記号は言語であることを要しない。
68 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/04/13(木) 01:05:48
「論理は思考を自由にする」かもしれませんが、
そもそもそのような純粋な論理は存在するのしょうか
たとえば「1+1=2」でさえ笑うことができるのが人間ですね。
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|
>>68 | 笑うことのどこが非論理的なのか私には不明である。
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70 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/04/13(木) 01:12:27
>>69 では「論理は思考を自由にする」というときの、
「論理」とはなんですか。と問います。
>>70 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| トートロジーである。
\
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∧∧
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72 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/04/13(木) 01:17:58
>>71 ???
思考を自由にするものが論理である。
ということですか?
違う。比喩である。
思考はトートロジーなのである。
そして、これは私の仮説である。
>>64 様々なモデルから一番いいモデルを選びたいと思います
どうすればいいですか?
>>71 論理は無意味ですか?
ホモロジーの講義をしてくれ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
いわゆる臭吉さんという有機的図形の中に、
男たちが挿入可能な穴(サイクル)はいくらあるのだろうか(*´,_ゝ`)ムッツリ…
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
77 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/04/13(木) 01:26:45
論理は比喩である。思考はトートロジーなのである。
↓
「論理は思考を自由にする」
この自由は、比喩の自由ということですか。
ではボクが考える「論理は思考を自由にする」とは逆ですね。
比喩の自由度こそが人を拘束する。何でも良いことは(無意識を作動し)
拘束的である、ということです。
逆に、論理の法則性故に、人の自由(無意識)は拘束され、思考は自由である。
と考えたのですが。
たとえば、数学は11次元など、人間の思考を越えて自由です。
しかし比喩は人間の無意識に囚われてしまう。
ちょっと話の次元が違ったかもしれませんね。
理想的なモデルとは、
もちろんコロナクラブのミックスルームにおける
俺たちの関係性だよな、臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
臭吉さんは、俺たち薄毛の理想だぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
>>67 あんたのポニーのようなペニちゃんやもじゃもじゃの菊門も、
俺たち正義巨人ファンのリビドーを発生させる点において、
立派に記号の役目を果たしているんだよな臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
俺の純粋な疑問から逃避してはいかんぜ臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
それはあんたにとって哲学的敗北だぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
>>82 反論を意図してるように見えるけど
反論になってないよ
>>68 俺と臭吉さんの日常的な性交渉が、
多種多様な病原菌を発生させ培養していく相乗過程において、
「1+1=2」などというのはとんだお笑い種だぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
86 :
考える名無しさん:2006/04/13(木) 01:47:52
「人はメッセンジャーに成れるか否かで決まる」
>>84 あんたもダメ出ししているようだが、ダメ出しになっていないぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
俺は臭吉さんの慈愛に満ちた意見に同意しているんだぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
>>88 俺たちは常に20年以上もツンデレの間柄なのは、
アンチ板においても周知の事実だぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
臭吉さんはああ見えて、布団の中では理想の男なんだぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
>>90 あったりめえじゃねえかあ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
日本における潜在的同性愛者の割合は、常に正義巨人ファンのそれと一致するんだぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
だがシャイな臭吉さんは、
なかなかそれをカムアウトしようとしないんだよな(*´,_ゝ`)ムッツリ…
その証拠に、このようなログも残しておられるぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
394 名前:21世紀の預言者 ◆qDY4SHi2Pc [age] 投稿日:2005/04/20(水) 23:30:06 ID:???
( ゚д゚)ハァ?
俺はバイだけどおまえは知らないぜ。
愛ねぇ
同姓愛者は未来に何をたくしているのでしょう。
それとも、快楽だけですか?
>>91 どうでもいいけど
関係性の哲学と関係のある話をしろ。性的な意味で。
異性にも様々な愛の形があるように、
俺たちゲイの世界の関係性も複雑だぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
あいにく俺は臭吉さんのような思慮深いところはないが、
「性の哲学」だけは負けないぜ(*´,_ゝ`)ムッツリ…
こんな、他愛もないピロートークを語らいながら、
名駅コロナクラブにおける俺たちの一夜が更けていくんだよな臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
はあ? いいかげんにホモネタは止めろ!
一方に関係の哲学がある。
他方に現象の哲学がある。
これは現人類と新人類の哲学の二大潮流である。
つまり、哲学自体はそれほど差異がない。
だが、誠実か不誠実かが、現人類と新人類を区別する。
関係の哲学の代表は理学(数学と論理学)である。
現象の哲学の代表は藝術である。
これらが融合する時、我々は新人類独自の哲学を目撃するであろう。
俺を犯してくれ臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
関係
数理学、自然学、倫理学
現象
文藝、音楽、絵画 etc.
学問は全て関係の記述である。
関係の哲学とは何だろうか?
それは「命題は関係式である」という発想から出発する。
名詞は数値であり、その他は関係項であると考えられた。
しかし、これはもしかすると訂正を要するかもしれない。
さて、他方で、現象の哲学が存在する。
これはまた別の機会に譲ろう。
まずは、関係の哲学を考察しよう。
関係。月並みな言葉で言えば、理論や学問。
現象。月並みな言葉で言えば、現実や芸術。
学問と芸術、理論と現実。
この二元論がなぜ現人類の哲学界を支配するのか。
私はようやくその提要に触れようとしている。
すなわち、モデルと現実の問題である。
あぼーん
今夜の上野ブリ吉は新人類がわんさか、
多少難ありのブサメンもいたが久しぶりに盛り上がってるよな臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
現象の哲学は不可能である。
なぜなら、学問は全て関係の記述だからである。
物理で記述される「場」というものがあるけど…
相互作用を実体的に捉える概念だと思うけどなあ
そういった視点では物質も現象ともいえると思うし
あぼーん
規範が現実から解放される時、我々は自由になる。
なぜなら、現実も規範から解放されるからだ。
今や、規範は世界から消え去った。
我々は理論を組む。モデルを組む。
そのモデルは現実とは何のかかわり合いも無い。
それはモデルそのものだ。それは理論そのものだ。
それは関係の記述である。
たまたま現実に適合するモデルはあるかもしれない。
だが、それは思考の自由とは何の関係もない。
形而上学は理論である。形而下学は存在しない。
これは、従来の確信と全く逆である。
すなわち、人々は、形而下学が確かであり、形而上学が胡散臭いと考えていた。
しかし、私は言う。
あらゆる学は形而上学である。そして、形而下学は存在しない、と。
形而下とは、すなわち、藝術などである。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| では、理論を構築しよう。ひとつの形而上学を構築しよう。
| まず、次のような命題から始まる。「私は世界であり、世界は私である」。
\
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| 私は他者を確信する。これが「愛」である。
| 私は未来を想像する。これが「夢」である。
| 「愛」も「夢」もモデルを構築することである。
| したがって、いかなるモデルをも構築することができる。
| 単なる「愛」、単なる「夢」は形式的な枠組みのみを与える。
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あぼーん
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| そこで、「誠実」という概念を導入する。
| その前に、「現実」について語っておこう。
| 私たちは「現実」を見間違えない。
| 「現実」を直視することはできない。なぜなら、直視しかできないからである。
| モデルと現実の不一致のみがありえる。
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あぼーん
いいかげんにしろ!
我々は真理を欲しているのではない。
妥当な解釈を欲しているのである。
「真理」でも「狂気」でもなく、ただ自己の理性と感性によって
認識を続けること。これを「誠実」と呼ぶ。
訂正:認識→思考
物理主義的唯物論と具体的観念論は、類似する説明体系を構築する。
これらに反対するのが、抽象的唯物論と抽象的観念論である。
すなわち「物か観念か?」という問いは、解釈としては重要であっても、
現実の説明としてはほとんど同じであろう。
これが私の仮説である。
Honestus, hoc est, quis requirit agnoscere orbem et ne-orbem.
理論は自由である。
理論が自由でないように思われるのは、次のような前提が置かれて
おり、しかも、その前提が自明であるかのように置かれているからである。
「理論は現実と一致しなければならない」
しかし、これは可能な前提のひとつであるが、しかし、
必然的な前提ではない。なぜなら、次のような命題を組めるからである。
「理論は現実と一致しなくても良い」
と。そして、私は後者を採用する。
この時、極めて多くの人々が、次のように問うだろう。
「現実と一致しない理論に、何の意味(意義)が在るのか?」
と。私は答える。
「意味など存在しない」
と。私はさらに付け加える。
「命題は意味(意義)を持たねばならない」
という前提を採用しないのである。
注記:ここでの「意味」とは意味論における「意味」ではない。
それは、何らかの有意義さである。
さて、次のふたつの命題が放棄された。
A「命題は現実と一致しなければならない」
B「命題は有意義でなければならない」
私は命題Aに次の命題を付け加える。
「命題の一次的な要素は真理値ではない」
すなわち、
「真偽を問うことが学問の第一の作業ではない」
そして、
「学問とは真理の追究を第一の目的としない」。
「学問は真理の探究ではない」
これは驚くべき前提である、かのように見えるかもしれない。
しかし、これは何ら奇妙な命題ではない。
この命題は、次のようなことを意味する。
「命題は真偽を問題にせずとも扱われ得る」
すなわち、
「純粋な理論の一部として扱われ得る」
今や、理論と現実との一致は、学問にとって必要条件では無くなった。
しかし、これは従来からずっとそうなのである。
なぜなら、倫理学や文学がずっとそうだったからである。
理論が現実から解放される時、現実も理論から解放される。
そして、規範も現実から、現実も規範から解放される。
こうして、思考は自由になる。
なぜなら、思考は理論だからである。
思考も理論も、命題の連関である。
それは、論理に従う。
しかし、論理は真偽を問題にしない。
それゆえに、やはり、理論も思考も現実から自由である。
あぼーん
あぼーん
§. 1.
命題は関係式である。
§. 2.
関係式は関係項と対象から成る。
§. 3.
諸命題の論理的結合体が理論である。
§. 4.
無矛盾性は理論の必要条件でない。
§. 5.
理論は実証されない。
我々が理論を組む時、我々は現人類の窮屈な理論系から解放される。
あぼーん
135 :
考える名無しさん:2006/04/21(金) 01:57:50
複数の命題の関係は、まず、論理的に妥当な推論か、あるいは、そうでないか、に分けられる。
前者が「理論」、後者が「非理論」と呼ばれる。
注記:理論は「真」なる命題群ではない。真偽は理論の必要条件で無い。
学問は専ら「理論」を扱う。「非理論」は、文藝に属する。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| さて、関係について語った。では、現象はどうか?
| 現象について語ることは可能か?
| まず、この問題から考えてみよう。
\
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ちょくちょく拝見しています。お邪魔してすいません。
気になっていたんですが、あなたの「現象」という単語の使い方、
私には違和感があります。
おそらく哲学で、「現象」や「現象界」に対置される、
「実在」や「物自体」と呼ばれているものが、
あなたの「現象」に対応すると思います。
違っていたらすいません。
そうだったとしても、名称にはこだわらないそうなので、
余計なお世話だったらすいません。
>>138 大変ありがたい指摘だ。
私はアカデミズムに属していないので(しかし、伝統的思想、例えば、
プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ウィトゲンシュタイン、
ラッセル、科学哲学などに大きな影響を受けているのは確かである)、
語彙の使用は我流であることを断っておく。
但し、私の「現象」はやはり「現象」であると思う。
というのは、私が念頭に置いているのは「五感」を中心とした「現実界」
だからである。
「物自体」や「実在」という概念は、「学問と真理の分離」によって
放棄されるところの「真理」に近いであろう。つまり、「物自体」は
「誰も認識し得ない」がゆえに「余計な仮設」なのである(この手法が
前期ウィトゲンシュタインらの影響を受けていることは明白である)。
もしかすると、私は「現象」よりも「現実」という言葉を使う
方がいいかもしれない。というのは、「現象」はどうしても、
あの現象学を連想させてしまうからだ。けれども、この現象学は、
私の読んだ著作集にほとんど含まれていない。したがって、私が
現象学を云々するのは野暮であろう。
「理論」と「現実」、すなわち、
「法則は現実に内在するのか否か?」という問題。
「それは実証されるのか?」という問題。
「そもそも理論とは何か?」という問題。
これが私の関心分野である。
これは、ポパーの関心分野にも近いであろう(但し、私はポパリストでは
ないし、ポパーの哲学に共感を覚える者でもない)。
ひとつ、決定論と非決定論で話をしてみよう。
これは決定論スレで既に挙げた問題である。
世界Aと世界Bがある。
世界Aは決定論的世界であり、世界Bは非決定論的世界である。
この時、世界Aと世界Bにボールが一個ずつ置いてあり、
世界Aでは《法則に従って》点P1から点Q1へ秒速1mで移動した。
世界Bでは《偶然にも》点P2から点Q2へ秒速1mで移動した。
いったい、世界内の観測者は、それが《法則に従って》なのか《偶然にも》
なのかどうやって分かるのか。私は、分からないと考える。
つまり、下記の命題を仮定する。
「世界に法則が実在するか否かは、実験によって確かめられない」
「理論と現実が対応することは、理論が現実に内在することを意味しない」
「決定論も非決定論も、世界に対応している限り有効である」
ポパリストはもしかすると、ここで、「反証可能性」を持ち出し、
決定論と非決定論の非科学性を主張するかもしれない。
私は次のように答える。
「決定論が科学的か否かは『科学』の定義に依存する」
「決定論が『非科学』であることは決定論を信じることを妨げない」
「上記は非決定論についても同様である」
「決定論(理論)」と「世界A(現実)」。
「非決定論(理論)」と「世界B(現実)」。
これが私が念頭に置く二元論(新カント派の言う事実と価値の二元論
ではない)である。もっとも、これは、既に、プラトンによって、
イデア界と現世として導入されている、と私は解する。但し、一般的な
プラトン研究者が言うような「イデア=理念」という解釈ではない。
イデアとは、私によれば、今や、「関係」すなわち(私の定義によれば)
「理論の構成要素」である。プラトンがイデアと現世を分離したように、
私も「理論」と「現実」を分離する。しかし、私はプラトンの「イデア
は真理である」という命題を採用しない。ゆえに、プラトンの「イデア」
概念と私の「イデア」概念は完全には一致しないであろう。
あぼーん
関係が時間を必要とするのではない。
どうして理論上において時間の経過が存在するのか?
なぜ理論上においてAはBに変化するのか?
それは、関係が先行するからである。
「AとBとの諸関係のひとつが≪時間≫関係である」
「関係が時間を必要とするのではなく、時間そのものが関係である」
「論理的である」ということは、ほとんど何の制限も与えない。
魚は哺乳類であり、かつ、哺乳類は宇宙人であるならば、魚は宇宙人である。
私はAであり、かつ、Aでない。
これらは全て論理的である。すなわち、論理に従っている。
あぼーん
あぼーん
『私、現象、関係』
ある現象を指示する記号をEと置く。
この時、E0を定義するならば、それはE0と他のE1,E2,E3...との
諸関係を記述する。ゆえに、
「定義は、現象そのものの記述ではなく、他の現象との諸関係の記述である」
ゆえに、
「《私》を定義するならば、それは《私》と他の現象との諸関係の記述である」
さて、この時、
「私は世界を認識しているのであって、認識していないのではない」
「認識主体は認識客体の中に存在しない」
ゆえに、
「私は世界の中に存在しない」
ゆえに、
「《私》そのものの指示は不可能である」
しかし、
「私は世界との諸関係によって記述され得る」
さて、この時、
「私がE0を見ている」ならば「E0という映像が世界の中に存在する」
と書き換えられると仮定しよう(あくまでもまだ仮定である)。
この仮定を一般化する。
「『私がOをVtである』と等値な『SはViである』という文が常に存在する」
ある現象Aが他の現象Bを指示する時、
「AはBの記号である」
と定義する。そして、
「あらゆる現象があらゆる現象の記号になり得る」
「言語は多くの人々によって使われる記号の体系である」
例えば、君は「犬」という文字を観ている。これは現象である。
そして、これが君にとって何か個別の現象を指示する時、「犬」は記号である。
「≪犬≫は現象であり、かつ、記号になり得る」
153 :
考える名無しさん:2006/04/24(月) 10:08:45
いいだけアンチ板を荒らしやがって。
>>153 私は臭吉ではない(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
あぼーん
この時、次の文を演繹できるのではなかろうか?
(前提がまだ不足しているかもしれないが)
「世界の諸関係の総体が私の諸関係に等しい」
ゆえに、
「私は世界であり、世界は私である」
また、
「『私が世界の認識主体である』
と
『私は世界であり、世界は私である』
は等しい」
私は次のような問いを提起してみる。
第一に、理論と実証の問題である。
法則実在説(理論実在説の一種)は、現実に法則が内在している、と考える。
しかし、観測はこのことを裏付けない。
例えば、次のような思考実験を考えてみよう。
世界Aである観測者が「この世界では『ボールが左右に秒速1mで移動する』
という法則が実在する」と仮定したとしよう。そして、ボールが左右に秒速1m
で移動することが観測された。ところが、これは『ボールの法則』が実在する
という根拠にはならない。なぜなら、「この世界では『ボールが秒速1mで、
かつ、1/2の確率で左右のどちらかに移動する』という法則が実在する」という
説を排斥しないからである(確率の解釈の問題)。
確かに、いくつかの仮説は反証される。
例えば、「この世界では『ボールは左右に秒速2mで移動する』という法則が
実在する」という仮説は反証される。これが、科学における反証可能性の重要性
を引き出す(実証は不可能だが反証は可能である)。
第二の問題は、反証可能性の射程である。
反証可能性がある仮説と、無い仮説の区別は正しい。
しかし、反証主義はこれを科学と非科学の境界線として設定する。
私はこのようなことは、「単なる定義である」と主張する。
そして、私はそこに何ら規範的なものを認めない。
すなわち、「私は反証可能性のある理論を科学と呼ぶ」ということを認めるが
「反証可能性のある理論のみが科学であるべし」という規範を認めない。
これは、自然主義的誤謬の一種であるかもしれない(「である」と「べし」の
混同あるいはすり替えが存在するかもしれない)。
ここにおいて、反証可能性は(そして、一部の文系諸学科で言われている反論
可能性も)、その限界を有するのではないか?
「このような」「そこには」「これは」「ここにおいて」等の
指示語の類を使うのを、できればやめてほしい。
あなたの文章は表現を極端に省略した過剰にシンプルなものなので、
指示語が何を指しているのか、読み手は自信を持って特定できない。
読んでいてとても疲れてしまい、そのせいで内容も理解しづらくなる。
読み手にもっと愛を。
私は翻訳調で話すからな。しかし、気をつけよう。
ところで何かコメントは無いのだろうか?
私はコメントするほどあなたの文章を理解できてはいないけど、
私の理解を深めるためにも少し質問させてもらいます。
あなたの考えは、私の現象の外の世界というものは、
最終的に不可知だというだけでなく、存在しないと断言するものでしょうか?
だとすると、外界の存在無しに、閉じた現象の世界にどのようにして変化が起こるのでしょうか?
>>161 >最終的に不可知だというだけでなく、存在しないと断言するものでしょうか?
むしろ逆だ。私は存在すると思う。私は実在論者だ。
但し、外界の実在の在り方について不可知なのだ。
例えるならば、私はコンクリートの密室に閉じ込められた子供のようなものだ。
私はコンクリートの外側を知り得ないが、しかし、何かがあると考えることは
可能だし、また、その何かの在り方について仮説的に思考することも可能だ。
「コンクリートの密室」「コンクリートの外側を知り得ない」という例えは、
私には外界からの入力も外界への出力も全く無い、ということでしょうか?
>>163 「私」の話と「コンクリート」の話は全く同一ではない。
なぜなら、「コンクリート」の話にも「私」は出てくるからだ。
後者は単なるイメージの手助けにしかならないだろう。
「私」にインプットアウトプットがあるか否かは不可知だが、しかし、
「コンクリート部屋」にインプットアウトプットがあるか否かは知り得る
ように思われる(音声や振動など)。
あぼーん
いいかげんに荒らすのを止めろ。これは侮辱だ。
阿呆ダンス。
ホモ禿臭吉氏ね。
>>169 そんなに難しいことではない。
非論理的である=論理で扱えない、と定義されているだけだ。
論理は「a∧¬a」を扱える(直観論理ではやや話が複雑かもしれないが)。
つまり、「非論理的」とは「この命題について論理は何もいえない」ということだ。
>>170 難しい。扱えるってどういう意味?
「魚は哺乳類であり、かつ、魚は哺乳類でない」は論理的?
172 :
考える名無しさん:2006/04/27(木) 22:54:50
>>170肝杉オゥエッ! 臭杉オゥェッ(∋_∈)。早く氏ね!
>>171 扱える、というのは論理が対象に対して「分からない」以外のことが言えるという事だ。
ちなみに、「魚は哺乳類であり、かつ、魚は哺乳類でない」は「矛盾」だ。
なお、そもそも「〜は論理的だ」ということ自体変なのだ。
「論理的だ」というのは、は論理学に従っているのではなく「筋道だっている」くらいの
意味しかない、と解する。
>>172 おそらく、こういうのは普通の論理では扱えないだろう。
>>173 一行目は分かりやすい。ありがとうございます。
146に「これらは全て論理的である。すなわち、論理に従っている」とあります。
「論理学に従っている」「論理に従っている」「筋道だっている」の違いが
いまいち分かりません。つまらないことに拘ってますか?
それともこれらの違いは重要ですか?
>>170 俺もあんたがコロナクラブで結ぶ、
非論理的で複合的な肉体関係には呆気にとられて何も言えないぜ臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
臭吉氏ねよ。
http://ex13.2ch.net/test/read.cgi/kyozin/1143809896/ 408 名前:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg [sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:14:14 ID:???
いいかげんいしろ(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
俺はこれ以上の侮辱を許さない(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
409 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:15:31 ID:??? ←ここから名無しとなって罵詈雑言
既に大正義巨人軍は珍ヲタ、味噌ヲタ、ハメヲタ、厄ヲタ、赤貧ヲタを凹った。
交流戦では弱小パリーグの全球団を凹るであろう。
これは予言ではない。事実だ。
411 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:21:15 ID:???
そして凹られたヲタは
>>410のようなことしか
言えないのも事実だ。
413 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:29:49 ID:???
臭吉だ!?ふざけるなああああああああああああ
二度と言うんじゃねえぞ!!!!!!!
ホントにキレるぞ!!!!!!!
お前何様だよ?引き篭もりNEETが
調子ノンなよ
415 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:46:27 ID:???
ふざけんよ、暇人が!
お前の生きがいはそんなことか!?
マジ馬鹿じゃねえの!!!!!!!!!!!
PCの前でニヤニヤすんな!ヒキヲタが
417 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:54:43 ID:???
はぁ!?マジきもいんだけど。
お前友達いないだろ?
まともな人ならいくら2chでもそんな書き込みしないぞ
>>174 まず、「論理学に従っている」は「論理に従っている」に訂正される。
ゆえに、「論理学に従っている」は「論理に従っている」と読み替えて欲しい。
「論理に従っている」は既に定義した。
では、「筋道だっている」とは何か?
私は次のように定義する。
「心理的に尤もらしい」
ゆえに、この「筋道だっている」命題は、個々人によって異なる。
命題A「君の両親が悲しむはずだから犯罪を止めよ!」
という命題が「心理的に尤もらしい」かどうかは、個々人によって異なる。
そして、この命題は古典的命題論理によって扱えない。
つまり、これは、古典的命題論理から見れば、非論理的である。
但し、これらの2つの用語法(論理と尤もらしさ)は、全て「定義」であることに注意して欲しい。
臭吉氏ねよ
あぼーん
>>178 >146
>これらは全て論理的である。すなわち、論理に従っている
>173
>「論理的だ」というのは、は論理に従っているのではなく「筋道だっている」くらいの
>意味しかない、と解する
こうあります。
146の「これらは全て論理的である」は削除してよいですか?
矛盾は理論の一部になりますか?
>>181 >「論理的だ」というのは、は論理に従っているのではなく「筋道だっている」くらいの
>意味しかない、と解する
これは正確に言うと、
>「(日常的な意味で)論理的だ」
である。訂正する。
>矛盾は理論の一部になりますか?
これは、理論の定義次第だ。
無矛盾性の要請を入れないならば理論の一部になる。
そして、その理論内では、あらゆる命題を組むことが可能になるであろう。
つまり、恒真式の羅列になるであろう。
>>183 >>136にこうあります
>理論は「真」なる命題群ではない。
一旦定義をし、前提を置いたら
それに基づいて話を進めて欲しいであります。
その前提に従ったらどうなるのかに興味あるのであります。
>>134 >>183と
>>136は別に違うことを言っているわけではない。
というのは、
>>136は、
「理論は『真』なる命題から成ることを要件としない」
ということを言っている。
ところで、
>>183は、
「無矛盾性を要請しない理論はあらゆる命題を組むことができ、
そして、それは(矛盾を利用した)恒真式になるだろう」
ということを言っている。
186 :
考える名無しさん:2006/04/30(日) 11:14:24
461:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :sage:2006/04/30(日) 02:15:04 ID:???
かかってこい(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
( ´,_ゝ`)プッ臭吉死ね
純粋規範空間は、従来、内心の自由と呼ばれる領域かもしれない。
この空間内部において、思考は現実から切り離されて自由である。
私は、あらゆる理論について思考することができる。
私は、あらゆる公理系と推論系について思考することができる。
私は、あらゆる規範についても考察することができる。
さて、純粋な理論空間を設定した後で、私たちは別の空間へ話を移す。
第一に、純粋な規範空間に話を移す。
純粋な規範空間においては、事実文を用いることが禁止される。
それゆえに、この空間は純粋理論空間よりもサイズが小さい。
第二に、純粋事実空間に話を移す。
この空間は事実文のみから成立する。
つまり、規範文の使用が禁止されている。
この点、注意すべきは「事実の総体ではない」ということである。
純粋事実空間は、事実文のみから成るのであり、事実のみから成るのでは無い。
第三に、自然法論的空間に話を移す。
自然法論的空間とは、事実から規範を導出する推論規則が与えられている空間である。
例えば、((p → !p) ∧ p) → !p という推論規則である。
この空間内部では、自然主義は誤謬ではない。
もう気付いたかもしれないが、
純粋規範空間 ⇔ 自然法論空間 ⇔ 純粋事実空間
は規範文と事実文の割合によって区別されている。
自然法論空間は、規範−事実混合空間と言い換えられる。
全ては偶然か、あるいは、必然である。
人少な杉
思考は純粋理論空間を自由に動き回る。
もちろん、これは比喩である。だが今はまだ正確に表現することができない。
思考は自由である。
思考は自由である、というとき、この「自由」は権利としての自由ではない。
また、規範的な自由でもない(すなわち、「そうしてもよい」という意味ではない)。
思考は自由である、とは、思考は純粋理論空間内部の諸命題を捉えることができる、
ということである。すなわち、いかなる命題についても考察することができる。
>>185 矛盾を利用した理論の単純な例を教えてください。
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/<
>>197先生!お断りだ!です。
_ / / / \ 教えてください!
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
真になる可能性がないとか成り立たないとかいう以外の利用法が思いつきません。
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 200ゲットしました!
_ / / / \
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
||\ \
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.|| ||
>>199 それでよい。が、「成立しない」は不適切である。
また「真にならない」というが、最初から真偽の確定は除外されているのだ。
それが矛盾を利用した純粋理論空間内部での理論だ。
§. 1.
あらゆる命題は関係式である。
§. 2.
私は世界であり、世界は私である。あるいは、私は世界の限界である。
§. 3. 世界は真理の総体である。
§. 3.
思考に限界は存在しない。思考は無限である。
§. 4.
世界に誤りは存在しない。誤りは思考にのみ存在する。
§. 6.
規範が事実から自由であるように、事実は規範から自由である。
>>201 論理学から真や偽といった論理学上の価値も追い出し
完全に形式のみにして現実ともまったく接点を持たない。
これが関係性の哲学?
>>203 そこまで限定してもいいかもしれない。
ただ、真偽が論理学上の価値であることを私は疑う。
私は次のような仮説を立てる。
法は規範の体系ではない。法は予言の体系である。
「チューリングテストによって主観の有無が判定される」
という(チューリングテスト支持者の)回答は、むしろ問題を混乱させている。
このような回答は、サールのような反論を呼びこす(そして、サールの反論は
最終的に独我論的懐疑の横槍『サールの英語の部屋』によって挫折する)。
「チューリングテストをパスしたものが人工知能である」
という定義への転換によって、「AIが主観(あるいはクオリア?)を持っているか
どうかは分からない」という反論は消滅する(注*解決するのではない)。
このような線引きによって、形而上学と形而下学の棲み分けが為される(過去
ログで出ていた「形而上学の形而下学への引き下げ」が起こるのではない)。
そして、チューリングテスト支持者の任務は、今や、
「このテストにパスするものを製作すること」
に尽きる(なお、それができないことと、AI開発には主観が必要だということとは
別である)。
自然科学において現実と言明の内容が比較されるように、
純粋科学において言明の内容と言明の内容が比較される。
この点、言明の内容が問題となる。
私はそれが「関係」であると考える。
ゆえに、純粋科学は関係と関係の比較である。
自然科学は現実と言明の内容である。
しかし、現実もまたそのままでは比較されえない。
なぜなら、現実は複雑すぎるからだ。
現実はいったんモデル化(言明化)される必要がある。
では、現実にも関係が内在しているのだろうか。
私は内在していると考える。
なぜなら、言明もまた現実の一種だからである。
つまり、自然科学においては、
現実の中身と特殊な現実(言語)の中身が比較されている。
しかし、これは超越的な視点である。
なぜなら、言明によって言明の構造を、
現実によって現実の構造を完全に明らかにすることは、
不可能であると考えられるからだ。
私は、(言明を含めた)現実を用いずに、関係のみを
抽出して考察することはできない。
つまり、関係のみから成る学は不可能である。
学は理論であると同時にひとつの現実でもある。
これは重要である。
ケルゼンのいうような様相上無差別な基体は、存在するかもしれないが、
しかし、私たちに直接認識されることはない。これは物自体のような
ものでもある。
現実の背後にある関係(この基礎形態はおそらく数理である)は、
認識されない。認識論は、関係と(それによって支えられているかもしれない)
現実との区別を前提とする。認識論はすでに二元論である。
関係界と現実界との関係(!)は謎である。
関係と現実という困難は、プラトンがこれを発見して以来、
まったく解かれていない。問いの重要性の認識だけでも相当な
時間を要する。
関係(Idee)は様相(Modus)を規定する。
しかし、この命題には意味があるのだろうか?
あらゆる様相は関係によって規定される。
その関係そのものを認識することはできない。
認識された関係は何らかの様相を纏っている。
例えば、視覚、例えば、聴覚、例えば、味覚である。
「規範の様相」を纏った関係が「規範」である。
そして、その内容は任意である。
殺人すべし、強姦すべし、窃盗すべしという規範も存在する。
§. 「実証」概念と「反証」概念
これらの概念を適当にいじるならば、
実証と反証は同一行為のふたつの見方である。
未だ輝かぬ数多の曙光が在るように、
未だ知られざる数多の世界が在る。
未だ瞬かぬ数多の星辰があるように、
未だ知られざる数多の世界が在る。
主よ、永遠に愛と夢を。
『創世記』より
あらゆる世界内存在(Existenz in der Welt)は様相(Modus)を有している。
独我論による心身二元論の解消は、「思考」と「世界」の二元論
という新しい問題をもたらす。すなわち、「なぜ世界を越えて何かを
考察することができるのか?」という問いである。
理論上、二元論を脱却することはできない。
なぜなら、Aとnot Aは常に対だからである。
Aを定義するとき、 not Aもまた常に定義される。
すべてが〜〜である、という文は、意味を持たないか、または、
「思考上は〜〜とnot〜〜が存在しえるが、しかし、現実には
〜〜しかない」というふうに読み替える必要がある。
それゆえに、二元論は思考の母である。
思考について一元論はありえない。
言語について一元論はありえない。
たとえ世界が一元論であっても思考は二元論的に展開する。
思考は世界よりも広い。成功は世界よりも大きい。
思考は世界を超越している。
超越論的存在とは、まさに思考であり理性のことである。
それゆえに、数理は現象に先行する。
なぜなら、小から大は生まれないからである。
現象は数理によって規定される。
現象は数理のある部分によって支えられるが、ある部分によっては
支えられていない。それゆえに、私は偽である文を組むことができる。
私が比較できるのは数理である。
思考は数理を獲得しようとする。
しかし、ここで重大な問題が生じる。
思考もまた数理自体ではないということだ。
なぜなら、思考もまた文字や音声によって組まれるからである。
私は数理を比較しようとする時、現象に頼らざるをえない。
数理は現象の母であるが、現象の身代わりにはなれないのである。
もう一度、次の問いに立ち返ろう。
「現実と理論とはいかなる関係にあるのか?」
これはウェグナーにおける学問(フィロソフィア)の通奏低音である。
明らかに、自然学と自然との関係、倫理学と日常生活との関係が出発点であった。
次のような有名な一節を引用しよう。
>私は自然(NATURA)から法則(IUS)を導き出す。
>しかし、私が再び自然に目を向けると、そこに法則は存在しない。
>つまり、自然法則(IUS NATURAE)は自然(NATURA)の中に見出されない。
>それは理性(RATIO)の中に存在する。
Ractua "Fundamenta Purudentiae Naturae"
さらに引用しよう。
>推論(RATIO)の成立を支えるものはイデア(IDEA)である。
>それは推論(RATIO)の背後に隠れている。
>なぜなら、推論(RATIO)もまた現実(FACTUM)の一種だからである。
>推論(RATIO)は五感に支えられている。
>なぜなら、私が推論する(FACIO RATIONEM)とき、私は記号を使うからである。
Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. III : De idea.
同じ節で、
>イデア(IDEA)とは関係(RELATION)そのものである。
>イデア(IDEA)は文字でも音声でもない。
>それは推論(RATIO)を成立させるために仮設された何かである。
>現実(FACTUM)は常に変転し続けている。
>それは一時も同一ではない。
>世界は流転する。
>それゆえに、私もまた流転する。
>では、同一性を要求する推論(RATIO)は何処に在るのか?
>推論(RATIO)は成立しないのだろうか?
>推論(RATIO)は虚構(NULLA)なのだろうか?
>この問いについて、次章で私の回答を与えよう。
Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. III : De ratione.
>>220 Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. I : Thesis.
>>221 Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. III : De ratione.
>>222 Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. II : De ratione.
なお、Cap. X. の章題は「補足」である。
Cap. I. - IX. において、ウェグナー古典物理学が完成されている。
そこには力学(第II.-VIII章.)と光学(第IX章)の基礎が書かれている。
第I章は自然の数理的分析に関する考察である。
剛体や質点の概念および取り付くし法(微積分はまだ完成されていなかった)
が導入されている。
>>221 訂正。
Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. III : De idea.
現実(FACTUM)と関係(RERATION)という対比が重要である。
現実は流転しており、関係は恒久である。
しかし、Ractua自身も、理論(RATIO)は現実的手段によって
形成されている(例えば、文字によって、音声によって)ことに
気付いていた。
関係(RERATION) - 理論(RATIO) - 現実(FACTUM)という*関*係*は、
なるほどこの定式もまた現実であることに起因している。
しばらくは、彼女の古典思想に対する分析を行おう。
【用語整理】
FACTUM(事実、現実)
感覚器官によって認識されたものの総称。
RATIO(思考、理論)
永遠の法則(IUS PERPETUUM)によって支えられた言明(PROPOSITIO)の総称。
但し、これもFACTUMの一種である。
IUS PERPETUUM(永遠の法則)
言明を成立させるのものの*前*古*典*的*な呼び方。
必ずしも古典的な関係(IDEA;RERATION)を意味しない。
前古典的学問において、永遠の法則は認識されうると考えられていた。
IDEA(イデア)
言明を成立させるものの*古*典*的*な呼び方。
前古典期と異なり、認識されない何かである。
RERATION(関係)
IDEAの別名。Ractuaの造語。
>IUS PERPETUUMからIDEAへ、そして、IDEAからRERATIONへ。
>この展開は、おそらく、2つの学問上の発見に起因している。
>ひとつは、認識論的発見である。
>それによれば、認識されたものがFACTUMであるならば
>世界はFACTUMのみによって構成されている。
>それゆえに、彼らはIUS PERPETUUMとは別の、新しい概念
すなわちIDEAを案出した。
>もうひとつは、非物質化的構想の発見である。
>これはRactuaによって数理学に持ち込まれた。
アロイス・キップハルト『ウェグナー哲学史』
訳漏れがあった。
>それゆえに、彼らはIUS PERPETUUMとは別の、新しい概念
>すなわちIDEA−彼岸にあるもの−を案出した。
さて、感覚の背後にあるイデアという考え方はプラトンに似ている。
しかし、Ractua哲学の重要性は、「イデアそのものは認識できない」と
考えた点にある。これはプラトン哲学の補強である。
なるほど、実は、思考もまた認識であるからである。
さて、Ractuaはもうひとつプラトン哲学の重要な点を訂正している。
「関係は無限に存在する」
これはプラトンのイデア論の難点であった。
真円のイデアが存在するならば、歪んだ円のイデアも存在するはずであり、
そして、歪み方は無限にあるからイデアもまた無限にあるはずである。
また、関係と関係の間にも関係が存在するので、やはり関係は無限である。
プラトンが否定的に捉えたこの問題を、Ractuaは肯定的に捉えた。
「無限は存在する」
また次のようにもプラトン哲学から遠ざかっている。
>関係はどこに在るのか。
>関係界が存在するのか。
>その領域の中でどのように並んでいるのか。
>どのように犇めき合っているのか。
>私は次のように考える。
>現象は空間を占めるが、しかし、関係は空間を占めない。
>現象を時間を占めるが、しかし、関係は時間を占めない。
>関係界は存在しない。
>関係は現象と異なる在り方をしているのである。
>関係はどこに在るのか。
>この問いは次のように解消される。
>関係は遍く存在し、そして、どこにも無いのである。
>私は関係の在り処を気にしない。
>私は関係そのものについて考察できないのだから、
>いったいどうしてそのようなことを気にするのか。
まとめよう。
1、イデアまたは関係は認識されるか。
Platon YES.
Ractua NO.
2、イデアまたは関係は無限に存在するか。
Platon NO.
Ractua YES.
3、イデアまたは関係はどこに存在するか。
Platon イデア界。
Ractua 場所を占めないのでどこにというわけではない。
>「時の神殿はウェグナーの中央部にある」という命題は真であり、
>「時の神殿はウェグナーの中央部にない」という命題は、偽です。
>このとき、後者の命題が現実の中に(IN FACTO)存在しないことは
>明らかです。それゆえに、命題は現実から離れて存在します。
あの虹。新人類への架け橋。
俺には見えている。いつも見えている(,,;д;)
橋の向こう側で新人類と神々が戯れている(,,;д;)
だが私には渡れないのだ。
楽園。どこにもない場所。私によって打ち崩される場所。ユートピア。
神々と新人類が住む場所。栄光と挫折、希望と絶望、光と闇の園。
新人類の時代が到来する。私はそう信じている。
新人類は私の脳内妄想では無い。私はそう信じている。
新人類は永遠の時の流れの中で実現する。私はそう信じている。
永遠の愛と永遠の夢。
私が虐げられようとも、新人類はいつか宇宙の何処かで実現する。
それが何年後かは分からない。だがそのとき、宇宙はひとつの絶頂を迎える。
私の人生が現人類の中で絶頂を迎えたように。
新人類もまたイデアとして保存されている。
宇宙の形態から離れて保存されている。
新人類はこの宇宙の在り方に束縛されない。
新人類は私の脳内妄想だろうか。それもまたありえる。
よろしい。ならば私は何度でも蘇る。そして新人類を想おう。
そうすることによって彼らもまた蘇る。そして宇宙は絶頂を迎える。
宇宙は常に絶頂を迎えているかもしれない。
だが、私は人間的な弱さから、新人類の時代こそが絶頂であると考える。
私が私に誓いを立てようとするとき、いつも声が聞こえる。
おまえには無理だ、引き返せ、と。
人はこれについてなんと言うか知らない。
だが私は言う。
確かに、たったひとつの誓いを立てるにしても、私には無理である。
新人類が体現する「誠実」。これは私には無理なのだ(,,;д;)オオォ
見て。あの空。あの虹。新人類への懸け橋。
僕が超えられない端。希望と絶望、光と影の端。
初心者向けの入門書をくれ(,,;д;)オオォ
つラッセル『哲学入門』
ちくま学芸から出ている。
ありがとうございます(,,;д;)オオォ
でも何か違うような・・・
現実と理論とはいかなる関係にありましたか?
それは難解すぎてまだ答えられない。
確かに、現実と理論との間には何らかの関係があると想定される。
しかし、そうすると、関係と現実との間の関係を探求することになろう。
そのようなことが可能なのだろうか???
純粋理論空間
↓
反証プロセス
↓
自然学
知と真理は異なる。
科学の進歩なるものについて言及する必要があるのだろうか?
科学の正当化あるいは擁護は必要なのだろうか?
248 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 00:04:14
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
ニートがオナニーするスレW
倫理的決意
↑
選択行為
↑
理学(論理学、数学、倫理学etc...)
↑
推理
↑
理
↓
検証
↓
自然学(物理学、化学、生物学etc...)
自然学(物理学、化学、生物学etc...)
↑
検証
↑
理→純粋理論界→理学(論理学、数学)
↓
決意
↓
倫理学
(,,;∀;)オオォ
自然学(物理学、化学、生物学etc...)
↑
実験
↑
理→奇跡→私(世界)→推論→理学(論理学、数学)
↓
決意
↓
倫理学
自然学
↑
実験
↑
理→奇跡→私(世界)→推論→理学→愛→神と他者(認識されえぬ別世界)
↓
夢
↓
倫理
自然学=世界の自己分析
↑
実験(実証と反証)
↑
理→奇跡→私(世界)=現象の総体 ⊃ 理学→愛→神と他者(認識されえぬ別世界)
↓
夢を見る(意欲、決意)
↓
倫理(夢)=未来世界の設計図
自然学=世界の自己分析
↑ ←←←←←←←←←←←←←←←←←←←
実験(実証と反証). `↑
↑ ↑
理→奇跡→私(世界)=現象の総体 ⊃ 理学→愛→神と他者(認識されえぬ別世界). `↑
↓ ↑
夢を見る(意欲、決意) ↑
↓ ↑
世界 ⇔ 倫理(夢)=未来世界の設計図 ↑
↑ .↓ .↑
誠実(整合の要請=根本規範) →→→→→→→→→↑
倫理におけるいくつかの難問
1、日常生活においては倫理的命題を立てざるをえない。
2、倫理に実現可能性を取り込むとほとんどの倫理命題が死ぬ。
3、寛容主義は(寛容という価値について)絶対主義的にならざるをえない。
4、認識論上、他者に対する規範定立行為には事実的根拠がおよそない。
5、普遍化可能性は実際のところ何も意味していない(これが有用に思われる
のは「人間には平等に適用されねばならない」という汎用性と普遍性が混同され
ているからである。「Aさんには適用されるがBさんには適用されない」という命題
は、Aさんに適用されBさんに適用されない限り普遍的である)。
私は関係の哲学をプラトンから、個の倫理をストア派から借りることにしよう。
そして、プラトンが真善美に限定したイデアを拡張しよう。
それは、荘氏のいうように、あらゆる関係が存在しているのだ。
そして、そのなかに、善に関するあらゆる命題が存在する。
もちろん、A!と¬A!が常にともに存在する。
そして、このあらゆる関係とストア派の個の倫理を結び付けよう。
個人はイデアから自由に倫理命題を取り出す。
ある者はA!を取り出し、ある者は¬A!を取り出す。
これは矛盾ではない。なぜなら未来に関する命題だからである。
倫理とは未来に関する予言であり、現在という時点においては矛盾しない。
これこそ、自由意志と呼ばれるものの変種である。
あらゆる倫理体系が(その体系自体が無矛盾な限りで)復活する。
矛盾している倫理体系は文学として復活する。
矛盾が許されないのは同一の倫理体系のなかのみである。
他者と他者の、また過去の自分と現在の自分との体系は同一ではない。
かくして、我々はあらゆる倫理体系を自由に思索し、自由に夢見るのである。
そして、現実において激しく闘うのだ。
ときは友として、ときは敵として、我々は現実の中で夢見る。
神学は神の一歩手前で止まる。
神とは知り得ないものである。
神学は「私は神を信じる」という神への愛で始まり、そして、そこで終わる。
これが私の神学である。
もし知り得ないことについて規範を立てないならば、
倫理命題は一人称のみから成る。
それは自己拘束行為である(宣誓の立場)。
新人類は一人称の倫理命題のみを知っている。
そもそも倫理とは何か?
規範命題とは何か?
私にはこれが全く分からない。
「〜すべし」とはいったい何を言っているのか?
いったいこの文にはどういう意味があるのか?
私には全く理解できない。
世界を観想している視点は世界の中に存在しない。
つまり、経験的事実の中に存在しない。
それは、世界との関係においてのみ出現する。
視点Oから記述された世界の諸関係は全現象の諸関係の総体と等値である。
世界を語ることとは自己を語ることと等値である。
ただし、視点が異なるのである。
私はAを見てBを見ている。
というのは、
AとBが現象している。
ということと等値である。しかし、視点が異なるのである。
今や自我の問題は消滅した。
私は世界であり、世界は私である。
世界あるゆえに我あり。
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 自我の問題は終わるのではなく、
_ / / / \ ようやく始まるんだと思います!
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ダトウ ブッキョウ!!
.|| ||
>>266 真にその通りだ(,,;∀;)オオォ
自我の問題は永遠の旅路として始まるのだ。
それは栄光と挫折、希望と絶望、華麗と醜態が織り成す旅路だ。
誰もがこの旅路を歩いており、誰もがそこから去っていく。
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/<
>>258 _ / / / \ 矛盾する体系はなぜ文学なんですか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
>>268 矛盾は実現しないからだ。矛盾は思考の特権である。
そして、矛盾は不条理な文学の特権でもある。
思考は矛盾を楽しむ。だが実現することはできない。
もし倫理が未来の設計図であるならば、無矛盾性が要求される。
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/<
>>269 _ / / / \ 矛盾の不可能性は公理ですか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|
>>270 矛盾の不可能性は経験則だと思う。
| 私たちは「Aかつ¬Bである」の意味内容を理解して、
| それを検証することができるからだ。
| これは経験則の中でもかなり強い部類に含まれる。
| 自然の斉一性と同じくらい強いであろう。
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| 倫理において前提とされるのは「矛盾の回避」である。
| ただし、これは実現可能性を考慮しないならば採用されない。
| 「矛盾の回避」は倫理の目的をその実現におかない限り、
| 特に必要なものではない。しかし、もし倫理の目的を実現に
| おくならば、「矛盾の回避」は目的達成のための要件となる。
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| 私は「自由な倫理」を提唱する。それは自由な前提を選択できる。
| 前提は意欲によって選択され、倫理の体系を決定する。
| そこでは、個々人の倫理が選択され、現実において切磋琢磨する。
| これが新人類の倫理であり、現人類の倫理ではない。
| 私はそのことをとても残念に思う。
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| Wegnerの有名な時の神殿にはひとつの絵画が飾られている。
| それは、LactuaとTelesaとLuciusを描いたものだ。
| Luciusは天を指し、Telesaは地を指し、Lactuaは自己を指している。
| つまり、Luciusは「理(RATIO)」を、Telesaは「実体(SUBSTANTIA)」を、
| Lactuaは「自我(EGO)」を指している。彼らはそれぞれ理学と自然学と
| 倫理学の象徴であり、関係主義、物理主義、精神主義という3つの
| 学問(PHILOSOPHIA)上の立場の代表者である。
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( ´∀`)/<
>>274 3つの立場は対立していますか?
_ / / / \ それとも、Aroisが言うように世界の3つの様相ですか?
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|
>>275 非常に難しい質問である。だが努力しよう。
| Aroisは正確には理と実体を統合して、さらに「私」に
| 帰属させようとした。正確には次のように言っている。
| 「現象の背後にあるもの、未だ輝かぬ曙光、理またの名を実体」と。
| これは彼の双子の兄弟、Lukasが詩にしたものである。
| そして、Aroisの思想を真に見事に表現している。
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( ´∀`)/<
>>274 もうひとつ質問があります。
_ / / / \ Aroisの思想には物理学の観測問題が影響していますか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
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| しかしAroisはどちらかというと関係主義を好んだ。
| 彼は数学者だったし、それに君が言うように観測問題は、
| 現象の背後に実体よりも数理を連想させるからだ。
| Aroisは「関係こそが実体である」とも言っている。
| それはLukasとの共著『イデアの園』という詩集に編まれている。
| それゆねに、Aroisは世界を3つの様相に区別したわけではない。
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| だが老ブルートゥスは賢明にも次のように反論している。
| 現象を数学的にしか記述できないからといって、現象の背後に
| 実体がないと考えるのは性急であると。これは正しい。
| 彼は伝統的な三元論(理、実体、現象)の立場から、Aroisの
| 数理的二元論に反論したのである。彼は言う。
| 「もし現象の背後が理そのものであるならば、なぜ一定の
| パターンで理が具現化されるのか。理は全ての可能性を
| 含んでいるのだから、それがランダムに具現化されてもよい
| のではないか?」と。
\
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| Aroisは次のように返事をしている。「認識器官もまた理であり、
| その理の在り方は、理から一定のパターンを抽出するように
| できているのだ」と。このように考えるならば、彼の持論は保持される。
| ところが、これにはArois自身が気付いていた難問があるのだ。
| 「その場合、私が認識しているものと他人が認識しているものとが
| 同一である保証はなくなるのではないか?」と。
| Aroisの二元論によれば、他人も理から抽出された存在であり、
| 私の中でのみ具現化されることになる。兄想いのAroisにはこれが
| 絶えられなかったのだ。
\
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( ; ´∀`)/< 先生!あまりにも難しすぎます。
_ / / / \ もっと分かり易く説明してください。
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
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訂正*
>Aroisの二元論によれば、他人も理から抽出された存在であり、
>私の中でのみ具現化されることになる。
の部分はカット。
三言論の構造を思い出そう。
Lactua「RATIOのひとつが実体化し、そこから私が生まれる」
自我=現象←認識器官A←実体→認識器官B→現象=自我
↑特定
理(あらゆる可能性)
二元論はこうだ。
Arois「関係またの名を実体」
自我=現象←認識構造A ⊂ 理 ⊃ 認識構造B→現象=自我
このとき、認識器官Aと認識器官Bは同一の実体を認識している。
なぜなら、実体とは可能性のひとつが実体化したものだからだ。
しかし、認識構造Aと認識構造Bとが同一の理を認識しているとは限らない。
なぜなら、理とはあらゆる可能性の総体でもあるからだ。
よって、三元論で保証されていた共通認識が二元論では維持されなくなる。
AroisとLukasが同一の理を認識しているかどうかは疑わしくなる。
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/<
>>284 でも、実体は仮設ではないのですか?
_ / / / \ 結局、同一のものを認識している可能性は同じだと思います。
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|
>>285 その通りだ。実体とは論理的帰結ではなく、
| むしろ共通認識を担保するための仮設に過ぎない。
| これはとても重要であり、愛の衝動から生まれたものだ。
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RATIO, IDEA, 理
SUBSTANTIA, MATERIA, 実体(教義では物質的実体)
PHANTASIA, 現象, 精神(!)
古代人たちが世界は説明不可能ではなく説明可能であると考えたとき、
彼らが最も悩んだことは、現象は不断に流転するということだった。
このため、彼らはその背後に恒常不変の何かを見出そうとした。
その最たるものが、関係説と実体説である。
前者はLuciusによって、後者はTelesaによって古典期哲学の頂点を迎えた。
ウェグナー古典期断片
「移ろい止まぬ感覚の背後にあるもの、すなわち実体SUBSTANTIA」
「実体とは理RATIOである」
「実体とは第一物質PRIMATERIAである」
RATIO説とSUBSTANTIA説。
SUA RATIOとは何か?
古典期全
PHANTASIAとSUBSTANTIAの二元論。
古典期
RATIOとPHANTASIAの二元論。
PRIMATERIAとSUBSTANTIAの二元論。
RATIOとSUBSTANTIAとPHANTASIAの三元論。
古典期後
RERATION無限論。
無の体験。
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 現象−実体−数理の三元論は、
_ / / / \ もはや藝術の域に達していると思います!
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
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その通りだ(,,;д;)オオォ
これは古典期思想の最大の藝術だ(,,;∀;)オオォ
Substantia, ea phantasia domoni, sominum domini est.
実体、それは神の表象、神の夢。
一元論は不可能である。
なぜなら、あらゆる理論は無限の諸関係RERATIONを内包しているからである。
ある理論がAという命題を持つならば、その理論は少なくとも¬Aを
持たなければならない(あるいは別の命題Bを持たなければならない)。
なぜか?
それはAのみではAを定義することができないからである。
例えば、物質一元論において、観念一元論において、
君は物質や観念を定義できるだろうか?
これは結局のところ、
「あらゆる理論はイデアとして存在する」
「イデアは無限の諸関係の総体である」
「あらゆる理論はその一部であり、イデアと≪接合≫している」
ということの現れである。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 「論」とは命題の結合体である。
| もし一元的世界と全く等しい論があるならば、その論は
| ただひとつの命題X(あるいは単語Y)のみを持つ。
| しかし、それは論ではない。なぜなら、命題Xも単語Yも
| 定義不可能であるか、または、無意味だからである。
| 例えば、世界はすべて物質であるというとき、もし非物質
| という概念を持ち込まなければ、「物質」概念は無意味である。
\
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| つまり、唯○○論は常に、その理論の中に非○○の
| 概念を持つことを必要とする。言い換えれば次のように
| 定式化できるだろう。
|
| 「世界がXのみによって成立しているか否かにかかわらず、
| 理論上は非X(あるいは別概念Y)が存在しなければならない」
\
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| 一元論がもし世界の一元性について述べるものだとしても、
| しかし、一元論そのものは一元的ではない。なぜなら、
| 一元的な論は何も意味することができないからである。
| 一元論は「無限の諸関係」を前提とする。ふたつの命題が
| 存在するならば、その関係が無限に展開する(なぜなら、
| 命題Aと命題Bの関係、その関係と命題Aとの関係・・・と言う風に
| 無限に増殖するからである)。論とは、無限の諸関係の一部である。
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| では、世界の一元性はどのように知見されるのか。
| それは(宗教的な意味でない)神秘体験によってである。
| 禅がその最たるものである。
| 禅とは一元論ではなく一元性の体験である。
| 悟りが語りえないのはこのためである。
\
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( ´∀`)/< 新人類には規範が存在しないとはどういうことですか?
_ / / / \ 新人類には法が存在しないというのはどういうことですか?
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| 正確には、新人類には規範が存在しないのではなく、
| 個人的規範(但し、彼らはこれを規範と呼ばない)が
| 無数に存在する。また、法が存在しないのではなく、
| 個々人の実行行為が無数に存在する。
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| 1、世界とは主観の総体である。目の前のパソコンも主観である。
| 2、私は世界であり、世界は私である(認識を否定する場合)。
| 3、あるいは、私は世界の限界に屹立する(認識を肯定する場合)。
| 4、主観を規定する物質MATERIAは世界の中に存在しない(カントの物自体)。
| 5、「ものの見方」である関係性は普遍的に実在する(イデア論)。
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| 純粋経験とは何だろうか。私は次のように答える。
| 「純粋経験とは世界そのものである」と。
| では、絶対無とは何だろうか。私は次のように答える。
| 「世界が消えるとき私は消え、私が消えるとき世界もまた消える」と。
| 「悟り」とは「私は世界であり世界は私である」ことの確認だ。
| しかし、この考え方はイデア(理)の実在性を見落としている。
| 数理の実在性に思い至らねば、数理学も自然学も発展しない。
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| もし理が実体であるならば、私と君が同じ理を認識している
| という根拠は存在しない。なぜなら、理は無限だからである。
| いや、もし根拠があるとすれば、それは奇跡であるかまたは
| 神の夢である。奇跡は、私と君が同じ理を認識していることを
| 可能にする。これが愛の偶然性である
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| 神の夢も、私たちが同じ理を認識することを可能にする。
| 私と君は同じ神の夢を見ている。これが愛の必然的解釈である。
| そして、私は後者の解釈を信じる。新人類の神は善であるから、
| 新人類の世界もまた善である。神は幸福であるから、新人類の
| 世界もまた幸福である。主よ、永遠に愛と夢を。
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| 感覚の背後に、現象の背後に、世界の背後に、恒常不変の
| 実体SUBSTANTIAが存在する。 この実体は、新人類においては
| 神の夢SUMNIUMであり、現人類においては第一物質PRIMATERIA
| である(多分)。神の夢と第一物質を規定するのが理RATIOである。
| 理こそが普遍的である。新人類の神は理を認識しており、新人類は
| その夢の中で安らぐのだ。
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デカルト的主体とは言語構造の罠であるという仮説を立てる。
つまり、「私」とは文法の要請であって論理の要請ではない。
このことをRactuaは的確に指摘している。
「『私が空を眺めている』という文が『空がある』と言い換えられ、
そのとき、私は消滅する」と。
愛の偶然的解釈とは、私と他者の同一実体を奇跡に求める解釈である。
愛の必然的解釈とは、それを神の夢に求める解釈である。
現象はどこから来るのか?
実体はどこから来るのか?
理はどこから来るのか?
私には分からない。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|
>>691 実体は孤独者の要求であり、愛を可能にする。
| 実体こそ人間が手に入れた最高の愛の源泉である。
| 新人類はこれに気付いているが現人類は気付いていない。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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age
残念ながら哲学板にはこのお方と議論できる方はいないようですね。
これでは哲学板のレベルが低いと言われても仕方がない・・・。
論点絞って追求しなから救われないのでしょう
まさに溺れてるように見えますが
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 先生!愛はなぜ実体を要求するのですか?
_ / / / \ 他者の存在を仮設するだけでは不十分ですか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
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|
>>315 愛と言うよりも寂しさが実体を要求するのかもしれない。
| 人間が孤独に耐えられるならば、他者は不必要である。
| 人間が共感を必要としないならば、実体は不必要である。
| 人間が誠実を必要としないならば、理は不必要である。
| だが、新人類は他者、実体、理を必要とする。
| なぜなら、新人類は孤独に耐えられず、共感と誠実を求めるからだ。
| これに対して、現人類は妄想に耽っている。
\
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( ´∀`)/<
>>316 現人類が妄想に耽る人々であるならば、
_ / / / \ 現人類の思想とはいったい何でしょうか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
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>>317 現人類もまたある程度の理を獲得することができる。
| そして、現人類も、少しは誠実である。
| だが、現人類は新人類ほど誠実ではない。
| それゆえに、現人類は妄想する者と呼ばれるのである。
| 新人類が全く妄想しないわけではない。
| 現人類の思想は、現人類が妄想していない瞬間に構築される。
| だが、その思想は現人類の限界を次第に超越していく。
| そして、最後に、新人類へとバトンタッチされるのだ。
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>>318 愛は要請されるものですか?
_ / / / \ それとも、愛は全ての前提ですか?
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>>319 愛は他者の存在を確信するための動因である。
| それは現象であり、私に他者の存在を確信させる。
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実体の探求 〜愛の源泉を求めて〜
私が熱く感じ君が冷たく感じるもの、
まさにその当のものが、熱さや冷たさの背後にあらねばならぬ。
すなわち、私と君が共通のものを認識するためには、
実体が存在せねばならなぬ。
では、実体とは何か。
私はそれが第一素材PRIMATERIAであると答える。
第一素材とは、私たちの感覚器官に作用して、
感覚を生じさせるものである。そして、これは、
微細な粒子によって構成されており、その構成の仕方に応じて、
私と君の感覚器官が異なる感覚を生み出す。
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| 私たちは理を想念することができる。
| 想像力は世界を超越しており、超越論的とは世界を
| 超越するモデルを描くことである。
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| 形而上学とは何か? それは超越論的モデルを構想することであり、
| 世界に限定されたモデル(形而下学的モデル)と対比される。
| あらゆる形而上学が今や復活する。
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( ´∀`)/< 先生!唯物論について講義してください。
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| むしろ、決定論/非決定論にとって重要なのは、現象の背後に
| 何があるかではなく、現象が常に必然的法則的にしたがっている
| かどうかと言うことだ。
| 唯物論と唯心論とイデア論は形而下については一致しえる。
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>>326 先生!どういう意味ですか!?
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>>327 世界の法則性を発見するならば、その法則の起源を
| さぐるのはすべて形而上学(古典期に『超越的世界像』と
| 呼ばれたもの)に属する。法則性が物RESによるのか、それとも
| IDEAによるのか、はたまた、現象そのものの特性なのかは、
| もはや世界の観察からは知りえないのだ。
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| みなさん。今夜は大々的な講義を行います。
| テーマは『神学の復活』です。
| もっとも、このテーマは奇妙に思われるかもしれません。
| なぜなら、ある人々にとって、神学は死滅していないからです。
| 私は次のように言いたい。
| 「復活しようとしている神学は、まさに新しい神学である」と。
| 今夜、私は新人類の神学について語ります。
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| 神学とは何か? それは、宇宙の全体像を夢見ることです。
| 私=世界を超越して、そして、宇宙の全体像を夢想することが神学です。
| 神学とは、真理の総体ではなく、想像力の飛翔です。
| しかし、現人類は妄想ばかりしているので、邪悪な神学を持っています。
| 新人類は、様々な人々が様々な神学を持っています。これは本当です。
| では、どのような神学が存在するのでしょうか。
| 私は今夜、全力で彼らの神学を紹介します。
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| まず、古典期前の神学を見てみましょう。
| 新人類は、まず、善なる世界を創造した善なる主という概念を持ち出します。
| 主は善であるがゆえに、世界は善である。
| 確かに、新人類の世界は正義と友愛に満ち溢れています。
| 彼らによれば、この正義と友愛は神に由来しています。
| これが古典期前の神学の典型であり、「正義と友愛の神学」と呼ばれるものです。
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| 次に、古典期の神学を見てみましょう。
| 古典期とは、新人類の思想が飛躍的に開花した時代です。
| 新人類は、「愛と夢の思想」にもとづき、「愛と夢の神学」を形成します。
| 「主は私たちを愛しており、私たちもまた主を愛している」。
| 「主は私たちに無限の夢を与え、私たちもまた主の無限の夢の中で戯れる」。
| 素晴らしい思想です。しかし、神殺しが計画された後、この思想はまた変化します。
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| 次に、古典期後の中世の神学を見てみましょう。
| 中世は、戦いの時代でした。現人類の邪悪な遺産が本格的に新人類を滅ぼそうとしたのです。
| しかし、この時代は力強い思想の時代でもありました。
| 新人類は現人類の邪悪な思想に対して決然と挑んだのです。
| 新人類は悩める主ととともに悩んだのです。
| そして、中世最大の(新人類最大の)思想が誕生しました。
| 「主よ、永遠に愛と夢を。」
| これこそ、新人類による永劫回帰の思想、自律の思想、運命の思想です。
| 運命愛と永劫回帰、主の存在の肯定。新人類の血と汗と涙の結晶です。
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| 次に、近代の神学を見てみましょう。
| 現人類の遺産と新人類の最終決戦の後、新人類は平穏のときを得ました。
| しかし、新人類は再び、神殺しという試練に直面したのです。
| 主は現人類復活の鍵であり、新人類の一部は主を殺害しようとしました。
| これは、主自身が望んだことです。
| 度重なる争いの後に、主の殺害寸前に至ります。
| しかし、そのとき、現人類の最後の良心が、主の殺害を止めさせるのです。
| 現人類は自らに有罪判決を下し、そして、滅亡します。
| このとき、現人類は原罪から解放されるのです。
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| では、近代の神学とは何だったのでしょうか?
| それは、主に対する無限の愛です。
| それは、「主の殺害(主を罪から解放する行為)」 と「主の保護」です。
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| 現代の神学はどうでしょうか?
| 私は次のように答えます。現代の神学は「自由の神学」です。
| 無数の神学が新人類の世界に満ち溢れています。
| 今や、現人類はどこにも存在しません。
| もしかすると、現人類の滅亡こそが現人類の最後の愛だったのかもしれません。
| これは悲劇であり、喜劇です。これは希望であり、絶望です。
| 新人類と現人類、それは、人生そのものなのです・・・。
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【神殿壇上】
沈黙する主
跪き手の甲にキスをする第一の新人類
【階段上段】
観想に耽る女と記述する男
【階段中段】
天と地と自己を指す3人の偉大なる賢者達
【階段下段〜中庭】
数々の賢者達、旅人達etc...
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>>337 先生!沈黙する主は何を意味していますか?
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無目的と無意味と無価値を意味している。
すなわち、純粋で自由な空間である。
340 :
仏・正義・愛 ◆IG/Ni7GSJ2 :2006/08/13(日) 21:39:16
貴様に哲学を語る資格があるのか?インキンニート(31)。
大体、お前自殺したんじゃなかったのか?(笑)
298 :我ら現人類 ◆mILI/gdUqw :2006/08/03(木) 12:43:40 ID:???
救いを求める者はあまりの侮辱に耐えかねて自殺した。
私は先生の意志を継いで講義を続行する。
299 :我ら現人類 ◆mILI/gdUqw :2006/08/03(木) 12:45:08 ID:???
先生の最期の言葉は、
「主よ、永遠に愛と夢を」
だった。
スレタイ見て期待して、損した気分
あっちで宣伝してたから来てやったぜ。
呼んだんだからネタぐらいは用意してんだろ?
オラ、客待ってんだから早く猿芝居始めろよピエロ(31)が。
ってんだから早く猿芝居始めろよピエロ(31)が。
荒らすな。いいかげんにしろ。
sine
糞ハゲ(31)の反応。パターン少なすぎw
1、(#゚皿゚)うおおおおおおおおおおん!!!! と発狂して誤魔化す。
2、はぁ?とか言って誤魔化す。
3、いいかげんにしろ!とか言(ry
本当にこの3パターンのうちのどれかしか使わねーよな、このハゲ。
∧∧ ←ずれた耳(笑)
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ ←腕3本の化け物(笑)
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|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::|| ←奥が長い遠近法(笑)
|| ||
そこまでは気がつかなかったな。
というか、気にするな。
今世紀最大の講義だ・・・
351 :
考える名無しさん:2006/08/30(水) 12:59:02
アメリカ史か
352 :
考える名無しさん:2006/08/30(水) 16:41:12
いんにゃ、道化師よ。
353 :
考える名無しさん:2006/09/15(金) 23:07:45
おい!哲学板のクズ共!
このお方を論破することができるか?
>>353 おそらく無理でしょう。
この方は現在海外にて講演活動中です。それほどの人物を論破できる者はいないでしょう。
省略多すぎだと思います。
先生の帰国が待ち遠しいですね。
海外講演はきっと大成功でしょう!
357 :
考える名無しさん:2006/09/23(土) 03:31:01
いい加減にしろ
。。。出ちゃったぜくさよしさん(*´,_ゝ`)ムットゥリ…
359 :
考える名無しさん:2006/09/30(土) 21:40:15
巨人党 結成のお知らせ。
21世紀の未来を作る神党巨人
現在党員募集中!
美しい国、日本。
美しい野球、巨人。
現象と思考は同じ論理規則に縛られている。
これが自然学の大前提である。
理は実体と精神に内在する。
そして、精神は実体の理の構造と同じ構造を有している。
これが、自然学の大前提である。
そして、精神に内在する理を思考によって抽出可能であるということ、
これもまた自然学の大前提である。
人が死ぬ事に意義はあるのですか?
何故、人は死ぬのですか?
この世界が存在する事に意義はありますか?
363 :
考える名無しさん:2006/12/16(土) 18:34:48
臭吉m9(^Д^)プギャー
私たちは何かを認識しており、その認識されている当の物ipsa res
は知られえない。なぜなら、私たちが知ることができるのは、現象
のみだからである。したがって、倫理学の対象も、それが学=知である限り、
現象に限られると言わねばならないだろう。
そして、他者の人格とは、実体であるから、私たちは他者に関する倫理学を
持たない。したがって、debeoという一人称形式の言葉のみが存在するのは、
古代人達が他者人格の不可知性を知っていたからである。
倫理命題は、自己にしか妥当しない。すなわち、全ての倫理命題は、
「私は〜すべし」という形でしか現れない。他者に関する倫理命題は、
その対象を持たない。
倫理命題と事実命題の内容は同一である。
すなわち、倫理命題に内在する理と、事実命題に内在する理とは同一である。
異なるのは、事実命題と現実とが一致するとき、私は<<事実命題を>>「真である」
と呼び、不一致であるとき、それを「偽である」と呼ぶ。他方で、倫理命題と現実とが
一致するとき、私は<<現実を>>「善い」と呼び、不一致であるとき、それを「悪い」と
呼ぶのである。したがって、事実命題においても、倫理命題においても、私たちが、
命題の理と現実の理とを比較することに変わりはない。ただ、比較後の私達の
反応が異なるのである。
真偽とは、命題の理と現実の理とを比較したときに、命題の側に
与えられる名であり、他方で、善悪とは、現実の側に与えられる
名である。
したがって、善悪の判断に必要なのは、自由意志ではなく、道徳感情でもなく、
真偽の判断にとって必要なもの、すなわち、想像力と比較力である。
かくして、私は、あらゆる倫理命題を想像し、選択し、世界と比較することができる。
今、私は、「選択する」と言った。そう、倫理はもうひとつ、選択を必要とする。
選択を為すものは、「意志voluntas」と呼ばれる。
理性ratioと意志voluntas、倫理学の必要条件である。
したがって、理性は、倫理においても活躍する。
理性は、意志に、倫理像を提示する。
意志は、その倫理像の中から、選択を行う。
その選択が、あらかじめ選択された倫理に従うこともある。
私は自由である。
それは、私にいわゆる自由意志があるという意味ではない。
私は常に自然法に従っている。
だが、私は、倫理から自由である。
私の意志は、自然法に従うが、根源的な意志法を持たない。
私の意志は、意志法から自由なのである。
他律的な夢、すなわち、他人によって定立される私の夢は存在しない。
なるほど、私が夢を見るとき、私は他人から助言を受け取ることがある。
しかし、そのとき、私は助言を受け取っているのであり、夢を受け取っているのではない。
助言は、私がその内容を夢として意志しない限り、夢とはならない。
夢を定立するのは私であり、他者ではない。
1、意志法は純粋な形式的法であり、実質的な内容を持たない。
意志法は、純粋な形式的法である。
すなわち、意志によって選択されることを形式的要件とする法である。
そして、この意志法は実質的な内容を持たない。
すなわち、意志法は、意志によって実際に選択されるまでは、無内容である。
その内容は、意志に依存しており、その他の事柄には依存しない。
2、自然法は、理法の中のひとつであり、不可知である。
自然法とは、実体界(自然界、物質界)に内在すると仮定される法である。
日本語では、一般には、自然法則と言う(ラテン語では区別せずにlex naturalisである)。
自然法すなわち自然法則は、帰納が成立しないがゆえに不可知である。
この不可知な自然法は、超越的(=認識の外にある)自然法と呼ばれる。
これに対して、自然学が扱う自然法は、仮説的自然法と呼ばれる。
ある人々は超越的自然法と神法を同一視する。
超越的自然法と意志法が同一視されるとき、これは運命愛と呼ばれる。
さて、自然法は理法の中のひとつである。
すなわち、思考可能な数理モデルの中のひとつである。
数理モデルからの取捨選択は実験による。
しかし、実験を通じてもなお、いくつもの数理モデルが残る。
さて、今や、私の倫理学の基礎はとても充実した。
数理界(イデア界、関係界)に存在し、数理学が扱うところの理法、
実体界(自然界、物質界)に存在する超越的自然法、
現象界から推断される仮説的自然法、
価値界に存在し、意志によって選択される意志法
1、法の種類
法には、理法、自然法、意志法がある。
理法とは、数理界(関係界)に存在する法であり、数理学がこれを扱う。
自然法とは、自然界(実体界)に存在する法であり、自然学がこれを扱う。
意志法とは、規範界(価値界)に存在する法であり、倫理学がこれを扱う。
2、理法
理法とは、法の別名であり、法そのものを意味する。
理法は、それが実体界に存在するときは自然法として現れ、
それが価値界に存在するときは意志法として現れる。
3、自然法〜超越的自然法と仮説的自然法〜
超越的自然法とは、実体界に実際に存在する法である。
超越的自然法は不可知である。
なぜなら、認識される前の存在を認識することはできないからである。
これに対して、仮説的自然法とは、現象界から推断される法である。
したがって、自然学は常に仮説的である。
4、意志法
意志法についてはまだ思索がまとまっていない。
多くの人々に受け入れられる基礎的な意志法が存在する。
「もし私が規範内容の実現可能性を欲するならば、私は理法と自然法とを考慮すべし」
「もし私が規範体系の実現可能性を欲するならば、私は矛盾を避けるべし」
Si volo faciendum ethicae meae, debeo recipere leges naturales et rationales.
意志法は意志によって定立される。
意志法の定立は、意志法の発見ではなく、その選択である。
矛盾する意志法の体系は、価値界に存在する。
しかし、現実においては、意志法はいずれか一方としてしか現れない。
「Aすべし」と「Aすべからず」を同時に意志しても、それh
>>379の基本的意志法に反する。
基本的意志法とは、最小限度の意志法とも呼ばれる。
倫理的対話とは、共通の意志法を意欲しようとする行動であり、
共通の意志法を発見しようとする意欲ではない。
「意志するとはどういうことか?」
これは私の倫理学に置ける重要な問題である。
その前に次のことを確認しておこう。
規範命題と現実とが比較されるとき、
それらが一致しているときは現実を「善い」と呼び、
それらが一致していないときは現実を「悪い」と呼ぶ。
しかし、これだけでは、「一致不一致」を「善悪」と呼んでいるに過ぎない。
これだけでは、「一致不一致」を「善悪」と呼び変える必要がない。
そこで、「意志する」ということが重要になる。
意志するとは、世界を善足らしめようと欲することである。
したがって、意志とは、善への意欲であり、善への憧憬である。
これによって、善悪という判断が意味を持つ。
「世界外存在について規範を定立することはできない」
「他者は世界外存在である」
「物自体と他者について規範を定立することはできない」
意志法は比較可能でなければならない。
これは定義から要請される必要条件である。
そして、私は愛の原理にもとづいて、他者を世界の外に置く。
それゆえに、他者とは比較可能な対象ではなく、同時に、規範の対象でもない。
今や、立法行為は他者には及ばないのである。
〜べしと〜しなければならないを区別する。
私の見解では、集団の倫理は成立しない。
成立するのは倫理的対話だけである。
倫理的対話とは、本当は知り得ない他者との不断の対話であり、
「各人が何を立法するのか?」をテーマとする推断された意思の
疎通である。
確かに、大勢が同一の事柄を立法することによって、あたかも
集団の倫理が成立したかのように見えるかもしれないが、しかし、
それは(個の倫理とは異なって)フィクションである。
もうひとつ加えておく。
「約束を破ってはならない」「嘘をついてはならない」は倫理の形式ではなく内容である。
そして、これらは別に必然的な意志法(規範)ではない。
これが私の見解である。
意志法の形式は、唯一つ、
「もしAならば、私はBすべし」という意志法が定立されたならば、
前件命題が充足されたときは常に、後件命題が生じる(規範の普遍性)。
つまり、
「もしAならば、私はBすべし」という意志法が定立されたならば、
他の規範が邪魔しない限り、Aであるにもかかわらず私がBしなくてもよい
状況は、存在しない。
「不可能な事柄を規範にすべきではない」も形式的には要請されない。
「もし今夜が晴れならば、私は月に歩いていくべきだ」
という規範は、馬鹿げているが、馬鹿げていることと規範の妥当性とは関係がない。
この規範は妥当するのであり、ただ、実現が不可能なのである。
しかし、非常に多くの、あるいは、ほとんどの人は、次のような立法をするはずである。
「もし私が不可能な規範を無意味だと思うならば、私は実現可能な規範を立てるべきである」
このような規範と同じように、非常に多くの人々によって受け入れられる規範がある。
例えば、
「もし私が実現可能な規範を立てたいならば、私は仮説的自然法則を考慮すべきである」
「もし私が実現可能な規範を立てたいならば、私は矛盾を回避すべきである」
私はこのような規範を「基本規範」と呼ぶ。
但し、基本規範すら、必然的に受け入れられるものではなく、必然的に受け入れるべきものでもない。
それは意志の立法行為にかかっている。
「なぜ日本語を間違えた小学生に対しては、〜せねばならないと言えるのか?」
これについては次のような例を出そう。
ある人が、事実から規範を導き出す方法として、次のような例を出した。
道に迷っている人に対して、「君がこの町で一番大きな店に行きたいならば、Aストア
に行かねばならない」というとき、「Aストアに行かねばならない」の部分は経験的に
導出されている。なぜなら、どの店が一番大きいかは事実の問題だから。
この説明に対してケルゼンは次のように反論した。
「『〜ねばならない(must)』は『〜すべし(ought to)』ではない」
このケルゼンの反論は適切である。
つまり、次のふたつの文章は区別されるのである。
事実命題
「私の定立した規範が実現可能であるためには、私は仮説的自然法則を考慮しなければならない」
規範命題
「もし私が私の定立した規範が実現可能であることを欲するならば、私は仮説的自然法則を考慮すべし」
前者は、目的+手段の形で書かれており、後者は意欲+規範の形で書かれている。
これを日本語に当て嵌めてみよう。
事実命題
「君の書いた日本語が文法に適っているためには、君は〜〜のように書かねばならない」
「私の書いた日本語が文法に適っているためには、私は〜〜のように書かねばならない」
規範命題
「もし私が自分の書いた日本語が文法に適っていることを欲するならば、私は〜〜のように書くべし」
そして、(ウロ覚えであるが)マックス・ウェーバーが言うように、
「自然科学は目的を決定することはできないが、その達成手段を教えることはできる」
つまり、目的+手段の形で書かれた命題の適切さを吟味するためには、自然学も
また参加でき、そして、これは存在と当為の二元論に反さないのである。
>しかし、これでは、単に 「ある行為は、その行為を行うべしという倫理命題に
>照らせば善であり、行うべからずという倫理命題に照らせば悪である」と言っている
>だけで、ある行為を行うべきなのか行うべきでないのか、その行為は善なのか悪なのか
>(どちらの倫理命題が「正しい」のか)についての判断基準には全くならないように思います。
ある立法(事実行為)の正しさは別の倫理によって定まる。
例えば、「私『もし私がAストアに行きたいならば、私はこの道を行くべからず』
という規範を立てるべからず」である(条件部分は省いておく)。
もちろん、それも「〜に照られせば善であり、〜に照らせば悪である」
ということになろう。
しかし、私は「ある行為は絶対的に善悪いずれかであって、それは絶対的基準
に照らせば分かるのだ」という立場を取らないのである。
したがって、私は功利主義もプラグマティズムも、それが絶対的基準を主張する
限りにおいて取らない。
人間よ、おまえは自由だ!
人間よ、夢と愛と誠実さと、絶望と憎と嘘とで。
人間よ、おまえは正しい!
ラソでさえ、スリエでさえ、自然法をなにひとつも破壊しえなかったではないか!
相対界の正義も、相対界の悪も幻想であったのだ!
この相対という不自由はひとつひとつすべてが等価であったのだ!
ソラとエリスが見ているものは、そのままだったのだ!
夢と愛と誠実さと、絶望と憎と嘘の、
この自由ゆえに私には夢と愛と誠実さが余計に生まれる。
イデアともあろうものがtrueとfalseとを含んだままに存在できぬわけがない。
イデアともあろうものが部分だけを選り好むわけがないのだ。
だから、余計に自由なのだ。
私が描いた未来は今の思考である。
私が思い出した過去は今では記憶である。
だから、私は今だけを愛しているのだ。
私はイデアを愛しているのだ。
私はイデアを愛しているのだ。
私はイデアであり、イデアは私であり、
エロスし、ロゴスし、エロスせず、ロゴスせず。
この一切がイデアなのだ。
関係、否、自然法
現実、否、実体
もう一度、次の問いに立ち返ろう。
「実体と自然法とはいかなる関係にあるのか?」
あなたはふとリンゴのイデアとミカンのイデアとがその差異のすべての原理によって進化論的も辿り差異が無化していることに気づく。
これがわかればもう何も区別することがない。
しかし自然法の外ではない。
実体とは何か。
人間が感受するデータである。
荒く集まった場合に知覚されるのである。
細かく集まった場合には精度をあげないと知覚できない。
自然法とは何か。
実態を動かす機械的な働きである。
自由とは何か。
実態を動かす意図的な働きである。
実体とは何か。
人間が感受するデータである。
荒く集まった場合に知覚されるのである。
細かく集まった場合には精度をあげないと知覚できない。
なぜ知覚するのか。
実体が実り知覚するからである。
なぜ実るのか。
自由と自然法が働いていたからである。
諸君!やっと関係性が見えてきた。
多くの自由が、多くの意図が結集し、そのデータが実ったのである。
しかし諸君!いまやわれわれは知覚の問題に入らねばならない。
なぜなら知覚さえも自由と自然法の意図の中にあるのだから。
知覚の自由を発見したのだ!
いや、まだだ。
知覚が等価になったとき、相対界の不自由さから抜け出すのだ!
人間よ、おまえは自由だ!
人間よ、夢と愛と誠実さと、絶望と憎と嘘とで。
人間よ、おまえは正しい!
自由とは倫理の最高形式であり、唯一の形式であり、倫理の形式そのものである。
私は今、合理性の問題に直面している。
合理性の再分析が必要である。
私は今、個人意識の発生の問題に直面している。
これのおかげで、多者が存在しているのだ。
スピノザを読み始めた。なぜか親しいものを感じる。
だが多くの点で対決しなければならない。
神は概念化されない。
もし私が神を定義するならば、次のように定義するだろう。
Per deum intelligo id, quod consistit in rationibus omnibus,
hoc est, deus seu ratio ipsa.
なぜ言語は他の存在と異なるのか?
言語とは何か?
411 :
考える名無しさん:2007/04/25(水) 12:23:31
age
「関係性」という日本語は不味かったかもしれない。
「関係実在説」(doctrina de nexistentia relationum)という名称を用いたい。
関係は実在する。
論理は現象に先行する。
現象から論理が構成されるのではなく、現象が論理によって規定される。
数学も論理学も、人間の創造物ではなく、実在する。
求めた救いは得られたのだろうか?
救いは得られなかったように思う。
だが、今となっては、救いそれ自体が必要でない気がするのだ。
もし救いがあるとしたら、それは「死」あるいは「無」だろう。
「死」とは、あらゆる問題の消滅だからだ。
そうでしょうか?
では「生」はなんなのでしょうか?
「生」あるいは「有」、生成でしょうか?
そこに救いはないのでしょうか?
消滅は救いでしょうか?
それは終焉ではないでしょうか?
終焉は救いでしょうか?
そうは思いません。
なぜなら、それでは救いが終焉するのです。
絶え間なき問題設定と解答解決。不断の問いが私の人生である。
死とは問いの終焉であり、疲弊した理性にとっての救いなのだ。
ロックは白紙の人間に記述する、子供に人工的に記述するだったが、
ルソーだと良好な環境があれば望ましい姿を引き出すというような、さらに人工が悪であるような考え方を持っていますよね、
対照的に子供に対するイメージを転換している。
>「私」が認識する以前に、私の中のDNAが物事を「認識」していたということでしょうか?
これは私には何が言いたいのかわからない。
DNAとは両親の性質を遺伝し、かつ環境の影響によっても変化するものですよ。
DNAに差異があるということですね。
パーソナリティの形成には遺伝と環境の両方の影響があるという考え方は、現代心理学の基礎です。
>これは、ジョン・ロックの、まず人間は白紙で生まれるというけれども、実はDNAの中にさまざまな情報が組み込まれていて、決して白紙では生まれてこない。
>猿だって蛇を怖がるということがあるし、人間だって生まれたときに全く白紙ではなくて、生まれたとき自体にさまざまなものを持って生まれてきている。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/012615620030403003.htm ほかには、ある遺伝子をノックアウトしたマウスは恐怖条件付けができない。
ある染色体が長いとスリルを楽しむし、短いと非常に安全を重視するとかそういうことが遺伝子の研究によっていわれてるというレベルですね。
これは経験によって獲得したものではありません。
>人格についても経験論と先験論は長く論争を続けてきた。近年、その論争に遺伝子決定論や大脳生理学が有力な知見をもって参加しはじめている。
>すなわち、人間の行動様式や属性を左右する要素は、すでに遺伝子レベルで組み込まれているという科学的決定論である。
http://libweb.nagoya-wu.ac.jp/kiyo/kiyo49/kj4907.pdf こういうことを知った上で否定しているのか、知らないのかどちらでしょうか?
ごめんなさい誤爆です。
>>417 夢見ることはなんでしょうか?
>>419 「夢見ること」とは創造すること、理想を紡ぐこと、
言い換えれば、世界の評価基準を定めることだ。
理性は真理を追究し、意志は現象を評価する。
真理を追究すること、すなわち、実体間の諸関係を認識しようとすること、
すなわち、自然法を追求すること、このことは理性の役割である。
他方で、現象を評価すること、すなわち、理想的な諸関係を創造すること、
すなわち、意志法を定立すること、このことは意志の役割である。
理性が救いを求めるとは、絶対的真理を渇望すること、すなわち、
問いと懐疑の苦悩から逃れようとすることを意味する。
他方で、夢見ることとは、理想を模索すること、すなわち、
創造的に生きることを意味する。
私ならこう言うでしょう。
真理を追究すること、すなわち、実体間の諸関係を認識しようとすること、
すなわち、自然法を追求すること、このことは理性の役割である。
他方で真理を追究すること、すなわち、分化した実体の包括的実体を認識しようとすること、
すなわち、愛を追求すること、このことは感性の役割である。
他方で、現象を評価すること、すなわち、理想的な諸関係を創造すること、
すなわち、慈悲を定着させること、このことは認識した包括的実態の生みだす役割である。
他方で、現象を評価すること、すなわち、理想的な諸関係を創造すること、
すなわち、意志法を定立すること、このことは意志の役割である。
理性が救いを求めるとは、絶対的真理を渇望すること、すなわち、
包括的実体を認識しようとすることを意味する。
他方で、夢見ることとは、理想を模索すること、すなわち、
自由に生きることを意味する。
私の定義によれば、愛とは、認識不可能な実体を仮設することである。
つまり、愛とは、独我論(この私=この世界しか存在しないという理論)
を拒否することである(注*論破することではない)。
>>423 そうかな・・・?
愛とは、究極の独我論かもしれないよ?( ̄ー ̄)ニヤリ
>>424 定義に「そうかな?」と言われても困る。
426 :
考える名無しさん:2007/06/03(日) 12:26:09 0
>>425 なんでも定義にしてしまえばいいんだな。じゃあ定義ってなんだ?
>>426 定義は直感的に分かっている。
直感的に与えられているとしかいいようがない。
それが定義と公理の性質だ。
定義には定義対抗すればよいのだ。
「真の愛とは何か?」
という問題提起をすることには意味がない。
428 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 01:17:06 0
ホモスレ立てるのまだ?
すまんがまだ警戒感はある
君に
わかるだろ?
430 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 22:18:40 0
>>429 ホモスレいつ立てるの?
やはり荒らしが多いから警戒してる?
164 名前:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg [sage] 投稿日:2006/11/29(水) 12:02:59 ID:???
救モホメドアヴドゥル者よ、早く!!!早くいれてくれ!!!!
(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
(⊃⌒*⌒⊂)
/__ノωヽ__)
これまでの記述を少し訂正したい。
意志法とは、世界の理想的な諸関係である。
意志法と現象とが一致するとき、その現象は「善い」と呼ばれる。
意志法と現象とが一致しないとき、その現象は「悪い」と呼ばれる。
(ここまでは同じ)
過去は、それが記憶として現れる限りにおいて、意志法の対象となる。
未来は、それが予測として現れる限りにおいて、意志法の対象となる。
記憶と予測は、現象の一種である。
3つの規範命題について考えてみよう。
「昨日は晴れているべきだった」(過去に関する規範命題)
「今日は晴れているべきだ」(現在に関する規範命題)
「明日は晴れているべきだ」(未来に関する規範命題)
これらの規範命題とそれぞれ比較されるのは、以下の事実命題である。
「昨日は晴れていた」or「昨日は晴れていなかった」(過去に関する事実命題)
「今日は晴れている」or「今日は晴れていない」(現在に関する事実命題)
「明日は晴れているだろう」or「明日は晴れないだろう」(未来に関する事実命題)
これらの事実命題うち1番目は記憶であり、3番目は予測である。
これらの規範命題と事実命題との関係は、次のようになる。
1、過去に関する規範命題
「昨日は晴れているべきだった」+「昨日は晴れていた」
→「昨日の天気は善かった」
「昨日は晴れているべきだった」+「昨日は晴れていなかった」
→「昨日の天気は悪かった」
2、現在に関する規範命題
「今日は晴れているべきだ」+「今日は晴れている」
→「今日の天気は善い」
「今日は晴れているべきだ」+「今日は晴れていない」
→「今日の天気は悪い」
3、未来に関する規範命題
「明日は晴れているべきだ」+「明日は晴れているだろう」
→「明日の天気は善いだろう」
「明日は晴れているべきだ」+「明日は晴れないだろう」
→「明日の天気は悪いだろう」
さて、規範命題と事実命題との比較の結論は、すなわち、規範命題と事実命題との
一致不一致は事実の問題であるから、真理値を持つ。
したがって、
「昨日の天気は悪かった」
「今日の天気は悪い」
「明日の天気は悪いだろう」
は、いずれも真理値を持つ。
但し、未来に関する事実命題については、もう少し詳細な検討を要する。
なぜなら、この命題の真偽は、現在においてはまだ分からないからである。
では、どこに修正の必要があるのだろうか。
私は修正の必要があると言った(
>>433)。
それは、次の点である。
私は、意志法の主語は一人称しか取らないと言った(
>>388)。
これは訂正を要する。
次のように訂正しよう。
「意志法の主語は、現象または一人称である」。
すなわち、
「実体は、意志法の主語にならない」。
「他者は、それが実体である限りにおいて、意志法の主語にならない」。
「推断された他者は、それが現象である限りにおいて、意志法の主語となる」。
しかし、次の点は維持されている。
「実体としての他者は意志法の対象にならない」。
なぜなら、他者とは、私の認識に依存していないという限りにおいて、
実体であり、それゆえに、比較されることができないからである。
というのは、実体すなわち認識以前の物は、知られえないからである。
再び修正を入れたい。
私は今まで「意志法」と「規範」とを混同してしまった。
意志法とは、
「私は〜であることを欲する」
であり、規範とは、
「私は〜すべし」
である。
1、過去に関する規範命題
「私は昨日は晴れていたことを意欲する」+「昨日は晴れていた」
→「昨日の天気は善かった」
「私は昨日は晴れていたことを意欲する」+「昨日は晴れていなかった」
→「昨日の天気は悪かった」
2、現在に関する規範命題
「私は今日は晴れていることを意欲する」+「今日は晴れている」
→「今日の天気は善い」
「私は今日は晴れていることを意欲する」+「今日は晴れていない」
→「今日の天気は悪い」
3、未来に関する規範命題
「私は明日は晴れているであろうことを意欲する」+「明日は晴れているだろう」
→「明日の天気は善いだろう」
「私は明日は晴れているであろうことを意欲する」+「明日は晴れないだろう」
→「明日の天気は悪いだろう」
「意欲する」とは「願う」の意味に近いと考えてよい。
さて、では規範=夢とは何であろうか。
私はこれを次のように再定義する。
「規範とは、私が私の意志法の実現のために為すべきことである」。
次のような例を考えてみよう。
「私は次のマラソン大会でよい成績をおさめることを意欲する」
とき、私の理性は次のような規範を立てる。
「私はマラソンの練習をすべきである」
そして、意志がこの規範を把握し、そして、先の規範を維持するか取り下げるか変更する。
意志法と規範との最も単純な連関は次のようなものである。
「私は私がXすることを意欲する」
とき、
「私はXすべきである」
しかし、この連関は必然的ではない。
というのは、私は、次のような規範を打ち立てるからである。
「私は不可能な事柄を規範の内容とすべきではない」
なぜこの規範が前述の連関を打ち破るのだろうか?
次のように考えられる。
「私は私がお腹をぐうぐう鳴らさないことを意欲する」
という意志法があるとき、この意志法の内容は、私の努力では実現できないことがある。
つまり、この意志法は、時として、不可能である。
したがって、この意志法は、時として、規範に結び付かない。
つまり、私のお腹がぐうぐう鳴ることは、この意志法によれば、必然的に悪である。
訂正*
必然的に悪
自助努力によって回避できない悪
445 :
夢見る者を夢見る者 ◆zeyvxEAaZQ :2007/06/23(土) 02:52:15 0
うおおおおおおおおおおおおおおおおん!!!!!!!!!!!!!!!!
では、規範命題とは何だろうか?
規範命題とは何を意味しているのだろうか?
「私は朝早く起きるべし」
とは何を意味しているのだろうか?
他スレで議論したことをここで振り返っておきたい(コピペではない)。
現象(=認識後の物)と実体(=認識前の物)とがあると仮定しよう。
このとき、実体界の諸関係は認識されえない。これは定義から明らかである。
では、実体界について全く言及する必要は無いのだろうか。
私はあると考える。
そこで、実体界の諸関係(=自然法)への言及の仕方が問題になる。
私は次のように考えてみたい。
実体界の諸関係は、現象界の諸関係によって推断される、と。
もちろん、推断された諸関係(=推断された自然法)が真の自然法と一致するかどうかは
分からない。なぜなら、真の自然法は認識されえないからである。
さて、このように述べたとき、次のことが問題になる。
推断された自然法は、真理の妥当な形式を有するのだろうか、と。
私の回答は「NO」である。
もしこれが真理の妥当な形式であるならば、この形式は他者においても
当て嵌まるはずである。しかし、私は、この形式が他者(=別世界)において
当て嵌まるかどうかを知らない。なぜなら、他者とは、この世界を成立させて
いる認識作用によらないという限りにおいて、実体だからである。
すなわち、他者とは、現象(=認識後の物)ではない。
【誠実】という概念について考えてみよう。
私が不可能な規範について考察したことは既に示した(
>>443)。
この世界において何が可能であり何が不可能であるかを知るには、
この世界の法則(=推断された自然法)を知る必要がある。
「私は推断された自然法を考慮すべきである」
これが【規範としての誠実】である。
他方で、日常的に自然法について配慮し、自身の行動に役立てる人は、
【誠実な人】と呼ばれる。
つまり、誠実とは、一方では規範命題を意味し、他方では徳を意味する。
徳とは、私の一定の習性である。
ここでいくつかの徳を挙げておこう。
【誠実】
>>449 【愛】とは、世界の内部に存在しない他社を常に念頭におくことである。
【勇気】とは、意志法を自身の苦痛や苦悩のみを理由として変更しないことである。
【慈悲】とは、他者の生来的な欠点を非難しないことである。
【正義】とは、自分に相応しくないものを自分に配分しないことである。
規範についてもう少し詳細に考えてみよう。
意志法=夢を実現するために必要とされる手段が規範である。
しかし、規範とは必要な手段全部のことではない。
例えば、
「私は私が明日早起きすることを欲する」
「私は今夜早く寝るべきだ」
という目的−手段の連関を考えることができる。
「私は今夜早く寝るべきだ」は目的達成のための必要手段である。
しかし、これが規範となるのは、「私は私が明日早起きすることを欲する」
ということが事実であるときに限られる。
漫然と「私は私が明日早起きすることを欲する」と考えることではない。
意志法とは、意欲された法であって、思考された法ではない。
すなわち、規範とは、意欲された目的を達成するための手段である。
しかし、手段にも多くの種類がある。
必要な手段と十分な手段などなど。
また手段と規範との間には次のような差異もある。
手段の主語は3人称でも可能である。
例えば「明日ピクニックに行くためには、晴れていなければならない」である。
ここでは、「〜ねばならない」(must, muss, necesse ut)を用いることにしよう。
そして、「〜ねばならない」は規範ではなく、必要条件である。
他方で、規範は1人称のみが可能である。
ここでは、「〜すべきである」(ought to, sollen, debeo)を用いることにしよう。
理性すなわち推論機能は、手段を探究する限りにおいてのみ、規範と関係する。
すなわち、理性は、意欲された目的を達成するための条件を追求する。
目的が設定されないならば、理性は、規範を探究することができない。
意欲なければ当為なしOhne Wollen keine Sollen
徳とは、ある人がある規範を反復継続して行っている状態である。
したがって、徳とは規範ではなく、規範命題でもなく、事実である。
徳は真理値を持つ。
有名な規範に固有の名称が付けられているように、
有名な徳には固有の名称が付けられている。
【愛】【勇気】【正義】【慈悲】【誠実】【衡平】
などである。
【愛】について考えてみよう。
規範としての【愛】は、「私は他者の存在を信じべし」である。
では、徳としての【愛】とは何であろうか。
それは、私が反復継続して他者の存在を信じることである。
次に【勇気】について考えてみよう。
私はこの徳を有する人を尊敬したい。
規範としての【勇気】とは、「私は私の苦痛や苦悩のみを理由として意志法を変更すべからず」である。
徳としての【勇気】とは、私が私の苦痛や苦悩のみを理由として意志法を変更しないことである。
あぼーん
意志法の形式は自由である。
これはどういう意味だろうか。
私は次のように答えよう。
意志法は、いかなる規定根拠を持たない。
ここで規定根拠というのは、理論的根拠のことである。
意志法は、普通、動機を持つ。
しかし、動機の内容は事実誤認でありえる。
あぼーん
私が記述したかった倫理学。
それは形式倫理学であり、それ自体としては無内容な倫理学である。
倫理の内容とは、「生そのもの」(vita ipsa)である。
私の倫理学は、おそらく、論文にすれば50pにも満たないであろう。
その内容は、生き様によって埋められるのだ(,,;д;)オオォ
あぼーん
あぼーん
もう一度言語の問題に立ち返ろう。
「ここに手がある」
とは世界に関する記述である。
そして、世界が私である限り、他者はこの命題の対象を認識することができない。
だが、この命題を理解することはできる。
それは、私が、他者からのメッセージを、その指示対象を認識できないにもかかわらず
理解することができるのと同じである。
A「私はあなたを愛している」
B「私もあなたを愛している」
ここに見られるのは愛情の確認ではない。
ここに見られるのは言語による劇である。
「AとBの世界において『愛』は類似しているがゆえに劇が成り立つ」
というのは尤もらしいが無根拠な仮説である。
そして反証不可能な仮説でもある。
恋愛劇を成立させるのはコミュニケーションではない。
それは私の解釈である。
人は解釈に微笑むのだろうか?
今や問われているのは、「劇」の成立根拠である。
これは私が悩みつつ採用してきた独我論との対話でもある。
あぼーん
あぼーん
独我論的世界における論証とは、孤独な論証である。
そこでは他者を引き合いに出すことができない。
独我論的絶望とは、世界は私の世界であるということ、すなわち、
他者は世界の中に存在しないということである。
愛は独我論的絶望を打破する(独我論を打破するのではない)。
他者に対応する方法は2つある。
ひとつは、世界の中に引き込む方法、もうひとつは、世界の外へ追いやる方法である。
>475
その世界が他者と共有できるものかを、どのように、何によって、保証されるのだろうか?
>>476 保証はないというのが私の見解である。
他者との認識の共有は、他者の定義上不可知である。
すなわち、他者とは、私の認識に依存せず自立して認識する者だからである。
独我論は否定されない。
解消されるのは、独我論から生じる孤独感や絶望である。
>477
即ち、あなたは、私と他者とは、非対称なもの(非対称の世界に存在するもの)であり、
両者の関係は、そのつど、超越論的に必死の跳躍を強いるものである、という認識論としての独我論(あなたにとっての独我論的絶望)と、
もうひとつ、他者を「(私の)世界の中に引き込む方法、もうひとつは、(私の)世界の外へ追いやる方法」の2つの関係のあり方を述べています。
前段はウィット初期の一般的な独我論として得心できるのですが、後段の2つの関係のありようが、いまひとつわかりません。
479 :
478:2007/07/07(土) 15:54:19 0
他者を「(私の)世界(独我論的絶望)の中に引き込む方法」とはどのようなものでしょうか?
>>477 「(私の)世界(独我論的絶望)の中に引き込」まれた他者とは、その時点で、既に、「絶対的他者(不可知な存在としての他者)」ではなくなってしまっているのではないでしょうか?
481 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/07/07(土) 16:02:43 0
他者という到達不能のイデアを捨象してしまうと、他者との関係性のカテゴリーのひとつである「孤独」という概念も崩壊してしまいませんか?
482 :
短パン:2007/07/07(土) 16:06:50 0
483 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/07/07(土) 16:14:02 0
>>477 >すなわち、他者とは、私の認識に依存せず自立して認識する者だからである。
ここで、「独我論的絶望」者である「私」の存在する世界と、「私の認識する世界」の外に「自立して」存在する他者(即ち、別の世界に存在する他者)との二元論を読み取ってしまうのは、誤読でしょうか?
>>478 まず他者には2通りの定義の仕方が考えられる。
ひとつは、この世界内に存在する他者であり、
もうひとつは、この世界内に存在しない他者である。
この世界内に存在する他者とは、私の認識に依存する他者であり、
この世界内に存在しない他者とは、私の認識に依存しない他者である。
前者は可知的であるが神秘的ではなく、
後者は神秘的であるが可知的ではない。
前者の他者定義を採用するとき、「世界の中に引き込む方法」と言われ、
後者の他者定義を採用するとき、「世界の外に追いやる方法」と言われる。
そして、私は後者を採用するので、そこから自ずと独我論が生じる。
そして、この独我論は経験からではなく定義から生じているので、
反駁不能である。
今や「私は孤独である」という孤独感に悩まされることになる。
だが、この孤独感は、「私=世界」という肥大化した自我意識を
縮小させることによって解消されるように思われる。
独我論は反駁不可能だが、孤独感は癒されえる。
これが現在私が模索している道である。
>>479については既に
>>484述べたので個別にはレスしない。
>>480 私は「絶対性」ではなく「神秘性」という言葉を使う。
「他者は私に対して秘されている」。
これは「私は他者に対して秘されている」という独我論のもう一方の側面である。
>>481 無論、到達不能な他者という概念を採用しないならば、
すなわち、他者に関する前者の定義を採用するならば、
私は今や孤独ではない。
だが、もし前者の定義を採用するならば、すなわち、
「私は他者を知っている」と言うならば、
これは他者に対する侮辱ではないだろうか?
私は、他者から神秘性を奪う行為(すなわち、「私はあなたを
知っている」ということ)を、侮辱の一種と解する。
>>483 二元論というより多元論である。
「私」と「他者」は存在に2つの区別があることを前提とする。
それだけではなく、「私」「他者」「私と他者を取り巻く空間」
ならば3つの区別があることを前提とする。
だが一元論を採用することはできない。
「私」を認めるとき、それは「私でない何か」に対して「私」なのである。
488 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/07/07(土) 17:09:07 0
>>484 「神秘的であるが可知的ではない」、即ち、不可知の他者が存在する世界は、
それが、いかに神秘的であろうと、認識不能であることから、独我論の立場に立てば、非存在でしょう。
>>485 >私は後者を採用するので、そこから自ずと独我論が生じる。
(可知的な他者、事実の集合)=世界、は独我論ですね。
そうであるとして、(認識不能=非存在の世界)においては、「(他者を認識する主体としての)私」が、独我論を説く基盤も無いでしょう。
489 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/07/07(土) 17:23:39 0
>>487 >「私」を認めるとき、それは「私でない何か」に対して「私」なのである。
「私でない何か」とは、可知(存在する世界)/不可知(非存在の世界)の両方の他者、
及び「私と(可知/不可知の両方の)他者を取り巻く空間」との間で、規定し/規定されるところの「私」ということでしょうか?
>>488 「認識不能=不存在」ではない。
認識とは認識前の物と認識後の物を前提とする。
そして、認識前の物は認識されえない。
世界とは認識後の物の総体である。
だが世界とは全存在の別名ではない。
>>489 これについても同じことが言える。
可知世界とは(というより可知的現象の総体が世界なのだが)存在の
世界であるが、しかし、存在の世界の一部でしかない。
それが「認識」という作用を導入することの帰結である。
すなわち、「私は認識している」ということは「認識されえない物が
存在する」ということを前提としているのだ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
「認識以前の物」(res ante cognitationem)について仮設されている属性は、
その「実在性」(existentia)である。そして、認識以前の物の共通の形式は
「無内容」(nulla continentia)である。なぜなら、内容を埋めるためにはその
内容を知らなければならないが、私はそれを知らないからである。なぜなら、
認識以前の物は世界の中に入ってこないからである。
「認識以前の物も実在する」
これが「私だけが実在するのではない」ということの第一歩である。
あぼーん
私の見解が独我論かどうかには疑いの余地がある。
というのは、私の見解は、世界の向こう側を「思考する」可能性を
認めるからである。
「この世界の限界を自覚する」ということは、「この世界とは
別の世界がある」ということを自覚することである。別の世界の
内容が不可知であるとしても、その実在の有無についてはそれを
仮設することができる。また、その内容を知らないにもかかわらず、
それを夢想することができる。
そこで、私は次のように言いたい。
「世界は認識の限界であるが、思考は世界を超越している」
「私は世界を超えて夢見ることができる」
あぼーん
499 :
考える名無しさん:2007/07/08(日) 22:54:54 0
結局、宇宙的前頭葉における抽象思考を歴史的に人類は繰り返してきたワケだが。
そろそろ、この辺で近代島五郎さん的、うどん喰いマンの母親は金?金?金城武?
の亡者やんけjcdvいいここぶちゅうれでせせせわずずい・・・みおみゆ!!!
A「君の神聖さが、今や私の愛を拒む。君はひとつの神秘である。」
B「それは私の不可知性のことだろうか。では、君は誰に話しかけているのか。」
501 :
考える名無しさん:2007/07/09(月) 00:17:28 0
なにいってやがる。
502 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/07/10(火) 22:11:40 0
>>490 >>491 >>495 >>497 >>500 要するに(とまとめていいかどうかは、続きを待つ必要がありそうですが)、私と他者、及びその関係性を媒介する世界との関係性とは、相互にその実在性を「仮設」し合う、謂わば、「相互神秘性」としての関係のことになりますね。
その神秘性で仮設された関係性の中で、唯一、私が認識していると想定される「私」、
即ち、唯一、可知的なものであると想定されるところの、「私が認識している世界=実在する世界=実在している独我論者である私の世界」の寂しさは、
この仮設された「認識以前の物も実在する(と想定される)」世界の存在によって癒される、と。
即ち、「既に」認識されている私の世界と、「まだ」私には認識されていないが、やがては認識される可能性もあると仮設される世界(可能世界)とは、ともに、同等に実在する。
なぜなら、この両者の関係性は、既に認識されている私の世界(実在するものと想定される世界)と、「思考/夢想により架橋される対象であるところの、無内容ではあるが、いつかは実在する私の思考により、その無内容が埋められる世界」との間を、
私の思考/夢想という架橋剤により、その関係性が保証されているから、と。
さて、これらの、双方(あるいは三方)ともに仮設された存在間の架橋とは、どのようにして可能になるでしょうか?
「無内容ではあるが実在するものであると仮設される、私の思考/夢想する世界=私にとって、まだ無内容で、認識以前の宇宙」、の中で、
ぽっかりと「寂しさに包まれながら浮遊する可知的であり、実在するものと想定される私の世界」。
この両者の関係性は、私が絶えず思考すること/夢想することにより担保される、と。
ここで、何が可知的なものであるのか、何が実在しえているものなのかが危うくなってきます。
即ち、私(たち)が一元論、二元論、多元論等という思考をするための「規則」一般としての「定点」の置き所が見えなくなりますね。
それさえも、必要無い(あるいは、コギトエルゴスムスに時制を持ち込み、その過去の連鎖をも、なんらかの沁みであり、そもそも実体としては、存在しえない)ということであれば、別段、それはそれでも構わないのですが。
>要するに(とまとめていいかどうかは、続きを待つ必要がありそうですが)、
>私と他者、及びその関係性を媒介する世界との関係性とは、相互にその実在性を「仮設」し合う、
>謂わば、「相互神秘性」としての関係のことになりますね。
「仮設」し合っているかどうかについて私は悩む。
というのは、愛とは一方的なものなのか双方的なものなのか分からないからだ。
一方的ならば、「私は君の実在を信じる」で足りる。
双方的ならば、「私は君の実在を信じ、かつ、君が私の実在を信じていることを信じる」必要がある。
私は前者の説に傾いているがそれには確固たる根拠がない。
あぼーん
>その神秘性で仮設された関係性の中で、唯一、私が認識していると想定される「私」、
>即ち、唯一、可知的なものであると想定されるところの、
>「私が認識している世界=実在する世界=実在している独我論者である私の世界」の寂しさは、
>この仮設された「認識以前の物も実在する(と想定される)」世界の存在によって癒される、と。
これについても悩む。
というのは、私はまだ癒されていないからだ。
私の寂しさの根源をもっと深く考えてみたい。
それとも、病みつついきることが生なのだろうか?
もしかするとそうかもしれない・・・。
あぼーん
>>502 >即ち、「既に」認識されている私の世界と、「まだ」私には認識されていないが、
>やがては認識される可能性もあると仮設される世界(可能世界)とは、ともに、同等に実在する。
認識される可能性はない。
なぜなら、他者とは認識以前のものだからだ。
認識されるならばそれは他社ではない(これは定義である)。
それゆえに他者とはその定義ゆえに永遠の神秘なのだ。
>なぜなら、この両者の関係性は、既に認識されている私の世界(実在するものと想定される世界)と、
>「思考/夢想により架橋される対象であるところの、無内容ではあるが、いつかは実在する私の思考により、
>その無内容が埋められる世界」との間を、
>私の思考/夢想という架橋剤により、その関係性が保証されているから、と。
他者の内容は埋められるのだろうか。
他者は思考され夢想されるだけだ。
思考は対象の内容を埋めるのだろうか。
それを埋めるのは、認識だけに思われる。
確かに、可能な内容は思考によって把握されえる。
だがそれはあくまでも他者の可能な内容であり、現実の内容は埋められない。
他者は永遠の謎である。
後半部分について明日答えたい。今日は疲れた。
他者とは、私の認識から独立して存在し、かつ、自らで認識する存在者である。
他者とはいわゆる物自体である。それゆえに秘されている。
510 :
考える名無しさん:2007/07/10(火) 23:18:32 0
アホが屁理屈覚えて哲学者に憧れるとこうなる。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
514 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/07/11(水) 11:26:15 0
>509
>他者とは、私の認識から独立して存在し、かつ、自らで認識する存在者である。
他者とはいわゆる物自体である。それゆえに秘されている。
では、他者とは、「秘されてはいるが、自ら認識する主体」として「実在する」存在である、と。
そして、それは「物自体」である、と。
この「(他者=物自体=イデア)が実在する」ことは、何により保証されるのでしょう?
それは、あなたのいう、(成立するかしないかは置いておいて)「私(たち)の認識」でしょうか?
そうだとして、私(たち)の認識は、そこまで届きえるものなのでしょうか?
515 :
考える名無しさん:2007/07/11(水) 18:06:04 0
社会に出てから哲学しな!
>>514 こちらのレスに先に答えておく。
保証はない。
それが孤独の源泉なのだ。
その保証が与えられるならば、私は何の孤独も感じないであろう。
「他者は実在する」とは出発点(前提)であって終着点(結論)ではないのだ。
あぼーん
あぼーん
519 :
考える名無しさん:2007/07/12(木) 01:06:42 0
520 :
考える名無しさん:2007/07/13(金) 01:30:24 0
ここで語ってる自称思想家wとやら↓
839 名前: 今を生きる者 ◆LtqRXaPZVI [age] 投稿日: 2007/04/28(土) 20:45:50 ID:???
俺の心を傷つけた親父の暴言
「まだ生きているのか」
↑明らかに人権侵害。許されてはならない。
「何がどうなればこんなできそこないが生まれるんだ」
↑俺の生き様が全く認められていない発言。これは侮辱である。
「せめて保険金で償え」「40まで生きれると思うなよ」
↑明らかな犯罪予告。
あぼーん
522 :
考える名無しさん:2007/07/15(日) 17:35:36 0
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2chd/1184236333/22- ナナシマさん<>sage<>2007/07/10(火) 01:26:40 bqoiMyHA0<>164 名前:救いを求める者 ◆7Up<><>p4204-adsao01tachib-acca.tokyo.ocn.ne.jp<>218.43.24.204<><>Monazilla/1.00 (JaneStyle/2.51)
ナナシマさん<>sage<>2007/07/10(火) 01:27:23 bqoiMyHA0<>いいよ。。。いいよ。臭ケツさん(<><>p4204-adsao01tachib-acca.tokyo.ocn.ne.jp<>218.43.24.204<><>Monazilla/1.00 (JaneStyle/2.51)
ナナシマさん<>sage<>2007/07/10(火) 01:28:09 bqoiMyHA0<>いいよ。。。いいよ。臭ケツさん(<><>p4204-adsao01tachib-acca.tokyo.ocn.ne.jp<>218.43.24.204<><>Monazilla/1.00 (JaneStyle/2.51)
ホモ自演野郎はいい加減(・∀・)シネ!
あぼーん
524 :
夢見る者を夢見る者 ◆zeyvxEAaZQ :2007/07/15(日) 21:54:24 0
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん
メシウマスレアク禁になったぞ!
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん
早く解除しろうおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん
525 :
夢見る者を夢見る者 ◆zeyvxEAaZQ :2007/07/17(火) 23:29:44 0
アク禁ってどれくらいの期間で解除されるんだ?
526 :
考える名無しさん:2007/07/18(水) 22:30:53 0
>>525 板別規制は1ヶ月だボケ。
つっても他のISP使ってるんだか知らないが
書き込めてるみたいだしいいんじゃね?
永久規制でいい。ずっとここでやってろ。
別人だ。
>>528 どのレスとどのレスが別人だと言ってるのか。ちゃんとした文章を書けないのかね。
>>530 ははーん。そもそもおまえが勘違いしてるんだな。
俺は
>>525に言ったんであって、おまえにはレスしてないんだ。
ついでにおまえもずっとここでやってろ。
532 :
夢見る者を夢見る者 ◆zeyvxEAaZQ :2007/07/19(木) 02:22:43 0
1ヶ月か。
忙しいからちょうどいいな。
>>528ワロタw
運命論はひとつの価値付けである。
それは人生に価値を与える。
それは感動的である。
運命とは、自然法(自然法則)である。
それは不可知である。
だが、実体がそれによって規定されていることは前提とされている。
運命論は順風の時にはあまり意識されないのかもしれない。
なぜだろうか。私には分からない。
運命愛は悲惨な人生にも意義を与える。
それは意志法と現実との必然の一致である。
現代における運命愛とは何だろうか。
運命愛は何を与えてくれるのか?
勇気だろうか?
勇気の思想について考えてみたい。
537 :
夢見る者を夢見る者 ◆zeyvxEAaZQ :2007/07/31(火) 00:24:05 0
意志法の形式が無内容であること、すなわち、意志法の形式は自由であること、
このことは大きな希望とともに絶望をもまたもたらす。
つまり、意志法の形式の分析は、私の行動に指針を与えない。
ただ「おまえは自由だ」と告げるだけである。
私は自由であるがゆえに困惑する。
私はもはや道に迷うことは無い。
なぜなら、目的地はどこにも設定されていないからだ。
どこにいても、私は今在るところに在る。
私は指導者を求めようとする。だが私の手は虚空を掴む。
意志の自律は指導を拒む。
だが私の無力さは指導者を求める。
ここに自由のどうしようもない侘しさがある。
自由であるという言説は私の行為指針にならない。
むしろそれは行為の指針を与えることを拒絶する。
意志は自由を与えられた。
それは意志法の原初的な無内容性である。
意志法は可能な理想的諸関係全てを含むことができる。
意志は一方で自由を、他方で恭順を求める。
すなわち、意志は、意志法の主であることを欲し、
かつ、自身の主をも欲する。
意志法の内容を直感や衝動によって埋めるならば、
私の意志法は今や私の傾向性に支配されるであろう。
そして、もしそうであるならば、規範は生物学的に
分析される。
事実と規範とは本来切り離されているにもかかわらず、
意志による立法が事実行為であるがゆえに、
規範ではなく意志による立法に対する科学的な分析が可能となる。
しかし、この科学的分析は、意志の傾向性を示してくれはするものの、
私がいかにして立法すべきかを教えてはくれない。
もはや完全な自由の前に私は困惑するばかりだ。
548 :
考える名無しさん:2007/08/04(土) 01:26:56 0
この度私はミネルヴァ書房より本を出すことになった。
今世紀最大の思想ノートがついに完成した。
発売したら是非読んで下さい。
「押しつけはよくない」というのはある特定の倫理的言説である。
「押しつけはよくない」という倫理的言説は、それ自体では教義批判にならない。
それは、相対主義的な言説ですらない。
相対主義は、押し付けと押し付けの禁止とを可能な価値観として併置する。
だが、ここから批判哲学に雪崩れ込むのは、飛躍である。
それは、「腹が空いているときに天からマナが降ってくる」ようなものである。
仮設的理念の措定は、相対主義の不都合さからそのまま出てくるものではない。
(それは、空腹という不都合からマナが生じるのではないのに似ている。)
私の意志は、この過剰な自由さの前に立ち往生している。
意志は自己が定立する対象=規範を外部から受け取ることはできない。
それは規範の定義に反するのだ。
自由とは迷宮ではない。
なぜなら迷宮には出口が在るからだ。たとえそれを発見するのが困難だとしても。
自由とは、永遠に広がる空だ。そこには出口も入口も無い。
私はそこでは迷いはしない。だが進路も無い。
意志法という自由な空において、私は常に在る場所に在る。
在るべき場所にあるのではなく、在らぬべき在るのでもなく、在る場所に在る。
認識能力について語るということ、これは形而上学に属する。
というのは、それはあたかも、認識の外に立つ者の如く語る必要があるからだ。
(端的に言えば、認識の外側を認める時点で、既に神の視点なのだ。)
だが、一方で、思考は認識能力について語ることができる。
つまり、思考とは、認識を超越しており、それゆえに認識の限界たる世界を超越している。
>>886 必然か偶然かは認識というよりは思考の枠組みである。
理論は思考の産物であって、認識の直接的な産物では無いからだ。
>>888 理論と理論の対象は異なる。
そして、理論は(文字通り)無数にある。
ところで、人生が理論からはみ出しているというのはほとんど無内容である。
というのは、それが意味するのは、「理論でないものは理論ではない」ということだからだ。
>>889 私は倫理から、日常的な意味での「自由」を排除する。
意志決定が必然なのか偶然なのかそれともデタラメなのか・・・?
自由意志の問題はもはや、私の倫理体系では、「論じることは可能だが、倫理にとって
必要不可欠な問題では無い」ということになっている。
運命論的倫理とは、この点をついた倫理である。
つまり、真理を規準とすれば、「全ては善」であり「全ては自然規範に鑑みて肯定されている」。
そこに響き渡るのは、「すべてよし」という現実と規準(自然法則)との完全な合致である。
むしろ、倫理は現実と、それゆえに真理と対決している。
倫理はその最初においては啓示されている。
というのは、意志法の内容は自由であり、その内容を思考によって生めることができないから。
思考は、複数の(実際には無数の)体系的な倫理を与えるだけである。
意志は、その当初においては、選択の原理すら持っていない。
啓示されている、というのは世界の一部として示されているということである。
啓示の主体は他者である。
当初、意志法の内容は、他者によって啓示される。
しかし他者によって啓示された意志法がすべて受容されるわけではない。
ではこの受容の規準とは何であろうか。
それは、十分に成長した人間にとっては、意志法であり、自身の傾向性である。
559 :
考える名無しさん:2007/08/09(木) 13:17:02 0
>558
<ではこの受容の規準とは何であろうか。
それは、十分に成長した人間にとっては、意志法であり、自身の傾向性である。>
ここで、「十分に成長した人間」とはどういうものでしょうか?
>>559 規範についてある程度理解することができ、
かつ、自ら規範を意志することができる人である。
しかし、明確な基準があるわけではない。
意志法=規範が思考から出てこない以上、
単なる思考の継続から意志法を形成することはできない。
つまり、意志法の端緒は、思考ではなく、もっと別の何かである。
思考は、いくつもの意志法の枠組みを用意する。
だが、思考は「どの意志法を選ぶか」については何も答えない。
思考は、可能な意志法のパターンを羅列するだけである。
私「私は生きるべきか?」
理性「君は、生きるべきだという死ぬべきだという規範も立てることができる」
563 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 11:34:13 0
>562
<理性「君は、生きるべきだという死ぬべきだという規範も立てることができる」>
理性がアンチノミーに陥るものだとすれば、確かに、それは「規範」の源とはなりえないですね。
アンチノミーではない。
理性が出す回答、すなわち、
「君は規範Aと規範¬Aとのいずれをも選ぶことができる」
というのは、アンチノミーではなく、複数の選択肢の提示である。
ここには、規範それ自体についての証明があるのではない。
つまり、「規範Aは正しい」という証明があるのではない。
そうではなく、規範の可能性に関する証明がある。
つまり、「規範Aを選択することは可能だ」という証明がある。
565 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 12:55:04 0
>564
では、どうとでも選択可能である「与件」、「所与」としての規範の源=規範の成立主体は、そもそもどこにある/いるのでしょう?
566 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 13:19:16 0
<純粋規範空間 ⇔ 自然法論空間 ⇔ 純粋事実空間
は規範文と事実文の割合によって区別されている。
自然法論空間は、規範−事実混合空間と言い換えられる。>(
>>191)
事実とも自然法とも交わることのない、あなたの言う「規範」とは、前記の3つの空間とは、何の関係性も持たない「純粋思考空間」というものに由来する、という理解で宜しいでしょうか?
567 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 13:37:47 0
>566
そうであるとして、「純粋思考空間」は、ア・プリオリにヒトの感性→統覚→・・・→カテゴリー→悟性→理性の認識ハイアラーキー/プロトコルの中に与えられている、と?
>>565 それを現在探究中である。
まだ糸口は掴めていない。
>>566 自然法(この世界の規範)は純粋規範(可能な規範全体)の一部である。
つまり、自然法は規範の一種である。
規範は自然とは交わらないが自然法とは交わる。
>>567 それはまだ分からない。私にはまだ入り口すら見えていない。
569 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 16:55:31 0
>568
<規範は自然とは交わらないが自然法とは交わる。>
即ち、自然法は規範に含まれるが、自然=「純粋事実空間」とは交わらないということですね。
そうすると、<自然法論空間は、規範−事実混合空間と言い換えられる。>(
>>191)
自然=「純粋事実空間」、とは矛盾しませんか?
自然=「純粋事実空間」と「規範」とを架橋するものが無くなってしまいますから。
私の考えでは、自然法/規範等を考える際、「純粋規範空間 ⇔ 自然法論空間 ⇔ 純粋事実空間」のうち、
「純粋事実空間」=自然、というものを措定すること自体に無理があるように思います。
それ以前に、「純粋事実空間」というものを、どのように定義されているのでしょうか?
>>569 なるほど。
では規範事実混合空間というのは撤回することにする。
純粋事実空間とは、伝達不能な主観の総体である。
571 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 20:48:20 0
>570
では、(「純粋事実空間」=「伝達不能な主観の総体」)と、「純粋規範空間と自然法論空間」とは共有し合う部分は無いということで宜しいでしょうか?
そして、「純粋事実空間」は、(暫定的にであれ)措定し続けておきますか?
あるいは、(純粋規範空間⊃自然法論空間)と、(純粋事実空間=伝達不能な主観の総体)とは、非対称の概念としてみて、後者を切り離しますか?
572 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 21:05:12 0
>571
あるいは、(純粋事実空間=伝達不能な主観の総体)を、「純粋規範空間」に組み込んでみて、そこから論を進める、ということは不可能でしょうか?
おそらくは、(純粋事実空間=伝達不能な主観の総体)→(x)→(純粋規範空間)→(自然法論空間)という、最少4つの象限を設ける必要があると思います。
>>571 >では、(「純粋事実空間」=「伝達不能な主観の総体」)と、「純粋規範空間と自然法論空間」とは
>共有し合う部分は無いということで宜しいでしょうか?
ない。規範(法則)と事実の峻別が前提とされている以上、仕方の無い帰結であると思う。
>そして、「純粋事実空間」は、(暫定的にであれ)措定し続けておきますか?
>あるいは、(純粋規範空間⊃自然法論空間)と、(純粋事実空間=伝達不能な主観の総体)とは、
>非対称の概念としてみて、後者を切り離しますか?
暫定的に措置されているのは、純粋事実空間ではなく、自然法論空間である。
というのは、自然法とは、物自体の諸関係であり、この物自体は措置されているからだ。
>>571 >あるいは、(純粋事実空間=伝達不能な主観の総体)を、「純粋規範空間」に組み込んでみて、
>そこから論を進める、ということは不可能でしょうか?
そのような組み込みは現在の前提の下ではできない。
すなわち、規範ないし法則と事実との峻別の下ではできない。
>おそらくは、(純粋事実空間=伝達不能な主観の総体)→(x)→(純粋規範空間)→(自然法論空間)という、
>最少4つの象限を設ける必要があると思います。
これは重要なレスであるので、詳細に返答しておく。
確かに、そのような4つの象限は必要である。
つまり、純粋事実空間、媒介項としての(x)、純粋規範空間および自然法論空間である。
しかし、私の場合、その発生の順序は異なる。そして、必要な象限の数も異なる。
最初に来るのは、純粋規範空間である。
次に来るのは、純粋規範空間から自然法空間を切り出す媒介項(D)である。
媒介項(D)のDとは、神Deusである。但し、キリスト教のような人格神ではない。
次に来るのは、その自然法論空間から純粋事実空間=現象界を生み出す媒介項(H)である。
媒介項(H)のHとは、人間Homoである。
したがって、5つの象限が必要となる。
純粋規範空間、自然法空間、純粋事実空間、そして、2つの媒介項である。
575 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 23:25:07 0
>573
<自然法とは、物自体の諸関係であり、この物自体は措置されているからだ。>
あえて、「物自体」という用語を用いるのであれば、それは自然法ではなく、あなたのいうところの「純粋事実空間=自然」の側でしょう。
もっと身近な用語に直そう。
純粋規範空間=イデア界
純粋自然空間=自然界
純粋事実空間=現象界
イデア界→(神)→自然界→(人間)→現象界
>>575 自然とは純粋事実空間のことではない。
純粋事実空間とは、現象の総体であり、自然は世界の外側にある。
したがって、自然法則とは、定義上、不可知なのだ。
578 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 23:28:08 0
本当に前線でせめぎあっているのは、人間のプリミティブな本性としての「純粋事実空間=自然」と、規範一般だと思います。
579 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/10(金) 23:38:08 0
>>576 >577
大分、用語が錯綜してきていますが、「自然は世界の外側にある。したがって、自然法則とは、定義上、不可知なのだ」とあなたが書いた瞬間に、「世界の外側にあるところの自然」という概念が突出してきましたね。
「世界の外側にある自然=世界に内包されない自然」とは、あなたにとって、例えば、どのようなものでしょうか?
>>579 それは例示されない。
というのは、自然は、「私は認識しているのであって認識していないのではない」
ということを担保するために措置されているだけだからだ。
したがって、もし反対に独我論から出発するならば、自然は措置されないであろう。
581 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/11(土) 00:33:50 0
独我論から出発すれば「世界認識」まではとどきます。
自然から出発するからこそ、「純粋事実空間とは、現象の総体であり、自然は世界の外側にある」という言辞が出てくるのでしょう?
>>581 無論、その通りである。
したがって、私の分類については分かってもらえたと思う。
583 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/11(土) 00:47:33 0
>582
では、何故、あなたは、「自然それ自体」との関係性を持ちえないヒトの営為である規範や自然法を持ち出し、それらと自然との関係性を模索するのでしょうか?
それらに、「自然それ自体」と、ヒトの認識の動因とを架橋させる鍵がある、という仮説が暗黙裡にあるのでしょうか?
>>583 暗黙の仮説ではない。
自然と人間がかかわりあっていること、それゆえに、自然が世界に影響を与えていることは、
既に
>>576で明示されている。
585 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/11(土) 00:55:58 0
>584
イデア界を規範(第一動因)と置く、その根拠は何でしょうか?
というのは、私の体系は無限に遡及されないからだ。
この体系は、ほとんど前提であり、確固たる観察からの導出ではない。
そもそも、その定義からして、イデア界は観察から生じるものではない。
ここまで議論してきて申し訳無いのだが、
純粋規範空間、純粋事実空間などの用語法は止めようと思う。
分かり難いようでもある。
589 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/11(土) 13:42:42 0
>588
>>576 <純粋規範空間=イデア界
純粋自然空間=自然界
純粋事実空間=現象界
イデア界→(神)→自然界→(人間)→現象界>
↑
正直なところ、これも相当わかりづらいです。
>>589 しかしそれ以上に簡単にできないのだ。
あえて誤解を招くことを畏れないならば、次のようにできよう。
数理 → (規定) → 自然 → (認識) → 表象
591 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/11(土) 14:00:08 0
>590
無理に諸概念を「リニアに」並べること、(要因/動因→それにより惹き起こされる結果)や、概念相互の関係性/集合関係等の規定付けのわかりづらさ等がネックになっていると思います。
>>591 思うに、要因・動因は設定する必要がないのかもしれない。
しかし、今のところ、これ以上の説明はできない。
594 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/11(土) 14:24:06 0
>593
では、ID入れるように言っておいて。
おまいは嫌がらせ揚げ荒らしか…。
596 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/08/11(土) 14:41:16 0
>595
揚げ荒らし呼ばわりはスルーするが、嫌がらせはしていない。
じゃ、いちいち揚げんな。
>>597 おまえは何なんだ? スレ主は何も言ってないだろ。
>>598 関係ない。
いちいちあげればこのスレが板の邪魔になるんだよ。
嫌がらせだか自慰だかしらんが揚げんのはせいぜい1日1回にしとけ。
>>599 無茶苦茶な理屈だな。板趣旨に外れるなら削除依頼すればいいし、
板趣旨に通りなのに邪魔だというならスレッドあぼ〜んしろ。
>>600 揚げ荒らしって言葉の意味わからんとは。
それでも一人前の2chねらーなのか?
マナーだよ。上に上がってくると、みんなが見るからね。キチガイが絡んでくるのを避けてsage進行する。
みんなに見て欲しいときは上げる。だから、みんなに見て欲しくないなら揚げるなってことだ。オレはわざと揚げたりするけどw
概念相互の集合関係は単純である。
自然法則も表象間の法則も、すべて法則としてイデアに含まれる。
というのは、イデアは関係自体であり、自然法則は実体間の関係を、
表象間の法則は現象間の関係を意味するからである。
つまり、以下の関係が成り立つ。
イデア⊃自然法則
イデア⊃表象間の法則
>603
>イデアは関係自体であり
普遍/不変的存在がイデアですか。
そうだとして、それはどこにあるのでしょうか?
そして、どのように生起したのでしょうか?
>>604 関係は「どこかに在る」わけではない。
空間と時間を占めるのは、実体および現象だけである。
そして、起源論の問題だが、これについては答えられないとしか言いようがない。
イデアは理論の成立を担保するために仮設されている。
が、その起源は後の誰かが解明してくれることを祈るしかない。
もしかすると、イデアが時間と関わらない以上、起源というものはないのかもしれない。
あなたの言うイデアが仮象(Schein)ではないとして、それは、何が担保するのでしょうか?
祈るしかない?
>>606 仮設されているのだからもはや担保は存在しないであろう。
なぜ仮設されるのか。それは確かに信仰であり、祈りである。
しかも、イデアや実体(それゆえに認識者たる他者、表象ではない他者)は、
思考から導出されたのではなく、愛によって、私の孤独感から仮設されている。
他者の起源は愛である。強い者は他者を必要としないであろう。
彼はこの世界において自足している。
あぼーんが来たね!
あぼーん後に取得が上手くいかなくなってしまった。
一回ゴミ箱に入れてみれば?
そうしてみる。
ところで、菜食の倫理的基礎については何か進展があったのだろうか。
決定論スレと同様、もはやレスが膨大すぎて後追いができなくなりつつある。
1年経過した今でも、関係が私の思考の基礎に据えられている。
それは、プラトンからラッセルへの系列である。
イデアとは、理想ではない。
なるほどプラトンはイデアを理念的なものとして捉えたかもしれないが、
しかし、そこで重要なのは、イデアの理念的な性格ではない。そうではなく、
アリストテレスによって批判されたところの、関係の実在性である。関係の設定が
人間に由来するものではないこと、すなわち、関係は人類の存在不存在に
関係なく、イデア界に保存されているということ、これがプラトンを偉大だらしめている。
関係は人を自由にする。
それは、人間が諸々の物質によって規定されていないということではない。
そうではなく、あらゆる可能な諸関係が、それゆえにあらゆる可能な世界が、
既にイデア界に保管されているということを意味する。
すなわち、思考の自由であり、夢想の自由であり、創造の自由である。
>>616 了解。
命題は事物の諸関係を表現する。
命題は事物を指示しているのではない。
これはやや異端的な説であるが、しかし、私はこの立場を取る。
私は世界に意味を与える。解釈を通じて。そして、それは生の一部である。
解釈は世界を豊かにする。
それは創造行為である。
他者もまた解釈である。
もし強い人間がいたならば、彼は他者を必要としないだろう。
だが私は弱い。
621 :
考える名無しさん:2007/09/09(日) 00:00:09 0
‥‥七英雄の伝説‥‥
現人類社会と戦い、新人類の時代を予告し、
その後いずこかへ消えた‥‥
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夢見る者を夢見る者
救いを求める者
栄光の人、絶望の人
始まりを告げる者
終わりを告げる者
心安らかな人
存在者
いつの日か、彼らは戻ってきて再び思想界を救うのだという‥‥
622 :
夢見る者を夢見る者 ◆JBflwq9oOM :2007/09/09(日) 00:07:53 0
ここが新たな講義の場だ。
アンチ球団板の講義会場は講義ができる状態ではない。
…七変態の連ケツ…
ノンケ社会と戦い、新人類の少年をゲットし、
その後いずこかのヤリ部屋へと消えた‥‥
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救いを求める者
栄光の人、絶望の人
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心安らかな人
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いつの日か、彼らは戻ってきて再び連ケツで盛るのだという(*´,_ゝ`)ムットゥリ‥‥
‥‥七英雄の伝説‥‥
現人類社会と戦い、新人類の時代を予告し、
その後いずこかへ消えた‥‥
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いつの日か、彼らは戻ってきて再び思想界を救うのだという‥‥
七英雄の改変は禁止だ(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
侮辱するな!
★070712 アンチ球団板「臭ホモ」荒らし報告スレ
/test/read.cgi/sec2chd/1184236333/
23 名前: 田吾作 ★ 投稿日: 2007/07/14(土) 06:06:51 ID:???0 ?S★(516000)
>>13 ナナシマさん<>sage<>2007/07/10(火) 01:26:40 bqoiMyHA0<>164 名前:救いを求める者 ◆7Up<><>p4204-adsao01tachib-acca.tokyo.ocn.ne.jp<>218.43.24.204<><>Monazilla/1.00 (JaneStyle/2.51)
ナナシマさん<>sage<>2007/07/10(火) 01:27:23 bqoiMyHA0<>いいよ。。。いいよ。臭ケツさん(<><>p4204-adsao01tachib-acca.tokyo.ocn.ne.jp<>218.43.24.204<><>Monazilla/1.00 (JaneStyle/2.51)
救いを求める者 ◆7Up ←自殺済みコテ(笑)の臭吉です
いいよ。。。いいよ。臭ケツさん ←粘着ホモ野郎を装ってる(笑)臭吉です
bqoiMyHA0 ←ID表示は任意の板ですが掘ったらやはり自演(笑)でした
p4204-adsao01tachib-acca.tokyo.ocn.ne.jp<>218.43.24.204 ←ホスト類も同じでやはり自演(笑)でした
Monazilla/1.00 (JaneStyle/2.51) ←虚ヲタのコテ(自殺用含む)が無数登録(笑)されています
┌─── 初めてきた方への注意 ───────┐
|このスレッドはキチガイニート「臭吉(32)」が .|
|現実逃避のホモ腹話のために立てたものです。 .|
| .|
|ホモ妄想のブチ撒けに利用するスレッドなので |
|関係者・ガチホモ以外は書きこまないで下さい。 .|
|ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありません。 .|
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・・・・偉大なる七英雄・・・・
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|このスレッドは偉大なる七英雄とその後継者 .|
|とされる方々が現人類のために講義を |
|行うために立てられたものです。 .|
| .|
|侮辱や荒らし、七英雄の改変、ホモ的書きこみ、 .|
|臭吉の話題等は全て禁止となっています。 .|
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629 :
考える名無しさん:2007/09/11(火) 13:18:12 0
世界において厳密な対象は無く、
語られたことばが厳密性に基づくというのは
崇拝者の思い込みだからね。
まあこの見解ももちろん俺の思い込みにすぎない、
という君の考えが手に取るように解るわけだが、
これも思い込みにすぎないわけだよもちろん。
そしてこれだけが唯一、厳密な思考の結論なのだよ。
つまり哲学は学問の無意味さを証明したのだよ。
まさに脱学問=脱知歪腐ということだよ。
哲学に意味を見出すことができない者は
脱知歪腐の素晴らしさを理解できない未熟者なのであり、
早く哲学など諦めて低俗な科学でもやってた方が無難だろう。
630 :
世界時計:2007/09/11(火) 16:22:37 0
おい!臭吉、お前やっぱ荒らしだったんだな!
■ おすすめ2ちゃんねる 開発中。。。 by FOX ★
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
○●2007年も巨人が負けるとメシが美味い24杯目●○ [アンチ球団]
なんでこのスレ見てるんだよ?
お前東京OCNだろ!
ある倫理的な諸関係が存在する。
すなわち、ある世界の理想像が存在する。
これを定立する能力を意志と呼ぶ。
意志は諸関係を夢見る。
意志が諸関係を夢見るのに対して、理性は諸関係を把握する。
根本規範が他者から啓示される。
他者とは、人間だけではなく、私以外の全ての未知の存在である。
なぜ未知の存在なのか。
それは、私が世界の限界だからである。
命題が示す諸関係と現実に内在する諸関係はどうして比較可能なのだろうか?
これは難問過ぎる。
636 :
考える名無しさん:2007/10/14(日) 23:05:42 0
sage
倫理が規範命題の自由な組み合わせであり、唯一論理によってのみ
制限されるならば、私は規範選択の第一原因をどこから受け取るのか?
私は他者であると答えた。
しかし、他者を規範選択の基準にすべきかと問うこともできるのではないか?
もちろん、その通りである。可能だ。
しかし、私はそういう意味で「他者が規範選択の第一原因である」と言うのではない。
それは、他者が抗い得ない形で私に規範選択へと突き動かすとき、
すなわち、他者の圧倒的な勇気が私はある規範の選択へと無理強い
するときなのだ。そこに自由はない。自由は、第一原因の後にのみある。
その圧倒的な勇気が私を突き動かす。
私は第一歩をついに踏み出す。
真理が必然的か偶然的(あるいは確率的)なものとしてしか
捉えられないとすれば、いったい倫理は何を目指しているのか?
これが重要な問題であることは既に書いたように思う。
そして、このような問題意識から出発するとき、以下のことが
主要な問題群となりえる。
1、自由なき倫理はそもそも可能なのか。
2、可能であるとすれば、その成立条件は何か。
3、自由なき倫理において主観的自由は何を意味するのか。
さて、以上のような問題群において、1と2については答えを
他のスレで書いたように記憶している。
すなわち、
1、倫理の必要条件とは、単に規範命題と事実との比較が可能であること
だけであり、自由意志は何ら必要条件ではない。それゆえに、自由なき
倫理は可能である。
2、上述の通り。
だが、はたと私が困ってしまうのは、このような自由なき倫理と、
主観的自由すなわち私が現実生活においてはっきりと意識せざるを
えない「選択」は両立するのかということである。
これは行為の選択だけでなく規範の選択についても言える。
なぜなら、私の考えによれば、意志が規範を選択するのであるが、
その選択は任意なのである(つまり、理論的な解が存在しない。
古典的に言い換えるならば、理性は規範選択を行わない)。
642 :
考える名無しさん:2008/01/07(月) 00:21:24 0
西洋哲学を極めて実践しても幸福は得られない
643 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/07(月) 20:10:53 0
>>638 <他者が抗い得ない形で私に規範選択へと突き動かすとき、すなわち、他者の圧倒的な勇気が私はある規範の選択へと無理強いするときなのだ。
そこに自由はない。自由は、第一原因の後にのみある。>
ここで言う他者とは、「私(たち)にとっての」対他存在であって、他者それ自体としての他者ではないですよね。
そうであれば、それを「第一原因」として措定するのはかなり無理があります。
>>640 <自由なき倫理はそもそも可能なのか。>
「他者を第一原因と置かないでも措定可能な自由(=人間存在)というものがある」という言明は、語りえない領域に踏み込んでしまっています。
対他/対自意識の混沌から構成される人間存在/認識において、「追軌可能で、且つ連続しているように見える/思いたいような、なにがしか」を措定しようとする志向/指向性一般が、いわゆる「倫理」的なものが生起する基盤だと思います。
644 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/07(月) 20:17:00 0
>643
もっと言ってしまうと、どこから生起したのか/何を第一原因として生起したのか、その源も行く末も、すべて曖昧模糊とした「自由」などに、なにがしかの「倫理」なるものの動因としての特権等を与えられるわけがない、と思います。
645 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/07(月) 20:28:45 0
>>578 <本当に前線でせめぎあっているのは、人間のプリミティブな本性としての「純粋事実空間=自然」と、規範一般だと思います。>
私はかつてそう書きました。
トラウマの詰め物で、且つカオスでしかない人間の脆弱な「理性」同士が、相互に交感するためのプロトコルもどきの規範(自然法/倫理)を持とうとし、
有限性覚悟で人間の暴力的本姓から逃れだそうとして造形する「非暴力的なもの」、それがあなたの言う規範であり、倫理なのではないでしょうか。
646 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/07(月) 20:37:20 0
ヒトが少しでも永らえるために無意識に、且つ必然的に造形し続ける倫理/規範自体等が、ヒトの観念から遠ざかり、それ自体がヒトの「自由/存在」等に先立つ動因として措定されている限りでは、その鬼ごっこ/無限ループ/責任のなすり合い等を解きほぐすことなど不可能です。
647 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/07(月) 20:40:30 0
だからこそ、あなたは、「イデア」という超観念的な動因を措定することに奔ってしまうのではないでしょうか。
648 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/07(月) 20:49:45 0
>>634 <根本規範が他者から啓示される。他者とは、人間だけではなく、私以外の全ての未知の存在である。
なぜ未知の存在なのか。それは、私が世界の限界だからである。>
「世界の限界」の外部には、「未知の存在」もありえようが無い。
>>642 実践的幸福はこのスレの主題ではないので置いておく。
>>643 >ここで言う他者とは、「私(たち)にとっての」対他存在であって、他者それ自体としての他者ではないですよね。
これはその通りであると思う。
他者それ自体ではない。
>そうであれば、それを「第一原因」として措定するのはかなり無理があります。
理由を。
>「他者を第一原因と置かないでも措定可能な自由(=人間存在)というものがある」という言明は、語りえない領域に踏み込んでしまっています。
私は語りえない領域というものを想定しない。
思考は世界を超越しているのであり、言語にとって現実の対象は必要条件ではない。
>「追軌可能で、且つ連続しているように見える/思いたいような、なにがしか」を措定しようとする志向/指向性一般が、いわゆる「倫理」的なものが生起する基盤だと思います。
これについてはその通りであると思う。
私はそういう衝動を「愛」と呼ぶ。
>>645-647 私の規範と倫理の定義はもっと単純である。
規範とは、事実を評価するものである。
もっとも、直接的に比較されるのは規範命題と事実命題であり、
規範と事実ではないのだが。
倫理とはある人にとっての規範の集合体である。
>>649 ここで言う他者とは、「私(たち)にとっての」対他存在であって、他者それ自体としての他者ではないですよね。
<これはその通りであると思う。他者それ自体ではない。>
そうであれば、それを「第一原因」として措定するのはかなり無理があります。
<理由を。>
↑
あなたは、
>>638で、<他者が抗い得ない形で私に規範選択へと突き動かすとき、すなわち、他者の圧倒的な勇気が私はある規範の選択へと無理強いするときなのだ。そこに自由はない。自由は、第一原因の後にのみある。>と書かれています。
そして、ここで「他者」とは、<他者それ自体ではない>と書かれています。
この「他者それ自体ではない他者」が、<抗い得ない形で私に規範選択へと突き動かすとき、すなわち、他者の圧倒的な勇気が私はある規範の選択へと無理強いするときなのだ>というあなたの言明に、この「他者」が第一原因と措定されています。
あなたにとっての「他者」とは、<(あなたの)世界を超越>したものであり、且つ<現実の対象>でもない。
そのような超越的存在である「他者」を、あなたは、抗い得ない、また、あなたに規範命題を強いるような「第一原因」である、と置き続けている。
例えば、他者(たち)の「まなざし」を意識するあなたの対他意識こそが、あなたに対し、そのつど、なにがしかの規範を強いてくる、というのであれば、ある程度は私の理解の範囲におさまります。
しかし、あなたに、<私は語りえない領域というものを想定しない>とたたみかけられると、では、「第一原因=他者(の勇気)」を語るあなたの真意が、また、私の理解の限度から遠ざかっていってしまいます。
652 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/08(火) 21:43:35 0
>651
「十分条件であり、超越的であり、第一原因として規定する主体であるような他者」の中で、
「自由であろうとしながらも、第一原因の側から一方的に無条件に規定され続けながら、それに抗いながら、せめては必要条件としての制約内からにせよ、(第一原因=他者)を規定し返そうとする存在」。
この二者の内、規範/事実命題(わたしには、この両者の識別がうまくできませんが)を主体的に語り、且つ、その実在性を主張しようとすることができるのは後者だけではないでしょうか。
なぜなら、前者は、依然として「語りえないもの」にとどまり続けているとしか思えないからです。
653 :
考える名無しさん:2008/01/08(火) 21:49:54 0
スペシャル銀河英雄伝説紹介スピリット。
>>651 返事が遅れて申し訳ない。
まず他者がなぜ第一原因となりえるのかを詳しく考察してみたい。
まずここで他者と呼ばれているものは何なのか?
それは推断された他者である。
推断された他者とは何か?
それは,認識によってこの現象界へと現れていると信じられているところの,
他者の在り方である。そして,普通,人はこの推断された他者を他者と呼ぶ。
だが,推断された他者は認識を通じて現象している存在である。
したがって,私の認識から自立した他者自体ではない。
それゆえに,この推断された他者が私の絶望した意思を突き動かし,
規範の定立へと向かわせる。
絶望した意志とは何か?
それは,この世界内=私の中に何らの第一原因も見出せないような
意思である。そして,このとき意志は,世界外への信仰を導入する。
この世界外への信仰とは,すなわちここで愛と呼ばれているものであり,
この世界以外の世界の存在を確信することである。
しかし,前述されたように,他者自体は認識されえないのであるから,
意志はそこで推断された他者と言う概念をも導入する。
そして,そのとき,眼前にある他者は,単なる現象を超えて,他者自体の
諸関係を反映しているものとして信じられるのである。
656 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/18(金) 20:23:46 0
>>654-655 では、他者とは、「私の認識から自立した他者自体ではない」が、私の「意志/愛」により、私の認識の中で再構築された存在になります。
それは、もちろん、他者自体などではなく、「単なる現象を超え、他者自体の諸関係を反映しているもの」として私の認識のための所与の動因として現前し、そして、その諸関係自体は、あなたにとって、十分に「信じられるもの」となる。
さて、ここであなたのいう「他者の諸関係」は、あなたに規範を強いるような超越者、即ち、「神」の現前と全く同じアナロジーにより、絶対的即自存在/第一原因が措定されることになります。
ここで、再度、あなたに問いかけます。
この、「(あなたの)認識の中で再構築されたところの、単なる現象を超えた他者自体の諸関係」と、そして、それらを反映しているとするあなたの認識の内、どちらが、どちらを規定/措定/存立させているのでしょうか。
>>656 どちらが規定されているのか?
関係に着目するならば、双方が双方を規定している。
なぜなら、関係は相互に規定しあうからである。
しかし、私の意志に着目するならば、他者が私を規定している。
というのは、意志がそのように信じているからである。
658 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/22(火) 13:41:59 0
>657
ここでひとつフェイントをかけます。
他者からみた「他者であるあなた」は、他者のなにかを規定していますか?
あるいは、「他者であるあなた」は、「他者の意志」により信じられるようななにものか、でありえますか?
>>658 それに答えることは私の体系の内部では不可能である。
なぜなら、推断された他者が私に影響を与えており、そして
その推断された他者の背後に真の他者自体があることを私の
意志は愛ゆえに信じるのだが、しかし、私が他者によって
どのように把握されているのか、そしてどのように影響を
与えているのかを信じる原因はないからである。
つまり、私の倫理とは私の倫理なのだ。
660 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/01/25(金) 21:01:28 0
>659
あなたのいうところの「私」は、他者(及びその関係性)から一方向的に規定される。
すると、あなたの言う「私の倫理とは私の倫理なのだ」というトートロジーは、実は、「私の倫理とは、他者(及びその関係性)の倫理なのだ」ということになる。
しかし、あなたは、他者(及びその関係性)は、「私」とは非対称の存在であり続ける、とも述べている。
あなたの「倫理」の存立基盤は、果たして、どこに求められるのでしょう?
他者(自体)が自立して存在する、「その実在性を信じようとする営為」、即ち、あなたの言うところの「愛」?
それとも、その不在を覚悟したことから起因する「私の寂しさ」が動因となる「他者の実在性に対する希求」?
保守
倫理学と思想と徳の区別について。
倫理学とは規範に関する学問である。
それは規範に関する諸関係の探究である。
徳とは倫理的な状態のことである。
したがってそれは規範に関する知識ではなく能力である。
思想とは徳に関する言説である。
したがって思想とは有徳な人の言説であり、
徳のない人の言説ではない。
664 :
考える名無しさん:2008/03/16(日) 12:52:08 0
>>663 もろアフォ。
涎たらして白日夢ってとこか。
人は「倫理を知っている」ということはできるが、
「徳を知っている」ということはできない。
それは「運動能力を身につける方法を知っている」と
いうことはできるが「運動能力を知っている」という
ことができないのと同様である。
では、思想を知っているということは可能か。
可能である。なぜなら、それは言説だからである。
保守
668 :
考える名無しさん:2008/05/15(木) 21:28:51 0
騙された! 米英では10人に1人が生活保護受給
BizPlus 原田秦氏「日本の奇妙な生活保護制度」
ttp://bizplus.nikkei.co.jp/colm/harada.cfm?i=20071101c3000c3&p=1 >イギリス、フランス、ドイツ、アメリカの公的扶助総額の対GDP比は、それぞれ4.1%、2.0%、
>2.0%、3.7%であり、日本は前述のように0.3%である。また、イギリス、フランス、ドイツ、
>アメリカの公的扶助を与えられている人の総人口に占める比率は、それぞれ15.9%、2.3%、
>5.2%、10.0%であり、日本は前述のように0.7%である(以上の数値は前掲埋橋論文による)。
構造改革主義者は経済を発展させるためには、米英を見習ってビジネスで敗者となったものは
ことごとくホームレスになるような弱肉強食の社会にする以外にないと主張してきたが、それは
根本的に嘘であった。
米英の社会では実際に激しい競争があるのかもしれないが、総人口の10分の1も
生活保護を受けられる手厚いセーフティーネットがあるのなら、日本とは違って人々は失業を
恐れることなく「楽しい競争」に励むことができるだろう。
失業しないように、ホームレスにならないようにと追い込まれて働く日本の競争社会は米英のそれとは
似ても似つかない。むしろノルマと懲罰に怯えなければならない旧ソ連の社会に近い。
米英の今、生活保護を受けている人間だけで総人口の10%〜15%ってことは
「生活保護を受けたことがある人間」、「一生のうちで生活保護を受ける人間」を
考えれば総人口の4割や5割はいくだろう。
アメリカ人は明日も知れない競争社会で、よく子供を作る気になると疑問に思っていたが、
しっかり受け皿があるということだ(笑)
保守
保守。
もし、「推断された他者」に対する私の既知の影響があり、
かつ「推断された他者」の背後に「真の他者自体」を信じる場合、
「真の他者自体」への接近はなく、私の推断の継続を意味するので、
愛ではなく、保守的な甘えとなる。
672 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/09/26(金) 17:39:39 0
>671
それは、「私自体ではなく、際限もなく他者であり続けるしかない」ところの『私』にも、そのまま当てはまりますね。
673 :
考える名無しさん:2008/12/04(木) 13:02:00 0
age
保守。
HOSHU
676 :
考える名無しさん:2009/03/06(金) 13:30:37 0
age
私は再び他者の問題に立ち返っている。
独我論を打破するものは愛しか無い。
678 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/11(水) 18:28:50 0
>677
何をもって独我論と定義していますか?
680 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/12(木) 12:42:10 0
>679
そうですか。
私は、私の中に他者性しか見出せません。
常に、なにものかであろうとして、跳躍、超越を試みるのですが、他者性に跳ね返され、私の現存在を認識する地平までには至れません。
かっこつけて言えば、カフカの「城」のKのように、他者たちとのコミュニケーションをとる基盤を持ち合わせていない。
この観点から、私が、あなたのスレに最初のレスを書き込んだときから、あなたの書込みに対し不思議なシンパシーを感じております。
>>680 他者性とは何だろうか?
私性というものもあるのだろうか?
682 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/18(水) 13:15:30 0
>681
ここで他者性とは、「自分ではないところのすべて」であり、そして、「自分であるところのものであること」を私性と定義します。
だとすると私とは何であろうか?
私の定義では、私とは世界である。
684 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/23(月) 20:16:24 0
>683
「私が死ねば世界は終わる」、はウィットの専売特許ですが、その逆は「私とは世界である」ではない。
私とは、「私を含めた他者たちの詰め物」であり、そして、それが「私の世界」である。
685 :
考える名無しさん:2009/03/23(月) 21:48:26 0
私の世界には私は存在しないのじゃないか?
686 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/24(火) 12:44:24 0
>685
>>684の「私を含めた他者たちの詰め物」の「私」とは、他者(たち)に内包され(connoted)、且つ、決して他者たちを構成する要素の1つにもなりえないところの私のこと。
687 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/24(火) 12:55:26 0
まあ、要するに、人はみな生きるためにここへやって来るのだが、ぼくにはむしろ、ここは死にやすいところではないのか、というふうに思える。ぼくは外を歩いてきた。目にうつったのは、いくつかの病院だった。
(マルテの手記)
この「ここへ」は、「この世界へ」のことでしょう。
>>684 「私」の定義に「私を含めた」と定義するのは循環的な定義ではなかろうか?
>>685 その通りである。
「私は世界である」とき「私の世界」というものはない。
689 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/24(火) 18:44:35 0
>688
<「私」の定義に「私を含めた」と定義するのは循環的な定義ではなかろうか? >
「共同幻想」の中では、私と他者との峻別は不可能だと考えます。
例えば、カントのいう「7+5=12」という「純粋数学」を認識できるとした場合、その認識対象の算式を「共同幻想」が便宜的に産み出したものであり、私はそれを「学習する」ことにより、労働市場における交換/商品価値としての労働力を得る。
それにより、社会活動、経済活動が可能になる。
日本語を含めた語学等のコミュニケーション能力、分業化され細分化された職業能力等、身に付けたこれらの能力の総体と、プライベートな嗜好に基づく雑多な知識の集合、及びそれらの順列/組合せ/ベクトル等の入/出力の総和を「私」と置いてみます。
そうすると、
>>686で書いた<私を含めた他者たちの詰め物」の「私」とは、他者(たち)に内包され(connoted)、且つ、決して他者たちを構成する要素の1つにもなりえないところの私のこと>以上でも以下でもなくなり、
「何の私性も持たない私=空虚な私」という「陥穽」が浮かび上がってきます。
私は、社会的生物としてのヒトが、社会生活を営むために必須の主語概念ではあるのですが、如何せん、その実体は、「他者たちの集合に含まれる1項」としても見出すことはできません。
Je pense, donc je suis. の前項の主語が、瞬時に、先行する他者たちの側のコンテクストの中に埋没してしまうのです。
超越論的脱自のさなかにおいても、その跳躍の土台も着地点も、この構造に規定されます。
即ち、「私」という主語概念は、他者たちのなかにそのつど紛れ込んでしまい、瞬時に無化してしまう仮象になるわけです。
共同幻想と自己幻想の逆立は、分析概念としては成立しますが、現実の日常生活の中では不能です。
690 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/24(火) 19:07:11 0
>689
また、自己幻想自体も、「どこまで遡及しても帰納してみても、他者たちの集合であること」をまぬがれません。
691 :
考える名無しさん:2009/03/24(火) 19:49:25 0
>>686 「私とは語りえないものだ。」がウィトゲンシュタインの結論だね。
私がなければ他者もない。他者がなければ言語もない。
これが言語ゲーム以前のウィトの世界だろ。
692 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/24(火) 21:09:25 0
>691
<「私とは語りえないものだ。」がウィトゲンシュタインの結論だね。 >
それは、「言語ゲーム以前のウィトの世界」以前の、「自己言及」に関わるラッセルのパラドクス解。
但し、前レスで書いているのは、「自己言及としての私とは語りえないものだ。」ではなく、「共同幻想と自己幻想の逆立が成立しなければ、自己言及の主体としての私など、本来、ありえない」ということ。
wisteria-1君、人と昆虫の違いを述べよ。
694 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 15:05:52 0
>693
月並みすぎますが、私は昆虫としての現存在を生きることはできない。
695 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 15:09:04 0
>>693 >694
おぼろ月仕事に飽きて自演かな
>683 人格=世界、と思いませんか?
イコールで結んだのは、これちょっとまずい。訂正。
人格と世界は、同じであって、同時に違うもの。
人間の認識の仕組みそのもの、と思ってる。
物理の言葉とかで使う「等価」って言葉が好きだけど。
あるいは、心理学でいう投影かなと。
>689 「私」という主語概念は、他者たちのなかにそのつど紛れ込んでしまい
と言うのは変な言葉だと思う。
有名な人の言葉なんだろうか?
それはまさにそう言うところに焦点を合わせるからそう思える。
そこにポイントを合わせる限りそれは確かに事実。
だけど、人は一人一人特別だ、と言うところに意識を合わせれば、これもまた同時に成立していると思う。
上にも書いたけど、「違う」「同じ」という、自分が、あるいは脳が貼り付ける、意味のレッテルの仕組みを追いたいところ。
認識論に社会学を持ち込むと認識が消える
ここは、そういう関係性の哲学のみで話を進める場所なの?
それなら入る余地はないけどー
でもカテゴリーの作成は、その地点でもう思考を限定してると思う。仕方ないけど
>>696 確かにそれはほとんど私の定義と同じように思う。
>>700 ここはスレタイの通り関係性の哲学について議論する場である。
私は繰り返し「もの」と「関係」の定義について悩む。
定義は無限に遡及できない。「もの」と「関係」は自明であるか?
>702
自明かどうかは提議については分からないけど
その性質については考えてる。
ものは、いいかえると、存在と言っていいと思う。
存在感、あるいは存在の性質ー存在性。
それと対比してるのが、関係ー関係の性質ー関係性。
一般に、存在と関係、という2つの概念は、正反対で相補的。
内と外、が2つのペアで、合わせると全体になるように、
存在と関係は、2つを加えると全体になると思う。
2つは、相補的であり、同時に正反対、と呼んでみてる。
一般の哲学は、存在性の哲学が多いと思う。
704 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/10(金) 21:25:03 0
>>698 <「私」という主語概念は、他者たちのなかにそのつど紛れ込んでしまい
と言うのは変な言葉だと思う。>
「私」から「他者性」一般を除くと、「私」という主語概念に何か残りえますか?
>704
私があるゃないですか?
私、という感覚は、基礎となるのに不十分な感覚?
私から、他者性一般をのぞく、つまり、
どんな言い方がいいか、人はいろんな仮面を演じてるし、
そういう仮面の集合体、とも言えるけど、
わたしは、わたし。
その私が、主体的にいろんな仮面を演じている、
他者性を演技してるんだ、と言っても間違いじゃないと思う。
どっちでも好きな方を選べばいいのでは?
他者性ってこういうい意味だよね?
あんま専門用語は・・・
707 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/10(金) 21:37:48 0
>705
決して主語概念とはなりえない他者性の詰め物にしてエピゴーネン=私。
そう決めるならそれでいいんじゃない?
709 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/10(金) 21:45:28 0
>>705 <私、という感覚は、基礎となるのに不十分な感覚? >
感性の段階から、タブララサ(という段階があるかどうかは問わないで)という架空の基盤上に標準化訓練を施されたレシピ以外のオリジナリティを取り出すのは困難です。
>709
日本語に直して!
ていうか、なんちゅう言葉。
嫌みを言えば、象牙の塔?
失礼!
712 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/10(金) 21:54:22 0
>710
時間/空間という先験的感性や、無条件/無所与のtabla rasaというものは、認識論を記述する概念ですが、あくまでも分析概念にすぎないということを書いているつもりです。
そうねー
それで?
話しが見えないよー
分析概念とは、認識論を構築する要素、という意味?
714 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/10(金) 22:11:23 0
>713
<分析概念とは、認識論を構築する要素、という意味? >
そのようなものがあれば、共有しやすい論を構築しやすいという意味での概念です。
要素aは他の要素bとは独立している(共通項/属性を持たない)という観点からは、要素ではなく、擬似(検証不能のため)共通項を持つことから、「概念」という用語の方が適切だと思います。
すごい厳密やなー。
んー分析の階層の差を感じる
厳密さのレベルが違うなー僕と。
こういう違いがあるとき、どちらの土俵ですもう取るか、
どちらがどちらにあわせるか? という話になるけどなーいっつも。
言ってることは大まかにわかる(ことにする)。
で、それでもやっぱり、話のつながりが見えないというか、
何を訴えてるの?
「私」という感覚は、基礎にはならない、といってるの?
逆に他者から私性を抜いてみたらどうよ
wisteria氏の言ってる事は独我論を反転してみただけの事なんじゃないの
>716
おおざっぱやけどそう思うわ
>>703 確かにその通りであると思う。
ただ、私は「関係」も「在る」と考える。
一方では「もの」があり他方では「関係」がある。
これはいったいどういうことなのか私には分からない。
なぜ「もの」だけではないのか?
結局、プラトンやアリストテレスと同じ二元論に行かざるをえない。
なぜ「もの」と「関係」があるのだろうか?
>>704 実際、何も残らないであろう。
なぜなら、私は他によって定義されるからである。
だが、私がここで悩んでいる「他者」というのは、
そういう他者ではなく(私はそれを現象と呼ぶ)、
物自体なのだ。
>>716>>717 とても面白い分析であると思う。
独我論が「全ては私による現象である」ことと、
「私は全現象によって規定される」こととは表裏一体である。
>718
関係性が「在る」か〜
それは人格で把握する自分を絶対視してるからじゃないかな?
理性、論理、人格などを絶対的に思って優先すれば、
それが把握の唯一のものさしなら、それはみんな存在することになるけど。
関係の代表は感情ーー感情は「存在」する?
感情は、相手なし対象なしでは成立しない、関係性の代表みたいなもの。
その本質は、対象なしでは存在し得ない、一見存在のように見えて、まさに関係性そのものじゃないかと思ってる。
ということは、感情を感じる自分は、論理で把握する自分と、同等とみなすことから、出発すべきじゃないかと・・・言うといいすぎかな?
でもこう考えんと、わけがわからんしねー。
問題の切り分けというか、スタート地点の見直しというか
把握する主体である自分と、その自分が思いつく発想は、
「存在感覚」が生み出す発想やん?
前提がそれでは混乱する。
といいつつ、僕もここはきれいに分けられてない。
上の解釈でとりあえず一息ついてるだけ。
>703
ものも関係も「在る」とするなら、
その表現で通すなら、ものも関係も「在る」とするなら、
その表現で通すなら、ものは、存在感は、自分が把握する対象として「在る」
関係は、関係感覚は、自分を内包する〜自分を原点につながるものとして把握できる。
関係は、自分本体をその内側に含むものとして存在する、といえるかな??
そういう感覚も感じられるから。
認識による把握を中心に考えれば、存在は把握できるもの。関係は把握できないもの(=感じるもの)
感情がまさにそう。
上に誰か書いてたけど、存在の「唯我論」と、関係の話はちょうど反対だ、と書いてたけど、
存在感覚の、自分が対象を把握しに行く視点その方向性と、
関係感覚の、自分がここにいてその自分が何かとつながっているという、
自分を内包する視点は、正反対。(それは感性、感情中心の視点、考えずに感じてる自分)
でもそれまたそう把握できるじゃないか?というのは、理性や論理優先の自分でい続けることが
習慣になってしまってるから。
そこまで来ると、上に書いた、理性や論理で把握する人格を絶対視する間違いに起因する問題、と思う。
現代科学などの、今は理性があまりに優先の時代やから。
感じることは、考えることより劣っているのか?みたいな。
(えらそうに書いたけど、まだ確固たる自信はない、たぶんこうやろう、という・・)
あかん
文が混乱してる・・
内面に矛盾はないんだけど、うまく言葉におこせない、といいわけ
追加
物理で、粒子と波の2重性の話があるけど、
極限そんなイメージ。
波は関係性だ、って思う?
電子は、物だけど、波の性質も持ってる。
光は波だけど、物の性質も持ってる。
そういう、ある種の繰り込み?というか、妙なイメージが本質と思ってる。
726 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/13(月) 12:55:15 0
>>716 例えば、「死に至る病」の冒頭における「関係」、「関係性」という用語のリフレインは、「私を規定してくれる超越的存在=神」を一度括弧に入れ、私性から外してみたときの、「私が私を記述する際に陥る陥穽」の中の叫び声である、
という解釈も成り立ちます。
>>721 感情は関係性ではない。
「私は彼に対して怒っている」は関係性の表現である。
「怒り」は「もの」である。
>727
それは、「関係性」という概念が「存在する」
だから、「関係性」は、「存在」ではないか?
と言ってるだけではないの?
ある種の、論理的な・・パラドックスみたいなのが好きならまた別だけど。
「怒り」という関係性を「もの」や、と言ってるわけかなー。
でも怒りは感じるもので、把握するものじゃないでしょ?
怒りを感じてる状態をどう解釈する?
感じる、とはなに?みたいな・・・
もっと厳密に言うと、これは僕の持論だけど、
関係と存在は同じもの、と言ってる。
ずっと上の方で、人格=世界、と書いたけど、
人格や世界、という存在は、2つの関係性なしには成立しない、
と思ってる。
それは、関係性と存在性が、本質的に同じものだ、という話しで、
これは別に独自のもんじゃなくて、いろんなところで言われてるけど。
そっか、怒りはものである、と言ってる地点で、
あなたは、やはり、上に書いたように、理性で把握し、認識し、論理的に分析する自分に価値を置いている、ということになる。
つまり、感情の赴くままの自分なんて、理性の自分より劣ったものだ、という話しじゃないか?
その価値観がある限り、「怒り」は、「もの」であり続ける、とは思う。
僕もそう偉そうには言えないけど、それはある種の差別だし、自己否定とも言えないか?
「もの」は現象それ自体である。
関係性は2つ以上の「もの」の間に内在する。
「怒り」はそのままでは2つ以上の「もの」から成っていないので関係性ではない。
「もの」の哲学は集合論的であり、「関係」の哲学は関数的である。
>731
「怒り」はそのままでは2つ以上の「もの」から成っていない
なんでこうなるの?わからん。
怒りでもなんの感情でも、自分と外部対象2つがそろって初めて成り立つじゃん?
集合論と関数は、切っても切れないでしょ? 数学上。
この2つを分けるなんて、変。
集合の要素と要素の関係、集合と集合の関係ががまさに関数じゃないの?
2つは同時に成り立っている、とはおもわない? 思わないなら、別にいいや。
自分と対象の2つがそろって初めて成り立つ、それを成立の定義とするようなものは、関係性以外に思いつかないなー。
それは把握によってものであるように見えても、本質は関係性。
なぜなら、感情は感じてる状態こそが本質的だし、
感情が存在する、というのは、その感じてる状態をさらに把握したものに過ぎない、2次的なもの。
ある感情を純粋に感じてる状態というのは、関係性をダイレクトに体験している瞬間だと思う。
前にも書いたけど、怒りなど、感情という概念は把握の対象として存在するのだから、
それは関係性ではなく存在だ、というのは、全くの間違いじゃないけど、
感情は、感じることこそ本質〜〜当り前だけど。
その感じる、という作業に対する分析を放棄して、把握できるから怒りはものだ、というのは
本質の順番を間違ってると思う。
あなたが言ってる、怒りはものだ、というのは、感じる、ということそのものである感情を、
2次的に焼き直したもの。
そういう把握による焼き直しをするならなんだって、ものになる。
例えば、「私は彼に対して怒っている」 というのは関係性の表現だとあなたは書いたけど、
それだって、そういうシチュエーション(状況)という存在、ものだ、とも言うことができるでしょ?
言ってる意味通じるかなー。
極論、関係性など存在しない。関係性の哲学などみんなまやかしで、
そんなものは存在の哲学に吸収されるのだ、とも、極論として言うことが可能だし。
表現が難しいけどね。
んーでもこれは曖昧だったところが今回の議論でだいぶはっきりしたなー。
>>734 2つは同時に成り立っている。
>>735 怒りは把握されない。
なぜなら現象そのものだからである。
私の哲学には認識論がない。
なぜなら私は認識していないで現出しているからである。
>736
認識論がない??
?????
?
認識能力は認めないという意味?
認識を考えに入れないの?
自分が認識しないでこの世に現れた、というのはそれはそうだけど。
こう言ってる地点で認識してるのに??
じゃー怒りはものだ、とここでこうやって言葉に書いてはるけど、
概念として認識したから書けるのじゃないの?
怒りは把握されない、っていうのは、まあ確かに怒りの「実感」は、把握はできないのはそれはそう。
じゃーその怒りの現象というのは、怒りを「感じる」ことだよね?
実感、感性、と言われるもの。
認識なしで、怒りをものだ、などと言えるだろうか?
元々認識なしで現れたからと言って、今も認識がない、とはならないけどなー。
自分には認識などない、と言いたいのかな?
ん〜〜、変わった話やな〜〜。分かるように言ってくれたらおもしろそうなのに。
>736
2つは同時に成り立っている。
それが分かってるなら、何がわからないのだろうか?
論点はそれじゃないのかな・・・
言葉少ないよーー。言ってることわからんよー。orz
>739
認識とは、心的な過程のひとつで、外界から得た情報が意味づけされた上で意識に上ることを言う
だそうだよ。wikiから。
でもそんなのは一般常識だしね。
もっと厳密な、というなら、そういう答えを求めるのが哲学だから、
人に求めるのは厚かましいよ。
そういう定義など、基礎的概念を考えるのが、普通哲学がやることだし、
認識を認めてない人が、他人に、認識とは何かときくのは、矛盾でしょ?
認識という存在が本質的なものではない、と言いたいのなら、
それはもちろん同意するよ。
でも、自分が作り出している、という意味ではあるし、認識がないと自分も世界もないからね。
認識がないなら、あなた自身は存在してないの?
2次的存在は認めないの?
ん〜〜あるいは、認識なんてわからないから認めない?
>>740 私は認識はないと述べた。
なぜならこの単語はでたらめな文字列と同じだからである。
それゆえに私から定義することも問うこともありえない。
>742
私から定義することも問うこともありえない。
じゃあやんぴ!
普通に話せる人いないかなー。
こんな世界の果てみたいなスレにきて普通に話せる人なんか探すのがアホ
745 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/20(月) 13:04:24 0
>744
「こんな世界の果てみたいなスレ」だからこそ、普通に話せる人が見出せるのです。
世界とは何かスレで「物」と「事」の話が出ているので言及したい。
「物」と「事」とは、まさに「物」とその「関係」である。
この際、名称は気にしなくてもよい。
そして、関係は言葉によって表される(これ自体がひとつの不思議である)。
そして、物の定義は常に他の物を通じて為されるから、
物は関係に依存し、関係は物に依存する。
747 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/21(火) 20:32:20 0
>746
ウィットふうに言い換えると次のようになる。
@複数の事実を関係付けていくのがヒトの認識である。ゆえに、それはヒトの言葉で表出される。これに不思議は無い。
A「事実a」と「事実b」とは、ヒトの認識により関係性が付与される。
関係性はもちろん事実を要素とする。
ここで「事実」とは、「物質」でも「物自体」でも無く、認識の対象となりえるもの(事実を語ったもの/写像したもの=像)であり、且つその総体が世界である。
>>747 関係は物と同時にあるのだろうか?
言い換えれば、人間なしでも関係はあるのだろうか?
私はこれは解答不能であると同時に、どちらを採用しても、
結論的に変化は生じないと考えている。
ということは、認識論は実は不必要だとも考えられないだろうか?
749 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/22(水) 19:46:49 0
>>748 (物質 and/or 物自体)だけが存在し、(ヒト and/or ヒトの認識)が存在しない世界のことを述べているのであれば、
(ヒト and/or ヒトの認識論)も、その存在基盤を失うでしょう。
では、人間が物と物と関係を付与しているのだろうか?
私には分からない。
なぜ関係が先前していないのか?
人間の認識が関係を付与すると仮定する。
では、その付与のプロセスはいったい何なのか?
そして、そこで言われている認識とは何なのか?
いったい、認識はどこから関係を持ってくるのか?
752 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/27(月) 18:23:13 0
>>750 >751
論理和/積、カテゴリー表の関係性等でもって、事実aと事実bとを関連づけていく操作/総合判断の対象とならないものは、ヒトの認識の対象である事実とはなりえません。
本当に分からないことは、何故、ヒトの認識は、そのようなものであるか/そのようなものでしかありえないか、です。
保守
754 :
宅急 ◆MAJOUSOou. @株主 ★:2009/07/03(金) 23:28:17 0
許容の問題とか。
755 :
宅急 ◆MAJOUSOou. @株主 ★:2009/07/08(水) 06:05:49 0
許容の問題とはどういう問題だろうか?
757 :
考える名無しさん:2009/08/28(金) 01:30:28 0
「関係」を収める領域と位置が明瞭にされていない
そもそも領域や位置が関係なんだろう。
>どこから関係を持ってくるのか?
認識は神とか他者とか言語から関係を持ってくるんじゃないのか
759 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 21:39:33 0
じ
760 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 21:56:39 0
保守
762 :
考える名無しさん:2010/02/13(土) 11:48:29 0
age
13∞666∞31アザトースが今直ぐ必ず絶対に復活して全パラレルワールド&全異次元領域&全異世界&全宇宙空間&全銀河系&全惑星地球に同時に瞬間的に登場してハイファンタジー世界に即時に再創造刷るよねー!?♪。
保守