菜食について考えるpart18【環境/生命倫理 温暖化】
栄養学は、肉は必須ではなく食肉と屠殺が嗜好によって行われることを示す。
社会契約説は個々の自由と生命を含めた所有物を協力して守るというのが目的であり、
だから自由という権利が守られている。しかし他者の所有物を侵害する行動をとることが大きな問題になれば、
これを抑制する権力を強める必要が出てくる。自由という権利を守るためには個々が道徳的である必要がある。
したがって、倫理や道徳は根拠のない信仰であるというのは間違いだ。
ピタゴラス、プラトン、アリストテレス、ソクラテス神秘主義者は菜食だった。
そのため1847年にイギリスにベジタリアン協会が発足されるまでは菜食者のことをピタゴリアンと呼んだという。
ベーコン、デカルトなど、ルソーはイギリス人はその肉食のため残忍だと述べ菜食者であった。
経済学者ではアダム・スミスであり、マルサスは食糧をより多く減らして深刻化させるとして肉食に反対した。
哲学を塗り替えた科学者プラトン、アリストテレス、ニュートン、ダーウィン、アインシュタインも菜食者であった。
科学の発展によって西洋哲学は文字通り塗り替えられてきた。科学は西洋キリストのロゴスであり、それを否定する共産主義の基礎でもあり、重要である。
最近の哲学では、選好功利主義のピーター・シンガーが、『実践の倫理』(や『動物の解放』)などの著作によって、
おもに動物愛護と環境倫理と人倫の立場から菜食を提唱している。
現代、畜産と環境問題とが深刻にリンクしている。さらにバイオ燃料により穀物価格が高騰し、飢餓拡大の問題もはらんできた。
モラルなき資本主義には、経済格差問題だけでなく環境問題がある。決定的にぶち当たっている壁だ。
倫理問題を追求するのは必然的な責任である。
売れないものを生産し続けることはできない、われわれには未来の社会を創造する選択権があるのだ。
主観、相対主義「個人の価値観はそれぞれ」、価値のアナキズムは一つの考えだからといって認められるのか?
DDTやアスベスト、銃を乱射する学生は、一つの考えだから認められるのか?
現在の社会制度はこのような相対主義は認められていない。
したがって、相対主義に陥らないために、科学的な事実で正当化することが大切だと考える。
われわれは選択肢を考慮し、そして現代の栄養学は動物の肉をまったく食べなくてもよいことを教え、畜産は環境破壊の主要な脅威だという。
倫理問題を考え、その行動をとることができる。
人間はこれを考慮できる思考能力をもっているがゆえに、動物とは違うわけだ。
万人に共通した客観的な基準
A 他者と共生ができるか
B 客観的な観測ができる客観性の高い科学的な根拠。統計学は客観性をあげていくし、科学の理論は変わる。
の2種類があると考える。これらに頼らずに、相対主義に陥る場合、何が善かというものは個々人の差異に埋没してしまい、
なんでもありになってしまう。
そして、根拠としていくつか出てくる。
1 植物には痛覚神経と脳がないので動物のように痛みを感じる主体がないという考えがあります。
2 動物は痛みという警告によって反応し回避します。酷い苦しみを回避する。植物はそのように反応しません。
他者の痛みに対する想像力・感受性が高いことは「他者との共生の倫理」です。
3 畜産肉を育てるのは直接人間が植物を食べるよりも大量の植物を必要とします。土地も必要であり森林伐採も起きています。
4 植物の受粉時には、蜜を餌にして、昆虫を利用するのです。
果実の種は食されてもなお便に排出されるようになっていますので、動物を利用するのです。
動物は酸素を利用し、植物は二酸化炭素を利用して生きています。
5 ジョンロックの所有権。選好功利主義。民主主義的なジョン・ロールズの福祉の互恵。
「誰かが困っていたら、その誰かを助けるようなシステムにコミットしなければ、困ったときに助けてもらえない」