>>1 感謝する。
イデアとは、諸関係の総体である。これを理法という。
イデアとは、普遍的かつ不変的に存在するものであり、空間や時間を占めない。
むしろ、イデアは、空間および時間を規定する。
イデアの総体を神とするものを、理神論と呼ぶ。
しかし、理神論は私の定義にはあてはまらない。
3 :
考える名無しさん:2007/08/11(土) 00:10:31 O
イデアはダメ。
イヤアにしなさい。
イヤアが諸関係の総体ならば、
イヤアの総体は、諸関係の総体の総体ですね。 何のこっちゃ。
神とはイデアからひとつの諸関係の体系を選出、その体系にそった実体を創造する何かである。
ここでは、神は、それ以上の存在としてもそれ以下の存在としても定義されない。
5 :
考える名無しさん:2007/08/11(土) 00:13:42 O
その一つの諸関係の体系がいわゆる世界といわれるものである。
すなわち我々の住む世界も一つの可能な世界にすぎないのだ。
>>5 確かにその通りだ。
だが、ひとつその前に自然を措置しておきたい。
神によって選択された諸関係の総体によって規定される実体は、自然と呼ばれる。
そして、自然を規定する諸関係の総体は、特に自然法(則)と呼ばれる。
人間が自然を認識することによって、世界が生じる。
世界とは、認識によって生じた現象の総体である。
他者は、私から見れば、自然に属する。
というのは、他者とは、私の認識から独立する別の認識者だからである。
したがって、世界の中に他者は存在しない。
以上でスレタイの簡潔な定義は与えられたように思う。
ところで、自然は複数あるかもしれない。
また、人間の数だけ世界の数がある。
自然
↑
イデア→(神)→自然→(人間)→世界
↓
自然
ところで、私はこの図式を記述するにあたって、あたかも超越者のように語った。
というのは、私が知っているのはこの世界だけのはずだからである。
では、私がこのような図式を発案するのは何のためだろうか。
それは、ひとつには、認識を保証するためである。
つまり、独我論に反対するためである。
自然と世界という二元論は、認識を保証し、この世界しか存在しないのではないことを保証する。
では、このような保証はどこから来るのか。
それは、私の寂しさからくる。
私の寂しさは、自然を、そして、他者を求める。
カントとプラトン系列だな。
>>10 カントをプラトンの系列に据えるのは間違っているように思う。
というのは、カントは、物自体の諸関係を認めないからだ。
物自体にも諸関係があり、物自体もまた自由ではない。
>>11 間違ってたっていいよ。
ようは現実の世界を影、表像とみて真なるもの価値あるものを夢見るプラトン、カントの理想主義系列だろう。
ショーペンハウアー、ニーチェもこの系列なのが興味深いところ。
これは名前は色々であるにせよ、一個の精神の生き様にも見える。
13 :
考える名無しさん:2007/08/11(土) 01:39:50 0
>>2 普遍的かつ不変的かぁ
よくできたダジャレだなw
間違いなんてことはない。
解釈としての各世界が相違することはある。
しかし、いずれが正しいということはないのである。
敢えていえば、各世界の存在自体が間違いであるか、正しいということになる。
価値付けられるのは現象(表象)のみである。
イデアとは、理想ではなく、諸関係の別称であり、それを扱うのは数理学である。
倫理学は、意志法(理想)と世界との関係を扱う。
意志法とは、世界の理想像であり、世界の善悪の判断規準である。
重要なのは、イデアおよび自然は、仮設された後で、倫理学の直接の対象にならないということである。
イデアは理論の成立を、自然は他者の存在を担保するために仮設されている。
それどころか、自然は、直接的には自然科学の対象ですらない。
自然科学は直接的には世界の諸関係を対象としており、それゆえに、推断された自然法則を扱う。
推断された自然法則とは、現象の諸関係が自然にまで拡張されたときの別名である。
理想とは意志法であり、意志によって定立された評価基準である。
意志法の評価基準は世界である。
そして、意志法もまた、世界内の出来事である。
訂正:意志法の定立もまた世界内の出来事である。
ところで、意志法および自然法はイデア(理法)の一部である。
つまり、あらゆる可能な諸関係の一部を抽出したものである。
そして、イデアにはあらゆる諸関係があり、その抽出が自由である限りにおいて、
意志法の内容もまた自由である。
つまり、考えうるあらゆるパターンが意志法の内容となり得る。
例えば、殺人や強姦の実行、窃盗の指図などが規範となりえるように、
その逆、すなわち、殺人や強姦の不実行、窃盗の禁止なども規範となり得る。
それを選択するのは意志であり、意志はこれを自由に選択することができる。
自由とは、意志が他の存在に規定されていないことではない。
そうではなく、意志は、根源的な意志法を持たないということ、
すなわち、意志法の構築は、任意の前提を設定することができる
ということを意味する。
繰り返しになるが、殺人、強姦、窃盗などの指図も規範となる。
そして、それが規範となるためには、意志がその規範を定立するだけで十分である。
すなわち、意志が、
「私は殺人すべし」「私は強姦すべし」「私は窃盗すべし」
という規範を定立するだけで、今や、殺人も強姦も窃盗も善となる。
逆の場合には、悪となる。
もう一度、まとめよう。
数理学 対象:イデア自体
自然学 対象:推断された自然法(実体間のイデア)
倫理学 対象:意志法(世界の理想像としてのイデア)
したがって、意志の自由とは、意志法の自由すなわち規範内容の自由である。
今や、世界に対する自由な評価が可能となった。
そして、世界に対する自由な評価は、個々人にかかっている。
なぜなら、世界とはある個人の表象の総体であり、個人の数だけ世界があり、
それゆえに、世界の評価とは認識主体の評価に他ならないからである。
これを倫理的自律という。
いわゆる自由意志の問題は、倫理においてはさほど重要ではないし、
それは必要条件でもない。
>>22 重要だと思う人がいるんだな、これが。。
西洋人に多いが。
というわけで、自由意志については触れずに倫理を語る準備ができている。
現在の世界が運命的であろうとも、私はこれに対してノーということができる。
すなわち、現在の世界と異なる理想的な世界像について考えることができる。
この理想的な世界像から見れば、現実世界は悪である。
しかし、この理想的な世界像とは、他でもない、意志法である。
したがって、世界の善悪という性質は、世界に存するのではなく、意志法との関係に属する。
自由意志の問題を倫理学から除外した後で、次に、他者が
倫理の対象にならないことを説明しよう。
他者とは、私から見れば、実体である。
実体とは、認識前のもの、認識に依存しないものである。
したがって、世界の中に他者は存在しない。
というのは、世界とは現象の総体であり、現象とは、
認識に依存するものの別名だからである。
そして、規範すなわち意志法は、世界の理想像である。
なぜ世界外の理想像、例えば、実体の理想像ではないのか。
それは、実体と意志法を比較することが不可能だからである。
比較が不可能である以上、実体について善悪を価値付けることはできない。
したがって、実体としての他者に、善悪を価値付けることはできない。
かくして、他者は、世界の外側に置かれると同時に、倫理の外側に置かれる。
いまや、倫理とは、私の個人的問題であり、私の善悪の問題である。
世界が、もちろん、まさにこの私の世界の世界が、倫理の対象である。
そこにあるのは、従来の倫理が目指していたような他者の拘束ではなく、
自己の拘束すなわち倫理的自律である。
事実命題と規範命題の内容は同一である。
様相が異なるのですらない。
さらに、未来に関する事実命題も、過去に関する事実命題も、現在に関する事実命題も、
そして、未来に関する規範命題も、過去に関する規範命題も、現在に関する規範命題も、
その内容は同一である。
では何が異なるのか。
それは、その命題を私が用いるときの態度である。
異なるのは命題の様相ではなく、私の態度である。
それぞれの命題について考えてみよう。
1、私はXすべきだった(過去の規範文)。
2、私はXすべきだ(現在の規範文)。
3、私はXすべきであろう(未来の規範文)。
1の命題を用いるとき、私は過去のある出来事を悪であると評価する。
もっとも、この過去の出来事とは、私の思い出ないし記憶であるかもしれない。
というのは、過去は世界の中に保存されていないからである。
2の命題を用いるとき、まさにこの世界の出来事の善悪が評価されている。
つまり、私がXを為しているときには、私の行為は善であり、反対のときには、悪である。
そして、私の意志は、もし私がXを為していないならば、Xを為す方向へと向かう。
注*Xを為す方向へ向かうべきなのではない。そうではなく、意志は、実際に、
Xを為す方向へと向かう。というのは、「実践されない規範は定立されてもいない」
からである。すなわち、実践されない規範は、本当は規範ではない。
問題となるのは、3の規範文である。
いったい、3の規範文の評価対象は、未だ存在していない。
すなわち、未来の事象は現存していない上に、その実現内容は不可知なのである。
したがって、もし未来に関する規範命題が実践について何らかの意義を持つとすれば、
(そして、私はとりわけ、この未来に関する規範命題を「夢」と呼ぶのだが)、夢は、
未来の事象を評価するのではなく、また、未来が到来したときにその事象を評価する
のでもなく(というのは、仮にそうであるならば、未来に関する規範命題は、現在の行為に
何の影響もおよぼさないことになるからであり、また、未来に関する評価基準という名称も
不適切になるからである)、まさに、その未来の実現の手段を指図するのである。
したがって、未来の実現の手段を指図するがゆえに、未来に関する規範命題は、
私によって実現されるべき世界の評価基準となるのではなく、
私によって実現されるべき世界の実現手段の評価基準となる。
つまり、私が現にその実現手段を遂行しているときには、私の行為は善となり、
その反対のときには悪となり、そして、私の意志は、その遂行へと向きを変える。
夢は未来の実現手段を指図する。未来は、理想像であると同時に、自らの手段の指導者である。
ここに、夢と他の規範(過去および現在の規範)との決定的な差異がある。
もちろん、現在の規範も、自らの実現手段を指図する。
例えば、「私は歩いているべきだ」という規範文は、現在座っている私の行為を
悪であると評価すると同時に、いかにすれば歩けるかという手段を指図する。
すなわち、「私は、まず、立つべきだ」という手段に関する規範を提供する。
このように、現実と理想との比較を通じて、私は実現手段を手に入れることができる。
しかし、それは常にうまくいくとは限らない。
根本規範はどこから来るのだろうか?
本当、何処から来るんだろう!
「816」崎谷博征(さきたに・ひろゆき) SNSI研究員 の 新刊 『グズな大脳思考
デキる内臓思考』を紹介します。浅薄な「合理主義的思考」に代わる新しい思考法は、
現実の生活にも大いに役立つ思考法です。2006.12.24 副島隆彦が文末に
加筆しました。2006・12・26
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#2401 私(たち)が、最近の到達した考えは、突き詰めると、すべての思考(思想、思惟=しい)は、
「(自分が実感を伴って、そのことを)分かるか、分からないか」 あるいは、「(自分の脳が、
そのことを)信じるのか、 信じないのか 」である。
分かった振りは一切無しだ。どれだけでも、コトバと思考量を投入して、「分かる、分からない」
「信じる、信じない」問題を私たちは追究しなければならない。
訳の分からない気取りで、わざと難解そうな文章を書く人はどうせみんなから捨てられる。
このことは、肝に銘じておいたほうがよい。
日本の知識業界は、長く1920年代からの、昭和初期の新カント学派と呼ばれる、「ドイツ哲学の学者達」の
悪弊に始まって、やたらと難解な文章を書くことが、偉い事だとだという巨大な思い違いをしている。
この病気は今でもなかなか治らない。本当は自分の頭が良く無いだけのくせに、やたらと、象徴語と、
ドイツ式観念語(本当は禅用語を無理やり当てはめただけ。観念とか本質とか根本とか意識とか。500語)を使いたがる。
読んでいる方はいやになる。こんな下手な誰も説得できないような文章を、苦しみながら書いてるとあとあと大変だろうな。
どうせ誰も読んで分かることは無いのだから。当たり前のことを、はっきりと書くことができない。
やたらとこねくり回してそれが「するどい批評になっていなければいけないと、勝手に思い込む。
副島隆彦「属国日本論を超えて」
(副島隆彦「今日のぼやき」2001.5.21より抜粋)
私の頭の中は、今でもこのように、雑然とした理解で成り立っている。生活実感で理解できないと「理解」と
いうのはそもそも成り立たない。私はもの書き言論人としては、素人さん(一般大衆)レベルでの実感での理解、
というのをものすごく重視する。わけの分らないことを書く人や、その文章を毛嫌いする。
このことは、私は、「オッカムの刃」 Occam’s razor と言う考えを自分の思考原理に置いているからだ。
全ての事柄(事象)を徹底的に明晰にしようとする 思考方法であるオッカムの刃 については、そのうち書く。
この日本語という限界言語によってでも、私は、明確なものをぎりぎりまで追究して、死んで行こうと思っている。
(抜粋おわり)
オリジナルティある文章、結構好きなんだけどw
意志の内容が無内容だとしよう。
意志はどこから根本規範を得るのだろうか?
実は、この問い自体が矛盾しているのではないだろうか?
意志が無内容であるとは、根本規範がないということである。
意志は自由であるがゆえに、出発点を持たない。
それは、目的地のない旅人は、あらぬべき場所もあるべき場所も
持たないの似ている。
意志の内容が満たされないとき、規範は外部から啓示される。
これは神秘的な意味で言っているのではない。
外部とは他者であり、他者の振る舞いが私を勇気付ける。
規範は教えられるのではない。規範は示される。
だが私にいまだ分からないのは、もし誰も私に規範を提示してくれなかったならば、
私はどこから規範を手に入れるのかということだ。
規範の提示は無限に連鎖できないのだから、これは現実的な問題でもある。
他者が私に規範を提示してくれる。
それは圧倒的な力で、私の意志を揺り動かす。
世界の内部に意志の初動を得られないとき、人は外部へと向かう。
すなわち、他者へと向かう。
>>39 「それはもう語られてしまったこと」なんだが
「すでに語られた文字群になんの意味があるか」書いてみ?
(判ってるだろうが「コピペをする意味」じゃないぞ)
すでに語られてしまった文言はオマエの落書き以下だと言ってるわけだが
この意味判るかな?
47 :
考える名無しさん:2007/11/25(日) 03:25:25 O
しね
オッカムの刃ってなに?知りたい!
ばかの壁は本読んでないけど面白かったw