、現実には、たとえばライオンはアフ
リカ、虎はインドという具合に、遠方で捕えられ、肉にして密かに運び込
まれた。しかし、倶楽部の専門家によると、理想的には、肉は食される直
前に殺され、切り捌かれるのが一番美味しい。いや、もし生きたまま調理
できるなら、それがベストである。倶楽部は目隠しテストをおこなって、
生きたまま調理した肉が間違いなく一番美味しいということを確認してい
た。美味しいという事実、また、火に掛けした場合の刺激的でわくわくす
るような光景のために、100年以上の伝統を誇る倶楽部の人肉料理は、かな
らず生体料理としておこなわれた。今回参加の100名以上のメンバー、ゲス
トはすでに到着していた。この人数の食事をそろえるためには、相当な数
の若い肉が必要である。肉は若ければ若いほど、柔らかくジューシィであ
ることが、100年の伝統で分かっていた。もちろん今夜の肉に22歳以上のも
のはいない。一番若いので16歳。若ければ若いほど美味しいのだが、肉の
量のことも考えなくてはならない。シェフは、女10名、男5名、合計15名の
若者を、今晩のために用意した。多くはヨーロッパ、アジア、アメリカの
少年院から結構な高値で買い求めたものだが、一部のメンバーは自分たち
の娘を提供していた。
405ナレーション(第二層b):2009/05/16(土) 18:40:47 0
気の毒な娘らは生涯を提供することになるのだが、両親が最初から自分を
肉として育てたことを知らなかった。両親が彼女らのダイエット、毎日の
運動にうるさかったのは、脂肪分を減らし筋肉を適度に育てるためであっ
た。今夜その努力が実り、娘は最高のステーキ肉になるのである。少年院
で買い取られた若者たちも、それぞれの場で、厳重にチェックされた。裸
で並べられ、大腿、尻、背中、胸の固さと感触を調べられた。選ばれたも
のたちは、自分たちはセックスの奴隷として売られたのだと考えた。最悪
を想像したものも、なぜバイヤーが、そんなに熱心に彼らの裸の身体を調
べたのか分からなかった。バイヤーは、若者たちの身体をセックスのため
にチェックしていたのではなかった。肉質を調べていたのである。本日の
ゲストたちが、自家用ジェット、リムジンと乗り継ぎ、城の玄関に着いた。
その内から二人の若い娘が、たくましいアシスタント・シェフに不愛想に
引率され、別室に向かった。不安そうに両親を振り返りながら去っていく
娘たちに、両親は満足そうであった。娘たちも今晩の料理が人肉料理であ
ることを知っており、それを楽しみにしてきたのだが、自分自身がその料
理であるとは知らなかったのである。18歳のロシアの少女・ソーニャ、16
歳の赤毛のアイルランドの少女・カティが、その二人であった。二人は玄
関から待合室に連れられた。そこにはすでに13人の少年少女が待っていた。
彼らは裸で、すっかり準備が整っていた。ソーニャとカティが最後の到着
だったので、二人の準備は急いでおこなわれた。
406ナレーション(第二層b):2009/05/16(土) 18:42:08 0
アシスタント・シェフとその助手が二人の少女をの服を脱がし、特別な準
備椅子に縛り付けた。二人の腸を奇麗にするために、熱いぬるぬるした浣
腸剤が施された。二人が炉の上で調理され死んでいくときに、無意識のう
ちに暴れてしまう。そんななかで、若い娘がおもらしをしてしまったりし
ては、優雅ではないからである。下の毛が生えているものは、電気カミソ
リで奇麗に剃り落とされた。陰毛は石炭の火を引火しやすく、そうなると
せっかくの美味しい肉が焦げ、舌触りがそこなわれるからである。もちろ
ん一番若い方の娘たちには、その必要がなかった。陰毛が生えていなかっ
たからである。彼女たちの乳房もまだ固くて小さかったが、脂肪分が少な
いこともあって、誰もが食べたがる絶品の一つであった。最後に、すべて
の少女たちは、おかっぱ頭にされた。やはり炉の炎の上でひっくり返され
たときに、長い髪の毛に引火し燃え上がる恐れがあったからである。人肉
料理の最初の準備は終わった。次は、倶楽部の伝統である「社交タイム」
である。食事をするものと、これから食事となるものの交流の場である。
両者が語り合い、知り合いになるのである。15人の若い少女と少年が、宴
会場に引き出された。みんなが裸で、下の毛も剃られている。手は背中で
縛られていた。宴会はたけなわとなってきた。豪華に着飾った男女が、高
価なブランディを飲み交わす横を、ウェイターがキャビアとオードブルの
皿をかかげて歩き回っている。裸の美しい肉体が宴会場の中をパレードし
始めると、全員の関心がそちらに集中した。若者たちの人格が否定されて
いるわけではない。
407ナレーション(第三層):2009/05/16(土) 18:43:56 0





食事をするものと、これから食事となるものの交流の場




408ナレーション(第二層b):2009/05/16(土) 18:45:44 0
倶楽部の伝統は、肉になる者たちと社会的な関係を最後まで維持するとこ
ろにある。食するものと知り合いになり、敬意を払い、優しくはする。し
かし、その娘を食べるという行為は、あくまでも賞賛されるべきことであ
り、否定されるべきことではない。この複雑な関係が、倶楽部の信条を際
立たせるのである。倶楽部のメンバーは、この娘たちをステーキで食する
よりも、その美しい肉体をまるごとローストすることを望んだ。また、名
も知らない他人を食するよりも、名前を聞き、最後の会話を楽しみ、そう
した人間関係を作り上げた後に調理することを望んだ。娘たちは後ろ手に
縛られていたから、倶楽部のメンバーたちは、彼女たちの口にオードブル
を運んでやり、ブランディやシャンパンを注いでやった。みんなは、触っ
たり押したり撫でたりしながら、性的な接触を楽しみ、また、どこの肉が
美味しいかしらと予測して騒いだ。宴会はいよいよ盛り上がってきた。興
奮したメンバー、ゲストたちは、男も女も、若い肉体を性の対象として利
用し始めた。裸の娘がテーブルの上に投げ出され、時には同時に複数の男
性から、膣、尻に噛付かれていた。一方、女性の来客たちも、事態に恐怖
しながらも性器を屹立させ始めた裸の若者たちに襲いかかった。若者たち
は、もともと性器の大きさで選択されていた。(これから述べる「一物焼
き」のためである。)女性たちは少年たちの睾丸を細紐で固く縛った。屹
立を持続させるためと、射精を防ぐためである。
409ナレーション(第二層b):2009/05/16(土) 18:47:25 0
二人は柱に結わえられ、残りの三人は長いテーブルに仰向けに縛られた。
女性たちは若い獲物の器官の上に腰を下ろし、情熱的に奔放に上下させた。
この騒ぎを見るだけの女性客もいたが、それにしても40人もの女性が参加
していた。彼女らは、自分の順番が来るのを忍耐強く待たねばならなかっ
た。その点男性客は恵まれていた。10人の娘たちには一人当たり三つの穴
があるので、女性の場合ほど、待たされることがなかったからである。次
に待っているのは、これも倶楽部の伝統であるが、肉を柔らかくする作業
と、自分の肉に印を付ける作業である。肉を柔らかくする作業に関して、
メンバーの間にいささかの論争があった。片方は、獲物の柔らかい部分を
徹底的に鞭打つことを主張した。論理的には、肉は、なんの肉であっても、
叩けば叩くほど、最後に調理されたときに柔らかい。もう一方は、おおむ
ね美的な動機で、獲物の美しい肌を、調理中も、皿に盛ったときも、残し
ておき楽しみたいという主張であった。両者の意見を取り入れ、5人を鞭打
ち、5人を美しい肌のままに残しておくことになった。誰もが、若い娘が鞭
打たれるのを見たがっているが、ここの鞭打ちの激しさは、いかなるSM
パーティもかなわない。いずれにしろその娘は数時間後には調理されるの
である、いくら激しくてもかまわなかった。天井から、重そうな木の梁が
降りてきた。滑車の音が不気味である。娘たちのうち、一番若いのと一番
軽そうなのが、手首を梁のボルトに固定された。残りの三人、もう少し年
上で、肉のついた娘たちは、足首を同じように結び付けられた。ウインチ
が回り、重い梁が上がり始め、裸の美しい娘たちが三フィートほど吊るさ
れた。両端と真ん中に逆さに足首で吊るされた三人、その間に手首で吊る
された二人、きれいに交互である。五人ともが、むやみに暴れている。
410ナレーション(第三層):2009/05/18(月) 22:45:03 0





遠い処で、彼らはのたうち回っていた。




411ナレーション(第三層):2009/05/18(月) 22:47:02 0




身体を掻きむしりながら、何かをぶつぶつと喋り続けていた。




412ナレーション(第三層):2009/05/18(月) 22:48:49 0





何かを。




413714:2009/05/21(木) 12:46:30 0
>>396
>ゲーテは、一瞬の怠りもなく自己を対象化し続けたと言います。
>感化されて、私も何となく真似しています。

自己を対象化するというのが、どういうことなのかよくわかりませんが…
ゲーテはすごい人ですね。
『自然と象徴』というゲーテの自然科学論集を読んだことがあります。
科学者としてのゲーテは、たぶん今はあまり知られていないと思いますが、
植物学、地質学、光学、解剖学、骨相学…と、幅広い研究をした人ですね。
当時は今のように学問が細分化していなかったから可能だったのだろうけど、それにしてもすごいと思います。
中でも『色彩論』の執筆には20年を費やしたそうで、
『ファウスト』を含む全ての著作の中で、ゲーテは『色彩論』を一番重視していたそうです。

ゲーテの自然観は、当時すでに中心となっていたニュートンの自然観に反対する自然観でした。
自然を死せる自然として機械的に見るのではなくて、自然を生きた自然として有機的に見る自然観です。
「生きた自然においては、全体と繋がりを持たないものは何一つとして起こりはしない。」(『自然と象徴』)
そして、
「孤立した事実を自分の思考力や判断力と直接に結び付けようとした人々が、真先に誤りを犯したのである。」
と、ニュートン物理学を批判しています。

ヘーゲルはそのようなゲーテの思想を高く評価していました。
ニーチェも、親近性を感じる思想家として、ゲーテをあげています。

ゲーテの文学では、僕は中学生の時に『若きウェルテルの悩み』を読んで、感動のあまり続けて3回読みましたw
それが僕の文学体験の始まりでした。
414714:2009/05/21(木) 12:47:59 0
>いつでも流れとともにあり、いつ栄え、いつ滅ぶかを気にかける事もなく、
>淡々と生活できることもまた、幸せではないでしょうか。
>・・・
>そこで自分の存在をことさらに意識すると、動きがとりづらくなるんですよ。

〈中心軸としての自己〉は、「自分の存在をことさらに意識する」自己ではなくて、むしろ、
「いつでも流れとともにあり、いつ栄え、いつ滅ぶかを気にかける事もなく、淡々と生活できる」自己のほうです。

自分自身を意識することで、自己は、本来的自己から非本来的自己へと転落する
と仏教では考えられていると思います。

僕が今読んでいる『十牛図』でいえば、
第七図(忘牛存人)において、自己はもはやそれ以上はないと思われる完成を示しているにもかかわらず、
なぜ第八図へと進まなければならないのか? という問題について、上田閑照氏は次のように書いています。

「まさに完成した自己自身が有るというそのこと自体に問題があるのである。
第一から第六までの境位には、各図が示すようにそれぞれの仕方での動きがあった。
・・・第七ではしかし到り得たところで動きは終り、自己自身に落着いた人が座っている。
到り得て自らこれでよしとするところに、動きは停まり、そこに大きな危険が隠されているのである。
動きが停まるということ自体が逆転の始まりだからである。」

流れが止まり、動きが止まることによって、そこに自己意識が生じ、我執が生じる危険があるということだと思います。
415714:2009/05/21(木) 12:50:42 0
>>397
>実在性ってのは証明できるのかな。

実在論という立場はありますが、実在性を証明することはできないでしょう。

何かが実在するとしても、その実在が何であり、どのように実在しているのかは知り得ないと思います。
例えば、人間が〈水〉として認識しているものは、魚にとっては、人間にとっての空気のようなものかも知れません。
それはH2Oである、と言ってみても、H2Oは、試験管の中にある人間にとっての〈水〉の理想型のようなものであって、
H2Oが実在するわけではないでしょう。
だから、〈人間〉という視点を離れて、ものがそれ自体として何であり、どのようにあるかを知ることはできないと思います。
人間が知ることができるのは、〈私にとって〉〈人間にとって〉という条件つきのものだけだと思います。

これに対して、普通の常識的な見方は、実在論的です。
僕が死んでも、みうんさんが死んでも、人類が絶滅しても、「太陽」は「太陽」のままであるという考え方です。
こういう常識的な見方は、無自覚な実在論であるので、素朴実在論といわれます。
416714:2009/05/21(木) 12:52:02 0
>>398
>万人に共通の言質を与え続けようとする学者の意地と通底するものがありますね。
>その気概はたくましくて、讃えるべきモノではありますが、いかんせん、
>ファシズムの傾向を呼びやすくもあります。

ニーチェは、万人に共通の普遍的なものを求めた人ではなくて、
自分自身の立脚点にしっかり立つことを求めた人だと思います。
例えばツァラトゥストラの次の言葉には、それがよくあらわれています。

「『これが、私の道である。…君たちの道は、どこにあるのか?』と、私は、
私に道を尋ねた者たちに答えた。というのは、道一般などは存在しないからだ!」

ニーチェが重視した〈趣味〉という概念にも、それがあらわれています。

「これが私の趣味なのだ。この趣味を私はもはや恥じも隠しもしない。」

ニーチェが求めたのは〈正しい〉解釈ではなくて、〈健康な〉解釈、〈良き〉趣味、です。


学者の書き方が、万人に共通なものを与えようとしているように見えるとすれば、それはたぶん、
学者は自分の見解を明確に示すために、ある程度首尾一貫して、断定的に書くからでしょう。
それが論文の書き方なんだと思います。

ニーチェでも、どんな哲学者でも、実際は常に〈ああでもない…こうでもない…〉と
試行錯誤していると思いますが、論文では〈ああでもない…こうでもない…〉という書き方はしないでしょう。
また、〈ゲーテの考えにも一理あるし、スピノザにも一理あるし、仏教もすごくいいなあ…〉と
思っているとしても、論文ではそのようには書かないでしょう。
自分の見解を明確に示さなければならないからです。
417714:2009/05/21(木) 12:53:17 0
>>399
>例えば、宗教画って、構成や色調それぞれに論理のバックボーンがあるんですよね。
>エレメントそれぞれに宗教的根拠が隠れていて、隠す事で幻惑を生みます。

バッハの宗教音楽にも、隠された象徴がありますよ。
バッハの象徴法についての研究の先駆者は、あのシュヴァイツァーです。
シュヴァイツァーという人もゲーテと同じように幅の広い人で、
バッハ研究者としてもオルガニストとしても著名な人です。

シュヴァイツァーは、例えば、マタイ受難曲やいくつかのカンタータの中で、
歌詞に「十字架」という語が出てくるところには全て、譜面にシャープ(♯)が登場することを発見して、
バッハは特定の概念には特定の音楽形態を象徴として与えていると考えました。
シャープ(♯)は譜面を読む者にだけ見えて、聴き手には見えないから、隠された象徴です。
バッハのカンタータは生前は印刷されなかったから、バッハ以外の誰もそういう隠された象徴を知らなかったと思われます。
バッハは音楽を神に向けて作曲したと言われるので、その隠された象徴も、神に向けられたものかも知れませんね。


シュヴァイツァーのオルガン演奏は、今でもCD化されています。
http://www.youtube.com/watch?v=60VPPMIioU4
418714:2009/05/21(木) 12:56:06 0
>>400
>心から心に悟りを渡すために、あえて教典に頼らなかったのかも知れません。
>それが何百年も語り継がれてきたというのは、驚異的な事です!

釈尊もイエスも書かなかったし、ソクラテスも孔子も本を書かなかった人ですね。
一流の人物は本を書かなかった、だから私も書かない、と言っていた人がいましたw


>ところで、生老病死は、最近医学の発達で物理的に解決されかけてますよね。
>美容整形、強壮剤、延命措置と。八苦が問題ですよ。

ん…、美容整形や延命措置によっても、老・病・死から逃れることはできないでしょう。
老いつつあるのに若さを求め、死につつあるのに生を求めるならば、むしろ
いっそう、老・病・死が〈苦〉として迫ってくるのではないでしょうか。


>私は、穢多社会のリアルな実像って知らないんですよ。
>カムイ伝には耽溺しましたけど。714さんは見た事ありますか?

見たことありません。
部落差別については僕も実際には触れたことありません。
中上健次の小説で知っている程度です。
419ナレーション(第三層):2009/05/21(木) 23:36:13 0





人々は遠くからそれを見ていた。




420ナレーション(第三層):2009/05/21(木) 23:37:12 0





何か懸命な、




421ナレーション(第三層):2009/05/21(木) 23:37:54 0





しかし何処かが、




422ナレーション(第三層):2009/05/21(木) 23:38:49 0





ねじれて、




423ナレーション(第二層b):2009/05/21(木) 23:41:40 0
鞭打ちが始まると、いっそう激しく暴れる、怯える、泣く。なかなかの見
物である。しかしこの鞭打ちは見世物ではなく、娘たちの肉を柔らかくす
るためのものである。そのために鞭は仮借なく、たちまち娘たちの肌は傷、
みみず腫れ、血に覆われ始めた。多くのメンバー、ゲストが鞭打ちに参加
したがったので、それぞれの娘に三回づつと決めたにもかかわらず、長い
列ができたしまった。どの種の鞭が、この娘らの肉を一番柔らかくするか、
議論が分かれるところである。そのために、あらゆる鞭が使われた。猫の
尻尾的なものから牡牛用の頑丈なもの、皮紐。娘たちの美味しそうなあら
ゆる部分、足、太股、背中、乳房が鞭打たれた。娘たちの奇麗な身体は、
あらゆる方角に傷付き、切れ、血が流れた。次は、娘たちの肉の自分が食
べたい部分に印を付ける作業である。一時間ほどの激しい連続鞭打ちの後、
娘たちを吊るした梁が降ろされた。いよいよ最後の準備作業である。自分
の肉に印を付けるのである。倶楽部のメンバーの全てが、それぞれのイニ
シャルの焼き印を持った。焼き印は真っ赤に燃えた石炭の大鍋で熱せられ
ていた。倶楽部のメンバーは望むなら、食べたい部分を予約することがで
きる。若い肉の太股や乳房が美味しそうだと思ったら、その部分に焼き印
を押せばいいのである。娘たちの全身がすっかり焼き上がった後も、焼き
印はその部分に残っているから、切り捌いて予約者に渡すことができるの
である。鞭打たれた五人は梁に結ばれたままであった。残りの五人は後ろ
手に高く、ホールの梁に縛りつけてある。頭の先から爪先までつるつるに
剃られた五人の男子は、天井から降ろされた木製の輪型の大きな燭台に結
わえてある。
424ナレーション(第二層b):2009/05/21(木) 23:43:15 0
鞭打ちされた五人の娘たちの苦しみなど問題ではない苦痛が、15人の肉の
提供者たちを襲うことになるのだが、今はまだ身動きできずにじっとして
いるだけである。客たちは誰のどこがおいしそうか、注意深く観察してま
わった。歯応えはがいいのは誰か、身のつまっているのはどこか、客たち
はここで自分の今夜の夕食を決めるのである。肉カットの仕方も選択する
ことができた。一部のメンバーは、どこでも結構ということで、この過程
に参加しなかったが、大方は、自分の好みに忠実で、熱心につまんだり叩
いたりしながら、乳房、尻肉、太股と今夜の食事を選んでいった。決まっ
たら、それぞれの赤く熱した焼き印をその部分に押し当てた。焼き印がゆ
っくり皮膚に食い込んでいくジューという音。それが筋肉にまで達して娘
たちが耐えきれずにあげる悲鳴。両方ともが、大いに愉快であった。好み
は一部に集中し、気の毒な男女には、何度も焼き印が押された。慈悲をか
けられた訳ではないが、焼き印とのキスを免れた者もいた。これで「社交
タイム」は終了である。いよいよ人肉ローストというエキゾチックな料理
の時間である。泣いている10人の娘たちは、ひとまず宴会場から出された。
5人の青年たちは、輪型の木製の燭台の内側に丸く並べて繋がれたままで
ある。性器の根元は先程レイプされたときのままに細紐で固く縛られたま
まであった。彼らは、何人もの倶楽部の女性メンバーやゲストと性交をし
たのだが、射精は許されなかった。青年たちの性器を料理する前に何度で
も楽しむことは、女性たちの食欲増進のためにきわめて有効なこととして
推奨されていたから、何人かの夫人たちは青年たちの輪の中に押し入り
(実際希望者が多すぎてちょっとした混乱があったほどだ)、縛られたオ
チンチンを口に入れ、また興奮させようと努力した。

425ナレーション(第二層b):2009/05/21(木) 23:44:39 0
実はこの作業、これから作る「一物焼き」には是非とも必要なものであっ
た。「一物焼き」のためには、一物をできるだけ大きく、固くしておいた
ほうがいい。夫やボーイフレンドたちは、奮闘する女性たちをはやしたり
、コーチしたりして大騒ぎである。文字通り eat cock するのだから、実
際にかじったり、咬んだり、歯を立てたり、血を流したり、夫や恋人とセ
ックスをするときには出来ないようなことをしてもいいのである。みんな
が満足したら、「一物焼き」の開始である。青年たちが片方に寄せられ、
丸型のグリルが押し込まれ、輪の真ん中に置かれた。30分ほど前に火が付
けられ、灰色の練炭の間からチロチロと炎が上がっている。バーベキュウ
には絶好の火加減である。青年たちの裸の腰と膝に新たなロープが掛けら
れ、グリルから逃げられないように固定された。若者たちの太股はグリル
の側面に押し付けて固定され、彼らの屹立したペニスと睾丸がグリルの上
に水平に突き出された。グリルの網目から一センチちょっと上、赤く燃え
ている石炭から五センチほど上である。ちょっとでもペニスが萎縮したら、
たちまち睾丸もろともジュッと焼かれることになる。先程までのセクシー
な刺激の後、気の毒な青年たちは、胴体に付いたままの性器を焼かれると
いう経験をさせらるのである。生きながら焼かれる痛みが腰を襲う。ペニ
スと睾丸の皮膚がたちまち真っ赤になり、湯気があがり、ジュージュー音
を立て始めた。すぐに水脹れができ、焦げ始め、グリルの上のホットドッ
グのようになった。ご夫人のためのスペシャルタイムである。湯気を立て
るペニスにバーベキュー・ソースを塗る。料理バサミで左右に傾ける。若
者たちの嘆願は、ご夫人たちを喜ばせるだけであった。何を言っても「あ
なたのオチンチンは美味しそうよ。誰とも分けたくないわ」などという返
事がくるだけであった。
426ナレーション(第二層b):2009/05/21(木) 23:45:38 0
じきに、縛られた青年たちは苦痛で震えだした。膝がガクガクし、お尻が
引きつり始める。しかし彼らがどうなろうとお構いなく、青年たちの一番
大切な部分は、彼らの目の前で、美味しそうな食べ物に変わっていった。
「一物焼き」はほぼ焼き上がった。ご夫人たちは料理バサミをと尖ったフ
ォークを使い、ペニスの方向を変え、焼き網に押し付けた。きれいな焼き
目を入れるためである。フォークを焼き性器に突き立てたのは、焼け具合
をチェックするためである。青年たちの叫びはうめきに変り、性器は脂が
ジリジリ焼け、皮膚は剥がれ、バーベキュー・ソースにくるまれた。尖っ
たフォークが簡単にペニスに刺さるようになった。十分に火が通ったので
ある。肉切り包丁で端を切り取っても血が流れない。なかも焼けたようで
ある。その時が来た。ご夫人たちが青年たちにキスをして、「あなた立派
だったわ。さすがよ、あの苦痛に男らしく耐えたのだから」などと耳元で
囁いているうちに、一つ一つ、彼らのペニスと睾丸が切り取られた。青年
たちは恐怖の目で、自分の股間がきれいに去勢されていくのを見ていた。
ご夫人たちは、切り取った性器を、てきぱきとグリルの上でひっくり返し
ている。上の方がまだ少し生焼けだったからである。最初の食事の時間で
ある。伝統的にご夫人のための時間となる。調理されたペニスは、睾丸が
繋がったままであるが、ジュージュー煙を上げているところを突き刺され、
丸いパンの上にのせられた。調味料がたっぷり広げられる。辛しと胡椒、
ドイツのザワークラウトが添えられた。調理された睾丸が大きすぎて、パ
ンからあふれ出ている。趣向を増すために、ご夫人たちに野球帽がわたさ
れ、野球の試合のビデオが映された。アメリカ、日本、ヒスパニック系の
ご夫人たちに、自宅でくつろいでいる雰囲気になってもらうためである。
ヨーロッパからのご夫人には、異国情緒を楽しんでいただくことになる。
427みうん:2009/05/23(土) 04:38:32 0
しかし、機械さんは文才豊かですねえ。。。
インモラルながら、このエロティックな料理がおいしそうと感じてしまう。
作者と読者の共犯関係が成立し、そこから個々の離脱があり、
カタルシスが演じられるのかも知れません。先は読めませんが。
428みうん:2009/05/23(土) 04:41:31 0
>>413 714さん
「人間は行きたいほうへ行くがよい。人間はしたいことをするがよい。
 しかし人間は、自然がえがいている道へ、必ずまた戻ってくるに違いない。」
と言ったのはゲーテですが、
ゲーテ仕込みの色彩論を、私は大学でアカデミズムと共にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、
ほとほと嫌気が差してレポートの日に教室から逃げたら、教授が裸足で追いかけてきて、
構内を長い事走り回り、なんでこんなにしつこいんだと笑ったとたん捕縛、連行された、
なんかそんな記憶があります。

ゲーテもそうですし、ニーチェも、ヘーゲルは、?ですが、
彼らの思想って熱くって、有機的で、それを好きな人もまた、情熱的な事が多いです。
熱い、熱くないの差って、人と価値観を整列させたがるかどうかの差なんですよね。

「『これが、私の道である。…君たちの道は、どこにあるのか?』と、私は、
私に道を尋ねた者たちに答えた。というのは、道一般などは存在しないからだ!」
ニーチェはこう言ったようですが、で、それぞれが軌道を持ってがちゃがちゃに動き回って、
ある一瞬、惑星が整列するようにその座標が一本線上で結ばれる、
彼はそんな瞬間を待ちこがれて、そこから真理をつかみ出すために生きてた訳じゃないですか。
哲学者なんだから。真理をつかんで人に見せるって、価値観を統合させたいからでしょう?

でも、生命が活動する大規模な範囲を視野に入れて、そこから法則性なり真理をつかむなら、
観測する側としての個人的な感傷や激情をのりこえないと、脳が破壊されますよ。
脳が壊れたらもともこもないでしょう?学問どころじゃないし。

>ゲーテの文学では、僕は中学生の時に『若きウェルテルの悩み』を読んで、感動のあまり続けて3回読みましたw
>それが僕の文学体験の始まりでした。
中学生でゲーテなんて早熟ですね!すごいなぁ。体験についてもっと詳しく教えてくださいよ。
429みうん:2009/05/23(土) 04:45:13 0
>>414
>なぜ第八図へと進まなければならないのか? 
十牛図・・・ということは、克己の境地は十図まであって、
今は、六、七あたりの話をしているということですか?奥が深いですね^^
まだまだある十まで教えてください。゚+.(・∀・)゚+.゚

「いつでも流れとともにあり、いつ栄え、いつ滅ぶかを気にかける事もなく、淡々と生活できる」
というような中心的自己が、傍観者態度を望むのでは物足りない、というのについても、
もっと聞きたいです。

>>415
>実在論という立場はありますが、実在性を証明することはできないでしょう。
諸事情の関係性が実在的に証明されないなら、決定論は観念論ですよね?
「風が吹けば桶屋がもうかる」も楽しくていいですが、ナンカ単純ですよね。
決定論を医学に持ち込もうとする学者さんもいるみたいですが、変ですねえ。マッドです。
原因群の、結果への移行に見られるヴァリアントは、ポリフォニー的なものでしょう?

>僕が死んでも、みうんさんが死んでも、人類が絶滅しても、「太陽」は「太陽」のまま
能天気な考えですねw内的体験のありようを描き出せるのが人間らしさだと思いますよ。
やがてやってくるだろう死について、どんな風に考えていますか?
430みうん:2009/05/23(土) 04:46:53 0
>>416
>「これが私の趣味なのだ。この趣味を私はもはや恥じも隠しもしない。」
>ニーチェが求めたのは〈正しい〉解釈ではなくて、〈健康な〉解釈、〈良き〉趣味、です。
ちょっと話がずれますけど、趣味の格言について、
ニーチェがドイツ人だからかもしれませんが、、、
例えば、彼の趣味趣向について、だれか他者と、
「さあ今から君と趣味の違いをぶつけあおう、ぶつけあって全て理解し合おうじゃないか!」
と鼻息を荒くするみたいなのは、コントっぽくて滑稽に見えます。
「エロぼんの事でもパンツのシミの事でもクラスメイトの美香ちゃんの事でも
何でも言ってくれなわからんやないの!水臭いわあ!なんやの!」みたいな、
恥も外聞もないコテコテの体当たりオカンみたいな風情が漂ってますよ。
始終そんなペースで迫られたら、サロメも怖気をふるって逃げ出すでしょう。

お互い、相手への配慮で、自分の興奮する対象(趣味)についての口述は控え、
それでもある時、趣味の接点が見つかり、喜びと当惑の中でひっそりと納得する、
そういう情緒が欲しい所ですねえ・・・

そうだなぁ。714さんはよく、自身の日常性を哲学に落とし込んで拡散させますが、
哲学に身を隠して逃走、また顔を出す、このかくれんぼのような行為は、
一見児戯的なようですが、繊細で濃密なエロティシズムを発散しています。
実際会っていない人間にこういう喜びを与えられる精神性の高さに、驚かされますよ。
とても魅力的な対話者なので、私は幸せです^^

何でも露出をして断定を繰り返すよりも、隠す事、表現をあえて抑える事が、
心理的効果から論説への興味を倍加させる事を、学者さんにも認識してほしいです。
断定の語調は、論文の定型に従っているだけだとしても、むやみにそればかりだと、
「何か意地になっているのかな?」という印象を与えずにはおかないでしょう。
431みうん:2009/05/23(土) 04:48:12 0
>>417
>シャープ(♯)は譜面を読む者にだけ見えて、聴き手には見えないから、隠された象徴です。
そうなんですか。初耳です。興味深いなあ。

そういえば、シャープって、直角に交差する線だから、十字架に見えますね?
なるほど〜。
音律と歌詞の両方に、祈りの意味をこめた十字架を宿し、
和合させる事で、彼の音楽はより強固な宗教的時間を形作る、と、
バッハは、そういう仕掛けをしているのかも知れませんね。

歌を歌えたり、楽器を弾ける人というのは、要するに耳が良くて、
どんなに複雑にミックスされた音でも分析でき、正確に記憶できるんですが、
バッハの場合、それを感覚的にやっているだけじゃなくて、
楽曲に論理、宗教と接合させて広がりを持たせている訳ですよね。
キャパシティが広く、緻密な頭脳と創造力を持った、天才です。

私は今の所ざっくりとしか彼について見れないけれど、
714さんは音楽の細部まで知ってるんですねえ。うらやましいです。
432みうん:2009/05/23(土) 04:49:20 0
>>418
>一流の人物は本を書かなかった、だから私も書かない、と言っていた人がいましたw
本を書かずに教えを広めるのって大変じゃないですか?
自分の考えから一挙手一投足までシステム化して、美を付加した上で、
師弟制の中に反映させるんですから。

>老いつつあるのに若さを求め、死につつあるのに生を求めるならば、むしろ
>いっそう、老・病・死が〈苦〉として迫ってくるのではないでしょうか。
体裁を整えれば、満足して、肉体の刻々の変化を受け入れられる人って多いですよ。
健康ブームに従って生活を徹底させ、健康診断の結果
「あなたは今50歳ですが、脳年齢、肌年齢は20代です」とお医者さんに言われて、
自信を持つ人って多いでしょう。
容貌から思考、ライフスタイルまで絶えず20代以前に合わせるのは年齢差別的な発想で、
あまりスマートとは言えないですけどね。前時代的です。

不老不死の源とされるツバメの巣を求めて、大挙して世界をかけずり回り、
命の危険をさらして断崖の隙間に手を伸ばしていたジンギスカンの時代が終わって、
人々にも多少ゆとりができたと思いますよ。死に対するゆとりみたいなの。
433みうん:2009/05/23(土) 04:51:25 0
>>298>>303あたりで、
条件を出しつつ怒るといい、我を忘れて怒った方がいい、という話をしましたが、
我を忘れて怒ってるのか意図的な表現なのか、これは圧巻ですよ↓。
http://www.youtube.com/watch?v=-czVdX-ygLI&eurl=http%3A%2F%2Fnews%2Esearchina%2Ene%2Ejp%2Ftopic%2Fyoutube%2Ftopic%2Ecgi%3Ftopic%3Dy20090517000&feature=player_embedded
おじさんのリアクションが全く理解不能です。

司会の女性の冷静な対応も光ってますね。彼女は知的でセクシーです。
インナーセルフとコミュニケーションスキル、そして美貌の見事な調和を保っているらしい。。。

日本の因習では、男性はおおいに怒って結構、女性は怒らない方がいいのかな?
女性だけ怒らないというのもなんか不自然な話ですよね。

「怒りを日常的に表現すると、寿命が伸びるので良い」と医学では言うそうです。

ファッションブランドのヒステリックグラマー関連↓は、たまに目の保養にしてます。
http://www.ratholegallery.com/
ここのブランドイメージの、
「獰猛で好戦的ながら、同時にセクシャルで優美なイメージを併せ持つ女性像」
って好きですよ。
男性性と女性性の共存による、ギャップの妙ですよね。

色んな人がいますね。
434みうんこ:2009/05/26(火) 00:12:46 0
なるほど〜。

そういえば、漢数字の十って、十字架に見えますね?

わたしも一度ははりつけにされてみたいです

>>423-426あたりで、

>後ろ手に高く、ホールの梁に縛りつけてある。

というところで興奮しちゃいました♪

また、

>縛られたオチンチンを口に入れ、また興奮させようと努力した。

と書かれていらっしゃいますが、

とってもおいしそう。。。
435ナレーション(第三層):2009/05/26(火) 21:17:51 0





女は何もわかっていなかった。




436ナレーション(第三層):2009/05/26(火) 21:23:40 0





次に、  女は、男が裏切ったのだろうかと考えた。




437ナレーション(第二層b):2009/05/26(火) 21:32:22 0
40人からのご夫人がいたのに、わずか五本の「コックドッグ」である。ほ
んの味見程度、一口か二口しか食べられない。しかし味は最高であった。
自分の番を待つ価値が十分にあった。世界最高の血入りソーセージである。
焦げた皮膚を噛み破るときのガリッとした感触、豊潤な中身。血管と海綿
体のちょうどいい歯応えがつづく。大胆なご夫人がはみ出た睾丸に噛付く。
若い青年の表現できないほどリッチな睾丸である。飲み込むまで何分もか
かるほど噛みでがあった。倶楽部の伝統では、「一物焼き」の量がいくら
少なくても、ご夫人たちは、その珍味を提供者と分け合わなくてはならな
いことになっている。去勢された青年たちにも、一口づつは食べさせねば
ならないのだ。しかも自分の性器を食べさせる規則になっているが、いつ
も大騒ぎになるので、どの「コックドッグ」が誰の性器でできているか、
実際分からなくなる。そのために、まあそれが望ましい、くらいの規則に
なっているのである。青年たちは一日中何も食べていない。大変な苦痛の
連続でいっそうお腹が空いている。強制しなくても、進んで自分の性器
(と思われる)を口にした。この最初のコース、興味尽きない調理法とわ
ずかな食事によって、ご夫人たちの食欲は刺激され、より空腹になったよ
うである。もちろん彼女らのパートナーたちは、待たされつづけて、耐え
られないほど飢えていた。メインコースの開始である。10人の娘たちが宴
会場にもどされた。この度は、いささか威厳がないというか、縛った手足
に棒を通され、前後をにこやかなシェフに担がれて登場した。お腹を上に
して揺れる裸の娘たちは、お腹を空かした人々の歓声の中をぐるぐるパレ
ードし、そのまま内庭に向かった。
438ナレーション(第二層b):2009/05/26(火) 21:33:18 0
内庭は城壁に四方を囲まれ、真ん中に六つの大型のレンガの炉があった。
それぞれの炉には二つづつの串受けがあり、大型の獲物を二匹並べて処理
できる大きさがあった。計算をしてみる。娘たちが10人、さきほど「コッ
クドッグ」を作られた青年が5人、合計15人。六つの炉に二人づつ掛けると
12人。という訳で、15人引く12人で、3人は、他の連中が炉で調理されるの
を見ながら、自分の順番を待たねばならないことになる。炉はすでに石炭
で満たされ、一時間も前から火が着けられていた。火加減は完璧で、石炭
の表面は灰色に、隙間からは指のような炎が無数に立ち上っていた。焼き
人たちは、石炭をならし、炎に香木を投げ入れていた。裸の娘たちはみん
な、棒受けのある棚に掛けられた。順番に進んできて棚に掛けられながら、
娘たちは哀願し、泣き、涙を流したが、笑われ、無視されただけだった。
実際、メンバーやゲストたちは空腹であったし、このエキゾチックな禁断
の肉を食するのを何ヶ月も待ちこがれていたからである。ここで、倶楽部
で長い間論争の種になっている、もう一つの問題にについて触れておかね
ばならない。先に、肉は生きたまま調理されたときに最高の味がすること
に関しては、みなが同意していることは述べた。また、火にかけられた獲
物が自分が焼かれる様を生きて経験すること、美しく悶え暴れること、そ
れを眺めるのは最高にエロチックで素晴らしいことは衆議一決していた。
439ナレーション(第二層b):2009/05/26(火) 21:34:30 0
意見が対立していたのは、それから先である。一方は、伝統を重んずるグ
ループで、獲物が人であっても、正しく古典的に串刺しにしてローストし
なければならないと考えた。しかしこの場合は問題があった。串刺しの鉄
串が重要な内臓、心臓とか胃とかを傷つけ、獲物が即死しないまでも、石
炭にかけて一、二分しか生きていないことである。何年もの試行錯誤の後、
内臓解剖学にのっとった熟練の技量で、注意深く娘たちに鉄串を押し込ん
でいけば、生きたままの串打ちが可能なことが分かった。また、串先をサ
ーベルの鋼鉄の格別に鋭いものにすれば、さらにダメージを与えずに串刺
しにできることが分かってきた。そうしたとしても、娘たちが致命傷を受
けることは同じだが、最低30分は意識がしっかりある。娘たちは生きなが
ら焼かれ、炎の上に掛けられる貴重な経験をすることができるのである。
もちろん、彼女たちの肉も最高の状態にローストされることになる。もう
一方のグループは、割合最近の意見なのだが、そんな面倒くさいことはせ
ずに、特別に設計された鉄串に娘たちを縛り付けるという方法を選んだ。
こちらの美点は、まるっきり健康で元気な娘を石炭にかけることができる
ことである。口も自由であるから(先の串打ちの場合、口を串が通り抜け
るために、発音が明瞭でなくなるのである)、彼女たちの可愛いい声も聞
くことができる。固く鉄串に結び付けてあっても、熱と炎に皮膚、肉、筋
肉を焼かれ、熱波が身体を貫くと、娘たちは激しく暴れる、それがその肉
をこれから食べようとしているものたちには、たまらなく楽しいのである。
串刺しにした娘たちも、生きているから怯え震えるけれども、やはり縛り
付けられた娘たちより、元気がない。しかしもちろん古典的な串打ちの娘
の美しさも捨てがたい。
440ナレーション(第二層b):2009/05/26(火) 21:35:52 0
どちらにしろ、好みの問題であった。という訳で、娘たちは二つのグルー
プに分けられた。鉄串に縛り付けられるものと、串刺しにされるものと。
ロシア娘のソーニャは鉄串を打たれる方に選ばれた。二人のシェフが彼女
を吊るしていた棒をラックから外した。ソーニャの両手は結ばれたまま城
壁の上のウインチから伸びる重いロープに繋がれた。ソーニャの身体が5
フィートほど引き上げられた。足首が折り曲げられ太股に結び直された。
さらに足首間に横棒が取り付けられ、太股を閉じることができなくされた。
これですっかり剃り上げられ、ぬめって見えるソーニャの性器がむき出し
にされた。春にしては寒い日だったが、恐怖と精一杯の抵抗、また炉の高
熱と煙のために、ソーニャの肌は汗の粒で光っていた。太陽が彼女の全身
を照らしていた。豊かでしかも固い乳房から、彫刻のような腹部、さらに
筋肉質の太股の方に、太粒の汗が流れ落ちている。その乳房と太股の両方
に、新しくて深い異なったイニシャルの焼き印が押されているのが見えた。
ここにいるメンバーの何人かが、彼女のみずみずしい乳房と太股を渇望し、
食事として選んだのである。焼き印以外の傷はなかった。ソーニャは最初
の肉を柔らかくするための鞭打ちはされなかったのである。吊るされたま
まで準備が終り、ロープはさらに4フィート引き上げられた。ソーニャ用
の鉄串の先にカミソリのように鋭い穂先がねじ込まれた。二人のシェフが
彼女の震える身体を支え、彼女が運命を変えようと最後の抵抗をするのを
押さえていた。ソーニャは穂先が彼女の太股の間にセットされたのを恐怖
の目で見下ろしていた。
441ナレーション(第二層b):2009/05/26(火) 21:36:53 0
料理長が新しいオリーブオイルをナイフのように尖った穂先に注いだ。そ
して注意深く、ソーニャの陰唇を開き、穂先を入れた。ウインチ係に頷く
と、少しづつソーニャの身体が下がってきた。ソーニャは膣一杯に穂先が
入ってきたのを感じてうめいたが、まだどこも切れてはいない。そこで数
分間、シェフは、残忍な槍先を5インチ上下させ、捻り動かしつづけた。
空腹に時間の無駄ではあったが、みんなはこの可愛いロシア娘が、冷たい
鉄のペニスで最後のエクスタシーに達するのを見て息を飲んだ。ソーニャ
は大きな胸を波打たせ、太股を震わし、エクスタシーのうめき声を出した。
これがソーニャにとって最後のエクスタシーであると、彼女自身も不思議
に自覚していたが、それでも喜びのうめき声を我慢できなかった。シェフ
がウインチ係に頷いた。一度に一インチ下がった。鋭い穂先が、子宮口を
破った。血が鉄串、太股の内側に流れた。ソーニャは泣き、叫び、うめい
た。穂先が子宮の中を通過するのを感じていた。情け容赦なく、穂先はす
ぐ子宮上端に達した。ここから先がシェフの永年の経験の見せ場である。
ほんの小さなミスでも彼女を殺すことになってしまう。シェフはソーニャ
の腹部をしっかり抱え、穂先を注意深く彼女のお腹の中に通していく。少
し差し込むだけでソーニャは激しく震え暴れたから、大変な作業である。
数インチ片方に寄せ、肝臓と胃の間を通過される。動脈を避ける。外科医
の練達であった。最大のポイントは、穂先が彼女の上半身の中ほどにきた
ときである。シェフはソーニャの胸骨に指を食い込ませながら、巧みに心
臓の横をすり抜けさせる。シェフは三度目の合図をウインチ係に送り、ソ
ーニャの降下スピードを少し上げさせた。穂先が食道壁に来た。梯子の上
の調理助手が、ロシア娘ソーニャの髪を掴み、頭を後ろに引っ張り、喉に
一パイント(約0.5リットル)のオリーブオイルを注ぎ込んだ。
442考える名無しさん:2009/05/28(木) 10:21:24 0
容量オーバーなので
つづきは次スレで
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1243473298/
443ナレーション(第三層):2009/05/30(土) 15:53:02 0





それほどまでに自らの醜さを、人々に見せつけたいのである。




444ナレーション(第三層):2009/05/30(土) 15:56:33 0





その腐臭を、嗅がせたいのである。




445ナレーション(第三層):2009/05/30(土) 15:58:45 0





肉の襞を自ら拡げ、




446ナレーション(第三層):2009/05/30(土) 16:00:04 0





どろどろと流れ出す内容物を指ですくい、




447ナレーション(第三層):2009/06/01(月) 21:51:18 0





読む者の鼻面に押しつけたいのである。




448ナレーション(第三層):2009/06/01(月) 21:54:15 0





「わたしの、きたない、




449ナレーション(第三層):2009/06/01(月) 21:56:33 0





あれ」




450ナレーション(第三層):2009/06/01(月) 22:01:00 0





どろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろ




451ナレーション(第三層):2009/06/01(月) 22:02:46 0





液晶から流れ出し、




452ナレーション(第三層):2009/06/01(月) 22:04:26 0





中国の汚染された川のように、




453ナレーション(第三層):2009/06/01(月) 22:05:48 0





その醜い意識のかたちが、奔流となって、




454第4の使者:2009/06/02(火) 21:51:09 0
佃煮=みうんくん、まだ気づかないのかね?
そろそろ気づけよバーカ(w
全部わたしの陰謀なのでR(w
パンダンス〜♪
455ナレーション(第二層b)
かくして、最初の食事の儀式は無事終わった。それぞれのゲストは、数オ
ンスづつの青年、娘たちの肉を食べたのである。それは、彼らを満足させ
る量には足りなかったが、人の肉が最高の美味であることを知るには十分
な量であった。彼らの食欲は、いよいよ貪欲に旺盛に刺激されたのである。
野生動物の味でもなく、家畜の味でもなく、人の肉は白身と赤身の間で、
まったく独特の味である。どこか親しみやすい味なのは、結局自分自身を
食しているわけだから当然として、きわめて美味しい。禁断の罪深い喜び
の味である。古くからのメンバーが知っていた驚くべき美味を、いま新し
いメンバーも知ったのである。このエキゾチックな肉は絶品中の絶品。道
徳、倫理などでこの究極の料理を禁止するのは罰当たりである。二人の娘
はグリルの上で残った部分を切り捌かれていた。内庭の炉に掛けられてい
たメインコース料理が出来上がる頃である。ソーニャとカティは、500度ま
で上がる二番目のフックに移された。生きていたが、二人の意識は少し朦
朧としていた。裸の身体を貫いた鉄串を中心に、ゆっくりと回転をつづけ
ていた。おおかた焼き上がったと見えた。白い肌は奇麗に焦げ、香木、た
っぷり塗られたマリネードの芳香が立ち上っていた。二人の目は開いてい
た。自分たちが、回転しながら、タレを塗られながら、豪華な宴会料理に
なっているのだということは理解していた。二人は、こんなに多くの人々
を満腹にし、美味しかったと褒められる料理になれるかしらという不安に
とらわれ、いや、そうならなくてはという不思議な責任感を持った。身体
を鉄槍に貫かれ、仮借ない炎に一時間以上さらされ、意識をなくしながら、
自分はいま最高の料理を提供しているのだと、ある種の達成感も感じてい
た。さらに最後に、美食家たちに考えうる最上の食事を提供できる、自分
の美しくて締まった肉体に感謝もしていたのである。