1 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :
2 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 22:05:01 0
■なぜ国家は物理的な暴力を独占するのか
この世界で恐ろしいもの
この世界で恐ろしいものと考えると、まずお金。お金がからむと人が変わるといわれ
るように恐ろしい。次は他者。他者との関係は緊張をしいられる。これは実感として
は低いが国家権力。法に触れてしまった場合に強力な暴力として現われるだろう。
あとは自然。いまなら地震など生の自然に触れると人はただ立ちすくむだろう。さら
には機械。ただ機械的に作動する機械の力は恐怖である。
これらは暴力に関係することで私を作用する。レッシングは人を動かすものとして
四つをあげた。法、規範、市場、アーキテクチャ。
資本(貨幣交換)−市場−お金
国家(再配分)−法−国家権力
ネーション(贈与交換)−規範−他者
*−アーキテクチャ−機械
*(純粋贈与)−*−自然
3 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 22:05:45 0
自然=物理的な力/他者=社会的な力
これらの暴力はおおきく分けると、自然=物理的な力と他者=社会的な力に分解で
きるのではないだろうか。
規範は、社会的な力である。贈り物などの物質的な形態を媒介するとしても、他者
との関係の中から現れる。貨幣は硬貨、紙幣など物質的な形態であるが、それが
貨幣であるのは、社会的な取り決めによる。
国家権力は、軍隊、警察などの物理的な力として現れる。国家権力が無法な暴力
と異なるのは、社会的な関係によるものである。しかし多くにおいて、物理的な暴力
をもって行使される。特に法的にいえば、どのような理由であれ、市民が暴力を振る
うことは違法な行為とされ、物理的な暴力は国家権力の独占されている。
自然の力は、社会的な関係と離れた、純粋に物理的な力である。しかし実際には純
粋な自然の力というのは存在しない。たとえば地震で損害を被った場合、日頃の避
難訓練が悪かった、家の耐震対策が不十分だった、と社会的な問題と関係する。
このような問題は、アーキテクチャの問題である。人間の生活圏において、純粋な
自然は存在せず、アーキテクチャーと関係する。アーキテクチャは、物理的な制約
を力とすると、そこの他者の意図が含まれている、すなわち制作されている。
これは暴力とはただの物理的な力ではなく、社会的な圧力である、ということを示す
だろう。すなわち他者からの意図の圧力の形態である。
4 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 22:06:20 0
物理的な力の強度
逆に社会的な力において、物理的な力の強度を問うことができる。そして国家権力
は決定的に、物理的な暴力を独占している。貨幣であれ、アーキテクチャであれ、
その力は法に根ざしている。貨幣関係を破ることも、アーキテクチャを破壊すること
も、法によって禁止されている限りである。
これに対して、規範は、法以前の社会性である。明文化されていないが、そうすべ
きである社会性である。法によって独占されている物理的な暴力の以前である。た
とえば家庭でしつけのために親が子を叩くことが許される。これは法で禁止されて
いないという事以前に、規範によって許されていることをもとに法が成立されてい
る。革命が民衆のデモから起こる場合があるのは、このためである。
ただ科学技術の発達は、国家権力頼らずとも、強力なアーキテクチャを持つことが
できるようになりつつある。
5 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 22:06:53 0
国家による軍事力の独占
物理的な暴力において、以下に分類される。
国家(貨幣)−規範−アーキテクチャ
柄谷は近代絶対主義国家の成立を科学技術の発展をもとにした軍事力と経済力
の独占にみた。これらは科学が世界を資源にかえたことによる富の独占だろう。し
かしこのような科学は社会に拡散していく。これが科学技術と市場経済の発展だろ
う。そして民主主義へむかう力となった。
これは国家の消滅を意味しなかった。むしろ帝国主義として国家は強化された。そ
れは国家の発展が植民地という国家の外部からの搾取に基づいていたためだろ
う。暴力を独占する国家があって富は成立していた。世界大戦をへて現代、科学は
より解放された。
しかし軍事力の国家による独占は変わっていないのではないだろうか。すなわちい
まも国家外からの搾取の構造はかわっていないからだろう。多国籍企業であろう
と、国家との協力なく成立しない。それはただ民営化という形態で国家の端部で搾
取する装置のごとく作動している。
6 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 22:08:00 0
超越論的な想像的回復
秩序の断絶を想像的に回復することで、回復した対象は神性化され、(人々へ)負
債感(贈与性)を与える、という「転倒」である。これを「超越論的な想像的回復」と呼
ぼう。モースが見いだした贈与関係もまた、「超越論的な想像的回復」である。ここ
での断絶は純粋贈与(略奪)=自然の脅威である。純粋贈与(略奪)という「断絶」を
調停するために(自然)神は想像され、共同体の秩序は回復し、人々は(自然)神へ
の負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。
たとえば貢納制国家においても、ただ暴力において成員を統治するわけでも、また
物質的に成員の生存を保証するわけでもない。国家においても「断絶」は、原始社
会と変わらず、純粋贈与(略奪)=自然の脅威、外部からの敵の到来とである。そし
て純粋贈与(略奪)という「断絶」を調停するために王=神は想像され、国家の秩序
は回復し、人々は王=神への負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。貢納
制国家を統治する「王」は、共同体の互酬性の自然(神)の位置を継承することで、
成員への負債感によって国家を統治する。成員は縦への当然の贈与関係=再配
分(略取と再配分)として「王」を敬うのである。
すなわち「超越論的な想像的回復」における贈与性の力学は、縦の交換関係として
再配分(略取と再配分)と横の交換関係として互酬性(贈与と返礼)を生むと言うこと
ができるだろう。そして「王」は「超越論的な想像的回復」による縦−横の贈与交換
関係を継承している。
7 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 22:08:52 0
現代の神としての統一された「国家」
従来の権力論が縦の交換を指摘するのに、フーコーは横の交換を指摘する。従来
の権力論が、縦/横に君主/臣下の構造を重ねるのに対して、フーコーはその対
抗として、横の中に働く権力を指摘する。しかしそれは従来の権力論の対抗である
ために、逆にもはや国家権力は重要ではないというような、縦の交換を軽視するこ
とが起こっている。秩序は想像的な回復として構造化され、そのはじめから、縦−横
の秩序として考えなければならない。
絶対主義国家までと、民主主義国家との差はなにか。すなわち君主が不在なのに
なにもなかったように国家が存続する不思議。国家はただの残余であり、そのうち
消えるだろうという思い。そこに「超越論的な想像的回復」の構造をみれば、不思議
ではないだろう。神は未開社会のはじめから、継続されているのであり、そこに具体
的な王がいる必要もない。
「超越論的な想像的回復」の構造の維持に重要であるのは、断絶の存在である。そ
れは自然であり、野蛮人です。外部圧によって、作動し続ける。柄谷は、国家とは他
の国家との関係ではじめて国家であると、言った。すなわち現代の神とは、「国家」
そのものである。たとえば「日本」あるいは、「日本人」という単一性である。
8 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 22:11:11 0
例外状態を決定する者
アガンベンの主張は権力は境界に現われるということだ。「主権者とは例外状態に
ついて決定する者である。(シュミット)」この意味は現代により重要だろう。内部にい
ることでボクたちは自由と平等を謳歌する。
フーコーのいうようにもはや上からの権力は希薄化し、それが権力であるか気がつ
かないほどに横に薄く広がっている。ネオリベラリのいう小さな国家、その先にはマ
ルクスを継承したネグリのいう国家が消失した「帝国」があるのかもしれない。ここで
は、イラク戦争、途上国からの難民、下流などはフラットな世界の偏在でしかない。
しかしアガンベンの例外状態の議論はまさにその偏在を問題にする。権力はいつも
例外状態に明確に現われる。これは柄谷がマルクス、ネグリを批判した言った、「国
家は消失しない。国家は戦争により現われる。」につながる。
9 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 22:14:20 0
想像的な王と、実際に権力を行使する王とは異なる。
しかし想像的な王は、実際の王の権力に正当性を与える。
これは、王が消失したあとの民主国家においても
同じ事が言えるだろう。
想像的な国家=ネーションと、実際に権力を行使する国家権力、
ネーションは国家権力に正当性を与える。
10 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 23:39:45 0
ネーションという国家単位の贈与性を可能にしたのは、
科学技術を抜きにしては語れないだろう。
11 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/22(月) 10:26:07 0
■環境と交換様式
11)「環境」=外部と技術の関係性
では、共同体(互酬性)と国家(再配分)の違いはなんだろう。それはまず「環境」で
はないだろうか。稲葉は、ホッブズの秩序問題を考える上で、秩序と「エコロジカル
な条件」が関係することを指摘している。
>>
ホッブズ的自然状態を解釈するもっとも自然で、おそらく有意義なやり方は、それを
国家以前の状態と解釈するのではなく、何らかの理由で国家が解体してしまった後
の無政府状態と解釈する、というものでしょう。・・・もちろんまず思いつくのが、ホッ
ブズも意識していたであろう、文字通り戦争を通じての、国家の解体です。・・・しか
し本書で言う意味でのロック的=生態学的パースペクティブはもう少し踏み込むこと
を可能にします。・・・つまり「技術」「生産力」のことです。・・・生産力の発展、経済成
長によって、法と国家にとっての「エコロジカルな条件」は変わりうるのです。
「「資本」論―取引する身体/取引される身体」 稲葉振一郎(ISBN:4480062645)P34-37
<<
外部とは、いつも自然の脅威、めぐみと、「野蛮人(動物)」である。そして技術の特
性とは還元作用にある。技術は外部という不確実性を還元作用にによって、予測可
能性にして、内部へ回収する。すなわち人類社会の変化を、外部圧とその外部圧を
開拓する技術の関係で語るということである。
12 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/22(月) 10:27:10 0
12)共同体(互酬性)と国家(再配分)の違い
>>
原始社会と未開社会は異なる。原始社会は国家の前段階の共同体であるが、未開
社会は、国家の周縁部に位置し、文明を拒否する共同体である。未開社会が可能
になるためには、国家から地理的に十分に孤立し、狩猟採集によって生活できる自
然条件が必要である。
原始社会は、互酬的交換だけでなく、他の交換様式を萌芽的にはらむ。このような
共同体と共同体の間には互酬にもとづく規範(掟)がない。このために一つの共同
体が他の諸共同体を支配し、暴力的略奪を禁じることで、国家と法が成立する。
国家では、農業共同体からの賦役と貢納(租税)、他の国家からの略奪に対して共
同体を防衛する、「公共的」事業を興すなどによって、共同体の間を調整、制御す
る。このような略取−再配分があたかも互酬的交換であるように表象されること(互
酬の擬制)によって、国家は公共的、理性的であるという観念が生じ、一つの共同
体が他の諸共同体を継続的に支配する形態が生まれる。
「世界共和国へ」 柄谷行人
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903 <<
13 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/22(月) 10:27:51 0
互酬性の共同体(未開社会)では、生活の多くを自然そのものに依存する。外部は
純粋贈与(略奪)=自然の脅威が重要であり、また到来する他者=野蛮人(動物)
との遭遇を妨げられている。縦交換の相手は、自然神であり、強い1者ではなく、分
散された漠然としてある。このために経済行為は、狭い領域で強く作用するような互
酬性(贈与と返礼)の横関係が重要になるだろう。
>>
未開社会
外部・・・自然のめぐみ、脅威
技術・・・狩猟採集
交換 @横交換−狭い−強く・・・互酬性(贈与と返礼)
A縦交換−狭い−弱く・・・自然神との疑似再配分(略取と再配分)
<<
14 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/22(月) 10:29:02 0
それに対して、再配分の原始国家は、いくつからの共同体が統括された形態もつ。
農耕、灌漑、金属武器などの技術が発達し、自然はある程度、管理されはじめる。
そして絶えず外部からの到来する他者=野蛮人(動物)と闘争状態にあった。
共同体群という広い領域を統治する、さらに外部からの到来する他者=野蛮人(動
物)と対応するために、権力(暴力)を集中させるための強い縦関係=再配分(略取
と再配分)の組織が重要になる。このような縦関係は互酬性共同体からの自然神
の位置を、1者に集約し、継続する。すなわち「王」は神の位置を占めるだろう。そし
て共同体内の横関係は互酬性が継続されるだろうが、共同体と共同体の間におい
ては、貨幣交換が行われる。
>>
原始国家
外部・・・野蛮人>自然のめぐみ、脅威
技術・・・農耕、灌漑、金属武器
交換 @縦交換−広く−強い・・・再配分(略取と再配分)
A横関係−狭い−強い・・・互酬性(贈与と返礼)
B横関係−広く−弱い・・・貨幣交換
<<
15 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/22(月) 10:29:59 0
13)貨幣交換とは「国家」の中で成立する
貨幣交換と贈与交換の違いはなにか。貨幣交換にも贈与性が介入するならば、こ
れらの差は贈与性の強さということだろう。互酬性は負債感が持続する、商品交換
は負債感が生じないとすれば、貨幣交換は負債感が弱く継続すると言える。
互酬性(贈与と返礼)は強い贈与性をもつが、狭い領域でしか成立しない。互酬性
の強さは自律的に秩序を維持される。それに対して貨幣交換は弱い贈与性である
が故に、広い領域での作動が可能である。しかし貨幣交換の弱さは維持されるた
めに補完的な装置が必要とされる。それが、国家である。
これは、柄谷がいう「国家と商品交換は共同体と共同体の間で、並行的に成立す
る」ということと対応するだろう。国家は、一つの共同体が他の多数の共同体を支配
することで、「共同体と共同体の間」の断絶に秩序をもたらす。そこは、贈与性の強
度において、「共同体の中」と「共同体と共同体の間」の中間の領域、弱い贈与性の
領域である。
現代で言えば、強い贈与性の領域とは、家族、友達である。相手がなにものである
か知り、強い繋がりがある。それに対して、弱い贈与性の領域とは、その外である。
強い贈与性を必要とする互酬性が維持されるためには、「共同体」という狭い領域
の中に限られる。「共同体」を越え、贈与性の引力が低下すると、互酬性の維持す
ることはできずに、弱い贈与性でも作動可能な貨幣交換が行われる。だから互酬性
は「共同体の中」で成立する。そして貨幣交換とは、「国家」の中で成立する。
16 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/22(月) 10:31:19 0
14)近代国家
>>
国家と商品交換は共同体と共同体の間で、並行的に成立する。一つの共同体が他
の多数の共同体を支配するようになるとき、多数の共同体の間で生産物の交換が
無事に行われるようになる。商品交換は人類史の早期段階からはじまったが、近代
国家と市場経済が確立されるまで従属的・補足的である。
絶対主義王権国家は、王がこれまで王と並び立っていた多数の封建諸侯を制圧
し、また教会の支配権を奪うことで成立する。これを可能にしたのが、破壊力をもっ
た火器の発明と商品経済の浸透である。火器は・・・国家が暴力の独占に存する。
商業や交易は帝国によって管理独占され、商品交換は他の交換様式を上回ること
はできないかったが、絶対主義王権は商品交換の原理を全面的に受け入れる。
「世界共和国へ」 柄谷行人
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903 <<
近代は国家の時代である。絶対主義国家→国民国家→帝国主義的国家→国民国
家と、権力の集中(王、軍部)と拡散(国民)を繰り返している。たとえば柄谷は国家
の時代を始まり(絶対主義国家)を「破壊力をもった火器の発明と商品経済の浸透」
で説明している。
何も見えない
18 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/22(月) 18:54:53 O
贈与性と贈与交換にはいつもズレがある。
贈与交換の希釈された形に貨幣交換がある。補完する国家が求められる。
贈与性、貨幣交換、国家
19 :
考える名無しさん:2007/10/24(水) 02:23:43 0
いつの間にか柄谷を全面に押し出すことにしたのかw
相変わらずズレてるがなw
もうヤメとけよう。後戻りできないのは分かるがな。
君死ぬ以外選択なくなるよまじで。jisatuって怖くね?
20 :
考える名無しさん:2007/10/24(水) 02:45:38 0
しかし「ズレ」があるとか、そーいう言い回しも柄谷が昔書いてた事だな。
どーせ2chにいる奴はまともに柄谷読んでねーって思ってるんだろ?
→それ君の唯一の正解っです。おめでとー。
もちろん、何、贈与性と贈与交換の間にズレがあるとか言ってないがなー。
適当に当て込むの禁止な。言い回しも交換可能ですか?
あるパターンがあって、そこに何でも当て込めて自分が考えたと言い張る。
これは良くないねー。東とか東の友達もそうだろ。
反論とか無いのかな噂では24h張り付いてるって話?
21 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/24(水) 09:20:47 O
中国が台頭することで日本が転落する可能性がある、ということ。
ここに競争があるがそれが高めあう競争となりえるか
中国ははじめから強国であるが、弱小国は容易にあがれない抑圧がある。
武力行使による支配は困難になるなかで経済的支配が行われる。
自由競争という美しい名目により隠蔽される非対象性。
たとえばフーコーは縦の力でなく、横の力としての権力関係をしてきしたが、横の力では調停できない例外領域は独善的な縦の力が発動する。
22 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/24(水) 09:35:36 0
たとえばローティのポストモダンリベラルでは、共同体は寛容によって緩やかに認めあうと
考えるが、問題が到来する外部という不確実性にどのように対応するかである。
そこには必ず共同体間でどうにもならない矛盾が発生する。
このような解決は、現在では国家権力によって調停される。
調停されるといっても、丸く収まるわけではなく、例外状態においても
権力闘争があり、勝った者が支配することで、調停される。
この権力闘争は、ネオリベラルが考えるような、経済学的な自由競争ではない。
経済学的な自由な競争は、調停者としての秩序のもとに、
フェアーに行われるものであるが、
例外状態とはそもそもにおいて、調停者が存在しない状態を意味する。
経済学的な貨幣交換の原理よりも、略奪、贈与が働くアンフェアーな領域である。
たとえばアメリカがイラクを攻めたのはいかに正当化されるのか。
そこには正当化を判断する調停者は存在しない。
アメリカが強い武力を持っていることにつきるだろう。
そしてそこに石油利権などの略奪、そしてアメリカ企業との贈与関係が
あることは否めない。
23 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/24(水) 09:42:13 0
これはテロリズムもまた例外状態における存在であり、
間違いであるという判断も、絶対な正当性ではなく、
アメリカ側の論理でしかない、ということになる。
そして僕たちは確実にアメリカ側に属している。
強いアメリカの力のもとで、豊かな生活を享受している。
世界という闘争場を考えた場合に、様々な自由と平等の
言説は、守られた場から強者の発言であり、説得力を持たない。
25 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/24(水) 09:55:51 O
たとえばマザーテレサが来日したとき街の浮浪者に手を差し伸べたという。
これは一つのショックがある。マザーテレサが世界中の貧困の地域にでむき、貧しい人びとに手を差し伸べていることを僕達はこの豊かな日本ではひとごととしてテレビでみていた。
日本の街に浮浪者はいるが彼らはそのようなものたちた別のものである。
という漠然とした思いが解体される。世界の貧しいひとたちへの思いがなぜ街の浮浪者という身近な現実に展開されないのか。
26 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/24(水) 10:10:54 0
たとえばマザーテレサが来日したとき街の浮浪者に手を差し伸べたという。
これは一つのショックがある。僕たちはテレビで、マザーテレサは世界中の貧困の地域にでむき、
貧しい人びとに手を差し伸べている場面をよく見ている。そして世界にはこんなひどい地域があるんだ。
そこに出向き、支援活動をするマザーテレサは聖人だと考える。
だからマザーテレサが日本で街浮浪者に、貧しい国と同じように手をさしのべるとき、
いやいや、違う違うんだよ、テレサ。同じように見えるし、あなたの立場ではそうするしかないのかな。
でも日本の浮浪者はそんなのとは違うんだよ。と苦笑する。
しかしそれとともに、なにが違うのかと、問われる。
僕たちは、テレビで世界の貧しいひとたちを見て、なんてひどい世界があるんだろうと、
なんとか助けない、という思いに駆られる。しかしその思いは、日本の街の浮浪者へは向かない。
彼らは僕たちの日常であり、そういう人もいるよね、 という当たり前のものであるからだ。
しかし僕たちがテレビで見る人々の多くも、その国の日常であるのだろう。
たとえば北朝鮮がいかに貧しいかが懸命に報道されている。町をうろつく浮浪者たちと、一部の豊かな人々。
しかし日本を題材にしてに、どうようにドキュメンタリーは作れるのはないだろうか。
浮浪者と一部の豊かな人、格差のある不平等な社会。
日本は正当な競争の結果の格差であり、仕方がない。それに日本はそこまでひどくない。
これは、どこまで真実だろうか。
27 :
考える名無しさん:2007/10/24(水) 10:20:48 O
このナミヘーって奴、絶対固太りした奴だと思う。
こんな奴にストーキングされたらやばいな。
執着心と自己愛だけで生きているんだな、きっと。
28 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/24(水) 10:33:42 0
■なぜ街の浮浪者は見えないのか
貧しい者はどこにいるのか
たとえばマザーテレサが来日したとき街の浮浪者に手を差し伸べたという。これは
一つのショックがある。僕たちはテレビで、マザーテレサは世界中の貧困の地域に
でむき、貧しい人びとに手を差し伸べている場面をよく見ている。そして世界にはこ
んなひどい地域があるんだ。そこに出向き、支援活動をするマザーテレサは聖人だ
と考える。
だからマザーテレサが日本で街浮浪者に、貧しい国と同じように手をさしのべると
き、いやいや、違う違うんだよ、テレサ。同じように見えるし、あなたの立場ではそう
するしかないのかな。でも日本の浮浪者はそんなのとは違うんだよ。と苦笑する。
しかしそれとともに、なにが違うのだろうか。僕たちは、テレビで世界の貧しいひとた
ちを見て、なんてひどい世界があるんだろうと、なんとか助けない、という思いに駆
られる。しかしその思いは、日本の街の浮浪者へは向かない。彼らは僕たちの日常
であり、そういう人もいるよね、という当たり前のものであるから、もはや見えないも
のとなっている。しかし僕たちがテレビで見る人々の多くも、その国の日常であるの
だろう。
たとえば北朝鮮がいかに貧しいかが懸命に報道されている。町をうろつく浮浪者た
ちと、一部の豊かな人々。しかし日本を題材にしてに、どうようにドキュメンタリーは
作れるのはないだろうか。浮浪者と一部の豊かな人、格差のある不平等な社会。日
本は正当な競争の結果の格差であり、仕方がない。それに日本はそこまでひどくな
い。これは、どこまで真実だろうか。
29 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/24(水) 10:34:46 0
アンフェアーな領域
中国などBRICsが経済的に台頭することで、日本が不利になる可能性があるだろ
う。このような国際的な競争は勝ち負けだけでなく、全体が高めあう競争となるとい
うことが、自由競争を推進する資本主義の論理である。
しかし国家間の競争は、そう美しくはいかないだろう。この権力闘争は、ネオリベラ
ルが考えるような、経済学的な自由競争ではない。経済学的な自由な競争は、調
停者としての秩序のもとに、フェアーに行われるものであるが、例外状態とはそもそ
もにおいて、調停者が存在しない状態を意味する。経済学的な貨幣交換の原理よ
りも、略奪、贈与が働くアンフェアーな領域である。
中国などはまだはじめから強国であるが、弱小国は容易にあがれない抑圧があ
る。武力行使による支配は困難になるなかで、経済的支配が行われる。自由競争
という美しい名目により隠蔽される非対象性がある。
このような解決は、現在では国家権力によって調停される。調停されるといっても、
丸く収まるわけではなく、例外状態においても権力闘争があり、勝った者が支配す
ることで、調停される。
30 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/24(水) 10:35:19 0
アメリカの力のもとでの豊かな生活
たとえばアメリカがイラクを攻めたのはいかに正当化されるのか。そこには正当化
を判断する調停者は存在しない。アメリカが強い武力を持っていることにつきるだろ
う。そしてそこに石油利権などの略奪、そしてアメリカ企業との贈与関係があること
は否めない。そしてこれはテロリズムもまた例外状態における存在であり、間違い
であるという判断も、絶対な正当性ではなく、アメリカ側の論理でしかない、というこ
とになる。
僕たちは確実にアメリカ側に属している。強いアメリカの力のもとで、豊かな生活を
享受している。世界という闘争場を考えた場合に、世界の貧しい人々へ向けられる
様々な自由と平等の言説は、守られた場から強者の発言でしかない。これを偽善と
いうのは簡単であるが、僕たちにいまの強者の庇護を失ってまで、世界に平等と自
由を求める勇気があるだろうか。そこには「見えない浮浪者」がいるのではないだろうか。
31 :
考える名無しさん:2007/10/24(水) 10:45:52 O
ラリってるな
32 :
考える名無しさん:2007/10/24(水) 12:38:40 O
>強者の庇護を失ってまで、世界に平等と自
由を求める勇気があるだろうか。そこには「見えない浮浪者」がいるのではないだろうか。
当たり前だろ、それがリアルな世界というもんだろ。
なにを悦にいってんだよ、そんなことで。
てめえはユトリの弊害の典型だな。
はよ くたばんな。役立たずが。
33 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/24(水) 13:38:37 0
■なにが資本主義を動かしているのか。
貨幣のフェティシズム
資本主義はなにを支えているか。貨幣交換の利点は知らないもの同士が簡単に交
換できるところ。海産物が豊富な地域と山産物が豊富な地域が交換すれば豊かに
なる。偏在する価値を平準化する。しかし貨幣は蓄積を容易にすることで貨幣が自
己目的して、過剰生産、さらに過剰消費につながる。商品の源泉は自然だから取り
合いの戦争、環境破壊が起こる。さらに自然には人間の身体(労働力)もはいるか
ら、商品化され、流通される。
ならば経済をコントロールすればどうか。ソ連はなぜ崩壊したのか。みんな懸命に
働かず生産性が落ちたから。資本主義社会の豊かさと差がついてしまったという
が、しかしこれはそれほどわるいだろうか。資本主義が過剰ならのんびりもよいので
は。ソ連への批判は権力が集中したことがあげられる。すなわち贈与にむしばまれ
た。だから国家社会主義でなくマルクスのめざしたアソシエーションがよいというぎ
ろんがでる。必要なものをつくり、あまったものは必要なものと交換するだけで過剰
な財を蓄積しない。
34 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/24(水) 13:39:22 0
科学技術のフロンティア
このように資本主義の動力として、マルクス的な貨幣へのフェティシズムが語られる
が、科学技術の発展は重要である。科学技術は単なる環境を自然を資源へと変え
た。資本主義のはじまりに大航海時代においてフロンティアが目指されたのは象徴
的である。科学技術が発達が、世界をフロンティアへと変えたのである。フロンティ
アとは単なる未開地帯ではなく、富が眠るだろうところである。資本主義の歴史とは
開拓の歴史である。そして貨幣交換はこの富を市場へ円滑に流し込むための方法
である。
フロンティアとは物理的な土地のみをいうものではなく、科学の様々な発見が自然
を管理するということである。これは一種の例外状態であるといえるだろう。それは
誰のものでもない領域であり、略奪の領域である。大航海時代から植民地政策へと
国家権力によって統治され、そこに企業が上陸して、それを自国市場へ送るという
り図式であり、いまもこの構図は継続されている。たとえば中東の石油が発見され
たのは20世紀に入ったからであり、多くをアメリカ企業が管理してきたのである。
だから人類がアソシエーションというストイックな生活をすることの難しさは、目の前
に眠るフロンティアを放置することができるか、というである。そしてまた現代の資本
主義の問題はフロンティアの消失しつつつあることだろう。
35 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/24(水) 16:17:39 0
アメリカの力のもとでの豊かな生活
たとえばアメリカがイラクを攻めたのはいかに正当化されるのか。そこには正当化
を判断する調停者は存在しない。アメリカが強い武力を持っていることにつきるだろ
う。そしてそこに石油利権などの略奪、そしてアメリカ企業との贈与関係があること
は否めない。そしてこれはテロリズムもまた例外状態における存在であり、間違い
であるという判断も、絶対な正当性ではなく、アメリカ側の論理でしかない、というこ
とになる。
僕たちは確実にアメリカ側に属している。強いアメリカの力のもとで、豊かな生活を
享受している。世界という闘争場を考えた場合に、世界の貧しい人々へ向けられる
様々な自由と平等の言説は、守られた場から強者の発言でしかない。これを偽善と
いうのは簡単であるが、僕たちにいまの強者の庇護を失ってまで、世界に平等と自
由を求める勇気があるだろうか。
36 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/25(木) 11:33:42 O
民営化は贈与による閉塞を断ち切り競争を呼び込む。
37 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/25(木) 14:49:28 O
政治的な領域は閉塞し贈与性が巣くいやすい。
例外状態に政治的領域である。この暗部でなにが行われるのか。
経済的な領域は貨幣の断絶力により贈与性は分断されやすい。
貨幣そのものに贈与性が巣くっている。買う者が強いという
38 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/25(木) 18:08:52 O
非論理、非合理の混入
お前の頭がな
40 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/25(木) 22:53:31 0
なぜ人は必ず不正を行うのか
41 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/25(木) 22:54:33 0
なぜ人は必ず不正を行うのか 。それは正当とはなにか、という問いから始まるだろう。
42 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/25(木) 23:40:04 0
たとえばいじめなど他者を抑圧することはなぜいけないのだろう。
民主主義社会では、人々は等しく基本的な人権を持っているからだ。
しかし人類史において、これは自明のことではない。
個人が集団の犠牲になり、階級制があり、主権者による抑圧があった。
現代において、多くにおいて基本的人権は守られていない。
ここに現実と理想のギャップがある。
人と人の間には必ず力学が働く。
43 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/26(金) 11:55:50 O
この贈与性をどう考えるか
ネオリベに乗せられて単に排除することは危険である。
アンフェアな領域で馬鹿正直にフェアをつらぬくようなものである
44 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/26(金) 13:45:11 0
■なぜ談合はいけないのか
大量消費社会
1920年代。フォードは車の大量生産、低価格化で大成功した。だからより効率化
してさらに低コストをめざした。それに対して、他社が生産性の改善より、商品のデ
ザインなどかえてラインナップを増やすと消費者かそっちに流れて、フォードはいき
ずまる。これが大量消費社会の始まり。そこからマーケティングが発達する。いかに
消費者を作り出すか。いま中国がそうだけど、高度成長期って消費者が消費にめざ
める時期でしょう。
機械化したりして生産性をあげるのはよいが、商品には寿命があるわけで設備投
資分を回収できるか、わからない。この商品寿命が資本主義の本質でしょう。生活
必需品だけでこんなに人は消費する必要はない。消費自体が娯楽化している。こ
の消費の不確実さに対応するのは機械や単純労働だけでは無理で、人のみが持
つ知的生産は不可欠で、逆にこの商品寿命が価格の下落を押さえる。
45 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/26(金) 13:45:56 0
日本経済の保守化
しかしこのようなマーケティングだけではだめで、資本主義経済というのは、科学技
術によってたえず新しい産業分野を開拓してきた。繊維産業、エネルギー産業、家
電産業、自動車、IT産業。一つの産業が衰退しても、次に産業が生まれて、労働者
はシフトして、そこで生産性の向上が目指される。
日本はITに今ひとつ乗れなかった感があり、いまだに家電、自動車に依存してい
る。既得権益の大企業、そこにいる正社員によって保守化して、世界的な産業シフ
トに乗り遅れている。
80年代に成功しすぎて膨らんだ、政治、経済全般が既得権益として居座り続けて
いる。既得権益組は、新産業を抑圧して、生産性を下げて安くものをつくることしか
考えない。中国の安い労働力に対抗するには、とにかくルーチンかできる仕事をぬ
きだして、中国で生産するか、バイトにやらせて生産コストをおさえる。
46 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/26(金) 13:47:50 0
勝ち組と負け組の二極化
消費社会にはかならず単純化できない知的労働は残るので、それを正社員がや
る。でも実際は、年功序列が残っているので、正社員を抱え込んでるだけという場
合が多い。ここに閉塞した日本の勝ち組と負け組の二極化が起こっている。単純労
働とそうでない労働。そして勝っても負けても、閉塞感はいなめない。これは必ずし
も優秀な人材が勝ち組なることを意味しない。オタクやブログなど、無償の労働は
単純労働を押しつけられた負け組にあふれた創造性のはけ口なのかもしれない。
構造改革というのは、規制緩和で既得権益による保守化を打破する意味があった
んだろうけど、構造というのはそう簡単に変えられるものではない。改革は、勝ち組
をより保守化させ、負け組へしわ寄せをいく方向にしかむかわなかった。
歴史的に、一度成功した国は、次の時代に変革することが遅れて衰退するのが常
だから、日本の衰退も致し方ないのかも。中国という巨人が目覚めたのも痛い。アメ
リカは移民などの受け入れで、人の流動性を高めて、新陳代謝し続けて、勝ち続け
ている。
47 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/26(金) 13:48:37 0
贈与交換の亡霊
既得権益組というのは、贈与関係で結ばれた関係を意味する。経済学的にいえ
ば、企業と労働者の関係は、労働力を売って対価をもらう。買う側は安く、能力が高
い労働力を買うのが鉄則。しかし能力は短時間で決定されるものではなく、継続し
た安定性(品質)が求められ、そこに信頼関係が必要とされる。年功序列という正社
員の抱え込みは、安定性という意味で優位性がある。
しかし信頼関係はそのはじめから助け合いであり、依存関係である。信頼関係と贈
与関係に明確な境界は見いだせない。贈与交換は、関係性を保守化し、経済活動
を閉塞させる。経済活動の閉塞は、資本主義経済にとって致命的である。流動性を
高め、新たな変化を進めることでのみ、資本主義経済は継続される。
ここに贈与関係をすべて解体するというナイーブな理想論としてのネオリベラリズム
などの経済学的世界の限界がある。経済学的な純粋な等価交換は存在しない。そ
れはマルクスがいう「命がけの飛躍」であるからだ。人はこの飛躍のリスクを回避す
るために贈与という橋を渡し続ける。貨幣(等価)交換の裏にはいつも贈与交換の
亡霊が張り付いてる。終わりない贈収賄の問題は、悪人が行う間違った行為である
よりも、資本主義経済が隠す暗部の露出でしかないのだろう。
48 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/26(金) 13:49:14 0
贈与性は生き抜くための武器
だかといってネオリベに乗っかり贈与の排除、動物化とかいって喜んでいるのは、
ノーテンすぎる。不正をするという単純なことではなく、世界はグレーにできている。
そこでは贈与性は生き抜くための武器である。
国が豊かになると保守化して人々が高い合理的なフェアネスを求める傾向がある。
このような特徴はオタクなどに見られる。オタクは贈与性を駆使した政治ゲームが
苦手な人々ということになるだろう。贈与性=他者との関係の構築が苦手な彼ら
が、動物化という言葉に自らを投影するのは、そのためである。
彼らは、ネオリベを指示するだろう。ネオリベが合理的なフェアネスという幻想をイデ
オロギーとするからだ。しかしネオリベ化の中で、排除されるのも彼らであるのは皮
肉である。 ネオリベ化すればするほどに、逆に貨幣でなく法でもなく、贈与性をくしし
た政治的ゲームを重要になるからだ。 結局のところ、彼らの多くが贈与関係から排
除され、下流を担わされている。
あるいは、ホリエモン、亀田への過剰なフェアネスによる断罪の薄気味悪さは、ほん
とは誰もがアンフェアーにいきているという後ろめたさの裏返しとしての、現代の生
け贄の面があるだろう。
ぴかさ、もう哲板じゃなくてvipでやったらどうだ?
俺がスレ立ててやんよw
50 :
毛饅頭:2007/10/27(土) 07:57:58 0
ぶくぶくぶくぶく・・・。これから地下にもぐり続けます・・・。もうageることは
ありませんので・・・。それでーーは、みーーなさーーん、さようーーならーー。
51 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/27(土) 10:03:42 0
亀田批判では日本人の正義感が爆発したな。
みんな溜まってんだな。
しかし薄気味悪いな。
52 :
考える名無しさん:2007/10/27(土) 11:59:07 O
老舗企業の倫理神話の瓦解と関係は?
波は亀田に一発きついのもらえばどう?現実に目覚めるよ。
素人がプロボクサーのパンツなんて喰らったら一発で死ぬかもしれんよ。
55 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/28(日) 13:42:35 0
亀田批判は、相変わらず、調子になって正義感を語る知識人がいるが、
本質は、サイバーカスケードでしょ。
「マスメディアと2ちゃんねるの確信的な同期という共犯関係が成立してしまうと、
そこに生まれるのは、終わりのない動物化の円環が加速化されるという絶望的な
閉塞でしかない。」
亀田の試合は思いのほか退屈なんだよなあ。ガードばかりで、パンチが
ぜんぜん。そういえば昨日、今月発売の『非日常的悶絶遊戯』みたけど
おもしろかったよ。
どんなに大口こいても、見ていてエキサイトする試合をやってくれりゃ
いいよ。タイソンなんて負け方もすごかったからな。亀田の試合は
とにかく退屈。それで最後にレスリングなら、誰でも「なにしとる」
となる。
58 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/28(日) 14:22:52 0
59 :
考える名無しさん:2007/10/28(日) 14:27:20 0
この板、よくあがるんだよね。他のスレも乗っ取られたのあるから
ここものっとっちゃおうかな?
さて「のれん」をどれ位計上するかな?あわせて、のれん償却もおこなわないと
いけないから大変だ。
ここはぴかのための隔離スレでつ。
なまあたたかく見守ってあげましょう。
62 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/29(月) 12:07:47 O
なぜ人は占いを信じるのか
占いは与えられるのではない。みずからの中にある解に対しての他者の承認である。
みずから選択したのでなく与えられたという形をとる。
63 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/29(月) 13:00:06 O
亀田問題は大衆の不気味さがあらわれた。視聴率でいえば20%をこえると、なにかがでてくる。
ハゲ、占いの基本は、対話なんだよ。
だから、信じる信じないじゃなくて、なま暖かい(許容範囲)か、気持ち悪い(吐き気)かなんだよ。
65 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/30(火) 11:13:43 O
なぜ闘争はおわらないのか。外部があるからだ。
内部の内部が外部ですね。これほんと。
67 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/03(土) 23:30:28 0
飲む、打つ、買う
酒を飲んで、博打をする、女を抱く
68 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/03(土) 23:35:47 0
人間を狂わすほどの対象といえば、
酒、ドラックは、身体的な中毒性が強いので、はぶくと
お金と愛憎と名誉ではないでしょうか。
殺人事件の要因としてもこの3つの要因が大きいのではないでしょうか。
69 :
考える名無しさん:2007/11/03(土) 23:41:20 0
ぴかの場合
抗ウツ剤飲んで、一日中キーボード打って、エロゲを買う。
人々を狂わす者は対象じゃなく存在の苦しみです。
狂気というのは真の正気に由来する本質的に合理的で意図的な状態なんですよね。
人間はもともと狂ってるんだよ。知らなかった?
思春期以来知ってましたよ。だからこそ哲学なんかに手を出し始めたわけです。
多少なりとも狂ってないと生きていられないんですね。
現実、生活は虚構になっております。
ですからそれにもかかわらず合理性を高めつつ生活していこうとすれば、
何らかの信仰による現実の補修の必要性が高まっていくんですね。
73 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/04(日) 00:40:57 0
>>70 最近は、退屈も狂わす要因になっているね。
>>73 それは以前からでしょうけど、そうでしょうね。
現実にのめり込まれていなければ真実すなわち存在が次第に顔を覗かせてきますから。
健康で頑丈な肉体は最高の富だと思います。
可哀想なことに人体は脆いです。
知能を高めるという試みにおいて人は現実性を失っていき鬱になってくるという壁にぶつかり伸び悩みますので、
ここで快楽に耽ったりせずに何かを敢えて信じる、
信じようとする決意はさらなる飛躍には欠かせなくなってくると思います。
そして知能の向上もある限界に達すれば、
もはや現実を客観視できなくなり正真正銘の立派な信者、狂人になれるのかもしれません。
そもそも学ぶということは合理的にはうまくいきませんし、
創造性というのは合理的なものではないです。
完全に理性的な人間は死ぬよりなく、現実には有り得ないことです。
最も理性的な人間はしっかりした信仰、
不合理な面を兼ね備えています。
この理性的な非現実性と非理性的な現実性のカオス、これが創造性なるものでしょう。
77 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/04(日) 02:14:23 0
>>73 退屈とはなにか、というと、身体に関係するでしょう。
殺人の要因は、生存の危機でしょ。
生きるために人を暴力をふるう。
酒、ドラックも、身体的な中毒性が強くて、
苦痛のために、人に暴力をふるう。
退屈も身体性が高いでしょ。
退屈すぎると人は狂気をもつ。
78 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/04(日) 02:30:02 0
男の快楽は、飲む、打つ、買う、といわれた。酒を飲んで、博打をして、女を抱く。
酒、ドラックは、身体的な中毒性が強いので、はぶくと、人間を狂わすほどの対象と
いえば、お金と愛憎と、そして名誉ではないでしょうか。殺人事件の要因としてもこ
の3つの要因が大きいのではないでしょうか。
酒、ドラックは、身体的な中毒性が強いと言う意味では、殺人の要因は、生存の危
機でしょ。生きるために人を暴力をふるう。酒、ドラックも、身体的な中毒性が強く
て、苦痛のために、人に暴力をふるう。
二元論的に分類すれば、人が重要視しするのは、
身体的 生存、中毒(酒、ドラック)
社会的 お金、愛憎、名誉
79 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/04(日) 02:39:12 0
身体的/社会的という二元論は簡易的なものでしかない。
たとえば社会的な快楽はそこに中毒性を伴うことで強固になる。
波平ってADHDじゃないかと思うんだけど、今回のリタリン騒動は
当事者としてはどう?
81 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/05(月) 00:11:44 0
ADHDってなに?
リタリン騒動?
自分で調べてみな。なるほどと思うから。
だから、生産性の高い人間だけを集めて仕事をすれば、途方もない生産性で成果が生まれ、とても自分では食いきれない価値が発生するのは必然である。
このことは、養老氏が「脳化社会」と言っている範囲、つまり、普通の人が「社会」とか「リアルな社会」と呼んでいる範囲では、同じように成立する。
(略)
そして、まずは直径30cmのケーキを差し出す。つまり、自分たちの高い生産性の成果を、惜しげもなく社会に還元する。
だから、「アリさん」企業の生産物は、ほとんどがタダになる。電話や検索やメールやワープロがタダになっているのは、
全然序の口で、もっといろいろな凄いものがタダになる。広告とかバージョンアップとか、何らかのヒモつきで後でお金を取られるようなニセモノのタダではなくて、本物のタダになる。
(略)
タダにならない部分は、アリさん企業の法人税を財源として、失業手当として支給できるだろう。
「働かなくても食っていける社会がもうすぐやってくるよ」(@アンカテ(Uncategorizable Blog)1/31付)
http://bewaad.sakura.ne.jp/20070202.html
84 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/11/05(月) 09:44:01 O
国家はアーキテクチャを支える。
贈与関係をこえて、治安維持機能をになう。法、貨幣交換
まさにいまのネオリベラルを支える装置である。これが国家のはじめからの機能である。
85 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/05(月) 10:08:19 0
「社会のアーキテクチャ化」とはなにかといえば、たとえばかつては犯罪をしてつか
まると、犯罪ドラマにあるように警察につかまった時点で「物語」は終わり、犯人は
観念し反省します。ここでは犯人自身にも自分が間違ったことをしていることが共有
されています。
しかし実際はそこにで終わりではなく、裁判によって刑が確定するまで、罪になるか
はわかりません。そして最近の米国の裁判のように優秀な弁護士をやとえば、殺人
さえも無罪になる可能性もあります。あるいは、最近では少年法で短期で許される
ことに自覚的に犯罪をおこす少年にも現れています。
このような傾向は、金持ちが徳をするだけ、法の穴をつく卑怯な行為ということだけ
では語れません。法は完全なものではなく、それを社会的な規範や、信頼関係で補
完されるものでしかりません。そして規範や信頼というのは漠然としてみなこれが当
たり前だろうという場の「空気」によって支えられています。
しかし社会的な流動性が高まり、規範や信頼の共有が危うくなる中で、もはやアー
キテクチャに頼るしかない。そして法はみなに共有された絶対に正しい社会正義な
どではなく、誰かがつくった一つの社会設計(アーキテクチャ)であり、不完全なもの
であり、いつも古く、改革するべきものであることに自覚的になっているということで
す。
「社会のアーキテクチャー化」とは、法は正義であると素朴に信じられていたものが
懐疑され、設計事項として剥き出しになり、それを知り、うまく活用したものが勝つと
いうことです。
86 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/05(月) 10:09:09 0
「社会のアーキテクチャ化」は、共産主義や保護主義の失敗によって、世界的な市
場主義の拡大というネオリベラルな潮流によって語られますが、その根底にあるの
は情報化社会という不可逆的な方向性によると考えられます。だから文明の衝突
やイデオロギー対立よりも、根本的で止められない潮流ではないでしょうか。
だから「社会のアーキテクチャ化」はイデオロギーではない。ネオリベラルな市場主
義者が語る、市場が自由化されることで人々が幸福になるという思想は、アーキテ
クチャー化によって「人間を介さずに」共通の自由な社会設計を導入を目指すことで
すが、そのような理想とは関係がなく、アーキテクチャー化は進むと共に、設計は必
ず不完全でしかありえず、その不完全性に自覚的で、活用するものが、徹底的に優
位に働く構造があるということです。
87 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/05(月) 10:18:24 0
このようなネオリベラル的なアーキテクチャー化は、国家社会主義や保護主義などの
国家の管理と対立し、「小さな国家」として語られます。
しかしこれは国家そのものと対立すると考えてはいけません。
贈与関係をこえて、法、貨幣交換によって治安維持機能をになうことは、
まさに国家そのものの機能です。
国家によるこのような機能が作動していなければ、ネオリベラルは
可能になりません。これが国家のはじめからの機能です。
国家社会主義や保護主義のような国家の機能は、富を再分配する国家の
一つの機能です。また治安維持、それに伴う暴力の行使も国家の機能です。
ネオリベラル的な小さな国家とは、能動的な再分配よりも、受動的な治安維持の
国家機能を重視することを意味します。
NHK出版から連絡きたか?
89 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/11/07(水) 10:39:51 O
国家はなにかといえばまず治安維持だろう。
法治国家では、警察などの国家権力がなければ、治安は守れず、何でもありの社会になってしまう。
これは国内の治安維持とともに、そのために国境における他国の排除によっていじされる。
経済がグローバル化する中で国境の必要性が問題視される。その場合、より上位の国際機関が世界秩序を維持することになるが、
問題はこのような一元化が世界の多様性に対応できるのか、多様性を抑圧することが問題になるだろう。
だから世界地域を統括する国家のようなものはのこるだろう。
国家群システムはそのはじめからグローバルシステムである。上位の国連に力がないだけである。
共同体−国家ー国連の階層においてどこに力をあたえるかの問題になる。
国家は私権を吸い上げて統一した権力である。
しかし、私権ももともと明白なものでもなく、
家族・世間・部族共同体などの掟や倫理に制約されても
いたのである。
殴られたら殴り返すべきなのは個人的感情や世間的感情の
認めるところであるが、意気地なしでは殴られたら屈従するのが
自然な感情というものである。
91 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/11/08(木) 11:23:13 O
人間は10時間毎にエネルギーを与えなけれは正常に動作することがむずかしいという特徴をもつ。
だからたえず急き立てられている。
92 :
考える名無しさん:2007/11/12(月) 12:20:44 O
↑↑↑↑↑↑↑↑↑
WwWw
93 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/11/13(火) 12:22:58 O
メタマスメディアとしての2ちゃんねる
メタ2ちゃんねるは可能か
メタ2ちゃんをめざすブログなどのむずかしさは、さらにメタメタな位置に2ちゃんねるがたつから
この強さはボリュームにあらわれている。集客こそが力である。数が正しさを決める。
94 :
考える名無しさん:2007/11/13(火) 14:24:39 O
(笑)↑↑↑↑↑↑
おーい、思想地図のどうなった?採用でも、選外でもどちらでも必ず結果は
報告してねーー。採用なら思う存分威張りまくれ。選外なら2ちゃんにいる
かぎり、笑われつづけろ。「なんだあいつホラふいて。所詮役立たずか。」
「またアホが書き込んでるよー」とかね。
96 :
考える名無しさん:2007/11/15(木) 01:38:35 0
わーいわーい
哲学板にはこのコピペ進出してないのか?
8月サブプライムショックの頃から盛んに貼られてれてるんだが
----------------------------------------------------
搾取的資本主義体制は花火のように爆発して崩壊する!
アメリカの経済学者ラビ・バトラ氏
「どんなに遅くとも2000年までに共産主義は断末魔の苦しい革命を経て
崩壊し、2010年までに資本主義は崩壊する。」
「資本主義の崩壊(世界同時大恐慌)はバブルの崩壊に端を発する
NY株式市場の大暴落から始まるだろう。資本主義は花火のように爆発する。」
「世界同時大恐慌の入り口は2005年。そして2010年までに
『搾取的資本主義』は崩壊するだろう。」
(大恐慌・資本主義の崩壊によって)
「日本と世界は同時に崩壊する。」
ラビ・バトラ氏の恩師、サーカー師
「共産主義は早死にするだろう。資本主義は爆竹のように弾けて終焉するだろう。」
当たり前のことを確認しておきますが、恐慌は資本主義の内部の現象ですよ。
どんなに恐慌がおころうと、それが恐慌である限り、資本主義はなくなりません。
99 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/25(日) 00:49:01 0
ドラマ「SP」がおもしろいですね。
映画「ダイハード」につながるおもしろさがあります。
主人公が鮮やかに悪人を退治するわけですが、
ヒーローとはちょっと違うわけです。
彼らの特長は、プロであるということです。
ダイハードでは、奥さんに頭の上がらない刑事。
SPでは事件を解決することを期待されていないSPです。
彼らはあくまで人々を守る仕事として、悪を退治する。
そこにあるのは善悪という倫理観、この世界を悪を憎み、
善を信じるというヒーローではなく、
人々の役に立つというプロフェッショナルとしての倫理です。
ここでは善悪そのものはかっこに入っています。
仕事としての役割として、自らにできる範囲で社会的に貢献すること。
大きな成果を求めるよりも、自らに与えられた役割に
プライドをもって果たすこということ。
これは他には「踊る大走査線」にもつながる価値です。
倫理とは本来、善悪に関するものですが、
価値多様の社会の中で、胡散臭いものになっています。
そこに浮上している倫理がプロフェッショナルの倫理です。
100 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/25(日) 01:07:40 0
プロフェッショナルと言う意味では、もう一つドラマ「働きマン」の
つまらなさはなんだろうか。主人公の猛烈雑誌記者が、
仮に男性だったら、ドラマとして成立していたのだろうかと思う。
男が猛烈に仕事をすることをあまりに当たり前すぎるし、
一昔前にサラリーマン像である。それが女性であることろが、
おもしろさであるのだろう。女性も男性のように仕事に生き甲斐を
見いだす時代、しかしそれは男性以上に大変であるという
応援歌のようなドラマである。
ここでは仕事に対するプロ根性はあるのだけれども、
主人公の生き甲斐と近接しすぎて、先にSPのようなクールさがなく、
とても泥臭い、説教臭いものになっている。
それが女性であることで緩和されていると言う感じだろうか。
プロフェッショナルという倫理は、クールなものである。
そこにはお金が媒介されている。
良いことをする。しかしそれはお金を稼ぐという自らの仕事だからだ。
それはたとえばブラックジャックのように単にお金に見合ったもの
しかしないということではないが、ベースに貨幣交換をおくことで、
過剰な善悪という倫理への没入を回避し、距離を置いている。
働きマンの女主人公が恋愛関係を平行して語られるに対して、
踊る走査線の青島や、SPの主人公が恋愛しないのも、
ダイハードの主人公が妻という社会的な関係を語るのも、
密接な人間関係をかくし、プロフェッショナルを強調するためだろう。
黙ってテレビ見てろクソガキ
あげるなボケっ
102 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/11/26(月) 23:31:04 0
映画よりもドラマが好きなんだよな・・・なんでだろう
103 :
考える名無しさん:2007/11/27(火) 08:39:44 O
ストーリーのテクスチャに単刀直入に迫りたいからかねぇ
104 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/02(日) 02:19:53 0
■なぜ「政治的なもの」が回帰するのか。
フラット化という無法地帯
少し前はフリーター、ニート、オタク、2ちゃねらーと脱社会化による新たな流れみたい
に言われていた。ある程度、景気が回復して雇用も回復すると彼らが不景気の産物単
なる取り残されたマイノリティーということがはっきりしたわけだ。脱社会する可能性は、
ポストモダン的に語られたわけだけど、ようは豊かさを背景に先進国に閉じた世界観
だった。
しかし脱社会化の算出が一過性のものかというと、グローバルな大きな流れの現象と
して見えてきた。911に象徴されるけど、インターネットや世界市場化によって、先進国
の思想としてのネオリベラル=資本主義が世界に拡散した結果、先進国が後進国を先
導し搾取するということは解体されて、世界はフラットになった。
フラットとは平等とかではなく、フラットになることでその中で格差が生まれる、というこ
と。先進国/後進国の垣根が取り払われて、フラットの中でより市場主義的な大きな格
差が生まれている。一部の投資家が巨大な富を得るマネーゲーム化。フラット化するこ
とで競争社会という「無法地帯」(フロンティア)が生まれている。
たとえば最近のバイオ燃料騒動にも現れている。ヘッジファンドなどの投資家がバイオ
燃料企業に投資して、穀物が投機化して、値がつり上がる。それによって、世界の食
糧、エネルギーが高騰する。
105 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/02(日) 02:20:27 0
「政治的なもの」の回帰
このようなネオリベ化という「無法地帯」は、近いうちに国家の保守化によって規制され
るだろう。かつての古典自由主義からケインズ主義へ移行したように。このフラット化し
た荒野(フロンティア)を以下に設計するか。いかに富を分配するか。環境負荷、資源を
分配するか。
ポストモダンという飽和し多様化した先進国に閉じた閉塞感が、フラット化によって現れ
た荒野(フロンティア)によって、開かれた。人々は再びいかに生き抜くか、ということを
問われる。そして人は一人では生きていけないという当たり前のことが、浮上すること
で、社会はいかにあるべきか=「政治的なもの」が問われる。
特に日本の転落は人々が気づかないほどに大きい。80年代のジャパンイズNO.1は
遠い昔で、世界を主導する立場から転落しつつあり、経済的にもかつての技術的財産
に依存しつつ、ポストモダンを生きている。近いうちに日本は中国の経済圏に取り込ま
れてしまうだろうか。
106 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/03(月) 12:47:40 O
資本主義の基本にあるのは信用できるのはお金だけということだ。
道徳的にいえばとてもむなしい考えであるが、このような考えの必要性はある。
その他者との関係が外部にある場合である。
107 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/03(月) 12:52:16 O
資本主義の基本にあるのは信用できるのはお金だけということだ。
道徳的にいえばとてもむなしい考えであるが、このような考えの必要性はある。
その他者との関係が外部にある場合である。
108 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/03(月) 13:51:01 O
すなわち社会の流動性が向上すれば必然的に信用はお金に支えられることになる。
社会の信用をお金によって支えられる社会、それが資本主義社会である。
109 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/03(月) 15:35:28 O
当然、信頼をえ、関係をもつために人々はより多くのお金を得ようとするだろう。
110 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/03(月) 16:38:06 O
なぜひとは孤独だと変になるのか
思想地図落選したやつがあずまんに喧嘩売ってるみたいだけど
波平もそうすれば
資本主義は変化し続けなければ衰退するとう
当たり前のことを証明したに過ぎない。
初期は人間にとって有用なものを循環させたが
いつからか不要なものを循環させ社会や企業が人間
に欲を与えてコントロールするようになってしまった。
今人間は与えられた欲やステータスを餌を食う家畜になった
その資本主義も名前の通り資本が無くなれば終わる
資源が無くなれば終わる石油が無くなれば終わる
餌がなくなれば家畜も自分でまた狩りに行くだろう
113 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/10(月) 10:38:18 0
経済成長率が少しでも悪いとヒステリックに景気、失業率の心配をするのと、
国際的に環境問題の会議が開かれて、基準決めが行われるのと、
同じ線上の問題なのに、誰もがダブルスタンダードを使い分ける
資本主義の苦しさを表していますね。
114 :
考える名無しさん:2007/12/10(月) 11:42:02 0
115 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/10(月) 15:00:13 O
どう考えても温暖化をとめられる気がしないんだが
116 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/11(火) 11:00:42 O
考えないということは思考からの逃避ではない。沸き上がる不安を解消するために思考するという行為は人間の根源にあるが
そこから逃避し、気をそらすみなかったことにする。
このように逃避しても不安はかならず回帰し、エンドレスなシニカルな思考を生み出しさらに逃避するために過激な行為にむかうしかないだろう。
117 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/11(火) 11:08:49 O
考えないとは逃避ではなく、自らに向き合わなければならない。向き合うことで吹き出す不安、それに対する思考(いいわけ)を受けとめなければならない。
それでもなお考えないのである。
118 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/11(火) 11:11:18 O
世界はザッピング化し、いつもなにかに急き立てられている。
119 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/12(水) 23:25:56 0
■なぜ「働きマン」は気持ち悪いのか
プロフェッショナルという倫理
ドラマ「SP」がおもしろいですね。映画「ダイハード」につながるおもしろさがありま
す。主人公が鮮やかに悪人を退治するわけですが、ヒーローとはちょっと違うわけ
です。彼らの特長は、プロであるということです。ダイハードでは、奥さんに頭の上が
らない刑事。SPでは事件を解決することを期待されていないSPです。
彼らはあくまで人々を守る仕事として、悪を退治する。ここにあるのは善悪という倫
理観、この世界を悪を憎み、善を信じるというヒーローではなく、人々の役に立つと
いうプロフェッショナルとしての倫理です。ここでは善悪そのものはかっこに入ってい
ます。仕事としての役割として、自らにできる範囲で社会的に貢献すること。大きな
成果を求めるよりも、自らに与えられた役割にプライドをもって果たすこということ。
これは他には「踊る大走査線」にもつながる価値です。
倫理とは本来、善悪に関するものですが、価値多様の社会の中で、胡散臭いもの
になっています。そこに浮上している倫理がプロフェッショナルの倫理です。
120 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/12(水) 23:26:28 0
「働きマン」の自分探しの正当性(倫理)
プロフェッショナルと言う意味では、もう一つドラマ「働きマン」の気持ち悪さはなん
だろうか。主人公の猛烈雑誌記者が、仮に男性だったら、ドラマとして成立していたの
だろうかと思う。男が猛烈に仕事をすることをあまりに当たり前すぎるし、一昔前に
サラリーマン像である。それが女性であることろが、おもしろさであるのだろう。女性
も男性のように仕事に生き甲斐を見いだす時代、しかしそれは男性以上に大変で
あるという応援歌のようなドラマである。
ここでは仕事に対するプロ根性はあるのだけれども、主人公の生き甲斐と近接しす
ぎて、先にSPのようなクールさがなく、とても泥臭い、説教臭いものになっている。
それが女性であることで緩和されていると言う感じだろうか。
プロフェッショナルという倫理は、クールなものである。そこにはお金が媒介されてい
る。良いことをする。しかしそれはお金を稼ぐという自らの仕事だからだ。それはたと
えばブラックジャックのように単にお金に見合ったものしかしないということではない
が、ベースに貨幣交換をおくことで、過剰な善悪という倫理への没入を回避し、距離
を置いている。
働きマンの女主人公が恋愛関係を平行して語られるに対して、踊る走査線の青島
や、SPの主人公が恋愛しないのも、ダイハードの主人公が妻という社会的な関係
を語るのも、密接な人間関係をかくし、プロフェッショナルを強調するためだろう。
121 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/13(木) 09:54:15 0
なぜ理系ばなれが起こるのか
シラン
123 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/15(土) 23:04:38 0
>>
VOCALOID2
http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/ VOCALOIDとは
「録音された人間の声を元に、極めてリアルに音声合成された歌声」…、フォルテシ
モやクレッシェンド、ビブラートまでも的確に表現し、歌詞に合わせて歌い方や声質
も変化させながら歌う世界最先端のボーカル音源が、このVOCALOID 2(ボーカロ
イド)です。まるで実際に歌手をプロデュースしているような感覚で歌を歌わせるこ
のVOCALOID 2は、全く新しい可能性を持ったバーチャル・ボーカリストと呼べるで
しょう。
VOCALOIDのリアリティの秘密は、長年にわたってYAMAHA株式会社にて研究開
発されてきた“Frequency-domain Singing Articulation Splicing and Shaping”(周波
数ドメイン歌唱アーティキュレーション接続法)の最先端技術が採用されています。
VOCALOID2の操作方法はとても簡単です
音符(メロディ)と歌詞を入力する方法は、とても簡単です。一般的なピアノロールに
てメロディーを打ち込み、歌詞を日本語で入力するだけ。発音時の強弱を変化させ
たい場合や、ビブラートを付けたいときも、音符をダブルクリックするだけで簡単にエ
ディット出来ます。
もちろん、ダイナミクス、声質などは細部まで徹底的にエディットすることが可能です
ので、操作に慣れれば慣れるほど、より人間らしく歌わせる事が可能です。
<<
124 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/15(土) 23:05:10 0
「VOCALOID2初音ミク」は、PCにメロディーと歌詞を日本語を入力すれば、まるで
アイドルのように、歌わせることができるということです。
歌詞を書くことは、一度は誰もが行う。あるいはそれをギター、ピアノなのでメロディ
をつけることもあるだろう。さらにPCの発達によって、一人で打ち込みで多様な音楽
を作ることができるようになっただけでなく、それが現在安価に容易にできるようになった。
このような音楽を作ることが可能性は広がったにも関わらず、ネットで公開される音
楽は思いの外すくないのはなぜだろうか。
125 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/16(日) 00:19:17 0
今回はこのドラマのおもしろさの出過ぎたね。「踊る」でもそうだけど、仕事をするということは
組織という不条理に立ち向かうこと。このドラマのおもしろさは、ヒーローではなくて、
あくまで仕事としてしているというクールさなわけ。
「働きマン」と比べると、働きマンは仕事を懸命にしているようで、試練を乗り越えることで、
自分探しにつながってる。ようは試練も自分のためでしかない。働きマンのつまらなさは、
働きマンに変身すれば解決されるという青春ドラマで薄っぺらで、一昔前のノリ。
仕事のほんとの試練は、今回の「SP」のように全体組織の一部でしかないということ。
その中でいかに能力を発揮するかが仕事のリアリティ。 だから今回のオチにしびれないのは、
本当の仕事(社会)を知らないおこちゃまだろう。
このような不条理では、汗水ながる努力ではなく、もはや能力は神懸かり的でしかない。
だから「SP」はスーパーな能力でクールにこなすところがかっこいい。このような傾向の
特徴が宮崎アニメの爽快感。そこには努力はなく、最初からの超人的な能力がある。
しかし努力する姿に共感することやリアリティを感じられないのは、とてもつらい。
これは現代社会の外症的な病理を表している。
126 :
考える名無しさん:2007/12/16(日) 01:05:12 0
名前: E-mail:
全部読む 最新50 1-100 板のトップ リロード
127 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/16(日) 02:33:15 0
打ち込みによって作られたインストゥルメンタルはゲーム音楽などのように
アップされることがあるが、一般受けするものではない。
音楽チャートをみてもわかるように、基本はそこに人のヴォーカルが入ることが
重要である。
ヴォーカルという主となる声がないインストゥルメンタルは捉えにくい。
さらにはヴォーカルには詩という言葉が乗ることで、より捉えやすい。
では、インストゥルメンタルに自らの歌声を入れるか。
これは難しい面がある。打ち込み可能であっても声はうまさ、表現力が
求められる。ここが大きなハードルとしてある。
これは素人だけの問題ではない。たとえば小室哲哉は打ち込みによって
曲を作りつつ、それは女性歌手に歌わせる。聞いた話では、
小室哲哉は表現豊かなヴォーカリストよりも、高音で機械的な歌手を
選んだという。極端にいえば、ヴォーカルも一つの機械として扱う。
このような形態は、小室哲哉だけではなく、打ち込み音楽が全盛に
なる中で一つの流れになってる。曲作りを手がける男性と
かわいくて女性ヴォーカリスト。エヴリリトルシングから、最近なら
ミヒマルGTなど、多くにおいてこのような形態をとっている。
このように考えると、初音ミクの一つの位置が見えてこないだろうか。
素人はこのような女性ヴォーカリストを手に入れることができない。
そこに初音ミクが現れたのである。
よく考えたら、いままでなぜこのようなヴォイス楽器が存在しなかったのか。
いやVOCALOID2というように、このような技術は検討され、
今回、ある程度聞くに耐えるなめらかさを手に入れたということだろう。
128 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/16(日) 02:41:41 0
しかし初音ミクの流行は、このような音楽的な流れよりも、むしろオタク系から
はやった。あるいはニコニコのように動画系から流行ったことは特徴的である。
まだ音楽づくりがまじめに、取り組むことには抵抗があるのだろう。
より柔軟にネタとして取り込めるニコニコのような場で受け入れられたということだろう。
しかし先に見たように、小室哲哉が女性ヴォーカリストを選ぶように、
素人が女性ヴォーカリストを作り出せると考えたときに、
その可能性は広がるのではないだろうか。
129 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/12/16(日) 02:52:53 0
声だけではわかりにくところに、オタク的なわかりやすいヴィジュアルが付加され
よりわかりやすく、したしみやすいものになっている。
近く、誰かの初音ミクがメジャーでCD化され、ヒットするだろう。
ケータイ小説が売れたように。
130 :
考える名無しさん:2007/12/16(日) 03:03:58 0
13 名前:考える名無しさん :2007/12/15(土) 21:11:45 0
131 :
考える名無しさん:2007/12/16(日) 21:42:24 O
なるほど…
『勝ち』組にたいしてのアトヅケ解説の域をでてないね
132 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/25(火) 15:17:52 O
少し混んだ道で車を運転していると、自分だけがもたもたしているように感じるときがある。
他の車は斜線変更がうまく、すいすいと先に行っている。
こういうのは一人淋しく運転して場合が多い。話相手がいたりするとそこまでまわりがきにならない。
現代は多くおいてだれもが一人の運転のようにまわりに疎外感を感じているのではないだろうか。
まわりが楽しそうにしている。あるいは楽しい集まりにいても自分だけ溶け込んでいない、あるいはムリに溶け込もうとしている。
133 :
考える名無しさん:2007/12/25(火) 15:20:13 O
今年の流行語のひとつにKYがあった。空気を読めないというギャル?語からきているらしい。
あるいはブログを書いていると、空気を読むという記事は受けやすいように感じていた。
134 :
考える名無しさん:2007/12/25(火) 15:24:49 O
宮台が空気について、またブログを書いている。社会の流動性がかあがり、
共通基盤を失い、その場その場の空気読みを求められる社会ということだろう。
みなが日常の中で疎外感を感じ、空気というものに神経質になる。
キレるのも疑心暗鬼的に不安がたまっているのが、小さなきっかけで爆発する。
まわりからはまったくきっかけがわからない。
135 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/25(火) 15:30:06 O
みながどこか疑心暗鬼で、カリカリして、過剰に反応してしまう社会。
最近の亀田、朝、沢尻などへのバッシングもこのような社会状況と関係なくはなあだろう。
136 :
考える名無しさん:2007/12/25(火) 17:49:34 0
毎朝、みのもんたの正義漢ぶったコメントと顔をみるとうんざりする。
聖人君子でもないのに、「庶民の代弁者」みたいなツラすんなってね。
その点、小倉智昭はいいやね。
137 :
考える名無しさん:2007/12/28(金) 23:20:20 O
まあ読んではいるね
パクらなきゃ書けないからね w
138 :
考える名無しさん:2007/12/29(土) 01:37:39 0
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
なんのために働くの? [無職・だめ]
>少し混んだ道で車を運転していると、自分だけがもたもたしているように感じるときがある。
ぴかぁ〜は免許を持っていたのですか?
ところで、私が批判する環とは斉藤環ではなく、ラッパーの環です。
彼のラップはとにかく駄目ですね。
ぴかぁ〜のブログと同じく偽者臭がプンプンします。
ぴかぁ〜のブログも無駄に知識を集めて、インテリジェンスというものが
まるで感じられない、言い換えれば、単に知識を集めてごった混ぜにした
という印象です。これは言ってみれば、元々下層社会に生きるとある
姑息な者がある日高尚な貴族を見かけて、とにかく溢れる金によって
貴族趣味を真似するといった行動に似ていますが、貴族の行動をどれほど
真似たとしても、精神的なインテリジェンスとは知識を集めてごった混ぜに
するのではなく、それをさばく力な訳ですから、そこらへんを彼らは勘違い
していると言えますね。
141 :
考える名無しさん:2007/12/31(月) 20:47:56 0
純吉、純吉、来年もいい年にしようね。
今年も偽者潰しで始まりそうですよ。
さて、ぴかぁ〜の思考方法というのは、
料理で言えば、世界で美味しい料理百選を読んだぴかぁ〜が
「よし、わしが世界最高の料理をつくって儲けてやろう」
と、そのカタログに載っている料理を一つの鍋に全てごった煮にして
鍋にしてしまうという方法に似ていますね。
こんな方法はインテリジェンスがあるとはお世辞にも言えない。
つまり、根本的な料理方法はそこらへんの誰でも出来る「鍋」という
料理方法な訳です。私が指摘しているのは、ぴかぁ〜の思考方法というのは
世界最高の料理を作ったと自画自賛していても、結局のところそれは
世界の美味しい料理を全て鍋に強制的にぶち込んで、日本的な、
言ってみれば、世俗的な「鍋」という至極単純且つ言ってみれば粗雑な
方法しか持っていないという事なのです。
そして、出来た料理をぴかぁ〜は
「新しい創作料理や!」と強調する訳ですが、
それはどう見ても「残飯」な訳です。
しかも、料理方法は他人が作った美味しい料理を全て
同一の鍋にぶち込むという粗雑な方法により作られている訳ですからね。
私が思うに、ぴかぁ〜の方法というのは何ら新しいものではなく、
とにかく「鍋」という日本的な方法な訳です。
ぴかぁ〜の思考方法も同じで、根本的には古来より日本人が繰り返してきた
大衆的思考だと言えます。
144 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/02(水) 20:32:18 O
例外状態を生きるとはジャックバウワーのようなことだろう。
145 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/07(月) 12:54:22 O
典型的なネオリベラル言説である。社会の流動性があがり、お金という価値が浮上する。
ここで解体されるのは助け合い、情、憎悪などの想像的な贈与性である。
これに対してお金という数字による価値はわかりやすく、高速で伝達されるからだ。
しかし問題は贈与性は決してなくならないということだろう。
完全な貨幣価値の平等は存在しない。たとえばマルクスが指摘したように、なぜ貨幣を望むのか。
その根底には物神性というあいまいな欲望が作用している。金持ちはなにに使うかではなく、さらに金持ちになろうとする。
自由競争は命懸けの飛躍であり、リスクを考えると恐ろしいものであり、なんらかのなんらかの担保を求めるのは当たり前のことである。
だから市場経済の境界で自らが優位になるように、贈与性が渦巻く金持ちのコミュニテイをつくる。
だから本当の平等とはなにかを考える必要がある。
146 :
考える名無しさん:2008/01/07(月) 15:59:28 O
(笑)
金銭問題にぶち当たると、座骨神経痛になるらしい。
俺にはこれがどうもよくわからない。
仮にそうだとしよう。では何故に金銭という具体的な問題が、
座骨神経という特定された局部を刺激するのか。
金銭とは、人間が無意識に感じ取れるようなユニークな概念なのだろうか。
そもそも金銭は概念なのか、生体にすら反応する未発見の物体なのか。
148 :
考える名無しさん:2008/01/07(月) 18:27:03 O
その後それが頚椎に及びやがて首が回らなくなる。
149 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/17(木) 10:18:16 O
なぜひとはモンスターを狩るのか
150 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/17(木) 10:31:07 0
仕事の倫理とはなにか。
仕事とはただ賃金を稼ぐために行うものではない。
仕事は社会貢献することに意義がある。
だから社会貢献をしないものは仕事ではない。
では社会に貢献する、貢献しないという倫理的な善悪は
どこにあるのか。これは議論すべきものである。
一方では社会に貢献し、他方では害になると考えられるようなことは
たぶんにあるだろう。
しかし私的なものではなく、公的なものへアクセスしようとことに
仕事の意味がある。
モンスターハンターというのは、仕事である。
私的に(趣味的に)モンスターを狩って楽しむのではなく、
モンスターを狩ることで社会貢献し、対価をもらうのである。
人間/モンスター=善悪という対立があるわけでない。
モンスターは人間を滅ぼし、地球をのっとろうと言う壮大な目的を
持っているわけではない。彼らはただ自ら生きようとしているだけである。
だから彼らそのものは悪ではなく、人間の社会において、障害になるものだから
駆除される。
151 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/17(木) 10:50:34 0
現代は価値多様な時代と言われている。ひとぞれぞれに価値観をもち
一元的に価値を押し付けることがむずかしい。
そのような社会の中で、仕事の倫理はまだ多くにおいて共有されている
部分である。様々な価値観の中で、「仕事だから」というは、社会の中で価値をもつ。
むしろこれ以外に、現在において公共性を保つ価値観がほかにあるだろうか。
みなそれぞれ個別に私的な領域にいきつつ、「仕事」において
社会の共有性は保たれている。
なにが正しい、正しくないという善悪の議論は発散してしまう。
そして「仕事だから」という領域で「正義」は保たれる。
この社会全体の反映を重視する姿勢にリベラリズムの本質があるので
はないだろうか。
古典リベラリズム、現代ならネオリベラルの経済自由主義は、
全体として社会を豊かにすることを目指す。
これは功利主義だけでなく、さらに富の分配において
保守的になっても本質かかわらない。
現代において、慣習的な価値の共有が解体されていく中で
「仕事」の重要性による、リベラルは増しているのである。
152 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/17(木) 11:39:14 O
すなわち社会貢献とは仕事を介して行われる。
政治的なものとは経済的なものに近接する。
これはニートやフリーターなどの脱社会傾向と矛盾しない。彼らが社会的なものをさけ私的な領域に逃避するとしても
残される社会的な領域においては、慣習的でなく経済的、すなわち仕事によるを望む。
私的な領域をすきにさせてくれ、最低限の仕事はするから
153 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/17(木) 12:06:36 O
脱社会化は経済成長を前提とした豊かな社会でしか可能ではない。
仕事による社会貢献を否定できないだろう。
154 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/17(木) 12:13:53 O
モンスターハンターが仕事であることは大切である。
飛び散る血飛沫と残忍性にたいして、モンスターは動物なのである。
彼らは地球征服や人間滅亡の野心があるわけではない。
ただ社会の発展の邪魔になっている。かれは善悪の彼岸にいる。どんなに残忍であろうが仕事でしかない。
このわかりやすさはごまかしではなく、真に仕事のもつ一面であり、快楽である。
生きるために狩るという自然の摂理にさえ近接する。
155 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/17(木) 12:43:16 O
ゲームにおいて動物を狩ることは退屈になりやすい。単純な反応は飽きてしまう。退屈を妨げるには知能が求めらる。学習するモンスター
156 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/17(木) 13:23:27 0
■なぜひとはモンスターを狩るのか
リベラリズムとプロフェッショナル
仕事とはただ賃金を稼ぐために行うものではない。仕事は社会貢献することに意義
がある。だから社会貢献をしないものは仕事ではない。
現代は価値多様な時代と言われている。ひとぞれぞれに価値観をもち一元的に価
値を押し付けることがむずかしい。そのような社会の中で、仕事の倫理はまだ多くに
おいて共有されている部分である。様々な価値観の中で、「仕事だから」というプロ
フェショナルの倫理は、社会の中で高い価値をもつ。むしろこれ以外に、現在におい
て公共性を保つ価値観あるだろうか。
157 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/17(木) 13:24:26 0
みなそれぞれ個別に私的な領域にいきつつ、「仕事」において社会の共有性は保た
れている。なにが正しい、正しくないという善悪の議論は発散してしまう。そして「仕
事だから」という領域で「正義」は保たれる。この社会全体の反映を重視する姿勢に
リベラリズムの本質があるのではないだろうか。
現代において、慣習的な価値の共有が解体されていく中で「仕事」の重要性によ
る、リベラルは増しているのである。そして政治的なものとは経済的なものに近接する。
これはニートやフリーターなどの脱社会傾向とも矛盾しない。脱社会化は経済成長
を前提とした豊かな社会でしか可能ではない。仕事による社会貢献を否定できない
だろう。私的な領域をすきにするためにこそ、仕事という倫理は重要なのである。
158 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/17(木) 13:26:12 0
モンスターハンターという仕事
モンスターハンターというのは、仕事である。私的に(趣味的に)モンスターを狩って
楽しむのではなく、モンスターを狩ることで社会貢献し、対価をもらうのである。
このようにモンスターハンターが仕事であることは大切である。飛び散る血飛沫と残
忍性にたいして、モンスターは動物なのである。モンスターは人間を滅ぼし、地球を
のっとろうと言う壮大な目的を持っているわけではない。彼らはただ自ら生きようとし
ているだけである。だから彼らそのものは悪ではなく、そして人間社会の発展の邪
魔ということでハンターという仕事によって駆除される。
彼らは善悪の彼岸にいる。どんなに残忍であろうが仕事でしかない。このわかりや
すさはごまかしではなく、真に仕事のもつ一面である。そしてそこには生きるために
狩るという自然の摂理に近接する快楽がある。
159 :
考える名無しさん:2008/01/17(木) 19:34:41 O
ダイジョブか?
ぴかぁ〜はゲームにのめり込んでいるのか。俺の弟みたいだな。
ちなみに俺はそんな俺の弟は絶対に鬱だからそんな生活してるんだと考えてるが、
ゲームやってる当人のぴかぁ〜の思うところはどうよ?
161 :
考える名無しさん:2008/01/19(土) 08:29:00 0
連投規制うぜえな。
とりあえず俺以外はあれだったということか。
162 :
考える名無しさん:2008/01/19(土) 14:23:24 O
まあそんなところだろう。
「進歩史観」という用語に根本的に違和感を感じるんだよ。
>ヘーゲルは、ある新しいものが、何の中間物もなく、一挙に、正統的に
>姿を見せるような場合でも、実はずっと前から形成されていて、
>今やその殻を脱ぎ捨てたに過ぎないのだと教えてくれている。
ヘーゲルの言わんとしているのは、そういう新しいものが「新しいもの」に見えるのは、
それ以前の中間段階を見損なっているからだ、ということ。
で、ヘーゲルの場合、細かく言えば事情は複雑になるけど、
歴史の現段階を肯定する姿勢を持っているから、最終的には、
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という
有名な言葉になる。今現にあるものは、突然現れたわけじゃなくて、
合理的な段階を踏んで現れたもので、現時点から振り返って見れば、
その合理的な中間段階は認識できるだろ?という話。
これに対してアドルノは、歴史の現時点に立って、現在に至る中間段階を
現在に至るために必要な段階として全面肯定するわけじゃない。
(俺の理解じゃ、結果的にそういう全面肯定になってしまうのが進歩史観)
現在の時点では、「こんなものは極端すぎる」といって排斥されるような、
「実験的」なものにこそ「真理が宿る」、つまり未来への萌芽があり、
そういう極端なものが最終的には伝統を形成することになる、という話。
164 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/23(水) 16:57:32 O
丸山をしばきたい。戦争による格差の転覆
そういう意見もあるでしょう。
戦争という非日常は例外状態をうみ、世界に新陳代謝を生む。
現に戦争のない時代はない。
しかし日本に戦争か起こる可能性は低い。一時期、マクドナルドがあるくには戦争が起こらないという話があった。
すなわち戦争もまた経済行為ときりはなせない。戦争をすること、しないことの経済効果
165 :
考える名無しさん:2008/01/23(水) 20:59:35 O
なんだよこれ
ちゃんと書けよ
166 :
考える名無しさん:2008/01/23(水) 23:17:31 0
ヘーゲル「こうなるにはそれなりの事情があった」というだけ。
丸山 「武士の気骨を持った悲運の知識人」のように見えるスター知識人
168 :
考える名無しさん:2008/01/25(金) 08:47:00 O
妻と私は学生時代からの付き合い。
学生当時、妻はアメリカに1年間の語学留学に出た。ホームステイ先には2歳年上
の男性が居ると聞いて、ヤキモチ焼の俺は年頃の男性が居る家へのホームステイに
は反対していた。
つい先日、そのホームステイ先の息子のトニー(仮名)が日本旅行の途中我が家に
立ち寄った。トニーは私の妻の2歳上。彼はちょっと遊んでる感じで今も独身だ。
トニーは驚くほど日本語が達者で、難しい言い回しも使いこなすほどだった。
夕食を3人で共にし、酒も入り、当時の話に。
よせばいいのに、俺は「なんか間違いとかあったんじゃないの?」と聞いてしまっ
た。
オロオロする妻をよそ目にトニーは
「貴方はなんと言う失礼なことを聞くんだ。貴方の奥様は素敵な女性だ、貴方のこ
とを信じている!それに引き換えその質問はなんだ!」と激昂した。
申し訳ない。失礼した、と謝ると、彼も落ち着きを取り戻しこう言った。
トニー「貴方の奥様は本当に素晴らしい女性だ。私が出逢った女性のなかでもトッ
プレベルだ。」
トニー「5本の指が入ります。」
ポカーンとする私と大慌ての嫁。
トニー「失礼失礼(汗)。五本の指も入ります」
169 :
考える名無しさん:2008/01/25(金) 09:07:33 O
西洋人の理論ってカントとか共産主義とかみんな神の頭を取ったような哲学になる。
彼らは嘘つきではなく観念的だけどある意味でインディアンはただしい。
170 :
考える名無しさん:2008/01/25(金) 15:00:19 O
一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で
国が指定して国民全員、職場も学校も家庭も入れ替えたらたらいい。
すべての人が毎日違う場所で違う人と出会い、毎日毎日を
リセットすることで、結託しての不正や腐敗が起こることを防げる。
継続的な集団の中で起こる差別やいじめも無くなる。
すべての人が平等にただの人となる。
我々の社会の継続的な関係なら破綻を恐れて萎縮してしまいがちでも
明日も別の場所で全員知らないもの同士の人がいる場にいくと
思えば大胆に積極的に行動できる。
子供も毎日違うお父さんお母さんに育てられ
昨日は飲んだくれのドカタのオヤジでも
今日は読書家の学者のお父さんの話を聞く。
夫婦も毎日違う人と暮らす。
無差別殺人や親殺し子殺し、引きこもりや、差別やいじめ
これらの問題はすべて、継続的な関係の中で発生するレッテル張り
軽視・蔑視、コンプレックス、同じ日々の繰り返しが奪う希望
嫌いなのに切り捨てられない関係性、これらがもたらす閉塞感が原因だ。
生活を保証した上で、すべての人の日常、顔を合わせる人を
流動的にすれば閉塞感は一掃され、今日がダメでも、明日に期待が持てるようになる。
171 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/25(金) 16:04:31 O
そんな流動性に人耐えられないだろうな。違う場所にうつされたとたんに死んじゃうジュゴンみたく死んじゃうよ。
172 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/25(金) 16:15:56 O
現代において人が日常に閉塞するのは日常が継続的な関係だかではなく、すでに流動性が高いからだ。
継続的な関係であるからこそ閉塞する部分もあるだろう。
大学1年のときの飲み会でハメを外して顰蹙をかった弱い個人は、
大学生共同体における継続的関係が少なくとも4年間は続けなければならないと感じて、絶望に浸るだろう。
>>171 違います。
固定化された人間関係に固執しなければ
生活の不安が大きすぎるからそうしているだけです。
流動性が怖いというのは、固定された組織に自分が流れこむのが
怖いのです。または自分だけが流れ出てしまうのが怖いのです。
何故ならそこには人間関係が出来上がっていて、自分が
よそ者の立場になるからです。
生活が保証されてさえいれば、どの集団も毎日中身がすべて入れ替わり
自分の職場も住居も毎日変わるなら閉塞感を感じることなく自由に
縛られることなく希望を持って生きることができます。
継続的な関係だと言いにくい美しい言葉も平気で語り合うことも出来るようになります。
生活が保証されさえすれば、毎日が人も仕事も物も住居も
流動的であれば、閉塞感は無くなります。
昨日の恥も失敗も人に作った借りも、今日に引きずらなくて済むのですから
何を言っても『あんなことを言っていたくせに』
『こんなことをしていたくせに』
『こんなこともできないくせに』
と思われる心配も無く、大胆に行動できるようになります。
毎日関係がリセットされるから、誰もが個人としての力しかもたず平等でもあります。
175 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/25(金) 21:06:27 0
人は多くにおいて反復され、すなわち予測可能な世界を生きている。
明日の今頃、1ヶ月後の今頃、なにをしているか、だいたいわかる。
これは日常の安心を支えている。ボクはよく、ケータイを見ながら
歩いているが、歩いたことがない道ではそんなことはできない。
無意識のうちに日常の様々な情報がインプットされている。
しかし毎日生活がわかるような予測不可能性が高い生活を送ると
すればそれはとても緊張を強いられるものになるだろう。
そしてもっとも予測不可能で緊張を強いられる存在が「他者」である。
現代は社会の流動性が上がっているために、とても不安なものに
なっている。街を歩いていた見ず知らずの人が話しかけてきたら
どうだろうか。それもすこし得体の知れない人が。
おそらく昔は社会に漠然として安心があり、お互いに助け合うような
慣習があっただろうが、いまはそう簡単に気を許すことは危険に
なっている。
「一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で、
国が指定して国民全員、職場も学校も家庭も入れ替える」という
発想には、すでに国家による社会の高い安全性が前提にされている。
国が管理するのだから、新たに出会う他者は信用にたる、
あるいは標準化された親切な他者という、あまりにも社会を知らない
幼稚な期待がある。
社会を嘗めるな。怖がらずにもっと様々な他者と交わり、傷つき
強くなれ。
176 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/25(金) 21:15:32 0
毎日入れ代わる他者の中に、悪意の他者がいないとなぜ言えるだろう。
さらには明日にはもう合うことがない。犯罪とまではいかなくても、
その日だけの関係だから、悪意あることをすることができる。
仮にある日、悪意をうけ傷ついた人は、次の日違う人と合う場合にも、
緊張を強いられるだろう。一見、いい人そうでも腹の中でなにを考えているか
わからない。他者とはそのような存在である。
この予測不可能性の緊張感を人は生きられるだろうか。
177 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/25(金) 21:56:57 0
再度言えば、問題は社会に流動性がないことが問題ではなく、
すでに流動性があること。
むしろもっと流動性が低い社会を考えてみたらどうだろうか。
一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で、
国が指定して国民全員、職場も学校も家庭も、入れ替わらない、
閉ざされた小さな村社会。
みなが小さい頃から顔お知り、恥ずかしいことも知り合うような
強い絆の社会。この場合、TVなどの情報も閉ざした方が
良いかもしれない。牧歌って、ロマン主義的だろうか・・・
178 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/25(金) 23:36:52 O
そこまで安定すると人は不安定を求めるから、村に縛られることを閉塞に感じるかな
179 :
考える名無しさん:2008/01/25(金) 23:47:15 0
/. ノ、i.|i 、、 ヽ
i | ミ.\ヾヽ、___ヾヽヾ |
| i 、ヽ_ヽ、_i , / `__,;―'彡-i |
i ,'i/ `,ニ=ミ`-、ヾ三''―-―' / .|
iイ | |' ;'(( ,;/ '~ ゛  ̄`;)" c ミ i.
.i i.| ' ,|| i| ._ _-i ||:i | r-、 ヽ、 / / / | _|_ ― // ̄7l l _|_
丿 `| (( _゛_i__`' (( ; ノ// i |ヽi. _/| _/| / | | ― / \/ | ―――
/ i || i` - -、` i ノノ 'i /ヽ | ヽ | | / | 丿 _/ / 丿
'ノ .. i )) '--、_`7 (( , 'i ノノ ヽ
ノ Y `-- " )) ノ ""i ヽ
ノヽ、 ノノ _/ i \
/ヽ ヽヽ、___,;//--'";;" ,/ヽ、 ヾヽ
180 :
考える名無しさん:2008/01/26(土) 00:34:05 O
おまえは一ヶ月後も一年後も変わらずPCの前だろW
>>175-178 おまえこそ怖がらずにもっと様々な他者と交わり、傷つき強くなれ。
お前は論理矛盾してるぞ。
恐がっているのはお前じゃないか。
お前は恐いから安心を得たいんだ。
安心を得ようとして閉塞感で身動きが取れないタイプだ。
俺が求めているのは刺激だよ。
パッション、エクスタシー、エロティシズムを求めている。
関係も環境も継続的でないなら毎日が刺激に満ち閉塞感は無くなる。
生活が保証されていて
社会も個人も流動化されているなら
閉塞感は一掃され、今日が悪い日でも
明日に希望が持てる。
皆関係が毎日リセットされるから
誰もが平等にただの人だ。
俺にとって周りの人間が得体の知れないものであるのと同様に
周りの人間にとっても俺が得体の知れないものとなる
平等になる。
流動性が怖いというのは、周りが連携して生きているなかで
自分が連携を持っていないことが怖いんだ。
また、今の社会では生活が不安定になるから怖いんだ。
生活が保証された上で、すべての人が毎日違う場所で
毎日違う人と顔を合わせるなら
流動性は怖くない。
平等な立場で誰も結託して攻撃することもできない。
誰もが目の前の人物がいかほどのものかわからない。
分かるだけの間も無い。臆さなくて良い。
183 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 12:13:14 0
だいたい、一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証できるわけが
ないだろう。なにが平等だよ。なにヘタレなこといってるんだよ。
おまえ、親に依存しているただの引きこもりじゃないのか。
この世界は生きるか死ぬかの闘争の世界なんだよ。
あした大地震が起こって、暴動が起こらない保証はない。
現にアメリカでさえ、大災害のときはそのような状態が起こっている。
だからこそ人が高い流動性に恐怖し、安心を望むことは当たり前のこと。
野生動物みたいに、少しの物音を警戒して生きたくはないだろう。
なにがパッション、エクスタシー、エロティシズムだよ。
そんなにオマエが毎日が退屈で、刺激がほしいなら、その何年の籠もった部屋からでて
一人旅しろ。社会システムなんか関係がない。
憲法改正してイランあたりを植民地にして
天然資源を輸出すれば国家が国民の生活を保証することはできる。
トルクメニスタンは天然資源で財源賄って、国民の基本的な生活費はただ。
>>183 おまえがひきこもり臭いよ。
何か気にさわったか?
180は別人だよ。
大地震や暴動で政府がぶっ壊れたらそれはそれで面白そうだな。
新政権樹立してほしい。
187 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 12:51:06 0
オマエのいまの日常がつらいことだけはわかる。
だけど戦争も、革命も、国がオマエの生活を保障することも
なさそうだぞ。
とにかくその部屋からでような。
んーこの妄想は単に自分の願望を纏める作業だからなぁ。
(ま、これを若者が読んで、バタフライ効果で未来に
何がしかの影響があったら面白いとは思う。
まあ宝くじに当たらないかなあ程度のものだけど)
つか部屋に籠もってないし。
世界同時株安から世界大恐慌になって資本主義が崩壊したら、新しい時代は来るんだが。
学校に入学してすぐのあのギコチナイ雰囲気がいい。
悪童どもがつるんでいじめをすることもない。
入学直後の教室は平和だ。
ひとところに留めるから結託して不正や腐敗が生まれる。
毎日毎日関係をリセットして
すべての人が毎日、知らない人とばかり会うなら
共同で悪事を行うことはできない。
子供もそんな環境で育てば手垢に染まらず
真人間に育つ。
191 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/26(土) 17:05:32 O
またか、わからんことはないけど
人と深く付き合いのは重いよね。軽く付き合いたい。
現代の他社回避傾向
みしったおばちゃんの店より、ファーストフード、コンビニなど、誰であるかに関係なく対応してくれる場をのぞむ
192 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/26(土) 17:10:59 O
好きなようにやるために高い流動性を望みつつ、国には経済的に保護を求める
現代的なヘタレリベラル
企業全部国有化して利益をそのまま国民に還元すればいい。
誘導的なら結託して不正を行うことはできない。
ましてや流動する社会で育った子供は
腐敗を知らない。差別や悪い感情も
他人と共有しなければ、開き直ることもない。
まっさらに育ち良く生きる。
× 誘導的
○ 流動的
195 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 21:08:38 0
>>193 とりあえず、最後な。
そのような高度な流動化システムを保つための
安定した国家管理機構が必要になる。
これは権力の集中化で、腐敗に繋がることは明らか。
いじめなどの社会の集団内の疎外をなくすことを
第一に社会システムを考えるのは、優先順位が違いすぎる。
キミは、安定した生活、経済発展、自由で平等な活動などが
あまりに容易に前提とされている。
社会を嘗めるな。怖がらずにもっと様々な他者と交わり、傷つき
強くなれ。
>>191 まあね。軽いつきあいというより
店員は店員の仕事をしていればいいという感じ。
その一方で即物的に濃密な関係がほしい。
私は、だからああいう社会を望む。
毎日家族も変わる、一年で365回も変わる
10年で3600以上変わる。
だからたまにはお互いにとても夢中になれる相手にも出会える。
素晴らしい親との素晴らしい思い出
素晴らしい妻(または夫)との愛の言葉を尽くした官能の体験
せっかくお互いに気に入っても、明日には
どこにいってしまうかもしらず
だからこそ短い時間を濃密に官能的に
言葉をつくして愛を表現しあう。
あしたにはいなくなる人だから
気兼ねなく思い切り愛情表現ができる。
私は愛している人には、目を見つめて
頬に触れて愛していると言いたいし、言ってほしい。
抱きしめて、大好きと囁いて頬をこすりあわせたい。
情熱を燃焼し尽くしたい。官能を味わい尽くしたい。
恍惚に浸りたい。
そういうエロティシズムがほしい。
継続的な関係はエロスを奪う。
流動的ならいくらでもエロスを発揮できる。
197 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 21:17:06 0
>>195 政府も毎日配置換えをする。
情報はデータベース化して毎日追加する。
毎日引き継ぎをする。
199 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 21:21:14 0
性関係の濃厚さという意味でも、1度だけというのは
めんどくさいな。さぐり合いで終わるよ。
風俗でも、セフレのようなものでも、濃厚さに達するには、
数ヶ月の関係はほしいところだな。
動物学的にもそうではないかな。
200 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 21:27:31 0
>>198 これはちょっといい。
高度なシステムになるほど、それを管理するための
権力の集中が必要になる。
共産主義にしろ、全体主義にしろ、
理想論に対して、権力の集中が腐敗に繋がった。
自由主義というのは、この管理を人ではなく、
神の手にゆだねることで、これを回避する。
しかし格差社会などのようなコントロール不可能な自体に
陥る心配がある。
情報化社会では、人でも、そして神の手でもなく、
機械に任せられないか、という発想がある。
最近、東が「公共性の工学化」とか、呼んでいるのもその一種。
201 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 21:36:11 0
しかし国家の大きな役割は、非常事態にいかに対処するか
ということだから。法の外、国家の外での新たな判断すること
こそ。工学化には限界がある。
>>197 違う。日本の日常の閉塞感を一掃してしまいたいんだ。
馴れ合いの気安さと無礼を一掃してしまいたいんだ。
すべてが入れ替わり今日を明日に引きずらない
社会を望んでいるんだ。
温泉のかけ流しみたいに
今日言った言葉も、今日の失敗も恥も
出会った人も、家族も、職場も、住居も
毎日全部流してしまって、次の日には新しく入れ替わって
何も引きずらなくて済むことが私の理想なんだ。
203 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 21:41:49 0
親子までも流動性を高めると、人の尊厳は保たれるのかな。
ある親は子供を自動車事故で失う。しかし次の日には新しい子供が
来るわけだから。
人間が動物と違い、代替できないことで、たった一人という尊厳が
保たれる。それは他者に対しても、そして自らに対しても。
容易に代替可能な存在として、人は自らに誇りを持てるだろうか。
ボクなんかいなくても、という若者に自殺は、現代社会の
流動性に関係しているだろう。
204 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 21:44:35 0
>>202 日本でなく、キミの日常の閉塞感な。
出会い系よりも、風俗の領域だな。
>>199 猥褻でなくエロスの話をしている。
体より心の話をしているんだ。
誰だって愛されたいし愛したいもの。
心をとろけあわすような情緒的な激情を
日常に(家庭にも)持ち込めたらいいのにと言っているの。
206 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 22:00:08 0
>>205 マディソン郡の橋?だっけ
閉塞の極みだな。
>>204 違う違う違う。
温泉の掛け流しみたいに、毎日、今日のすべてを流して
明日に引きずらなくて済むようにできたら
といっているだろう。
208 :
考える名無しさん:2008/01/26(土) 22:08:46 0
209 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 22:15:39 0
>>203 社会が固定化されているから
そこから外された時に疎外感を感じるんだ。
すべての人がどこにも帰属意識を持たないなら
疎外感を感じることもない。
それに継続的な関係でないなら
親も子供に愛情表現をしやすい。
夢や情熱をためらわずに語ることもできる。
子供は手垢にまみれず、真人間に育つ。
211 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 22:27:47 0
>>210 私というのは継続した関係によって保たれるわけだ。
私は親である、というのは、私の子供との継続した関係によって
保たれる。
その関係さえ破壊すれば、なにによって私は親であるのか。
住む場所も、持ち物も、TV番組も毎日かわるのなら、
残るのは身体としての個体のみ。
私は存続されない。これは精神的な病でしかない。
212 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 22:42:42 0
本来は、私とは他者との関係性によって規定されるもの、
逆に他者との関係がなければ、見失いものなんだろうが、
現代消費社会の傾向では、私というものは、自らの気に入った物に
囲まれることで、見いだされるように錯覚される。
この私的な領域の肥大にとともに、社会的な領域との断絶を
前提にすると、私的な領域を優先させたいという願望が、
社会的な拘束を回避する、すなわち流動性を上げよう、という発想に
繋がるのだろう。
実際、これは幼稚な錯覚なわけだ。どんなに社会が豊かになり、
お金ですべてが帰るといっても、社会で生きると言うことは、
継続した社会関係と向き合い、自らを見いださなければならない。
社会的な流動性を上げるというのは、一種の引きこもりでしかない。
213 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 22:46:08 0
訂正)
本来は、私とは他者との関係性によって規定されるもの、
逆に他者との関係がなければ、見失いものなんだろうが、
現代消費社会では、私というものは、自らの気に入った物に
囲まれることで、見いだされるように錯覚される。
この気に入った物のセカイ=私的な領域が肥大することで、
他者との関係という社会的な領域が断絶したいと考えるようになる。
私的な領域を優先させたいという願望が、 社会的な拘束を回避する、
すなわち流動性を上げよう、という発想に繋がるのだろう。
実際、これは幼稚な錯覚なわけだ。どんなに社会が豊かになり、
お金ですべてが買えるといっても、社会で生きると言うことは、
継続した他者との社会関係に向き合い、自らを見いださなければならない。
社会的な流動性を上げるという願望は、他者を回避したいという、
一種の引きこもり願望でしかない。
>>209 違うといってるだろう。猥褻はいらないエロティシズムを望む。
215 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 23:16:49 0
217 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 23:24:34 0
流動性ということでは、
いじめの対策として、とっとと変更して、リセットするのがよいという案がある。
またアメリカの企業ではではキャリアアップがあるのに、
日本で再チャレンジができにくい、中途採用に障壁があるという閉塞性があり、
流動性を高めようと言うのはある。
近代において、社会の効率化を高めるために流動性が求められてきた。
逆にそれが反動としての「帰属意識を求める」閉塞性に繋がっている面がある。
>>211 『私』を捨て切れれば、無我の境地。
釈尊は切に生きろと言われた。
キリストも明日のことを思い煩うなと言った。
釈尊は妻子を捨てて、出家をした。
219 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 23:32:40 0
>>216 この場合の、教師と生徒との関係は仕事であり、経済活動の一部。
教師は生徒からお金をもらい、知識を与える。
経済活動とはお金で買える=金と代替できると言うこと。
親と子は経済活動を越えている。
だから代替することが難しい。
師弟は、生徒が入れ替わっても教師は教師といえない。
その弟子は、その師の弟子だから。
私とは経済活動を越えたところにある。
キミの考えは、現代のネオリベラルなお金で何でも買えるという、
ヘタレな一種の引きこもり願望でしかない。
220 :
考える名無しさん:2008/01/26(土) 23:35:17 O
>>213 気に入った物を置くのでなく流すんだよ。
関係を絶つのでなく常に入れ替えて
毎日違う人との出会いを喜ぶんだよ。
変わるまいと留めようとするのが我(が)
常に流動的なのが無我。
221 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 23:37:13 0
>>218 かわいい子には旅をさえろ、のようなもので、
日常の安定から離脱するという行為は、その昔から
尊ばれている。
様々な社会を知れと言うことであり、
これと社会の流動性を高めることとは全く違う。
222 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 23:40:57 0
>>220 流動され平等に均質化され無個性な人との
出会いに喜びなどない。
>>219 経済活動と決めつけているのはあんたじゃん。
師匠が何人いても師匠は師匠
弟子が何人いても弟子は弟子。
224 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 23:50:19 0
>>223 生徒が入れ替わっても教師は教師であるのは経済(仕事)上の話
ということ。
師弟関係は経済(師弟)には還元されない。
その弟子の師は、その師ただ一人。代替不可能。
225 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 23:55:14 0
本当に愛せる人を見いだすんだな。
物だけに囲まれて満足するなんって空虚じゃん。
226 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 23:56:17 0
本当に愛する人のセックスが一番気持ちがよいと思うぞ。
乙女ちっくないうようだが。
>>221 社会すべてを流動的にすることは
執着を持たなければ苦しまないという教えに沿っている。
228 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/26(土) 23:58:48 0
>>227 苦しみがない人生なんってなんの意味があるのか
>>224 それは心に持っていればいいこと。何がいいたい。
230 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/27(日) 00:09:26 0
>>229 流動化すれば、心は失われるということ。
>>225 人も物も流動的が理想といっとるのに……。
持たずに動くんだよ。
インスピレーションで生きるのさ。
232 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/27(日) 00:25:30 0
>>231 本当は誰かに愛されたいんだろう。
寂しい奴だな。
233 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/27(日) 00:31:53 0
毎日、住むところ、出会う人が違い、帰る場所、人、組織がないような生活が続くと、、
人は緊張感から発狂するだろうな。
>>226,232
は?誰が愛されたくないといった?
エロティズムがほしいと言ってるだろう。
エロティシズムが何がわかっていないようだな。
辞書引け。ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』を読め。
>>230 意識の状態が変わりはするだろうが心が失われる事はない。
すべてが入れ替わりすべてが流れることで
しがらみも閉塞感も腐敗も無くなり
心を清潔に保つことができるようになる。
子供も真人間に育つ。
>>233 それはない。すべての人が独り旅をしているようなもの。
これが実現したなら誰もが明日のことを
思い煩わす、前向きに生きていくことができる。
生活が保証されさえすれば、毎日が人も仕事も物も住居も
流動的であることは、閉塞感を消すことを可能にします。
昨日の恥も失敗も人に作った借りも
今日に引きずらなくて済むのですから
何を言っても『あんなことを言っていたくせに』
『こんなことをしていたくせに』
『こんなこともできないくせに』
と思われる心配も無く、大胆に行動できるようになります。
毎日関係がリセットされるから、誰もが
個人としての力しかもたず平等でもあります。
一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で
国が指定して国民全員、職場も学校も家庭も入れ替えたらたらいい。
すべての人が毎日違う場所で違う人と出会い、
毎日毎日をリセットすることで
結託しての不正や腐敗が起こることを防げる。
継続的な集団の中で起こる差別やいじめも無くなる。
すべての人が平等にただの人となる。
我々の社会の継続的な関係なら
破綻を恐れて萎縮してしまいがちでも
明日も別の場所で全員知らない者
同士の人がいる場にいくと
思えば大胆に積極的に行動できる。
子供も毎日違うお父さんお母さんに育てられ
昨日は飲んだくれのドカタのオヤジでも
今日は読書家の学者のお父さんの話を聞く。
夫婦も毎日違う人と暮らす。
生活を保証した上で、すべての人の日常、顔を合わせる人を
流動的にすれば閉塞感は一掃され、
今日がダメでも、明日に期待が持てるようになる。
無差別殺人や親殺し子殺し、引きこもりや、差別やいじめ
これらの問題はすべて、継続的な関係の中で発生するレッテル張り
軽視・蔑視、コンプレックス、同じ日々の繰り返しが奪う希望
嫌いなのに切り捨てられない関係性、
これらがもたらす閉塞感が諸悪の根源だ。
すべて流してしまうなら、しがらみを持つことなく
清潔な心で生きられる事になる。
これぞ無我の境地。
242 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/27(日) 11:06:57 O
ネタ、いいはりキャラはまあまあできてる方だとおもう。
続きは自スレたててやるがよい。
243 :
考える名無しさん:2008/01/27(日) 11:16:00 0
よっ、ぴかぁちゃん、久し振りだね。
すっかり、大御所づらするようになっちゃって。
また昔のように、卑怯者集めて知識人ごっこしたいもんだね。
244 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/27(日) 11:31:59 O
おっ、ひさしぶり。オレにボコボコに論破された後遺症は癒えたようだな。
245 :
考える名無しさん:2008/01/27(日) 16:31:43 O
くさい
246 :
考える名無しさん:2008/01/27(日) 17:40:55 O
自演臭振り撒くならリーマンでも登場させろよW
>>242-246 何がどうなっているんだ?
で、もう意見は無いの?
私の考えに納得してもらえたのかな。
>>242-246 何がどうなっているんだ?
で、もう意見は無いの?
私の考えに納得してもらえたのかな。
温泉の掛け流しのように、毎日を流動的にすればいい。
住むところも働く場所も家族も同僚もすべてが毎日変わればいい。
251 :
考える名無しさん:2008/01/27(日) 21:03:13 O
何がどうなっているんだ?
で、もう意見は無いの?
私の考えに納得してもらえたのかな。
252 :
リーマン :2008/01/27(日) 21:10:22 O
ぴかぁ〜さん、こんばんは。
私の名前が出てきたようのでちょっと顔出してみました。
もともとは、確かにぴかぁ〜さんが造りだした自演キャラですがぴかぁ〜さんも名前を変えたのでキャラとして自律しようと思います。
254 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 00:14:49 O
で反論は?
255 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 00:28:15 0
>>248 反論まで温泉の掛け流しのように流すな。
もう少しネタを詰めてから出ないしてこい。
@高度なシステムになるほど、それを管理するための権力の集中が必要になる。共産
主義にしろ、全体主義にしろ、理想論に対して、権力の集中が腐敗に繋がった。自由主
義というのは、この管理を人ではなく、神の手にゆだねることで、これを回避する。
A「一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で、国が指定して国民
全員、職場も学校も家庭も入れ替える」という発想には、すでに国家による社会の高
い安全性が前提にされている。国が管理するのだから、新たに出会う他者は信用に
たる、あるいは標準化された親切な他者という、あまりにも社会を知らない幼稚な期
待がある。
毎日入れ代わる他者の中に、悪意の他者がいないとなぜ言えるだろう。仮にある日、
悪意をうけ傷ついた人は、次の日違う人と合う場合にも、緊張を強いられるだろう。他
者とはそのような存在である。この予測不可能性の緊張感を人は生きられるだろうか。
256 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 00:29:08 0
B人間が動物と違い、代替できないことで、たった一人という尊厳が保たれる。それ
は他者に対しても、そして自らに対しても。容易に代替可能な存在として、人は自らに
誇りを持てるだろうか。
私というのは継続した関係によって保たれるわけだ。私は親である、というのは、私の
子供との継続した関係によって保たれる。その関係さえ破壊すれば、なにによって私は
親であるのか
現代消費社会では、私というものは、自らの気に入った物に囲まれることで、見いださ
れるように錯覚される。この気に入った物のセカイ=私的な領域が肥大することで、他
者との関係という社会的な領域が断絶したいと考えるようになる。私的な領域を優先さ
せたいという願望が、社会的な拘束を回避する、すなわち流動性を上げよう、という発
想に繋がるのだろう。
実際、これは幼稚な錯覚なわけだ。どんなに社会が豊かになり、お金ですべてが買え
るといっても、社会で生きると言うことは、継続した他者との社会関係に向き合い、自ら
を見いださなければならない。社会的な流動性を上げるという願望は、他者を回避した
いという、一種の引きこもり願望でしかない。
258 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 00:55:03 0
どんな反論?
259 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 01:01:24 O
260 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 01:09:25 0
これのどこが反論だ。まじめにやらないなら帰るぞ!
@A.情報をデータベース化し、行政の配置も
毎日変え政府の中も流動化することで
不正や腐敗を防げる。毎日関係がリセットされるから
結託して不正を働くこともできない。
AA.この理想社会はリスクを担保したうえで
刺激を求めエクスタシーやエロティシズムを楽しみつつ
情熱を寄りどころとして生きる社会。
出会いの数が途方もなく多く、どんな偏向
した好みでも、合致できる人に必ず出会える。
親兄弟夫婦も毎日入れ替わるので
お互いに強く惹かれ合い
(それで明日に気まずさを
残すこともないため)
ありったけの情熱を注ぎ込み思い切り
愛情表現ができる体験も何度もできる。
過去の恥を知るものとは二度と会わず
そして新たな素晴らしい出会いが喜びに満ちた体験で癒やしてくれる。
262 :
261:2008/01/28(月) 02:38:20 O
BA.数多くの出会いの中で、明日に気まずさを残すこともない
新鮮な出会いが自分をさらけ出し、そして情熱的に愛し合うことを促す。
きわめて個人的な欲求を言葉と体を尽くして
肯定しあう体験は気を張って常識の逸脱を
恐れて表現しないなら決して出来ない体験ができ
本物の自尊心を獲得し、自分の心の奥深くまで
肯定でき、充足でき、自己実現ができる。
これは唯物主義でなく、むしろ正反対で
物に執着せず、何物ものもたず常に新鮮で
清潔な状態に入れ替えることであり
他者を拒絶するのでなく、むしろ正反対で他者に
自分をすべて解放する作業ができることを意味する。
明日には去っていく妻(または夫)に
誰もが持っていながら、その中身はバラバラな
きわめて個人的な欲求。
我々の日常ではとてて言えない
心の深いところにある恥ずかしい欲求
それをさらけ出し合い、こすり合わせて
最高のエロティシズムに到達できることになる。
263 :
262:2008/01/28(月) 02:51:19 O
誰もが持っていながら、その中身はバラバラな
きわめて個人的な欲求。
我々の日常ではとても言えない
心の深いところにある恥ずかしい欲求
それをさらけ出し合い、こすり合わせて
最高のエロティシズムに到達できることになる。
恥辱も、苦痛も、しがらみも
すべて流して新しく別の場所で別の人と生き
温泉の掛け流しのように、毎日を新鮮で清潔なものにすれば、幸せに生きられる。
265 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 06:49:38 O
何がどうなっているんだ?
で、もう意見は無いの?
私の考えに納得してもらえたのかな。
266 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 10:04:06 0
一晩待っても反論なしか。
ギブアップのようだな。つまらん。
267 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 10:07:18 0
まあ、ネタしては出オチで、あとはこちらに丸投げ〜だから、
反論と言われても困るだろうな。
268 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 11:05:26 0
>>255-256に上げたのは、基本的な問題だからなんらかの回答が
できるぐらいにはネタくって、出直して来るんだな。
@権力集中の問題
様々な高度な政治システムは考えられるが、高度になればなるほど、
そのシステムを中央でコントロールする「神の位置」が必要になる。
そこに座る人がいかに腐敗しやすいか。
民主主義は選挙によって、神の位置を入れ替える。
それによって、高度な統一したコントロールができなくてもだ。
「神の手」にゆだねるというわけだ。
B象徴界の他者の問題
人間の尊厳とはなにか。なぜ動物の一匹と違うのか。
それは他者との継続した関係の中で見いだされる単独性にある。
A現実界の他者の問題
安定した日常=社会とはある種の幻想である。
人は絶えず、不確実性、予測可能性の世界を生きている。
いかに社会を安定させるか。しかしそれだけでは閉塞する。
適度に不確実性を侵入させるか。
予測可能性と不確実性のバランスに「成長ある秩序」が見いださせるということ。
269 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 11:17:28 O
エラソーにまあまあW
「反論」,「反論」だって。ハゲは落ちたのにまだ落ち続ける気だな。
説明ということがまるで理解できない落人。
>>268 お前の言う仮定や前提が根幹から間違っていると
言っているのが、まだわからんか。
お前は激情の魅力も解さない小者だ。
俺の言っていることをまるで理解していない。
小さい小さい小さい、話にならん。
どこまで言ってもお前にゃわからん。
感性が違いすぎる。
272 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 12:31:43 0
273 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 12:33:37 0
なんど日常をリセットしようが、オマエがかわらない限りなにもかわらんよ。
社会を嘗めるな。怖がらずにもっと様々な他者と交わり、傷つき強くなれ。
ニートは言う事が壮大なわけでw。ま、もう一度、投稿すれば。
お前は『流動化社会』を怖いと言った。
人を怖がっているのはお前だ。
だいたい舐めるなと怖がるなと言うのは相対的な言葉だ。
俺は『理想社会はリスクを担保したうえで
刺激を求めエクスタシーやエロティシズムを楽しみつつ
情熱を寄りどころとして生きる社会』。
『出会いの数が途方もなく多く、親兄弟夫婦も毎日入れ替わる』
安住せず次々に新しい人を受け入れる社会を提示している。
怖がっているのはお前だ。
276 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 12:57:26 0
277 :
275:2008/01/28(月) 12:58:45 O
おまえにはいくら語ってもわからんだろうから
もう行く。(休憩時間も終わり)
お前こそ怖がらずに人と関われよ腐れヒキ。
278 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 12:58:47 0
>>255-256に上げたのは、基本的な問題だからなんらかの回答が
できるぐらいにはネタくって、出直して来るんだな。
ここ数日でわかったのは、
>>271のコミュニケーション能力の低さ(幼稚さ)。
これで日常を生きているわけだから、そりゃ回りから疎外される。
そして幼稚な夢に逃避するわな。
というのが、オチです。
終了〜ピィィィィィ〜!!!
279 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 13:01:57 O
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
他者とのそういうものだ。
280 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 13:03:47 0
キャラ的にはこの板むきだと思うぞ。
でもここは哲学板なんだよ。
感性の違いなんか関係がない。
>>255-256程度の、基本的問題への回答を持ってないと、
単なる馬鹿でしかない。
これを参考にネタくって、出直してこいよ。
1年後まってるぞ。
281 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 13:05:56 O
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
終了〜ピィィィィィ〜!!!
282 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 13:09:03 O
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
1年後まってるぞ。
現在は可能性としての債務であるが、将来ある事象が発生すれば
現実の債務となりうることがらを偶発債務という。
284 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 13:47:35 O
で?
ん?
286 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 14:02:17 0
考えにおもしろいところがあると思うんだぞ。
だからこれだけつき合っているわけだ。
でもこの疑似問題の本質を理解していないんだ。
反論というよりも、それを浮き彫りにしたわけだ。
>>255-256の@はまあ、いいや。ここまで話すと
難しくなりすぎるから。
論点はA、B。社会の流動性と人の尊厳。
さらには他者とはなにか、ということ。
近代になり、社会の流動性は向上した。
鉄道、情報網とともに、人の身体的移動、
そしてそのような流動性を可能にする自由と平等という思想。
これらが可能になったのは、流動性の向上が生産効率の
向上に繋がるからだ。いまでいえば、フリーターのように
人を一つの均質な単位と考えて、必要なところに
配置する、必要なくなれば切り、また別の必要なところへ移動する。
このように社会の自由度、流動性が上がる中で、
問題になるのが、人の尊厳の問題だ。
流動性が上がれば、代替可能性があがる。
ある人がいなくなれば、他の人が補うだけ、となれば
ある人の存在意義はなにか、ということ。
287 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 14:05:58 0
これをもとにキミの思考実験は考えないといけないわけだ。
288 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/01/28(月) 17:19:01 0
すなわち本来、経済性と密接な社会の流動性が、
>>170では、
「一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で」と
見事に切り離されている。
日本のような豊かな社会に生活している一市民の脳天気な心情として、
このような勘違いが起こるのだろう。現在においても、
流動性を経済と切り離せば、一夜で日本経済は崩壊するだろう。
これも一つのモデルと考えれば、問題はではこの流動性は、
なにに接ぎ木されるかである。
不正や腐敗、差別やいじめ、大胆で積極的な行動
無差別殺人、親殺し子殺し、引きこもりや、差別やいじめ
そして
>俺が求めているのは刺激だよ。
>パッション、エクスタシー、エロティシズムを求めている。
ということだ。
これは、オタクのセカイ系に近い幼稚な思考である。
自らの卑近な悩みを解決するために、セカイのシステムそのものを
改造するということである。
この強制的な流動性に、継続した他者との関係の回避がある。
ここにあるのもまた、オタク的な「他者回避」傾向である。
自らの肥大した幼稚な自己を中心に、セカイを組み立てる。
そこでは不都合な他者は流動化させ排除する幼稚な性行が見られる。
289 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 18:41:43 O
人間どうすればここまで傲慢、厚顔無知にして幼稚になれるか実験スレ。
290 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 19:21:17 0
波平が本を出版したらかなり読み応えのある面白いものになりそうだな。
いつか実現することを期待してますよ。
291 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 19:22:53 0
少なくとも本上まもるなんぞは問題にならないでしょう。
292 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 19:26:49 O
本を書く文章力はないねWここやブログに書き散らすのが精一杯。
293 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 19:29:29 O
まあな。思考の断片とパクリで本が書けりゃ苦労しないわ。W
294 :
考える名無しさん:2008/01/28(月) 19:35:46 0
> 思考の断片とパクリで本が書けりゃ苦労しないわ。W
とおっしゃるが、それこそ現代思想系の論者たちがやっていることの本質ではないのかね?
295 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/01/30(水) 12:42:05 O
昨日のNHKの環境特集はおもしろかったですね。ロンドンでの環境対策の取り組み。
環境税の大幅導入。大型車への高い税率、バス、電車通勤へのシフト、家の断熱による効率アップ
日本はよく省エネ技術が世界一でと言いますが、産業界主導なんですね。
市民レベルでの活動が弱い。とともに産業界が強くて消費が抑制されることを嫌われる。それが環境税などの市民負担に動きにくい。
296 :
考える名無しさん:2008/01/30(水) 13:51:55 O
よくもまあ中学生なみの感想を恥ずかしげもなく…
ある意味見上げたふんどしw
リアル厨房だからしょうがない。
>>268 >>261-264で、答えてやったのに、同じ質問を繰り返して
まったく聞いちゃいない。
おまえの主張は前提が間違っているんだよ。
きちんと読んでから書け。
『数多くの出会いの中で、明日に気まずさを残すこともない
新鮮な出会いが自分をさらけ出し、そして情熱的に愛し合うことを促す。
きわめて個人的な欲求を言葉と体を尽くして
肯定しあう体験は気を張って常識の逸脱を
恐れて表現しないなら決して出来ない
その体験ができるようになれば、本物の
自尊心を獲得し、自分の心の奥深くまで
肯定でき、充足でき、自己実現ができる。』
>>288 流動性が切り離されているとはどういうことか
なぜ経済が崩壊するといえるのが。
現在の経済システムとはまったく別のものであることは明確だ。
私が言っている社会は『国家が生活を保証』したらを前提に論じている。
参考までに言えば、現在も天然資源を政府が管理し、輸出して
財源を確保し国民の基本的な生活を保証している国がある。
これと憲法改正を併せて考えれば、ひとつの答えは出る。
それから社会の流動化についてだが
前に書いた通り、他者の拒絶でなく
他者を積極的に受け入れることを意味する。
世間体や義理、社会のしがらみのために
ボロボロになって病んでも尚、関係を維持し
続けようとする人がざらにいる。
欧米ではそこまで特定の関係に固執しない。
疲弊消耗する前に関係を絶つ。
私が提示する社会の流動化は、さらに速く
流動的に人を動かす、動かし続けることで
常に清潔で新鮮な関係性を持ち続けることができる。
哲学とは実験的な思索だ。
幼稚だの逃避だのと言って、そこで考えを止めるのは、哲学ではない。
常識の枠に囚われず、あらたな世界観を構築するのが哲学だ。
私は社会の閉塞感をうち破るには
ベルクソンの哲学が有効だと思う。
―――過去は現在と共に発生し、未来は予測不可能である―――
常に今の充実を優先し、精一杯明日を
思い煩わずに生きる。
これが鍵になる。
302 :
考える名無しさん:2008/02/01(金) 10:58:09 O
ageれば?
国が生活を保証する社会なんてのは、
働けない奴のために誰かが余計に働かねばならない社会であり、
奴隷を必要とする社会である。
財源さえあるなら働けるものには仕事を与えることで保証し
障害などで働けないものには無償で生活を保証すればいいじゃん。
財源というのが労働を内包している。
財源の確保に労働を要する。血と汗をな。
306 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/01(金) 16:09:19 O
論破されたんだよ。頭悪くて気付かないだろうが。いつまでも醜態さらすな。
やりたきゃ、スレたててやれ。
307 :
考える名無しさん:2008/02/01(金) 16:21:34 O
ろんぱろんぱってうるせーな 弱虫W
波平は長文読めない病らしい。
309 :
考える名無しさん:2008/02/01(金) 17:02:05 0
>>306 論破というより、最初から立脚点が違っているだけなのではないかね〜?
議論が擦れ違っていて交わっておらんだけじゃろ
波平は哲学に向いていない。
社会学板に逝くがよろし(・∀・)
>>306 哲学やるには頭が堅すぎるんじゃないか?
私は現在の日本の経済や倫理を前提に論じていない。
資本主義市場経済を前提にもしていない。
まったく別の新たな倫理、新たな価値観、新たな社会を想定して論じている。
生きてその社会が見られるとも思っていない。
仮定の話だ。
313 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/01(金) 18:27:17 O
なんだよ。これだけ話をしてあげてまだどうしてほしい。
>>255ー256
>>268 >>286ー287
おまえがいってることの意味を解説してあげたんだろ。あとは自分で勉強しろよ。
314 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/01(金) 18:32:16 O
おまえがいってることの哲学的位置付けと問題点
さらにはおまえがなぜこんなことをいっているのかの時代背景まで
あとば自分で理解するしかない。いつまでもエロチシズムのオウムがえししてるつもりか
バタイユでもニーチェでもよいが哲学はまだまだ先があるからがんばんな
>>313-314 だからそれは反論したろう……。
人が書いたものも読めよ。
反論に対して何度も同じことを書いて何がしたい。
前提が間違っている。
316 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/01(金) 19:01:35 O
なつくな。巣だて。流動しろ
だんだんお笑いがわかってきたなーー。波やるなー。あせるよ。
社会を嘗めるな。怖がらずにもっと様々な他者と交わり、傷つき強くなれ。
長文読めない人らしいから要点だけもう一度書いておくか。
・トップも含め、すべてを絶えず流動化することで腐敗は防げる。
・喜びの体験が、尊厳・自尊心を高める。
320 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/01(金) 19:20:21 O
まあ、ようはさ、問題なにかってことなんだよ。
ネット上の卑猥や、中傷、あるいは著作権など問題になってるが
表現の自由との関係とかいわれるが、実質これを取り締まるか、ちゅうこと
ブロバイダーたどってあるていど突き止められるが、それにどれだけの金がかかって効果はどうか
それに殺傷能力があり人がばたばたしのばまだしも、不快ぐらいじゃ、なかなか国も行政もうごかんよ
まあ、おまえがいってる閉塞感、エロチシズムもそのていど
風俗いくなり、エンコウするなり、イラクでもインドでも旅に出るなりしろよ。ってこと
321 :
考える名無しさん:2008/02/01(金) 20:18:04 O
おまえがなwww
322 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/01(金) 21:41:50 0
テストですよ。
323 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/02(土) 00:27:25 0
閉塞感、エロなんっていうのはいわば私的な領域。
いじめ、賄賂など公的な問題にもつながるが、
政治システムまで考える公的な問題としては弱い。
公的な問題といえば、いまなだ格差とか、
環境問題とか、まあそれだけではないが・・・
バタイユ、ベルクソン?彼らは政治(公的なもの)を
考えたわけではないわな。
そういうことだ。おまえはなにがしたいんだってことだ。
なんでここまでおれがおまえに親切にせにゃならん。
いいかげん、流動してくれよ。
>>323 ちょいちょい日本語の使い方がおかしい。
形容詞と動詞の区別がついていない。おまえ在日か?
日本で俗に言うエロと、エロティシズムは別物。
日本じゃ猥褻物をエロと言うが、エロティシズムは猥褻と対極にある。
>>323 お前はバタイユもベルクソンも読んでいない。
読まずに知った風なことを書くな。
>>320 てんで分かっちゃいない。
売春なんかで得られるもんじゃない。
俺が言っているのは、心の奥深くに潜んでいる
個人の一番強い感情、それを引っ張り出し
さらけ出し合いこすり合わせることだ。
これは売春なんかで得られるものじゃ無い。
激しい流動性は、その一番強い個人の心の源泉を、呼び覚ます。
心に定員は無い。
しがらみに囚われずに、心を腐らせずに
常に新鮮で清潔な環境を保ち続ければいい。
もし、これを社会システム化し、社会を流動化の激しいものにしたなら
誰もが過去に囚われず、明日を思い煩わす
明るく前向きに、清潔な心で生きることができる。
330 :
考える名無しさん:2008/02/02(土) 06:29:25 O
エロティシズムといわゆるエロは確かに違うが、対極ではないだろ?
エロはエロティシズムが生んだ鬼っ子だよ。
日本で俗にエロと言われるのは猥褻のことを言い
本物のエロティシズムとは対極にある。
ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』を読めば分かる。
332 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/02(土) 10:31:08 0
つまんないな。おまえが最初からいっているのは、これだけだろう。
これを繰り返しているだけだろう。
思いこみはおまえの勝手だけど、議論もできないのに
同じことを病的に言われてもな〜。
バタイユのエロティシズムの理解できてないし・・・まあ、そこまでむずかしいことは問わないが
■流動教
一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で
もし社会を流動化の激しいものにしたなら
誰もが過去に囚われず、明日を思い煩わす
明るく前向きに、清潔な心で生きることができる。
個人の心の源泉を、呼び覚ます。
おれの反論はこっちな。まあ、1年後でも反論できるようになれよ。
■反論
>>255-256 >>268 >>286-287
333 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/02(土) 10:33:09 0
334 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/02(土) 10:39:46 0
しかし徹底的に議論をさけるな。
そうなんだ!という自分の思いこみの領域から
でてこないからな。
なにがあった傷ついたかしらないが、
もっと他者に心を開く訓練しろ。
というか、これがそうか?
おれはおまえのカウンセラーカーw
335 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/02(土) 11:05:12 0
まあ、そう突き放すのもかわいそうだし、
わかりやすいところからはなしを始めるか。
エロティシズムの話がでたので、
では人間にとって性欲とはなにか、ということから始めるか。
動物の性欲は、自らの子孫を増やしたいという生殖に
つながる性欲なわけだ。
人間にも性欲はある。異性にもてたいから、女性を
みると止められない欲求、インモラルとわかっていても
危険に向かわせる強い衝動、またあるいは萌えなども
性欲とつながっている。必ずしも肉体的な快楽だけでない
人間特有のものだ。
たとえばフロイトは子供にも性欲動があるというが、
これは俗に言う「エロ」=大人性関係と分けている。
こりゃ更生も大変だな。文章も隙だらけだし。文章能力もなく社会性も
なく、あるのは根拠のない自信だけ。
まぁ、哲学は腐ってる、そして当の哲ブタたちは反省する気など毛頭ないってのは
既知の事実のようなので、あまり議論云々もなくて、現実にイミテーションを売り歩く
商売人のようなのが沢山いて、どうやったら騙し騙し商売を続けられるかと知恵を
絞っていると、そういう現状だろうと思う。
ホントに腐ってる連中に「オマエらは腐ってる」と言っても何も起こらない。
指摘されて態度を改めるぐらいなら、最初から腐りはしないのかもね。
まあ哲学って終わってるね。終わってかまわないものが終わってるんだから
OKですかな。
>>334 俺はちゃんと答えている。
反論したうえでお前の言っていることが前提から間違っていると。
お前こそ俺が提示しているモデルについて何か書け。
頑なになっているのはお前だろ。
平日も四六時中ネットにへばりついているようだが何やってんだ?
もっと心を開けよ。
342 :
338:2008/02/02(土) 13:34:41 O
314じゃなくて319
一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で
もし社会を流動化の激しいものにしたなら
誰もが過去に囚われず、明日を思い煩わす
明るく前向きに、清潔な心で生きることができる。
個人の心の源泉を、呼び覚ます。
345 :
考える名無しさん:2008/02/02(土) 14:42:37 O
私が提示する社会モデルを実現するにあたって
唯物史観や、現在の資本主義社会を想定して語っていない。
広大な時空を視野に入れた哲学として論じている。
もしこの超流動化社会を実現できるのが
共産主義体制か、国家社会主義体制か
帝国主義体制であるとするならなら
そのどれであっても構わない。
継続的な関係に生じる、弛緩した気安さと無礼、
固定化した立場が原因の差別と支配による閉塞感、
嫌いなのに切り捨てられない世間の目と社会構造上の問題
これらを廃すべきものと考え、
毎日(職場も学校家庭も含む)すべての関係を
流動化し、常に新鮮で清潔でフェアな関係を
維持する社会を想定している。
現在のアメリカモデルの資本主義もいつかは終わる。
次に据えるべきイデオロギーは何か
それを語っている。
波平さんよ、今読んだら
あんたこのスレの冒頭に
『金と他者は怖い、それは社会的な圧力があるからだ』
と書いてあるじゃないか。
俺が提示しているモデルは
その圧力を消滅させるものだよ。
俺は、流動化によって継続的な関係を
作れなくすれば、結託する集団の力がなくなり、
誰もがフェアな立場になると書いた。
どこが不満なんだよ。
347 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/02(土) 17:45:34 0
せっかく、コミュニケーションを成立させようとしてあげてるのに、
自分がいいたいことだけだな。
おまえは、女性を前にしたオタクか!w
コミュニケーション能力ゼロじゃん。
こういう場合は、放置が一番だな。
他者とはなにか、コミュニケーションとはなにか、
身をもってしろ。
おれの反論を書けば、いつでも相手してやるよ。
旅に出ろ。じゃあな。
違う。俺はちゃんと答えている。
お前が俺の書いていることを無視して
同じ事ばかり何度も書いているんだ。
逃げてもいいよ。どうせ真面目に哲学する気は
無いんだろ。不愉快だ。
コミュニケーション能力が無くて
引きこもってネットにへばりついているのは
お前じゃん。
哲学する気がないなら哲学板に来るなよ。
何度も丁寧に書いて説明してやったのに
真面目に読みもしない。
349 :
考える名無しさん:2008/02/02(土) 21:25:37 O
波平はもう来ないらしいので
>>170から仕切り直し。
さあ哲学しましょう。
ニコニコ
sm2034321
351 :
考える名無しさん:2008/02/02(土) 21:45:41 0
もう分かってる人は分かってると思うが、
第三の波平 = 純一
だからな。
みんな、奴の巧妙な自演劇に騙されるんじゃないぞw
352 :
考える名無しさん:2008/02/02(土) 21:58:49 O
それはないっしょ?
哲学を語るとき、「私は知っている」という態度が一番致命的だな。
354 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/03(日) 02:24:35 0
>>340 答えてると言い張られてもな。宗教じゃないんだしさ。
■流動教
一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で
もし社会を流動化の激しいものにしたなら、誰もが過去に囚われず、明日を思い煩わす
明るく前向きに、清潔な心で生きることができる。個人の心の源泉を、呼び覚ます。
だから最初から、おまえがいってるのこれ以上でも以下でもないだろう。
まーた、
>>344にまだ書いてるし、いいはりだけだものな・・・
だからなぜこういえるのか、ってことから議論をはじめないとさ。
話のはじめとして反論にまとめてあげてるわけ。
■反論
>>255-256 >>268 >>286-287 ようは、流動性が高くなりすぎれば、ようは、人は緊張感から神経症になる。
社会的な倫理(尊厳)を維持することがむずかしい。これは、オレの主観というよりも、
現代哲学、精神分析を参考にした一般的な見解なわけ。
残念ながら、バタイユとかいわれたって、彼は現代思想の構造主義の
ながれだからさ。エロティシズムもまさにここからでているわけだから。
別に特別なことをいってるわけだはないんだよな。
言い張りたいのなら、それでもいいけどね。オレには関係がないだけ。
まあ、オレ以外に相手してもらえるか、流動してみれば。
たぶんよくて、こんな流れかな。
誰も相手しない→少し勉強する→オレのいっていたことが少しわかる
→少し議論できるようになる
355 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/03(日) 02:39:39 0
もう少し話を進めるか。
精神分析でいえば、幼児時代というのが重要になるわけだね。
そこで自我(超自我)が形成されて、社会性を身につけるわけだ。
その時期に親が毎日変わるなってのは、精神病になるな。
親のいない子供だって、親代わりがいるわけだ。
精神分析でいえば、鏡像段階(想像的関係)、
去勢(象徴的な関係)など、他者との特別な関係によって、
人間になるわけだ。
この時期を過ぎれば、旅に出ることはできる。
社会的な流動性の中でも生きられるのは、
それは、継続した親が内面に形成されるからだ。
すなわちもう本質ができあがっている。
俗にいえば、日本人であるとか、ふるさとであるのか、
帰属する組織をもっている。
人間としてこれはインストールされたようなもので、入れ替えることはできない。
こういういろいろあるんだよ。勉強してきな。
356 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/03(日) 03:02:11 0
これを性関係で説明すると、
動物は生まれながらに、遺伝子として性関係が組み込まれているわけ。
時期がくると、発情して、生殖する。
しかし人間は違う。人間は文化として性関係を獲得する。
精神分析では、これを、人間は倒錯しているというんだけど。
人間ってみなフェチだよね。靴フェチ、ロリフェチ、女子高生フェチ・・・
これって生殖とは関係がない。子供の頃の経験、文化として
獲得するんだよ。それが、人間のエロティシズム。
バタイユがエロティシズムというときには、さらに転倒させるわけ。
人間というのは、このような文化的なエロティシズムを
解体しつづける。新たなエロティシズムを創造する存在であるということ。
このような創造と破壊のようなことを強い主張するのが、
バタイユの特徴なんだね。たとえな消尽という概念も、贈与の連鎖を
破壊するような力だよね。
これも構造主義的な考えということでよいと思うんだけど。
たぶん、キミがバタイユのエロティシズムを引用するときには、
このような日常の創造と破壊からきているんだろうけど、
見事に、その前に幼児期をへてインストールされた文化としての
エロティシズムが抜けている。
この抜けられなさがあった、はじめてバタイユ的な破壊(流動性?)に
意味があるんだよ。
こういう初歩的な背景があるわけだけど、ここまでいきなりぶっちゃて
おもしろいか?だから自分で勉強するなら、オレにきちんと反論、議論する
なかで学ぶ方がよいとおもって、考えろといってあげてたのに、
ネタばれってつまらないだろう・・・
357 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/03(日) 03:06:45 0
キミがいうように流動性をあげれば、エロティシズム?が得られる
というような人間はバカチョンにはできていいないんだよ。
バタイユだってエロティシズムという概念を通して、はそれをいっているわけ。
初心者にここまでネタ晴れって大人げないよな・・・
358 :
考える名無しさん:2008/02/03(日) 04:50:50 0
波兵ニ告グ、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ。抵抗スル者ハ
全部逆賊デアルカラ射殺スル。オ前ノ父母兄弟ハ国賊トナルノ
デ皆泣イテオルゾ
359 :
考える名無しさん:2008/02/03(日) 12:14:44 O
かまわれて
テンション高まる
ぴかぁかな
360 :
考える名無しさん:2008/02/03(日) 19:36:09 0
361 :
考える名無しさん:2008/02/03(日) 20:19:33 0
反論なんてとてもとても。論理、反論ww
362 :
考える名無しさん:2008/02/03(日) 21:11:27 O
このスレのどこに論理があるのかとW
363 :
考える名無しさん:2008/02/03(日) 21:24:56 0
まぁ純一もぴかぁも変人って点では変わりないようだw
また純一がぴかぁに論破されたというオチ?
何度目?
自演うぜ
また純一逃亡?
367 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/04(月) 11:27:51 0
tesuto
368 :
第三の波平 ◆xGyuwD9M22 :2008/02/04(月) 11:46:25 O
オナ禁してたらひげが茶色?というか色素が薄くなったんだがこれはまずくない?かなり心配…
369 :
第三の波平 ◆xGyuwD9M22 :2008/02/04(月) 11:50:01 O
狂おしく踊れ!ハゲども!!
370 :
第三の波平 ◆xGyuwD9M22 :2008/02/04(月) 11:56:14 O
女の醜さはハゲてよくわかった…
もう40歳まで彼女居なくていいからハゲ治して下さい…
371 :
第三の波平 ◆xGyuwD9M22 :2008/02/04(月) 12:07:58 O
選択肢なんて、限られてるな。
育毛は、時間がかかるし、ましてや効果は、期待薄。
ズラは、経済的に厳しいし、隠す事に神経をすり減らす。
坊主しかないな。
ハゲ諸君の苦しい気持ち、痛いほど理解する。
自己顕示欲捨てられないか・・・
過去を捨てられないか・・・
372 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/04(月) 12:44:52 O
人が立ち向かわなければならないものは、世界において自分は多くの一人であるということ
そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくるということだ。
生きることに精一杯であるということの幸福はこのような事実を忘却していることである。
>>371 植毛しな。
韓国で安くできるよ。
美容整形ツアーなんてものもあるそうだ。
生きることに精一杯と
精一杯生きるじゃ全然意味が違う。
精一杯イ`。
375 :
第三の波平 ◆xGyuwD9M22 :2008/02/04(月) 12:51:48 O
>373
うるせー、おまえもハゲだろハゲ
哲学板にいるのはみんなハゲだと思いたいんだなwww
377 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/04(月) 12:59:14 O
この強度を受け入れることはそう簡単なことではない。人は不安と孤独であわてふためき、逃亡をはかる。
現代、テクノロジーが教えてくれるのはよりよい逃亡の方法である。ゲームであり、ネットであり、すみやかに逃亡を手助けする。
中国ではハゲは英雄の象徴と聞いた。
379 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/04(月) 13:11:43 O
資本主義が成立するのはこのような原理による。すなわち資本主義は自由と平等と言う名の孤独を発明したのだ。m9( ̄□ ̄)
380 :
すわ:2008/02/04(月) 13:18:07 O
いきなりすいません。バタイユの『エロ』読んで思ったんですけど。人間と動物の境目で戸惑い、焦るバタイユ自身がいますよね。
ヘーゲルとの関わりに於いても、人間の圏内でテトリスやクスコの石壁みたいに隙間無く理性を積み立て、てっぺんから咲くというか漏れるのがコミュニケーションであって、そこまでやってはじめて動物並に成れるのが人間であるという。
その前段階での咲きや漏れは真冬の桜や正に漏れであって、愛や他者とのコミュニケーションでは無いと。
無論個人においても社会・国家においてもそうではないか。
人間のみが神に近づける〜というニーチェ以前の段階から、西洋が変化した訳です。
バタイユ「おまいらこのまま犬死に(壊れた淘汰さるべき動物としての人間)でいいのかよ!」
このように理解したのですが。
381 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/04(月) 13:29:44 O
だから現代において生きる道は二つしかないというる。
資本主義的孤独な熱狂に没入するか、原理主義的な禁欲な夢をみるか
382 :
第三の波平 ◆xGyuwD9M22 :2008/02/04(月) 13:38:53 O
なぜハゲは禁欲的な夢をみるのか。
383 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/04(月) 13:47:59 O
そうこれは、コジェーブのいう動物化とスノビズムに対応するだろう。
しかしさらにもうひとつの生き方を提示したい。それは村上春樹風である。
村上春樹風とはこの孤独の強度を受け入れ、ハードボイルドに生きる。ハードボイルドどはアメリカが生み出したシニカルであるが、
肉体的タフさを糧に社会悪に対峙する。しかし村上春樹風は孤独、退屈そのものへのタフしをもつ。
それは趣味的なものへのこだわりというスノビズムに使いが埋没はしない。
世界的に村上春樹が人気があるのはこのような新たなスタイルを提示するからである。
384 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/04(月) 13:57:32 O
孤独を忘却する動物化
孤独を再物語化するスノビズム
孤独をタフに受け入れる春樹風
どういきるかね
385 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/04(月) 14:44:08 0
■なぜ村上春樹風に生きるのか
不安と孤独の強度
現代において、人が立ち向かわなければならないものは、世界において自分は多くの
一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくるということだ。
この強度を受け入れることはそう簡単なことではない。人はこの強度による不安と孤独
であわてふためき、逃亡をはかる。現代のテクノロジーが教えてくれるのは、よりよい逃
亡の方法である。ゲームであり、ネットであり、お手軽なコミュニケーションによって、す
みやかに逃亡を手助けする。
なぜこれほどに大量の消費が必要であるのかは、この孤独によるものだ。すなわち資
本主義経済が成立するのはこのような原理による。資本主義は自由と平等と言う名の
孤独を発明したともいえるだろう。
386 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/04(月) 14:44:47 0
動物化とスノビズム
このような現代において生きる道は二つある。先のように資本主義的な消費の熱狂に
没入するか、あるいはあえて消費を抑制し、原理主義的な禁欲な夢をみるか。そう、こ
れは、コジェーブのいう動物化とスノビズムに対応するだろう。動物化とは、消費の熱
狂に埋没して、孤独を降る払い続ける。スノビズムは自らの人生を切り離さずに、大き
な流れの一部として見いだすことといえるだろう。宗教においてはあの世へと続く、ある
いは技術的なものとしては、技として後生につながっていく。現代の情報化社会におい
て、一つの物語を信じ続けることはそれはまた難しいことである。
387 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/04(月) 14:45:23 0
そして村上春樹風
しかしさらにもうひとつの生き方を提示したい。それは村上春樹風である。村上春樹風
とはこの孤独の強度を受け入れ、ハードボイルドに生きる。
>>
ハードボイルド (hardboiled) とは、・・・感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情
な、(精神的・肉体的に)強靭な、妥協しない、などの人間の性格を表す言葉とな
る。・・・ミステリの分野のうち、従来の思索型の探偵に対して、行動的でハードボイルド
な性格の探偵を登場させ、そういった探偵役の行動を描くことを主眼とした作風を表す
用語として定着した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89 <<
アメリカで生み出されたハードボイルドな小説は、肉体的タフさを糧に社会悪に対峙す
る作風であるが、しかし村上春樹風は孤独、退屈という強度に対して、タフさをもつ。世
界的に村上春樹が人気があるのは、現代の不安に対する一つのスタイルを提示する
からだろう。
388 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/04(月) 14:47:32 0
ボクが好きな村上春樹の作品で、主人公は35歳の誕生日を迎えて、ここを人生の折り
返し点と決めるという話がある。折り返し点とは反復である。未来の可能性を夢見るの
ではなく、35歳にして反復を生きる。しかしこれは人生なんてそんなものという絶望で
はない。人生の多くは孤独で、退屈であるということを受け入れて、強く生き抜く姿勢で
ある。村上春樹の小説にはこのような反復があふれている。ここには、ニーチェの永劫
回帰に通じる生きる強さ(タフさ)がある。実際にこのように強く生きられることは大変な
ことである。
孤独を忘却する動物化
孤独を再物語化するスノビズム
孤独をタフに受け入れる春樹風
キミはどういきるかね。m9( ̄□ ̄)
389 :
考える名無しさん:2008/02/04(月) 15:00:03 O
いつも部屋でパンツいっちょうとか、半ケツ状態だから、親も大して用心してなかった
ある日、床(マットレス)オナニーしてたら
オカンが、「(騒がしいけど)なに?」って引き戸をガラッ
その音に反応して、うつぶせにしてればよかったのに、
オカンの方振り向いてしまった
そのとき、ギュィンギュィンに赤くなってた漏れのの亀頭を
はじめて見た女はオカンになった
発射せんでよかった
390 :
考える名無しさん:2008/02/04(月) 15:36:51 O
人が集まるチャットってないかなぁ…と探してます。
機械音痴気味なので、自分じゃなかなか探しきれません(>_<)
良いトコあったら教えて下さい♪
お願いします(*^-^)
391 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 00:00:59 0
第三の波平さん、いつもたいへん楽しみに拝読しています。
ちょっとどきときしますが、やはり質問してみたいことがいくつか
ありますので、お答えいただければ嬉しいです。煽るつもりはありません。
まず、
>現代において、人が立ち向かわなければならないものは、世界において自分は多くの
>一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくるということ>だ。
とありますが、まず、「現代」とは何年ほど前から、どのような国家、どのような
共同体の状態を指しているのですか? それと、上のような「不安と孤独の強度」
は、その「現代」において特権的な問題といえるのはなぜですか?
392 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 00:01:55 0
>>387 さらに、波平さんはそのような「不安と孤独の強度」に三つの対応策を示しており、
そこでは「自らの人生を切り離さずに、大きな流れの一部として見いだすこと」、「一つの
物語を信じ続けることはそれはまた難しいこと」である「スノビズム」と、村上春樹流の
ハードボイルドが区別されています。
でも村上春樹も小説においてひとつの物語を示しており、そこでは主人公も物語と関連
を持ちつつ生きているんですよね?だとすれば、村上春樹の「物語」とスノビズムの
「物語」はどのように異なっていて、村上春樹のなにが特別なのでしょうか?
393 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 00:15:18 0
>>388 >ボクが好きな村上春樹の作品で、主人公は35歳の誕生日を迎えて、ここを人生の折り
>返し点と決めるという話がある。折り返し点とは反復である。未来の可能性を夢見るの
>ではなく、35歳にして反復を生きる。しかしこれは人生なんてそんなものという絶望で
>はない。人生の多くは孤独で、退屈であるということを受け入れて、強く生き抜く姿勢で
>ある。村上春樹の小説にはこのような反復があふれている。ここには、ニーチェの永劫
>回帰に通じる生きる強さ(タフさ)がある。実際にこのように強く生きられることは大変>なことである。
そして最後。わたしはこの部分がよく分かりませんでした。「折り返し点とは反復である」
という断定が二文目でされていますが、「折り返し点」がなぜ「反復」であると言えるの
でしょうか? 「退屈であるということを受け入れて、強く生き抜く姿勢」を認めたとし
ても、「折り返し点」の前半と同じことが「反復」することは帰結しないと思うのですが。
また、この村上春樹の物語とニーチェの「永劫回帰」はほとんど関係がないように感じ
ました。ただし、少なくとも両者をつなげようとする波平さんの意図は、いくばくか
村上春樹の物語とニーチェの物語に依拠しており、上のような文自体が、わたしにとって
は「スノビズム」であるようにも感じます。浅薄な感想文だとは思うのですが、わたしに
も切実な問題であることに変わりはないので、レス下さると幸甚です。。
394 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/05(火) 00:44:09 O
逆にこれだけ理解できなくて、なににひっかかったんだい?
395 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 01:12:52 0
>>394 つまりは、わたしも「物語」や「現代」といった問題には敏感でありたい
のですが、わたしとあなたのあいだでどうやら出発点も、推論過程も違って
いるところがひっかるのです。質問が多すぎるというのであれば、
>>393だけでも
いいですよ。もういちど繰り返すと、(1)なぜ村上春樹の「折り返し」が反復なのか、
そして(2)「折り返し」と「永遠回帰」の物語が「スノビズム」の物語とどう区別されるのか、
です。もちろん、これらの問題の底にはそもそも現代という言葉に何を含意させるのか、
そして物語という(非常に適用範囲が広く、曖昧な)言葉の内実はなにか、という関心もあります。
396 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/05(火) 01:21:24 0
なるほどなるほど。そうですか。
で、キミはボクの文章を読んでどのように感じたのかな。
397 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/05(火) 01:29:24 0
「プールサイド」 村上春樹は、短い短編ですが、
何度読んでもぐっときますね。
彼は35歳の誕生日に、折り返してはじめての煙草を吸い、
豊かな生活、かわいい妻、そして愛人もいる、申し分ないと思う。
でもなぜか10分間だけ、泣くんですね。
398 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 01:29:42 0
>>396 まず、「現代」の精神病理に思想的なアプローチをかけようという姿勢に共感しました。
次に、そのアプローチを高度のテクノロジーや資本主義の消費活動に求めるスタンスには
それほど新鮮味を覚えませんでしたが(まあ、議論の前提ですからね)、波平さんがオプション
に「物語」をからめ、村上春樹という具体例を出してきたところに興味を惹かれました。
しかし、わたしは
>>383の記述の内容がよく理解できず、これを理解することが議論の前提の
重みにもかかわる手がかりになると感じました。なので、
>>395のような質問に答えていただければ
嬉しい、と思って書きこんでいるわけです。
399 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/05(火) 01:42:24 0
そうですか。では簡単に。
まず「物語」とはなにか。
それは動物と違う人間とはなにか、ということです。
動物は「世界において自分は多くの一人であるということ、
そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくる」世界を生きています。
簡単にいえば、代替可能性です。
自分がいなくなっても、誰かが代替するだけのことです。
しかし人間は、代替可能性を受け入れることはできません。
「世界において自分は誰でもない私であり、
そしてもし自分がいなくなれば、世界は終わる」世界を生きています。
簡単にいえば、子供を失った親は、違う子供で入れ替えることはできない
ということですね。親にとって子供は唯一の存在です。
そしてこの代替不可能性を支えるのが、その人の「物語」です。
その人にはその人だけの物語があるのです。
「自分の物語では自分が主人公」という歌がありましたが、
人間であるということは、「物語」を生きるということです。
しかしそれとは別に、情報によって、僕たちは「世界において自分は
多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくる」
といことを学びます。
すなわち唯一の物語への収束と代替可能性への拡散、この対立の構図で、
ボクの文章を読む必要があります。
400 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/05(火) 01:51:42 0
唯一の物語への収束という人間としての充実
に対して、代替可能性へと拡散力。
現代において、ボクたちは絶えず囁きかけられているのです。
「世界においてお前は多くの一人でしかない。
もし自分がいなくなっても、機械のネジがかられるように
ほかの人が問題なく補い、明日はなにも変わら流れる。」
この拡散の強度をいかに生き抜くか。
それが問題なのです。
「プールサイド」の主人公は、人生の成功者であり、
みんなから羨ましがられ、尊敬されているでしょう。
彼は35歳の誕生日に、折り返し点を受け入れることで、
それでも俺は、「世界において俺は多くの一人でしかない。
もし自分がいなくなっても、機械のネジがかられるように
ほかの人が問題なく補い、明日はなにも変わら流れる」だろう。
それを受け入れて、生きて、そして死んでいこうと近い。
ただ10分間だけ、泣くんです。
401 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 02:19:46 0
>>399 丁寧なレス、ありがとうございます。それでは、続いて質問しますね。
第一に、あなたは代替不可能性を「わたし」、あるいは「わたしに身近な他人」のかけがえ
なさと捉えているようですね。わたしはそう理解しました。誤解があれば言ってください。
そして、そのようなかけがえのなさ、「わたし」の特権性を支えるものが「物語」であると。
しかし、これが 「動物と違う人間とはなにか」ほどに拡大されて理解されると、なぜ村上
春樹流のタフネスが存在しえるのか分かりません。そんなタフネスは「実際にこのように
強く生きられることは大変」である以上に、想定不可能なのではないですか。むしろ、
波平さんご自身がタフネスを村上春樹の物語を読んではじめて受容していることは、そも
そもタフネスへの憧憬や強調が巧妙な「スノビズム」であることを物語っていませんか。
402 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 02:20:44 0
第二に、「情報」という言葉は何を意味しているのでしょうか。「世界において自分は
多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくる」
ことを、なぜ情報が教えることができるのかまだ理解できていません。観点を変えて
質問してみます。「物語」とはそれが基底的なイデオロギーと理解されようと、特権的な
自意識との連関において説明されようと、ある種の情報ネットワークのなかでしか機能
しないと思われます。たとえば波平さんの議論によれば宗教は立派な「物語」を提供
するでしょうが、情報を離れた宗教は考えられません。では、「物語」と区別された「情報」
とはいかなるものであり、それがさきの議論とどう関わっているのですか?
403 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 02:34:23 0
>>400 >唯一の物語への収束という人間としての充実
>に対して、代替可能性へと拡散力。
物語が「唯一」である必要はないと思うのですが。たとえばわたしは、仏教、日本の
習俗、読書、他人との議論、といったさまざまな物語を、「情報」を介して受け入れてい
ます。これらは必ずしも「もし自分がいなくなっても」という想定の孤独を埋めるもの
ではありませんが、なるほど、持続的にわたしのアイデンティティを構成しているという
意味ではわたし自身のかけがえなさと関わっています。しかし、これが「唯一」であった
り「人間としての充実」に収束するかどうかは個人差があるでしょう。また、
>現代において、ボクたちは絶えず囁きかけられているのです。
>「世界においてお前は多くの一人でしかない。
>もし自分がいなくなっても、機械のネジがかられるように
>ほかの人が問題なく補い、明日はなにも変わら流れる。」
少なくとも、統計的な裏付けがないかぎり、これらのどこか実存的な自意識を「現代にお
けるボクたち」の問題にすりかえてはいけないのではないでしょうか? あるいは、この
ような「代替不可能性」からくる苦悩は、同じ小説にしてもすでに19世紀を待たずはっきりと
主題化されていたと思います。本当に、この問題は「現代」の、「ボクたち」のものですか?
404 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 02:51:31 0
>「プールサイド」の主人公は、人生の成功者であり、
>みんなから羨ましがられ、尊敬されているでしょう。
>彼は35歳の誕生日に、折り返し点を受け入れることで、
>それでも俺は、「世界において俺は多くの一人でしかない。
>もし自分がいなくなっても、機械のネジがかられるように
>ほかの人が問題なく補い、明日はなにも変わら流れる」だろう。
>それを受け入れて、生きて、そして死んでいこうと近い。
>ただ10分間だけ、泣くんです。
波平さんはこの物語からタフネスを感受されたようですが、わたしからすれば、10分も
泣く必要がどこにある、とむしろ脆弱さを感じます。「現代のボクたち」が現代日本の
青年層を示すとして暫定的に解釈したとしても、この物語の主人公ほど、「折り返し」まで
自分の未来に幻想的な期待を抱いている人間は少数派だと憶測します。これではタフネス
どころか、物語によっかかって生きてきた実存的人間の、情けない挫折のエピソードのよ
うに思えるのですが、どうでしょう。たとえ、主人公がそののちに「折り返し」地点の覚悟
を貫きとおしたとしても、その背後にいみじくも波平さんがおっしゃられたような「永遠回帰」
や「シジフォスの神話」という新たな物語の再生産が隠蔽されているとも考えてしまいます。
「ボクたち」というのがキーだね。
これが彼の中でその収束と拡散の葛藤を調和に導いている。
似た構図として独創性と普遍性があり、
これは天才の兼ね備える性質だ。
これは貴賤を兼ね備えてるともいえる。
彼が望む成功は天才的な「ボクたち」の成功なのだ。
そもそも成功とは普通、「ボクたちの成功」を意味する。
407 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/05(火) 10:08:21 0
>>401は急ぎすぎです。いきなり村上春樹理解は難解すぎます。
では
>>402から。
代替不可能、私という物語、収束/代替可能性、動物、情報、発散
の対立をキーとしました。
情報とはなにか。といえば、客観的、科学的な情報
これと対比するのが、主観的、形而上学的な物語ということです。
近代以降、社会は科学的な客観性を重視する社会となりました。
科学的とは、還元的、帰納的ということです。人は科学的には、還元化され、
物体(動物)として扱われます。すなわち代替可能な存在です。
すなわち現代において、ボクたちは絶えず囁きかけられているのです。
「世界においてお前は多くの一人でしかない。
もし自分がいなくなっても、機械のネジがかられるように
ほかの人が問題なく補い、明日はなにも変わら流れる。」 と。
そして物語とは、「唯一」である必要はないのではなく、唯一性を支えているものが
「物語」なのです。仏教、日本の習俗、読書、他人との議論、といったさまざまな
物語を、「情報」を介して受け入れているのは、それは情報です。しかしそれを
主観的に受け入れることで、「物語」の一部となるのです。
408 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/05(火) 10:08:58 0
再度いえば、物語とは、生で始まり死で終わるという私だけの一回限りのものです。
同じ物語はどこにも存在しません。そして誰もがみな、自らの唯一の物語を生きている
のです。それは失われると決して再生することはできません。だから人の命は尊いの
です。それに対して動物には、物語はありません。だから動物が死んでも次の動物で
代替されるだけです。でも動物のペットに人々は愛情を注ぎ、代替できない、と
いえますが、これがペットが物語をもつのではなく、その人の物語の一部を構成する
かけがえなさなのですね。
このような収束と拡散の苦悩は、人間が本来もつ原罪のようなものですね。
これを並んだ苦悩は、動物としての生存の苦悩です。いかに安定した衣食住を
確保するのか、どちらかといえば、人類にとってこちらの方が重要な悩みであり
続けました。しかし近代、そして産業革命、高度情報化社会へと、生存の苦悩は
緩和されてきました。
そして、コジェーブの動物化、すなわち歴史の終焉論を背景にすることができます。
ボクたちは歴史の終焉を生きている。それ故に、収束と拡散の苦悩がより大きな
ものになっているのです。
409 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/05(火) 10:09:51 0
では、今度はこちらから質問をしましょう。
あなたはコジェーブの動物化、スノビズムなど歴史の終焉論をどのように考えていますか。
知らない、「統計的な裏付けがない」から納得できないといわれると、困惑していまいます。
ボクの考え以前の議論であり、そこまでつき合いきれないからです。
あと、村上春樹はなにを読んだことがありますか。「プールサイド」は読みましたか。
ボクの考えがどういぜんに、読まずに、議論することに意味がありますか、いかが?
410 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 10:15:41 O
どうしてこいつは見下ろした視線しか持てないのかね。
純一がんばれ
412 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/05(火) 14:43:57 0
「プールサイド」については、読んでもらうしかないのですが、
折りかえし点という表現は、タイトルにもあるように水泳からきています。
ボク(村上春樹)と彼(この物語の主人公)はスイミングクラブで知り合い、
この話をボクにします。
彼はプールでの水泳を一つのメタファーにして人生を考えているのです。
プールとはただの四角いコンクリートの箱であり、それを往復(反復)するのです。
すなわち彼がプールによって表したことは反復なのです。
人生とはただの四角いコンクリートの箱を往復し続けることである、という人生
哲学がそこに隠されています。彼のこの反復からくる退屈の強度を
タフに泳ぎ続けている。
「70年をフルスピードで泳ぐ−そう決めてしまうのだ。そうすれば俺は
この人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。
そしてこれで半分が終わったのだ
と彼は思う。」
俺はうまくやっている。そしてこれからもうまくやれる。
ただ10分間だけ涙が流れる・・・
これをニーチェの永劫回帰にどのようにつながるのか。永劫回帰には
様々な読みがありますが、ボクの「物語」論でいえば、人生は一度きりの「物語」である
ということが自らの尊厳を支えますが、永劫回帰においては、この尊厳のよりどころの
一回性が永遠に反復されるということです。そこにはそれでもこの反復を肯定する強い
超人的な肯定(タフさ)が求められる、ということです。
果たして人は村上春樹風超人的に生きることにあこがれるだろうが、実際に
生きることはできるだろうか。オタク的な生き方とは、このような強度を回避するために
生み出されたともいえると思います。オタクは反復をさけ、終わりのない物語として、
自己組織的に物語を紡いでいくのです。
413 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/05(火) 14:52:51 0
折りかえし点を見いだすということは、終わり(死)への覚悟をするということです。
これはハイデガーの死への先駆的覚悟性につなげることもできるでしょう。
そしてとても西洋思想的で個人主義的なものです。
自己組織的に物語を紡いでいくというのは、単に死を直視することからの
回避というネガティブな面だけでなく、東洋的な思考であるのかもしれません。
ボクがいった「物語」とは、生で始まり死で終わるという私だけの一回限りのものですが、
私には親がいて、子がいてというような集団的な連続性の一部として
自らを受け入れる肯定することもありえます。
日本においては、むしろこのような集団の一部としての自らを見いだす、
犠牲にする伝統を生きてきました。
このように考えると、自らの物語を美しく完成させようという村上春樹的な美学ではなく、
自らは薄汚く散っても、それによって世界が新陳代謝していくことを良しとする、
美学がオタクの根底にはあるのかもしれません。それこそがコジェーブがいった、
日本的なスノビズムでしょう。
414 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 15:48:33 0
このウンチマンいい加減死んでくれないかね?
415 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 15:50:25 0
/
∧__ __∧ | はーいムチが欲しい人は
,ゝ、)`Y´(_ノ / ここに正座ー
∠XリリリリリリXフ  ̄\_________/
川、^∀^ノ||
<^(_●Y●_> /)) ムチー ムチー ムチー
< < 〉】爻【ヽヽ,/ (( \ / \ / \ /
. (_ノl^~▼〕 じ )) ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
/ /|´ | (( (´∀` ) (´∀` ) (´∀` )
イ / | l )) と と ) と と ) と と )
し! ヾ_) ν (__(_つ (__(_つ (__(_つ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
えい 〜〜〜〜〜〜
えい || ノノ
∧__ _.∧ || ミ
,ゝ、)`Y´(_ノ ||
∠XリリリリリリXフ( )
/つ川、^∀^ノ|/〃
ヾ二(●Y●)^>´ )) アハーン ウフーン ワショーイ♪
>】爻【l^ヽヽ、 il!il ☆ \ / \ / \ /
(^`▼〕 じ======〜〜 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
> `)/ Σ(*´Д`Σ(*´Д`Σ(*´∀`∩
し イ | と と ) と と ) ( つ リ
l__) (__(_つ (__(_つ (__(_つ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
416 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/05(火) 15:54:56 O
たとえば本来の社会的な演技は本音と建前の使い分けによる円滑な社会関係を営むことにあるが、
オタクの過剰な演技は建前をこえてみずからをさらけすぎることを緩和するためである。
彼らは内向的で閉塞するゆえに、コミュニケーションそのものが苦手で自己表現が過剰になってしまう。
これを緩和するためにオタク的なキャラを介することを学ぶ。
417 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/05(火) 16:02:53 O
このような内向性は豊かな社会の子供がもつものだ。そして日本ではオタク的なものはこのような内向的な力の受入先となっている。
わかりあいたいというベタさがある。オタクがロリにむかうのもそのためである。
大人の社交的な、あるには建前的な関係はにがてなのである。
418 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 19:12:00 O
どの板見ても同じキチガイコテハンがいる気がする。
419 :
考える名無しさん:2008/02/05(火) 23:21:33 O
サウンドオブサイレンス
420 :
391:2008/02/06(水) 00:51:40 0
非常に丁寧に応えていただき、ありがとうございました。まずは、議論の方法
にかかわる質問からお答えしたいと思います。
>>409 >では、今度はこちらから質問をしましょう。
>あなたはコジェーブの動物化、スノビズムなど歴史の終焉論をどのように考えていますか。
>知らない、「統計的な裏付けがない」から納得できないといわれると、困惑していまいま
>す。 ボクの考え以前の議論であり、そこまでつき合いきれないからです。
>あと、村上春樹はなにを読んだことがありますか。「プールサイド」は読みましたか。
>ボクの考えがどういぜんに、読まずに、議論することに意味がありますか、いかが?
第一に、「統計的な裏付けがない」ことと、議論の前提となっている哲学用語を「知らない」
ことは根本的に別問題です。前者については議論の説得力の問題であり、「現代のボクたち」
という言葉の外延が検証可能でなければ、議論はたんなる印象論か説教に陥る危険性が
あるからです。しかし、この問題はさておいて、後者の問題に答えましょう。
第二に、村上春樹は『世界の終り~』と『ねじまき鳥』、『海辺のカフカ』をはじめとする
代表的長編は読んでおります。あまり好きではありませんが、安西水丸とのコンビのエッ
セイなども読みました。コジェーブはほとんど読んだことがなく、ヘーゲル本の翻訳が
本棚でほこりをかぶっているくらいです。しかし、「動物化」にかんする現代思想関係は
新書で読んだ覚えがありますので、ある程度の関心は共有できるでしょう。
第三に、
>>401はともかく、ほかの質問はコジェーブや村上を読んでいなくとも議論でき
る内容です。わたしは、哲学の議論は「読まずに、議論すること」ができ、既存の哲学の
テクニカル・タームに依存することなく検討可能なものであるべきだと考えています。
ただし、今回はわたしがあなたのスレッドに赴いて質問しているわけですから、少なくと
も小説の解釈に踏み込むときは読んでおくべきでした。今後はもっと理解に努めましょう。
421 :
391:2008/02/06(水) 01:05:14 0
以下、議論を「情報」および「物語」という概念に絞って質問しようと思います。
>>407 >情報とはなにか。といえば、客観的、科学的な情報
>これと対比するのが、主観的、形而上学的な物語ということです。
>近代以降、社会は科学的な客観性を重視する社会となりました。
>科学的とは、還元的、帰納的ということです。人は科学的には、還元化され、
>物体(動物)として扱われます。すなわち代替可能な存在です。
さて、以上の文でわたしがもっとも気になるのは、情報と物語の区別があまりに短絡的
な科学の理解に基づいているように思われることです。まず、科学が「客観性を重視」し、
人を「物体(動物)として扱う」としても、だからとって人を「代替可能な存在」として
扱うことは帰結しません。このような推論はデカルトさえおこなっていないほど単純な、
「現代」というよりロマン主義に近い科学理解だと考えます。
たとえば、現代の科学において進化論、神経科学、遺伝子工学は(必ずしも「還元」的では
ない仕方で)ホモ・サピエンスを扱います。しかし、遺伝子技術の浸透がどうして人に「代
替可能な存在」であることを教えることになるのでしょうか。むしろ、DNA配列の特異性
は個人間の「代替不可能性」を教え、同時に進化論という科学的「物語」の代表と折り合
わされつつ、ヒトをして「大きな流れの一部として見いだ」させしめうるものです。なる
ほど科学はヒトを分析可能な対象として客観化しますが、そのことと代替可能性の教示は
さしあたって切り離して考えるべきでしょう。いかがですか?
しかも、波平さんは続く議論で「情報」にかんする不整合な議論をおこなっているように
思われます。「仏教、日本の習俗、読書、他人との議論、といったさまざまな 物語を、
「情報」を介して受け入れているのは、それは情報です」とおっしゃっていますが、ここで用
いられている「情報」概念は科学的客観性というよりも、むしろたんなるメディアとして
機能するようなネットワークが念頭に置かれているようです。わたしが書物を通じて仏教
を「受け入れる」とき、「客観的、科学的な情報」がどこで機能しているのですか?
422 :
391:2008/02/06(水) 01:45:21 0
>>408 続いて「物語」なのですが、正直に申し上げてこの概念の内実が理解できません。波平
さんの記述から窺えるのは、「物語」が(1)生ではじまり死で終わる、(2)同じものは存在しな
い、(3)わたしの唯一性を支える、(4)いちど失われると再生しない、(5)動物はもっていない
が、人間ならばもっている、(6)人の尊厳を支える、 (7) 現代の情報化社会において、一つ
の物語を信じ続けることは難しい、(8)スノビズムは孤独を再物語化する、といった諸要素
の集まりです。これらは客観的検証ができないことは言うまでもなく、哲学的論証もなく
前提とされているものなので、要素間関係を明確にして理解に努めたいと思います。以下、
簡潔に質問しますね。
第一に、物語は「霊魂」とどう違うのか。物語という概念は本来「語り、聞かせる」とい
う含意をもっていると思っていたのですが、どうやらこの概念に言語的な要素も、ナラテ
ィヴに関連する要素も決定的な要件ではなく、ヒトがヒトであるための超越論的な条件と
して考えられているようです。なぜこの概念を「物語」とよぶ必要があるのでしょうか?
423 :
391:2008/02/06(水) 01:46:16 0
第二に、(2)同じものは存在しない、(4)いちど失われると再生しないのであれば、(8)スノビ
ズムが物語を「再生産」するのは奇妙ではないでしょうか。ヒトの尊厳を支え、唯一性を支
えるようなものが、いかにしてもういちど・生産されるのかその過程を説明して下さい。
第三に、(7) 現代の情報化社会において、一つの物語を信じ続けることは難しい、という記
述がありますが、「物語」を「信じる」とはどういうことですか?この定義だけを解釈する
と、信じるという命題的態度の対象である以上、物語は命題的構造をもった言語的表象で
あるようです。これは第一の質問とも関わるのですが、そうすると、「物語」概念を構成す
る命題群と、「物語」を構成しないたんなる信念の総体は、いかに区別されるのですか?
結局、わたしの印象では、波平さんの物語論はきわめて広範であり、包括的であるという
おおがかりな魅力をもっている一方、(a)ロマン主義的な科学の誤解、(b)情報概念の不明瞭、
(c)物語概念の規定ミスにより、実質的・具体的な問題に適用するに耐えうる「強度」を
もっていないのではないでしょうか? 挑発的なものいいで恥ずかしいのですが、ぜひ
反論をいただいて議論を深めたく思います。
424 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 01:52:50 0
村上春樹はそれなりに読んでいるのですね。それはよかった。まったく読んだことがないと
なると、議論がまったく意味を持ちません。しかし、前半の返答がないのは残念ですね。
再度問いましょう。 あなたはコジェーブの動物化、スノビズムなど歴史の終焉論をどのよう
に考えていますか。知らない、「統計的な裏付けがない」から納得できないといわれると、
困惑していまいます。 ボクの考え以前の議論だからです。
とりあえず、ここで行き詰まると次へ進めないので、返答待ちでもよいのですが、
続きの質問があるので、せっかくなので、これにも返答しましょう。
しかし残念ながら、これも質問です。科学と非科学の違いはなんだと考えますか。
質問に質問でというのは、よいことではありませんが、これは勘弁いただきたい。なぜな
ら、これらの質問はボクの考えの議論を前提としても、僕の考え以前の議論=純粋に哲学
的な問いだからです。あなたの議論はこれらをごちゃ混ぜにしています。
少しずつもつれた糸をほぐしていきましょう。
425 :
391:2008/02/06(水) 02:23:06 0
>>424 >コジェーブの動物化、スノビズムなど歴史の終焉論をどのよう
>に考えていますか。
もし、コジェーブの議論が波平さんの「物語論」と同じように、哲学的な論証
が不十分なのであれば、「実質的・具体的な問題に適用するに耐えうる「強度」を
もっていない」という
>>423の印象は変わりません。「歴史の終焉」にかんしては、
手持ちのヘーゲル本をこれから読まないとわかったようなことは言えませんね。
「動物化」は、それにかんするコジェーブの発現を読んだことがありません。
しかし、
>>421-423の議論はさしあたりコジェーブ抜きにも議論できるというのが
わたしの考えです。わたしはコジェーブに興味があるのではなく、あなたの「物語論」
に関心をもっているのです。「情報」とはなにか、「物語」とはなにか、という問題は
あなた自身の言葉で語ることのできることであり、基底的概念が「ボクの考え以前」で
あればそのような議論は哲学ではなくコジェーブ・プロパーの宣伝活動になってしまいます。
あなた自身の言葉で語ってください。しかし、
>>421-423の質問のうちに、どうしても
コジェーブに語らせなければ説明できない箇所があるというならば、その箇所と参考文献
を明記していただければ、わたしも読んでみましょう。
>科学と非科学の違いはなんだと考えますか。
わたしは、科学と疑似科学、科学と非科学の線引きは原理的に不可能であると
思っています。しかし、その違いを説明するうえでもっとも有益な観点は、
仮説の反証可能性がありやなしや、ということにあると考えます。
426 :
考える名無しさん:2008/02/06(水) 06:03:52 O
新型名無しリーマン登場W
固定さん偏差値ランキング
(85)OFW、
(83)蝉寝る
(82)Gilles
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜プロとアマの境界線
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(75)・e・、ちんぽ太郎、電波男、伍長、猫、ぺんぺん
(72)稲、ののたん
(70)死刑囚。(=若頭)、ミック、Rage、ポール(初心者その1)、しろうと
(69)仏検3級
(60)猫電波、二酉、代理いぬ、兄(=フィロゾファッカー)
(55)Kurihara
(50)あちょー
(45)機械、びたみん
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(35)胡雨、チーズ
(33)労働、姥捨て
(30)ひかる、蘭貢、Tar、蛙かえるカエル
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜厨房の境界線
(27)ぴかぁ、いぬのめい、かい=ネオ・クラムボン
428 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 10:46:27 0
>>425 このような素朴さで質問されていると、ん〜なかなか厳しいですね。
中二病という言葉がありますね。これは往々にして、若くてわかっていないのにでか
いことをいう、というようなネガティブな意味で使われますが、必ずしもそれだけでは
ないと思います。
柄谷は、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論をもとに、他者とは言語ゲームの外部
にいる外国人や幼児であるといいました。思春期とは子供から大人になり、社会に
参入していく時期、すなわち言語ゲームという内部に参入する前、外部と内部の境
界にいる他者性をもつ存在であると思うのです。
他者の特徴は、言語ゲーム的な常識を内面化していない分、あたりまえと思うよう
なことを素朴に問うような斬新さがあります。外国人や幼児が素朴に問うことにド
キッとして、ハッとさせられることがあるのはそのためです。
ただ中二病がこれだけメジャー化して、ネガティブに使われる場合は、思春期をす
ぎて、経験をつみ社会に順応すべき年齢の大人が、引きこもりなどで社会経験をつ
まずに、素朴に問うことのKYさへの批判という意味が大きいように思います。
哲学的な論証や、客観的、科学的な論証とはなにか、というような、素朴な疑問は
とても初心者らしい鋭いところをついているのですが、すでにある種の前提をもとに
話を進めているスレでは、ちゃぶ台をひっくり返すとても傲慢な態度であることは否
めません。
おそらくお金を払ってでもしなければ、このような段階から懇切丁寧につき合う人は
見つけられないと思います。「おいおい、そんなこともわからずに、場をぶった切って
しつこくからんでくるのか。おまえどういう社会経験を積んできたんだよ。どうせ世間
知らずの引きこもりだろう。俺様に質問するなんってのは10年早いんだよ。調子乗
るなよ。ぼけが」とボクはいいませんが、いわれても仕方がないと思うのです。まず
自ら勉強するしかないと思うのですよ。
429 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 10:47:13 0
では哲学的な知識がなければ議論できないという排他的な態度なのかというと、そ
ういうことではありません。ボクはこのような話題に対する好ましい態度には二通り
あると思います。
たとえばオタクであるとか、村上春樹について話をしていますが、これらを実際に体
現するものとして素朴な心象において、議論するという態度です。あなたはこのよう
にいうが、ボクはこのように感じる。これは主観的なものであり、必ずしも客観的な
事実にたどり着くことを目的にしませんし、その必要もないと思います。
もう一つは哲学的な前提を理解し、現象に対する様々な哲学的思想を議論するよう
なメタ議論です。たとえばコジェーブの「動物化」をこのように展開するのは真意で
はないのではないか、というような。
ようするに、ボクが返答するとしても、キミが望むような中二病的な返答を期待され
ても困る。勉強代を払ってくれない限りはね。(当然、冗談ですよ)ということです。
これを前提に、簡単に質問に答えてみましょう。
430 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 10:47:56 0
混乱しているのは、ボクの「物語」という独特のタームがわかりにくということでしょ
う。先にのべたように、物語とは形而上学的なものです。よりわかりやすくいえば、
「私はなにものであるか?」ということに対する答えです。「ボクは〜年生まれで、〜
という父母の間に生まれて、〜のような性格で、〜のような経験をして、〜のような
長所短所があり、〜のような夢をもち・・・」ということです。このような物語が物語とし
て強度をもつ、すなわち「私はなんであるか?」により明確に答えようと紡がれる力
は、現存在が現存在たるための、ハイデガーの「死への先駆的覚悟性」によると考
えています。すなわち死という終わりがあることで、物語は紡がれる。終わりがない
ところに物語は生まれない。だから動物には物語がなく、そして「死もない」、という
ことです。
コジェーブが動物化でいったことは、物質的な満足の中で、「私はなんであるか?」
という問いが失われる。現存在が現存在たるための「死への先駆的覚悟性」が失わ
れる。極端にいえば、ただ今が刺激的で満足であることで時間が経過し、気がつけ
ば死んでいた、ということが理想的な動物化です。
431 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 10:48:41 0
ボクが説明不足だったのは、物語にはまた異なる意味もあるということです。それは
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に近いものともいえます。言語ゲームは集団に
共有されている物語です。では現存在的な物語と言語ゲーム的な物語の関係はど
のようになっているのでしょうか。現存在的な物語は、言語ゲーム的な物語がなけ
れば存在しません。しかし現存在的な物語は人それぞれ唯一のものです。すなわ
ち現存在的な物語は、言語ゲーム的な物語をリンクしつつ、独自性をもつということ
です。そして重要なことは現存在的な物語はどの程度、言語ゲーム的な物語を関
係するか、ということです。
432 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 10:49:30 0
ボクは、動物には物語がなく、そして「死もない」、といいました。これはおかしいと思
うでしょう。動物だって死ぬよ、と。これがこの議論の確信です。ボクはこれについて
いままでも何度も説明してきましたので、ボク的には耳たこですが、引用してみま
しょう。
>>
代替不可能な死
このような死への神性は虚構であるといえるだろう。しかし人の死と動物の死の違
いは生物学的な差異ではなく倫理的な差異でしかない。すなわち死とはそもそもそ
こにしかない。だからこそ人は他者の死に対して背負えない負債をおうのだ。
たとえば、僕たちの内部では今も多くの細胞が「死んでいる」。これは、細胞を「個」
と考えると、細胞は死んでいるのであるが、僕たちを「個」と考えると、僕という個を
生存させるための新陳代謝である。あるいは蟻は細胞のように集団の役割にそっ
てその形態が異なる。蟻1匹の死は個体の死であるが、集団の新陳代謝でもある。
そしてこれは生物学的には人間にも言えるだろう。人間の死は個体の死であるが、
社会の新陳代謝であると。しかしこのような考えが問題であるのは、細胞であり、蟻
であり、そこには代替可能があるからだ。1つの細胞が死ねば、すぐに他の細胞が
代替する。1匹の蟻が死ねば、すぐに他の蟻が代替する。
しかし一人の人が死ねばすぐに他の人が代替するだろうか。交通事故で子供を亡く
した親は他の子供で代替可能だろうか。このような「個」への強い思い、人はだれと
も代替されない唯一の存在であるという代替不可能性が人間と動物を分ける倫理
的な次元を開く。
なぜ科学技術は死を溶解するのか
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071017 <<
433 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 10:50:05 0
生物学的(科学的)に死は、「脳死」などのようで定義されていますが、必ずしも移植
などの利便性を考えて、最近定義されたものです。本来ボクたちが考える「死」と
は、人の尊厳を支えるための倫理的なものでしかない。それは、人間は一人一人
かけがえがない存在であるという「個」への強い思いによってのみ、支えられています。
これに対して、「集団」というものを重視するとき、個というものは集団の一部となり、
個人の死は集団の新陳代謝としての面が強調されてしまいます。
再度、物語論にもどると、現存在的な物語とは「死」という終わりがあるから物語とし
て成立する、「個」への強い思いに支えられてものです。言語ゲーム的な物語は、あ
る文化集団の神話ですが、これを強調する場合には、個人の死は物語の終わりで
なく、集団の神話の新陳代謝として自己組織的に紡がれていくものです。
前者は西洋的、サヨ的、そして村上春樹風はこちらの傾向が強いでしょう。それに
対して、後者は東洋的、ウヨ的、そしてスノビズムはこちらの傾向が強いでしょう。こ
れらはどちらかということではなく、どちらの傾向が強いかというようなものです。
434 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 10:53:08 0
ボクの物語論では、何度のいうようにこれにさらに、物語への収束(代替不可能性)
と物語の拡散(代替可能性)という対立軸が入ってきます。再度いえば、科学技術
重視の情報化社会では、形而上学的な物語は主観的なものでしかないと攻撃され
ています。個の物語「私はなぜ生きているのか」には、「確率論の問題でたまたま生
きているだけ。意味はない。」と解体され、集団の物語「人の尊厳とはなにか」、「尊
厳とは幻想であり、増殖が生物の本能だor集団の方が経済的に効率がよい」と還
元主義的に解体される。この先には、ただ今が刺激的で満足であるならば、それで
いいだろうという動物化があります。
そしてしかし人はそう簡単に動物化して充足することはできません。だから物語の
拡散(動物化)の反動として、個の物語は村上春樹風に向かい、集団の物語はスノ
ビズムに向かうのではないでしょうか。
まとめると以下のようになるでしょう。
科学軸 物語(収束)−情報(拡散)(動物化)
形而上学軸 個の物語(村上春樹風)−集団の物語(スノビズム)
あるいはやや強引ですが、
科学軸 物語(収束)−情報(拡散)(経済的リバタリアン)
形而上学軸 個の物語(サヨ、リベラル)−集団の物語(ウヨ、コンサバ)
第三の波平(ぴかぁ)の書いていることは全部テキトー。
初学者イジメしか能のないただのバカなんで、みんな気にしないでね。
436 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 11:37:07 0
>遺伝子技術の浸透がどうして人に「代替可能な存在」であることを教えることにな
>るのでしょうか。むしろ、DNA配列の特異性は個人間の「代替不可能性」を教え、
>同時に進化論という科学的「物語」の代表と折り合わされつつ、ヒトをして「大き
>な流れの一部として見いだ」させしめうるものです。
一つに追記しましょう。西洋哲学の根底には、人間/動物という対立が流れてきま
した。ギリシャ時代でいえば、人間とは労働から解放され、社会の中で自由で平等
に振るまえる主人です。動物は奴隷など主人に従い、労働に従事するものです。今
ではわかりにくいですが、このような人間/動物対立は、いまでいえば科学的な客
観性をもつほどに常識的でした。
いまでいえば、人間と動物は、DNA配列によって客観的に分類されますが、そのよ
うなデータが存在しない時代には、人は生まれか、教育かという議論とともに、生物
学的に人間には優秀な人間から、下等な人間が存在すると信じられていました。大
航海時代に有色人種に行われた非道は、同じ優秀な人間として認められていな
かったという、常識を背景にしている面があります。あるいはナチスなどの優生学ま
でもこの系譜はみることができるでしょう。
では現代、DNAの発見によって、人間/動物対立は解決したのでしょうか。ここに
は新たな科学的な還元主義を背景にした差別の可能性があります。人間と動物
は、DNA配列によって差異化されたとして、人間の中でDNA配列の差によって、優
劣が決められる可能性があります。たとえば精子バンクでは優秀な遺伝子というも
のがあります。あるいはDNAの解明によって、より客観的に根拠によって、優秀な
DNAが特定され始めています。様々な病気に強いDNAであるとか、あるいは肥満に
関係するDNAなど。
ここには明らかに還元主義的な短絡があります。人間の優秀さはDNAに還元でき
るのか。再度浮上するのは、人は生まれか、教育かという議論です。この先に、
DNA優生学という差別が生まれる可能性は高いのです。だから遺伝子に関する科
学事件はたえず倫理的な議論を呼び続けているのです。
437 :
考える名無しさん:2008/02/06(水) 12:15:44 0
これだけ書いてんのに、読んでもまったく共感が湧いてこないんだよな。
言葉や規定に対する苦闘がないんだよね。だから軽いし、いつまでたったも
いい加減なことをテキトーに書いているという印象を払拭できないし、
議論も行われないんだね。かわいそーーww
438 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/06(水) 12:45:02 O
まったくバカだな。
議論が進まないのは別に新しい点がないからだろう。哲学の初歩をまとめてるだけだろ。
439 :
考える名無しさん:2008/02/06(水) 13:09:41 0
なんだツマラン奴、「哲学の初歩」だとwww。純一、もういいかげん
目覚めなさい
440 :
考える名無しさん:2008/02/06(水) 16:37:22 O
純一とは違うようだが
自惚れ屋で哲学カブレの駄文に読むべきものは見当たらぬ。
441 :
考える名無しさん:2008/02/06(水) 16:40:49 O
ボクの「物語」という独特のタームがわかりにくということでしょう
笑わせんなハゲ
442 :
考える名無しさん:2008/02/06(水) 17:43:57 0
波平の議論についていけない初心者が必死なスレはここですか?
443 :
391:2008/02/06(水) 19:59:57 0
こんばんは、また議論の方法にかかわる問題から確認していきましょう。
まずは、
>>428のレスポンスは、わたしの
>>421-423の質問を根本的に誤解しておられ
るように感じました。わたしは
>>421において(1)「情報」概念が同じレスポンスのなかで
二つの相反する意味を担っていること、
>>422-423において(2)「物語」概念が互いに不整
合な要素をもっていることを指摘しました。議論において矛盾・不整合があることを指摘
することは、「ちゃぶ台をひっくり返すとても傲慢な態度」ではなく、ともに議論を検討
するための最低限のラインです。そして、「すでにある種の前提をもとに話を進めている」
としても、前提から帰結を導出するまでの過程に矛盾・不整合があれば修正する必要があ
るでしょう。いわんや、それにかえて質問者に「中二病」のラベルを貼り、「独特のターム」
や「ある種の前提」を盾に正当化をはかる戦略は、哲学の初心者とか、高等者とかいう基
準を持ちだす以前に、哲学の誠実さにかかわる問題だと思われます。いかがですか?
444 :
391:2008/02/06(水) 20:00:47 0
とはいえ、あなたのスレッドにお邪魔して質問をしているのはわたしなので、たしかに、
前提とされている知識を共有する必要はあると思われます。そこで、さしあたって邦訳の
ヘーゲル本の一章、七章、九章と、対応する『精神現象学』の記述、ならびに『歴史哲学
講義』をサーベイしました。しかしそれでも、あなたの議論の不整合と、既存の哲学概念
に正当化の根拠を置く不誠実は変わりがないと考えます。何度も申し上げますが、わたし
はあなたの物語論に関心をもっているので、まずはその不整合を取りはらうために「自分
の言葉」で語ってください。あなたは「ボクの「物語」という独特のターム」を説明する
ために今度はハイデガーとヴィドゲンシュタインを引き合いに出しています。しかし、
「先駆的覚悟性」は愛嬌としても、この文脈で「言語ゲームは集団に共有されている物語
です」という主張は明らかに誤読でしょう。『探究』ならば原書と邦訳いずれも手元に
あるので、議論したければヴィドゲンシュタイン解釈で議論するのも吝かではありません。
445 :
391:2008/02/06(水) 20:01:57 0
しかし、わたしの主要な関心はそのような哲学史の議論ではなく、なによりもあなたの
物語論です。コジェーブも、ハイデガーも、ヴィドゲンシュタインも前提とせずに問う
ことができ、答えられる質問を繰り返しますので、まずはこの矛盾・不整合を認めるか、
反駁するかしていただきたく思います。「物語」については「わかりにくい」「説明不足」
という譲歩をいただいたので、さしあたって「情報」について
>>421の質問を繰りかえ
しましょう。
>>407において、あなたは情報を「客観的、科学的な情報」と定義する一方
で、「仏教、日本の習俗、読書、他人との議論、といったさまざまな物語を、「情報」を介
して受け入れているのは、それは情報です」とおっしゃられています。しかし、わたしが
書物を通じて仏教を「受け入れる」とき、「客観的、科学的な情報」がどこで機能している
のですか?
446 :
考える名無しさん:2008/02/06(水) 20:06:52 O
自演して何が得られる?
頭おかしんじゃねーの?
ハゲ
447 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 20:16:37 0
>>443-445 長文読みました。しかし大変困ったことが起こっています。
先の繰り返しで、ボクの
>>428-429が全く理解されていません。
ヘーゲル本の一章、七章、九章と、対応する『精神現象学』の記述、
ならびに『歴史哲学講義』がなんの関係があるのか、理解に苦しみますし、
『探究』ならば原書と邦訳いずれも手元にあると自慢されても、
どうしていいのか、わかりません。
これでは、
>>428-429をよく読め。
これ以上のことはいえませんよ。どうしちゃったのですか。
大変残念です。
448 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 20:26:15 0
449 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 20:42:28 0
ボクは決して、キミを馬鹿にしているわけではないのです。
あなたの初心者故に素朴な問いはとても大切なものだと思うのです。
ただそこまで掘り下げて、キミにつき合う理由がまったく見あたらないのです。
さらにはこの問いには、安易に誰かに聞くのではなく、まずあなた自分自身が
苦労して思考するべきものです。そうすればきっとあなたの血肉になると思いますよ。
ヘーゲル本の『精神現象学』、ならびに『歴史哲学講義』、
『探究』の原書なんっていう、箔をつけようという子供じみたレスも
することなく、どうどうと哲学議論をできるようになりますよ。
とりあえず、
>>424に戻りましょう。
・コジェーブの動物化、スノビズムなど歴史の終焉論をどのように理解するか
・科学と非科学の違いはなにか
ボクの物語論を理解するのはそれからでも遅くはありません。
ボクだって物語論をここしばらく、繰り返し思考しているのですから。
お互いがんばっていきませう。
451 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 22:09:06 0
>>445 よく読めば、少しづつ理解してもらっているようですね。
もっと素直に自己を表現すればよいのですよ。
いつも喧嘩腰と、対人関係の態度で損をしていませんか?
「物語」について理解していただいたようですね。
>「情報」について、わたしが書物を通じて仏教を「受け入れる」とき、「客観的、
>科学的な情報」がどこで機能しているのですか?
一頃でいえば、ニーチェ的な系譜学的に、ということですね。
近代以降、科学的な思考を身につけていく中で、
物語を素朴に、ベタに信じることは難しくなっています。
たとえば、宗教について学んでも、教えそのものをベタに信じるのではなく、
それを系譜学的なメタ視点によって、理解していませんか。
情報化社会の現代人はとくにそれが一般化していますね。
452 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/06(水) 22:12:41 0
ん〜完全に過保護ですね。
おそらくここまで懇切丁寧に時間をさいてただで説明をあげる人は、
そうそういないでしょうね。
反省します。
453 :
391:2008/02/07(木) 00:24:51 0
レスありがとうございます。冷静に、「喧嘩腰」でない議論をおこなうことはわたしの望む
ところでもあります。さて、「物語」はまだまだ議論すべきところがたくさんありますが、
まずは「情報」から片付けていきましょう。仏教を受け入れるとき、いかなるかたちで
「科学的情報」が機能しているかを問うわたしの質問に、あなたは
>一頃でいえば、ニーチェ的な系譜学的に、ということですね。
>近代以降、科学的な思考を身につけていく中で、
>物語を素朴に、ベタに信じることは難しくなっています。
>たとえば、宗教について学んでも、教えそのものをベタに信じるのではなく、
>それを系譜学的なメタ視点によって、理解していませんか。
>情報化社会の現代人はとくにそれが一般化していますね。
という答を展開されました。わたしは、この答は端的に間違っていると考えます。
第一に、「教えそのものをベタに信じるのではなく」、「系譜学的なメタ視点によって、理解」
することは、別に「ニーチェ的」ではありません。ニーチェは道徳をはじめとする価値の
歴史を暴きたてる哲学的方法論として「系譜学」を考案したのであり、それが「情報化社
会の現代人」に一般化されることはありえません。むしろ、そこで一般化されている価値
の総体をえぐり出すために哲学者が用いる方法論が、「系譜学」とよばれるのです。
第二に、たとえ「教えそのものをベタに信じるのではなく」、「メタ視点によって、理解」
することを「系譜学」とよんだとしても、そのような系譜学と情報の「科学的・客観的」
性格はいかにかかわっているのですか? 非科学的な仕方で「メタ視点」をもっている
人もいますし、科学的に考えるからといってそれが「メタ視点」である必要はありません。
したがって、「メタ視点によって、理解」することは「科学的・客観的」情報の関連を
含意しません。あなたのレスポンスはいささか乱暴すぎる推論ではありませんか?
ここでニーチェ的というのはニーチェがしたようにというような意味では?
で、それは物語を破る機能が備わっていて、それを通し濾過されると物語は情報になってしまうわけでしょう。
主観性を失ってしまう。
生気を失ってしまう。
恐らくトリップをつけてるぐらいですから、彼は、そんなことけしからん! と怒っているんですね。
455 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 01:32:26 0
>>453 この程度の回答がよいようですね。
自ら考えることは、とても重要なことです。
では、このように言ってみるとどうでしょうか。
近代以降、科学的な思考を身につけていく中で、
物語を素朴に、ベタに信じることは難しくなっています。
たとえば、宗教について学んでも、教えそのものをベタに信じるのではなく、
それを「パースペクティブ」にメタ視点によって、理解していませんか。
情報化社会の現代人はとくにそれが一般化していますね。
情報というのが、物語の死体で、
情報は主観的に認識しなければ再度物語にならないと。
現代人は科学的な見方の優越性を信仰していて、教育を受ければ受けるほどそうなる傾向があり、主観性をいかに取り除くかと腐心するほどであると。文字通り腐心してしまうと。
だからボクは働かないんだ。ボクがボクであるために…ボクであり続けるために…
畜生!! ボクは生きてやるんだ。誰がなんといおうと構うもんか!
生きてみせる…、生きてやるぞ、生き生きと…なw
まあこんな感じでしょう。
457 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 01:54:50 0
>>454、
>>456 けしからん!と怒ってはいませんが、まあ、そういうことです。
答えがでてしまいましたねw
458 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 02:05:57 0
「系譜学」というのは、ニーチェが行ったことだけでなく、
フーコーなどに受け継がれ、広義の意味を持ちます。
その歴史的な意味を考えると、客観性を見いだす方法論です。
しかしこの客観性とはなにか答えが一つあるということではありません。
先に、科学とは反証可能性があること、というのがでました。
科学が客観的であるというのは、懐疑する可能性に開かれている、
ということです。
系譜学というのは、一般化されている価値の総体をえぐり出すのではなく、
懐疑する可能性を開くパースペクティブを持つと言うことです。
ボクが科学的であることを、ニーチェ"的"な系譜学"的"と表現したのは
このような意味なのです。
ボクは「科学とは反証可能性があること」というような強い表現はしません。
これによって、心の科学や、進化論など多くのことが排除されるからです。
しかし反証可能性"的"とはいえるでしょう。すなわち懐疑する可能性に
開かれているとうことです。
>>457 当たりましたか。一読しただけでうろ覚えながらも、それこそ主観的に解釈してみただけなんですよ。
いやはや驚きです。
主観的な読み書きは楽しいし、それに加えて実用性があれば尚更愉快ですね。
460 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 02:14:46 0
そして
>>456さんが言われたように、
>現代人は科学的な見方の優越性を信仰していて、教育を受ければ
>受けるほどそうなる傾向があり、主観性をいかに取り除くかと腐心するほどであると。
いうことです。
しかし科学的な見方を信仰しているというのは強い表現です。
信仰とは信じることですが、「(信仰を)懐疑する可能性に開かる」ことを信仰する
というのは、複雑な表現です。
ここに科学を単に信仰の一つといえない、優位性があるのではないでしょうか。
461 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 02:18:51 0
>>459 謙遜でしょう。解釈するほどのことではない、
ごく初歩的な前提ですね。
>>461 謙遜じゃありませんよ。
私は確かに初歩的段階で血迷ってるんで。それはわかってるんです。
あなたについていえば、徐々に進歩してきているという感が前々からありました。
まあしかし老いと共にでしょうがね!
それは私も同じでしょうに…
もういいよ、もう来ねえよ!!
463 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 08:39:25 0
結局、先の宿題に答えてしまいましたね。
・科学と非科学の違い
科学と非科学には厳密な違いを見いだすことはむずかしい。
科学的とは、反証可能性"的"であること。
すなわち懐疑する可能性に開かれていること。
非科学的には、懐疑する可能性に開かれていないこと。
懐疑する可能性に開かれる一つの方法論が、還元主義と帰納法である。
といえる。
情報は科学的な情報を意味する。
物語は先にも書いたが、非科学的情報ではない。
情報と物語は、偶有性と単独性として対立する。
464 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/07(木) 09:41:57 O
ニーチェの系譜学をあげたのは唐突だったと思いますが、
いいたかったのはニーチェの思想を単体でとらえてはいけないということです。
哲学者の発言が世界をかえたのでなく、時代の流れを表す先鋭的なことばであるということです。
ニーチェの系譜学のような考えは時代の科学性の高まりを的確にとらえた表現だと思います。
現代思想の源流としてニーチェ、フロイト、マルクスがあげられますが、彼らがどう時代に存在したのは
科学性が高まる時代は背景があります。
そしてそれは進化論のすぐあとあということがとても重要です。
465 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/07(木) 09:55:02 O
仏教の教えをベタに受け入れるのでなく、様々な情報と相対化しながら系譜学的に分析する。
それが科学的、反証可能性的姿勢です。
現代においてこのような姿勢はとても当たり前です。多くの出版物、さらにはネットにおいて、情報はすみやかに、安価に入手可能になりました。
先に科学性の源流として進化論あげましたが、より重要なことは情報入手コストが安価になったことです。
ダーウィンであってもガラパゴスへ旅にでることができ、情報を収集できたのも航海のコストが下がったからです。
たとえばいまなら宇宙旅行のコストはどんどん下がり、将来庶民に手が届くかもしれないといわれています。
466 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 10:52:45 O
久々に学校ゴッコできてよかったね
467 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/07(木) 11:30:11 O
ここに、一般的な哲学好きにはわかりにくい、技術進歩主義者としての特異性があるのかもしれません。
ニーチェの系譜学の本質は哲学手法ではなく、その時代の人が身につけた先端的な思考性である。ということです。
たとえばデカルトの二元論や機械論、最近ではデリダの脱構築も同様です。
もはや僕達は無意識に、機械論的、系譜学的、脱構築的な科学的思考を身につけています。
468 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/07(木) 11:39:57 O
このような科学的、情報化社会での問題が、なぜ人の尊厳は守らなければならないのか、さらには私はなぜいきるのか、私の存在意義は、私とはなにか、
という倫理的な問題にいかに答えるかということです。
科学化される前の社会ではこのような倫理はその地域の物語により確保されていました。
ここでボクの物語論が有用なのです。
469 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/07(木) 12:13:22 O
このような倫理問題も科学的なパァースペクティブを逃れません。
たとえば
・遺伝子による 先にきみがいったようなことですね
・精神分析による
・論理による ゲーテルの不完全性
・ハイデガーの現存在分析 これは先に少し触れましたが
このような中から僕は物語論を思考しているわけです
470 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 12:51:26 0
>>466 そうですね。すっかり波平哲学講義ですね。
まあ、誰かお金を払ってもらえれば、それなりのクオリティを
めざしますがw
471 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 13:12:34 0
■物語論 その1 技術進歩主義的
「科学的」とはなにか。
一頃でいえば、ニーチェ的な系譜学的に、ということです。近代以降、科学的な思考
を身につけていく中で、物語を素朴に、ベタに信じることは難しくなっています。たと
えば、宗教について学んでも、教えそのものをベタに信じるのではなく、それを系譜
学的なメタ視点によって、理解していませんか。情報化社会の現代人はとくにそれ
が一般化しています。
「系譜学」というのは、ニーチェが行ったことだけでなく、フーコーなどに受け継が
れ、広義の意味を持ちます。その歴史的な意味を考えると、客観性を見いだす方法
論です。しかしこの客観性とはなにか答えが一つあるということではありません。
先に、科学とは反証可能性があること、というのがでました。科学が客観的であると
いうのは、懐疑する可能性に開かれている、ということです。系譜学というのは、一
般化されている価値の総体をえぐり出すのではなく、懐疑する可能性を開くパース
ペクティブを持つと言うことです。ボクが科学的であることを、ニーチェ"的"な系譜
学"的"と表現したのは、このような意味なのです。
ボクは「科学とは反証可能性があること」というような強い表現はしません。これに
よって、心の科学や、進化論など多くのことが排除されるからです。しかし反証可能
性"的"とはいえるでしょう。すなわち懐疑する可能性に開かれているとうことです。
科学と非科学には厳密な違いを見いだすことはむずかしいでしょう。科学的とは、
反証可能性"的"であること。すなわち懐疑する可能性に開かれていることです。そ
して非科学的とは、懐疑する可能性に開かれていないことです。懐疑する可能性に
開かれる一つの方法論が、還元主義と帰納法です。
472 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 13:13:17 0
技術進歩主義的
ニーチェの系譜学をあげたのは唐突だったと思いますが、いいたかったのはニー
チェの思想を単体でとらえてはいけないということです。哲学者の発言が世界をか
えたのでなく、時代の流れを表す先鋭的なことばであるということです。ニーチェの
系譜学のような考えは時代の科学性の高まりを的確にとらえた表現だと思います。
現代思想の源流としてニーチェ、フロイト、マルクスがあげられますが、彼らがどう
時代に存在したのは、科学性が高まる時代は背景があります。そしてそれは進化
論のすぐあとあということがとても重要です。
仏教の教えをベタに受け入れるのでなく、様々な情報と相対化しながら系譜学的に
分析する。それが科学的、反証可能性的姿勢です。現代においてこのような姿勢は
とても当たり前です。多くの出版物、さらにはネットにおいて、情報はすみやかに、
安価に入手可能になりました。先に科学性の源流として進化論あげましたが、より
重要なことは情報入手コストが安価になったことです。ダーウィンであってもガラパ
ゴスへ旅にでることができ、情報を収集できたのも航海のコストが下がったからで
す。たとえばいまなら宇宙旅行のコストはどんどん下がり、将来庶民に手が届くかも
しれないといわれています。
ここに、一般的な哲学好きにはわかりにくい、技術進歩主義者としての特異性があ
るのかもしれません。ニーチェの系譜学の本質は哲学手法ではなく、その時代の人
が身につけた先端的な思考性である。ということです。たとえばデカルトの二元論や
機械論、最近ではデリダの脱構築も同様です。もはや僕達は無意識に、機械論的、
系譜学的、脱構築的な科学的思考を身につけています。すなわち哲学さえも系譜
学的、科学的にとらえるということです。
473 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 13:14:13 0
情報と物語=偶有性と単独性
このような科学的、情報化社会での問題が、なぜ人の尊厳は守らなければならない
のか、さらには私はなぜいきるのか、私の存在意義は、私とはなにか、という倫理
的な問題にいかに答えるかということです。科学化される前の社会ではこのような
倫理はその地域の物語により確保されていました。
ここでボクの物語論が有用なのです。情報は科学的な情報を意味します。しかし物
語は先にも書きましたが、非科学的情報ではありません。情報と物語は、科学的と
非科学的ではなく、偶有性と単独性として対立するのです。
このような倫理問題も科学的なパァースペクティブを逃れません。たとえば
・遺伝子による (先にいったような)
・精神分析による
・論理による (ゲーテルの不完全性)
・ハイデガーの現存在分析 (これは先に少し触れた「死への先駆的覚悟性」)
このような流れ僕の物語論は導き出されるわけです。
474 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 13:16:32 0
遺伝子による単独性
西洋哲学の根底には、人間/動物という対立が流れてきました。ギリシャ時代でい
えば、人間とは労働から解放され、社会の中で自由で平等に振るまえる主人です。
動物は奴隷など主人に従い、労働に従事するものです。今ではわかりにくいです
が、このような人間/動物対立は科学的な客観性に相当するほど常識的なもので
した。
大航海時代に有色人種に行われた非道は、同じ優秀な人間として認められていな
かったという、常識を背景にしている面があります。あるいはナチスなどの優生学ま
でもこの系譜はみることができるでしょう。人は生まれか、教育かという議論は最近
までなされ、人間には優秀な人間から、下等な人間が存在すると信じられていました。
現代は、DNAの発見によって、人間/動物対立は科学的客観的なものになりまし
た。もはや人間/動物という非常識な対立は遠い過去です。といえるでしょうか。
新たな科学的な還元主義を背景にした差別の可能性があります。人間と動物は、
DNA配列によって差異化されたとして、人間の中でDNA配列の差によって、優劣が
決められる可能性があります。たとえば精子バンクでは優秀な遺伝子というものが
あります。あるいはDNAの解明によって、より客観的に根拠によって、優秀なDNAが
特定され始めています。様々な病気に強いDNAであるとか、あるいは肥満に関係す
るDNAなど。
475 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 13:17:04 0
ここには明らかに還元主義的な短絡があります。人間の優秀さはDNAに還元でき
るのか。再度浮上するのは、人は生まれか、教育かという議論です。この先に、
DNA優生学という差別が生まれる可能性は高いのです。
さらにDNAが保存されるとき、人にとっての死とはなにを意味するのでしょうか。そ
れはまさに、「個」への強い思いが揺らぐのです。遺伝子に関する科学実験はたえ
ず倫理的な議論を呼び続けているのはこのような背景によるものです。
476 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 13:18:55 0
続きは、宿題とします。
精神分析は倫理的であると言われる。
精神分析はいかに単独性を確保するのか。
477 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 14:28:37 0
>>
伝統の終焉は、どうやらその実質的内容自体に対する異議申し立てではなく、伝統
の権威が崩壊することによって始まるらしい。ニーチェはこうした権威崩壊の成り行
きを、無類の簡潔さで「遠近法的(パースペクティブ)思考」と呼んだが、その意味す
るところは、伝統的な文脈の内側で好き勝手に移動できる思考ということだ−それ
はまた、かつては真実とみなされていたあらゆることが、今では単なる一つの遠近
法=観点の様相を呈し、きっと同じ程度に正当で有意義な観点が多数存在する可
能性があるということでもある。
そしてマルクス主義が実際にありとあらゆる人文諸科学の研究分野に導入してきた
ものこそ、この遠近法的思考に外ならない。・・・マルクスの見解の中で斬新で且つ
すばらしく有効だったのは、文化、政治、社会、経済を一つの機能的文脈の内側に
あるものとみなす彼の方法であった。しかもその文脈は遠近法=観点の移動に
伴って恣意的に移動しうるものであることが、すぐに判明したのである。資本主義が
プロテスタント倫理の精神構造から生まれる仕組みを解明したマックス・ウェーバー
の研究は、唯物論一点張りのいかなる歴史研究にも増して、マルクス主義的な史
的方法論の恩恵を被っているーそれがいわゆる思想史であれ、政治史であれ、社
会科学や経済学であれ−結果として生じるのは、遠近法の移動が起こるたびに派
生する諸関係のシステムであり、大づかみに言えば、そのシステムによって、伝統
の権威に類似した拘束的真理を一切生成させることなく、あらゆる事象が説明され
うるようになるということである。
「ヘーゲルからマルクスへ」 ハンナ・アレント
<<
478 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 14:31:25 0
>>
いわゆるフォイエルバッハに関する第十一テーゼから採られた記述において、マル
クス自身がヘーゲルとの関係と訣別の核心部分について説明している。「哲学者た
ちは世界を様々に解釈してきたのにすぎない。しかし肝心なのはそれを帰ることな
のである」。彼の著作全体を最重要の目的という文脈内で考えれば、この一八四五
年の青年マルクスによる所見は以下のように再公式化されるだろう。すなわち、
ヘーゲルは過去を歴史として解釈し、さらにそうすることによってすべての歴史的変
化の根本法則として弁証法を発見したのであると。この発見によって、私たち未来
を歴史として形作ることができる。マルクスにとって、革命政治とは、すべての歴史
的変化を貫く根本法則に歴史を符合させる活動なのである。これがあればヘーゲ
ルの「歴史の狡知」は不要になる、なぜなら「歴史の狡知」の役割は、政治的活動に
回顧的な政治的合理化を施すこと、すなわちそれを理解可能なものにすることだっ
たのだから。ヘーゲルとカントはこうした不思議なほどに巧緻な「摂理」の働きを当
てにせざるをえなかった。なぜかと言えば、まず彼らは、政治活動そのものは他の
いかなる人間的活動よりも真実から遠いと仮定していたからであるし、他方で彼ら
は、政治活動そのものは他のいかなる人間的活動よりも真実から遠いと仮定してい
たからであるし、他方で彼らは、一貫した理解が可能でそれゆえ「合理的」に見える
近代的な歴史問題に直面していたからである。人間は自分たちが始めた行動に対
して確実なコントロールなど決してできないし、自分たちの最初の意図を完全に実
現することも決してできない。だから歴史は「狡知」を必要とするのだ。
「ヘーゲルからマルクスへ」 ハンナ・アレント
<<
479 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 15:16:44 0
先のアレントの文章を図式化すると、以下のようになるだろう。
伝統、真実 − 科学的=「遠近法的(パースペクティブ)思考」 → 多数性
これをボクの物語論につなげると、
物語、単独性 − 科学的、情報化=「遠近法的(パースペクティブ)思考」 → 情報、偶有性
しかしこのような展開の違和感は、ニーチェ(あるいはマルクス)の遠近法的
(パースペクティブ)思考は能動的な行為である。ある真実に対して、倫理的な行為
として行われる。
それに対して、ボクが科学的というときには、受動的なものである。ただ現代人は無
意識に「遠近法的(パースペクティブ)思考」を行っている、ということだ。
それだけでなく、そうだからこそ、収束させようとしているのだ。ニーチェの時代、人
は無意識に伝統に従う。だから「遠近法的(パースペクティブ)思考」には能動的で
なければならなかった。それがニーチェの系譜学である。
あるいはさらにいえば、ニーチェの系譜学も「歴史の狡知」でしかないのではないだ
ろうか。ニーチェの時代でもすでに、歴史は科学的、情報化=「遠近法的(パースペ
クティブ)思考」に進んでいた。ニーチェはただそれを後から記述しただけである。発
明したのでなく、発見したのだ。
どちらにしろ、現代はむしろ人は無意識に「遠近法的(パースペクティブ)思考」を行
う。だから逆に正しい形而上学的思考が求められるのだ。すなわち物語への収束を
いかに確保するか。それが物語化である。
<発散>
物語、単独性 − 科学的、情報化=「遠近法的(パースペクティブ)思考」 → 情報、偶有性
<収束>
物語、単独性 ← 形而上学的思考、物語化 − 多数性、情報、偶有性
いいから働きなさいよ。主婦だっ
て家事や育児やってんのに、大の
男がネットに入り浸ってウダウダと……。
481 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 17:24:52 O
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。
続きは、宿題とします。 続きは、宿題とします。 WWW
482 :
第三の波平 ◆xGyuwD9M22 :2008/02/07(木) 17:45:15 O
>480
ボクは大の男ではない
とボクはいった。
ボクのタームが理解できてませんね。
>>477-478 「それはもう書かれてしまったこと」なんだが
「すでに書かれた文字群になんの意味があるか」書いてみ?
(判ってるだろうが「コピペをする意味」じゃないぞ)
すでに書かれてしまった文言はオマエの落書き以下だと言ってるわけだが
この意味判るかな?
484 :
391:2008/02/07(木) 19:01:18 0
レスポンスありがとうございます。お忙しいなか、本当に感謝しています。丁寧に答えて
いただいたおかげで、わたしたちの係争点が非常にはっきりとしてきました。どうやらわ
たしが波平さんの「物語論」について抱いている懸念は、「情報化社会」や「現代のボクた
ち」といったキャッチ・フレーズの印象論に起因するというよりも、その背景に横たわっ
ている科学理解の疑わしさにあるようなのです。まずは、
>>471を引用させてください。
>先に、科学とは反証可能性があること、というのがでました。科学が客観的であると
>いうのは、懐疑する可能性に開かれている、ということです。系譜学というのは、一
>般化されている価値の総体をえぐり出すのではなく、懐疑する可能性を開くパース
>ペクティブを持つと言うことです。ボクが科学的であることを、ニーチェ"的"な系譜
>学"的"と表現したのは、このような意味なのです。
>ボクは「科学とは反証可能性があること」というような強い表現はしません。これに
>よって、心の科学や、進化論など多くのことが排除されるからです。しかし反証可能
>性"的"とはいえるでしょう。すなわち懐疑する可能性に開かれているとうことです。
>科学と非科学には厳密な違いを見いだすことはむずかしいでしょう。科学的とは、
>反証可能性"的"であること。すなわち懐疑する可能性に開かれていることです。そ
>して非科学的とは、懐疑する可能性に開かれていないことです。懐疑する可能性に
>開かれる一つの方法論が、還元主義と帰納法です。
485 :
391:2008/02/07(木) 19:02:14 0
さしあたりわたしの立場を確認しておきましょう。
>>425で述べているように「わたしは、
科学と疑似科学、科学と非科学の線引きは原理的に不可能であると思っています。
しかし、その違いを説明するうえでもっとも有益な観点は、仮説の反証可能性が
ありやなしや、ということにあると考えます」、という主張を掲げています。
他方、あなたは「科学と非科学には厳密な違いを見いだすことはむずかしい」と断った上
で、科学的であることを「懐疑する可能性に開かれている」ことと表現し、反証可能性を
取らない理由を「心の科学や、進化論など多くのことが排除されるから」と主張しました。
このような主張にたいする反論を以下、二点述べますので、それぞれに反駁してください。
486 :
391:2008/02/07(木) 19:02:53 0
第一に、「懐疑する可能性に開かれている」からといって、懐疑の対象が科学的であること
はまったく帰結しません。たとえば、我々は善という道徳的性質が実在することを疑うこ
とができますが、道徳的実在論が科学的である必要はありません。したがって、科学的で
あることと「懐疑する可能性」を結びつけるのは的外れであり、ほとんど暴論です。そこ
で、このように問いましょう。たとえば、倫理学における非自然主義的道徳的実在論は「帰
納」的な仕方であれ、「還元主義」的な仕方であれ、さまざまな懐疑と反論を呼び起こして
きましたが、少なくともこの理論が「科学的」であるとみなした人は誰もいません。あな
たの科学理解は、物理学の「科学的」理論とこのような道徳的実在論をどのように区別し
ますか? それとも、区別できませんか?
第二に、あなたの科学論を印象論として甘受するとしても、「反証可能性」を用いない理由
が「これによって、心の科学や、進化論など多くのことが排除されるから」では説得力が
皆無です。なるほど
>>425で述べたように、反証可能性は科学を区別する決定的な要件と
なりえません。しかし、その理由は確率的、統計的な命題の処理、ならびに仮説における
基礎命題の正当化等に方法論的な困難を抱えるからであって、「心の科学」や「進化論」な
どの特定の科学的領域を排除するからではありません。そこで、このように問いましょう。
「科学とは反証可能性があること」と仮定した場合に、排除される「心の科学」や「進化
論」とは具体的にどのような理論ですか? そして、なぜその理論が排除されるのですか?
487 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 20:04:50 0
そうですね。ボクはなにをしているんだろうと思ってしまいます。
せっかく書いても、どこまで理解してもらえているのか。経験的なマナーでいくと、
このように丁寧なレスをもらえて場合は、レスの一つずつについて、
丁寧に回答するものですが、ほとんどスルーされ、まるで王様の食事のように、
気に入ったところだけつまんでほとんど残す状態ですし。
逆に、これだけ失礼な人間だから、気が乗らなければ、いつでも放置できると、
こちらも気楽に書けるというのはあります。もし好意的な人だと、もっと丁寧に説明して、
疲れて続かないのかもしれません。
それでもさすがに、そろそろ潮時かな。
488 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 20:09:01 0
「科学的」については、詳しく説明すればきりがないですが、ほぼ説明は終わったと思います。
再度、いえば、哲学の基本的なベースは説明しません。たとえば反証可能性とはなにか。
論理実証主義、ホパー、科学哲学などの流れから、そこでの問題などです。
これらは前提とした上で話をしています。
だからボクが「科学的」ということで説明しているのは、反証可能性などの知識を、
無視したり、間違っていると言っているわけではありません。
だから、
>たとえば、倫理学における非自然主義的道徳的実在論は「帰納」的な仕方であれ、
>「還元主義」的な仕方であれ、さまざまな懐疑と反論を呼び起こしてきましたが、
>少なくともこの理論が「科学的」であるとみなした人は誰もいません。
「科学的」→「科学」ですね。そりゃ誰もいないでしょう、としかいえません。
その上で、「科学的」、「懐疑する可能性に開かれている」m系譜学的なアプローチは
可能である。現代人は倫理であれ、宗教であれ、情報として一般的にそのように
思考するでしょう、と言っているのです。
489 :
391:2008/02/07(木) 20:10:20 0
>>487 >>486は、あなたのほかのレスを前提としても正当化できませんよ。
正当化できるならば、どうぞほかのレスを参照しつつ説得的に議論してください。
面倒であれば、レス番号を表示するだけもその箇所を綿密に解読する準備はあります。
もういちど問いましょう。
(1)あなたの科学理解は、物理学の「科学的」理論とこのような道徳的実在論
をどのように区別しますか? それとも、区別できませんか?
(2)「科学とは反証可能性があること」と仮定した場合に、排除される「心の科学」や「進化
論」とは具体的にどのような理論ですか? そして、なぜその理論が排除されるのですか?
490 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 20:11:10 0
その後の質問も同じですね。哲学における「科学とはなにか」という議論と、ボクが
「科学的」ということ(これは、ボクが物語と対比する情報というときに、なにを意味
しているか、教えてくださいキミの願いからきている)と、混同していますね。
だからいわんこっちゃない。この点については、一番始めにキミに説明をしたと思います。
キミは、哲学という学問上の問題と、それをふまえた上での問題を混同して、議論するに
足らない。まず、自ら、学びなさいと。
再度いえば、ボクが反証可能性というときには、なにも特別なことはいっていません。
教科書にのっていることとまったく同じです。だから
>「科学とは反証可能性があること」と仮定した場合に、排除される「心の科学」や「進化
>論」とは具体的にどのような理論ですか?そして、なぜその理論が排除されるのですか?
勉強してください、としかいえません。潮時かな・・・
491 :
391:2008/02/07(木) 20:15:18 0
>>471では、次のように主張されています。
>ボクは「科学とは反証可能性があること」というような強い表現はしません。これに
>よって、心の科学や、進化論など多くのことが排除されるからです。
他方、
>>388では次のように主張されました。
>ボクが「科学的」ということで説明しているのは、反証可能性などの知識を、
>無視したり、間違っていると言っているわけではありません。
もし「科学とは反証可能性があること」で「心の科学や、進化論など多くの
ことが排除される」ならば、そのような科学理解は明らかに間違ったものでしょう。
譲歩して不整合を認めるか、
>>486の問いを反駁するか、議論してみてください。
哲学の議論を前進させることは、そのような自己修正の作業でもあると思いますよ。
492 :
391:2008/02/07(木) 20:19:34 0
(1)あなたの科学理解は、物理学の「科学的」理論とこのような道徳的実在論
をどのように区別しますか? それとも、区別できませんか?
(2)「科学とは反証可能性があること」と仮定した場合に、排除される「心の科学」や「進化
論」とは具体的にどのような理論ですか? そして、なぜその理論が排除されるのですか?
上の問いに答えられないのは、わたしの勉強不足や、あなたの議論の前提にかかわり
なく、あなた自身の議論に不整合と矛盾が多く見出されるからです。たとえば、
あなたは
>>490で「教科書にのっていることとまったく同じです」とまで主張するに
至りますが、あなた自身の不整合を問う質問に「教科書」を持ちだすことなど笑止でしょう。
もし、あなたのそのような態度が議論の回避、あるいはたんなる権威主義以外のものならば、
どの教科書のどの記述によってあなたの議論が正当化されるか、具体的に明示してください。
493 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 20:20:45 0
まあ、キミも人並み以上にプライドが高そうなので、
こうなると引くに引けないという感じでしょうかね。
では、いいましょう。完全にキミの負けだよ。
チェエックメ〜トっ!
これを励みにしてください。いつか有意義な議論をしましょう。
494 :
391:2008/02/07(木) 20:22:10 0
>>493 あなたの議論の最終地点が、「教科書にのっていることとまったく同じです」
だったことは、本当に残念でした。
わたしこそ、いつか有意義な議論ができることを祈っています。それでは!
495 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 20:25:19 0
波、バレバレなんだよ。アリバイづくりなんて姑息なマネすんなww
純一、いい加減目雨路よeee
496 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 20:30:30 0
試合が終わり、反省会です。
「わたしは、
科学と疑似科学、科学と非科学の線引きは原理的に不可能であると思っています。
しかし、その違いを説明するうえでもっとも有益な観点は、仮説の反証可能性が
ありやなしや、ということにあると考えます」
「一般化されている価値
の総体をえぐり出すために哲学者が用いる方法論が、「系譜学」とよばれるのです。」
これはさすがに受けましたよ。ありやなし?えぐり出す!
なかなかよいフレーズですね。気持ちはなんとなく伝わりますよw
宿題がたくさんでましたね。
・コジェーブの動物化、スノビズムなど歴史の終焉論をどのように理解するか
・科学と非科学の違いはなにか
・反証可能性と心の科学、進化論の関係は
でも一番は、やはり対人関係学んだ方がよいと思いますよ。
中二病、王様きどりなどきついことも
いいましたが、愛の鞭だと思ってください。
ボク以外でまともに相手する人がいるのかな、と心配します。
では、お互いよい哲学ライフを!
497 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 21:03:25 O
お前って哀れなくらい、こういうことに憧れているんだな。
なんかホントに気の毒なくらい。
ちょっと兄貴風もしくは先輩風をふかして慕われたい、自分が常に優位な立場にいながら構われたい。
相手の立場の生殺与奪にイニシアチブを持ちたい。
実社会にいれば、いずれの側に位置しようと時とともに辟易するか悲哀を感じざるを得ないところだが
いかんせんニートともなれば、飽くところを知らないというかなんというか。
その仕儀はまるで幼児の欲求さながら。
リーマン、むじんくん
そして今の名無しさんと。
ご苦労なことです。
胸糞悪さから得体のしれない寂寥感に変わりましたよWWW
498 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 21:15:21 0
>>497 ようこそ。
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
空きはありますよ。
では、入試試験です。
1 コジェーブの動物化、スノビズムなど歴史の終焉論をどのように理解するか
2 科学と非科学の違いはなにか
3 反証可能性と心の科学、進化論の関係は
499 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 21:27:59 O
お前の親でも兄弟でもないのに、稚児遊びに付き合う義理はないだろW
仮に真剣に人に問うつもりなら、その下問する態度改めろよ。
学校ゴッコ続けたいなら勝手にキャラ作って遊んでろ。
キャラ造りも少し工夫したほうがいいぞW
お前の好みなんだろうがマンネリだぞ。
少し生身の人間と接して、人を学んだらどうだ?
500 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 21:29:26 0
いい情報教えてあげるね。思想地図に送った原稿、放り出されてポイ。お疲れ。次回もよろしく
501 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 21:30:16 O
入試試験
入試試験
入試試験
入試試験
入試試験
入試試験
入試試験
入試試験
入試試験
入試試験
入試試験
入試試験
502 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 21:42:00 0
いいね。こういうプロレス待ってた
波兵も391もなかなか面白いよ
503 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 21:47:49 0
>>502 そうだよな。ゆとりが発酵した最近の哲学板では、
かなりまともなやりとりでは?
>>499のような中身ゼロに比べれは、
391はよくやったよ。
でも態度はまだしも、もう少し勉強しないと。
>>498ぐらいは、答えられないとさすがにちょっと。
過去すれのリーマンといいいまの391といい
まともなやつがまともにやればやるほどあほらしい結果になるよな
エタイの知らない寂寥感とはうまいkと言ったもんだよ
>490のレスなんかひどいぜ、じっさい
505 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 21:50:44 0
お前こんなことやってりゃ誰からも相手にされなくなるぜ
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
いまちょうど、一人が無事、スパルタ教室から卒業したところですから、
506 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 21:55:29 O
だから自演なんだって
502 503もナミヘ
507 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 22:02:14 0
>>429まで読んだ。波平の負けだと思った。
「物語」と「情報」の区別が付けられないのがローキック責めだったな。
殻谷だのウィトゲンシュタインだのチャフを振りまいて、
適当にバカにして逃げるのが情けない、という印象だ
508 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 22:02:33 O
こいつバツ悪くなると自演連発して支持されているように装う傾向あり。
自分の作った虚構の中に安住するヒキコモリ。
お前には、それでもいいんだよ
とは決して言えない。
509 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 22:08:09 0
>>486のレス読むと、この名無しさんすげー玄人臭いんだけど?
名大のI先生っぽくね?科哲と倫理まじえるあたり、くさい
510 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 22:08:38 0
>>437 >言葉や規定に対する苦闘がないんだよね。
ああ、それだな。パンチが軽いんだ波平は。
ニヒリズムなんとかしよう!ってのは伝わるけど、
それは哲学ではなく文学、論理ではなくレトリックで伝わってるんだ。
だから俺は問題意識だけそこそこ共有できるけど、それで終わりで
分析や処方箋はまるで価値がないんだ
511 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 23:28:21 0
>>509 さすがにそれはない。専門外としてもさすがにこれはない。
>(2)「科学とは反証可能性があること」と仮定した場合に、排除される「心の科学」や「進化
>論」とは具体的にどのような理論ですか? そして、なぜその理論が排除されるのですか?
「情報」に関しては、特に特別でないし、
>>477-478にアレントまでコピぺったし、ある程度知識にある人はわかるだろう。
「物語」については、まあ確信だし、説明までいかなかった。
簡単にいえば、象徴界のことなんだが、なぜ「物語」」か、
ということが残る。
ラカンの「手紙は宛先に届く」ということだな。
すなわち人は必ず物語る、ということ。
たとえば、アイドルが男と会っている写真がフライデーされる。
そこからいろんな噂(物語)が作られるよな。
そして噂はマイナス。
人は物語る動物である。そしてその物語は負債を解消するように思われる。
アイドルがよい思いをする。裏切られる。負債を追わされる。
物語をこの負債を解消するように、アイドルが不幸に向かうように作られ、
プラスマイナスゼロが目指される。これは、贈与の円環=象徴界。
512 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 23:36:54 O
少し鎮まれよガキ
513 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/07(木) 23:40:41 0
では、私にとって最大の物語とは、それは自らの物語。
人は人生において、負債を解消しようとする=物語ろうとする。
ここで重要なことは「死」です。
いつか死ぬというエンドロールにむけて、
負債を解消しようとする=物語ろうとする。
先に物語はハイデガーの先駆的覚悟性に関係するといった。
現存在にとって、先駆的覚悟性による時間性が現存在の存在を
可能にする。そして死とは誰でもない私のであることが、「良心」を
想起する。
象徴界には負債の解消=良心がありますが、
時間性がありません。
「物語」とは時間性がある象徴界です。
細かいことは書くと、ものすごいことになりますが、
概略の見取り図は、こういうことです。
むずかしすぎるかな。
514 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 23:45:01 O
波平さん、いつも楽しく拝読しています。
全くの初心者ですが、私にも一つ質問させてください。
これまでの論の展開を踏まえた上でお聞きします。
タマタマの裏を舐められたことありますか?
波平さん、死んでくださいといわれることは本望ですか?
つまり今にも死ぬという瞬間性、ここには客観的な観点が入りこむ余地がないわけですから好都合でしょうということです。
いや主観的すぎても物語れないですね。
すると常識的に考えても同様ですが、
今にも死ぬというような瞬間性、純粋な主観性においてあらゆる物語は無効になるわけですね。
519 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 00:39:13 O
ぴかぁは自分の妄想世界の範疇に納まらない事には、一切答えられないことを予めお断りします。
独房みたいな生かしつつ殺すような場、
そんな場所でこそ物語はよく育つんでしょうな。
娑婆では屋根裏部屋や地下室にひきこもり、灯りは蝋燭というのが物語るにはいいでしょうよ。
521 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 01:10:17 0
スレッドぜんぶ読んだ。
前半のバタイユ厨には知識のパッチワークで圧倒してたけど、
ポモ流のなんちゃって科学をひけらかしてきのうは完膚無きまでにボコられたね。
「自分の言葉でかたれv」って何度も言われてたのにワロタ 教科書問題もワロタ
事件が物語だとすれば決して現場ではおきてないはずなのだが?
と織田裕二に言ってみたいと思いますよ。
>>522 そこはキミ、物語以前の「なまの感覚」を現場の人間は体験しとるとゆーワケなのよw
それこそ中沢新一の言う「リアル」=「野生の思考」ってヤツやろw
どんな事でも、知識だけじゃなく実体験・経験が重要ってよく言われとるじゃろ?
あれはのぅ、中沢の言う「リアル」=「野生の思考」を鍛えるためには
実体験や経験が不可欠ってゆー意味なのだとワシは思うとるワケよw
このリアル=野生の思考ってヤツぁ、物語(を紡ぐための言葉)じゃあ到底語り尽くせやしねぇ!
そもそも生の事物そのものや体験・経験そのものと、それを表現する言葉とは別物じゃけぇ、
生の事物そのもの、体験・経験そのものを直接、言葉として紡ぐっちゅうことは出来んワケや。
だからこそ、言葉や理屈じゃのうて、実際に体験・経験していく中で感覚的に習熟していくしかあらへん。
織田裕二のあのセリフはのぅ、そういう物語=言語以前の
生の体験・経験、つまりリアル=野生の思考は現場にいる者たちにしか
感覚できんのじゃっちゅう含意を持つと同時に、
いかに議論を尽くしても会議室ではしょせん言葉によって抽象化されたレベルでしか
事件について語れんっちゅうことをも意味しとったと解釈することが出来るワケですわw
実感の伴わん物語=言説は、いかに精緻であっても空疎な印象を免れんじゃろw
すなわちや、結論として
「事件はやっぱり現場で起きとるのや。事件=物語という図式は会議室にこそ当てはまるのや!」
っちゅう事やとワシは思うわけなんやけど、どうでっしゃろかいなぁ?w
ぴかぁは小説を書くべきなんだよ。哲学は剥いてない
どうでっしゃろかいなぁ?
これは意外と難しい。はっきりいいましてよくわかりませんね。
以下ではあの映画やドラマで起きる事件は暴力沙汰だということを前提にしてはったりかましてみます。
嘘から始まる真もあるかもしれない。確かそんな証明法もありましたね。
織田裕二のいう現場で起きるのは事件ではないです。
物理的現象だからです。
その現象に由来するその体験は感覚的な《情報》です。
しかもそれは非常事態における瞬間性をもつ感覚であります。
その時点では何が起こったかよくわからないはずです。いまだ事として認識されてない。
その後、反省することによって事件ができ上がっていくわけです。物語が。
計画的な完全犯罪であれば、事件=物語の一種は現場に現れる前に出来ていたともいえましょう。
きっとそれは、それはそれは生々しい事件=物語の一種でしょうよ。
526 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 09:31:58 0
>>
いわゆるフォイエルバッハに関する第十一テーゼから採られた記述において、マル
クス自身がヘーゲルとの関係と訣別の核心部分について説明している。「哲学者た
ちは世界を様々に解釈してきたのにすぎない。しかし肝心なのはそれを帰ることな
のである」。彼の著作全体を最重要の目的という文脈内で考えれば、この一八四五
年の青年マルクスによる所見は以下のように再公式化されるだろう。すなわち、
ヘーゲルは過去を歴史として解釈し、さらにそうすることによってすべての歴史的変
化の根本法則として弁証法を発見したのであると。この発見によって、私たち未来
を歴史として形作ることができる。マルクスにとって、革命政治とは、すべての歴史
的変化を貫く根本法則に歴史を符合させる活動なのである。これがあればヘーゲ
ルの「歴史の狡知」は不要になる、なぜなら「歴史の狡知」の役割は、政治的活動に
回顧的な政治的合理化を施すこと、すなわちそれを理解可能なものにすることだっ
たのだから。ヘーゲルとカントはこうした不思議なほどに巧緻な「摂理」の働きを当
てにせざるをえなかった。なぜかと言えば、まず彼らは、政治活動そのものは他の
いかなる人間的活動よりも真実から遠いと仮定していたからであるし、他方で彼ら
は、政治活動そのものは他のいかなる人間的活動よりも真実から遠いと仮定してい
たからであるし、他方で彼らは、一貫した理解が可能でそれゆえ「合理的」に見える
近代的な歴史問題に直面していたからである。人間は自分たちが始めた行動に対
して確実なコントロールなど決してできないし、自分たちの最初の意図を完全に実
現することも決してできない。だから歴史は「狡知」を必要とするのだ。
「ヘーゲルからマルクスへ」 ハンナ・アレント
<<
情報 物語
過去 歴史
物 事
528 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 12:21:50 O
いいだけ恥晒しといて一夜明けたらこれかよw
足りねぇんじゃネ
529 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 19:15:56 0
日本昔話は教育的な番組といわれる。
なぜ教育的なのだろうか。
簡単にいえば、良いことはすれば報われ、
悪いことをすれば、罪を償うという構造を持っているからだ。
すなわち、負債は必ず支払われるということが
倫理の基本である、ということだ。
そして物語とは、負債が支払われるものをいう。
いや、子供なら日本昔話のようなわかりやすいもので
良いが、大人の物語は、そんな単純ではない、というだろう。
確かにそうだ。悪がさけるような物語、
あるいは負債が支払われたかわからず終わるなど、
いろいろある。
しかしこれらを物語として成立させているのは、
負債は必ず支払われる、という基準を元にしている。
たとえば花咲じいさんの不幸になる物語は、
パロディであり、シュールであり、コメディであり、
楽しい。この楽しさは、負債は必ず支払われるという、
基準をもとにしているから、そこからのふり幅として、
おもしろいのである。
530 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 19:20:59 0
「負債は必ず支払われる」というのは、人の心理に
働く力学なのである。
実生活でも、悪いことをしている人がいれば、
そんなことしているといつかひどい目にあうぞと思ってしまう。
あるいは、自らの行動において、良心として働いている。
これは法とは異なる。たとえば不条理なことをされた人が、
復讐をするとき、それが法に反することであっても、
信条としてはわかる、ということがある。
またことは、経済的なこととも異なる。
苦労して稼いだ人と、楽をして稼いだ人では、
その人への好意は変わるだろう。
531 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 19:26:52 0
このような社会に働く、無意識の力学を指摘したのが、
構造主義である。
それをもっとも的確に表している言葉が、
象徴界を表現したラカンの「手紙は必ず宛先に届く」という
言葉である。
これは人間の生物的な本能ということではなく、
社会が秩序を保つために働く無意識の力学であり、
人は大人になる中(精神分析的去勢)で、内面化される。
日本昔話はこのような意味で、教育的な番組なのである。
532 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 20:00:45 0
■なぜ日本昔話は教育的な番組なのか
悪いことをすればいつな罪を償う
日本昔話は教育的な番組といわれる。なぜ教育的なのだろうか。簡単にいえば、良
いことはすれば報われ、悪いことをすれば、罪を償うという構造を持っているから
だ。すなわち、「負債は必ず支払われる」ということが、倫理の基本である、というこ
とだ。そして物語とは、負債が支払われるものをいう。
いや、子供なら日本昔話のようなわかりやすいもので良いが、大人の物語は、そん
な単純ではない、というだろう。確かにそうだ。悪が栄えるような物語、あるいは負債
が支払われたかわからず終わるなど、いろいろある。しかしこれらを物語として成立
させているのは、負債は必ず支払われる、という基準を元にしている。
たとえば花咲じいさんが不幸になる物語は、パロディであり、シュールであり、コメ
ディであり、楽しい。この楽しさは、負債は必ず支払われるという、基準をもとにして
いるから、そこからのふり幅として、おもしろいのである。「負債は必ず支払われる」
というのは、人の心理に働く力学なのである。
533 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 20:01:42 0
物語化という倫理的な力学
実生活でも、悪いことをしている人がいれば、そんなことしているといつかひどい目
にあうぞと思ってしまう。あるいは、自らの行動において、良心として働いている。
これは法とは異なる。たとえば不条理なことをされた人が、復讐をするとき、それが
法に反することであっても、信条としてはわかる、ということがある。またことは、経
済的なこととも異なる。苦労して稼いだ人と、楽をして稼いだ人では、その人への好
意は変わるだろう。
このような社会に働く、無意識の力学を指摘したのが、構造主義である。それをもっ
とも的確に表している言葉が、象徴界を表現したラカンの「手紙は必ず宛先に届く」
という言葉である。これは人間の生物的な本能ということではなく、社会が秩序を保
つために働く無意識の力学であり、人は大人になる中(精神分析的去勢)で、内面
化される。
現代において重視される価値観は、功利主義など社会全体の効用を基本とする。
これは古典的な自由主義の基本となった、経済的な効率性を元にしている。構造主
義は、このような経済的効率化を重視する以前から、社会秩序を維持するために働
いてきた倫理的な力を明らかにしたことにある。
ネオリベラリズムなど、経済的な効率性が重視される傾向の中でも、様々な「物語」
が楽しまれているということが、物語化という倫理的な力学は作用していることを表
しているのだ。
534 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 20:07:42 0
だから現代においては、花咲じいさんが不幸になる物語が
非倫理的な物語ではなく、物語化が働かないように物語が
問題である。たとえばストーリーよりも、刺激的な映像、音響などの
効果によって、人々を充足させてしまうようなメディアである。
いわば、動物化されたメディアである。
535 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 20:09:42 O
ちょっと聞きかじったことは教えなきゃ気がすまないおばさんなみのぴかぁ。
精神の砂漠だな。
536 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 20:13:59 O
何年も前から同じことばかりクドクドグダグタダラダラ
進歩しねえな
537 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 20:17:22 O
ここから撤退して、近所の子供集めて学校ゴッコでもやってろカス
538 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 20:27:09 0
ん?ちびっ子どうした?ママに怒られたか?
539 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 20:39:11 O
くやしかったか?クソガキ
つまんねーよ なんだそれ?
少しは気の効いたこといってみろよ
ちびハゲニートよ
540 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 20:42:13 0
いいわけは聞きたくない。で、宿題はできたのか?
1 コジェーブの動物化、スノビズムなど歴史の終焉論をどのように理解するか
2 科学と非科学の違いはなにか
3 反証可能性と心の科学、進化論の関係は
541 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 20:44:05 O
完全にイッてるなコイツ
ヒキコモリで幸いかも
542 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 21:01:48 0
まだか。ご託はいいから、ささっとやれ。馬鹿。
543 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 21:11:36 0
あのなお前のそういう態度が、文章にそのまま反映されるんだよ。
分析が糞。何万回応募しようと、審査すると簡単に見抜かれるんだよ。
いっそのこと、ママに泣きついてお金もらって自費出版して
我流理論を世に問えよ。。
544 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 21:38:51 0
いつまでもいつまでも。
もうずっとそうやってなさい!
545 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 21:38:56 0
546 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 22:44:41 0
>>529 >>531 >良いことはすれば報われ、悪いことをすれば、罪を償う
>負債は必ず支払われるということ
>これは人間の生物的な本能ということではなく、
>人は大人になる中(精神分析的去勢)で、内面化される。
進化心理学とかゲーム理論とか、要するに社会心理学の周辺を
勉強した方がいいよ。ゲーム理論では「応報戦略」「しっぺ返し戦略」
といいますね、何十年前からシミュレーションされていること。
要するに本能です。
547 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 22:56:18 0
>>546 進化心理学ですか。
すごいところから玉が飛んできましたね。
読み物としては、ボクも結構好きですよ。
構造主義も勉強してみてください。
目から鱗だと思います。
548 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 23:01:57 O
強い者には腰を引くぴかぁ
549 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/08(金) 23:05:17 0
>>548 おまえはもう休んでろよ。
どうみても、皮肉だろう。
進化心理学は読み物としてはおもしろい。
↓
進化心理学は学問としてはうさんくさいの常識。
進化心理学は定量データでいろいろ実証されてるけど、
構造主義は何もやってないんだろ?w
まあ物語=文学としては構造主義のが面白いんだろうけど
551 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 23:33:33 O
皮肉?おまえリアル馬鹿?
552 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 23:49:01 0
>>550 「定量データで実証されてる=正しい」などと素朴に信仰できる単純さに乾杯
553 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 23:51:16 0
>>546 ゲーム理論自体が1つの言語ゲームにすぎないだろ?
「正しい」というのが「事実である」という意味ならその通りだけど、
データが付いてる方がデータが付いてない方より信じやすいってだけの話だよ。
「確信」のレベルの話ね。
>>553 意味不明だけど、「科学なんて仮説に過ぎない=文学の一種」
という方なら話すだけ無駄なので、どっちかな?
>>555 > 「科学なんて仮説に過ぎない=文学の一種」
そうでないという確証はあるんですか?
557 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 00:07:12 0
>>555 そうさ、その「話すだけ無駄」なスレにお前はノコノコとやって来て
やれ進化心理学だのゲーム理論だのとのたまっているわけだw
わざわざこんな所に来て何してんだとw
むしろそっちの方が滑稽に見えて仕方ないよw
558 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 00:12:58 O
ぴかぁ てめえはホントに卑怯な奴だな。
559 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 00:14:51 0
>>556 毎日決まった時刻に来た電車に乗ったり、鉄のカタマリに乗って旅行に行くとなるとね、
やっぱ文学より確信レベルが上がるよね。
時々つまらないとも思うけど、これがなかなか壊れてくれない。
超能力とか妖怪とか、会ったことないしね。
>>557 うんうん。少し前まで面白くぴかぁのレス読んでたんだけど、
「これは人間の生物的な本能ということではなく、社会が秩序を保
つために働く無意識の力学であり・・・」なんて書かれてて
白けちゃったわけだ。僕にとってリアリティが無くなった訳ね。
だからもう読まないと思う。じゃ、さよなら
560 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/09(土) 00:15:54 0
>>550 進化をどうやって、定量データで実証するんだよ!
定量データで証明することを目的にするが、それが難しいのが問題だろう。
構造主義はもともと定量データで証明することを目的にしていない。
そのような意味での「科学」ではない。
科学好きなんだろうけど、基本的にこのあたりがわかってない。
561 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 00:17:19 0
自然界(物理世界)は、必然の世界であり、不動の因果法則によって貫かれている。
因果法則を知ることが自然界の秩序を把握することになる。
自然科学という知が有効な世界である。
(自然界の不動の秩序の美しさに神を感じる科学者もいる。)
生物界(生命世界)は、環境に適合したかたちで
進化発展した遺伝子(あるいは本能)によって決まる世界である。
遺伝子の構造を知ることが生物界の秩序を知ることである。
生命科学という知が有効な世界である。
人間界(人間社会)は、自由意思(目的意思、理性)に従い、
環境を支配するかたちで変化してきた世界=社会である。
目的意思やその関係を知ることが人間界の秩序を知ることである。
社会科学(特に社会学)という知が有効な世界である。
宇宙は、三つの世界として観察できる。
それぞれの世界は特有の秩序によって保たれている。
具体的な人間(パーソンズのいう人間の条件)は、
この三つの世界に所属しており、それぞれの秩序によって生かされている。
なお、形而上学あるいは哲学は、この三つの科学の基底にある根本原理を追求し、
統合する学問である。
また、ニセ科学問題を取り沙汰するのもうんざりしてきたが、医学は生物界を対象としている。
自然界のような不動の因果法則が通用しない世界であり、その知識も変化し、蓋然的なものとなる。
さらに、精神医学となると、人間の精神を対象とするわけあり、
人間界の現象となるので、直線的な因果法則は全く成立たない。
ポパーは、精神医学を科学足り得ないと批判した。
しかし、私からすると、それは観察対象の特性を無視して、
自然科学モデルを中心においた偏見としかうつらない。
http://mercamun.exblog.jp/8012639/
562 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/09(土) 00:17:50 0
だいたい哲学板で「本能」なんって単語つかった時点でアウトだろ。
563 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/09(土) 00:19:21 0
564 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 00:22:55 0
>>559 お前のような人間が
「少し前まで面白くぴかぁのレス読んでた」、
あるいは読むことができてたって方が俺は不思議だがなw
そもそもお前みたいな人間が少しでもリアリティを感じるような話は
最初から無かったと思うが?
565 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 00:30:35 0
女性有名人総合ランキング
01位 堵愚慧螺子
02位 綾瀬はるか
03位 ほしのあき
04位 北乃きい
04位 佐藤めぐみ
06位 運知饅
06位 広末涼子
08位 長澤まさみ
09位 杜玖椀晶子
10位 戸田恵梨香
566 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/09(土) 08:42:02 0
「貨幣と精神」 中野昌宏 (ISBN:4888489785)
モースはまず、提供・受容・返礼という義務、そしてそれを命ずる贈答規則−<贈与
は必ず返礼を伴う>−を、人類学的、博物誌的事例から抽出する。そしてそのうえ
で、この贈与の回路を永続させる<力>、贈答規則それ自体を創出する呪術的な
<力>を見いだす。
彼は呪術的なものに基づいた神秘的な理論を打ち立てたのではない。むしろ逆に、
呪術的なものを人間の世俗的生活に奉仕する「打算的な」(つまり合理的に理解可
能な)原動力、あるいは究極的には、実体化された人間関係に還元して捉えること
で、それを脱神秘化したのである。・・・こうした原動力はいうまでもなく、「未開」社会
にも現代社会にも機能しているものである。
レヴィ=ストロースの批判点は、モースの交換のシステムという一つの象徴システ
ムをせっかく摘出しかかったのに、最終的には情緒的、神秘的な回答に落ち着いて
しまったという点にある。ラカン用語で言い換えれば、モースは象徴界の理論を打ち
立てようとして、最後の一点で想像界に足を取られた、といったことろだろうか。
567 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/09(土) 08:42:58 0
レヴィ=ストロールにとっては、交換のシステム、言語のシステムを含む人間の織り
なすシステムはすべからく「一挙」に与えられる。・・・したがってこの見方に従うなら
ば、・・・まず贈与と返礼の義務を感じ、次に実際にそれを行うという因果的説明は
的外れだということになる。・・・言い換えれば、構造主義とはまさに<そこに構造が
あるからこそ、われわれにとって合理的な理解が可能なのだ>という立場なのである。
レヴィ=ストロースはまず交換ありき、と言うまさにこの地点で、彼は交換がどうして
生じるのかという問題に答えられなくなり、彼の言う「構造」はア・プリオリかる静態
的である、という批判が妥当することになるのではないか。
その円環の中で、回送する動力は、モースの「贈与」、すなわち「想像的」な負債と
その相殺という運動の次元にあると考えて良いだろう。そして、その因果連鎖をもっ
と起源にまで遡れば、ある原動力極限的なものとして想定しなかればならない。そ
れこそが「不可能なもの」であり、「現実的なもの」である。
ストロールw
569 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 14:02:11 0
中野の『貨幣と精神』は確かに名著ですね。
570 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 14:46:42 O
須らく…の使い方も知らないんだWWW
571 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/09(土) 16:12:16 O
名著というか、よい教科書という感じ
572 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 22:00:05 0
573 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 23:33:09 0
>>571 そうですね。
波平さんに絡んでくる人たちはこの本の内容すら踏まえていない初心者がほとんどのようですね。
せめてこの本くらいはマスターしてから議論を挑んできてほしいところですよね。
574 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 00:27:48 O
なに姑息な真似してんだよW
洒落のつもり なわけないよなW
つくづく哀れな奴だな。 ぴかぁでも波平でもいいけど。
では間をとって、ぴか平ということでどうかね〜?
576 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 00:31:16 O
揚げ足とりと明らかな間違いを指摘することの区別すらできない低脳が哲学を語る可笑しさを堪能することはできる
かな?
577 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/10(日) 00:33:07 0
>>573 あの本を理解できる人はこの板でもそういないでしょね。
いまの哲学板はそんな感じです。
578 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 01:01:50 O
オマエモナー
579 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 01:02:44 0
なんだまだ貨幣にこだわってんのか。おまけにまだ「反論」とか言う奴
いるし。w
現実は冷酷だよね。落選したんだろ。入選してからデカイコトいえよ。w
580 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 01:05:41 0
581 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 01:11:10 O
読んだ本のタイトルだけがキミのステータスなんだろうけど。
582 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 22:26:59 0
俺は好きだけどな。他者は常に私に刺激を与えてくれる。
そして、誤解はインスピレーションの元だ。
ホットな本のタイトルを教えてくれるのは嬉しいw
584 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 17:31:56 0
585 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 19:03:48 0
今、ふと思ったんだが。
ここは何をするためにあるスレなんだ?
586 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 19:09:38 O
単にぴかぁのオナニー場
時々、それと知らず入って来てぴかぁのズリねたにされたり汚物を浴びたりしている。
587 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 21:25:53 0
そか、つまり問題はオナニーとセックスの違いなわけだな。
588 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 21:41:31 O
うん セックスはできないようだ
自演キャラでの疑似セックスはあるが広義の自慰であることに変わりないわけだが
ザーメン量だけは人並み異常いや以上だな。
589 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/11(月) 21:50:18 0
590 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 21:56:12 0
俺はセックスの相性というのは性癖のずれが適度であることだと考えている。
結局、その許容範囲の狭い人間はオナニーするしかないのかな。
不幸なことに性癖の修正はほぼ無利らしい。
何か性癖を修正するいいアイデアでもないものか。
まだこんなバカ相手にしてる奴がいるのか
592 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/11(月) 22:05:57 0
>>590 セックスの相性としての性癖とはどのようなことを言うんだ。
コスプレとか、SMとかか。
それはテクニカルすぎるような気がするな。
相性って倫理的な深度のような気がする。
たとえばフェラを当たり前とする人と、そこに生理的な拒絶をする女。
これはいつか無理がくるだろう。
しかしこのような倫理的な深度は育てていくものだから、
手探りで見いだすようなもの。
593 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/11(月) 22:35:37 0
しかしセックスのテクニカルは、一般的には限界があるだろう。
一般のカップルの限界と言えば、ソフトSMぐらいではないかな。
つきあいが長くなると、セックスのテクニカルは鈍る。
セックスをテクニカルにすることは、相手を物として扱うところがある。
つきあいがなるほど、セックスがマンネリ化するのは、
つきあいが深くなり人間としてつき合うことで、
相手を物としてあつかうことに抵抗が生まれるじゃないかな。
だから浮気する。浮気の相手との距離感は、
互いに物として扱うことができる程度に浅い。
だから過激な行為がやりやすい。
594 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 22:59:38 O
ゴタゴタ能書きこかんで
黙ってズリかいてろガキ
595 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 23:32:35 0
>>592 >セックスの相性としての性癖とはどのようなことを言うんだ。
すまないが、それをおまいさんに教えてあげることは出来ない。
私の答えはおまいさんが望むような物ではないからな。
>>593 それは少し寂しい考え方だと思うな。
倫理的な人間の考えとはそういうものか。
596 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/11(月) 23:42:21 0
>>595 倫理的な人間ではなく、人間の倫理な。
倫理のない人間はいないわけだから。
セックスの話ができないなら、無理にレスしなくてもw
597 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 23:59:08 0
>>596 いや、そんなに構えなさんな。
>倫理的な人間ではなく、人間の倫理な。
>倫理のない人間はいないわけだから。
その答えが出てくるかなと思ってそう書いた。
おまいさんの考えでは、そうなるのは知ってるよ
私の望む回答を引き出して支配欲を満たしたというわけだ。
たいした意味はない。ちょっとした愛情表現だ。
>セックスの話ができないなら、無理にレスしなくてもw
悲しむかな、おまいさんさんにとっての私は「他者」で
おまいさんは私のズリネタにはなるが、
私はおまいさんのセックスの相手になることは出来ないんだ。
598 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/12(火) 00:06:29 0
>>597 意味がわからん。なんかの演技?
セックスの相性とはなにか、ってだけの話だろう。
599 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 00:09:58 0
( ・3・)y-~~~ 無職も早く寝なさいよ
600 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 00:30:20 0
>>598 ひと言で言うと
外から見てると面白いけど、めんどい。
おまいさんの幸せを祈ってるよ。
柄谷行人的なアソシエーションとムフ的なアゴニスティック・デモクラシーってどこかでつながるの?
602 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/12(火) 00:53:12 0
kwsk
604 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/12(火) 01:29:21 0
ムフ的なアゴニスティック・デモクラシー
↑
ジジェク そんなの本物のサヨじゃないよ。リベラルへのスリよりだ。
↑
もはやサヨとは、柄谷行人的なアソシエーション=世界共和国という夢物語し残っていない。
605 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 01:51:12 0
/\
/__\
从*‘ー‘从
/━∪━⊃━━【
>>1乙】
し'⌒∪
もうちょっと詳しく論じる事は出来ないの?普段みたいに
607 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/12(火) 22:18:21 0
■形而上学を批判しつつ、倫理的なものをいかに救済するか。
倫理としてのコギト
デカルトは科学者であり、機械論者である。「方法序説」読んだだけで、あの科学の
黎明期に、もうどれだけ科学がおもしろくてしょうがなかったか、その熱中さが伝
わってくる。それは良いのだけど、またデカルトはキリスト教者でもある。人間は動
物と同じく機械だ、なんて口が裂けてもいえないだけでなく、自ら納得できない。
だから人間性=精神をいかに救うかという思考が、コギトになるわけ。懐疑(分析)
しつくした先に、懐疑(分析)できない我をみいいだし、これだ!と思うわけだ。そして
この通路をとおって、神を守る。しかしこれは逆に言えば、機械論なんってとぼけた
こと言って、キリスト教会に責められないように、機械論を守る方法だったともいえ
る。結局、お仕置きされるわけだけど。
608 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/12(火) 22:19:06 0
デカルトの苦悩
デカルトは近代思想の祖と言われるのは、いまだにデカルトの心身二元論の苦悩
は有用だから。
一つは科学のあり方。現代でも科学はいつもこの苦悩にぶつかる。たとえば医学な
ら、死の判定の問題。脳死とはあくまで身体側からの判断。さらにはそれ以上延命
しても、医療費がかさむだけ、というような経済的な判断もある。これには絶えず倫
理的な議論がつきまとう。あるいは最近なら遺伝子の問題。日本人はこのあたりに
疎いけど、西洋ではいまだに進化論が問題になるぐらいに、科学が人間を扱う領域
はとても繊細で、「デカルトの苦悩」がある。
もう一つは、このデカルトの強引な形而上学の救済への批判。これは倫理的である
反面、様々な理念の強化に使われる。この私や、この私を保証する神であり、この
私を保証する思想など。
ここからニーチェ以降の現代思想はでている。すなわちいまも受け継がれる近代思
想最大の問い、デカルトの苦悩・・・形而上学を批判しつつ、倫理的なものをいかに
救済するか。
609 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/12(火) 22:20:08 0
精神分析の倫理
現代において、デカルトの苦悩の問いの解答に成功したのは、精神分析ではない
か、と言われることがある。精神分析が科学であるのに倫理的であると言われる。
フロイトはデカルト主義者であると言われる。なぜなら精神分析にはデカルトの心身
二元論の苦悩の回答が組み込まれているから。
精神分析の基本原理は、動物はほぼ完成して生まれるが、人間は未熟児で生まれ
る。そして他者を吸収することで完成する。ナルシズムな幼児期は、母(想像的他
者)との関係から、やがて父(象徴的な他者)との関係し去勢され、社会性(超自我)
を身につけることで、完成する。
人は理性によって主体的に行為をしているつもりが、実はこのような幼児期の経験
によって形成された無意識が働いているということ。そしてこの経験は人それぞれ
で、1回限りのもの=「この私」である。
610 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/12(火) 22:20:43 0
この私の他者性
フロイトが性的なものにこだわった理由の一つは、性関係において、この1回性とし
ての無意識が観察されやすいから。動物は生殖のための性関係を行うが、人間の
性は生殖と関係がなく、倒錯的で、人それぞれ。靴とか、ビニールとかほんといろん
なものにいろんなものに発情する。この倒錯性は幼児期の満たされない経験からき
ている。その無意識に埋もれたものを引きづり出すために夢判断とかが試みられた。
あるいは精神分析が精神分析学でないのは、人はみな違うわけだから、学問として
体系化され、そのマニュアルによって治療してはいけない。患者はそれぞれの経験
があり、それに向き合わなければいけないという倫理的な理念からきている。
このような精神分析としてのこの理念は、フロイトを経て、むしろラカンが組み立て
いったといってよい。その1回限りの経験とは、他者との経験。「この私」において、
なぜ他者性が重要かはここから導かれる。
611 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 22:25:32 O
おーおーおだてに乗って調子づく馬鹿
612 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/12(火) 23:21:12 0
>>
デリダは精神分析を特定の「局所的な」分野とはみなさず、「存在論という、またはと
りわけ存在という基礎的概念」を解読する読解方法とみなしている。
フロイトは、自ら認めるかどうかは別として、精神は「抹消の下にある」記号の構造
だと暗示している。なぜなら、精神は記号と同様に、根源的な他者性、完全に他な
る者に住まわれているからである。「フロイトはこれ(この根源的他者性)に無意識と
いう形而上学的名称を与えている(デリダ)」「無意識的なるものは、外界の現実と
同じようにその内的性質からこれを見ればわれわれにとって道であり、外界がわれ
われの感覚器官の報告によっては不完全にしか捉えられないのと同じように、意識
のもろもろのデータによっては不完全にしか捉えられないところの、本来的な心的
現実である。(フロイト)」この他者性はそれ自体として決して意識に現前することは
できない。意識は、それ自身と無意識の間にある前意識にしかかかわりを持たな
い。自らの内に永続的な他者性の痕跡をもっているもの、すなわち精神の構造、記
号の構造。この構造にデリダは「エクリチュール」という名を与える。記号は・・・決し
てそれ自身としては現れない別の記号の痕跡に、つねにすでに住まわれているの
である。「記号学」は「グラマトロジー」に席を譲らなければならない。・・・この移動
は、ニーチェによる終わりがない「記号の連鎖」としての道徳の「系譜学的」研究に
密接に関連している。
613 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/12(火) 23:22:10 0
形而上学の閉塞は、その研究の起源と目的を現前の中に見いだした。この囲いを
問題視した者たち−ニーチェ、フロイト、ハイデガーを含む−は、「抹消の下に」とい
う戦略の必要を明確化する方向に向かった。ニーチェは「認識」を、フロイトは「精
神」を、ハイデガーは・・・「存在」を、抹消の下に置いた。ある事物の現前を消しなが
らもそれが読めるように残すというこの身振りを、デリダは「エクリチュール」と名づ
ける。それは形而上学の囲いからわれわれを解き放つと同時に、その内部で我々
を保護する身振りである。
「・・・フロイト思想にすじを付けているさまざまな概念対立のすべては、差延の経済
におけるある迂回の諸契機と同様に、それら概念のそれぞれを相互に関係づけて
いる。一方は遅延された他方にほからなず、一方は他方から差異化する(デリダ)」
この二つ、「差異」と「遅延」を合わせてデリダは「差延」と呼ぶ。・・・哲学の運動は必
ずしもニーチェ的暴力を必要としない・・・人は差延によって形成されていること、「自
己」なるものは「自己」が決して完全に認識できないことによって構成されているこ
と、を単に認識するだけで十分なのだ。われわれは忘却とか偶然への愛とかを培う
必要はない。われわれが、偶然と必然の戯れであるのだ。
「デリダ論」 ガヤトリ・C・スピヴァク (ISBN:4582765246)
<<
614 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 23:22:13 O
このスレッドは天才チンパンジー「アイちゃん」が
言語訓練のために立てたものです。
アイと研究員とのやり取りに利用するスレッドなので、
関係者以外は書き込まないで下さい。
京都大学霊長類研究所
615 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 00:41:24 0
なんか必死な携帯厨がいるようだなwwww
あまり必死そうに見えない。
アイちゃんはなぜ天才でいられるんだろう?
ほかのチンパンジーがフリーダムだからです
619 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 08:37:55 O
それで自惚れが強くなるんだな。
無理もないか。
620 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/13(水) 17:23:51 O
デカルトの苦悩は、たとえば世界を貨幣価値へ還元する市場主義に対する、すべてはお金ではかえないという倫理の対立にもみられる。
まさに現代的な問題である。
621 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 19:28:01 O
アイちゃんごはんだよ
622 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 19:47:42 0
なんか必死な携帯厨がいるようだなwwww
やはりどう見ても必死だなwwww
『時間の空間化』をして考え込むから、お前は不幸なんだよ。
624 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 20:02:16 0
波にお似合いの勤め先としてsfcgなんてどう?司法テロとかともいわれてるね。。
大島と同属なんじゃない波って。
625 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 20:25:36 O
買い被り。
こいつは御託並べる以外に何もできないって。
626 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 22:31:20 O
先日、二回目になるが例の浮浪者の親父と川原の土手でひさしぶりに会ったんや。
高架の下で道路からは見えないとこなんで、
2人で真っ裸になりちんぽを舐めあってからわしが持って来た、
いちぢく浣腸をお互いに入れあったんや。
しばらく我慢していたら2人とも腹がぐるぐると言い出して69になり
お互いにけつの穴を舐めあっていたんだが、
わしもおっさんも我慢の限界が近づいているみたいで、
けつの穴がひくひくして来たんや。おっさんがわしのちんぽを舐めながら
ああ^〜もう糞が出るう〜〜と言うまもなく、わしの顔にどば〜っと糞が流れこんできた、
それと同時にわしもおっさんの口と顔に糞を思い切りひりだしてやったよ。
627 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/14(木) 23:06:21 0
しかしなんだかんだいって、少しずつ論理が固まってきていますね。
というか、基本は一つあって、それをシェーマとして表してきました。
たとえば最新はこれです。
>>
現実界(天災、天の恵み)→想像界(助けあい=贈与)→象徴界(社会の掟=道徳)
→ 想像界(助けあい=贈与)→現実界(欠如)
<<
>>
<拡散>
物語、単独性 − 情報化 → 情報、偶有性(多数性)
<収束>
物語、単独性 ← 物語化 − 情報、偶有性(多数性)
<<
あるいは少し前では
>>
外部(環境)/グレイゾーン(技術開発)/内部(正義×公平)
<<
628 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/14(木) 23:25:54 0
■猿でもわかる波平哲学
1 主体の倫理 偶有性と単独性
単独性への収束、偶有性への発散の原理を
(ポスト)構造主義をもとに説明していく。
参考 「探究」柄谷、「存在論的、郵便的」東 etc
2 貨幣と贈与
マルクス、柄谷を参考に史観を提示する。
参照 「世界共和国へ」柄谷、「貨幣と精神」中野 etc
3 経済的なものと政治的なもの
参照 「人間の生活」アーレント etc
4 現代の生き抜き方
現代をいかに生き抜くべきか。
参照 「限界の思考」宮台・北田 etc
5 オタク論
様々なオタク作品の分析
参照 「動物化するポストモダン」東 etc
629 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 23:36:01 0
>>628 イエスかノーで答えろ。
答えられなかったら、ノーと見なす。
『資本論』読んでるか?
630 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/14(木) 23:49:38 0
>>629 人に聞くときはまず自分から。
イエスかノーで答えろ。
答えられなかったら、ノーと見なす。
童貞か?
631 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/14(木) 23:58:03 0
>>628は、参照本の解説込みで書くと、
一章ごとが、本になるボリュームですね。
632 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 00:14:37 0
ネタですよ・・・
すまん。本気で心配してしまっていた。
634 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 00:58:34 0
635 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 01:31:03 0
■なぜそれでも中国製品を受け入れていかなければならないのか。
「中国製品」パニック
たとえば以前、東海村で原発事故があったときに、オーストラリアから九州かどこか
の大学に留学している学生の親が、そのニュースをしって、子供をオーストラリアへ
避難させたという話がありました。日本人にしてみれば、東海村と九州は遠く離れて
ことがわかりますが、オーストラリアの親の認識は、「日本」/「中国」ぐらいの差異
化で意味(シニフィエ)を認識して、「日本」の事故として、同一化しているということ
でしょう。
これは一つの笑い話ですが、たとえば最近の中国冷凍商品事件について、どうで
しょうか。日本人には「中国製品」/「日本製品」という差異化で排他的なパニックが
広がっています。これは形而上学的な二項対立であり、人にはこのように同一化す
る認識上の特性があります。
デリダのように「他者性」とは、他者を受け入れ、この対立を解体(脱構築)していくこ
とです。「中国製品」/「日本製品」という差異ではなく、もっと日本人が日本を知るよ
うに、中国の多様性を知る努力をすることです。
636 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 01:31:40 0
アイデンティティと他者性
これは、最近のネットウヨク傾向でもいえます。日本/韓国という形而上学的な二項
対立を脱構築することです。しかし不思議なのが、ネットが発達し情報の入手が容
易になり、また韓流ブームなどもあり、互いにより知り得る状況にあるのに、ネットウ
ヨが広がる。ここにはより互いに近接するほどに、反作用的に排他する傾向がある
ことを示しています。
ここでは、「日本」がある特別性を持っていることを示します。日本/韓国、日本/
韓国などの差異が解体されていくような状況だからこそ、差異化を崩さず、「日本」と
いうシニフィエを死守しようとするような力が働いています。
これは、先のオーストラリア人の親が無知であり、知ればよいのに、対して、やっか
いな状況です。これはいわば、日本/韓国の差異を解体することは、自らが日本人
であるとというアイデンティティを揺るがせる自体であるからでしょう。そして日本人
であるというようなアイデンティティを持つことは悪いことではありません。このように
「他者」を受け入れるというのは、単に知るという以上に難しい問題です。
637 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 01:31:55 0
>>628 波平思想をより深く理解するにはそれらの著作群を読めば良いんだな?
どれくらいかかるかは分からんが、やってみるぜ
638 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 01:32:59 0
「悦ばしき知識」への覚悟
もはや中国と日本の密接な結びつきは解消するものではありません。食料に関して
も中国へ依存せざるおえません。近接において起こっていく摩擦です。中国冷凍商
品事件についていえば、これをより深く知り合い一つの機会とするということでしょ
う。そして「中国製品」/「日本製品」という対立を解体していく。他者を受け入れ、そ
してニーチェのいう「悦ばしき知識」への覚悟をもつということでしょう。
>>
逃げられない境界を前にしたニーチェの最も大胆な洞察は、おそらく、無知への意
志への勧めであろう。・・・「愉快な知恵」−悦ばしき知識−と名づけられ、自らの活
動を「真」「善」として受け入れる自己保存的解釈の連鎖にとっての最大の脅威とみ
なされる。
「人間の頭上には、その最大の危機として、狂気が突発するおそれが、たえずゆら
めいていたし現にゆらめいている−それは、感ずる・見る・聞くなどにおけるいい加
減さの突発、精神のふしだらさの楽しみ、人間の非常識の悦び、等である。狂人の
世界に対立するものは真理と確実性ではなくて、むしろある信念の普遍性と一般的
規範力である。つまり判断上の恣意がゆるされぬということである(ニーーチェ)」。
無知、愉快な知恵への意志は、また不確実性を喜ぶ覚悟、これまで有効に見えた
かもしれないあらゆる価値の転倒を喜び、それを意図的に望む覚悟もできていなけ
ればならない。
この絶え間ない危険の引き受けは、デリダがしばしば論じる、ニーチェにおける肯
定的戯れである。・・・このあやうい「忘却」「能動的忘却」は、デリダがニーチェの超
人に関して強調するものである。
「デリダ論」 ガヤトリ・C・スピヴァク (ISBN:4582765246)
<<
639 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 01:36:23 0
>>637 1次作品よりも、二次作品をあげているので、
読みやすいと思います。そこから一次作品にたどると
もっと深まるでしょう。
すると現代思想の最前線が見ると思いますよ。
がんばってください。
政治に関しては、よい日本人の二次作品がないですね。
アーレントは読みやすいので良いですが。
640 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 02:30:44 0
最前線を柄谷や東の著作をとおして知るの?
別に原著原理主義の主張を振りかざすことないけど、やっぱ原文で
がんばって読みこまないと間違いなく哲学なんてわからないと思うよ。
だから、柄谷のカントがむちゃくちゃな解釈なんじゃん。
波平も純粋理性批判くらい今からじっくり付き合ってみれば?時事問題を大上段から分析する前に、さ
641 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 02:34:52 0
あとね、いまスレッド読んでみたの。
みんながゆってるほどひどいとは思わないけど、ほとんどの人が「受け売り」とか「自分の言葉で語れ」
とか指摘しているとゆう事実は、やっぱもうちょっと真剣に受け止めたほうがいいと感じるなあ
それだけ毎日考えてるあんたって、やっぱ尋常じゃないもん。でも、その結果出てきたものの軽薄さも
尋常じゃない。「言葉と格闘してない」って批判もあったけど、ほかの哲学者の名前出すまえに、もうちょい自分で考えてみなよ
642 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 02:39:18 0
>>641 またもや「自分の言葉」症候群かwww
お前のレスもどれも見たことがある言葉で自分の言葉では決してないなwww
知識の取捨選択も自分の判断、引用も自分の意志表明だな。
644 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 03:00:14 0
>>642-643 もちろんそうなんだけどさ、俺がいってんのは程度問題だよ。
このスレッドにかぎってもこれだけの指摘があるってことは
指摘にそれなりの説得力があるんじゃないかってこと。
げんにこのスレの319とか東スレのしろうとの議論とかみてると、結局議論の全体像を確認する前に
基底概念の足元すくわれて、挙句に「もっと勉強しなさい」ってわけのわからん捨て台詞残して逃走ってパターンじゃん
もったいないって思ってるんだよ、せっかく朝から晩までカキコしてるのにさ
>>644 「基底概念の足元すくわれて」るんじゃなくて、
「おいおい、そういう基本的な事まで一々説明しなきゃいかんのかよw」ってのが波平の立場。
しかもここは哲学板、曲がりなりにも専門板なワケで、
そういう基本的な事項は予めおさえた上で意見するなり批判するなりしてこいと
いうのが波平の立場なんだと思う。
俺が見ている限り、波平に対する批判の大半は
議論の基本的前提や枠組みを理解していないための誤解や曲解から来ている。
そうした前提や枠組みを理解したうえでの
「いやその枠組みをそのように当てはめるのはおかしい」とか
「俺ならそうではなくてこう考える」といった意見なり批判であれば
波平も見限ったりはしないだろうし、もっと有意義な議論に発展していくと思うよ。
646 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 03:20:43 0
だが並兵は資本論すら読んでいない。
有意義な議論ってなんだろうな?
648 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 03:38:06 0
> 柄谷のカントがむちゃくちゃな解釈
とおっしゃるが、そもそも解釈に正しいもむちゃくちゃも無いでしょう
もちろん、原文から全く懸け離れた意味不明な解釈ではまずいと思いますがw
どれだけ目新しい解釈を引き出すかということも批評の一種ですよ
649 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 03:42:15 0
>>645 うんうん、でも、たとえばしろうととの東スレでの議論みてごらんよ。
しろうとが「そういう基本的な事」の誤りを指摘して、波兵が答えられずにてきとーに
罵倒してお茶をにごしてるだけじゃん。このスレの319との議論だって同じこと。「そういう基本的な事」が相互に矛盾している
という指摘にたいして、ぴかぁはまったく答えられなかったじゃん。だいたい「基本的な事項は予めおさえた上」でっていうけど、ぴかの基本知識って邦訳の
二次文献からつまみぐいしてるだけだからね。きみの考えは正論だけど、それをこのスレッドにあてはめるのはやりすぎだと思うよ。
650 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 03:49:27 0
>>648
むちゃくちゃな解釈ってのはありうるよ。べつにカラタニに「原文で読まずにカントがわかるか」的な
要求をしようとは思わないけど、とくに数学論はひどい誤解をしてるね。数学的概念の構成における純粋直観の
役割完全に見誤ってるもん。そのくせ「目新しい解釈を引き出す」ことにやっきになって、これまたヒルベルトの間違った解釈で
恥の上塗りをしてるので始末に負えない。ヴィト理解は素人の発想勝負で読み物としては読めるけど、カントとかゲーデルの解釈が
むちゃくちゃってことはアカデミズムからの黙殺という結果がものがたっとるよ。そりゃ学者連中が評論家をはなからなめきっとるのも
その理由にゃあるんだろうけど、完全性定理の証明っちゅう学部生でも地道にやる努力すら放棄して数学の哲学をつまみ食いしよーとするカラタニの
態度が、にちゃんにおいて波兵のよーな軽薄な自称哲学者を再生産したとはゆえるかもね。
651 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 03:57:18 0
だから自演だって
これはもしや、ぴかぁ〜としろうとの自演合戦か?w
653 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 04:07:46 0
俺しろうとじゃないぜ。
あっちは知らんが。ま、そゆことで寝るわ
654 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 07:53:55 0
>>649 哲学議論なんて、宗教闘争みたいなもので、そうそう決着は
つかないんだけど、最近の東スレでのしろうととのレスは、
ボクが経験した中でも見事な勝利だったよね。
というか、基本的な間違いに、本を引用しただけなんだけど。
しろうとは完敗に気がついたと思うが、構造主義なっていっても
理解しているやつは一人もいないから、負けてない印象をつくる
ために、ごたごた言い続けるいつもの戦法にでただけ。
ラカンスレでもしろうとをボコったけど、人がいないから、
さっさと逃げ帰った。あいつはそういうやつ。
あの完全勝利を理解できるか、できないか、はひとつの踏み絵だと思う。
特に、
>>627にも上げたが、波平哲学の基本だからなあ。
せめて理解できてないことを理解できないと、お手上げだよ。
いうことは一つしかないよ。
逝って良し。
655 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 07:57:12 0
656 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 08:03:55 0
確かにキミには高等であると思うけど。
657 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 09:25:37 0
しかし
>>566-567はほんと良い文だね。
このあとに純粋贈与論が加わるところがさらに良い。
ここが現代思想の一つの最前線でしょ。
658 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 10:27:28 O
>負けてない印象をつくる
ために、ごたごた言い続けるいつもの戦法にでただけ。
それお前のことだろ
つーかお前の人生そのもの
童貞?ww
>>645 波平さんの知識は偏向しすぎてるよ。
頭凝り固まって、それで人生の質が向上してるならいいけど
ニヒリズムに陥って悲観して、じっと考え込んでるだけじゃん。
うちはプラトンとホワイトヘッドとベルクソンを人生観にするようにしてる。
この方が前向きになれるよ。
ニーチェ、カント、ハイデッガー、デリダなんかは主流派だけど、なんか暗い。
大学で哲学者として生きていける身分の人なら問題ないけど
一般生活者はこういう哲学に本気でハマったら不幸な人生しか送れなくなる。
なによりあんまり好きじゃない。
呆れて相手にされなくなってるのを
相手が納得して立ち去ったと思ってんのか波平は。
ちっとも魅力のないニヒリズムなんか誰が受け入れるかっての。
662 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 12:45:09 0
「猿でもわかる波平哲学」講義を開講するに当たり少し語りますか。
波平哲学とは、一般的いう哲学であるのか。
以前ボクは、これは哲学ではなく、科学であると言っていました。
どういうことか。波平哲学は基本的に
>>627のシェーマに集約されます。
これは、いわば人間の秩序を表す構図です。
この構図を完成されるために、哲学、社会学を学習するのです。
そしてこの構図の有効性を確認するために、社会分析をするのです。
哲学、社会学基礎理論→<波平シェーマ>→社会分析
よく波平哲学への批判としてあるのが、あるのは、
社会分析に哲学タームが必要ない。ただの知識にひけらかしだ。
まず言いたいことがあり、問題設定がされているので、空虚だ。
テーマが違っても結論がいつも同じだ。
ということがありますが、だからこれはある意味で正しい。
あるいは
哲学理論に対する厳密性が低い
つなぎ方が強引である
という批判もありますが、これもある意味で正しい。
しかし実はこのような批判は、哲学者には一般的です。
有名な哲学者が、過去の哲学者の解説本を書くことがあります。
たとえばハイデガーの「ニーチェ」、コジェーブ「ヘーゲル」など。
正当派にはとんでもないしろものです。
クロスオーバーにはこのような問題がつき物です。
しかしそれが体系化されることで、新たな哲学となるのです。
663 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 12:54:38 0
このシェーマは一つの原型を持っています。
収束・・・物語化、形而上学、信仰
発散・・・情報化、近代化
再収束・・・倫理
収束とは、簡単にはアイデンティティの確立です。ニーチェはこれを力への意志と呼びました。
人間は秩序を求めるのです。
発散とは、どちらかといえば、環境要因です。秩序を求めても、
回りとの関係の中で、崩されていきます。
人は、社会は、このような収束と発散の運動としてあります。
これは、宇宙論にもつながります。
宇宙は膨張しつづけており、エントリピーの増大によって発散(秩序は解体)している。
しかしそれとは逆に、宇宙には自己組織的に秩序が作られます。(収束)
生命という存在はそのもっとも高度なものです。
しかし人間を語るときには、同じ拡散−収束でも物理的な簡単構図ではありません。
さらにはそこには構造を知った上での、意図的な到着点(収束点)としての
倫理を見いださなければなりません。
波平哲学はこのような壮大な計画のもとに、人類補完計画として進んでいます。
664 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 13:06:44 0
このスレに書いた文とテーマを分割するとこのようになるでしょう。
収束(物語化、形而上学)
・贈与論、宗教論形而上学分析
■なぜ談合はいけないのか
■なぜ「政治的なもの」が回帰するのか。
■なぜ日本昔話は教育的な番組なのか
発散(情報化、近代化)
・貨幣論、ネオリベラル分析、近代化、情報社会論
■なぜ国家は物理的な暴力を独占するのか
■環境と交換様式
■なにが資本主義を動かしているのか。
■なぜひとはモンスターを狩るのか
■物語論 その1 技術進歩主義的
再収束(倫理)
・各種社会分析、オタク、動物化
■なぜ街の浮浪者は見えないのか
■なぜ「働きマン」は気持ち悪いのか
■なぜ村上春樹風に生きるのか
■形而上学を批判しつつ、倫理的なものをいかに救済するか。
■なぜそれでも中国製品を受け入れていかなければならないのか。
665 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 13:11:00 0
いまは波平哲学を体系化するために、2/10を目指しているあたりだと思います。
666 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 13:14:26 0
資本論を読まずに体系化できるわけないだろ。
ニーチェに価値はない。
波平は構造主義を捨てろ
構造主義ばかりが哲学じゃない。
他に目を向けろ。
なんの権力も無いくせにね。
プラトンがいいよ、うん。
671 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 14:36:38 0
竹田青嗣 (著) 『現象学は思考の原理である』
http://www.amazon.co.jp/dp/4480059938/ 38 人中、34人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
道具としての有用性, 2005/8/27
By daepodong - レビューをすべて見る
ここで論じられている「現象学」なるものが、
果たしてフッサールの思い描いた「現象学」を忠実に祖述しているかどうか、
あるいは現在哲学学会で討議されている「現象学」のトピックスに合っているかどうか、
といった批判は意味はあるものの、この本の読み方として穏当とは思えない。
つまり、著者のヘーゲルやハイデガーの読みがまったくの誤読であったって構わないわけである。
問題は、本書をはじめとする「竹田現象学」の一連の著作が、
著者の主張しているように、意見の異なる人々の間の相互理解、
という難しい課題に対して有用なのか、ということである。
すると、これは一つの行動仮説であり、妥当かどうかは適用の結果を見て評価すれば十分なのではないか。
わたくしには、上記の観点からみて著者の主張は妥当と思えるし、
何よりも「テツガク」の本とは異なってふつうの言葉で書いてあり、
ある一定以上の日本語読解能力があれば著者の主張が無理なく理解可能である、
ということは評価されてよいだろう。
実務家としては、「正統だけれども有用性がない」よりは、
「異端であるが使える」ほうがよほど価値があるからである。
> つまり、著者のヘーゲルやハイデガーの読みがまったくの誤読であったって構わないわけである。
↓
つまり、柄谷のカントの読みがまったくの誤読であったって構わないわけである。
673 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 17:42:09 0
俺は働きマンより村上春樹のほうがキモイと思うな
674 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 17:54:29 0
>せめて理解できてないことを理解できないと、お手上げだよ。
どんなに優秀な人間も、理解できていないことは理解できません
もし出来ているというなら、時間を空間化して物語を捏造しているだけです
もしかして価値があるかもしれない「理解できない相手」を理解するためには
その相手を尊重し、内省を続けて、学習するしかありません
本を読むように人を読みなさい
>>674 しろうとが「俺が波平に負けたということを理解できていない」という事態を理解するって意味だろw
前後の文脈から判断しても分かるだろw
つまりしろうとが「自分が負けたということを理解している」という意味ではなく、
「まだ自分が負けたということを理解できていない、ということを自覚している」かどうかという意味だ。
676 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 18:33:10 0
>>675 どちらでもあまり違いがありません
理解という言葉を自覚という言葉にすりかえただけです
また、論の元になる勝ち負け自体が明確な事実ではありません
どのようなシステムで評価するかを前提として持っていないなら
議論そのものに勝ち負けは存在しません
677 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 18:33:55 0
波兵はアホだろw
資本論も読んでない。二次文献だけ読んで適当なことを言っているだけ。
678 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 19:13:00 0
679 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 19:54:30 0
二次文献だけ読んだって絶対わからんて。分かったような気がするだけ。
680 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 20:18:46 0
一次文献を読まなくてもいいとはおもうが
それなら一次文献の言葉を使わずに説明できるだけの理解がほしい
波平は構造主義以外の哲学はまるきりしろうとじゃん。
いや構造主義でさえ、せいぜい新書を読みかじっている程度だな。
波平、バタイユが構造主義とか書いてたけど全然違う。
バタイユのは自然派以前の古い哲学
ヘーゲルの哲学に近いもの。
684 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 20:53:48 0
だれだって、こういう時期があったんだよな
685 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 20:58:25 O
ボコボコやね
686 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 21:13:49 0
>>680 いや一次文献を読まなきゃダメだよwww伝言ゲーム状態になるからw
687 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 21:20:17 0
>>686 一次文献より前の言葉を引用すればいいとおもうんだが
そうすれば言葉の用法の違いも説明できるだろ
688 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 21:23:51 0
>>685 だが現実問題、波平からすれば全く痛くもかゆくもないという事実
689 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 21:29:30 0
>>687 おまえが直に一次文献を買うなりして読めばすむことだろうがwwwいちいち人に頼るなよw
690 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 21:31:58 0
>>688 波平に痛みをあたえたがってるのなんて、携帯粘着厨だけだろ。
SMじゃねーんだから痛みなんて何の意味もない。
人の意見が痛みだというなら、この世は地獄だな。
691 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 21:36:01 0
こら!荒らすな!
692 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 21:40:28 O
WWW
693 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 21:42:21 0
>>692 携帯粘着厨でたあwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
694 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 21:42:51 0
>>689 あ、おれ?
いわゆる一次文献のほうがらくだと思うよ
この方法ではプレーンな知識を十分に集めてから話さないと、ならんからな
一次文献に頼らないことは、それだけ難しいということを言いたかっただけだ
695 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 21:44:19 0
ふむ
696 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/15(金) 21:46:20 0
>>694 なにをもって一次なのかってことだな。
形而上学的だね。
697 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 22:00:57 O
意味わかってない自演猿
698 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 22:13:14 0
>>696 おれはどちらかというとピタゴラスの徒の末裔だな
699 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 23:28:03 0
プロならいざ知らず、一般人レベルでは二次文献のつまみ食いで十分だと思うよ。
それよりも
無理しないで堵愚慧螺読めよ
700 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 23:37:32 0
じゃあ、せっかくだから俺はネクロノミコンを読むぜ
701 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 00:34:27 0
ま二次三次文献で最先端の議論に追いついとくのも重要だが、一次文献ってそう難しいものでもないし読めば分かるから時間をとって読めばいいのに。
702 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 00:50:52 0
デリダの脱構築の意義とはなんだろうか。様々な形而上学を宙づりにして、解体する。
ここにはラディカルな力がある。
結局のところの世界は形而上学的にできているわけで、なにか解体し、
何を解体しないか。この判断が求められる。
さらにはその選択において、欲望が作動してしまう。
>>
「脱構築」という技術は、体系の全体性。完結性が破綻する場所を暴いてゆくことで、
体系の外部を徴候として示すことだ。しかしこの手続きでわれわれが本当に獲得するものは
何だろうか。それは決して「外部」そのものなどではないだろう。そうではなく、ここで
われわれが想像的に獲得するものこそが「体系の全体」なのである。
われわれが「脱構築」を試みるとき、われわれは不完全性をテコにして、体系の全体性を
そっくり獲得・所有したと信ずることが出来る。・・・不完全性を言い表し、それを表象することに
よって、不完全性はきわめて巧妙に「脱構築」する主体の視野から隠蔽されてしまうのである。
これはおそらく臨床的事実と言って良いであろう。
「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェルに
繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルにおいて
語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。
「文脈病」P392-394 斉藤環
<<
この斉藤の指摘は、脱構築そのものとと言うよりも、メタレベルに立つことの快感である。
たとえば2ちゃんねるは、話をずらしメタレベルに立ち、優越すると言われる。
あるいは、中二病があるだろう。当たり前とされることを、あえて問うことで、
社会全体を宙づりにし、社会全体を所有した(わかった)ような優越を味わう。
これによって、自分/社会の形而上学的二項対立の位置を確保している。
703 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 00:59:17 0
デリダは自己に対してもラディカルであるようなストイックな姿勢を
見せているのは、このようなナルシシズムに陥らないためだろう。
そこにあるのは、何を解体し、何を守るのか、という峻別への
ラディカルさがあるのではないだろうか。
脱構築が一時期、文学におけてブームになったことに悲観的で
あったこともそれに対応するだろう。
たとえば脱構築は、ニーチェの系譜学の影響を受けていると言われる。
ニーチェは系譜学によるパースペクティブによって、道徳を
宙づりにした。
中二病者がニーチェに触発されるのは、このこととまさに関係している。
704 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 01:00:43 0
自分自身を意識的に脱構築することを内省というんだよ。
それは普段は無意識におこなわれる物だが、
それだけでは足りないから人から知恵をもらうために議論するんだ。
反論しても、断定してもいい。
ただ、尊敬を忘れないほうがいい。
そうしないと人間は自分の都合のいいようにしか物事を解釈できないんだよ。
他人のためにじゃない。自分のためだ。
侮辱してくれる人がいる限りは大丈夫。
706 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 01:34:07 0
しかしこのような脱構築は、否定神学として作動しているいえるだろう。
システム全体と宙づりにすることで、私と担保している。そこにナルシシズム的な
契機が発動する。
だから脱構築は、自らも巻き込まなければならない。そしてそこにこそ「覚悟」が
求められるのではないだろうか。
>>
(ニーチェの)無知、愉快な知恵への意志は、また不確実性を喜ぶ覚悟、
これまで有効に見えたかもしれないあらゆる価値の転倒を喜び、それを意図的に
望む覚悟もできていなければならない。
<<
707 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 01:56:11 0
現代の情報社会は、多様な価値の中で、意味を決定できずに、
ダブルバインド的な宙づり状態におかれることが多い。
このような発散状況においてこそ、脱構築は否定神学的に、
確かな地平を求めて、行われる面が強い。
本来の脱構築とは、拡散である。
拡散 形而上学(否定神学)→デリダ的脱構築→散種(不確実性の導入)
しかし反転して、収束へと向かう。
収束 情報社会=不確実性の進入→否定神学的脱構築→自己(シニフィエ)の獲得
708 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 02:03:36 0
逆にいえば、否定神学はこの情報社会において、確かに「単独性」を見いだす
方法であるということだ。
ここでは3つの脱構築がある。
・忘却的 情報化社会によって解体されてしまう。忘却
・否定神学的 解体しつつ、自らを担保する
・倫理的 デリダ的脱構築、、覚悟を持って、形而上学と解体する
709 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 02:08:01 0
発散← 「覚悟」 →収束
忘却的 倫理的 否定神学的
710 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 02:28:36 0
ここでボクたちは、ラカンの倫理に到達していることいえる。自らの死を懸けて、身をもって
道徳を「脱構築」しようとするアンティゴネの「覚悟」である。
>>
ラカンは・・・裏切り者ポリュネイケスの埋葬を禁じる通俗「道徳」の権化たるクレオン王と、
クレオンに背いて自らの命を懸けてまで兄ポリュネイケスを埋葬しようとするアンティゴネとを
鋭く対立させたうえで、「己の欲望を譲らない」アンティゴネの態度こそ「倫理」にふさわしいとする。
「道徳」対「倫理」である。「われわれがわれわれの中心だ・・・と思いこんでいるものとは、
ほとんど<他者>の欲望に由来する「道徳」的なものである。己の欲望の現実界=
「倫理」はその平面にはありえない。したがって「道徳」の根拠はつねに問われなければならない。
したがって可能な「デリダ的脱構築」とは、自分の立っている地平、たとえば現世的な法が
恣意的で無根拠であることに固執しつづけるという意味で、アンティゴネ的、したがって
ラカン的な意味で「倫理的」なもののみである。P116-117
「貨幣と精神」 中野昌宏
<<
711 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 03:05:22 0
忘却的・・・物理的な外部(純粋贈与)
倫理的・・・エス(無意識)の他者性
否定神学的・・・エス(無意識)の他者性の抑圧
712 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 03:06:00 0
エリクソンがライフサイクルにおける青年期の課題としてそれをあげているな
波平、最近ますます冴えてきてるな。
自演乙
659:考える名無しさん :2008/02/15(金) 11:42:08 O [sage]
>>645 波平さんの知識は偏向しすぎてるよ。
頭凝り固まって、それで人生の質が向上してるならいいけど
ニヒリズムに陥って悲観して、じっと考え込んでるだけじゃん。
うちはプラトンとホワイトヘッドとベルクソンを人生観にするようにしてる。
この方が前向きになれるよ。
660:考える名無しさん :2008/02/15(金) 11:57:10 O [sage]
ニーチェ、カント、ハイデッガー、デリダなんかは主流派だけど、なんか暗い。
大学で哲学者として生きていける身分の人なら問題ないけど
一般生活者はこういう哲学に本気でハマったら不幸な人生しか送れなくなる。
なによりあんまり好きじゃない。
681:考える名無しさん :2008/02/15(金) 20:27:51 O [sage]
波平は構造主義以外の哲学はまるきりしろうとじゃん。
682:考える名無しさん :2008/02/15(金) 20:29:39 O [sage]
いや構造主義でさえ、せいぜい新書を読みかじっている程度だな。
683:考える名無しさん :2008/02/15(金) 20:33:33 O [sage]
波平、バタイユが構造主義とか書いてたけど全然違う。
バタイユのは自然派以前の古い哲学
ヘーゲルの哲学に近いもの。
716 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 06:12:31 O
プラトンがいいよ、うん。
717 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 16:38:44 0
おれも、ライフサイクルと「存在と時間」にはまってる時に似たようなこと考えたな
718 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 16:39:19 0
たとえば「日本人」を考えましょう。
たとえば日本人は、「日本人」に対して、「われわれ日本人というのは・・・」「日本人だから・・・」と
ポジティブであるが、ネガティブであろうが、ある共有された同じ意味があるように語ります。
しかしこれをデリダは形而上学と呼びます。
「「日本人」というエクリチュールは、様々な場面の中で、その都度その都度、使われ、
多様な意味を持ちます。このような多様性を抑圧し、「われわれ日本人というのは・・・」と
ある共有された同じ意味があるように語るのです。
脱構築は「われわれ日本人というのは・・・」という形而上学に対して、
再度、多様な意味を浮き彫りにして、この形而上学を宙づりにする手法です。
このような思想にニーチェの系譜学に影響されています。
ニーチェでは、「日本人」というような同一性へ収束させる力を、人間が本来持つ力、
として「力への意志」と呼びます。
それに対して、ニーチェは遠近法(パースペクティブ)によって、収束された意味が、
多様な意味の可能性あることを暴きます。
ここにある、収束−拡散の運動をデリダは継承しています。
デリダの脱構築は拡散において、ニーチェよりもラディカルです。
デリダは「日本人」というエクリチュールの意味を無限の可能性に広げます。
それはすでに誰かがいったということではなく、現前しなかったことを
含めて、多様性を読み込むのです。
ここにあるのは、不確実性です。「日本人」というエクリチュールがどのような
意味をもつかは、決して過去に決定されていたり、予測されたりするようなものではなく、
予測不可能な不確実性へと発散するのです。
しかし究極的に発散すれば、「日本人」と「中国人」の差異は解体され、意味を持ち得ません。
それはもはや精神病です。
そうではなく、デリダは、単数の意味へ収束することに、具体的に他の読みを示すことで、
宙づりにするのです。
719 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 16:53:15 0
(意味の消失)拡散 ← 宙づり → 収束(同じもの性)
たとえばここに経済性と考慮することが出来るでしょう。
「日本人」を同じものであるように収束させることが
出来ることで、コミュニケーションそのものが可能になっているのです。
ここにヴィトゲンシュタインの言語ゲームの議論につなげることが
出来るでしょう。ヴィトゲンシュタインの疑問は、
その始めに意味は共有されていないのに、なぜコミュニケーションは
可能なのか、ということでした。
これが「言語ゲーム」であるからだ、ということです。
しかしこれはその始めに共同体として意味が共有されているという
ことではなく、意味は事後的にしか、成立しないという、
だからゲームなのです。これはデリダと同じ立場です。
そのはじめから意味を共有することはできない。
しかしコミュニケーションは成立させないといけない。
同じものがあるように収束させ、共有されているようにふるまおう。
たしかに実際に、意味は間違ってとられます。
そのような失敗を考慮しても、このゲームは
コミュニケーションにおいて経済的な方法だということです。
720 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 17:07:32 0
だからデリダの脱構築は、その原理とその用法を分けて考える必要があります。
原理的には、徹底的に拡散し、意味の消失までもって言ってしまいます。
だから何を、どの程度、脱構築するのか。それを決定するのが、倫理です。
この脱構築の破壊力にデリダ自身が恐怖する場面が、
「法の力」でベンヤミンの「暴力論」を語る中にあります。
721 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 17:14:40 0
収束はニーチェによれば、人間の特性以上に、生物がもう特性
=力への意志であると言わしめます。それほどまでに、
根源的な力をもつということです。
それを示すのが、否定神学的な脱構築です。
同じもの性を発散し、宙づりにする素振りが、いつのまにか、
反転して、同じもの性へ向かってしまっている、ということです。
それほどまでに、脱構築することは、能動性をしいる、
困難な行為であるといえます。
人は宙づりであることにどこまで耐えられるのか。
しかし脱構築が不確実性の進入であるとすると、
それもまた世の摂理である、いえないでしょうか。
722 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 17:26:03 0
収束しないと行動できないからな
干からびてミイラになっちまう
収束は動物としての生存本能ともいえなくはないな
>>717 今は何にハマってどんなこと考えてるんですか?
724 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 17:34:37 0
ニーチェの拡散の思想は、系譜学を経て、「忘却」に到達します。
これは、収束することの根源性として、生物学的な力
=力への意志まで遡ったとき、もはや系譜学のような
小手先では太刀打ちできないと考えたからでしょう。
「忘却」こそが、力への意志に対抗できる生物学的な拡散の力です。
「日本人」という同じ意味という根源的な思いこみに対して、「忘却」する。
しかしただ時間を待つと言うことではなく、ニーチェは「能動的な忘却」という
ややパラドキシカルな概念に向かいます。積極的に忘れる、とはなんでしょうか。
忘れようとすればするほどに、意識するのではないでしょうか。
それは、多量の情報を受け入れると言うことです。
ここでデリダの脱構築に近接します。
発散とは、多量な情報にさらされること。
『存在と時間』より『時間と自由』がいい。
726 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 17:42:19 0
再度、収束の経済性を考えると、多量の情報にさらされ、
意味が拡散することをさけるために、意味の同じもの性が保証されているようにふるまう。
それが言語ゲームです。
収束がニーチェのいうような生物の特性までさかのぼれるかはわかりませんが、
それに近い、ここに実在論的な構造があります。
それは別に、ニーチェ、デリダが試みる倫理的な構造があります。
実在的
拡散(情報化) ← 経済的なバランス → 収束(力への意志)
倫理的
拡散 ← 脱構築、系譜学による宙づり → 収束
727 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/16(土) 17:55:32 0
たとえば宇宙人が暴力をもって攻めいてきたとき、
もはや私がなにものである、そして「日本人」であるということは意味をもたないでしょうか。
さらには人間であることも意味をなさないかもしれません。
遺伝子がたかだか数%しか違わない猿の一部となるかもしれません。
すなわち人間は「動物」となるのです。
たとえばライオンがシマウマを殺すことは、善でしょうか、悪でしょうか。
どちらでもないでいしょう。人間の価値の彼岸にあるからです。
動物とは意味の消失した無名性です。
たとえば家畜の豚には固有名がありません。
多くの豚の一匹であり、そして人が殺すことに善悪ありません。
宇宙人が人間を殺すことに、善悪がありません。
この地点ころが、人間の価値が究極的に拡散した地点です。
そしてベンヤミンが神的暴力と呼び、デリダがその拡散の
究極さに尻込みした地点です。
728 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 17:59:23 0
>>723 哲学的なもので、はまってることはあまりないな
あえていうなら哲学科をでた父親がなぜニーチェが好きなのか考えてる
>>725 おれもそうおもう
もはや誰も波平の書き込みを読んでいない。
730 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 18:16:13 0
>>729 俺は読んでるけど?
まぁ理解できてるという自信はないがw
>>628の文献も参照しながらいろんな本を読んで、そのうち理解できるようになるつもりだ
731 :
725:2008/02/16(土) 21:05:15 O
733 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 00:59:08 0
■脱構築を脱構築する その1 デリダの構造論と倫理論
デリダの構造論と倫理論
たとえば「日本人」を考えましょう。日本人は、「日本人」に対して、「われわれ日本人
というのは・・・」「日本人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ります。
デリダはこれを形而上学と呼みます。「日本人」というエクリチュールは、様々な場
面の中で、その都度その都度、使われ、その都度その都度の意味を持つものでし
かありません。「日本人」というような共有された同じ意味は、そのはじめ(過去)に
あるわけではなく、あるようにふるまっているのです。
脱構築とは、このような形而上学に対して、多様な意味を浮き彫りにすることで、宙
づりにする手法です。ここでは、デリダが明らかにしたコミュニケーションの構造と、
脱構築という倫理的な手法を分けて考えられると思います。
734 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 00:59:57 0
ヴィトゲンシュタインの経済的コミュニケーション構造
デリダの示したコミュニケーションの構造は、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論に
とても近接しています。ヴィトゲンシュタインの問いも、なぜコミュニケーションは可能
なのか、ということでした。
ある人がある人に「馬鹿」という。これはどのような意味でしょうか。「オマエは頭が
悪い」、「おもしろいやつだな」、実は独り言・・・これはそのはじめから決定されてい
ません。コミュニケーションが成立してときに事後的に了解される、ということです。
これをヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼びました。
これは経済的な行為ではないでしょうか。そのはじめから意味を共有することはで
きない。しかしコミュニケーションは成立させないといけない。同じものが共有されて
いるようにふるいあう。実際に意味は曖昧に、あるいは間違って伝わることはは
多々起こります。
このようなコミュニケーションの構造としては、デリダが形而上学と呼ぶような同じも
の性は批判されるものではなく、経済的な行為と言うことができます。
735 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 01:00:48 0
ニーチェの収束と拡散論
デリダの思考は、ニーチェのニーチェの系譜学に大きく影響されたと言われていま
す。ニーチェは、道徳の系譜学において、道徳としてあたりまえとされる「真実」を、
遠近法的(パースペクティブ)に分析することで、他でもありえることを示しました。そ
して同じものへ収束させる指向は、人間が本来持つ生物的な力であるとして、「力
への意志」と呼びました。
これに対して、ニーチェの拡散の思想は、系譜学を経て、「忘却」に向かうのは、必
然かもしれません。収束する力が、生物学的な力(力への意志)まで遡ったとき、も
はや系譜学のような小手先の拡散手法では太刀打ちできない。「忘却」こそが、力
への意志に対抗できる生物学的な拡散の力です。
しかしただ時間を待つと言うことではなく、ニーチェは「能動的な忘却」というややパ
ラドキシカルな概念に向かいます。積極的に忘れる、とはなんでしょうか。忘れよう
とすればするほどに、意識するのではないでしょうか。
それは、多量の情報を受け入れると言うことです。発散とは、多量な情報を受け入
れることで、形而上学的な同一性を忘却する。
デリダは、形而上学と解体することが倫理であるというニーチェの思考において大
きく影響されていることがわかります。
736 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 01:01:27 0
デリダの狂気の世界
再度、拡散−収束をコミュニケーションの構造論として考えると、多量の情報にさら
され、意味が拡散し、コミュニケーションが失敗することをさけるために、意味の同じ
もの性があるようにふるまわれる。
そして拡散の可能性において、ニーチェよりも、ヴィトゲンシュタインよりも、デリダの
思考は誰よりも強力です。これがデリダのまさに思想史に名を残す核心部分です。
デリダは「日本人」というエクリチュールの意味を無限の可能性に広げます。それは
すでに誰かがいったということではなく、現前しなかったことを含めて、多様性を読
み込むのです。
ここにあるのは、不確実性です。「日本人」というエクリチュールがどのような意味を
もつかは、決して過去に決定されていたり、予測されたりするようなものではなく、予
測不可能な不確実性へと発散するのです。可能性として、究極的に発散すれば、
「日本人」は使うごとに意味が異なり、コミュニケーションが成立しません。それはも
はや精神病的な世界です。デリダはこのようなことに言及していませんが、その狂
気への可能性に、デリダ自身が恐怖する場面があります。
737 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 01:02:43 0
ベンヤミンの暴力批判論
「法の力」デリダはベンヤミンの「暴力批判論」について語ります。ベンヤミン「暴力
批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」と「神的暴力」に分けています。神話的暴
力とは、たとえは日本という法治国家において、その法を守られるために行使され
る警察の暴力であったり、新たな植民地を手に入れれば、そこで日本の法が守られ
るように行使される軍隊の暴力です。
それに対して、「神的暴力」は不思議な暴力です。この神話的な暴力に対する、神
的な暴力とはなにを意味するのでしょうか。ボクはそれはデリダが開いた究極の拡
散による狂気の地点ではないかと考えいます。
>>
いっさいの領域で神話が神に対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対
立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は
法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない
「暴力批判論」 ベンヤミン
<<
>>
前者(神話的暴力)が罪をつくり、あがなわせるなら、後者(神的動力)は罪を取り去
る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の
匂いがなく、しかも致命的である。……まさに滅ぼしながらも、この裁きは、同時に
罪を取り去っている。……前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受け入れる
「法の力」 ジャック・デリダ(ASIN:4588006517)
<<
738 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 01:03:21 0
神話的暴力/神的暴力
たとえば宇宙生命体が巨大な暴力をもって地球を浸食してきたとき、もはや「日本
人」であること、さらには私が何者であるかなど、意味をもたないでしょう。あるいは
「人間」であることも意味をなさないかもしれません。遺伝子がたかだか数%しか違
わない猿の一部とに属するかもしれません。そこにあるのは、宇宙生命体/地球生
命体の差異です。すなわち人間は「動物」となるのです。
たとえばライオンがシマウマを殺すことは、善でしょうか、悪でしょうか。どちらでもな
いでいしょう。この殺戮が人間の価値の彼岸にあるからです。善悪というのはあくま
で人間内部の倫理でしかありません。
たとえば家畜を殺すことに罪の意識がないのはなぜでしょうか。それは彼らが「動
物」であるからです。「動物」とは、人間の外部であり、善悪の彼岸にあるからです。
宇宙生命体が地球を征服したとき、それはそれらの価値に支配されます。そこには
何らかの価値があるかも人間には関係がありません。ウィルスのようにただ地球生
命体に感染し、蝕み、繁殖するのかもしれません。そこでは人間の価値観は消失
し、「動物」となるのです。善悪の価値などなく、ただ人は殺されるのです。
まさに人間の神話的暴力に対立する、この宇宙生命体の暴力こそが、「神的暴力」
の一つの形態ではないでしょうか。そしてこれこそが究極的に拡散した世界ではな
いでしょうか。
739 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 01:04:03 0
デリダの怯え
宇宙生命体があまりに極端であるなら、これは新大陸時代に西洋人が世界を植民
地化した場面を想定することができるかもしれません。ある形而上学的な秩序に
よって保たれている共同体が、異なる秩序をもったより巨大な共同体によって、解
体される場面です。
あるいはデリダはホロコーストに神的な暴力の場面をみて、恐怖するのです。
>>
最後に私は、このテクストに含まれるもっとも恐るべきものに注意を促しておきたい
と思います。それは……あのホロコーストを、あらゆる解釈に抗う神的暴力の表わ
れとして考えることに他なりません。……ここでわたしたちは、あのホロコーストが法
の罪の許しであり、『神』の暴力的な怒りと正義の、判読しがたい署名であったとい
う解釈の可能性に震え上がり、震撼させられることになるのです。
「法の力」 ジャック・デリダ(ASIN:4588006517)
<<
740 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 01:05:04 0
収束−拡散の構造
整理すると、以下のようになるでしょう。これはあくまでコミュニケーションの構造論
であり、なにが良い悪いという倫理的な問題とは別物です。再度言えば、情報が氾
濫するなど、意味が拡散し、コミュニケーションが困難な状態があり、それを回避す
るために、(意味の)収束が起こる。ただこれはヴィトゲンシュタイン、デリダが示した
ことには、あくまでもあるようにふるまう「飛躍」であるということです。その究極的な
拡散には「動物」しか残らないからです。
(意味の)収束 − (意味の)拡散
ニーチェ 力への意志 忘却(情報化)
デリダ 形而上学 差延
ヴィトゲンシュタイン 言語ゲーム
ベンヤミン 神話的暴力 神的暴力
ただ実際の動物は、先天的に決定された同一性をもっています。たとえば繁殖期に
なれば、誰に教えられるのでなく、遺伝子でプログラムされた的確なコミュニケー
ションを行います。人間のみがこのような動物的な完全のコミュニケーションを失っ
た「断絶」がある。そして「断絶」を補完し「飛躍」するために、「後天的に(意味の)収
束が必要になるのです。
この「飛躍」こそが、動物にはない豊かな言語によるコミュニケーションを可能にして
いるといえます。そして人間のみに、共同体間(道徳と道徳の間)には、神話的暴力
の対立(戦争)が起こります。ここに形而上学を解体するというニーチェ、デリダ的な
倫理の必要性があります。
741 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 01:08:37 0
「第二部 脱構築の覚悟」へつづく・・・
742 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 01:24:41 O
>>1 間違った前提の上に何を組んでも間違った答えしかでない。
波平はベルクソンから逃げ出した。
動物と人間のくだりには少し強引さを感じるが
それ以外にべつにひっかかるところはないな
一番疑問なのはここに書いて波平に何のメリットがあるんだ?
『可能性が先か、現実性が先かではない。そうした問題は「偽の問題」なのだ。
「可能的なものは一度現れた実在生とその実在生を後に追いやる装置との結合した結果」
なのである。つまり、そうして後から作られた結果が、
あたかも先立つ原因のように看做されるところに「偽の問題」の源があるのである。
ベルクソンは、時間と共に「自由」を標榜する哲学者である。
しかし彼の言う「自由」が従来の哲学者が考えてきた「自由」で無いことはここからはっきりと読みとることができる。
つまり、他の哲学者たちが言う「自由」とは、多くの可能性の中から一つのものを「選択する自由」なのである。
しかし、可能性が現実に先立つこと、あるいは可能性の想定そのものを
否定するベルクソンにとっては、そうした「選択の自由」は
自由ではないのだ。ベルクソンにとって真に「自由」なのは、見通すことが
できないような、予め思い浮かべることができないような出来事の新しさに
こそあるのであって、我々の選択する意志にあるのではない』
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card8055.html
>波平
お互い歩み寄らないとコミュニケーションにならないと言うなら
話の前提を決めつけて話すなよ。
ベルクソンを支持してるこっちは、その前提が間違ってる言ってんだから。
デカルト以前の哲学なら歩み寄れる。
波平はデカルトとその系譜しか名前あげてないよな。
議論をするかしないかの選択権は波平にもあるだろ
それに、そんなネット上のテキストの断片を適当に投げつけたって仕方がない
750 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 12:41:31 0
751 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 13:30:23 0
>>745 読むことによって学び、書くことによって覚える。
現行不一致、支離滅裂。
波平は人格破綻している。
議論を拒絶している波平は「私はブタです」と言っているんだろ。
波平、逃げないでコミュニケーション成立させろよ。
ベルクソン哲学への見解を書けよ。
755 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 14:12:01 0
波平君は『時間の空間化』をやめてください。
アアナミヘイヲボクサツシタイ
760 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 14:50:13 0
761 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 15:08:16 O
ナミヘイは賞賛に飢え、注目されることに異常に執着するパラノイアかつクソガキ。
わざわざ他人のスレに来てベルクソン猛烈にプッシュしてるバカは一体何なんだ?
さっぱり意味わかんねーよ(笑)
764 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 16:52:59 0
ラカンの主体論
このような人間のもつ「断絶」について、分析したのがフロイトです。フロイトは人間
の性は倒錯しているといいました。動物は生殖のために決められた信号に反応す
るが、人間の性の趣向は、靴フェチや幼児性愛など個人個人で偏向し、多様という
ように倒錯的(フェティシズム)だ、ということです。
これは、ラカンの「性関係は存在しない」につながります。人間には動物のようなプ
ログラムされた的確なコミュニケーションが不可能であること、すなわち生殖のため
に行うという「正常な」性関係は失われている、ということです。
ニーチェは収束を力への意志としてその重要性を指摘しましたが、ここでラカン示す
ことは、根源的です。「性関係は存在しない」ということは、フロイトのように「断絶」が
あるということだけではなく、動物の性関係は生殖に根ざした生物的なものである
が、人間の性関係は言語であるということです。この「断絶」を繕うもの、すなわち言
語こそが主体であるということです。
>>
ラカンは、精神分析の主体は、哲学の伝統において構築されたような−言い換えれ
ば、意識と一致するような−知の主体ではなく、根源的な裂け目−すなわちフロイト
的分裂−を中心に組織されたような主体であると・・・出張している。P40
彼/彼女(子供)の唯一の頼みの綱は、言語のなかに安定した同一性を獲得する
手段を求めて、象徴的なレヴェルへ転じることである。言語の法にしたがうことによっ
て、子供は言語において主体となる。主体は、言語に住まい、言葉の世界を通じて
適切な表象を得ることを望むのである。P46
「ラカンと政治的なもの」 ヤニス・スタヴラカキス (ISBN:4907758103 )
<<
765 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 16:53:54 0
脱構築のパラドクス
ただラカンが言うのは、これによって、「断絶」が言語によって埋められ、完全なコ
ミュニケーションが成立するということではありません。ラカンは、「主体とはシニフィ
アンの主体であって、シニフィアンによって決定されている」と言います。主体が「日
本人」というシニフィアンを受け取っても、「生真面目」というシニフィアンへの送られ
る・・・という終わりのないシニフィアンの連鎖において、十全な「日本人」というシニ
フィエ(意味)には決して到達しません。だからこと、人は語らいつづけるのです。
ここに収束側の極限があるのかもしれません。たとえば日本人が「われわれ日本人
というのは・・・」というときの同じものこそを求める運動が主体であるということです。
発散の極限が「動物」であるなら、収束の極限が「人間」であるということです。
すると、脱構築するということはとても複雑な行為であることがわかります。主体
(「日本人」)が「日本人」を解体する。己の蛇の尾を食べる蛇のパラドクスです。
>>
システム批判は、システム超越ではありえない。デリダの方法もまた、自らの根拠を
問い続けるということでありながら/あるがゆえに、自らが否応なくシステムにつね
にすでに内在してしまっているということを前提に含意している。と同時に、それは
むしろシステムに内在してのみ可能である。
「貨幣と精神」 中野昌宏
<<
766 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 17:04:11 O
だから何だよ
未来はこうだ!人間はこうだ!という前提を置くこと自体が間違いだと言っているのに……。
結論ありきで始めるな。
未来は不確定。先の行動は不確定。
人間は心も体も皆違う。
同じ人間でも腹を壊しただけで精神状態がかわりもする。
タンスの角に足の小指ぶつけただけで
しばらく機嫌が悪くなりもする。
ベルクソンの哲学はこういうもの。
人間はナマモノです。
>>767 精神分析学に頼ることで自我への探求を避けてるんだよ
だが、そうすると困ったことに精神分析学は波平の言うところの人間の「情報化」だから
われ思うゆえにわれ無しになってしまう
だから、自我を「情報」に還元してしまう「運動」の中に置いて
矛盾を回避しているわけだ
>>768 西洋人の病気だよ
やつらは人間と動物を形而上学的に分けないと気がすまないんだ
770 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 18:50:55 0
>西洋人の病気だよ
>やつらは人間と動物を形而上学的に分けないと気がすまないんだ
そういうこと。だからいまの西洋文化の世界征服があり、
ネットを楽しむ僕らがいる。
そして、これこそオレのはじめからの一貫した主題。
771 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 19:52:05 0
ベイトソンの学習理論
ベイトソンが示す学習理論は、先に示した収束−拡散論に近い面があります。ゼロ学習と
は、本能的な行動、生理的な反射という「動物」の領域です。そしてこのオブジェクト(ベタ)
レベルから、メタレベルへと階層が上がるということです。学習1ではゼロ学習の反復に
よって学習1をメタに認識するようになる。学習2は学習1の反復でメタに認識するというこ
とです。
人間は学習3まで可能でしょう。先の例でいけば、ある人がある人に「馬鹿」という。これが
互いの好感な関係ならば、「オマエは頭が悪い」ではなく、「おもしろいやつだな」という認識
します。これは学習2の文脈(場の空気)を読み、意味の多義性から意味を特定していると
いうことです。
さらに人間は学習3が可能です。「馬鹿!」と強くいい驚かせ、笑うって冗談であることを示
す。と言うような行為は、文脈(場の空気)を読むだけでなく、その文脈(場の空気)を意識
的に操作しています。たとえばアイロニー、冗談、お笑いなどは、緊張と緩和というように、
このような文脈(場の空気)を操作することです。
しかしその学習4は学習3のメタレベルに立つことですが、それは人間には不可能な領域
であり、言葉を用いずに、正確なコミュニケーションができる、とされています。この段階で
は「断絶」は限りなく消失し、正確に意味を伝達することを意味します。ここでは個体性その
ものが消失し、エヴァンゲリオンの人類補完計画が目指されたような領域といえるかもしれ
ません。
772 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 19:54:13 0
>>
ベイトソンによる学習のカテゴリー分類 (「文脈病」 斉藤環 (ISBN:4791758714))
・ゼロ学習・・・ある刺激に対する反応が一つに定まり、刺激−反応が単純な一対一の関係
に固定された状態。あらかじめプログラムされた反応、たとえば本能的な行動や、生理的
な反射、コンピュータによる演算など
・学習1・・・刺激に対する対する反応が一つに定まる、その定まり方の変化。古典的パブロ
フ条件付け、慣れの形成過程
・学習2・・・「学習Tのコンテクスト」についての学習。文脈を理解し、多義語の意味を特定
できる。習慣の形成。
・学習3・・・学習Vで学習された学習Tのコンテクストの、そのまたコンテクストについての
学習。学習2のカテゴリーに入る習慣形成を、よりスムーズに進行させる能力。
・学習4・・・学習3に生じる変化。地球上のいかなる成体の生物もこのレベルに達していな
い。どのような相手とも、言葉を用いずに、正確なコミュニケーションができる。
<<
ベルクソンの学習理論に従うならば、脱構築という行為は、学習3に相当します。脱構築を
するためには、まず人々があるコンテクストを前提にしているという学習2にいることをし
て、自ら学習3に立つことで、それとは異なるコンテクストを浮き彫りに知ることで、宙づりし
ていくこということです。
わけわからなくなった
アンリ・ベルクソン グレゴリー・ベイトソン
どっちの話なんだ?
ベルクソンは学習理論なんて出していない。
哲学の系譜を辿れば、自然派哲学にまで戻れば合流できる。
デカルト以前に戻れ。
>>796-770 粒子レベル分子レベルで止まって見えるものも動いて見えるものも同じように動いている。
778 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 20:49:19 0
脱構築の否定神学性
ベイトソンの学習理論では、コミュニケーションは成功するものということを前提にしていま
す。コンテクスト(場の空気)があり、それを人が読む。これはデリダがいう形而上学です。
コンテクスト(場の空気)がすでにあるのではなく、あるようにふるまい合うことで、コミュニ
ケーションは成立している「言語ゲーム」だからです。
だからこのような階層を否定するデリダの思考である脱構築が学習3であることはもありえ
ません。しかし「日本人」を脱構築するときには、すでにそこに「同じもの」が想定されている
というメタな立ち位置なく、可能でしょうか。
「日本人」という同じものに、他の意味を開き、脱構築するという行為において、何らかの意
味を意図するときに、そこにあたらな形而上学を生み出している。それは「日本人とはその
ようなものではなく・・・」というような形態を持つときに、否定神学と呼ばれます。
東浩紀は脱構築を、否定神学的な脱構築とデリダ的な脱構築に分けました。
>>
(否定神学的)論理的脱構築とは何か。二つのステップで成立する。第一にその思考は、
任意の経験論的テクスト/システムに、それ自身の論理では制御=決定不可能な特異点
を少なくとも一つ発見する。第二に思考はその特異点を通して、テクスト/システム以前の
差異空間、あるいは「思考されざるもの」へと遡行する。そしてその遡行の正当性は多くの
場合、詩的言語の力への信頼による支えられる。
「存在論的、郵便的」 東浩紀
<<
(未完)・・・続きはまたいつか。
779 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 20:54:16 0
ガチで書いてたらきりがねぇよ。本一冊になっちまうよ。
そこまで暇じゃねぇんだよ。ボケ、なめんなよ。
>>776 それは時間の空間化だよ
>>777 アンカーにミスがあるのでおれが含まれているか断定は出来ないが
一応意見を書いておく
おれもそうおもうよ
781 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 21:34:14 O
どうしても結論を先に置きたいんだな、波平は。
782 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 21:40:27 0
784 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 21:50:28 O
科学と自然の和解を試みたのがベルクソン。
ベルクソンヲタきも杉…
ここは波平の哲学が展開されるためのスレだぜ?
ベルクソンの話題はベルクソンスレでドゾー。
786 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 22:06:27 O
時間の空間化というのは、(動きそのものであり分割できない時間)過去を
意識で分割して「仮定の未来」を設定することです。
記憶をたどることは時間の空間化ではありません。
ベルクソンにとって過去とは現在とともにあるもの
そして未来は不確定なものです。
787 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 22:09:42 0
■郡司 ペギオ-幸夫とベルグソン・ドゥルーズについて
郡司ペギオ幸夫について、みんな誤解している事があるので、一言指摘しておきます。
よく、郡司の言っていることはわからない、なんか重要そうだけどよくわからない、
なんか怖い、あるいは、頭がおかしいんじゃないか、って思われていますよね。
まあ、確かに説明は変だし、ものの考え方の根本のところへの疑義があったりして怖いのも確かだし、
それに、まあ頭はおかしいです(褒め言葉です)。
それはともかく、彼の言っている事は彼において突然出てきたかのように思われていると思います。
ですが、実際には話の構成の仕方、特に一元論(例えば実在論)と一元論(例えば観念論)の対立は無意味だ、という指摘や
その指摘の仕方は、完全にベルグソンに依拠しています。
って、彼の本でもベルグソンへのreferはあるんですけどね。
あと、対立は無意味だっていう指摘の後の、
ぐずぐずの二元論だかなんだか分からないところを志向するのは、
ベルグソンの持続概念の再検討を起点とした、ドゥルーズの第三の時間の総合がベースです。
基本的に、哲学書を教養として読むのではなく、真剣に読み込んでモデル化するのが彼のやり方です。
もし彼の言っている事を理解したいなら、早道はベルグソン
(例えば「時間と自由」や「物質と記憶」、「ベルグソンの哲学」)や
ドゥルーズを読む事です。
たぶん、郡司の本を読む前に読んでおいた方がいいです。
なんか偉そうですが、しかし、誤解無きよう。
と、いいつつも、僕は偶然にして恵文社一乗寺店でベルグソンの「時間と自由」を手にとって、
なんだこれ、郡司の言ってることじゃん、とか思って初めて気がついたのですが。
788 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/17(日) 22:28:26 0
>>785 オレのテクスト見てテンション上がったんだろう。
やくざ映画見てテンション上がるオヤジみたいなものだろう。
このスレにもたまにいるよ。
>>786 もし、おれへの批判だとしたら
おれもそうおもう
ベルクソンにとってはそうなんだろうな
790 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 00:43:04 0
波平哲学地図
@否定神学構造論
ニーチェからつながる現代思想に流れる人間(主体)−動物の ←いまここ
構造を、その極限としてのラカンとデリダから浮き彫りにする。
A系譜学
果たしてこの構造は、人間に根源なのか。
フーコーとラカンの対立から考える。
たとえばアガンベンがこれをギリシアからの
連続と考える。これはアリストテレスには明確に見ることができる。
しかしフーコーが生権力として指摘したように、
近代以降の思想ではないのか。
またアーレントは政治的なものと社会的なものとして、
断絶を強調する。
791 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 11:31:21 0
結局のところ、現代思想の問題(閉塞)とは、いかにラカンから脱出するかである。
主な方法としては2つ
@ラカンの静構造を動構造へ
Aラカンの近代以降の主体であり、歴史へ展開する
フーコーはA。しかし歴史へ遡ることは実証できないという問題あり
デリダは@。一定の成功があるが、強引さ目立つ。基本はラカンであるというのが一般的見解。
ドゥルーズは@、Aの併用。全体的な論理性に欠ける。
東は@はデリダ的に、Aは動物化という未来へ遡及する。(ラカンの主体から人は変わった)
ジジェク、大澤はラカン継承。ラカン最強を改めて証明する。
波平はラカン最強と言いながら、隠れて裏口がないか思案中・・・
792 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 11:45:49 0
■オタク動物化論の現代思想的な意義
結局のところ、現代思想の問題(閉塞)とは、いかにラカンから脱出するかである。
主な方法としては2つ
@ラカンの静構造を動構造へ
Aラカンの近代以降の主体であり、歴史へ展開する
フーコーはA。しかし歴史へ遡ることは実証できないという問題あり。
デリダは@。一定の成功があるが、強引さ目立つ。基本はラカンであるというのが一般的見解。
ドゥルーズは@、Aの併用。全体的な論理性に欠ける。
ジジェク、大澤はラカン継承。ラカン最強を改めて証明する。
東は@はデリダ的に、Aは動物化という未来へ遡及する。(ラカンの主体から人は変わった)
このように考えると、未来へ遡及する東の戦略(立ち位置)は、おもしろいものである
ことがわかる。特に東はラカンの(未来への)出口として、オタクと見いだすのも、
着眼点としてはおもしろい。
たとえばポーターは、情報化社会では、主体は散乱するという。同じくデリダを経て、
東的な方向性を示しているが、それをオタクというポイントを定めることで、議論に
深みが出ている。
しかし斉藤環との議論にもあるように、オタクとは一面ではあまりに人間くさい(ラカン的)で
ありすぎることがあり、オタクは現代の不可解であり、形而上学であるために、オタクは
動物化している、というのは、神秘主義ではないか、という疑いが高いのも事実である。
現代では、情報化し主体が錯乱するから、なおさら否定神学的な主体化が増す。
というのが、一般的なものではないだろうか。それは大澤、スティグレールなどで
いわれている。これは現代のラカンの変奏だろう。
現代思想はまだしばらくはラカン最強伝説は破られそうにないようだ。
793 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 13:44:33 0
ではこの最強といわれるラカンの思考とはどのようなものか。
ラカンはフロイトの一部、「快感原則の彼岸」と重要視し
展開した。簡単にいえば、人間は快感原則=動物とは違う
ということだ。
どのように違うのか。動物は先天的な遺伝子情報によって、
多くが決定されているが、人間は後天的な教育が多くを
占めているということだ。
これだけだとなんだ、と思うが、ラカンがこれを人間のもつ
欠如として捉える。よく言われる、人間は壊れている、ということだ。
人間は生まれながらに欠けている。それを取り戻すことが
人間存在のあり方である。それは他者を真似ると言うことだ。
他者を自分の中に取り込むことで、主体となる。
まず体面の他者に想像的に鏡像を見いだす。しかしこのような
関係は他者との取り合いという闘争に至る。
だから次に社会文化を取り込むことで、社会的に主体になる。
これは具体的には言語を学ぶ問うことだ。言語体系を
自らのものとしていくなかで、人とはどうあるべきかを学ぶ。
794 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 13:46:03 0
しかし言語体系はすべての解を持っているわけではない。
人を殺してはいけないというが、なぜそれがいけないのか、
に答えはない。
ラカンはこれを主体はシニフィアンに従うという。言語は
シニフィアン(表記)とシニフィエ(意味)でできている。
シニフィアンに従うとは、意味とは関係がなく、
シニフィアンの文法的な法則によるということだ。
ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」とは、
このように人は知らず知らずに無意識に、言語(シニフィアンの
連鎖)に従っているだけだ、ということだ。
人を・・・殺しては・・・いけないというシニフィアンが無意識に
あるから、それに従っているだけだということだ。
795 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 13:56:52 0
人は生まれながらに欠けた存在なのだから、
言語に従うしか主体となれないからだ。
しかし不幸なことに、言語に従おうが、
それでも満たされるわけではない。
なぜ人を殺してはいけないのか、という意味は、
そこにはない。人は充足した意味を求めて、
シニフィアンの連鎖を横滑りしていくしかない。
そこにはなにか充足できる意味をあるようにふるまう。
先の「日本人」の例にもどれば、日本人は、「日本人」に対して、
「われわれ日本人というのは・・・」「日本人だから・・・」と、
そこに共有された意味があるように語ることで、
経済的にコミュニケーションを行うのではなく、
そこに自らの欠損を埋める充足した意味を見いだそうとするのだ。
それは他者の中に見いだすしかない。
語らうしかないのだ。そして結局、日本人とは生真面目だ、
などとシニフィアンの連鎖を繰り返していくだけなのだ。
そして語りは、決して埋まらない(現実界への)穴の回りを
ぐるぐると回るしかない。
796 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 14:01:05 0
これが否定神学であるのは、現実界という単数であるからだと言われるが、
この単数であるのは、主体としての充実を求めるという一元的な目的に
還元されるからだろう。
主体の充実とはなにか、といえば、生まれて母に抱かれ、
自我が生まれる前の未分化な状態であると言われる。
それはエヴァの人類補完後のようなである。
797 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 14:03:34 0
これは、哲学的な主体像の終着点でもある。
人間/動物という差異において、人間とはなにか。
それは否定神学的な構造をもち、自らの充実を求め
欠損を埋め続けようとする存在である。
798 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 14:18:22 0
これを
>>771-772のベイトソン学習理論と比較するとおもしろいだろう。
ゼロ学習とは動物の地点である。学習4はラカンの充足の地点に近いだろう。
人はそれに向け、より高度なメタ言語を手に入れるのか。ラカンは「メタ言語は
存在しない」という。欠けた存在である主体は、そのはじめからコンテクストを
共有することなどできないのだ。
最近の「KY(空気読めない)」ということで、そこに読むような空気がはじめから
あるということを認めない。それは横滑りしていくだけなのである。
「KY」ということで示そうとしているのは、そこに空気があるように
ふるまうことで、意味を獲得しようとする、自らの欲望だけである。
場の空気(コンテクスト)を読み、空気を和ませたり、笑わせたりする
ということは、場のためにではなく、自らがその場の一部として、
宙づりから、なんらかの意味(場)へと着地したいという思いである。
そこにはメタ位置などない。
799 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 14:28:35 0
このラカンの強力さは、デリダのラカン批判に現れる。
デリダはラカンを否定神学として、脱構築する。
しかし脱構築という行為は、ベイトソンでいえば学習3に相当する。
人々がなんらかの意味を想定していることを、宙づりにする。
当然、デリダはそれを認めないが、脱構築する中で、
自らがその場の一部として、 宙づりから、なんらかの意味(場)へと
着地したいという思いがないだろうか。
すなわち脱構築がただ宙づりにするだけでなく、着地点を相対したとき、
日本人はというようのがウヨ的だから、異なる意味で宙づりにしたい、
という意図をもったときには、そこには学習3のメタ位置に立っている。
それはすでに自らの充実を求め欠損を埋め続けようとする 否定神学的な
構造なのである。
だから脱構築とは、ただ宙づりにし続けるということだ。
ある意味でこれは、主体でなく、動物的な忘却の地点でしかない。
だから脱構築とは本質的に、すべて否定神学なのである。
986:考える名無しさん :2008/02/18(月) 12:08:44
『油断できない。悪いに決まっている。もっと考えろ予測しろ。
警戒しろ、警戒しろ、警戒しろ
――ほーらしくじった言わんこっちゃない』
こんな哲学にハマったら不幸なだけ。
987:考える名無しさん :2008/02/18(月) 12:18:38
過保護・過干渉なママみたいだよね。
801 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 14:30:59 0
斉藤の脱構築批判もこのことを表しているのだろう。
この斉藤の指摘は、脱構築そのものとと言うよりも、メタレベルに立つ
ことの快感である。たとえば2ちゃんねるは、話をずらしメタレベルに立ち、
優越すると言われる。あるいは、中二病があるだろう。当たり前とされる
ことを、あえて問うことで、社会全体を宙づりにし、社会全体を所有した
(わかった)ような優越を味わう。これによって、自分/社会の形而
上学的二項対立の位置を確保し、自らの充実を求め欠損を埋め続け
ようとしている。
>>
「脱構築」という技術は、体系の全体性。完結性が破綻する場所を暴いて
ゆくことで、体系の外部を徴候として示すことだ。しかしこの手続きでわれ
われが本当に獲得するものは、何だろうか。それは決して「外部」そのもの
などではないだろう。そうではなく、ここでわれわれが想像的に獲得するも
のこそが「体系の全体」なのである。われわれが「脱構築」を試みるとき、
われわれは不完全性をテコにして、体系の全体性をそっくり獲得・所有し
たと信ずることが出来る。・・・不完全性を言い表し、それを表象することに
よって、不完全性はきわめて巧妙に「脱構築」する主体の視野から隠蔽さ
れてしまうのである。これはおそらく臨床的事実と言って良いであろう。
「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る
位置をメタレヴェルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽
にされてしまう。メタレヴェルにおいて語るということの欲望は、所有の欲望
にほかならない。
「文脈病」P392-394斉藤環
<<
802 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 14:31:47 0
波平は信頼度が高い人?
革命は不可能スレにも
書き込んでくれない?暇だから
いいえケフィアです。
804 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 14:37:37 0
だから脱構築は意味がないということではない。
脱構築は否定神学構造、すなわちそれによって、主体としての
自らの充足を求めることが隠されていることを、認めなければならない。
「日本人」を脱構築使用とするときに、「日本人はそんなのではない」という
素振りで、否定的な形で意味を浮き彫りにし、優越に浸る。
そこに主体としての自らの充足を感じる。
いやば、善とは偽善である、ことを認め、それでも「覚悟」を持って、
行う必要があるということだ。
そしてここでボクたちは、ラカンの倫理に到達している。自らの死を懸けて、
身をもって道徳を「脱構築」しようとするアンティゴネの「覚悟」である。
>>
ラカンは・・・裏切り者ポリュネイケスの埋葬を禁じる通俗「道徳」の権化たる
クレオン王と、クレオンに背いて自らの命を懸けてまで兄ポリュネイケスを
埋葬しようとするアンティゴネとを鋭く対立させたうえで、「己の欲望を譲らない」
アンティゴネの態度こそ「倫理」にふさわしいとする。「道徳」対「倫理」である。
「われわれがわれわれの中心だ・・・と思いこんでいるものとは、ほとんど<他者>
の欲望に由来する「道徳」的なものである。己の欲望の現実界=「倫理」は
その平面にはありえない。したがって「道徳」の根拠はつねに問われなければならない。
したがって可能な「デリダ的脱構築」とは、自分の立っている地平、たとえば現
世的な法が恣意的で無根拠であることに固執しつづけるという意味で、アンティゴネ的、
したがってラカン的な意味で「倫理的」なもののみである。P116-117
「貨幣と精神」中野昌宏
<<
805 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 14:38:24 0
>>802 まだあったんだ。
オレがあのスレ立てたのいつだっけな・・・
ふこうなひと
807 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 14:45:05 0
>>805 いや、正確には「なぜもう革命は起こらないか」
たて、祖国の子ら、栄光の日はきた
われらに対して、暴虐の血ぞめの旗がせまる
この文章書いたの、波平さんですか?
トリついてないけど
808 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 14:47:18 0
なせばなる
なさねばならぬ何ごとも
ならぬは人の
なさぬなりけり。
810 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 15:51:34 0
>>807 マルクス「共産主義宣言」、からの引用だったと思う。
投入開始しますので、
危ないのてちょっとみんな避けておいてくださいよ。
811 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 15:53:11 0
■[試論]脱構築を脱構築する その2 倫理編
ラカンの否定神学的主体論
ラカンはフロイトの一部、「快感原則の彼岸」と重要視し、展開した。簡単にいえば、人間は
快感原則=動物とは違うということだ。どのように違うのか。動物は先天的な遺伝子情報
によって、多くが決定されているが、人間は後天的な教育が多くを占めているということだ。
これだけだとなんだ、と思うが、ラカンがこれを人間のもつ欠如として捉える。よく言われ
る、人間は壊れている、ということだ。
人間は生まれながらに欠けている。それを取り戻すことが、人間存在のあり方である。それ
は他者を真似ると言うことだ。他者を自分の中に取り込むことで、主体となる。まず体面の
他者に想像的に鏡像を見いだす。しかしこのような関係は他者との取り合いという闘争に
至る。だから次に社会文化を取り込むことで、社会的に主体になる。これは具体的には言
語を学ぶ問うことだ。言語体系を自らのものとしていくなかで、人とはどうあるべきかを学ぶ。
しかし言語体系はすべての解を持っているわけではない。人を殺してはいけないというが、
なぜそれがいけないのか、に答えはない。ラカンはこれを「主体はシニフィアンに従う」とい
う。言語はシニフィアン(表記)とシニフィエ(意味)でできている。シニフィアンに従うとは、意
味とは関係がなく、シニフィアンの文法的な法則によるということだ。
ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」とは、このように人は知らず知らずに無
意識に、言語(シニフィアンの連鎖)に従っているだけだ、ということだ。人を・・・殺しては・・・
いけないというシニフィアンが無意識にあるから、それに従っているだけだということだ。
812 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 15:53:53 0
人は生まれながらに欠けた存在なのだから、言語に従うしか主体となれないからだ。しかし
不幸なことに、言語に従おうが、それでも満たされるわけではない。なぜ人を殺してはいけ
ないのか、という意味は、そこにはない。人は充足した意味を求めて、シニフィアンの連鎖
を横滑りしていくしかない。
そこにはなにか充足できる意味をあるようにふるまう。先の「日本人」の例にもどれば、日
本人は、「日本人」に対して、「われわれ日本人というのは・・・」「日本人だから・・・」と、そこ
に共有された意味があるように語ることで、経済的にコミュニケーションを行うのではなく、
そこに自らの欠損を埋める充足した意味を見いだそうとするのだ。それは他者の中に見い
だすしかない。語らうしかないのだ。そして結局、日本人とは生真面目だ、などとシニフィア
ンの連鎖を繰り返していくだけなのだ。そして語りは、決して埋まらない(現実界への)穴の
回りをぐるぐると回るしかない。
これはかなり強引に映るかもしれない。人の発話、あるいは行為はすべて自らの充実を求
め、欠損を埋め続ける行為であるということだ。一元的な目的に還元されるゆえに、否定神
学といわれる。
813 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 15:54:37 0
ベイトソンの学習理論
これをベイトソン学習理論と比較するとおもしろいだろう。ベイトソンが示す学習理論は、先
に示した収束−拡散論に近い面があります。ゼロ学習とは、本能的な行動、生理的な反射
という「動物」の領域です。そしてこのオブジェクト(ベタ)レベルから、メタレベルへと階層が
上がるということです。学習1ではゼロ学習の反復によって学習1をメタに認識するようにな
る。学習2は学習1の反復でメタに認識するということです。
人間は学習3まで可能でしょう。先の例でいけば、ある人がある人に「馬鹿」という。これが
互いの好感な関係ならば、「オマエは頭が悪い」ではなく、「おもしろいやつだな」という認識
します。これは学習2の文脈(場の空気)を読み、意味の多義性から意味を特定していると
いうことです。
さらに人間は学習3が可能です。「馬鹿!」と強くいい驚かせ、笑うって冗談であることを示
す。と言うような行為は、文脈(場の空気)を読むだけでなく、その文脈(場の空気)を意識
的に操作しています。たとえばアイロニー、冗談、お笑いなどは、緊張と緩和というように、
このような文脈(場の空気)を操作することです。
しかしその学習4は学習3のメタレベルに立つことですが、それは人間には不可能な領域
であり、言葉を用いずに、正確なコミュニケーションができる、とされています。この段階で
は「断絶」は限りなく消失し、正確に意味を伝達することを意味します。ここでは個体性その
ものが消失し、エヴァンゲリオンの人類補完計画が目指されたような領域といえるかもしれ
ません。
814 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 15:55:15 0
>>
ベイトソンによる学習のカテゴリー分類 (「文脈病」斉藤環(ISBN:4791758714)
・ゼロ学習・・・ある刺激に対する反応が一つに定まり、刺激−反応が単純な一対一の関係
に固定された状態。あらかじめプログラムされた反応、たとえば本能的な行動や、生理的
な反射、コンピュータによる演算など
・学習1・・・刺激に対する対する反応が一つに定まる、その定まり方の変化。古典的パブロ
フ条件付け、慣れの形成過程
・学習2・・・「学習Tのコンテクスト」についての学習。文脈を理解し、多義語の意味を特定
できる。習慣の形成。
・学習3・・・学習Vで学習された学習Tのコンテクストの、そのまたコンテクストについての
学習。学習2のカテゴリーに入る習慣形成を、よりスムーズに進行させる能力。
・学習4・・・学習3に生じる変化。地球上のいかなる成体の生物もこのレベルに達していな
い。どのような相手とも、言葉を用いずに、正確なコミュニケーションができる。
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815 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 15:55:49 0
ゼロ学習とは動物の地点である。学習4はラカンの充足の地点に近いだろう。人はそれに
向け、より高度なメタ言語を手に入れるのか。ラカンは「メタ言語は存在しない」という。欠け
た存在である主体は、そのはじめからコンテクストを共有することなどできないのだ。
最近の「KY(空気読めない)」ということで、そこに読むような空気がはじめからあるというこ
とを認めない。それは横滑りしていくだけなのである。「KY」ということで示そうとしているの
は、そこに空気があるようにふるまうことで、意味を獲得しようとする、自らの欲望だけである。
場の空気(コンテクスト)を読み、空気を和ませたり、笑わせたりするということは、場のため
にではなく、自らがその場の一部として、宙づりから、なんらかの意味(場)へと着地したい
という思いである。そこにはメタ位置などない。
816 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 15:56:30 0
デリダのラカン批判
このラカンの強力さは、デリダのラカン批判に現れる。デリダはラカンを否定神学として、脱
構築する。しかし脱構築という行為は、ベイトソンでいえば学習3に相当する。人々がなん
らかの意味を想定していることを、宙づりにする。当然、デリダはそれを認めないが、脱構
築する中で、自らがその場の一部として、宙づりから、なんらかの意味(場)へと着地したい
という思いがないだろうか。すなわち脱構築がただ宙づりにするだけでなく、着地点を相対
したとき、日本人はというようのがウヨ的だから、異なる意味で宙づりにしたい、という意図
をもったときには、そこには学習3のメタ位置に立っている。
それはすでに自らの充実を求め欠損を埋め続けようとする否定神学的な構造なのである。
だから脱構築とは、ただ宙づりにし続けるということだ。ある意味でこれは、主体でなく、動
物的な忘却の地点でしかない。だから脱構築とは本質的に、すべて否定神学なのである。
817 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 15:57:06 0
斉藤の脱構築批判もこのことを表しているのだろう。この斉藤の指摘は、脱構築そのもの
とと言うよりも、メタレベルに立つことの快感である。たとえば2ちゃんねるは、話をずらしメ
タレベルに立ち、優越すると言われる。あるいは、中二病があるだろう。当たり前とされるこ
とを、あえて問うことで、社会全体を宙づりにし、社会全体を所有した(わかった)ような優越
を味わう。これによって、自分/社会の形而上学的二項対立の位置を確保し、自らの充実
を求め欠損を埋め続けようとしている。
>>
「脱構築」という技術は、体系の全体性。完結性が破綻する場所を暴いてゆくことで、体系
の外部を徴候として示すことだ。しかしこの手続きでわれわれが本当に獲得するものは、
何だろうか。それは決して「外部」そのものなどではないだろう。そうではなく、ここでわれわ
れが想像的に獲得するものこそが「体系の全体」なのである。われわれが「脱構築」を試み
るとき、われわれは不完全性をテコにして、体系の全体性をそっくり獲得・所有したと信ず
ることが出来る。・・・不完全性を言い表し、それを表象することによって、不完全性はきわ
めて巧妙に「脱構築」する主体の視野から隠蔽されてしまうのである。これはおそらく臨床
的事実と言って良いであろう。
「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェ
ルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルにお
いて語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。
「文脈病」P392-394斉藤環
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818 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 15:59:21 0
「やらない脱構築よりやる否定神学」?
だから脱構築は意味がないということではない。脱構築は否定神学構造、すなわちそれに
よって、主体としての自らの充足を求めることが隠されていることを、認めなければならな
い。
「日本人」を脱構築使用とするときに、「日本人はそんなのではない」という素振りで、否定
的な形で意味を浮き彫りにし、優越に浸る。そこに主体としての自らの充足を感じる。
2ちゃんねるで以前「何故「やらない善よりやる偽善」という募金?のスローガンがあった。
2ちゃんねるとはとてもアイロニー(ラカンは認めないだろうが)な空間である。ある発言が
あると、それを異なるコンテクストから宙づりにし続ける。宙づりゲームのようなとても高度
なコミュニケーションの場である。よく言えば、高度すぎて意味が発散し、無意味化するほ
どである。
ここにも強烈なアイロニーがある。「良いことをするとすぐに偽善だと言う人がいる。そうだ、
善とは所詮、偽善でしかない。偽善から逃れられる善などだろう。ならば開き直って善/偽
善をやってみればいいんじゃない。」ここにはすでに「善」の脱構築的な倫理があるのでは
ないだろうか。
819 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 16:00:06 0
先のスローガンを書き換えれば、「やらない脱構築よりやる否定神学」となるだろう。「脱構
築をすることは否定神学から逃れられない。ならば開き直って脱構築/否定神学をやって
みればいいんじゃない。」そこにまさに「覚悟」が求められている。
>>
ラカンは・・・裏切り者ポリュネイケスの埋葬を禁じる通俗「道徳」の権化たるクレオン王と、
クレオンに背いて自らの命を懸けてまで兄ポリュネイケスを埋葬しようとするアンティゴネと
を鋭く対立させたうえで、「己の欲望を譲らない」アンティゴネの態度こそ「倫理」にふさわし
いとする。「道徳」対「倫理」である。「われわれがわれわれの中心だ・・・と思いこんでいるも
のとは、ほとんど<他者>の欲望に由来する「道徳」的なものである。己の欲望の現実界=
「倫理」はその平面にはありえない。したがって「道徳」の根拠はつねに問われなければならない。
したがって可能な「デリダ的脱構築」とは、自分の立っている地平、たとえば現世的な法が
恣意的で無根拠であることに固執しつづけるという意味で、アンティゴネ的、したがってラカ
ン的な意味で「倫理的」なもののみである。P116-117
「貨幣と精神」中野昌宏
<<
820 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 16:01:08 0
■[試論]脱構築を脱構築する その3 情報論編
ラカン批判
ラカンの主体論の強力さを考えると、現代思想の展開の一つは、いかにラカンから脱出す
るか、にあったといえるだろう。主な方法としては2つ上げられているように思う。@ラカン
の静構造を動構造へ変える、Aラカン(精神分析)主体とは、近代以降に成立したものでし
かない、近代論へ還元することで、歴史へ展開する。
デリダは、先のラカン批判のように@の代表である。しかし必ずしも成功したとはいえない。
むしろデリダとの共犯関係において、さらにラディカルにした故にデリダは有効であるといえ
るのではないだろうか。
Aの代表は、フーコーだ。精神分析が普遍的な人間構造であるように語るのに対して、本
来の人間のあり方を恣意的に抑圧しているという。しかし歴史へ遡ることは実証面でも困
難な問題があり、その他の面でもフーコーの「考古学」はその事実性で批判が多い。ドゥ
ルーズは@、Aを併用して、批判するが、一つの物語化している。
このような状況の中で、ジジェクがラカン派の急先鋒として、亡きラカンにかわり反論を繰り
広げ、一定の支持を集めていることは、いまも決定的なラカン批判がないことを表している
だろう。
821 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 16:02:26 0
東浩紀の「動物化」論
その中で、東浩紀もラカン批判の一翼を担っている。@としてはデリダをそのまま世襲しな
がら、そして「動物化」がある。これはラカンからすでに数十年過ぎた今、ラカン的な主体は
古いものになっているという、Aの変奏である。
たとえばマイケル・ポーターは、「情報様式論」の中で、デリダをふまえつつ、情報化社会で
は、主体は散乱するという、ということで、東と同様に、間接的なラカン批判を行っている
が、東の「動物化」論がおもしろのが、「オタク」という限定的な人々へ議論のポイントを絞り
込んでいることである。
ラカンの主体論はフロイト分析を基本にしているが、もう一つの流れとしては、ヘーゲルの
動物/人間論のコジェーブの理解からきている。そこから人間を取り出している。そして東
の動物化とは、コジェーブの動物化からきている。遡るのラカンの原点の残された残余か
らきているという、おもしろい関係にある。
特に、ラカン派の斉藤環との議論はおもしろい。
オタクとは一面ではあまりに人間くさい(ラカン的)でありすぎることがあり、オタクは現代の
不可解であり、形而上学であるために、オタクは動物化している、というのは、神秘主義で
はないか、という疑いが高いのも事実である。
822 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 16:04:15 0
大澤真幸の世代論
現代では、情報化し主体が錯乱するから、だからなおさら否定神学的な主体へ転倒する、
というのが、一般的な流れではないだろうか。
たとえば大澤は、世代論として、「理想の時代」(1945年から1970年まで)、「虚構の時
代」(1970年からオウム事件が起きた1995年まで)、「不可能性の時代」(1995年から)
を分類する。現代を、「現実からの乖離が反転させてしまうような現象」と見ている。これは
拡散から収束への否定神学的な転倒といえるでしょう。
>>
「理想」から「虚構」へという転換は、反−現実の現実からの乖離の度合いが、つまり反−
現実度が、大きくなる過程だといえます。・・・虚構は現実から乖離し、逃避する度合いが大
きく、理想は現実への距離がより小さい。・・・つまり戦後に流れを見た場合、参照点となる
「反−現実」が、現実からの乖離の度合いを時間とともに大きくしてきた、と結論することが
できるわけです。
ところが、それにつづいて現在僕らが見ている現象は、こうした傾向、つまり現実から次第
に乖離していくという傾向が反転させてしまうような現象ではないか。つまり、現実「からの」
逃避が、現実「への」逃避へと転換しているように見えるわけです。しかも「現実への逃避」
と言ったときの「現実」というのは、普通の現実ではない。「現実の中の現実」「現実以上の
現実」、現実のまさに現実性を体現しているような激しく、暴力的な現実です。P123
大澤真幸「現実の向こう」 ((
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050318))
<<
823 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 16:05:17 0
スティグレールの「象徴の貧困」
あるいは、スティグレールも「象徴の貧困」として、同様な議論を展開する。
>>
「象徴的貧困」の進行・・・自分自身のリビドーを、固有の「欲望」として表現し構成していく
ための象徴的リソースを人びとは失っていく。テレビ番組やレコード音楽の「産業的時間対
象」を通して自分の「時間」を構成するようになる。自ら想像したり、想い出を心に描いたり、
自分自身の固有の欲望を生み出したりする「生のエネルギー」、すなわちフロイトの用語で
いう「リビドー」を、文化産業に吸い取られていく。
「アクティング・アウト(決行)」・・・文化コンテンツによる大衆のリビドーの捕捉は、究極的に
はリビドー自体の破壊にまで及ぶ。様々な事件や凶行として現れる「アクティング・アウト
(決行)」を招いている。暴力的・犯罪的行為や凶行のもとには、自分は生きているのだとい
う、存在感覚の喪失がある。消費者はマーケティングの標的となっていると、自分が自分と
して存在しているのだという感覚を失っていき、この実感の喪失ゆえに、自分は存在してい
るのだということを逆に証明せねばならなくなる。自己存在の証明のために、凶行に及ぶよ
うな行動をとるようになる。
「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911 <<
あるいは樫村愛子は、動物化をそのように位置づけている・・・
(つづく)
824 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/18(月) 16:10:37 O
波平哲学の集大成になってきたな
825 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 17:10:52 0
簡単にまとめると、デリダ、ラカンをつむぎ、一つの主体像をあぶり出した。
収束 発散
否定神学的主体 動物
形而上学 情報化
収束とは、自らの存在としての充足を求め、意味と求める方向性ことである。
意味は形而上学的に同じもの性を獲得する。
これは、無意識に作動する人間原理である。
発散は、意味が多様性に開かれていく。究極的には意味が消失する動物。
受動的には、社会の情報化によって不確実性が増すことを表す。
能動的には、脱構築のように多様性を開示することになる。
人はこの間で、ふれている存在ということだろう。
現状認識では、社会の情報化によって、発散の傾向は増している。
すなわち「動物化」しているといえるだろうが、
それ故に、反動として、否定神学的な主体へと、「暴力」的な転倒が
起こっているということだろう。
たとえば原理主義的に強烈に意味を求めて、多様性を排除するような
暴力が起こっている。
826 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 17:11:27 0
827 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 17:52:45 0
波平すごいよ波平
828 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 17:58:25 0
827じゃないが
良くかけていると思うよ
まとめる前からみて、表現から読み手へのいたわりが感じられる
ただKY、アイロニカルなジョークに関する記述は
恨み節っぽくてかっこよくないな
波平が誹謗中傷を受けているのは波平が信頼関係を破るからだ
830 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 18:28:11 0
>>829 というほんとはなにもわかっていない初心者。
832 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/18(月) 18:35:30 O
ん?
>>832 このトリップの違いって
どういう意味があるの?
成りすましとかではないんだよな
834 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 19:01:54 O
ドラえもんの好物はどら焼きですが
さて、皮と餡のどちらがより好きでしょう?
ドラえもんがもし糖尿病で悩んでいたら
ノビタのママに皮のほうが好きらしいよと伝える
実際のところは知ったこっちゃない
836 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 19:19:25 O
ではヒントです。
主題歌
>>836 うぉ
アンアンアンとっても大好きどらえもんかか
これが断絶というやつだな
という感じだとはおもうんだが
俺の思想自体がひねくれたどうしようもないものなんで
哲学そのものについては語ることがまったくないんだ
物語の収集から入ってコミュニケーションの本質を誤解に見つけた
838 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 19:30:17 O
主題歌も変わったしね〜
今まで餡がすきだったとしても、これからも餡が好きとは限らないし〜
ネズミがどら焼き食べてるところを見て嫌いになるかもしれないし〜
どら焼きとドラえもんは不可分と決めつけるのが無茶だよ〜。
839 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 19:31:57 O
見事正解です。
では次
2.9999…
さて、この職業は?
>>791 > 波平はラカン最強と言いながら、隠れて裏口がないか思案中・・・
そりゃあ無理でしょ…
どんな反論もラカンの前では無効化されちゃいますよ。
これから先もラカンを破る思想は出てこないような気がする。
そのキーワードの組み合わせでは
おれの脳みそから面白い回答を検索できない
降参
842 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 19:46:48 O
皆さん、思考が緻密で固いからなぁ。
アバウトに考えてくださいよ アバウトにね。
a bought?
844 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 20:02:54 O
今日のコナン一話完結?
連鎖的に事件が起こってくような展開じゃなかったっけ
あとだれか俺のボケに突っ込んでくれ
846 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 20:07:25 O
皆さん、緻密で余裕がないんですよ。
847 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 20:30:57 0
848 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 21:58:52 0
>>821 マーク・ポスターでなくて?
マイケル・ポーターは経営戦略論の研究者と存じておりますけれども。
849 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 22:18:21 O
空間≒分割/時間≒統合
空間がCDなら、時間は曲である。
曲は流れているから曲なのだ。
空間は分割できるが、時間は分割できない。
よって昨日聞いた曲の検証は出来ても
『あした聞いた曲』などというものは存在しない。
850 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 22:19:37 0
>>848 指摘乙!
マイケル・ポーターも好きだけどね。
851 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/18(月) 22:23:24 0
しかしマジ読んでいる人いるんだ。
ちょっと感動・・・
852 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 22:35:19 0
>>851 レスはしていなくても、まじめに読んでいる人はいると思いますよ。
がんばって下さい。
853 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 22:35:27 O
うそつけ
白々しい
虚勢はるなクソガキ
>>849 昨日聞いた曲も検証できない
今聞いた曲は次の瞬間には記号化されて
次の瞬間には文脈の中に消えちまうんだよ
その後は常に現在によって解釈を変更され
現在にとって都合のいいものにしかならない
現在は過去と同時に発生し
世界は常に更新されている。
その更新の動きそれ自体が時間。
記憶をたどり曲を回想する時
過去は現在に再現される。
プルーストの『失われた時を求めて』は良いよね。
>>855 そうだな、時間は記憶だ。
では、記憶は確実な物かい?
3年前やっていたことを覚えている?
知り合いと昔話をして自分の記憶が美化されていることに気がついたことはないかい?
昔自信満々で描いた絵を見返してみたら恥ずかしくなったことは?
>>859 それは未来と過去を逆転させた言い方だ。
常に変化しているその動き自体が時間なんだから。
>>860 時間と書いたところは過去の書き間違いだ、すまん
とりあえず、その過去をどうやって認識しているのかという話だな
とりあえずその動き自体を言語化して話すことはおれには出来ないな
863 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 09:40:41 0
改訂版ですよ。
*[試論]脱構築を脱構築する その2 倫理論編
<b>ラカンの否定神学的主体論</b>
ラカンはフロイトの一部、「快感原則の彼岸」と重要視し、展開した。簡単にいえば、人間は
快感原則=動物とは違うということだ。どのように違うのか。動物は先天的な遺伝子情報
によって、多くが決定されているが、人間は後天的な教育が多くを占めているということだ。
これだけだとなんだ、と思うが、ラカンがこれを人間のもつ欠如として捉える。よく言われ
る、人間は壊れている、ということだ。
人間は生まれながらに欠けている。それを取り戻すことが、人間存在のあり方である。それ
は他者を真似ると言うことだ。他者を自分の中に取り込むことで、主体となる。まず体面の
他者に想像的に鏡像を見いだす。しかしこのような関係は他者との取り合いという闘争に
至る。だから次に社会文化を取り込むことで、社会的に主体になる。これは具体的には言
語を学ぶ問うことだ。言語体系を自らのものとしていくなかで、人とはどうあるべきかを学ぶ。
しかし言語体系はすべての解を持っているわけではない。人を殺してはいけないというが、
なぜそれがいけないのか、に答えはない。ラカンはこれを「主体はシニフィアンに従う」とい
う。言語はシニフィアン(表記)とシニフィエ(意味)でできている。シニフィアンに従うとは、意
味とは関係がなく、シニフィアンの文法的な法則によるということだ。
864 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 09:41:16 0
ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」とは、このように人は知らず知らずに
無意識に、言語(シニフィアンの連鎖)に従っているだけだ、ということだ。人を・・・殺して
は・・・いけないというシニフィアンが無意識にあるから、それに従っているだけだということだ。
<b>人は生まれながらに欠けた存在なのだから、言語に従うしか主体となれないからだ。し
かし不幸なことに、言語に従おうが、それでも満たされるわけではない。なぜ人を殺しては
いけないのか、という意味は、そこにはない。人は充足した意味を求めて、シニフィアンの
連鎖を横滑りしていくしかない。</b>
そこにはなにか充足できる意味をあるようにふるまう。先の「日本人」の例にもどれば、日
本人は、「日本人」に対して、「われわれ日本人というのは・・・」「日本人だから・・・」と、そこ
に共有された意味があるように語ることで、経済的にコミュニケーションを行うのではなく、
そこに自らの欠損を埋める充足した意味を見いだそうとするのだ。それは他者の中に見い
だすしかない。語らうしかないのだ。そして結局、日本人とは優秀だ・・・生真面目だ・・・など
とシニフィアンの連鎖を繰り返していくだけなのだ。そして語りは、決して埋まらない(現実
界への)穴の回りをぐるぐると回るしかない。
<b>これはかなり強引に映るかもしれない。人の発話、あるいは行為はすべて自らの充実
を求め、欠損を埋め続ける行為であるということだ。一元的な目的に還元されるゆえに、否
定神学といわれる。</b>
865 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 09:56:35 0
<b>ベイトソンの学習理論</b>
これをベイトソン学習理論と比較するとおもしろいだろう。
ゼロ学習とは、本能的な行動、生理的な反射という「動物」の領域です。そしてこのオブジェ
クト(ベタ)レベルから、メタレベルへと階層が上がるということです。学習1ではゼロ学習の
反復によって学習1をメタに認識するようになる。学習2は学習1の反復でメタに認識すると
いうことです。
さらに人間は学習3が可能です。「馬鹿!」と強くいい驚かせ、笑うって冗談であることを示
す。と言うような行為は、文脈(場の空気)を読むだけでなく、その文脈(場の空気)を意識
的に操作しています。たとえばアイロニー、冗談、お笑いなどは、緊張と緩和というように、
このような文脈(場の空気)を操作することです。
しかしその学習4は学習3のメタレベルに立つことですが、それは人間には不可能な領域
であり、言葉を用いずに、正確なコミュニケーションができる、とされています。この段階で
は「断絶」は限りなく消失し、正確に意味を伝達することを意味します。ここでは個体性その
ものが消失し、エヴァンゲリオンの人類補完計画が目指されたような領域といえるかもしれ
ません。
866 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 09:57:39 0
先の収束−発散の主体構造からいえば、ゼロ学習とは発散=動物の地点である。学習4
はラカンの充足の地点に近いだろう。人はそれに向け、より高度なメタ言語を手に入れる
のか。ラカンは「メタ言語は存在しない」という。欠けた存在である主体は、そのはじめから
コンテクストを共有することなどできないのだ。
最近の「KY(空気読めない)」ということで、そこに読むような空気がはじめからあるというこ
とを認めない。それは横滑りしていくだけなのである。「KY」ということで示そうとしているの
は、そこに空気があるようにふるまうことで、意味を獲得しようとする、自らの欲望だけである。
場の空気(コンテクスト)を読み、空気を和ませたり、笑わせたりするということは、場のため
にではなく、自らがその場の一部として、宙づりから、なんらかの意味(場)へと着地したい
という思いである。そこにはメタ位置などない。
867 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 09:58:53 0
<b>デリダのラカン批判</b>
このラカンの強力さは、デリダのラカン批判に現れる。デリダはラカンを否定神学として、脱
構築する。しかし脱構築という行為は、ベイトソンでいえば学習3に相当する。人々がなん
らかの意味を想定していることを、宙づりにする。当然、デリダはそれを認めないが、脱構
築する中で、自らがその場の一部として、宙づりから、なんらかの意味(場)へと着地したい
という思いがないだろうか。すなわち脱構築がただ宙づりにするだけでなく、着地点を相対
したとき、日本人はというようのがウヨ的だから、異なる意味で宙づりにしたい、という意図
をもったときには、そこには学習3のメタ位置に立っている。
斉藤の脱構築批判もこのことを表しているのだろう。この斉藤の指摘は、脱構築そのもの
とと言うよりも、メタレベルに立つことの快感である。たとえば2ちゃんねるは、話をずらしメ
タレベルに立ち、優越すると言われる。あるいは、中二病があるだろう。当たり前とされるこ
とを、あえて問うことで、社会全体を宙づりにし、社会全体を所有した(わかった)ような優越
を味わう。これによって、自分/社会の形而上学的二項対立の位置を確保し、自らの充実
を求め欠損を埋め続けようとしている。
868 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 09:59:35 0
>>
「脱構築」という技術は、体系の全体性。完結性が破綻する場所を暴いてゆくことで、体系
の外部を徴候として示すことだ。しかしこの手続きでわれわれが本当に獲得するものは、
何だろうか。それは決して「外部」そのものなどではないだろう。そうではなく、ここでわれわ
れが想像的に獲得するものこそが「体系の全体」なのである。われわれが「脱構築」を試み
るとき、われわれは不完全性をテコにして、体系の全体性をそっくり獲得・所有したと信ず
ることが出来る。・・・不完全性を言い表し、それを表象することによって、不完全性はきわ
めて巧妙に「脱構築」する主体の視野から隠蔽されてしまうのである。これはおそらく臨床
的事実と言って良いであろう。
「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェ
ルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルにお
いて語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。P392-394
<b>「文脈病」 斉藤環</b> (ISBN:4791758714)
<<
869 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 10:00:27 0
<b>「脱構築の欲望」</b>
スピヴァクはデリダがこのような脱構築と否定神学の近接、「脱構築の欲望」についてよく
わかっていたと言う。「脱構築」には、すでに自らの充実を求め欠損を埋め続けようとする
欲望(否定神学)が隠されている。
>>
そもそもなぜテクストを解体し構築せねばならないのか?なぜ言葉や作者は「言っているこ
とを意図している」と考えてはいけないのか?これは複雑な問題だ。脱構築の欲望それ自
体が、支配を通じてテクストを積極的に再我有化し、テクストにそれが「知らない」ことを示
したいという欲望になってしまうかもしれないことをデリダは認識している。
脱構築の欲望は逆の魅力にもかかわる。脱構築は認識の閉塞からの脱出口を与えてくれ
るように見える。テクスト性の開かれた不確実性を開始することで・・・それは自由としての
深淵の魅力をわれわれに示す。脱構築という深淵への落下は、恐れと同じくらい快楽で
もってわれわれを刺激する。決して底を打たないという見込みにわれわれは酔いしれるのだ。
こうして、さらなる脱構築が脱構築を脱構築する、基盤の追求としての、そして底がないと
いう快楽としての脱構築を。そのための道具はわれわれの欲望である。欲望はそれ自体、
われわれの自己というテクストからつねに異なり、つねにそれを延期する、脱構築的・・・である。
この過程は無限に続く。脱構築は差延に住まわれたたえず自己を脱構築する運動であ
る。いかなるテクストも完全に脱構築したり、されたりすることはない。デリダはいまや、「脱
構築しない、されない」のはある意味で不可能だと言おうとしている。P179-181
「デリダ論」 ガヤトリ・C・スピヴァク (ISBN:4582765246)
<<
870 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 10:01:18 0
<b>「やらない脱構築(否定神学)よりやる否定神学(脱構築)」</b>
2ちゃんねるで以前「何故「やらない善よりやる偽善」という募金?のスローガンがあっ
た。2ちゃんねるとはとてもアイロニー(ラカンは認めないだろうが)な空間である。ある発言
があると、それを異なるコンテクストから宙づりにし続ける。宙づりゲームのようなとても高
度なコミュニケーションの場である。よく言えば、高度すぎて意味が発散し、無意味化する
ほどである。
ここにも強烈なアイロニーがある。「良いことをするとすぐに偽善だと言う人がいる。そうだ、
善とは所詮、偽善でしかない。偽善から逃れられる善などだろう。ならば開き直って善/偽
善をやってみればいいんじゃない。」ここにはすでに「善」の脱構築的な倫理があるのでは
ないだろうか。
先のスローガンを書き換えれば、「やらない脱構築(否定神学)よりやる否定神学(脱構
築)」となるだろう。「脱構築をすることは否定神学から逃れられない。ならば開き直って脱
構築/否定神学をやってみればいいんじゃない。」そこにまさに「覚悟」が求められている。
そしてそれは否定神学に転落する前に次へ向かうというアクロバティックな「覚悟」である。
ラカン/デリダ的に継続する「覚悟」ということだ。
871 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 10:03:27 0
>>
ラカンは・・・裏切り者ポリュネイケスの埋葬を禁じる通俗「道徳」の権化たるクレオン王と、
クレオンに背いて自らの命を懸けてまで兄ポリュネイケスを埋葬しようとするアンティゴネと
を鋭く対立させたうえで、「己の欲望を譲らない」アンティゴネの態度こそ「倫理」にふさわし
いとする。「道徳」対「倫理」である。「われわれがわれわれの中心だ・・・と思いこんでいるも
のとは、ほとんど<他者>の欲望に由来する「道徳」的なものである。己の欲望の現実界=
「倫理」はその平面にはありえない。したがって「道徳」の根拠はつねに問われなければな
らない。
したがって可能な「デリダ的脱構築」とは、自分の立っている地平、たとえば現世的な法が
恣意的で無根拠であることに固執しつづけるという意味で、アンティゴネ的、したがってラカ
ン的な意味で「倫理的」なもののみである。P116-117
<b>「貨幣と精神」 中野昌宏</b> (ISBN:4888489785)
<<
872 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 10:04:22 0
デリダ/ラカン的な倫理
再度、収束−拡散の構造に戻れば、人はベイトソンの学習4という意味の完全な伝達とい
う神の領域を目指すが、「断絶」によって、否定神学的主体として無意識に形而上学的な
意味へとの収束する、(意味があるように振るまう)しかない。その欲望に対して、倫理的行
為として脱構築は他の意味へ開くことでこの形而上学への収束を阻止する。
しかし否定神学の収束は主体であるための条件であり、「脱構築の欲望」として拡散しつつ
収束するという反転から免れない。そこには収束−拡散を往復し続けるような継続的な「覚
悟」が必要とされる。それがデリダ/ラカン的な倫理である、ということだ。
>>
意味の完全伝達 − (意味の)収束 − (意味の)拡散
神(学習4) 否定神学的主体 動物
←覚悟 → 脱構築(否定神学)
<<
(つづく)
どっからのコピペだ
874 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 12:29:34 O
>>862 正解です。さすがですね、腕を上げましたね。
875 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 15:12:50 0
876 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/19(火) 15:18:00 0
これ書き上げたらここともおさらばだな・・・
そしてお前は真面目に働くんだ。
878 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 18:17:41 0
>>876 そうですね。
ブログに限定するのもよろしいかと思います。
波平さんの話に関心のある方はブログのほうも読んでいることと思いますし。
アホアホウェーブで満ち溢れてんなこのスレは
880 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 19:16:03 O
ごちゃごちゃ言わないでとっとと自己満足して消えろよぴかぁ
うっとーしいガキだ
881 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/19(火) 19:51:09 O
マクドナルド化は野性化を加速するか
882 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 20:14:46 O
モスバーガー化は野性化を加速するか
883 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 20:16:43 O
ミスド化はメタボ化を加速させる
884 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/19(火) 20:17:47 O
結局のところ僕達の力とはなんだろう。
このマクドナルド化した社会の、ネット社会の、動物化した社会の、
すなわち豊かでらくちんな社会のである。
いや正確には僕達のではなく、僕達の身体のだ。
このあふれる力をどこの、なににむかい、快楽し喜ぶか
いや、なにができないといいのだろうか
885 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 20:22:28 O
お前が失せたらいいね
886 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/19(火) 20:33:08 O
なぜ動物化しているというのだろうか
それはただ人間の形而上学的対立としてのことばでしかない
確かに僕達はマクドナルド化に従順でありであり、貨幣に従順である。
しかしこれとそれとはちがうだろう。僕達が従順なのはただ力を貯えるためだ。
そんなことを気にする必要はない。すでに力はありあまっている。
動物化のふりから覚めるときだ。いやすでにはじめから覚めて、楽しんでいるだろう。
887 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/19(火) 20:42:00 O
祭りはすでにはじまっている。どこで?とぼけないでくれたまえ
きみが知らずに誰が知っているというんだ。冗談も(ry
いやはやゆかいだ
>>880 お前のほうがよっぽどウザイんですがwwwww
889 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 22:40:21 O
というお前が一番うざい
>>889 うっとーしかったら見なけりゃいいだけの話w
うっとーしい波平のスレにまでわざわざ入ってきて何言ってんだかw
お前のやってることは喫煙所の中まで
わざわざ入ってきて「けむてーな!煙草吸うな!」とか言ってるのと同じだぞw
891 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 22:51:04 O
やかましい
自演じゃなけりゃてめーは腰ギンチャクかコバンザメかW
てめえはなんのためここにいるんだ
>>891 早くてめえの行為のバカさ加減に気づけよw
893 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 23:10:09 O
大きなお世話だ
てめえに言われる筋合いはない
てめえはなんなんだ?
自演か
>>893 波平の読者に決まってるだろw
それ以外の用事でこのスレに来る意味あるか?
895 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 23:34:25 O
あ そ
自演ハゲしく乙
896 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 01:00:02 0
898 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/20(水) 11:39:54 O
ヴィトはなぜコミュニケーションが成立か、にたいして、「規則に従う」といった。
そうとしかいえない、といいことだ。
たとえばイヌは群れでこうどうするとき、いかにしているのか?遺伝子か
そんなわけない。イヌも社会生活には教育は必要だ。すなわち「規則に従う」のではないだろうか。
899 :
考える名無しさん:2008/02/20(水) 11:42:47 O
当たり前だろW
900 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/20(水) 20:34:36 O
否定神学的主体と動物化ははじめから共犯関係にあったのではないのか
すでにデカルトは動物化を語る。
欲望は強烈な個体性にやどり、それは動物化も同じではないだろうか
>>899 お前の行為は当たり前以下の阿呆だがなw
902 :
考える名無しさん:2008/02/20(水) 22:44:24 O
で?満足したか?
903 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:42:28 0
■[試論]脱構築を脱構築する その5 考察編
収束−発散構造論の整理
http://f.hatena.ne.jp/pikarrr/20080220005927 全体を、このような収束−発散の構図でまとめた。再度言えば、収束とは、ラカンの欲望論
をもとにした、否定神学構造をもつ主体である。自らの存在の起源へと投企するような主体
であるが、そこは他者を介してしか得られないと言う意味で、<他者>への投企である。すな
わち言語コミュニケーションとは、必ず(無意識の)欲望が混入しているということである。
発散とは、このような収束をゆるめる傾向である。それを能動的に行うのが、ニーチェの系
譜学であったり、デリダの脱構築であるが、言語コミュニケーションそのものが(無意識の)
欲望が混入しているならば、そこには反転として、否定神学から逃れることはできない。系
譜学であり、脱構築であり、その行為によって、ただに宙づりするのではなく、そこに意図
が混入してしまう。
904 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:43:14 0
能動的な発散はこのような困難さがある。それに対して、受動的な脱構築がある。これは
生理的な脱構築、情報化と忘却である。ある意味への思いこみがあったとして、人は時間
とともに思いが薄れる、忘却する。それと、大量の情報にさらされることで、思いは薄れる。
権力者、マスメディアなどの権力の偏向があるという議論があるが、基本的には情報の多
様化は、それだけで受動的に脱構築している。そこに意図がないということで、ある意味で
純粋な脱構築であると言える。
この傾向が、近代以降の社会論につながる。フーコーでいえば、規律訓練型権力から生権
力につながる。あるいは最近ならばマクドナルド化がある。この議論は、受動的に脱構築さ
れた主体は、共有された意味を失うとともに、物理的な豊かさの中で、充足するという、動
物化に向かう。より端的にいえば、これは家畜化されるということである。これは最近のネ
オリベラル化によって言われるが、そもそも近代以降の資本主義の市場経済がもつ傾向で
ある。家畜化によって起こっているのが、逆に強引な否定神学への転倒が起こっている、と
いうことだ。
905 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:44:54 0
アガンベン 人文学機械
アガンベンは、人間/動物と、人文学機械と呼んだ。これは哲学そのものが持つ構造であ
る。ここでは人間が救出されなければならない。それは、動物を排除することで行われるの
である。かつては人間/動物 主人/奴隷として成立していたが、近代以降、精神/身体
へと向かった。
このような意味で、東/樫村/スティグレールは、結局、人間/動物にとらわれているの
かもしれない。動物化が否定神学として、作動しているのかもしれない。「否定神学」を否
定神学する。脱構築を脱構築することで否定神学する。
主体とはこのような収束−発散の間を揺れるような存在であるということである。完全発散
から不確実性が進入しつづけ、それを規則へと解消し、秩序をつくろうとする。一つは言語
によって。そこに充足した意味が生まれる。象徴界の構築である。
906 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:45:47 0
もう一つは道具によって。数学/論理によって。どちらも人間/動物の対立に基づく。ロゴ
スは人を人間とし、道具は人を動物とする。この動物は、本当の動物ではなく、家畜であ
る。東がいう動物とは家畜化である。
もう一つの動物化として野生がある。デリダの思想は、人間に家畜ではなく、野生を混入さ
せる。人間/動物の形而上学的二項対立に、野生を混入させる。それは不確実性の混入
である。
ベイトソンの学習理論も同様な構図にあるだろう。機械論である。動物はゼロ学習という機
械である。それが人間へと高度化し、神へ向かうという、構図を持っている。ゼロ学習で自
然の不確実性を生きることをできるだろうか。西洋哲学自体が、野生を抑圧する。
907 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:48:40 0
ドゥルーズ 器官なき身体
さらに根源的に考えると、収束−発散とは、エントロピーの増減に対応した、秩序−混沌で
ある。ここには連続性が存在する。人間の特別性が、この連続性を断絶させる。ラカンの
否定神学はこれを継承しているといえる。断絶を、なんとしても打ち立てなければならな
い。人とは道具と使うことと、話すこと。なぜ人は話すのか。否定神学的な主体であるからだ。
ここに、強烈に秩序−収束を取り込むとき、なにが起こるだろうか。そのためには認識論を
とりはらわなければ、ならない。認識論は、我という特異点を見いだしてします。素朴実在
論に戻るしかないだろう。それとともにより超越的な視点が必要である。人間がただの霊長
類である、と還元するために、猿/人間の差異を解消するような、より大きな差異である。
「人間は否定神学的な動物である」。より高度な伝達を行うために、断絶=柔軟性を広げ
た。動物においても同様に柔軟性があるだろう。ネオニティである。言語の自己言及性でフ
リーズする特性がある。言語の力は、より高い秩序を生み出し、自然の予測可能性を排除
し、管理して、そして増殖している。
908 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:51:21 0
このたくましさ。この根源的な力とはなんだろうか。それはただただ生命の力である。ニー
チェはこれを作用と呼んだ。ドゥルーズの「アンチ・オイディプス」がニーチェの影響を受けて
いることがわかる。「器官なき身体」とは力の粒であり、それが「欲望する機械」として、生権
力かしていく。
それほど、象徴の貧困を起こしているのだろうか。この価値多様な社会で、オタクや、ネット
ユーザー、「女子高生」などなど、意味不明な大量の人々が生まれている現状をどのよう
に考えるのだろう。特にネット上の2ちゃんねるや、ニコニコなどの多様性、混沌さはなんだ
ろうか。「まともな人」にとって、受動的な脱構築の暴力に、精神的なショックを受けるので
はないだろうか。豊かになったのだから、人々はその豊かさを享受するために家畜化され
つつ、野生化している、といえないだろうか。
909 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:53:54 0
ヴィトゲンシュタイン 「規則に従う」
真の<断絶>は動物の彼岸にあるのだろう。それは、不確実であり、認識してない外部であ
る。人はこのような不確実性に絶えずさらされている。それを秩序へ回収するために、言語
によって意味として、道具によって構造物(アーキテクチャー)として、進めてきた。言語を
使用し、道具を使用するもの人間であり、言語を持たず、道具に管理されるのが動物である。
内部・・・収束(神/人間/動物)
<断絶>
外部・・・拡散(野生、不確実性)
ここで野生として語ることも、また家畜/野生の二項対立に向かうだけかもしれない。ヴィト
ゲンシュタインはなぜコミュニケーションが成立するのか、に対して、「規則に従う」といっ
た。これはなんだろうか。しかしそれ以上は語らない。
ヴィトゲンシュタインは、「語り得ぬものは沈黙しなければならない」と言った。デリダ風にい
えば、「語り得ぬものは差異化、遅延し語らなければならない」、そしてラカンは「語り得ぬも
のは、語るほどに決して語れず、沈黙することで多くを語る」と言うだろう。
910 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:54:48 0
みたいな・・・
勘違いもみんながすればもはや勘違いとは言えなくなる
ただの紙をみんなが金だと信じれば金であるように。
全員を勘違いさせようという無謀な試みをする波兵。
912 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/21(木) 09:33:34 O
ニーチェの弱肉強食的な力の思想は初歩的な進化論の誤読だろう。
生物は多くにおいて共生して生きている。ダーウィンはそのように考えていた。
しかし生命力を物理的な作用としてとらえるのは、哲学史において存在論の再起として重要だろう。
913 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/21(木) 09:47:43 O
それは不確実性の混入である。
>>
有機界におけるすべての発生は、一つの圧服であり、支配である。
そしてあらゆる圧服や支配は、更に一つの新解釈であり、一つの修正であって、
そこではこれまでの「意義」や「目的」は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまう。P89
「道徳の系譜」ニーチェ
>>
914 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/21(木) 10:19:03 O
この不確実性はこの世界の成立条件である。すなわち時間とはエントロピーの増大としてあらわれる。
予測不可能性は真の外部であるが、時間として我々がまさに住まう場所である。
否定進学的な主体は部(現実界)とは、この不確実性を認識論的に予測可能性に回収し、体系化する(象徴界)。
そして否定進学的な外部(現実界)とは、ここに生まれる矛盾を認識外へ投影する止揚点である。
それは物自体として認識できないだけでなく、象徴界が完全であるように、触れないように神聖化により蓋がされる。
真の外部→象徴界→現実界の隠蔽(隠蔽することであるように振るまわれるが、そこにはほんとうは何もない)
これを暴露した例がデリダの贈与論批判である。
915 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/21(木) 11:04:12 O
たとえばカントやラカンは、外部をがかたりますが、この外部(不確実性)ではなく、否定神学的に内部から投影された外部でそれは隠蔽された外部、あくまで内部です。
だからカント、ラカンには外部が無いのです。ただラカンの場合はそこにメタ言語があります。
ラカンが外部を隠蔽したのではなく、主体とは外部を隠蔽することをしめした。
たえずネタとして語るところがラカンの用心深いところです。
これら二つの外部を混同されます。カラ谷はデリダの不確実な外部を他者性という否定神学的外部にすり替えてしまいました。
東は郵便的でそれを指摘しましたが、動物化ではみごとに同じ間違いをしています。
動物という充足なイメージにすべてを回収し、不確実な外部を隠蔽しています。
916 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/21(木) 11:18:31 O
そもそも言語は不確実な外部を還元し回収する装置です。
たとえばヘーゲルは猫を猫と呼ぶことで、死んだ猫になる、といいました。
デリダが言葉を末梢の下におくような子供じみた表現をするのはこの限界をこえたいと想いでしょう。
ラカンが欲望と呼ぶのはまさにこの言葉による還元のことです。
いわば言葉を使うことが欲望であり、現実界への投影であるというあまりに強力な理論です。
結局、デリダかいっているのはまったく同じことです。
ただ倫理としてラカンは正しく投影しようといい、デリダは正しく不確実性へ解体しようというのです。
正しくとはなにか?適度にということ、結局二人は同じことをいっているのです。
917 :
考える名無しさん:2008/02/21(木) 11:55:40 0
「猫を猫と呼ぶことで、死んだ猫になる」。それはA=Aという抽象的同一性からは
生き生きとした概念の躍動が失われているという意味でしょう?
なぜなら概念は区別をそれ自体のうちに含むものであるから。。
不確実性とは何の関係もないよ。
918 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/21(木) 11:57:06 O
ニーチェも不確実性をかたりつつ、超人へと回収してしまいました。
しかしニーチェのいった忘却の積極性をかんがえなければなりません。
まさにそれこそが真の不確実性たからです。
>>
健忘は浅薄者流の信じているように、単なる<惰力>ではない。
むしろ一つの能動的な、厳密な意味において積極的な阻止能力であって、いやしくもわれわれによって体験され、経験され、われわれに摂取されるほどのものが消化(それは「精神的消化」と呼んでよいであろう)
の状態になってわれわれの意識に上らないのも、この阻止能力のせいである。
この健忘な動物にあっては、健忘は一つの力、…能動的な健忘の効用である。P62
「道徳の系譜」ニーチェ
>>
919 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/21(木) 12:13:36 O
おわかのようにこれはフロイと的でありつつ、フロイととは真逆です。
フロイとはなぜ忘却されないのかを、分析したからです。
ここがデリダの着眼点です。
920 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 13:08:18 0
では、とりあえず今日はここまでとしましょう。
>>917に質問がありましたので、答えましょう。
「猫を猫と呼ぶことで、死んだ猫になる」。それはA=Aという抽象的同一性からは
生き生きとした概念の躍動が失われているという意味でしょう?
なぜなら概念は区別をそれ自体のうちに含むものであるから。。
不確実性とは何の関係もないよ。
言葉を考えるときは、いつもコミュニケーションとして考えなければ
なりません。それは、「私的言語は存在しない」ということもありますが、
独り言だろうが、共同体との共有性において成立するからです。
ある猫を「猫」と呼ぶときには、そこには同じもの(意味)が
想定されています。出なければ、言語として成立しません。
同じもの(意味)とはイデア的なものですが、
では「猫」というときの同じもの(意味)とはなんでしょうか。
921 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 13:10:27 0
たとえばここに猫のような、犬のような犬猫がいたとします。
現代ならば、生物学的に、どのように分類されるか、調べるでしょう。
現代のおいて、同じもの性の多く、すなわち客観性は、
科学によって支えられています。
しかし進化論を考えればわかるように、そもそも生物には
分類はありません。それは人間が意図的に境界をもうけたものです。
そしてそれは失敗しています。必ず境界を曖昧にする生物が
存在するのです。
すなわち生物的な定義も曖昧なものでしかありません。
それだけではなく、定義は形而上学的です。
それももっとも顕著になるのが、非生命と生命の境界、
人間と猿の議論です。これは宗教、倫理も考慮して
考えなければなりません。
たとえば中絶はなぜ殺人ではないのか、など。
922 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 13:23:05 0
すなわち同じものがあるように、言語は使われるのです。
では、猫という分類をやめて、すべての猫をそのものとして、
名前を付けてみれば、どうでしょうか。
ねこ、ぬこ、ぶこ、へこ、ぐこ・・・・
あれ、いま目の前を通ったのはねこ?、ぐこ?・・・・もはや処理できません。
人は効率的なコミュニケーションを考えて、分類しているのです。
ソシュールの差異の体系としての分類を考えると、
猫に詳しい共同体では、猫に関する名前は細かい差異をもち、
猫に詳しくない共同体では、猫/犬の差異しかないのは、
このような経済性によるでしょう。
923 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 13:23:41 0
しかし人は現に単体一つずつを分類して呼ぶこともできます。
それは人です。人間という分類はありますが、
ほぼすべての人が、固有名があり、それでも言語システムを作動させています。
なぜなぜ人は誰一人として同じ人がいないからです。
いや猫の同じ猫はいない、と思うでしょうか。
「猫は同じ猫はいて代替可能だが、人は誰一人として同じ人がいないので
代替不可能である」というのが人間倫理、すなわち形而上学的な取り決め
だからです。これは民主主義的です。
奴隷にはなわなかった。あるいは権力者なら、一人が多くの名をもつことも
合ったでしょう。
924 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 13:28:11 0
>>913にもどれば、
>>
有機界におけるすべての発生は、一つの圧服であり、支配である。
そしてあらゆる圧服や支配は、更に一つの新解釈であり、一つの修正であって、
そこではこれまでの「意義」や「目的」は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまう。P89
「道徳の系譜」ニーチェ
>>
有機界の発生は、それぞれが力をもつ。
それは偶発的な、不確実な発生であり、
今までの「意味」を食い破る可能性がある。
ようするに、名前は多様性を抑圧することで成立します。
多様性とは差異であり、偶然的に存在するそのものを抑圧する。
すなわち不確実性を抑圧するのです。
925 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 13:37:02 0
先に、コミュニケーションは「猫」と同じものがあるようにふるまうことで、
成立する(しているようにふるまう)。
まさにこれが、人工知能を不可能にしました。
意味という同じものは、定義できない。
では、すべての猫をそのものとして、 名前を付けてみれば、どうでしょうか。
絶対値を求めることは、発散しフリーズする(フレーム問題)としても、
猫の数には限界があります。さらにはいえば、ある人が出会う可能性がある猫は
もっと少ない。日本人がエジプトの野良猫に出会う可能性は低い。
たとえばチェスのチャンピオンを負かした、ディープブルーは、
人工知能的に作動したのではなく、無数のパターンを計算し、
よりより解を導いたという物量によるものです。
すべての猫をインプットしたデータベースをつくり、
通信で脳に直結する。当然、猫だけでなく、その他もですが。
これによって、世界はありありと、より物自体に近づくでしょうか・・・
926 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 14:10:53 0
■外部とはなにか。 二つの外部、調和と不確実性
不確実性の混入
ニーチェの弱肉強食的な力の思想は初歩的な進化論の誤読だろう。生物は多くにおいて
共生して生きている。ダーウィンはそのように考えていた。しかし生命力を物理的な作用と
してとらえるのは、哲学史において存在論の再起として重要だろう。それは不確実性の混
入である。
>>
有機界におけるすべての発生は、一つの圧服であり、支配である。そしてあらゆる圧服や
支配は、更に一つの新解釈であり、一つの修正であって、そこではこれまでの「意義」や
「目的」は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまう。P89
「道徳の系譜」ニーチェ
>>
この不確実性はこの世界の成立条件である。すなわち時間とはエントロピーの増大として
あらわれる。予測不可能性は真の外部であるが、時間として我々がまさに住まう場所である。
たとえば、古典物理学的世界は、可逆性であり、時間が流れない。時間項tがあると思う
が、たとえばコップからこぼれた水は法則上、そのまま逆に水をコップに戻ることが可能で
ある。すなわち時間とは非可逆性である。
927 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 14:11:32 0
不確実性(外部)は止揚点(外部)へ集約される
たとえばカントやラカンは、外部をがかたるが、不確実性としての外部ではなく、否定神学
的に内部から投影された外部でそれは隠蔽された外部、あくまで内部である。だからカン
ト、ラカンには外部が無い。ただラカンの場合はそれをメタ言語で語る。ラカンが外部を隠
蔽したのではなく、主体とは外部を隠蔽する、ということをしめした。たえずネタとして語ると
ころがラカンの用心深いところである。
これら二つの外部はよく混同される。柄谷は「探究」の単独性の議論で、不確実性を語りな
がら、最後に他者性という否定神学的外部にみごとに集約してしまった。東は郵便的でそ
れを指摘したが、動物化ではみごとに同じ間違いをしている。動物という充足なイメージに
すべてを回収し、不確実な外部を隠蔽した。ラカン同様にネタの次元があるわけだが。
否定進学的な主体は、この不確実性を認識論的に予測可能性に回収し、体系化する(象
徴界)。そして否定神学的な外部(現実界)とは、ここに生まれる矛盾を認識外へ投影する
止揚点である。それは物自体として認識できないだけでなく、象徴界が完全であるように、
触れないように神聖化により蓋がされる。不確実性としての外部→象徴界→現実界の隠
蔽(隠蔽することであるように振るまわれるが、そこにはほんとうは何もない)。
928 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 14:12:09 0
ラカンの欲望
そもそも言語は不確実な外部を還元し回収する装置である。たとえばヘーゲルは猫を「猫」
という言語で呼ぶことで、死んだ猫になる、といった。デリダが言葉を末梢の下におくような
子供じみた表現をするのはこの限界をこえたいと想いからだ。
ラカンが「欲望」と呼ぶのはまさにこの言葉による還元のことである。いわば言葉を使うこと
が欲望であり、現実界への投影であるというあまりに強力な理論である。そして、デリダか
いっているのはまったく同じことである。ただ倫理としてラカンは「正しく」投影しようといい、
デリダは「正しく」不確実性へ解体しようという。結局、「正しく」とは適度にというであり、二
人は同じことをいっているのだ。
929 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 16:27:00 0
ニーチェ 能動的な忘却
不確実性を考える場合には、ニーチェのいった「能動的な忘却」が一つの足がかりになる
だろう。では、再度言えば、不確実性とはどのように捕らえればよいのだろうか。
>>
健忘は浅薄者流の信じているように、単なる<惰力>ではない。むしろ一つの能動的な、厳
密な意味において積極的な阻止能力であって、いやしくもわれわれによって体験され、経
験され、われわれに摂取されるほどのものが消化(それは「精神的消化」と呼んでよいであ
ろう)の状態になってわれわれの意識に上らないのも、この阻止能力のせいである。この
健忘な動物にあっては、健忘は一つの力、…能動的な健忘の効用である。P62
「道徳の系譜」ニーチェ
>>
不確実性(外部)は止揚点(外部)へ「収束」されるというのが主体の力であるなら、この集
約を再び不確実へ「発散」させる忘却の(能動的な)力である。忘却は力と言うことで能動
的であるが、そこに欲望が働かないということで受動的であり、不確実である。
930 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 16:27:34 0
フロイトのエス
このニーチェの表現はフロイト的であるが、デリダは、ニーチェの忘却よりも、フロイトのエ
スによる比喩を支持する。フロイトはなぜ忘却されないのかを、分析した。たとえば子供の
頃の記憶が大人になってからのように時間を隔てて、さらにはかつての記憶と因果関係が
ない形で、回帰する。それは悪夢として、身体の機能不全としてなど。それをたどるのが精
神分析の治療である。
デリダは、このエスの回帰に不確実性をみた。所詮、言葉は、真実(エス)から断絶され、
発散した形でしか現れない。主体は、この不確実性(外部)を止揚点(外部)へ「収束」され
ている。脱構築とはこの「収束」を他の可能性を示すことで再び発散させる。
しかし脱構築が言葉によって発散させるときに、それもまた欲望、すなわち脱構築の欲望と
して作動してしまう。その意味でいえば、ニーチェの「忘却」はより発散としては根源的であ
る。これはいわば、多くの情報にさらされるということだ。それによって、収束は「自然と」発
散する。
不確実性とは、人間の意志、言葉、欲望の彼岸でなければならない。それを人間の行為と
したときには、意志、言葉、欲望が働き、否定神学的な外部(現実界)へと転倒する。だか
らデリダが認めているように、純粋な意味で、脱構築という行為は不可能なのである。
931 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/21(木) 16:28:16 0
デリダ 純粋贈与
さらに端的に言ってしまえば、不確実性とは「自然」なのだ。(「自然」といってしまう時点で、
それは意志、言葉、欲望によって、あるイメージを想起してしまうので、デリダにならって、
抹消の下におこう。)
デリダは、贈与論批判として、純粋贈与というものを指摘する。
波平さんのブログの記事、少しずつプリントアウトさせてもらって
昔の方のから順にぼちぼちと読ませてもらっていますよ。
正直まだ私には少しレベルが高いようで良く理解できない部分などもありますが、
あれだけの膨大な分量の本格的考察が無料で読めるのは本当に嬉しい限りです。
本を買う余裕がそれほどない貧乏人の私には、本当に有り難いです。
波平さんの精力的な思索および執筆活動には感服いたします。
これからもどうぞ頑張って下さい。
933 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/22(金) 01:08:55 0
>>932 できれば、新しい方を読んだ方がいいですよ。
あれは、僕の勉強の歴史なので、
古いものは未熟です。
934 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/22(金) 01:09:42 0
■固有名と経済性
科学の形而上学
言葉を考えるときは、いつもコミュニケーションとして考えなければ、なりません。それは、
「私的言語は存在しない」ということもありますが、独り言だろうが、共同体との共有性にお
いて成立するからです。
ある猫を「猫」と呼ぶときには、そこには同じもの(意味)が想定されています。出なければ、
言語として成立しません。同じもの(意味)とはイデア的なものですが、では「猫」というとき
の同じもの(意味)とはなんでしょうか。
たとえばここに猫のような、犬のような犬猫がいたとします。現代ならば、生物学的に、どの
ように分類されるか、調べるでしょう。現代のおいて、同じもの性の多く、すなわち客観性
は、科学によって支えられています。
しかし進化論を考えればわかるように、そもそも生物には分類はありません。それは人間
が意図的に境界をもうけたものです。そしてそれは失敗しています。必ず境界を曖昧にす
る生物が存在するのです。すなわち生物的な定義も曖昧なものでしかありません。
それだけではなく、定義は形而上学的です。それももっとも顕著になるのが、非生命と生命
の境界、人間と猿の議論です。これは宗教、倫理も考慮して考えなければなりません。たと
えば中絶はなぜ殺人ではないのか、など。
935 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/22(金) 01:10:27 0
名付けの経済性
では、猫という分類をやめて、すべての猫をそのものとして、名前を付けてみれば、どうで
しょうか。ねこ、ぬこ、ぶこ、へこ、ぐこ・・・・あれ、いま目の前を通ったのはねこ?、ぐ
こ?・・・・もはや処理できません。
人は効率的なコミュニケーションを考えて、分類しているのです。ソシュールの差異の体系
としての分類を考えると、猫に詳しい共同体では、猫に関する名前は細かい差異をもち、
猫に詳しくない共同体では、猫/犬の差異しかないのは、このような経済性によるでしょう。
しかし人は現に単体一つずつを分類して呼ぶこともできます。それは人です。人間という分
類はありますが、ほぼすべての人が、固有名があり、それでも言語システムを作動させて
います。なぜなぜ人は誰一人として同じ人がいないからです。いや猫の同じ猫はいない、と
思うでしょうか。「猫は同じ猫はいて代替可能だが、人は誰一人として同じ人がいないので
代替不可能である」というのが人間倫理、すなわち形而上学的な取り決めだからです。こ
れは民主主義的です。奴隷にはなわなかった。あるいは権力者なら、一人が多くの名をも
つことも合ったでしょう。
このように経済性として考える場合には、まず人間の処理能力に容量があることを考える
必要があります。この容量をなにに割くのか。そこにはなにが重要であるか、ということが
あります。人がみな固有名を持つことは人が重要であるからです。あるいは、重要な物に
は固有名がつきます。ペット猫に名前が付くのは、重要であり、他の猫とは違うからです。
逆にいえば、固有名とは重要な対象であることを意味します。
936 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/22(金) 01:11:23 0
固有名の剰余
固有名の特別性の議論があります。固有名は確定記述の束に還元できない。ある剰余が
宿っているという議論につなげることができます。固有名がつくと言うことは重要な対象で
す。ある猫は名がなく、ある猫は「みーちゃん」と名づけられる。この重要であることが、剰
余でしょう。
では、なぜそれが重要なのか。そこにはその始めにその猫が重要であったわけではなく、
名付けられたから重要になったのですが、あたかも重要だから名づけられてという転倒が
あります。すなわち特別であるから重要なのですが、そこには何もないのです。
ジジェクは固有名の剰余を現実界に求めなければならないと言いましたが、これはほぼ同
じ意味でしょう。固有名を与えると言うことが、あたかもシニフィアンの向こうに重要な何か
(意味)があるようにねつ造される。
それは誰か(他者)が、人の情報処理能力という限りある資源を与えたのだから、なにかが
あるだろう、ということでしょう。他者の欲望です。そして欲望とは他者の欲望への欲望であ
る、ということです。
あるプロフェッショナルな専門家あるいは専門家集団が、なにかまだ確定はしてないけど
限りなく黒に近い(アスベストとか)ものについて、知っているがゆえに”総枠でコミュニケーション
シャットアウト話題変更!”せざるをえない領域があった場合、その罪のない作り話を、
ちょっと頭が弱くて真に受けた人々がブログに書く、そのdeficiencyが、関係のない別々の
地点から相似するものとして現れて、googleで検索できてしまうとしたら…
938 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 03:19:25 O
>>932 リーマン以来の究極の自演
さすが自慰をするにもプライド第一なんだなW
939 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 08:11:56 0
>>937 どういう意味?わかりやすく言ってくれない?
940 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 12:05:25 O
『可能性が先か、現実性が先かではない。そうした問題は「偽の問題」なのだ。
「可能的なものは一度現れた実在性とその実在性を後に追いやる装置との結合した結果」
なのである。つまり、そうして後から作られた結果が、
あたかも先立つ原因のように看做されるところに「偽の問題」の源があるのである。
ベルクソンは、時間と共に「自由」を標榜する哲学者である。
しかし彼の言う「自由」が従来の哲学者が考えてきた「自由」で無いことはここからはっきりと読みとることができる。
つまり、他の哲学者たちが言う「自由」とは、多くの可能性の中から一つのものを「選択する自由」なのである。
しかし、可能性が現実に先立つこと、あるいは可能性の想定そのものを
否定するベルクソンにとっては、そうした「選択の自由」は
自由ではないのだ。ベルクソンにとって真に「自由」なのは、見通すことが
できないような、予め思い浮かべることができないような出来事の新しさに
こそあるのであって、我々の選択する意志にあるのではない』
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card8055.html
941 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 15:28:52 O
公園、川沿い、テント、男の好奇の目。
薄汚れた狭い部屋、素性のしれない男のテントの中、
私は抱かれに行く、人目を忍んでそっとテントの中、洗ってもいない臭いものを舐め、そして臭い口でキスされ
942 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 15:30:00 O
体中を舐めまわされる、久しぶりの女の体を与えらた男、
激しい男の性の処理となる私。
男の臭い息が私を包む、貞操のない私の下半身が濡れる、
男の濃い精液が私の中で暴れ放たれる、素性の知らない男の
943 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 15:33:13 O
素性の知らない男の種が私の体の中で成長する。
そんなことを描いて自慰をする、変な女
944 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 15:45:19 O
∧∧
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡
思い込みと決めつけで一体どれだけの人が希望を奪われていることか。
希望を自己や社会を人為的に変革することに見出すのではなく
ただ環境が明日は今日とは違う運命を提供してくれると信じて
次々に新たな環境に身を投じることこそ真の充実を得る道である。
946 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 18:02:16 O
あきた
947 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 18:09:29 O
やまがた
948 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 18:38:51 O
ああ、スカイダイビンクしたくなった。
急降下しながら逆立つ髪、はためく服
上がってくる地平線、広がっていく大地
砂粒のような建築物と、糸のような道が
次第に大きくなり、太くなっていき
輪郭が見えてくるその光景を見たい感じたい
もしかしたら死ぬかもしれないし
時間は動きそのもの。
生はパラシュートが開かないスカイダイビング。
死という名の大地に潰される為に急降下を続けている。
だから世界をよく見て感じて、自分を世界に投げ込み続ける感覚に生きよう。
949 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/22(金) 19:17:49 O
1000!
950 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 19:51:06 O
ズリ!
951 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 21:11:42 0
ズリマンドサンコンのお出ましです!
952 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 21:44:21 O
波平さんの主なズリねたを教えてください。
953 :
考える名無しさん:2008/02/22(金) 22:37:15 O
私は若い時から男性の多きいチ〇ホが苦手です!『ズキンッ』と痛く全然、気持ちよくありません。回りでは『最高〜気持ちイイ〜』どうすればそうなれますかぁ〜?
954 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/22(金) 23:06:40 0
955 :
932:2008/02/23(土) 00:20:49 0
>>938 自演では無いんですがね…(汗
>>933 ご教示有り難うございます。
波平さんのことを知り始めた頃は、このスレの書き込みや
ブログの最近のほうの記事を読んだりしていました。
ですが今回、波平さんの思索の過程を追体験してみるという意図もあって、
一度昔の記事から現在まで辿ってみようと思い立った次第です。
幸い、初めの記事から現在まで全てのエントリーを残して下さっているようなので、
少しずつじっくりと勉強させていただこうと考えています。
最近のより洗練された考察の段階へと、できる限り早く到達できるよう、頑張りたいと思います。
>>955 ちゃんとした本を読んだ方がいいと思うよ。
957 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/23(土) 00:55:01 0
だな。
959 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 03:02:28 0
>>955 ちょっと高尚そうな議論を見聞きすると
すぐにコロッといっちゃうウブな初心者さんってところかな?
>>956の言う通り、悪いことは言わんからちゃんとした本を読んでちゃんとした勉強をした方がいい。
波平のは一種の応用例みたいなもんだからな。
他人による応用例を見るよりも、基礎・基本を自分できちんと学んで
それを自分の思考の糧にしていくほうがはるかに有益。
まぁその上で波平の文章を参照するっていうんなら有意義かもしれんが。
どうせなら、波平の話に突っ込みを入れられるくらい知識をつけて、
波平を叩き台にしてやるくらいのレベルを目指せばいい。
960 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 06:23:57 O
自演だって
リーマンにそっくりだろ
波平は憧れられたい欲望が突出しているパラノイアだからな。
961 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/23(土) 09:36:08 0
だな。
コテ半はみんなパラノイア 名前を持ち行使することによる欲求の垂れ流しとナルティシズム
垂れ流されるパラノイア的欲求に対する大いなる吐き気
964 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/23(土) 10:13:14 0
DN。
965 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 13:21:58 O
批判されることには過敏だが、自分で茶番自演する滑稽さには鈍感。
つまり基本は自分に甘く他人に厳しく。
更に滑稽窮まりないのが、批判がましい言動の全てがそっくり自身に当て嵌まること。
966 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 14:15:36 0
この板の5割は純一と波平としろうとの自演でできているというのが定説だ。
そういう
>>960だって大方しろうとの自演なんだろうw
967 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 14:42:10 O
板の五割かよ、そりゃまたある意味壮大。
968 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 14:52:14 0
>>966 「純一 = ぴかぁ〜」だから、実質的には2人で5割ということか。
超人的だなw
969 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 15:08:29 O
純一=ぴかぁはないだろ。
どの辺が根拠なのか?
970 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 15:44:30 0
1.なぜか8回連投規制に引っかからずに連投が可能。
2.毎回ぴかぁ〜が長文連投した後に入れ替わるようにしてすぐに純一が登場、
ぴかぁ〜を批判するという形で自身の主張を展開する
(最近は見かけなくなったが以前は毎日のようにこの展開が繰り返されていた)。
本当に時間差もほとんど無くすぐに純一が登場していたあたりが不自然。
しかも純一が出てきた途端ぴかぁ〜のレスがピタッと止まるw
971 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 15:49:35 0
191 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/02/07(木) 20:50:28 0
皆さん、純一とぴかぁ〜が同一人物なのではなく、
私のスレから時々ネタをパクってるのがぴかぁ〜なだけですよ。
192 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/02/07(木) 20:53:25 0
私のスレが上がると、ぴかぁ〜が姿を消すのは、
ここで私に叩かれるのを怖がったぴかぁ〜が自スレに書き込まなくなる為です。
その為、私が書き込むと叩かれる事を恐れたぴかぁ〜が自スレに書き込まなくなり、
まるで、純一とぴかぁ〜が交代している様に思えるだけです。
↑こんなことをわざわざ言ってるあたりが余計に怪しいw
972 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 15:56:44 O
確かにそれはそうだが蓋然性の域を出ていない。
数年前だが、別スレで両者が同時に現れて別人である印象を強くした。
使い分けにしてはあまりにそのトーンが異質な気がする。
ぴかぁができる自演はせいぜいリーマンか最近の自称[sage]読者などつねに同質のもの。
973 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 16:01:43 O
ぴかぁが純一をアク禁に追い込んだのは周知の事実じゃないかー
974 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 16:10:38 0
>>972 >数年前だが、別スレで両者が同時に現れて別人である印象を強くした。
これは俺も実際にやった経験があるから言うが、
スレを同時に複数開いてリアルタイムでレスしていけば
そうやって別人のように装うことはそれほど難しくないと思うぞw
トーンが全く異質、時には互いが対立さえするような人格を演じ分ける自演もありうる。
分かりやすいところでは機械的唯物論者と哲学者最高位なんかもそうだと言われてる。
975 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 16:16:18 O
なるほど。
問題はパラノイアぴかぁにそんな器用な演じ分けができるかなとW
976 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 16:18:45 0
まあいずれにせよ波平が自演していることは確実だな。
時々名前欄が「考える名無しさん」になってる波平の書き込みを見るが、
あれなんか名無しで自演してきた後でコテとトリを入れ忘れた典型例だろw
977 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 16:22:39 O
名無しの自演は改行と誤字脱字のパターンが一緒だからWWW
978 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 16:42:21 0
>>978 そんなことよりも純一はそろそろ次の戦いを考えなさい。
ぴかぁに一度は勝てなくて死ねるのか
980 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/23(土) 18:25:35 0
だな。
981 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 19:10:53 O
見てんじゃねW
982 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 19:20:37 0
ぷっ
983 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 19:43:51 0
>>979-980 は?何言ってんだお前。
純一がお前に負けたことが一度でもあったかよ?
自演乙。
984 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 19:48:39 0
こ の ス レ の 9 割 は 純 一 と 波 平 と し ろ う と の 自 演 で で き て い ま す w
985 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 20:14:17 O
たてないのかぁい?
パラノイアくん?
986 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2008/02/23(土) 20:24:23 O
本スレはこれで終了です。長い間のご愛顧ありがとうございました。
またいつかあえるときをご期待しております。
987 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 20:29:19 O
さんざん他人を見下しておいて何しおらしいこといっとるんだ。
二度と現れるな。
ま 無理だろうがなW
988 :
考える名無しさん:2008/02/23(土) 20:32:11 O
ご期待しております。
ご期待しております。
ご期待しております。
ご期待しております。
ご期待しております。
ご期待しております。
ご期待しております。
ご期待しております。
WWWWWWWWWWWWWWWWWWW
989 :
932:2008/02/23(土) 21:41:45 0
やれやれ…本当に自演ではないんですがね…(汗
まぁ波平さんご本人には当然ながら自演ではないことを分かっていただいているはずなので
(当たり前ですよね笑)、べつに構いませんが…
>>956 >>957 >>959 ご教示有り難うございます。
すぐにころっと傾倒してしまう初心者…というのは、当たっているかもしれません(汗
もちろん波平さんの記事だけを読むというのではなく、
関心や必要に応じて哲学書・思想書も読むつもりですし、読んだりしています。
ただ貧乏人なのでそうたくさん本は買えませんし、
一応働いていますもので図書館などに行く余裕もそんなにありませんので、
本当に必要そうなものに絞らざるをえませんが。
幸い、波平さんのブログのエントリーには私の興味・関心とも合致するタイトルが多いですし、
またブログの中で文献の引用や紹介もやって下さっていますので、
それらをキッカケにいろんな書籍や論文などにも手を伸ばしていって勉強しようと考えています。
その意味でも、波平さんのブログは良き手本というか
勉強の動機付け、そして重要な「参考文献」になって下さっています。
>>986 お疲れ様でした。ブログのほう、今後も拝読させて頂きます。
どうぞこれからも頑張って下さい。
アホくさ埋め
梅
最後も自演かよ梅
993 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/24(日) 10:50:39 0
だな。
994 :
考える名無しさん:
未練がましく見てる訳だW