【泣いても】すべてこの世は物理的!【笑っても】

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66考える名無しさん
心あるいは生命が物理的なものとして説明されてしまうことを極端におそれてる人々がいるけど、
どういうことなんだろうな?

「魂」とか「死後の世界」みたいな、物理学の外側に作られたファンタジーに救いを求めてるのかな?
67考える名無しさん:2007/11/07(水) 16:06:08 0
>>65
文字や記号による外部記憶として記録された概念は実在する情報だろ。
人間の脳のシュミレーションならコンピュータでも出来る。
68考える名無しさん:2007/11/07(水) 16:47:11 O
>>67
順番が逆
記録された実在する情報が概念なの


ちなみに今のコンピューターじゃそんなこと到底不可能だがw仮に出来たとしたらそれが一番わかりやすいんじゃない?


そのコンピューターの中で起動してるプログラムは自分たちの頭の中と同じなんだよ
69こてはん:2007/11/07(水) 18:22:54 0
>>66
そうじゃなくて、本当に哲学的素質を持った人たとえばベルクソンとかが、
心や命を物理的に説明されることに反対しているのは、
そういう説明がはっきりいって何の意味もないからでしょう。
自分の場合、幼い頃頭よかったから保育園に通ってる頃から図鑑濫読してて、
意識が神経刺戟の産物であることとか進化論とかは理解してたけど、
幼少故の感受性の強さからか、神経が壊れたり消えたりしたら意識が消えると知るとどうしようもない恐怖に陥って、
しかも全てが物理的だとしたら「意味」なんてないという虚無感に襲われ、
不老不死の薬をつくる学者になりたいとか妄想してたけど、結局は薬という物理的なものでは不可能、
そこで、結局、根源的な恐怖や虚無に耐えながら生きるには哲学するしかないていう結論になった。
心を物理で脳内の神経刺戟として説明したところであたりまえのこと言ってるだけで何の意味もない。
意味もないこと認識する神経刺戟が脳内でおこるよりは、恐怖や虚無に立ち向かって根源的な認識へいたるような脳内の神経刺戟が
起こった方が、どう考えても、生きる上で有意義だと思う。
つまりどうせ意識が神経細胞内での化学物質がどうこうなのだったら、
無味乾燥な神経刺戟よりも、有意義な神経刺激にしましょう、っていうこと。
70考える名無しさん:2007/11/07(水) 19:05:46 0
>>69

> そうじゃなくて、本当に哲学的素質を持った人たとえばベルクソンとかが、
> 心や命を物理的に説明されることに反対しているのは、そういう説明がはっ
> きりいって何の意味もないからでしょう。

そこでいう「意味」というものの意味次第でしょう。科学というのは世界のメ
カニズムを理解すること自体に意味を見いだす営みであり、心や命の物理的・
本質的なメカニズムが明らかになることは、それ自体意味があるわけじゃない?

> 心を物理で脳内の神経刺戟として説明したところであたりまえのこと言って
> るだけで何の意味もない。

それが「当たり前」なのは、科学がそれを明らかにしたからでしょ。

> 意味もないこと認識する神経刺戟が脳内でおこるよりは、恐怖や虚無に立ち
> 向かって根源的な認識へいたるような脳内の神経刺戟が起こった方が、どう
> 考えても、生きる上で有意義だと思う。つまりどうせ意識が神経細胞内での
> 化学物質がどうこうなのだったら、無味乾燥な神経刺戟よりも、有意義な神
> 経刺激にしましょう、っていうこと。

一方、こっちの文脈での「意味」というのは、「有意義な生」という意味だよ
ね?それはそれで、別にいいじゃない。完全に同意するよ。そして、その意味
での「有意義さ」を目指す上で、心や命の物理的メカニズムがどう説明される
かなんて関係ないじゃん。それが物理的作用であろうがなかろうが、我々は
「感じる」ことができる。その事実があれば十分。

なのに、なぜ物理的解明をそれほどおそれるのか、というのがオレの疑問。

唯物論に立ったとたんに、この文脈での「意味」が消失するという考え方がそ
もそも、根本的に意味不明なわけですよ。関係ないじゃん、と。
71考える名無しさん:2007/11/07(水) 19:13:05 0
>>70
同意。
ただまあ、わかっていても消失しないまでも多少の意気阻喪はあるけどな。
72こてはん:2007/11/07(水) 19:30:32 0
>>70>なぜ物理的解明をそれほどおそれるのか
たぶん唯物論的な世界観を「恐れる」とか「なぜか強く反対する」っていうのは、
ある種の本能なのかもしれません。
自分の場合は、つねに何か恐怖感のようなものが哲学的欲求と表裏にあり、
それをどうにも説明できない。

とりあえずその説明不可能なものをできるだけ説明してみます。
科学が解き明かせるのは世界の科学的な構造のみにとどまるはずなのに、意味とか価値の次元にまで、
つまり意味や価値を見出そうとするあるいは創造しようとする心の働きにまで、
唯物論的な説明を下してしまうことによって、意味論や価値論が空虚なものになる可能性がある。
だって科学は意味を探求する学問ではない。
本質的に世界は唯物的で無意味なんだとしたら、意味を探求するとは、意味を心によって作り出すことだと思う。
科学は、人の生活や人類の活動の便宜のためや、物理的な説明のためにあるだけであって、意味を創造するには向かない。
つまり科学の領外のそういう生命の意味の領域は、結局は哲学や宗教によってのみしか本来は触れてはいけない、
あるいはそういう領域では、唯物論的な事実を使うとしても哲学のための手段や哲学的直観の表現材料として科学を使うという、
二次的なものでしかないと思う。
心に対する物理的な説明や、心を物理的に捉えることに慣れてしまうことは、精神医療(抗鬱剤、精神安定剤など)以外では、
無意味なだけではなく、そういう風に心を捉えてしまうことによって、
むしろ色々な意味創造の可能性が奪われ、生きていることの価値が貶められてしまう。
物理的に心を説明することが意味のあることだと「感じる」人は感じるだろうし、
感じない人は感じないどころか負の意味を持ってしまっているとまで感じてしまい、それは個人差としか言いようがない。
そして物理的に心を解き明かすことに意味を「感じる」こと自体、唯物論的な説明の届き得ない意味論価値論の問題なのではないのか。
というのがだいたい自分の考えです。
73考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:19:07 0
>>72
ここでやるより、
こっち↓に参戦したらどうよ?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1194357834/l50
74考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:19:24 0
>>72

> たぶん唯物論的な世界観を「恐れる」とか「なぜか強く反対する」っていう
> のは、ある種の本能なのかもしれません。

んむぅ…するとオレは本能が欠けているのだろうか。

> 自分の場合は、つねに何か恐怖感のようなものが哲学的欲求と表裏にあり、
> それをどうにも説明できない。

オレはハイデガーについて何かを理解しているわけではないけど、ものの本に
よると、彼における本質は「死への恐怖」だってことらしい。

> 科学が解き明かせるのは世界の科学的な構造のみにとどまるはずなのに、意
> 味とか価値の次元にまで、つまり意味や価値を見出そうとするあるいは創造
> しようとする心の働きにまで、唯物論的な説明を下してしまうことによって、
> 意味論や価値論が空虚なものになる可能性がある。

これが、背景にある根本的な誤解なのかもしれない。科学はメカニズムを説明
するが、それのもつ意味や価値については完全に無関心だよ。心の働きが説明
されたとしても、意味論や価値論は何らダメージをうけるものじゃない。

> 本質的に世界は唯物的で無意味なんだとしたら、意味を探求するとは、意味
> を心によって作り出すことだと思う。

そこで問題なのは、「意味」というものに客観性や普遍性、絶対性を要求する
という人間の本性なんだと思う。人間は絶対的価値基準を欲するが、宗教のよ
うな欺瞞に逃げ込まない限り、世界を調べれば調べるほど、そのような価値基
準はなさそうだ。この「普遍的価値基準」と「唯物論」との関係性がネックな
のかな?
75考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:19:56 0
世界を唯物的に解釈するということと、それにどのような価値を見いだすかと
は、本来全く別個の問題だ。なぜなら、意味や価値というものは原理的に、主
観的なものでしかあり得ないから。価値に関する言明は、必ずそれを評価して
いる主体を前提として語られる。「誰が評価しているのか」なしには無意味だ。

> そういう風に心を捉えてしまうことによって、むしろ色々な意味創造の可能
> 性が奪われ、生きていることの価値が貶められてしまう。

なぜそうなるのかが全く分からない。世界は物理現象により構成されており、
その世界の中に存在するものごとのそれぞれに対して、我々は意味や価値を見
いだしながら生きている。そのことのどこに問題があるのかが、やはり全く理
解できない。事実、唯物論者のオレだって美醜を感じるし、愛憎を感じる。自
分や他者の仕事や言葉に意味や価値を感じる。何も失われていないよ?

> 物理的に心を説明することが意味のあることだと「感じる」人は感じるだろ
> うし、感じない人は感じないどころか負の意味を持ってしまっているとまで
> 感じてしまい、それは個人差としか言いようがない。そして物理的に心を解
> き明かすことに意味を「感じる」こと自体、唯物論的な説明の届き得ない意
> 味論価値論の問題なのではないのか。というのがだいたい自分の考えです。

ここに混同があるような気がする。世界のメカニズムを解明することに価値を
感じつつ、一方で例えば恋人と過ごす時間に価値を感じる。恋人と過ごすこと
をどう評価するかについては、科学なんざお呼びではないことは誰にでも分か
る。その区別をしっかりつけておけば、科学の射程外の事象の価値は、別に科
学が何を解明しようともなんらダメージを受けないということは分かると思う
んだけど。
76考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:20:29 0
>>68
>記録された実在する情報が概念なの

お前は新しい概念を考案したことがないだろ。
概念は先ず頭の中で生まれる。それを言葉として外部に記録するのだ。
概念は事象であって物ではないから物理は通用しない。概念に通用するのは
論理だけ。論理によって情報化し外部に表出し記録する。
77考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:24:05 0
>>76

その「概念」や「論理」という情報処理を司っている実態が神経細胞なわけですよ。
神経細胞なくしては、概念も論理も始まらない。
78考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:27:33 0
>>77
それは単純な論点先取。
79考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:28:12 0
>>78

いや、世界に対する観察(つまり科学)から得られた知見だよ。
80考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:30:37 0
>>75
> ここに混同があるような気がする。世界のメカニズムを解明することに価値を
> 感じつつ、一方で例えば恋人と過ごす時間に価値を感じる。恋人と過ごすこと
> をどう評価するかについては、科学なんざお呼びではないことは誰にでも分か
> る。その区別をしっかりつけておけば、科学の射程外の事象の価値は、別に科
> 学が何を解明しようともなんらダメージを受けないということは分かると思う
> んだけど。

ここらへんじゃないのかな。
「心は科学の射程外のはずなのに、心のメカニズムが解明されてしまう!」みたいな不安感?
基本的に人って自分のことを外から説明されたり言い当てられたりすることに不安感や警戒感を抱く傾向があるような気がする。
あたってると感じたら尚更。例えそれが科学じゃなくてもね。
81考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:33:18 0
>>79
うん。だから自然科学上の知見は哲学的には論点先取だということだよ。
82考える名無しさん:2007/11/07(水) 20:36:36 0
>>80

「心のメカニズム」と「心の内容」の混同があるのかな?

> 「心は科学の射程外のはずなのに、心のメカニズムが解明されてしまう!」みたいな不安感?

心が何をどう感じ、それをどう評価するかという「内容」は確かに主観の問題だから、
科学の出る幕はない。そのメカニズムがどうであれ、感じるものは感じるわけだから、
その「内容」が持つ意味や価値はなんら損なわれるものではないもんね。

> 基本的に人って自分のことを外から説明されたり言い当てられたりすることに不安感や警戒感を抱く傾向があるような気がする。

それはあるかも。ある主体Aの行動メカニズムが別の主体Bによって理解されてしまったら、
主体Aは主体Bにとって理解も制御も可能な存在に成り下がる。

でも、だからといって、主体Aにとっての意味や価値というものが消失するわけではない…。
83こてはん:2007/11/07(水) 20:37:38 0
>>74
>んむぅ…するとオレは本能が欠けているのだろうか。
つまり、>>72の最初と>>69の一部で書いたことをまとめるなら、(少なくとも自分の場合)死の恐怖=本能が哲学的欲求になっているということです。
たとえ死の恐怖という本能が化学物質によるものだとしても、その本能が化学物質的に生命を説明することを拒否し、
哲学や宗教のレベルによる説明を求めている、ということです。

>科学はメカニズムを説明
>するが、それのもつ意味や価値については完全に無関心だよ。心の働きが説明
>されたとしても、意味論や価値論は何らダメージをうけるものじゃない。
ここが自分がいつも反対したいところなんです。
科学的事実が人間の心から独立したものであったとしても、
科学をするのは人間の心によってなされるのだから、科学をする当人である人の心は科学的学説の影響を被る。
心というのは、引き出しのようにどこかに敷居があるわけではなく、フラスコの中の液体のようなものだから、
何を考えるにしても、過去のある経験や心理が考える現時点に影響を及ぼすはず。
たとえば恋愛のような大きな心理的事件は、その人に一生影響を与えるのは明白。
恋愛ほどでなかっととしても、たとえば唯物的に心を捉えるという思索を行うという経験も、
未来の心理に、少しは絶対に影響している。
つまり、価値論を考えるにしても、科学的な学説(物理的に心を説明するという思考)が、
少なからずは影響している。だから、自分では科学は科学、価値論は価値論と分けているつもりでも、
その価値論に、所謂無意識的に、科学的な学説が影響しているはず。
つまり>>75への反論を兼ねて極言するなら、恋愛するときに科学は関係ないと思っているつもりでも、
実は影響している。たとえば、科学する代わりに、詩をたくさん読んでいたとする。
すると、その恋愛感情に詩を読んだ経験が少なからずは影響する。
同じように、科学をしたという心理的経験も、後の恋愛には微量ながらも影響するはず。
恋愛でなく、価値論なら、もっと影響しているはず。
とにかく、物理的に心を説明するという行為によって脳裏に自然と宿った科学的な価値観は、
価値論の方にも影響してしまっているのではないか、というのが自分の考えの主旨です。