心理的自己は、社会的な共同体を完結させる為になくてはならないものなんですが、
同時に、万物を一つの生物として見た場合、その生を連続させる為の身体的自己を
不格好な形で抑制してしまっている訳です。
だから、
>私たち(という非人称) : 規範、あるいは倫理の最たるものでしょうか?
身体的自己が、この心理的自己を上手くなだめすかしながら「私たち」と
表現する事が、必要になってくるかと思います。
両者の差異を明確にしながらも、「私たち」の「あいだ」は存在しない、と
(これはちょっと難しいかも!)倫理が規定していく必要がありますね。
非人称感覚を何とか無理なく解放する為に、学問や芸術もありますし。
それでもダメならお薬もありますし。
じつは私も軽いADHDで、集中力があっちこっち逸れがちなんです。
こっちの事をやっていて、ふと何か思いつくと、そればっかり気になり始め、
元やっていた事を忘れて、新しい事に次々手を出してしまいます。
思考や行動に一貫性がなくなりがち、というか。
典型的な症状としてはそれくらいで、あとは普通らしいんですけど。
だから、、、なにか薬を導入するとすれば、リタリンが必要なんですが、
依存性が強くて、処方するのにはリスクが高いというので、処方はされてません。
「軽いし、訓練すればなおる」とお医者さんからは言われました。
確かに、閃いた時にガマンすればいいだけの話なんですがw
リタリン気になる・・・
お医者さんは言いませんでしたけど、確かに不当に年金受給したり
処方箋をもらうために詐病をする人が多いそうですね?
ニュースでは見ました。鬱の診断基準は甘いそうですし。
脳波測定とかMRIでバレそうなものですけど、何か変ですね?