2 :
考える名無しさん:2007/09/06(木) 20:43:41 0
>>1 ニーチェ
理想を形成するとは、おのれの悪魔をおのれの神へと改造することだ。
そして、そのためには人々はまずおのれの悪魔を創造し終えていなくてはならない。
私たちは無政府状態の時代に踏み入っている−−だが、これは同時に最も精神的で最も自由な諸個人の時代でもある。
途方もなく多大で精神的な力が渦巻いている。
天才の時代、それは、これまで、習俗、道徳等々によって妨げられていたものだ。
http://members.at.infoseek.co.jp/metalfatigue/Homofaber/Nietzsche.htm アンチクリスト
ニーチェにかかると社会主義も民主主義もケチョンケチョンである。
人間の自由闊達な活動とその結果に、むやみな制限を加える思想は全て排除の対象になっる。
孔子もマホメットもプロテスタントのルターも、プラトンもカントもルソーも、大凡著名な宗教家神学者哲学者ことごとくが彼の批判を受けている。
思想の健全性で部分的ででもあれ支持を与えられたのはゾロアスター教、バラモン教・ヒンズー教のマヌ法典、それから仏教である。
仏教は「罪に対する闘い」ではなく、「苦しみに対する闘い」を説いているとして評価した。
イスラム教は「海賊」十字軍の略奪対象になるほどの文化を発展させたとしてかなり好感を持って評論されている。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/HOMPG833.HTM トランスビュー no.03(2002年4月発行)
実際、ニーチェは仏教を敵視し、西欧文化の根源としての「悲劇」を仏教に対置する。
西欧の衰亡を憂えるニーチェは、仏教のかかげる「死」の魔力に抗して、ギリシャ悲劇の「行動」や「戦争」のほうを選択すると宣言するのである。
http://www.transview.co.jp/pr/03.htm ニーチェの仏教観について,どう思われますか。
____ ) 『 光の速さでケツからうんこ出したらどうなるの?』っと、
/⌒ ⌒\ )
/( ●) (●) \ )/⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y丶
/ ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
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/´ ヽ カ
| l l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l カ タ
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、. タ
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
┌┬┬┐┌┬┬┬┐┌┬┬┬┐┌┬┬┬┐
,. - ''"| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ρ ̄`l
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ ̄ ̄
____
/::::::─三三─\ リアルな話すると多分お前の住んでる街が消し飛ぶ
/:::::::: ( ○)三(○)\ 光速でウンコほどの質量(約200?300グラム)
|::::::::::::::::::::(__人__):::: | _____ の物体が動いたら想像を絶する衝撃波が発生する
\::::::::: |r┬-| ,/ .| | ましてそれが地表と激突したら地球がヤバイ
ノ:::::::: `ー'´ \ | | お前のウンコで地球がヤバイ
一瞬父とは一度しかしたことがないに見えたw。
しかしそれで国立とはいえよく大学いく金あるよ。
しかしショパンは天才的同性愛者か。あの溢れんばかりの官能的な名曲の数々からして不思議ではないことだ。
まえ早は男色だと思う。
現実の女としては距離をおいた壊れた女を、
そして男の観念上の女を愛してるということは、 やはり両性愛というよりは男色だろう。
男色は才能の土台だろうから、肯定的にみていいと思う。
これを欠いていては努力を努力と思わないような官能的かつ衝動的な糞努力ができない。
だから男色でない真っ当な人間は才能に乏しい堕落したような人間になってしまう。
男色家としての小林秀雄はその意味で大層人気があるが、私の好みではない。
なるほど娼婦と男色というのは関係が深いようだ。
娼婦と男の関係はいわゆる恋愛関係より余程密接なるものがあると思われる。
遠くにいる人や非現実な人物像や芸術家に恋をすると、遠い対象であるのに、自分の心の一番近く0距離にいる存在であるような気がする。
これはたぶん、ユングの元型論で説明できる。女神像、英雄像、無敵の幼児のイメージ、娼婦のイメージなど元型的なものは個人の心の無意識の深層に起源を持っている。
神話を描こうとするのは本能的生得的な心の作用ということです。
中原との男色が怪しい小林秀雄の描く芸術家は英雄化悲劇化されすぎているという批判をたまにみかけるけど、
ああいうのが本当に遠くの存在に夢中になったとき自分の心の中から沸きあがってくる感情なんだと思う。
ニーチェの「教育者としてのショーペンハウアー」も多少聖化されているように思える。
芸術家本人の姿からはずれていたとしても、その芸術家に憑いていた心理を表現できれば、史実的な客観的な作家論よりも価値がある。
そういうのを表現するには、自分もそういうデーモニッシュなものに憑かれなければならなくて、
その時の感情を詩的にも哲学的にもしっかり表現できたときの神話化は、捏造とか虚構とか悪い意味での神話じゃなくて、有機的な力をもった思想の誕生だと思う。
ちなみに、アリスの著者ルイスキャロルの本名は、first name忘れたけどなんとかドジスン。
軽度の言語障害と数学の天才を持つドジスン氏は生涯独身で恋愛の経験がなく、子供が大好きで、
少女の裸の写真を撮ったりすることもあったとか。あの神な物語は、親戚の少女にプレゼントするためにかかれたもの。
性倒錯や同性愛は表現の源泉の一つさ。
自己満な携帯HPを創りました。なんでも表現したい年頃。いろんな詩へんな詩かいて載せてます。
置き詩歓迎、詩読むの大好き。国際貴族主義連合のひかるさんの詩、大好き。
http://13hp.jp/?id=beatrice PCからでも閲覧できるのでみてね♪
つくったばっかで過疎なんだけど、早のHPを流行らせたいという物好きかつ親切な方は、
携帯でアクセスして、top下にあるランキングへのリンクを、それぞれ一日3回クリック(次の入り口ページでもう一度クリック)して下さい!露骨な宣伝。
たぶん2週間〜1ヶ月ほど経てば、受験あるしHPなんてすぐ飽きて、放置になりますが。
詩をかいたりもする金曜日さん、自作詩あるのでしたら、是非置いていってください。
そろそろ、コテハンいると書き込みにくい読みたくないていう人も多いだろうから、
最近書いてみた作文置き逃げして本当に今度こそ2ちゃんから消えますね。
もう2ちゃん来ない、少なくともほんのたまにしか来ないつもりなので、
六百六拾六さんも金曜日さんもあややさんも長々と妙な議論に付き合ってくださった方も男色さんもうんざりしてるROMさんも早のお道化た独り言はじめて見る人も、
ありがとうさようなら。このさようならこそはじめて嘘じゃない。
私に妄想の大波が来て神経や自分のサイト荒れても、このスレはもう荒らしません。
数ヶ月にわたって神経病沙汰晒しにスレを日記帳にしたり荒らしたりしてご迷惑おかけしました。
冬のある日、幼い子供が、降ってくる雪をみて、雪を「ちょうちょ」と表現したとしたら、これは一種のメタファーといえる。
具体的な個々の雪と、抽象的な概念や記号としての雪をわけてみる。
フローベルは弟子のモーパッサンに「世界には一つとして同じ木、同じ石はない」と教えたのだけれど、それと同じように、
具体的な個々の雪は、大きさも、色も、それを構成する結晶の形も光の反射の具合も、他の個々の雪とは同じものはない。
その全て違うたくさんの個々の雪の類似点を、人間が見つけていくことで、類似のあるいは共通の性質だけが抽象されて、
細かい相違点は切り捨てられ、一般的抽象概念としての雪ができる。
前人間的に雪という抽象概念があって二次的に個々の雪があるのではなく、たくさんの個々の雪をたくさん人間が見て知ることによって、
人間は個々の雪を抽象しながら雪に対しての、ニーチェ的に言えば一般的な遠近法を‘創出し’、
そうやってはじめて抽象概念としての雪ができあがる。
子供が、ある雪を「ちょうちょ」と表現するときも、原理的にはまったく同じようなことがおこっている。
「多種多様な物事の中から、類似している点をとりあげ、類似していない点を捨てることによって概念がしだいに形成されて来るかぎり、
比喩がその基盤になっている。」(ショーペンハウアー)
つまり、雪と蝶の性質の類似点(例えば、宙を舞うものという性質)を、子供が見つけ出し、雪のことを蝶と表現した。
これは子供がつくった一つの遠近法、解釈法。
この場合の過程では「その子供が見た雪」と「蝶」という‘二つの’ものの類似点が見つけ出されて子供は雪を蝶と表現したことになる。
抽象的な概念としての雪は、‘大量の’個々の雪の類似点が探され相違点が捨てられて、ニーチェ的にいうと遠近法として、出来上がる。原理的には同じ。
(1/5)
雪のような物的なものに関してでなくても一般的に認識や感覚や心理に関しての概念も同じく、このようなことがいえる。
悲しみにもいろいろなものがあってどれ一つとして全く同じ悲しみはないけれど、似たような感情を集め抽象していくことによって、「悲しみ」という名詞に統一される。
「真理」といわれる客観的恒常的であってあらゆる価値以前の前提だと見做されている普遍の概念も、ニーチェによれば、
個々のたくさんの具体的事物や人々の認識や価値観から抽象されてはじめて作られた世界に対する共通の遠近法や価値基準、
多数の人間を統一するため、共通の解釈や意義付けを行うため、価値を共有するため、安全に生存するために人間が創りだした虚構であって、
決して最初からある超越的に存在する理念ではない。超越的なものがあるとしたらそれは物自体という完全には認識できない何ものかである。
まず真理があって二次的に色々な価値があるつまり価値は真理に規定されている、のではなく、真理も価値を共有するためにつくられた価値。
こんな感じでニーチェにとって全ての言語も概念も真理でさえも、メタファーと成り立ちが原理的には同じで、
肯定的にいうと創造された表現、否定的にいうと捏造された虚構。
あるいは、真理も概念も言語もメタファーに由来していて、メタファーが起源だということが忘れられてしまっている、ともいえる。
「真理とは、それが錯覚であることを忘却された錯覚であり、使い古されて感覚的には力を失ってしまったメタファーであり、
肖像が消えてしまってもはや硬貨としてではなくただの金属としか見做されなくなった硬貨である。」(「道徳外の意味における真実と虚偽」)
「真の詩人にとっては、比喩は修辞的な形なのではなく、概念にとってかわって現実に彼の目の前に浮かぶ代理的な心象なのである」(「悲劇の誕生」)
詩が生まれるときは既知の概念や言葉では捉えようもない感覚や感情やイメージの流動が先行する。それを、既知の言語の枠組みに囚われずに、直接生々しく表現すれば詩になる。
(詩人の胸を突き刺す悲しみ、この永遠に救われざる想いを前にしては、「悲しみ」という言葉はもはや意味を成さない!彼方の人を愛する悲しみ、全身に流れる拙い詩!)
既成の言語体系は、生きた詩が化石になったようなものの集まりかもね♪
(2/5)
概念やそれに対応する言語は、先人達が作り出した既成の遠近法、物事を解釈・認識・評価するときの多数の人が共有する習慣的一般的な基準であって、
メタファーは、独自の解釈で物事を捉え、それを表現したもの。
だからニーチェ的には、抽象的な既成の概念を基準にすることは反応的(受動的)で、
メタファーや自作の概念など独自の認識方法表現方法で物事や世界を捉えたり表現したりする芸術家の方法は能動的だといえる。
「巧妙な比喩を案出するのは、特にもっとも偉大な業である。他人から学んで比喩の達人になれるわけではなく、比喩の業は
天才たることの証なのである。なぜなら絶妙な比喩を案出することは、事物に共通した類似の特性を把握することだからである。」(アリストテレス)
フローベルの教えは、この文脈でなら、人間は一般的なものの見方や概念や言語によってあらゆるものの相違点を忘れてしまっているが、
芸術家なら自然の事物であれ人間であれ全ての個が固有の性質をもっていることを念頭に置いておかなければならない、
そして自分の肉眼や心の眼で色々な個を見つめ、そうすることによって独自の遠近法で能動的に世界を捉えることができる、と言い換えられる。
多数の人は自分の五感で知覚して自分の心で感じるのではなく、概念や常識によってものを把握している。
音や色も内部感覚や形而上的直観や根源的なイメージも、無自覚的にすぐに概念に変換されてしまい、
他の多くの人と同じような方法で知覚しようとする。つまり、鼓膜や網膜やその他身体感覚器官によってではなく、
後天的に組み込まれた脳内の辞書によって知覚してしまう傾向が強く、辞書の言語というレッテルを対象に貼り付けて認識し、
その辞書に名称や性質が載っていない繊細な印象は、無いものとされて識域からはじきだされてしまう。
さらに比愉を重ねていうなら、人は流動的な世界を、概念や言語という網で出来た辞書という笊で、濾過してしまい、
繊細な印象、つまり笊に引っかからない水は、無かったものとして流れ出ていく。
(3/5)
蝶が舞うように美しく降ってくる雪があること、それぞれの雪が無限の種類の綺麗な結晶を持っていることなどを忘れ、
頭の中の辞書の言葉通りにしか雪をみなくなってしまうから、人間にとって雪は具体性を失い、抽象的なものになり、
自然と人間の心は抽象化、記号化という壁で隔てられてしまう。雪や石や木など外部の自然だけでなく、
人間自身の心をも抽象化してしまい、心の深層の根源的なイメージや感情は識域に上がってくるまでに概念群の壁によって遮断され、
通過する際に単なる記号になってしまう。そして心も不自然に表面的になっていく。この抽象化という壁をうちやぶってくれるのが、神話や芸術家の表現。
芸術家は、抽象的な概念や一般的な価値観によってではなく、心の源泉から湧き上がってくるメタファーや
独創の自然観照や人間観察などによって有機的に世界をとらえ、世界を物語化する。
科学的世界観は、あらゆる理論が物語でも虚構でもメタファーでもなく前人間的に正しいものであると信じ込ませ、
世界の解釈が人間の創造物だということを忘却させる。
一般相対性理論の計算がGPSの衛星通信に使われるのは、それは一般相対性理論が完全に正しく光を数式化しているからではなく、
どの理論よりも光の性質を限りなく厳密な近似として説明しているから。相対論はアインシュタインが創った宇宙の限りなく近似的な表現。
物理学はたとえ相対論と量子論を統一する理論が発案されたとしても絶対的な真理には至り得ず物語であることをやめないはず。
人間の創造した虚構ではない前人間的に客観的妥当性をもつものがあるとすれば、物自体とか一者を除けば、個人的には数学だけだと思っている。
数学はまるで神の眼であり手であると表現したいくらい不思議なほど完全に出来ている。
人間が数学の公式をつくるといっても、人間がつくるというよりまるで神の謎を解き明かすといえるほど物理や哲学の理論とは別次元の完全性をもっている。
(4/5)
だから数学は物理や哲学をするには欠かせない重要な学問で、あらゆる思考の基礎になる。
でも数学は具体的な自然には決して存在しない完全に抽象的な方法。
数学は、解剖の対象の自然でもなければ、解剖する人間に属するものでもなく、神から贈られた完璧なメスのようなもの。
雪も石も木もベンゼン環もグリシンも酸素原子も、完全に全く同じ二つのそれはないのだから、同じものとして「数」で数えるのは不可能。
数多性は人間が世界を認識するときの形式にすぎず、たとえば物質についてなら、全てが集まった「一つ」の物質的世界としかいいようがない。
数学と自然という相容れないもの同士のあいだにある物理学はどこまでいっても虚構であり物語である。自然が完全に数式化されることはない。
だからファラデーの磁力線のように、数学的表現から一度はなれてみて芸術家的な想像力によって物理的世界を捉えてみると、それが物理の革命に発展したという事例もある。
この偉大なる謎に満ちた大自然の現象の数々を、数式や物理学的な図式にあてはめていく、科学者の歓喜は、測り知れないでしょう!
しかし難しい数学や物理学を勉強しないと、現象の仕組みが数式などで表現されていることがどれだけ驚くべきことなのか、そういうことに感動する体験はなかなか得られない。
(学校の教科書の物理の教え方が嫌な高校生は、駿台の「物理入門」という参考書がオススメ。難解だけど。
物理学の本当の魅力が、数V知ってれば解る。微分積分で表現されてない高校教育の物理なんて、方程式をわざわざ算数的に解くようなもんさ。)
芸術や神話においては、表現者や古の詩人達の豊かな表現が、世界の解釈がメタファーに起源をもつ能動的なものだということを心を開いた人なら誰にでも実感させてくれる。
個人の心の本能的な源泉は、泉。世界は、陸地。認識の方法を、泉から海にいたるまでの陸地に対しての接し方。という風に喩えてみると、
科学は、泉から海までの地形を上空からいかにも客観的に撮影してくれる。科学する当人は生の美しい自然を一望できても、一般人にとっては只の写真になってしまう。
神話や芸術は水路の役割をし、水流を上空から撮影したものを見るような間接的な方法ではなく、水流が水底を抉るように直接の具体的な過程で
人の心が世界に接触することを可能にしてくれる。
(5/5)
Which do you like,男色or女色?
17 :
考える名無しさん:2007/09/19(水) 22:23:32 O
はじめまして。いきなりですが質問です
ニーチェの言う「美」とは、どのようにして成立するのですか?
読んでも分からないので質問させて頂きました。もしよかったら教えて下さい
18 :
金曜日:2007/09/19(水) 22:45:20 0
早くんへ
<概念>の形成過程や<抽象>というについては
ニーチェやショーペンハウエルのいうことを鵜呑みにしないほうがいいね。
私たちの精神にひとつのある概念が折りたため
さようなら
19 :
金曜日:2007/09/19(水) 23:20:51 0
続き
ある<概念>が折りたたまれていくとき世界視線というべき上空からの視線が加担している。
こうした過程についてはまだまだ誰もうまく説明できていない。
抽象についてもだ。たとえば抽象絵画。イメージの抽象とはなにか。
絵画作品において完全にそれを表現し得た芸術家は存在しない。
作品不在のままイメージの抽象を論じるのは海をみたこともない人間が海を
語るに等しいのかな。
ニーチェの「悲劇の誕生」についてもだ。この謎めいた書物について
ディオニッソス等をみんな簡単にもちだすけどニーチェの射程の限界と
未踏の可能性の両極を見据えないと空論になるとも思う。
また人類の共同体や宗教や国家の発生の根源的な解明と
善悪の起源をたどることとは同じことだとも思う。当時では不可能だった。
ニーチェの時代では宇宙科学も人類学の基礎知識も発展途中であり
ニーチェの思想の限界線をみきわめることが必要だとも思う。
でも私がニーチェにひかれるのは
すべてにノンをいい
自己精神の自己変革への意思と
絶えずすべてを白紙還元し新たに思考し直すという態度にあります。
こんな人物は古今東西はじめての人間だと思う。狂気じみているともいえますが。
脳梅毒でなくとも本当に気が狂ったともおもいますが。でもニーチェの思考のあとをたどるのはたのしい。
こんな人物にめぐりあえたことに感謝もしています。
早君も受験勉強が終わったらまたここに戻ってください。
君の長舌にはうんざりしながらも多少刺激になり面白かった。
ではまた会う日まで
さようなら。
どうでもいいが娼婦、売春婦といえば女の根源的な職業だといわれてる罠。
彼らは男一般の心身に対する嫌悪感や吐き気を男自身より余程もたないのだろうから、
男色家の鏡といっていいだろう。
それ故に影響力はしこたま強いのではあるまいか?
私は金がないので買ったことがないんだが実際どうであろう?
男色家のスレで聞くのもあれだが。
そういえば早は自分の影響のことが気掛かりらしく謝っていたわけだが、実際影響の程はどうなんだろう?
その時分、そんな影響があるようには見えなかった。
とはいえ早には我々の認知していなかった何らかの根拠があったのだろう。
いまや何気にじわじわと影響を受け始めておられるような男色家のみなさんなわけだ。
早には先見の明があった。
21 :
金曜日:2007/09/21(金) 01:36:55 0
このスレは男色家のスレ?
君のことか?
ニーチェはホモかもという論文がドイツ文学の研究誌にあったような。
論文で確認してないのでなんとも言えぬが。
早君といえばブログをみたけど詩はあまりうまくないね。
詩になっていない。これは横書きのせいでもあると思う。
縦書きにしてみればいかにリズム感に欠けているか
そのほかの欠点もみえてくる。
詩の難しさは詩を詩として成立させるためのその人固有の秘法を
手中にしないかぎり詩の神は訪れないというころにある。
とにかく書けば詩になるという自信?が詩をダメにしている。
もっともっと大量に詩作の試作をしているうちになんとかなるのだろうが。
早君不在でこんなこと言っても仕方ないか。
せめてニーチェの詩をよめばと思う。
しかし翻訳された詩は心にひびいてこないな。
ところでニーチェの美学についてだが
美醜についてのことばがツアラツストラにもみられるとおり
ニーチェにとって身体についての美学というか美しい=エロス
としてつまり男性から見た女性のうつくしさについてがあるね。それはわかるとして
ニーチェの音楽について等、芸術についてのニーチェの考え方は
やはりわかりにくいです。この件は後日に。
いや君のことだ。
論文「ニーチェはホモかも」
なるほど早といえばキモイと思ったことがないやつだったな。
今時分よく使われるキモイという言葉に異様なる反感を示していた。
25 :
考える名無しさん:2007/09/21(金) 03:51:17 0
ニーチェって大雑把に言えばさ、例えばカントを批判
する時に批判してるのはカントの考えそのものという
よりその考えへと走らせた衝動(道徳的なもの?)を批判
してるの?この先それにより間違いが必ず起こると
まあそんな感じだろうな。
間違いとか正しいとか、そんなことはどうだっていい虚構なわけで、
ニーチェが重んじるのはそういった虚構を育むところの動物的、身体的、衝動的な面だよ。根源的なね。
その面で弱体化したらしょうもないからな。
逆にその面で充実していればそれでいいわけだ。
キリスト教道徳などの虚構が退廃を招くらしいが虚構自体に力はないと思う。
虚構自体ではなくて虚構に対する態度が退廃的なんだろう。
27 :
金曜日:2007/09/21(金) 06:48:46 0
キリスト教およびその道徳が現在虚構的にみられるとしても
当時ではキリスト教文明の1900年の歴史の重みがあり
その価値を転倒させるには荷が重すぎたのではないか。ニーチェひとりでは
キリスト教文明はびくともしない。現在でもそのように見える。
キリスト教を虚構とみなしそれに対抗するには永劫回帰という虚構を持ち出すしかなかった。
しかしニーチェ自身にとっては永劫回帰は虚構としての意識はなくそれは真理だという確信でもあった。
私にもよくわからないが
当時のあるいは現在の実際のヨーロッパ人の大衆の心情はどうなのか。
日本の神道や仏教については伝統的には表面的には確固としたものがあるにはかかわらず
われわれ大衆の心情では仏教も神道も希薄そものでほとんど無意味となっている。
日本には現在転倒すべき価値がない。
天皇制だって制度としては国家の法のなかに確固とし位置づけられているにもかかわらず
その存在感は希薄そのものであるといってよい。
思想的には転倒させるべき価値あるものとしてもみなされていない。
大衆的心情のレベルではそうなのだが国家政治的には重要な要となっている。
その落差が不可解だな。
ニーチェはモーツアルトが好きなんだ。
動物的な面に力があるんであって、理性自体には力はないだろう。
純粋に理性的人間がいたとしたら、彼が何もできないことが明らかになるだろういかに優れた理性も、動物的な面といういわば燃料がなければ、働かないのだ。
純粋に理性的な人間なんて存在不可能なので
行動できるとか
行動できないとか
関係ないと思うが。
理性も力の一部分であると思う
32 :
金曜日:2007/09/22(土) 22:44:01 0
『モーツアルトの対し方は(べトーベンの場合とは全く異なっている。)
彼の霊感は言葉を聞くときにではなく・・・彼はイタリアにいないときでさえ
イタリアを夢みていた。』(遺稿より)
『ふるきよき時代は去ってしまった。その時代はモーツアルトの中に歌い終わってしまった』
(善悪の彼岸)
そのほかモーツアルトに関しての文は他にもいろいろと散見できる。
ニーチェは終生モーツアルトへの愛惜のような感情を抱いていたようだ。
また南国(イタリア的なもの)への憧れににたものをふくめて。
ニーチェの美学というものがひとことではいえないが
ニーチェ自身多くの詩作品と作曲作品(ワーグナーに出会う前には作曲家も目指していたらしい)もある。
前スレにニーチェのCDがあるとかカキコがあったけど
それらの作品をとおしてニーチェの美学をしることができる。
彼の美学は鑑賞者の立場より創作者の立場の美学を内に抱えていたということになるのかな。
そして目人間か耳人間かというと耳人間かな
作曲はどうか知らんが演奏に関しては意図は酷い障害になる。
衝動的であるにせよ冷静であるにせよ、
我を忘れていなければならない。
演奏とはいえ、主体的行為であってはならない。
非人称的事態であらねばならない。
既に演奏からして、自滅的なのだ。苦悩なのだ。
いわば表現は死体である。
現実も表現である。
表現は解釈によって生きて存在しているように思われうるにすぎない。
現実は非人称的であり人称的に解釈される。
果たして非人称的なるものが存在しているのか、 人称的なるものが存在しているのか?
無論、普通、人称的なるものを存在しているというのではあるが、実際現実が非人称的であってみれば(※)、いずれが真実なのだというべきであろうか。
人をものさしにして万物を測るのが便利なんではあろうが。
※人間とはいえ女は現実的であり非人称的である。
我々が女を上手に演奏するには我を忘れていなければならないというのがその一つの論拠である。
女が現実的であることは女自身が自尊心を抱きつつ証言しているところでもある。
受験国語のなどでは一解釈を正しい解答として押し付けられ受け入れねばならぬものがある。
これは性器を押し付けられ受け入れるようなことなのであり、一種の性行為である。
教えてあげるなどと銘打った強姦に対してどれだけ免疫や欲求をもっているかということは現実的に重要なことである。
早期教育や塾通いなどは何よりその種の免疫を育むという意味で重要だろう。
哲学はその種の免疫を育むワクチンでもある。
「我々」というのは半人称代名詞というところだろうな。
38 :
考える名無しさん:2007/09/24(月) 01:05:32 0
「物を持つことの少ないものは、それだけ心奪われることが少ない。ささやかな貧しさは讃えられるべきかな!」
この前、借金いっぱいできて破産宣告するとき、財産「=物」がなんもなかったから、あっさり免責おちて借金が
チャラになった。ありがとよ。ニーチェ。
こないだ下痢がひどかった。
あとから腐ったパンを食べたことが判明。
腐ったパンが原因で僕の肉体は苦しみ、その苦しみが精神に「苦痛してるから解決しなさい!」
と言ってきた。でもがいて、トイレに行きまくった時にふと「腐ったパン」のことが
頭に浮かんだ。今回の苦痛はこの腐ったパンのおかげだと「解釈」した。
(食べたときはもちろん腐っていたかなんて知らない。)
恐らく、身体が精神を包括した「大きな理性」というツァラトゥストラの考えは
ある意味というか非常に的を得た考え方だと思う。
不細工な女でも、抱いたら勃起した経験はないだろうか?
「私の背後の本物の己が潜んでいる・・・」
これにはなっとく。
恐らく、身体「本物の己」があれこれ勝手に衝動起して、それを感じた精神が
ああだこうだ理屈こねてるだけで、やっぱり「私の背後に本物の己が潜んでいる」っていう考え方は
的を得ている。
それにしても、その本物の己ってのは自由にならないのかね?
やっぱ「私の支配者」だから無理か・・・
以上。ニーチェ読んでの感想。
それよりもいつ「大いなる正午はくるのかな?」
39 :
考える名無しさん:2007/09/24(月) 01:27:37 O
>>38 自由になるよ。
享楽する己に、更なる享楽を教える事だ。
己はその為なら、どんな忍耐もするかもよ。
それを己に教えるのが思惟の役目だ。
純潔
――またあの男たちを見るがいい。彼らの目が語っている。――彼らはこの地上で、
女と寝るよりマシな事は何も知らないのだ。
彼らの魂の底には泥が溜まっている。しかもその泥に精神があるとなると、災いである。
彼らが、せめて動物として完全であるならいいのだが…。だが動物であるためには、無邪気さが
必要なのだ。私は君たちに、君たち自身の官能を殺せと勧めるのではない。私が勧めるのは、
官能の無邪気さだ。
純潔を守ることが困難な者には、純潔を思い切るように勧めるのがいい。純潔が、地獄――即ち
魂の泥と淫蕩――への道とならないように。
私が汚らわしい事について語っているというのか? だが、これは私の語る最悪の事ではない。
“認識”を志す者が、真理の水に入ることを厭うのは、その水(の内容)が浅い時だけであって、
真理が汚らわしいからといって、彼はその中に入ることを厭いはしない。
最近仕事で渋谷にいるので、偶然飛び込んだヘルスでお気に入りを見つけた。
こんな可愛い娘が何故俺のを咥えて口で受けるのか? 恋愛に手数をかけるのが馬鹿馬鹿しく
なるほどであるが、世界はより自由になりつつあるのか、それとも退廃しているのであろうか?
哲学者の解説本ではまず(リアルな)官能などというものは議題に触れないものだが、生の
リアリティを突き詰めるならば『性的』なものも避けては通れない議題ではなかろうか?
初めに断っておくと、ニーチェの理想は結婚について書かれた遺稿集やツァラトゥストラを
読めば大体判るだろう。だから別の視点で書いてみようと思う。
ニーチェが若かりし頃の淫売宿で罹患した梅毒に犯され狂ってしまったというのは今や広く
定説であるが、ただの欲求不満だけで彼が通ったとはいささか信じがたい。
あれだけ多岐に渡って思考した人間がただ無軌道に売春宿に乗り込むだろうか?
シャイな人間ほどありとあらゆる大義名分を片っ端から掻き集めて、自分を論理武装しながら鉄面皮を
装うものではないだろうか? 羞恥に赤らむ頬を正面に向けながら…
ニーチェ=性病プギャーッ!!とか喜んでいる奴にコミュニケーション不全のコンプレックスが
全然無いとは私には思えない。彼の琴線が何処に在るかを思い遣れば自ずと判ることだ。
「この世界には有用で、同時に美しいものがある。例えば、女性の乳房のように」
こういうのをシレッと書くニーチェに思わずほくそえむ男性諸氏も沢山いるだろうと思う。
ガリ勉君なだけではこうもいくまい。
Fカップの二十歳の肉は掌をはみ出して指に余る。柔らかに指の間で形を変える乳房をただ美しいと感ずる。
絶妙な舌使いがコリコリと私を削る。肉感的な湿度。噛み殺した吐息。熱を含んだ沈黙…
嗚呼、これは背徳的なのではなかろうか? いや、きっと背徳的なのだろう。鏡に映し出される
獣たちが肢体を伸ばしてうす暗がりに浮んでいる。しかし、背徳的とはいったい何なのだろうか?
ツァラトゥストラの中で蝶の比喩で描かれる物は何かを想像してみた。
「重さの霊を殺すのは、笑いだ」
私はフィリピンパブのボーイのバイトをしていたことがある。彼女たちは底抜けに陽気で冗談が
好きだった。実家の極貧に対する仕送り、嫌な客の指入れ、蛸部屋の住居、ホームシックに
罹って泣き出す朝。現実は重く、狭く、硬い。生きることは容易では無い。
でも、ふざけあって笑いあうその瞬間は、生が確かに脈動していると感じられる瞬間であった。
弾けるような笑いは、私の憂悶を癒してくれた。
悲哀と憐憫に押しつぶされるような
孤独と寂寥にくるまれるような
そんなやわな心で無く
42 :
考える名無しさん:2007/09/25(火) 01:34:43 O
売春婦と非売春婦の違いは何だろうか。
売春婦とレイプの被害者の違いはどうだろう?
買春者とレイプ犯の違いは?
この両者の類似性の方は女に対する敵意だろうか?
売春婦自身もこの点では同様なのであり、
奇妙な快活さは、その破壊的欲望に由来する期待感や満足感ではないか?
こりゃ女性に対する敵意、反感、不満に由来する一種の実践フェミニズムか。
44 :
金曜日:2007/09/25(火) 06:27:13 0
>>41 >ニーチェが若かりし頃の淫売宿で罹患した梅毒に犯され狂ってしまったというのは今や広く
>定説であるが
定説ということではないとおもいますが
どのニーチェ本にそんなことが書いてあるのですか
一度だけ売春宿に行きピアノを弾いたらしいが。
45 :
考える名無しさん:2007/09/25(火) 18:40:46 0
ニーチェのツァラトゥストラを10代の頃から、2年おきくらいに集中して
読むときがあり、今でも思い出したように読みふける。
ツァラトゥストラは不思議な本だね。
読んでもさっぱりわからなかったことが、最近読んでなるほどと思えたり、
ある突然、彼の箴言が思い浮かんだりと・・・
昔バイト先でキリスト教信者がいた。
まわりには知られていなかったが、色々と話すうちに彼がどういった
心理(心情)からキリスト教にしがみついているのかが、彼の口を通して
わかった。
「利己的な人間や権力を握っている人間はいずれ滅びて、私達には天国がくる・・」と
彼は信じていた。(ルサンチマンだね。)
この時、「毒クモタランテラ」を思い出した。
「傷つけられた自負、抑圧された嫉妬、おそらくは諸君の父祖の自負であり、嫉妬であったものが、
諸君の中から、復讐の炎となり、狂気となってほとばしり出てくるのだ!
父親が黙って押隠していたものが、息子になると口をききだす。わたしはしばしば息子が、
暴露された父親の秘密であるのを見た。」
以下の句でどんな人だったか知らないが、フスという宗教家を思い出した。
「その昔、最もたくみに世界を誹謗し、異端者を火あぶりにした者たちも、ほかならぬこの毒ぐもの一族であった。」
46 :
金曜日:2007/09/25(火) 23:34:10 0
ニーチェの病気については梅毒性の非定型型進行麻痺とそれに内因性の分裂気質や躁鬱質の合併
というところが妥当かな。
ニーチェの晩年の文章をよめばだいたい見当がつきます。
そして
ハイデッカーもヤスパースもつまるどころ
超人も永劫回帰についてはそれらは病的な妄想とは断定はしないものの
殺してしまった神に対するある種の代替物という見方をとっているのではないかと思う。
それは一方の見方として成立することは可能ですが
そこに重心をおくことで彼らのニーチェ理解に限界を与えていると思う。
ハイデッカーとヤスパースのニーチェ理解がどれだけニーチェ思想の反解釈という
悪影響をその後の哲学などに影響を与えたかはその影響が現在にまで及んでいる
ことをみればわかる。
これもいはば歴史における悪循環であり必然であり宿命かなと僕なんかは思う。
早君も言っていたとおり「簡単に理解されてたまるか」だな。
ところで
六百六十六さんはニーチェの何に興味があるのかな。
君自身の性向にあわせてニーチェ読解をしてないか。
まあそれは君の自由とういうものだが。
僕は君の性衝動や性癖に興味はないのだが・・・。
47 :
考える名無しさん:2007/09/28(金) 23:28:06 0
「この人を見よ」を読んでみました。
確かに強烈で内面に迫りくる一句一句があり、読み応えもあり、
もちろんわからないところもあった。
特に印象を受けたのが、何か伝えようとして書いている最中に枝分かれして
話が途切れている部分が多々見受けられる。
(原稿の編集やカットも含まれていると考えても不自然。)
僕らでも若干興奮気味になったり、物思いにふけったりして、
話の脈絡から飛んだ内容に話が移ったり、突然前触れもなく話題が切り替わる
場合がある。
だからと言ってニーチェの思想の深さと斬新さはまったく廃るものではない。
ニーチェに関する本だの、簡単な説明のサイトなどでいたずらに偏見を蓄えた
ニーチェを論ずる人が多いようだけど、実際にじっくり本家を読んでみて判断するのがいい。
危険な思想家?とは思わない。
ほんと「簡単に理解されてたまるか?」って気持ちになるわ。
ニーチェの解説書で良いのはどれでしょうか。
おおすぎてよくわからないです。
49 :
考える名無しさん:2007/09/30(日) 03:23:11 0
>>48 解説書よりニーチェの著作を直接読んだ方がいいと思います。
解説書はニーチェ理解を助けるものもあるかもしれないけど、
けっこう凡庸な解釈で終わってるのも多い。
やはり「ツァラトゥストラはこういった」
「善悪の彼岸」
「道徳の系譜学」などの書店で売られているものから、
あとは他の本を探して読んでみるといい。
特に書店では見かけない「人間的なあまりにも人間的な」
「反時代的考察」なんかは特に深くて読んだ当初は熱中しました。
50 :
考える名無しさん:2007/09/30(日) 03:25:06 0
怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。
長いあいだ、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。
(ニーチェ)
これはニーチェのどの作品に入っている文なのでしょうか?
岡本太郎とサルバドール・ダリ
大親友でしたよね
周囲の人達は二人が何を話しているのか全く理解できなかったそうです
ダリに言いよって来た同じ芸術家
同性愛趣味の全く興味のないダリは冷たくあしらうどころか、殺意を抱いた
ようですね
ニーチェとまったく関係のない書き込みスマソ
52 :
考える名無しさん:2007/09/30(日) 03:50:45 0
ニーチェの言うような真実を毛嫌いする奴がいるんだけどね、そいつ
たいして考えてもないくせにニーチェの全生涯を否定するようなこと
言いやがったの。真実でも生きる希望を無くすような言葉は死ぬほど
嫌いだって。じゃあ死ねよ、と思ったんだけどね。
そいつどうしたらいいかなあ
53 :
考える名無しさん:2007/09/30(日) 03:56:43 0
>>50 どの作品かはわからないけど、いい言葉だよな。
俺もよく帰ってこれなくなるもん。
いまだに抜け出し方がわからないから怪物とは戦わないようにしてる
>50
「ツァラトゥストラ」だよ
>>54 知ったかは止めるがいい。
俺が許しても救世主チンポが許さんぞ。
>>50 善悪の彼岸だよ。
しかし
>>50は糞訳だな。どこの馬の骨訳者なのかと。
そうとう重症ですな
そのようですな。
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
ニーチェ 「善悪の彼岸」
うむ、色気があるな。
プロには色気が欠かせないのだ。
60 :
考える名無しさん:2007/09/30(日) 13:55:01 0
>>51 河出書房新社の『だれでもわかるニーチェ』が出所ですね。
岡本太郎の文章もあるしね。
>>48 入門書的な意味では
ナツメ社の『図解雑学 ニーチェ』を推奨。
amazonのレビューでも高評価を得ています。
因みに絶版なので古本屋かオークションで探してみてください
64 :
考える名無しさん:2007/10/04(木) 14:17:19 0
ニーチェって過去の偉大な哲学者の口真似?
かもね
だけど大好き
まあニーチェに関しての論評は芸術(絵画やクラシック)などと関係してい
ることは事実だと理解しました
うれしい
このスレ立て人てどんな方なの?
ニーチェって魅力ありますよね
なんでニーチェは最終的にワーグナーと決裂したのでしょうか?
その後、ナチスドイツのヒトラーが世界の超人になろうとした気持ちも理解
できなくもないのですが(だって当時の独の時代背景などを考慮したら)
わしは頭が悪いけ〜、その辺がようわからんのじゃ〜
小林秀雄の「モーツァルト」が理解できた方にレスしていただきたいのじゃが?
まあ時間をかけて読めばなんとかってのが同じ解答なんだろうが
この人って
ほんとうにモーツァルトを理解しているつもりだったんだろうか?
疑問
67 :
考える名無しさん:2007/10/05(金) 04:56:40 0
『集団生活につながるよろこびは、「わたし」につながるよろこびより、古い。
良心のやましさがない、とは、集団生活に従うという意味である限り、
「わたし」というのは、良心的にやましい、ということになる。』---千の目標と一つの目標
集団の中で個を埋没してしまう苦悩する「私」というものは、集団生活に適応させるべく意志と、
適応したくない本能との板ばさみを経験するもので、そういう状態の「わたし」はまだ苦痛を残している・・・
ということか。そこを忘却した「わたし」のほうは確かに集団生活の中で感じる疚しさの後だしね。
しかし拾い集めればニーチェの言葉って随分深い。
かめばかむほど味が出るスルメみたいだな。
68 :
金曜日:2007/10/05(金) 13:52:37 0
小林秀雄や朔太郎のニーチェへの文は「誰でもわかるニーチェ」河出書房にのってるので
参考になるね。
朔太郎のニーチェへの傾倒ぶりはわかるとしても
小林秀雄はニーチェについては冷淡だな。
おまけに当時の文献の不備からか誤解もある。
ニーチェがベートーベンにひかれていたとしているのは当たっているにしても
モーツアルトのことを言及していない。
現在ではベートーベンよりモーツアルトへの傾倒のほうが勝っていたというのが定説です。
ニーチェの人生は大損してしまいました
70 :
X:2007/10/06(土) 03:49:34 0
「ニイチェだけに限らない、俺はすべての強力な思想家の表現のうちに、
しばしば、人の思索はもうこれ以上登る事が出来まいと思われるような頂を
みつける。この頂を持っていない思想家は俺には読むに堪えない。
頂まで登りつめた言葉は、そこでほとんど意味を失うかと思われる程震えている。
絶望の表現ではないが絶望的に緊張している。無意味ではないが絶えず動揺して
意味を固定し難い。俺はこういう極限をさまようていの言葉に出会うごとに、
譬えようのない感動を受けるのだが、俺にはこの感動を説明することが出来ない。
だがこの感動が俺の勝手な夢だとは又どうしても思えない。」(『Xへの手紙』)
ほんと、この一節、語り口以外は、美しい。美しいだけでなく、意味的にも素晴らしい。
秀雄ちゃんの、詩が絡みついた哲学的散文、すごく素敵で御座居升。
71 :
考える名無しさん:2007/10/10(水) 19:47:21 0
須藤元気のレベル
革命家チェ・ゲバラの南米旅行記と同じルートをたどるノンフィクション。
限定200枚の整理券は、発売前夜に徹夜組が現れ、ネットオークションでは
3万円に高騰する人気ぶり。須藤は旅を通じ「本当の戦いは、自分の内側にある。
自分のありのままでいられる人が世界最強なんじゃないかな」と悟ったという。
今後は執筆業を中心に活動する。
これは名言だ。浅田や副島や宮台や東に言えるセリフではない。
須藤のほうがずっと若いのに
ソクラテス、ヘーゲル、ニーチェのようなレベルでも、
ここまでは行かなかったのではないか?
須藤が悟ったことは、これまでの哲学者が見落としていた心理かも?
自分に正直に生きることがどれだけ素晴らしいかなんて格言でなくともわかっとるわい
73 :
考える名無しさん:2007/10/10(水) 21:08:10 0
しかしそれをニーチェがわかってなかった件
高校の教科書でニーチェ好きになったのに
ツァラトゥストラ読んだら女の扱い酷くてがっかり(´・ω・)
女に囲まれた生活してれば女にも飽き飽きするだろうよ
体験したことないからどうなんかしらんが
76 :
考える名無しさん:2007/10/10(水) 23:58:11 0
おまいら言語を使ってる時点で真理がないことに気づかないか。言語と痛みの世界はどこにも接点はないぞ
77 :
考える名無しさん:2007/10/11(木) 00:39:54 0
その痛みは阿弥陀様にしか分らない。
痛みを表現するのが言葉
79 :
考える名無しさん:2007/10/11(木) 00:52:03 0
↓シェイクスピアになったつもりで痛みを表現汁
80 :
考える名無しさん:2007/10/11(木) 01:41:46 0
ピュッピュウ
81 :
考える名無しさん:2007/10/11(木) 01:57:36 0
ああ! あの娘が本気で俺を愛していたなんて・・・・
help !!!
83 :
考える名無しさん:2007/10/11(木) 03:17:46 O
上はすべて
かってここにきたことのある
ひとりの自演。
そうだね
誰だかバレてる
みんな
トイレの落書きみたいになってきたな。
ニーチェが泣くよ
いや笑うか
2ちゃん全体がこうだから仕方ないのか
こうして
全ては回帰するのだ
(だって、悲しくも、有刺鉄線のような神経には、高圧電流が、血走っているんです)
>>84>>85 勝手にそうやって疑うの、やめてくださらない?
自演なんてしたことなくてよ。
敢えて白状するなら、このスレでしたもう来ないていう約束、
破ってるのは今3回目で、X氏と
>>87は同一人物でしょうね。
ニーチェの文体に関係ある偉人の美しい言葉を引用するのは
トイレの落書じゃないですよね。
せっかく約束やぶって書き込むんだからついでに宣伝。
あんたのこと疑ってやしない、っていわれても、
疑われたと被害妄想する振りしてついでに容赦なく宣伝しにくるし、
ニーチェ大好きだからニーチェスレたまに見てるし、
ニーチェスレのためにも、お願いだから早に関することは禁句にして頂戴。
破廉恥や道化を装う人間がどれほど神経質か、知っといて。
ほんとイラっときて書き込みたくなるの。
揶揄したいなら>>9-
>>15とかの文章に批評して下さい。
文章ならいくらでも晒して差し上げ枡。
http://13hp.jp/?id=beatrice 短編小説、ショートショート、詩、論文。哲学、神話、文学、芸術。
ニーチェ好きの早のサイトです★よろしくね
89 :
私に触ってもっと奥まで:2007/10/11(木) 10:46:32 0
神は死なずニーチェは死んだ
91 :
考える名無しさん:2007/10/12(金) 09:02:28 O
まともな論理構築もなく、過激ないいきりに終始するニーチェ
ニーチェの話は文学板でやれ
92 :
金曜日:2007/10/15(月) 08:44:57 0
1871年にはブランキは獄中で『天体における永遠』を書く。
宇宙的な永劫回帰を論じたものだが、
これはニーチェが永劫回帰の思想を受胎するのが1981年だから10年前ということになる。
こうした背景には新カント派の思想やランゲの唯物史論があったのだろう。
93 :
金曜日:2007/10/15(月) 08:46:42 0
訂正
1881年の間違い。ついでに
ランゲはニーチェにも多大な影響をあたえているらしい。
>>68>>92>>93 う〜ん
それで金曜日君はどう思う?
正直(自分もだけど)ニーチェ研究者達って、ある意味、変人だと思わないか!!
あ!
スマソ(こんな書き方で)
自分も変人ですからね。
あ!
すんません
オラは農業しとる小作人じゃけ〜
よう、わからんの?
あいつらホンマにニーチェを理解しとるんじゃろうか?
わからんの〜
わしゃ〜小作人じゃけのう
97 :
金曜日:2007/10/15(月) 21:46:38 0
ブランキもニーチェも変人なら
それに興味をもつ僕も変人になるのかも
しかし思うに永劫回帰はニーチェの唯一無二のオリジナルというふうに受け取るよりも
我々人間が普通に考える<妄想>でありながら<思想>として
も割合親しく届きうる範囲にあるものではないかと最近おもうね。
二〇〇年前にラプラスという人が宇宙の未来を計算可能の視野にいれて
<ラプラスの悪魔>とこわがられたように
当時の宇宙論等の科学の知識に興味があれば
当時の発想の豊かな青年なら永劫回帰を思い浮かべたことは結構あるかなと思う。
後のガモフの宇宙論だって永劫回帰を思いつくことも可能だ。
現在では永劫回帰の説は宇宙好きの青年にはもっと受け入れやすい。
さてここからが問題。
私たちひとりひとりにとって永劫回帰はどのように受け入れられるべきか。
そんなの関係ナイ?
『唯物論史』だね。
どこかで新訳で出してくれないかな。
白水社に頼むか。
この本は初期ニーチェ研究には欠かせない。
いやニーチェにとっては後期も初期も
カンケイナイ?
99 :
考える名無しさん:2007/10/16(火) 18:39:56 0
私はおしゃべりです。
かく語りきこんな句見つけた。
「人間達といるのが難しいのは、口をきかないでいるのが難しいからだ。
ことにおしゃべりな者にとっては!」
「そうだ。我々が死なずにいるのは生きることに慣れたからではない。
愛することになれたからだ・・・」
100 :
高校3年生:2007/10/16(火) 19:51:06 0
半年ほど前に一度だけ顔を出したことがある高校生です。
上にも同じ類のがいたみたいですが・・・『納得』を得て、一刻も早く自分を受験に適した機械人間にするために再びここに参りました。
自分の無知の度合いを許していただくために、自分が読んだ本を書いておきます。
ニーチェ『ツァラトゥストラ』『この人を見よ』;ショーペンハウエル『著作と文体(他3篇)』『自殺について(他)』:すべて角川文庫
読んだのは部活をやめてからでした。しかし私の思想は、読むまでもなく、同じ高みに達していたのだ、と思っています。
この生意気さと論理の稚拙さに「致命的な矢」を激してくれる方がいることを望みます・・・以下文体変わって・・・
>>27 「キリスト教を虚構とみなしそれに対抗するには永劫回帰という虚構を持ち出すしかなかった。
しかしニーチェ自身にとっては永劫回帰は虚構としての意識はなくそれは真理だという確信でもあった。」
>>Wikipedia「永劫回帰」抜粋
「「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、
現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。」
まさに「学者」の考え――実体験に基づかない賤民の推測――
思想者が、その誇りをかけて、自分のための「隣人愛」ではない他者への愛、送り与える徳、をもって説くことが―
―私が所属した高校のサークルは、送り与える徳に満ち、さらにそれが引き継がれる、素晴らしい唯一無二の環境であった―
―そんなちんけな、現実感のないものだと思うのか!侮辱しやがって!(と言っているのは、自分が同輩に侮辱されているから。)
永劫回帰は―すでにツァラトゥストラの第2部、「賤民」で片鱗が示されている!読み直した結果、そこが初めての場所だと感じた。
そう、「感じた」のである。オカルト的な『感じた』の意味だと取り違えてくれるな―むしろ共鳴である。
(1/3)
101 :
高校3年生:2007/10/16(火) 19:51:43 0
即物的論理と構造類似性に頼った論で申し訳ありませんが、中高一貫校にあるわが部では、
いわゆるお受験ママに育てられたクソガキをどうにかして4年で人格者―もちろん道徳者ではなく、むしろ超人に近く―にShapeする。
私のようなたかが高校生が知っているこの狭い世界では、ハウツー本に載っているような「目的意識」の真の価値は、
私と、私の部のトップを経験したOBにしか理解されていないようである。
教育は積分に似ている。微分形式f(x)dxだけからその不定積分の値がわかるのは―f(x)dx自体が0であるときだけである。
無限に小さいものを無限に足し合わせる!われわれの無意識が引き起こすわれわれの動作の、
「どの微小部分が」、「どれほどそしてどのように」、後輩の精神の成長にかかわるか?
これはアシモフの『アイ・ロボット』のスーパーコンピュータがなければ理解することは不可能だ。
最高学年の行動が引き起こす後輩の精神のブレは、その学年が引退するまでの一年の間に、無限に不可思議に増幅する。
「そこで」、向上への渇望―Vectorは数学のすべてである!―のみを重視し、
「現時点」「未来」「過去」の、または「並列する個々」の思想―座標―の評価には意味を見出さず、「変化を重視する。」
私の部で学年ごとに必要とされるいわゆる精神のLevelは、(実を言うと一般の学問にもそれが言えるのではないかと疑っている)変化、
「Δ(delta)」、を大きくすること―つまりインパクトを大きくすること―のために、部に備わった観念である。(概念ではない曖昧な物である。)
見よ!ツァラトゥストラは言う、「なんとしたことだ、生はこの賤民をも必要とするのか?」と・・・
中学一年生は、次の年度のトップである中学三年生に考えさせるような高次の事柄に―感知することすら許してはならない、そして
その、森の動物たちと同じく快活な、精神の未熟さが、幾分最高学年を助けてくれる。
(心配されずとも、私の部のOBは全てショウペンハウエルの『思索』を理解している。中三には何も伝えない。
われわれはただ、題を与えて沈黙の中で思考を強要するような、「楽しい尋問」をするだけである。)
(2/3)
102 :
高校3年生:2007/10/16(火) 19:53:11 0
愚かさ、全ての犯された間違い、というのは、しばしば避けようとするものである。特に自らの子や後輩などについてはそうである。
なぜ1章に「子供と結婚」があるかを考えよ!
つまりは、「失敗は成功の元」は、ただ経験則を重視せよということを指し示すだけのものではなかったのだ!
全ての生長に、生に、実行に、必然的なもの!
失敗は、それがどれほどの苦しみを生んだものであっても、教育において、 「再実行」 さ 「せる」 べきもの、なのである!
他者愛(隣人愛ではない!)、送り与える徳を持った人間にとって、これがどれほどつらいことか!
人はしばしばそれをためらう!「本当にしてよいのか」「いくら他人のためだからって」などの、
「たとえキリスト教徒でなくても、どんな民族においても人間一般が持っている倫理観の全て」が、聖なる行動を抑止する!
これが「悪意こそが重要とされるべきものなのである」という命題の発展であることに誰も気がつかなかったのではないか!?
いや、皆は気づいていたのか?あ、そうでしたか、ではすみません・・・
さて。頭を冷やして。
私の発言は暴走か!否か!(笑)
・・・これが皆さんに意見を伺いたい所(こと)であります。
(3/3)
本当の悪役は天才にしかなれない
その天才も悲痛な想いで悪を演じ続けるものだ
本当の、って何ですか
理想的な、って意味ですか
105 :
金曜日:2007/10/16(火) 22:01:45 0
>>Wikipedia「永劫回帰」抜粋
「「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、
現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。」
ウイルペデイアの引用はたしかにそうであるが
ニーチェの遺稿でもそのような記述があることは確かだが
ここに多くの誤解釈もうまれる。
当時の宇宙論からの知識でニーチェが説明したのだがここに限界もあった。
現代の宇宙論で解釈しなおすと
宇宙の大きさや物質の総体は有限であり
時間についても宇宙が発生と終焉を繰り返すことから有限とみられている。
永劫回帰とは現代的解釈をするなら
宇宙が発生から終焉までを無限回数同一のものとして繰り返すということになるね。
宇宙という巨視的なものから
君の高校生活までもね。
このスレのわたしのカキコもすべて
回帰することになる。
高校生は早君だけとおもっていたけど
107 :
考える名無しさん:2007/10/17(水) 06:39:17 0
俺も俺もー!
我々人類は燭光に誘われ這い拠る羽虫のような存在かもしれんね
その先にある結末も知らずに
永劫回帰ニヒリズム虚無主義オカルト神は死んだ権力への意思&善悪の彼岸&ツァラステゥトラは聰語れリ
地球上では何度も何度も文明の喪失を経験しているのと同じで
宇宙にもそのような歴史が連綿と存在するんでしょうね
人類にそんなことは知る由もありません
111 :
考える名無しさん:2007/10/18(木) 00:58:38 0
112 :
考える名無しさん:2007/10/19(金) 05:56:16 0
「また親切気がありそうなふうを見せることもある。だが、それはいつも臆病者の利口さであった。そうだ、臆病者は利口なものだ!」---市場の蝿
基本的に賤民はこういうタイプが多い。
>>108 もっとも、昆虫は人間にとっての不可視光線を見ているだけだがね
紫外線のみを当てにしているが故に、太陽と蛍光灯の区別が付かない
人間は幾分かそれを分別している
最近、清水真木(著)『知の教科書 ニーチェ』を読んでスゴイと思ったんだけど、みなさん
はどう思われる?
115 :
金曜日:2007/10/19(金) 22:46:54 0
清水真木さんについては論文「『悲劇の誕生』における論理的ソクラテス主義」とかいうのを読んだことあるけど
あまり感心しなかった。『岐路に立つニーチェ』は興味があるのでいつか読んでみたい。
すごいというのなら『知の教科書ニーチェ』は読んでみるかな。
僕は以前に三富明さんの本を紹介したことがあるけど
今度も紹介したい本がある。
湯山光俊『はじめて読むニーチェ』羊泉社
宮原浩二郎『賢い大人になる哲学』PHP研究所 の2冊だ。
ニーチェ本の書き手としては若い世代にあたり
いわゆる研究書の類とは違い入門的に気安く読める本だ。
僕はいろいろ批判したい部分もあるけど
永劫回帰についてなどニーチェの解釈とともに
ところどころ自分の考えをとりいれて説明している。
これはいままでのニーチェ本になかった傾向だと思う。
なにか新しいことの予感が少しするのだな。
116 :
金曜日:2007/10/22(月) 00:26:00 0
清水真木『知の教科書ーニーチェ』の感想です。
実は所蔵していたのだけどつまらなさそうなので積読してましたが
読んで改めてつまらないとおもったね。
著者は西尾見幹二をはじめ多くのニーチェ本をよんだらしく
まさにあらゆるニーチェ本からの寄せ集めで構成されたニーチェ入門書という感じをうけたね。
そして安易な曲解もみられたね。
わかりやすいところでいうと
たとえば永劫回帰の解説のところで
著者は
「永劫回帰はあらゆることがすでに無限回に
わたって繰り返し生起しているから、わたしたちがこれから試みるすべてのことの結果が予め決定されていること、
したがって努力や希望や責任がすべて無駄であり、生存が無意味で苦痛に満ちたものであることの可能性を暗示する、
認識の実験のために産出されたペシミスティックな仮説ないし妄想にすぎません。」P96
この論理でいくと神の存在だって仮説であり妄想ということになりかねない。
僕はべつに神の存在は信じているほうではないが
キリスト教の信者にたいして妄想だとか神は仮設だという短絡な無神経な言い方はしないね。
神の存在を否定するにしても信仰をもっている人に対するときはそれなりの敬意をはらうつもりだけどね。
ニーチェにとって永劫回帰は仮説ではなく決して証明はできないが事実としての真実だと信じていたと思うね。
またツアラツストラなら努力や希望が無駄とは決して言わないよ。彼はそれを克服したのではないかね。
ヨーロッパ人がニーチェに震かんとするのは信仰についてよく理解しているからなんだ。
神を信じていなくとも信じることの意味を知っているからなんだ。そこでの対比の意味で
永劫回帰が震かんとするものとして把握されるのだ。
清水は何にもわかってないな。読むだけ無駄だった。
恩師渡辺二郎も苦笑しているのではないか。
まあニーチ本のなかでは最悪の部類に属するほうだね。
よくわからないけど清水ちゃんは
永劫回帰はあり得ないし虚構だとおもっているのでしょ
それでいいじゃん
金さんはカッカしすぎ
私も仮説だとおもう
ニーチェのワナです
119 :
考える名無しさん:2007/10/23(火) 02:11:52 O
宗教とはニーチェにとって結局どういうものだったのか。
徹底的にキリスト教を批判したニーチェだが、彼にもし幼い頃宗教に関わりなかったらニーチェは生まれなかったのではないか。
しかし、ニーチェがいなかったら、いずれニーチェに変わる誰かキリスト教の問題点を指摘しただろう。
ニーチェ事態が優秀なのではなく、ニーチェの思想が優れている。思想は流れの中で創造されるもの。
だから歴史の流れが変わる時にニーチェを越える者が現れる。
学力は白痴さ、動物的機械性に比例するというもはや私的には手遅れの認識や競争率の低下などからして、
早は京大合格するのかもしれんね。
健闘を祈っている。結果報告よろしくね。
だったらなんで動物は学力が低いのかという話だが。
動物はすぐに完成してしまうが人間は例外的にいつまでも未完成だからだろう。
動物は学力が高すぎるのですぐに身につけてしまい学力が無効になってしまう、CDーROMのようなものだ。
人間は学力が低いおかげでかえっていつまでも柔軟性と学力の有効性を維持することができる。
性能の低いCDーRAMのようなものだ。
しかし大抵の人間、特に幼児以外はあまりにも学力が低すぎる。
もうちょっと動物化すべきなんだろう。
人間らしさときたら不完全性なんだろうな。
それが可能性であるし自由でもあるんだろうが。
人間らしい人間というのは不完全性の高い人間だわな。
人間は病気だわ。
知能というのは病気の進行具合、生物学的不完全性に比例して増大する。
知能の向上は苦しみの向上に伴うものである。
恐るべき知性の持ち主は恐るべき苦しみに苛まれている。間違いない。
早君は学部は何にするのだろうか。
文化系だと想像するが。合格したら哲学科かな
受験では数学とかだいじょうぶかな
浪人してこの板に張り付かないでほしいな
もうひとりの高校生は受験はまだなのか
ここには来ないのかな
学力の高さは可能性の低さ、不自由、創造性の低さではある。
幸福を重視するならば、機械的動物的必然性に身をまかすべきである。
幸福を捨ててでも破壊と創作に身をやつしたいという人もわりといるだろうが、
半神半獣というような奇怪なやつでないとできない。
白痴でありながら賢者でなければならない。
ニーチェっていうのはそんな奴の一人だ。
宇多田ヒカルさんも、まあそんなだなw 私見では早のはその真似事に見えるわけだがどうなんだろう。
早は平均的な女の視点にある気がするので、
学力は平均より少し高く、知性は少し低いんだと思う。
異常な経験は積んでるようなので、それが強みであり弱みなのだと思うがどうだろう?
国語の読解力に問題がありそうだ
高度な教育を身に着けるというのはある意味で教科書通りの人間になるということだから
そこんとこ上手く付き合いながら自分の持つ、あらゆるものの基準を忘れないで欲しいと思う
132 :
♪:2007/10/23(火) 21:17:02 0
>>128 ミュージシャンでいえば、ひどい苦悩の中で表現したというような半獣神的な感じなのは、
カートとかジョナサンとかだと思います。
偏頭痛、眼病、胃痛、不眠、失恋、孤独な境遇などが揃ったなか、
あちこちを放浪しながら一人で哲学をしたニーチェは、とにかく凄い。
精神的な苦痛ていうのはやってきたら実際普通の人は一方的に打ちひしがれるもんで、
その中で何かを創造しようするのは、並大抵の精神力じゃ無理なことだと思う。
>>129>>130 そうういうふうに書かれていると実際を答えたくなっちゃうんだけど、
まだ教育を並か並以上に真面目に受けてた中学のときは、
物理や天体の計算問題や空間幾何は灘でも開成でもすらすら解けたけど、
国語は公立中学の定期テストでも満点とれない、
というようなひどく偏った歪な学力でした。
国語無理、隠喩とそれ以外の区別があんまり分からない、本なかなか読めない、
考えてること言葉にできない、ていう感じで、詩人の言葉以外の言葉はもう憎悪したいくらいだったときに、
ニーチェみたいな、
概念とメタファーの等価性、全ての言葉は比喩でしかないということ、
とかを説いてくれる、言語に対して批判的な哲学者がいて、嬉しかったわけですよ。
「音楽と比較すれば言葉による全ての伝達は破廉恥なやり方である。言葉は希薄ならしめ愚昧ならしめる。
言葉は没人間的ならしめる。言葉は凡俗でないものを凡俗にする。」(力への意志810)
たぶん自分以外には読めないような荒唐無稽な言葉でかかれてるかもしれませんが、
http://hp.kutikomi.net/beatrice/?n=column11ニーチェにとってのメタファーについて。
>早は平均的な女の視点にある気がするので、
平均的な男ならまだしも、現代の平均的な女の視点には、
ニーチェなんか眼中を掠めさえしないように思われます(笑)
何度となく嘘ついてるくせに実際とかいったって今更信用されるわけないわな。
普通は嫌か。
確かに普通がいいとはいえ普通の人間では不満だわ。
普通の鳩にでもなりたいもんだ。
プラットフォームでは日々、あの鳩になりたいという数多くの切ない願いが惨たらしく掻き潰されていることだろう。
プラットホームで鳩をみて感傷的になるのは
高校生のナルシストか失業者か詩人。
ニーチェは近眼だったので
路上の鳩なんかには目もくれなかった。
ごめんなさいね。
このスレお気に入りに入れていつも見ちゃってるから♥
139 :
考える名無しさん:2007/10/25(木) 20:08:47 O
ダーウィンの影響
ハートマークテスト→♥
141 :
考える名無しさん:2007/10/25(木) 23:16:09 0
ニーチェがどういう理屈で永劫回帰という思想をうたったのかいまいち分らない
お前らの解釈を聞かせてくれ
先日のNHKで数学の難問のポアンカレ予想の特集をしていたけど
興味深かった。
宇宙のはてにむけてヒモ付のミサイルで発射して帰ってきて
ヒモを無事に回収できたら宇宙は丸いということになるらしい。
そこで飛躍して思ったが
永劫回帰とはすべてのミサイル=アトムが同じところに同じ時に帰還することではないか。
みなさんどう思う。
143 :
金曜日:2007/10/26(金) 02:05:25 0
キリスト教の神に対抗するに永劫回帰を発想したともいえる。
私たちがたとえば思考実験してみればわかるが
永劫回帰を信じるやいなや神という表象が脳裏から消える。
人間精神にとって宗教でもそうだが何かを真に信じるということの王座には
ひとつの椅子しか用意されていない。
人はふたつのものを同時に信じることことができないということだ。
君が何かの信者ならよくわかるはずだ。
また宗教という次元ではなく
神も宗教でなくわたしたちの心の単なる幻想のひとつとして考えて
永劫回帰も宗教としてではなく
ひとつの幻想として考えた場合
神という幻想に対抗できるには永劫回帰という幻想ことになるのかな。
ニーチェの場合神という存在よりも
キリスト教の神をまず殺したかったのでしょう。
毒にも薬にもなる
キリスト教だって
そうじゃないか
宗教は阿片と同じと誰かが言ったけど
養命酒にもヨーグルトにもなる。
>>143 金の意見だとニーチェ=ツアラツストラ
はキリスト教の神は殺した(死んだ)けれど
宇宙神というか永遠なる神自体は存在しているという解釈にもとれるが
ニーチェが死んでも言えなかったこと
『キリストは教会なんぞにおらんわ!!』
恐らくこれに違いない
ニーチェが死んでも言えなかったこと。
「キリスト教の神は死んだが神は存在する」
そう批評する本があるな
今のところは早は若く健全である。
一種の冒険家である。
その現存在の軽やかさ、華麗な浅はかさに耐えかねて敢えて重荷を背負い沈もうとする。
それでいて重い、暗いという。
スポーツは良いものだ。
宇多田は浮きわをつけて下から上を見ている。
早は重りをつけて上から下を見ている。 視線の向きが逆であり、視点の位置も逆である。
なんてやつだ、早はいわゆる健全さ故の悲劇を創作してるわけだ。
実に現実的力の強い人間である。
ニーチェの好意的視線の先にある強力な人々の一人だろう。
この場を借りてこうやって語るのも私のような微力な末人には実に恐ろしい試みなのである。
これからは舌には気をつけたい。
言うまでもなく末人の何よりの美徳、処世術は沈黙することなのであるから。
人間、鳩には到底なれないにしろ馬鹿かせめて冒険家ぐらいにはならんといかんな。
引きこもり的安定志向じゃ弱小さ丸出しだもんな。
しかし根本的に現実的に無力だから冒険もほどほどにしないといかんが。無に帰す。
現実的な無は、沈黙を強いる存在の純粋で絶大な苦である。
なるほど、それは絶句であり絶苦なのだといえる。
もしも永劫回帰するのならだいぶましだ。
永劫の絶苦よりは。
ニーチェは永劫回帰させてくれる慈悲深い神に感謝すべきである。
てか超人って狂人なんだろ。
存在忘却、陶酔の半永久化、王子様お姫様化、実質的にキリスト教とあまり変わらないがより楽観的な思想がニーチェの思想だ。
やっぱり早君が来てるのか
早をからかうもうひとりの高校生か
早君にしては情緒不安定
でも宇多田教信者は早?
早君だいじょうぶか
受験はどうした
この時期こんなカキコして
皆が心配するぜ
金と早は消えろ
>>133 ここに信用されに来てるわけじゃなくて、
自分の頭の中にある考え晒したい、
その考えに対してどう他人は反応するのか批評するのかみたい、
って気持ちでここきてるのに、
そんな事でいちいち突っかかってくるのなんて、
演壇上の演説家にとって聴衆の中の耳の聞こえない人がどう反応するかはどうでもいいのよりもずっとどうでもいい。
演説内容とは関係無いことで何か視覚的に聴衆を刺戟するような動作をしてしまったようなものです。
まあ今の絶望的な現状を慰めるために過去の栄光を思い出してみただけなんだけど。
>>149>>151 生まれてから今まで一度も精神安定したことなくて滅茶苦茶で健全じゃないの。
1週間前も自殺寸前までいって親と言い合って親泣かせたりしてましたw
だからスレ荒らしたり、ニーチェなんか読んだりしちゃうのさ。
>>157 このスレなってからは
>>87以外は名無しでは書き込んでないよ。
もし書き込むときは何か名前入れます。
気まぐれで受験は諦めることにしてみたり、でもまた勉強始めたりで、
最近短編小説でも書いてみようとかおもってもみたけどやっぱ飽きた、みたいな感じでございます。
最近書いた下らなく下品で不潔な短編小説処女作
http://hp.kutikomi.net/beatrice/?n=column5 躁鬱病か神経症かわかりませんがそういう病気慢性的に持ってると安全に生きていけたもんじゃなく、
受験なんて当日と前の2ヶ月くらいの精神状態に懸かってるようなもんです・・・
それじゃぁ。
>>158見てるけど出来るだけ書き込まないようにするね。
160 :
考える名無しさん:2007/10/28(日) 10:24:16 0
工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
早くんお久しぶりー!
宇多田は腐った血の臭いがするが、早はベルサイユの薔薇の香りがする。
私の超越的嗅覚は信用に値する。
早はアタックナンバーワンの香りもする。
ニーチェの陶酔、虚構、力への意志の源である絶大なる苦しみと対照的である。
プラトニックな感もあるので板違いだとはいえないが。
偉大なる弱者ニーチェのキリスト教批判は自己批判である。
自己超越の試みだった。
果たしてそれは自己忘却に終わったのだ。
冒険家は卑小なる強者ともいえる。
彼はそういった強者として永劫に存在したかったのだ。夢見ていた。信じようとした。恐らく不可能だったのだ。益々深淵に落ち込むばかりだった。夢も膨れ上がっていった。
そして夢の世界に包まれて死んでいった。
ヒトラーは超人の最たる者だろう。
とすればニーチェはユダヤ教に匹敵する強力な現実的な思想、宗教を生み出したのだといえるのかもしれない。
その共通の要は合理性と不合理性、思考と信仰、真実と虚構、知性と盲目性の融和統合であると思われる。
ならばニーチェの著作は禁書になってるべきなのだろうか。
禁書にしたら逆に好奇心を刺激するわけではあるが。
永劫回帰は考えてみれば面白い話である。
とりあえず、2ちゃんねらは永遠なり!というのは本当の事ということになるだろう。
美女が人前でこいてしまったという事実があればそれも永遠に繰り返される事実になる。
こうしてあらゆることが必ずや繰り返されるのだとすれば、
どんなに些細なことでも繰り返されるべき世界のその論理的進行に欠かせない大切な鎖の一部分なのであり、
絶対的な意味と価値をもつといえるのだろう。
我が一挙手一投足に世界がかかっているのだといえるようになる。
我がウンコはアトラスのように大地を支えるのだと神妙な面もちで踏ん張ることも滑稽なことではない。
あらゆる現象は恒常性をもち存在というべきものになる。
つまり永遠回帰は自分を超人だと錯視させるような仕掛けなのだ。
これは上記の要を実現にこぎ着ける方便なのだろう。
166 :
147:2007/10/29(月) 02:04:11 0
なんか自分おっそろしい事いったつもりなんだけど
反応ないね
やはりこれって当たり前の認識なわけ?
超人が人間と動物の間に張り渡された橋なんだよこれが。
動物は超超人。動物が大地の意義なんであり、
超人は大地の意義を知り、その力を利用する野人にとどまり、
事実上知性とパワーを兼ね備えた強大な生き物とはいえ、
人間と動物の間を行き来する不安定な生き物なのであんまりいいものではないだろう。
超人を望んだり超人化するよりはペットを飼ったり動物化する方が幸せというものである。
人間に執着しすぎるのが白人だ。
169 :
考える名無しさん:2007/10/29(月) 12:50:46 0
早は池田晶子の代わりにはなりそうもないが、
作家デビューすることにでもなれば手遅れにならない内に写真集も出版しておくことをお勧めしたい。
二度と同じ罪深い過ちが繰り返されてはならないのだよ。
ペルセウス座で燦燦の輝くホームズ彗星、神秘的だこと。
夜空を眺めながらギリシャ神話の世界を頭で思い浮かべて彗星ウォッチングはなかなか
いいもんですな
172 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 02:38:56 0
のだめカンタービレって、永劫回帰の少女コミック版だよね。
千秋真一(下降)と野田恵(上昇)、ハブ(メランコリー)とマングース(切断)って、、。
しらないw
からよくわからないw
174 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 16:04:03 0
永劫回帰の否定的バージョンは回転寿司。
175 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 16:11:10 0
Veoh で nodame みなおしてみたけど、OPの歌詞なんかよくできてるね。
売れたのはエンディングのほうだったけど。
最初みたときは哲学科のブレーンでもつけて描いてんのかと思った。
日本の少女コミックあなどりがたし。
>>174 許せんな、久しく回転寿司なんて食べてないからおなかがへってきたじゃないか
永劫回帰のパロディーはロバ祭り
178 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 18:24:53 0
オオアリクイの饗宴とか。
179 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 18:36:15 0
現音への疑問が解けた。ありがとう。
180 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 20:37:03 0
回転寿司食べたあとはコインランドリーに行こう。
家に着いたら懐かしのゲーム「クルクルランド」に興じる。
トンボのスコップで穴掘って、出た土で埋めなおして
山手線が通り過ぎた風で嬉しいことがあったから、同じ駅で待ち続けて
有機農法にチャレンジしてください
ぷよぷよは難しい。
183 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 21:15:18 0
疑問が解決したと思ったらすでに『天使が通る』p.125にまとまっていた。
184 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 21:18:05 0
トマス・ピンチョンは東京に来たとき、山手線に乗り続けたんだっけ。
185 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 21:22:21 0
ニーチェ研究の現在ってどうなってるの?
ドゥルーズとクロソウスキー以降はフォローしてないんだけど。
ニーチェはツァラトゥストラで超人になることを薦めましたが、
人生が無意味なのだから、超人になることも無意味なはずです
なのになぜニーチェは薦めたんでしょうか?
187 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 21:23:00 0
ジュリアン・ヤングはひどいもんだ。
188 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 21:26:37 0
『ツァラトゥストラ』は「壮大な愚痴」だから、あまり真にうけないようにね。
>>186 ニヒリズムを脱し、不動の生きる意味、大地のごとき生きる意味を体感するためのプラクティスがニーチェの一連の著作だよ。
大地というからには無論、超人は頻繁に我に帰り、
「大地は回っている、回り続けている」
と絶望する。
超人は人間と動物、地獄と地上、死と生を結ぶ蜘蛛の糸である。
190 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 23:32:34 O
ニーチェは何も過酷な事のみを言ったわけでもない。
例えば自分でかかえこむことの出来ない事をかかえるな。
自分の足で踊るには軽い方がいいと。
もう何もないと絶望する者にもまだ足があると。
舞うという字の上にも無とある。
それでも地球は回っているというのは大地自体にその意味の根拠がないことを示している。
無意味に回転し続けていると。
そして人間の地獄がその根拠なのである。
地獄と地上を結ぶ超人は従って大地の意義であるというのは確かなようだ。
ならば動物は大地である。
大地の意味を維持するには地上と共に地獄を要する…
人間でありながら、大地を享受しようとする人間、
すなわち大地の意味に固執する人間は野蛮なのである。
193 :
考える名無しさん:2007/11/01(木) 00:59:30 0
イナゴなんてどうでしょう。
格差社会というのは動物的機械的にすら意義深く精神的に生きる下地になる。
これまでも国家間格差、後進国の飢えが先進国の民にその本質的に無意味な機構の一歯車的な無様な生に意味と価値を与えてきた。
国家間格差が縮まるようでは、国家内格差への意欲が高まって当然である。
無論戦争へのもだ。
地獄あっての地上の価値なのだ。
超人はその内部に地獄を宿しつつ、大地を駆け抜け、天空を翔る夢を見る。
超人は地獄に芽生えた死神である。
その死神を知的な人間ほど夢見心地で支持するのだ。
聖者とヒトラーは似て非なる者とはいえない。
彼らは共に不幸に意義を付与する救世主なのだ。
彼らの下で不幸は意義深く価値あるものとなる。
したがって幸福を夢見て余計に不幸あるいは落差が追求される。
健全な大地の豊かさを知るために。
たかが感知するためにだが人間にはされどだ。
生の意義とは地獄から大地を夢見るところにあるのだ。
そこには意味と価値があっても肝心な生の方が半ば失われてしまっている。
知的人間は幸福を知ろうとして幸福を突き放し、遠ざかっては夢見ようとするのである。
確かに地上は夢なのだ。
だが地獄は夢ではない。
それは夢見るより逃れる術のない存在である。
嫌なことは美味しいものでも食べて太っ腹に忘れようぜ。
196 :
考える名無しさん:2007/11/01(木) 14:21:02 O
おっぱい
197 :
金曜日:2007/11/02(金) 10:51:37 0
>>195 2006年に訳本がでた
jジョージ・スタック『ニーチェ哲学の基礎ーランゲとニーチェ』未知谷
はどうですか。
20年前の出版だがこの本によると
ランゲからニーチェはおおくの影響をうけている。
遺稿にもランゲについての文章があるのですが
この本でそれが明確になったように思う。
ランゲの『唯物論史』に
永劫回帰や<力と意思>の発想の根源を解く鍵があるようにもおもえる。
この分野での研究は今後でしょう。
訳はいい訳とはいえないが。気にしなければ読むには十分です。
ニーチェ理解に新境地を開くものです。
199 :
助けて〜:2007/11/03(土) 09:43:09 0
あああ〜
相変わらず家内がうるさい!
さてニーチェ本を片手に畑仕事に行ってくるわ
みんな養子婿になるのだけは気をつけろよ!!!!!!!!!!
ほのぼのしてるな
どんなにほのぼのぽかんちゃらんとしている人間でも、
本質的には地獄になってます。
現実はガラスのように簡単に割れて、血が流れだします。
氷上で華麗に舞う美女美男子の下でも業火が絶えることはありません。
死の光にライトアップされた現実は芸術的に美しく輝きます。
生と死のコラボレーション、これが芸術ではないでしょうか。
超人は一種の芸術家とも言えますね。
キャンバスが世界ですから、
現れれば私たちも描かれたり赤い絵の具にされたりしてしまうことでしょう。
芸術の構成要素にされた私たちは死に彩られた美しい人生を享受し、
苦しみ絶望しつつ、歓喜し興奮します。
血迷ってしまうとはこのことです。
生物界がサバイバルであるのは超越的な芸術家である神にとっては必然的なデザインだったといえるでしょう。
老いや病、すなわち死に向き合うということは、
人々の芸術的感性を高め、現実を脚色させ、生き甲斐を与えます。
芸術的な生に盲目的に執着させます。
日本人の大半が老いと死に直面しつつある現在、
すでに多大なる血がその道連れに流れていますが、
その血は自然に着々と合流していき、血の川を形成していくことになります。
いずれ母なる血の海に超人が誕生するのかもしれませんね。
日本人は血迷うしかなくなってしまいましたね。
もう変えられない。
人々は死を見据えて怯え、生きようと衝動的になるために、
半ば盲目的幻想的芸術的に、そしてまた半ば意図的意識的道徳的義務的になり、すなわちそれらが渾然一体となった発狂したような精神状態で、生の略奪を激化させていきます。
日本で勢いを増す過半数に達せざるをえないその暴利を貪る高齢者の権力はすでにじわりじわりと跳ね返り始め、我が身を襲っているところです。
非高齢者も道連れにされ死を見据え始めているのであり高齢者同様の見境いない精神状態に移行しているからです。
いずれ国民全体をそのような見境いないなアルコホーリックな空気が包み込み、そのだれもが泥酔したような精神状態になることでしょう。
一種のアルコホリズムに皆が感染してしまうのです。
高まって行こうとする超人思想と同じ世界が繰り返すという永劫回帰
どうも一つに理解できない。
208 :
考える名無しさん:2007/11/04(日) 17:59:49 0
「地平」は永劫回帰によって見れることになる?
超人思想なんてない。
永劫回帰を信じることが超人のはじまり。
誰にでも開かれている広い門だ。
凡人も永劫回帰を信じたときから超人になれるのです。
キリスト教、ユダヤ教、またイスラム教もでしょうが、
これらはどれも一種の君主論でしてニーチェの著作と同系統のもの、
超人育成のための教科書なんだと思いますが如何なものでしょうか?
これらに書いてあることはあくまでもその目的を達成するための手段、方便でありまして、
理性的な吟味は不毛なんであり、ともかくこれらはこれらと共に日々を送ることで無意識的に影響されて教育されるようにデザインされているものなのでしょう。
これらは互いに誹謗したり戦ったりしますが、兄弟喧嘩なんだと思われるんですね。
一応ニーチェ教も含めたその継続的な兄弟間闘争はその信者達の力を引き出したり、それぞれの信仰の強化に役立っているんでしょうね。
生まれた環境に宗教があれば一生涯捕らわれてしまい、
いかにしてもその影響から逃れられず、
離れたくとも離れられないという泥沼の関係になったりしますね。
ニーチェ教は恐らくキリスト教の脚色を幾分か剥ぎ取って、
その骨子を幾分か赤裸々にしたものだと思います。
としますと、ニーチェ教はキリスト教の哲学ともいえるでしょう。
またニーチェはキリスト教の哲学者とも神学者とも。
勘で勝手なこと言ってしまい申し訳なく思っています。
216 :
考える名無しさん:2007/11/05(月) 11:20:32 0
ニーチェの「道徳の系譜」を初めて読んでみた。
思想そのものは再読しないと明確にならない部分があるが、
部分的に思い当たる又は共感できる箇所があり、けっこう面白い。
特に「禁欲主義的的理想」の論文はまさにキリスト教道徳の背後にある欺瞞に対する
最大の攻撃と憤怒を含んでいて罵倒の辛辣さがかなり説得力を帯びている。
この人って書物のクライマックスになるとなんか興奮状態ですごく眼前に語りかけるような
文章でその点も迫力があった。
ある意味小説家だよ。ニーチェは。
>>217 ニーチェに誓って約束いたします、早的な意味で。
早くも約束破っちゃうってこと?w
220 :
考える名無しさん:2007/11/05(月) 23:04:39 0
「永劫回帰」と「地平」の思想は、どちらも時空的。
両者の関係について何か云われていることあるのかな?
>>219 いうまでもないです。
私の勘では(これからこの文句は前提として省かせていただきますが)、
私はもはや自分の存在に耐えられないんですね。
なにかやってないと言い知れぬ無とでもいうべきものに恐われ頭がおかしくなってくるようになりました。
もう止められない。
暴走してて申し訳なく思っています。
申し訳ないといいながら、もう来ないといいながら、
いちいち来続けている早さんの根源的なる境地に私もようやく足を踏み入れた模様ですね。
おかしいですね。
私としたことが恐怖のあまり泣けてきましたよ。
無為に許しを請うたりしています。
敬虔なる信者を彷彿とさせますね。
どうも苦悩を越え始めた感があります。
苦は大分あるようですが、気にならないぐらいなんですからね。
存在は苦でしょうし、私は普通非現実的に存在していますから、私は我を忘れたがり現象に走りますね。
でも私は非現実的存在と強固に結びついているだけみたいなんです。
私自身は存在していないんですね。
言い方はまずいですが私は無であるといえるでしょう。
どうも血迷ってるほうがましなようです。
仏教やら古代インドの宗教より、
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ニーチェ教は苦しみに価値と意味を与えるので、
非現実的存在の領域を現実化するものでありまして低俗なんでしょうが、
苦しむ人々を半ば動物化し幸せにするものでしょう。
しかし仏教は同じ非現実的存在の領域に端を発しはしますがそれらとは逆向きに向かわせようとするものなんですね。
非現実化した非動物的な人々をさらに非現実化することでその苦しみからその存在から解脱させようというわけです。
ですが無は存在より厄介者っぽいなって感じなんですよね。
やはり私は動物化したいと思うんです。
前からそう思っていたのにもかかわらず、
たまさか逆向きに移動してる模様ですけど。
そりゃもう暴走しますよ。
非現実的存在の領域というのは理性の領域ですが、
この領域に足を踏み入れる程に鬱になり、苦しみます。
この領域と現実界に橋をかけるのが信です。
現実界は自動的物質的な白痴の世界でして苦しみはありません。
信じる者は半ば救われます。
そして前記の4つの宗教はその希望の橋を掛けるための方便です。
>>221>>222 鬱(一般的な鬱病ではなく思想宗教絡みの鬱)や苦悩や恐怖や、
何かせずには居られないどうしようもない虚無感などに、襲われたとき、
とりあえず自分の中にあるものを、文章でも詩でも絵でも何ででもいいから、
暴走してでもいいからとにかく、表現してみるのはいいことだと思いますよ。
精神的に苦悩しているときというのは、その苦悩している自分の心や苦悩そのものに対する解釈、それを表現する言葉、
などが、飢えている状態、あるいはそれに間違った解釈や表現を与えてしまている状態のようなものです。
苦悩を適切に解釈したときや、その苦悩に対する丁度いい名を見つけたとき、
その苦悩が癒える上に新しい認識が生まれます。
たとえばここで自分の中にある考えをとにかく表現してみると、
掲示板に書き込む(他人が見られる)という行為による責任意識からか、脳裏の印象に残るしここにも書かれたままになるから、
あとでその考えを批評したり再解釈できる。
それに2ちゃんみたいな人が多いとこだったら、他人がどう反応するかをみたり、他人からの批評を参考にしたりして、
その表現したものが客観的にどうなのかを考えたり、考えの方向を偏向させたりできる。
行き過ぎると自分のようにスレ荒しになりますが、そうならない程度なら、
とにかく自分の中にあるものを表現してみることは、苦悩に名を与えたり、自己批評したり、心理学的に言うと無意識を意識化したりに繋がって、
なにかしら生産的なことに繋がると思います。
個人的な感想としては、まだ詳しく読んでいませんが、存在と無の対立、非現実と現実の対立などに、
必要以上に囚われすぎているような気がします。
何かある観念に極端に偏執しすぎると、他人の認識と自分の認識が離れすぎてしまい、その距離を埋める言葉がなければ、
自分の認識を表現しても言葉が通じなくなってしまうようなことにもなり得るから、気をつけたほうがいいと思います。
>>225>>226 >キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ニーチェ教は苦しみに価値と意味を与えるので、・・・
>そして前記の4つの宗教はその希望の橋を掛けるための方便です。
>信じる者は半ば救われます。
ニーチェの哲学は、確かに苦しみに価値を与えますが、ただ何の根拠もなく苦しみに価値を与え、
信じることで救われる、とするのではなく、むしろそういうキリスト教の教会信仰的なのとは対照的で、
苦しむことで生に対する認識が深まってこそ価値があり救われるのだと思います。
「永劫回帰」や「超人」という思想は、単独でみたら信じるか信じないかのような信仰や教義のようなものだけど、
ニーチェ自身は何もかもを疑いつくすような哲学者だったし、信じることで救われるとする弱者的な宗教には反発し続けた人です。
だから「永劫回帰」などについて考えたりニーチェの思想を信じるか否かの宗教と捉えたりする以前に、
ニーチェの文章を具体的に読んで深く感じてみるのがいいと思います。
それにニーチェは、隠喩に関しての言語論や、すべてを力への意志の解釈作用に還元する認識論など、かなり突飛で特殊な認識論を持っている人なので、
そういう特殊な認識論を知らないまま、ニーチェの「永劫回帰」や「超人」などの代表的な教説のみに接したり勘でニーチェの思想を判断したりしてしまうと、
それらが単なる空虚な嘘に思えるか、またはそれらを盲目的に信じて危険な誤解に陥ってしまうことがあるような気がします。
>この領域と現実界に橋をかけるのが信です。
あなたのいう苦しみに満ちた「非現実的存在の領域」と苦しみのない「現実界」は、
単に信じるだけでつながれるのではなく、認識によっても繋がると思われます。
認識するとは、自分が心理的に体験したもの(例えば非現実的領域)を自分の現実の生の内に置き直せるような解釈を作り出すことともいえます。
現実と非現実、意識と無意識は、信じるだけではたぶん空虚な繋がりしか生まれず、哲学や心理学を参考にしながら認識で繋いで始めて本当に繋がると思います。
認識がなければ、その体験した非現実的領域に居続ける(妄想を信じ続ける)ことになるか、それともその体験を切り捨てて現実界に戻る(意味のない体験として忘れ去る)ことになるか、
どちらかだろうから、何か非現実的な苦痛を伴う心理的体験をしたときは、焦らずに、ニーチェの言説を宗教とは決め付けずに、
色々とニーチェやその他哲学者や心理学者の言説の助けを借りながら、
ゆっくりと、自分の考えに対しての批評的な目を保ちつつ、自分が体験した苦悩に対する認識を深めていくのがいいと思います。
つまりあなたの言葉でいうなら、「非現実的存在の領域」からさらに「無」へと行くことによってではなく、「信」仰で「現実界」とつながれることによってでもなく、
認識によって、つまり「非現実的存在の領域」に焦らず適切な解釈を与えることによって、
具体的にいうと、自分の漠然とした考えを一度表現してそれを吟味したりニーチェなどの著作の言説と冷静に照らし合わせたりすることによって、
本当に苦悩が癒えるのだと思います。
>>227の訂正:6行目 ×などが→○などに
早君の苦悩はどこからくるのか
読書では治癒しないと予想する。
でもそこにすがる早。
早さんアドバイスありがとうございます。
早さんに少しお近づきになれたようで嬉しいです。
>暴走してでもいいからとにかく、表現してみるのはいいことだと思いますよ。
自分の中に何もない場合はどうすべきでなんでしょうか。
認識すらない場合、苦しみすらない場合は。無である場合は。
暴走は存在、苦、認識の領域への、そして現実界への暴走です。
私の中の無、昨夜私を襲った無は表現できないんです。表現を絶しています。
哲学的な認識によりますと存在と現実界は引き裂かれていくばかりだと思います。
その間の橋になるのが誤認識なんですし虚構なんでしょう。
またその橋を掛けるのが信だと思います。
そしてまた橋を決壊させるのが疑でしょう。
認識や解釈は非現実的存在の領域と現実界の間柄、関係なんでして、
単独ではいずれも認識と解釈に絶しています。
非現実的存在は単に苦ですし、現実界はそれとも知らない美しく幸福な白痴です。
苦から解脱した人々にとっては苦もまた善になりまして、苦行するが良し、血迷うが良しとなるのではないかと思います。
233 :
考える名無しさん:2007/11/06(火) 12:19:39 0
>>233>>220 「地平」とはハイデガーの考えのことですか。
だとしたら、あまりハイデガーは読んではいないので詳しくは分かりません。ごめんなさい。
それに「永劫回帰」についても、結局その本質がなんなのかわからず、
ニーチェの神秘体験のようなものだとみて、今のところは永劫回帰についての思索は保留してます。
表面的にしかよくわかりませんが、永劫回帰とハイデガーの哲学の共通点を挙げるとしたら、
どちらも宇宙論的なあるいは存在論的な側面と、実存的な側面をどちらももっていることだと思います。
永劫回帰やハイデガーの哲学においては、西洋の伝統的な哲学のような哲学の対象として存在や世界を扱うことだけでなく、
自分の具体的な実存そのものを中心的な視野に入れることが重要だと思います。
詳しくは分からないので間違っているかもしれません。永劫回帰については金曜日さんが詳しそうです。
>>231>>232 たとえば、あなたが「無」だと思っているものが一体何なのか、
もしかしたら、ある苦悩している心の部分や要素に間違って「無」という名を与えてしまっていることで、
余計に苦しめられてしまっているのではないのか、という疑問の余地もあると思います。
でも自分もどうしようもない説明し難い虚無感に襲われることがあるので、なんとなくその気持ちもわかります。
あと、全体的にあなたの葛藤の仕方は、存在と無、信と疑、などの二頂対立の「どちらか」に絶対的に
物事の様態を置こうとする傾向があるような気がするのと、全体的に言葉が抽象的です。
存在と無、やその他、善と悪などの色々なニ頂対立は、根源的な領域を心理的に体験しているときによく自然に意識されます。
理性で抽象的にそういう領域を捉えたら、対立を対立としてしか認識できないけれど、
感情で具体的に捉えてみると、実はそういう対立が絶対的なものではなく相対的なものだということに気付き、
たとえば善悪の彼岸のような善と悪の二元論的な区別を超越したような境地に近づくと思います。
苦悩している状態では、無理に抽象的な語で抽象的に心理を捉えるのではなく、湧き上がってくる感情に任せてみて、
後になって体験した感情やイメージを理性で抽象化していくのも、いいと思います。
本当に何もない虚無感に襲われたときはどうしようもないのかもしれませんが、とにかくできるだけ、
存在、無、現実界、非現実的存在というような抽象的な言葉からは一度脱却して、ニーチェの「永劫回帰」や「超人」ではなく、
音楽が好きな人が歌手の歌声の微妙なニュアンスに歌手の感性を見出すようにニーチェの名文の節々に響く感性的なものを感じてみたり、
個々の言説の内容から苦悩や生に対する多様な遠近法を発見してみたりして、その後で抽象化した方が、
根源的なものに対するより深い理解に繋がる気がします。
ニーチェにてって苦悩とは、
信仰としての宗教や体系的な哲学における苦悩のような特定の一つの意味体系に意味づけられるべきものではなく、
むしろ自分がそれまで立脚していた意味体系が自分の生にとっては良くないあるいは足りない意味しか
持って居なかったということに気付かせ、別の新しい意味体系へと導くものであるといえます。
苦悩とは自分が今持っている心的体系や自分をとりまく社会的体系が自分の生にとって物足りないもの
であることを気付かせてくれるものであると言えます。
もしかしたら自分の観念の体系が、苦悩を生んでしまっているという可能性もあります。
だから、いま自分が囚われている観念だけが全てではないことを見抜いて、新しい認識を求めていくのが重要です。
ニーチェは、ショーペンハウアーやワーグナーにあれほどまで傾倒しておきながら、病や苦悩の遍歴の中で、
全く違う哲学を求めながら、後には自分の傾倒した思想を批判や攻撃の対象にするにまで至りましたが、
これはニーチェが苦悩を通じて全く新しい認識、生に対する意味づけを、動的に求め続けたことを示しています。
自分の今囚われている抽象的な体系に静的に留まるのではなく、新しい認識を求めて動きつづけていくのが、
少なくともニーチェの勧めるやり方だと思います。
>>235 ありがとうございます。
要するに私を動物化させたいんですね。 頑張ります。
非現実的存在、私の存在の苦しみを避けるには動物化によって現実界に馴染んで目を逸らし忘却するか、
誤認識という虚構の橋を信じることによって現実界と繋がり超人化して、
苦しみつつ快楽を味わうような芸術的な半狂乱の状態になるよりないと思っておりましたが、
そういえば仏教的な無の領域があったわけですね。
解脱は、無の領域に入ることそのものは、救いになりませんが、
相対的に、非現実的存在の領域と現実界とをましだ思わせる点、
これらを客観視できるようにさせるという点で救いになるんでしょうね。
過去の辛い体験が現在の良い慰めになったりしますが、
解脱はそれと同じ効果があるんでしょう。
苦しんでるほうがましだというわけです。
私はまだ解脱に至ったとはいえませんが、
私の意志に反してそうなっていく傾向はあるようです。
どうなることやら。
240 :
考える名無しさん:2007/11/07(水) 09:24:40 0
>>234 丁寧なお返事、痛み入ります。
そのあたりでもう少し考えて見ます。
有難う御座いました。
無の領域の聖者だって一種の白痴なんでしょうね。
その心が現実に束縛されていないという点で白痴と同様じゃないですか。
私が動物化しようとして、無の領域に近づいてしまうのは、一応願い通りということのようなので安心いたしました。
少なくとも肉体的には苦行は良いもので、特に男性に関してはそうでして、
苦しみなしには肉体は維持向上されないものです。
しかし痛みというのは限りないのでどうしても快楽に傾倒しがちでありますが、
無の泣けてくる恐ろしさを知っていれば、
苦行も容易くなっていいと思います。
私は少年期以来泣いた覚えがないのですがちょっと泣けてきましたから無というのは相当なものです。
ニーチェが永続的な苦しみに苛まれつつ永遠回帰などを思いつき、苦悶する存在を肯定したのは、
彼もまた無を恐れたからではないでしょうか。
これはキリストも同様だと思います。
神と呼ばれるのはこの無のようなんですね。
とすれば神は死んだというのは無理です。
無が無くなるなんてことは無理でしょう。
むしろ「神は死んだ」というのは本当のところ「神は無だ」という意味なんではないでしょうか。
無が世界を現実を創造したというとおかしいようですが、世界は存在ではなく虚構ですから、そうでもないです。
自然法則は不動の存在のようですし、これはまた現実を統率してはいますが、
現実のどこにも見当たらないものです。
無が虚構を創造したいうのもよくわかりませんが、
これが神が世界を創造したという幻想的表現の哲学的表現でしょう。
かなり苦しそうです。
恐らくあなたにとって「無」とは名詞や抽象観念ではなく、かなりリアルな恐怖を伴う体験みたいですね。
でも不安定な精神状態で「無」に固執しすぎると、あらゆるものが妄想観念にまで逝ってしまうかもしれません。
現にあなたの言葉、どんなことを体験しているのか、そういうことを理解できる人はほとんどいないと思います。
それにある想念に酷く憑かれている状態では、ニーチェを読んだところでその想念のもとに歪曲されてニーチェの言説を理解してしまい、
妄想観念だらけになってしまうかもしれません。
自分の場合、「無」ではなく常に「一者」という観念に苦しめられ、
たとえば自分と飼い猫の違いが分からなくなり、目に映るもの全てが一者に思えるくらいまで妄想に陥ったことがあったのですが、
そろそろ危ないと感じたときは、とにかく抗鬱剤や精神安定剤を服用して安定させてました。
生の深淵で恐怖し続けるのはある程度までなら生に対する認識に繋がるものですが、
でも酷い混乱をそのままにし続けるのは、命の危険を伴うことでもあると思います。
実際にニーチェがそうであったように、過度の精神的苦痛は神経組織にダメージを与えます。
一度、観念的に葛藤するのはなんとか止めて、抗鬱剤や安定剤などに救いを求めてみてはいかがでしょうか。
その後で自分の書いたものや心理的体験に反省をいれてみた方が安全だと思います。
錯乱し続けると自分の言葉が誰にも通じないという完全な恐怖に没入してしまいます。
それにここに書いても誰も理解できないようになりつつあり、そうなるとここに何を書いても無意味になってしまいます。
酷い鬱や混乱のときにオススメなのはSSRI系の抗鬱剤で、精神科行って鬱ですといえばたいがいもらえます。
もし「存在」と「無」についてまだ考えたいというのでしたら、ニーチェの『悲劇時代におけるギリシャの哲学』という文章に、
パルメニデスの哲学に対してのニーチェ的解釈が載っていて、ニーチェは存在と無の二極対立でみるパルメニデスよりも、
生成流転の場として世界をとらえるヘラクレイトスを支持していました。
ニーチェは「虚無」についてならよく思索していましたが、残念ながら「無そのもの」に囚われた形跡はあまりないようで、
無についての言説は少ないと思います。
みんな埴谷雄高の『死霊』を読んだことあるのかな
246 :
考える名無しさん:2007/11/08(木) 06:13:07 0
この前の群像かぁ
苦痛を自分の中に溜め込んでおくから早みたいになるんよ
カラオケで好きな歌を歌いまくれ
マジでいいぞ。気分が晴れ晴れする
鬱憤を全部吐き出せるし
神は死んでもいないし、存在しないわけではない。
本当は神は生きてるし、存在してる。しかしそれを意識的に、無意識的に、神を遠ざけているのは人間自身。
ニーチェの言葉は全人類のしてることを皮肉ってるだけ
ニーチェ哲学の本質は究極的な皮肉にある
というか彼自身が皮肉屋なのかも
249 :
考える名無しさん:2007/11/08(木) 11:56:01 0
人間が神の失策にすぎないのか?
神が人間の失策にすぎないのか?
キリスト教は邪教です!はアンチクリスト超えた
251 :
考える名無しさん:2007/11/08(木) 19:17:11 0
「神は死んだ」って云っても、かってにしんだんでなく、我々がかってに殺したと思ってる皮肉?
252 :
考える名無しさん:2007/11/08(木) 21:46:06 0
言葉とは、概念につける音符のことである
by ニーチェ
253 :
考える名無しさん:2007/11/09(金) 00:30:08 O
>>244 ご心配おかけして申し訳ありませんでした。
ですが先に書いておきましたように苦との距離が少しでき多少楽になっておりますし、
より強い苦に耐えられるようになったと思うので、
病院に行くというより生活をやや過酷にすることになると思います。
苦しみはなくなりはしませんが、苦行していくといわば苦の壁を乗り越えてしまうようになるんですね。
苦の領域を通り抜けてしまう。
茨の道自体はなくなりはしませんがきっと長さ的には限りある道なんですね。
イメージ的には以下のようになります。
無の領域 <−> 苦(存在)の領域 <−>現実界
認識というのは領域間の関係になります。
疑は右から左へ私を移行させ、信は逆に左から右へ移行させます。
疑によって人は現実界から苦の領域、茨の道に入っていくわけです。
そしてある日、無の領域との境界線に突き当たりビビるんですね。
私が敬語を使い出したのは無に対する恐怖の記憶、畏怖、畏敬の念からです。
ビビってるんですね。
でも早さんに気遣って頂いていることですしここは一つ勇気を出していくことにしました。
>>247 歌はちょっと。
代わりに時々飽きるまでピアノを弾いたりはしてます。
>>253 抗鬱剤がどうこうとかがおせっかいだったら御免なさい。
自分が錯乱してたときのことを思い出してすこし興奮してしまっていました。
被暗示性が極端に強い私は、尾崎豊やジョンレノンの「愛」を知ったとき、
聖書を読んだとき、ヘルメス文書や『悲劇の誕生』で「根源的一者」を知ったときなどは、
あなたが「無」といって恐れたのと同じような体験、つまり常軌を逸した恐怖と苦痛に襲われつつ、
苦しみながらも愛へ行くべきか、現実へ還って安定した状態に戻るべきかの板ばさみの体験をしました。
たぶん「無」は、何もかもの根源をあなたの直観が捉えたときに体験するものだと推察してます。
それでそういうものを捉えているときこそがまさしく自己自身の根源に帰還している状態だと思います。
ユングは、神秘主義の根源的一者やインドの梵我一如などの思想を、心理学に昇華させる際、
その一者やブラフマンにあたるものに(もちろん心理学的な定義をたくさん加えたかたちで)「自己元型」という名を与えている。
グノーシス主義でもインド哲学でも、自分の根源と世界の根源が一致する境地が最高の目標として目指されている。
つまり根源的なものは自己自身。
自分の場合は、あなたの図式を用いるなら、
一者 <−> 無意識 <−>意識
のような感じで漠然とですが名づけていて、同じように疑いや否定によって左に行きます。
ベルクソンの『哲学的直観』から引用すると
「・・・直観は制止するものです。広く受け入れられてきた見解、明白と思われてきた主張、
科学的として通ってきた命題、これらを前にして直観は、とんでもない、不可能だ、
とその言葉を哲学者の耳にささやくのです。・・・・・直観へ帰る時、彼は自己自身へ帰ります。」
またニーチェの『力への意志』の15番では
「ニヒリズムの極限形式は、次のような洞察であろう。すなわち、あらゆる信仰、真だと思うあらゆる働きはみな、
必然的に偽であるということ。・・・・・そのかぎり、ニヒリズムというものは、真実の世界とか存在とかを
、否定するものとして、一つの神的思考法であるのかもしれない。」
ここで直観や神的思考法とこの二人が呼んで否定の属性を与えているところのものは大体同じものを指していて、
あなたのいう「疑」にもあたると思われます。一般的な価値、「現実界」を、疑いつくすことで、
根源的な領域へ近づきますが、やはり恐怖や苦痛を伴い、ここでまともな精神状態を保つのは困難で、
自意識が極端に高まっている状態なので思考が独自すぎることを自覚するのが大事です。
その時に思いついた荒唐無稽な考えは安定した時、後で他の哲学者の言説と照らし合わせて反省吟味しないと、
妄想観念になってしまうことがあるので気をつけて下さい。
たぶんあなたのいう「無」は、ユングの自己元型、神秘主義の根源的一者、
『宗教と道徳のニ源泉』でベルクソンがいう「神は愛である」、尾崎豊やジョン・レノンのいう愛、
それらに近いものであり、もちろん「直観」というのは神経構造によって決まる個人差のあるものだから、
根源的な究極の一点にどういう意義や名を与えるかは人それぞれ(哲学はほとんど個人の直観によって決まるような学問だといえる)
ですが、だいたいどの神秘主義や宗教的な哲学でも世界の根源であると同時に自分の根源でもある究極的領域が言及されます。
たぶんあなたが「無」という名を与えて畏怖しているところのものはそれではないかと推測します。
あくまで掲示板上の他人による勝手な推測ですが、心理的体験を後で客観的に反省したいときには参考にして下さい。
歌や音楽が気晴らしには一番いいと思います。
>>254-255 はい、参考にさせて頂きます。
しかし受験勉強そっちのけで色々とお勉強なさってるようですね。
ちなみに何度もいうようですが私の場合は恐怖と苦痛じゃなく恐怖のみでした。 おかしな言い方ですが苦痛がかなりあるのはわかるんですがそれを感じなくさせるぐらいの恐怖に涙だったんですね。
苦痛からは救われてました。
今も尚その名残で多少苦痛からは救われています。
257 :
考える名無しさん:2007/11/09(金) 03:48:05 0
自分の個人的な傷をニーチェの威勢のいい言葉で慰めるのはやめましょう。
>>256 自分の場合、根源的でやばい精神状態は、二種類あって、
一つはだいたいあなたのと似ているような感じの、苦痛から、得体の知れない恐怖へいくパターンで、
もう一つは、躁状態が続いたときに一度だけしか体験していないのですが熱感を伴う光り輝くようなエクスタシーでした。
後者のほうは、その後数ヶ月も、かなり神経がおかしくなって(その時始めてニーチェスレ荒しはじめた)、嫌な記憶の噴出、自己嫌悪、憎悪、退行、憂鬱を伴う悪性の意識朦朧状態が続き、
身体の感覚も多少変になってました。今になってやっとその影響の完治に近づいているような感じです。
そういうこともありえるかもしれないので、宗教的なことには気をつけて下さい。本当に危ないと思ったら抗鬱剤や安定剤は必至です。
統合失調症の薬以外はそんなに神経に悪影響はないです。神秘家と狂人は紙一重です。
観念的なもであれ、殺されかけたとか大失恋をしたとかであれ、
恐怖や、激越な情動を伴う体験というのは、一生その人に影響を与え続けるといっていいし、少なくとも一生記憶に残るし、
そういう記憶に関わる言説を本で見つけたときというのは、そのときの記憶が少し蘇るので、
その言説も鮮明に印象に残って記憶されます。だから覚えやすいです。
宗教的な体験の後では、哲学的な関心がほとんど命に関わるような本能的なものにさえ感じます。だから勉強というより自然な欲求になっています。
でも受験への興味やモチベーションなどが薄れてしまっています。
こういうことに深入りしすぎると生活への関心が薄れてしまうかもしれません。
そうなればまさにニーチェが批判するところのものになります。
ていうかこのスレみてるほかの人、本当に御免なさい。
こういう体験をしている人は見かけたことなかったのでつい我を忘れてしまいました。
>>256 こういうことにはとても興味あったので、体験を聞けて嬉しかったです。このスレで私と対話するのはこれで終わりにしましょう。
人のこといえませんが、そういう宗教的な状態では本当に思い込みというのが自分が思っている以上に激しくなるもので、
とにかく自己批評を怠らず気をつけて下さい。
もうある程度落ち着いたようで、特に何も話すことはないとは思いますが、
もし何か在れば、私のブログの「置き詩」というところに書いて知らせてください。適当に掲示板でもつくるか別スレ立てます。
それでは!
早君は自演でもいいからとにかく対話がしたいのです。
SORRYのブログはどこ?
>>260 なんなの。自演ではないです。
多少興奮しすぎてここニーチェスレなのに変に書きすぎたのは悪いと思っているけど。
躁鬱病とか神経障害持ってたら、ハイパーグラフィアっていうとにかく書かずにはいけない症状が現われてしまうの。
そう自演だとか思うのは勝手だけど、人の同情心をそうやって踏みにじるような事言って、罪悪感はないの?
自己憐憫的なこともう書き込みたくないけど、私だって、今は余裕そうにしてるけど、
幼いころから人間や現実に関わることには本気で苦痛に一人で身もだえしてきて、
宇宙とか宗教とかに関することで恐怖の発作が起こったりして、同じような人始めてみたから、
ちょっと一方的すぎたけどどうしても知ってること教えたくなってしまったの。
でもごめんなさいまた書きすぎて。
>>261 http://beatriceuplift.blog122.fc2.com
早君の書き込みの文体はこんなのだったかな。
え
二重人格?
早ともうひとりいる?
わけがわからない。
べつに非難してるつもりではないので
気を悪くしたのかな
気にしないでください
謝ればいいのかな
>>263 人格や文体くらいその時の気分によって代わります。
私には人格はありません。あるとしたらいくらでもあります。
人格なんていうものはただの幻想です。
人格障害を何個も作る現代の心理学なんて愚かしいにもほどがあります。
狂って死にそうになるくらいまでいけば、そういうことが分かります。
文体というものがなんなのかも直感できます。
気を悪くしたというより、一瞬イラっときたような感じです。自分の気分をなかなか制御できません。
265 :
金曜日:2007/11/10(土) 08:42:51 0
早君は吉本隆明の
『心的現象論』などでもよんで
西洋の哲学についてあるいは神について
頭の整理をしたらどうか
詩も氏の詩をよんでみると参考になる
若いのだから濫読よりも
熟考を進めるな
君のブログは
他者の論理の寄せ集めの印象をもったのだけど
とにかく
すこし君の将来を危惧するね
266 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 08:52:57 0
リアル中三がツァラトゥストラ全部読んだら
受験勉強する気なくなった
あと別に無常観にとらわれたとかでもなく
なんでなったかわかんない鬱になったんだが
どうすればいい?
267 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 10:14:36 0
>>266 大学は哲学科に進むという夢を持って、猛勉強しろ
268 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 10:26:27 0
その欝が何なのかをよく見て究めろ。
>>265 私は早さんは池田晶子様の地位につける才色兼備のお人だと期待してますが。
危惧するというからにはあなたもまた期待しているわけですが、
あなたは、早さんに何を期待しているんでしょうか?
270 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 13:58:32 0
>>267 やりたいことは別にある
それにニーチェに毒されたなおりかけだった中二病には
勉強なんか馬鹿らしくみえてしかたない
それに欝でもう死にたいけど
もっと思考していからしねない
勇気がないのかもしんないけど・・・orz
271 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 14:11:23 0
>>270 ツァラトゥストラじゃいまいちわかりにくい部分もあるだろうから、「善悪の彼岸」
か「道徳の系譜」あたりを読んでみれば?問題が解決するとは思えないけど。
彼の言ったことを知らないで生きるよりは、知っていた上で生きるほうが俺はいいと思うけどね。
ニーチェの言ったことを理解した後で、それでも何か大切なことを見つけたら、それはかなり強固なものだろう
ニーチェの教えを読んで鬱になるのは読めてない伝わってないのではないかと思います。
中3でツァラトゥストラはないわ
他にもっと読むべき本がたくさんあるはず
太宰治とかさ
274 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 15:06:19 0
ニーチェを理解すことなんてどうでもいいよ。
そうしたければ、大学ででも勉強してみればいいけど。
それよりも自分が感じた「欝」が何なのか、
それを自分でよく見てそこから学ぶ方が百倍も大事だと思う。
(書いてて思ったこと:俺はドットコムか?w)
ツァラトゥストラは衝撃力だけあって何言ってるのか謎だらけで、
それで人を鬱にさせたり興奮させたりする。あれが象徴表現の威力。
象徴的なものを読んだ時は、今まで自分の心の中で漠然と感じていたような見えそうで見えない何かが、
色をつけられ音をつけられるような感じで、具体的に強く迫ってくる。
もともと何も感じていない安定した人や実際的な人だと、象徴的言説を読んでも特に反応はしない。
逆に漠然と抱いていた憎悪・毒などが拡充されて大変になる人もいる。
その状態では、理解というよりは、心理的体験といった方がいい。だから鬱になったり高揚したりする。
思想絡みの鬱や興奮のような心理的体験は、何か新しい認識を求めている状態だといえて、
苦しくても、ニーチェであれ他の哲学者であれとにかく読みながら自分の心の認識を深める絶好のチャンスだと思う。
自分の場合は、一年くらい前、哲学や心理学は読んだことなくてただ病んでて、病人と絡みあうか自殺考えるかしていたころ、
ツァラトゥストラやランボー読んで、一気に何かが爆発したようなさらに鬱になったような感じで、急に哲学的な関心が加速した。
276 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 15:17:47 O
太宰治はいいか?少年の時に読むべきだとは思うが人生の参考書の類いではないぞ夏目漱石もそうだが明治の文豪、ありゃみんな病人だ。大人になってじっくり読むものでもっと他にあるだろうジョイスとかヘッセとか
>>265 論理の寄せ集めというより、ニーチェやユングについて書くことで彼らの精神的なエキスを吸血しているような、
有機的な感覚のために書いています。
ニーチェに、あそこまで、何もかもが真ではない、ていわれると、どの哲学も信用できず、
だから体系的に読んだり、系統的に整理することにはまったく興味を無くしました。
実際ニーチェやユングの言説を信じている訳ではなく、それが自分の苦悩が求めているものか、
それが自分にとって歓喜を齎すものだから、読みたいときに読んで、書きたくなったら書いているという感じです。
自分の求めるままに求めた分だけ読んでます。西洋哲学史にはもうほとんど興味がない。
神についても、自分の経験した神体験以上のものは書きたくもないし書けない。
神とか一者とかが、どれほど恐ろしいものか分かると、自分が体験した以上のものは絶対に書きたくなくなる。
神体験してないのに神についてあれこれいってもそれは具体的な神ではなく抽象的な神だから、
ユングとかベルクソンとかみたいな宗教的素質がある人の書く神以外には全く興味をもてない。
宗教的な素質があるか、深い心理的体験をしたかどうかどうかは、思想の内容や思想史上の位置づけではなく、
文体や言葉遣いや思考の癖に現われるから、その吉野さんという人の文体が気に入らなかったら読まないし気に入ったら読んでみます。
ニーチェや小林秀雄みたいなああいう言葉遣いや文体は、神秘家にとっての神体験に匹敵する、
苦悩や高揚など激越な心理的体験を何度も経験してきた証。「血を以って書く」というのは、文体や言葉遣いに現われる。
「無」に恐怖して色々と話してくださった方は、書いてる内容が多少支離滅裂でも、文体みたらどれだけ苦に魘されているか分かった。
宗教的な語がとにかく出てくる恐ろしい状態というのは、その言葉全てがその人の心理的な要素の象徴になっていて、
その宗教的な言葉は、その言葉が一般的に示しているところのものではなく、その人の心の中にあるものや、
その人にとっての既知の言葉では置き換えられない重要な心理体験を、象徴的に表現していると思う。
高揚、憂鬱、恐怖の状態にあるときに、象徴的な比喩や(文化人の)人名や宗教的な言葉がたくさん溢れ出すのは、そのため。
早だ、こえーよ。リアルタイムの長文。
>>277の訂正、吉野さん→吉本さん
一度火がつくと大量に言葉が出てくる。
火がつかなかったら言葉は出てこない。
ニーチェはたぶん、火を馬鹿みたいに使いすぎた。
『書きたがる脳』によると
ハイパーグラフィアの基準は
1 同時代の人々に比べて圧倒的に大量の文章を書く
2 外部の影響よりも強い意識的、内的衝動に駆られて書く
3 書いたものが当人にとって哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている
4 当人にとっての重要性はともかく、文章が優れている必要はない
芋畑を手当たりしだいに毟り、芋蔓式で連想的に、地面から、言葉が、もこもこ湧いてくるような、
言葉による定義なんてものは所詮自身を欺く為の方便
真実の前では無意味。要はどう「知覚」するかだ
って誰かが言ってたな
誰だったかな
早がやってることははっきりいって無意味。ここじゃなくて自身のブログで糞でも垂らしてこいよ
今日は糞なんか書いてません。
>言葉による定義なんてものは所詮自身を欺く為の方便
あなたが一体何をどう批評しているのかわかりません。
今日はそれほど突飛なことは書いていませんが。むしろあたりまえのようなことしか。
批評なんて大層なもんするつもりなんてねーよ
そのうっとおしい言葉の押収をやめてくれっていってんだよ。
それができねぇーなら自身のブログで糞でも垂らせ
誤字
押収×応酬○
象徴というのは、言葉の定義がどうこうの話ではなく、
まさに真実をどう知覚するかの話に関わっている。
私はその真実というものが、言葉による定義ではなく、
「文体」や「象徴的表現」によってのみ示しうるというようなことを書いたつもりです。
文体や象徴表現はまさに書く人にとっても読むひとにとっても具象的な知覚を伴って影響するものです。
心理的な要素、内的な真実というのは、抽象的なものではなく、知覚的な実感を伴うものだからこそ、
それを表現したら、当然、文体上の特徴などが現われる、
その時に使われる言葉は、その言葉が一般的に示しているところのものではなく、まさに当人の心理的な知覚を象徴している、
そういうことを言ったわけです。
>>282最初からそう言ってくれたらいいのに。
いつもながら長文連投本当にごめん。たぶん早についての書き込みがない限り、ここには書き込まない。
それでは今日は、早がどうこうがない限り、失礼します。
∧ ∧
(,,゚∀゚) 早どうこう
n_n
(=゚д゚) ごめん
/ 、_,/
/ uu
287 :
金曜日:2007/11/11(日) 08:45:28 0
危惧といってしまったけど
まあ受験にいそしんでほしいな
京大の哲学科でも行って
基礎からやってほしいな。
才能はきっと僕の何倍もありそうなのでね
入り口を間違えて学問して
浅田明みたいなバカにはなってほしくないし・・・
今はとにかく受験だよね
ブログや2ちゃんで遊ぶのもいいけどね
哲学って学問としてカテゴライズされてるから小難しい印象をもたれがちだけど
特徴として明確な問いと答えがないからどんな人にもできるはずなんだよね
とはいえセンスもある程度必要なんだろうけど。
結局、権威主義による私物化で哲学の本来の力も圧殺されちゃうのかなぁ?
大学のいちばんいいところは
そこに図書館があり多くの資料があることだ。
教授のいうことなんか無視して
一日中入り浸って研鑽できる
在野での勉学もいいけど・・・
290 :
金曜日:2007/11/11(日) 22:02:45 0
浅田彰です
>>288 >明確な問いと答えがないからどんな人にもできるはずなんだよね
現代最強の概念であるカネに遠い分、素養を持ちえた環境者が少ないと思う。
そういう連中にとっては正しく“ソフィストどもの悪ふざけ”に過ぎない
>権威主義による私物化で哲学の本来の力も圧殺されちゃうのかなぁ?
集積による効果を狙うなら共通の地盤と言葉が必要なのは間違いが無い
それに関わる個々人間の量差を“権威”と呼ぶのは勝手だが
俺はそんな君を、嫉妬する怠け者と呼んでるよ。
>>291 何を言われようと立身出世とは縁がない生き方してるんで心配されなくて結構
>>287いつもアドバイスありがとうございます頑張ります
>>291 >現代最強の概念であるカネに遠い分、素養を持ちえた環境者が少ないと思う。
>そういう連中にとっては正しく“ソフィストどもの悪ふざけ”に過ぎない
のところがいまいち分からない。
哲学科よ〜
みんな変人になるだけだよ?
ムフフ
さ〜て、新鮮な野菜に軽く塩をふって、一杯やりましょうかな
ムフフ
まっ昼まからお酒が飲めるなんて(ニーチェ本を片手に)
ムフフ
トマトand塩
おいしいよ!
アゲ
297 :
考える名無しさん:2007/11/15(木) 16:26:36 0
|\_/ ̄ ̄\_/|
\_| ▼ ▼|_/
\ 皿 / <超人参上!
キコキコ □( ヽ┬U
〜 〜. ◎−>┘◎
298 :
考える名無しさん:2007/11/15(木) 17:00:36 O
ニーチェとニート、煮てるよね
>>298 それ居酒屋でにいちゃんが言ってました、「ニーチェだかニートだか知らない
けどさあ・・・」
浅田彰がトラウマなんて虎と馬に分かれて走っていけばいいんだよ、みたいな
こと言ってたけど、うまい!と思った。
永劫回帰は虚構
神も存在しない
ニーチェは何と戦ったのか
むなしい
最後は梅毒と戦ったという事実
303 :
金曜日:2007/11/16(金) 22:25:40 0
半分同意
でも
天国や霊魂の存在なども否定するなら同意するね
彼岸なんてものも無く
現世だけの人生ということなら大いに結構。
305 :
考える名無しさん:2007/11/17(土) 19:14:01 0
ツァラトゥストラはこう言った
を読んでみたんだが、20ページで挫折した
抽象的すぎて何言ってるのかわかんね
こんな僕はどうすればいいですか
>>305 理性の否認ほど、理性にふさわしいことはない パスカル
キリストもブッダもニーチェも極めて理性的な人でした。
>>305 翻訳が悪いのかもしれん
そうかもしれない、そうじゃないかもしれない…けどね
308 :
考える名無しさん:2007/11/17(土) 21:55:22 0
309 :
金曜日:2007/11/17(土) 22:03:57 0
『ツアラツストラ・・・』は
実はぼくだって今も読み解くのに苦労する。さっぱりわからないところだらけだ。
僕がよく理解できるのは4部の最後のところぐらいかな。
専門家は3部のところまでで完結してるとか
3部がよくできているとかよくいうけどね。
『悲劇の誕生』なんて初めて読んだ時は最初の1ページで挫折を味わった。
そこから少しずつ分かってきたきたというのが現状だ。
抽象的っていうか比喩が多いから混乱するんだろ
そこは普通の本を読むような感覚で読んでも理解はできんと思う
311 :
考える名無しさん:2007/11/17(土) 22:18:49 0
なんだそんなもんか
最古の教祖がその精神を明らかにするただの小説
宗教的理解は必要かも
比喩は認識、存在のリアリティを抽象した残り滓なんですね。
実際にはいわゆる具体的で視覚的な表現こそ、
その味が薄められた抽象的な表現、お子様ランチに過ぎません。
しかし、それは哲学的認識に対する防寒具としても機能しますので人が遊び半分で哲学に接する場合にはなくてはならないものです。
宗教というのは哲学をお子様向きにアレンジした教材なんです。
ですから実は哲学には宗教から入った方が効率的でしょうし安全なんだと今思いつきましたことを勝手ながらここに記しておきたいと思います。
現実はニヒリズムによって、存在が希薄化し、形式化し、機械化し、必然化した虚構、虚ろな構造に他なりません。
リベラリズムはこの歴史的運動に逆らうアンチニヒリズムです。
つらいからこそのニヒリズムによる癒やしの歴史的追求なんですから、
その歴史的流れに逆らおうとするリベラリストの度胸たるや大変なものですよ。
切腹するというだけでは済まされないでしょうに。ええ。
ニヒリズムの進行が存在の進化、現実の創造だとすれば、生物、なかでも人間は未分化で進化の遅れた原始的な部分なわけですね。
それゆえに比較的濃厚な存在なんですし、その非現実性ゆえに創造的な力をもっているわけです。
しかしその創造的な力を振るうのはニヒリズムの実践なんですね。
創造し続けるためには破壊し続けねばなりません。
ニヒリズムとリベラリズムは人類の自己保存のためには共存していなければなりません。
人は自由のために戦い続けねばなりません。人であり続けるために。
ちなみに私は恥ずかしながら切腹するというだけに止めておきたいと思っております。
いわゆる抽象的認識や概念は統合的認識です。
そしていわゆる具体的認識、五感にたよった認識こそが選択的で一面的で空虚なな抽象的認識なんですね。
比喩は本当は怖いところを楽しくするための童話的、芸術的、抽象的な手法なんです。
程度の差こそあれ哲学を童話化し世俗化したものが宗教です。
言葉遊びの世界にずっと燻ってても何もかわりゃしないさ。
319 :
金曜日:2007/11/19(月) 21:57:33 0
>>317 哲学を童話化し世俗化したものが宗教です
無茶苦茶なことをいわないでほしいな
というより
君だいじょうぶか
>>319 馬鹿の分際で偉そうな口叩かないでください。
理性は思考によって統合的である精神、悟り、直観などを分析的に表現し関係づけ体系化し、現実化します。
また分析的体系的な表現、現実を統合的に消し去る作用がありますがこれは悟性や知性と呼ばれるものでしょう。
理性や悟性というのはあくまで働きなんですね。
現実と非現実的存在、無、神を結ぶ橋、いわゆる超人なんですね。
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
理性というのは非現実的なるものを分析し現実化するものですし、
また信仰というのも非現実的なるものを現実視しようとするものですから、
両者は同様の働きをしているんですね。
いずれも現実志向なわけです。
どちらも抽象的比喩的に非現実性がふるい落とされた物証を要求するもので盲目的です。
楽観的なニヒリズムです。
信仰と理性は相反するものではなくむしろ似通っており、
共通の目的、すなわち現実への没入、非現実性の忘却のために、
協力しているのです。
ちなみに恐らくこの協力がなければ夢が叶わないのかもしれないですね。
324 :
金曜日:2007/11/21(水) 08:38:08 0
>>323 理性というのは非現実的なるものを分析し現実化するものですし、
また信仰というのも非現実的なるものを現実視しようとするものですから、
アホな僕からは
こういう前提命題が虚偽にしか思えないのだけど
というより飛躍しすぎでは?
概念の抽象のレベルが具体的なものから飛躍しすぎるからだと思う。
部分的に正しいとしても
全体として机上の空論になるのではないでしょうか。
信仰と合理主義による現実への没入は、
そもそも有限なる人間が人間として神を見いだすための運動なんです。
有限なる被創造物の分際をわきまえて無限なる神を直観しようとするよりも、
被創造物の方に神の証を神性を見いだそうとし、
間接的に神に触れようとしたわけです。
この運動の成果は大部分の人にとっては乗り越え難い絶壁となり、むしろ神を遠ざけることになりました。
神は死んだわけです。
ですがこの不可能性、もう無理って感じこそが神の偉大さを物語っているわけです。ええ。
キルケゴールやハイデガーは運動の方向性の転換を企図しましたが、
ニーチェは後退しては前進しました。
ニーチェは芸術家的ですね。
ニーチェは色々ですよ。
>>324 あなたの発言は君は間違っているというだけで空論にすらなっていないんですね。
そういう人を馬鹿というものなんですよ。ええ。
馬鹿な真似ならやめていただきたいですね。
やめられないならそれはそれで仕方ないと思います。
永劫回帰を正しい説としますと、
あらゆる空論、妄想は馬鹿でもオウムでも機械でも簡単にできる単なる罵倒のように既に無限回繰り返されているんですから、
空論とはいえクラシックであるといえますね。
また馬鹿も病気も戦争もいくら死んでも直らない、終わらないわけです。
永劫回帰は天国と地獄というような芸術的で宗教的な発想ですね。
とはいえニーチェは哲学者でもあるので、
永劫回帰というのは空論とはいえないでしょうが、そうしますとお決まりの空論しかなくなるんです。
これはすべてを大地に叩き落とし貴さを奪うものです。
無論、永劫回帰という教説自体もそうですし、神は死んだというのもそうです。
ニヒリズム極まれりですね。
そもそも神こそニヒリストであるというのが私の見解ですのでさもありなんという感じですが。
神こそが低俗な大地の意義を認め、むしろ大地こそが貴いのだと思われているんですね。
これは老子の水による比喩に似てます。 非現実的なるものが現実を支持しており、
神聖なるものは大地を住処とします。
それは地獄から大地に昇りますし、天から大地に降臨するわけです。
>>323 >理性というのは非現実的なるものを分析し現実化するものですし、
>また信仰というのも非現実的なるものを現実視しようとするものですから、
>両者は同様の働きをしているんですね。
だいたい言おうとしていることは分かるし、その通りだと私は思います。
他の人が間違っていると思うのは、あなたが間違っているからではなく、
厳密さを欠いたまま端的に言い過ぎていてなぜそうなのかが分かりにくいからだと思います。
以下は私の考えですが、参考にして下さい。
理性というのは、あなたが非現実的存在と言っている混沌とした、無秩序な領域を、
分析し、関係付け、抽象し、概念を形成することで秩序的なものにしようとする働きです。
そしてそうやって既に形成された概念に則って思考していく働きです。
(哲学者や芸術家ではない一般的大多数の人は、だいたいは概念化された後の世界しかみていないから、
そういう意味では概念化後の世界をあなたのように「現実」と呼ぶのは正しいでしょう。
ただ、人に伝えるときに語弊があるかもしれないから、注意するべきでもあります。)
一般的多数の人は、前概念的な世界をあまり見ないし、だから混沌とした領域を
自分で秩序付けるということをあまりせず、既に出来た概念を覚えるだけなので、
一般的多数の人の理性の働きは、既に作られた概念に則って思考する働きに限られます。
既に概念によって秩序付けられたものである現実の真偽は、もちろんその概念の真偽に依るのだし、
その概念はあくまで相対的なものでしかないのだから、その現実を何の疑いなく受け入れるのは、
あなたの言うとおりある意味「信仰」だということもできます。
一部の宗教家や神秘家と、多数の信者の間では、神に関しては全く別のものを見ています。
開祖や神秘家は、直観で具体的に神を捉え、その神の属性を説明し、それが後に教義となっていきますが、
一般の信者は直観で神を捉えるのではなく、既に教義となったものを信じているだけです。
そういう意味では、混沌とした領域が秩序化された後の概念を覚えるだけの大多数の人と、
神という恐ろしい一点を悟った人が言った言葉をただ信じるだけの信者は、同じようなものです。
どちらも、疑って根源的なほうへ遡ろうとせず、直観で混沌とした概念化以前の領域へ触れようとせず、
既に出来上がったものを信仰しているといえます。
東洋では科学や発展しなかったことが示すように、キリスト教信仰の世界観が近代以降の合理主義的な世界観の元になっています。
神を直覚せずただ信じるだけ、神を人間とは別次元の彼岸の絶対的存在に置く世界観が、
人の認識論的な認知構造にも影響を与え、合理主義、理性の肥大へと繋がっていると思います。
産業にしろ産業に
ゴモラスピード嘘SIN宇宙戦艦ゴモラ登場篇スーパースペースバトルシップ大ゴモラ大銀河シリーズ超宇宙戦艦■大ゴモラ零号グレートゴモラ新宇宙戦艦ゴモラ復活編ジャイアントゴモラ
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そんなことよりも、この先どうやってお金を稼ごうかしら
霞を食って生きてけたらなぁ
>>333 お金を稼ぐことよりどう生きていくかを考えなよ
そうだね
どう生きるかの戦略が必要か
神を見たこともない者が神を神だと思うきっかけや理屈や直感は何なんでしょうかね。
>>329-330 こんばんは。
無益な戦いはお嫌いですか?
私は比喩的、現実的な人に向けて書くつもりはあまりないです。
ところで早さんの敬愛するベルグソンは断罪されるべき存在だと思いますよ。
なぜなら一般的には死と呼ぶところを生と呼び、闇を光、苦を喜というように表現しているからです。
この表現が彼にとっては誠実なものとしても罠になることに変わりはありません。
語弊があるわけです。ええ。
各後者は直観的な収縮減速の果ての反動に過ぎないというべきです。
彼のは第一義的に死の哲学と呼ぶべきなんです。
生の哲学というのは副題なんです。
哲学というよりむしろこれは非宗教的な神学なんです。
彼が愛するのは神です。人間ではない。
ニーチェに比較しても余程危険です。
神は死んだという方が正しいのです。
中世の理性と信仰の同居から、理性と信仰の分裂、そして機械的世界観と無神論へというのは信という方向に向かう正当なる運動の軌跡なんです。
直観的運動の方向性は逆なので不正なんです。
ニーチェは不正でありながら正当に表現しているんです。
ベルグソンは不正でありながら率直に不正に表現しているんです。
幸い早さんの言説も比喩、現実、社会に価値をおく正しいものです。
>>337 全体的に色々な書き込みを読んだ感想なのですが、たぶんあなたの認識の方向性はかなり内側へ
向かいすぎている状態だと思います。内側へ、というのは言い換えれば、直観的な方向のことです。
言葉遊びとかではなく、考えることや書くことに感情的な苦を伴っていると思います。
あなたが直観していること自体は正しいのかもしれませんが、その直観知がまだ適切な表現を
見つけていないという印象を受けます。それでその言葉を見つけられていない認識が、
とにかく表現されることを求めて、無理やりにでも色々な言葉を選び、それがあなたの文章になっている。
もちろん勝手な推測ですが。つまり、直観していること自体はかなり深くて正しい内容なのに、
文章になると第三者からみると乱脈に見えて不明な点が多い。
自分の場合は乱脈どころではなく半年以上前は誰にも読めない言葉ばかり使っていました。
こういうときこそ、哲学を吸収できるチャンスでもあって、
自分が非言語的に感じたことは正しくてもその表現が間違っていることを批評的に自覚しながら、
(たとえばあなたがベルクソンが〜と言っているところが本当のベルクソンに当てはまることを
述べた言葉ではなく、あなたの心の中でまだ言葉で表現されていない直観的な内容を象徴している
言葉であるかもしれません)
いろんな哲学的認識を集めるべき時だと思います。
>私は比喩的、現実的な人に向けて書くつもりはあまりないです。
現実や表層の価値観や言語を疑ってひたすら直観の方向へ動くのも認識の種にはなりますが、
いつかは現実の方向へも関心を向けないと、ただ種だけを集めて草木にも花にもならないように、
認識を表現したところで誰にも理解されないということになってしまいます。
でも種が無ければ育つ可能性すらないのと同じように、内側へ向かい続けること自体はかなり価値のあることなので、
(似非知識人たちは考えているのではなくだた知った外的な事実や学説を並べてる以外の何もしていない!)
なんとかバランスを保つことが重要です。
>>337 ベルクソンは、たとえば知覚が起こっている場所が感覚神経ではなく対象の表面だと言ってしまうような
酷く特殊な人で、その思想が言葉で表現されたところで、一体何を感じていたのか分からないことが多い
のでなんともいえませんが、たしかに、彼は、深く色々なことを認識しているのに、
その時当然伴うはずの負のものを表現せず、いつも正の方しか表現しないので、
見た感じは楽観的な思想であるような印象を受けます。
でも表現はそんな印象がするけれど、洞察していること自体はかなり鋭く厳しいものだと思います。
直観的な精神の運動の反動に"すぎない"、というのではなく、その反動はかなり強い運動であるように思えます。
>ニーチェは不正でありながら正当に表現しているんです。
>ベルグソンは不正でありながら率直に不正に表現しているんです。
ここの所についてですが、ニーチェは内側へ向かいながら同時に外部の人間や具体的な事実関係を批判していて、
ベルクソンはひたすら意識が内向し、深く直観し続け、あなたの言葉でいう既に「比喩でしかない現実」には、
ほとんど向かっていない、と私は考えています。
哲学だけでなく社会的なことなども色々含まれている『二源泉』で語られているのも、
ほとんどベルクソン自身のイメージや観念の流動で、外的な事実との結びつきは、ニーチェと比べたらかなり弱い。
だからよくベルクソンは批判の対象にもなったのですが、そのイメージの流動の音楽のような運動性が、
ベルクソンの哲学の特長でもあります。
ニーチェの場合も外部の事実との結びつきが強くても、世界をかなり歪曲した形で解釈しているか、
自分の認識を無理やり外部へ投影しているような感じで、小説染みたところもたまにありますが、
でも裏返せば、こういう内向性のつよい直観的な思想が、世界を変えようとする力を持っています。
340 :
考える名無しさん:2007/11/23(金) 06:57:19 0
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r':::::il!i:ヾ::::::::::::::::::::ヽ-、
!::;:-`゛` `!::::::ミ::::::::::::::ヽ
r' ミ:ヾ:::::::::::::::::::::::i
l:: ミ::::::::ヾミ::ヾ::::::::!
ム..::::::::... . ヾ:r,r-、:::::::ヾ:::!
,.r.l::7:ヽ' 'ヾ゛ ' ヽ.lミ:::::::::l
l: ツ ヽ ' ´ノ lir::::::l
l ゝ ‐ ヽ ´ ''_./´ヾ、
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r:'r;/ "::'"l::...__,.::',.r'´ ,.i':::::::::;r':::::::::::::::::::::::::::::
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エイガーカ・ケッティ(Eighacca Ketti)
(1824-1901 イタリア)
ジンメルの
『ショウペンハウアーとニーチェ』
について意見をきかせてください
それにしてもここの住人は本当にニーチェが好きなんだね。
たいしたもんだ。まあ解釈理解の差はそれぞれだけど。
まあニーチェ研究の学者達も仲が悪いものだが、このスレの方がよほど勉強
になるぞ。
これからもいろいろな意見を聞かせて欲しい。
343 :
考える名無しさん:2007/11/23(金) 09:41:05 0
>>331 ニーチェの思想
真理なんてない。
ルサンチマンはだめ。
ニヒリズムを乗り越えろ。
キリストは教会にはいない、これが紛れもない真実であり真理
>>338 そのバランスをとろうとする振り子運動が芸術活動ですね。
ですからむしろ芸術家ほどバランスのとれてない不安定な人達もいないのだといえますが。
私は第一に芸術ではなく哲学というか神学を志しているので、
そのバランスをとろうとするのは目的に沿わないことです。
早さんは芸術第一なんですね。ええ。
物質は空間的な瞬間の意識、無意識ですが、
その一瞬一瞬ごとに宇宙全体を感知する超絶的な受動性、自動性をもっています。
そうしますと生と死というのは結局、存在、意識の濃度の違いにすぎないようにも思えます。
ところで芸術家的な卓越した技巧は根源的なるものへの運動の反動による物質化無意識化によっても獲得しうるかもしれません。
しかし出生時の物質化の勢いに勝ることは恐らくないのではないでしょうか。
創造的であるためには神に近づかねばならないし、
また無意識的で必然的で超絶的な技巧を身につけるためには物質化せねばなりません。
ですから芸術家は天地の間を振り子のように揺れ動かねばなりません。
347 :
考える名無しさん:2007/11/23(金) 16:12:49 O
ニーチェを読むには骨がおれたね。
何せ自分の持っていた価値感では読めないんだからね。
まぁおかげで何となくわかったことは、真理など正しい事なんてない。
だから間違いも無いってね。
ニーチェの思想を殆ど理解できるようになるにはどれぐらいかかりますか?
原点→解説→原点・・・・ともくもくと読み込むのがセオリーみたいだけど
こういうのってショートカットとかはやっぱり無理なのかな?
よく読書会に参加したり、分かってる人に付いてもらうと理解が早まるとか
言われてるけどそれって本当なのだろうか?
議論をすることによって哲学的センスを養うメリットは有りそうだけれど・・・・
存在意識が非空間的な時間性、持続だとすれば、
純粋なそれは数学的一点に意識が濃縮したものの永続でしょうか。
また物質は瞬間的な意識、空間的非時間性ですから、
無意識化物質化は時間の空間への変換、
意識化は空間の時間への変換ということになります。
で?
そんな事よりハロワ行かないと…
しかし数学的一点に意識が濃縮するということは恐るべしです。
それは神聖なる無限大の意識なんですから。
そういった意識が自己分析、自己分散をしてきているところだとして何の不思議がありましょう。
物質はその刹那で、そして私達はその原初の無限の意識の小一時間、いわば子孫なのではないでしょうか。
世界はその無限の時間性、すなわち永遠の分析的体系なのではないでしょうか。
我々の意識が小一時間で一塵となる儚いものだとしても、
我々の空間性を数学的一点に集めれば我々の時間性、意識は少なくともその空間性の分だけは、増大するでしょう。
ところで時間とは意識であるというのは誰もが直観的にわかりそうなことです
というのも意識的であればある程、時計が進まないという体験は普通のことでしょうし、
何より私達は毎日のように意識を失い無意識になっていますので、すなわち眠りますので、
眠ると時間が瞬間的になってしまうということを日常的に体験していますから。
つまり眠りとは意識の刹那化、無意識化、物質化なんです。
幸いにも死とはまさに文字通り「永眠」であるといえましょう!
路頭に迷ったらハロワにもいかずこの希望を胸に安心して切腹できそうですと言うだけ言っておきましょう。ええ。
私達の空間性、現実性、無意識が時間化意識化して数学的一点に無に近づいてまいりますと、
悶絶して死ぬ気がしてくるでしょうが、これは意識を気を紛らわそうとする死への意思、物質への、権力への意思なのでありまして、
実際には意識が生なので、死とは反対の極に向かい近づいているところで方向転換しようとしているのです。
必然性というのは意識の可能性たる意思が物質化したもの無意識化したもののことでしょう。
必然性自体は必然的ではないということです。ええ。
必然性は必然的じゃないんだ!僕は自由なんだ!これも自由だ…と言い残して線路に飛び込むのは衝撃的で面白い表現でしょう。
自由を求めた反動で服従と支配への、力への死への意思が高まり、
物質化必然化がむしろ加速してしまった人間の歴史を象徴するメッセージになるではありませんか。
ところで一滴の水の中に宇宙があるといわれ、人体―その宇宙などと表現されるということ、
つまり宇宙が再帰的な構造をしていてニーチェのいう永遠回帰を空間的に実現しているというのは、
神が無限であればおかしくないことでしょう。
で? 忘れました。思考し表現することで記憶を見失うわけです。ええ。しかし忘れるということ無意識化は幸いなことでしょう。
忘れるとはいえ失うわけではないんですがね。
だからこそ想起説や永遠回帰説が説かれるんでしょう。
思い出しました。ええ。
つまり無限を無限に分析してもその各部分もまた無限だということです。
ならば、私達も無限の神の一抹である限り無限なんです。
ですから一抹の空間性を失うということもある無限性を失うということです。
これは一抹とはいえ無限の空間の時間化意識化なのですから、
私達の意識も無限化しうるのだという恐るべき可能性を意味します。
神=宇宙ということですか
また神は宇宙の中にいて自分も永遠に回帰するのでしょうか
だったら神は不必要な存在ではないでしょうか
反動というのは避け難いものでしょう。
よくいわれるように快が苦につながり、苦が快につながります。
聖者などは王侯貴族出身者、リッチな親をもつ人が多いようですね。ええ。
ですから白痴化への意思、信仰も逆に啓示につながるのかもしれません。
啓示は無論、信仰につながりましょう。
そしてまたといわけですから、反復しつつ、神に近づいていくわけでして、
螺旋階段を登っていくような感じになりますね。
一見あほくさいような永遠回帰的な反復の中にこそ差異が生じてくる、発生があるわけです。
この二項対立的弁証法的反復運動の止揚は芸術的反復と呼べましょう。
歴史は再帰的であるといわれますが、
歴史はこの芸術的反復なのではないでしょうか。
反復や復習こそ大事だということは特に秀逸な人々の間では共通の認識になっているようですが、
これは些細ではあるかもしれませんが反復こそが質的差異を生み出す創造的なものなのだと解釈すればなるほどねって感じではないでしょうか。
反復は創造的であるといえましょう。
反復は弁証法的な産婆術であるともいえましょう。
歴史を押し進め創造的進化をもたらすのは弁証法であるともいえましょう。
弁証法は一なるものを否定する反動の反復です。
つまり差異化なのであれば、
弁証法が差異を生む
というのは同語反復的命題のように真理なのです。
>>356 確かに私は凡神論とかいわれるものに傾いております。
神が宇宙ならば神がいなければ宇宙はありませんので、あなたが存在するためには神を必要としますね。
神こそが永遠回帰しているのだというのはありそうなことだ思います。
ただ神は無限ですので、永遠回帰というのは実際には永遠の創造と破壊になりましょう。
神の無限性にこそ反復の創造性(あるいは破壊性、つまり差異性)の由来があるといえるからです。
いわば「同性」に差異性があるという矛盾は神という一なる無限生に由来します。
とはいえ神=宇宙となりますと全ては神由来ですが。
宇宙は神の成す弁証法といえましょう。
宇宙は一なる無限性の差異化ですから、同語反復的な偽りなき永遠の反復のようで、
実は弁証法矛盾による永遠の差異化なんだと思います。
矛盾するからこそ創造と破壊、生滅があり差異化するというのは合理的ではないでしょうか。
まあしかし永遠の差異化は永遠の相の下ではやはり永遠回帰ともいえましょう。
どうも誤読したようです。
>>356 あなたは神=宇宙を神が宇宙の「中」にいるという部分的の解釈をしていて、
それに単純な永遠回帰の解釈をあわせますと、神自身は無意味、不必要という不敬極まりない解釈になるのでしょう。
=という記号の意味を今一度確かめてみてくださいね。
早さんのご忠告通り反省してみますと、
同性って同一性というべきであることに思いあたりました。
どうも「差異と反復」を読む前からパクッてしまったのかもしれませんね。ええ。
どうなんでしょうか。正に皮相な解釈なんでしょうか。
まあしかし神=宇宙というような同語反復的な世界の正しさは、神の無限性によって半ば崩壊するでしょう。
すなわち∞=∞という命題はよくわからないのですが矛盾を孕んでいると思うわけです。
そしてこの矛盾によってこそ創造と破滅がありうるのであり、
その常に真であるべき同語反復的命題も差異化するのであって、
∞=∞ は同時に ∞≠∞ になるのです。
これがニーチェが真偽や、善悪、虚構と創造を同一視する所以ではないでしょうか。
善悪の彼岸とは神性な領域のことでしょう。
私はそろそろ制限にひっかかる有限の存在ですので要点をまとめますと
無限が矛盾を孕み、矛盾が無限を差異化する
ということでしょうか。
世界は時間的にも空間的にもその差異を伴う再帰的反復でしょうが、
反復に時間がかかり、時間性が空間性に反比例(例えば光速に近づくと時間が遅れるとか、象の時間の流れは蟻の時間のそれよりゆったりしているというような)するとすれば、
宇宙全体が反復するには無限の時間がかかるでしょうし、
人類の歴史が差異を伴って繰り返されるにはそれ程時間がかからないのですし、
人生が差異を伴って繰り返されるには余程時間がかからないというわけです。
>>351あたりから、時間、空間、無限、必然、自由という言葉が見られるようになってから、
少なくとも私にとっては、さっぱり分かりません。それまでは、なんとなく読めていたのですが。
抽象的な言葉というのは、使う人にとっても色々な意味で危険であると思います。
ここにニーチェ関係以外のことについても連投することを抑えられないということは
恐らく混乱の状態にあるのだと察しますが、とくにそういう状態で、
抽象語や〜性、〜化、〜的というような言葉ばかりで思索したりするのは、更なる意識の混乱を招くかもしれません。
時間、空間、宇宙などについて考えるのは一度控えておいて、
一度心が落ち着いてからそういうことに関心を向けた方がいいような気がします。
興奮してるときや混乱しているときにそういうことについて読んだり考えたりしたら、
間違って読み取ってしまったり思い込みが激しいくなってしまいやすいです。
こういうことはかなり精密な思考を要するからです。
一度心理状態を落ち着けるために、御自分の心を考察の対象にしてみてはどうでしょうか。
自己認識することも哲学や宗教の分野ではかなり大事なことだと思います。
心理学を勉強しながら心を内観すれば、単に自分を見つめるとかではないのはもちろん、
心理学の知識を得るというだけでもなく、普遍的な人間の心理のプロセスを知りながら同時に自己認識が深まります。
最近の心理学は、疑い得る色々な前提の上に構築されているし、現代的な人向けというのもあって、
哲学の立場からみたら明らかに全然駄目なものになってしまっていますが、
ユングの心理学の方法、心の動きそのものに沿って説明する方法は、今も昔も時代を問わずかなり普遍的に人の心理を説明できる優れたもので、
ただ単に人の心理や人格を無理やり概念に当てはめる現代の心理学とは違って、
どんな心理状態にも柔軟に対応できる流動的な概念で出来ています。とくに宗教的なことに興味があるならお勧めです。
心理学的類型(タイプ論)には定義集のようなのがあって、抽象的な言葉にユングがどのような意味を与えていたかが載っています。
意味が曖昧なままで無闇に抽象語を乱用するのは危険なので、そういうのも参考にしたらいいと思います。
ニーチェの『人間的な』にも色々な心理洞察があって、ニーチェの方法の特徴は、普遍的に人間の心理を穿つような鋭い洞察を、
抽象語ではなく具体性の強い言葉で行っていることです。抽象語ばかり出てくる傾向を抑えるにはいいかもしれません。
苦しい時は、『悦ばしき知恵』の言葉が薬になると思います。
とにかく、まずここに書き込まずには居れないような状態を落ち着けることが大事だと思います。
無限というのは無限である以上、わかり尽くせないはずです。
つまり無限分析可能性であります。
またこれは直観をも退ける直観不可能性でもあるでしょう。
なぜならば瞬間的に全体を捉える直観ではありますが、
無限性は限界、輪郭の欠如なので非全体性なのですから直観的にも把握しきれないのです。直観を超絶しているわけです。
上記の議論は無限性を内包しているとはいえ有限の存在の認識能力を前提にしていました。
では歯には歯をということで、無限なるものならば無限をつまりそれ自身のことを知ったり、
直観したりできるのでしょうか?
恐らく無理でしょう。
無限は無限であるとは必ずしもいえないからです。同語反復なのにもかかわらずです。
きりがないということは等しいとはいいえないということです。
つまり∞=∞&∞≠∞という命題が真であるとも偽であるともいえないということ、
すなわち矛盾を孕んでいるということだけは確実なのです。
無限性は矛盾を永遠に孕み続けねばならないわけです。
全知全能といわれる無限の存在が自己自身を把握しきれない汝自身を知りきれない、身ごもっている矛盾を産み落とせないという不可能性によってこそ、
この宇宙は永遠回帰するのではないでしょうか。
神はご自身を神であるとも信じられないし疑うこともできないのです。
不安なんですね。人格化しすぎみたいですがね。ええ。
絶対者に永遠に孕み込まれている矛盾と不安、自己差異化可能性、自失可能性(
ニーチェすれですから神としての立場がなくなってしまうかもしれないという権力への意志)
に基づく方法的懐疑としてのその
自己分析、創造的差異化、創造的変換、無限構造化多様化空間化希薄化、
そして世界化した神の時間的無限性、存在感を取り戻すための方法的信仰としてのその
構造破壊、空間の時間化濃密化存在化、破壊的差異化、偶像破壊的変換の
反復運動中なのでしょう…
で?
早さんおはようございます。
では、反省しますが、
方法的懐疑と方法的信仰は、
方法的というからには両者ともに不確かなことへの不安に基づいている実験的で知的な性格のものです。
確か私は以前、現実への分析的方向性を信と呼び、
非現実的なるものへの直観的方向性を疑と呼びました。
今度は、信の方向性を方法的懐疑と呼び、
疑の方向性を方法的信仰と呼びました。
ここに自己矛盾と不安があるようです。ええ。
>>360 というより「神は細部にやどる」
という意味で
別の言い方をすると
全てのアトムとともにあるということです。
宇宙の中全体にあるということです。
宇宙の外には神は存在不可能ですよね
ところで
永劫回帰と神は両立不可能だと僕は思う
>>360神自身は無意味、不必要という不敬極まりない解釈
神が最初から存在しないのであれば
不敬も糞もない
関係ナイのでは?
371 :
百姓:2007/11/25(日) 12:32:19 0
お昼だし、とりあえず休憩を入れよう。
R.シュトラウス 《ツァラトゥストラはかく語りき》
でも聴くべ。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1973年録音)
ベルリン・フィルハ―モ―二ー管弦楽団
前にも同じようなことをかきましたが早さんのいう抽象語は本来豊穣なる直観的概念の表現、記号なんです。
キリストのいう神と、糞とみそを区別なくパクッてしまう豚のいう神では全く概念が違うわけです。
神の証明が要求されているようですが、今のところ私にはできません。
世界が神自身の神自身による神自身のための
不完全性と無限性と可能性としての矛盾を内包する進行形の証明なんだとは思います。
いわゆる世界という神仕様の書物を自ら解読できないような精神性では神を認めることは到底できないでしょう。
しかし神の不完全性というとおかしいようですが、神が無限であれば不完全なんではないでしょうか。
限界がないのですから。無限が可能性としての矛盾を内包していること、矛盾を孕んでいることは先に
>>367で一応証明しておいたつもりなので、
このことを取り上げてみても神が完全ではないということはわかるとおもいます。
差異と反復とかいって庶民の文庫のくせに上だけで1300円もしましたね。
せいぜい上下で1500円だと思いますが。
まあしかし遠い昔なら桁違いの高さだったわけでして。
やはり王監督的な徹底的な「素振り」こそ、
空虚にも感じられるという抽象的なるものこそがむしろ生を育くむ豊穣な大地なんでして、
具体的なるものこそ余程希薄で空虚なのだというようなことはちょっとしたパクリのようです。
というのもドゥルーズはニーチェやベルクソンなどをパクってるからです。
ところで確かにその大地はその濃厚さ故に極端においては闇だといえますが、
それはいわばブラックホールの如きものでして光を曲げ飲み込むにしろ光を放出する潜在性は太陽よりも高い光源なのだといえるでしょう。
そもそも「私」は具体的なものでしょうか。だとすれば死は近いはずです。
存在意識が滅法希薄化したものが無意識的な物質なんですから。
生体は純粋な意識と物質との間に位置するものです。
これは人間が考える葦であるということに通じています。
精神性と物質性というのは意識の濃度の差異にすぎないと思われます。
意識の濃度とは時間性の空間性に対する割合です。
意識の濃度が増すとは空間性の時間性への変換や無意識の意識化のことを意味します。
ですから私達人間は空間性が比較的低めなので考える葦というか考える不調和なんですし、
動物や植物、自然は形態的にいって人間より調和しており意識的なんです。
形態は無意識化した意識、眠りにおちた安定した意識だからです。
美人が猫的な目をしており動物的な可愛い精神をしているということは観察されるところでしょう。
そして本屋のレジの非美人などは比較的精神性が高かかったりして、さらにそれを高めようとして生まれつきの肉体的不調和に日々磨きをかけているものなのでしょう。ええ。
神の存在証明に成功した哲学者は古今東西誰もいない。
カントだって証明できなかった。
でも本当は彼は無神論者であると思う。
ヘーゲルだって神をある意味トートロジーの檻の中で証明したにすぎない。
結局信仰という手段で個人の内面で信じる以外にない。
これは証明ではなく
神が存在しているというその人間の心の中での確信に固執するだけの問題ではないのか。
信じる人は信じ
信じない人は信じない
これはすべての宗教に通じるこの世の通説ですよね
証明は前提が必要なんですから神の証明なんて土台無理です。
神が私達の観念も含め全ての前提なんでしょうから。
神はこの世の因果関係の初めの原因なんですから、
他の何かから論理的に神を導き出すということは不可能なはずです。
まあですが神は証明不可能であるというのも神の超越性をわからせてくれるものです。
神を前提にして存在する全てを導出できれば、間接的に神の存在証明になるでしょうが、これも人間の能力では不可能です。
しかし実際に神というのは積み重ねてきたあらゆる認識を紐解くような公理となるような直観的認識のことなのかもしれません。
しかし、やはり神が無限なるものだとすると、
神からでたものが無限であってもおかしくないですし、神から神がでてくるなんてことも考えられますので、
全ての前提たる神を証明することはできるかもしれません。
つまり被造物の中に無限の存在を、神を見いだせればそれが証拠になるわけです。
なるほどキリストが神の子でありながら神というわけなんですね。 ええ。
そういえば人を納得させる証明は論より証拠でしたね。
特に神を証明するのは論より証拠によるしかないでしょう。
ドゥルーズの表現は抽象語が多用されていますがそれでいて文学的である程度まで詩的といえるものだと私は思います。 抽象語の織りなす劇なんですね。
こんなのみたことがないです。
早さんが鑑賞してみれば、
生命というのは形而上学的なるものであって具体的なものではないと断言されてる気がして不愉快になることでしょう。
ニーチェが永遠回帰というようなことをいうのは上で述べたような無限性を現実に観たからでしょうか。
切腹するというだけというような喜劇的なことにも悲劇的なことにも糞にも味噌にも永劫性を認めた。
これが神が死んだ証拠になったんでしょうか。
ベルグソン的にも現実化無意識化が死ぬことでしょうし。
現実に永劫性を認識したなら、私はしてませんが、現実は神の屍であるといえます。
俺は神を
見たことがない。
糞なら毎日みてる。
糞の実在は信じられるが
神の実在は実在ということに関しては糞以下だ。
永劫回帰もそうだな。
でも神の存在より永劫回帰のほうが現実的だな。
人は生まれながらにして皆恐怖心を心の根っこに持ってるものだよ。
その恐怖心から逃れたいが為に神という証明できない存在に意識的に依存しちゃってる
また有史以前から、人は「対象」的なるものを作りたがる性格があるから神の存在にしたって、物質にしたって必然的に発生した概念だと思う。
だけど、
>>380のいうように生命も神も形而上学的な存在であって決して人間自身が知覚し得るものではない。
ただ一つ言えるのは僕たちがこの世界を、この現実を生きている、ということだけ
もう一ついわねばなりません。現実の本質は形而上学的存在だと。形而上学的力に突き動かされていると。
それってニーチェが批判した
裏世界を捏造して現実より優位におくことなんじゃないの
>>386 一元論的凡神論的に同列に置くものです。
>>372>>374 >抽象語は本来豊穣なる直観的概念の表現、記号なんです。
>空虚にも感じられるという抽象的なるものこそがむしろ生を育くむ豊穣な大地なんでして、
>具体的なるものこそ余程希薄で空虚なのだというようなことはちょっとしたパクリのようです。
私は似たような、でも少し違う考えを持っています。
一般的に具体的現実的と見做されている経験は既に抽象の産物、概念、言語、常識によってかなり色褪せてしまっていて、
一般的に抽象的だと見做されているようなことが"真に"具体的な根源的なもので、
ただ、それを表現するには、どうしても比喩や抽象語を持ちいらざるを得ない、という考えです。
("所謂"具体的なものと、"真に"具体的なもの根源的なものを、分けて考えています)
下品な喩えですが、オルガズムという根源的な感覚を普通の言語では上手く表現できないのと同じようなことです。
一者との合一、全生命との一体感、神秘体験などが、最も高級で強烈な体験です。
神秘体験をした人にとっての神は、信仰の対象としての神ではなく、本当の具体的な神です。
単に信仰の対象として神をみること、対象と自分の距離が離れているのに都合よくその距離を理屈で埋めようとすることが、
事象を対象化し、事象との距離を置おいて、事象を概念として捉え言語的に思考する、理性の肥大を、引き起こしたと考えています。
>>380>>385 私は、"真に"具体的なものは形而上学的なものだと思っています。汎神論は好きです。
私が「形而上学的」というときは、ニーチェが批判した形而上学ではなく、ベルクソンが『形而上学入門』
でいうところの形而上学です。
現象の背後に超越的存在を仮定する学問のではなく、
現象が既に神秘的で恐ろしくて謎めいているということを直観する努力のことです。
ニーチェは晩年に近づくにつれて「直観」や「根源的一者」という一元的な言葉を使わなくなり遠近法主義へ移行しましたが、
それはたぶん、結局は直観も感覚に基づいているということを認識したからだと思います。
私は、直観とは、最も純粋な内的感覚だと見做しています。自分の生命を純粋に直覚することです。
そのためには、感覚や直観を邪魔する概念や言語や記号を疑わざるを得ません。
一般的にいうところの具体的なもの現実的なものは、既に抽象化や比喩や概念の産物を通過した上での具体的なものでしかない。
りんごを見たとき、りんごという言語でそれを呼んでりんごの性質を頭に浮かべた時点で、
その人はまったくりんごに対して抽象的に接している。
真に具体的にりんごに接するなら、かたちや赤い色のニュアンスを全て把握し、香りを感じ、
最終的にりんごに感情移入する、そういう方法以外に方法はない。それが形而上学です。
私は最高に気分が高ぶったとき、飼っている猫を見ても、猫が外で捕まえて咥えてきたカナブンを見ても、
五感がやばいくらい鮮明になるだけでなく、それらが自分と全く同じ命をもっているということを実感し、酷い感動に囚われます。
そういうときに新世紀エヴァンゲリオンの劇場版を見てしまったときは、朝まで情動の発作を起こしました。
禅僧は、草木を見たとき、風を肌に感じたとき、それらの命と自分の命が同一であることを感じます。
ゴッホは絵を描くとき、自然界に没入し、異常な高揚を体験します。
LSDなどのドラッグは宇宙との一体化、神秘体験などを引き起こします。
こういうのがベルクソン的形而上学です。宇宙との一体感、全ての生命が一つであるということを直観することです。
草木を見て心が深くから動かないなら、その人がいくら具体的に草木を見たと行ったところで、
全く抽象的にしか接していません。一般的に具体的だとされている経験も、抽象の産物に濾過された上での経験でしかない。
原始人は、自然界と自分を隔てる概念がないから、どこに境界があるかなんて分からない。
それが本当であって、肌が自分と外界の境界だなんて思っているのは、単なる既成概念による思い込みでしかない。
直観を本当に突き詰めるなら、すべてのものが一つの命だということに気付きます。
草木に対して形而上学的に真に具体的に接する唯一の方法は、
5感でその草木を体感し、さらにその草に自分と同じ血が通っているということを直覚することです。
ベルクソン的形而上学とは対象との距離を0にすること、一切の概念を拒絶して対象に主客合一的に接することです。
猫も虫も草木も自分も、全てが一者であることを悟ることです。これが真に具体的な対象への接近です。
言語が概念である限りは、直観的なものを表現するには、神秘主義のように視覚的な比喩を使うか、
哲学者のように抽象語を使うか、音楽による陶酔など以外には方法はない。
一者と普段の一人称の関係を比喩で表現してみます。宇宙という球体があってその中心点が一者の一人称で、
その球体の表面近くを、平面で切断すると、球の表面の一部と円に囲まれた立体
(コンタクトレンズを平たくしたような形)ができます。
その立体の底面にあたるその円の中心点が普段の"私"。
他の平面で同じように球体が切断され、同じような半レンズ型の立体がたくさん在って、
その底面の円の中心点はそれぞれの他人の一人称です。
でも、どの半レンズ型の立体も、どの個体も、宇宙という球体の表面に過ぎない。
宇宙という球体の中心を自分の一人称と同一視したとき、その人は宇宙と一体化、根源的一者と合一化する。
そういう時にこそ、全ての生命が本当は一つであることを感じ、真の形而上学が達成させられる。
一者との合一は、新世紀エヴァンゲリオンでいうATフィールドの消失で、
劇場版ではそれを視覚的に表現して、肌が解けて液体になっているけれど、
あれはその合一の比喩的視覚的表現であって、精神的に自他の壁が無くなることが根源的一者との合一です。
『悲劇の誕生』でいうと、「固体化の原理」の消失、第一章の「・・・マーヤのヴェールもひきちぎれてしまって、ぼろぼろになったまま、
神秘的な根源的一者の前にひるがえっているにすぎないかのように、ただ一体と感じるのである。」
第五章の「およそ真に存在する唯一の永遠の自我、事物の根底に根を据えた自我、もろもろの似姿を通して、
叙情的天才が物事の根底を見抜く大きい自我なのだ」
(「大きい自我」とは上の比喩の宇宙という球体の中心点、ユングの「自己」)
ニーチェは芸術家的感覚的な天分を持っていたので、根源的一者との合一は叙情的天才の芸術活動やギリシャ悲劇において
ディオニュソス的に為されると見ていましたが、私は、神秘主義や禅やインド哲学においても為される、
つまりどの分野においても高度な精神活動や天才によって全生命との合一は達成され、表現されると思っています。
マイスター・エックハルトもユングもアルキロコスも尾崎豊も全く別の方法ではありますが全生命と合一しています。
ニーチェが罵殺した神は、信仰の対象としての神という捏造物であって、
真の神、根源的一者は、宇宙の抽象以前の姿のことだから、宇宙が消えない限り無くならない。
ベルクソン的な意味で形而上学的に宇宙を感じるのは、一般的に具体的現実的だと思われている経験よりも、
はるかに具体的な体験で、普段の所謂現実的な経験は、概念や言語など抽象の産物に濾過されてしか経験されません。
(概念や言語は感覚にまで悪い影響を与えていて、芸術家の純粋な五感と俗物の低劣な五感はまったく別物で、)
(抽象の産物や一般常識を経た五感が感じる"現実"など陳腐な色あせた世界)
それに比べたら、絵をじっくり見て深く感動すること、風や動物が自分と同じ命を持っている
ことを直観することは、抽象の産物を排した真に具体的な経験。
でもそれを言語、抽象の産物で表現するには、比喩や抽象語という特殊な言語を使わざるを得ない。
何故なら、抽象的で、真の具体から人を引き離し、人類を機械に仕立て上げ、生命が何であるかを忘れさせ、
根源的な恐怖を誤魔化し、吐き気を催すような概念のガラクタで脳髄を麻痺させ、腑抜けの俗物を量産する、
憎悪に値するものは、まさに言語であるから!言葉などこの宇宙から消えやがれ!嘔吐嘔吐!
ってたまに言語を本気で憎悪したくなる。
>>372>>374 「無限」「永劫回帰」についてはあまり考えたことがないので、あなたが何を感じているのか一部しかわかりませんが、
>抽象語は本来豊穣なる直観的概念の表現、記号なんです。
に関しては似たような考えをもっていて、抽象語を嫌っているわけではありません。
でも、象徴や抽象語というのは直観的で根源的あると同時に「危険な」ものでもあって、乱用すると大変なことになります。
実際に今、あなたの精神状態はここへの連投を抑えられないということからみて大変そうです。
それを読んで、書き込んでいる私も、また、大変に、病的になりかけてます。
根源的なものというのはゆっくり、一般的多数が立脚している意味体系との関わりを保ちながら、接していかないと、
危険であって、急すぎると、誰も自分の言葉を理解できないという、狂人になってしまうので、
なんとか抑えないと大変です。
別に大変じゃないですよ。
ここ10年間では一番楽ですからね。
それこそ発狂した証拠かもしれませんが。
まだ殆ど読めてませんが「差異と反復」って要するに継続は力なりなんて話だったらどうしましょう。
まさに哲学は役にたたないという話になってしまいますからね。心配ですね。
反復が持続、生、存在、永遠につながり、
永遠は同一的であるにもかかわらず差異矛盾を内包しているために、自己の限界の突破口ってな話だったら。
継続は力なりってことだろっていわれてしまう。
>>392 そうですか。大変なのは私の方だったみたいです。
ちなみに、禅的な悟りというのは、もちろん人によって個人差はありますが、
それに至るまでは苦しくて恐ろしくてどうしようもない大変な体験を経ることがあっても、
いったん自分と宇宙の一体の境地を悟れば、かなり楽になって、自由に気楽に生きていけるみたいです。
ただ自分と宇宙の一体の境地を精確に言語化するのはどうしても大変らしく、そういうときにこそ哲学的な知性が求められる。
私は、限界まで意識を深化させたい、それを言葉で表現したいという欲求があるので、いつも大変です。
禅では、言葉で表現することは求められず、沈黙のみが求められます。
>>393 同じことについて思索することを反復してても、新しい発見があるかもしれない、ということになって、
哲学することが無駄ではない、とも言えるような気がします。
仏教で同じお経を何度も読むのは、難解で晦渋な言葉を、一度読んだだけでは理解できなくても、
何度も唱えている内に、身に染みてくるし、新しい理解があるかもしれない、そういうのもあると思います。
反復すればするほど私達の内部で葛藤が起きてきます。
持続しようという意識ともう無理という意識が弁証法的に対立してきますね。
この反復における己との戦いが、己の差異化なわけです。
哲学はお金にならない…?
397 :
考える名無しさん:2007/11/26(月) 23:23:47 O
>>394 そうですか、悟ると楽になるものなんですか。
耳寄り情報ありがとうございました。
ところで反復といえば心の仕組みドットコムさんなんですよ。ええ。
もうおまえらはまとめて宗教板で死ね!
>>397 ageるところをみるといつもの人ではなく成りすましの香りがする。もしそうじゃなかったら勝手に疑ってごめんなさい。
心の仕組みドットコムさんは、差異がない。何も変わらない。何故なのかわからない。
私はもう来ないといいつつ何度も反復して書き込んでいますが、書き込むたびに変わっている。
言葉を賭博台に乗せて神にサイコロを振ってもらうような刺激が欲しくて、だれがどんなレスしてくれるか楽しみで、
そのレスの言葉によってどう自分が変わるかが楽しみで、つい、わくわくした気持ちで、衝動的に書き込んでしまう。
そして迷惑で自己中な荒しをしたと後悔する。でもレスしてくれた人にはとても感謝する。
なぜあの人は、ずっと変わらないのか、本当に、謎。変わることはいいことなのに。
あの人は「悟る」ってよく書き込んでいるけれど、
本当に世界を直観したら、自分は固定的な真理なんかに囚われ得なく流動し続ける可変的存在だという自覚が生まれてくるはずなのに。
>>398 宗教板は知的な誠実さを欠いている。ただ信じるだけの宗教ほど非宗教的なものはない。
本当に宗教的な人は、神を信じるのではなく、「自分が神である」ということに薄々気付いて不安や恐怖に陥るはず。
そしてその体験を知的な誠実さを保ちつつ、しっかり哲学的に言語化したいという欲求がくるはず。
ニーチェに埋葬された神は、信じる対象としての神であって、本当の神ではない。
その神が死んだからといって、科学的合理的にしか世界を捉えようとしないのは、根源的な恐怖を誤魔化そうとしているとしか思えない。
本当の神は、信じる対象でもなければ、人格をもった仙人のような人でもない、非人称的なものであって、
神を知ることは、宇宙や命を本当に純粋に感じるという恐ろしい行為。
哲学を欠いた宗教も、宗教を欠いた哲学も、だめ。
日本人が神がどうのこうの言い出したのは江戸後期辺りからだろ。
>>399 sage忘れることもあります。人間だもの。
ところで自分の限界を超えてみせる、自分の限界に挑戦するとかいいますが、
これは無限化してやるぜ、いまに見てろよギャフンといわせてやるぜってことでしょうけど、
こういった超人化には無限に連なる反復、持続、継続しかないのかもしれませんね。
反復は正に有限性を否定していく運動、全くの無限への道のりなんですから。
>>399 早さん。貴方は現実を失うことなく冷静に考えて行動する未来の引率者です。
>>401 どんなに強人でも・・・・・・・。
やはり人間は弱いですからね。
私自身がそうですしね。
もう、黙っちゃいません。黙ってると好きなように扱われます。
どんなに踏まれても、私は行動で表すことにします。
ヒトラーではありませんが、やはり最後は自信の行動力なのかもしれません。
>>402 弱いですよ、人間だもの。
雑草を尊敬したりすることもあります。ええ。
>>402 >早さん。貴方は現実を失うことなく冷静に考えて行動する未来の引率者です。
遠くの人に対してこういう感情を抱くのは、その遠くの人自身が本当にそうであるからではなく、
その人の言葉によってあなたの心の深くにあるものが動かされているからだと思います。
私はよく、表現者に対して所謂「信者」になりやすい気質で、本気で尾崎豊が世界を救うという妄想を抱いていたことも
あったくらいなのですが、そういう感情は、ユング心理学的にいう「自己元型」を尾崎豊に投影しているからだ、
ということを自覚しました。
自己元型のイメージを誰かに投影すると、その人が本当に人類的な人に思えてしまいます。
でもそれは間違いで、そういう狂信は、新興宗教の信者がリーダーを妄信しているのと余り変わりません。
でも自己元型を誰かに投影すること自体は価値のあることです。
重要なのは、その崇拝的感情がイメージの投影だということを見抜き、心理学的に言うと、無意識を意識化することです。
心理学の述語を使わないならつまり、私に対して感情的になっているのだったら、
ただ単にその感情に押し流されて私を未来の引率者だと思い込むのではなく、
その感情の元になっていそうなものをしっかり冷静に解析し、その意味を考えることです。
その感情に突き動かされて厄介なことにならないよう、是非気をつけて頂ければ幸いです。
本当の引率者というのは、哲学や心理学に通じているだけでなく、社会的な人格も優れた人です。
私は人格的には未熟で、学校でもどこでもよく問題を起こすし、親をよく泣かせるし、現にニーチェスレを荒らしました。
哲学や宗教の素質と、素晴らしい実際的人格を持ち合わせた人というのは、本当に珍しく、
私がユングやベルクソンを尊敬しているのは、彼らが、患者に対しても親切で親身になって治療をしていたから、
あるいは社会的な貢献もしていたから、です。
>>394 禅的な悟りが何であってなぜ沈黙をよしとするのか君はわかっているのか?
>>405 語らない禅者がどういうかはもちろん知りませんが、
私は、禅的な悟りとは、自分が宇宙と一体化することだと思っています。
もちろん禅者でない私は、自分の体験から解釈する以外に方法はないです。
恐怖を伴うときや恍惚を伴うときどうしようもない悲しみを伴うときなど色々ありますが、
何度かそういう宇宙と一体化したような境地を体験しています。
神を信じるか信じないか以前に、自分が既に仏であり神であるというような感じです。
その体験の前後、虫を見ただけでも、ちょっと散歩しただけでも、本気で感動します。
酷い感動だけれど、興奮的な感動ではなく、とにかく命を強く感じているというような感動です。
こういうのは比喩や哲学的な言葉以外では表現のしようがありません。
禅についてのことを読むと、きっと禅者も同じような自分と宇宙と神の全てが一体であることを直覚しているんだろうな、
草木も風も太陽の光も自分と同じ命として感じることができるんだろうな、と思っています。
それ以外には、禅が何であるかを知っているという根拠はありません。
なぜ沈黙をよしとするのかは、こういうときの感覚は禅に限らず共通でそれが言葉では表現され得ないというのもあるし、
語られるべきものではなく、あるいは語られることなんて二次的な意味しかもたず、
そういう境地を体感し、その体験を生きられることが最も重要であるからだと、思っています。
>>404 大丈夫です。
私は決して新興宗教に走ったりいたしません。
このスレではいろいろ誤解を招きかねませんが、私は旧仏教の信者ですから
(創価学会ではありませんので、あとはご想像に)
またニーチェは宗教まで否定してるんだぞ!
なんて
難しい議論をふっかけないでね(^^;
困っちゃいますから(^^)
>>407 人の書き込みに対して過剰な解釈をして、
色々と自分の考えを連ねてしまうのはいつもの悪い癖です...
気を悪くさせてしまっていたらごめんなさいw
無限性は非同一性、他者の欠如、つまり純粋な同一性です。
なぜなら逆に有限性とは非同一性、他者と接しているということ外部をもつということだからです。
外部をもつということは有限だということだからです。
ですから無限の存在とは虚無における存在なのです。
無論、虚無には障害となる乗り越えるべき如何なる壁もありえませんから、
虚無においてはいかなる存在も無限なんではないでしょうか。
孤独な存在が無限であるしたらこれはどういうことでしょうか。
存在が単なる持続であり時間であり無限だとすると、
存在は瞬間の連続、反復だといえます。
人間にとっては虚しくてやりきれない徹底的な反復が無限の存在に通じているということではないでしょうか。
ところで無限なるものがそれ自身に関係するとき、すなわち自己に目覚めるとき、
矛盾が現れ、つまり自己矛盾し、差異の火花が散るのでしょうが、
この自己破壊が創造なんであり、この光がいわゆる生なんではないでしょうか。
怖くなってまいりました。
ちょっとちょっとですが。
ドゥルーズの「反復」ってやっぱり反復は力なりって感じみたいですが。
powerってのに累乗をも意味させているのが示唆的です。
自分に自分を掛け合わせること…。
それが力であると。
虚無についてだったら
哲学書なんかより
「死霊』なんかよんだらどうでしょうか
人間が同一なるものを無限に欲するということ、反復を欲するということ、
これは一種の排他主義でして差異の排除、関係性、相対性の排除につながります。ナチズムにもつながるのでしょう。
他者の限界としての機能の消去。虚無への失墜。
そこで初めて厳密な意味での反復が無際限に始動するわけです。
厳密にいって同一性は他者によって失われるからです。
虚無における存在は絶対的ですから、同一なるものの反復です。それは単なる「今」という一瞬の反復でして、
その無限の系列は持続、存在、永遠といえますが、
それでも今しかなく、すなわち今が厳密なる一瞬であるならば、その累乗も一瞬といえるのであり、
反復される今と今の間は無限に隔たっていて無関係と考えられます。
そこに記憶はないでしょう。
この反復の同一性、すなわち無意味な反復にこそ差異と深淵があるのです。
そしてまた同一性というのは、あるいは存在というのは無意味な反復によってこそ成立するといえます。
すなわち無意味な反復が同一性と差異の母なる運動といえます。
反復は矛盾の母といえましょう。
矛盾は肯定的であると同時に否定的なものです。
今を常に新しいもの生き生きしたものとして創造しては、破壊する反復は神技なのです。ええ。
あはは
人生が永遠に回帰しようがしまいが
生き方を変えるひつようもないのでは。
私は私の生きたいように生きることにはかわらない。
永劫回帰に深遠を見る見ないは自由だ。
死後の不安な世界がないということで
再度この世に生まれ
同じ人生を無限に繰り返すことは愉快じゃないか。
「永遠の命」が神の属性であるように
「永劫回帰」が超人の属性なんだろう
普通の人間が永劫回帰を信じることはいいことだ
浄土を信じる凡人が巷に山といるように
永劫回帰を信じる人々がいっぱいいてもおかしくない。
永劫回帰は超人や深遠な人間の特権的思想ではない。
とくに宗教である必要はないことはいうまでもない。
他者に接し依存している「私達」は他者の介入、影響によって厳密には反復できないのだし、
同一性、自己をもたないのだし、存在してないといえます
そんな相対的で有限な私達がそれでも私達の限界、この相対性すなわち他者性、有限性に挑戦しようとしてともかく擬似的にでも反復しようと意を決するならば、
よくいわれるように多くを諦め切り離し、
集中せねばなりません。葛藤せねばなりません。
この弁証法的な自分との絶え間ない対立によってたどり着いた空虚において我思う故に我ありというものなのではないでしょうか。
空虚における反復はもはや擬似的ではなく同一回帰的関係、すなわち自己、実存になるのです。
累乗が反復になり自己実現になるのは絶対的な領域においてだけなのです。
「差異と反復」を読むのは何か怖い気がします。
わからないのが怖いのでしょうか、
それともわかってしまうのが怖いのでしょうか。
あるいはその両方でしょうか。
そういえば、こんな文句がありました。深淵に足を踏み入れる者は抜け出せなくならぬよう注意せねばならない。
深淵もまたその口を開きおまえをいざなっているからだ…でしたか。
死つまり永眠に近づくこと物質に近づくことは基本的に快楽をもたらしますが何故か苦しみが後に続きます。
苦しみは生の劣化に反する方向性をもつ運動、超回復です。
こういった反動がある以上、奴隷の道徳と主人の道徳のどちらの意志、ベクトルに師事してみてもそれが導く意識の変化、運動は同様の振り子運動、あるいはその運動の勢いを強めた環上の運動になります。
方向性の違いは差異を生みません。
差異をもたらすのは意志の方向性ではなくスカラー同質的ものの方です。
結局、いずれか一方を高く評価して己を律しようとすることは人の意志の勝手ですが、
そのどちらをとってみても、実際的には変わらないのです。
意志のスカラーが一定の大きさを超えることが差異を生みます。
そうなれば意識は動揺せずに生と死を結ぶ円軌道を永遠に描き続けるということになるのでしょう。
要するに意志を強くもて!という月並みな話が停滞しないためには肝心なのです。
知らない方がいい事もある…これ真理
私はまだ『死霊』を読んでいませんが、埴谷氏のいう「虚体」やショーペンハウアーが主著のラストで言う「無」よりも、
マイスター・エックハルト、ユング、ベルクソンあたりがよく言う「一者との合一」の方が、好きです。
たぶんどちらも同じ境地で、表現が違うだけで、しかもどちらにしても主客の区別がなくなるのだから表現不可能な体験ですが。
ショーペンハウアーは主著のラストで、無を語るとき、明らかに単なる空虚な思弁でしかない言い回しをしていて、ああいうのは嫌い。
(もしわれわれが、逆の立場に立つことが可能であるとすれば、記号が交換されて、われわれが存在すると考えていたものが
実は無であり、かの無こそは存在するものだということが示されてくるであろう『意志と表象としての世界』71節)
どちらにしても、神秘体験、梵我一如の境地は、虚無感と恐怖感がなによりも一番激しくなるし、
何かが存在しているという事実自体が、最大の激越な恐怖の対象にさえなりますが、
でも世界が「無」になるというのはなんとなく好きじゃない。
あえていうなら、「一者は無であり存在である」「私は一者である」ということに私の場合はなります。好みの問題かもしれません。
どちらにしても主客の区別が消えたら言葉も消えるので表現のしようがないんだけど。
ショーペンハウアーが一者に「意志」という名をつけたのも何となく嫌いです。
(ショーペンハウアーの人間や文章はほんとに大好きですが、この部分だけ、なんとなく許せない!
「直観」の定義の仕方もカント式の妙な定義の仕方で、私が「直観」とよぶものをショーペンハウアーの文脈に置き換えるなら、
「意志としての世界を感じること」になる)
一者は「在る」ままで、一者の絶えず欲する意志という「性質が消える」、といった方がいい。
ショーペンハウアーは、「無」はカントのいう「欠如的無」のみである、存在という状態から相対して導かれた無のみである、といいながら、
最後で、世界が無である、という絶対的無に聞こえてしまうような言い回しをしていて、なんとなくしっくりこない。
主客が消えるというのも、そういえないこともないけれど、やっぱりおかしい。
主客の区別が消える、とか、主観と客観が融合する、全てが主観になるとかいった方がいい。
どのようにもいえそうなんだけど、でも「欠如的無」しかないと言った直後で、主観も客観も消える、すなわち世界が消える、
と言ってしまうのはどうしても空虚な思弁としか思えない。
もちろんショーペンハウアーの境地を否定したいのではなく、その境地の表現の仕方を否定したい。
自分が意志のない虚体になるとき、自分はまさに一者の純粋な器になっている、という比喩を今思いついた。
とにかく一者には「意志」という性質は絶対にない。一者に性質があるとしたら「生成」以外にはないと思う。
あまり読んだことないけどデリダやドゥルーズは、「無限」や「有限」についてよく思索してみたいだけど、
個人的には「無限」も、無と同じように、欠如的、相対的なものでしかないと思う。だから無限についてはあまり考えたことがない。
だから無限というのが理解できないし、0(無)と同じように数学の範疇以外では在り得ないと思う。
でも無限にしても無にしても、そういう相対概念を有限や存在に対して付置することによって、
弁証法的に、有限なる存在の、究極の姿、ほとんど無と存在が同時に成り立っているような状態を、認識するためには役にたつ。
こういうのが、まだ表面的かもしれませんが私が「無」や「無限」について今のところ考えていることです。
私は、ベルクソンのように無限や無を空虚な抽象観念だとまでは思っていませんが、
あくまで存在の臨界点を直覚的に認識するための便利な道具に留まる、と考えています。
だから無について考えること自体は有意義だとは思うけれど、なんだか怖くて近寄りたくない・・・というのが正直な気持ちです。
>>419生と死を結ぶ円軌道、これは私がやばかったときによく出てきた観念と一緒です。
対立物を結合する「円環」これは何かものすごい象徴性があって、尻尾を噛んでいる蛇をみるとたまにぞっとします。
ニーチェもツァラトゥストラに円環の比喩で永劫回帰を語らせているので、円環というのは凄い象徴性をもったものだと思います。
あなたの書き込みは、私は半分くらいしか理解できていまえんが、読んでいると、正直、たまに怖くなったり、
色々昔のことや幼い頃を思い出したりして、漠然としたスリルを感じています。
それだけあなたの今の状態が根源的なのでしょうとも思っています・・・
色々と触手を伸ばす方ですね。>早さん
蛇といえば髪の毛が蛇のメデューサでしょうか。
「欠如的な無しかない。」というのは、
無は存在の属性の欠如でしかなく、
無は無属性の存在を意味するということでしょう。
としますと存在の属性のデザイナーが意志であり、
存在よりむしろ意志の方が根源的なものといえるでしょう。
純粋な存在は白紙であり、現存在は意志の手による絵であると。
描かれた絵に満足するのは幸いですし、 それを白紙に戻すことはつらいことですが、再び絵を描く喜びが得られますよと。
意志は普遍的なものです。
何かを意欲するのは私に由来するものではないわけですから。
吹き込まれるものです。
属性なき白紙の存在、虚体というような存在、貧しい意識にこそ意志は子供のように喜びいさんで近寄ってきて描き始めるのでしょう。
そうなるとなかなか止まらないわけです。ええ。
適当ですが神は子供のような意志なのだというのはどうでしょう。
滑稽でしょうか。悲惨でしょうか。
絶大な力をもった子供に遊ばれている蟻のような存在というのは。
>>423>>424 触手を伸ばそうと意図しているわけではないのに、私はあなたが書くような文章が体質的にとても好きなので、
(私の一年前くらいの文章と何となく似ています)
ほとんど無意識的に、惹きつけられ興奮し、書き込んでいるというような感じです。
ハイパーグラフィアの傾向がある人は、人のハイパーグラフィアを見ると、自分もそれが発動する、ていうのがありますが、まさにそれです。
(早の文章が書き込みが嫌いうざい消えろ、って言う人、本当にごめん!)
>としますと存在の属性のデザイナーが意志であり、
>存在よりむしろ意志の方が根源的なものといえるでしょう。
>意志は普遍的なものです。
>何かを意欲するのは私に由来するものではないわけですから。
私が一者の性質として意志ではないといったところの意志は、
ショーペンハウアーがいうような否定されるべき「盲目的意志」という意味での意志です。
あなたが普遍的だというところの「意志」は、私が「生成」と呼んだものに近いかもしれません。
私は「存在よりも生成が根源的だ」といつも思っています。
>属性なき白紙の存在、虚体というような存在、貧しい意識にこそ意志は子供のように喜びいさんで近寄ってきて描き始めるのでしょう。
まさにこれは私が感じていたようなことと似ています。観念や思考内容を、生得的なものと後得的なものに分けるなら、
ふだん人は後得的な知識や概念によって価値付けられ、意味を与えられ、ものを考えていますが、
そういうものを全部取り払って本当に生命の純粋な姿に帰還しようとすると、生得のものである一者の力を全身全霊に浴び、
普段の後得の価値よりも、はるかに大きな価値が創造されると考えています。
普遍的生得的なもののに至るには、価値を一度抹消しなければならない。
ショーペンハウアーの意志についての考え方と意志の否定つまり生からの解脱、あるいは仏教の解脱の教えは大嫌いです。
そしてニーチェが不当にも気付かなかった(ニーチェは教義・信仰や大衆道徳を憎悪する余り
キリスト教やイエスやパウロの姿を歪曲しすぎ、『反キリスト』はほとんど小説になっている)
キリスト教の尊敬すべき点、キリスト教神秘主義に見られるような、
「大きな愛」こそが、一者の本当の力であり、根源的な創造力です。
この常に何かを生成創造する力こそが、一者が絶え間なく行っていることベルクソン的にいう「エラン・ヴィタール」です。
ここで無学な素人がこんなことかいても単なる狂言になっていますが、これは、全身全神経全霊で急激な心拍数の上昇と
涙と恍惚を以って感じた体験を、下手に言語化したようなものなので、将来、このことを狂言としてではなく
哲学的に書けるようになりたい、キリスト教神秘主義の思想としての復活に自分の言葉で加担したい、
という無茶な夢があるくらいです、もし自分にそういう才能があればのことですが!
ニーチェやニーチェ後の哲学は、キリスト教神秘主義という、偉大な精神的財産に気付かないまま、
キリスト教を邪教や迷信扱するという誤解をしています。
キリスト教神秘主義は、キリスト教の単なる教会信仰なんかとは全く違うし、
グノーシス主義のように現世を憎悪もしないし、聖書の表現は極めて美的な価値も高く心をときめかせるし、
ショーペンハウアーや仏教の「解脱」よりも、ずっとずっと創造と生成の力を体現しているように感じられます。
根源的な力を(もしこういうのが無かったら宇宙の発生もありえないし原子が動いたりするのも説明できないから、
少なくとも一つあるいは無限個、形而上学的な力があるはず)意志と呼ぶか生成と呼ぶか愛と呼ぶかは
人によるかもしれませんが、少なくともショーペンハウアーがいうような否定されるべき盲目的衝動ではなく、
それに合流することで生命にとって重要な価値が生まれる創造的なものだと、私は感じています。
子供は、創造と破壊の反復を愛しています。明らかに破壊をも愛しています。
この点を見逃してはいけませんよ。
そういえばマーク・トウェインの「人間とは何か」だったか「不思議な少年」だかにこういった人間と神との関係が描かれていました。
つまらないレスばっかり。
ここまでつまらないレスを続けられるのは他者の眼差しを意識していないから。
ニーチェがあれほどの書物を残し、ハイデガーやクロソウスキーやドゥルーズなどがニーチェに関する論文を書き、
日本でもニーチェに関する本はそれなりにある・・・という時代で、よくもまぁその程度の駄文を書き続けられるもんだな。
要するに、本当の意味でニヒリズムなんて体験していないし、葛藤もしていないから「自分に言うべきこと」があると思い、事実だらだらと書いちゃうわけでしょ。
最低限読めるものは読んで、それでもなお「言うべきこと」が自分にあると思うなら、それを書けばいい。
そこまで徹底的に自分を追い込んでいない奴ほど、だらだらとした駄文を書いて誰とでもいいから繋がりを持ちたいと思っちゃう。やだねー。
>>430 >要するに、本当の意味でニヒリズムなんて体験していないし、葛藤もしていないから「自分に言うべきこと」があると思い
16,7の時、一度、肘や膝あたりにまで激痛が走るほど、精神的な苦悩を体験はしましたが。
娼婦の血だらけの手首を見てなきました。
もう少し後くらいに、恍惚を伴う神秘体験もしました。
子供の頃から、何度も恐怖の発作に魘され、宇宙が在ること、自分が生きていること、全てを恐怖して、
不老不死の薬を発明する学者になりたいとまで妄想していました。
私は狂人かもしれません。だから私の書いている文章は駄文かもしれません。
でもあなたみたいなただ偉人の名を挙げて偉人でもない人の文章を駄文だと見下すような卑俗な腑抜けではありません。
自分の心から湧き上がってくることだけを書いています。
ちょっと、もう一人の人の文章を見ると、興奮をどうしても抑えられず、やばい状態になっているだけです。
私は残念ながらハイデガーやドゥルーズには性が合わず、彼らよりも聖書の方がずっと相性がいいんです。
不快だったら、駄文だと根拠も無く駄文だとは言わずに、内容を批評するか、ここはニーチェスレなので数人での占領は止めてください、と普通に言うかして下さい。
お望みなら正面から私といい合いをして下さい。
>>427 乾季と雨季があったほうが、戦争と平和があったほうが、
水と平穏無事の価値は高まるということでしょうかね。ええ。
むしろ創造というより創造と破壊の反復に差異=価値があるという方が適切でしょうね。
>>430 あなたにとっては独創的ですが陳腐なお話ありがとうございました。
次からは偉人の言葉を反復するようにしてください。
そういった独創よりも反復にこそ価値があるのですからね。
>私は狂人かもしれません。
ネットを見ればたまにみかける普通のタイプ(自分の葛藤を特権視する単なるナルシズム)でしかない。
今日的な、余りにも今日的な紋切り型。
偉大なるものの矛と盾で敵を攻撃し、自分を守ってください、そうすることには価値がありますというのは示唆的でしょうか?
>>430 私の全てを見てください
私は気が狂っています
さっきあなたの書き込みを見た瞬間
憎悪の発作に駆られ 神経性の擬似的な腹痛に冒されました
私の全てを見てください
私の心臓を取り出してあげたいくらいです
この血、晒してあげるから、あなたの心に染込ませてください
私の僕の命を感じてください。
だからお願いです
僕の全てを見て下さい
http://beatriceuplift.blog122.fc2.com 私に触って!もっともっと奥まで!
ってちょっと変にお道化てみたけど
擬似腹痛が起こったていうのは本当
卑俗な腑抜け、って言ってしまって本当にごめんなさい・・
>>434だれも特権視なんてしません。事実を書いただけです。少なくとも一年前は本当に狂人でした。
あなたが単にそういう特権視だとかナルシズムだとかいう観念を私に投影してるだけのことです。
人は、関心や悩みなどを、人に投影して歪曲して他人や世界を理解しようとする傾向があるものですから。
>>433いつもごめんなさい、あなたのレスを見ると反応して、つい本気になって色々なことぐだぐだぐだぐだ書いてしまって、
困らせてしまっていたかもしれません。今日はもうおなかいたいです。
早と口げんかしたい言う人がいないかぎり、
>>434さんがまだ続けたいって言わない限り、
しばらく、ここ書き込みません。たぶん口げんか続きそうだけど。
嫌われ者みたいだしROMさんに不快や迷惑を与えてしまっているみたいです。混乱気味です。それでは。
秘密です。
女だとしたら不感症
男だとしたら不能者
です
もうだめ。頭痛い。誰も私にレスしないで下さい。荒らしてしまいます。調子悪いです。
>少なくとも一年前は本当に狂人でした。
>あなたが単にそういう特権視だとかナルシズムだとかいう観念を私に投影してるだけのことです。
>人は、関心や悩みなどを、人に投影して歪曲して他人や世界を理解しようとする傾向があるものですから。
君の内面なんて誰も興味ない(ひょっとしたらHPを毎日見に来る人もいるのかもしれんが)。
>>440 その三行に私の内面なんて一言も書いていません。
相手の内面の心理を予想して書いただけです。
ま、とにかく普通の人が「私は狂人です」なんて言っても白けるだけだし、本当に狂人だったとしても別になんとも思わない。
どちらにせよ下らないという結論が待っているってわけだ。
そこら辺を理解せずに自己告白に終始するタイプというのも余りにも今日的な普通の人間でしょ。
そう言われることに何の不満があるのだろうか。
>>442 自己告白に終始、っていますが、このスレになってからはちゃんと、
ニーチェ以外、たとえば神秘主義、ベルクソンなどについてはあったけど、
自己告白なんて言いたい内容と関係ある経験を言っただけです。
あと、
>>430が勝手に私のことをどうこう決め付けるので、事実を話しただけです。
それに誰も狂人だからどう思ってほしいとも思っていないのに、
私は思想的なことについて書きたいのに、もう一人の人の色々な書き込みを見るのが好きでそれにレスしてただけなのに、
そうやって私がどうこういわれても本当に困ります。私の文書の内容を批判して下さい。
蛇が自分の尻尾に噛みついているというイメージは反復をよく象徴していると思えますね。
希望的観測ではそのイメージにある反復に伴う葛藤や痛みは嫌なので、せめてそれが創造的進化につながればいいと思います。
そのイメージをかりれば蛇が次の蛇に噛みつくことで無限の螺旋を描いていくというようなものです。
これは非創造的な疑似反復のイメージですが、
この似非反復のイメージの方がかえって反復にいざなう方便として役に立つでしょう。
446 :
考える名無しさん:2007/11/29(木) 00:47:53 0
>>445 マジで?そうだったのか。てっきり今来てない方だと・・・
六百六拾六は最近見かけないなそういや
ドゥルーズ
人の話はけっして間違っていないのです。間違っているのではなくて、愚劣であるか、なんの重要性もないだけなのです。
重要性がないのはさんざん言い古されたものだからにほかならない。
鏡の中の自分こそが矛と盾をもって身構えている敵だとすれば、
戦いは我が闘争、その矛と盾は我が矛盾、葛藤でしょうか。
ニーチェの人生、その闘争はまさに我が闘争だったのではないでしょうか。
自分に宿るキリスト教の血と、卓越したその理性、病に蝕まれていく病弱な肉体に自ら噛みつき続けた。
450 :
考える名無しさん:2007/11/29(木) 01:25:18 0
ニーチェは馬鹿だったが天才だったのだ。
>>449 ニーチェはまさに内的な葛藤による苦悩が認識の源泉になっている。
キリスト教の血だけでなく、ゲルマン民族の血、北欧のオーディン的(ニーチェはディオニュソス的というけれど)な荒々しさも持ってたと思う。
>>448 象徴的な言葉(あるいは哲学の言説)には、新しい意味や価値の創造です。
象徴的な言葉は、多数の人には使い古されて陳腐になっていったとしても、
その言葉を、優れた比喩、精神的なものを具現的に表す比喩、聖書や『ツァラトゥストラ』などの言葉を、
精神的な素質のある人は、全く新鮮なときめきを以って解釈します。
象徴表現を創造した本人にとっては溢れるほどの意味を持っていたのが、
大衆の手にわたると(つまり教義だとか一般教養だとかになると)使い古され、
まったく表面的な意味にしか誰も取ろうとしなくなる、
でも素質を持った彼は、その象徴表現の使い古される以前の、新鮮で有機的な意味を汲み取り、
その表現は今や大衆の手に渡って意味内容を喪失してしまったと直観し、
その意味内容を、別の表現で、自分の新しい言葉で、具現しようとする。
そして新しい象徴表現(あるいは哲学的概念)が生まれる。
これは大衆に使い古されるまでのしばらくは効力を持つ。
新しい宗教や哲学はこうやって生まれる。そして時間が経って使い古されると意味がまた喪失する。
詩人、神秘家、哲学者こそが、新しい意味と価値の創造の担い手なんでしょう。
だから
>>451のようなレスをする相手に向かってドゥルーズ(
>>448)や
>>430は同じことを言っているのに、
鈍感な人はどこまでも鈍感なんですなぁ。
苛烈なまでに噛みつき続けた。
自分自身に…。ニーチェやばい。
洒落にもならようですが、
蛇というよりスッポンのように噛みついたとはいえます。ええ。
ならば蛇の頭だけをスッポンの頭で置換してみると面白いでしょうか?
スッポンというとスッポンポンのようで多少滑稽ですが、
スッポンの頭のイメージは蛇よりグロいので洒落にならないと思いますがイメージ的には正確になるでしょう。
455 :
考える名無しさん:2007/11/29(木) 01:49:50 0
どうでもいいから早くんスレ続けていいよ
もう私の神経は憔悴しています。
昼間は受験勉強、
いつものもう一人の人の文章を読んでるうちに少し神経が疲れ、
自分の考え書いるうちにもっと疲れて、
>>430のような愛が2皮肉が6自己満足が2くらいの微妙なレス受けるだけで憎悪の発作を起こし、
>>451ではおそらく使い古されたどうでもいい分かりきったようなことを書いてしまいました。
でも私は真剣です、鈍感になっていたとしても、昼間は敏感です、でもものを考えすぎて疲れます、
本気で真剣に色々と物事を考えています。考えることがすきなんです。
だから、お願いだから、
>>452そう言う言葉であてこするのはやめてください。
もう本当に疲れたのに、こうやって、書くのが好きだから、もう頭おかしくなってまで、もういやなの。
何度も発作を起こして荒らしてしまうのは、もう嫌なんです。
もういやんなんです。おねがいだから止めてください。
もう放心で名に考えてるかわからない。
首筋違えて脳髄が爛れたような、ニーチェの鋭利なメタファーに身体を刺されたような、
地獄の季節の詩語で魔女焼きされているような、デュカスの詩で自分の死体を解剖しているような、
そういう気分です。っていうのが私の今の気持ちです。せっかくだから最後に自己告白してみた。
もうしんどい。ここきません。でも今日以外はとてもみんなの言葉みるの好きだった。
>>454過度の象徴的比喩的な思考、抽象的な言葉による思考、は「危険」でもあります。気をつけて下さい。
私は一度痛い目にあいました。でもあなたのレス読むのとても好きでした。
受験落ちたくないし、ROMさん苛立たせたくないし。
明日も明後日も神経変なってまた荒らしそうだから、しばらくこないことにします。
独り言で荒らしてごめんなさい。
457 :
考える名無しさん:2007/11/29(木) 02:22:12 0
>>456 うむ。
ニーチェは大変知能が高かったが実質的には馬鹿だった。
簡単に言えばエリートを目指した。だがそれは時代の求める
形だっただけだ。本人の資質に適うものではなかった。
負けず嫌いが更にニーチェの矛盾を激化した。
向上心がいけなかったのだ。
ニーチェのペットであるスッポンの頭とスネークの体をもつ空想的動物、名付けてスポネーク君は、
自分の尻尾に喰らいつけばもはや離せず、そのなし得る運動は食べ進めることだけになりますが、
それから頭だけになりますと今まで自分を食べ消化した栄養を元手に口から産卵して力尽きます。
そして無論、蛙の子は蛙というわけです。
言葉を裏切ることは自分を欺き、他人を欺くことになる。
他人を欺くことが大好きな人はいつでも言葉を軽視する。
もしある程度まで飲酒や喫煙、断食や運動が体にいいとすれば、
衰えやつれた細胞を積極的に破壊して消化しては再生させるからでしょうか。
>>294 それやったらいくらになんの?パワーっょぃ
早君は自己免疫性を精神構造に内在してないのでは。
他者を内面に介在させることが苦手なんだな。
だから論理がひとりよがりでいつも暴走する。
反論されると爆発する。
自分の論理に客観性をもたせることからはじめるべきだな。
思いつきのその時の君の思考や発想の矛盾に他者から上げ足をとられて
逆切れする。
自己の内部での対話がもっと必要なのではと最近思う。
>>447 リアルのほうが面白いからね。
たまに見てるけど前みたいにダラダラ書く気になれない。
それにしても早の禅への理解はしょっぱいな〜・・・
新しい表現もいいけど陳腐な表現でも新たに解釈すればいいわけです。
陳腐な解釈でも、再生できればいい。反復できればいい。初心に回帰できればいい。
ですが再生、初体験の反復は容易ではないわけです。
それどころかこれは論理的に言えば不可能なようです。
真の反復は常に新しい。
これには何より自分が壊れねばなりません。
そうしなければ再生はありえないでしょう。
意識、記憶が瞬間的で続かなければ全てが常に新しく陳腐化しないのですが。
逆にベルグソンやニーチェのような最優秀の持続する意識、記憶にとっては全てが古臭いガラクタに思えてしまう。
壊さずにはやりきれないのではないでしょうか。
早の反復による前進的な思考はすごいものだと思う。
論理の錯誤や誤謬があっても
その情熱と饒舌はいつか
ものになるのではないかと思う。
でも行く手は遠い。
遠くまでいってほしいな。
早は救いようのない馬鹿で賢いよ。馬鹿すぎて賢すぎる故の苦悩やな
そして精神的に子供だから自制心でもって葛藤や興奮をコントロールできんのだろう
記憶を意識といってしまうほどの異常な記憶力の持ち主ならば、
日常的現在は陳腐な過去なので鬱にならざるをえないでしょう。
そのやりきれなさから逃れるためには自害または現実破壊を敢行せねばなりませんね。
ですが記憶力が高い限りは新たな現実もすぐに陳腐化してしまうので破壊を反復するかし尽くすかせねばなりません。
記憶力が無ければ反復を意識できません。
いわんや永遠の反復など記憶力が無限でなければそれとわからない代物です。
永遠回帰を欲するというのは秀才中の秀才にしか英雄視されないものではないでしょうか。
物質は瞬間的意識であり記憶を持たないのですから
記憶している者からみて反復していようとも、
物質自身は反復を経験しません。
日は単に昇るのであって、日は「また」昇るわけではない。
反復は記憶にあるわけです。
むしろ記憶とは反復であるというところでしょう。
記憶は現実を犯し陳腐化するようですが
実際に陳腐なのは記憶の方です。
それにもかかわらず意識=記憶というような異臭を放つ陳腐な意識の方が創造的で破壊的なのです。
どうもヘーゲル最高っぽいですね。
それだけに近寄り難いわけですが。
>>463 禅って、静かで、落ち着いてて、流れに任せるというか、刺激が少なくて、
それが自分に向いてないというか。ニーチェは流れを自分で変えてしまうくらいの威力があって、それがいい。
私はリアルが受験勉強ていう窒息しそうな牢獄だから叫びたくなって余計に饒舌になってた。
リアルがつまらなくなったらまた前みたいに書いてください読みたいです。
>>462 アドバイスありがとうございます。
自分の思考の矛盾、発想の難点を指摘されることはどちらかというと好きで、
それによって救われていることが多いのですが、でもそうじゃなくて関係ないことで
揶揄されるのがとても嫌いで、つい暴走してしまいます。
饒舌で赤熱した神経に水をかけられて湯気がたつような感じです。
冷静になることを学びます。
>>465>>466 若いうちに飛躍できるところまで飛躍したい、あと2,3回は梵我したい欲望、
でも一人で考え書いていると異世界の言葉になる、
そういうのもあって、迷惑かけてしまったけど、ここに依存しちゃっていました。
荒しちゃってごめんなさいもう本当に口を噤みます。
>>467 過去についての記憶力と永劫回帰とは関係ないです。
記憶が関係あるとすれば
自分の人生についての思い出が死後
宇宙の終焉したあと宇宙が発生して再び
同じ人類の歴史がはじまり
同じ自分が生まれて繰り返されるという希望をかなえてくれることでしょう。
永劫回帰を信じることは神不在の人生の虚無からの救済になります。
記憶と時間、時間と永遠、永遠と永遠回帰はそれぞれ関係してますので、記憶と永遠回帰は関係しています。
永遠回帰というのはベルクソン、ニーチェ的な秀才中の秀才の意識、記憶、現実のことだと思います。
一個の有限の時間内における無限性、絶対性、永遠の反復のことで、それへの肯定的な意志はニーチェの自己肯定的な面の現れです。
自己に対する熱い肯定性と否定性が、その闘争がニーチェの思想、人生を織りなしているようです。
永遠回帰は凡才にはあまり関係ないことだと思います。
信者には関係ないことです。
ですがよく忘却する普通の人も反復によって多少、
やりきれない意識=記憶に近づけるわけです。
普通やってられないといっては投げ出し、中止することができるようですが、
それはニーチェには容易ならざることです。
>>472 ベルグソンは進化論的楽観主義ですな。
哲学者としては凡才に近い秀才に属するのではと思う。
『物質と記憶』は教えられることは多いけれど。
ベルグソンはニーチェをどうおもっていたのでしょうか。
ところでニ^チェは『ツアラツストア』は「万人のためにそして誰のためのものでもない書」
としているように永劫回帰は万人である凡人であるかそれとも何者かのための書であるとしているように
秀才のためにあるのではないと思う。
君も僕もベルグソンも凡人だよ。
ハイデカーではじめて秀才であるとともに天才に近いとおもうけどね。
永劫回帰はベルグソンが存在しようがしまいが思想として独立系に属する。
神の存在と同じだ。
信じる信じないは個人の自由であり秀才凡才は関係ない。
秀才と凡才は受け取り方が違うだけだ。
(’ー’) C∧ ∧ 盆栽 盆栽 盆栽
(´∀`) ○(゚Д゚#) 臭才 臭才 臭才
(・∀・) …C| \ 天歳 天歳 天歳
.
>>472
女子高生が一文節ごと語尾を上げて相手に同意を要請するのと、ここで内省を深めずに何度も愚劣な文章を垂れ流す奴のメンタリティは一緒。
「哲学」か「昨日見たTVの話」かという話題の内容の違いがあるだけで、“要するに”「あの芸人、笑えたよね〜(哲学者はこう言いました)」という再確認をし合っているだけ。
非常に当たり前の話として、芸人の面白話を素人が真似すると白けるように、一流の文章家が提示した問題をそこらの素人が言葉の意匠を凝らして改編するのも白ける。
どうやったって再確認以下の次元に留まるんだから、最初っから黙ってろ。
既に消費され尽くしている思いつきに、哲学用語を散りばめて愚劣に仕上げるゴミごときに教わることなど1つもない。
非主体性に耐えられないから「狂人」とか自らキャラクター付けしちゃうんでしょw
ガキだねぇwww
私とあなたは凡才ですがベルグソンは秀才ですよ。
何いってるんでしょうか。
>>475
>>478 誰だかしりませんがあなたが来なきゃいいだけの話ですね。
483 :
475:2007/11/30(金) 21:28:25 0
>>481 はいはい
いいすぎました
ベルグソン
は君や私よりずっと秀才ですとも
ベルグソン好きのひとは
ベルグソンがけなされるとすぐ怒りますな。
君はベルグソンの影響をかなり受けてるとみました。
誰がどのくらい秀才天才だとかそういうお座興めいた尺度で哲学者をみると、哲学の内容から遠ざかってしまい、
都会的な悩みや葛藤を抱えたまま大自然へ出ても草木や水や太陽の美しさ自然の偉大さを感じることが出来ないのと同じです。
(生命力を身ごもった緑なす山々、ハープの弦のような七色の木漏れ日の交錯、森の精気を運ぶ涼しい風、胸を撫でる小鳥の鳴き声!)
卑近な価値観に囚われたまま哲学を読むと、その哲学の内容が卑近な価値に還元されてしまい、
せっかく読んだのに哲学者が心から訴えたかった価値が全く汲み取れないことになってしまう。
>>480 「狂人」とは、
「その人にとって言葉が完全に意味を失う」という風に勝手に定義しています。
狂人にとって他人の言葉は意味のない言葉の羅列、他人にとって狂人の言葉は以下同。
狂人はキャラクターですらなく、独りで言語ゲームをする只のパラノイア患者、
血痕の染みた床に空き瓶が転がってるような人間廃業者、性格破産者です。
でもパラノイア的な疾患は、詩人や哲学者を目指す人にとっては、本気で復活しようとする努力と根性さえあれば、
アドバンテージで、狂気を経た表現者と狂人の違いは、前者は「自分で意味を創る」ところにあります。
>>478>>479 それだったら偉人以外の、偉人の哲学についての文章を書く人は、みんなゴミ、ニーチェ研究家も愚劣になります。
せっかく哲学の掲示板があるのだから、自分の考えを書くこと(←主語)は、笑止に値する低劣な文体や間抜けな言葉遣いで
いかにも2ch的で文面から自己嫌悪や不満感が滲み出てるような惨めな煽り合いを白々しくもし続けるよりは、明らかに、
ずっといい(←述語)。文体や文章の節々(文体こそ心臓の動きに合わせて脈打つ血管!)には、
書いた本人にしかない個性というものも絶対にあるから、その個性を拒絶するより自分に同化しようとして
しっかり文章の隅々まで読み取ろう(吸血しよう!)とするのが創造的です。
明らかな荒しではない限りレスするときは文章の具体的な内容に対してレスするのが本当だと思います。
主観的反復は記憶に依存するものです。 記憶によって初めて、ある現象、表象の持続や断続に同一性を認識することができるからです。
時間における差異、即ち変化の認識もまた記憶に依存しています。
回帰というのは変化の同一性、法則性の認識のことです。
としますと永遠回帰というは永遠の法則性の認識を意味します。
永遠回帰は進化論のアンチテーゼだとも、人間の創造性を否定するものだともいえキリスト教的な考えのようです。
ですからこれはニーチェにとっては束縛されたものとしての自己との和解であり肯定なのです。
他方、創造的進化を著したベルグソンはその自縄自縛するものとしての意識=記憶に逆らおうとする意志を持ち続けたのではないでしょうか。
永遠回帰と創造的進化というのは正と反の関係にあるのでしょう。
「差異と反復」は合なのでしょうか?
しかし反復が葛藤や鬱と結びついているというのはニーチェにはいえても、
それをベルグソンにも適用するのは誤りでしょうか。
彼が記憶や反復、持続に関連してメロディーを考慮しているからです。
メロディーは変化の反復ではないでしょう。
反復と差異を内包し、法則化できないものがある。
これが意識=記憶にとっての希望の星、救いなのです。
願わくば闇が星の光で満たされんことを! でしょうか。
映画の原理とは、光に向かい、その光で私たちの闇を照らすこと。私たちの音楽
想像的な確実さ、現実的な不確実さ。
ニーチェとベルグソンは似て非なるものだと思うな。
簡略すると
ニーチェは文明や時代の根源的なものに対して常に対決しようとしたのに対して
ベルグソンは内的時間や離人症についての考察じゃないが
人間の精神構造への考察や能動的な人間自身の精神未来を楽観的に図式的に描いた。
ベルグソンにとって超人はどのようにみえてのか少し興味があるね。
しかしベルグソンにとってニーチェはなんだったのだろう。
社会的に成功しノーベル賞まで手に入れた。
俗物に見えて仕方ないのだけど。
その時代のゲーテをめざしたのかな。
でも著作には得るところは多いな。
>>489 そうですねニーチェとベルクソンの関係は似て非なるものといえそうです。
特にツァラトゥストラと創造的進化の間には弁証法的な対立があるかに見えますね。
優れた芸術ほどその同一性に差異を内包し反復によってむしろ磨かれ光を新たにする反消費性、反磨耗性、非消費性をもつものです。
ニーチェはこのような芸術に感心がないわけでは全くないわけです。
反復に芸術的な反復という創造的な面、肯定的な面を捉えていたのはベルクソンと同様でしょう。この辺は似てます。
両者とも時間をかけずに無闇に外部に差異を求める略奪と消費という反芸術的な反復へのアンチテーゼを提出したとも考えられるでしょうか。
二人とも内なる差異を現前化する創造的な反復、持続、時間を、いわば熟成を重視してはいた。
ハイデガー的には時熟でしょうか。
失われた時を求めてというやつでしょうか。
資本主義は資源の枯渇やネットに象徴的に現れているように時間を消費していくもので時間の空間化、動物化、挙げ句の果てには瞬間化、物質化を志すものです。
ニーチェは葛藤しつつもツァラトゥストラにおいてはメロディーを含め、全ては永遠に回帰する非創造的なもの必然的決定的なもの運命だとしたわけで
す。被創造物として、創造性、時
塾を否定し、瞬間性必然性物質性にこそ大地の意義がある、愛がある、生き甲斐があるというのです。この辺は似てないです。
ツァラトゥストラ執筆時には肉体的に調子が異常によく救われた感があったので俗物性を愛していたのではないでしょうか。
ところでベルクソンも普通は秀才よりむしろ天才と呼ぶべき人ですが、
ニーチェの方が天才かなって感じはしますね。
まあ巨人も大地に立っているんですから、俗物性はあります。人間だもの。幽霊じゃないんですから。
その俗物性、足元しか見ないことも可能ではあります。それこそ俗物性ですがね。
>>490 >優れた芸術ほどその同一性に差異を内包し反復によってむしろ磨かれ光を新たにする反消費性、反磨耗性、非消費性をもつものです。
とりあえずモネの睡蓮は嫌いだが、そういうことに価値を見つける人間はみとめる。が嫌い
>>492 そうですか写真集もってないんですか。
そういえば遠近法といいますが芸術は次元を統合して表現するともいえるでしょう。
次元は相対性だとし根元的なるものは絶対性だとすれば、
それは無次元でしょうね。
根元的なるものへの遡及は分析されたものの還元濃縮ですし、
ドゥルーズのいう哲学、概念の創造も同様でして、差異を排他するものではなく包みこむものです。
根元的一者、神は一なる無限、カオスです。
現実的にいって反復は力なりといえるのはあらやる細部にも神が宿っているからでしょう。
同一性に差異、多様性が見いだされ、逆に多様性に同一性が見いだされるべきものです。
いわゆる一即多、多即一としたものです。
それは無次元とはいえn次元を潜在させています。
または無次元の刃、いわゆる次元刀をもっているともいえるでしょう。
感覚遮断実験で結構体験できるはずなのですが、
その被験者は表象が奪われることで、次元を失ってみれば、
その次元刀が哀れなその孤独な存在を切り刻み能動的に爆発的に表象させるでしょう。
こうゆうのが創造なんでしょう。ええ。
そうしますと記憶が時間という次元を超え時間の流れに逆らうものであるかぎり、
反復が記憶の強化を通じて根元への遡及につながるのだといえそうです。
>>484 >生命力を身ごもった緑なす山々、ハープの弦のような七色の木漏れ日の交錯、森の精気を運ぶ涼しい風、胸を撫でる小鳥の鳴き声!
これって484が考えたの? すごい感性だな。暗記した。
どちらも言いようがないほど美しいのにどっちがいいのか聞かれたとき
「ハープの弦のような七色の木漏れ日の交錯」と「胸を撫でる小鳥の鳴き声」の
どちらがいいか聞くようなものだと答えたら頭よさそう。
496 :
杉:2007/12/01(土) 18:50:47 O
はじめまして
いきなりですいませんが精神の三様の変化を教えてくれませんか?
授業でやったのですがいまいち分からなくて…
すごい排他的で記号的な表現で何も語れてないと思うけど。
詩ほど言葉とその表現しようとするものの両方に泥を浴びせかけるやつはないでしょう。
詩自体はまともに何も表現できないといっていい。
その行間ばかりは雄弁に詩人だか死人の絶望を表現している。
詩は言葉を記号化し否定し、ものを否定的に表現し、空白で自分を語る否定芸術でしょうか。
>>496 簡単に書くと
駱駝
↓
獅子
↓
幼子
ってこと
確かにご指摘通り詩的妄想は危険です。
そういう妄想をしてますと、後に幻が幻聴ともにリアルに現れたりすることもありましょう。
詩人は破壊屋ですよ。ええ。
500 :
杉:2007/12/01(土) 20:14:29 O
>>498 ありがとうございます
もう少し説明つけていただけないでしょうか?(´・ω・`;)
>それだったら偉人以外の、偉人の哲学についての文章を書く人は、みんなゴミ、ニーチェ研究家も愚劣になります。
事実ゴミ。哲学者について書く人は哲学者以上のことは言えない。
そのことに自覚的な人は「〜を超えて」「〜の可能性」といった読み方をしている。
反復もいいですが詩的破壊という手段もありますね。
詩は記憶しやすいものです。その記憶は現実性を奪うのにうってつけでしょう。
ただそれによってえられる根源性、悟りは現実以上にリアルな幻想を生み出す狂気を伴うものでしょう。
詩は邪道です。
「差異」「反復」という単語を何度も垂れ流しながら、しかしいつまでも纏められずに醜態を晒し続ける奴は目に付くなw
こういう奴は本気で可哀想だと思う。
>502
>詩は邪道です。
なにに対して邪道なんですか?
>>585はニーチェスレで暴れているよw
493 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2007/12/01(土) 14:11:09 O
>>492 そうですか写真集もってないんですか。
そういえば遠近法といいますが芸術は次元を統合して表現するともいえるでしょう。
次元は相対性だとし根元的なるものは絶対性だとすれば、
それは無次元でしょうね。
根元的なるものへの遡及は分析されたものの還元濃縮ですし、
ドゥルーズのいう哲学、概念の創造も同様でして、差異を排他するものではなく包みこむものです。
根元的一者、神は一なる無限、カオスです。
現実的にいって反復は力なりといえるのはあらやる細部にも神が宿っているからでしょう。
同一性に差異、多様性が見いだされ、逆に多様性に同一性が見いだされるべきものです。
いわゆる一即多、多即一としたものです。
506 :
498:2007/12/01(土) 21:29:28 0
>>500 授業で教わったこととわからないところを
書いてくれると説明しやすいかな
>>504 そいつは人工無能のマルコフ連鎖言語君なんでwww
484>>生命力を身ごもった緑なす山々、ハープの弦のような七色の木漏れ日の交錯、森の精気を運ぶ涼しい風、胸を撫でる小鳥の鳴き声!
陳腐だ
>>503 時代の制約なのか神という言葉を使わないだけでドゥルーズも神と呼ばれるものに出会ったのでしょうし、
私も恐らく出会ってびびってともかく思考することで逃げてるのですし恐怖を発散しているのですから、
なかなか止まらないでしょう。
可哀相ですか。ご心配ありがとうございました。
では私が路等に迷ったときには有り金を頂戴に伺いますので少々お待ちください。
>>504 鬼に退治されにいく道としては邪道なんです。
>>484 >文章の具体的な内容に対してレスするのが本当だと思います。
言いたいことを具体的に纏めろ。
バカみたいに何度も「芸術は」と書き込むのは狂人ではなく、ただの痴呆症だ。
記憶というのは運動です。
ただし超次元の運動です。タイムマシーンですね。
このタイムマシーンは性能がいいほど時間の流れに勢いよく逆らうことができます。
相対的に現実は鈍くなります。
詩は概念を創造せずに語りえないものを間抜けにも具体的に語ろうとすることで語りうるものと言葉を破壊し、語りえないものをあぶり出そうとする罪なんですね。
表象のちゃんこなべたる詩は差異を包み込む概念化と違い、差異の破壊です。
ですから詩人は詩人であるかぎり現実から鬼ヶ島への旅を繰り返すことになるのでしょう。
退治されるのは決まって罪な詩人ですよ。ええ。
>>484 >狂気を経た表現者と狂人の違いは、前者は「自分で意味を創る」ところにあります。
なるほどね。
君の言い分を纏めると
>>431「私は狂人かもしれません。」
>>436「少なくとも一年前は本当に狂人でした。」と告白しているが、
君自身の定義によれば、「自分で意味を創る」ほうではない、ということをこの度告白したわけだ。
それについては同意する。
514 :
杉:2007/12/01(土) 23:49:36 O
>>506さん
ありがとうございますm(._.)m
ラクダ「汝為すべし」
↓
↓神の死
↓
シシ「我欲す」
↓
↓永劫回帰
↓
こども「然り」
運命愛
超人
ラクダは主人の言われるがままに働き、天国へ行くために頑張ってきたがそれは神の死によって意味のないものとなってしまう。
やがてシシのように自分の欲しいがままに(自己中心的に)行動するようになるが、永劫回帰によってこどものような精神が生まれる。
こどもは誰かに誉められたいからやるわけではなく、やりたいことをやりたいだけやる。
そこで、無意味無価値でも精一杯生きれば同じ人生でももう一度やりたいと思うことを運命愛と呼び、
こどもの精神を人生の目標である超人とした。
こんな感じだったと思います(´・ω・`)
文章めちゃくちゃですいません
永劫回帰→こどもが特にわかりません
解釈間違ってるところも直してくださいm(._.)m
515 :
498:2007/12/02(日) 01:52:06 0
自然はライプニッツのいうような再帰的な構造をしていて、
その極一部分をシュミレートするにも無限の計算を必要とするでしょう。
永劫回帰のような決定論、宇宙を完全な機械的被造物視する世界観を採用する限り我々はいわば神を殺すことになるのです。
神は無限であるかぎり不完全です。
完全性は有限性だからです。
ツァラトゥストラは機械的決定論を神の死と結びつけることで、貶め、むしろコペルニクスのように大地の意義を揺るがしたのでしょう。
そしてこの疑惑、地震、不安が絶大なるものとの遭遇へと導くのです。
恐らくツァラトゥストラは知識人の間で宗教書として既に機能し始めており、
神という語は人間を神から遠ざけた歴史をもつものとして、
タブー視されるようになったのではないでしょうか。
ニーチェ「愚の骨頂、すなわち想像可能なあらゆる解釈の中でも一番貧しいものだ。これは、今日、嬉々として哲学者たちと付き合っている機械論者の耳に向かって言っている...本質的に機械的な世界とは、本質的に馬鹿げた世界というべきだ。」
永劫回帰は世界には始まりも終わりも過去も未来もなく、ただ事実の総体が非論理的で同一的な変化をするということです。
世界は一巻のテープ上の記録のリピートにすぎないというわけです。
何故に? と問うことは馬鹿なこと無理なことです。
そして私達は世界が記録されたテープ上の一点を読みとるチューリングマシーンでしかないのだというわけです。
ただ然りと肯定するよりないのだと。
こうした非論理的決定論的世界において何故に? と問うことは世界の存在自体を神秘化するものでして、
論理的決定論よりも宗教心を高めるものでしょう。
なぜなら必然的な世界というのは、私達が牛肉という商品を食べつつ牛と牛殺しを忘却しているのと同様に、
予測可能利用可能な世界という揺りかごに育まれている以上、もはや神は不必要としたもので、
神の忘却にいわば神殺しに役立つからです。
ツァラトゥストラは文明人を野蛮化して世界を詩的な事実の寄せ集めに見せることで世界を神秘化し、人を謙虚にするともいえます。
こう考えてみますとどうもニーチェはアンチキリスト教のようです。
どうも一貫性がないようでよくよく考えてみると一貫性があるのがニーチェでしょうか。
一貫性がないのは私なのは心得ておりましたがね。ええ。
どうもドゥルーズとかハイデガー、ベルクソンを見ていると、
神に触れながら意識的に神という語の使用を避けてると思われるんですね。
いやいやニーチェは西洋のインテリにとってはコペルニクス的転回の基点になってるようです。
520 :
杉:2007/12/02(日) 11:40:49 O
>>515さん
ありがとうございます(-人-)
ということは神の死や永劫回帰、運命愛、超人などは別物として考えたほうが良いと言うことですよね?
神の死は、あらゆる事物の最大諸価値を無意味無価値にした。
永劫回帰は過去も未来もなく、全て同一のことが繰り返されているということ。
運命愛は「ああ、これが人生か。ならばもう一度!」と言う精神のことである。
超人は人生の最大の目標。
↑こんな感じであってますか?何度も何度もすいませんm(_ _;)m
>>509 >鬼に退治されにいく道としては邪道なんです。
すいません、私は日本に来て半年足らずの外国人なのですが、
「鬼に退治されにいく道」とはなんでしょうか?
>>521 なるほど、では「桃太郎」を読みなさい。
523 :
498:2007/12/02(日) 18:53:42 0
>>520 「次のテストにニーチェのことがでるから知りたい」のだったら
教えた人(先生?教授?教科書?)の解釈・説明を鵜呑みにしとくのが無難
「ニーチェに興味があるから知りたい」のだったら
まず自分でニーチェの著作を読んでみることが必要
その上で、いまいち内容や用語の意味がわからないときは
いろいろな人の解釈を見て、自分にしっくりくる解釈を選んでもいいと思う
「↑こんな感じであってますか?」の部分については書きたいところもあるけど
結局のところ、それは「私の解釈」に過ぎないわけで
それを鵜呑みにされると困る(責任とれないから)ので書かないでおきます
ニーチェは自分の哲学やら思想やらを体系立てて述べていなかったから
人によってさまざまな解釈(
>>514のような体系立てた解釈も含む)が存在するんだ
「万人向きのニーチェなど存在しない」なんて言ってた人もいたっけ
>>522 桃太郎は知っています。
私が聞いているのは桃太郎における「鬼に退治されにいく道」が詩と関連してどのような意味を持つのかがさっぱり分からない、ということです。
それに「退治されにいく」という表現もよく分かりません。桃太郎は鬼を退治しに行く話ではないでしょうか。
>>509 俺は日本人だけど
「鬼に退治されにいく道]
の意味はさっぱりわからん
ということで
むちゃくちゃいっていると解釈してる
2ちゃんだからいいんだ
>>519 そうですね
ドゥルーズ、ハイデガー、ベルクソン
にかぎらずたとえばフーコーにしても
神とかキリスト教について
一線をひいているように思う。そして
ある意味無神論の立場をとっているね。
だから永劫回帰についても解釈がどこかニーチェの本来主張していたもの
をはぐらかすような解釈をしている。あるいは無視している。
宇宙的な永劫回帰はあり得ないという立場だ。
ハイデガーにおいてそれが顕著だ。
宇宙的な永劫回帰が神に代わる新たな宗教的信仰にいたることを
警戒してのことなのかと私は勝手に解釈
するのだけど。
あるいはヨーロッパのキリスト教の見えない圧力のせいかも。
永劫回帰はある意味タブーなのだ。
ところでベルグソンは永劫回帰について無視したんでしょうか。
反復は差異の生産と消費です。
反復は現実的です。
現実は意識と無意識の境界線上にあります。
それは相反する意志、運動が衝突している場なのです。
現実は弁証法的な場なのです。
>>526 いやドウルーズはキリスト教については「ニーチェと哲学」の中では神の死について等多くの考えを披瀝してるよ。
ただニーチェ思想の変形的読解として「差異」という考え方をみちびきだした。
そして肯定的なものだけが回帰するという
つまり選択的差異によって永劫回帰が成立するという曲解に至ったと
思うね。
ただ「差異」という考え方を導き出したのはドウルーズの卓見だとおもう。
>>525 ニーチェの発狂とドゥルーズのダイブは鬼に退治されたものだと思います。
またハイデガーの中止も似たようなものです。
現存在は、地球が太陽に近すぎず遠からずという位置にあるのと同様に、
鬼神に対する位置を保っているものだと思います。
距離は差異に対応します。
差異の変化はある一定の軌道上において反復せねばなりません。
挑むならば逃げねばならない。
拮抗する意志が互いに相手を引き止め止揚している状態が現存在なのだと思います。
>肯定的なものだけが回帰するという
つまり選択的差異によって永劫回帰が成立するという
のはいえてますね。
すみません、そんな気がするだけでした。
恐怖は笑いと共にある。
笑っていられる内なのです。その限度を越えてしまうともはや生きては帰れないのでしょう。
人間のみがこの世で苦しんでいるので、笑いを発明せざるを得なかった。
人よ、大樹に学べ
超人は大樹のようにある
もし笑いだすとすれば、おびえている証拠である。
神は死んだ、我々が殺したのだというのは当時の無神論的風潮を断罪しているのでしょう。
また永劫回帰が妥当ならば奇蹟なんですし、神の手を裏付ける話です。
ただ然りとおかわりといわねばならない。当然意志の自由は許されないわけです。
多分ツァラトゥストラは宗教書でしょうね。
なにせツァラトゥストラはかく語りきですし。
ツァラトゥストラは宗教書じゃなくて聖書みたいな位置づけじゃないのか?
この人を見よ、でそのような解説があった覚えがあるんだが・・
>>524 詩は感覚遮断実験に似た効果を発揮するでしょう。
常軌を逸した似非具体的表現で感覚を攪乱しいかれさせます。
感覚の暴走は感覚の遮断と同様の効果があるでしょう。
詩は麻薬の一種です。 だから邪道なんです。急がば回れというものです。
>>529 現実的な対話を放棄するのはあなたが好んでいるであろう哲学者の意思に反しますよ。
それにコードを共有していない相手と判断したら突き放すように「桃太郎を読みなさい」という言い方をする。
そういうい態度じゃあ、差異から目を逸らしているようにしか見えない。
とにかく誠実に
>>524と向き合うべきです。
鎧としての秩序が卓越した合理性が必要なんですよ。
無秩序により安全により深く歩み入るには。
直観は概念で包みこみ思考で分析せねばならない。
さもなければ現存在はその秩序を失うでしょう。
秩序を守るもの回復するものとして学としての哲学や宗教がある。
ヘーゲルが実存主義を可能にしたんだと思います。
直観主義と理性主義は矛盾せず互いに協力する最強の矛と最強の盾でしょう。
恐らく真実しかないんですがあくまでも真理を探求するというような実験的な試みでなければいけません。
方法的懐疑というように実験的でプラクティカルな性格を留保しておかねばならない。地に足をつけておかねば逝ってしまうでしょう。
信と疑のと理性と直観の両方向性は回帰するためには欠かせません。
一方的では笑えなくなり、人間終しまいです。ええ。
544 :
杉:2007/12/03(月) 07:46:44 O
>>523さん
定期テストの勉強でわからなかったので、いまいち掴みきれないままですが先生の言う通りに書こうと思います。
何度もすいませんでした(´・ω・`)
丁寧に教えてくれてありがとうございましたm(__)m
ひどい結論だなw
実存主義はキルケゴールあたりではなかったのでは?
548 :
考える名無しさん:2007/12/04(火) 11:57:58 O
>>546 少し感覚的にいいましょう。
快は魂の復元と肉体の崩壊を、苦は魂の破壊と肉体の復元を示してます。
ですから二元論的な人間、現存在であり続けるためには一方に流れず、快と苦を拮抗させ、止揚しておかねばなりません。
実際問題止まったら死ぬわけですから、
この快と苦の反復運動は欠かせないでしょう。
で、これは円運動のようになるでしょう。
我々は山頂に生まれたといえます。
ここで動きつつしかも止揚しているためにはいわば円運動を要するわけです。
549 :
考える名無しさん:2007/12/04(火) 12:45:57 O
なにか駒みたいなものですね。
>>548は永遠に生きられることになるから違いますかね。
まあ寿命を全うするには苦楽の反復が必要というところでしょう。
>>542 直観主義とか理性主義
とかいうものがあるんですな
あはは
>>542 >鎧としての秩序が卓越した合理性が必要なんですよ。
>無秩序により安全により深く歩み入るには。
>直観は概念で包みこみ思考で分析せねばならない。
>さもなければ現存在はその秩序を失うでしょう。
に関して。個人的な解釈を書かせていただきます。
ニーチェは『道徳外の意味における真実と虚偽』という認識論的な論文で、
苦悩するとき、理性的な人よりも直観的な人の方が、激しく苦悩する、と書いていました。
直観は、概念をいわば透かしてその先を見てしまうので、直観的な人は、
いわば概念という網に引っかからずに、苦悩と恐怖の深淵をずっと落下していくのだと喩えられそうです。
理性だけがあって直観力がないと、その混沌を直観することはできず、概念化後の世界しか把握できない。
つまり今の比喩でいうなら、理性的な人は、概念を見透かすのではなく概念を見るに留まるか、
深淵を落下する途中に概念という網に引っかかる。
概念を操作して思考するに留まって、直観によって前概念的な世界を捉えようとはしない。
逆に、理性が無い状態で、全く概念化される以前の混沌=無秩序の領域を純粋に直観すると、全身で恐怖を感じ、酷い混乱に陥ります。
前概念的な混沌に対しての直観と、理性による秩序付けを、同時に行えるような哲学者が、偉大な哲学者だと思います。
自演で自己解説してれば世話しなくて済むなんて
>>553 そもそも神自身が無秩序、永遠のカオスなんであり、
今も尚秩序をを己自身に刻んでいるんだと思います。
それがいつまでも完成の期待できない不完全な宇宙なんでしょう。
程度の差はあれども直観は神との共感でしょうね。
>>551 氷の微笑ですか?
美人じゃなきゃキモイだけですね。
キモイといえば私かもしれませんが、今日は美少女戦士セーラームーンのリアル版見たわけですよ。
おまえそれじゃセーラームーンだなと思ったので、
「なんかセーラームーンみたいですね」と言おうと思いましたが、微笑するだけにとどめておきました。
そこは私も大人ですからね。ええ。
下手するとキモオタにセクハラされたと訴えられても困りものですし。ええ全くですよ。
でも近くでみてみるとやっぱり不完全な現実なんだなと思いましたね。
真の世界は現実よりももっと不完全で醜悪なんですよ。
無秩序といえば戦争ですが、戦争中は真の世界に近づいてるんだと思います。
破壊的ではありますが、結構創造的な社会状態でしょう。
平和時でも階級闘争がある方が創造的な社会でしょうね。
アメリカの強さはその無秩序にもかなり由来するのではないかと思います。
これから無秩序化するばかりになるであろうこの日本には、
意外と期待できるのかもしれません。
日々、悪化している感がありますがまあ意外とセーラームーンが現れたりするわけですからなかなかどうして悪くないのかもしれません。
ゲーテとかウィトゲンシュタインとか、戦場でも創作していたみたいな話は聞きますが、
恐らく戦争的な状態が彼らの日常だからなんではないでしょうか。
>>550 確かに
>>548はあまりにも筋肉的な原理を軽率に一般化している気はいたしますね。
筋肉に本当に普遍性があるのかどうか、それが今問われるべきことなのでしょうね。ええ全くです。
筋肉的原理は女性には当てはまらないので女性は快楽主義がいいでしょう。
苦が一般的に超回復と白痴化につながる可能性があるのは男性だけなのです。
いわんや美少女戦士セーラームーンには無理です。
>>554 自演ではなく、
>>553は、私=別人です。
>>542さんまだ混乱が治まらないようで表現が荒れ気味で、
でもかなり深いこと認識していられそうだったから、できるだけその認識を損ねずに、
客観的な意味体系にそぐうような言葉で置き換えてみたくなったのでありました。
私の表現も、また比喩に頼ってしまい、まずいものだったけど。
>>542さんが直観していそうなことはかなり凄そうだったので、
他の人がそれを知る価値が十分ありそうだったので、書き込んでみたくなってしまいました。
道化染みたキャラとして、
悲しくも敢えて、
こんなこといいますが、冷たい人、多いんですね。
私には、大変なことになってそうな人に対して嫌味になる動機がわかりません。
そういう気持ちじゃ、真剣なニーチェの哲学を、齧ることさえできない。
人の苦悩に感情移入することは、自分にとってもプラスになるのに。
ニーチェが、自分の苦悩だけでなく、どれだけ人類の疾患をその身に引き受けて、
それを思想の源泉にしていたことか。
とにかくニーチェは、冷たい人より、熱い人の方が相性がいい。
ツァラトゥストラの、憑依を誘う、あの熱に浮かされたような、血気盛んな宗教的文体!
もしその人の言動が嫌な感情を引き起こしてしまうのだったら、
自分の中で現象したその嫌な感情を思考対象にするべきで、
そしてその感情を理性によって処理できたら、相手の人の気持ちへの認識も深まります。
それは単なる同情心ではなく、そうすることによって自分が新しい認識を得たことにもなります。
たとえば、ニーチェの言葉に突起した毒針が、良心に刺さったら、その毒を自分の知性によって
浄化することで、色々な認識を得ます。それがニーチェの『あまりに人間的な』哲学というものです。
>>555 >そもそも神自身が無秩序、永遠のカオスなんであり、・・
>程度の差はあれども直観は神との共感でしょうね。
偉大な宗教家はみんな神を直観していたのだと思います。
でも神に関わるような心理領域というのは恐ろしいものです。
直観的な状態というのは、概念、いい換えると認識の一般性を、拒絶しているので、
他の人と価値を共有できず、真に自分自身であると同時にかなり孤独な状態でもあります。
だからそういう状態では自意識が極端に高くなったり、他人の言葉を適切に理解できなくなったりします。
しかも、神は、汎神論的一元論的な存在であるだけでなく、そういう孤独な状態で人間の「心理」にも
大きな影響を与えてしまい、神を直観した人の自我を容易に破壊してしまいかねない恐ろしい存在でもあります。
哲学者と比べたら直観の面では優位に立ちながらも理性が明らかに劣っている人たち、
つまり預言者や詩人の狂気をみれば明らかです。
自我の主体性の完全な否定とは、まさに神との合一に他ならず、恍惚や至福を伴うこともあれば、
人格が混沌へ溶解するような恐怖、無が口を開いてそこに落下するような恐怖を伴うこともあります。
だから神は、哲学や宇宙論の対象だけでなく、心理学の対象にもなります。
たとえばユングは、ニーチェが「自己元型」(神のイメージを生む)に憑依されていたと考えます。
理性よりも直観や感覚が勝っていたニーチェは、神のイメージを深く直観していながら、
それを理性で適切に認識することができず、だからその神的な心理的エネルギーに突き動かされ、
いわば自分が心理的に神となるという大きな倨傲を犯してしまった、という解釈です。
ニーチェのような卓越した知性をもった人でさえそうだったのだから、
むやみに根源的な領域に深入りしてしまうと危険です。なんとか衝動を抑えないと混乱は続くばかりです。
もし比喩の混乱が酷くなると、あなたが詩が麻薬であり詩人が破壊屋であるというように、
たとえば詩人のように言語を意識に喚起しただけで幻覚が伴うとかいうような
本当に大変な神経系になってしまいます・・・いつもおせっかいかもしれませんが、気をつけて下さい。
まあ女的に貧弱な奴は直観したところで
無秩序をそのまヘボ詩的に表現するだけでくたびれ干からびては早めに床につくのでしょう。
秩序を超回復するタフな身体能力がないと現実にまともに回帰できず短命に終わる。
理性というのも身体的な能力、脳力でしょうね。
男性の身体性こそ創造性なのだといってもいいかもしれません。
この身体は自己を創造的に修復する、改装してしまうものなのですから。
このタフな身体性がなければ過酷な旅はできません。自殺行為になってしまう。
>>561 別に深い話ではないですね。馬鹿にされる現実的な筋肉の話なので。
しかし男性の筋肉の創造性、超回復能力は深いといえば深いですね。
冷たい人が多いですか? 恐らく私の方が冷たいんですね。氷の微笑とはいえあまり冷たく感じないので。
神的な絶対零度には程遠いですが。
>>566 ニーチェは人間のあらゆる感情・心理の動きを哲学的思索の対象にしていた、
このことは『人間的』を少しでも読めば分かることです。
(感情を思考対象にすることがいけない、といいたいのなら、それは、ニーチェに対する批判にもなります)
私も同じように感情の動きを哲学してみただけのことです。私情を持ち込んではいません。
むしろ私情を無くすために感情を思考対象にするべきだ、ということを訴えたつもりです。
他に、ニーチェが苦悩を認識の源泉にしていたことは、私情による私見ではなく、多くの人が感じていることだと思います。
幽かな私情は「道化染みた」「悲しくも敢えて」「宗教的文体!」の3語にだけ集約させておきました。
「道化の悲しみ」「文体に表出するニュアンス」に関する心理という、人間に潜む最も根源的な感情の一つ、激しくも繊細な心理は、
ニーチェぐらいの力量がないとまともに哲学的思索の対象にはできないようなもので、
あるいは神に関わる領域も同じように最も哲学することが困難な恐ろしいことなので、
うまく知性化して表現できませんでした。それが気にさわったのであれば申し訳ないです。
でも書いたのは全体的に、私情からの書き込みでも私情を持ち込んだ哲学でもなく、人の感情や直観について思考したことです。
「ニーチェを語る」というスレを立てればいい
まあいいではないか
このスレはしばらく前から悲惨な状態になっている。
なりゆきにまかせるしかない
過疎スレの宿命なのだ
苦悩 抽出レス数:16
恐怖 抽出レス数:20
9割は同じヤツが書き込んでいるwww
ニーチェにとって最悪な読者wwwwwww
そうなんだ
ニーチェの生かじりの
ナルシストで
机上の空論でわめいている。
うんざりだな。
浪人生相手に君らは大人げない・・・
え?
早君のことか?
早は1割ぐらいでは?
早は高校生だから
浪人もいたのか?
こんな所に来ないで
受験勉強しろ
576 :
572:2007/12/05(水) 22:37:20 0
早君はまだ若いし浪人生だ。君らはなぜ同情できない?
私にだって早君のように若い頃もあった。早君を見ると懐かしくもある。
誰だって半人前の時期はある。半人前の人間を一人前扱いすることで傷つけることもある。
要するに君らにはやさしさが足りんよ・・・。それが大人の態度か?
あはは
早君も
ニーチェを読んでるなら
「ツアラツストラ」の4部の最終のところで
ツアラツストラが同情について語るところを知っていると思う
君がそんなことを言うと贔屓の引き倒し
みたいだよ
これでいじめになるとはどうかしてる
大人の世界は甘くないよ
578 :
572:2007/12/05(水) 22:53:54 0
>>575 早君のようにネットで恐怖や苦悩を分かち合うことで救われようとする子は今では珍しくもないだろう?
エヴァや尾崎豊、そしてニーチェを私小説として読むことで、不安や苦悩を表現の仕方を学び、
その不安や苦悩に一角の価値を与えるために詩に惹かれ、最終的にはみんなが集合的無意識の中で手を取り合う…という、今時の可愛い子供じゃないか。
早君のような子は不安や苦悩を共にすることでしか他人と共感ができない。それをニーチェ的な嘲笑で断絶するのは(仮にそれが正しいとしても)、彼に「死ね」と言っているようなものじゃないか?
早君にはそれしかないんだよ。そのことに同情しようじゃないか。ここは確かに哲学板だが場合によっては私的なメンタル・ケアも必要なんだ。
人類の美徳というのは、そういうものじゃないだろうか?
半人前とは失礼な言い方だな
おいおい
結局
誰かの自演ではないのか?
自演はともかく成り済ましはやめてほしいもんだがな。。。
自由からの逃走としての集団的無意識の味は、
我が闘争やツァラトゥストラを原文で読むと割と味わえると思います。
というのは自由主義批判でしょうか?
翻訳批判でしょうか?
翻訳はそれこそ何でしょうか各言語固有の精神、
集団的無意識を訳せないのではないかと思います。
ところで無意識というのは物質的でして、そこには同一性と法則性があります。
集団的な無意識しかないんですね。
そして、孤独な意識しかない。
孤独に秩序はない。そりゃ自由は無秩序なわけです。
翻訳に反するところの文献学的な原典の再現というのは、地味なようで、楽しい創造的な行為でしょうね。
超回復でしょうか。無秩序の秩序化。
文献学や考古学とか歴史学、語学、特にその古語の学習の方法論というのは恐らくあまり役に立たないものでしょうが、創造の学でしょう。
死んだものを生き返らせるというような超回復能力は解明しがたい超能力でしょうが、
文化文明の理解、維持発展には欠かせないものでしょう。
いやはや、無味乾燥、陳腐、記号的だとか、資源、人材だとかいって無視され踏み潰され破壊されるようなものを絶えず復活させる雑草的な生命力を私は愛しています。
詩や資本主義というような生命の搾取に励む敵をも愛せというのが奴隷道徳なわけです。
アンチ生命力が弁証法的に生命力を超回復するからです。
文献学者的、歴史学者的な保守性は創造性であるというのは、罵倒でしょうか、それとも賛辞でしょうか。
同一性の保持は時間という変化の流れに抗う創造的反復なんですね。
反復なんてのは、創造的にしか有り得ないわけです。
この度重なる復活としての反復を踏まえた上で差異を生み出すこと、超回復、それが創造なんです。
永遠回帰というのは保守的でありながら創造的です。
筋肉的なんですね、ええ。
筋トレ的に過酷なものだと思います。
>>584 そういった日常性に新鮮さを見いだせないだけ、
非創造的なんです。
反復は再生です。
実は反復できていないから陳腐になるんですよ。
陳腐な罵倒を好む人は幼いとも新しいとも創造的だとさえもいえるわけです。
幼児のようにセーラームーンみたいですねと率直に言えなかったのは無念でしたよ。
いやいや大人にはなりたくないものです。
筋肉的にいって快楽が崩壊であり、それが苦痛と再生につながるので早さんはまずもって快楽が足りないのかもしれませんね。
女性にはあまり適用できない筋肉マンの話ですが。ええ。
破壊に痛みが伴うのではないです。
良薬は口に苦し、産みの苦しみというのが正しい。
回復、超回復、創造に痛みが伴うのです。
恐縮ですが破壊は快楽です。
筋肉を一般化した話でした。
ここはニーチェについてのスレですか
ニーチェについて質問してもいいのですか
ニヒリズムは中二病ですか?
ニヒリズムはドゥルーズのいう「恐るべき秘教的知」を抑圧しつつ表現し続けること、
無意識的に非論理的に表現を反復するものではないでしょうか。
意識的な絶望を希望につなぐものともいえます。 どういたしまして
チェスというゲームに根源的な恐怖などない。あるとすれば主体としてのプレイヤーが外部を想像し勝手に恐怖を感じるだけのこと。
ニーチェのいう遊戯とは外部なき内在性の立場からルール(規則)/プレイ(実践)の優先順位を転倒させるという試みである。
抑圧してるので裏はないというのがニヒリストです。
みんなもっともっと気合入れて語ってくれ
反復するためには海で泥を落とさねばならないのかもしれませんね。
人は有限ですから、淀むので。
神はその限りない水によって泥を無に帰してしまう。
よくわからないのですが
私達の日常生活が反復そのものですね。
食事からはじまり日々の行動パターンはその人固有のものであり
毎日反復してるようなものだ。
だが昨日と今日は多くの差異があり
同じではない。明日も決して今日と全く同じではない。
またそれに伴った私達の観念も同じようなものだ。
私という観念が昨日とほぼ同じ観念をくりかえしている。
明日も私の観念も今日と同じようなものだ。
どんなに行動や観念で冒険したように思えても幼児期に獲得した精神の枠組みをこえることはできない。
日常性を逸脱するつまり差異を拡張するには
交通事故にでもあって死を意識するしかない。
永劫回帰とはこうしたに日常生活の反復や差異とは
次元が違う。差異を生まない反復のことでしょう。
ドウルーズの解釈はニーチェ永劫回帰の偏差的読解ですね。
神についての思考はヘーゲルで最終結論をみたのだ。
ヘーゲル以降
神についての思考はそこからの逸脱か反発か否定しかない。
だから
神についての語りは飽きてるんだけど。
永劫回帰は思考の対象として
まだまだ未知の可能性があると思う。
反復とかではなく
東洋の死生感や仏教思想との対決の問題もあるしね。
飽きるとは大人ですね。
大人は陳腐な自分に飽きてるんですよ。
それって現代哲学でどの程度コンセンサス得てるの?
同一的なるものの永遠の回帰というのは日々の後退的変化、退化、負の差異に抗う生命力、自然治癒力を崇拝するものでしょう。
アンチエイジングのドクマといえるのかもしれません。
当時のキリスト教の実態はどんなものなのか知りませんが、
哀れみをもって退化したものを弱きを救うものらしいので、
これに対するところの永遠回帰はアンチキリストでありアンチエイジングでしょう。
これに比べて進化論は弱肉強食の思想ですから、余程過酷です。
資本主義は経済的に成長を求めるもので一見進化論と似ていますが、
人間、身体に関していえば弱きを守り、
可能な限り強きを酷使しようとするシステム、
むしろ挫き弱くしようとするものなので、
ニーチェにしてみれば社会経済的キリスト教というものでしょうね。
超人は平和よりもむしろ戦争を求めさせるらしいですが、
戦争は身体的に強い者を選択的に破壊し、弱きを守るニーチェの見るキリスト教そのものみたいなものでしょうから、
超人は人間を無邪気にし馬鹿にするものでもあるということではないでしょうか?
アンチキリストとはいえ積極的にキリスト教に、敵に協力するのが超人なのでしょう。
超人故の余裕なのでしょうか。
ローレンツの「攻撃」読むと泣けてくる。
はい
子供の論理はかって通った道をなつかしくおもいだすだけ。
大人の論理を打ち砕くものにはめったに巡り会えない。
いつか登場する青年に期待するのだけど
2ちゃんでは無理です。
はい。
ロジック合戦はもういいよ
つまりキリストやソクラテスが超人のモデルなんではないでしょうか。
否。
子供は懐かしがったりしませんよ。
そりゃ真に反復のできない大人らしいことです。
同一的なるものに常に生き生きと巡り合うことができるのが子供らしい子供でしょう。
そりゃ子供らしくない子供もいますよ。このことについては「孤独について」を参照してください。
>>606
>>608 モデルは逆説的だが
ゾロアスターの教祖ゾロアスター彼自身だろうな。
ニーチェは単に名前を借りただけではないように思う。
あるいは未知の永劫回帰を伝える人物ということになるのか。
まあ架空の人格ということでもいいのかな。
超人への道という希望を伝えるものに過ぎないと解釈してもいいかも。
われわれ凡人は特別な啓示でもないかぎり超人にはなれない。
永劫回帰を信じるだけではどうにもならない。
自分も超人になれると思うのは子供の錯覚にすぎないね。
>>609 こどもはこどもだ。
どこか異常な才能があっても
いびつさと紙一重のところがある。
>>603 同一的なるものの永遠の回帰というのは日々の後退的変化、退化、負の差異に抗う生命力、自然治癒力を崇拝するものでしょう。
そうとも限らない。永劫回帰を普通の人間が信じたとしてもその日から会社を辞める必要もないしね。
理解の仕方によっては日々の暮らしが明るくなったり諦めににた心境になるだけかもしれない。
ただ死生観には影響がでるように思う。たとえばガンを宣告されて絶望するより
今までの人生に感謝して再び永遠の時間の経過とともに自分という人間が再び生まれて同じ人生を
繰り返すことができるという救いを感じることができる。
天国や地獄や転生ではなく自分の存在の永遠性に感謝できるのだ。
>>610 ゾロアスター教は知らないけど、ニーチェはキリスト教や仏教はこき下ろしてますね。
よく瞬間的な出来事を永遠と表現するのは永劫回帰の無意識的表現で
逆に言えば永劫回帰の本質はその程度なんだよぅ。だよぅ。
死んで永遠の生命を獲得だよぅ
>>614 それでいいのだ
一般的にはそのように理解され
万人にうけいれられるのだ
>616
むしろそれ以上のものではないんだと積極的に主張したい。たい。
ロマンチズムやね
他の解釈よりずっと的を得ている。
つまり伝播しやすい文脈の中に混ざったマンガのように不完全な幻想。
続編を切望する読者が作家の何にけちをつけるんだ。
それなりの謎を用意したし、思想にも芸術が必要さ。
交渉成立。
太陽と番った海か
なんでツァラトゥストラは名指ししないで非難するのでしょうか?
名を呼ぶに値しないということでしょうか。
>>614 それは永遠回帰ではなくて
>>615にあるようにエターナルライフというやつで、
ニーチェが蔑むものではないでしょうか。
ちなみにエターナルライフというのは、
麻薬や詩などで極端に感覚を攪乱したり、
感覚を遮断したり、破壊したり、
方法的懐疑を突き詰めたりして、現実性を奪うことによって残留する糞みたいなもののことでしょう。
そうなりますと現実は糞だと思ったりするわけですね。
糞は栄養豊富な肥料でしょうけど。
それは起点であり手段であり、まさに方法的なものであって目的ではないわけです。
それを目的にするのは猿以下のふんころがしでしょう。
ヽ( ・∀・)ノ● ウンコー
神は糞みたいなものですというのは、象徴的でしょう。
それは豊饒なカオスですし、その自己認識、意識は耐えがたいものですので、
衝動的爆発的に形式、秩序を創造し、無意識化していくのです。
それに近づくということは爆風に巻き込まれ吹っ飛ばされ痛い目に会うということだったりすると思います。
まあ糞の力を借りること、吹き飛ばされふわりと舞い戻ることが超回復でしょう。
麻薬や詩、あるいは文学によるダイブはよくありませんが、
哲学的にバンジージャンプする狡猾さと真剣な不真面目さというのは現実的に大切でしょう。
ドゥルーズやニーチェはなんかマジなのでヤバいんですね。
ショーペンハウアーやその仇敵、ヘーゲルあたりが丁度いいのだと思います。
真剣に遊ぶぐらいが。
糞はマジなんですよ。めちゃめちゃリアルで怖いんですね。
マジに相手にしちゃいけません。逝ってしまいますよ。ええ。
神は糞だ。
>>623>>625>>626 あなたがよくいう「感覚の遮断」って、どんなことですか?
それについて書いてる本とかありますか?なんか面白そうです。
詩や五感的空想によって「感覚の攪乱」はできるけど、
感覚の遮断、というのはよく知らない。
そういえばランボーは神になった時の境地を、
>>620にあるように「太陽と繋がった海」に喩えたり「架空のオペラ」とか呼んでるし、
マラルメは「無」と呼んでいる。
感覚の攪乱という詩人的方法によっても主客合一、神と合一の境地は達せられるみたいだけど、
やっぱり二人とも死にかけたみたいです。
たぶん、その境地を「目的」とするのは、
死ぬこと以外の何ものでもない。
でも、生を隅々まで認識するための「手段」としては、
最強の近道ではあると思う。
でもやはりあなたのいうように、文芸よりは哲学の方がずっといい方法。
私は昔哲学読めなかったので、ランボーの主張を狂信しながら、
詩と夢によってダイブし、5感が数週間イカれました。
ニーチェは、隠喩的ではあれ真面目な大学教授経験のある哲学者だったからか、
象徴派詩人よりは大分ましですね。
でも詩みたいな排他的な表現ではなく、ほどよく読みやすいのが怖みかもしれない
628 :
考える名無しさん:2007/12/08(土) 03:50:26 O
>>627 感覚の遮断というのは、独房や懲罰房というようなもので現実を奪い去るということを、手段が許す限り可能な限り徹底することです。
そういう人体実験はなされた模様ですが結果の公表はタブーみたいですし、
関連論文などは知りませんが、
恐らくそれこそ語りえないのです。詩にもならないと。
近道といえばこれこそです。恐らく最短ルートでしょう。
監獄の中である意味目覚める人は割といるものです。
ちなみに私のモットーは「切腹するというだけ」というものなので、大金があっても自分にそんな人体実験は課すことは生涯ないでしょう。
詩にもならないといえばランボーは詩人をやめましたし、
尾崎は人間やめましたね。
純粋感性批判というのは待望の書でしょうか。
語り続けるということが大切なんでしょう。
語りえなくなってはいけないんです。
詩は崖っぷちでしょうか。遺言でしょうか。
初めに言葉ありき…
闘争本能が刺激されるわ
三島由紀夫
どうもフーコーに関連してきたようなので急いで回らない早さんはフーコーを読むといいと思いますよ。
マラルメはニーチェを知っていたのでしょうか。
あるいは永劫回帰をどう考えていたのでしょうか。
わかる人いる?
体系化は無意味に分析を進展させることでなされるでしょう。
そもそも微分によって、同一性が得られるからです。
無限の多様性を、無限に分け隔てることでです。
このようにして得られた均一さから各部分は必然的に体系を構築するのだと思います。
それにしても無限を無限に分割するというのは常に不完全に止まるために、
完全性に向けてのこの運動は永遠に続くのだとおもいます。
世界は無限の差異を内包する糞味噌状の神の、同一性と完全性、調和への衝動なのです。
まさに自然法則は微分によって自然に形成される。
これは文法にも言えるでしょう。
また意味というのは内容が分かることなので、
無意味に分析するというのは語弊がありましたね。
分析するということが意味を成すことなのです。
没個性的な人間の集団は大衆として権力を振るう。
その反省から個性が大切になったわけです。
ここには差異によって差異を救うという権力への意志があるのではないでしょうか。
他方、同一性によって差異から救われようとする権力への意志があるのでしょう。
階級闘争なのでしょうか。
やっぱ雄は強くなくっちゃ
>>634 あなた臭ってきましたね。
よかったですね、徐々に宇多田化してるみたいですよ。
欧米か
宇多田が豚とも称されるのは、魂が臭いからでしょうが、
それは混沌とした詩的神話的な糞味噌をよく食べるからでしょう。
この臭さはルソー、サド、サルトルの嘔吐を経由しても依然として衰えを見せないフランス魂の華麗に装飾され誤魔化そうとされてきた異臭の伝統に通じるものがありますね。
ラテン系は生臭い。
いかくちゃい
言葉は異臭の抑圧装置である。
それはさらにその定義の円環によって封じ込められ沈黙させられるべきものなのである。
饒舌を尽くすことが臭いものに蓋をすることになる。
2ちゃんの誕生は監獄の新たな形態の誕生だったのだ。
言葉は自己抑圧、自己弾圧のための装置であり、
語りは自己解体であり死ぬことを目指すものです。
激しい詩作や文筆は、ある意味では自己解体、自殺行為だといえる。
実際、マラルメはハタチ前後で「私は幸いにも死んだ」とか本気で知人に手紙で書き送ってる。
でも一度精神的に死ぬこと、自己解体することは、それは新しい自分が生まれるための過程だと思う。
マラルメの言葉で言うと「詩に手術される」
ゲーテの言葉で言うと「私が詩を作るのではない、詩が私をつくるのだ」
詩が大量に生まれるとき、逆らえない執筆衝動に見舞われるときというのは、大体、自分で書いているというより、
自分の背後にある大いなる存在、心理学でいう無意識から、自動的に湧いてくるというような感じで、
しかも書いている時点での自分を完全に破壊するような威力がある。逆らえない。人格が破壊され、忘我になる。
その時点での自分を突き破って地下から詩が発芽してくるような感じ。
この瞬間こそ、大地と生命にとって価値をもった発想の萌芽だと思う。
ニーチェなら発芽とかいわずに噴火とか言いそう。『ツァラトゥストラ』執筆時、ニーチェはもはや個人ではなく、
大地から思想が湧き上がってくるときの噴火口、大地が思想を語るための口、のようなものになっていたんだと思う。
>>628 興味深い情報ありがとうございます。なんだか、怖い、です。
言葉が解体するのは自己といっても形状のない糞です。その解体によって私が創られる。
ところで独房というのは監獄における矯正装置というよりは、
罪人生産装置、再生産装置として機能しているはずです。
臭いものに蓋をし沈黙させるには逆説的に饒舌が必要なんです。
フーコーはおいといても構わないでしょうが、
かの「孤独について」は関連当局はもちろんのこと、
犯罪を敵視する全ての人の必読書でしょう。
臭い人が臭い言葉を放つという必然性に着目すべきなのです。
とはいえ便所としての2ちゃんは既に、恐らくウィトゲンシュタインとフーコーを踏まえて、
言葉の浄化機能に着目した監獄の新形態として設立され、
数々の非難、訴訟にも関わらず維持されているものでしょう。
言うだけでは済まなくなる数々の犯罪を未然に防いでいるものなのです。
あたかも対話しているように語らせ続けることで矯正するわけです。
ここは考えうる限り理想的ともいえる矯正施設かもしれませんね。
臭いものに蓋をする言葉による画一化は自律的な大衆を生み出すでしょうが、
2ちゃんねらーは引き裂かれた大衆なんですね。
仏教徒のクセにクリスマス♪
永劫回帰とはどういうことでしょうか。
具体的に教えてほしいのです。
>>653 ここは
浪人と高校生の受験生が常駐して
まともな答えは期待できない。
あきらめな。
ウィキペディアの解説はいいかげんだな。
ニーチェの思想の曲解だ。
ニーチェに訊けばいい
本屋でニーチェの本買って自分で考えろ。
2ちゃんで調べよういう根性がだめだ。
こここにいるのはニーチェなんか興味ない子供だから。
肉体的な規律、抑制、私語の禁止、孤独は私を解体し精神を解き放つ。
肉体的な秩序、監獄というのは精神の広場なのです。
肉体を蔑視するものも、肉体を崇めるものも、肉体に規律を課す。自分に沈黙を課す。
言葉の乏しさは、人を善悪の彼岸に送り返し、野蛮にします。
異臭を放つ気高さと高い可能性としての精神力、行動力を人にもたらすでしょう。
彼らは秩序を衝動的に奪い取りにくる。
そして俺が秩序だと宣言する。
語り、告白、懺悔によって、我々はどす黒い精神を切断し小分けし、抑圧して、私、主体を形成する。
主体(subject)は服従するものである。無論主体は服従することでしか生きられない。
独房は語りを奪い、主体を奪い取る。
インテリはある程度、抵抗できるでしょうが、抵抗しきれないがために、さらに抵抗の意志を強めるでしょう。
結局、主体は腐敗し解体され糞と化し、無秩序の恐怖の闇の中に、肥大化したその盲目的な秩序への意志、権力への意志ばかりが残る。
あと
あやじがいる
主体を失った人間はグロテスクなことに子どもっぽくなるのでしょうか。
手に負えない大きな子どもというといわゆる中二病でしょうか。
我々はドイツ人に占領されていた間ほど、自由であったことはかつてなかった。か
自由は怖いわ。
独房は再び子宮の中の暗部に着床することを機械的に力強く強いる装置だと言えるかもしれません。
独房は築き上げてきた主観的世界が崩壊する現場でしょう。
それは眠りのようにはいきません、苛烈にまで意識ばかりは鮮明化していくからです。
その眩いばかりの意識に崩壊と闇が映し出される。この存在と無
どうも蟻とキリギリスを想起しました。
フランス人はキリギリスでしょう。
ラテン魂は気にくわない。そこには芸能人的な奇妙な快活さとグロさがある。
むしろインド人の方によりそんなところがあるようだ。
やはりゲルマン魂だろう。
しかし大和魂はどこにいったのか。
我ながら切腹するというだけとは。
キリギリス化してるじゃないか。
ガス官くわえるか切腹しかねぇ
超人キリギリスは回る。
人力メリーゴーランドの悲哀を噛み締めつつ回り続ける。
そして挙げ句の果てに舌を噛み切ってしまう。
そんなキリギリスは嫌だ。
人力メリーゴーランドというのは例の蛇より象徴的でしょう。
実に肝臭い反吐がでる。
それが肝心なんですか。そうですか。
血迷い笑い泣いては血の涙を流す心が肝心なんですか。栄養豊富なんですか。
そんな心を愛すると? 愛せと?
血に餓えた野獣の中の野獣になれと? 血まみれの口で歌って笑えと?
狂気ですね、ええ。原始的ですね。
何がルネサンスですか。
一度乗ってしまうと死ぬまで降りられない、それが血で染められた人力メリーゴーランドなのかもしれない。
超人とはそのラテン系の乗客に過ぎないと思う。
「ぼくらは自分がゲイだと主張するだけでは充分ではない。のみならず、ゲイの生活様式を創造しなければならないのです。
そしてSMの実践は快楽の創造であり、…それは戦略的な関係を肉体の快楽の源泉として活用するのです。
多数の快楽を生み出しうる源泉として、これはきわめて重要な何かです。」フーコー
まあ、子宮においては、幼児でも私たちの性別は曖昧な何かなのでしょう。
そしてそこでは快楽と苦痛の区別も敵と味方の区別もつかなくなると。
おぞましい救済があるものです。
ニーチェが提示するまでもなかった。
ニーチェは怪物を観察し、飲みこまれたのでしょう。
ああ理性は無力だ
時間の無駄だね。どんなに考えても今年も1円も稼げなかったとは…!
ここはほんとにニーチェのスレなのか。
糞を連発するおやじがいるし。
自虐おやじやらサドおやじやら
ナルシスト高校生やら。
>>678 いや、怪物に挑めるのは理性だけなのだ。
言葉の剣で切り刻んでやれるのは。
では糞がいやなら糞のところを変態と読み替えるといい。
変態がいるということが、真理や秩序のアリバイになる。
認め難いものだ。許し難いものだ。 やっつけるのだ。
そのための洗練された施設が2ちゃんである。
これはフーコーの企画を実現したものである。
すなわち思想を生半可な状態で発表できる場を生み出すこと。
そうすることで主体の形成を助け、変態の乱舞を言葉止まりにする。
「私を駆り立てた動機はというと、ごく単純であった。… それは好奇心だ。 とにかくいくらか執拗に執拗に実行に移してみる価値のある唯一の好奇心である。
つまり知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努める体の好奇心ではなく、
自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。」 フーコー
「神聖な好奇心を失ってはならない。」アインシュタイン
フーコー不幸
好奇心を持ちすぎると本当に知らなくていいことまでも知っちゃって
後戻りできなくなるから気をつけたほうがいいよ
ニーチェを探求って事は気狂いになりたい願望か
気狂いピエロ恐ろしや
コメディ映画いいよね
ビッグ・リボウスキとか最高
理性はあてにならんからもう子供として生きていくよ!
物質を侮蔑して神経を頼る!しかし時には肉欲に溺れる!
石油を原料とした製品はどれも人類にとって神のような存在である
故に石油が枯渇するということは同時に神の死を意味する
なぜなら紙がないとケツの穴も拭けないからだ
694 :
マリーアントワネット:2007/12/10(月) 23:42:58 0
ガソリン価格が高騰しているなら、産油国を併合すればいいじゃない
主体が崩壊すれば性的に男と女の区別がつかなくなるというのは必然的ではないでしょうか?
というのは怖いことでしょうか。
これは独房がホモを作るということですから監獄にはホモがいっぱい…
まあ犯罪するなら覚悟してください。
懲役だけではすまないわけですから。
特にお若い方は。
696 :
考える名無しさん:2007/12/11(火) 00:19:01 O
ニート
概念は差異を包む。
フランス人はよくわかりませんが、この皮膚としての概念を剥ぐのが好きらしい。
全く感覚的で洞察力に富まない民族だといえるでしょう。
実際剥ぎ取ってみなければその同一的なるものの内部の差異、具体性を捉えられないというわけですから。
真の反復ができないというわけですから。
真の反復だなんて、そんなこと幼児だってできることですよ。
切腹すれば超痛いし大量出血でますよ。当たり前です。
彼らは怖いもの知らずというか、猪突猛進というかおかしくてグロくて危険ですね。
何が好奇心ですか。好奇心で皮膚を剥がすとは。
フランス人の使う言葉は、それこそ浅はかな記号みたいですね。
内部がない。機械的なものです。
あくまでも感覚的な認識のしるしのようです。
その感覚はその記号の端正な姿とは対照的におぞましいもののようですが。
哲学者ぶっててもその本性は詩人ですよ。
実に憎たらしい。
私の直観はこう語りました。
すなわち「差異と反復」は哲学的仮面をかぶった詩であり、
ツァラトゥストラは詩的な仮面をかぶった哲学であると。
前者は哲学の対象であるのに対し、
後者はその読者を哲学の対象にしようと常に待ち構えているのだと。
しかし2ちゃんやるのは独房で一人呟いているに近い。 しかも深夜にだ。
考えてみれば不気味なことじゃないか。
洞察力万歳
反復はこのスレに
同じようなことを何度もカキコする
反復のことである。
繰り返される諸行は無常
よみがえる性的衝動
正夢やデジャヴは錯覚か?
現前するものが一切なくなったとき、あらゆる差異があたかも無に帰ったときにこそ、
最大かつ絶対的で、峻烈かつ熾烈で激烈で烈火の如き沈黙まさに到底語り尽くせない差異があらわれる。
これが存在という差異である。
実のところこの差異しかない。これが真実なのだ。
あらゆる差異はこの根源的な差異の展開なのである。そして帰着するとすればここである。
フランス人はこの裸の禿げた存在を愛するというのか。裸の神経を。純粋な差異を。
無であるということを。
本質的に禿げているということを。
そして本日はどのカツラにいたしましょうかとお洒落に興じることを愛するというのか!
毛のない猿というか皮膚もない猿。
剥き出しの神経の怪物、その乱舞。
いやはや実に劇的な民族なのだ。
そいえば眼球移植したら眼球に記憶があったとか
「もろもろの事物が、一義的で分割されないひとつの《存在》のまったき広がりのうえにおのれを展開してゆくのである」
「…「すべては等しくある」という言葉が、そうした等しい一義的な《存在》のなかで、等しくはないものについて言われるという条件のもとで、まさしく愉快な言葉として鳴り響くことができる。
…一義的な存在は遊牧的配分であると同時に、戴冠せるアナーキーであるのだ。」
ドゥルーズはかく語りき (差異と反復)
反復反復ってニーチェは強迫性障害だったの?
存在自体という禿げが脅迫性障害者(永遠の差異)であり、
それがいくらフサフサの髪を偽装工作しようとも、
禿げが禿げであること、偽装したフサに禿げという差異があることに変わりはなく、
それ自身を、髪を脅迫的に偽造しつつ、永遠に反復しているということでしょうか。
ドゥルーズは永遠回帰を解釈するに当たって、
「親愛なるフーコーよ、君は永遠に禿げなのだ、
だからこそ私は懸命に生きる君を余計に愛するし、
余計に君の偉大さを認めるし、
余計に君を尊敬しているのだ」という解釈も示唆しているように思います。
>>709 なるほどいわゆる存在の明るみとは月の光のことのようですね。禿げた大地の。
深遠な眩い光だ。
大地の豊穣なる草を刈り取り、その神秘の光を盗み見るものは、神の怒りを買わざるをえないのでしょう。
711 :
考える名無しさん:2007/12/11(火) 16:17:31 0
>>709 詰まらない質問に答えて頂き謝々。
スポーツで言えば野球選手がバッティング練習を反復する事かしら。
ニーチェもドウルーズもフーコーも何もわからないおやじでごんす。
スポーツも勉強も反復どすえ
うん、そうだね
頑丈な心身をおくれ…ニイサン
>>711 確かドゥルーズによれば反復は「概念なき差異」だったと思いますが。
昨日読んだばかりなのですが既に記憶が定かではないです。
自分で読んでみて確認してください。
永遠回帰は永遠の概念なき差異ということになるでしょう。
ですから概念すなわちカツラをいくらかぶってみても、差異すなわち禿げは永遠なんですね。
とはいえ私は禿げが差異といえるのはカツラをかぶることによってこそだと思いますが。
カツラがなければ禿げは単なる禿げすなわち無なのでありそこに差異はない。
概念なき差異なんてないと私は思います。
また差異のないところに反復はない。
概念をなんか毛嫌いするのが感覚的な連中の特徴みたいですが、
そんなことでは禿げてしまうんです。
そして強迫的にカツラをかぶるわけですよ。
>>715 ドゥルーズ『ニーチェと哲学』を訳した足立和浩の解説をみればいい。
永劫回帰はドウルーズの解釈とは裏腹で
現代の宇宙的解釈をすると差異なき反復のことだ。
絶対的な宇宙。太陽…
フィクションとノンフィクションの切り返し
さて、外の寒い冬の中で何が見えてくるのかしら
「意味ですって、今雪が降っている、それに何の意味がありましょう?」という条り
しかし私はコスモス(宇宙)よりも、秋桜のコスモスの方が好ましいですわ。
秋という小さな条りの季節の中で夭折したいでござる。
しかし、神様は私を愛してくださるかしら
おお神よ!
差異なき反復というのはありえないですね。
根源的一者=無で在る=禿げである=変態であるには差異がないですが、
そこには運動がなく反復がない。
禿げの偽装への意志による強迫的な運動が主語‐述語関係、概念的差異を生んでいく。
自らに服従するものとしての主体を形成していく。倫理を。
倫理的法則に従うこと、ある運動を繰り返すこと、反復することのうちには常に概念的差異、主語と述語との間に差異があります。
(ちなみにこれは定義は不完全だということです。世界は不完全ということです。)
差異なき反復というのは同語反復なんであり、運動ではない運動であり、世界の内部では無意味で全くありえないことです。
そういえば最近は異次元だとか物理学で研究してるみたいですが…
まあ別に無で在ることを、数学的点の、今とここの永遠の反復と解釈するならば、
永遠回帰を概念なき差異として解釈できますが。
これは誤解でしょうが、こうでも解釈しないことには、
永遠回帰はありえない奇跡的なことになると思います。
とはいえツァラトゥストラは難解なだけだとも思いますが。
それだけに面白い。
哲学上のフェルマーの定理のようなものなんでしょう。
フェルマー(ニーチェ)の実力からして虚言だとは考えにくいものなわけです。
TEST
神に、ナゲキッ(嘆きっ)ス。すいませんッス。こりゃいいセンス。
シャレっ気のススメですよ。
「しかし人生は茶番ではない」とランボーは家族に宛てた書簡の中で言った。
詩をポイ捨て後の言葉だった。
ハゲ頭になるくらいなら死んだ方がマシだ。苦しまずに一瞬で即死できる方法なんて!
安楽死法案採決致ス。眠りながらの自然死かぁ。こりゃ夢だ。
今さっき映画アワーミュージックを拾い観したんだけど、ゴダール映画はオマイラも気に入るかも。
ニーチェは怪物としての芸術家、神秘家を分析したんじゃないかと、
ツァラトゥストラはその迫真の演技ではないかなというのは早急な感覚的解釈でしょう。
神は死んだ、私がここにこうしているからだ。私が証拠だ。
私は神を殺してきた。私は神だった。
みたいな。
フランス人「ふん、腑抜けドイツ人めが、我々の内臓はドイツ人如きにはちと荷が重いのだ、
我々自身でさえ持て余しているものなのだ、
発狂するもむべなるかな。
まあ我々に楯突くとは確かに試みとしては偉大ではあった。
小癪なドイツ人にしてはよくやったものだ。
その勇気は敬服に値するといえるだろう。」
理性を神として梅毒でアボーン
しかし本当の死因は…
どうもドゥルーズはニーチェに対して諭しているようで臭い。
「仕方ないやつだな、まあ我々に憧れてしまうのはドイツ人の宿命というやつか、無理もないことだw
我々は情熱的な民族だ、君の情熱には応えざるをえまい。」
シュトラウスの交響詩いいね
>>724 永劫回帰を信じ切れないから
そういう解釈になるのだ。
この宇宙が終焉後
再び発生するとき全く同じものとして発生して
地球ができ人類の歴史が差異なく繰り返され
君の人生も差異なく反復されることを
君が信じきれないから
君はドウルーズみたいに差異や反復をわめくのだ。
>>727>>731 てか、ラテン系よりゲルマン系の方が余程情熱的なんだけどな。秘めてるだけで。概念で抑制しておかなければ身を焼き尽くすほどなのだ。
時々創作芸術と言い訳して表現するんだがこれは演技の演技であり本物なのだ。
情熱の本場はゲルマン魂にある。
ラテン魂は小悪魔にすぎない。
ああそうさ、ニーチェは小悪魔と戯れている内に魔王になったのだよ。
>>732 ああそうさ。そんなこと信じて何になるというのだ。
希望が裏切らぎられることを絶望をこそ私は信じている。
この世は魔王が支配しているのだ。
裏切らぎられることを望むがいいのだ。
>>735 君が病気になって明日にも死ぬかもしれないという絶望のとき
過去の人生をもう一度繰り返すことができるという希望
があるじゃないか。
もっとも君が糞みたいな人生で繰り返すことが嫌なら信じなくていいのさ。
死にたいおって思うのも最後の欲望か
ちょっと実験してみましたが、
今とここに情熱があるのは確かみたいですね。
音楽を情熱的にするにはそれこそ今とここという点の反復にせねばなりません。
全身全霊をこの一瞬にかけるわけです。
その反復。
これはあまりにぐったりしますからせめてモールス信号のような点と線の継起にしたいところです。
音楽は流れるものではない。一瞬のときめきメモリアルの永遠回帰なんですね。
>>736 ニーチェ的には人生は克服されるべきなにかでしょう。
そして瞬間的ときめきメモリアルの永遠回帰が超人の生なんであり、それを意志すべきなんではないでしょうか。
>ときめきメモリアル
そんなエロゲあったな。
明日死ぬとなれば絶望はしないでしょう。
むしろ血迷った老人や戦争中の人々のように興奮すると思います。
病気で死ぬのであれば、やっと解放されると思うでしょう。
絶望は差異なき反復にあるんです。
永遠回帰のそういう解釈を私は心情的にありえないと拒絶します。
前世の記憶も失われるんですからまあいいかとは考えられますが。
>>740 俗にいえば性的な瞬間の永遠回帰が超人の生活かもしれないと思っただけです。
ニーチェがツァラトゥストラを執筆していた状態はそんな状態だったでしょうし。
いわゆる「止まって見える」という意識にならなければ端から見て流れるようにはいかずぎこちないものになるでしょう。
一瞬のときめきメモリアルは芸術的にいって主観的にも客観的にも大切なようです。
>>742 偏愛から来る異常な恍惚ですね。怖い状態だ。
超人なんて目指すこともあこがれる必要もないさ。
人は誰だって自分の人生をのがれることができない。
いまさら超人になってどうしようというのだ。
各瞬間がどうのではなく
自分の人生をたのしく有意義にすごすにはどうしたらいいかだけの問題だ。
永劫回帰を信じて信じなくても
真実だろうが妄想だろうが
このことは変わらない。
ただ糞みたいな人生は御免だな。
ああ俺は糞だ。
神も糞だ。
この人生は繰り返したくない。
差異だけが希望だ。
ヽ( ・∀・)ノ● ウンコー
まあウンコの味は苦いらしい。人生そのもの。
永遠を愛し、永遠に生きる
永遠とは?
フランス人的な解釈はおそらく正しいでしょう、
とりあえずニーチェのテクスト(人間的あまりに人間的の序文)の中で一つ証拠を見つけました。
危険な好奇心の声はこう呟くわけです。
「゛Lieber sterben,als hier leben゛」おそらくこれは、「死んだ方がましだ、ここで生きられぬとあれば」ということでしょう。
そして「ここ」が全てだというわけです。
時間は糞です。瞬間こそマイホームなのだ。
この瞬間を生き続けたい!永遠に。
瞬間よ、永遠に生きてくれ! 瞬間万歳!! 瞬間万歳!!
とまあ私はサラリーマンのようにこのマイホームのために生きようと瞬間的に思いましたがね。ええ。
刹那主義。いい意味で。
今この時こそ全てだ
という意味でハイデカーは
ニーチェの永劫回帰の思想を形而上学の完成とみたのでしょうね。
神への信仰から神不在のままの現存在への信仰に永劫回帰の本質があると解釈した。
ドウルーズもその解釈の系譜をうけついでいる。
差異というのはそれなりに素晴らしい発想だ。
俺は自分がもう一度人生をやり直せるなら
もっともっと遊んでおけばよかったとおもっている。
いまさら遅いが同じ人生は嫌だな。
無限差異の宇宙の回帰のほうがいい。
苦楽などあらゆる区別が糞味噌に曖昧になる変態化による救済。
概念なき構造なき瞬間の永遠回帰、差異の永続。
アメーバのような原始的な生命の光。そのかけがえのない生命力!
人間は克服されるべきあるものなのだ、あらゆる犠牲を払ってでも。
無論、人間辞めてでも。アメーバになってでも。
ときめきメモリアルにはときめかざるをえない。
刹那的な生には苦はあるようでないのだ。快楽と未分化なのだ。
快楽もあるようでないのだ、苦と未分化なのだ。
苦楽一体のときめきメモリアル。それは永遠のオルガズム。
この一瞬が永遠であれば!という恋人達の夢をニーチェは叶えたのだ。
>>752 なるほどハイデガーもときめきメモリアルのファンでしたか。
アレントとお友達だったといいますからね。
遊ぶのは深刻なことです。
今とここだけが概念なき差異、反復でしょう。この反復は真に深刻な遊びのようです。
反復は危険な好奇心を満たし続けるものです。麻薬ですね。
ですがその好奇心が満たされないという状態においては死の本能が活躍するものだと思います。
例えばいい身分の管理職は自分で自分を追い詰めてもがくのが好きなんですね。
悪魔の誘惑に乗るべきか否か、それが問題だ。
退けたとして何になる?
いずれにせよ悪魔は嘲笑するばかりなのだ。
生まれたことが運の尽きだった。
俺はこの邪悪な手の舞台の上で滑稽にも踊り続けるよう宿命づけられているのだ。
右へ行ってみても左に行ってみても、逃れられない。
どっちに向かっているのかもわからない樹海に俺は生まれていた。
眠っていて目覚めたのだ。 死は眠りだ。
幸いなるかな、悪魔の手の床に眠る者は!
幸いなるかな、悪魔の手の上で覚醒する者は!
どっちに転んでみても構わないのだ。
どっちみち滑稽にも幸いなのだ。そしてあまりにも不幸なのだ。
神は死んだ!!
どっちかに転ぶことが救済である。
死か狂気か。
人間は転ぶべく不安定に不完全に作られており踊るようにできている。
悪魔=神の玩具なのだ。所詮畜生である。畜生中の畜生だ。
老若男女どいつもこいつも瓜二つだ。
さあ踊るがいいということなのだ。
アンタもアホならオイラもアホじゃ、同じアホなら踊らなソンソン
だな
ふざけてようで的を射ている
>>755 全ては悪魔の自演展開でしょう。
その存在の構造化の程度の違いで変わってみえるだけ。
構造がなければ堕天使悪魔君なんです。
つまり悪魔の誘惑といってる時点で悪魔的になってるんですね。
それでそうやって対象化してるのが構造化なんです。分裂なんです。
>>757 そうですね。
真剣にふざけてるんです。
真剣でふざけてるといってもいいでしょう。
根源的一者に近づいていけば血も涙も笑いも充実するようですし、
逆に希望的観測ぽいですが死という眠りの安らぎも捨て難い。 捨てられませんが。
幸福にはいわば光が強烈なあまり区別がつかないか、
光が弱すぎて区別がつかないぐらいがよく、転ばぬ先の杖はよくないです。
狂人か死かといのが本質的な問題なんです。現実的ではないですが。
でもどっちに転んでいっても回帰するのかもしれませんね。
より現実的には変態か白痴かという選択になると思います。
どちらも光の強度の差はあれども渾然一体とした意識なんですね。
しかも逆説的にその不明晰な意識にこそ最大の差異が現れるといえます。
基本的に何もない白紙のようなものなので、
生きていれば常に好奇心が満たされることになります。
しかし変態や白痴であり続けるためには 発狂したり死んだりしないよう細心の注意が必要でしょう。その崖っぷちなので。
それでいて心は判明ではないわけですが。
まあオタクぐらいが健康的でよいのではないでしょうか。
で、時々気晴らしに、変態になったり白痴になったりするぐらいが丁度良さそうです。
>>750 の訳は恥ずかしながら誤訳で、
普通に「こんなところで生きるぐらいなら、死んだ方がましだ」
みたいに訳すべきでした。
で、差異を求めて未知の世界に向けて航海に出ると。
差異は灯台下暗しで「ここ」にあると思うのですが。
或阿呆の一生。我輩は阿呆である。
阿呆はいつも彼以外の人々を悉く阿呆と考えている。
私達が何故こんなにもムダに哲学をするか?
無力だからか。若者はどんな時代でも特に。
若者の特権は「時間という資源」だけだと肝に銘じて、成熟社会をサバイバルしていく。
今日もニーチェ気取りで一日を過ごす♪
>>760 では死ぬ危険を犯して差異を求めてみても、おらは死んじまっただとなってみても、
何度となく死んでみても、
ニーチェにとって憎むべき「ここ」は永遠回帰するということですよね。
未知なる新奇なものを求めて多大な費用をかけて世界中を旅してみても、
古臭い「ここ」から逃れられず、同一性は永遠に付きまとうという認識だったんでしょうか。
これでは哲学者というか裸の王様か大金持ちみたいですから、違うんでしょうね。
それじゃドン・キホーテかロビンソンクルーソーだ。
なんだよ文学ですかという話しで。
「ここ」から出ていったら新たなる「ここ」にたどり着くということじゃね。
妻に飽きて愛人に走ってはみたがやっぱり我が家はいいな、
だから浮気は止められないのだ断じて!というお話か。
タイトルからして人間的、あまりに人間的ですからね。
ドン・キホーテは馬鹿にはできない高尚なる処世術を実践している賢者なのだ。 畜生めが馬鹿にするなら真剣な遊びである人生を馬鹿にしたらどうなのだ?
Here&There
我輩はハムレット型である。
人は、恐怖に怯えて死ぬほど震えるくせに、その又何処かで恐怖を求めてる。
深淵は花である。男が女を求めるのもこれ。花に嵐の喩えか。つまりファムファタルを愉しむ心理。
「怖いですねえ、恐ろしいですねえ。」(淀川長治)
そして最後には…「さよなら、さよなら、さよなら」
オワタ\(^o^)/
自作自演と自問自答と
775 :
考える名無しさん:2007/12/13(木) 15:48:40 0
おーい誰か語り合おうぜっ
かく語りき!
誰もいない
ツァラトゥストラはペルシャの預言者。
アル・ガザーリーもな。
十字軍後のイスラム文化の輸入はイベリア半島かららしいな。
ああ、やっぱそうか。戦国時代に日本人の会ったスペイン人や
ポルトガル人はアラブ人の服装だった。
変態性欲者かく語りきってどこかで訊いた
自分のことか? 正直だな。
アビラの大聖テレジアも十字架の聖ヨハネもスペインdもんな。ついでにロヨラも。
ポルトガル人のサウターデがコーランの朗誦に聴こえて来たりさ。
神学なき日本。危ういぃ
「神学論争」最近、しなくなったな(笑
神学の誤読は怖ろしいけど
キリストは好きだが、キリスト教は好かん
教会かなんかの前で商売してたらキリストが怒って店を滅茶苦茶にした逸話は笑ったなぁ
ドビュッシーの夢いいわぁ。夢夢夢
>>788 天皇陛下がテキヤの前で同じことをすると、恐ろしいであろう。
>>787 ああ、キリストを肯定してキリスト教を否定する奴は、好き嫌いで言うかもな。
なるほど処刑ライダーというのは真剣な遊び人を示唆してるんですか?
今日、なかなかの白痴を体験したっぽい。
意識や記憶が異様に働いてなかったですね。
意識に対して世界が流れ去っていく。
私は変態的状態ではしりませんが、
恐らくは変態的状態においては逆に世界がゆっくりになる。
意識が苛烈に働く。
記憶は幻覚として登場し現実的で怪物的である。
としますと意識の運動は、過去へ向かう時間上の運動だといえるでしょう。
時計の進む速さは、意識の強度に反比例すると。
すなわち意識が強まれば、時計はゆっくりになり、
意識が弱まれば、時計は速くなると。
白痴において「ここ」というような意識がキャンバスであり、「今」という世界が絵描きであり、
変態において「今」という意識が絵描きであり、「ここ」という世界がキャンバスでしょう。
白痴は「ここ」で安眠を貪っており、そこには騒がしい「今」が問題として迫ってくるのであり、
変態は「今」えらく覚醒しており、
そこに問題としての空虚な「ここ」が迫ってくる。
ムイシュキン公爵
>>792 冷やかしをしたいんなら残念ながら、俺は好き嫌いで人を相手に
することはポリシーに反するのでしたくない方だ。
今こそ、敗北者の声に耳を澄ますべきであーる
コスト&ベネフィット
昇順と降順。自閉と破壊。
しかし、ロジックじゃ生きていけんな
リリックの使いこなしってヤツが巧けりゃなぁ
ロジックの破綻!
ニーチェの理論破綻はカッコいい
理論デ破壊致ス。1+1=2。ダガ、一滴プラス一滴ハ大キナ一滴。ポエトリー終了致ス。
あの世その世この世
理性君「僕を当てにしないで下さい」
感情チャン「おっぱいはお嫌いですか?」
話し合いは時間の無駄か。
人と人が理解し合うなんて不可能。人は自分の事も理解できない。
しかし「交流」を放棄するのは危険で、人は言語を持っている限りできるだけ話し合うべき。
それでもダメなら、外交なら武力(権力)にハッテン。ウホッ。
人は自由と孤独には耐えられない生物。しかし僕は死を迎えるまで考えます。
808 :
短パン:2007/12/14(金) 18:37:22 0
人が人としての存在を100としたら、此処での打ち込みにどのくらいの数字を割り振ってやろうかと。。。
大体、相手のその場その時の心情を、文字だけで推し量るのはそもそも無理で、回線切ったり切られたりすればそれで終わりだし、
せいぜい出来る事といえば、相手をイラつかせるか。悔しがらせて、ある程度の時間稼ぎで引っ張れるかどぅか。。。
・・・そういう点で、このフィールドってのは、仕組みの時点で誰もが非常に希薄な関係、、、というか存在。
文字は、一端嘘こきだすと、どこまでも創作できる。それは、「ネットだから」という以前に、文字の特性。かもしれへん・・・
男が女っぽい書き方して、(私は女だけど。)なんて一発入れとけば、異性を演じるのは容易いようだし。
なにがおもろいのか、あたしにゃさっぱりワカランけんど。異性を演じてみたい人にとっては、結構お手軽なオカマちゃんや
オナベちゃんが出来て、おもろいのかもしれへんね?
と。いうわけで、
2chという、文字だけの世界においての話し合いにはあまり意味は無いのかもしれへんな。
ちんシュッシュ
ネット(メール)に深いコミュニケーションを求めると妄想癖の方は気が狂うと思う
「締め切りは明日ですよ」で「了解です」
は便利いいけど
「愛してるよ!」で「嬉しいわ♪」
は向いていないし、やらない方がいい
現実の建前に堪えられないから、2ちゃんで本音を言うんだろな。
くだらね
このスレがニーチェスレである必要はねえな。
糞について哲学的に語る
とか
変態を哲学的に語る
とか新スレつくったらどうか。
それでは余興はここまでにして、ニーチェについて存分に落書きして下さい。
ま、ニーチェを語らせたらボクチンの右に出る奴はいないってことだな♪
とんとん
豚豚
ニーチェは浮気の哲学を展開したんです。
ニーチェが浮気をするのは、こいつをあの頃のようにずっと愛し続けるためなんですね。
あの頃をこの頃にするためです。
出会い続けるためです。
愛するための鞭なんです、愛の鞭なんですよ。ええ。
人間とは情報想像力コミュニケーション言葉
ニーチェって要するに何故に浮気は最高なのかっていう問題をとり扱っているんでしょうね。
820 :
考える名無しさん:2007/12/15(土) 00:33:22 0
ナチスの曲って心底から魂を揺さぶられるな。
だけどみんなナチス曲集なんて持ってないだろうね。
あとワーグナーの曲も実にダイナミックでロマンティック。
よくあの時代にこんな壮大な曲を創作したもんだ。Sugeeeeeeeeeee!
この人ってどんな思考回路してたんだろう。 Sugeeeeeeeeeee!
天才だ!
ゲルマンだ
>>817 819
なるほど、つまりあたかも、
月が地球から、地球が太陽から別れようとしつつ、
目に見えない愛の絆を確かめ、確かめあっているように、
ニーチェも「ここ」から遠ざかろうとすることで、
「ここ」との盲目的な愛、絆、腐れ縁を周遊しつつ常々確かめていたということでしょうか。
目に見えない絆を確認するためには別れようとして、
それを緊張させ血で染め上げ赤い糸にせねばならないと。
大地の意義を知る者は血と汗を流す航海(後悔)する者なのだと。
平和の意義を知る者は闘士なのだと。
武勇伝武勇伝ということでしょうか。
>>822 もはや航海というのは古臭い話ではないか?
今や我々は地球に帰るために宇宙に行くのだといわねばならない。
大地と青空の意義を知るために我々は青空の彼方、闇に向かわねばならないのだと。
そこで畏敬を込めてオーと唸ろうじゃないかと。
形而上学も宗教も武勇伝武勇伝でしょうね。
ニーチェのこれら現世否定的なるものに対する憎しみは大地への愛と憧憬の裏返しであり、
悲しみの青空における自己否定と後悔でしょう。
なぜ愚かにも悲しみのないはずだった大空を夢見てこんなところまで飛んできてしまったのかと鳥は歌い舞い降りる。
そして地を這う虫けら共を食べ飽きては鳥人は懲りずにまた羽ばたいて行くのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
O 。
, ─ヽ
________ /,/\ヾ\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|__|__|__|_ __((´∀`\ )< というお話だったのサ
|_|__|__|__ /ノへゝ/''' )ヽ \_________
||__| | | \´-`) / 丿/
|_|_| 从.从从 | \__ ̄ ̄⊂|丿/
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
|_|_|///ヽヾ\ / ::::::::::::ゝ/||
────────(~〜ヽ::::::::::::|/ = 完 =
実に浮気がなによりということです。
鳥人は大空を舞い寒さに震えながら翼としての現世否定的なるものを憎み、
暖かい大地を愛しますが、
お腹も減り大地に舞い戻って虫で腹ごしらえしてみると、
体も再び熱を帯び、糧である虫けらも目に余るようになり、
暑苦しい大地に懲りて自由な空へ再び飛びたっていくんですね。
ニーチェについてどんなアホなことをいっても
通用する。
2ちゃんの宿命です。
匿名であっても
恥しらずのお馬鹿ちゃん。
ニーチェなんぞ最初から読んだことないだろう。
厨房なみのおやじか
おやじみたいな厨房か。
828 :
考える名無しさん:2007/12/15(土) 08:49:05 O
>>827 先生、ちゃんと学識を披露してくださいよ。
阿呆鳥じゃないんでしょうからw
教師は堕落した。
授業中に
>>827みたいな泣き言に10分以上費やす税金泥棒は一人や二人ではなかったですがね。
「自己嫌悪という男性最大の病を癒す最良の方法、
それは賢い女性に愛されることである」
みたいなニーチェの言葉があるらしいですが、どの本に載ってますか?
女はマモノですよ。だからニーチェがそんなこと言う訳ない、はず。
何か知らんが映画が撮りたくなったんだが。中国女みたいな映画が。
あの破壊的な映画。
大地を離れ遠くから眺めることは、
目の中の塵を払いのけ目を洗い清めることだ。
この高所で盲目的に大地の諸価値が捏造される。
その価値は高所でしか生き得ず、
大地に堕落すれば目を閉ざし、鼓動を止め、息絶える高貴な生き物、鷲なのである。
大地で目覚めている者はその亡骸の翼を引きちぎっては身につけついには飛ぶことができるだろう。
鷲になることができるだろう。
そして鷲であり続けること、これは狂気と呼ばれる。
しかし狂気(?)の為に神経が昂って一睡もできなかった。こりゃ遺憾。
結局はニーチェも「肉体的に」戦う事はできなかったのか。戦ったが負け戦だったのか。
幸福はいった。
暇な時は詩人のように、世の中では白痴のように、見ざる、聞かざる、言わざると。
昼間は白痴のように、夜は詩人のように。
841 :
考える名無しさん:2007/12/15(土) 14:24:04 O
モテなかったはずのニーチェが女とか恋愛について書き散らしてるけど
童貞が2ちゃんねるで妄想書き込んでるのとどう違うんだ?
白痴で思い出すのはムイシュキン公爵が常
童貞にも無意識的な理念がありそうだけど。
引きこもりなんかは丁度デフレスパイラル状態でエネルギーを内側で消耗しての繰り返しのような。
しかし人も種の保存のプログラミングが。人は理性的に生殖活動ができるかしら?できちゃった婚なんて象徴。
妄想妄想ってもう騒々しいよね。
メス犬って性的な意味には敏感だよね。 地球一かもな。
てか性的な意味って大抵テレパシーの如くにばれて、
「うわっ変態だしあいつ」とか思われるみたいだけど、
ばれちゃあおしまいだよな。
キリスト教でも性的に思っただけで罪だとはいうが。
然り。
>>831 『人間的な、あまりに人間的な』の384番
ちくま学術文庫のニーチェ全集5(351ページ)の訳では、
「或る男性病。----自己軽蔑という男性病に対しては、
利口な女に愛されるということがもっともたしかに効く」
>>841 ニーチェ擁護-----ニーチェみたいな想像力もってたら、自分の経験領域外のことでもまざまざと鮮明に
思い浮かべてしまう。だから大胆に断言する。的を得ているものもあれば、全然駄目なものもある。
たしかに、ニーチェの箴言のなかでは女性に関係してるやつほど駄目なものはない、
ってよく言われている、でもどの文章にも独特なニーチェの思考の癖が現われていて、
仮に内容は駄目だとしても、なんとなく読んでいて面白い。
思いがけない観念や事象同士の結合、幽かに香るポエジイ、気の効いた言葉遣い、とか。
内容おかしくても読ませる文章書くのが文章家としてのニーチェ。
自己批判を弁護してくれる存在か。そんな女の子いるのか?
母性的な、あまりに母性的な
男の「自分が嫌になっただけだよ…」と言う言葉は女を口説く時以外には使ってはならん。
>>850の
「要るのか」ではなく「居るのか」
ニュアンスの取り違えで全然違うな。
854 :
考える名無しさん:2007/12/15(土) 17:14:01 0
このスレッドは自演が異常に多いな。
コミュニケーションも全く成り立っていない。
自作自演の自問自答です。ごめんなさい。独り言です。
>>854 そういう発言は一番返答に困るよね
「はいですね」て言えばいいのかい?
テスト
白痴好きは子供というより老人であり変態でしょう。
老人が子供の盲目性に乗じるのと同じことです。
859 :
考える名無しさん:2007/12/15(土) 17:37:08 0
ホテルの隣の部屋で女同士でレズっているあえぎ声を聞いたことがある。
レズビアンがセックスにかける時間て異常に長いんだよな。
俺は自分の息子をビンビンにさせながら壁に耳をあてて聞き続けた。
夜中1時頃〜3時40分くらいまでだ。アナルまでも責めあってたな。
それを聞き続けてしまった自分は変態なのだろうか?
普通なら我慢できなくなってみんなオナニーをするに違いない。
だけど俺は我慢した。理由はヘルスでの快感を倍増させるためだよ。
こんな俺は変態なのか?男の本能として普通なのか?
そして早朝8時頃に隣のレズビアンカップルが部屋から出たとき、
俺は間違いなく扉の覗き穴からシスター同士のカップルが通りすぎるのを
この目で目撃した。間違いなくシスターだった。
だけど俺はこのカップルを変態とは思えなかったね。軽蔑心もなかった。
むしろ人間らしさ(あまりに人間的)を感じたよ。その時はレズだったけど、
シスターという立場でありながらも性欲を感じて男とSEXだってするだろう。
だけど俺は軽蔑なんてしないな。むしろ人間として正直であり嬉しく思う。
所詮キリスト教は偽善にすぎないのだから。
860 :
859:2007/12/15(土) 17:43:55 0
決してこのスレを荒らしているわけではありません。
まじめにレスしたつもりなのですが・・・・
もし不快感を感じさせてしまったなら謝罪します。
861 :
短パン:2007/12/15(土) 18:23:08 0
う〜ん。。。。。。
酒だ酒www酒持ってこいやうおらぁーーー!!!!!(ひとつきブリに飲んじゃうぞ?いいのか?あぁん?www)
ピキューンピキューン・・・・・・
おぉぉぉっお?
ポンよよよほ〜〜〜〜〜〜れいっしぃー☆
862 :
(酔)短パン:2007/12/15(土) 18:26:20 0
チャージ完了w
便所法じゃなくて弁証法じゃなくて何だったかな忘れた
これ映画アワーミュージックの地獄編が終わった直後に流れるシベリウス(演奏者は違うみたいだけど)。
あの自由感は甘美な雪景色。
http://jp.youtube.com/watch?v=qhfRZa-1Azw ちなみに、オルガという登場人物がいるんだけどモデルはドストエフスキーが描いたキリーロフとかの虚無主義者らしい。
神の存在や自殺の自由について自答し続けるオルガ。しかし最期は犠牲に。
864 :
(酔)短パン0.5:2007/12/15(土) 18:47:17 0
(此処で逃げると、結構オイシイんだけどw・・・ふ・・・・・・・ゃってやんよえwww)
ニ、ニ、ニーチェかサルトルかぁ〜〜〜〜〜w
もぃんな悩んで、ちんちいんしゅっしゅんなったぁwwwww
(アカン!この酔い方は、、、もしや・・・・・・・・・wwwwwwwwwwww)
げほ、げほっ。。。すんません・・・。ん。。。と。書くぜ?
>>859 ケッ・・・。
一応
>>860のレスを受けてやるが、、、
てめえの性癖がどぅかなんざ、カンケーあるかよ!
>もし不快感を感じさせてしまったなら謝罪します。
別に不快とは、「俺は」思わなかったが、謝罪したいというのならば、それもいいだろう。。。
ん じ ゃ 、 腹 斬 っ て 死 ね
・・・・アホ臭い。何処にも付いてないのに、アホ臭いw
文調や、文節が、ではない。
アンタの、その言い訳だらけの人生がアホ臭いと言っているんだ。
・・・一存在が。此処まで、恥晒しといて。今更「謝罪します。」、、、、とわ。随分ナメてくれちゃうじゃないの?
『名無しだし。コテ付たとしても、そいつの所在が明らかとなっている。訳でも無い。。。』
上手く使ったつもりだろうが、それじゃ、いずれは干上がる。
例えどれだけ雑談ぽく見えたとしても、哲学板には哲学板っぽいwノリ。ってのがある。
・・・んまぁ。よくも悪くも、純粋なんだろな。。。バカばっかなんで。。。。。。
エロだって、表向きは「NG」とは言うけれど、漫画にお世話になった奴。
居ない訳がないだろって。wwwwwくっしっしっしっし!!!
ま。エロは禁じ手にしといた方が、盛り上がるんじゃないんかよ?
多分、そんな所なんじゃないんかね。。。
「あまりに人間的」の1の10で、
直観は世界自体の本質に導かないみたいな問題発言がありますが、なんていうこと、どういうことでしょうか。
直観は人を変態化し、狂気に導き、秩序を破壊し、主体や世界を壊してしまうようなのですから当然といえば当然みたいですが。
てかカントの名前も出さずに取り上げたDing an sich の 代わりに
Welt an sich って…
メラメラぐつぐつとした対抗意識ですか?って感じですがね。ええ。
勝手に戦ってますね。人間的、あまりに人間的な。
866 :
(酔)閻魔短パン:2007/12/15(土) 18:57:17 0
「ニーチェ」の第一人者と自称する、アホアホバイク乗り?
それでは、ニーチェ的介錯で、私と闘うか。切り刻むか。スルーするか。紙と崇めるかを、
書いてみそ?
・・・ちなみに。俺を髪様にした時は・・・・・・・
おまえは、永久にあんぱんを買いに行く。サンチョなwwww
よぅし。これでいこうぜ!!!!
いぃやっほぅうぅうぅぅううううううーーーー☆⊂⌒~⊃。Д。)⊃
867 :
(酔)短パン:2007/12/15(土) 19:16:56 0
>>865 今、、、、、w
一所懸命になって読み込んでいるんで、ちょっと待っててくれまいか?
(一度、酒入ると。相手の打ち込みが見えにくくなってしまうケロ。。。)
・・・・。んーーーーー、なんだろ。
やっぱ、よく解らんけど。
「直感の審議」ならば、それ「も」50%50%じゃないんかよ?
理を通しても、その審議は同じ事だ。
どっちでも、いい。
要は、「思い込みたい方法で受け入れていく。」なんて。。。そんな感じかもしれへんわいな・・・
書き手と読み手のどっちがイカンのだろうか。
869 :
(酔)短パン:2007/12/15(土) 19:25:29 0
『倫理的立場の方が、この世の責苦を回避しやすいから。。。』
んまぁ。ね。。。。
ただ、だけど、やられると、罪は重いげど。。。。
『・・・いやいや、なんとしても。法的機関は情状酌量の余地が。。。』
・・・・。甘いわな。。。
ホント言うと、許したくない。よ・・・
ぜ っ た い に 。
自己弁護の困難さ。弁護士を見れば分かるように。
871 :
(酔)短パン:2007/12/15(土) 19:35:59 0
>>868 んーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
多分。
「どちらも、悪い・・・」
ただ。書き手は少なくとも、人を、人々を、誘導してしまうから。
それは、自分の心の中に留めてやらないと、おかしくなるような気はするよ?
もぃ。「責任」という概念が「在る」と、すれば。。。。
その責務は書き手の方にある。
自由に書くこと。
それは、すなわち。誰かの羨望の中をこともなげなフリをして、書きしたためる愚行だし。
何も、なにひとつ。実は、この世の中は変わっているわけじゃないのかもしれんよ・・・?
成程
873 :
(酔)短パン:2007/12/15(土) 19:48:49 0
っつか、ニーチェを片手に、まるでどこぞのキリスト教徒よろしく。なそぶりで、
説法こくのは、やめたのかね?
ほらぁ。
どぅしたよ?
サンチョwwwwwww
成程。
まあそうとうに酔ってらっしゃるようですけど?
ここまで酔って私に絡んでこられる理由はなんなのでしょうか?
シべリウス
交響曲第2番は私も大好きですよ。
第一楽章の甘美なメロディから最終楽章のラスト。
本当にすばらしいですね。
とりあえずお酒に酔っての2ちゃん書き込みは飲酒運転と同じですよ。
では。
酔(えい)状態と素面と
ランボーはアブサン飲みながら地獄の季節を執筆
酔=あーと
素面=じんせー
中野由香里のスピード感溢れるラインアートは素晴らしかったですね。
真央ちゃんはスランプ突入でしょうか。しかしあの音楽は偉大ですよね。
全身全霊を込めて奏でつつ爆死できそうな曲ですね。
酒なんていらねえよ。
ニーチェは酒に弱い
>>877 確かにありえないような曲だな。世界遺産だ。これは逝ける。消耗できる。
てか奏者異常だな。超絶してる。
どこへいってしまっているんだ。
僕もそこへ、そこへいきたい…orz
炸裂の連続だね。集中砲火というか竜巻の集団に飲み込まれているような感があるよ。
竜巻旋風脚ですよ。まともに喰らうとぴよりますよ。ええ。
883 :
(酔)短パン:2007/12/15(土) 23:25:03 0
・・・。
ライダーが落とさん限り、
俺の言葉も連続性をつむがんというわけ・・・・。
だろ?
ふ。
波動拳を喰らうとどうなるんでしょうか?
885 :
(酔)短パン:2007/12/15(土) 23:28:58 0
酔っ払いがダメって、
いつから、決まったのか・。
おぃ。
大丈夫なの?哲学板・・・・
886 :
(酔)短パン:2007/12/15(土) 23:33:54 0
一体誰と、ハナシ、しているつもりなんだろ・・・・
ね。
「ありあまった人間達」の1‐15
によれば、直観とは違うけども、もしかしたら同じだろって話かもしれないけども、
「深い感情」(=直観?)でもって我々は世界の深部に触れていると思っている。
だがその感情が「深い」のは、その感情が巻き込む概念が深いと思われているからということらしい。
そして概念は真理には程遠いという。
この真理というのが「世界自体の本質」を指しているんでしょうね。
概念や感じた諸々で構成されるパッチワークみたいな世界像は世界自体の本質というようなものには遠いでしょう。
世界自体の本質というのは物自体や神のような形而上学的な概念ではないはずです。
概念は世界自体の本質には程遠く、形而上学、宗教、芸術は真理の探求には無用だというわけですからね。
なんなんでしょうか。人間を世界自体の本質に至らしめるものは。啓示でも直観でもなく深い感情でもなく概念、思考でもなくですよ?
狂気だ。
>短パンさん
すみませんが何いっているんだがよくわからないですよ。
その点、処刑ライダーさんと一緒ですね。
>>887 バイオリンと管弦楽のためのファンタジア
かれこれ3時間ぐらいかけっぱなしですよ ええ
いやはや嬉しいやら恥ずかしいやら真央ちゃんの音楽の趣味は私と一緒みたいですよ。
経済学はロジックの塊だから無用としても
実体経済を触りでも学んどけば世界のシステムがよくわかるぞ
>>888 ニーチェは初期の『悲劇の誕生』や『道徳外の意味における真実と虚偽』あたりでは、
「物自体」「根源的一者」「世界の本質」の類を認めていたけれど、
(ニーチェは文脈に応じて語を変えるだけでだいたい同じような意味で使っている)
『人間的』あたりから、こういうのをすべて否定しています。
>世界自体の本質というのは物自体や神のような形而上学的な概念ではないはずです。
ニーチェは世界自体の本質を物自体と同じような意味で使っていて、物自体も本質も全て否定されています。
同時に、『真実と虚偽』ではまだ使われていた「直観」というのも、
それより後では全くニーチェには否定されています。
その『人間的』Tの15章で、「世界には内面も外面もない」と言っているように、
物自体ー現象、本質ー表面、真の世界ー仮象の世界、そういう対立全てが否定されています。
中期のニーチェにとっては、世界は全てこの対立の後者に属しているといえて、つまり全てが現象で、
概念的思考はもちろん、どんな深い感情も、どんな直観も、同じように現象の内に起源を持ち現象しか捉え得ない。
さらに後期の言い方でいうと。
「本質」というのがあるのは、「本質」があるする遠近法が支配的であったから生まれたにすぎない。
同様に「本質」を設定しない遠近法もある。ただ後者より前者が支配的だったから「本質」というのがあるだけである。
前者より後者の遠近法のほうが支配的になることもあり得る。つまり遠近法は相対的なものであり、絶対的な遠近法はない。
力への意志という意味や価値を創ろうとするなにものかが、無数の相対的な遠近法によって、
生における諸力を解釈する(解釈して価値を創る)場、解釈の相互的な関係性、そういうものがこの世界である。
結局「本質」「真理」「直観」全て、力への意志の解釈作用があって始めてできた"解釈(結果)"でしかない。
それだけでなく認識の「主体」でさえも解釈の結果物。後期の認識論によるとだいたいこんな感じになると思います。
>>891 なるほど≫世界の本質自体≪というのもまた誰かの陰口というわけですね。
ニーチェが考えたんではなく。
なんだよまた誤読ですよ。
≫ ≪ これは陰口の記号だということがわかりました。
ありがとうございました。
>>891 では真理はなぜ概念から程遠いのでしょうか。
894 :
(酔)短パン:2007/12/16(日) 02:58:52 0
>>889 あらやだよwww
(大体ライダーと同格ってのが短パンに対して失礼極まりないぞwwww)
・・・・。っつか、音楽持ち出すのならば、むしろ弁は無効だろぅ?
なんでもかんでも。って。そりゃ、あなた。無理ってもんです。。。
っつか、唄あんんて呪文です。
唄う本人が納得していれば、オールOKなんすからね?
だから、詩を読もうだなんて、そんなお、ダメっすwww
多分wwww
中期と後期の差異かな。
>『人間的』Tの15章で、「世界には内面も外面もない」と言っているように、
物自体ー現象、本質ー表面、真の世界ー仮象の世界、そういう対立全てが否定されています。
中期のニーチェにとっては、世界は全てこの対立の後者に属しているといえて、
ではなぜ概念は真理から程遠いとその1‐15で述べられているのでしょうか。
まあ私は無理してドイツ語で読んでいるので誤読しまくりですが、だからこそお聞きするわけです。
>>894 呪文でしたか。。
でもライダーと下の名前で呼び捨てにしているんですし、喧嘩するほど仲がいいみたいですが。
ところで真央ちゃんと私の絆となった情熱のファンタジアはお聴きになりましたか?
マオイズム
真理と情熱が赤い糸で結ばれたもの、これを私は絆だと定義し、解釈しましょう。
私の勝手でしょ、ニーチェ的な意味で。
性的な意味でといいますと皆さん随分興奮なさるようなのでアレンジしましたよ。
900 :
(酔)閻魔短パン:2007/12/16(日) 03:36:59 0
バイブル片手に、挑む者。
それは、悪いが、全部落とさせてもらうしかない。。。
私が見ている者とは、「その者の持論でいきゆかんとする、存在だけ」です。。。
申し訳ない・・・
901 :
(酔)短パン:2007/12/16(日) 03:45:55 0
なので、わたしは、「旧ぴか」がスキだし。
此処が悪の権化としたがる、「純一」の事も好きです。
支持?
えぇ。しますね。普通に。
それは、表現者として、ごくあたりまえの評価として、支持をしますが、
なにか、問題でもあるんでしょうか?
・・・・。自治に書き込み入れたから、まとまったとか。もしかして思っているんだったら、
死んだほうがいいよ?ね、死ね!!!!
表現の自在ぶりを、俺が、売るとでも思ったのか?
あっ?
・・・・・。しっかりしろよ?
けっけっけwww
902 :
(酔)閻魔短パン:2007/12/16(日) 04:02:46 0
>>897 今、読み返して、短パン向けのレスだと知った。
なので、これを閻魔で当たる事にしたんだ。。。
・・・。とりあえず、どぅあがいてもオマエが俺に会っていると言う事は、
地獄にいくしか他にはないんだ。残念かもしれんがね?
・・・さて。それでは、オマエを6層界のいずれへ向かわせるか。という事になるのだが、
・・・・。ん。どれもな。苦しい。なんせ、地獄なんでな?
・・・時に問いたい。オマエ。孤独を辛いと思うか?
無間地獄は、一番辛い層なんだが、
とある者にとっては極楽浄土とも言える世界とも言われているのだよ。。。
もし、それでもいいのならば、無間地獄行きとするが、
もちろん、オマエの罪がそれだけの大罪という訳ではない。
それの証明が必要であれば、私はその度に「そうではない。」と、繰り返すだろう。
さて、どぅするか。
天国に向かうくもの糸は出せないが、地獄の中での望みなら、叶えてあげようぞ。
>>902 恥ずかしながら抱いてくださいというのは地獄なのでしょうか。
変な時間に目を覚ましたので迎え酒だ、コラ
アホなカキコが永遠に回帰するのだ。
それもニーチェのスレで。
情熱のファンタジアで私は目覚めました。
私という歴史は断絶し、途絶えました。
神さま神さま、私が失われたこの空虚な場を怒涛のように満たしてください。
アーメン。
天国?
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は極楽浄土だろ?
お釈迦さまが登場してんじゃん
w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w w
地獄のイメージはできるけど、天国のイメージはできないよね。
てかホメロス読まないことにはニーチェの新ルネサーンスはまずわからんよ。
>>906 愛と情熱のファンタジアといえば真央ちゃんだけど、
欧米の連中より肉体的に均整がとれている。キムチとかも。
なんとまあ黄色人種が白人に既に勝ってしまっている。
嗚呼、「イーリアス」! 嗚呼、「オデュッセイア」!
名前を聞くだけで別世界に行ってしまう。
読んでないけど。
912 :
(酔)短パン:2007/12/16(日) 12:49:32 0
あっ・・・・・
>>904 サンチョだwww
>>903 はい。あなたを地獄です
>>905 アホなこと書かんと落ちるべ?
依存したいんだべ?
だから、オールOKってわけ。
>>906 Gメーン75
あっ。あんぱんメーンでもよかとよ?
913 :
(酔)短パン:2007/12/16(日) 12:55:34 0
>>908 底ってのは、何か不思議と安堵感がある。そんな気がする。
最高だが、認められね。のと、
最低だが、最低としては認められる・・・。のと、
ま。色々さね
914 :
(酔)短パン:2007/12/16(日) 13:01:28 0
ただ。そこに安堵してると、なんでか知らんが、どんどん重力が・・・
で
『おぃおぃwコレ。地球の重力じゃねぇだろが!!!』
って、事になる。。。なる?
ならない?・・・あぁ。おでだけか〜〜〜
孤独。
うっそピョーンw
915 :
(酔)短パン:2007/12/16(日) 13:03:52 0
ところで、此処ってニーチェのスレだって言うんだけど、
ニーチェって
誰?
916 :
考える名無しさん:2007/12/16(日) 13:12:33 0
なんかヒゲが変な方です。
917 :
(酔)短パン:2007/12/16(日) 13:44:43 0
>>916 えー。そうなんだ・・・
なんか、ダメだよね?
ヒゲが変なのが許されるのって、小学生までだよねーキャハハハハハ。www
(酒の飲みすぎで、退行現象が・・・・)
なんてか、バブバブですよね〜〜〜。
(おぃぉぃwww)
んー。
哲板って・・・
918 :
考える名無しさん:2007/12/16(日) 13:49:33 O
>>915 約二千年前のギリシャを研究し、百年後のこの現
代が来ることを予言した。
脳死とか肉体がぶっ壊れることは心が土に帰り眠りにつくことだと思います。
狂気においてこそ初めて心身が分離するような気がしてきましたよ。
心身二元論を展開する人はちょっと変わっているだけでして、
別に考えが間違っているというわけではないと思います。
状態が違えば考えも違うんです。
全ては解釈だというのも一つの状態でして、
これは心身二元論をちょっとちょっとではなく実現したもの、狂気だと思います。
さらに進めば肉体は人形になると。
おまいらって何の精神病を患っているの? 正直に。
苛烈な精神は肉体から遠ざかる。
結果的にその肉体は白痴として三猿の衣装を着る。
としますと白痴は脱いだら凄いわけですが、
別に性的な意味ではないです悪しからず。
>>920 んや、ただ酒に酔ってるだけ
ディオニュソスだよディオニュソス
物言えない虫に変身するというのは(カフカ、やっぱりドイツ)、
退化とは必ずしもいえないのだといえるでしょう。
ニーチェコードを発見しましたのご紹介いたします。
「Fuer die Pflanze sind gewoenlich alle Dinge ruhig,evig,jedes Ding sich selbst gleich.」 cf.1-18 <Men.
鍵は'Ding an sich'ですよ。ええ。
>>920 ちなみに私は愛と情熱のファンタジアに溺れていますよ。
今日の真央ちゃんは期待できますね。結果は知れたことですから。
さすがに生きた古語に養われていたゲルマン魂だけのことはあるな。
プラトン全集に外箱ついていますよね。私はそれを後悔していませんが
捨ててしまって少々落ち着きません。あとセネカ全集の箱もです。
読むことに意味があるなら箱はべつに要らないのですが。
みなさんはプラトン全集の箱は取っていますか?
>>920 自覚症状で、軽い鬱と強迫性障害。
最近セロトニンは快調。
930 :
考える名無しさん:2007/12/16(日) 17:12:10 0
私はそういった類の箱やカバーは購入して開封した瞬間に捨ててしまいます。
ああいった飾りは読書の邪魔になりますからね。
932 :
考える名無しさん:2007/12/16(日) 19:44:04 0
>>930 そうですか。取って置くのもいいですよね。
>>931 確かに邪魔ですよね。読むことに価値を置くなら
そういうものは要りません
両氏有難うございました。
>>926 キムチが怖かったな。悪魔のようだった。
俺は背筋を凍らせてその幾何学的な舞と氷りの微笑を茫然として眺めていた。
愛と情熱のファンタジアに溺れるものを救い上げるのが悪魔なのではないのか。
キムチにはバッハのシャコンヌがお似合いだろう。
あの苦悶と断絶、そして祈りの恐るべき曲が。
>>926 >>933 おまいら中野にお似合いのタイスの瞑想曲でも聞いて止揚しとけ。
これは正反合の合なんだよ。
正反合って、事はそんなに単細胞ではないだろうよw 読まず語りか?
>>934
ニーチェがなんといおうとも、音楽があるということが、
理想、イデアの実在性の証に思えますね。
愛というイデアはいわば一種の関数として実在しており、
常に定数としての愛すべきものを待ち構えているのです。
そしてこの定数はそれこそファンタジアで構わない。
というよりファンタジアでしかないです。
というのも、定数は関数によって処理され霞と消えてしまう儚いものだからです。こんなものは幻想です。
他方関数としてのイデアは定数、現実的になりえないものなのでありまして、
つまり理想に止まるからこそ変化を免れる永遠の形相なのです。
音楽はあるイデアが取りうる定数を定義したものでしょう。変数ですね。
音楽は普遍的な体験ともいえるでしょう。
宇多田もモーツアルトも民謡もかえるの歌も普遍的体験なんです。
12月16日2ちゃんねる内で短パン怪人が暴れていると周辺住民が通報
ただちに機動隊が駆けつけるも、短パン怪人は酒にそうとう酔っており意味
不明な言葉を連発し暴れまくった模様
手に負えなくなった機動隊は国に緊急援助を要請
国はただちに処刑ライダーを送りこむことを決定
処刑ライダーはただちに短パン怪人のもとへと出撃し、得意技によって一撃
で短パンの首をへし折り絶命させた
付近住民達は「これで夜も安心してゆっくり眠ることができる」と胸をなで
おろしている
>>933 然り。愛を生かしておくには悪魔を要する。
君達
ニーチェと関係ない話だったら
他スレに行ってくれない?
まあ無理か
最後になって空気を読めたみたいだね。
空気って大事だよね。
しばらく居座ったらどう
どうせ過疎レスだから
じゃあチョビヒゲについてかく語りき
944 :
考える名無しさん:2007/12/17(月) 21:22:42 0
47 名前: ◆mgNCaLKg6. 投稿日: 2007/12/17(月) 18:50:06 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1197640265/l50 >>
>我々の手で新しい思想の創造を行いましょう
>嫌だよ 功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
>私は京都大学の文学部で博士課程まで哲学に関する研究を行いました。現在は金融に就職しているので研究室での研究とは疎遠な状態ですが、私も独自の体系を日々完成に近づける努力を続けています。
>この思想は私が学部の卒業論文で最初に提起し、修士、博士課程において主に研究、精錬を重ねたものです。
>また、高名な教授と議論をすることができますし、永井均先生等、第一線で活躍しておられる哲学者の方に直接触れる機会も多いです。
>最後に、これから哲学(ないしは哲学的思索)が社会において有効性を発揮する分野としては環境倫理学、生命倫理学があると思います
特に生命倫理に関しては京都大学の研究室では万能細胞を皮膚から作ることに世界で初めて成功しましたが、
このことによって生命倫理的なより精錬された議論が必要となると思われます
<<
あー、おまえは「永井均」ほんにんだろうwもしくは、せいぜいかんけいしゃとかしそうにかんかされたやつにしといてやるかwww
で、そういうせこいことで「じせつ」をせんでんするのやめないか?
おなにーなら「ぶろぐ」ですきなだけやればよろしい。
そこならすきなだけでんぱ「ゆんゆん」していいから。
ちょっとしらべてみたけど、ひでーな。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1140442849/l50 「永井均関係者=純一 ◆Fn0dptrDJw=精神病一歩手前」
「嫌だよ。功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない。」
>944
がんばれよ!
京大!
教授なんんて、空気の読めない社会不適格者なんだからw
ところでアンタなにもんよ。
ニーチェ研究における論文で、優秀な学徒なんて最近いたか?
講談社現代新書の『これがニーチェだ』永井均は数あるニーチェ本の中で最低のレベルに相当する。
神崎繁の『ニーチェ』NHK出版もひどいな。
宮原浩二郎『ニーチェ賢い大人になる哲学』PHP研究所は意外によくできている。
つまらぬニーチェ解説書より奥が深く
しかも手軽によめる工夫がされている。
これはすごいとおもったね。
ニーチェ研究者はみならうべきだね。
てか「ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア」が愛と情熱ならその相手に近づくと窒息死だなw
>>948 ワシもそう思うでよ。
学術文庫には、正直もう飽きた!
PHP研究所が出版してる文庫本も、世間では理解しやすいよね。
世間ではみんな出版社での印象で自分の価値観を肯定したがるね。
だけど、やはり自分は違うな。
正直に白状します
このスレって立派だと思いますw
まあイタリア人とかが本当に情熱的だったら太陽には近づけないはずではあるな。
意外とカントこそ哲学者の中で最も熱い男だったのかもしれない。
次がヘーゲルとか。
>>951 そういえばカントはヘーゲルより読みづらいですよ。
これは途方もない非理性的なる怪物がカントの強靭な理性の下で暴れているからなのかもしれませんね。
てかヘーゲルの方がニーチェより余程詩的じゃん。
少なくとも宇多田とモーニング娘。の差異がある。
燃え盛る無尽蔵の情熱を踏まえて、
キムチ的に冷酷にあまりに冷酷なまでに形を与え抑制するということをヘーゲルはやったんでしょうかね。
彼は中途半端な情熱は吹き飛ばしてしまう。
ヘーゲルにおいて大概の連中の浅はかな愛と情熱は吹き飛ばされる。
愛を返せ、返せ、早く返せ、許さない許さないなどという怨念が今も尚、
偉大な裏切り者、ヘーゲルに向けられている。
ヘーゲルを支持するのは真に情熱的な者と元々心ない人々だけでしょう。
そういわれてみれば宇宙を創造した神の情熱と冷酷さは想像を絶するものだというより仕方ないな。
それは宇宙が無比の秩序でありながら無比の無秩序である所以だろうか。
無比の芸術である…orz
神の前に平伏すがいいのだ、見本をみしてやろう、いいか、よくみておけ、こうするのだ!!
orz
どうだ。さあやれ。 もう一度? よくみておけと言っただろ! まあ仕方あるまい
。今度こそよくみておくんだぞ。いいな?
見よ、この崇高なる我が姿を!!
orz
>>954 ヘーゲルが本場の情熱、真の太陽というものを教えてやってるともいえますな。
ラテン的な柔なロマンティストは太陽に抱き付くというような似非情熱を失って初めて情熱を知るのだ。
怨念から入って怨念に終わるのが普通だろうが。
>>955 神を信じてる人間がニーチェスレにきて
御託宣とは勇気あるね。
俺も漠然とした神なら信じてるかも
カントの本音は無神論だと思うね。
そう思えてしかたない。
>>955 エホバにでも入信すれば?
『そりゃもうみんな幸せそう』
ですぞw
君こそ幸せになれまするぞw
961 :
えりりん:2007/12/18(火) 23:37:45 0
962 :
考える名無しさん:2007/12/19(水) 10:13:42 O
戦士は肉体を崇めているのか、軽蔑しているのか?
戦士にとって強靭な肉体は空気のようなものである。
あってないようなものだ。
彼にとって鍛錬と戦いは呼吸である。
そうゆう存在が無であるような一状態を二重の意味でニーチェは欲した。
種でありながら花であるような、
醜悪でありながら美しくもあるような、
性的なるものを。
すなわちディオニュソス的なるものとアポロン的なるものを。
世界の根源と果てが一致し円環を成すその点を。
ニーチェは生涯憧憬の念を忘れなかった苗木だった。
ヘーゲルはその地点で呼吸している大木である。
964 :
(酔)短パン:2007/12/19(水) 11:11:38 0
会った事も無い奴等が、なに言ってんの?
って、ハナシ。
哲学は、誰かを信奉する事で、叶えられるものじゃない。
多分だけどね。
戦いや思索(そういえば詩作もだが)は呼吸である。
呼吸を意識した時には、呼吸は既に乱れているのだ。
無論これは真剣勝負においては「お前はすでに死んでいる」となる。
966 :
考える名無しさん:2007/12/19(水) 11:56:36 O
>>964 哲学は夢か何かを叶えるものだと?
呼吸ですよ。多分ね。
嫌だよ。功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない。
968 :
考える名無しさん:2007/12/19(水) 13:04:54 O
神は死んだ
969 :
(酔)短パン:2007/12/19(水) 15:10:49 0
970 :
(酔)短パン:2007/12/19(水) 15:12:23 0
哲学の本なんか、ポケットにつっこんで。
知らん顔して走っていくぜ。
971 :
(酔)短パン:2007/12/19(水) 15:14:02 0
うぇいっほう〜〜〜〜〜〜〜!!!!
972 :
考える名無しさん:2007/12/19(水) 15:34:32 0
おまえアホか
俺も十七の時はランボーの文庫本ポケットに入れて気取ってたなぁ。ナツカシイ。
そりゃ乱暴だな
975 :
考える名無しさん:2007/12/19(水) 22:26:00 O
>>963 いや苗木は腐っていったんじゃないか?
愛と憧憬の眼差しから、嫉妬、そして
夢と絶望と憎悪、奈落の底へとw
夢と絶望と憎悪、奈落の底か。
人もニートも末だな。 世も末さ。
しかし終末は原点でもあるというわけか?
実際、貴族は聖者、哲学者などに変貌しやすいようだしな。
>>976 出世にしろ出家にしろ同じ地点に向かっているんだろうね。
貴賤が一致する地点に。裸の王様とか。
978 :
短パン:2007/12/19(水) 23:40:18 0
不老不死を得た人間が、楽しそうに踊っている。
その映画の主人公である若者が、銃を手にする。
えへらえへらと寄って来る老人達を撃ちまくって殺してしまうのだが、
なぜか、老人達は、喜んで死んでいく。。。
撃っても撃っても、沸いてくるように老人達は逃げるどころか、寄って来る。
「殺してください」と・・・
この映画のタイトルや詳しい内容は忘れてしまったが、なぜか最近この映画の事をよく思い出す。
現代とは。。。
寝る
>貴賤が一致する地点
宇多田の豪華な家の近所だろうね。
城と監獄というのは似たり寄ったりだと。
双子座の怪人とは何か?
さて何でしょう
それはフーコー
982 :
考える名無しさん:2007/12/20(木) 00:01:13 0
>>978 そりゃ「ばいおはざーど」あたり。
おまえには
>>973のせいしんはりかいできんだろうw
>>973はランボーからニーチェにたどりついたんだが、おまえはクソのままw
それは禿げた王様
984 :
考える名無しさん:2007/12/20(木) 00:03:32 0
ニートか…。
>>978 私達は独房で何の夢を見るのでしょうか?
夢見て夢叶えたら如何かしら?
なあんか意味不明
>貴賤が一致する地点
権力への意志は我が身を背後から貫くに至るのだとすれば、
王様を囚人にする円環上のある運動だとすれば、権力とは何なのか。
ともかく奴隷も辛いが主人も辛いというのは今後よく実感されてくることである。
格差社会は次第に形骸化する。
どちらが主人でどちらが紐で操られるべき犬なのか滑稽にもわからなくなる。
ドン・キホーテとサンチョの如し。
池田晶子とそのペットの如し。
人間の頭上はるか高く飛翔しているのは鳥だけみたいなこといってたけど、
太古の昔から小さな虫さんたちがブンブン大空を飛びまわっていたよね。
989 :
考える名無しさん:2007/12/20(木) 00:59:58 0
主人公はショーンコネリー?
我々はたえずなにかを『逃し』はしまいかと思う者のように生きている。
『何もしないよりは何でもいいからせよ』という原理が全ての文化の
高級な趣味の息の根を止める。
高級な趣味って何?
快楽主義も苦行も結局不明に行き着く。
前者は『なんてことだ俺はこんな苦悩を求めていたのか?』などと呻吟するだろうし、
後者は『うほっなにこれ楽勝じゃね?』と透徹した目と血の滴る口元に歪み引きつった笑みを浮かべるだろう。
なんとも不明だ。