構造主義・ポスト構造主義を超えて4

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1考える名無しさん
■過去スレ
構造主義・ポスト構造主義を超えて3存在論的、郵便的
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1205727228/
構造主義・ポスト構造主義を超えて2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1102497168/
構造主義・ポスト構造主義を超えて
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1087078968/
2考える名無しさん:2008/08/03(日) 14:57:03 0
> 現代におけるデリダの意味については例えば:
>
> 第一に構造による画一的な人間からの解放(郵便的な多義性による脱構築)
ママンそこになきママン(代捕)に抱かれたい

> 第二に他者への視線(帰属構造外存在者への温かいまなざし)
戦争を知らない日本人ニートらによって生温かく理解された

> 第三に西洋科学主義への警告
サムライ・スピリッツ

> 第四に西洋形而上学批判
鬼畜米英(形而上学を復習されてはどうか)
3亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/03(日) 18:07:22 0
(前スレにはもう書けないようなので)
>>884(前スレ)
確定記述の余剰ではなくて、可能世界を考えてみることによって顕わになる「固有名に宿る剰余」
です。確定記述の束に還元されないあるX
>>889 >>890 >>891 (前スレ)
もちろん、郵便的脱構築は日常生活をドラスティックに変えるものではありません。わたしも
それらが政治・実践に簡単に接続されることにはかなり懐疑的です。郵便本だけでなく、ポスト
構造主義系の思想はほとんどそうです。しかし、だからといってシニカルになる必要もあり
ません。それは日常生活はニュートン物理学で充分だから、アインシュタインはいらないと
いうくらいつまらないものです。物質移動が光速に近くなると、ニュートン物理学が失効し
アインシュタイン物理学が必要となるように、ハイデガー哲学のような精緻な体系を批判する
段になると、郵便的脱構築が必要になるといえるでしょう。
4考える名無しさん:2008/08/03(日) 20:26:21 0
ダダもビデオアートもyogaでしょ
ラカンはyogaに疎い
5伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 14:06:57 0
デリダを経験論なっていっちゃダメ。
経験論というありありとした今を批判することがデリダの根本でしょ。
ほんとただの馬鹿がバレバレになるよ。
「存在論的、郵便的」って言ってるでしょ。
デリダは存在論で形而上学。
デリダの痕跡(エクリチュール)はハイデガーの「存在」の亜種なんだから。
記号であり、存在であり、存在論的にそこにある差延(差異と遅延)を
暴露したわけ。

だから東が「不可能なものの複数性」というように「複数」といっちゃだめなわけ。
否定神学=単数、郵便的=複数では、存在論でなく経験論なっちゃうだろうと、
東は批判されたわけ。
確かにデリダはフロイトのマジックメモを痕跡の例として使ったけど、
それは経験論ではなく、あくまで存在論的なメタファーであって、
本質的にはデリダはフロイトの経験論を批判している。
わかる?
6伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 14:10:41 0
■継承されるフーコーの精神分析コンプレックスの弊害

<精神分析と規律・訓練型権力>

「監獄の誕生」でフーコーは、封建的な身体刑から監獄へ移っても犯罪は減らない
どころか増えているといっている。それでも懲罰が禁固刑で標準化されたことは、規
律・訓練型権力が社会的に全面化したためということ。それは軍隊であり、学校で
あり、病院でありすべて。

たとえば学校では生徒は先生を信頼し従う、病院では患者は先生に従う。これはボ
クたちにはとても当たり前の事だが、ここに規律・訓練型権力が働いている。

これを明らかにしたのが、精神分析。精神分析は先生と患者が密室でプライベート
な話をする。通常の医者のように先生は患者に対して、従わせる立場にたつはず
が、それがうまくいかない。密室でプライベートな関係では、医者の権威のようなも
のが働かない。これが精神分析医がいかにあるべきかというテーマを生み出すとと
もに、主体とはなにかという、ラカン的な主体論を生み出す。

これをフーコーは、通常の医者と患者の間に力関係=規律・訓練型権力が働いて
いるとネガティブに評価する。要するに精神分析的、ラカン的主体というのは、精神
分析が発見した人にとって普遍的な構造ではなく、近代において、積極的に発明さ
れたものだと。

「監獄の歴史」は精神分析によって明らかになった啓蒙主義的、科学的な主体装置
が全面化していく様子を描く。
7伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 14:11:55 0
<労働力の質と経済発展>

フーコーは、精神分析が患者を正しい主体へと導くように考えた様々な方法論が、
社会全体に働いている権力を暴露していると評価する。たとえばパノプティコンが象
徴的であるのは、精神分析的な大量生産装置だから。このような原理が社会全体
に働く事で、良質な労働力が生産されている。

たとえば労働力の質というものがあって、まずは@安価であること。A言われたこと
がすみやかに理解できる知識と運動能力があること。Bつぎに従順で言われたこと
を真面目にこなすこと。さらにはCみずから自主的に改善をおこなうこと。

安価であることは各国の物価との関係で決まる。最近では日雇い派遣、バイトなど
の労働形態による調整もあるが。

重要であるのは、A、B。このあたりは日本人では当たり前だが、それは教育が
ちゃんとされているから。知識だけでなく、道徳的な教育(規律・訓練)も。外国労働
者を使う場合には、A、Bは労働力の質として評価する必要がある。これは各国で
も教育システムの充実に関係する。

経済発展をするためには、規律・訓練が重要で、それは日本でも同じ、いまも行わ
れている。たとえば学校が荒れるなどの問題があるのも、逆に言えば、いまも学校
がきちんと規律・訓練を行っているから。
8伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 14:12:32 0
<フーコーの精神分析コンプレックスの継承>

ただ時代もあるのだろうけど、フーコーがあまりに反−精神分析でありすぎることが
問題。いま、精神分析を重視されても、ピンとこない。だから規律・訓練は時代遅れ
な感じがする。その反動として、欠落をカバーするために生権力がうまれた、といえる。

しかし精神分析は基本的に心身二元論で心を扱う技術。精神=規律訓練、身体=
生権力の構造は、あまりに精神分析の影響を受けすぎる。本来、規律訓練と生権
力は切り離すようなものではない。

訓練とは、身体を通して精神を規格化するのではなく、身体そのものを訓練する。
たとえばスポーツ選手の訓練を考えるとわかる。身体の訓練は精神を訓練するた
めのものではない。

近代化の中で規律・訓練が全面化したことはすばらしいが、規律・訓練を精神分析
的なもの、パノプティコンなどに還元しすぎる。だから逆に生権力が精神分析的でな
さすぎる。

生権力が精神分析的でなさすぎるという心身二元論は現代でも、ネグリの「帝国」、
東の「動物化」、「環境管理」論やに継承されている。彼らの言説は、フーコーの精
神分析コンプレックスを継承し、心身二元論的、すなわち反精神−身体至上主義す
ぎる。これがみごとに最近の新自由主義の傾向をうまく重なってしまうから困ったものだ。

そして本来の規律・訓練的な問題を古い問題へと押しやってしまう。むしろいまも重
要であるのは規律・訓練的な問題であるはずなのに。
9考える名無しさん:2008/08/04(月) 14:31:17 0
誰?
10kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2008/08/04(月) 17:40:21 0
デリダは触覚を扱っている時点で十分経験的だと思うがなあ

みんなデリダを過大評価しすぎ。
11伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 17:49:29 0
デリダを経験論的に展開するというのは最初からある。
これは経験論と勘違いする馬鹿ではなく、方法論を経験論的に展開する試み。
特に「グラマトロジー」でメディア論に近づく時、 メディオロジーが埋めれたし、
スティグレールの道具論などがある。

しかしデリダはどこまでも存在論。でなければ、デリダの存在意義そのものが
ない。デリダを経験論として読んでいないのは、単に存在論をわかっていないから。
12考える名無しさん:2008/08/04(月) 18:11:05 0
>>9
誰でもいいだろ 訊くな
13パレルゴン3:2008/08/04(月) 19:48:12 0
私もほぼ同時に「構造主義・ポスト構造主義を超えて4」のスレッド
を立てました。そちらをどうするかがいま重要な個人的な問題です。(笑)

ところで、論議も盛んになってきたようです。
ただし、かみ合わせましょうね。
デリダは存在論なのか?あるいはハイデガーの存在論を超えて
経験論なのか?と言う事が今の争点です。
ですから、ちょっとフーコーの精神分析論の無視の問題については
デリダの位置付けのあとにしましょう。
14パレルゴン3:2008/08/04(月) 20:05:19 0
ぴかぁ〜はデリダを存在論に位置付ける理由は、単純に東のテクスト
「存在論的・郵便的」と言うタイトルからしてもそうであると言うのが
一つの理由だよね。それでも、東は本ではハイデガーを否定神学
としている。つまり、超越論的な空無が一つではないかと言う事が
否定神学たるゆえんなわけだ。この点を踏まえてもデリダも存在論と言えるか
と言う点が一点だね。
一方経験論であるならばデリダは「絶対他者」と言うものや、ある意味
否定できない絶対者を想定しているとも言える。
これは、経験論ではなく、内在性の形而上学とも言える。
私は、どちらにも言い分がある気がするね。

たとえば、ドゥルーズはイギリス経験論傾注していた時期もあったよね。
これは、後天的な人間の知識(経験による)成立を説いたヒュームなわけだね。
つまり、経験論の大きな影響がポスト構造主義にはあった。これは事実すね。
これは、ある意味、存在論=観念論を超える為の経路となっている。
こう言う風に考えうとき、竹田のフサールも存在論的な残滓をもっている。
でも、これが、時代遅れとは言い難いかも知れないね。
15パレルゴン3:2008/08/04(月) 20:24:29 0
3で亀井さんの仰る、郵便的脱構築(ポスト構造主義)の思想について
確かに、積極的な政治上の活動には疎いわけです。
だからといって、日常はニュートン力学で十分だが、光の速度に近くなった
時だけ、必要になるのかな?
同様に、ハイデガーを批判する時に脱構築が必要になるのかな?
それだったら、ポスト構造主義の「主体批判」と言うものが、見えてこない
気がしますけどね。そして、私見ですが、後期デリダのエクリチュール
の代表である、「弔鐘」などについての意味がなくなる気がするね。
つまり、語る人=主体をかなり意識しているんですね。
だから、単純にコンスタティヴから後期パフォーマティヴへ
デリダが移行したのではなく、哲学する主体から否主体化するデリダ
と言う事もできるのではないか?その実践なわけです。
ですから、言いたいことは、単純にハイデガーやデリダ、ニュートンや
アインシュタインを必要じ応じて使いこなすと言う事は、使いこなす
「主体」が残っていると言う事です。
16伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 20:25:03 0
なんでもいいからデリダ読もうな
17パレルゴン3:2008/08/04(月) 20:39:36 0
脱構築とは構造・言語・意識・主体でもあるのですから、
必要に応じて選択する「主体」と言う認識は、おそらく亀井さん
が存在論→経験論(ポスト構造主義含む)→分析哲学へと
重心をシフトしているのではないかと考えられますが。
例えば個=主体は世界を存在了解=意味として捉えているのだ
とするフサール・ハイデガーパラダイムを黙認しているとか?
と言う私も、無意味を持ち込むバタイユの意味を整理する必要
がありますが、おそらく意味とは欲望の回収であり、欲望を
経済性の罠からのがれさせるのでしようね。そう言う意味では
欲望を意味として投影すると言う現象学・存在論・分析哲学(英米系)
プラグマティズム(効用学)に対して和していないのが、ポスト構造主義
であり、欲望=欲動は意味に還元されない、タナトスを含んだもの
の全面的肯定なのだと言う気がします。
18パレルゴン3:2008/08/04(月) 20:52:13 0
分ったよぴかぁ〜。HNをぴかぁ〜に戻してくれない。それの方がイメージが
ぴったりするんだけどね。それはそうと、とにかくデリダを読もう。
おれは、フーコーの「言葉と物」
の要約本でも、あるいは、皆のコメントが少ないドゥルーズ
の「記号と事件」の分かりやすいところをやるか?
同時並行的にやっても良いと思う。
各自カキコ時々討論の方がいいかも?

原則、夜9時〜カキコしようよ。
終わりは各自の状況を認めるので、自由。
一分参加終了もOK。
また、長文のカキコをしたい人は、上記の時間以外でも自由
と言う幹事の勝手な提案ですが・・・・
19kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2008/08/04(月) 21:08:54 0
デリダはその存在論に関しては、現象学を引っ張ってるだけだし。
他著の引用を批判してるだけじゃん。

ナンシーの方がよほど立派な存在論だょ。
「複数にして単数の存在」で、存在の間について語った箇所はとても共感できた。
20伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 21:21:37 0
>>19
ナンシーは読んでない。
デリダファンでもない、ただ経験論より存在論といっただけ。
だから、デリダ的な存在論=抹消の下の存在=「痕跡」は、強力。
だから哲学だけでなく、科学でも、差延させる。

それでもやはり形而上学であることにはかわりがない。
それは結局、思弁的でしかない。
ボクはウィトファンの経験論者だから。

21考える名無しさん:2008/08/04(月) 21:23:14 0
>>12
dare?
22考える名無しさん:2008/08/04(月) 21:25:48 0
daredemoiiwakenaidaro?
23考える名無しさん:2008/08/04(月) 21:46:01 0
>>21-22
焼き殺されたいのか?キチガイドンキホーテ
24亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/04(月) 21:55:56 0
>>5に関しては、前スレでいやになるほど繰り返した通り。ただの哲学史的ドグマです。
そういうドグマに囚われていることは、続く>>6>>7において、テクノロジーが人間を
根源的に変えてしまうフーコー的視点を導入しているにも関わらず、直後にヘーゲル-
ラカン的な円環的歴史観に戻ってしまうことにも見て取れます。
>>8は「風が吹けば桶屋が・・・」的飛躍。
>>14の7行目以降はかなりわたしの意見に近いです。
>>15
>脱構築とは構造・言語・意識・主体でもあるのですから、
>必要に応じて選択する「主体」と言う認識は、おそらく亀井さん
>が存在論→経験論(ポスト構造主義含む)→分析哲学へと
>重心をシフトしているのではないかと考えられますが。
私は「必要に応じて選択する「主体」と言う認識」など主張していないし、なぜそこで突然分析
哲学が出てくるのかわからないです。詳しく書いて。もしかして>>3へのレス?そうだとしたら
誤読です。

伏蔵さんは最近参加したからともかく、パレルゴンさんは意見がいつもふらふらしていて、どうも
つかみにくいですね。名無しで書いたりコテで書いたりしているし。もし司会役を買って出るなら
コテでお願いします。2ちゃんねるですから強制はできませんが。
25パレルゴン3:2008/08/04(月) 22:17:52 0
以後コテにします。
それと、亀井さんのレスがあまりにも即断的ですので
もう少し、詳細にレス願いたいと思いますが、宜しく。
そこで、17については、3に対する意見ですが、
そのアインシュタインかニュートンかやハイデガーかデリダかを使い分けて
選択する「私」の存在は否定でいないでしょう。これは
ある意味存在論的な「私」がいる事になりませんか?
そこを言っているわけですが??
26パレルゴン3:2008/08/04(月) 22:23:52 0
存在論的=超越論的「私」が私の存在了解として「意味」を
見出す。つまり、ニュートンかアインシュタインか、あるいは
ハイデガーかデリダかは意味として(使い勝手として)
見出すと言う事です。この「私」とは主体なわけです。
そして、主体とは現前=声になりませんでしょうか?
こう言う質問です。
27パレルゴン3:2008/08/04(月) 22:34:29 0
たしかに、デリダは法は脱構築できるが、正義は出来ないと言っているよね。
この面から見ると、やはり、捉えられないもの=正義を観念的に
信奉している観念論的形而上学と言う気もするね。
絶対基準=正義=他者と言うぶれない基準があるとも言える。
そう考えるとハイデガーの存在の空が一つであると言う批判は
そのままデリダの正義・他者にも当てはめられるかも知れないな。
それと、質問ですが、デリダもそうだと思われるのですが、
ユダヤ神秘主義とは具体的に何なのかね??
28考える名無しさん:2008/08/04(月) 22:42:40 0
zisakuziennhamunasikunaika?
29亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/04(月) 22:43:27 0
>>25
即断的にうつったならすいません。
>アインシュタインかニュートンやハイデガーかデリダかを使い分けて選択する「私」の存在

これは単純に誤読です。わたしが>>3で言ったのは、郵便的脱構築なら郵便的脱構築をいたずらに
拡張して、なんにでも応用することへの懐疑です。批判対象が批判方法を選ぶのであって、主体的な
選択が介入する余地はありません。逆にたとえば「郵便的不安たち」という郵便本の次の東の本に
こそ、わたしは悪い意味での「選択できる主体」の介入を感じます。そもそも「厳密さの放棄」に
その面白さを依存しているサブカルチャーに対して郵便的脱構築を施しても、相対性理論をもってして
競泳水着の研究をするようなもので、単に恣意的、衒学的になるだけです。
30パレルゴン3:2008/08/04(月) 22:43:42 0
ジャン=リュック・ナンシーだっけかは、たしか、共同体論
で有名だったのでは??無頭か多頭の共同体??
どちらかがバタイユの共同体論で、共に一つの頭の共同体を
否定しつつ、尚且つ、共同体であろうとする。この共同体に
拘るのは、マルクスの共産主義思想からのものだろうね。
あくまでも共同体に拘りながら、単頭では形而上学的な
構造をもつ組織になるので、無頭・多頭と言って、
逃れようとしてると言う事ではないかな。
31パレルゴン3:2008/08/04(月) 22:49:42 0
「批判対象」が「批判方法」を選ぶとは「批判する者」の不在として
主体の喪失にはなりますが、逆に構造の中にいて構造に支配されている
「被主体=否主体者」となり、フーコーの管理社会論をそのまま肯定した
ことになりません???
32亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/04(月) 22:51:45 0
>>27
あの・・・一言いいですかね。キーボードを打つだけでも時間と労力を使うんですよ。
テーマをどんどん拡張・移動させるのなら、まずご自分の意見をある程度固めてから
書いていただきたいのですが。さらに自分の書きこみについて突っ込まれたとしても、
返答・反批判できるくらいの準備もお願いします。
33パレルゴン3:2008/08/04(月) 22:52:46 0
がんじがらめに捉えられた「私」=「創られた主体」と言う
ポスト構造主義が求めるのはそこからの脱出だったのではないでしょうか?
34パレルゴン3:2008/08/04(月) 23:00:09 0
すみませんね。ついつい自分の問題意識にそって、レスしてしまいました。
そこで、今日はPM11時と言う事で、後は各位自由に・・・
35伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 23:13:08 0
>>5に関しては、前スレでいやになるほど繰り返した通り。ただの哲学史的ドグマです。
>そういうドグマに囚われていることは、続く>>6>>7において、テクノロジーが人間を
>根源的に変えてしまうフーコー的視点を導入しているにも関わらず、直後にヘーゲル-
>ラカン的な円環的歴史観に戻ってしまうことにも見て取れます。

なにが言いたいか不明。哲学史的ドグマってなんだ?
フーコー派とラカン派の対立はしてるか?
36亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/04(月) 23:29:38 0
>>35
もう少し勉強してください。
37伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 23:32:11 0
>>36
初心者イジメをする気はない。がんばれ。
38伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/04(月) 23:34:15 0
郵便本はほどほどに「声と現象」ぐらい読もう。
郵便本を真に受けるデリダ屋はいないぞ。
39考える名無しさん:2008/08/04(月) 23:59:53 0
>確定記述の余剰ではなくて、可能世界を考えてみることによって顕わになる「固有名に宿る剰余」です。確定記述の束に還元されないあるX

というか、郵便本は読んでいませんが、名前には意味はないということでしょう。
固有名と確定記述の比較ということで言えば、名前はただ個体を指し示すだけだと思います。
40考える名無しさん:2008/08/05(火) 00:35:26 0
前レスから
>デリダの思想には形而上学の根底にある二項対立的なものを脱構築する
狙いがあったと言われていると言う事ですよね。

デリダって確かアリストテレスの俳中律を批判していませんでしたっけ?
しかしその批判って、俳中律そのもののような気がするんだけど。w
41考える名無しさん:2008/08/05(火) 18:11:53 0
〉8
フーコーの精神分析コンプレックス?
おまえもな。
42考える名無しさん:2008/08/05(火) 20:36:27 0
┌──────────────────────────────────┐
│                                                  .|
│  司会、幹事、時間の制限、制約等はありません。                    .|
│                                                  .|
│  ・哲学板 ローカルルール                                 |
│  http://academy6.2ch.net/philo/                             |
│  ・2ちゃんねるガイド                                    |
│  http://info.2ch.net/guide/                                |
│                                                  .|
│  注意:                                             |
│  GL3. 固定ハンドル(2ch内)に関して                          |
│  スレッド                                           |
│  固定ハンドルが占用している・閉鎖的な使用法を目的としている・等は、     |
│  自己紹介板・最悪板・夢・独り言板・おいらロビー・なんでもあり板以外では、  |
│  原則として全て削除または移動対象にします。                    .|
│                                                  .|
└──────────────────────────────────┘
43パレルゴン3:2008/08/05(火) 21:12:40 0
42
別に閉鎖性持っているわけではありませんよ。
誰でも書いていいのです。
ただ、問題意識を共有している人、同じ問題について論議が出来る人を
同時間に討議するという意味で、時間帯を書き込んだ訳です。
内容的に充実していると自負もありますが、
書きたければ誰でも書けるシステムでしょう??
こう言ったから絶対に書けないのならば、問題でしょうが、
皆さん書いてらっしゃるでしょう。
そんな事よりももっと中傷誹謗を取り締まって下さい。
ところで42の貴方は誰でしょう?
2チャンネルの管理人ですか?
固定ハンドルについては、私もコテハンを書けと言われているのですが
別に特定のコテハンが占有しているのではなく、たまたまレスする
人が、数人のコテハンになったまでで、誰でも書きこんで下さい。
ただし、このスレッドは一定のレヴェルが必要でしょうね。
それを占有と言うのはちょっと変でしょう。
44パレルゴン3:2008/08/05(火) 21:32:30 0
と言う事で、多少閉鎖性のある当スレッドは、42の指摘も多少
反省材料として、全英オープンなみに、開きましょう。
とはいっても、2チャンネルのカキコミ禁止のような、システムによる
強制的禁止措置はなく、何時も開かれているのですが、コテハン以外の
参加が少ないのです。ですから、強力な書き手を確保するために、大まかな
時間帯を決めたわけです。
この問題はそれぞれの判断として、それくらいにし、昨日の
亀井さんの定義である、選択する「主体の問題」、あるいは
構造内における「被主体的」(選択させられた不可能な私)
と言う考えについてですが、昨日は即答しましたが、そうも
簡単とは言えない気がします。
例えば構造溥儀が恣意的構造に囚われたものを示すとすれば
ポスト・構造主義はその構造の破壊やそこからの逃走運動でありますが
それでは、逃走の連続であるならばそれは、いったい何なのか?
主体=意味を紡ぎ=自分の立つ位置を理解し=行動=反省する
と言う、古典的主体とでもいえるものが消失したあと、何を
基盤とするのかと言う問題が現れます。
基盤がなければ、分裂症であり、ドゥルーズの言う「器官なき身体」として
破壊し続ける俗悪ものにもなり下がる可能性があります。
45パレルゴン3:2008/08/05(火) 21:51:08 0
そこで、確かに、ドゥルーズはこの分裂症の肯定と思われる彼の
論文に対する批判に対し、確か、「分裂症的分析の肯定と分裂症患者
とは全く異なる。」と答えたと記憶しています。
彼は、この分裂症と言う彼の言葉で、古典的な理論展開を批判したかった
と言う事です。絶対的で唯一の理性による理論によって、(三段論法でも良いのですが)
絶対真理に到達する事が「no way!」であったと言いたかったのでしょう。
この辺はハイデガーが援用したと言われるユキスクルの動物世界の開かれ
にもありますが、世界はそれぞれの種の動物によって、それぞれに開かれる
と言う事で、欲望に沿って世界は意味として開かれると言う事です。
つまり、種それぞれが相対的に、かつ、その種に対しては絶対的に開かれる。
亀井さんのデリダ論の後では、コンテクスト的にと言っても良いでしょうね。
そこで、唯一の真理=形而所学は崩壊します。(断定しても良い??)
しかし、脱構築や器官なき身体では拙い。
そこで、何を主体のあとに置くのか?が重要な問題点となります。
確かジャン=リュック・ナンシーが「主体のあとに何が?」とか言う
記憶は定かではありませんが、本を書いたか、複数の哲学者の論文
を纏めて出版した様な気がします。
そうです、このポスト構造主義の主体批判のあとに、何があるのか?
これが重要です。

46考える名無しさん:2008/08/05(火) 21:56:58 0
>>8
なんじゃその精神分析論は?。

はぁ?
47パレルゴン3:2008/08/05(火) 21:58:55 0
竹田は現象学に主体の再興を試みています。
また、ネグリ・ハートは政治(帝国論・マルチチュード論)に、
そして、東はポストモダン肯定の中での監視機能の充実の必要性に、
スピヴァクはどうしたのでしょう。追っていないので不明(笑)
こう言うところが私のモチーフ(中心課題)ですね。
48考える名無しさん:2008/08/05(火) 21:59:57 0
君らの精神論云々が如何に青臭いかが分かるスレではある。
49ラプラスの悪魔  ◆daemontaDA :2008/08/05(火) 22:07:16 0
コテ無かったけど、哲板の精神論云々を聞くたびにがっかりするね。

哲学だけを語ってろw。
50考える名無しさん:2008/08/05(火) 22:12:37 0
デリダ対クリプキの論争はあったのか?
デリダ→クリプキはありそうだけど。

また、固有名に関するクリプキの理説が、郵便本のなかでどのように扱われている
のかが疑問。そこで使われている可能世界が「アリストテレスはプラトンの弟子で
はなかった(アレクサンダーの教師ではなかった)」というものなら、クリプキ型
の可能世界論では論点先取り的だから固有名に変化がないのは当たり前だとも思うし。

ちなみにウィトゲンシュタインのパラドクスなどが真面目に取りあげられているなんてことは無いでしょうね?
51亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/05(火) 22:45:07 0
>>44
>亀井さんの定義である、選択する「主体の問題」、あるいは構造内における「被主体的」
>(選択させられた不可能な私)と言う考え
わたしは>>3において、単純に理論の拡大適用の問題について書いただけで、そんな定義は
してないですよ。

>>50
実際に論争があったかどうかは知りません。あなたの疑問点は郵便本124ページから133ページに
はっきりと書いてありますよ。
52考える名無しさん:2008/08/05(火) 23:58:56 0
アリストテレスという固有名の指示対象が、実はアリストテレスではなかった可能世界については触れられていないでしょうね。w
53考える名無しさん:2008/08/06(水) 00:17:47 0
なんぞ最近。パレルゴン3←この手の自画自賛タイプが増殖しすぎてねぇか?





どうなっても知った事ではないが
54考える名無しさん:2008/08/06(水) 02:41:19 0
匿名掲示板のナートゥーラは名無し
55パレルゴン3:2008/08/06(水) 08:37:24 0
52固有名には指示機能と確定機能とがあり、前者は固有名は指し示すだけだ
と言う説がありますね。この指示機能が間違っている場合と言う論議は
今の所あまり見られないでしょうね。それは、哲学の議題ではなく
単純な間違いと言っても良いのかなぁ〜。不明??

56考える名無しさん:2008/08/07(木) 06:07:14 0
>>55
確定記述の束(連言)に偽の連言肢が混じっていればその記述は対象を持た
ないので、固有名とは異なるというのがクリプキの論理でしょう。しかしこの
論理はそのまま固有名にも適用可能ではないのかと思ったのです。
だとしても、可能世界論的には、そのような世界はこの現実世界との類似性
が低くなるということでクリプキにとっては問題外ということなのかな?
…とか言ってると、前スレ837が言っている「固有名も可能世界(訂正可能と新たなる事実の発見)によって、書き加えや削除がありますが、」、
などと同じことに繋がっているのかなあ、と。

あと余談ですがクワスというか足し算はアルゴリズムだから、ヴィトゲンシュタインのパラドクスにはならないと思う。
57考える名無しさん:2008/08/07(木) 09:49:08 0
ルーマン的システム理論用語にも出てきますが、私はいまだに「否定的に語る」「ネガティブにしか語れない」という意味を正確に理解できていません。
誰か教えて。
58考える名無しさん:2008/08/07(木) 10:04:59 0
59考える名無しさん:2008/08/07(木) 11:27:58 0
>>58
それは私のイメージや竹田本にある説明とほぼ一致しているな。
しかしルーマンのシステム理論と「否定神学」はあまり関係ないと思うので、元のオートポイエーシス理論になぞらえて言えば、「空集合(or否定神学)システムは、ただひたすら全体集合との境界を区切る」みたいな感じかな。

要は、それなりの根拠を挙げて相手の主張を論駁するという意味になる、か。
馬場はそんな意味で使ってんの?
60考える名無しさん:2008/08/09(土) 09:09:11 0
現在、東浩紀は批評家オーディションを行っています

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道場破りは今から参加してもOKです、みなさんどしどし参加しましょう
61考える名無しさん:2008/08/10(日) 18:21:40 0
固有名に剰余なんてありませんよ。
ぜんぜんイメージできません。
こんな錯覚をテーマにして本が書けるんて、ずいぶんお気楽な人だと思います。
62考える名無しさん:2008/08/11(月) 17:32:11 O
 デリダが否定神学、という説はまあ分かるとして、それとハイデガーとを一緒には出来ないでしょう。ハイデガーの思索は生の具体的なイメージをいつも浮かべながら為されている。『有と時』は実存疇という概念に重きを置いており、有の問いを方向づけながらも、

ハイデガーが実存範疇という領域を軽視していなかったのは明らかである。また、有というのが否定的にのみ表される、という考えもハイデガーのものではない。世界の一内に一有ること、という概念自体、人間にたいするこれ以上にないような構造分析になっている。

 人間には、有る、というただそれだけのことで、別に状況的でなくとも既に内的に、慮という領域によって可能性は限られている、有限である、その根拠もはっきりしている、というのはハイデガーの偉大なテーゼの一つだと思う。デリダにはそこまでの洞察はないでしょう。

 加えて言えば、一人の人間は否定神学で尽くされてしまう存在者ではないと思う。
63考える名無しさん:2008/08/11(月) 20:58:04 O
 デリダって人の初期の思想は否定神学で、おそらくそこの袋小路をなんとか突破しようとしたのだろう。しかし、何度も言うようにその袋小路はハイデガーとは無縁であり、何故ならハイデガーは否定神学ではないし、あらゆるスタイルの思索へむしろ開かれている。

デリダはハイデガーを否定神学的に読み替えた、というならまだ分かりやすい。また、デリダが陥った袋小路が何なのかも分かりやすい。そこから何とか脱出せむとして様々な思考を試みた。

 デリダ、て人と一見無縁なようで実は似ているのではないかと秘かに考えている思想家がある。広松渉である。事的世界観を自称し、しかし、その内実は実に古典的なマルクス主義者だった。政治的にも古典的な党派性を越えることはなかった、

そこには奇妙な二面性がある。奇妙だが、実は必然的でもある。真性にたいする把握がデリダと同じで否定神学的だった。広松は色即是空とよく言っていた。難解な事的世界観と裏腹な、10年1日のような新左翼的運動の広松における両立を僕は興味深くみていた。

 否定神学的に規定された有の思考はハイデガー的に言えば有の忘却の一形態ではないか、したがって、そこから出てくる政治などが旧態依然であっても何の不思議もない、といつしか考えるようになった。
64伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/12(火) 15:47:13 0
新刊で出てたから立ち読みしたが、題にはでていないけど、
要するにいかにラカンを乗り越えるかを描いた本
教科書的でおもしろそう。

「権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール 」
佐藤 嘉幸 (著)

郵便本での勘違いを学び直そう!
65考える名無しさん:2008/08/12(火) 18:06:54 O
伏蔵が来たら荒れるので出入り禁止
66考える名無しさん:2008/08/13(水) 00:54:37 0
>>64
良さそう
67伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/13(水) 00:58:42 0
>>66
日本人だけど、フランスの博士課程論文が
ベースになっているので、内容は本物だと思う。

郵便本を真に受けている人が多いので、
構造主義の再勉強におすすめ。

立ち読みしただけだけど。
68考える名無しさん:2008/08/13(水) 01:02:40 O
自演乙
69考える名無しさん:2008/08/13(水) 02:16:10 0
「権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール 」
佐藤 嘉幸 (著)
http://www.jimbunshoin.co.jp/mybooks/ISBN978-4-409-04092-8.htm

共に71年生まれ。東大と京大。対照的だね
70考える名無しさん:2008/08/13(水) 14:28:51 0
佐藤なんて聞いたことないな。
いずれにしても中身なさそ。
71考える名無しさん:2008/08/13(水) 22:21:41 0
ポスト構造主義をいかに超えるかだね。
そのためには、竹田の東デリダ批判が重要だね。
しかし、エポケーする(私)ってだれだ????
そこが、デカルト的なフッサールって事でしようか?
「純粋意識」ってどのようにして出来あがったのか?
「認識する私」って、コギトと違うのか??
この辺について疑問があるんだね??
72考える名無しさん:2008/08/13(水) 22:39:18 0
「超越論的自我」ってなに?
その証明はいかになされるのだ?
「純粋意識」って何?
「ただ像や観念が生起する一点として残されるような、意識の側面」
(竹田君のフッサールによる解説)ってあるのそんなもの?
「現象学的還元」と言う分解構築は誰がするの?
「存在信憑」って何?それが厳密な哲学なのか?信憑=不確実な要素
を含まないのか???
デリダの言う「真理」とは、現象学的な「真理」に該当しないのか?
なぜか?
こう言う点について、現象学が形而上学ではないとするならば、
答える必要があるだろう???
73考える名無しさん:2008/08/14(木) 02:30:55 0
タイトルに超えるてあるけど
構造主義・ポスト構造主義を精読・検証することが
超えるってことに繋がるんですかね?ただ埋没してる
だけじゃないの。殺す気あるの?
超えるってことはもっと別のとこから何かもってこない
と無理なんじゃないの。地球に月ぶつけるみたいに
74考える名無しさん:2008/08/14(木) 09:19:15 0
解りやすく言うと、フッサール・竹田の言う「超越論的自我」の存在証明は
「超越論的自我」の基盤(前提)でなされている。
つまり、メタ=無限後退的超越点 の存在を隠し持っている事を
無視して、竹田現象学は出来上がっているのだね。
この点が問題点の一つ。

次に、真理がたとえ、客観的な物の「ありのまま」の把握を指さず
人間の意識の「ありのまま」を理解することであっても、それは
唯一の真理掌握と言う、形而上学にならないのかと言う点が
第二の問題点と言うわだね。
この辺について、フッサール・竹田派の皆さん説明を願います。

この点の乗り越えによって、デリダ批判が完成する。
デリダは、先にも書いたとおり、脱構築の不可能性を「他者」と「正義」
の概念に持ち込んでおり、この事が脱構築と言うものを全て無効にし
「他者」「正義」と言う絶対的な基準を持ち込んだ事で、
超越論的な神学的な形而上学に再度落ちこんだ事になる気がするな。

本来ならば、すべて脱構築の運動とならねばならないだろう???
善も悪も、正義も不正も全ての垣根がなくなる点こそ零度のエクリチュール
なのだ!!
75考える名無しさん:2008/08/14(木) 18:16:34 0
竹田のポストモダン・デリダ・東批判
1)「語り得ないもの」と言う超越項を創出する。この項は絶対に
   脱構築されないと言う事。(私)(正義)(他者)
   あらゆる思想・定義・制度は批判は出来るが、
   ではどう言う意見かと問われれば「何も言えない」と言う批判。

2)あらゆるものを相対化し、批判する脱構築は、一切を批判する
  立場を確保しつつ、その批判する当のものである「語り得ないもの」
  を一切の批判から逃れられるようにする。
  なぜならば、「語り得ないもの」を批判対象に出来ないから。
3)ポストモダンは世界に対して積極的な態度=政治をとる場合
  「正義」「他者」「倫理」と言う理想主義に陥り、空想・夢物語として
   語られるだけであり、実際の政治・運動にはなりえない。(ロマン主義
   的妄想批判)

76考える名無しさん:2008/08/14(木) 18:38:00 0
4)意味の多様性=多義性は、客観的なラング的意味の唯一性を
  捉えようとするところに発生するのであり、現象学的な
  信憑性の視点からは起こり得ない。
  フッサール現象学ではパロール時の意味の不確定性にあっては
  大工 A 「ハンマー」と言ったら、
  大工 b 「取るんですね」と確認できる。
  この会話によって、信憑性が生まれ、多義性は消失する。



5)エクリチールの多義性は、エクリチュールの意味の自立性
  ではなく、「発話主体」の存在性格??の確定不可能性による。
6)以上から、パロールに対する、エクリチュールの優位性
  を証明できない???としている。
  デリダの言うようにエクリチュールは記号の自立や「作者の死」
  ではなく、「意味了解」における再確認の方途の不在と言う事だ
  と竹田は言う。そう言う意味から、エクリチュールのパロール
  に対する優位(音声中心主義批判)は証明できないとする。

  以上「言語論的思考へ」竹田青嗣著より まとめ・抜粋
77考える名無しさん:2008/08/14(木) 21:34:14 0
>しかし、エポケーする(私)ってだれだ????

それぞれの(私)じゃないんですか。

>そこが、デカルト的なフッサールって事でしようか?

私の感覚ではデカルトと違う点は、事物の存在でも言葉の意味でも自分のなかに本当の確信が成立していれば、それ以上疑う動機自体がなくなるというとこかな。
したがって、悪い神に欺かれていようがいまいがどうでもいい、と。
(ノージックもどこかで似たような論法を使っていたような。)

>「純粋意識」ってどのようにして出来あがったのか?

どのように出来たかは知りえないんじゃないですかね。
それに、上に書いたような確信を作り出す はたらき のようなものだからそれ自体が実在物というわけでもないと思う。

>「認識する私」って、コギトと違うのか??

私のイメージでは、認識しているのも考えているのも私だな。
78考える名無しさん:2008/08/14(木) 21:43:57 0
>「存在信憑」って何?それが厳密な哲学なのか?信憑=不確実な要素
を含まないのか???

不確実な要素を含んでいると判断すれば、信憑や確信は成立しないでしょ。
それに、事物存在(目の前のPC)の[経験]も最小限のドクサ=超越というのがフッサールの立場らしいですよ。
詳しくは知りませんが。

しかし、疑おうと思えば原理的にはいくらでも疑えますよ。
大蔵省や造幣局で鑑定してもらった紙幣でもね。
79考える名無しさん:2008/08/15(金) 05:52:04 0
>それは 唯一の真理掌握と言う、形而上学にならないのかと言う点が
第二の問題点と言うわだね。

自然科学は「唯一の真理掌握」を目指しているように見えるけど、では自然科学は而上学か?という点が問題になるね。
自然科学を区別して信憑構造を否定するとすれば自然科学(仮説・予測・検証のプロセス)の妥当性はなにが支えるのかが?
論理学も同様。
80考える名無しさん:2008/08/15(金) 10:45:23 0
77
デカルトにしても、「私」の存在をコギトによって証明した訳ですね。
出来たかどうかは疑問ですが?
だから、フッサールでは超越論自我?がこの「私」に当たるのでしょうか?
その場合、その存在証明は何がしているのか?と聞いているのですが?

74を再度読んで、問題点を確認してください。

それでは「純粋意識」とは何でしょう?
また、その存在証明は何がするのでしょう?「私」ですか?
それならば「私」って何なのでしょう?

78
個々人の信憑性=確信によって、すべてが理解されるとするならば、
誤謬と言われるものも、ある個人にとっては、真理となるが、
この点についてはどう考えればいいのでしょうか。
不明な点について「確認」と言う行為を行わないで、安易にその個人が
信憑性を持った場合、これも真理なのでしょうか???
この辺が独我論と言われるゆえんでしょうか?
81考える名無しさん:2008/08/15(金) 10:54:03 0
科学はあくまで経験的実証主義であり、帰納法であるのでは?
だから、ある一つの実証から、統一場の理論の様な
演繹的に絶対真を証明したと言ったら、それは、形而上学的だと言えるのでは?
あくまで、科学は、「明日は西から太陽が昇るかもしれない」と
言う、いわゆる反証可能性を前提にしていないといけないだろうね??
82考える名無しさん:2008/08/15(金) 12:52:08 0
「構造」越えちゃまずいもんを構造とよぶ
83考える名無しさん:2008/08/15(金) 13:55:24 0
>>80
>デカルトにしても、「私」の存在をコギトによって証明した訳ですね。

私の理解内では、デカルトは神という外部の存在者を借定することによって自分の推論の妥当性を保証したのです。もちろんそれはコギト内の論証ですが。

>その場合、その存在証明は何がしているのか?と聞いているのですが?

誰に対する「存在証明」なのですか?
フッサールにとっては、「私」「他者」「時空間」は経験を可能にする[原事実]です。
この原事実そのものを否定or疑問視すれば、経験そのものが疑問に付されます。
しかしここではそれらを前提にして議論が成立している。
したがって、議論 ⊃ 経験 ということで、80が議論をしていること自体が私・他者・時空間の存在を確証しているということです。
まさか自問自答しているわけではないでしょう。

>74を再度読んで、問題点を確認してください。

必要のない確認の動機がありません。

>不明な点について「確認」と言う行為を行わないで、安易にその個人が
>信憑性を持った場合、これも真理なのでしょうか???
>この辺が独我論と言われるゆえんでしょうか?

その人にとっての真理でしょうね。
しかし私の(絶対性を主張しない)レスに疑問がある、そこに信憑性=確信が成立していないから80は疑問を投げかけ続けているのだから、そのことをもって独我論とは言えないのだと思います。
84考える名無しさん:2008/08/15(金) 16:46:47 0
そうですね。
デカルトは「われ思うゆえにわれあり」としたのですが、
前半の「われ思う」によって、後半の「われあり」が証明出来たか
と言う疑問を投げかける人もうますね。
そして今度は、その存在証明から、客観的な世界は感覚に、あるいは
理念的に証明される通りであるのかと問います。
そこで、神の被造物である人間が真理=概念にしか到達できな
とする事は出来ない。なぜならば、神は全能だからだと言う事だ
と思います。

次に、「超越論的自我」の存在証明については、フッサール派の意見は
解りました。つまり、それを疑うなと言うことですね。
この点こそが、ポストモダンの「語り得ないもの」であり、
ハイデガー後期に顕著にあらわれる「存在」の空無なのでしょうね。
そこへの問いかけをいったん絶対的なものとして封印すると言う事が
形而上学的な点でもありますね。
意味として世界は確信される、だから、客観的なそれ自身として独立した
世界はないとする場合、科学的な研究はどう言う意味をもつのでしょうか?
客観的な真理でなく、「意味」として、どう言う事なのか。
85考える名無しさん:2008/08/15(金) 17:07:13 0
いわゆる、絶対に疑問視出来ない「私」を前提に、
その個々人に「意味」として世界の信憑性はうまれる。
ここですよね。ある意味、構造主義・ポスト構造主義の批判する
「本質主義」的な面が含まれているわけです。
別の切り口から言いましょう。
人間は自分自身をいかに定義・証明するか?と言う問題に対し、
古典的な哲学では、色々な切り口から「私」を疑えないと結論づけます。
いや、逆に疑っていない哲学者も多いわけです。
ところが、ニーチェやフロイトの時代になってくると、
「私」って何?と言う、世界を認識する側の確認が進められます。
こう言う意味ではフッサールも同じでしょう?
そして、構造主義では構造によって、精神分析学では例えば「原抑圧」によって
自我や主体は出来あがるとします。概念や考え方や捉え方は時代の
エピステーメーに左右されて出来ているとします。
これれらは、あくまで絶対的に「私」と言う視点があり得ない事を
示しています。
こう言う学問の歴史的な視点の変化を考えるとき、「超越論的自我」を
要請するフッサール現象学は時代に逆行している気もしますが?
上述のような意味から、再度「私」とはどのように証明され
それは何なのか?確実に論じる必要があるのです。
86伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/15(金) 21:48:41 0
■合理主義という症候

<「欠如(ないことである)」としての物自体>

たとえば天文学に「いかに惑星をさがすか」というのがあります。恒星はみずから輝くから
「見る」ことで発見されますが、惑星は輝かないので「見て」も発見されません。惑星は、そ
こに惑星がないと恒星の軌道が説明がつかないという「欠如(ないことである)」として、発
見されます。

それとともにこの「惑星」は逆に、物理法則そのものを支えます。なぜなら恒星の動きは、
そこに惑星などなくただ従来の物理法則と異なる未知の法則が働いている可能性もあるか
らです。そうだとすると、従来の物理法則は崩壊します。そこに「惑星」があるだろうことで、
物理法則という体系の正当性が保証されます。

カントの物自体は、人間には認識できないが、認識の向こう(超越)にある真実の世界とし
て、存在論的に語られますが、カントのアンチノミー(二律背反)論では、この「惑星」のよう
な「欠如」としての働きをします。

アンチノミー(二律背反)論では、物自体は「超越論的対象=X」と呼ばれ、言語体系上の
テーゼとアンチテーゼの矛盾を、超越の領域で整合する点として置かれます。超越を人は
認識できませんが、そこに物自体(超越論的対象=X)があることで、人間の認識する現象
界(言語体系)そのものが支えられます。この場合に、物自体はまるで象徴界を支える「現
実界」です。すなわちカントが見出したのは、合理的に世界を説明しようとするときに、しわ
寄せとしての言語体系の不完全性をさえる超越論的な対象=Xが必要になるということです。
87伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/15(金) 21:49:39 0
合理主義の欲望

当然、カントは現象界を無意識に対応させませんし、欲望、欲動をかたりません。またラカ
ンの欠如はカントよりもハイデガーの現存在の欠如に近いと言われますが。ラカンはこの
欠如にフロイトの「快感原則の彼岸」、すなわち欲動を重ねます。しかしこれは無理矢理の
こじつけではないでしょう。

ボクが考えるのは、世界を合理的に説明しつくしたいという欲望が、破綻を乗り越えて作動
することで超越論的な点はうまれる。合理論そのものが神経症的であり、精神分析は合理
論の「神経症」性を身を持って暴露した。すなわちカントやその他の合理論全般に潜む欲
望を暴露している、のではないか。

しかしこれは単に合理論の問題とはいえません。たとえば行為論もまた身体一元論へと体
系化することを望むとき、身体側から臨界へ近づくとまた矛盾した言説に陥ります。たとえ
ば有名なものが人工知能のフレーム問題です。フレーム問題を突き詰めると人はフリーズ
して行為することができなくなります。

それを乗り越えるのが、「暗黙知」です。しかし先に言ったように、暗黙知とはなにかはまだ
よくわかっていない。すなわちここでは暗黙知が超越論的なシニフィアンとして使われてい
る。すなわち人が世界を合理的に説明し尽くそうとするとき、性急に言語により世界を理解
したいと強く望むときに、あらわれる。

ないことである「惑星」、これを否定神学といいます。合理論、構造主義、哲学そのもの、す
なわち体系化を試みる言説は否定神学にむかう。それは神経症の構造なのです。人間は
暗黙知によってのみ「自然に」振る舞うことができない。無意識は言語をつかう人間のサ
ガ、人間という症候です。
88考える名無しさん:2008/08/15(金) 22:08:38 0
>つまり、それを疑うなと言うことですね。

疑う動機がないだろう、ということでしょう。
成果については措くとして、脳科学などの世界では勝手にやればいいでしょうね。

>この点こそが、ポストモダンの「語り得ないもの」であり、
ハイデガー後期に顕著にあらわれる「存在」の空無なのでしょうね。

私はその「語り得ないもの」の正確な意味を知らないし、『ハイデガー入門』wも後半はあまり読んでないないので何とも言えません。
「語り得ないもの」が「超越論的自我」、という解釈は私のイメージとも合わないしそういう意味ではないんでしょうね。
私の想像では、私の欲望、私の満たされなさの源泉のほうが近い感じだな。

>意味として世界は確信される、だから、客観的なそれ自身として独立した
世界はないとする場合、科学的な研究はどう言う意味をもつのでしょうか?

「客観的なそれ自身として独立した世界」って、すごく多義的な気がします。
正直何を指しているのか理解できません。何についての科学的な研究なのかも。
文脈から言うと「私」?
89考える名無しさん:2008/08/15(金) 22:09:44 0
>ある意味、構造主義・ポスト構造主義の批判する「本質主義」的な面が含まれているわけです。

ベタな意見かも知れませんが、「本質主義」といっても、何でもそのレッテルを貼ることはできますよ。例えば、人間や犬の集合を考えるだけで本質主義でしょう。
あと、「本質主義」を構造主義・ポスト構造主義が批判するなら、非本質な考え方が彼らにとっての「本質」ということになるはずです。

>概念や考え方や捉え方は時代のエピステーメーに左右されて出来ているとします。

フーコーの思考の台座を否定するつもりはありませんし、またその必要も感じません。
が、それとフッサールを絡めるところに誤解があるようですね。
ちなみにポスト構造主義の旗手としてのデリダはフーコーの知の考古学?を批判していましたね。
理性の時代を説明するのに「理性」の語を使用したからその時代(エピステーメー)に同意しているとかって。
何の意味があるのか?

しかし、これをこの私のレスにあてはめれば、「私」を名乗り続けている私のレスにレスをつけてくる人は、私の私についての解釈に同意している、と。

>これれらは、あくまで絶対的に「私」と言う視点があり得ない事を示しています。

例えば、あることがきっかけで自分の意見が変わったとしても、それは私の意見=視点であることに変化はありませんよ。
85は、他のことを言いたいのかな、という気もしますが。

>再度「私」とはどのように証明されそれは何なのか?確実に論じる必要があるのです。

直感的には、これは原理的に無理なんだと思います。
私を記述してくださいスレwが延々と続いていることから想像してください。
90考える名無しさん:2008/08/15(金) 23:30:16 0
論点が外れています。
もっと、しっかり理解してから討議した方が良いでしょうね。(笑)
部分的なところから、なんでも反論ではないでしょうしね。
まず、しっかり言っている事を理解してからにして下さいね。

ぴかぁ〜については、後日レスしたいと思います。
91考える名無しさん:2008/08/15(金) 23:39:14 0
たぶん外れてないよ。
92考える名無しさん:2008/08/16(土) 00:02:17 0
「世界はあるようにある。」これが原点で、世界の説明は必要ない。

しかし、支配や収奪にともなって正当性をこじつける必要が生まれる。
このチョンボな説明が神学や形而上学というものである。

93考える名無しさん:2008/08/16(土) 00:07:51 0
全面的に同意
94考える名無しさん:2008/08/16(土) 00:09:37 0
「私」の説明って意味からねえ?
95考える名無しさん:2008/08/17(日) 14:40:18 0
86
なるほど。良い説明だね。誰の説明なのかな?
素晴らしい分析だと思うね。
物自体は分からない。つまり、現象として人間に現れるものに対して、物自体は
無限の余剰=解釈可能性が残る、そのことで、象徴界=言語の崩れ
を防止する。これって否定神学的(たった一つの空無への還元)でしょうね。

87
まず、ラカンの欠如(原シニフィアン=シニフィエなきシニフィアンの事)
へ欲動を重ねる、つまり、その欠如の穴に重ねる事はそれほど問題ではない
気がするなぁ〜。つまり、リビドー(エス)が噴出する穴の様に解釈できる。

それから、世界を全て合理的・論理的に説明し尽くしたいと言う欲望が
破綻を乗り越えて作動する事で、超越論的なものが生まれるね。
これもそんなん悪くはないが、先に超越論的な自我が生まれ、それが
全体を理解しうると思い込むことだとも言えるよね。
その事が、神経症の原因ではないかと言う事ね。
そんなに悪くないね。つまり、パラノイアな訳で、世界をすべて掌握=理解
しないとイライラすると言う事でしょうね。
このパラノイアにスキゾフレニーを持ってきたのが、ドゥルーズとガタリ
って事でしょうか。
しかし、精神分析学については、色々あって、社会復帰させると言う
精神医療については、確かに批判的だが、精神分析学全体については
どうだろう?私はまだ、読み込んでみようと思っている。
なにせ、構造主義・ポスト構造主義がほとんど精神分析学・記号論
をベースにしている訳だから、一蹴する事に躊躇あり(笑)
それから「暗黙知」。たしか、マイケル・ポランニーだったかな?
これって、フッサールの「生活世界」の概念に似通っているところもあるが、
つまり、無意識の知恵みたいなもので、説明しにくい知識。
生活=生きていく上で自然に染みついた知恵かなぁ〜。

96考える名無しさん:2008/08/17(日) 14:46:32 0
「暗黙知」については、例えば、「自転車に乗る事が出来る人が
乗る方法を正確に言語で説明できない。」自転車に乗る事のできる
人の乗車知識こそが、暗黙知と書いてあった事を思い出したが、
そう言う事で良いのかな?
97考える名無しさん:2008/08/17(日) 23:42:39 0
私なんかには、惑星があるという仮設を立てることと、「欠如(ないことである)」「否定神学」が結びつきにくいです。
98伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/18(月) 06:27:46 O
惑星の例は否定神学ではないですよ。その惑星が人間の認識をこえた超越にある場合に否定神学なのです。
99考える名無しさん:2008/08/18(月) 19:10:31 0
>>98
>惑星の例は ††否定神学†† ではないですよ。その惑星が人間の認識をこえた超越にある場合に否定神学なのです。

疑問なのは、「人間の認識をこえた超越」が否定神学なら、神の存在を借定した段階でキリスト教は否定神学になるのかということ。
しかしウィキhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A%E7%A5%9E%E5%AD%A6
の説明では、「肯定神学」に対置させることで「否定神学」が説明されているように見える。
ここから論理的に推論される仮説は、「否定神学」そのものがすでに階層化されているのか? ということ。

>そこに「惑星」があるだろうことで、物理法則という体系の正当性が保証されます。

物理法則の体系を前提して惑星の存在が仮説として立てられているのであって、その逆ではないという細かしい突っ込みは抜きにして、保証されるのは物理法則の体系ではなく<論理体系>という気がするな。
書かれているような思考法は演繹定理(≒条件法導入規則)そのものだと思えるので。

>合理論、構造主義、哲学そのもの、すなわち体系化を試みる言説は否定神学にむかう。

この説明だと学問全般が否定神学になりそうな。
そして、精神分析(学と言っていいかどうか?)も論理規則に依拠しているのだとすれば、「合理論そのものが神経症的であり、精神分析は理論の「神経症」性を身を持って暴露」することはできないでしょう。
100考える名無しさん:2008/08/18(月) 19:57:18 0
「否定神学」と「否定神学的」とを分けなよ
101伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/18(月) 20:06:13 0
>>99
さすがにこれはひどい・・・
がんばれとしか言葉がでないですよw
102考える名無しさん:2008/08/18(月) 20:44:20 0
>>100 >>101
ならきれいに分けて見せてほしい。
103伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/18(月) 20:49:48 0
動いてしゃべる東はじめて見た。これも天才藤田のおかけだな。
104考える名無しさん:2008/08/18(月) 20:52:28 0
1)疑いえない「自立した私」が対象をあるがまま認識できる。
  デカルト的 主=客であり、これは否定神学ではない。
  観察する「私」の絶対存在は保証される。(科学的観察)
2)疑いえない「自立した私」は存在しないし、対象をあるがままに
  認識できないと「認識している私」否定神学。

  特に、構造主義・ポスト構造主義(ポストモダン)哲学にはこの
  否定神学からの脱却を目指すのである。

  例えば、固有名の問題もある固有名がその余剰を持っており、
  定義できない事が問われる事になる。
 
  また、神の存在もそれを言い当てるとすると
  神は有限になり、確定記述される事になり、無限の存在として
  の神は、限界を持つ事になり、神ではなくなるので、
  否定的に、例えば、「神は・・・ではない」と言う言葉の
  羅列によって否定的にしか表現できない事を否定神学と言う。
  しかし、東の批判の様に、この否定神学が「言い表せない事である」
  事を「言い表している」と言う事を批判しているのだよ。
105考える名無しさん:2008/08/18(月) 21:13:53 0
>>104
エポケーしなよ
106考える名無しさん:2008/08/18(月) 21:14:38 0
東浩紀・姜尚中・香山リカ・櫻井よしこ - 秋葉原通り魔事件・加藤智大について
http://www.veoh.com/videos/v15558027qtzXy6jC
107考える名無しさん:2008/08/18(月) 23:03:55 0
>2)疑いえない「自立した私」は存在しないし、対象をあるがままに
>  認識できないと「認識している私」否定神学。

ありがとうございます。
がすいません、ここは、[全ての真理を掌握している人間など存在しないし][すべての人間は対象をあるがままには認識できないのだ というふうな 認識]の表明が否定神学、という解釈でOKなんですよね。

しかし変なのは、その思想的立場を否定神学というなら「構造主義・ポスト構造主義(ポストモダン)哲学」こそがそこからの脱却どころか、この認識に依拠した(認識を広める)哲学?でしょう。

>例えば、固有名の問題もある固有名がその余剰を持っており、定義できない事が問われる事になる。

したがって、これがクリプキのことを言っているのであれば、クリプキは上記の否定神学の立場であって、クリプキが定義しろと言っているのではないでしょう。

>しかし、東の批判の様に、この否定神学が「言い表せない事である」
事を「言い表している」と言う事を批判しているのだよ。

なんとなくグレリングのパラドクスやベリーのパラドクスを彷彿させますが、これは観察者の視点ですね。おそらくクリプキの例では、彼の心的or思考システムとしては、純粋に[これは違う]と感じているだけでしょうね。
私のシステムは何も感じないけど(問題なし)。
108考える名無しさん:2008/08/18(月) 23:10:48 0
私の直感ではやはり論理的構造の問題のような気がします。
心より人間に備わっている論理。
109伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/18(月) 23:13:04 0
>>108
最初からそういっている。
哲学初心者?
110考える名無しさん:2008/08/18(月) 23:28:55 0
>>109
言ってないでしょう?

>その惑星が人間の認識をこえた超越にある場合に否定神学なのです。

では、キリスト教の神は人間の認識の内にあるということ?
111伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/18(月) 23:34:12 0
>>110
>>86の言語体系
カントの言語体系ってなにかわかる?

>では、キリスト教の神は人間の認識の内にあるということ?

宗教的な神のどこに否定(ないことである)の?
あんたばか?
112伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/18(月) 23:35:54 0
→宗教的な神のどこに否定(ないことである)があるの?
113伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/18(月) 23:41:37 0
超越と超越論の違いだよ。
114考える名無しさん:2008/08/19(火) 01:08:34 0
>>111−113
そもそもアンタ痴呆症?
115亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/21(木) 00:38:45 0
>>64
その本、読みました。紹介ありがとうございます。デリダによるフロイトの「死の欲動」
の読みから、「残虐な死の欲動(欲動の自己支配の失敗)」と「残虐性なき死の欲動」という
「死の欲動」の二様態を見、後者をデリダの「歓待」「贈与」「赦し」に繋げるところ、
それからアルチュセールの「ディスクールの理論」とラカンの「シニフィアンの理論」を
比較、などなど面白かったです。
でもこれは基本的に、ラカン主義的な立場から郵便本を批判した本ではぜんぜんないし、
それどころか、むしろ郵便本と相補的に読めますよ。
もう一度精読してから、内容について細かくレスしたいと思っています。
116考える名無しさん:2008/08/21(木) 23:32:41 0
>>74
フッサールは、「「超越論的自我」の存在証明」?をどのようにしているのでしょうか?
ヒントだけでもいいので教えてください。
117考える名無しさん:2008/08/22(金) 22:33:39 0
”主観と客観”、”認識と対象”のあり様を明らかにすべく、
一切のものを疑うことにしたのはデカルトもフッサールも同じ。

デカルトは疑い得ぬコギトを見い出し、主体の外に出て主客の一致を確かめることはできない、とした。
このデカルトの命題を支えたのは神の存在であったが、フッサールは神に頼ろうとはしなかった。

主観的な意識世界の外部に客観的世界があるというドクサ(馴れ合い)をエポケー(一時的保留)によって取り除き、
主客二元論の構図を取り払って主観から出発した先に、
いわば消去法によって純粋意識の中に洗い出された疑い得ぬものが超越論的自我。

その際の超越とは、主客を超える神やイデアのような事物ではないことにも注意。
デカルトの自我が(精神的)実体であるのに対し、
フッサールの超越論的自我は他の何にも還元できない根源的な働きであり、
意識の前に世界を自己展開させる第一の原理。
118考える名無しさん:2008/08/23(土) 02:12:25 0
「南京大虐殺はなかった」論は、

「アポロの月着陸はなかった」
「ユダヤ陰謀論は事実」
「政府は空飛ぶ円盤の秘密情報を隠している」
「プロレスの神様カールゴッチのサブミッションには天皇なんて腕折られて原爆固めでスリーカウントだよ。」
「2008/04/05(土) 18:43:20 0
まだビビってんのかw」
「量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。 」
「Hannibal専用スレはこちら」
「過去に行われた全ての観測の結果がイコール決定論が正しいことの証明である」
「『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です」
「インスコログラマーだよ」
「テクノの元祖はクラフトワーク」
「このスレッドは ル・サンチマン™ の提供でお送りしております」
「スカトロ好きなあずまん古腐人潮吹き花びら満開のさなえ陛下です。」

等と同レベルの、所謂 白痴的ピャ・チンチン思想なわけです。

NHKが野球中継を延長するのに次ぐ、人類史に残る愚かさの顕現なのです。

119考える名無しさん:2008/08/23(土) 07:43:11 0
「メタ=無限後退的超越点 の存在を隠し持っている事を無視して」
の意味が不明なんだな。
ここでの「超越点」とは、超越論的自我について考えている超越論的自我、またそれを対象化している超越論的自我…∞、ということなのかな?
しかしこれだと意識内容が複雑化しているだけだから違うんでしょうね。
「超越点」?
哲学用語は難しいですね。
120考える名無しさん:2008/08/23(土) 09:37:35 0
117
適格な説明ですね。
ところで、そう言うエポケーして「超越論的自我」を証明するもの
は何でしょう?
それが、「超越論的自我」あるいは「主体」あるいは
「意識の前に世界を自己展開させる第一原理」ならば、
「Aは『私はAである。』と言った。」
と言うことにならないかな。つまり、自己言及の罠にはまっている
と言う気がしてならないのだが?
121亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/23(土) 12:55:57 0
>>116->>120
コギト・エルゴ・スムは、疑いえない自我の措定「私は私である」「私が世界を構成する」
ではなく、逆にそれらの自明性を疑ったとき、「私は私でないかもしれない」「私の世界
構成は単に相対的なものかもしれない」と疑ったときに現れるものです。
哲学的思惟はこういったズレが強制するものです。
よって、終わりなき自己言及性がコギトの自己証明を揺るがすのではなく、終わりなき
自己言及性こそがコギトの自己証明なのです。
122考える名無しさん:2008/08/23(土) 14:36:47 0
121
それって、鶏が先か?卵が先か?ぐらいの問題でしょうね。
「われ思う」は「我あり」に先行するが、「我あり」の証明なくば、
「われ思う」に行きつけない、どうどうめぐりでしょう。
だから、その矛盾を避ける為に、デカルトには絶対に否定できない
「神」が必要だった。
一方フサールは、デカルトと同じ「私」の定立に、「超越論的自我」
をもってくる。それは自分ではない=自分を超えた「神」と言うもの
を要請せず、自分で自分を定立した為に独我論と言われた。
ただし、その自分の証明は、自分がなす事で、自己言及性の罠からは逃れは
いないでしょうね。
それよりも、デリダを読む松井さんが、自己定立を疑わない方が
自己矛盾ではないでしょうか?
もっとも、デリダを知識として読んでいる「私」は確固たる自己存在
(現前)に疑問を持っていないのなら別ですが。
その場合、後期デリダのテクストはどのように読むのでしょ?
貴方のデカルトに対する意見からは、この点が疑問です。
123考える名無しさん:2008/08/23(土) 14:41:36 0
固有名の余剰は自己定立の不可能性=デカルト・フッサール批判
でもあるのですよ?
124亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/23(土) 15:00:08 0
>>122
まずあなた誰?松井って誰?

矛盾を持っているから存在証明にならない、というのは思いこみです。
『差異と反復』の「思考のイマージュ」の章を読んでもわかる通り、
哲学的思惟は思惟と存在の根源的不調和から駆動されます。
カントのほうが理論的にデカルトに先行します。
125亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/23(土) 15:15:47 0
参考にこちらをどうぞ。
http://www3.ocn.ne.jp/~camp/deleuze.html
126考える名無しさん:2008/08/23(土) 20:12:13 0
まず「私は他人に好かれる人間になろう」と努力することが大事です。
                             中村 天風
127考える名無しさん:2008/08/23(土) 20:18:53 0
全くよく解っていませんね。
なぜ脱構築したのか、貴方は東のデリダ論を読んでましたよね。
どのように読んだのでしょう。亀井さんでしたね?失礼。
あれは、デカルト批判ですよ。
それを、自己定立する自分を認証すれば、差異は回収されるでしょう?
違う???
やはりそうでしたね。
ある時、デリダとハイデガーでしたか?を適時自由に選択すると言っていましたね。
そうすると、選択する「私」が存在する事になると指摘した人がいましたね。
その通りです。あなたは、デリダの脱構築を読む「私」を何の疑問もなく前提として
認めています。これが、後期のデリダをどう読んだのですかと言わせたのですよ。
「散種」「弔鐘」はどうして、あのようなスタイル本だったのか?
分裂症はどうしてドゥルーズ・ガタリの術語だったのか?
解っていませんよその読みでは???
128考える名無しさん:2008/08/23(土) 20:29:51 0
思惟と存在のギャップこそが、確定できない「私と言えないもの」
を否定立にするのですよ。ですから、脱構築=差異化される「私」
なのでしょう。つまり、無限にずらされるものを「私」とは定立
出来ないのです。
129考える名無しさん:2008/08/23(土) 20:32:23 0
デリダとハイデガーではなく、ニュートンとアインシュタイン
でしたね。いずれにしても、同じことです。
色々な理論を選択する「私」を前提にしている事が問題なのですよ。
130考える名無しさん:2008/08/23(土) 20:39:41 0
むしろ、フッサールの現象学派のようだね。
自分にとって「意味」あるいはハイデガー的な「道具関連」
として、哲学が使われ、その使う「私」が無傷でいるという。
131亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/23(土) 21:21:07 0
>>127-130
なるほど。パレルゴンさんは「名無し」と「パレルゴン」の二つの名前で
書こうとしてるんですね!
なんでそんなややこしいことをしてるのかわかりませんが、書きこみの
レベルを見れば一目でわかりますよ。自演するならもっとうまくやらないと。

ところで「散種」と「弔鐘」は邦訳がないのでわたしは読んでないんですが、
あなたは何語で読まれたんですか?
132カリカリいっぱいくうお:2008/08/23(土) 21:40:45 0
貴様が修羅場で苦しんでいる所へ、突然覆面をした猫が侵入してくるであろう。
 二本足でよたよたと歩きながら「か、金を出しぇ!」と包丁を突きつけられて
 狼狽するがよい。

 「お金? いくらいるの?」
 「ごせんえん」
 「いいよ。はいどうぞ」
 「固いお金もいる」
 「小銭のこと? 全部持てるかな」

 貴様は猫に脅迫されてペンを放り出し、財布の中身を全てピンクの肉球へ
 握らせてやるはめになるであろう。

 「何買うの?」
 「カリカリ。いっぱい買う」
 「そっか。でもお店遠いよ? 一緒に行く?」
 「…いく」
 「包丁は重いから置いておきなよ。後で取りに来ればいいから

 そして貴様は一分を争う状況でありながら、ついうっかり猫に連行されてしまう。
 さらに疲れたろうと風呂に入れてやり、休んでいきなよと布団を
 乗っ取られてしまうがよい。
133考える名無しさん:2008/08/23(土) 22:47:22 0
>「われ思う」は「我あり」に先行するが、「我あり」の証明なくば、
「われ思う」に行きつけない、どうどうめぐりでしょう。

改めてこう書かれると、この我は身体的な我なのか超越論的自我なのか解らなくなりました。
後者なら、「われ思う」と「我あり」は同値ということで問題なし。
前者なら、「我あり」は推論としてあるのだから、証明される対象ではない。
身体があっても我なしかも知れないということもあり。

>ただし、その自分の証明は、自分がなす事で、自己言及性の罠からは逃れは
いないでしょうね。

自己言及しているのが私。
あらゆるものを対象化する性質は対象化できない(orし難い)ということもあるでしょ。
が自分の後頭部を直に見れなくても後頭部があることを知ることはできる。
134考える名無しさん:2008/08/23(土) 22:49:13 0
あ、自己言及する私を対象化している私のほうが正解かも。
135考える名無しさん:2008/08/23(土) 23:07:50 0
自分の眼球を直接見ることはできない。
同様に、我(意識主体)が直接我を観察は出来ない。
鏡を使って眼球を見るのは反射を見るのであり
観察に与えられる「我」は反省によって綜合されたものであり
つまり反照的なものである。
生きられる「我」は全面的には可知的ではない。
「我自体」は「物自体」同様に理念的な無限遠的な焦点に仮想される。
これは、有るとか無いとか言うものではなく、理論上の「要請」である。
超越論的自我はこれにあたる。

136考える名無しさん:2008/08/24(日) 00:08:35 0
>同様に、我(意識主体)が直接我を観察は出来ない。

観察する対象であってされる対象ではないだけでしょう。

>鏡を使って眼球を見るのは反射を見るのであり
>観察に与えられる「我」は反省によって綜合されたものであり
>つまり反照的なものである。

しかし眼球はある。
眼球に直接触れて確認することができるし、目から得られる視覚感覚だけでも何か(眼球)があることは解るよ。

>これは、有るとか無いとか言うものではなく、理論上の「要請」である。
>超越論的自我はこれにあたる。

同様にして「私」(≒超越論的自我)はある。
137考える名無しさん:2008/08/24(日) 00:21:30 0

>眼球に直接触れて確認することができるし、目から得られる視覚感覚だけでも何か(眼球)があることは解るよ。

そのような確認の仕方が反省的綜合ということですが。
138考える名無しさん:2008/08/24(日) 07:17:59 0
無は総合からは出てこない。
かつ、総合は無からは出てこない。
ゆえに、私はある。
139考える名無しさん:2008/08/24(日) 17:11:49 0
これまでのところで問題にされている

「私」

って何のことだったの?
独語でいう"Ich"?それとも"das Ich"?
140考える名無しさん:2008/08/24(日) 19:55:02 0
考える主体=私、です。

私と自我は分けていませんけど。
現段階では分ける必要を感じていませんので。
で、それで何か不都合でも?
141考える名無しさん:2008/08/24(日) 20:24:46 0
余談
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98
>デカルトやカントが cogito/Ich denke から遡行的に知られるとした  "ich bin" 我あり、をデカルトにおいてそうであったような個我の自己認識から、

デカルトは、「我あり」を知っていた(or確信していた)が、その証拠がなかったから、「我思う」ことによってそれを証拠立てるしかなかったのでしょう。
だから何が問題なの?

なので「私」を否定的に扱っておきながらレスを書くのは行為矛盾です。
そもそも「私」を否定するなら、人間に内在する知覚、表象、知識、判断は何がどういう方法で取りまとめるのですか?
誰がレスを書いているのですか?
142考える名無しさん:2008/08/24(日) 21:08:19 0
認識する主体自体は直接に認識できないのは常識かと思ったが。
認識される客体としての自分(ここでいう「私」)を前者と分けるのは哲学の基本では?
143考える名無しさん:2008/08/24(日) 21:59:18 0
>認識する主体自体は直接に認識できないのは常識かと思ったが。

そのことは言っていますよ。
そうではなくて、その認識主体が自分を「私」と呼ぶことにどういう不都合があるのかということ。

>認識される客体としての自分(ここでいう「私」)を前者と分けるのは哲学の基本では?

これはおそらく、自己意識とか自己認識という、<心的システム>=私が客観視している限りの「私」のことでしょう(自己意識の意味も本によってはかなりひらきがありそうで何とも)。
しかし私が言っているのは、その認識を産出する側の<心的システム>自身=私のことですよ。
あらゆる思考を構成素として作動し続ける<心的システム>が私にとっての「私」です。
144考える名無しさん:2008/08/24(日) 23:00:30 0
>>140
> 考える主体=私、です。
> 私と自我は分けていませんけど。

いや、そのように定義をしていただければ、別にそれで問題はない。

日本語とドイツ語でも印象に違いもあるように、
"私"も"自我"も、時代や人や訳者によっても様々な使われ方をしていて、
"私=自我"の場合も"私≠自我"の場合もある。
自我が"Ich"とされることも"das Ich"とされることもあるし、
"mein selbst(myself)"ぐらいまでも考慮にいれて定義される必要はある。


>>142
> 認識する主体
> 認識される客体

そうそうそう。
"私"と"自我"を分けるようになったのはデカルト以降だと思っているのだけど、どうだろう?


>>143
最後の行の最後の部分。

> 私にとっての「私」です。

に違和感を感じる。"私"と括弧にいれた"「私」"とを使い分けて二つの事物を指示しなければならないのなら、
それぞれを、別々の言葉で言い表したら?


ここで議論されているデカルトが異常に複雑に語られているのに疑問を持った。
145考える名無しさん:2008/08/24(日) 23:27:52 0
つまらん自慰行為はやめろ
さっさとポスト構造主義の次考えろ
146考える名無しさん:2008/08/24(日) 23:41:46 0
>>145
ふざけんな
147亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/25(月) 01:07:24 0
こんばんは。よく考えてみたのですが、わたしのデカルトおよび「コギト エルゴ スム」についての考え方は、
ドゥルーズ『差異と反復』第三章「思考のイマージュ」と柄谷行人『探究U』第二部「超越論的動機をめぐって」
に強く影響を受けているようです。ここで、後者についてちょっと言及しておきたいと思います。
柄谷はまず、レヴィ=ストロースが、疑いえぬ自我の明証性からはじめるデカルトを批判し、「私自身は何者なの
か」と問うたルソーのほうに、自身の方法論(構造主義的方法論)の源流を見ているといいます。しかし、このよ
うな図式は、当時の「言説の場」の状況(サルトル一派との論争)から、戦略的にデカルトを悪役に仕立て上げて
書かれたに過ぎず、逆に、デカルトこそ構造主義的方法論の始祖として見るべきだと主張します。
簡単に言うと、デカルトの方法論も、構造主義的方法論も、「我思う」と「我疑う」の二種の思惟の差異を思考
しているということです。つまり、前者は、デカルト以前の(いわゆる中世哲学までの)思惟、自我の明証性内で
の思惟、「我思う」の地平。後者は、デカルト的懐疑「我疑う」、構造主義的懐疑(意味内容の徹底的還元)。
「コギト エルゴ スム」は後者として読むべきであるというわけです。これはいうまでもなく超越論性という
ことです。ここから、デカルトによる形而上学の完成とされている「神の存在証明」も、通俗哲学史とは違った
様相を見せてきます。柄谷はレヴィナスをひき、「私」に超越論性(「コギト エルゴ スム」=「疑いつつ在る」)
を強い、構成しえない外部性として「有限なる私」に先行する「無限」、をデカルトは「神」と呼んだ、といい
ます。もちろん、このようなデカルト読解はスピノザにはじまります。
このへんの考え方について、みなさんどう思われますか。ご意見募集しまーっす。
148亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/25(月) 01:11:07 0
おっと、もちろん、ご意見は『探究U』か、それに関する文献を読んだ人に限りますよー。
よろしくお願いしまーっす。
149考える名無しさん:2008/08/25(月) 02:37:22 0
構造主義は思索する概念以外で規定されている。
同じものをどう呼ぶかについて議論しているのだ。
このように付かず離れずをしているのは決断力に欠けるのではないか。
どうしてこのように優柔不断であるのかというと纏まった考察をしないからだ。
行き詰ったところで立ち止まったり、色々な見解が幾つもあるとして私はこう
考えると決めないのだ。
だから、色々な立場が出てくると考えあぐねて迷うのだ。

決断力に工夫をして欲しい。
それ以外のものをどう扱うようにするとか、規定することをどのようにみなすと決めておくのだ。
決まってると調整に優れている。決まったことから意見を導きだしたり、物事の程度がよく
判るのである。

色々な立場は優先順位が付け易く、反対に、完璧にやる苦労をせずとも大体の程度がわかる
のだ。これが無いと、悪い意味での相対的である。

こうして、物事がわかるのだ。

150考える名無しさん:2008/08/25(月) 02:51:21 0
>>149
思索する概念以外とは何ですか
151考える名無しさん:2008/08/25(月) 03:35:35 0
つまり、構造主義やポストモダンとは消極哲学といってよいw
そのような哲学に囚われていては成功はおぼつかないのだw
152考える名無しさん:2008/08/25(月) 04:18:52 0
>>151
”汝自身を知れ” - デルフォイの信託











英訳がどのようなものなのかは知らないが、
汝=you
汝自身=yourself
の違いはある。「汝」が「汝自身」を知らないことはよくあることらしい。
153考える名無しさん:2008/08/25(月) 08:10:12 O
148:亀井絵里 ◆W8WSOykcxA sage2008/08/25(月) 01:11:07 0
おっと、もちろん、ご意見は『探究U』か、それに関する文献を読んだ人に限りますよー。
よろしくお願いしまーっす。

 敢えて1ハイデゲリアンとして書かせて頂きます(笑)

 柄谷的な読み方でいうと、<我思う><我疑う>の他にも、その否定形すなわち<我思わず><我疑わず>という構えはあるはずで、後者の場合、これは<我>の思惟や行為にたいして、決して内省的にはならない、物事への対し方を意味していると

思えます。この差異とは何なのか。

 ハイデガーはかつて、デカルトの定式にたいして、<我有り、故に、我思う>へ転倒すべきだとどこかで語ってましたが、まさに先に挙げた様々な対し方を決定づけるのが何なのか、考えてゆくと、そこへ、有へ来てしまう。そうして、このような有の呪縛性を、

実は我々一人一人は知らずに体現し、表現していると思いますね。そこに、いわゆる現代思想的な目新しいタームよりもより普遍的・根源的な問題を私は見るわけです。

 柄谷の『探究2』でやったような問いというのは、通俗的な哲学史を読み替えるという意味ではたしかに面白いんだけど、面白い止まりなんで、というのは、相変わらず現代思想的なタームの中で、こんな見方も出来るじゃないか、という視線の提示をしているだけで、

人間にたいする決定的な態度変更・視線変更を促す、暗示するものではないわけです。
 それはハイデガー以前への後退だと思いますね。
154考える名無しさん:2008/08/25(月) 15:02:04 0
亀井理論は少し強引でしょうね。
もっと、さらっと言えばいいのではなでしょうか。
同時に、「探究U」を読んでんないといけないと言う、こう言う自由の場で
自己中心的な排他的発言=命令が気になりますね。
哲学は元来開かれているものであり、制限すること自身が、コギト的ですね。
つまり、外部の余剰=外を排除し、自分の認識力を絶対視する。
この見方を相対化したのが、ぽすと・構造主義なのですよ。
しかも、おそらく誰も言わないようなデカルトを構造主義の元祖??(笑)
デカルトは現前の肯定から原理の発見を肯定しているのですが???
むしろ、ルネッサンス期の近代的客観主義的真理を導いた哲学者ですよ??
それでは、構造主義は何なのでしょう?ほとんど読んでいないのでは?
フーコーは読みましたか?解ってます構造主義の意味????
一般的でない説をのべる場合には、詳細に通説を解きながらやるものですよ。
155ハイデゲリアン:2008/08/25(月) 17:33:56 O
 んー、まあ、亀井さんの書き方に文句は付ける気はなくて、亀井さんがわざわざ、今やほとんど2ch.でも誰も取り上げなくなった(もちろん、2ch.で取り上げなくなったからといって下らぬ本だとは言えない)柄谷の『探究2』を取り上げてくれたので私も重い腰を

上げる気になったわけで(笑)むしろ亀井さん、有り難う、とでも言いたいくらいですけどね。
156ハイデゲリアン:2008/08/25(月) 18:10:44 O
 ついでに亀井さん、『差異と反復』中の「思考のイマージュ」についても先の「超越論的動機」と同様にまとめてくれたら有難いな。
157亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/25(月) 21:08:16 0
>>ハイデゲリアンさん
なるほど。ご意見ありがとうございます。>>153の意見をもうちょっと膨らませて書いていただける
とうれしいです。具体的には、単行本108ページのレヴィナスの引用から展開されている部分。
第一に、ここで柄谷は有限なコギトから無限の観念を構成し、その観念を対象としてみずからに与える
哲学的思考の一つとしてハイデガーの思考をあげています。対して有限なる思考のうちに無限を現存
させる思考をデカルトに見る。
第二に、そこから、構成しえぬ無限の現存なくして思考が自らの有限性に気づくことの不可能性を考え
たデカルトの思考が、ハイデガーの「現存在は死ぬ」「世界の内にある」の先駆性・先行性、にさらに
先行するという主張。
この二つに対し、できればハイデゲリアンさんの反批判をお聞きしたいと思います。
あと、「思考のイマージュ」のまとめは時間がなくてできないです。
158亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/25(月) 21:16:15 0
>>154
強引に感じたのなら強引なのかもしれませんね。
ただ、著作を限定したのは話を早くしたかったというだけの理由です。議論の途中で
実は読んでないんだけど、と言われずっこけるパターンが哲学板にはよくありますから。
5行目以降はほとんど罵倒ですけど、今日は気分がいいので許してあげます。

>>155
『探究U』って今はそんなに読まれてないんですか?ちょっとびっくりしました。
159考える名無しさん:2008/08/25(月) 23:09:14 0
貴方に許す権限があるのでしょうか?
いや、5行目以降は真摯な学問的質問でしょうね?
だから貴方に問うているのですよ、デカルトが構造主義の元祖である理由を
詳細に展開してくれませんかと?
もっとも、哲学の歴史を見れば、それは連続しているのであり、
どのような哲学も色々な過去の諸説に影響を受けているものですよ。
カントの先験的感性・悟性形式の方が構造主義に近いとも言えるでしょうね。
あるいは、ヒューム等のイギリス経験論の方が、人間の先験的な認識基準を否定し
後天的に創られた恣意的形式に左右されて世界は開かれると言う意味では
より、構造主義的ともいえるでしょう。
こう言う意味で元祖と言ったのなら、話になりませんよ。
詳細説明をどうぞ???
160考える名無しさん:2008/08/26(火) 00:17:28 0
>>159
理解や解釈は人それぞれでいい。
人に訊く前に少しは考えたらどうだ?
161亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/26(火) 00:23:47 0
>>159 >>160
どちらさまもそうプリプリしないで。でもこれがほんとの二重襞!とか言ったりして。
こちらでもご覧になって落ち着いてください。
http://jp.youtube.com/watch?v=Rx07A9LWBJA&feature=related
162考える名無しさん:2008/08/26(火) 14:43:08 0
誰がうまいこと言えとw
163考える名無しさん:2008/08/26(火) 20:49:42 0
161
亀井さん。
自分の言葉で述べてくださいよ。
不利になたら、逃げるのではなく、真理探究のために討議しましょうね。
実力以上の事を述べるから、反論に答えられないのですよ。
とりあえず、貴方のデカルト論は、柄谷の読みの延長である事なのでしょうか。
そこで、一つ、柄谷がもしそのような読みをしたのならば、おそらく
近代客観主義の重鎮を構造主義的に脱構築して読んだと言う事なのでしょう。
つまり、西洋的な自我の証明も、証明する自我が「存在」に先立たれている
ことで、「我あり」は「われ思う」によって証明されないと言う事。
そこから、それでは、「我あり」=「存在」とはなにかと言うハイデガーのモチーフ
へとつながり、世界に被投された現存在と言う流にになるのでしょう。
164亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/26(火) 21:25:43 0
>>163
まず「不利になったら、逃げる」とか「実力以上の事を述べる」とか書くのやめてもらえますか?
普通にキモイんですけど。
反論に答えろといいますが、パレルゴンさんがどこでどのような反論をしているのかまったく
わかりません。通俗哲学史のキャッチフレーズをオウム返しすることは反論でもなんでもあり
ません。そもそもコギト・エルゴ・スムを三段論法による証明として読むことをエポケーして
話しているのに、著作を読んでないあなたはそれも解っていない。ルールを教えながらゲーム
をしているみたいでつまらないこと極まりないんですよ。
165考える名無しさん:2008/08/26(火) 21:38:06 0
何処でどんな反論ですって?
デカルトは構造主義の元祖ではないでしょうと言っているでしょう。
だから、貴方の考えるデカルトのコギト論とやらを展開しては
どうでしょうか?どの様にエポケーしたんですか?
通俗的って、なにを基準にして、言っているのでしょう?
自分の基準と言われるのならば、その基準を述べてください。
166考える名無しさん:2008/08/26(火) 21:52:31 0
数秒前に「我思った」という私自身の記憶は、
それ故に「我」の存在性を確固としたものにしますねぇ。
167亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/26(火) 21:58:25 0
>>165
そういう質問にいちいち答えるのが、ルールを教えながらゲームをしているみたいで
つまらないことだと言ってるんですよ。郵便本読解のときからずっとそうじゃないですか。
教えてあげるのはこれが最後ですよ。
まずわたしはスレで、デカルトのコギト・エルゴ・スムが三段論法として読まれ、それが
循環論法だからダメと一蹴されていて、さらにそういう読み方が動かせない定説として
書かれていた。なのでわたしは、コギト・エルゴ・スムを証明ではなく、「私は疑いつつ
在る」さらには「私は無限の中で疑いつつ在る」と読む読み方もスピノザ以来ずっとある
ということを示し、みなさんに意見を求めました。ただそれだけです。だからあなたも
議論に参加したかったら、『探究U』を読んで意見を書けばいいだけです。わたしは柄谷
の考えが絶対に正しいとは言っていないし、スタンダードな読み方にしろとも言っていません。
議論の叩き台にしたいだけ。勝手に論争に仕立て上げているのはそっちなんですよ。
168考える名無しさん:2008/08/26(火) 21:59:28 0
柄谷のデカルト擁護にはやはり無理がある。
彼は探究Uで「私は・・・思惟そのものを疑うがゆえに、ある。・・・
その限りで精神がある。意識あるいは自己意識は精神ではない。
精神とは、意識あるいは自己意識に対して<外部>に存在する・・・・
デカルトのコギトは外部だ」と言っていますね。
これは、明らかに超越的視点を強調する形而上学ですよ。
だから、神の消滅の位置に自我=私をすげ替えた事になりますね。
1994年に書かれたのですから、まだ柄谷も形而上学からの脱出が
不十分だったと言ってよいのかも知れませんよ。
169ラプラスの悪魔  ◆daemontaDA :2008/08/26(火) 22:07:26 0
このスレは意識過剰なコギトウイルスにやられたようだね。
170考える名無しさん:2008/08/26(火) 22:10:11 0
ざんねんですが、すでに私も「探究U」は読んでいたのですが、
印象が薄かったので、黙っていただけですよ。
貴方に教わる??
傲慢ですね。それほど偉いのかな???
貴方こそ郵便本の時に、勝手に書いては知らんふりでしたよね。
自分がよほど偉いと勘違いしているのでは?
それに、自説を絶対に曲げない。
形而上学の亜種としての否定神学を全く認めない。
こう言う態度があるから、私は貴方の説に他の説を言ったまでですよ。
やはり、貴方は自分の正当化しか考えていないようですね。

171亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/26(火) 22:13:46 0
>>168
6行目まではタームの誤読。「外部」の意味がわかってない。
7行目以降は意味不明。
これからはシンプルにいきます。疲れる。
172考える名無しさん:2008/08/26(火) 22:18:47 0
だから、読み方は変遷するのでしょうね。
その変遷によって、哲学が古典主義→イギリス経験論→ドイツ観念論
と移ってきたんですよ。
デカルトもカントも読み方が変わることで、ブレイクスル―する
と言う事でしょう。
だから、貴方が説明をする時には、「・・・一般的にはそう読めるが
こう言う読みもあるのでは・・・」と言ったらどうでしょう。
そうすると「なるほど」と言う反応で「それでは・・・でしょうかね」
と言う対話になるでしょう。
それを「こうだ」といって、相手を否定しながら自論展開するので
反論が中心の討論になると言う事でしょう。
相手を思って言葉を選びましょうね。
173考える名無しさん:2008/08/26(火) 22:21:51 0
シンプルではなく、自分が判断する人で、他人を見下している
態度でしょうね。
どのように誤読なのでしょう。
174考える名無しさん:2008/08/26(火) 22:25:17 0
そして、貴方の自論「デカルトが構造主義の元祖」と言う説を
説いてみては・・・・
175亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/26(火) 22:31:54 0
見下されるような読解ばかりするからです。哲学が好きなら、議論相手を思う以上に
著作を書いた哲学者たちを思ってレスしてください。
わたしはなれあうくらいなら、傲慢だと思われるほうを選びます。
176考える名無しさん:2008/08/26(火) 22:35:35 0
「精神」が「外部」だとすれば、外部とは神の域でしょう。
それを精神がいる域だとすると、精神は神の代理であり、
デカルトはこの精神と、延長と言う属性によって証明される物体
を二つの実体とした。この事から主客の分離が生まれる。
この分離を越えようとしたのが以後の哲学の流でしょう。
177亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/26(火) 22:39:36 0
>>174>>176も『探究U』を読むか、読みなおしてください。
というか、どっちもパレルゴンさんでしょw
ほんとにいいかげんにしてくださいよ。
178考える名無しさん:2008/08/26(火) 22:41:10 0
175
誰が貴方に見下されるですって?
私があなたを見下しているんですよ。
それよりも、デカルト元祖説・自説を展開しては?
徹底反論しますから(笑)
といっても、すでに反論していますが、お答え出来ていませんよ?
179考える名無しさん:2008/08/26(火) 22:47:08 0
それと、真面目に、ハイデガーの手前存在と手元存在論を
すると言ってはいませんでしたか?
それに、佐藤の「権力と抵抗・・・」はどうでしょう?
これは、からかってはいません。(笑)
ぴかぁ〜も参加してやって下さい。
私は今、竹田を中心にやっていますので?
それでは、OYASUMI・・・・グーグー・・・
180亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/26(火) 22:49:36 0
>>178
はいはい。パレルゴンさんが大将。ポスト構造主義の旗手です。
完全にわたしの負けですから、もうわたしのレスに関わらないでください。
181考える名無しさん:2008/08/26(火) 22:55:20 0
分りました。
皆で仲良く探究しましょうね。
それでは・・・・ぐーぐー
182亀井絵里 ◆W8WSOykcxA :2008/08/26(火) 23:28:56 0
第三者の方がいたら、なにか書いてもらえると幸いです。
わたしとしてはこの展開は実はかなりショックです。議論の場自体が成立しないところで、
もしかしたら皮肉すら通じない場で、何をどう書けばいいのか。ドグマに固まった人に、
安易に「自説」と言う人に、どう語りかけるべきなのか。
これが日本のネット言説の特殊性なんでしょうか。それともわたしの2ちゃんへの慣れの問題?
だとしたらあまり慣れたくないかもしれない。まったく哲学から離れてしまっている。
この虚しさはなんなんでしょうか。
183考える名無しさん:2008/08/27(水) 07:24:23 O
パレルゴンは、自分が気に入らないことがあると、途端に相手を煽ったり人格攻撃をしだす。
つまりは、ぴかぁ〜と同じ人種。気をつけな。
184考える名無しさん:2008/08/27(水) 09:44:34 0
哲学論議をしましょうよ。
貴方だけではなく、貴方のレスによって、多くの人は貴方以上にショックを
既に受けているかも知れませんよ。私はそう思います。

哲学議論には女性男性の差はないのです。
貴方の場合、自説を否定されると、誤読だとか、「あれ読んでいない人は議論できない」
「風が吹けばおけ屋がもうかる風」だとかのべて、説得のない無視の態度
ですよね。だから、批判をするのですよ。
貴方は、ここに書きこんだ自分のレスを再読してみてください。
きっと、貴方のレスが他者を一蹴する姿勢を感じるでしょう。
哲学論議以前の姿勢を批判しているのです。
討議にあっては、相手の気持ち意見をもう少し真摯に聞きましょうね。
金持ちお嬢さんのわがままの様ですよ。

185考える名無しさん:2008/08/27(水) 10:16:38 0
柄谷は探究U151Pで「デカルト主義においては、デカルトのコギト
はたんに個であり、実体としての精神である。・・・」
と書いているようですよ。
だから、精神を「外部」と言う時に、この外部がたとえ還元不能の
デリダの「他者性」を示していると考えると、精神は物自体性を
持っている事になり、我の確固たる存在を証明できない事になります。
よって、この読みは、デカルトが精神と物と言う二つの実体説を
証明する過程で現れた一時的な疑問に過ぎない事。そして、その問題は
われの存在証明によって、デカルトには乗り越えられたと考えるべきでしょう。
ただし、この問題は以後の哲学者には、重要な問題として捉えられている。
それが、他者性としての「私」と言えな「捉えられないもの」である。
これでどう??
186考える名無しさん:2008/08/27(水) 10:28:43 0
いや、仮に、この外部を持った「我」であれば、それはカントの
実践理性批判に言う物自体性としての個は「なんじの意志の確率が
同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行え」と言う
立つ位置に近いかも知れません。
あるいは、ヘーゲルの内部の外部のような、弁証法的な(定―反―合)
スパイラルを駆動させるデカルト自我なのでしょうか。
いずれにしても、もし、柄谷が正しいのならば(正しいなんてあり得ないが)
デカルトは認識できない外部を自我の内に認識した事になります。
つまり、ハイデガーの現存在に開かれた空無のようなものを
すでに、感じ取っていた。そうだとしても、それを認めながら
コギトの証明は出来ない。これが、私の意見です。
187考える名無しさん:2008/08/27(水) 10:46:48 0
だから、柄谷はデカルトが我に外部を持ち込んだとは言っていない。
柄谷の哲学から見て、デカルトの証明が外部性を持っていると言っている
のです。ですから、デカルトを構造主義の元祖と言うのには無理がある。
また、「デカルトの「方法的懐疑」が、もはやどんな立場でもありえない
立場、<外部性>としての立場においてのみ可能であると言う事が
肝心である。」と言う時の柄谷には、あくまでデカルトの我を超越論的と
して見ようとしているのだが、それであればわれの定立=精神としての実体説
は成立しないし、客観を掌握する我も消え去るしかないだろう。
よって、これはあくまで柄谷個人の否定神学的な読みの姿勢によって
分解された自我としてのデカルトであると言う事でしょうね。
188ハイデゲリアン:2008/08/27(水) 13:19:17 O
 私ならば、“何だか、これ以上やっても、良い議論にはならないみたいだなあ”という匂いがし始めた時点で、まあ、ある程度適当に投げるかなあ(笑)やはり相手の誠実真摯さがあるか否か、は重要…あと、インターネットで顔も見えない。色んな細工が可能な場であるし、

面と向かって、あるいは誰と解った上で手紙なりで話すのとは違いますよね。お互い無責任な場なんだと自覚したうえで、お気楽な場だとした上で、やるしかないでしょうね。あんまり相手に期待すべきではない。どんな人間かはここでは解らないわけだしね。

 『探究2』の第2章「超越論的動機をめぐって」、齧ってみました。あれですねえ。改めて読み直すと、『トランスクリティーク』と言ってることが似てますねえ。あっちの方ではたしかカントがイギリス経験論と大陸合理論をトランス(横断)していたとか、

マルクスはドイツ観念論とフランス啓蒙思想、古典経済学をトランス(横断)したからこそ、あれらの業績を生み出せたのだと。ここでのデカルトへの手付きと酷似している。まあ、『トランスクリティーク』は集大成的でもあるから当然なんだけど。

<空-間こそ他者の源泉である、神である>てテーゼ、どっかで読んだな、と思ったら、『トランスクリティーク』だよね。

《我思惟す、故に我在り》を《疑いつつ在るからこそ、我在り》と柄谷はデカルトを読み直す。共同体・システムにたいする構えとしてはそうなるしかない。というのはまあ、分かります。

 興味深いのは、『探究2』のスピノザ論の中に、スピノザを援用しながら自然の概念を検証している箇所がありますが、―第二部 超越論的動機をめぐって 第5章 無限と歴史―

ちょうど今、私もハイデガーの論文「ピュシスの本質と概念、アリストテレス自然学B、1」というのを読んでる最中で、書いてあることは柄谷もハイデガーもまあ接近しているといえば接近している。自然ということを両者とも取り上げる。違うのは、ハイデガーの方は、

非常にピュシスの定義がはっきりしていて、<出発に於いて支配するもの>というのがピュシスの定義としてある。そこに歴史性をみる、というのは共通してるけど、ハイデガーの場合、<そのもの自身も自覚せずして、そのもの自身の有に支配されている>ということ

を重要視する。
189考える名無しさん:2008/08/27(水) 13:50:41 0




パレ「リア充なんかに負けてたまるか、ここは俺の庭だ」
190考える名無しさん:2008/08/27(水) 14:10:33 0
>>144
>"私"と"自我"を分けるようになったのはデカルト以降だと思っているのだけど、どうだろう?

144ではありませんが、「"私"と"自我"を分ける」る根拠って何なんですかねぇ?
かなり怪しいものを感じるのですが。

>> 私にとっての「私」です。

>に違和感を感じる。

「あらゆる思考を構成素として作動し続ける<心的システム>が私にとっての「私」です。」 ×
「あらゆる思考を構成素として作動し続ける<心的システム>が私にとっての私です。」 ○


しかし、このスレで↓ページが紹介された後でも使用され続ける「形而上学」の意味って何なんでしょうかねえ?
私にはこの特殊例として書かれた抜粋の意味を想定するしかないのですけど。
http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/kcollection/quidestmetaphysica.html
::::::::::::::::
さらに、・ モダニスムの用法、つまり十九世紀以降の思想史的背景で了解され
てくる意味、たとえば自然科学の客観的具象的な知に対して、抽象的思弁的知を
対照させるという文脈で了解される意味があり、そしてこのモダニスム批判として
出現する、・ ポストモダニスムの用法があろう。しかし我々はこのあたりの
哲学的言語のインフレーション的複雑化を、そのまま丹念に学び吸収する必要が
本当にあるのだろうか。
:::::::::::::::
191考える名無しさん:2008/08/27(水) 14:14:10 0
142ではありませんが ○
192考える名無しさん:2008/08/27(水) 15:23:21 0
私と自我と主体については、哲学者ごとに異なる概念ではないか
と言う気がするね。
ラカンは鏡像段階を自我、原抑圧後を主体とするのかな?
デカルトでは、エスが主体であり、その存在根拠を示すのが自我
と言う説もあるね。
一般的には、原抑圧で開いた穴によって成立するものこそが主体だと
言っていいだろうね。(ラカン派)
また自我とは、「自己を反省し、自分の自由にゆだねられた自己であり、
自分が一切の責任をにないうる自己の事である。」と平凡社の哲学
事典にある。一方「私」とは、反省をするのではなく、その対象としての
自己を指すのではないだろうか。だから、デカルトにとっては、自我の
方が意味があったのかな?「われ思う」と言う反省の方がと言う事だね。
193考える名無しさん:2008/08/27(水) 17:58:37 0
亀井がずば抜けてるのは誰が見たってわかる。心配すんな。
194考える名無しさん:2008/08/27(水) 18:10:39 O
 ハイデガーは、後のレヴィナスなどと違って、また幾多の現代思想家らと違って、他者性について取り分けて論じることはなかった。その背景には、ハイデガーによる世界の内に有ることの彫琢は、有の呪縛を易々と取り払うようなものではない。それは確かだし、

あと、ハイデガーによる現-有の彫琢では、他者とは、どこまで行っても現-有の世界性に浸透されるしかなく、全集所収の講義『形而上学の根本諸概念』でも、現-有と他者との関係というのは、現-有による己の<移し置き>によるしかないことが前提とされている。

つまり、他者という外観で現象する己ですよね。これをハイデガーは事実性としている。事実性、ということは、言い方変えれば、実存範疇における自然だと言い換えてよい。それほど深度のある事柄である。もう一度繰り返すと、ハイデガーでは他者とは、

どこまで行っても現-有の有の<移し置き>である。実際、ハイデガー的な実存構造分析からはそうなる。そこに<無限>や<神>やらが現れる隙はない。しかし、これが生の実相に迫っているのは確かだと思える。

 これは確かに、哲学としては、開かれてなさすぎではないか、という不満を持たれやすい。<他者>も<神>も<無限>も<歓待>もないではないか、と。しかし、この辺のことはおそらく、終生変更はされなかった。

 先のアリストテレス自然学への批評の中でも、<出発に於いて支配するもの>というピュシスの定義は、その呪縛性を表している。私がみたところ、この方が人間の実相に迫っている。浮ついてないな、という気がしますね。
195考える名無しさん:2008/08/27(水) 21:34:11 0
デカルト論、一行も感心するものがない。
196考える名無しさん:2008/08/27(水) 21:38:22 0
でも、ハイデガーの存在論的差異の術語の意味については、差異化する
現存在の道具関連=意味的な変動性を示しているのではないかなぁ〜?
現存在の中心の空無=「存在」によって開いた空無に、多様性の可能性
があり、この事で、後期の、存在に被投されたものとして現存在が
説明される。こんな気がしますけどね。

197考える名無しさん:2008/08/28(木) 03:03:03 0
ポスト構造主義は人間を消極的にする。
身近にある人間が囚われる構造を示しそこから自由になるように即した。
社会システムから身近なものへとその構造を示していった結果、
最後には言語的なもの意識的なものなものに囚われず、無意識を
大事にしろということに・・・グダグダ言いながら結局は右脳・左脳本の
内容にたどり着いたのだ。
意識(言語)を排除すれば哲学の一目的自由は確かに得られるが
それは個人的な時間だけ、仕事中は無意識というわけにはいかない。
それを無理に徹底すればニートになってしまう。
198考える名無しさん:2008/08/28(木) 15:15:05 0
300冊を読んだものには勝てないでしょうかね???
199考える名無しさん:2008/08/28(木) 22:21:06 0
ぴかぁ〜・パレルゴンは無視して、亀井さんはデカルトのコギトについての考えが
ドゥルーズの「差異と反復」の第三章「思考のイマージュ」に影響されているとおっしゃいましたが、
具体的にどのように影響されたのでしょうか。ドゥルーズはデカルト批判ではなかったでしょうか。
200考える名無しさん:2008/08/29(金) 03:26:32 0
手が空いたらデカルトのまとめぐらいから続きをやる。
201考える名無しさん:2008/08/29(金) 13:43:14 0
「構造主義」「ポスト構造主義」って言葉自体がまず、「哲学ジャーナリズム」の
マーケティングであるってことをまず理解しないとな〜。
もちろん評論家連中の言うように思想家同士の共通点はあるけど、同時に
埋められない差異があるのも事実。
「実存主義」も「ソーカル事件」も、「哲学ジャーナリズム」の為せる業だし、
そういった枠内で考えてる限り、何も産み出しはしないよ。
202考える名無しさん:2008/08/30(土) 14:54:52 0
:デカルトの神の存在証明

悪い霊を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。

1. 第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。
          我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
2. 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
3. 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)


:デカルトのコギト命題

"cogito, ergo sum"="I think, therefore I am"="我思う、故に我あり"

から、cogitoは羅語の語彙では「考える私」だが、仏文では「je pense(I think)」で「私は考える」。
ビアスによる"cogito cogito, ergo cogito sum"="我思うと我思う、故に我ありと我思う"
ぐらいまでの解釈があるが、これなども、デカルト以降の人間による拡張された読みなのだと思う。
203考える名無しさん:2008/08/30(土) 14:55:12 0
論旨
1)デカルトについて思い出されるのは、「方法的懐疑」と「心物(精神肉体)二元論」だが、
  これまでに挙げられた諸論は前者の方法的懐疑に偏っている
2)デカルトで読まれるべきは、神の時代→人間の時代を導く理性の根拠発見の論理であって、神論ではない
3)医学を修めた者として、意識や身体内部の観察が優れている

デカルトの神論の性格
・スピノザはユダヤ教のラビになる訓練を受けているタイプの人間(スピノザを知るのに、スピノザのデカルトは良さそう)
・パスカルは「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した
・神は問題にされるが、信仰は問題にされない

デカルトにとっての神のイメージをまとめると
・最高完全者
・一切は神によって創られ、人々の内に神がある
・物理法則、数学理論を支える存在
といった感じ。

具体的に、思うことと疑うことの違いが分けたのは、
日常生活的な思念や想起に対する思惟。更には、知性を磨き上げる精神=エスプリ。
方法的懐疑は、神を含める全てを疑うという点で徹底されたが、その傍らで神の証明がなされている。
よって、疑い得なかった唯一のものの先に、目は向けられるべきだろう。
204考える名無しさん:2008/08/30(土) 14:55:56 0
デカルトの気付き自体は、それほど複雑なものではない。

"I think, therefore I am"="私は考える、故に私はある" だけを残す。

デカルトはthereforeとするかどうかに迷ったというが、
1)自分の声を聞いたこと(疑い得なかったものとは、問いを発しているところの私)
2)私の存在に対して、私の思惟を先行させたこと

がデカルト以前/以後を分ける。

"私は考える"の"私1"と"私はある"の"私2"は同一なのか?

「心と物体、即ち思惟するものと物体的なものとの区別が、ここから認識される。」
「表象や感覚や意思も、ただ思惟者においてのみ理解される。」

自分自身をはじめ、感覚、知識、神といった一切のものが、何ものにも先んじて、自分の意識を通して認識される。
その時、意識の内に現れる表象と、意識の外にある実在との一致が疑われるのである。
この先にソシュールを置く。以上。異論は認める。
205考える名無しさん:2008/08/30(土) 15:45:40 0
続きは→フッサール→デリダの予定。
206考える名無しさん:2008/08/30(土) 20:26:52 0
>2)私の存在に対して、私の思惟を先行させたこと

>がデカルト以前/以後を分ける。

ちゅーか、私は考えているから考えている私がいる、で何も問題ないっしょ。
同一か非同一かという疑問は、同一と考えているデカルトを傍から観察することによって事後的に見出された区別(疑問)でしかないのだから、そこに疑問を持つこと自体でデカルトの思考を越えているとする満足感がもしあるなら、それは錯覚としか言いようがないと思う。
「私の存在」が個体としての私を指しているのだとすれば、個体が存在するというのは定義上の自明の前提なのだからそれを疑うことはまったくのナンセンス。
それは単なる思弁的理性の暴走。

>"私は考える"の"私1"と"私はある"の"私2"は同一なのか?

という問いは、デカルトを対象としてなされることには何の意味もなく、したがって各人の自問自答の範囲内で解決されるべき問題だと思う。

デカルトは神の存在を信じていたというのではなく、当時のソフィストたちの懐疑論的言説を一網打尽にすることが目的だったという状況コンテクストを考える必要があるでしょうね。
ちなみにデカルトはソフィスト?たちの反論に口を閉ざすしかなかったらしいということから、その目的は失敗に終わったと推論せざるを得ないのですが。
207考える名無しさん:2008/08/31(日) 00:12:45 0
ヒント
・「真理探究」とは、正にデカルト的なスローガン。デカルトの座右の銘である
・デカルトは、「私」と「私の意識」の区別がつけられない人々のことを野蛮人と呼んでいる
208考える名無しさん:2008/09/01(月) 16:44:07 0
>>207
ヒント
:::::::::::::::::
(…)というわけで、彼の懐疑は「方法的懐疑(省略)」と呼ばれている。だから、基礎付け作戦が終了したら、そんな懐疑は忘れていまってかまわない。じっさい、デカルトは「省察」の最後で、次のように言っている。
> もはや私は、日々感覚が私に示すところのものが偽でありはしないかなどと気づかう必要はないのである。かえって、ここ数日の大げさな懐疑も、笑うべきものとして一蹴されねばならないのである。
::『知識の哲学』(戸田山和久):
209考える名無しさん :2008/09/01(月) 17:01:06 0
なんだこのスレ?
デカルトスレか??
210考える名無しさん:2008/09/01(月) 17:06:49 0
>・デカルトは、「私」と「私の意識」の区別がつけられない人々のことを野蛮人と呼んでいる

出所不明(コンテクストの完全無視)のエクリチュールの断片では何とも?

>1)自分の声を聞いたこと(疑い得なかったものとは、問いを発しているところの私)

「声を聞いた」?なんて誰が言ったんですか?
「声」なんて無関係だと思いますけど。
211考える名無しさん:2008/09/02(火) 00:59:21 0
『探究U』を読んだ。

デカルトについては何度も言及されているが、
この本からは正しいデカルト像を抽出することはできないものだと思う。
(スピノザの神論、神学論についてはまぁ…)

>>147
デカルトが構造主義の先祖だとされている箇所は(『探究U』p98)で、
(『探究U』p180)ではスピノザが構造主義の始祖ともされている。
この辺りは、構造主義をどのように定義するのかによってはどうともいえる問題。

もう一点、柄谷のレヴィナスのスピノザのデカルトの件については、
柄谷は、自分のストーリーに合わせてデカルトを読んでいるだけで、責任のある解答はなされていない。

柄谷も滲ませているが、デカルトについて、その神論、神学論を問われるのは難しい。

「デカルトはできれば神なしにすましたかったのだ」パスカル(『探究U』p119)

この一言につきる。かといって無視できるものではなく、不可分であるから尚のこと難しい。

「有限な私」と「無限な神」とは、デカルトに問う以前に、
当時のキリスト教(少なくとも大きな二つの潮流)における設定の問題なのであって、
それをデカルトがどう加工したのか、そういった比較なしには確かなことは言えない。
この辺りが、この時代(?)、この本(?)、柄谷(?)の限界なんだと…。
デカルトが数学の上で無限をどのように扱おうとしたのかをみるのは別途価値があるかもしれない。
212考える名無しさん:2008/09/02(火) 00:59:52 0
周知の通り、コペルニクスもガリレオも異端審問にかけられている。
対してデカルトは、教会と相談をしながら、有機的自然観から機械的自然観への時代推移を、
受けつつ、読み替えつつ、推し進めもしている。

神=無限=完全な理性、人間=有限=不完全な理性、的存在。

>>202 の神の存在証明の第三証明中、アンセルムスの証明とは「神はそれ以上大きなものがないような存在である」というもの。
その次に、第一証明を読むと、まず始めに神があって、神が人を創ったことが証明されている。

デカルトは数学的諸観念に関する「生得観念」を認めている。
つまり、人間は生まれもって(不完全ながら)神的理性を備えている。

「良識はこの世で最も公平に分け与えられているものである。」

ただし、それが真であるのか偽であるのかを検証する作業が方法的懐疑であり、
明晰判明な認識によって真とされたものが、その存在を認められる。

古代哲学には認識論がない。(『探究U』p24)

デカルトの思惟は世界の外に立って、全てを疑った。
ここに(神的理性に支えられた)超越論的主観が確立され、その認識される限りにおいて、客観世界が基礎づけられた。
213考える名無しさん:2008/09/02(火) 01:00:13 0
確かに『探究U』はデカルトという頂点と、
スピノザという頂点なき頂点という二本の柱を中心に読めるかもしれない。

無限な視界から有限な視界を引いた差分。
それを拾おうとするところに、レヴィナスやデリダがある。
214考える名無しさん:2008/09/02(火) 13:26:15 0
>無限な視界から有限な視界を引いた差分。
>それを拾おうとするところに、レヴィナスやデリダがある。

なんちゅーか普通に考えて、無限−有限=無限でしょ?
だったら拾いきれないでしょ?
だから語りえないものを語るしかない、と。
215考える名無しさん:2008/09/02(火) 16:37:11 0
> なんちゅーか普通に考えて、無限−有限=無限でしょ?
普通以下。

> だったら拾いきれないでしょ?
> だから語りえないものを語るしかない、と。
語りえないものは語りきれるのか?
216考える名無しさん:2008/09/02(火) 22:33:32 0
普通以下って無限−有限=有限なの?

語りきることなど誰も問題にしていません。
語りえないことを語る。
217考える名無しさん:2008/09/02(火) 22:46:57 0
その程度の式しか思いつかないのか?
218考える名無しさん:2008/09/03(水) 11:35:18 0
何も答えられないんだね
219考える名無しさん:2008/09/03(水) 11:36:10 0
否定的にしか
220考える名無しさん:2008/09/03(水) 14:57:46 0
■なぜ哲学は言葉の奴隷なのか

神経症とは通常、身体知(暗黙知)で行う「自然な」行為について、言語
(知)が過剰に表出してしまっている状態ではないでしょうか。何らかの
原因で世界への不信感が芽生えてしまう。世界への不信感は人間に
とって決定的な問題です。原理的には行為することが不可能=フリーズ
することになります。

ラカンいう「言語のように構造化された」無意識というのは、身体知(暗
黙知)がフリーズした病んだ状態に現れる「静的な構造体」といえます。
精神分析のいう無意識とは神経症な無意識としてのみ存在するもので
す。「健全な」身体では言語知は身体知と一体となり、動的に作動する
ために「静的な構造」を持ちません。

フロイト以来、精神分析がなぜ性関係にこだわるのか。性関係は社会
的に抑圧され、安易に訓練することが許されません。だから性関係の身
体知(暗黙知)を訓練することがむずかしい。だから性関係は限りなく言
語記号的なもの=セクシャリティとして表れます。そのような傾向は現代
では非モテ系のオタクの性対象である二次元(記号)に顕著です。

自然な性関係はなくても、限りなく自然な歩行はあるのです。それは、無
意識ではなく、訓練によって獲得した身体知(暗黙知)によってなにも考
えずに歩いている時です。人の行為のほとんどはこのように考えずに
「自然に」行われます。

そしてこのようなロゴス中心主義は西洋的な伝統であり、その確信をな
してきたのが哲学です。
221考える名無しさん:2008/09/03(水) 17:21:02 O
あふぉ発見
222考える名無しさん:2008/09/03(水) 19:02:45 0
くだらん。
223考える名無しさん:2008/09/03(水) 20:44:53 0
220のぴかぁ〜参上?
このスレッドはパレルゴンも亀井も捨て去っていますので、
新説をどんどん進めて下さい。パレルゴンは別のスレッドを占有しているようだし。
224考える名無しさん:2008/09/03(水) 21:37:44 0
『権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』
って表紙が地味だけど、東本の未読を補うためにも読もうと思うよ。
しかし4000円ねえ…
225考える名無しさん:2008/09/03(水) 23:38:15 O
>223
キモイ
226考える名無しさん:2008/09/05(金) 22:29:17 0
> 「声を聞いた」?なんて誰が言ったんですか?
> 「声」なんて無関係だと思いますけど。

声は意識である(『存在論的、郵便的』p77、『言語的思考へ』p30)
227考える名無しさん:2008/09/06(土) 20:00:06 0
>声は意識である(『存在論的、郵便的』p77、『言語的思考へ』p30)

204に210でレスした理由は、デカルトに「我思う故に我あり」の結論を導出させたものは論理規則的なもののようだから「声」は関係ないという意味だったのですがぁ。
であと、これは断言はできませんけど『言語的思考へ』の指定ページあたりで書かれていることはデリダの勝手な解釈のようにも読み取れますけど。
228教授:2008/09/07(日) 21:56:54 0
亀井?ぴかぁ〜?パレルゴン?

「権力と抵抗」はやらんのかね?
あるいは、「探究U」はどうしたの?

待ってるよ。復活!
229考える名無しさん:2008/09/07(日) 22:09:12 0
本当に、どうしたの、強気の亀井にコピペのぴかぁ〜
自作自演の純一・・・。
全員逃走かな?
亀井は自分が納得する完ぺきな読みが出来るまではレスしない。
ぴかぁ〜は負ける相手がいると出ない。
純一は自分のブログで忙しい。
そして、パレルゴンは「探究U」「権力と抵抗」を熟読中である。
よって、中断しているわけだが、だれか、この辺についてレスを
はじめても良いよ。
ぴかぁ〜あたりどう?
220のレスでは、この2冊からは離れているね。
二冊の範囲に絞りましょうね。
230考える名無しさん:2008/09/07(日) 22:17:09 0
前振り乙
231教授:2008/09/08(月) 13:35:35 0
構造主義の元祖デカルト?
その理由は????
強引な面が残る柄谷の論点に沿って述べて見てごらん??
襞=プリについて、ハイデガーの言う二重襞ってなんでしょう??
この辺について、ずば抜けている亀井君と言われる貴方どうでしょうか?
232教授:2008/09/08(月) 14:02:07 0
確かに「権力と抵抗」は非常に良い本である。
この本を参考に構造主義、ポスト構造主義のモチーフを学習できる
チャンスではある。絶対に読むと言う意気込みで読んだらいいだろう。
特に、ぴかぁ〜については、フーコーの主体論が抜け落ちているし、
全体として、ポスト構造主義の問題意識である、構造=被抑圧者=主体
と言う認識が全くなく、ポストモダン状態で、なんでもできる「私」
他者に捉えられない自由な主体としての「私」を無意識に前提にしている。
よって、今回君が推薦した「権力と抵抗」をぜひ読んで、本来の
構造主義の問題点とそこからポスト構造主義への運動が何を意味するか
是非感じて欲しいものだ。

次に、亀井君は、東読みとしては、一応及第点を与えられる。
ただし、強引に自分の読みを絶対視する点が不味い。
それぞれの、コンテクストから読む読み方をポストモダンの代表の一人
デリダが述べているのも拘わらず、絶対視する強引さは、おそらく
ポスト・構造主義の本当の意味が分かっていない。
おそらく、推測だが、正確に読もうとする姿勢は評価できるが、
ざっとでも、多くの本を読んでいないために、一冊を精読するのはいいが、
逆にポスト構造主義全体が何を言いたいか分かっていない。
よって、貴方が読むと言ったこの二冊については、是非、実行し
理解を深めてほしい。特に、「権力と抵抗」は素晴らしい本だと思います。
彼は、エティエンヌ・バリバールに師事し、パリ第十大学で学んでいます。
しかも、若いと言う事もあり、丁寧に術語の説明をしていますので、
ポスト構造主義の晦渋な表現を噛み砕いて説明していますので、
是非、読んでみてはどうでしょう。
それでは、がんばるように!
233教授:2008/09/08(月) 14:18:39 0
純一。
彼の読みはすごい。独創的で創造性がある。
これは、ぴかぁ〜にも、パレルゴンにもない。
逆に言うと、多くを読んでいないので、独自の発想が、素晴らしいのかも
しれない。これを褒め言葉で言うと、生れながらの頭の回転の良さ
があると言う事だろうね。
「玉磨かずば、光なし」ってことわざがあるように、以後は重要な
哲学書を読んでください。才能は一番ですよ。
もし、ポスト構造主義に興味があるのあらば、フーコー・ソシュール
デリダ・ドゥルーズの内、分かりやすい本を読むと良いでしょうね。
234考える名無しさん:2008/09/08(月) 14:57:54 0
壊れたw
235考える名無しさん:2008/09/09(火) 08:12:58 O
純一、て人はつまらん喧嘩ばかりしてるからダメなんだよね。読書や思考にもっと時間をかければよいのに。相手にしなくてよい人間を相手にするから。《対立する一方は他方の差延である。》と誰かも言ってたではないか(笑)
236考える名無しさん:2008/09/09(火) 08:15:51 0
次はこのスレか
237考える名無しさん:2008/09/09(火) 08:28:58 0
『権力と抵抗』の佐藤嘉幸はもうパリで博士号取って日本の某大学で教えてますよ。
その博論をもとに上梓したのが今回の本。
派手さはないが、逆に言えばそれだけ忘れられつつある「現代思想」の巨人たちを今日のアカデミズムの文脈で再検討・再配置した力作。
238考える名無しさん:2008/09/09(火) 09:39:48 0
>>236
wwwwwwwwwww
239考える名無しさん:2008/09/09(火) 11:30:44 0
240キャラ1:2008/09/09(火) 22:00:37 0
やはり、出てこない!
って事は、いま必死になって読んでるな???
それも良いだろう。
教授が待っている。
では、伝言だ。
「交流とは打倒ではない。交流とは交換であり、触発であり
情熱なのだ。それは国家倫理を超えた正義なのだ。
この正義は何にも還元されない。」
分ったかね。排他的な君たち!
241キャラ1:2008/09/09(火) 22:11:04 0
他なるものへの生成変化。
外の思考
死の欲動と死の本能とは?
そして、CsOとは?
242考える名無しさん:2008/09/10(水) 00:22:20 0
「手紙はつねに宛先に届く」とラカンは述べる。
デリダが最も注意する点がそこである。
デリダに言わせれば、手紙は「届かないかも知れない」。(『存在論的、郵便的』p97)

手紙は必ずしもつねに宛先に届くわけではない。
そしてそれが手紙の構造に属している以上、それが真に宛先に届くことは決してなく、
また届くときも、<届かないことがありうるということ>が手紙をある内的な漂流で悩ませている(『存在論的、郵便的』p96)
243キャラ1:2008/09/10(水) 08:50:57 0
242
それがどうした?
ケース1
「届かない場合がある。」
ケース2
「届いても、読まない場合がある。」
ケース3
「届いて読んでも、無視するばあいがある。」
ケース4
「届いて読んでも、返事が出来ない場合がある。」

以上の4ケースによって判断する必要がある。

デリダはラカンのセミネール(ポーの盗まれた手紙分析)の内容を批判して、
ケース1についてのみ、考察したに過ぎない。
以後の2〜4についてはコンテクストからの分析が重要である。
244考える名無しさん:2008/09/10(水) 19:57:28 0
>>232 >>233
>よって、貴方が読むと言ったこの二冊については、是非、実行し
理解を深めてほしい。特に、「権力と抵抗」は素晴らしい本だと思います。

亀井氏がどこかで2冊「読む」と言ったのですか?
ちょっと心配になってきたのですが、それはまさか224のことではないでしょうね?
だとすればそれは私ですから。
まーだ届かないんだなー…


>純一。
>彼の読みはすごい。独創的で創造性がある。

?、ちなみにその人はどの人ですか?
たしか純一というHNは出てこなかったと思うけど…
245考える名無しさん:2008/09/10(水) 21:03:55 0
>>243
その隠喩を用いるデリダは、(中略)システムの全体にたとえ否定的にでも言及する必要がない。(『存在論的、郵便的』p118)

正確には、ケース1〜4どころか無数にあると予想されている。
その上で、pas du tout。それは「全体の一片ではない」あるいは「まったく一片ではない」。ビチグソ
246キャラ1:2008/09/10(水) 21:04:47 0
違うと思いますよ。
貴方は前回の構造主義・ポスト構造主義を超えて3で
東の郵便的の議論には参加していませんよね。
おそらく、パレルゴンは、前回のスレッドから、亀井・ぴかぁ〜両氏
を対象にこの4のスレッドを展開しようとしているのだと思います。
だから、君の事を指してはいないと思いますよ。
「届かない」とは本が?
本は待っていてはダメでしょう。本屋に買いに行く方が良いのでは。
ただし、君も言っているように3800円(消費税別)ですよ。
でも、それだけの価値はありそうです。
おそらく、前述の両氏は必死になって読んでいるかも(笑)
頑張って下さいな!
247考える名無しさん:2008/09/10(水) 21:07:06 0
245
もっと詳細に述べてくれない?
248キャラ1:2008/09/10(水) 21:09:30 0
HNの純一とは、当スレッドには参加していない。
他のスレッド「やぁ〜淳一」を参照のこと。
249キャラ1:2008/09/10(水) 21:15:53 0
といっても、これ以上デリダを論議する気もしないな。
今後は、「権力と抵抗」か「探究U」でしょう。
しっかり読んでくるように!
250考える名無しさん:2008/09/10(水) 23:54:11 0
>>247
お前はビチグソ以下。
251考える名無しさん:2008/09/11(木) 02:05:22 0
何かに気づいた人はいないのだろうか?
次代の哲学へつながる糸口何かある?
それとも哲学はここで終焉?
252考える名無しさん:2008/09/11(木) 03:04:20 0
> 何かに気づいた人はいないのだろうか?
お前の頭の悪さだけがつくづく目にしみる。

> それとも哲学はここで終焉?
お前に未来がないのは確か。
253考える名無しさん:2008/09/11(木) 03:55:56 0
パレルゴン、大学でちゃんと哲学勉強してこい。
凡人になるのを怖がっちゃダメ。
254教授:2008/09/11(木) 09:17:12 0
皆さんは他人の説明に頼ろうとしているだけでしょう(笑)
自分の力で本を読み理解する努力をしないと、自分のものになりませんよ。
人を煽って、書かせる。「本が届いていないので読めない・・・」
だから読んでくれ(笑)つまり、自分で読めないのでレスしてくれと
頼んでいるようですね(笑)
そう言う意味で、私は純一を評価します。
彼は自分で読んで自分の言葉で書いています。しかも、独創的です。
知識がありそうに見せるコピペ連中より数段良いでしょうね。
いずれにしろ、書かせようとする君らの期待にこたえられませんね。
私はあくまで同じレヴェルの人と哲学論議をしようとしているのですね。
初歩的な知識の人は、自分で簡単な説明本から、一歩ずつ進めてみなさい。
日々の努力が理解の最大の近道です。
君らが一行のレスをするだけで、私のレヴェルでは君の哲学の知識レヴェル
が瞬時に判断できます。

頑張るように。
255考える名無しさん:2008/09/11(木) 09:29:22 0
はーい
256考える名無しさん:2008/09/11(木) 19:36:31 0
>>243

で、どうなんだ?>>245の内容については検討したのか?

> 以後の2〜4についてはコンテクストからの分析が重要である。

具体的に、どういったコンテクストとどのような分析がされるものなのか?
257考える名無しさん:2008/09/11(木) 20:16:28 0
245の説明が不十分であり、247の質問のとおり、もっと詳細な説明が
必要なのだろう。テキスト丸映しの様な気もするのう。
書いてる本人が分かっていないとか(笑)
後は、それほど重要ではない、アドリブでしょうかね?
258考える名無しさん:2008/09/11(木) 20:19:36 0
ていうか、これもまた、適当にレスして、質問に答えさせておいて
自分の知識を楽に増やす狙いでしょう(笑)
やはり、自分で考えることでしょかね(笑)
259考える名無しさん:2008/09/11(木) 20:24:10 0
245・256はともに254のレスのとおり(笑)ってのはどう?
260考える名無しさん:2008/09/11(木) 21:31:34 0
思考の出発点は、いつでもこの現実にあるべき
その思考の結果は現実に還元されるべき
本の内容について議論するなんて馬鹿馬鹿しい
無職は本の中に書かれたことが現実なのかもしれんが
261考える名無しさん:2008/09/11(木) 22:03:09 0
>>243
> 245の説明が不十分であり、247の質問のとおり、もっと詳細な説明が必要なのだろう。

不十分だと指摘をされたので、追加の説明をするためにお伺いをしている。

> 後は、それほど重要ではない、アドリブでしょうかね?

いや、ここはすごく重要。アドリブではない。
異論を挟んでおいて、返答されたものを吟味もせずに、説明不十分を問うのはいかがか。

改めて。
>>245以前に、あなたが>>242に対し>>243でレスをしている内容についてのお伺い。
あなたは>>242の内容に対して>>243で異論を唱えた。そこに>>245の説明不十分は直接関係しない。

> 以後の2〜4についてはコンテクストからの分析が重要である。

ケースとは>>243に提示されたもので、デリダが選んだのはケース1なのか?
具体的に、どういったコンテクストとどのような分析がなされるものなのか?
それが明示されない限り、答えようがない。
262考える名無しさん:2008/09/12(金) 07:39:52 0
おろっ??
これはどういう展開だ。
パレルゴン、教授、キャラ1、age名無しは同一人物でしょ?
いったい何をするつもりなんだ?
263考える名無しさん:2008/09/12(金) 16:28:01 0
自分で考えろって事じゃないのかな?
だって、242はテキストの丸映し(笑)自分の文章ではないので
答えようがないし、義務もないだろう(笑)
そんなに聞きたいなら「その通りだね」東のテキストね。
で終わりでしょう。子供みたいな同意がほしいのかね〜(笑)
245はたったの三行では答えようがない、詳細な意見がほしいと言ったまでだろう。
別に三行程度の文書しか書けないのならば、レスをする必要はないと言うのが
パレルゴンの考えだ。ようは力量を試しているんだよ。同レヴェルの友を探しているだけだろう。
君らに教えようとは思っていないのだろうねパレは。
261君は、哲学を語らずに、そんなレスの展開の位置付けをする暇があったら、
探究Uでも説明してくれってのが本音かも。哲学を論じるのが哲版であり、質問と回答の置付けは
意味がなく、邪魔じゃないの、ここではレスするかどうかも個人の自由だしね。
また、パレルゴンは研究中なのだろう。忙しいんだよ。だから、自分でやれ
同レヴェルの者たちでやんなさいって事じゃないのかな?
おそらく、彼は「権力と抵抗」を熟読中なんてことでは??
俺はよく知らん??
気楽に行こうぜ!
264考える名無しさん:2008/09/12(金) 17:00:11 0
パレルゴン、教授、キャラ1、age名無しは同一人物でしょ?
265考える名無しさん:2008/09/12(金) 20:37:59 0
そうかな〜?
違うんじゃないの。
パレルゴン・教授・時々名無しは同じかも、キャラ1は別でしょう。
261あたりが亀井かぴかぁ〜か純一ってのはどう?
これはありだね。
自分が分らないところを聞きたいのでないかな??
266考える名無しさん:2008/09/12(金) 20:48:16 0
ふあーあ。zzzzzz
267考える名無しさん:2008/09/12(金) 20:49:13 0
アンカー使えない
常時アゲ
(笑)
「〜では??」
「だろう。」
「ね。」
268考える名無しさん:2008/09/12(金) 20:58:11 0
パレルゴン、上手な自演の仕方教えてあげようか?
269考える名無しさん:2008/09/13(土) 08:03:39 0
>>243 or >>263
それがどうした?



270考える名無しさん:2008/09/13(土) 08:14:45 0
>>246>>247>>248>>249>>254>>255>>257>>258>>259>>262>>263>>264>>265>>266
ヒマでマヌケであるにも程がある。
271考える名無しさん:2008/09/13(土) 22:08:16 0
                 .;'
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                   ';';,..
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                      ''';;';';;'';;;,.,                  ザッ
                       ''';;';'';';''';;'';;;,.,   ザッ
          ザッ            ;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
                        ;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;;
                        vymyvwymyvymyvy     ザッ
               ザッ     MVvvMvyvMVvvMvyvMVvv、
                   Λ_ヘ^−^Λ_ヘ^−^Λ_ヘ^Λ_ヘ
     ザッ            ヘ__Λ ヘ__Λ ヘ__Λ ヘ__Λ
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自演王防衛軍
272考える名無しさん:2008/09/13(土) 22:18:10 0
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                      ''';;';';;'';;;,.,                  ザッ
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          ザッ            ;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
                        ;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;;
                        vymyvwymyvymyvy     ザッ
               ザッ     MVvvMvyvMVvvMvyvMVvv、
                   Λ_ヘ^−^Λ_ヘ^−^Λ_ヘ^Λ_ヘ
     ザッ            ヘ__Λ ヘ__Λ ヘ__Λ ヘ__Λ
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誤読王防衛軍
273考える名無しさん:2008/09/13(土) 22:32:59 0
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               ザッ     MVvvMvyvMVvvMvyvMVvv、
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   /`ー‐--‐‐―´\ /`ー‐-  /`ー‐--‐‐―´\-‐‐ /`ー‐--‐‐―´
       純一      ぴかぁ     手裏剣         亀井

パレルゴンのプロヂューサー
274考える名無しさん:2008/09/13(土) 23:01:16 0
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275考える名無しさん:2008/09/14(日) 18:27:47 0
とうとうやりやがった
276考える名無しさん:2008/09/14(日) 22:37:35 0
3冊の比較。〈 〉内はデリダ論のタイプ。

『存在論的、郵便的』〈基本-応用〉
徹底してメタレベルの整理に焦点を合わせた分析。
納まり切らない濃さ、テーマ設定とその到達度は換えが効かない。

『言語的思考へ』〈基本〉
時代錯誤な前振りは余計だが、東が不得手とする問題について、
デリダの視線に寄り添い、終始実直な解説がされている。
郵便本と合わせて読むのがいい。

『権力と抵抗』〈応用〉
(ポスト構造主義を含む)構造主義的思考の内的乗り越えを、
精神分析理論(フロイト・ラカン)との関係において、
権力の主体形成と構造変動としての抵抗にみる。
フーコー・ドゥルーズ、デリダ・アルチュセールを通観して迫る構造分析は圧巻。
277考える名無しさん:2008/09/15(月) 02:00:50 0
>>276
どれも日常生活に変化をもたらさない
妄想本だろ
278考える名無しさん:2008/09/15(月) 08:59:48 0

特に「権力と抵抗」は浅田―柄谷からの流として、
いまこの時期の構造主義・ポスト構造主義の読みとして、すぐれている。
浅田が、日本へポスト構造主義を紹介した導入期の星だとすれば、
柄谷はその充実期をもたらした星であり、佐藤はポスト構造主義の
情熱が覚めようとするこの時期に、冷静にその意味を分析する知性でしょう。
とくに、主体論と抵抗と言うテーマにそって、充実した分析がなされている。
構造主義的マルクス主義と言われるアルチュセールを加えたのも良い。
279考える名無しさん:2008/09/15(月) 09:32:40 O
日常生活への影響とはなんだろうか
280考える名無しさん:2008/09/15(月) 09:40:04 O
現代人がもつのは足場がしっかりしない浮遊感だろう。それは社会の流動化によってうまれている。
交通網の発達、情報伝達の高速化。現代思想は本質的にこのような日常の不安感の描写になっている。
281考える名無しさん:2008/09/15(月) 11:16:15 0
280
ちょっと短絡的かな。
もっと、構造主義の背景とポスト構造主義の流れを正確に把握して
分析した方が良いのではないか。
なぜ、構造主義だったのか?その場合主体の概念はどのように
変わったのか。そこでなぜ抵抗なのか。その時マルクスはどのような
コンテクストから読まれるべきか。この様に考えるときポストモダン
と言う情報処理技術の向上による個々人の組織からの多様な分断
を単純に評価して考えるべきではなく、組織=構造の意味とその中の主体の
在り方=抵抗をどのように可能にするのかを考察せねばならない。
この視点にあるのが、本来のポスト構造主義の在り方なのだ。
282考える名無しさん:2008/09/15(月) 12:07:37 0
283考える名無しさん:2008/09/15(月) 12:37:41 O
ナイーブすぎる。思想史とは別に生活史を押さえないと。
284考える名無しさん:2008/09/15(月) 12:51:12 0
全体としてマルクスの思想の中には明らかに
超越論的メタフィジックがあるのに誰も指摘しないのが気に食わない
285考える名無しさん:2008/09/15(月) 16:28:46 0
284全く同感。
たとえ、弁証法と言えども、最終的には絶対知に到達すると言う事
を証明しているのでしょう。マルクスなら共産主義社会。
だから、歴史的必然なわけで、こりゃ、形而上学以外の何物でもない。
そこで、アルチュセールなんかは、この歴史性=通時性を、切断して
偶然性から共時性を求め、構造の反復性を取り出して、マルクスの
延命治療を図る。ところが、佐藤は、マルクスが既に、形而上学的な
範疇には入らないとしている。この辺が、マルクスに限らず、偉大な
思想家が多くの文献を残しているので、如何様にも読めると言う事
なんだろうな。
286考える名無しさん:2008/09/15(月) 16:45:15 0
どっちにしても、マルクス主義は形而上学だね。
だからこそ、ポストモダン社会に適応できずに、東側社会が崩壊したんだ
と言う事を否定できない。また、日本入国拒否のあったネグリの「帝国」
についても、マルチチュードの意味が今一はっきりしない。
これは、ドゥルーズが資本主義の運動を否定的に捉えているのか、いないのか
ここの点が重要なヒントだね。
浅田の「構造と力」では資本の運動が構造に対する抵抗=生成変化の可能性
を否定していない。佐藤の「権力と抵抗」では、前の方のページでは
ポスト構造主義運動はアンチ資本主義としているが、ドゥルーズに関連しては
資本が独自に構造からのずらし=抵抗を内包した運動だとしている。
また、竹田は資本主義が構造を脱出する様には捉えていない。
資本主義がポスト構造主義運動なのかアンチなのかまだ定説はない。
287考える名無しさん:2008/09/15(月) 16:50:59 0
生活史なら生活世界のような、フッサールや「気遣い」「手元存在」
のハイデガーをと言う事だろう。
独我論に陥らないようにしないとな。
竹田の本を読むと言い。
最近は西研と共著の「ヘーゲル精神現象学」があるよ。
288考える名無しさん:2008/09/15(月) 16:55:47 O
生活=生きることにおいて哲学(言葉)はわずかな一部でしかない。哲学ですべてをとらえるというのはナイーブすぎる。
それでは社会ではやっていけないだろう。
289考える名無しさん:2008/09/15(月) 16:58:36 0
つまり、資本主義が無意識的に生成変化をもたらすのかどうかだ。
主体論から見れば、主体はあるのかないのか?
佐藤は主体の無化を抵抗とは考えてはいない。
佐藤のドゥルーズの読みにしても、主体の存在自体を問題にはしていない。
しかし、ドゥルーズの無意識とは機械と言われるが、主体化への
抵抗としても読める。
だから、構造への抵抗は、異質な主体の再構築=フーコーか
構造内での主体の解体=分裂症分析=ドゥルーズなのかと言うのが問題点だろう。
290考える名無しさん:2008/09/15(月) 17:04:35 0
288そうだ。
哲学に興味がない者もいて、興味がある者もいる。
君は哲学が実生活ではほとんど役に立たないと考えている。
しかし、必要・あるいは好き、と言うやつもいる。
だから、必要がなく興味がなければ立ち去れば良いだけだ。
それが、強制されない個人の多様化自由なのだ。
291考える名無しさん:2008/09/15(月) 17:20:40 O
ナイーブだな。哲学しない人はいないし、生活しない人もいない。距離を探せ
292考える名無しさん:2008/09/15(月) 17:31:49 0
naive 逆から読んだら evian
293考える名無しさん:2008/09/15(月) 17:32:49 O
まあ、誰にも人生にはナイーブな時期があるものだ。とくに若いうちは。大人になれば生活についてわかってくるものさ
294考える名無しさん:2008/09/15(月) 18:36:25 0
しかし、ドゥルーズのように、主体を解体すれば、構造への
抵抗は終了する。つまり、構造にとらわれない分子的な開放系となるからだが
その時に、構造を変革する勢力はなくなる。つまり、ドゥルーズでは
権力=構造が支配しようとする主体自体が存在しなくなる方向で抵抗する
からだが、一方、実際には権力構造は存在するし、個も主体も存在しているのだ。
つまり、ドゥルーズの哲学のモチーフは被主体者の抵抗を、欲望する
器官の解放としたが、社会にいる個は実生活では主体=個である事は
逃れられない。ここにドゥルーズ哲学の隘路がある。
読み方によっては「無抵抗の抵抗」であるが、しかし、社会に従属して生きる
個にとって、固有名の暴力は終わらない。名付けられた「名前」によって
就職し、賃金をもらう。つまり、社会に帰属するとは象徴界への帰属であり、
原暴力は受け入れられてしかるべきである。
この点で、フーコーの抵抗である「倫理」のほうが、積極的な抵抗性を保持
できると言う事だろう。
295考える名無しさん:2008/09/15(月) 18:44:33 0
ドゥルーズも主体を解体しろなんて言ってないだろ。別に隘路でもないし。
たまには主体化に先行する欲望する諸機械の蠢きでも見てみろよおまいら、
少しはハッピーになれるだろ、程度に読んどくのがいい。
296考える名無しさん:2008/09/15(月) 20:09:46 0
哲学の是非はその哲学によりもたらされた実践の是非に
よって決まるんだろう。上でもマルクスはそうやって批判される。
ポスト構造主義を実践した行動とは何?それを検証しよう
297考える名無しさん:2008/09/15(月) 20:36:45 0
NAM
298考える名無しさん:2008/09/15(月) 20:47:49 0
その前にポスト構造主義とひとくくりにするのそろそろやめようや。
いまどき今村&浅田の作った便宜上の区分けに付き合うこともなかろう。
299考える名無しさん:2008/09/15(月) 21:18:48 0
>>297
結社ってポスト構造主義ぽくないねノンリオタール
多分それはポストモダンの実践行動とはいえないんだろう
300考える名無しさん:2008/09/15(月) 21:36:13 0
たしかに、ドゥルーズは主体を否定していないかも知れない。
しかし、彼の哲学を主体を前提にしたものと考えると器官なき身体とは
あるいは無意識とは、欲望の備給とは主体がなしたものと言う事を
前提にしなければならない。よって、彼の哲学はは主体と言うものを
前提にしては成り立たない。むしろ、主体とは何か?
原抑圧によって作られたものであると言うフロイト=ラカン的なテーゼ
を認めていると言う事だろう。
ところで、ドゥルーズの主体論についての意見を述べよ。
301考える名無しさん:2008/09/15(月) 21:50:06 0
おいおい、ドゥルーズは主体を前提にしてなんかないぞw
まず無意識ありきだよ。その上で主体(もちろん斜線を引かれたS)とか、
主体化を強いる力なんて、思われてるほど強くないって言ってるんだよ。
302考える名無しさん:2008/09/15(月) 21:58:19 0
とはいっても、宇野「ドゥルーズの流動の哲学」42P参照すれば
明らかに「いったいどうして理性や主体に、これほど敵対しなければならないのか」
とドゥルーズ=ヒュームを参照しているではないか?
ここから、ドゥルーズは決して主体を前提に論議してはいない事
は明確で、と言うよりも、彼の哲学を真剣に読んだのならば、
たとえ一か所で「主体」と言う文字が肯定的に使われていても、これは、
他概念との関係によって「主体」と言う言葉で表明されたに過ぎず、
個々人が自由に行動できる者を表す意味では「主体」を使用してはいない
と解するべきでしょう。
303考える名無しさん:2008/09/15(月) 22:00:11 0
301
それはラカンの読みを踏襲したものでしょう?
304考える名無しさん:2008/09/15(月) 22:07:33 0
>>303
反ラカンの書でしょ、アンチオイディプスって。
305考える名無しさん:2008/09/15(月) 22:24:23 0
反ラカンと言うか、勿論ラカンではないよね。
原シニフィアンに回収される否定神学ではないのだろうね。
それと、反精神分析学とも言えるね。
アンチ=反 エディプス=去勢 と言う意味だよね。
306考える名無しさん:2008/09/15(月) 22:28:02 0
>>305
日本語でおk
307考える名無しさん:2008/09/16(火) 03:07:32 0
反ラカンっていうと単純過ぎるよ。
ドゥルーズは「ラカンであり、同時にラカンでない人」のことを考えてる。
ラカンを否定するだけなら、それが新しい超越性を持ってしまう。
308考える名無しさん:2008/09/20(土) 21:56:08 0
進まないねこのスレッド。
レスはまだだすか。
亀井とぴかぁ〜の論争は終わったのか。
ぴかぁ〜は仕事をしているらしいが・・・・・・・・・?
本当かな。実は読書じゃないのか。「権力と抵抗」だろう。
皆読んでるが、苦労しているらしい。
早いとこ片づけましょう。哲学は苦労ではありません。
笑です。このように考え抜くような人間の無能な浅はかさを笑うのです。
309考える名無しさん:2008/09/20(土) 22:50:23 0
↑↑↑
おまえが進めろよ ボケ!
310考える名無しさん:2008/09/23(火) 20:54:17 0
いま読んできたけど、佐藤の立場がオカシいと思う。
311考える名無しさん:2008/09/24(水) 06:52:27 0
>>310
どの辺が?
312考える名無しさん:2008/09/24(水) 23:33:23 0
もう一度読んでくるよ。
313考える名無しさん:2008/09/26(金) 04:12:59 0
私はラカンは嫌いだけど、超越論的シニフィアンというのは言葉の問題でしょ。
それをドゥルーズやアルチュセールが批判するとこから、まず的外れという気がする。
314考える名無しさん:2008/09/26(金) 21:24:41 0
これは佐藤批判にはあたらないかも知れませんが、
『権力と抵抗』p.78の「不治の病のため長い間苦しんで死んでだ父のことを夢に見」る男の、昔のように自分に話しかけてくる夢の中の父が「心苦しい」という言表が意味することは、精神分析の「無意識的欲望のレベルで読み替える」必要などまったくないでしょう。
彼は自分が父の死を望んでいたことの「自己非難」をはっきり意識しているはずだから。
だって「心苦しい」んですよ…。
315考える名無しさん:2008/09/26(金) 22:14:28 0
313は何を言ってるの?
この本はラカン批判ですよ。東の郵便的と同じですよ(笑)
超越論的シニフィアンは主体が抑圧されたファルスとして表され
中心を外れた<他者>の審級へと依存して(転位して)「偽りの中心
化構造」をもつので、空無は一つであると言う批判をしているのだよ。
東のデリダ読みからは否定神学と言うのだよ。

314読みが違うのでは。
ここは主体の二重構造を説いているだけでしょう。
つまり、1)現表の主体=社会的=意識的なもの=経験的自我
    2)現表行為の主体=私的=無意識=他者のディスクール=超越論的自我
だから、1)を社会的規範とすると2)は規範化されない前期エディプス
    と見るのでしょうかね。
316考える名無しさん:2008/09/26(金) 22:15:35 0
もっと本を正確に読めよ。
317考える名無しさん:2008/09/26(金) 22:22:12 0
「現表」は「言表」に訂正だね。
318考える名無しさん:2008/09/26(金) 22:47:36 0
315について
1)と2)はともにエディプス化によって生まれるのだと言う事
を再確認した方が良いでしょうね。77Pにエディプス化によって
主体が二分されると記されているからね。
こう言う二分よりも、エディプス以前の鏡像段階とエディプス後
の主体と言う捉えた方の方がいいと思われるけどね。
エディプスとは、象徴界であり、私的と言うよりも、社会性への
欲望の抑圧だからと言う事だ。
それでも、無意識と意識を比較する意味で、このような二項に
なったのだろうね。
つまり、76Pにあるように抑圧を「家族的抑圧」と「社会的抑圧」
とに分けているので、こう言う風に、ラカン=ヤコブブソンの
読みを引用しているのだろう。
でも、一般的にはエディプス自身が社会性を持っているという見方では
二分化する必要もないとも思われる。
319考える名無しさん:2008/09/27(土) 00:30:29 0
>>315

こいつはダメだ。
ラカン批判だと言い切るあたりまるで読めてない。
320考える名無しさん:2008/09/27(土) 07:21:34 0
319
「権力と抵抗」佐藤善幸著の
どこがラカン批判ではないのか書いてみろ。

ラカンは、原シニフィアンによって開いた空=欠如にシニフィアン連鎖によって
象徴界への主体の参入を表すが、この空は他者の審級によって「郵便は届く」
と保証されているとしている。よって、佐藤は構造に対する「抵抗」力が失われるとして
アルチセールに向かうのだ。つまり、デリダ的な「郵便物は届かない事がある。」
と同じ位置に佐藤もいる事になる。

321310=312=313=314:2008/09/27(土) 21:07:38 0
>>315
私が何処で『権力と抵抗』がラカン批判ではない、と言ったの?
したがって、あとは意味不明。
おそらく、佐藤が紛らわしい(私にすればアンタの立場って何?と思えるような)立場をとっていることからの錯覚に捕らわれているのかも知れませんね。

>>319
少なくとも、そこについては同意。

>>320
>どこがラカン批判ではないのか書いてみろ。

それはともかくとして、どこかでジジェクの指摘がラカン理論を社会理論への外挿だとして批判的に扱われていたけど、それを言うなら、アルチュセールやドゥルーズのラカン批判は社会理論のラカン理論(or精神分析理論)への内挿だ。
この調子で佐藤はポスト構造主義?という立場から強引な形で共通部分を引き出そうとするのだけど、その立場がオカシいと思うのですよ。

はっきり言うと、その立場って、大仰な名前を付けるほどの代物じゃないだろってこと。
誰もが普通にやって来たことですよ。
322考える名無しさん:2008/09/27(土) 22:51:32 0
>>320

ラカン解釈がしょぼい

>>321の言う通り「アルチュセールやドゥルーズのラカン批判は社会理論のラカン理論(or精神分析理論)への内挿」
というのを理解してない。つまり君アルチュセールもドゥルーズも読めてない。
もっと言えば佐藤と東も読めてないということ。

323考える名無しさん:2008/09/28(日) 10:27:44 0
おいおい。
適当は事は言わない事。
321「佐藤が紛らわしい言葉を使っているから錯覚にとらわれている」って
具体的に書けますか?
確かに貴方は313では、ラカン批判ではないと言っていませんので、
319さんんと誤認でした失礼。
ところで、313で言う「超越論的シニフィアンと言う言葉が問題でそこを
ドゥルーズやアルチュセールが批判するのはどうして的外れなのか具体的に書きましょう。
こんなに短絡的に短文で書いても君の意味するところは不明。
319に同意する意味は。どこがダメなのか、感情的な一言では無能者のする
幼稚な反応ですね(笑)
君の本当の実力は見えてます。(笑)
ドゥルーズ・アルチュセール・デリダも含めて、ラカンの精神分析学を批判するのは
まさに君の言うように、シニフィエなきシニフィアンに「回収される」と言う
点なのです。せっかく、大文字の他者Aとして、主体を外に持ち込むまでは評価され
るが、そこからこの原シニフィアンに開いたもの=ファロスへの回収=
「郵便物は絶対に届く」とする事が、構造に対する「抵抗」の不可能性になること
をこの3者は色々な角度から批判していると言う事でしょう。勿論佐藤も。
324考える名無しさん:2008/09/28(日) 10:34:53 0
322
批判する前に君のラカン読みは、書いてごらん見てあげるから(笑)
違うんだね(笑)
ラカンを通じて、精神現象学的内在分析全体を批判している
と言う点が君も分かっていない。
なぜアルチュセールは唯物的と言う事を強調したのか分かっていないね。
もっと、しっかり「権力と抵抗」を読みましょうね。
ただし、君が構造主義ですべてが説明できるし、社会的にも問題ない
と言うのならば、君のドゥルーズ・デリダ・アルチュセール批判は
有効?かもね(笑)
実際君らはラカン・ドゥルーズ・デリダの著書を一冊でもまともに読んだのかね。
「権力と抵抗」も読めてないな??????
325考える名無しさん:2008/09/28(日) 12:53:01 0
>>313
ちょっと意味が分かりづらい。
>>314
それがどういうことなのかは、その周辺に書いてある通り。

>>305
> 反精神分析学
大雑把。
>>323
> ラカン批判
大雑把。
> この3者は色々な角度から批判していると言う事でしょう。
アバウト過ぎる。

>>320
> ラカンは、原シニフィアンによって開いた空=欠如にシニフィアン連鎖によって
> 象徴界への主体の参入を表すが、この空は他者の審級によって「郵便は届く」
> と保証されているとしている。よって、佐藤は構造に対する「抵抗」力が失われるとして
> アルチセールに向かうのだ。つまり、デリダ的な「郵便物は届かない事がある。」
そんなこと書かれていたか?

> と同じ位置に佐藤もいる事になる。
『存在論的、郵便的』と『権力と抵抗』は全くテーマが違う。検討違い。

>>321
> ジジェクの指摘がラカン理論を社会理論への外挿だとして批判的に扱われていたけど、
> それを言うなら、アルチュセールやドゥルーズのラカン批判は社会理論のラカン理論(or精神分析理論)への内挿だ。
この辺りが『権力と抵抗』のテーマの中心には近い。

> 誰もが普通にやって来たことですよ。
誰もって、誰のこと?
326考える名無しさん:2008/09/28(日) 12:54:40 0
しかし、この二週間ほどは劇動の〜だったね。
327考える名無しさん:2008/09/28(日) 13:18:56 0
325
よく読めよ。
君の方こそ大雑把に数行でこの様な広大な哲学問題を切り捨てるなんて
出来るのか?
323のラカン批判が大雑把すぎるのならば自分の理解したラカンを説明しろよ。
君がよく分からないので、君にとっては大雑把のように見えるのでは、
ようは、理解できないのと違うか(笑)
そうでないのならばラカンを説明してみな?
こんなくだらないレスするよりも、もう少しで「権力と抵抗」が完全読破できるので
そちらを優先するよ。ほぼすべて理解できるよ俺は。
その後は、「対話」ドゥルーズ+パネル か 
中断中の「探究U」第八章からか、哲学の歴史12「実存・構造・他者」
でも読もうかなと思っている。
328考える名無しさん:2008/09/28(日) 13:57:24 0
>>327
主体構築に対するラカン派の見解がヘゲモニー概念と最終的に両立しうるか、ということ。

読み切りもしないでものを言い、人に精読を勧めているのか?
頭オカシイゾ。
329考える名無しさん:2008/09/28(日) 17:58:30 0
328
おいおい、まともに理論も書かずによく言えるな。

たったのニ行で、あの本を纏める方が不思議だね君って。
自信があるのならラカンをまず説明してみてよ。

それで、両立するのかしないのか?
ヘゲモニーって理解している。
ヘゲモニーとはなに?ニ行で説明するのはよしてよね(疑)
それとも、説明できないのでしょう。(笑)
君のレヴェルと話しても得るものなしだから、俺は本を読むので・・・・
それでは・・・勉強しろよ。わかった????

330考える名無しさん:2008/09/28(日) 21:58:09 0
素直に教えてくださいと頼めって
331考える名無しさん:2008/09/28(日) 22:02:35 O
教えてください!
><
332考える名無しさん:2008/09/29(月) 14:36:22 0
器官なき身体なんかで権力に抵抗できるはずないだろ。
333考える名無しさん:2008/09/29(月) 22:01:50 0
> それで、両立するのかしないのか?
> ヘゲモニーって理解している。
> ヘゲモニーとはなに?ニ行で説明するのはよしてよね(疑)
> それとも、説明できないのでしょう。(笑)

そんなこと、本に書いてあっただろ。
334考える名無しさん:2008/09/29(月) 22:59:13 0
哲学的センスがなさそ。
335考える名無しさん:2008/09/30(火) 01:12:11 0
現代文のテストじゃないんだから
理解度なんてどうでもいんだよ
336考える名無しさん:2008/10/12(日) 10:58:49 0
身体性とはなんだろう。
メルロ=ポンティによると、身体を器官の集合としているのではなく、
意識でも物でもない、対自でも即自でもない両義性としている。
こう言う定義では全く何を言っているのか分からない。
身体は、コギトという対象意識の発動に先行する実存の前人称で一般的な
動性(われ能う)と言う説明が鷲田清一先生の説明にある。
これは、主観と言う観察側の認識と客観と言うものとの分離を何とか
超えようとする思想界の苦難として見て取れる様にも思える。
つまり、内と外は同じ身体の脳と眼に依存しているのであり、
同じ「身体」性によっているのであるから、分裂などあり得ない
と言うのが言い分なのだろう。
そこで、身体性によって、世界に内属する我は実存的に身体において知覚する
と言う事になるのである。そして、身体性は「自然な私」となり、
「自然な私が私において知覚する」と言う事の様である。
自然な私が、身体性によって慣習を身につけることは、内面化することなく
いろんな事を身につける。それならば、たとえば哲学をすると言う事も、
自然に身体性によって身につけると言うテーゼが有効でなければならいのである。
例えば、知識とは何なのだろう。これは、身体性として存在者にとっての
内面に蓄積されたものではないのだろうか。
自分の電話番号・名前など記憶されたものは身体性のどこから来るのだろうか。
仮に、言語が原抑圧によって習得され、その事によって
言語による記憶が生まれるならば、記憶は身体性には生まれるはずはない。
しかし、我々人間の行動はすべからく、記憶に基づいている。
これを、身体性にのみ依存して分析する事の不可能性があるのではないだろうか。
そう考えるとき、メルロ=ポンティの言う「身体性」とは、記憶と言う脳内
集積データの存在を否定するものではなく、身体性=それぞれの種毎が
持つ器官が生息環境に反応する事によって、生みだされる経験が意識
を限定し、その事が言語による知識として内面化されると言う事でありであり、
決して、内面化を否定するものではないと言う事であろう。
337考える名無しさん:2008/10/12(日) 11:21:37 0
つまり、こうである。身体性とは主客は欲望=身体の段階では
未分化であり、本能は器官に依存して現れ、知識は欲望充足のための
ものとして、身体上に布置されて存在するのであるから、客観的な
知識なるものは存在しないのだと言う事であろう。

一方、ドゥルーズの規律社会・管理社会についての定義についてですが
恐ろしく翻訳が分かりにくいのですが、あえて、ざっと目を通した
感想ですが、ドゥルーズは管理システムの在り方を論じているのではありません。
フーコーの分析に合わせて、そう言った規律訓練から環境管理へと管理体制
の変化があり、そう言う体制にはこう言った欲望の流れが生まれると言う視点で
描かれているようだと思います。あくまで、ドゥルーズは権力・管理・
監視・規律への抵抗勢力を見出そうとしているのです。
こう言う論文の風潮はドゥルーズの全ての本に見出されるのです。
もし疑うのならば、貴方の読んだ「記号と事件」の290P〜291P
に抵抗の文言があります。特に291Pの最後に「とにかく管理の手を
逃れる<事件>をひきおこしたり・・・・」と書いています。
この様に考えるとき、管理社会を求めたのではなく、フーコーの言う
様な管理社会の到来(これをドゥルーズは否定してはいない)に対し
権力への抵抗の可能性を模索していると言う事です。
ドゥルーズの哲学には、権力=組織へのあらゆる抵抗のあり方が研究
されていると言う事でしょう。その為に管理社会を分析している
のだと思います。
338考える名無しさん:2008/10/12(日) 16:11:37 0
経験論が言っている事は、身体が経験のみによって振る舞い方を身につける
事で、反省(言語)による知識を否定する事が出来ると言う事ではありません。
ドゥルーズが経験論へと向かうのは、経験の一回性に向かっている
のです。つまり、これを出来事と言っても良いのですが、出来事は永遠に
ロジックに回収されることはありません。ところが、知識を内面化する事を拒否し、
同じ共同体内部の他人をまねて、自然に身体を介して慣習が身に付くと言う
考えでは、生まれた環境に則して、身体は習慣付けられ、その生まれ落ちた、
あるいは、生活する環境に依存して、限定的・硬直的に行動パターンが制限されるのです。
この状態では構造主義のアポリアである、構造外とのコミュニケ―ション
や他者性の排除と言う問題点がそのまま残ってしまうのです。
つまり、外部の不在と非対称性の不在です。
この様に考えると、貴方の言う身体とは、柄谷の言う様に、自己対話(モノローグ)であり、
共同体内部の者は全て反応=身振りを同一とすると言う、閉じらた共同体
になってしまいます。つまり、外部との交流が全く生まれないのです。
この点についての、貴方の見解がまたく見えないのです。
また、ドゥルーズを二項対立していると言う意見は全く聞いた事がりませんし、
詳細な説明が必要でしょうね。それから、後期ウィトゲンシュタインに則して
理論を展開しているとの事ですが、これは、もしかしたら言語ゲーム論
と言う事でしょうかね。柄谷は「探究T」で、言語ゲームについて「疑う
事は言語ゲームの中で可能であり・・・」と言い、外部とのコミュニケ―ション
の可能性を模索しています。よって、言語ゲーム=コミュニケーション論
は域内では自己対話(モノローグ)にしかならないし、本当の対話は域外間
によって起こるのです。この域外との交通こそが、「間」であり、
構造の他化なのです。構造の閉塞は身体性=経験による行動パターン
の習得で乗り越えられないのです。そこにはもう一つの要因が必要でしょう。
それは、経験は何物にも回収されない=パターン化されない一回性の
出来事と言うドゥルーズ的な視点が必要でしょうね。
339考える名無しさん:2008/10/12(日) 16:26:08 0
全体的に見て、貴方の論理には、構造に対する抵抗の線が見えません。
確かにロジック(西洋形而上学)に対する反省は経験論や暗黙知の様な身体=経験
を重視するところに見えますが、これは、記号論批判と言うよりも
形而上学的な西洋アプローチへの批判としては捉えられます。
そう言う意味では評価できますが、規律訓練・環境管理と言うフーコー
のタームを前提に、管理側の状況に対する個々の反作用=行動が見えていない
気がします。これは、権力への抵抗の事です。
この抵抗がない限り、構造内にいるしかないのですし、よって、
貴方の文章には構造主義の残滓がありありと残っていると言う事でしょう。
確かに、精神分析学による原抑圧批判によって、経験論に向かうと言う見方
は正しいと思いますが、この経験論から暗黙知=共同体内での振る舞いの経験的
学習と言う展開が時代に逆行していると思われるのです。
貴方が推薦した「権力と抵抗」を読まれる事をお勧めします。
340エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/12(日) 22:17:15 0
>>336
ボクは言語知識の記憶を否定していませんよ。言語規律を内面化することを否定したので
す。信号の例で示したように、「信号が赤の時は横断歩道の前で止まりしょう」という言語知
識を記憶したとしても、それで規律を守ることはできません。たとえば壊れて赤になったま
まの信号があったとして、その前で立ち止まりつづけますか。これは言語意味論の問題で
す。「信号とはなにか」、「横断歩道とはなのか」は、状況(コンテクスト)に依存するからで
す。そして状況は無数にあります。これを打破するのがすでに体で覚えた経験です。規律
は言語ではなく、体で覚えるものなのです。

>>337
ボクはドゥルーズが管理社会を求めたと言ったわけではなく、規律訓練から環境管理へ変
わったという二元論を批判したのです。フーコーは規律訓練と生権力は協力して働くといい
ました。その中に管理された環境があるのです。
341エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/12(日) 22:26:41 0
>この状態では構造主義のアポリアである、構造外とのコミュニケ―ションや他者性の排除
>と言う問題点がそのまま残ってしまうのです。つまり、外部の不在と非対称性の不在です。

この話はすでにしましたよ。すでにキミも答えを言っていますね。

>ドゥルーズが経験論へと向かうのは、経験の一回性に向かっているのです。つまり、これ
>を出来事と言っても良いのですが、出来事は永遠にロジックに回収されることはありません。

*******************

他者性そのものが構造主義的、超越論的な言説なのです。構造主義/ポスト構造主義=
神経症/分裂病=象徴界/現実界=構造/他者性

このような柄谷などの他者性を東が否定神学といったのはご存じですね。構造からの(超
越論的)な出口=他者性は、構造があるから出口があるのです。

身体はこのような超越論の文脈にはありません。経験論です。経験論ではそもそも構造が
ないから否定神学的な出口はないのです。もっと簡単にいえば経験論には合理論(超越
論)のように最初から合理的、無時間的、静的な体系を考えないのです。体系は日常の中
で絶えず変化するのです。経験論は完成することがないのです。

先にあげた都会人が雪国に引っ越した例でいえば、雪国に引っ越した都会人は雪道を歩く
ことに、経験し、うまくなるのです。これはもともと雪国に住む人も同じです。夏場になると雪
道のうまい歩き方を忘れる。冬になると少しずつうまくなる。無理に他者性に結びつけれ
ば、経験論は毎日の偶然性として日々他者に対面し続けるのです。
342エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/12(日) 22:33:18 0
>それから、後期ウィトゲンシュタインに則して理論を展開しているとの事ですが、これは、
>もしかしたら言語ゲーム論と言う事でしょうかね。柄谷は「探究T」で、言語ゲームについ
>「疑う事は言語ゲームの中で可能であり・・・」と言い、外部とのコミュニケ―ションの可能
>を模索しています。よって、言語ゲーム=コミュニケーション論は域内では自己対話(モノ
>ーグ)にしかならないし、本当の対話は域外間によって起こるのです。

まず柄谷の立ち位置を考えなければいけません。東の郵便本で明確に考えられていまし
たね。柄谷は否定神学だと。ようするに超越論、構造主義者なのです。柄谷は「マルクス
可能性」、「探求1、2」を読めばわかるのですが、マルクスからウィトゲンシュタインから
デカルトから、構造主義で説明するのです。そして最後に、否定神学的な他者性に行き着
くのです。柄谷の他者性とは同じ否定神学のラカンでいえば、現実界の位置ですね。

言語ゲームとは、柄谷が考えるような超越論的なものではないのです。「言語ゲーム」は
言語の使い方、言語を道具とすることを経験で覚える身体知の束です。
343エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/12(日) 22:40:08 0
「権力と抵抗」は進めておきながら読んでいません。権力への抵抗と言う意味では、フーコーの権力論に賛同しています。フーコーを引用しましょう。

>>
認識がどのようなものかをほんとうに知ろうとしたら、哲学者の十八番であるような生活形
態、生存形態、禁欲形態に近づいてもだめなのです。認識がどのようなものかをほんとう
に知ろうと思うなら、その正体を知り、それを根源から、その製造からして把握しようとする
なら、哲学者たちではなく、政治家たちに近づかなければならない。権力闘争の諸関係が
どんなものかを理解するべきなのです。この権力闘争の関係においてのみ、諸事象が相
互に、人間たちが相互に、憎み合い、闘い合い、互いを支配しようとし、互いの上に力の関
係を及ぼそうとする、その仕方を通してのみ、認識がいったい何なのかを理解することがで
きるのです。・・・つまりは、認識とはつねに、人間が身を置いているある戦略関係なのだと
いうことです。P29-31 「真理と裁判形態」

権力とは実態ではない。しかしならが、それはまた、その起源を探し求めなければならない
ような不可思議な属性というわけではない。権力とは個人間に存在するひとつの個的な関
係タイプにほかならない。・・・権力の分別特徴は何かといえば、それはある特徴の人々
が、程度の差はあれ他の人々の行動の一切 − といってところで徹底的、強制的という
わけにはけっしていかないのであるが − を決定できることである。

ある権力形態に抵抗したり反抗したりする人々は、単に暴力を告発したり、ある制度を批判
したりするだけでこと足りるわけではない。問題にしないればならないのは、目の前に存在
する合理性の形態なのである。・・・問題は、いかに権力関係が合理化されてきたのか、と
いうことなのである。P355-357 「全体的なものと個的なもの−政治的理性批判に向けて」

「フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治」
<<
344エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/12(日) 23:00:22 0
最後にボクが持つ構造主義(超越論)と経験論のイメージを
語りましょう。バネというものがありますね。線が螺旋状に
巻いている構造のものです。

これを上からみるとドーナッツのように見えます。
構造主義はバネを上から見たドーナッツのようなものです。
上から見るとは縦方向の時間軸をなくすと言うことです。
構造主義は共時的です。象徴界に開いた穴(現実界)。
穴が開いていると、穴に向けて開かなければと騒いでいる。

しかしバネを横から見れば、線の間は隙間だらけです。
そしてバネを3次元的にみるとが経験論です。
他者性がどうこうと騒がなくても、いつも線は隙間=他者性
(偶然性)に接しているのです。すなわち時間を考慮する
経験論はいつの一回性の経験なのです。

構造主義的な無時間のマクロな構造で権力をとらえるに
対して、フーコーの権力論では経験的な地平で線に働く
マクロに働く権力関係を分析する必要があるということです。
絶えず接する他者性とは、権力闘争=戦争なのです。

345考える名無しさん:2008/10/12(日) 23:17:31 0
馬鹿発見
346エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/12(日) 23:19:03 0
言語は規律になり得ません。「信号が赤の時は横断歩道の前で止まりしょう」といっても
信号も横断歩道もみたことがない人にはどうしてよいかわかりません。
信号と横断歩道の写真、絵を見せても、信号、横断歩道の種類は無数にあります。
動画をみせても同様でしょう。
しかし言葉よりもましですね。それは画像、動画をみることことで
イメージトレーニングするからです。
「信号が赤の時は横断歩道の前で止まりしょう」を規範化するには、
いかにそのような状況を体験させるかです。体で覚えさせるのです。
それによって、はじめてみる信号、横断歩道でも、判断できるのです。
347考える名無しさん:2008/10/12(日) 23:29:05 0


うんこもおしっこもおならもブビイイイイイイーーーー!

   ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
        -=-::.
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348考える名無しさん:2008/10/12(日) 23:43:24 0
うんこもおしっこもおならもブビイイイイイイーーーー!

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349考える名無しさん:2008/10/12(日) 23:47:35 0
うんこもおしっこもおならもブビイイイイイイーーーー!

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350考える名無しさん:2008/10/13(月) 09:41:43 0
意見、説明に感謝します。
まず、以下の文章についてですが「ボクは言語知識の記憶を否定していませんよ。
言語規律を内面化することを否定したのです。」
言語知識と言語規則の内面化についてですが、確かに、規則を記憶する事と
その順守は異なりますね。ですから、どの様な記憶も、それを支配する「私」がいる
その私は全く操作されていない、いわゆる「超越論的自我」を認める事になる
と言う事は解っていますよね。そして、今度は、貴方の言うように、経験によって、
身体性によって、反応を体得するとすれば、習慣によって反応がパターン化・
決定されます。この事は、構造主義的な反本質主義(後天的に意味は構造内の布置によって
決まる)と言う事になるでしょうね。
つまり、まず、貴方は、経験によって身体性として、共同体内部の人の
反応を模倣して、意味=反応は習得されると言ってますよね。
この事は、確かに、「超越論的自我」(私が全て個人として意味を見出し判断すると言う
見方)を超えています。いわゆる形而上学批判をすり抜けている。
なぜならば、共同体の他者(これは柄谷では異者といってますが)を身体的に模倣する
事で、独我論を超えていると言う事でしょう。
しかし、何度も言うようですが、取り巻かれた環境にいる異者から、身体的な
反応を学ぶからです。こう考えると、柄谷を否定神学とするとしても、それ以上に
共同体内部に身体反応の参照源を見出す貴方の方が、より、構造主義的な残滓が
あると言う他ないでしょうね。
仮に、今度は、貴方が言っているように、コンテクストいよる選択の自由
を主張すると、異者から身体性によって反応を学ぶと言う規定がなくなる
のではないでしょうか。
351考える名無しさん:2008/10/13(月) 10:01:08 0
私は、知識=記憶と規範の内面化が本当に別物であるかと言う事が断定できるのか
と言う事に疑問があるんですね。つまり、身体性の反応といっても
例えば、信号を渡る「赤だ」、これは知識では「止まれの意味だ」でも
ここで、状況判断し「故障かも知れない?あるいは、車は通っていない」
「だから渡ろう」この判断において、はたして、我々は知識を記憶し規則
を内面化していないのでしょうか。たとえば、キリスト教は違反を禁止します。
しかし、違反がなければキリスト教の存在理由は消滅します。
つまり、言いたいことは、「赤は渡ってはいけない」は知識であり規範であり、
これは内面化されています。
ただし、それに対しての違反はできる。それは、決して内面化されていない
のではなく、内面化したものを違反するのです。そこに、後ろめたさが残り
だから、赤信号で渡る時には、異者の顔を眺めながら、急ぎ、その場を去って
いくと言う行為が見られるのでしょう。
この様に言ったからと言って、私は、規範を守れと言う主張をしてはいません。
勿論、ポスト・構造主義派ですので、規範・真理・抑圧には逃走を対置させるでしょう。
ただ、ここで、言いたかったのは、暗黙知では規範・抑圧から逃げられない
と言う事です。
352考える名無しさん:2008/10/13(月) 10:32:02 0
次に、柄谷に対する評価ですが、全てを構造主義だとするのはどうでしょうか。
例えば、デカルトの読みについてですが、主体客体と言う、観察する「自我」
の定立を一般的な読みであるとして、否定します。この事は「私」は「思考する」
ゆえに「存在する」同時にこの様に存在する「私」が見聞き感じる
事が誤謬であるとするなら「全能で完全なる神」がこの私を創ったとは
言えない。よって、私の感官に生まれるものは、客観的に存在するのであり、
それを、演繹できるのだと言う一般的なデカルト論について、柄谷は否定
的に捉えてます。彼はデカルトが「我疑う」と言う見方をとっている
とし、ここに、構造からの脱却をつまり、「他者」を見ているのですが、
この事が単純に否定神学と言う言葉でけりをつけられるのかと言う事です。
確かに、見方によっては、構造の外部を見出そうとするのであり、
たとえ、そこに、絶対に示し得ない他者の複数性を見たとしても
これは、そう言う「複数の他者」を指し示している。
つまり、指し示す「私」は定立していると言う事にもなるでしょう。
だから、否定神学と言う事でもあるかもしれません。
しかし、それでは、経験論的な身体性によって、構造に対して何が生まれる
のでしょう。あなたの言うように、同じ共同体内の異者に対して
従順に同じ反応を身につけ、身体知によって行為反応をパターン化し、
(この場合コンテクストの選択の自由すら共同体内の規範的な反応に
類似する。)それによって、何が変わるのでしょう。社会環境に
従順な「私」を自分で容認している気がするんです。
なにも変わらない、ここには、行為(レジスタンス)の不在があるだけでしょう。
そう言う意味から、私は、暗黙知を捨てたわけです。
同時に、ドゥルーズの哲学は余りにも、経験論的で抵抗は身体=欲望
の解放に終始しているので、つまり構造からの「逃走」に終始しており
積極的に抵抗する政治に対する意識が少ないと言う気がします。
つまり、こうです、否定神学は意識し、行為する「主体」を完全に
抹消できていない。それは、他者に自分を隠し持っている。
その事が逆に「私」と言う、反応するものを行為へと抵抗へと持ち込める
足場になると言うことです。
353考える名無しさん:2008/10/13(月) 10:51:46 0
ぴかぁスレでは名無しで率先して荒らし、
自スレではいい人ぶる

パレルゴン、お前が一番の悪やのう




354考える名無しさん:2008/10/13(月) 10:56:50 0
否定神学から分裂症へ、あるいは否定神学から暗黙知へ
という流れは、意識が構造内に閉じ込められた被抑圧的な「私」
から「分裂する欲望の流れへ」と変わり「理論理性から実生活での無意識
反応へ」移ると言う、図式になるでしょう。ただし、この中には構造に対する抵抗がないのです。
周知の通り、本来、構造主義は恣意的二項的言語構造および社会構造
を指しており、ポスト構造主義はこの構造の脱臼を目指しています。
そう言う意味からは、貴方の戦略も、ドゥルーズの戦略も評価できます。
つまり、共に構造主義からの脱却です。
しかし、強制力により抑え込まれた構造から脱出しても、構造は
そのまま残っています。おそらく、ドゥルーズは構造に対するすり抜け
策によって、これを無効にしようと考えているのでしょうし、
デリダにしても、時差・器官による五感の多様化や意味の不確定性によって
解体しようとしているのでしょう。しかし、この様な瓦解・すり抜け
で、「私」はどうなるというのでしょう。構造の破壊は分裂症となり
すり抜けは、無職・貧困をもたらすだけでしょうね。
やはり、構造は必要なんだ。ただし、そのまま既存の構造に捉えられて
いるだけでは拙い。自分の立場をアピールする。皆の意見が反映される
様に構造を改造する努力がいる。つまり、自分の立っている=生まれおちた
位置をどうこう言うのはやめて、そこから、どうするかを考え運動せねば
ならない。こう言う考えが政治への注目となっているのだと思います。
この様な運動への姿勢がスピヴァクにはある気がします。
構造主義・ポスト構造主義の哲学的な意味は終わったのでしょう。
次に来るのは、能天気な開放や村落的な共同体ではなく、社会構造へ
の積極的な抵抗運動ではないかと言うきがしますが?

貴方の意見に対してはもっと詳細に、説明するべきでしょうが、
また、書きましょう。
355考える名無しさん:2008/10/13(月) 16:31:50 0
ロナウジーニョロナウジーニョ
356考える名無しさん:2008/10/13(月) 21:47:24 0
世界的に行方が分からないとされていたシニフィアンの欠如が見つかったらしい。
357ピカー派一号:2008/10/13(月) 22:37:07 0
>ボクは言語知識の記憶を否定していませんよ。言語規律を内面化することを否定したので
>す。信号の例で示したように、「信号が赤の時は横断歩道の前で止まりしょう」という言語知
>識を記憶したとしても、それで規律を守ることはできません。たとえば壊れて赤になったま
>まの信号があったとして、その前で立ち止まりつづけますか。これは言語意味論の問題で
>す。「信号とはなにか」、「横断歩道とはなのか」は、状況(コンテクスト)に依存するからで
>す。そして状況は無数にあります。これを打破するのがすでに体で覚えた経験です。規律
>は言語ではなく、体で覚えるものなのです。

つまりコンスタティブな水準はパフォーマティブな水準を決定できない
ということですね。わかります。
そもそもウィトの言語ゲームというのはそういうものなのですね。
師匠が瓦とさけぶと、とにかく弟子が瓦を持ってくる
言語ゲームの原初的形態とは
こういう言語の記憶と行為的規律とが同時になされる
ものとして想定されているわけです。
やはりピカ−さんは本質をついていますね。
358考える名無しさん:2008/10/14(火) 02:12:00 0
フマーフマーじゃよじゃよ??
359考える名無しさん:2008/10/16(木) 13:48:44 0
フーコーの言う規律訓練とは、一部の説明を除いて、主に規律の内面化ではない様である。
フーコーのディシプリンは、近代社会の権力による身体管理を指している。
桜井によると、「最初は、修道院が経営する私立の学校から始まり、個々人の
身体のこまやかな管理、組織の細やかな規則の順守への管理技術である。」
としている。このような観点からの分析アプローチはあくまで管理側から
の視点を強調するものである。確かに近代と言えば資本主義が拡大し
啓蒙の時代を背景に、学校制度が充実した時代であり、個々人が自由に
思考し、理性的に行動すると言う時代を指している。
つまり、それまでは、比較的緩やかな規則の中で、のんびりと気の向くままに
人々は暮らしていたと言うイメージがする。
つまり、集団の中での行動の決まり=規律を身につける事は余りなかったとも言える。
しかし、近代になるにつれて、集団的な組織が沢山生まれてくる。
その中心にあるのが、産業革命による、大量生産システム化への移行である。
現在のはやり言葉で「フォーディズム」とも言うのだろうか。
産業革命以前には、ひとりの人間が、最初から最後の完成品になるまで
造ると言う方法で、日常品が造られていた。この辺はアダムスミスでも
読むと言い。しかし、産業革命後生産技術の発達とともに、工場による
分業化が進む。分業化には、個々人は生産の全工程のほんの一部に携わり
生産ラインに張り付いて仕事をする。いわゆる単純労働である。
ここでは、産業革命以前の様に、自分の気が向くままに、仕事をしたり
止めたりは出来ない。工場労働時間は長く厳しかったし、規則に従わない
者に対する監視(フーコーの規律をさす)は、必要不可欠であったのだ。
この産業の拡大化に対応するように、当時、個々の自由に振舞っていた
人々は規律=監視されるようになっていったと考えられる。
つまり、この規律型管理とは最終的には国家による中央集権化を目指している。
360考える名無しさん:2008/10/16(木) 14:20:07 0
ところで、このフーコーの言う規律管理方式が生まれるのは
近代と言う事である。つまり、ルネッサンス期以降で、哲学では
デカルトの理性による客観的認識論が生みだされ、個々人の自由な=理性的な
行動が、人間の未来を明るく照らし出す時代でもある。
何と不思議なのでしょうか。前者では、無能な人間とも言えない様な
人間=家畜に、鞭の雨を降らせるように、身体の規律を順守させる
と言う時代と言うフーコーの分析に対し、後者は、中世の永い信仰
時代と決別し、新たな人間の誕生を高らかに祝うと言うルネッサンス、
一体どちらが正しいのだろうか。
どちらも正しいと言うのが答えなのかも知れない。
なぜなら、フーコーは人間の社会が高度化=集中化するにつれて
その為の監視構造が生まれ、その構造には必ず力関係が生まれること、
そして、その力関係によって、組織する側と、組織される側が生まれること
を示しているのであり、このような力関係はいたるところに生まれている
と言っているのである。一方、ルネサンス=人間解放=理性時代の幕開け
を謳う側は、中世の宗教的な因習に囚われた人間が、産業の発達に伴って
個人の自由解放となると言う処を強調し、その前提として、個々人による
理性的な振る舞いを身につける事が要請されているのである。
とは言うものの、前者が構造=権力による支配=規律を強調している
のに対し、後者には、この構造に対する見方が全くない。
あるいは、それは、土地についていた農を工場労働へ誘い出すためには
個々人の自由=主体的自立的な行動と言う考えを強調する必要があるだけだったのであり、
構造内にある権力関係には全く言及できないのである。

361考える名無しさん:2008/10/16(木) 14:31:33 0
つまり、中世から近代に移るにつれて、組織の高度化が生まれ、
それまでの様な、いろんな行動をする多くの分裂症型タイプの人間では
集団行動がとれない。よって、強制的に規律を身につけさせる
必要性が生まれ、時間管理もしっかりしようとしたと言う事だろう。
その為には規範に入らない、異常な外の者たちは、規範にある者
にする為に、精神分析学が生まれる事になる。
こう言う風にして、規格外品を調整し規格品にする事こそが、
フーコーやドゥルーズの精神分析学批判となるのである。
362考える名無しさん:2008/10/16(木) 14:50:10 0
構造とは権力の支配の為のものである。
これは、集団化が人間個々人にとって有利であるから存在するのであり、
ある程度の規制を受けても、そのマイナスを差し引いてもプラスが多い
から、存在し続けるのであり、本当の自由な振る舞いから見れば一言でいえば組織構造は必要悪である。
つまり、ルネッサンス期以前には個々人の自由は因習=貧困=短命と同居していた
が、ルネッサンス後には、科学=主体=豊=医学の有利さによって、
後者へと人は誘導されたのである。
しかし、フーコーが言っている事は、ルネッサンス期以降の近代を
批判しているだけではない。実はどの時代にも構造があり、
見えない=意識されない権力関係が縦横に張り巡らされており、
この構造こそが全ての真理を操作しているのだと言う事であろう。
だから、デカルトの理性主義=「明晰な精神」の言説も
その時代の構造の中でしか生まれえないと言う事である。
363エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/16(木) 17:16:06 0
■規律訓練権力が社会に自由を生み出す

規律訓練権力は生権力と対立するどころか同じものといってよい。規律訓練権力は
環境圧により身体を矯正する。規律訓練権力には多くの誤解がある。たとえば規律
訓練権力が強制的なものとして勘違いされること。これは規律訓練権力が強制的
な権力との過渡期に生まれただめだ。

そこから、現代は規律などは解体されてみんな好きにやっている、という誤解が生じ
る。そのはじめから規律訓練は好きにやっているように作動することが目的である。
そのために精神(思想)ではなく、身体を矯正するのだ。

現代ではみんな自由はやっているというとき、この自由は無法ではなく、「規律化さ
れた自由」なのだ。この「規律化された自由」は、無法な身体をその瞬間瞬間に環
境技術が誘導するのではなく、環境が身体を長期的な矯正することにより実現して
いる。すなわち僕達が自由であるが、無法ではない。自由であることを規律訓練さ
れているのだ。
364考える名無しさん:2008/10/16(木) 23:59:27 0
それがセックス
365考える名無しさん:2008/10/17(金) 10:59:43 0
2ちゃんねるは統一教会が運営して個人情報を集めてますよ

「コ◆シミ◆ズ」検索 「独◆立◆党」検索  ◆はずしてを検索

与党も野党もメディアも全部朝鮮人だった。
http://jb◆bs.l◆ivedo◆or.jp/b◆bs/re◆ad.cgi/news/20◆92/115◆7941306/
2chの運◆営の正体をリチ◆ャード・コ◆シ◆ミズが断言
http://mamono.2ch.net/test/re◆ad.cgi/lobby/1213◆329◆871/
2chには何故か?書き込み不可能な文章
http://jb◆bs.live◆do◆or.jp/b◆bs/re◆ad.cgi/news/20◆92/116◆9481830/
リ◆チャード・コ◆シ◆ミズが初めて公の場に登場した、ワールドフォーラム06年8月例会での講演
http://vi◆deo.go◆ogle.com/vi◆deopl◆ay?docid=36658385◆1926860◆5080&hl=en

262 :中江さんへ :2007/01/29(月) 18:24:12 ID:???
中江さんへ 以下のリンクを参照して、2chがどういうサイトがご判断の上、
透派について、書き込みされるか、ご判断下さい。
頭のよいあなたなら、私の伝えたいことは十分に伝わると思います。
http://jb◆bs.li◆vedo◆or.jp/news/20◆92/
http://vid◆eo.go◆ogle.com/vi◆deoplay?docid=366◆583851926860◆5080&hl=en
http://ww◆w15.ocn.ne.jp/~oya◆kodon/newve◆rsion/sinb◆unter◆ebiiranaiyo.htm
http://an◆ti2ch.bl◆og61.fc2.com/
http://re◆sistan◆ce333.w◆eb.f◆c2.com/top_in◆dex.html
264 :中江さんへ :2007/01/31(水) 05:25:05 ID:3U/nw295
なにがあった?
265 :名無しさん@占い修業中 :2007/02/01(木) 19:09:14 ID:???
自殺しました

「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事143
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1223898193/
毎日新聞スレ荒らしは2ちゃん運営(統一教会)
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1223995813/
366考える名無しさん:2008/10/17(金) 18:35:25 0
フーコーのディスシプリンとビオ・ポリティックを肯定的に評価しすぎ
ではないのかな?
彼の規律・監視・しつけと言う見方には権力論があり、「自己規律的理性」
が自発的に権力に服従すると言う逆説を謳っているのであり、「知」とは
権力の現れたものであるとして、近代理性批判なのだと言う事でしょう。
だから、フーコーの管理論はあくまでどのように、人間は監視され、自発的に
規範を身につけるのかと考えないと、貴方の言うように、規律・管理は
個々人の自由を保障するものであると言うフーコーとは全くかけ離れた
ものになってしまいますよね。同じく主体(スジェ)論が貴方には
ないので、構造に押しつけられ、応えさせられる「私」と言う、批判が
見ええいないので、規律・管理論が、構造の中で自由に振舞うのには
不可欠な管理・監視体制として、評価されるのでしょうね。
この辺ついては、てっとり早い解説書 現代思想の冒険者たち「フーコー」
桜井哲夫著の320P 主体(スジェ)のところを読んでください。
また、規範に服従する説明としては、表紙の裏面 フーコーの顔の絵
の下の短い文にも「・・近代の自己規律理性が、自発的に権力に服従する・・」
としているでしょう。この点を見過ごしては、構造主義〜ポスト構造主義
の流れが見えてきませんよ。
367考える名無しさん:2008/10/17(金) 19:53:18 0
パレルゴンは現代思想の冒険者たちしか読んでないのかよ
368エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/17(金) 21:37:49 0
現代思想の冒険者たち・・・(笑)
369エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/17(金) 21:46:09 0
( ゚∀゚)o彡°アスペクト!アスペクト!
370考える名無しさん:2008/10/18(土) 13:16:50 0
オリンピック
371考える名無しさん:2008/10/18(土) 14:24:26 0


要するに、麻木久仁子や森尾由美の魅力が分かる人間が勝ち組で、
ロリコン野郎は負け組というのが結論のスレッドだったわけやね。

          _/ミ   \_
        /    !  ミ  \_
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     / ///    \ | l_ \   )
     / ( /.|      \\\ \|
     |  | /l/ ,-==    =\ヾ| \ |
    (:::::::/彡彡彡彡   ミミミミ :::::::::)
    (:// ̄ ̄ ̄ ̄ヽ== =/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
    =ロ   -=・=-  ‖  ‖ -=・=- ロ=
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       \ ^l    ,-v-、_    //|
        | \  <-l^l^lヽ/  /|/|
372パレルゴン:2008/10/22(水) 22:24:03 0
絶賛する読み本。
1)探究T・U 柄谷
2)対話(ジル・ドゥルーズ)
3)哲学の歴史12 実存・構造・他者
4)権力と抵抗 佐藤
5)フーコーコレクション1〜6
373考える名無しさん:2008/10/25(土) 00:35:02 0
ソシュールと構造主義について
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1138803174/
ソシュールの一番悪い所って?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gengo/972303107/
構造主義・ポスト構造主義を超えて4 多面的考察 
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1217825334/
374考える名無しさん:2008/10/25(土) 07:07:32 O
>>344
構造主義が共時的って何?
象徴秩序が共時的っていうんならわかるけど。
象徴秩序はスタティックなものじゃない。
375考える名無しさん:2008/12/11(木) 14:21:09 0
当時近現代文学といわれたってことらしいけど、
ドンキホーテの本って(主人公とフィクション、((作品タイトルから抜け出す勢いの))延いては読者という立場まで巻き込むようなあの構造)
レヴィストロースの研究材料になった?

376考える名無しさん:2008/12/14(日) 20:58:09 0
>>375
ドン・キホーテの解釈で私が知ってるのは
フーコー、オルテガ、ブロッホ、ベンヤミン
ぐらいかな。力になれなくてスマソ
377考える名無しさん:2008/12/16(火) 20:39:24 O
構造主義のオススメ入門書教えて
378考える名無しさん:2008/12/19(金) 06:55:51 0
寝ながら学べる構造主義とかいうの
379369:2008/12/19(金) 08:16:43 O
結局、構造主義は合理論すぎた。レヴィはモースを、ラカンはフロイトを抑圧しただけだった
380考える名無しさん:2008/12/20(土) 03:19:36 0
>>376
いやいやなるへそサンクス
いや、レヴィの絶好の題材になりそうじゃないかなんて思っただけで。
(考えると、いくらでもそんなのはあるのだろうけど)

数年前、吉田戦車(だったかな)って言う人の4コマ漫画で同じ構造感覚?のやつがあった。
学校の教室。
先生が黒板に漢字を書いて「これはなんて読みますか?」って生徒にきく。
生徒が(フキダシで)「何々」と答える。
次にじゃあこれは?と先生が黒板に書いた文字は、適当に書いたハナモゲラ文字。
それに対して生徒たちが、同じハナモゲラ文字で「xxox」と(フキダシで)答える
というオチ。

二項対立って
381考える名無しさん:2008/12/27(土) 02:49:06 0
ポスト構造主義は疑似科学だった
382考える名無しさん:2008/12/27(土) 18:44:33 0
でましたね、定番の「似非科学」
しかもそれに「ポスト」という前置きが必要かどうかは知らないが。
「だった」という過去形表現の真意はなんだい?
383考える名無しさん:2008/12/28(日) 11:05:06 0
「実は、本当は」の見出し的省略形じゃないかい?
384考える名無しさん:2008/12/30(火) 04:48:41 0
 
385考える名無しさん:2008/12/30(火) 04:55:10 0
もしかしてとおもうが、
科学と言う言葉が何と相反するかを考えたことがあるのだろうか。
単語の切り取り加減は昨今のマスゴミと同レベルということか。
書店で週刊誌の横にさえも並ばない「構造主義の本」の理由はそんなところか。
386考える名無しさん:2009/01/10(土) 16:41:56 0
久しぶりにリターンだね。
ぴかぁ〜も真面目に探究しているよね。
一方俺は、すっかり退屈なレスに飽きて、自分の研究に専念していた
訳だ。どうして、高度なレスをする連中はいないのだろう。
自分の興味のある範囲で限定しても、2チャンネルでの書き込みで
興味を覚えるのはぴかぁ〜のスレッドだけだね。
彼の様に探究を続ける者がもう少しいればと思っている今日この頃
であります。
ウイットゲンシュタインのぴかぁ〜の説明については、
「論考」で言語自体の無矛盾性につまずいた彼は探究では
意味の多様性として、言語ゲーム論の展開する。
恐らくその中に。ぴかぁ〜の引用文があるのだろう。
第一印象は恐ろしくカント的な「実践理性批判」と同類の問題意識だな
と思いました。物自体として、定義不能な人間の行為の正否について、
彼は、自己による自己の成否判断基準として、「汝の意志の確率が同時に
普遍的立法の原理として妥当しうるように行え」と言うように道徳を定義
している。つまり、人間は人間である以上そのメタレヴェルの視点には
立てない。そこで、定言命法として「〜すべし」と言う表現方法を使って
人間の道徳的な行為を定義付けている。
つまり、本来は定義づけられないので、命令となるのだが。
ウイットゲンシュタインの説明もこれに類似していると思われる。
しかし、これは、ウィトゲンシュタインにとては、論考の残滓であり、
ゲーム論によって乗り越えられるべきものだと思われます。
この辺についてはデリダで言うコンテクストの多義性によって説明され
ているところでもありますが。
387考える名無しさん:2009/01/10(土) 17:02:08 0
ちょっと来ない間に、もう一つの、「構造主義、ポスト構造主義を
超えて4多面的考察」のスレッドが倉入りしてしまったようだ!
困ったもんだね。誰がやったのかね??????
まあいや。それにしても、いない間、他の個人的哲学ブログに書き込
みしていたが、オーナーは全くレスしないのだよね。(笑)
そのブログは結構素晴らしく、哲学史を分りやすく説明されていて
オーナーの人格も素晴らしい人で、以前個人的にメールを交換した
事もあったけど・・・、今回の反応が残念でたまりません。
こう言う経験って誰でもあるでしょうけどね。
所詮、ブログへの書き込みに過ぎないので、無視もありって事でしょうか。
それにしても、2ちゃんねるにも、本格的な哲学フリークは少ないね。
貴重なぴかぁ〜と以前書きこんで消滅した「彼女」くらいかな。
しかし、プライドが高すぎると、ちょっとした指摘で、逃走って事
になるのかな?指摘されることをバネにするくらいでないと
哲学って出来ないよね。ぴかぁ〜の様に、誹謗中傷の中で続けている
立派だよね。俺は自室で黙々と読んでる。解るまで読んでるいつの間にか
この350冊ほど斜めに読んだ。このような自分が良いと思っている。
構造主義・ポスト構造主義から世界を見渡そうと思う人は是非
続けてほしいものだね。
388考える名無しさん:2009/01/10(土) 17:05:11 0
認識論から経験論へと見渡すのは合っている。ぴかぁ〜正解だ!
ドゥルーズがまさにその道を歩いていたからね。演繹=ロジック
に捉えられないものこそ経験の一回性です。正解!!!
って事で、今後ともよろしく。ともに頑張ろう!
389考える名無しさん:2009/01/10(土) 18:53:35 0
続きは糞スレでやれ

記号学〜人類学〜科学哲学を横断する
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1226199445/
390考える名無しさん:2009/01/11(日) 10:13:34 0
何かきな臭い世界。何か物足りない日本の政治。真剣みのない国会審議。
一方には置いてきぼりの解雇者の波・・・。
何かが足りない。高額所得者の政治家が、解雇者への対策の論議をする
事が、今の日本人にはもう不可能になったのかも知れない。
何か真剣みがない給付金。企業は非正規雇用者を首切った。
NPOによる炊き出し。力のない者が力のない者を救う。力のあるもの
には、弱者の痛みが分らない。こんな日本じゃなかったはずだが、
富める者たちには、他者の痛みが分からなくなっていた。
国とは何だろう?国は社会契約説によって、国民の平等の権利を守る
為にあった。しかし、今の国は国民を従属させ、都合の良い考えを
もって、洗脳する機関になり下がってしまったのか。
戦争はほとんど国益や宗教的な排他性が引き起こしている。
つまり、形而上学的な真理と言うものが抗争を導いている。
ここに、ポスト構造主義の本当の逃走の理念があったはずである。
しかし、それは、また違う局面をも意味している。
つまり、逃走は闘争でもある。それが証拠に、ドゥルーズさえも
「戦争機械」と言う術語を用いて、諸器官の抗争的な分裂を説いているでは
ないか。ここに自由放任的な思想が構造からの脱却をもたらすと説いているのだ。
闘争は絶対に演繹されない、組み込まれない、「他者性」としてある。
生命の安全や教育へのレジスタンスはゲリラ的な戦争を肯定するかの様でもある。
ここに、ポスト構造主義の限界をも感じるのだ。
ゲリラ・レジスタンス・自爆テロ・破壊など、あるとあらゆる非人道性をも
隠し持つ、語れないもの=欲望の解放には、危険が付きまとうのだ。
我々はどうするのか?低所得層・年金・給付金・・・その先にある
グローバリゼーション=資本に対して、何をどうするのか?
この様な問いに答えないいけない期限が近づいている事に君は気付いている
だろうか。
391考える名無しさん:2009/01/11(日) 10:24:36 0
学問は一流大学に入学し、卒業証書は一流会社への入社の為だろうか?
その様にして、日本は高度経済成長を達成した。
人が右と言えば右へ、左と言えば左へ動く。
集団の波・・・。東京駅の中は、そのような指揮者を失った
オーケストラのように、ばらばらの人波が、流の方向を失った
かの様に混乱している。強制的に自分を組織の中に目立たぬように
うずめていたこの国の人々は、人一倍、命令や規範のない状況
に置かれると、苛立ちを隠さない。
すぐに切れる電球=人間から光出すのは、「怒り」だけだ。
決して、創造的なインスピレーションは生まれない。
同様に、決して他者に対しての愛情も生まれない。
生まれるのは乗り遅れないように必死なイキザマとしての
怒りだけである。この様な社会を見捨てられるだろうか。
392考える名無しさん:2009/01/11(日) 10:36:44 0
この様な社会構造=慣習によっても、救いの道はあるのか。
近年日本が世界に自慢できるもの、それは、アニメ=マンガと
ノーベル賞受賞者の増加である。
今、大学研究機関や技術系労働者に何が起こっているのだろうか?
この様な画一的価値観に浸る民族に何が・・・・。
我々は余りにも画一的集団主義の欠点ばかり強調し過ぎていた様でもある。
空白の10年は技術的研究員や工場労働者にとっては、個々人の
発明には良い土壌を与えていたのかも知れない。
ロボット・幹細胞・あらゆる研究分野で日本の研究は世界に評価され
つつある様でもある。この説について貴方はどう思う・・・
393考える名無しさん:2009/01/11(日) 15:16:44 0
1レスのの中に漢字は10こまでにしなさい
394考える名無しさん:2009/01/11(日) 23:20:34 0
>>390
足りないのは貴殿の知性
日本は元からこんなもの
まずはおのが無能を自覚せよ、そして
学べ

>>391
衣食足りて礼節を知る、しかして
高度成長期という「エデン」の追憶ゆえに人は
あるがままの苦の苦みに耐えられない

>>392
この崩壊しつつある世界を生き抜け
それがあとに続く者たちへの救い
画一の根は責任転嫁、マレビト・厄流しにより
今なお各個撃破される我らが東京村
395考える名無しさん:2009/01/12(月) 17:48:07 0
昨年の日本人のノーベル賞受賞者が4名であったことは、先述のとおり
何らかの要因があると考えられるだろう。
何故一度にこの様に増加したのだろうか?
これは、ある意味で日本の社会構造の研究にとって重要なテーマにもなりうる
だろう。一般的に言われているように、科学マンガ、鉄腕アトムに始まり
ガンダム・ドラえもんに魅かれて成長した世代が、30〜40代に差しかかり
そのような科学に憧れを覚える世代が、突破口を開いていると言う説も
重要な要因ではある。確かに、マンガと言う文化は世界中に受け入れられつつ
ある様である。例えば、欧米先進諸国が、個人=主体として、自分の行為を自分で
決めると言う文化であるならば、科学研究は個人の目的意識によって研究対象
が決められ、研究が進められる。そして、研究をバックアップする為の
設備・環境を整備するのが、国家・大学・企業である。
この空間では、あらゆる研究が可能で、全てのテーマに開かれている。
つまり、風潮・上職者の感情・周りの反応に過度にこだわることなく
自由に研究テーマが見出せる状況にある。
一方、日本に目を向けると、指導教授への配慮や研究内容が一定の方向に
枠がはめられ、自分の興味の自由な流に沿って研究する事は困難が伴う。
勿論、一定の方向性を示唆できると言う意味で、日本の集団主義的なあり方
の長所もあるだろう。つまり、日本的風潮とは、アニメによって見出された
社会的な基本的無意識の合意とでも言えるわけである。
日本人は雰囲気で生きると言われた事がある。例えば車のTVコマーシャルで
ボディーラインの優美さや室内装飾の豪華さは映し出されるが、
機能的な説明はほとんど皆無だ。パンフレットを見て、詳細に小さな字を
読んで、やっと、理解できる。つまり、元来、日本人は、車の性能を
重視して車を買うやつは、欧米人に比べて異常に低い数字だと言う事
かも知れない。我々日本人はメーカーをブランドで選ぶ確率が高い。
○○社の車だから信用できる。つまり、鵜呑みする訳だ。
396考える名無しさん:2009/01/12(月) 18:00:05 0
鵜呑みにする日本人は個の定立は、風潮=慣習に先立たれているとも
言えるかも知れない。この風潮はもちろん変動する。そして、今回の
ノーベル賞受賞者の増加も、日本人のマンガ=アニメ的な科学への
憧憬によって、幼少期を過ごした者たちが、研究に邁進したこと
が反映しているとも言える。つまり、欧米研究者達が、純粋に
現前にあるものを究明しようとしたならば、日本人のそれは、
理想=ムード=風潮=夢と言う、どちらかと言うと、心地よさの
ソフトな感覚や夢に根ざして研究を進めているのだと言う事だ。
例え、研究成果が同じであっても、このモーティベーションの
違いは無視できないだろう。
アニメ―ションが作り出す世界に同化する心は、現前を西洋的に
無機的には捉えない。そこは、有機的な世界として、人間の感情
の宿る世界として映し出せるのだろう。
だからこそ、西欧では人間への支配の可能性として批判される
人間型ロボット開発へのあくなき探究が出来るのである。

397考える名無しさん:2009/01/12(月) 18:13:33 0
そこで、もう一度最初のテーマに戻ろう。
つまり、大学の研究機関でいま何が起こっているのか。
今ではなく、ノーベル賞受賞者の先輩諸氏の研究はいかに花開
いたのか?それも、集団主義的、上下関係社会構造から、いかに
独創的な研究が生まれたのか?と言うテーマである。
今日NHK放送で受賞者紹介の番組がなされていたが、明らかに一つの
事が判明した。それは、受賞者の方々が名古屋大学にいずれの時期かに
在籍していたと言う事実。そしてそこの研究所では、上下関係のバインド
が希薄で、ときには指導教授を○○さんとファーストネームで呼び
研究内容については指導教授の言う通りにするのではなく、
自分の意見・信念を見失わず、お互いにフラットな関係で意見を
述べ合うと言う雰囲気があったと言う事である。
ここに、集団主義的な長い者に捲かれろ的な、先輩後輩主義の
綻びが見出せ、日本主義的な欠点を克服し、科学アニメ的
風潮が花開いているのだと言う事だ。
この様な、突破は科学部門だけではなく、人文科学など他の研究分野
のみでなく、政治・会社組織も含めて日本社会の構造全体に波及するべき
ものである事は明白である。
398考える名無しさん:2009/01/12(月) 18:21:32 0
( ̄△ ̄#) ウラーPikarrrのせいでオナニーしちまったよ
399考える名無しさん:2009/01/13(火) 17:26:29 0
研究はいかに進められるべきかと言う問いは、日本の社会構造を再考する
問題をも含むだろう。以前聞いた話だが、TVに出たりして有名になった
教師は決して早い昇格はない。むしろ、先輩教授を指し置いたと言う意味
で、反発を買うのが落ちである。つまり、ねたみややっかみによって、
村八分にされると言うのが相場だ。こういう社会・組織・構造では
有能な人材が育たない。どうしてこのような構造を日本人は身につけた
のだろう。一説によると、稲作によると言う説もある。今のように機械化
されていない状況では、稲作は集団で協業をしないと、生産出来ないと言う
事の様である。田植え・稲刈りを一人ではできなかった。だから
村社会が生まれ。お互いがこの密着した組織へ強制的に参画するしかなかった
と言う事の様である。一方、西洋では、野生の動物を捕獲し、食する。
この様な肉食文化では、自分一人か、家族の数人で狩りをし、生活する
のが基本だと言う事である。ここでは、個々がまず先に自立している。
だから、デカルトの自我などとロジックを立てて、証明する以前に
既に、自我は有史以来存立していたと言うのが正しいのだ。
逆に、そのように存立していた自我があったからこそ、デカルトは
自我を証明しえたと言う事にもなる。つまり、先に自我があり、
だから、我はどのようにしてその存在を証明するのかと言う問題を
この自我がやった事になると言う事だ。
400考える名無しさん:2009/01/14(水) 09:34:19 0
つまり、先に個の確立された状況があり、だから、哲学的な思考が
可能になったのであり、哲学によって、自我が確立されたのではない
時系列的には逆だと言う事だ。
西洋は狩猟民族であった。だから、殺す為の武器を開発し、獣を殺し
肉を食うのである。狩猟は本質的に単独で行動する。そして、射止めた
ものは自分が所有するのである。ここに個としての自我と同時に
他者との紛争の種がある。つまり、いずれ、同じ地域を単独行動する他者=単独者と遭遇する。
この他者は競合者である。同じ狩猟を生活の糧にする者としての他者
とは、獲物の奪い合いとして現前する。ここに社会契約説の思想が
生まれる背景がある。他者との競合=紛争関係を一定のルールによって
統括する機関が生まれる。これが国家の起源である。
いずれにしても、この様に肉食する種族には、自然に対し、その生産物は
自分の力で奪うものであると言う思想が隠されている。つまり、獣と言いう
自然にいるものを自分の暴力で奪うと言う考えが、隠されているのだ。
この事はフーコーの言うように、西洋的な「知」と言うものが、すでに、
略奪を隠し持っていると言う分析でもわかる事なのだ。

知とは現前に対する支配なのであり、だからこそ、デリダもあの様に、
現前を否定したのである。
401考える名無しさん:2009/01/14(水) 09:51:25 0
つまり、西洋人は、おそらく、太古の昔は、非定住者だったのではないだろうか。
狩猟をするとは、獲物の移動に沿って、自分も移動しなくてはならないからだ。
そう言う意味では、ドゥルーズのノマド思想はむしろ、
自分たちの先祖に既に存在していた事になる。その先祖がいつの間にか
麦を知り、農業に従事するようになる。こうなると、定住が一般的となり、
自分の土地を所有するようになる。そこでは近所が生まれ、隣の人
が生まれ、ある程度の協力関係が生まれてくる。そして、
狩猟時代に紛争によって存在意義が謳われた国家も、定住者の発生
によって、ますます、存在価値を増す事になる。
しかし、だからと言って、個から日本の様な集団主義への移行では
全くないだろうと予想はつく。彼らの出自から、彼らの行動は
あくまでも、個を前提にしたものであり、決して日本のような
集団主義ではないと言う事だ。なぜ、日本的な村社会集団主義に
ならなかったのかと言うと、恐らく、我々が認識できる歴史以前の
言葉もない時代を含む有史以前が、我々が認識する以上に、長かった
のではないだろうか。そして、その期間に刷り込まれた狩猟者としての
本能=価値観が未だその基礎に張り付いていると言うのが真実では
ないだろうか。
402考える名無しさん:2009/01/14(水) 10:08:05 0
再度確認すると、西洋的な思想は、個の確立を前提にしている。
それは、狩猟生活者としての太古の西洋人に由来し、よって、
デカルト的な「我」の確立は、すでに、太古にあったと言う事だ。
そして、西洋的な「知」の在り方は、客観的なものではなく、自然や
現前を支配し、略奪すると言う狙いを隠し持っていると言う事だ。
そして、さらに、現前とは、言葉の通り、私のまなざしが射すもの
全てであり、ここに現前する「他者」をも含んでいる事も当然の
成り行きである。この点にこそ、レヴィナスやデリダの「他者」の
思想は生まれたのである。勿論この「他者」の考えは、柄谷にも
受け継がれているので「探究T・U」を参照すればいい。
同時に、サルトルの「対他存在」と言う概念も、他者関係が
支配されるかするかの相克として捉えられているので、参照すると
良い。どちらが見る者か見られる者か。勿論見る者が支配者である。
だから、古代ギリシャでは、奴隷を野獣と闘わせ見る者が支配者だった
と言う事だろう。しかし、現代では、スポーツは全てプレーヤーの方が
憧憬のまなざしで見られると言う、古代とは逆転した状況にあり、
この辺の分析も面白いかも知れない。
403考える名無しさん:2009/01/14(水) 10:40:41 0
相変わらずものすごい頭の弱さだね
404考える名無しさん:2009/01/14(水) 15:27:10 0
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405考える名無しさん:2009/01/15(木) 10:25:17 0
先日、NHKの特集番組(外国のメディアのもの)で、男と女の脳の機能の違いを特集していた。
残念ながら途中から見る事になったが、これはすごいものだと感動的で
あった。今までは、いや、ルネッサンス以降なのか、あるいは、人間の
平等を謳った社会契約説からなのか、あるいは、選挙権が一般市民男女に
平等に与えられた時期からなのかは不明だが、人類の歴史は個人の平等
の歴史でもあるだろうことは間違いがない。ただし、この場合個人の平等
は、個人の自由と言う言葉とは異なる。
たとへば、リヴェラルと言っても「勝手に振る舞え、ただしその結果境遇
に差が生じてもそれはお前の責任であり、国や裕福な者にはその君を負う事はしない。」
と言う事でもある。ようは、放置状態、自由放任、乞食は乞食のままであり、
それは、個人が招いた事であると言う事になる。
そこで、自由主義に反旗を翻したのが、誰でも知っているようにカール
マルクスである、彼は貧しい者の側に立って、この自由放任が
実は富める者=資本家に有利に働いているのを見てとった。
この様に、自由とはそのような無慈悲で、怖さをも合わせ持っている。
しかし、自由は平等と合わされると、自由が強制や搾取の自由から、
平等の基の自由となる。このような組み合わせを見出した人智は
素晴らしいとも言える。しかし、あの衝撃の番組が見出すものは
差別と差異とは全く別のものであると言う事に気付かせた事であった。
番組によると男と女は同じ目的で使用する時に脳の違う部分が機能する
と説明を加えた。具体的に言うと、ある指示によってある場所に向かうのに、
男の場合には東西南北と言う方角を基準にして、指示すると、正解率
が女性より高いが、女性の場合には○○がある所を右・左に曲がる
と言う表現では男性を凌駕した。
406考える名無しさん:2009/01/15(木) 10:46:18 0
この事を脳の機能で分析すると、男性は空間意識が優れており、
女性は言語意識が優れていると言う事になるとの事であった。
いわゆる、男と女は脳に置いて平等ではなく、それぞれの機能に優劣が
アプリオリに存在すると言う事になる。
そう言われれば以前から、「女だから○○。男だから○○。」と言う
表現で、その違いは述べられたもいた。しかし、構造主義によって
本質主義が否定されていたので、それほど信憑性のある発言とも
見られなかった。女性のブルドーザー運転手、女性の管理職(外国)
女性の元首など、どこの国も男女の能力が平等に神によって与えられている
事を証明しようとし、慣習としての男性中心主義を訂正するのに必死であった。
この考えが、前世期のウーマンリブ運動からジェンダー論にまで広がっているのだ。
しかし、勿論、私が、再度、男性優位を解こうとしているのではない
ので、安心をしてもらいたい。
そのテレビ番組で、この差が、太古の昔の男女の仕事違いから、来ているとしている
所は、興味をそそられる。太古の昔男の仕事は狩りをする事であり
獣を追いかけるので、捕獲した獣を最短距離で、自分の住まいに
運ぶ必要が生まれ、自分の家への最短の方角を学習すると言う
経験が生まれ、空間意識が発達するが、留守宅を守る女性は会話による
コミュニケーションが発達すると言う事のようである。
407考える名無しさん:2009/01/15(木) 11:11:42 0
しかし、この説は、私の知性を満足させるものではなかった。
確かに、男は縦横無尽に逃げる獣を捕え、それを家に運ぶ際に
この獣が逃げ走った様に同じルートを運ぶバカはいないし、
この説が男性の優れた空間意識を培った事は否定できない。
また、女性には弁が立つ人が多いし、日常会話による、沢山の
友達が、男性に比べて多いのは、確かにうなずけるのである。
ただ、私が言いたいのは、この男女の差とはもっと、動物的な
面から来ていると言う分析がこの番組でなされなかったこと
が、この差の真実を語れなかったのではないか?
あるいは、分析が甘いと言う事である。
言いたいことは、これだ。この男性の空間意識は雄としてのライオン
がメスを自分の領土に囲い、その囲い=領土を他のオスが侵入しない
様に見回る事から、空間意識が発達しているように、人間の男性も
この様な原始時代の動物性をいまだ持っており、この事が女性に対して
空間意識に置いて優れている原因であり、また、女性は、ライオンのメスが、
同じ群れの子供やメスやオスに挨拶(タッチ)を繰り返す様に、
コミュニケーション術にすぐれている事だと言う分析の方が
より分かりやすいのではないだろうか。
とは言っても、我々はライオンでも獣でもない、
理性を身につけた、脱動物化した生き物である事に変わりはない。
そこで、結論と行こう。
男と女はその能力において等しくはない。
それぞれが優れた面を持っている。だから、平等に能力を発達させよう
とする教育=研修は修正されなければならない。
同じ目的も異なる性によって、違うアプローチがあり、結果、
二重の可能性に開かれると言う事だろう。
もっと、男女の脳機能の違いを研究し、その様な異質な者同士が
その異質性を認め合う時代が来る事が人類にとっても、本当の
平等の到来である事は疑いえないだろうと思う。
408考える名無しさん:2009/01/15(木) 11:22:53 0
男性が分析(略奪)能力に、女性が紛争を融和させる能力に優れている
事が、また、前世紀からの反理性思想に、大きく女性=母性原理として
花開いている事を付け加えておきたい。
また、日本の芸能界において、女性化する男性タレントが多いのも
マンガ・アニメブームも女性化する世界を表しているのかも知れない。
男性原理としての理性=略奪の限界が見えているのかも知れない。
409第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/01/15(木) 11:24:33 0
最近、自然主義に大きく傾いているようですね。

NHKスペシャル「男と女」はボクもみました。
3回特集なので、今度の日曜にあと1話が残っていますね。

確かに面白いのは面白いのですが、この手の番組は
自然主義の誤謬を犯していることをアイロニカルに楽しむ必要があります。

人類を男と女という二項に分類する。
それも社会文化と切り離して、先天性に求めることの大ざっぱぶりの怖さと、
最新の脳科学など現実にある身体差のチェイスがおもしろことでしょう。

しかし哲学思想において、やはりあえて意志を持って自然主義との
境界を明確にする必要があるでしょう。なぜならそれは証明しようがないからです。
なんとでも言えてしまう。

多くにおいて、煮詰まったときに自然主義に走ることは
思想家に定番の現象です。
410考える名無しさん:2009/01/15(木) 16:46:41 0
確かに、自然主義は科学的に分析していると言う過剰な自負がありますね。
しかし、構造主義を経験したら、すべての知識はフィクションな訳で、
鵜呑みは出来ないでしょうね。つまり、人間の考えた
事が全てフィクションとして、人は絶対視点には立てないと言う
局所的な発見しかできない訳です。だから、むしろ、その局所から
分析する事しかできないと思うんですね。
ですから、色々な分野からの分析結果を信じるのではなく、もてあそぶと
言う姿勢で、知と戯れると言う浅田彰の姿勢でポストモダンを楽しめばいい
と言うのが私の考えの根底にはありますね。
ドゥルーズで言えば、「哲学とは概念の創造だ。」と言う事でしょうか。
その上でですが、男女差の問題ですが、やはり差はあるでしょう。
例えば、生物界には雌雄異体と言うのが多いですよね。
植物でもたまにはありますね。イチョウの様に。
これって、何故単細胞生物の様に、細胞分裂的自己増殖ではないのでしょう
かね。例えば、自然界の全ての現象が何らかの意味をなしていると言う前提を
肯定できるならば、やはり、雌雄異体にはそれなりの生物としての戦略
がある事になります。つまり、その種にとって、雌雄異体が繁栄=存続
上有利であると考えられるのですね。
そこで、なぜか、わざわざ、繁殖するのに、出会えないかも知れないのに
異性を探し、交尾をしなければならないのかと言う疑問が生まれます。
自己増殖だったら探す必要もなく、繁殖する訳でしょう。
そこで、考えられる事は、異性との受精によって、何が有利なのか
有利な要因を考えると、それは雌雄の染色体が合わされて一個体を
作り出すと言う場合に、ここに、突然変異と言う可能性が開かれている
と言う事ではないかと考える訳です。自己増殖なら、皆無とは言わないまでも
外部による放射線の照射によってしか、異質なものは生まれないでしょう。
しかし、雌雄異体では、受精毎に、半分の染色体と半分の染色体の間で
齟齬が発生する可能性が高いのだと言う事です。
411考える名無しさん:2009/01/15(木) 16:57:35 0
つまり、敢えて繁栄のために、危険を冒す事で、逆に
環境の変化に対応できる生物を作り出せると言う、働きを
雌雄異体増殖システムは秘儀を隠していると言う事になります。
話がそれましたが、この様な科学的な分析も一つのフィクション
な訳ですが、最初に言ったとおり、私は、すべての分析=概念を
をフィクションとして語り、また、異なるフィクションで上書き
をしていく、あるいは色々なフィクションを共存させると言う
事しかないのだと思いますね。ポスト構造主義の後には
権力によりねつ造された真理以外に真理はないのでしょうから。
まあ、あれこれ考えて概念を創造しては、破棄するって姿勢で
良いのでしょうね。ぴかぁ〜もその様にしているわけでしょうからね。
ただし、このような突然変異はダーウインの進化論とはちょっと違うと
私は考えてはいますけどね。
412考える名無しさん:2009/01/15(木) 17:07:00 0
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101
副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
413第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/01/15(木) 17:25:43 0
>>410-411
すごく危険な感じがします。
一方ではポストモダンという戯れがあり、
もう一方では人知を越えた確かな生物的器官がある。
これらは、対極にありつつ、それぞれを支え合っている。
相対主義者の危険なシーソー。

ボクの主題、たとえばコンベンション(慣習)はこの中間の
社会的な基盤について考えることです。
たとえば家族への愛は、血ではないし、相対主義的に
他でもありえたと考えるものでもない。
人はたった一度の人生を生きることで、たった一度で、
決して書き換えることができない、コンベンションを獲得する。
これは、精神分析の倫理でもあります。
414考える名無しさん:2009/01/16(金) 16:49:13 0
全面的にはどの論理も否定しないのが私のスタンスですから、
ぴかぁ〜のコンベンション(慣習)主義でも良いのではないかと思います。
ただ、その場合コンベンションがどうして、重要なのかと言う点を
もう少し詳細に説明がいると言う気がするけどね。
実際コンベンションを経験論とイクオールとするには少し違うような気が
するよね。たとえば経験論はイギリス論理実証主義をへて、アメリカの
プラグマティズム(実用主義)やポパーの反証可能性へと繋がって行く
と私は考えていて、それで、実際には経験は慣習を無視して乗り越えていくと
解される訳です。そう言う意味から見ると、「慣習」を基本にする
と言う考えは、哲学思想にはあまり見られないですね。
極端に言えば、全く変革がないと言う事になるでしょう。
それよりも、なぜ、今、コンベンションなのかと言う点を鮮明にした方が
良いと思うますね。なぜか?私には自分の哲学的立場から、ある程度
察しはつきますが、やはり、ぴかぁ〜自身の考えを聞きたいと言う
気はしますね。まあ、最初に言った様に、すべての考えを否定しないのが
私の主義ですから・・・
415第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/01/16(金) 17:33:39 0
コンベンションというのは哲学というよりも政治哲学の文脈です。

経験論の系譜でいくと、

ロック−ヒューム、アダム・スミス、バーク・・・
すなわち古典自由主義であり、保守主義です。
そして最近の新自由主義も新保守主義(ネオコン)を
結びつくところで、たとえばハイエクは慣習(コンベンション)を
重視しています。

新自由主義が崩壊したと言われる今、
本来の保守主義が見直されつつあります。
なぜいまなのか、というか、まさにいまですね。

しかしこのようにコンベンションがこれほど見直される時代が
くるとは思っていませんでした。

僕は最初から、コンベンション主義です。
なぜなら、先に書いたように、

たとえば家族への愛は、血ではないし、相対主義的に
他でもありえたと考えるものでもない。
人はたった一度の人生を生きることで、たった一度で、
決して書き換えることができない、コンベンションを獲得する。
これは、精神分析の倫理でもあります。
416考える名無しさん:2009/01/16(金) 21:31:25 0
あほくさ
417考える名無しさん:2009/01/17(土) 09:41:28 0
415ぴかぁ〜レスありがとう。
よく分かりましたよ。確かに哲学的に見ても、ポストモダンの
非決定による規範の見いだせない混乱を収集すると言う意味にも
捉えられそうですね。私自身も、ポスト構造主義的な主体の喪失後
何かに確固たるものを見出すべきではないかと考えています。
それが、絶対的な「私」の再構築なのか?
あるいは、局所からの視点の正当化なのかは解りませんが、
これは、それぞれの学問分野で同時に研究されている同じテーマ
なのかも知れませんね。
ぴかぁ〜との興味のある分野が違いますが、ほぼ、同じテーマだと言う
気がします。今、私は中央公論新社の「哲学の歴史」実存・構造・他者
を読んでいますが、恐らく、私の興味のある、絶対視点=主体と
局所的視点の正当化可能性の問題は郡司ペギオ幸夫の研究にヒントが見出せる
のではないかと期待を寄せています。ただし、理系出身の彼ですから、
ちょっと読みづらいし、特に、ベルグソンの桧垣立哉やクオリアの茂木健一郎等
ははっきりと彼の論理は分かりにくいと言っていますね。
理数系の論理でポスト構造主義を持ち込もうとしているので、大変です。(笑)

418考える名無しさん:2009/01/17(土) 09:57:58 0
ぴかぁ〜の言う、コンベンション=慣習は絶対的に真なるものの
探究は無意味だと言う事なのでしょう。
自分が生まれおちた所の慣習を学びそれの成否については
問う必要がありませんからね。逆に真理の発見については西洋の長い哲学史
の中心課題であったわけです。つまり、外の世界や人間の内面
はどうなっているのかとか、社会はどうあるべきかとか、こう言う
問題は全て真理探究な訳です。西洋理性は神学をも含めて、すべて
この様な真理究明であったと言う事です。しかし、ニーチェあたりから
この様な理性による真理探究に疑問符が付されるようになり、
逆に反理性的あるいは理性的に、論理を混乱させた、あるいは、無効にしたのが
フッサールからハイデガーを経て、構造主義、ポスト構造主義の
流にあるわけです。そこで、最初にも言いましたが、このような
規範の脱構築や差延によって、人は混乱状態に陥ると言う事になり、
再度、確固たる規範が求められるようになってきていると言う事でしょう。
そこで、ぴかぁ〜の言うコンベンション(慣習)が再評価されてくる。
こんな感じだと私は思います。
419考える名無しさん:2009/01/17(土) 10:19:47 0
それと、切り口を変えてみると、ポストモダンにはインテグレイト(統合)
から分裂(分子的)へと解体する狙いがある訳で、そう言う意味
からも、世界は分裂していると言えますね。ポストモダンの予測通り
東西冷戦の終結によって、旧ソ連やその衛星国は分裂しています。
同じくイスラム諸国は原理主義の台頭によって、西欧資本主義(自由主義)
とは大きな隔たり=慣習の違いを堅持しようとしていますよね。
つまり、大きな規範が壊れた後に、諸国家よりも大きな規範としての
アメリカ一極集中的な規範としてのグローバリゼーションの基に
世界が価値観に置いて統一されるのではなく、局所における各
集団(民族であれ宗教であれ)が分裂し、各集団がそれぞれの
主張をすると言う世界が開かれていったと言う事でしょう。
ここにも、慣習と言うぴかぁ〜の主張の正当性が見えるでしょう。
ただ、今後は異質な集団=グループ間のコンタクト、あるいは
相互是認はいかに進められるのかと言う問題が浮き上がってくる
でしょうね。そうじゃないと、規範が異なるだけに、集団同士の
抗争は激しくなると言う事でしょう。
既に、イスラエルとハマスとの抗争は、同じ規範がないだけに
激しさを増していますね。もっとも、ドゥルーズの論理なき論理
からすると、戦争を否定すると言う面は見られませんから、
ポストモダン的分裂は全体化からの離脱抗争な訳です。
とはいっても、彼も、学者の質問に対し、実際の戦争を肯定して
はいないと言ったそうですが。
420考える名無しさん:2009/01/17(土) 10:29:33 0
明日、また、男と女についての第三部が放送の様ですね。
楽しみにしていますよ。
たまには理系からの知的情報も良いもんですよ。
以前はケストラーやカプラなど読んでましたが、カプラのタオフィジックス
は不確定原理の神秘が垣間見られ、大変面白かったですよ。
でも、元来理数には疎いので、アインシュタインくらいで、逃走
しましたね。(笑)
421考える名無しさん:2009/01/17(土) 12:54:54 0
ジジェクの「ロベスピエール/毛沢東」に書いてあったが、
イスラエル軍はマジでドゥルーズの「千のプラトー」の概念を使って
現代戦争の戦略を組み立てているらしいw
422考える名無しさん:2009/01/18(日) 07:47:33 O
みんなで逃走すりゃいいのに
423考える名無しさん:2009/01/20(火) 09:24:37 0


72 :考える名無しさん:2008/05/01(木) 01:15:58 0

おいおいwwwww
ついにストリート仕込みの拓哉のマラの臭さに降参したガキまでご登場かよ




73 :考える名無しさん:2008/05/03(土) 17:09:19 0
いまさらポモなんて、カルト的信者が必死になってちっこいサークル作って
外部との接点を絶って信仰心を守ろうとしてるだけじゃんwww
そのうち内部で裏切り者あぶり出しの魔女狩りがはじまるよ
ちょっとでもポモに疑念を抱いた者に対してね。



424考える名無しさん:2009/01/20(火) 10:25:20 0

623 名前:考える名無しさん :2009/01/19(月) 23:49:24 O
手渡しなんて意味ないよ
生脱ぎ必須
ネットで購入なんぞ論外の論外w



624 名前:考える名無しさん :2009/01/19(月) 23:53:17 O
ウンスジあいたん♪ウンスジあいタン♪



625 名前:考える名無しさん :2009/01/19(月) 23:56:23 O
ウン筋っていう語感が笑えるな。
ところで、ケツの割れ目上部が湿ってる時があるんだが、
あれって、汗?それともウン汁?





626 名前:考える名無しさん :2009/01/20(火) 09:42:53 O
pikarrr発狂wwwww


425考える名無しさん:2009/02/07(土) 21:06:57 0
カルヴァンは「キリスト教綱要」という本を書いた。この書物の中に、のちにローマン・カソリックと5百年間戦い続けても
負けないだけの、キリスト教の本質を洞察した優れたプロテスタントの思想が書かれた。それは、一言で言えば「神の予定
調和」という思想である。「神の予定調和」とは、怒った神が、「神が救済されるかされないかは、予め神が決めるのである。
全ては神が決める。神を条件づけるな。神に命令するな。神を試すな」という、旧約聖書の中の言葉によって説明される。
実は、この「予定調和」思想は、スコットランドのカルヴァン派である長老派の神学者であったアダム・スミスによって
説かれた「神の見えざる手」という思想と全く同じものなのである。「神の予定調和」思想は、そのまま「市場」という偉大な
経済思想に成長した。「市場」とは、「ここの人間の主観や願望によっては絶対に変えられないルール・掟・法則」のこと
である。たとえ国王や独裁者たちによっても動かし得ない、人類社会を貫く鉄の原理のことなのである。このアダム・スミスの
「市場」と同じものを、さらにカール・マルクスは、若い頃から「エントフレムドゥング」=疎外と呼んだのである。
すなわち「疎外」とは「個々の人間の主観や意志などによっては動かしえないもの」という意味で、「人間社会には社会を
「貫く法則性がある」ということなのである。つまり神の予定調和=市場=疎外なのだ。
426考える名無しさん:2009/02/07(土) 21:07:24 0
これをなにを勘違いしたのか、日本の馬鹿知識人たち、とりわけ左翼知識人たちは、「主体性マルクス主義」などという
後進国特有の勝手な理論を作り、この「疎外」のことを、「産業社会と資本主義の発達に伴う人間の非人間化」と考え、
「そこからの本来の人間への主体的な回復」を「主体的マルクス主義」などと呼んだ。これは、梅本克己から吉本隆明に
至る日本の左翼知識人たちすべてに、共通の理解である。左翼でない知識人も同様である。マルクスの考えた「疎外」とは
そのようなものではない。「社会を貫く冷酷な法則性」のことなのだ。だから、後年、その延長線上に彼は「資本論」を
書いたのである。さらに言うが、あのフランスの現代思想である構造主義の「構造」というのも、この「神の予定調和」と
同じものである。だから、「構造」は人間たちの意志では変えれない。変わらないから「構造」というのである。分かったか。
副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」
427考える名無しさん:2009/02/08(日) 10:09:14 0
構造主義の構造は神の言う予定調和ではありえないでしょう。
恣意的な構造である事が構造主義の前提でしょうね。
だから、レヴィ=ストロースの人類学を参照すれば分かると思います。
マルクスの疎外論は人間が作ったものが、交換価値として本来性を
損なわれる市場交換制度を批判したのであり、資本性市場システム
全体の批判だと考えるのは正解です。よって、私は吉本氏の分析
に賛成していますよ。
428考える名無しさん:2009/02/08(日) 11:50:42 0
副島隆彦氏

修学略歴:カールマルクス・フランシスフクヤマ・マックスウエーバー・
     シンクタンク・国家戦略・社会学・経済学・法学。
主義主張:リバタリアン・ネオコン・グローバリズム

以上から、副島さんの書き込みをするのは、彼の信奉者はぴかぁ〜だろうね。
彼は、哲学者ではなく、政治戦略家でしょう。
ロジカルな頭脳ではない。政治評論家と思いますよ。
429考える名無しさん:2009/02/11(水) 10:19:04 0
経済・発展する科学への全幅の信奉・予定調和・競争原理(リバタリアン)。
以上からの帰結は、紛争・雇用不安・止まらない温暖化・勝ち組負け組の
二分化・犯罪の多発化・経済状態の放置となる。
つまり、予定調和によって全てがうまくいくと言う信奉は、地球の限界認識
によって、崩れ去っていると言う事。
経済にしても既に政府による介入は、ケインズ理論によって、実行されている
と言う事。本当に予定調和説が正しいのであれば、放置すべきであるだろう。
この様な自然放置状態に対する介入は歴史的にみて、1929年の大恐慌以来
続いてるのである。介入する事で、事態を抑止すると言う実態を
いかに考えるのかを述べずに、自由放任=予定調和と言う事は、
正当する論理として無責任で不十分ではないかな??
430考える名無しさん:2009/02/11(水) 10:36:13 0
同時に、慣習に重きを置いて、異なる慣習を持つ他者に対して、
どの様に考えるのかが出てこない。
つまり、放置する事が競争原理を介して、最もいい帰結に導くと言う
予定調和説(アダムススミス的古典経済学)を信奉し、同時に、
自然発生的に出来上がった慣習に全幅の信頼を寄せると言う、
この様な保守的姿勢は、どの様な状況下でも、何もしないと言う事であり、
対応姿勢に問題があることは明白である。
こう言う姿勢は、哲学をすると言う事から最も程遠くなるもの
ではないだろうか?恐らく大きな誤読があるのは、構造主義の
言う構造を慣習とダブらせて、その構造を予定調和の構造とでも
思っているような気がしてならない。
構造主義の構造は、西洋中心主義的な真理=理性的なものを唯一の真とする
構造を構築する事が絶対ではなく、種族社会としての、少数未開社会と
西洋が言う構造にも、異なる体系による、構造があり、双方に優劣を
つけられない事を証明する事によって、西洋の有り方を相対化したので
あり、予定調和説とは全く関係がないのである。
ここに、今流行りの相対論の視点があるのであり、西洋理性のほころびを
見出すことが大事なのである。
431考える名無しさん:2009/02/11(水) 23:40:18 O
>>421
マジでかw爆笑したwww
何ページに載ってるんすか?
432考える名無しさん:2009/02/11(水) 23:50:44 0

哲学的観点からするとどうですか?http://www.youtube.com/watch?v=jidrZU2bsgM
433考える名無しさん:2009/02/12(木) 00:51:49 0
パレもだいぶ腕を上げたな
ただもう少し読書の幅を広げた方がいいぞ。
構造主義だけでなく、たまには経済書でも読めよ。
434吉田メロウ:2009/02/12(木) 02:42:17 O
>>427
資本性市場システムってのが何を意味しているのかわかんねーな。それから市場と個人
的な疎外感がどう関係するのかもわからない。仮に疎外を社会の問題として考える場
合、その前提がどこにあるのよって話さ。そもそも社会と市場は別個のものだよ。物々交換や自給自足で暮
らしていくことも可能だし、知らないオッサンからタバコを一本拝借することだって
できる。ここに市場はあるか?ないね。そこにあるのは好意だ。お年寄りに座席を譲るのも好意だ。お巡り
さんにスピード違反を通行帯違反にまけてもらうのも好意だ。ここに市場のコミット
が差し挟まれる余地はあるか?一切ないね。市場の価値や是非を問いたいなら、疎外
などなんだのは、火にくべる薪にさえならん。根本的な部分で命題のミスリードを延
々と繰り返しいるようにしか見えないね。
(´-`;)y‐゜
435考える名無しさん:2009/02/12(木) 09:31:09 0
経済学は学生時代いやと言うほど勉強したよ。
だから、マルクス主義・ケインズ理論・古典派のアダムススミス
は分かっているつもりだよ。
そこから、経済学では越えられない問題がある事が分かったので
哲学に傾注したと言う事だね。
経済学は経済の発展や所得分配のあり方にのみ、注意を集中している。
豊かになれば、人間の全ての問題は解決するとでも言いたいような(疑)
要は、安易なのよね。単純に経済ですべてが解決すると思って、
夜警国家論や政府の市場介入によって、経済を何としてでも拡大
させることに躍起になっているわけだ。
マルクスは分配の不平等によって、格差が広がり、一方に労働予備軍
一方に少数の富裕層=資本家が生まれるが、最終的には、市場での消費が
購買力の不足によって、減少し必然的に恐慌が生まれ、無産階級は
立ち上がり、革命を起こすと考える。しかし、その革命によって出来た
社会主義国家は、逆に市場原理を持たないために、発展しなかった事で
反革命的な市場原理へと逆流した。ざっとこう言う事かな。
今はいくつかの国家を除いて、市場原理=私企業の利益志向、の容認と
なっていると言う事だろう。要は、効率化の問題だね。
社会主義では効率が悪い。
436考える名無しさん:2009/02/12(木) 09:41:34 0
マルクスは基本的に生産したものが、市場によって価格として
現れる事を、疎外と言っている。つまり、生産したものは
使用価値としてあるべきなのだが、これが貨幣経済による、市場
での売買では、先に交換価値として、見出されなければならない。
ここに、人と人の関係が物と物との関係と言う現れ方をする。
この事を疎外と言っているのだ。
本来は、物は物々交換される。この場合には使用価値によって
交換されるのであり、疎外ではないのだろう。
そして、この資本主義的な市場での売買は、搾取を隠し持っている。
ある商品は1の労働量を必要とするが、実際に労働する労働者は
その生産に必要な労働量の再生産には例えで言うと0.3の生産物
を消費する事で可能となる。よって、差し引き0.7が資本家の
搾取額となる。この場合、労働の再生産費用は賃金である。
だが、マルクスの時代にはこの労働の再生産費用さえも、
支払われない過酷な状態だったようだね。
437考える名無しさん:2009/02/12(木) 13:20:46 O
まだマルクスとか言ってんのかw
パレは相変わらず視野が狭いな。
資本主義の成り立ちから遡ってみないと、今の金融危機は理解できない。もっと本を読め!
438考える名無しさん:2009/02/12(木) 13:58:39 0
君はマルクスを知らないな(笑)
資本主義の成り立ちを分析しているのが、ある意味マルクスだろうが。
437君。もっと君の意見を具体的に書いてみてはどうだね。
視野が狭のは君だろう。(笑)
もっと具体的に長文で自分の意見を書いてみなよ。
書けるならだが(疑)
今回の金融危機はマルクス的にもケインズ的にも分析できるのだよ。
分ったかな。(笑)
439考える名無しさん:2009/02/12(木) 14:08:47 0
それでは、君のレスで何が足りないか、具体的に質問をしてあげましょうね。

1)どう言う意味でマルクス的な見方が視野が狭いと言えるのか。
  具体的に書くように。
  抽象的な批判では具体的な批判とは言えない。

2)君の言う資本主義の成り立ちを具体的に書いて、反論しよう。
  そうじゃないと、ただの誹謗と同じである。

以上1)・2)について、具体的に書きましょう。

そうすれば、こちらからの反論もできると言う事になる。
君の短い文章では、誹謗に過ぎないので、無視するレヴェル
としか見えないと言うのが感想だ。
以上。
440考える名無しさん:2009/02/12(木) 14:09:53 O
ブローデルぐらいは最低読んどけ
441考える名無しさん:2009/02/12(木) 14:14:13 0
440レヴィナスくらい知ってるだろうな(笑)
442考える名無しさん:2009/02/12(木) 14:28:24 0
全部pikarrrの自演かあ
443考える名無しさん :2009/02/12(木) 14:32:33 0
■ pikarrrはナゼ「国家・資本・社会」をあえて語るのか

皆さんご存じのようにpikarrrという古株のコテが、「哲学」というよりも「国家・社会論」をわざわざ書いていることに
疑問を持つ人は決して少なくないでしょう。「哲学」には哲学のテーマというものがありますが、彼の書き写していること
は、板違いであり、「社会学板」で本を書き写す行為をするのが妥当と言えます。
pikarrrの書き写している文章は、やはり「哲学板」でなければならないのです。「社会学板」は更に過疎板ですから、彼
の自尊心を満足させることができないわけです。
では、彼が「国家・社会」についてあえて語る理由とはなんでしょうか?
それは、pikarrrがいわゆる完全なニートであり、彼自身もそのことに忸怩たる思いを持っていることに関係しています。
pikarrrは「社会」に参加していません。そして自らが労働をするという普通なら当たり前の行為を出来ずにいます。
働くのが「怖い」のでしょうか?自分に自信がないのでしょうか?
そこまでは、情報が不足しているので判りませんが、「劣等感」を持っていることは確かであると言えるでしょう。
pikarrrが「国家・社会」をわざわざテーマとして板違いの哲学板で書き写しているのは、「国家」からも「社会」からも
弾き出された位置にいる自分の「劣等感」を補填する行為です。そう、「代償行為」と言ってもいいでしょう。
「働かない自分」という「劣等的な位置」にいる自分を維持するために、「国家・社会」についての本を書き写し、ブ
ログにも書くことで、何とか自分が「社会参加」している、「労働」している擬似的状況を精神的に作り上げて、現状を
納得しようと必死なわけなんです。
この行為を禁止されて出来なくなった時、pikarrrは完全なる狂気に陥ることでしょう。
自分に嘘をつき続ける行為の代償は必ず訪れます。
それこそ、それは様々な「国家」における「社会」で実際に大きな問題として扱われ始めていることでもあるからです。
 希望のない未来 生きれない自己 社会には存在していな主体 やがて訪れる崩壊の時 その日まで…
444考える名無しさん:2009/02/12(木) 14:35:11 0
ぴかぁ〜ではないでしょう。
哲学から経済学まで書けるのだから。
445考える名無しさん:2009/02/12(木) 14:41:16 0
>>哲学から経済学まで書けるのだから。

哲学から経済学までなら学生以外なら誰だって簡単にかけるだろ。
写してるだけなんだからw。かってに自演してろ。
446考える名無しさん:2009/02/12(木) 14:57:36 0
誹謗中傷はやめて、君が書けるなら書いてみては??
写さずに・・・・?
447考える名無しさん:2009/02/12(木) 15:29:55 0
パレルゴンをいじめるな
448考える名無しさん:2009/02/12(木) 16:27:54 O
ぴかぁ〜がからかっているだけだろう
449考える名無しさん:2009/02/12(木) 17:35:15 0
君らは哲学をやる気がるのか?
哲学に関する事以外を書かないように。
私は哲学書500冊読破を目指しているのだ。
何故500冊なのかわかるか。
500冊読むと大学教授レヴェルになれると言う事だ。
それも、一流の教授レヴェルなのだよ。
だから、誹謗中傷や落書きはやめなさい。
分ったね。哲学の議論をしよう。
450考える名無しさん:2009/02/12(木) 17:42:28 0
パレルゴンはそんなに弱くはない。
誹謗中傷にはロジックで質問する事で、相手は退散すると考えて
いる。現在ヘーゲルの「精神現象学」を研究しているのだ。
投資乗数・加速度効果・公定歩合や公的投資による市場介入刺激策・
組み水理論・ローレンツ曲線・DカーブSカーブ・クモの巣理論
マネタリスト・貨幣数量説などの幼稚な経済理論に飽きたのだ。
451考える名無しさん:2009/02/12(木) 17:44:33 0
> 500冊読むと大学教授レヴェルになれると言う事だ

ただ漫然と読むんじゃ、何千冊読んでもそのレベルにはなれんよ。w
452考える名無しさん:2009/02/12(木) 17:47:22 0
あるいは、フィッシャーの貨幣数量説。
「悪貨は良貨を駆逐する」ってのもあった。
真剣な議論によって哲学者になることくらいを目指さないで
ここにレスしてもしょうがないだろう。
453考える名無しさん:2009/02/12(木) 17:52:31 0
どうして確認もしないで、漫然と読んだと言える。
偉そうに言うけど、君は何を読んだのだね。
書いてみては。内容を質問してやるから。
恐らく答えられないだろうね。
誹謗クンは・・何冊も読んでいない。
もっと真剣に長文で書いたら。書けない?(笑)
454考える名無しさん:2009/02/12(木) 17:52:58 0
2ちゃんねるに書き込むために、
哲学者になることくらいを目指す必要があるのか?
わらかしてくれるやつだ。w
455考える名無しさん:2009/02/12(木) 17:54:23 O
だからパレやんは馬鹿扱いされるw
456考える名無しさん:2009/02/12(木) 17:55:45 0
>>453
あのな、まず>>451は「500冊読むと大学教授レベルになれる」という
主張を否定して、「漫然と読むのでは、そのレベルにはなれない」って
言ってるんだぞ。それを読んで「お前は漫然と読んでいる」と
決め付けられたと感じたとしたら、お前の日本語読解能力には問題が
あるなあ。本を読むのもいいが、その前に国語のお勉強したほうがよくね。
457考える名無しさん:2009/02/12(木) 17:57:03 O
五百冊の本?







現代思想の冒険者たちかいwwwwwwwwwwwww
458考える名無しさん:2009/02/12(木) 18:00:41 0
451君の様な、批判をするレヴェルにないのに短文で批判する
連中は、自分の無能を隠そうとして、内容も分からずに、だだ
罵倒したいだけのお粗末な精神状態である事は誰でも分る訳です。
貴方こそ読書をして、このような中傷をやめて、哲学的な
意見・反論を真摯に書く姿勢を身につけましょう。
そうじゃないと、哲学と言う高等な学問を学ぶ意味はありません。
まず、真摯な態度を身につけましょうね。わかったね。
さあ、いい子だから読書しましょう。大成は一歩からですよ。
努力をせずに、一気に上ろうとするから、他人のレヴェルへの
ねたみが生まれ、感情的な誹謗に走るのです。
分りましたか。(笑)
459考える名無しさん:2009/02/12(木) 18:05:19 0
455
馬鹿にしているのは相手ではないよな(笑)
反対でしょうよ。(笑)
457
なにも読んでい〜人の意見(笑)
456
大きなお世話です。国語も、マナーも、まして、哲学語れない人は
退散すべしでしょうね。(笑)
460考える名無しさん:2009/02/12(木) 18:06:47 0
パレは初心者にしては熱心なほうだと思うよ。
もっとひどいコテ腐るほどいるだろ。
461考える名無しさん:2009/02/12(木) 18:14:38 0
457
そろそろ、八回連続書き込みになるので、これが最後だが、
現代思想の冒険者たちはざっと、30冊は読んだな。
500冊とはそれ以外を指しているのだよ。(笑)
到底君には届きそうもないが・・・
人の事は良いとして、君は何を読んだのですか。答えます。(笑)

455これは恐らくぴかぁ〜だろう。
くだらん、意見に同意して、書くのではなく、
哲学論議が出来ない連中を無視して、
私の君レスに対する批判に答えてみたら
どうでしょうかね。
462考える名無しさん:2009/02/12(木) 18:17:18 0
460
初心者以前の人(笑)
463考える名無しさん:2009/02/12(木) 18:24:29 0
でも知ったかぶりが異常に下手なとこが憎めないんだよな、ピカと違って。
464考える名無しさん:2009/02/13(金) 05:58:31 O
いや、コイツの知ったかも、かなり凄いぞ。
ちょっと煽られたら凄い勢いで知識を披露したがるw
何百冊本を読もうが、器の小ささは変わらないってことだw
465考える名無しさん:2009/02/14(土) 01:46:05 0
そういえば、pikarrraのスレ内で、
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1233155209/
「杜玖椀」て文字を検索してみたんだけど、
一つも引っかからなかったのは何故?

純一のいるスレやこのスレに限らず、上の方にあがってるスレには、
必ずあるよね? あの畸形児みたいなAAと「杜玖椀」の文字が。
pikarrrのスレも上にあがってることが多いのに、
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1233155209/
一つも「杜玖椀」て文字がない。不思議だよね。
466考える名無しさん:2009/03/30(月) 15:58:21 0
と言う事で、ぴかぁ〜のトラクリ柄谷に接して見ましたが、やはり
あれはあれで十分です。私の道を進める方が良いでしょう。
勿論柄谷を無視はしてはいませんが、それを批判的に受け継いでいくこと
にしたいと考えています。
それで、ハイデガースレはどうなったのでしょうか。
進んでいませんね。あの専門的な読みは尊敬できますよ。
それと、今後は自スレをどうするかだね?
柄谷ならば「隠喩としての建築」あたりかな?
柄谷でなければ、ベンヤミンもパサージュで良い訳だ。
あるいは、バタイユの「呪われた部分」、確か、浅田さんの推奨の本。
それとも、ペギオ系の本を読むことも考えたい。
467考える名無しさん:2009/03/30(月) 20:51:35 0
いつまでかかってその程度の本を読んでいるんだ?
468考える名無しさん:2009/03/31(火) 14:43:11 0
構造主義は意識が構造に先行されてある事を示した。
つまり、我々が意識するものは、何を意識するかと言う構造=ネットワーク
に先行されている。これをスクリーニングと言っても良いだろう。
すくい取る網に掛かるものをあらかじめ構造として内面化している
事になる。この内面化された意識構造によって、我々は認識し
意味を感じ取る訳だ。このような捉え方が構造主義分析なのだが、
構造主義の元祖はだれなのかと言うと、諸説があると言う事だろう。
私は、直接丹生谷貴志に聞いた事があるが、私の記憶が正しければ
彼は、ブルバギ数学だと言った様な気がした。
一般的にもそのような解釈もあるだろうが、数学に疎い私には
カントだと言う説の方が面白い。
カントは物体自体は認識出来ないが、認識する側に、感性と悟性の時間空間
形式がアプリオリにあるんだとしている。
つまり、コペルニクス的転回である。
要は、人間の側に認識できるフレームが先にあって、これによって
スクリーニングした情報しか入ってこない事のなるので、客観的な
物自体の存在は全く問題になくなる。
ここに、構図主義的な視点の萌芽がみられると言う事が言いたかったのだが、
それでは、どうして、彼はこの様な考えを持っに至ったのか?
469考える名無しさん:2009/03/31(火) 15:02:00 0
構図主義ではなく構造主義に訂正。
そこで、これは、小阪修平の説明を引用すると、
まず、大陸合理論として、ルネッサンスを背景に人間理性の精神
の解放が叫ばれ、ガリレオ・ニュートンを代表するような科学による客体の
解釈が求められた。そしてまさに、この様な時代を背景として
デカルト哲学は花開いたのである。だから、デカルトの哲学は
客観の科学的認識はどのように正当化されるのかと言うのが
テーマとなる。この様にして創り上げられた彼の哲学は
主観=精神の絶対性と物質の絶対性の二元論なる。
一方この様な見方を根底に持つ大陸合理論に対し、
外の世界の客観的な認識は出来ないし、人間がロジカルに認識する
外の世界は、観念連合に過ぎないと反発したのが、イギリス経験論者
である。全ての認識は慣習的に決められたに過ぎないと言う事。
だから、真理かどうかなどと言う事は出来ない相談であると言う事になる。
つまり、この二つの哲学の争点は、1)客観的なものは認識できるのか?
2)認識は恣意的なのか?と言う二点に集約できるだろう。
この様な時代背景から、カントは物自体の認識は出来ないが、
アプリオリな範疇によって、認識は真なるものであるとしたのである。
ここに、大陸合理論とイギリス経験論をアウフヘーベン(止揚)した
カント哲学の真髄があるのである。
470考える名無しさん:2009/03/31(火) 15:10:55 0
そこで、構造主義とカントのアプリオリ説について比較して見ると
カントはあらかじめインストールされた本能的な物差しによって
モノは現れるので、これは変更不可能なものである。
つまり、この基準は恣意的ではないものである。
一方構造主義にあっては、構造は個々人が自由に変更する事は出来ないが
構造自体は時間的に変化するのである。この辺はフーコーの研究対象
であったので、それを参照すればよい。
構造主義の言う構造は恣意的な歴史によって、創られており、
その恣意性に投げ込まれて、その構造に沿ってわれわれ人間は
物を意識すると言う事になる。ここに、カントの不動の認識構造
と恣意的な認識構造と言う全く異なる構造がみえてくるのである。
471考える名無しさん:2009/03/31(火) 15:21:15 O
そこまで熱心なら、思想誌に論文応募してみなよ。ここで偉そうなことを言っても、所詮、ねらーだよw
472考える名無しさん:2009/03/31(火) 18:42:38 0
あんがとよ!
竹田青嗣は、熱心で詳細な説明書を多数発行している。
ハイデガー入門・自分を知るための哲学入門・ニーチェ入門・
意味とエロス・ニーチェ入門など多くが、初歩的な者にとっても
分りやすい。そして、彼は東の・存在論的郵便的・への反論
として、「言語的思考へ」を2001年に出版している。
竹田は本質的にはフッサール派である。現象学的還元によって、
世界は客観的な認識ではなく、意味として現れると言う事の様である。
この場合意味とは個々人にとっての個々の意味になるが、
柄谷はフッサール現象学は、間主観性の哲学であると言っていた気がする。
つまり、現象は個々人に意味として現れるが、この事が、独我論
と言う批判にさらされる事になるが、逆に、その事で、間主観による
意味の同一性を求める事が強調され、間主観性の哲学と言う
認識になったのだろう。そう言えば、竹田も山竹との共同出版の
「フロイト思想を読む」で、個々人の意味が他人の批判にさらされて
同一の意味に収斂すると言う事を、個々人の成長として捉えていた
様に思われる。しかし、そうであるならば、現象学は何が真であるか
と言う事の探究に過ぎなくなる訳で、このままでは形骸化した思想
因習と同じである。
473考える名無しさん:2009/03/31(火) 19:27:10 O
入門書の批評なんかしてどうすんの
474考える名無しさん:2009/03/31(火) 20:49:41 0
竹田はニーチェの永劫回帰を解して、1)機械論的思考の極限形式
としての永劫回帰 2)ニヒリズムの極限化としての永劫回帰
3)育成の、理想形成としての永劫回帰 4)ルサンチマン克服の、
生の肯定としての永劫回帰、として四つに分類している。

1)は世界は全く同一の状態を永遠に反復すると言う考えで、
  エネルギー恒存の法則に則ったものである。
  エネルギーはその姿や位置は変化するが増減する事がなく、
  永遠に運動すると言う事で、この場合、意味などなく、
  無意味に反復すると言う意味を表している。
2)は世界は始まりも終わりもなく、動機も目的も意味もなく
  永久運動する自動機械の様なものであると言う考えである。
3)は世界の外にどんな超越項も認めずに、世界の根源的な
  無意味性を認め、ニヒリズムを徹底化すると言う事を言っている。
  そして、そのニヒリズムの極限において、「然り」と言う
  超人世界への道を開く事を示している。
4)ルサンチマンを克服し生としての「汝の欲することを為せ」と言う
  スローガンに行き着くことを指している。

以上が竹田のまとめである。
 ところで、世界は歴史の終焉を示していると言う説は、今では
 多くの哲学者の一致した見解になっている。
 歴史の終焉とは、ヘーゲル的にアウフヘーベンされるような
 時代の推移はないと言う事である。
475考える名無しさん:2009/03/31(火) 21:06:39 0
興味のある人はぜひ竹田のニーチェ入門(ちくま新書です)を読むと良い。
素晴らしい纏めであると言う事を伝えたい。
そこで、歴史の終焉はバタイユにしてもコジェヴにしても言っている
訳で、そのような発言は、おそらくニーチェによる影響である事は
推測できる。それくらい、ニーチェは現代の思想、特に、フランス系
哲学には影響を与えていると言ってよい。
ドゥルーズにしても、フーコーにしても、ハイデガーにしても
ニーチェについて言及しているが、それはドゥルーズではニーチェの「力」
への志向が=「戦争機械」・「リゾーム」と言う表現になっているが、フーコーの
エピステーメー=知の考古学と言う捉え方にも、アポロン的な理性による
プラトン的な絶対唯一真理の探究から、理性の多様なる布置による多様な形式のヴァリエーション
としての捉え方と言うところに反映されていると私は考えている。
一方ハイデガーは、現存在の存在としての空無と言う考えの中に
ニーチェのニヒリズムを忍ばせ、ギリシャへの憧憬=参照は
ディオニュソス的陶酔の超人的な思想への道を示していると
考えるのである。

476そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/01(水) 12:44:01 0
「歴史の終わり」とといえばやはりヘーゲルでしょう。

コジェーブのヘーゲル読解の中での歴史の終わり論
に対するバタイユの反論という流れです。

それでもニーチェが現代思想の耐えた影響は大きい。
ニーチェの基本は反ヘーゲルで、ヘーゲルできわまった
精神主義に対する身体(力)の重要性を説く。
477考える名無しさん:2009/04/01(水) 14:47:18 0
ヘーゲルの場合には、歴史は定立―反定立―総合と言う流れを
繰り返しながら、差異の消滅する絶対地点に行き着くと考えている
ようですよね。既にその地点に行き着いたと考えているのが、コジェーヴ
とバタイユな訳です。前者はそこでは差異はなくなり、人間は
動物化すると言う事になる。この辺は東が導入した視点ですね。
一方、バタイユは「用途なき否定性」が続くとしている訳です。
一般的にいって、歴史の終焉=差異化の終焉は何時到達したのか
と言う問題については、アメリカの裕福な生活の到達点がそれである
と言っているのを聞いた事があるけど、それが本当だとすれば
弁証法的な否定すると言うスパイラル運動はなくなる訳です。
同時に、バタイユの言う事が正しければ、用途なき=歴史的な
目的なき=アウフヘーベンなき差異は残ると言う事でしょう。
つまり、差異と戯れと言う点で、浅田やドゥルーズに類似性が
見られると言う事でしょうね。
僕自身としては、この弁証法的差異の終結から歴史の終焉
動物化が生まれ、芸術・遊びなど、人間の欲望充足的なものが
氾濫すると言う、コジェーヴ的な捉え方も、バタイユ的に
歴史終焉後には、無用な差異化が継続すると捉える見方も
類似性があると考えています。目的のない差異は人間的な欲望=
欲動の噴出であり、欲望の戯れ以外にないのですから。
意味のない差異はエロティシズム的です。
例えば、黒い網タイツを履いた女の足は、素足と言うものに
足を温めるとか、靴を履くときに、すべりやすいので履くとか
と言うような使用価値としては意味のない無意味な網目に
欲望を見出す訳です。これはあくまで例ですが、この様に無意味な
用途なき差異は、現代の豊穣な物質文化に到達した先進諸国では
色んな処に見られる訳でしょうね

478考える名無しさん:2009/04/01(水) 15:00:31 0
そう言う意味で言うと、ヘーゲルと言うよりも、ニーチェが
歴史の終焉の発想の発起人だと思います。ヘーゲルが求めているもの
が、現在は絶対真理に到達していない現在を否定する事で
最終的には絶対真理に到達すると考えている訳です。
そう言う意味から、ニーチェはアンチヘーゲルであり、アンチ形而上学
であった。この点をフランス系の哲学は影響を受けたわけです。
一方、イギリス経験論から論理実証主義をへて、アメリカに向かう
実用主義もやはり、演繹的な形而上学は批判されて行くと言う事になる
と思いますね。
いずれにしても、貴方も読んでいるアガンベンの「開かれ」は
面白いだけでなくフランス系哲学考察にとって、重要な本の
一冊ですよね。
今後とも、あまり書かれていない哲学者の見方を
色々な視点で書こうと思っていますけどね。
479そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/01(水) 16:25:18 0
タイミングが良いことに、最新のエントリーで関連することを
触れています。
■[感想]なぜ「おくりびと」の儀礼に涙が溢れるのか 映画「おくりびと」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090331#p1

簡単に書けば、いかに構図になります。

・始まりと終わりの世界・・・貨幣交換、消費社会・・・動物化、スノビズム
・始まりも終わりもない世界・・・贈与交換、儀礼社会

そもそもヘーゲルの言う始まり、終わりというのは、キリスト教の影響が
大きいわけですが、本質的には近代的な概念であり、進歩史観なのです。

定立―反定立という構図そのものが、カントによって示されるように、
人間の空間、時間についての科学的な認識の限界から来ています。
コジェーブが、アメリカの消費社会に、終わりをみたのも、
消費によって満足されることで、基本的な進歩の終着点としたわけです。

それとともに、コジェーブがもう一つの「終わり」の生き方として、「スノビズム」を
上げて、さらにバタイユが「用途なき否定性」を上げる。
簡単にいえば、回転車を回し続けるモルモットです。
生きるとは生存するためにある。生存が保障された回り続ける。
それは滑稽であり、狂気です。
480そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/01(水) 16:27:03 0
しかしそこで忘れられているのは、「始まりも終わりもない世界」です。
贈与交換はたえず残余を残し、回り続ける円環であって、
「始まりも終わりもない世界」です。
現に、近代以前には貨幣によって財が蓄積をされていくわけでもなく、
技術進歩史観はなかったのです。始まり、終わりという概念がない。

コジェーブが日本の儀礼を「スノビズム」と呼びましたが、儀礼は、
回転車を回し続けるモルモットなどではなく、贈与の反復が儀礼を
うむ永遠の社会的な紐帯です。
そこには、「歴史の終わり」の滑稽さも、狂気もありません。

バタイユは、ポトラッチを、現代の消尽的消費に結びつけましたが、
これも誤読です。現代の消尽的消費は「始まりと終わりの世界」の
狂気ですが、ポトラッチは「始まりも終わりもない」円環から
あぶれた財を排除するだけのことです。
贈与の円環を回し続けるには、誰かが徳をしていてはいけないのです。
余った財は、神に返す。それだけのことであり、そこに狂気はありません。

前の言ったように、バタイユのポトラッチ理解や、コジェーブの「スノビズム」は
西洋中心主義な「オリエンタリズム」なのです。

ニーチェの永久回帰も、終わりがないと言いながら、同様に、
「始まりと終わりの世界」=西洋近代主義ですね。

前にもいったように、現代哲学に閉じると、「始まりと終わりの世界」から
抜けられません。「始まりも終わりもない」ということをとらえることはできない。
それは資本主義です。浅田でもドゥルーズでも同様です。
あえていえば、現代思想ではフーコーだけが、「監獄の誕生」で、
その地点に近づいたのです。
481考える名無しさん:2009/04/01(水) 16:34:23 0
>>480
ぴかぁ〜、このレスは面白い。
482そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/01(水) 16:44:47 0
>>481
初心者でも理解できる程度に、咀嚼できてなによりです。
483考える名無しさん:2009/04/01(水) 16:52:30 0
永遠の初心者同士これからもがんばりましょう
484そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/01(水) 17:02:33 0
ほんとに初心者でしたか。失礼。
がんばってください。
485考える名無しさん:2009/04/02(木) 16:24:12 0
かなり、解釈が異なるようですね。
私は、ポトラッチ=贈与の一撃は、回収されないと言う、経済に
絶対出来ないものを見出そうとしたのがバタイユと考えています。
これは、構造の脱構築運動の一環として、位置づけています。
この辺の読みは、浅田の「構造と力」に見られるんですね。
貴方の場合は、以前にも聞いたように、贈与はお返しをすると言う
事の永遠の反復をもたらし、よって、これは、構造の脱構築には
ならないと言う事のようでしたね。
しかし、あえて言えば、まず、貨幣経済による交換が主流としてある
時代に、それは、構造の支配として解さなければなりません。
この点を十分に理解して、それでは、そこから、如何解放されるのか
と言う点です。ここが、構造主義以降の重要なポイントだったのです。
ですから、贈与は交換不可能なものと言う次元を模索するバタイユを
学ぶ必要があると思います。
そこから、それでは、ポスト構造主義批判になる訳で、例えば柄谷は
極度に中心化を恐れる為に、分子的な反集団化運動は分散・分裂し、
結局社会民主主義的な政党収斂する事になるとしています。
私は、そうではなく、分子的な脱中心運動とは、どのような組織にも
属さないのですから、纏まりのある運動たりえない運動=逃走こそが
狙いなのだと言う事です。

486考える名無しさん:2009/04/02(木) 16:40:34 0
・始まりと終わりの世界・・・貨幣交換、消費社会・・・動物化、スノビズム
・始まりも終わりもない世界・・・贈与交換、儀礼社会

については、よく分かりませんが、贈与交換も貨幣交換も、物と金、
あるいは、物と物の無限の循環が続く訳で、同じだと言う気がしますね。
勿論コジェーヴの日本の社会分析をスノビズムと見ている。
これは、形式的な儀礼によって、社会が発展・前進すると言う事が
全くにけ落ちていると言う事で、差異の終焉を見た、アメリカ・西欧
文化とは異なる、差異のない世界を見出したのでしょう。
でも、おそらくこの二者は全く違うものだと言うことでもある訳で、
欧米型が、豊穣な社会によって、貧しさからの脱却の必要性が
薄らいだ後に、奢侈品としての、遊びとしての商品社会が生まれた
事によるのでしょう。一方、日本文化は、裕福/貧困の基準では、
動かないで、集団的な慣習/規範と言う軸で動いていた訳で、
そこには進化/発展によって、到達されたので、現状を否定し
差異化・発展すると言うものではなかったと言う事でしょう。
あくまで、慣習=儀礼を永遠に続ける、始まりも終わりもない世界
これは、欧米の一定の達成の後の、差異の喪失か無意味な差異の
戯れに対しては、全く違うわけです。

487考える名無しさん:2009/04/02(木) 17:02:27 0
・始まりと終わりの世界・・・貨幣交換、消費社会・・・動物化、スノビズム
・始まりも終わりもない世界・・・贈与交換、儀礼社会

この2つのグループの違いが、今一分からないのですが、
スノビズムと儀礼社会は同じではないのでしょうか?
それと全体的な捉え方として、この二つのグループはどう違うのでしょう。
そこを鮮明に定義して欲しいですね。
そして、貴方の意見としては、どちらに重点を置いているのかが
述べられれば、より理解できると思いますが。

柄谷は、コミュニケーション論で、コミュニケーションとは他者との
交流の事だと言っている訳ですが、これは、ディスコミュニケーション
の事で、共同体内部でのコミュニケーションはモノローグ(独り言)
で、コミュニケーションではないとも言っています。
ところが、逆に、貨幣による交換は共同体と共同体の堺=間で生れ、
ここに、共同体を無力化する、都市=貨幣交換経済が生まれるとしています。
つまり、共同体外部とのコミュニケーションを他者との交流とし、
力説していたものが、今度は共同体の外部との交換を貨幣交換
として、批判している訳です。さらに、生産共同体的なアソシエーション
に、閉じてしまい、共同体内部のモノローグを肯定するしかない
と言う状況をつくりだしてしまうと言う矛盾に陥っているように見えます。
恐らくその様な批判を感じて、「諸個人は、ジェンダーやセクシュアリティ、
エスニック、階級、地域・・・(この様な次元の違う)諸個人
の多重所属を認めつつ、それら多次元を綜合する様なセミラティスシステム
を組織しなければならない。」と言っている訳です。
つまり、閉じてはいない、開かれたソフトな組織がアソシエーション
であると言いたいのでしょう。
しかし、その様な組織は出来るのでしょうか?
488考える名無しさん:2009/04/02(木) 17:08:16 0
ただの言葉の綾に過ぎないのではないかと言う気もする訳です。
しかし、柄谷の思考の流れは、時代を素早くキャッチしている
と言う事には変わりはないと思いますね。
ポスト楮主義者が次はマルクスだと言ったら、マルクスを既に
読み込んで自説を唱える、素早さは、素晴らしいですね。
デリダも確か「マルクスの亡霊」とか言う本を書いてましたよね?
私は、あまり、マルクスではないですが。
489考える名無しさん:2009/04/02(木) 17:39:24 O
楽して儲けんなって
490そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/03(金) 00:17:02 0
ようするに、すべて近代西洋資本主義のエピステーメーでしょ、
ということです。

資本主義の特性とは、
一つは合理化。これは主に生産に行われます。
それに対する消費。効率的な生産物を消費するためには
単なる使用価値では無理があります。
消尽的な消費が必要になる。

さらには、合理化は蓄積され、進歩史観をもちます。
そして進歩のためには、生産、自己解体による成長が必要です。
ここにすでにポストモダン的な概念のすべてがあることがわかりますね。

ソシュールの差異の体系は、経済学の交換価値から来ています。
またレヴィの構造主義宣言の、もとは数学的な合理的な構造です。
実際にはそのような美しい法則は見いだせないことはわかっています。

レヴィのゼロ記号、バタイユの消尽、ラカンの享楽
これらの元ネタは、フロイトの快感原則の彼岸です。
フロイトは精神分析の人間を、普遍的な人間像へと展開しますが、
精神分析はその時代のコスモポリタン、オーストリアで発生した。
フーコーがいうように神経症というのは現代病なのです。
そして快感原則の彼岸という享楽は、資本主義が消尽的消費によって
生まれたのです。
491そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/03(金) 00:24:46 0
柄谷の「他者」しかり。

あるいは差異の戯れ、脱構築というのは、なにも新しいことはない。
ネグリもいうように、マーケティング用語です。
いかに同じような商品をズラして新しいように売るか。
そして資本主義の進歩のための生産、自己解体による成長そのものです。

ようするに、すべてが近代西洋資本主義のエピステーメーでしかない。
そして、それが未開社会へとつなげるのは、オリエンタリズムでしかない。

すなわち、ポストモダンとは、「始まりと終わりの世界」
貨幣交換、消費社会が暗黙に全体とされている。

それとは、相対するところにあるエピステーメーが、始まりも終わりもない世界、
贈与交換、儀礼社会であるということです。

近代西洋資本主義のエピステーメーに閉じて、そこに普遍性をみることはやめて、
エピステーメーをかえるような視点をもちましょう、ということです。
492>>490-491 (爆笑)もうエイプリルフール終わったんですけど:2009/04/03(金) 02:26:28 0
219 :考える名無しさん:2009/04/02(木) 23:53:57 0

971 名前:夫馬さま コメントを頂戴し、恐れ入ります。 :2006/07/13(木) 13:45:27
夫馬さんこのaa作るのに一体時間どのくらいかかったんだい?[] 投稿日:2005/11/30(水) 23:42:58
このAA作れる奴が基地害でなかったら一体他の何なんだ?w
          ,r'~~~~~~`ヽ
         /            l
         l,r――――――、   l
         .l |=・=‐,  、-=・=-|   l    うおっppい1!i 発狂\ウンコみれにして
        l |   ,,ノ(、_, )ヽ、,, |  l    ヘラヘラwwそれはどうかな?マnコ!・・・猛稽古w
        l |   `-=ニ=- ' .:::l_.,l    まだやってるのかね? ∴.-=・=-  -=・=-|かな?
         ''\  `ニニ´  .:::::;;/'    プゲラウヒョー楽しいそうだね?うへhhhそいつはどうだい?
        /::::|___/:::\   よしよぷっwwぷっププワプワプワラワぷっwwぷっww゚プワフ       
        //,',';;  ノ´~~!, ',',;;::',',゙i   ト‐=‐ァ' てろごろ∴.-=・=-  -=・=-| るだろってろるだろに
       ./,',',';;" //     \ ',',',;;,'i   ワプワプぷっwwぷっまだやってワぷっwwぷっww゚プのかw
       .i 、  /       ヽ ',;::'、|  ッツピックツクップッピパッピュカッ(●)(●)(●)してあげようかね?
       .|   〈         ヽ''  {   いっちょ発狂してww亡霊とヘラゲラ戦ってwwようかね

220 :考える名無しさん:2009/04/03(金) 00:03:06 0
こんな夜中にゆとり全スレ一斉挙げかい、ごくろうなこった。
昼間はやけにゆっくりしていたね、マダム相手に冷や汗かいてたのかな、ごくろうなこった。

221 :考える名無しさん:2009/04/03(金) 00:09:32 O
話あいができたら良いかも
493考える名無しさん:2009/04/04(土) 00:25:27 0
構造主義・ポスト構造主義が最終て的に辿り着いた
結果=現実的成果は右脳・左脳ブームです。
494パレルゴン:2009/04/28(火) 16:18:58 0
ハイデガースレッドも終了ですかね。
20年前の浅田彰先生の座談会の内容を読んでいるが、さすがだね!
大変参考になりますね。実際日本への導入時に、ポスト構造主義が
どの様なものであったのか、捉え方が新鮮に分りますね。
このスレッドは私が立ち上げたのではないので、あちこちの興味のある
スレッドに出没すると言うスタイルでいきますよ。
今後ともよろしく。ただし、近代経済学ケインズへの突入は止めましょう(笑)
495考える名無しさん:2009/05/05(火) 13:02:45 0
はぁー、結局ポス構は言語の宗教なんだよね。なさけいないよ。
僕はもう何を信じていいのやら。
496考える名無しさん
何を信じようともその時点で宗教