関係性の哲学

このエントリーをはてなブックマークに追加
715考える名無しさん:2009/04/10(金) 23:03:51 0
すごい厳密やなー。
んー分析の階層の差を感じる
厳密さのレベルが違うなー僕と。

こういう違いがあるとき、どちらの土俵ですもう取るか、
どちらがどちらにあわせるか? という話になるけどなーいっつも。

言ってることは大まかにわかる(ことにする)。

で、それでもやっぱり、話のつながりが見えないというか、
何を訴えてるの?

「私」という感覚は、基礎にはならない、といってるの?
716考える名無しさん:2009/04/11(土) 00:03:31 0
逆に他者から私性を抜いてみたらどうよ
wisteria氏の言ってる事は独我論を反転してみただけの事なんじゃないの
717考える名無しさん:2009/04/11(土) 00:25:03 0
>716
おおざっぱやけどそう思うわ
718救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/11(土) 01:33:29 0
>>703
確かにその通りであると思う。
ただ、私は「関係」も「在る」と考える。
一方では「もの」があり他方では「関係」がある。

これはいったいどういうことなのか私には分からない。
なぜ「もの」だけではないのか?
結局、プラトンやアリストテレスと同じ二元論に行かざるをえない。
なぜ「もの」と「関係」があるのだろうか?
719救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/11(土) 01:40:27 0
>>704
実際、何も残らないであろう。
なぜなら、私は他によって定義されるからである。
だが、私がここで悩んでいる「他者」というのは、
そういう他者ではなく(私はそれを現象と呼ぶ)、
物自体なのだ。
720救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/11(土) 01:45:32 0
>>716>>717
とても面白い分析であると思う。
独我論が「全ては私による現象である」ことと、
「私は全現象によって規定される」こととは表裏一体である。
721考える名無しさん:2009/04/11(土) 09:33:11 0
>718
関係性が「在る」か〜
それは人格で把握する自分を絶対視してるからじゃないかな?
理性、論理、人格などを絶対的に思って優先すれば、
それが把握の唯一のものさしなら、それはみんな存在することになるけど。

関係の代表は感情ーー感情は「存在」する?
感情は、相手なし対象なしでは成立しない、関係性の代表みたいなもの。
その本質は、対象なしでは存在し得ない、一見存在のように見えて、まさに関係性そのものじゃないかと思ってる。

ということは、感情を感じる自分は、論理で把握する自分と、同等とみなすことから、出発すべきじゃないかと・・・言うといいすぎかな?
でもこう考えんと、わけがわからんしねー。
問題の切り分けというか、スタート地点の見直しというか
722考える名無しさん:2009/04/11(土) 09:37:15 0
把握する主体である自分と、その自分が思いつく発想は、
「存在感覚」が生み出す発想やん?
前提がそれでは混乱する。
といいつつ、僕もここはきれいに分けられてない。
上の解釈でとりあえず一息ついてるだけ。
723考える名無しさん:2009/04/11(土) 09:55:16 0
>703

ものも関係も「在る」とするなら、
その表現で通すなら、ものも関係も「在る」とするなら、

その表現で通すなら、ものは、存在感は、自分が把握する対象として「在る」
関係は、関係感覚は、自分を内包する〜自分を原点につながるものとして把握できる。
関係は、自分本体をその内側に含むものとして存在する、といえるかな??
そういう感覚も感じられるから。
認識による把握を中心に考えれば、存在は把握できるもの。関係は把握できないもの(=感じるもの)
感情がまさにそう。


上に誰か書いてたけど、存在の「唯我論」と、関係の話はちょうど反対だ、と書いてたけど、
存在感覚の、自分が対象を把握しに行く視点その方向性と、
関係感覚の、自分がここにいてその自分が何かとつながっているという、
自分を内包する視点は、正反対。(それは感性、感情中心の視点、考えずに感じてる自分)


でもそれまたそう把握できるじゃないか?というのは、理性や論理優先の自分でい続けることが
習慣になってしまってるから。
そこまで来ると、上に書いた、理性や論理で把握する人格を絶対視する間違いに起因する問題、と思う。
現代科学などの、今は理性があまりに優先の時代やから。
感じることは、考えることより劣っているのか?みたいな。
(えらそうに書いたけど、まだ確固たる自信はない、たぶんこうやろう、という・・)
724考える名無しさん:2009/04/11(土) 10:00:47 0
あかん
文が混乱してる・・
内面に矛盾はないんだけど、うまく言葉におこせない、といいわけ
725考える名無しさん:2009/04/11(土) 10:08:08 0
追加
物理で、粒子と波の2重性の話があるけど、
極限そんなイメージ。
波は関係性だ、って思う?

電子は、物だけど、波の性質も持ってる。
光は波だけど、物の性質も持ってる。

そういう、ある種の繰り込み?というか、妙なイメージが本質と思ってる。
726wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/13(月) 12:55:15 0
>>716
例えば、「死に至る病」の冒頭における「関係」、「関係性」という用語のリフレインは、「私を規定してくれる超越的存在=神」を一度括弧に入れ、私性から外してみたときの、「私が私を記述する際に陥る陥穽」の中の叫び声である、
という解釈も成り立ちます。
727救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/14(火) 00:56:44 0
>>721
感情は関係性ではない。
「私は彼に対して怒っている」は関係性の表現である。
「怒り」は「もの」である。
728考える名無しさん:2009/04/14(火) 14:49:33 0
>727
それは、「関係性」という概念が「存在する」
だから、「関係性」は、「存在」ではないか?
と言ってるだけではないの?

ある種の、論理的な・・パラドックスみたいなのが好きならまた別だけど。
729考える名無しさん:2009/04/14(火) 19:58:27 0
「怒り」という関係性を「もの」や、と言ってるわけかなー。
でも怒りは感じるもので、把握するものじゃないでしょ?
怒りを感じてる状態をどう解釈する?
感じる、とはなに?みたいな・・・


もっと厳密に言うと、これは僕の持論だけど、
関係と存在は同じもの、と言ってる。

ずっと上の方で、人格=世界、と書いたけど、
人格や世界、という存在は、2つの関係性なしには成立しない、
と思ってる。
それは、関係性と存在性が、本質的に同じものだ、という話しで、
これは別に独自のもんじゃなくて、いろんなところで言われてるけど。
730考える名無しさん:2009/04/14(火) 20:05:50 0
そっか、怒りはものである、と言ってる地点で、
あなたは、やはり、上に書いたように、理性で把握し、認識し、論理的に分析する自分に価値を置いている、ということになる。

つまり、感情の赴くままの自分なんて、理性の自分より劣ったものだ、という話しじゃないか?

その価値観がある限り、「怒り」は、「もの」であり続ける、とは思う。

僕もそう偉そうには言えないけど、それはある種の差別だし、自己否定とも言えないか? 
731救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/14(火) 23:30:57 0
「もの」は現象それ自体である。
関係性は2つ以上の「もの」の間に内在する。
「怒り」はそのままでは2つ以上の「もの」から成っていないので関係性ではない。
732救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/14(火) 23:31:52 0
「もの」の哲学は集合論的であり、「関係」の哲学は関数的である。
733考える名無しさん:2009/04/15(水) 02:50:03 0
>731
「怒り」はそのままでは2つ以上の「もの」から成っていない

なんでこうなるの?わからん。
怒りでもなんの感情でも、自分と外部対象2つがそろって初めて成り立つじゃん?
734考える名無しさん:2009/04/15(水) 02:58:14 0
集合論と関数は、切っても切れないでしょ? 数学上。
この2つを分けるなんて、変。

集合の要素と要素の関係、集合と集合の関係ががまさに関数じゃないの?
2つは同時に成り立っている、とはおもわない? 思わないなら、別にいいや。
735考える名無しさん:2009/04/15(水) 03:32:10 0
自分と対象の2つがそろって初めて成り立つ、それを成立の定義とするようなものは、関係性以外に思いつかないなー。

それは把握によってものであるように見えても、本質は関係性。
なぜなら、感情は感じてる状態こそが本質的だし、

感情が存在する、というのは、その感じてる状態をさらに把握したものに過ぎない、2次的なもの。
ある感情を純粋に感じてる状態というのは、関係性をダイレクトに体験している瞬間だと思う。


前にも書いたけど、怒りなど、感情という概念は把握の対象として存在するのだから、
それは関係性ではなく存在だ、というのは、全くの間違いじゃないけど、
感情は、感じることこそ本質〜〜当り前だけど。

その感じる、という作業に対する分析を放棄して、把握できるから怒りはものだ、というのは
本質の順番を間違ってると思う。
あなたが言ってる、怒りはものだ、というのは、感じる、ということそのものである感情を、
2次的に焼き直したもの。
そういう把握による焼き直しをするならなんだって、ものになる。

例えば、「私は彼に対して怒っている」 というのは関係性の表現だとあなたは書いたけど、
それだって、そういうシチュエーション(状況)という存在、ものだ、とも言うことができるでしょ?
言ってる意味通じるかなー。
極論、関係性など存在しない。関係性の哲学などみんなまやかしで、
そんなものは存在の哲学に吸収されるのだ、とも、極論として言うことが可能だし。


表現が難しいけどね。

んーでもこれは曖昧だったところが今回の議論でだいぶはっきりしたなー。
736救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/15(水) 11:38:19 0
>>734
2つは同時に成り立っている。
>>735
怒りは把握されない。
なぜなら現象そのものだからである。
私の哲学には認識論がない。
なぜなら私は認識していないで現出しているからである。
737考える名無しさん:2009/04/15(水) 12:15:37 0
>736
認識論がない??
?????

認識能力は認めないという意味?
認識を考えに入れないの?

自分が認識しないでこの世に現れた、というのはそれはそうだけど。
こう言ってる地点で認識してるのに??

じゃー怒りはものだ、とここでこうやって言葉に書いてはるけど、
概念として認識したから書けるのじゃないの?

怒りは把握されない、っていうのは、まあ確かに怒りの「実感」は、把握はできないのはそれはそう。

じゃーその怒りの現象というのは、怒りを「感じる」ことだよね?

実感、感性、と言われるもの。

認識なしで、怒りをものだ、などと言えるだろうか?

元々認識なしで現れたからと言って、今も認識がない、とはならないけどなー。

自分には認識などない、と言いたいのかな?

ん〜〜、変わった話やな〜〜。分かるように言ってくれたらおもしろそうなのに。
738考える名無しさん:2009/04/15(水) 12:17:11 0
>736
2つは同時に成り立っている。

それが分かってるなら、何がわからないのだろうか?
論点はそれじゃないのかな・・・
言葉少ないよーー。言ってることわからんよー。orz
739救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/15(水) 13:03:47 0
>>737
まず「認識」を定義して欲しい。
740考える名無しさん:2009/04/15(水) 13:36:07 0
>739
認識とは、心的な過程のひとつで、外界から得た情報が意味づけされた上で意識に上ることを言う

だそうだよ。wikiから。

でもそんなのは一般常識だしね。

もっと厳密な、というなら、そういう答えを求めるのが哲学だから、
人に求めるのは厚かましいよ。

そういう定義など、基礎的概念を考えるのが、普通哲学がやることだし、

認識を認めてない人が、他人に、認識とは何かときくのは、矛盾でしょ?
741考える名無しさん:2009/04/15(水) 13:42:59 0
認識という存在が本質的なものではない、と言いたいのなら、
それはもちろん同意するよ。

でも、自分が作り出している、という意味ではあるし、認識がないと自分も世界もないからね。

認識がないなら、あなた自身は存在してないの?

2次的存在は認めないの?

ん〜〜あるいは、認識なんてわからないから認めない?
742救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/15(水) 14:08:03 0
>>740
私は認識はないと述べた。
なぜならこの単語はでたらめな文字列と同じだからである。
それゆえに私から定義することも問うこともありえない。
743考える名無しさん:2009/04/15(水) 21:52:21 0
>742
私から定義することも問うこともありえない。

じゃあやんぴ!

普通に話せる人いないかなー。
744考える名無しさん:2009/04/16(木) 19:18:02 0
こんな世界の果てみたいなスレにきて普通に話せる人なんか探すのがアホ
745wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/20(月) 13:04:24 0
>744
「こんな世界の果てみたいなスレ」だからこそ、普通に話せる人が見出せるのです。
746救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/21(火) 00:06:51 0
世界とは何かスレで「物」と「事」の話が出ているので言及したい。

「物」と「事」とは、まさに「物」とその「関係」である。
この際、名称は気にしなくてもよい。
そして、関係は言葉によって表される(これ自体がひとつの不思議である)。
そして、物の定義は常に他の物を通じて為されるから、
物は関係に依存し、関係は物に依存する。
747wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/21(火) 20:32:20 0
>746
ウィットふうに言い換えると次のようになる。
@複数の事実を関係付けていくのがヒトの認識である。ゆえに、それはヒトの言葉で表出される。これに不思議は無い。

A「事実a」と「事実b」とは、ヒトの認識により関係性が付与される。
関係性はもちろん事実を要素とする。
ここで「事実」とは、「物質」でも「物自体」でも無く、認識の対象となりえるもの(事実を語ったもの/写像したもの=像)であり、且つその総体が世界である。
748救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/22(水) 00:09:42 0
>>747
関係は物と同時にあるのだろうか?
言い換えれば、人間なしでも関係はあるのだろうか?
私はこれは解答不能であると同時に、どちらを採用しても、
結論的に変化は生じないと考えている。

ということは、認識論は実は不必要だとも考えられないだろうか?
749wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/22(水) 19:46:49 0
>>748
(物質 and/or 物自体)だけが存在し、(ヒト and/or ヒトの認識)が存在しない世界のことを述べているのであれば、
(ヒト and/or ヒトの認識論)も、その存在基盤を失うでしょう。


750救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/24(金) 23:23:23 0
では、人間が物と物と関係を付与しているのだろうか?
私には分からない。
なぜ関係が先前していないのか?
751救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/24(金) 23:31:19 0
人間の認識が関係を付与すると仮定する。
では、その付与のプロセスはいったい何なのか?
そして、そこで言われている認識とは何なのか?

いったい、認識はどこから関係を持ってくるのか?
752wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/27(月) 18:23:13 0
>>750
>751
論理和/積、カテゴリー表の関係性等でもって、事実aと事実bとを関連づけていく操作/総合判断の対象とならないものは、ヒトの認識の対象である事実とはなりえません。

本当に分からないことは、何故、ヒトの認識は、そのようなものであるか/そのようなものでしかありえないか、です。
753考える名無しさん:2009/05/28(木) 09:10:56 0
保守
754宅急 ◆MAJOUSOou. @株主 ★:2009/07/03(金) 23:28:17 0
許容の問題とか。
755宅急 ◆MAJOUSOou. @株主 ★:2009/07/08(水) 06:05:49 0
756救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/07/08(水) 13:37:58 0
許容の問題とはどういう問題だろうか?
757考える名無しさん:2009/08/28(金) 01:30:28 0
「関係」を収める領域と位置が明瞭にされていない
758考える名無しさん:2009/08/28(金) 08:50:17 0
そもそも領域や位置が関係なんだろう。
>どこから関係を持ってくるのか?
認識は神とか他者とか言語から関係を持ってくるんじゃないのか
759考える名無しさん:2009/10/27(火) 21:39:33 0

760考える名無しさん:2009/10/27(火) 21:56:39 0
761考える名無しさん:2009/12/31(木) 00:59:46 0
保守
762考える名無しさん:2010/02/13(土) 11:48:29 0
age
763考える名無しさん:2010/02/13(土) 18:18:45 0
13∞666∞31アザトースが今直ぐ必ず絶対に復活して全パラレルワールド&全異次元領域&全異世界&全宇宙空間&全銀河系&全惑星地球に同時に瞬間的に登場してハイファンタジー世界に即時に再創造刷るよねー!?♪。
764考える名無しさん
保守