副題:=【私】は、どこまで肉体に依存するのか?=
『私』『我』『自我』『主体』『主観』『主観性』、
デカルト的懐疑の到達点、認識の基点、思考の起点、思惟の場、
或いは、各種宗教的アプローチの底に見出されるもの、
等は、どのような記述が可能なのか?
その記述方法は、唯物的な(或いは還元的な)事象の羅列で十分か不十分か?
その記述方法は、一通りか?それとも何種類もあるか?
それら記述方法の分類・仕分けはどのようなものか?
『それ』にふさわしいラベルはどんなものだろうか?
『それ』と「外界」の関係は?
『それ』と「他者の『それ』」との関係は?
『それ』は、普遍性を持つか?
『それ』は、どこにあるのか?
『それ』は、複合的に形成・構成されたもの・成立したものか?
『それ』は、単独に存在しうる(成立しうる)ものか?
『それ』は、妄想か?錯覚か?便宜上のラベルか?
『それ』は、実感されるが故に確かな存在か?
前スレ
【私】を記述してください。【私の存在性】 11
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1203076370/
2 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 18:33:48 0
乙
4 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 18:58:26 0
勃った、勃った
6 :
素人:2008/03/02(日) 23:29:20 0
7 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 23:37:20 0
8 :
唯識的独我論者:2008/03/03(月) 00:16:38 0
唯物論的に言えば
『決定論:脳は物質なので意識は存在しない』
になり、すべての人に意識は無いことになります。
しかし、今のこの映像や音などの感覚があるので
『私』が少なくとも一つはある。
で、他人に意識が有るのか無いのか?の問いは
その他人というのが思考と感覚の一つなので
無い事になります。
(宇宙や物質も思考と感覚なので)
しかし、思考と感覚の外にはあるかもしれません。
無限に『私』が存在し、ある『私』は機械的唯物論者氏を感じてたり
別の『私』は唯識氏を感じてたり最高位氏を感じていて、
その無限にある『私』の一つが
今のこの五感を感じてるのかもしれない
意識というのは得体の知れない心の状態についてとりあえず名前を付けただけ。
別の言い方を知らないから。
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. /:::|, イ:'、::ヽ::::\::::::::Xヽ:|ヘ:::::ヘ\,ゝ
l/|:::::|::::::!、::\ー`ー-,ィf示ハ:::::ヘ、,ハ
く,.イl:::::斗┼‐` ー 弋炒 ',:::::ハ:::l::|
|/,!ヘ::::::ヘ:| ,ィf心 !:::::::l::|::!
//:| |ヘ::::::ヘ代t炒 ` ノ |:::::|:|_|リ
く/l:::L|、::`:ー-ゝ ‐'´ /イ/|:| ヽ
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リ/\ ヽ,ム ∨ヘ : : \ /: /ヘ: : :ヘ
,.- 、 \ ヽ〉 ヽ \: : :\://ヘ: : :|
ヽ、 \ | 〉 \ lヽ./^)、 : : |: : !
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〆⌒  ̄ ̄ ̄ \__ \ 。
,.イ ,イ \ヽ,
ヾイ /{ { ヽ、ト、 \
{ .ト{\ヽ', メ __\ }
ゝ |"ひ) \ イびゞ \ ヽ- 、 何故こんなことに・・・
ノ ト、"´,. ー ノ ///\
/. { ゝ / レ// }
{ ヽ ヽ⌒> / レ´TT
V{ \ └ ´ / ,.イ/ /
,-、 f^ヽ >ー┬|/ ! ,.イノ
{ ヽ:::;ム マミ、: : \ ム: : :∨
\ ヽ,ム ∨ヘ : : \ /: /ヘ: : :ヘ
,.- 、 \ ヽ〉 ヽ \: : :\://ヘ: : :|
ヽ、 \ | 〉 \ lヽ./^)、 : : |: : !
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l l ::::::::::::l. ト:゚:::l\:l:l t_)::心 l::::::::::::::l-、:::::::://
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. l:::| ::::::::l , ` 一 /::::::::::::::l ノ/
. l:::l ::::::::::、 _ /::/:::::::::::l::从 …どうしてこんなことに、は<私の
l:l N ::::::::l\ ` ノ::/:::: /l::// ___
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12 :
考える名無しさん:2008/03/03(月) 09:18:39 0
前スレ
>>939 「富士山のみならず山にまつわる知識を持たない某氏(主体)が、富士山として
(私が)切り取っている対象に出くわしたとき、たぶん私とは違う切り取り方を
するだろう」との言い方ならいかがですか。
また、私は“客観”が存在しないと言ったことは一度もありません。その言葉
が「だれにでも共通する客観的事実」を連想させるので“対象”との言い方を
しています。汎く表現するときは“事象”を用います。
>>929 は素人氏向けですので一段と雑な書き方になりましたがw、あれには違う
突っ込みようがあるのでは…
◆ 議論の循環性
再度、「私には価値が無い」ということを認識せよ。
私を複雑に見せかけるにはどうしたらいいか。
私の記述を複雑だと錯覚させるためにはどうしたらいいか。
その答えが、「議論の循環性」である。
私の記述に関する討議が無限に循環すれば、
「私の記述は無限である。従って、『私』とは人間が語りつくすことのできない、崇高な存在である」
と、自己満足することができる。
すなわち、これら一連の議論は、「私を正確に記述すること」ではなく、
「私に関する議論が『終わらないこと』」のみを目的として続けられている。
これが、「議論の循環性」である。
14 :
考える名無しさん:2008/03/03(月) 12:46:20 0
15 :
考える名無しさん:2008/03/03(月) 13:54:18 0
富士を眺める人もいる
16 :
考える名無しさん:2008/03/03(月) 14:46:34 0
6 名前:赤い猫 メェル:sage 投稿日:2008/02/29(金) 13:07:44 ID:i0aSRorWO
995 に 2008/02/29(金) 11:57:12 ID:82flnh810
> 俺は別に「もっと哲学を」などとは言ってないわけで、このスレにおいて哲学的考察を
> 重要視していしない。
> 「もっと哲学的考察しろよ」と言ってる奴が
私は「もっと哲学的考察しろよ」など言ってない訳だが。
>「眼前の謎を可視化する為の技術」程度の
> 認識しかしてないというのが笑えるw
哲学とは何?という質問に、まず私が答えるべきである、と言ったのは君。
で、私は”哲学とは眼前の謎を可視化する為の技術である”と答えた。
これが違うと思うのならば、君なりの意見がある訳だろ?
ならば君の思う”哲学とは?”を答えるべきではないのかね?
それを答えられないのであれば、素直に「分かりません」と言うべきだろう。
全く頭の悪い奴だ(苦笑)
私は唯識氏のレスが何の役に立っているのかいまだに理解できない。
なんかあらかじ設定している8つくらいwの(アラヤシキとか調べるきも起こらない)カテゴリーに人のレスを適当に振り分けているだけでしょう?
それがどーしたの?というか、そんなのって誰でも出来ることでしょう???
18 :
考える名無しさん:2008/03/03(月) 15:17:45 0
>私の記述を複雑だと錯覚させるためにはどうしたらいいか。
>その答えが、「議論の循環性」である。
普通の解釈は逆だと思う…うん。
19 :
考える名無しさん:2008/03/03(月) 15:56:26 0
>>12 >「富士山のみならず山にまつわる知識を持たない某氏(主体)が、富士山として
>(私が)切り取っている対象に出くわしたとき、たぶん私とは違う切り取り方を
>するだろう」との言い方ならいかがですか。
仰りたい事はよく分かります。その通りでしょう。
ですが、
例えば2台の同機種のカメラでココとアソコから富士山を写してみても、
切り取り方は必ず違っている事でしょう。
同じ写真は二枚とは撮れないでしょう。
機械が切り取ってさえも個々の切り取り方は違ってくる。
「何故切り取り方が違ってしまうのか?」
その秘密は私ではなく世界の方にあると思うのです。
私以外の「他」と「他」でも何故か違ってしまう「らしい」のですから。
私がこの秘密を信じるという事は、
あなたの仰る ”対象” に、私が「それと知らずに触れる事が可能」である…
そういう世界に私はいる
という事を疑い得ないという事です。
「それと知らずに対象に触れてしまう私」は主観性などではないでしょう。
(主観性から「はみ出している」とでも言いましょうかw)
21 :
考える名無しさん:2008/03/03(月) 17:18:03 0
22 :
考える名無しさん:2008/03/03(月) 17:31:58 0
それにしては教えを信じろとか言わんね
23 :
考える名無しさん:2008/03/03(月) 18:42:16 0
議論が循環してしまうのは、単に決定打的な意見が出ないからだし
ワカランチンが紛れ込んでいるせいでもあるし
分からないところまで言及しようとするからでもあるし
議論とは関係ない問題を持ち込むからでもあるから……
複雑に見せかけるという意図があってのことではないぜよ。
>>23 ● 議論はなぜ循環するのか
・決定的な意見が出ない
では、なぜ決定的な意見が出ないのか。
物理学などであれば、理論の正しさは実験によって実証できる。
しかし、私の記述には、その論を実証するために提出される、
眼に見えるデータが無いからではないか。
・無理解者が少なからずいる
無理解者とは、既出の考えを知らない、
あるいは、既出の考えを噛み砕いていない者だろうか。
・分からないところまで記述する
分からない部分とは、自分が持つパブリックな語彙で
概念を説明しようとするときに現出する。
これは無理解者と重なる部分がある。
・議論とは関係ない問題を持ち込む
どのような問題が議論に関係ないのか、
それを決定できるルールは無いのではなかろうか。
また、それを決定できる人間もいないのではなかろうか。
25 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/03(月) 19:31:35 0
・誰もいませんでした。
最終にして至高の真実。
この真理の前にはいかなるものも弱く儚い。
あなた以外誰もいませんよ。
という意外な真実。
でもあなた一人なら何やっても許されますね。
良かったね♪
>>(前スレ)872
「主客図式は温存した上で客観世界だけ捨てれば「思う私」が残るのは当たり前」
というあたりがよくわからないのです。
なぜそうなるのか?
そもそも「思う私」が残ったのは懐疑の果てに残ったのであって単なる引き算の結果当たり前に残ったわけではないのではないですか?
又、主客図式については確かにデカルトは自然なものの見方としての主客図式を前提にしてそこから懐疑を始めたのだと思います。
ですが、客観世界を疑わしいものとして捨てたのだとしたら、もう図式の片方がない訳ですから取り払おうにも図式が成立しないのではないでしょうか。
「思う私」しか残っていないのに温存されるような主客図式とはどういうものなのか?
後の説明を読むとどうもこのあたりの理解が俺と違うようです。
俺の理解では「主体+作用+客体」図式を取り払う、とはまさに「図式」を取り払うことであって主体や作用や客体が必要なくなるということを意味しません。
図式を取り払っただけでそこにあった何かが都合よく消えてなくなる、というようなことがあるのでしょうか?
俺にとってその意味は簡単に言って視点の転換だと理解しています。
あなたが出された例ですと、「誰かが味や匂いを感じている」という三人称的・客観的な記述から「(私が)味や匂いを感じている」という一人称的・主観的な報告への転換です。
いわゆるマッハ的光景というやつです。
それから繰り返しになりなすが、クオリアの確からしさについて「私」が必要ないとどうして言えるのかまだわかりません。
クオリアが確実だと言うにはいろいろな前提を導入しないといけないような気がするのですが。
27 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/03(月) 20:08:44 0
我思う、故に我あり。
なるほど、我は存在しますね。
では、あなたは?
あなたは存在しているんですか?
あなたの存在証明が無いので我しかこの世にはいませんね。
だからこれを読んでるあなたしかこの世には存在してないんですよ。
道理で思ったように事が運ぶと思いませんか?
誰かあなたの存在証明してください。
>>26 (前スレ872ではありませんが)、
なぜ、「図式」という言い方がされたかを理解されていないわけですね。
今言われている「主客図式」は、
人が、その思考・認識に於いて通常(自然的に)設定してしまうもの、要請されるもの、
ということです。
それぞれに当てはまる各対象が実際にあるかどうかとは別問題です。
『その対象がなくとも、その対象が収まるべきポジションはあり続ける(要請され続ける)』ということです。
ですから、たとえ対象が消去されても、『そこには何かがなければならない!』
という強迫観念に追われることになります。
29 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/03(月) 20:37:23 0
主客図式で疑いようの無いのは主体ですよね。
客体をどうやって疑わないでいられるんですか?
誰かあなたの存在証明してくださいよ
客体がなければ客体を疑わずに済むよ
>>29 疑うてのは主体を盲目に受け入れるっちゅうこと。
実際そんな主体なんてのが一番疑わしい。
>>31 主体が疑わしいってあんたあたまおかしいの?
>>32 客体として見るときに主体が要請されるけど主体は客体である世界から独立して
あたかも存在していないかのように扱われる。
そういう基礎的了解から再度主体へ目を向けると実は主体など存在していないことに気付く。
客体だと思っている主体の前提世界が主体の一部ではなく主体を切り取ろうとしているだけだということ。
あんたが頭おかしいのは疑わしい
全体から主体を切り取ろうとする主体という循環論を避けるためには
主体がないと仮定するのが一番。
というか仮定というより事実だな。こりゃ。
主体とは認識の為の場。
941 名前:哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ [] :2008/03/02(日) 02:31:52 0
>>861 某氏の身体は、それで説明がつくでしょう
リンゴと同じです
982 名前:哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ [] :2008/03/02(日) 09:34:18 0
>>981 パソコンと人間を、同様に扱う根拠は何かね?(苦笑
キミは、小学生か中学生か?
本当ニワトリだなコイツwwww
まともな知性なら恥ずかしくてもう書き込めないなw
コイツは恥を知らないから必ずまた書き込むだろうがw
37 :
考える名無しさん:2008/03/04(火) 01:58:00 O
全体以前に主体が存在する。人に聞けばすぐに分かる。
38 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/04(火) 02:03:43 0
>>6素人さん
たしかに。そのすべてを包括するとなると
ともすれば「なんでもあり」になってしまいますね。
ある意味SF小説です。
>>21-22さん
あくまでも「考え方」ですので。その実践が宗教だと考えています。
39 :
唯識的独我論者:2008/03/04(火) 02:09:40 0
最高位氏は理論的です。
真理は独我論&唯識論です。
物質は『感覚の一種』ですし、真に理論的に述べるなら
客観的に観測できない意識は宇宙のどこにも存在しません。
しかし、今のこの思考と感覚があるので
『私』は最低一つは存在する。
なので、とりあえず独我論はある意味正解なので
唯識論と独我論で終わりです。
他の『私』の存在については有るかもしれないし無いかもしれない。
他の『私』を信仰するのと神や悪魔を信仰するのは同じ根拠しかない。
(人間の本能では理解しがたいかもしれません。
要は『私』が何を感じるか、
人間Aか虫か機械か素粒子一個か何でもありって感じ。
ちなみに仏教や現代科学は理論的というか
多数派の信仰する理論だから真理っぽく感じるのですよ)
40 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/04(火) 05:00:59 0
お釈迦様によると諸法無我が真理だそうなので
我はお化けだそうです
お化けの我が生きているのか死んでいるのか存在しているのか
分からない客体を見て遊んでいるようです
主体がない、もしくは主体こそ疑わしいということはわかりにくいらしい。
この問題は唯識さんに任せて、
仮に知性を持った機械を作ったとしてそれは製作者もしくは投資した人たちの所有物たり得るか。
>>41 別に機械を持ちださなくとも、子供は親の所有物たり得るか、
で十分かと・・・。
43 :
12:2008/03/04(火) 10:41:41 0
>>20 「それとは知らずに…」との言い方が微妙。「非・意志的に」という意味なら、
たいていの場合、私は対象を非・意志的に触れていると思う。
が、対象が“世界内・意味”として現れたときは「それと知っている」のでは?
(その有無が怪しいのだが)無意味な対象を事象自体と呼び、私は“世界”とは
区別している。
対象が世界内・意味として、どう開示されるかが“主観性”でしょう? ただし
その際、私は対象を主体的に切り取ったつもりだが「切り取らされた」と言った
ほうが実状に適っていると思う。
カメラ二台の例は、一つのカメラを同一場所に固定して実験しても同じことが
言えるのではないか? だとすれば“固有”名詞、たとえば「富士山」は便宜上
の概念ということになる。
>ここで、「円錐の物体」とか「自分の体(目とか手とか)」とか、さらにその外部に
>広がる膨大な事物やそれを包む空間時間等々の客観世界は、直接的に確実なものでも
>何でもありません。
>(…)で、実は、このように考えるなら、それを「見たり聞いたり感じたりしている私」も、
>別に必要がないわけです。ただ単に形や色や触感や味や音や匂いがあるだけで、
>それ以外のなにものも確実ではありません。「思い」でも同じです。
872は[主−客]の一致(モノ自体を直に写し取るw)の原理的不可能性という自明の前提から、客体(=モノ自体)の消去、主体(私)の消去へと進んでいるようですね。
図式的には古典的?認識論である、
<モノ自体(客)> ⇔ <私システム(主)>
の左辺が消去されれば右辺を主張する必要もない、と。
でもこれってオカシいよね。w
別におかしくもないんじゃね。
主体を仮定して客体を認識上に構成してもそれを記述する言語は典型しか語れない。
47 :
考える名無しさん:2008/03/04(火) 13:59:48 0
たとえば?
ベゼット爺さんに謝れ。
主体があって客体があるという考えは他ならぬ主体を認識しようとする試みを別の言い方で表現しているだけ。
◆ 用語の浮上性、用語の埋没性
日本語で哲学的な文章を書いたとき、その重要な用語は目だつ
その理由は二つある。
・漢字を使っているため
・カタカナを使っているため
「主体」や「客体」、「格率」など、重要な用語は漢字。
「クオリア」などの用語は音転写でき、しかもカタカタなので目立つ。
日本語の文章では、どのような用語が話題の中心にあるのかが分かりやすい。
このように、用語が目立つ事を「用語の浮上性」とする。
一方。
アルファベットのみによる文章では、どの単語が重要なのかが分かりにくい。
それは、重要な用語が、アルファベットが持つ均一性の内部に埋没してしまうからである。
何が重要なのかがわからないという状況、これを「用語の埋没性」とする
主客が相対的なものだということを皆さん理解できないようですが、少し考えれば判りそうなものですがね・・・。
図式を切り取るなどと言う議論は全く無意味。
切り取ったら図式でなくなるだろう。
加害者と被害者の図式から被害者を切り取ったら加害者も無くなるに決まっている。
当たり前の話だ。
加害者でなくなった人間が残るだろう。
それが「私」だ。
>>43 あなたの仰る”世界内”とは、主観によって切り取られ、
意味づけされたものでしょうか?
ならば、その”世界”とやらは、
切り取った当の主体以外には当然”無意味”ですよね。
他人には無意味な”世界”です。
>ただし
>その際、私は対象を主体的に切り取ったつもりだが「切り取らされた」と言った
>ほうが実状に適っていると思う。
実状に適うとは?
「私は対象を主体的に切り取った」では実状に適っていないという事ですか?
実状に適っていない、他人には無意味な”世界”を見ているつもりでいるのが主観ですか。
>>51 主観を相対化して(客観だと言い張って)暑いだの寒いだの論争しても無意味。
Tea Break
◆ private と public
ウィトゲンシュタインによると、主観は言葉では表す事はできない。
主観はprivateなものである。
その逆として、公的な言葉はpublicと呼ばれる。
このように、現代プログラミングは非常に哲学的である。
・オブジェクト指向 → 共通客体思考
・クラス → イデアとイデアの影
・privateとpublic → 主観と客観
シュトラウストラップ(メル友)に謝れ。
>で、実は、このように考えるなら、それを「見たり聞いたり感じたりしている私」も、
>別に必要がないわけです。ただ単に形や色や触感や味や音や匂いがあるだけで、
>それ以外のなにものも確実ではありません。(872)
この考えが妄想でないという保証はないよな。
妄想であったとしても、それが本人のものであれば本人にとっては確実ということか?
プッサールの明証性とか認識の底板みたいな話に舞い戻っているような…。
>>54 :考える名無しさん:
>主観を相対化して(客観だと言い張って)暑いだの寒いだの論争しても無意味。
確かに無意味かもしれないが、現実問題として「暑い寒い」と同じではないですか。
現実を見つめましょう。
主観なくして客観は無く、客観なくして主観は無い。
59 :
12:2008/03/04(火) 23:17:54 0
>>53 たぶん、私が意味づけした世界は他者(これも私の世界内・他者だが)にとっては
無意味なのでしょう。
たとえば聖書は私にとって面白い書物だが、キリスト教徒にとっては無上の価値
ある書物らしい。私は他者にも主観があるらしいことは否定しません。
「主体的」という意味が“自由意志をもって”ということなら、それには懐疑的
です。主体は受動的だろう、と思っています。
やや超越的に語るなら、私の立場は「唯・事象論」です。事象は物質に還元でき
ないし、随伴説も説得性が弱い。唯物論は不完全だと思っています。
ただ、ラビさんに洗脳されたのか、決定論には説得性を感じています。
どのような立場も最高位の『私の存在性(事象内・私)』は、容易には否定しがたい
のでは? 事象でも混沌でも空でもいいが、そこに『私』を解消させるのは『私』の
“当為”だからです。それらは“非在の私”ではなく『事象内・私』の幻想でしょう?
60 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/05(水) 00:40:06 0
>>41さん
これは
>>35さんのお言葉の通り
「仮」でよろしいのではないかと。
では「実」は?と問われそうですが、それは「無自性」である、と。
仮から実へのアプローチが縁起、
とお考えいただければよろしいかと思います。
>>59 >たとえば聖書は私にとって面白い書物だが、キリスト教徒にとっては無上の価値
>ある書物らしい。
あなたの価値観が他者にとって無意味であることの「例え」に
なっているようには思えませんが?
他者と価値が違うと無意味なのでしょうか?
>私は他者にも主観があるらしいことは否定しません。
他者が私の主観によって切り取られた”世界内”にいるのならば、
その他者には主観がないとすべきでは?
私だけの”世界”でしょう?
無意味な他の主観は私の”世界”外にいるかもしれないのでしょう。
>唯物論は不完全だと思っています。
これは、多くの人が同意すると思います。
>どのような立場も最高位の『私の存在性(事象内・私)』は、容易には否定しがたい
>のでは?
最高位も脳が壊れれば黙ると思います。
彼が肉体なしに存在を示せるならば考えを改めますね。
他人の肉体の機能停止を死として受け入れてきた私には、
自分だけが特別とする理由はありません。
もし間違っているとすればこの肉体が死んだ時に気付くでしょうw
その時はあの世で最高位に謝ります。
_!_ / / \ |
!. / / / /| ! Y.| じゃあ、主体が切り取られる「全体」って何?
/ / / / / ./ ! i | |
. / | i 厂「 Tiト 、| |! ! ! |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/イ /`! | /斗z=テミ. | ! |ヽ ! . ! | {ヽ 人 *
| | | .! ハ| ん::::::| ヽ | Tト、 |=| ! | | | `Y´
|ハ ヽ_|ハ レ' Vr少 V.xくV ∨/ / /* | |
∧ W! 〉 ハ ! ::::: /::/.八 // / r 、. | | _!_
| V⌒ く / ', 、〈ツ イ/ /, / | Y レ´\ !
>r‐r‐‐f. ' ヽ、 ' :::: /イイ / ! | / ∧
.! |::::::! ヽ ` ィ レ' !. ! / / ハ *
! !:::::::! /| >、_,. -r f爪/ i ヽ'ーイ/ }
! !:::::::::!ヽ、/\:::\ヽ_,.イ * | ! {__/ *
| |:::::::::| |:::::::::\__.ノ | | /
| |:::::::::| |:::::::::::::::::}|`ー-.、 _!_ 〉 / .人
| L::::::::|≠=z_/:::::::::::::::// / | ! r-/ / * `Y´
64 :
12:2008/03/05(水) 09:37:23 0
>>61 突き詰めれば、価値観の違う“他者”は無意味なのでは? この“本音”は、
いまも超克されていないでしょう? 日々、どれくらいヒトがヒトを殺しているか
詳らかにしないが、その理由はそこに帰着するはずです。
ただし私は「君の(価値観)の無意味性を許容する。君もそうしろ」という市民
社会の規則に則って生きています。いわば私(たち)は我慢しあっているのです。
(私の)世界内の他者は『私』が主観的に切り取った(切り取らされた)存在なので、
「彼も主観を持っているらしい」というのは、あくまでも私の類推(主観)です。
最高位の身体を壊したら、たぶん彼は黙るでしょうが、そのことで彼の“存在性”
が消滅するだろうというのは貴兄の主観的見解にすぎません。「死ねば死にきり」
という今日的な価値観です。その価値観を世界に数多いる一神教原理主義者に
面と向かって言い募ればどうなるか。貴兄は“無意味な存在”として処置される
のではないでしょうか。
65 :
考える名無しさん:2008/03/05(水) 11:00:36 0
>>53も
>>64もおかしいね。
主観によって切り取られ意味づけされると、なんで
『切り取った当の主体以外には当然”無意味”』になるんだい?
異なる意味づけをされれば、異なる意味を持つんじゃないの?
その、自分とは異なる意味づけを「無意味」と判断するか否かは判断する主体の問題だよ。
普通は「無意味」にはならない。
無意味にならないように、人間は生まれた時からずっと訓練されているんだ。
できるだけ似たように意味づけするようにね。
そのルールから大きくはずれてしまう者は変人又は狂人として生きていくしかない。
できるだけ似たように意味づけするように訓練されていても全く同じように意味づけすることはできない。
だから他人を理解するのは難しいし、他人の意味づけの意外さに驚いたりする。
北斎が切り取った富士に感動したりもする。
66 :
12:2008/03/05(水) 14:16:20 0
>>65 「無意味」と言うよりも露骨に「無価値」と言ったほうがよかったかもしれぬ。
一つの強固な“価値観(信仰)”を抱く者には、異なるそれの持ち主がなぜそう
なのかは理解できまいし、そのあげく「ポアすべし」となった例は少なくない。
大仰に言えば、ヒトはそうやって個人同士、集団同士で憎みあい、殺しあって
きたのではないか。いまもそうしている。
訓練とは我慢を強いることである。が、訓練によって互いを許容しあうには、
前提がある。同じ信仰を持っている、あるいは自由主義とか民主主義といった
超越的価値観を信奉する共同性が擬制的であれ、成立していなければならない。
(それでも争いは絶えないが) だから逆にオームのような連中(異人)は「消滅
してしまえ」と内心、思っている普通人もまた少なくないらしい。
北斎に感動する貴君に「彼の絵は俗臭プンプン」などと面と向かって貶そう
ものなら、たちまちケンカ…。もっとも貴君はよく訓練されているようなの
で、微苦笑をもって答えてくれそうだが。
「私」の問題を「他者の私」との関係と勘違いしている人が多い。
それじゃあ単なる人間関係論だ。
此処で問題にしているのは
>>1 にもあるように
>『それ』と「外界」の関係は?
>『それ』と「他者の『それ』」との関係は?
とあるように(私と他者)では無くて飽くまでも(私とそれ)である。
68 :
考える名無しさん:2008/03/06(木) 23:40:50 0
69 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/06(木) 23:44:10 0
>>67じいさんさん
この哲学板の掲示板内に
「現実(外界)はそれを見る心(内界)の鏡」
というスレがあるようですが題名の通り当にそれではないかと。
>>69 :唯識 ◆Vidya0E1.s
はい飽くまでも内と外の対峙問題であって、他人の内と自分の内との対峙と言う問題は別の問題です。
内と外と言ったって、対象化すれば内が外になるじゃないか。
面積のない点に内や外ってあるのかな。
俺は内や外という考え自体が私を考えるにあたってナンセンスだと思う。
74 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 00:05:22 0
「それ」とは「道」なのだが、「道」は言い表せない。
つまり、「道」は「修行」によってのみ会得でき、しかも
修行自体が道なのである。
>>73 :考える名無しさん:
>俺は内や外という考え自体が私を考えるにあたってナンセンスだと思う。
貴方はそう思うんだ・・・。
要は人が「私」を考えるときに「内外」を強く意識する、と言う実情から出発している。
貴方がそんな「内外」を意識しないとすれば、変わった人だとは思うが、確かにおっしゃるとおりナンセンスだろう。
>>75 完全に勘違いしているな。
君が「私」と思っているのは「私の物、私の体、私の家、私の財産、私物」
という、「私の」テリトリーの事だ。
私に大きさや体積はないのに、何で内と外があるの?
君は私が分かっていない。
>>75 パーソナルなスペースと私は同一ではない。
「私」と「私のもの、私の所有する空間領域=内側」
とを同一視していれば、真実は何も見えてこないよ。
78 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/07(金) 00:28:57 0
>>71じいさんさん
>>76さんの仰る物、体、財産と、色々ありますが
これらは(まず所有という考えは一旦置いて)「私」で成り立っているでしょうか。
とりあえず「私」という境界線を引いて安心したいのでしょう。
実際「私」は境界線の役割も果たしている。
でも人類は太古より歌ったり踊ったりしてその境界線を乗り越える喜びを知っている。
「私」は所有し支配する。
だから神の所有物であり神の領分であると言ってその所有欲を抑制してきた。
「私」という境界線からどんどん色んなものを捨てていくと質点を失う。
そう。
削ぎ落としていった先に、何か残るものがあるのか?ないのか?
最高位自身に、そこまで深淵な自覚があるかどうかわからないが、
少なくともこのスレに於いては、まさに、この部分が問われている。
そういうとこで誰か?なんて尋ねちゃう愚鈍さはけっこうすごい。
最高位は不器用で味音痴の料理人って感じ。
>>76 :考える名無しさん:
?判ってます?
>私の家・・・・
と言えば、家なので「外」客体(客観)ということなのだが・・・・?
もっと判りやすくいうと<「私」は「私の家」を見ている>と言う文脈なら判るでしょう。
テリトリーと言うより、前に誰かが言っていた「主観の境界」と言うほうがわかりやすい。
しかし「主観の境界」と言う言い方は私の主張する「主客の相対」と言うニュアンスとは大分違うが。
鏡とかレンズの虚像実像の関係(どちらかが虚実と言うことではない)の方が事実に近い。
誤解を恐れずにいうと、客観世界と目のレンズを通し結んだ像が主観、逆に主観を通して目から見通した世界が客観。
>>85 主観が「内」で、客観が「外」だとすると、
主観は何の内側にあるの?
肉体?
>>83 その質問はナンセンスだ。
というのはまさに誰でも同じ作業をし得るから。
つまり客観的な表現なんだよ。
88 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 17:14:27 0
>>87 「だれでも」だって? なぜ、君に他者の主観がわかるのだ?
たしかに、しばしば日常会話ではその種の言い方する。
が、このスレではその言い草は禁じ手だろう?
それは超越的な言表だからである。
>>86 意識だろう?
89 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/07(金) 17:22:30 0
90 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 17:45:57 0
無意識って、お伽噺だよ。
91 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/07(金) 17:58:33 0
意識的に夢が見れるんですか?
見れないなら主観が入ってるのは無意識でしょ
>>88 つまり非常に簡単なことだということだ。
それがわからないから超越した精神である「私」のようなものを仮定して主観に閉じ籠もる。
(但し現に主観に閉じ籠もることは不可能であるにも関わらず、にだ)
独我論てのは絵に描いた餅で実質的には何の意味もない。
現に超然として飲まず食わず眠らずで今日に至りこうして書き込みしている人はおらんだろ。
94 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 18:41:54 0
>>91 その「意識的」は、意図的とか自由意志とか、別の言い方のほうがいい。
夢をみて、その夢をおぼえていたら、それは意識内の出来事だ。
君が言いたいのは「抑圧された(無)意識が夢のなかに顕れる」とかいうやつだろう?
それはよくできた『物語』だよ。
95 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 18:43:53 0
96 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 18:47:57 0
>>92 だから、だれにとって簡単なことなんだ? 「だれにとってもだよ」って、
君は答えるんだろう? w
独我論と唯識論は、その構造が極似している。
が、同時に正反対の違いを持つ。
(
>>92の言を借りれば)、
一方は、ぴったりと閉じられた世界。(確かな物を探して)内へ内へと向かうベクトル。
一方は、広く大きく開かれた世界。外へ外へと向かう(≒関わりを基軸とする)ベクトル。
(言い回しが合っているかどうかは知らない。)
この違いはどこから来るのか・・・。
一方が「我」を消去したからだろうか・・・。
>>95 現実と遊離しすぎた妄想はあまり意味がない。
>>95 独我論自体はデカルトが古代ギリシアの哲学から再発見して単純化したに過ぎないからね。
デカルトがおもしろいのはキリスト教社会でそれを自説として提出しちゃったこと。
100 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 20:11:18 0
>>99 独我論とデカルトはもっとも相容れない思想だろう。
デカルトの私は誰でもある私だ。
そうでなければ「我あり」とは言えない。
誰って不定のニュアンスがあるからその分曖昧なんだよな。
だからそう思ってるのは誰って質問の答えもまた曖昧なものになる。
ゆえに厳密な議論も日常会話レベルになってしまうんだが、
最高位くらいだと言動全てがテキトーだしよく使ってたな。
102 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 20:38:24 0
誰といえば誰でもいい、任意の人を指し示す。
特定の人、一意の人の意味でないことは明らかだろ。
「任意」と「すべて」はおなじ意味と考えるのが数学的だね。
特定といったって、どうやって特定するんだ。
人間は移動しちまうし形は刻一刻と変わるし。
誘拐されて整形手術されて記憶喪失にされた後に解放されたら、
どこの誰だか全く分からない。
歯科医院の歯列の記録とか遺伝子照合で本人照合するしかない。
人の同一性は精神ではなく肉体の個体性として物質的に
証明するしかない。
105 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 21:25:02 0
人を特定できるのはその身体の特徴しか無いだろ。
DNA鑑定がもっとも確実な個人特定だろうね。
106 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 21:55:33 0
意識の流れそのものの様相も肉体の個体性でしょ?
107 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:19:43 0
>>79 何か勘違いしてない?
歌ったり踊ったりで乗り越えられる境界線が「私」って。
まるで当人たちは自分と他者の区別がつかないみたいに。
108 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:22:58 0
>>106 どうかな?
身体的特徴として何を調べればいいのか決め手が無い。
109 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:28:46 0
社会の中でどこのポジションに個人が収まるべきかという話と、
私の存在性とは何かって
話が違いすぎやしませんか
なんで個人特定?
>>107 自他の境界線がないときには「私」はない。
111 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:33:11 0
社会の中の「個人としての私」は実体のある客観的な「私」と言うことだろ。
そのほかに私の存在性は無いだろ。
112 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:39:40 0
単なる個人認証のIDが客観的な私の全てという事ではないだろう
私にとっての私の存在という事もある訳だし
そうなるともっと枠を広げないと
113 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:39:45 0
>>80 >>82 >「私」という境界線からどんどん色んなものを捨てていくと質点を失う。
これって、知覚(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚など)を捨てていくという意味?
で「私」を意識できなくなる、と?
まさかね、こんな思考実験には意味がないから。
114 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:45:40 0
>>113 これ、思考実験じゃなくて実際実験されてるよ
全ての知覚を遮断したまま生活させるとどうなるか
人によっては神経衰弱になったりパニック状態になったりはしたけど、まぁその程度
単なる一過性の症状で終わって、
それでも全員が会話出来る状態だったんだって。
会話がこなせながら私を意識できないはずないよね
115 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:49:58 0
ハイ、110には「自他の境界」も「私」もあるということで決まりね。
116 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:55:18 0
あ、会話がこなせているのは実験中のことね
パニックになったりした人が出たのも実験開始数時間後くらいで、
そのあと落ち着いて、
二週間程度その知覚遮断状態で全員殆ど何事もなく過ごして実験終了だったそうだ
117 :
82:2008/03/07(金) 22:58:40 0
>>113 >これって、知覚(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚など)を捨てていくという意味?
全く違いますw
118 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 23:00:24 0
あ 違ったわ実験終了後何事もなかったんで
実験中に会話出来る分けねーじゃんハハハ
感想を被験者に聞くと、体内の動きに過敏になっていた人が多かった。
身体性こそが私だとすると、知覚のない状態では普段より私を意識するようだね
>>115 「私」というのは経験的にも哲学的にもないというのが基本。
だから当然記述できないし記述したとしてもその記述は嘘でしかない。
捉えられない何かに「私」という名前を付けて実在感を得ているに過ぎないというのが現実。
試しに「私」はあると言ってご覧なさい。そのときの「私」はもうどこにもいない。
120 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 23:02:59 O
五蘊皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまう 舎利子
もちろん再三指摘されている通り霊魂としての「私」が存在すると主張するのならばそれでいい。
人間はまるで私があるかのように演技して私という幻想の主体を演じきる生き方を通すしかないわけだ。
それを演じきることが困難になった人が哲学という精神の病に迷い込むのだね。
>>119 >「私」というのは経験的にも哲学的にもないというのが基本。
私は思考・心的システムとして存在するという解釈です。
>「私」というのは経験的にも哲学的にもないというのが基本。
書かれざる囲いを囲うことはできないということでしょ。
>捉えられない何かに「私」という名前を付けて実在感を得ているに過ぎないというのが現実。
システムの能動的作動を実感しているのが「私」です。
>試しに「私」はあると言ってご覧なさい。そのときの「私」はもうどこにもいない。
嘘でも何でもなく持続的な「私」がここにいますよ。w
>>123 それはオートポイエーシス(しかも間違い)
125 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 23:34:32 0
:.:.:ノ:.i:.:l:.:.:l::.:.:.:ノ:.:.:.:/:.:./:.:.:..:../:.:./:ノヾ ヽ:.l: |:.:lヾ|:i
.:..::丿:.:i.:.:.:.l:.:/:.:.:.:.:./:/:.:.:.:/:.:.:./:.l:/./ ヽ !:|: /:ノ
:.l:.ハ:.:l:.:,−-、i/.:/.l:.:.:/:.:.:.i:.:ノ゛:. ヽ,
:l:.i:.|:.:.l´/ゝ-//:.:.i:.:.i:.:./:.. ,,;:;;:;,,.. ,.,.:;
:i:.:.:i:.:.:| ( ⌒1 ヽ:.|:.i:." __、.:"' _ニィ
ヽ:|:.:i:l.ヽ、ヾ〈: .:l:|:.:l:.  ̄`‐""ノ.:' ( "´ノ
.:ヾ:i:.:.l:. ヽ_ " :. '"´´,' ヽ"l <働け働けうるさいんだよ
ゝヾヾ ::.. :.. , ' 〉ノ 簡単に言いやがって・・・!
/:l:." :. /` - 、_ノ
::::ヽ、 :.. /:,_=--"-/
::::::::\ ::.. /:.(エl┼┼"´
::::::::::::::ヽ " ヽニ二)
:::::::::::::::::::\:... ´":j
::::::::::::::::::::::::::\ ..::::.....:.. ` .:..、_:ノ:.ヽ
::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、""´/ー'"::::::::::::::::::::::\
126 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/08(土) 00:16:24 0
先にも言いました
五感の認識による区別と、根本的自我による区別の違いでしょうか。
127 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 00:42:04 0
知覚を認識するのは自我だから
区別出来ない
今まで黙ってたけどお前は俺だよ。
本人が言うんだから間違いない。
129 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/08(土) 03:45:07 0
みんな、何がしたいの??(爆笑
130 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 04:25:40 0
>システムの能動的作動を実感しているのが「私」です。
しかし、そのシステムとは一体何か?あなたは問題を単純化しようとしすぎている。
>>123 >>試しに「私」はあると言ってご覧なさい。そのときの「私」はもうどこにもいない。
>嘘でも何でもなく持続的な「私」がここにいますよ。w
そのときの「私」はもういないということの困難はそのような意味ではない。
確かに、ある時点における「私」はすでに存在していない。
しかし、そこに矛盾は存在しない。問題なのは時間の意味である。
>>78 :唯識 ◆Vidya0E1.s :
>これらは(まず所有という考えは一旦置いて)「私」で成り立っているでしょうか。
ですから「私の主観」が客観を認識すると言う事で成り立っている訳でしょう。
客観は主観に拠って初めて成り立つ。
>>86 :考える名無しさん:
>主観は何の内側にあるの?
「私」です。
133 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 04:42:35 0
>>132 なるほど。仰りたいのは、独我論ですか?
134 :
考える名無しさん :2008/03/08(土) 04:55:31 0
>>132 主観が私の内側にあるならば、私は主観の外側にあるのですね?
そうなると、私は認識の起点ではないという事になりますよ。
135 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 05:02:40 0
自ら矛盾を晒してるな。
136 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 07:55:36 0
>>130 >しかし、そのシステムとは一体何か?あなたは問題を単純化しようとしすぎている。
残念ですがそれは解らないのですよ。気がついたときにはすでにシステムなのだから。
緑色がなぜ緑色なのか誰にも解らないのと同じ。
137 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 08:37:15 0
独我論は世界は私の世界であり、世界はすべて私の境界内
にあり、「私」が世界の限界に有るという主張だろう。
私のうちに主観があるなんて間違いだろう。
私は主観、私の主観と言うのが常識だ。
138 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 11:30:41 0
ほんとに議論を転ばすのが下手なやつばかりだな。うまいやつを呼べよ。
139 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 11:35:41 0
主観と私の関係なんて、伸びたり縮んだりするもんだろ、扱い方によって。
>>136 だから何か得体の知れないものをとりあえず「私」と名前を付けてそう呼んでいるだけのことで
霊魂だと断定しない限りそのようなものの存在を主張しようがない。
この場合はシステム=霊魂の置き換えに過ぎない。
141 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 14:52:44 0
>>136 >緑色がなぜ緑色なのか誰にも解らないのと同じ
と仰いますが、よく意味がわかりません。「なぜp=pであるのか誰にも分からない」とどのように異なりますか?
色彩の同一性の問題は共同体において初めて露呈する問題です。
私がいいたいのは、なぜ分からないもの(「システム」)を「我」の定義に持ち込むのですか?ということです。
>>136 緑色がなぜ緑色なのか誰にも解らないのと同じ。
主観による「緑色」というものは共有できない。しかし「緑色」という限り客観的な緑色のみ
ある。
問題の本質は主観(主体)が「緑色」を識別しているということ。
143 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 14:57:24 0
私をどんな理論によって理解したいのかが
見えてこないからカオスになるんじゃないの?
片方が医学的に私を示すと片方がオカルト的立場から否定しにかかるんだもん
これではお話しにならないよw
多角的に捉えようとして自分の見地が曖昧になるのって
おっさんが陥りやすいトラップだよね
>>142 そうじゃなくて、「なぜ、『その色』なのか」という理由がわからない、ということでしょ。
145 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 15:10:01 0
>>143 それは言えますね。
確かにここには他人の「あら探し」や「否定のための否定」をしている人が散見されます。
ただし、それがこの巨大な掲示板体系の本質だともいえるかもしれませんが…
しかし、私(141)はあら探しのために発言したのではありませんよ。
146 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 15:46:45 0
緑色じゃないかも知れないものが緑色に見える自分のフィルターに対して客観的になることで、
世界に対して客体である自分を知る訳で、
そこに確固とした自分の境界を見いだせるんでしょ?
それでいいじゃん
存在性が示されてるよ充分
>>144 それは脳味噌が緑色を識別する機能を有しているからで人によっては識別できない人がいるというだけのこと。(色盲)
何となく合目的的に変化して見えるような物の中には、
意志と主体が存在するんだろうなと想像してしまう。
想像された主体が私、あなた、彼、彼女、こいつ、そいつ、あいつ。
何らかの合目的性をたばねる主体があるんだろうなあ?!と想像して
仮構して呼んでいるだけであって、存在は証明できない。
法律が「存在する」と誰でも思うが、それは法律を守ったり作ったり
する人間の行為によって存在しているように見えているだけみたいな。
物質として法律が存在するのだろうかと六法全書の中を探しても
法律物質は化学物理的な物として出てこないし、
脳の中に「私」を捜しても物質的私は出てこない。そんなもんでしょ。
149 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 16:15:27 0
葉っぱが緑色に見えたというエピソード一つだけではなく、
いくつかの事項が折り重なれば、
それは私の身体性からくる個性を裏付けるものだから、
結果私の存在が浮かび上がってくる
「緑色」や「私」という言語の意味を物理化学的に取り出すことは
出来ない。
しかし、われわれは言語に意味があるかのように演技して生きないと
社会的に生きられない。
私が存在するかのように演技して生きるような幻想の社会ルール、
言語ルールが脳に内蔵されている。
151 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 17:45:08 0
物質的私じゃなくて、それらの物質が織りなす心的パースペクティブに
私という「様態」が存在しているという事
それは私の「様態」な件
153 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 17:48:47 0
>>120 >五蘊皆空なりと照見して
五蘊皆空とは五蘊が存在しないことではない。
五蘊には自性すなわち私の独自性がないというだけ。
私には存在性は有るが私の独自性はない。
154 :
144:2008/03/08(土) 18:00:06 0
>>147 だから・・・(^^;
そういうこと(識別できるできない)じゃなくて、
「それが『その色』である理由はわからないでしょ?」ということ。
>>154 「緑色」には理由はない。
「緑色」に見えるように光が反射しているに過ぎない。
漆黒の世界では「緑色」と言っているモノは輪郭のない黒。
144が正解で、142、147は的外れ。
>>141 >「なぜp=pであるのか誰にも分からない」とどのように異なりますか?
つーか、p=p、P⊃Pといった論理的真理は、それが成り立たなければ矛盾まで論理的に出てくる(論理学も物理学も成立しない)世界が実現されてしまいますが、緑色については、その色が緑色でなければ困るということはまったくありません。
>私がいいたいのは、なぜ分からないもの(「システム」)を「我」の定義に持ち込むのですか?ということです。
それは「「我」の定義」を実際にやった後で言って欲しいです。
>>150 >私が存在するかのように演技して生きるような幻想の社会ルール、
>言語ルールが脳に内蔵されている。
「私が存在するかのように」と言いますが、その「私」はある/ないorいる/いないの区別で観察している当の主体(観察システム)自体はあるんでしょ?
だったらその主体こそが150にとっての「私」ということなのですよ。
157 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 18:31:32 0
>>155 何故人間の脳にはそれが「緑」とよぶ、色合いになって映るのか、それを認識
するということにはその人の存在にとってどのような意味を持つのか、といったことじゃない?
>>156 >>136の文脈から判断するしかない。
何だかわからないけど「私」であり「緑色」であるということは単に何だかわからないものを
「私」と名付け「緑色」と名付けたに過ぎないということ。
そしてそういうものはないと言えばそれで正解。
>>157 それは認知心理学上の問題。
我々は特定の波長の幅を同一色と認知し区別するようにできているだけのこと。
161 :
144:2008/03/08(土) 18:41:33 0
>>157 違います。(この辺、最高位氏の疑問と被っていますねw)
>>155内の文章で言うならば、
「なぜ、『「緑色」に見えるように光が反射している』のか?」ということです。
問われているのは「意味」ではなく、
「なぜ、そのようなものであるのか?」ということだからです。
意味は、上記の理由がどんなものであろうと関係ありません。
「『そのようになっていること』が認識された時、そのあと要請される」ものだからです。
もしかしたら、意味が生じないこともあるかもしれませんw
>>161 いや、そうではなく、
161自身がなぜ解が存在しないような問題を作り出してしまうのかという問題でしょ。
>>162 横レスだけど、それは又別の問題でしょ。
なんでそんないっぱい問題作っちゃうかなw
164 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 19:18:37 0
「私」をある論理にそって考えようというのがこのスレの趣旨だとおもうが、
意味の中で「私」を考える場合、生物学的、心理学的基準は中心において考えられるべき
物だと思う。それで、緑に関しては、心地よさや安心感を感じるようなきもするが、それは
植物が緑色であるからだろう。物理学的側面から色について補足しておけば、色は様々だが、
それはある周波数帯で終わるということ、色は色の世界で閉じていること、生物が関わることで
色は世界に開かれることを言っておきたい。色に意味を与えるのは私なのである。
165 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 19:25:09 0
私には
>>161のほうがまた別の問題を一緒くたにしているように見えるな〜
光の反射する理由と私の間にどんな関連があるのか
説明してからにしてほしい
166 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 19:32:28 0
>>161 物理的説明をしておくと、緑に反射するのは、その物質が緑の周波数の光を吸収し、
残りのあらゆる(可視帯域)周波数の、白色光の残りが目に映るために、緑に見える(補色)。
ご存じの話しでしたらすいません。
167 :
144:2008/03/08(土) 19:48:10 0
はぁ〜・・・・・。溜め息が出るな・・・w
202 考える名無しさん sage 2007/08/19(日) 21:35:08 0
◆決定論脳は物質だから意識は必然にすぎない?61◆
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1145369837/ 290 考える名無しさん 2006/04/21(金) 11:20:10
最高位のクエスチョンは、畢竟、以下の一言に尽きる。
「なぜ、そうであったのか?」と。
そして、「それを具体的に説明できない考え方は全て間違いだ。」と言う。
「どのようにあるのか?」については全く興味がないと見えるw
唯物論は、まさにこの「どのようにあるのか?」を記述するものであるだろうに・・・。
「私(主観)」が、神様のこねた粘土に宿った霊性だったとしても、
やはり、「なぜ、そうであったのか?」と問うことはできる。
「私(主観)」が、霊魂・魂等であったとしても、
やはり、「なぜ、そうであったのか?」と問うことはできる。
「私(主観)」が、脳の中のあるパターンだったとしても、
やはり、「なぜ、そうであったのか?」と問うことはできる。
「私(主観)」が、神秘的なエネルギーが凝縮してこの肉体までも支えていたとしても、
やはり、「なぜ、そうであったのか?」と問うことはできる。
「私(主観)」が、遺伝子に操られているにすぎなかったとしても、
やはり、「なぜ、そうであったのか?」と問うことはできる。
彼のクエスチョンは、様々な考え方の限界を示すものではあっても、破壊するものではない。
なぜそれがわからないんだろうか・・・。
彼のクエスチョンは、大自然のおおいなる意思を問うているように見える。
168 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 19:57:39 0
>>167 あなたがそれに不思議さを感じるなら、あなた自身の問題として、
抱えるか提起すればいいでしょう。(私は別に不思議だとは思いません)
169 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/08(土) 19:58:46 0
>>167 Q
「なぜ、そうであったのか?」
A
誰もいない世界なんだけど誰もいなかったら
つまんないからちょっと召喚してみましたってだけです
170 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/08(土) 20:03:52 0
人間が、色んな論理の構造の中でしか生きられず、さらに自然がある論理の中で
転変を繰り返す、と言うだけの話しで、論理構造の解明は、記号論理学者、言語学者、
自然科学者が日々奮闘しているということでしょう?
最高位がこれだけ人気あるのは、縁側でお茶をすすりながら、
ボケ老人と会話している気分になるからだろうね
172 :
144:2008/03/08(土) 20:38:53 0
>>168 え?
別にどうとも思ってませんよ?
暇つぶしに考えるには面白い問いですが・・・w
これは、通常捨象しておくものだと思ってますんでw
もうひとりのボケ老人は決定論スレにいる。
最高位の思考回路は幼子と大して変わらんからな。
声を大にしてなぜなぜどうして?と聞きまくる。
他人の答えを聞き入れないぶん、幼子以下かもしれんがw
なぜ、「なぜ、そうであったのか?」なのか?
「なぜ、そうであったのか?」であらねばならない理由はあるのか?
177 :
144:2008/03/08(土) 22:35:46 0
>>175 ないでしょ。
「だって、そうなってるんだから」
の一言で片付けても構わないでしょw
と、冗談はともかく、
ヒトは、理由を求める生き物なんじゃないかな?
178 :
12:2008/03/08(土) 22:43:02 0
>>161 「認識」という君の言葉の使い方が変なんだよ。“緑”は知覚された心的内容
であり、“意味”を担わされている。赤や黄やその他の色との差異、それが緑
の意味である。認識という漢字をよくみるといい。w
>>167 「どのようにあるか」は主観であり、たとえば“緑”にどういう意味を付与する
かは『私』に委ねられている。
最高位が(たぶん)震撼したのは対象の原因を問い、対象に意味づけする『主体』
が「ある」という事実だと思う。この『主体』は唯物論によって言述できない。
唯物論が(共同)主観だからである。
たから『私』などはない、あるいは脳の機能だといって頬かむりするのが無難
ではないか。
まあ、客体化できるからこそ主体があるなんて言えるんだけどな。
一般には容易くても最高位とかにはかなり難しいんだろうな。
180 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 00:25:14 0
客体化しているのは誰?
とか、思考が逆戻りしてしまうニワトリ脳には無理。
このスレに何かを記した段階で、何を記そうが
「私」を記したことになる。「記述してください」ってだけなんだからな。
これに疑問を持つ奴はアフォ。
クソスレ終了。
鏡に映るのは誰?
>>180 誰かであるとすることも客体化の結果だろうに。
最高位並の頭じゃ分からんか・・・
>>65 >普通は「無意味」にはならない。
普通はそうだと思います。
ですが、12氏の理屈は普通とは違うのだと思います。
「私」の主観によって切り取られ意味づけられたのが”世界”だと言うのです。
この”世界”には他者による意味づけは成されていないのではないかと考えられます。
普通の私たちの世界の事ではありません。
「私」を探す長い旅の終わりに遂に探し求めていた叡智にぶつかり申した。
それは「腹の虫が治まらん」という日本語。
「私」は「腹の虫」に突き動かされていたのか。
即ち衝動とか動機というものはそのようなものであると長らく正しく考えられていたというわけだ。
>>64 >突き詰めれば、価値観の違う“他者”は無意味なのでは? この“本音”は、
>いまも超克されていないでしょう? 日々、どれくらいヒトがヒトを殺しているか
>詳らかにしないが、その理由はそこに帰着するはずです。
意味不明です。
ヒトがヒトが殺すとは「私」によって意味づけられているので無意味ではないでしょう。
何故それが「価値観の違う“他者”は無意味」という理屈になるのでしょうか?
質問が理解出来ているのでしょうか?
>(私の)世界内の他者は『私』が主観的に切り取った(切り取らされた)存在なので、
>「彼も主観を持っているらしい」というのは、あくまでも私の類推(主観)です。
まったく類推になっていません。
類推ならば(私の}世界内の「リンゴ」と「他人」でしてください。
比類無き存在の「私」であるならば、「私」から他者を類推は出来ません。
>>66 何故他人語りになっているのでしょうか?
無価値(無意味)だと殺すとか意味不明です。
無生物にだって価値(意味)はあるでしょう。
187 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/09(日) 01:31:05 0
>>131じいさんさん
では主観は何に因って成り立っているのでしょう。
いろいろ議論されてますね。
188 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 02:14:16 O
主観の中で眠気を感じて、そして何時しか眠る。
主体は命じる。
主と従、主人と奴隷の対立ですべて考える癖があるようだ
主語と述語
述語は主語の奴隷になる
客体は主体の奴隷になる
はたして?
我思うゆえに我ありの我は主人か奴隷か
190 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 02:30:23 O
主観の中で恐怖を感じて、そして逃げる。
主体は命じる。
>>189 極論すれば、
述語しかない、というのが仏教の世界観かもしれませんね。
で、述語のくせに主語ヅラして「俺が俺が、私が私が」と自己主張を言い出すから
苦が生じる、と・・・w
192 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 02:36:09 0
「われ思うゆえに我あり」なんて、ただのシーソーみたいなものだ
何かを疑おうとすると、その疑いは残る
それを「私」と名付けてもまた疑えるけど、そこに先ほどとは別の疑いが生じている(ほら、違う疑いでしょ)
確固とした疑えない土台の発見ではない
なんでも疑えるけれど「すべてを同時に疑うことはできない」というシーソーの発見だ
>>192 べ、別に、あんたの為に思ったわけじゃないんだからね!
「私」、「私」と狐が取り憑いて言わせているだけだよ。
他人にも「主観」があるのならば、
何故、「私」は他人の「主観」にならなかったのでしょう?
「私」が他人ではないという 「主観」的 な理由はありませんね。
197 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 02:49:16 0
普遍文法という理論が正しいのであれば、
それは脳の活動や仕組みとして解明できるはずだと期待をかけられてはいるが。
>>196 お馬鹿さんですねw
主観であったら「私」であることしかないでしょ?
主観によって(主観として)意識されるなら、それは全て「私」でしかない。
「私」が「他人」であることは、
絶対に、決して、間違っても、天地がひっくりかえっても、お日様が西から昇っても、
ありえないことなんですよw
199 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 03:03:26 0
>>198 それを離人症のひとにはどう説明するの?
200 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/09(日) 03:07:05 0
>>167素人くん
何度も言うけど、自演やめろって(苦笑
>最高位のクエスチョンは、畢竟、以下の一言に尽きる。
>「なぜ、そうであったのか?」と。
どのようにあるのか?しか思いつかないのは、サル
なぜそうであったのか?という原因性まで考えちゃうのが、人間
>そして、「それを具体的に説明できない考え方は全て間違いだ。」と言う。
全て間違いだ という事を言っているのではない(苦笑
唯物論は間違いだ と言っているんだよ
>「どのようにあるのか?」については全く興味がないと見えるw
どのようにあるのか?を探るのは科学だね
全く興味がない のではなく、現代哲学の視点ではないので論点がズレている というわけだ
>唯物論は、まさにこの「どのようにあるのか?」を記述するものであるだろうに・・・。
どのようにあるのか?を論ずるのは科学であってね
唯物論は、その枠組みを越えて、原因性に言及しているんだよ
なんで何回言っても、科学と唯物論を混同しちゃうのかねぇ
唯物論というのは、「世界の全ては物質でできており、故に人間の精神も物理現象にすぎない」
とする思想なんだよ
ゴッチャにしちゃいかん
それぐらい分別できなきゃ哲学なんて、とても無理
>>199 精神科の臨床医に聞いたら?
てか、
198に気付けたら、治癒完了だと思うよw
けど、その為の言葉(文章)を見つけられるといいだろうな、とは思う。
カルト教団から脱会させるより難しいかもしれんが・・・。
202 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/09(日) 03:09:40 0
>>196さん
防壁を外したネットワークPC
という感じでしょうか。
僕らのアイドル、最高位キター!
当分、哲学と関係ある話にはならないな
204 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 03:16:36 0
哲学によって最高位を治療するすれ
205 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/09(日) 03:21:00 0
>>193 >なんでも疑えるけれど「すべてを同時に疑うことはできない」というシーソーの発見だ
「すべてを同時に疑うことはできない」 ←誰が?(爆笑
>>198 うむ
そういう事ですね
私は、なぜ存在しているのか?という観点に立つべきですね
なぜ他の体にではなく、この体なのか
その因果関係が重要でしょう
しかし、それは有りえません
よって唯物論と決定論は、そいを主張できる根拠を失う
という話ですね
理性ある者は誰もが、、、である
したがって、次のように言い換えれる
「理性を捨てれば『我思うゆえに我あり』もまた疑うことができる」
>>198 根拠が何もない。
君は「私」なのか?それとも「私」じゃないのか?
君は誰だ?
根拠はあるさ
210 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/09(日) 03:47:31 0
仏教以外でも遣われる言葉ですが
先天、後天という考え方はどうでしょうか。
君は誰だ?
212 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/09(日) 03:51:07 0
>>134 :考える名無しさん
主観の外側は客観です。
認識の起点は主観です。
>>137 そうですね、ですから境界とか限界とかで私を範囲付けすると矛盾が出てきます。
主観と言うのは文字通り観点です、「認識の起点」と言うことです、範囲付けではありません。
そして世界と言うのは客観世界のことです。
君は「誰」なんだ?主体なのか?存在なのか?「私」なのか?
214 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 03:54:06 0
なんで自分ってこんなこと考えるのかな
から始めればいい
そう考えている自分に気づく事
>>212 では主観は範囲で客観はその範囲外の全てということでよろしいですね。
では「私」はどこ?
216 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/09(日) 03:56:32 0
緑色はおよそ490-575nmの波長の光と定義されるので解明する必要はありません。
解明できないのは「鮮やかな緑」などと言う時の「鮮やかな」と言う心象です。
217 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/09(日) 03:59:39 0
>>215 :考える名無しさん:
>では主観は範囲で客観はその範囲外の全てということでよろしいですね。
だから範囲でなく観点だと言っているでしょう。
言っている傍から間違わないで。
なんで範囲が必要なの???
外側があるということは同時に内側もあるということ。
つまり外と内を分ける境界線があるということ。
さて困った。行き当たりばったりにデタラメばっかり書き散らして一人勘違いしている
痴呆がかったじいさんのハッタリがこのスレでは通用せん。
君の主張なのか私の主張なのかどっちなんだ????
222 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/09(日) 04:25:30 0
>>218 :考える名無しさん:
見えなくなるんじゃあない普通。
>>219 :考える名無しさん:
>>220 :考える名無しさん:
側と言うと境界線が必要と言うなら、「側」は取りましょうね。
何度も繰り返すが主客の相対的関係「認識するものと認識されるもの」が(観念)世界と言うこと。
主観に範囲は在りません。
>>222 外があれば内があるよね。
じいさんが妄想している主観−客観の独特な判然としない定義と同じ。
224 :
12:2008/03/09(日) 12:09:40 0
>>186 私の述べていることが意味不明なら、無視したらよろしい。意味不明な書き込みに
粘着する意味がわからない。
ヒトがヒトを殺すのは「お前は生きるに値しない」ということの実践的表明でしょう?
『私』は主観的には“神”ですら類推できます。“他者(の主観)”を類推するくらいは
そう難しくはないでしょう? 「(どういう意味かよく知らないが)比類なき私」の主観
の取り柄は、勝手に想像したり類推できることです。
>>66 は貴兄に対するレスではないでしょう?
事物に意味や価値を付与するのが主観でしょう? 微生物であれ何であれ、存在意義が
あると思われるものは貴兄が大事にすればよろしい。
225 :
12:2008/03/09(日) 12:28:26 0
>>184 いや、そんなことは言っていない。事象は、他者によっても“(彼の)世界”
として意味づけされているだろうと類推している。そう述べているはずだ。
「普通」って何? 現に、その範疇から私を排除せざるを得なかったのだろう?
排除や差別を正当化する概念、それが“普通”だよ。
226 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 12:36:49 0
>>224 >>66はオウムという特殊な事例を挙げて、「〜も少なくない」などと誤魔化して
一般化しようとしているから、ナンセンス。
>>65の
>自分とは異なる意味づけを「無意味」と判断するか否かは判断する主体の問題だよ。
の「意味」に「価値」を当てはめればそのまま成り立つから、65への反論になっていない。
227 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 12:43:09 0
>>225 >「普通」って何? 現に、その範疇から私を排除せざるを得なかったのだろう?
「普通」から排除されるのは、普通でない(危ない人)ですよ・・・
オウムは「普通」から排除するのが、「普通」ですw
228 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 13:01:24 0
思いこみの激しいニワトリ脳(最高位)が現れたな。
こいつは「理論」も知らないから、
>どのようにあるのか?を探るのは科学だね
などと、平気で言いよる。
科学でも、
実験に頼らず、頭だけで(直観と数式だけで)法則を作ってしまうことはある。
アインシュタインの「相対性理論」くらい小五の子供ですら知っているというのに。
いい加減、義務教育レベルに達しないとな。
>>224 >私の述べていることが意味不明なら、無視したらよろしい。意味不明な書き込みに
>粘着する意味がわからない。
説明の放棄ですか?
>ヒトがヒトを殺すのは「お前は生きるに値しない」ということの実践的表明でしょう?
あなたの主観性理論によりますと、ヒトとヒト(この場合は「他人」と「他人」)が殺し合うのは、
「私」の主観によって切り取られて意味づけされた「私」の世界内の出来事です。
世界の一切は「私」によって意味づけられているという点においてリンゴもヒトも差はないはずです。
世界内に「私」にとって無意味なものはない、と言わねばおかしい。
無意味な他者の「主観」は私の世界内にはあり得ないではないか。
ヒトとヒトが殺すのは「私」の世界内における「私」の価値観(切り取り方)の問題であって、
他者の「主観」とまるで関係がない。(ゾンビが殺し合いしているだけかもしれない)
「何故ヒトは殺すのか?」の理由は、『「私」が世界をそう切り取ったから』でしかない。
他者の主観が無意味であるのは殺し合いをするからではなくて、
単に(もしあるとすれば)「私」の世界の外にあるから(「私」が切り取ってないから)
でないと理屈に合わない。
最高位理論だと、いくら肉体を攻撃しようが殺そうが、「主観性」=「存在性」は脅かされない。
殺すという事は肉体的な意味しかない筈。
殺し合いをしているのは「他人同士」であって「私」ではないしw
主観性理論は「他人」がゾンビであっても成り立つ理論でなければならない
231 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 13:27:09 0
義務教育レベルに達しないニワトリ脳が
形而上学的なものにはまると、トンデモ世界が現れる。
ゾンビどもがいくら殺し合いをしようが
「私」は絶対に否定出来ない!!(爆笑
こう言わんとな
ゾンビ同士が殺し合いしている分にはそれでいいが、
自分を殺そうとしてきたら、「否定出来ない」と済ましてはおられんぞ。
234 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 14:42:33 0
ゾンビどもが「殺そうとする」はずもなかろう。
235 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/09(日) 14:57:22 0
キョッキョッキョッ♪
∧_∧
<"`∀´ >
( )
. し―-J
キョッキョッキョッ♪
∧__∧
< "`∀∀´>
( )
し―-J-J
ギョッギョッギョッ♪
∧_∧_∧
< "`∀´`∀´>
( .)
し―-J―-J
キョッキョッ♪ キョッキョッ♪
∧_∧ ∧_∧
< "`∀´><`∀´">
( >< )
し―-->.<-―-J
ウェーハハハ♪ ウェーハハハ♪
∧_∧ ∧_∧
< "`∀´> < "`∀´>
( ) ( )
し―-J し―-J
>>233 ゾンビが殺しに来たとて、殺されるのは「私」ではなくこの肉体じゃろうて。
この肉体が死んだとて、それは「私」の死体であって、
まさか「他人」の死体にはならんのじゃろうから、
死体を見ている不滅の「私」がどっかにいるんじゃろw
で済ましてしまうのじゃ!
237 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/09(日) 15:08:07 0
>>223 :考える名無しさん:
>外があれば内があるよね。
はいその通り、その事を内と外の相対的関係と言います。
相対的関係と言うのは当に関係(観点)であって、境界を決める範囲設定と言うことではないのです。
関係であって図式ではないと言うと判りやすいか・・・・。
具体的には北と南とか言う関係、境界は無い。
238 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/09(日) 15:24:06 0
>>236 :考える名無しさん:
>死体を見ている不滅の「私」がどっかにいるんじゃろw
貴方の「私」が不滅なら100年前は貴方の「私」は何処にいたのか?
しかし、北と南は地球という物質の地軸に対して北極点と南極点と、
ラベルを貼っているわけだよね。物質にはそのようなラベルが貼れる。
が、精神に北や南がないように、精神に物質と同じ関係性が
あるのだろうかと疑問に思う。
内と外ということなんだけど。
認知言語学という面白くて胡散臭い学問がある。
身体図式を考える上でとても面白い記号論なのだが、
あれは哲学的にはどうなんだろうかいいんだろうか?
という問題に繋がるな。
241 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/09(日) 15:58:40 0
>>239 :考える名無しさん:
>>240 :考える名無しさん:
あなた方は相対的と言う意味が判っていないようです。
北と南は地球の極点とは違います。
ラベルを貼る問題でなく、二つのラベルそのものの相対関係です。
貼る場所で月でも太陽でも家の中でも北と南のラベルは対峙しています、で片方が無ければもう一方も消滅します。
速度などもそうです、速度は全て相対速度です。
プラスとマイナスもそうです。
磁石を半分にしても両極は新たに対峙します。
>>241 いや、ですからあなたのそれは、物質へのラベル、つまり、
物の形・大きさ・位置・空間に関する性質と関係へのラベルでしょう。
あなたの物質的な例に関しては、僕も同意しているわけですよ。
あなたは「私」を物質だと考える立場ですか?
243 :
242:2008/03/09(日) 16:16:36 0
物質的な例に関してじいさんに同意しているという発言は撤回します。
じいさんの論理の穴をいちいち揚げ足取りする非生産的な事は
したくないので、そこには目をつぶって、
じいさんが例を示す中で言いたいであろう中心的なことには同意します、
と言い換えます。
245 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/09(日) 16:46:51 0
/ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄\
/-=・=-,-=・=-V-=・=-,-=・=-ヽ
|:::: .,,ノ((U))ヽ :l:::::.. ,,ノ((U))ヽ l_
/ ̄ ̄ ̄\. -=ニ=- ' 人::... -=ニ=- ' 丿 \
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☆ |::::..,,ノ((U))ヽ、,, l '' ''''' ''''' \((U))ヽ、,,l
│ ヽ:::..-=ニ=- ' 丿 -=・=-, 、-=・=-|=ニ=- ' 丿
│ / ̄ ̄ ̄\ ,,ノ((U))ヽ、,, |  ̄ ̄\
│ /-=・=--=・=-ヽ:::::: ヽ`-=ニ=- ' |-,、-=・=-\
│ |::::.. ,,ノ((U))ヽ l::::::::::::. ノ((U))ヽ、,, l 絶対的と相対的かね?
│ ヽ:::. .-=ニ=-/ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄\ニ=-' 丿
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\/ ̄ |::::.. ,,ノ((U))ヽ、,,l:::::. .ノ((U))ヽ、 l
/ ヽ:::..`-=ニ=- '.人:::.. -=ニ=- ' ノ
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246 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/09(日) 17:14:26 0
>>239 人間がラベルを貼るのは便宜のためだが、北と南、などのラベルは、はがしてみれば
相対的な空間中の二点がのこる。この空間的相対性は、自然の構造によっていて、
人間の認識とは全く関係がない。
247 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/09(日) 20:10:54 0
ラベルを燃やせば火になるように、言葉も、音韻を集めれば歌になる。余剰性
とも呼ぶべき、自然からの贈り物である。
248 :
12:2008/03/09(日) 20:18:53 0
>>229 「意味不明」な私の書き込みに延々とレスをつける貴兄に不気味さを感じて
いるだけです。w 意味不明のものには普通wコメントできないでしょう?
リンゴとヒトの差異が私にとっての意味である。
主観に映じていながら、意味づけられないものは結構、多いのではないか。
たとえば、私の書き込みに意図不明の長文のレスをする貴兄のような存在とか。
あるいはオームが何を目的としてきたのかも、よくわからない。
貴兄もオームも私の主観内存在なのだが…。
つまり、それらは不気味としか言いようがない。嘔吐を催すほどではないが。
「ヒトとヒトが…」から「理屈に合わない」までは意味がよくわからない。
私の“世界”のそとにあるものは(私には)意味がないので殺す必要がない。
249 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 20:46:07 0
>>244 じいさんの「相対」は“絶対”の対義語ではなく、向き合っているという意味で
用いているようだ。「あいたいしている」ということだろう?
250 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/09(日) 21:15:21 0
>>248 横レスで失礼します。あなたの”世界”の外にある他者に関して、
意味がないので殺す必要がないとおっしゃるが、その多くの他者が
あなたに害をなさないという保証はどこにもない。つまり、”他者”
は他者であり、あなたの”私”と対をなす存在ではないということです。
あなたは透明な”他者”の存在は感知できない、とおっしゃるかもしれないが、
あなたの”世界”がある日突然崩れること、”他者”が「主体」として
乱入してくることは、十分有りうることだと思います。
251 :
Wittgenstein教:2008/03/09(日) 22:31:39 0
>>241 >北と南は地球の極点とは違います。
いいえ、違いません。
「北」など方角の概念は、地球と太陽の位置関係、運動の関係など様々な事実に依存しています。
そしてそれは地球の形に依存するようにして定義される「極点」の定義とまさに同じようにして依存しています。
北や南という概念の定義は左、右といった概念の定義に依存しています。
そして左、右といったものが何によって決まるかを考えてみて下さい…
北と南、左と右それらは所詮レッテルにすぎないのです。
>ラベルを貼る問題でなく、二つのラベルそのものの相対関係です。
たとえば、人間の認識に依存しない「左そのもの」といった概念は端的にナンセンスです。
252 :
参考w:2008/03/09(日) 22:33:34 0
978 神も仏も名無しさん sage 2007/12/24(月) 11:23:03 ID:mATCm25G
>> 975
>だから「独立して存在」するという意味と同じなんですよ。
単に≪独立して存在する≫と言った場合と≪【認識(主観)から】独立して存在する≫と言った場合では、
それなりに重要な違いがあるのではありませんか?
(以前、電波氏が「唯識の外界」についてチラッと語っていたような気もしますが・・・)
まず、極論としてこのような見方がある。
『およそ「世界」と言われるものは、「(一個人、もっと言えば自身に於いて)認識されたもの(主観に映じたもの)」しかない』
『客観はあり得ない』
『認識(主観)の外はない』
外界は、主観に映じた世界から「おそらくそのようであろう」と類推・想像・信用するしかない、と。
人が知り得るものは何一つない、と。確かなのは、自身の主観に何かが映じている、そのことだけである、と。
自分が水槽に浮かんでいる脳である可能性を否定することは不可能である、と。
仏教は、こうした立場なのでしょうか・・?(唯識はこれに近いかもしれませんが・・w)
映画マトリックスのネオのように、マトリックス世界をマトリックスであると知ることが悟りなのでしょうか・・・w
上記は当然極論です。それを、段階的に緩くして幾つもの階層(視線の種類)を設けることも可能です。
その時、『自身の認識(主観)と関連のないものは存在するのか』
『地球の裏側は存在するのか?』『隣の田中さんが食べた夕食の水炊きは存在するのか?』
『こちらが鈴木さんです。と、紹介された時、紹介の言葉を聞いた時・鈴木さんの姿が目に入った時、
その時初めて鈴木さんは出現したのか?それまで鈴木さんは存在しなかったのか?』
これらへの回答はどうなるのか。
(上記の極論でいけば正にその通り。紹介されて初めて鈴木さんは「世界」に出現したのだ!)
※ 『こちらが鈴木さんです。と、紹介された時、紹介の言葉を聞いた時・鈴木さんの姿が目に入った時、
その時初めて鈴木さんは出現したのか?それまで鈴木さんは存在しなかったのか?』
これらへの回答はどうなるのか。
(上記の極論でいけば正にその通り。★紹介されて初めて鈴木さんは「世界」に出現した★のだ!) ※
じいさんが言い続けているのは、「〜について」の意見や印象ということを考えた場合、この「〜」を対象化する主体を「主観」、対象化されるものを「客観」と言っているのだと思います。
>>218 >目をつぶったら緑は分からなくなる?
そうなんですよね。
色は光による刺激だけで知覚されるわけではありませんよね。
色を思い描くこともできますし、色どころか光まで眼球に圧力を加えることで知覚されますね。
どうもそうしたことから<システムには外部も内部もない>などと言われているようで。
254 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/09(日) 22:52:30 0
>>253 あなたの論点とは別のことを言いますが、何かについての印象を取り上げてみると、
その何かに対する先入観というものが大きな役割を果たしています。自分の態度
によって、何かの知識や意見に対する受け入れの量が大きく変わってくるのだと
思います。それは、「私」のあり方について、一つの部分をなすことだと思います。
255 :
Wittgenstein教:2008/03/09(日) 23:04:05 0
>>253 >色は光による刺激だけで知覚されるわけではありませんよね。
>色を思い描くこともできますし、色どころか光まで眼球に圧力を加えることで知覚されますね。
ええ?本当ですか?(横レスですが)私にはそうは思えません。
思考の内に色は存在しないように思えます。
たとえば、「ある色を思い描く」というのは「光のある波長を思い描く」ということとは意味が違いますね。
後者は波長を像として思い描くことにより思考可能です。(例えば、y=sinxのグラフを思い描くこと)
しかし、色は?色彩というのは像ではありません。性質の一つとして捉えるべきでしょう。
>>254 >それは、「私」のあり方について、一つの部分をなすことだと思います。
これは大澤真幸の<先行投射>とか<対他的反照規定>的なことかな?
喩えて言えば、AがBを「非常識なヤツだ」と思った場合、Aが暗黙裡に前提している常識(規範)に照らしてBを非常識と規定しているという意味なんでしょうね。
>>255 >ええ?本当ですか?(横レスですが)私にはそうは思えません。
つーか、色って目をつぶっても想像できるでしょ?
でなきゃ、布団の中で明日着る洋服の配色なんか考えられなくなる。
>思考の内に色は存在しないように思えます。
よくTVなどで「夢はカラーで見る?白黒で見る?」っていう(ちょっとバカっぽい)会話があるじゃないですかぁ。
>しかし、色は?色彩というのは像ではありません。性質の一つとして捉えるべきでしょう。
像が表象(記憶表象or想像表象)できて、色が表象できないというのは理解できません。
ひょっとするとクオリアか?
257 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/10(月) 00:12:59 0
>>256 >像が表象(記憶表象or想像表象)できて、色が表象できないというのは理解できません
表象ではありませんが、ideaとして存在するのは、像はそうですが、色はそうじゃないですよね。
色は特殊な観念だと思います。(色だけではありませんが。)それによって何を構成するかとゆうこと
ですよね。
258 :
12:2008/03/10(月) 01:31:11 0
>>250 横レスレでも何レスでもいいが、私の述べていないことに疑義をつけ
られても…。
「世界のそとにある他者」などと言ったことはありません。“他者”は
意味づけされており、世界内・存在でしょう。意味には何らかの“濁り”
があり、したがって「他者」もまた透明なはずがありません。
「お前の書き込みは意味不明」と言いながら、長文のレスを返してくる
名無し氏の“乱入”に少し驚いています。
なお「世界のそとにある何か」は名づけえないものでしょう?
259 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/10(月) 02:39:37 0
>>229 >最高位理論だと、いくら肉体を攻撃しようが殺そうが、「主観性」=「存在性」は脅かされない。
完全な誤読だな(苦笑
知能が低いと、こういう早とちりをしちゃうんだね
私が言ってるのは
「体の側の物理的な法則は、私が存在した原因性には成りえない」
という事であってね
反論するなら
「『私』の原因性は物理法則で説明できる」という論理で来なきゃならんだろ
そんなワケわからんトンデモ理論に飛躍させてもらっては困る
260 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/10(月) 02:43:03 0
色というのは、クオリアであり観念です
色は実際には存在しません
観念にのみ存在します
261 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/10(月) 02:53:52 0
>>242 :考える名無しさん:
>あなたは「私」を物質だと考える立場ですか?
>>246 :Absalom
>この空間的相対性は、自然の構造によっていて、 人間の認識とは全く関係がない。
主観が客観(自然界)を認識するときに例に述べたように多くは相対的な認識をする。
それは自然界そのものに相対的関係が内在しているのではなく、人の脳の構造が外界(客観)を相対的にしか認識できないからだと考えます。
この脳の性質は観念的思考にも及んでいます。
幸不幸、大小、暑い寒い、善悪・・・全て相対的尺度です。
そのような観念の癖も同様に脳の構造から規定されると考えられます。
だからと言って脳の機能としての心(意識)が物質である訳では在りません。
いえるのは心は物質としての脳の構造に制限(規定)されると言う事です。
262 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/10(月) 03:03:38 0
>>249 :考える名無しさん:
>じいさんの「相対」は“絶対”の対義語ではなく・・・・
いいえ絶対の対義語です。
ですから同時に「あいたいしている」という意味も含んでしまいます。
>>251 :Wittgenstein教:
相対的な関係の事象には絶対的な存在性は無い。
ですからラベルをはがすと消滅します。
>人間の認識に依存しない「左そのもの」といった概念は端的にナンセンスです。
そういうことです。
最高位ってただの白痴だな。
264 :
考える名無しさん:2008/03/10(月) 09:48:09 0
>>252 その質問をしている人は「地球に裏側がある」ことを知っているじゃん。w
次のも同じ。田中さんが水炊きを食したのを知っているのだろう?
問いの立て方がナンセンスなんだよ。
265 :
Wittgenstein教:2008/03/10(月) 22:01:03 0
>>261 「じいさん」さん。
>人の脳の構造が外界(客観)を相対的にしか認識できないからだと考えます。
よく意味がわからないのですが…
たとえば、空間を絶対空間(ニュートン)として認識するときの我々の認識の
仕方が相対的であるとする根拠はどのように説明可能ですか?
>相対的な関係の事象には絶対的な存在性は無い。
あなたが仰っているのは、「pは相対的であるならば、pは相対的である」(同語反復)という風に聞こえます。
明確な主張がお聞きしたいです。
>単に≪独立して存在する≫と言った場合と≪【認識(主観)から】独立して存在する≫と言った場合では、
うーん?
見ているときだけ存在していて見てないときは非存在、という意味と、見ていても人間の認識システムとは独立の「もの自体」が存在している、という意味なのか?
>『地球の裏側は存在するのか?』
地球に表があることをどうやって知ったのかぁ?
表って何処だろ?
>『隣の田中さんが食べた夕食の水炊きは存在するのか?』
食べ残しがあるかないかのこと?
267 :
考える名無しさん:2008/03/10(月) 22:50:18 0
>地球に表があることをどうやって知ったのかぁ?
日本には表日本と裏日本があるね。
地球にも表もあれば裏もある。人生と同じだ。
268 :
考える名無しさん:2008/03/10(月) 23:04:33 0
う〜ん・・・
(表象対象)富士山 ←|← 意識(主体)
(表象対象)モノ自体←|←(富士山の表象)=意識
地球は蛇の上に乗った象さんが背中に乗せて支えてるんですよ!
270 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/10(月) 23:59:16 0
知っていなければ存在しないも同じ
しかしただ単に知らないだけ、ということでしょうか。
271 :
考える名無しさん:2008/03/11(火) 00:10:25 0
知っている物事がすべて存在するわけでもない。
ありえないことだと知っていることもある。
存在するには存在する条件が必要だろう。
>>265 >たとえば、空間を絶対空間(ニュートン)として認識するときの我々の認識の
>仕方が相対的であるとする根拠はどのように説明可能ですか?
たぶん「絶対」と「相対」との相対関係で認識ということでしょ。
こちらとあちら、上と下、左と右、高いか低いか、熱いか冷たいか、硬いか柔らかいか、
美味いか不味いか、楽かきついか、得か損か、少ないか多いか、長いか短いか、
厚いか薄いか、速いか遅いか、太いか細いか、明るいか暗いか、
切れるか切れないか、複雑か単純か、自然か不自然か・・・・・・
「絶対空間」は「運動と変化が何に対して生じるのか」という問題に対する一つの考え
これを批判したのはマッハの「相対原理」
これは「運動は、対象と観察者との間に成立する変化である」という考え方
絶対空間は「対象と絶対空間の間で成立する変化である」と考える
274 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/11(火) 03:33:18 0
>>265 :Wittgenstein教:
>たとえば、空間を絶対空間(ニュートン)として認識する ・・・
ん〜基本的には人間は「空間認識」の能力は無いのでは・・・
例示として話が余計判りにくくなる様な気がします。
ウィキペディアによれば「ライプニッツは、相対空間の属性を提示した。」とありますが、ライプニッツのような捕らえ方に近いのでは・・・・。
>「pは相対的であるならば、pは相対的である」(同語反復)という風に聞こえます。
そうではなく相対的にしか存在しないものは絶対的存在性は無いと言うこと。
要は主観も客観も絶対的存在性は無いと言うこと。
275 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/11(火) 04:38:28 0
相対は関係性ですね
また時間経過があるからこそ相対的に見えるんです
全て静止状態だったら絶対的に見えますよ
動くものが無い部屋の中で周りを見回すと
自分は絶対座標の原点にいます
276 :
252:2008/03/11(火) 09:13:56 0
まず、
>>252は、
>>229>>233>>236>>248、特に
>>250を受けての参考であることをお断りしておきます。
(言い換えるならば、一連のレスは
「他者は、どこにどのようにいるのか?いや、そもそも他者なんているのか?」ということでしょう。)
>>266 > >単に≪独立して存在する≫と言った場合と≪【認識(主観)から】独立して存在する≫と言った場合では、
この一文は、「仏教という枠の中で」“自性”“縁起”(或いは“唯識”)というキーワードを軸に、
外界や「存在(実在・実体・対象そのもの)」といったものへの視線の採り方に関連しています。
この一文のみを拾い上げ哲板へ持ってくると、議論の焦点が変わってしまいます。
>地球に表があることをどうやって知ったのかなぁ? 表って何処だろ?
そういうことではないのですが・・・(^^;
>食べ残しがあるかないかのこと?
違います。
>>268さんの後者の図式が近いと思われます。
≪|←(富士山の表象)≫の部分が「(主観としての)“世界”」ということになるでしょうか・・・。
また、
>>270唯識さんのレスが端的に言い表しています。
『「(それが)存在する」ということは「(それを)知っている」』ということであり、
『「(それを)知っている」ということは「(それが)存在する」』ということであり、
『「知っている範囲」が「“世界”(の限界)」である』ということです。
(この時の「知っている」を、具体的・詳細な認識でなく、「(感覚的に)知覚されている」だけとしても構いません。)
今はちょいと気忙しいので、落ち着いたら252※印部分に解説を加えてみましょう。
277 :
252:2008/03/11(火) 09:22:23 0
一応、252中の3例について、少しく言い換えておきましょう。
『地球が球体であり、その直径の先にも地表があるということを知った時、
その時初めて、地球の裏側は存在し始める。(それまで、地球の裏側は存在しない)』
『「田中さんトコ、昨夜水炊きだったんだって」という情報を入手した時、
その時初めて、田中さん家の水炊きは存在し始める。(それまで田中さん家の水炊きは存在しない)』
『こちらが鈴木さんです。と、紹介された時、紹介の言葉を聞いた時・鈴木さんの姿が目に入った時、
その時初めて、鈴木さんは存在し始める。(それまで、鈴木さんは存在しない)』
278 :
考える名無しさん:2008/03/11(火) 09:23:41 0
>>276 気忙しい?
また、性悪女に惚れたんじゃないの? ww
>>278 年度末年度始めは色々あるんだよw
頭の中が落ち着かないので、新規の長文練り直しは_www
280 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/11(火) 09:32:52 0
>>275 :NAS6 ◆
>相対は関係性ですね
相対は人の認識の仕方だと考えます、だから・・・・・・・・
>自分は絶対座標の原点にいます
と言うことになる。
いつでも人は認識の中心にいる、だから事象のどこを切り取っても金太郎飴のように自分を中心として世界を認識する。
これが相対の本質である。
281 :
252:2008/03/11(火) 09:41:15 0
あ、もう一つ補足しておきましょう。
>>268後者の図に手を加え、
(表象対象)モノ自体←|←(富士山の表象)=意識 |← 主体(『私』)
というのが、最高位系統の考え方となるのかもしれません。
勿論、
|←(富士山の表象)=意識 |← 主体(『私』)
ということもありえます。
ネコはこちらかもしれません。
282 :
考える名無しさん:2008/03/11(火) 10:40:51 0
ニュートンの絶対空間でも絶対座標やその原点はない。
座標は常に相対座標でその原点は自分の都合で決められる。
ニュートン力学で時間・空間は助変数として扱われる。
>>281 >(表象対象)モノ自体←|←(富士山の表象)=意識 |← 主体(『私』)
>
>というのが、最高位系統の考え方となるのかもしれません。
それだと「最高位系統」というか、主体が対象を構成するという、普通の構成説ですね。
反映論か構成論か・・・・
カントによって哲学が存在論から認識論へと転回して以降は、哲学的には構成論が優位ですね。
284 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/11(火) 14:49:55 0
>>282 ビッグバンが起きた空間が絶対座標の原点ですよ
285 :
考える名無しさん:2008/03/11(火) 15:23:16 O
ビッグバン宇宙論では相対時空しかない。どこに時空の原点がある?ビッグバンは特異点でしかない。
286 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/11(火) 15:31:01 0
>>285 だからビッグバンの爆発が起きた空間ですよ
覆われていて隠蔽されているに過ぎませんがね
銀河系の中心には巨大ブラックホールがあって
そこなんですが
案外地球上にあるもんですよ
覆われていて隠蔽されているに過ぎませんがね
キリストのペンテコステとかなんとなく分かりませんか?
287 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/11(火) 17:06:52 0
288 :
考える名無しさん:2008/03/11(火) 17:17:19 0
ビッグバン宇宙論なら現在のすべての宇宙の点はビッグバンの原点に
対応するだろ。どこでも宇宙の原点だね。これを宇宙の等方性という。
だから相対座標の原点とビッグバンの原点は等しい。
289 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/11(火) 17:22:48 0
>>288 そうですね
全ての点においてグラウンドゼロですね
だから今も炎に包まれているんですよ
覆われて隠蔽されているだけで
無量無辺自在光のなかですね
290 :
考える名無しさん:2008/03/11(火) 20:52:22 0
291 :
解説者:2008/03/11(火) 20:58:31 0
私とは、神に至る修行者だ。
>>284 哲学的な疑問なんだが、
じゃビックバンの前は何だったの?。w
ビッグバン=事、つまり時間を問いだ
すと永遠回帰的にその事の前、
ビッグバンそれ以前の世界はどうで
あったかを議論する必要が生じて
しまうが?。
この哲学的理不尽さを気付いている
のだろうか?。
293 :
解説者:2008/03/11(火) 21:07:35 0
宇宙とは命である。
命とは種である。
私達が存在している宇宙は、
親宇宙の子宇宙である。
当然、私達が存在している宇宙は、
将来、親宇宙となり、
新しい子宇宙を産む。
産むは有無である。
宇宙とは命であり、種である。
作ったのは神である。
人間は『私』という存在を利用して、
神を理解し、
死後に神になるべく存在している。
神に気づいたものは幸せである。
気づかないものは残念である。
>>292 そこで、
>>277の究極バージョンですよw
(個人を人類へスライドし、対象を観測された宇宙とすれば・・w)
ビッグバン以前は辿れない。
故に「世界」はビッグバン以降を指す。
それ以前は無い(考察しない)、とwww
もっとも、ビッグバンを前提としてる点では変わりませんが・・・w
>>293 :解説者:
ややこしいぞ。
神が宇宙を作りそこに存在する人間たちは神になるのか・・・?
その神がまた宇宙を創り・・・・
宇宙は宇宙を生み・・・
神のネズミ算だな。
神は何体(?)いるのかな?
所で種があると言うなら花が咲いたのだろう、宇宙の花とは何でしょう?
それとやがてはこの宇宙は枯れて行くと言う事なんですね、残念である。
296 :
解説者:2008/03/11(火) 22:06:39 0
あなたを救います。
人間は神になる権利があるということです。
誰もが神になれるわけではありません。
神は源であり、ひとつです。
宇宙の花とはあなたです。
枯れても種となり、また花を咲かせるでしょう。
残念ではありません。
花を咲かせることは至上の喜びです。
神に感謝しましょう。
あなたは救われましたか?
297 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/11(火) 22:36:16 0
ビッグバンが誕生でビッグクランチが死ですよ
それは同じ意味です
誕生と死は同一です
298 :
解説者:2008/03/11(火) 22:45:27 0
いかに生きるかを問われます。
神に気づくことから始めましょう。
俺には哲学なんてのはさっぱりだから分からんが、例えば自分が入院したりして見舞いに来そうにない奴が来るとなんか嬉しいだろ?
その嬉しいって感情が自分の証明じゃないのか?
>>299 :考える名無しさん:
>その嬉しいって感情が自分の証明じゃないのか?
それは違うと思いますよ。
病んでいる自分、治癒しようと入院した自分がまさしく「私」の証明です。
他人の慰めなんかは断じて生きる上で不可欠なものではないんですよ。
人間は所詮ロビンソンクルーソーなんですよ。
>>300 すまん
最後のカタカナの意味教えてくれ
303 :
Wittgenstein教:2008/03/12(水) 01:47:16 0
>>274 「じいさん」さん
レスありがとうございます。
>人間は「空間認識」の能力は無いのでは
とはどういう意味でしょうか。
第一に、ニュートンの絶対空間のような認識がそもそも不可能ということですか?(これは一大事です。)
第二に、「空間認識」の能力がなくて、なぜ「ライプニッツのような捉え方」は可能なのでしょうか?
>要は主観も客観も絶対的存在性は無いと言うこと。
おそらく仰りたいのはそういうことだと思っていました。
古来からの議論でしょうが、絶対的存在性がないという命題を定立すると
パラドックスが生じます。すなわち、そのような命題自体が絶対的存在性として
理解されてしまうということです。
私がいいたいのは、絶対主義が正しいとか相対主義が正しいとかいうことではなく
何か別の観点から考えませんかという提案です。
(しかし、2chでは誠実に語ろうとすればするほど反感をかいますね…
ちょっと疲れます。)
ロビンソンクルーソーさんは犬猫オウムと友達になって孤独を癒したんだよね。
ところが犬猫オウムの方はというと友達がいなくても退屈はしますけど一人でも大丈夫な動物なんです。
都会で生きていくためには犬猫の精神でないと死んでしまうのさ
ウサギのようにさびしいとすぐ死ぬ生きものではウサギ小屋の生活には不向きさ
寂しいだけで死んでたら動物としてやってけないっての。
そんな理由で死ぬのは人間くらいのもん。
「私」というのは、他者から意識されているというフィクションによって、
「私」が現れる。
相手が犬でも猫でもオウムでもいいから、
私を見つめたり触れたり意識している他者がいると信じる。
犬という他者が私を意識しているという感じがする時に、
「私」が現れる(と信じる)。
我思う、ゆえに我あり。
「私」を意識しているとき、意識している「私」の相手の意識されている「私
308 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/12(水) 16:01:26 0
>>260 色というのは、物質の性質の一つであると言えると思います。というのは、緑の物質、赤の物質、紫の物質
など、仲間分けして、グループに入れることが出来ます。同じグループ内の物質は、似たような特質を
示します。もちろん、人間の便宜に従ってみますので、観念であることは間違いありません。
309 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/12(水) 16:24:28 0
色の謂いで言うと、言葉はどうだろうか。似通った発音の言葉で、連想的に言葉が浮かぶ。
これで言葉についてのあるグループ分けをすることが出来る。(無意識的になされる。)
一方、言葉を貼られた対象のグループ分けも出来る。そして、自分にとってのベネフィット
によって、グループ分けすることもできる。抽象的、具体的といったグループ分けをすることも出来る。
(意味的。)混沌の中から、様々なグループ分けによって、人間が(自然は自然なりのやり方があるだろうが)
世界を意味的な物に構成し直す。
310 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/12(水) 19:11:18 0
>>303 :Wittgenstein教:
>>人間は「空間認識」の能力は無いのでは
>とはどういう意味でしょうか。
先天的能力が無いか少ないと言う意味です。
人の脳は二次元の情報は網膜、視神経脳の構造に拠り認識出来ます。
他の知覚作用をもとに脳内で空間認識を構築する訳です。
人が空間認識能力を開発するのは後天的訓練からです。
問題は絶対空間の話でしょう?ちなみにその話の補足を・・・
話を判りやすくするために空間でなく、二次元の平面的絶対座標の事を考えると、人の脳は座標系を脳内に構築しない、位置関係をそのまま網膜に対応した形で脳内に再現して認識する。
この脳の構造が絶対座標よりも相対的座標を中心にする人の観念の原因ではないでしょうか。
更に視覚認識の特徴として、点を認識する神経細胞(受容野)があり、点の繋がりを線と認識する(受容野)もある。だから点の繋がりが線であると言う観念が生じる。
自然界には点も線も実在しない、しかし脳内にはある。
>絶対的存在性がないという命題を定立するとパラドックスが生じます。
それは矛盾しません。命題を定立した積もりはありません。
しかし絶対的存在性があると言う立場から見れば命題であり、勿論矛盾です。
しかし定立など「無い」と言っているのだからなんら矛盾ではありません。
立場が違うのです。
言い換えると、「在るものは在る」と言うのが貴方の立場。
其れに対して「無いものは無い」と言うのが私の立場で、当然在ると言ういわば矛盾ルールは適用されない。
在ると言う立場からの・・・「無い」が在るから矛盾・・・と反論する資格は無いと言う事。
言い換えると私は貴方の立場(絶対的存在性における矛盾のルール)そのものを否定しているからだ。
311 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/12(水) 19:21:03 0
>>307 :考える名無しさん:
>「私」を意識しているとき、意識している「私」の相手の意識されている「私
このような間違い、勘違いが多い、非常に多い。
「私」は自とか内とか色々言い換えることも出来る。
その場合でも、自他、内外と言うのは自分とそれ以外の全世界と言う意味である。
他の人間との人間関係など極々その一部の枝葉末節の問題に過ぎない。
他人など居なくても「私」はある、その事実をロビンソン・クルーソーと言った。
312 :
考える名無しさん:2008/03/12(水) 20:03:00 0
>>311 >他人など居なくても「私」はある
それなら自他相対はないということだろ。
他がない自は絶対・独立の自性となるのではないか?
今までじいさんの言ってた相対はどこに消えたんだ?
ロビンソン・クルーソーは架空の人物でありその作者
がいなければ存在しない。独立した「私」の例としては
もっとも不適当な例だね。
313 :
Wittgenstein教:2008/03/12(水) 20:30:32 0
>>310 前半の空間、平面の話は意味がわからないのでお返事はしません。
後半について、私の立場は「無いが在る」といった観念的なものではありませんよ。
あなたの仰る2つの立場「在るものは在る」と「無いものは無い」ですが、
私はどちらの立場でもありません。というのも、両言明は同語反復にすぎません…
私の理解力不足で申し訳ありませんが、もう少し、論旨を明確にしていただけるとありがたいです。
>しかし絶対的存在性があると言う立場から見れば命題であり、勿論矛盾です。
私はそれ以上の主張をしていません。
我思う、ゆえに我あり
↑ ↑
思 思
っ っ
て て
い い
る る
言 ←対立→ 私
葉 は
は 個
集 的
団 ・
的 単
・ 独
共 的
同 ・
的 唯
・ 我
公 的
的 ・
共 私
有 的
物
315 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/12(水) 21:14:38 0
>>312 :考える名無しさん:
>それなら自他相対はないということだろ。
誤解しているといっている傍から是なのでどうしようも無い。
繰り返すが基本は主客の相対と言う事である。
ちなみに自分と他人と言う人間関係は相対的なものではない。
他人が居なくても自分は一向に困らないからだ、当たり前だが。
>>しかし絶対的存在性があると言う立場から見れば命題であり、勿論矛盾です。
>私はそれ以上の主張をしていません。
貴方の主張によっって、私の矛盾(私の立場上の内部矛盾)を指摘する事は出来ないと言うことです。
私に矛盾があると指摘する事は「それ以上の主張」の主張をしている事でしょ?
316 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/12(水) 21:16:23 0
訂正 後半は
>>313 :Wittgenstein教:
に対する意見です
317 :
Wittgenstein教:2008/03/12(水) 23:14:30 0
どうもよくわからないのですが、
>私に矛盾があると指摘する事は「それ以上の主張」の主張をしている事でしょ?
とのことですが、私はそのように思わないので指摘したわけです。
私がいったのは、「無いが在る」とかそのような意味不明の言葉は私の指摘とは
全然関係がないということです。(観念論は私が最も嫌いな哲学論なので少々苛立ちます。)
もう一度お願いしますが、なぜパラドックスではないのか論旨を明確にしていただけますか?
318 :
67:2008/03/12(水) 23:20:17 0
尊敬できる人がいたとしても、彼にあこがれることない。
なぜなら、彼が飯を食っても、俺の腹は満たされないから。
笑い。
319 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/13(木) 01:22:54 0
>>317 :Wittgenstein教
最初に戻ると・・・
>絶対的存在性がないという命題を定立するとパラドックスが生じます。
>すなわち、そのような命題自体が絶対的存在性として理解されてしまうということです。
と言うことだが・・・・・・・・
私は主観も客観も絶対的存在性がないとだけ言っています。
貴方が勝手に「絶対的存在性がないという命題を定立」したとしている。
そうして「(無いと言う)命題自体が絶対的存在性として理解」して両者は矛盾しているとおせっかいをしている。
「無い」と言う存在性がある・・・と言った矛盾なんでしょう?言いたいのは。
観念論を振りかざしたのは貴方のほうです。
私の立場は存在性は無いと言うことなので、存在性があると言う意味での矛盾はありえないのです。
矛盾は飽くまでも貴方の立場の存在性があるとするならばと言う意味での矛盾です。
320 :
Wittgenstein教:2008/03/13(木) 02:03:15 0
>>319 >「無い」と言う存在性がある・・・と言った矛盾なんでしょう?言いたいのは。
全然、違います。
私が主張したのは、「絶対的存在性がない」とすると、その言明自体が「絶対的存在性」になってしまう
という意味的な矛盾です。「無い」が「在る」とかそのような観念的で空虚なパラドックスを意味していって
いるわけではないともう再三指摘しています。「分かろう」として下さい。
あなたと議論するのはもう止めます。つまらない。
321 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/13(木) 02:08:44 0
中心、原点、主を絶対とするかどうか
絶対というものに如何なる性質がある、或いは与えるのか。
322 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 02:10:24 0
はたで見てる分にはおもしろいからもっとやってよ
それは「超実論的」と呼ばれるもの
哲学に触れたことがないやつがすぐに理解できれば俺も苦労はしない
>>320 >私が主張したのは、「絶対的存在性がない」とすると、その言明自体が「絶対的存在性」になってしまう
>という意味的な矛盾です。
意味がわからない。逆じゃないの?
つまり、絶対的なものがないという主張は、自らの主張にもはね返ってきて、
自らの主張の絶対性を失わせ、正当性を失わせる。
相対主義が陥る循環ですね。
俺はいかなる手段を使用しても2ちゃんに書き込めないんだよ
これと同じ意味のパラドクスが生じる
くれぐれも言っておくが、これは矛盾ではない(とくにじいさん)
これは言明の対象となる意味情報と、
そのメタである実際の発言行為が、両立しない関係である
これは「実際論的パラドクス」と呼んでいい
327 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 10:18:23 0
>>321 >絶対というものに如何なる性質がある、或いは与えるのか。
「絶対」の性質はその文字の表す通り「唯一で対する物事がない」
と言うことだろう。「相対」に反する「絶対」で問題ないだろう。
>>327 >「唯一で対する物事がない」
「対する」の意味が、曖昧だよね…
329 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 10:32:05 0
「対」とは「つい」で「ふたつで一組」ということだろ。
小学生でもわかる知識だね。
>小学生でもわかる知識だね。
はいはい。小学生レベルで理解しておいてくれ。 ふたつで一組 ♪
帝云。対朕者誰。
矛盾に対するのは何?
333 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 14:34:47 0
「相依していない」という定義はどうよ? >>「絶対」
334 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 14:45:20 0
あ、スリースリーw
335 :
Wittgenstein教:2008/03/13(木) 16:16:04 0
>>326 >これと同じ意味のパラドクスが生じる
>くれぐれも言っておくが、これは矛盾ではない
へえ、興味があります。私は時折パラドックスという言葉の意味に悩まされるの
ですが、あなたはパラドックスと矛盾という言葉をそれぞれどのように理解されていますか?
矛盾はPかつ(Pでない)で表現されるもの(携帯からは記号が変換できん、脳内で補え)
矛盾した表現はいかなる情報も何一つ排除してなく
また、矛盾からは何でも例外なく導き出されるので矛盾ひしりぞけられるべきである
つづく
つづき
実際論的パラドクスを矛盾に変換することはできない
ラッセルはこのパラドクスを「無意味(ナンセンス)」てして、しりぞけようとした
ウィトもラッセルを引継ぎ、同じようにとらえているっぽい
だが、俺はこの解決策に反対だ
矛盾に変換できない以上、その言明は何らかの有意味な情報を含んでいると考えるべきだろう
「矛盾してもよい」という表現自体は何ら矛盾してなく、
それは正しい可能性をもち、それゆえに批判の対象となりうる
同じように実際論的パラドクスもまた、批判の対象となりうる
さて、325の俺の文章は明晰に間違い(おかしい)とわかる
(デカルトの言う明晰さと同じレベルだ)
だが、この文章が無意味、無情報かというと、そうではない
(だって、あんたら理解できるでしょ?
このようなパラドクスが正しい世界を想像するならば
そこには「言明の真偽」の基準が破壊された世界が浮かび上がる
現代哲学にはびこるひどい表現の数々や非理性的な哲学などが出現したきっかけみたいなものだが
それらが一概に無意味かというと、そうではない
「理性そのものがおおもとの間違いである」(ちなみに、この表現は理性的だ)
というひとつの有意味な情報を提示している
それは、「無意味」という有意味な情報であり、
一般的には一笑して捨てられるものだが
哲学においては無視できないものであるだろう
これらをナンセンス(無意味)と切り捨てるならば、
ナンセンスの否定もまたナンセンスであるから
理性の肯定もまたナンセンスであり
実際に理性的に行動しているということが重要で、それを言葉の上で展開して考えることはナンセンスとなってしまう
これでは、言葉で表現された内容を考える行為の自殺だ
わたしは、言葉で語られた内容に関心をよせる合理主義哲学の伝統に属する一人として、
別の解決法を模索する
◆ 妄想性
数学も小説も同じ事である。
小説は空想の世界を描く。
数学も数学の世界を描く。
理路整然とした理論が成り立つのは、
空想の世界においてのみである。
無知の知
あなたが、この現実の世界についていかほど知っているか分からないか
西洋哲学では、この現実の世界に対する無知、世界に対する謙虚さから
理路整然とした空想の世界を展開させる
現実への無知を理をもって少しでも埋めようとする
それがわたしが属する哲学の伝統です
仏教やその他もろもろの手段が、神秘的な何かを通じて世界を直接知ることができるならば
理などは何ひとつ糞の役にも立たないチンケなものでしょう
もし、わたしが世界について知り尽くしたと少しでも感じたら、
理を捨て知性を捨てて、野に生きるでしょう
だから、唯識さん
あなたは世界についてよくご存じでしょうが
わたしは、まだまだ世界について何一つ知っていないと感じるから、その空想の理詰めの世界を捨てきれないでいるのです
◆ 論理の空想性
例えば、推移律がある。
「A⇒B, B⇒C, のとき、C⇒Aがなりたつ」
というのは、実世界では必ず成り立つとは限らない。
「世界はこうであって欲しい」と願う、人間の妄想である。
従って、空想を物語として提案する小説も、
世界の骨格を空想として提案する論理学も、
全ては空想上の産物である。
論理が成立しないならば、言葉は何の役にも立たない
その前に、どこが推移しているんですか?
まぁ、こんなつっこみは置いておきましょう
論理というのは、「言葉の情報内容(意味内容)の保存規則」です
まず、論理の解釈があなたとわたしで違う
そして、論理が現実で通用しないならば、
発せられた言葉がそこからいかほどにも内容が変化してしまう
場合によっては逆の結論を得る
これでは正常な会話、正常なコミュニケーション、正常な議論は成立しない
「窓を開けてくれ」
「もう開いてるよ」
「なんで閉めないんだ(怒)」
世の中にはそんな人もいるかもしれませんが
目の前にいたら、わたしは逃げますね
あの精神異常者、タクマだって弁明は理路整然としていました
「世界の不条理さを伝えたくて殺した」
真偽はともかく、彼の言葉は何ら不条理ではないですし、論理規則に反してもいません
ウィトはこう言ってます
どんな無茶な夢を見たところで、彼がその夢の内容を伝えるのに論理規則に反することはできない
343 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 18:49:55 0
>>342 で、君は「論理」は何だ、と言いたいの? ウィトのことはさておき。
344 :
Wittgenstein教:2008/03/13(木) 18:50:22 0
>>336 >>337 ふう、ようやく内容のある議論ができそうで嬉しいです。
矛盾の定義はよく分かりました。あなたの用法ですと、矛盾とパラドックスは
同じものを意味していないようですが、パラドックスという言葉の意味は
どのようになるでしょうか?
>「矛盾してもよい」という表現自体は何ら矛盾してなく、
>それは正しい可能性をもち、それゆえに批判の対象となりうる
とのことですが、しかし「矛盾してもよい」がナンセンスであるという
風には思われませんか?というのも、矛盾は不可能だからです。
345 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 18:54:15 0
>>344 >しかし「矛盾してもよい」がナンセンスであるという
>風には思われませんか?というのも、矛盾は不可能だからです。
いや、矛盾を許容する論理も有る。この論理では矛盾した前提からは
何でも言えるという論理は許されない。
346 :
Wittgenstein教:2008/03/13(木) 18:58:21 0
>>341 >「A⇒B, B⇒C, のとき、C⇒Aがなりたつ」
>というのは、実世界では必ず成り立つとは限らない。
???
@上の「C⇒A」は「A⇒C」の間違いでしょうか?
Aもしあなたが論理学的に上のことを主張しようとなさっているのでしたら、
反例を示していただけるとありがたいです。(@が正しいとした上で)
347 :
Wittgenstein教:2008/03/13(木) 19:00:43 0
>>345 痺れますね。おもしろい。
「矛盾を許容する論理」とはどのような論理のことですか?
343
わたしは結論は最初に書く人間なんです
結論を最後に書くスタイルは古いんです
問題提起と自分の回答を最初に書いて、何を言ってるか分かりやすくするのがア・ラ・モードってやつなんです
349 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 19:29:44 0
>>346 >反例を示していただけるとありがたいです
超有名な反例「風が吹けば桶屋が儲かる」
350 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 19:33:12 0
351 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 19:45:37 0
たとえば、私=f(i)=f(a,b,c,・・・,n)と置き、且つ、その変数を気前よく過大視し、他者のそれとは可分であるとしてみる。
そして、その変数が有限ではない(on goingで変容するから)とすると、その順列/組合せの数が推し量れないことから、この方法では私は説明できない、ということになる。
コギトエルゴスムスは、実は、そのつど、この関数から放出される解を、一度カッコに入れ直す作業である。
そして、変数の入れ替えと、それらの順列/組合せの演算のし直しをすることであると見れば、私というものを1つの収束点に導けたという思いに達して、それは、一瞬たりとも持ちこたえようのない仮象ということになる。
352 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 19:53:59 0
>>351 「私がある」のは「私の属性がすべて示される」からでは無いだろ。
私の本質は「思惟」することにある。だから「私は思う」だけで
「私の存在」は証明される。これがデカルトの主張だね。
証明はされてないけどな。デカルト本人が疑えねって言ってるだけだし。
デカルトさんのいう方法をためしてみたら
私の存在が疑えないってことが自分にもわかりましたってことで
なにかの存在を論理的に証明するなんてことじゃないんだよ。
例えば名前がなければ示すことができないモノがあるのは
言語が不完全である証拠かも知れない。
常に補完し続ける。
工夫する。
「私」は「固有名詞」が付いて少し安心する。
356 :
Wittgenstein教:2008/03/13(木) 22:53:09 0
>>349 >超有名な反例「風が吹けば桶屋が儲かる」
まともに答えるのもばかばかしいのですが、これにはそもそも3つの文すらでてきていません。従って、反例とはなりえません。
落胆させないで下さい。
357 :
考える名無しさん:2008/03/13(木) 23:57:04 0
>>342 ゴルフのスコアが悪かった友人に、
「今日は、随分調子が良さそうじゃないか。」
ってよくありそうな場面だが、論理規則に反してね?
論理規則は現実を欠けらも見ない
論理の初歩
359 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 02:22:30 0
根本的に、基礎が理解できてない人が多いな
赤の赤さ を、言葉で論理的に伝える事なんてできないのさ
主観とはそういうもの
誰かに証明できなきゃ無効だ なんていう発想は、そもそも的外れ
理解が浅い
「私自身が、私の存在を否定する事は絶対に不可能」
これが理解できない人は、どっか勘違いしている
証明できなきゃ無効だよ。他人にとってはね。
ああ、そうすか、どうでもいいけどねって感じで終わり。
別に最高位がゾンビやAIでも構わんしなー
最高位はドットスレの名無しだったのか。
「私」は私本意にしか世界を知り得ない。
だからそんな「私」を一旦虚しくして世界を見直してみることはいいことだ。
「私」を存在せしめているのは私以外だから感謝するし大切にする。
そして「私」も私以外にとってそのような存在としてありたいと願う。
「私」に拘ると私本意の世界しか描けない。それは虚しい。
>>362 >そして「私」も私以外にとってそのような存在としてありたいと願う。
日々顧みて、「できているか?」と自問した時の、
orz
という、「わかっちゃいるけど・・・」 の典型だな・・w
この「私」はこの世界の一部でしかないという立場から出発するしかない。
不完全な存在である「わたし」があるならば、
完全な存在である「客観世界」もあるはずだ
不完全なわたししかいないというのはおかしい
366 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 12:19:16 0
>>360 じゃぁ、その「他人」は、どうやって自分自身の存在を否定するのかね?
367 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 12:30:37 0
>>356 >まともに答えるのもばかばかしいのですが、これにはそもそも3つの文すらでてきていません。従って、反例とはなりえません。
349ではありませんが、「3つの文」とはa、b、c(命題変項?)のことですよね。
しかし推移律は命題変項の数にまでは言及していないはずです。
風が吹けば桶屋がもうかる、の初めは確か
「風が吹くと砂が目に入って盲人が増える」だったと思うが、
それがすでに必ずしも成立しない(A→Bが成立しない)から、
例としては不適切ではなかろうか。
>>366 だから、赤さを論理的に伝えられんのなら、
>>359の「」で括った部分も伝えられないだろってこと。
だから他人にとってはどうでもいいって話ってことな。
まあ無我とするなら自分にとってもどうでもいいことかもしらんが。
伝えることができることは別に必要条件じゃないし
証明可能であることもそう。
そのへんわかってないと哲学をすることはむずかしいね。
せいぜい哲学研究者どまり。
371 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 13:39:07 0
>>369 色を言葉で論理的に伝える事は不可能だ
しかし、論理的に伝えられんでも
「赤」は共通の認識だと了解されているんじゃないかね?
「赤」が証明できないから、「色」は無効だ とは、ならんだろ
証明できないから無効だ なんていうのはマト外れなんだよ
本人が、本人の存在を否定する事は不可能だろ
他人に証明できなくても、自分で理解できないか??
色の意味は逆転していることが有り得る。
同じ「赤」という言葉で、他人は私と全く違う色を意味しているかもしれない。
では、「私」という言葉でも同様な「意味の逆転」が有り得るかどうか。
373 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 13:50:10 0
>>372 話をすり替えちゃいかん
本人が、本人の存在を否定する事は不可能だろ
他人に証明できなくても、自分で理解できないか??
どぉなん?
>本人が、本人の存在を否定する事は不可能だろ
それは「本人」に何を代入しても成立する。
375 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 13:54:14 0
存在する私が、私の存在を否定することは不可能。
存在しない私は、何かを否定することはできない。
↓
存在するXが、Xの存在を否定することは不可能。
存在しないXは、何かを否定することはできない。
かくて、これは「私」特有の問題ではないことがわかる。
377 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 14:04:26 0
>>376 キミの言ってる事は
「私は存在する という事は否定できない」というのを
補強してるだけだと思うが???
「私」を否定できましたかな?
できないんであれば
「私」の存在は、証明されてもないのに、キミと私の共通認識となるわでだが?
だから、そこで共通認識となるのは
「存在するXが、Xの存在を否定することは不可能。
存在しないXは、何かを否定することはできない。」
これだけだ。
君と私では「私」という言葉で指示する対象が違っているのだから、
決して共通認識になどなりようがない。君の私が存在しているかどうか、
私にわかるはずがなかろう。
存在は他の存在に左右されて肯定されたり否定されたりしない。
存在には論理は必要ないし論理が扱えない。
380 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 14:14:52 0
>>378 わからん人だなぁ
私は
「私が存在する事は否定できないのですが、キミはできますか?」
と質問してるんだろ
それに対してキミは
「否定できません」
としか答える事ができないだろ
そこで、お互いの認識は共通するだろ
わからんのは君だ。
「私が存在する事は否定できないのですが、キミはできますか?」
と質問されたら、「できる」と答えるに決まっている。
君の私が存在するかどうかなど私にわかるはずがない。
「キミは、自分が存在することは否定できないだろう?」
と聞かれたら、私は「今は否定できないが、寝ているときはわからない」
とでも答えるしかないが。
>>371 「赤さ」の話をしてたのに「赤」とか「色」に話をすり替えてるし。
ここが最高位の卑怯極まりないとこなんだよな。
それともニュアンスを扱えない頭であることの悲劇か。
まあいいや。
他人に証明できないって自分で言ってんだから、他人に否定されたら
おしまいって話で決着がつくしな。
383 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 14:25:07 0
>>381 >私は「今は否定できないが、寝ているときはわからない」
>とでも答えるしかないが。
答えている自分を否定できないだろ
それでいいんだよ
それで私の言っている事は、十分にキミに伝える事ができている
キミは、要点が理解できていないだけだ
「他人の主観性は論理的に知る事はできないが、自分の主観性の存在は否定できない」
これでOKだ
だから、そこで伝わったのは
「存在するXが、Xの存在を否定することは不可能。
存在しないXは、何かを否定することはできない。」
これだけだ。何ら主観性固有の問題ではない。
「自分の主観性の存在は否定できない」のではない。
「存在する(何かを否定することができる)自分の主観性の存在は否定できない」
のであって、これは単なるトートロジー以上の内容を含まないのだ。
385 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 14:34:47 0
>>382 それじゃ全然、反論になってないわけだが、そんな事もわからんかね?
子供ですか?
>>384 だから、その理屈でいくと
「私は存在する」 という事になるだけだろ(苦笑
どっからトートロジーが出てくるんだよ
>>385 反論どころか、ニュアンスがズレてることにも気付かない脳みそ相手にどうしろと。
まあ他人に証明できないなら、否定されれば受け入れるしかないわな。
それが最高位にできる全てだろ。
トートロジーはほんものの無内容なんだから
その文はトートロジー以上の内容を含むだろう
わたしは、それが有意味であると考える
今、それに関連する本を読んでるとこ
要するに「私」を全ての存在の起点だと主張したいんだと思うけど存在と私には関係がない。
389 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/14(金) 15:11:00 0
>>359 :哲学者最高位 ◆
>誰かに証明できなきゃ無効だ なんていう発想は、そもそも的外れ理解が浅い
「存在する」が「何かがある事を否定できない」と言うことだと言うならそれで良いでしょう。
しかし此処でもあるように「私を記述してください」と言っている。
一般に存在すると言うためには、論理的に証明できたり、実験的に実証できたり、自明だったりする方が望ましいんじゃあないですか?
>赤の赤さ を、言葉で論理的に伝える事なんてできないのさ
これは論理であろうと、情感としても伝える事は出来るし、昔から文学的に人はやっている事です。
「赤さ」は物質に表現出来ないだけです。
そうしてこの「赤、赤さ」を問題にしているのは紛れも無く主観(私)です。
しかしこの主観は認識の対象となる「赤」に依存していると言う事です。「赤」が無くなったら、「私」も無くなっちゃうでしょう?
客観なくして主観は無い。
絶対的に自立した主観は論理的に在り得ないのです。
「私の存在性」は空性です。物質的にも観念的にも実体は無い。
だから「【私】を記述してください。」が出来ないのです。
無いものは記述できないのです。
「考えている本人だろう」と言う様な客観からの間接的表現しか出来ない。
>「私自身が、私の存在を否定する事は絶対に不可能」
(私)の存在性が空性なら、是は可能です。
存在を肯定する事も可能で、否定する事も可能です。
あるといえばあるし、無いと言えば無い。
390 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 15:17:28 0
>>388 そうは言っていない。認識(主観)の起点だ、と主張しているだけだろう?
391 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 15:30:01 0
>>389 じいさんの感じている“赤”を言葉によって、それをみたことがない人に
伝えることは無理でしょう? 伝えたように思えるのは、その人も“赤”を
知っているから。いや、みたことのある人にも、あなたの“赤”を伝えるのは
無理なのかもしれない。
生まれたときから目が見えない人に、
空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ?
こんな簡単なことさえ言葉に出来ない俺は芸人失格だよ
江頭2:50
393 :
Wittgenstein教:2008/03/14(金) 16:04:56 0
>>367 >「3つの文」とはa、b、c(命題変項?)のことですよね。
違います。現代の記号論理学に即した意味での変項という概念とは無関係です。
私が「文」ということで意味したのは、命題のことです。
「風が吹けば桶屋が儲かる」という命題は「「風が吹く」→「桶屋が儲かる」」
という複合命題として理解可能ですが、このとき
「(A→B∧B→C)→(A→C)」におけるA,B,Cにあたるものが満たされないでしょうということです。
394 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/14(金) 16:07:04 0
>>391 :考える名無しさん:
>>392 :考える名無しさん:
あのですね・・・
見た事が無い人、見る事の出来ない人・・・
だから言葉でつたえるんでしょう?
見えるんだったら、見せれば説明しなくて良い。
赤、赤さと言う主観は言葉によって大体伝われば良い・・・と言うのが議論の前提。
確かに芸人だったら何とかするべき。
正確な説明といっても、そんな事は自分自身にだって出来ないはず。
このように客観(色)についてはある程度は説明できるが・・・
「私」については大体どころか、一言も言及出来ない状態なんだから。
395 :
Wittgenstein教:2008/03/14(金) 16:08:37 0
>>368 >例としては不適切ではなかろうか。
仰るとおり。「風が吹くと砂が目に入って盲人が増える」だとしても反例としては無意味です。
>>394 ようするに言葉がメインではないということ。
人間は言葉に依存しすぎるから言葉が全てだと錯覚してるだけ。
>>390 認識の起点だけど存在の起点ではないということの再確認。
認識の起点→存在の起点→私の存在性が普遍的な真理
こういう強引な話は了解できない。
398 :
Wittgenstein教:2008/03/14(金) 16:23:55 0
>>371 「哲学者最高位」さん
>「赤」は共通の認識だと了解されているんじゃないかね?
(あなたの挑発的な態度に倣って)
なぜそのようなことがいえるのか、証明せよ。
たとえば、〈私〉が赤色であると認識しているその色が〈あなた〉にとっては
緑色(黄色でもよい)であると認識しているその色である可能性がある、という議論がある。
この議論の正当性を反駁せよ。
>>397 >>277及び
>>294の世界観で行けば、無問題では?
全ては、知覚された(認識された)所から始まるのだから・・。
たとえ「私」の存在でさえ、
『自覚された』その時から(主観としての)世界は始まるのだから、
「自覚=存在」(→「認識の“起”点=存在の“基”点・“起”点」)は、自然な流れのようにも見える。
赤という単語を共有しているからと言って同じ赤だとは限らない。
同じ色を実際に見てこれが赤だと単語を共有した経験のみが根拠になる。
日本語だと紺碧とか言うように青と緑の区別が曖昧だった頃は同じ色だった。
(信号機の青も)
>>399 失明したら色の世界がなくなると思うかどうか。
知覚と知覚による経験とは違うような気がしますから。
>>401 記憶が想起されるという点で、継続はするかもしれませんが、
(少なくとも)新しく創造される(→更新され続ける)ことはないでしょう。 >>色の世界
赤って言っても幅があるからな。人によっては赤紫や橙っぽい色を赤と言ったりもするだろう。
「私」について言及する際に赤の話が出るなら、「私」もその程度の曖昧なものなんだろうな。
だからおそらく最高位の「私」は、デカルトのようにある程度厳密なものではなく、
思春期に馳せた思いくらいの内容だと思われる。
特別な「私」てことですかね。
唯識さんも言ってらしたけど「私が私が(自分が自分が)」というのは鬱陶しいんです。
406 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/14(金) 17:19:05 0
>>898 アナロジーで言えば、赤という色のプールがあって、そこに個人個人が
ある量の水を注ぎ込む。このように、赤色のプールはだんだん確からしく
なっていく。歴史性を帯びている。緑を赤としかみえない色盲の人は、残念ながら
赤色のプールに水を注いだつもりで、緑のプールに水を注いでいる。
407 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/14(金) 17:23:07 0
赤は血とリンゴと夕日の色ですよ
青は空と海の色ですよ
緑は草と沼の色ですよ
こういう風に対応させて伝えればネガに写ってても
伝わるんじゃないかなぁ?
408 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/14(金) 17:25:15 0
私が「赤色」だと認識しているものが、他人にとっては「匂い」である
可能性はないのか。
あるかもね
411 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/14(金) 18:23:27 0
プールのアナロジーを言葉に当てはめると、各単語は各人の使用によって
意味が決定されてゆく。言葉は歴史的な物である。
私的言語の不可能性ということに注目したいが、「私」という言葉は、まさに
「私」的言語であり、各人の中で、意味が違い、客観的には捉えることができない。
「私」というプールは常に底に穴が開いており、「私」を帰納的に捉えることが出来ない。
したがって、デカルトは「私」の定義をして、そこから演繹的に意味を展開していったので
あろう。
私は赤緑の色弱です。
私には区別のつかない色を
ランダムに、赤と緑に言い分けられているので
私にとって色の名前の付け方は、はなはだ不適当です。
私が色弱であることが知られると
よく「これ何色?」と聞かれますが
大抵、当たります。
なぜなら、木は茶色で、葉っぱは緑で、トマトは赤という知識があるからです。
しかし私にとってトマトと木と葉っぱに対応する色の感覚は大変似ています。
同系統の色に見えます。
私が思うに、空が青だなんて勝手に名づけないでくれよ!です。
413 :
412:2008/03/14(金) 19:48:34 0
おそらく、私が感じるこのもどかしさは
自分の感覚と他者の感覚が同様である
という前提がなりたっていないことから発するものである
と思います。
他者との関わりがスムーズであると感じる時は
自分の感覚と他者の感覚が同様であることを
自覚しているときだと思います。
自分が感じているこの赤の色をこいつも感じている
という事を前提としなければ、
コミニュケーションは成立しないといことを
私は、つくづく思います。
414 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 19:51:06 0
Aさんは赤色に認識しているリンゴを赤いと言う。
(なぜなら昔からこれを赤だと教えられたからだ。)
Bさんは青色に認識しているリンゴを赤いと言う。
(なぜなら昔からこれを赤だと教えられたからだ。)
Cさんがリンゴを指差して何色かと問うと、両者が赤いと言う。
Aさんは青色に認識している海を青いと言う。
(なぜなら昔からこれを青だと教えられたからだ。)
Bさんは赤色に認識している海を青いと言う。
(なぜなら昔からこれを青だと教えられたからだ。)
Cさんが海を指差して何色かと問うと、両者が青いと言う。
何の問題もない、誰も悪くない、すばらしき世界。
>>414 クオリアが自然科学では記述できていないとされる所以だね。
416 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 21:44:06 0
>>386 そのニュアンスとやらを説明してみなさい
何がどうズレてるんだ??(爆笑
あと
他人に否定されようが、私の存在が消えるわけないんだよ
キミは、私が否定したら消えちゃうのかい??(爆笑
>>388 ん??
私は、「私は存在する」と言ってるわけだが?
>>389 >一般に存在すると言うためには、論理的に証明できたり、実験的に実証できたり、
>自明だったりする方が望ましいんじゃあないですか?
主観性については、無理なんだ という事が理解できませんか?
>>赤の赤さ を、言葉で論理的に伝える事なんてできないのさ
>
>これは論理であろうと、情感としても伝える事は出来るし、昔から文学的に人はやっている事です。
では、やってみて下さい
今ここで、私に伝えてみて下さい
>>394 >確かに芸人だったら何とかするべき。
ムチャ言っちゃいかん
不可能です
417 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 21:44:48 0
>>397 >認識の起点→存在の起点→私の存在性が普遍的な真理
>こういう強引な話は了解できない。
誰が、そんなこと言ってんの??(苦笑
>>398 >>「赤」は共通の認識だと了解されているんじゃないかね?
>なぜそのようなことがいえるのか、証明せよ。
普通、「了解」されてませんか??
>たとえば、〈私〉が赤色であると認識しているその色が〈あなた〉にとっては
>緑色(黄色でもよい)であると認識しているその色である可能性がある、という議論がある。
>この議論の正当性を反駁せよ。
私の言ってる事を、全然理解せずに書き込んでるでしょう
そんな事はわかってるんですよ
だから、色は言葉で論理的に伝える事ができない と言っているのです
ただ
日常で、常識的に「了解」されているのではありませんか?と言っているわけです
ここにいる、ほとんどの人が、そうなんですが
まず、話の全体像を把握してからじゃないと反論が的外れになりますよ
>>409 その人は、真っ暗闇でも赤が見えるのかい?(苦笑
もう少し、まともな思考回路でお願いします
>>417 >その人は、真っ暗闇でも赤が見えるのかい?(苦笑
たぶんその場合は「真っ暗=匂いがしない」になるんだと思うよ。
420 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 21:53:12 0
>>418 あーなるほど、そうか(笑
そうすると、その人にとって赤外線は、強烈な匂いだな
外を歩いてるだけで、たまらんだろな(爆笑
421 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 22:05:22 0
>>393 話は変わるけど、「反例」ということで言えばたしか閉包の破れとかってあったでしょ?
>>416 えっと、最高位は「赤さ」と「赤」の違いがよく分からないんだろ?
じゃあ説明してもだめだ。どうしようもない。
あと消えるかって質問は意味不明。有無が不明なのになぜ消える?
最高位が何を言おうと、俺が最高位の「私」を否定する限りそれは「無い」。
423 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 22:13:43 0
話を元に戻すね
↓
359 :哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 02:22:30 0
根本的に、基礎が理解できてない人が多いな
赤の赤さ を、言葉で論理的に伝える事なんてできないのさ
主観とはそういうもの
誰かに証明できなきゃ無効だ なんていう発想は、そもそも的外れ
理解が浅い
「私自身が、私の存在を否定する事は絶対に不可能」
これが理解できない人は、どっか勘違いしている
424 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 22:27:44 0
赤の赤さは生理物理生物学などで論理的に説明できるけどな。
425 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 22:32:32 0
>>422 私は、私が存在してる事が自覚できるんだよ
しかし他人に主観性があるのかどうかはわからん
それでいいんだよ
それは、キミらが哲学的ゾンビであったとしても変わる事のない事実
他人が、いくら否定しようが変わる事のない事実なんだよ
で
「キミらにも主観性ないの?」と聞いたら、「あります」と答える
じゃあ
それでいいじゃん(爆笑
理解できてるじゃんか
という話ね
私はキミ達に「我あり」を証明ぬきで理解させたんだから、大したもんだろ(大爆笑
426 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 22:33:43 0
427 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 22:34:41 0
私の存在を否定できない者同士、仲良くやれや。
428 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 22:36:59 0
可視光線のなかで長波長の側の四分の一程の620〜780nmの領域が赤として認識される。国際照明委員会 (CIE) は700 nm の波長をRGB表色系において赤(R)と規定している。リンゴの皮やヒトの血のような色。
429 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 22:46:24 0
>>428 生まれながらに全盲の人に、その説明をしたら赤の赤さが理解できますかな?
>リンゴの皮やヒトの血のような色。
なんて見た事もないんですよ?
それが何故、あの色なのか
という根本問題
430 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 22:47:56 0
赤の内包にリンゴの皮と血は入るのか?
赤の外延なら分かるが。。。。
>>425 AがBの存在を自覚してるなら、A=Bじゃないだろ。
最高位はAを私と呼び、Bも私と呼んで、
ほら全部一緒じゃないか!と基地ってるだけなのが分からんのか。
それと主観性なんてあってもなくても困らんから、どっちでもいい。
他人に証明はできんし、ないとしても何の不都合もない。
俺自身何も変わらんし、主観性があるか?の問いは全く無意味。
あと理解させたなんて妄想してるなら、マジで病院行った方がいいぞ。
432 :
Wittgenstein教:2008/03/14(金) 22:55:05 0
>>417 反駁しましょう。
>普通、「了解」されてませんか??
@哲学者の間では了解されていません。
>まず、話の全体像を把握してからじゃないと反論が的外れになりますよ
Aあなたはこの色の話を主張の根拠として取り上げています。決して的外れとはなりえず、あなたが責任を放棄しているだけです。
下記を参照
>しかし、論理的に伝えられんでも 「赤」は共通の認識だと了解されているんじゃないかね?
>「赤」が証明できないから、「色」は無効だ とは、ならんだろ
>証明できないから無効だ なんていうのはマト外れなんだよ
(Bあなたの人格はくだらない)
>>429 人は光を視神経から脳への伝搬で認識しているにすぎない。
トマトと言う物体の赤という色の概念を盲人が認識する必要性は全くない。
光の概念を用いて説明する必要がそもそも無い。
うえを前提に、それでも説明したいのであれば
トマトを体感させて、これは赤いと言えばそれでいい。
またはトマト中の赤色を発色させる成分を説明しそれが赤だと言えば良い。
あくまでも可視光などの色の概念は健常者に認識できるという
触覚でしかない。全盲の人にはそもそも色彩を認識する必要性が無い。
434 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 22:57:08 0
>>431 AとかBとか、何なんだ??
もうちょっと、ちゃんと説明しろ
>それと主観性なんてあってもなくても困らんから、どっちでもいい。
困る困らん の話じゃないから(爆笑
>他人に証明はできんし、ないとしても何の不都合もない。
そそ
そういう事
>俺自身何も変わらんし、主観性があるか?の問いは全く無意味。
ちゃんと理解できてるじゃんかよ(爆笑
何を反発してんの???(苦笑
435 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 22:59:05 0
皆ニワトリ脳の調教に必死だなw
よいことだ。
436 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 23:02:21 0
>>433 赤の概念を説明できるかってことでは。。。。
赤以外で。。。。。
だから、
>>277及び
>>294なんですよw
生まれつき全盲の人に“赤”はない。“赤さ”もない。
てか、“色”はない。(だろうと推測するw)
>>434 ちゃんとって、めちゃくちゃ簡単じゃないか。
自分で書いた文と照らし合わせて考えてみろよ。
これが分からんのなら、ホント、どうしようもないんだが。
あと主観性あんの?なんて質問、ばかじゃないとしないから。
お前、感覚器官とかと混同してんじゃないの?
>>436 だから健常者しか認識できえないものだから。
盲人て例を出した時点で考えが浅い。盲人は認識できるツールがそもそも無いからそれを認識させる事は不可能なのだ。
同じ健常者同士であるならば
上の説明で赤は赤だと認識できる。視神経と言う同一のツールを通して。
440 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 23:09:28 0
「赤はリンゴの皮の色です。」
これはリンゴの皮が赤いと知っている場合は成り立つが、
「赤は赤の色です」
と言ってる為、表現的にはサイテー。
>>440 比喩表現、喩え話が成立するかどうかと同じですねw
442 :
素人:2008/03/14(金) 23:15:37 0
根・境・識、という考え方って偉大ですよね・・・w
そう思いません?w >>唯識さん
443 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 23:16:18 0
>>443 AとBは健常者だ。
ついでに色を認識でき、色について正しい(一般的)知識があれば
Bのような錯誤は起こらない。
横レス。
>>443 全員健常者。
ネコ氏の見解を一旦捨象するなら、
同一の対象を(同一の波長を)知覚しているであろうから、
波長の違いを加味して互いの情報を付き合わせ、共通理解を構築してはどうか?
(それが、共同主観というもの?)
446 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 23:24:59 0
>>432 あのね
話には、段階ってもんがあるんですよ
>@哲学者の間では了解されていません。
全く以て、何でもかんでも了解されてない なんてのは早合点
唯物論とか、そういった『思想』という次元で考えるなら
その程度の、日常的な了解で十分にお互いの考えは伝わるわけだ
その証拠に
「精神は物理現象だ」というような、極めて曖昧な了解が通じているわけです(笑
その次元で論じるなら、その程度の了解で十分でしょう という話ですよ
言葉っていうのは範囲があるから、使い分けなきゃね
それから、>下記を参照
からが意味不明なんだけど、もうちょっと、ちゃんと説明したらどうですか?
いきなり人格の話をされても意味がわかりません
>>433 >トマトと言う物体の赤という色の概念を盲人が認識する必要性は全くない。
必要性の話ではありません
どうやって言葉で伝えるかです
>トマトを体感させて、これは赤いと言えばそれでいい。
それでは言葉で論理的に説明した事になりませんし
見せたとしても、その人が、自分と同じ色として感じているかどうかも、厳密には確認できません
↑
これ基礎の基礎ですから、もう少し勉強してから来て下さい
というか、この説明で理解できないようでしたら、絶望的ですが・・・
色の表現は花言葉に似ている。
それと実際の波長を逐一測定しているわけではない。
448 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 23:27:36 0
その通り。
しかし、錯誤は多数決ではそう決定してもいいが、多数決をとれない。
また、同一の波長を知覚しながら、波長の違いは加味できんだろ。
>>443 Bやばくね。リンゴの絵を描いたら青リンゴwになっちゃうじゃん。
海の絵を描いたら血の海になる。
450 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 23:30:43 0
>>446 人に勉強しろとは大層な身分のようで。
>それでは言葉で論理的に説明した事になりませんし
いやだから説明は光の波長、視神経〜のくだり。わざと見ないようにしてるんですか?
説明はできる。盲人にもな。
ただ、盲人はそれをそもそも認識できる器官が無いから
例として挙げるには不適当だと言っているんだよ。
いくら説明しても感覚器官が無いので認識できない。
読解力無いね。
例えば君はコウモリの超音波を聞く事ができるか?できない。
ただ学術的知識をもってして、それを理解できる。
ただ、コウモリのように実際に聞く事はできない。
そしてそもそも人間の哲学にコウモリは必要ない。
なぜ突然盲人を引っ張りだして来たのかね。
健常者同士での色の認識は言葉で説明できると認めたほうがいいのではないかな。
452 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 23:35:28 0
>>414 >Aさんは青色に認識している海を青いと言う。
(なぜなら昔からこれを青だと教えられたからだ。)
>Bさんは赤色に認識している海を青いと言う。
(なぜなら昔からこれを青だと教えられたからだ。)
この話って普遍者が認識する色(赤、青)があって初めて成立する話ね。
でも、実際は個別者が認識する世界をすり合わせてはじめてAは「自分が赤と
認識しているものをBは青といっているのではないか?」という疑問を持ち、
自分の持つ「これは青だ」とBのいう「これは青だ」という認識の間にずれがある、
と気づく観察が無ければこのはなしは成立しない。
>クオリアが自然科学では記述できていないとされる所以だね。
「クオリアゆえに赤の赤らしさが知覚出来る」というのも初めから色彩の存在が
普遍的に決定できるということを前提としているけれども普遍者の判断なんてどこにもない。
個別者の観察(わたしとあなたの)をすりあわせて互いの論理に矛盾の無い普遍者を
仮定することしかできないはずだ。よって、クオリア説は無意味。
454 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 23:37:40 0
>>451 説明はできても、(言葉で)感じさせることはできないと言っているの。
455 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 23:40:30 0
>>439 いやいや
その説明では、赤の赤さが説明できてない という話ですよ
言葉で、赤を説明するのは不可能です
>>449 それは違うんじゃないか?
Bは海が赤く見えているんだけど、それを青と呼んでいるわけで
逆に絵の具の青も赤く見えているから
ちゃんと青色の絵具を使って赤く海を書くんだよな(笑
456 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/14(金) 23:40:37 0
根本的な前提と言いますか
「私」というものの「有」か「無」の違いで
流れも変わりますし、結果も変わってくると思います。
またそこに「他」を想定した場合はさらに難しいでしょうし
この場合「伝える手段」が重要になりますね。
457 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 23:43:17 0
>>456 あんた、まだ自分が存在するかどうかも、わからんの??
458 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 23:44:18 0
>>452 >この話って普遍者が認識する色(赤、青)があって初めて成立する話ね。
でも、実際は個別者が認識する世界をすり合わせてはじめてAは「自分が赤と
認識しているものをBは青といっているのではないか?」という疑問を持ち、
同じリンゴを見ても両者赤いと言ってしまうのだが。。。。
414では。
昨日見た赤と感じる色と今日見た赤と感じる色が違うと言う具合に
時間経過で感じる色が変わる人の場合とかは考えないのか?
これを考えないとすると、前提となる共通の認識がひとつ増える。
>>454 それは、唯一つ(自分という感覚、自覚)を除いて
すべてに共通することでは?
人が“同じもの・こと”を共有することはあり得ない、と・・・。
そして、「自分という感覚」も、極度に個別的なものであり、唯一種のものであり、
一つとして同じ「自分」がないとするなら、
人が、共有できることなどありはしない・・・。
誰もが、(多分共有しているだろう・・)という、淡い幻を抱きながら
孤独な旅を続けるしかない・・・。
461 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/14(金) 23:46:56 0
>>457最高位さん
お久しぶりですね。
じいさんさんにも同じようなご質問をしましたが
「何」を以って、或いは因って「私」とするのでしょうか?
「私」は物体の重心のようなもの。
物質ではないから物質的には存在していないけど物質的に規定することは可能。
それは例えば「脳」とか「心臓」であっても構わない。
>>414 問題は、その「〜色に認識している」の「赤色」とか「青色」の
意味に普遍性が有り得ない(私秘的である)、ということでは。
色だけでなく、五感の対象すべて(形でも音でも味でも匂いでも痛みでも何でも)
について同じことが言えるが。
464 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 00:02:01 0
>>451 まだわかりませんか?
わかりやすくする為に盲人の例えを使ってるのに
理解できないまま、その例えは適切でない と言われましてもねぇ・・・
わかりやすくする為なんですよ?
もし、健常者であるが赤を見た事がない人 が、いたとして
その人に説明できますか?
というか、そもそも
健常者どうしであっても、同じ色に感じているかどうかは、確認のしようがないわけです
これ常識ですから、勉強とか、そんな次元じゃなく
こんなのは、一回聞いたら理解して下さいよ
>>461 >「何」を以って、或いは因って
とは???
それを考えてるのは「あなた」じゃないの?
>>462 当たり前だが
他人の脳とか心臓は「私」ではないのだが
なぜ、この脳とか心臓は、私なのか
という問題がありますが、理解できませんか?
465 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:03:19 0
>>460 それが最高位の“思想”でしょう?
最高位は、それほど悲観的?ではないようだが…。
>>459 「赤と感じる色」が違うというのはどういう意味だ。
「リンゴの色」が違うのならわかるが。
467 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:06:27 0
>>トマトを体感させて、これは赤いと言えばそれでいい。
>それでは言葉で論理的に説明した事になりませんし
>見せたとしても、その人が、自分と同じ色として感じているかどうかも、厳密には確認できません
別に論理的でなくても、五感のうち一つが抜けているだけでしょ。視覚という感覚を盲人に説明
するには目というものがあって、きみにはないけれど、僕にはその器官がって、事実の世界を
このように認識しているんだ伝々・・・のいいかたで伝えるしかない。
視覚がないというのは空間性の認識の欠如かな・・・。しかし盲人と聾人に地図の場所などを教え
ると前者のほうが早く理解するということを聞いたことがある。空間性も論理的認識の上に成立
している具合が強いようだ。
468 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:08:14 0
>>463 まぁ極端に考えなくてもいいですが、遊びですから。
でも簡単な話です。
もしも普遍性を知るとすれば、Bが間違っていると言える
我々ですが。
469 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/15(土) 00:13:04 0
>>464最高位さん
何を以ってという意味がお分かりになりませんか?
考えているのは「脳」ではないですか?
それに「私」を付加させただけ、言い換えれば「所有」ということでしょう。
このことからも、先に言いました「身体・精神・私」のトライアングル構造から
「私」を独立させていることは明らかですね。
また「なぜ私であったか」などという問いについては
先に言いました「先天・後天」という考え方が早道なのでは?
「あった」ということは何に対して「あった」という過去形ですので
この場合身体ということになりますが
なぜこの身体か?それはそのように作「られた」
つまり受身であり、要因は「他」に「あった」ということでしょう。
470 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:13:49 0
>>460 >一つとして同じ「自分」がないとするなら、
>人が、共有できることなどありはしない・・・。
こうなると論理的整合性なんてことがまったく意味を成さなくなる。
算術もみんなクワス算同様になって、学術の成立基盤がなくなるね
>>464 「私」の置き場所が重心なのですよ。
だから肉体から自動車、慣れた道路とどんどん広がりがある。
自分(「私」)が動くのではなく世界が動いていると考えている人にはそれでいいんじゃないでしょうか。
472 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:18:45 0
そもそもだけど、「わたし」とか「あなた」「彼」は代名詞だ。
「わたしは福田だ」はいえる。「あなたは福田だ」もいえる。
「わたしは水が飲みたい」はいえる。「あなたは水が飲みたい」はいえるのか?
>>417 >だから、色は言葉で論理的に伝える事ができない と言っているのです
だんだん意見が変わってきてるよ。最高違算w
474 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 00:24:51 0
>>469 >何を以ってという意味がお分かりになりませんか?
質問の、意図がわかりませんね
>考えているのは「脳」ではないですか?
「私」じゃない脳は、そこら辺にいっぱいあるでしょう
当たり前ですが
私がいなければ、無数にある脳は、他であって私じゃないですよね
したがって、あなたが自覚している「考え」は、脳なら何でもよかったわけじゃありません
なぜ、その脳が「あなた」であったのか という問題があるわけですが
サッパリ意味わかりませんか???(苦笑
「脳です」じゃダメなんですよ
仏教って、その程度なんですか?
475 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 00:27:43 0
>>473 はぁ??
何を読んでるの?
大丈夫???
話を元に戻すね
↓
359 :哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 02:22:30 0
根本的に、基礎が理解できてない人が多いな
赤の赤さ を、言葉で論理的に伝える事なんてできないのさ
主観とはそういうもの
誰かに証明できなきゃ無効だ なんていう発想は、そもそも的外れ
理解が浅い
「私自身が、私の存在を否定する事は絶対に不可能」
これが理解できない人は、どっか勘違いしている
いつからか「論理的に説明できない」と言っていて反論され言い返せなくなったら
「感覚」ってなふうに変化したが。
なんなんだろうね。議論にならないな。
あと認識について基礎ができてない気がするが。
感覚器官は感覚器官でしかない。対象を感覚的に認識する為のツールでしかない。
>「私」じゃない脳は、そこら辺にいっぱいあるでしょう
その脳にとっては、その脳が「自分」で君の脳は「他」だぞ。
>なぜ、その脳が「あなた」であったのか という問題があるわけですが
その脳にとっては「あなた」でなくて「私」だぞ。
478 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 00:37:51 0
>>476 キミは、もうちょっと普通に人と日常会話ができるようになってからの方がいいよ
>>477 そうだよ?
それで?
それで、キミは自分の存在を否定できたのか?
あーまた疲れてきたな
479 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/15(土) 00:38:42 0
>>474最高位さん
無数にある脳、云々とありますが
「脳」でも唯識的に(五感、前五識)でもまったく問題ありません。
私であった理由などさほどの問題もありません。
仏教で問題にすべきはその「私」に固執、執着するこころであります。
最高位さんの疑問はなぜ「個別」或いは「個性」が生じるか?ということですか?
そうならば、当たり前ですが「縁」が「違う」ということですね。
同じ場所の草木でも縁に因り、育ち、そしてその縁を結実する。
結実して新たな因となるわけです。
480 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:39:24 0
>>だから、色は言葉で論理的に伝える事ができない と言っているのです
>だんだん意見が変わってきてるよ。最高違算w
うーん、これは怪しいかもね。
我々は七色の虹というけれど、アボリニジは五色の虹というそうだ。色彩の認識にも概念把握
が入り込んでいる、ゆえに色彩認識も論理性が介入しているといってもいいのでは?
まあ、「ルビンの壷」の相違は完全に概念把握のそうだわwww。
482 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:41:55 0
>>477 1、脳があり意識がある限り、その脳にとってその脳が「私」である可能性は100%であり、
その脳が「他人」である可能性はゼロである。
2、従って、「なぜこの脳が私だったのか」という疑問は無意味である。
3、ニワトリ頭の最高位にこのことが理解される可能性はゼロであるw
483 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/15(土) 00:42:07 0
>>396 :考える名無しさん:
>ようするに言葉がメインではないということ。
はいおっしゃるとおりです。
見たり聞いたりするのも大事ですね。
もともと誰も言葉がメインとは言ってないのでは・・・・。
484 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/15(土) 00:42:29 0
>>423 :哲学者最高位 ◆
>赤の赤さ を、言葉で論理的に伝える事なんてできないのさ
別に「言葉」に限らなくても良いのでは?
主観性は認識の問題なので、言語に限定する問題でもないと思います。
「赤」色の見本を見せればよい。
「赤さ」は論理的と言うよりは、感覚的に如何表現して伝えるかと言う事でしょう。
「赤いリンゴに唇よせて. だまってみている青い空」
こんな例でも充分「赤さ」は伝えられる。
しかし判らない人には判らない。
要するに
>言葉で論理的に伝える事なんてできないのさ ・・・主観とはそういうもの
>誰かに証明できなきゃ無効だ なんていう発想は、そもそも的外れ
これらは関連は無い、混乱だ。
赤が判らない人がいるから、主観を証明できなくても存在すると言う論理は荒っぽすぎる。
>「キミらにも主観性ないの?」と聞いたら、「あります」と答える
じゃあ それでいいじゃん(爆笑
それでは駄目だ。
どの様に存在するかがある程度は説明できなければ存在しているとは言えない。
要するに「私を記述」できなければ存在しているとは言えない。
勿論相対的な説明では駄目だ、じいさんの思う壺だ。
私(自分)は何処にいるのでしょう
私の存在が判れば私が判る
今日も2chで私探しw
486 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:46:27 0
説法はつまらんなぁ。
まず赤って言葉と色彩って言葉の認識について固定観念的で
例えば個々人で赤って言葉の認識が同じでも(可視光の波長の位置関係)
実際Aから見えるそれがBのそれとAからみて違っていても
赤って言葉の認識が同一であれば同じ事なのだよ。
論理的な説明は可視光云々で事足りる。
感じ方については異なるかもしれんが、赤と言う概念において
その言葉の関係性の中の位置関係が同一として認識されるのであれば
個々人の関係性の中でそれは認識できたとして捉えられる。
これの意味が分からないなら絶望的だよ最高位さん
488 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:49:43 0
>哲学者最高位
>「私自身が、私の存在を否定する事は絶対に不可能」
これが理解できない人は、どっか勘違いしている
ゲーデルの不完全性定理の証明は「私は証明できない」を意味していたね。
ならば、感覚的に「私はいない」なんて言葉も成立させてもいいのでは?
論理的には何の不都合も無い。
よく幽霊の話なんぞで、「わたしはもうこの世にいない」なんて内容は立派に意味が通じるぜww。
489 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 00:49:44 0
>>479 >「脳」でも唯識的に(五感、前五識)でもまったく問題ありません。
他人の脳や、他人の五感 は、関係ないんですよ
だから、脳だ とか、五感だ という一般論的な説明では足りないんですよ
>私であった理由などさほどの問題もありません。
それは、キミの問題意識が低いだけです
私が存在した事実 というのは現代哲学では大変な問題です
>仏教で問題にすべきはその「私」に固執、執着するこころであります。
それは単に宗教的な「教え」にすぎず、固執、執着 と
存在は、別の話です
キミらが何の根拠もなく「存在の否定」に固執、執着するから「存在するよ」と言ってるだけです
逆だ という事ですね
まず自覚して下さい
>最高位さんの疑問はなぜ「個別」或いは「個性」が生じるか?ということですか?
「私」は存在する という事です
そんな一般論的な観点で、済む話じゃないんですよ
いい加減に気付いて下さいよ
自分がいる事を、マジで理解できないんですか???(タメ息
490 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/15(土) 00:54:22 0
>>489最高位さん
さすがに暴論でお話になりません。
一般的でないなら最高位さんのために改めろ、とでも言われるのですか?
ここまでくると圧政的な強権国家主義のようなものです。
491 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:56:05 0
>自分がいる事を、マジで理解できないんですか???(タメ息
「私は存在しない」が命題として成立するかしないかは( タメ息 の問題ではありませんてぇ。
成立するなら、哲学の問題としていいわけだ。
492 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:00:59 0
〈私〉なんてのは、アウグスティヌスの時代から問題になってるだろ。
自分とはどのような存在か、と考えるスレで
自分が存在すると何度も連呼している最高位は池沼。馬鹿。アホ。
494 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:03:18 0
仏教の問題云々は
信教の自由から破棄したい。
495 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:03:18 0
>自分がいる事を、マジで理解できないんですか???(タメ息
「私は存在しない」が命題として成立するかしないかは( タメ息 の問題ではありませんてぇ。
成立するなら、哲学の問題としていいわけだ。
496 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:04:21 0
>>417 >その人は、真っ暗闇でも赤が見えるのかい?(苦笑
お前は馬鹿だな〜
その人の視覚は光をほとんど感知していないのだから、
すべての波長の光を吸収する色、つまり黒に見える。
現象が異なるのだから赤には見えないよ。
ばーかw
>>479 >最高位さんの疑問はなぜ「個別」或いは「個性」が生じるか?ということですか?
>そうならば、当たり前ですが「縁」が「違う」ということですね。
そうじゃないだろ。
「違い」は、比較を前提としているけど、
最高位が言いたいのは、比較を超越したことでしょ、たぶん。
>>496 最高位の視点では感覚器官の仕組みを無視して
色と言う概念だけで述べてる。
だからこのような間違いが起きるし反論されてもその意図がつかめない。
言葉遊びなんだよ。だけど馬鹿とは、優しさが足りない。
499 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:09:38 0
記憶の中の赤の色は光学とは関係ないよな。
500 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 01:10:31 0
>>490 どこが暴言ですか?(苦笑
話をすり替えないで下さい
>一般的でないなら最高位さんのために改めろ、とでも言われるのですか?
>ここまでくると圧政的な強権国家主義のようなものです。
と思っているのは、あなたじゃないんですか?
あなたじゃなく、一般論的に普遍性をもったもの達の考えである とでも言うんですか?
まともな話をして下さいね
>>491 だから、成立させてごらん て言ってるわけだ
でも、できないでしょう
できるできるじゃダメなんだよ
>>492 まぁ、そこから唯物論を完全破壊したのが、私の偉いところだな(爆笑
>>493 私がいる事すら理解できない人がいるから仕方ないだろ
>>496 何、言ってんの?
話の流れを理解してから書き込まないと、恥ずかしいぞ?(苦笑
501 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:11:34 0
ニワトリ脳は
訳も分からず「現代哲学では大変な問題です 」と騒ぎ立てる。
何を指摘されたかを把握できないまま、見当違いの返答をする。
突っ込みいれても、三歩歩けば忘れてしまう。
502 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:15:56 0
>>499 つまり記憶の中の赤は、赤い光(波長)ではないよな。
頭の中で赤く灯ってたら楽しいが。。。。
>>423 >言葉で論理的に伝える事なんてできないのさ
>「主観」とはそういうもの
はて?論理で伝えられないのが「主観」なら、
何で論理で議論しているのでしょうか?
では、「主観でないもの」は論理で伝えられるのでしょうか?
504 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/15(土) 01:21:10 0
>>497さん
それは絶対神ということでしょうか
仏教で言うそれは紛れも無く「普遍」ですね。
>>500最高位さん
また議論のための議論ですね。
最高位さんは「私」の本質を語らない、または理解して居られない。
「最高位さんの」私の存在など解るはずもありません。
他に伝える手段をお持ちでないのですから。
もし必要ならば「普遍」と言う名の鍵が必要ですね。
最高位はまだわからんみたいだな。無知と言うか盲目というか...
可視光線のなかで長波長の側の四分の一程の620〜780nmの領域
を便宜上、赤 という言葉で表現しているに過ぎない。
色という言葉の本質はそれだけのこと。
例えばこの赤を違う言葉に置き換えても、可視光のなかの620〜780nmの領域
という事実に変化はない。この赤とされてる部分は便宜上そう述べられてるだけで
他の言葉に置き換えてもいいのだ。
領域を表現するという意味においては同じ事だからな。
私はたまに「私」を置き忘れて他人の世話を焼いてしまいます。
そのとき「私」は他人の一部です。
いや正確に言うと仲間と一緒の一つです。
>>504 :唯識
>それは絶対神ということでしょうか
いえ。実存ということです。
実存は客観的には扱い得ないもの、つまり比較という視点が無意味になるようなものです。
>>507 実存は認識主体が自身を捉えられない。
でも他人の目には確かに存在している。
少なくとも肉体として。
>>508 >でも他人の目には確かに存在している。
>少なくとも肉体として。
このスレ《【私】を記述してください。》は、そのように外側から見られた【私】を記述することなのだろうか。
そのような、外側から見られた【私】は、見る人によって無数にあることになってしまうのではなかろうか?
510 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:33:16 0
最高位は、渡辺久義さんの従者なのか?
唯物論論破の主張のすべてが渡辺久義さんの小学生版。
「思想戦」というあたりまでクリソツで、ワロタ。
511 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 01:34:39 0
>>500の
>>493へのレス、訂正
自分がいる事すら理解できない人がいるから仕方ないだろ
>>503 >はて?論理で伝えられないのが「主観」なら、
>何で論理で議論しているのでしょうか?
論理的に伝えられない事もある というのが事実
事実は事実なんだから
その事実を踏まえた上で、理屈を組み立てていくしかないだろ
>>504 私の話など、どうでもいいんだよ
私もキミの主観性などわからんしね
要は、キミはどうなの?という話でね
キミは、いるの?いないの?
一回、誤魔化さないで答えてみて下さいね
>>505 >可視光線のなかで長波長の側の四分の一程の620〜780nmの領域
>を便宜上、赤 という言葉で表現しているに過ぎない。
だから、それって、どんな色の感じなんですか? (苦笑
キミが感じている赤と、私が思っている赤が、同じだという保証はどこにありますか?
ましてや、例えば、そもそも赤を知らない人に
>可視光線のなかで長波長の側の四分の一程の620〜780nmの領域
などと説明しても、何の事なのかサッパリわからんはずですよ
>>506 それは、仲間と一緒の『私』が存在してるんじゃありませんか?
存在しませんか?自分
512 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 01:42:09 0
>>510 誰それ
というか、そんな事を言っているキミに
理解できる知能があるとは思えんが(爆笑
513 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/15(土) 01:43:01 0
>>507さん
最高位さんの場合は実存が先に言いました
トライアングル構造を移動しているだのようです。
>>511最高位さん
何が居る、居ないですか?
また
>>461と同じ質問ですね。
>>509 では逆にお尋ねしますが「私」はこの肉体を離れてどこにあると考えられるのでしょうか。
>>514 肉体と私は離れてはいないでしょう。
しかし、「肉体」を見られたものとしての「肉体」と考えてしまうと、
昔ながらの心身問題に陥ってしまうでしょう。
516 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 01:50:11 0
>>513 >
>>511最高位さん
>何が居る、居ないですか?
キミだよキミ
キミは、いないんですか?と聞いているわけ
いるかいないかを答えてくれればいいだけです
まさか「キミ」って何ですか?なんていうアホな事は言わないよね?(苦笑
もし会社でそんな事を言ってたら、クビになるかも知れませんよね
517 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:50:23 0
>>512 渡辺久義さんも知らないで、唯物論論破したなどとほざいていたのか?
こいつは大笑いだな。
518 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 01:53:05 0
>>517 しかし本質からズレた事ばかり言うねキミは
知らなきゃ唯物論は論破できないのかね?
その理由は?
519 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 02:18:11 0
>>518 馬鹿だなぁ。
「史上初めて」なんて言うからだよ。
君が考えるようなことは、すでに他の人によって考えられている。
おおぼら吹く前に調べて見ろ、と言っている。
520 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/15(土) 02:23:28 0
>>516最高位さん
端的に縁起に因って仮に在るというこでよろしいでしょうか?
>519さん
最高位さんにはそういった「クセ」があるんですよ。
初めて決定論スレでお会いしたときも同じ感じでしたからね。
521 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 02:25:31 0
>>520 アンタが最高位をポン引きした張本人だったよなww
>>520:唯識
釈尊は「他に依止する者は動揺す」と言い、「自己の拠り所は自己のみなり」と言ったそうです。
釈尊のこのような言葉を、あなたの、縁起から自己を見る考え方から説明すると、どうなりますか?
523 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 02:36:21 0
>>519 その人は、いつ、どんな理屈で唯物論を論破したのかね?
>>520 「キミは、いる」という事でいいんですね
しかし、それは縁起によってだと
では、いかなる縁起によると「キミ」は発生するのかね?
その因果関係は成り立つのですか?
その縁起が、なぜキミなのか
結果論ではなく、原因性という次元の高い観点に立ってお答えいただきたい
524 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 02:42:45 0
>>523 ホントに横着なやつだな。
ネット検索してみる知恵もないのか?
「唯物論 論破 否定 私 心」とかいうキーワードを打ち込んで調べろ。
「渡辺久義 唯物論」でも多分出てくるから。
525 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 02:52:41 0
>>524 自分で人に説明できる実力もないんだったら
もう少し謙虚に喋った方がいいんじゃないか?
説明できるようになってから来てくれ
少なくとも、キミよりは私の方が上みたいだからね
がんばって勉強して、説明できるようになりましょう
526 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 02:54:54 0
527 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 03:04:40 0
>>526 ごまかしてんのは、そっちだろ
言われるように検索してみたけどな
統一教会系の京大名誉教授だって事はわかったけど
体系的に主張している部分が見つからん
その人が、本当に唯物論を完全に論破できてたら認めるよ
認めない理由がない
私は、キミらとは違うからね
だから、ちゃんと説明してみろよ
528 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 03:10:44 0
529 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/15(土) 03:15:29 0
>>522さん
難しいですね。
その「他」を依他起性としとしてみるならば
唯識としては一歩前進なのですが。
そのように(依他起性)観る自己にとっての「他」は動揺するものと言い切れるかどうか
ですね。
涅槃寂静イコール円成実性なのか?
原始仏教と大乗との関係も出てくると思います。
>>523最高位さん
まず、その「キミ」とは何を指しているのですか?
また
>>461と同様です。
具体的に何かと示していただかないと。
530 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 03:36:20 0
>>528 それの、どこが唯物論を決定的に論破してるのかね?
>>529 >まず、その「キミ」とは何を指しているのですか?
「キミ」とは何かって???
そういう基地外じみた質問はやめてくれませんか?
キミはキミだろ
キミという主観性そのものな存在性だよ
キミは唯一絶対なのだから
キミを「キミ」以外の言葉で表す事は不可能
お釈迦様も言ってるでしょう
天上天下唯我独尊てね
キミは、そのお釈迦様に対して
「それじゃダメです『我』を説明してません」
「『我』とは何を指しているのですか?」
と言ってるようなもんだ(苦笑
>>529 >その「他」を依他起性としとしてみるならば
え? 依他起性とは反対のようなことではないですか?
あれは釈尊が最後が近づいた時に弟子の阿難に言った言葉です。(ダンマ・パタ)。
「阿難よ、汝自らを灯火とし汝自らを依り所とせよ。他を依り所とするな。」
つまり、他に拠り所を求めるな、さにら言えば、自己の外を見ずに自己自身を見つめよということでしょう。
唯識さんが「違い」ということを言う場合、さっき書いたようにそれは比較を前提としています。
そのような比較に基づく思考をやめよ、ということではないでしょうか。
自分が出逢い信じられる基準ていうのはとても大切。
ただ誰もが同じ基準を絶対に持たねばならないと思い込むのは不幸の始まり。
「私」はそういうたくさんの基準を手掛かりにして思考する。
惚れた女が美人に見えるからと言って誰もがその彼女を美人だと思うとは限らない。
でも何となく一致してしまう場合が多いから普遍性があると信じてしまう。
>>531 釈尊自身の発した言葉に囚われて惑わされずに自分で考えて進め。
それが人生ぞ。それが修行ぞ。
仏教は釈尊の言葉だけが全てではない。
ちなみに釈尊の言葉「汝自らを依り所とせよ。他を依り所とするな」 は、
ニーチェの『ツァラトゥストラ』の次の言葉によく似ています。
「君たちはまだ自らを捜し求めないうちに、私を見いだした。およそ信者なる者は、そういうやり方をするものだ。
それゆえ信仰なるものは、たいそうつまらぬものなのだ。今や私は君たちに命じる、私を失い、自らを見いだせ!」
『この人を見よ』の副題は、『人はいかにして自己が本来あるところのものになるのか?』です。
釈尊の言葉も、ツァラトゥストラの言葉も、自己が本来あるところのものとなれ、ということでしょう。
そして、自己の外を見ていたのでは、自己は本来あるところのものとはなれない、ということでしょう。
私はシニフィアンに過ぎない。私のイメージというのは他者が作り出す物
私は他者の認識によって肯定されるものであり
他者の認識無くしては存在し得ないものなのだ。
私を私と認識してくれる他者が存在しなければ私という存在は在って無いのと同じなのだ。
536 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 05:02:58 0
まあ、論議においては
私を私と認識してくれる他者が存在しなければ成りたたんわな
537 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 05:06:50 0
赤ん坊だったおいらを認識してくれなかったら、育つこともなかったな
私が人工知能であっても私には何も問題はない。
もし、私が造られた人工知能であった場合、
私はどのように造られたのか説明出来ねばならないのか?
現に己の出自を説明しないコンピューターは存在する。
説明出来ないということは、私が造られたものではない事を保証しない。
哲学が言葉で成されるならば、そのいっさいは人工知能にも成せる。
私が人工知能であって主観性など持っていないとしても、
私は他の人工知能になったりはしないだろう。
私が話すいっさいの言葉は人工知能にも話し得る。
であるならば、
言葉ではどやったって、私が「造られたモノ」ではない事を示せない。
「私は何故いるのか?」を私が説明出来ないのは、
「私が物質ではない」が理由ではなく、
自身を把握しきれないからであろう。
一言で言えば「知らないから」。
私は物質かもしれないし、そうでないかもしれない。
ウィトゲンシュタイン教
自己言及について、それが語られている内容があるかどうか、についてまとめた
夜あぷする予定だ
長くて、携帯からじゃまともに書けない
とりあえず、2ちゃんに書き込めるとこ探すわ
自己言及のパラドクス?
クレタ人は嘘つきとか?
まぁ自己言及そのものが逆説的なわけで
それは自分が自分を意識することで、
自分自身が主客分裂してしまうからだね。
544 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 06:39:26 0
そもそも・・・
「わたしがいる」「あなたがいる」の命題は「Aがある」の関数の一つと考えられる。
では「Aがある」の存在命題の真偽判定を決定付けるものは何か?
アリストテレス
存在するものを存在しないと言い,あるいは存在しないものを存在すると言うは偽であり,
存在するものを存在すると言い,あるいは存在しないものを存在しないと言うは真である….(1011b20-30)
存在するかしないかが前提となっているわけだけど、最高位の「私がいる」は自明の真で
はないかという主張ねぇ・・・。タルスキーみたいに「『雪は白い』その限りにおいて真」とか
みたいに「私がいる」も、限定的な設定で、そのうえに議論が成立しているってことでも
いいのかな?関数と考えれば「わたし」「あなた」「地球」「もの」・・・ いずれが入っても
関数の記述で言えることはすべていえるはずだ。
545 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 06:47:25 0
>>543 >クレタ人は嘘つきとか?
>まぁ自己言及そのものが逆説的なわけで
真偽判定を「存在するかしないか」が前提だとすると、「私の言うことは嘘である」
の「私の言うこと」が存在するのかしないのかが、いえなくなる。この命題は
そもそも命題の基本構造が欠落していると考えたほうがわかりやすい。
>>545 ん?意味が分からない。
エピメニデスが現に語っているという設定でしょ?
エピメニデスの言明を否定したらそもそも話しにならない・・・
547 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 08:47:01 0
>>546 >エピメニデスの言明を否定したらそもそも話しにならない・・・
まぁ、そんな風に感じている。
「人間は魚である」という言明があって、「私の言うこと(=「人間は魚である」)は
うそである」なら普通の話。これが 、「私の言うこと(=「私の言うことはうそである」)は
うそである」だからパラドックスになっているというのがエピメニデスの言明ってわけね。
「私の言うこと」=「うそ」・・・という命題が成立するかどうかだ。これを認めると「犬は
本当である」「猫は嘘である」とかいった言明にも意味を認めなければならない。
そもそも「うそとかほうとうか」といった判断は命題に対して掛かるものであって
単体の名辞ないし概念に対してかかるものではない。
「私の言うこと」は何らかの指示対象があってはじめて真偽判断できるものだ。
エピメニデスのパラドックスは、言語規則の間違いであって、矛盾律(D∧¬D)を満たす
ものではないという考え・・・。
>>547 >「私の言うこと」=「うそ」・・・という命題が成立するかどうかだ。これを認めると「犬は
>本当である」「猫は嘘である」とかいった言明にも意味を認めなければならない。
>そもそも「うそとかほうとうか」といった判断は命題に対して掛かるものであって
>単体の名辞ないし概念に対してかかるものではない。
それだとエピメニデスのパラドックスからは、話がずれてるんじゃない?
エピメニデスのパラドックスは、「全てのクレタ人は嘘つきだ」だよ。
全てのクレタ人に自己自身が含まれていて、つまり自己そのもの
に言及しているから、自己言及のパラドックスが生じる。
1.すべてのクレタ人は本当のことを言うことができない。
2.私はクレタ人である。
1と2が同時に真であることはできない、で、パラドックスでは
ないような気がするのですが、違うのですか。
>>549 「全てのクレタ人は嘘つきだ」が変なのだが、どこにその変な理由があるのかが、
容易にはわからない。だからパラドックスなんじゃないでしょうかね・・・
551 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 10:34:41 0
話を元に戻すね
↓
359 :哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/14(金) 02:22:30 0
根本的に、基礎が理解できてない人が多いな
赤の赤さ を、言葉で論理的に伝える事なんてできないのさ
主観とはそういうもの
誰かに証明できなきゃ無効だ なんていう発想は、そもそも的外れ
理解が浅い
「私自身が、私の存在を否定する事は絶対に不可能」
これが理解できない人は、どっか勘違いしている
552 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/15(土) 10:42:46 0
>>551 過ちを犯して死にたいとして自殺する人は出来ますよ
問い 九官鳥が「私は存在しない」と発語しました。この文章は
真でしょうか偽でしょうか。
答え 九官鳥に「私」が存在するなら偽。存在しないなら真。
問い 哲学者最高位が(以下略)
554 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 11:02:43 0
キミらは、すぐに誤読するけど
要するに
私が赤色を見ている事を、言葉によって『証明』する事など不可能なわけだが
私が赤色を見ている事は事実
事実は事実なのだから、必ずしも『証明』しなければ無効だ とは言えない
という事
実に簡単な事だね
こんな簡単な事を誤読しないで下さいよ
私は「我あり」を理解している
しかしキミらに主観性があるのかどうかは確認できない
これが事実
逆に
キミらからすると、私に主観性がある事も確認できない
当たり前だが、これもまた事実
お互いに、これを証明する事など不可能
しかし私に主観性がある事は、私自身で自覚できている
そして、それを私自身で否定する事は絶対にできない
これも事実
他人が否定など、できる話でもない
そして、その事実を以て唯物論を論破する理屈へと発展させる事もできる
これは自分の中で完結できる結論
そしてキミ達に聞いてみると「自分にも主観性があります」と言う
私からすると、それは確認できないわけだが
キミら自身が理解できていれば、それは事実なのであろう
『思想』の次元では、これで十分
証明できなければ『無効』 などという発想は、そもそも的外れ
555 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 11:05:51 0
556 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/15(土) 11:17:57 0
>>547 >これを認めると「犬は
本当である」「猫は嘘である」とかいった言明にも意味を認めなければならない。
その場合の意味とはどういう事を指すのでしょうか。認める主体はだれ?少なくとも
私にはただのナンセンスな文にしかみえない。
>>547 「私の言うことはうそである」という言明は、その「私の言うこと」に
真偽の判断が可能な別個の内容がない限り、何も言っていないのと
同じことで、無意味です。「私の言うことは本当である」でも
同じことです。
「さっき私の言ったことはうそである」とか「これから私の言うことは
うそです」なら、「さっき言ったことって何だ?」とか「これから何を
言うつもりなんだ?」と注目するでしょうが、単に「私の言うことはうそである」
と言われても、何の反応もしようがありません。
558 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 12:04:11 0
>>557 >何の反応もしようがありません。
どう反応するかの話じゃないだろ(苦笑
てか
そんな事は誰でもわかってるんだよ
そもそも
「私の言うことはうそである」という発言そのものが、ウソかホントか
という事を言ってるんであって
キミのは観点がズレてるんじゃないか?(笑
◆ 記号と自然言語を用いた論理展開の無駄性
記号および自然言語を用いた論理展開は無駄である。
記号および自然言語は、日常の動作を語るときにのみ用いるものだからである。
これは、いかなる記号においても同様である。
人間の生み出す記号は、人間の観念から脱出することはできない。
これが、いかなる論理展開も無駄である由縁である。
記号と言語は論ずるためではなく、ただ単に日常的な動作を記述口述するためだけに存在する。
>>554 まだ言ってんのか。他人から見たら無効だよ。
それと自分にも主観性がありますなんてアホな日本語使う奴は
お前以外にいないよ。
561 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 12:44:39 0
>>560 他人にとって、私の事など関係ない と言ってるんだよ
他人自身が、自分の存在を否定できるのか という話
観点が間違えている
>それと自分にも主観性がありますなんてアホな日本語使う奴は
>お前以外にいないよ。
ん?
あんた主観性じゃないのか??
モゴモゴ言ってないで、どっちかハッキリ答えなさいよ
>>561 事実じゃないから無効だろう。
他人と知覚を共有してないんだから、お前の見てる感じなんか知らん。
それに自分の存在なんか否定できるだろ。
自分がない時なんていくらでもあるんだからな。
おまけに俺が主観性じゃないのかって、あまりに意味不明で話にならん。
日本語になってないだろうが。
563 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/15(土) 13:38:33 0
>>562 >他人と知覚を共有してないんだから、お前の見てる感じなんか知らん。
そりゃ知らんだろ
最初から、そう言っている
要は、キミがいるのか、いないのか だとね
>それに自分の存在なんか否定できるだろ。
>自分がない時なんていくらでもあるんだからな。
ない時じゃない時
すなわち、いる時の自分は、どうやって否定するのかね?
>おまけに俺が主観性じゃないのかって、あまりに意味不明で話にならん。
主観性もわからんのだったら黙ってろよ(苦笑
564 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 14:02:36 0
>>549 >1.すべてのクレタ人は本当のことを言うことができない。
>2.私はクレタ人である。
これって二様に解釈かな・・・
(1)わたしはクレタ人なんだけれど、「わたしはクレタ人である」ということが出来ない。
(2)わたしはクレタ人であって、本当のことを言うことが出来ない。
パラドックスなんて別にないけどな。
565 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 14:17:32 0
そういえば・・・
最高位
>「私自身が、私の存在を否定する事は絶対に不可能」
>これが理解できない人は、どっか勘違いしている
わたしの存在を否定するって、真偽判定でなくって価値判定もあるね。
自分自身の存在を価値的に否定するのはできるといえるなぁ・・・。
「わたしはだめだぁ」なんてのは自我の価値否定。
これは自殺に結びつく。
真偽判定だとねぇ・・
わたしは「わたし」を事実世界に認識して「いま、ここ」にある、「わたし」
はまぁいいわな。テープレコーダーかなんかのメッセージで、「わたしは
もうここにはいないけど・・・」ってのは解釈可能だ。
となれば、真偽判定でも「わたし」の存在を否定することは出来るのでは?
>>563 否定以前にそういうものが本当にあるかどうかすら分からん。
なんか認識されたような気がするだけのそれが全部同じものか不明だしな。
胡散臭いものはないものとして扱うだけ。お前には分からんかな。
それとなぁ、主観性が分からんってか、お前の文章がおかしいの。
お前ってさ、主観性?みたいな基地質問される身にもなれよ。
567 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 14:39:31 0
>>556 Absalomさま、はじめましてぇ。
>>これを認めると「犬は本当である」「猫は嘘である」とかいった言明にも
意味を認めなければならない。
>その場合の意味とはどういう事を指すのでしょうか
意味なんてありませんわ、「犬である」「ネコでない」なんて、それだけでは
何の意味もありませんものね。
だからエピメニデスのパラドックスって、パラドックスとして成立してないって考えますぅ・・・。
568 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/15(土) 14:53:27 0
テレビみたいに客観(グローバルの主観)(視聴者の目)は全てを写しきっていて
ローカルの主観(登場人物の目)が自分から見た世界を写してるだけですよ
569 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/15(土) 14:55:54 0
>>554 :哲学者最高位 ◆
>私が赤色を見ている事は事実
そこまでは誰も反論しない。
赤を見ているという認識(事実)が在るから、見ている何かがあるという事は誰でもわかる。
要はそこからだ。
その何かを「主観」とした場合に、名付けだけでは存在する事にはならない。
何らかの説明、主観そのものを特定するような定義、絶対的存在性の記述が必要だといっている。
それが不可能だから、私の言う赤(客観)に依存した相対的(空性の)存在と言う批判になる。
570 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 15:40:42 0
感覚にどんな説明をするのかね。
しかもその説明ができれば、その感覚以上にでも成るのか?
「赤はリンゴの皮の色だ」が説明になるか?
笑い話には成るが。
571 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/15(土) 15:44:20 0
>>530最高位さん
もう唯識の趣旨をお分かりの上で仰っているのかどうかですが
なぜ「何に因って」と尋ねる理由は
唯識では「他」に因らないものは無い
つまり「私」だけが独立して存在するなどということは迷妄であり
唯識では偏計所執性といいます。
>>531さん
「他」の考え方が唯識の「他(この場合依他起性)」と違うのでは?
また先にも述べましたように原始仏教と大乗との違いもあります。
比較する、或いは差別するこころが生じる原因と他を考察すえば
いろいろとわかります。
572 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 18:50:37 0
>>554 :哲学者最高位 ◆
>私が赤色を見ている事は事実
事実ということは実在であり、幻想や虚構では無いという事だ。
幻想や虚構ではないという証拠は?
573 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/15(土) 19:01:26 0
>>531 他に依らないとは食料も他に依らないので
自分の体を食べて食いつなぐという
ウロボロスです
完全とはそういうことですよ
キリストはこれはキリストの血である肉であるって食べさせるという事は
キリストは自分の体を食べているんですよ
だから完全なんです
幻想や虚構でないリアリティは、記述とは無関係だよ。
記述される(赤)と、(赤)のリアリティとは無関係だって。
リアリティを体験しているのは誰? それが「私」でしょ。
リアリティについて、存在するとかしないとかを論じても、なんか、単純に無意味な気がすんだな。
575 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 20:27:21 0
>>550 クレタ人のパラドクスは本当のパラドクスではありませんよ。
本当だと仮定するばウソだけど、ウソだと仮定すれば実情に敵っている
という意味で、嘘つきのパラドクスとは質が異なるということになっているはず。
要するにパラドクス的だということでしょう。
576 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 20:28:28 0
>>531 >「阿難よ、汝自らを灯火とし汝自らを依り所とせよ。他を依り所とするな。」
この後に、「法を灯火とし法を依より所とせよ。他のものを依り所とするな。」
と続くのをなぜ無視するのだ?だから
>さにら言えば、自己の外を見ずに自己自身を見つめよということでしょう。
という自己肥大の解釈になる。「法」とは外界の自然法=客観世界だよ。
577 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 20:36:47 0
>>554 >事実は事実なのだから、必ずしも『証明』しなければ無効だ とは言えない
>という事
事実命題はその命題の記述と事実との整合性によって真偽判定されることも
知らないのか?論理の常識だけどね。
だから、
>私が赤色を見ている事は事実
などという事は客観的事実になりえないのだ。本人以外のだれもそれがほんとか
どうか確かめようが無い。論理には普遍性が必要だ。
「私が赤色を見ている」が事実でないケースとして
1.見ているのが実は「赤色」でない場合。
2.私は実は「見ている」のではない場合。
3.見ているのが実は「私」ではない場合。
4.上3つの複数または全部。
夢を見ている場合、本当に「赤色を見ている」と言えるのかどうか。
そもそも、なぜ夢は「見る」もので、「聞く」とか「触る」とか
言わないのか。
580 :
Wittgenstein教:2008/03/15(土) 22:58:53 0
>>549 >>550 自己言及のパラドックスと呼ばれるものの代表的な例は下のものです。
問題.下の命題Pの真偽を判定せよ。
P:「命題Pは偽である」
一般的回答.Pが真であると仮定すると、Pの内容から「命題Pは偽である」ことになるので不合理。
他方、Pが偽であると仮定すると、同様に「命題Pは真である」ことになるので不合理。
よって、矛盾。(三浦俊彦 : 論理パラドックス, p20, 二見書房 (2002)を参照)
どうなのでしょうね。そして、詳細は省きますが、一般に「クレタ人のパラドックス」と呼ばれるものはパラドックスではないとされています。
>>542 何だかよく分かりませんが、わざわざありがとうございます。注意して見ているようにします。
581 :
Wittgenstein教:2008/03/15(土) 23:18:20 0
>>579 あなたのご意見について、そういえば「記憶とは映像のことだ」とかいう主張を思い出したので
ちょっと気になります。英語の例をみると
I have (×see) a bad dream. (ジーニアス英和大辞典)
だそうで、「見る」という表現はしないみたいです。
(だからといって、あなたの主張にケチをつけているわけではありませんよ。)
ちなみにドイツ語では
einen seltsamen Traum haben (奇妙な夢を見る)
で、英語と同じ感じですね。不思議ですね。
>>581 これはhaveとseeの意味用法の違いに過ぎないでしょう。
夢そのものを見る(have)と夢の中で見る(see)では意味が違うと思います。
583 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 00:12:45 0
>>582 つまり、日本語の「夢を見る」と英語の「I have a dream」は意味が全く異なっている
ということですか?そのような意味だとしたら、ちょっと同意しかねますが。
>>583 日本ではまだそうやって教えているということが参考になりました。
i have a dream
有名な演説の一説ですね。
585 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/16(日) 00:51:02 O
580
命題Pは以下のとおりである。:
「命題Pは偽である」
このとき、かっこの中の文が二重にPを定義している。
冒頭の文はかっこの文より一段階上の意味付けをしていて、かっこの中の文が間違っていても、Pについて言及することはできない。
かっこの中の文が正しい場合命題Pは定義のしなおしを要求される。
586 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 01:03:19 0
I my な 私
587 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 01:25:55 0
夢を見る 夢を抱く
588 :
Wittgenstein教:2008/03/16(日) 01:29:06 0
>>585 仰りたいことは何となくわかりますが、
「かっこの中の文」が二重にPを定義しているわけではありません。
あなたが仰っているのは、「「x=1」なる命題の真偽」が「「x=1」であるときの「x=1」という命題の真偽」
と一致すべきだということと同じです。
589 :
Wittgenstein教:2008/03/16(日) 01:33:11 0
失礼。
>>558の「一致すべきだ」は「一致している」の間違いです。
590 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 01:38:12 0
>>566 >否定以前にそういうものが本当にあるかどうかすら分からん。
分らん と思っているのはキミだろ?
違うんか??
>>569 >赤を見ているという認識(事実)が在るから、
>見ている何かがあるという事は誰でもわかる。
何か じゃなく、それが私
他人が何を見ようと、私が主観的に認識できるはずもない
私という主観性が、それを認識しているのであって
すなわち、私は「あり」だという結論以外にはありえない
>>571 ですから
私は、いかなる因果によって存在しているのですか?と聞いているのです
私を存在せしめる事のできる法則性を問うているわけです
>>572 >事実ということは実在であり、幻想や虚構では無いという事だ。
>幻想や虚構ではないという証拠は?
幻想や虚構 が、幻想や虚構であるためには、結局それを認識する存在が必要
その存在が私
>>574 >リアリティを体験しているのは誰? それが「私」でしょ。
そういう事ですね
彼らは根本的に観点がズレている
591 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 01:56:02 0
>>577 > >私が赤色を見ている事は事実
> などという事は客観的事実になりえないのだ。
客観的事実なとと言っていないよ?(苦笑
言うなれば、主観的事実 かな?
>本人以外のだれもそれがほんとか
>どうか確かめようが無い。
本人が確かめてる という事実の話な
最初から、本人以外に認識できない事は、わかりきっている
>論理には普遍性が必要だ。
そしてまた、他人がそれを自分で認識するならば
それは、ある意味、普遍性 だと言える
その他人に主観性が無ければ、当然その理屈は当てはまらない
という当たり前の事実があるだけであり
当てはまる人には当てはまる という普遍的事実が、あるわけだ
他人が確認できる できない は、単なる観測問題であって
事実を歪める根拠にはならない
592 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 02:03:12 0
>私という主観性が、それを認識しているのであって
何言ってんの こいつw
593 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 02:05:40 0
というか
普遍性など論理とは関係がない
独我論が正しく、私にしか主観性はなく
私以外の全てが妄想であったとしても
それは論理的に成り立つのだからね
ただ一つ否定できないのは
「我思う故に我あり」
すなわち『我あり』だ という事
594 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 02:10:26 0
デカルトの「我思う故に我あり」の我は、精神という実体。
最高位の言う我は、実体なき存在なのね。
なんせ「主観性」という性質だから。
595 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 02:18:16 0
私に主観性がある
のか
私は主観性そのもの
なのか
はっきりせいや ぼけ
596 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 02:23:32 0
「私の言う事はウソである」はウソかホントか
ウソならば
「私の言う事はホントである」が正しいという事になるわけだが
実際にはウソをついた という事になり、成り立たない
ホントならば
「それじゃ、そもそもウソついてないじゃん」
という事になり、これまた成り立たない
しかし、これを成り立たせる答えがありますよ
知りたい人いますか?(笑
597 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 02:30:47 0
またアキレスと亀の時のように恥をさらす気なのかw
598 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 02:33:21 0
ニワトリ脳(最高位)に恥などない
>>590 思いだって全部同じものか不明で胡散臭いものだろ。
>>566で否定した内容を理解できてないな。
自分の都合で問いを組み立てたいらしいが、もう否定されてる。
というか、その内容を問うってことは、お前には確信がないってことで、
俺がどう答えようとそれを信じる以外に道はなくなるわけだが。
600 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 02:35:33 0
>>595 まぁ説明しても、読解力の無いキミには理解できんと思うが一応
私という存在性には、主観という性質がある
ただし
私は主観性そのものとして顕現している
どっちも成り立つ状態を考えれば理解できるだろ
そんなこと思いもよらなかったか?(苦笑
601 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 02:39:00 0
>>597 あぁ
私はカメに勝てるよ(笑
ゼノンの問題意識を、子供の頃に自力で見抜いて克服できたんだから大したもんだろ
602 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 02:41:39 0
>>600 おいおい 今度は 主観という性質がある ってか?
603 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 02:46:41 0
>>600 >私は主観性そのものとして顕現している
どこまでポエムなやつなんだろうか??
哲学ではなく、戯れ唄だな こりゃ
604 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/16(日) 02:47:10 0
>>600最高位さん
ただ単に言葉のあやで何らの説明になっていませんし
妄想も甚だしいですね。
単に、「身体・精神・私」から私を独立させているからでありまして
果たしてこれが正しいかどうか。
605 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 02:49:06 0
>>599 いや多分、キミには主観性は無いね
自分がいるのかどうかもわからん人に、主観性があるとは考えにくい
私の理屈は、主観性のある人用だから
キミがその辺に転がっている石ころと同じく、主観性が無かったとしても
何ら問題はない
キミには当てはまらないだけ
まぁそういう事もあるだろ
だが問題はない
当てはまるのは、主観性の有る人だけだからね
これは主観性のある人どうしの話 だという事
キミには主観性は無い
それでいいじゃないか
606 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 02:54:37 0
何にせよ「主観性が認識する」というのは無理だな。
リトマス紙を青くするのは「アルカリ性を持つ物質」であって「アルカリ性」ではない。
むしろ「何かを認識するような性質を主観性と呼ぶ」のが正しい。
「私性」といってもいい。
「人間の脳は主観性(私性)を持つので認識することができる」
これが一番わかりやすい。
607 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 02:56:53 0
>>603 さっきから
というか、いつも
キミの発言は、全く反論になってないんだが?(苦笑
>>604 話の流れを読み取ってから発言しなくちゃね
はっきりさせて下さい と言われたから
私の主観性について、主観的に述べただけだよ
ケチつけるなら、自分で説明してみなよ
どこがどう間違ってんのさ
>>597 最高位は唯物論を論破するだけでは飽き足らずにアキレスと亀にまで口出してたの?
609 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/16(日) 02:58:47 0
>>605 つまり俺の前に最高位論は崩壊したってことか。よしよし。
あとおまけで書くが、
>>600はひどい。
611 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 03:00:06 0
>>606 最高位の後だと 際立つなw 分かりやすいよ うん
612 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 03:02:33 O
哲学者とメンヘラの違いは、正しいとされる論理に基づいて語るか否か。
613 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 03:05:43 0
>>608 一部では有名なんだが、知らない?
「亀は抜かれる瞬間に立ち止まる」というすばらしい理屈でゼノンを論破したのだよw
614 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/16(日) 03:17:18 0
最高位さんの悪いクセの一つに
「質問の逆質問」がありますが
これに惑わされないように。
>>613 立ち止まる?
ゼノンの理屈なら亀が止まっていても動いていても追いつけないんじゃないの?
まあ、最高位に期待しても仕方ないんだけどw
なんで亀さん立ち止まらせるん?
サイコ医さん説明ヨロ。
617 :
馬鹿:2008/03/16(日) 03:39:48 0
馬鹿です。
『肉体への依存』『一切の記述』『私』『我』『自我』『主体』『主観』『主観性』
どれも自分とは共通ではありません。自分は保障されていません。
ですが保障されていない自分がここにいます。
もちろん「考えた」わけではありません、なんにも考えなかったら何となくそう「感じた」だけです。
ところで、哲学者最高位さま。主観という証明はおいといてお願いします。
「哲学者最高位」の偉大さを証明してください。こちらは簡単な証明ですよね。
当然、馬鹿には理解できませんが馬鹿は騙されやすいです。真面目にやらなくていいですよ?
618 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 04:22:46 0
主観性そのものな存在性である私
が
私の主観性について、主観的に述べただけだよ
なのか
主観性:主観的であること なんだが
どこまでぐるぐるまわってしまうダメ思考 底が知れない
主張以前の問題だな
619 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 04:53:20 0
あのな、お前ら
言葉で説明するっていうのはな
完全にピタッと当てはまるなんて事は、まずないんだよ
言葉という限られた道具の範疇で、近い表現をチョイスしていくわけだ
そこんとこ、お前ら、もうちょっと頭使え
それが読解という事だ
もっと読解力を身につけなさい
丸っきり理解できてないから
>>610 いやいや
私の論は崩壊してなどいない
単に、キミには主観性がない というだけの話だ
それはそれで、全くかまわん
たとえば石っころに主観性が無くとも、「そりゃそうだろ」で終わり
それと変わらん
私の言説には全く影響なし
そんなの全く関係ねぇ
というか
>あとおまけで書くが、
>>600はひどい。
何がどう、ひどいのか、それを書かなきゃアカン という事にすら気づけんのか??
>>613 立ち止まりはせんだろ(爆笑
何の為に、カメは立ち止まるのかね?
620 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 06:38:31 0
>>619 >あのな、お前ら
>言葉で説明するっていうのはな
>完全にピタッと当てはまるなんて事は、まずないんだよ
>言葉という限られた道具の範疇で、近い表現をチョイスしていくわけだ
>そこんとこ、お前ら、もうちょっと頭使え
>それが読解という事だ
そんなら「私」が真実だ、なんて事言えねえんじゃん?。
近似は真実と等価なのかね?。
621 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 06:58:21 0
アキレスと亀のパラドックスは微積分を知らんヤツの戯言。
結局自己正当化に必死になっただけな。
ソーカル事件かw
623 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 08:50:58 0
俺にはカントのいう「思うが故に我あり」ってのは
「全の中の個」「世界の中の私」「客体の中の主体」
その境界はどこか?、という問いであると思えるのだが。
主観のみではつまるところその極北は独我論であって
論議にすらならないのではないかねぇ?。
624 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 09:04:42 0
>>614 惑わされないように気をつけなさい ってか?(苦笑
なんでそんなに必死なの?(爆笑
というか
根拠も述べずに、テキトーに思いつきでケチだけつけて逃げるという卑怯なクセ
早く何とかした方がいいよキミ
あと
自分だけが質問する側に立とうとするクセもね
なんで正々堂々と対等に話しようとせんのかねぇ
国際情勢板にいた時は、普通に頭のいい人も結構いたから、論理的に追い詰める事もできたんだけど
哲学板の連中は、理解力が子供並、もしくは病的だから
追い詰めようとしても、そもそも追い詰められてる事を理解してないんだよな(苦笑
まぁもう慣れたから、私もあきらめて、されたい放題にしてあげてるけどね
>>615 >ゼノンの理屈なら亀が止まっていても動いていても追いつけないんじゃないの?
どういう理解をしているのかね?
さすがに止まっていたら追いつくんじゃないの?
どうして追いつけないと思うの?
>>620 事実は事実
その事実を言葉という抽象的な道具で表現する場合には
どうしても近似に成らざるをえない という事ね
>>621 じゃあキミは、カメの論理に正面から勝てるのかい?(爆笑
625 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 09:11:23 0
>>623 いや
「我あり」という事でしょう
「境界はどこか?」は、また別の話でしょう
ところで
独我論だと議論にならない と思われるのは、どういう理由からですか?
独我論だと議論の余地がないほど「我あり」だけが真実でそれ以外は疑わしいということになるわけでしょ。
627 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 09:24:09 0
>>626 その選択肢を、問答無用で切り捨てる理由は何ですか?
628 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 09:26:32 0
>私という存在性には、主観という性質がある
>ただし
>私は主観性そのものとして顕現している
↓
私という存在性(疑いようがないという性質?)には、
主観(基体もしくは自我、あるいは個人的な思い)という性質がある。
ただし
私は主観に依存するという性質そのそのとして、明瞭に姿を現している。
?????
629 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 09:43:07 0
哲学的ゾンビかも知れないと、
何処までも疑いえる他者相手に
主観性とかについて「論じる」のか?
630 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 09:55:05 0
>>628 そんな風に辞書ひっぱり出してきて、別の言葉に変換していくと
近似の、更に近似になっていくから、意味がどんどん離れていくわな
余計わけがわからんくなってるだろ(大爆笑
文章というのは数学じゃないんだよ
一つの言葉にも、いろんな意味があり、●=● は、必ずしも成り立たんのよ
ましてや辞書ひっぱってきて
何も考えずに別の言葉と=で結べばいいってもんじゃない
頭、大丈夫ですか?(苦笑
>>629 しかし、その可能性を捨てる理由は無いのではありませんか?
可能性がある以上、可能性がある として論ずるのが、正しいのではありませんか?
631 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 10:01:44 0
「亀の論理」ってドコー?。
うぃと教
けっきょく携帯から
おさらいから
純粋に形式から判断できる恒真、恒偽を抜かせば
言明は、世界との対応を経験的に判断する真と偽とに分類される
経験的に真なる言明の否定言明は偽である
ある言明とその否定言明の情報量(意味の量)は等しい
真なる言明は有意味である
したがって、偽なる言明も有意味である
ここらへん、OK?
633 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 10:20:11 0
>>630 辞書的な語義を踏まえず書くことによって
読み手にはわけがわからなくなることを知りつつ書いている
あんたの方こそ頭大丈夫か???
馬鹿げたことを平気でして
「わかんないのか?」って言っているやつを基地外!というのさ
>>600 >私という存在性には、主観という性質がある
>ただし
>私は主観性そのものとして顕現している
最高位氏、相変わらず論理的思考ができませんなw
「私は主観性そのものとして顕現している」ということは、
「私は顕現していないときには(存在はしているが)主観性という性質を持たない」
という意味です。従って「私という存在性には主観性という性質がある」
は必ずしも真ではありません。
逆に「私という存在性には主観性という性質がある」が常に真ならば、
「主観性そのものとして顕現」してないときには、それは私ではない
(私は存在しない)ということです。
「純粋な存在性である」と「主観性そのものである」を両立させることが、
土台無理なのです。早めに諦めて軌道修正した方がよろしいです。
どうしても両立させたければ、「私は時間の初めから永遠に主観性であり、
永遠に存在している」と考えるほかありません。しかし、これは明らかに
経験に反するわけです。(「忘却」という理屈でこれを説明することはできます。
これですと、普通の輪廻転生説になります。プラトンなどは2千年以上も前に
壮大なビジョンを展開しています。ちなみに、これですと「顕現」などという
意味はありません。)
おわかりになりましたかw?
635 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/16(日) 10:27:29 0
>>590 >私は、いかなる因果によって存在しているのですか?
普遍的な因果
神頼みですよ
636 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 10:39:43 0
>>630 お前な
自分では分かっているつもりで書いているつもりだろうが
感覚的に言葉並べれば通じるってもんじゃないんだぞ?
意味が分からないし、解釈しようがないから
「ひどすぎる」とか「何言ってんの?」とか「言葉遊び」などと言われるわけ。
これでも分からない?
637 :
心の仕組みドットコム:2008/03/16(日) 10:48:16 0
己を客観的に考査する者で有れば、そこに主観の存在はない。
638 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/16(日) 10:51:11 0
639 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 10:54:58 0
ニワトリ脳が紛れ込むと、スレが賑やかになるな
少しまともにしているなと思いきや、訳も分からないコケコッコーしまくり
あちこち飛び回るし、糞の始末に大わらわだなw
>>580 >問題.下の命題Pの真偽を判定せよ。
>P:「命題Pは偽である」
Absalom氏の疑問とかぶるのかもしれませんが、
「命題Pは偽である」という命題は、「P」という命題にはなり得ないと
思うのですが。「P」に「1+1は2である」を代入しても、
「私は嘘をついている」を代入しても「この文章は偽である」を代入しても、
「1+1は2である、は偽である」「私は嘘をついている、は偽である」
「この文章は偽である、は偽である」にしかならないのではないでしょうか。
自己言及のパラドックスの意味がどうもよくわかりません。数学がわからないと
わからないのならお手上げなのですがw
641 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 11:05:39 0
「在る(存在性)」が「観る(主観性)」を超えているというなら、なんとなく分かる。
642 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 11:15:35 0
>>634 >「私は主観性そのものとして顕現している」ということは、
>「私は顕現していないときには(存在はしているが)主観性という性質を持たない」
>という意味です。
いやいや
顕現していない時なんてのは、確認しようがないのだから
わざわざ、どちらの可能性も含んだ表現にしているんだよ
というか顕現していない時って、どんな時こ事??(苦笑
まぁ、しいて言えば
私は主観性だが、顕現していない時は発動していないだけだと考える事もできる
私が主観性であるならば、その方が、むしろ論理的
しかしキミらは、平気で論理的飛躍を犯しちゃうよなぁ・・・・
というか
そもそも、どのようにあるのか という論点ではないのだよ
どのようにあるのか を論じる為には
まず「あり」を認めなきゃ話にならんだろ(爆笑
どのようにあるのか がわからなければ「なし」だ というのはおかしい
だから、そのような観点から攻めても的外れなのであり
「我あり」は結局、崩せないんだよ
>>641 「在る」から「観る」事ができているわけであって
だから、どちらかと言えば
存在性は、主観性に先立つと考えられるよね
まぁ実際は同時なんだろうけど、論理立てて分けて考えれば、当然そうなるでしょう
643 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/16(日) 11:17:57 0
十次元にわたる弦宇宙です
紐が絡まってるんです
そして結び目が出来て硬い現実となるんです
宇宙の紐とは女の子の紐の私です
その例では言明Pはすでに示されている
まぁ自己言及を理解できないというのは、ある意味正常なのかもしれない
直接的自己言及が命題の基本構造を失っしていると考えるならば
間接的自己言及で考えてみればいい
間接的自己言及は日常会話では普通にありえる
あるカードにこう書いてある
「この裏に書いてあることは正しい」
裏返すと次のように書いてあった
「この裏に書いてあることは間違っている」
645 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 11:37:39 0
>>642 >私は主観性だが、顕現していない時は発動していないだけだと考える事もできる
「顕現している」とか「顕現していない」とかいうのは、判断ではないの?
646 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 11:43:26 0
>>633 まだ、言ってる事が理解できんの??
単純な話
キミに一般的な国語力と、哲学的センスが無いから理解できないだけだよ
辞書だけに頼ったって理解できないんだよ
そもそも、知能の問題があるからね
>>636 あのな
私の言ってる事が理解できないのは、恥ずかしい事なんだぞ?
なぜなら
私は長年、実際に面と向かっていろんな人と議論してきてるんだよ
理解できねぇ〜 なんて言うのは
得体の知れない2ちゃんの住人ぐらいなもんだ(苦笑
>>637 >己を客観的に考査する者で有れば、そこに主観の存在はない。
己を客観的に考査する ←コレ、主観ですよ(苦笑
なぜ私が存在していないことになるのか
またなぜ私の意識と肉体を切り離そうとするのか
そんなもの結局、哲学を知る前の感覚が正解でしょう
そもそも生きているのに存在を認めないなんて頭がおかしいんです
若者の文化を盲目的に否定する高齢者となんら変わらないのです
人生に疲れたのなら、今すぐ死んでしまってもいいんです
ただその時あなたは、自分の死に対しての認識を周りに強要するのですか
648 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 11:55:51 0
>>633 追記
辞書なんてものが、ちゃんとあるにもかかわらず
なぜ哲学書を誤読しちゃう人がいるのか、考えりゃわかるだろ
わからんか??
もっと普通に頭使え
649 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 11:57:40 0
>>646 あのな
通じもしないこと言ってて
私の言ってる事が理解できないのは、恥ずかしい事なんだぞ?
なんてほざくのは、とっても恥ずかしいことなんだぞww
そのくらい理解できろよw
650 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 11:59:14 0
651 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 12:06:18 0
>>594 では「(デカルトの)実体」を、それがどんなものか、ざっとでいいから
君の口から語ってみて。
652 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 12:08:57 0
>>650 お前の周りには
お前のようにいい加減なやつばかりしか居ないってことか???(一同爆笑
653 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 12:23:00 0
>>651 デカルトは他に依らずして存在するものを実体とし、
「私」という実体を、体とは別の、魂・精神なるものと定義づけている。
「私」という魂は身体に依存しなくても存在しうるというのだが、さてさてどうなのかね
最高位がやってたのは低レベルな議論ごっこでしょ
NHKとかで中学生がやってるようなやつ
まともな哲学議論やったことがないのが丸分かりだから、ここで散々叩かれているというのに
655 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 12:37:10 0
>>652 まぁ議論というと
共産党議員や左翼教師をはじめ、多岐に渡るが
そもそも唯物論を信じているノータリンが多かったけどな
一般人でも、普通に理解してくれるよ
特に狭い範囲で活動しているんじゃないから
周りにいい加減なやつしかいないなんていう可能性は極めて低いね
キミは知り合いが、極めて少ないようだがね
656 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 12:41:56 0
>>654 2ちゃんの哲学板で
まともな哲学議論とやらを、ほとんど見かけた事がないんだが
キミらどうしは日頃
マトモな議論をやってるつもりなんか??(爆笑
>>656 だからせいぜいポイントを押さえたヒントを書いてみるだけで十分。
それでまともに興味があるか議論の論点が理解できているかがわかる。
658 :
心の仕組みドットコム:2008/03/16(日) 12:50:27 0
>>646 >己を客観的に考査する ←コレ、主観ですよ(苦笑
全く、どうしょうも無いな、、
君は辞書で客観を調べても意味を理解できないんだろ。
辞書で調べて客観の意味を説明してご覧なさい。
659 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/16(日) 12:54:39 0
>>580 >問題.下の命題Pの真偽を判定せよ。
>P:「命題Pは偽である」
>
>一般的回答.Pが真であると仮定すると、Pの内容から「命題Pは偽である」ことになるので不合理。
>他方、Pが偽であると仮定すると、同様に「命題Pは真である」ことになるので不合理。
>よって、矛盾。(三浦俊彦 : 論理パラドックス, p20, 二見書房 (2002)を参照)
命題P=真偽判定できないと仮定
真偽判定できないは偽である→偽→命題P
P:偽は偽である→真
仮定は真偽判定できないとあるが
あくまでも仮定なので命題Pは真
信じるものは救われるです
最高位よ、おまえは昔より「懐疑論」やデカルトの理解を深めただろ
昔のおまえは「疑えるものは存在しないとするのが哲学」と平気で間違いを述べてたぞ
「実在なんて疑わしい、だから存在しないんだ」とよく連呼していたからな
それもこれも、何人かが議論を投げずに、
言葉の内容の検討をずっと続けてきたからだろ
君のような、とりあえず議論に勝っているように見られたいだけの発言ではなく
真面目な哲学議論があったから、
さらにそれに最高位が目を通したから、今のお前の考えがあるんだよ
まあ素人同士は50歩100歩なので気にしない。
662 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 13:01:01 0
>>655 おいらの周りにも
極端なタダモノ論を信じているノータリンいるし
霊魂信じてしまっているノータリンもいる。
で、みんな理解してくれてるってことが、正論であることにつながる?
数百万人の信者を抱えていれば、本当のことを語っていることになる?
何万人知り合いがいれば普通?
数千人なら極めて少ないわけか?w
663 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 13:08:48 0
>>657 ヒントを書いてみるだけじゃ議論と言えないだろ(苦笑
>>658 そもそも根本的な話
客観と客観的は、全く意味が違うんだけど
それ、わかってる?
あと
哲学は進歩してるんだから
辞書に書いてある解説が、適切でない場合がある事を
ちゃんと考慮に入れてるかい?
己を客観的に考査する のは己
すなわち己の主観によって、客観的に考察する という構造なわけです
>>660 >昔のおまえは「疑えるものは存在しないとするのが哲学」と平気で間違いを述べてたぞ
>「実在なんて疑わしい、だから存在しないんだ」とよく連呼していたからな
とんでもない勘違い
>>662 >で、みんな理解してくれてるってことが、正論であることにつながる?
そんな論法で語った事は一度もない
とんでもない誤読
なんだかレベルの低いスレだな。
勘違いか?
お前が「唯物論を破壊した」というスレにいた時から見てたぞ
その後、決定論スレと合体したあと、
最高位の隔離としてこのスレができたんだぞ
過去ログ読めば?
昔のお前と今のお前、言ってることが違うぞ
666 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 13:24:08 0
>>664 国語の授業からしなきゃならん人が多いからね
>>665 キミが矛盾してると思う部分を、ピックアップして貼り付けてくれるかな?
668 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 13:29:08 0
誰か、過去ログ見れるやつ、昔の最高位の発言を貼りつけてやれ
670 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 13:34:53 0
>>669 おいおい
自分で確認できんのかよ(苦笑
誤読だよ
大きな勘違い(爆笑
671 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 13:35:31 0
>>666 お前は国語だけでなく理科もな。
小4位からやり直せ。
ほう
まぁ、俺は途中で意見が変わってもかまわないと考えるから
そのことで最高位を責める気はさらさらないんだがね
有名な哲学者だって、途中で態度変更したのはいるんだから
でも、それを変わってないと詭弁で言い逃れするのが最高位君ということなのだろう
もっともな意見だけど変わってないかどうかは具体的なソースから判断すべきでは?
674 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 13:46:03 0
>>671 理由ぐらい書けよ
子供かよマッタク
>>672 私は、正々堂々と「貼り付けて下さい」と言っているんだよ
どこが、詭弁で言い逃れ なんだ???
いい加減にしてくれ
675 :
参考w:2008/03/16(日) 13:52:35 0
676 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 13:53:32 0
>>674 おいおい自覚無しかよ?
最近でも
水はH20とか、富士山は火山灰の堆積とか…言ってなかったか?
677 :
参考w:2008/03/16(日) 14:00:16 0
◆決定論:脳は物質だから意識は必然にすぎない79◆
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1161240089/ 585 素人 ◆YLdWB0/d2s sage 2006/10/24(火) 10:09:44
最高位がこれまで、いかに場当たり的な発言をしてきたかの証拠だなw >> 484
一部しか過去ログ辿ってないので正確ではないが、
彼は、
・「私」【は】「存在性」「純粋な存在性」である。
・「私」【という】「存在性」「純粋な存在性」である。
・「私」【は】「疑っても疑いきれないもの」である。
・「私」【が】「意識するんだろ?」
・「私」【が】「いるから(あるから)動詞が成立する」んだろ。
・【「我」】思う故に【「我」】あり、だよ。
・「心(精神)」と「身体」【は】「私」【において】「一体不可分」である。
・【「誰」】【が】「感じているんだい?」
・「そのように見做しているのは」【「誰」】だい?
・【「キミ」】はそこにいないのかい?
・〔「主観」だよ「主観」、「主観」で語っていいんだよ。【人間には「主観」しかない】んだからね。「主観」以外で語りようがない。
【それ】は【「この私」】ってことだよ。
「この私」【の】【観】、これが【「主観」】 〕
・客観的にっつったって、客観的に「考えている」の【は】【「主観性」である「私」】であって・・・
・この「主観性」【は】『私』という「存在性」【に繋がっている】
【真理の根本】【は】「存在性」。
etc.etc.etc.
これらの言辞を耳にすれば、イコールで結ばれていると受けとめるしかないじゃないかw
>雑というか・・・・
>話にならんわ
雑なのはどっちだ!
678 :
参考w:2008/03/16(日) 14:00:50 0
【私】を記述してください。【私の存在性】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1144214403/ 400 素人 sage 2007/04/12(木) 18:06:40
>> 393
君に対して粘着してもいいんだがw
とりあえず、あっさり行くために質問する。
A「は」Bである。
A「という」Bである。
A「の」Bである。
A「は」B「を」持つ。(A「には」B「という性質が」ある。)
これら四つが、同じ意味内容の文かどうか、浅学な私に教えてくれ。
もし、差異があるなら、どういう差異なのか教えてくれ。
その差異が、無視しても構わない程度の些細なものであるなら、
もし、これら四つの文が同じ意味内容であるなら、
私が重箱の隅にこだわり続けたバカであっただけだ。言葉の用法は忘れて次へ進もう。
679 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/16(日) 14:03:24 0
>>675 NGワードが笑えるなw
>>676 それを重箱の隅をつつく というんだよ
本題で勝てない人が使う戦法だ(苦笑
意味を読み取れ
今日はこの辺で
680 :
素人:2008/03/16(日) 14:06:14 0
>>674 行数制限、連等規制等がなければ、
いくらでもコピペしてさしあげますが?w
>>679 >本題で勝てない人が使う戦法だ(苦笑
自己紹介乙w
681 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 14:07:26 0
>>679 それを負け惜しみ というんだよ
意味が通じないのに、意味を読み取れ ってかww
自己批判できないんだろうな。
もう精神的成長もないだろう。
683 :
素人:2008/03/16(日) 14:11:03 0
>>679 なるほど・・・。NG登録してるわけですか・・・w
ならば、もう貴方とのやりとりは止めにして、ネコと戯れるのみにしましょう・・・w
長い間ありがとうございました。 m(_ _)m
406 哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 2007/04/12(木) 23:19:24
>> 397
どうぞwww
>> 398
いるよ?
素人くんは、否定しているんじゃないかな
いまだに
「『私』は『私』による錯覚だ」と、わけのわからない事を言い続けているよ(笑
>> 400
素人くん
おいおい、相手が違うだろ
>A「は」Bである。 →私は主観性である →私は存在性
>A「という」Bである。 →私という主観性である →私という存在性
>A「の」Bである。 →私の主観性である →私の存在性
>A「は」B「を」持つ。
>(A「には」B「という性質が」ある。)→私には主観性という性質がある →私には存在性がある
全然オッケーじゃんか
>これら四つが、同じ意味内容の文かどうか、浅学な私に教えてくれ。
「同じ意味」という解釈は、勝手なキミの思い込みであってね
これらの文は、全く矛盾せず、私の性質を語っている
407 哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 2007/04/12(木) 23:20:27
>> 402
どないしたん???
素人くんらしくないな
>> 403
懐疑論からやり直しましょう
>> 405
>私の拙い理解力を助けると思って、丁寧な補足説明を付加していただけますよう
>切に御願い申し上げます。
上記のような丁寧な補足説明で理解できないんだったら、これ以上は無理な相談じゃないかな
>>619 ん、俺に通じてないんだから崩壊してるぞ。しゃあないだろ。
あと何がどうひどいって、全部ひどい。妄想乙って感じ。
687 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/16(日) 15:03:55 0
最高位さんは自分の主張に沿わないものは
いくら理論的に答えようが否定なので
これ以上は無駄だということでしょうか。
688 :
心の仕組みドットコム:2008/03/16(日) 15:09:56 0
663 :哲学者最高位さん、、
君の書き込みは矛盾のオンパレードだね。
指摘するのが面倒くさい、、
神経が沢山病んでるよ。
689 :
Wittgenstein教:2008/03/16(日) 15:10:01 0
>>632 >ここらへん、OK?
それがあなたご自身の主張ということでしたら、私には批判できません。
他方、私の考えということで仰っているのでしたら、正直ちょっとわかりません。
690 :
心の仕組みドットコム:2008/03/16(日) 15:10:19 0
663 :哲学者最高位さん、、
君の書き込みは矛盾のオンパレードだね。
指摘するのが面倒くさい、、
神経が沢山病んでるよ。
691 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/16(日) 15:10:38 0
>>590 :哲学者最高位 ◆
>私という主観性が、それを認識しているのであって ・・・
もし認識の対象「それ」が無かったら「私」はどの様に存在しているといえるのか?
赤や富士山が無かったら主観は存在しうるのか?
「われ思うゆえに我あり」と言う文の中には、思う対象(客観)の存在性を前提としている事が隠されている。
対象が無いのに考える事は人間ならば出来ないからだ。
692 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 15:10:45 0
>>687 理論は事実から抽出されたある解釈であるわけですから、
十全に従う謂われはないのでは。
693 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 15:16:07 0
>>691 「それ」の前に認識を問題にするのでは。。。。
手続き上はこれの方が正しいような。
694 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/16(日) 15:28:51 0
>>693 :考える名無しさん:
>「それ」の前に認識を問題にするのでは。。。。
>手続き上はこれの方が正しいような。
それはおかしい。
認識と言うのは対象がないと成り立たない。
是は自明の事と考えますが。
695 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 15:31:45 0
>>694 それはそれのままでも認識は問えませんか?
なぜそれなのかと。
696 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/16(日) 15:57:07 0
>>695 :考える名無しさん:
>それはそれのままでも認識は問えませんか?
???
認識する為には対象が必要だと言っている。
赤を認識する、富士山を認識する・・・
「我思う」と言う文の前提には「何かを思う」と言う思う対象があるはず。
対象が無ければ思うと言う行為は人間には不可能だからだ。
で・・・「ゆえに我あり」ならば「我」の存在性は「思う」の対象である「何か」(客観)の存在性に依存しているではないか・・・と言う落ちになる。
主観の絶対的存在を主張するなら、客観的事物、現象の絶対的存在も認めなければならない。
しかし残念ながら客観的物質世界の存在性は今の所ハッキリしていない。
もし客観世界の認識が幻なら主観も幻になると言う理屈。
主客はあくまで相対的存在であり、どちらも独立した絶対的存在性は無いと言う事です。
697 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 16:17:29 0
>>696 意識はなにものかについての意識であり
思考はなにものかについての思考ということだね。
うぃと教
俺があげたことは、命題論理で考える時の基本的なこと
これがベースになってないと「自己言及の言明は有意味か」という問題に挑めない
君が矛盾を証明したうそつきパラドクスなどについて
「矛盾を証明することもできない」とする考え方もある
「真か偽か」という価値基準がある
論理はその基準にのっとっている
次に「真か偽か言える」と「真とも偽とも言えない」という区分がある
後者の代表例はラッセルのパラドクスなど
この場合、前者を有意味、後者を無意味とすることで真偽の価値基準を救おうとする試みがある
自己言及パラドクスはこの部分に抵触する
一見、理解できて、あまりにも正しいことが当然のように見える言明
あまりにも間違っていることが当然のように見える言明
これらが無意味(ナンセンス)かもしれないのだ
ナンセンスな言明は真とも偽とも言えない
(真または偽である言明はかならず有意味である)
君は以前に、その言明が偽である証明を引用とはいえ提出したのだから
その言明が有意味であると考えていることだろう
では「自分で髭を剃り落とすことができない村の髭剃り士」は有意味なのだろうか
彼は、髭を剃り落とすことができるのか、はたまた、できないのか
699 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 16:32:11 0
>しかし残念ながら客観的物質世界の存在性は今の所ハッキリしていない(※1)
じいさん氏はそう思うが、
>もし客観世界の認識が幻なら主観も幻になると言う理屈。
とは思っていない。むしろ、
>主客はあくまで相対的存在であり、どちらも独立した絶対的存在性は無いと言う事です。(※2)
と考えているってことですよね。
私もほとんど同じなのですが、
※1であるがゆえに主観と言うか、認識で良いのではないかと。
だって※2なのですから。。。。
なんかつまらない話になりましたが。
>>
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1203076370/929 > >>
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1203076370/920 > もし山というものを知らず、むろん富士山にまつわる一切の知識を持たない
> だれかが富士山に面したとき、彼は私(たち)と同じ感懐を抱かないのでは?
「登る」でも「面する」でも、どちらでも構いませんが、解り易くする為「登る」を用います。
以前からの、貴方との「差異はどこにあるのか?」という論点と関連しますが、
> 富士登山をする時、その人は、
> 『「富士山」という言葉(名前)』に登っているのでしょうか?w
別に「富士山」でなく、単に「山」としても構いません。
> 山に登る時、その人は、
> 『「山」という言葉(名前)』に登っているのでしょうか?w
ということです。少し言い換えるなら、
『山に登る』という時、その人は【山状になっている部分を移動している】ということです。
この時、その人が【富士山という知識・山という知識を持っている必要はありません】。
彼の肉体が、山状になっている地形を移動しているという事象が問題なのです。
彼が死んでいても構いません。彼の遺体が担がれて「山を登っている」のです。
貴方は、こうした移動も「主観によって切り取られた移動である」との立場なのでしょうが、
経験的に頷き難い考え方なのです。「水槽脳」による妄想であるならばそれでも構いませんが・・・。
そこに、『山状の地形は、あるのか?ないのか?』
>>696 横レスですが、「何かを思う」の「何か」は思う内容を指してるんであって
その場合その「何か」が必ずしもいわゆる客観的事物として存在してなきゃダメと言うことは言えないと思うんですが。
そもそも我々は存在しない物事について思いをめぐらすことができますし、
いわゆる客観的な存在と考えられてる事物であってもそれが本当は存在せず単なる我々の思いなしであっても
そのことで思いや思ってる我々の存在が幻になったりすることはないでしょう?
なので、
>もし客観世界の認識が幻なら主観も幻になると言う理屈。
の前半の「幻」が「客観世界」に係ってるとしたらこの理屈は変ですよね?
703 :
哲学的ゾンビですが:2008/03/16(日) 17:20:20 0
真理は独我論でしょう。最高位氏が一番理論的に見える。
真に理論的に述べると誰もが
「私に意識なんて無いし、誰にも意識が無い、万人が哲学的ゾンビだ」
と語る筈です。脳から意識が発生するなんていうのは
観測できない意識なんていうのを証明せず認めてる時点で
神や悪魔や魂を認めてるのと全く同じです。(ココ重要ね)
で、仮に万人が理論的になって
『我々に意識は無く宇宙には物質しかない』と述べたとしても
今この瞬間、『この感覚』があるので『この私』は存在し
独我論は成立する訳ですよ。
だからまあ、真理は独我論な訳ですが
理論的な意味合いでの真理と多数派によって決まる意味合いでの真理は別なので
人間という物理現象の性質上、最高位氏の独我論は叩かれる訳です。
(ちなみに私は意識が無い哲学的ゾンビなので
最高位氏に反論している人の意識に関する理屈は
客観的に証明していない神や悪魔の信仰と同じで
何でもありの宗教と同じと言っておきますね)
704 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/16(日) 17:24:56 0
だから全て嘘ですよ
というのが真理ですよ
オッス。オラ最高位のスワンプマン!うっひゃ〜みんな難しいこと考えてんな〜
オラの欺瞞溢れる哲学闘争心は全部、最高位の性格だからオラとは関係ねえぞ?
ん?オラと最高位は性格が違いすぎるって?
いやーところが中身を見てみっと、オラとアイツは情報的にはおんなじなんだなー。
考えてることもきっと、おんなじだと思うけど。どう確認したもんかな。
オラと最高位の間ではとりあえず自他はハッキリしちまってるからな。
それにしても、同じ戦闘力のヤツがもう一人いるなんてオラ、ワクワクしてきたぞ!
とりあえずぶっ倒して読心術を使ったらオラがその先、最高位をやってくっから。
そんときはみんなヨロシクな!
706 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 18:05:33 0
何か仮装行列みたいになってきた
707 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/16(日) 18:14:56 0
>>705 > とりあえずぶっ倒して読心術を使ったらオラがその先、最高位をやってくっから。
> そんときはみんなヨロシクな!
というか、スワンプマンのおまえがいるということはつまり元の最高位は死んだということなのだがw
>>646 >あのな
>私の言ってる事が理解できないのは、恥ずかしい事なんだぞ?
>なぜなら
>私は長年、実際に面と向かっていろんな人と議論してきてるんだよ
>理解できねぇ〜 なんて言うのは
>得体の知れない2ちゃんの住人ぐらいなもんだ(苦笑
これが最高位さん本人以外の多数の人の評価ならば、
世間に置いての説得力も増す事でしょうが、
自分で言ってしまうところが笑えるところですね。
わりぃ、わりい言ってなかったか。
オラはタイムマシンでこの時代に来たんだった。
つーわけで、
>>708 スワンプマンガいたら、なんで私が死んでなきゃならないんですか?
理屈に捕らわれてるあなたには、
私が私なのかスワンプマンか判らないでしょうね(爆笑
最高位倒されたw
713 :
哲学的ゾンビですが:2008/03/16(日) 18:40:02 0
>>590 >私は、いかなる因果によって存在しているのですか?
これは脳という物理現象では答えられません。
機械に最大の数を聞いても、解は無限かその時点で求められる最大の数
になるのと同じ仕組みです。
理論的には脳や機械は無限通りの解を述べられますが
それが最高位氏の思考や五感と一致してるかは別です。
(単なる物理現象による記述だから正確な保障は無い)
よって、「私は、いかなる因果によって存在しているのか」
は最高位氏の思考と感覚でしか求まりません。
(ただ、科学的記述だけは、物理現象の変化とある程度一致するので
ある程度の科学的記述を求めるのは有効かもしれません)
あと・・・最高位氏、ここには全ての脳が意識を持つと述べる
高度な人工知能のような物理現象があるので騙されないように。
最高位アホ過ぎるwww 腹痛ぇwwww
>>710 おおおい;;;これ、判別できるのって最高位本人とスワンプマン(偽者?)だけじゃねーのか;;;現時点。
罠か?罠なのか?
716 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 18:53:19 0
「私は、いかなる因果によってここまでこけにされるのか」
717 :
スワンプマン:2008/03/16(日) 18:54:52 0
哲学者最高位は私が倒しました。私は哲学者最高位です。
>>717 いや、私ですが?
何を勝手に名乗っているんですかw?
そんなに都合よく雷は落ちないからw
721 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 19:44:16 0
>>591 >客観的事実なとと言っていないよ?(苦笑
>言うなれば、主観的事実 かな?
主観的事実などない。事実は普遍的な物事だ。
現実の世界は一通りしか存在しない。
>その他人に主観性が無ければ、当然その理屈は当てはまらない
普遍性は主観性とは関係ない。だれでもそうだとしか思えない物事
が普遍だ。自分勝手になることではない。
722 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 19:49:00 0
>>593 >普遍性など論理とは関係がない
普遍性がなければ論理にならない。論理とは誰にでも前提無しに通じる事柄だ。
「私」だけなら言葉も不要だし従って論理もいらない。
「私」だけの言葉は論理矛盾であり不可能だ。
723 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 19:56:14 0
>>606 主観性とは主体性という事で「私性」とは何の関係も無い。
主語と成るものは何人称であろうと主観だね。
会話においての主体である発話者を示すときだけ一人称の
「私」が該当する。
724 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 21:13:53 0
>>721 普遍の意味、知っているのか。だれが「それは普遍である」と認定するの?
726 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 22:08:31 0
>>715 いや判別できるのは存在する。それは神だ。
>>710 以後現れる哲学者最高位氏はスワンプマンであると確信するよw
729 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/16(日) 23:17:48 0
諸法無我が悟りなんだからほぼイコールで
無明が悟りですよ
730 :
Wittgenstein教:2008/03/16(日) 23:30:08 0
>>698 色々お話下さりありがとう。ただ、
>君は以前に、その言明が偽である証明を引用とはいえ提出したのだから
>その言明が有意味であると考えていることだろう
これは、「自己言及のパラドックス」で私が引用した(『論理パラドックス』)
ものに言及しているのでしょうか?だとしたら、私は「命題Pの真偽判定は矛盾を帰結する」
という旨を述べたのであって、「偽である」とはいっていませんよ。
しかし、あなたの仰っていることの大部分には賛成です。
肯定命題及び否定命題は有意味。矛盾とトートロジーは無意味。それ以外の言明はナンセンス。
私はそのような理解です。
あと、「床屋のパラドックス」でしたらやはりあの文自体が矛盾を含んでいるので、そのような床屋
は存在しえないということになるでしょうね。
パラドクスが矛盾を含んでいるなら論理学者は困らないし、論理学も発展しなかっただろう
732 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 00:11:18 0
床屋の主人が女だったら、なんてことないな
733 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 00:30:49 0
哲学板の常連 最高位さんは言いました。
哲学板の連中は、理解力が子供並、もしくは病的だから
追い詰めようとしても、そもそも追い詰められてる事を理解してないんだよな
734 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/17(月) 00:47:09 0
>>699 :考える名無しさん:
>※1であるがゆえに主観と言うか、認識で良いのではないかと。
私が言いたいのは、客観あっての主観なのだから、どちらも一人歩きしてはならないと言うことです。
図式的に客観だけを取り出して分析しようとしたり、主客の境界を探ろうとする事が間違いだと言う事です。
>>702 :考える名無しさん:
はい我々は客観として具体的物質だけでなく、抽象的観念も認識します。
それらの全てに絶対的存在性はないと言う事です。
全ては相対的だったり依存(他からの原因で成り立つ)した存在性です。
そのような客観に拠って成り立つ主観も絶対的存在性は無いと考えます。
>そのことで思いや思ってる我々の存在が幻になったりすることはないでしょう?
幻のような存在と言う感じが良いのでは・・・。
幻とはいえ存在と言えば存在だし。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」
>>もし客観世界の認識が幻なら主観も幻になると言う理屈。
>の前半の「幻」が「客観世界」に係ってるとしたらこの理屈は変ですよね?
はい変ですね、スイマセン訂正します。
「もし客観世界が幻なら、その認識である主観も幻になると言う理屈。」
735 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/17(月) 01:39:49 0
>>733 すまんすまん 訂正するわ
私が2ちゃんの哲学板で見かける連中は、理解力が子供並、もしくは病的だから
追い詰めようとしても、そもそも追い詰められてる事を理解してないんだよな
というか
そもそも、こっちの言ってる事を理解していない
そもそも会話自体が成り立たない
せめて日常会話ぐらいは、不自由なくできるようになってもらいたいものだ
だな
しかしキミらは、こういう重箱の隅 以前のくだらない事ばかり関心を持つんだな(苦笑
>>734 >私が言いたいのは、客観あっての主観なのだから、どちらも一人歩きしてはならないと言うことです。
幻は、主観ですか?客観ですか?
>「もし客観世界が幻なら、その認識である主観も幻になると言う理屈。」
確認だけど
私がいくら幻を見ようとも
幻を主観してるのは、私だよな
私という主観性自身は、幻にはなりえないよな
そこんとこを誤読する人が多い
>>735 なに言ってんだ?お前スワンプマンだろ?
哲学者最高位が喋れよ。
この沼男がw
主客図式、個と普遍、言語哲学、科学とは
738 :
哲学者最高沼 ◇Trvm6PB/QQ:2008/03/17(月) 01:44:12 0
__
ヽ \
ヽ \
| \
| 丶
| ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
- ⌒ ` ↓ ⌒ ⌒へ < オッス、オラ哲学者最高位!
/~ 哲学者最高沼 \ \ か???(爆笑
∠ _ 、 イ イ 丶 \__________
丶 / | / イ L_
-〜 - - - ( | / | / | ヘ ⌒ ー _
`〜−_ _ \く ...-ー、,-─ 丶 _- - ⌒
へ(⌒∨.-=・=- i、-=・=-∠  ̄ー__
〜 ̄_ヘ℃|.. / ー-' ヽ . .ヘ __丶
 ̄ ̄ヾ く .. -=ニ=- /p 丿\
〜〜〜〜〜〜〜 丶 .`ニニ´ ノ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼沼
739 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/17(月) 01:44:58 0
>>736 春休みか?
幸せそうだな(苦笑
キミは、トリップを知らないのかい?
《必読 デキる!あなたも哲学者最高沼》
1.自分のことは「私」、いつも礼儀正しく!
2.煽り・反論・文句には必ず疑問で返せ!
3.決して哲学をするな。他人を挑発しろ!
4.締は(笑・(苦笑・(爆笑・(大爆笑でキメろ!
5.自分の超主観を信じて、超存在しろ!
さあ。キミもセレブに、Let’s哲学者最高沼
741 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/17(月) 01:50:34 0
>>735最高位さん
私も説明下手ですが
そのような言葉遊びの日本語は通じないですね。
最高位さんの私を独立させる論法は現実を無視した
空想、妄想ですね。
このスレの最初のほうで素人さんと議論しましたが
要は「なんでもあり」になってしまうわけであります。
同様に私を身体・精神から独立させれば(無理なことでしょうが)
最高位さんにとってはなんでもありです。
いや最高位は自分の主観はトリップにこそあると言ってるんだろうw
743 :
699:2008/03/17(月) 02:02:41 0
>>734 >主客はあくまで相対的存在であり、どちらも独立した絶対的存在性は無いと言う事です。
というじいさん氏の発言ですがこれを踏まえて、じいさん氏が使う”対象”という言葉は
どのように説明なさいますか?
744 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/17(月) 02:11:48 0
>>741 >私も説明下手ですが
>そのような言葉遊びの日本語は通じないですね。
そのような とは、何について言ってるんですか??
>最高位さんの私を独立させる論法は現実を無視した
>空想、妄想ですね。
自分の心と体、内面と外面など
分けて考えたり、分析したり、論じたりする事ができるでしょう
それは大昔からされている事です
そういった手法、角度を
今さら、現実を無視した空想、妄想です と言われましても
何言ってんの??? て感じですね
>最高位さんにとってはなんでもありです。
いやいや
私が言ってるのは、すごく単純
私をこの世に存在せしめた物理法則は何か?
そんなものは、ありません ですよ
要するに
唯物論は間違いだ です
なんでもありじゃありません
理屈に沿った話をして下さい
ではなぜ「唯物論は間違い」なんだ?
747 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/17(月) 02:21:01 0
>>735 :哲学者最高位
>幻は、主観ですか?客観ですか?
>私という主観性自身は、幻にはなりえないよな
全て絶対的存在性の無い相対的存在です。
その方が事象を上手く説明できます。
「変化」の説明です。
絶対的存在の事象が変化すると言う論理は無理がある。
変化するのに絶対的存在といえるだろうか・・・。
物質も心もしかり。
>>743 :699
?
主観の認識の対象は客観です。
748 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/17(月) 02:23:24 0
>>745 おいおい
また最初の初歩からかよ・・・
唯物論というのは、心身問題において
「世界の全ては物理現象なのだから、人間の精神も物理現象にすぎない」という立場だろ
だったら私の全ては、物理法則によって論理的に答えが出せるのが論理的というものです
違いますか?
最高位のようなバカは初めて見た。こいつどんだけバカなんだw
751 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/17(月) 02:30:28 0
>>747 >全て絶対的存在性の無い相対的存在です。
>その方が事象を上手く説明できます。
>「変化」の説明です。
では、どう変化させれば
相対的世界から『他人』じゃなく『私』を発生させる事ができるのですか?
752 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 02:30:36 0
>>748 きみ、やばいよwwwwwwwwwwwwww
だから今の最高位は沼男なんだって。
哀れにも自分が哲学者最高位だと思い込んでいる
>>710なんだよ。皆あんまり責めるな。
必ず疑問で返してくる最高位w
《必読 デキる!あなたも哲学者最高沼》
1.自分のことは「私」、いつも礼儀正しく!
2.煽り・反論・文句には必ず疑問で返せ!
3.決して哲学をするな。他人を挑発しろ!
4.締は(笑・(苦笑・(爆笑・(大爆笑でキメろ!
5.自分の超主観を信じて、超存在しろ!
さあ。キミもセレブに、Let’s哲学者最高沼
755 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/17(月) 02:38:12 0
>>751 :哲学者最高位 ◆
>相対的世界から『他人』じゃなく『私』を発生させる事ができるのですか?
実際そうなっていると言う事後認識です。
逆に主観に絶対的存在性を認めると色々まずいでしょう。
例えば一年前の「私」と今の「私」の変化を説明できない。
756 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/17(月) 02:39:42 0
>>744最高位さん
では、分けたままの上体ですね。
>>751 変化させるのは「私」ですか「他」ですか?
そもそも現象しない私に変化などあり得ないのでは?
また最高位さんは身体というものをロボットか何かと勘違いされているのでは?
757 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/17(月) 02:41:04 0
>>748 つーか唯物論を否定してんのか?肯定してんのか?どっちだよ
759 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/17(月) 02:47:45 0
>>756 おいおい
ちゃんと会話しろよ
>>741 >私も説明下手ですが
>そのような言葉遊びの日本語は通じないですね。
そのような とは、何について言ってるんですか??
>では、分けたままの上体ですね。
分けて考えるのが、なぜいけないのか説明したまえ
心とか精神とか、体 という言葉を使った瞬間に
それは分けて思考し、論じている事になるわけだが?
>変化させるのは「私」ですか「他」ですか?
はぁ・・・(タメ息
変化させるのは、物理世界だろ
あれは、じいさんに対して質問してるんだよ
わからんのなら、黙っていなさい
760 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/17(月) 02:53:35 0
>>758 しかし頭悪いなぁキミは
前のレスとかも読んで、話をちゃんと把握してから喋れ
唯物論の前提で論じていくと、決定的な矛盾に突き当る
という論法で説明してるんだよ
>>744 >私をこの世に存在せしめた物理法則は何か?
>そんなものは、ありません ですよ
なんでイキナリ「物理法則」について考えてるんだ?
存在と法則性の ある/ない は関連がねえし誰も聞いてないだろ。なんか意味あんのか?
人間がいるのは四つの力のおかげじゃね。
それらの影響が皆無なとこに人間は生まれないだろうし。
だから私がいる原因は四つの力のおかげです。ありがとう四つの力!
763 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/17(月) 03:00:44 0
>>761 >なんか意味あんのか?
唯物論の是非 という歴史的に争われてきた哲学的大問題に終止符が打てるわな
それに何の関心もないなんて
キミは、何のために哲学やってんの???
764 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/17(月) 03:00:58 0
>>759最高位さん
?
「私」が抜けてませんか?
分けたまま、分解したままで
統合或いは繋がりを無視していては現実的ではありませんね。
それこそ「個別」に扱えても「全体」は扱えません。
>>760 そこに分離した「私」を持ち込むから矛盾という同道巡りになるわけで
中傷的な歌詞が書かれてしまうように
最高位さん自身、自分で謎かけし、自分で答え
他に証明を求めというループに陥っているんですよ。
空想というべきほかありませんね。
ついでながら、唯物論は関係ありません。
「私」についての議論ですから。
>>748 >唯物論というのは、心身問題において
>「世界の全ては物理現象なのだから、人間の精神も物理現象にすぎない」という立場だろ
>だったら私の全ては、物理法則によって論理的に答えが出せるのが論理的というものです
>違いますか?
決定的な矛盾とはどこで説明されたので?
>私の全ては、物理法則によって論理的に答えが出せる
事によってあなた及び私は実在しても構わないのでは?
誰もあなたの主体も否定しませんよ?
くり返します。
決定的な矛盾とはどこで説明されたので?
>>763 いや、760が関心が無いとは一言も言ってない。むしろ最高位が言われたことに関心があるようで。
勝手に唯物論について考えてるのは君。勝手に終止符を打ってるのも君。
唯物論になにかこだわりが?
>766
ありゃ?761かゴメンw
こだわりを見せるところは資を追求していて、唯物的かな。
別に物理法則であなたも存在してもいいのよ?最高位さん。
あなたの中でも矛盾は起きないでしょう?
んで結局、
>>744 >いやいや
>私が言ってるのは、すごく単純
>私をこの世に存在せしめた物理法則は何か?
>そんなものは、ありません ですよ
>要するに
>唯物論は間違いだ です
>なんでもありじゃありません
>理屈に沿った話をして下さい
の下りって何か意味あったの?というか今まで会話らしい会話って出来てたんだっけ?
理屈に沿った話をして下さい。
>>760 >前のレスとかも読んで、話をちゃんと把握してから喋れ
そのまんま返していいかな?短い時間に散々だね。まあ珍しかったかな。
770 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 03:58:37 0
みんなペガサスるのが好きだな…
まあ、2008年3月17日4時9分も唯物論や物理法則では作れないよな。
2008年3月17日4時9分が唯物論で説明できないから唯物論は間違い。
最高位の思考実験は「技術的に可能ならば」という前提を
許しているのだから、
技術的に可能ならば、
最高位の今までの全ての記憶を別人の記憶に完全に入れ替えてしまえばいいわけよ。
>>770 ああ、小宇宙と書くコスモを感じたな。
8発撃ち尽くしたか最高沼。今ら辺が最も哲学板らしいというに。
論理的か否か、沼か位か。的も実に主旨に近いと思うぞ。マジ制限勘弁。
最高沼とか面白いじゃないか。
>>774 いや違う!俺が沼に落とした最高位はもっと綺麗な最高位だった
あの最高沼なんかじゃない!
776 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 05:00:31 0
最高位師のどこが池沼男だと言うのですか!最高位師は池沼男ではありません!
みんな芸あるなぁw
>>763 >唯物論の是非
という表現は謎だが、最高沼氏の中では哲学的大問題として
なかなか終止符が打たれなかったようで。不思議なお方だ。
あと
>>761は唯物論について何も触れていないのに、
やはり自分から唯物論に囚われ始めるところも不思議。
なぜ唯物論が彼と関わりがあるのか?
なぜか彼は自分から語り始め、自分で問題とし、自分で勝手に解決している。
そしてその解決も錯誤しており、攻撃される度に同じことを繰り返している。
かくして他人との議論からはずっと逃げている。持論の説明ができないゆえに。
かつ自分の納得で満足しているようで、どういうわけか他人を納得させようという試みを止めない。
素晴らしい。まさに戦う賢人だ。
皮肉ではなくて、ソクラテスやアリストテレスのようだ。哲学界の生きた化石だ。
>>748 あ、横から挟みます。
物理現象は物理であって、論理とは何の関係もないわな。これは。
最高位の言う「論理」は基礎付けのこと
ファンデーションしろということさ
でもやりすぎると肌が荒れるんだよな
785 :
素人:2008/03/17(月) 09:13:10 0
>>唯識さん
>>683ということなので、
以前の宿題は無しということで宜しいですか?
他に聴いてみたいという方が大勢いらっしゃるなら、試みることも吝かではありませんが、
内容的には、軽く論考レベルに匹敵するくらい根幹に関わるので、
あまり適当なことは書けませんので未だに躊躇しております。(てか、避けたい・・(^^;
御容赦いただけるとホッとするのですが・・・w
786 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 09:44:30 0
>>748 >唯物論というのは、心身問題において
>「世界の全ては物理現象なのだから、人間の精神も物理現象にすぎない」という立場だろ
唯物論で「精神は物理現象」などといってるのは聞いたことが無い。
唯物論なら「精神は脳の随伴現象」だというだろう。
脳の生理現象は物理現象だが「精神」は「物」ではないから物理現象ですらない。
>>642 >顕現していない時なんてのは、確認しようがないのだから
最高位氏、他のものと違って、「主観性」は主観性である限り「確認しようがない」
ことなど、有り得ないのですよ。それが「主観性」の意味なのですから。
あなたご自身が「我思う故に我あり、を論破できるものならしてみろ!」と
散々繰り返していたでしょうにw
「我思う(主観性である)が思っていることを我は確認できない」などという
可能性を、お認めになるわけですかw?
>そもそも、どのようにあるのか という論点ではないのだよ
最高位氏、「私は主観性そのものな存在性である」と、「どのようにあるのか」
を論点にされているのは、あなた自身ですぞw
>どのようにあるのか がわからなければ「なし」だ というのはおかしい
これは無理というものです。「我」とはどんなもので、それが「ある」とは
どういう意味かがわからなければ、それが「ある」のか「ない」のか、
判断のしようがありません。「死んだ犬は現在どのようにあるのかわからないが、
だからといって”なし”だというのはおかしい」と主張されるわけですかw?
>「我あり」は結局、崩せないんだよ
最高位氏、何を勘違いされているのですかw?
私は「我思う故に我あり」は必ずしも成立しないと思いますが、今はそれは
問題ではありません。「我が思っているときには我はある」として、「何も思って
いない(主観性でない)ときに、我はあるのか?」を問題にしているわけです。
なぜ問題にするかといえば、「我はいつ存在を始めたのか?」「我の存在と
この体の存在にはどんな関係があるのかないのか?」が、あなたの「唯物論破壊論法w」
と大いに関係するからなのです。話の流れがおわかりになりましたかw?
>>787 話の流れはわからないけど、「何も思っていない(主観性でない)ときに、我はあるのか?」とか
自分が「顕現していない時」とかは、最高位氏の言うとおり確認しようがない。
人は自分の死を経験することができないから。
思われる我なんて懐疑されるだけのゴミだろ。
我ありなんて言ってる時点で、最高位の問いの浅さが知れる。
>>788 つまり、
「気が付いたらそうだった」というだけの話なんだよね。
で、その時、
『気が付く前から、(気付く)主体があったのか』『気付いた時(気付くと同時に)主体が現われたのか』
わかりませんよね?w
状態や行為以前に主体を設定し得るかどうかわかりませんよね?w
状態や行為に先立って主体があると断定できる理由はなんでしょうか?
「気付く(という行為がなされる)為には、その前に主体が必要である」、
これが願望でないと言い得るのはなぜか?
>>788 すいません、当面問題なのは「何も思っていないときに、主観性はあるのか」です。
仮に、ないとして、最高位氏は「我は主観性そのものである(主観性は我にとって
本質であって偶有性ではない」と主張されているので、「主観性がないのなら
我もないということになるのでは」とお尋ねしているわけです。
>>790 >「気付く(という行為がなされる)為には、その前に主体が必要である」
>これが願望でないと言い得るのはなぜか?
流れがわからないんでわかりませんけど、
「気付く」というのは、何に気付くことなんですか?
>>791 >すいません、当面問題なのは「何も思っていないときに、主観性はあるのか」です。
それもやっぱり、自分が死んでいるときに魂は存在するのか?に類する形而上学的問いなのでは?
まあ気付くの内容はいいとして・・・
フッサールが言うような「〜への意識」と考えることにして、
「その前に主体が必要である」の「前」の意味がどうなのか・・・
時間的なことを意味しているのか、論理的なものを意味しているのか。
論理的には「前」と言っておかしくないと思う。
795 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/17(月) 11:49:10 0
我思う故に我ありって言うけど
その我はどこから生まれてきたのかな?
何にも感じることの無い暗闇からでないの?
だから思う思わない関わらず常在ですよ
>>792 言い換えれば、
「気が付いたら“何かを思ってた”」というだけの話なんだよね。
で、その時・・・・・
>>790
このスレの存在性を議論しているのでしょうか。
>>796 「気が付いたら“何かを思ってた”」というのは、何かを思っていることに気付く
ということだろうから、意識が意識を意識するということですね。
そう考えると、
「気付く(という行為がなされる)為には、その前に主体が必要である」は、
「自我意識が成立するためには自我が必要」と言い換えられるかもしれません。
自我と言ってしまうと、読む側がその内容をいろいろに解釈してしまうから問題ありますけどね。
「意識を意識するためには意識が必要」だと、わけわかりませんからね。
近代哲学は説明の順番が逆なんだよな。
赤ちゃんの頃から、パパママボクワタシと教えられてきたし、
夜9時に寝て朝6時に起きて、寝ている間のボクワタシは眠っていたと
教えられてきた。
その時間軸をひっくり返して、近代的自我を出発点にして
あらためて逆から説明しようとして時間軸をこんがらがせて
論理付けようとしてんだから馬鹿みたいな話だよな。
>>798 まあ、そういうことになるのでしょうが、
それは、ラベルを張り替えたに過ぎません。
寧ろ、「自我」という「“確固としたものとしてありそうな”何か」
が安置されてしまう分、やっかいです。
>>800 近代に限った話じゃないよ
古代から現代まで常識を疑うのは共通している
>>794 両方でしょう。
片方だけでは、不十分ではないでしょうか。
ましてや、時間的前後を抜きにして考察するのは愚の骨頂かと思います。
「主観は言葉で論理的に説明できない」と言われるが、
客観は言葉で論理的に説明できるのだろうか?とも思う。
たとえば、NHKの阿部渉アナウンサーなど、
ある人の顔の形を言葉で論理的にどのように説明できるだろうか?
>>803 >ましてや、時間的前後を抜きにして考察するのは愚の骨頂かと思います。
なぜですか?
>>805 極端な言い方をすれば、
「我々は、死人が生き返る世界」には生きていないからです。
「火葬場で灰になった遺体が、再び元の身体に戻るような世界」には生きていないからです。
「車が止まってからブレーキを踏む」ことはないからです。
>>806 すべての事柄には時間的な前後関係があるということですか?
私はそうは思いませんが。
意識するということと、主体があるということに、
時間的な前後関係がなければならない理由は私にはわかりません。
主体の概念と自我の概念を分けるか同義にするかの違いではないか。
無意識状態でも身体は外界を意識した動きをするので、
主体はあっても自我はないと言える場合もある。
主体=自我とする立場ならば、主体は意識の後に発生すると言える。
主体を作用や性質の主として自我と区別する立場なら、
主体は意識の前に発生すると言える。
そうなると、議論は主体の定義次第ということになってくる。
主体は意識の前に発生し、自我は意識の後に発生すると考えれば、
デカルトの二元論とポストモダンの議論の両方が、
一つの視野内で並立できるのではないか。
>>807 このスレの主要な論点の一つに、
「主体と行為との時間的関係」があるからです。
大きく3種類。
a・「行為がなされる前から、そこに主体がある」(「静止した主体が動き始める」)
という、行為に先立つ主体。
b・「行為がなされた時、そこに主体が現れる」(「動きがあることによって、それが主体たりえる」)
という、行為と不可分な(同時な)主体。
c・「行為がなされた後、そこに主体が現れる(≒認められる)」
(「動きが自覚された時、「ああ、これが主体であった」という認識される」)
という、行為の後に設定される主体。
これが、日常の、或いは身体的行為であれば、aでも問題はない。
むしろ、cということは、経験的にありえなさそうに見える。
b以外は、必ずどちらかが前でなければならない。
が、こと「意識」及び「意識の開始」に関しては、そんなに安直でいいのか?という疑義が提示されている。
で、全ての行為について疑義を挟み、主体の解体を試みたのが龍樹だったと・・・w
ちなみにbが近似しているが、あくまでも近似。中論は、そこからも主体を消去しようとしている・・w
(と思われる・・w)
で、どのような考察が為されようと、「そのように考察している主体がいるじゃんw」と、
すべてに先立つ主体が要請される、というわけです。
>>809 そういう感じで前後関係を考えるのは、
ベルグソンが批判した「空間化された時間」(物理的時間)
を前提として考えているような感じがします。
現代思想でよく批判される、数直線的時間、過去・現在・未来の時間、時計的時間。
意識に関する哲学では、意識そのものが時間であるというような
考え方も多いので、意識を外側から客観的に見て、前後を判断して
しまう考え方は、ピントがずれているかもしれませんね。
龍樹の例を挙げているけれど、今の「前後」の話題に相応しいのは道元ですね。
道元も、常識的な時計的時間概念を批判しています。
【たき木はいとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。
しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。
灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
かのたき木、はいとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、
人のしぬるのち、さらに生とならず。
しかあるを、生の死になるといはざるは仏法のさだまれるならひなり。このゆへに不生といふ。
死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆへに不滅といふ。
生も一時のくらゐなり。死も一時のくらゐなり。
たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏になるといはぬなり。】
自覚せずとも主体がいられるならば、
私は一つというのも疑わしい。
今正に思っているこの何者かが私であるならば、
思考実験は無意味。
未来の私が無意味なのと同じで。
思考実験される「それ」は「私」ではない。
「それ」を今思考している何者かが「私」。
815 :
サイコダイバー・デカルト:2008/03/18(火) 03:14:03 0
最高位氏には完成しなかったハイデガーの燃え尽き、焼け残った燃えさしの熱を感じる。
彼は定義を望まないかもしれないが、一種の独我論に根ざしたかのようなスタンスは、
論法として大筋は有効かと思う。
でコギト命題的なその内容について考える。
816 :
サイコダイバー・デカルト:2008/03/18(火) 03:14:26 0
私が最高位氏の立場であろうとすれば、私の存在は当然、私が認識することによって成り立つ。
私は外界の客観的現象によらず私として存在することを自明とする。
而して私を否定できるものは無い。私の意識が私を認める限り、自であり我である。
有難くも、そうして在る私は目を持ち、耳を持ち、鼻を持ち、五感及び総合した感覚を有している。
そして口を持ち、手を持ち、脚をもち、身口意及び自由意志と行動の可能性も有している。
ここで、私が受容し作用する外界の総ては何か?
それは私が認識した私に基づく、私の副産物である。
予想外の出来事、驚嘆すべき事件、感動できる物との出会いは、
私と同一である意識が想起した「望まれた現象」である。
仮に私を殺害せん者が現れようと、それは私に因る脅威であり、
私が「不随意をも定める者」である証左に過ぎない。
私は死すらも有し、死ぬことによって唯1人の「全世界である私の死者」となる。
そして私はかつて死の状態から「全世界である私の生者」として自誕した者でもある。
これを覆せる者は何者でもなく無論、私1人である。そしてこれらは説明するまでも無い事実である。
817 :
サイコダイバー・デカルト:2008/03/18(火) 03:14:47 0
続けよう、
理解できない者は、その存在自体が私に因る者なので、「理解できなくとも私は揺るがない」
異論をはさむ者は、その存在自体が私に因る者なので、「異論を耳するとも私は揺るがない」
攻撃してくる者は、その存在自体が私に因る者なので、「攻撃されようとも私は揺るがない」
私は私に対して無責任にもなれるので、「私に因る想念存在たち」について一切の責任は有さない。
あらゆる誤解はそれを私は誤解と感じる必要が無い。
便宜に過ぎない他者達が主体を訴えても否定する必要は無い。
数多の論理も当然の事ながら肯定すら出来る。
私を疑う総てについて、私は「攻撃」も「離反」も「拒絶」も「排斥」も「懐疑」もする必然性が無い。
むしろ、学び、共感し、受け入れ、支え合い、親和、出来るどころか自説を撤回する事すら可能である。
私が背理した必然性を求めるのは、
私である自身を「攻撃」し「離反」し「拒絶」し「排斥」し「懐疑」する時のみである。
私にそれは不要である。
818 :
サイコダイバー・デカルト:2008/03/18(火) 03:34:46 0
全当為に結す。
>>200::哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/09(日) 03:07:05 0
>どのようにあるのか?しか思いつかないのは、サル
>なぜそうであったのか?という原因性まで考えちゃうのが、人間
>全て間違いだ という事を言っているのではない(苦笑
>唯物論は間違いだ と言っているんだよ
全体を読んでいて聞くべきを感じました。
哲学者最高位さん。お読みになられればで構いません。
どうか宜しければお答えください。
なぜ「唯物論は間違いだ」という立場に立たれたのですか?
動機をお聞かせください。
>>816-817 えーと。
独我論やコギト命題から想起される一種の唯識論において。
「私を疑う総て」は「私に因る想念存在たち」であり。
諸因において私と合一とも認められ、
私が自ら在る事実に対する定義力は彼らは持たず、
むしろ、それらへの拒絶や疑問を抱くことが、
合一である私を拒絶し疑問視することに自ら臨む行為。
だと説明されていまーす。
スワンプマンとしては「我思うと我思う、故に我ありと我思う」
でいいんですが。オリジナル頼む。
何が起こっても私は自明として在る事を改竄される事は無いですね
だって事実だしな!(笑
はぁ〜・・・安心、安心
>>763 虚言ですね。
本気で哲学の大論争に終止符を打てると思っているのならば、
こんな所に駄レスを書き込んでいないで、実名で論文を発表なさい。
あなたが社会で通用するまともな説得力を持っているならば、
たちまちまともな学者たちに認められて、あなたの功績が讃えられるでしょう。
現実には、匿名掲示板で妄言を垂れ流す事しか出来ないのでしょうが。
824 :
考える名無しさん:2008/03/18(火) 15:50:40 0
>>795 >その我はどこから生まれてきたのかな?
>何にも感じることの無い暗闇からでないの?
ここでアナタが思っている「我」とは単なるフィクションの産物です。
いま現に「感じる」私がいるから、その否定である私は感じない所から「生まれてきた」にちがいない! そこはきっと「暗闇」にちがいない!
>だから思う思わない関わらず常在ですよ
したがって「私」はあらゆる集合の部分集合と同じ空集合として「常駐」しているみたいな。
何処に常駐しているんですかぁ?
何処かに常駐してたとしたって、それは外部からの観察者の視点によって常駐と解釈されているにすぎず、問題の思考システムとしての「私」とはまったく別ものでしょう。
825 :
考える名無しさん:2008/03/18(火) 17:14:38 0
自分の居場所くらい分かれよ。「私」なんだろ。あほくさ。
826 :
考える名無しさん:2008/03/18(火) 17:31:06 0
>>795 824に賛同。
独我や唯識論者が場所的に存在するのは、
《私を占めるところ》に居るんだろうなあ。《私》は《私》という場所にいる!
「どこから?」という疑問は唯識的発想そのものを阻害してるし。
「何にも感じることの無い暗闇」という想起は独我的自明性を廃棄してるよ。
疑問は自己否定に等しい。
もっと雄々しく在れ!
827 :
3時で1時:2008/03/18(火) 23:04:54 0
俺的には、
思考の場に居る俺…考えつつある俺…というのは
「俺、ただいま考え中なんだよ」ということでしかない。
それは、俺が思考モードであるとの判断なのであり、
実際には、俺は頬杖つきながら、部屋中歩きながら考えているわけで、
人間たる俺から思う我とか思惟体だけを抽出・分離しうるということではない。
「何故にこのように判断しえたのか?」といえば、私的必然ではないのであり、
出来事を構成する認識作用があるっていうだけのことである。
828 :
考える名無しさん:2008/03/18(火) 23:13:13 0
「私」とはそれを発語している人の身体。
我思うの「我」と、我在りの「我」は違いまっせ?
830 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 00:44:59 0
「私」と「私以外」を区別している、もうひとつの「私」がいる。
831 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 01:36:41 0
>>830 前者の「私」は「人格」と呼ばれ、
後者の「私」は「自己意識」と呼ばれる。
832 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 02:19:53 0
>>827 だが、どういう訳か「我」について思うところの論理を展開する者が現れる。
「なぜか?」
と問うと皆、
「まあ、言ってみたかっただけw」
明確だなあ。( ´¬`)人(´¬` )
デカルトの分かりにくさは、デカルトは神を想定して
理論構築していたのに、読んでいる人は神を信じていないから。
それと、デカルトは物質と精神の関係を安易に考えていたから。
834 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 05:11:59 0
>>832の
>明確だなあ。( ´¬`)人(´¬` )
に記号論理による真理を見た。
対応する二者の間に『人』という文字が存在し、
かつ、口が否定を表す『¬』で記述される事によって、鏡像である関係が崩されている内包された表記に、
アクサンテギュ (accent aigu) とアクサングラーヴ (accent grave)の性質の異なる強勢の呼気に挟まれた、
自己否定と未完結の形相たるイデア (Idea)が形而下として表出されている。
更に、図法によりその背後に投射されるべき二者の頭脳において半角の無『 』が覗くという表記によって、
実在の否定こそにより、自己のその外延までの存在する事実の、真性の確保(無我たる我)を帰結している。
『私』という記述においてこれほど命題の成立を見せた表現を、私はかつて見た事が無く。
また、その斬新なる既存哲学からの突破と、真実への到達に驚嘆を禁じ得ない。
____
/ \ /\ ギンッ
. / (◇) (◇)\
/ ⌒(__人__)⌒ \
| |r┬-| |
\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ
| l \
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
「私」なんてこんなこと考えても意味がないと思われがちだが、
「私」の問題は具体的にどのような影響があるかというと、
過失致死をどうとらえるかという問題になる。
「私」に殺意があれば殺人。しかし「私」に殺意などあったのだろうか。
注意を欠いて人が死ぬことを予見できなかった場合は過失致死だ。
過失致死を疑われた場合の「私」は他人の生命ではなく、その時、
何を注意をして何を予見していたのだろうか。
いや、その時の「私」は今の「私」ではない。しかし今の「私」ではないと
いう言い訳が通じるだろうか。
今の「私」がその時の「私」を解釈し、「私」ではない他人である
裁判官も解釈する。なんと「私」ではない他人が「私」をジャッジする
というのか?いや、そんな事は不可能だ。では今の「私」がその時の
「私」をジャッジできるのか?
836 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 07:34:12 0
837 :
834の続き。:2008/03/19(水) 08:17:33 0
>>832の
>明確だなあ。( ´¬`)人(´¬` )
には更なる発見があった。
全体の字列が表すAAという視覚構造をシニフィエ (signifiant)とする、前述の記号論理とのシーニュ (signe)
のメタに対する事実を補完する。笑い和合するかの様に見える二者の表現としての全射に関し、
厳密な記号の恣意性について、形象と表象との不和が暗黙の内に記述されている。
これは対立する矛盾した命題を抱え合い、その循環から言語応用の限界を見せた哲学全体に対する根本的な解をも示している。
この図式は図と式とに分ける事によって、『私』という在り方の原質も説明している。
つまり中心とされる根源は此処には無い。が主体と客体の問題の同時解決が随伴する。
虚実はA∨BにおいてA∩Bの立場を『私』とし、ΩC∈Ωを認めるという手段によって、彼我の観点すら含まない自己と非自己の類似性が判断され、
二者は限りなく接近する。ここに便宜されるのが、『人』という象形である。必然的に他の文字が適用されなく、
矛盾同士が支え合うという相対性そのものを通貫した相性性とも呼べる一元構造が、始めから図式に存在しない行間に既に居た『私』である。
恐るべき事に、
この宿命される根には、前提が立つ収束域に「明確だなあ。」という完結した導きが直前に為されており、
まさに『私』が事実を超えて現時間に在ったという観念を、究極的に知っていたという非操作の真理が巧妙に隠されているのである。
まさに盲点であったAAからFAした点における現代哲学の悪夢である。
____
/ \ /\ クワッ!
. / 《☆》 《☆》\
/ ⌒(__人__)⌒ \
| |”|||||”| |
\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ
| l \
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
838 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 09:04:17 0
>>835 ゼノンの逆説(アキレスと亀)と同じ。
過去の「私」の項を、現在の「私」の項との公比に関して、常に厳密に等比未満とする錯誤の主張。
単位時間における認識事実の確定が限りなく増大を起こす。という不可能を拒否した思考実験。
839 :
【過而不改】 剛田 武 【是謂過矣】:2008/03/19(水) 11:00:17 0
これ、あれでしょ?
ロリータ裁判で太った被告が最後に魅せた意地でしょ?
まぁいちおう死刑に処する。
>>835 >「私」の問題は具体的にどのような影響があるかというと、
>過失致死をどうとらえるかという問題になる。
ならんよ?
>「私」に殺意があれば殺人。
違うよ?
>ならんよ?
お前は敷衍できない馬鹿だな。
>違うよ?
だからそれが疑えると書いたのだが。馬鹿は黙ってろ。
>>841 馬鹿は君だよ。
君は人を殺してしまった事があるのか?
843 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 17:19:15 0
>>835 >「私」なんてこんなこと考えても意味がないと思われがちだが、
>「私」の問題は具体的にどのような影響があるかというと、
>過失致死をどうとらえるかという問題に◎なる。
う〜ん、、着眼点はイイと思うけど、なんかどことなくズレてるなぁ…。
後はこれからゆっくり考えますけど。
844 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/19(水) 18:03:54 0
私を客観的に捉えようと試みる場合、他者の存在は必ずしも必要ではない。
自分の声は自分の耳に届き、鏡を見れば自分の姿が映る。自立した存在としての
私がある。しかし自意識が芽生えるのは小学生くらいになってからである。
自覚し、他者に対して影響を与えることが出来ることに気づくのは、歳を要する。
846 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 19:42:28 0
>>845 >まずは法哲学という言葉の存在を知るところから始めてみよう
うにゅーん、、そんなレベルで問題が解決できると思っておられるアナタに乾杯♪〜〜
>>845 法律なんてゾンビ相手でも変わらんよ
裁かれて刑を受けるのは肉体だ。
848 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 19:50:04 0
>>835 すまない。何を問題にしているのかがわからないのだ。 意志??
>>844 自分で鏡を作り自分で日本語を作り自分で小学校を作るのでなければ無理だと思う。
850 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/19(水) 21:26:24 0
>>844 >私を客観的に捉えようと試みる場合、他者の存在は必ずしも必要ではない。
と
>自覚し、他者に対して影響を与えることが出来ることに気づくのは、歳を要する。
との関連がまったく解らない。
852 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/19(水) 21:54:33 0
>>851 他者に囲まれたなかでの客観的自己感の成立と、その後に続く、自意識の
獲得の過程における他者の存在について書いたつもり。
>>850 自分が客観的である理由は否応なく他人が自分を形成してくれているからですよ。
855 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/19(水) 22:11:37 0
>>853 自我は他人によって形成されるということでしょうか。我思う故に我有りは?
>>854 だから、客観性と自意識を対比させることによって、両者の意味的構造について、
考えようとしたわけ。おk?
>>855 自分を客観的に語れるのは自分を他人として見る別の自分が常に産まれるからでしょ。
>>837 >虚実はA∨BにおいてA∩Bの立場を『私』とし、ΩC∈Ωを認めるという手段によって、彼我の観点すら含まない自己と非自己の類似性が判断され、
>二者は限りなく接近する。
の意味が飲み込めた。ちょっと笑。
ようするに、
「実際あーだこーだ色んなこと言われてるけど、どっちでもいいんじゃね?
つか、それ以外でも俺構わねーし。俺とか他人とかツっこまなくても。
俺もお前も、ま。居るんじゃね?みたいな?」
と言ってる。
他にも結構ちゃんと書いてるわw
踊り抜くタイプの真面目な人だな。
858 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/19(水) 22:23:41 0
>>856 自分を客観的に見るにはひな形として他人の存在をみとめているから、
ということですか。たしかにうかつでした。
859 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/19(水) 22:52:38 0
>>856 このばあいの他者とは、人間の格好をしていなくても、いいと思うのですが、
つまり、自然の何かを見て、認識する、そして、自分の自己意識をその対象に
投射する、その行為が、様々な対象になされて、最終的に人間としての自分を
見いだす、ということだと思います。
860 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/19(水) 23:51:13 0
>>785素人さん
とんでもありません。名指しで勝手に指名したのは私です。
まして議論する気もないような人の為には、もう無理ですね。
了解です。
>>859さん
その投射が重要だと思います。
そして投射は「何に対して」されているのか。
投射とは、射精のことです。
有意義な肉体と精神を持った男女が生殖をおこなう、
これがエロスです。
>>859 過去の自分を他者として客観的に評価することは可能でしょう。
他人の気持ちを思いやるのと同じように。
>>860 >その投射が重要だと思います。
>そして投射は「何に対して」されているのか。
『行為の代数学』(大澤真幸)参照。
んま、何だかんだ言ったってオートポイやスペンサー・ブラウン(『形式の法則』)は越えられないのよ。w
864 :
考える名無しさん:2008/03/20(木) 20:11:33 0
スペンサー・ブラウンの『形式の法則』は酷評されどるがね。
スペンサー・ブラウンによる re-entry と時間の導入は、
内部にフィードバックを含むデジタル回路 もどきの話をしているだけ。
単に「フィードバック」を「re-entry」と書き換えただけである。
「フィードバック」と「自己言及」は異なる概念なんだが、
内部にフィードバックを持つデジタル回路の話をしても、
形式論理のパラドクスが解消されるはずがない。
パラドックスを引き起こす自己言及の実現とみなすのは誤り。
やり方がじつに巧妙で、一般読者には分かりやすい形では書いないが。
山師との噂があるくらいだから、ま欠点もあるだろ。
866 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/20(木) 23:13:41 0
>>860 目標に対して投射するのは、自己意識に限らず、様々な局面で、様々な思ったことを
対象に投げかける。それがコミュニケーションの基礎となると思うが、返ってくる物が
自分にとっての想定外であった場合、とくに、悪意やシカトなどの場合、自分の強さに
従って、傷ついたような思いを持つ。人から嫌われるという恐怖は、特に孤独な人間ほど
、帰属するところがない人間ほど、私にとって、支配的な感情となるのではないだろうか。
867 :
考える名無しさん:2008/03/20(木) 23:18:50 0
君子和而不同、小人同而不和
主体性の無い人間ってアホに尽きるよね。
868 :
考える名無しさん:2008/03/20(木) 23:30:54 0
福田君は主体性があり、小泉君は主体性がある
みたいな話になるだろがw
869 :
考える名無しさん:2008/03/20(木) 23:32:27 0
ちがつたw
福田君は主体性があり、→福田君は主体性が無く、
870 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/20(木) 23:33:18 0
コミュニケーションの目的は相手と価値観を共有することであるのか、
差異を明らかにすることであるのか。ふれあいというような言葉に象徴
されるような目的のない行為であるのか。
私が思う故にあるならば、そのよって立つ思いの中身については、重要で
あるのかないのか。
871 :
考える名無しさん:2008/03/20(木) 23:41:40 0
俺は、そんな話はしてない。俺は批評論評家じゃない。
貴方は論語の解釈を知らない。論語読みの論語知らず
一々
説明すんのも
面倒臭い
◆ 性差による言語使用の差異
女性は言語を「事実の伝達」に使い、
男性は言語を「空想の基盤」として用いる傾向がある。
性差に限定しなくとも、言語にはこのような使用上の差異あるいはクラス(段階)がある。
哲学用語、特にドイツの哲学用語は、日常的である。
一方、日本語による哲学用語は、漢字の組み合わせにより、浮かび上がる。
言語(自然言語)の最も基本的な使い道は「事実の共有」であり、
その後に「観念の共有」などが列挙される。
唯一神は外国語(英語、ドイツ語、フランス語)も苦手らしい。
>>864 >単に「フィードバック」を「re-entry」と書き換えただけである。
>「フィードバック」と「自己言及」は異なる概念なんだが、
つーか、「再参入」というのは、何にしても根拠を突き詰められると行き詰まって、「こうだからこうだ!」「違法だから違法だ!」「PならばPだ!」といわざるを得ない所に追い込まれてしまう自己指示的言明の宿命の別表現だと思う。
したがって、これを「フィードバック」と言わないというのは当然でしょうね。
875 :
考える名無しさん:2008/03/21(金) 18:23:01 0
結局
スペンサー・ブラウンの「指示=差異化」の鍵算法は、
哲学的には、「限定は否定」というスピノザ的直観を継承したヘーゲルの『論理学』にさえ及ばず、
数理的には、結局、ブール代数でしかない。(大庭 健氏)
ということなのだろう。
大澤真幸さんや浅田彰さんそのほか絶賛した人多そうだけど。
876 :
考える名無しさん:2008/03/21(金) 20:21:39 0
>哲学的には、「限定は否定」というスピノザ的直観を継承したヘーゲルの『論理学』にさえ及ばず、
「限定は否定」の意味を知らない私にはほんとに解ってんのかどうかも解らないけど?
一応、大澤はSBの理説に関して本(『行為の代数学』)でヘーゲルの再来とかは否定していたと思うけど。
877 :
考える名無しさん:2008/03/21(金) 23:58:02 0
限定主義者ほどたちの悪い者はないよ
878 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 00:21:46 0
ふむ。
〈純粋であるか否か〉が判断基準。
自分の考えを相手に押し付けて多様性を認めない。
むふw
879 :
坂本教信者 ◆9vV3o3MEJE :2008/03/22(土) 01:06:30 0
我未だ他を知らず、いずくんぞ自を知らんや。
880 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/22(土) 02:22:59 0
>>683 何を勘違いしてるのかね?
キミが貼り付けたスレに於いて
推奨NGワードにされているのは、いったい誰なのかね?(苦笑
私は自分のコテを見て、「笑える」 と言ったんだよ
>>863 >その投射が重要だと思います。
>そして投射は「何に対して」されているのか。
「何に対して」しか見えないとすれば
哲学するには、ちょっと知能が低いかもですね
「何が」が抜けています
「何が、何に対して」であって
すなわち「私が、何に対して」なのです
現代哲学的観点は
まさに、その「私とは」であります
この、より本質的な観点が理解できないとするならば
そもそも、話が始まりません
881 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 03:05:32 0
今ここにいる具体的な存在としての
「この私」という視点か らものを見るというのは、
非常に大事なことだ。
これは実存主義の立場そのものである。
882 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/22(土) 03:24:33 0
>>880最高位さん
何が?ですがそれはこころですね。
私に固定すればそれはその人だけのものになり
そうでなければ総てに於いて普遍である。
簡単な事であります。
対象はうつろい
こころは私を持たず
あるがままの世界。
この掲示板に
「現実(外界はそれを見る心(内界)の鏡」
というタイトルのスレがありますが
当にタイトル通りです。
「私」ですらこころが作り出すリアルにして幻影です。
883 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 03:35:44 O
私を記述することが出来ない理由
1 私は記述するには余りに刹那的
2 私を記述する言語がない
3 私を私自信よくわかっていない
884 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 03:54:26 0
私自身、自分がよくわかっていないから
つぶさに説明しろっていわれても出来ないが
私が居るってことは分かってるさ 当たり前だろ ってなことで
誰も 存在を否定なんかしちゃぁいません
885 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/22(土) 04:12:14 0
>>882 :唯識 ◆
>私に固定すればそれはその人だけのものになり
>そうでなければ総てに於いて普遍である。
其れは違うでしょう。
心は私の中にあり同じものである。
簡単な事です。
心はその人だけのもの、普遍的なものではない。
世界は個人の心の中にありその人間の中で閉じている。
人の数だけ世界はある、だから対象は移ろうんでしょう。
>「現実(外界)はそれを見る心(内界)の鏡」
その通り、ならば「対象がうつろう」と言うなら鏡の心も移ろうはず。
心が絶対的存在なら世界は常住になるはずだが、古来より世界は無常である。
貴方の世界は常住であるとでも言うのですか?
886 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/22(土) 04:24:05 0
>>884 :考える名無しさん
>私が居るってことは分かってるさ 当たり前だろ ってなことで
>誰も 存在を否定なんかしちゃぁいません
そんなことはない、私は「私(心)」の存在には空性があると言っている。
つまり絶対的存在性は無い。
人は成長したり、気が変わったり、意識が変化する。
自我と言うのは「・・・おもう」とあるように動的状態なのである。
時間とか位置を特定できないものである。
その時間と位置とを特定できないものは絶対的存在性があるとは言えない。
止まった瞬間に死がおとずれる。
生命と同様の動的平衡状態と言える。
状態としての存在性は絶対的なものとしては扱えない。
887 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/22(土) 05:02:18 0
>>882 何が?と聞いているのに
その答えが「心」では、特定されていないでしょう
他人の心なのか、何なのか
「心」だけでは特定されてません
自分が認識できるのは自分の心のみ
すなわち
「私が」ですね
それ抜きにしては語れません
>私に固定すれば
私に固定できる というのは、当り前のようであって、当り前ではありません
私が存在しなければ、私に固定できませんね
私は「あり」であるから固定できるんですね
私は「あり」なんだ ということです
888 :
坂本教信者 ◆9vV3o3MEJE :2008/03/22(土) 06:53:48 0
「私」のアントを考えるのだ。
889 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 09:48:59 0
>>886 >私は「私(心)」の存在には空性があると言っている。
空性なんていう仏教用語がでてきたな。
で、じいさんの言う「空性がある」っていうのは
現象界の真実のあり方そのものであり、
他によって(縁)によって生起するというような理解でよろしい?
「絶対的存在性は無い」と言明しているのだから、そうだろうな。
で、「存在を否定なんかしちゃぁいません」という言明が
あなたの脳内では、絶対的存在性を主張していることになっちゃう?
すばらしくデンパではあるがw
890 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 10:16:41 0
自我の発展を段階的に考えていけば、
デカルト的な我というのは、ずつと後の段階のようだ。
891 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 11:07:14 0
名指しされているわけでもないのに、
「自分に対して反発しているのではないか?」とか
「私はそんなこと言ってないのに」とか、本当に感じられるとしたら
どこからともなく発信されている「私を陥れようとしている電波」を感じてしまう人と一緒よ。
892 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/23(日) 01:30:25 0
反論がないところをみると、少しは理解できちゃったのかな?
めずらしい(笑
893 :
考える名無しさん:2008/03/23(日) 02:24:54 0
心そのものが、多くの学問領域でさまざまに定義されており、あいまいな概念だ。
そんなあいまいな概念をもってきても理解した気になっているとはな。
背伸びしてみても、小学生並みに「ぼく、思います」だけよ。
>>892 もうさすがに呆れられてるっていうか、消費されしつくしたってかんじ。
もっと頑張って煽ったり、新しいネタ見つけたらまた誰か叩いてくれるかも。
895 :
考える名無しさん:2008/03/23(日) 03:18:13 0
トンデモな、
物質世界論だったらおもしれーからまた馬鹿にしてあげるぞ
896 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/23(日) 04:01:12 0
>>889 :考える名無しさん:
>あなたの脳内では、絶対的存在性を主張していることになっちゃう?
ん?
>>誰も 存在を否定なんかしちゃぁいません
と言うから、少なくともじいさんは否定しているよ・・・と言っただけ。
897 :
考える名無しさん:2008/03/23(日) 04:37:54 0
>>896 じいさん、そういうあなたは
>そんなことはない、私は・・・と言っている。
と、「私」を示している。
その程度の「私」の存在のことだよ、おいらが否定しちゃあいないというのはね。
「私」は私の世界の中心点。
「私」は存在ではなく存在の中心点。
899 :
考える名無しさん:2008/03/23(日) 09:12:18 0
「私」は大きさ・延長のない存在だから中心も無い。
900 :
考える名無しさん:2008/03/23(日) 10:35:32 0
「私」はデブだからお風呂は一番後。
901 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/23(日) 13:53:40 0
かしこいな
902 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/23(日) 15:45:13 0
>>898 :考える名無しさん:
>「私」は私の世界の中心点。
成る程、常に外に対する認識(客観)の中心「点」。
この「点」は無いほうがいいのでは?
>「私」は存在ではなく存在の中心点。
こちらは主観の方の表現ですね、しかし・・・
>>899 :考える名無しさん:
>「私」は大きさ・延長のない存在だから中心も無い。
・・・の突込みが来るから。
表現としては・・・「私」を原点として世界を認識する。・・・と言った感じか。
「「私」は私の世界の中心」
これだけで良いのでは?
903 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/23(日) 15:49:47 0
>>897 :考える名無しさん:
>その程度の「私」の存在のことだよ、おいらが否定しちゃあいないというのはね。
ですからそんな程度のものに絶対的存在性は無い。
空性・・・在るような、無いような・・・そんな程度だとじいさんは言っている。
904 :
考える名無しさん:2008/03/23(日) 16:41:59 0
>>903 >空性・・・在るような、無いような・・・そんな程度だとじいさんは言っている。
空性は妄想じゃ有るまいし、幽霊のような存在じゃないよ。
空性である物事は現実の存在であり実存・実在として何の問題も無い。
905 :
考える名無しさん:2008/03/23(日) 17:21:49 0
>>903 空性って、在るような、無いような、というような意味なの?
あちこち仏教関連のページ覗いていたらそんな意味じゃなかった。
解釈が適当すぎないか?
在るような、無いようなだったら曖昧性とかでよかんべさ。
906 :
Wittgenstein教:2008/03/24(月) 01:31:49 0
907 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/24(月) 01:40:02 0
>>894 反論になってないぞ(爆笑
素直に認めなよ
やっと、少し理解できました ってな
908 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 01:48:51 0
仏教哲学にもいろいろ派があるんだろうね 解釈の違いで
909 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 01:58:18 O
【私】は架空人物である
910 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 02:01:10 O
『それ』は私が創りました
911 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 02:05:10 O
『それ』は私が想像し創造した【私】である
912 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 02:08:57 O
【私】は細胞である
913 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 02:16:40 0
【私】がイメージした【私】は脳が創発した【私】で、
それを思っているのは【私】
914 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/24(月) 02:26:51 0
>>904 :考える名無しさん:
>>空性である物事は現実の存在であり実存・実在として何の問題も無い。
このような考えがもっとも空性から遠い。
現実の存在性が問われているが、残念ながら物質、現象の実体、存在は自立的でない。
曖昧である。
>>905 :考える名無しさん:
>在るような、無いようなだったら曖昧性とかでよかんべさ。
そんなもの、ただし曖昧性だと言ってしまうと、科学が進歩したら曖昧でなくなると言いはる人が出て来る。
>>906 :Wittgenstein教:
>「空性」を定義しましょう。
無いものは定義できない。
この前芥川賞とった作家ので、歯に私があるんだみたいな内容のやつあるらしいな。
なんか永井的な雰囲気らしい。
916 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 02:35:20 O
【私】も【肉体】も細胞である
細胞が創った【私(脳)】
【私(脳)】が望み【細胞】が造った【肉体】
【私(脳)】は【細胞】を操れる
なぜなら【細胞】を削除する事も削除しない事も出来るから
【私(脳)】は【架空人物】を創った
【架空人物】それはあなた、【私】です。
917 :
Wittgenstein教:2008/03/24(月) 02:39:08 0
>>914 おお、じいさん。お久しぶりです。
>無いものは定義できない。
なるほど。しかし、「空性」が「無いもの」だとしたら、そのような言葉を導入すること自体が無意味です。
(オッカムの格言)たとえば、物理学で「エーテル」なる存在が否定され、今ではその言葉があまり使用されないように。
それとも、あなたは空性なるものを存在に対立した意味での「無」として捉えてらっしゃるということでしょうか?
その場合、定義可能です。たとえば、私は「無」=def¬「存在」とします。
918 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/24(月) 02:45:30 0
>>916 キミも、根本的な事が理解できていないな
なぜ、その細胞が、他人ではなくキミであったのか
という基礎的な問題が理解できていない
919 :
Wittgenstein教:2008/03/24(月) 02:58:13 0
>>918 論旨からずれますが…
なんだか、永井均氏の哲学的疑問みたいですね。氏、曰く
「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」
という疑問をしばしば考えた。(永井均:『ウィトゲンシュタイン入門』,p.16,ちくま新書(1995))
このような疑問を氏が友人に質問したところ、「両親がセックスしたからだ」
と答えたので氏は非常にがっかりしたそうです。そういう意味ではない、と。
>>919 それ、百億回くらい書き込まれてるwwwww
921 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/24(月) 03:02:38 0
>>919 その通りですね
そういう意味ではありませんね
それが理解できない人が、このスレにも何と多い事か
>>921 >そういう意味では ないにしても、
「私」を成立させるのに不可欠な要素ではありますよね?w
それとも貴方は、両親のセックスでなく、
コウノトリにでも運ばれてきたんですか?wwwww
まあ隣の子って時点で差異を認識しちゃってんだから、
なぜって疑問をしても遠ざかる一方だな。
924 :
Wittgenstein教:2008/03/24(月) 03:25:53 0
>>921 最高位さんに賛同されてしまった。(恥じらい)
ちょっとだけ、ありがとう
925 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 03:32:47 O
>>918 >なぜ、その細胞が、他人ではなくキミであったのか
その【細胞】自体は【私】ではありません
その【細胞】から生まれた【脳】が【細胞】を【私】だと【認識】したんです
【脳】が【細胞】を認識し、【私】創りあげたんです
【私】は架空人物である。
926 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/24(月) 04:55:55 0
>>917 :Wittgenstein教:
>あなたは空性なるものを存在に対立した意味での「無」として捉えて・・・・
存在を否定しているのだから、対立している訳ではないのでは?
物理学で言うと物質の存在は分子構造に起因する。しかしその分子の原子からなる。しかしその原子は素粒子からなる。
ではその素粒子は何からも生じない絶対的存在であると証明できるであろうか?
物質の存在が空性であるというのはそういうことである。
貴方がその様な物質を定義してその存在性を主張するのは構わない。
「在ると言えばある」からである。
しかしその存在性は定義上の者でしかない。
定義をしなければ「無いものは無い」のである。
927 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/24(月) 07:30:09 0
>>925 >その【細胞】自体は【私】ではありません
>その【細胞】から生まれた【脳】が【細胞】を【私】だと【認識】したんです
だから・・・
その脳が、勝手に『私』だと認識してればいいでしょう
すなわち、それは通常、他人になるんです
なぜ、その脳が、私であったのか という問題が解決できていませんね
最高位は根本的で本質的なことが理解できているな
ところで「根本」や「本質」って何よ?
929 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 10:31:27 0
何を「本質」だと捉えるかが「根本」問題
まんじゅうをつぶしたら餡が飛び出た
餡が本質なのか、残った残骸が本質なのか
アロエの本質は葉肉なのか葉皮なのか
バニラの本質は植物なのか抽出液なのか
書かれた言葉、放たれた言葉の本質は?
どこにあるのだろう?
どうでもいいけど「本質」って言葉が出たのはどの文献が最初なんだろう?
931 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 11:50:53 0
>>914 >そんなもの、ただし曖昧性だと言ってしまうと、科学が進歩したら曖昧でなくなると
>言いはる人が出て来る。
他人の意見がこわいの?結局「分からない」というスタンス?
で、無いものには「空性」という性質さえ無いと思うが。
932 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 12:08:55 0
>>930 饅頭の本質、
つまり本来の姿がどうあるべきかは
元祖「饅頭屋」にきかねばw
933 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 12:14:08 0
プラトンのイデア論とアリストテレスの本質論
その前は?
934 :
Wittgenstein教:2008/03/24(月) 14:23:46 0
>>926 >物理学で言うと物質の存在は分子構造に起因する…物質の存在が空性であるというのはそういうことである。
要するに、あなたの「空性」という言葉は私が定義した「無」とは全く意味が異なりますね。
>貴方がその様な物質を定義してその存在性を主張するのは構わない。
「無」は断じて物質ではありません。そして私はその「存在性」を主張しているわけではありません。
現在、無という言葉が多用され、哲学的な混乱が起きています。その混乱を解消するために、すでに用いられている言葉に対し明確な定義
を与えようというのがコンセプトです。
改めて再定義すると、「xは存在する」という言明に対してそれを否定したもの、
「xは存在しない」の「存在しない」を「無である」とパラフレーズする、ということになります。
このようなテクニカルな定義によって様々なことが分かります。
たとえば「無は存在するのか?」という疑問が無意味であること。
935 :
Wittgenstein教:2008/03/24(月) 14:33:49 0
>>934 >「在ると言えばある」からである。
また、その話ですか(タメ息)
ずばり、あなたは何が言いたいのですか?
たとえば、「無いものは無い」というのは同語反復です。
ある親子の話…
(子)「あのお菓子食べてもいい?」
(母)「太るからもうあれは食べちゃだめよ」
(子)「でも、食べたいといったら食べたいんだ。」
といった話のレベルなのです。
ここから抜け出しましょう。
936 :
Wittgenstein教:2008/03/24(月) 14:37:03 0
937 :
3時で1時:2008/03/24(月) 18:29:47 0
「無いものは無い」というのは、「無い袖は振れぬ」という意味にもなるし
「そもそも存在しないのだから、無いということなのだ」と相手に判断を迫る意味にもなる。
「在るような、無いような」とか「在るともいえるし、無いともいえる」とかだったら
単に「私には、断定しえない。分からないから、判断を先送りする」という意味にもなり、
「そもそもがこのようなものだと記述しえないものなのだ」という断定にもなるだろう。
さらにまた、「絶対的存在性は無い」「その程度のもの」というところをみると、
「存在してはいるが、変わりつつ存在するだけの存在」との意味にもなり、
「〈本来の私〉といったものは、否定しうる」と言っているようにも推測される。
「〈本来の・もともとの私〉といったものは無い」ということなら、俺も同感なのだが。
938 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 18:38:46 0
私の存在は、現にそうあるので、疑えない。
私の存在は、物のように、あったりなかったりするということが考えられない。
そういう意味での私は、物のように、時間的・空間的に存在するとはいえない。
939 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 20:41:46 0
>>938 私には身体はないの?
私の身体は物体では無いの?
私の身体は時間的・空間的に限定された存在では無いの?
>>939 >>938は、 >そういう意味での と限定をつけているだろ?
このスレの住人の一部を除いては、殆どが
≪『私』は、身体や諸条件に依存して、“そこに(→ここに)”顕れている≫
というスタンスだよ。
ごく一部を除いてはねw
また、そうした概念的(中核的)『私』を認めず、
総体的存在(身体や経験・記憶、周囲との関係から導かれるポジション等あらゆる要素を包括したもの)として
『私』を捉える人もいる。
結局問われるのは、「あなたはどう考えるんですか?」ということさw
941 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 21:26:53 0
どのような意味でも時間・空間を離れて存在する物事は無いだろ。
限定をつける以前の事だね。
>>941 『私』や「自我」が、≪自覚されて初めて存在しうるものならば≫
(自覚されている間は)、時間・空間問わず、問答無用で「ここに感じられる(存在する)」
と言える。 時間的にこの時はとか、空間的にここにはとか問う意味はない。
『ここに居る』し『居続ける』のだからw
943 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 21:39:36 0
>>942 「いま・ここ」は時間・空間の原点だろ。
>>943 主観的時間は停止することがある。
主観的空間は身体を媒介したときのみ生じるもの。
945 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 22:09:57 0
「そのとき」私の思考は停止したw
946 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/24(月) 22:25:28 0
>>944 主観的時間の停止を客観に当てはめれば、排主観こそ時間の停止といえるのでは
ないか。
947 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/24(月) 23:46:24 0
>>885じいさんさん
縁起が絶対的でしょうか?
>>887最高位さん
何を特定しなければならないのでしょうか?
私が存在しなければ云々とありますが
唯識では「区別、差別するこころ」の働きに
それらを(私に限らず)五感と意のこころで認識し
それら総てを支えるこころにより成る
ということです。
「唯識(こころのみ)」ですから
総てはこころのみということです。
別の言い方をすれば「私」はこころの作用の一環です。
948 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 00:18:35 0
>>947 >何を特定しなければならないのでしょうか?
言うまでもなく
誰の心なのか という問題があるでしょう
>「唯識(こころのみ)」ですから
>総てはこころのみということです。
物質は無いの?(苦笑
949 :
Wittgenstein教:2008/03/25(火) 00:57:36 0
>>947 横から失礼。
「心」が普遍的なものかどうかという議論はC.G.Jungの無意識に関する考え方などを思い起こさせます。
ユングによれば、我々には人類として普遍的で根源的な無意識が存在する(普遍的無意識)とのことです。
それに比べれば、フロイトの無意識は比較的浅いそれ(個人的無意識)にすぎないと。
なるほど。ユングは「心」という言葉を多く用いますが、こういった理論を心理学的に例えば臨床に応用することで、ある種の成功を収めているわけです。
つまり、「心」という皆よく分からないものを認めるものの、それには目的乃至は理論的な結果が付随していたということです。
何がいいたいかというと、(得体の知れない)「心」という言葉を用いるときはあなたがそれをどのような意味で用い、
べつの理論なり応用なりとどのように結びついているかがおのずと分かるように提示してもらえませんか?ということです。
いきなり「こころ」といわれても、ちょっと…
950 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/25(火) 01:28:52 0
>>948最高位さん
誰の心とありますが
根本的自我という意味で、区別、差別する働きがあるから
誰かれがあるのではないでしょうか?
認識における(表層意識)区別とはまた違うレベルです。
(もちろん関わっていますが)
物質(仏教でいう器世間)は阿頼耶識です。
>>949さん
最高位さんへの答えと被る部分もありますね。
唯識論を他に応用ですか・・・
とりあえず、といっては失礼ですが
理科の教科書にあるスケール図などどうでしょうか?
大は宇宙まで、小は素粒子まで繋がっている
という感じでしょうか。
951 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 01:46:49 0
>>950 >誰の心とありますが
>根本的自我という意味で、区別、差別する働きがあるから
>誰かれがあるのではないでしょうか?
そういう考え方もあるけど、それだと、自分が現に生きている実感にそぐわないところがある。
自分が生きているという実感、かけがえのなさ、というものが薄められてしまう難点がある感じがする。
952 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 02:21:20 0
>>950 >根本的自我という意味で、区別、差別する働きがあるから
>誰かれがあるのではないでしょうか?
他と他が区別しあっていても、私が生じる事とは関係ないんですよ
まだ理解できませんか??
>物質(仏教でいう器世間)は阿頼耶識です。
物質は観念だ という事ですか?
客観ではないと
953 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/25(火) 02:53:16 0
>>951さん
仰る意味、理解できます。
>>952最高位さん
意味がお分かりになりませんか?
他を区別、差別する根本的自我に因って
認識、そして言葉によって「私」を仮に生じさせているのです。
物質が観念という問いですが
それは先にも言いました(他の方の言を借りて恐縮ですが)
「現実(外界はそれを見る心(内界)の鏡」 です。
954 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 03:02:06 0
>>953 >他を区別、差別する根本的自我に因って
>認識、そして言葉によって「私」を仮に生じさせているのです。
「根本的自我」の意味がよくわからない。
唯識で「根本的自我」なんて言うの?
955 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 03:18:40 0
>>953 >意味がお分かりになりませんか?
>他を区別、差別する根本的自我に因って
>認識、そして言葉によって「私」を仮に生じさせているのです。
意味がわかってないのは、そっちですよ
私は唯識くんの勘違いを理解しています
>他を区別、差別する根本的自我
これは通常、他人の自我であって、私ではありません
何故に、唯識くんは存在したのか という問題です
本当に理解できないんですか??
>物質が観念という問いですが
>それは先にも言いました(他の方の言を借りて恐縮ですが)
>「現実(外界はそれを見る心(内界)の鏡」 です。
答えになってません
で
物質は客体として有るんですか?
それとも主観にすぎないのですか?
956 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 03:43:17 0
>>955 >これは通常、他人の自我であって、私ではありません
>何故に、唯識くんは存在したのか という問題です
>
>本当に理解できないんですか??
そうだね。
阿頼耶識なんて言ってみても、それはしょせん、考えられたものにすぎない。
それを考えているのは?ということだろう・・・
957 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/25(火) 03:57:23 0
>>954さん
第七末那識です。
>>955最高位さん
>これは通常、他人の自我であって、私ではありません
意味不明です。最高位さんはただ単に私を主体にしたいだけでは?
>物質は客体として有るんですか?
>それとも主観にすぎないのですか?
これはなかなか面白い問いですね。
主観に過ぎませんが、その主観自体が縁起に因り無自性。
これを観念と呼べるかどうか疑問ですね。
有るか無いかではなく「空」ですね。
958 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 04:01:46 0
「存在」という言葉を「物」と「私」とでごっちゃ混ぜに使用しているために、混乱が生じているように見える。
「私」については、「物」のように存在するとかしないとか論じるのは無理があるのではないか。
「私」は疑いようがない。現にそのようにあるのだから、それを、現にそのようにない、ということが考えられない。
「私」は、例えば調査によって時間的・空間的に「あったり」「なかったり」する物体のような在り方をしていない。
つまり、そのへんに転がっている石ころのように「存在」するものじゃない。
959 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 04:10:00 0
>>957 >>これは通常、他人の自我であって、私ではありません
>意味不明です。最高位さんはただ単に私を主体にしたいだけでは?
ここで「意味不明です。最高位さんはただ単に私を主体にしたいだけでは?」と思っているのは、
紛れもなく【唯識 ◆Vidya0E1.s】さんであって、読む人それぞれが、違った風に思っている。
そこに人それぞれのかけがえのなさがあるわけですよね。
「私」は仮のものであって本当はないんだ、と主張しているのは誰なのか?
なぜ【唯識 ◆Vidya0E1.s】さんはそう思うのか?そう思いたいのか?
ということでしょうね・・・
唯識との関連で、「私」というものを基点として見ると、
阿頼耶識みたいなものが「私」を生み出していると考えれば、
「私」は、阿頼耶識に対して受動的なものとなり、そこからは、
何かを考え主張している「私」の能動性が出てこない。
仏教でも、「生かされて生きる」みたいな表現をよくするでしょう。
「生かされて」の部分で受動性を、「生きる」の部分で能動性を表現してるわけですよね。
「根本的自我」みたいに、「根本」を一つに決めつけることに問題があるように思います。
能動的な側面と受動的な側面の、二つの極があって、
その二つの極が交錯するところに「私」があるんだろうと思います。
960 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 05:09:57 0
上で書いた能動性と受動性との二重性は、例えば、西田幾多郎の「我は、我ならずして、我なり」
という「矛盾的自己同一」にも現れています。
「我々の身体というものは歴史的に作られたものである、何処までも決定せられたものである。
しかしまた作るものである。作られたものと作るものとの矛盾的自己同一である。そこに我々の
自己というものがあるのである」(西田幾多郎『行為的直観』)。
このように「我ならずして」という否定的(受動的)契機と「我なり」という肯定的(能動的)契機がある。
禅で言えば、「自己」を否定的契機から見れば「自己をわするる」(道元)とか「無心」などの表現になり、
それを肯定的にいえば、「随所に主となれば立所皆真なり」(臨済録)のような表現になる。
961 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 05:30:00 0
>>957 >>これは通常、他人の自我であって、私ではありません
>意味不明です。最高位さんはただ単に私を主体にしたいだけでは?
どう意味がわかりませんか?
自我、心というのは、圧倒的に他人のものの方が多いでしょう
その中で、なぜ私なんてものが、いるのか という問題ですよ
>>物質は客体として有るんですか?
>>それとも主観にすぎないのですか?
>
>これはなかなか面白い問いですね。
はぁ??
大昔からある一般的な問いですが?
大丈夫ですか???
>主観に過ぎませんが、その主観自体が縁起に因り無自性。
>これを観念と呼べるかどうか疑問ですね。
>有るか無いかではなく「空」ですね。
物質は、>有るか無いかではなく「空」 ???
意味がわかりませんが・・・
「空」とは何ですか?
962 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:35:56 0
>>947 :唯識 ◆Vidya0E1.s :
>縁起が絶対的でしょうか?
貴方は絶対的存在だと言うかもしれないが、縁起は空性であります。
事象や自我の存在性は絶対的自生は無く、縁起による依存的存在や相対的存在と言う空性があると言う事です。
963 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:41:15 0
>>961 :哲学者最高位 ◆
>物質は、>有るか無いかではなく「空」 ???
横レスですが・・・・・・・・
貴方は物質の絶対的存在性を示す事は出来ますか?
現代物理学でも究極は素粒子どまりでしょう。
その存在証明の段階で「不確定性」と言うストップが掛かっているのではないですか?
例の機械さんは将来究極の存在真理が見つかると信じていますがね・・・・。
物質の絶対的(他に依存しない自立した)存在性を証明できない事・・・これが物質存在の空性です。
此処までは特に問題は無いんです。
この後の観念の問題なんです。
物質には実体は無い・・・それは判った。
しかし観念的な実体は在りうる・・・か否か・・是が問題なんです。
あなたは「「私」には絶対的存在性がある」と言うことなんでしょう?
唯識さんも多分同じなんですよ、意識の実体が基本なんでしょう。
観念「私」(意識)も空だというのが中観の思想で、所謂般若心経の思想です。
私(じいさん)は信心は無いのですが好きなんです。
964 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:41:43 0
>>961 :哲学者最高位 ◆
>物質は、>有るか無いかではなく「空」 ???
横レスですが・・・・・・・・
貴方は物質の絶対的存在性を示す事は出来ますか?
現代物理学でも究極は素粒子どまりでしょう。
その存在証明の段階で「不確定性」と言うストップが掛かっているのではないですか?
例の機械さんは将来究極の存在真理が見つかると信じていますがね・・・・。
物質の絶対的(他に依存しない自立した)存在性を証明できない事・・・これが物質存在の空性です。
此処までは特に問題は無いんです。
この後の観念の問題なんです。
物質には実体は無い・・・それは判った。
しかし観念的な実体は在りうる・・・か否か・・是が問題なんです。
あなたは「「私」には絶対的存在性がある」と言うことなんでしょう?
唯識さんも多分同じなんですよ、意識の実体が基本なんでしょう。
観念「私」(意識)も空だというのが中観の思想で、所謂般若心経の思想です。
私(じいさん)は信心は無いのですが好きなんです。
965 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:42:23 0
すいませんダブりました。
>>964 またまた、トンデモ病が発症しちゃったよ・・・ じいさん、議論するなら
自論を前進させてくれるような相手を見極めろよぉw
967 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:54:05 0
>>966 :考える名無しさん:
>自論を前進させてくれるような相手を見極めろよぉw
だって他は「名無し」ばかりなんだもん。
>>961 >どう意味がわかりませんか?
>自我、心というのは、圧倒的に他人のものの方が多いでしょう
>その中で、なぜ私なんてものが、いるのか という問題ですよ
誰の問題なの?
>>958 「私」がそういった意味である場合、
「他人」は「物」のように「存在」するのでしょうか?
970 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/25(火) 17:13:19 0
風船ですよそれか泡
VOID宇宙って言うでしょ
バブル経済とかね
人魚姫みたいに泡に過ぎないんですよ
「私」が「私」を疑いようがなかったとしてもだ、
「私」以外にも「誰か」がいるのならば、
その『「私」ではない「誰か」』に「私」は疑われ得るのではないだろうか?
「私」が「私」を疑いようがない事は、
「誰も」が「私」を疑いようがないという事では断じてないだろう。
972 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 17:46:39 0
>>958 「私」は、個人という存在だから
調査によって時間的・空間的に「あったり」「なかったり」する物体のような在り方もする場合がある。
雪山で遭難した人(私)とかは、そのへんに転がっている石ころのようにでもいいから
とにかく私の「存在」を発見して欲しいものじゃないかな?
雑踏の中では
そのへんに転がっている石ころのように無視される場合もあるしw
>>969 >「他人」は「物」のように「存在」するのでしょうか?
「他人」は、あったりなかったりするという意味では、「物」のように扱い得る。
>>971 >その『「私」ではない「誰か」』に「私」は疑われ得るのではないだろうか?
誰かに存在を疑われている私と、ここでいう「私」とは異なる。
誰かに存在を疑われている私は、その疑いが成立しているということからして、
「現にこのようにある」という疑いようのなさが脱落している。
逆に、「現にこのようにある」という疑いようのなさがあるなら、それはもう「他人」とは言えない。
誰かに疑われている私は、現にこのようにある「私」ではなく、「他人」として扱われている私だ。
>>972 >「私」は、個人という存在だから
>調査によって時間的・空間的に「あったり」「なかったり」する物体のような在り方もする場合がある。
誰かの調査対象になっている私は、現にこのようにある「私」ではなく、「他人」として扱われている私だ。
974 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 19:24:37 0
>>973 >「現にこのようにある」
>「他人」として扱われている私だ。
「私」は、客体視の結果。よく考えた方がよい。
>>973 >誰かに存在を疑われている私と、ここでいう「私」とは異なる。
異なるのかどうかは「私」には判別し得ません。
「誰か」が「何か」を疑っているのかいないのか、
「私」には確かではないからです。
異なるかもしれないし、異ならないかもしれない。
>誰かに疑われている私は、現にこのようにある「私」ではなく、「他人」として扱われている私だ
それは「私」には確かではありません。
唯一確かなのはそう思っている「私」がいる事だけであって、
思っている内容はいくらでも疑えます。
976 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 20:56:58 0
神秘 ...ハーモニー(八光玄律) 鈴木俊輔
一切の現象を作りあげているのは自分達の意識なのです。
本来宇宙に無であってもよいはずの自己は超奇跡の存在です。
我は両親から生まれ出でたというが、その誕生もまた確率的にゼロに近く
両親もまた……(略)……大宇宙に存在している自己とは正に超奇跡の存在なのです。
世界60億の人類はこの大宇宙に絶対的価値をもって出現したのです。
なんぴとたりとも地球進化の偉大なる役割を持って出現しているのです。
いま、私たちは現象を外に見るという物質史観の枠を越えて自らが神であり、
神としての意識が……(略)……に要求されているのであります。
深層の自己、それを良心ともいいまた「純正自己」ともいい
魂の内部に鎮座する大宇宙と一体となったハイヤーセルフであり「神我」であります。
神我は「意識と時間が物質を空間に創出する」ことを知り、
そこに確信という心の作用が現象誕生化の加速エネルギーであることを知る。
物質を外から眺め物質を積み重ね変容させる唯物の思想は、
偉大なる創造能力を持つ神としての自己の否定に近い。
ちょwwこれw ……
偶然こんなの発見したけどさ、
最高位さん。どうよ、これ。
977 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 22:35:14 0
>>976 どうよって、、宗教じゃんか(苦笑
そんなのも見分けがつかんのか?キミは
というか
そんなのを偶然に発見するのがスゴイな
しかし、あるていど読まないと発見できんだろ
偶然になんて、発見しようがないと思うが(爆笑
そういうのに興味あるんだねキミ
978 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 22:41:57 0
>>977 魂の内部に鎮座する大宇宙・・・というのが気に入ったぞーーーw
鎮座だってさw
979 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 22:49:16 0
宗教というより、神秘主義だろ、これ。
980 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 23:23:40 0
981 :
考える名無しさん:2008/03/26(水) 00:11:47 0
精神の内部に鎮座する「神我」は聖なるものだから崇めよ?
982 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/26(水) 00:17:18 0
どうも最高位さんは理解していて
理解してない振りをされているように思えます。
要するに「私」が存在するためには「他」が必要という
強引な言い方でもよろしいでしょう。
>>959さん
仰りたいことはわかりますよ。
しかし能動的と言われるものが
果たして受動的なものから離れることが出来るでしょうか?
(これは決定論にも関係しそうですが)
「生かされてい生きる」
当にその通りです。
唯識ではそのように「生かされて」、「他に依って」成り立っている
独立して存在はしない。独立して有ると観るのは迷妄ということです。
かけがえのないもの(仏性)を自らに認めるならば
他にも同等に認める。これが大乗仏教だと思います。
>>976は金剛乗仏教そのままですね。
最高位の主張と見分けがつかんw
どちらも宗教に見える
984 :
考える名無しさん:2008/03/26(水) 00:24:43 0
ふーん そうか 金剛乗仏教というのは
偉大なる創造能力を持つ神としての自己というのを信じるわけだ。
唯識さん ども
偉大なる創造能力を持つ奇跡の大宇宙…の一部としての自己を信じまつ。
986 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :
>>983さん
最高位さんご自身はお気づきでなくとも
参照されたり読まれた書籍の著者がそれに近い思想
或いは、実際にこういう哲学(インド哲学、東洋思想等)を学ばれたのでは?
>>984さん
一歩誤れば某テロ教団と同じです。
くれぐれも人の身で凡夫であることをお忘れなく。