◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない105◆
743 :
考える名無しさん:2007/11/13(火) 09:58:33 0
>>741 「通信」とは「信を通わすこと」だろ。
「信じるものは救われる」
原始的なアニミズムであろうとかまわないではないか?
日は昇り日は沈み一日を知らせてくれる。
ありがたいお天道様ではないか。
月の満ち欠けは月日の無常を知らせてくれる。
ありがたいお月様ではないか?
♪お月様いくつ? 十三、七つ♪
744 :
紗南:2007/11/13(火) 12:06:09 0
ググってみたら、「お月様いくつ」の歌はいろいろと謎の多い歌ですね。
この歌に限らず、童謡とかマザーグースとかってそういうのが多いと聞きますね?
歌詞が普通に面白いけど、ところどころ意味不明だったり、不気味だったり。
そういえば「かごめかごめ」の歌が、徳川埋蔵金の在り処を示す暗号になっている、
なんていう説も聞いたことあります。お金ください。
今日は、世界は暗号に満ち満ちている、という気分になりました。
そんなこと書いてたら、今年の3月、紗南が久しぶりにこのスレにきたとき、
「世界は比喩で構成されている」見たいなこと書いたのも思い出しました。
743を読んでなんとなく思い浮かべてた歌。
http://www.youtube.com/watch?v=38KWR6btT-E
745 :
紗南:2007/11/13(火) 12:37:24 0
十三、七つ♪は、
単純に月齢(十三夜/30)と時刻(七ツ時/24)としたら、
情報量は、log30 + log24 = log(30×24) = log720?
ごみんね。今までなんの興味もなかったポパーの『科学的発見の論理』上下を昨日書店で
買って読んでるの。。。
当分、「ラジオ深夜便」のカキコしかできません・・・。
>>721>>742 違うよ。機械が言っているのは「存在の現前性」の話だと思われ
遠くを見れば見るほど過去になるというのはまちがいじゃない。
遠くを観測し、その2倍の遠くを観測すると、後者は前者の2倍過去の存在
の現前としてしか観測できないと言う意味だろう。あたりまえではあるが。
ぜんぜんあたりまえじゃないだろそんなこと。
絶対精神
ポパーを読むなら、後期ポパー、『よりよき世界をもとめて』、『フレームワークの神話』がおすすめ
訳者が小河原だし、
『歴史主義の貧困』や『科学的発見の論理』『開かれた社会とその敵』がやや専門的な問題を扱っているのに対して
日常的な問題を平易な言葉で語っている
社会科学の問題も扱っており、絶対精神君の関心に合いそう
前期ポパーはイギリス経験論の伝統が残っていて形而上学に否定的な感じがするし、ラッセルと似た感じがあるけど、
後期ポパーは「わたしの関心ある問題は今やプラトンと同じどうのこうの」と本人が述べるように
形而上学を肯定して、反証主義のもつ非正当化主義的性質が強く出ている
「知の起源について」を述べたのもこの頃だし
「起源を問う問い」が真理とは無関係な不毛な問いであるという立場が出たのもこの頃
ポパーの科学論については、ポストスクリプト(補遺)、『実在論と科学の目的』上下が分かりやすくていい
いや、やっぱ初期から丹念に読む方がいいんじゃない?
751 :
考える名無しさん:2007/11/13(火) 20:40:20 O
ポパーかぁ。。。。。
より良き世界ってどんな世界?
752 :
考える名無しさん:2007/11/13(火) 20:57:14 0
自分で読め怠け者
753 :
紗南:2007/11/13(火) 21:18:07 0
鳥肌実がテレビに出られるような世界になったらいいな?
>>749 サンキュー。やはり餅は餅屋だ。ヘーゲル砂漠もはっきりいって飽きてきたしね。。
実はマルクス派の経済学者の中には、コソーリ、ポパーにはまっている人はいっぱい
いるのよ(今は知らんけど)。「ヘーゲルなんていくら読んでも訳わからんし、ポパーの
姿勢って科学的だよなぁ」程度だけど。
それにしても『発見』の邦訳は誤植多いねぇ。せっかくなんで後期ポパーからいきます。
ありがとう。
755 :
考える名無しさん:2007/11/13(火) 21:25:29 O
>>752 おだまり!
太宰治の人間失格は年間7万冊でるらしい。
すげー
756 :
555:2007/11/13(火) 22:10:38 0
>>596 超絶君
「無が自己言及して揺らぎを生み出した」との言い方は冗談ならすばらしい
表現だが、本気で述べたのならアホというしかない。
擬人化して言うなら、自己言及しない「モノ」あるいは「コト」を“無”という
のである。なぜなら“無”には過不足がないからだ。w
だから“無”から「揺らぎ」という始原の“有”が生まれ出でたのなら、超絶君は
こう言わなければならない。すなわち“無”とは『神』である、と。
そう言ったほうが首尾一貫するけれども、それを言い切る度胸は君にはあるまい。w
自己言及そのものは有るが、
自己言及する対象の何かは無いということかな。
それとも、自己言及そのものを自己言及しているとか。
ところで、原因が無くても存在できるような何かがあるとすれば、
それは自らが原因と結果を兼ねているような自己言及に似た何かだろう。
自己言及する。故に自己言及あり。というわけ
「私」よりも絶対的存在かも。
あと分からんのだが「無」というのは「無」も無いということなの?
「無」が無いということは「有」? 「無」=「有」?
つまり世界が存在することは必然に過ぎない?
教えて下さい。
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759 :
「機械的唯物論」者 ◆FUmCW.hN/Q :2007/11/14(水) 00:20:35 0
>>749 >形而上学を肯定して、・・「知の起源について」を述べたのもこの頃だし
>「起源を問う問い」が真理とは無関係な不毛な問いであるという立場が出たのもこの頃
私には矛盾に満ちた(確かに)形而上学であると思います。確かに不毛です。
760 :
「機械的唯物論」者 ◆FUmCW.hN/Q :2007/11/14(水) 00:26:03 0
>>756 >だから“無”から「揺らぎ」という始原の“有”が生まれ出でたのなら
ビッグバンの「おおもと」である「無のゆらぎ」は「空間も時間も量子も何もない何か」
を示しているだけですので、それ(無)が「ある」とか「ない」とか論じる対象ではありません。
ビッグバン「以前」は「何もない空間」である「真空」でさえ「無かった」し「時間」も
無かったので「ゆらぎ」という時間軸を前提とした表現はあまり適当ではないと思っております。
本日は脳内睡眠物質の蓄積により就寝させて戴きます。
ビックバン「以前」にも「情報」だけは有るんだよな。なんか不思議だ。
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ポパーの区分けだと、数学や進化論などは経験科学ではなく、形而上学的プログラムということになる
だが、ポパーは形而上学を排斥してないし、意味の境界設定そのものが無意味だという立場だから
仮に形而上学だとしてもそのこと自体は何の批判にもならない
ポパーにとっては、経験科学と形而上学を区分けして、片方に「無意味」とレッテルを貼る行為は、それ自体が馬鹿馬鹿しい行為になる
この点でポパーは論理実証主義と大きく態度を異にする
そのポパーが実証主義者として解釈されたという誤解が、ポパーの悲劇だ
ポパーがよく口にしたように、彼は実証主義に常に反対する立場だった
反証主義が実証主義の延長と解釈されたことがポパーの誤解のはじまりだろう
764 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 01:20:24 0
>>763 >反証主義が実証主義の延長と解釈されたことがポパーの誤解のはじまりだろう
超絶対神とかいうアホが反証を上げてみろとかわめいていたことと関係ある?
実証することに意味がないというのは形而上学的なのかもしれないけど、
科学的であるとは少なくとも言えないから、ポパーは非科学的であったということになるか。
766 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 01:31:08 0
非科学的な形而上学が本当は大好きだったのに科学主義のレッテルを貼られた
それがポパーの悲劇の本質ではあるまいか?
767 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 01:36:58 0
>>763 数学と進化論を同じ範疇に入れるのはどう考えてもおかしいぜ。
恐竜の骨を発掘してる奴らは数学者の対極にいると思うがなw
進化論は反証できるから科学
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人類の理性をして世界は既に決定しているはずだと結論付けるのは無理ではなかろうか。
不可知論也。
>>768 進化論は科学というより思想。
思想ジグソーパズルの一つのピースとして
進化論は他の理論群証拠群のピースと良く合う。
それらのピースはさらに他のピースたちと良く合う。
進化論否定のピースは合うピースが僅か。
いや、宗教関係のピースには非常によく合うな。
ピースにはそれぞれ有効度があって、
有効度はそのピースに合う他のピース群の有効度の総和だ。
俺の計算によると進化論のピースは有効度高いよ。
科学とか思想とか形而上学とかいう区分けは実はどうでも良いこと。
これは最終決定論な。
772 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 06:34:07 0
>>643 「誰もが世界の中心と感じていること」というのは認識の要請だろう。
しかしそれは現実ではない、ということなんではないのか?
特殊相対性理論の前提である光速度一定の法則では絶対座標は実在しても認識できないと言っている。
わたしは絶対座標の実在ということを仮定するとしたら、自然は無矛盾ではなくなるから実在、つまり現実には存在しないのだと理解している。
そうすれば座標原点の実在、つまり運動量無は否定されるからだ。
つまり自然存在は全て運動するということになるから。
それではこの座標原点とは何か、ということになる。
人間認識は実は静的であると言わざるを得ない。
わたしが生まれてから死ぬまで大きく変化しているにも関わらず、同一として、変化しないものとして認識され表現される。
科学でも自然には実在しない座標原点、つまり運動の否定を媒介にして運動量を量るわけだと。
「誰もが世界の中心と感じていること」というのは、実在はしないが認識が要請する観念的存在としての静的な基準であるということだとわたしは理解している。
考えてみると、人間の歴史と科学の歴史は重なるところがある。
小さい頃は自分が中心なんだが、学校などの小社会で自己を相対化され、社会で相対化され、歴史としても相対化される。
科学では、地球が宇宙の中心だという理解は、この惑星もまた天の星と同じように運動していることを知らされる。
進化論では人間もまた動物であり、この意味ではなんら特別なものではないと相対化される。
近年では特殊相対性理論で、認識そのものが相対的であることを認識させられる。
人間が認識することの本質がにこの「誰もが世界の中心と感じていること」を要請するとわたしは理解する。
「物質以外の何か」
けっきょく物理的運動の発展過程としてしか意識は存在しないわけだが、そのこと自体に何故は問えないんじゃないのか?
つまり物理的存在のある状態が意識をもたらす、という理解しか出来ず、なぜ意識をもたらすということは問えないということなんだ。
宇宙は何故存在するかなんてのは問えないんじゃあないのかなあ。
問いは人間の認識の側の問題であり、自然には論理も何も存在するわけではない。
たとえば人間が分類するからこそ、分類できないものが出来するだけで、自然存在はオレはどっちだなんて悩まない。
何故存在するか、というのも無意味な問いで、自然存在なんて前提でしかないのでは?
すべては幻である、という幻想論は存在が理解の前提であることを忘れたものでしかないのでは?
論理的には、全ては幻というのならば、この立論自体も幻で無ければならない。
個人的には科学にしてもなんにしても、真とも偽とも証明できない命題があると理解しているが、これもまた認識の要請するこの基準の相対性の問題ではないのか?などと理解しつつある。
>>756 >
>>596 超絶君
> 「無が自己言及して揺らぎを生み出した」との言い方は冗談ならすばらしい
> 表現だが、本気で述べたのならアホというしかない。
> 擬人化して言うなら、自己言及しない「モノ」あるいは「コト」を“無”という
> のである。なぜなら“無”には過不足がないからだ。w
> だから“無”から「揺らぎ」という始原の“有”が生まれ出でたのなら、超絶君は
> こう言わなければならない。すなわち“無”とは『神』である、と。
> そう言ったほうが首尾一貫するけれども、それを言い切る度胸は君にはあるまい。w
考えが狭いオルフェノクだな。
無はビレンキンによって定義されておる。
定義されておるものは独立して存在しておる。
無が独立して存在しておれば、自己だ。
それからな、「自己」が擬人化だと考えておるのが既に哲学を知らんな。
哲学で自己は「同一性を保持して存在するあるものそれ自身。」であり、人格的存在以外にも用いられるんだよ。
くっくっく。
肝心なことを書き忘れた。w
「物質以外の何か」
つまり認識の本質上必ず証明できないものがでてくる。
それが物質以外の何かと感じられるだけだろう。
光速度一定の法則では自然の全てが運動するという理解が得られるのだが、自然が全て運動するのならば自然は物理的存在でしかありえないことになる。
この物理的存在がもたらしたある状態が意識というわけだが、ある物理的状態がなぜ意識をもたらすのか、という問いは成立しない。
科学はこの物理的状態になると意識が発生するとしか言えない。
そして認識は全てを認識しつくすことはできないわけだし。
このすべて認識しつくすことはできない、ということが全てを説明したい人間が「物質以外の何か」と説明したがるだけではないのか。
>>760 >
>>756 > >だから“無”から「揺らぎ」という始原の“有”が生まれ出でたのなら
>
> ビッグバンの「おおもと」である「無のゆらぎ」は「空間も時間も量子も何もない何か」
> を示しているだけですので、それ(無)が「ある」とか「ない」とか論じる対象ではありません。
>
> ビッグバン「以前」は「何もない空間」である「真空」でさえ「無かった」し「時間」も
> 無かったので「ゆらぎ」という時間軸を前提とした表現はあまり適当ではないと思っております。
ビレンキンによる「無」の定義を確認してこい、たわけ。
くっくっく。
>>764 >
>>763 > >反証主義が実証主義の延長と解釈されたことがポパーの誤解のはじまりだろう
> 超絶対神とかいうアホが反証を上げてみろとかわめいていたことと関係ある?
そんなことも分からん低脳では、儂の言っておることは理解不能だ。
反証主義が実証主義の延長ではなく、対極だ。
つまり、同質だと言うことだ。
くっくっく。
人間は全てを説明したがる。
しかし説明自体はその文化の達成状況で変わってくる。
その文化の状況ではここまで説明しうるのだ、と見極めるのは至難の技だろう。
古代史の学を辿るとそれがよくわかる。
雷を電気現象と理解されるまで神鳴りなどと理解されていたのは、全てを合理的に理解しようとして非合理に陥る好例だろう。
しかし認識の本質上全てを認識しつくすことなどできない。
>>778 人間にとって不都合がない説明はとりあえず何でもOKなんで。
だから途方もない迷信が歴史の中で市民権を得ていたりする。
現代に通用している説明でさえ未来の人からアホな迷信呼ばわりされないとも限らない。
物質には空間が必要だし空間には物質が必要だというだけの話だと思われ。
絶対無なんてのは観念的に想像してみる以外にない。
仮に実在してたとしてもそんなものの大きさを測る尺度はない。
781 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 07:56:00 O
>>778 > しかし認識の本質上全てを認識しつくすことなどできない。
これも文化の達成状況?
782 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 08:34:29 0
認識されたことが認識のすべてじゃないの?
>>779 >現代に通用している説明でさえ未来の人からアホな迷信呼ばわりされないとも限らない。
そういうことだね。
だからこそ古代史研究を例にしたわけ。
>>781 >> しかし認識の本質上全てを認識しつくすことなどできない。
>これも文化の達成状況?
鋭いね。
ただ、文化の達成状況というのは普遍性も抱えるわけ。
>>782 ?
認識とってはそうだけど、認識対象にとってはすべて認識しつくされることはないんじゃね?
785 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 08:59:18 0
>>757 >あと分からんのだが「無」というのは「無」も無いということなの?
>「無」が無いということは「有」? 「無」=「有」?
インド哲学では一般に「無」は「有」の否定と定義される。
「無」=「有」? は間違い。無は非有である。
「無」という言葉も概念も有るのだから「無」は実在する。
「無」は日本語でも「何がない」と「何でない」の区別が有るように、
インド哲学では「無」を5種類に区別する。
1.先行無;「いまだに〜がない」例:心を持つロボットはない。
2.破壊無;「もはや〜がない」例:コップを壊したらコップはない。
3.交互無;「〜でない」に対応。いうまでもない。
4.関係無;「〜に〜がない」例:小島よしお?で有名。
5.絶対無;「とにかくそんなのありえない」例:兎の角
ちなみにインドでは無と空は別概念でゼロは空に対応する。
無は否定に対応する。
対象が何もないことを空という。空と絶対無とも違うね。
786 :
555:2007/11/14(水) 09:19:12 0
>>775 だれが「自己」を擬人化と言ったのだ?w 君は色々と齧っているようだが、
国語力が不足しているね。
それから“定義”はコミュニケーション上の取り決め。便宜上の概念規定で
しかない。
もう一度、訊くけど初めは“無”なの?それとも“揺らぎ”なの?
コピペと罵倒ばかりが目だって、君が何を言いに来たのか、だれもわかっていない
のではないか。w
「すべては妄想である」と君が見栄をきったときは、期待したのだけどね。w
787 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 09:29:59 0
>>784 認識されない物事は認識対象じゃないでしょ。
もちろん認識されない物事がないのではない。
788 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 09:38:36 0
789 :
784:2007/11/14(水) 09:46:46 0
788はわたしでは無いので。
また夕方に。
互いに名前付けたほうが良いかも。
790 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 09:51:38 0
>>788 「語りえぬことについては沈黙しなければならない」
791 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 10:00:07 0
アインシュタインの相対性理論、精密な実験で立証される
アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)は1905年、物体の相対的速度によって、時間は
進んだり遅れたりするという有名な相対性理論に関する論文を発表した。
アインシュタインの仮説によれば、運動している時計は、静止している時計よりもゆっくり時を
刻むことになる。この現象を彼は「時間の遅れ」と呼んだ。
この「時間の遅れ」に関するこれまでで最も正確な実験を行い、アインシュタインの理論を証明
したとする研究が11日、英科学誌「ネーチャー・フィジックス(Nature Physics)」(電子版)に発表
された。
実験は、ドイツのハイデルベルク(Heidelberg)にあるマックス・プランク核物理学研究所(Max
Planck Institute for Nuclear Physics)で、同研究所、マックス・プランク量子光学研究所、
ならびにマインツ大学(Mainz University)などの研究者が参加して行われた。
研究チームは、粒子加速器のドーナツ状のリング内で2つの原子ビームを回転させる方法で、運動
している時計を再現した。高精度レーザー分光法を用いて原子ビームの時間測定を行ったところ、
ビームの時間が装置外の時間よりも遅いという結果が得られた。
研究の主著者であるカナダのウィニペグ(Winnipeg)にあるマニトバ大学(University of Manitoba)
のGerald Gwinner氏は、今回の実験により、米軍による衛星利用測位システム(GPS)の技術理論
が確認されたと指摘する。
GPS衛星は、原子時計を搭載して同期信号を発している。この信号を三角法で演算し、対象の位置を特定する仕組みだ。
「GPSは衛星で地上の対象物の位置を測定するが、その際に衛星自体が高速で地球の軌道上を
移動していることを考慮しなければならない。われわれの実験により、GPSがアインシュタインの
『時間の遅れ』理論を活用して衛星の動きを補正し、対象物の位置を測定していることがわかった」と語った。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2311210/2346199
>>777 ビレンキンのビッグバン直前?状態:非常に短い時間の中では時間や空間、
エネルギーが一つの値をとりえず、たえずゆらいでいることと簡単に言って
もそれを理解するのは簡単じゃないよ。
普通「ゆらいでいる」というと少なくとも時間は一定でゆらゆらすることだが
時間さえ定まらないゆらぎというのはどういう意味か?文科系の超絶クンは
ただブンガクテキにイメージしているだけなのだろう・・量子論の中身を知らないと無理だろう。
超絶クンは空間やエネルギーに加え時間までも不安定な状況、なおかつ大きさは
10-34センチ(プランクの大きさによる小ささの制約)という意味をどこまで理解しているんだろう?