構造主義・ポスト構造主義を超えて4 多面的考察 

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1パレルゴン3
構造主義・ポスト構造主義 3「存在論的、郵便的」が
「このスレッドは512Kを超えているので書けません」
と言うERRORメッセージがでましたので、引き続き(第4)で
討議を進めたいと思います。

タイトルにある「多面的」とは、3の最後に幹事役のパレルゴン
の言葉にあった様に、デリダだけではなくポストモダン派
と呼ばれる哲学者の内、各人が興味のある哲学者の考えを
討議の台にあげて、進めようと言う事で、こう言うタイトル
にしました。勿論、デリダの質問・討議が不十分と思われる
方は、デリダを続けてもらっても結構です。
それでは、どうぞよろしく。
2パレルゴン3:2008/08/04(月) 23:07:37 0
と言う事で、別に立てられた同じタイトルの4では、有効なポストモダン
交流の場と化していますので、重要です。
間違って立てたと言いますか、こちらのスレッドは捨てるのはもったいないし
類似のタイトルを立てるのはルール違反になりますので、
ここは、個人的に興味のある「フーコーの言葉と物」かドゥルーズのインタヴュー
「記号と事件」を好き勝手にレスするようにしたいとも思います。
ただし、独占ではありませんので、もちろん誰でも何でも書いてください。
3考える名無しさん:2008/08/05(火) 00:16:25 0
御託はいいから削除依頼出しとけよ
4パレルゴン3:2008/08/06(水) 08:55:35 0
竹田青嗣によるデリダの言語論的脱構築=多義性の乗り越えについて。

 事実→発話主体→言語表現→受け語主体

この流れで発話者は事実を受け手に伝えますが、デリダの場合には
これがパロールに当たりますが、最終的にはパロルーさえも
コミュニケーションできないとなりますよね。コンテクストの多様性
によって、正確な意味は100%の確率では成立しません。

しかし、現象学的竹田論によると、発話主体と言語・言語と意味を理解
する聞き手の間に、信憑性関係が成立し、意味は信憑性によって、
正確に成立すると言う事のようですね。
これは、言語をそのまま取り出すと言う、形式論が陥った罠は
現実の会話の場での検証を欠いたからだとしています。
つまり、現実の会話の場では、言語の多義性が現れる時、再確認する
べく、質問の会話が発生し、そこに意味の定立が完成するとしています。
エクリチュールについては、そう単純ではなさそうな、歯切れが悪い
ですね。それでも、何とか確定してやろうとしていますね。
それにしても、現象学的言語論に言う、「信憑性」って、信じられるに足る
と言う意味だとすると、やはり、独我論的と言えなくもない気もするな。
5伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/06(水) 09:00:38 0
読むのは一人なんだから、ここでやることはないだろう。
もう少し一般化しないと、だれものらないぞ。
6パレルゴン3:2008/08/06(水) 09:26:32 0
ここのスレッドでは討議ではなく、所論を確実に理解するものであり、
いわば、エクリチュール的展開を目指すものだ。
もう一方の方はあくまで討議として、私なりに位置付けているので
読まれなくても良いんだよ。だから、ここでのスレには私は原則返事は
しないつもりだね。
ぴかぁ〜もフーコー論を中心に高度な自論を展開してくれ。
そのうち質問でもさせてもらうよ。
答える答えないは自由だが(笑)
7考える名無しさん:2008/08/06(水) 09:58:56 0
PPコンビはここに隔離な。
8パレルゴン3:2008/08/06(水) 21:12:13 0
そこで、竹田によるデリダ批判を彼自身の纏めに沿って見てみると、

1)現象学的言語理論は、「発話主体−言語表現−受語主体」と言う
  流の中での三項間の信憑構造として考えてる。

 この中で竹田はデリダが言語を一般言語表象としてのみ言語を捉えている
 とし、発話主体は固有性としての言語を使っているとして、
 この言語の余剰と言うのは、あくまで、一般言語だけを思考の対象に
 する事からくる矛盾に過ぎないとしている。
 この一般言語とはいわば、ラング=国語に当たり、これのみを検討の
 俎上にあげる以上、パロールとしての日常性というか、現実に話される
 場での言語表現の在り方が無視されるので、多様なコンテクストによって
 話される(使用される)言語の背景が見えず、
 ラングだけの検討では、形式的な矛盾に陥っていると考えるのだ。

2)この様な一般言語を分析するのではなく、現象学的=実存論的分析
  から、検討するべきだとし、実存的主体の欲望論的本質が意味となって
  現れ、「〜ため」「〜として」という意味関連を生む。
  そして、このパロールとしての発話が、
  発話主体が欲望=関心する意味関連として、「関連企投」されるとする。
  受話主体はこの言語記号を了解企投する。(了解企投とは発話主体
  の真意へいたろうとすることを指す)
  
3)言語の謎の解明
  言語の謎はこの様な「一般性=国語」と「固有性=個々の発話状況」
  の二重構造が原因であり、つまりは、一般性としてのラングが
  実際の使用現場としての、発話時のコンテクストを無視するために
  発生したものであり、一般規則としての言語体系は、発話による
  関係企投にとって、単なる「道具的存在」にすぎないとする。
9パレルゴン3:2008/08/06(水) 21:29:29 0
ようは、構造主義や分析系の言語論の矛盾は一般言語表象である、
文法などを含む国語を中心に検討されている為、言語のみを対象にして
分析をしているので、実際に言語を使用する場合には明白なコンテテクスト
が不明であり、よって、多義な不確定が発生するとし、この矛盾を
解明するには、現象学的=実存分析が必要であると考えているのだ。
実存的とは欲望=関心による世界の解釈であり、諸対象は各自の実存
の目的・目標・関心との相関の中で、現れる。これを関係世界との
関係意識とし、関係企投と言う。この辺の術語がハイデガーからの
ものである事は周知のことと思いますので省きます。
自らの意味関係性としての状況へ開く行為とでも言いますかね。
10パレルゴン3:2008/08/06(水) 21:41:55 0
読み直すとちょっと表現が不味いかな(笑)
一般言語とは文法に裏打ちされた書き言葉だと考えればいい。
これにはコンテクストがない。一方パロールには会話のつど
相対して話と聞き手がいるので、コンテクスとは十分と考えている。
この点については、デリダはコンテクストの複数性を認めている。
そこで、一般言語にはコンテクストがないので、意味の多義性が現れる。
と言うのは、デリダの言う、エクリチュール(書き言葉)による
確定不可能性を、逆手に取っているだけなのだけど、
ここのところが、観念論であるラング=言語 対 パロール=現実(験論)
と言う、今、もう一つの構造主義・ポスト-構造主義を超えて4
で論議の中心の問題点と重なるんだよね。
やはり、経験主義が優勢って事だね。
11パレルゴン3:2008/08/06(水) 21:49:36 0
竹田も言語論の問題が複雑なのか、今一はっきりしない点もある
気がするけど、例えば、「信憑関係」とは「そう言う風に信じる」
と言う意味であれば、発話者が自分の意(欲望=関心)を言語記号に
託して伝え、この言語記号を聞き手が意味を確信する事で、
コミュニケーションが問題なく成立するとしている。
ただし、この聞き手の信憑とは必ず発話者の意でなくても成立するんだね。
これぞ、現象学的超越論って事だろうかね?????
12考える名無しさん:2008/08/06(水) 22:24:41 0
コミュニケーションは言語よりはるかに広いのだから・・・
13パレルゴン3:2008/08/07(木) 09:44:29 0
竹田にとって、ハイデガーにおける「存在と時間」いわゆる前期と
称される時期にあっては、形而上学ではなく、実存論的分析として
高く評価される。一方ケーレ以降では、東の指摘するように「存在」
の名詞化によって、いわゆる、存在に投げ込まれたと言う被投性が
強調される事で、「原理」が展開されず、この事を「形而上学」と
批判するのである。
そこで、形而上学って何を意味するのか?大きな疑問がわく。
そして、おそらく、竹田の批判するデリダやレヴィナスさえもが
形而上学批判なのだから。
ある意味で、この「形而上学」の解釈の違いを追って行けば、
西洋の哲学の混乱が見えてくるかもしれない。
竹田は恐らく、無意味な超越論的観念論が持っている、「決して言葉では
語りえず(規定されず)、しかし、それなしには世界認識の構築性が
成り立たない何かが存在する・・・・」と言う特徴を批判している
のであり、彼自身が考えているフッサールの現象学が言う
実存論的了解性による世界の意味化という確信については、デリダの批判が
あるのにもかかわらず、全く形而上学とは思っていない。
これは、自分の立場が観念論を批判する経験論だと言いたいのだろう。
経験は現実であり、その前にあるものを意味として捉える。
これは、現前を肯定しているのであるが、そう言う風にしか捉えられない
とも言いうる。
14考える名無しさん:2008/08/07(木) 09:46:34 O
竹田w
15パレルゴン3:2008/08/07(木) 10:04:44 0
フッサール現象学信奉者には、ポストモダン期の形而上学批判に
全くたじろがない強さを持っている人が多い。
それは、フッサールの現象学が内在面である観念(意味)
を(世界=外)に投げかける(企投)事で、客観的な世界(物質)の
真理探究を無効にできたからだろう。
しかし、そうだとしても、人間の動物としての本能=欲望によって
開かれる世界は、同じく、人間による絶対的な意味として
開かれているのだから(間主観性)、これとて、人間にとっての
真理として、世界を掌握している事になるだろう。
つまり、真理を分析する形而上学と言う、デリダ批判を逃れる事
は出来ないだろう。
こう考えるとき、やはり、竹田は、現実に組みしない、観念論的
理論構築の事を形而上学と言って批判しているのだ。
しかし、世界のポストモダンの主流は全ての真理探究と、
その真理の敷衍や真理による他者の抑圧・排除をも形而上学と
言っているのだから、フッサールの現象学も同じ穴の狢であること
に変わりはなさそうである。
16考える名無しさん:2008/08/07(木) 10:20:31 0
>>13
>形而上学って何を意味するのか?

はいよ
http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/kcollection/quidestmetaphysica.html
17パレルゴン3:2008/08/07(木) 10:22:41 0
しかし、問題はそんなに簡単ではない。
ポスト構造主義の最終的な到達点は何なのか?と言う点を見ると、
脱構築、逃走、脱臼、宙吊り、分裂症、転移、セリー、複数性の穴・・・・・。
「それでどうした?」って聞こえそうですね。(笑)
「形而上学批判」それって、論理的脱構築?実践的脱構築?
それとも、アルト―のリビドーおやじになるの?
「その間、生活はどうするの?」(A)
「生きて行くには行動(政治)だよね・・」(ネグリ)
「そう、ごたごた言って形而上学批判だって言っても、
馬鹿になって、分裂してりゃ良いってものではないぜ」(ハート)
「しかし、抑圧された少数派はそうは言えないでしょう
サハルタンって語れる」(スピヴァク)
「ただし、政治に疎く、机で脱構築だ!脱構築だ!って言うのは
もう無意味だって事だね。」(全員)

と言う声が聞こえそうですね。


18考える名無しさん:2008/08/07(木) 10:43:59 0
>発話主体と言語・言語と意味を理解
する聞き手の間に、信憑性関係が成立し、意味は信憑性によって、
正確に成立すると言う事のようですね。

「正確に成立する」というより、聞き手の側で、これはこういう意味だろう、という確信が成立するという意味でしょう。もちろん必ず成立するということではありませんけど。

>エクリチュールについては、そう単純ではなさそうな、歯切れが悪い
ですね。それでも、何とか確定してやろうとしていますね。

エクリチュールも確信や信憑構造を欠いてしまっては、哲学書の理解など到底不可能でしょ。
19考える名無しさん:2008/08/07(木) 10:54:32 0
>全ての真理探究と、
その真理の敷衍や真理による他者の抑圧・排除をも形而上学と
言っているのだから、フッサールの現象学も同じ穴の狢であること
に変わりはなさそうである。

この判断が「真理」性≒知識と無縁である証拠なんてないでしょ。
20考える名無しさん:2008/08/07(木) 12:42:50 0
>>16
それ長すぎ、半分いかないところでもう飽きた。
21考える名無しさん:2008/08/07(木) 13:21:41 0
つーか、私も胡散臭い言葉だなぁーって思い続けてきたのですが、雰囲気的にはそのまんまだったようですね。w
私の経験的な解釈で「形而上学」とは、科学的(or論理的)根拠のない学説みたいなものだけどどこが違うのか?
教えて。
まいずれにしても、形而上学などという厳しい言葉を気安く使う輩には注意したほうがいいということでしょうね。w
22パレルゴン3:2008/08/07(木) 13:24:12 0
そうです、スピヴァクはインド カルカッタに生まれる。インドは周知の通り、イギリスの植民地であり、スピヴァクが生まれた
1942年の5年後に独立を果たす。
現在はアメリカのアイオワ大学で教鞭をとっているようだ。この経歴が示す様に、彼女は、コロニアル時代〜ポストコロニアル時代について
ある意味、実際に経験をし、また女性である事についても、検討する
機会があったのだろう。
つまり、デリダが彼女にもたらしたものは、脱構築と言う手法が
既存の構造が作り出すもろもろの差別を破壊する事だった。
コロニアル時代における宗主国による差別、あるいはフェミニズム運動(女性差別
反対運動)、ポスト・コロニアルにおける植民地主義の残滓など、
構造に根ざした差別を暴きだそうとしてる。
また、その暴きたての為に、デリダの脱構造やサイード等の手法を取り入れている
事である。
つまり、宗主国における植民地支配の為のルール=構造は差別的なものであり
それを打破するにはデリダの脱構築が有力だったと言う事である。
この事から、哲学は実際の社会生活する個々人にとって、有力な
道具と言う事である。

つまり、机の上の「脱構築」ではないのだ。
デリダ自身も政治には政治に興味を持っており、いくらかの活動がある。
それでも、発行されたエクリチュール(本)の数からすれば知れたもの
ではある。

ただ、デリダと言えば「他者」の哲学者であるが、この「他者」について
第三人称が現れたばあい、「二人称=他者」 と 「三人称=他者」
の優先順位を聞かれた事があると記憶するが、この答えは出そうにない
気がしますね。(笑)

そして、デリダは彼の血統であるユダヤ人を最優先している事が
後のインタヴューで明らかになる。

ようは、自分中心の脱構築なんだな〜??
23考える名無しさん:2008/08/07(木) 13:31:48 0
背伸びをやめたパレルゴンのほうがいいね
24考える名無しさん:2008/08/07(木) 13:50:27 0
死ね
25考える名無しさん:2008/08/07(木) 21:31:07 0
20=21だけどいちおう読んだ。w
26考える名無しさん:2008/08/08(金) 15:06:39 0
>そして、おそらく、竹田の批判するデリダやレヴィナスさえもが
形而上学批判なのだから。


16のリンク先の、「しかし我々はこのあたりの哲学的言語のインフレーション的複雑化を、そのまま丹念に学び吸収する必要が本当にあるのだろうか。」と言われ
ているポストモダニズム(≒ポスト構造主義≒反基礎付け主義(≒デリダ))思想
の用法と動機を竹田が解説しているだけだと思うけど。

>フッサール現象学信奉者には、ポストモダン期の形而上学批判に
全くたじろがない強さを持っている人が多い。

当然でしょうね。

>それは、フッサールの現象学が内在面である観念(意味)
を(世界=外)に投げかける(企投)事で、客観的な世界(物質)
の真理探究を無効にできたからだろう。

はっきり言ってこれは誤解でしょうね。それどころか、フッサール現象学の
動機は、客観性を重視する諸学問の基礎付けにあったはずなので。
だからこそ憶見=ドクサとかエポケーに拘ったんだと思いますけど。
あと客観客観といったって、人間が客観に立てる訳がないんだから。w
27考える名無しさん:2008/08/11(月) 02:58:55 0
>よって、多義な不確定が発生するとし、この矛盾を
>解明するには、現象学的=実存分析が必要であると考えているのだ。

私的にはフッサールと実存はあまりイメージとして結びつかないんですね。
あまり読んでいませんが、フッサールは客観を前提することに批判的だっただけでしょう。
ここに主観があって、そっちに客観があって、という[主−客]図式を頭に浮かべて客観的なつもりになっている主観、みたいなアホ臭さを一掃したいという動機がまずあったと思うので。
ついでに『現象学入門』や『エロスの世界像』とかも読めば?

>それは、フッサールの現象学が内在面である観念(意味)
>を(世界=外)に投げかける(企投)事で、

これはハイデガーの実存論でしょ?

オートポイエティク・システム理論からのデリダ批判は
ttp://socio-logic.jp/baba/gj/gj06.php
「第二の解釈を採用するわれわれの立場からすれば、」から下。
他の節にもいろいろ書かれてる。
28考える名無しさん:2008/08/13(水) 22:45:23 0
ただ今、研究中につき、レスはしていません。
興味のある方は、もう一方のポスト構造主義を超えてのスレッドで、
討議下さい。フッサールによってどのように超えるか楽しみですね(笑)
実証主義・唯物論・もの・効用・プラグマティズム・反証可能性・
そして、科学・ヘーゲル・カルチラルスタディズetc?

皆さんポストモダン・ポスト構造主義をいかに超えるのでしょう?
それでは、がんばって下さい。
29考える名無しさん:2008/08/13(水) 22:52:09 0
夏は避暑地だね。最高気温22℃ですね。
行きましょう、避暑へ。
頭を冷やして、考えまししょう。
もう一方のスレッドへ・・・・(笑)
哲学ってどうして、真理探究をするのでしょう?
どうして、フッサールとデカルトともに、考える「私」を証明するか
あるいはエポケーする「私」を肯定するのでしょうか?
エポケーする「私」ってなに??デカルトのコギトではないのでしょうか?
30考える名無しさん:2008/08/14(木) 02:14:07 0
デカルトやフッサールのそれぞれの「私」はとっくに無くなってんだから、
「私」は「あぶく」のようなはかないものだということでしょう。


31考える名無しさん:2008/08/16(土) 11:38:35 0
そこで、別の本で、竹田は、事物存在について、現象学的に考察している。
そこで、事物存在は、フッサール現象学の基本である、生き物としての
欲望=関心相関によって、そのつどその存在の意味を開示するような
存在だとする。この辺については、彼自身が述べているように、
かなり、ハイデガー的フッサール現象学としての竹田哲学なのである。
そして、そのあとで、「しかし、それはある特定の観点から、『純然たる
事物的存在』として、・・・『客観存在』として既定される事がある。」
と述べる。この「客観存在」と言う概念こそが、竹田現象学に見る
科学の捉える目なのである。
そして、植物学者が花を見て、分類し、また、地理学者が地理学的に調査し
客観的に特定するのにともなって、「われわれが現象学的に意味として現れる
野に咲く花の美しさや夏に河川での涼しさとして示される意味、つまり、
本質的な存在性格は隠蔽される。」とのハイデガーの解釈を援用する。

つまり、分かりやすく言えば、科学者のものに対する視線である、
主観―客観的なまなざし(まず世界が先にあり、それを主観が客観
そのままの姿で認識すると言う構図?)も否定できないとするのだろうか?

しかし、ここで竹田は自分の言う「純然たる=真の事物存在」規定が
フッサールの批判する、主観―客観の二項として成立する事を表してはいない
事を確認する。
つまり、この客観的な存在とは、事物が客観的に存在する事ではなく、
どのような基準で、客観的なものとして、把握=対象化されてきたかと
言う事だとする。 この辺は明らかに、科学主義の視点ではなく
あくまで、現象学的に人間にとって意味として、客観的な存在とされて来たか
と問ういているのだ。
32考える名無しさん:2008/08/16(土) 11:56:18 0
そのあとで、竹田は「事物存在は、一義的には、そのつど生き物として
の『欲望相関』として、その存在様態を開示する。そして、客観存在
とは、この欲望相関性において開示された事物の存在様態の一般化、
間主観的平均化として定義される。」と述べている。

う〜ん???
ちょっと変な気がしますね??

最初に、科学者の見方を肯定していたが、ここにきて、これでは拙い
と考えたのか?
客観的存在を欲望相関的に現れるものの総体=一般化=平均
とする事で、客観的な事物存在と言うものはあり得ない事になる。

しかも、それが、逆に欲望相関的な意味の総体として、事後的に
見出せるものだと言う事になる。

最初に科学者的なものの見方も否定できないとするのに、
のちには、それは欲望相関的な存在様態の開示であり、その間主観的
平均が事物存在なのだと、かなり歯切れが悪くなるのだ。
33考える名無しさん:2008/08/16(土) 12:03:36 0
私の考えでは、竹田・フッサール・ハイデガー哲学の困難は

1)
個々人に現象し、意味として現れる事物と言うとらえ方が、
科学的な観察をする構図(主観−客観)をどのように定義するか
微妙である事。

2)個々人の了解=意味として現れる事物の、間主観性は
  どの様になされるのか。

以上の二点にあると考えられる。
34考える名無しさん:2008/08/16(土) 12:23:15 0
竹田はデリダの「正義=他者」の概念が無能な理想主義である
と批判しつつ、ニーチェの「生への力」による征服民族による
強大な帝国の成立を肯定する。
そして、デリダの、憐憫の情や利他性による「正義論」は無効である
と考えている。

力による制圧なしには、政治・統治は生まれないとする竹田には、
弱者への配慮は全く見られないが、このような見方が、ある意味、
ポストモダン時代の他者への配慮の欠乏(われ関せず)や
誹謗・中傷・安易な暴力となって現れているのかも知れない。
ただし、「力による制圧」の肯定は、かなり、勇気がいる説
だと言う気がしてならないが???
35考える名無しさん:2008/08/16(土) 20:08:27 0
>>31
容疑者の供述を鵜呑みにしろと言うのでなければ、どの本の記述かくらいは書いてほしいですね。
でなければ確かめることもできないでしょう。
買ってまで読もうとは思いませんけど。
36考える名無しさん:2008/08/16(土) 20:56:21 0
>>34
>竹田はデリダの「正義=他者」の概念が無能な理想主義であると批判しつつ、ニーチェの「生への力」による征服民族による強大な帝国の成立を肯定する。
>(…)竹田には、弱者への配慮は全く見られないが、このような見方が、ある意味、ポストモダン時代の他者への配慮の欠乏(われ関せず)や誹謗・中傷・安易な暴力となって現れているのかも知れない。

うーん、とりあえず確認しておきますが、竹田が在日だということはご存知なのですよね。
(もし万が一間違っていたならすいません。)
でここで多くの人が思っているはずの疑問が出てくるのですが、デリダのいう「他者」とはどの立場から見たどの他者なのでしょう?
このことを考えた場合、デリダ擁護の立場からの竹田批判は、途轍もなく無責任な思想に肩入れしているように思えるのですが。
37考える名無しさん:2008/08/17(日) 13:46:33 0
31
NHK books「フロイト思想を読む」70P〜73Pを参照のこと。
36
「言語的思考へ・・・脱構築と現象学」314p参照。

勿論、竹田が在日である事は、彼自身「<在日>と言う根拠」で表明して
いるので、知っているが、この事と「征服民族による強大な帝国・・
その統一的「力」の実現による「法」の一般的実効化・・」を正当化する
論点とは関係がないだろうと思うが?

彼の立場からすれば、逆に他国の侵略によりなされた、押しつけられた「法」
に対しては、敏感であらねばならないはずだが??

それとも、彼は逆説として、帝国主義的暴力を批判しているのかも知れない気はする。
彼がフッサールに傾注したのも、そう言う彼の背景が影響している
と聞いた事がある。

いずれにしても、私は個人の背景から人を捉える事は良くないと考えているし、
竹田の哲学を単に批判しているのではなく、
彼のすぐれた知性を通して、ポストモダンを超える為の哲学を
学ぼうとしているのであり、むしろ、批判する対象者ほど、すぐれた哲学者
として、尊敬している。

38考える名無しさん:2008/08/18(月) 16:09:08 0
ラカン精神分析学における、精神病分析において、「父の名は、精神病患者
の精神世界では、単に不在である。」としている。
恐らく、ぴかぁ〜の精神病分析がこの点を指すのであったなら、
私の説明は不十分だったと言う気がする。
と言うか、私の精神分析学の理解(構造主義的・ポスト構造主義的理解)
からすれば、エディプスコンプレックスによって(父の禁止)
人間に主体が生まれ、象徴界へ参画する。そして、この抑圧で開いた空無
にシニフィアン連鎖が生まれる。この連鎖は象徴界以前の段階の欲望が
その欲望の意味をトレースする過程である。
よって、私の解釈では、精神病理か否かと言う事が、空無の存在の有無
と関連しているとは考えていない。(父親による原抑圧の希薄さが病根とする。)
しかし、ラカンを読む時、この空無の存在は父親の抑圧によるのではなく、
その欠如=裂け目と言う事になる。
この事によって、原抑圧によって開いた空無に欲望の意味を求める、シニフィアン連鎖
が起こらなくなり、自分自身=主体が喪失する。
こう言う風に考えているのだ。
だから、精神医療として、再度、父の原抑圧を経験させる事で、病理は
終息すると考えているのだ。(社会復帰だね)
そこで、ポストモダン派の共通項として、逆にこの分裂症的な状況
を、学問的に持ち込もうとしたと言う事だろう。
画一的人間の生産=生政治に関与した精神分析学へのアンチテーゼ
があったと言う事だろう。これが、アンチエディプスの意味だ。
それは、精神分析と言う深層=人間内部の問題から、表層=襞=皮膚へと向かう
ドゥルーズの哲学となっていくのだ。表層にはそれを統一するもの=器官
は喪失しているのだ。(父の不在)

39考える名無しさん:2008/08/19(火) 22:20:55 0
否定神学でもめてますぞ???(ふふふふふ??)
不・不・不・不・不????
神は超越的存在だが?
神を認識する私は超越論的・否定神学的にしか神をたどれないのら???
なぜか????
パレルゴンに気候?いや、機構、いや、聞こうかな???
もう答えているらしい・・・うふふ??
40考える名無しさん:2008/08/19(火) 22:54:57 0
>>39
パレルゴン頭大丈夫かい
41考える名無しさん:2008/08/20(水) 01:57:21 0

        ==== 誘導 ==== 


スレッド重複です。

以降、書き込みはこちらに行うようにして下さい。

(誘導先:構造主義・ポスト構造主義を超えて4)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1217742541/
42考える名無しさん:2008/08/20(水) 03:29:34 0
ラカンは欠如的世界を堂々巡りするだけで、どうしようもない。
それはラカンが馬鹿だからなのだが。
43考える名無しさん:2008/08/20(水) 09:45:01 0
それが、否定神学と言うものだからだ。
神学には肯定神学と否定神学があるようだね。
局論で言えば、デカルトは前者と同じ思考スタイルで、
東の批判する方々は後者にあたる。
44考える名無しさん:2008/08/22(金) 19:02:23 0
否定神学性って、背理法と密接な関連がありそうというのが私の直感。
45考える名無しさん:2008/08/27(水) 15:47:30 0
否定の否定が肯定であると言う事が背理法ならば、何かを否定的に
証明しているので、否定神学的と言うならば、答えは「ノー」だろうね。
否定神学の場合には、それを否定する事で、逆説的にその真理を
証明するのではなく、それの否定形を無限に繰り返すことで、
論理的には証明できない事=ものの存在を認める(感じる)と言った方
が良い気がするね。否定神学はロジックによる証明ではないのですから、
根本的に異質なものと言えるでしょう。
46考える名無しさん:2008/08/27(水) 21:45:17 0
否定神学は「応答しない神」に遡る。
イエスが処刑に際して「ラマ、サバクタニ」と叫んだのも
キルケゴールの絶望もこれに相当する実存的体験であった。
無論イエスは神ではないが「神の子」ではあった。

47考える名無しさん:2008/08/28(木) 09:45:47 0
否定神学は、偶像崇拝禁止によって、もたらされるものではないでしょうか。
例えば、キリスト教は、キリストやその母マリアを偶像として、それを
崇めます。これは、現前性の哲学と同じように、視覚により、「神=キリスト」
全体を視野に入れます。この事で、全体を対象化出来る事で、世界は現前として
全体は判明に捉えられると言う哲学、つまり、デカルト的なものの見方との
類似性が認められます。
一方、イスラム教やユダヤ教は偶像を禁止しますが、この事で、神と言う
絶対捉えられないものの影を永遠に求めるのですが、捉えられない。
この事で、回帰が生まれます。つまり、再帰性と言う哲学用語にもなっていますが
何度となく、語ること。あるいは、違った視点からその影を追い求めます。
この事で、少しでも神の姿を語る事によって捉えようとします。
しかし、絶対に視覚に現れない神は、最終的には否定的にしか捉えられない。
つまり、神は「〜ではない。」の連続においてしか、その様相を感じ取れない。
これが、否定神学だと思います。
同時に、先にも述べたように、神を肯定的に「〜である。」で証明すると、
有限になります。つまり、この問題は実無限と可能無限の問題でもあります。
絶対無限者=全能である神は、肯定する事で有限化します。
神を全能として見つめるならば、神を指示せないのです。
ですから、神の属性=現れ=影を見出すことしかできない人間は、
少なくとも「〜ではない。」と言う表現をもってしか、その存在に
触れる事が出来ないと言う事でしょう。
48考える名無しさん:2008/08/28(木) 10:00:05 0
この再帰性という術語をたどれば、実存主義や存在論との類似性を
感じ取ることもできるでしょう。
つまり、再帰的に繰り返すこととは、定立不可能性を表している。
この様に考えるとき、ユダヤ主義がポストモダン思想に与えた
影響の大きさが分かるだろう。
元来、デカルトの言うような絶対現前とその演繹による、世界掌握
と言うものが、主客の分離を生み、自然を破壊すると言う結末を
もたらしている事を考えるとき、ポストモダン=ユダヤ的偶像崇拝禁止
と言う教えが、一つの近代思想への批判としてある事は認める必要が
あるだろう。勿論、ニーチェやフロイトの形而上学批判も、この線上に
位置しているのだ。だから、デリダやレヴィナスの「他者」とは
絶対認識できない余剰としての、神への畏怖を忘れ去った西洋
形而上学=科学万能主義への批判でもあるのだ。
49考える名無しさん:2008/08/28(木) 10:15:53 0
ハイデガーの開け、ラカンの原シニフィアンによる空無、
フロイトのエディプスコンプレックス、これらの術語は
明らかに、外的余剰と内的余剰とをいかに回収するかに向けら
ています。だからこそ、余剰は永遠に回収されないのですから、
回収する行為の連続によって、回収されない事を認識します。
東は、この事が否定神学的だと言っているのでしょう。
回収されない事を回収している。
デカルトに「我疑う。」を連続させると言う発想もこれと同じです。
疑いは晴れないが、疑いの連続が「疑えないもの」の到来を遅延させる。
この事で、柄谷はデカルトのコギトを否定神学的にシフトしたと言っている
のでしょうかね???
あくまで、柄谷の読みです。だから、東が、柄谷の否定神学性を暴いた。
いずれにしても、ポスト構造主義の到達点から、あるジャンプを試みる
必要性を感じています。それは、近々言葉にしたいと思っています。
哲学はややもすると、独善になります。ある人を批判しているのではない
ですが、排他性と、絶対真理と、自己正当性の温床になりやすいのです。
そこから、戦争も勃発する。以前は感情的なものが戦争を引き起こす
と考えていましたが、ポストモダン思想の学習から、戦争は理性が
引き起こすと考えるようになりました。
50考える名無しさん:2008/08/28(木) 10:33:41 0
つまり、理性こそが啓蒙や規律訓練型の人間を作り出しており、
フーコーの生政治も、勿論、管理する国家=資本主義がそれぞれの発展
の為に、人間を管理規格化する方向にあるのは周知の事実です。
この様な理性による管理統括は国によって、民族によって大きく
異なります。理性は、論理の構築によってますます、ピラミッド的に
民を組織します。ところが、理性の構築物は一つではない。(他国・他思想)
そして、理性はこの齟齬を調整できない頑固さを持ち合わせています。
だから、「他者」を容認できないし、自分の構築した考えを敷衍
しようとします。(この点にこそ、デリダ・レヴィナスの他者の真意
があるのです。)
その結果が戦争へと向かわせるのだと思います。
つまり、ポストモダンの本当の意味は、この理性主義の脱構築
であり、構築物からの逃走、あるいはズラシ、脱臼だったのです。
と言う事で、私は、あえて厳しく批判したのは、理性主義的な
排他性を示したかったからです。
当面、私は、この自分で立てたスレッド以外での書き込みはやめます。
ですから、もう一方のスレッドについては、皆さんが進めてください。
以後は、このように長文の書き込みを進め、一定のポスト構造主義の
乗り越えを進めてゆきたいと思っています。
51考える名無しさん:2008/08/28(木) 14:54:00 0
お前、本当に性根が腐ってるね。
52考える名無しさん:2008/08/28(木) 15:13:12 0
パレルゴンが一番でしょう。
亀井はまだテキストを読んでいる段階で、この様な自分の文章で
表現できないでしょう。読書量が足りん!
51は哲学を知らない煽りです。
パレルゴンの言っている意味は全く分かってない、哀れな浪人です。
本を読んでからいらっしゃい良い子だ。
53考える名無しさん:2008/08/28(木) 15:24:53 0
汚さはお前が一番だよ。ぴかぁ以下。
54考える名無しさん:2008/08/28(木) 21:47:41 O
>52がパレルゴンそのままで藁たw
55考える名無しさん:2008/08/28(木) 22:13:49 0
53は汚いよりも無能な哀れな人間です。
かわいそうですが、ここから去ってもらいましょう。
荒すことで、ストレスを解消しようとする哲学とは全く出来ない連中は
さておき、このスレッドでは、ポスト構造主義をブレイクスル―しなければなりません。
そこで、確かに柄谷の「探究U」は素晴らしい本です。
ポスト構造主義の視点を簡潔に余すところなく展開しているようです。
そこで、今日読んだところについて、述べて見ましょうか。
勿論、かわいそうな無能者には分らないでしょう。(笑)
柄谷はこの本の最初に、単独性と特殊性の違いについて書いている。
ここで柄谷の言う単独性とは、「この性」と述べている。
「この」性とは、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに
もはや一般性に所属しようのない個体性であると言っている。
この事を「私がある」に対して「この私がある」を指している。
最初の「私がある」は一般性の「私」の一つである特殊性であり
後者の「この私がある」を単独性(singularity)と言っているのだ。
そのあとで、柄谷は固有名で呼ばれるから単独性(特異)があると言える
と述べている。
そこで、以後の展開は柄谷の本を読んでもらうとして、この単独性
とは、いったいどう言う意味を示そうとしたのか?
こう言う分析こそがテキスト読解を超えた分析なのだが、つまり、
構造主義・ポスト構造主義を超えると言うモチーフにとって、どう言う意味か
と自分のコンテクストから問わなければならない。
56考える名無しさん:2008/08/28(木) 22:38:39 0
ここに言う「単独性」とはなにか?
それは、全く還元されないものであり、捉えられないものと言う、
ある意味、デリダ・レヴィナスの「他者性」ではないかとその類似性
に驚かされますが、よく考えるときそれは、類似しているが、全く
異なる面が隠されています。勿論両者には多くの類似点があります。
それは、ポストモダン思想の特徴的な術語「語り得ないもの」
「思考されえないもの」「不可能なもの」「自己言及的なもの」
と言う表現不可能性をこの単独性と他者性は共に含意していると
言う事でしょう。
しかし、類似性はここまででしょう。
レヴィナス・デリダの他者性は、自分を超えて外にある捉えられないものであり、
これが、東の言う否定神学を超えでるものを指すとすれば、
柄谷のそれは、ハイデガー的な現存在に開いた「存在の空」を超えでるもの
ではありません。つまり、「この性」としての自分は、比較するもの
あるいは集合体に属さない限り、特殊性ではありませんが、
「この」に内在する無限と言う意味がどうしても残ります。
柄谷は単独性を固有名として見ています。
ここに、固有名としての回収不可能な余剰は認められても、東のクリプキ論
で見た類似性があると言えるのではないかと言うのが私の考えです。
57考える名無しさん:2008/08/28(木) 22:44:58 0
つまり、固有名の余剰=「指示せなさ」が固有名を指し示している
のだと言う事が、「唯一の空」「単数の空」であり、
東の言う複数の空ではないと言う事で、否定神学になると言う事だろう
かと思われます。今夜は以上。
58考える名無しさん:2008/08/28(木) 23:24:18 0
>否定の否定が肯定であると言う事が背理法ならば、何かを否定的に
証明しているので、否定神学的と言うならば、答えは「ノー」だろうね。

ある肯定命題Pの否定を仮定して、矛盾から否定を否定してPを証明するというイメージではないんですよね。
これで言えば、肯定命題Pそのものから矛盾を導く(例:肯定神学の言説Pは人知の範囲内で矛盾)ことで、Pを否定するという感じかな。
59考える名無しさん:2008/08/29(金) 09:50:39 0
58さんへ
私は論理学や分析哲学には疎いので、詳細には言えませんが、
仮に、証明する内容が似ているとしても、哲学的に言う否定神学
は、証明の問題ではないと言う事です。脱形而上学を進める中で
見出された形而上学的な残滓をそう呼んでいるのであり、証明の
論理的方法では全くない。この違いは大きいのです。
証明にはすでに証明する知性=「私」が証明できることを前提にしているでしょう。
むしろ、否定神学を批判する哲学は、その証明する「私」を問題にしている
のだと言う事でしょうね。
いずれにしても、私は論理学・分析系の言語論には疎いので、
このような意見になりますね。
もしもう少し簡略に説明いただければ、参考になりますね。
ただ、三段論法等の証明方法って、本当に正しいのか疑問視していますが、
その辺が、構造主義的だなと思われるかも知れませんね。
60考える名無しさん:2008/08/29(金) 10:23:46 0
ところで、昨日柄谷の探究Uのレスのあと、その続きを読んで唖然としました。
柄谷は「単独性は一般性に所属しない。」うんそうでしょうね。
その後です「しかし、それは孤立した遊離したものでもない。単独性は、
かえって他なるものを根本的に前提にし、他なるものとの関係において
見出されるのである。」また「単独性は言葉で語りえないような深遠なもの
ではない。」と述べている。
これは、どう言う事なのか?恐らくは探究Uを読み進めて行くうちに
きっと、何らかの回答があるはずだという期待して読んで行きますが、
柄谷は、単独性を同一性(一般性)から見た差異(特殊性)
ではないと言ったそのあとで「したがって、また、それは積極的に語る
事は出来ない。」と言いつつ、それでも、「他なるものを前提にする」
事でしか、この単独性は他との比較においてしか、あるいは、他なるもの
との関係においてしか見いだせないと言っているのだ。
いや、かなり苦しい。単独性はこの性であり、決して他に存在しないのに
比較するべく「他なるもの」を要請する?それでは、単独性ではにいのでは
との疑問が生まれるわけです。
61考える名無しさん:2008/08/29(金) 10:41:07 0
単独性は一般性に所属せず、そこからの特殊性でもない。
これは、比較できない唯一性ですが、しかし、「他なるもの」を
前提にすると言うところに、困難がある気がしますが、この性
を「この私」と言う柄谷には、自分を絶対にかけがえのないもの
と考えている訳で、それを「他なるもの」を前提にする事と
矛盾するのではないかと言うのが疑問点です。
しかし、仮にそうであるのならば、他者の存在を前提にしなければならず
他者に依存してある私は単独性とは言えないのではないかと言うのが
私見です。
また、単独性が一般性に属さないのならば、それは「語りえぬもの」
でしかありえないのに、彼は「・・言葉で語り得ないような深遠なも
のではない。・・・それは固有名の中に出現している。」という。
ここに、示されていることを矛盾と言っては失礼かもしれないが、
固有名によって示されるものが「この性」と言う、積極的に語る
事の出来ないものであるとするならば、明らかに指示され得る
唯一の「空無」、それが、単独性であると言う事になるのである。
以後の読解によって、この辺は鮮明に乗り越えられると信じているが?
62考える名無しさん:2008/08/29(金) 15:27:35 0
>脱形而上学を進める中で見出された形而上学的な残滓をそう呼んでいるのであり、証明の論理的方法では全くない。この違いは大きいのです。

私も論理学や分析哲学についてもそんなに詳しくないのですが、何か引っかかるところがあるんですよ。
思いつくまま書きますと、否定神学「性」とか否定神学「的」とかではなくて、
肯定神学に対する本物の否定神学のナンセンスさの類型としてのクリプキとか
ジジェクとかの論法を批判的に扱っているのが東ということなんでしょ?
そこで、何故「否定神学」がナンセンスかと言えば、知覚・経験・推論など
といった人間に備わっている各種の知覚?センサーでは推し量りようのない存在
が神の性質だとする主張にその主張内容自体が矛盾しているということでしょう。
「全ての人間が知りようのないことを、何でオマエだけが知っている(or断言できる)のだぁ?」
みたいな。
だとすれば否定神学批判は背理法です。

では、(私は東本は未読ですが)次は否定神学「的」批判という意味でジジェク
を批判しているらしい東はどうかというと、否定神学の矛盾を反復している
ということでジジェクを批判しているとしか思えないのですが、だとすれば
この東のジジェク批判も背理法の域を出ていないのではないかということです。
しかしここまでの流れでは、東の理説自体は否定神学的ではなさそうですよね。
しかし私なんかが危惧するところは、むしろその逆の肯定神学的借定が暗黙裡に
なされているのでは?という批判が東に向けられるのではないか、ということです。

あと、東はクリプキを擁護しているということのようですが、これは私の
(あくまでも)想像では、クリプキは確定記述が誤りだと言っているのではなく、
確定記述と固有名はイコールではないというトリビアルなことを言っているだけだ
という解釈に立っている、の、かなぁ?などと思ったりしていますけど。
ラッセル自身、固有名は「偽装された確定記述だ」みたいなことを言っています
からイコールではないことは明らかですよね。
63考える名無しさん:2008/08/29(金) 16:08:02 0
お前ら、さんざん語りまくったあとで、「論理学や分析哲学には疎いので」
「東本は未読ですが」って頭おかしいだろ。
64考える名無しさん:2008/08/29(金) 21:15:53 0
そんなに語ってないってw
65考える名無しさん:2008/08/29(金) 21:21:20 0
62さんへ
先ほども書いたとおり、論理学でいう背理法が、真理に関する形式論理法
の一つだとすれば、そこには真理を見出す知性=理性=主体としての人間
が前提にされていますよね。おそらく、神学としての否定神学も
神の存在の影を求めている。ただし後者では、論理的な証明ではない事も
含まれるでしょう。そこは異なるでしょうね。
ただ、前にも述べたように、ポストモダンによる否定神学的思考の批判は
形而上学批判の延長として求められていますので、形式論理学の真理証明
とは全く異なると言えると思います。つまり、絶対的真理・理性・主体・
意識への批判を基礎にしている訳で、むしろ、ロジックは全て批判対象に
なっています。
それから、確かに、ジジェクが全ての余剰をシニフィエなきシニフィアンと
言う現実界に纏めたことを否定神学とするように、クリプキも確定記述
を脱構築した結果として、否定的にしか語れなくると言う事で、共に
否定神学としてるはずですね。

それから、東の言説自体についてですが、批判の通りだと思いますね。
この辺の問題については、私の考えでは、デリダ後期やドゥルーズの
本を見られれば良いかと思います。
つまり、形而上学批判する言説も、形而上学的なものにならざるを得ない。
つまり、正否の探求を否定する言説は、成否を探求していると言う事ですね。

66考える名無しさん:2008/08/29(金) 21:47:50 0
いつまで読書感想文大会は続くの?
いつになったら自分の足で歩き出すの?
ここには哲学者じゃなくて愛読家しかいないの?
67考える名無しさん:2008/08/29(金) 21:51:45 0
そこで、柄谷「探究U」第二章(固有名と歴史)を見てみると、
近代哲学は主観=私と言う個体から始まるので、主観客観の分離、
独我論の罠にはまるとしている。独我論はフッサール現象学批判
なわけでしょうね。そして、主観は「この私」ではないとする。
つまり、単独性としての「私」ではないとするのだ。この「この性」
は客観ではないのだ。古代ギリシャ哲学には主観に基づいてない
ので、個体の個体性?を論理学的に考察してきたと言う。
個体とは命題における主語であり、決して述語ではない。
しかし、柄谷の言う単独性は欠落しているとする。
つまり、個体とは集合の中の個々を指しており、単独性と言う
唯一性ではないと言う事だろう。

そこで、個体を一般性の特殊としてしか見ないのは、パルメニデス
〜プラトンの流れであり、柄谷は有名ヘエラクレイトスの文句「万物は流転する。」
を援用し、「この水」「この私」の単独性をヘラクレイトスは
十分に分っていたのだと力説する。
68考える名無しさん:2008/08/29(金) 22:03:57 0
先ほどの、質問に対する答えで、一つ足りないところがありますね。(笑)
つまり、東やポスト構造主義者と言われる連中の批判的に使う「否定神学」
とは宗教学に言う、否定神学(本当の宗教学)への定義を指してはいません。
否定神学に類似するものが残っているといって、形而上学的な面を批判を
しているのです。

今日はこの辺にします。
69考える名無しさん:2008/08/29(金) 22:04:43 0
>>67
聖徳太子知ってる?
70考える名無しさん:2008/08/31(日) 21:50:39 0
なるほど、トランスクリティークの131Pに柄谷が書いている「構造主義
の先祖は、・・・・デカルトと言わねばならない」ってところを
鵜呑みにしたんでしょうね。レヴィ=ストロースもデカルト同様、世界中を
めぐって、「他者」を発見し、多様性を取り去って、数学的な構造解析幾何学
的なものを最終的に見出す。レヴィーストロースも人類学的な構造を
表面から取り出す。つまり、意識されない構造は普遍性である。
ともに共通項があると言う事だろうね。
たしかに、ある分野からは、構造主義はある数学者グループの理論から始まると言う
説もあるな。ブルバギだね。確か数人の数学者の頭文字によって、そう呼ばれる
のだが、「要素との関係の形式的な集合」が構造であると言う事だね。
次に、柄谷は、デカルト批判を述べる。
最初デカルトは「我疑う」と「われ思う」の重心が決まってはいなかった。
というか、同じと考えていたのかも知れない。だから、柄谷は「我疑う」
ならば、それは、私的な「決意」=「単独的な実存」とみられることで、
形而上学的な罠からは逃れえると考えていたのだろう。
しかし、ここに来て「我疑う=経験的自己」のほかに「経験的自己を疑う自己」
や「超越論的自己」が見出される事で、デカルトを捨て去るのでしょう。
それでも、構造主義者と言われるレヴィ=ストロースの構造抽出法とデカルトの
コギトを同じにすることはにはちょっと無理があるな??
71考える名無しさん:2008/08/31(日) 22:00:11 0
柄谷については、あまり読みこんでいないので、詳細は語れないが、
彼の哲学は探究シリーズから2004年のトランスクリティーク
までは「単独性」の研究だったのかも知れないね。
そうであるならば、明らかにポスト構造主義的な視座にあった訳だ。
ただし、このようなモチーフなら、デリダやレヴィナスの方が
先んじているし、新しい問題でもない気がする。
ただし、デカルトへの固執は他に類を見ないわけで、やはり、日本
の哲学界に燦然と輝く功績があるのだろうね。
まあ、少しずつではあるが、読んで行こうと思います。
72考える名無しさん:2008/08/31(日) 23:47:49 0
21世紀になって8年もたつのに
パッとしたもんが出てこないね
73考える名無しさん:2008/09/01(月) 16:40:43 0
語ったあとで「柄谷については、あまり読みこんでいないので、詳細は語れないが」
このパターンばっかw
74考える名無しさん:2008/09/01(月) 17:59:15 0
73
内容が全く分かっていないから、表現にケチをつけるしかない
無能なやつ。そんな事言う暇があったら、哲学書一冊でも良いから
まともに読んでみろ!
あるいはお前の知っている哲学論を書いてみろ、叩いてやるから。
こう言うと、そっと逃げ出すしかない無能者でした。とほほ・・・
75考える名無しさん:2008/09/01(月) 18:14:51 0
それにしても、本気で哲学するやつは皆無だね。
やはり、2チャンネル。専門的に勉強しているやつは来ない。
専門家ではない、趣味の域を出ない、多少知っているやつは、
自分が一番でなくなると、消滅する?
だいたい、この様な目に見えない公開討論会は、最終的に面白くなくなると
個人の記憶の中から、2チャンネルの存在自体が薄れて行く。
だから、本格的な交流・論議が生まれない。
一方的に読解の内容を披露するが、突っ込まれると、無知が見えるので
感情的になったり、逃げ出したりする。
つまり、2チャンネルは、社会に抑圧された自分(感情)を解放する
場でしかない。だから、2チャンネルで反論されると厳しい現実の社会と
同じになるので、また、違う所での解放を求めて、去っていく。
これが、2チャンネル哲板の実力=実態だろうな。
だから、一方的な披露は疲労でしかないし、徒労であるのだ。
76考える名無しさん:2008/09/01(月) 18:24:03 0
 ポスト構造主義を超えて、その先、どんな展望を持ち得るのか。

 他人の書いたものの読解のことばかり云ってるね。自分の見解を披瀝する場所ではない?
77考える名無しさん:2008/09/01(月) 18:35:23 0
>>75
ほんとほんと。
ネットの議論なんてさ、お互い薄っぺらい存在でしかない同士が
顔が見えないからって何でも好き放題無責任に書けちゃうんだもん。
議論になんないよ。やってるつもりの人もいるけど、議論じゃない。
交流して馴れ合ってるつもりの人らだって、
実際会う関係にならなければ、無責任な付き合いしてるに過ぎないし、
実際会うくらいなら、わざわざ掲示板でやりとりする必要もないしね。

まったく、夢想家の鬱病患者ばかり集まってる場所だよ、ここは。
78考える名無しさん:2008/09/01(月) 19:06:13 0
>>75
同意。結局まともだったのは亀井さんくらいで、それもパレルゴンの
嫌がらせで来なくなっちゃった。生産性がないよな。
79抜け!:2008/09/01(月) 20:00:15 0
80考える名無しさん:2008/09/01(月) 21:24:24 0
大きな物語が終わってしまった現在、
人間は何を目指したらいいのだろう?
何を思えばいいのだろう?
そのポストストーリーのアイデアを一つ提起します。
「相反する2項の融合を目指す」
粒子と波、言語と図、意識と無意識、社会人と学生、平日と休日
例えばプログラムが本のストーリーが3DCADのようなソフトを
使ってできるなら人間の創造力はかき立てられる。
81考える名無しさん:2008/09/01(月) 21:53:29 0
2ちゃんねるってコピぺ天国のようなものだな。
ぴかぁ〜がその代表のようなものなんだけど。
今日、そのコピぺの功罪についてNHKで放送があったんだけど、
実際、大学生の卒論や論文形式のテストなんかにも多く取り入れている
らしい。だから、多くの回答が同じ文章だそうだ。
小学校の夏休みの宿題の読書感想文も、チャンとコピペできるような
ブログを作っていて、利用してほしい大人もいるらしい。
名前の欄だけが空欄になっているのだね。
これって、良いのかい?
自分で考えないで、安易にコピーする。
ここの哲版にも多くいそうだが、逆に良い文章を書くと、コピベされそうだね。
だから、2ちゃんねるでは、むしろ、この様な誰でも論議できる問題、
を、チャットする感じの方が良いと思う。
ちなみに、コピペ部分が判明するソフトを開発しているらしいが、
そのソフトにかかると、コピペ部分の文字の色が反転する。
これは、怖いですよ。自分で考える力をつけるには、多くの文章を
自分で読んで理解し、書くと言う事が重要でしよう。
82考える名無しさん:2008/09/01(月) 23:09:21 0
ちょっと前テレビで指組み・腕組みの利き脳なんて
話がありましたが、
論理的に理解し、論理的な表現をする(好む)
論理的に理解し、直感的な表現をする(好む)
直感的に理解し、論理的な表現をする(好む)
直感的に理解し、直感的な表現をする(好む)
哲学に興味ある者、ここに書き込む者を
こんな観点診てはどうでしょう。
83考える名無しさん:2008/09/02(火) 00:13:05 0
>だから、柄谷は「我疑う」ならば、それは、私的な「決意」=「単独的な実存」とみられることで、形而上学的な罠からは逃れえると考えていたのだろう。

形而上学が、唯一の真理とか絶対的真理といった意味なら、柄谷という人はそれから逃れることを目的としているということ?
このあたりの理屈がまったく理解不能なんですよ。
だってそんなこと不可能でしょ?
ところで聞きたいのは1+1=2は形而上学?
規約的真理だから形而上学ではないとか?
俳中律やトートロジーや論理規則なんかはどうなるの?
物理法則は?
つーかそもそも、ウソを書くつもりで本を書く人(柄谷)なんていないでしょう。
84考える名無しさん:2008/09/02(火) 15:02:46 0
>>80
弁証法がやっぱり参考になる?
85考える名無しさん:2008/09/03(水) 20:48:13 0
柄谷を自力で読むこと。
そして、理解を深めましょう。
86考える名無しさん:2008/09/03(水) 21:52:08 0
ヴ○カ谷の「単独性」は、伝達不可能な「これ」で、
例えば、紫外線以上の電磁波を「色」と見れる人が、
それを説明しようとしてもそのような「色」を表す言葉は無い。
そのような「日常的な言葉」になっていない領域は沢山あると考えられ
る。

87考える名無しさん:2008/09/03(水) 22:18:15 0
それをさっき考えていたんだけど、「語りえないもの」といっても、全ては語れないが部分はかたれるもの(クリプキ的固有名かな)、86のようなものや自転車の乗り方といった暗黙知(ラッセル的直知?)、そして、論理的構造からくるもの。

例;「神は〜である」といった省略全称(or普遍)命題の否定「神であり〜でないものが在る」、そして反対対等の「神は〜でない」。

その他にもありそうですよね。
『権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』読みますよ。
因みに薦めている当の本人は読んでなさそうですが。
88考える名無しさん:2008/09/03(水) 22:25:24 0
他には「コツ」なども語りにくく、伝達しにくいものの代表である。
無論、科学技術の先端的なことはシロウトに簡単に伝達できるはずもない。

そんな事は知る必要もなく暮らしている人は沢山いるが。
89考える名無しさん:2008/09/03(水) 22:35:15 0
武蔵は「武士道」を尋ねられて

「畳の縁が歩けるか?」
「はい」
「それが武士道だ」

といったそうだが、尋ねたものが理解できたかどうかは不明である。

武蔵は希有の単独者であったに違いなく、また教えることの困難さも
熟知していたのである。
90考える名無しさん:2008/09/04(木) 00:08:10 0
あと否定で語るということでは、空(空集合)について語る(指示する)ということもありだな。
全称命題の否定=空
全体集合の補集合=空集合
91考える名無しさん:2008/09/04(木) 00:20:53 0
形式論理によっては暗黙知、まして神などを語る意味は無いでしょう。
勿論、仏教的「空」も。

92考える名無しさん:2008/09/04(木) 01:10:18 0
ポスト構造主義は、
しょせん批判や分析でしかなく,新しいものを生み出す力がない
という批判がありその通りだと思います。
では、新しいものを生み出せる哲学をどうやって作ったら良いのでしょう?
フランス人の書いた本を読むのもそれを読んだ人の本を読むのも一つの
方法だと思いますが、それ以外の方法もあるでしょう。というよりそちらの方が
明らかに大きな集合であると思われます。
現代そのような哲学を構築するための兆候、キーワードといったものは現れて
いるのでしょうか?
剣と鏡と珠が揃って樹が揺れている・・・
93考える名無しさん:2008/09/05(金) 19:47:49 0
>形式論理によっては暗黙知、まして神などを語る意味は無いでしょう。

なんか奇妙な文章。
誰も形式論理から暗黙知や神を語っていない。
そして、非論理で神が語れるとでも思っているのだろうか。
94考える名無しさん:2008/09/15(月) 18:22:28 0
単独性についての考察。
前レスについて、単独性は他者の存在を前提にしていると言う柄谷の
「探究U」での表現について、佐藤も「権力と抵抗」で述べているが
やはり、柄谷の言う事を全面的には否定していないようだ。
しかし、84Pにあるアンチ・オイディプスの432P引用文を読むと
単独性を「前人称的な複数の特異性=単独性」と読んでおり
これだと、柄谷の言う他者の存在を前提にした「この私」と言う
「この性」ではまったくなく、私と言う「個」自体が複数化された身体
と言う読みの方が正しいのではないか。
身体が複数の感帯に分断されている事だと解すべきだろう。
ちなみに「権力と抵抗」による佐藤の訳は、市倉の翻訳内容とは
少し違った読みをしている気がしてならない。
市倉は「人物以前の種々の単一体といったものを解放する事・・・」
と言っているが、佐藤では「前人称的な複数の特異性=単独性を解放
する事・・」としているが、前人称的としてもそこにはある存在=個が
前提にされている様にも捉えられる。これだと、柄谷の「この私」を
意味しているようにも捉えられるだろう。
つまり、ドゥルーズのアンチ・オイディプスには、この個体を身体の
感帯に分裂させようとしているのではないかと言うのが私の考え。
95考える名無しさん:2008/09/15(月) 19:26:29 0
>この個体を身体の感帯に分裂させようとしているのではないか

どっかの翻訳家の悪い一文のようだね。何語だよそれ。

96考える名無しさん:2008/09/15(月) 19:46:13 0
おまえらって形而上学的なこと考えながらイクの?
キモちわぃ〜www

俺は無理だわ。
http://blog.livedoor.jp/np_fox/
97考える名無しさん:2008/09/18(木) 00:03:31 0
おまえらムズいことばっかいってるな

ちゃんと言葉についての共通の理解があるのか?
98考える名無しさん:2008/09/18(木) 04:00:23 0
最近、動画共有サイトのコンテンツを削除するのは反公共的で反倫理的な
悪いことのように思えてきた。論拠が「違法だから」じゃ弱すぎる。悪法に加担する国賊だ。
行政だって本気で取り締まってないだろう。警察だって各省庁だって
現状認識くらい出来ているはずだ。だけど無意識的に彼らは現状を見逃している。

著作権の話をするときに拝金主義に偏りすぎているから、ビジネスの話ばかりになる。
「みんなが作品を享受できる」という共産主義の夢を、ネットは蘇らせてくれた。
だからもっと声高に「万人が情報にアクセスできる事はいいことだ!!」
「削除するのは平等を妨害する悪い行為だ!!」と社会に訴えるべきだと思う。
そして削除要請するような金の亡者となった企業には、「コンテンツをコピーレフトにしろ!」
と圧力をかけ続けるのが、社会正義なのである。

すでに経済も社会もそうなっている。あとは一人一人の考え方を変えるだけなんだ。
情報社会のニュータイプになれるかなれないかは、君の考え方次第なのである。
99考える名無しさん:2008/09/30(火) 17:25:24 0
>その後です「しかし、それは孤立した遊離したものでもない。単独性は、
>かえって他なるものを根本的に前提にし、他なるものとの関係において
>見出されるのである。」また「単独性は言葉で語りえないような深遠なもの
>ではない。」と述べている。

明快な答えをみつけました。
『ラッセルのパラドクス』(三浦俊彦)という本の中で、「二十世紀末日の日本の大統領は、女性である。」、という確定記述を含んだ(or主語にもつ)文章のパラフレーズが@〜Cの間で段階的になされているところがありますが、ここではBに注目しましょう。
::::::::::::::::
A […]
   ↓
B【「ただ一つの」というのはxそれ自体が持つ性質ではなく(他のすべてのもの)との関係できまる要因なので、そこを明示すると】

あるxがあって、そのxは二十世紀末日の日本の大統領であり、すべてのyについて、もしyが二十世紀末日の日本の大統領ならばyはxと同一であり、xは女性である
   ↓
C […]
::::::::(p.112)::::

確定記述とは、唯一の対象を固有名とは別の方法で記述するものなので、
「ただ一つの」という表現を柄谷が言う「単独性」に読み替えれば、
「しかし、それは孤立した遊離したものでもない。単独性は、かえって他なるもの
を根本的に前提にし、他なるものとの関係において見出されるのである。」
また「単独性は言葉で語りえないような深遠なものではない。」
というのはそんなに不自然な文章ではないと思います。


>柄谷は、単独性を同一性(一般性)から見た差異(特殊性)ではないと言った

ここが気になりますね。
100考える名無しさん:2008/10/01(水) 17:59:21 0
今「探究U」を詳細には読みながらレスしていませんが、本当に「単独性」
と言う術語は微妙です。たとえば「この私」=「この性」を「唯一無二の私」
であり、自分を自分で指し示すとすれば、「この私」は「他なるもの」を
前提にする必要はありません。
逆に、他を前提にすれば、他によって「この私」は限定されて現れる
と言う事になります。このように「この私」の他者性と言いますか
他によって定義ずけられて見出されるとする考え方は、多分にラカン的です。
ラカンは、第一番目のシニフィアンによって主体Sを見出すのですが、
主体Sそれ自身は「この私=主体」自身には捉えられません。(認識不可能)
その主体Sとは大文字の他者Aであり、永遠に捉えられない他者によって定義づけ
られているのです。この事は、柄谷の言う「この私」が他者に依存してと言う
表現にあることは推測できます。
101考える名無しさん:2008/10/01(水) 18:14:31 0
ただし、「この性」を他者を前提する事によって、定義づけるとなると
これは、構造主義的な見方になります。つまり、固定的にその背景、位置によって
各要素は意味づけられると言う事です。
よって、即断ですが、一般的に言われるように、柄谷はかなり
否定神学的な意味合いでも捉えられると言う事でしょう。
この辺については、「権力と抵抗」の佐藤が「ラカンにおいて、欲動の
原初的書き込み(原抑圧)によって、主体に欠如が穿たれ、その欠如
を埋めるべく充足対象を探す空しい反復が繰り返され・・(これは)
主体の変容であるよりもむしろ主体の変容不可能性でしかない」と
していますが、これは、まさに、他者によって定義づけられている為に
永遠に自分の像を求めてシニフィアン連鎖するしかないと言う
構造主義的なアプローチと言う事になる気がしますね。
102考える名無しさん:2008/10/01(水) 19:01:00 0
ラカンの言う他者性って要するにメタルギアソリッドの愛国者達じゃない?
それを捕まえる話つくるって小島はすごいって思わない?
しかもクローン化の繰り返しで劣化した私のゴーストみたいなのが捕まえるってすごくない?
それだけのためにプログラミングされてるってのもすごくない?
そう思わない?思う?
103考える名無しさん:2008/10/01(水) 21:33:15 0
102
その話をよく知らないので、答えられないよ。
104考える名無しさん:2008/10/01(水) 21:52:01 0
しかし、確かに、固有名の指示機能と確定記述機能と言う
二つの機能の問題を考えるとき、貴方の言うように、
確定記述は他者の存在を前提にしていると言う事が言えますね。
そこで、クリプキの確定記述の束には還元できない=不可能性
と言う事が言われる訳です。ただし、これは、還元できない
終息しない束を認識すると言う、いわゆる、東の言う否定神学
と言う事になるでしょうね。一方指示機能だと言えば、これは
古典的なロジックの残滓=現前・再現前の肯定になるのでしょうね。
いずれにしても、分析系の固有名の問題である指示か確定記述か
と言うモチーフからは、抵抗=脱構築の戦略は生まれません。
この辺については、東のフロイト「転位」論からよりも、
「権力と抵抗」の佐藤嘉幸の方が、アルチュセールから政治的な
分析によっている分、鮮明に的を得ている気がします。
105考える名無しさん:2008/10/01(水) 22:00:30 0
佐藤のこの本はラカン批判です。第一シニフィアンによって
開いた空にシニフィアン連鎖するわけですが、それはこの空無によって
創られた主体が主体自身の意味を探すと言う、永遠に捉えられないもの
の探究へと向けられますが、決し捉えられません。
これはまさに確定記述の不可能性を言うクリプキと同じのもなのです。
だから、捉えられないものを堂々巡りで捉える=無意味な反復によって
確定された、否定的な=これでもない・あれでもないの過程の
連続性として、この運動が無限に繰り返すと言う、固定性=偽りの
中心化構造としてあるのです。この時に抵抗としての可能性はなくなるのです。
106考える名無しさん:2008/10/01(水) 22:12:50 0
抵抗とは呼び掛けイデオロギーに対する第二イデオロギーの偏差に
より生まれます。国家機関を代表する管理する諸機関による
統制に対して、被統制側による解釈の誤差がどうしても生まれます。
これは、おそらく、デリダの言う、コンテクスト=局所からの
解釈であり、パフォーマティヴ的な解釈にある事は自明の事です。
ここから、アルチュセールはヘーゲル・マルクス的な歴史的目的論=
決定論を批判します。つまり、必然から偶然の力へ、そこから、
現状から抵抗へと向かうのです。

107考える名無しさん:2008/10/01(水) 22:23:41 0
原初にあっては、ギャラクシー=宇宙には第一動因が必要です。
つまり、ビッグバンがこれに当たります。
このビッグバンの因果はあり得ません。第一動因とは、原暴力の事です。
この原暴力とは、おそらく誰かも言っていたかな(笑)
国家の設立の為の暴力です。ベンヤミンの暴力論はここに真髄があるのですが
この暴力はまた、精神現象学で言う原抑圧です。この抑圧によって
主体が生まれるのですが、この原暴力は、因果がありません。
因果以前の、混沌=カオスの暴力であり、タナトス的な
ものであり、何よりも、偶然性です。
この偶然性と言う術語はモノーにも見られますが、因果・目的論
を含む形而上学批判の砦な訳です。
108考える名無しさん:2008/10/01(水) 22:33:51 0
本日のパレルゴンの講義はここまでだ!
近頃、ぴかぁ〜も復活したようだな。
純一の小説・哲学は面白い。
俺は哲学路線で行っているが、この3人の中で、だれか一人でも
論壇デビューしたいものだね。
そのために俺は2チャンネルにレスしている訳だが、売れそうなのは
純一かな?
マラルメの「骰の一振り」が運命を決めるって事かな??
ほんじゃ・・・・
109考える名無しさん:2008/10/01(水) 23:44:45 0
論壇デビューw
腹痛いwww
110考える名無しさん:2008/10/02(木) 07:02:00 0
パレルゴンはマジで頭悪いね。
キャッチフレーズの権威付けのために本論を読んでる。
だからジャーゴンか詩的表現で思考が停止してしまう。
これほど非ポスト構造主義的なことはない。
111考える名無しさん:2008/10/02(木) 22:26:02 0
「権力と抵抗」と言う佐藤嘉幸の本を読み終える。
内容については、語らないが、ここに、東大系である柄谷―東の流
と、京大系の浅田―佐藤と言う二つの系列があることに気づくだろう。
この四人はともに構造主義・ポスト構造主義の流で世界を見ている訳である。
年代別ポスト構造主義の論文の出版順位については、1)浅田2)柄谷
3)東4)佐藤の順である。
浅田は日本に最初に構造主義・ポスト構造主義を纏めて紹介したと言う
功績があり、柄谷は探究・内省と遡行・隠喩としての建築など、古典的な
哲学者の理論をポストモダン的に脱構築する手腕は右に出るものがない。
一方東は、著名なデリダ論からオタク分析に活路を見出し、現在若者の
支持率が高い。そして、今回「権力と抵抗」で華々しくデビューしたのが
佐藤である。佐藤が異例であるのは、バリバールと言う現役のフランス哲学者
が博士論文の指導教官であり、論文の審査委員にあのジュディス・バトラー
もいたと言う、本場の哲学を肌身で直接感じて学んだと言う逸材なのである。
この様な彼の経歴が示す様に、「権力と抵抗」は優れてポスト構造主義の
基本戦略である「抵抗」につて、詳細重層に分析されている。
今後の彼の動向には目を離せないだろう。
112考える名無しさん:2008/10/02(木) 23:28:11 0
>このビッグバンの因果はあり得ません。

あっても知りえないんでしょ。
だから無いものにしてるだけなんでしょ。
しかしそうやって認識の外部を抑圧することは経験的−超越論的二重体的思考にはならないんですかね。
113考える名無しさん:2008/10/02(木) 23:39:44 0
>自分を自分で指し示すとすれば、「この私」は「他なるもの」を
前提にする必要はありません。

やはりここは違うと思います。
例えば人間が自分一人しかいなくても、自分を指し示すためには他との区別が必要です。
他とは違うもの、他との対他的反照においてのみ自分を指示できるのです。
114考える名無しさん:2008/10/03(金) 00:21:53 0
>>113
どっちも違うと思うな。「私」は対自且対他存在としかいえない。
身体レベルでも他者との関係レベルでも「私」はどんどん入れ替わっている(対他)
が、「私は私である」の確信は変わらない(対自)。もし確信が持てないなら、
いわゆる病気だろう。
さらに面白いのは、他者からの「あなたはあなたである」という措定が対自的に
あることの根拠になっているというねじれ。
だから「私」が対自存在か対他存在か?対他と対自のどちらが発生論的、論理的に
先行するか?というのはあまり意味がない。同時に発生し、お互いがお互いの根拠に
なっているとしかいえない。
115考える名無しさん:2008/10/03(金) 20:45:36 0
>もし確信が持てないなら、いわゆる病気だろう。
べつに同感ですけどね。

>さらに面白いのは、他者からの「あなたはあなたである」という措定が対自的に
あることの根拠になっているというねじれ。

ここの「他者」は普通の意味での他人なのか、あるいは無意識の他者なのかが?
後者なら無意識なんて考える必要ないと思うので、無理やりねじっているという印象があるな。

しかしラカン理論って実はあまり知らないのよ。
一次過程=無意識のシステム=多様体=シニフィアン連鎖
まずここまでは合ってるよねえ?
116考える名無しさん:2008/10/04(土) 09:28:08 0
ラカンは簡単に言うと、第一シニフィアンが原抑圧=エディプスコンプレックス
=去勢だろう。この原抑圧によって開いた所に第二シニフィアンが生まれる
これが主体。そして、この主体は第一シニフィアンで失われたもの
つまり、本当の「私」を捜し求めてシニフィアン連鎖する。
こんな感じかな。

そこで、柄谷の言う「この私」の存在以前に「他者」の存在があると言う事は、
サルトルの「対他存在」とは違う気もするな。
サルトルの「対他存在」は、自らの主体と他の主体の相克によって、
自分の身体は支配する側の視線から物体として捉えられる。
つまり、主導権争いによって、弱者は対他存在として、現れると言う事じゃないかな?
一方柄谷は、あくまで、構造主義的に捉えているのであり、
探究U192Pにあるように、個が自立して存在するのではなく、身体・歴史によって
規定されているのであり、こう言う意味で受動的としているよね。
意識はさまざまな無意識的構造や制度によって規定されている。
このような複雑の原因を知らないので、自由な主体があると錯覚している。
この辺が構造主義的「主体論」批判になるよね。
そこで、柄谷の他者を前提にする「この私」性、の場合、他者とは
こう言った意識されない以前の、無意識の構造、この構造に先を越されて
ある「この私」と言う意味で捉えるのはどうだろう。
あくまでも、相克による他者への従属的な「私」ではなく。
構造主義はあくまで、構造に先立たれている「私」でしょう。
117考える名無しさん:2008/10/04(土) 09:37:06 0
ポスト構造主義はかなりスピノザの影響を受けているということか。
そう言えばドゥルーズもスピノザ・ライプニッツ・ニーチェ・サドと
マゾッホだからね。いわゆる、デカルト的な認識する「我」の
位置から全く逆の世界と言う事かな。
118考える名無しさん:2008/10/04(土) 10:34:22 0

 【このスレッドは ル・サンチマン™ の提供でお送りしております】


119考える名無しさん:2008/10/04(土) 11:42:00 0
「探究U」22Pでは、「単独性は、かえって他なるものを根本的に
前提にし他なるものとのとの関係において見出されるのである。」
としているので、単独性は「他者」自分以外の固有名者(他人)を指す
のではなく、116の指し示すような、思考主体の非自立性、意識の背景にある
無意識の構造・制度・言語という、意識以前に依存・規定されて
ている個=意識主体の基盤をそのように他なるものと言っているのではと思われる。
120考える名無しさん:2008/10/04(土) 11:57:12 0
113についても、自分が一人でも、他者と言う意識がない限り、
「この私」と言う認識は生まれないと言う意見も、
構造に先立たれて、相対的にしか「私=固有名」は生まれない。
つまり、構造内での言語的分節「私」対「貴方」対「彼」と言う
人称性が生まれ、その事によって、「この性」と言う意識が
現れると言う事でどう?

114の「他者からの貴方は貴方ね」と言う事で対自「私は私」と言う
認識が生まれると言うのは、グラムシ・アルチュセールのヘゲモニー・
イデオロギーの呼びかけに対し「ハイ」と答える事で、
主体=個体としての私が生まれるみたい分析をしているので、
この事にかなり近いのではと言うのが私の意見です。
つまり、既存権力=組織への組み入れによって、「私」は私になる。
121考える名無しさん:2008/10/04(土) 16:10:28 0
哲学や精神分析をカッコに入れると、「私は私である」は所有権概念の変遷に
より進化・深化してきたものと考えられる。
社会からの問いかけ「これは誰のものか?」への応答としての「私のものである」
が転倒して「私は私である」は生まれた。
近現代ではこれが資本主義と相補的に、「誰のものでもないもの」というフロンティア
の消滅が目指され、「これは誰のものか?」→「私のものである」→「私は私である」
プロセスはますます細分化され加速される。
122考える名無しさん:2008/10/04(土) 16:22:40 0
>>116
>意識はさまざまな無意識的構造や制度によって規定されている。
このような複雑の原因を知らないので、自由な主体があると錯覚している。

その「無意識的構造や制度」というのは、(顕在的意識や二次過程である)私たちの意識システムの中で考え出された思弁の産物ですよ。
したがって、私たちの、この意識システムに「無意識的構造や制度」が解るはずがあ・り・ま・せん。

>>120
>構造に先立たれて、相対的にしか「私=固有名」は生まれない。
つまり、構造内での言語的分節「私」対「貴方」対「彼」と言う
人称性が生まれ、その事によって、「この性」と言う意識が
現れると言う事でどう?

人間の意識スステムor心的システムは、区別を元にして思考するしかないのですよ。
だから、区別自体の性質をいくら分析したって、なんにも出てきませんよ。
つーかとりあえず『オートポイエーシス』(河本英夫)あたりを読んでからにして欲しいですけど。
123考える名無しさん:2008/10/04(土) 18:07:48 0
122回答どうも有りがとう。
とりあえず、116に対する回答についてですが、無意識の構造制度は
「我々の意識システム=意識?の産物」と言う事ですが、
この場合の「意識」は無意識の構造をもとにして出来上がっているのでは
と言うのが構造主義的な思考ですよね。つまり、ラカンで言うと
原抑圧によって、主体が生まれる=象徴界(言語認識が可能になる)
そして、我々の認識はこの言語=思考パターンによってしか可能ではない。
とするならば、無の状態から最初に「私」が無意識の構造・制度・言語を
選択する事は不可能な訳で、このようなものに先立たれて「個」の世界
認識生まれる、この事が構造主義の前提ですよね。

120については、オートポイエシスについてよく分からないですね。
もう少し詳細な説明があれば理解できますが、いずれにしろ、
ここのスレッドは構造主義・ポスト構造主義ですので、本質主義
ではなく、反本質主義的に、アポステリオリに人は人になる
と言う事でしょう。
124考える名無しさん:2008/10/04(土) 18:17:07 0
また自演か
125考える名無しさん:2008/10/04(土) 18:22:18 0
「所有権」の概念から、「私」が生まれると言う分析は面白いですね。
「これは誰のものか」「私のもの」から「私は私である」が生まれる。
そこで、近現代では「誰のものでもない」と言う風に考えが
シフトしてきているね。面白いと思われます。
この辺は、哲学・精神分析学で言えば原抑圧により、欠如を被っている
主体=私と見ているので、これは「誰のものでもない私」
と言う意味にとれますよね。かなりパラレルが見出せる。
ちなみにこ欠如を縫合しようとするのが、アルチュセールで言う
イデオロギーと言う事ななります。
ただし、抵抗を求めるには、この縫い合わせは偏差によって失敗で
なければならないと言うのが、アルチュセールの論点です。
126考える名無しさん:2008/10/04(土) 18:28:23 0
オートポイエーシスってかわいいよね(^ー^* )
127考える名無しさん:2008/10/04(土) 18:39:07 0
125の中で言う「誰のものでもない私」とは「私のものでもない私」
の意味ですね。「誰のものか分からない、しいて言えば、すべての
他者に映し出されたものとしての私は、私には分らない私」と言う事
です。
128考える名無しさん:2008/10/05(日) 15:59:53 0
>>116
>この主体は第一シニフィアンで失われたもの
>つまり、本当の「私」を捜し求めてシニフィアン連鎖する。

本の64ページに、
「フロイトは心的装置を一次過程(無意識システム)と[・・・] 他方、ラカンは一次過程におけるエネルギーの流れをシニフィアン連鎖として把握した。」
だから、シニフィアン連鎖=無意識ということではないのすか?


>>126
   (*^-^*)
ポイエちゃんのイメージw
129パレルゴン:2008/10/05(日) 16:58:16 0
64ページの説明からでしょか。
ラカンは一般的に主体を無意識と考えているようなので、
第一シニフィアンによって開いた空無=主体と考えられます。
その空無にシニフィアン連鎖が生まれるので、シニフィアン連鎖
は無意識の意味なのでしょうね。詳細は自分で調べてください。
また、ここでは、佐藤はラカンを批判的に捉えて、フロイトでは
一時過程(無意識システム)においてエネルギーの移動は完全に
自由で、無意識において心的エネルギーの流れは、動的で可変的
であり、完全に自由なもの、多様体としてあると言っていますよね。
詳細にはフロイトを読まないと分りませんが
一方ラカンは一時過程におけるエネルギーの流れをシニフィアン連鎖
としたと言っているので、注釈(28)を読みましょうね。
つまり、ラカンはこの自由と言われる一次エネルギー過程を超越論的
審級に統括する事で、エネルギーの可変的な自由な流をなくしたと
言っているのでしょう。つまり、規範に向かって自由なエネルギー
は統制されると言う事でしょうか。
130パレルゴン:2008/10/05(日) 17:03:54 0
この様に見て行くと、フロイト批判ではなく、やはり、ラカンや
ラカン理論を踏まえたジジェクのフロイト読みが批判されている
と言う事でしょうかね。ですから、精神分析学全てを否定するので
はないと言う事でしょうね。
131考える名無しさん:2008/10/14(火) 21:52:06 0
レッドソックスのクローザーは?
132考える名無しさん:2008/10/15(水) 06:54:09 0
パペルボン
133考える名無しさん:2008/10/15(水) 10:32:59 0
132
先に言われちゃったなぁ〜。
松坂は速球投手なのか、変化球投手なのか?
日本では速球投手であったが、メジャーでは変化球投手と言われる。
メジャーではあれくらいの速球は誰もが投げる。
メジャー投手の体は日本人の投手に比べて一回りでかい。
その上、腕が長く、変化球を投げる時に重要な指も長い。
玉の速度は、腕が長ければ、大きな弧を描くので、早く投げられる。
一方、指の長さはボールに大きなひねりを加える事が出来る。
つまり、大きな体のメジャー投手は、速球を投げる場合においても、
また、変化球を投げる場合においても、有利なのである。
この様な有利さは、日本のプロ野球では考えられない球種とあって現れる。
それが、変化球でありながら150k近くの速度がある玉がベースに向かって
飛んでくると言う経験だろう。おそらく、日本のプロ野球ではそのような
玉を見た事がない。通常150kは速球しかない。それが、変化してくる
とすれば、日本のプロ野球の選手では打てないだろう。
こう言う高度な投球に対し、いかに打者は打つのか、これがメジャー
の凄さだ。

134考える名無しさん:2008/10/15(水) 10:56:30 0
イチローはすごいバッターである事に変わりはない。
しかし、ニュースで言われているが、エゴイストで、自分の記録ばかりを
重視し、チームワークが出来ないとの事である。
私は、日本でプレーしていたときから、そのような性格は分かっていた。
彼は、あの温厚なオオギ監督のもと、自由勝手を許された環境の中で
のびのびと才能を伸ばしていった。小さい時からバッティングセンター
似通い、速い球をミートする事に長けていた。無名の高校時代にはすでに、
知る人ぞ知るほどに、注目されていたようである。
恐らく、彼がバッテングセンターで磨いたものは、個としての技術であり、
職人的な頑固さだったのではなかったのかと推測される。
それはゲームとしての野球ではなく、来る球を如何に打ち、ヒットにする事
であり、打球を如何に素早く落下点に行き、捕球すると言う、技術だけである。
集団ゲームとは、コンビネーションの重要性も含まれるのだと言う事が
イチローには希薄なのだ。イチローは日本のプロ野球に在籍していた時には
所属チームが弱ければ弱いほど個人成績が良かったような気がするが、
メジャーでも、移籍直後を除いて、チーム成績はよくないのだが、
これは、チーム成績がよくない事で、イチローの成績が良いのではなく、
イチローの個人成績重視に翻弄されたチームが、チームワークを
壊した結果とも言えるのだ。
しかし、仮にこの分析が正しいとしても、チームメイトによる暴力未遂
事件は、許されない。彼がどの様な考えで個人記録を重視するようになったのか
は別にして、彼の野球選手としての才能はずば抜けているのだし、
ピッチャーゴロでヒットになる逸材をもてはやしたのは、ほかならぬ
メジャーだったではないか。そう言う意味で、成績が悪くなった責任を
三割バッター選手に、生贄として求めることは不条理であろう。
135考える名無しさん:2008/10/15(水) 11:20:54 0
ゲームとは、柄谷によると「家族的類似性」と言う特徴によって
説明される。家族的類似性とはそれぞれの異なるゲームにはある類似点
は見受けられるが、全くなじでははいと言う事のようである。
つまり、ウイットゲンシュタインの言う様に「言語ゲーム」では、決まった
一つのルールによるゲームはないのだと言う事が言いたいのである。
ゲームは色々な他者による、解釈や行動が闖入し、ゲームの規則そのもの
が、有効性をはく奪され続けることになる。
仮に、ゲームのルールが不動であるとすれば、それは、自分が話・自分が聞く
と言う、独り言であるに過ぎなくなる。つまり、構造の中に閉じ込められた
「私」と言う構造主義に陥っていると言うのだ。
そこで、クリプキのクワス算が登場する。おそらく多くの人はクワス算を
調べても、「そんな馬鹿な事があるか」と言って、この説明を笑うか
怒るしかないであろうと思われる。しかし、我々が常識としているものは、すべて
既に、前提とされる疑いえぬもの=疑ってはいけないもの(公理)が隠されている
と言う事だ。この疑いえぬものこそ、我々を構造に縛りつけている
去勢である。
ところで、ゲームに戻ろう。たとえば野球であるが、今野球をしている選手が
本当に、ゲームルールの多様性を意識しているだろうか。
つまり、分りやすい例として、バッターが打った打球をセンターがノーバウンド
で捕ったとする。一般的ルールでは、アウトであろう。
しかし、バッターは次のように言う「外野に飛んだらすべてフェアー
である。」つまり、異なる解釈をし主張する。
こんな事があるのだろうか?いや、これこそが言語ゲームなのです。
ルールは誰かが原暴力によって決めたのであり、俺はその正当性は
認めないし、俺はそのようなルールを知らない。俺の生まれた町では
外野へのと球は、外野フライで捕球されてもフェアーである。
こう言う解釈もできそうだ。
136考える名無しさん
しかし、実際のプロ野球では、このような主張をするプレイーヤー
は皆無である。それは、幼少の時代に野球を教わる時に、ルールも
身につけからである。(これを経験的身体的な学習とでも言うのかも知れない)
ここで、柄谷・クリプキ・ウイットゲンシュタインの言う理論とは、
無限の異なる規範=ルールによる行動の可能性と言えるかも知れない。
つまり、柄谷は「語る―聞く」と言うデリダとの類似用語であらわすのだが
自分が語るのを聞くとは、「俺は俺だ」と言うのを「俺」が聞くと言う事である。
ここには言った「俺」と聞いた「俺」は同じ「俺」であり、A=A
であると言う、絶対確実性がある。これをデリダは現前性と言う。
つまり、ルールは絶対に一つであり、多様なる解釈は出来ないと言う事である。
この絶対性こそが、西洋の形而上学であり、多様性を窒息死させてると言って
批判しているのである。しかし、仮に、野球のプレー中にセンターフライ
の打球を捕球されても、フェアーだと言って、何があるのだろう?
恐らく、退場させられるか、ルール違反で罰されるかであろう。
言語ゲームとこの例の様な野球ゲームを同列で比較する事は出来ない
であろうが、あえてこの様に結論付けたい。
つまり、解釈の多様性は可能であるし、唯一の解釈の正当性はない。
だから、プレー現場で、個人にしか分からないような異質なルール
を持ち込んでも何もならない。そこで、ルールの改正を求める
会議にて意見を述べると言う手段の方が、良いのではないか
と言う事である。このような私の意見は、個々人の欲望の放任をもたらす
ポスト構造主義への批判の基盤ともなりうるのではないだろうか。