《マルティン・ハイデガー Martin Heidegger 3》
1 :
考える名無しさん :
2008/07/21(月) 06:55:39 O 『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
2 :
考える名無しさん :2008/07/21(月) 07:10:43 0
_,. ' 7'ヽ、 / / i \ / ! i \ // \ __ / ,. '´ ゝヽ_ノ、 \ __,..........、 / _,. - ' ´  ̄ニニヽニ´-' ´ /入ヽ、、 /=-、 ` ヽ r'´ ', / ,イrヽヽヽ、 i ヽ、 \ / ', ! //! i ` ',ヽヽヽ、 | > \ くぱぁ・・・♪ __/ ', i f'´ i | i ヽ、ヽヽ ! / \ ', / !', | , i | } |`` \ / \ ' , y_,.. '´ ヽ ヽ ! i i!., | !// _,. - '´ヽ、/ ' , ,.くk、 \ ', レJ.| / / 入 ,' ', / `ヽ 、 \ヽヽ ノ //_,. / ヽ ,' ', / ` ー- _ ヽ``'ノ´' ´ / \ ノ /  ̄''''''''´ ヽ
3 :
考える名無しさん :2008/07/21(月) 08:16:00 0
ハイデガー・・・忘れかけていたな。 もう数年すると、完全に忘れられるかも。
4 :
考える名無しさん :2008/07/22(火) 02:47:36 0
>>3 そんなことはない。 今の時代こそハイデガーや現象学(フランス現象学も含め)の思索が必要。 その重要性がますます認識されてくると思う。
Dale Jacquetteの「ONTOLOGY」(2002) この本最高だな。20世紀の存在論復興の立役者、ハイデガーと クワインの問題点が、どこがどう違うのかの明確に述べてるからな。
そもそもハイデガーは現象学なのか 存在論であるとは思うが
7 :
考える名無しさん :2008/07/24(木) 01:59:29 0
8 :
考える名無しさん :2008/07/24(木) 02:11:57 0
9 :
考える名無しさん :2008/07/25(金) 03:53:21 0
>>6 スピルバーグの映画でも結構ミスがあるように、いちいち重箱の隅を気にしてたら、
ちまちま小さくまとまってしまい、もふ…ひひいのだ…満足満足
仮面ライダーの仮面の下からはみ出た髪とか、ウルトラマンの背中のジッパーとか、
子供でも大人になって目をつぶってる事があるのに、お前は器が小さ過ぎ。
嫌なら読むなよ。
北欧編、北欧ガンツメンバー コペン・マッケー(♂) 13回クリア。北欧チーム最強の男。メタルバンドのボーカル。ノルウェー人。 ペタ・ニョッキ(♂) 9回クリア。コペンのバンドでベースを務めるスウェーデン人。 ポッポ・スタコッタ(♂) 9回クリア。コペンのバンドでギターを務めるフィンランド人。 トラファルガー・ロー(♂) 7回クリア。ニート。デンマーク人。 タカフミ・ツルノ(♂) 4回クリア。ノルウェー観光局職員。ノルウェー在住の日本人。 ニコラス・ペタス(♂) 4回クリア。格闘家。デンマーク人。 コリン・ファレル(♂) 3回クリア。俳優。アイスランド人。 ルマウェル・ハンセン(♀) 2回クリア。医者。ニョッキとは恋人関係。スウェーデン人。 ターヤ・トゥルネン(♀) ミッション初参加。インディーズ歌手。フィンランド人。 ベンニ・ヘム・ヘム(♂) ミッション初参加。マフィア。アイスランド人。 ヴァン・ホルンボー(♂) ミッション初参加。マフィア。デンマーク人。
13 :
考える名無しさん :2008/07/25(金) 05:07:38 O
のう、くさいのぅ
14 :
考える名無しさん :2008/07/26(土) 20:40:54 O
別スレッドに“引きこもりで生きていくのがつらい”という人が書いていたが、ハイデガー『有と時』の中に、本来性の想起について、過去にあり得た可能性への応答の反復、というのが論じられている。これは己を歴史性としてまず捉え、決定的な要因に着目する、 今日の己にとっての原-像とは何か、見定める、ということだと思う。自分を引き摺っていってるものの正体を見定める、次に、更なる遡行を企てる、そこで、あり得た可能性に着目する、まずそこから自己解体と再生を考えてはどうかと思う。これは可能だと思います。
15 :
考える名無しさん :2008/07/27(日) 16:56:49 0
17 :
考える名無しさん :2008/07/31(木) 15:49:41 0
刊行延期されすぎ。ホントに出るのかねえ。 それに全集にあるんだろ? そんなに待つ価値ある翻訳なの?
18 :
考える名無しさん :2008/08/03(日) 18:55:59 0
そうなんだけど、出るとわかってたら全集に手を出しにくい。
ハイデガーの著作で「存在論的差異」について書かれているのってどれですか? 解説本でもいいですが。
> 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 もういい加減にしてくれw
21 :
考える名無しさん :2008/08/16(土) 02:49:16 0
保守age
22 :
考える名無しさん :2008/08/16(土) 13:28:58 0
『存在と時間』を読み始めたんですが、本を読みつけないせいかとても難しいです。 エロゲーが大好きなんでエロゲーを例にとりながら質問させていただきたいのですが 自分はとりわけエスカレイヤーやスウイートナイツ・シリーズといった戦う正義のヒロインが 敗北して陵辱されてしまうような作品が好きなんですけど、同好の士の間で定期的に 議論になるのがヒロイン死亡エンドの是非についてです。 どちらかといえば多くの人がヒロインの死亡シチュなんてのは鬱になるだけだから ゲームに取り入れるべきではないと主張します。 肯定派の人は、正義のヒロインは命をかけて戦っているがゆえにヒロインたりうるわけだから 死亡エンドがあるのは必然であり、目をそむけるべきではない、むしろ避けえぬ死が 存在するからこそヒロインが生きているという事態が真に到来するのであって、 それはいわばヒロインをより生かすことなるのだ、といった主張をします。 ここで後者がいっているようなことを、まさしくハイデガーもいっているのじゃないか とふと思ったんですが、このような認識をもってハイデガー理解の端緒としても よいものでしょうか?
>>22 驚き、あきれるというか、絶句。
少しが長いが、渡邊二郎先生の本を引用するから、
こういう本を読んでから、マルティンに挑むんだね。
(渡邊二郎「現代人のための哲学」ちくま学芸文庫p229)
人間は、誰しも、来し方を振り返り、行く末を思い煩いながら、
現在を生きるほかにはない存在者である。永遠的な絶対者ならば、
時の流れのなかの飛散を寸毫も知らず、一挙にすべてを見通すで
あろう。しかし、時の定めのなかを坤吟しつつ歩む宿命を背負った人間
という有限的な存在者にとっては、過ぎゆく時の流れのなかに立って、
昨日を振り返り、明日を思い煩い、優い今日を生きるということが
必然の運命である。しかも、死という終わりが、私たちの存在を限界づけている。
>>23 私たち個々人に与えられた時は、有限である。その有限の人生の、
期待と記憶と知覚に彩られた持続的な体験流のなかでのみ、私たちは
生を営むことができる。そのとき、死の限界を意識しつつ、既在を取り返し、
未来の到来に向けて、現在の状況のただなかに立って格闘する本来的な覚悟が、
私たちの存在の根底から湧き上がってくる。そうした決意こそが、私たちの
人生行路を本来的に形成せしめる。もちろん、私たちは、世俗的には、
さまざまな出来事に引き摺り回され、自分の関わった出来事の成功や不成功に
一喜一憂し、過去の記憶や忘却のなかを漂い、現在の周囲の出来事に
気を取られ、自分らしさを失うこともある。
>>24 けれども、「いのち」の充実を目指して、私たちは、有限の時の流れを本来的に
熟成させようとして、生きていると言わなければならない。こうした各人それぞれの
人生行路の時間性の時熟が、やがて、共同的場面において、人為的公共的な
時間測定の基準を、一律に便用可能な時間単位として、要請してくるのである。
なぜなら、それなしでは、相互の公共的な意思疎通が不可能になるからである。
しかし、人為的に創られた公共的な暦や時計や年表があるから、
人間が時間的存在者なのではない。逆に、人間がそもそも時間的存在者
であるから、そうした暦や時計や年表が生ずるのである。記憶や期待や知覚、
持続的体験流、時間性の時熟は、けっしてたんに主観的なものではない。
26 :
考える名無しさん :2008/08/16(土) 15:46:21 0
>>23 なるほど、つまりゲーム的にいえば、エロシーン回想モードを備えていたり、
セーブやロードを駆使することでいつでも好きな場面から繰り返しプレイできる
エロゲーのようなものは内容いかんを問わず駄目なのであって、
どちらかといえばオンラインゲームのようなものでなければ
「生きた」ことにはならないっていう理解でいいんでしょうか?
見当違いだったらすみません。。
28 :
考える名無しさん :2008/08/16(土) 16:02:52 0
>>27 ありがとうございます。
あと、ハイデガーに影響されたエロゲー作家なんてなかなかいないと思うんですが、
その影響を受けたとおもわれる小説家とかはいるんでしょうか?
よろしければ、作家名や作品名を教えてください。
筒井康隆
モーリス・ブランショ ジョルジュ・バタイユ
>>22 >>23 〜
>>25 みたいのはとりあえず典型的な駄文だから、真に受けないように。
ヘタすリャ中学生レベルでもわかるような話を精一杯気取った書き方で書くと
こうなってしまうという見本。
ハイデガーならいろいろと工夫をこらした解説本が出てるから、まずは
amazonなんかの書評を頼りに自分に合いそうなものを選んでみるといいよ。
32 :
考える名無しさん :2008/08/16(土) 21:03:19 O
22レスさんのエロゲーム中のヒロイン凌辱趣味ってのは、いわゆる<供犧>の論理だと思いますね。バタイユの文章で、スペインの闘牛士を扱っるのがありますが、スペイン市民が勇敢な闘牛士が猛牛に敗れ、串刺しにされ、内臓を垂らしながら死んでゆく姿に熱狂するのは 何故か、バタイユは独自な論理で分析する。つまり、<供犧>の現前なわけで、バタイユからみればそれは一目瞭然である。 エロゲーマーさんの熱狂ぶりもそれと類似なものだと思いますね。ただ、ゲームだから、実際に闘牛士の血が流れるのと違い、ゲーム内のキャラクターの死、止まりである。 ところで、この感覚はさてハイデガー的なのかどうか、となると、実はハイデガーには、『ヒューマニズムに関する書簡』の中で、ヒューマニズムを論ずるならば、ヒューマニティに、つまり人間性に、人をして驚愕させる、という側面もある、 人をして驚愕させるものが人間性にはある、それもヒューマニズムに包括させるべきである、もしそうでなければ、それは人間性にたいする過小評価にしかならない、といったことを述べている。つまり、人間性のなかには、驚愕させるものがハナから包括されているのだ、 それを認められるか否かが自分の言うような有からみられたヒューマニズムと、または理性的動物という人間定義から生ずるヒューマニズムの分かれ目である、とハイデガーは述べている。 そこが特に重要であり、ハイデガー思想というのは、渡部二郎の言うような、「公共的」な事柄に絶えず直結していくわけではない。もっと恐ろしいものだし、また深度を孕んでいる。渡部が上レスに引用されたようなそんな文章を書いていたとは不勉強で知らなかったが、 私からみると渡部二郎はハイデガー思想を矮小化しているように見える。 ちなみに、先の『ヒューマニズムに関する書簡』のハイデガーの言説は以下の通りである。 《それとも、その思索は、「ヒューマニズム」に対する公然たる抵抗を通して、次のことへの切っ掛けとなりうるかもしれない衝撃を敢行することを試みるべきであるのか、すなわちそのこととは、人間ラシイ人間<homo humamus>の人間性<Humanitas>とその人間性の 根拠づけとに関して先ず一度は愕然とする、ということである。》(創文社版ハイデガー全集9巻道標437頁)
ふ〜む。けっこうナチな匂いも漂う言説ですね。
最終的には<ナチ的なるもの>というのは、ありとあらゆるものを支配・対象化してしまう、それにより己を権力化してしまう、すなわち有を有るもの化する欲望と、すなわち有の忘却と不可分離なもので、それもハイデガーはナチ加担後にかなり内省してますよね。 また、先の『ヒューマニズムに関する書簡』はナチ加担後、1946年に書かれており、既に1930年代後半『哲学への寄与』からナチ分析は為されていたが、ナチにおける有の理解がどのようなものかを考えてから、更に拡大し、出してきている。すなわち惑星的歴運として。
例えば、 男がきれいな女をモノにしたいという根源的な欲望=有るもの。 レイプ=有るもの化=有の忘却。 ということでしょうか?
>例えば、男がきれいな女をモノにしたいという根源的な欲望=有るもの。 >レイプ=有るもの化=有の忘却。 >ということでしょうか? <きれいな女をモノにする>という場合、身体を拘束する、モノ(フェティッシュ)化する、また、反対にマゾ的に<俺>の側が<モノにされたい>という場合、 いずれの場合でも、自分か<モノ化>を媒介した上で、ある種のエクスタシーに到達しなければならない、訳ですよね。重要なのはその、いわゆる忘我の極致にあって、<モノ化>はそのための階梯みたいなものではないか。重要なのは<モノ化>ではなく、 いわゆる脱-存Ex-sistanzにある。身体の一部への偏執も、やはりエクスタシーをめがけていくでしょう。 仮にそうでない、エクスタシーに及ばないフェティシズムがあるとして、しかしそれでも、その人間なりの世界企投、有の理解に則って、そうなっているのは間違いないでしょう。それは有の忘却とは言えない。何故ならそのような人間なりに、何が己の本来性か 、考えているのかもしれない、その結果、犯罪に陥るとしてもね。むしろ、そのような性癖をもつ人間を、異常者として片付ける人間がいるとしたら、其の方がむしろ、有の忘却、だと言うのではないか。て気がしますね。
なるほど。丁寧なお答えをありがとうございます。とても勉強になります。 おっしゃられている「忘我の極致」と「己の本来性」との関係性がとても重要なような気がします。
38 :
考える名無しさん :2008/08/17(日) 13:22:42 O
フェティシズムがエクスタシー(忘我の極点)をめがけていくか、またはめがけないか、の差異でしょうね。めがける、ということは、フェティシズムに句読点というか、段落が打たれるのと同じだし、それが、極点がないとしたら、いわゆる散文的になり、 フェティシズムは持続的になる。 いずれにしても、フェティッシュへの偏執があることを人が自覚し、めがける、その時点で本来性の問いにその人なりに踏み込んでいる、ことになるでしょう。ただ、フェティシズムに止まらず、より、<あり得たもの>を希求し、己の時を経歴を、遡行してゆく可能性も 残りますよね。それが<本来性の問い>の意味であると思うし。
渡邊二郎って言ってる事は分かりやすいんだけど どこまでがハイデガーの言ってる事でどこまでが自分で 整理や解釈した事かが分からない文章書くのがね… 内容をねじ曲げるよりも陳腐なまでに内容をそぎ落として しまうのもハイデガー読みにおいては問題だろうし
渡邊二郎か。 勤勉だし尊重すべきだが、 なぜか絶望的なまでに退屈な文章しか書けない人だよな。
文才がないんだよ、とりあえず。
44 :
考えるな無しさん :2008/08/23(土) 11:31:06 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
45 :
考えるな無しさん :2008/08/23(土) 11:32:20 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
糖質純一 今日も一人
47 :
考える名無しさん :2008/08/23(土) 12:29:28 0
渡邊二郎って自分の結論が出ていても周りが気づかない、 もしくは周りの結論はまだ出ていないにもかかわらず自分なりの 結論を導き出そうとはしなかった? 言い方が悪いな、時間の経過にかかわらず終わった感のあることを 後から持ち出す、そういう感じではなかった?
49 :
考える名無しさん :2008/08/27(水) 21:20:12 O
創文社の全集、次に出る巻とかはまだ未発表か。
50 :
考える名無しさん :2008/08/28(木) 02:03:10 0
木田元「存在と時間」の構築、企画モノみたいなタイトルなんで 内容にあまり期待せずに読んでみたら 意外と言ったら偉そうだが、タメになった。 やっぱ原語の意味合いが分かると腑に落ちて理解できることがあるね。 特に重要な概念は原語のニュアンス理解が大切だなと思ったわ。
51 :
考える名無しさん :2008/08/28(木) 11:39:06 O
↑50レスはまさにスレッド本文(80年代に日本では木田元が…云々)を地でゆく読者みたいだね。ハイデガー読み始めに木田の恩恵を受けた人は、俺もそうだし多いんじゃないかな。
スカイ・クロラを観た。 もろに『存在と時間』の香りを感じた。
53 :
考える名無しさん :2008/08/28(木) 15:50:44 O
ほう。どの辺りに『存在と時間』の影響が?
俺にはバタイユっぽかった バタイユ自体が『存在と時間』っぽいが
>>53 ダスマンから、死に至る存在の自覚を通じて、本来的実存を取り戻す感じだ。
『存在と時間』っぽいて言っても、あくまで既刊部な。
56 :
考える名無しさん :2008/08/29(金) 20:11:17 O
今更実存主義とか下らなさすぎるわ
57 :
考える名無しさん :2008/08/30(土) 01:43:11 O
≧56:考える名無しさん2008/08/29(金) 20:11:17 O今更実存主義とか下らなさすぎるわ ええ。なのでスレッド冒頭に、“永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー”と入れ、木田元を引用しながら評価の変遷を強調したわけですけどね。そのような評価ではハイデガーは語り尽くせないであろう、という意味で。
58 :
考えるな無しさん :2008/08/31(日) 03:33:41 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
59 :
考える名無しさん :2008/08/31(日) 03:34:37 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
60 :
考える名無しさん :2008/08/31(日) 10:46:24 O
何やらスレッド本文を無意味に?何度も貼りつける人がいるけど、少しは他に、疑問やら意見やらも書いてほしいよな。スペース、勿体ないよ。 そういや数年前、ヤスパースとハイデガーの出逢いからハイデガーによるナチ加担や第二次大戦を挟んでヤスパースの死までの二人の交流をドキュメント化した番組がNHK教育で2週にわたり放映されていたが、番組では誠実真摯なヤスパースに片や熱狂的なナチ礼賛、 戦後も沈黙を守り、ナチ批判を避けるハイデガー、というふうに、ヤスパース寄りの視線で終始進行し、あれは不満だった。実際はハイデガーは様々な著作でナチ批判をやっており、しかも相当な拡がりと深度でやっている。ナチスというものが歴史に登場した必然性をも ハイデガーの場合、みているため、とにかく批判すればよい、とにかく免罪符を見せればよい、という立場とは一味も二味も違っている。そういった辺りを見ないハイデガー批判が番組では採用されていた。かえすがえす惜しいと思う。 ヤスパースだが、早くから互いに友情を感じ、盟友として、ヤスパースの死まで文通していた割りにはハイデガー思想をさほど理解もできず、そのまま死んでしまった。ヤスパースの初期の主著『世界観の心理学』が出版された際、ハイデガーは鋭く読み解き、 長文の批評を書いてヤスパースに献呈している。一方、数年後にハイデガーの主著『有と時』が出版された際、ヤスパースは訳が分からず、ほったらかしていたらしい。そのまま、ハイデガーによるナチス加担の時代になり、二人は疎遠になり、文通以外で関わることは なかった。それでも第二次大戦後、教授職を剥奪されていたハイデガーが再び大学に戻れるよう工面したり、出来得るかぎり援助した件も記録として残っている。しかし、ヤスパースが晩年の『哲学的回想』で語る通り、ヤスパースの中にはハイデガーの謎めいた部分、 畏怖ともいえる不気味さが終生消えることなく残った。盟友ヤスパースにさえ思想を理解されなかったハイデガーの悲劇を痛感してしまう。
ハイデガーなんて「哲学」とは呼べないね。 よくても「人生哲学」「エッセー」「人生論」。 否定はしないが、大学で哲学研究するとかの対象 にはならないね。
ハイデガーは数少ない「真正面から向き合う」哲学者だ
63 :
考える名無しさん :2008/08/31(日) 20:07:00 O
≧61:考える名無しさんsage2008/08/31(日) 17:18:45 0 >ハイデガーなんて「哲学」とは呼べないね。よくても「人生哲学」「エッセー」「人生論」。否定はしないが、大学で哲学研究するとかの対象にはならないね。 まあまあ。あなたは一度くらいはまともに著作に目を通したのかな?(笑)「哲学研究の対象にはならない」と言っても、フォーラムに行くと、色んな大学に相当な研究者は現実にいるみたいだぞ。 尤も、ハイデガー本人からして、自分の思索というのを<哲学>と称する気はなかったようだしね。むしろ<哲学>よりもよりラディカル、根本的な思索である、と言いたげ。同時代に広く流布していた思潮には失望を隠さなかった。 原佑と渡部二郎がトートナウベルクまで訪れた際も、「ドイツで今、注目されている哲学はありますか?」という質問にたいして、「何もない」ときっぱり断言した、という対話が中公パックス『存在と時間』の冒頭に記されている。 死まで、同時代の他の哲学にたいしてハイデガーの方から賛辞を送ることはなかったのではないかね。<哲学>という領域自体がハイデガーにとって、有の忘却の一形態として問題とされていった経緯があるわけで、「貴方の仕事は哲学ではない」と伝えたところで、 無言で見つめ返すだけだろう。 むしろ、じゃあ、ハイデガーの仕事とは、<哲学>でないとすれば何だったか、それ自体が一個の残された問いとなる、そう捉えるのが妥当だろう。
やに下がったご高説はブログの裏にでも書いとけばいんじゃね?
64:考える名無しさんsage2008/08/31(日) 22:06:48 0 やに下がったご高説はブログの裏にでも書いとけばいんじゃね? ↑あなたにはハイデガーは難しいから、無理しないでもっと易しい話が出来るスレッドに書き込みした方が楽しく2ch.出来ますよ。
「ハイデガー研究」は哲学科じゃなくて ドイツ文学科あたりでやるべきだろう。
>>66 それはありえない。
哲学概念の理解とは別。
分析哲学を英文科でやるのがナンセンスなのと一緒。
人間は有限な時間を生きている、とか、自分が望んだわけ でもないのにこの世界に投げ出されている、とかの感想を "哲学概念"と言っていいのかという問題もあるかと思うん ですが、加藤さん。 まあ、「存在を問う」とかの言葉に惹き付けられる 人が多いのも問題なんでしょうけど。 さあ、次は天気です。市川さん、お願いします。
ハイデッガーはあと50年もすれば、忘れ去れているよ。
ろくにハイデガーの著作も読まずハイデガーを詩人扱いって ハイデガー本人からすれば別の意味で苦笑するしかないだろうね キチンと哲学史的文脈を踏まえた質の高い解説本が少ないのも 原因だろうけどこれはニーチェあたりでも同じ状況なんだろうなぁ 日本語で読める解説本ならジャン・グレーシュの翻訳のが今のところ 一番オススメだからひとまずこれ読んでからアレコレ文句言ってよ
72 :
考える名無しさん :2008/09/07(日) 15:53:19 O
デリダの『哲学の余白』に収録されている講演記録に、『differance』というのがある。これは最初に訳したのが高橋充昭で、『理想』1984年11月号に掲載されている。 この講演は例によって難解なものだが、しかし、ハイデガーやフロイト、レヴィナス、ニーチェらをデリダがどう読み込んだか、が解り、そこが興味深いところがある。 一言でいえば、デリダによるハイデガーやフロイト読みとは、徹底した脱中心化、人間を探究すり場合に、特定の経験なり、解逅なり、にインパクトを認め、そこからそれを中心化していくことを外してゆく読み方だと言える。 フロイトの読み方にしてもそこは徹底されている。 《無意識とは、周知のように、隠れた、内にひそんだ、潜在的な<自己への現前性>であるのではない。無意識は差延する―これはたしかに、無意識は諸差異から織り上げられていること、そしてまた、無意識は代理者たち、受託者たちを送り出し、派遣することを意味する。 しかし、委任者がどこかに「現実に存在し」、現前し、「彼自身」であるチャンスとか、いわんや彼が意識をもつようになるチャンスなどは、そこには一つもないのである。》 《現前性のあらゆる可能な様態との対比において根底的なこの他性の特色は、<事がすんでから>、<遅れ馳せに>という解消不可能な諸効果のうちに認められる。》 《「無意識」という他性を相手にするとき、われわれは変容した現在〔現前者〕たち―過ぎ去った現在あるいは来たるべき現在―の諸地平にかかわっているのではない。そうではなく、かつて決して現在であった〔現前した〕ことのない、そして今後決して現在である 〔現前する〕ことがないだろうような「過去」にかかわっているのであり、したがってそのような「過去」の「将来」〔a-venir(来たるべきもの)〕は決して現前性の形式における現出〔production(産出)〕ないし再現〔出〕ではないだろう。 それゆえ痕跡という概念は、過去把持の概念、かつて現在であったものが過去になることの概念と同じ規準で計ることはできない。人は痕跡を―したがって差延を―現在〔現前者〕から出発して、すなわち現前者の現前性から出発して考えることはできない。》
73 :
考える名無しさん :2008/09/07(日) 16:23:14 0
>>71 まずはおまえがドイツ語を読めるようになw
74 :
考える名無しさん :2008/09/07(日) 16:57:58 O
(72の続き) このように、無意識の発見とは、<現前したことのない-また現前することのない-痕跡>という意味を徹底的に担わせられてしまうのである。その読み方のモチーフは、何らかの意味の中心が人間にたいして付加されることから何としても、脱するべきというのが 恐らくモチーフではなかろうか、とも思える。でなければここまでフロイトを骨抜きにし、換骨奪胎を施すべき根拠はなかろう。 一方ハイデガーの読み方としてはどうか。デリダはハイデガーにおける有の大文字性を遠ざける。それをひたすらに遠ざける、という手法については解らぬことはない。しかし、例えば先のフロイトとの関連で読まれるべき有もまたハイデガーにはある。 そこでは曖昧化や、有の忘却の忘却(窮迫)はあり得ないし、想起こそが最有力なテーマとなるべきである。しかし、デリダには窮迫に対抗するべき思考はない。やはりどこまでも脱-中心化にとどまるのである。 デリダは有の忘却やそこからの想起がハイデガーにおいて、何ら具体的ではないことを以て、有の痕跡の痕跡として現前者を定めることを主張する。ここにはフロイトの読み方と同じ逆説的な転倒がある。また、フロイトの読み方と同じ不毛性がある。 ハイデガーが深化させた、時性を基礎においた方法は、まるで無視されて、あたかも虚構の物語でしかなきかのような容貌を担わせられてしまう。これはハイデガー読解としてはいたずらな脱-構築以上のものたりえているか、疑問である。
75 :
考える名無しさん :2008/09/07(日) 18:17:27 O
(74の続き) デリダは高橋の翻訳した『La differdnce』において、有論的差異について以下のように述べている。 《したがって、差延の思想によって問題視されているのは、存在が現前性ないしは存在者性に限定づけられている〔la determination de l'etre en presence ou en etantite.(存在が現前性ないしは存在者性と規定されている)〕という、まさにこのことである。 このような問いは、どこかで存在と存在者との差異が開かれるのでなければ、現われえないし、理解されえもしない。第一の帰結、それは、差延は存在しない、ということである。差延は現前的-存在者ではない―たとえ人々がその現前的-存在者をどんなに卓越したもの、 無比のもの、原理的なもの、ないし超越的なものとみなしたいとしても差延は何者をも支配せず、何ものにも君臨せず、どこにおいてもいかなる権力をもふるいはしない。差延はいかなる大文字によってもおのれを告知しない。ただに差延の王国といったものが存在しない のみではない、差延はあらゆる王国の覆滅を誘発するのである。》 《たしかに差延は、それ自身の或る局面において、存在なしいは存在論的差異の歴運的かつエポック的な展開〔deploiement〕にほかならない。differdnce〔差延〕のaはこの展開の運動をしるししている。 それにもかかわらず、存在の意味もしくは真理についてのこの思考、差延を限定して〔determinatinn(規定して)〕このように存在的-存在論的差異にしてしまうこと、存在の問いの地平で思考されたこの差異、これはまだいぜんとして、差延の内-形而上学的効果 ではないだろうか。》 《存在は、それが存在者のなかに身をひそめることによってしか、決して「意味」をもたなかったし、決して思考されたり言われたりもしなかったのづあってみれば、差延は或るきわめて奇妙な仕方で存在論的差異よりも、ないし存在の真理よりも「老齢」で(ある)。 ほかならぬこの年齢のゆえに、人は差延を痕跡の戯れと呼びうる。》
76 :
考える名無しさん :2008/09/07(日) 18:30:35 O
(75の続き) ここにはデリダ特有な差延の哲学にハイデガーを置き直す特異な試みが為されている。有論的差異はそこで、差延をめぐるデリダ特有な否定神学的な色彩を施され、ひたすらな否定的にのみ有ることにされてゆくのである。 あたかもハイデガー的なプラトニズム批判の意匠を自身に施されたかのように、有論的差異は否定神学化されてゆくしかなくなる。また、有の位相にしたところで、痕跡としてしか、すなわち将来的に、また過去にも、決して現前せざるものでしかありえなくなる。 そこでは、かつて『根拠の本質について』(1930年)で詳細に分析されたような、<原-像をめがけ時熟する世界>といったリアルな実像範疇はなきに等しい。デリダが記すそれらはハイデガー的な展開とはまるで異なるものである。あたかもハイデガーはそう読まれるしか なきかのように、ハイデガー的な展開をハイデガー自身へ向けているかのように、それはハイデガーを脱-構築する。
77 :
考える名無しさん :2008/09/07(日) 22:34:26 O
問題とされるべき箇所は例えば次の箇所だろう。 《第一の帰結、それは、差延は存在しない、ということである。差延は現前的-存在者ではない―たとえ人々がその現前的-存在者をどんなに卓越したもの、無比のもの、原理的なもの、ないし超越的なものとみなしたいとしても差延は何者をも支配せず、 何ものにも君臨せず、どこにおいてもいかなる権力をもふるいはしない。差延はいかなる大文字によってもおのれを告知しない。ただに差延の王国といったものが存在しないのみではない、差延はあらゆる王国の覆滅を誘発するのである。》 ここでデリダは、存在という意味を「現前的存在」という意味と等義している。そうして、差延は「現前的存在しない」ことを以て、「存在しない」としている。単にデリダは差延とは「現前的存在者ではない」ことを言いたいだけである。 では、「現前的存在者ではない」ことを以て、それは存在しない、と言い切れるのだろうか。 もともと、有(存在)とは、現前的ではない。現前的ではない位相を指している。一方、有るもの(存在者)とは、反対に、現前的なるものを指している。 それではこの両者の差異とは、現前的なのだろうか。差異は「有る」。しかし、その差異とは、現前的ではない。現前的でありうるのは有るものだけである。有(存在)はそうではない。有るのは意味上の臨界面だけである。つまり、差異は現前的ではない形式において、 「有る」と言わなければならない。冒頭に挙げた引用において、デリダは、差延は現前的存在者ではないことを以て、それは存在しない、と述べていた。しかし、有論的差異とは、もともと現前的存在者ではないという形式で「有る」。 したがって、有論的差異が現前的存在者ではないということを殊更に挙げること自体、無意味な証明である。 差延はすべからく<間>を、または<遅延>を、意味するのだとするならば、デリダのタームに移して、現前的ではない形式において、差延は「有る」と言い換えてもよいだろう。
78 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 04:48:37 O
ハイデガーにおいて、有とは超越論的に有るものを立てる時性であり、歴運としての<被投性=企投性>の対抗躍動だとされる。ハイデガー的な有という範疇はもともと現前的ではない。しかし、有を思索するなかで要請される領域があることは避けられない。 それが現前的でないからといって、「有るのではない」とは言えない。それが「事後的に」のみ発見されうる、という「遅延」は有の構造に包括される。構造化された有は、普遍性を持ち、有という領域は忘却を免れ得る。そこにハイデガー有論の意義もまたある。 デリダが言うように、《差延は有論的差異よりも老齢である》。それはそうかもしれない。しかしながら、有の問いが浮上させられるべきならば、たんに否定神学的な差延を顕揚したところで、何を言えることにもなりはしない。 だからこそハイデガーはデリダのように問いを立てることはなかったのだ。立てるべきは有の問いにある。 ハイデガーにも、有があたかも無根拠であるかのように見えるタームがある。有の《底無し》を挙げている場合がそうだ。《底無しの深淵》をそこで語っている。 しかしながら、この用語は、一見ひどく文学的だが、たんに歴運の深さ、歴史的根拠の深さを挙げようとしているのに過ぎない。決して思考停止を勧めているわけではない。それを見誤るべきではない。ハイデガーにおいて、掴まれているべきなのは有の問いにある。
>>72 >>74-78 デリダとハイデガーの関係を考察したいのなら、
おなじ『哲学の余白』所収の「ウーシアとグランメー」
を読まないとお話にならない。
「差延」は、特段ハイデガー批判をしているわけではないので、
無理にそこに対立関係を読み込むことは不毛だ。
80 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 11:47:36 O
≫79:考える名無しさんsage2008/09/08(月) 10:00:08 0
>>72 >>74-78 >デリダとハイデガーの関係を考察したいのなら、おなじ『哲学の余白』所収の「ウーシアとグランメー」 を読まないとお話にならない。「差延」は、特段ハイデガー批判をしているわけではないので、無理にそこに対立関係を読み込むことは不毛だ。
「不毛」ではないだろう。《「差延」は、特段ハイデガー批判をしているわけではないので、無理にそこに対立関係を読み込むことは不毛だ》という言い方は本の読み方からしてなっていないし疎いのではないのか。
《特段ハイデガー批判をしているわけではない》文章にハイデガーへの批判がむしろ現われている、という場合がないと何故言えるのか。デリダのような屈折した論理を使う書き手なら尚更注意深く読む必要性はある。
『哲学の余白』を使わなかったのは、たまたま今、『哲学の余白』は手元になく、『La differance』が収録された『理想』だけが入手できたまで。しかしながら、それだけでもデリダによるハイデガー読解を知るには多くの論点があると解った。
「ウーシアとグランメ」がなければ「話にならぬ」わけでもない。
>>80 「ウーシアとグランメー」はデリダの代表的なハイデガー論なんだよ。
>《特段ハイデガー批判をしているわけではない》文章にハイデガーへの
>批判がむしろ現われている、という場合がないと何故言えるのか。
そう読むのは勝手だが、たまたま手に入ったからという理由で、
「差延」を深読みして、それをもとに、恣意的なデリダ解釈を
垂れ流されても説得力ないんだよね。
例えて言うと、カントなら『純粋理性批判』読まずに
「プロレゴメナ」だけ深読みしてひたすらカント批判しているようなもの。
ま、ここは2ちゃんだから、別に好きにしたらいいけどね。
深読みですらないですが。。
83 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 15:10:59 O
デリダは差延について、『理想』80頁下段-81頁上段-81頁下段でこう述べている。 《差延とは、次のような事態を生じさせるものの謂である。(中略)現在が現在それ自身であるためには、或る間隔が現在を現在でないものから分離するのでなければならない。(中略。)力動的におのれを構成し、おのれを分割するこの間隔、これがつまり、間隔化、 すなわち時間が空間となること、ないしは空間が時間となること(待機)と呼びうるものなのである。そして、ほかならぬこのような<現在の構成>、すなわち(中略)、もろもろの過去把時および未来志向のしるしたちの、痕跡たちの、「始原的な」、手の施しようもなく 非-単一的な、したがって厳密な意味では非-始原的な綜合としてのこのような<現在の構成>、これをこそ私は、原エクリチュール、原-痕跡、ないしは差延と呼ぶことを提案しているのである。(中略。)始原のないdifferance(の産出)のこの(能動的な)運動を、人は、 新しい綴り方をしないで、ただ単にdifferenciation〔差異化〕と呼ぶこともできたのではないだろうか。》
84 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 15:15:10 O
差延とは言ってみれば、唯物論的な生成を<瞬間>で捉まえる概念だと私には見える。絶えざる<現在>の産出にこそその本質はある。その概念の革命性については充分に認めたい。しかしながら、いざそれが、ハイデガーの思索とどう関わりを持つのかとなると、 そこに疑問が生ずる。たしかにハイデガーには自然(physis)論がある。そこで生成と支配を論じている。だが、この自然論はもう一つの柱がある。それは現-有の経歴、履歴と深い繋がりを持っている、ということだ。現-有は有と有るものの間にある。 有と有るものの間にありながら、しかも有るものの全体がそこで開示される場を指している。有の本質現成は現-有において、ある。そこに有の神秘化を読むことは出来ない。何故なら、自然論と有論は言ってみれば現-有の、事実性を横目にみながら、 その解釈上の手続きとして絶えず思索されているからである。そこに唯物論や原子論が挟み込まれる「哲学の余白」はないと言わなければならない。そうして、デリダによる差延は、自然論としての卓越性を持ちながら、現-有への眼差しを落としており、補填は一切ない。 ハイデガーには現-有について、<底無しの深淵>という言い方がある。<覆蔵することによる開示>という言い方がある。逆説めいていたり、深遠めいていたりするものの、すべて、有るものの全体が開示される仕方、また、歴運を、言い当てている。 ヒューマニティ(人間性)に対して、慎重極まりない構えを保ち続けたが、にも拘らず、ヒューマニティの真の在り方、そのあり得る深度について、問い続けたのもまたたしかなのである。それは、唯物論的、原子論的な哲学とは全く違っている。 また、自然(physis)は、細胞的な位相ではなく、いつも現-有における世界の開示として思索に繰り込まれている。そこに有の牧人としての人間、という在り方は絶えず視界に入れられている。 デリダによるハイデガー読解は、差延との繋がりを考察した。しかし、そこでの高度な唯物論は、現-有という領域を切断することによって、ハイデガーへの通路を自ら塞いでしまったかに見える。むしろ切断することによって、デリダは己の哲学を構築したのだ。
>唯物論的、原子論的な哲学とは全く違っている。 >深遠めいていたり ここなんですよね、アレルギーを感じる人が多い理由は。 根拠もない、ひとりよがりな思弁を展開しているだけ、と。
73 :考える名無しさん[] :2008/09/07(日) 16:23:14 0
>>71 まずはおまえがドイツ語を読めるようになw
馬鹿なのか?こいつw
87 :
考える名無しさん :2008/09/10(水) 01:16:08 O
≫85:考える名無しさんsage2008/09/09(火) 22:11:14 0 >唯物論的、原子論的な哲学とは全く違っている。 >深遠めいていたり ここなんですよね、アレルギーを感じる人が多い理由は。根拠もない、ひとりよがりな思弁を展開しているだけ、と。 そうかな。独り善がりでもないと思うが。デリダのテクストの中でドゥルーズ『ニーチェと哲学』が引用されている箇所があるが、そこに、デリダが何に着目するかといえば、ドゥルーズが力の差異、量の差異、を顕揚する箇所である。 《私はただ次の点を指摘しておこう。すなわち、ニーチェにとって、「大いなる主要な活動は無意識的である」こと、そして意識は諸力の効果であり、それら諸力の本質、それのたどる道程、それの様態は意識にとって自己固有のものではないこと、これである。 ところで、力それ自体は決して現前しない。それは諸差異と諸量の戯れに過ぎない。諸力の間の差異なしには力一般は存在しないだろう。そしてこの場合、量の差は量の内容よりも、絶対的な大きさそれ自体よりも重要なのである。》(『理想』1984年11月号86頁上段) 続いてデリダは、対立における差延を語る。 《つまり対立の一項から他項への迂回的かつ多義的な移行としての(aを含む)differance〔差延〕のことである。(中略)するとそこに見えてくるのは、対立の消去ではなく、そこでは両項の一方が他方の差延として現れるといった、つまり一方はあの同じもののエコノミー における差延された他方として現れるといった、そういう一つの必然性の告知であるだろう。》(同86頁下段-87頁上段) 《差延としてのそのような同じものの展開(中略)から出発してこそ、永劫回帰における差異と反復との同じもの性(memete)が告知される。》(同87頁上段) このような記述を辿れば、そこに、差延という概念を用いた、<同一性と差異>といった問題、その物質的な止揚があることが分かる。そのような複雑な観念を司るのはデリダの場合、物質的な運動の哲学である。ハイデガーの有論も、有論的差異が脱-構築される仕方は 同じものである。あくまでも現-有という場所を切断することで、ハイデガーの有論的差異が脱-構築される。しかし、現-有においては有は世界の開示と密接な繋がりを保持する。そこに物質的な哲学が左右しうる領域はない。
88 :
考える名無しさん :2008/09/11(木) 20:37:46 O
ハイデガーの見出だした概念の中でも企投性を被投性と等号で結び、その対抗躍動に有の本質現成を見る、というのは優れた概念だと思える。この場所からみると、個体の企てる事柄や了解は、時性の時熟によって、導出されてゆくということになる。 そこで、公的な存在や知的な存在を拡張し、私的な領域にたいして被いかぶさるように包括し、世界市民的な意味付けを課してゆく運動は、少なくとも理念上は切断され遮られてゆくことになる。そのような意義が<企投性=被投性>の対抗躍動には読み込める。 謂わば、世界市民的な、公共的な、共同性はそこで意味を為さなくなるし、個体に届かなくなる。そうして、届かなくなることは二つの領域の差異をあからさまにするという意味で本質的で適切なのである。そこには、人間存在を硬直化させるものへの鋭い解毒作用が 書き込まれていた。 敢えて誰とは言わずポストモダン的な知は、ハイデガーを継承するような装いで、ハイデガーの有論を更に解体、そうして、脱-中心化を図った。そこで、さらなる柔軟性が思想として企投される、はずだと信じられた。 しかし、ポストモダン的な知には、そのような力は稀薄で、その知の破壊的作用とは裏腹に、人間存在を自由にさせる力はなく、むしろもっぱら、知の否定神学的な宗教性を進行させることになった。そこでは知は密教性を帯び、知の宗教性は温存された。 ポストモダンの中心とは従って、大学であり、知識人の巣窟であり、公共性の再建される場所である。ハイデガーの有の問いにおいて無名の大衆の実存へ開かれていた、知識人もまた己の実存へ内省を促された、その概念の意味はそこで喪失された。 むしろ、ハイデガーの知を脱中心化する作業を通して、ポストモダンは<私性>への通路を塞いだ。
ハイデガーにおいて、戦後においても実存範疇はないがしろにされていたわけではない。『「ヒューマニズム」に関する書簡』において、人間は「有の牧人」として規定された。「有を見守る人」としての人間は変わらぬ重要性をもたされている。 また、有が現れる「現」としての現-有という位置付けも重要極まりない。翻れば、戦後において、有と人間との関わりはハイデガーにおいて、重要視されてきたとみなされる。もともと、ハイデガーにおける有論とは、時性として、時熟として、そこでの主体の被投性と、 密接なる関係をもつ概念として考えられていた。それは有の覆蔵とその解除の相互浸透として、または覆蔵することによる有の開示として、考えられていた。そこにはあくまでも有を非現前性の哲学へ押し込める神秘主義と無縁な眼差しがみられる。 有の概念の取り扱いにかんして、ポストモダンよりもハイデガーは遥かに実存との関わりをみており、その意味で神秘主義とは相反している。 ハイデガーにおける有と現-有の関係を取り外す、その作業が1960年代からの現代思想的な読み方を形作った。 しかし、より微細な復元が今は肝要なのであり、実存範疇の正当な位置付けが必要なのである。有論から現-有を捨象しない読み方が。
前レスに指摘したごとく、デリダのハイデガー読解の特徴とは、ハイデガーにおける基礎存在論にたいして取り上げること乏しく、専ら、有それ自体にたいして問いを集中させる読み方である。デリダの差延とは生成としての自然の運動性を、前面に押し出し考えられている。 だから差延を軸にして考察するなら、あらゆる差異は曖昧化されるし、自然の生成という場所に包括され、また、絶えざる差異化という場所に包括される。デリダにおける唯物論と私が名付ける所以である。この哲学のもつ面白さは、差延によって対立が無化されたり、 或いは新たに差異が見出だされたりするところにある。しかし、本当のところこれが何なのか、というのは曖昧模糊としている。また、デリダ自身が、哲学にたいしてさほど大きな貢献をしようなどと、大それたことを考えているようにも見えない。 ただ、新しもの好きな人々や流行に敏感な人々が喜んでいたのは確かだろう。しかし、それは表層で通過するだけの現象に過ぎない。差延の思想が(または類似の哲学が)何を残したか、というのは結論が見えつつあるかもしれない。 少なくとも、唯物論的な色彩を担っていた諸々の哲学が何だったか、は。
荒らしウゼー
今、形而上学入門を読んでるんだが、分かりやすくていいな。 存在と時間は半分くらいで挫折したんだけど、とりあえず先にこれに移って正解かも。 これが終わったら、次はヒューマニズム書簡に行こうと思うん。
それはあまりオススメできんな
≫93:考える名無しさんsage2008/09/13(土) 13:03:34 0 >それ(『「ヒューマニズム」に関する書簡』)はあまりオススメできんな 何故《オススメできん》かを指摘できない議論は全く無意味だろう。私は93レスとは反対に《オススメできる》と思う。 『「ヒューマニズム」に関する書簡』とは戦後すぐ、ナチ加担で教職から追放されていたハイデガーに対し、注目したフランスの論壇のジャン・ボーフレが、「一体如何にして「ヒューマニズム」という語に或る意味を返し与えるか」を書簡で問い質したのを受けて、 より普遍的な問題に置き直し、公式に回答した作品である。そこに当時、ハイデガーから影響されたと公言しながら活躍中のサルトル実存主義への評価、マルクス主義への評価、自身の有の問いからみた人間存在をどう捉えるか、等々、本質的に答えようとしている。 加えて、ポストモダン思想とは異なり、戦後の思索においても有の問いと人間との関わりを放棄したわけでないことをはっきりとうたっている。ちくま文庫にも長い解説つきで収録され、入手しやすい。というわけで、読書の順序として悪くないと思う。
うぜーよハゲ
>>94 92だけど、ありがとう。
ヒューマニズム書簡を読んだ後は、ちくまの存在と時間注解で、存在と時間をまた読んでみるよ。
ってか、木田元の解説書を先に読んだから、存在と時間を読むことそのものに懐疑的になってしまうよ。
≫95:考える名無しさんsage2008/09/13(土) 13:51:42 0 >うぜーよハゲ ↑(爆笑)何をいきりたってる?欲求不満なのか?繁華街に出て女の子に声でもかけてカラオケでも誘ってみなよ。悪いこと言わないから一晩遊んでこいよ(笑)。
>>72 から、長文を延々と連投し
このスレを荒らしている方が悪いに決まっている。
ここは公共掲示板。お前のノート代りのチラシの裏ではない。
≫96:考える名無しさんsage2008/09/13(土) 14:09:01 O
>>94 >92だけど、ありがとう。ヒューマニズム書簡を読んだ後は、ちくまの存在と時間注解で、存在と時間をまた読んでみるよ。
>ってか、木田元の解説書を先に読んだから、存在と時間を読むことそのものに懐疑的になってしまうよ。
言わんとするところはまあ分かります。ハイデガー自身が実存哲学とされることを嫌った経緯、『有と時』が完成されることなく放棄された経緯、じゃあ『有と時』の価値ってのはどこにあるのか、となる。加えて、ポストモダンの巨匠たちがハイデガーを読む場合、
『有と時』への軽視もある。また、このスレッドの冒頭にもその手のことが書いてある(笑)
にも拘らず、単に有の問いではなく、有と現-有との関わり、というのはハイデガーは放棄したことはなかった。『有と時』既刊部というのはまさにその現-有とは何か、有という位相からみられた人間を実存範疇として論じ詰めていってる。
人間と有の関係こそハイデガー的な問題圏だと思いますしね。その意味で、基礎存在論という形で現-有を分析した『有と時』はやはり重要だと思いますよ。
>>99 92です。
なるほど、ありがとう。
存在と時間を最初に読んだときは、序論は理解できたけど、後がダメだったんだ。
そこで色々調べて、次に読むときは、ちくまの存在と時間註解(マイケル・ゲルヴェン)を片手にチャレンジするつもりなんだが…
この本は、正しい理解をもたらしてくれるかな?
ジャン・グレーシュの高い解説書読みなさい 木田とかああいう馬鹿の言ってる事が全て吹っ飛びます
≫100:考える名無しさんsage2008/09/13(土) 14:41:28 O
>>99 >92です。なるほど、ありがとう。存在と時間を最初に読んだときは、序論は理解できたけど、後がダメだったんだ。そこで色々調べて、次に読むときは、ちくまの存在と時間註解(マイケル・ゲルヴェン)を片手にチャレンジするつもりなんだが…
>この本は、正しい理解をもたらしてくれるかな?
ふーん。いやあそのマイケル某の注解本は、読んだことないのでねー何とも言えないんだけど。一番良い方法としては、やはりハイデガーの他の著作を迂回し、また戻ってきて『有と時』を読み直す、て読み方ではないのかな。そのたびに理解は深まると思いますけどね。
因みに私は順序としてはやはり平凡社ライブラリー『形而上学入門』、同『ニーチェ』ときて、次に河出書房新社世界の大思想『有と時』(辻村公一訳)、あとは順次刊行されだした創文社の全集で読みましたけどね。現行の創文社全集版『有と時』は辻村公一の訳ですが、
河出書房版を更に一部改訳したものだと思います。
103 :
考える名無しさん :2008/09/13(土) 15:42:19 0
『有と時』は本質を誤訳している。
なんだ、本当のハゲか
>>98 まあブログに書いたら誰にも相手にされない程度の読みしかできない
人らが、結局行き場がないもんだからこういう板に巣食ってるんだよね。
不安を押し隠すためにしたり顔で居丈高な長文レス連投で、
まともな人間は呆れて見捨てていくから今度は自演もし始めたりと。
いっぱしのハイデッゲリアン気取りで毎日空話の垂れ流し〜
≫105:考える名無しさんsage2008/09/13(土) 17:43:13 0
>>98 >まあブログに書いたら誰にも相手にされない程度の読みしかできない人らが、結局行き場がないもんだからこういう板に巣食ってるんだよね。不安を押し隠すためにしたり顔で居丈高な長文レス連投で、
>いっぱしのハイデッゲリアン気取りで毎日空話の垂れ流し
(笑)まあ、コキ下ろしたい情熱の凄さだけは伝わってきました。で、次に、一体どの辺りが《誰にも相手にされない程度の読み》であり、かつ、《空話の垂れ流し》であるのか、具体的な指摘、が必要です。
それができなければそれこそ《空話》であり、それこそ《誰にも相手にされない》、またされる必要もない単なる中傷以外のものではない、ということになりますね。
上でヒューマニズム書簡の話があったけど Ereignisってこれで初出なのか?
目をパチクリさせて、これて何か言ったつもりなんだよw あ「(笑)」って書くのかw
109 :
考える名無しさん :2008/09/14(日) 02:30:56 0
まあよくしらんけど、ハイデッゲル先生は立証責任なんて ちゃちいもんは問題にしなかったんでないの
110 :
考える名無しさん :2008/09/14(日) 02:35:43 0
>>143 そういう時は彼女の陰毛を栞代わりにするのが吉
111 :
考える名無しさん :2008/09/15(月) 02:43:34 0
「今日、英訳を通じて、初めて東洋の聖者、親鸞を知った。
もし、10年前に、こんな素晴らしい聖者が東洋にあった
ことを知ったなら、私はギリシャ語や、ラテン語の勉強も
しなかった。日本語を学び、親鸞聖人の教えを聞いて世界
じゅうに広めることを、生きがいにしたであろう」
これは20世紀最大の哲学者の1人として名高いドイツの
マルチン・ハイデッガーの言葉といわれます。
…上記のような説明が、このページにあります。
http://www.shinrankai.or.jp/syounin/index.htm 私はこのような言葉を寡聞にして知らないのですが、
ご存知の方はいますか?
112 :
考える名無しさん :2008/09/15(月) 12:12:49 O
『歎異抄』にみられるよう業縁の概念がハイデガー的なものだということは私も感じています。何故かといえば、業とは時性として回帰し熟する存在の胚を指し、縁とは空間的な関係性を指す。行為とは何かについて、優れた認識で、ハイデガーと近いことは明らかである。 但し、親鸞自身は生前、教団だとか、教義だとか、自らの信仰を拡大する、権勢拡大には全くタッチしていない。肝心の信仰についても、自然(じねん)ということを最重要視していた。信仰とは親鸞によれば、人間が自力で入るものではない。 その実は阿弥陀の広大なる力、縁による。それが信仰における他力本願の意味である。よって親鸞にとって何事においても最重要なのは、自力ではなく自然(じねん)である。何より『歎異抄』によれば親鸞は、浄土信仰をこれみよがしに他人に勧めることを奨励はせず、 他の信仰を論難することも戒めている。親鸞は業縁という概念を最後まで重要視し、信仰に入るか否かもその角度から捉えていたと私は捉まえています。親鸞系統を自認していた蓮如にしてからが、その意味では親鸞の自然(じねん)を全く理解しておらず 、重要視もせず、しかも阿弥陀信仰とお布施を関係づけ、教団拡大を成し遂げた。かの蓮如の時代から、親鸞系統の教団は親鸞の信仰から大きく逸脱していたことがわかる。この逸脱は現存する親鸞系統教団においてもおそらく変わらない。 親鸞の教えから逸脱している、というのは親鸞の死後まもなく心有る弟子によって問題視され、『歎異抄』は、やはり親鸞の教えからの逸脱を正すという目的で、唯円によって書かれたと考えられる。『歎異抄』はしかし、 蓮如によれば、「危険な本なので、みだりに読ませぬように」という但し書きが付されています。蓮如のような教団拡大を目指す政治家にとって、『歎異抄』は異端の教義とする必要があり、正統的ではないと見なす必要があった、と私は捉えています。 親鸞系統教団や研究会にたいし、そのような視点を崩さないことがまず必要でしょう。
113 :
考える名無しさん :2008/09/15(月) 23:26:40 0
>>111 そのサイトには、出典となる文献が書いてないところが、
若干いぶかしいところではある。
114 :
考える名無しさん :2008/09/17(水) 01:42:06 0
最後の親鸞(笑)
115 :
考える名無しさん :2008/09/19(金) 03:25:04 0
あえて言おう。クズである。
「我、存在と共にいます」 広大無辺なる弥陀の慈悲がそのまま Ereignis です。
117 :
名無し :2008/09/21(日) 08:11:07 0
デリダ読んでる方の書き込みお待ちしています。 私もたいした知識は持っていないのですが、人のご意見も読みたいと思っていますので・・・
118 :
考える名無しさん :2008/09/21(日) 09:08:19 0
今朝のアカイ、アカイ朝日新聞に、 中央公論社のテツガクシャ及びテツガクケンキュシャどもへの 「最も影響をを与えた本」というアンケート調査結果が載ってたな。 1位 存在と時間 2位 方法序説 3位 精神現象学 4位 パンセ、エチカ だとよ。
少し聞きたいんだけど、存在と存在者の区別は、形而上学的ではないんだろうか? ハイデガー読んでるといつも思うんだが…。
そうだよ なのにそのことに自覚的でなかったのも形而上学的 ハイデガーも存在論的差異に気づけばそれでOKなんて 言ってないし
121 :
吾輩は名無しである :2008/09/22(月) 18:26:09 0
ハイデガーもある意味形而上学者です。 ただ存在と存在者を二元論的に論じるのはハイデガーの望んでいたこと かどうかは、疑問だと思います。 私もドゥールーズやデリダをよんでいますが、教えていただきたいとことでは あります。
存在から存在者が生じたりするわけじゃなくて、 存在者の存在というのもあるわけで、ただ、存在の 意味を問うのが主題で、それゆえ現存在という存在了解を 持つ存在者を通じて存在の意味に迫ろうとするのが ハイデガーなわけだからハイデガーは形而上学者であるとは 考えていないわけですよ。 答えの一つは「存在が『存在し』ている」かもしれないが。
123 :
考える名無しさん :2008/09/23(火) 02:23:12 0
ハイデガーの影響が顕著な作家・詩人がいたら、 国内外を問わず教えてくれまいか。作品でもいい。 ブランショ以外でお願い。
124 :
c2 :2008/09/23(火) 08:02:17 0
プルーストがハイデガーに会ったことがあると聞いたことはあります。 私は今フィリップ・ソレルスを読んでいますが、ハイデガーの影響を 受けているかは、わかりません。 サルトルは論外なんでしょう? フランス以外の海外、あるいは日本作家への影響は、興味があります。
125 :
嵐 :2008/09/23(火) 08:08:12 0
ハイデガーは、ナチってた時点で形而上学の気がある。 ニーチェを形而上学の完成者としてまとめてしまったことも、意義がある と同時に異議もある。 自分はもっとラクー・ラバルトを精読したいと考えている。
126 :
考える名無しさん :2008/09/23(火) 12:20:03 0
125 :嵐[] :2008/09/23(火) 08:08:12 0 ハイデガーは、ナチってた時点で形而上学の気がある。 ニーチェを形而上学の完成者としてまとめてしまったことも、意義がある と同時に異議もある。 自分はもっとラクー・ラバルトを精読したいと考えている。
127 :
考える名無しさん :2008/09/24(水) 00:49:32 0
>>124 1922年11月にパリで、それも長年ほぼ寝たきりの状態で死んだ文豪に、一私講師にすぎないハイデガーが会っていたとは、
私にはどうも考えにくいのですが、なにか史料のようなものがあるのですか?
128 :
123 :2008/09/24(水) 03:00:34 0
>>124 はい、サルトル、ブランショ以外で。
「失われた時を求めて」は最初の数十ページ読んで数年間放置w
ムージル「特性のない男」が現象学の影響を受けている、と
何かで読んだことがありますが。
ハイデガーの影響を強く受けたと聞く文学者って
上記2名以外にいないのかな。
>>101 木田元の反哲学入門を読んでいる最中でハイデガーの『存在と時間』の
骨格が見えてきたところ。
どういうわけで木田の発言が馬鹿なの?
あなたはかなり高度な見識を持っていそうなので、お伺いしたい。
130 :
c2 :2008/09/24(水) 18:28:24 0
ハイデガーに影響を受けた作家? 守中氏の「存在と灰」?を読んでみては?
>>129 >101ではないけれど、確かに木田元さんはハイデガー読みには
あんまり評判が良くないですねえ。
132 :
c2 :2008/09/24(水) 19:04:32 0
プルーストがライプニッツに会ったことがある、といゆのはなんかの本に書いて あったのですが、そこまでいわれると自信はありません。
133 :
c2 :2008/09/24(水) 19:24:38 0
132 ライプニッツではなくもちろんハイデガーに会ったことがあるということ・・・ です。間違えました。大間違い!!
木田元は馬鹿じゃないが、あまり独創性がないし、 解説屋の印象があるなぁ。深みがないんだよね。
135 :
考える名無しさん :2008/09/24(水) 19:37:54 0
私は木田氏の講義を受けたが、氏は解説者であって学者ではない印象です。 ハイデガーの思想の転回を論じることにも、そうゆう読みには疑問を感じます。
そもそも木田元ってハイデガーの研究書を一冊も出してないじゃん
129だが、 そうなのか。 転回のところもまだ途中だけど、なんとなく納得していた。 苦労人のようだし、それがつまり学者肌ではないという感じはしていたが。 まさか読んで害になることは無いよね。
>どういうわけで木田の発言が馬鹿なの に対して具体的には何も指摘されていないのに「なんとなく納得して」しまう点の方が問題だろ
木田元だけ読んで満足するなら害 大づかみにでもハイデガーの思想のアウトラインを押さえてから まともな研究書を読んで木田元の言ったことなんて頭から吹っ飛ばす なら害じゃない そもそも同じことばっかり繰り返し繰り返し言って印税生活してるような 老人って知的誠実さに欠けるよね
>>137 竹田某などとは違って読んで害になるというようなことはないよ。
木田の原典の読解力は優れた翻訳にも示されているように
確かなものだ。ただ、それ以上ではない。
良くも悪くもつねに入門書や解説書を書いてしまう人なんだよ。
研究論文書かないしなあ、この人 とか 木田だけ読んでちゃやばいって とか 同じこと書き続けてる木田もちょっと・・・ って感じなんだね。たしかにそれはあるな。 これは、木田本人への不満もあるけど、受容層に対する苛立ちみたいなものなんだろう。
142 :
考える名無しさん :2008/09/25(木) 07:52:47 0
木田さんはもともとメルロ・ポンティーの解説者(現象学)ですよね? 解説者としては、評価していいのでは?
>>138 あなたは日本語読めてませんね。
納得したのは木田の転回の件ですよ。
過去形になってる意味をちゃんと把握しなさい。
>>138 ↑
いや、このスレにこんな馬鹿がいるとは。あきれますね。
で、どういうわけで木田の発言が馬鹿なの?
馬鹿って誰も言って無いじゃん。 解説書ばかり書いてるから、木田の解説書ばかり読んだら駄目よ、って言われてるだけでは。
147 :
考える名無しさん :2008/09/25(木) 14:15:56 0
木田さんはナチについても講義ではほとんど問題にしてなかったと思うし、 「性起」についてコメントしてくださらなかったと当時のことを思い出しています。
148 :
考える名無しさん :2008/09/25(木) 14:29:51 0
ハイデガー研究はデリダ路線で行くべきでしょうか? ハイデガーへの絶対的な読み方は、あるのでしょうか?
>>148 ハイデガー以後のハイデガー読みの最大の哲学者はデリダにおいて
他はいないから、従うかどうかはともかく、とりあえずデリダ路線
は外せないだろうね。
ハイデガーの絶対的な読みは存在しないが、大方の専門家が一致する
読み方の基本はあるから、初心者はこつこつ勉強して掴んでいくしかないな。
150 :
考える名無しさん :2008/09/25(木) 17:58:54 0
>>149 ありがとうございました。
木田の発言が馬鹿なんじゃない 木田が馬鹿なんだ
ハイデガー「研究」でデリダ路線なんてキワもキワじゃん 英米圏では完全にぶり戻し?みたいな感じでフレンチニューソウトな 匂いのする物は下火も下火(少し過剰な気もするが) そもそも今も昔もドイツと日本では堅実なハイデガー「研究」を やってるのに今なぜデリダって感じ ペゲラ―やヘルマンあたりのど真ん中の研究に触れずデリダ路線を 優先するなんてハイデガー「研究」としてはありえないし もはや言語圏によらずハイデガー研究としてデリダよりも読むべき物は 山ほどあるよ
>>101 ジャン・グレーシュの解説本って高いわりにつまらない。
ちくま学芸文庫のほうがいい。
『ハイデガーの根本洞察「時間と存在」の挫折と超克』仲原孝 は面白そうだがね。
>>153 >英米圏では完全にぶり戻し?みたいな感じで
>フレンチニューソウトな
>匂いのする物は下火も下火
そうでもないみたいよ。
こんな近刊が予告されていたりする。
ロックモアあたりで一通りの紹介は終わったんだろうけど
本格的な読解は、まだまだこれからでしょ。
French Interpretations of Heidegger: An Exceptional Reception
(Suny Series in Contemporary French Thought) (Hardcover)
by David Pettigrew (Editor), Francois Raffoul (Editor)
http://www.amazon.com/dp/079147559X/
「○○以上のものは山ほどあるよ」というやつって 絶対にその「「○○以上のもの」の具体例を何一つ挙げないんだよなw
ペゲラ―やヘルマン
今日、誕生日だ。
157 :考える名無しさん[sage] :2008/09/26(金) 04:57:16 0 「○○以上のものは山ほどあるよ」というやつって 絶対にその「「○○以上のもの」の具体例を何一つ挙げないんだよなw
パトチュカいいな。
162 :
考える名無しさん :2008/09/30(火) 18:10:18 0
N氏のヘルダーリン論を読んでいます。 さっぱりわかりませんが、身体で感じたいとおもっています。
なんで良心のかけらもない人間ほど良心とか真顔で説いちゃったりしますか?
>>162 N正氏の?
アレは俺も注目してて、かねがね読みたいと思っていたところ。。
ただ、値段が高いんだよなあ・・
165 :
ロリータ、ロリータロリータ、ロリータ :2008/10/04(土) 21:43:07 0
ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ!
166 :
ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ :2008/10/04(土) 21:44:12 0
ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ!
167 :
ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ :2008/10/04(土) 21:44:51 0
ロリータ、ロリータ、ロリータ!
168 :
ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ :2008/10/04(土) 21:45:54 0
ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ!
169 :
考える名無しさん :2008/10/04(土) 21:47:29 0
道楽息子は死ぬためだけに帰ってきたのかw
170 :
考える名無しさん :2008/10/04(土) 23:25:07 O
まるちんげ・はえてるがーです
171 :
考える名無しさん :2008/10/05(日) 10:53:52 0
N正氏はデリダ主義者でさえ、ないと思っています。
>>22 >22 名前: 考える名無しさん Mail: 投稿日: 2008/08/16(土) 13:28:58 [ 0 ]
>『存在と時間』を読み始めたんですが、本を読みつけないせいかとても難しいです。
可能世界論を振り回す論理学にハイデガーは懐疑的です。
それは存在の本質ではないのだと、、、、
『空想哲学講義』という本に「タイムボカンでハイデガーがわかる」という章があり、
お約束のギャグ(ドクロ=死への先駆)こそハイデガーの求めたものだとわかります。
同著者の『空想哲学読本』には『ときメモでカントがわかる』という章があり、サブカルにこだわりのある方には
こちらもおすすめです。
三流予備校講師よ、自著の宣伝乙。 こないだ出た本もつまらなかったよ。
『空想哲学読本』(富増章成)の「エヴァンゲリオンでデカルトがわかる」が読んだ範囲で最高のエヴァ論だった。 スピノザの汎神論を援用し「ひとり人類補完計画」が可能だとする最後の提案は、いまだに視聴者による補完を 必要とするこの作品を正確に論じている。
【このスレッドは ル・サンチマン™ の提供でお送りしております】
>>155 読破しました。ここまで丁寧に『存在と時間』がなぜ挫折したのかを解説したものはめずらしい。他のハイデガー研究者のように、ハイデガーの口真似ではなく、論理的にその理由が述べられてる。おススメ
> 他のハイデガー研究者のように、ハイデガーの口真似 例えばだれ?
177じゃないが、『ハイデガーの根本洞察時間と存在の挫折と超克』を 読み始めたところ。 初っ端からハイデガーの表現の矛盾を突いている。
180 :
考える名無しさん :2008/10/08(水) 22:49:47 0
>動物の世界が「貧しい」と言うのだとすれば、その立場はもはや、 >人間と動物と無生物とをひとつのスケールのなかで捉える、 >生物学的で人間主義的な経験諸学とほとんど変わらない。 >しかしハイデガーはまさに、現存在と存在についての自らの学を、 >それら存在者に関する知識から徹底的に切断することを主張していた。 >ハイデガーはこの矛盾を放置している。 ねーママこれなんでー?なんで矛盾してるの?
>>180 人間=理性的動物という従来の哲学的表象と縁を切り、人間=現存在として
人間には動物、無生物と全く別のスケールを示したのが「存在と時間」
だったはずなのに、再び人間=理性的動物の表象を使っちゃったってことよ。
そこから、現存在としての人間と、動物としても人間という 二つの次元は、両極として相互依存しながら混じり合っている んじゃないか、と問い詰めたのはデリダですね。
【提供 ル・サンチマン™ 】
ハイデガーは「実存」の意味を途中から変えたよね。
そもそも後期は「実存」がどうの、「現存在」がどうのなんて、ほとんど言わないでしょ。
186 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 21:58:12 0
そもそも矛盾しちゃいけないのかという問題が残る。 定義を一貫させないとダメなのか。
定義を一貫させなかったら分かるものも分からないって話だろ。
188 :
考える名無しさん :2008/10/15(水) 07:27:39 0
しかし、哲学者の定義(概念)を前期・後期・・・つまりその哲学者思想全体を 同一のものとして、捉えるのは、その哲学者がかわいそうというか・・・同情じゃないですが、 概念はズラされていかなければ、形而上学からは逃れられないと個人的に思いますが・・・ 私は、ただの馬鹿でしょうか?
果たしてマルティンは形而上学から「逃れよう」と思ってたのかな?
哲学、実存それら自体どっちも形而上学だよ
形而上学の危機を売り物にする解釈学はハイデッガーで最後だろう。 後期の彼は講演で稼ぐ職人に近い。 ギリシャにあったはずの生き生きとした生身の生は折り畳まれつつ、 彼のテクストに死骸として残る。 形而上学は自分とともに終わり、後は技術的問題だけが残ると彼は信じていた。 スピノザを無視し続けたのは自分が哲学者でない事がバレてしまうからだ。 森の鉄人のイメージの裏の売文業者。。。 時代の危機を誰よりも体現したということかもしれない。
192 :
188 :2008/10/16(木) 20:18:06 0
有り難うございました。勉強になりました。
193 :
188 :2008/10/19(日) 13:42:03 0
以前、木田さんの話題がのりましたが、解説者も解説を積み重ね、繰り返すなら、 それもひとつの哲学として成り立つのかなと感じています。でも擁護しているわけでは ありません。 ところで、べゲラー・ヘルマンのお勧めの書があればご紹介お願いしたいのですが・・・
Otto Poggeler, Der Denkweg Martin Heideggers, Neske, 1963 Otto Poggeler, Neue Wege mit Heidegger, Karl Alber, 1992 F. W. von Herrmann, Heideggers Philosophy der Kunst, Vittorio Klosterman, 1980 このあたりはハイデッガー研究としては無視しちゃ駄目 闇屋がどうとか同じ話を繰り返したり口述筆記でダラダラ 喋ったもので印税生活するのも一つの哲学として成り立つ というのは面白い意見ですね
ハイデガーは「芸術作品の起源」のなかで、道具の道具性を明らかにする文脈で、周知のように一対の靴を描いた ヴァン・ゴッホの一枚の絵画を問題にする。差し当たりそれは、道具を哲学的な理論とは無関係に記述し、道具の 道具存在を明らかにするためなのだが、たんに道具存在を直観によって具象化するためではない。「むしろ、作品 によって初めて、しかも作品においてのみ、道具の道具であることがことさらにその輝き(Vorschein)を発揮す るに至るのである」(Hw S.21/邦訳全集31 頁)。そして、「存在者の存在はその輝くこと(Scheinen)の立 て続きの中に至るのである」(loc. cit.)。ここでは、フォン・ヘルマンが指摘するように、芸術作品に固有な 存在者の開示が問題となっている。芸術作品においては、存在者(靴)がその存在においてたんに露わになった ものとして示されるのではなく、存在者(靴)は存在の自己示現のうちに示されるということである。「芸術作 品における、また芸術作品による存在者の存在のそのような自己示現は、しかしながら輝くこと=仮象すること (Scheinen)である」(8)。さらに、芸術作品論文の第二部の結論では次のような注目すべき文章に出会うこ とになる。「自らを隠蔽する存在は、こうした形態〔諸作品〕で明け透かされて有る。こうした本性を持つ明け 透いたものが自らの輝くこと=仮象することを作品の中へ接合する(fügt)。作品の中へ接合された輝くことこ そ美的なも の で あ る 。 美 と は 、 真 理 が 非 隠 蔽 性(Unverborgenheit)として現 成する一つの仕方である」(Hw S.43/57 頁)。こうした明け透いたものの輝き=仮象は、ほとんど美的仮象 の規定と言っても過言ではないだろう。しかし、ハイデガーにおける仮象の自己隠蔽性は、アドルノのそれに比 してはるかに広範な規定から来ている。この自己隠蔽性格は、究極的には、存在の自己隠蔽性である。では、ハ イデガーは芸術における真理をいかに考えているのか。ハイデガーは、芸術において、真理は性起(Ereignis) として経験されると考えている。O・ペゲラーの言葉を借りれば、「芸術作品の根源は、根源的に生起するよう な真理である」(9)。
(7) Martin Heidegger, Holzwege, Gesamtausgabe Bd.5, Vittorio Klostermann, 1977. 〔「芸術作品の起源」『杣道』辻村公一他訳、創文社、1985 年所収〕以下引用に際しては、(Hw)と略記する。
(8) F.-W. von Herrmann, Heideggers Philosophie derKunst, Vittorio Klostermann, 1994, s.138.
(9) Otto Poggeler, Der Denkweg Martin Heideggers, Neske, 1963
芸術における真理 −アドルノとハイデガーの場合−
田辺 秋守
http://www.t-kougei.ac.jp/research/pdf/vol2-30-04.pdf
そういえば、住む、建てる なんとかって講演はいまだに邦訳がないんだったね・・
木田さんの場合聞かれたことに部分的に答えるのが苦手な印象。 語り始めたときに中途で止めるわけにいかず全てを喋ってしまう、 そういう傾向があるので無駄口と思われるところはあるかもしれない。
それって、ボケ老人に典型的な特徴だよね
そもそも闇屋のこととかハイデガー読むために ドイツ語勉強したとか誰も聞いてないし
死を直視してよりよく生きろとかいうくせに よりよく生きるとはどういうことかという肝心問題から逃げる卑怯野郎
203 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 05:27:31 0
私は独語を読めないのですが、べゲラー・ヘルマンの邦訳書を探して、 「ハイデガーと実践哲学」を注文しました。 これって、可笑しくないですよね?私は真面目にハイデガーについて 考察したいと考えています。
>>203 あなたが、どういったものに劣情を持つのか解ったような気がします。
205 :
白蟻の巣 :2008/10/26(日) 16:16:52 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
206 :
白蟻の巣 :2008/10/26(日) 16:19:54 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
207 :
白蟻の巣 :2008/10/26(日) 16:21:02 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
208 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 16:25:20 0
角川文庫発刊に際して
実存哲学の祖はキェルケゴールだ。
210 :
203 :2008/10/28(火) 17:39:50 0
>>204 私の持つ劣情とは何でしょうか?どのように考えれば? あるいは 劣情 とは?
211 :
考える名無しさん :2008/10/28(火) 19:52:49 0
さっきからベゲラーベゲラーってペゲラーのこと?
それと
>>194 はPoggelerとかPhilosophyとかになっちゃってるけど、原文で田辺氏は間違えてないんだから、
いい加減に借用しちゃいかんだろ。って、マジレスしちゃまずかったのかな?
それにしてもなんで田辺さんはペゲラー『ハイデッガーの根本問題』について言及してないのかな。
ごめん194だけど195-196は自分じゃない Philosophieは書き込んですぐ気付いたけど恥ずかしかったから そのままにしてたw でも続いて自分の書き込みまんまな論文でてきてヘーって思ったよ ガチにハイデッガー専門じゃなくてもとりあえず参照せにゃならんと いうことで
213 :
203 :2008/10/29(水) 21:05:28 0
ハイデッガーの根本的問題 注文しました。 私は徹底してやります。 なにかにいらだっているわけではありません。ちなみに私は仏語は読めます。たぶん・・・
ペゲラーよりグレーシュ
215 :
203 :2008/10/30(木) 05:39:25 0
女性哲学者のデリダ論も読んでいます。 ところで、グレーシュってどんな人・・・?
>>203 パリカトリック大学名誉教授で、この本の著者です。
ジャン・グレーシュ著
杉村 靖彦(すぎむら やすひこ)・他 訳
『存在と時間』講義 統合的解釈の試み
ISBN978-4-588-15049-4
定価12600円(本体12000円+税)A5判
現代フランス哲学を活気づけてきたユニークなハイデガー受容と、
ハイデガー全集の刊行が進むに相俟って世界各国でますます盛ん
になってきた生成史的研究の双方を自在に横断し、あくまでハイ
デガーの思考を正確に解説し提示する姿勢を保ちながら、ガダマー
やリクールの流れを汲む解釈学的現象学の立場から『存在と時間』
とその「作業場」の姿を鮮やかに浮かび上がらせた画期的な注釈書。
Wikipediaの説明はこちら。リンク集もあり。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Jean_Greisch
217 :
203 :2008/10/30(木) 18:17:28 0
>>216 ありがとうございました。
218 :
雀蜂の巣 :2008/10/30(木) 21:40:51 0
ランペスのライザ(Liza of Lambeth、1897年) 魔術師(The Magician、1908年) 人間の絆(Of Human Bondage、1915) 月と六ペンス(The Moon and Sixpence、1919年) お菓子とビール(Cakes and Ale、1930年) 劇場(Theater、1937年) 山荘にて(Up at the Villa、1941年)※邦題『女ごころ』 剃刀の刃(The Razor's Edge、1944年) 昔も今も(Then and Now、1946年)
219 :
雀蜂の巣 :2008/10/30(木) 22:03:50 0
信義の人(A Man of Honour、1904年) フレデリック夫人(Lady Frederick、1912年) ジャック・ストロー(Jack Straw、1912年) ドット夫人(Mrs Dot、1912年) ひとめぐり(The Circle、1921年) おえら方(Our Betters、1923年) シェプー(Sheppy、1933年)
220 :
雀蜂の巣 :2008/10/30(木) 22:14:06 0
読書案内(Books and You、1940年) 世界の十大小説(Ten Novels and their Authors、1954年)
221 :
雀蜂の巣 :2008/10/30(木) 22:15:18 0
要約すると(The Summing up、1938年)
222 :
考える名無しさん :2008/10/30(木) 22:16:22 0
ほらそこ−
223 :
考える名無しさん :2008/11/02(日) 13:57:22 O
こいつの学長時代の講演の記録内容を読むと吹くなあ あれだけ知性に満ちた人間が、ハイルヒトラー!とか言ってんだからw
224 :
考える名無しさん :2008/11/03(月) 20:42:33 O
別にナチスを讚美することがおかしいと思わんけどな
フライブルク大学の学長就任演説読んだけど、 後期ハイデガーの粗悪なパロディとしか思えなかった。
哲学者に政治的センスがないことは良くあること
227 :
考える名無しさん :2008/11/04(火) 00:42:03 O
ハイデガーの最終的な存在についての理解を得るには、何を読めば良いんだろう? 存在と時間、形而上学入門、ニーチェ、ヒューマニズム書簡と順を追って読んできたけど、最後の最後で、大切なことを言ってくれないよね、この人。 問いを立てるだけ立てて、答えは言わない、みたいな。 後期〜晩年の、深まった思想が読みたいんだけど、何かお薦めはありますか?
それなら「哲学への寄与」を読み込めばいい。
>>227 問うだけ問いておきながら、回答を与えず、挙句の果てには、
「こうやって答えのない難問に思いめぐらすのが哲学なんだ!」
と悦に入るのが、哲学の運命らしいよwww
>>228 哲学への寄与だと、ゲシュテルやら放下やらが抜け落ちるだろ。
これらがないと、後期ハイデガーとは言えない。
231 :
考える名無しさん :2008/11/05(水) 00:48:51 0
キルケゴール読んだから、ぼちぼちと思って「存在と時間」をちくま学芸文庫で読み始めたが、キルケゴールよりはわかるね。 読むのに時間はかかるものの、他に解説本読まなくてもいいたいことがわかる。 しかも、面白い!
232 :
考える名無しさん :2008/11/05(水) 21:54:12 0
私は「哲学への寄与」を個人的に読み込みたいと考えています。 まあ 勝手にすれば といわれそうですけど。
233 :
考える名無しさん :2008/11/08(土) 11:41:38 0
存在と時間、1日に2〜3頁くらいしか読めない。 この調子で読んでも「存在への問い」の答えどころか、キルケゴールをよりわかりにくくしただけの現存在分析だけで終るのかと思うと、さっそくうんざりしてきた。
234 :
考える名無しさん :2008/11/08(土) 15:03:34 0
でも 存在と時間 は、避けては通れんでしょう。
始めてのハイデガーとして形而上学入門200ページまで読んだけど何これ? 「存在とは何か」から偉大な古代ギリシアを持ち出して 「存在とはどういう意味であったか」の追求はいいとして「存在とはどうあるべきか」 になってるんですけど しかも人間限定だし なんなんだこのジジイ
じじいも何も既に死んでます
237 :
考える名無しさん :2008/11/09(日) 11:58:25 0
233さん、235さん その書 を 選択した瞬間からすでに出来事は起こっているのです。 あなたがたに・・・・
239 :
考える名無しさん :2008/11/09(日) 21:51:10 0
おれも哲学の著名本を読みつづけてようやく存在と時間に辿りついたので、ちょっと襟正してる気分なんだけどねー。 本当に20世紀の最重要な哲学なんかなー? 20世紀にはウィトゲンシュタインもいればレヴィ・ストロースもその他いろいろいるんだが。
地方駅弁の哲学専攻の者ですが、先輩方に一つお聞きしたい。板違いで申し訳ないのですが・・あまりにサルトル板の程度が低いので。。 サルトルの哲学は愛を完成し得ないと言う点で致命的な気がしますがわりかし数学的な論理性を有している気がします。 そこでサルトル哲学が時代に淘汰された理由を哲学史的観点から分かりやすく説明してただきたいのですが。 フーコーによる狂気の排除によって・・・てな感じで。。
>>240 あまりに硬直化した弁証法一辺倒だったからでしょ。とくに後期はそう。
あと、教条的なマルクス主義もよくない。
それから、哲学史や原典への取り組みが根本で甘かった。
フッサールなりハイデガーなりの現象学への理解一つとっても、
同時代のメルロ=ポンティ、レヴィナス、後続のデリダ等々と比べ、
理解の水準が低くて、今から読むとかなり我流の解釈で歪曲している
ことが分かる。
という評価だったけど最近は割と読み直しも進んでる所よ。 特に政治主義になっちゃう以前のものについて。
確かに初期にはよいものがあるよね、サルトルは。 L'Imaginaire なんかは個人的に好き。
サルトルは自己欺瞞の話は、分析哲学での行為論ですごくポピューラーですが。。。
<241返信ありがとうございます。 弁証法一辺倒というのはわかるのですが、論理的な破綻があるのでしょうか? 後、確かに我流の解釈が多い気がしますが、サルトル哲学においてはそれなりに論理的なつながりがあると思うのですがどうでしょうか?
>>245 哲学や思想は、論理的な破綻がなければないいというものではない。
弁証法(ヘーゲル)といかに対決するかは20世紀思想の根本問題のひとつだからね。
サルトルはその問いをうまく同時代と共有できなかった。
結局、時代を超えて人々を引き込むような「+α」がなかったから、サルトルの思想は廃れた。
もちろんその「+α」は、これから再発見される可能性もあるわけだけれども。
サルトル研究者の課題ですね。
>>246 なるほど。非常に分かりやすい解説でした。ありがとうございます。
がんばって+αを見つけます。
頑張れー フランスでも最近は読み直し研究も増えてるし そもそも流行廃りをあまり意識してもしょうがないので。
249 :
考える名無しさん :2008/11/13(木) 00:23:10 O
ハイデガーはキリスト肯定派だったの?
251 :
ヒューマニズム :2008/11/15(土) 17:26:05 0
252 :
考える名無しさん :2008/11/23(日) 03:30:37 0
>>229 と
>>235 がいいことを言ってる。
ヘーゲル・マルクスに取り組みはじめると、
ハイデガーとか実存主義とかは哲学じゃなくて
文芸だと気づく。
253 :
考える名無しさん :2008/11/23(日) 07:44:44 0
いやむしろ、マルクスは「思想」で実存主義は「哲学」。 小説の形をとらざるを得ない「哲学」。 何故そうなるかはキルケゴールを読んでくれたまえ。
ハイデッガーと実存主義を一緒にくくってかかる時点でもうね・・・
流行の実存主義に乗っかりながら「俺は実存主義じゃないぞ」 と学長まで登りつめる。ペテン師としての才能は優れていた。 実質が実存主義なものだから、結局は行き詰って支離滅裂に。
まともに読んだことない奴のほうが批判したがるよねやっぱ
257 :
考える名無しさん :2008/11/23(日) 22:07:24 0
でもハイデガーは評価高すぎ。 「存在への問い」とかなんとか云って大上段に構えたはいいが、 現存在分析だけで終っちまってる。 それも、存在了解があるのは現存在だけだから、まず現存在分析やりゃなんかわかるだろう、というあなたまかせのでたとこ勝負。 そらにしかもその現存在分析はキルケゴールの丸パクリ。 なんであんなものが20世紀最大の哲学なんだ。 20世紀はそこまで不毛ではない。
だからなぜ木田本程度しか読まない人間はこういうこと言いたがるのか
259 :
考える名無しさん :2008/11/24(月) 07:55:05 0
現代でいえば宮台とか池田晶子程度のキワモノなのに 持ち上げられすぎ。
そこまでひどくねーよ
ワロス
「存在」なんて文芸だな
読んでないのまるわかりだから、全然煽りになってねーな。
>>262 「存在」「存在」と言ってれば引っかかる奴は必ずいるからね。
でも、ハイデガーみたいなのを自ら選択して人生の貴重な時間を
費やすのも自己責任だからね。
ハイデガーの面白さが分からないなら黙ってればいいのにね。
自分が彼を理解できないのは自分が悪いんじゃなくて彼が悪いんだ だからきっとみんなも騙されているはずなんだ って論理
しかも存在と時間だけかもしくはそれすら読まず 解説書だけ読んで批判してるんだからね
268 :
考える名無しさん :2008/11/24(月) 19:24:06 0
存在と時間の後に書かれた本はたしかに現存在分析より先にいってるけどよー。 存在と時間はちくま学芸文庫のお陰でどうにかこうにか読みとおせたけどよー、 その後の本は無理。 もー無理。 意味不明。 つーか本人も引っ込みつかなくなって、ただ訳わかんないこと書けばそのへんの提灯持ちが勝手に解釈してくれんだろう、という感じで続きかいた模様。
こういう人を見ていると邦訳全集版の誰にとっても読みにくい編集方針は罪深いとも言える
270 :
考える名無しさん :2008/11/24(月) 19:46:18 0
わたしの読解力はマルクスが上限。 カント、ハイデガー、サルトルはわかりません。 つーか、ハイデガー、サルトルは頑張って読み解こうという気がおきない。 なんか時間が無駄になる気がして。 カントは時間は無駄にならないと思うけど、読み解くのに10年じゃきかない感じなので、結局よまない。
271 :
考える名無しさん :2008/11/24(月) 19:48:26 0
今、ヤッターマンの特別版をビデオにとりながらみてま〜すっ!
272 :
考える名無しさん :2008/11/24(月) 21:05:02 0
目次がない・・・ 「建てる・住まう・思索する」はたしか未訳だったよーな 全集では未訳の講演集だか講義集だかに入ってる
訳が80pで、残り全部訳者の文章かよ。ひでー。 未訳物だから完全に足元みてやがんなこいつ
>>270 理系的思考の人にはマルクスは理解しやすいと思う。
自然や人間という客観的な存在を客観的に見ているから。
そのうえで人間の意識というものを考察しているから。
マルクスを足がかりにしたらヘーゲルだって理解できる。
反面、ハイデガーに関しては「存在」という用語を抽象的・
観念的・・思弁的に、かつ私流にこねくり回しているだけ
にしか感じられないかも。
理系の素養のない文系人間には、ハイデガーが「面白い」
と感じられるのだろう。宮台のブルセラ論の本を「学問」
として面白いと思い、喜んでお金を払うように。
277 :
考える名無しさん :2008/11/24(月) 23:40:25 0
>反面、ハイデガーに関しては「存在」という用語を抽象的・ 観念的・・思弁的に、かつ私流にこねくり回しているだけ にしか感じられないかも。 まったくそのとおりだね。
存在と時間の表面上の解り易さはその問いの方法が現存在主導であることによる。 それが存在と時間の最大の罠なのだが。
282 :
考える名無しさん :2008/11/26(水) 01:28:12 0
>>279 存在と時間をただ短くしただけじゃん。
頭悪そう。
昨今の学生のレポートみたい。
耐えられないその軽さ。
283 :
考える名無しさん :2008/11/27(木) 10:19:37 0
科学は実証の積み重ねだがその実証の契機になるのは人間でしかない。 私の目の前にあなたが存在している。それは見れば分かる。しかしそれだけ では不安なのでそれ以外の理屈を求める。空談とはそういう事ではないのだろうか。 そんな空虚な概念で世界が動いているという発想は風変わりだが、それは たまたま人間がそういう事に向いてない性格だという事だ。
( ;∀;)イイハナシダナー
全集の次の発売は何かな?
286 :
白蟻の巣 :2008/11/30(日) 13:14:59 0
「一つ」と大時計が云つた。 「一つ」とスピイスブルク市民たる小さい、太つた爺いさん達が、谺響(こだま)のやうに答へた。「一つ」と爺いさんの懐中時計が云つた。「一つ」とお神さんの時計が云つた。「一つ」と子供達の時計や猫の尻つぽ、豚の尻つぽの時計が云つた。 「二つ」と大時計が云つた。「二つ」と皆が繰り返した。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と大時計が云つた。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と皆が答へた。 「十一」と大時計が云つた。 「十一」と皆が合槌を打つた。 「十二」と大時計が云つた。 「十二」と皆が答へて、大満足の体で声の尻を下げた。 「十二時だ」と爺いさん達が云つて、てんでに懐中時計を隠しに入れた。 然るに大時計はまだこれでは罷(や)めない。「十三」と大時計は云つた。 「やあ」と爺いさん達はうめくやうに云つて、鯉が水面に浮いて風を呑むやうな口附きをして、顔の色が蒼くなつて、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑つた。 「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
287 :
白蟻の巣 :2008/11/30(日) 13:16:12 0
「一つ」と大時計が云つた。 「一つ」とスピイスブルク市民たる小さい、太つた爺いさん達が、谺響(こだま)のやうに答へた。「一つ」と爺いさんの懐中時計が云つた。「一つ」とお神さんの時計が云つた。「一つ」と子供達の時計や猫の尻つぽ、豚の尻つぽの時計が云つた。 「二つ」と大時計が云つた。「二つ」と皆が繰り返した。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と大時計が云つた。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と皆が答へた。 「十一」と大時計が云つた。 「十一」と皆が合槌を打つた。 「十二」と大時計が云つた。 「十二」と皆が答へて、大満足の体で声の尻を下げた。 「十二時だ」と爺いさん達が云つて、てんでに懐中時計を隠しに入れた。 然るに大時計はまだこれでは罷(や)めない。「十三」と大時計は云つた。 「やあ」と爺いさん達はうめくやうに云つて、鯉が水面に浮いて風を呑むやうな口附きをして、顔の色が蒼くなつて、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑つた。 「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
288 :
白蟻の巣 :2008/11/30(日) 13:18:53 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
289 :
考える名無しさん :2008/11/30(日) 13:20:08 0
母親の心がわかっておそろしいのかw
290 :
考える名無しさん :2008/11/30(日) 13:23:37 0
最近。「マルティン」表記なのは「マルチン」にすると「丸珍」みたいな語感だからだろうか? マルティンは読み辛い。
本当は「マルティーン」のほうが原語に忠実なんだけどな
292 :
考える名無しさん :2008/11/30(日) 17:32:36 0
>現代日本の知識人宮台真司、 ブルセラ宮台って「知識人」なのか?
293 :
山羊の巣 :2008/12/02(火) 06:17:03 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
294 :
蝙蝠の巣 :2008/12/02(火) 06:17:45 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
295 :
鸚鵡の巣 :2008/12/02(火) 06:18:32 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
296 :
考える名無しさん :2008/12/02(火) 06:19:53 0
岩波文庫発刊に際して
アマゾン見てたら、ハイデガーがヘルダーリンの詩を朗読してる CDがあるんだなw 欲しいな〜
>>297 それもってる。重厚な声を想像してたら、意外と甲高い声で、聞くに堪えなかった
299 :
考える名無しさん :2008/12/04(木) 19:33:31 0
>理系は 本質から逃避しているからだよ。 なるほど。 やはりハイデガーには客観的・科学的な思考は無理 だったんですね。 「謎めいた思索」というよりも、妄想めいた言葉遊びに すぎないわけですね。
300 :
考える名無しさん :2008/12/04(木) 20:05:55 0
科学によれば重さは数値化できる。時間すら数値化できる。 しかし重さとは、時間とは何でありどこにあるだろう。 科学の根底は科学的主題にはなりえない。 科学が扱うのは重さや時間そのものでなく、対象を扱う一定の方法である。
>>300 それはそうとして、そこからなぜ現存在分析へいっちゃうの(笑)
300みたいなことをはっきり言い出すのは30年代以降 やっぱり存在と時間しか(すら?)読んでないと批判にすら ならんのだよね
303 :
考える名無しさん :2008/12/05(金) 00:43:05 0
>>301 重さや時間や諸々の問題を扱うには
対象の物事の意味、相互関係、全体におけるその物事の位置づけを知らなければならない。
でなければ科学的な問題設定すらできない。
そのような根本的前提をハイデガーは存在の開き=現存在が存在に開かれてあること、
としたわけだ。
いや、だからさ、303のいってることはわかってんだよ。 問題はここ↓ >でなければ科学的な問題設定すらできない。 >そのような根本的前提をハイデガーは存在の開き=現存在が存在に開かれてあること、 ここに飛躍がある。 現存在分析やったってそれができるかどうかわからないところがアナタまかせでしょ、って話。 で、実際、気散じだのなんだの、もともとの問題設定とかけ離れたキルケゴールの焼き直しに終始してる。 でもそんなになったのは当たり前で、そもそもあなたまかせのでたとこ勝負で現存在分析なんか始めたところがもともと間違ってんだよ。
まあ我ながら読み難い文章書いてしまったわけだが。 いいたいことはくんでくれ。
現存在分析を、自然科学の実験や証明やなんかと同じものと思ってる馬鹿がいるな。
307 :
考える名無しさん :2008/12/05(金) 02:32:27 0
それができるかどうかわからない? ハイデガー的な問いは全て、当たり前のように 既に常に成されていることに向けられているんだな。 つまり観察したり多く接したりして進める通常の分析とは逆向きなわけだ。 世界において物事の意味や関係に開かれているからこそ、 それに対する問いの設定ができるというのは仮定でなく単純な事実だ。
308 :
考える名無しさん :2008/12/05(金) 13:55:56 0
『存在と時間』の初読についての質問です。 現在入手可能なものとして下記があるようです。 存在と時間 理想社 1964 存在と時間 1・2・3 原佑・渡辺二郎訳 中央公論新社 2003 存在と時間 上・下 細谷貞雄訳 筑摩書房 1994 存在と時間 上・下 細谷貞雄・船橋弘・亀井祐訳 理想社 1995 存在と時間 上・中・下 桑木務訳 岩波書店 1960 amazonのレビューを読んだ限りでは、 辻村訳なるもの:ドイツ語に忠実 細木訳(細谷の誤植?):日本語として読みやすい(訳者の主張が強い) 桑木訳:中途半端 渡辺訳(中公クラシック):スタンダードで正確・分冊の際に校訂済み 学力としては一般の文系学部の3・4回生レベルとしてお考えください。 ドイツ語はまったくできません。 個人的に分冊は少ないほうがすきです(全1>上下>三分冊)。 こういったものは本来、書店なり図書館なりに原文を読み比べてみて選ぶべき種類の こととは思いますが、わけあってそれができません(amazonで購入予定)。 上記を踏まえた上で、お薦めなり参考意見なりを何卒お願いいたします。
ハイデガーにおけるSein「存在、有」というのは、《有ること》という意味がまずはあり、しかもそこに、《有るものを有らしめる地平》《<何かが有ること>を可能にする地平》としての時Zeitという意味も入ってくる。 その問題意識から『Sein und Zeit』の第一部表題《現有を時性に向かって研究的に解釈することと、時を有への問の超越論的地平として解明すること》という問題意識が出てくる。そのような問題意識を汲み取る場合、私の場合には、Sein「存在」という訳語だと、 「存在」という訳語を「存在者」と、実はこの区別が決定的に重要にもかかわらず区別しがたかったり、また、《超越論的地平としての時》、が有の構造としてあるにもかかわらず、Sein「存在」という訳語では汲み取りにくかったりした。 なので私の場合はSein「有」という訳語の方が汲み取りやすかったと思います。
>>309 >「存在」という訳語を「存在者」と、実はこの区別が決定的に重要にもかかわらず区別しがたかったり、
慣れの問題。
>《超越論的地平としての時》、が有の構造としてあるにもかかわらず、Sein「存在」という訳語では汲み取りにくかったりした。
たとえそうだとしても、「有」という訳語ならそれを汲み取りやすいということにはならない。
私が想うに、Seinというのは、ハイデガーにおいて、特殊な意味付けが為され、様々に深化されるべき概念としてある。その場合、やはり日本語のなかでも日常的ではない特殊な語彙を当てはめる方が妥当ではないかと思うのです。 その方が、ハイデガーの意図を汲み取りやすいのではないか。 因みに、木田元などが自分の翻訳で試みている、「〜です、ます」口語調の翻訳ですが、私からみてさしたる意義があるとはおもえません。むしろ、ハイデガーの場合、意図的に読みやすくするのは危険だと感じます。 SeinやWelt、Zeitという語に、ハイデガーは独自な意味付けをしているでしょう。読者側がそれを汲み取ってくれることが何より大事なので、とっつきやすくすることはそれほど重要ではない。あれは元々、分かりよいものではないので、 元々分かりの良くないあの本を通読して何が果たして残るのか、というのはあの本を読む場合、付き纏ってくる難問である。そこを無理やりに外さない方がよいと考えます。
「有」という漢字の原義は《所有》なんだから、ハイデガーの Sein の訳語としては不適切だ
313 :
蜻蛉の巣 :2008/12/05(金) 17:15:42 0
枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘彼金あだ枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘!
314 :
蜻蛉の巣 :2008/12/05(金) 17:18:15 0
枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘!
315 :
蜻蛉の巣 :2008/12/05(金) 17:19:18 0
枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘!
316 :
蜻蛉の巣 :2008/12/05(金) 17:20:26 0
枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘枯木灘!
317 :
考える名無しさん :2008/12/05(金) 17:21:55 0
電撃文庫創刊に際して
318 :
考える名無しさん :2008/12/05(金) 19:17:58 0
>元々分かりの良くないあの本を通読して何が果たして残るのか、 >というのはあの本を読む場合、付き纏ってくる難問である。 >そこを無理やりに外さない方がよいと考えます。 つまり、何か得ようなんてしても、元々たいしたことを 書いてないのだから、 深く考えずに各自が気分で自由に解釈すればいい、と いうことですね。 科学的態度とか理性とか共通の理解とかとは全く別の方向で。
≧318:考える名無しさん208/12/05(金) 19:17:58 0 >つまり、何か得ようなんてしても、元々たいしたことを書いてないのだから、深く考えずに各自が気分で自由に解釈すればいい、ということですね。科学的態度とか理性とか共通の理解とかとは全く別の方向で。 いえ、私からみて、『Sein und Zeit』はやはり大変な書物です。で、ただ、そこで思索の標的としている領域というのは、<科学的><理性><共通理解>とかと違う領域だと思うのです。むしろ、貴方の語彙を借りるなら、 <共通理解そのものが成り立たない領域>を標的としている。もちろん人間であるかぎり、理性もあれば悟性もあり、科学的態度も知っている。しかし、人間には一方で、他者との共約を阻むような領域もある。 むしろ、私からみて、『Sein und Zeit』という本が狙うのはそこだと思う。 そこで、では何故そのような、<他者と共約を阻むような領域>が人間にはあるのか、というところで、先に挙げたWelt「世界」やGeschichte「歴史」という用語が浮上してくる。それらが密接に絡み合い、人間における、 謎めいた領域が何故どのように構成されているかを解明しようとしていると思います。なので、私からみて、貴兄の書かれているような、「深く考えずに各自が自由に解釈してよい」ものではない、むしろ、そのような読み方は出来にくい本だと思います。 ただ、如何せん、色んな指摘もされているように、ハイデガーは終生、哲学的な語彙から抜け出ることはなかった。そのことが、一見抽象的な思索なまま放り出されている感をもたらすことにもなっている、とは思います。「解釈」が必要だとすればそこからだろうと。 ただ、それは「元々たいしたことは書かれていない」こととは違う話になるでしょう。
>>308 一番無難なの
>中公クラシックス 原祐/渡邊二郎訳
もし余裕があれば、ちくまの細谷訳も買って
必要に応じて両方見ればいい
ハイデガーが悪文なだけでも絶えられないのに、そのたいこもち文章書く連中が輪をかけて悪文だね。
>>307 氏とか。
もっとも
>>319 氏とかならふつうに読み易い、意味のとりやすい文章だからハイデガーよいしょ組がみんな阿呆というわけではないようだが。
逆に自然科学と哲学同じ水準で捕らえてる言語道断な人もいるし、なんなの?このスレ。
>>321 おまえこそなんなんだよ
不毛なケチつけてるだけじゃん
323 :
考える名無しさん :2008/12/06(土) 03:39:07 0
>逆に自然科学と哲学同じ水準で捕らえてる言語道断な人もいるし、 そこなんだ! 自然科学と哲学を同じ水準で捕らえてるのが唯物論。 自然科学と哲学を同じ水準で捕らるのを言語道断と断ずるのが観念論。 両者の溝は深い。 (意識と物質の関係について、両者は正反対の見解。) そしていうまでもなくハイデガーや新興宗教は後者。
>自然科学と哲学を同じ水準で捕らえてるのが唯物論。 なんだそりゃw >自然科学と哲学を同じ水準で捕らるのを言語道断と断ずるのが観念論。 頭大丈夫?
完全なカオスに飲み込まれつつあるこのスレ。
326 :
考える名無しさん :2008/12/06(土) 14:54:36 0
今日の日経新聞朝刊文化欄でハイデガーを特集 20世紀を代表するドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの研究が最近熱を帯びているらしい
んなアホな
328 :
考える名無しさん :2008/12/06(土) 20:10:52 0
科学的態度とは、先ず次のことを認めることです。 意識と物質との関係においては物質がより規定的であること、 意識は物質の反映であること、物質は法則にしたがって 運動していること、それを反映した意識もまた運動すること。 つまり、身の周りの客観的存在が意識から独立したものと認め、 それをを感性・悟性・理性によって分析しながら能動的に 意識に映し取って行くことなのです。 このような立場を否定するのが観念論であります。
329 :
考える名無しさん :2008/12/06(土) 20:12:17 0
自然科学だろうが社会科学だろうが、手法に多少の違いは あれ、科学的態度が求められることは同じです。 「哲学」なるものを科学的態度から切り離して神秘的な装い を与えようとしたり、やたらと主体性やら情念やら抽象的な 「存在」「存在者」やらを強調したりするのは、科学的態度 と対極にある観念論として"単なる文芸"呼ばわりされてもしかた ありません。 物質と意識の関係についての自分の立場を説明することを巧み に避けながら、問題の入口を小難しく抽象的・神秘的に論じて 見せることだけに終始するなら、失望する人がでてくるのは 当然であります。
何なんですか、意識って。 科学的にどこにも見出せないものを安易に認めていいんですか。
自然法則に従って運動する、っていうことを疑いもせず前提するのはサル並みだな。 なんでそんな「もん」に「従う」か不思議に思わない?おサルさん。 実際にはそんなもの「ない」かもしれないだろ? それに比べれば意識は「事実として」「ある」。 その事実あるものがいったいなんのかをいちど丁寧に考えてみる必要がないと考えないのかな。サルは。
332 :
考える名無しさん :2008/12/06(土) 23:58:38 0
>自然法則に従って運動する、っていうことを疑いもせず前提するのはサル並みだな 「万物は流転する」 身の回りの物事が永遠不変なものでないことは、ギリシャ時代の 哲学者も直感的に感じ取っていました。 自然科学もヘーゲルもこの立場です。 >実際にはそんなもの「ない」かもしれないだろ? 古くからある不毛な不可知論ですね。 「客観的実在を正しく認識できるかどうか、正しく認識で できたかどうかをどうやって検証できるのか」の問題については、 哲学史的にはとっくにマルクスが明確な答えを出しています。
333 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 01:46:03 0
流れぶった切ってすみませんが 昔からハイデガーに興味がありました。 なぜなら私は葉隠が好きで 葉隠と存在と時間に共通点を見出せたからです。 でも、話によると葉隠のような読み方は間違ってるそうです。 皆さんは、どう思いますか?
334 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 02:49:26 O
>>333 そりゃそうだろ。
ハイデガーは別に善なり義なりを、死ぬことと見つけりはしない。
335 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 03:08:39 0
死を人生に中心において生きることで 本来の自分に基づいて生きれる的なこと言ってるって聞きました。 とすると、葉隠に似てくるなと。 そうだとしたら、ハイデガー読みたいなと。 そんな私の卒論はウィトゲンシュタインでした
336 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 03:27:00 O
今日起こったことの責任はちゃんと起こした人間のところにきっちりもっていくように情け容赦なく現実は現実。特に中部陸運。今から認識させてってくれ
337 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 07:01:39 0
この書は、存在論ではなく人間論だからね
338 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 11:14:38 0
>>実際にはそんなもの「ない」かもしれないだろ? >古くからある不毛な不可知論ですね。 自然法則が「ないかもしれない」といったのはそこからちゃんと考えるべき、と云う意味で、「ない」という主張ではない。 やっぱりサルだな。読解力ゼロ。 >「客観的実在を正しく認識できるかどうか、正しく認識で できたかどうかをどうやって検証できるのか」の問題については、 哲学史的にはとっくにマルクスが明確な答えを出しています。 マルクスじゃなくてエンゲルスだろ。 それにそんなことわざわざ誰々がいったとかいうほどオリジナルな言説ではないよ。
339 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 21:42:55 0
>>337 がいいことを言った。
人間論というより人生論かな。
PHPとかビッグトモローとか第三文明とかに載っているような話。
≧339:考える名無しさん2008/12/07(日) 21:42:55 0 ≫人間論というより人生論かな。PHPとかビッグトモローとか第三文明とかに載っているような話。 ハイデガー思想の孕む射程として、いわゆる主体思想への問い直し、というのがあると思う。その場合、主体思想というのは北朝鮮的なマルクス主義でもありつまり共産主義的になりなさいという至上命令、 または日本の学校教育的な「主体的になりなさい」「自己の行動や言動に責任をもちなさい」という命令として、法的人格として自律させる、というものでもよい。何れにせよ、主体としての自律を迫るものである。自律する主体の集団として、人間は大きく括られてゆく。 ハイデガーの功績というのは、むしろそのような主体というものを成り立たしめている、より根底的な領域に眼差しを向けたことにあるだろう。それによって、一人の人間を司るものが、社会や国家から課された法的な自覚や意識や真理、ではなく、 もっと別の何かであること、自分では自覚しがたい領域にそれがあることを指摘したことにある。ネタを先にバラせば、それがハイデガーの言うSeinである。よって、「主体的たれ」と鼓吹する学校教育的な叱咤激励や人生論とは反対側の方角へ導いてゆくものである、 と言わなければならない。
このスレでハイデガー批判する人って具体的に 記述を引用して批判できないよね どっかで聞いた風な事言ってるだけみたいな
342 :
考える名無しさん :2008/12/08(月) 01:45:55 0
要するに、主体的たれに対して主体的たれと言ってるようなもん
343 :
考える名無しさん :2008/12/08(月) 02:23:37 0
いや、そうではなくて、主体的足り得ることを是とし、法的人格足り得るよう促す、法的責任を課す眼差しにたいして、そこから漏れ落ちる、零れ落ちるものがあるとしたら何か、という問いを付すと思う。 つまり、人間というのは法的人格だとか主体という囲い込みに納まるものではないわけで、むしろ、その納まらない部分の中に、人間的な意味というのはあるとも言えるのだから。だからまあ、一昔前の用語を使うならば、<主体の脱構築>だと思うわけです。 それは「主体的たれ」に対して、反対側へ「主体的たれ」と促すのとは違う。それは方角が違うだけで内実は同じことなわけだから。
345 :
考える名無しさん :2008/12/11(木) 02:07:41 0
鎮魂歌 歯止めなき格差社会,政治家は民の窮乏など無関心 ほくそえむ奴隷商人ども 自に害が及ばぬかぎり無関心,それが利口な日本人 事なかれ主義が社会を蝕む そんな末世に現れし異端児,現代に蘇る侍,加藤智大 待てば海路の日和あり,明日があるさ希望を持たんと 叶わぬことと知りつつ,額に汗して働いてきた懸命に だが口滑らかな嘘言チャラ男が持てはやされ やったもん勝ちの外道が勝ち組になる 金や外見,地位や職業だけで人間の価値が決まる そんな今の日本に馴染むはずはなく 愚鈍な奴と嘲笑われながら,世の底辺でひっそり生きてきた そこに降りかかりしは解雇通告,またもや使い捨ての道具扱い 俺は機械じゃない!俺は人間だ!その時男の中で何かが目覚めた もはやこれまで,だが,ここで自ら命を絶とうものなら男がすたる 心に浮かぶは,青春の幻影,まだ見ぬ彼女の面影 君よ,会いたかった,そして愛の意味を知りたかった・・・ 俺は疲れてしまって,もう君を探すことはできない この理不尽な世,暴力しか己の存在手段が浮かばない 男の決意二度と揺るがず 乾坤一擲,一世一代わが闘争 屍山血河の末,刀つき矢折れ,地面に這いつくばったその最期 一寸の虫にも五分の魂の貫いて,大罪背負った そんな哀れな男の名こそ加藤智大と申すなり 心ある者,この悲惨な世に,一撃を刻んだ男の名をば語り継ぐ
こういう不安定な時代は哲学書のビジネスチャンスなのに、 学者連中は頭がボケてるから時代の流れに取り残される。
ネットにおけるチャットを「空談」、介護を「関心」といったハイデガー用語に言い換えられ得るように、 現実の事象を異化するチカラがハイデガーにはある(現象学)。 『存在と時間』もそもそも『身体を含む世界=空間,と時間』と言い換えられ得、思考の対象はすべてに及ぶので、 現代を構造的に捉え、その限界を見きわめたとも言える。 ただしその限界はドイツ語の限界とともにあり、ギリシア語とラテン語がその臨界にある(言語学)。 その言語学によって存在忘却の歴史である形而上学は存在発見へと遡るための痕跡を見出すのだが、それは死の先取りと 等価であり、かつ時間概念に還元されるところにハイデガーの独自性がある。 そうした思考はニーチェのように極端なものになりがちだが、その文献学的態度が現実からの遊離を許さない(解釈学)。 オブジェクトレベルの存在者としての解釈学、メタレベルの存在としての形而上学、現存在としての現象学、 これら構造的組織化が彼の内的矛盾をかろうじてつなぎ止めているが、最終的には詩の優位、つまり言語学的な特権だけが残る。 こうした批判的批評によっても、彼の文明から距離をとった思考構造には他者は不在のままいっこうにびくともし ないのであるが、今日の読者がハイデガーのテクスト自体に他者を見出すことは出来るのだ。
348 :
考える名無しさん :2008/12/11(木) 17:28:50 0
人間は死にいく存在である、なんて言うことは俺にもできるとです。
349 :
考える名無しさん :2008/12/11(木) 20:18:25 0
>>346 それはある、人文系の学者は
知りたい奴が知ればいいとしか考えてない
そのため教育的観点から優れてると言いうる本って少ない
入門書から哲学書にいくまでの中間が書かれてる本は、かなり少ない
入門書から哲学書に至るためには「語学」を経てもらわないと困るから、 軽々しく入門書から哲学書に来てもらっては困るという事情があるんだよ
ま、中身が薄い学問は語学をハードルにしたがるな、昔から。 ラテン語とかさ。
で、ハイデガーは時間と空間を何だと考えたのですか?
便利な「言葉」と考えたのです。
>>352 >時間と空間
晩年には両方まとめて時空間という詩的環世界と解釈したらしい。
詩を目指すのか詩によって目指すのか微妙だが、、、
(後者なら、ハイデガー自身が戴冠詩人だったことになる。)
介護関係者に『存在と時間』#42の「クーラの神話」が評価されているのを見ると、その存在論の内部に折り畳まれた
倫理学は評価せざるを得ないと思うし、結果として東洋哲学にかなり近いと思う。
ま、哲学とはいえないシロモノだよね。彼の書いたモノは。
と、書いたモノを読んだこと無い者が申しております。
読んで、それであれをまともな哲学と思った?ほんとに。
heidegger on future of philosophy (english subtitles)
http://jp.youtube.com/watch?v=MZkYMwmMS4k 思惟の運命がどういうふうなさまになるかは誰にもわかりません。
私は1964年にパリで「哲学の
終わりと思惟の使命」という講演をしました。もっともこれは私がでかけて行って自分でしゃべったのでなく、
フランス語に翻訳してもらって皆さんの前で読んでもらったのですが。この題からもおわかりのように、私は、
哲学すなわち形而上学と、私が解しているような意味での思惟との間に一つの区別を設けているのです。
この講演の中で私が哲学と区別し対照して置いている思惟------この区別、対照は特にギリシア的アレテイア
(真理)の本質を明らかにしようという試みがなされることによって生じるのですが------この思惟は、事柄
から言えば、形而上学との関係においては哲学よりずっとずっと単純です。しかし単純だからこそ実行におい
てはずっとずっとむずかしいのです。
そしてそのためには、言葉とい
うものを今までとは違った意味で慎重に扱わねばなりません。ただしこのことは、私自身もかつては考えていた
ことのある新しい述語の発明ということではないのです。そうではなくて、われわれ自身の国語でありながら、
だんだん枯れてゆくような状態にありつづけている言葉の根源的な内実へと帰ることなのです。
誰か将来の思惟する人が、たぶん、
私が準備を試みているこの思惟を
真に受け継ぐという使命の前に立たされるでしょう。その人に対しては、かつてハインリッヒ・クライストが書
いた一句が述べているのとぴったり同じことがあてはまるでしょう。その句というのは次のようなものです。
「私は、まだここにいるのではないひとりの前で後ずさりし、その人の精神のまえにひざまずく。」
『ハイデッガーは語る』(1973年、理想社、pp89-90)
ふーん。なるほどね・・・
361 :
考える名無しさん :2008/12/15(月) 18:54:09 0
>>357 まともな哲学だとは思えなかった。
でも、ハイデガーの功績は、自分をさらし者にしてまで
私達に気づかせてくれたことかも。
実存主義の系譜が、まともな哲学とはいえない代物で
あることを。
>>362 自分の書き込みにレスするの流行ってるの?
実存主義の系譜てw 存在と時間の序論すら満足に読んでない証拠だ
366 :
考える名無しさん :2008/12/16(火) 01:40:51 O
>>357 まともな哲学だとは思えなかった。
まあ、では《まともな哲学》て一体どういう哲学だ、というような半畳も、あることはあるが一応抜きにして、私自身はハイデガーの思想を、哲学なのか、哲学でないのか、という問いの対象にすることはあんまり意味はないと見ています。
ハイデガーが私に何をもたらしたかというと、例えば心理学みたいな学があると。しかし、そこで表されているような類型で自己や他人を考えることは不毛ではないか、という疑問符があった。つまり、そこで考えられている方法論では、人間について、肉迫できない、
という感触をもったという経緯、つまりそれは、人間について、それが何者なのか、という問いを引き受ける方法論の欠如、という問題になる。如何なる書物やらメディアやら、教師やら、教科書にも、納得のできる方法論はない。
そのように、人間を、私を、どう捉えたら最も妥当なのか、その方法論が欠けていたこと、また、一般に流通する方法論が不毛にみえたこと、それらにたいする失望感があった。つまりそれは、哲学的な問いではない。
むしろ、哲学も含めた、学そのものの不毛性からどう歩きだすのかという問題。何故かといえば、心理学や哲学によって、私自身や人間のことが解かれるとは思えなかった。じゃあどんな方法が?というところで私にとってのハイデガー思想というのが浮上した。
ハイデガー自身、哲学にたいして、相対化しようとする構えをとってますしね。少なくとも、哲学か否かという問いはことハイデガーにかんしては不毛だと言わざるをえない。それは重要な問題ではない。
むしろ、ハイデガーが出てこなければならなかった背景としての、人間について、肉迫する方法論の不毛、というのがある。ハイデガーが登場した当時の衝撃にはそのような事情もあったと思う。
で、ハイデガー思想は哲学か否か、というような問題を引きずる必要はなく、元々、ハイデガーの衝撃を感受した人々にとって、それまでの学によって問われなかった方法がそこにあった、その事が衝撃だったので、それまでの哲学と同じことをやる必要もなければ、
哲学と呼べるかは問題にはならなかったと思う。
367 :
考える名無しさん :2008/12/16(火) 08:27:29 0
長いよ
カントで終わった哲学を、屁理屈をつけて延命させただけ。 所詮、延命哲学。
釣りが阿呆すぎて相手する気にもなれん
370 :
考える名無しさん :2008/12/16(火) 19:18:55 0
存在と時間を理解するのに必要な本を紹介してください、ネタではないです
371 :
考える名無しさん :2008/12/16(火) 21:23:01 0
ハイデガーが何と言おうが、その実態は実存主義。 つーか、キルケゴールとニーチェのパクリ&劣化コピー。
ハイデガーは一元論だからダメなんだよ。
374 :
考える名無しさん :2008/12/17(水) 00:47:26 0
このスレ見続けてきて、初めてポンッと膝を叩きたくなるようないい書き込みみたよ。
ちょっとハイデガーを見直したよ、
>>366 。
>ハイデガーが出てこなければならなかった背景としての、人間について肉迫する方法論の不毛というのがある。
>ハイデガー思想は哲学か否かというような問題を引きずる必要はなく、元々ハイデガーの衝撃を感受した人々にとって、
それまでの学によって問われなかった方法がそこにあった、その事が衝撃だったので、
それまでの哲学と同じことをやる必要もなければ、哲学と呼べるかは問題にはならなかったと思う。
375 :
考える名無しさん :2008/12/17(水) 01:22:50 0
タモさんすらハイデガーよりキルケゴールと仰ってる
木田を参照してる論文なんて話にならん 田母神レベル 日本語で読めるハイデガー解説としては ジャン・グレーシュのが網羅的体系的で 良いと思うよ
木田を馬鹿にできるなんて、おまえら何様だよ…
ハイデガーです。
学術論文で木田元を引用するってのは考えられないなぁ 内外の研究を踏まえて物を言ってるわけでもないし 言説としてハイデガーの原典以外からは全く孤立してる どこまで行っても一般書なんだよ結局
木田さんの本はハイデガー読み始めの定番だからねー。肯定的か否定的かの評価はともかく、日本でのハイデガー論の一つの分岐点、というか要でもあると思います。だいたい、木田さんの本とか、あと渡部二郎のとか足掛かりにして読んでいって、 だんだん参考書は読まなくなる、というのが定石でないか。何といってもハイデガー自身の言説が面白いので。 『Sein und Zeit』を理解するために読むべき本てあるのかなあ。木田の本は為にはなったと思う。何といっても、彼は《『存在と時間』を読むために哲学をやり始めた》と公言、そのまま数10年きただけあって、ハイデガーへの魅惑と嫌悪感とか、 心情が屈折してるところが面白い。《ハイデガーは思索は凄いが人間的には厭な奴》とかね。 木田もどこかに書いてたと思うんだけど、幾つかの鍵概念を理解できるかが、ハイデガーへの入り口として重要でしょうね。「世界」「被投性」「存在了解」…鍵概念というのは、それぞれ、特有な意味付けをされており、 これをどう読めるかがハイデガーをどう読むかの分かれ道になると思う。 サルトルなどは、多分生涯、ハイデガーにおける「世界」の意味付けは把握できなかったと思う。何故かといえば、ハイデガーにおける「世界」とは「有るものの全体」ではない。 しかし、サルトルの理解では、「世界」は、「有るものの(連関の)全体」にとどまっている。これはハイデガーにおける「世界」とはかなり違うし、換骨奪胎させられている。把握しないままに『存在と無』を著し、 ハイデガーと意味が違うと知らぬまま、ハイデガーから影響され、継承した(と思い込んでいる)「世界内存在」を自分の著書の中心概念として頻用している。そこが面白いといえば面白い。 サルトルは確かに誤読したが、誤読によって自らの展開の発条にしえたともいえるんでしょうね。
木田元は、読み物としては面白いと思うが、渡辺二郎と比べるべき研究者ではないと思う。 サルトルは、引き伸ばされた(間延びした)ヘーゲルに見える(それなりに切り口は面白いが)。
384 :
考える名無しさん :2008/12/18(木) 00:13:48 0
で、ハイデガ−の「世界」はどうなのさ。
385 :
空談 :2008/12/18(木) 00:41:39 0
>>377 >よく知られている。
この一文の根拠というか参考文献として木田元が挙げられているだけです。
確かに紹介者としては優秀だと思いますが。
哲学に興味を持ち始めた人に『反哲学史』あたりはおすすめです。
386 :
考える名無しさん :2008/12/18(木) 00:53:48 0
現存在は存在の中心ではないこと、 そのあり方は現存在基準ではないこと、 これは基礎であり前提なのだが この時点でほとんどの場合理解されていない。
ハイデガー本人がわかってないよ。
ハイデガー本人がわかってないからこそ 煙幕を張るしか方法がなかったんだな。 もともとわかってなかったら、自分で張った煙幕の中 で未完という結末に。
389 :
考える名無しさん :2008/12/18(木) 19:50:54 0
>>382 サルトルなどは、多分生涯、ハイデガーにおける「世界」の意味付けは把握できなかったと思う。何故かといえば、ハイデガーにおける「世界」とは「有るものの全体」ではない。
しかし、サルトルの理解では、「世界」は、「有るものの(連関の)全体」にとどまっている。これはハイデガーにおける「世界」とはかなり違うし、換骨奪胎させられている。
もう少し詳しく。
サルトル派から言わせてもらえば、ハイデガーはまさに無という概念(サルトル的には意識そのもの)を存在論的アプローチによって無意識的に排除しているために
結局、現存在から出発して、
現存在は存在の中心ではないこと、
そのあり方は現存在基準ではないこと。
なんていう現存在だけに閉じこもってしまうような結論になった気がするのだが。。
サルトルの世界は確かに「有るものの(連関)全体」とされるが、この「有るもの」はまさに無によって条件付けられていることを示した上で、
ハイデガーよりも現存在の時間性などはより現実的に示したと思うし、その点ではハイデガーより優れている気がする。
まぁ、良心の声なんていうものに企投のきっかけをみたことに納得できないってだけで俺はサルトル派なんだけど。
390 :
考える名無しさん :2008/12/19(金) 01:06:07 0
ハイデガーによれば、形而上学の歴史とは 絶対的なものの規定からそれを捕捉する自己の確立の変遷なんだな。 その根拠を意志に帰するとしても無に帰するとしても 自己から求める同じ流れの中にあることはサルトルも変わらない。 つまり現存在を自己の内なるものと見なすありふれた解釈は、 形而上学と形而上学に基づく一般常識からの無理のない自然な帰結なのだ。
391 :
空談 :2008/12/19(金) 02:45:58 0
サルトルの本領は批評にあり、ハイデガーの本領は哲学史家としてのそれにある。
だからサルトルの現実認識にハイデガーが異議を唱えた意味は判るにしてもそれは立場が違うのだから仕方がない。
今はサルトルを冷静に歴史的に再評価する時期に来ているとは思うが、同時にハイデガーもちゃんと読んでから批判すべきだと思う。
彼が現象学者、ギリシア哲学研究家○、存在論者、ナチス(突撃隊の方)、神秘主義的ヘルダーリン愛好家、解釈学者○、
構造主義者○、文明批評家と、
様々な立場をとった(というよりとれた)ことを忘れるべきではない。
ちなみに○をつけたのが自分の評価するハイデガー。
>>390 >現存在を自己の内なるものと見なすありふれた解釈
さんざん「開け」と言っているのはそうした状況にハイデガー自身が自覚的だからでしょう。
『存在と時間』を読めば、ハイデガーがそうした西欧社会の限界にいらだっているのがわかるが、今の東洋世界だって似たようなものなのだから、
ハイデガーを槍玉に挙げて溜飲を下げるのは一時の娯楽でしかないことに気付くべきだ。
彼のギリシア理解は確かに一面的だとは思うが、『黒いアテナ』みたいに対案を出さなければ同じことだし、、
『存在と時間』はひとつの環世界構造(そのなかでひとは上記のように様々な立場を取る)を差し出しているのであって、
あるはっきりとした政治的立場を示しているのではない。
どうしてそれがわからないのか、、、
392 :
389 :2008/12/19(金) 03:04:32 0
>>390 その根拠を意志に帰するとしても無に帰するとしても
自己から求める同じ流れの中にあることはサルトルも変わらない。
いや、サルトルの存在と無の流れでいけば逆だぞ?存在と無から帰結されるのが自己=意思だ。
サルトルの言う存在という用語はハイデガーのいう現存在と同じ扱いだと思うのだが。。どうだろう。
>>ハイデガーによれば、形而上学の歴史とは
絶対的なものの規定からそれを捕捉する自己の確立の変遷なんだな。
まさにそのとおり。しかしながらそういいつつもハイデガーの現存在=人間の扱いではないのか?
正確には=ではなく、現存在っていう用語は実存論的存在をもつ人間性っていう扱いでないの?
だからこそ良心の声なんてのが出てくるんだろうし、現存在を自己の内なるものとみなすわけではないが
結局は現存在の存在論的アプローチによって解明されたのは人間性そのものでないの?
393 :
考える名無しさん :2008/12/19(金) 09:12:37 0
394 :
考える名無しさん :2008/12/19(金) 09:13:33 0
395 :
考える名無しさん :2008/12/19(金) 15:46:38 0
で、皆さん、ハイデガー読んでいき方変わりましたか
むしろ生き方が変わったからハイデガーを読むようになった
397 :
考える名無しさん :2008/12/19(金) 15:56:03 0
個人的な先入観に依ると 死を人生の中心に置くことで人生観変わるかなと思ってます 今日は木田元絡みの本を借りてきたお
神経症がかなり改善された
生き方が変わった。 ハイデガーみたいなインチキ野郎(妄想インチキ駄文)に 対する嗅覚が磨くなった。
400 :
考える名無しさん :2008/12/19(金) 18:50:33 0
>>392 根拠をどんなに外的なものに求めても
人間が意志や意識と理解される限り既に自己は自己自身の内的な存在と見なされているし、
そうである限り完全に形而上学の系譜に留まる。
ハイデガーの場合たとえば人の意識は最初から存在の広がりを意味しているので、
意識というように存在領域を人間中心的にわざわざ狭く言及する必要がない。
401 :
389 :2008/12/20(土) 00:23:29 0
>>400 存在領域を人間中心的にわざわざ狭く言及する必要がない。
すまん、俺の理解力不足なのかわからんが・・400はハイデガー派ではないのか?
ハイデガーは現存在の分析で「〜である」という肯定的な言い回しでしか言及していない。
言い換えれば確実な部分だけを言い表してゆき、肝心の部分はなにも言及していない。
ハイデガーは確かに存在領域を人間中心的に書いてはいないのは認める。
だが現存在の存在論的分析で明らかになったのは人間性だけであり、結局存在領域を狭く言及して「しまって」いるのではないのか?
そうでないのなら、なぜ存在と時間は未完に終わったのだ?
シェリング講義再刊だってね。
403 :
考える名無しさん :2008/12/20(土) 21:39:58 0
>>401 形而上学の文脈から脱却しない限り繰り返しにしかならんのだが、
現存在と呼称する時点で人間的な全てが存在の開きが基準であって
現存在が問われているということは最初から常に存在が問題にされているってことだ。
だから現存在が人間性だけという理解からは前提からして次元が違う。
404 :
考える名無しさん :2008/12/20(土) 22:10:16 0
>>401 のような内容はハイデガー批判の定番なんだが
これらは形而上学に続く以下のような思想のトレンドに基づく。
人間を人間中心に狭い領域で理解し、
その不十分さから根拠として外面的に外部の何かが要請される。
これをそのままハイデガーに当てはめ、現存在は人間しか扱っておらず
外部的な他者や無が出てこないので不完全ってわけだ。
405 :
考える名無しさん :2008/12/21(日) 13:41:24 O
20世紀最大の哲学者はハイデガーだが 20世紀の人はサルトルなんだな
406 :
389 :2008/12/21(日) 13:54:57 0
>>404 現存在が問われているということは最初から常に存在が問題にされているってことだ。
ここはハイデガーが指摘した中でも最も鋭い指摘だと思う。
>>だから現存在が人間性だけという理解からは前提からして次元が違う。
ここは違う。こういうネットの議論だと相手の思考ベースがはっきりしないから議論が噛み合わないので
言っておくと、俺は何も現存在の前提を人間性だと考えてはいない。↑のとおりで間違いない。
言いたいのは存在論的分析で何が明らかになり、何が明らかになっていないのか?ということ。
俺は「結果的に」見れば現存在=人間性という結論を導いて「しまっている」と思うのだが?
誤解がないように、あくまで結果としてのことを聞いている。
ハイデガーの議論も間違っているとは思わないし、現存在の定義とかを問題にしているのではなくて、
あくまで存在論的分析の帰結を答えてくれ。なぜ存在と時間は未完に終わったの?
俺としては「根拠として外面的に外部の何かが要請される。」と同じ理屈で、ハイデガーが黙り込んだと思ってる。
ほんとは袋小路に陥ったのに「未完」という結論で、「まだ何かが残っている」という外面的な何かだけを匂わせてな。
まぁ、ハイデガーのすごさってのは結果よりもその過程にあると俺は思うけどな。
ただ、ハイデガー派ってのは結論もないまま煙に巻かれて、何でハイデガー派なの?って少し疑問。
サルトルの『存在と無』は確かに面白い本ではあります。しかし、この本を貫通するモチーフとして、<主体性の擁護>、<主体性の擁立>というのがあるであろうこと。個体にとって、如何なる超越的な領域があることも認めない、 よって人間が自己や世界にたいして、責任と自由を担うことは避けられない、とする、強い意識がある。 ハイデガーの場合、サルトル的な哲学は、<主体の形而上学>として括られてゆくだろう。サルトル的な<乗り越え>とハイデガーの<超越>とは似通ってもいるが、核心部でどうしても違うのが、ハイデガーの場合、真の主体は有Seinや世界Weltの方であり、 それは個体が、固有の、単独の時間へ投げられてゆく、被投されることで、ハイデガーの言葉で言えば個体に既在し到来している、そのようなものである。で、ハイデガーにおいて、世界への乗り越えはサルトルのような、人間の主体性によるというよりは、 時熟において、為されてゆく。そこに、有るものの無化という作用もまた生起はするが、そのような無化を生起させる主体は現有の有の方だとされるだろう。つまり、そこでサルトル的な対自存在は有の脱自態、すなわち時間性の中に包括されてゆく。 そのように見てくると、サルトル的な哲学おける主体の形態が孕んでいた自由や責任観念というのが、如何に人間中心的、主体性哲学の産物であるかが浮上する。ハイデガーの面白さは、そのような主体性哲学の威力を失効させることができるところにある。 サルトルにしても、ハイデガーにしても、20世紀という時代の姿を横目で見ながらその核心部と対決するという気構えを強固に持ち、思索を続けたろう。ただ、より、近代という時代の意味を深部で捉えて対抗しようとしたのはハイデガーであったろうと思う。
≧406: ≫俺は「結果的に」見れば現存在=人間性という結論を導いて「しまっている」と思うのだが? 現有(現有という言い方に慣れているのでこの方で行きます)というのは、有が生起する現、或いは有が理解され、企投されている現、でよいと思うのだけど、そこではウェイトは有、存在Seinにあります。 人間の言葉や行為や情態を通して、生起するものは何か、というのがそういったタームで問われている事柄で。そこで問われているのが何なのか、というのが問題で、そのための造語であり、思索でしょう。そこでは人間は有に投げられてそこに有る存在である。 有は彼岸的な、向こう側から来る領域で、それが包括することで、そこで人間における主体性の威力は相対化されてゆくと思います。そのようにして、人間の概念、世界の中心としての人間の概念もまた解体されていると思う。 そのようにして、、Da Seinから人間性のニュアンスは脱色されている、という理解を取ります。
揚げ足取りのようですまんのだが >407 >>ハイデガーの場合、真の主体は有Seinや世界Weltの方 こういう解釈も「主体性の形而上学」に陥っていることになる。
409:考える名無しさんsage2008/12/21(日) 18:57:10 0 揚げ足取りのようですまんのだが >407ハイデガーの場合、真の主体は有Seinや世界Weltの方 こういう解釈も「主体性の形而上学」に陥っていることになる。 そうも言えますが、ただ、人間=主体性の場合と異なるのは、有や世界が真性の本質、とした場合に、あくまでもそれらは人間にとって彼岸的なもの、つまり、他者なわけで、それを制御、支配することは困難である。 また、対する此岸としての人間の側は、自由や責任を担う主体としての地位をその場合に既に失っている。つまり、有が主体であると仮にした場合に、人間における自由や責任の哲学は破壊されている。 その事の重要性を示していると思えます。
もう少し展開させてもらうと、前レスのように、《自由や責任の担い手としての人間は破壊される》とか書くと、私がそのことをあたかも奨励している、かのよう、ですが、実はそうではないので、というのも、ハイデガーの思索自体、自由や責任を消去するものではなく 、ただ、その軌道というものを大きく変更するものである、と思います。自由とは現有が有ること自体のうちに、可能性の有限を刻印されており、また、責任とは例の良心の呼び声に呼応するものだとされる。 また、サルトルにもある乗り越えは、ハイデガーの場合は現有が有ることの初めから、先行する世界企投によって導出されてゆくとされてしまう。世界企投というと、サルトルの場合、まさしく主体的な企投であるが、 ハイデガーの場合はむしろ主体的な企投にたいして先行している。有の理解と同様に、サルトルでいう対自存在的な企投とは大きく隔たっている。一言でいうと全然別だと言わざるをえない。それらの諸概念はつまり、 自由とは、責任とは、という言ってみれば主体性を擁立するような問いに対して、さらなる深部からくる問いを投げ掛けた。決して市民的な善悪の色とは相容れない、善悪を問い掛けた。現存する変革の主体とは馴染まない、 なので、思想が現実化する場合にどのような形態かは不鮮明である。しかし、にも拘らず特異性と重要性はいまだに失わない、というのがハイデガー思想の鍵だと思います。
やっとでるんだな
2009年01月
ハイデッガー全集61
アリストテレスの現象学的解釈/現象学的研究入門(61)
ハイデッガー、M 著
門脇 俊介 訳
バルドリアン、K 訳
ttp://www.sobunsha.co.jp/ しかし価格が出てないぞ。。。
413 :
389 :2008/12/22(月) 19:17:28 0
>>408 なるほど、確かにそういう理解ならば人間性は脱色されている。というか、俺が使った人間性の定義が曖昧すぎてうまく伝わってなかった。
今更だが、人間性の意味とはいわば人としての精神構造であり、存在を含む人間という全体性の意味で使ったのだがうまく伝わってなかった。
まぁ、どちらにせよ、408の理解には納得する。むしろ俺が言いたかったのはハイデガーがいいあらわしめたのは人としての存在開示だけだったのでは?
還元すれば存在と時間においては「有は彼岸的な、向こう側から来る領域」について一つも触れることは出来なかったんじゃないの?っていう意味だった。
その意味で存在と時間は袋小路に陥ってしまっているのでは?
まぁ、俺は存在と時間しか読んでいないから、晩年の神秘主義的な部分は知らんが。。
というか「有は彼岸的な、向こう側から来る領域」って存在と時間にある?
414 :
389 :2008/12/22(月) 19:18:36 0
>>411 うーん、ハイデガーとサルトルの最大の違いはそのウェイトが確かに現存在の「現」にあるのか「存在」にあるのか、というのは間違いない。
サルトルは現在に重点を置いているのは間違いないし。ハイデガーは存在にウェイト置いているからこそ「未来」(時熟)が重要視されているし。だからこそ死について見解が違うと思うし。
>>また、サルトルにもある乗り越えは、ハイデガーの場合は現有が有ることの初めから、先行する世界企投によって導出されてゆくとされてしまう。世界企投というと、サルトルの場合、まさしく主体的な企投であるが、
ハイデガーの場合はむしろ主体的な企投にたいして先行している
ここはどこからどこまでがサルトルなのかうまく理解できなかったのだが、思うにサルトルの対自存在を誤解しているんじゃないかと思うのだが。
確かにサルトルが主体性を擁立する意図はあると思うのだが、存在と無における自由=人間ではないし、主体性という言葉自体が後付けされたようなもんだと思うしな。
サルトルでは自由と存在は=ではなくむしろ二つは重なりあうものだろうし、「自由とは現有が有ること自体のうちに」とほぼ同じ意味だ。
サルトルの自由がいわゆる一般的な自由性とは異なるところが重要だし、俺は
>>408 が言うような「有は彼岸的な、向こう側から来る領域」ってのをサルトルが「無」であると言明した点でより発展させたんじゃないかと感じるのだが。。
かつ、日常生活で「死への覚悟で被投される」とか覚悟性だっけ?とかって考えるかな?現実問題として。
この辺はホント主観だけど「思想が現実化する場合にどのような形態かは不鮮明」なんていうことを考えることが真理を探す哲学だと俺は思うのだが。道徳的な意味も含めて。
415 :
考える名無しさん :2008/12/25(木) 19:32:45 O
≧413:3892008/12/22(月) 19:17:28 0 >むしろ俺が言いたかったのは、ハイデガーがいいあらわしめたのは人としての存在開示だけだったのでは? >換言すれば存在と時間においては「有は彼岸的な、向こう側から来る領域」について一つも触れることは出来なかったんじゃないの?っていう意味だった。 「有の彼岸性」について、『存在と時間』で書いているとすれば、時間性について書いている箇所ではと思います。具体的には、第65節 気遣いの存在論的意味としての時間性 という節がありますが、そこで<有の到来性>について、書いている。 どう書いているかといえば、 《このようなこと(先駆的決意性)が可能であるのは、そもそも現存在が己の最も固有な可能性において己へと到来することができ、このように己を己へと到来させることのうちで、その可能性を可能性として持ちこたえる、言い換えれば、実存するというふうにして だけなのである。あの際立った可能性を持ちこたえつつ、そうした可能性のうちで己を己へと到来させることが何かへの到来という根源的な現象なのである。》 また、同じ第65節で、時間性について、諸脱自態と名付けている箇所があります。そこを辿ると、ハイデガーが、時間性を己の<外>だと考えていたことがよく分かる。 《時間性は、根源的な「己の外へと脱け出ている脱自」それ自体なのである。だからわれわれは、到来、既在性、現在という、すでに性格づけられた諸現象を、時間性の脱自態と名付ける。時間性は、最初から一つの存在者であってその存在者がようやく己の内から外へと 踏み出るというのではなく、時間性の本質は、諸脱自態の統一における時熟なのである。》 この部分から、時間性というのが<時熟>として<到来>することであるという論理がうかがわれる。私の言葉でいうと、いわゆる彼岸的な領域だということになると思います。 それから、ハイデガーには、ギリシャ哲学から読み込んだピュシス(自然)論というのがあり、それは全集9巻『道標』のピュシス論によく書かれていますが、そこで何を言いたかったかといえば、人間存在さえも、中心にあるのはピュシスである、 生成し、支配する有である。そこで意識や無意識さえ、ピュシスとみなしてよいと考えたと思う。つまり、人間の自然への包摂だと思う。
416 :
考える名無しさん :2008/12/26(金) 11:36:04 0
フッサール・セレクション』立松弘孝編 平凡社ライブラリー 1,470円
417 :
考える名無しさん :2008/12/26(金) 15:33:59 0
>1 木田氏の小林秀雄論読んだ方、感想をお願い。そこに、彼の思想哲学の原点が あるかもしれません。
419 :
考える名無しさん :2008/12/26(金) 22:30:05 O
ハイデガーはサルトルについて何か言及したことはあるけ?
ハイデッガーの『存在と時間』の発想は、道元禅師の『正法眼蔵』のなかの 「有時の巻」から得たことを、ハイデルベルク大学のヤスペルス教授が弟子 丸泰仙和尚に耳打ちして、「日本人は『正法眼蔵』をあまり読んでいないよう ですな」とつけ加えたということです。 沼田勇『日本人の正しい食事: 現代に生きる石塚左玄の食養・食育論』(2005)
>419 ヒューマニズム書簡
>>415 有が「彼岸的」だとか「向こう側」から来るとか「他者」だというのはおかしいと思う。
有は対象化できないというのがハイデガーの有理解の基本だと思うから。
有が「彼岸的」「向こう側」「他者」だったら、有を対象化しまくりです。
それから、今の話の流れから言えば、「ケーレ」の話が出てこないのが不思議です。
あと「形而上学」という言葉は説明抜きには使わないほうがいいですよ。
ハイデガーもいくつかの意味で「形而上学」と言っていると思うけれども、
それが「存在忘却」という意味ならば、ソクラテス以降のほとんどの(全てかな?)哲学者は形而上学者だw
≧422:考える名無しさんsage2008/12/27(土) 10:32:04 0
>>415 有が「彼岸的」だとか「向こう側」から来るとか「他者」だというのはおかしいと思う。有は対象化できないというのがハイデガーの有理解の基本だと思うから。有が「彼岸的」「向こう側」「他者」だったら、有を対象化しまくりです。
いや、そうおかしくはないと思いますけどね。ハイデガー自身も、対象化できない有について様々に形容しています。先に挙げた《到来》がそうだし、それから、《被投性》というのがありますね。《企投性=被投性》という奇妙な使い方で、
奇妙だけど、まさにここがハイデガーの核心だと思われる、その《被投性》もまた、謂わば《向こう側から投げられる》ということである。《有は到来する》また《現有は投げられて有る》とすれば、私の用語はまんざら要旨からずれてはいないと解ると思います。
>それから、今の話の流れから言えば、「ケーレ」の話が出てこないのが不思議です。
《ケーレ》というのは確か《転回》という意味で、『有と時』に残存していた主体的有を脱色すること、で、もともと『有と時』にあった《有の彼岸性》や《到来性》、《被投性》について、より突き詰めるようになる、そのことだと思います。
なぜ「ケーレ」が求められたか、という辺りに、ハイデガーにおけるニーチェ(における<力への意志>)越え、政治的にはナチス体験、そこで夢見たもの、というのが浮上するのではないか。そこでの体験が内省を促した。
『有と時』における主体思想の残存というのがそこで自ら脱色されたと見ます。
424 :
考える名無しさん :2008/12/28(日) 06:41:46 0
>418 thank you very much.
>>423 >奇妙だけど、まさにここがハイデガーの核心だと思われる、その《被投性》もまた、謂わば《向こう側から投げられる》ということである。《有は到来する》また《現有は投げられて有る》とすれば、私の用語はまんざら要旨からずれてはいないと解ると思います。
《向こう側から投げられる》は「動き」そのものとしても解釈できるから、まあ良しとしましょうw
しかし『彼岸的』とか『他者』となると、静的な捉え方になってしまうので、
「有」を「有るもの」化(存在を存在者化)してしまうことになる、
つまり対象化(客体化)してしまうことになると思われます。
>>415 の引用文に『最初から一つの存在者であってその存在者がようやく己の内から
外へと踏み出るというのではなく』とあったように、時間と存在は、存在者ではなく、
対象化できない動き(出来事)そのものですね。
426 :
考える名無しさん :2008/12/28(日) 15:54:08 0
入門書は講談社現代新書「ハイデガー=存在神秘の哲学」が良い
427 :
考える名無しさん :2008/12/28(日) 16:01:19 O
>
>>415 の引用文に『最初から一つの存在者であってその存在者がようやく己の内から外へと踏み出るというのではなく』とあったように、時間と存在は、存在者ではなく、対象化できない動き(出来事)そのものですね。
んー、<他者>というものを、<他性>というふうにとってもらうといいかと思います。つまり、<内なる他者>と。<私>には違いないんだけど<私にあらざる私>、或いは<私における自然>。
「時間と存在」というのはハイデガー的な用語でいう時熟するものだ、という点が重要だと思う。つまり、「時間と存在」は、或る特徴付けをされており、「水平化」や「今‐継続」を斥けられていますね。
《通俗的理解に通路づけられ得る「時間」の性格的な点は、就中次のことに存する。すなわちその事とは、初めも終わりもない純粋な今-継続としてのその時間の内では、根源的時性の脱自的性格が水平化されている、ということである。
しかし、この水平化それ自身は、それの実存論的意味に従えば、或る一定の可能な時熟に基づいており、その時熟に従って時性は非本来的時性として、上記の「時間」を時熟せしめるのである。》(『有と時』第65節)
このような記述を読むと、やはりハイデガーは、生身の人間を絶えず念頭において書いているということに気付かされる。あれらのターミノロギーはそこから派生している。人間へどう肉薄しうるかという問いがあったと思う。
で、ハイデガーにたいして、実存主義的な読み方を斥ける読み方があり、それは分かるわけですが、ハイデガーにおいて実存というのが絶えず念頭におかれ、有が生起する場として考えられていたことは重要だと思います。
つまり、「時間と存在」の問いにはその脇に、人間への、または個体への、また<私>への目線がいつもあって、問いを牽引する役割を担っていた。つまり、現実の風景や具体的な人物や具体的な内面などとの通路が絶たれているわけではなく、
実はいつでも通路はつけられていた。単なる概念論や批評ではない。また、理解を拒むことや把握されないことを目標とされてもいない。デリダは、フロイトにおける無意識を語りながら、<痕跡とは決して現前したことのない過去>とか、否定神学的に喩えてますけども、
ハイデガー的な有ではそのような否定神学は無縁だと思う。
>>426 熱くて演技がかった語り口じゃないと入っていけない人向けかな?
この著作読んで何に「入門」できるか知らないけど
自分は間違ってもこの著作じゃ「ハイデッガー研究」には入門出来ないと思う
>>427 >つまり、「時間と存在」の問いにはその脇に、人間への、または個体への、また<私>への目線がいつもあって、問いを牽引する役割を担っていた。つまり、現実の風景や具体的な人物や具体的な内面などとの通路が絶たれているわけではなく、
>実はいつでも通路はつけられていた。
具体的な人間への目線があるといっても、それは「頽落的」ではない「本来的」なありかたにおける人間への目線でしょう。
哲学者ならソクラテス以前のごく限られた哲学者。言葉に関してはヘルダーリンなどのごく限られた人物の言葉。
ニーチェでいえば、それは「超人」への目線です。
だからニーチェやハイデガーはしばしばエリート思想と言われます。
でもニーチェの場合はキリスト教批判が著述の中心になっていて、実際は「超人」についてよりも
「末人」(ハイデガーでいえば「ダス・マン」)についての思索が中心になっているから、
ハイデガーよりは具体的な人間への目線があると言えるでしょう。
430 :
考える名無しさん :2008/12/29(月) 20:32:56 O
>>429 >具体的な人間への目線があるといっても、それは「頽落的」ではない「本来的」なありかたにおける人間への目線でしょう。
いえ、そこはどうでしょう。例えば、<世界の内に有ること>というのは「本来性」と「非本来性」とかの区別の入ってこないところで考えられてる。どのようなして世界は生起するのか、というところでね。その辺りでは「本来性」というのは論証には入ってこない
でしょう。つまり、世界性というのがより普遍的なところで考えられている。《現有が有るものの中で情態的に有る、ということは、それ自体、可能性を奪われていることを意味する》と「根拠の本質について」で書いてますが、これなどは、有の事実性における可能性を
指示しており、そのまま、生身の人間を指示する言葉だと読んでいます。そこでは「世人」とか「頽落」とかは関わらないと思います。
>哲学者ならソクラテス以前のごく限られた哲学者。言葉に関してはヘルダーリンなどのごく限られた人物の言葉。ニーチェでいえば、それは「超人」への目線です。だからニーチェやハイデガーはしばしばエリート思想と言われます。
例えばへラクレイトスについての講義がありますが、何故へラクレイトスなのかといえば、西欧の思索の元初がそこにあるから、というのが要点です。あと、重要なのが、ハイデガーが主張する有の問いというのは、問う者を超越的立場におくこととは無縁で、
というのも、問う者の問うことをも含めて、全体的に問われるのが有の問いであり、形而上学の意味もまたそこにある、とされている。ハイデガーの思索を終生、その姿勢だけは貫通していたと思う。問うことはいつでも問い自体によって包括されてゆく。
問うことの特権性とは無縁だと思いますね。
431 :
考える名無しさん :2008/12/29(月) 23:04:46 0
突然だが、だれか反駁してくれ。「「存在」とは現在における実存的な「ある」に対して、想像上の「ある」に対応する記号に過ぎない。」という一つの妄想を述べてみる。 あらゆる記号の前提としてまずは現実的な指示作用、すなわち目の前にある複数のものから、あるものを区別するために「〜である」という名称を与える作用(意味づけ)がある。 だからまずは何よりも先に感覚的(実存的)な「ある」っていうことが記号の前提にある。記号は第一にすべて感覚的な「ある」ということを前提にしているが、指示作用は同時に非指示作用(〜でない)でもある。 んであるとき、目の前にない、何かを「考えて=想像して」みた。目の前に「何か」はないのに「〜がある」と「考える」とき、何かは感覚的な「ある」のではない。そこには感覚=実存が欠落している。 ただ想像的に「ある」ということになり、すなわち実存の欠如は目の前にある、ないに関係なく普遍的な「ある」になる。それは「ない」ということでもある。 だから同じ記号としての「ある」だと区別がないので「存在」という記号を与えたんじゃないかと。したがって存在の意味は感覚=実存を欠落させることである。 すべてのものに「存在」が「ある」と「考えて=想像して」しまうのは、想像する=考えるには実在を奪う必要があるからである。なぜなら考える=想像することは基本的に「ない」を前提するからだ。言葉という記号を使って考えてしまえば存在が生まれてしまうのだから。 そして存在を現実に還元しようとすると矛盾になる。存在はもともと感覚的な「ある」の欠落であり、想像に対応する記号としてしか成立しないから。 しかし「コップがある」という現実にたいして「コップが存在する」と言えるのは「〜する」という記号が意味するのは感覚をもった実在の動きを想定しているから。 つまり文全体としてそこに感覚が意味づけされているから。逆に「コップが存在」では普通通じない。かならず「する」が必要となる。 だから一般的に感覚的に「ある」ことが認められていないもの、たとえばUFO・幽霊・魂などは「〜は「存在」する(のか?)」と形容されるのではないか? したがって「存在」は想像上の「ある」に対応する記号に過ぎない。
>>430 >いえ、そこはどうでしょう。例えば、<世界の内に有ること>というのは「本来性」と「非本来性」とかの区別の入ってこないところで考えられてる。どのようなして世界は生起するのか、というところでね。その辺りでは「本来性」というのは論証には入ってこない
「本来性」と「非本来性」との区別を考慮せずにハイデガーを理解するのは困難でしょうね…
あなた自身が引用した
>>427 の文にも、「非本来的時性」とあるでしょう?
非本来的なありかたにおいては、時間は水平化されざるを得ない。
そして存在も存在者化されざるを得ない。
つまり「存在忘却」に陥らざるを得ないということです。
433 :
考える名無しさん :2008/12/30(火) 20:02:16 0
>>426 古東なら『〈在る〉ことの不思議』が一番
てかそれ以外の古東の本は駄目
434 :
考える名無しさん :2009/01/01(木) 23:13:41 0
435 :
考える名無しさん :2009/01/02(金) 04:29:50 0
436 :
考える名無しさん :2009/01/02(金) 22:04:52 O
>>431 > 突然だが、だれか反駁してくれ。「「存在」とは現在における実存的な「ある」に対して、想像上の「ある」に対応する記号に過ぎない。」という一つの妄想を述べてみる。
現実に存在する「有る」と、想像上の「有る」。こういった区別や、また、「何故〜が有るのか」、「何故…は無いか」といった根拠の問いについては、ハイデガーにおいて有の理解(存在了解)から発現する問いであるとみなされています。
言い換えれば、有の理解があって初めて、想像上の「有る」や、妄想上の「有る」、願望としての「有る」、は可能である。その有の理解をハイデガーは、こう記している。
《概念以前の仕方であるとはいえ、或る一つの先理解が、つまり何で‐有るかと如何に‐有るかと有(無)一般とについての先理解が、(「何故」には)含まれている。この有・の・理解が、何故ということを初めて可能にする。
しかしそのことは、有・の・理解が既に、問うことのすべてにとっての最初にして‐最後の原答を含んでいることを、意味している。有・の・理解は最も先行的な答として、最初にして‐最後の根拠づけを端的に与える。》(『ハイデガー全集』創文社208頁)
なので、ハイデガー有論においては、想像上の「有る」は初めから、問題にされており、有の問いに包括されている、と言える。有の先行的な理解があって、それが初めて、実在しないとされるような、「有る」を、または「無い」を、
または「何故有る(無い)か」(根拠の問い)を可能にするのだ、ということだと思う。
437 :
考える名無しさん :2009/01/02(金) 22:12:56 O
記載不十分でした。前レスにて引用した『ハイデガー全集』とは正確には『ハイデガー全集第9巻道標』のことであり、引用した作品は「根拠の本質について」です。
≧462:「本来性」と「非本来性」との区別を考慮せずにハイデガーを理解するのは困難でしょうね… 仰りたいことは理解できるのですが、ただ、仰るような本来的有‐非本来的有の議論というのは、『有と時』に顕著で、以後、展開はされなくなると思います。『有と時』の渦中でも、本来的有と非本来的有との区別の根底に、時熟があり、それが初めて、 先の区別を可能にする、と言われていました(第65節)。時熟というのは意識的・主体的な企投かといえば、そうではない。にも拘らず、『有と時』では、至るところで、 《実存論的分析は、日常的解釈の諸要求ないしはその自足性や気安めの自明性にとっては、立て続けに或る強引な暴力性という性格をもつのである。》(第63節) というような、主体的な企投を描いていたりする。そこのところがこの本の特徴というか、この当時のハイデガーの位相を象徴していると思います。つまり、本来的有の奪取というのが、主体的な企投として考えられていた。そこにこの本の最も象徴的な思想がある。 で、これが1930年の「真性の本質について」になると、有るものの露現と、有るものの全体(世界性)の覆蔽との両立性、というところへ論が移動する。例えば、以下のように言います。 《しかし、真性の全き本質は、非本質を包含しており、そしてすべてに先立って覆蔵することとして支配しているが故に、この真性を問いだすこととしての哲学はそれ自身に於いて、分裂的にある。哲学の思惟は、全体としての有るものの覆蔵性に向かって 自己を拒絶しない柔和な放下である。》(「真性の本質について」) これが書かれたのが1930年で、『有と時』の3年後である。ここに到って、哲学の思惟を、《有るものの全体の覆蔵性にたいして自己を拒絶しない》ことと規定するようになる。これは『有と時』における主体性からは大変な移動だと思われる。 ただ、『有と時』でも、企投について、被投性と同義だ、被投的企投とされているのだから、そこは全き主体性だとも言えない。しかし、『有と時』には《奪取・取り戻し》といった有り方に重きが置かれていたのは確かで。 そこはやはり紛れもなく主体性の残存だと見えてしまう。ハイデガーは『有と時』にあったこの残りを以後払拭していったというのが僕の見方です。
哲学史的にはハイデガーの主著と言えば間違いなく『存在と時間』でしょうが、 ハイデガー内在的には同書は重要文献ではあっても主著とまでは言えないと思います。 ハイデガーの問題意識に即して主著をいくつか挙げるとすればどうなるでしょうか?
≧439:考える名無しさんsage2009/01/08(木) 20:18:21 0 >哲学史的にはハイデガーの主著と言えば間違いなく『存在と時間』でしょうが、ハイデガー内在的には同書は重要文献ではあっても主著とまでは言えないと思います。 僕はそう思います。その理由は、前レスにも一部書いてますように、『有と時』で採られている構えというのが、本来的有の主体的な取り戻し、という課題に一部置かれ、その後それは、つまり、その主体性というのがハイデガー自身によって禁じ手のようにされてゆく。 禁じ手のようにされ、代わりに、『有と時』にすでにあった、時のもたらす時熟、また、将来性に重心が置かれてゆく。将来(または到来Zukunft)、これは単に将来的・到来的Zukunftigではなく、過去的、既在的gewesenでもある。 ここが多分、ハイデガーにおける本来性の枢要だと思うけども、本来性は将来的であり、また既在的である。渡部・原訳だとこう訳されています。 《しかし被投性の引き受けは、到来的な現存在が、己の最も固有な「己がそのつど既に存在したとおりにある」で、言い換えれば、己の「既在」であることができるというふうにしか可能ではない。現存在が、私は既在しつつ存在しているというかたちで そもそも存在しているかぎりにおいてのみ、現存在は、己が復帰しもどるというふうに、到来的に己自身へと到来することができるのである。》(『存在と時間』第65節) この見方、将来的すなわち既在的、というのが、以後もずっと維持された構えであって、プラス『存在と時間』では、そこに、先駆的覚悟性というのが盛り込まれて、本来的有の「奪取」というのが発想される。 これが『存在と時間』における主体的取り戻しであり、良心である。 《現存在というこの存在者の根源的現象的な前渡しは、たとえこの存在論が差し当たっては日常的な現存在解釈の傾向にしたがっているとしても、決して自明ではない。現存在の根源的な存在からその邪魔物を取り払うためには、この取り払いは、 頽落しつつある存在的・存在論的な解釈傾向に逆らって、現存在から無理やり奪い取られなければならないのである。》(同第63節) この本における構えが一様だとは言えない気がする、という理由がこの辺にあります。そこで分裂があるように思えるわけです。
>>439 『存在と時間』って十分主著と言えると思うけどね
外野があれこれ言おうが後のハイデガー自身による参照頻度でみても
断然『存在と時間』でしょ
『存在と時間』や『哲学への寄与論稿』は当然おさえるとして個人的な好みで
『カントと形而上学の問題』
『形而上学入門』
『ニーチェ、芸術としての力への意志』
の三つと「芸術作品の根源」あたりがケーレを軸にハイデッガーの思想を
理解するのに最適だと思う
哲学史へのハイデガー自身の立場もよく分かるしハイデガー自身の思想の
変遷も追える
『有と時』は主著か否かはひとまずさておいて、今、ETVで、若者向け番組をやってて、そこで、“これからの日本は希望が持てるか”てアンケートをやって、若者からのコメントとか募集して、発表したりしてる。で、ハイデガーの良いところ、だと僕は思うんだけど、 この手の設問の根幹には、いつでもその当人の、ハイデガータームでいう「有の理解(存在了解)」があって、また、何が己の本来性か、という問いがある。固有なる有の問いがあって、で、有るものの全体はそのようにして開示される。 「これからの日本に希望はあるか」という設問が突き詰められる時に根底で関わり、左右するのは、実存であり、実はコメンテーターとかアンケート回答者だってそうである。ハイデガー思想からはそういった結論が導出されてしまう。 『存在と時間』という本はそのくらいのことは言っちゃった。有るものの全体とは何か、という問いですよね。有るものを露現するなかで、有るものの全体の問いが覆蔵される。だから、「これからの日本に希望はあるか」という問いが、個々における、 有るもの全体の問いを覆蔵する。実に面白いというか、スリリングな論理だと思う。 で、ハイデガーの主著は何か、ですが、一貫してその思索を移動させ続けた思想家であり、「主著」というふうに限定する必要はあるのか、という疑問もありますね。ただ、『存在と時間』について言うならば、あれ一つでハイデガーを決めるのは早計、 しかし、相当面白い本であるのは間違いない、て思います。
443 :
考える名無しさん :2009/01/09(金) 10:19:40 0
存在と時間を読もうとして木田元の本読んだら 読む気なくしたって人多くない? 俺個人の感想は、この本読んでも 人が生きてくのに何の役にも立たなそうだということ。 ハイデガーを実存的に理解したかったが そういう読みが間違ってるのに気づいた。 俺は何読んだらいいだろうか。
瀬戸内寂静の本とか読めばいいんじゃね?
445 :
考える名無しさん :2009/01/09(金) 22:36:32 O
ハイデガーってショーペンハウアーにはそれほど興味なかったんだな もちろんニーチェに言及するときは時々でてくるが 様々な哲学者の講義してるのにショーペンハウアーは?って感じ なんかかなり意外な気がする
二流の通俗哲学者って程度の評価なんじゃないか? それより、スピノザについてほとんど何もいわないのは、なんとも合点がいかない。 (こっちは、ユダヤ系だから無視しているのかもしれない)
ユダヤ系だから無視w
実際、パウル・ツェランを無視してるしな
ツェランの詩は、ホント泣けてくるよね。。
>>441 主著だけど前期の思考だね
中断した事も含めてあれですべてではない
ツェランには何ら先駆けるものを感じなかったんだろ リルケには両義的な態度ながら言及してるしユダヤ だからどうこうってわけじゃないと思うが
ハイデガーなんて読んで役に立つの?
ヒト自身も市場に乗ってしまった現代社会で実存から考えるということは 特別に重要な思想だと思いますよ。
哲学も含めて、読書とか教養とかが、歴史的な著作を網羅的に読んで、要旨を身につけ、繋がりを論じること、に留まるならば、その手の「哲学」「教養」とハイデガーは何の関係もないでしょう。スピノザだろうがニーチェだろうが関係ないと言うしかない。 《全体としての有るものが開示されることは、真直ぐに熟知された有るものの総和とは、一致しない。<事態は>反対である。すなわち、熟知されたものと何時でも知られ得るものとが見渡し得ないものになってしまっている処、そして諸々の物を技術的に支配し得ることが 際限ないもののような身振りを見せることに於いて、知ることの忙しげな駆動に何者も抗し得ない処、そういう処に於いてよりも、人間にとって、有るものが僅かしか熟知されておらず、学に依って殆んどそしてただ荒削りにしか認識されていない処に於いて、 全体としての有るものが開示されていることは、一層本質的に統べ得るのである。》(「真性の本質について」) おそらくハイデガーは教壇に立ち始めたごく初期から、「教養」や「知」に駆動されてゆくことに内在する閉塞や蒙昧に気付き、それが自分の追究する有の問いを阻害するものとして、しばしば作用するものであることに自覚的になっていったのではないかと思われる。 ハイデガーというと、有(存在)の問い、と連想されがちだけども、その言説においてはしばしば、「知」や「教養」への問いが頻発する。しばしばそれらを追究したがる人間が槍玉にあげられ、自分が追究しようとする問いと、それらの人々の知りたがる話は無関係である 由が語られてゆく。 それは学校教育はもちろん、それにとどまらず、むしろ「知一般」とか「教養一般」とかを成り立たせる構え、というのが標的ではなかったかと思う。それらにたいする排撃的な眼差しをハイデガーを読んでいるとしばしば感じさせられる。 有の問いにとって、邪魔なのだということをおそらく察知していた。
とりあえず「お上品な」新カント派は目の敵だな。
目の敵も何もすでに絶滅してるだろ
457 :
439 :2009/01/10(土) 20:05:47 0
レスありがとうございます。 『存在と時間』だけでは不十分だけれども、かといって中後期でその代わりとなるような主著を選別するのは難しい、といったところでしょうか。 大方の意見通り、「『存在と時間』は主著でない」というのは言い過ぎたかも知れません。 ハイデガー思想の全部ではないにしろ、卓越したアイディアが散りばめられているのは事実ですからね。 ついでながら、『現象学の根本諸問題』はどうなんでしょう。 私は未読なのですが、木田元などは『存在と時間』の未完部分に相当すると言って重要視しているので……
458 :
考える名無しさん :2009/01/10(土) 22:35:53 0
>それは学校教育はもちろん、それにとどまらず、むしろ「知一般」とか「教養一般」とかを成り立たせる構え、というのが標的ではなかったかと思う。それらにたいする排撃的な眼差しをハイデガーを読んでいるとしばしば感じさせられる。 >有の問いにとって、邪魔なのだということをおそらく察知していた。 つまりは「である」という構えなんだよね。
>>457 そこまで重要とも思えない
少なくともカント書のほうが読んでて面白い
460 :
457 :2009/01/12(月) 22:48:42 0
存在と時間の上下巻を買って、一気に読んだ。 感動した。 数年後、本屋で「中」を見つけた。
面白いw
463 :
考える名無しさん :2009/01/14(水) 18:37:59 O
現存する『存在と時間』の中で「上・中・下」と分かれているものといえば桑木務訳の岩波文庫版でしょうね。 ところで、前レスで誰かが“『存在と時間』と『哲学への寄与』は必読”だとか書いていたと思う。が、あの『哲学への寄与』というのは、今日何気に読んでて気が付いたんだが、 ハイデガー的な有論としては非常に特異で、例えばSineとそれまで書いていた有をSeynとする、邦訳では「有」の上にに「・」が付される。また、そこに《底無しの深淵》という説明を重ねる。有を論ずる際、重要な要素として、思索の根本気分《驚愕、慎み、畏れ》 をあげる。また、ハイデガーはこの書の冒頭近くで謎のように語る。 《時として、底無しの深淵を基づけるあの者たちは、守護されたものの炎の中で焼き尽くされなければならない。それは人間にとって現‐有が可能となり、そのようにして有るもののただ中での存立性が救済されるためであり、 有るものそれ自体が大地と世界の戦いの開けのなかで回復を経験するためである。この結果として、有るものは、有Seynの真理を基づける者たちの没落を通してその存立性の内へと突き入れられる。このようなことを有Seynが要求するのである。》 (『哲学への寄与論稿』創文社版11頁) おそらくハイデガーがバタイユ的な領域に最も接近したのがこの時だったにちがいない。バタイユ的な領域とは、人間の内なる死であり、一体性に穿たれた裂傷である。 《人間と外部世界の持つ攻撃性―暴力の激発の総体―は、まず初めは、原始の宗教的態度において、恐ろしいけれども自然な危険として考えられました。そのような諸条件において、暴力は人間から切り離されてはおらず、人間は暴力と共に生きて、 それに対して単一的な反応をするのではなく、非常に複雑な情動的な動きを返していたのです。》(『聖なる陰謀』ちくま学芸文庫96頁) バタイユにおいてしばしば語られる、死や暴力に貫かれ、過剰な生のエナジーの虜になる、生の消尽。ハイデガーはこの覚書の中で、そのような領域へ、接近を試みている。有の問いをさらに突き進めたかったのだろうか。 内に湛えた歴史の無尽蔵というのが主題だったかもしれない。自らを焼き尽くす、没落させる現‐有という発想をあらわしたこの覚書が、ハイデガーにとって一つ到達点だったとしても不思議はない。
>>463 さん
興味深い論点だと思いますが、できれば
>人間の内なる死であり、一体性に穿たれた裂傷
というのを、もっと詳しくご説明頂けないでしょうか
なかなかイメージするのが難しいですね
できれば、具体的なバタイユの著作や記述を一緒に
掲げてくださるとうれしく思います
このように読んでみてはどうだろう。底無しの深淵については前スレにちょっとかいた。 >底無しの深淵を基づけるあの者たちは 底無しの深淵であるものを基礎付けようとするものは (存在と時間におけるハイデガー自身のようなもの) >有るものそれ自体が・・・回復を経験するためである 存在自体(存在者としてではなく)が・・・回復されるためである >有るものは、有Seynの真理を基づける者たちの没落を通してその存立性の内へと突き入れられる。このようなことを有Seynが要求するのである。》 存在は存在の真理を基礎付けようとするものの失敗を通して存立性の内へと突き入れられる。 このようなことを存在が要求するのである。
466 :
考える名無しさん :2009/01/15(木) 02:46:32 O
>人間の内なる死であり、一体性に穿たれた裂傷 というのは、エナジーの過剰において、人間が死に近づいたり、実際に死んでしまったり、忘我の境地に呑み込まれたり、そのようにして、人間としての一体性が崩壊してしまう、そのような事態を指しているつもりです。いわばバタイユの真骨頂ですか。 具体的なテキストならいくらでも見つかります。例えば『ニーチェについて』(現代思潮社)の67頁。 《頂点は力の過剰に、横溢に、対応している。頂点は、悲劇的な激しさを最高度へと導く。頂点は、度を越したエネルギーの消費に、存在の一体性への侵害に、結び付く。したがって頂点は、善よりも悪に近い。》 他に、『エロティシズムの歴史』(哲学書房)148頁に以下のように書いてあります。 《一人の王の死に呼応して生起することがあったようなあの狂乱、長期にわたる爆発に先立つあのような狂乱は、われわれを破滅に結び付ける怪物じみた誘惑がいかに大きいものかを示している。われわれは、労働や忍耐や財の緩慢な蓄積を、 それらと正反対の運動のために放棄する誘惑に絶えずさらされている。それは、蓄積した富を突如として濫費し、可能なかぎりのものを使い果たし喪失してしまうような運動である。》 これへのハイデガーの応答としては、以下のような言があります。 《真理は空け透かす覆蔵であり、〔忘我的〕脱離と〔忘我的〕脱然として起こる。この両者はその統一と過剰とにおいて、有るものの活動のための囲いこまれた開けを与える。》(『哲学への寄与論稿』77頁) ハイデガーの後期有論において、「有の呼び声へ応答する」というのが現‐有の定義としてありますが、ここにきて有の孕む歴史の深度がより深められ、それがバタイユの追究した聖性との接近をもたらしたような感じを持ちます。
>>466 バタイユからの引用箇所は、「力の過剰」つまりニーチェの「ディオニュソス的なもの」
について書かれているんですよね。
なんでそれをハイデガーの『哲学への寄与』に結びつけるのか、わかりませんねぇ。。
『哲学への寄与』の副題は「性起について」ですよ。
実際ハイデガーは『哲学への寄与』で「性起」についてたくさん言及している。
『哲学への寄与』に結び付けたいなら、「性起」との結びつきを書かないとだめでしょう。
(「性起」が仏教用語であることから分かるように、それは普通は仏教と親近な思想と考えられてますが。。。)
>>467 「性起」って訳語、どうもキモイ。受け付けられねぇ。
そんな特殊な言葉じゃないだろ原語は・・・
ハイデガーの訳者って言語感覚崩壊してる連中が多いな
>>468 “Ereignis”の普通の意味は「出来事」だろうね。
でもハイデガーが“Ereignis”に特別な意味を込めてるのは明らかだから、
それを「出来事」と訳したらおかしいよね。
「エアアイクニス」とカタカナ表記する手もあるけど。
「性起」は、顕現するという意味だよ。
意味的にはそんなにずれてはいないと思う。
Ereignis は普通に使われているドイツ語だが、 「性起」なんて言葉は日本語ではまず使われない。 「出来事」でいいじゃん。 特別な意味を込めているかどうかは、 行間から読み取るべきことであって、 珍妙な訳語を当てはめて訳した気分に浸ることではないと思う。
Ereignis の元々の意味は「眼(Auge)の前に現れるもの」ってことなんだけど、 ハイデガーはこの言葉を Auge(眼)ではなく eigen(本来の、固有の)に関連づけて、 「本来性が生起すること」という意味で強引に解釈してる。 だから、日本語訳では「本来性の生起」という意味をこめて、多少意味のずれはあるものの 仏教用語の「性起」という訳語をあてている 日本語訳が強引で不自然なのはハイデガー譲りだと言えなくもない
>>470-471 >「出来事」でいいじゃん。
“Ereignis”=「出来事」というわけでもないから、そうとも言えないでしょう。
どっちにしても訳語に引きずられる危険性はあるんだよね。
翻訳の限界。
「性起(Ereignis)」とか「出来事(Ereignis)」と言語を付記すればいいんだろうけど、
そうすると言語を付記することによって、その語が特別な意味をもっていることを示してしまうことになるから、
また君からは「特別な意味を込めているかどうかは、 行間から・・・」というクレームがでるだろうw
まあ、翻訳の限界だよ。
大抵哲学者って知性の鋭さにアホ臭さが伴うものだが ハイデガーの場合胡散臭さが伴う
ドイツ語の哲学用語ってドイツ人にとってはカジュアルな意味と 哲学的な意味の区別があるんだろうけど例えば日本人にとって 「持ち上げ」なんて言われてもどう考えても「持ち上げること」で しかないからね せいぜい「保留」?と訳してもまだ遠い
475 :
考える名無しさん :2009/01/16(金) 15:02:44 O
>バタイユからの引用箇所は、「力の過剰」つまりニーチェの「ディオニュソス的なもの」について書かれているんですよね。なんでそれをハイデガーの『哲学への寄与』に結びつけるのか、わかりませんねぇ。。 <性起>の用法を幾つか並べてみると、「極限的な出来事(化)」というのが浮かび上がってきます。ハイデガーは次のように書いています。 《人間が自らの本質を、現-有の基づけによって歴史的に基づけなければならないということ、現-有を持ち堪え抜くことの内的緊迫性が、神々の出奔として性起する出来事の時-空における住民資格に他ならないこと、そういうことを把握する者だけが、さらに言えば、 性起がもたらす狼狽と至福とを、根本気分としての慎ましさの内へ創造的に取り戻す者だけが、有の本質を予感したり、そのような省慮において将来的な真なるもののために真理を準備したりすることを、能くしる。》(『哲学への寄与』創文社版58頁) また、そのような、《省慮において将来的な真なるもののために真理を準備したりすること》は《犠牲》を要求する、とされる。すなわち、《この準備に犠牲になる者は移行の内に立つのであり、》とされる。これは何を表すのか。 また、貴兄もご存知の如く、『哲学への寄与』において、「神」「神々」という語彙が頻出してくる。これが何を指すかは難しいが、先の「性起」と絡めた使い方を鑑みるときに、やはり「極限的な有」を指すであろうことは容易く判別できる。 単に「極限的」であるのみならず、それは「性起の省慮」と同じく、「犠牲」になることを要求もするのである。この時、そのような「神々」が、バタイユ的な「聖性」「至高性」を指すであろうことは容易に解釈可能である。 「死へまで至る生の肯定」というのがバタイユ的な領域だった。バタイユはだから文字通り、生の過剰への「犠牲」たることを讚美した。バタイユはそのような問題意識を、生の衰弱を促す時代状況へのアンチテーゼとして繰り出した。そのような問題意識と、ハイデガーの この本での問題意識は共通していると見ることは可能である。 今一度、ハイデガーの言を読みましょう。 《(根拠の)上に休らうとは、問うことが極限の躍動領域の内へ赴くこと、極限の出来事への聴従的帰属性へ赴くこと、すなわち性起における転回である。》
単にAのこことBのここが似ていると言うだけの「比較」が、 いかにつまらないかということを見事に示している好例ですね。
477 :
考える名無しさん :2009/01/18(日) 09:31:25 O
『哲学への寄与論稿』における有Seynへの問いが、『有と時』における問いとどう違ってきたかをハイデガー自身が書いている箇所があります。彼は「問いはより根源的に問われるべきだ」としている。これは『哲学への寄与論稿』の性質を示している好例でしょう。 《〔哲学は〕有Seynの省慮として、必然的に自己省慮である。この連関の以下になされる基礎づけは、本質的にいかなる種類の「自我」の「自己」-確実性の確保からも区別される。この「自己」確実性はまさしく「確実性」のためになされるのであって、 有Seynの真理のためではない。しかし上の基礎づけは、移行において『有と時』における現-有の「基礎的存在論的な」設定によって遂行しなければならなかった領域よりも、いっそう根源的な領域に、なおも遡及的に届く。この基礎的存在論的な設定は今もなお十分には 展開されず、問う者たちの知へと高められてはいない。》(『哲学への寄与論稿』54頁) さらに、この文章は以下のように続きます。 《さてしかし、省慮の本質を自己-省慮として根源的に基礎づけることによって、「われわれ」自身が問うことの領域の内へ共に突き入る限り、哲学的な問いは、そこからみられるなら、次のような問いの形へともたらされ得る。すなわち、われわれとは誰であるかと》(同) つまり、『有と時』における基礎的存在論での問いは、まだ根源的に問われなかった。それをこれからやろうとしているということ、その問いは、われわれとは誰かという問いへ突き進むであろうとされている。 それで、これを私なりに解釈すれば、有Seinから有Seynへの転回の根底にあるのは、歴史的時間を、さらなる遡及すること、にあるであろう。具体的には、歴史の未開史が人間の有にどこまで蔵されているのか、という問いになる。バタイユはその著作の中で、 未開史における生命や財の供儀や消尽について、繰り返し考察し、未開史におけるそのような存在、絶えず死を抱え込んでいた存在に、人間存在の原型を見ようとしています。ハイデガーはこの時、歴史的時間の遡及を考察するなかで、そこに、 人間が自己を炎上させざるをえなくなる瞬間、没落せざるをえなくなる瞬間というものに行き当たり、有Seynとしてくりこまざるを得なくなったのではなかろうか、というのが私の見方です。
478 :
考える名無しさん :2009/01/18(日) 09:57:39 O
「バタイユにおけるディオニソス」というのは確かにありますが、これはバタイユにおいては、単に“主義”という形式においてのみみられるべきではない。バタイユは特に戦後の著作において、自らの取り出す体験を、未開時代や未開社会に特有な存在形態として考察し、 普遍化しようとしている。それは単なる個人的な思想ではない、人類学的、社会学的な考察といってよいものであろう。そこにハイデガーが考察する歴史的時間の遡及と重なる要素はある。 とは言うものの、私は別に、この時ハイデガーがバタイユに影響されていたとか言いたいわけではない。そんな証拠はないわけです。にも拘らず、この時、両者の距離は限りなく接近していた。そうとしか思えない。『哲学への寄与論稿』が書かれたのが1930年代後半 だとされている。これはバタイユが秘密結社アセファル(無頭人)で動物(もしくは人間)の供儀をやっていたとされる時期と重なる。このような歴史の偶然を考えていくと非常に面白い。不思議に思えてくる。
>>475 >単に「極限的」であるのみならず、それは「性起の省慮」と同じく、「犠牲」になることを要求もするのである。この時、そのような「神々」が、バタイユ的な「聖性」「至高性」を指すであろうことは容易に解釈可能である。
「極限的」「犠牲」「神々」は、ディオニュソス的なものを指すであろうことも容易に解釈可能です。
そういう結びつけ方って、たしかに容易であり、したがって安易ですw
>>478 >バタイユは特に戦後の著作において、自らの取り出す体験を、未開時代や未開社会に特有な存在形態として考察し、
>普遍化しようとしている。それは単なる個人的な思想ではない、人類学的、社会学的な考察といってよいものであろう。そこにハイデガーが考察する歴史的時間の遡及と重なる要素はある。
未開社会の人類学的考察なら、ハイデガーじゃなくレヴィ・ストロースですね。。。
480 :
考える名無しさん :2009/01/22(木) 04:06:59 0
2009.02.19 発売予定 KAWADE道の手帖 ハイデガー A5 ● ISBN:978-4-309-74025-6 ● 予価1,575円(税込) 20世紀最大の哲学者、マルティン・ハイデガー生誕120周年記念特集。 真の主著ともいわれる『哲学への寄与』も翻訳された今、アクチュアリ ティをいやます「存在の思想」に迫る! 待望の論考「建てる、住む、 考える」もついに邦訳!
>>480 >待望の論考「建てる、住む、
>考える」もついに邦訳!
これこのまえ訳書が出てたやん。
『ハイデッガーの建築論』ってやつ。
482 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 01:03:15 O
宮台真司という人の本、『限界の思考』を読んでいると、そこかしこにハイデガーからの影響を受けたと公言する言説が見られる。<世界の根源的未規定性に開かれる>ことを称揚するくだりなど、まさにそうである。 そこから宮台は<私が他ならぬ私である><此処が他ならぬ此処である>ことへの驚きに言及し、愛郷精神に繋がることを指摘する。それらの言及を辿ると、宮台なりによく読み、消化していることは伝わってくる。それなりの面白さは伝わってくる。 ハイデガーのみならず、宮台の知的消化力には舌を巻かされるところがある。一方、その消化力と饒舌さが邪魔に思えるところがある。宮台が参照するハイデガーは、宮台とは対照的に、知的啓蒙には精を出さず、ひたすらに有の呼び声に耳を澄ますこと、 その比較を絶した力に耳を澄ますことを生涯かけて訴え続けた。宮台に比べれば、参照する文献も多くはない。しかし、その弧絶感、切迫感は宮台の比ではない。その追い詰められ方が凄惨な感がするほどだ。ほとんど信仰告白な感もあるが、 そこまで切迫しているという姿が、読む側をして引きずり込んでゆく。何よりも、ハイデガーは、読者を啓蒙するために書いているのではなく、有の比較を絶した力を浮上させることのために、そのために全精力を費やしている。 余りにも敵対手が巨大であり、強大であり、そのため、政治的、社会的変革の手段に訴えるどころではなくなっている。「惑星的運命」とよく言っており、それは、たかだか国家的な問題ではない。精神的問題でさえもない。 ハイデガーからすると、惑星的運命を考える他にない。すべては工作機構の歯車に化してしまうわけで、工作者の一人になりたくもなかっただろう。弧絶した姿の中に、ハイデガーの担っていた歴史的運命が透けて見える。そのような場所からみると、 様々な思想をツールとして扱い、大衆を啓蒙せむとする運動家の姿は、たとえ不可避なものを含んでいたとしても、身軽なアクロバットの様相を帯びて見える。確かに宮台は言説の中に<私が他ならぬ私である>ことをうたっている。しかし、現実に彼がそれを語る手法は、 <私が他ならぬ私である>、つまり、ある場合は卑小であり、同じ意味で偉大でもある、一人の生の事実性から乖離し、着地できていない気がする。
483 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 02:02:16 O
何故、そのように思えてくるのか。ハイデガーは、一人の人間が生きている、たったそのことだけで、その人間における可能性は決まっている、という言い方をしている。ある一定の可能性はあるが、残りの可能性は予め捨象されている。 それがつまり有限ということの意味なのだ。<等身大>ということの意味がそこにある。或いは<根源的未規定性>というターム自体の問題だとも言える。<根源的未規定性>と形容された場合、何やら過激で神秘的な様相を帯びてくる。 しかし、<根源的未規定性>といえるほどの超絶的有などは、ハイデガー的に言えば、<覆蔵>されており、それが顕在化するには<覆蔵解除>が必要である。少なくともハイデガーの場合、現有が生起させる有は、ある条件がないかぎり、可能性として有限的であり、 例えばそれは宮台真司の如く有能だとは限らないし、知的ではないかもしれないし、一生派遣労働者で終わるような人間かもしれない。そう考えると、一人の生の世界というのは、実にみみっちいものであるとも言えるし、また、みみっちいにもかかわらず、 それなりの歴史を内部に蓄積してもいるものだ。そこから<根源的未規定性>の実感される場所まではある断層がある。また、条件が必要である。言い換えれば、<等身大>な実存の場所を抜かすことで、その存在論はリアリティーを失うことになる。 宮台真司はハイデガーを引用しながら、初期ギリシャ哲学の中の人間観を語り、ハイデガーやニーチェの意味を、初期ギリシャ哲学を掘り起こしたことだとする。しかし、ハイデガーに限って言えば、その人間観というのは、生の事実性ということを重視しており、 だからこそ机上の空論に陥らずに済んでいる。そのような場所から眺めるとき、宮台真司の語る世界観は、知的偏光を帯びて見える。また、そこで語られてゆく人間が知的意味付けを施され、その分事実性から乖離している。つまり、実際に比べて、 語られる人間が社会学だか何だかの眼鏡でしか語られない、その偏光を蒙っている。語る当人、つまり宮台真司の、知的水準から掴まれた、そのような語られ方しかできない、その分の粉飾を蒙っている。だからリアリティーが失せる。 少なくともハイデガーはそのような知的装飾からは程遠い。
484 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 16:38:47 O
『限界の思考』における宮台真司によるハイデガー読解を読んでいて、奇妙な感を受けるところがある。宮台は、<徹底的に理性的であることの末に、有の問いが現れる><理性的である人間にしか、有の問いは現れ得ない>としている。 しかし、そこでの理性重視は、ハイデガーその人の言説とは明らかに異なっている。ハイデガーは論文『ニーチェの言葉「神は死せり」』の中で、理性について、次のように述べている。 《幾世紀も前から称揚されてきた理性が、思索の最も執拗な敵対手であるということを、我々が経験してしまったとき、そのとき初めて思索が始まるのである。》(創文社版ハイデガー全集第5巻『杣径』296頁) このような言説から、ハイデガーにおける理性重視を引き出すことには無理がある。つまり、宮台のハイデガー読解には多分に戦略的な意味がある。どのような戦略なのか。主体性、自由と責任を温存したいという戦略である。 宮台真司がハイデガー読解における理性重視を訴える背景にはそれがある。しかし、ハイデガーその人の言説を辿れば明らかなごとく、そのような語られ方がハイデガー本人によって為されているわけではない。というよりも、自由と責任、主体的選択を訴えるその手法は、 ハイデガーではない。むしろその手法とはハイデガーによって批判されたサルトル譲りのものである。ハイデガーの論理とは、時熟Zeitigungというタームにも見受けられる如く、自由にしても、時性に委ね、主体性を前面に出さないところに特色がある。 有とは、<出発点において生成し、支配的なもの>、すなわちピュシスφυσιδの支配下にあり、その拘束のもとにある。宮台真司がハイデガーを読む読み方が、偏光を受けていると思えるのがそこであり、その偏光とは、ハイデガーにおける最も重要な論点、 有またはピュシスの拘束というものを、無化しようとしているかの如くに見えるところにある。サルトルは、あらゆることを主体的選択の対象にし、そのことによって自由とそれに付随する責任を前面に出したが、宮台真司のスタンスというのもそれと同様で、 彼が言う<再帰的>というタームとは、考えてみれば<主体的選択の対象にする=対象化>という意味で、その意味でまさしくサルトル譲りなのである。
485 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 17:02:10 0
でもさ、再帰性と言った場合、それは、存在論的差異と同じではないの? つまり、主体の定立が再帰性によってずらされると言う事で、主体の 否定立化って事ではないかな。
486 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 17:36:18 O
再帰性については宮台自身の次のような説明が最も妥当でしょう。 《すでに述べましたが、再帰性とは、それまで自明性に浸されていた選択前提が、自覚的な選択対象になることです。たとえば、再帰的伝統主義という場合、「気が付くと伝統に服している」のとは違って、「伝統に服するという選択をあえてする」ことを指します。》 (『限界の思考』105-106頁) ところで、ハイデガーにおける有というのは、言うまでもなく宮台の説明するような、<再帰的>な概念ではない。むしろそのような主体的選択の対象たりえぬ到来的なものである。有の強力、或いは無尽蔵というのはそのような主体的選択の向こう側から来ている。 そこから考えても、宮台の論法というのが、外観がハイデガー的であって、本質はまるで別物であることが分かります。主体的選択の前面化はハイデガーのものではない。
487 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 19:20:31 0
488 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 21:52:43 0
486・・なるほど。 つまり、再帰性は再帰できると言う主体が前提になっているが、 ハイデガーの場合は被投性としての現存在(主体的でないもの)が 前提としてあると言う事でしょうか。 でも、最初の投げ込まれの後には歴史へ向かい、そこで、再度自分を 定立する訳で、ここにある意味で主体性が認められるのではないでしょうか。 それと、質問ですが、有と存在とはどうちがうのでしょうか?
489 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 23:48:51 O
>486・・なるほど。つまり、再帰性は再帰できると言う主体が前提になっているが、ハイデガーの場合は被投性としての現存在(主体的でないもの)が前提としてあると言う事でしょうか。 >でも、最初の投げ込まれの後には歴史へ向かい、そこで、再度自分を定立する訳で、ここにある意味で主体性が認められるのではないでしょうか。 サルトル的な哲学でいえば、<選ぶ>は<作る>と同義、また、<自由>と同義、また、<責任>と同義である。その根幹に、<存在=無>としての対自存在がある。 私が言いたいのは、宮台真司の場合、ボキャブラリー的にはあたかもハイデガーから影響を受けているかのようにいかにも見えるけども、内実は上記に挙げたような、自由と責任の哲学に貫かれているだろうということ。それはサルトルですよ、ということ。 被投性というタームについて言えば、被投的企投とも言うくらいで、つまり、被投性と企投性とは有のもたらす運命的有であり、同じことを指すわけです。そこに選択があるとしても、それは、いわば、ハイデガー的に言えば、先-像(原-像)に拘束され、導出される、 運命的な出来事だと言える。それはサルトル的な、対自存在の自由とは本質的に異なる出来事なわけです。 >最初の投げ込まれの後には歴史へ向かい、そこで、再度自分を定立する訳で、ここにある意味で主体性が認められるのではないでしょうか 言いたいことは分かりますが、このタームだと、運命的という意味があんまり出てこない。何かを対象化する、ということはそれ自体、分裂を表すでしょう。存在了解だとか、有の理解だとか、言う場合、それは選択的ではなくて、むしろ、我だとか主体性にたいし、 先行してしまっている(!)という点が決定的に重要であって、でなければサルトル的自由や選択と何一つ変わらないわけです。 宮台真司においては、ハイデガー的な語彙というのは、存在形式への技術として、考えられていると思えます。色んな概念をツールとし、取り換え引き換え成立する社会学、そこには、有の無尽蔵を訥々と語るハイデガーの不器用さと、余りにかけ離れたモダニズムがあります。 あれは空虚だと思いますね。
490 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 09:30:54 0
489さんへ 大筋で了解します。私はハイデガー専門ではありませんが、ほぼ同じ様に 理解しています。サルトルが対自存在を強調し、一般的には マルキスト的実存主義者と言われていますし、その歴史的必然としての共産主義 革命にアンガージュ(参画)する事を目的にしていますよね。 これって、貴方のおっしゃるとおり、主体=人間性(ヒューマニズム)の 哲学ですね。そう言う意味から、ハイデガーの見た無=被投性の主体のない ものへの洞察が欠けている。これは、今現在の哲学から見ると大きな 間違いですよね。特にポスト構造主義への哲学史の推移を見れば明確に 分るんですよね。
491 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 09:38:03 0
ただ、再帰性については、私は肯定的に見ています。 それは、絶対定立としてのコギトを無限に再定立(ズラシ)する事でもある 訳です。この辺はドゥルーズでは「領土化」と「再領土」と言う術語と 類似性を感ます。また、デリダの「差延」と言うタームにもそのような 類似を感じますけどね。確かに、貴方の言うように、全く無である 完全な否定立を求めるならば、再帰性についても、主体の定立への 過程になりますね。
492 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 09:40:28 0
宮台のハイデガー読みについては、知りませんが、 宮台自身がサブカル系でしょう。哲学にはあまり興味がない のではないでしょうか。東とは路線が違う。
>>489 宮台なんて興味ないですがw たぶんそういうところにこだわっても、
あんまり意味ないんじゃないかと思います。
人間は受動性(被投性)と能動性(主体性)とが交錯したところで生きているんだから。
ある時には受動的側面が強調され、またある時には能動的側面が強調される。
だからそれは二者択一の問題ではない。
これは、仏教での、自力か?他力か?という話によく似ています。
真宗系の仏教はかつて、禅宗系の仏教を「自力」信仰として批判したんだけれど、
実際は、禅宗だって、根本に「他力」があることぐらい分かっている、もちろん。
つまりそういうのは的外れな批判なんだと思う。
サルトルの「対自存在」というのは、自己自身に対してある存在ということで、
つまり自己意識という観点から人間存在を見ているわけで、
単にハイデガーとは見る観点が違っているということでしょう。
対象化するのがだめだといっても、実際には人間は自己自身を意識する「対自存在」なわけです。
ハイデガーのいう「存在の牧者」には、自己意識がないんでしょうかね?
どうでもいい事かもしれないが サルトルは作家であって哲学者ではないと同時に 実存主義って言葉自体、蔑称ととて用いられているのに 大真面目にサルトルの内容について論じ合ってるこのスレには違和感を感じる
495 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 15:36:28 0
前期ハイデガーについては、いまだ、自己意識はあると思いますよね。 それは、日常への頽落から、不安・死への先駆によって、覚悟性・決意性 に目覚めるわけです。これは明らかに自己意識ですよね。 ただし、一般的には「存在と時間」は実存分析と言われ、ここでは 主体性が否定されてはいないと思います。そこで、サルトルが誤読した 様に主体の可能性を強調したのです。 ところが、ハイデガーはこのスレッド立てた方の言うように、いわゆる後期 と言われる書物では、現存在は被投された存在として、無である事を 強調するようになる。つまり、存在と言う無に投げ込まれた存在であり、 そこから逃げ出せないと言う事を強調する様になる。 サルトルも実存に投げ込まれた者としてはいましたよね。 でも、サルトルはヒューマニズムの哲学者だったわけです。 この点を、ハイデガーは確か批判していたと思います。 しかし、フランスではサルトルはスターだったわけです。 でもその後で、構造主義に批判されていく。 つまり、主体は構造に先立たれていると言う事を指摘される訳です。
496 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 15:43:23 0
サルトルは哲学者か小説家か? これは面白いですね。 確かに彼以前の哲学者とは違い、小説を書いたり、政治活動したり マスコミへの意識もありですよね。 ただ、彼以降のフランスの構造主義・ポスト構造主義者には 小説批評が目立ちますから、サルトルのスタイルは これらの哲学に大きく影響を与えたと言う事は出来ますし 逆に彼を批判しつつ、ニーチェ・ハイデガーを経由して ポスト構造主義に行き着く訳で、小説家ですとは断言できない でしょう。もっとも、このような垣根を考えることが否定されていく と言うのが現代哲学にはあると思います。
実際の所は芸術運動に身を置いて博士ではないわけだから 哲人として解釈する事は出来ても、哲「学」者ではないだろうと思う。
498 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 15:50:52 0
「嘔吐」は現存在が投げ込まれた「存在=無」を彼なりに 表現したものですよ。だから、彼をただの文学者と言うのは おかしいよ。
実際の所、サルトルの名言「実存は本質に先立つ」も循環論的な矛盾に陥っていて それを担ぎ上げる人や、それを看過する人の認識の甘さを露呈させているように見える。 >「嘔吐」は現存在が投げ込まれた「存在=無」を彼なりに表現したものですよ。 学問としてはまとまりが無く、文学として統一されている場合 哲学的文学であって文学的哲学ではないと思うよ。 ハイデガーはアカデミックな思考の厳密さを持ち合わせているし サルトルと並べられるのは少し可哀想だ。 哲学の信奉者と実行者、更に言うなら研究者は別だと思うんだ。
500 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 16:01:21 0
澤田直氏によると、文学作品・哲学論文・批評活動 でしょう。それにアンガージュするわけです。第二次大戦のレジスタンス 的な視点があって、それを肯定していたのかも。ノーベル賞の シュヴァイツァーが大叔父ですし、ノルマリストでしょう。 哲学教授資格を取り、パリのリセで哲学を教えているし 哲学者でないとは言えないよね。ただし、最大の関心は偉大な 小説家になる事だったようです。
501 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 16:09:42 0
たしかに、ハイデガーと比べると、ハイデガーが可哀想ですね。 サルトルは彼以後言われるようになる、知識人なわけですよ。 以前にはこの様に言われなかった「知識人」。 社会をリードする言説を作り出す人って事でしょう。 何でもありの人で、実存主義・マルクス・現象学・社会運動・マスコミに アンガージュ(参画)するって事で、やはり、この辺の主体の 強引さが批判されて行くってことでしょう。 聖ジャンジュネを褒め殺しで無能にしたり。第二の性のボーボワール との事によって、以後注目されるジェンダーの問題もあるし、 何でもありで。
日本人にとってはハイデガーよりも サルトルやニーチェの方がとっつきやすいのは分かるけど それならこのスレは関心を反映させて沈めるべきかもね。
503 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 16:15:52 0
でも、その辺が、ポスト構造主義の欲望朦朧体の行き詰まりから 再評価されそうな時期もあった様な気もするけどね。 それと、ヘーゲルに戻れとか、カントを見直そうとしたり。 この辺の動向について詳細には解りませんが、主体批判が一段落 した後に、それでも人間は行為するがそれが、主体ではない って事は何だ?? て事になる。そこで再度確固たる行為主体 を定義付ける必要があったってことだろうかな。
504 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 16:20:35 0
いや、やはり、ハイデガーから見たサルトルですよ。 ハイデガーほど、以降の哲学に影響を与えた人はいませんからね。 だだ、ナチズムとの関係は気になります。
505 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 16:30:25 0
499「実存は本質に先立つ」は、本質主義批判でしょう。 ですから、無によって、過去に遡及する事で、実存はそれ自身 を定立できると言う意味では、再帰性な訳ですよ。 それ自身がそれ自身を決めると言う意味で、本質とは先天的なもの 例えば男だからや女だからと言った、固定的な差異を本質としている のでしょう。ですから、この場合の実存とは無と言う無限の可能性 に開かれていると言う事だと思います。ただし、逆にこの無=実存 がニヒリスティック(虚無)へ投げ込まれた者と言う意味でもあります。 なぜなら、確固たる基盤がないからです。
ヒトラーは自分を神聖酋長的英雄に見せる為に腐心した 彼等はニーチェの神話解釈や社会分析を元に古代ギリシャの最も人間と神格が近かった時期を 彼らの民族の本来あるべき姿として措定したんでしょ? ハイデガーがその社会の形を養護したくなるのは分からなくも無い。 独裁者と反ユダヤ主義がどうして接近したかについては 独裁者のイメージに偏見の強い日本では論じ難いかもね。 >「実存は本質に先立つ」は、本質主義批判でしょう。 字義はそうだろうね。ただ、本質って言葉に対して実存の定義が曖昧すぎるのが玉に傷で ご本人の説明も循環論証に陥ってるのはどうかとも思う。 先ほどの知識人って存在の提出って側面から意義は大いにあったとは思うよ。
養護じゃなくて擁護だね すまそ
508 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 17:06:08 0
この数十年間で日本の政治思想・評論業界は孤絶し、かなり立ち遅れてしまった。ドイツとフランスの 古色蒼然たる百年前、二百年前の政治思想の本を。訳も分からないまま読み続けてるのが現状だ。 全くヒドいものだの一語につきる。 日本の八十年代の言論を圧倒したフランスの構造主義の大家ミシェル・フーコのような、現代もの でも、かなり癖のある思想・哲学なのであって、本当はフーコや、ジル・ドゥールズらの思想は 「人文」である。文学あるいは文化研究なのだ。政治権力なるものを生まで扱う学問ではない。 現在のフランスやドイツの本当の最高の知識人たちとは「どうやったら、自分たちが、アメリカ の支配から脱却できる」を本気で考えている人々だ。日本知識人は文化研究しかできない人々だ。 副島隆彦「日本の秘密」 P148~149 これ以外に下等学問としての 「人文」というのがある。この人文というのはヒューマニティーズの 日本語訳である。 ヒューマニティーズとは「人間、および記録された文学に関わること」という 意味である。 簡単に言えば現在で言う文学(部)のことである。他に歴史学があり、その内容は 古文書や石碑の文の解説などを行う。これらは、学問としては下等学問である。 これとサイエンス(学問)の区別をつけなければならない。これが日本人にはできていない。 すべてごちゃまぜなのが日本の大学制度である。国家的学問犯罪と呼んでもいい。 大欠陥学問観と呼んでもいい。日本の大学は、世界基準では高等学校程度であろう。 このヒューマニティーズとサイエンスの区別がついてる日本知識人がほとんど いない。すべてごちゃまぜである。 副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(上)」P324
実際の所、進んだのは工学だけで ポストモダニズムも東洋哲学の敷衍化や科学の受け売りという批判もある。 思想がプラトンの頃から何も変わらず堂々巡りしてる側面もあるし 日本人だけがぐるぐる回ってるように見えるのはややシニカルだと思うよ。 西洋だろうが東洋だろうがどの切り口にも価値がある どっちか一方すべての側面において劣るのって難しいんじゃない?
>>495 >前期ハイデガーについては、いまだ、自己意識はあると思いますよね。
後期のハイデガーにも自己意識はあったと思いますw
だから、493で書いたように、見る観点が違うんですよ。
ハイデガーは人間のそういう側面には目を向けずに、
いわば「悟りの境地」について書いているようなものなのです。
だからハイデガーを仏教的に読む人が多いわけですが・・・
>主体は構造に先立たれていると言う事を指摘される訳です。
構造が先か主体が先かという問題も、493で書いた能動性と受動性の問題と同じで、
本当は、二者択一できるような問題ではないと思いますよ。
構造主義が実存主義を打破したようにメディアは騒ぎ立てましたが
実際はそんな単純なことではないはずです。
構造が先という主張にも、主体が先という主張にもそれぞれ一理あるのだから、
その点だけについて考えてもあまり意味はなくて、
問題は、構造が先という考え方から、どんな哲学が生まれうるのか?
また、主体が先という考え方から、どんな哲学が生まれうるのか?
ということですね。
511 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 15:03:49 0
確かに、そうですね。 ただ、構造が先か、主体が先かの問題点は、単純にそう言う二者択一の問題だと 片づけられないものを含んでいます。 それは、どうして、実存主義ではなく、構造主義が認知されていったのか と言う点でですね。つまり、構造主義からポスト構造主義に至る流は 哲学を研究する歴史的な流によって生まれたものであると同時に 人間の織り成す現実世界の中で、主体と言ったものが疑われだしたこと によるのです。ですから、次にどんな哲学が生まれるかと言った、純粋に 哲学的な問題ではなかったのです。 その辺については68年のフランスの5月革命を紐解けばわかるでしょう。 つまり、純粋にロジカルに哲学を進める中で、主体と構造の問題が 生まれたのではないと言う事です。
512 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 15:24:09 0
やはり、ハイデガーはゲルマン中心主義って事で、他民族は卑しいと考えている 訳です。特にユダヤは卑しさがあると言いたいのでしょう。 彼が参照するギリシャでのアポロン的な勇敢さ・潔さがないと考えたのでしょう。 常に思考し、嘆く賤しさ。これをハイデガーはタイラクと見た。 ところが、現実にはアメリカに渡ったユダヤ人の経済的な成功や物理学・ フランスでの構造主義やポスト構造主義哲学での成功例、 あるいは、第二次大戦での新武器ロケット・原爆等の知識への関与を見ると 彼らの思考への固着とも言える性格がもたらしたものは否定できないわけです。 これは、個人的にはユダヤ教の偶像崇拝禁止に関係がると考えられますね。 ポーランドもそうですが、ドイツには特に多くのユダヤ人が住んでいた訳で だから、ドイツの事をユダヤ・カント主義とも言われる訳です。 そして、ドイツにはハイデガー含めて多くの哲学が花開くわけで、 これは、ある意味では、ユダヤ人の思考癖による影響かもしれない と、個人的には考える訳です。だから、逆にハイデガーなんかは 敏感にこのユダヤの思考力を恐れていたと言う事でもあるのでしょう。
513 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 15:31:41 0
いずれにしても、ハイデガー思想とナチズムの関係はあるのかないのか? 戦後、問われる訳ですが、結論には至っていないと言う事でしょうかね? でも、ナチ関連の大学の学長に就任した訳だし、彼のギリシャ=英雄崇拝 から見ても、ユダヤを劣等民族としていた事は否定できないでしょう。 そう言う意味ではアウシュビッツへの責任もあるでしょう。 ちなみに、彼が師事したフッサールはユダヤ系ですから 結構、策士であったと言う気もしますよね。
514 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 15:32:08 0
主体も構造も、それを区別するのは人。 問題点なんてないよ、自分の都合でその境界を単純化させ 都合の良いように解釈、切り上げ切捨てするからだ。 ただ、状況によって人によって、環境によって、そういう類は 解決できたりできなかったり、惑わす存在であるわけだ。 言葉を使い表現している時点で、その流れからそむくことはできない どんな論でも無限ループになるだけ、それは言葉が生んだ宿命。
515 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 15:34:52 0
そこで、質問ですが、私も全てにわたってハイデガーの思想を理解していない のですが、実際彼の存在論は歴史的に見てどう言う意味があったのでしょう。 何を目的として彼は彼の哲学を編んだのでしょうかね?
> やはり、ハイデガーはゲルマン中心主義って事で、他民族は卑しいと考えている > 訳です。特にユダヤは卑しさがあると言いたいのでしょう。 > 彼が参照するギリシャでのアポロン的な勇敢さ・潔さがないと考えたのでしょう。 > 常に思考し、嘆く賤しさ。これをハイデガーはタイラクと見た。 ばーかじゃないの? > でも、ナチ関連の大学の学長に就任した訳だし、彼のギリシャ=英雄崇拝 > から見ても、ユダヤを劣等民族としていた事は否定できないでしょう。 本気でバカじゃないの?
517 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 15:49:38 0
516 建設的なスレッドで無知の者が煽るのはやめろ。 書けるなら、君の意見を具体的に書け。
さすがにこの長文君のほうが酷いw
519 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 18:00:22 O
> そこで、質問ですが、私も全てにわたってハイデガーの思想を理解していないのですが、実際彼の存在論は歴史的に見てどう言う意味があったのでしょう。 何だか1日見ない間にえらい色んな人が色んな発言してるようで、盛況何より、て感じですねー。 で、上記にある質問ですが、まあ、私にもよく分からない。分からないけど、ハイデガーの魅惑ってのがあり、 それは何だとなると、例えば『哲学への寄与論稿』だと、そこに、ハイデガーによって人間にあてられてる、或るイメージがあるわけで、それがもつ恐ろしいほどのリアリティーというのがある。例えば、人間は様々に知や技術を身に付ける、 小林秀雄的に言えば、意匠というべきだろうけども、しかし、それによって、逆にハイデガー的に言えば、真理は隠されている、ということになる。その場合の真理というのが、歴史性、ないし始まりにおける生成ということになるんでしょうけども。 その辺のイメージというのは変わらぬ魅惑を湛えている。 《空け透きが自らを覆蔵するもののために基づけられるということ、このことは、真理がまずは空け透かす覆蔵だという体制を意味する。<現>の空け透きにおいて有・が自らを覆蔵すること。自らを覆蔵することの内で有・が本質現成する。》 (『哲学への寄与論稿』創文社版370頁) この辺りのイメージというのが『有と時』から手放さずにずっと暖められている。微妙に言い方は変わってゆくけども、しかし、ハイデガーからみた人間の真理の本質というのはよく伝わってくる。真理という概念をどこに見いだそうとしていたのか、 ということがあります。上記にあるような定義をみると、大学人として出発したにも拘らず、学知というようなものに重要視したことは実はなかっただろう。もっといえば、学知よりも、自分が追究している問いのほうが遥かに重たいと思っていたろう。 で、話は変わるけども、同じ『哲学への寄与』の中に、ヤスパースのことをやんわり批判しているところがある。 《たとえばディルタイや、同じくヤスパースが、西洋形而上学において本来起こったものや、別の元初の必然性として準備されなければならないものについて、まったく予感をもたないままだからである。》 ヤスパースといかにかけ離れた感性だったか、伝わってきますね。
> そこで、質問ですが、私も全てにわたってハイデガーの思想を理解していないのですが、実際彼の存在論は歴史的に見てどう言う意味があったのでしょう。 いい質問です。 1.歴史的には何もなかったでしょう。 2.. ちょっとかじると自尊心をみたしてくれるという意味で熱狂的信奉者を獲得したことは事実です。
521 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 13:53:05 0
ハイデガーだけを信奉してもしょうがない訳で、彼の功罪を冷静に見てとって 次に向かう必要があると思うよ。 アレーテアによって、隠れなさ・不覆蔵性を説きながら、隠蔽から 引き離すのではなく、真実には必ず覆蔵・隠蔽があると考える事で 根源の定立をうやむやにする事で、解釈に幅ができる訳ですよね。 そこへの(この場合ギリシャと言う英雄の根源)参照は、隠蔽されている が故に、無限に参照反復可能性としてあると言う事でしょう。 いわゆる、再帰性とはこの無限の反復可能性の事だと私は考えています。 この見方が、ポスト構造主義からの視点による、ハイデガー分析だと 思います。この無限性が実存・存在論にある訳で、また、存在論的差異 と言う術語にもなっていると言う事ではないでしょうかね。
522 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 14:30:48 0
その様に考える場合、ハイデガーの哲学史的な意味は、真理はデカルトや 古典主義哲学の様に、思考によってロジカルに唯一無二として見出せるの ではなく、根源への無限の参照可能性として、個々に開かれる。 この場合、主体もこの無限な参照可能性に置いて定立できない事になる。 この点がデリダの差延や脱構築、あるいは、ドゥルーズの領土化・脱領土化 再領土化へ繋がって行くのだと言う事ではないでしょうかね。
普通の言葉で言わないと 「自己陶酔」 としか思われないよ。 これがハイデガーの戦略かもしれないが。
人によっては、これが「普通の言葉」なわけで
>>523 哲学って一種の催眠術なんだよ。
「自己陶酔」しやすいような言葉を散りばめるのがうまいのが大哲学者さ。
オマエはちょっとわかっているみたいだな。
ハイデガーの認識論は後に言語学的なアプローチへと発展していく。 そこから発生とか生理学へと流れるんだが ドゥールズとかデリダを持ってくるのは飛躍しすぎかもな。 両方フランス系の学者だったはずだし。
ハイデガーの認識論w
>>526 それも飛躍しすぎ。
とは言え、
「Aのお陰でBが出来た」
など哲学の常道だけどね。
素粒子論を知らない奴が
「デモクリトスの原子論が現代の素粒子論へ発展した」
なんて言ってるのってみっともないよね。
529 :
考える名無しさん :2009/02/03(火) 11:00:44 O
>その様に考える場合、ハイデガーの哲学史的な意味は、真理はデカルトや古典主義哲学の様に、思考によってロジカルに唯一無二として見出せるのではなく、根源への無限の参照可能性として、個々に開かれる。 >この場合、主体もこの無限な参照可能性に置いて定立できない事になる。この点がデリダの差延や脱構築、あるいは、ドゥルーズの領土化・脱領土化・再領土化へ繋がって行くのだと言う事ではないでしょうかね。 ハイデガーが<真性の本質>とかの語彙を使う場合、個体における歴史そのもの、生成そのもの、そこで支配的であること、が考えられており、それは非常にクリアで明解な概念だと思います。ハイデガーの思索について考えるならば、個体における生=歴史をそこで 絶えず考慮に入れていたことを考えないわけには行かない。そこは非常に明解な考え方で、神秘化とは程遠い。個体における生をどうとらえようとしたか、<真性の本質>をどこに置こうとしたか、非常に分かりやすいし、かつ的確である。 そこでの生=歴史というか、その迫り方が読めなければハイデガーを読めたことにはならないでしょう。それで、デリダという人が書いたものを読むと、その辺の、ハイデガーにおける生=歴史観或いは自然観というのが、 <決して現前したこともなく(?)、将来に現前することもない(?)=痕跡>みたいな方向に纏められちゃっている。何やら神秘的で、勿体ぶって、ハイデガー思想のクリアな部分をご丁寧に否定神学的に塗り固めてくれている。 あれを有り難がり、ハイデガーの可能性はここにある、とか言ってる人間がいたら言いたいんだけど。こんなバカな読み方されては困るわけで、こんな訳の分からない抽象的議論がハイデガーだとされてはたまったものではない。 精々が、まあ、ハイデガーを読んで思いついた唯物論、とか、そんな呼び方ならば許せる。つまり、デリダ自身の哲学だ、しかも抽象的でリアリティーのない、ね。
防衛大学のウヨク?
>>529 いつも興味深く読ませてもらっています。ところで渡辺哲夫の「20世紀精神
病理学史」という本は読まれましたか?もし読んでいたなら軽くご感想を
聞かせて頂きたいのですが。
>それも飛躍しすぎ。 そら多分、君はハイデガーを理解してないって事だろ。 論理学の近代的なアプローチが何故言語学的な側面を持つか ハイデガーの存在と時間で十分理解できるし、ウィトゲンシュタインまで行く必要もなく そのウィトゲンシュタインの影響を受けたデリダの話を出してるのに ハイデガーとウィトゲンシュタインの関連性が分からんというのもちょっと考えもの。
あと長文の子はポエムが長すぎやしないか? ポエムはポエム板でやった方がいいぞ
>>529 ><決して現前したこともなく(?)、将来に現前することもない(?)=痕跡>みたいな方向に纏められちゃっている。何やら神秘的で、勿体ぶって、ハイデガー思想のクリアな部分をご丁寧に否定神学的に塗り固めてくれている。
従来の形而上学を現前の形而上学として批判したのは、ハイデガー自身だよw
「現前化」≒「対象化」ということだね。
ハイデガーはこの論法でデカルトやニーチェを批判している。
それが批判になっているのかどうか、甚だ疑問なわけだが・・・w
>従来の形而上学を現前の形而上学として批判したのは、ハイデガー自身だよw カントから続く形而上学の批判者であるか後継者であるかは 実際の所、学派の解釈によって分かれてれるから一概には避難した立場と捉えることは出来んな。 つーか、些細な言葉ジリかもしれないが、批判は別に非難にのみ使う言葉でもない。 >ハイデガーはこの論法でデカルトやニーチェを批判している。 ハイデガーの場合、論理学的な思考方法で再構成を試みたって表現の方が近い。 解釈によって様々な見方があると思うが。
>>536 >カントから続く形而上学の批判者であるか後継者であるかは
>実際の所、学派の解釈によって分かれてれるから一概には避難した立場と捉えることは出来んな。
カントが批判した「形而上学」と、ハイデガーが批判した「形而上学」は、意味が全然違うよ。
カントのいう「形而上学」は、感性的直観が与えられていないものについて判断すること。
ハイデガーが批判した形而上学は「存在忘却」。
だから全く違う。
>ハイデガーの場合、論理学的な思考方法で再構成を試みたって表現の方が近い。
ハイデガーがニーチェの「力への意志」を形而上学として批判したのは、
ニーチェが「力への意志」を「存在者」として表象し、対象化しているとハイデガーは考えたからだよ。
そういう批判が当たっているとは思えないがw
538 :
537 :2009/02/03(火) 17:31:17 0
ハイデガーの「ニーチェ」なんかを読んでみても、 それは「存在」と「存在者」の存在論的差異を根本において書かれているんだよね。 で、従来の哲学は「存在者」についてしか思惟していない、 つまり「存在忘却」の形而上学だということになるわけだけれどw そういう論法は、はっきりいって、ハイデガーを好きな人にしか通用しないと思う。
>カントが批判した「形而上学」と、ハイデガーが批判した「形而上学」は、意味が全然違うよ。 今の言葉でどう纏められてるかは知らんのだが 20世紀初頭に形而上学復興運動ってのがあってだな ハイデガーはその旗手と目されてたんだ。 ヴントやハイムゼートの仕事を用いてさらに発展させたと言われていた。 で、確かにカントや新カント学派の形而上学と、ハイデガーの哲学の内容は違う。 ただ骨子にはドイツ観念論が根強く生きてるから、専門外の門外漢から言わせてもらえれば 大網では発展と見てしまってもいい気もする。 それはさておき >ハイデガーがニーチェの「力への意志」を形而上学として批判したのは、 >ニーチェが「力への意志」を「存在者」として表象し、対象化しているとハイデガーは考えたからだよ。 については、ちょっと違和感を感じるな これは、20世紀前半のドイツ民族運動の流れに沿ってニーチェを思索したと表現した方が現実に近いんじゃないかと思う。 哲学者の顔と、民族主義者的な顔を両方持っていて互いに矛盾していたって方が面白いかも。
540 :
537 :2009/02/03(火) 18:05:06 0
>>539 >ただ骨子にはドイツ観念論が根強く生きてるから、専門外の門外漢から言わせてもらえれば
>大網では発展と見てしまってもいい気もする。
違うでしょうw
ハイデガーのいう「存在」は、カントでいえば「物自体」だろう。
しかしカントによれば「物自体」は哲学の対象ではなくて、宗教と道徳の対象だよ。
「物自体」について思惟しようとする哲学が、まさに「独断的形而上学」だ。カントによればね。
>>ハイデガーがニーチェの「力への意志」を形而上学として批判したのは、
>>ニーチェが「力への意志」を「存在者」として表象し、対象化しているとハイデガーは考えたからだよ。
>については、ちょっと違和感を感じるな
違和感を感じるも何も・・・ハイデガーがそう書いてしまっているんだから仕方がないw
ハイデガーの『ニーチェ』を読んでみてください。
「力への意志」の思想のためにニーチェはハイデガーによって「形而上学の完成者」に仕立て上げられてますw
頭固いな君は 分類的には同じドイツ観念論に纏められたりもするわけだが それについてどう思うかね? 君が思う差異についての主張は一応理解したから漠然とした意見が聞きたい。
横レスですが。 ドイツ観念論はポストカントから結局ヘーゲルに帰着するわけでしょ。 ヘーゲル体系においては有は最も直接的で貧しい規定にすぎない。 有限を含んだ無限というものを考えるとそうならざるをえない。 対してハイデガーは徹底的に有限性にとどまるので、有は絶対に 止揚できない。だからドイツ観念論とは真逆なんじゃないですか。
>>539 ハイデガーのカント解釈の歴史的位置づけとしてヴントやハイムゼートって
ラインは悪くないけどそれの発展と言ってしまうのはちょっと話にならないでしょ
そこらへんはトム・ロックモア編でアンソロジー出てるからチラっとでも見てみては?
(存在=物自体と言ってしまうのも・・・かなりの誤解を生むと思うが)
あと実際の講義録や講義の時系列でみていけばニーチェ講義が当時の民族主義
うんぬんの文脈なんて全く関係が無いことくらい分かるはず
そもそもニーチェ講義の時期と存在と時間〜カント書あたりの時期って形而上学
に対する姿勢もかなり違うし一緒くたには語れないよ
>そもそもニーチェ講義の時期と存在と時間〜カント書あたりの時期って形而上学 に対する姿勢もかなり違うし一緒くたには語れないよ 確かに。 大まかに捉えすぎてしまうと それこそハイデガーのスレって存在意義が薄れてしまうしね。 反省。
545 :
考える名無しさん :2009/02/03(火) 19:57:19 O
>従来の形而上学を現前の形而上学として批判したのは、ハイデガー自身だよw 「現前化」≒「対象化」ということだね。ハイデガーはこの論法でデカルトやニーチェを批判している。それが批判になっているのかどうか、甚だ疑問なわけだが・・・w 現前性を何でもかんでもハイデガーは盲目的に排除した、自己の思索から抜かした、とか考えるべきではないのであって、実際、そんなことは嘘である。「現前」などの用語というのは、有の時性の構造として、既有、現在、将来との関わりにおいて掴まれなければならない。 重要なのは、そのような構造の方なので、例えば『有と時』には以下のような文面がある。 《将来的に自己へ帰来しつつ、覚悟性は、現前しつつ状況の内へそれ自身をもたらす。既有性は将来から発源し、然も既有的(一層的確にいえば、既有しつつある)将来が、それ自身の内から現在を放出する。》(創文社版『有と時』484頁) 現前というのが、時性における重要な一契機であることは明らかである。 一方、『哲学への寄与論稿』には以下のような文面がある。 《しかしそのように、<私は-統一を-かんがえる(根底では同語反復)>という純粋な関係が、無制約的な関係になることによって、それは次のような事態を意味する。すなわち自分自身にとって現在的な現在が、すべての有るもの性の尺度になる、という事態である。》 すなわち、現在性というのが突出して統一的な真理の基準となることへの注意、がある。「現前の形而上学」とか言われる場合にそのような文脈から読むことは必須で、でなければハイデガーの真意などつかめるはずはないし、デリダとハイデガーを一緒くたにしたような ダメな読み方に成り下がる。繰り返せば、ハイデガーにおいては、いたずらに神秘化された存在論は無縁である。 ハイデガー研究者の間でも、《ハイデガー有論は無根拠》といったような誤解がある。たしかに《底無しの深淵》のような用語は使われている。しかし、生=歴史の深度を表すために使われているだけなので、それは《有は無根拠》ということとは全然違う。
>>545 >すなわち、現在性というのが突出して統一的な真理の基準となることへの注意、がある。「現前の形而上学」とか言われる場合にそのような文脈から読むことは必須で、でなければハイデガーの真意などつかめるはずはないし、デリダとハイデガーを一緒くたにしたような
>ダメな読み方に成り下がる。
というかハイデガーが、ソクラテス以降の哲学を「一緒くたに」批判してしまってるんですがな。
デリダ云々よりまずそのへんを直視しましょうぜ、都合のいいところだけ見ないでw
>>545 貴方の書き込み見てると、サルトルとか宮台とかデリダの悪口が多くて、
ネガティヴで暗いよw ハイデガーの影響なのかなあ。。。
デリダの「脱構築」のほうがよっぽどポジティヴでいい。
人のあら捜しするより、素敵な面を見つけた方がいいですよ。 もちろん現実生活でもね。
横に文章長い子は ちゃんと改行するのと、もう少しだけ自分の思考に有用な書き方じゃなくて 他者の理解に有用な書き方をしてくれると嬉しい。 あとageんな
>>545 なるほど。つまりこれまでの書き込みの文脈から察するにサルトルなどが主張した「主体性」と脱構築などの構造主義における「構造」
、単純化すれば能動と主体の側面から見られる双方の主張の極地点、もしくはその綜合というのが現前という「場」であるということですか?
さらに言えばその現前の生成には生=歴史の深度が不可欠であり、かつ時性そのものが統一的真理の基準となる「現在性の突出」と相互補語的である。
換言すればいわば循環論証的と言われても仕様のない、実存のレベルであるということですか?ハイデガーはそのような意図で哲学への寄与論考を記していると?
551 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 10:03:07 0
だから、逆にハイデガーこそが、ロジカルな形而上学なのでしょう。 デリダの批判する様な「現前」をすりにける為に、歴史的な時間制の 見方を持ち出していることは評価できるが、あくまで、ギリシャ 民族に繋がっている訳で、やはり、現在から見た評価としては、 原泉へ遡っていく事を解体・破壊としている訳で、ここに、デリダの 差延・脱構築の読みへの共通点があるわけですよ。 だから、ハイデガー哲学=存在論の哲学史的な意味は、形而上学的な 絶対認識は不可能であるが、歴史的な根源への参照によって、 我々は、真理が現れるのを知る。その真理に基づいて、覚悟性を基に 生きていくと言う事が言いたいのでしょう。 ただし、そう言う決めつけも形而上学であると言う事に気付いていない。 そして、最終的には、ゲルマン民族の神聖さを謳っている。 頭は良いが、やっている事は、民族差別に過ぎないのでは?
お前らいいかげん番号コテくらいつけろよ。
>>551 どの時期のハイデガーについてのこと言ってるのかアヤフヤだし
具体的なテキストにも基づいてない適当に自分の解釈をさも
ハイデガーが言ったことのようにタラタラ垂れ流すだけじゃさすがに
相手する気にもならんよ
例えばこれ具体的にどのテキストに基づいて言ってるの?
> あくまで、ギリシャ
> 民族に繋がっている訳で、やはり、現在から見た評価としては、
> 原泉へ遡っていく事を解体・破壊としている訳で、
例えばハイデガーが使ったVerwindungって言葉(Uberwindungではなく)
や哲学史へのAuseinandersetzungといった言い回しがどういった
ものだったのか踏まえてたらそうそうこんな事言えないよね
挙げ句は
> 最終的には、ゲルマン民族の神聖さを謳っている。
これとかもう笑っちゃうレベル
554 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 15:13:51 0
テキスト参照だけしてもそれって解釈学でしょう。 それは、彼を理解するだけで、何の批評にもならんわけだ。 ようは、彼の本を鵜呑みにして、自己満足しているだけであり、 君はハイデガーを崇拝し暗唱しているだけのレヴェルでしょう。 もっと、間テキスト性として読まないと、聖書を読む様に、 一語一句理解しても、多様性からの解釈と言う読みが出来ないでしょうね。 むしろ、参照・引用文が多くて、自己理解が出来ていないのは君では ないのでしょうか。君の読みは引用文が分かっているとしてもハイデガー 教でしょうね。バイブルのように絶対真理の本として参照しているだけ ではないでしょうか。クリティークに読むことの意味を理解されたい と思いますよ。
555 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 15:20:58 0
553の関連で では、どうして、ハイデガーはユダヤ人を排斥したのでしょう。 自国民が優秀であると言う自負はなかったのかな? それと、貴方の解釈では、ハイデガーのDestruktionと言う言葉の 意味はどう言うものでしょうか? 歴史を捉える方法が、この言葉で表現されているのではないでしょうか?
ぴかぁ〜に言われたくないな
557 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 15:22:51 0
ハイデガーは形而上学ではないと言えますかね?
>>557 その答えは形而上学という言葉の定義による。まず定義してくれ。
559 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 15:33:15 0
真理は存在し、その真理を人間は知りうる。 つまり、語りうる事。
>>554 あなたのいう批判的に読むってのはハイデガーが言っても
いないことも織り交ぜて「俺ハイデガー」を捏ねくり上げ
最終的には「だからハイデガーはダメだよね」と評価する
ことなんでしょうかね?
少なくともハイデガー本人の言ったことを厳密に理解しようと
した上でハイデガーの限界や問題点を指摘するのが筋でしょ
別にハイデガーのテキストを教典のように読めとは言わないよ
当のテキストもマトモに読まず勝手な「読み込み」に基づいて
言いたい放題言うのは批判でも何でもないからね
> では、どうして、ハイデガーはユダヤ人を排斥したのでしょう。
これとかは一体ハイデガーのどういった行動のことなのかも
示してないし
561 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 15:36:41 0
勿論、形而上学とは絶対真理の把握はもとより、相対的な経験論的真理、 実証主義的な見方も含まれる。
562 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 15:40:23 0
自己理解が出来てればテキストなんて読む必要ねーし ナチ信者のハイデガーなんてちゃっちゃと批判しちゃえばいいわけよ 俺ってクリティークに物事見てるでしょ?
563 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 15:41:18 0
560 高田さんなんかナチズムへの加担はある様に言っていませんか。 それでも、貴方が関係がないと言うのならば、逆に、それを証明してほしい のですが。厚かましいでしょうか。 私はハイデガーには疎いので、関連性はあるのではと思った訳です。 どうでしょうか?
564 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 15:47:58 0
562 そのスタイルが重要だと思いますよ。 もっとも、ハイデガー崇拝者か彼の存在論を教えるなら別でしょが、 とは言っても、一語一句噛みしめる事、それはそれで、否定しません が、それをもって、他のセリーからの横断的な読みを否定する事は ナンセンスで、古典的な形而上学的なスタイルに見えます。 バイブルのように多様な読みを否定する事は、ウィトゲンシュタイン のゲーム論の後では、あるいは、スピーチ・アクト論の後では 時代遅れの感がありますね。
好意的に言えば、ハイデガーはレームみたいなもんでしょ。 さらに第二革命を主張したけれども、ヒトラー・SSが既存の権力機構を 手に入れた時点で裏切られた突撃隊のようなもんじゃないの。 日本で言えば観念的皇道派。
>>562 >>564 ならブログなり自費出版なりで勝手にやってろよ。
わざわざ公共の議論空間でわめくことじゃない。
567 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 15:54:04 0
「言った事」は言ったとおりに解する事が本当にできるのかな? 全てのエクリチュールは多様性として、解釈されるデリダ では?それを強引にたった一つの意味に解する時、暴力が生まれる。 つまり、相手の口をふさぐような感情的な批判となって、言葉が 生まれる。この態度は、自分を規制して努力する私からの ルサンチマンの表出なのである。ニーチェ・・では?
せめてテキストに一度くらいは目を通せ さっきから言いたい放題言ってる奴はそれすらできてないだろ テキストも読まず勝手なハイデガー像をつくったり 勝手にいもしないハイデガー信者像つくったり 仮想敵を仕立て上げてそいつを叩くことが「クリティーク」か?
デリダデリダ言ってるが当デリダもまともに読んでないだろな。 適当な哲学エッセイ書きの文章にかぶれて同じようなスタイルの 駄文を再生産してるだけだろう。
そいつはいろんなとこでバカさらしてる有名な奴なんだよ、ほっとけよ。
571 :
考える名無しさん :2009/02/06(金) 13:46:03 O
バカは放っといてくれる、とのことなので、安心して(笑)また書き込むことにします。 宮台真司にたいしては、先に、あのスタンスというのはサルトル譲りではないか、語彙は一見ハイデガー風だが、基本的な構えはサルトル哲学ではないか、という批判をしました。ただ、宮台真司にかんしては、ハイデガー思想の背景を理解している、という点は、 認めてもいます。認めてはいるけども、微妙にずれてもいる。ハイデガー思想というのは、アンチ啓蒙だと思う。敢えて、そこから構えを取り出すならば、「放下」すなわち「放っとく」というのが最も近い。人為的操作にたいし、信頼を置かないし加担しない。 それが最もハイデガー的なスタンスであろう。そこが宮台真司の場合の要点で、彼のハイデガー読みの特徴が、ハイデガーが加担しないところの啓蒙や、大衆の操作に加担する、そこに特徴がある。ハイデガーが<最後の神の傍過>などと言って、 有・の圧倒的な力をもたらす存在の到来を待つことを暗示したのと対照的な構えがある。尤も、それだから宮台らしさがあるのだという見方は有るでしょう。私は一応宮台的構えには加担はしない。 ただ、やはり宮台なりにハイデガー思想の背景を理解をしているのも確かであろう。それは以下のような文面に表れている。 《この本(『サイファ』)では、宗教が要求される理由ないし必然性を徹底理解することで、むしろ個別の宗教や神に「依存」せずにすむような、<世界>の根源的未規定性に開かれた「自立」的在り方を、「第三の宗教性」と呼びました。 利益祈願型の<行為>系宗教でもなく、意味追求型の<体験>系宗教でもなく、という意味が「第三の」という言葉に込められています。 じつは、ニーチェやハイデガーを嵩矢とする現代哲学は、このふたりが古代ギリシャ文献学者だったことからもわかるように、初期ギリシャ的な「自立」を追求するという観点から、メタ万物学(形而上学)としての近代哲学を批判するものでした。 でも、無教養な連中がポストモダン哲学を紹介してくれたせいで、こうした初心が吹っ飛んでしまったんですね。》(『限界の思考』97-98頁) つまり、宮台なりに、ハイデガー思想のエッセンスを、流行りの現代思想的な読み方(<痕跡>とかね)をすることで取り零すことへ用心を払っている。
572 :
考える名無しさん :2009/02/06(金) 14:34:18 O
>554 >テキスト参照だけしてもそれって解釈学でしょう。それは、彼を理解するだけで、何の批評にもならんわけだ。ようは、彼の本を鵜呑みにして、自己満足しているだけであり、君はハイデガーを崇拝し暗唱しているだけのレヴェルでしょう。も 「ハイデガーを理解しているだけ」「ハイデガーを鵜呑みにしているだけ」てあるけど、「理解し、鵜呑みにする」だけでも大変だぞ(笑)わかってるのか?俺も楽々読んで書いてるわけではないよ。はっきり言う。「理解した」ところまで行けたらたいしたものだよ。 ここに書いてる中でどれだけの人間が「理解した」ってところまで来れた、ていうのだ。第一、ハイデガーのテキストに目を通し、納得がゆくところまで行けた人間が本当にいるのか?その上で文句を書いてるのか?みんな軽いよ。 疲労困憊するまで本読んだことなどない奴らばかりだろ(笑)。 >間テキスト性として読まないと、聖書を読む様に、一語一句理解しても、多様性からの解釈と言う読みが出来ないでしょうね。むしろ、参照・引用文が多くて、自己理解が出来ていないのは君ではないのでしょうか。 >君の読みは引用文が分かっているとしてもハイデガー教でしょうね。バイブルのように絶対真理の本として参照しているだけではないでしょうか。クリティークに読むことの意味を理解されたいと思いますよ。 デリダとハイデガーじゃ、凄味が違いすぎますよ。前から書いてますが、唯物論的な還元しても生のリアリティーには到達なんか出来ない。まあ、何言ってるのか訳分からない、というのはあるけど(笑)あの、意図をぼやかすみたいな書き方自体、好きじゃないし、 なんかいい気なもんだな、て感じを受ける。好きじゃないですね。あれは。やたら、用心深く煙に巻いてばかりみたいで。ボクシングでいうと、逃げてばかりで打ち合わない。用心深くポイント稼いで、ちっとも踏み込まない。面白くないボクシングの典型みたいなね。 打たれなきゃいいんでしょ、みたいなね。アウトボクシングしかできない元オリンピックメダリスト(笑)そんな感じ受けるね。 ハイデガーなんて血の匂いが好きみたいだし、表面、常識人で、実は相当イカレてそうだし、書いてるものは面白いし、格好いいよ。「ハイデガー教」上等じゃない?
>テキスト参照だけしてもそれって解釈学でしょう。それは、彼を理解するだけで、何の批評にもならんわけだ。ようは、彼の本を鵜呑みにして、自己満足しているだけであり、君はハイデガーを崇拝し暗唱しているだけのレヴェルでしょう。 >もっと、間テキスト性として読まないと、聖書を読む様に、一語一句理解しても、多様性からの解釈と言う読みが出来ないでしょうね。 これはしかし、何でしょうね。私はハイデガーの思想に私なりの批評を加えているつもりなので、つまり、問題がなければ問題なし、と言うしかない。異議がなければ異議なしと言うしかない。賛辞すべきなら賛辞するしかない。問題があるとすれば デリダならばデリダの読み方の方なので、それに忠実に書いたにすぎない。読み込むほどに良さは伝わってくるので、良いものは良いと書いていく。それは当然でしょう。批評というならそれが批評だよ。ていうか、貴方が反論があるなら、貴方なりにハイデガー批判を 細密に書けばよいだけの話だろう。肯定的に書けば批評ではなく、否定的または横断的に書けば批評である、そんなものでもなかろう。つまり、評価の違いを具体的に明確にすればよいだけの話だ。 少々付加するとしたら、ハイデガーに関しては、それ自体として読む読み方が最も豊穣ではないか、と私は思うようになった。また、独特な造語の意味をもっと考えるべきでないかと思うようになった。 柄谷行人が『中上健次と坂口安吾』(講談社文芸文庫)という本の中で、《ハイデガーにおける本来性とは共同存在のことである。対して(誰々は云々)》という意味のことを喋っている。嘘だと思ったらあの本の中の対談を読んでみたらいい。 ちなみにこの本というのは、何とかいう立派な賞を取っている。何とかいう立派な賞を取っている本にしてからがこの程度の知識でしか語られていない。一度まともに理解してみることは絶対に必要だ。
574 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 09:51:37 0
ハイデガーを読み込む事で、深みを感じる事はそれで素晴らしい事ですよ。 ただ、こう言う2チャンネルでは、批判的に自分の視点を述べる様なスティル になるので、そんなに気にしなくても良いのですよ。 それぞれがそれぞれのレヴェルで参画しているだけですよ。 たまたま、ポスト構造主義だった。そこから見るとハイデガーはこうだ と思う個人がいる。あなたは、ハイデガーにアクチュアリテを感じる それが個々にとっての真理なのでしょう。貴方の好きなハイデガー ではアレーテイア(隠れなさ・不腹蔵性(Unverborgenheit))と言えるのでしょう。 気にしないで、進めてください。 この様に、充実したハイデガースレッドはありませんからね。 宮台のハイデガー読みも面白いし、大変参考にもなりますよ。
575 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 10:46:23 0
根源に開かれた未規定性か。そこに自立性を感じる。 なかなか良いですね。確かに、根源の未規定部分は内在では「無」があると言う 事になる。そこに一つの無がある事が東は単数である事を批判して 否定神学を批判をするのだが?
もっとやればいいんではないか、との励ましも戴いたことなので、調子に乗って、また書いてみます。 前にバタイユとの隣接性をからめながら、『哲学への寄与論稿』を論じてみて、あの時より、更に確信めいた感覚はあるんですが、ハイデガーがあの中で使っている<最後の神の傍過>だとか、<底無しの深淵>だとか、 まあ、幾つもあるだけど、ぃずれも、これは人間の側からみた、或いは市民的立場からみた悪ないし<悪を司る神>の威力の別名ではないかと思えるわけです。悪は人間のからみれば悪である。しかし、同時にそれは、バタイユ的な聖性、至高性でもある。 それがだんだんはっきりしてきた。というのがあります。例えば、最近でも、同じマンションの住人を誘拐して、縛って乱暴しようとして、結局刺殺し、その後、バラバラにして肉と骨を分離し、骨は粉々にし、肉は細かいミンチにし、ゴミ化して廃棄した、 という事件があったでしょう。 あの容疑者が裁判の席で突然、「僕は死刑だと思います!」と突然叫んだ、とか。話題になった。 私は別に専門家じゃないし、何でも言えるので言っちゃいますが、ハイデガー的な立場からいえばあのような残虐性が実現されなければ、有の深淵など証しようはない、と考えていた気がするんですね。あれは、あのような残虐行為というのは、 人間の立場からみれば絶望的以外なものではない。まさしく人非人、人でなし。しかし、有・の立場からみれば、その無尽蔵の証明である。私はほぼ間違いなく、ハイデガーも、もちろんバタイユも、そう考えていたと思います。もう一度言います。 残虐行為、またはそれを含めた、バタイユ的にいえば侵犯行為がなければ、有・の偉大は証しようはない、よって、悪、それも極限的な悪の称揚をそれらの哲学は孕む。ハイデガーも、そう承知していたと思います。 でなければ、『哲学への寄与論稿』なんて書けるわけない。 また、専門家はハイデガーの評価上、または自分の職務上(笑)ヤバ過ぎて触れられない。そんなふうになってる。あんなもの、しつこく読んでればそれくらい判る。改めて、ハイデガー、偉大だと思いますねえ。
577 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 14:05:17 0
バタイユとハイデガーの共通性ですか。 現存在の無がバタイユの悪と通底するですかね。 共に、理性的に現前性としての対象が明確に判明する事を否定する。 禁止とその侵犯。理性の規範の無根拠さを示す現存在の無への被投性、 似てますね。それをハイデガーは悪と感じていた。 そう言う事ですかね。バタイユの「非知」何て概念も、理性による絶対認識のヘ否定 ですよね。そう言う意味からは、根底にある悪と言う認識は面白い かも知れないね。クロソウスキーにも「ニーチェと悪循環」てのがあるし、 アポロン的理性は、ディオニソス的情念・陶酔に席を譲るのが ハイデガー経由したドイツからフランス系の底には流れているのだろうね。 英米系の分析哲学には全くないよね。
> アポロン的理性は、ディオニソス的情念・陶酔に席を譲る ハイデガーはニーチェ講義でこれは退けてるんだけどね
579 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 17:15:17 0
そこまで行くと、ただの欲望肯定的で、ハイデガーも賛同しない。 けど、西洋的認識論には賛成できない。 彼が師事したフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」にも 西洋的理性による規範主義見たいものへの批判があるんでしょう。 そう言う意味で、ニーチェとハイデガーには共通項みたいなものがあった と言う事でしょう。
580 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 17:34:42 0
そう言う意味では、ニーチェとバタイユの方が近いと言う事だね。 ポスト構造主義の欲望肯定派(たとえばドゥルーズなど)では、ニーチェ 信奉者が多いよね。つまり、西洋形而上学的理性中心主義への 反論として、欲望な訳で。あるいは去勢反対って事になるんだよね。 バタイユは以前に「内的体験」「有罪者」「エロチシズム」は読んだ けどね。エロスから理性破壊って事だろうね。読んでいて、頭で 理解しようと考えても、感じる方向にしか向かわない気がしたんだね。 これこそが、反形而上学の体感って感じかな。 だから、真理はロジック=頭ではないと言う事をバタイユは頭に 訴えない手法で表現したんだろうなって感じたけどね。 ハイデガーは現前としてのものをそのままの姿では理解しては いけないと言う事で、瞬間=現在、反復=既在、先駆=将来と言う 時系列で考えていたのでしょう。既在への反復参照によって、 今が時熟すると言う。かなり分かりにくい概念になっていく。 要は、現前をそのまま理解する事は間違っている。 それは、西洋の理性主義の間違いだとでも言いたいような。 どうだろうね?それに手前存在ではなく、手許存在って言ってるしね。 物はその使用価値によってしか意味をなさないって事っだろうね。
582 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 18:02:03 0
そうかな? そう言えば竹田青嗣の本は沢山読んだな。 現象学早分かりは竹田先生です。 ヘーゲル現象学は西研・竹田先生で十分でしょう。 「言語論的思考へ」は東先生の「存在論的・郵便的」への 反論としては論点がぼやけている気はする。
583 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 19:23:45 0
ハイデガーが判り過ぎて困ると学会で豪語し 周りの失笑を買っている轟二郎再降臨キボンヌ
>>576 >残虐行為、またはそれを含めた、バタイユ的にいえば侵犯行為がなければ、有・の偉大は証しようはない、よって、悪、それも極限的な悪の称揚をそれらの哲学は孕む。ハイデガーも、そう承知していたと思います。
ミンチ殺人のような残虐行為がなければ、有・の偉大は証しようはない・・??
君は根本的になんか勘違いしてると思うww
585 :
考える名無しさん :2009/02/08(日) 03:31:35 0
586 :
考える名無しさん :2009/02/10(火) 01:56:04 O
ハイデガー自身が、“拒絶や否定が押し迫る場所に固執しつづけ、絶望するのは有・の転回を測り定めていないからである”、と注意書きしている。否定的に一見見える言説に、こだわらず、いたずらに絶望せずに、思索するように、と書いてる。 “まさかハイデガーが、殺傷や暴力を、そんな野蛮なことを正当化するわけない。哲学はそんなものではありません”とか、哲学へのまさに無根拠な、安っぽい、安易な固定観念に左右されるべきではないということをハイデガー自らが断っている。 もう一つ、“何物も予感しない大衆と、本来的に犠牲に供せられた者との間に、稀なる者は本質的に思索する”とも書いてる。「犠牲」という語彙はこの本に度々出てくる鍵概念である。 以下に引用してみよう。 《あまりに短絡的に思惟する者、つまり決して本質的には思惟しない者、そういう者だけが、語り拒みと否定とが押し迫る場所に固執しつづけ、そこから絶望の機会を得る。しかしこのことは、いつも、、われわれが有・の全面的な転回をまだ測り定めたことがなく、 このことにおいて現-有の尺度を見出だしていない、ということの証拠である。》(『哲学への寄与論稿』446-447頁) 《跳躍にいたるのは、常にただ少数の者たちだけであり、しかも彼らは様々な路を通って〔来る〕。常にその者たちは、現-有を創造しつつ-犠牲に供して基づける働きをする。その現-有の時空の中で、有るものは有るものとして守護され、 それによって有・の真理が蔵される。》(同252頁) 《しかしすべての公開的なものは、その成功と破綻とのうちで夢想にふけり、自分を追いかけ、自らの在り方にしたがって、起こることについてなにものをも予感しない。この大衆存在と、本質的に犠牲に供せられた者たちとのあいだでのみ、 少数の者たちとその同士たちとが互いに探究しあい、互いを見出だして、(…)》(同449頁) ここでの鍵概念は、<有・の犠牲に供される>になる。注意すべきは、この場合の<犠牲>の対象が、単に動物や人間ではなく、現-有だと言われているところにある。“少数の者だけが現-有を創造し、犠牲に供して基づける働きをする。” しかし、“少数の者”というのは現-有のことなのだから、これらの人々というのは基本的に同一なのだと考えるべきだろう。
それから、私の読み方を勘違いとするのは勝手だが、それならばそれ相応な読み方を提示するべきだろう。何の引用も根拠もなく、先入観だけで言ったところで私には勝てないだろう。まず私の読み方に反応するつもりなら、自分の読み方を提示するべきだろう。 私には、私の読み方に安易な否定を加えている人間というのは全く生産的には見えないし、たかだかハイデガー入門書でも齧って、その程度の知識でものを言っているようにしか見えない。あの著書を辿る限り、テーマとして、いわゆる悪の問題、 それもいたずらに否定されるべきではなく、肯定的にみられるべき悪とは何か、というのが主題として籠められているのは多分誰にでも判る話だろう。分からない方がむしろ不自然だ。 1990年代以降に起こった惨殺事件や無差別殺傷事件の系譜を思い浮かべ、読んでみると、極限の悪、というのが有・の神性として捉えられているのは明らかだと思われる。また、有の窮迫が必然的に、それらの連鎖を運ぶ。ということも書かれている。 《しかしこの(最後の神の)近さは、有に立ち去られてあることの窮迫の経験から、有・の響きの内で響く。しかしながら、かの経験は、現-有の内へ吹き込む嵐への、最初の破り開きである。なぜなら人間は、この窮迫からやってくるときにのみ、種々の必然性を、 そしてこれらの必然性とともに初めて、有・の歓喜に聴き従い属す自由を、輝かせるからである。》(同446頁)
588 :
考える名無しさん :2009/02/10(火) 03:22:49 0
頭悪そうww
なんで鉄板のやつって改行しないの?やっぱ頭悪いんだろうな
>>586 >“まさかハイデガーが、殺傷や暴力を、そんな野蛮なことを正当化するわけない。哲学はそんなものではありません”とか、哲学へのまさに無根拠な、安っぽい、安易な固定観念に左右されるべきではないということをハイデガー自らが断っている。
安易なのは君だよw
ハイデガーが、どこで「ミンチ殺人」を正当化するようなことを書いているんだよ?
君の引用からは、そんなものは全く読み取れないんだよ。
「有・の犠牲に供される」?
「犠牲」→「ミンチ殺人」?
安易すぎて話しにならないと思うよ。
592 :
考える名無しさん :2009/02/11(水) 13:28:10 0
横やりだけど、ハイデガーで博論書いて近日出版されそうなタイトル名教えてください。 出版社名でも良いです。
593 :
考える名無しさん :2009/02/11(水) 14:49:57 0
マルチン・ハイ、デカー
>>591 > 安易なのは君だよw
> 君の引用からは、そんなものは全く読み取れないんだよ。
君の態度は自分は無能です、お手上げです、と言っているようなもんだよ。
哲学に必要な態度は「すべてを」考慮する柔軟性だと思うのだが?
586が正しいかどうかではなく、その人を理解する方向で考察しなきゃただの主体性の塊にしかならん気がする。
もし読み取れないなら、なぜそうなるのか?を考えるべきであって、「安易です」というなら586
以上の論を展開してみせるべきだ。それでないなら負け犬の遠吠えにしか見えない。
>安易なのは君だよwハイデガーが、どこで「ミンチ殺人」を正当化するようなことを書いているんだよ? >君の引用からは、そんなものは全く読み取れないんだよ。 一つまた補足すると、ハイデガーにおいて、犠牲というのは、現-有たり得ることと同義である。つまり、有・の底無しの深淵に沿い、有ること。引用した箇所での犠牲もまた、そう読むのが妥当でしょう。 つまり、犠牲というのは、本来性の別名なわけです。本来性が有・の呼び声に応答することでもあるとしたら、それすなわち、底無しの深淵への応答でもあるわけで、 犠牲が現-有たり得ることであり、また本来性の別名、というのはそんなに解りにくい話ではない。 あと、ハイデガーにおける神というのは、やはり、バタイユ的な、聖性ないし至高性と考えると分かりやすいと思う。有・というのが、人間と神の<間>と考えられている。 で、その<間>は無尽蔵だとされている。それでハイデガーにおける神の場所というのは判ると思う。 だからこそ、ハイデガーは次のように書けると思います。 《有・は、神と人間にとっての<間>として本質現成する。しかし、それは、この<間>という空間が初めて神と人間に本質の可能性を空け渡すという仕方においてである。 それは自らの両岸を砕け散らせて、その砕け散ることから初めて両岸として成立させるような<間>である。 それも、常に性-起の流れに聴き従い属し、常に両岸の諸可能性の豊かさの内に覆蔵され、常に無尽蔵の諸関連がこちらへ越え向こうへ越えすることである。》 (『哲学への寄与論稿』512頁) 宮台真司はハイデガーのテーマを<世界の根源的未規定性に開かれること>と言ったけども、私の読み方は宮台の読み方とも多分クロスしうると思う。 ただ、宮台の読み方は、ハイデガーにおける、世界の-内に-有ることや超越の意義、時熟の意義を素通りしている。 実存が時間性である、ということですね。<世界の根源的未規定性に開かれること>というのは、『哲学への寄与』を読んでると頷けるんだけど、 ハイデガーにおける一側面であるし、私の場合に引かれたのは、上に挙げた、実存=時間性というところなので、そこは不満が残ります。
>>594 >もし読み取れないなら、なぜそうなるのか?を考えるべきであって、「安易です」というなら586
>以上の論を展開してみせるべきだ。それでないなら負け犬の遠吠えにしか見えない。
頭悪いね君は。
もともとの「論」とやらが、「論」になっていないといっているんだ。
「ミンチ殺人」につながるように、きちんと「論」を立ててくれということ。
論がないのに反論はできないw
597 :
空談 :2009/02/14(土) 03:54:50 0
横レスですが、スウィーニー・トッドのような他者を物質化(道具化?)する世界をハイデガーのいう組み−立て
(Ge-Stell)体制とパラレルにとらえるのはむずかしいことではないでしょう。
そういうわけで、ハイデガーの存在論は倫理学が欠けていると言われますが、凡百の哲学より
倫理学が内側に折り畳まれた構造になっている点においてよっぽど倫理的です。
ただし、
>>595 ><世界の根源的未規定性に開かれること>
という場合の肝心の規定性と何なのでしょう?
ギリシアの非理性もみずからの特権性も考慮に入れない哲学は、その文明批判の対象である文明と同じく一過性のものであり、
限りなく状況論的なものだと思います。
デリダに受け継がれた現前性批判もまた見事に知識人の責任放棄の言い訳に使われています。
さらにまた根源的という言葉も神学の構造を受け継いだだけのもので、(デリダは生産的に逆らっているが)目新しいものはありません。
個人的には哲学史家としてのハイデガーに敬意を持ちますが、哲学者としてのハイデガーには疑念を持たざるを得ません。
色々な疑問が投げられているようで、考えさせられるのですが。 改めてこの書物のテーマというところから、始めてみたいのですが。 《神々の窮迫》というのがあり、そこで神々は、窮迫からの強制として、有・を本質現成させる、というのが凡その筋書としてある。その《有・の本質現成》なのですが、私にはこれが、善悪を越えた驚異的な有だと思える。善悪を越えたものでしか、 有・の偉大さは証しえない、というテーマ、という私の読み方はそこから来ている。 例えば、この書物の中では、《理性的ナ動物animal rationaleが崩壊する》ことが至極喜ばしい出来事として称えられている。また、《人間は根底から変貌させられる》ことが称えられている。《従来の「人間」の崩壊》が称えられている。 《今や初めて理性的ナ動物animal rationaleが崩壊する。われわれはこの理性的ナ動物へと、改めて頭から逆さまに落下しそうになっている。それは、第一の元初とその終わりが知られず、また別の元初の必然性も知られていないところでは、到るところそうである。 従来の「人間」の崩壊は、有・の根源的な真理からのみ可能である。》(『哲学への寄与論稿』316-317頁) 《有・とは性起として本質現成する。》(274頁)しかしまた、性起とは、《歴史の根源である》(488頁)つまり、有・とは、《歴史の根源》が《本質現成する》ことだと言ってよい。また、有は無尽蔵である。《この(有・)の震えの親密さは、 最も底無しに深淵的な裂け開けを必需とし、この裂け開けの中で、有・の無尽蔵性が予感的に究思される。》(261頁) また、元初的な思索とは《有・の真理の究-思であり、そのようにして根拠の開基である。》《(根拠の)上に休らうとは、問うことが極限の躍動領域の内へ赴くこと、極限の出来事への聴従的帰属性へ赴くこと、すなわち、性起における転回である》(63頁)とされている。 すなわち、有・とは、歴史の始原であり、その驚愕させる、震撼させる極限的な威力が有るものに包囲され、計算に包囲され、窮迫することから、有・の本質現成が強制され到来すること、その到来する場所が現-有と呼ばれる。 ハイデガーが『哲学への寄与論稿』において構成した筋書が凡そ、そのようなものだと思う。
ところで私には、有・という概念について、また、有・の本質現成である性起もそうですが、歴史の根源とハイデガーが書いていることにヒントを得て、これをバタイユにおける、否定の否定、エロティシズムや死や暴力の解除、と解釈しました。 バタイユは、未開社会におけるこれらの諸領域への執着、儀式性を探り、存在の根源だとみなした。バタイユはこう書いている。 《死とは間違いなく世界の青春である。われわれにそれが分からないのは、分かろうとしないのは、次のような悲しい理由による―われわれは若々しい感受性をも持ち合わせているかもしれないが、それで知性がいっそう目覚めることはない。 そうでなければ、死が、死だけが、絶えず生の若返りを保証するという事実を、どうして知らずにいられようか。》 《自然の中に与えられている法則は、盲目であることを許さないほどに単純である。この法則によれば、生とは、噴出であり横溢であり、均衡、安定とは正反対である。それは爆発し枯渇する、喧噪に満ちた運動である。》 (『エロティシズムの歴史』哲学書房版117-118頁) 《根源的な意味で、聖なるものとはまさに禁じられたものである。しかし、この禁じられた聖なるものは、俗なる生の領域から(それがこの生を乱すことを意味するかぎりにおいて)締め出されているとしても、それを排除する俗なるものよりも大きな価値を持っている。 それはもはや軽蔑の対象となる獣性ではない。その相貌はしばしば動物のままであるが、同時に、神性を帯びたものになっている。》(同127頁) 《祝祭の運動は、動物的な力のもたらすものを頼みとしつつ、この力を解き放つのだが、その時この爆発的解放は、卑俗な目的に隷属させられた実存の流れを塞ぎ止める。それは規範の解消―ある中断―であり、もはや規則正しい流れではない。》(同128頁) つまり、バタイユはこのように、動物性への否定として俗なる生が現れて、必要性や制度や知性への隷属が現れた、それが再度否定されることにより、祝祭性が現れる、とした。 このような弁証をバタイユは歴史の始原にみた。私はバタイユの見出だした弁証は、普遍的なものであり、かつ不吉なものでもあるが、歴史の始原にあるものだと考えた。
600 :
考える名無しさん :2009/02/15(日) 01:46:43 O
ハイデガーにおける《最後の神の傍過》というのがありますが、この場合の《最後の神》というのが、《元初から要求された神》でもある、と書いている箇所があります。つまり、《最後の神》とは、《元初の神》に要求されることで本質現成する。 それも、重要なヒントになった。 《ここにおいて、最後のものが本質現成する。それは本質的な、元初から要求された、元初へと持ち運ばれたのではない、終わりである。ここで、有・の最も内的な有限性が露呈する。すなわち最後の神の合図において。》(『哲学への寄与論稿』444頁) 最初の神と最後の神が同じ、というのは、バタイユ的な弁証と見合っている。というのは、バタイユにおいては、動物性というのが、聖なるもの、とみなされている。それが否定されて俗なる世界が現れる、それと見合っている。 俗なる世界はしかし侵犯され、聖なるものが現れる、単なる動物性ではなく、しかも、至高性であり、神性である。そのような路を歩むものは、ハイデガーにおける犠牲である。 そのように考えれば、両者における神性に繋がりがあると考えられた。 それじゃあ、殺傷をするものはすべからく、ハイデガー=バタイユ的であると言えるのか、というのが問題になる。それを考えるならば、鍵となるものがあるとしたら、殺傷することによる退路がそこに見出だせるか否か、が問題になると思う。 何からの退路か。有るものによる包囲からの退路。または、有に立ち去られてあることからの退路。それが決めてだと思える。つまり、有の窮迫からの退路がそこにあるか否か。 少なくとも、1990年代以降の凶悪殺傷事件を振り返るときに、殺傷することによる退路が根底に見出だせる、そのような事件はいくつもあります。明らかにそうではなくとも、背景にあるかもしれないと考えることは可能でしょう。私はそのように考えています。
なんで改行しないの?
携帯から書き込んでるからでは。
改行無しで垂れ流してる馬鹿の書き込みは 読みにくいのでスルーしてる
>>600 >それじゃあ、殺傷をするものはすべからく、ハイデガー=バタイユ的であると言えるのか、というのが問題になる。
その前に、なんで君が話をミンチ殺人につなげたいのか、が問題になっているw
いきなり「殺傷」がでてくるのはどう考えても飛躍しているから。。。
バタイユが、他殺について何か書いているの?
605 :
考える名無しさん :2009/02/17(火) 11:28:29 O
>その前に、なんで君が話をミンチ殺人につなげたいのか、が問題になっているwいきなり「殺傷」がでてくるのはどう考えても飛躍しているから。。。バタイユが、他殺について何か書いているの? いやいや(笑)、バタイユの主題の一つには、禁止と侵犯の弁証法が明らかにある。これはおおよそ、現代思想的な常識であり、バタイユを少々齧った人間なら誰でも知っている話でしょう。ミンチ殺人に限らない。 秋葉原電気街の殺人、酒鬼薔薇の殺人、長崎県の小6女子の同級生殺人、地下鉄サリン事件、あらゆる殺人は対象になるでしょうね。 私が「殺人」と言う場合は、ミンチ殺人に限らぬ、殺人一般と考えていただきたい。無論ミンチ殺人も含まれている。また、私が「殺人」と言う場合、あらゆる侵犯行為の一種として掲げているに過ぎないこともお忘れなく。 あくまでも私が主題としているのはハイデガー的有論である。それが分からなければ結局分からないでしょう。 まあ、2ch.の訪問者というのは、想像してたより意外にデリケートというか(笑)、哲学板だから相当なネタでも驚かないと思ってたら、意外に常識人というか、「殺傷」の一語にこれだけ食い付いてくるとは、まあ、驚きますねー(笑) 元々、昨今の凶悪犯罪報道を眺めて、被害者側の悲しみ、加害者側の動機、事件への法的措置などとして専ら話されるのをみていて、物足りないというか、それだけじゃないんじゃないか。という気がしていた人間なんで。 それだけしか語られないとしたら、余りに貧しいというね。人間てのはもっと計り知れない深度を孕んでるのではないか、とね。私はそう感じてるのでね。 ハイデガーの『哲学への寄与論稿』というのはそんな私にとり、格好な題材だった。改めて、我が読解は結構いい線来てると思いますねー(笑)私のように読むと、結構読めます。この本。今まで出た、何が言いたいのか訳の分からない解説よりよっぽど良いと思います(笑)。
有・Seynと呼ばれている概念が、歴史の始原としての自然、或いは禁忌の解除を表している。自性-化die Ereignungというのが、その現象化を表している。それらを通して洩れだす、正常とも異常とも呼べない人間の底知れなさ、それを底無しの深淵と呼んでいる。 禁忌が解除されてゆくとき、最後の神の傍過があると言う。それらは見事な整合的な論理であり、かつその破裂である。この本は全体図として、有・の突発的出現とその姿が見せる有の底知れなさが主題だと思う。つまり、有・の驚異である。 例えば次のようにそれは書かれている。 《この有るものは、そのようにして初めて再び - 有・とその訝しくさせる働きとの中に突き入りつつ - その本質が持つ〔忘我的に〕脱然とさせる単純性を展開し、すべての工作機構を超出し、体験から身を引き離して別の主宰を樹立することの内へ、 言い換えれば、最後の神が自らのために自性-化した領域を樹立することの中へ、入っているのである。 ただ有るものの大きな崩壊と倒壊によってのみ、工作機構と体験とへ無理強いされて既に有り損ないのものへと硬直していた有るものは、有・に譲歩することへ、そしてそれによって有・の真理の内へ、到るのである。》(『哲学への寄与論稿』創文社257頁) ハイデガーが面白いのは、有・(歴史の始原)が、《拒絶》つまり、自ら消え去ること、どこにも全く見えなくなることにより、逆に《差し向けられる》、つまり、こちらへ向けられている、としているところである。歴史の始原としての暴力性など、今日現代社会では、 どこにも見えなくなる。しかし、見えなくなることで、《突発的出現》のため前提条件は整った。そんな論理だと思いますが、この論理は非常に逆説的で興味深いし、かつリアルだと思える。一切見えなくなることが、むしろ、現れのための前段階なのである。 《しかし有・は拒絶として、単なる後退や撤退ではなく、むしろその反対である。すなわち、拒絶は差し向けの親密さである。震えの中で指し-向けられるのは、<現>の底無しの深淵性における〔<現>の〕空け透きである。》(同256頁)
確かにハイデッガーの考えって人間の得体の知れない底の底まで 射程があるとは思うけどもさ ことさらそれを強調してバタイユ的なところに引き付けるのが反発 買ってるわけでしょ 「ミンチ殺人だなんて残酷な例をだすな!」っていうナイーブさじゃなく そんなものに引き付けちゃハイデッガーを曲解しちゃうよと言いたい わけじゃないの?
608 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 01:24:19 O
> 確かにハイデッガーの考えって人間の得体の知れない底の底まで射程があるとは思うけどもさ、ことさらそれを強調してバタイユ的なところに引き付けるのが反発買ってるわけでしょ。 >「ミンチ殺人だなんて残酷な例をだすな!」っていうナイーブさじゃなくそんなものに引き付けちゃハイデッガーを曲解しちゃうよと言いたいわけじゃないの? この書物に限って言えば、バタイユとの相関は誤りではないと思いますね。有に立ち去られてあることの結末としての、窮迫が主題であり、そのような問題からみると、上記のような概念が展開されることは不思議ではない。また、ハイデガーがそこで書いている語彙を、 暗喩として捉えることは、むしろハイデガーが過小評価されることになるでしょう。むしろあの本の中の語彙は字義のまま受け取るべきだろうと私には思えます。 ハイデガーは、《すべての有るものは有・のために犠牲にされる》《有・は最も尋常ならざるものとなる。》《現-有の内で、有・の尋常ならざることに呼応するのは、死の唯一性である。》(いずれも246頁)とはっきり書いている。これを喩と捉えるべきではない。 つまり、犠牲はまさに犠牲なので、そのように読めばよいだけの話。それ以外に読む必要はない。つまり、殺傷を意味するのであって、そう読めばよいだけの話です。 ミンチ殺人と、他の殺人と、殺人という意味合いでは同じです。何を今更(笑) 先の文を引用してみます。とても格調高い良い文ですよ。 《別の元初において、すべての有るものは有・のために犠牲にされ、そこから初めて有るものそのものは自らの真理を得る。しかし、有は性起として、すなわち、最後の神の近さと遠さとについての決定の瞬間場として、本質現成する。》(246頁) 《有・の真理の基づけの領域の内で、すなわち現-有の内で、有・の尋常ならざることに呼応するのは、死の唯一性である。 最も恐るべき歓喜は、ある神が死ぬことでなければならない。》(246頁) 上記の文などは、バタイユにおける闘牛の嗜好を書いた文章(『純然なる幸福』所収)を連想させるものがあります。スペインの民衆が、闘牛士が牛の角に串刺しにされ、死んでゆくのを目の当たりにし、熱狂する。それを思い起こさせるものがある。
609 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 09:19:20 0
ハイデガーをバタイユ的に見て、どう言う事が言いたいのか? むしろ、ハイデガーからデリダ・レヴィナスの線で見る方が 普通じゃないのかな?
>>605 >哲学板だから相当なネタでも驚かないと思ってたら、意外に常識人というか、「殺傷」の一語にこれだけ食い付いてくるとは、まあ、驚きますねー(笑)
ほんとうに馬鹿だね君は。
問題はネタの内容じゃなくて、飛躍があるということ。
論理になっていないということだよ。
それが分からないのかな。。。
君がバタイユから引用しているのは、ニーチェの「ディオニュソス」そのもの。
ニーチェ自身、「死は祝祭である」と書いている。
だが、ニーチェの思想だって、「他殺」には直接結びつかないんだよ。
妄想するは勝手だけれど、それが哲学になるには一定レベルの論理性が必要。
611 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 12:47:11 0
君は「犠牲はまさに犠牲なので、そのように読めばよいだけの話」 なんて開き直っているけれど、 ハイデガーの犠牲・供犠だって、色々なコノテーションがあるだろうに、 日本語訳だけ読んで、あれと似てる似てないと得意になって言うことに、 いったい何の意味があるのかさっぱりわからん。 バタイユも、日本語だけ読んでいても、たぶん同じでしょう。 まあ家族が皆殺しに遭っても、評論家のように、 「人間てのはもっと計り知れない深度を孕んでる」としたり顔で語って下さい。
612 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 14:14:04 0
有を固定的に捉えてそこから、現有として現在を見出しては、 存在論としての複数性が見えてこないので、 現在の現れ方を否定すると言う、根源=存在への参照の重層性 を見出すために、有の殺害性と言っているのでしょう。
613 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 14:47:37 0
殺害性と言う表現はちょっと過激ですね。残虐性としましょう。 残虐性によって、有=在るものを抹消する時によって、存在は完全に 無となる。この無から、逆に規定されざる根源への反復性によって、 有が複数生まれる可能性が鮮明に腹蔵なく現れる。 これはどうかな。 つまり、存在があってそこから、存在者が発生する訳で、その存在者 を無くせば、存在=無が現れる。この無が逆に多様な存在者(存在者の 意味)を作り出す基盤となる。デリダで言うコーラのような母体 を意味している。
614 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 14:53:29 0
要は、存在論=被投性を説明するために、存在に有ではなく無を 意味する必要があったと言う事だけでしょう。 だから、暴力=抹消が根源にあったと言う事を言いたいだけです。
615 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 15:01:06 0
その無に投げ込まれたものが現存在と言う事でしょう。 規定されたものがない存在者、だから、現前ではなく、手許存在としての 存在者を見出す事によって、無と言うあり方を超えようとする 現存在は無限に過去を参照し、先駆する事で、根源的なあり方 を見出すとこで、この無=ニヒリズムを乗り越えようとする。
>>613 >つまり、存在があってそこから、存在者が発生する訳で、その存在者
>を無くせば、存在=無が現れる。
それは「他殺」には全くつながらないなぁ。
「存在者」が「存在者」であるのは、現存在が存在を対象化(客観化)しているから。
つまりそれは、「対象」ではなく「現存在」の在り方に問題があるんだよ。
その場合は現存在の在り方が変わることによってのみ、「存在者」は「存在者」でなくなるのであって、
だから、「他殺」には全然結びつかないだろ。
617 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 17:51:34 0
「他殺」とは何なのかよく分からないが、 つまり、現存在は独立性があるように見えるかも知れないが 実際は、被投されている訳だよね。 先に投げ込まれている。これは、世界に投げ込まれていると同時に 存在に投げ込まれている訳で、この被投性を証明するには 存在の現存在に対する、根源性を見出さなければならない。 その場合に現存在が存在を見出しそれが何であるかを語っては いけない。なぜならば、存在が何であるかを正確に証明すれば、 存在は現存在の対象になり、現存在の根源=基盤でありえなくなる。 そこで、現存在の存在者としてのあり方を不安定にするためには 存在に空無の穴を作る必要があるんだね。 つまり、存在が主で現存在は存在を基にしてしか、現れ得ないと言う事だね。 そこで、一度現存在の現勢としての存在者を否定する必要があるんだね。 だから、現前=唯一の真と言う西洋形而上学的な見方に対し、 その前段としての生贄・王殺しと言う、原暴力を持って来て 現前と言う存在者の唯一無二の視点の前提が、客観性を 持ちえない事を証明する必要があるんだね。 この辺を、バタイユとハイデガーは共有していると言いたいんだろう。
618 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 18:01:01 0
存在に空無を開けると言うよりも、現存在が空無としての形態 でしか存在しえないと言う事ですね。 いずれにしろ、バタイユの思想は、西洋的な主体・客体・ロジック や正義・真理と言ったものは、その根源に欲望を整流する為の 装置があり、その事で、一見客観的に見える西洋的な 思考システムも欲望と言う闇を隠し持っている。 よって、この様な客観的な理性システムと言われるものを いったん解体して、実態を暴かなければならないと考えている のでしょう。
619 :
考える名無しさん :2009/02/18(水) 18:11:00 0
それでは、「存在」と言う術語はフロイトの言う無意識に似ているのでしょうか? いや、ラカンの言うように、原抑圧によって、人は象徴界に参入 する訳です。この時の自然界がハイデガーの存在の「無」で、 開けが象徴界でしょうか? 無意識の場合にはすでに他者の欲望でしょう? つまり、他者を前提にしているので、「存在の空」ではなさそうだよね。 いずれにしろ、哲学を紐解けばあちこちで類似概念につきあたる ので面白い。デリダのコーラも類似しているしね。 この時代は無と言う意味を捉えようとして、根源とかコーラとか 言っている訳だね。
621 :
考える名無しさん :2009/02/19(木) 00:53:12 O
「犠牲」という語彙については、改めて読み直すと、単に“殺傷の対象”、という意味合いとは違っていることに気付かされる。最初私は、「犠牲」とは“殺傷の対象”だと思ったのだが、違う。どう違うかといえば、正確な意味合いとしては、 <有・の暴威の渦に巻き込まれ、それ自身が脅威となり、しかも究極、死に至る>というような意味合いだと思う。 以下のような文章から、それは伺えると思う。単に、「犠牲」が、有・の渦の中で生命を落とすことだとすると、意味が通らないのである。 《跳躍に到るのは、常にただ少数の者たちだけであり、しかも彼らは様々な路を通って〔来る〕。常にその者たちは、現-有を創造しつつ - 犠牲に供して基づける働きをする。その現-有の時-空の中で、有るものは有るものとして守護され、 それによって有・の真理が蔵される。》(『哲学への寄与論稿』創文社252頁) この中で、《常にその者たちは、現-有を創造しつつ - 犠牲に供して基づける働きをする。》とされている。ここで「犠牲」が、殺傷の対象、だと、意味が通らない。むしろ、「犠牲」とは、それ自体が有・(歴史の始原)の驚異的な現れと化す、 と見る方が適切だと思う。つまり、単純に「殺傷の対象」ではない。むしろ、「犠牲」とは、或る境界線に落ち込むことだとすれば、「殺傷される者」ではなく、「殺傷する者」の方になるだろう。 また、445頁では、《この(有に立ち去られてあることからの)退路を行く者たちの犠牲なくしては、最後の神の合図の可能性の暁光にすら到らない》とある。これによると、「犠牲」は、やはり有・の暴威を現象させる者のことだ。
622 :
デスラー総統 :2009/02/19(木) 01:13:29 O
つまらん
色々と独自な解釈を加えてくれてる方がいて、まあ、面白いなあ、て感じなんですが。ただ、難しいですね。ハイデガーの『哲学への寄与論稿』は私から見ると遥かにシンプルな論理で書かれてる。それと、「空」「無」と言われてるんだけど、 『哲学への寄与』に関する限り、無は同時に充満であり、暴威でもある。また、拒絶もまた、拒絶であることによって、差し向けである。なので、空や無は、絶えず正反対のベクトルを抱え込んでると思います。その辺がこの本の中の論理の特徴だと思うんです。 あともう一つ、ハイデガーの言う歴史というのは、単なる空や無ではなく、いつも原初を孕む自然として考えられてると思います。で、前にも書いたけども、そういうとき、《どこにも現前したことのないナニやら》を指すわけではない、その手のひたすら否定的なだけな、 《どこにもない、一度もない》とは縁遠いものです。もしもハイデガーがその手のものなら、私はハイデガーにさほど重要性は感じなかったでしょう。《どこにも現前したことのないナニやら》を云々することは、別にあってもいいんだけど、ハイデガーとは縁がない 別個な哲学だと思うんです。
624 :
考える名無しさん :2009/02/19(木) 09:40:10 0
そうですね。 ハイデガーには根源(存在)への参照はありますが、 その根源が規定不可能とはしていない。 しかし、その根源を確固たるものとして、定義づけると、 今度は、定義づける者が、それを対象にすると言う、つまり、 存在が現存在あるいは存在者としての人間の下位になる訳です。 例えば、この辺はフロイトで無意識と言う場合、無意識によって 動いている人間本人は、この無意識は意識に捉えられない。 それを分析する人が精神分析医がいます。 しかし、この分析医にも、患者からの感情の転移があり、 結局、無意識を正確には捉えられない訳です。 この様に、ハイデガーの存在もアレーテア(真理・真実)分析 では、古代ギリシャの真理は隠蔽と暴露と言う二面性をもって 覆蔵なく現れるとするが、同時に覆蔵・隠蔽が付きまとうとしていますよね。 つまり、全て見通せるのでは、存在が有限となる そこで、このような表現になったのではと思われるのです。
なんだか、レベルが低いぞ。。。
626 :
考える名無しさん :2009/02/19(木) 20:16:24 0
オレ様だけがわかっているという高みに立った姿勢が 皆の反発を呼んでるということを、 轟はもっと自覚した方がいいよ
627 :
考える名無しさん :2009/02/19(木) 20:53:28 O
石川数正組 対 野・鈴木ペアの間の力勝負。源義経と静香と那須与一の三角関係は奥が深い
ageケイタイさんはまさか本物の轟氏ではないだろう。 否定コメントはいまだないけどな。
いやあ、俺様だけが分かっている、なんて思ってはない。(笑)ただ、ここの訪問者に限れば、あんまり分かってはいないようだ。あの本は「尋常でない」事象を思い浮かべ書かれたと私には思える。ために、直接的な物言いをとにかく避けて書くことに神経を使っている ように見える。ハイデガー自身、題材的に大変きわどい、危ういと自覚していたかもしれない。題材的にきわどいのはちょっと読めば分かる。だからあくまでも覚書とし、生前の発表は避けたのではないか。そういった辺りを念頭に置いて読めば面白いし、 何か直接的な書き方を避けているような語彙も納得はできる。ただ、そのために、ただでさえ晦渋な言説は余計に晦渋になってしまった。そのようにして読めば、神秘化する必要などなんらないと分かるはずだ。懲りないで読み続ける以外にあのような本に取り組む仕方はない。 ただそれを億劫がったり、有名な学者とかの、他人の言説だけで間に合わそうとか、思ってしまうと分かるものまで分からなくなる。
あと、私は解りが早い人間ではないし、しつこくセンテンスに当たる以外に自分なりに分かる仕方を知らない。ハイデガー、まだ分からない箇所、いっぱいありますよ。だからこそ分かりたい。だけど『分かりたいあなたのための〜』とか、読みたくないし、 たとえ読んでも、余計に解らなくなるのがオチだからね。
で、轟さんなのか?
無意味な言葉の積み重ね。
633 :
考える名無しさん :2009/02/21(土) 09:26:56 0
言語表現を避けるのは、存在を言語では表現できないからだよ。 表現すれば、認識になる。存在が根源である限り、それは、表象不可能 と言う事になる。だから、後期のハイデガーのテクストが、語源学的な 厚みのある謎の言語ジャーゴン表現になっていると言われる訳だね。 そこが、アレーテア分析でもアンビバレントさって事だろう。 以来、フランス系に流れるハイデガーの読みは、この規定不可能性としての 流を採る事になる。 ただし、この根源の空を唯一としたハイデガーに対し、東は複数性を 求めて、ハイデガー批判したのが「存在論的郵便的」ってわけだよ。
634 :
考える名無しさん :2009/02/21(土) 09:32:23 0
ただ、なぜギリシャなのかってところを分析するべきだろうな。 ヘーゲルにしてもギリシャだった。ニ―チェもどうだろう? いずれにしろ、西洋的な科学的視点(現前を認識する事)への 批判があると言う事だろう。フーコーも規範を批判し、自己への 倫理として、自制心を求めている様でもあるからね。 現代西洋的な思考がギリシャにあったピュシス的な主客の未分化 を喪失させた事への批判として読める訳だ。
>>630 >私は解りが早い人間ではないし
それは言わなくてもわかります。
ハイデガーの言う「無」が「ひたすら否定的な」ものでないことぐらい誰だってわかっています。
なんで今更そんなことを書いているの。
ハイデガーは、「無は存在そのもの」と書いているんだから・・・
>>633 >言語表現を避けるのは、存在を言語では表現できないからだよ。
それは微妙だ。
「言葉は存在の家」でもあるわけで、
ヘルダーリンの詩の言葉なんかはどうなるんでしょう。
>ただ、なぜギリシャなのかってところを分析するべきだろうな。
ハイデガーもニーチェも、ギリシャとともに東洋にも目を向けている。
それは主客未分でありかつ物心未分のところ。
637 :
考える名無しさん :2009/02/21(土) 13:29:01 0
「存在の家」と言うのは、家がいろんなものを内部に含んでいるからだろう。 言葉は、存在を明晰に指し示すのではなく、存在の重層的非決定性に したがって、暗示する事しかできない、と言う意味で、比喩や隠喩 となる訳だよ。これって、カントの「物自体」のようなものこそが ハイデガーの「存在」だと言う事だろう。 東の「郵便的」の中で、フレーゲだったかが、ハイデガーの「存在」 と言う言葉の使用について、「存在」と言う言葉は元来動詞であるが、 彼はこれを名詞的に使用する。だから、確定記述の余剰に陥る事になる、 と批判していたよね。動詞である場合その主語の存在を規定するだけなので 重層的な無と言う見方はとれないと言う事だろう。 名詞にした場合には、その名詞の意味を無限に書きだせるわけだ。 ここが、ハイデガーの無を存在に見出すときのミソなんだね。
>>637 >言葉は、存在を明晰に指し示すのではなく、存在の重層的非決定性に
>したがって、暗示する事しかできない、と言う意味で、比喩や隠喩
>となる訳だよ。
そういうことではなくて、ヘルダーリンの言葉みたいな場合に
存在は言葉の中に現成しているということだと思う。
>彼はこれを名詞的に使用する。
そういう批判は当たってない。
ハイデガーはwesenも動詞として使っているし、
無もnichtenと動詞として使っている。
そういう批判は、むしろハイデガーからそれを学んでいるんだよ。
あぁ、東さんがフレーゲを批判したということなのかな?
それでもおかしいな。 「彼はこれを名詞的に使用する」の彼って、誰・・・ 曖昧な文章を書かないでください。
まあとにかく、 ハイデガーはヘルダーリン論の中で、 大地と天空、神的なものと死すべきものという四方域を挙げている。 その四方域が交差するところに現成するのが「存在」。 「×」印のついた「存在」は、そのことを表している。
642 :
考える名無しさん :2009/02/21(土) 17:22:46 0
その場合、何故、存在はこうだと言う言葉による定義になっていないのかね? ここがミソなんだよ。定義されないヘルダーリンの詩は何を意味している のか?定義ではなくその詩的空間に漂うものと言いたいんだろう? だから、この詩的言語が物質性を持っていると言う事では? いわゆ物自体性としての、「存在」を表していると言う事。
643 :
考える名無しさん :2009/02/21(土) 17:49:35 0
つまり、ギリシャへの憧憬が、ヘルダーリンの詩に重ね合わされて いるのじゃあないの?
644 :
考える名無しさん :2009/02/21(土) 17:54:33 0
そして、存在はラカンではSとなり、SはX(バッテン)をつけられた人間存在の あり方となる。私=Sは(私自身)の正体を自覚し得ない者となる。 こう言う見方も面白い。
ヘルダーリンの詩は(次の原初へと)先駆けるものであって (第一の原初である)過去への憧憬じゃあナインダヨ
フランスにも堅実なハイデガー研究者はいるのに 轟はデリダしか知らないのだろうか?
なわけないでしょ いや別にここに書いてるのが轟さんかどうかも知らんが ハイデガー研究者とハイデガーに影響受けた思想家とは 違うわけだしさ
648 :
考える名無しさん :2009/02/23(月) 15:26:16 O
宮台真司の本、それも2000年以降に出た本を読んでいると、ハイデガーもしくはハイデガー的領域への言及が思いの外多い。宮台による、少年凶悪犯罪、それへの批評の転回に、ハイデガーはおそらく影を落としている。 酒鬼薔薇聖斗事件当時の宮台は、「脱社会的」な少年の存在に危惧を表していた。しかし、2000年くらいから、その危惧に、変化が現れた。例えば以下のように。 《しかし私の心の中には、それ(学校化による均質空間によって、世界のダークサイドが鬱積し、先鋭化する危険性)と並行して、別の思いがありました。その思いをどうしても記しておきたかったのですが、表立って書くと不謹慎だと思ったので、 ホンマタカシ写真集『東京郊外』のパンフレットに、その思いをひっそりと書かせてもらいました。内容を言うと、ダークサイドが消滅した均質空間で、子供らが心の中に驚天動地のダークサイドを抱えて生きるのは、クールなのではないかというものです。 似た内容を、最近、島田雅彦『忘れられた帝国』(新潮文庫)の解説に書きました。》(『interviews』316頁) このような転回の根底に、私から見る限り、宮台にとってのハイデガー体験が影を落としているのではないか、と思わざるをえない。宮台自身が言明している通り、明らかにここには、一時期表明されていた「危惧」とは異質な感覚が見られる。 それは宮台自身の言葉を使えば、世界から超越したい、超越系の欲望を消し去ることが不可能である以上、その欲望に適切な通路を与えて、流出させるスキルは必要、ということになるのだろう。そこが宮台における酒鬼薔薇聖斗事件当時と異なる現状認識なのであって、 宮台にとってのハイデガーは、今やそのような現状認識と相まって、現代人を誘導するための知の一手段となっている。 私から見て、しかし、宮台にたいする不満もまたその地点にある。有るものの有効性、それでもって有るものを対象化し、量る視線、その全面化こそ、ハイデガーが対抗しようとした当のものではないか。宮台が様々な意匠を眺めやる視線とはまさにその有効性の計測である。 また、様々な現代日本の風景、それらを眺めやる視線もまた、有効性への還元によっている。何のための有効性かといえば、人々を善導するための有効性である。これは全くハイデガー的ではない。
649 :
現象学は、 :2009/02/26(木) 15:04:50 0
独断バカ、あるいは政治的理由による既得権益野郎、さらには職を失いたくないだけのチキン野郎による捏造学問である。
入谷秀一の本読んだ人いる?
651 :
考える名無しさん :2009/03/02(月) 02:56:25 O
何て題名の本?
ハイデガーポスト形而上学のなんちゃらって奴じゃないの? アリストテレスと絡めてある硬派そうな本だった。
653 :
考える名無しさん :2009/03/10(火) 19:52:26 0
細川亮一のハイデガー本おもしろいな。名前は出さなくても、渡辺とかのハイデガー解釈に対する 批判だってことがよくわかる。 ハイデガーの本はものすごく難解なのに、実存主義的に解釈されたハイデガーの解説本はやたらと 分かりやすいんだよな〜。「おのれの死という可能性を引き受けて、一瞬一瞬決意性をもって生きる」とか 安いセラピーみたいだしwこれをしっかり批判したのはエライ。
ハイデガーとターミナルケアとかいうテーマで論文書いてアカポスをゲットした人がいたな、そういえば
655 :
考える名無しさん :2009/03/10(火) 20:15:27 0
いや、細川は渡辺二郎の弟子筋(ともに東大)にあたるし、批判の 矛先は渡辺ではないだろう。むしろハイデガーを神話化し、東洋哲学化 する京都学派への批判だと思う。 それに渡辺二郎のハイデガー解釈は毒にも薬にもならない生真面目なもの。 つまり批判する対象ですらないはずだ。
>>655 そうなのか。たしかに古東哲明とか京大出身で、もろに「神秘系」のハイデガー解釈だよな。
「ハイデガーは、道元の○○と同じことを言っている」とかいう東洋的・神秘的解釈に貫かれてる。
でも渡辺の言う「実存思想」から「存在思想」へっていうケーレの問題はどうなんだろ。
細川はケーレ以前、ケーレ以後というとらえかたは根本的な誤解に基づいている、と言ってるが。
あと「存在と時間」に関しても、実存主義的に読んではならない、と言ってるし。
こういうのは渡辺が批判の射程に入ってると思ったが違うかな。
657 :
考える名無しさん :2009/03/11(水) 15:09:08 O
河出ムック。 最悪の人選、安易な編集。 クズだった。 やっぱこのシリーズダメだ。
人生とは暇つぶしです
どんなところがクズだったん?
660 :
考える名無しさん :2009/03/18(水) 18:47:57 0
山本英輔「哲学への寄与」研究って内容的にどう? この著者についても知ってる人がいたら教えて。
661 :
考える名無しさん :2009/03/18(水) 19:08:02 0
「哲学への寄与」自体がマユツバなテクストだしなあ。 渡辺や大橋辺りはハイデガーの第二の主著、実に「深淵な」思想書だと 主張するが、フィガールは、ただのメモの集積だと断じている。 年寄りが適当に解釈するのは大丈夫だろうが、若い研究者があれをネタに 論文書いたとして、後に何が残るだろうと思う。
662 :
考える名無しさん :2009/03/18(水) 20:55:44 0
(・∀・)ケエレ!
663 :
し :2009/03/18(水) 21:15:15 O
欧州大陸からの渡来組は大きく分けて紀元前に渡来した1群。西暦300年までに渡来したギリシア組そしてゲルマン民族の移動に伴い今の西ヨーロッパの原型を付したゴート族とその末裔並びにカロヴィング朝が形造られる際に逃れてきた者に端を発す
なかなか『寄与論稿』だけを扱ってどうこう言えるもんでも無いと思うが 30年代中盤のハイデガーを研究する上ではどう考えても無視できないでしょ ハイデガー研究において非常に有用なメモの集積だしハイデガー自身の 思索においても存在の「深淵(無底)な」近づきがたさに触れたドキュメントだと 言えると思うんだが 確かにこれだけをメインに扱うのはよっぽどの大御所じゃなきゃ色んな意味で 難しいけどそれは適当に解釈するって類の作業じゃないと思う
Ereignisを性起と訳すのはどうなんだろね。『哲学への寄与』もVom Ereignisという 「副題」があるけど。「時熟」と同じで、日本語訳だけ見ても何のことやらわからんよ。 渡邊はEreignis=「呼び求める促し」と意訳してて、とりあえず「性起」よりは分かりやすいな。 ていうかそもそも「性」なんてどっから出てきたんだろ。
キリ番ゲト
>>665 Eigenschaft (本来「性」)との連想でしょ
Erektion(勃起=性的生起)との連想もあるらしい
内から(er-)固有の特質を持つ(eignen)ということで 性起=自「性」現「起」ってことでしょ essentiaとexistentiaの不可分さが出来事としての 存在なんだってことでわりと分かりやすい訳語だと 思ってたんだが
極限的な有の窮迫からもたらされる思索、というのが『哲学への寄与論稿』の主題だということははっきりしている。有・の開けが無尽蔵として、決断する思索によって基づけられる。。それが基づけられる現-有における性-起、つまり歴運、有・の指し向けである。 手短に云えばこうなる。そんなに迷路に填まりこむようなもんではない。具体的な例を思い浮べることも可能。我々の2000年代の精神の在り方を、都市の風景を不気味に予感するようなことを沢山書いており、なるほどなと実感させられる箇所も多い。 この覚え書きに関するかぎり、研究者のほうが迷路に填まりこむ悪循環をみせている。全集版のハイデガー本人の説明で十分だと思う。分からない分からない、分かるはずがないを繰り返し、せっかくのハイデガーの思索の煌めきを無にするべきではない。
>>670 長文なのになんで改行しないの?
携帯からでも改行をできるだろ?
672 :
考える名無しさん :2009/03/19(木) 13:21:59 0
>極限的な有の窮迫からもたらされる思索、というのが『哲学への寄与論稿』の主題だということははっきりしている。 >有・の開けが無尽蔵として、決断する思索によって基づけられる。。それが基づけられる現-有における性-起、つまり歴運、有・の指し向けである。 さっぱりわからん。ただの神秘主義やん
>>670 は吉本スレ常駐の
吉本ケータイ厨。
ハイデガー研究者は「有への開け」が分かっていないと不満を漏らしているわけです。
「言語にとって美とは何か」からハイデガー「有への開け」を考察しているので、 しょせんドイツ人ではない日本語環境の我々としても参考になるのではないでしょうか。
675 :
考える名無しさん :2009/03/21(土) 19:20:27 O
1980年代以降の日本社会の成熟化、そこにおける凶悪犯罪の特徴ともいえるいわゆる境界の曖昧化、その分析のための重大なヒントを『哲学への寄与論稿』は与えている。謎めいた語彙を辿るうちに浮かび上がってくる風景とは紛れもなく2000年代の日本社会であり、 深層の心象である。 鍵は、ここでの、『有と時』における有Seinよりも更に根源を意味させられている有・Seynの読み方にあり、有・が拒絶し、脱去する、とされている、その否定性の根本性にある。この否定性は象徴的で、いくたの謎めいた犯罪に孕まれている拒絶性を 連想させないではおかない。
676 :
考える名無しさん :2009/03/24(火) 19:09:00 0
>650の本、パラパラ見ているけど、 あまりハイデガーハイデガーしているという印象はないな(いい意味で 慎重に議論を組み立てていっている感じ
>650 おいらも今読んでるところだけど、どうも議論が大雑把な気がする。 構想自体はそれなりに意味があると思うが、メモ書きのような印象を 受けてしまう。 あとがきでラクー=ラバルトに言及しているが、この方向でもっと 議論を深めることもできたんじゃないかと思うが。。
木田さんの現象学の根本問題、いつでるんだろ。 延期しすぎじゃないかな〜
679 :
ヘラクレイトス :2009/04/19(日) 17:00:20 0
木田元と爆笑問題の対談、今日初めてみた。プラトニズムと自然を 対比させて自然を上位に置く、それがニーチェやハイデガーの思想 だと木田は講義していたが、これはニーチェの思想かもしれないが ハイデガーではなく、ハイデガーはニーチェのそのような思想に対し 、プラトニズムの単なる転倒すぎない、むしろ有の忘却の別の形態に 過ぎない、と看破した。それは『哲学への寄与』(創文社版)233頁に はっきりと書かれている。 《最後にニーチェの哲学。これはプラトニズムの逆倒として自らを 把握するがゆえに、まさにこのプラトニズムの内へ、いわば裏口の 扉をくぐって、後退転落する。ニーチェが移行の歩みをなす思想家 として最後にはプラトニズムから、そしてその逆倒から、外へねじ 回すように押し出される場合でも、それは、有の真理と真理の本質 とへの根源的に-超克しつつ〔有の問いを〕なされる立問には到らない 。》 木田はここで、ハイデガーが否定したニーチェとハイデガーとを重ね 合わせる過ちをおかしている。むしろ、この木田の発言に対し、それは 要するに善悪の彼岸ではなく再現ではないかと言った太田光のほうが ハイデガー的である。
680 :
ヘラクレイトス :2009/04/19(日) 17:34:33 0
加えて言えば、最後の方で太田光が言った発言、人間の心の中には訳の 解らないものがわんさかある。人間は自らの心さえも支配することは できない、そのことを自覚することが必要ではないかとするその視線 というのはやはりハイデガー的で、『哲学への寄与』における、 有・の突発的出現、性-起、出来事 das Ereignis にみあっている。 つまり、あの番組をみたかぎり、偶然か必然か、太田光の方がむしろ ハイデガーの今日的意義について、また哲学史的意義について 理解している、という困った(?)結論になる。木田は爆笑問題が 素人だと思って低空飛行したのかもしれない。あまりに通俗的 かつ大雑把にまとめてしまった感がある。
681 :
考える名無しさん :2009/04/19(日) 17:51:10 0
ましょってるかね?
682 :
考える名無しさん :2009/04/19(日) 17:52:47 0
「然か必然か、太田光の方がむしろ ハイデガーの今日的意義について、また哲学史的意義について 理解している、という困った(?)結論になる。」 どの点が?
683 :
ヘラクレイトス :2009/04/19(日) 22:00:59 0
異常なのか正常なのか、狂気なのかそうでないのか、判然としない、 そのような、出来事と呼ぶ他ない、それが、高度資本主義社会に多発 する凶悪犯罪の特色だとすれば、この、出来事の多発する世界について 、ハイデガーは当時としてはいちはやい着目をしたことになる。 ここにきてハイデガーが何故〈出来事〉という語を記すようになったか 明かになってきた。そうとしか呼びようがない、行為なのか、狂気なのか 、病気なのか、何なのかが判然としない、その境界性を指して、〈出来事〉 とした。そのようなハイデガーの今日的意義について、太田の方が敏感 に察知してるのではないかということ。 最近出た『道の手帖』シリーズの『ハイデガー』でも高田珠樹が『哲学への 寄与』について喋っている。が、この人も長年研究してきた割にはどうも さほど、今日的意義というところまでは把握できてない。この本の秘める 可能性について、掴みきれていない気がした。何故掴みきれないか というところで、ハイデガーの言説というのが、現代のリアルという ところで、つまり最も読まれなければならないところで読まれてない のではないかという疑いを持った。 高田珠樹クラスの研究者にしてそうだということは日本のハイデガー 研究の限界を露呈している気がしてならない。
太田の方が上なのは世間の常識だが。
685 :
考える名無しさん :2009/04/20(月) 09:32:26 0
君の解釈では、「出来事」とは、そうすると、理解不可能な人間の突発的な、発作的な 行為と言う事かね。それにはもう一面を見る必要性があるな。 つまり、客体としての「もの」もそれが捉えられないと言う意味で 「出来事」と言える。この辺はドゥルーズは「事件」とも言っている ようだね。つまり、科学や哲学で演繹しようとする事ができない「もの」 が「出来事」って事になるのかな。そしてこの様に捉えられない「もの」 を見出したのが、前世紀の西洋だったと言う事だろう。 今更、ハイデガーもないだろう。そのような「出来事」と言われるものは 西洋、特に、ハイデガーからフランス哲学全てに通底しているのだろう。 だから、君の言うようなハイデガーの「出来事」論を敷衍したければ ハイデガーではない哲学を、例えば、バタイユの「非知」などを 読んでみては。
686 :
考える名無しさん :2009/04/20(月) 09:39:44 0
例えば、原爆の投下による事件は、確かに科学的に分子などを 爆発させる事で、論理的には、爆破の意味は分かっているが、 投下による実際戦争に使用され、一瞬の線香によって多数の死体 が広島・長崎で生まれた事は、「出来事」なのだろうね。 この意味は決して科学には還元できない。 この様な捉えきれないものへの認識が、前世紀から西洋で始まった と言う事だろう。それは、ニーチェからハイデガーを経て、 デリダ、バタイユ、レヴィナスへと繋がって行くのでしょう。 その根源には、カントの「物自体」と言う認識論もある気がする。
687 :
考える名無しさん :2009/04/20(月) 09:43:14 0
ハイデガーのギリシャとはパルメニデス・ヘラクレイトスの 存在論への憧憬だった。
木田にはなれるかもしれないが、太田には絶対なれない。 と俺は思うが。
つーか、頼まれてもなりたくない。
691 :
考える名無しさん :2009/04/20(月) 15:29:32 0
素人の発想として、面白さはあるね。 だけど、哲学者の脳ではないし、一流の学者の考察ではない。 あの番組は、しろうとが如何に日本のトップの頭脳に、切り込むか と言うところが面白いのであって、どちらが知っているかと言う 比較では、相手にならんだろう。
同意。 しかし、地頭としては太田の方が上だな。
693 :
ヘラクレイトス :2009/04/21(火) 12:52:39 0
趣味としての現代思想とか、そういった区切りが暗黙のうちに為されがちだと思う。Druzeでも バタイユでもよいが、今日的に読むとどうなのか、というところで論じた方が面白いと思う。 フランス文学だとか、現代思想だとか、リアルな風景と重ねて読む読み方が敬遠されがちに思える 。澁澤龍彦でも、彼がバタイユとかを今日的に俎上に上げたとは思えない。書斎の秘め事のように 扱ってきたところがあるだろう。そのような時代だったとは思うが、もはやそんな遠慮は不要、 というよりも、現実のほうが澁澤などの感性より先に行ってしまった感もある。バタイユについて 話すと、彼の残した言説を今たどると、無論卓越しているとは思うが、彼がどこまで現実と対応 しうると考えていたか、疑問だと思う。つまり、あれらの言説が現実に為された瞬間を考えたか 、疑問だと思う。実に心から渇望したかもしれないが、それでも、自分の書いてる内容が実現される とは、思わなかった。今、というのは、バタイユの書いていたような不可能が、可能性として考えら れる時代なのだと思う。そこが彼の脳裏のイメージが越えられつつある、ということを意味してい る。で、ハイデガーに戻ると、ハイデガーの思索というのは、彼の思考というよりは、有の語りを 媒介する、というのがハイデガーの立ち位置で、怜の性-起にしても、そうだと思う。ハイデガー のオリジナルというよりは、彼はただ、有を写しとる、それを試みている。そこに人間が超えられて ゆくのは当然で、最初から人間の目線を中心にしてはいないのだから、そうなるのは必然的 だといえる.
694 :
ヘラクレイトス :2009/04/21(火) 23:20:31 0
Deluzeの綴りが違いました。失礼。Deluzeも、あとバタイユもそうだと思うけども、自然の過剰 、といった方向では自然を論じるけども、いったんそれが一個の人間において生きられる場合に、 つまり一個の人間において、そこで自然として生成するといった場合に、そこで、自然のもう一つ の側面、謂わば〈無限の多様性〉の反対概念としての、有限性が現れる、というところまで、手が 延ばされなかった。で、有限性、てところを、世界性と絡めて論じること、それがあるからハイデガー は実存哲学とか呼ばれたと思うけども、それらはとりもなおさず生の内的構造を極めた、てこと でもあった。そこがハイデガーとDeluzeら現代思想家の分岐線だと思う。つまり、一個の生、て いうのが、可能性の有限を担わされている、担わされていることでむしろ初めて一個の生 たりうるのだ、てことで、ここはやっぱりハイデガーの特徴で、人間てものが変わらず担ってきた 在り方、有限性を論としてえがいてみせている。そこが彼の有論を生の事実性の分析たらしめた 。そこが特徴だと思う。現実を組み替える理論ではない。むしろ、何故一人の人間が、その人 たりうるか、そうでしかなかったか、ということの根拠を突き詰めた。むしろ、〈組み替えることの 不可能なもの〉があるとしたらそれは何か、てところに拘ったのだといえる。そこのあたりに ハイデガーのもつ意味合いを感じるし、現代思想との分岐線をみる。
695 :
ヘラクレイトス :2009/04/21(火) 23:58:09 0
で、性-起てことをその思想形成の後半にいいはじめた。これが、所謂『有と時』に代表される有論 と食い違ってみえる所がある。Deluzeをあげた人の謂うように、これは現代思想的じゃないか、 と言いたい所がある。ただ、これも、現代思想的な、組み替え、新しい概念の創出とかでなく、 何だといえば、人間の孕む歴史の深さ、ハイデガー的に謂えば有の深さの、その無尽蔵の思索で あり、近代における有の困窮が、逆に有の深淵による指し向けをうむ、というと何やら判然と しないが、有の忘却とその想起というかつての主題の深化、ないしに変奏とみていいと思う。 かつて『有と時』ではその射程となる歴史が個体の生誕から死までだったとすると、性-起が主題 の場合、射程となる歴史がより広大になって、無尽蔵になる。つまり基本線としての変更はなく、 有の思索というところは同じ。ただその規模が広大である。その違いがある。繰り返すと、これは 現実の組み替えや概念想像ではない。創造ではなくむしろ想起である。
>>679 >木田はここで、ハイデガーが否定したニーチェとハイデガーとを重ね
>合わせる過ちをおかしている。
ニーチェの思想はプラトニズムの単なる転倒にすぎない、というのは
ハイデガーお得意の曲解であって、そういう所は真に受けないほうがいいw
例えば『偶像の黄昏』の「いかにして真の世界がついに寓話となったか」
などを読んでみれば、ニーチェが「真の世界と仮象の世界」という
二世界論(=プラトニズム)の構図そのものから脱却しようとしたことが分かる。
ハイデガーがニーチェを形而上学の完成者と曲解したのは、
力への意志の思想によって思惟されているのが「存在者」であって「存在」ではない
という理由によるのだけれど、それは妥当な解釈なのかどうかも甚だ疑問だ。
むしろハイデガーの存在論的差異の思想はニーチェからヒントを得ているんだと思う。
ニーチェの言う「生」や「生成」は、フュシスに近いものだからね。
その意味では、木田元(その対談は見てないが)が言ったことはおかしくない。
697 :
考える名無しさん :2009/04/22(水) 09:26:37 0
色んな意見ありだね。 その人の見方によって、ハイデガーもバタイユも異なる訳で、 それで良いのだろうね。 私の視点からは、ハイデガーは「存在」にハマった訳で、 個々人の問題ではない訳で、また、存在は規定出来ないものであり、 かつ、そこに収斂すると言う事で、規定出来ないものの中心=無が 口をあけていると言う状況に人間存在はあると言う事だ。 しかし、ハイデガーの場合には、歴史性であり、その歴史をたどり 根源としてのギリシャに行き着く訳で、最終的には民族の誇りとなる。 今から読めば、ハイデガーは自己の非規定性としての「存在」を見出したが 最終的には民族への憧憬に終わっている。この場合の前者がフランス哲学 ポスト構造主義に引き継がれるわけで、以後、後者はナチヅム的として否定的 な捉え方をされたと言っていい。
Deleuze
699 :
考える名無しさん :2009/04/22(水) 09:44:55 0
私にとって、ハイデガーの見方は規定されない存在者としての現存在 と言うあり方であり、また、存在者を規定する存在でもあり、後者が実存主義で、 前者が、存在論的差異のあり方なのだと言う事。 デカルトが現前を認識する主体=精神を肯定し、ヘーゲルが 現前を内面化して、時間としての運動により、絶対知への道を 見出したとするならば、ハイデガーは規定しえない人間存在を 歴史性によって、見出そうとすると言う事だろう。 決して、見出し得ない存在を歴史的に遡及する事で、民族主義 肯定となったと言う事。 確かに、ハイデガーのテクストには深みがある。 それは、意味が重層的に決定するか、重層的に非決定するからだ。 時にはヘルダーリンの詩の様に、定義する事の出来ない、語れないものに 憧憬し、この存在の無を比喩的に表そうとしているという事だろう。 ハイデガーの存在論は、規定されないもの=表現できないものと言う 人間存在の中心に開いた空無を見出した事が、後世に評価された とう事だろう。 そう言う意味では、彼の説は有限性として捉えるよりも、人間存在の 非規定的無限性として捉えるべきではないかと言うのが私の意見です。
700 :
考える名無しさん :2009/04/22(水) 10:09:59 0
性起(Ereignis) 出来事や事件が起こることを意味するとして、「自己の固有の」と 言う意味が含まれていると高田珠樹先生が説明されているが、 ここをハイデガー哲学の中でどう解釈するかだね。 確かに存在論には被投性が世界に投げ出された存在者を示している ので、これは、個人が自分の事実性を背負う事を意味するので 個人の経験であると言いうるが、存在に投げ込まれた者としては 存在自体が非規定である以上、個人的な経験とは言えない。 つまり、人間存在としての問題であるわけだ。 ハイデガーは至る所に、この規定性=個人性と非規定性=存在としての 非個人性と言う二面性をからめている訳で、回転ドアの様に、 「存在」「現存在」「性起」と言う術語が二つの意味を共に含む 蝶つがいの様になっている訳で、「性起」の意味にも、出来事・事件 と言う意味も含まれているので、アクシデンタルな未規定性と言う意味 と、「自己の」と言う主体性を前提にした意味もある訳だ。 ただし、「自己の」と言う形容詞をつけると、未規定な出来事が 自己に起こるという意味から、事件は個々人にバラバラな出来事として 起こると言う捉え方もできるね。
701 :
考える名無しさん :2009/04/22(水) 10:28:38 0
大雑把に言って、規定されないものは二つあり、人間存在と 出来事であり、この様な未規定性では人間存在の尊厳は失われる ので、歴史性=根源性や開け・明るみや覚悟性・企投性によって、 主体を見出そうとしていると言う事でしょう。 ハイデガーは二つの矛盾する事を表現しようとして苦労している だけではないかな。 ただし、ハイデガーの場合この様な無としての存在の在り方である 現存在は、いかに企投性としての主体になるのかと言う、主体論が 不十分で、覚悟性・決意性によって、自己を理解する事が あえて言えば主体の目覚めになると言う事なのかも知れないが、 その場合頽落は主体性のない人間存在の在り方なのかどうか? いずれにしても、ハイデガー以後の構造主義的な視点である、 主体論が全く見られない様である。
702 :
考える名無しさん :2009/04/22(水) 10:30:30 0
東はこう言う空無が一つしかないハイデガーの存在論を ポストモダン的に批判して、否定神学と言っている訳だね。
703 :
考える名無しさん :2009/04/22(水) 13:15:42 0
ニーチェとハイデガーを比較すると、むしろ、ハイデガーの方が 形而上学的だと考えざるを得ないと思うよね。
ニーチェのほうが形而上学的だよ。てかニーチェのほうが浅い。
705 :
ヘラクレイトス :2009/04/22(水) 20:31:45 0
確かにハイデガー有論というのを一種の自然哲学としてとらえる見方はあるかもしれない。全く ニーチェとの関わりがないとは言えないとは思うけども、ただ、ハイデガーからみると、ニーチェ の思想というのは余りに有るもの、もっと言えば世俗的価値に囚われて見えただろうとも思いま すね。近代の人間像としてハイデガーが挙げたものに、理性的な獣性というのがあるけども、それ はよく考えてみればニーチェのWille zur Machtのことじゃないかと思えてくる。ハイデガー の場合、有への敬虔さというのが、ニーチェ的な、権力指向を阻むことになっている。そこがハイ デガーが神学的ともされる要因でもあるでしょうが、ピュシスってものにハイデガーもまた惹き 付けられたと思うけども、あくまでも有ということと関連する上でのもので、ニーチェ的な、力の、 権力の、現象学という方向に行かなかった。そこからみれば、ニーチェの思想はやはり有の忘却 ということになるのだろうと思いますね。
706 :
ヘラクレイトス :2009/04/22(水) 21:49:07 0
ハイデガーの場合、前のレスにもかいた、現-有としての取り替え不可能性というのがあって、それ がニーチェ的な力や権力の浸透圧というか、同化に対して歯止めとなっている。ニーチェの力の思 想は、近代的な政治意識に容易く同化しうる弱点がある。近代的な意識と携行しうる哲学だろう。 ニーチェの自然にはそのように共同的な駆り立てに対する歯止めが欠けている。それが汎-権力の 意識をもたらしてしまう、近代の袋小路をも体現したといえば言い過ぎだろうか。木田がニーチェ とハイデガーを同一視したことへの疑問の一端がそれである。ニーチェにおいては意味だとか、解 釈だとか、は自己の力の、保存の、拡張の手段と化してしまう。しかも、有の単独性を根拠づける領 域はない。それが何を意味するのかといえば、自己などというのは邪魔以外のものではなく、ひた すら、力の拡張のために全てが駆り立てられてゆくということになる。それは現在の社会の内実で、 してみると、ニーチェの自然哲学と近代の駆り立ては同行しうるのだといわざるをえない。
707 :
考える名無しさん :2009/04/23(木) 08:57:48 0
でも、一般的に言って、ニーチェは西洋形而上学批判なわけで、 力への思考は脱構造な訳ですよね。 だから、単独性としての個人と言うフランスポスト構造主義から見れば 賛成でしょう?そう言う権力的なものの肯定をハイデガーも影響を受けて 歴史性から民族主義の肯定になる訳で、当時の時代背景を見据えれば 一般的には力への意思は受け入れられていたとも言えるでしょう。 バタイユだって戦争を否定していない言説もあるわけで、ドゥルーズ も「戦争機械」「ノマド」と言う術語はこう言う意味を含んでいる 気もする訳で。要は、去勢されたオィディプスへのアンチ(反)オィディプス 化が必要だった。そのアンチ(反)オィディプスが、暴力的なものの 肯定でもあったと言う事でしょう。
708 :
考える名無しさん :2009/04/23(木) 09:01:47 0
でも、一般的に言って、ニーチェは西洋形而上学批判なわけで、 力への思考は脱構造な訳ですよね。 だから、単独性としての個人と言うフランスポスト構造主義から見れば 賛成でしょう?そう言う権力的なものの肯定をハイデガーも影響を受けて 歴史性から民族主義の肯定になる訳で、当時の時代背景を見据えれば 一般的には力への意思は受け入れられていたとも言えるでしょう。 バタイユだって戦争を否定していない言説もあるわけで、ドゥルーズ も「戦争機械」「ノマド」と言う術語はこう言う意味を含んでいる 気もする訳で。要は、去勢されたオィディプスへのアンチ(反)オィディプス 化が必要だった。そのアンチ(反)オィディプスが、暴力的なものの 肯定でもあったと言う事でしょう。 今の時代から見れば力による抑圧は非常に悪い事ですが、1900年前半の 大戦時期は民族主義は肯定されていたとも言えるのでしょね。
709 :
考える名無しさん :2009/04/23(木) 09:15:06 0
それと、このような「力への意志」と言うのは、構造にバインドされた 去勢人間と言う、西洋現前主義の卑屈さを否定して、構造を崩壊させる と言う意味が込められている訳で、ベンヤミンも瓦解から収集そして 記憶と言うように、いったん既存の被投された世界を壊す必要があった 訳です。この破壊がタナトスと言ったり、リゾームと言ったりしている 訳で、そこには暴力の肯定のニュアンスが共通していると言う事でしょう。 現代の政治と暴力の関連については私はよく分かりませんね。 ただ政治が信頼出来ないものになっている気はしますね。 それは、政治と言う国家の枠を超えて、経済や関係性が広がっており 国単位の政策は効力がないと言う状況でなお、国家単位で政治を 進めるところに無理がある気がします。
710 :
考える名無しさん :2009/04/23(木) 09:28:22 0
確かにニーチェは単独性と言う事は強調していないが、 単独性=個体と言うレヴェルよりも、欲望=力と言う、より深層の 探究(動物的な欲望)に興味があったと言う事でしょう。 そう言う意味では、主体は去勢されたものと言う、以後のポスト 構造主義に引き継がれて行くテーマがある訳です。 逆にハイデガーの方が、集団的な志向が強いのではと言う気が 民族・歴史性について見てとれると私は思います。
711 :
考える名無しさん :2009/04/23(木) 09:34:46 0
勿論、ハイデガーにも、当時の思想の影響があり、 解体・破壊と言う意味の事も述べている訳でしょう。 以後デリダも脱構築があり、ドゥルーズに「差異と反復」 があるので、当時は解体が重要な哲学的なテーマであった とう事でしょう。
712 :
考える名無しさん :2009/04/23(木) 09:45:27 0
ハイデガーは消えたよ ドイツ国民さえハイデガーを疎ましく感じている現実 ドゥルーズも消えたよ 自ら命を絶った ただ日本でのニーチェ崇拝者の人達の言動は幸福な人達だと思う ドイツでニーチェの話題を出せば、それこそピリピリ雰囲気だよ どうせ判らないだろうね
>>712 ここではドイツ語じゃなくて日本語でニーチェを語るのだから
ドイツの内輪話は関係ない。
ニーチェは脳梅毒による、脳の活性化で執筆が以上に進んだだけでしょう。 1年くらいだっけか。 後は妹に看病されての寝たきり廃人。
>>714 歴史に残る著作が生まれたんだから
それでもいいやん
ニーチェとかハイデガーを自由に読める日本って素敵やん?
ハイデガーはまだしもニーチェのまともな研究って日本に あまり入ってきてないよ 多分ハイデガーよりも変な誤解されたまんまだと思う
718 :
考える名無しさん :2009/04/24(金) 00:53:18 0
>ドイツでニーチェの話題を出せば、それこそピリピリ雰囲気だよ アカデミーの世界のことか、世俗のことかわからんが、 ドイツの図書館でニーチェを検索してみたらどうだ。膨大な文献が出てくるぞ。 ザフランスキーのニーチェ本もよく売れている。 それに、日本にもまともな研究は入ってきているし、日本人研究者のレベルの悪くない。 レーヴィットだって、秋間だって優秀だ。 君たちはもう少し調べてからものを言ったらどうだ。
719 :
ヘラクレイトス :2009/04/24(金) 04:08:11 0
ニーチェの最後の根本境地というのが力への意志なわけですが、あらゆる真理は力への意志だと される、そこでプラトニズムが本当に止揚されたと言えるのか、という問いは残ると思えます。と いうのは、そこで力という概念が、新しい真なる概念として提示されている。真なる世界は寓話と なる、とはいっても、そこで新しい真理はやはり提示されていると言わなければならない。そこで かつての真理、善なる意味、利他的観念が力への意志に変換されるとしても、その場合、今度は力 という観念こそが真理だと見なされると思うわけです。そこで、力という概念、権力という概念は 、普遍妥当する価値として通用することになる。これは生物学的に変換された真理だと思わざる を得ない。言い換えれば、真なる世界と仮象の世界という図式は変わらず温存されたとも言える。 まさのそれはプラトニズムの延長だと言わなければならない。そこで力が価値として、自然哲学 から導出されて、普遍的な妥当として流通することになる。それは新しい神ではないかと思える わけです。ハイデガー的に謂えば、有の忘却もまた延長されてしまう。
720 :
考える名無しさん :2009/04/24(金) 07:21:14 0
721 :
考える名無しさん :2009/04/24(金) 19:44:25 0
ニーチェにしても、ハイデガーにしても、〈私〉の同一性にたいして、それからはみ出てしまう自然 を対置させた、というところまでは共通してると思える。どこが違うかといえば、ニーチェの場合 、即座に主体の解体へまで突き進む、にたいして、ハイデガーの場合、有という概念があって、それ は時間といってもよいが、そこでの時熟、有の時間化に真理の本質はあるとした。つまり、サルトル が唱えたような、自由と責任と選択を担う主体としての自己性は解体するが、にも拘らず、有は残 る、有を担う場としての現は残る、としている。ハイデガーの場合、本来性という概念が残る。本来 性の奪取という概念は残る。そこは大きな違いとしてある。ニーチェ流に言えば、本来性などは寓 話だということになる。しかし、そこを捨てなかったことが、むしろ、個体の生のリアルを示すこと になった。そこで逆にニーチェの場合に、個体の生について、恣意、放恣と同義になった。何故なら そこに歯止めになる箇所がニーチェにはないのだから。ハイデガーの場合、時間という概念に着 目したことが、ニーチェ的な、哲学の、自己権力への無限の奉仕、というところから遠ざけたと思 う。ハイデガーの場合、ニーチェが言うほど人間は動物的ではない、という意識があったと思う。 人間は自然とまじりあっているが、そこには独自の構造がある、と。
ハイデガーの思索を、特に『有と時』などを辿ると、個体の内部に占める倫理というものに視線を配 っていることがわかる。自己内倫理というべき位相が個体の内部には事実性としてあるわけです。 誰に諭されてというでもなしに、個体には、自己にたいする視線の中で、ハイデガー風に言うなら ば、本来的か否かを区別する視線が働いてしまう。誤解を受けやすいけども、こういった個体の位 相というのは、ハイデガーが造り上げたわけではない。造り上げたのではなしに、事実上既にある ものを俎上にのせただけなわけです。個体の内部では、ある存在が自己のものだと言えるのか否 かを判断させる力動がある。ハイデガーのいう本来性の議論とはそういった力動をたんに俎上に のせただけである。言い換えると、個体はそのように、有ることによって既に倫理的である。で、 その倫理は、何らかの知が与えるのではない。有に予め組み込まれている。そのような自己内倫 理に焦点を会わせた思想家としてはハイデガーが頂点じゃないかと思います。つまり、これは実は ニーチェの根本思惟へのアンチテーゼでもある。というのは、ニーチェにおいては、自体という 概念は、非常に厳しく斥けられている。本質もそうです。で、そういった概念はニーチェによれば、 いつでも関係によって変わってゆくものでしかない。ニーチェにおいては、力と力の作用の仕合が 先にあって、物自体という概念の基となっている。ニーチェにおいてはそれ自体としてある有はな く、いつでも他との関わりでのみ有る。ニーチェに影響された思想家がアンチ精神分析になること ともそれは関わっているでしょう。そこはだから、ニーチェが現代思想に与えたものを測る基準 にもなる。ニーチェに影響を受けた哲学におけるリアリティの質がそこで見切られるように思える わけです。
723 :
考える名無しさん :2009/04/25(土) 10:34:14 0
なかなか良い論議ですね。(721・722さん) それぞれの意図は矛盾なく表現されている。 ただ、ニーチェなのかハイデガーなのかがそれぞれの意見に影響を 与えていると言う事でしょね。 確かにハイデガーの現存在にはアプリオリに自己の意志による決定力として倫理が 備わっている。この辺を敷衍したのがフーコーのポスト構造主義からの 脱出口になっていて、関係性による脱主体を再度主体の方に振り戻そうと してる訳です。この場合この倫理は勿論ギリシャの思想にあるのですが、 はたして、構造主義からポスト構造主義者が言う主体化は原抑圧や 構造の布置によっているのではないかと言う問題点は払拭できていな とも言える気がします。 どうも、フーコーなんかを参照すれば、キリスト教がこの様な自己決定 する主体としての倫理を反故にしたと言っていますよね。 つまり、罪を告白して懺悔する事ですべてが許されると言う事は 逆説的には自分の行為は自分で決定し、自分がその結果に責任を負う と言う、ギリシャ的「倫理」が崩壊させられる地点が中世のキリスト教と言う事になる 訳で、だから、キリスト以前のギリシャへの憧憬がフーコーにもある と言う事でしょう。
724 :
考える名無しさん :2009/04/25(土) 11:01:32 0
それと、人間存在を自己同一性からはみ出したものとして捉える点では ハイデガーもニーチェも同じと言う721さんにも賛成ですね。 ただ、この地点をポスト構造主義者たちは、一般的には「捉えられないもの」 「不可解なもの」とか言っている訳です。 ハイデガーは「現存在の存在」あるいは「存在論的」であったりする とも言えるのかな?あるいはフロイト的な精神分析派では、大文字のA、 対象aであったりもする。または無意識・欲動(欲望)・本能のよう表現も それを指そうとしている訳です。 そこで、この様な言い表せないもの指示せないものを指し示そうとする 前述の術語を反故にしようとしたのが、デリダの後期のジャーゴンには ある訳で、また、より強力には多くのセリー毎による、言語分節を多様化する 運動としてのドゥルーズがいたわけです。 また、力が新たなプラトニズ的なイディーではないか と言う意見には、ニーチェの「力」は対象やイディーではなく 前述のような捉えられないものであり、それは、欲望=本能である と言う事でしょう。仮にこれを表現する時、それは、欲望に先を 越されている以上、この説明が既に欲望に裏打ちされ、支えられている のですから、語れないものなのです。 つまり、デリダで言う「コーラ」の様な、彼は「「形のないもの」に 初めて書きこまれる運動・・」と言った高橋哲哉先生が言っておられる 様なものです。痕跡と言っても良いでしょう。 これは神がいるとすれば神が人間存在に与えた痕跡欲望は、語れない と言う事でしょうね。語れば自己言及性の罠に落ちるだけでしょう。
725 :
考える名無しさん :2009/04/25(土) 11:20:06 0
関係性の哲学としては、ライプニッツのモナドロジーがある訳で だから、ドゥルーズなんかは、ライプニッツだったと言う事でしょう。 ただ、関係性か(構造主義か)主体の哲学か?と言うと問題点は 「われ思う故に我ありか」?「われ在る故に我思うか」?と言う 問題に繋がる気がするんです。デカルトは勿論前者で、私が 世界に対して先にあり、これは主体が真理を認識すると言う 意味を持っており、後者では存在しているから(被投されているから) 考えるんだと言う事で、これは真理を見出せる俯瞰する地点には 人間は永遠に到達できないと言う意味になる訳です。 前者が形而上学視点で、後者は相対主義・構造主義・ポスト構造主義 と言う事になると思うんですね。 そこで、ハイデガーですが、まず被投性を認めているので後者的 でありますが、逆に歴史性において、歴史による今を引き受ける 事で、前者的でもある訳です。この点が721さんの言うハイデガーの 「有の本質」やそれほど動物的ではないとしたところだと思うんですね。 いずれにしても、先のレスにも書いたとおり、ハイデガーはアンビバレント な二項を無理やり結びつけてロジックを展開している様ではないでしょうかね。
>>719 >今度は力
>という観念こそが真理だと見なされると思うわけです。そこで、力という概念、権力という概念は
>、普遍妥当する価値として通用することになる。
そのようには全くならない。「多種多様な真理があり、したがって真理はない。」これがニーチェの立場。遠近法主義。
だから、「世界は力への意志である」は普遍的真理などではなく、一つの解釈である。
しかし解釈といっても、その他の解釈、例えばキリスト教的世界解釈と同列に並ぶような解釈ではない。
もしそうならニーチェはキリスト教を批判することはできないはずだから。 それは、強者の解釈である。
>>721 >ハイデガーの場合、本来性という概念が残る。本来
>性の奪取という概念は残る。そこは大きな違いとしてある。ニーチェ流に言えば、本来性などは寓
>話だということになる。
ニーチェの思想において、ディオニュソスや超人は「本来性」を示していると思うが・・・・
>>722 何が言いたいのかさっぱり分からない。ニーチェになくてハイデガーにある「自己内倫理」とやらは、何のことを言っているんだろう・・・・
>>723 >どうも、フーコーなんかを参照すれば、キリスト教がこの様な自己決定
>する主体としての倫理を反故にしたと言っていますよね。
そのキリスト教的な善悪を批判して、各自の善悪を持つことを説いたのが、まさにニーチェであるわけだが・・・
>>724 >ニーチェの「力」は対象やイディーではなく
>前述のような捉えられないものであり、それは、欲望=本能である
例えばニーチェの「身体」という概念を見れば、そういう考えが誤りであることが分かる。
「身体」はいわゆる本能的、肉体的なものとは異なり、精神と肉体とを止揚する「大いなる理性」である。
727 :
考える名無しさん :2009/04/25(土) 13:31:21 0
いろいろな解釈ができると思うけど、 それより、 ニーチェにしろハイデガーにしろ、 そもそもそんな「思想」を勝手に「作る」ことにどんな意味があるの? こういう人たちって、偉そうに、いったい何をやっているつもりの?
哲学者
729 :
考える名無しさん :2009/04/25(土) 14:02:09 0
ていうか、「思想」って、そんなに勝手に(随意に)「作って」いいの? たとえば、「身体」はいわゆる本能的、肉体的なものとは異なり、精神と肉体とを止揚する「大いなる理性」である、 なんて主張することにどんな意味があるの? たとえば、僕が、「身体」はいわゆる本能的、肉体的なものであって、精神と肉体との対立を決して止揚しない「大いなる感性」なのだ、 と主張すると、僕も哲学を語ったことになるの? いろいろな解釈を読んでいると、むしろそのことが疑問に思えてくる。 いずれにしても、ニーチェも、ハイデガーも、ただ馬鹿みたい、というか、ぜんぜん無意味というか…
ニーチェもハイデガーも全然無意味、ていうのはいいね。ただ、ハイデガーに関して言えば、全く 生身の生存と遊離した架空な物語を綴ったわけでなく、むしろ生身な生存の、断固とした把握とそ の復権が主題だったはずで。例えばハイデガーは『ニーチェ』の中で、有とエロスの繋がりについて 語っている。エロスにおいて、人間がある脱-自に、つまり近代的な責任主体としての自己と別な 次元に移行する、と言ってるところがある。人間には何かに(又は誰かに)引寄せられながら忘我し 、その忘我によってより一層生の核に行き着くことを可能にする、充実しうる、という、考えだと 思います。ハイデガーがそんなことをかいていた、という事に改めて気付いて面白かったのですけ どね。やっぱりこの人の視線はいつでも生身な人間に向けられてたんだな、と再認識させられた。 そもそもハイデガーの主題は、我々の生の分析にあると思うが、何故それを、ということになると 、彼が生きた同時代、20世紀前半既に人間の生存というのが何かを無くしてしまった、ハイデガー 的には忘却でしょうが、致命的に落ち込んだと見えていて、そこからの這い上がりの試みのつもり だったと思いますね。彼は大学教育を始め、国家による教育制度や知の体系を目の敵のように断罪 し続けたわけですが、ハイデガーが講義や著作の端々に遺した教育批判というのは未だに古びてな い。現在形として読めるし、生き続けてるな。と。あと、忘我的陶酔、というのはけっこう現代思想 的テーマだと思うんだけど、バタイユが一杯の酒のもたらす至高なる瞬間について書いてます。彼 も思想のなかで忘我的陶酔を重要なモメントにした人だったと思う。何が言いたいかと言えば、 草剪剛の事件なわけで(笑)。草剪も、忘我の境地に行くことで、取り戻したい何かがあったんだろ うな、と。バタイユ的に謂えば、存在の全体性だと思う。
窓の外が騒がしいので開けてみると 向かいの家の窓の下 エアコンの上で 猫が蝙蝠(コウモリ) を食いちぎっていた 蝙蝠は盛んに体をばたつかせて もがき回っていた 羽根は大きく広げられ 自分を食っている猫より遥かにでかかった あくまでも逃げ延びようという希望を捨て切れずに 蝙蝠は羽根を広げていた その光景は私に 気味の悪さと悪寒を投げてきた その光景は惨たらし かったが 不思議と目を逸らさせない力に溢れていた 飢えた猫の食欲は物凄く 直に蝙蝠の体は 跡形もなく食われて消えた ズボンの中で 激しく私は勃起しており 蝙蝠の垂らした血の塊を見 ながら 私は自慰に耽り 射精した
733 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 10:46:36 0
たしかに、 政治思想のようなものなら、 構築して、それを世の中に「主張」するってことにも意味があるだろうけど、 この種の哲学思想のようなものを「作って」、それを世の中に向けて「主張する」って、 いったいどんな意味があるんだろうね? 解釈業者に仕事を与えてやることくらいの意義しか思いつかない。 絶対になんの影響力もないし。
734 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 11:27:32 0
ただ、批判ではありませんが、ハイデガーはアレントとの関係があった と言われているでしょう。その行為と彼の思想が繋がらないと言うところが 不満ですね。確かに秀才でしょうが、実生活と思想とが乖離している点が、 思想構築を公的な職業として見ている点が不満な訳です。 ドゥルーズも著名になった後に、フランスの大学で講義していた時に、学生から 貴方の哲学と、大学での確固たる地位には乖離があるのではないかと問われた と聞いたことがありますが、彼の逃走論リゾーム論ノマドと言った思考とは やはり乖離していると言わざるを得ないでしょうね。 最終的には、言っている事と行動が一致しない哲学者は、その哲学に どこか偽善的な面があるのではないかと疑う訳です。 そう言う意味では、ネグリは赤い旅団であった、犯罪組織 に属していたと言う事でしょうが、犯罪は犯罪ですのでOKではない と言う事ですね。(笑)
>>733 政治思想も哲学思想も同じ思想には変わりない。
ニーチェやハイデガーの思想が
世界的に政治的な影響を持ちつづけていることも知らないの?
736 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 11:50:55 0
哲学を作ると考えるのは間違いで、すぐれた芸術や新たな技術の開発と 同じように、時代を感じ、その時代の意味を見出し、紡ぐ行為が 哲学にもあるんですよ。分野を超えて時代は開かれて行く、 この過程の中に哲学もあると言う事でしょう。 個の崩壊は高度化する組織を反映し、だから、構造主義がこの 大きくなった構造によって作られた主体の恣意性を見出し、 また、構造から逃げ出そうとしたのが、ポスト構造主義であった。 言葉と対象が乖離したのが、フーコーの古典主義時代で、 ベラスケスのラスメニーナスに絶対視点の消失点を見出した 訳です。勝手に作っていると思うのは学習不足だからです。 次に「身体性」については、身体を理性と捉えるのも間違いで、 特に、身体性を強調したメルロ=ポンティはこの様な理性と身体(欲望) と言う二項的な認識を無効にするために「身体性」と言っている のです。鷲田清一先生は「身体は、コギトという対象意識の発動に 先行する実存の前人称的で一般的な動性「我能う」であるとしている ので、理性のみを示すのではないし、その後のところで「世界に 内属的な実存のあり方が身体性である」としています。 つまり、知覚主体としての身体との事です。 ハイデガーの世界内存在を身体的に捉え直していると言う事 とも説明しておられるようですよ。 ただ、このメルロ=ポンティの説明にある「身体性」を 敷衍して、主体性を無化したのがドゥルーズの器官なき身体性 としての、欲望=無意識的な身体なのだと言う事でしょうね。
737 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 11:57:00 0
735さん。 具体的にどのような影響を持ち続けているのかを書けば 733さんと意見交換できるのではないでしょうか。
738 :
Heraklit :2009/04/26(日) 18:22:31 0
まあ、736氏の言うような、“高度化する組織”によるのかは解らないけども、個体の、或いは人間 の解釈に関して、現代思想がどこまでリアリティに到達したかは、疑問の余地が残るところでしょ うね。ニーチェを例に挙げれば、全ては遠近法、恣意性、力の強度のための条件というところに落ち 込んでしまう。支配と被ー支配の関係にすべて還元されるという悪癖もある。で、それらが総体と して、近代の精神と携行しうるものとなっている。その事態というのは、ある意味明るいし、充実 感ももたらす。いわゆるブルジョア的な充実感ですね。そのような後ろ楯になってる。今、ニーチェ が持て囃される場合、そのよう現代の、後ろ楯化ということと無縁でないと思える。例えば今の ワーキング・プアの現実にたいして、容易く踏みにじる根拠になるような気がする訳です。切り捨 てられるのは弱者だ、無能者だ、劣性遺伝子だ、そのような遺伝子に、生物として生き残る値打ちな どあろうか。ある筈がない。死なせておけ。弱者への同情とは唾棄すべき心性である。となると、こ れは今の保守派の論理と同じになる。手の施しようがなくなる。そのような論理の後ろ楯になりう ると思います。あと、ニーチェの言説を敷延すると、心の病とか、ありえなくなる気がします。実際 、ニーチェに影響された哲学においては、精神病という範型、イデアル・タイプにしか精神病はな い。つまり実際にはそんな病はありえない、という話になる。全然リアルではない。
現代思想における閉塞というところに拘ると、やはりハイデガーでいう現ー有の解釈というのが、 うまく為されてこなかった、とところに目が行ってしまう。例えば、〈他〉との関係なしに、自体を 考えることは出来ない、というのがニーチェにあります。そうすると、至極恣意的な表象に、対象は せばめられてゆく。で、自己というものも、恣意的な力の左右する場、というところに落ち込んでゆ く。一切のアプリオリが考えられなくなる、というのはそれをもたらしてしまう。その時その時で 恣意的、というのは個体の有そのものなようで、しかし内実とは異なっている。無限な諸力が交差 するだけの場だというのは、違うと思います。それを言うなら、有限な表象が生成し熟慮される場 、というのが実相に叶っている。そこではニーチェは人間を機能的に考え過ぎた。その特徴を引き 継いだのがいわゆる現代思想だと思います。そこで個体をそのようにしたツケが、個体のリアルな 姿に迫る方法の喪失というところに出てきた。例えば、そのような考え方では人間は、単なる諸力 の交差し横断する場である以外に捉えられなくなる。対象自体も無いのだから、対象について熟慮 する必要などなくなる。それらは次元の低い混乱をもたらす以外なものではなくなる。
740 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 21:34:22 0
確かに、高度経済成長に伴って、あるいは、経済中心主義的な国家のあり方 や、価値観が重視された、前世紀から今日まで、世界中の先進国と呼ばれる 国々では、個人のセパレート化(分断化)が進んでいますよね。 先にも書きましたが、この現象は何もニーチェだけの思想によって齎された ものではなく、世界全体の構造の布置がその様に進んで行ったと言う事でしょうね。 また、下部構造である経済的な関係だけが主導的に個への配慮を失わせた 訳でもなく、それ以外の上部構造と言われる文化的な価値の部分も、 構造に影響を与えた訳で、相互的な関係によって、個は無視されて行った と言う事でしょう。ただし、このような高度に構造化した組織が、必ず 個への配慮を無視する方向へ進めたと言うのも間違っている気もします。 例えば、世界には多くの福祉国家もあり、社会で適応できない人たちを 手厚く保護している国もある訳です。 日本にあっては、一般に言われるように、某政権下で、競争原理が 強力に導入され、福祉関係への配慮が失われて行ったと言われていますよね。
741 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 21:53:56 0
例えば、哲学が、時代をロジカルに見えるように説明するものだとすれば、 ニーチェをはじめ、構造主義からポスト構造主義に亘る言説は、既存の 無意識的な構造の発見とその破壊による、個の消滅です。 個は構造に支配されて創られたものであり、これを一回破壊したいと言う 欲望が動かしものです。よって、個はいったん組織から離れ、欲望の 肯定に向かったと言う事です。しかし、それでは、ただの混乱と抗争 だけに終始します。そこで、やはり、緩やかな組織が必要になると言う事です。 これは、個は個であり、帰属組織(国家など)が十全な福祉を与えると言う 組織ではなく、競争原理の中で営まれる、いわゆる、貴方の批判する 排他的な組織なのかも知れません。そこで、この様な、ポスト構造主義的解体 から、身を守る組織はどう言う物かを模索しているのが、柄谷ではアソシエーション であり、私は専門ではありませんが、バタイユやナンシーの多頭・無頭(アセファル) 共同体構想がありますね。 確かに、ポスト構造主義的視点には仰るような問題点を含んでいると言うのも 事実でしょうね。ただ、この様な個の抹消・無視と言うスタイルも 構造全体の諸力の布置によって、出来上がっていると言う事でしょうね。 この点を乗り越える言説を模索する必要もありますね。 ただし、構造が価値体系でもある以上、安易な構造肯定は、マイノリティ への抑圧へとなりうるのです。ですから、柄谷のアソシエーションは 柔軟でやわらかな共同体となっていると言う事です。
742 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 22:55:16 0
>ニーチェやハイデガーの思想が >世界的に政治的な影響を持ちつづけていることも知らないの? 持ち続けていない。 そして、かつて持ったとすれば、それは誤解によるものにすぎない。
743 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 23:06:24 0
アナログ 地デジ ,,..‐-- ..,, . ,,..‐-- ..,, ,,-''" "'‐、 ,,-''" "'‐、 ./ ,,. .ノ''ノ "''ノ"''ノ,,.. ヽ ./ ,,. .ノ''ノ "''ノ"''ノ,,.. ヽ / ノ ノヽ / ノ ノヽ ,' ) ノ、 . ,' ) ノ、 |. iiillllllii iilllllliii ヽノ . |. iiillllllii iilllllliii ヽノ | -=・=- ヽ / -=・=- | |^i .. | -=・=- ヽ / -=・=- | |^i |  ̄ l  ̄ ` |ノ / |  ̄ l  ̄ ` |ノ / \ l し' . \ l し' |∴\ ∨ 、/ . ) .. |∴\ ∨ 、/ . ) | ∴ i ´ー===- i ∴ | . | ∴ i ´ー===- i ∴ | <フルチン・ハイデッガー \∴!  ̄ !∴/ . \∴!  ̄ !∴/  ̄ ̄\_/ ̄ ̄  ̄ ̄\_/ ̄ ̄ / \ . / \ ( | | ) . ( | | ) \| э |/ \| э |/ (. .□■□ ,ノ . (. ∩ ,ノ \ ■□■ ノ \ 、(,._.,)ノ ノ \/ / \/ / / /\ / /\ ⊂⌒__)__) . ⊂⌒__)__)
744 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 23:34:41 0
キモイ話が続いているなあ。 ハイデガー読んだだけで携帯の話もニートの話も国際政治の話も 地球の未来の話も一緒くたにできるって考えるイタイバカども、 間違っても哲学科に進むんじゃないぞ。おまえらがいるから、 哲学は勘違いされるんだ。ああキモい。キモい。 上のレスみてみろ、中学生の思弁だ。俺は哲学科の講師でもあるが、 卒論で上のような文章を書くバカには、間違いなく死ねっていうね。
745 :
考える名無しさん :2009/04/27(月) 00:02:16 0
,,;;フ;リ;カ;ケ;フ;リ;カ;ケ;; ハゲ ノノ ノノノノ カミ ノノ) 从 ( i从iiillllllii ,iilllllliii.从ハ) ノノ从 -=・=- ヽ / -=・=- 从}> 从从.  ̄ l  ̄ 从从) (从从l. \ , ∨ 、 / l从从) ノ从| i .ー===-' i l从ノ 一足先にゴールデン! 人ヘ !  ̄ ! /人 /人  ̄\___/ ̄.人)ヽ / ィ , ̄ ヽ , )` `ヽ / ノ^ ー '` ー 'ヽ ゙i ノ ,,,ノ Y´゙ ) ( < | ⌒ ! / ヽ_ \ ノ_/ ヽ、__ ヽ.ー ,,,@,,, ノ ソ、 〈J .〉 ヾ、.::;;;;;;::.ノ |ヽ-´ /"" ;ミシミッ | レ イミ.ニ⊃ リ ,ゝ ,ノ `ー−' ヽ ノ / ` レリ i´ リ i / `、 i 〉 イ 〉 | / ::| (_ヽ \、 (。mnノ `ヽ、_nm
とある日曜日 東京近郊にある某名の知れたレジャーランドに家族と出掛けた 久しぶりの家族 団欒の一時を私は楽しんだ 5月の暖かな陽射しが辺りに降り注いで絶好の行楽日和だった 昼食 はランド内のレストランにした 食事の後 妻と子供がトイレに立ち寄り 私はベンチに腰掛けて 待っていた 連休中のランドは人でごった返している 行き交う人波の中 私の視界に一瞬奇妙な 物体が掠めたような気がした それはこの場に似つかわしくない何かだった 私は目を凝らした 猫の生首が そこに転がっていた 虚しく見開いたその瞳は ただ空を見据えていた そんなもの があるとは露とも思わないで 人々は楽し気にざわつきながら歩いていた その幸せな人波と 猫 の生首が 不思議なコントラストを醸し出していた ゾッとするほどの悪意と孤独 そんな誰かが ここに紛れ込んでいること それだけが私に分かることだった 一体誰が と私は訝った 楽し 気に歩き回る人々 だがこの人混みの中にその誰かは紛れ込んでいるのだ 殺傷によってしか 自 分を取り戻せなくなった 奇妙な存在が
747 :
考える名無しさん :2009/04/27(月) 16:10:57 0
ハイデガー読み終わったからこんどヒトラーよんでるけどむずい。 だれか読み聴かせしてくれないか。
748 :
考える名無しさん :2009/04/27(月) 19:54:54 0
ハイデガー・フォーラム 第四回大会
・プログラム
日時:2009年9月20日(日)、21日(月・祝)
場所:京都工芸繊維大学
初日 9月20日(日)
10:30-11:50 発表1:西山達也「アジールとしての翻訳――ヘルダーリン「ピンダロス断片」とハイデガー」
12:00-13:00 昼食
13:00-14:20 発表2:関口浩「詩作に対して思惟とはなんであるのか?」
14:30-15:50 発表3:仲正昌樹「哲学にとっての母語の問題――ハイデガーのヘリダリン解釈をめぐる政治哲学的考察」
16:00-17:20 発表4:高橋輝暁「ヘルダーリンにおける詩と哲学あるいは詩作と思索」
17:45- 懇親会
二日目 9月21日(月・祝)
10:00-11:20 発表1:茂牧人「存在と神を結ぶもの――ハイデガーの無底の神学」
11:30-12:50 発表2:長町裕司「〈形而上学に入り来った神〉もしくは〈形而上学から退去する神〉?――ハイデガーの「存在の思惟」とエックハルトの根本テーゼ「存在は神である」」
13:00-14:00 昼食
14:00-14:30 総会
14:30-15:50 発表3:大貫隆「認識から体験へ――グノーシス主義の変容?」
16:00-17:20 発表4:片柳榮一「終わりなき終わりの此方と彼方――有限性をめぐる人間と神に関する一考察」
http://www.shujitsu.ac.jp/shigaku/hf/forum.htm
改行の癖が同じ人って自演と気付かれてないと思ってるのかな? 読みにくいからかほとんどスルーされ延々一人で自問自答してて 笑えるんだが
750 :
Heraklit :2009/04/29(水) 02:04:57 0
今年もハイデガー・フォーラムが開催されるという告知書いてますね。今年で4回目でしたっけ。 ハイデガーの面白いところは哲学史家というところと、ひどく今的な事象ともクロスするような 妙な創造力を掻き立てる、二つの側面があるところだと思うんだけども。『哲学への寄与』とか、読 んでると今の謎めいた事件が浮かび上がってきて非常に面白い。所謂動機不明瞭な殺傷が90年代 以降に目につくような時代に入るわけですが、そういった現象、それと人間への素材化、用在化と いうのが無関係ではないと分かってくるところがあります。たとえば地下鉄サリン事件にしろ、 あれは1995年ですけども、オウムのような瞑想系の原始仏教と、無差別殺人とを結ぶ線ですね。 そのような線についても、朧気だけども、暗示されてるように思えるんですね。そのあたりを宮台 真司なども敏感に察知して、例えば『intervies』所収の談話「〈援交〉から〈天皇〉へ」で、少年によ る凶悪犯罪への背反する心性を吐露する。 《(世界からダークサイド消し去られ、均一化した空間が広がるにつれ、むしろダークサイドはよ り鬱積してゆく悪循環に入るのではないかという危惧とともに)しかし私の心の中には、それと 平行して、別の思いがありました。その思いをどうしても記しておきたかったのですが、表だって 書くと不謹慎だと思ったので、ホンマタカシ写真集『東京近郊』のパンフレットに、その思いをひっ そりとかかせてもらいました。内容を言うと、ダークサイドが消滅した均質空間で、子供らが心の 中に驚天動地のダークサイドを抱えて生きるのは、クールなのではないかというものです。》(31 6頁) 2000年以降の宮台は、彼の言う〈世界の根源的未規定性〉に開かれる、という在り方をとりわけ重 要視するようになる。そのような立場から、動機不明瞭性にたいする立場を1990年代に比べ変化 させた。ここに至って、人間の内部に底無し性があることを排除するのでなく、ポジティブに捉え ることを狙い始めた。そのような宮台の転向とも、ハイデガーは無関係でないと思える訳です。
751 :
考える名無しさん :2009/04/29(水) 02:21:02 0
>ひどく今的な事象ともクロスするような妙な創造力を掻き立てる 日本語やり直せ >哲学への寄与』とか、読んでると今の謎めいた事件が浮かび上がってきて非常に面白い 妄想乙 >所謂動機不明瞭な殺傷が90年代以降に目につくような時代に入るわけですが だれの受け売りだ?資料を示せ >人間への素材化、用在化 日本語やり直せ >オウムのような瞑想系の原始仏教 仏教徒の前で言ってみろ 哲学者の第一次的な資質とは、受け売りはしないということだ。 分かったら学校行け
オウムの麻原の説法というのを振り返ると、ハイデガーとの共通項があることに気付かされる。 二人とも、人間の存在を考える場合に、経歴という概念を重要視している。言い換えれば歴史性で ある。麻原の場合、解脱というのが主要な課題になるわけだが、その場合に、彼の手法として主張 されるのは、データの抹消ということである。精神の深部を司る領域(麻原はアストラル界、コー ザル界と言っている)に書き込まれたデータを解析し、それにより書き換えが可能となる、として いる。このようなデータの書き換えは、業Karmanの消滅という課題を指している。それによって、 その人の存在を決定しているデータをふるい落すという意味があるようだ。そのようにして解 析して書き換え続けることで初めて人は業Karmanから解脱できるということである。それをやら ずして業を離脱しうることはオウムではあり得ない。是非は別として、そのような教義なわけであ る。ここまで書いてみて、オウムの教義というのが、同時代に頻繁に開かれ、社会問題化した自己 改造セミナーと親近性を持っていたことがわかる。それで、『有と時』で説かれている人間観もまた 、人間存在を、本質的には一個の経歴として、みることができるという思想によって貫かれている、 そこは麻原とハイデガーの共通の地盤である。ただ、ハイデガーの場合、麻原と違うのは、業Karman の抹消というところには行かず、本来性という概念を措定するに際して、かつてあり得た、かつ意識 されずに伝承されてきた現-有の可能性、というところに措定している。従って重要なのはそのあ くまで表明的でなく伝承されている可能性をどこかで探り当てて、その可能性が反復できるのか 否かにある。それがハイデガーの場合に本来性へのアプローチとなるわけだ。麻原の場合には、解 脱という課題だあり、現世というのは執着をはなれるべき対象でしかない。私がみるかぎり、有論 としてはハイデガーと時性を重要視している共通性はある。麻原の教義というのは、どこかで虫が いい話なように思える。しかし、教義だけをとれば、一般的に言われるほどに無謀な教義ではなく 、これはこれで完結した教義とも思える。そこに麻原のようなグルに支配されてしまう可能性は教義のなかにす でにあるにせよ。
オウムの教義、麻原の教義といってもよいかと思いますが、それのもっていた意味というのを今 振り返ると、気が付くとことがあって。オウムの教義というのはよく知られているように、解脱思 想なわけで、要するに、ハイデガーでいう現-有の有、というと、まさに経歴そのもの、もっといえ ば歴史性そのものだといえる。それの現が人間の生なわけで、してみると、麻原の教義というのは 現-有の経歴=歴史の超脱が主題だったことが分かる。何故なら、経歴の解析と書き換えが主題な のだから。で、オウムのいう解脱というのは、やっぱり徹底的なものだったと分かる。まさしく、 オウムの教義においては、ハイデガーのような実存思想でいう実存を、まったき雲散霧消させて しまうことが最終的な地点としてある。ハイデガー的な現有の歴史性とかは雲散霧消するのは確 実だと思います。言い換えれば、その人がその人である由縁は雲散霧消する。解脱というのはそう いうことである。そのところだけ取り出せば、オウムというのは現代思想的でもある。何故かとい えば、オウムの解脱思想においては最終的な場所は、主体は主体であって主体でない、経験として 訪れる全ては超脱されてゆく。経験の痕跡もない。これは現代思想的だと思います。ただ、そこで グルの絶対性だけが左右する、そこが駄目だと思いますが。で、オウムのそのような教義が若者を 中心として捉えた、その背景というのを考えてみると、個体の生育史、てところに行く。解脱に向 かう動機にそれがあるのじゃないか。自分の生育史を越えなきゃどうにもならない、というのは メンタルヘルス系の人と被る。或いは何らかの理由で社会に適応しにくくなってる、そのような 場所にたいしてオウムの教義が対応したのではないか。少なくとも信者にはそうみえた。オウム的 な解脱志向の背景にそれがあったと思う。いわば、生育史の書き換えですね。そこがハイデガー的 な本来性よりか今的なところである。
私とか、『有と時』で描かれてる本来性の取り出し方に影響もされて、これのおかげで自分の人生の 大きな、指針にもなってるような感じがある。経歴の中に、非-表明的な形で<善きもの>というの は既にあるのだ、という捉え方で、創文社版『有と時』の目次だと第74節 歴史性の根本体制 に詳 しく書かれている。ハイデガーのそのような本来性の取り出し方の方が、麻原による、まあ仮にそ こにも麻原なりの本来性が解脱としてあるとして、それよりもその人の歴史性というものを重要 視しているのは間違いない。ハイデガーの場合、本来性としての<善きもの>は歴史性にしかない。 つまり、人がなぜその人たりうるのか、という根拠を、ハイデガーはそこにおいてると思う。そこ を外せば、もはやその人とは言えない。だから外せない、という意味がある。有というのは根拠の 本質とされているけども、根拠の本質として外せない位相である。ハイデガーの思想はそう見て ゆくと、どこかで歴史性という場所に踏み留まる、有に踏み留まる思想であるといえる。そこへ 行くと、麻原の思想というのは、個体が個体である根拠など不要、ということになる。歴史性を最 終的に超脱する、という発想は、個体性など別にどうでもいい、という思想だと思うのです。最終 解脱が目標なわけだから当然といえば当然だけども、そうなっている。そこが厭世の哲学でもある と思う。個体性はオウムの場合、世界の一部ではあるけども、より重要なことがある。解脱して様 々な世界を往き来することのほうが大事である。それが涅槃なのだから。そう見ていくと逆に、ハ イデガー思想というのが、宗教じみてると言われながらも、あくまで此岸的な実存を主題にし続け たということが明確になる。その違いがあると思う。
755 :
Heraklit :2009/05/03(日) 20:42:27 0
木田元が爆笑問題に話したことのなかに、ニーチェやハイデガーが企てたのは人間における根元 的自然の復権だったのじゃないか、というのがあった。木田の言い方だとおそらく誤解を受けや すいと思うんだが、あそこで自然というふうに名付けたことというのは、対象的な自然ではおそら くない。対象性として捉えられることを拒むもの、と言い換えた方がむしろしっくりくるような 何かであろう。で、そこで自然というふうに木田が提出した問いというのは、内なる自然であって 、「内なる」がまずいとすれば、<生としての>と言い換えてもよいものだろう。<生=自然>という 範型で考えられるものである。木田がそのように取り出す思想の根幹には、人間が、自然を抱え込 む存在で、しかもハイデガーの場合、歴史性として孕む存在である、というのが特徴である。精神 のなかに様々に覆蔵され、待機しているような存在とも言える。『哲学への寄与』にしてもそうで、 有・というのは待機し、しかし突然に指し向ける。指し向けることで、人間の側で侵犯への力動が 高まり、極限的には、一般的に言われる犯罪の領域へ到達する。あの時に太田光が色んな応答を示 すわけですけど、そこで一点越えられないでいたのは、人間の存続が前提なわけで、知的生命体と しての人間の側からしか語ることはない。たとえ太田が自身における訳の解らない魑魅魍魎につ いて自覚するとしてもそうである。そこだけは哲学研究者としての木田が徹底しており、太田ほど の人間中心的思考は免れていたと思える。脱-人間中心主義として、オウムの教義はどうなのだ、と なると。麻原が次第に壊れていって、廃人化するところは中々良いとも思えるが、その前に彼は神 聖法王だったかになる計画を立てていた、というのはいかにもという感じがして全く戴けない。
自然の復権というと、例えば環境保護運動とかとこれまた誤解されそうですが、木田などがいう自 然の復権と、環境保護運動でいう自然がどう違うのか、後者での自然というのはどこまでも対象的 な自然である。それを指して滅ぼしてはいけない、とかやってる。自然の復権という場合には自然 は対象性から漏れてしまう、それをいう。面白いのは、自然保護運動を謳うイベントが例えば桜井 和寿らにより開かれるわけで、ようするにそのようなイベントをみると、善なる目標へむけての 駆り立て以外のものではない。作品はそこでは善なる目的へむけての素材と化してしまう。そこで 支配的なイデオロギーがあるとすれば、人間が有るものを集め立てて有意義に加工する、人間中心 主義に、骨の髄までも浸されたイデオロギーだというしかない。有るものとは、有用性に他ならない 。有用的に立てられるものである。内側から食い破ってしまうような自然は不吉なものとして忌み 嫌われる。つまり、自然環境保護を謳うあのイベントの内実は、有るものの有用性への還元であり、 有るものの素材化であり集め立てである。そこで、自然をどこに見い出すか、というのが重要な分 岐点となる。桜井たちのいる場所というのは、対象性と有用性からけっして逸脱しない自然概念 に思える。
あなたの書き込み面白いけど、出来れば改行なり、スペースを とって下さい。眼が痛くなりそう。 ピュシスの方の自然という意味ですね。まあ、言いたいこと分かります。 概ね同意。ただ、ニーチェという人、過剰評価され過ぎていると思います。 ニーチェの影響がなければ、現代思想って、もっと違う方向に行ってたの では?なんて感覚もあります。それで、みんなもっと幸福な生涯を 送ってたりして。結構、悲惨な末期を迎えた人、多いでしょう? ニーチェに影響を受けた思想家って。
つまり、ピュシスのベタな解放って、危険であるということ。 昔のヒッピー文化みたいなのに、そういう印象があるんだけどね。 だって、人間の心なんて全部綺麗な訳ではないのに、 ピュシスの解放がいいなんて話になれば、暴力、性的奔放、放逸、 人格乖離、あるいは自我肥大化(小児化)と、あまりいいことではない と思われます。自分にナチュラルであるのと、他人の迷惑さえも考えず 出鱈目に振る舞うことは、違うのでは?といつも思っています。 どこかの公園での芸能人も、今時のピュシスな人なのでしょう。 あと、ブログ的な赤裸々な内面の開示、というのにも同じ意味で 少し疑問を持っています。私的領域(プライヴァシー)を大切に しない人は、パブリックなことにも鈍感な人のような気がするのは、 私の気のせいなのでしょうか? やっぱり、大人の文化(精神的に成熟していて、お互いが自立している ような人同士の被依存的な共存関係)の方がいいな。哲学している人達に、 精神的な未熟さを感じることが多い。私よりもずっと年上の人達にも、 それを感じることが何故か多いのです。自己中心的というか。 お願いだから、みんなゴミ出しの曜日を守って!カラスやネコが 散らかして、道路がゴミだらけになることが分かっている筈なのに、 そんな簡単なことさえ守れない人が少なくない。倫理を語るのは まだ早いのかも知れない。最低限のモラルからスタートしないと。
759 :
考える名無しさん :2009/05/03(日) 23:32:52 0
ドゥルーズ 自ら命を絶っちまったよ 以後のニーチェを継承する人が現れない いることはいる だが独国でニーチェの話題を出すと、いつもピリピリした雰囲気になる ほんと息苦しかったわ だけど俺自身、ニーチェが好きんだな なぜでしょうか?
アナ黒 チンデジ ,,..‐-- ..,, . ,,..‐-- ..,, ,,-''" "'‐、 ,,-''" "'‐、 ./ ,,. .ノ''ノ "''ノ"''ノ,,.. ヽ ./ ,,. .ノ''ノ "''ノ"''ノ,,.. ヽ / ノ ノヽ / ノ ノヽ ,' ) ノ、 . ,' ) ノ、 |. iiillllllii iilllllliii ヽノ . |. iiillllllii iilllllliii ヽノ | -=・=- ヽ / -=・=- | |^i .. | -=・=- ヽ / -=・=- | |^i |  ̄ l  ̄ ` |ノ / |  ̄ l  ̄ ` |ノ / \ l し' . \ l し' |∴\ ∨ 、/ . ) .. |∴\ ∨ 、/ . ) | ∴ i ´ー===- i ∴ | . | ∴ i ´ー===- i ∴ | \∴!  ̄ !∴/ . \∴!  ̄ !∴/  ̄ ̄\_/ ̄ ̄  ̄ ̄\_/ ̄ ̄ / \ . / \ ( | / | ) . ( | | ) \| × / |/ \| э |/ . ./ ノ . (. ∩ ,ノ ( * ノ \ 、(,._.,)ノ ノ \/ / \/ / / /\ / /\ ⊂⌒__)__) . ⊂⌒__)__)
761 :
山椒太夫 :2009/05/13(水) 14:30:15 0
762 :
山椒太夫 :2009/05/13(水) 14:31:06 0
763 :
山椒太夫 :2009/05/13(水) 14:32:19 0
764 :
山椒太夫 :2009/05/13(水) 14:33:15 0
765 :
考える名無しさん :2009/05/13(水) 14:34:19 0
岩波文庫発刊に際して
766 :
考える名無しさん :2009/05/19(火) 16:14:01 0
『世界内存在の解釈学 ハイデガー「心の哲学」と「言語哲学」』荒畑靖宏 現代の英米哲学とハイデガーを接続。『存在と時間』の不整合を指摘しつつ、 後期思想につながる精髄をえぐり出す。ハイデガーの概念は、いま何を明らかにするのか。
767 :
考える名無しさん :2009/05/19(火) 16:30:02 0
ハイデガーは認識論や言語哲学を軽蔑していただろう 分析哲学にハイデガーを取り入れるのは無理があると思う
768 :
考える名無しさん :2009/05/19(火) 16:37:15 0
757・758さん ピュシスの意味が違ってませんか? ピュシス・カオス・ノモス?
769 :
考える名無しさん :2009/05/19(火) 19:52:48 0
ハイデガーは2ちゃんやねらーを軽蔑していただろう おまえらがハイデガーを語るのは無理があると思う
770 :
考える名無しさん :2009/05/25(月) 15:09:09 0
>>766 あれ、荒畑さんってフッサール研究やめてたんだ。
771 :
考える名無しさん :2009/05/26(火) 11:56:11 0
>>744 書いている奴が誰だかわかるような気がするんだがな...
773 :
阿部一族 :2009/06/06(土) 14:21:39 0
774 :
阿部一族 :2009/06/06(土) 14:22:20 0
775 :
阿部一族 :2009/06/06(土) 14:23:00 0
776 :
阿部一族 :2009/06/06(土) 14:23:43 0
777 :
考える名無しさん :2009/06/06(土) 14:24:56 0
巴里は燃えているか
778 :
考える名無しさん :2009/06/14(日) 08:20:12 O
所詮はハイルヒトラー!と叫んでたおっさん
当時のドイツの成人男性でハイルヒトラーと口にしたことない人のほうが少ないわけで
これから読もうと思ってるんだけど 「存在と時間」ではど誰の訳がおすすめですか?
>>780 原佑・渡邊二郎訳 中公クラシックス T・U・V
図書館で借りた、渡辺二郎氏訳の存在と時間、一語一句三度は読まないと、まるで理解できない。 文の前後が、全くつながらん‥ 昭和46年発行の本とはいえ、こんな調子では読破する自信が‥
読みやすさだけを重視するなら、勁草書房のが一番読みやすい
一度読んだらそれで分かるってもんじゃないんだし 辻村訳なんて原文横に置かなきゃ解読不能だぞ だけども原文読むなら最高のガイドになるんだよね
785 :
考える名無しさん :2009/07/05(日) 21:25:41 0
>>778 >>540 あなたは、ヘーゲルの記号論でのル-プレザンタシオン〔再-現前化〕における「不在の直観」というものを、
「記号の恣意性」と関連して、あなたの言う「止揚されえないような〈否定的なもの〉」の議論に重ねているように思われます。
一方で、ハイデッガーが、sich zeigenのある種の迂回としてのerscheinenのsich zeigenを議論する場合、
そこにはいつでも〈無〉の〈開け〉としての〈世界性〉の問題が控えていたと思われるのですが、
あなたは、もっぱら、ループレザンタシオンにおける「不在」(迂回)性そのものの周辺にとどまりつつ議論を曖昧にしているように私には思われます。
仮に、ヘーゲル批判に際してのハイデッガーの〈世界性〉こそが、形而上学的残滓に属するとしてもです 。
ル-プレザンタシオンにおける「不在性」の問題と、ヘーゲルの〈否定性〉
そしてまたハイデッガーの〈世界性〉-〈無〉との連関、あるいは断絶について、お答えください。
786 :
考える名無しさん :2009/07/06(月) 22:14:17 0
<有る>の強力に絶えず目配せし続けたのがハイデガーだと思うし、カントやその亜流みたいに自 然と自由の対立、とか、綺麗に区分けできかねるものが人間にはある。つまり、分かっていてもやっ てしまう、てところが人間にはある。例えば、恋人に裏切られれば、駄目だと分かってても、でも、 刺し殺さないではいられなかった、てところがあります。そのような、どうしようもなさが人間には ある。また、そのような部分を見ない有論とか、どのみちたいしたことないと思いますね。ハイデガ ーはそのような、<有る>の強力を、または重力といってもいいと思うが、それを視界に入れていた と思う。ハイデガーの有論を読む場合、人間における生々しさを横目でみながら、というのが良い 読み方だと思います。カントのような、自然と自由、という区分けを考えるならサルトルの方が 似合ってます。ハイデガーの場合、視界に入っていたのは軽やかになれない人間だと思う。自分が 誰にも相手にされない、女にももてない、コンプレックスの塊となり、最後に暴発した秋葉原の犯 人とか、何でこうなるのか、理解に苦しむ人間ているでしょう。ハイデガーはああゆう人を視界に 入れてたと思いますね。
787 :
考える名無しさん :2009/07/07(火) 13:14:36 0
あと、ハイデガーの場合、有論を展開する際にいつも出発点となるのは、現ー有すなわち<現にー 有る>であって、彼の有論があるとすれば、まさにその<現にー有る>の思索以外のものではない。 有をたしかに論じはしたけども、それもやはり<現にー有る>との関わりなので、有だけを突出さ せてハイデガー的問題圏としないほうがよいでしょう。<現にー有る>の重さが主題だと思います。 その重さとして、むしろ有を、また経歴を、時を、爼上に上げたのだ、という見方をとりますね。ま た、ハイデガーを読む場合、<現ー有>のもつウェイトを感じ取れない人が論じても、空転すると 思います。
現ー有はパルメニデスだろう。
789 :
考える名無しさん :2009/08/02(日) 19:11:38 0
ハイデガー信者はもちろん自民党支持ですよね? 民主党の掲げてるアメリカとの自由貿易協定には反対ですよね?
790 :
シ :2009/08/02(日) 22:56:19 O
道
791 :
考える名無しさん :2009/08/02(日) 23:00:30 0
亜米利加正義 中国悪
792 :
青年 :2009/08/10(月) 11:49:52 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
793 :
青年 :2009/08/10(月) 11:50:57 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
794 :
青年 :2009/08/10(月) 11:51:59 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
795 :
青年 :2009/08/10(月) 11:52:58 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
796 :
考える名無しさん :2009/08/10(月) 11:54:16 0
知と愛について
このコピペって元ネタあるの?
アメリカ南部の作家フォークナーの「医師マーティ―ノー」の マーティノー医師のモデルが マルティン・ハイデガーだ、というのはハイデガー読みの目から見て どうなんでしょう?
799 :
考える名無しさん :2009/08/21(金) 11:11:22 0
ユダヤの手下、センミン朝鮮人の 「哲学に近づく奴は 下ネタでもみ消せ」作戦乙津
ユダヤ人は非常に多くの発明発見をしている
>798 特に関係ないと思うんだが、その説をとなえているのは誰?
>>801 すいません、「日本フォークナー学会」の年報に載っていたの見たのですが、
手元になくてどなたが書かれたのかはわからなくて。
フォークナーの「駒さばき」やカミュによって戯曲化された作品の主人公が、
一次大戦後にドイツの、ハイデガーが何度か講演に出かけていた南部ドイツの大学の
哲学科出身という設定なのですか、そこからの類推だったと思います。
サルトルがハイデガーを引用しつつ、
時間の捉え方においてフォークナーを批判していましたが、
そうした批評をフォークナーがどう意識していたか?といった切り口からの
指摘でした
技術への問い マルティンハイデッガー=著 関口浩=訳 平凡社ライブラリー 未刊 四六判 272頁 2009.09 ISBN978-4-582-70228-6 1953年の講演「技術への問い」を中心に1940〜60年代のハイデッガー の技術論を集めて編集した初めてのハイデッガー技術論集。現代科学文明 への最もラディカルな批判である。
>>803 ライブラリー版ではなく単行本で出る模様。
Ge-stell の話か。
>>803 これまで糞訳しかなかったから、この新訳は嬉しいね。
807 :
考える名無しさん :2009/09/09(水) 00:44:38 0
808 :
考える名無しさん :2009/09/09(水) 01:05:18 O
ハイデカーなんかあんだけ「死」について深くいって最後まで答えでねーんだからな
809 :
考える名無しさん :2009/09/09(水) 01:08:07 0
存在と時間の註解本に“科学などはある存在者のある種のあり方である”って書いてあったんですけど そこからわかりません。みんなで作った科学の体系が“ある存在者”1人のあり方なんでしょうか あぁ〜,,
810 :
考える名無しさん :2009/09/09(水) 01:34:06 0
この場合、存在者は特定の人間ではなく、あるもの、といった一般的名称を 指すのでは?
ありがとうございます。まだぼんやりしてるのでそれをかんがえつつもう少し 読んでみようとおもいます
812 :
考える名無しさん :2009/09/10(木) 01:22:29 0
ハイデガーの講演に。「有るものとは何か?ー哲学とは」というのがある。哲学は代々、有るものとは 何か、と問うてきた。そこで有るものを差し向け、有らしめる、有という地平は哲学の始まりから 忘却のなかにあった。科学もまた代々、有るものについて分析をしてきた。しかし、有の地平という のは顧みられるこはなかった。つまり、科学の歴史というのは、特有な有の理解に基づいている。そ こには、哲学の歴史が有の忘却であるのと同格な有の理解がある。つまり、科学もまた、有るもの とは何か、と問うが、その問いを成り立たせる地平がどういうことか、そこは問い直されにくい。 科学もまた特有な有の理解によっている。問題は有の理解である、科学というのは、ある種の有の 理解である、というのが、「科学というのは存在者のある種の在り方」の意味ではないでしょうか。
見事な教科書解説。でも内実ゼロだねw
815 :
一刀両断 :2009/09/11(金) 17:10:57 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
816 :
一刀両断 :2009/09/11(金) 17:12:37 0
『存在と時間』の既刊部分の性格により、永く実存哲学の祖とされてきたマルティン・ハイデガー。 1980年代、日本では木田元により、『存在と時間』が未完成品であり、未発表の後半部分にこそあの著作の真のモチーフがある、とする説が我々の目を開かせた。 木田の仕事に引き続き、、日本で刊行開始されたハイデガー全集。これにより、生前の著作、講義、草稿は次々に刊行。巻数も増え、ハイデガーの全貌を掴むための素材は今や整いつつある。 ナチとの関わり、多くの20世紀思想家たちが蒙ったその影響力、謎めいた思索(企投における被投性という転回、聴従的帰属性…)、現代日本の知識人宮台真司、福田和也、等々への影響もある。 今、ハイデガーについて何を語り得るか。
817 :
考える名無しさん :2009/09/11(金) 17:13:33 0
僕は天才だ
こちらで宮台へのハイデガーの影響知って、 宮台読み始めたんだけど、なるほど近作にはハイデガーの 影響感じられますね。 「哲学への寄与」から物凄く俗流に諸々の表象作品の分析に廻っているようで、 とくに宮台の分析自体に戦慄は感じないんですが、 ハイデガーの「応用」としては面白い部類に入るな、と。
819 :
考える名無しさん :2009/09/12(土) 11:24:52 0
寄与論考に取り掛かろうとしてるけどむつかしいね。 彼の論理の組み立て方はアリステレスに似てる気がするから、 詰まったらその読み方を思い出してる。 ところでガダマーは「彼の真価は300年は理解されない」と 言及してたらしいが、彼が秘匿せよと命じた寄与論考には、 公にすることを憚られる様な重大極まりない内容が 隠されてると思うのね。 恐らくはナチSAに関わった理由もこの一点に尽きると思う訳。 自身を「一キリスト教神学者に過ぎない」、 と定義したハイデッガーなのだから、聖書解釈についてかも知れないし、 まあ、単に思想としての一貫性がブレていた時期に当り、 隠したかったのか、それはまだ判らないけれど。 ところで自分は宮台を読んだ事がないんだけども、 彼はどういった使い方をしているの? ラカンを絡めた、ありがちな現存在分析? よかったら教えて。
別に憚られる内容があるから公にしなかったんじゃないだろ
821 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/09/14(月) 21:55:19 0
とうとうか・・・ 技術への問い (単行本) M ハイデッガー (著) 単行本 出版社: 平凡社 (2009/9/16) ISBN-10: 4582702287 ISBN-13: 978-4582702286 発売日: 2009/9/16
822 :
みや川 :2009/09/14(月) 22:02:17 0
やくざ
823 :
みや川 :2009/09/14(月) 22:03:54 0
立ち向かう前九年合戦
立ち向かう勇気に変われたのはおかえりがあったから
825 :
考える名無しさん :2009/09/14(月) 22:09:44 0
島本あきやまそいねみか
826 :
し :2009/09/14(月) 22:09:54 O
宮川大輔
827 :
考える名無しさん :2009/09/15(火) 20:09:05 O
花子
828 :
sage :2009/09/16(水) 00:14:20 0
スレ主です、先日、木田元先生に、池袋ジュンク堂で開かれた トークイベントの最後に、質疑応答することができました。以下にその質疑応答全文を書いてみ ます。質問が舌足らずで分かりにくいと思いますので大意をあげると、日本の1990年代以降 の動機不明瞭な殺傷事件と『哲学への寄与』の諸概念は無関係ではないのではないか、というもの です。では書いてみます。 私: (前略)じゃあ、あの、ひとつだけ。今日の、あの、お二人の話とずれるかどうか、分からないん ですけども。えーと、もしかしたらちょっと生々しい話も入ってくるんですけども。最近、あ のー、この数年前にハイデガーの草稿『哲学への寄与』というのが初めて日本で翻訳刊行された と思うんです。で、その…(木田が聴こえなそうなので、前に出ることにする。移動して木田の 斜め正面に座る)ハイデガーの草稿『哲学への寄与』がここ数年前に日本で翻訳刊行されたと 思うんですけども、その内容について、非常に考えさせられることがあったんです。何が考え させられたかというと、非常に“今”的な、2000年前後から今までの日本の社会現象みたいな ものが、彷彿と湧き上がってくるところがあったんです。何でかというと、拒絶というターム がある。それから、あの、底無しの深淵というタームがある。窮迫-防衛、存在の窮迫に対する 正当防衛、それ(窮迫)にたいする拒絶、というタームがある。ありますね。窮迫のなかで、窮迫 -防衛として拒絶。有に立ち去られていることへの跳躍においてのみの神現(拒絶)、拒絶という ターム、底無しの深淵というターム、色んなのがあるんですけども、ここでその、何を連想したか かというと、日本の90年代以降の…。(続く)
829 :
考える名無しさん :2009/09/16(水) 00:33:08 0
(続き)ハイデガーが何を言ってるかといいますと、有るもの、存在するものへの拒絶として、 拮抗として、有 Seyn が、差し向けられる。有 Seyn というのは今まで自分(ハイデガー)が 言ってた有 Sein ではなくって、驚愕を強いるものである。比較を絶したものである。とい うような歴史が差し向けるのである、というようなことを言ってるわけです。何を差し向ける んだろう。拒絶とか、底無しの深淵(を差し向ける)。そういう風になってくると、2000年以降 の日本の、動機の分からない殺傷事件が色々あったと思うんです。そこで出てくる否定性、 拒絶、訳の分からないもの、そういうものがイメージとして湧き上がってきてしまった んですね、自分のなかで。たとえば、1995年の地下鉄サリン事件というのがありましたけども 、あれはまあ無差別殺人、マスコミでは麻原という狂人がいて…。 木田:ちょっと、話が長過ぎるんで(笑) 私:すみません(笑)で、あの、先生からみた『哲学への寄与』のなかの拒絶とか、有の裂け開けに ついて、どのように今考えておられるのかを聞いてみたいんです。…どのようなイメージ でもいいんです。
木田も気の毒だなw 何言ってるかわかんねぇよ。
831 :
考える名無しさん :2009/09/16(水) 00:35:53 0
(続き)ハイデガーが何を言ってるかといいますと、有るもの、存在するものへの拒絶として、 拮抗として、有 Seyn が、差し向けられる。有 Seyn というのは今まで自分(ハイデガー)が 言ってた有 Sein ではなくって、驚愕を強いるものである。比較を絶したものである。とい うような歴史が差し向けるのである、というようなことを言ってるわけです。何を差し向ける んだろう。拒絶とか、底無しの深淵(を差し向ける)。そういう風になってくると、2000年以降 の日本の、動機の分からない殺傷事件が色々あったと思うんです。そこで出てくる否定性、 拒絶、訳の分からないもの、そういうものがイメージとして湧き上がってきてしまった んですね、自分のなかで。たとえば、1995年の地下鉄サリン事件というのがありましたけども 、あれはまあ無差別殺人、マスコミでは麻原という狂人がいて…。 木田:ちょっと、話が長過ぎるんで(笑) 私:すみません(笑)で、あの、先生からみた『哲学への寄与』のなかの拒絶とか、有の裂け開けに ついて、どのように今考えておられるのかを聞いてみたいんです。…どのようなイメージ でもいいんです。
質問者がキチガイすぎて戦慄
833 :
考える名無しさん :2009/09/16(水) 01:01:04 0
木田:うん。まあ、あの、ハイデガーはとにかく、あれですよね。あの、これまでの文化形成みたいな ものが、多分どっかでアレするだろう、あの、限界になって、終わっちゃうだろう、というイメージ をもって書いていたに違いない、と思うんですけどもね。だから、それが、あの、まあ、今の日本とか、 時代がそういう時代に差し掛かってきた、ていう、いずれにしても、割に不思議じゃないような。 私:存在の忘却の忘却という状況が今だと思うんですけども。まさにハイデガーの言うと降りの 状況になってきた(語尾不明瞭のため不明)。 木田:ように読める、ということはあるような気はしますけどね。 私:どうもありがとうございます。 これですべてです。私のごとき無名の読者に率直に意見をのべていただき、感銘を受けました。『哲 学への寄与』をめぐる貴重な感想だったと思います。皆さんの読書の参考になれば幸いです。
834 :
考える名無しさん :2009/09/16(水) 20:28:06 0
皆さんの読書の参考になれば幸いです。 皆さんの読書の参考になれば幸いです。 皆さんの読書の参考になれば幸いです。
>>819 宮台のハイデガー読み、ちょうど831さんが描いているような、
倫理や政治的規範を評定基準にする前に
「驚愕を強いてくるようなものに身を明け渡せ」という感じですね。
しかしちょっとその「驚愕」させるものの分析が理に落ち過ぎていて、
ハイデガーの著作のような、ハイデガーを読むこと自体が
戦慄となってくる体験は宮台からはこないですね。
そのあたりはまだ福田和也のハイデガー応用「日本の家郷」のほうが
頑張ってると思う。
福田も便利屋にならないで、また「日本の家郷」的な仕事してほしいんだが。
「存在と時間」は興味深いはずですよ 彼が京都学派とどのように相互作用していたのか、京都学派と旧海軍の関係など(ry
相互作用といえるほどハイデガーは三木とか九鬼から影響受けてないでしょ
838 :
考える名無しさん :2009/09/21(月) 11:52:59 0
『放下』という講演、今度の平凡社からの技術論集にも収められると思うけども、最近初めてまとも に読んでみて、やっぱりいいですね。時代が我々に強いてくる難問、技術を拒否すべきか、受容す べきか、に技術は技術として、ふさわしい仕方でのみ受け入れる。それが傲慢に、有の開けを塞い でくるその限り、拒否する、という考え方。我々のすべてに立ち向かって来る難問に一定の、暫定 的ではあれ、技術は技術として置き放つ、すなわち<放下>という形で答えている。それはやはり 貴重な示唆だと思いました。技術にむけての、今尚通用する姿勢だと。平凡社版を読んだ方の感想 もみたいですね。
「放下」の原語って Gelassenheit でしょ。 lassen することの姿勢だから要するに、放置プレイってことでしょ。 技術を放置プレイしたところで、そんなものになんの意味もないでしょ。 たんなる現状放置ってだけで。馬鹿みたい。
>>839 SMのりでいえば、技術を正しく「調教」しつくして
技術が無事故と成る世界の不気味さを
ハイデガーは伝えようとしているんだよ。
ハイデガーの技術論、ユンガーの「総動員」「労働者」への返答でもあるんで
「労働者」あたり楽に文庫で読めるようなってほしいね。
ユンガーの「線を超えて」とそれについてのハイデガーの返答「有への問いへ」
一冊にまとめて再販してくれたらありがたいんだが。
なによりGelassenheitといえばエックハルトやベーメからの流れでしょ 字義通り表面的にしか言葉追えないと日本語でしか読んでないのと変わらんよ
>>841 ハイデガー自身は、ドイツ神秘主義の流れで自分の思想が理解されることを
絶対拒否するだろうけどね。
843 :
中上 :2009/09/23(水) 14:33:03 0
鳳仙花
844 :
中上 :2009/09/23(水) 14:33:46 0
鳳仙花
845 :
考える名無しさん :2009/09/23(水) 14:34:38 0
新人Xへ
846 :
考える名無しさん :2009/09/23(水) 23:31:13 0
>835 ありがとう。 存在論的な倫理の文脈で援用してる訳ですね。 「開け」に至る強度を帯びよと。 ハイデッガーにはあまりに多くの顔があるから、 どの辺りから引用しているのか知りたかったんだ。 妙な媚を含んだソフィスティケートをせずに 社会学に彼を持ち込むのは確かに難しいんだろうね。 定式化に務めた哲学者ではない。 自家薬篭中にしたくとも手を焼いている学者もいるかも知れない。 ラカン・アルチュセール・デリダ なんかも神学に良く通じているけれども、 ハイデッガーより使い勝手が良さそうだ。 時代背景が手伝って、終末論的な予感から 人々が藁にもすがる状況でもなければ、 彼の晦渋かつ見通しの利かない哲学は、 訴求力を持ち難いかも知れない
原文読んでないのに訳がひどいかどうかを断言できるもんなんかね。 実際、原文のドイツ語もかなりひどい(というか癖のある)ドイツ語なんだから、 それをひどい日本語で訳したからといって、「訳がひどい」と責めるのは酷だろう
849 :
考える名無しさん :2009/09/24(木) 05:39:04 0
Ge-stell を「集立」と訳すのは、創文社の全集など多くの訳書で 採用されている一般的なもので、この本の訳者の独創と言うことでは ない。ほぼ定訳といっていいのでは。 それを「ひどい」というのはむちゃでしょ。 > 英訳ではGe-stellはenframingと訳されており、自然を一定の枠組の中で理解し、利用することだ。 enframing では、Ge-Stell の「立てる」の意味が読み取れない。 bestellen, Vor-stellen, her-stellen といったさまざまな「立てる」こと との関連が見えてこない訳語じゃだめだと思う。 よく分かってない奴がへんに意訳した、そういう分かりやすい訳書に だまされるより、わかりにくくても正確な訳の方がまし。 もちろん、Ge-Stell は「自然を一定の枠組の中で理解し、利用すること」 なんかじゃないぞ。英訳にだまされるな。
>>846 「時代背景が手伝って、終末論的な予感から・・・」
笠井潔を中心とした限界文学研究会あたりが、
カール・シュミットの「例外状況」を参照して
現代日本を「例外社会」として
ハイデガー、シュミット、ユンガー的な「決断主義」傾向の表出を見ていく
サブカル批評始めてきているね。
宇野常寛の自己流の「(根拠ある)決断主義」規定ではなく、
一応、「跳躍」であるような根拠なき「決断主義」に基づこうとしている。
851 :
考える名無しさん :2009/09/24(木) 08:56:01 O
>>849 その感覚、すごくよく分かる
英訳で読んでも駄目なんだよなぁ、ハイデガーは
ドイツ語の特性を最大限に搾取・利用して書かれてある思想だから。
結局、ドイツ語ができないと、ハイデガー哲学は理解できないってことだよなあ・・・
852 :
秋 ◆qsnbXzDRzo :2009/09/24(木) 20:13:40 0
853 :
秋 ◆qsnbXzDRzo :2009/09/24(木) 20:14:31 0
854 :
考える名無しさん :2009/09/24(木) 20:15:46 0
俺は天才だ
855 :
考える名無しさん :2009/09/25(金) 09:22:37 0
>850
調べてみました。懇談が掲載されています。
ttp://www.cinra.net/interview/2009/08/26/000000.php 90年代より続く個人的・ミクロな「セカイ」から
システムに起因するマクロな「セカイ」への移行が見られる、
といった指摘があります
「セカイ」系には不案内でしたが、
何だムージルの事じゃないか。とも思っています。
「特性」以前の諸作は、
個人的な極めて微細な思索に
現出した裂け目を通して
実存の領域が不意に反転してしまう
形而上的な領野に放擲されてしまう
そうしてヒューマニティの領域から追いやられてゆく。
極小の<場>が極大の<場>へと反転する。
主体を外部へといざなう通路/媒介として実在する。
これは恐らく「差異と反復」(ハイデッガーとキルケゴール=有と時)
においてドゥルーズが目指した<外部>と「それなりに近い」。
彼は形而上学を忌避していたけども。
(とりわけハイデッガー・バタイユ・ヘーゲル・カントを)
856 :
考える名無しさん :2009/09/25(金) 09:24:10 0
(続き) ちなみに 「特性」以前→→→以後 といった移行には <形而上学>→→→<政治・工学・数学> といった感があり、 宮台の説く所の <真理の言葉→→→機能の言葉> といった整理の仕方とも対応するだろうか。 ムージルの講演・エッセイなどは ユンガー辺りとも呼応してはいるね。
>>855 ムージル、「若きテルレスの惑い」の映画化されたものを
見たっきりで。エッセイあたり読んでみたいですね。
セカイ系には、ホストモダン以降の「大きな物語は終わった」認識の中で
かなり強引に「大きな物語を引き直そう」とする欲動感じさせられるものありますね。
そうした欲動が、根拠付け欠いたまま行動に踏み切る「決断」と近似なもの
呼び込む契機になってるのか、という感触在ります。
851さんが「ドイツ語でないとハイデガーは理解できないってことなのか」も
気になるところなんですが、
日本語で存在論をやろうとしたらどのようなものになるんでしょうね?
以前、中沢新一が、ハイデガーについても言及しつつ
日本語の「『もの』がたり、『もの』のけ、『もの』忌み、『もの』のあわれ、『もの』凄い・・・」
等々から日本における「もの」概念を抽出して
日本語から存在論を思考するということやっていたんですが、
中沢新一はなんかいつものことかもしれませんが、
粗い素描だけで終わらせてしまいますね。
858 :
し :2009/09/26(土) 09:01:41 O
小さいフランス人がおれを呼んでるわけだが。いまの日本人ではファンダジーとおとなは難しいらしい
859 :
考える名無しさん :2009/09/26(土) 09:07:44 O
ロンドンの街を舞台にした映画マイケルボルトン監督「光の街」をみてるとヨーロッパの連中が街でどうやって過ごしてるかわかる。
マイケル・ウィンターボトム監督の「ひかりのまち」じゃなくて? マイケル・ボルトンってミュージシャンじゃね?w
宮台とか中沢とか言ってる人そろそろいい加減にして欲しいんだけどw
すまんね。ハイデガーへの関心とともに、 ハイデガーが日本でどう受容されてるかへの関心もあって。
日本でのハイデガー人気は異常じゃね?研究者何人いるんだって感じ。 50年以上前から存在とは何か〜ってずっと同じ念仏唱えてるわけだが、 哲学以外の領域に出て行ったことがあるのかな?
日本にこんだけ、研究者いるのに、彼の遺志を継いで、 存在の意味を解明しようとしてる研究者いないの?
もちろんいる。誰とは言わないが。
出たw 誰とは言わないがw 知らないくせにw知らないくせにw
木田さんはもう仕事する気ないでしょ 後は重複した内容の本を延々と出し続けるだけ
木田とかハイデガーについてまともな研究論文の一つも書いてないでしょ ハイデガーとの出会いについて似たような内容をダラダラ書いてるだけで 新たに原稿料せしめる商売でここ10年やってる感じ
「存在と時間が読みたくてトンペーになった」って話ばかり書く人でしょ。 何回同じ内容の自分語りの本を出せば気が済むのかと・・・。
三島由紀夫のハイデガー主義者が主役格で出てくる「絹と明察」が (三島も含めた)ハイデガーの日本における俗流の読みがどう生まれてくるのか?の 塑像めいたもの提出されてるようで面白かったな。
>「絹と明察」 作中で紹介される「むかし聖戦哲学研究所の所員であった哲学者」が書いた「ハイデガーと恍惚」(文庫p65)なる 論文には実在のモデルはあるのでしょうか?
恍惚ってエクスターゼ(脱自態)のことだろ? だったらそのテの論文自体はあるんじゃないの
ハイデガーの読みしちゃどっちもどっちなんだろうが、 実際に行われてる「性起」とかの禅宗に引き付けた読み及び翻訳より、 フィクションの「聖戦研究所の所員であった哲学者」のやってるという 神道に引き付けた読みのほうが ハイデガーの「郷土」「不気味なもの」を日本的に翻訳しうるかもな。
ニーチェとの絡みで陶酔(Rausch)を恍惚と置き換えてるのかもしれんね
木田さん、はよう根本問題を出してくださいよ〜。
他人の訳は叩いておいて自分の訳となると怖くて出せないんだろな 同じ話書き散らしてるだけで生活できるんなら何もしたくなくなるよ
いや、木田の翻訳は信頼できる。 メルロ=ポンティとかのフランス語の翻訳もたくさんしてるし、 シェリング論の翻訳などもみるかぎり、日本語の訳文は読みやすいしっかり したものだし、そこらの並のハイデガー学者では到底太刀打ちできない 語学力と文章力がある。確かに同じ話を書き散らしてるのは感心しないが それを補ってあまりあるだけの学問的な貢献をしているよ、木田は。
していた、というのが正確なところだろう
>>879 くだらん突っ込みをするなよ。
今でも木田の日本語の訳業は貴重な学問的貢献として通用している。
ハイデガーに関する書き物だって入門書的なものがほとんどだが、
最初はお世話になったというハイデガー学者も少なからずいるだろう。
木田の文章は、原典の知識に基づいた信用しうるものだし、
(例えば竹田せいじなんかとは全然レベルが違う)これは、
これで立派な仕事だし、今でも広く読まれている。
そうだね木田元の比較相手は竹田青嗣が適当 そういう界隈の人間だよ
それは木田先生に失礼
京都学派の根強さを今の若者は知らないから、対抗軸の木田元の重要性もわからないのはしょうがない。
木田ふぜいが対抗軸てw 細谷世代でそんなものとっくに解消されてるよ
今も残っているハイデガーの独自な奇妙な訳語は大部分京都学派のものだよ。 海外では京都学派が今も根強い。
886 :
追記 :2009/10/04(日) 16:13:05 0
木田元が小林秀雄を召還するのは理由があるということだ、、、
今の若者が知らない学派が果たして根強いと言えるのかな。 もう死に体でしょう
訳語という形で影響が残ってるから根強いんだろ
京都学派の好んだ「有」が「存在」に代わったのは木田の功績なん?
むしろ細谷貞雄でしょ。 『存在と時間』の細谷訳が、ちくまの文庫版で出て以来、 一番読まれている日本語訳になっているのが大きいと思う。
細谷って性格悪いんだっけ?
Sein und Zeit読むときでもTranszendentalの訳語って結構 重要になってくるんだけど細谷訳じゃちょっと問題がある やっぱ超越論的って訳語を作った九鬼は偉いね 細谷訳ってなまじスラスラ読めてしまうだけに細かな所の 訳し分けが結構ぞんざいだし 原書横に置いて辻村訳を読むのがなんだかんだで今でも 勉強になること多いよ
>>892 >原書横に置いて辻村訳を読む
細谷訳をおいておけば、次に来るのは、辻村訳より、原・渡邉訳だろ。
京都学派キメエ
京都学派キモイ、主に訳語がキモイ
寄与の訳語やばい
あの糞訳がハイデガー研究を50年遅らせてる
あと何十年研究すればにっぽんにそんざいが到来するのですか?
全集の翻訳方針ってそんな酷いかな? Beitrageも読んでて別に違和感なかったけど
899 :
考える名無しさん :2009/10/06(火) 15:58:24 0
全集の編集、翻訳、について、特にいうことはない。有か存在か、という訳語の問題も、私は異和 感はなかった口なので。木田さんの不満(全集の翻訳は難しい)が浸透してるようだが、木田の書い たハイデガー入門書でさえ、当人はかなり噛み砕いたつもりだろうが、分かりにくい、少なくとも あれでハイデガーを初めて知ろうという人間にとって難解極まる、理解しにくいことに変わりは ない。ハイデガーの思想を即座に理解するのは元々困難なのであり、とにかく根気強く、ハイデガー 本人の文章(私の場合はドイツ語はできないので翻訳)にあたる以外に王道などない。そう書くと 苦行のようだが、ハイデガーにたいする探求心さえ維持できれば楽しい時間以外ではない。暴論 承知で言わせてもらえば、全集の翻訳が悪いから理解できない、というのは違うと思う。辻村の 『有と時』全集版は以前の辻村訳河出書房世界の大思想のときと比べ幾らか変更が為されており 。苦心のあとがみえる。
ドイツ語できないのにどうして「翻訳が悪いわけじゃない」って確信を持てるんだろうか、この人は
901 :
考える名無しさん :2009/10/06(火) 17:58:21 0
ホントだね(笑)まあ、基本概念については原語と翻訳を対照はできる。それから、各翻訳 は一応手元にあるので、各翻訳を比較することはできる。しかしそれよりも、辻村の河出版 『有と時』があれを読んだ最初で、特に異和感なく読めた、ところどころ不明な点はあったに せよね。その経験が大きい。あとは原・渡辺訳も読んだがこれも「ひどいから理解できない 」と嘆くようなことはなかった。分かりやすかったといっていい。私の読んだ日本版『Sein und Zeit』にかんするかぎり、読者の無理解の責任を負わせられる悪訳はないと断言でき る。つまりあとは読者のイマジネーションとセンスだよ。ただ、ハイデガーというのは大学 の研究者でも勘違いしたまま論じてる人がいるので、ーたとえばサルトルだって勘違いした まま『存在と無』でハイデガーを論じていたというのは有名な話ー無理解や勘違いが常態化 してるような人だからね。柄谷行人のように、ハイデガーの本来性を共同存在だと堂々と 公言していた奇特な人もいる。しかもその発言が収められた本『中上健次と坂口安吾』が文 学賞を受賞までする“快挙”を成し遂げている。結局ああいった選考をする人間にさえハイ デガーは理解されていないということだ。
俺は最初木田元のハイデガー本を読んだとき意味不明だった そのあとちくまの存在と時間を読んだら ああ!これが木田元があそこで言ってたことか! と腑に落ちた 存在と時間の後木田元の本に戻ったら こんなにわかりやすく解説してるのかとあらためて感激 それ以来木田さんの信者に でも今の木田さんは好きじゃない もう新刊が出ても書いてある内容読まないでわかるわw
存在と時間の英語訳の悪戦苦闘ぶりを聞くと、邦訳は頑張っているように思う けど結局は原書で読むことが一番の近道なのは確か 特にハイデガーなんてそうかもしれない
ハイデガーと認知科学という書籍も出ていますな
別の意味でも京都学派
ハイデガー自身のギリシャ古典の翻訳が相当に強引だ、というのを ガダマーが語っていたが、そのあたりは実際どうなんだろう? 理解しやすくするために主語と述語をドイツ語の文法の順列に置き換えると もうギリシャ古典本来から遠ざかるとハイデガーは捉えていたみたいだが、 そのさらに日本語の翻訳は、そういうニュアンス伝えているんだろうか。
正 すべての偉大なものはいかがわしい ↓ 誤 すべての偉大なものは嵐の中に立つ
「形而上学入門」での「アンチゴネー」のコロス分析で ヘルダーリン訳からもさらに変えて「無気味なもの」(不-故郷)持ち出してきたのは 流石だと思うんですが。詩人として。
アーレント書簡の詩がきもい。
恋する中年親父だから
青年期の変なエッセイ風の文章は浪花節だったり
912 :
考える名無しさん :2009/10/12(月) 13:23:15 0
平凡社から出た技術論、何故か講演「放下」は収録しなかったようです。あれは非常に重要な概念 で、戦後のハイデガーの立場を代表する講演なだけに外さない方がよかったと思います。つまると ころ、あの立場の上に、我々は必然的に行かざるを得ない。だから勿論話はハイデガー一人に限った 話ではなくなる。それくらいの射程をもっている。とはいえ、ハイデガー技術論にスポットが当たっ たこと自体は良かったと思います。
岩波の、必死こいて読んでるんだが、方向間違ってるのか…
ですます調の訳でカワイイじゃん
>>916 このスレ見ると、評価すらされていない訳のようなんで…
典型的な糞訳ですな。 買った人はご愁傷様。
どの訳がいいですか?
表紙の悪人顔見ただけで買う気が失せる
>>919 細谷訳か、原・渡邉訳。さんざん既出。ちょっとは過去ログを読みなさい。
ちくま>中公>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>岩波
松尾訳こそ至高。驚きのわかりやすさ。
>>923 松尾訳のアマゾン評
あんまり読みたいとは思わんな・・・
5つ星のうち 3.0 ルビにまつわるエトセトラ, 2004/10/17
By プリンス・プリンス - レビューをすべて見る
20世紀最大の哲学書と謳われる『存在と時間』。我が朝でも多くの訳が出ている。
この松尾啓吉訳は、かなり「個性的」なものといえる。特にルビである。
例えば「存在」には「ある」とルビが振られている。この調子で、「了解」には
「わかり」、「可解性」には「わかりやすさ」、「存在者」には「あるもの」、
「概念」には「つかみ」、「近接様式」には「ちかづきかた」、「存在様態」には
「・・・である」といった具合にルビが振られている。他に長いものだと「平均的
存在了解性」が「つきなみなのあるのわかり」とあるが、いかがであろうか。
確かにわかりやすいといえばわかりやすいが、誤読を導く可能性も多分にある。そ
れが気にかかる。またこのようなお節介なルビは、読んでいていらつくことがある
(例えば長原豊氏の翻訳文など)。ただ『存在と時間』のような難解な書物の場合、
取っ掛かりで躓かないことが肝要であるから、このような訳があってもいいと思う。
大きな問題がもう一つある。上巻しか出ていないのである。下巻が出ていないので
ある。どういう事情があるのだろうか。
原・渡辺はまだしも細谷のは訳がユルくて勉強のガイドにならんね 長谷川宏のヘーゲル訳をさらにグダグダにしたようなもんだし
>>925 >細谷のは訳がユルくて勉強のガイドにならんね
>長谷川宏のヘーゲル訳をさらにグダグダ
原文対照しながら読んだが、そこまでひどくない。
逆に原・渡辺訳だと堅くてわかりづらいなって箇所で
細谷訳だと合点がいくってところも結構ある。
まあ意訳しすぎのところもあることは認めるけど。
>924 大きな問題がもう一つある。上巻しか出ていないのである。 1966年に出てるよ。 すでに絶版だろうから、単に古書として流通してないだけだと思うよ。
929 :
考える名無しさん :2009/10/14(水) 01:24:35 0
岩波書店はあの「存在と時間」を絶版にすべきだと思う。初訳としての役割は十分すぎるほど果したな。 中公の渡辺二郎訳も創文社の辻村訳も、もはや時代遅れだと思う。 木田、細谷も含めて、あの人たちはみな旧時代の研究者なんだ。 20年代の全集各巻を熟読している世代の研究者が新訳を出すべきだ。
岩波版読んで、ヘコんでる者ですが、どういう風にダメなんでしょうか? 真っ黒に書き込んだ序論に、まだ未練が…
訳が不正確
お別れせねばならぬか…
いなみに「純粋理性批判」も岩波は地雷な
踏むところでした… 安いし、よく出回ってるし。
カント全集って高いね
全集の有福訳『純理』もどうなのよって感じだが
>>901 「坂口安吾と中上健二」気になって読んでみたが
本当に柄谷「本来性は共同存在」と書いているね。
しかも安吾の「堕落論」の文脈に「本来性」がひきつけられる形で読まれて
査定されるという検証のない粗雑な論理展開で呆れた。
118:2008/12/19(金) 19:14:06 [sage]
柄谷行人はハイデガーの存在論を「ハイデガーが究極的に見出すのは、自己言及的な形式体系、あるいは自己差
異的な差異体系である」としてある程度評価しています(定本第2集p.133)。
ちなみに、存在=メタレベル、存在者=オブジェクトレベルという柄谷の解釈を東浩紀は受け継いで図解
(『存在論的、郵便的』より)↓しています。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200804/28/41/a0024841_4162993.jpg ただし、実際にハイデガー自身が書いた図はそれとは違っています。
http:// pds.exblog.jp/pds/1/200710/14/41/a0024841_15442757.jpg
(上記は、「ハイデッガーが講堂の黒板に描いた図形、現存在の図示としておそらく唯一の物と思われる図形」、
ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房1991年,p3) より。
参考サイト:www.archi.kyoto-u.ac.jp
上記サイトはハイデガーの原図を解説しているが、矢印の解釈が少し違う。)
これは複数のクラインの壷を上から見たのだと解釈すれば先の図と整合性があります。また、右上を余白にした
所に図を見るものの「脱自」を促す余地があり、ハイデガーはその点さすがだと思われます。
939 :
訂正 :2009/10/16(金) 06:01:34 0
受精?
941 :
考える名無しさん :2009/10/17(土) 01:21:25 0
『探究U』でもハイデガーを論じてるんだけど、(講談社学術文庫版49-50頁)彼は共同存在とい うタームの意義を誤読している。共存在というのは回りに人がいるいないと関係ないとハイデガ ーがいう場合、重要なのは、現存在の存在了解と同様、他者にかんする了解もまた為されている、 他者とはどういう存在か、という了解が、やはり予め為されている、ということだ。それは現存在 の存在了解と同様、現存在の世界を根幹から浸透するものである。そこでハイデガーが言いたい のは、よって、共存在という概念を了解性と絡めて論じることが大事だった。柄谷は『探究U』のな かで《ハイデッガーは、現存在が共同存在であることを強調している。》と述べている。しかし正確 には、そこに書かれたのは単に共同存在ではなく、むしろ共同存在についての了解性である。また 、よく読めば、現存在の単独性も浮かび上がってくる。柄谷はよく読んでいなかったと分かる。
942 :
考える名無しさん :2009/10/17(土) 03:15:26 0
カクチン・ハイデッガー
柄谷による、安吾からめてのハイデガー語りは 笠井潔あたりも乗っかって参照しているね。
944 :
考える名無しさん :2009/10/17(土) 14:51:58 0
『存在と時間』だけでなく、『形而上学の根本諸概念』でもそうだが、現存在が他人についての了解性 、他人といることの了解を予めもち、かつ、他人にたいして自己を移し置く、というのは現存在の実存 疇として考えられている。それは本来性が共同存在云々、という話題ではない。つまり柄谷はそこで 何が話題とされているのか、という地点ですでに躓いていた、ということ。そのようなダメな読み方 でも“あの柄谷がこう言った”という目でみられると容易く流通してしまう、ということだろう。
「他者性がない」という柄谷のハイデガー批判自体が 他者性を欠いた流通をしている
946 :
考える名無しさん :2009/10/17(土) 15:52:44 0
945さんに同意です。ちなみに、柄谷氏は気付かなかったのかもしれないが、ハイデガーにおける、 柄谷理論的な他者性というのは、いわゆる世界内存在 In-Welt-Sein にあるような、世界だと 思えます。殊更に仰々しく他者性とかは書いてないですけどね。ただ、考えて行くと、通約不可能性 というのがそこに露出する場のように思える。ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』は副題が「世界 ー有限性ー単独性(または孤独)」とあり、ハイデガーは自らの考える存在範疇として、いわゆる単独 性をとらえていたのは間違いないと私には思える。しかし、同じ単独性といっても、柄谷のいう単独性 と違うのは、そこに無化できない実存史、経歴が付着していることで、それがあるためにその存在は身軽 にはなれない。逆にいえば、実存史から歴史を抜き、たえず、別の可能性はあったとすることで、 実存を軽く、身軽であるのが柄谷的な単独者である。可能世界論の主題、意図はそこにあったとみる。それ はだから、可能性だけは余るほど保有できる、しかしリアリティーのない存在になる。柄谷理論の 核心部分はだから、ハイデガーをうまく否定することで成立するものだ。私はその否定について、 リアルではないし、人間存在とかけ離れているとみる。
柄谷の他者性がなぜああのっぺりと流通し、 お手軽な倫理規範として作用してしまうのか気になっていたんですが、なるほど。 「実存史から歴史を抜き、たえず、別の可能性はあったとする」 このあたりの思考、というか思考の鋳型は東浩紀にも引き継がれて そこからさらに別の世代に流れていってますね。
現存在の話までは面白いと思うけど、 民族の運命とか大地とかになるとついていけなくなる これって単純に日本人にもあてはめることができるん?日本民族の話として?
>>948 できないっての
哲学できるのはゲルマン民族のみ
じゃあ日本のハイデガー研究者とか京都学派ってのは何をやってきたの? 歴史抜きで実存モデルだけを扱ってきたってこと? でもその二つは分かちがたいんなら、結局理解できないってことじゃ・・?
ハイデガーはドイツ語じゃないと哲学できないと言ってるんだから 日本のハイデガー研究者のやってることは哲学じゃないのさw
952 :
考える名無しさん :2009/10/17(土) 21:53:08 0
少なくとも『存在と時間』を読む限り、民族と現存在をイコールで結ぶような発想とは無縁だと言 える。というのは現存在の運命と共同体の運命は別ではないにせよ、イコールでもないからである。 共同体ー個人の位相、という問題は一応視野に入っている、というのはあの本を注意深く読めば分 かる。少し引用してみよう。 《諸々の個々の<現有の>運命は、同じ世界の内に共に相互に有ることと一定の諸可能性へ向かって 覚悟を決めて開かれて有ることとに於て、初めから既に導かれているのである。その<すなわち、 個々の運命と運命との相互の>伝達と闘争との内で、歴運(共同体の経歴)の威力は初めて自由に 解き放たれるのである。》 これを言い直すと、共同体の経歴、民族の経歴として現有の経歴は規定されるが、しかし、それは いたずらに或いは無理矢理に合一しうるものではなく、むしろ、個々の運命がそれぞれの有の開けに 立つことで、その《伝達と闘争との内で》《自由に解き放たれる》のが共同体や民族の歴運だ、ということ になる。この論理は、単純な全体主義ではない。つまり、民族の歴運と現存在とは、互いに対象的でない 限りに於て関係する。これが『存在と時間』で描かれる民族の歴運の意味である。問題は、そのように、 単数の人間を主題にするその論理が、ある時期、そうでなくなってきたことにある。その段階では 彼の論理は普遍的とは私にも思えないですね。ただ、それにしても、その部分を省いても、読めるのが ハイデガーの思索なので、私の場合は勝手に、もしかするとハイデガーの意図とは違って読んでいる、 ということです。
「存在と時間」では現存在の個別性からのみ存在の問いが有意味になるってことだったけど、 それ以降は存在がむしろ現存在を可能にするという逆転が起こる。 そこから存在の歴史の崇拝と同時に、民族の歴史なるものも支配的な意味をもつようになる。 日本民族の歴史や日本の大地なんてものを持ち出さずに、 西洋やドイツといった具体的な問題に目をつぶったままハイデガーの伝道者になれるという意味で、 日本人にとって「存在と時間」は現存在モデルが普遍的に見えるから都合が良い。
954 :
考える名無しさん :2009/10/18(日) 15:58:34 0
一人の思想家の丸ごとを肯定すべき、というのは余程の崇拝者なら別ですが。例えばハイデガー と並ぶ、同時代の、こちらは実存主義を自ら認めていたサルトルにしても、私からみると、初期の 対自存在の責任・選択・自由・状況の無化がセットの哲学は息苦しく、ついてゆけない、という感じ がある。しかし、個体は様々に条件付けを受けながら、それを無化まではいかなくとも、その自由を 条件付ける状況を検討することは可能、とした後期の思索は、未だに参考になる。たとえば後期の 著作で問題にされた、今日、一人の人間を理解するこはどこまで可能なのか、という問題設定、その フローベールを素材にした思考実験はいまだに検討に値すると思える。ハイデガーにしても、『有と 時』で提示した、時間と存在論が、一人の人間存在にアプローチするのにこれ以上ないような方法 ろ提示しているのは疑い無い。特にサルトルの後期の分析方法は優れている。たしかにマルクス主義 から抜けないという特徴はありながら、それだけで全否定するのは、読み方を知らないシンプルな 人間のやり方だと思いますね。ハイデガーにしても同様です。民族主義というだけで、全否定する、 それは読み方が浅いと思います。
で、存在の意味って何だったの?w
勇者よ、森の開けたところで声を聞くのじゃ。 おぬしは存在の運命に導かれており、自分ではどうすることもできぬ。従うのじゃ。 ・・・何?声が聞こえないじゃと?さてはおぬしは東洋の猿じゃな? 言葉を持たぬ民族に英雄は生まれないのじゃよ、あきらめなされい。
むしろハイデガーを詳しく読めば読むほど、異様な自意識というか民族主義の強烈さが際立ってくるように思う。 「存在と時間」あたりを軽く読むと簡単に日本人でもわかったような気にさせてくれるけど、 以後の著作を深く読めば読むほど、歴史や民族の問題こそが核心で避けられないことがわかる。 全否定せずに今日的な意義だけを取り出そう、ってのはやっぱり虫が良すぎる話で、 トータルで引き受けないと意味がないだろうし、 そこではハイデガーあるいは西洋思想を受け入れる日本人という問題にも向き合わざるを得ないと思う。 京都学派にあった自分たちはよそ者だという自覚は最近の若い人には全くないですね。 その問題に無自覚なまま存在だの開けだの呪文を唱えている。
958 :
考える名無しさん :2009/10/18(日) 20:59:44 0
957氏の意見には同意できません。“ハイデガーを読めば読むほど、歴史や民族の問題が核心で 避けられないことが分かる”とありますが、私の読むかぎり、歴史の問題については『有と時』刊行 部分でも大部を割いて考えられていますが、民族云々については僅かしかない。で、歴史というのも 、いわゆる実存史こそがあらゆる歴史の根底に捉えられるべき、歴史家は、歴史上の人間に可能性を とらえ、そこに己の本来性を選択する、そういう論理があるが、なにより単独の有をめぐって本来性 も捉えられる。そうして、ハイデガーでいまだに読めるのはその部分である。尤も、例の民族主義と 連結すべき、という意見ならばそう読めばいい。私はそこには可能性はみない。私は私の読んだ限り、 ハイデガーを今日的に読むことは可能だと断言します。あくまで私の読書体験にかけて、ですが。 そう読める、それがハイデガーだと。でなければハイデガーの思索が、ここまで世界で無数の思想家 をとらえ、考えさせた理由がないことになるでしょう。フーコーなども80年代のインタビューで 、学生時代に夢中でハイデガーを読んだことを告白してます。で、ご存じのようにフーコーは民族 主義ではない。ハイデガーを全肯定せずに読む、何かを取り出すことは可能である。20世紀の思想 はそのようにして自らを作り出してきたといっても過言ではない。
東浩紀みたいに、歴史性のすっぽり抜け落ちた現存在の循環モデルを図式的に利用する可能性かな。 その場合前期と後期を分けるという考え方は都合が良い。
960 :
考える名無しさん :2009/10/19(月) 00:02:56 0
フーコーがハイデガーを熟読していた、というのは意外な気もしたが、考えてみればフーコーの 初期の大著である『狂気の歴史』というのは副題が「理性と非理性」で、理性に回収され、奪われて行 く人間存在が主題。そこでの精神医学の役回りや疫学、収容施設のもつ意味が歴史的に書かれる本 だった。理性に回収される人間存在、というのはまさにハイデガー的な問題圏で、その歴史的考察 というのは、ハイデガー有論がポジだとすればネガにあたる。この問題は今の精神医療現場でも 続いている。 東某という人はよく知らないので何とも言えない。何度も言うように、歴史か否かというくらいに 歴史というのは鍵となっている。しかし、必要でない人には猫に小判みたいなもので、どこがいいのか ちんぷんかんぷんの代物でもあるだろう。無理して首を突っ込まない方がいい。
ハイデッガーと民族主義とかどうとか批判的に取り出す人って たいがいがナチ荷担程度しか念頭にないから論が浅い
民族主義は哲学的には瑣末だと言って切り捨てるのも同じくらい浅い
ハイデガーのギリシア理解がドッズ以前、あるいは『黒いアテナ』以前の古き良きギリシアであることは否定できないでしょう。 柄谷の批判はそうした言説に対して、ギリシア哲学は言説を売る側に立っていたひとたち、つまり共同体からずれたひ とたちから出て来たという当たり前の事実を指摘したものにすぎない。 むろん、ハイデガーのヘルダーリン経由のギリシア理解はある種の開き直りとしてまったく評価出来ない訳ではない。 事実、柄谷はそこに自己言及のシステムを見ているし、これは最大級の評価でもある。 しかも柄谷はNAMへの参加をハイデガーのナチへのコミットと同じ種類のものとして言及している (「新潮」2008.8福田和也との対談)。
先駆的決意性とかほとんど特攻隊のメンタリティーだ
特攻隊の国なら存在と時間を正しく訳すだろう、とハイデガーが言ってたという風説もあったな。
果たして特攻隊の隊員は本来の意味での自己の死に 向き合ったんだろうか
967 :
考える名無しさん :2009/10/19(月) 22:18:29 0
柄谷氏の愛読者の方がまた色々書いてくれて、私の知らないことも沢山入ってるので、どう反応 すればいいやら考えさせられるわけですが。ただ率直言って、“柄谷さんから最大級の評価”を受けるそ のこと自体にたいし、評価の基準には私はできない。柄谷さんからの評価を当てにはしてないという ことで。彼の理論は著書から或程度は把握してますが、その感想はこのスレの前の方に書いた通り で、私は彼の理論というのは軽業師の理論だとみなしている。軽業師であり、移動という名で どっちつかずの話をして煙にまく。で、退屈でないことが話の基準であり、嘘でも 本当でも面白ければ問わない。何より面白いことを重要視する。そして、どう考えてもおかしいと 思える、存在論の無化。ニーチェの理論との瓜二つな近接がそこにある。ニーチェはこう書いてい る。まるで柄谷のように。 《事物の固有性とは他の「事物」に働きかける作用のことである。すなわち、この、他の「事物」をなき ものと考えれば、事物はいかなる固有性ももたなくなる。言い換えれば、他の事物なき事物はない。 言い換えれば、「物自体」はない。》(『権力への意志 下』ちくま学芸文庫94頁) このニーチェの本を読んだとき、柄谷のことが実に、柄谷自身が書いたものより分かって、その事実 に呆れたわけです。どういう理由か知らないが、この『権力への意志』は柄谷の実体を射当ててしまって いる。それくらいに柄谷を思わせる言説に満ちている。 《「いったい解釈するのは誰か?」と問うてはならない。そうではなくて、解釈する働き自身が、権力 への意志の一形式として、現存在を(しかし「存在」としてではなく、過程、生成としての)一つの 欲情としてもっているのである。》(同94頁) ここでのニーチェはハイデガーとすれすれのところでかすっている。かすっているが、やはり違う。 現存在が遠近法的視点というところまでは共通する。しかし、その遠近法的実存とは、たやすく 変更は困難だというのがハイデガーで、だから彼の描く実存は身軽ではない。ニーチェ的な思想は、 権力量の上昇めがけて、どこまでも解釈を変更することが可能。それが同時に柄谷の理論の特徴でも ある。そこにはとてつもない欠陥がある。
>>963 「中上健次と坂口安吾」での「本来性は共同存在」という断言は
どう思われますか?
「柄谷はハイデガーを評価してるよ」といっても、
誤読や単純化したままの評価やハイデゲリアンを自称している福田との対談からの言葉では
967さんが書かれたように「評価」自体がどうでもいいものとなるのではないかと。
>>968 >誤読や単純化
強調したいのは東浩紀のハイデガー解釈も柄谷経由だということです。
それが誤読であるとしても、どこかにそれ以上の生産的なハイデガー解釈がありますか?ここ20年で。
一般的に言って、研究者はハイデガー=ナチ説を社会学的に消化するのに浪費したのではないでしょうか?
。
>>938 >柄谷行人はハイデガーの存在論を「ハイデガーが究極的に見出すのは、自己言及的な形式体系、あるいは自己差
>異的な差異体系である」としてある程度評価しています(定本第2集p.133)。
>ちなみに、存在=メタレベル、存在者=オブジェクトレベルという柄谷の解釈を東浩紀は受け継いで図解
>(『存在論的、郵便的』より)↓しています。
>
http://pds.exblog.jp/pds/1/200804/28/41/a0024841_4162993.jpg
970 :
969 :2009/10/20(火) 19:26:13 0
(リンクだとクリックしたいと思うので作成した) 以下のAAの原図は東浩紀作成のものですが、浅田彰経由でクラインの管をつかったところなども ふくめて、ハイデガー解釈として的確だと思います。 最近ではケア=介護の問題として論じている人がいてこれは例外的に魅力的ですが、それは あくまで哲学的言説としてではなく経験談として魅力的です。 _______ ____メタレベル(存在) || \ / ||規定 \ / || \ /二重襞 \/ ) __○__○__○__○__○__○__ オブジェクトレベル (存在者の集合=世界) ↓メタレベル(存在) _____ ( __ )↑論理形式の産出 )( )| /↓ \//___実存論的構造(2レベルの媒介) /規定 // / _| |\ ↑ / _/ | \ /_/______\_\オブジェクトレベル(存在者) // ☆現存在 \_\ (○ (メタレベルへの入り口) ) \○__○____○_____/ ○=客体的存在者
971 :
追記 :2009/10/20(火) 19:35:11 0
ハイデガーはギリシア語で思考していたと言う説がありますが、どなたか実証できる方はいませんか?
972 :
考える名無しさん :2009/10/20(火) 20:32:26 0
東以前デリダの「Le Differance」 邦題「差延」とかいったと思いますが。その中のデリダによる話を読んで、何度も2ch.に書いたこと ですが、痕跡とか差延とか、面白いには面白いんだけど、ハイデガーと関係ないと思った。デリダによ れば、ハイデガーの有概念はどこまで行ってもメタ、隠れてしまうもの、とすべきだったのかもしれ ない。それによって、有概念の政治的利用を避ける意図があったのかもしれない。デリダはハイデガ ーのナチス加担を重たく受け取った。それで、有をどこまでも隠れて行く、その意味でメタである ことにしたかったのかもしれない。しかし、それもまた私に言わせれば誤りなので、ハイデガーのい うSeinをどこまで行っても隠れてしまう、<掴まえられなさ>として表すのは違う。ハイデガーの 言いたいのはそんな神秘でなく、というのも、『有と時』冒頭にあるように、主題は何かが有る、また、 何かで有ること、それだけのことにある。何を言いたいのか分からない。いや、もう分かっている。 あなたは今、「ハイデガーってよく分からない」という有ではないですか。で、「ハイデガーが分かる」 へ向けて、その有に引き付けられている、でもそれが自分にとって何を意味するかは分からないまま 。それがハイデガーのいうSorgeですよ。気にかかる、ですよ。有の方向性だよ。何が言いたいかと いうと、かように日常の、または非日常の、有が主題なわけで、決してどこまでも超経験的、超絶的 な<覆蔵>ではない。たしかに<隠れ><覆蔵性>は有の契機ではあるが、どこまでいってもメタでよく 分からないもの、とかではない。デリダはそういった神秘にハイデガーを落とし込んで、それでまあ 政治的利用から守ったつもりかもしれないが、また別の弊害を生んだ。たとえば、よく例えるのが 恋愛で、何で好きになったか分からない、でも気になる、忘れられない、という経験てあるでしょう 。あれは私はハイデガー的な経験であり領野だと思う。<有ること>は今この時既に到来しており、その 意味で何ら神秘でもない。また、しかし、同時に、恋愛にもあるように、また、引きこもりなど の経験にもあるように、自己が制御しがたい局面に引きずり込むものでもある。私はそのように 捉えており、私の場合そこに疑惑はない。
973 :
考える名無しさん :2009/10/20(火) 20:54:42 0
東某という人のハイデガー解釈が貴方にとって衝撃で、魅力的だったということはよく 分かりました。それはそれで良いのではないでしょうか。 あと、ハイデガーの民族主義について。民族を強調しながら、しかし、その時期でも、単独者 の実存史、いわゆる問いとしての「有と時」が棄てられていたわけではない。しかしまた、その 一方で民族に覚醒することを訴えてもいた。そこはハイデガーのナイーブさで、そこの ナイーブさは私は買わないし、不徹底だったと思いますね。しかし、その時期でも単独者の理 論は放棄されてはいないので、民族もまた歴史の堆積、地層を表すという意味では完全に誤り ではないでしょう。現に『有と時』ではそうである。あと、故郷としての民族、というと、 まだいくらか分かりやすくはなる。戦後の語り口はそうなるでしょう。柄谷さんのような まとめ方は、ハイデガーが最も熱烈にナチス党と歩もうとしていた時期にのみ有効だとは 思うけども、それ以外は無効だと思いますし、無理があると思いますね。何度も言うように 『有と時』や多くの作品や講義とはかけ離れてますしね。
>>969 誤読、誤配からくる生産性がありえるとして、
東の引いた図解は、959さんの書かれているように
「歴史性のすっぽりと抜け落ちた現存在の循環モデル」に見えるのですが、
歴史性を持ち込むとしたらどういう変動が図解に起こるでしょうか?
歴史性を持ち込んだ時に東の図解はその形を維持し続けれるものでしょうか?
975 :
考える名無しさん :2009/10/20(火) 23:34:06 0
実存って暗いよね。今の時代にいらない哲学でしょ
ある意味、今の時代にあった哲学だよ、依然として
ハイデガー読むには国際金融団の世界支配みたいな陰謀論が不可欠だよね
それじゃ、ニーチェにするかなぁ
御大層なこと語ってても、第一次世界大戦後のハイバーインフレで 国民の富が消滅した恨みを一生持ち続けただけのおっさんでしょ?
ある特殊な土地と時代に生まれた思想ってことを念頭に置かないとね。 何も考えずにこの日本でハイデガーをただコピペしてもキチガイ扱いされるのは当然
981 :
考える名無しさん :2009/10/22(木) 23:51:20 0
スレ主です。スレッドも終わりに近づき、新スレッドも立ったので、埋め立てのため、私の昔のノ ートから写してみたいと思います。 ハイデガーの「ヒューマニズムに関する書簡」の中で頻繁に使われている表現として、企投の被投 性ということがある。これは、現ー有からみれば、企投することを差し向けられる、ということであ ろう。有の内へ摂取されるということが、同時に、現ー有が己れの有を企投するということでもある 。別の言い方をすれば、現ー有の企投が、能動的であることによって、受動的なのである、というこ とである。よって、企投とは被投である。投げることは、一方、投げるよう仕向けられることである。 被投性について、ハイデガーの言を借りれば、これは脱ー存することだと考えられる。すなわち、 「性起としての有の内に於ける」(『道標』全集版433頁)ことである。逆に企投とは、「有の投げ返し」 (同432頁)になる。 現ー有の企投とは、「有それ自身を<歴運として>遣わす」(同426頁)ことを絶対的受動性として 主体化するその限りにおいて現ー有はハイデガーによれば「有の牧人」たりうるのである。
982 :
し :2009/10/22(木) 23:57:27 0
こたえはねーんだよ
牧人(笑) 守護者(笑) 見守り(笑) 開け(笑)
984 :
考える名無しさん :2009/10/23(金) 07:06:21 0
「有の牧人」だとか「有の番人」という表現の中でハイデガーは、有と人間との関係とは実際、如何 なるものであるのか、一層端的に、明らかに指示している。其処で云われているハイデガーの思索 の中では、これが書かれた1946年の時点でも、また今日では一層顕著になっている世界観の構図 の、重要な転倒が為されている。 ハイデガーの行っている転倒については、「ヒューマニズムに関する書簡」の中でも繰り返し説明 されている箇所がある。たとえば創文社版全集『道標』432頁でいえば、ハイデガーはこう云っている 。「人間は有るものの主人ではない。人間は有るものの牧人である。」彼にやや遅れて登場してきた サルトルやカミュの思想に比べてみれば、ハイデガーの有論の卓越性は一層くっきりと浮かび上が るに違いない。たとえばカミュは『シーシュポスの神話』の中で、存在の不条理を訴え、人の生が 果たして生きるに価するものであるのかとしきりに問おうとしている。しかし、ここでカミュが 拠り所としている思考というのは、やはり(人間の)近代的理性に留まっている。そこから「生きる に価する生」の模索を彼は問うのである。(決めるのは主体性としての人間である。それはやはり 主体主義のバリエーションではないか。という問い)
985 :
考える名無しさん :2009/10/23(金) 11:27:23 0
>それが誤読であるとしても、どこかにそれ以上の生産的なハイデガー解釈がありますか? ゴミを作るのも生産だからなあ。 しかし何がごみであるか自体が解釈の問題だから生産的解釈一般なんてないな。 どう解釈してみても結局たいしたものは出てこないというのが本当のところではないかな?
>>933 あれは原書と合わせて読むならある種の解説的な訳として悪くないよ
ただ日本語だけで読むと確実に誤解を避けられない日本語になっているところ多数だけど・・・
987 :
考える名無しさん :2009/10/23(金) 12:55:19 0
>>985 >どう解釈してみても結局たいしたものは出てこないというのが本当のところではないかな?
という点については賛成。もちろんハイデガーに関してだけだが。
「生産性」とそれに繋がるような「たいしたものが『出てくる』かも」 という期待でハイデガーを思考すること自体、 まぁ違うんだろうね。 風を感じて「これは風力発電に利用できる」と即考えるような思考の在り方とは ハイデガーは無縁だから。
ハイデガーなら俺の横で寝てるよ
990 :
sage :2009/10/23(金) 20:27:44 0
『シーシュポスの神話』の中でカミュは、不条理な世界に対する二つの態度を提示している。一つ は不条理を認め、無為を決めること、負けを認めること、すなわち自殺。今一つは不条理を直視し、 対決し、その暗黒に対し、絶えざる照明を当て、それによる透明性を確保すること。後者について カミュは反抗と名付けている。この概念がのちにカミュのもう一つの大きな哲学的エッセイ『反 抗的人間』に結実したことは疑いない。 反抗概念を『シーシュポスの神話』に辿って気付かされることがある。それは、反抗概念の、サル トルとの近接性である。カミュが上記のように書くとき、それはサルトルの姿勢をも射当てている かに思われる。1960-1970年代にかけてのサルトルは、初期の対自存在の哲学に徐々に変更を加え 、人間を規定する様々な桎梏に照明を当て、文字通りその状況の暗さに透明性を確保せむとした。 このサルトルの姿勢はまさにカミュの言った反抗と呼んでよいものだろう。
1970年代のサルトルのインタビューがある。それによると、ハイデガー的な有 Sein の超越性は、自分にとっては疎外である。よって、自分はハイデガーの唱えるような有の を、その包括されてゆくことを、偉大なこととは考えない…。このサルトルの言葉は彼 の立場のハイデガーとの差異を明確に表して興味深い。絶えず、己れと己れを取り巻く状 況に対し可知性を要求した、それによる透明性の確保を求め、膨大な言説を遺したサルト ルの立場ーやはりそれをカミュに倣って反抗と呼びたいーがよく表れている。 恐らく、サルトル的に疎外と呼ぶか、それとも有の開けと呼ぶか、それは二つの立場が共 に可能である以上、どちらとは決められないだろう。ただ、絶えざる可知性、知解を要求す るサルトルの哲学は、時によって息苦しさをももたらすだろう。 なお、参考のため、『シチュアシオン\』に収録のインタビューを一部抜粋する。 サルトルー「存在」へと逆行するどんな関係も、あるいは「存在」へ開かれたもの(ouverture a l'Etre)、前にも後にも己れを条件付けるものとしての「存在」を想定しているところ の、「存在」に向かって開かれているどんなものも、わたしには一つの疎外だと思われます。 わたしが言いたいのは、「存在」に向かって開かれているものを「存在」自体が条件付けている 限りにおいて、わたしは「存在」を拒否するということです。(『シチュアシオン\』42頁人文 書院)
992 :
考える名無しさん :2009/10/24(土) 00:27:53 0
「存在と時間」のテキストは、何が良い?
994 :
考える名無しさん :2009/10/24(土) 00:48:00 0
王道ですね
995 :
考える名無しさん :2009/10/24(土) 17:58:30 0
マルティンなんてただ長いだけだろう。 存在と時間、最初の60ページ読んでみてゲップがでるよ。
リュデイガー・ザフランスキーの『ハイデガー』のなかで彼は、ハイデガーの最初期の講 義「哲学の理念と世界観の問題」の中から、近代的思考の始まりのなかで、何が起こったの かをハイデガーが解説するくだりを簡潔に定式化している。この部分は、後の講義「形而上 学の根本諸概念」のなかの予備考察第14節「フランシスコ・ケアレスの形而上学概念と近代 形而上学の根本性格」のなかでも指摘された、近代的思考形式における<この自我>の排除 を既にハイデガーが発見していたことを如実に表している。ザフランスキーの筆を追って みよう。 《彼(ハイデガー)は、われわれが世界に対する理論的な立場、つまり通常「学問的」と呼ばれ ている立場に立つときに、そこで何が起こっているのかを目も眩むような光の中に置こうと する。いわゆる「客観化する学問的な立場」にあっては、われわれは本源的な意識、周囲世界と いったもの、体験的なものを視界から消してしまって、その何ものかのまとっている衣装を 脱がせて「裸の」対象性にまでしてしまうからである。これがうまくゆくのは、われわれが 体験する自我さえも引き抜いて、作為的な新しい自我、二次的な自我を作り上げるときだけ である。そこではこの二次的な自我が、「主体」という名がつけられて、「客体」という名を つけられた同じように中立的な「対象」としかるべき中立性の中で向かい合って立っている。 》(『ハイデガー』ザフランスキー144-145頁 法政大学出版局)
ザフランスキーが著書『ハイデガー』で取り出した、‘主観ー客観’図式の敷衍化の問題は、『形而 上学の根本諸概念』(全集29/30巻)でも述べられており、そこでのハイデガーによる主張とは、 近代形而上学の根本性格として、問う者の自我や意識が共に問いの内に付されるということがある が、実際のところ、それは或特殊なやり方でそうであるに過ぎない。どのようなやり方かといえば、 それら、自我や意識とは、確実で自明な基礎という形で入ってきているにすぎないのだから、問う 者が共に問われているとはいっても、それは、問われないという形で入ってきているにすぎない。 ハイデガーのこの指摘は、学の端緒において為される基礎づけがいかなるものであるかを射当てて いる。つまり、共同主観的ならざる自己性がこのとき問題になるのであり、それを逸するその限り、 自己性は共同主観性に取り込まれている、ということが言えるのである。(この指摘は柄谷行人の 『探究U』にも似ている。が、柄谷はハイデガーにそれがあることに盲目である。) ハイデガーはそこでこう謂っている。 《(…)近代哲学において、問うている自我が共に問いの中へと置かれるという事態が表現に達している かどうか尋ねるとしたら、われわれは、たしかにそのとおりなのだが、しかしそれは、或独特の仕方で においてそうなのだ、と答えざるを得ないのである。というのも、じつは、自我、意識、人は形而上学 の内へと取り込まれてはいるけれども、それはまさにこの自我が問いへと置かれないという仕方にお いてそうなのである。これは要するに問いへと置くことを怠ったのだ、などということではない。
(続き)そうではなくて、自我と意識とははっきりと最も確実で疑問の余地なき基礎としてこの 形而上学の根底に据えられてはいる。しかし、それは、近代形而上学じにおいてはまことに特別な 、すべてを含み込む問うことが、出現するという仕方においてなのであり、つまり、問う者を共に 含み込むとはいっても否定的な意味でそうなっている、というような仕方においてなのであり(… )(『形而上学の根本諸概念』創文社全集版92頁) 問う行為の中でこぼれ落ちて行く主体の問題をこのように爼上にのせたことは、ハイデガーの 功績の一つだろう。この問題は上記のように柄谷行人によって1980年代に取り上げられたが、柄 谷の断定ーハイデガーに単独性の問題はない、「この私」の問題はない、とするーに反して、問題意 識として念頭におかれていたというのは確認できることである。そもそもハイデガーにおける世 界性の問題からして既に、通約し得ない領域を指しているわけだから、講義の中で問う主体の問題 が出てくるのも当然な話だと言える。
新しいスレッドで釣りのような疑問が書かれており、ハイデガー有論と吉本隆明幻想論のどこが 関係するのか、と書かれている。釣りっぽい感もあったが、他にも同様に感じている方があるかも しれぬので、この問題に関連した箇所もノートから抜き出してみたい。 §生の必然性と真性 ハイデガーの真理論は、吉本隆明の幻想論と非常に似通っており、何よりも、それが人間の生を 根底的に拘束し、所謂、<絶対的仮象>という形態で、人間に対して、<世界(ハイデガー的な)>を 裂開する所がそうなのである。両者とも、人間の生に対して、必然性、吉本の言葉でいえば不可避 性という力を以て迫ってくる。ぼくはこういった所謂不可避性という形で人間の生を捉え、真理と の関わりで論じたことのある思想家は、ハイデガーと吉本隆明、その前梯としてのニーチェだけで はないかと思う。その鍵は、生の必然性を真性との関わりで捉えきれるか、という所にある。改めて 言うまでもなく、ここでの真理とは<絶対的仮象>としてである。すなわち、吉本のタームを用いる なら、人をして引きずる真性としての幻想である。それは以下のように語られている。 《このように思惟するなら、我々は軽率であり、誤謬としての真理が一つの必然的価値であること、 そして芸術的変容という意味での仮象が真理に比べてより高い価値であることを忘れている。ここ で必然性とは、生の本質の存立と本質の実行とに帰属していることを、意味する限りは、そしてそ のような帰属性が「価値」という概念の内実をなしているなら或る一つの価値は、それがより高い 位階のものであればあるほど、それだけ一層深い必然性を呈示するのである。》(『ニーチェT』真 理と「真なる世界と見かけの世界」という区別 創文社全集版542頁)
1000 :
考える名無しさん :2009/10/25(日) 19:29:58 0
ようやく1000まで辿り着けました。2008年7月に立てられ、1年以上に渡り、色んな人が書いて くれたと思います。釣りや落書き的なものが続くときもあり、中にはひどく生真面目な人や、俺が 皆に教えてやるという感じの方、色んな人がいて、さすが2ch.と感じました。 新しいスレッドも恐らく遅々として進まないスレッドとなることを勝手に予想しています。そう いう感じのスレッドがあってもいいと思っています。毎年夏にハイデガー・フォーラムが関東や 関西の大学で開催され、私も一回行きましたが、盛況してました。老若いらっしゃって、質疑応答で も面白かった。ハイデガーの読者の幅広さを目の当たりにしました。 とにかく、ずっとこのスレッドを見ていた方、お疲れさまでした。また新しいスレッドで。
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。