1 :
考える名無しさん:
君たちは、
神は存在しないと思っているけど、自分を知る手段として信仰しているのか、
神がいると信じて、信仰してるのか、どっちなのか知りたい
>>1 「私」が「神」なんですが。
なので、あなたの質問はナンセンス。
終了でよかですか?
3 :
考える名無しさん:2006/04/25(火) 20:36:56
だって「私を知ること」と「神を知ること」とが同一だと考えるからこそ
「神」なんかに興味を持つのだろ?
そういう人に向って、
「あなたは私を知りたいのか、神を知りたいのか、どっちなのか」
なんて問うのは、初めからナンセンスだよ。
5 :
考える名無しさん:2006/04/25(火) 20:43:59
>>4 君が出した意見に限られるとは思わないけどねえ。
そうですか。じゃあご随意に。
どっちにしろ、「私を知る」ことなしに神を信じようとしている奴とか
(そんな奴本当にいるのか?と思うが)、
逆に神は存在しないと思ってるけど宗教を信仰している
(↑わけわかんね・・・そんな奴いるか?)奴とか、
そんなヘンな人々の意見を聞いても何の役にも立たないとおもうよ、
とだけは言っておこう
無神論の宗教もあるよな
8 :
考える名無しさん:2006/04/25(火) 20:54:50
>>6 後者はけっこういると思う。
神と自分を知ろうとしながら、宗教を信仰しているが、
心の奥で神の存在を疑ってる....
そんな奴たくさんいるだろ
10 :
1:2006/04/29(土) 22:44:02
>>9 全然板違いじゃないぞ。
哲学として考えるからここに立てたんだが
宗教と信仰とが異なってるってのも問題だよね
非宗教的信仰を有する人なら普通にたくさんいそう・・・
で、信仰と哲学の関係も、また気になるというか
12 :
考える名無しさん:2006/04/30(日) 01:59:55
つまり教義にのっとった信仰でなきゃいけないし
13 :
考える名無しさん:2006/05/03(水) 11:41:21
俺はゴータマ・ブッダをもっとも信じられるように思う。
しかしその悟りの内容をエイヤッと全面的にゴックン
できる=信仰かとなると???がつく。格闘中だ。
俺たちは日本円のもつ永遠のパワーを信仰する宗教信者
15 :
考える名無しさん:2006/05/03(水) 14:44:17
神=金? その理屈はおかしい
16 :
考える名無しさん:2006/05/03(水) 15:32:09
超人を信じてます
17 :
考える名無しさん:2006/05/03(水) 23:39:34
宗教=信心とは、信じるための自己との闘争である。
18 :
考える名無しさん:2006/05/04(木) 11:08:10
超人は平気で嘘つくらしいから信じちゃダメ
19 :
考える名無しさん:2006/05/04(木) 11:08:49
>>17 信じていないのに、信じようとして闘争するの? なぜ?
何も信じなければ何もないから。
信じる所から始まる。
21 :
考える名無しさん:2006/05/05(金) 17:02:52
神は在ると信じたい。信じると、きっと人生は変わってくるはずだ・・。
だけど、どこかに信じていない部分がある。いやいや・・信ずる者は救われるって言うじゃない。
全部信じよう!! でも、やはり・・・。
それでも自分を信じる方向へと向けようと闘争するのである。
22 :
考える名無しさん:2006/05/05(金) 21:57:59
観念で肉体の物理的構造体の潜在的可能性を引き出すため。
>>1 存在しないと思っているものを信じるなんてそもそもできないんじゃない?
>>4=
>>6(だよね?)
「いつのまにか信じている」というパターン忘れてる。
親の影響でその宗教で生まれた時から育てられてるパターンとか。
例)ボーン・クリスチャン(生まれながらのキリスト教徒)
>>8 念のため。神は存在しない≠神の存在は疑わしい
>>19 >>17は信心自体が揺さぶられるものだ、ということでしょう、きっと。
24 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 08:19:04
例)ボーン・クリスチャン(生まれながらのキリスト教徒)
↑幼児洗礼を受けたがその後の考えで、今は全く信仰してない
というのなら、いくら形式上クリスチャンでも、実質的には無神論者。
(けっこう多い)
神は存在しないと思ってるけど、教会にちゃんと通っていい子ぶっている、
というのなら、ただのアホか偽善者。
マルクス曰く「宗教は現代の麻薬」
麻薬が好きなら薬板にいけ。
26 :
考える名無しさん:
立場をアプリオリに固定しちゃえば事は簡単。
人が大脳全てを使って考え、感じ、意思決定する主体で
ある以上「固定」は意識的に無理やり行うこととなる。
マルクスには論理以前にある種強烈な感情的決定・固定
があったと思う。青年らしい矛盾する社会への義憤だろう。
もちろん、哲学的に「真実」であるかはマルクスも証明できていない。
感情的決定だからだ。言葉・論理は感情を合理化するための道具にしか
すぎない。