「816」崎谷博征(さきたに・ひろゆき)SNSI研究員の新刊『グズな大脳思考デキる内臓思考』を紹介します。
浅薄な「合理主義的思考」に代わる新しい思考法は、現実の生活にも大いに役立つ思考法です。
副島隆彦が文末に加筆しました。2006・12・26
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#2401 日本の知識階級が「ヨーロッパ近代思想と哲学」について、知っていることと言えば、本当にわずか、以下の、
「大陸合理(たいりくごうり)主義(デカルト)vsイギリス経験論(エンピリシズム)思想 」というコトバ
だけだ。本当に、このコトバだけだ。
本当に、これだけしか知らない。インテリを気取っている連中でも、たったこれだけしか知らない。それほどの
土人どもです。そして、その中身の、「では、デカルトという思想家は、何を言った人ですか」と言うと、
「我思う、ゆえに、我あり」コギト・エルゴ・スム Cogito ergo summu .で、”I think , therefore I am ." だ、
と答える。これだけだ。たったこれだけだ。
今の今でも、これ以上のことは誰も知らない。知る気も無い。誰も教えられない。だから誰も分からない。
本当に、実感を伴って、デカルトや、スピノザや、ジョン・ロック や、ヒュームの言った(書いた)ことが、
「分かる」日本人は、知識人層を含めて、ほとんど存在しない。
だから、副島隆彦は、いつも怒(いか)るのだ。「この程度の土人どもの国だ。この程度の!」と。
それで、私の周りにいる弟子たちにあたり散らすことになる。彼らにしてみれば、いい迷惑だろう。
cokeci ero sume
世界参加ができなくなる代わりに、そこに「無」が生まれることになる。
疑われたものは、さしあたり留保されているが、留保されたものは、それがかつてそうあったようなものを指示できない。
私的コンテクストは存在するものからなるから、留保されたものはどこかへ散ってゆく。
ハイデガーは、現存在に優位を持たせた。
そこで、現存在が他の存在するものを創造する権利を主張したのだ。
今、こう言おう。
「無」こそ、森羅万象のなかでも最も優位を持っている、と。
「何かである」これが有の公式だ。
だから、「無がある」とは、矛盾した言い回しであるし、無は直観できない。
それは、指示関係が一切ないところのものだからだ。
このように、我を疑うことによって、有の世界では絶対に直観も知覚も視聴もできない、無を生んだ、
これは、「僕は新世界の神でありうる」、ということに他ならない。
11 :
考える名無しさん@ドラマチック超高度進化銀河英雄伝説B!:2007/06/28(木) 04:58:00 0
【絶対安全で取っても楽しい】コギト・エルゴ・スムは放送奨励用語にスルベキでも有る!機械仕掛けの神は僕らを見守っているのだよ!総てのあらゆる世界に生息している神々は死に絶えたのだよ!神は死んだのだよニーチェ哲学ルサンチマン虚無主義オカルト!
スターウォーズ機動戦士ガンダムでジョージ★ルーカス爺の哲学研究開発吸収の第一人者で力への意志がぶつかり合って超人思想アポロン&デュオニソス&フォースの暗闇暗黒面VSイエス・キリスト&世界中有名人所キリスト教&フォースの閃光明度面の対決だ!
マアネーンそして俺様がダースベーダーとして新世界の神に為るのだ!デスノートで多くの罪の無い人を殺し撒くってデスノートに大勢の邪魔者の名前を書くだけでいろんな人々の全生命体を単純手額簡単にポアする事柄が出来るのだ!それで僕は新世界の神に為りうる!
12 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 13:49:08 0
>>4 |
|__/ヽ
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|_, )ヽ ,,゜ .::| 大ってんプッ
|ニ´ .:::/
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>>1
デカルト読んでないね。
なんでデカルトの懐疑がアイデンティティの問いにすりかわってるの?
デカルトにとって問題なのは「我」じゃないよ。
神の存在証明ですよ。
14 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 17:17:11 0
我思うの我が本当に我かどうかは分かんないじゃん。
悪魔が取り付いて思ってんのかも知れないし。
我在るゆえに我思うなら納得。
バカが哲学をちょっと噛るとこういう言葉遊びでオナニー始めるから困る
17 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 20:39:50 O
誤って受けとめた知識の受け売りしてるようじゃ我も糞もないよね
18 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 21:09:03 0
> 言葉遊びでオナニー
まさに哲学の王道じゃん
>>10 雰囲気重視?
たぶん一貫した主張ないでしょ。まぁ分かるけど。
ほんっとこの板って大した奴いないな。
ろくに反論もできずに、捨て台詞。
俺を論駁してみろよw
煽りじゃなくてさ。
>>13 デカルトのテーゼを分析してみただけ。デカルトそのものは主題になっていない。
>>14 それを言ってるんだが・・・
21 :
考える名無しさん:2007/06/29(金) 16:47:29 0
現に疑っている我は疑えない」というのがデカルトの方法的懐疑だけど
この思考主体から思考の外側の存在論に飛躍していることが
デカルトの新しかったところでしょう。
つまり私的コンテキスト(認識/現象)から飛躍することが「我あり」で
これは私的コンテキストの外側になる。
なぜなら我があることは思考の結果ではないから。
そこから神の存在証明(思考の外側)が導かれるわけね。
「我在る故に我思う」では遠近法倒錯です。
まず人間は認識から始まらなければ存在を知ることはできない(とされている)から。
22 :
考える名無しさん:2007/06/30(土) 03:12:05 0
伏見宮・男系優先皇位継承順位(皇太子殿下と同世代以下限定)
1.賀陽宮家:章憲王系男子2名(小学生)
2.杜玖椀宮家:朝融王系男子3名(未婚2名)
3.朝香宮家:直系男子1名(既婚)
4.東久邇宮家:盛厚王系男子6名(乳児1名)
5.竹田宮家:恒徳王系男子5名(未婚5名)
伏見宮・女系血縁優先皇位継承順位
1.東久邇宮:昭和天皇第一皇女成子内親王及び明治天皇第九皇女聰子内親王の子孫
2.竹田宮家:明治天皇第六皇女昌子内親王の子孫
3.杜玖椀宮家:明治天皇第八皇女允子内親王の子孫
4.久邇宮家:靈元天皇第五皇女福子内親王の子孫
5.賀陽宮家:靈元天皇第五皇女福子内親王の子孫
プラグマティスト?
まぁデカルトでの、「我」は定義された概念としての「我」だから、それを疑ったところであまり意味はないんだけどね。
25 :
考える名無しさん:2007/07/08(日) 18:00:53 0
だから
"我"
だけは疑い得ないつってんだろが!
ボクの中のコビトがボクを操っているんだお
自我は疑えない。
何故なら知覚する『私』が在るから。
アクションに対するリアクシャンを示す『私』が在る。
しかし『私』とは何かを問うた瞬間に『私』は合せ鏡の相を示して決定不能に陥る。
因って『私』は居ないとも言う事も可能。
私が在るかのか無いのかを考える暇があるなら、部屋の掃除でもしてる方が生産的でイイじゃなかろうか?
疑問。
ハイデガーの「存在と時間」で「我思うゆえに我あり」は疑わしいという結論のことをいっているのか
30 :
考える名無しさん:2007/07/10(火) 01:49:11 O
>>28 知覚する、それだけじゃダメなのか?「知覚する私」でなければいけない理由があるのか?
知覚、それが私だけに作用すると言いきれるか?
他人の知覚かも知れないじゃないか。
>>31 終わったな。単なるいちゃもんだよそれは。
>>32 どこがいちゃもんで、私の発言のどこが終わってるのか、聞かせてもらおうじゃないか。
「私」という定義もままならないのに。
35 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 03:44:23 0
コギトにおいて、私じゃない他のもの、あるいは私を含む他のもの、あるいはそれ以外、といった想定が実際可能である。
これを可能にしてしまうと、一体、「私」という存在が疑わしくなり、疑わしくなるということは、それに対する決定を差し控え、
留保することだ。このことによって、「私」を含む一切のコンテクストは、有効でなくなる。
「私」という語は、今まで了解してきた「私」を必ずしも指示しなくなるし、私的コンテクストは、今までその中で生きていたところの、
日常コンテクストを指示しなくなる。私的コンテクストとは、「私への反省と共に日常を生きること」であるが、「私」を留保した今、
それは意味を全く失う。かえって浮き立つ日常コンテクストは、ただ反省なき生存のためへと態度を改めさせ、
こうして「私」であったところのものは、意義的に諸動物のそれにまで落ち込む。
37 :
考える名無しさん:2007/09/18(火) 15:40:52 0
まとめて言える事はお前らただ騒ぎたいだけだろ?
そんな口だけのお祭りが真善美か?違うだろ。
常識的に考えてみろ。世の中楽しい事は探せばたくさんあるのに
軍事費(自衛を建前にした人殺し費用)なんかに
金を掛けるのは無駄なんだよ。
世界には何十億という人が飢餓で苦しんでるんだよ。
お前らみたいな ひとでなし がそういう世界を作り上げてるってわからんか?
アメリカは世界の警察だから核持っていいんだよ。
日本は警察か?違うだろ。
日本は警察に守られた一般庶民という立場。
平和を訴えられないなら今すぐ自死せよ。
横チンさらしの電波親方を追放できない相撲協会や横綱審議会みたいに
自分たちの下品さを棚に上げて品格だの美しい日本の伝統だのとぬかす馬鹿も
今すぐ自決せよ。
38 :
考える名無しさん:2007/09/18(火) 23:31:26 0
39 :
kyrie ◆.RYdSpBfEI :2007/10/02(火) 14:06:52 0
「私」の存在が疑わしいということが
ちょっと理解できないんですけど。
いったいどういう意味なんでしょうか。
>>39 つーかあっちのスレ
おまえ関係なくなってるじゃん。
>>39 白痴とかかわりあいになりたくないだけだろ。
>>1 もうスレタイだけで馬鹿丸出しでいやらしい。
「放送禁止用語にすべき」だってアホか。
テレビ局かお前は。
電波を浴びて死ねクソ虫が。
この国は、学者と称する、土人のまじない師どもの国だ。その土人(原住民)のまじない師どもが支配している
愚か極まりない国だ。この土人のまじない師の体制を、かならす、事実 facts ファクツ の力で打ち倒してみせる」
と。私は、今でもあのときの苦汁を思い出す。何十年かかっても、私は、全てを明らかにし続けるぞ、と。私は、
あのとき自分の書いたものを、一行も訂正することなく、かならず、再び、この国民の前に、示してみせる。
私の深い決意に付き合ってくれる人などいなくてもよい。私は、鬼になってもやりとげる。
副島隆彦「属国日本論を超えて」P74
45 :
kyrie ◆.RYdSpBfEI :2007/10/03(水) 13:24:35 0
>>40 疑いつくされたと思ったコギトを、隅々まで疑いつくしてみな
46 :
40:2007/10/03(水) 14:42:36 0
>>45 コギトを疑うんじゃなくて
疑い尽くした末に見いだされたものがコギトだから
そもそもコギトをまだ疑うことができるということは
それはコギトではなく、疑うことが徹底していないということを
意味しているにすぎないのではないでしょうか。
>>46 絶対に、疑いつくした末がコギトでなければならないのですか?
私は、最後に残るのは「我」ではなく「思い」だと思ってますが。
思うのは本当に「我」でしょうか?
全てを「我」が「思っている」という訳では無く、
「思い」を「我」が受け取ってるだけ、スルーしているだけとも
疑えるという事です。
但し、哲学的に、受け取るだけ、スルーするだけも「思う」に入るのかは
分りませんが、もしそうでしたら、この「思い」を読んだ「我」が思う事に
なってしまいますよねw
48 :
40:2007/10/03(水) 23:18:12 0
>>47 >絶対に、疑いつくした末がコギトでなければならないのですか?
もちろんですよ。コギトとはそういうものです。
「思い」と「我」の違いはなんだとお考えですか。
ってか
>>47で何書いてんだorz
私の思いがキーボードやパケットを通して相手のディスプレイに
表示されても、その文字を解釈するのは「相手の我」で、
なおかつ恐らく「なんだこのバカは」と「思う」のも「相手の我」
でした。やれやれ、私は理屈でしか世を解せないくせに、
いつまでもバカです。
>>48 実は一緒なんですか?
>>48 ちなみに私は、例えば
「思い」は脳の電気信号、
「我」はその電気信号を発生させる元、但しそれは本人の
脳みそとは限らず、コンピュータからの遠隔操作かもしれない。
くらいに思っていました。
>>50補足。
もしかしたら、脳内の電気信号だけでは無く、いろんな波長で
脳の外にも出ることもあるかもしれず、だから
「最後に残るのは思い?」と思ってます。
52 :
40:2007/10/04(木) 00:00:07 0
>>50 それではそもそもすべてを疑っていませんよね。
「我」という言葉に対して非常に誤解が多いのは
それが物理的な形を伴ったものだというイメージから
離れられないことにあると思います。
デカルトの懐疑論を徹底すると「我」はどのようなものかわかりません。
なにしろ懐疑しつくすわけですから、もしかしたら「我」は
マッドサイエンティストの作成した人工知能が一瞬だけスイッチをいれた瞬間の
活動なのかもしれません。
しかしそれでもマッドサイエンティストや人工知能などの道具立てを前提としています。
そこでもっと疑って、「我」はなにも物理的な裏付けを必要としない現象であると
考えることもできます。つまり、こう考えている「元」などないということです。
そうすると「我」はあなたのいう「思い」と同じになるかもしれませんね。
しかしその元はなんだかわからないし、そんなものは無いかもしれないけれど
「我」があるということは確実です。
これがコギトだと思います。
>>52 なるほど、
「我」=「思い」かもしれないし、
「思い」の元になる「我」があるかもしれないけど、
どっちにしても最後に残るのは「我」。
全ての元になるかそうでないかすら分らないものとして
定義したのが「我」って訳でしょうか?
そういう考えでいくと、確かに更に疑うなら、後は「我」の他に
もっと合う言葉を捜すしか無い訳ですねw
「我」と定義してしまったのも、「何故『我』でなければならないのか?」と
思ってしまいますが、そもそも何かの言葉にしなければ、私の外の世界
には伝わらないから。実はデカルトは「私」と言いましたし、それを
神父さんが「cogito」とラテン語訳して、日本に伝わったら「我」と
言ってるだけ。そうして伝える言葉が変わっても、変わらない根本、
それが「我」という事で宜しいでしょうか?
54 :
40:2007/10/04(木) 11:59:56 0
>>53 >全ての元になるかそうでないかすら分らないものとして
>定義したのが「我」って訳でしょうか?
すべてを疑っても残るものが「我」なんでしょうね。
それ以外のことは言えないのではないかと思います。
>そういう考えでいくと、確かに更に疑うなら、後は「我」の他に
>もっと合う言葉を捜すしか無い訳ですねw
哲学では「超越論的主観性」という抽象的な名前もありますよ。
55 :
考える名無しさん:2007/10/25(木) 17:57:46 0
age
「コビトのオルガスムス」という空耳ギャグがあったな。
電波野郎氏ね