1 :
壱:
わたしは「壱」
わたしの思想
2 :
壱:2007/07/29(日) 16:55:38 O
さっきテレビで香取君が
生まれて来て意味の無い人間なんて一人もいない
なんて言ってたけど
こういうような思想こそあらゆる害悪の根なのであって
本当は
生まれて来て意味の有る人間なんて一人もいない
3 :
壱:2007/07/29(日) 17:32:59 O
なぜ害悪の根なのかといえば
生まれて来たことに何かしらの意味があるとなると
多くの人が思い悩むことになるからであります
私の生きてる意味ってなんだろう
こういう悩みに答はありません
もともと意味などないからであります
終わり?
5 :
壱:2007/07/30(月) 17:06:58 O
悩む必要がそもそもない
最初からないものを探す必要はない
なぜそれをあるあるって言う?
あるある詐欺じゃないか!
6 :
壱:2007/07/30(月) 18:39:10 O
だいたい
生きてる意味がないとか言って
鬱になったり自暴自棄になったりするのは
心のどこかで
本当は生きてる意味があるはずなのに・・・
と思っているからで
7 :
壱:2007/07/30(月) 18:42:38 O
最初から生に意味なんかないとわかってれば
そんなの当たり前のことで
ため息つくようなことじゃない
鼻で笑うべきこと
8 :
壱:2007/07/30(月) 18:48:18 O
だから例えばいじめられっ子に
僕はもう生きてても仕方ないから死ぬよ
と相談されたときに
そんなことないよ
生まれて来て意味のない人間なんて一人もいないんだよ
なんて言うのは本末転倒なのであります
9 :
壱:2007/07/30(月) 18:56:10 O
なぜかというと
彼の苦しみの根は
いじめそのものよりも
人生はもっと道理の通った意味のあるものである
というその信念にこそあるからで
それをまた
君にも生きてる意味はある
なんて言ってしまうと
苦しみの根をさらに増長させるようなものであり
10 :
壱:2007/07/31(火) 16:25:25 O
誰だって生きててもしょうがないよ
生きててしょうがある人間なんていない
この世はまるごと不条理なコメディー
失笑してやり過ごせばいいだけ
11 :
壱:2007/07/31(火) 20:46:41 O
人生はすこぶる出来の悪い不条理なドッキリみたいなもので
ほとんどの人が死ぬ間際になって初めて
生が何かの悪い冗談だったことに気付く
で大して笑いも起こらないし
なんだこりゃ?
失笑するしかない
壱よ、往生際がよくて気持ちがいい。
13 :
考える名無しさん:2007/07/31(火) 21:27:40 0
「意味」が分かっていない壱の人生の意味は不明に決まってるだろうが。ヴォケw
14 :
壱:2007/07/31(火) 22:04:53 O
「意味」の意味って何だろね
どういうときに「意味」は生まれるのだろか
香取君が言う人生に意味があるってどういう意味だろうか
15 :
壱:2007/07/31(火) 23:19:23 O
何かの目的の為に役に立つかどうか
という意味がまずあるかな
何かがその目的に全然役に立たない場合
それ意味ないじゃん
と言われる
16 :
壱:2007/07/31(火) 23:26:07 O
もうちょい広くとれば
対象となる物事に対して何らかの関連を持つかどうか
それが対象に対して関連を持たない場合
意味わかんねー
と言われる
17 :
壱:2007/08/01(水) 12:12:03 O
香取君や世間の人が言う意味は多分前者の方で
その言わんとするところは
君が生まれて来たのに意味がないなんてことはないよ
例えば君のお母さんは君がいるだけで嬉しいんだよ
だから君はお母さんの役に立ってるんだよ
故に君が生きているのは意味があるのさ
君ががんばればもっと多くの人を喜ばせたりできる
そしたら君の生はもっともっと意味深くなって充実するよ
誰でも誰かのためになってるんだ
意味の無い人間なんて一人もいないんだ!
まあそんなとこだろ
18 :
壱:2007/08/01(水) 15:23:56 O
そういう意味ならまあ確かに
誰にでも多かれ少なかれ意味があると言えるんだろう
じゃ俺が「人生は無意味である」と言う時の
「意味」の意味って何だろう?
19 :
壱:2007/08/03(金) 02:40:20 0
例えば何かの文章が意味不明という場合
それぞれの単語が何を指し示しているのかが不明な場合がまずあるし
もしくは単語それぞれの意味はわかるけれども
それらのつながりが非論理的であったりして
結局何が言いたいのかわからないという場合もある
20 :
壱:2007/08/03(金) 02:43:52 0
私が「人生は無意味である」と言うときの「意味」は
これに近い
人生は総体として非論理的で脈絡の無い偶然の集積である
ところで非論理的で脈絡の無いものは無意味である
よって人生は無意味である
21 :
壱:2007/08/03(金) 02:53:27 0
意味を感じるのは一つの思考システム
一つの色眼鏡
一つの言語のようなもの
我々は未知の言語を聞いても全く意味がわからないが
その言語を話す人たちの間では意味が成立している
香取君や世間の人はそういう色眼鏡をかけているので
世界は意味に満ちていて意味の無い生など無い
けどいったんその眼鏡を外して世界を眺めてみれば
とたんに不条理に満ちた失笑すべき情景が広がる
22 :
壱:2007/08/03(金) 02:56:47 0
意味のある生とは一つの神話である
それを信じて生きて楽しいならそれでもいいけど
つまんなかったり苦しかったら早いとこ捨てちまいな
こっちへ来いよ
みんなで笑おうぜ
壱さんは生きてて楽しいですか?
24 :
壱:2007/08/03(金) 22:32:56 O
楽しくなさの根にあるのは必ず不満感や不足感で
不満感や不足感は希望や期待や信念から生まれる
例えば合コンが楽しくないのはあらぬ期待をするからで
全く期待しなかったらどんなに不細工だらけでも案外楽しめたりする
こうあるべきだという信念を捨てれば
どんな悲惨なことにてっも大概納得できる
私はそんな風にこの意味不明な生を完全受け身で漂う
なので少なくとも楽しくないということはないです
25 :
壱:2007/08/04(土) 00:56:21 O
やなことあっても気にならないし
いいことあればそれはそれでそれなりに楽しいし
得だべ?
26 :
壱:2007/08/05(日) 02:09:16 O
私はもともと無色
なんか生きてたら勝手に色がついてきてるけど
別にどんな色になっても構わない
この色は私に関係ないから
27 :
壱:2007/08/08(水) 22:46:07 O
何があってどうなろうと
でもそんなのカンケーねぇ!
でもそんなのカンケーねぇ!
で済まして良い
でもそんなのカンケーねぇ!
でもそんなのカンケーねぇ!
で済ませられないことなどない
28 :
考える名無しさん:2007/08/08(水) 23:34:45 0
いや、壱はどんなに次元の違うモノやコトやヒトともすべて関係がある
29 :
壱:2007/08/09(木) 03:25:54 0
まあある意味そうですね
すべて関係があるといえば関係があるし
関係が無いといえば関係がない
そもそも関係って何だろね
30 :
壱:2007/08/10(金) 02:09:53 0
何かが何かに何らかの影響を及ぼすとき
それらは関係がある
何かが何かに何の影響も及ぼさないとき
それら二つには関係がない
こういう意味でいえば
例えば私の呼吸一回で地球上の大気は僅かに変動し
それは地球全体の生態系に何らかの影響を及ぼすだろうから
私に関係のないもの生物などいないだろう
31 :
壱:2007/08/10(金) 02:25:27 0
もうちょっと普段の生活レベルで考えてみても
例えば私は日々回りの人から影響を受けているし
私もまた回りの人に影響を与えているだろう
私の思考はこうして電子信号によって運ばれ
会ったことの無いあなたの思考にも影響を及ぼす
そんな風に考えていけば
私に関係の無い物や事や人などいないといえる
では私が「私と私の人格(色)は関係ない」
「この生で何が起ころうと私とは関係ない」
というのはどういう意味だろう?
32 :
壱:2007/08/10(金) 02:36:48 0
私はこの生に主体的に全然関与していない
勝手に人格は形成され偶然与えられた環境の中を漂っていたら
何か知らんけどあれこれ事が起こったりするだけ
だからこんな人格も生も知ったこっちゃない
私に私の人格や生に対する責任などない
私は無責任
私は無実
私は関係ない
私はこの人格を私と認めない
私の人格やこの肉体はあらゆるものと関係しているだろう
でもそれと私は全然関係ない
私は全然関与してないし向こうも私に影響を全く及ぼさない
だから何が起ころうと関係ない
ま、そんな意味です
33 :
壱:2007/08/10(金) 02:48:17 0
要は「私」と「私の人格」を両方「私」と呼ぶから
ややこしくなるんだわな
「私の人格」は物語の中の「私」
「私」は私
「私」は「壱」
余計ややこしい?
まあゆっくり説明していく
そのうちわかる人はわかる
わからない人も死ねばわかる
34 :
考える名無しさん:2007/08/13(月) 12:33:57 0
俺には関係ない
おれは完全に責任をはたした
35 :
壱:2007/08/13(月) 15:40:27 O
私は車の車軸の中心
車がどんだけ回転しようとも私には関係ない
私は微動だにせずそれを眺めてただ笑う
36 :
壱:2007/08/13(月) 17:45:59 O
私の肉体や人格や周りの世界は車の回ってる部分で
常に転変生滅を繰り返すがそれは決して私じゃない
「壱」は永久に宇宙の中心において不動不変不滅
それが本当の私
>>26 色即是空
お釈迦様の境地に辿りついたようですな
ちょっと待ってくださいよ。一つ気になるところがあるんですよ。壱さんの考えには概ね共感できるんですが
>>19-20のほうの「意味」についてなんですが、壱さんもおっしゃる通り
>>人生は総体として非論理的で脈絡の無い偶然の集積である
ここまでは僕も同意なんですが
ところで非論理的で脈絡の無いものは無意味である
よって人生は無意味である
この部分は少しばかり短絡的ではないでしょうか?
僕は例え非論理的で脈略のないものの連続が人生であっても、それを理由に「人生は無意味」とするのは早すぎると思います。
僕にとって無意味というより「意味がわからない」「全貌が掴めない」「理解不能」数学で使う「X」と同じような感覚なんです
たぶんこれから先も解ることはないだろうけど、解らないからといって
無理やり答えを決めて楽になりたくない!もっと追い詰められたい!もっと苦しみたいんすよ!
39 :
考える名無しさん:2007/08/15(水) 02:07:30 O
その上でもっとオナニーしていっぱい気持ちよくなりたいんすよ!
40 :
壱:2007/08/15(水) 03:52:28 0
苦しみたいなら苦しめばいい
それに耐える体力知力があるのなら
君は多分強い人なんだろう
私は楽になる方を選んだ
選んだというかこっちに来たらしっくりきて楽になっちゃった
だからもう戻る気もしない
ただそれだけ
無意味と断定するのはおかしいね確かに
「意味不明」「理解不能」の方が適切な表現と思います
まあいつか辛くなったらこっちへおいでよ
別にいいと思うよそれでも
41 :
壱:2007/08/15(水) 04:03:42 0
生に勝ち負け優劣など無い
どんだけ奮闘しようがどんだけ逃げ回ろうが
そんなのカンケーねぇ!
そんなのカンケーねぇ!
42 :
壱:2007/08/15(水) 04:12:02 O
俺はもうあがったよ
こっちへおいでよ
みんなでなごもうぜ
>>壱
じゃあ取りあえず俺とセクースしようぜ
してもしなくても一緒ならキモチー方がいいじゃいあん
44 :
壱:2007/08/18(土) 15:43:05 O
君が美少年なら考えないでもないけどな
どうせ意味ないなら気持ちいい方がいいというのは同意
私も生をできるだけ快適にやりすごしたい
適度に食って適度に寝て適度に遊んであとは笑う
美少女じゃ不満なんですね
46 :
壱:2007/08/18(土) 16:40:59 O
女はもっと熟れてないとね
47 :
壱:2007/08/18(土) 19:40:29 O
私は右から左へ生を受け流す
48 :
考える名無しさん:2007/08/18(土) 21:24:44 O
で
このスレの目的は
49 :
壱:2007/08/18(土) 23:10:41 O
特にないっすよ
似たような人がいたら雑談したいなとか
一人か二人くらいこれを読んで楽になる人がいたらいいなとか
まあそんな程度かな強いていえば
51 :
壱:2007/08/19(日) 03:19:08 0
ざっと読んでみたけどおらあんまわがんねぇだ
とりあえずこっち来れば?
俺と遊んだ方が楽しいよ多分
「原則」は老子の「道」に近いみたいだけど
「壱」も「道」と似てる
まあおいおい説明していく
52 :
壱:2007/08/19(日) 13:56:17 O
流れを見つけて
それに完全に身を委ね
ただただ漂う
これが快適な生を送るコツ
その流れが多分原則であり
道であって
「壱」はその流れの原動力みたいなもの
なるほど。上から読んでみたが、なんとなく仏教っぽさがあるな。
54 :
壱:2007/08/20(月) 00:21:29 0
まあ仏教思想の過激派といえなくもないかもね
俺はどっちかっつーと同じインドならヒンズーの方が近いと思うけど
あとは道元、老子、ショーペンハウアー、Oshoあたりも近いかな
でもそれらのどれともある意味遠い
ま、ゆっくりおつきあいくだされ
55 :
壱:2007/08/20(月) 21:55:00 O
意味から解き放たれたとき人間は笑う
壱思想は笑いの思想
人を意味から解き放つ思想
56 :
壱:2007/08/21(火) 00:44:39 O
葬式では
それがふさわしくないとわかっていながら
思いのほか笑いが起こるものだ
身近な人の死に直面すると人は一時的に生の意味から解放される
そんなときこそチャンス
57 :
壱:2007/08/21(火) 04:50:47 0
だから例えばあなたの家族や友人が毎日立て続けに死んでいったとしたら
それが一ヶ月くらい続けば
あなたも私と同じように生の意味から解放されて
もうこんなんなら笑ってやりすごすほかないと思うことだろう
どうせいつ死ぬかわからんし
気張ったってしょうがない
そこが壱思想の一つの入り口
58 :
壱:2007/08/21(火) 15:52:47 O
けど少し想像を逞しくすれば
それと似たような状況が実際現実に起こっていることがわかる
毎日毎日我々の隣人はバタバタと死んでる
我々が明日生きている保障はどこにもない
59 :
壱:2007/08/21(火) 16:08:28 O
どっかで聞いたことあるよな感じだし
陳腐でくだらないと思うかもしれないけど
でもこれは厳然たる事実
我々の生は本当に脆い
そんで笑えるくらい軽い
60 :
壱:2007/08/21(火) 16:16:18 O
我々の生がとんでもなく軽いのだから
それの寄せ集めである社会もめちゃめちゃに軽い
そりゃーもうふわっふわしてるね
そうそう。重要なものなどどこにもない。あるように見えるとすれば、
それは惑わされてあるように見えているだけ。
62 :
壱:2007/08/24(金) 01:22:15 O
誰が何の為に惑わしてんのかね
悩む必要ないのに悩んでる人が多すぎる
誰も得してるとは思えないし
不思議なもんだ
人が惑う原因を考えれば答えは見えるよ
非常に分かりやすい惑わしは、広告だ。TV CM もそう。これは単純に商売のために惑わしている。
自分の利益のために惑わす。これが基本。
そういえばカメレオンが色を変えて身を守るのも、利益を守っているのと同じようなものだな。
葉っぱそっくりの虫とか、色々いるね。
視野が狭いな
いけてる理論は人間が存在する前から世界に潜在してるものだぜ
66 :
壱:2007/08/24(金) 20:50:26 O
そのうちそういう話にもなるから
まあゆっくり待つんだぜ
67 :
壱:2007/08/24(金) 20:52:32 O
いけてる理論はどんな卑近な事象にも潜在してるもんだぜ
68 :
壱:2007/08/24(金) 20:59:06 O
例えば江戸時代の人たちなんかは
何の為に生まれて来たのかなー
生きてて意味なんかあんのかなー
なんて悩まなかっただろう
とすると西洋思想に人を惑わす元凶があるのだろうか
それとも社会体制にあるんだろか
69 :
考える名無しさん:2007/08/24(金) 21:10:12 0
それはオリエンタリズムってやつでしょう。
多かれ少なかれ悩んだと思うよ。
70 :
壱:2007/08/24(金) 23:07:26 O
そうかなあやっぱ悩んでたかなー
じゃこういう悩みが人類普遍のものであるとして考えてみようか
子供は生きる意味について悩んだりしないわな
大概思春期あたりから悩みだす
その違いってなんだろね
そこに惑わされる原因はあるかな?
発情期に入るからだろう。
人間の場合、そのまま発情しっ放しになる。
欲求Aがありました。
欲求Bがありました。
A,Bを同時には満たせないです。
ハイ、悩みの完成。
A=生きていたくない。つらい。
B=死にたくない。痛い。
これを代入すると
「何のために生まれてきたのかなぁ」
という悩みは生まれ得ます。
西洋思想が元凶とかばかじぇねぇの?
子供が悩まないのは
別の欲求を満たすために
ほかの欲求をあきらめる必要があり得ることを
まだ経験的に知らないからだよ
欲求が単純な上に刹那的で移り気だからというのもあるがな
お前の頭は、いっぱしの思想を語るには十分でも
熟達した理論を語るにはあまりにも未熟だよ
73 :
壱:2007/08/25(土) 15:18:15 0
まあそうかもね
私には熟達した理論とやらを構築していくような気力も体力もない
未熟で単純な子供じみた理論でただ遊びたいだけ
74 :
壱:2007/08/25(土) 15:33:53 0
でも
生きていたくないし死にたくもないというジレンマから
何のために生きているんだろう?という悩みが生まれ得る
っつーのはよくわからんけどな
そんな深刻なジレンマを抱えてなくても悩む人はいるし
75 :
壱:2007/08/25(土) 15:45:07 0
発情期になるから自己の存在理由を問うようになるってのはおもしろいね
その発想はなかったわ
でも多分事故かなんかで生殖器が無くなっても悩む人はいるだろうから
悩みの直接の原因が発情にある
とは言えないだろね
76 :
壱:2007/08/25(土) 16:01:37 0
あなたは何か理由があって生まれてきたんだよとか
個性を大事にして自分らしく生きなさいとか
そういうことを我々は小さい頃からさんざん聞かされる
思春期になると自我が形成されてくる
じゃあ私は何をしに生まれてきたの?
私らしい私ってどんな私だろう?
よくわからない
そんなところがまあよくある悩みの発端じゃないかな
77 :
壱:2007/08/25(土) 18:30:44 O
子供が存在理由に悩んだりしないのは
自我の意識がまだ弱く思考の対象にならないからじゃないかな
78 :
壱:2007/08/25(土) 21:37:52 O
そんな悩みが発展していって
生きるのも死ぬのも嫌っていうジレンマが生まれる
これならわかるけどね
逆にね
79 :
考える名無しさん:2007/08/26(日) 07:06:23 0
自分の持つ価値観や常識の枠組みから自分の一部がはみ出していると
認識した時に悩みになるのではないか?
たとえば現在の日本社会だと学校の成績が高いのが良いとされている。
その社会的価値観を自分も取り込んで同じ価値観を持って生きていた
場合に、自分の成績が一部でも落ちるとそれが悩みになる。
戦前戦中の日本の場合はお国のために兵隊になることが良いとされて
いたので体力がないということで悩む人が居ただろう (徴兵検査で落と
されるから)。
また、おそらく昔から同性愛者の人は他の人と違うということで悩むことが
あったのではないか? (自分がそうじゃないからはっきり分からないが)。
80 :
壱:2007/08/26(日) 13:35:55 0
なるほどそれはありそだね
良いとされる生き方が社会に常識として存在し
その常識をある程度受け入れてしまっていて
しかし自分にはその生き方が難しいと感じている
そういう人は悩むだろうな
私が生きても世の中に意味をなさない
じゃ何のために生きてるんだろ
81 :
考える名無しさん:2007/08/27(月) 09:15:18 0
これが人種の問題にからんだりすると努力でどうにもならなくなったりする。
たとえば白人の方が素晴らしいという白人の持つ価値観を受け入れてしまった
黒人がいたら、悩むことは悩むだろうが普通は白人にはなれない。(マイケル
ジャクソンとか謎の白い黒人も居るには居るが)。
しかしそれ以前の問題として、努力でどうにかなることだったとしても、
価値観に合わせて自分を変える必要があるのかという問題がある。
価値観の方を捨てる、または違う価値観を持つという選択も可能だからだ。
人から「ハゲてますね」と言われても「ええハゲてますよ。格好良いでしょう」
と誇らしげにハゲを見せびらかす、というようなことも可能なのだがなぜか
そうする人は少数派であり密かに金を掛けてヘアコンタクトをしてしまう。
だからハゲは格好悪いという価値観が継続されてしまいカツラ屋は儲かり
続ける。
82 :
壱:2007/08/27(月) 19:39:58 O
まあ人は普通一人ぼっちにはなりたくないからね
できれば世の中の大体の人と価値観を共有して生きていきたいというのも人情
でもそれができずにしかもその価値観を捨てることもできなくて悩む人が多い
まあそんな構図なんだろな
83 :
壱:2007/08/27(月) 19:53:32 O
辛かったらそんな価値観全部捨ててこっちへ来いよ
俺たちは一人じゃない
みんなで笑おうぜ
ってのがまあ壱思想のスタンスなわけだけども
84 :
考える名無しさん:2007/08/27(月) 20:59:08 O
価値観を捨てる事は可能だが、捨てると敵が現れるんじゃないかな。
その価値観による利益を得ているやつが敵になると思う。
ハゲを格好良いという価値観はカツラ屋の妨害によって阻止される
のではないか? 試験の成績が悪くてもよいという価値観は教育産業
によって阻止されるのではないか? 格好悪くてもよいという価値観は
服を売るメーカーに阻止されるのではないか?
こういったあらゆる敵に勝てるかという問題があると思う。失敗
すればまた洗脳されて逆戻り。
85 :
壱:2007/08/27(月) 21:16:56 O
どうでもいいけど君ハゲ好きだねw
せっかくだからハゲで例えると
ハゲは本当はカッコいいんだ!と主張して
ハゲを格好悪いとする価値観に対抗しようとするのは
ハゲの価値観を捨てたことにはならない
まだ同じ土俵で戦ってる
ハゲの価値観を捨てるというのはハゲだろうがフサフサだろうが
んなこたぁどーでもよくなること
バカバカしいやと土俵から降りる
だから敵はいなくなる
ただ、ハゲの土俵からは降りることができても
土俵そのものからは誰も降りることはできないんだなぁ
せっかくハゲの土俵から降りたと思ったら今度はデブの土俵に立たされていたりする
価値そのものから降りることはできない
生きてる限りそれはどこまでもつきまとう
87 :
壱:2007/08/27(月) 23:30:20 0
ほんとにそうかな?
同じように生の土俵から降りればいいだけさ
まあ今の状態で構わなけりゃ無理に降りることもないけど
どうせ死ねば降りるし
88 :
壱:2007/08/27(月) 23:50:55 0
でも確かに生きてて意識がある限り
ある種の価値判断は続くだろうね
これうまいとか
これ気持ちいいとか
そういう意味では価値から逃れることはできないと言える
89 :
壱:2007/08/28(火) 00:00:13 0
でもそれは残しといたままでも
生の土俵から降りることはできる
よしんばハゲの土俵から降りられなくても
90 :
考える名無しさん:2007/08/28(火) 03:43:18 0
開き直ればいいんじゃないかな。
そして気にしない。
一切を気にしない状態になったら、完成。
91 :
壱:2007/08/28(火) 14:59:56 O
気にしない気にしないって一休さんも言ってるしな
もう知らね
カンケーねぇし
と開き直って
あとは破顔一笑すればいい
あえて付け加えれば
気にしないこと、カンケーねぇことがいいことだと価値判断してるうちは
まだ価値に縛られている
気にしないことも気にしない、カンケーねぇこともカンケーなくなれば
価値の呪縛から逃れられる
何があってもなくても何もないに等しいような
そんな境地には当然達してませんが
93 :
考える名無しさん:2007/08/29(水) 00:17:32 O
ボケ老人は忘れたことを忘れる。
最強だ。
94 :
考える名無しさん:2007/08/29(水) 02:04:52 0
めしはまだか。
95 :
壱:2007/08/29(水) 04:02:13 0
まあ確かに人生は無意味だと主張して
人生は意味があるとする主張に対抗するようでは
人生の価値観そのものを捨てた事にはならないわな
ごもっとも
その論でいけばボケ老人が確かに最強だわ
でもそれじゃ俺が言いたい事とちょっとニュアンスが違う
難しいね言葉って
ちょっとまた違う視点から考えてみる
96 :
壱:2007/08/29(水) 04:06:20 0
価値判断には比較対象が必要
これはあれよりもよいという評価が価値判断
もし比較対象や基準が無く
単にこれいいなあとかこれ気持ちいいなあとか思うだけだったら
それは価値や意味を成しているだろうか?
97 :
壱:2007/08/29(水) 04:11:15 0
例えば気持ちいいことがあったとき
あん時のあれより気持ちいいなあとか思う
おいしいものを食べたときは
あん時のあれよりうまくないなとか思う
それは価値判断だよね
じゃあXXXいい!
という何だかわからない未知の快感に出会って
それと比較するようなものが無い場合
それは価値や意味を成していると言えるだろうか
赤ちゃんの体験ってそんなんなんじゃないかな
98 :
壱:2007/08/29(水) 04:16:44 0
つまり価値の外側で生きるってのは
全然判断が停止した脳死状態みたいな感じだけではなくて
もっと生き生きとした感動の連続みたいな状態でもあり得るんじゃないか
そういう感じの方が私の思ってる事に近い
99 :
壱:2007/08/29(水) 06:07:46 O
つまりボケ老人より赤ん坊でいる方が好き
100 :
考える名無しさん:2007/08/29(水) 12:34:12 O
全ての価値は幻想。
一切に価値なし。
101 :
考える名無しさん:2007/08/29(水) 14:05:05 O
俺もお前もみんなも動物も植物も山も川も海も地球も宇宙も、
一切の価値はなく等価。時と共に部分的に価値があるように
見えたりないように見えたりするだけ。それは海の波のような
ものであって、どんな形の波であろうとも海水であることには
代わりがない、というのと同じこと。
>>98 価値の外側で生きることに価値を感じる
(生き生きとした感動の連続みたいな状態でもあり得る)
からそうするのであって、
それは、真に価値の外側で生きたことにならない。
新たな価値観の内に生きているというだけだろう。
なにがしかの望ましい状態になることを
一切求めない事が価値の外側で生きることではないかい?
となると、もう動物的いや昆虫のように
遺伝子レベルの反射行動のみで生きていかねば
価値の外側で生きたことにはならない。
103 :
考える名無しさん:2007/08/29(水) 15:25:57 O
全ての書き込みは延髄反射で書かれることが望ましい。
104 :
壱:2007/08/29(水) 16:00:12 0
>>101 ま、そんな感じだね
その「海」が「壱」なんだけど
それはまたそのうち説明する
105 :
壱:2007/08/29(水) 16:18:58 0
>>102 なにがしかの望ましい状態になることを
一切求めない事が価値の外側で生きること
それはそうだと思うな
けど
価値の外側で生きる事に価値を感じて
価値の外側で生きていれば
なにがしかの望ましい状態になることを一切求めなくなる
なにがしかの望ましい状態になることを一切求めない事は
君によると
価値の外側で生きる事である
106 :
壱:2007/08/29(水) 16:24:03 0
まあそんな言葉遊びは別にいいんだけどさ
要は価値だとか意味だとかにこだわらず
適当に笑って生きてこうぜってことさ
107 :
考える名無しさん:2007/08/29(水) 17:53:02 0
んで、壱は何かがキッカケで壱思想にたどり着いたんだ?そして、それまでの経緯はどんな?
108 :
壱:2007/08/29(水) 19:06:56 O
大体今の形になってから5年くらいは経つからなぁ
あんま覚えてないけども
親が死んだこととかかなぁ
きっかけの一つとしては
あとは勝手にこうなったとしか言い様がないっす
109 :
壱:2007/08/29(水) 19:18:00 O
あらゆる苦痛はこだわったりしがみついたりするから起こる
およそ万物の本性は変化にあるので
それに乗って漂ってればいい
こういうこと言うとまた
こだわらないという事にこだわってるじゃん
って言われそうだけどなw
110 :
考える名無しさん:2007/08/29(水) 19:58:21 O
やはり仏教的だ。
>>109 じゃあ、何も言わないのがほんとは一番いいんだろうけどね
何も言わないことが「こだわらない」ことを態度で示す
そこが言葉(価値)を所有してしまった人類の矛盾でもあるんだろう
言葉が先にあるから後で黙ることもできる
ボケ老人はものを言わない、他人に積極的に主張すべき言葉(価値、こだわり)がない
でも、そんなボケ老人だってボケる前は何らかの価値に縛られ何かにこだわっていて
そこを1回通過してボケたのだから誰もが一度は通る道なんだろけど
かと言ってボケることがいいこととも言えないし誰もがボケるわけでもないし
言葉の所有によって価値の所有者となった理性的人類が
それ以前の動物本能的存在に逆行するの無理だろし
こいつの話聞かないほうがいいぞ
本人はある意味で完成してるけど
自己だけで完結してるから
他人は関わった分だけ損し続けることになる
自分のことを実はわかっていないのに
なまじ完成してるからわかっなくても本人にとっては何の問題もない
だから何を指摘されても認めないし、気にも留めない
発言がうそでも間違いでも本人は気にしないから
回りは何が事実かどうやっても理解しようがない
食うためじゃなく、どうでもいい暇つぶしのために
ありを捕まえるタイプのあり地獄みたいな存在
それが、このスレと壱
113 :
考える名無しさん:2007/08/29(水) 21:36:12 O
コテハンスレッドは削除対象
114 :
壱:2007/08/30(木) 01:01:20 0
そうなんだ
じゃちょっと引っ越ししよう
115 :
壱:2007/08/30(木) 01:09:36 0
と思ったけどスレ立てできないので
もうちょっと待って
116 :
壱:2007/08/30(木) 01:14:25 0
>>111 何も言わないのがほんとは一番いい
まあ多分そうだろう
禅では「不立文字」と言うしね
>>112 まあ得することは無いだろうね
全部捨てちゃえって言ってるわけだし
失うことばかりだろう
117 :
考える名無しさん:2007/08/30(木) 02:59:35 0
>>112 人の話を聞いただけで損をするということがもしあるとすれば、
それは聞いている側の人間の甘えや依存心が強いからではないか?
>>112 知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒」
が生じた、と言うのがセコ厨の懸命な主張だが、
その内実が「文体がくどいから納豆ネバネバ文体」というような、まさに、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言であるので、それが、
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒。」
を生じさせたと考えるにはかなり無理があり、
そんなものに自分のル・サウンチマンを仮託してカタルシスを求める人間は、やはり、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにして
のであり、その結果、哲学板でバカにされ、論理で立ち向かうことができないので、
自作自演、騙り、擬似ウォッチスレ立て、あるいは、2ちゃんのクリシェに逃げ、
挙句の果てには意味の無いコピペを板のスレッド中に貼り付け、迷惑を掛けまくるのも、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにしている
当人自身知的ルサウンチマン(=ル・サウンチマン)に重篤に冒された人間の当然の成り行きである。
119 :
考える名無しさん:2007/08/30(木) 13:23:53 0
インドだったか中国思想だったか忘れたが
「私は在る」って言葉がでてきた。
いるじゃなく、「在る」ってわざわざ言葉を使って
るんだから「在る」に意味があんのかと思ってるんだけど
壱はどう思う?
壱思想を確立?したことによって壱自身人生変わったか?
120 :
壱:2007/08/30(木) 14:25:24 O
面白い夢見て笑いながら起きることが増えた程度かな
私が居るだとここに物理的に居るって感じで
私が在るだと観念として自我が存在してるってニュアンス
かなあ
121 :
考える名無しさん:2007/08/30(木) 16:48:08 0
>「壱」は永久に宇宙の中心において不動不変不滅
>それが本当の私
どんな?何故それがわかる?
>流れを見つけて
どんな?何故わかる?
>それに完全に身を委ね
>ただただ漂う
>これが快適な生を送るコツ
自分の意図を加えないのか?
>その流れが道であって
>「壱」はその流れの原動力みたいなもの
詳しくどーぞ。
ってことはタオとやらを超えてるってことかー。
122 :
壱:2007/08/30(木) 19:33:14 0
んーまあ全部一気に答えると長ーくなるので
ちょっとずつ
まず
>「壱」は永久に宇宙の中心において不動不変不滅
>それが本当の私
から
これは我々の主体は一体何なのかという問題
普通我々はそれぞれの人格をもって「私」とし
それが「私自身」つまり私の「主体」だと思っている
123 :
壱:2007/08/30(木) 19:33:44 0
でも本当にそうかな?
まだ人格や言語をもたない赤ちゃんのときでも
君は確実に存在していた
でもまだ君という人格や自分という意識はなかった
そのとき君は誰だったのだろう?
君は無からポンと生まれたわけじゃない
君は赤ちゃんになる前
一つの受精卵として君のお母さんのおなかの中にいた
その受精卵と今の君は同一の生命体だよね
じゃあそれは君だ
124 :
壱:2007/08/30(木) 19:35:39 0
何が言いたいかというと
君は人格や自我なしに存在し得るということ
これは大自然の絶景に対峙したときなどにも起こる
我を忘れて立ち尽くすとき君は自分のことなど忘れている
でも君は消え去ったわけではなくそこにいる
ということは人格や自我というのは存在の絶対条件ではないわけだ
人格や自我は浮かんでは消える泡のようなものにすぎない
となると人格や自我は君の存在の主体ではない
では君の存在の主体とは何だろう?
125 :
一:2007/08/30(木) 20:52:30 O
同じことを禅では
父母未生以前の面目は如何にと問う
父さん母さん生まれる前に君は何だったの?
126 :
一:2007/08/30(木) 21:34:32 O
君の人格や自我は君の心臓さえ自由に動かすことができない
君の人格や自我は君の主人公じゃない
いてもいなくてもどーでもいい端役
>人格や自我というのは存在の絶対条件ではないわけだ
>人格や自我は浮かんでは消える泡のようなものにすぎない
>君の人格や自我は君の心臓さえ自由に動かすことができない
なるほどなるほど、これは目から鱗、で、それで?
121です。
>人格や自我なしに存在し得るということ
頭ではわかる。人格や性格もかかわった外部からの影響と自分の解釈で
創りあげたようなもんだから。
頭ではわかる気がするんだが、それなしの状態に壱自身がなっているということか?
そういう状態だとして、思考することも感じることも変わらずあるのか?
感情はどうなってる?ある?
ところで自我とはなに?くぐってみたが意味が色々で、、、壱がいう自我とは?
129 :
一:2007/08/31(金) 01:46:50 0
いや、微妙な感じで共存してるって感じかな
自我や人格なしに存在している私は何も語らない
なぜなら言語を持たないから
語っている私は人格や自我を持っていて
思考することも感じることもある
でもその私は私の主人公でないことが分かっている
ここで言う自我とは
語る私としての私
ややこしいね
だからちょっとHNを変えてみた
自我や人格なしに存在している私が「壱」
語ってる私は自我を持つ「一」
私の主体は「壱」
「一」はあってもなくてもどうでもいい付録
130 :
一:2007/08/31(金) 02:03:19 0
で、私の主体の話の続きだけど
それが自我や人格ではないことはわかった
じゃそれは一体何なのか?
私の心臓を動かしているのは
生命を維持しようとする生命としての本能だろう
それが受精卵であった頃から今日まで常に私の肉体を操ってきた
私のチンコを勃起させるのも
種族繁栄を目論む本能の仕業
あんまり脳科学とかには詳しくないけど
意識上のことに使われている脳なんてごく一部なんでしょ?
となると、そういう動物的本能こそ我々の主体なのだろうか?
131 :
一:2007/08/31(金) 02:56:52 0
まあ人格や自我よりは主体的な役割を果たしてるだろね
生きてる限り気絶してても働くし
ところで
私の生物的本能は親父とお袋から受け継がれたものだ
ということは私の主体は親父やお袋の主体と同一なわけだ
ところで親父の生物的本能はじいさんばあさんから受け継がれたものだ
こういう風にどんどんどんどん何十億年と辿って行くと
私の主体は地球上の最初の生命と同一ということになり
それから派生した歴史上のあらゆる生命体と同一ということになる
132 :
一:2007/08/31(金) 03:06:21 0
ところで地球最初の生命はどのように誕生したのだろうか?
まあ今のところよくわからないらしい
でもわからなくても何らかの原因によって
生命は誕生したんだろう
ということは私の主体であるところの生命維持の本能も
その「何らかの原因」によって生命の誕生と同時にもたらされたと考えられる
133 :
一:2007/08/31(金) 03:14:11 0
そうやってさらに何十億年も遡って行くと
宇宙の誕生を引き起こした何かが私の主体だと言える
なぜならば生命維持の本能も元を辿ればその「何か」なのだから
それを老子は「道」と呼び
私は「壱」と呼ぶ
だからその意味ではタオと「壱」は変わらないです
宇宙を誕生させ地球を誕生させ生命を誕生させた
その「力」「流れ」みたいなものが「壱」
それが私の主体であり君の主体であり
ありとあらゆるものの主体
まあそんな感じ
134 :
一:2007/08/31(金) 03:19:10 0
いややっぱ「流れ」は「壱」じゃないな
ごめんちょっと酔っててさ
「流れ」は「壱」によって引き起こされた現象だ
酔っぱらったので続きはまた明日
135 :
考える名無しさん:2007/08/31(金) 04:17:43 0
川の流れが一定で何も引っかかるものがなければ何も発生しない。
小石など何か引っかかるものがあればそこに砂が溜まったりしてやがて中州ができる。
生命とはこのようなものではないか?
不規則な流れ、ノイズ、不純物、塵、ゴミ、カスなどだ。
空の雲も雲しかないのであれば雨にはならない。
大気中に塵がなければ寄るところがなくて雲のままだ。
136 :
135:2007/08/31(金) 04:20:27 0
その寄り集まったカスが、流れによって揺らいでいる状態。
それが生命なのではないか?
いずれ押し流されて元のバラバラなカスに戻り。
そしてまた下流で引っかかって新たなカスの塊になる。
137 :
一:2007/08/31(金) 14:03:25 O
そんな感じだと思うよ
私が死ねば私の肉体は滅びてバラバラになるが
そのうち草木や魚の一部になるだろう
どうなろうと「壱」にとっては同じこと
138 :
一:2007/08/31(金) 14:12:59 O
「壱」は力であって宇宙のありとあらゆる現象を引き起こす
万物は「壱」によって転変生滅させられるが「壱」はその中心で微動だにしない
なぜなら「壱」は現象ではなく純粋な力だから
ゆえに「壱」は永久に宇宙の中心において不動不変不滅
具体的に壱という力を表現すると?
壱を知ることによって なんかい〜ことあんの?
140 :
一:2007/08/31(金) 21:32:32 O
具体的にってのは難しいなー
君の細胞一つ一つを動かしてるのも「壱」だし
太陽を燃やしてるのも「壱」
いーことは特にないんじゃない?
ただ自分の人格が自分の存在のほんの薄皮一枚でしかないことが分かれば
気が楽になる人はいるかもね
この生で起きることなんかどーだってよくなるからね
141 :
一:2007/08/31(金) 22:38:49 O
この生の快適な過ごし方は
壱の作り出した流れにできるだけ逆らわずに生きること
まずは変化に身を委ねること
自分がどう変わろうと人生で何が起ころうとそれに抗わない
自分はこういう人間だからとか
人生はこうあるべきだとか
そういう固定観念を捨てること
人格や自我が、壱が引き起こす現象のひとつに過ぎないようなこの身体に発生する
理由とか必然性はありますか?またそれも壱によるひとつの現象と解釈していいですか?
それとも理由もなく偶然発生する身体の副産物のようなもので
それをあなたは浮かんでは消える泡のようなものと表現するのですか?
143 :
一:2007/09/01(土) 00:14:20 0
壱による一つの現象としての身体の副産物のようなものだとは思うけど
理由や必然性についてはよくわからないな
そもそも人格や自我はどうやって発生するんだろうね
少し考えてみようか
144 :
考える名無しさん:2007/09/01(土) 00:27:54 O
流れに身を委ねるというか、実際には自分のやりたい事をやれば
良いのではないか? 一見やっていることが流れに逆らっているように
見えてもだ。
たとえば鮭は流れに逆らって川登りをするが、鮭にとってはそれが
自然な行為なのであっておそらく遺伝子にも書かれているのだろう。
だから行為だけを見るといかにも頑張って無理をして流れに逆らって
いるように見えるが、それは人間の勝手な思い込みであって、鮭に
とっては単に自分のやりたいことをやっているだけであり、決して
頑張って無理をしてやっていたり苦痛などは感じていないだろう。
もしかしたら川登りを楽しいと感じているかも知れない。
145 :
一:2007/09/01(土) 00:34:34 O
人格と自我ってどう違うんだろう
人格は私の性格とか性質かな
じゃ自我ってなんだろう?
私から性格や性質を剥ぎとったあとにも残る純粋な自意識?
146 :
一:2007/09/01(土) 00:40:20 O
>>144 やりたいことをやればいいと私も思う
流に逆らうということはやりたいと思うことを無理してやらないこととか
やりたくないことを無理してやることだから
147 :
一:2007/09/01(土) 00:57:48 O
だから身を委ねるというのは
自然に沸き上がってくる欲求に素直に従うということ
148 :
一:2007/09/01(土) 01:04:04 O
で自我の問題だけど
デカルトが「我思うゆえに我あり」
と言うときの我は
私から性格や性質を剥ぎとったあとにも残る純粋な自意識
というようなニュアンスなのだろう
けど、ほんとにそんな自意識は在り得るだろうか?
149 :
一:2007/09/01(土) 01:08:42 O
言い換えるなら
人格なしに自意識は存在し得るだろうか?
という問いになる
どう思う?
150 :
一:2007/09/01(土) 01:34:10 0
性質や性格は今まで経験してきたいろんなことによって形作られたもので
自分から性質や性格を剥ぎ取るということは
過去を度外視するということになる
その状態でも自意識は存在するだろうか
今しかなくても自意識はあるだろうか
151 :
一:2007/09/01(土) 01:39:35 0
過去がなければ自意識は無いと私は思う
言い換えれば過去の自分のいろんな経験を想起して
そこに自己同一性を見出すからこそ自意識として感じられる
そしてそのときは既に人格を同時に意識せざるを得ない
よって自意識は人格の意識なしに存在し得ない?
152 :
一:2007/09/01(土) 01:41:10 0
子供の頃を振り返っても
大体自意識が目覚めたころには
俺ってこんなキャラだみたいな人格の意識があったように思う
自分がどんな奴かわからないうちは自意識もなかったように思う
153 :
一:2007/09/01(土) 01:46:10 0
つまり自我や自意識とは自分の性質の認識といえるのではないか
では幼児は自分の性質をどのように認識し始めるのだろう
154 :
一:2007/09/01(土) 01:51:42 0
んーまあちっと難しいな
幼児はどのように自意識を持つに至るのか?でもいいや
明日また考えてみる
155 :
考える名無しさん:2007/09/01(土) 05:18:30 0
自分だけの秘密を持つからかも。
156 :
一:2007/09/01(土) 15:31:29 O
なるほどね
自分が持ってるこの感じをこの人たちは分からないらしい
と気付くこと
それも自意識の芽の一つかも
157 :
一:2007/09/01(土) 16:21:10 O
けどやっぱ根本の自意識の種は記憶かな
学習本能としての記憶がまず得られる
まずは腹減ったとき泣いたらおっぱいをくれたことを記憶する
158 :
一:2007/09/01(土) 16:30:41 O
そして次腹減ったときにその記憶を思い出してまた泣く
しょんべんやうんこもらしたときも泣けば何とかしてくれることを学習する
次は概念の獲得かな
記憶と想起を繰り返すうちに過去と現在の事象に同一性があることに気付く
159 :
一:2007/09/01(土) 16:35:20 O
そして概念にはそれに対応した言語があることを学習し
おっぱいをおっぱいのこととしておっぱいと呼ぶようになる
この辺までは生存本能の延長だと考えられよう
問題はこの後
160 :
一:2007/09/01(土) 16:50:41 O
まず生存本能の延長で
物を自分のものとその他に分けて考えるようになるかな
動物でも昆虫でもテリトリーとかあるし
そこら辺が怪しいな
その辺から自意識が生まれないかな
161 :
一:2007/09/01(土) 16:55:55 O
動物の場合
記憶と反射行動はあっても
想起して同一性を認識しそれを概念化する能力がないために
テリトリーの感覚はあっても自意識が作られるには至らない
162 :
一:2007/09/01(土) 17:07:45 O
ちっちゃい子でもよく取り合いなんかして喧嘩してるよね
あの辺から自分って意識が出てくるんじゃないかなー
子供ができたら詳細に観察したいもんだ
自我やら性格性質に拘ることはないとわかりつつ
それがなくなるということの想定ができないため
怖い。よってまだしがみついたままの人々も多そうだよな。
俺もなーw
164 :
一:2007/09/01(土) 17:28:32 O
まあ捨てちゃえってのは言い過ぎだったかもしれない
より正確には自我や人格及び人生をできるだけ軽視して笑い飛ばせって感じ
これならそんなに難しくもないっしょ
好きなことだけやって
やっていけんの?おじちゃん
「我思うゆえに我あり」は哲学史上でも真と証明されたわけではないので
というより証明できないでしょうから
この命題に特にこだわる必要はないと思います。
自意識は意識が意識自身を意識する意識。
言い換えれば対象ではなく主体を意識する意識。
「リンゴ」という対象を意識しつつリンゴを「意識しているということ自体」を意識する意識。
それによって意識がそれまでは対象としなかった意識自身を対象として意識することで意識という作用を発見し
それが意識する者の意識、即ち自分の意識となって自意識が芽生える。
ですから、リンゴ(意識の対象、人、物)があれば自意識が発生する可能性もあるので
必ずしも経験による人格性格が自意識の発生に必要かどうかは分かりません。
経験によらぬ生まれながらの先験的作用かもしれません。
自我は単純に自分が今ここにいる自分であるということ、その自覚とでも解釈すればいいと思います。
誰だって普通にそう考えて生きてるでしょうから。
それより壱による現象のひとつであるこの身体に自意識とか自我とか人格からなるこの自分が
なぜ存在するのかが分からない。
身体が壱からなる万物の一連のつながりの生成変化の中のひとつというのは分かりますが
自分はどこからのつながりとして存在してるのか?
壱の仕業である身体上に発生するから元を辿れば自分も壱による現象と捉えて構わないかも?
その身体に理由もなく突然変異の如く発生するのが自分なら
それはあなたが言うように浮かんでは消える泡のようなもので
自意識、自我、人格、自分は存在の絶対条件ではないからそれに特にこだわる理由もないですね。
何千年も前から同じようなことが様々な人によって伝えられてきているのに
どうして それについて広まらない?実体験としてわからないのだろうと不思議
に思わないか?
今気づいたんだけど166に絡めて言えば
自分というのは何かに「気づく」ということかな?
世界(人、物)があることに気づくことを通して同時に
それに気づいている自分がいることにも気づく。
そして、気づくということは気づく以前にもそれはあったということだから
世界は自分が気づく以前から壱による現象としてあり
自分も自分が気づく以前から壱による現象としてあり
自我、自意識が芽生える以前から自分はあったことになるから
自我、自意識が自分の全てではなくなり
それは自分にとっては浮かんでは消える泡のような副産物と言えるのかもね?
>>164 のっぴきならない事態に
(例えば目の前で親しい人が殺された)
遭遇したときにこの思想は崩れ去ると思う。
171 :
一:2007/09/02(日) 03:13:44 0
んーまあいろいろあるけど少しずつ
>>165 まあできるだけやりたいことを素直にやって
できるだけやりたくないことはやらないって感じかな
無理をしない事が大事
私も好きじゃなくてもやらなきゃいけないことはやりますよ
172 :
一:2007/09/02(日) 03:19:11 0
>>168 まあ確かに不思議だわな
老子でさえも昔の人はもっと自然に生きてたみたいな事言ってるくらいだし
昔っから広まらないんだね
でも何千年も前から
そういう思想が絶えずに残ってきたのも不思議だと思わないか?
人類はどっかやっぱひっかかってるんだと私は思う
173 :
一:2007/09/02(日) 03:27:13 0
>>170 そりゃあ誰でもそんな事態に遭遇したら
悲しみにくれるだろうし怒りに震えるでしょう
でもそうなるのは存在のうちのごく一部分のみ
壱としての存在のうちの自意識の部分のみ
だからまあしばらくは笑えないかもしれないけど
思想が崩れたりはしないさ
しかも人間の心は幸か不幸か忘却という能力を持っている
しばらくしたらまた笑えるようになるよ
人間はそんなに強くないから
174 :
一:2007/09/02(日) 03:38:33 0
>>166 んー難しい問題だけど
我々は既に自意識を持っているので
リンゴがあっただけでそのリンゴを見てる私を意識できる
それはわかるけれども
リンゴとそれを見る人がいるだけで自意識が発生するとなると
自意識のない人がリンゴを見ることになるよね?
自意識のない人はどうやってリンゴを見てる自分を発見できるの?
自意識がないなら自分を発見できないよね
175 :
一:2007/09/02(日) 03:44:50 0
>>167 んーこれも非常に難しい問題だけども
一応今の私の見解を書いておくと
まずやはり生存本能がある
これは壱から連なる力
人類は二足歩行になることによって脳がでかくなって
まず記憶と想起という能力を身につけた
これは農業なんかするとき役立つ
去年あんな感じだったから今年はこうしてみたらとか
そういうのに使えるからね
それで食料は飛躍的に確保できるようになっただろうから
それはまだ生存本能から発展した能力だった
176 :
一:2007/09/02(日) 03:50:46 0
記憶とその想起を繰り返すうち
想起したものと今現実にあるもののうちで
同一性を持つものがあることに気づいた
例えば今見てる空で光ってるあれと
昨日見た空で光ってたあれは同じ物っぽい
じゃあこれを太陽と呼ぼうってな感じで
人類は概念とそれを指し示す言語を持つようになった
177 :
一:2007/09/02(日) 03:55:14 0
いろんなものを概念化して思考することは
食料の確保や安全の確保に非常に有益だったので
人類は喜び勇んでいろんなものを概念化しそれに名前を付けた
役割分担なんかもあっただろうからお互いを名前つけて呼んだりしただろう
最初は自分のことも名前で呼んでたかもね
今でもそんな女いるけどなw
178 :
一:2007/09/02(日) 04:00:12 0
そして一方では生存本能として
自分のなわばりを持とうという意識とか
食料を自分の分確保しようとする欲求などがあった
多分食料や女をめぐってこれは俺のもんだ的な争いも多々あったろう
そのときふと概念化の能力が働いて
自分のことは俺って呼ぼうってなったんじゃないか
それが自我の発生の瞬間じゃないか
179 :
一:2007/09/02(日) 04:11:39 O
自我の概念の発生までには何度も何度も記憶と想起が繰り返されただろう
あんときあいつと女を奪いあった
あんときあいつとマンモスの肉を奪いあった
あいつと争ってたのはいつもXだった
あれ?じゃあXって何か概念になるっぽい
んーじゃあXを俺って呼ぼう!
180 :
一:2007/09/02(日) 04:16:19 O
つまり自我も生存本能の結果として生まれたんじゃないか
さらに思考が複雑になって今では直接生存に関係ないことも思考できるけど
それは概念化の能力から副産物的に派生した余計な能力だと思う
181 :
一:2007/09/02(日) 04:28:33 O
>>169 これはさらに難しいな
確かにそういう線もありそうだね
他者に気付くっていう時点で自分にも気付いてる
なるほどそうだ
でも気付くっていうより多分
それまでぼやっとしてた一つの世界が自他にふと分裂するんだろう
その原因はなんだろう
>>181 例えば動物や幼児にも多分、意識はあると思うよ、あくまで推測だけど。
でも動物や幼児は自分が意識してるということが意識できてないから
ただ意識によって意識された対象に動物本能的に反応してるだけで
まだ意識する自分と意識された対象(他者)との区別がついてないんだと思う。
その意味で動物や幼児にとっての世界はぼやっとした一つの世界だろうね。
そこになぜか自意識が芽生えて意識する自分と意識された他者に世界が分裂する。
あなたが言うように記憶と想起を繰り返しての物事の同一性の自覚と共に
自意識が生まれるのかは分からないけれども
身体と共に自意識があるのは間違いないだろうし
身体がなければ自意識もなかっただろうから
まず壱による身体現象(生存本能)ありきではあると思う。
〜〜だろう。
〜〜と思う。
〜〜じゃないかな。
を積み重ねていくうちに
前提が推測だということを忘れて
〜〜だ。
になってしまわないように注意しろよ>おまいら
お前たちは推測の話しかしていないことを忘れるな
そこに真実の結論など生まれない。
言葉遊び以上ではないということを。
184 :
考える名無しさん:2007/09/02(日) 18:46:06 O
だろうな。
185 :
一:2007/09/03(月) 02:41:09 O
>>182 そんな感じだと思う
世界の自他への分裂に関しては引き続き考えてみたい
自分の手足が他のものと違って思い通りに動かせることに気付くこと
その辺にも原因があるかもね
186 :
一:2007/09/03(月) 13:28:26 O
しかしその場合でも記憶と想起の能力は必須だろう
犬や猫でも自分の体だけ自分で動かせることは感じてるだろうけど
記憶と想起の能力がない為それを概念化することができない
よって世界が自他に分裂することもない
187 :
一:2007/09/03(月) 13:37:29 O
以上より自意識の形成には記憶とその想起が不可欠であると思われる
記憶が無ければ自我は無い
過去が無ければ自我は無い
デカルトは「我過去を想起すゆえに我あり」と言うべきだった
188 :
一:2007/09/03(月) 13:41:49 O
茫然自失、我を失うという状態はゆえに
何かのショックのために過去という記憶を失っている状態である
ふと我に帰るというのは
記憶とともに自意識がよみがえることを表現している
189 :
一:2007/09/03(月) 13:45:04 O
我を失うとき人間は現在のみに夢中になっている
だから過去を忘れその結果自意識を失う
そして自意識を失ってもなお残るものが壱
190 :
一:2007/09/03(月) 13:54:43 O
だから壱思想的には何でも夢中になってやることは非常によいことだ
歯を磨くなら夢中になってひたすら磨くべし
セックスするなら夢中になって快感を貪るべし
その対象に自己を溶かして没入して同化してしまえ
191 :
一:2007/09/03(月) 14:11:19 O
それゆえ私は昨今巷で大流行の自分らしくという言葉が大嫌いである
ミュージシャンやアスリートが自分らしいプレーができればいいと思います
とか言うの聞くと虫酸が走る
理想のプレーを本気で夢中になって求めたらそこに自分なんていないはず
192 :
一:2007/09/03(月) 14:51:11 O
同様に自分を表現したいとかいう思想も嫌いだ
俺はお前のことなんざ知りたかないよ
人が感動するのはひたむきに無私になって道を求める姿や
それによって研ぎ澄まされた美しい技術を見ることじゃないかねえ
193 :
一:2007/09/03(月) 15:00:33 O
動物や子供の番組が妙に泣けてくるのも
やっぱみんなどっかで無私の美しさに気付いていて
それにあこがれてるからだと思う
何かする時
その瞬間できることは1つなのに
それだけに集中できず他を考えながら他に気をとられながら
している俺はアホでつか?
自分の手足は自分の意志で自由に動かすことができるが他人の手足は動かせない。
なるほど、物体の目に見える区別だけでなくこういう目に見えない身体の運動条件からも
自他の分裂と区別が生まれるのかもね。
でも、改めて考えてみると自分の意志や意識で手足が動かせるのも不思議なことだね。
その方法を誰からも(神様からも)教わった記憶はないのに
いつの間にか自分で自由に手足が動かせるようになっている。
でも、自分の意志や意識では心臓ひとつ動かせない、毛一本生やせない、ウンコ一つ生産できない。
その意味で身体はあなたが言う壱の意志と自分の意志の二つの意志で動く二重の構造になってると言えるね。
ああ、でもよく考えたら、自分の意志とか意識があるって普通に言うけど
それにしたってどうやって持てたのか不思議だ。
意志や意識(自意識)を持つ方法を誰からも(神様からも)教わった記憶はないのに
いつの間にか自分の意志や意識がある。今ではそれが当たり前のことになってる。
変な言い方すれば、自分は自分になる方法を知らないのにいつの間にか自分になってる。
自分になろうと意志したつもりも意識したつもりもないのに気がついたら自分になってる。
その意味で自分にとって自分の意志や意識(自意識)はちっぽけなもので
自分は自分を超えたもの(それも壱かな?)によって自分であるとも言えそうだ。
蛇足ですが「自分らしく」というメッセージは
「自分をなくせ」と裏解釈すればいいんだね。
それを世の人は「自分の個性を発揮する」ことと履き違えてるんだろう。
確かに何かに集中してそれに没頭すれば自分は消えて「無我」「無私」の境地だろうし。
198 :
考える名無しさん:2007/09/03(月) 20:22:08 O
>>195 草食動物なんかもっとすごいぞ。産まれたらすぐ立ち上がっておっぱい飲むんだから。
ま、それができなかったやつは死んでるわけだが。
>>187 >以上より自意識の形成には記憶とその想起が不可欠であると思われる
記憶はさておき、想起は、
自我がなければ、不可能。
現在と過去をつなぐには、
過去と現在の意識の同一性(自我)が必要(かもよ?)
話を蒸し返すようで悪いですが
その記憶にしても想起にしてもやはり誰からもその方法を教わった記憶はないのに
いつの間にか何かを記憶してて何かを想起してる。今ではそれを当たり前のようにしてる。
でも、どうやって記憶し想起してるのか分からない。
となると自分の記憶や想起や意識を超えた何ものかを想定せざるをえない。
それを西洋では神と呼び一さんは壱と呼ぶのかな?
万物の中心の不変不動の壱によって物質からなる身体が現象し
そこにまた非身体の精神が現象し、この身体とこの精神のみがなぜか対応していて自分となる。
でも全物理現象、全精神現象は生成変化消滅を繰り返すが万物の中心である壱は不変不動。
そう考えると壱からなる全存在においては自分などというものは
浮かんでは消える泡、吹けば飛ぶような塵という喩えにもうなずけるね。
201 :
一:2007/09/04(火) 09:24:53 0
>>194 あれこれ考えてしまうのもまた
記憶と想起という能力を与えられた人類の性
特に問題ないと思うよ
よしんば人生で何一つ集中することができなくて
何一つ生きた証や生きた意味を残すことができなくても
何の問題もない
なぜならあなたの主体は壱であって
壱は常に完璧だから
あなたの人生がどうであっても
壱には何の影響もないから
202 :
一:2007/09/04(火) 09:31:23 0
>>195 そうだね我々の身体は壱と自我の二重構造によって操られるとも言えるね
私は壱の方がはるかに巨大で自我はほんのおまけのおまけだと思う
脳科学でも意識上のことに使われている脳はほんの一部だと言うし
203 :
一:2007/09/04(火) 09:36:13 0
>>196 そうだねそれを言い換えるとするなら
自分は自分によって自分になったわけじゃない
君を存在たらしめたのは君じゃない
君じゃないそれとは壱
204 :
一:2007/09/04(火) 09:42:05 0
>>197 無我や無私を尊ぶのは古来からの日本人の美点だと思う
個性や私を尊ぶ浅はかな社会に今なりつつあるのは残念だ
205 :
一:2007/09/04(火) 10:03:18 0
>>199 難しい問題だね
もし自我がなければ想起することが不可能だとすると
人間は最初に想起をする前から自我を持ってなければならない
自我とは君の言うように意識の同一性の認識だ
では人間は想起なしに意識の同一性を認識できるだろうか?
同一性を認識するというのはあれもこれも同じだと認識することであって
それは記憶と想起なしにはあり得ないのではないか
だから多分より正確には
現在と過去をつないだまさにその瞬間に自我が形成されるんじゃないかな
私の説明にあったように想起したあと自我が形成されるのではなく
想起行動と自我形成は完全に同時に行われるのかも
というか両者は全く同じものなのかもしれない
206 :
一:2007/09/04(火) 10:21:01 0
>>200 まあ大体そんな感じ
ただキリスト教由来の思想ではほとんど出て来ないのが
神とは実は私自身のことであるという発想
彼らにとっては自我を超えた存在は常に他者だったわけだ
東洋では自我を超えた存在が本当の自分であるという考え方が
結構あちこちに昔っからある
壱思想もどちらかといえばこっちに分類されるものであろう
だから壱からなる全存在においては自分など塵にすぎない
などと言うと少し西洋的な感じがする
壱思想では壱は他者ではなく君の主体ことでそれはつまり君自身だから
だからより正確に言うなら
壱という私の全存在性においては私の自我など塵にすぎない
って感じかな
207 :
考える名無しさん:2007/09/04(火) 17:28:04 0
脳死になったら自分はあるんだろうか?
物質的なものではなく。
壱に全てをまかせるとどうなるんだろう?
原因と結果について壱と一から説明してください。
210 :
考える名無しさん:2007/09/04(火) 21:15:35 O
>>207 それは死んだときのお楽しみだな。そのうち寿命が来て死んだら分かるだろう。
天職って本当にあるんだろうか?
>>206 なるほど、神が自分を超越して存在する主体なら
壱は自分に内在する主体であるというわけですね。
全てをロゴス(言葉、論理)で認識できるとして
ロゴスのみで考えようとする西洋思想にはない発想なんだろうな。
論理で認識できない神は超越的に存在するから自分ではない他者になる。
となると自分に内在する主体である壱からなる自分においては
壱は常に不変不動だが変動する自我、自意識、人格は泡、塵に等しいと言うべきだね。
となると結局、身体のみならず、精神も壱による現象と解釈して問題ないわけですか?
この点だけなぜか腑に落ちないもので。
213 :
一:2007/09/05(水) 03:16:31 0
>>207 脳が死んだら記憶と想起は行われなくなるので
君の自意識は無くなるだろう
だがそれで君自身がなくなるわけじゃない
動物としては生きているので
君のうちの生存本能は存在している
あまつさえ肉体が死んだとしても壱としての君は存在し続ける
214 :
一:2007/09/05(水) 03:20:11 0
>>208 壱は純粋な力であって目的を持たず万物を転変生滅させる
壱に全てを任せるといろんな偶然事によって君はいろいろに変化し
まあそのうち死ぬだろう
つまり壱に任せようが任せまいがあんま変わらない
215 :
一:2007/09/05(水) 03:25:00 0
>>209 えらくむつかしいお題だ
原因と結果を説明することがそもそもむつかしい
結果Aの原因はBだというとき
我々はそもそも何を言わんとしてるのだろう
ちょっとやそっとじゃ答えられそうにないので
また後から考えてみるね
216 :
一:2007/09/05(水) 03:31:51 0
>>211 天職という言葉のニュアンスには
その人の個性が十分に発揮できる仕事がどこかに必ずある
という主張を感じるけど
人の個性も仕事を生む社会も常に流動的で変化し続けるカオスだから
それぞれがピタっとマッチするなんてあり得ないと思う
217 :
一:2007/09/05(水) 03:55:32 0
>>212 んーまあ今の私の見解としては
前にも書いたように
・精神は記憶と想起行動から副産物的に形成される
・記憶と想起という能力は生存本能の一形態として人類に与えられた
・生存本能は壱による現象である
以上により精神は壱による現象と言える
ってな感じかな
218 :
一:2007/09/05(水) 04:26:07 0
んーでも
生存本能や精神は壱による現象というよりも
壱から連なる力の一つの様態であると言う方が理解しやすいかもね
身体は物体であって
宇宙のあらゆる物体は壱によって転変生滅させられているので
身体は壱という力によって生成した一つの現象である
一方壱は純粋な力でありあらゆる力の元の力であるが
力にもいろいろ様態がある
太陽を燃焼させる力もあればゴキブリを動かす力もある
生命としての人間の肉体を動かす力は生存本能の力であり精神の力である
そんな風にも言えるかも
219 :
一:2007/09/05(水) 04:28:39 0
身体は壱によって生成された物質的な現象であり
生存本能や精神は壱によって生成された非物質的な力的現象である
とも言えるかな
220 :
一:2007/09/05(水) 04:31:03 0
例えば万有引力なんかも
壱によって引き起こされた非物質的な力的現象である
221 :
一:2007/09/05(水) 05:10:20 O
>>215に戻る
ところで万有引力というのはボールが落下する原因である
ボールに万有引力という力が働きボールが落下する
ということは結果とは現象であり原因とは力のことだと言えそうだ
原因とは現象を引き起こす力のことであり
それは壱と一の関係でいえば壱を指す
結果とは力によって引き起こされた現象であり
それは壱と一の関係でいえば一を指す
こんなんでどーですか?
>>209
222 :
一:2007/09/05(水) 05:31:42 O
となると壱はあらゆる物事の原因の原因の原因であるとも言えるだろう
なぜなら壱は物質的非物質的を問わずあらゆる現象を引き起こす力だから
老子も道についてそんなような事言ってた気もする
君はここで何がしたいんだ?
なんでその思想にとりつかれたの?
>>214 でも、どう思おうが結果的には壱に全て任せてることになるんですよね?
万物は不変不動の壱によって変化してるんだから。変化してるのは我々の方なんだから。
にしても、自分の意志とか意識なんて無力なものですね。
自分の意志で身体を動かしたり、目的を持って生きたり、因果関係を決めたりしてるのに
壱はそれとは関係なく何の目的もなく万物を偶然に変化させてるのなら。
例えば「我思うゆえに我あり」だと
思うから思う我がいて我に思われた世界がある、みたいな観念論、独我論に陥るのだと思うけど
そんな自分の観念も壱による万物の偶然による変化の中のひとつに過ぎないから結局おまけみたいなもんなんでしょ?
よく、念ずれば叶うとか、気の持ちようとか、病は気からなんて言うけど
ああいうのって結局迷信ですか?ストレスから病気になるなんて言うけど。
でも、壱においては全ては偶然事の積み重ねなんですよね?
ああ、でも自分の意志で手足動かせたりリンゴつかめたり
仕事したり遊んだりできるから無力は言い過ぎか。
自分の意志でうまくいくこともいかないこともあるけど
自分の意志通りにいったと思えることも結局は壱による偶然と解釈すべきか?
気の持ちようで病気が治ったとしてもそれは壱による偶然の結果であるという風に。
まぁ、どんだけ自分が生きたいと意志してもそれとは関係なく死ぬ時は死ぬんだから
自分の意志もそれを超えた壱の意志の前では微力なものと言うべきですか?
壱は物質(生命体含む)に対しての動きっぽくね?
227 :
考える名無しさん:2007/09/06(木) 16:05:27 0
【闇】虚無主義者・ニヒリストスレ2【無】に「タゲ」を探しに行く壱。
>465 :壱:2007/08/14(火) 02:27:58 0
> 虚無を感じて鬱になったりヤケになったり自殺したりするのは
> 絶望が中途半端だから
> 人生や世界はもっと意味があるものなはずだという
> 「望み」が残っているから虚無が苦しい
> 字義道り本当に絶望したなら虚無だからといってどうってことない
> むしろ笑える
> こっちへ来いよ
>
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1185692037/ 私(壱)は「ニヒリズムを超克した(≒悟った?)」と言わんばかりの、
(さほど根拠があるとは思えないが)確信に満ちた上から目線でのほのめかし。
> まあゆっくり説明していく
> そのうちわかる人はわかる
> わからない人も死ねばわかる
> 俺はもうあがったよ
> こっちへおいでよ
> みんなでなごもうぜ
228 :
考える名無しさん:2007/09/06(木) 16:14:16 0
名無しさんから「このスレの目的」問われる壱。
>48 :考える名無しさん:2007/08/18(土) 21:24:44 O
> で
> このスレの目的は
>49 :壱:2007/08/18(土) 23:10:41 O
> 特にないっすよ
> 似たような人がいたら雑談したいなとか
> 一人か二人くらいこれを読んで楽になる人がいたらいいなとか
> まあそんな程度かな強いていえば
>50 :考える名無しさん:2007/08/19(日) 01:04:08 0
> そうかい
> 人生最大の発見★12
>
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1185458410/ >51 :壱:2007/08/19(日) 03:19:08 0
> ざっと読んでみたけどおらあんまわがんねぇだ
> とりあえずこっち来れば?
> 俺と遊んだ方が楽しいよ多分
> 「原則」は老子の「道」に近いみたいだけど
> 「壱」も「道」と似てる
> まあおいおい説明していく
>>222 一さんによれば壱は目的を持たない万物の不変不動の中心だから
壱は盲目的な偶然によって万物を変化させてるだけで
そこには何の必然性もなく、ただ人間が因果律や法則性でそれを解釈してることになるんじゃないの?
例えば生まれたことが人生の原因なら死はその結果であるという因果関係があるとしても
壱による万物の盲目的な変化においては人の誕生も死も因果ではなく1つの過程、1コマ、一場面に過ぎないのでは?
でも、世界も自分も単なる偶然とか意味も理由もないじゃ理性が納得しないから、ある因果、ある法則を当てはめるんだろけど。
>>129によれば
「壱」は自我も人格もなく言語を持たない自分で
「一」は自我、人格を持って言語で語る自分と言ってるから
一(自我、人格)は言語を持ってしまったから
その言語でもって必然的に万物に意味、理由、原因、目的、法則などを
当てはめて考え、解釈してしまうような存在だが
壱は言語を持たないから何も考えず語らず
ただ盲目的に、無意味に万物の中心にある存在になると思う。
でも、自分の主体は一ではなくあくまで壱だから
万物は意味も理由もなく盲目的に変化するだけ、となるんですかね、やっぱり?
どうも壱と一の関係を考えるとややこしいですが
壱思想ではこの辺はどうなってるんですか?
(と問うと、また関係性で解釈することになるなるけど)
例えば西洋思想の神だと
創造主である神は完全だから意味も理由もなく世界を創造しない。
よって世界には意味があり、理由があり、目的があり、原因があり、法則がある、となるはずだけど。
>>229 意志や 想いや こういったことをしたい! これが好きだ!モロモロ、、、
そういったことも全く意味ないと?
そんな意志や想いはアホクサ〜ってな感じっすか?
壱はミクロも含むんだろうけど、なんつーかマクロの大枠みたいなもんっぽいなw
つまんね。
232 :
一:2007/09/07(金) 02:22:10 0
>>224 >>225 だいたいそんな感じだと思うよ
ただ壱を他者としてとらえると
それに対する自分の意志が微力であることに
何か空しいような感じがすると思うけど
壱とは実はあなた自身のことなのであるという事が分かれば
そこには無力感は生じてこない
自分の中での主人公が人格や自意識ではないと気づく事がまずスタート
233 :
一:2007/09/07(金) 02:24:30 0
>>226 壱はあらゆる変化の原動力であり原因
その現象として物質や生命体の動きが現れる
>>231 もちろん意志や思いがなければ生活が成り立たないわけだから
その意味で、自分の思いにも意味はあるよ。
ただ万物の主体であり自分の主体である壱からすればそれはおまけだと一さんは言ってるから
自分の全てではない自我や観念にこだわらないほうがいいってことだと思うよ、一さんの見解は。
>>230の補足
聖書によれば神は言葉であり、言葉は価値であると言われてるけど
壱は言葉を持たないからその意味で
壱は非論理的で無意味無価値な盲目的主体と言えますかね?
で、言葉を持ってしまった自我としての一が壱による盲目的な万物の生成消滅に
言葉による論理で意味価値目的因果などを当てはめて認識する。
でも、言葉を持たない非論理の壱は「んなことわしゃ知らん」てな感じですかね?
235 :
一:2007/09/07(金) 02:31:33 0
>>223 何がしたいか?
まあいろんなことを壱にからめて考えたりしたいかな
なぜとりつかれたか?
いろんな偶然が私の思想をいろいろに影響し勝手にこうなった感じっす
236 :
一:2007/09/07(金) 02:48:47 0
>>229 壱は万物を変化させる原動力なので
人の生や死の原因は壱であると言っても問題ないと思う
ただ壱には西洋の神と違って目的がないので
人間の存在は壱の意志であって必然的なのだとか言うと変かなとは思うけど
ただのカオスじゃ理性が納得しないから因果律を当てはめて考えざるを得ない
というのは私もそうだと思う
人間が思考する限りそういう思考パターンからは逃れられない
もちろん壱思想もその例外ではない
237 :
一:2007/09/07(金) 02:58:12 0
238 :
一:2007/09/07(金) 03:15:39 0
>>230 壱と自意識としての一の関係については確かにややこしいですね
なかなかスパッと説明ができないので思うつくまま書いてみる
壱は宇宙が誕生したときから常に変わらず存在していて
一は人間として生まれてしばらくたってから記憶想起行動によって誕生し
脳死に至れば存在しなくなる
つまり壱は時間を超越しているが一は時間に束縛されている
壱はあらゆる物質や非物質を変化させる力であるが
一はその力によって生成された現象である
これを因果関係に当てはめれば壱は原因であり一は結果である
壱は力であり一は現象である
239 :
一:2007/09/07(金) 03:28:22 0
キリスト教の世界観の元になっているのは
自我が自分の手足を思うように動かせるという体験や
思考の働きによってものを作ることができるという体験にあるのかな
となると自我は主であり肉体や物質は従であるということになる
また、ものを自分が意志を持って作ることができるなら
自分の存在を作った存在も必ずいるはずだ
それが神で神は何らかの意志を持って自分を存在させたのだろう
まあそんなとこじゃないかな
つまり神と自我の関係は意志をもって創造するものと創造されるもの
壱と一の関係は何の意志や目的も持たない力とそれによって起こる現象
240 :
一:2007/09/07(金) 03:35:06 0
一は非物質的な力的現象としての人間の存在のうちの
意識行動の主体である
壱は物質的非物質的に関わらず私の全存在性の主体である
とりあえずそんなとこすかね
241 :
考える名無しさん:2007/09/07(金) 08:03:01 0
>「原則」は老子の「道」に近いみたいだけど
>「壱」も「道」と似てる
おでさぁ バガだから 老子も 「道」も よめねんだ
壱思想って なんかすごそだから 「カンケイネェ音頭」とかで
表現してみてぐんねが?
壱と自分がイコールなのがどうしてそうなのか全く理解できません。
理解できるようになる方法はある?
243 :
一:2007/09/07(金) 23:01:13 0
244 :
一:2007/09/07(金) 23:13:33 0
>>242 方法についてはあまり考えた事無いな
まあまずは自意識の範囲が
いわゆる自我や人格の範囲より大きくなるかどうか
言語化不能な動物的本能や衝動を感じることは誰でもあるだろう
それを自分の一部として認めることがスタートかな
245 :
241:2007/09/08(土) 01:20:54 0
んだばおで シーケンサ担当 譜面 くででズラシ
適当に入れれば それなりの「ノリ」は 表現 でぎっがらさ
246 :
一:2007/09/08(土) 04:27:53 0
247 :
一:2007/09/08(土) 04:59:21 0
>>244続き
まあ言語化可能な衝動でもいいや
例えばめちゃめちゃ眠くなってつい寝ちゃうことってあるよね
人格や自我を持つ君は寝るつもりはなかったのに
この場合君を寝させたのは無意識の力だ
君の脳の意識下の部分では君の身体が疲れていることを把握していて
身体にもう寝ようと命令を出したんだろう
そしたらその君の脳の意識下の部分って誰なんだろう?
壱思想ではそれもまた君に他ならないと考える
言葉や論理を全く気にしないワイルドな君がそこにいる
248 :
一:2007/09/08(土) 05:16:20 0
そういう名も無い動物としての自分を認識することが第一歩だ
ところで
日本で団塊の世代がやたら人口が多いのは
彼らが生まれた終戦前後に日本が非常な困難に直面していたからだ
アメリカでも911以降出生率が上がった
これらは人類の集合的無意識によるもので
身近な人の大量死を目の当たりにすると人類は本能的に子孫を残そうとする
つまり我々の無意識には個体の生存本能を超えたものも存在している
人類として、種として生命を残していきたいという欲求がある
さてではそういう風に欲求しているのは一体誰だろう?
壱思想ではそれもまた君に他ならないと考える
言葉も論理も個体性さえも全く気にしない超ワイルドで巨大な君がそこにいる
249 :
一:2007/09/08(土) 05:33:44 0
まああとは同様に類推していくと壱にたどりつき
壱もまた君に他ならない、となる
壱に至っては君は
言葉も論理も個体性も生命性も物質性も何もかも全く気にすることなく
全くの無言で何の感情も意志も理由も持たず
宇宙全体をただただ転変生滅させる
そういう純粋な力となる
250 :
241:2007/09/08(土) 10:24:56 0
そが おでさ 譜面ねば なんも でげん
いぢさんど バンド なんで おごがますがっだな
てづがぐに すごし ぎょうみもっだがら そしーる
でもよんでみる
251 :
一:2007/09/08(土) 13:06:15 O
そっか
おこがましいことないけどな
でもこういうこと表現するには言葉よりも音楽の方が時に雄弁だ
音楽は意識下に直に語りかけることができるから
252 :
一:2007/09/08(土) 18:14:49 O
でも音楽って無意識のどういう部分に働きかけてるんだろか
考えてみれば不思議なもんだ
セックスが気持ちいいのはわかる
それは子孫を残したい本能が我々の意識にそう思わすんだろう
でも音楽を聴いたからって特に本能にとって得になることなさそうだよね
体感的に大きな音から波形的な音と身体の相互性とか
254 :
一:2007/09/08(土) 18:48:30 O
1/fゆらぎとかそういうこと?
んーまあそういうのもあるかもな
また後で考えてみる
ところで
例えば雄蝉が鳴くと雌は興奮して寄ってくるんだよね
音楽を聞くと興奮するのはそういうのの名残なのかな
255 :
一:2007/09/08(土) 19:29:14 O
生物が耳を持つようになったのは何らかの生存に役立つ情報を得る為だろう
危険を察知したりラブコールを聞いたりとか
最初はそういう役割しかなかったんじゃないか
256 :
一:2007/09/08(土) 19:39:46 O
それがだんだん犬猫くらいになると伝達する情報が増えてくる
威嚇や服従を音声から判断できるようになる
人間も最初はショッカーみたいに一言しか言えなかったんじゃないかな
257 :
一:2007/09/08(土) 19:52:25 O
やがて伝達する情報の量は飛躍的に増えて鳴き声だけでは足りなくなり
言語が生まれた
その一方である種の音声を聞くと
興奮したりロマンチックな気分になる習性はそのまま残った
僕が以下に与えるイメージ映像と、数式を矛盾(違和感)無く重ね合わせてください。
この時はロジックを使ってください。それができた時、あなたは期せずしてレトリック
を読んでしまった事になります。「理解する前→理解した後」この道中に垣間見える
モノこそが、老子がいう「道」です。
>>236 壱が万物の原因てことは
万物のあらゆる変化はその結果にすぎないってことでしょ?
てことは
壱(原因)→生(結果)→老(結果)→病(結果)→死(結果)
となるよね。
てことは死の原因は病気だからとか、病気の原因は老いたからだとか言えなくなって
死も病気も老いも生も万物の変化の中の1つの過程、1つの場面、1つの断面でしかないんだけど
それじゃ誰も納得できないから
結局今現在の各々の立場でそれを都合よく因果関係で解釈してることになるんじゃないのかな〜なんて思ったりしたわけです。
つまり万物は因果もなく相互に平等にただ関連し合ってるだけだし
1個の物も因果もなくただ偶然変化していくだけになるんじゃないのかな?
で、その原因は目的のない壱にしかないということでしょ?結局。
>>247 その逆もあるよね。
自分は寝たいと意識してるのに身体は寝てくれない、身体には寝る気が全くない。
そう考えるとこの寝るってのも不思議な現象だよね、寝てるのは自我なのか身体なのか?
>壱思想ではそれもまた君に他ならないと考える
>言葉や論理を全く気にしないワイルドな君がそこにいる
ここが重要なポイントだと思うよ。(一さんの見解はわかんないけど)
正統的な西洋思想だと
神は言葉で語る主体だろうしデカルトの考える私も言葉で考える主体主観だろうし
どっちにしろ正統的な西洋思想はガチガチの論理主義、まず初めに言葉ありき主義で
非論理、非言語なものは排除の対象になり、それは神秘主義とか極端だとオカルト扱いだけど
壱思想は非論理非言語の壱を万物並びに自分の主体としてる点が斬新だね。
別にどっちがどうという話じゃなくて
西洋思想とは全く逆の視点から見てるのが面白いと思うよ。
つっても仏教関係では普通かもしれないし西洋にも類似した思想はあるけど疎いだけかもしれないけど。
261 :
一:2007/09/09(日) 06:15:48 0
>>259 んーなるほど
なんとなく言いたいことはわかった
原因や因果という言葉で意味してることが私と君じゃズレがあるんだな多分
私の解釈でいう因果関係とは
現象Aが力Bによって現れた
よって結果Aの原因はBである
という単純なもの
君の言う原因とは多分
私の言い方でいえば根本原因に相当すると思われる
確かにあらゆる現象の根本原因は壱という力しか無いんだけど
でも死は実際病気という力によってもたらされた現象なので
私的には死の原因は病気であると言う事ができる
じゃ病気の原因は何か?その原因の原因は?とどんどん問うていって
その原因の原因の原因のもっとも根本にある根本原因が壱
262 :
一:2007/09/09(日) 06:40:40 0
>>260 でへへ
斬新だなんて言われると照れちゃうな
確かにデカルト以降カントくらいまでの西洋哲学は
自我=理性としてそれ以外をテーマにしなかった
種明かしってわけじゃないが
近代西洋の哲学者で初めて自我の無意識の部分に光を当てたのは
インド哲学にも傾倒していたショーペンハウアーだ
彼は世界の主体は非言語的な「生きようとする盲目な意志」だとした
あまり当時は評価されなかったが後世になって
フロイトやユングが無意識をテーマにいろいろ考えるきっかけになった
だからまあ西洋に全くなかった発想というわけでもないっす
でも彼らも非言語の部分はやはり他者として見ている感じがあるし
それを自分の主体なんだとするのは東洋的な発想だろうね
263 :
一:2007/09/09(日) 06:51:19 0
自分で言うのもなんだけど
私が壱思想を斬新だと思うのは
インド思想や禅などでは自分が宇宙の主体と合一する為には
ヨガとか座禅とか瞑想によらなければならないとするのに対して
何もしなくたって始めっから私は宇宙の主体と同一だと主張するとこにある
まあこれだけ書くといかにもオカルトっぽいけども
私は別に霊感があったりしてこういうこと言ってる訳じゃなく
いろいろ類推してこういう思想に至ったわけなので
これからもまあ懲りずに説明していこうと思う
かなり前のレスから
>それゆえ私は昨今巷で大流行の自分らしくという言葉が大嫌いである
>ミュージシャンやアスリートが自分らしいプレーができればいいと思います
>とか言うの聞くと虫酸が走る
>理想のプレーを本気で夢中になって求めたらそこに自分なんていないはず
「自分らしいプレーが出来ればいい」という言葉を発するミュージシャンやアスリート
達がいたとして、それらの人々全員が「理想のプレイ」とあなたが呼ぶ、フロー状態のよ
うななものを伴ったプレイしていないとは、いえないのでは?むしろある瞬間、あるプレイ
でフロー状態を経験していたら、それを「自分らしい」と表現する場合が多いのでは?
>何もしなくたって始めっから私は宇宙の主体と同一だと主張するとこにある
壱から発生した万物(俺含む)なんだから全て同一だろうということを指している
のか?
どんだけーー
>>261 あ〜なるほど
万物の変化のうちにも因果はあるが
その総体としての万物の根本の原因は壱にしかないということね。
病気だから死んだとか眠くなったから寝たとか腹減ったから飯食ったとか
そう解釈するのが普通か、そりゃそうだね。
あ、でも壱思想では壱のみが万物の主体であり根本原因だから
病気によって死ぬという因果関係に固執して
病気になったことをくよくよ悩むより
病気も死も結局は壱による偶然の結果に過ぎないと解釈したほうが
病気も死もスッキリと納得できるような気がしないでもないけど。
>>262 やっぱ西洋人には神という超越的存在が基本にあるだろうから
原因は神の如く自分を超えてあるという発想になっちゃうんじゃないすかね?
もしくは思っててもおいそれと顰蹙買うようなことは言えなかったとか、ニーチェみたく。
増してや「自分を超えたものも自分である」なんて字義通りとれば矛盾だしね。
>>263 なんか壱思想って頭で考えて認識するっていうよりも
体感する、実感する思想って感じがするんだよね。
精神性より身体性を重視するっていう感じかな?
「考えるな、肌で感じろ」みたいな。
だから
>>242みたいな疑問が生じるんじゃないすかね?
だからそういう人が修行や瞑想で自我を超えたものを直観しようと試みるんすよね?
インド思想とか禅とか全くの無知で完全なる推測ですけど。
270 :
一:2007/09/10(月) 03:56:41 0
>>264 んーそうかそういう意味で言ってるのか
そういう意味で言ってるなら文句はないや
けど無心で最高のパフォーマンスをしてる状態を
自分らしいと表現するのにはまだ抵抗を感じるけどね
まだ、自分が自分じゃないみたいでした
みたいなコメントの方が好感が持てる
271 :
一:2007/09/10(月) 04:17:07 0
>>265 万物は壱の力で現れた現象である
だから万物はその根本原因においては同一
それは確かにそう
けど私の言おうとしてることはそういうことじゃない
簡単に言い換えれば
私は壱によって現れた現象なのだけど
壱は私の他者として私の外側から私を現象させたのではなく
私の存在性の内側から私を現象させているので
壱は私の主体であり
つまり私の主体は宇宙の主体と同一なのだ
てな感じかな
272 :
一:2007/09/10(月) 04:26:51 0
>>267 んー因果って言葉でもちょっと解釈のズレがありそだね
私の言う意味での因果ってのは
単に原因と結果という意味なんだけど
君の言う因果という言葉には「必然的な運命」「宿命」みたいな
意味合いもありそうだ
まあ実際そういう意味でも使われてる言葉だしね
だから両者を分けて説明したらいいのかな
つまり
あらゆる現象には原因と結果の関係は存在するが
必然的な運命や宿命のような関係は存在しない
273 :
一:2007/09/10(月) 04:34:57 0
>>268 そうだろね
ちなみにニーチェは確か晩年
キリストも仏陀も私である
そればかりでなく歴史上のあらゆる人物は私である
みたいな事を言った
まあ普通の人からしたら単なる気違いだろうけど
私はああニーチェもそこまでは来てたんだなーと思うな
つまりニーチェは自我や個体性や時間さえも超越した自意識を感じていた
感じていたけど西洋的自我観との矛盾に耐えられなかったんじゃないかな
274 :
一:2007/09/10(月) 04:41:57 0
>>269 なるほどね
そういう感じがするのも不思議じゃないわな
まあそれをあえて言葉で説明してみようというのがこのスレの趣旨かな
どこまでできるのかはまだ自分でもわからないけど
でもまあまだまだ語り得ることはあると思う
壱の一者的な思想には共感するが。
文体やものごとの思考過程を見る限り、
壱のみている「壱」という一者的なものは、
まだまだ現象にすぎないように、思えてくる。
と微妙な批評をしてみる。
ユングを読んでいててくるような麻薬的な感覚が全然ないから。
276 :
一:2007/09/10(月) 17:37:32 O
若いときに狂気とか麻薬とか憧れる気持ちはわからんでもないけど
それと哲学や思想の深さは全然カンケーないと思うよ
ギリシャ哲学や老子なんかすごく健康的だけど2000年以上読まれる力を持ってるし
277 :
考える名無しさん:2007/09/10(月) 18:04:09 0
ここに貼ってあった「人生最大の〜」を読んでいる。
っつか、すっげーーーー長すぎて読む気失せるw
やっとパート1を読み終えたところ。
なんで読んだかっつーと、関係あんのか?と思ったから。
同じことを言ってそうだが、どうなんだろうな〜的な感想。
ついでに俺は禅もインド哲学も知らん。
読み終わったらまたここのぞいてみるが、これまでのやり取りを読んでいる限り
誰かも言うように、なんつ〜か深みがない感覚を持っている。
奥深く広くないってな感じ。
文章表現で伝えることを意図したなら、まっさらなわからん俺みたいなヤシにも
わかるような表現して味噌。余計なお世話だろうが単純にそう思うよ。
278 :
一:2007/09/10(月) 19:38:38 O
んーまあどこがわからないのか聞いてくれればできる限りは説明するよ
深さうんぬんについてもどこがそうか言ってくれれば面白いんだけどな
>ちなみにニーチェは確か晩年
>キリストも仏陀も私である
>そればかりでなく歴史上のあらゆる人物は私である
>みたいな事を言った
このあたりの意味も全くわからない
ダメダコリャ orz
どういう意味?
一が今まで色々と類推して至ったというその類推を披露してくらさい。
280 :
一:2007/09/11(火) 03:54:54 0
>>279 昔は私も人格をもってそれを私と認識して特に疑問を持つ事などなかった
最初のステップは前にも書いたけど動物的本能を自分の中に発見したことだ
それは
>>247にも書いた
つまり言語を持ち人格をもつ自分だけで私が構成されてるわけじゃない
ということに気づいた
例えば君が腹が減ったと思ったとしよう
普通ならそのとき君の身体の動物的本能も
生存のために何か栄養が必要だというふうに感じているだろう
それで脳に指令を出して腹が減ったと思わせ何か食べ物を探させる
さてこの時どこからどこまでが自分なのだろう?
281 :
一:2007/09/11(火) 04:09:07 0
デカルト的自我観でいえば
肉体はあくまでも他者ということになるだろう
腹が減ったと思う私だけが私
私に腹減ったと思わす存在は何であれ他者
でもそれって何か変じゃね?
私は肉体も精神もいっしょになって腹減ったと思っている
そう考えた方が自然だと思わん?
私にはそう考えた方がしっくり来た
言語をもって思考する自分以外に言語を持たない野生の自分もいる
282 :
一:2007/09/11(火) 04:20:45 0
これでまず自意識は人格の範囲より広くなったわけだ
動物としての本能もひっくるめて自分と認識するんだから
言語や理性や思考を持たない動物的本能としての私は
とにかく生命を維持しようとして24時間ずっと働いている
呼吸をして酸素を取り込み心臓を動かして血液を循環させる
子孫を残すため精子を作り裸の女を見るとチャンスとばかりに勃起する
まずはそんな自分を自分として認識できるかどうかだ
283 :
一:2007/09/11(火) 04:43:22 0
ところで
動物的本能としての君はどこからやってきたのだろう?
君はかつて母親の胎内に眠る一つの受精卵であった
しかしその受精卵は無からポッと生まれたわけじゃない
それは君の父さんの精子が母さんの卵子に突入してできたものだ
つまり動物的本能としての君は親父とお袋の細胞から発生した
ところで動物的本能それ自体も無から発生するものではない
ということは動物的本能としての君は父さん母さんの動物的本能を
受け継いでいるのだ
もともとが君は君の父さん母さんの細胞なのだから
父さん母さんの細胞には父さん母さんの動物的本能が宿っている
つまり動物的本能としての君は君が肉体として発生する以前
君の両親の動物的本能であったのだ
両者は全然異なるものではなく同一なものだ
284 :
一:2007/09/11(火) 04:52:57 0
これで動物的本能としての君は君の肉体という個体性を超越する
ということは君が君と認める範囲は自我の範囲を超え個体の範囲を超えた
親父お袋の動物的本能も含めて君なのだから
ここまで来るとなかなか想像しにくいとは思うけど
何回も読み直してよーく考えてみればそんなにおかしな話じゃないと思うよ
285 :
一:2007/09/11(火) 04:58:41 0
そしたら君の両親の動物的本能はどこから来たのか?
それは君のじいちゃんばあちゃんから受け継がれたものだ
ほらまた君の自意識の範囲は広がった
動物的本能としての君はじいちゃんばあちゃんの頃から生きていたのだ
そしたら君のじいちゃんばあちゃんの動物的本能はどこから来たのか?
こうしてどんどんどんどん遡っていけば
君は地球で最初に生まれた人類まで辿り着く
つまり動物的本能としての君は地球上に最初の人類が生まれたころから
既に存在していたのだ
286 :
一:2007/09/11(火) 05:23:12 0
そしたら今度は時間をまた逆に流してみる
地球で最初の人間がもっていた動物的本能は
その子に受け継がれその孫たちに受け継がれまたその子や孫へ
現在では60億人の全人類に受け継がれている
ということは動物的本能としての君は動物的本能としての私でもあるし
両者に全然違いはなく同一だということになる
だって全く同じものが受け継がれているんだから
だから私や君は歴史上の全ての人と動物的本能としては同一なのだ
そしてそういう動物的本能の存在の巨大さに比較すると
我々の人格や個性などははるかに小さく一瞬のもので誤差の範囲内だ
よって私や君はキリストや仏陀とおんなじだ
ちょっと終盤めんどくさくなってはしょったけど
まあこんなあたりが私の類推の経緯
ニーチェと同じ推論ではないだろうけど
行き着いたところは同じでそれは自我や個体性や時間を超えた自意識の感覚だ
まあ壱思想はさらにその先まで行くけど
まだ壱は出て来ない
>地球で最初の人間がもっていた動物的本能は
>その子に受け継がれその孫たちに受け継がれまたその子や孫へ
>現在では60億人の全人類に受け継がれている
えーーーっ、「地球で最初の人間」って誰々?
>そしてそういう動物的本能の存在の巨大さに比較すると
>我々の人格や個性などははるかに小さく一瞬のもので誤差の範囲内だ
えーーーっ、巨大って誰が決めてるの?どんな風に巨大なの? 「個性など
這かに小さく」って、何らかの測定したりして結果のことだよね?
「誤差の範囲」って何々?あるデータが抽出され、何らかの統計的処理を
施して、それが「誤差に収まる」と認識されたんだよね?
結果、「人間の意識?なんつーもんは〜、巨大な動物的本能に比べたら所詮誤差、
アタシも仏陀もキリストもマキエも、エイジ(←多少語気が変わったように感じ
たのは思い過ごしか・・・)もみんな(誤差範囲内つながりで)一緒〜」と
言う結論が生じたんだよね?
と、最近知恵が付いてきて、小うるさいJK(=女子高生)のサエコが携帯片手に申
しておりました。ダラダラ長いメール止めとけって言ってるのになぁ。
一の説明、よくわかりました。
ありがとうございます。
続きを宜しくです。
質問があります。
人格や自我がでてくる前・・・赤子や胎児の頃の純粋な自分というのは
そもそも認識できるのか?一はそれを認識できたのか?それとも〜こんな
感じという妄想に近いような感覚なのか?
次の質問
壱思想によって淡々としない?
次の質問
俺は野球をするんだが、すこぶる調子がいい時ってまわり全体が見えて
なんの雑念もないようで頭で考えずとも勝手に体がベストなプレーをしてくれ、
球だろうがまわりだろうがスローモーションのように見えてお茶の子さいさい状態に
なったりするんだけど、これは壱と関係あり?
最後の質問
壱からしたら世の中には説明できない現象は一切なし?
>>281 デカルトは悩んでたね
考える自分と考えない他者である肉体がなぜ対応してつながってるのか?と
肉体(他者)と精神(自分)の二元論から
他者である肉体は消滅しても自分(精神、魂)は残るという発想が生まれたのかな?
考えてみれば考えない非言語の肉体がなければ言語も考える自分もなかったわけだから
肉体だけを他者として軽視する理由も確かにないな。
つ〜ことは考える自分も自分だが、考えない肉体も同じく自分と考えても何も問題ないわけだ。
考える言語的自分と考えない非言語的自分、両者はなぜか対応しつつ同じ自分を構成する。
なるほどね。
291 :
一:2007/09/12(水) 11:40:02 0
>>287 サエコちゃんの突っ込みももっともだから
また考えてからそのうち答えるねって伝えといて
>>288 あいよ
292 :
一:2007/09/12(水) 11:50:17 0
>>289 質問1
赤子や胎児の頃の純粋な自分をそのまま認識できたわけじゃないすね
ただ言語や思考を持たない自分はやっぱ
どうしようもなく腹減ったり眠くなったり勃起したりとか
そういうときに認識することができる
そういうような思考以前の生命維持のための衝動は
赤ちゃんや胎児のころにもあっただろうと思う
だからそれは認識というより推論でありまあ妄想と言われれば妄想だな
293 :
一:2007/09/12(水) 11:53:21 0
>>289 質問2
そうだね比較的淡々とするようになったかな
熱くなることもあるけど冷めるのが早くなったかな
でも昔からそうな気もするから
あまり変わってないような気もする
294 :
一:2007/09/12(水) 12:00:55 0
>>289 質問3
美しさと壱は何かしら関係しているという気がしている
アスリートが最高のパフォーマンスをするとき
その姿を見て美しいと私は思う
その感動は動物や魚の動く姿を見て美しいと思うのと似ている
両者の共通点は無心でいることにあるのではないか
無心でいることとは壱と一体になっていることではないか
まあざっとだけどそんな感じ
そのうち「美しさ」や「感動」と壱の関係についても
書いてみたいと思ってます
295 :
一:2007/09/12(水) 12:09:53 0
>>289 質問4
それはわかんないな
説明できることはたくさんあるとは思うけど
>>290 どうして二元論みたいな不自然な主張が
何百年もまかり通ったのかが逆に不思議だわ
>美しさと壱は何かしら関係しているという気がしている
>アスリートが最高のパフォーマンスをするとき
>その姿を見て美しいと私は思う
防波堤で寝転びながら、カモメやウミネコの飛んでる姿をただ受け入れてる時がある。
だけど、あの子らにも個体差はある。威嚇しながら、餌も奪い合う。そんな時に我に返る。
可愛そうに思うときは、釣針ついたままの魚を、何の疑いもなく飲み込んじゃう時だなぁ。
ある日、母が勤め先のスーパーから鳥取のホテル宿泊券を2枚もらってきた
「店長さんが『休みなしのお勤めご苦労様。たまには坊やと一緒に行っといで』って」
J('∀`)し
(ヽロロ ヽ('∀`)/ワーイワーイ
|| (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
生れて初めての旅行に興奮する俺に母は
「鳥取には砂丘があるらしいよ」「きれいな風紋が見れるといいね」と
お出掛け用に新しい洋服を用意してくれた
J('∀`)し ♪
t─┐ノ( ノ) ヾ('∀`)ノロロ
│■| | . (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そして旅行当日 電車やバスを何本も乗り継ぎやっと鳥取砂丘に着いた
J( 'ー`)し
. ( ) \('∀`)/
| | (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,,..,,..,,..,,..,,..,,..,,..,,..,,
-──-‐―-──-‐''"´ ::::::::::.....::... ::::''"´ ̄ ̄~ ̄ ̄
::::::::...|:::: :::::: | | :::: ::: :/ / ̄ ̄` :::::: /~ / ::::::::
:::::::::::::|____.| | ::::.. ./ ( :::::::..... / /:::::: ::::::::
..:::::::::| | ゝ_.ノ:::::.......ヽ_::::::::::::::| ̄\ ::::::::: :::::
>>295 でも、普通の感覚だとやっぱ肉体と精神は別物と考えるのが逆に自然だと思うよ。
じゃないと他人の死を見て肉体は無くなったけど心はどうなったか?なんて発想が浮かばないだろうね。
そう考えるってことは肉体消滅後の心=自分の行方が気になるという心理が働いてるんだろうし。
精神が肉体を認識するという時、認識する精神は主体である自分だが認識される肉体は対象である他者とみなしてるんじゃないかな?
それが常識的な捉え方だと思う。
で、ここがやっぱ壱思想理解のポイントであり難点なんだと思うな。
言語で思考し認識する自分と言語で思考し認識される言語を持たず思考も認識もしない物質(肉体、生存本能)としての自分。
認識においては主体と対象に分かれる両者は元を正せば同じ自分であり自分を構成する二つの側面である。
それは自我、自意識、言語によって自(精神)と他(肉体)に分裂した結果にすぎない。
ここら辺りで大抵はつまずくんだと思うなあ。
289氏の最初の質問もやっぱ自我による認識重視で自分が認識できない対象は他者扱いしてる感じあるし。
299 :
一:2007/09/13(木) 12:11:37 0
300 :
一:2007/09/13(木) 12:33:03 0
>>298 そうか確かに
デカルトや西洋思想を知らなかった昔の日本人でも
魂が肉体に宿るとかお盆に魂が帰ってくるとか考えてた訳だし
肉体と精神は別物と考えてたんだろうな
そこまでは同意するけど
考える私のみを主体と捉え自分の本能や肉体は客体と捉える考え方は
やっぱ不自然だと思う
哲学的な問題など考えた事もない人は自分の身体と自分の意識と
全部ひっくるめて一個の自分って捉えてないかなあ
例えば誰か友達にこう聞いたとしよう
「ねえ君って誰?」
「え、俺?俺って、別に、いやこれが俺だけど・・・」
多分そんな感じで答えるんじゃないかな
そのときの「俺」って意味には身体も精神も入ってると思うけどどうかな?
301 :
一:2007/09/13(木) 12:45:19 O
ねえ君が思う君って誰?
って聞いた方がいいかも
これと似たようなものに行き着く人って結構いるもんだな
壱思想についてではないことで聞きたいんだが
壱思想の状態になってからアルツハイマーっぽくならなかったか
聞きたい。
俺も友人もそうなったんだw
ただ、日常生活や学校生活に支障をきたすことは
ほとんどなくて、例えて言えば興味がないことについて
確かに見て聞いているのに記憶にとどまらない・それについて
アレコレと思考しないことで、その部分がカッポリ抜けてんの。
みんなどう?
303 :
一:2007/09/13(木) 13:46:32 O
んー俺は特に忘れっぽくなったとは思わんな
まあ思わないのが一番ヤバいのかもしんないけどw
壱思想的な世界観を持つ人が実は案外多いというのは俺もそう思う
天然な奴とか
俺も若い頃よりは確実に天然になったとは思う
他人にどう見られたいとかいう意識が今はほとんどないからな
304 :
一:2007/09/13(木) 14:04:07 O
高田純次とかも壱思想的だと思うなー
あーいう自由で適当でゆるゆるな感じが
305 :
302:2007/09/13(木) 17:05:26 0
高田純次ね。実際どうなんだろうな。
芸として計算して一貫してそう見せているのかもしれないし実際は
俺はわからない。そんな感じもするような気もするけど。
所ジョージなんか囚われない独特の世界観があるようで俺は好き。
なんにしても囚われず自分がやりたいように生きてる人って素直に
なんかいいなーと感覚で思うよ。
306 :
一:2007/09/13(木) 23:51:03 0
所さんも飄々としてていいね
タモさんとかも
でも二人にはまだいろいろ趣味などにこだわりがありそうで
飲み屋のねえちゃんとかに講釈たれてそうな感じがするけど
純ちゃんはそれさえも想像することができない適当ぶりw
ま、勝手なイメージだろうけどさ
流れにまかせてふわーっと生きる
307 :
一:2007/09/14(金) 00:12:32 0
壱思想では言語をもって思考する自我を軽視するので
その人の世界からどんどん自我の割合が減ってくる
自意識過剰なんて言葉があるけど
俺にもかつて自己陶酔と自己嫌悪を延々繰り返すような
そんな青臭い時代があった
その頃俺の世界では思考する俺こそ絶対的な主人公であり暴君であった
何をするにもそいつは顔を出してきていろいろ注文をつけてくる
しかし今俺はそいつにほとんど興味がない
そしたらそいつもあんま何も言って来なくなった
俺の世界でそいつはどんどん小さくなってきて
ほとんどその存在を忘れることもある
それは非常に快適で楽な状態だ
308 :
一:2007/09/14(金) 00:26:25 0
何にもとらわれないでいる自由人を見てなんかいいなーと思う
そういう感覚は興味深い現象だ
それは多分暇そうに空を飛んでる鳥とか見ていいなーと思うのに似てる
みんな自我なんてない状態を心の奥で望んでいる
全部がオートマチックになるような状態を
こんな不条理な世界を不条理な人格でマニュアル運転しようと試みる方が狂気だ
309 :
一:2007/09/14(金) 16:34:06 O
金銭や時間に恵まれた人だけが自由人になれるわけじゃない
困難な生活を強いられてる人でもその人が自由だったら自由人
ではその自由とは何からの自由なのか?
自由じゃない人は何に束縛されてるんだろうか?
310 :
一:2007/09/14(金) 18:15:09 O
壱思想はそれを自意識だと考える
君を束縛しているのは君の自意識
自由人はとらえどころがない
それは自意識が薄く縛る力が弱いのでまとまりがつかないから
311 :
一:2007/09/14(金) 18:39:52 O
日本人は自分を持ってないとかよく言うけど
それでいーじゃねえか
いやむしろそこがいーんじゃんか
自己主張強いやつだらけの社会なんて鬱陶しくてかなわん
そんなんで社会がいい方向に進むとは到底考えられないし
312 :
考える名無しさん:2007/09/14(金) 19:35:37 0
わかっちゃいるけどやめられねー=わかっちゃいないことを理解していない
ことで悩む人々も多いのでは?
自然は美しい
>>300 ああ、言われてみればそうですね。
普段、哲学や思想とは無縁で行きてるような人は
心と体で自分だと漠然と思ってるか、確かに。
そこに哲学思想宗教が絡んでくると厄介なことになる。
でも、「君は誰?」と問うとそれは人称的問いになるから普通に名前を答えるんじゃないの?
または普通に自己紹介したり履歴書に書いてあるようなこと答えたり。
こういう自分の属性をそのまま自分と考えてる人も結構いそうな気がする。
これを「君は何?」と問うと本質的問いになって
答えに窮するかそもそも問いの意味が理解できないんだろうけど。
ま、でも心と体にしても自分の属性にしても
その総体としての自分という現象は現象しない非物質であり非言語の壱による現象でしょ?
つ〜ことは二元論も三元論も壱によって一元化される。
315 :
一:2007/09/15(土) 08:26:45 0
>>312 まあ人は普通何かにすがりついてないと不安を感じるしね
それもまた人間の悲しい性だし別に悪い事じゃないと思う
316 :
一:2007/09/15(土) 08:36:33 0
>>313 自然という言葉も考えてみればおもしろい
例えば自然な優しさは美しい
自然に溢れ出る笑顔は美しい
作為的な優しさは醜い
無理に作った笑顔は醜い
どうも我々の美醜の感覚には
それが自然なものか作為的なものかという判断が深く関わってるように思える
そこに思考する私がいればその行為は作為的で醜く
そこに思考する私がいなければその行為は自然であり美しい
こういう感覚は非常に興味深い
またそのうち美醜と自我と壱の関係については述べる事になるだろう
317 :
一:2007/09/15(土) 08:44:12 0
>>314 そうだね「君は誰?」より「君は何?」の方がいいかもね
さらに言えば「君はどれ?」もいいかもしれない
A「君は誰?」
B「いや俺は佐藤ですけど」
A「君は何?」
B「いや何って・・・まあ人間かな」
A「君はどれ?」
B「はぁ?どれって・・・まあこれが俺だけど」
俺なら
君は何?
って聞かれたら
愉快に動く肉の塊。もしくはうんこ製造マシーン
ってとっさに答えちゃうだろうな
319 :
一:2007/09/16(日) 01:29:28 0
宇宙人が俺らを見たらそう思うかもねw
まぁ
俺も宇宙人だしな
お前もだけどな
321 :
一:2007/09/16(日) 13:12:49 O
なら宇宙人オフでもしよか
暇なんだ俺正直
322 :
一:2007/09/17(月) 02:05:40 0
私はかつて宇宙の塵であった
(まあ今でもある意味宇宙の塵だけど)
(だから宇宙人というより宇宙塵だね)
壱思想はその頃の存在の仕方を現在の理性から懐かしむ
それは自我の無かったころに回帰しようとするかのようだ
なぜ自我が自我の無い状態を望むような矛盾が起こるのか
それにはあらゆる生物に備わる先祖帰りの本能が影響してるのかも
最近はバイオテクノロジーが発達し
微生物に紫外線を照射したりして新種の微生物を誕生させている
しかしその新種の微生物は何世代か交配を続けると
元の微生物に戻ってしまうという
異常な進化を遂げた生命体はその前の状態に戻ろうと欲求する本能がある
人類の理性もまた異常な進化なのかもしれない
カッパ セイジンガ チキウ セイフクノタメ フキョウ カツドウヲ ヲコナッテ オリマス
ビショウネンハ シリコダマヲ ヌカレマセヌヨウ ウレタマダムハ イクトヨロシイ カモシレナイ
324 :
一:2007/09/17(月) 17:42:39 O
音楽が魅力的なのも何かしらそういう先祖帰りの本能と関係してるように思える
言語以前、思考以前の自分への回帰が音楽によってもたらされてるんじゃないか
タチモドッテミマショウ=タチモドッテハジメマショウ デワナイノカモシレナイ
【プロファイル】
ここに貼ってあったスレも読んできた。すっげー長すぎw
しかも半分位からはグダグダで後半は何とかスレを残そうとする動き見え見え状態だったぞw
んまあ、どうでもいいが。
壱にしろ、あっちでいう原則にしろ、それ自体ではなくある共通点があるかもな。
・1人で考える時間空間が十分にあった。
・社会適応能力、人間関係力が世間で言うところの「欠けている」人々。
・現在も世間で言うところの、、、同上。
・原則については物理等を当てはめ、その原理をあらゆることに適応させれば
スムーズに且効果がある動きと結果につながる的なことを言っている模様。
・壱については、そんなことすらもある意味自我がからんでくるから純粋な
まま漂えばいいだけさ〜的なことを言っている模様。
、、、かもな。
327 :
一:2007/09/17(月) 23:50:07 O
ははw
確かに我輩は今ニートであるがずっとそうだったわけじゃないあるよ
次は職人を目指してるので今勉強中なのだ
今は社会に適応してないかもしれないけど適応さすことは何でもない
なぜなら私は私にこだわりがないから
かもめ
すんばらす
330 :
一:2007/09/18(火) 00:07:09 O
原則のことはよくわからんが
壱思想は人生に役立ったり世の中を良くしたりするものじゃない
単なる一つの世界観だーね
その世界観に基づくと、思考する自我や人生は軽視されることになる
だからその結果としてふわーっと漂うことにならざるを得ない
だよ
何回も言ってるけど、気がつかないのかな
んで、つぎよね?つぎはむずいよ。
334 :
一:2007/09/18(火) 00:21:10 O
ふわーっと漂うことと職人を目指して勉強することは矛盾してるように聞こえるかもね
確かに漂うっていうとだらーっと何もしない感じがするしな
でも俺ん中では全然矛盾してなくすごく自然なんだ
要はその行為が自然かどうか、無理があるかないかが大事
無理のない生き方を私は人生を漂うと表現してるわけなのれす
つぎない だよ
一が誘導なんてできないよ。残念、甘いよ。
えと、えと。
「・・・なのです!」
「ふーん。で?」
「いや、べつに」
というやり取りを楽しむスレ
339 :
一:2007/09/18(火) 00:29:46 O
なんか禅問答みたいのが多いすね
俺なぞなぞとかめちゃ不得意だぜ?
340 :
一:2007/09/18(火) 00:43:54 O
>>338 まあそんなやりとりは今後もちょくちょくあるだろね
こんなんでも楽しんでもらえるならわしゃ嬉しいよ
341 :
考える名無しさん:2007/09/18(火) 01:01:28 0
楽しんでますので、壱&一続けてどぞ。
自分の中に沿って=漂うってことは読んでいる人々はわかってるような
気ガス。たぶん。
あげとくよん。
んで、「主体性」述べればよろしいのでしょうか?
もうこねーーーYO
344 :
一:2007/09/18(火) 03:07:51 0
まけた・・・・・
2敗1分って自分でおもってるんだけど、どこまでなの?
おせてくださいな・・・くらいしかいえないんだろな
>>327 言っとくが、別に批難したわけでも否定したわけでもなんでもなく
ただ単にそう感じたから書いただけだからな。
んまあ、俺は壱思想に興味があるから今後の展開も見るだろう。
それにしてもアレだな。必ず俺みたいな奴もいれば、荒らす奴もいるもんだ。
んまあ、この荒しは君に嫉妬してんのかもな
349 :
考える名無しさん:2007/09/20(木) 02:41:33 0
荒らしによって、壱は磨かれてさらなる次元へと昇華するのだ!!
磨くっていうのは、顕微鏡でやっと観察できるくらいの
細かい細かい傷を付けて行くことでしょ。
深い荒い傷なら破壊されて磨くことにはならない。
それは醜い傷だ。
351 :
一:2007/09/20(木) 18:22:59 O
まあ何であれ反応があると
自分じゃ思いもよらない視点を持つきっかけになったりしておもろいわ
荒らしでも何でも自由にやっちゃってくれい
あとはそのうち暇で頭いいまとめ人みたいのが現れると最高なんだがな
俺にはそういう気力がねーし
まあとりあえず引き続き流れにまかせて適当に垂れ流してみる
この世に産まれたからには
影響を受けず生きることは不可能
また影響を与えず生きることは不可能
全く影響を受けず与えず生きたいもんだなー
353 :
考える名無しさん:2007/09/22(土) 00:22:10 0
354 :
一:2007/09/22(土) 03:37:49 O
確かに君の人格は日々誰かに影響され変化し続けるし
君の接触する人の人格に何らかの影響を及ぼし続ける
でも別にいーんじゃない?
だって君の人格なんて君の存在のうちのほんの薄皮一枚なんだから
どうなろうと関係ないさ
オッパッピーだ
355 :
一:2007/09/22(土) 03:48:03 O
そもそも私は私の人格をもって私の一部と認識することにすら抵抗がある
なぜなら私の人格形成は全て外発的に為されてきたからだ
私の人格は私の出会ってきた様々な出来事や人々の反映である
全く違う環境で生まれ育ったなら全く違う人格になっただろうし
もしオオカミに森で育てられたなら人格をそもそも持たなかっただろう
356 :
一:2007/09/22(土) 04:37:48 O
また私は人格と他者の境界線は全然きっちり引かれてないとも思う
自分が思った事として人に話してたらふと
あ、これあいつに聞いた話だった、なんて事あるでしょ
他人は私の中に簡単に入り込むし私もまた他人に入り込む
集団ヒステリーなんかもそのいい例だ
人間は集団で興奮すると個々の人格の垣根など一瞬にして取っ払われる
そういうのから見ても人格と他者ははっきり区別できるようなもんじゃない
人格は蜃気楼みたいだ
それはゆらゆらと頼りなげに浮かびながら変化し続ける
その実体は単なる光の反射が作り出す虚像でしかない
357 :
一:2007/09/22(土) 04:46:56 O
また君と私は肉体こそちゃんと区別できるものの
精神は既にある部分溶け合っていてきちんと区別できない
それだけ人格というのは無定形でぐっちょぐちょで互いに独立してないのだ
358 :
一:2007/09/22(土) 04:56:44 O
なので私はそんなものを私として認める気には全然ならないし
真剣に向き合う気にもならない
流れのままに勝手に変化さしてあとは死ぬまで笑ってやり過ごすのみ
359 :
一:2007/09/22(土) 05:03:56 O
そして虚像でない実体としての君や私とは壱なのである
思春期の若者の全能感と
さして変わらない勘違いじゃん
考えたらずとも言えるね
361 :
一:2007/09/22(土) 14:15:23 O
んー君の思春期がどんなだったかわからんけど
ま俺の場合思春期は最も自意識過剰な時期だった
壱思想はその自意識をとことん軽視する
また壱思想は俺は神だ、何でもできるぜ的な感じじゃないな
むしろどっちかといえば巨大な自然災害を目の当たりにした時のような
どうしようもなくて笑うしかない突き抜けた無力感に似ている
362 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/09/22(土) 18:15:08 O
セックスのときは相手と一体化して自分なんかないよ。
君が高らかに歌い上げている一思想には決定的にかけている部分がある。
それは現実的な実効力が無いばかりか、むしろ阻害してしまうという点だ。
山に篭って自然と一体化し、野の山菜を糧として孤独に暮らす老子や、
イナゴを食べて伝道するヨハネ等を模範とし、そういう生き方に満足するのなら
それでもいいが、現代社会に暮らす君は
一思想で本当に満足した生活を送れるのか?覚悟があるのか、と問いたい。
おそらく否だろう。
きみだってセックスはしたい、おいしいものは食べたい、良い車にのりたいし
良い音楽聴きたいし、良い家に住みたいと思うだろう?
その際、きみの神秘がかった現実的なアクチュアリティをほとんどもっておらず、
単に逍遥的な知的遊戯としてしか機能しない。家に閉じこもって掲示板に
同語反復的な説教を書き連ねている君は、おそらく一見自由な思想に不自由を感じているんだろう?
言っておくが、壱を地で行って稼げる商売はそうはない。
それなりの自意識を構築し、環境に適応していくことが求められるのだからな。
神秘がかった現実的な→神秘がかった壱思想は、現実的
365 :
考える名無しさん:2007/09/22(土) 20:50:44 O
>>363 そのままじゃ稼ぐのは無理だろう。宗教と同じだ。教義通りにしたら
たいていの宗教は稼げない。稼げてる宗教は本来の教義を曲げて
現世利益を唄ってバカを騙して大量に釣り上げた所だけだ。
古今の偉人といわれる宗教者、哲学者の到達点は、まさにここにある思想。
この思想を出発点として、豊かに発展させていくことを期待する。
時間ってなに?
空間ってなに?
ただの概念?
368 :
一:2007/09/23(日) 21:59:24 0
>>362 いいセックスしてんだな
うらやましいわ
369 :
一:2007/09/23(日) 22:19:17 0
>>363 んー別に俺は世捨て人になれとは言ってないよ
セックスしたかったらセックスしたらいい
自然に湧き上がる欲求に素直に従ったらいい
流れに任せて漂えばいいってのはそーゆーこと
自然に世捨て人になりたいと思ったんなら世捨て人になったらいい
自意識や人生や社会についても
そんなもん全部否定して捨て去れって言ってる訳じゃなくて
あんま深刻に考えたり真剣になったりしないで
軽ーく考えて遊んじゃえって感じかな
370 :
一:2007/09/23(日) 22:32:24 0
>>367 難しいお題だねいろんな意味で
まあ時間とか空間は人間が世界を把握するときの尺度じゃないかな
それ自体で存在しているようなものじゃなく
人間の思考にいつも付随してる枠組みたいなものじゃん?
欲求に素直に従ってたらハチャメチャになんね?
372 :
一:2007/09/23(日) 23:43:10 O
痴漢をしたいと思ってそのまま痴漢しちゃったら確かにはちゃめちゃになるわな
まあ普通そういう時自分を抑制するのは社会的制裁は受けたくないという欲求だろう
それもまたごく当たり前の自然な欲求だ
それでも痴漢したい人はすればいいさ
はちゃめちゃにしかなれないような人もたまにはいるし
社会的制裁は受けるべきだと思うけどね
373 :
一:2007/09/24(月) 03:14:50 O
ところで現代社会における満足いく生活ってどんな生活なんだろ
自分の適性や能力を生かした仕事に就いて世の中の役に立って
好きな子と結婚して幸せな家族を作るって感じ?
それができたら勝ち組でできなきゃ負け犬?
みんなそれを目指さなあかんのか?
そんな価値観の方が非現実的で神秘的な妄想だわ俺にしたら
自分のサイトつくろうよ。ね。
375 :
考える名無しさん:2007/09/24(月) 03:35:48 0
>>371 負の欲求ならなるだろうな。
でも負の欲求はストレス溜まらないと出てこないんじゃないかなあ?
たとえば腹が減るでしょう。無茶苦茶減ったとするでしょう。すると人間は
(というかたいていの動物は)食料を求めるために鬼のようになるよな。
殺してでも食う、というような鬼気迫った感じになるよな。でもそこまで腹が
減らなきゃそうはならないわけで、日頃から適度に普通の欲求を満たす
ことを怠らなければ破壊的欲求は起きないような気がする。
自演なんかしてないで。な。
377 :
考える名無しさん:2007/09/24(月) 04:19:34 0
378 :
一:2007/09/24(月) 15:48:29 O
>>375 なるほどそういうもんかもしれないな
普段から何か我慢し続けてる人は酒飲んだとき急に荒れたりするし
我慢しなくちゃいけないときもあるけどしなくてもいい我慢はしない方がいい
379 :
一:2007/09/24(月) 15:57:16 O
2ちゃんみたいに予測不能なノイズが入ってくる方が頭の体操にいいんだわ
自分のサイトはある程度話題が一回りしたら考えてみるよ
智恵子抄
シンプル程 長持ち。
まざりもんがない。
だな。
日々充実してれば満足だよな。
さて、充実や満足とはなんじゃ?
「頭」の「体操」はおかしい
「体」を操るから「体操」
「頭」を操るなら「頭操」
この板には
同じようなことを
もっと突き詰めて話してるところがいくつかある
サイトもある
っていうか似たようなもんなんだから『道』でいいだろ
わざわざ分けるほど需要ないし
こんな程度の低いスレのサイトなんか作るだけ無駄
終了
元素智恵子
智恵子はすでに元素にかへった
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火を燃やし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
精神とは肉体の別の名だ、
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
智恵子はただ嬉々としてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなほ
わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。
385 :
一:2007/09/25(火) 02:48:29 0
>>380 ぐぐってざっと読んでみたよ
この詩の元素を壱と読みかえれば
壱思想そのものと言ってもいいと思う
大体おんなしようなことを彼も感じていたんだな
386 :
一:2007/09/25(火) 02:53:10 0
>>381 充実感や満足感は不足感や不満感が解消されたときの感じだろね
腹減ったとき飯食って空腹感が解消されたら満足感を得られる
387 :
一:2007/09/25(火) 02:59:10 0
>>382 じゃ頭操もおかしいな
頭動かしてるわけじゃないもんね
>>383 哲学や思想の歴史全てが壮大な無駄だしな
壱思想が無駄でも仕方ないさ
我が頭操
だろ。智恵子抄読んだ時、おんなじようなことやっぱ感じるんだなと。
このスレが無駄だろうが壱思想が無駄だろうが一が暇つぶしでやって
いようが人助けでやってようが見てる俺、書き込む誰かが存在して
流れてる〜。いいんじゃね?
390 :
考える名無しさん:2007/09/25(火) 17:42:31 0
少子化について
毒男・女が増えてること
地球温暖化
について一、壱から説明どぞ
脳内の電気信号を操ってるから
電操
時間について壱はどう説明するのだろうか。
世界が変化している。しかし時間は実在していない。
実在しているのはただ壱のみ。
壱の時間論を展開すれば道とは違ったものになるかもしれない。
時間が流れていく理由も。
無駄は言い過ぎだろ
みんな悩んで思考をあれこれと巡らせて
一周回ってやっと無駄に辿り着くんだから
せめて無用の用とでも言ってくれよ
過程がなきゃ結果もないんだし
394 :
考える名無しさん:2007/09/26(水) 19:14:33 0
般若心経
あれ?もう終了ってことはないよなw
人間が思想の存在や物質の存在を考える以前から実在している現実の世界
ってなんでつか?
396 :
一:2007/09/27(木) 23:20:39 O
>>392 少し前にも書いたけど
時間とは人間の思考に常に伴われる枠組みたいなものだと思う
人間は時間という枠組を度外視して思考することはできない
なぜなら前にも少し書いたけど
過去を想起できなければ自意識を持つことすらできないから
そして自意識なしに思考することは不可能だから
時間や空間という概念と他の一般的な概念はその存在の仕方が異なる
時間や空間は自意識の思考の仕方の中に枠組として常に存在する
その他の一般的な概念は自意識の思考の対象としてのみ存在する
397 :
一:2007/09/27(木) 23:23:51 O
時間はなぜ流れるのか?と問うのは
空間はなぜあるのか?と問うのと同じような問いだと思う
人間は空間という思考の枠組を獲得してしまっている以上
意識上においては世界を空間があるものとして認識せざるを得ない
それ以外の選択肢はない
時間についても同じ
人間は時間という思考の枠組を獲得してしまっている以上
意識上においては世界を時間が流れるものとして認識せざるを得ない
398 :
一:2007/09/27(木) 23:26:24 O
上のレスですげー疲れたので続きはまた後で
399 :
一:2007/09/28(金) 02:56:50 O
ところで壱としての私は時間にも空間にも我関せずってな感じで存在している
時間や空間なんてのは意識とか身体の事情でしょ
俺にはそんなのカンケーねえし
400 :
一:2007/09/28(金) 03:05:34 O
>>390 小子化についてはいろいろ原因があると思うけど
社会がそこそこ平和でまわりでどんどん人が死ぬわけでもないし
子供をたくさん生む必要を人々が意識下であまり感じてない
ってのがひとつにはあるんじゃないかな
温暖化については特に関心ありまへん
401 :
一:2007/09/28(金) 10:33:22 0
カンジーザイさんはある日
肉体や精神は壱による現象にすぎないことに気付いて何か楽な気分になった
肉体や物質は壱による物質的な現象で
思考や感覚や意志は壱による非物質的な現象だ
万物は壱による現象であり常に転変生滅を繰り返すが
壱は不生不滅、不垢不浄、不増不減
そして壱としての私には肉体も意識も感覚もない
だから迷ったり老いて死んだりすることはないし
修行したり勉強したりもしない
そういう壱としての私が自分の本体だと気付いたら
何かにこだわったり何かを怖がったりするのがバカバカしくなっちゃった
そんな彼のお気に入りの呪文を紹介しよう
でもそんなのカンケーねえ、、あーそんなのカンケーねえ
ハイ、オッパッピー
チントンシャンテントン、チントンシャンテントン
まあこんなのが般若心経の壱思想的解釈かな
402 :
一:2007/09/28(金) 10:37:24 0
>>393 無駄かどうかは何をもって有用とするかで変わるわな
ひまつぶしとしてなら無駄じゃないさ
403 :
一:2007/09/28(金) 10:41:08 0
>>395 それは君が生まれたばっかの赤ん坊のときに見ていた世界だろね
404 :
一:2007/09/28(金) 15:48:27 O
例えば昆虫とか魚にとっての世界は
今俺らが見てる世界とは全然違うものだろう
世界は見られるものによってその姿を変えるが
そのうちどれが正しくてどれが間違いだということはない
405 :
一:2007/09/28(金) 16:02:45 O
そして
誰も見ることのない世界はどんな感じなんだろう?
っていう問いには答えることができない
問いが論理矛盾を起こしてるからね
何かを答えたらそれはもう誰も見てない世界じゃなくなっちゃうじゃん
だからそれは想定不可能だ
一は書籍や情報等から学習し至った経緯があるように見えるんだな。
407 :
一:2007/09/28(金) 23:43:14 0
そりゃ俺も人生経験だけからこの思想を持つに至った訳じゃない
いろいろ本も読んだしネットとかで得た情報にも影響されてるよ
見識の代わりに知識を持ち出し過ぎる自称インテリゲンチャ達の打たれ弱さを生暖かく見守る休日いと楽し。
409 :
一:2007/09/29(土) 12:00:16 O
俺もそういう感じの理知的な女がふと見せる弱さとか好きだよ
411 :
一:2007/09/30(日) 03:15:01 0
おもろいスレだね
頭がこんがらがってくるけどな
でもそのスレの1が気づいたことってのは何となくわかる気もする
ちょっと長くてややこしくなると思うけど何とか説明してみるね
まずこないだも書いたけど
俺らは時間と空間という世界を把握するための枠組を持っている
そしてその枠組を度外視して思考することは普通できない
世界には縦横高さの広がりのある空間があり
且つ時間が流れているようにしか認識できない
でも昆虫とか魚にとっては
同じ世界が俺らとは全く違う枠組でもって把握されているだろう
アメーバとか単細胞生物にとっての世界はもっと違うだろう
もし宇宙人がいたら彼らにはまた全然違う世界が広がっているだろう
でもそれぞれの世界のうちで
どれが正しくてどれが間違っているということはない
人間の見てるこの世界や宇宙がデフォルトなんてことはない
それぞれがそれぞれの枠組でもって宇宙を把握している
412 :
一:2007/09/30(日) 03:16:15 0
さてここで誰も見ていない宇宙というものがあると仮定して
それを壱による純粋現象Xと名付けてみる
すると人間の見てる宇宙や世界というのは
純粋現象Xの一つの側面ということになる
純粋現象Xを空間と時間という四次元で把握したものが
今俺らの見ている宇宙であり世界である
だからそれは決して純粋現象X自体を把握しているわけじゃない
その一つの相とでもいうべきものを把握している
例えば宇宙人が十次元把握できる枠組を持ってたとしたら
彼らには世界は十の次元を持つものとして現れてるだろう
それがどんなものかはわからんが
413 :
一:2007/09/30(日) 03:35:18 0
で、その四次元スレの初代1が発見したものをとりあえずYと呼ぶ
以下に1の述べるYの特徴を並べてみる
・Yは言葉で説明できない
・Yは1と0で説明できることではない
・Yを把握するには1だけあればいい
・Yは一歳くらいの頃には誰にでも見えていたが今は普通見えない
・Yは五感で認識するというより直感するもの
414 :
一:2007/09/30(日) 03:45:39 0
以上を要約すると
Yとは普通の人間の思考の枠組で認識できたり記述できたりするものではない
つまりYは時間と空間という思考の枠組で規定することができない
ところでYは一歳くらいの子には普通に見えるという
それはちょうど時間や空間の枠組がまだしっかりと獲得できない時期だ
つまり私の予想では
Yとは時間や空間という思考の枠組ができる前に見えてた世界なのだと思う
415 :
一:2007/09/30(日) 03:51:00 0
なぜ年をとるとYが見えなくなるかというと
時間と空間という枠組が強化され
そのようにしか世界を認識できなくなるからだ
しかしその枠組を獲得する前に持っていた枠組は消えたわけじゃない
ただ普段は意識下に押し込められているだけ
だからふとした瞬間に時空という枠組が外れると
より原始的な枠組によって世界が立ち現れることになり
結果としてYが直感される
416 :
一:2007/09/30(日) 03:55:00 0
んーまだちょっとうまく説明できた気がしないし
興味深いテーマでもあるので
また明日考えてみる
417 :
一:2007/09/30(日) 17:38:44 0
この例に限らず世間でいうオカルト体験なんかも
>>415のような仕組みで体験されてるのかもね
俺らは受精卵から胎児になるまでに魚みたいな形になったりする
これは進化の仮定を辿り直してるように見える
受精卵は受精卵なりの世界を把握する枠組があっただろうし
魚みたいだった頃はそれなりの枠組があっただろう
そしてそれらの枠組は成長に応じて意識下に畳み込まれていく
壱思想では我々の意識上の部分は存在の一部分にすぎないとする
意識化の部分には言葉を持たず思考もしないワイルドな君がいる
意識下には進化の過程における君の歴史全てが畳み込まれてる
魚だった頃の君もいるし猿だった頃の君もいる
そしてそれらは死んだわけじゃなく常に生きている
ただ意識下に押し込められてるだけ
というか意識からは普通は気づかないだけ
君の意識や人格とは君という巨大な氷山のほんの一角にすぎない
418 :
一:2007/09/30(日) 17:56:57 O
考えてみれば音楽を聞いて心が揺さぶられるのも不思議なオカルト体験だ
あれも言語を獲得したことによって不要となり意識下に畳み込まれた感覚の発露なのかもしれない
420 :
一:2007/09/30(日) 20:18:31 O
んー特に気になるとこはなかったけど
二元論てことでいえば壱思想は力と物質の二元論といえるかな
>君の意識や人格とは君という巨大な氷山のほんの一角にすぎない
キャハハ フッル www
422 :
一:2007/10/01(月) 01:52:06 O
まあ当たり前といえば当たり前だわな
これからもとんでもない新発見なんかは出てこないよ多分
ちなみに老子はこんなこと言ってる
人は道のことを聞くとたいがい笑う
しかし笑われなけりゃそれは道じゃない
一の表出を笑った覚えはあっても、「道」を笑ったおぼえはないyo。
424 :
一:2007/10/01(月) 03:42:05 O
笑うってのも不思議な行動だよね
当たり前のことをさも俺が発見したみたいに言いやがってちゃんちゃらおかしいぜ
そう思ったとき何で人は笑うんだろう?
態度と内容が不釣り合いだからかな?
不調和とかズレとかは確かに笑いを誘うことがある
しかし不調和が不快感をもたらすこともある
じゃ笑いと不快感を分ける要素ってなんだろう?
425 :
一:2007/10/01(月) 16:02:00 O
壱思想では生は笑うべきものとされる
なぜなら生は真剣に取り組むに値しないと考えるから
真剣に生と向き合う人にとっては生は笑えないし笑えと言われるのは不快だろう
何かしら自分がこだわって大事に思ってるものの秩序や調和が乱されると人は不快を感じる
でもそのズレが突拍子もなかったりして
何かに真剣になったりこだわることそのものがバカバカしくなると人は笑い出す
こだわりから解放されると人は笑う
それはとても気持ちのいい爽快な笑いだ
でも笑いにもいろいろあるね
気持ち悪い笑いもある
それを分ける要素ってなんだろう?
426 :
一:2007/10/01(月) 16:56:18 O
愛想笑いとか鼻で笑うとかは
自分がバカバカしくなるというよりは相手をバカにする笑いだわな
いじめたり悪だくみしてるときの笑いもそうだろう
気持ち悪い笑いは他者を馬鹿にするから起こり
気持ちいい笑いは自分を馬鹿にするから起こる
馬鹿にするベクトルの違いが気持ちいいか悪いかを決めてるんじゃないか
427 :
一:2007/10/01(月) 17:02:06 O
でもじゃあ赤ん坊はなんで笑うんだろね
ただ単純に目が合っただけで笑っちゃうこととかもある
ああいう笑いはなんなんだろう?
>壱思想では生は笑うべきものとされる
美しいものを見たときの言葉にできない畏怖
異性を好きになったときの神秘的な感情
失恋したときの救われざる永遠の悲しみ
聖なるものに対する根源的な好奇心
自分が命をもっているということにたいする恐怖
生きている大自然に対する絶大な驚嘆
こういうものを感じているとき、もしくは感じたけいけんがあるなら以後ずっと、
決して、生は笑うべきもじゃなくなると思いますよ。生は驚くべき畏怖の対象になる。
生自体が笑うべきというより、一般的な範疇での生の営みが笑うべきといったほうがよくはなくて?
笑い笑いばっかで、命に関するものまで笑うくらいなら、べつに哲学する必要もないんじゃなくて?
宇宙や命に対する形而上的な畏敬の念こそが、哲学を動かしているものだと思われます。
そういうものを知らない人が、壱を悟って、生が笑うべき対象だとかいって、いろいろと自分の思想を公開されたところで、
別に他人からみれば何の魅力もないです。
哲学者も神秘主義者も、命の本質に対して真剣に洞察をいれているからこそ、本当の一なるものに対する形而上的認識に届くのだと思われますよ。
苦脳こそが人を神聖にすると説いた偉大な哲人は、生きることそのものが盲目的なものだという諦念に辿りつきましたが、
スレの最初から意味もない鬱や苦しみは愚かなことだとか言って、生は笑うべきで真剣に取り組むべきものでもないとか言われても、
本当に真剣に苦しみながら哲学的に生を洞察した偉人と比べたら、まるで茶番でしかないんです。
とくに深い思想にたどり着いたわけでもないのに、勝手に生一般を笑ってしまってるようでしたら、
本当に意味のない思想だと思いますよ。ただ過去の思想の同語反復のようにしか思われません。魅力は感じません。
命に対する畏怖や生きなければならないという苦痛を忘れてしまったら、思想は過去の偉人の言説の同語反復かただの言葉の羅列になるでしょう
429 :
一:2007/10/01(月) 19:49:14 O
何か予想もしてなかったようなことに出くわすと人間は笑ってしまう
赤ん坊にとっては毎日が想定外だろうしそれで笑っちゃうのかもね
それは頭脳が劇的に変化するのを和らげるクッションのようは機能なのかもしれない
俺が人生を笑っちゃうのも笑わないと気が狂うからかもな
忘れる機能と笑う機能は脳を正常に維持するためにもともと備わってるものなのかもね
430 :
一:2007/10/02(火) 04:54:03 0
>>428 んーまあ気になるとこを要約さしてもらうと
・形而上的な存在に畏怖や驚嘆を感じると生は驚くべき畏怖の対象になる
・驚くべき畏怖の対象は笑うべき対象ではない
・命に関するものまで笑うくらいなら哲学する必要はない
・形而上的な畏敬の念が哲学の原動力である
・苦悩こそが人を神聖にすると偉大な哲人は説いた
・苦悩のない思想は茶番である
そんなとこかな
431 :
一:2007/10/02(火) 05:21:55 0
まず哲学についてだけど
哲学とは何かというのはまあ人それぞれいろんな定義があるんだろうけど
そもそもphilosophyっていう言葉はギリシャ語で
「知を愛する」とか「知の友達」みたいな意味で
対話なんかしながらいろんなことを考えることを愛するってこと
それが哲学だと私は思ってます
確かに近代の西洋の哲学者は苦悩した人が多いだろうけど
苦悩する哲学だけが本物であとは茶番だってのは違うと思うな
近代の西洋の哲学者がみんな苦悩したのはキリスト教と哲学が
どうしても相反するからだと思うよ
ちなみにプラトンは「国家」でこんなこと言ってる
人生には真剣になるべきことは何一つない
432 :
一:2007/10/02(火) 05:41:14 0
哲学の原動力についてはそんなに異論はないな
君の言うように
言葉にできないような感動や驚嘆や畏怖の情から
形而上的な思考は生まれるし、それは思考の原動力ともなる
そこまではわかるけど
だから生は畏怖すべきで笑うべきでないってのはちと飛躍があるんでない?
まあ要は尺度が違うんだな多分
俺は生を軽く感じるけど君にとっては生は軽くない
俺にとってこの生や人格は全俺のうちのごくごく一部だから軽い
けど君にとってはそうじゃないから軽くないんだろう
そうじゃない人に無理に生を笑えとは言わないよ
苦悩したきゃ苦悩したらいいさ
433 :
一:2007/10/02(火) 05:49:34 0
だから壱思想的にはどんな人生を送っても偉大も卑小もない
苦悩して真剣に真理を追求しようが
一生遊び呆けて人に迷惑かけ続けようが
そんなの俺らの存在の巨大さに比べたら誤差の範囲だから
434 :
一:2007/10/02(火) 15:40:23 O
だから壱思想的には
苦悩し真剣に真理を追求した人を人々が偉人だといって称賛するその光景こそが茶番で
その彼のしかめっ面が実に笑えるということになる
これは俺が正しくて君が間違ってるというような問題じゃない
ただ単に視点が違うだけ
この視点に立つことが正しいとも思わない
人生いろいろ
視点もいろいろ
435 :
一:2007/10/02(火) 16:49:53 O
だからこのスレも茶番
書き込んでる俺も茶番
壱思想がそもそも茶番
俺は俺も世界も笑う
壱思想は壱思想自体を笑う
インド哲学でオススメ書籍おせーて。
437 :
一:2007/10/02(火) 20:54:00 O
Osho「存在の詩」かな
わかりやすいよ
あれ、おわっちゃうの?
>>430-
>>434 苦悩、真剣さ、命にたいする畏敬、が欠けてるから茶番だ、
と言いたかったわけじゃなくて。
貴方、独断的にいろいろと笑いの対象にしたり、
自分の立脚している思想体系のもとにいろいろ判断したりしているだけで、
ていうかそうだから、
全然、深みまで潜れていないのよ。
だから、そう簡単に決め付けてしまわないで、たとえばもっと苦の煉獄や笑えない恐ろしいものを直視してみた方が、
いろいろと認識も深まるでしょう、そうしたらいいのに、て思ってみたので御座居升た。
認識の深さなんて、人間の心に底がないのと同じで、いくらでも突き詰めれば深まるはずなのに。
別に当たり前のことを言っているだけしか思えなくて、スレ丸ごと思想を語るつもりなんだったらってちょっと期待してたもんだから。
体験的にも理性的にも深く哲学をやってるていうのは、とても感じましたが。
生命感に満ち溢れる認識、個性的な斬新な認識、というのがあまり感じられなくて、哲学史の同語反復のように思われました。
>>262に非言語的な領域を自分として見る、というのがありますが、たとえばそこで言及されているユングにとっては子供のころから感じていた当たり前のことですよ。
一なるものへの認識は、完全に内向的、求心的な認識だから、外へ、つまり新しい認識へ向かわない。だから外の人がどういう認識をもっていたかということに関して盲目になる。
著名な哲学者や神主義者は、自分なんかよりもはるかに凄いことを認識している、それを自分も認識したい、そういう畏敬に近い構えがないと何も進まないと思われます。
貴方が、壱という一なるものを悟ったところで、それをもっと広く生に対する認識へつなげなければもったいない。
それで壱へ求心しているあいだは、自分の理念に基づいてしかものを見れない。だから、関係ない、意味ない、笑うべき、とかで簡単に片付けてしまう。
知識はたくさんお持ちみたいですが、何かしらその知識の可能性を無駄にしてしまっている。
壱思想という思想によって簡単にその知識の意義が決定されてしまっているから。
ヨガの僧になりたい、ここに書かれていることとは比較にならないほどの恐ろしく内向的で体験的体感的な認識へ将来達したいつもりなら、
別に壱に今以上に憑かれたままでいいと思いますが。
壱思想を豊かにしたかったら、一度、壱、一なるもの、根源的一者、ショーペンハウアーの意志、そういう全体であり一である類のものに憑かれないで、思考をもっと外向させ、
新しい認識、新しい感覚、新しい直観を求めた方がいいように思われ升。
形而上的なもの一なるものを形而下的に体感的に認識するのも大事だと思うけど、
たとえばニーチェが芸術に触れて感性を豊かにしていったように、一度哲学以外のものに深く触れては?など勝手に思いました。
なにか足りないといえば、やはり感性が足りない。哲学好きの男性であれば仕方ないことですが。
でもせっかくいろいろ考えてるのに、そのせいで認識の視野が壱点に絞られてしまっているみたいでもったいない。
感性がもっと深まれば、思春期の青臭い自意識の葛藤のような何処の教養小説にも書いてあるようなことを遥かに超えた、
美、苦悩、聖なるもの領域を体験できると思われます。
自分のもう完結してしまっている思想体系だけが、ほとんど貴方の思考の基準を決めてしまっていて、
あらゆる感じうる認識しうる感覚や概念が鉄も金も石も何でも混ざってる砂だとしたら、
きっと貴方の理念が磁石になっていて、鉄しか感じられていない認識できていない、
せっかくいろいろなこと知ってるし考えているのにただ笑って済ませてしまうのはもったいない、
このスレたまに見てたけど、そういう印象がしました。勝手な批評、横槍長文失礼。
441がそもそも、うんこやな
あほか
444 :
一:2007/10/02(火) 22:58:42 0
>>439-440 ははw
俺の人生の心配してくれてるわけね
そりゃご親切なこってす
ありがとさん
芸術や美については今まであまり書かなかったけど
そのうち流れが来たら書こうと思うのでお楽しみに
ちなみに君が尊敬してるかはわかんないけどデカルトさんは
森で迷子になったときはとりあえず一方向に進むべきだと言った
どういう意味だと思う?
私は壱という極星を目指してひたすら歩くのみ
445 :
一:2007/10/03(水) 00:01:55 O
ちなみに私は哲学や思想よりも音楽が一番好きでね
音楽にかけてる時間の方がはるかに多いよ
>哲学や思想よりも音楽が一番好きでね
いわゆる体験的に哲学をする人にとっては、音こそが最高の意識の媒体だと感じる人が多いですね。
脳内をサイケデリックにさせる感覚は、聴覚の次は、五感の中では視覚ではなく意外に嗅覚だということを、香水マニアからきいたことがあります。
>俺の人生の心配してくれてるわけね
>そりゃご親切なこってす
>ありがとさん
いえそういうわけではなくて
現時点で当スレにある言葉からわかる範囲での思考を辿ってみると、
なんとなくそういう気がした、それでどうしようもなく胸が騒いでしまった、というだけのことです。
貴方の対象に対する接し方は、対象のうちの自分が立脚している壱思想という理念が感知した部分・本質的だと思った部分だけ
抜き出して対象のその他の面には触れる前からその対象がそういうものだと決めている、だから、
対象の、拡張するとこの世界の、生(なま)の姿は、ひどく求心的な理念によってあらかじめ姿が変えられている、
そういうふうに感じました。壱思想を優先しすぎて対象にはごく一部しか触れていないというような。
生を笑うというのであれば、生のもっとぎりぎりの生の姿を見てから笑う方が、いい笑いではないかと。
そういう種類の疑問があったわけでして。
笑い、というのはうまく利用すればいわば真実と現実の妥協弁のようになると思われますが、
下手に笑うと、下品になったり、苦々しくなったり、自嘲染みてきたりして、ただ笑われるだけの道化を演じてしまうという危険もあると思います。
まあどういう思想をもつかは人それぞれですか何も口出しする権利はないのですが、
ただ、そのデカルトのお話のような星として空にあるものではなくて、地下のしかも地球の中心に壱が居そうな気がします、変なところに迷い込まないよう、お気をつけて。
447 :
一:2007/10/03(水) 04:22:57 0
>聴覚が最高で次が嗅覚
俺は聴覚より鬼頭の触覚の方が脳内麻薬が出やすいかな
>壱思想は生そのもののごく一部にしか触れていない
>もっと生に深く接してからでなくては生を笑うべきではない
俺さ、高校生の頃さ、何かっつーとすぐ先生に突っかかるような
すげー生意気で嫌な生徒だったんだけど
特に漢文の先生が気に入らなくてさ、期末テストのとき一個も解答しないで
漢文の勉強なんて意味ないと思いますとかもっと他に教えることあるだろとか
そういう文句ばっか書いて提出したことがあんだけど
返ってきたテストには赤ペンで0点て書いてあってその下に
「やることやってから言いなさい」って書いてあったんだよね
何かそんなこと思い出しちゃったなw
448 :
一:2007/10/03(水) 05:13:28 0
まあその先生と君の言ってることは一緒だと言いたい訳じゃないけどさ
まあ言いたい事はわかる気がするよ
確かにこのスレを俺が他人として読んだら
いろんな過去の思想を適当につぎはぎにして作った理念とやらで
勝手に都合良く世界を理解してるようにしか見えないかもしれない
でもさあ・・・
そんなもんなんじゃないかなあ所詮人間の思想なんて
君の尊敬する人だって結局は自分の都合いいように世界を理解してるのさ
世界そのものをあらゆる角度から理解できる人なんていないよ
そりゃ程度の差は多少あるかもしれないけどそんなのドングリの背比べだろ
449 :
一:2007/10/03(水) 06:05:20 O
ちなみに私の思想形成には両親の死を看取ったことが大きく関わっている
それが君に生のぎりぎりの姿を見たと認めてもらえるかわかんないけどさ
そんなのもそのうちそんな流れになれば書くことがあるだろうからお楽しみに
両親亡くしてるのか。大変だったな、、、。
451 :
一:2007/10/03(水) 19:01:08 O
また私の母は統合失調症であった
彼女と向き合った日々ほど私の思想を影響し決定づけたものはない
そういえば智恵子抄の智恵子も分裂症だ
ま、たまたまかな
あれ、おわり?
>>447 そういう青春真っ盛りな意気込みだけははそのままで、
そういう青春真っ盛りな思いつきは
大人になっても引きずったりしないように、
思想を創っていくことができたら、それは素晴らしいことですね。
>>448 もちろん誰でも自分の都合のいいように世界を解釈するもんで、
哲学史は解釈相互間の闘争の場のようなものなのだともいえるし、
影響力のある哲学者ほど自分の理念のもとにあらゆる物を解釈しているものですが、
その解釈作用をする理念が、強度があったり、創造的であったり、深く生を認識していたりしてこそ、
他の解釈を押しのけて新しい哲学として影響力をもつわけであって、
そうでもない状態の自分の哲学的な基盤を疑わずに信用しすぎて、
その基盤のもとにしかあらゆるものを解釈できない、何もかもを壱思想的にしか吸収できない傾向が強くなってしまえば、
哲学的基盤、自分の思想は豊かにならない、他の人の哲学から大事なものを吸収できない、
自分が認識しているだけのことしか自分は認識していないのであって自分が認識していないことを哲学者はたくさん認識しているということを忘れてしまう、
そういうことになってしまいそうだから、その壱思想というものに憑かれたままでは
よくないのではないかな、という感想があったわけです。
同じ壱という一なるものに関する思想をあらゆる考えを抽象していって抽象化論理化していくにしても、
いろいろな多くの認識を手に入れた上でしたほうが、ずっとその思想は豊かになるでしょう。
勝手な批評、気を悪くされていたら申し訳ないです。
自分の思想という内側にあるものへの内向と、他の哲学者やその他世界に存在するいろいろな思想や芸術への外向の、
呼吸のようなリズムが、思想を豊かにしていくように思われます。
454 :
一:2007/10/04(木) 17:17:46 O
まあこれまでもそうだったように私の思想は今後も微妙に変化していくだろう
私は思想が完成したとは思ってないし、それにしがみつく気もないから
ただ
いろんな家具や調度品や芸術品の置かれた洋間のような豊満な思想よりも
畳と襖しかないガランとした空間に掛軸が掛かってるだけの和室のような思想に近付いていく気がする
まあこれはどっちが正しいかじゃなく趣味の問題だわな
455 :
考える名無しさん:2007/10/05(金) 19:04:22 0
age
456 :
一:2007/10/05(金) 19:05:26 O
まあでも例えば
料理の道を極めようと思ったら旨さとはこういうもんだとかいう思い込みを捨てて
初心に帰ってあれこれ食べてみるべきだろうし
俺もそんな風にして日々起こる事に接していきたいと思うよ
それが、こだわらない自由人なんであって壱思想的生き方なのさ
易や風水にもつながりそうだな
458 :
一:2007/10/05(金) 23:06:07 O
そういうのは全然詳しくないけど「気」というのは壱に近い気はするな
元気って言葉が俺は好きでね
いろんな気のもともとの気
元気は無邪気で無尽蔵であり疲れを知らない
そういうものが私の本体
そう思うと辛いときでもほんとに元気が出て来るのは不思議だ
459 :
一:2007/10/05(金) 23:16:55 O
何かしら元気を阻害するものはできるだけ捨てていくべきだし
ちゃんとしたメシを食ってちゃんと寝ることが何よりも大事だと思う今日この頃です
460 :
一:2007/10/05(金) 23:28:10 O
だから猪木さんが
元気ですか〜っ!と叫び
馬鹿になれ
とことん馬鹿になればほんとの自分が見えてくると語るのも
深いな〜と思うな
ほんとの自分とは元気そのものなのだ
>いろいろと認識も深まるでしょう、そうしたらいいのに、て思ってみたので御座居升た。
>新しい認識、新しい感覚、新しい直観を求めた方がいいように思われ升。
↑に萌えてる僕は負け組みですね・・・
462 :
一:2007/10/06(土) 02:35:39 0
その元気が私の心臓を動かし肺を動かしている
私の細胞一つ一つを動かしているのも元気である
元気こそ私の主人公であり私自身なのだ
元気としての私は宇宙ができたころから存在していて
未来永劫存在しなくなることはない
そして常にあらゆる空間に元気としての私は満ちている
だからその元気があなたの心臓も動かしている
ということは結局私とはあなたでありあなたとは私である
463 :
一:2007/10/06(土) 02:38:41 0
464 :
一:2007/10/06(土) 13:11:02 O
精神も肉体もぐにゃぐにゃにやらかくしとくのが元気をスムーズに流すのにいい
硬さ、凝り、こだわり、わだかまりは元気の流れを阻害する
ヨガや気功も元気を滞りなく流すために身体を整える努力といえる
壱とは生命そのものという感じかな
466 :
一:2007/10/06(土) 16:38:21 O
んーそうだね近いかな
より正確に言うと壱とは生命そのものの原動力みたいなもの
ありとあらゆる現象の原動力が壱
だから天体の運行の原動力も壱
だから壱は生命にその対象を限定していない
原動力かぁ。
原動力の原理ってどんなん
かな?
468 :
一:2007/10/06(土) 17:48:06 O
宇宙が超巨大なドミノ倒しだとしたら
その最初の一個を倒した力のことを私は原動力と呼ぶ
だからー、その原動力に原理はないの?と聞いたんだけど
470 :
一:2007/10/06(土) 19:03:25 O
そら失礼しますた
原理って言葉で君が意味したいことがまだつかめないけど
宇宙の最初のドミノを倒すってのは一回限りのことで再現することはできない
原理とは普通何回もある現象を観察して見出だすことのできる、
こうなったら必ずこうなるというような法則のようなものだと思うけど
そういう意味でいえば壱に原理があるかはわからないな
壱に原理を見出だすには宇宙を何回か一番最初から始めさせて観察する必要があるだろうから
そだね。
すんまそんw
壱からあらゆる原理が発生しているということか。
ついでに、前に君が紹介してくれたOSHOって本探した
んだけど、これ書店に置いてなかった。図書館にもなかった。
アマゾンで注文中。読んでみようと思う。
図書館にI AM THATという題名のインドの本があった
んだけど、これも同じ部類かな?
仏教哲学は、どういった本?
472 :
考える名無しさん:2007/10/06(土) 21:45:48 0
もの こと の理を説明してみてくらさい
イデアについて説明してみてくらさい
老子の道について説明してみてくらさい
473 :
一:2007/10/07(日) 00:36:47 0
>>471 I AM THATは読んだこと無いけどざっとググって読んでみた感じでは
壱思想とある部分似たようなこと言ってるっぽいね
よかったら読んでみてよ
仏教思想は俺もよく知らんけど
禅だったらOshoの「究極の旅」はおもしろかったかな
でも彼の本はほんとにインド思想や仏教思想を勉強したいならおすすめしない
一般的な教養として読みたいならその専門スレの人に聞いてみるがよろし
Oshoの本は勉強になるというよりはおもしろくて何か癒されるって感じかな
474 :
一:2007/10/07(日) 00:42:28 0
>>472 ものの理ってのはいわゆる物理のことかな
物体のふるまいにおける法則といったところか
ことの理ってのはなんだろね
形而上的なことにおける法則とか原理原則みたいな感じかね
イデアや道に関してはその専用スレで聞いてみるとよろし
475 :
一:2007/10/07(日) 01:10:34 0
ただ原理だとか法則とかいうのも
人間が四次元の思考の枠組を持つからその帰結として存在し発見されるのであって
宇宙人が十次元の枠組を持ってたらまた全然違う法則があるだろうし
魚や昆虫にはまた全然違った法則があるだろうし
我々の発見した法則というのが宇宙のデフォルトということはない
だから極言すれば人間がいなければ我々に知られてるどんな物理法則も存在しない
なぜなら人間がいなくなればこの世界をこのように把握する存在はいなくなるから
我々の見ている世界は純粋現象Xの一つの相にすぎない
我々の発見した原理や法則はその一つの相における原理や法則にすぎない
476 :
一:2007/10/07(日) 09:45:42 O
だから人間の意識下においてはどんな物理法則もカンケーない
なのでUFOや幽霊のような物理法則を無視した現象が時々知覚されるのだ
それもまた宇宙の一つの相
477 :
一:2007/10/07(日) 13:13:17 O
いろんな芸術のインスピレーションの源泉も
意識下での宇宙把握にあるのかもね
天才と狂気は紙一重だと言われるのも
一は(和風)ポストユンギアンなのかい?
本紹介してもらったもんだけど、
早速読んでみるわ。
それと、また間違えたw
仏教哲学じゃなくて、禅関係でおすすめ本なんかある?
と書いたつもりが、、、、
人の認識の枠を超えた話は全部戯言
遊びとしては楽しいね
かわいいね
481 :
一:2007/10/08(月) 01:04:30 0
>>478 なんなんだろうね
好きなようにレッテル付けてくれたらいいよ
俺は何だとも思ってない
酔っぱらいの戯言でも結構
実際そんなもんさ
>>480 照れるじゃないかw
482 :
一:2007/10/08(月) 03:40:41 O
私は認識できないことでもそれを想定して仮説を立てることができる
それができてしまう限り私はそれをやめるわけにいかない
なぜなら私は認識できる枠内の材料だけで自分の存在のあり様を
自分に納得させることがどうしてもできないから
認識できる枠内の材料だけで自分の存在のあり様を
自分に納得させることがどうしてもできないから
それを想定して仮説を立てることができる
↑って書き方はおかしいのかな?
自分に納得させることができない・・・
能力不足を補うための想像に頼った考え
それが思想なのかもしれないな
思想を持つのは弱さの現われ、か
485 :
一:2007/10/08(月) 09:43:41 O
どんな科学者でもまず直感から仮説を立てる
そしてそれが既知のものと整合性を持つかどうかを検証していく
なぜ仮説を立てるかというと既知のものではどうしても納得できないから
486 :
一:2007/10/08(月) 14:50:38 O
既知のものから未知のものを類推することが思考するということで
絶対に答えの出ないような問題を粘り強く考えることを愛することこそ本来の哲学
だから簡単に納得したり諦めたりしない人、
人がさっさと通り過ぎるとこでつまずき続けるような人が思想を持つ
あんこう鍋、美味しうございます
488 :
一:2007/10/08(月) 19:39:57 O
そりゃようござんした
もうそんな季節なんですなあ
肝は召し上がられました?
肝は油分多いから少ししかたべてないよ
490 :
一:2007/10/08(月) 19:53:58 O
そりゃヘルシーでますます結構なこってす
「壱」と「一」の中の人って一人なの?
492 :
一:2007/10/08(月) 20:28:20 O
一人だよ
別で「釣り(および指示)」とかしてないの?
494 :
一:2007/10/08(月) 20:40:13 O
してないよ
自然界はアートだな〜
色もそう
形もそう
配置もそう
すんばらし
鍋の季節か〜おいらはキムチ鍋が一番好きさ〜
はにゃー
497 :
考える名無しさん:2007/10/08(月) 22:45:02 0
不安や心配ってなんだろう?
499 :
一:2007/10/09(火) 01:48:01 0
>>495 最近美しいと思った自然って何?
それの何がどう美しかった?
>>497 最近不安や心配を感じたことって何?
それの何がどう心配だった?
500 :
一:2007/10/09(火) 02:42:45 O
一口に美しいと言ってもいろいろあるわな
俺の場合だったらこないだ釣ったソウダガツオが美しかったなー
ソウダって鱗があんまなくて表面がツルツルの銀色の魚なんだけど
釣り上げたとき朝日が反射してキラキラ輝いてほんとキレイだった
人間は基本的にキラキラ輝くものを美しく感じ有り難がる習性がある
古代の人が鏡に神秘的な魅力を感じていたのも同じ習性からだろう
この習性の源泉は太陽崇拝にあると思う
古代の人にとっては雨や嵐のあとの日光は実に有り難く神聖なものだっただろう
その名残として光るものを好む習性が残ってるんじゃないかな
501 :
一:2007/10/09(火) 02:58:19 O
不安や心配は期待感やワクワク感と表裏一体なものだと思う
未知の未来に対して何かしら期待すると同時に不安や心配が生まれる
期待がなければ不安も心配もない
逆に言えば不安や心配があるところには必ず何かしらの期待がある
502 :
一:2007/10/09(火) 16:40:28 O
また人間は
形や色はどうでも
とりあえず馬鹿でかいものを見ると美しいと感じるようにできている
高い山や深い谷、でかい滝や川、広い海や空
こういうものは世界中で信仰や崇拝の対象となってきた
じゃなんで俺たちはでかいもん見るとそんな風に感じちゃうんだろね
503 :
一:2007/10/09(火) 16:55:27 O
でっかい木が俺は好きだなあ
何かでっかい木見ると「うっ」てなる
気で負けるっていうかな
かなわねえっていうような気分になる
すいませんでしたと謝りたくなる
504 :
一:2007/10/09(火) 17:00:38 O
キレイな海潜って魚がたくさんいるのを見たときも同じような感じがしたなー
何か自分が入っちゃいけないような聖域に踏み込んだような感じ
申し訳ありません すぐ出ますんで みたいな気持ち
505 :
一:2007/10/09(火) 19:14:14 O
満天の星空のような巨大な情景を目の当たりにすると我々は
あー俺ってほんとちっぽけな存在だなーと感じる
時にはそれを超えてすっかり時間や自分を忘れることもある
言い換えれば巨大な情景を目の当たりにすると
自分の世界における意識上の自意識の範囲が狭まっていき
時にはその存在が無くなることさえある
506 :
一:2007/10/09(火) 19:29:12 O
さらに言い換えれば
巨大な情景を目の当たりにすると人格の意識や時間の意識は弱くなり
時には空間の意識さえ消えかかる
その辺に美しいと感じる情動の源泉がある気がする
もう少し考えてみよう
507 :
一:2007/10/09(火) 21:30:36 O
多分古代の人たちにとっては美しさと神聖さは一緒の感情だったんじゃないかな
「うっ」となって言葉を失って立ち尽くすそういう対象を崇拝するのは自然な感情だろう
508 :
考える名無しさん:2007/10/09(火) 22:16:22 0
自然の壮大さを目の当たりにすると一瞬思考がなくなる
我がなくなるような
純粋に純粋な自然に対しての反応が美なのかもな。
圧倒されて こりゃかなわねー的感覚も持ち上がってきて崇拝したり
したのかもな。
老子が無為自然を薦めているのは、それが本来個々の自然美だし
無理なく自然に進むからかもな。
葛藤もストレスもなく。
ゆうだいなしぜんにあっとうされる
それが先入観だとは、思わない
疑わない
疑いという意識を向ける対象としてみることができない
普通人たちの限界が垣間見れる事例のひとつだな
510 :
一:2007/10/10(水) 14:38:58 O
そういや射精するときも「うっ」てなるよね
古代では男根女陰も崇拝の対象であった
セックスの時も盛り上がると人格や時間や空間の意識が弱くなる
511 :
一:2007/10/10(水) 15:02:48 O
美を感じ感動するとき人間は「うっ」となり言葉を失う
次いで歓喜とも安らぎともつかぬような感情が静かに溢れだす
一方そのとき同時に人間は人格や時空の意識が薄れている
ここから
人間には人格や時空の意識が薄まると何かしらの快感を覚える習性がある
と一応推測できる
ではなぜ人間は人格や時空の意識が薄まると何かしらの快感を覚えるのだろう?
512 :
一:2007/10/10(水) 15:09:27 O
その理由にこそ
美が美たる所以
人間を感動させる力の源泉
つまりは美の正体が隠されている
と一応推測できる
513 :
一:2007/10/10(水) 23:24:22 O
私のとりあえずの仮説はこないだもちらっと書いたが
先祖帰りの本能が人格や時空の意識の弱まった人間に快感を感じさせる原因
というものだ
人間は常日頃帰りたいなーと無意識のうちで思っている
何の問題もなく存在していたあの頃に帰りたい
巨大な情景や偉大な芸術に出会うと人間は一時的にあの頃の存在の仕方に帰れる
だからその時欲求が叶うので快感を感じる
514 :
一:2007/10/10(水) 23:31:28 O
海辺でぼーっとして波の音に身を任せてると不思議と
我が家に帰ってきたかのような安堵感に包まれるものだ
海は我々の故郷
我々は心の奥の方でいつも海に帰りたがってる
515 :
一:2007/10/11(木) 00:30:30 O
じゃなぜ人間は帰りたがってるのか
それは本能が猿から人間への進化をやべっなんかまずいぞと気付いてるからじゃないか
前にもちらっと書いたが微生物は異常な進化を遂げると何世代かかけて元に戻ろうとする
人間の意識下にそういう意志があったとしても不思議ではない
何よりもこの何千年かの人類の体たらくを見れば
人類が地球にふさわしい生物じゃなく
いなくなった方が地球にとってはよっぽどいい存在であることを証明してるようなもんだw
516 :
一:2007/10/11(木) 00:34:53 O
だから多分自然に対してすいませんっていう気持ちが生まれる
自然に対する畏敬の念の源泉もここにあるのではないだろうか
517 :
一:2007/10/11(木) 12:03:43 O
老子やルソーが自然に帰りたがるのもその回帰衝動の現れ
セックスしたがるのもその回帰衝動の現れ
何か気疲れしたとき海とか川に行きたくなるのも
518 :
一:2007/10/11(木) 12:45:37 O
だから色や形がすばらしいから自然が美しいというより
自然そのものが既に美しい
美しい海とは自然そのままの海のこと
醜い海とは人の手の加わった海のこと
やばい方向に走り始めたな
韋駄天二号の誕生か?
人間だって死ねば自然に自然と還るだろ。
動物だろうが植物だろうがそうだろ。
人間も自然界の1部なんだからその自然界の1部が手を加えたからといって
不自然(醜い)となるだろうか。
ある意味、それも自然だと思うんだが。
521 :
一:2007/10/12(金) 04:48:36 O
まあ言いたいニュアンスはわからんでもないけどさ
より大きな視点から見れば人間の所業もなるほど全て自然
まあそれはそれとしても人間は通常の目線においては自然不自然や美醜を感じてしまう
それは何故かと今考えているわけなんでがす
522 :
一:2007/10/12(金) 06:40:22 O
なので人間の深層意識には
自分たち人間の子孫繁栄を望む意志と
人間以前に回帰しようとする意志とが
微妙なジレンマをかかえながら混在していると考えられる
523 :
一:2007/10/12(金) 06:50:32 O
その辺が人間が自分がやりたくてやったことを
不自然で醜いと感じてしまうという矛盾の原因なんじゃないかな
自分の思想に酔い始めてるぞ
もう少し冷静になってよく考えろ
525 :
一:2007/10/12(金) 15:27:55 O
あいすみません
じゃちょっと慎重に考えてみようかな
自然が美しいのはいいとしても
人間が作ったものでも我々は美しいとか醜いとか日々判断している
その判断の違いはどこから来るんだろう?
526 :
一:2007/10/12(金) 17:00:20 O
例えば美しい字と汚い字を我々は何をもって判断しているのだろうか
お手本に近いかどうか?
ではなぜお手本の字は美しいとされるのだろう?
527 :
一:2007/10/12(金) 17:30:38 O
お手本の字はたいがい均整がとれている
字の外側をなぞると円や三角形などの幾何学模様になることが多い
じゃなぜ人間は均整のとれたものを美しいと感じるのだろう?
DNAに記憶されてんじゃね?w
529 :
一:2007/10/12(金) 19:04:56 O
もしそうだとしたらどういう意図をもってそれは書き込まれたんだろ?
音楽からいえば我々は不協和音より和音を美しいと感じる
それは和音の方が周波数の均整がとれているからである
何故均整がとれている方がいいんだろう?
530 :
一:2007/10/12(金) 19:10:09 O
野の花もまたたいがい均整のとれた形をしている
円曲線や放物線や等辺三角形の組み合わせで形が構成されている
531 :
一:2007/10/12(金) 19:18:06 O
何かしら我々には整ったものを好む習性がある
またごちゃごちゃしたものをキレイに整頓すると快感を感じる習性がある
532 :
一:2007/10/12(金) 19:31:02 O
花は何故美しいのだろう?
まさか人間に愛でてもらうためにおしゃれをしてるわけじゃあるまい
やつらは虫をひきよせたいんだろう
だから甘い香りを出し蜜を用意しカラフルに装う
それは花粉を運んでもらって受粉させ子孫を作りたいが為だろう
533 :
一:2007/10/12(金) 20:04:48 O
回遊魚の流線形の美しいフォルムは
長距離を省エネで泳ぐ為に試行錯誤した結果ああいう形となるに至ったのだろう
そうしたい為というより、たまたまそうした状態があって
それだと種が続いたからってだけじゃ?
種が滅しそうになったら勝手にたまたま進化して種を残す形となったってだけ。
例えば、タンポポなんかは鳥が食べるような実をつけず種が色んな所に落ちない。
そこでたまたま遠くまで勝手に飛びあらゆる所に種が飛ぶ綿毛というシステム(?)
で残っている。
種の保存はあらゆる生物の本能、、、というよりもっと深い部分で組込まれて
いるんじゃ?
自然界のアートについては、その形(均衡のとれた)だと、たまたま崩れにくく
バランスがよかった(残りやすい)。
こういったことに対して人が美を感じるのも、人間自体自然の1部なんだから
(人間も大体対に割れて均衡がある)、自然界DNAが続いていく上で便利
だから、たまたまそうなってんじゃね?
そして自然界DNAを持っている人間が美を感じるのも元々あるものと
一致するため、『快』のような感覚があるんじゃ?
、、、と主観で言ってみたw
535 :
考える名無しさん:2007/10/12(金) 20:11:28 0
こういった思想を持つと、日常生活で支障きたさない?
こういった思想をまだよく理解できていないので
詳しくつっこめないけど、、、
それと、一は喜怒哀楽はある?
あっても、それにとらわれることはないとすれば
人からものすごく理不尽なことをされたとしても
なんともないの?
幼稚な質問ですまそ、、、
536 :
一:2007/10/12(金) 23:52:34 O
生命には多分周りの環境においてより効率良く生きていきたいという欲求がある
効率の良いフォルムを求めていくとそれはたいがい均整のとれた形に行き着く
一流アスリートのフォームもまたそういう努力の結晶であり
それらは大抵均整がとれており無駄がなく美しい
537 :
一:2007/10/12(金) 23:57:00 O
より効率よくなりたいという本能的欲求があるので
均整のとれた無駄のないものを見ると「快」を感じ
バランスが悪く余計なものでごちゃごちゃしたものを見ると「不快」を感じるのかもね
538 :
一:2007/10/13(土) 00:01:54 O
だから多分富士山見ると感動するんだろうなー
抜群に均整がとれていてさらに巨大でありかつ自然だからね
美の三連コンボ
相当つえーぜ
539 :
一:2007/10/13(土) 00:16:53 O
>>534 種の保存の欲求は個体の生存本能よりさらに深いとこにあると私も思う
じゃあその種の保存を欲求している主体は一体誰なんだろう?
壱思想はそれもまた君に他ならないと考える
540 :
一:2007/10/13(土) 00:26:48 O
>>535 特に支障はないし喜怒哀楽はあるし嫌なことされたら腹立つよ
何でそう思ったの?
541 :
一:2007/10/13(土) 00:36:30 0
まあとらわれないっていうのは
怒りを感じてもそれを感じないようにするって意味じゃなく
本来なら時間がたてば怒りの情は自然と減少していくところを
いつまでもこだわって怒ろう怒ろうとしようとしない
怒りの情にしがみつかない
って感じかな
万物の本性は変化にあり、それは感情も例外ではない
どんな感情も継続することはなくそれは瞬間瞬間に変化している
その流れに身を任すのがとらわれないという表現で俺が言いたかったこと
535です。
インド系の書籍を読んでいたら
聖者という者が解いている文があって、そこに
「感情も性格も人格もないのだ。それを超越している。そこには
感情性格人格感覚さえもないのだ。」と書いてあって、それを読んだ
時、理解できず、これって人間か?と思い、もしや一もそうなのか?
と思い聞いてみただけです。
543 :
一:2007/10/13(土) 18:32:02 O
一としての私には喜怒哀楽があるけど
壱としての私には人格も思考も感情も感覚もない
私は重層的に構成されている
人格としての私
動物としての私
種としての私
生命としての私
壱としての私
どれも私
544 :
一:2007/10/13(土) 18:35:29 O
そして壱としての私が私の存在の核心で
一としての私は私の存在のほんの表層を形成してるに過ぎない
545 :
一:2007/10/13(土) 18:50:04 O
一としての私や動物としての私は私の肉体が死ねばいなくなる
種としての私は人類が滅びればいなくなる
生命としての私は地球上の生命が絶滅すればいなくなる
でも壱としての私は宇宙がどんなことになろうとも不滅
そういうものが私の核心
546 :
一:2007/10/13(土) 19:01:02 O
だから言って見りゃ誰だって聖者であり悟達者なんだよ
誰だって存在の核は壱なんだから
誰だって壱としては人格も感情も感覚も超越してるんだから
それをさも稀有なことのように語るのがインド人や禅僧の悪い癖だね
>稀有なことのように語るのがインド人や禅僧の悪い癖
一ちゃん、すごいな。
均衡のとれた人生とはどんな人生だろうか?
表層にあるものこそがその存在の核心となる、とする考え方も在り得る
そもそも、何にとっての核心なのかを、はっきりさせもせず、よく語るものだな
本質的な核心だとでも言うのだろうか?
だとしたら本質的な核心などに、どれほどの実効的意味があるというのか
軍隊で所属を言うように言われて地球と言う様な奴は首だ
550 :
考える名無しさん:2007/10/14(日) 03:06:40 0
私は地球市民。
551 :
一:2007/10/14(日) 03:27:40 0
>>547 一休さんもこんなこと言ってるよ
釈迦といふいたづらものが世にいでておほくの人をまよはすかな
552 :
一:2007/10/14(日) 03:29:27 0
>>548 どんなんだろね
バランス良く無駄のない人生ってことだから
自給自足生活みたいな感じの人生かな
553 :
一:2007/10/14(日) 03:47:19 0
>>549 どっかでも書いたけど
なぜ私が人格としての自分を表層にすぎないと表現するかというと
人格が私の存在の絶対条件ではないと考えるからである
人格なしでも私は存在し得る
例えば何かに夢中になって自分をすっかり忘れてたときでも私は存在している
また寝てても気絶していても生存本能としての私は常に活動している
ここから
生存本能としての私の存在の仕方は
人格としての私の存在の仕方よりも
私の存在性のうちで主要な役割を果たしていると推測できる
まずここまでで異論があればどぞ
554 :
一:2007/10/14(日) 04:16:25 0
ものごとの本質や核心を考えることを愛することが哲学
実効的意味とやらがあろうがなかろうが
555 :
一:2007/10/14(日) 11:51:31 O
また私の人格は片時も一定せず常に変化し移ろいゆくが
私の生存本能は意識がどうなろうと常に同様に働いている
ところでものごとを観察するとき人間は普通
しょっちゅう変わる性質よりもいつ観察しても変わらない性質の方を重要視する
>しょっちゅう変わる性質よりもいつ観察しても変わらない性質の方を重要視する
同意。普遍的なものに吸い寄せられるように。
重力みたいなもんかな。
そしてそれは元々備わっている生物の資質みたいなもんかも。
と思ったことが俺もある。
557 :
一:2007/10/14(日) 17:00:15 O
そのもともと備わっている資質が私の根であり
人格は私の葉
その木全体が私
558 :
一:2007/10/14(日) 17:11:22 O
君も私も生命という大木の一枚一枚の葉っぱ
葉っぱが散れば我々の人格は消えてなくなるけど根は残る
だから根っこにおいては君も私も一緒で区別できない
壱とはその生命という大木をつき動かすエネルギーそのもの
559 :
考える名無しさん:2007/10/14(日) 17:21:21 0
そして木はいつか枯れる。
560 :
一:2007/10/14(日) 17:34:19 O
そう
そして木が枯れても壱は残る
561 :
考える名無しさん:2007/10/14(日) 18:52:01 O
何がいいたい?
562 :
考える名無しさん:2007/10/14(日) 19:13:04 0
ちんこは勃起したりしおれたりを繰り返すものであるということだ。
しおれたからといってちんこがなくなったわけではない。
ちんこは永遠だ。
563 :
一:2007/10/14(日) 19:56:16 O
564 :
一:2007/10/14(日) 20:09:06 O
>>562 ちんこが勃起したりしおれたりするのは現象であり
壱はその現象を引き起こす力そのもの
だからちんこが永遠なのではなく壱こそが永遠
何をしたらよいのかわからず職を転々と変え新しいことは慣れるまで
大変なエネルギーを要すから いつも落ち着かず疲れている人。
親や世間の目を気にして親や世間的によさげと思われる職に就き、自分で
好きでとかやりたいからという動機で選択しなかった職のため、やる気もなく
つまらない・苦しいと感じる仕事をただただしている人。
どちらがいい?または、どっちもどっち?
世間を見渡すと、こういった人々が多い気がする。
566 :
一:2007/10/14(日) 21:25:58 O
どっちか選べといわれたら俺は最初のやつの方がいいな
同じ辛い生活でもまだ変化があった方が気が紛れるし
そのうちいい職場に巡りあうかもしんないし
567 :
一:2007/10/14(日) 21:40:59 O
新しい環境に慣れるのにすごい疲れる人と何ともない人といるよね
何が違うんだと思う?
568 :
一:2007/10/14(日) 23:29:31 O
大体一番疲れるのは人間関係だわな
俺も小四のときに転校したときとか疲れたなー
周りの空気を読まなきゃいけないし
でもナメられないようにしないといけないし
でも思えば小三のときも転校したけど悩んだ記憶は全くない
569 :
一:2007/10/14(日) 23:35:01 O
多分それはまだ小三のときは自意識がほとんどなかったからだろう
自分がどういう人間であるかとか
人からどう見られたいかとか
そういう意識が気疲れを生む
570 :
考える名無しさん:2007/10/14(日) 23:41:39 0
571 :
一:2007/10/14(日) 23:42:33 O
だから自分を大切にすればするほど気疲れは増える
自分を守る最高の手段は外部との接触を絶つことだ
自分を大切にしろっていう今の世の中のスローガンがニートを作り出したのかもよ
572 :
一:2007/10/14(日) 23:54:11 O
自分なんて忘れちまった方が何かといい
こだわらずに何でもあれこれやってみればいい
個性は守るものでも探すものでもない
ふと振り返ったときに来た道があなたの個性でありそれ以上でも以下でもない
そんな風にわたくし思います
くだらねぇ
本質や核心考えることを愛するとかいいながら
本質や核心の定義を考えたことがないだろ
お前
いつ観測しても変わらない部分を重視する、ってのも
きちんと理由を考えた上でのことなのか怪しいね
思考が浅いぜ
くだらねぇと言いつつ、見てるアホもいるんだなw
ところで、生物について調べていたんだが、
今まで生物植物には雄と雌が必ずいると思っていたが
そうでもないらしい。
雄なしで雌のみが卵を産む例もあるし、雄なしで実がなる
植物もある。
遠い昔は、雄も雌もなかったのかもな。
とスレ違いな余談ですた。
575 :
一:2007/10/15(月) 01:37:43 O
多分最初はアメーバみたいに自分を分裂させて種の保存を図ってたんだろうね
ところがある時偶然二つの生命体がミックスされた次世代が誕生し
そいつがすげー強かったんじゃないかな
二つの生命体で遺伝子情報を補完しあった方がより優秀な次世代を生めることに気付いた
それで雄雌に分かれるようになったのかもね
何万年後かには第三の性が現れ3Pがデフォルトになったりしてw
576 :
一:2007/10/15(月) 01:46:31 O
577 :
一:2007/10/15(月) 03:44:24 O
>>570 そうだね勃起の原因は海綿体における血液の充満だ
その充満の原因は脳からの指令
その指令の原因は・・・とどんどん辿っていって最後に辿り着くのが壱
>>574 >遠い昔は、雄も雌もなかったのかもな。
あえてその部分をこのスレの壱的なものに少しは関係させるとしたら、
ヘルメス学やグノーシス主義では、至高神とか一者とか呼ばれる存在は、
両性具有だと考えられていました。あるいはグノーシス主義の神話では、
天上界プレローマというのがあって、そこに住む神的な存在アイオーン達は、
男女一組になっていたのだけど、この神話は根源的存在の両性具有性を象徴していると思います。
プラトンも根源的な存在は両性具有であり、それが理想だと「饗宴」でいってた。
あまり壱思想とは関係なかったような気がしますが。
通りすがりにすこしこのスレちょっと見て、
横からレスいれてみたくなっちゃったのでありました。
それではさようなら♪
壱と一は同時進行の状態でいるの?
それとも、壱と一を行ったり来たりする状態なの?
禅僧とインド人の一揆がはじまりました
581 :
考える名無しさん:2007/10/16(火) 13:01:14 0
オートポイエーシス万歳
582 :
一:2007/10/16(火) 17:23:00 O
>>578 自分が両性具有ないし一性だった頃の記憶がDNAに書き込まれてるのかもね
神話の時代の人々は今の人と全然違う思考経路でそのことに気付きそれを表現した
583 :
一:2007/10/16(火) 17:28:37 O
>>579 同時進行といえば同時進行だね
一は熟睡してるときや気絶したときや夢中になったり圧倒されたりすると消えるけど
壱としての私は常に存在する
電波伝播
失礼します。
>>579>>583 私見では、一と壱は、同時進行とか、そういう生理的な現象で計れる区別というよりも、
「同じ存在の別の様態」という感じがしっくりくるのですがどうでしょうか。
一は、時間や空間の中で表現された壱(のなかの一さんという部分)。
壱は、時間や空間の中で表現される以前の宇宙。
この場合、以前、というのは、時間的な意味での以前ではなく(なぜなら時間以前にある状態だから以前には過去的な意味は含まれない)
もっと根本的な意味の以前であって、つまり時間も空間もない永遠の状態という意味で。
それで、時間や空間の中で表現されていないのだから、空間的に他の何かと分かれてはいないし、
時間的な変化の中にもおかれていない。
分かれていないし変化もないから、壱は一だけでなく宇宙全体を含んでいて永遠に壱は壱のまま。
同時進行といえば同時進行でも、その場合の同時にも時間的な意味での同時ではない。
だから同時進行ともいえるけど、なんとなく同じものの別の(永遠的/時間的)様態というような表現の方が個人的にはいいかなと。
この宇宙の、永遠的な姿が壱であって、時間以後にある姿のなかの一さんという部分が一であるというような。
意味不明でごめんなさい;
586 :
一:2007/10/17(水) 04:27:26 0
そうだね
壱と一は別の視点からとらえた同じ存在(=私)とも言えるかな
一は時間や空間の枠組からなる理性から見た
時間や空間の枠組からなる理性を持つ私で
壱は時間や空間の枠組からなる理性から推測するところの
時間や空間の枠組を超えた思考も身体も個別性も持たない私
その壱としての私はこの宇宙のあらゆる現象を引き起こす
587 :
一:2007/10/17(水) 04:31:04 0
壱思想に似た書籍紹介
壱思想に至った経緯
何故、壱思想を表に出そうと思ったのか
サイトに載せるといいかもしれない。
個人的には、ある程度主題ごとにまとめてみて、
まとまった長さの文章を載せていくのもいいと思われます。
590 :
一:2007/10/17(水) 18:47:52 O
>>588 そういうのよく聞かれるしFAQとしてまとめよっかな
>>589 そーねもう少ししたら各テーマの頭のとこにまとめの文章を入れとくわ
おぉ!サイト作ったんだ!
早速見てみるわ
593 :
一:2007/10/18(木) 01:58:10 0
>>591 作ったっつーかちょっと整理しただけだけどね
まあまた気が向いたら充実させてこうかなと思います
>>592 thx
594 :
一:2007/10/18(木) 17:24:30 O
調べたら日本神話の最初の方の神々も性別がないらしい
何か興味でてきたので古事記の文庫を買ってきた
壱思想的解釈を披露することになるかもしれないのでお楽しみに
楽しみに待ってまっせー
596 :
一:2007/10/20(土) 05:02:23 O
日本人は何となく
あらゆるモノに神が宿っていると考えている
それが自然のモノであれ人間であれ人工物であれ
まあ西洋にもずっと汎神論はあったわけだけど
じゃあそのカミってなんなんだろう?
597 :
一:2007/10/20(土) 05:14:04 O
キリスト教で神といえばこの宇宙を創った主体のことをいう
本居宣長は何か尋常じゃない徳を持つ恐れ多いものをカミと言うのだと言った
598 :
一:2007/10/20(土) 05:31:19 O
ところで壱思想では万物に壱が宿るとされる
万物は常に変化しその変化の原因は壱だから
599 :
考える名無しさん:2007/10/20(土) 06:27:31 0
>>597 本当は世界の全てが尋常じゃない徳を持っているのだが、世界全体がそうなので
中々気がつけないのだよ。
日本には水が沢山あるから水の有り難味が分からないというのと同じこと。
砂漠に住んでいる人はこんなに水をバンバン使って垂れ流すことはないだろう。
風邪ひいて寝込んだw
見てないうちに結構進んだんだな。
ところで、効率的効果的な人生とはどういった人生なんだろうか?
効率的効果的な生き方とはどういった生き方なんだろうか?
これ考えると色んな視点があるんだけどさ、
一からすれば自己満足がキーワードとなり
壱からすれば無為自然がキーワードとなるんだろうか。
601 :
一:2007/10/20(土) 20:08:34 O
>>599 赤ん坊にとっては世界は尋常じゃなくヤバいだろうね
尋常じゃない徳というと話がちょっとややこしくなるので
私はとりあえず日本語のカミをこう定義したい
カミとは人間業を超えた現象を引き起こす力を持つ者の呼び名である
602 :
一:2007/10/20(土) 20:15:15 O
古代の人にとっては暴風や雷(神鳴り)は恐ろしいものだったろう
こういうものを引き起こすのは人間業を遥かに超えた力であり
その力を持っている者がいるはずだということでそれをカミと名付け
それが風神雷神信仰となったのだろう
603 :
一:2007/10/20(土) 20:25:49 O
>>600 何をもって効率的とするかは何をもって人生の目的とするかで変わるだろね
子供作っていい子に育てるのが人生の目的と考えるなら
それにふさわしい生き方があるだろうし
とにかく稼いで財を成すのを目的と考えればまた全然違う生き方があるだろう
また何にも目的がなけりゃあ効率も無駄もない
604 :
一:2007/10/20(土) 20:48:20 O
>>602続き
だから日本では人並み外れたことをすれば人間でもカミと呼ばれる
2ちゃんでもたまにネ申を見かけるしw
これはキリスト教徒にはない発想だろう
605 :
一:2007/10/20(土) 21:21:40 O
なので日本の神道はキリスト教や仏教のように人々を救う為にあるのではなく
ただ神々をおマツりするためにある
そこら辺はもう日本人にもよくわからなくなってきてる
本来日本のカミはお願い事したり見守ってくれたりする対象ではない
恐れ多いのでおマツりしてあんまり暴れたりしないでくださいと祈る対象なのだ
606 :
一:2007/10/20(土) 21:58:11 O
本来神社は神々を讃えるために建てられるわけではなく
神々に清浄な社に住んでもらって気分よくなってもらって
機嫌悪くして人間に祟ったりしないようにというので建てられる
607 :
一:2007/10/20(土) 22:17:50 O
よく人が悲惨な目に合うとこの世に神や仏はいないのか!などと言うが
そこには神=善という一方的な希望的信念がある
神道のようにカミは善悪にカンケーなく存在してると考えた方が
まだこの人生や世界の実情に則しているように私には思える
宗教スレと化してきましたw
609 :
一:2007/10/20(土) 23:02:55 O
またそのうち壱に戻るから御安心を
カミと壱はGODと壱よりは概念として近い
610 :
一:2007/10/21(日) 02:41:13 O
大体全知全能の創造主であるところの神様が
私達を何らかの使命を与えてこの世に誕生させ
常に見守ってくれているし辛いときは助けてくださる
みたいな幼稚なおとぎ話が西洋において2000年近くも信じられてたのが驚きで
そういう存在がいないとわかっただけで神は死んだなどと騒ぎたて苦悩する様を見ると
こちらとしてはお気の毒さまですとしか言い様がないわな
611 :
一:2007/10/21(日) 02:55:13 O
まあ日本人も昔は悪いことするとお天道さまが見てますよなどと言ったものだが
それは子供向けの方便とでも言うべきもので
実際に社会の道徳の規範になってたのは
人に迷惑になるようなことはしちゃいけないという至極真っ当でリアルな知恵
まあそれも崩壊しかけてる感じもするけど
612 :
一:2007/10/21(日) 03:02:25 O
日本の思想家でお天道さまは死んだ!お天道さまなんてほんとはいなかったんだ!
などと苦悩した人などいないw
いても笑われただけだろう
それだけ考えても我々の方がリアリティある世界観を持ってたといえる
613 :
考える名無しさん:2007/10/21(日) 04:33:17 0
日蝕の時は衝撃を受けたかも知れんね。
1183年、源氏と平家が戦をしてるとき、突然日食が起こって、
源氏軍はあわてて混乱して乱れる中、
平家は、日食がくるのを知ってたから有利になって、
冷静に源氏を攻めた、
平家は全体的に負けていたけどこのときの戦だけは勝った、
ていう話があります。
スレ違い失礼。
4千年まえの中国では、ある町で突然日食が起こって、
町中大騒ぎになって、小役人たちはあちこち走り回り、楽師たちは太鼓を叩き回り、
みんなおそれおののいて、めちゃくちゃになって、
役所の方では天子(いちばんお偉いさん)がその大混乱に怒って、
天子は、天文官二人を、天気を予報できなかった罪で、処刑した、
ていう話もあります。
615 :
一:2007/10/21(日) 17:39:16 O
再来年に結構深い日食が見れるらしいじゃん
どれぐらいヤバい感じなのか楽しみだな
ざっと読ませていただきました。
ここで言う
壱思想・・・プラトンの国家で出てきたトラスュマコスに似てるのかな?と。
通りすがりの者ですが、またのぞいてみます。
それでは。
617 :
一:2007/10/21(日) 22:56:05 O
どの辺がどう似てんの?
レオナルド・ダ・ヴィンチ天才だよなー
619 :
一:2007/10/22(月) 01:53:49 O
だから神道は宗教と言うべきものではないと思う
言うなればそれは宗教以前の古代思想である
神道には教祖がいないし経典もないから教えがそもそもない
神道には信じるか信じないかという信仰の有無という問題はない
人間業を超えた力(カミ)に対して畏怖の念を持つかどうか
そしてそれをマツるかどうかという態度の有無のみが問題となる
信じる信じないの前に人間業を超えた力(カミ)はすでに自明のものとして存在するのだ
カミが存在するかしないかは全然問題になってないのだ
620 :
考える名無しさん:2007/10/22(月) 02:22:02 0
巨木だの雷だのも日本では神様だからな。人もそうだし。
目の前にあるものをないと思えという方が無理だ。
621 :
一:2007/10/22(月) 02:46:15 O
そだね
太陽自体が天照大御神なのだから
それが存在しないわけがない
622 :
一:2007/10/22(月) 03:04:06 O
>>596に戻る
では我々があらゆるものにカミが宿るというときのカミとはどういうものだろう?
例えば巨木や狐や鹿にカミが宿るというとき我々は何を表現したいのだろう?
私にはそれは
何かしら人間の認識では理解しがたい不思議な力が木や動物に満ち
かつ働いているというようなニュアンスを持っているように感じる
つまりこのような文脈においては
カミとは人間の認識を超えた不思議な力というような意味合いを持つ
623 :
一:2007/10/22(月) 03:12:14 O
私の持っている壱のイメージはそういう力のイメージに近い
壱は巨木や狐や鹿やあらゆるものに満ちている神妙な力
その力こそが万物の変化の原動力であり宇宙存在の根本原因であり私の存在の核心
>>623 だーかーらー、わってるって。
万物の変化の原動力に原理があればおもしれーよなー的
会話がしたいっす。
625 :
一:2007/10/22(月) 22:58:24 O
宇宙が俺らの知ってるものだけじゃなく他にもいっぱいあると想定すれば
壱の原理について考えることもできるかもね
まあ実際宇宙は一個しかないと決まったわけじゃないしな
あらゆる宇宙に共通して見られる振る舞いがあればそれが壱の原理といえる
626 :
一:2007/10/22(月) 23:06:55 O
あるとしたらどんな原理があるだろうねぇ
あらゆる宇宙が膨張しているのなら
壱には宇宙を常に膨張させるという原理があるかもなぁ
627 :
一:2007/10/22(月) 23:22:31 O
またあらゆる宇宙で万有引力が観察されるなら
壱は常に引力を引き起こすという原理を持つのかもしれない
そのくらいまでしか俺は想像つかないな
628 :
一:2007/10/23(火) 00:32:49 0
朱子学では宇宙の根本は理と気だとされる
理とは法則で気とは運動エネルギーであるから壱は概念としては気に近い
朱子学は気が従で理が主とされ理が気を秩序づけるとされる
そして理を究めて行くことによって人間は聖人に至るとされる
こういう思想はプラトンのイデア説にも似てるといえる
その根底にはこの世界には人間には普通は理解できないような
高次な原理が隠されているという信念がある
言い換えれば人知を超えた叡智が宇宙には隠されているという信念がある
壱思想にはそういう信念が無い
宇宙はただたまたまこうなってるだけ
理というのはただの人間による一つの解釈にすぎない
どっちがリアリティがあると思う?
629 :
一:2007/10/23(火) 04:54:52 0
だから壱思想は理より気を当然重要視する
ていうか原理とか法則とかは宇宙に内在してるものじゃなく
人間の理性の中に思考の枠組として存在しているのであって
その理性という色眼鏡をかけて宇宙を眺めるから
宇宙に原理法則が存在するように錯覚を起こしているだけなのだ
だから極端な言い方をすればこの宇宙に原理法則など一つも存在しない
原理法則が存在するのは君の頭の中だけ
630 :
一:2007/10/23(火) 05:37:05 O
その理性という色眼鏡をとった時にあるであろう宇宙がカントの言う物自体であり
私の言う純粋現象Xであって
それはカントも指摘するように認識不可能である
631 :
一:2007/10/23(火) 18:28:02 O
理を主とし気を従とする思想では当然の帰結として
万物の中では理性を持つ人類が一番偉大だということになる
日本人にはこういう思想はどうも馴染まないしピンとこない
我々はどっかで草木も虫も犬猫も俺らと一緒じゃねぇかと思ってる
632 :
一:2007/10/23(火) 18:42:05 O
いや一緒どころか逆に自然やモノに敬意を払うことが多い
太陽はお日様であり米はお米である
何しろ将軍が犬をお犬様と呼べという国だ
633 :
一:2007/10/23(火) 18:49:44 O
地震や台風が多いのもそういう思想が形成されてきた一因かもね
人間の力なんて自然を前にしたら実に小さく弱いもんで
いろんな自然とかのお蔭様で何とか生かしてもらってるようなもんでさぁ
だからお日様ありがとうございます
お米様もありがとうございますとなる
レオナルド・ダ・ヴィ「一」
635 :
一:2007/10/24(水) 00:01:12 O
>>634 ありがとうございます
何にでもありがとうございますと言いなさい
と私のひいひいおじいさんはよく言ってたらしく
ある日石にけつまづいたときにありがとうと石に言ったら
それを見てた女中があら石にまでお礼していると言って笑ったそうな
636 :
一:2007/10/24(水) 01:23:20 O
だから日本人にしたら進化論を聞かされても特に抵抗がない
あ〜そんなもんかもな〜てくらいなもん
理性主義者にとったら自分の先祖が猿と言われるのは到底納得できない
人間は神に最も近いものとして神様がお造りになったものなはずだから
637 :
一:2007/10/24(水) 03:36:18 0
感謝の念を有難うと表現するというのが私は面白いと思う
有難いとは字義通りに読めば滅多に存在しないというような意味であろう
ではその稀少な存在とはなんだろうか
私はそれはカミだと思う
太陽は人間業を超えた存在であるからカミであり
カミであるが故に有難いのだ
他人が自分に対して何かいいことをしてくれたとき
人はその他人にカミを感じ有難うと表現する
少なくとも最初の方はそんな感じだったんじゃないか
私のひいひいおじいさんは万物にカミが宿っているのを感じ
だからこそ石ころにも有難うなのだ
638 :
一:2007/10/24(水) 03:47:27 0
逆に言えば日本では有難いものなら何でもカミなのだ
だからゼウスという概念が入ってきたときも
何かい?そんなにそのゼウスさんてのは偉いのかい?
じゃあゼウスさんも神さんだぁな、と簡単に受け入れてしまう
七福神なんかも元はヒンズーの神様だし
639 :
一:2007/10/24(水) 03:54:18 0
自分の女房をカミさんと呼ぶのも語源は同じじゃないか
有難いからカミさんなのだ
カミの語源はいろいろな説があるみたいだけど
上下のカミじゃないかなと私は思う
640 :
一:2007/10/24(水) 04:46:10 O
ざっとググったらいろんな説があるんだな
見てたらやっぱ上下説よりアイヌ語のカムイ説の方が正しいような気がしてきた
カムイはクマとも同語源で隠れてて滅多に見れないものという意味があるらしいので
641 :
一:2007/10/24(水) 15:01:13 O
壱思想もまた人間を特に偉い存在とは考えない
万物は壱による現象という点で平等であり兄弟である
万物皆兄弟
万物皆兄弟 万歳!
スレ違い甚だしいのを承知で相談させてください。
以前、このスレをたまたま見つけてから見ていました。
皆さんが言っていることは僕はよくわかりません。
僕は現在高校生で特に勉強したい分野もなりたい職業も全くわからず
自分が何を好きなのかもわかりません。
大学に行くことに決めて行くのですが、勉強もそんなにしていないのですが
推薦で簡単に受かって行くことにしました。
ただ、自分が何が好きなのかも本当にわからず勉強したい分野も就きたい職業も
わからず、これから先のことが全く見えず想像すらできません。
僕は生きている価値はあるんだろうか?と思ってしまいます。
何かアドバイスをいただければありがたいです。
644 :
一:2007/10/25(木) 03:30:14 0
んーまあ一言で言えば、それで何の問題もないと思うな
以下アドバイスになるかはわからんが思ったことを適当に書いてみます
今君が君の辿ってきた人生をよーーーく振り返ってみて
自分がどういう性向や適性を持っているのか全くわからないのであれば
そんな君が君自身なのであって君はそれ以上でも以下でもない
その君以外に君はいないのだから探しても他に見つかるはずがない
君が君自身の性向や適性を知る手がかりは君の過去にしかない
やってみなけりゃ何事もわからない
何を勉強したいか知りたければ
かたっぱしからいろいろ勉強してみるしかない
どんな職につきたいか知りたければ
とりあえずどこでもいいからバイトしたり就職してみることだ
向いてないと思ったらどんどん転職したらいい
その後自分の辿ってきた道を振り返ってみたときに初めて
自分の性向や適性が見える可能性が出てくる
またもしあらゆることをやってみて迷走しまくったあげく
全く自分が何をしたいのかわからないまま死んだとしても
それでいいじゃないか別に
そんなのもありさ
俺の人生もそんなもんだ
645 :
一:2007/10/25(木) 03:49:17 O
自分がどういう人間だかわからない方が逆に私は自然だとさえ思う
なぜなら自分の人格を形成してきた過去を注意深く想起すればするほど
それは実に混沌としており矛盾に満ちていることがわかるからだ
大体が世間が称賛するところの「自分をしっかり持ってる人」というのは
単に思い込みが激しいだけな人の場合が多い
だからあんまり気にしないこった
646 :
一:2007/10/25(木) 04:14:26 O
私はだから逆にもう自分がどういう人間であるかはあまり興味がない
考えてもわけわからなくなるからね
思い込みを捨てて常にニュートラルな状態にいたいと思っている
それでその時々で興味があることにとりあえず飛び込んでみる
そうするとまた意外な自分を発見したりするしそれもそれで楽しいよ
私は大学中退してからもう七回も転職していて三十路に入ったが
また今度未経験な世界に飛び込もうとしている
だから君がもっと世間的に評価されるような人生を歩みたいなら
もっとちゃんとした人にも相談した方がいいと思うなw
647 :
一:2007/10/25(木) 04:46:45 O
また私には人間の能力には一般に思われてるよりは個体差が無いように思う
天才と言われる人たちは凡人よりも脳の活動範囲が広いかもしれないが
凡人と言われる人たちにもそのポテンシャルは常に用意されているように思える
火事場のクソ力みたいな感じで何かしらの偶然により引き金が引かれさえすれば
いわゆる神懸かりみたいな状態になって凡人からも天才的な創造行為が生まれたりする
だから天才を羨むことはない
我々もいつ何時その引き金が引かれるかわからないのだから
648 :
一:2007/10/25(木) 14:13:42 O
まあつまり
今までパッとしなかったとしても
これからもパッとしないだろうなんて嘆くことはない
人生どうなるかほんとにわかったもんじゃない
君の前に道はない
君の後ろに道はできる
相談した者です。
一さんありがとうございました。
なんだかとても楽になりました!
スレ違いな内容を書いてしまいましたが、今後も書き込むことはほぼないかと
思いますが見てますので、がんばってください。
650 :
一:2007/10/26(金) 15:57:08 O
どいたしまして
でもせっかくかけてくれた言葉なのに申し訳ないすけど
頑張るという言葉は何か窮屈な気がして私は好きになれない
この言葉が流行ってるのは戦争の名残なんじゃないかと思う
何か昭和っぽい
元気でいてねとかの方が好きかな
頑張ろう!は元気で行こうぜ!の方がいいと思う
元気でさえいればオールオッケー
あとは自由!
651 :
一:2007/10/26(金) 16:31:57 O
まあ時にはナニクソとふんばらなきゃいけないときもあるだろうけどね
戦争中はそれこそみんなで頑張らないといけなかったんだろう
でもいついかなる状況でも老若男女誰にとっても元気でいることはいいことだ
頑張らない方がいい時はあっても元気でいない方がいい時はない
ガンバレ!という言葉、俺も好きじゃねーな。
ファイトだ!なんて言葉も。昔留学生に「ファイト!」って言葉かけたら
は???みたいな顔されたのを思い出したw
「ファイト」って喧嘩って言葉だから は??と思うのが正解w
一は相談に乗って僕ちゃん助けしてんじゃん。ほほえましいのお〜。
年齢はもっと若いのかと想像してたよ。
それにしても風邪が治らねー。
俺の自己免疫力はどうなってんだ。
『元気』って気の元ってなんだろな。
653 :
一:2007/10/26(金) 20:58:47 O
俺が高校生の頃は2ちゃんどころかネット自体なかったからなー
相談できるような友達もいなくて一人悶々と悩んだのを思いだすわ
世の中変わりましたなあ
で元気だけど
気を目に見えないエネルギーとして捉えればいろんな気のもともとの気が元気だから
それは根源的な力という意味となりそれは壱の定義と一緒だ
壱思想では壱は私の存在の本質とされるので元気もまた私の本質と考えられる
だから元気でいることは私の本質に則した状態であり故にそれは絶対的に好ましい
654 :
一:2007/10/26(金) 21:06:41 O
では元気でいるとはどういうことだろう?
普通はまあ健康でいるということを指す
健康でいるというのはどういうことかというと病気をしてないということ
つまり病気でなければ元気なのだ
では病とは何だろうか?
655 :
考える名無しさん:2007/10/26(金) 21:24:23 0
道は実在的であるが名がない
元々は区別がなく目に見えないものである
けれども天下にそれを支配できるものは何もない
もしも、統治者や君主がそれにとどまれば、天下の万物は当然彼らに従うだろう
そして、天と地は統一され平和の露を降らせるだろう
命令されなくても人々は自ら調和するだろう
区別が始まると名前ができる
名前ができるとどこにとどまるかを知るべきである
とどまるところを知れば決して消耗されない
世の中で道にとどまるということは、河や海に注ぐ谷川と同じである
・・・とどまるところがわかりません。鬱、、、
656 :
一:2007/10/26(金) 21:26:02 O
東洋医学では病気とは気の流れの偏りや滞りと考えられている
気がスムーズにバランスよく流れるのが元気とされる
その気とは言い換えれば生命本能が本来持っている自律の力であり
その力が偏り滞りなく働けば我々は元気なのだ
それは身体だけでなく心にも当てはまる
こだわりやわだかまりのない素直な心の持ち主は元気
657 :
一:2007/10/26(金) 21:34:18 O
>>655 まあ壱思想的にはどこにもとどまる必要はないと思うけどね
あえてどこかにとどまらなければならないのなら
どこにもとどまらないというスタンスにとどまればいい
>>656自律の力がスムーズに常に滞りなく働くにはやっぱり意図や努力が必要かしらん?
大いなる象をつかんで天下を扱うとどこへ行っても害にあわない
天下を穏やかに静かにそして平和にするのである
音楽やおいしい匂いには通行人を魅惑し、しばらく立ち止まらせる
道の味は淡白で味がない
それを見ようとしてもよく見えず
それを聞こうとしてもよく聞こえない
だが、それを用いても使い尽くせないものである
・・象をつかむ?道から発生したあらゆる原理のことだろうか?
659 :
一:2007/10/26(金) 21:41:33 O
小さい子供たちは人間が本来持ってる元気を
何の滞りもなく発揮するからあんなにも元気なのだ
じゃ大人になって元気を阻害するものはなんだろう?
前もちらっと書いたが改めて検討してみようかな
660 :
一:2007/10/26(金) 21:53:00 O
>>658 そーねやっぱちゃんとした食事をバランスよくとるとか
適度に運動するとかちゃんと昼起きて夜寝るとかそういうのは必要だろうね
俺も夜更かしばっかだけどなw
つまり体の欲求に素直に応えることは求められると思う
661 :
一:2007/10/26(金) 21:59:23 O
天下をうまく治めるところの道や象ってのは俺にはよくわからんな
大体が生物の世界はエゴ対エゴの壮絶な修羅場なのが常態であり
闘争やいざこざが絶えない方がむしろ自然なような感じがするけどな
エゴねぇ、、、保留にしとくか
ところで俺の叔母に躁鬱がいる。とにかく躁鬱発生の時は目が全く違う
からすぐわかる。鬱の時は焦点があわず不気味な感じで鈍く光っている眼。
躁の時は眼光が輝きすぎる。あの病気は脳の病気なんだろうか、、、
自殺未遂も多々らしく本人曰く脳が命令するんだとか。
663 :
一:2007/10/27(土) 03:30:43 0
まあ私は専門家でないのでよくわからんけど
脳が自殺を命令するというのが幻聴ならば
その人は躁鬱というより統合失調症なんじゃないかな
躁鬱は普通幻聴は出ないので
まあどっちにしろ脳医学から見れば脳の疾患と考えられているね
私の見解ではそれらは自我意識の形成や維持行動における失調なのだが
このことについては何か今日は考える気にならないのでまた今度
664 :
考える名無しさん:2007/10/27(土) 17:16:25 0
>>636 神様が猿から人を作ったということにすればみんな嫌な顔をしながら渋々納得。w
665 :
一:2007/10/27(土) 19:49:28 O
進化論を受け入れたクリスチャンにとっての世界観は
神様が猿の中の一部を人間に進化させ
お前たちが万物の霊長であるから万物を支配せよと使命を与えてくださった
みたいな感じなのかね
人間以外の生物にしたらこんな傍迷惑で不当な話はない
あのゼウスってやつは人間をえこひいきしすぎだぜ全く
何か賄賂でももらってるにちげぇねえ
その点日本の神様たちは分け隔てねぇからおれぁ好きだよ
666 :
考える名無しさん:2007/10/28(日) 03:04:31 0
>>665 そういやあの聖書の「支配」という言葉は解釈がおかしくて変になったような感じがするな。
「世話」って書いておけばよかったのに。
EEEEE_____EEEEEオリジナルゾハル
EEEE■WWWWW■EEEE
EEEE■WWWWW■EEEE
EEEE■WWWWW■EEEE
EEE/WWWWWWW\EEE
EE■WWWWWWWWW■EE
EE■WWWWWWWWW■EE
EE■WWWWWWWWW■EE
EEE\WWWWWWW/EEE
EEEE■WWWWW■EEEE
EEEE■WWWWW■EEEE
EEEE■WWWWW■EEEE
EEEEE ̄ ̄ ̄ ̄ ̄EEEEE
668 :
一:2007/10/28(日) 09:39:15 O
お互い様という日本語が私は好き
日本人は自然に対してもお互い様と思う
支配とか世話とかそういう一方的な関係ではないことをわかってる
何でそういう違いが生まれるんだろね
669 :
一:2007/10/28(日) 10:07:52 O
やっぱ農耕民族と狩猟民族の違いというのもあるのかな
狩猟文化だと自然はどうしても征服し略奪する相手となるので
人間が一番偉いんだ!となる
農耕文化では自然とうまくつきあうことが大事になるので
自然への感謝や敬意が生まれてくる
670 :
考える名無しさん:2007/10/28(日) 10:12:44 0
システム的な余裕じゃあないかと考えた事があるな。
あちらさんは環境が厳しいから、これでもか!ってくらいにカッチリと
管理する必要があったんじゃなかろうか。
人がやると「何でテメェはそんなエラそうに!」ってなるだろうから
神の名前を借りてさw。
日本は四季おりおりの風土があって、比較的豊穣の地だった。
自然と自分以外の面倒も見れる形態になっていったんじゃないかねぇ?。
671 :
一:2007/10/28(日) 10:23:10 O
確かに日本は自然に恵まれてるからねぇ
そんなに争う必要がなかった
ヨーロッパは最近こそ大人しいけど大戦までは血みどろの闘争の歴史だからなぁ
日本にはお互い様で何とかなる余裕があったんだろね
672 :
一:2007/10/28(日) 10:29:27 O
サッカーなんか見ててもそういう文化の違いを感じるなあ
お互い様とか言ってたら相手に絶対勝てないw
わざとこけたりとか審判へのアピールとかどうも日本人には馴染めないものがある
673 :
一:2007/10/28(日) 11:37:14 O
韓国ではサッカーとキリスト教が普及したが
日本にはイマイチ根付かないのも興味深い現象だ
674 :
考える名無しさん:2007/10/28(日) 12:02:46 0
宗教観ってのは大きいかもしれんね。
審判という絶対者、ってのは一神教の産物のような気がする。
日本では「和を以って貴しと為す」ってのが根底にあるのかなぁ。
談合やら村社会とか揶揄されてた事もあるけど、
皆の話し合いで共通の了解を得て社会を維持してた面があったろうし、
そこには絶対者は必要ないし。
675 :
一:2007/10/28(日) 18:43:01 O
キリスト教では「神>人間>その他」という序列がはっきりしてるのに対し
日本では「神々>その他」という価値観は大まかにはあるものの全然はっきりしない
人間も時には神になるし神も鹿になる
見ようによっちゃあらゆるものが神となる
676 :
一:2007/10/28(日) 18:56:45 O
あらゆる他者にカミを感じ有難さを感じるからこそ
「互い」に「お」と「様」を付けて「お互い様」となる
だから日本の武道は礼に始まり礼に終わる
677 :
一:2007/10/28(日) 19:04:41 O
一神教の場合神への敬意が神という一点に集中するので
他者に対する敬意が散漫になってしまうのかもね
日本の場合その敬意はあらゆる他者に向けられる
まあ最近の日本人からはそういう態度は失われつつある気もするけど
678 :
一:2007/10/29(月) 21:23:07 O
一神教の場合人間は神様のお蔭で生きていられると考えるが
日本の場合は周りのあらゆるもののお蔭で生きていられると考える
万物がお互い様でお蔭様で対等であり且つインタラクティブ
小学生の頃、体から抜け出してしまったことがある。
自分の体や友達、外の景色をものすごい高さから眺めていた。
幽体離脱って言うらしいけど、それが妄想だとは思えない。
高い所からまわりを眺めていて、その土地がはじめての土地で土地勘もないの
にあとから地図を見たら、見たとおりだった。
その抜けた状態の自分は高所恐怖症なのに恐怖もなく温度も感じず重力も
感じない。
ただ眺めていたという感じで色もわかるし見ているものも一応理解している
感じだった。
しばらくして、あれ?下にいる自分どーなってんだ?と思った瞬間、体に戻って
しばらく放心状態だった。
あの状態は壱とは関係ナッシング?
680 :
一:2007/10/29(月) 22:58:42 O
まあ俺は体験したことないんでよくわかんないけど興味深い現象だなとは思うな
幽体離脱は寝入りばなによく体験されるらしいけど
小学校低学年くらいまでは誰でも半分夢見がちに生きてるから
条件としては似てるんじゃないかな
ちょっといろいろググったりしてみるわ
脳の側頭葉が過剰に興奮すると幽体離脱体験するらしい。
唯物論的な科学者に言わせれば起きたまま見た超リアルな夢みたいなものだということになるけど、
真相はわからないね。
682 :
考える名無しさん:2007/10/30(火) 03:34:37 0
683 :
一:2007/10/30(火) 09:02:36 O
ちょっと話は逸れるけど
俺は朝夢から醒めた時に
あー実によく出来てる話だなーと感心したことが何度かある
内容はもう忘れたけど
俺は小説を書いたことも無いし
読んだことある小説に似てるわけでもない
起きてるときに何かシナリオを考えろと言われても陳腐なものしか出てこないのに
何で俺の夢はこんなにも優れたストーリーを持てるんだろう?
一体誰がこんなよく出来た話を作ったんだろう?
684 :
一:2007/10/30(火) 09:10:50 O
前にもちらっと書いたけど
私には全ての人間に天才的な能力が眠ってるような気がしてならない
誰でも夢における創造性は半端じゃないから
ポールマッカートニーはイエスタデーを夢の中で聞き
昔の歌を思い出しただけだろうと思ってみんなに聞かせたが誰も知らなかった
彼は意識下で作曲したわけだ
685 :
一:2007/10/30(火) 09:24:38 O
それを踏まえて
>>679のような体験を勝手に解釈してみる
あくまでも一つの可能性として読んでね
まずその子供は前もって見知らぬ土地の地図を見ていたのだ
ただ余りにも何の気なしにちらっと見ただけだったので覚えていないだけ
しかし意識下では一瞬見ただけの地図情報からものすごい解析が行われ
Google Mapの実写版ばりの鳥瞰図を作成するにまで至っていた
その作業は普通意識上に上がることは無いのだが
ふと気が弛んだ瞬間に意識上に現れてしまったんじゃないかな
686 :
一:2007/10/30(火) 09:30:36 O
同じような事は楽器を練習している時も感じたことがある
どうしても弾けないと思ってたフレーズがある日急に弾けちゃったりする
あー何だよ俺わかってたんじゃん!
意識がむしろ邪魔してたんだ!
687 :
一:2007/10/30(火) 09:39:33 O
作曲なんかしてる人はよく天から降って来るというような言い方をする
俺は逆にそれは意識下から上がってくるもののような気がする
何かしら恍惚とするような体験は神様が外側から与えてくれるわけじゃなく
自分の内側の意識の奥にその恍惚感の源があると思う
んーうまく説明できないけどニュアンスが伝わるといいな
688 :
一:2007/10/30(火) 09:50:52 O
大体この書き込み自体が
さっき起きたときフッと頭に浮かんだもので
多分私は寝ながら考えていたのだ
昔からよい発想は夜より朝生まれると言われるのも
就寝中は意識があまり邪魔をしないからじゃないか
人間の脳は超優秀なスーパーコンピュータを積んでいるが
それは何故か普段は意識されたり利用されることはない
何でなんだろね
気が狂うからかな
危機的状況に陥ったときの為の保険みたいな感じかな
689 :
一:2007/10/30(火) 10:05:58 O
だから多分人間の意識下の創造力や情報解析能力は想像を絶するほど凄まじい
子供は意識がまだあまりはっきり形成されてないのでそれが表に出やすいのだろう
やつらの描く絵はほんとヤバいし
天才的な人は子供のような人が多いのもそのあたりに鍵がありそうな気がする
690 :
一:2007/10/30(火) 10:31:24 O
まあそういうことから見ましても
言語的人格としての私は
私の存在のごく一部であり
決して私の主人公ではないと思われるわけであります
>>685 いや、前もって地図なんて見てないんだな。
当日当然連れて行かれた所でおきたことだったら。
夢でもなさそうだなと。
ところで人間の脳。
数パーセントしか使われてないらしいけど本当なのかな?
因果。
何事にも必ず因果はあるのだろうか?
あるとすれば、必ず我にとってまた皆にとってよい結果にたどり着くような
そして無駄のない考えや動きってあるんだろうか?
そんなことは壱からすると移り変わる部分だから
そんなのかんけーねー!そんなのかんけーねー!
となるんだろうか?
キリストは何を知り何を伝えたかったのだろうか。
仏陀は何を知り何を伝えたかったのだろうか。
老子は何を知り何を伝えたかったのだろうか。
人間として生まれてきた俺や君達。
思うに仕事をしていても日常生活をしていても
人間関係がうまくいっていればストレスも少なく
日々楽しく充実して楽しい人生が送れそうだけど
これって青臭い考え?
695 :
一:2007/11/01(木) 12:10:01 O
まあ快適な人生を送るには人間関係が円満であるに越したことはないわな
でもたまにはある程度衝突するのも仕方ないと思うけどな
逆に人間関係を重視しすぎて自分に我慢を強いるといろいろ問題が起きる
会社で我慢して家でDVしたりとか
会社でも家でも我慢して飲み屋で荒れたりしてる人は多いよ
まあある程度我慢しなきゃいけないこともあるけどな
696 :
一:2007/11/01(木) 12:20:42 O
>>691 脳科学スレとかで聞いてきて俺に教えてよ
>>692 我にも皆にも良い状態って具体的にどんな状態だと思う?
>>693 それぞれの専門スレへど〜ぞ
697 :
一:2007/11/01(木) 14:28:34 O
まあ壱思想的には自分もみんなも元気でいるのが一番良い状態といえるかな
元気とは気の滞りや偏りの無い状態のことだから
できるだけそういうものを避けるようにするのが良い行動だといえる
698 :
一:2007/11/01(木) 14:34:46 O
元気な人に会うとこっちまで元気になったりするし
まずは自分が元気でいることが周りの人も元気になることに繋がるんじゃないかな
699 :
一:2007/11/01(木) 14:49:46 O
まあ壱からしたらそんなのカンケーねえけどね
元気だろうが病気だろうがほんの一瞬の誤差に過ぎない
>>699不治の病を君自身が持っていないからそんなこと言えるんだろうな。
701 :
一:2007/11/01(木) 16:43:09 O
壱としての俺は不老不死だからね
一としての俺はしばらくしたら確実に死に至る病を背負っているがな
君がどんな病気か知らないがそれはみんな一緒さ
702 :
一:2007/11/01(木) 16:51:11 O
人間は二十歳を越えたらもう老化が始まるんだよ
老化とは死に向かって真直ぐ着実に進行していく不治の病に他ならない
703 :
考える名無しさん:2007/11/01(木) 20:22:39 0
死は救いかもしれんよ。
仕事しろw
705 :
一:2007/11/02(金) 01:21:50 O
いいじゃあねえか寄り道したって道草食ったって
俺らの生は行くあてのない旅なんだから
706 :
一:2007/11/02(金) 01:28:07 O
昔の日本人は死ぬことを「一元に帰す」と言った
人は死んだらあらゆるものが一つであった元々の状態に帰るというような意味だろう
この生がそもそも寄り道であり道草であり一睡の夢
死んだらまた生まれる前の状態に戻るだけ
707 :
一:2007/11/02(金) 01:36:46 O
何のジレンマもない元気そのものの状態への回帰
でも回帰というのもちょっとおかしい
なぜなら我々は今でも既に壱そのものであるのだから
だからより正確に言えば死んでもほとんど何も変わらない
ただこの薄っぺらくて儚い人格や肉体が消えるだけで
私の核心であるところの壱はそのまま残るのだから
708 :
一:2007/11/02(金) 03:07:34 O
人生は何かしら目的や意義のある研修旅行じゃないし
成果による勝ち負けを決めるゲームでもない
いつどこで何をして終わっても良い自由気ままなぶらり旅
709 :
一:2007/11/02(金) 19:56:34 O
だからあんまり先のことを一生懸命計画したり
来た道を振り返って一体こりゃ何だったんだろ?なんて悩んでもしょうがない
何でもないんだからこんなの
漂泊するより仕方がない
それが自然
710 :
一:2007/11/02(金) 23:25:04 0
全然話は変わるけど
夢を見ているときも「私」の感覚はある
朝起きて誰か他人が夢を見てたと思うことはないから
ということは意識が眠っていても「私」の感覚は残っているということになる
ではより深いノンレム睡眠の場合はどうだろうか?
その場合「私」の感覚は意識されることはない
しかし「私」の感覚は保持される
朝起きて別人になることはない
ということは「私」を「私」たらしめているところのものは
意識が気絶していても作用し続けているということだ
それは無意識による肉体及び神経の自律行動であり
それが「私」の感覚の源泉であり「私」の感覚が保持される原因である
711 :
一:2007/11/03(土) 00:30:44 O
そしたらその無意識の肉体や神経の自律行動を行う主体こそが
私を私たらしめる張本人であり私の主体だといえる
その主体とは生命本能であり、その生命本能の原因の原因は壱であるので
結局私の主体は壱であるということになる
712 :
一:2007/11/03(土) 21:58:18 O
話はまた全然変わるけど
善悪の概念と壱の関係について考えてみようかな
元気でいることは良いことだと私は言ったが
「良い」とはじゃあどういうことなのだろう?
713 :
一:2007/11/04(日) 00:40:49 O
元気とは病気でない状態のことをいうと私は前に述べた
それと同じように「善」とか「正」を考えるにも
「悪」や「不正」とは何かをまず明らかにする必要があるように思える
714 :
一:2007/11/04(日) 00:53:47 O
例えば最近児童虐待なんかが問題になってますわな
あれはまあ一般的には悪いことと言われている
俺もこないだ釣りに行ったとき母親が聞かん坊の子供を殴るのを見た
どこまでがしつけでありどこからが虐待なのだろう?
何が悪と判断させる基準となるのだろう?
715 :
一:2007/11/04(日) 01:27:31 O
子供に振るわれる暴力の場合に善悪の基準となるのは
まず暴力を振るう方の意図がどうだったのかが問題となるかな
それが子供の成長を望んであえてしたものなのか
それとも単に自分の思い通りにならない事に対する苛立ちからなのか
またその暴力の程度も問題となるだろう
いかに立派な意図をもっていたとしても怪我さしたりしたらそれは悪と判断される
716 :
一:2007/11/04(日) 02:12:37 O
話がややこしくなるから暴力の程度の問題はひとまず置いとくとして
なぜ親が自分の子供を思い通りにしてくれないからと殴るのを見ると
我々は良くないと感じるのだろう?
子供同士で喧嘩するのはよくあることだしそんなに悪いとは普通言われない
大人が反抗する力のない子供に自分の苛立ちから暴力を振るうのは問題とされる
717 :
考える名無しさん:2007/11/04(日) 05:08:26 0
718 :
考える名無しさん:2007/11/04(日) 06:52:14 0
>>716 確かに不思議だ。境目はどこだろうねぇ。
騒がしい子供を、若いパパママが叱ってるのは微笑ましかったりするのにね。
719 :
一:2007/11/04(日) 23:50:20 O
>>717 まず美は複合的な感覚であり一つの原理で説明できないと私は思う
つまり美しいものが全て均整がとれているというわけではない
私は
>>500-538において美の条件をいくつか挙げた
・対象がキラキラ輝いていること
・対象が巨大であること
・対象が人工物でなく自然のものであること
・対象の形が均整がとれていること
これらの条件のうち一つでも満たされていればその対象は美しいのであり
均整は美の絶対条件ではない
720 :
一:2007/11/05(月) 00:00:16 O
例えば夜景は美しい
なぜ夜景が美しいかといえばそれが巨大な情景でありかつキラキラ輝いているからだ
夜景は無秩序な照明の集団でありその形に均整はない
つまり均整の正体がわかったとしても美の本質をつかんだことにはならない
美の条件や要素は上記の四つ以外にも他にもあると思うけど
それはまた後日検討してみようと思う
721 :
一:2007/11/05(月) 00:06:02 O
前置きが長くなったけどここから均整の話
生け花はあんま知らないんだけど書道でも左右対称は嫌われる
上下左右が微妙に長さ太さが違っているのに全体として見ると絶妙なバランスを保つ
そんな字が美しい字とされる
じゃあその絶妙なバランスって何よ?ってことだよね
722 :
一:2007/11/05(月) 00:14:33 O
例えばそれはサーカスの綱渡りとかバレリーナが爪先立ちしてる姿に似ている
もう少しいじれば完全に崩壊しかねない危ういバランスに人間は特に美を感じる
ジェンガの最後の方とかね
壊れそうで壊れないギリギリの姿が究極の均整である
左右対称はまあ通常の均整でありそれほど心を動かすことはない
723 :
一:2007/11/05(月) 00:24:45 O
美人は三日で飽きると言われるのもそれが為で
あまりにも整った顔は人の心をそれほど引きつけない
不細工一歩前でギリギリ残ってるくらいの顔の方が愛着がわいてくるものだ
まあこれは異論があるかもしれないがw
724 :
一:2007/11/05(月) 00:36:13 O
言い換えればそれは安定と不安定の境界であり秩序とカオスの境界である
人間は不安やカオスよりは安定や秩序を望み、それに快楽を覚える
しかし究極の快はその境界にこそあるのだ
なぜならそこに絶妙なバランスが存在しているから
725 :
一:2007/11/05(月) 00:46:19 O
音楽においても同じようなことがいえる
まあ音楽は人によって全然趣味が違うけど少なくとも私にとっては
秩序とカオスのギリギリのところで演奏される音楽が最も美しいと思う
もうちょっとでぶっ壊れそうな音
型にハマったのもただめちゃめちゃなのもどっちも退屈だから
726 :
一:2007/11/05(月) 01:01:25 0
727 :
一:2007/11/05(月) 01:33:22 O
だから左右対称も立派な均整性の一つなんだけど
生け花や書道はさらにハイレベルの均整を目指していると言えるんじゃないかな
それは崩壊ギリギリの均整性
728 :
一:2007/11/05(月) 03:59:46 O
自分の苛立ちで親が子供を殴るのを見ると不快感を感じるのも
親子のパワーバランスが不均衡だからかもね
子供は絶対親に勝てないのだから
だからそれは均整がとれてない暴力であり故に美しくない
子供同士の喧嘩は美しいわけじゃないけど少なくとも醜くはない
729 :
一:2007/11/05(月) 04:31:00 O
じゃあ正義や善とは均衡のことで不正や悪とは不均衡のことなのだろうか?
何か例外的なこと、それじゃ説明のつかないことってあるかな?
730 :
一:2007/11/05(月) 15:05:26 O
例えば殺人がなぜ悪いかというと
誰しもが持つ生きるという権利の行使権において
加害者と被害者の間に著しい不均衡を生じさせたが為である
刑罰はその不均衡の是正を目的とする
731 :
一:2007/11/05(月) 15:22:35 O
オレオレ詐欺がなぜ悪いかというと
その交渉における判断材料の量及び質において
加害者と被害者の間に不均衡があったからである
両者の判断材料が均等であればそれは悪とは見做されない
732 :
一:2007/11/05(月) 21:44:43 O
他人を憎むことは悪であり愛することは善であるとされるのはなぜだろう?
それは一見均衡とは関係ないように思える
しかし例えば大事な人を殺した犯人を憎むのはそんなに悪いとは言われない
大して何もされてないのに必要以上に人を憎むのを見ると人は不快を感じる
そこにはやはり受けた被害の程度とそれに対する感情の程度との間に不均衡がある
733 :
一:2007/11/05(月) 22:02:55 O
でも不均衡なものが全て悪かというとそうではない気もする
世の中には不均衡なものなんてゴマンとあるからね
男と女の愛情が不釣り合いだからといってそれは悪とは言われない
ではどのような不均衡が悪と言われるのだろう?
悪の条件は不均衡以外に何があるだろう?
私は神経でできている by 芥川龍之介
735 :
一:2007/11/06(火) 18:24:05 O
私とは神経を働かす力そのものである
by 壱思想
壱思想に一番哲学者って誰だろうな〜
妻は専業主婦
子供3人
マンション購入し
好きでもない仕事と人間関係の悪さを我慢し
慢性胃炎&十二指腸潰瘍持ち。
病院代もったいないからガスターテンで我慢。
ただ日々満員電車に無表情で乗り込み働くだけ
の俺。
電車に飛び込むリーマンの気持ちがよくわかる。
おまえの気持ちもよく分かる。
人殺しは悪だとして、壱思想的に自殺は悪なの?
死が悪なら生は善なん?
あと、格差社会とか金儲けとか出世とかはどうなん?
そもそも壱は善なの?悪なの?
739 :
考える名無しさん:2007/11/07(水) 02:33:06 0
自分にとって都合の良いものが善。
自分にとって都合の悪いものが悪。
それだけ。
自己満足度が高い人生、性格ならとりあえず幸せそうだよな
741 :
一:2007/11/08(木) 11:07:30 O
742 :
一:2007/11/08(木) 11:13:41 O
>>738 それぞれ自分がどう考えているかとその理由を述べてみてくらさい
743 :
一:2007/11/08(木) 11:23:13 O
>>739 善とはその人にとって利益になること
悪とはその人にとって不利益になること
と言い換えてもいいかな?
確かにそれも善悪の判断基準の一つと言えそうだ
後でまた考えてみるね
744 :
一:2007/11/08(木) 11:31:37 O
>>740 まあそだね
どんな人生も幸せだと思えば幸せだし
不幸だと思えば不幸
745 :
一:2007/11/08(木) 16:06:36 O
まあとりあえず善悪とは何かを定義してみてから
>>738のような問題について検討してみようと思います
これまで悪について「不均衡」「不利益」という要素が挙げられてきたけど
他にも何か悪の要素はあるかな?
矛盾
理不尽
理解不能
報われない
無責任
無理
温度差
格差
不正
騙す
欺く
極端に偏る
固執
執拗
747 :
一:2007/11/09(金) 03:24:38 O
まあ悪にもいろんな意味があるけどとりあえずここでは善悪の悪、言い換えれば
「道徳的に許されざるものとしての悪」に限定して定義することにしたい
そうすると
>>746からは「理不尽」「無責任」「不正」「騙す」「欺く」が対象となる
これらには「不均衡」「不利益」以外の要素が含まれているだろうか?
748 :
一:2007/11/09(金) 03:43:19 O
理不尽さが問題となるのは被害者が被った損害の程度に対して
加害者のその行為に至った理由がマッチしてないからであり
無責任さが問題となるのはその人が与えられた権利に対して
それに見合うだけの責任を果たさないことによって不均衡が生じるからである
749 :
一:2007/11/09(金) 03:54:07 O
ところで
ある行為によって相手方に不利益を与えてお互いの間に不均衡が生じさせたとしても
その行為が偶然起こってしまったことであればそれは悪とは見做されない
だから悪の三つ目の要素は「故意性」だと言えるだろう
とりあえずこの三つで悪を定義してみると
「AがBに対して故意に不利益を与え、その手段や結果において不均衡があった場合、
Aは道徳的に悪であるとされる」となるかな
この定義で言い尽くせていない事例はまだあるだろうか?
750 :
一:2007/11/09(金) 04:03:44 O
んーでも「結果における不均衡」は「不利益」という言葉で既に意味されてるので
もっかい定義し直すと
「Aが他者に対して故意に何らかの損害を与え、
その手段において何らかの不均衡があった場合、
Aの行為は道徳的に許されざるものとしての悪と見做される」
て感じかな
751 :
一:2007/11/09(金) 04:16:54 O
例えば手段が均等に与えられていて公正に競争したのであれば
結果として相手方に故意に不利益を生じさせることになったとしても悪とは言われない
あーでもまだうまく定義できた気はしないけど眠いのでまた明日
752 :
一:2007/11/09(金) 08:35:48 O
正当防衛による殺人が悪と見做されないのは
その行為と動機の程度が釣り合っていると見做されるからだ
動機が不十分であり結果との間に不均衡が存在する場合それは悪となる
753 :
一:2007/11/09(金) 08:55:01 O
こうしてみると不均衡もいろいろあるので整理する必要がありそうだ
・動機が行為と釣り合っているか(動機均衡性)
・交渉や競争の際の手段が均等に与えられていたかどうか(手段均衡性)
・交渉や競争による結果がその過程と整合性を持つかどうか(結果均衡性)
これらのうち一つでも不均衡が生じているとそれは悪の判断材料となる
754 :
一:2007/11/09(金) 09:04:49 O
行為における悪の条件 ver1.1
・故意に行われた行為であること
・動機、手段、結果のうち少なくとも一つに不均衡が認められること
・結果として他者に何らかの不利益を生じさせたこと
以上の三条件を全て満たすとき、その行為は悪と見做される
どう?
755 :
一:2007/11/09(金) 10:52:28 O
それをふまえて自殺が悪かどうか考えてみると
自殺した事によって他者に一切不利益を与えることが無いか
もしくは動機が自殺するのに十分と認められるなら
その自殺は悪ではないということになる
切腹や特攻は当時は動機が十分と認められたので悪とは見做されなかった
756 :
一:2007/11/09(金) 11:02:21 O
また生そのものや死そのものには故意性が存在しないので少なくとも悪ではない
格差社会や金儲けや出世は汚いことがまかり通ることがなければそれ自体は悪じゃない
また壱には故意性が無いので少なくとも悪ではない
757 :
一:2007/11/10(土) 05:50:38 O
では善とはなんだろうか?
私は善とは悪の欠乏のことだと考える
まず悪があり、それが無い状態が善であるのであって
まず善があり、それが無い状態が悪であるのではない
我々は善いことをしたときによく「当たり前のことをしただけです」と言う
善い行為とは自然で当たり前の行為のことを言う
758 :
一:2007/11/10(土) 06:02:20 O
>>754の悪の条件をひっくり返してみると
・行為が何の気なしに自然に行われること
・行為の手段や結果において公平性があること
・他者に不利益を与えないこと
これらが善い行為の諸性質といえる
759 :
一:2007/11/10(土) 06:17:39 O
我々の道徳観念はまず悪への不快感から始まるのだ
「ずるい!」というのが最初の根本感情であり
ずるくない当たり前の状態は当たり前であるが故に何の感情も引き起こさない
まず善ありきとする西洋哲学はその実情をわかってない
だからむりやりにでも超越神を想定せざるを得なくなる羽目に陥るのだ
760 :
一:2007/11/10(土) 06:24:34 O
だから生や死そのものは善でも悪でもない
なぜなら善とは悪の欠乏のことなので悪がなければ善もないから
同様に壱もまた善でも悪でもない
761 :
一:2007/11/10(土) 17:29:03 O
ではなぜ悪は不快を感じさせるのだろう?
自分にふりかかる損害に対して不快を感じるのは生存本能から説明できる
動機、手段、結果における不均衡や人為的(非自然的)な行為に不快を感じるのは
美意識から説明できる
美意識は
>>500-538によれば均衡を指向する本能に依るものであるから
善悪の感情の源泉は神に求める必要はないということになる
762 :
一:2007/11/10(土) 18:39:16 O
日本人にはあまり善行を積んで神様に見てもらいたいという気持ちがわからない
むしろ神様より世間様が大事だと考える
「人に迷惑をかけちゃいけません」というのが一般に広まっている道徳律であり
それはまず悪ありきの発想であって西洋的神を全然想定していない
私にはそういう善悪観の方がリアリティがあると思われる
763 :
考える名無しさん:2007/11/11(日) 03:39:12 0
日本人にとっての神は、世間。
世の中全体が神。
しかし多くの場合自分も世間を作っている一人だということを忘れている。
なんだこれ
765 :
一:2007/11/11(日) 10:48:08 O
>>763 んーというか世間とは他人の集まりのことなので
結局のところ世間様というのは人様の複数形なんだと思う
人様に迷惑をかけないことが世間様に恥ずかしくない行為にそのまま繋がる
日本人の道徳の指向はストレートに他人に向けられるのであって
世間様という超越的存在を隣人より先に指向するわけではない
一方で一神教社会における道徳の指向はまず超越神に向けられ隣人はその次となる
だから比較的向こうの人は人に迷惑をかけても平気でいられるのだ
766 :
一:2007/11/12(月) 17:26:39 O
まあもう死語だけど遠くの親戚より近くの他人という言葉もあるし
神様仏様もいいけど一番大切なのはまわりの他人とうまくつきあうことだ
そういう思想から人様という言葉が昔は使われてたんじゃないかな
767 :
一:2007/11/12(月) 17:34:07 O
遠くの神様より近くの他人に対する敬意が敬語の文化を育んだ
80以上くらいの人たちは自分より全然年下の人に対しても敬語な人が多いよね
もう20年もしたらそんな光景は絶滅しちゃうんだろな・・・
768 :
一:2007/11/13(火) 18:47:16 O
私事で大変恐縮ですがワタクシ明日家を引き払いボロ車で旅に出ます
とりあえず新潟に出てそこから海沿いに鹿児島まで行く予定です
まずいないとは思いますが私と呑みたいという奇特な人は連絡くださいな
[email protected]
769 :
考える名無しさん:
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