1 :
考える名無しさん:
副題:=【私】は、どこまで肉体に依存するのか?=
『私』『我』『自我』『主体』『主観』『主観性』、
デカルト的懐疑の到達点、認識の基点、思考の起点、思惟の場、
或いは、各種宗教的アプローチの底に見出されるもの、
等は、どのような記述が可能なのか?
その記述方法は、唯物的な(或いは還元的な)事象の羅列で十分か不十分か?
その記述方法は、一通りか?それとも何種類もあるか?
それら記述方法の分類・仕分けはどのようなものか?
『それ』にふさわしいラベルはどんなものだろうか?
『それ』と「外界」の関係は?
『それ』と「他者の『それ』」との関係は?
『それ』は、普遍性を持つか?
『それ』は、どこにあるのか?
『それ』は、複合的に形成・構成されたもの・成立したものか?
『それ』は、単独に存在しうる(成立しうる)ものか?
『それ』は、妄想か?錯覚か?便宜上のラベルか?
『それ』は、実感されるが故に確かな存在か?
前スレ
【私】を記述してください。【私の存在性】 10
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1202358553/
「私」は身体を持った人間ですか?
5 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 15:48:24 0
またまた同じことの繰り返しですかぁ・・・
6 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 16:37:36 0
_,,....,,_ _人人人人人人人人人人人人人人人_
-''":::::::::::::`''> ゆっくりしていってね!!! <
ヽ::::::::::::::::::::: ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
|::::::;ノ´ ̄\:::::::::::\_,. -‐ァ __ _____ ______
|::::ノ ヽ、ヽr-r'"´ (.__ ,´ _,, '-´ ̄ ̄`-ゝ 、_ イ、
_,.!イ_ _,.ヘーァ'二ハ二ヽ、へ,_7 'r ´ ヽ、ン、
::::::rー''7コ-‐'"´ ; ', `ヽ/`7 ,'==─- -─==', i
r-'ァ'"´/ /! ハ ハ ! iヾ_ノ i イ iゝ、イ人レ/_ルヽイ i |
!イ´ ,' | /__,.!/ V 、!__ハ ,' ,ゝ レリイi (ヒ_] ヒ_ン ).| .|、i .||
`! !/レi' (ヒ_] ヒ_ン レ'i ノ !Y!"" ,___, "" 「 !ノ i |
,' ノ !'" ,___, "' i .レ' L.',. ヽ _ン L」 ノ| .|
( ,ハ ヽ _ン 人! | ||ヽ、 ,イ| ||イ| /
,.ヘ,)、 )>,、 _____, ,.イ ハ レ ル` ー--─ ´ルレ レ´
>>1 もう二項目付け加えてください。
『それ』が認識の基点(定点)ならば定点は起点と言えるのか?
『それ』が思考の起点ならば終点は何なのか?
/:/::://::\::::::::\::::::,ヽ::::ヽ|、\
. /:::|, イ:'、::ヽ::::\::::::::Xヽ:|ヘ:::::ヘ\,ゝ
l/|:::::|::::::!、::\ー`ー-,ィf示ハ:::::ヘ、,ハ
く,.イl:::::斗┼‐` ー 弋炒 ',:::::ハ:::l::|
|/,!ヘ::::::ヘ:| ,ィf心 !:::::::l::|::!
//:| |ヘ::::::ヘ代t炒 ` ノ |:::::|:|_|リ
く/l:::L|、::`:ー-ゝ ‐'´ /イ/|:| ヽ
|:!:,-、:::\f^ヽ:≧z. __ .. イハ: : リ| |
l:|:{ ヽ:::;ム マミ、: : \ ム: : :∨
リ/\ ヽ,ム ∨ヘ : : \ /: /ヘ: : :ヘ
,.- 、 \ ヽ〉 ヽ \: : :\://ヘ: : :|
ヽ、 \ | 〉 \ lヽ./^)、 : : |: : !
丶、`¨ / ァ'´ /: : ヽr:| : ハ
\_______________________/
,. - ── - 、 ○
r'つ)∠─── ヽ o
〆⌒  ̄ ̄ ̄ \__ \ 。
,.イ ,イ \ヽ,
ヾイ /{ { ヽ、ト、 \
{ .ト{\ヽ', メ __\ }
ゝ |"ひ) \ イびゞ \ ヽ- 、 何故こんなことに・・・
ノ ト、"´,. ー ノ ///\
/. { ゝ / レ// }
{ ヽ ヽ⌒> / レ´TT
V{ \ └ ´ / ,.イ/ /
,-、 f^ヽ >ー┬|/ ! ,.イノ
{ ヽ:::;ム マミ、: : \ ム: : :∨
\ ヽ,ム ∨ヘ : : \ /: /ヘ: : :ヘ
,.- 、 \ ヽ〉 ヽ \: : :\://ヘ: : :|
ヽ、 \ | 〉 \ lヽ./^)、 : : |: : !
9 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 01:33:49 0
age
10 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 14:11:02 0
前スレからの続きを一言…
>>958 >953さんの仰るように、システムとして考えた場合
>820の二、三を分からないとされている事も
>他の繋がりを断っているということではないでしょうか。
悪いですけどなんつーか、820の二や三に限らず、881の1から4までの全てが、オートポイエーシス・システム理論
による心的システム(=私のシステム)においてはトリビアルに無効になりそうな気がします。
11 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 14:57:09 0
AからBの肉体にAの脳を移したらAになるのだろうか。
12 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 15:29:41 0
896:1a/3 02/15(金) 20:21 0 [sage]
最高位氏に代わってw、本来の彼の答えであるべきレスを入れておきましょう。
>>820 一、置き場所 : 消去法により答えは 4 。
まず、1でない理由。
・『私』は物理現象(≒物理的存在≒体)ではないから。
・『私』が「私のこの体」のことであるなら、他人がどうこうとか、コピーして云々とか、意味が無い。
感嘆子さんが言うように有無を言わさない論理的必然だから。
『私』が「私のこの体」以外であることは無い。コピー系のどんな思考実験も無意味。
また、「私のこの体」は各部が微細に入れ替わっているのに、なぜ『私』の同一性が保たれるのか、
どこまで変わったら同一性が保てなくなるのか、遅々とした変化なら構わないのか、
考察すべき点が山ほど出てくる。(・・・・・アンパンマンの同一性はどこにあるのだろう・・・w)
・『私』が「私のこの体」に属するなら(一部であるなら)ば、「「私のこの体」のどれ(どこ)」が『私』なのかが問われねばならない。
・『私』が「私のこの体」に、付着或いは内蔵されるならば、具体的物理的にその場所がなければならない。
また、相互に影響する際のその影響の仕方も同時に問われねばならない。
・『私』が「私のこの体」をも包含する形で(ネットワーク的なもの・システム的なものとして)相互作用するものであるならば、
『私』は実体的なものでなく、「機能」や「働き」としてあるものとなる。
(当然、その存在基盤は「私のこの体」の存在如何に拠る。)
13 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 15:31:08 0
897:1b/3 02/15(金) 20:22 0 [sage]
最高位氏に代わってw、本来の彼の答えであるべきレスを入れておきましょう。
>>820 一、置き場所 : 消去法により答えは 4 。
まず、1でない理由。(その2)
・「私のこの体」の有する諸条件が『私』を成立せしめているのでないから。
・『私』が、『存在性』という言い方により「今ここにある」【性】を主軸とするなら、
「私のこの体」といったような個別性とは切り離され、寧ろ「普遍的」呼称としての性格を
その大きな特徴としなければならない。また、実体的なものでなく、概念的存在ということになる。
また、主観との絡みで、一個人の中でのみ完結する(一個人の内面に於いてしか成立しない)ものであるなら、
常に≪【私の】『私』≫≪【私の】『存在性』≫という修飾語付きで述べられねばならない。
(当然それは、「鈴木さんの『私』」「田中さんの『私』」「ジェームズさんの『私』」等を許容するものでなければならない。)
つまり、「私のこの体」のみにあるのではなくなる。
14 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 15:31:44 0
898:2/3 02/15(金) 20:22 0 [sage]
最高位氏に代わってw、本来の彼の答えであるべきレスを入れておきましょう。
>>820 一、置き場所 : 消去法により答えは 4 。
次に、2でない理由。(クオリアという用語は今は使用しない)
・五感と意識間であるならば、以下が問われることになる。
物理的に(肉体の一器官として)「そこにある」か、「機能や働きとしてある」のか、
「神経細胞のパルスのパターン・集積としてある」のか、オカルティックに「未知の何ものかとしてある」のか、と。
いずれにしろ、「私のこの体」と密接な繋がりを持つ。(詳細は上記「1でない理由」とほぼ同じ。)
・五感と意識間であるならば、『私』は橋渡しをするものでしかない。
感受し、意識へと情報を伝達するだけで、意識の方が上位にある。
(橋渡しの際に、あれこれ命令できるような物なら、それこそそれが「意識」と呼ばれてもいいのではないか。
バトンを受ける「次の意識」は不要だ。)
※けれども、より高次なものとして感受や意識を統括する「超意識」とする考え方は面白いかもしれないw
(それでも、「どこにあるか」「どのようにあるか」「どのように肉体と相関しているのか」という問題は依然残るわけだが・・w)
次に、3でない理由。(「意思」と書かれているが、解り易く「思惟」と
・「意思」は『私』により発せられる。なんとなれば『私』は【全ての行為の】主体なのだから。
・仮に、「意思」を主体としての「思惟」と読み替えてみても、そうした思惟がどこで行われているのか、
という問いは、今までと変わらず残り続ける。単に「思惟」や「意識」を『私』と呼び換えたに過ぎなくなる。
・また(「大宇宙の意志・意思」と使われる時の「意思」と同様に)個人の生や存在を司るものとしてのもの、
生きようとする力そのもの、などと言い出せば、それは宗教の領域へ踏み込むことになる。
(仏性や菩提心等と同種のものとなってくるw 或いは「霊性」とか?www)
15 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 15:32:53 0
899:3/3 02/15(金) 20:24 0 [sage]
最高位氏に代わってw、本来の彼の答えであるべきレスを入れておきましょう。
>>820 二、 : 不可知。或いは、不明。
相互に干渉し合っていることは、様々な経験から推測できるが、
どのような仕組みで干渉し合うことができているのかはわからない。
三、 : 「知能」に限らず、「知識」や「記憶」、「思考・思惟」など、
あらゆる精神活動は『私』によって為されるので、『私』の有する能力である。
「知能」が『私』を認識するのでなく、『私』が「知能」或いは「思考」によって(用いて)自身を知覚する。
四、 : 『私』の機能であるが、「私のこの体」と結びついているが故に
その制限を受ける。(痴呆、脳への損傷等)
「物理現象でない知能」とは、『私』の思考そのもの。
16 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/19(火) 16:34:46 0
「私」と「私のこの体」と切り離すような議論は、よすするに分析的な手法で意識や自我の問題を議論するのに適しているとは思えません。
体を含めた一塊りの総合的精神活動を「私」と捉えないと話が判り難くなるだけ。
18 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/19(火) 17:11:07 0
トンカチで殴られて痛いと叫んだのは他ならない「私」ですが。
その問題は刺激を受けた時点から声が出た時点までの一つながりを「私」として扱わないと話が判り難くなる。
神経、大脳、声帯等と分析を細かくすればするほど「私」からはずれて行く。
19 :
し:2008/02/19(火) 17:33:10 O
今日右胸がちょう痛かった。仕事してて剣山で上から押されてる感じだった。どっかで何かあったのか?
20 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 17:38:51 O
21 :
し:2008/02/19(火) 17:46:13 O
どうでもいいがはっきりといっといてやるよ。悪い方に行くのは全員やめろ。自然界の制裁は現実だ。俺は一応すべてを包括している善的な哲学をもっている。聞きたいなら聞きにこい。言いたいことがあるなら言ってこい
22 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 18:11:11 0
>>17 >流れ落ちた血は己ではない。
その血の DNA鑑定で「己」は誰かが特定される世の中だ。
It's not me.
It's mine.
24 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 18:26:27 0
>>22 人間の価値観で同じDNAだと認識されてるだけ。
DNAも唯名論で区分されてるだけ。
その血が同じかどうかも、主観の内で区分されているに過ぎない。
流れ落ちた血と地面を区分しているのは『私』の主観。
また、そこに、客観的に、流れ落ちた血があるという保障はない。
そこにあるのは、主観に映った「血のようなもの」。
主観が「血だと認識しているだけ」で「水だと知覚認識したら、それは水」。
主観の外に、実体的に「血」なるものがあるのかどうかは不可知。
なんじゃこりゃーーーー!( by 松田優作)
26 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/19(火) 18:48:58 0
>>24 :考える名無しさん:
犯人の特定などの場合は、証拠をその犯人の主観が認めるかどうかと言う意味も一部にある。
証拠の前に犯人が「観念する」と言った場合である。
27 :
3時で1時:2008/02/19(火) 18:57:25 0
「俺はそれを感じ取っている」「俺はこのように思っている」。
それが事実なら、俺の感覚や思いは〈時間〉を含まなければならない。
それが一瞬のものであれ、ずっとであれ、暫しの間であれ、
俺の感覚・思いは、進行・変化のただ中にあり、前・後の秩序に組み入れられる。
それは、俺の認識において、「出来事」になっているのである。
俺の感覚・思いが〈時間〉の秩序に組み入れられるのは、俺の体との対応においてである。
俺が一瞬それを感じたのは、俺の手がドアに触れた瞬間であり、俺がそれに鼻を近づけて
嗅いでいる間であり、俺が両手でそれを持ち上げていた暫しの間である。
一方、俺が思っているのは、ソファに横たわりながらであり、トイレで用を足している今
であり、さっきの出来事であり、「かれこれ五年以上」なのである。
俺が思いつつあるという言表は、横たわりながらとか、トイレで用を足しながらというこ
とを消去してはあり得ない。
「さっき思った」のであり「かれこれ五年以上も」思っていたのならば、さっき散歩に出
かけていた俺が居たのであり、五年以上生きている俺たる人間が存在しているのである。
散歩しつつ思い、一つのテーマについて生活しながら継続して思いを保っていたのである。
つまり、俺という存在は、「思いつつ在る」かぎりにおいて、生体と、感覚・思いの存在
とに分離し得ないのである。「思って居る」のは「思惟する精神」ではなく、生きてもい
る「特定の人間たる俺」でなければならない。
もし、〈感覚する俺〉や〈考え・思う俺〉が、生体から独立して、感じつつあったり、思
いつつあるなら、どこかで、独自のボディとして生きて(連続して)いなければならない
だろう。さもなければ、その存在に一瞬の時間もゆるされない。
28 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/19(火) 19:15:15 0
>>27 :3時で1時:
少し違う。
五年前に丸顔の女にだまされた。
四年前にも丸顔の女にだまされた。
三年前、二年前、去年もだまされた。
今付き合っているこの丸顔もオレをだますだろう。
是が観念の正体である。
起こった事象から時間、場所などの情報を解体して、抽象的概念(だます)と言った情報を抽出する、それを「丸顔」と言う情報に普遍化して関連付ける。
ですからある意味「観念は時間を切り捨てる」とも言える。
29 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 20:14:12 0
>>28 これだけ「観念」の意味取り違えてるのも珍しい。
30 :
3時で1時:2008/02/19(火) 20:26:17 0
>>28 >是が観念の正体である。
観念の正体?
もろもろの物事に対してもつ考えとか、 あきらめ、状況を受け入れる、覚悟するというのは
〈観念〉の意味でしょ?何で、正体なのですかね?
また、「情報に普遍化して関連付ける」というのは、思考において、概念化、推理、分析、
判断というようなプロセス・要素があるということだと思いますが?
>ある意味「観念は時間を切り捨てる」とも言える。
ん?俺には、「観念した時」がありますが?
「ああ、またしても丸顔じゃん、相性悪すぎ」と思った時は、
時間を切り捨てているともいえるんですか? …意味が分かりませんが?
それとも、無意識領域の思考のことを言いたいのかな?
だつたら、すでに俺は前スレで述べていますが?
31 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 20:31:00 0
「諸法無我」、これ以上「私」について論じることは無い。
おや?
ワシのレスがコピペされとる・・・w
けど、あんま意味ないと思うよw
33 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/19(火) 21:45:22 0
>>30 :3時で1時:
>思考において、概念化、推理、分析、判断というようなプロセス・要素がある・・・・
その仮定で時間が切り捨てられる事があると言うこと。
勿論時間軸で整理される事もある。
>>33 「切り捨てる」という過程・場面・事態に(・・・→行為に)時間はかからないの?
一瞬で切り捨てるの?(´・ω・`)
>>33 じいさんが観念と言ってるのは強迫観念だ。
コンプレックスみたいなもん。(心理学用語)
哲学とは関係ない。
36 :
3時で1時:2008/02/19(火) 23:01:44 0
>>33 >その仮定で時間が切り捨てられる事があると言うこと。
>勿論時間軸で整理される事もある。
「そのような過程があった」などというものは、後で考えた〈思いの分析〉だよw
そもそも「俺が思っている」という認知の思いも、思いの中にあるものなので、
「仕切」そのものがあるそのつどわけではない。
なんか、じいさんって、かつての750に似ているなww
面白いキャラだ。
37 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/19(火) 23:16:55 0
>>34 :考える名無しさん:
>>36 :3時で1時:
色々な事象から概念化、分析、判断、抽象化とかして観念を生み出す。
例えば五年前の自宅で行われた事象は「葬式」、今日会社の社葬に出席したのも「葬式」。
それぞれのエピソードには時間のラベルが張ってある。
しかし「葬式」と言う観念自体には時間のラベルははがしてあると言う事。
38 :
3時で1時:2008/02/19(火) 23:43:55 0
>>33 みずからの(俺の)思いを反省的に振り返る時、
「Aだな」と思った。「…Aは、Bと連動する?」と思った。
「Aはむしろaとして区分され…」とに思った。……
というように、自らの思いを「ぶつ切り」にする。
そして、仕切の連鎖によって再び「あった出来事」として記述する。
「なまなましかったはずの意識内容」が、
圧縮されて無機質的な言葉の連鎖にとってかわるのである。
で、このことは、世界内に〈自分〉を〈現象たらしめている私〉が居るということではない。
確かに俺は〈そのつどの自分〉を見出しうるけども、
これは単に、認識作用の結果、あるいは能力とでもいうべきものである。
知覚表象等の意識内容を自らの意識として総合し統一する働き(統覚)があるっていう話しだね。
39 :
3時で1時:2008/02/19(火) 23:54:27 0
>>37 >しかし「葬式」と言う観念自体には時間のラベルははがしてあると言う事。
「葬式って何か……だな」と思った時があるわけ。
で、いつも俺たる存在が、その「葬式って何か……だな」という観念を持ち
続ける訳ではないということなのだが ……
一般的意味としての「葬式」は、自らの時間を超越しているが
人間たちが生きている間に通用するものではないのか?
40 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/20(水) 01:09:00 0
>>38 :3時で1時:
>知覚表象等の意識内容を自らの意識として総合し統一する働き(統覚)があるっていう話しだね。
成る程、それは言わば「私」の焼き直しみたいなものですね。
〈現象たらしめている私〉を編集加工したわけですね。
41 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/20(水) 01:51:57 0
>>12-15さん
最高位さんのまとめ?でしょうか。
ありがとうございます。
やはりニ、三が逆なんですよね。(唯識から見れば)
言い方を変えますと、仏教的になりますが「偏計所執性」であると。
しかし「一つの私の姿」としてみればわかります。
42 :
3時で1時:2008/02/20(水) 02:54:50 0
>>40 >〈現象たらしめている私〉を編集加工したわけですね。
〈現象たらしめている魂たる私〉などというものは存在しない。
そもそも「無味なものに意味づけ・裁断している私」と表現しても、
のっぺりした世界や、無味な世界というものは「そこに在るものとして」知覚できないし、
無地のキャンバス・空間に「ありありと描いている私」などというものは、記述し得ない。
のっぺりも、あいまいも、あやふやも、ぼんやりも、既にそのように現象しているわけで、
文芸的には、「描きつつある・切り取る」といった表現も「あり」というだけのこと。
ただ、人間はそのときどきにおいて目的意識や、価値観、気分・感情をもちうので、
文芸的な「豊かな心の世界」があり、「ドラマチックな出来事」が現れる。
そして、それぞれの人間は、「あたかも魂と接するようにして他者を見ている」し、
「自らをも、魂のある存在として捉えている」ということは言えるでしょう。
43 :
考える名無しさん:2008/02/20(水) 03:16:33 0
にしにはないやり方でぃしょ〜
44 :
考える名無しさん:2008/02/20(水) 14:21:10 0
>>1を読んでもなにを議論したいのかわからないのだがw
私なんて人それぞれでしょう。
置かれている環境、時代、関係性、身体の個性が異なるのですから。
それは犬や馬でも同じ事です。
46 :
考える名無しさん:2008/02/20(水) 18:51:42 0
「先生、シニシズムとニヒリズムの違いってなんでしょう?」
「よく似てるように思えるわね。えっと、コンパクト哲学事典によれば、シニシズム(犬儒主義)は
今日では一般に世論、習俗、通常の道徳などを無視する生活態度を意味し、ニヒリズム(虚無主義)
は、現代的な意味に深めたのはニーチェで、世界と生存の意味にかかわる価値意識に根ざす・・・と
あるわ、続きは見てみなさい」
「・・・・・・。基本形態は2つある。1つは旧来の価値の崩壊による無意味の生存を無意味のまま
に生きる逃避的形態、ニーチェのいう受動的ニヒリズム。もう1つは将来の価値を創造しえずに既成
のものに反抗する破壊的形態、ニーチェのいう能動的ニヒリズム・・・・・・頭がパニックを起こし
そうです、先生」
「でもシニシズムとの違いは、理解できたでしょう?」
「ええ。でもニーチェが意味を深めたというのは知りませんでした。高校では、「超人」という言葉
を人工的に暗記することしか教わらなかったのです」
「ニーチェは死去する1年前に、街中で発狂し倒れたそうよ」
「そういうエピソードも、学校では習わないんですね」
「そう、また職員室では教えちゃだめという、空気がただよってるの。教えてもいいと思うけどね」
47 :
考える名無しさん:2008/02/21(木) 00:29:51 0
age
48 :
考える名無しさん:2008/02/21(木) 23:15:35 0
さしあたって「私」とは、常に何ものかを対象化しているもの、としか言えないと思う。
49 :
3時で1時:2008/02/22(金) 03:26:38 0
時・場を超越した「私の思い」は想定しえない。
そして、「私が思った時・場」は、他者に知らせうる。
「俺たちの入社式が行われている間、俺は退屈すぎると思っていた」とか、
「君と初めて挨拶を交わした時、正直で屈託のない奴だなと思った」とか、
「そのシーンを見るたびに、ある思いがよぎる」とか、
「リンゴが落ちるのを見た時、ひらめいた」とかいうように。
「私はどこか分からない場所をさまよいながら言いしれぬ不安に駆られていた」
というような言表でも、はっきりと私の存在・状況・思いは語られている。
それがどこか分からなくても「この世界」の何処かであり、
でなければ想像の世界か、夢の中の世界である。
「想像の世界」も「夢の中の世界」も、「幻覚の世界」も、
俺が生きている間のものであり、存在の連続において現れる。
50 :
3時で1時:2008/02/22(金) 03:28:59 0
特定される時・場所に生まれ、両親が存在し、生きているという事実。
感覚質も、意識も、認識も、この世界内に生きているから「ある」。
それを見た時のなまなましい感じ、それに触った時の感覚質、聞いた時の印象、
あるいは雰囲気、「思い」といったものは、時・場・物事を超越したものではない。
俺には、認識作用(自我)があるから時・場・物事が分かるというだけのことで、
俺たる魂(意識体・精神)が、もろもろの「感覚」を「行って」いたり、
時のスパンや、場の広がり、物の形や性質を「決定している」のではない。
魂の存在や動作などは、俺には「知り得ないこと」であり、超越している。
ゲーリンクスの「私が明瞭に分かっていることが、私がしていることだ」の原理に従い、
「俺という魂に因る意識の決定論」に陥る必然性はない、と、言表しておこう。
51 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/22(金) 03:38:14 0
>>48 いいえ
『私』は、私です
私という『存在性』です
何かを対象化している というのは
その『私』の行動の部分です
その私が、全てを対象化しているのだ という事です
すなわち、それは
前から言っているように
『私』は『主観性』である という事です
『私』は、私という『主観性』そのものな『存在性』です
>>51 だったら唯識大先生が言ったように私って言葉なしで私を表してみてよw
存在性もいっしょにね(笑
私も主観性も存在性も全部言語表記なんだなこれが
私そのもの主観性そのもの存在性そのものを言語表記するのは不可能
54 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/22(金) 05:08:52 0
>>52 私は主観性であってね
対象に対する唯一の主体ですから
その他の言葉に置き換えて表現する事は、原理的に不可能なんだよ
私は、私です(爆笑
55 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 05:26:11 0
で、誰の私?(爆笑
でました「原理的」
バカとはさみは使いよう
バカの好きな言葉
>>51 >『私』が、全てを対象化しているのだ という事です (・・・一部改変)
>>54 >対象に対する唯一の主体ですから
これはおそらく、これまでで一番まともな文章かもしれないw
これなら、十分議論の種になる。
さて、『私』が『私』を対象化することは可能か?
可能であったとして、≪対象化された『私』に対する唯一の主体≫が存在するわけだが、
対象化された『私』とそれに対する主体としての『私』の関係は?
と・・・。
ところで、
>>51に於いて、≪ 私 と 『私』≫が書き分けられているが、
その意図はどういうものでしょうか?区分の仕方(基準)が今ひとつ解り難い・・。
58 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/22(金) 10:48:05 0
>>55 はぁ?
質問の意味がわからん
私は、私 だが?(爆笑
>>56 反論になってませんなぁ
意味不明な文章を書いてくるな
>>57 で?
何を主張したいのかね?
もう少し、まともな文章を書いてくれませんかね?(苦笑
『私』と私 は、若干のニュアンスで書き分けているが
明確に区分しているわけではない
まぁ『私』というのは、私の『主観性』の部分や、『存在性』の部分
いわゆる哲学的に問題意識とされている部分を強調する場合が多いかな
単に、私 としている部分は、日常的に使われている総合的な意味での私 としての意味が強い場合が多い
だから
どちらかと言えば、『私』より私の方が、広い意味で使う事が多いね
まぁ私の言っている現代哲学的問題意識が理解できていれば
そのニュアンスも、容易に理解できるはずなんだが
やはりキミには、「今ひとつ分かり難い」 ですか・・・・
つーか、おそらく
今ひとつ ではなく
全く解ってないと思われry(苦笑
さあ、皆さん、ツッコミの準備は宜しいですか?w
60 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/22(金) 11:15:35 0
>>59 いちいち準備する必要ないだろ(爆笑
大丈夫?
61 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/22(金) 12:27:34 0
>>57 >さて、『私』が『私』を対象化することは可能か?
>可能であったとして、≪対象化された『私』に対する唯一の主体≫が存在するわけだが、
これは思考のクセですね
普通は、私が存在するという事は、あまりにも当たり前すぎて問題にしません
そして私が何かを分析する際には、それは通常、私以外の『対象』であるわけです
よって、常に『私以外の対象』を分析する要領で、『私』に関しても、そのクセを適用していまうわけですが
それは『主観性』というものの特殊性が理解できずにいる証拠なんですね
私が私を対象化する という事は可能であり、それを「自我意識」というのだが
『私』に関しては、どこまで行っても『私』=『私』であって
『私』が『私』以外のものになる事はありえません
まぁ、現代哲学というものを理解する為には
まず
古い思考のクセを修正する という所からですね
最高位の現代哲学は、参考にした奴、他に誰か著名なのいるのかよ
現代思想の哲学者たちがかわいそうだ
でもなんで「私」なんだろう。自我とか意識とか思う主体とかでもいいんじゃないの。
「私」なんつったら、ああ、最高位のことなんてしらねで終わりだし。
>>63 哲学のある文脈で「私」といえばそれが「思う主体」を指すことは常識だから。
>「私」なんつったら、ああ、最高位のことなんてしらねで終わりだし。
というような理解の人間はそもそも相手にしていないのだろう。
65 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 14:21:53 0
>>64 永井的私思考が他人に通ずると思うか?
思ってる最高位が馬鹿
>>65 「我思うゆえに我在り」という言い方が
何百年通用してるか知ってる?
それ日本語ね。本家はどういう意味でつかってんのかw
69 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 14:38:33 0
>>66 疑問なんだが、通用してるって誰に通用してるんだ?
>>65 >永井的私思考が他人に通ずると思うか?
>思ってる最高位が馬鹿
問題が永井均の問題点と同じと考えている時点で既に的外れですよ。w
永井的な問題意識なら三浦俊彦氏あたりの論理で論駁されているはずなんですけどね。w
おーい70まだあ
75 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 15:04:03 0
>何かを対象化している というのは
>その『私』の行動の部分です
>
>その私が、全てを対象化しているのだ という事です
それも「何ものかを対象化している」ことの範疇内です。
>>74 だから教えてくださいだろ?
なんどいったらわかるんだろうな。
77 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 15:12:46 0
なにも答えられないらしい
口ばっか
知ってるんなら自発的に書き込むもんだがねw哲学板は特に
>>78 いくらでも書き込んでるから過去レス読めば?
はいはい逃亡ねw哲学者失格
そんな態度じゃなんにも恵んでもらえないよ。
82 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 15:22:00 0
>>52 >だったら唯識大先生が言ったように私って言葉なしで私を表してみてよw
>存在性もいっしょにね(笑
個人の心的システムの位相空間内としては、「バカかこいつは」「こいつは嫌いだ」
「この料理は不味い」「興味なし」でしょう。
それがこの掲示板のようなコミュニケーションシステムで個人が発言しようとすれば、
個人的な心的システムは環境に位置付けられてしまいます。
したがって、公共のコミュニケーションシステム(社会システム)の中では「私」を
名乗らなければならなくなるということではないかと思います。
「私って言葉なしで私を表してみてよ」という要求自体が的外れです。
その要求自体がが公共性を前提にしているからです。
>>82 公共性のスレで私が私がって叫んでもムダってことの証明だなw
おまえはそれでいいのかwww
>>82 >「私って言葉なしで私を表してみてよ」という要求自体が的外れです。
まったくそのとおりだな。
ここってデカルト信奉してるわりに説明も議論もできない馬鹿がたまに涌くな。
最高位より話にならんw
>>85 デカルトすら理解できない馬鹿がほとんどだよ。
87 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 15:36:18 0
で結局デカルト解説はどうなったんだ
解説して欲しいのか?
自分で調べもせずにか?
じゃあお願いしろよ。
莫迦が沸いてる(笑)
90 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 15:39:10 0
>>90 そうやってゆとり世代を甘やかしちゃだめだよw
70は吠えただけだったな
>>86 そういやちょっと前にデカルト信奉者がいて、夢が何やらと言ってたが、
なんかつっこまれて必死になってたな。
まさかお前じゃないだろうな。即レスっぷりが似てるんだがw
>>94 はあ?図星だからって的外れなレスしてんじゃねぇよ。
デカルトについてろくに語れないのなら黙っとれ。
>>95 教えてもらえないと今度は逆ギレかw
知りたいことは自分で調べるくせをつけないと
小学生に笑われちゃうぞw
それから無知は威張れたもんじゃないから
よく覚えておくように。
97 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 16:24:07 0
>>83 >公共性のスレで私が私がって叫んでもムダってことの証明だなw
ムダかムダでないかの判断は「私」の心的システムが判断することであって、公共的な場でその判断を披露するときには「私」を名乗る必要があるということですよ。
公共を構成する個々人の心的システムにとっては「私」の心的システムは環境でしかありませんから、その公共の場で発言するには「私」は必要条件ということです。したがって「ムダ」という結論がどこから引き出されてくるのか「私」にはまったく見当がつきません。
なんか皆むきになって「私」を避けてなーい?w
>>96 いや俺は教えろなんて言ってないんだが?
お前の脳内では語ることや議論することが教えることになるのか??
誰かと勘違いしてんじゃねぇの。アホか。
>>98 だれもおまえのことなんか気にしてねえから
安心しろよw
けっきょくは私という言葉の用途が広過ぎて何いってんのかわかんねってのが
問題の焦点みたいだし、私という言葉を使わずに説明してみれってのはむしろ
当然の要求じゃないのかな。
だから私わたしと叫んでも不明瞭過ぎだし無駄ってのはあると思う。
101 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 18:07:54 0
>100
というよりは、私という概念やら実体やらが実在しえないことに起因していると思う。
>>97のように、それを、「私」の心的システムや必要条件にすぎない、と言い換えたとしても、それで、何かが規定できているわけでもない。
102 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 19:37:52 0
考える名無しさんである限り私は不要だね。
発言者を意識したレスをしようが無い。
発言者の人格はわからないのだから。
ここに書かれてるのはだれの意見でもかまわないのだ。
ただその内容が正しいか間違っているかが問題になるだけ。
ここでわたしが降臨し、愚昧な俗物に哲学というものを一から教えてやろう。
◆主観と客観、主体と客体の違い
この二つの、対立する二つの逆要素を混同しているものが多い。
この二組の用語は、哲学(philosophia)では異なったものとして捕らえる。
なぜなら、哲学は意識を言語という記号に変換し、それを考察する学問だから、
用語の些細な違いは、非常に重大な相違点へと発展してしまう。
・主観と客観
例えばお風呂があり、その湯温をたしかめようとする。
まず、お湯に手を入れてみて感ずるのは「あたたかい」「ぬるい」「あつい」「ちょうどいい」
という感覚。ここで、言語で表現できる感覚・感情、という概念は後々非常に重要な要素となってくる。
一方、お風呂に温度計を入れて、その物理的な測定を経過した後での理解は、温度という尺度になって現出する。
温度計によるお風呂のお湯の温度の測定には、自らの感覚・感情というものが含まれない ※ 。
そうすれば、このお風呂の湯温は言語的あるいは感覚的な表現「あたたかい」「ぬるい」「あつい」「ちょうどいい」などから、
万人が納得できる尺度を持って示す事ができる。
※物理量測定における感情介在という問題は、そもそもそれが問題になるのかという点を含め、これも非常に難しいので後述する。
・主体と客体
例えば机の上に林檎があり、あなたはその林檎を見ているとする。
そうすれば、林檎を認識している「あなた」こそが主体、
認識されている(被認識)林檎は客体となる。
ここで、あなたは自分の手のひらを見てみよう。
あなたは、あなたの手のひらを認識できる。ここでは、あなた(主体)にとっての客体が、あなたの手のひらになる。
こう考えると、「認識しているあなた」である客体は、実は魂・霊魂のような概念ではないか、ということになる。
◆言語学的に「わたし」を見る。
英語(インド・ヨーロッパ語族)では、「わたし」は変化する。
固定的な用語ではないし、伴って、固定的な概念ではない。
下に列挙したように、格があるからである。
I, my, me, mine
このように、英語などでは「わたし」という語が不安定である。
◆文字の発明による思惟の外部化
文字の発明により、思惟を外部へと出力し保存できるようになった。
では、「わたしが書いたわたしの考え」とは、これは「わたし」か。
これは、わたしの考えはわたしであるのか否か、という古来からの問いに帰着する。
自己の意識の一部を外部へ出力し保存できるようになり、
その保存物がわたしの一意性を薄めたのである。
以上の問題は、記憶と、記憶の記号化から生じる。
現在の認識、過去の反芻、未来の予測を同時にできるからこそ、
人間の自己認識は不安定になる。
106 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 21:00:24 0
>>104 > I, my, me, mine
こんなの日本語でも当たり前じゃん。
私はまたは私が、私の、私に、私を、私へ、私と、・・・。
「私は」と「私が」の使い分け正しく出来るかな?
◆言語的な「わたし」
これから先は思考実験的な内容である。
「わたし」に時間格があったとする。
普通の言語では、時間を示す為に動詞を変化させる。ここで、一人称主語に時間格を持たせると仮定する。
例えば、下のように表記するとする。
・ I 現在の「わたし」
・ Iew 未来の「わたし」
・ Ies 過去の「わたし」
これを使えば、動詞の時制から解放されることになるかもしれない。
と同時に、I, my, me, mineという従来の格分裂に留まらず、
「わたし」が時間格へと分裂することも意味する。
このように、格変化をもつ言語は、自己の意識が現時点・現在時間において、
言語・思考の両方で分裂しているのである。
108 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 21:38:21 0
格変化に絡ませるならサンスクリットとかにしとけよw
でなきゃせめて、現行ヨーロッパ系の語とかさ・・。
英語じゃ雑過ぎるだろwwwJK
109 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 21:41:52 0
あ、それから、
格変化に動詞のような時制がないことは、大きな意味があると思うよw
(意図的にそうしたというのでなく、必然として・・。)
>>106 >こんなの日本語でも当たり前じゃん。
当たり前のように見えることを見過ごしたら、大切な何かをうしなう。
大切な何かとは、言語に横たわる「わたし」という存在への認識を解き明かすことである。
哲学とは関係ないが、日本語・英語ともに句読点とピリオド・カンマで文を二分することができるのはなぜか。
句読点とピリオド・カンマが、形状も意味も似ているのは何故か。
答えよ。
さて、日本語において所有を表すためには、「わたし」に「の」をつければいい。
日本語での所有表現において、「わたし」という語は不変である。
日本語では格が分裂せず、そのため、自己認識も一定している。
つまり、使用言語により「わたし」への認識に違いがある。
>句読点とピリオド・カンマが、形状も意味も似ているのは何故か。
>答えよ。
えーとね、句読点はピリオド・カンマを参考にして作られたから。
ちがった?
また頭の緩そうなコテが暴れてるの?
113 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 22:48:13 0
>>103 >◆主観と客観、主体と客体の違い
>この二つの、対立する二つの逆要素を混同しているものが多い。
>この二組の用語は、哲学(philosophia)では異なったものとして捕らえる。
ぎゃはは。。。
「主観(主体)・客観(客体)」は、ラテン語、英語、ドイツ語では同じなんだな。
「subjectum・objectum」「subject・object」
訳すときにテキトーにフィーリングで「主観」とか「主体」とか訳し分けてるだけだな。。。
>>113 >訳すときにテキトーにフィーリングで「主観」とか「主体」とか訳し分けてるだけだな。。。
全くその通り。状況に即して訳し分けている・使い分けているのが問題。
日本語では、主観と主体を「違うもの」「同じもの」として認識できるような状況にある。
そして言語的表層だけ見れば、「主観」と「主体」という単語は視覚的に異なる。
用語のみが同じという考えではなく、原文の前後の文脈から判断して、
語を変えたほうがいいという、先人の思想がある。
「これ、今までは主観だったけど、なんとなく主体って訳した方がいいな」と
先人たちは考えたのであろうし、哲学者の目から見れば主観と主体には違いがある。
あるいは、日本語では主観・主体という用語にさえ違いが有る、
つまり、語の厳密性が保たれていることとなる。
>>113は、これらの配慮を全く考えていない。
115 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 23:38:39 0
一言で言い捨てると、 『一長一短』 ってことだなw
116 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 23:41:00 0
>>114 テキトーだなw
まぁ大雑把に言えば、実存系では「主体」性が重視されるから
「主観」っていう語は嫌われるね。
近代の「主客対立」は、悪者にされるわけだな。
117 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 02:21:24 0
何を『私』と呼ぶか?・・・勝手に何かを『私』と呼べばいい。
118 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/23(土) 03:18:54 0
119 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 03:26:18 0
120 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/23(土) 03:27:45 0
>>119 >知らんな。お前でいいよ。(クスクス
と言ったのは誰?(大爆笑
121 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 03:31:19 0
>>120 お前が頭の中で言ったんじゃねえの?(クスクス
122 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/23(土) 03:34:25 0
>>121 >お前が頭の中で言ったんじゃねえの?(クスクス
と言ったのは、誰? (大爆笑
ちなみに私は、それを今聞いただけで、そんな事を思った事はない
123 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 03:37:03 0
>>122 お前が言ったことなど、聞いたことないわ
お前の独り言だろ (クスクス
124 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/23(土) 03:43:31 0
125 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 03:45:45 0
127 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 04:01:27 0
128 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 04:13:23 0
主体は言説によって位置が規定されるものであり、言説を創り出す能力は剥奪されている。
言説はそれ自身の編制のシステムによって形成されるものなのだ。「知の考古学」
と言ったのは誰とか、全部過去形じゃん。
最高位は過去のことを尋ねてどうするんだ?
130 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/23(土) 04:34:31 0
>>126 私だな
>>129 過去だろうが何だろうが
それを考えて答えるのは『本人』だろ
普通はアホでもわかる事だが
彼は必死で逃げてるに過ぎない
まわってまわってまわってまわる〜♪
134 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 04:55:38 0
男だとわかるんだ?
135 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 05:00:24 0
見てきたような嘘だろ
>>130 過去の自分と今の自分が同一だとする確証でもあるのか?
ないだろ。こんなの常識なんだが。
五蘊を縁じて、我、我所と執する
138 :
素人:2008/02/23(土) 09:47:30 0
>>130 ≪ヒトは、『今』を認識できるのか(知り得る・捉え得るのか)?≫
という問いに対しては、どのように解決をつけていますか?
139 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/23(土) 12:52:28 0
>>131 「私」がわからないで、よく生活できてるな
お前は、もし好きな子から
「私、あなたの事が好きなんです」と言われたとしても
「私って誰?」と聞くのか??(爆笑
>>136 そんなの関係ねぇ って言ってるんだよ
考えて答えるのは本人だろ
>>138 なんで時間が気になるのかねぇ
いるだろ?お前
いないの??
>>139 過去と今の自分が同一でないことを気にしないのなら、
誰?という質問は日常会話レベルの話ってことになるな。
まあ、思う主体的なレベルの話じゃないならいいや。
141 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/23(土) 13:40:37 0
>>140 日常会話レベルの事柄も、十分に哲学の題材だよ
過去の私と、今の私は同じであるか
というような問いは、私が存在している事の否定には、つながって来ない
という事
的外れな方向にのみ関心を持っても意味ないだろ
本質を考えてくれないと、私の言っている事は理解できません
>>141 おまえがそう思ってるだけ
押し売りすんな、馬鹿たれ
144 :
一般人:2008/02/23(土) 14:27:04 O
私は、常に一瞬前の私を認識している。時刻tの私を私は一瞬あとに認識する。時刻tの私は一瞬前の私を認識していた。
145 :
素人:2008/02/23(土) 14:41:30 0
>>139 貴方は「どのように解決しているのですか」?
と質問しているのです。
逃げずに答えてください。
146 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 19:16:52 0
>>138 そもそも「いま」なんてないよ。きみが「いま」と呼んでいる仮象の仮想が
あるだけ。
さしあたり最高位は「いま」を問題にしていない。仮象の「いま」を仮想して
しまう『私』がある、と言っているだけ。的を得た質問をしないとね。
147 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 19:20:36 0
>>145 質問しているのは君だろう?質問のしかたが下手だから逃げられるんだよ。
最高位の援護係はなんかアホばっかだな。日本語にすらなってないし。
149 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 22:00:21 0
ちなみに「私」を自己意識(自意識・自我意識)に読み替えるには無理があるだろーか?
この自己意識っつーのがイマイチはっきりしないんだなー。
あと自己認識とかぁ。
Tea Break
◆時間という概念の発生
まず、人間が「時間」という概念を持つに至ったのは、地球の自転・公転による。
自転から昼夜が生まれ、公転から四季が生まれた。
さらに、その概念に数量的な目盛りを刻んだ量こそが、時間である。
ここでは自転・公転による時間を「天体時間」と呼ぼう。
◆天体時間の否定
では、天体時間を獲得するに至らない状況を想像してみよう。
とある惑星が、漆黒の宇宙空間を等速度で運動している。
周囲に恒星などは無い。
そのような惑星に、我々と同じ知能を持つ不死の生命体Aがいる、と仮定してみよう。
この生命体Aはどのようにして「時間」を知るか?
あるいは、「時間」という概念を獲得できるのか?
すべてNo。
この生命体Aは、「時間」という概念を獲得できない。
天体時間という尺度も、知る術が無い。
◆時間という概念の特異性
上の想像を行うと、時間という概念を獲得し、
あまつさえそれに目盛りをつける・ラベリングするという行為がいかに特殊かが分かる。
時間というのは、人間が環境により思いついた、不安定な尺度だ。
◆ハイデッガー
しかし、ハイデッガーの著作「存在と時間」は、頓挫した。
151 :
素人:2008/02/23(土) 22:50:55 0
>>150 その生命体は、呼吸をする?
心臓等の拍動はある?ない?
152 :
素人:2008/02/23(土) 22:51:57 0
>>146-147 ネコは、低レベルのフリをしてるだけかと思ったら、
ほんとにレベルが低かったんだな・・w
がっかりだよ。
153 :
3時で1時:2008/02/24(日) 01:09:08 0
>>150 暦と時計は違う。
自然のサイクルは、天体の運行だけではない。
水晶の振動も、セシウム原子の振動も、自然のサイクル。
だからすでに、時計に利用されている。
何かしらの変化があり、「何かしらの変化を計ろう」という動機があるならば、
砂でも、水でも、振り子も、バネでも、時計(計測)に利用できる。
その天体には、重力もなんら利用できる素材さえない、という設定ではないんだろ?
それより
「不死の生命」なるものを説明してくれ。「生命」だけでもいいよ。
154 :
坂本教信者 ◆9vV3o3MEJE :2008/02/24(日) 01:15:04 0
私
過疎スレなんで、数週間返答を待ってもいいが、
お粗末すぎるなw
絶対神の方がまだ見込みがあるw
大層なコテつけてるが大したことないな・・・。 >>唯一神
>>151 呼吸や心拍の有無は自分で仮定して、その両方から結論を導くのが肝要。
>>153 ◆測定の動機の否定
>何かしらの変化があり、「何かしらの変化を計ろう」という動機があるならば、
>>150での想像は、生命体Aが時間変化を認識できない、とした状況。
生命体Aに、時間を測定しよう、という動機が全く発生しなかった状況。
水晶振動子の、大きさによる厳密な振動も、原子の熱振動・摂動も、
全ては 時間 という概念を用いて初めて説明可能な物理現象。
裏から考えれば、時間 という概念を全く知らないその生命体Aが、
どのようにこれらの物理現象を説明するのか。
生命体Aにとってみれば、あまりにも未知な現象だろう。
人間が時間という概念を獲得したのには経験による。
その体験とは、昼夜の別と四季の別。
◆暦と時計は同じ
不可視な何かである 時間 に目盛りをつけるという点では、暦も時計も同じ。
見えないものに数字でラベリングしているという状況。
例えば、円周を365等分して一本の針で指示する。それは時計か、暦か?両方か?
◆生命の解釈
生命とは人間のこと。人間のみが持っている属性。
人間以外の動物には生命が無い。
◆不死の生命の解釈
現在にある技術が極められたもの。アンチエイジングやDNA修復、人工器官、ナノロボット治療などを施した人間。
この電波はじいさんっぽい。
そろそろ最高位先生の下りてくる時間ですよ
なんだかんだで少しずつは勉強してる最高位
頭は悪いけど意欲だけはある
そこは評価するぜ
159 :
3時で1時:2008/02/24(日) 02:29:21 0
>>156 >人間が時間という概念を獲得したのには経験による。
>その体験とは、昼夜の別と四季の別。
いや、
時間という概念は、何らかの「変化」を見出す知能が有れば、獲得できるでしょう?
去年や来年、あるいは昨日・今日が成立しなくても、
「物体Aがa地点からbに移動する間」でも、「君が大きな欠伸している間」でも
「私が窓から外を眺めている間」でもよいのだから。
160 :
3時で1時 :2008/02/24(日) 02:37:29 0
>>156 >生命とは人間のこと。人間のみが持っている属性。
属性っていうことだけでは、説明になってないと思うのだが?
どういう属性なのかを語ってもらわないと。
でないと、
「人間以外の動物には生命が無い」というあなたの解釈も、
検討できないので、肯定も否定もし得ないよ。
161 :
3時で1時:2008/02/24(日) 02:56:32 0
>>156 アンチエイジングって、「エイジング(加齢)」を前提にしているよ。
あなたのいう不死の生命体は、加齢や「老けゆく」という概念なしに
アンチエイジングという技術を獲得したわけ?
>>156 そうですね。
では次のステップは、「時間という概念無しでの移動」を想像してください。
>>160 平均的な人間の容姿をしていて、他の人間とコミュニケーション可能な物体が生命。
属性で言えば、
・平均的な人間の容姿をしている
・他の人間とコミュニケーション可能
>>156 ◆測定の動機の否定(時間に関する要領の悪い妄想に対して)
時間概念が獲得的にあるのか先験的にあるのかに関わらず時間を認識しているという
ことは最も基本的な認識の在り方である。
即ち物事の前後関係を認識することが時間概念を認識しているということと等価である。
従って測定及び測定の動機は時間概念への認識とは無関係であり副次的な問題でしかない。
164 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/24(日) 03:28:59 0
この宇宙すべてが生命ではないでしょうか。
>>161 そう。
加齢や老いという概念は持っていない。
あるいは、加齢や老いという概念がウソだと分かったから、破棄した。
>>158 最高位も昔と比べると変わったな。
今も莫迦だが昔は中学レベルだった。
>>163 人間は常に「今」しか経験してない。
過去は記憶の中にしかない。
未来は同時刻には存在しない。
だから、
>>163の言う「物事の前後関係」というのは違う。
記憶の並び替えにより時間が錯覚されているだけ。
そして、時間という概念が無いと、
この並び替えが何を指しているのかを、
生命体Aは理解できない。
つまり、
・生命体A 現在を記憶して「過去」にする→並び替える→それを漠然と眺めるだけ
・人間 現在を記憶して「過去」にする→並び替える→そこに時間という概念を当てはめ、説明している
「物事の前後関係」というのは、紙芝居を並べ替えるようなもの。
「物事の前後関係」は時間把握ではなく、物語把握。
時間把握と物語把握が根本的に異なるのは、映画「メメント」で実験的に示されている。
168 :
3時で1時:2008/02/24(日) 03:56:17 0
>>165 >加齢や老いという概念がウソだと分かったから、破棄した。
だとすると
「ウソだと分かった 時」があり、「破棄した時」があるでしょう。
その認識においては、きちんと時系列が現れてますが?
>>167 物事の前後関係が明確になって初めて今という認識を持てる。
今というのは過去があり未来があると考えて初めて意味がある。
過去や現在がなければ今は当然ない。
>>167 時間という概念を人間は前後関係でしか認識していない。
>>167 そもそも人間の認識というものは時間を直接的に概念化してはいない。
だから前後関係という明瞭な表現でそれを仮定して間接的に概念化しているに過ぎない。
それを飛躍して時間という概念が先ずあるはずと考えるのは変。
過去や未来など存在しないのですよw
あるのは現在、その刹那刹那のみ。
過去や未来があると仮定して現在があると推論できるだけで
だから過去や未来を疑うのは当然良いとしてそれでも現在はあるというのは論理的に破綻してる。
「今」というのはちょうど最高位の「私」と同じようなもの。
そんなものはないw
絶えず変化している捉えられない時間にとりあえず「今」という名前を付けてみました。
「今」と書くとまるで止まっている時間を捉えたような気になれるから楽です。
175 :
3時で1時:2008/02/24(日) 04:38:15 0
>>167 >過去は記憶の中にしかない。
別にそれでいいのですが?
記憶内容が、主観的な「出来事」であっても、個人的な体験あるいは学習があったということです。
無意識領域での記憶内容の「並び替え」も、「忘れてしまうこと」も、時間概念無しには語れない。
心理的時間の「ゆっくり」や「すばやく」も、「時」の概念無しに語れない。
量や範疇、空間などの概念がなければ、経験をまとめることができないということか
時間もその一つだな
だけど、世の中には時間を感じないバカもいるかもよ
言葉を捨てて、分析を捨てて
ただ目に映る今を生きる
そんな無能な人間がいてもいいじゃないか
177 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 08:36:49 0
>>145 >貴方は「どのように解決しているのですか」?
>と質問しているのです。
>逃げずに答えてください。
逃げずに答えて下さい って・・・・(苦笑
私は、それは的外れだと言ってるんだよ
ようするに
今(唯物論の是非についての議論で)その答えを出さなければならない必要性は無い と考えている
逃げずに答えろと、偉そうに人に要求するからには、キミはキミなりの答えがあるわけだね?
そっくりそのまま、その
>>138の質問をキミに返そう
逃げずに答えて下さいね(大爆笑
178 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 08:42:14 0
時間という概念と
「私」が存在するかどうかは、全く違う話
それを、ちゃんと分別できないなら、哲学なんて無理だね
179 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 09:16:00 0
過去は物の痕跡や人間の記録・記憶として現在に存在する。
未来は現在化する。
物理的にしろ意識的にしろ実在しない時間は無い。
時間は実存である。
180 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 09:37:54 0
私は時間の中にしか存在できない実存である。
>>168 時系列は現れていない。
「嘘だと分かった場面」「破棄した場面」として認識するのみで、
時間によるラベリングを行っていない。
ごく普通の人間のように、場面と年月日時刻が結びつかない、という状況。
182 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 10:15:05 0
183 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 10:22:50 0
時間と生は一つだ。生きてることが時間だ。
184 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/24(日) 10:26:43 0
>>182 ある瞬間に私に与えられた認識のリソースであり
ある瞬間とある瞬間の誤差感覚が時間です
パラパラ漫画とかPCにおけるマルチスレッドで全体像が把握できるかと思いますよ
185 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 10:37:36 0
>>184 誤差感覚ではないと思うぞ?
距離と、相手の速度を計算すれば、砲弾は命中するでしょう
感覚ではない
186 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/24(日) 10:50:28 0
O->O--->O
瞬間移動していて位置のずれを感知してるんですよ
187 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 11:27:25 0
>>180 『私』が対象(事象)と関わっているとき「時間」は『私』の意識にはない。
だれかが言っていたように、ある事態を整理(物語化)する際に用いる概念を
時間と呼んでいる。
『私』はコップを見ている。が、時間を見ること(意識する)ことはできない。
『私』はコーヒーを飲んでいる。が、時間を味わってはいない。
『私』は待ち人をしている。そのとき何かがぼんやり見えたり、何かが聞こえたり、
何かの匂いがしたり、色々な思いが浮かんだり消えたりはするけれども、時間は
『いまの私(実存)』には存在しない。
>>146 > そもそも「いま」なんてないよ。きみが「いま」と呼んでいる仮象の仮想があるだけ。
これは確かに、138への回答としては可となる
≪「今」は、仮想されたものであるので、捉えたり知るものではない。
主観によって創り出されるものである。≫と・・・。
そしてここから、『私』の(自我の、自己の)
「継続(していることの知覚認識)」や「同一性」へと話を転がすこともできる。
が、続く文章は全て蛇足だw 以下、検証してみようw
> さしあたり最高位は「いま」を問題にしていない。
> 仮象の「いま」を仮想してしまう『私』がある、と言っているだけ。
確かに彼は「今」を問題としていないのでしょう。だから
>>130に於いて
>過去だろうが何だろうがそれを考えて答えるのは『本人』だろ
というような発言をするのでしょう。
≪仮想するという行為が為されるので、その行為を為す『私』がいる、と知られる≫と。
それでも、
>>138のような問いに対して答える(応える)ことは可能な筈だ。
(少なくとも貴方の一行目のように・・・。) 結局彼は、
>>177に於いても回答を放棄している。
177へのレスとして後ほど指摘しよう。
> 的を射た質問をしないとね。
的を射る? さて、どこが的だったんでしょうね・・・w
これも、177へのレスとして、併せて後ほど指摘しよう。
>>147 > 質問しているのは君だろう?質問のしかたが下手だから逃げられるんだよ。
質問の仕方?w では、
>>138の内容をどのように質問したら良いのかな?
お馬鹿な私に代わって、賢い貴方が問い直してくれたまえw
>>146 > 的を射た質問をしないとね。
>>177 > 私は、それは的外れだと言ってるんだよ
> 今(唯物論の是非についての議論で)その答えを出さなければならない必要性は無い と考えている
ここには、2点(或いは3点)、逃げの手が打たれている。
a・一つは、「唯物論の是非についての議論で」と、138の中に無い条件設定を付加していること。
b・一つは、「必要性」でもって問いを捨象していること。(aとcと組み合わされて用いられている)
c・もう一つは、(書かれてはいないが文脈により)
「『私』がいる・いないについての議論に於いては」と、138の中に無い条件設定を付加していること。
おそらく146で言う「的」は、上の「『私』がいる・いないについての議論」を指すだろうからcにまとめた。
論理学の方では、こうした手法・態度について、何か名前が付いていることだろうw
>>138に於いては、「唯物論の是非について」や「『私』がいる・いないについて」は問題とされていない。
唯物論が是であろうが非であろうが、『私』がいようがいまいが、成立する問いだ。
唯物論が是であれば是であるなりの、非であれば非であるなりの、
『私』がいればいるなりの、いなければいないなりの回答が可能な筈だ。
(或いは、そのどれとも直結させず、146一行目のように答えたりと・・・。)
だから私は「逃げないでください」と言った。
「必要性がない」のは「唯物論の是非について議論する場合」でしょう?
そうでない場合はどうなんですか?「必要性」と言うからには、
≪問いに対する答えはあるけれども、この条件下では必要ない≫ということが含意されてませんか?
だとしたら、その条件下でなければ答えられるのではありませんか?
138は、単純な≪ヒトは「今」を捉えられるのか?≫という問いでしかありません。
※(これは上で述べたように、「過去現在未来」という概念と「自己同一性」に関連してくる部分です。
≪「『私』がいる」のは判った。では、その次の思索はどこへ向かうべきか≫ということです。
立ち止まり、座り込み、前進することをあきらめているのは貴方ではないですか?)
※この「逃げ」の構図は、
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1202358553/692とリンクする。
>>177 > 逃げずに答えろと、偉そうに人に要求するからには、キミはキミなりの答えがあるわけだね?
はい、ありますね。
もしかしたら遠い昔、近いことを書き込んだことがあるかもしれません。
(名無しだったかもしれませんが・・・w)
が、貴方に“後出しジャンケン”をされたくないので今は答えません。
また、問う者が答えを持っていない場合もあり得るのではないですか?w
少なくとも「逃げずに答えろ」というレスが入る前には、
問う者が答えを持っているかどうかは判断できないんじゃないですか?
>>138では、答え方に対する制限を緩くするために「どのように『解決』しているか」と記した。
それは、上で述べたように、
≪どのようなスタンスに立脚しようとも、そのスタンスの枠の中での回答を許容する≫
≪整合性をつける為に採られたスタンスはどのようなものか、というサンプル収集も兼ねる≫
≪数多あるだろう整合性の付け方の内、どれが採用されて“『私』の継続”へと繋がるのか≫
等、答え方のバリエーションを許可する為だ。
“勝手に条件設定をして”「不要だから答えない」というのは、
私が答えないことを責められない、ズルイ態度だと思いますよw
> そっくりそのまま、その138の質問をキミに返そう
貴方に“後出しジャンケン”をされたくないので今は答えませんwww
>>178 > 時間という概念と「私」が存在するかどうかは、全く違う話
違う話なら、「『私』がいる・いないに関わらず」答えられるのではありませんか?w
191 :
素人:2008/02/24(日) 11:51:53 0
それから、(私ではありませんが)
>>174が重要なレスであるということだけ指摘しておきましょう。
192 :
187:2008/02/24(日) 12:20:51 0
>>191 >>174 の二行目はそのとおりではないか。いま(現在)、過去、未来と呼ぶ
ことによって、実体的に(時間を)捉えたような気になる。これが仮想である。
が、一行目は変だ。時間は捉えられないと言いながら「絶えず変化する」と
断定している。これが仮象である。
変化しているのは「私と事物との関係」、いや厳密に言うと『私』と「事象」
との“関係意識”かもしれない。むろん、これは私の描く仮象である。
ようは水には形がないけどコップに入れりゃあ形を与えた気になれるとかって話じゃね。
そんな変な話じゃないと思うが・・・
194 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 13:04:17 0
>>186 根拠をどうぞ
>>188 >それでも、
>>138のような問いに対して答える(応える)ことは可能な筈だ。
もちろん私の考えを答える事は可能だ
しかし意味がない
マト外れな質問に答える意味がない
たとえば、いきなり「昨日●●を食べましたか?」と聞かれて
「はぁ?? マト外れな質問してくんなや」と返したら
偉そうに「逃げずに答えて下さい」 なんて言ってくる
意味がわからんだろ
「関係ねぇ」って教えてあげてるんだよ
いい加減、理解できなさいよ
>>189 >
>>138に於いては、「唯物論の是非について」や「『私』がいる・いないについて」は問題とされていない。
いやいや
私は、唯物論の是非について論じているのだよ
いきなり、関係のない質問を投げかけるなら、それなりに礼儀というものがあるだろ
質問の意図を説明するなりのね
いきなり、「昨日は何を食べましたか?」と聞かれても「はぁ??」と答えてればいいと、私は判断する
>>190 >> そっくりそのまま、その138の質問をキミに返そう
>貴方に“後出しジャンケン”をされたくないので今は答えませんwww
べつにキミとジャンケンをしているわけではないぞ?(苦笑
195 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/24(日) 13:15:58 0
>>194 連続移動してないんです
トンネル効果でも分かるように
空間跳躍してるんですよ
私がこの肉体であるのは私のラベル付け(共同体)されたものが
ついてくるんです
私から切り離されたものはすでに私ではありません
素粒子間の斥力で床に吸着して引力だけだったら地面に吸い込まれます
196 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 13:27:15 O
時計を見れば時間を見れる。簡単なことだろ。
197 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 13:35:59 0
自分の体を力いっぱいつねってください。
それが「私」です。
「私」自体を考えるのはもう古い。
198 :
素人:2008/02/24(日) 13:43:44 0
>>194 もう、ホントにアボガドバナナだな・・・・・(^^;
199 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 13:44:10 0
>>195 それでは単に、キミの思いつきを書いているだけだよ
ひとつひとつの論理的根拠をどうぞ
>>197 古い とは?
なぜ「古い」につながるのか意味不明
200 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 13:49:19 0
身体こそ「私」であると定義されてきた歴史が2000年近くあるでしょ。
201 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 13:51:33 0
>>198 せめて普通に会話できるレベルに到達してくれよ〜
だいたい、なぜキミは、そのような質問がしたいのかね?
質問の意図を説明したまえ
私は、「質問がマト外れだ」と言ってるんだよ
「的外れな質問に答える意味がない」とね
だったら、マト外れでない事を説明するなりしなきゃイカンだろ普通
マト外れでない事を説明せん限り、そんなもん答えてやらんぞ(笑
昨日、何食べたかを答える必要がないのと同じだ
常識的に会話してくれ
私が「私が痛みを感じている」と言うとき、私は痛みを感じているある人を指示はしない。
なぜなら、ある意味で私は、痛みを感じている人が誰であるかを全く知らないのであるから。
━ウィトゲンシュタイン━
203 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 14:00:19 0
>>200 古いのだったら
では、この身体が、なぜ「私」であったのか
わかるんですか?
たとえば
なぜ「他人」ではなく「私」であったのか
理由はなんですか?
204 :
3時で1時:2008/02/24(日) 14:29:35 0
>>181 これまでは、信じていた。これからは、信じない。
ということならば、その判断・認識において時間化がなされているということ。
時は物理量としての「時計時間」だけが、全てではないと思いますが。
だから、場面と年月日時刻の記録という行為とは別問題ですね。
205 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/24(日) 14:32:34 0
>>203最高位さん
では逆に「なぜ他人が存在するのか」「なぜ他なのか]
という問いには答えられますか?
206 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 14:45:16 0
>>205 それのどこが「逆に」なの?
質問の意味がわかりません
で?
答えられない場合は、何かペナルティーでもあるのかな?(爆笑
主観性の謎が深まるだけだと思うんだが、なんで理解できんのかねぇ
とにかく
キミらの質問の動機が、全く理解できません
ちゃんと考えてやってんの???
207 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/24(日) 14:52:33 0
>>206最高位さん
動機が分からないのはなぜでしょう。
それは最高位さんの「私」と他の人の「私」が違うからですね。
なぜ私であったのか?ならば、なぜ他人なのか。
ストレートに問うているだけです。
答えられないとペナルティがある云々は
最高位さん自身の心の裏返しですね。まだまだ弱い。
逆質問ではなく、思うところを率直にお答えになればよろしいでしょう。
208 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 14:57:10 0
>>205 「他人」というのは、私から見るから「他人」なのであって
「他人」は、無数に存在します
「私」から見ての「他人」なのですから
まず「私」の問題からですね
>>208 >「私」から見ての「他人」なのですから
その「私」など存在しないのですよ。これ、分かる?
210 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 15:03:40 0
>>207 >動機が分からないのはなぜでしょう。
>それは最高位さんの「私」と他の人の「私」が違うからですね。
いやいや
説明が不十分だからですよ
動機がわからん程の的外れな質問は、やめていただきたい
>なぜ私であったのか?ならば、なぜ他人なのか。
>ストレートに問うているだけです。
まず言える事は
唯物的には、それは絶対に答えが出せない という事です
まずコレを理解してもらいたい
なんで理解できんのか不思議(苦笑
話をすり替えるなって、何度も言っているでしょう
話をすり替える為の、わけのわからない質問
いい加減にしたまえ
211 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 15:05:02 0
>>209 意味がわかりません
まず
「我思う故に我あり」を論理的に否定して説明してください
212 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 15:07:05 0
>>203 では、質問です。
すでに知っている私の痛みだけでは不十分として
なぜ、それ以上にわかる必要性があるのですか?
感じている痛みが自分の痛みなのか他者の痛みなのかがわからずとも、
自分と他者の痛みだと知ればそれでいいのではないですか。
痛みに自他の区別をつけようとする理由をお聞かせください。
>>211 我思う故に我あり
なぜデカルトは“思う”のが「私」である分かったのでしょうか?
“だれ”が“思う”のか分かる筈がないのです。
よって、我思う故に我ありは整理しない。
215 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/24(日) 15:10:09 0
>>208最高位さん
私から見るから「他人」なのであって
とありますが、ではその「私」とは何でしょう?
身体でしょうか?こころでしょうか?
そして無数の他人のどこを見て他と判断するのでしょう?
他人の身体ですか?こころですか?
それとも他の人にとっての(他の人にもあるであろう)「私の存在」ですか?
>>210 話のすり替えでもなんでもなく、ただ「私」の性質について問うているだけですが。
唯物論云々はまったく考えておりません。
216 :
素人:2008/02/24(日) 15:18:42 0
>>201 まったく・・・(^^;
120 哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ 2008/02/23(土) 03:27:45 0
>>119 >知らんな。お前でいいよ。(クスクス
と言ったのは誰?(大爆笑
129 考える名無しさん sage 2008/02/23(土) 04:26:52 0
と言ったのは誰とか、全部過去形じゃん。
最高位は過去のことを尋ねてどうするんだ?
130 哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ 2008/02/23(土) 04:34:31 0
>>129 過去だろうが何だろうが
それを考えて答えるのは『本人』だろ
この流れを受けての次の2レスだろ?
136 考える名無しさん sage 2008/02/23(土) 05:59:39 0
>>130 過去の自分と今の自分が同一だとする確証でもあるのか?
138 素人 sage 2008/02/23(土) 09:47:30 0
>>130 ≪ヒトは、『今』を認識できるのか(知り得る・捉え得るのか)?≫
という問いに対しては、どのように解決をつけていますか?
「文脈から文意を読め!」と常々叱責される最高位氏が流れを読めませんでしたか?
勿論、ここで言う文脈とは[120〜138]の流れです。
さて、上記から、貴方が所望する質問の意図を解り易く炙り出してみましょうw
(貴方と対話をすると、いつも余計な一手間二手間が要るんですよねぇ・・・w)
217 :
素人:2008/02/24(日) 15:19:16 0
>>201 貴方の立場に合わせて、
【思考する『私』がいる】(デカルトに沿えば「疑っている私がいる」)、これを前提としましょう。
そこで、≪ヒトは、『今』を認識できない≫と考える或る人が
≪ヒトは、『今』を認識できるのか(知り得る・捉え得るのか)?≫
と問うてきたとします。それは、以下を意味します。
≪【まさに今、『私』は思考している】と言うが、【それは常に過去ではないのか?】≫と。
≪【そのように思考していた】という結果報告に過ぎないのではないか?≫
≪その結果報告でさえも、【結果報告がされた】ということでしかないのではないか?≫
≪【『今まさに』○○『している』】『私』という認識は不可能ではないか?
【『先ほど』○○『していた』】『私』でしかないのではないか?
【『今まさに』○○『している』】『私』は、永遠にすり抜け続けるのではないか?≫と。
だとするならば、≪【今ここに『私』がいる】という言明の確実性は薄れてくる≫。
【今ここ】が確定できないのに、どうしてそこに『私』の存在を確定できようか・・・。
『私』が継続して「存在【する】」とどうして言えるのか?
言明は常に「存在【していた】」と為されるべきではないか?
言明は常に「“思考する『私』”が【いた】」ではないのか? と。
貴方の、『存在性』に関する種々の主張の根幹に関わる問題だと思われますが?
>>130で、>過去だろうが何だろうが、それを考えて答えるのは『本人』だろ
と仰いますが、もし、【今ここ】が確定できない・認識できないのであるなら、
>>129に対する貴方の返答は、「 >過去だろうが何だろうが 」 ではなく、
「 過去についてしか語れないんだよ 」 となるべきです。
≪ヒトは、『今』を認識できない≫と、貴方も考えるのならば・・・。
さて、
>>138に対して、貴方も答える必要があることがお解りいただけましたでしょうか?
「ヒトは『今』を認識できない」と考える、「認識の限界」を主張する或る人に対して、
【認識できない「今ここ」を確定して、『存在性』を確認することが可能な理由】を
答えねばならないことが・・・。
私が存在しないとかいうならまずそれを論証しないと。
話はそれからだ。
219 :
素人:2008/02/24(日) 15:22:32 0
>>210 また「すり替え」云々ですか・・・・w しょうがない、再掲しておきましょう。
692 素人 sage New! 2008/02/14(木) 09:11:45 0
>> 676
・・・・・(^^;)
全く成長していませんね・・w
>私に反論するのなら、話をすり替えてばかりいないで、論旨に沿った形でお願いします
>『私』を物理的要素に還元して、唯物論の正当性を論理的に主張して下さいな
貴方が、事ある毎にこのように述べるから、
「唯物論破壊のために設定された『私』じゃないの?www」と揶揄されるのです。
大勢の方から「唯物論を離れて、(唯物論の是非は一先ず保留して)、『私』を突き詰めませんか?」と
何度も提示されているじゃありませんか。なぜ、そんなに頑なに「唯物論破壊」にこだわるのですか?
初期と比べたら、「唯物論原理主義」的レスは殆ど無いじゃないですか。
また、何度も何度も何度も申し上げましたが、
>話をすり替えて
いるのではなく、
≪ 「唯物論破壊」は、【『私』についての考察から派生している】もの ≫ではありませんか?
≪ 「唯物論破壊」の【根拠として、『私』についての考察がある】 ≫のではありませんか?
すり替えどころか、もっとも重要視されねばならない議論であるべきじゃないですか?
と言っているのです。
唯物論の正当性などどうでもいいのです。最終的に瓦解しても構わないのです。
また、現在、アプローチの方法として唯物論「的」手法がとられていても、
その限界がしっかりとした反証によって一つずつ示されていき、消去されていくならば、
では、どのような手法を採用してゆくべきか、が模索されるべきでしょう。
(そしてその時、その「新たな手法」探索の音頭をとるのは、貴方であるべきなのです。)
お解りになりませんか?
220 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/24(日) 15:23:03 0
>>216素人さん
お久しぶりです。以前(前スレでしょうか)最高位さんに
「私の存在する根本的な原因」について聞かれ
それを「迷う私」つまり「無明」、真理に明るくないという答えをしました。
後注釈といいますか、素人さんのほうがお詳しいと付け加えさせていただきました。
こういった内容は十二因縁ではないかと。
221 :
素人:2008/02/24(日) 15:32:42 0
>>220だけでは何とも・・・(^^;
ログはありますので、
スレ番・レス番提示とともに、若干の補足説明でもして頂ければ、
お答えすることも吝かではありません。
数日かかるかもしれませんし、私がまだ答えを見つけていない部分かもしれませんし、
そもそも私のテリトリーかどうかもはっきりしませんので・・w
222 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/24(日) 15:49:15 0
>>221素人さん
前スレの34です。
他の方から少々ご感想はあったようですが
質問された最高位さんからは何もありませんでした。
そして次は「物理的要素」になりますからね・・・
前スレの
>>820の回答が実に意外でしたが。
>>219で仰られていますが
最高位さんの「私の存在」理論はもう唯物論無しでは成立しないのではないかと。
私の存在は理論じゃないからw
224 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 15:53:43 0
そう、そう。私は唯物論を粉みじんにしたい一心で・・・
唯物論だけでは語れないですが、
唯物論的ではありますな。
しかし、物とは何なんでしょうな。
226 :
素人:2008/02/24(日) 16:41:27 0
>>222 ああ、名無しで書き込んでましたね・・・。申し訳ありません・・(^^;
146 考える名無しさん sage 2008/02/09(土) 13:45:37 0
>> 41
>こういったこと とは?
「感受(≒入力)から、整理された把握に至るまで」の
「認識という領域」に於ける“痛覚(→痛み)”等の位置付け
ということ?
でしょうか?
(34は3段に分かれてますので、どれのことかな? ↑は1段目と3段目についてです)
それともa≪(十二支)縁起と絡めた方が≫良いのでしょうか?
上の146はb≪「五蘊」との絡み≫ですが・・・。
それとも、2段目について、
c≪「私」(自我)の成立に加担する要件を、無明と((十二支)縁起と)絡めて語ること≫
でしょうか?
あまり突っ込んだ語りをすると、「仏教」という縛りが枷になりそうです。
このスレ的には(哲学板的には)あまりふさわしくないかと・・・。
また、特にcに関しては、「宗教色(仏教色)」を薄めるのはかなり困難な気もします。
34まんまでよいのでしょうか・・。 もう少しまとめて頂けると助かります。
なんか、私の手には余りそうな難問になりそうですが・・・w orz
>前スレの
>>820の回答が実に意外でしたが。
ですから、おこがましくも代弁してみたんですが、特に反応はありませんでした。
ネコからも・・・w
227 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 16:58:24 0
物も、モノも、者も、存在だからな。
自分の手と思われるものを見て、それが一体「だれ」の手であろうか
229 :
187:2008/02/24(日) 19:20:42 0
言葉の綾とりとりゲームになっているので、こちらも…。
>>213 「思っているのがだれかわからない」と思っている主体は存在するのだろう?
>>215 その『私』とは、「私とは身体である、いや心である、いやいや心身合一である」
と言明している主体(主観)である。対象化された“私”がどうであれ、別にかまわない。
所詮は仮象なのだから。最高位は「対象化する私」は存在する、と言っているだけ。
230 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 19:29:21 0
>>228 金槌で思い切り手を殴ってみろ、と超絶対神なら言うだろうな。
一度、ためしてみたら。
231 :
癒しの元ちとせ:2008/02/24(日) 19:30:21 O
万物に神が宿るといった天皇の思想は本当によかったのだ。天皇型の八百万(ヤオヨロズ)の理解によってみなは争いをやめて共に生きる道を選んだ。だから私の手に宿る八百万の神は私の存在を形づくるすべてなのだ
232 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 19:40:20 O
イギリスのスチュアート朝やフランスのブルボン朝は人民を見捨てた。清朝もそうだがどの王朝も末端の荒廃には目をつむったが皇は決して滅びゆくものを見捨てなかった。だから後世まで人民の尊敬を集めたしやはり万人に天皇は理解された。が、しかし・・・
思う主体が思われるなんてえらいこっちゃ。
まあ、思う主体の存在を主張する価値なんてその程度のもんだという
証拠でもあるし、どんどん議論したらいいさな。
234 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 19:51:02 O
つまりはだねえ現代において縁がチリジリバラバラなのだよ。被差別部落も盗賊もヤマンバもみんなみんななのだよ。そもそも蝦夷討伐の時に坂上田村麿呂が倒したアテルイがみんな恐いのではないかと思うのだよ光の人は
>>230 痛いだろうね。
しかし、痛みを感じた”私”をどこに見出すことができるのかと。
つまり“痛みそのもの“が“私“で、痛みがなくなれば“私“もなくなる。
よって「私は私の手を見ている」「私は痛みを感じている」「我思う故に我あり」
これらは全て成立しない。よって“私“は記述出来ない。
全部成立してるでしょ。
なんで成立しないなんて言えるのかわからない。
”私が私の手をみる”が成立するのであれば、私(主体)と作用の二元論になる。
いやいや私と作用は一元論だというなら、”私が私の手をみる”は成立しない。
>>237 なぜならば、”私が私の手をみる”この作用以前の私をどこに見出すことが出来るであろうか。
”私が痛みを感じる”のであれば、痛みを感じる以前の私をどこに見出すことが出来るであろうか。
分からない。
ならば、我思うの”我”を見出すことは出来ない。
239 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 21:04:01 0
生命体Aにも同一性や因果関係についての認識能力はあるでしょう。
だとすれば、時系列的な認識手段は必要不可欠だと思う。
しつこいですけどこれもオートポイエーシスで説明されているようです。
>>217 >≪【まさに今、『私』は思考している】と言うが、【それは常に過去ではないのか?】≫と。
例えば仏教的には、真の「今」と「過去」とのタイムラグはだいたいどれくらいのものですか?
大乗仏教の唯識三性説ってなーに?
少し目先を変えてみよう。(試験的視線の提示として、軽く読んでくれても構わないw)
一々拾ってくるのは面倒なので
>>229の
> 「思っているのがだれかわからない」と思っている主体は・・・
と
> その『私』とは、「私とは身体である、いや心である、いやいや心身合一である」
> と言明している主体(主観)である。
及び
> 対象化された“私”がどうであれ、別にかまわない。
> 所詮は仮象なのだから。最高位は「対象化する私」は存在する、と言っているだけ。
とを事例としておくが、ネコ氏も最高位氏も、
「いるだろ?『私』」 「いるだろ?主体」 という言明が圧倒的に多い。
しかもそれは、常に≪【○○している】主体≫という言明のされ方で返答される。
これが、何を意味するか解るかい?
貴方達サイドからしても、
≪【○○している】主体≫≪【××という状態にある】主体≫
という記述のされ方を以て、そこに主体が提示される(『実感・確認される』)ということだ。
「主体なぞ仮設されたものに過ぎない」と言われて≪【仮説している】主体がいるじゃん≫と。
「主体は、これこれと見做される」のだと言われて≪そのように【見做している】主体がいるじゃん≫と。
また、無限遡及的に「疑っている私」がなんども繰り返され、
「疑っている」ということが確実なものとされた時、そこに≪【疑っている】私≫がいる、と。
上の例だけから言っても、≪【思っている】主体≫≪【言明している】主体≫≪【対象化する】主体≫と。
最高位氏は、主語と動詞の文法的関係に絡ませて、
『【行為に先んじて】主体がある』と言うが、ちょっと待ってほしい。
【行為や具体的在り様以前に】、本当に「主体」はありえるのか?
まず「主体」があって、そのあとに行為がある、と言えるのか?
行為や具体的在り様の無い所の「主体」とは何か?
未だ行為の為されていない所に、(その行為の)「主体」はありえるのか?
もしかしたら、【○○している】【××という状態にある】という修飾無しにはあり得ないのではないか?
※ (或いは、もしかして同時に出現するものではないのか?) ※
≪【○○している】【××という状態にある】≫という修飾無しに主体を記述することは可能か?
≪【○○している】【××という状態にある】≫という修飾無しに主体を提示することは可能か?
≪【○○している】【××という状態にある】≫という修飾無しに主体を(『私』を)実感することは可能か?
もし貴方達が≪【○○している】【××という状態にある】≫という修飾無しに主体を提示し得ないなら、
それは、私のスタンスに、ぐっと近くなる。
もし、提示し得るなら、それはどのような記述となるだろうか・・。
ちょっとは「記述スレ」らしくなってきたか?w (かなり「中論」色の強いレスになってしまったが・・・)
245 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 23:19:07 0
>>244 >未だ行為の為されていない所に、(その行為の)「主体」はありえるのか?
思考も行為でしょ?
だから思考の産出行為をする「主体」(=自己)、という意味でしょ。
>>240 >タイムラグ
そこを突き詰めたのは(後期)部派仏教なので、詳細は判りません。
時間の最小単位「刹那」という語の説明として比喩があったと思いますが、
ちょっと今は出てきません。ごめんなさい。
ただ、現代のように数値化されたものではありません。
また、『真の「今」は捉えられない』という姿勢は無かったような気がします。
少なくとも原始仏教に於いては、素朴に「今」を捉えます。
現代風に言うと「少し幅のある(スパンのある)一瞬」と言ったところでしょうか。
或いは、日常的な「一瞬としての今」という感じでしょうか。
認識のタイムラグは想定されていません。
(考えもしなかったでしょう。 また、最高位氏ではありませんがw「不要であった」とも言えますwww)
ですから、先の≪ヒトは、『今』を認識できない≫については、
オーソドクスな仏教では、「そんなことはない」という答えしかないでしょう。
勿論これは、仏教という枠内のみでの答えですので、
>>190内の、私が秘匿した答えとは違います。190で秘匿した答えは、
現代的知見に則して、≪ヒトは、『今』を認識できない≫という命題を受け入れた上でのものです。
勢いで取り敢えず記しただけですので、間違いや誤解があるかもしれません。
調べられる所は調べて、追々補足訂正ができればよいかと思ってはいます。
ちょいと忙しくなってくるので、かなりの日数が開きそうですが・・・。
てか、面倒臭くてやらない可能性の方が濃厚だが・・・w
宗教板で尋ねた方が早いかもしれません・・・(^^;
247 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 23:26:51 0
思っている私と、思いを発話している私は別存在であると考えてしまう人がいるらしい。
>>245 【思考の産出行為をする】「主体」。
【その行為】の無い「主体」とは?
249 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 23:35:39 0
本日の思考の算出出来高ww
250 :
考える名無しさん:2008/02/24(日) 23:41:14 0
>>244 >≪【○○している】【××という状態にある】≫という修飾無しに主体を(『私』を)実感することは可能か?
そういうことを中心テーマにしたのが「実存」主義だろ。
「実存」は絶対に客観的には記述できないもの。
251 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/24(日) 23:57:35 0
>>213 >“だれ”が“思う”のか分かる筈がないのです。
なんで?
私は思っていますけど??
意味がわかりません
他人の主観性については認識しようがないのだから
「思い」を認識している時点で、それは私以外にはありえませんよ
嘘だと思うなら
一回、病院で相談してみて下さい
>>215 あんた質問ばっかりしてくるけど
結局、何を主張してるわけ?
唯識ももうちょっとハジケないと。。最高位をバカにしてんなら
もうちょっと見下さないといけないね
253 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 00:06:56 0
>>216 >130 哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ 2008/02/23(土) 04:34:31 0
>
>>129 > 過去だろうが何だろうが
> それを考えて答えるのは『本人』だろ
>
>この流れを受けての次の2レスだろ?
>
>136 考える名無しさん sage 2008/02/23(土) 05:59:39 0
>
>>130 > 過去の自分と今の自分が同一だとする確証でもあるのか?
>138 素人 sage 2008/02/23(土) 09:47:30 0
>
>>130 > ≪ヒトは、『今』を認識できるのか(知り得る・捉え得るのか)?≫
> という問いに対しては、どのように解決をつけていますか?
>
>「文脈から文意を読め!」と常々叱責される最高位氏が流れを読めませんでしたか?
だから
そんなの関係ねぇ つってるのが、わからんのかね??
同じ事ばかり、何回も言わせないでくれよ
>>220 >「私の存在する根本的な原因」について聞かれ
>それを「迷う私」つまり「無明」、真理に明るくないという答えをしました。
あんた、どこまで頭わるいんだい?
メチャクチャだな、しかし
「私の存在する根本的な原因」が「迷う私」って・・・・
あのね
「迷う私」の根本的な原因を聞いてるんだよ(苦笑
254 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 00:07:35 0
唯識は冷静だからあまりはじけないのでは・・・?
255 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 00:07:42 0
>【その行為】の無い「主体」とは?
普通は行為をしてない積りでもしているようです。
それがまったく無いのであれば主体とは言えないでしょうね。
>>255 高いな・・・w
この半額なら買ってもいいかもしれんが・・・。
>>251 > なんで?
> 私は思っていますけど??
> 意味がわかりません
> 他人の主観性については認識しようがないのだから
> 「思い」を認識している時点で、それは私以外にはありえませんよ
”私”が”思う私”を認識しているならば、”私”と”作用(思う)”の二元論になりますが。
つまり貴方は”作用”と”私”が独立している、と言ってるのと同じになりますね。
259 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 00:16:16 0
>>226 >ああ、名無しで書き込んでましたね・・・。申し訳ありません・・(^^;
あんた、なんでいつも、そんな事ばっかりするわけ?
もう自演とかやめなよ
なんで、もっと普通に出来んのだ??
なんだか、いやらしいねぇ
それも仏教の教えなのか?
260 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 00:18:20 0
>>260 ならば仮に思考実験として一切の作用を欠いたならば、どうやって”私”を見出すのかね?
逆に、”私”と言うものを欠いても思考などの”作用”は出来るということになる訳だ。
262 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 00:25:45 0
>>261 無理だろ(笑
少なくとも私は、私を離れては思考する事も、存在する事すら不可能だ
キミは自分を離れて、どうやって思考などの作用をするのかね??(苦笑
263 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/25(月) 00:26:27 0
最高位さんの私理論は色々な哲学、宗教から
エッセンスを取り出して混ぜているだけなのでは?
>>253最高位さん
どこを読まれているのか
きちんと読んでいただきたい
「迷う私」の根本理由は「無明」だと書きましたが。
さて、前スレも関連しますが
最高位さんは「私の置き所」を「身体」と明言されました。
ならば「精神、こころ」はどうなるのでしょう?
私の存在性等々、なにがし「の」が付く以上
「所有」してる筈であります。
私が「身体」を所有し「こころ」を所有しているのでしょうか?
無駄な逆質問、質問のための質問は結構です。
直情的に書き込まれなくてもよろしいので
ごゆっくり考えた上でィお答えください。
264 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/25(月) 00:28:05 0
失礼しました。
ごゆっくり考えた上でお答えください。
265 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 00:35:06 0
私の主よ、私の神よ。 ・・・と言ったら、
神は私の所有物という意味にはならないよ。
>>262 > 無理だろ(笑
> 少なくとも私は、私を離れては思考する事も、存在する事すら不可能だ
> キミは自分を離れて、どうやって思考などの作用をするのかね??(苦笑
ほら、無理だろ?では私と作用は一元論な訳だ。
”作用”を離れては”私”は存在しない訳だ。つまり”作用それ自体”が”私”となります。
よって、「我思う」は成立しない。思っている私など存在しないのです。
267 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 00:38:54 0
>>263 >きちんと読んでいただきたい
>「迷う私」の根本理由は「無明」だと書きましたが。
ちょっと待て
また国語の授業からだな・・・・
キミの文章はコレ
↓
>「私の存在する根本的な原因」について聞かれ
>それを「迷う私」つまり「無明」、真理に明るくないという答えをしました。
二行目の「それ」は「私の存在する根本的な原因」を指すのであり
つまりキミは
「私の存在する根本的な原因」は「迷う私」 であると言っているわけだ
だから「迷う私が、私の原因」なんつーのは、おかしいだろ?と言っているわけ
「無明」というのは、「私」が真理に明るくないのであって
「私」が真理に明るくない事が、私の根本原因である なんてのも、明らかにおかしいだろ
日本語わかりますか??
大丈夫かよホントに・・・
>>267 普段は私なんて意識してないってことじゃないの?
269 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 00:46:21 0
>>266 何で「存在しない」という事につながるのか説明されてないな
実際、私は思ってるしね
だからこそ、私の存在は否定できないわけだ
270 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 00:47:34 0
最高位の思想は二元論ではなよ。
私は一元論だと言っていました。
271 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/25(月) 00:48:02 0
>>267最高位さん
では、真理に明るい私が真理に明るくない(無明なる)私を理解するのですか?
何人「私」を建てるのですか?
(このあたり、最高位さんのロジックが見えてきそうです)
「私」が存在するなどという考えは「無明」に因って引き起こされる
これでよろしいですかな。
>>268さん
以前申しました「PCで常にコンピューター名を表示する」
もっと言えば何をするにも自分のユーザー名を入れないと
ファイル一つ開けないということです。
>>269 ですから、作用(視覚ならその映像、痛みならば痛み)それ自体が私であるから、
”我”が”思う(作用)”はおかしいだろ?”私”が”作用”に関与している訳ではないのですから。
日本語が私の原因。
日本語を勉強して私になった。
274 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 01:01:34 0
>>271 あのね
キミは、マジで
私に対して、何か反論できてると思ってるわけ???
真剣に???(苦笑
というか
>>271の文章も、会話の流れから考えて、明らかにおかしいわけだが
冷静に、素直になったらどうかね?
それでも正常な判断ができないなら、もう頭おかしいよ
>「私」が存在するなどという考えは「無明」に因って引き起こされる
>これでよろしいですかな。
誰の考えであって、誰の「無明」なのかね?
もし他人の無明によって、私が引き起こされたら大変だろ
キミの無明に、他人は関係ないよね
キミは、キミだろ
『キミが』、無明なんだろ?
順番を間違えるなって事
真剣に、病院に行った方がいいんじゃないか???
>>259 まったく・・・(^^;
どうでもいい所にばかり反応するんだな・・w
自演?
馬鹿ですか?w 自演の意味を履き違えてやいませんか?www
『自演』に関しては、一度だけ『自分を馬鹿にする・誹謗するレス』を書き込んだことがある。
それのみだ。
コテなんて、基本的には不要だから(→自説の明確な提示や、対話の便に資さない(不都合でない)限りは)名無しをデフォとしている。
このスタンスは以前も宣言している。今更お前にガタガタ言われる筋合いはない。
今回は、対話の便としてはコテが必要だったにもかかわらず、
名無しで答えてしまったから謝罪したのだ。
お前も2ch歴長いんだろ?w 自演の意味くらい把握しとけよw
276 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 01:10:37 0
>>274 >>「私」が存在するなどという考えは「無明」に因って引き起こされる
>>これでよろしいですかな。
>
>誰の考えであって、誰の「無明」なのかね?
まったくだな。。。
唯識が言ってる『「私」が存在するなどという考えは「無明」に因って引き起こされる』
の「私」は、哲学で言えば、実体としての「私」にすぎないからな。。。
277 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/25(月) 01:12:30 0
>>274最高位さん
もし他人の無明によって、私が引き起こされたら云々とありますが
それは無明でない「私が在る」ということですね。
これは矛盾です。
>>263のお答えお待ちしております。
278 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 01:16:33 0
>>277 >それは無明でない「私が在る」ということですね。
>これは矛盾です。
仏教における「私」にはいろいろあるよ。
無明によって生じる「私」はふつう「自我」と言われるけど、
それとは別に「自己」があるからね。
「自我」と「自己」を使い分けて書く人多いよ。
279 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 01:19:20 0
たとえば道元が言う「尽大地的自己」なんていうのは、
無明によって生じるものではないからね。
280 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/25(月) 01:29:12 0
>>278さん
そうですね。決定論スレでの超絶対神さんも同様のことを仰ってますね。
自己或いは自性ですね。
唯識では自我である限り自性はなかなかにわからない仕組みでして
わからない(悟っていない)こころの場合は「識」
悟ったこころ(もはや「識・こころとは言いませんが)は
「智」といいますね。
>>226素人さんへ
やはりcになってしまうのではないかと。
五蘊ですと前スレの
>>820の二、三ですし。
281 :
素人:2008/02/25(月) 01:43:10 0
>>280 やはりcですか・・・。
いや、判ってはいたんですけど、避けたかったのが本音ですねw
明日は一泊で遠出しますし、メッチャ難しいお題なんで長いインターバルになると思います。
チマチマと作文してはみますが、あまり期待しないように・・・w
(
>>278さんの言うような問題点もあったりしますし・・・。)
>>272さんの一連のレスは、ほぼ龍樹ですねw
おやすみなさい ノシ
282 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/25(月) 02:39:47 0
>>281素人さん
いえいえ、とんでもありません。
唯識学でも偏計所執性、依他起性まではなんとか宗教的にならずとも
説明が出来そうなのですが、円成実性はもう宗教そのものですし
レイヤーと言いますか、同じですね。
夜遅くになってしまい申し訳ありませんでした。
283 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 03:04:30 0
>>282 そういうことを西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」として、鈴木大拙は「即非の論理」として
すでに哲学的言語で語ってるんだよね。
284 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 03:53:35 0
>>272 >”我”が”思う(作用)”はおかしいだろ?
いや
全然おかしくないだろ
実際、私は思ってるぞ?(苦笑
というか
話を元に戻すけど
結局「我あり」を、否定できてませんね全然
>>275 いや
同じスレでコテを付けたり、名無しで書き込んだりすれば
それを読んだ人は普通、別人だと思うわけだよ
それぐらいは、わかるよね?
キミにそのつもりがなくとも、複数のコテを使っているのと同じであり
それを故意的にしているならば、結果的に複数の人を演じている事になるわけだ
すなわち、形を変えた自演の一種であるわけ
ここでは主に、議論というものをしてるんだからさ
素直に、コテとトリップ付けてすればいいんじゃないの??
>>277 全然、意味がわかりません
説明して下さい
>>263? →
>>267と
>>251の下二行で終わってるだろ
ちゃんと、こっちの質問にも答えて、会話を成立させろ
失礼だと思わんのかねぇ
本当に、普通の会話もできない馬鹿なのか???
普通の会話をしてるのは唯識。おまえはぐらかしてるだけ。理解できなけりゃ勉強しろ。
だれがどー見たって逃げてるのおまえ
286 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/25(月) 04:15:41 0
自己利益を優先した上で他人を信じることになるから
「悪魔が天使に見えますように」
これが他人ですよ
>>284 「我は思う」というのであれば、作用以前に我がある、という捉え方になるでしょう?
288 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 04:26:59 0
>>287 >「我は思う」というのであれば、作用以前に我がある、という捉え方になるでしょう?
道元の「非思量的自己」はまさしくその、思わなくても在る自己だね。
289 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/25(月) 04:32:52 0
我から抜け出て移ろってみると面白いですよ
洗脳出来ますよ
290 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 04:37:27 0
何のことかとWeb検索してみたら、
我々が「考える」という精神活動も非思量(不思量)によって考えている、
即ち尽十方界真実により考えさせられて考えているのである。
なんてことが書いてあった。
我(主語)思う(述語)
作用以前に我があるのだとしたら、我と作用は二元論となるのです。
最高位含め誰しもこれを否定。我と作用は一元論となる。
ならば・・最高位、もう分かるでしょう?作用以前の我を見出すことが
出来ないのであるからして、「我思う故に我あり」は成立しないということが。
つまりは、痛覚や視覚などによる質感(クオリア?)を記述することが
出来れば、”私”を記述したこととなるのです。
292 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 04:46:11 0
釈尊が拈華によって、「見てくれ、私の身体を(私が生きているこの事実を)、
これが尽十方界の真実(尽十方界真実人体)だ」と、大衆に注意を促した時、
摩訶迦葉が釈尊の意を汲んで微笑んだ。
そこで釈尊は「摩訶迦葉も私と同様尽十方界真実を生きているのだ」と仰せられた。
で、身体は大自然の真実であり、この真実を忠実に全うすることが仏道である。
ということになるのか・・・
ははあ、少し分かりかけてきたかなぁ。
なんか仏教だなあw
294 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 04:51:23 0
>>291 >つまりは、痛覚や視覚などによる質感(クオリア?)を記述することが
>出来れば、”私”を記述したこととなるのです。
論理の飛躍があるな。。。
なんで、「質感」が「私」という作用の全てだと言えるの?
>>294 例えば、頭が痛いと言うならば、”私”は”頭の痛みそのもの”なのです。
よって”痛み”を記述することにより、イコール”私”を記述したことになります。
> 論理の飛躍があるな。。。
> なんで、「質感」が「私」という作用の全てだと言えるの?
ありとあらゆる作用以外に”私”に相当されるものを見出す事が出来ないから、
としか言いようがない。
296 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:01:48 0
仏教的視点は、「反デカルト」みたいっすね、どうも。
297 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:04:04 0
>>295 ありとあらゆる作用を全部「質感」に還元する理屈がさっぱりわからん。。。
>>297 全ては”感じ”ではないでしょうか?
歩くにしても、痛みにしても、見るにしても、考えるにしても
どこを歩いたのか、何を考えたのか、ではなく、
歩行する、考える肉体的なシステムでもなく、
”それ自体”は一体どういった”感じ”なのか、と。
299 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:12:18 0
>>298 じゃあ、たとえば君の《意欲》も「感じ」なの?
なんか受動的な「感じ」だな。。。w
300 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:14:33 0
「私」という意識も、一種の感じ。感覚の束か。
>>300 そうなりますね。言わば”私という言葉があるだけ”ですかね。
仏教派が増えてきたな。
303 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:21:01 0
全てを「感じ」に還元しちゃったら、
生命に備わってる自発的な力の能動性を看過してしまうな。。。
304 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 05:21:20 0
まずね
誰が感じてるのか が重要
他人が感じてたって、私は感じれないからね
私が感じている という事は、すなわち私が存在しているからに他ならない
他人は他人
私は私 だ
これが理解できんやつは病気だろ
305 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:22:36 0
>>301 そうねぇ、能動的も、受動的も、感覚的だからなぁ。
306 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:26:51 0
他人が感じてたって、私は感じれないからね ってのは
唯物論的だなぁ
>>304 > まずね
> 誰が感じてるのか が重要
> 他人が感じてたって、私は感じれないからね
> 私が感じている という事は、すなわち私が存在しているからに他ならない
> 他人は他人
> 私は私 だ
・・いや・・・だからね、例えば痛みを感じたとする。しかしだ、
その痛みは一体”だれ”の痛みなのかは知ることが出来ないのですよ。
なぜならば、”痛みそのもの”が”私”に相当するのであるから。
308 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:29:48 0
肉体を離れて、感じれたら 唯物論論破だ 認めよー
>>304 おまえオウム真理教かなんかか?世の中おまえだけじゃねえってことくらいわかってんだろw
おまえの知らん哲学、宗教なんて山ほどあんのに俺だけが正しいなんつってちゃ、おまえこそ病気。そういう病名もあるんだなこれがwちったあ他人がなにを根拠で発言してんのか考えてみろ。でなきゃ来るなw
310 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 05:35:17 0
>>291 誰がクオリアを感じてるのか が重要
私以外がクオリアを感じていても、私は感じ得ない
私が感じるから、私のクオリア
>>295 >よって”痛み”を記述することにより、イコール”私”を記述したことになります。
他人の“痛み”を記述しても“私”を記述した事にはならんだろ
別人のクオリアなんだから(苦笑
>>298 感じているのは「私」
>>301 馬鹿ですか?
言葉を認識しているのが「キミ」であり「私」だろ
使う人がいなきゃ言葉自体が無いんだよ
311 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:36:08 0
>>307 >その痛みは一体”だれ”の痛みなのかは知ることが出来ないのですよ。
>なぜならば、”痛みそのもの”が”私”に相当するのであるから。
痛みそのものが「私」ならば、それは私の痛みだな。
痛みと一体だと理屈では考えられるけど、
本当に一体なら、その痛みを意識することもないはずだよw
対象化してるから、意識できるんだよ。
313 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 05:38:40 0
>>307 >・・いや・・・だからね、例えば痛みを感じたとする。しかしだ、
>その痛みは一体”だれ”の痛みなのかは知ることが出来ないのですよ。
はぁ??
誰の痛みか知る事ができないって?
アホですか?
感じた人の痛みだろ
私が感じたら、私の痛みに他ならないだろ
私が感じてるのに、誰の痛みかわからんて
大丈夫???
314 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:38:41 0
>>310 認識してるのは「脳」だろう?脳はなにするんだ?理科勉強し直してこいw
315 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 05:40:24 0
>>314 他人の脳じゃ、私は認識できんのよ(苦笑
最高位がいくら叫ぼうが誰も聞いちゃくれないんだからさあ、もうあきらめたら?
>>315 自分の脳で私を認識するんだろwできなきゃおまえ病気w
318 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:43:54 0
319 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:45:18 0
脳なんてのは、認識に一切関与してねぇ、関係ねぇ。
私がその根拠をこれから示してやる・・・
完全論破期待しましょ
320 :
赤い猫:2008/02/25(月) 05:46:23 O
トリ付けた
>>313 > 私が感じてるのに、誰の痛みかわからんて
> 大丈夫???
さて、国語の勉強からですね。
私が(主語)感じている(述語)
何度も言いますが、”感じる以前”の”私が”は何に相当するのですか?
321 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 05:52:25 0
>>316 いやいや
アホには理解できんだけさ
私は、まともな人が読んだ場合に理解できるように書いているから
病気のキミらが理解できなくてもいいんだよ(笑
>>317 そうだよ?
だから、いるだろ「私」
「我あり」なんだよ
わかりましたか?(苦笑
>>320 私は私
私以外の何ものにも相当しない
私という存在性 だな
322 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 05:53:42 0
>>320 >>311でも書いたんだけどさ、「私」が「何か」を感じることができるのは、
「私」がその「何か」を対象化してるからだよ。
完全に一体化してたら、「何か」として意識しないはずだよ。
だから「痛み」を感じているとすれば、「痛み」=「私」ではないのだよ。
323 :
赤い猫:2008/02/25(月) 05:55:14 O
>>321 > 私は私
> 私以外の何ものにも相当しない
> 私という存在性 だな
ですから、その >私は私 の私は何に相当するのかと。
324 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 06:04:13 0
>>323 ですから、私は私以外の何ものにも相当しないと(苦笑
もうちょっと頭使ってからレスしてこい
私は、私であるが故に私であって、私は、私という純粋なる存在性
私以外は私以外
325 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 06:09:09 0
>>324 脳があるが故に私を認識できる
これに反論あればよろしく
脳がない場合の私の認識手段を教えれ
326 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 06:11:42 0
>>325 他人の脳じゃ私は認識できない
では、なぜこの脳が私であったのか
その物理的根拠は、どこにも有りえない
すなわち、唯物論崩壊
327 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 06:17:29 0
>>325 他人じゃねえw脳があるが故に私を認識できる
これに反論あればよろしくw脳と私を分ける反則技禁止
分けるなら根拠を述べろ
>>326 おまえ前にも言ったろ。魂がおまえの体を選んだんだよ
これでいいだろう。ただおまえは魂の言うなりで触ることもできんがなw
キミの言う「私」とは「キミ」の事。
即ちキミは私。
私も「私」。
キミも「私」。
ついでに魂が悪なら悪いことをするように体が動く考える。善ならその反対
どっちにしても言うなりにしか動かんわけよ
>>326 >他人の脳じゃ私は認識できない
じゃあ、幾ら他人に言っても無駄だべ
馬鹿だなお前(爆笑
私は誰にも認識されないw
終了
他の誰にも認識されないけど、
私は唯物論を破壊した哲学者の最高位である。
誰が何と言おうとも私は唯物論を破壊したのである。
私は絶対であり何人も否定は出来ないのである。
私の脳は他人を認識出来るけど、
他人の脳は私を認識出来ないんだぜ。
非対称だとか気にしたら負けなんだぜ。
338 :
赤い猫:2008/02/25(月) 08:55:27 O
>>322 ならば、例えば”考えるという作用”と”私”は独立した存在と捉えられますが?
339 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 09:08:13 0
私の脳に認識されてる他人は、その他人の脳に認識され
ている私と同じだ。全く対称である。非対称など無い。
340 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 09:12:24 0
>>338 “考える”と“私”を「独立した存在」として捉える(対象化する)『主体(私)』は、
どうやっても消去できないだろう、と最高位は述べているんだよ。
341 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 09:14:53 0
「私は考える」ではなく「考える私」がいるだけと考えれば解決する。
「認識」と文字にしたら誰にでもあるけれど
この語が指すものって、誰にでもあるとは言いにくいかもな
他人の感じる知覚をそのまま自分が感じることはできないように
俺に見える光景、聞こえる音、匂い、味、触感、これらの、言葉ではなく感じる五感からの刺激自体は自分特有だ
つまりセブンセンシズに目覚めよ、ということだな
俺の小宇宙(コスモ)よ、奇跡を起こせ!
343 :
赤い猫:2008/02/25(月) 09:20:36 O
>>324 > ですから、私は私以外の何ものにも相当しないと(苦笑
何ものにも相当しないならば、一切の作用を欠いても、私は私なのかね?
ならば、一切の作用と私の二元論となるが、君はそれを否定したじゃないか。
344 :
赤い猫:2008/02/25(月) 09:29:25 O
>>340 ならば主体は作用を離れても主体であり、作用は主体が無くとも作用する、
とならなければならない。では作用を離れた主体に相当するものは一体”どこ”にあるのか。
345 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 09:37:25 0
>>344 >主体に相当するものは一体”どこ”にあるのか。
指し示されるのは、意識されたもの、つまり対象化されたものだ。
対象化されないはずの「主体」=「作用」を指し示す(対象化する)ことなんてできるはずがない。
>>345 それなら「私は他人ではなくてこの人間だ」とか
「他人が感じていても私は感じられない」とか言えるはずがありませんぞw
347 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 09:54:38 0
>>346 どういう文脈でそう言うのかによるから、なんとも言えないね。
対象化できないはずのものについて語るっていう自体が、
言語的限界ぎりぎりのところで語ることになるわけだから。
348 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 09:59:14 0
つまり自己言及は、つねにパラドクシカルなんだ。
349 :
赤い猫:2008/02/25(月) 10:00:31 O
>>345 > 指し示されるのは、意識されたもの、つまり対象化されたものだ。
対象化されたものを指し示す(二元論)ならば、それ以前の”私”はどこ?
> 対象化されないはずの「主体」=「作用」を指し示す(対象化する)ことなんてできるはずがない。
もちろん出来ませんね。なぜなら指し示す必要がないのですから。
ウィトゲンシュタインもこう述べている
>>202
350 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 10:05:35 0
>>349 >対象化されたものを指し示す(二元論)ならば、それ以前の”私”はどこ?
だからそれを指し示すことはできないよ。
あえて言うなら「今ここ」としか言いようがない。
でも「今ここ」と言った瞬間にそれも対象化される。
だからそこが限界なんだよ。
351 :
赤い猫:2008/02/25(月) 10:15:03 O
>>350 > だからそれを指し示すことはできないよ。
> あえて言うなら「今ここ」としか言いようがない。
”今ここ”とも言えないのではないでしょうか?
作用以前であるとき、”私”を見出すことがほんとうに出来ると思いますか?
352 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 10:23:29 0
>>351 >”今ここ”とも言えないのではないでしょうか?
まあ、それも「今ここ」をどう捉えるかによる。
禅とかでいわれるような「即今」なんかは、対象化されないものとしての
「今」を、対象されないものとして表わそうとしているんだろう。
それを受け取る側がどう受け取るか、だね。
>作用以前であるとき、”私”を見出すことがほんとうに出来ると思いますか?
それも「見出す」の意味によるから何とも言えないな。
353 :
赤い猫:2008/02/25(月) 10:32:14 O
>>352 詰まるところ我々は常になにがしかの作用をしている訳で、その作用作用による
質感、感じこそが”私”であり、それらは一元論だと私は考えるのです。
仮に思考実験として、一切の作用という作用を欠いたのならば、果たして”私”
はどこに見出すのか?ということです。”私”が”痛み”を指し示すことが出来るという
二元論ならば、作用を欠いても私はあるのですから、なにがしかに相当してなければ
ならないのではないでしょうか?
354 :
赤い猫:2008/02/25(月) 10:34:23 O
”見出す”というのは単純に”私とは何か”ということです。
355 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 10:41:58 0
>>353 >詰まるところ我々は常になにがしかの作用をしている訳で、
ここまではいいと思うけど
>その作用作用による質感、感じこそが”私”であり、
となると、それは対象化された「私」になってしまっている感じがする。
>なにがしかに相当してなければならないのではないでしょうか?
なにがしかに相当するとしても、それを指し示したら対象化されてしまうんだよね。。。
>>354 >”見出す”というのは単純に”私とは何か”ということです。
「私とは何か」を見出すという作用をしつつあるのが、対象化されない「私」だね。
>>311 > 本当に一体なら、その痛みを意識することもないはずだよw
痛みに特化するとおかしなことになるが
禅が用いているテクニック(修道法)の一つはこれだなw
> 対象化してるから、意識できるんだよ。
これを、分別、計らい、と言うなw
357 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 10:46:28 0
ちなみに355の《対象化されない「私」だね。 》という言い方も、
「ほんとうは」できないはずの言い方だということを前提として
敢えて言っている言い方だよ。
358 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 10:49:25 0
>>327 キミの問題意識は、20世紀以前だな
今は21世紀
現代哲学について来れていないんだよな
もっともっと頭使って考えてから喋らないと、恥かくぞ
理解できるまで読み返せ→
>>326 >>328 書いてあるだろ
何を読んでるんだ???
>>343 私 が 作用するんだから二元論にならんだろ
物質が作用するから二元論 なんて聞いた事ないからね
それとも唯物論も二元論だと言うのかね?(苦笑
>>347 それはおかしな話で、本当に「対象化されない」のなら、
「対象化する主体」とも「それ自体は対象化されない」とも、言えるはずが
(というか考えられるはずが)ありません。
どんな文脈で、どんな受け取り方をしようが、それが(他の人間でない)
「この人間」とか(他の時や場所でない)「今ここ」とかと
「何となく同定される」ということすら、あるはずがないと思いますが。
360 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 10:52:42 0
>>359 そこに限界があって、限界のところで敢えて語っているということを理解できない人には、
いくら繰り返してもだめだろうね。。。
361 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 10:53:43 0
まさか、私が脳に作用するって話しじゃないよな
362 :
赤い猫:2008/02/25(月) 10:54:49 O
>>355 > >その作用作用による質感、感じこそが”私”であり、
> となると、それは対象化された「私」になってしまっている感じがする。
いや、私が痛みを感じる、のではなく、痛みがイコール私ということです。
> >なにがしかに相当してなければならないのではないでしょうか?
> なにがしかに相当するとしても、それを指し示したら対象化されてしまうんだよね。。。
つまり、私が○○である、ではなく、違う記述をしなければならないのでは?
私は二元論では成立はしないと思いますが。
> >”見出す”というのは単純に”私とは何か”ということです。
> 「私とは何か」を見出すという作用をしつつあるのが、対象化されない「私」だね。
その作用は思考という作用なのでは?
ここで失礼します。
>>322 > 完全に一体化してたら、「何か」として意識しないはずだよ。
> だから「痛み」を感じているとすれば、「痛み」=「私」ではないのだよ。
だね。
で、禅が対象を消去する方法として用いているのが、それなわけで・・w
(ま、対象と同時に主体も消えてしまうわけだが・・・w)
>>360 いやですから、本当に「対象化されない」のであれば、
「限界のところで敢えて語る」ことも、語ったことを自分や他者が納得する
ことも(私は「今ここ」の「この人間」であって、「2億年前の火星人」
ではない、というのは、たいてい誰でも納得すると思いますが)、
できる道理がないのでは、ということです。
「私」が本当に対象化されないのであれば、
「私はこの人間である」も「私は2億年前の火星人である」も
「私は世界に属していない私は世界の限界なのだ」も、
まったく同じように無意味でちんぷんかんぷんである他ないと思われます。
個人的には「対象化する主体」だろうが「対象化する作用」だろうが、
対象化できないいわれがよくわかりません。
そもそもわれわれが直接認識できるのはいわゆる「クオリア」だけで
あって、「対象化される客体としての物質(たとえば「この人間」」などと
いうものは直接対象化できるわけでも何でもなく、いわば思考の力で対象化
しているわけですから、「対象化する(思考する)主体としての私」を
同じように思考の力で対象化できたところで、別に不思議はないと思いますが。
やはり感嘆子だったかw
366 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 11:41:01 0
>>345 >指し示されるのは、意識されたもの、つまり対象化されたものだ。
脳は意識をフィードバック、つまり自己言及することが可能な構造
となっているから、意識は対象化される。それが自己意識だね。
「私は私」と思うのは自己意識だね。何の不思議でもないしきちんと
言語で記述できる。
>>366 その、「今まさに記述している瞬間の“それ(私(主体))”」を捕捉することができるのか?
ということと思われ・・・。
【『〔[「“自己言及している”私」と記述している私]と記述している私〕と記述している私』と記述している私】と記述しt・・・・
369 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 12:01:28 0
自己言及し続ければ発狂するのは当然だ。
370 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 12:55:18 0
>>368 自己言及は通常7〜8回までが限界だとか。
371 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 13:02:09 0
頭の中で何回も自己言及をつづけようが、私は1人しかいないよ。
過去の中にどんどん私を置き忘れていく私がいる。
373 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 13:25:03 0
循環思考する奴って、くそまじめだけど、低脳すぎるよね。
>>367 それは、「今まさに記述している瞬間の“それ(対象(客体))”」でも
同じことだと思うのですが。
私は臍の緒です。
376 :
赤い猫:2008/02/25(月) 14:15:20 O
兎にも角にも、「”私”が、作用する」のであれば、作用していない状態での
”私”が何に相当するのかを問いたい。誰か答えられる方はいないですか?
377 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 14:20:19 0
”私”が、作用するなんて本気でいう奴いるの?
何に作用するんだろうかね?・・・現れるの待ってみるか?
378 :
赤い猫:2008/02/25(月) 14:21:36 O
>>377 我(私が)思う(思考という作用をする)故にry
私が作用するとは「恐喝して金を相手から奪う」とかそういうこと?
最高位が煽ったり唯識が釣ったりするのは心の作用の具現化じゃないのか?
381 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 14:34:15 0
>>378 誰かが思うと、そいつに取り憑いた私って奴が作用開始? ・・・
382 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 14:36:24 0
>>380 普通は、意識の働きとか、心の動作とかいうんだよね。
まあ、つごうのよいたとえみたいなものだろうけど。
383 :
赤い猫:2008/02/25(月) 14:37:31 O
いや、どうやら文法的に作用以前に”私”があるのです。
384 :
赤い猫:2008/02/25(月) 14:38:04 O
最高位は誰からも相手にされなくなったら作用停止するんだろ?
今は必死で相手にされたいという衝動にかられて煽ってるけど
それは私の存在を確かめるオナニー行為なんでしょ。
386 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 14:48:40 0
起きてるときは だいたい何か考えてまっせ。
そうじゃないときは お眠りしてるだろう。
最高位の分析に仏教哲学が最強ということはわかった。
388 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 15:29:06 0
仏教は「私という実体すなわち本質存在は無い」という立場だからね。
私にこだわるのはつまらないことだ。
唯識は釣りっていうか議論のネタを提供してるんだな
ていうかいつからこの二人は敵対関係になったんだ?
390 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/25(月) 16:34:24 0
!a=not否定
a&b=and優しい
a|b=or躾
a^b=xor優しく出ればつけあがりやがって
感情を数式で表現できちゃいました
!は否定です(哀)
&は肯定ですので優しくする事です(喜)
|は選択ですので教える事つまり躾です(楽)
^は肯定かつ選択は優しくかつ躾するので優しく出ればつけあがりやがってです(怒)
デジタルですね^^
391 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 16:39:28 0
デジタルつーか
392 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/25(月) 16:51:50 0
私見ちゃったんです私を記述します
世界の四大怖いもの
地震雷火事親父
これら全て親父がしてたんです
おやじこえええ
394 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 20:02:09 O
ベーサリー
395 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 00:22:30 0
>>345 >指し示されるのは、意識されたもの、つまり対象化されたものだ。
こういうのはどーでしょうかね。
人間は何を対象化するにしても、結果的にそれを<区別>という物差しで観察するしか無いんですよ。
だから、P⊃Pというトートロジーが理解できる<心的システム>があるなら、その<心的システム>には既に、PはPであって他ではない(P⊃¬¬P)という論理的真理が成立しているはずなんですよ。
そこで…
>対象化されないはずの「主体」=「作用」を指し示す(対象化する)ことなんてできるはずがない。
<心的システム>が論理的であるなら、Pに自己(および論理またはクオリア)を代入した「PはPであって他ではない」という帰結に自覚的であるはずですよね。
それを自覚しているからこそ「私」を手放せないんじゃないですかね。
「私は私だ」みたいに。
◆ 主体の虚飾性
・マルクス「資本論」
「私=主体」にしか認識できない「私の客体」を、
「他者の主体」にも認識できるように加工する。
つまり、「共通客体」をつくる。
・ベンヤミン
都市、建物、小物、服飾などには、民衆の欲望が投影されている。
つまり、客体は主体の願望を反映している。
・まとめ
「私の主体」を他者に説明する時、その説を書いた紙は「客体」あるいは「共通客体」になる。
そして、その説明文(紙切れ)には、「私という存在は複雑であってほしい」という願望が込められる。
主体の記述は、その論理的整合性のみならず、重厚長大な文章が好まれるようになる。
つまり、主体の記述は簡潔であってはならない、簡潔であることを否定する願望が働いている。
これこそが、「虚飾された主体」である。
◆ 哲学の本質
万人を説得できる比喩こそが、哲学の本質である。
・比喩はモデルと言い換えても良い。
・大きな比喩は物語と言い換えても良い。
・メタ哲学
・ヘーゲル
397 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 01:42:23 0
>>387 いや
バカは最強 だ
あいつらは、初歩的な次元で、理解できてないだけ
398 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/26(火) 01:46:52 0
最高位さんには結局何もお答えいただいておりませんね。
色々書き込みを読んでますと
どうやら最高位さんの私の存在というものは
身体に精神にも属さないのではないかと。
前スレの820は建前だったのでしょう。
このあたり、皆さんと議論していきたいですね。
Tea Break
◆ 二元論の分かり易さ
二元論の分かり易さは、人間の肉体的特徴および居住環境に起因する。
・左右(両手、両足)
・前後(視覚)
・上下(頭脚、重力)
これらは感覚的に逆なので、二元論や二項対立が人間には理解し易い。
つまり、肉体的特徴と居住環境が「人間」を作る。
400 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 01:51:50 0
>>398 キミは、知能が低すぎるから理解できんのだよ
理解したいと思ってる?
単に、反発しなきゃ!と思ってるだろ?
だから理解できんのだよ
402 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 01:57:35 0
>>398 前スレの820って、私の置き場所がどうたらこうたら というやつか?
小学校の下駄箱に置き忘れた私。
そのまま卒業した私。
404 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/26(火) 02:04:57 0
>>400最高位さん
最高位さんの手法は身体、精神、私の三つに分けて
私を主体としながらそれぞれの間を質問に応じて移動させているだけです。
単に質問から逃げるための手段を哲学にしてるだけのようですが。
いろんな宗教書からでも引用されているのがわかります。
理解云々とありますが、でしたら質問
>>263にも答えてください。
>>402そうですよ。
最高位が言ってることは
「我思う故に我あり、即唯物論崩壊」
これだけだろw
内容がない
406 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/26(火) 02:13:02 0
>>405さん
「私」を主体に身体、精神から切り離せば、ですが。
>>406 そんなことまで考えないよ、彼は。
「我思う故に我ありは絶対。何で理解できんの?」
これだけ。
>>407 デカルトを知らない誰かに「我思う故に我あり」だとか言うと絶対アホ扱いされると思う。
409 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 03:01:17 0
>>404 >私を主体としながらそれぞれの間を質問に応じて移動させているだけです。
う〜ん
何度も言うけど
そもそもキミのしてくる質問が、的外れなんだよ
根本的にズレてるんだよね
そのズレを修正してあげようと努力してるんだけど
キミは全く気づいてくれないんだよね
>>263 キミは、置き所 とか言って
場所とか空間で示せと要求するよね
唯物的な発想から抜け出せずに
私に対しても、「唯物的にキッチリ説明せよ」と要求してくる
そして、「唯物的に説明できないから大した事ない」 と
全くもって勘違いした『マイ理論』で自己満足している
あのね
私は「唯物論は間違いだ」と言ってるわけよ
要するに
「私」を唯物論的に説明できなくていい立場なのよ
『場所』なんて答えなくていいの
答えなきゃならんのは唯物論者
私は、キミの的外れな唯物的な質問に答えなくても
それでこそ成立する立場なんよ
その当たり前さを、そろそろ理解できたらどうかね?
410 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 03:03:08 0
>>408 うむ
まさに、このスレがそうだね
哲学の基本が理解できないうちにマイ哲学に走っちゃってるから
基礎的な事を言われてるのに、相手をアホだと勘違いしちゃうんだろね
本を読むマイ哲学者はいない
読書量の足りないバカがマイ哲学にはまる
最高位しかり
412 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/26(火) 03:13:50 0
>>409最高位さんj
答えていただかなければ理解のしようがありませんが。
的外れではなく誤魔化して居られるだけです。
やはり身体、精神、から私を独立させて説明放棄ですね
このトライアングル構造のどれかに退避させればいいだけです。
的外れもなにも「私は身体、精神に関係、繋がりがある」唯識の考えと違い
身体、精神、から私を独立、切り離して考えて居られるのならば
私の言は的外れ以前に、理解されて居られないのでは?
唯物的云々とありますが
唯物論的アプローチではなく唯識的ですが。
置き場所は唯物論でもなんでもなく
>>820の1〜4のいずれかです。
1とお答えいただいておりますので。
>>263もお願いします。
413 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 03:13:52 0
>>411 デカルトぐらい
本なんて読まなくても、講義受けたら十分に理解できる
本を読んだからと言って、自分だけで納得して、誤読してたらマイナス効果(苦笑
現代哲学を理解するには、本よりも更に、知能とセンスが必要
414 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 03:19:47 0
>>412 はぁ・・・(ため息
質問がおかしいっつってるんだよ
出直して来い
キミの頭はガッチガチなんだよ
思い込み激しすぎ
イノシシにたいなやっちゃなぁ
いっかい、質問ではなく、自分の理屈で説明してみなよ
『私』とは物理的な何なのかを特定して、唯物論の正当性を主張するなりしてみたまえ
講義を受けた人(それも家庭教師に教わったレベル)の方が自分一人で納得しているだけなのでは?
デカルト批判も、その反批判も含めて、多くの考えが本となって出ている
そのような論争を通して読むことが思考する力になる
答えだけを読もうとする人にはできない読書方法だ
このような凡才の方法が俺は好みだ
だから俺には哲学センスなんてないし、そんなものは必要ない
416 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/26(火) 03:28:09 0
>>414最高位さん
唯物論者でないのになぜ物理的に特定しなくてはならないのですか?
唯識論ですでに指摘して居ります。どこかご不満でも?
最高位さんは質問に答えていただいたのはただの一回です。
417 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 03:34:02 0
>>415 キミは、家庭教師はみんな同じレベルだと思ってるのか?
家庭教師してたら、大した事ないと??(爆笑
>デカルト批判も、その反批判も含めて、多くの考えが本となって出ている
だから、それで勉強した内容で、私の理屈を覆せばいいじゃんかよ
簡単な話だろ?
しかし誰一人として、それができた人は、ここにはいないんだけど、なんで??(爆笑
>このような凡才の方法が俺は好みだ
>だから俺には哲学センスなんてないし、そんなものは必要ない
悲しいかな現代哲学は、本を読んでも
読んだからといって理解できる次元じゃないんだよ
センスが必要なんです
悲しいかな
一般的に学校教育などで洗脳されてきた価値観から、自力で脱皮できる人にしか理解できません
418 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 03:37:41 0
>>416 >唯物論者でないのになぜ物理的に特定しなくてはならないのですか?
私は、唯物論が間違いだと言ってるんだけどさ
では、それに対しては文句はないのだね?
>唯識論ですでに指摘して居ります。どこかご不満でも?
覚えがないんだけどさ
もう一度、今やってみてよ
>最高位さんは質問に答えていただいたのはただの一回です。
質問が的外れだと言ってるのに、何を読んでるんだ???
>>413 キミは自分だけで納得してるのではないのか?w
デカルトの霊にお墨付きでも貰ったか?w
420 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/26(火) 03:38:53 0
嘘で固めた現実なんてどうでも良いでしょってことでしょ
>>417 >しかし誰一人として、それができた人は、ここにはいないんだけど、なんで??(爆笑
それは君一人の思いこみだからだよ。
>>417 >一般的に学校教育などで洗脳されてきた価値観から、自力で脱皮できる人にしか理解できません
新興宗教の人がよく言うね
中身がないからハッタリで飾るしか出来ない
一般的な価値観を否定したらそれこそただのマイ哲学だろがw
学校教育の価値観から自力で脱出できた?
反論受けるとすぐ「病院行け」という奴がよく言うぜ
常識に凝り固まっていて、非常識に目を向けることもできないやつが最高位じゃないか
最高位は「もしかしたら自分が間違っているかもしれない」と考えることはない
これは最高位に哲学センスがないため、彼はそうできないのである
もっとも哲学に向いてないタイプだよ
最高の哲学者を名乗る人が、
新興宗教の勧誘員と同じような陳腐な言葉しか吐けないのはなんでなんだぜ?
426 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 03:58:54 0
>>419 講義というのは、先生や生徒がいて、複数で学ぶんだから
一人で本を読むよりは、よっぽど、独りよがりにならずに理解できるはずだが?(笑
>>421 だから今ここでやってみればいいじゃないか
簡単な事だろ?(爆笑
>>422 発想の転換 というだけの事であってね
哲学の範疇な
神がかりではないので安心しろ(苦笑
427 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 04:05:22 0
>>423 >>424 既存の価値観を理解した上で
基本を押さえた上で高次元の発想に脱皮するという意味な
キミらのように、病的に脱皮するのとは意味が違う
>最高位は「もしかしたら自分が間違っているかもしれない」と考えることはない
それはキミらなんだよ(苦笑
唯物論的価値観は、世の中に蔓延していて、当然私も当たり前に理解してるわけよ
でも、『現代哲学的な問題意識』と言っても
キミらは理解できてないよな
まず、理解したいと思わなきゃ始まらない(苦笑
最高位君
一般に、大学の講義は上から下の一方通行
ゼミや演習になってやっと学生同士であーだこーだ言える
論文は講師とのタイマンバトル、勉強不足だとすさまじいつっこみを受ける
学会も論文発表の後の質疑応答が醍醐味
つっこみを受けた経験量が大事なのよ
君のようにすぐ「病院行け」という奴はそういう経験をしてないて丸分かりなのよ
>>426 >講義というのは、先生や生徒がいて、複数で学ぶんだから
>一人で本を読むよりは、よっぽど、独りよがりにならずに理解できるはずだが?(笑
講師に洗脳されたんだねw
おっと、これは最高位に限らない話だったな
つっこみを受けるのに慣れている人も、つっこみをするのに慣れている人も、このスレには見当たらず、、、
431 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/26(火) 04:14:16 0
>>418最高位さん
まず前提として最高位さんのように身体、精神、私というように切り離しません。
(もし切り離してない、と言われるならばそれぞれの関係をお答えください)
身体、精神から私を切り離せば、その私を唯物論で説明出来る筈も無く
且つ唯物論の範疇ではありません。むしろ宗教です。
(無い商品を注文するクレーマーと以前言いましたね)
最高位さんの口癖「思ってるのは誰」がありますが
これは「五感と意識」のフィードバック(入出力の繰り返し)であります。
端的に言えば身体機能です。唯識では(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と意識です。
唯識では識・こころを八つに分けます
表層(浅い部分)は五感(五)と意識(六)、深層は末那識(七)と阿頼耶識(八)です。
言葉はこの内表層の領域です。
長くなりますので(何度も書いたのですが)また後日にお願いします。
>>426 >発想の転換 というだけの事であってね
>哲学の範疇な
>神がかりではないので安心しろ(苦笑
そうそうw
新興宗教の人も、発想の転換とか安心だとか言うんですよw
きっとあなたと同じ発想なんでしょうね
433 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 04:22:59 0
>>428 講義と言ったら講義だけだと決め付けちゃう時点で、どうかしてんじゃないの??
つーか
デカルトの基礎ぐらいの事で、何を大げさな(爆笑
今ここで、「我あり」を論理的に否定して、私の理解を否定してみなさいよ
さぁさぁ
ギャーギャー言ってないで、今やろうよ
本論をさ
>君のようにすぐ「病院行け」という奴はそういう経験をしてないて丸分かりなのよ
いやいや
まともなツッコミになら、まともに応じますよ
しかし病的な人には「病院に行きなさい」と言うのが親切でしょう
我思う。しかしその我はもうどこにもない。
あのときはああするのが一番いいと思ったんだよ。
盗人の戯言でした。
>>426 >だから今ここでやってみればいいじゃないか
>簡単な事だろ?(爆笑
君以外には無理だよ?
437 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 04:43:13 0
>>431 >まず前提として最高位さんのように身体、精神、私というように切り離しません。
>(もし切り離してない、と言われるならばそれぞれの関係をお答えください)
ん?
じゃぁまず、キミにその、それぞれの関係を答えてもらわねばならんね
人に要求するクセに、なんで自分では書いてないの?
>身体、精神から私を切り離せば、その私を唯物論で説明出来る筈も無く
>且つ唯物論の範疇ではありません。
なんで?
科学の範疇ではない というならわかるが
唯物論の範疇ではない というのは、どういう事?
唯物論は「人間の精神は、物理現象だ」と言ってるんだよ?
ゴチャゴチャ言ってないで、何の物理現象が『私』なのかを
さっさと説明すりゃいいでしょう
>最高位さんの口癖「思ってるのは誰」がありますが
>これは「五感と意識」のフィードバック(入出力の繰り返し)であります。
他人のフィードバックは、私とは関係ないんだよ
そんな一般論的な解説では『私』の説明にならんのです
最高位
では有名どころをひとつ
懐疑の第二の手続きとして「論証につかうものを疑わしいとして破棄した」とデカルトはある
その後、明証的なものは真理として受け入れてよい、とデカルトはした
だが、自明なものが必ず正しいかどうかは疑わしい
また、これを論証しようにもデカルトは論証を捨てている
このような疑わしさを放っておくのは懐疑が一貫していないのではないか?
このことは、「われおもうゆえにわれあり」が懐疑論者の途方もない想定ですら揺らがないものではない、ということを示すのではないか?
実際、論理の内部にパラドクスが含まれていないことは示されていない
「われ思うゆえにわれあり」もまた、堅固ではないのである
昨日の最高位と今日の最高位と明日の最高位は別人である私が存在するらしい。
結局、「今」と「私」は同じ意味でした。
とりあえず「私」と名付けて捉えたような気になりましたとさ。
錯覚も信仰すればよいのでごじゃりまする。
>>437 おいおいw私の説明っておまえの説明を唯識に求めてんのか?
442 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 05:02:53 0
>>438 と、思っているのは、いったい誰なの?
>>440 錯覚しているのは、他ならぬ『私』じゃないのかね?
他人なん?
他人の錯覚は、認識できんはずだよね
完全にパラノイア(精神病)だな>最高位
444 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 05:06:11 0
最高位論は唯物論的でいい感じだ・・・
>>437 >唯物論は「人間の精神は、物理現象だ」と言ってるんだよ?
そう、人間の私とは言ってないがな
>>442 できるよ。あいつ錯覚してるよなってwおまえが証明してくれてる。
むしろ最高位が病院へ行って、まず医者を説き伏せないとな。
「私は精子と卵子から出来たのではない!」と。
450 :
赤い猫:2008/02/26(火) 05:22:12 O
>>358 >
>>343 > 私 が 作用するんだから二元論にならんだろ
> 物質が作用するから二元論 なんて聞いた事ないからね
> それとも唯物論も二元論だと言うのかね?(苦笑
ですから、作用を欠いたときの”私”は何に相当されるのですか。
唯識の質問攻めでどんどん崩壊してるな。全部図星なんだろう。
今日もゆくゆく架空の私どんと行く。
医者「キミが生まれた原因はパパとママのセックスだよ」
最高位「あなた病院へ行ってください」
刑事「最○位、あなたを殺人の容疑で逮捕する」
最○位「何故、私が?」
刑事「現場に残された指紋、毛髪、血液、監視カメラの映像、
全てが物理的にあなたの犯行であると示している」
最○位「馬鹿を言いたまえ。それらが何で私であらねばならないのかね?」
455 :
赤い猫:2008/02/26(火) 06:36:54 O
私が見る、私が歩く、私が座る、私が立つ、私が聞く、私が喋る、私が私が・・
”私”が其々に作用するのであれば、例えば”私”が視覚と歩行の作用しか出来ないもの
であるとしたらば、見たり歩いたりしていない時の”私”に相当するものは何なのかと。
我思う故に我ありは崩壊。
456 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/26(火) 07:18:41 0
まぁ、意識は無意識を超えられませんよってことです
デカルトも王女のツッコミに
唱歌隊を持ち出さざるをえなかったし
>>404が思い切り的を射ているな。
まあ思考が雑なせいでそうなってるだけかもしれんが。
本人は大真面目みたいだし。
>>427 マイ哲学だろ?
誰の哲学だ?答えてみろwwwww
「私」の哲学=マイ哲学
永井はマイ哲学だと認めてるから誠実だな
最高位大先生は教えてやる教えてやる詐欺が得意です。
でも教えて教えてと問われると自分で考えろと言って臍を曲げます。
463 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 08:15:52 0
>>450 >ですから、作用を欠いたときの”私”は何に相当されるのですか。
欠かんだろ
464 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/26(火) 08:17:50 0
死ぬってなんだろうね?
466 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/26(火) 08:44:00 0
ピンホールで見る写像はさかさまです
瞳孔というピンホールで見る世界もさかさまなんじゃないの?
467 :
赤い猫:2008/02/26(火) 08:44:08 O
468 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 09:20:49 0
>>438 まだぁ??
論点は
「我あり」なのか、どうなのか ですよ
「我思う故に我あり」という論法の分析ではないのです
「我なし」である可能性を示さねばなりません
示しながら、その示した「我」を、同時に否定しなければならないのです
そんな事が可能ですか???
それができた人がいるのですか?
みんな論法の揚げ足取り というマト外れな観点に立つだけであって
肝心の「我あり」を否定できていないのですよ
マト外れな反論をして、それで反論できてると思っているのでしょうか
我思わずゆえに我なし
我はないよ他人だから
他人思う故に我なし
473 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 09:45:06 0
>>467 何の実験??
実験になってないと思うが
私は、私であるが故に私であって、私は、私という純粋なる存在性
私以外は私以外
なにこれ?w
「私」のところに何を代入しても同じじゃなかろうかw
476 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/26(火) 10:11:42 0
>>475 んなこたぁない
富士山は、私の価値観によって富士山なのであって
実際には、火山灰が体積したもんだとも言えるだろ
477 :
赤い猫:2008/02/26(火) 10:12:52 O
>>473 貴方の理論では”私”と”一切の作用”は其々独立している、とみてとれる。
「我思う」のならば、”我”の置場所は?そして”我”が思わない場合の”我”は如何に。
「我」は「思う」。「我」は「ある」。
因果関係ないね。「思う」だけで、
人は存在の輪郭を想起できない。デカルトは最終的には神に依っていたのさ。
480 :
素人:2008/02/26(火) 10:59:15 0
>>449 精子と卵子から(【直接的に】w)できるのは「身体」ですねw
両親のセックスから(或いは受精卵から)、
走る、話す、食べる、見る、聞く、等の行為(作用)が生じるのではありませんね。
泣く、笑う、怒る等の行為(作用)、感動する、喜ぶ、悲しむ、愛するの等行為(作用)が生じるのではありませんね。
思考する・対象化する、疑う、信じる、等の行為(作用)が生じるのではありませんね。
両親のセックスが(或いは受精卵が)(【直接的に】w)作るのは胎児ですねw
両親のセックスから(或いは受精卵から)(【直接的に】w)生じるのは胎児ですね。
さて、これら行為(作用)は、一体どこから(どのように)生じているのでしょう・・・。
>>463 > >ですから、作用を欠いたときの”私”は何に相当されるのですか。
> 欠かんだろ
そうです。
作用を欠かない所が重要なのですw
481 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 11:01:42 0
>>476 ボケェ!
富士山の土台は溶岩や砂礫が積み重なったものだ。
火山灰が体積したものは、関東ローム層だ。
小学校からやりなおせ。
482 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 11:20:08 0
>>476 最高位さん、経営の方が順調ですか?
大阪は橋下知事になったそうですが。
>>480 走る体も、笑う体も、
両親のセックスから生じたの
484 :
赤い猫:2008/02/26(火) 12:05:16 O
君等が思うところの”私”など存在しないのです。”私”など言葉、それだけ。
無明→煩悩、我執。”私は痛い”ではなく、”唯だ痛み”があるだけなのです。
敢えて言うなれば”私”など痛みそのものだ。
485 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 12:07:33 0
>>484 “痛み”の部分を、包括的に“識”とすれば「唯識」ですねw
Tea break
◆ オブジェクト指向プログラミング=共通客体指向プログラミング
オブジェクト指向プログラミング(OOP)における"オブジェクト"とは、
これはそのまま「客体」である。
しかも、そのオブジェクトとは、「他者の主体」でも認識可能な「共通客体」である。
カプセル化された内部がいかように複雑であっても、
他者が理解できるのはプロパティやメソッドという、
ごくわずかな部分に過ぎない。
ちなみに、クラスのインスタンス化というのは
・クラス=イデア
・インスタンス化=光を当てる
・インスタンス化されたオブジェクト=イデアの影
である。
プログラミングの本には、こういった哲学的背景が
滅多に書かれていないのが悔やまれる。
書いてあれば、主体/客体について考える技術者が増えるというのに。
487 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 13:24:51 0
ここまで読んだ。
一番笑えたレスは
358 :哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/25(月) 10:49:25 0
>>327 キミの問題意識は、20世紀以前だな
今は21世紀
現代哲学について来れていないんだよな
もっともっと頭使って考えてから喋らないと、恥かくぞ
488 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 13:30:07 0
頭をどんだけ使って考も 恥かくだけの 最高位
なんでみんなそんなに馬鹿なの?
唯識ってひとも含めてぜんぜん哲学の勉強したことないみたいだね。
勉強したけどわかってないのかもね。
最高位がいちばんまともっていうかふつうじゃんw
490 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 13:52:31 0
思考は当該の脳だけでは無く、当該の生体全体によって行われなければ為らないだろう。
つまり、思考は遺伝子の声、器官の声、そして、脳自身の細胞の声などを聞く事によって
為されるのであり、当該の脳とそれらの間で為される情報交換に他ならない。
491 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 14:25:03 0
>>477 赤猫さんはぜんぜん解ってないね。
そんな論法ではとても無理ですよ。
刃が立たない・・・
492 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 14:32:33 0
弱い犬ほどよく吠える。頭の悪い奴はスレに粘着する。
最高位よ
論点は、デカルトのとった「少しでも疑わしいものはすべて捨てる」という行為の後に、何か確実なものが残るかどうか、なのよ
これが21世紀の哲学
デカルトの著作と向き合っているから、論点を外さない
君のは思い切り的外れだ
494 :
赤い猫:2008/02/26(火) 14:44:08 O
>>491 論法も糞もないね。理解出来ないのは君でしょう?
本来ならば一言で終わるんだよ。
「唯識無境」
はい、終わり。
ええじゃないか ええじゃないか えじゃないか
賞味期限 切れてたって えじゃないか
哲板の名物 私の存在性で えじゃないか
赤福
496 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 15:33:12 0
微妙に唯識ファンが増えつつある予感w
作用を欠くときはわたしか肉体のどちらかを失ったとき
無知蒙昧な人の子に、今一度天啓を授けよう。
◆ 虚飾された主体
>>396 「私の記述」とは、自分を複雑に見せかけようとする徒労である。
生来単純であるところの人間が、
見せかけの自己価値をひねり出そうとする、愚かな過程である。
「私の記述」とは、自己顕示欲のみが抽出された駄考である。
◆ 虚飾された主体 (2)
>>396 自己存在には価値が無いということを認識せよ。
自己存在は単純であることを認識せよ。
「無我」という概念を「自己価値の完全否定」と解釈すれば、
無我という概念は正しい。
502 :
赤い猫:2008/02/26(火) 16:38:12 O
>>498 欠いたとしたら、だ。阿呆が。
欠く訳がないだろ。
まあ、一切の作用を欠いたのならば死ぬわな。
だが、”私”が”呼吸する”なら呼吸が止まれば”私”はどうなる?
ああ因みに、”私”と”呼吸する”は関係ないからな。
昔小学生のとき上手く泳げず25メートルプールを息継ぎナシで泳ぎ切ったことを思い出す。
あのときは死ぬかと思った。
下手の考え休むに似たる。
英訳すると・・・w
そうか?
「思う」という作用なら、しょっちゅう欠いているぞ。
ジュラシックパークに見る現代科学の死生観について徒然なるままに
琥珀の中にモスキート
遺伝子操作で恐竜復活
恐竜個体は死ぬけど恐竜の種は見事に保存されていたのでありました。
めでたしめでたし
生命そのものは依然謎だけど生命の形質はこうして生き長らえるのでりました。
作用万歳
私以外、私も分からない馬鹿ばっかり ┐(´ー`)┌
508 :
素人:2008/02/26(火) 17:22:28 0
>>498 「欠かんだろ」 と発言したのが最高位氏であるところに味があるのです。
この面白味が解りませんか・・・w
茶々入れでなく本気で言っているのだとしたら、
>>243-244に対する、忌憚無き御批評を賜れれば幸いに存じ上げます。
(´ー`)y━~~
509 :
赤い猫:2008/02/26(火) 17:26:07 O
ナーガールジュナだな。
唯識、素人、赤い猫
仏教派
VSあと誰?
閃いた!
最高位の勘違いにまたひとつ気付いた
最高位は「、、、とは何か」「、、、は。。。である」が意味ある文章だと考えているっぽい
これは20世紀以前の時代遅れの考えだ
最高位の言葉はわけわかんないことが多いけど
本を読まないから現代の流れに反した表現をするんだな
辞書をつくるのが哲学の仕事だと思ってるんじゃないのか?w
そうです。
辞書を作るのが哲学の仕事です。
実はそれ以外は余計なお世話なんです。
513 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 18:15:17 0
登場人物(順不同)
唯識、素人、赤い猫、最高位、ネコ、感嘆子、ほら貝、じいさん、他
514 :
考える名無しさん:2008/02/26(火) 18:54:34 0
"唯―一ネ申 ◆/lnzRdXb8M" == "ちゅう ◆Pzn2.y/16A"
>>502 291・295・307が言っているようなことなら既に私が言っています。
>作用以前の我を見出すことが
>出来ないのであるからして、「我思う故に我あり」は成立しないということが。
しかしそれと↑がどう繋がるのか?
長すぎ
518 :
唯識的独我論者:2008/02/26(火) 21:08:32 0
最高位氏のレスに心の底から同意します。
私は私であり、人間Aの大脳=私ではありませんし
『この私』と『他の私』は全く別です。
それに現代の唯物論は純粋な理論的な論ではなく
多数決によって曖昧なところで線引きされた定義の一種でしょう。
人間は脳とトランジスタと分子一個の複雑さを
脳>>>>越えられない壁>>トランジスタ>分子一個
のように考え、それで脳は特別だkら意識を生むとか考えますが
その時点で既に人間の本能や無意識に染まった理論です。
物質には脳>トランジスタ>分子一個程度の違いしかなく
現象が複雑だから意識が発生するとかはないんですよ。
つまり脳で意識が発生するなら素粒子一個から発生してもいいし
それがおかしいと言うなら全ての人間は哲学的ゾンビです。
あと、存在する物事に関して、基本的に『この私』と『思考と感覚』は
全く違います。人間の語る因果とかは
『思考と感覚の変化』を説明してるだけで
根源的なこと、「なぜ、この私や思考と感覚が存在し変化するのか?」
の説明ではありません。
因果というのは「これがこうなると、あれがああなる」程度のことで
ナマズと地震だって立派な因果の一つで科学的とそうでない事の差は少ないです
独我論は絵に描いた餅。
だから腹減ったら独我論なんて忘れるのだ。
でも、人類史上、独我論が正しいという感覚を得た人はいないから大丈夫。
「我思う 故に我あり」と歴史の教科書に書いてあった。
先ずその言説を疑うことから始めた。
厨房は偉大也!
「我腹が減る 故に我生きている」
偉大な真理に乾杯!
>>515 少しく言い換えてみましょう。(あくまでも、デカルト的命題を主軸として。)
「“我”“思う”。故に、“我”あり」を、
「“去る者”が“去る”。故に“去る者”あり」と。
これは、最初に置かれる主語が、既に“去る”という作用を含んだものとして立てられているので、
多少は許容されるかもしれない。(龍樹的にはアウトでしょうが・・・w)
では、
「“何者か”が“去る”。故に“何者か”あり」と、言い得るかどうか・・・。
「去るという働きの無い何者か」が「去る」などということがあるのか?
「“何者か”が“思う”。故に“何者か”あり」と、言い得るかどうか・・・。
「思うという働きの無い何者か」が「思う」などということがあるのか?
「故に」で結ばれた前分と後分との間に、どのような必然的繋がりがあるのか?
辛うじて、「我思う。故に、思う我あり」なら、まだ納得がいく。
或いは、「思う。故に、思う我あり」なら、まだ納得がいく。(こっちの方がイイなw)
デカルト的命題に於いては、最初に「我」が立てられているが、
その「我」は、「結果としての「我」」ではなかろうか? と。
そもそも、「思うという働き以前」に(→「我」の成立・存在の根拠以前に!!)
「我」を立ててしまうのは如何なものか? と。
こういうことではないでしょうか?
◆ 我思う 故に我あり
肉体と精神の二分という概念は、デカルトによって広められた。
よって、「我思う、故に我あり」という言葉が本質ではなく、
肉体と精神が哲学上、分離したことに意義がある。
博士大変です!
実はネアンデルタール人も肉体と魂を二分していました!
525 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/26(火) 23:56:03 0
>>437最高位さん
追々説明しますので焦らなくてもよろしいでしょう。
その前に身体・精神と私を切り離す必要があるのでしょうか。
唯識ではすべて繋がっているんですね。
「私」を指し示すもの、身体でも、こころでも或いは所有物でも
他と比較した私でも、すべては認識作用によって成り立っていますから。
>>525 心理学の自我と同じということか。
認知科学はそこらへん曖昧。
528 :
赤い猫:2008/02/27(水) 00:10:47 O
>>522 そうですね、ほぼ同意します。
> 或いは、「思う。故に、思う我あり」なら、まだ納得がいく。(こっちの方がイイなw)
> その「我」は、「結果としての「我」」ではなかろうか? と。
これは、ちょっと違うのではないかな。
”思う=思考”と”我”は全く関係がないのであって、”思う我”となると、
やはり”我”という実体的ななにものかを確立してしまっている様に思えます。
”ただ思う””ただ思考”があるだけなのであって、なぜ”我”を介入させる
必要があるのだろうかと。思う以前の我とは?○○以前の我とは?と遡っていけば、
では”我”はいつから”我”なのかと。”我”というなにものかを各々の作用
と別に確立してしまっているのだから、いつから、なのかも重要になるでしょう。
産まれた時から?いや胎児?いやいやそれ以前?生じたものは滅するのであれば
”我”はいつ滅するのだろうか。
529 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/27(水) 00:17:36 0
>>527さん
そうですね。表層における自我とは心理学でいうそれでしょう。
唯識ではそういった自我よりもさらに根深いといいますか
根本的自我と呼ばれるものがありましてそれが深層識の末那識です。
表層の認識作用における区別、差別化にも関わっているのですが
根本的に「自」と「他」を区別、差別化する働きのこころです。
>>522 >「“何者か”が“去る”。故に“何者か”あり」と、言い得るかどうか・・・。
例えばボランティアは報われないから「“何者か”が“去る”」と思っている人にとっては、
「“何者か”あり」は意味論的前提になるということではないでしょうか。
この場合だと「“何者か”が“思う”。故に“何者か”あり」も同じようなものなのかなと思います。
というか、もしかしたら言いたいことは、存在借定の問題に拘わってくるのかも知れませんね。
例えば、「全ての人間は死ぬ<どんなものであれ、それが人間ならそれは死ぬ>(∀x(Fx⊃Gx))」
から「死ぬ人間がいる(∃x(Fx∧Gx))」が論理的に!と言っていいかはともかく(論理学者も曖昧にしている)、
とにかく導かれるようです。
だとすれば、「全ての火星人は死なない」(前件の火星人が空だから全体は真)から「死なない火星人がいる」
が導出されるはずですが、そんな話も絡んでいるのかなぁ?と。
>その「我」は、「結果としての「我」」ではなかろうか? と。
まぁそういうことでしょうね。
自分の存在を証拠立てる材料がないから自分が考えていることを根拠にするしかなかったんでしょう。
で私は518になんとなく同感ですけど。
>>529 所有物も入るんでしょ?
だから心理学と書いたの。
532 :
1/2:2008/02/27(水) 00:43:46 0
>>528 (最高位は煩く言うがw)、522に、なぜコテが入っていないかと言えば、
私自身の立場とは若干異なるからw
また、
貴方が、半分同意しながらも異議を挟んだ部分について、
言わんとすることは解ります。
が、
「ヒトの認識」という事象に於いて、
もしかしたら避けられない側面がそこにあるのではないか、ということです。
(「思う」という表現でもよいですが)、およそ「思考・認識・実感」等がされる時、
そこには、自身としての「思考・認識・実感」等しかありえないということです。
≪「思う」があれば、(「思考」があれば)、
それは、有無を言わさず問答無用に、論理以前の必然として、
《「自分」である》 ≫ と。
(ま、だから逆に、デカルトの言は【思う。故に、あり】で十分、とも言い得るわけですが・・・w)
そこから自我という囚われを消去する方法は、
『仏教という枠組みに於ける「見做し」』を採用する、ということでしかないのかもしれません・・。
落とし所として確定し切れていないので、
このレスも名無しでの書き込みとなりますw
(最高位がブチ切れるかな?www)
533 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/27(水) 00:44:01 0
>>525 :唯識
>ではすべて繋がっているんですね。
そのとおりです。
ですから・・・・・・・・・・・・・・
>>529 :唯識 ◆
>・・・表層における自我・・・
>根本的自我と呼ばれるものがありましてそれが深層識の末那識です。
と言うように階層で意識を分けるのは間違いなんです。
貴方は矛盾しています。
貴方の最初の言明の通り意識は「全て繋がっているんです」。
>>528 196 考える名無しさん 2007/06/23(土) 09:44:54 0
>> 195
863 考える名無しさん 2007/06/19(火) 10:37:34 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1180813863/ 59 考える名無しさん sage New! 2007/06/18(月) 17:41:07 0
自分として実感・認識・自覚されるなら、それは「自分としてしか」ありえない。
他人であった場合などありえない。それは、(そこに於ける自己認識は)常に「自分」でしかない。
「なぜ自分は自分として・・・」など、問い自体がナンセンス。
それが、「これこれこういう肉体的特徴、環境・境遇に生まれたのはなぜか?」ならば、
問う意味も生じよう。
しかし、意識としての「自分」であるなら、自分以外を実感し、自覚することはない。
思惟自体は、常に「自分でしかない」。
思惟が他人であることはない。自己フィードバック的に実感・自覚・思惟された時点で、それは「自分」となる。
204 196 2007/06/23(土) 11:49:02 0
>> 195
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない92◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1177677748/ 933 考える名無しさん sage 2007/05/11(金) 17:34:21 0
他人である事を経験した事のない私が他人の知にとやかく言うのは何故でしょうね
939 903 sage 2007/05/11(金) 18:10:51 0
他人であることを経験するのはありえないでしょ。
「他人であることを経験している時」、それは(その時は)もはや「『他人』ではない」。
経験は、「私」のみにされる(知覚される)ものだろ?違う?
経験できてしまった時点で、すでに「その経験は『他人であること』ではなくなってしまう」。
>>530 意味論云々は、動詞の語義に左右されると思われますので、
あまり考察の意義を感じません。
その他は(記号以外は)そうであろうと思います。(記号は全く解りませんw)
もっとも、
>>518は、(一ヶ所以外)当たり前すぎて話になりませんが・・・w
赤猫氏は滑り坂論法が得意のようだ
ああ、
>>535は、
「動詞の語義」と言うより
「シチュエーション」に左右される、と言った方がいいか・・・?
538 :
赤い猫:2008/02/27(水) 01:28:25 O
>>532 > (「思う」という表現でもよいですが)、およそ「思考・認識・実感」等がされる時、
> そこには、自身としての「思考・認識・実感」等しかありえないということです。
> ≪「思う」があれば、(「思考」があれば)、
> それは、有無を言わさず問答無用に、論理以前の必然として、
> 《「自分」である》 ≫ と。
その、自分或いは他人などという概念が如何なものなのか・・
”この世界”は”わたし”なのであって、そこに”ただ思考”やら”ただ痛み”
やらがあり、ある意味でそれらは一体”だれ”のものであるかを知らないのです。
”痛み”それ自体”わたし”なのであり、”風景”それ自体”わたし”なのであり、
抽象的世界でわれわれが言う”私”は結局”言葉それだけ”に過ぎないのであり、
なんたらかんたら・・・
この財布は誰のですかー、と呼びかけている人の手に
自分の財布が握られていた場合、その人は何て言うんだろ?
「ハイ」だけでは足りませんよね。
>と言うように階層で意識を分けるのは間違いなんです。
システムの位置に立って純粋な作動を記述するのがオートポイエーシス理論ですが、その理論が括弧に入れるべき<観察者>の視点を手放せない、といったところかな?
こういう議論て駄目だよね。
だって心の世界は見えないでしょう?
見えない世界を、見える物質的な例え話しで説明してるんだから、
間違いだらけになっちゃうよ。
観察者とか視点とか、起点とか、方向性とか、内側と外側とか、
全体とか部分とか、
そのような物質的(大きさのある物)な例えを使って説明している限り、
こういう議論て、ずーっと駄目なままだね。
542 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/27(水) 03:50:07 0
>>481 おお!
すまんすまん(笑
じゃぁ書き直すわ
>
>>475 >んなこたぁない
>
>富士山は、私の価値観によって富士山なのであって
>実際には、溶岩や砂礫や 火山灰が体積したもんだとも言えるだろ
これでいいか?
反論よろしく(爆笑
>>482 >最高位さん、経営の方が順調ですか?
お陰様で^^
543 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/27(水) 03:54:11 0
>>489 うむ
このスレにも
キミのようなマトモな人がいて、嬉しい^^
>>493 >論点は、デカルトのとった「少しでも疑わしいものはすべて捨てる」という行為の後に、
>何か確実なものが残るかどうか、なのよ
>これが21世紀の哲学
私は21世紀の哲学で
『我あり』が更に深く高次元に理解されるようになってきた と認識しています
しかし、あなたの主張は全く逆ですよね
デカルトは
全てを疑う事は可能だが、「我あり」は、どうやったって疑いえない
と言ったのではないのかな?
あなたは、そう理解する私の考えを否定するわけですよね?
21世紀の哲学で、デカルトの考えが、覆されたと主張するわけですよね?
では、この「我あり」を、どうやって「疑いうる」とできたのですかな?
あなたの言う21世紀の哲学で、論理的に説明して下さい
さぁさぁ
今やって下さい
22世紀の哲学に期待。
>>543 「我あり」は普通に疑えちゃいますよ。
他人事だから普通に「デカルトあり」と読み替えちゃいます。
我に自分を置き換えろなんて大きなお世話な気がするんです。
思う主体は確かにありますけどもそれは何かを思っているときの主体なんで猥談してるときの
主体と議論しているときの主体は違うということにしてるんです。
その方が都合がいいですから。
ようは主体とかいうのが何らかの形であり続けることが可能なのかどうかじゃあ〜りませんか?
デカルトさんの我ありはそのときあったわけでずっとあるわけじゃないし死んだらどうなるとかも
想像してみるしかないんですよね。曖昧。
だから、自明なものが必ず正しいとは限らない、ということが20世紀に判明したのよ
デカルトは、「明証的」で思考停止していい、と考えたけど
現代では、そうもいかない
「明証性もまた懐疑にかけられる」ということが分かった
ちなみにこれ、20世紀の展開な
547 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/27(水) 04:20:50 0
>>545 >「我あり」は普通に疑えちゃいますよ。
誰が?
誰が疑えちゃうの?
>>546 >「明証性もまた懐疑にかけられる」ということが分かった
誰が懐疑にかけてんの?
懐疑にかけてるのは、誰?
正しくないものを自明と言うのは嘘吐きです。
嘘も方便と大人は言うけれど。
人間の認識に根ざしたものや論理などは、われわれには当たり前すぎて自明に見える
「点Pを通って直線Lに平行な直線は一本しか引けない」とかね
「自明です」というのは論証を省略してもいいけど論証はできるときに使っています。
「P」または「Pでない」、とかも自明だけど間違ってるかもしれないものの一例だよね
「Pでない」でない→Pである
を導きだすのもこの自明性に根ざしているわけだけど
これだって、必ずしも誤りがないわけではないんだ
表現がまわりくどいのは許せ、
このまわりくどさが重要だからだ
552 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 05:09:21 0
デカルトの「我あり」なんて20世紀の中くらいまでにに完膚無きまでに
覆されてるからwwww
あくまで、「懐疑論の反駁にならない」、という意味でね
デカルト自身は懐疑論者たちを「疑うために疑う」と蔑んでいる
554 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 05:34:52 0
「思う」に先だって「思う」ことから独立した主体が
あくまでも必要だなんてのは哲学的には何の根拠もな
いことだよ。
文法がそれを要請するだけで。
デカルトの「われ思うゆえにわれあり」には前提(理由?)があるよ
「何もないところに疑いは生じない」ということをデカルト自身が明晰に知っていること、とデカルトは書いている
最高位には悪いことしたな
降臨する時間なのに、俺がいたせいで逃げちゃった
すまん
さて、デカルトの問いにおいて「Who?」という疑問はまるで的外れだ
最高位の勘違いが判明したと思う
557 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 09:08:00 0
デカルトの「我」は自分自身や自分の精神のことじゃないからね。
思惟することを我と名づけただけだ。「コギト=存在」と言うだけ。
558 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 09:14:02 0
>>551 形式論理に「自明」は関係ない。自分がそれを公理系として認める
かどうかだけ。
公理系として認められなければ別の論理体系を作ればよい。
論理体系にも古典論理、直観論理、様相論理、多値論理といろいろある。
>>554 「生まれる」に先だって「生まれる」ことから独立した主体が
あくまでも必要だとすると、おかしなことになるよな。
>>556 >降臨する時間なのに、俺がいたせいで逃げちゃった
>すまん
気にするな。
単なる君の自意識過剰だろw
>>557 そうかね?
今「方法序説」読み返してみたけど、どう読んでも、
デカルト個人の霊魂のことを言ってるとしか読めな
いよ。
∩ _
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / こいつはキチガイw
\ ` ー'´ //
/ __ /
(___) /
563 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/27(水) 11:31:27 0
>>556 キミねぇ
名無しで書き込んでるくせに、「俺が」って言っても
誰なのか、わかるわけないだろ
頭おかしいんじゃないの??
しかも、何で的外れなのか説明されてないし
大丈夫か??
せめて普通に会話できるレベルになってからにしてくれよ
564 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 11:38:26 0
思う我は、霊魂のことだよ。単に思惟だつたら二元論にならない。
霊魂が松果体(下等動物においては第3の目と呼ばれている)を通じて
体をコントロールしうるという仮説だな。
565 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 11:41:59 0
霊魂といっても転生とかの概念は含まないがね。
>>563 ハハハ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ハライテ-
( ^∀^) < どわははははは! ∧_∧ イキデキネーヨ
. ( つ ⊂ ) \_______ (^∀^ ,,)、 ゲラゲラ
.) ) ) ○ ∧_∧ ,, へ,, へ⊂), ∧_∧ ○,
(__)_) ⊂ ´⌒つ^∀^)つ (_(__)_丿 ⊂(^∀^⊂ ⌒ヽつ
タッテ ラレネーヨ
567 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 11:49:05 0
名無しじゃなくテキトーに名前つけりゃ誰だかわかるってことか。
ふーん。
568 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/27(水) 12:39:17 0
おーい
誰か早く
「我あり」を論理的に否定してくれよ〜
やっぱり、できませんでした って事でOK? (大爆笑
569 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 12:45:09 O
デカルトに個人はないだろ。
571 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 13:10:55 0
自分で読んで判断しろよ。
573 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 13:29:34 0
「思っている。故に、思っているということあり。」&「思うということは、我として思うということ。」
故に、
「思っているならば我はある。」
デカルトさんを因数分解するとこんな感じ?
>>568 最高位氏、5W1Hという言葉をご存知ですかw?
「いつ、どこの、誰の、どのような意味の」「我」があるかないかを
論じればよろしいのでしょうか。
(そもそもなぜ否定しなければならないのかわかりませんがw)
ちなみに、「今現在のデカルトの思う主体たる霊魂としての我」が「ある」
ことを論証するのは、相当難しいと思われますが、いかがw
『方法序説』において「我思う故に我あり」のくだりを読む。
例えば上記の山形浩生訳では、
「しかしこのときすぐに見て取ったのだが、すべてが非現実だと考えたくても、そのように考えているこのわたしは、なんらかの形で存在しなくてならない。」
とある。
ここで「このわたし」を「なにものか」と読み替えてみてもかまわない。
ただ、通常行為者が行為者自身を指す場合「わたし」というというだけのこと。
すくなくともここからは行為を離れた主体が存在するとか、あらかじめ主体が存在しているとかいう考えは出てこないとはず。
よって
>>554や
>>557の考えが妥当と思われます。
最高位はもうデカルト信じ切っちゃってんだな。
我ありもまた疑わしいことまで及ばないんだから、ほんと信者って感じ。
「我思う故に我あり」を疑うことは難しいのでは?
>>468はその難しさを彼なりに表現したものでしょう。
でも、そのことと最高位の議論の説得性は別の問題です。
デカルトも言ってますね。
「われ思う、故にわれあり」ということばの中には、それ自体を越えるような形で真実性を確信させてくれるようなものはなにもない。単に、考えるためには存在しなくてはならない、というのがはっきりわかるだけだ。(『方法序説』)
もし最高位が「我思う故に我あり」から彼の唯名論wや唯物論批判を導き出したとしたら、
それはデカルトが自身の「我思う〜」から神や魂の議論を導き出したのと同様に疑わしいといえるでしょう。
いや、勿論最高位はそんなつもりはないでしょうが。
我思う故に我ありが疑えないなら真実性を確信させちゃうじゃん。
そう、我から一歩踏み出そうとすると結局そこは懐疑に晒される場所しかない。
だから我以外の存在、認識、観念、なんでもいいけどそれらはすべて絶対的ではないものとして
了解しておかなければならないということ。
だとしたら唯物論が正しいという主張に対してなんら絶対的ではないという意味で否定することは
なんら間違ってはいない。
>>579 >いや、勿論最高位はそんなつもりはないでしょうが。
いや、それが大ありだから困るわけですw
ちなみに、「我思う故に我あり」を疑うことは、別に難しくはありません。
多くの方が言っているとおり、
「何か(主体)があって、それが何か(客体)を思う(作用)」という
図式を取り払ってしまえば、残るのは「思いあり故に思いあり」という
単なる同語反復だけです。「客観世界」も「それを対象化する主体(我)」も、
想定する必要は少しもありません。ただ、もしもそこにとどまっているなら
人間はそもそも生物として生き延びることが難しいと思いますが。
>>581 >だとしたら唯物論が正しいという主張に対してなんら絶対的ではないという
>意味で否定することは なんら間違ってはいない。
これは全くもってその通りなのですが、最高位氏は
「唯物論は絶対的に間違っていると証明した」と頑張られるから困るわけですw
独我論を主体性からの出発と誤解してしまうとややこしい。
「我思う」は我思わす別の何かがあっても当然良い。
主体性は分解されるか受信機の役割でも問題はない。
584 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 15:38:02 0
>>557 デカルトの「我」は思惟する精神のことだよ。
思惟する実体のことを指している。
「コギト=存在」でなく、デカルトは「コギト=思惟主体が存在」というのである。
霊魂の信仰、でしかないよ。
585 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 15:39:33 0
>>564 >思う我は、霊魂のことだよ。単に思惟だつたら二元論にならない。
>霊魂が松果体(下等動物においては第3の目と呼ばれている)を通じて体をコントロールしうるという仮説だな。
霊魂、という曖昧な仮定は、哲学的考察として疑問でしょう。
明晰判明でないし、明証的でもないのに「明証的」と言ったら嘘吐きです。
霊魂が実在なのか、偽りの概念なのか、と問われているのです。
本当は何の根拠もないのに、実在するとは言えないだろ。実証できてないよ。
>>489 デカルトの思惟は語から生じた名辞。実在性のない偽りの概念。
まずデカルトの言説を疑うことから始めたら。
霊魂のような曖昧で確実でないもの、疑わしい概念は捨てるべきだよね。
>>585 それは霊魂に対する偏見だ!
言外に霊魂が非合理的なアイデアだという先入観で否定されてるだっけ。
587 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 15:44:02 0
唯識がいう三体構造
体・心・魂
心・技・体
588 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 15:49:49 0
最高位はデカルトを信仰してるだけでしょう。
信仰なら哲学ではない。
無知蒙昧な諸君に、私が知恵を授けよう
◆ 考える私 の素晴らしさ
デカルトは「我考える 故に我あり」という言葉で、精神と肉体を分離した。
つまり、精神がイデアであり、肉体がイデアの影である。
この論調ならば、人間はその内部にイデアという尊いものを、すでに内在しているのである。
このデカルトの考えこそ、人間に(みせかけの)価値を与えた。
そして、「イデアを内在している」という希望を、
世の鈍重な哲学者が信じ込んだので、
デカルトの精神・肉体二元論が広まったのである。
591 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 17:08:35 0
>>586 霊魂に対する偏見を持ってるのは586の方だぞ。
霊魂の不滅を信仰する先入観に過ぎないのに、
証明なしに前提として立ててしまう誤りだよ。
論点先取の誤謬推理で、実体性のない仮言的誤謬推理だ。
何の根拠もないのに、霊魂を信じているだけだろ。
宗教の信仰であり無根拠な価値観だというだけ、哲学にならない。
霊魂の存在性は絶対的ではないよね。
592 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/27(水) 17:44:33 0
我思わないと我無い
意識不明患者の肉体は無いんでしょうかね?
「肉体」は「我」ではない。
594 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/27(水) 17:50:16 0
違うか対偶だから
我無ければ我思わない
という事は幽霊なんていないってことですね
死んだらまるっきりすっからかんの虚無に落ちるんですね
じゃあ、どうやって生まれたんでしょうね
>>539 普通は
「ハイ、私のです」
と言うだろうね。
ところでさ、
「ハイ、私のです」
と言う人が二人出てきたらどうする?
597 :
3時で1時:2008/02/27(水) 18:25:43 0
〈私たる思う精神〉は存在しない。
〈私たる思う精神〉は存在しないと思っているのは、勿論ここに居る俺である。
俺は、人間存在であるから、思惟主体ではあっても、思惟体ではない。
俺が「〈思う精神・思惟体〉として存在するなら、
どこに居るかも分からない己自身を対象化するという愚挙である。
「思う」というのは、作用・働きであり、能力が有るというだけのことだ。
「我思う」というのは、「ここに居る・この俺が思う」という認識であり、
つまりは、自己認識作用であり、「そのときどきの自分」を定立しうる能力である。
「対象化する俺」と「対象化される俺」とが実際に居るわけではない。
二項対立思考に陥ってしまう人が居るというだけのことなのである。
つまりは、「対象化する俺」も「対象化される俺」も、その人の思いの中にしか居ない。
>>582 > ちなみに、「我思う故に我あり」を疑うことは、別に難しくはありません。
> 多くの方が言っているとおり、
> 「何か(主体)があって、それが何か(客体)を思う(作用)」という
> 図式を取り払ってしまえば、残るのは「思いあり故に思いあり」という
> 単なる同語反復だけです。「客観世界」も「それを対象化する主体(我)」も、
> 想定する必要は少しもありません。ただ、もしもそこにとどまっているなら
> 人間はそもそも生物として生き延びることが難しいと思いますが。
これはよくわかりません。
「我思う故に我あり」から主体+作用という図式を批判的に取り出した上で、
更に一切の作用を離れた主体を論じたりすることが妥当なんでしょうか?
『方法序説』にはこうあります。
「一方で、わたしが考えるのをやめただけで、わたしが想像してきたものがすべて現実に存在するとしても、わたしは自分が存在すると信じるべき理由を持たなくなる。」
また、「客観世界」という想定などは方法的懐疑の早い段階で捨てられるものだとばかり思ってましたがこれも間違った理解なんでしょうか?
599 :
赤い猫:2008/02/27(水) 19:12:00 O
>>597 > 「我思う」というのは、「ここに居る・この俺が思う」という認識であり、
> つまりは、自己認識作用であり、「そのときどきの自分」を定立しうる能力である。
> 「対象化する俺」と「対象化される俺」とが実際に居るわけではない。
> 二項対立思考に陥ってしまう人が居るというだけのことなのである。
> つまりは、「対象化する俺」も「対象化される俺」も、その人の思いの中にしか居ない。
それならば、その自己認識という意味合いで”私”を使えば”私”は貴方にも、
私にも皆さんにあるのであって、言わば社会的存在、抽象的世界の”私”であり、
肉体を指で指して「私です」という単なる言葉の響きの”私”に過ぎない。そうではなく、
【この世界】の【このわたし】という本質的な【わたし】をどう確立しうるか、
ということではないのかな。
論じれる主体なんか第一容疑者だろうに。
<訂正>
530の「火星人」に関しては私の勘違いで間違いです。
全称命題の前件が空の場合「死なない火星人がいる」は非妥当です。
デカルトの懐疑の背後には客観世界が眠っていると考えてもいいかも
前提として、存在する世界をデカルトは信仰していた、と批判できるかもしれない
デカルトは「疑いは存在する」と言ったのであり、主体とか作用とかの語は見かけない
ホントは疑いすらあるわけではないかもしれない
「ある」と「ない」の二択しかないという考えもまた、
自明性に立脚しているが懐疑可能な疑わしいものだ
604 :
3時で1時:2008/02/27(水) 19:47:05 0
>>599 >社会的存在、抽象的世界の”私”であり…本質的な【わたし】をどう確立しうるか
「私」は、筆者であり、発話者であり、投稿者であるところの「私」か。
こうして書いたり話しながら生きている、生活主体であるところの「私」か。
それとも、例外的な境遇や立場を背負い込んだ存在であるところの「私」か。
どんなに力んで「私」を強調してみたところで、他者も「唯一の私」を強調しはじめるだろう。
選挙演説であるかのように、あちこちの人間が「我は」「我こそは」と訴え、「我」があふれ出す。
「このベンチに座っているのは私のみ」と言おうものなら、「私もそのベンチに座ろう」となり、
「このように私は思うものなり」と主張すれば、「私もそう思う」と言われ、「私」は希薄化する。
他者には直接感じ得ない感覚質や、あいまいな観念である人格・感受性は、説得力がない。
他者には奪い得ない「私」を特定しようとするならば、他者を退けるのではなく、
他者をも巻き込んで「関係上にある私」を訴えるしかないであろう。
「思っているこの存在」はいくらでも居るが、たとえば
東京都品川…在住「品川エビ太郎とアユの、第1子であるところの私」…というように
世界中探しても1人しか居ないというところまで特定することは出来るであろう。
もろもろの認証システムは人間の知恵だね。
現在のフランス国王が男性である
が非妥当なのと同じことだな
唯一神が再び降臨し、人民に知恵を授けよう。
◆ 議論の無限性
再度、「私には価値が無い」ということを認識せよ。
私を複雑に見せかけるにはどうしたらいいか。
私の記述を複雑だと錯覚させるためにはどうしたらいいか。
その答えが、「議論の無限性」である。
私の記述に関する討議が無限に続けば、
「私の記述は無限である。従って、『私』とは人間が語りつくすことのできない、崇高な存在である」
と、自己満足することができる。
すなわち、これら一連の議論は、「私を正確に記述すること」ではなく、
「私に関する議論が『終わらないこと』」のみを目的として続けられている。
これが、「議論の無限性」である。
607 :
赤い猫:2008/02/27(水) 21:24:37 O
>>604 一つは肉体を指し、「私です」とする言葉それだけの”私a”があり、
一つは自己認識として内面からの私を指す”私b”があり、
まあ、これも言葉にした時点で”私a”になりうる訳で、つまりデカルトの
「我思うry」は”私b”であり、【この世界(私c)】にはならない、と。
> 他者には奪い得ない「私」を特定しようとするならば、他者を退けるのではなく、
> 他者をも巻き込んで「関係上にある私」を訴えるしかないであろう。
>「思っているこの存在」はいくらでも居るが、たとえば
> 東京都品川…
他者をも巻き込む関係上として【この世界】を訴えることは出来ないのでは?
東京都なんたらかんたら・・としても、それならば私も愛知県なんたらかんたら・・
になってしまい、やはり社会的存在性に留まってしまう。”その私”と”この私”
の区別は住民票の文字列でしかないということになり、結局【この世界(私c)】
ではなくなる。”その世界”と【この世界】は違うのだ、ということを記述しうる
事は果たして可能なのだろうか。
>>568 まずお前が否定する「論法」とお前が要求する「論理」が矛盾しないことを説明しろよ
し! _ -── ‐- 、 , -─-、 -‐─_ノ
17 霊 // ̄> ´  ̄  ̄ `ヽ Y , ´ ) 霊 え
世 魂 L_ / / ヽ 魂 |
紀 が / ' ' i !? マ
ま 許 / / く ジ
で さ l ,ィ/! / /l/!,l /厶,
だ れ i ,.lrH‐|'| /‐!-Lハ_ l /-!'|/l /`'メ、_iヽ
よ る l | |_|_|_|/| / /__!__ |/!トi i/-- 、 レ!/ / ,-- レ、⌒Y⌒ヽ
ね の _ゝ|/'/⌒ヽ ヽト、|/ '/ ̄`ヾ 、ヽト、N'/⌒ヾ ,イ ̄`ヾ,ノ!
l は 「 l ′ 「1 /てヽ′| | | 「L! ' i'ひ} リ
ヽ | ヽ__U, 、ヽ シノ ノ! ! |ヽ_、ソ, ヾシ _ノ _ノ
-┐ ,√ !  ̄ リ l !  ̄  ̄ 7/
レ'⌒ヽ/ ! | 〈 _人__人ノ_ i く //!
人_,、ノL_,iノ! /! ヽ r─‐- 、 「 L_ヽ r─‐- 、 u ノ/
/ / lト、 \ ヽ, -‐┤ ノ キ 了\ ヽ, -‐┤ //
ハ キ { / ヽ,ト、ヽ/!`hノ ) モ |/! 「ヽ, `ー /) _ ‐'
ハ ャ ヽ/ r-、‐' // / |-‐ く | > / / `'//-‐、 /
ハ ハ > /\\// / /ヽ_ ! イ ( / / // / `ァ-‐ '
ハ ハ / /! ヽ レ'/ ノ > ' ∠ -‐  ̄ノヽ /
{ i l ! / フ / -‐ / ̄/〉 〈 \ /!
610 :
3時で1時:2008/02/27(水) 22:30:23 0
>>607 >他者をも巻き込む関係上として【この世界】を訴えることは出来ないのでは?
他者をも巻き込む関係上として【この世界】は、至る所にあるよ。
二人で語り合う世界であり、書類の受け渡しという世界であり、競技をともに
するという世界であり、同じ趣味の世界であり、エンコした車をどうにかする
という世界であり、「みんなで考える」という世界もある。
「どうにかなるのかな?」「どうにかしないとな」というような会話は、共有
する【この世界】においての話しであろう。
「我思う」というのは閉じた世界だが、ここでは【この世界】が他者とともに
開かれていると思うのだが、これでは不足かな?
ていうか、的はずれの答えだったかな?
>”その私”と”この私” の区別は住民票の文字列でしかないという……
出生および関係の事実を「文字列」にするのですよ。
そこに虚偽とか誤りがあったとしても、それが唯一であることの証となるわけ。
611 :
3時で1時:2008/02/27(水) 22:42:55 0
>>607 >一つは肉体を指し、「私です」とする言葉それだけの”私a”があり、
「私です」と指し示したのは、意識をも含んだ人間であるところの自分でしょう。
「体を見ろ」と指し示したわけではない。そして、それを認知した相手も、単に
体を見ているわけではない。気分や感情、自らの思いを表しうる存在として見て
いるのだと思いますが?
相手が盲目で耳が不自由であっても、手を取って触らせることで、【この私】は
知らせうるでしょう?すると、もはや、【言葉・概念】だけなのではない。
共有しうる土台の上に居るのだと「信じる」ことなしには、いかなる訴えも意味
をなさないのではないか。「本当に徹底懐疑することに耐えられるか??」
デカルトも「錯覚かも知れない」とか「嘘かも知れない」という、疑い得る根拠
を列挙した時には、読者も「言っている意味分かるだろ」という前提があった筈
で「この世の中には、錯覚や嘘はあるよな?」と訴えているように思えるのだが。
612 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 23:29:46 0
ねぇ、みんななんの話してんの?
正しいオナニーのやり方について
614 :
考える名無しさん:2008/02/27(水) 23:50:44 0
615 :
赤い猫:2008/02/28(木) 00:08:42 O
>>611 ”私a”は、誰もがある”私”。他人にも”私”があり、私にも”私”があり、
しかし、【この世界”私c”】ではないということ。ですから、
>気分や感情、自らの思いを表しうる存在として ではなく、
ただ言葉を発したものを”私a”としたのです。
例えば、「私が見る」「私が聞く」「私が話す」など言いますが、
それら”私a”は、なぜ”その私”ではなく”この私”なのかを、
肉体を指す、つまり言葉を発する主体を指すことによって表現する
ものが”私a”なのです。
まあ、これは他人にも【この世界”私c”】があることを前提とする
ことになりますが。そうしなければ社会的に色々大変でしょうから。
3時1時氏は、「空間的在り様も含めて“私”と呼ぶべき」とするのに対して、
赤猫氏は、「空間的“私”」もあり「内面的(実存的)“私”」もあり、
「思惟する者(=世界を構築する者としての)私」もあり、
「第三者の“私”は“世界(そのもの)”である」としているのかな。
・「思考は、我としてしかないであろう」(→「私が、思う」しかありえない。)
・「思考しているという事実(実感)」
・「ヒトは、対象そのものを知覚し得ない」(→五感全て、感覚器官というフィルターをくぐっている)
→「ならば、思考(或いは自己意識)はどうか。知覚し得ているのか」
・「この思考は、どのような条件下で生じているのか」
→「上記の条件の内、どれか一つを欠いても“我”は成立しないのか」
→「もし、欠いてもいいものがあるならどれか」
→「欠いてはならないものはどれか」
・
・
・
結構色々な視線が出てきているので、
こんな感じで、思いつく限りの要点をリストアップしてみませんか?
てめーら、揃いも揃って言葉の使い方を固定しようとしてるんじゃない
私、私と言ってみてもそれぞれ違うモノ(者)についての話なんだろ?w
620 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 02:54:13 0
ああ、なんか悲しいなあ。哲学者最高位なんかに言いくるめられるなんてさ。
ただの釣り師に見えてしっかりした論理なんだよなあ。俺なんか最高位を倒すためだけに
唯物論を擁護してきたんだからなあ。しかも過去ログ見たら最高位はネカフェの社長らしいじゃん。
俺なんか負け組だと痛感させられて辛いよ。だから唯物論者じゃ出世できないって気になったんだ。
頭は唯物論者でも心は観念論でガツガツ行きたいね。がんばろう!!!!!!!!!!!!!
>>620 虚しくならないのか?そんな恥ずかしい自作自演して。
ネカフェの社長が出世ですか。そうですか。
少なくともあなたは幸せな人みたいですね。
623 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 03:40:07 O
ここまで分かりやすい自演も珍しい。
624 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/28(木) 03:41:23 0
>>531さん
もちろんそうです。「これが私の」とかですね。
>>533じいさんさん
階層といいますかレイヤー(同じですね)と言っても
OSIモデルのようにそれぞれ「リンク」してるんですよ。
このスレもキモイな
626 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/28(木) 04:28:59 0
>>624 :唯識 ◆
>のようにそれぞれ「リンク」してるんですよ。
はいそうですね「リンク」の連続だと思います。
脳のネットワークの構造はP2Pみたいな感じだと思います。
ですから第何識とか言う分析は無意味なんです。
潜在意識がしまわれている層(識)など存在しません。
>>624 OSIモデルとはずいぶん古いこと言う人がいて正直驚いた。
628 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/28(木) 04:35:11 0
要するに・・・
意識が物質に還元できると言うのは唯物論の勇み足であり。
心の深層意識が「何とかやしき」にあると言うのは観念論の勇み足なんです。
心には深層も表層も無いんです。P2Pですから。
629 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 04:51:30 O
当たり前の事言ってんじゃねえよ低能共
意識が物質に還元できるなんて言ってる人はいない件。
631 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/28(木) 05:07:43 0
>>630 :考える名無しさん:
例えば人工知能が作れると言う人たち。
物質から心を作ると言う事でしょ。
還元の意味間違えてねえか?
意識を物質的に説明できる、つまり唯物論で意識が解明できるというのと物質に還元できる
というのは全く別の意味じゃ。
生きながらにして、意識ある状態で、焼却処分されたら意識の構成物質が残ってこれが
意識の成れの果てですよと特定できんのか?
馬鹿馬鹿しい。
唯物論の立場では意識は物質に還元する方法がない。
観念論の立場では意識は物質に還元できないから意識ある者を火炙りにしても霊魂は残る。
それだけのこと。
唯物論では意識は物質だと考えるのがそもそも飛躍しすぎたデタラメじゃ。
精神以外で考えると楽
遺伝子情報は物質に還元できる
プログラムは物質に還元できる、とか
>>598 >「我思う故に我あり」から主体+作用という図式を批判的に取り出した上で、
>更に一切の作用を離れた主体を論じたりすることが妥当なんでしょうか?
すいませんがこれは全くの誤解です。
>>582で言ったのは、「主体+作用+客体」という図式を取り払ってしまえば、
疑い得ないのは「疑い」「思い」「見え」「痛み」等々の
「作用(という言葉は適切ではありませんが)」だけであって、「客体」も
「主体」も全く同じように疑おうと思えばいくらでも疑える、ということです。
(ここで、「疑っているのは誰だ?」と聞くのは、まさに「主体+作用+客体」
の図式に乗っかっているからで、あまり意味がありませんw)
ちなみに、「一切の作用を離れた主体」を論じるのは私でもデカルトでもなくて
最高位氏の専売特許であります。いわゆる「純粋な存在性である私」というやつです。
「意識や思考は私の”顕現”であって私の存在そのものではない」とか
「この体も意識も存在していなくても私が存在しないとは言えない」とか
いう言明の数々がそれを物語っております。
氏は何とかの一つ覚えwのように「我思う故に我あり」を持ち出さされますが、
氏の言っていることは「思っても思わずとも我あり」「問答無用で我あり」
なので、大いなる見当違いというものです。デカルトも迷惑でしょうw
(ついでに言うと、これは21世紀の哲学wどころか、紀元前以来の「実体たる霊魂」
の考えそのものです。だからといって間違っているというわけではありませんが。)
デカルトは、引用してくださった通り「延長のない物体の存在」が無意味なのと
同じように「考えない私」の存在も無意味だと考えているわけです。
(続き)
>また、「客観世界」という想定などは方法的懐疑の早い段階で捨てられる
>ものだとばかり思ってましたがこれも間違った理解なんでしょうか?
私はデカルトに詳しいわけでもなく、また「デカルトの正しい理解」など誰にも
確定できないと思いますが、その理解は常識的には全く正しいのではないですか。
個人的には、デカルトのやっていることは「主体+作用+客体」の図式は
温存した上で、「客体(客観世界)」は疑う余地があるから捨てる、という作業に
過ぎないように思えます。それなら「思う私」が残るのは当たり前です。
常識的な人が「思う私が生まれる前も死んだ後も客観世界は存在する」と考えている
ことの裏返しに過ぎません。
「モノが見えている」ときに「悪霊が私を欺いているのかもしれない」という
話を持ち出すのがその典型です。「主体(悪霊)+作用(欺く)+客体(私)」と
いう構図です。そこから当然のように「どんな悪霊も存在しないものを欺くことは
できないから私は存在する」という話になるわけですが、わざわざ悪霊など
持ち出さなくても「私がモノを見ている」「私にモノが見えている」という
構図自体を取り払えば「私」も「モノ」も不要で残るのは「見え」だけになるわけです。
あるいは「見え=私」と言ってもいいかもしれません。
みなさんが「痛みが私である」というような言い方をされるのは、たぶんこういう
ことかと思われます(見当違いでしたらすいません)。
ただ、私個人は「素朴実在論者w」なので、こういう話にあまり意味があるとは
実は思えないのですが。
638 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 10:28:21 0
哲学板で霊魂だとか言えないわなw純粋な存在性だとか哲学風なこと言って
霊魂をすり替えてるだけ
639 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/28(木) 11:29:50 0
「我思う故に我あり」をキミ達は複雑に勘違いしているね
ひとつひとつ説明するのは、骨の折れる作業ですね
要するに結論が「我あり」だ という事なんですよ
「思う」が根拠であって「あり」が結論
「思わなくなったら」というのは、これは一切の確認作業ができなくなるわけで
要するに「確認」できなくなるのですから、「あり」なのか「なし」なのか
確認できなくなる ということ以外にないわけです
「なし」になる というのは飛躍した考え方なのです
一旦出された「我あり」という結論を、覆す理由にはならないのです
また
「思う」は主観性であって、自分の主観性以外は認識のしようがありません
自分が認識している「思う」は、自分の「思う」であります
自分、すなわち「我」が思っている以外に「思い」を認識できようはずもないわけです
すなわち「我思う」は、主観性が主観的に認識する性質上、当たり前の前提であって
「他思う」では、「思う」は認識できないのです
このスレで反論してくる人は、「他思う」という前提が全く同じ意味で、前提として成立できると思っているようですね
しかし、んな事は自覚しょうが無いわけです
「我思う」は一般論化できないにもかかわらず、それが出来ると錯覚しています
無理だという基本的な事を、まず理解しなければなりません
「我思う」
自分が「思う」を自覚できる唯一のサンプルは「我」の「思う」なのです
「我」の「思う」が、唯一のサンプルです
640 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/28(木) 11:31:35 0
続き
「我思う」
自分が「思う」を自覚できる唯一のサンプルは「我」の「思う」なのです
「我」の「思う」が、唯一のサンプルです
実は、これは二重に不可解な事実なんです
「我」と「あり」です
まず「あり」ですが
「存在するって、いったい何なの?」という疑問に対して満足のいく答えが出せる人はいないでしょう
まぁこれは、あまりにも当り前の事柄でしょうから置いておいて
あとは「我」ですね
まず「我」がいない状態を考えてみましょう
「我」以外は「他人」ですね?
一般的に考えるならば、他人は無数に存在するわけです
絶滅しない限りは無限に生まれてくるであろう他人の中に、一人だけ「我」がいる
おかしいと思いませんか?
無限分の1 の確率ですよ
無限に存在する「他人」の中に、ただ一人「我」が存在する為には
その理由が必要ですよね
しかし、その理由は、ありえない んですよ どこにもね
もちろん
唯物的に答えを出そうと、どんなに頑張ってみても無駄なのです
『私』は、何かが組み合わさってできているものでもなく
単に、純粋なる存在性 なんです
641 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/28(木) 11:47:19 0
失敗
>>640の上の三行だけ訂正
「我あり」
実は、これは二重に不可解な事実なんです
「我」と「あり」です
まず「あり」ですが
「存在するって、いったい何なの?」という疑問に対して満足のいく答えが出せる人はいないでしょう
まぁこれは、あまりにも当り前の事柄でしょうから置いておいて
あとは「我」ですね
まず「我」がいない状態を考えてみましょう
「我」以外は「他人」ですね?
一般的に考えるならば、他人は無数に存在するわけです
絶滅しない限りは無限に生まれてくるであろう他人の中に、一人だけ「我」がいる
おかしいと思いませんか?
無限分の1 の確率ですよ
無限に存在する「他人」の中に、ただ一人「我」が存在する為には
その理由が必要ですよね
しかし、その理由は、ありえない んですよ どこにもね
もちろん
唯物的に答えを出そうと、どんなに頑張ってみても無駄なのです
『私』は、何かが組み合わさってできているものでもなく
単に、純粋なる存在性 なんです
642 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/28(木) 11:55:05 0
勘違いしている人が多いので言っておきますが
私は「我思う故に我あり」というエキスだけを用いているのであり
その他にデカルトさんが、いろいろと勘違いされている事までは知りませんよ
643 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 12:15:48 0
唯物論は理由まで言及しないだろ 馬鹿か
644 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/28(木) 12:19:09 0
>>643 じゃぁ唯物論は、人間の精神(主観性)について言及できないはずだが??(爆笑
645 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 12:22:47 0
無限に生まれてくるであろう他人の中に、一人だけ「我」がいる
のは意識作用がその肉体に依存するからだろ
646 :
し:2008/02/28(木) 12:23:33 O
武田だよみんな。わかるよな。仲がよかった。佐野が下の下がってこのありまさだ
647 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/28(木) 12:25:39 0
>>645 わかってないなぁ
そんな作用は他人がやってりゃいいだろ
キミの、その体も、他人の体も
物質という意味では、なんら変わらんのだよ
なんで、その体がキミであったのか という根本的な問題がある事が理解できませんか?(笑
648 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 12:27:09 0
>>644 我の話から人間の精神(主観性)の話しに飛んじゃってるよw
649 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/28(木) 12:29:30 0
>>648 私は人間であり、私の精神は、主観性なんだけど?
キミは、なんにもわかってないなぁ
ちゃんと説明聞いてるか???(苦笑
>>639 >「思う」が根拠であって「あり」が結論
最高位氏、相変わらず支離滅裂ですねw
「思う」が根拠で「あり」が結論ならば、「思わなくなったらなしになる」
が必然的に帰結するに決まっているではありませんかw
それがいやなら
>「思う」は「我」の認識根拠に過ぎず、「我」の存在根拠ではない。
と言わなければ筋が通らないのです。
ちなみに、あなたは以前「私は主観性そのものな存在性」だと繰り返して
おられましたが、これもまた訂正するしかありません。その考え方なら
>主観性は「我」の偶有性に過ぎず、「我」の本質ではない。
と言わなければ筋が通らないわけです。ついでに言えば、唯物論的に
考えないのなら「人間である」ことも「哲学者最高位である」ことも
「我」の偶有性に過ぎずその本質ではない、ということになります。
そこで、「肉体もなく思ってもおらず主観性でもなく人間でもなく
哲学者最高位でもないが、厳然として存在し得る我」とは一体何のことかと
考えると、どう考えても本質も不明で定義不能の「霊魂」であるしかない
わけです。いや、別にそれでいけないわけではありませんが。
(ちなみに、「思う」は「我」の存在根拠にも認識根拠にも必ずしもならない、
という話を上でしましたが、まあどうでもいいですw)
651 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 12:31:00 0
>>647 なんで、その体がキミであったのか という根本的な問題
って馬鹿? 体が人間様か? 妄想激しいね
(続き)
>「我思う」は一般論化できないにもかかわらず、それが出来ると錯覚しています
>無理だという基本的な事を、まず理解しなければなりません
最高位氏、それでしたら、そんな話をいくら他人にしても理解される道理が
ありませんw むしろ、理解されたらその理論は間違いだ、ということです。
「私(最高位)のことではなく、自分自身のこととして考えれば理解できるはずだ!」
とおっしゃられますか? まさしくそれが「我思う」を一般論化できる、という
ことに他ならないのですよ。おわかりになりませんかw?
>>640 最高位氏、この文章の「我」をすべて「哲学者最高位」に置き換えても全く
同じように成立することにお気づきですか?
自分の名前がいやなら、他人の名前でもかまいません。その他人がゾンビで
あってもなくても、全く同じことであります(あなた自身が力説している通り
どっちだかわかりようがないので)。
(本当は「富士山」と「他の山」でもかまわないのですが、あなたはどういう
わけだか生物以外だと珍妙な「唯名論」を振り回したがるのでw)
こうして、これは「私」特有の問題でも何でもないことがわかります。
ついでに
>まず「我」がいない状態を考えてみましょう
>「我」以外は「他人」ですね?
これは間違いですぞ。「他人」とは「我でない人」という相対規定なのですから、
「我」がいないならそれは「他人」とは言えませんし、「我」も「他人」から
見れば「他人」に過ぎません。わかりきった話であります。
653 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 12:34:10 O
間違いなく悪いことはある俺が関係してるだけでも武田、平家とある。みんな業が深い。目をつむるなよ。恐くなるぞ
654 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 12:35:19 0
>>649 お前が生まれた存在理由なんか無い って言ってるんだが
655 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 12:39:48 0
『私』は主観性そのものから
私は人間であり、私の精神は、主観性
にチェンジしちまったな
いい加減なものだ
はいはい。唯識の予言的中w
私が肉体と精神を移動してますよっとw
>>647 >なんで、その体がキミであったのか という根本的な問題
最高位氏、唯物論的に「私はこの体から発生した」と考えるなら
この疑問は無意味である、とご説明したでしょうに。お忘れですかw?
「このリンゴの木もあのリンゴの木も、物質という意味では何ら変わらないのに、
なぜこのリンゴは他の木ではなくこの木に成ったのか?」
「地球も宇宙にある無数の星も、物質という意味では何ら変わらないのに、
なぜ日本列島は他の星ではなく地球にあるのか?」
「哲学者最高位の両親も他の無数の夫婦も、物質という意味では何ら変わらないのに、
なぜ哲学者最高位はこの両親から生まれて他の夫婦から生まれなかったのか?」
等々と同じ、無意味な問いなわけです。
ちなみに、あなたのように「思うことも主観性であることも人間であることも
哲学者最高位であることも私の本質ではなく、偶有性に過ぎない。私は純粋なる存在性だ!」
と考えるなら、「なぜ私は他の体でなくこの体に乗っているのか?」という
疑問には意味があります。「なぜ私は他の車でなくこの車に乗っているのか?」
が無意味でないのと同じです。ですから当然答えもあってしかるべきです。
「そりゃたまたま販売店にこれがあって性能も価格も手ごろで気に入ったからだよ」
とか何とか。それが「ない」ということは、むしろ唯物論に有利なのでありますよ、
おわかりですかw?
658 :
赤い猫:2008/02/28(木) 13:26:15 O
めんどくせえから”思いあり”を私的言語で記述すりゃいいんだよw
659 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/28(木) 13:36:07 0
>>650 >「思う」が根拠で「あり」が結論ならば、「思わなくなったらなしになる」
>が必然的に帰結するに決まっているではありませんかw
はぁ?
思う事によって確認された「あり」は、どこ行ったんだ?(爆笑
>>「思う」は「我」の認識根拠に過ぎず、「我」の存在根拠ではない。
>と言わなければ筋が通らないのです。
存在する事に対する認識根拠だわな
>>主観性は「我」の偶有性に過ぎず、「我」の本質ではない。
>と言わなければ筋が通らないわけです。
我は存在性であり
その我を分析するならば、主観性であるとしか言えないわけで
その主観性が「思う」という行動をする
すなわち『私という主観性』という主語の動詞が「思う」という事
要するに、主観性だから「思える」 わけだな
あとね
霊魂という事にすれば論理が成り立つと思っている人がいるみたいだけど
なんで、その霊魂が『私』なのか という問題が、そっくりそのまま残るんだよ
何の解決にもなりません
そんな事を言ってるようじゃ、何も理解できていない事が丸わかりですよ
もう少し頭使って下さいね
なんで宇宙が存在するか、何で宇宙が宇宙なのか、
何で水素なんてものが存在してそれが水素なのか、
物理原因も分からないしね。
だからって唯物論が間違いという結論にはならないだろう。
>>659 おまえ逆
霊魂から私という主観性が生じるんだよ。それが知りたきゃオカ板でも行くんだなw
そっち系詳しいやつわんさかいるからw
662 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 14:10:25 0
はな垂れのガキの質問なのに根本的問題だと騒ぎまくる
663 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 14:15:51 0
>>659 へえ、思うって行動だったんだ。でどうやって動くの?
て馬鹿じゃねw
664 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 14:17:22 0
私は人間なんだから
すくなくとも その存在は肉体に完全依存するだろ
肉体に依存しない「人間でなくなった私」論はあきらめたのか?
だんだん唯物論世界に近づいてる予感。
666 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 14:30:24 O
自分で自分の首を絞めるとは
>>659 >はぁ?
>思う事によって確認された「あり」は、どこ行ったんだ?(爆笑
おお、最高位氏、そりゃ唯物論者(というか普通の人w)ならば、
「私」を特定の人体(と呼ばれる凝集するツブツブw)と同定しておりますから、
「熟睡したり気絶したりして思わなくなったって、肉体がある限りはありと
確認された私はどこにも行きゃしないよ」と考えるでしょうが、あなたは
「私は主観性そのものである」とお考えなのですから、「思わなくなったら、
すなわち主観性でなくなったら、私は存在しなくなる」というのが
必然的帰結でございましょう? それを指摘しているのです。
>我は存在性であり
>その我を分析するならば、主観性であるとしか言えないわけで
最高位氏、あなたの口癖をお借りするなら「分析しているのは誰ですかw?」
「私」でありましょう。「私」が主観性だからこそ自らを分析することができる
わけで、分析している限りは主観性であるのは、理の当然であります。
問題は分析することも思うこともできなくなり、すなわち主観性でなくなったとき、
「私」はどうなるかです。デカルトは「私は思うことを本質とする」と考えたので、
「そうなったら私は存在しない」と当然にも結論したわけです。
あなたはそう結論しないのですから、「分析する=思う=主観性である」ことは
「私の偶有性に過ぎず、その本質ではない」と考えているとしか解釈できません。
このような「主観性でないけれども存在する私」を、便宜上「霊魂」と呼んで
いるわけです。
(続き)
>霊魂という事にすれば論理が成り立つと思っている人がいるみたいだけど
>なんで、その霊魂が『私』なのか という問題が、そっくりそのまま残るんだよ
>何の解決にもなりません
おお、最高位氏、ぬゎんであなたはそう頭が悪いのですかw?
「霊魂」は解決ではありません。あなた自身の「なんで、この体が私であったのか」
という疑問に「意味を持たせる」ためにこそ必要な道具なのであります。
>>657でご説明したように、「主観性である私」が「この体」から発生した、と
考えるなら、この疑問は無意味であります。そして、通常は「主観性である私」
が確認されるのはこの体が誕生してある程度成熟した後なので、唯物論者
(というか普通の人w)にとっては、この疑問は無意味であって、そもそも
解決の必要がない、ということになります。
そこで、この疑問に「解決の必要な問題」としての意味を持たせるためにこそ、
「主観性でないけれども存在する私=霊魂」の存在を考えることが要請される
わけです。これなら、「私はこの体でないことも可能だった」ということになり、
「なぜこの体だったのか?」という疑問に意味が出てくるわけです。
ただし、この「霊魂」が一体何のことなのか、それが「存在する」とは
どういう意味なのか、本当のところはよくわかりません。
それを「なぜこの霊魂が『私』なのか?」という問いをさらに発するならば、
その『私』は「主観性そのものな存在性」でもなければ「主観性でもなく
人間でもなく 哲学者最高位でもないが、厳然として存在し得る霊魂」ですらない
ことになります。それでは、一体全体この『私』とは何のことで、
それが「ある」とはどういうことでしょうか。さっぱり意味不明、としか、
言いようがないのでありますw
悪いことは言わないからここの多くの人たちは、ちょっと古いけどまだ手に入る『オートポイエーシス--第三世代システム 』(青土社)読んだほうかイイと思うよ。
最高位やじいさん他の主張に納得がいく部分があると思うよ。
みんなシステムという概念を誤解しているよ。
そして観察者でしかない自分の立場が解ってないね。
670 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/28(木) 14:56:57 0
人類は始まって以来プロテスタント異議申し立てによる政治を行ってきたんですよ
671 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 15:04:41 0
最高位は独我論的心霊主義者だな。
最高位は霊魂と物質の関係を説明しないといけないね。
いい気になって唯物論批判している場合じゃないぞ最高位w
自分の寄って立つ思想的立場がグタグタじゃないかw
>>669 今更オートポイエーシス読むよりありがたいお経の現代語訳読んだ方がマシだ。
最高位やじいさんなんてのは自分で自分の書いていることさえさっぱり理解できてないんだから
本人たちの問題だ。
674 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 16:04:52 0
>>650 >「思う」が根拠で「あり」が結論ならば、「思わなくなったらなしになる」
>が必然的に帰結するに決まっているではありませんかw
ここで「思わなくなったらなしになる」と思考しているのは、自分の思考と存在を自覚している人だけの思考ですから、その本人の思考がなくなれば思考する自分がなくなるのは自明ですよ。
>それがいやなら
>>「思う」は「我」の認識根拠に過ぎず、「我」の存在根拠ではない。
>と言わなければ筋が通らないのです。
ここでの「「我」の存在根拠」とは、誰が観察した誰にとっての存在根拠なのでしょう???
間違ってもその「思わなくなった」「我」はありえないですよねぇ?
>>674 >ここでの「「我」の存在根拠」とは、誰が観察した誰にとっての存在根拠なのでしょう???
>間違ってもその「思わなくなった」「我」はありえないですよねぇ?
思わなくても、走っていれば「我」はあるのか?
という問いと並行して考えましょうw
◆ 用語の非定義性
用語の定義は曖昧である。
「私はクオリアから成り立っている」という記述があったとしよう。
この場合、「私の記述」の中核は「クオリア」という用語である。
クオリアという語の定義は膨大であり、捉えにくいので、様々な解釈が発生する。
この捉えどころの無さこそが、「用語の非定義性」である。
「私の記述」が効力を持つのは、用語が非定義性を保っている期間のみである。
用語が定義された段階で、その思想は古老となり、幻像性※を喪う。
そして、「議論の無限性」を保つ為だけに、再び、新規の非定義性用語が出現する。
逆に、用語を曖昧に定義する事こそが、哲学の要請である。
※幻像=ファンタスマゴリー
人間の希望・願望が、肥大化を伴って反映された場所。
ここでは、「人間の希望・願望が反映された、『思想の顕れ』」。
677 :
素人:2008/02/28(木) 16:39:52 0
ネコがまた騒ぎ出しそうだがw、
>>636-637に、まるっと同意しておきましょう。
特に、
> その理解は常識的には全く正しいのではないですか。
>個人的には、デカルトのやっていることは「主体+作用+客体」の図式は
>温存した上で、「客体(客観世界)」は疑う余地があるから捨てる、という作業に
>過ぎないように思えます。それなら「思う私」が残るのは当たり前です。
>常識的な人が「思う私が生まれる前も死んだ後も客観世界は存在する」と考えている
>ことの裏返しに過ぎません。
などは秀逸ですねw
掘り下げると面白いポイントだと思います。
また、
>>639の
>「思う」は主観性であって、自分の主観性以外は認識のしようがありません
>自分が認識している「思う」は、自分の「思う」であります
>自分、すなわち「我」が思っている以外に「思い」を認識できようはずもないわけです
>すなわち「我思う」は、主観性が主観的に認識する性質上、当たり前の前提であって
>「他思う」では、「思う」は認識できないのです
は、ほぼ
>>534ですね。
自分の考えは自分が一番よく知っているはずだと思い込む嘘。
最高位ちゃんの「私」が他の人たちの「私」と一致せんからと他の人たちの方が間違っているはずだと思い込もうとする傲慢。
主観的に間違っていると思うことを客観化してしまう飛躍。
デカルトの残留思念が今宵も人々を惑わす現実。
魑魅魍魎の住む館ならぬ糞スレ。
そしてそこの住人共の哀願するところの主体性は分解すれば消えてなくなる摩訶不思議。
組み立てて出来上がった構築物を全体としてしか認識すべきではないとする誤謬。
欠陥品の群れの中から完成品を見出す徒労に似ている。
我無力なり。故に我考える。
◆ なぜ「議論の無限性」を保持できるのか?
それは、人間の perperuallity (パーペチュアリティ) という性質のためである。
議論を続けるには、以下の手順などを経由する。
・非定義性をもつ用語を定義する
・テクスト、論及などの欠陥を探す
・非定義性用語を、造語などで生み出す
・一見排他的に見える論を統合・止揚する
これらは、人間の思考力・創造力により可能な作業である。
また、その作業の原動力となっているのが、perperuallity である。
perperuallity が人間から欠如することは、
それは「私は考える」ということの根本的否定である。
よって、人間は世代を超えて無限に考え続ける、ということを示す必要がある。
つまり、哲学とは perperuallity という人間の性質を常に確認する作業である。
※Perpetual motion (永久機関)
精子や卵子は何も考えておりません。
以上
681 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 17:39:16 O
得意気に理論展開したのに、みなさんに否定されて可哀想な最高位w
682 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 17:40:58 0
>>669 システムという概念は、オートポイエーシス的解釈に限定されているわけでないよ。
オートポイエーシスも科学理論の一つでしかなく、解釈の一種と見なして、
仮説の一つと考えるのが健全と思うよ。
>>659 >はぁ?
>思う事によって確認された「あり」は、どこ行ったんだ?(爆笑
「あり」は「あった」になるのです。
小学生の国語ですね。
685 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 18:09:18 O
皆さん、このスレで終了でいいんじゃないかな?
唯識釣り氏。
>>641 >無限に存在する「他人」の中に、ただ一人「我」が存在する為には
「私」は他人の中には存在しない
最初に戻れよ
誰も「わたしが存在しない」と考えるやつはいない
「わたしが存在する」に少しでも疑わしさがあるかどうかが問題だよ
それと(個人的意見だが)
デカルトが客観世界を捨てたというのは形だけ
デカルトの試みは逆、客観世界の存在証明だ
神の存在証明と世界の存在証明を導くための懐疑
で、「われ思うゆえにわれあり」の直観に、その前提が潜んでいるのではないか、という疑念が生じる
また、パフォーマンスとはいえ、論証の道具を捨てたのだから
超越論的実際論的な基礎付けに疑わしさがないとは言えない
(論証を捨てなくても、できないが)
このことから次のような結論がでる
懐疑論は反駁不可能であり、擁護されうる
ならば「なぜ懐疑論者であってはならないか」という問題が以前として残る
689 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 20:13:51 0
>>687 >「私」は他人の中には存在しない
それは勘違いだね。他人の数だけ私は存在する。
他人の中に私が存在する。自他は相対だ。
690 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 20:16:39 0
>>688 >懐疑論は反駁不可能であり、擁護されうる
これも単純に勘違いだね。
反駁不可能な物事は掩護できない。
反駁不可能であることがその論の間違いであることを示している。
>>689 「私」は唯一絶対の純粋な存在性。
他人の中には存在しない。
692 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 20:24:40 0
>>641 無限に存在する「他人」の中に、ただ一人「我」が存在する為には
その理由が必要ですよね
それは、おまえが勝手に「思う霊魂」になっちまった気でいるからだよ
勝手に、肉体と「思っている私」とに分離して考えているわけ
時代を選べなかった、国を選べなかった、両親を選べなかった、
あげくのはては、このあの人でもよかったのに、この自分として存在しているw……
「何でや?不条理やで!こりゃほんまに…不思議やわ、だが現実やわぁ…」
これは、お馬鹿でスピリチュアルな発想なんだよ
自分を「この世の登場人物」であるかのように考えてしまう宿命論的思考だな
無数に居る人間の中で1人だけ「私」として選ばれた(決定された)という思考
こんなものは現代哲学の問題意識でもなんでもない
頭の悪い一般人が考える問題意識であり、非論理的世界だ
「あれではなく、これ」なのは、物理的秩序を前提としている
「他人」ではなく「私」ではないのは、意味が違うから当たり前だ
「他人」ではなく「私」という意識は、自我意識
自我意識が何で生じるかが本当に問題なんだが?
反駁不可能であることは、反駁されたことを意味しない
もちろん、わたしも反駁不可能なものはほとんど無意味だと思う
しかし、われわれの意味ある行為が、そもそも間違いであるかもしれない
懐疑論はその破壊的性質からどんな不毛な発言もできる
この懐疑論の問題と取り組むのは哲学の課題であるように思える(一般人は無視していい)
「単に、純粋なる存在性」やら「純粋なる主観性」としての
「私」なら他人や犬や猫にだって全く同じものがあるだろ。
「何故それが他の誰でもない私なのか」なんて問いは、誤っ
た前提から湧いて来た誤った問いに過ぎないよ。
ある朝起きると見知らぬ国で見知らぬ人達に囲まれていた。
どうやらこの男の家族のようだ。
見知らぬ顔に見知らぬ言葉を話す住人たちに最初はひどく驚いて信じられない気持ちでいたけど
その内慣れてごらんのように毎朝「おはよう」と微笑みかけ毎晩「おやすみ」と言って一寝入りする
ようになった。
考えようによっては蝸牛に生まれ変わらず人間に生まれ変われたことに感謝すべきなんだろう。
こうして私は他人になったのだった。
実際他人である私が必死に私になろうとする活動が私自身なのですよ。
696 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 20:51:43 0
>>691 >「私」は唯一絶対の純粋な存在性。
・・・と一人ひとりが思っている。「私」とはそんなもの。
「梵我一如」とはこれをいう。
私というのは私であろうとする意志が求める未来像でありました。
従って意志することに私はなく・・・
698 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 20:55:20 0
最近テレビ等で脳科学者が出てきていろいろと説明するので、
凡人のおいらは、何となく
「自我意識は脳の生理現象である」と、信じてしまうんだよね
どんな論でも「納得しちゃうと、真実」になるな
699 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 21:03:32 0
>>699 カフカの「変身」も加えるべきだなw
あ、山月記もいいかもw
そう。
文学の世界には多い。
カフカの「変身」は芋虫に変身したけど家族は同じ。
702 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 21:28:48 0
オートポイエーシス・システムは、システムを自己決定しているシステムであるな。
すなわち、みずからの構成要素と相互作用しながら作動する自己言及システムだから、
そのように作動することでみずからの構成素を次々に産出しているシステムであるな。
「私」はそのようなシステムの動作である、と納得しちゃえよww
703 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/28(木) 21:40:18 0
>>632 :考える名無しさん:
>観念論の立場では意識は物質に還元できないから意識ある者を火炙りにしても霊魂は残る。
それはオカルトでしょう。
私は観念論者だけど、霊魂など存在しないし、死ねば何も無くなる。
それどころか生きていても痴呆になれば意識さえリハビリでもしないとおぼつかない、霊魂など笑止。
出た!高飛車じいさんw
705 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 21:46:39 0
>>702 >納得しちゃえよww
どうして他人に同意を求めるんだい?
キミだけそう自覚していればそれでいい話じゃないか。
キミの正しいと思うように信じていればいい。
なぜ自分の考えを信じるのに他人を必要とするの?
706 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/28(木) 21:51:32 0
>>641 :哲学者最高位 ◆
>『私』は、何かが組み合わさってできているものでもなく単に、純粋なる存在性 なんです
「私」がないと言う事象については論じられません、おっしゃるとおりです。
では外界が無い事象は論じられるとお考えですか?
主観(内界、自)、客観(外界、他)は片方だけでは存在し得ない。
互いに存在性を依存しあう相対的関係にある。
708 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 22:00:12 0
>>705 納得しちゃえよwwてのは、自分に対してのものだったんだが。
同時に納得しちゃえよwwという自らのお誘いは、他の人にもないのかな
という問いかけでもあった。
まさか、そういうふうに捉えられるとは不覚にゃりww
709 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 22:04:51 0
>>707 霊魂がないって根拠は、根拠を示し得ないてのが根拠でないの?
想像するのは自由だけど、想像で完結している。
>>702 >オートポイエーシス・システムは、システムを自己決定しているシステムであるな。
>そのように作動することでみずからの構成素を次々に産出しているシステムであるな。
よくご存知のようで。
嬉しくなっちゃいます。w
「私」は唯一絶対の純粋な存在性。
他人の中には存在しない。
「私」が思うようには他人は思わない。
「私」が理解するようには他人は理解しない。
他人にも分かる筈などと思っている「私」が唯一の「私」。
「私」が納得しても他人は納得しない。
712 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/28(木) 23:57:42 0
釈尊が無意味と切り捨てた議論ですね。
713 :
考える名無しさん:2008/02/28(木) 23:57:54 0
確かに、最高位の「私」とやらが理解するようには他人は理解し
ないというのは当たってるな。ただし、この場合の「私」は最高
位が持つ最低性能の脳のことだけど。
歴史上初めて唯物論を破壊した最高の哲学者…
と思っているのが唯一絶対の純粋な存在性である「私」。
他人はそうは思わない。
少しでも疑いうるものはすべて捨てて、その後に何か残るのか見極めなければならない、と考えた
なにものも「存在しない」と疑うことはできる
しかし、そのような疑いはなにものかとして存在しなければならない、ということに気づいた
気づいたこと
言明甲「すべては存在しない」
「言明甲は存在する」
これが否定するのは
言明乙「言明乙は存在しない」
これに気づいた
デカルトは、少しでも疑いうるものをすべて捨てても、何か確実なものが残った、と考えた
これと同じくらい明晰判明なものは、真理としてうけいれてよい
なぜそれが私なんだろう?
718 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/29(金) 02:19:53 O
動物にも私という意識はあると思うが、植物はどうなんだろう。もし存在すると考えるなら脳が私の正体であるというのは早計にすぎるのではないか。
719 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/29(金) 02:21:21 0
>>628じいさんさん
ネットワークPCをお考えいただければお分かりかと思いますが
じいさんさんの仰る繋がりとは「他」との繋がりでしょうか?
当然にコミュニケーションとしての繋がりは必要でしょうが
「個」として(或いは自他の区別のために分けられている部分もあります。
そしてそれは自分自身にもあります。
完全に取り払われた場合は別です。
唯識でいう三性がそれを表しています。
>>718 「脳」が私の正体なのでなく、「思考」が“私”の正体なのでしょ?w
もし、植物が思考するなら、植物にも“私”があるでしょうねwww
721 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/29(金) 02:40:10 O
720
何か勘違いされていると思うが、思考自体が私なのではなく、思考によって私の存在を証明し、確認するということでしょう。植物の場合は生命活動を行っているので私に相当する意識的なものがあるのではと思ったのです。
例えば個々のミツバチやアリに私があると思うのは人間の勝手な投影。
ここらへん唯識氏と話すとおもろい。
723 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 02:49:18 0
なぜ私がミツバチやアリに私があることを知っていることを
あなたは否定できるのか。
根拠のないことを言わないように・・。
>>723 ∩ _
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / こいつはウンチマンw
\ ` ー'´ //
/ __ /
(___) /
>>723 誰もないとは言ってないが動物にはあるはずというのはおかしいという喩えですよん。
でもたぶんミツバチやアリにはそういう機能は通常ない。
分家するときにそれらしき機能が一時的にあるだけ。
だって必要ないんだもんてのが貴方のおっしゃる根拠。
交配もする必要ないし群れにとって使い捨てとも言える存在。(分業)
726 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/29(金) 03:01:49 O
722
あまりくわしくありませんが、蟻の七割は遊んでいるそうな。人間の私が昆虫類にないからといって、昆虫にあるそれなりの意識作用を人間のそれと比較するのに意味はないでしょうか?
727 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/29(金) 03:02:53 0
>>722さん
その「他の存在」の中に「私」を見出したならば
それが「差別の中に見る平等」(じいさんさんには矛盾と言われましたが)
智慧ですね。
>>722さんのお陰で、これら差別相と平等相の仕組みがまた新たに解った気がします。
ありがとうございます。
植物ねえ。。。断言はしないが俺は植物には自己意識はないと思う。
自己意識を持つためには抽象能力を持った脳が必要だと思う。
>>726 わからないかな?
じゃ、もっと咀嚼して書くと・・・
個々の私の肉体を形成している細胞と置き換えて考えてみてね。
730 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 03:07:59 0
>>652 いいや
理解できた上で論じるのと、理解できないまま論じるのとでは
雲泥の差がある という事
そもそも現代哲学というものは、文章や論理だけで理解できる内容ではないんだよ
『私』は、法則性で説明がつかんと言ってるのに、何考えてんの???
理論で説明できるんなら、永井先生あたりが、とっくに説明してるんじゃないかな?(爆笑
>最高位氏、この文章の「我」をすべて「哲学者最高位」に置き換えても全く
>同じように成立することにお気づきですか?
>自分の名前がいやなら、他人の名前でもかまいません。
成り立たんよ?
なぜならキミが書いた続きのコレ
↓
>その他人がゾンビで
>あってもなくても、全く同じことであります(あなた自身が力説している通り
>どっちだかわかりようがないので)。
どっちだかわかりようがないんだから、成り立ちませんね
キミは一生懸命に反論してくるんだけど
反論のための、こじつけばっかりで内容がないんだよ
もうちょっと、よく考えてからレスしてくれんかな
いちいち説明するの、面倒くさいわ
731 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 03:08:44 0
>>657 >「このリンゴの木もあのリンゴの木も、物質という意味では何ら変わらないのに、
>なぜこのリンゴは他の木ではなくこの木に成ったのか?」
根本的に、全く理解できていませんね
このリンゴの木に、このリンゴが成ったのは、物質的に完全に説明がつきます
このリンゴの木が吸収した養分以外からは成りません
無から有は生じないのです
私の体に関しては同じ理屈が成り立ちますが
しかし『私』に関しては全く別の話なのですよ
732 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/29(金) 03:18:56 0
>>731最高位さん
見事なまでの身体・精神・私の分離思考ですね。
似たような構造を洋の東西、宗教のあちこちで見かけますが
どこからの引用でしょうか?(これが結構はまるものなんですね)
おそらく捉え方を間違えて居られると思いますよ。
733 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 03:20:08 0
>>729 上から目線・・・。ま、いいけど、肉体の細胞と置き換えてみても何が言いたいのか
よくわからない。人間の私と意識レベルで違いがあるのは当然(別の生き物だから)
であるが、他をまるで価値のない物のように扱うのはどうでしょう。
>>733 だからそれはまるで論点がわかってない反論だと言っているの。
個々のミツバチや細胞に私があるかどうかなんてわからんでしょ。
とりあえずそんなものは余計なものだから要らないってだけで。
735 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/29(金) 03:23:19 0
>>728 指摘して訂正しておきますが、私は自己意識とは一度も言っておりません。
意識作用と言っております。
736 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 03:26:36 0
>>660 全ては物質による物理現象であり
人間の精神もまた物理現象にすぎない
というのが唯物論なんだから
人間の精神の中に、物理現象では説明のつかない事実があれば
そのまんま、上記の唯物論の主張は崩壊する
という当たり前の理屈な
>>662 それはキミの理解が浅い
>>667 >「思わなくなったら、
>すなわち主観性でなくなったら、私は存在しなくなる」というのが
>必然的帰結でございましょう?
思わなくなったら、思わなくなった という事であって
存在しなくなるかどうかとは違うだろ
>このような「主観性でないけれども存在する私」を、
>便宜上「霊魂」と呼んでいるわけです。
勝手に、そんな宗教的な用語で呼んで、飛躍させてもらっても困るな
明らかにキミは、意図的に誤解を生じさせようとしている
「霊魂」では、『私の存在性』について説明ができていない
理解の浅いキミ達が、そういう事にして納得しようとしているだけだ
話になりませんよ(苦笑
人類の意志とか人類の希望とか人類の絶望とか。
そんなもんは果たしてあるのだろうか。
738 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/29(金) 03:27:50 0
>>734 論点が何かお聞きしましょう。(元々私が始めた話しなんですが・・・)
よけいな物が要らないというのは希望で、実際にはあっても全然おかしく
無いと思いますが。
なんか上の方で霊魂は17世紀に死滅したような書き込みが書いてあってワロタw
740 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 03:32:29 0
>>732 何をブツブツと反論にもならない事を言ってるんですか?(苦笑
反論があるなら
この体の何の要素によって
何の因果関係で
他人ではなく私であったのか
キッチリ答えたらどうですか?(爆笑
>>738 じゃさ
個々の細胞にも私があってそういうのが集まって肉体を形成してその上にもその肉体を統合する(代表する)
私てのがあるって考えているわけですか。(禁じ手の逆質問w)
ミツバチは何かよーわからんが全体として一つの生物らしき振る舞いをしていて統合されている(統制が取れている)。
こういう在り方もアリだと言うことですよ。
根源的に単一の私が個々の人間にのみあってそういうのと違う何らかの別の私がそれぞれの生物個体には
あると貴方様はおっしゃっておいでのようですが?
もっと遡ると私なんてのは赤ん坊の頃にはなくて私というものがどうでありたいとするとき私がとりあえず
不完全な形で表出しているだけなんじゃないですかね。既にある私じゃなくて理想とする私を追い求める運動。
742 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 03:35:09 0
>>734 偏見だっつの。733もそうだけど。
他をまるで価値の無い物のように決め付けているのはそちらさんだっつの。
身体は脳に先立つ・・らしいよ。 byニュートン
743 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/29(金) 03:40:43 0
>>741 細胞集合体については、植物はそれに似た意識であると想像しています。
理想を追い求める私の運動というのは、無いと思いますね。親が育てる
わけですから。
あとに書いてあることは、だいたい私の意見を言い当てていると思います。
744 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/29(金) 03:43:33 0
>>740最高位さん
同様に
>>263の質問はどうなりましたか?
三分離論ではお答えは無理ですか?
身体の要素で言えば五感と意識(認識作用)
(といっても唯識では身体は「阿頼耶識」ですが)
因果関係は他と区別、差別する識・こころの作用に因って
です。
身体・精神に対して私を分離させる必要などありませんし
少なくとも唯識では間違いですね。
お分かりいただけないなら最高位さん自身がこれらについて
もっと突っ込んでください。ご説明します。
>>735 自己の同一性の意識を持たない意識はいかなる意味においても
「私」ではないと思います。
>>743 では私は何かに答えられるんじゃございませんか。
奇しくも貴方様がさり気なく織り交ぜていた生命への意志のような概念と通じると思ったので
理想を追い求めると書いたのですが。
還元すれば生存し続ける活動てことです。
私はその中でしか私というものを規定できません。従ってその規定した私というものは常に
未来にあって今にはないです。
というような考え方も成り立つよというお話。
私自身は割と相手の書き込みを精査した上で相手に伝わる程度に論理的に明瞭に書いている
つもりなんですがなかなか難しいです。
主観は他者が作るというのは同意です。私も一貫してその主張を覆しておりません。
748 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/29(金) 03:46:43 0
>>745 自己の同一性の意識を持たない意識について話しているわけです。私意識との
類似点と相違点。
749 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 03:48:40 0
>>668 >そして、通常は「主観性である私」
>が確認されるのはこの体が誕生してある程度成熟した後なので、唯物論者
>(というか普通の人w)にとっては、この疑問は無意味であって、そもそも
>解決の必要がない、ということになります。
いやいや
それが何で、よりによって『私』なのか という疑問が理解できないとなると
現代人としては
相当、知能が低いですよね
霊魂なんて関係ありませんよ(苦笑
>「主観性でないけれども存在する私=霊魂」
ホントに頭が悪いなぁ
『私』は主観性だと言ってるだろ
思わなくても、それは思わない という事であって
主観性としての存在性を否定できるものではない と言ってるんだよ
確認できなくなったものは、確認できない という事実があるだけで
存在なでも否定できる理屈はないだろ
できる と考えて、論理を進めちゃうのが、キミらであり
それは飛躍した考え方なんだよ
わからんもんには、わからんとする
当たり前だわな
そんな基礎的な事も、わからんか?(苦笑
>>748 ミツバチは全体として群れが同一性の意識を持っているように見受けられる。
それは錯覚でございましょうか。
いや錯覚でもいいんですけど私という全体の為に兵隊という部分を失っても補充できるから
外敵を追い払えるわけです。
751 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 03:51:22 0
自己同一性は、あんまり関係がありません
同一かな?と考えているのは、紛れもなく『私』だからです
仏教に限らず行き着く先には個人としての私の上位にある私だと私は考えております。
>>751 自己同一性というのは揺るぎない私を確認するためには必要なステップだと思いますよ。
昨日の私は赤の他人だ何やったって知ったこっちゃないと言ったところで通用しませんし。
だから私は私を絶えず未来に置いて考えることにしてます。それだけのこと。
754 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/29(金) 03:55:04 0
>>752さん
確かに。そのような考えも仏教にはありますね。
しかしそれは「個」ではないです。
755 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/29(金) 03:55:20 0
>>750 断定的な言い方をしたことは申し訳ありません。ミツバチの同一性と、人間の私との
違い、植物の場合はどうか。そう言った疑問を持ったので提議させていただいた
わけです。
>>754 この場合「個」がないです。
仏教ではどう表現するかわかりません。
757 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/29(金) 04:01:24 0
生きているということはとどのつまりが摩訶不思議なことなのでしょう。
>>756 唯識仏教ではアラヤ識と言うんでしょうね。
760 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/29(金) 04:07:41 0
>>756>>759さん
唯識の延長上といいますか
阿頼耶識よりさらにもう一つ識を立てる。
或いは、前五・意識・末那・阿頼耶、智に転じて、四智とし
その四智を当体としての智、があります。
また後日にお願いします。
761 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 04:08:19 0
>>744 そんな事を聞いているのではありませんよ
根本的に問題意識が理解できていません
↑
まず、コレを理解して下さい
次元が違うんです
そもそも、それが、なんで『私』であったのか ですよ
その原因を聞いているのです
>>761 唯識氏じゃないが、
原因は個体への執着に端を発する妄想だと思いますよ。
763 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 04:27:21 0
764 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 04:31:22 0
私・記述している・私
私・記述しないことの・他者
>>763 決定論は信仰だと誰かがいってた。因果関係を認めなければ、何も言えない。
因果関係があることは確かで因果関係だけでできているかどうかはわからんからそこは信仰なんだろ。
私が私であろうとする活動を止めない状態をとりあえず「私」と呼んでみる。
実存主義の「私」と同様に記述しようとする対象としての私に先行して生じようとする「私」だが、
それは常に未来に於ける「私」を想定したもの。
だから直近の過去の「私」の最前列を仮定すると循環論に陥るだけ。
だから探している「今」には確かに捉えようとしている「私」はない。
それが「私は存在しません」の意味ナリ。
決定論を語る前に
決定論信仰論の可否について哲学しなければならないな。
聖書は神の言葉をまとめたものですから正しく
また、神の存在は聖書に書いてあることなので、これまた正しいことなのです
決定論は自然法則の前提になっているので正しく
また、自然法則は決定論によりその正しさを保障されているのです
決定論を信仰しない者は邪教です
ゆえに、非決定論は妄想なのです
証明終わり
とりあえず最高位は何かすごい発見をしたんだ
それは認めてやろう
哲学とはまるで無関係だろうが、それが21世紀の最先端の哲学ということだろ
それも認めてやろう
どっちにしろ、最高位のバカさ加減は変わらないがな
疑っても疑っても疑いきれないものはあるのだろうか、それともないのだろうか?
最高位は「ある」と言う
それは「わたし」です(雀は言った)
デカルトは、そのような疑えない事例を発見したのだろうか?
AIが言いました。
「すごい事発見したんだよ」
ギザギザの10円玉を見つけたのか
773 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/29(金) 09:56:19 0
世界に一人だけ取り残されて俺ってすごいんだよと自分に向かって言う
時間軸は一つしかないから自作自演ってことは見え見えです
おお、最高位氏、まさに「反論のための反論」ばかりですな。
おじさんは悲しいですよw
>>730 >どっちだかわかりようがないんだから、成り立ちませんね
どうしてあなたはそう文章を読む力がないのですかw
>>640のあなたの文章の「我」を「哲学者最高位」とか「機械的唯物論者(機械氏失礼w)」
とかと入れ替えても成り立ちますね、だから「我」固有の問題ではないですね、
というのが私の指摘ですぞ。試しに改変コピペしましょうかw
>まず「あり」ですが
>「存在するって、いったい何なの?」という疑問に対して満足のいく答えが出せる人はいないでしょう
>まぁこれは、あまりにも当り前の事柄でしょうから置いておいて
>あとは「機械的唯物論者」ですね
>まず「機械的唯物論者」がいない状態を考えてみましょう
>「機械的唯物論者」以外は「他人」ですね?
>一般的に考えるならば、他人は無数に存在するわけです
>絶滅しない限りは無限に生まれてくるであろう他人の中に、一人だけ「機械的唯物論者」がいる
>おかしいと思いませんか?
>無限分の1 の確率ですよ
>無限に存在する「他人」の中に、ただ一人「機械的唯物論者」が存在する為には
>その理由が必要ですよね
>しかし、その理由は、ありえない んですよ どこにもね
>もちろん
>唯物的に答えを出そうと、どんなに頑張ってみても無駄なのです
で、機械氏がゾンビであるかどうかは本人以外に知りようがないので、上の文章の成立と
関係がないわけです。本当は「富士山」でも「このリンゴ」でも「あなたの死んだ愛犬」
でも同じことです。おわかりになりましたかw?
(続き)
>>731 >このリンゴの木に、このリンゴが成ったのは、物質的に完全に説明がつきます
一応言っておきますが、「リンゴの木にリンゴの実が成る」ことも物質的には
非常に不思議だと思いますぞ。アリストテレス風に言えば「リンゴの実の形相は
無から生じたのか?」という話ですからな。「物質である人体から物質でない
自我が生じる」のはなおさら不思議です。これがいわゆる「心身問題」であって、
今に至るも解決されておりません。ですから唯物論が正しいかどうかも誰にもわかりません。
で、あなたの言っていることはそれとは全く違う問題なのです。
「リンゴの木はたくさんあるのに、なぜこのリンゴは他の木ではなくこの木に成ったのか?」
「星はたくさんあるのに、なぜ日本列島は他の星でなく地球にあるのか?」
「夫婦はたくさんいるのに、なぜ哲学者最高位は他の夫婦でなくこの夫婦から生まれたのか?」
これらの疑問に答えがあるかどうか、これが問題なのです。
これは言い換えると
「初めからこのリンゴの木に成らなかったこのリンゴ」
「初めから地球に存在しなかった日本列島」
「初めからこの夫婦から生まれなかった哲学者最高位」
という概念に意味があるかどうか、ということであって、唯物論の是非とは全く関係ない
わけです。おわかりになりましたかw?
>>749 >『私』は主観性だと言ってるだろ
>思わなくても、それは思わない という事であって
>主観性としての存在性を否定できるものではない と言ってるんだよ
おお、最高位氏、これはまた奇怪至極な見解ですなw
「主観性」というのは、文字通り「主観的に何かを思ったり感じたりすること」
だと思われますが、あなたは「何も思わないし何も感じないけれども主観性で
あるものがある」と主張されるわけですか。しかし、それですと、ゾンビだろうと
ロボットだろうと石ころだろうと、みな「何も思っていないし何も感じていない
けれども主観性であって普通の人間同様みな私だ!」と言うことも可能になって
しまいますw
それとも、「今は何も思っていなくても、潜在的に思う能力があって、条件が
そろえば思うことができるものが主観性なのだ!」という見解ですか。
普通はそれが「人体」だと考えるので、その理屈だと「物質である人体は
主観性である」と言えることになりますが、あなたは当然それは拒否される
でしょうから「人体でもなく物質でもなく、今は何も思っていないが、
しかし厳然と存在していて、条件がそろえば思うことができる何か」の
存在を仮定しなければなりません。まさにそれこそが「霊魂」に他なりません。
そして、そのようなものが存在して、それが「私」の本体ならば、そして、
それが「哲学最高位という人体」と独立に存在するのならば、
「初めから哲学者最高位でなかった私」という概念にも意味が出てくるわけです。
おわかりになりましたかw?
777 :
赤い猫:2008/02/29(金) 10:24:13 O
777
「問答無用の私」とは至言だね
779 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 10:37:27 0
>>774 代入した文が意味不明なのだが・・・
>「機械的唯物論者」以外は「他人」ですね?
とか
>無限に存在する「他人」の中に、ただ一人「機械的唯物論者」が存在する為には
とか
「機械的唯物論者」は、他人だからなぁ・・・
>>776 >「主観性」というのは、文字通り「主観的に何かを思ったり感じたりすること」
>だと思われますが、あなたは「何も思わないし何も感じないけれども主観性で
>あるものがある」と主張されるわけですか。しかし、それですと、ゾンビだろうと
>ロボットだろうと石ころだろうと、みな「何も思っていないし何も感じていない
>けれども主観性であって普通の人間同様みな私だ!」と言うことも可能になって
>しまいますw
最高位氏が言いたいのは『実存は本質に先立つ』ってことじゃないのかな?
>>731 >このリンゴの木に、このリンゴが成ったのは、物質的に完全に説明がつきます
>このリンゴの木が吸収した養分以外からは成りません
完全に説明が付くのなら、このリンゴの原因的物質とやらを記述してよw
古今東西リンゴの木は他にも沢山あるのに、
何故他の木にならずに、このリンゴの木に成ったんだい?
無限分の一の確率じゃないかねw
781 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 11:15:14 0
>>780 >古今東西リンゴの木は他にも沢山あるのに、
>何故他の木にならずに、このリンゴの木に成ったんだい?
>無限分の一の確率じゃないかねw
「このリンゴ」の「この」がもつ不思議さは、「私」の唯一性と
つながってるのではないだろうか・・・
「この」は「私」から見た「この」だからね。
「私」から見た、だけでは半分(以下)の理解だね。
「あなた」は本来、位置関係を示す指示語の意味だ。
「こなた」とセットのね。
>>779 >代入した文が意味不明なのだが・・・
原文の「他人」は「私でない人」という意味なので、改変文の「他人」は
「機械的唯物論者でない人」と読み替えてください。
当然、「富士山」なら「他山」、「ポチ」なら「他犬」となります。
一応、最高位氏の指摘している問題はいわゆる「個物」すべてに共通の
問題であって、「私」とは世界の中心でも世界の限界でも何でもなくて、
要するに世界の中に存在する一個物以上でも以下でもないのでは、というのが
私の基本的なスタンスです。
最高位氏の「唯物論破壊」とは、要するに「現に存在する私は物質的には
絶対に作れない」というだけの話なのですが、「現に存在する個物は物質的にも
非物質的にも(全知全能の神様でも)絶対に作れないんだから、私に限った
話ではないでしょ」というのが私の反論だとご理解ください。
>最高位氏が言いたいのは『実存は本質に先立つ』ってことじゃないのかな?
「存在が本質に先立つ」という話は、以前これまた「あらゆる個物に共通の話」
としてしたことがあります。「このリンゴ」だろうと「このナイフ」だろうと、
現実に存在する個物はその持っている性質をどれだけ列挙しても定義できない、
というような話でした。
サルトルの「実存は本質に先立つ」というのは(よく知りませんが)
「人間存在は定義できない」というような話だと思いましたが、最高位氏は
「私の本質は存在性であり主観性だ」と主張していますので、むしろ
「本質は実存に先立つ」と言っているようにも思えます。
「生まれる前から存在する無規定の魂」の方が、むしろ実存は本質に先立つに
合致するようにも思えますが、まあそんな難しい話でないことはまず確実ですw
784 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 11:49:54 0
>>782 >「あなた」は本来、位置関係を示す指示語の意味だ。
>「こなた」とセットのね。
「この」をそんな風に言語的に考えれば、「この」の不思議さなんてなくなるだろう。
「この」の不思議さは、その言語化不可能性にある。普遍論争を見てもわかるように。
普遍論争は、そのもとをたどれば、プラトンがイデアを真の実在と考えて、
「個」を、イデア(普遍)の影として軽く扱ったことに遡る。
それに対してアリストテレスは、「個物」こそが真の実在であると考えた。
しかしアリストテレスのいう「個物」というのは、普遍が内在している
限りでの個物だった。たとえば「このリンゴ」と言っても、それは「リンゴ」
という普遍的本質の相で考えられていた。つまりそれは、リンゴの中の
一つのリンゴであり、それは真の意味で代理不可能なものではなかった。
それに対して中世のキリスト教徒は、神の前に一人立つ者としての
《この私》を代理不可能なものとして考えた。つまり《この私》は、
私が「人間」であるというような普遍的本質よりも先に、絶対の「個」
として、神の前に一人立つ。
このような、代理不可能な絶対の「個」を言い表す言葉など存在しない。
「これ」と言ったとしても、「これ」は実は最も普遍的な語であって、
ありとあらゆるものが「これ」なのだから。だからドゥンス・スコトゥスは、
「このもの性」などという奇妙な言葉を作り出したが、それが言葉である限り
は、代理不可能な絶対の「個」を言い表すことはできない。
言葉の本質には「伝達」ということが含まれている限り、そこには当然
「普遍」が含まれているのだから。
785 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 11:50:25 0
>>783 >一応、最高位氏の指摘している問題はいわゆる「個物」すべてに共通の
>問題であって、「私」とは世界の中心でも世界の限界でも何でもなくて、
>要するに世界の中に存在する一個物以上でも以下でもないのでは、というのが
>私の基本的なスタンスです。
その「世界の中に存在する一個物」を、上で書いたような、アリストテレス的な意味ではなく
代理不可能な「絶対の個」としてとらえれば、「私」の不思議さにつながる。
西田幾多郎の言う「真の個物」というのも同じ。
永井均は〈私〉の言語化不可能性を、西田幾多郎の「真の個物」と関連付けて次のように書いていた。
「真の個物は、有限の一般概念をもってしては規定され尽くされない。そんなものが
どこにあるのか、と問われたなら、それはここにある、としか答えようがない。たしかに
ある意味では、そんなものはどこにもない。・・・唯一の真の個物は、絶対無の場所に
於いて、《ただある》のだ」(『西田幾多郎』)。
786 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 11:55:05 0
高橋和巳さんの「人は変われる」(三五館)に主観性についての説明がある。
主観性は、心の最も深い層にある自分自身であり、自分自身の本質。
自分自身の『主観性』に気づき、手に入れることが出来れば人は変われる。
まず、自分から離れることができる。絶望することができる。
そして、純粋性を感じ取ることができる。
……といった内容だな。
787 :
素人:2008/02/29(金) 12:07:13 0
>>776 > 「今は何も思っていなくても、潜在的に思う能力があって、
>条件がそろえば思うことができるものが○○なのだ!」
> 「今は何も[して]ていなくても、潜在的に[××する]能力があって、
>条件がそろえば[××する]ことができるものが○○なのだ!」
後期大乗仏教に、似た考え方があったような・・・w
>>唯識さん
憶えてます? (もしかして唯識そのものだったかな・・? ちょっと違うような気もするけど・・・。)
ひとこと「私」と言っても、公に対する私、
所有の主体、責任の主体など社会的な私もあるし、
テリトリー、自己と非自己の境界線という生物学的な私というのも
あるし、私というものは私の思う以上に大きい私かもしれないという
心理学的な私もあるし、言語によって生み出された言語学的な私というのも
あるし、
動物的で機械的で無意識的な私もあるし、理性的で意識的な私もあるし、
あらゆる個的なものの一部である個としての私というのもあるし、
まあ私の実体というのは無いんだろうな。あるものに対するときに
浮かび上がる主体という非実体的なものだろう。
やっぱ自分探しなんかするのは無駄だな。
例えば・・・
「森は生きている」とか。
790 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 13:43:52 O
普遍論争なら個物の存在が当たり前で普遍の存在こそ奇跡だろ。
>>785 あ、その永井氏の西田本は一応読みました(ただし半分もわかりませんでしたがw)。
確かにそのくだりを読んで「あ、前に俺が書き込んだこととかぶっている」と
ちょっとうれしくなったのを覚えておりますw
一応、私はどんな個物も「代理不可能な絶対の個」だとしか思えないので、
(そうでないのは人間にとってとか人間の言葉にとってそうでないのであって、
個物の側の知ったことではないでしょう)
「私」を「絶対無の場所」として特別視する考え(でしたか?)は
どうも理解できません。
「絶対無の場所が自己を限定する(でしたか?)」というような話になると、
もはやわけわかめですw
永井氏の哲学はあまり普遍性のない土台の上に築かれた巨大建造物であって、
「独我論的感性」を持たない者にとっては無意味ではないか、という気が
今はしておりますが、まあ私が何も理解していないだけである可能性が高いですw
永井氏の本は好きなのでわからぬながらに割と読んでおります。
一応申し添えますと、最高位氏に「あなたの考えている問題は永井氏の
考えているような問題で、唯物論とは関係ないのでは?」と最初に指摘したのも
私です。永井氏本人が「私が人間であろうがロボットであろうが問題ではない」とか
「心身問題などというのは、真の問題を捉え損ねた偽の問題だ」とか書いていると
いうのに、最高位氏は理解されません。
また最高位氏の動機は倫理的なもの(人間尊重)なのですが、永井氏のような哲学は
倫理的には唯物論などよりはるかに破壊的な帰結をもたらしかねない、という
話もしたのですが(「倫理とは何か」など読めばわかります)、これまた理解されません。
西田哲学などは、やり方によってはマルクス主義とも結びつく(そういう論者も
いたらしいですが)ものではないか、という気がいたします。もっとも
マルクスが単純に唯物論者かどうかも疑問ですが。
「永井氏の本を読めば(わからぬながらに)あなたの考えも深まるのでは?」と
昔から折に触れて言っていたのですが、一向に読もうとしないので最近はあきらめて
いるわけですw
792 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 13:56:36 0
>>787 >後期大乗仏教に、似た考え方があったような・
華厳経の中にある「有力」と「無力」の関係が、似ているといえば似ているかもしれない。
「有力」「無力」の思想によれば、すべてのものは、同一の複合的構成要素から成り、
それらの相互の間には、常に必ず「有力」「無力」の違いがある。構成要素群の中の
どれか一つが「有力」である時、残りの要素は「無力」の状態に引き落とされる。
「有力」とは積極的、顕現的ということ。「無力」とは、消極的、隠退的であること。
「有力」な要素だけが表に出て光を浴び、「無力」な要素は闇に隠れてしまう。
普通の人には、「有力」な要素だけしか見えない。しかもどれが「有力」の位置を
占めるかは、場合場合で力動的に異なる。
すべてのものは、それらの共有する構成要素の「有力」「無力」的布置によって、それぞれのものである。
AはAでありながら、BでもありCでもある、それでいて事実上はAであって、BでもなくCでもない。
たとえば「このリンゴ」の中には「有力」な要素としての「リンゴ」の他に、無力な要素として、
「メロン」、「バナナ」、「ギョウザ」、・・・等々の複合的要素が含まれている。
したがって見る人が見れば、普通の人にはただのギョウザにしか見えないものの中に、
全宇宙が見える、ということになる。
793 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 14:24:40 0
>>791 >「私」を「絶対無の場所」として特別視する考え(でしたか?)は
>どうも理解できません。
>「絶対無の場所が自己を限定する(でしたか?)」というような話になると、
>もはやわけわかめですw
>永井氏の哲学はあまり普遍性のない土台の上に築かれた巨大建造物であって、
>「独我論的感性」を持たない者にとっては無意味ではないか、という気が
>今はしておりますが、・・・
永井均の『西田幾多郎』は、実存思想に馴染んでいる人にはとても読みやすい本。
永井均が〈私〉として言おうとしている事柄と、普通の「私」との区別ができれば。
「無の場所そのものは・・・非概念的な実存」(p92)であって、 「別の無の場所(汝)」が
登場することによって、同時に私も、「端的な無そのもの」ではなく、 「汝」にとっての
「別の無の場所」、つまり「すでに概念化された実存概念」(p92)となる。
つまり別の無の場所を認めるということによって、本来名づけられない〈無の場所〉が一般化されて、
「無の場所」として言語化されるようになる。
これが〈私〉が「私」化していく過程。
うむ。簡単で単純な事を言ってるんだな。言い回しが変だが。
>>793 あ、どうも解説ありがとうございます。
>永井均が〈私〉として言おうとしている事柄と、普通の「私」との区別ができれば。
まさにその<私>と「私」の区別が結局は無意味であって、
<私>=「私」=「個物としてのこの人間(の主観面)」のことではないの?
というのが今の私の感想なのです。「この人間」抜きで<私>を意味づけることなど
(言葉の上ででなく実存としても)できないではないか、ということです。
「最初からこの人間でなく他の人間(あるいは他の存在)であった<私>」に
何の意味も感じられないといいましょうか。
>「無の場所そのものは・・・非概念的な実存」(p92)であって、 「別の無の場所(汝)」が
>登場することによって、同時に私も、「端的な無そのもの」ではなく、 「汝」にとっての
>「別の無の場所」、つまり「すでに概念化された実存概念」(p92)となる。
まさにこの「無の場所」に「別の無の場所(汝)」が登場する、というのが、
なんでそんなことが可能なのか、さっぱりわからないわけです。
そもそも「場所」というのが、最初から「全体の中の他の場所でない一定の場所」みたいな
ニュアンスを含んでいるので、「それなら最初から他と区別された個物(この人間)
であって、端的な無でも何でもないのでは?」とも思えるのですが、
そうでなくて「無の場所」には外部がないのなら、そこになんで「別の無の場所」
なるものが登場できるのか、なんで両者が関係したり「認め」たりなどということが
可能なのか、その理屈づけがどうもさっぱりわかりません。
唯識氏のいう最高位の三権分立論は最高位にとって自滅だ
なぜなら私を独立行政法人として独立させたら、議論のために私は体⇔精神の議論に天下らなければならない。
体⇔精神に私が近づくほど唯物論的説明にならざるをえない
でもそんなの関係ねぇ!
798 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/29(金) 15:22:51 0
私の中には天使と悪魔がいます
これだけでいいんじゃね?
反対意見による自作自演ですよ
799 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 15:31:01 0
>>795 >まさにこの「無の場所」に「別の無の場所(汝)」が登場する、というのが、
>なんでそんなことが可能なのか、さっぱりわからないわけです。
たぶん思考の順番が逆なのではないか・・・
端的な「無の場所」を出発点とすれば、そこからは何も生じてこない。
むしろ逆に、「私」と「汝」という具体的存在者の根底のところを考えていくと、
そこには「無の場所」がある、と考えるのが西田幾多郎の弁証法的な考え方。
西田幾多郎はよく「現実の底に徹する」という言い方をする。
我々は常に既に言語化された世界に生きているけれども、その根源には
言語化され得ない世界がある。こういう考え方は実存的思想に共通する考え方。
記憶を赤ん坊まで辿ってるようなもんだ。
言葉を話す以前は言葉に出来んわな。
言葉に出来ないってのは別に特別な事でもないと思うのだが、
言語化出来たってのは一体どういう事なんだろう?
言葉に出来ないんだったら、無理にしなけりゃいいのに
802 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/29(金) 15:47:35 0
>>800 うそつきは科学のはじまり
うそつき先生
「さあ、みなさーん、
数字を0から9まで順番に並べたものは
『0125786439』ですよー
かけ算で4の段言ってみましょう
4かける1は4 4かける2は17
4かける5は21 4かける7は23
4かける8は58 4かける6は72
4かける4は79 4かける3は86
4かける9は65」
児童たち
「ぇー、めんどくさーい
やだぁー・・・
4かける1は4 4かける2は8
4かける5は20 4かける7は28
4かける8は32 4かける6は24
4かける4は16 4かける3は12
4かける9は36」
うそつき先生
「はーい、よくできましたー
ではつぎは数字の読み方ですー
0は『れい』 1は『いち』 2は『に』 5は『さん』
7は『し』 8は『ご』 6は『ろく』 4は『しち』
3は『はち』 9は『く』 ですよー」
猿真似と先生と生徒の勘違いです
その場合の「普遍」は言語における普遍化可能性ということだろう
「個物が先立つ」という考えには何の意味もない
804 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 16:42:18 0
はっきり言って、西田幾多郎ってドイツ観念論と仏教の
わけ分からないところを合体させたみたいで、無意味な
リフレインが延々と続く言葉の遊びとしか思えねえ。
805 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 17:26:15 0
>>779 最高位は実存主義を勉強してないし、知らないでしょう。
であるから最高位の主張を、実存主義的解釈するのはまずい。
どうてみも、最高位は自説をまとめてないし、『私』の説明も不明瞭過ぎで立論できてないな。
>最高位氏が言いたいのは『実存は本質に先立つ』ってことじゃないのかな?
最高位は『主観性』こそが『私の存在性』であるといい、
『私』というは、根源的に存在するもの、最も根本的な存在、と言ってるんだから、本質存在だよ。
>霊魂なんて関係ありませんよ
>>749 と最高位はいうが、霊魂を否定し
>>659、
>>736実体的な主体も否定するけど、
非実体的な主観性がある、と言っているだけ。明晰判明でない言葉があるだけ。
紛れもなく思いつきを書いているだけだよ、要旨を組み立ててないし、哲学ではないよ。
霊魂があるとは思っていてもそんなこと恥ずかしくて白状できません!
>>805 >>最高位氏が言いたいのは『実存は本質に先立つ』ってことじゃないのかな?
>
>最高位は『主観性』こそが『私の存在性』であるといい、
>『私』というは、根源的に存在するもの、最も根本的な存在、と言ってるんだから、本質存在だよ。
本質っていうのは「〜である」を規定することだよ。
たとえば「人間は社会的動物である」とか。
最高位はそういう規定よりも、「私がある」(=『私の存在性』)を強調してるでしょ。
実存は本質に先立つっぽいね。
>>636-637 全くの誤解というわけではないように思えるのですが。
というのも俺が言っているのはそのようないわゆるSVOの図式を取り払う意味がよくわからないということなのです。
デカルトの議論でそういった図式があるかないかと言われればそれはあるのだと思います。
ですがそれは単にものごとを言い表す上で文法的な規則に従ったまでのことではないでしょうか。
「我思う故に我あり」で大事なのは結局、客観世界は捨てられても主体や主観といわれるもの(疑っている我)は捨てられないよということだと思います。
「疑い」「思い」「見え」「痛み」等々の「作用」が疑いえないのはあくまでそれらが私のものである限りであって、
仮に「主体+作用+客体」という図式を取り払ってしまえば、ということはつまりそれらの「作用」が私のものではない場合ということだと思われますが、
そのときのそれらの「作用」はいわゆる客観世界以上に疑わしいと思いますがどうでしょうか。
それと、このスレで「我思う故に我あり」を否定して「我思うではなくて思う我だ」とか
「思い=我だ」というような書き込みが時々あるように思うのですが気のせいでしょうか。
気のせいじゃないと仮定して話を続けると、俺なんかは「それはデカルトが書いてることじゃないの?」と思うのですがこの点どうですか?
いや、俺もデカルトに詳しいわけでは全然ないので自信はないのですけれど。
809 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 18:57:59 0
デカルトが「我思う」を「思う我」とひっくり返したのは遊びだ。
>>808 横からだけど
おれはまったくそのとおりだと思うよ。
811 :
素人:2008/02/29(金) 19:06:39 0
>>807 ああ、解り易いですね。
『「ある(いる)」ということ』がまず前提としてあり、
それは「(自身が)思考している」という行為によって確認され続けている、と。
ところで、「本質」を
≪「それ」を欠いてしまえば、XをXたらしめることができないもの≫
≪「それ」は、XをXたらしめているもの≫と定義するなら、
「私」を「私」たらしめているものは何か? という問いにどのような答えを用意するかが変わってくる。
・≪「ある(いる)」ことが、「私」を「私」たらしめている≫のか。
・≪「思考する(している)」ことが、「私」を「私」たらしめている≫のか。
大きな違いですねw (別に、本質を一つに絞る必要もないかもしれませんが・・w)
ああ、けど、
≪「(自身が)思考している」という行為によって『「ある(いる)」ということ』が【確立される】≫と言うならば、
≪「思考している」ことが前提となるべき≫か・・・。
『「ある(いる)」ということ』は、
≪思考によって確立される(成立する)≫のか、
≪思考によって確認される(知られる)≫のか、
も大きな違いとなりますねw
デカルトはさぁ
「少しでも疑いうるものは捨てるべきである」と考えていたのかな?
とてもそうは思えないんだよね
むしろ逆だと思うんだよ
疑えるからって捨てていたらどうしようもないとデカルトは思っていたはずなんだよ
「われ思うゆえにわれあり」の前からそう書いてるんだから。
すると「我思うゆえに我あり」は懐疑から脱却し新しい基準を提出する試みと言えると思うんだよね
以降、「我思うゆえに我あり、と同じくらい明晰、判明なものは真理として受け入れてよい、と判断した」と本人も書いている
デカルトのとった「少しでも疑えるものは誤りと判断して捨てることにした」というのは、
デカルトの本意ではなく、懐疑論に抵抗できる防波堤を探そうとする試みではなかろうか
813 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 20:02:14 0
>>812 そうなんだよね。だから教科書ではデカルトの論証はアウグスティヌスの
焼き直し(というかコピー)だということをちゃんと教えないといけない。
アウグスティヌスの意図がまさに懐疑論に対抗することにあったわけで。
815 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/29(金) 20:43:12 0
>>628じいさんさん
ネットワークPCをお考えいただければお分かりかと思いますが
じいさんさんの仰る繋がりとは「他」との繋がりでしょうか?
>>719 :唯識 ◆
>じいさんさんの仰る繋がりとは「他」との繋がりでしょうか?
違います。
意識が繋がって自我となっているから、自我を分析、分割したりして考える事は出来ないと言うこと。
>>529 :唯識 ◆Vidya0E1.s :
>自我よりもさらに根深いといいますか
>根本的自我と呼ばれるものがありましてそれが深層識の末那識です。
このように自我を更に階層で分類するやり方は間違いである。
816 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/29(金) 20:51:44 0
>>766 :考える名無しさん:
>私が私であろうとする活動を止めない状態をとりあえず「私」と呼んでみる。
大変判りやす正しい呼び方だと思います。
ところが次がおかしい・・・・
「未来に於ける「私」を想定」とか「直近の過去の「私」の最前列を仮定する」とか分類するのはせっかくの呼び方を逆行させている。
両者の過程の状態を「私」と呼んだはず。
本来の「呼んだ」意味は「私」は過去や未来に分割できないと言う意味ではないでしょうか?
817 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/29(金) 21:01:49 0
>>786 :考える名無しさん:
滅茶苦茶ひどいねえ。
>主観性は、心の最も深い層にある自分自身であり・・・
心に浅い層と深い層があり、浅いとこには主観性がないと言うのは明らかに間違いだろう。
人が何かを認識するときその最初の段階(見たり聞いたり)の時点で固有のバイアス(偏向)が在るのは誰でも知っている事実。
それはその人の主観性に拠る事は否定できないだろう。
だいたい主観性と言えば「全体としての心の全ての性質」としか言いようがないでしょう。
>自分から離れることができる。
こんな事出来るはずがない、オカルト以上ですね。
818 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 21:11:10 0
>>817 高橋和巳さん晒されてるな それでいいのさ
819 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 21:22:10 0
主観性は、心の最も深い層にある自分自身であり・・・ 高橋和巳さん
『私』は主観性ものもの。精神の根底に鎮座する・・・最高位
820 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 21:24:21 0
(誤)主観性ものもの→(正)主観性そのもの
>>812 デカルトの意図とは別に
方法的懐疑の徹底性は現代でも解決できていないんだよ。
デカルトのように神を持ち出すことなどできないのだから
デカルトとはちがった方法で解決しなくてはならない。
822 :
素人:2008/02/29(金) 21:25:58 0
>>792 総論や経典通史的にしかやってないから、
「有力(うりき)」「無力(むりき)」(?)なんて言葉があったかどうかすら忘れているがw、
なるほど、解り易い。
特に、
>したがって見る人が見れば、普通の人にはただのギョウザにしか見えないものの中に、
>全宇宙が見える、ということになる。
(ちょっと密教的(曼荼羅的)な匂いもするが・・)
華厳の法界(事事無碍の方?)はこういうことか・・。
華厳ベースの(日本)仏教が多い(特に禅)と言われるのがよくわかるw
如来蔵や本覚思想、真如、仏性、仏種、種子、阿頼耶識、薫習、常楽我浄ver1.2、
とかともリンクしてくるかなと思ったけど・・。
仏教概論のノートを見返してみたが、
大筋は結構憶えてるもんだな・・と思ったw
他のノートもめくってみると、やっぱり倶舎・唯識が
>>787に近いかも・・?
上に列挙したものの殆どは、どちらかというと
「仏となれる可能性」「悟れる可能性」に焦点が合っているようだし・・・。
するとさぁ、この問題は「懐疑論は擁護されうるか?」という問題として定式化できると思うのよ
これは現代哲学でも通用する問題だと思うし、
最高位が「純粋な存在性であるわたしは疑えない」と言うなら
懐疑論の立場からの反駁を試みる必要があると思うのよ
話はそれるけれど、デカルトの「我思うゆえに我あり」は懐疑論の防波堤にはならないと思うんだよね
824 :
素人:2008/02/29(金) 21:35:02 0
結局、デカルトさんの言葉も、本人を離れて独り歩きしてるんですね・・。
ちょうど、「色即是空」が、(それのみで!)独り歩きしているように・・・w
>>823 おまえほらだろ。
その頭の悪そうな発想が良く似ている。
時間差すまん
見れなかった
で、「懐疑論は無意味だ」とか「懐疑論は矛盾している」とか言うと、
理性を起点とした役割もまた、無意味だったり無内容になってしまうような気がするんだ
だから「懐疑論は反駁されておらず、しかも、それが正しいのかもしれない」って態度をとることで、
何とか解決(根本的解決じゃなくて、それを乗り切って次の問題に取り組もう)できないかな、なんて考えてる
漠然とだけどね
俺はずっと書き込み続けているぜ
名無しだけど目印があるんだよ
その目印を見つければ、俺のレスは全部分かるぜ
>>826 >「懐疑論は反駁されておらず、しかも、それが正しいのかもしれない」
それを懐疑論って言うんじゃないのか?
ってか懐疑論って定義が難しいよな。
真理は存在しないって言ってる懐疑論者は実際には存在しないわけだし。
ラッセルの『西洋哲学史』にあったんだけど
古代の懐疑論者は異教の儀式を行なうのに何の抵抗もなくて
ほんとになんでもかんでもやっていたんだってさ
なんでもありっぽさが懐疑論が敬遠される所以だと思うのよ
特にキリスト教文化にとってはね
>>830 ラッセルの哲学史か。今度読んでみるは。
>>816 例えば「責任」と言った場合、「私の過去」に対する「私の未来」への「責任」という具合に切り分ける。
それは「悔い改め」たり「反省」したりする余地を残す。
こういうので必要なんだわ。
_, ,_
( ゚∀゚) ))
/つ( ̄`ヽO_ノ⌒ヽ
ノ ) \ ))
(__丿\ヽ :: ノ:::: )
丿 ,:' ))
(( (___,,.;:-−''"´``'‐'
冊冊冊冊
|
|
|
_, ,_ ∩ おやすみなさい
( ゚∀゚ )ノ
_ ./ _ノ⌒⌒⌒`〜、_
(. ⊂人 //⌒ ノ ヽ)
⊂ニニニニニニニニニニニニニニ⊃
834 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 23:48:13 0
>>774 >で、機械氏がゾンビであるかどうかは本人以外に知りようがないので、上の文章の成立と
>関係がないわけです。本当は「富士山」でも「このリンゴ」でも「あなたの死んだ愛犬」
>でも同じことです。おわかりになりましたかw?
何が同じだって?(笑
懐疑論て知ってる?
>>775 >>このリンゴの木に、このリンゴが成ったのは、物質的に完全に説明がつきます
↑
これは、唯物論の根幹ですよ
この理屈を人間の精神にも当てはめるから唯物論なのです
これ自体を否定するなら、最初から唯物論は崩壊してるんですよ
キミは、議論の基礎的な流れそのものを把握していないから
おかしな反論をしちゃうわけですよ(爆笑
>あなたの言っていることはそれとは全く違う問題なのです。
>「リンゴの木はたくさんあるのに、なぜこのリンゴは他の木ではなくこの木に成ったのか?」
それは全然、違います
キミは、全く理解できていません
>「夫婦はたくさんいるのに、なぜ哲学者最高位は他の夫婦でなくこの夫婦から生まれたのか?」
哲学者最高位という人が、なぜ『私』であったのか
という疑問は理解できるかね?(苦笑
835 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/29(金) 23:49:23 0
>>776 >「主観性」というのは、文字通り「主観的に何かを思ったり感じたりすること」
>だと思われますが、あなたは「何も思わないし何も感じないけれども主観性で
>あるものがある」と主張されるわけですか。しかし、それですと、ゾンビだろうと
>ロボットだろうと石ころだろうと、みな「何も思っていないし何も感じていない
>けれども主観性であって普通の人間同様みな私だ!」と言うことも可能になって
>しまいますw
何から何まで浅いなキミは
全然ついてこれてないんだよ・・・
脊椎反射的に書き込まずに、もっと深く考えてから書き込んでくれないか??
たとえば、意識不明になって、思わない瞬間があったとしても
『私』の存在性は維持されている と考えるのが普通じゃないか?
私は「そういう事も考えられるだろ」と言っているわけでね
考えうる可能性が全て閉ざされて初めて、私への反論ができるんだよ
キミの言うように、ゾンビも同じなんだったら
意識不明の時の私は、ゾンビなんですか?(爆笑
それを証明して下さい
836 :
考える名無しさん:2008/02/29(金) 23:57:55 0
( ')U(` )
/ ̄  ̄ヽ
/ ,ィ -っ、 ヽ
| / 、__う人 ・,.y i
| /  ̄
ヽ、__ノ | |
| 無 職 | /
| ヽ、_ _,ノ 丿
| (U) |
| / ヽ |
837 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 00:02:58 0
。
`ヽ ピュッ
`
/ ̄' ̄\
./ ̄ ̄ ̄ ̄\
/'''''' '''''' :::::::\
. |(●), 、(●)、.:|
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::|
. | ``ニニ´ ' .::::::::|
/ \
/ / ヽ ヽ
838 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 00:03:40 0
考えうる可能性が全て閉ざされて初めて、
ってワロタ
839 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 00:10:57 0
/二二ヽ
(ミ/-◎◎)
_(6 . (_ _) ) ワラウナ
/人: :ノ 3 ノ
[]( | ̄ ̄ ̄ヽ、
ヽ_|_.|=====回=)
/Ο\:::::::,::::::/
|____|_[]__[]
840 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 00:13:25 0
唯物論が存立しうる可能性は全てわたしが全て閉ざした。
いや、破壊し尽くしたのだ。
『私』は考えないとしても、可能性が全て閉ざされているとは
いえんのだよ。
841 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 00:30:48 0
意識不明になった原因ってなんだろね
842 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 00:34:26 0
熟睡していて何も思わなくても『思う我』がいるの?
『思う我』って何?
普通とか常識とか威嚇するような書き込みしか
出来ない人格になってしまった最高位
クソレスしか出来ないならコテなんてやめればいいのに・・・・
>>843 まるで以前はそうでなかったかのような言い方だな
>>834 いいからリンゴの原因的物質とやらをあげてみろ。
出来るのか出来ないのかどっちだ?
>このリンゴの木に、このリンゴが成ったのは、物質的に完全に説明がつきます
これはお前が言ったんだろ低能。
完全に説明しろ。
最高位、お前はこう主張してるのだろう?
「リンゴ」は物質で完全に説明出来る。
「私」は物質では説明出来ない。
物質であるならば完全に説明出来るはずであるのに説明が出来ない。
だから「私」は物質ではない。
そのお前の主張に対して、
「リンゴ」でも完全に説明できないのではないか?
という疑いが投げかけられてるのだよ。
お前の主張が疑わしいのだ。
簡単な話だろう?
お前は「リンゴ」を物質的に完全に説明して示せばいい。
そうすればお前の主張はまったく正当だ。
出来ないのならば、お前の主張の正当性は示せない。
「リンゴ」だって「私」だって同様じゃないか!
と突っ込まれて、
「君は、全く分かってない」でひたすら逃げるだけだなw
まあ、結果は見えてるがw
847 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 01:52:13 0
懐疑論うんぬんしている奴が、テキトーな科学知識で語ったら嗤えるがな
848 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/01(土) 03:48:54 0
最高位さんは身体・精神から私が分離して存在出来ると
考えて居られるからそのような問いになるのでしょうが
現実的にそのような前提が正しいのでしょうか?
849 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/01(土) 04:11:34 0
>>787素人さん
「異熟」ということでしょうか?阿頼耶識そのものです。
>>792さんのような考え方は西洋にもあるのではないでしょうか。
850 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/01(土) 09:37:05 0
>>845 >>846 はぁ?
>>834に、書いてあるだろ
>>このリンゴの木に、このリンゴが成ったのは、物質的に完全に説明がつきます
↑
これは、唯物論の根幹ですよ
この理屈を人間の精神にも当てはめるから唯物論なのです
これ自体を否定するなら、最初から唯物論は崩壊してるんですよ
キミは、議論の基礎的な流れそのものを把握していないから
おかしな反論をしちゃうわけですよ(爆笑
>>848 分離して存在してませんが??
早とちりしすぎ
キミの知能では理解できませんかね
851 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 09:51:16 0
>>850 >>このリンゴの木に、このリンゴが成ったのは、物質的に完全に説明がつきます
だから決定論でしょ。必然です。という説明以外には聞こえませんが・・・
852 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/01(土) 09:55:33 0
>>842 『思う我』じゃなくて
『我』な
『我あり』です
>>843 彼が「そういう状態は、ありえない」と言うから
「ありえないと言えないだろ」と言っただけだよ
そもそも
突っ込みが、丸っきり的外れだから
こういう、くだらない話になってるだけだよ
>>844 キミも同じく、話の流れすら、全く理解できてない という事だな
哲学的議論以前の、国語力の問題だ
>>847 懐疑論と、科学知識の多い少ないは、関係ないぞ??
全然、意味わかってないだろ(苦笑
853 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/01(土) 10:01:47 0
>>851 リンゴは説明できても、『私』は説明できない
よって唯物論、決定論は、共に崩壊する
何回も、説明してるだろ
なんで、いちいち、その都度、説明しなきゃイカンの???
いいかげん理解できてくれよ
>>853 今、俎上に上がっている言明の「この」が、
どれほど大きな意味を持っているか、
見えていないようですね・・・w
855 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 10:04:54 0
>>853 なんで、リンゴと私を区別できるかなぁ?
どうしてリンゴと私は違うんですか?
リンゴになった事あるんですか?
856 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/01(土) 10:15:46 0
>>855 基本的な事が理解できていませんね
リンゴというのは、『私の価値観』によってリンゴなんですよ
境目なくつながっている物理世界から、価値観によって切り取られて、特定して認識されたモノだと思いますが
そうでないとするならば、リンゴとは何ですか?
857 :
素人:2008/03/01(土) 10:21:55 0
>>856 なぜ、切りとることができるんでしょう?
リンゴがリンゴとして切り取られる理由は、何に依っているのでしょう?
そこに、リンゴをリンゴたらしめる何かが知覚認識されることにより、
リンゴとして切り取られるのではないでしょうか?
ああ、「差異はどこにあるのか?(いや、そもそも「差異」なぞあるのか?)」という、
ネコとの対話を思い出しましたw
858 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/01(土) 10:32:53 0
リンゴの実 というものは
リンゴの木が吸収した物質が
リンゴの木というブラックボックスを通して出てきたものですよ
そこには物質的な作用しかないのではありませんか?
これが唯物論の考え方です
これを否定するならば
それは反唯物論の立場である という事になりますが
いいんですか?(爆笑
>>854 「この」と思っているのは、『主観性』だけですよ
すなわち、『価値観』なんです
「この」というのは「区別」です
「区別」とは「作業」です
主観性による作業を経ずしては、「この」は、ありえません
859 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 10:41:04 0
>>856 >>リンゴというのは、『私の価値観』によってリンゴなんですよ
>>858 リンゴの実 というものは
リンゴの木が吸収した物質が
リンゴの木というブラックボックスを通して出てきたものですよ
そこには物質的な作用しかないのではありませんか?
これが唯物論の考え方です
だからリンゴの木という私「ブラックボックス」によって必然的にリンゴになるんでしょ
最高位さんは最高位さんと言う「ブラックボックス」であなたなんですよ
何でリンゴと私を区別する必要があるんですか?
860 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/01(土) 10:47:33 0
>>857 >なぜ、切りとることができるんでしょう?
それは学習によってでしょうね
あくまでも、「リンゴ」は価値観によって「リンゴ」なのです
リンゴとは何なのか
リンゴと呼ばれているものを分析してみましょう
リンゴを細かく裁断していけば、最後はH2Oや、その他の分子になってしまいます
リンゴは、分子の集まりなのです
分子の集まりを、便宜上で「リンゴ」と呼んでいるだけなのです
861 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 10:50:46 0
某氏とは何なのか
某氏と呼ばれているものを分析してみましょう
某氏を細かく裁断していけば、最後はH2Oや、その他の分子になってしまいます
某氏は、分子の集まりなのです
分子の集まりを、便宜上で「某氏」と呼んでいるだけなのです
862 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/01(土) 10:51:58 0
>>859 >最高位さんは最高位さんと言う「ブラックボックス」であなたなんですよ
何が何を通って『私』に変化するのですか??(苦笑
今日は、これで離席します
863 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 10:54:53 0
>>862 食物と酸素など生理的に必要な物質が消化器循環器を通って私に変化するんですよ
864 :
147:2008/03/01(土) 11:14:17 0
>>857 あいかわらず、スキだらけの文章だね。まぁ、人のことは言えないけど。w
順番に言ってみる。「リンゴをリンゴとして」切り取らせるのは主観、もしくは
共同主観。リンゴに接したことのない人(たち)には「リンゴとして」切り取る
ことは不可能。
「リンゴをリンゴたらしめる何か」は、いまのところは不可知である。これは、
リンゴに限らず他の存在者についても言えよう。“創造主”では?とでも言っ
ておけば無難だろう。
その不可知の対象を「リンゴ」として差異化(知覚認識)するのが主観性。もし
健常?なら、リンゴは貴君にも私にもほぼ同じにみえているのではないか。が、
その“意味(認識)”は違うはずである。
事象に“差異”があるかどうか不可知である。ただ、私(たち)はそれを主観的
に意味づけするだけである。たぶん、貴君と私は対象(事象)を別様に差異化
しているのではないか。
>>860 >最後はH2Oや、その他の分子
>リンゴは、分子の集まり
ぷっw
相変わらず頭が悪いなあ
だから分子やH2Oって何なのよw
よく考えてから発言しろバカw
866 :
147:2008/03/01(土) 11:47:01 0
>>861>>863 それは、某氏の“身体”でしょう? いや、この言い方も正確ではない。
「身体は物質の集まり」と言えるのは、身体を物体として静態的に捉えた
ときに限られる。が、身体は“システム”である。このシステムは、分子
に還元できない。超絶氏の言葉を借りるなら“システム部材(この場合は、
身体を構成する物質)”を集めても“生のシステム”は作動しない。
上記は貴君の主張に従って「某氏=身体」とした場合の私の疑念。あえて
“心”を捨象している。
867 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 11:58:44 0
>>866 心ねぇ・・・感情の事ですか?
条件反射のパブロフの犬じゃないんですか?
868 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 12:07:11 0
(Y)要するに(H)人は(V)勝利と(H)エロがしたい
YHVHですぅ
869 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 12:10:09 0
(Y)ユー(H)は(W)ニブい(H)人ですね
YHWHです
やっぱり条件反射でしょ
やっぱり逃げるしか能がない最高位w
お前はリンゴを物理的に完全に説明出来るのか?出来ないのか?
出来るなら、出来る、出来ないなら、出来ない、答えてみろ。
小学生でも答えられる質問だぞ。お前は小学生以下か?
答えるだけで決着するんだからさっさと答えろw
出来るならばお前の主張はまったく正当だ。
出来ないのならば、お前の唯物論破壊はまったくの的外れだな。
唯物論者もお前も、「リンゴ」と「私」の違いを説明出来ない。
もちろんお前の言う唯物論者(誰の事だか知らんがw)の
『「リンゴ」は物理的に完全に説明出来る』は正当性を示せないし、
同様に、
お前の言う「私」も正当性を示せない。
お前が言う事は正しいのかも知れないし、間違いかも知れないとなるな。
>>864 >「リンゴをリンゴとして」切り取らせるのは主観、もしくは
>共同主観。リンゴに接したことのない人(たち)には「リンゴとして」切り取る
>ことは不可能。
?
リンゴに接した事のない人はどうやってリンゴに接したら良いのでしょうか?
リンゴを切り取れない彼はいつまでたってもリンゴに接する事は出来ないですよね。
どうやって切り取れるようになったらいいですか?
というか、
「リンゴをリンゴとして」切り取る
はおかしくないですか?
まるで切り取る前からリンゴであったみたいです。
そこは別の「○○をリンゴとして」じゃないですかね?
○○が何かは分かりませんが。
>>808 >仮に「主体+作用+客体」という図式を取り払ってしまえば、ということはつまり
>それらの「作用」が私のものではない場合ということだと思われますが、
>そのときのそれらの「作用」はいわゆる客観世界以上に疑わしいと思いますがどうでしょうか。
ええと全くそういうことではなく、もちろん疑わしくないものとして最後に残るのは
主客図式でいうところの「私」の「思い(作用)」だけです。
前にもこんな例を挙げた覚えがありますが、たとえば「円錐」の物体があるとして、
それを見たり触ったりすると、角度によってさまざまな色の円が見えたり三角形が
見えたり扇形の変形が見えたりします。とがった感じがしたり何ともいえない
滑らかな感じ(材質によってはざらざらした感じ)がしたりします。
で、普通は「円錐の物体があって、それを私が目で見たり手で触ったりした結果、
それらの色や形や触感を感じている」と考えるわけです。これが「主体+作用+客体」
の図式です。
ここで、「円錐の物体」とか「自分の体(目とか手とか)」とか、さらにその外部に
広がる膨大な事物やそれを包む空間時間等々の客観世界は、直接的に確実なものでも
何でもありません。
ですからそれらをすべて「ないもの」として考えると、確実に残るのは一定の
形や色や触感や味や音や匂い(いわゆるクオリア)だけなのです。
で、実は、このように考えるなら、それを「見たり聞いたり感じたりしている私」も、
別に必要がないわけです。ただ単に形や色や触感や味や音や匂いがあるだけで、
それ以外のなにものも確実ではありません。「思い」でも同じです。
単に「思い・考え」があるだけで、別にその主体である「私」は必要ありません。
「主体+作用+客体」図式を取り払う、とは、こんなような意味です。
しかし、一旦「円錐の物体」や「自分の体」「他人の体」等々の客観世界の
存在を認めるなら、同時に「それを見たり聞いたり触ったりして色や形や触感を
感じている継続する存在たる私」の存在も必然的に要請されるのでは、ということです。
>>834 >>>このリンゴの木に、このリンゴが成ったのは、物質的に完全に説明がつきます
↑
>これは、唯物論の根幹ですよ
>この理屈を人間の精神にも当てはめるから唯物論なのです
最高位氏、一応言っておきますが、私はあなたのように「私が存在しなければ
唯物論は完璧だった」などとは思っていないのです。というか、そういう風に「私」
を特別扱いすることに賛成できないのであって、そもそも「自然」が唯物論的な
存在なのかどうか自体、誰にもわからないのであります。
>哲学者最高位という人が、なぜ『私』であったのか
>という疑問は理解できるかね?(苦笑
ですからw、「『私』は哲学者最高位という人(運動する物質)から生まれた」と
唯物論風に考えるなら、その疑問は
「なぜ『私』は哲学者最高位という人から生まれて、他の人から生まれなかったのか」
と置き換えられるわけです。で、これは
「このリンゴはなぜこの木になって、他の木に成らなかったのか」
「日本列島はなぜ地球にあって、他の星になかったのか」
「哲学者最高位はなぜこの夫婦から生まれて、他の夫婦から生まれなかったのか」
と、完全に同形同種の疑問なのです。だから、「これらの問いに意味や答えがありますか?」
とお尋ねしているわけです。理解できましたか?(苦笑
あなたは「質料因」にこだわっているようなので、より誤解のないように
「影」でもよいです。晴れの日に地面にできたあなたの影、
「この影は、なぜこの体の影であって、他の体の影でなかったのか?
体や物体は古今東西無数にあり、影もまた無数にあるのに、この影はなぜか
この体の影だ。不思議だ。う〜ん不思議だ!!」
さて、この疑問には意味があって答えがあるでしょうか?
(実は、心身問題について随伴現象説というのを唱える人の中には、
心というのは脳の活動に伴う影のようなものだ、と主張する人が実際にいるようです。)
(続き)
>>835 >たとえば、意識不明になって、思わない瞬間があったとしても
>『私』の存在性は維持されている と考えるのが普通じゃないか?
そりゃ、一般の人は『私』と「この肉体(という拡散するツブツブw)」
を区別しておりませんから、意識不明になって思わなくなって主観性で
なくなっても、この肉体が生きている限り『私』は存在していると
考えるのが「普通」でしょうがw、あなたは「私は主観性そのものな存在性である」
「この肉体などは拡散するツブツブで私の価値観で唯名論wで存在性がない」
と主張されているわけですから、
>私は「そういう事も考えられるだろ」と言っているわけでね
普通と違ってw「考えられない」でしょ、と指摘しているわけです。
それでなおかつ「主観性でなくなっても存在する『私』」を「考えられる」
ためには、どうしても「霊魂」に相当する存在を仮定する以外ないのでは、
とお尋ねしているのです。また、そういう存在を仮定しないと、
「なぜ私はこの肉体であって他の肉体でないのか?」という疑問は無意味に
なるわけです。おわかりになりましたかw?
(続き)
>キミの言うように、ゾンビも同じなんだったら
>意識不明の時の私は、ゾンビなんですか?(爆笑
最高位氏、なんですかこの意味不明な書き込みはw?
「意識不明であって、なおかつ普通に行動したり話したり2ちゃんに書き込んだり
していて、脳の活動も全く正常だった」のなら、その間あなたはまさにゾンビ
だったのです。そうでなければ、単に意識不明だっただけですw
ただし、あなたが「一定期間ゾンビだった」場合と、「正常だったが、事後的に
一定期間の記憶を失った」場合は、原理的に区別できません。
あなた本人にも、どんな脳科学者にも判定不能です。。
逆に、あなたも私も何十年前に生まれて以来、ずっとゾンビでなく(眠ったり気絶して
いた時間を除いて)継続して意識があった、と思っておりますが、実は何十年間
ずっとゾンビであって、その何十年分の記憶はたった今作られただけだ、という可能性も
常にあります。これも、原理的にあなた本人にもどんな脳科学者にも判定できません。
「世界5分前創造仮説」の「私の意識だけバージョン」です。
これは非常に興味深い問題であって、主観的な「私」というのがきわめてあやふやな
存在でしかないことを示す一つの証拠です。余談ですが。
877 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 15:12:21 0
境目なくつながっている物理世界から、
価値観によって切り取られて、特定して認識されたモノ
って、意味不明だな。分かる人いるのか?
878 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 15:15:39 0
最高位は尋常小学校卒のオジイチャンみたいだから仕方ないよ
最高位の言うように、
「一切全てを物理的に記述出来る」のが唯物論だとしたら、
そんなものはとっくの昔に否定されてるわなw
ハイゼンベルグやプランクは唯物論を破壊した「最高位」だw
880 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 15:20:57 0
最高位。興味があるから聞くけど、
「一切全てを物理現象として記述出来る」と発言した唯物論者って誰のことなんだ?
>>877 お前は俺が価値観で切り取ったんだよ。
切り取られたお前に分かるはずないだろ。
「記述」とは鉛筆や紙やパソコン等を使った物理的行為である。
物理的でない「記述」などありはしない。
と言ってみるテスト
883 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 15:38:34 0
いいからおまいら
「私」が何か
書いてみ?
884 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 15:54:07 0
>>883 漢字では禾(稲)を厶(私)の物にする。
要は欲望を独占する。
と書いて私です。
書きましたよ。
885 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 16:07:45 0
>>871 >>856 >まるで切り取る前からリンゴであったみたいです。
>そこは別の「○○をリンゴとして」じゃないですかね?
>○○が何かは分かりませんが。
その○○を知覚表象としてのリンゴと解釈すれば何も問題はないと思いますが。
簡単だよ。【私】は作用そのもの。つまり質感(クオリア)。
それを“私的言語”で記述すればいいだけ。
【私】以外にその意味が分かってしまうものならそれは【私】ではないからね。
ぼ】観<魍い^━ζ拏え:φ罘━ゅ:ゑ
記述終了。
887 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 16:25:22 0
簡単です。私は欲望です。
お釈迦様の言うとおり執着が悪かも知れませんが欲望でしょ。
聖人君子じゃないんだから無欲には成り得ませんよ。
お釈迦様が悟りで真実ならばなるべく無欲にしてますってくらいです。
ピュロンの懐疑主義を読んでみたがポパーが懐疑論を擁護する
理由が分かった気がするな。がこれはまた別の機会に。
>>885 意味がよくわかりません。
主観が切り取る前から「知覚表象としてのリンゴ」があったという事ですか?
>>864 初めて、納得のいくレスを貰った気がするwww
貴重なレスなので、丁寧に返答しよう。
> あいかわらず、スキだらけの文章だね。
そうかもしれませんねw 857は、ツッコミを避ける書き方をしてませんからw
> 順番に言ってみる。「リンゴをリンゴとして」切り取らせるのは主観、もしくは
> 共同主観。リンゴに接したことのない人(たち)には「リンゴとして」切り取る
> ことは不可能。
仰る通りでしょう。
或いは、最高位氏が
>>860に於いて
> それは学習によってでしょうね
> あくまでも、「リンゴ」は価値観によって「リンゴ」なのです
と指摘しているように、
>>871が容赦なく抉り込んでいるように、
【 『リンゴとして』切り取るには 】
≪経験&学習が必要≫です。
≪切り取る前から【リンゴとは「これこれしかじかなもの」という予備知識】が必要≫です。 ・・・A
(以下後述)
>>864 > 「リンゴをリンゴたらしめる何か」は、いまのところは不可知である。これは、
> リンゴに限らず他の存在者についても言えよう。“創造主”では?とでも言っ
> ておけば無難だろう。
これは、まったくもって貴方の理解不足です。それは、「存在の根本原因」にしかなりえません。
今、焦点を合わせたいのは、境目なく繋がった物理世界の中で、
リンゴを【他の、「リンゴでない部分」と】区分している【条件】は何か?ということです。 ・・・B
創造主の出番はありません。
(以下後述)
> その不可知の対象を「リンゴ」として差異化(知覚認識)するのが主観性。もし
> 健常?なら、リンゴは貴君にも私にもほぼ同じにみえているのではないか。が、
> その“意味(認識)”は違うはずである。
はい。その通りです。≪ >ほぼ同じにみえているのではないか ≫ ここが重要なのです。 ・・・C
(以下後述)
“意味”をここで問う意味はありませんwww
> 事象に“差異”があるかどうか不可知である。ただ、私(たち)はそれを主観的
> に意味づけするだけである。たぶん、貴君と私は対象(事象)を別様に差異化
> しているのではないか。
(共同主観として)共通の、或いは似通った「差異化」がなされるとしたら、その条件は何か?
学習する以前、予備知識の備えられる以前、
初めて出会う事象は、【なぜ、他の部分と区分され、『その』事象として知覚されるのか?】・・・D
貴方のお考えをお聞きしたい。
>>864 さて、
Aに於いて指摘されるように、【○○として】という条件付きであれば、指摘の通りである。
では、Dのように
【学習も、予備知識もなく】【突如出会った(知覚された)事象に於いて】(リンゴ等個物でもいい)、
【『それ』が切り取られる時】、【『それ』が切り取られる理由・条件】はどうなるのか?
貴方方の説では、ここが一切捨象されている。(捨象という行為は御嫌いでしたよね?w)
(まさか、「イデア」だとか言い出しはしないでしょうね・・・w)
Bについても同様です。
【境目なく繋がった物理世界の中】で、【知覚された△△】を
【他の、「△△でない部分」と】区分している【条件】は何か?
なぜ、△△が、周囲から切り取られ、知覚されたのでしょう?
ということです。 貴方のツッコミを許しはしましたが、問いの骨格自体は有効です。
Dについて、今回(864)のような返答を期待しますw
Cに関しては、Dのような初体験の集積が(学習となって)、
共同主観を作り上げるのではないかと想像されますが、
「初体験」同士が、なぜ共同主観へと合併してゆくのでしょう?
共通しているから、同種のもの・類似のものとしてカテゴライズされるのではないですか?
だとしたなら、差異も、共通項も、(主観が勝手に決めるのでなく)【見出される】のではないでしょうか・・。
主観による取捨選択を可能にする様相が、そこにあるのではないでしょうか・・。
893 :
素人:2008/03/01(土) 19:13:00 0
>>849 「異熟」とは違うような・・・。
私の浅い理解では、異熟とは、
時系列に於いて(→原意からすれば三世を跨いで)、
後に生ずべき「果」が、或る「因」によって本来想定される(→そうであるべき)「果」ではなく、
それと異なった「果」を結ぶことを言うのだと思いますので、
>>787の事例とは違う気がします。
また、(特に唯識に於いては)その「果」が「善でも悪でもないもの」として結実した時に、
それを「異熟果」(その因を「異熟因」)と呼ぶとありました。(・・・まるで、アンチ決定論のように・・・w)
(決して、「果がどうなるかわからない」「あらゆる果の可能性を持つ」という意味ではないように思います。)
>阿頼耶識そのものです。
そうか・・。
もっと限定された、狭いイメージを持ってました。雑な言い方をすると、仏性に近いものとして・・。
けど、考えてみれば「一切唯心造」と言われるように、
75法・100法が数えられるように、全ては阿頼耶識を起点とするわけですね。
その意味でいけば、787を洗練化したものと言えるかもしれません。
ただ、「いかなる在り様へも可能性を有する、全方位的ベクトルが内包されている」
というニュアンスとはズレるような気がします。
私の浅い印象としては、
「“力”を有してはいるけれども、その方向性は、諸縁に依っている」と。
「“力”の発現する方向(・種類)は、次の末那識、意識に依る」と。
(個人的には「境」にも依る、と言いたいところですが・・・w)
「阿頼耶識自体は、ベクトルを有しない」、と・・・。
>
>>792さんのような考え方は西洋にもあるのではないでしょうか。
あるのかな・・・w 少なくとも、787・792を
「凡そあり得る、あらゆる顕れ方を、その原初から内に内蔵する、“可能性そのもの”」
を指すものとするなら、一神教系統には無さそうに見えます。
「リンゴは、その本性としてリンゴにしかなりえない」と。
「人は(田中さんは)、その本性として人(田中さん)にしかなりえない」と。
だから、この与えられた「人の身(=田中さんとしての生)」を大切に全うしなければならない、と。
なぜなら、神がそのように望み、そのように世界を創られたのだから・・・。
894 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/01(土) 19:25:40 0
恋のバッドチューニング
♪
はじめからちょっとずれてる周波数
無理も我慢もしなくていい
ちょっとずれてる周波数百も承知でいたよ
気持ちがいいからこのままで
恋のBad Bad Bad Tuning
♪
参考になりますか?
勝手にしやがれ
ヤマトより愛をこめて
不動の両横綱w
896 :
147:2008/03/01(土) 19:33:29 0
>>867 “心”については、改めて論じよう。
君は、某氏は分子に還元できると言った。身体(システム)は分子に還元できるの?
まず、これに答えていただきたい。
897 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 19:35:20 0
思考は脳で行われている作業なのだから、このような精神活動は脳の生体活動と考えるのが自然なのだ。
従って「我思う」から、魂のような実体としての私を、結論づけることはできない。
デカルトの方法的懐疑も、せいぜい「脳が思考活動する、故に脳あり」という結論しか導けないし、
「我思う、故に我あり」と言明したところで、ここから魂のような身体から独立した実体を、
結論するのは飛躍であり、魂の実在性の根拠とするのは不当である。脳活動を認めたにすぎない。
懐疑から明瞭かつ判明に断定できることと言えば、「脳という思考器官がある」としか言えないし、
思惟が脳に起因している、と結論するのが妥当である。万人が自己の脳の実在を認めるのであるから、
魂のような「実体としての私」という、存在根拠を示し得ない不明瞭で曖昧な仮定は不必要であって、
哲学の第一原理とするにはあまりにも根拠薄弱すぎる。「我思う」だけでは、魂の存在根拠とはできない。
「私」が「思惟そのもの」として非実体である、とするならば、これこそ思考活動でしかなく、
思惟を非実体の関係性でしかないとするなら、その関係性の正体とは神経の化学的関係性のことでしかなく、
思惟の正体は脳活動であると説明できる。脳が思惟を生む元であり、脳が「私」を投影しているだけである。
898 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 19:36:02 0
米国のような銃社会では、頭を銃で打ち抜かれながら一命を取り留めた人が多数いる。
銃弾によって大脳皮質を破壊されるので、思考力はいっさい持たないが、脳幹は心肺機能と消化器系を司っているので、
脳幹が無傷の場合は植物状態に陥るものの生存できる。食物を消化できるし大便もする、幼児期に植物状態となっても、
適切な処置をすれば老人となって老衰するまで生きる。このような物理的に大脳を破壊された植物人間は思惟をいっさい行わないし、
「我思う」こともないが、脳の思惟機能、自己認識機能が失われても人は死なない、という事実がある。
「我思う」からは脳機能しか導けず、最高位のいう「私」は導出できない。飛躍である。
身体は精子と卵子が結合した瞬間から形成が始まるが、受精時点では思惟することもない、「我思う」こともなく生存し、
脳神経が発達してから思惟は起きる。子宮内の胎児は生きているが、身体が生じた後に自我が生まれている。
どうみても生命の根本は、身体の方だといえるだろう。「私」という「思惟そのもの」が生命の根源というなら、
身体が生じるより先に「私」が存在してなければいけないし、死後も「私」が存在してなければいけないことになる。
一般的にこのようなものを霊魂というが、最高位は「私」は霊魂でもなく、「思惟する実体」でもないという。
思惟が身体に依存する付随的存在なら、「私」という「思惟」は、脳から発現すると考えるのが自然であろう。
脳が思惟機関を持つという結論しか導けないし、最高位のような仮定は不要である。
899 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 19:37:14 0
最高位が「私」について具体的に説明できない理由は、飛躍しているからであり、最高位の考える「私」が非実在だからである。
脳こそが主観を持つ主体であって、「私」は投影である。「私」に脳から独立した主観性などはなく存在性もなく、脳が仮想した幻影でしかない。
全ての精神活動は、脳の機関が発現させているのだ。最高位の「私の存在性」は根拠のない願望であり、仮説にもならない。
最高位の説は哲学とはいえない。自説の存在根拠を説明することさえできてないのだから、思想ですらない。
ひたすら感情に訴えて同意を求めているだけで、満足な説明もないままに「我あり」としかいえてない。
ただの叙情的な言葉だけで、感情を発露しているにすぎないので、このような幼稚な態度では同意できる訳がない。
どうせ最高位は哲学書など読まない人だろうが、ロックの認識論を読むべきだ。
ロックは「人間知性論」の中で、認識過程と観念の形成過程について、自然学的に研究し詳述しているが、
論証をみれば経験論に立つ哲学者が、実体観念を批判する理由を知ることになるだろう。
唯物論者とて精神活動まで否定しているわけではない。精神が脳という物体からもたらされており、
魂などという仮定は不要で、精神活動の全てが脳の活動として説明がつく、と述べているのである。
機械という語に感情的にな拒否反応を示す人は、知らないままに単なる誤解をしているだけだと思われる。
どうも機械や物質という語から、無機物を連想してしまうらしい。生物は有機物でできた精密な構造を持つ、
と述べているだけなのだが。
900 :
147:2008/03/01(土) 19:58:04 0
>>871 リンゴ(と称されるもの)に接したことがなく、その情報も持っていない
素人君がリンゴに出くわしたとき、どう接するかは
>>884 の述べている
ように、そのときの素人君の欲求・欲望しだいだろう。空腹なら、素人君
は喰ってしまうのではないか。満腹状態なら、美しいと思うか毒々しい
と感じるか、それとも全く視野に入らないか…。
リンゴをリンゴとして切り取るというのは、指摘のとおり転倒している。
貴君の言うとおりです。酔いどれの素人君向けの文章です。
ところで「切り取る」というのはハサミかなにかでリンゴの実を切り取る
という意味ではないですよ。w
901 :
素人:2008/03/01(土) 20:03:39 0
>>900 ワシは871ではないが・・・w
>ところで「切り取る」というのはハサミかなにかでリンゴの実を切り取る
>いう意味ではないですよ。w
わかっとるわい!そんなこたぁ!
ヽ(*`Д´)ノ
リンゴをリンゴたらしめるのは他者の態度にほかならない。
他者がリンゴを畏怖するならきっと自分も畏怖してるだろうな・・・。
>>900 ミカンの木にリンゴは成らないでしょ(接ぎ木とかバイオ技術なしに)
ミカンの木でさえリンゴとミカンの区別くらいできる。
チンパンジーにリンゴとテニスボールを渡しても区別できる。
ミカンの木やチンパンジーでさえ違いが分かるのに、
何で人間が切り取れないの?ミカンやチンパンジーより頭が悪いのかな。
904 :
147:2008/03/01(土) 20:57:30 0
>>891 貴君の言い方が誤解を招いたのである。念のために「リンゴをリンゴたらしめ
いるものは何か」という質問を無差別にしてみればいい。色々な答えが返って
くるはずだ。答えた私ではなく、曖昧な表現をした貴君に問題があるのでは…
「境目なく繋がった物理世界の中で…」との言表には、(観測者による)事象の
差異化が施されている。境目(差異)があるかどうかは不可知と私は述べたはず
である。
(事象が)物理世界であるというのは唯物論を信奉している信仰者の(共同)主観
だろう? 唯物論(という信仰)を前提に貴君は語っている。
知覚認識なる言葉を使ったのは貴君だろう?
「認識」から“意味”を剥奪したら、何が残るのだろう? 意味を捨象したw
認識って何? “意味のないな認識”を一つあげてみて。
147はアホぽい。
邪魔
906 :
147:2008/03/01(土) 21:06:26 0
>>901 あわてるな。そんなことは、わかっている。
>>871は、貴君よりも
ていねいに突っ込んいる。いつも、私が貴君に突っ込むように。w
907 :
147:2008/03/01(土) 21:15:47 0
>>902 「他者の態度」は貴君にとっては情報でしょう? その他者の態度も貴君に
よって意味づけされているはず。
>>904 > 貴君の言い方が誤解を招いたのである。念のために「リンゴをリンゴたらしめ
> いるものは何か」という質問を無差別にしてみればいい。色々な答えが返って
> くるはずだ。答えた私ではなく、曖昧な表現をした貴君に問題があるのでは…
私は、
>>871の指摘
>「リンゴをリンゴとして」切り取るはおかしくないですか?
>まるで切り取る前からリンゴであったみたいです。
を全面的に受け入れるw
また、議論の階層をあまり広げないように。
「○○を○○たらしめるものは何か」という考察の下層に(深層に)、
『「××たらしめる」という言明そのものの是非』が横たわる。
前者を無視して後者を先に片付けようというならそれでもいい。貴方に合わせようw
>>890-892を再度読み直すべしw
> 「境目なく繋がった物理世界の中で…」との言表には、(観測者による)事象の
> 差異化が施されている。境目(差異)があるかどうかは不可知と私は述べたはずである。
> (事象が)物理世界であるというのは唯物論を信奉している信仰者の(共同)主観だろう?
> 唯物論(という信仰)を前提に貴君は語っている。
【境目なく繋がった物理世界】は、最高位氏の言葉を流用したまで。
気に入らないなら、【主観に映じている世界】と言い換えても構わないw
また、≪ >境目(差異)があるかどうかは不可知 なもの≫ が、
なぜ切り取られてしまうのですか?
切り取られた所に、境目は生じてしまいませんか?
切り取りが行われるなら、そこに境目が生じませんか?
>>904 > 知覚認識なる言葉を使ったのは貴君だろう?
> 「認識」から“意味”を剥奪したら、何が残るのだろう?
> 意味を捨象したw認識って何?
> “意味のない認識”を一つあげてみて。
・・・C で括られている段に於いては、「意味」ではなく、「形式」が問われていることが判りませんか?
カテゴライズは、
【意味ではなく、その様相(西洋哲学的に言えば「形相」?)に依って行われているのではないか?】
と言っているのです。
(勿論、意味によってカテゴライズされる場合があることを否定するものではありません。
カテゴライズされる際の基準の一種として、意味以外のものもあるのでは?と申しているだけです。)
>“意味のない認識”を一つあげてみて。
『そこに意味が無い』のではなく、『(そこに意味があっても、)それを問わない』
ということです。
このニュアンスが、なかなか理解していただけないようですね・・・。
910 :
147:2008/03/01(土) 21:41:26 0
>>903 だれが切り取れない、と言っている? 「客観的事物」としては切り取れない
と述べているのである。
空腹の素人君なら“食い物として”切り取り、がっつくだろうし、セザンヌなら
素人君とは違った切り取り方(対象化)をするだろう、と言っているのである。
情報の意味づけは無意識的に行われている。
私が意識的にゲシュタルト化して意味づけしたわけではない。
「貴君によって」意味づけられたという表現は怪しい。
不随意反応まで貴君の範疇ならば、貴君=コギトではないことになる。
無意識まで私の範疇に入るならば、筋反射や消化や血液循環まで私
ということになる。となると、脳死は私の死ではないと。
このように論理整合性が怪しいのである。
912 :
147:2008/03/01(土) 21:51:34 0
>>908 その対象を、たとえばリンゴをどのような関心、欲求でみるかで切り取り方は
かわってくる。切り取れば、境目を生じる。が、それはヒトが主観的に差異化
したもので、それが事象に初めから引かれていたわけではなかろう。
「主観に映じた…」は以前に私が使ったものだ。たまには、貴君の言葉でそれを
語ってみたら。
913 :
147:2008/03/01(土) 22:05:02 0
>>911 主体に意識されない“生理”は、その当人にとっては情報とは言えない
のでは? 「意味づけた」というのは「意識化した」とほぼ同義に用いて
いる。
だから、(私の)意識にのぼった「他者の態度」ということである。
914 :
素人:2008/03/01(土) 22:09:47 0
>>912 > その対象を、たとえばリンゴをどのような関心、欲求でみるかで切り取り方は
> かわってくる。切り取れば、境目を生じる。が、それはヒトが主観的に差異化
> したもので、それが事象に初めから引かれていたわけではなかろう。
仏教(禅でもいいがw)に転向しろよw
或いは、
> その対象を、たとえばリンゴをどのような関心、欲求でみるかで切り取り方は
> かわってくる。切り取れば、境目を生じる。
この線で行くなら、最高位を見限って唯識に弟子入りしろw
その方が君の為かも知れないwww
> 「主観に映じた…」は以前に私が使ったものだ。たまには、貴君の言葉でそれを
> 語ってみたら。
最初はそうしてましたが?w
貴方がダメ出しをするから、他人の用語を拝借しているのですw
言葉が物を直接指すことはできない
言葉の問題じゃなくね?
「リンゴ」という言葉
918 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 22:31:13 0
八百屋でリンゴを買う時、
皆さんは、『「リンゴ」という言葉(名前)』を買っているのですか?w
いやもっと前の問題だと思うぞ。
言語化以前の認識段階で切り取りができるかどうかの議論だと
読んでるんだが。。。
でないと「切り取り」という言い回しを使う理由がよく
分からない。。。
920 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 22:33:05 0
富士登山をする時、その人は、
『「富士山」という言葉(名前)』に登っているのでしょうか?w
「人それぞれ」の一言で済む議論をバカみたいに
ダラダラ長ったらしくやりやがって、これのどこが哲学なんだ。
とくに哲学者最高位というアホは哲学ぜんぜん知らないで
知ったかぶりで議論に参加してるだろw
923 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 22:37:04 0
>>921 「リンゴ」が、「オッペケペー」という名前に変わっても、
私は多分同じ『もの』を買うでしょう。
貴方は、名前が変わったら買わないのかもしれませんが・・・w
>>923 そのときにはオッペケペーという言葉を買ってるんだよ。
925 :
147:2008/03/01(土) 22:39:03 0
>>914 “形相”などという言葉を使わないほうがいい。“質料”に対置されるものだろう?
貴君とは逆の意味で、普通は用いられているのではないか。
質料が形式化(構造化)されたときに意味を持つ、というふうに。
一貫して、私は“客観的事実”なる幻想を懐疑してきただけだが。
926 :
素人:2008/03/01(土) 22:48:03 0
>>925 そうか。じゃあ“形相”という記載は脳内あぼんしてくれw
>一貫して、私は“客観的事実”なる幻想を懐疑してきただけだが。
だから、唯識に弟子入りしろと言っているw
「それ」が幻想(→仮設されたもの)か、諸縁により顕現したものか、まったくの妄想・幻か、
見えてくるかもしれんよwww
927 :
考える名無しさん:2008/03/01(土) 22:53:53 0
929 :
147:2008/03/01(土) 23:19:06 0
>>926 たぶん、唯識さんは立派な方でしょう? が、要所要所に専門語(隠語)
が入り、私には理解できない。
>>927 たしかに“必要性”を満たすときは、そのとおりだろう。
しかし、必要性を超えた“欲望”を満たす場合はどうだろう?
>>924 の言うように“言葉”を、つまり情報を買っている(買わされている)
のではないか。
>>920 もし山というものを知らず、むろん富士山にまつわる一切の知識を持たない
だれかが富士山に面したとき、彼は私(たち)と同じ感懐を抱かないのでは?
言葉で腹が膨れないというのはリンゴで腹が膨れないというのと同じだ。
そのとき機械さんが言いました。
満腹感は化学反応なんです。
932 :
素人:2008/03/01(土) 23:38:09 0
>>929 またツッコミ所満載だなw
あまり日を空けずにレスしようと思うので、
スレの勢い伸ばすなよw
おやすみ ノシ
>>930 お前、
>>928だろ?
お前みたいな、似非仏教を語る奴が跳梁跋扈するから2chは危険なんだよなぁ・・w
__
'"´::::::::::::::::::`丶、
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| ト、:|l ゝ 、 マフ ィ´ | |
|_| ヽ >ーr―=チ、__ |_|
〃.ヽ-、 /| __\xく 冫、 r〃 ヽ
{ 'こ{Y ∧ レヘ j/ /\/ ∧lJこ }
ゝ -'ノ∨ | ヽ/ / ∧ゝ ノ
何この言葉遊びw レベル低すぎだろw
>>934 おうほらか。
懐疑主義の現代版がポパーなんだな。
ピュロン主義の復活はラテン語訳で為された、と。
その文脈でデカルトに影響を与えたのなら一概にすれ違いでもなさそうだ。
懐疑主義はドクサの一歩手前で判断を留保する。
それまでは探究を続ける。
基本的に合理主義だが、独断論と不可知論からは距離を取る。
感覚的事象については疑わない。
ではデカルトの「我思うゆえに我有り」はドクサなのだろうか?
>>907 自分で意味付けするんじゃなくて、他者の態度を模倣をしてしまうだけ。
他者がいなければあるものがリンゴである必要もないし。
938 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/02(日) 00:53:58 0
>>893素人さん
決定論スレでも同じ事を言ったのですが
善悪無記の阿頼耶識の性質とはやはりニュアンスが違いますかね・・・。
全方位的にベクトルが内包と言われますと
金剛乗仏教の思想ではないでしょうか。
つまり
>>760です。
西洋では「賢者の石」という考えに近いものがあると勝手に想像してしまいましたが。
>>929 あなたの理屈ですと、
富士山を知らない主体さんは富士山に面し得ないのではないかと思うのですが。
その主体さんの「世界」には富士山は「ない」のではないですか?
富士山を知る前から接し得る富士山があるとするのならば、
主観世界にないモノに触れられるのであるならば、
そこに客観世界が想定されているように思えます。
940 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 01:57:19 0
富士山麓に生まれた赤子は、富士山という名を知らぬまま
日々富士山に直面している。
このような言語以前の知の集積が荒屋敷である。
941 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/02(日) 02:31:52 0
>>861 某氏の身体は、それで説明がつくでしょう
リンゴと同じです
しかし某氏に、私と同じように主観性がある場合
その主観性は唯一的です
いかなる分子構造を作成しようと
たとえ某氏の身体と、全く同じ分子構造に作成しようと
それは某氏と同じ分子構造の物体である にもかかわらず
某氏では、ありえません
>>863 それは、私の身体に関する記述です
物質を、いかなる構造に組み立てようとも、『私』を作成する事は出来ません
私の身体と全く同じ構造の物体を作成しても
それは、私の身体と全く同じ構造の『他』にしかならないのです
>>870 >お前はリンゴを物理的に完全に説明出来るのか?出来ないのか?
>出来るなら、出来る、出来ないなら、出来ない、答えてみろ。
原理的には可能
技術的には、現在は無理
「太陽は高熱だ」 というのは論理的な話
しかし直接に温度を測って来た人はいない
直接に測るのは、現在の技術では出来ないであろう
しかし出来ないからといって、高熱ではない とは言えない
誰しも、論理的に「高熱である」と理解している
>>880 では聞くが、記述できない物理現象とは、何ですか?
942 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 02:35:57 0
たとえAのコップと、全く同じ分子構造にBのコップ作成しようとも
向かって右のAのコップは、左のBのコップにはなりえない。
>>942 目を離すと区別が付かなくなると思われ。
944 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 02:39:16 0
私がわってしまつたコップと全く同じ分子構造のコップを作ろうとも
私がわってしまつたコップにはなりえない。
945 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 02:40:49 0
>>943 「私」も意識を失うと、私からは区別が付かなくなると思われ。
>>945 それが問題だ。
記憶喪失になっても「私」はあるという事実。
947 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 02:47:25 0
それが問題だ。
見失っても「コップ」は世界から消えたとは言えないという事実。
948 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 02:50:13 0
記憶喪失になっても「私」があるのは当たり前。
本人が「記憶喪失だ」と認識しているのだからな。
949 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 02:55:13 0
そろそろ投稿規制だな つまらん議論だった 寝よ
>>948 当たり前と思って疑わない「私」が記憶喪失になると困り果てた「私」に変身するという事実。
952 :
ほら:2008/03/02(日) 03:06:39 O
書き込み時間の右の0が大文字と小文字とあるだろ
小文字なら俺じゃない
ポパーはエピステーメーはなくて全部ドクサとした
じゃあ合理主義そのものは?
非合理主義が正しいかもしれないじゃない
なんで理性的に考えようとするのか?
それが間違ってるかもしれない
この問題に対するポパーの解決法は不完全な態度としてハーバーマスをはじめ多くの哲学者から叩かれた
俺もポパーの対応には欠陥があると思う
ま、それは置いといて
ポパーは非合理主義には強い反対意見を持ちながら
「非合理主義は擁護されうる」
「非合理主義は包括的合理主義よりも合理的である」などの意見を提出している
ここらへん、ポパーが抱えてた問題が見えそうだ
953 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/02(日) 03:08:51 0
>>942 もう少し厳密に考える必要があるね
そのコップAとコップBの半分を切り取って、お互いに入れ替えたら
どっちがコップAなのかな?(笑
そもそも「コップA」は、価値観によってコップAなのであって
便宜上で切り取られた呼び名にすぎない
ようするに
キミが単に、価値観によって
勝手に「コップA」だと思い込んでいるだけだ という事
『私』は、こうはいかない
半分切り取ったり、分解したりできないのです
954 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 03:09:41 0
>>951 「見失った」と「この世界から消失した」を混同する馬鹿は少ないという事実。
てか、「という事実」流行らすなよ。
八百屋の会話
「リンゴくれ」
「どれ?」
「だからリンゴだよ」
「だからどれだよ?」
リンゴの価格が一個いくらというのは日本の文化だ
スウェーデンでは1グラムいくらと値づけして
その商品の重さから値段を出す
向こうでは、同じ重さでないと同じ値段のリンゴはない、ということだ
(これはカルチャーショックだった)
956 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 03:14:35 0
「コップA」は呼称だが、物はあるだろ。
別に吸い殻入れにしようが、楽器にしようがかまわん。
人間を半分にしたら解剖以外は、犯罪。あほらしい。
958 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/02(日) 03:29:24 0
>>944さん
そうですね。「割ってしまった」という縁により
そのコップは存在しないわけですから。
959 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 04:09:07 0
「私」の右半分と、キリンの左半分をむりやりくっつけたら
「私」の価値観により、「化け物」となります。
ばらばらになったら、もう「私」ではない。
>>941 >原理的には可能
素晴らしい!!
君はこんな所で油売ってちゃ駄目だ。
すぐにその原理を論文にして発表すべきだ。
それが認められればノーベル物理学賞は間違いないだろう。
君は最高の物理学者でもあったんだね。
961 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 04:15:47 0
直接に測ることが「測定」だと決めつけている馬鹿ってまだいたんですか?
>>953 コップAとコップBの半分を入れ替えれれるのは、
二つの区別が付くから。
勝手に「コップA」だと思い込んでいるだけなら、
「コップB」と入れ替えるのは無理。
お前は幼稚すぎ。
963 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 04:26:17 0
最高位は、国語ダメ、理科ダメ、論理的思考ダメ…次は?
964 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 04:34:38 0
>>941 >某氏の身体は、それで説明がつくでしょう
>リンゴと同じです
>しかし某氏に、私と同じように主観性がある場合
>その主観性は唯一的です
「某氏の身体はリンゴと同じ」と言っておきながら、
「某氏に、私と同じように主観性がある場合」とはいかなる意味でしょうか?
某氏の身体とリンゴが同じならばリンゴにも主観性はあり得ますか?
>>941 >いかなる分子構造を作成しようと
>たとえ某氏の身体と、全く同じ分子構造に作成しようと
>それは某氏と同じ分子構造の物体である にもかかわらず
>某氏では、ありえません
さて、この「某氏と同じ分子構造の某氏ではない人体」
仮に某氏コピーと呼びましょうか。
某氏コピーには主観性は有るのでしょうか?
もし有るとすると、某氏は物理的に出来なくても、
某氏コピーさんは物理的に作れた事になってしまいますね。
某氏さんの主観性は物理的でないのに、
某氏コピーさんの主観性は物理的に作成可になってしまいます。
これは矛盾ですので当然最高位氏は、
「某氏コピーには主観性はない」との主張になりますよね。
これはこれでおかしな話です。
物理的にまったく同じだとする二つの人体の片方にだけ「主観性」がある。
しかもこの「主観性」は本人にしか分からないらしいw
第三者には無意味な違いです。
「某氏の脳」とそれと同じ分子構造wの「某氏コピーの脳」を入れ替えたら
「某氏の主観性」はどうなるんでしょうね?w
967 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/02(日) 05:13:24 0
>>959 体の話じゃないぞ?
いつまでアホな言ってんの?
そろそろ気づけよ
>>962 無理か???
できると思うけどなぁ(爆笑
>>965 質問の意味がわからん
理解できるまで、何度も読んでくれ
某氏に主観性がある場合の、その主観性について語っているのだよ
なんの意味がわからんの??
最高位氏で考えてみましょうかw
最高位氏とまったく同じ分子構造の最高位コピーを作る。
「最高位氏の脳」と「最高位コピーの脳」を入れ替える。
さて、最高位氏の主観性はどちらにあるのでしょうか?w
もちろん本人なら分かりますよねw
969 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/02(日) 05:21:38 0
>>966 いや
「某氏のコピーには、主観性があるかどうかは、わからん」 だね
ちゃんと人として動き出すのかどうかも、わからんだろ
飛躍させちゃイカン
もし主観性が、あった場合も、それは某氏ではなく、某氏から見て他人である事は間違いない
それは絶対に某氏ではないのです←いずれにせよ、コレが結論
970 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :