1 :
純一 ◆Fn0dptrDJw :
現在(2006 2・20)、別スレ『永井均と<独在性>』では独特の観点からの永井均論が展開されている。
独特の観点とは永井均論の外部からの視点を意味する。
他方で、永井均の問題にしていることをわれわれ一人一人が引き受けるためには
永井均論の内部に自らを置き、内側からそれを食い破るという行為が必要になる。
それは結局、無限に続くマトリョーシカの内部を食い破るような運動になるだろう。
できることならこのスレは永井均論の内部からの観点を大事にしたい。
それこそがこのスレを必要とする今のところ唯一の理由だから・・・
>>2 対象の哲学者は同じでも問題領域が違うので問題無いがね
また立てたのか?
重複で削除されたのに、こりねぇな。
新スレ立てずに既存のスレ使ってやれよ。別にスレ違いじゃねーよ。
永井均に二つのスレもいらん。
最近また純一の活動が活発化してきたな。
こいつさえいなくなれば、哲学板はまともになる。
病気だからしかたがない
7 :
依頼者:2006/02/21(火) 02:50:44
>>1 とりあえず、ありがとうございます。
また、ひまを見つけて覗きにきます。
8 :
B:2006/02/22(水) 00:44:36
ウィリアム・永井・榑林説、『<子ども>のための哲学』で一つの核をなしていたあの説は
現在の永井均の到達点からかんがみて少なくとも何かを証明しているとは言いがたい。
『ブラックジャック』で私には後退に見えた問いの提出という永井均の態度は今でも一つの断念に見える。
たしかに当初から語りえない <わたし> を語りえないと語るというやり方に
乱暴なところがなかったわけではない。
今後語りえない <わたし> を積極的に扱うためには<神>を必要とするだろう。
だが、最も必要となるのは言語ゲームと私的言語のめくるめく対比ではないだろうか。
(さすがにもう削除されないよね?)
9 :
B:2006/02/27(月) 21:42:19
(8は無視してください)
マクタガートの時間論がどうして唐突に『私・今・そして神』で取り上げられることになったのか。
私はその内的必然性を今ひとつつかみ損ねたままだった。
ウィリアム・永井・榑林説は <わたし> の存在証明という場を離れて問いの提出という場に位置づけられている。
マクタガート言及の内的必然性について転回がもたらされたのは、この事実に固執したときからだ。
***
枠組みの内部での変化はおおむね認識することができるが、枠組みそのものが変化するときは認識不可能な場合がある。
<わたし> の変化などは認識不可能な場合の最たるものだといえるだろう。
そして <わたし> の変化が把握できないとしたらウィリアム・永井・榑林説は存在証明の役割を果たせない。
記憶説論者が <わたし> の存在を認めた上でそれが記憶と一緒に移動すると強弁することができるからだ。
なぜなら <わたし> は決定的に重要であっても無内容なのでその端的さは記憶によって把握されるしかないからだ。
このとき、記憶が <わたし> を司ると解釈する余地が生まれるだろう。
いやそれだけでなく、把握されない変化は変化が起こらなかった場合に短絡させられて「無かったこと」にすらなりうる。
だからウィリアム・永井・榑林説は何かを証明することはもはやあたわない。
ただ問いの提出として来るべき思考を呼ぶ、呼び水となることだけができる。
10 :
B:2006/02/27(月) 21:43:15
ところで <わたし> の変化が把握されえないとしたら <わたし> は
過去や未来の <わたし> ――と言わざるを得ないようなもの――と同一といえるのだろうか。
この問いはマクタガートの時間論と通じているのだと私は思う。
でもよく考えてみれば「私」だって変化する。十代のころの私と二十代の今の私では多くの点で違いがある。
もっと大風呂敷を広げれば「万物流転」、と言えもするだろう。
ただし、 <わたし> の変化という題材は大変煩雑である一方得るものが少ないという印象を今持っているので
あまり深追いはしないようにしておこう。
深追いせずにマクタガートの時間論と <わたし> の変化について触れるならば、
A系列の内にB系列を取り込む永井均の視点に着目する必要があると思う。
この視点は『私・今・そして神』で繰り返し述べられる「開闢が開闢された世界の内に位置づけられる」という主張と重なるものだ。
うーん、現在の私にはここまでしか掘り下げることができないようだ。
おそらく <わたし> の変化は、開闢が開闢された世界の内に位置付けられるという驚くべき事態に関連があるだろう。
またそれはマクタガートの時間論に通じるはずだ。
この連関こそがマクタガートの時間論を取り上げた内的必然性ではないだろうか。
11 :
B:2006/02/27(月) 21:54:00
ちなみに永井均論者にとっての偉大なメルクマークであったウィリアム・永井・榑林説が
問いの提出という形をとることになったのはひとつの象徴的な事件ではないだろうか。
今はおそらく、前期永井均哲学の解体期にあたる中期永井均哲学にあたる時期だと思う。
なぜなら『<子ども>のための哲学』でだいたい問い終わった問題として提出されていた前期の哲学が
解体に向かっているからこそ、「哲学はまだ始まっていない」と言っているはずだからだ。
この象徴的な事件を理解することが『私・今・そして神』を読み解くための条件になるのかもしれない。
でも私は今、『これがニーチェだ』を再読しているし、いろいろ忙しいから
『私・今・そして神』を再読するのはだいぶ先になるだろうなあ。
それまでに誰か思うことがあったら教えて欲しいものです。
12 :
B:2006/02/28(火) 22:33:08
過去や未来の <わたし> ――と言わざるをえないもの――とはB系列に相当し
多少重複した言い方だけど、今のこの <わたし> というものはA系列に相当するのかなあ。
だから <わたし> の変化が把握できないという話は、開闢の奇跡に撃ち抜かれた永井均論者には
形式的な意味しか持てないのかもしれないなあ。
しかしこの形式的意味は永井均哲学史上、重大な事件ではあるんだろうけれど。
13 :
B:2006/03/01(水) 00:57:54
つまり、 <わたし> とは一面では生成流転するA系列に重なるような類のものだから
B系列的な視点から見た、過去や未来の <わたし> といったものと同一性を問われる次元にない
ということか。
…どうも文章が散らかってるし、だれも読んでる節がないのでちょっと間を置こうかな。
このままだとスレの占有で削除されかねないし。
14 :
B:2006/03/10(金) 16:28:22
参考までに、私は純一というハンドルネームの人とは何のかかわりもありません。
だから名うての荒らしだとしてもうらみのような感情は抱いていません。
ただスレ立て代行スレで不特定の人に依頼した内容をそのまま実行してもらったことは感謝しています。
いや、
>>7以降すべて私の書き込みなのでいろいろと勘ぐってしまったわけです。
せっかくスレ立てたのに進行せんの?
16 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 20:00:20
?
17 :
考える名無しさん:2006/05/03(水) 22:45:23
最近永井さんは
指標性(人称構造)だけが物理的事実に付随しない、
というようなことをおっしゃっておったよ。
どういうことだ?
>>18 妄想してみた。
【仮定】
ABCの3人がいるとする。
話題Pに関してA(私)はBを「あなた」と呼び、Cを「彼(または彼女)」と呼んだ。
同じ話題に関して今度はA(私)はBを「彼(または彼女)」と呼び、Cを「あなた」と呼んだ。
Aの発話から生じる、BとCに起こる関係性の転移。
20 :
考える名無しさん:2006/05/05(金) 01:58:06
違う違う。
いわゆる心の哲学の問題でさぁ。
>>20 そうかー違うのかあ・・。
「あなた」とか「彼」とか「私たち」のような
誰でも指すことが出来るゆえに誰をも特定しない代名詞は
クオリアとして確保できないとかそういう話ですか?
23 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 14:17:55
現代の哲学の中心地はオーストラリアだ、って言ってたよ。
チャルマーズとかアームストロングとか。
24 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 14:20:17
永井のだす新書はすべてクソです。
25 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 18:11:03
指標:自分で自分自身を指すはたらき
つまりね、世界の中心で愛をさけぶんですよ。
26 :
考える名無しさん:2006/05/20(土) 14:11:30
27 :
B:2006/05/27(土) 14:07:30
『私・今・そして神』で繰り返し述べられている「開闢が開
闢された世界の中に位置づけられる」という事態は永井哲学の
ひとつの到達点である。ただし、それは非常に素朴な事実でも
ある。というのも、それはこの私のまさに今のこの状態を述べ
ているからである。この素朴さに物足りなさを感じる人がいて
も不思議ではない。
逆に、この素朴さを感じ取れない人がいるとしても、それも
また不思議ではない。なぜなら、われわれは生きる中で「開闢
」優位の視点でいつづけることができないからである。
最もわかりやすい例を挙げるなら、『<子ども>のための哲
学』で永井均が自らの哲学的疑問を出来のいい友人に語ってみ
たときのエピソードだろう。友人は彼の言わんとしたことを決
して理解することがなかった。それはこの種の問題が他人に提
出されたとき、「開闢された世界に位置づけられているものが
、世界を開闢する視点に立っている」という過ちを必然的に犯
してしまうからである。もっとわかりやすい言い方があるだろ
うか。つまり永井均は世界を開闢しているつもりでも、友人に
とっては開闢された世界に位置づけられているに過ぎないとい
うことである。このように、他人と関わらずを得ない人間生活
においては、「開闢」優位の視点は必然的に過ちを犯してしま
うのだ。だから、その視点に立ち続けることはわれわれには無
理である。
28 :
B:2006/06/10(土) 04:03:04
9月9日生まれの人物はおとめ座であると言ったら、その発言を選民思想だと批判するのは実にばかげた話であろう。
永井均は<独在性>の問題にとらわれる人を病人やハンディキャップを背負った人として描いているはずである。
また、『これがニーチェだ』においてはニーチェを牧人に導かれる羊の群れよりもいっそう卑小な人間として描き、
そういうニーチェを理解できる種類の人間、つまり永井均自身をニーチェと同じくもっとも弱い人間としている。
こういう格別な弱さにあこがれて強い人間(弱くない人間)がないものねだりをするのは途方もなくバカバカしいことだ。
この世界には右利きの人もいれば、左利きの人もいる。
ただそれだけのことを認められない人には<独在性>の扉はなおさら硬く閉ざされることだろう。
そもそも「自分がない」という自説に人一倍こだわっているのなら、
永井均の問題にする<わたし>が理解できないのは至極当然ではないだろうか。
永井均はアンビバレントな私と言うあり方のうちの、「たった一人誰とも違うこの私」という
一方のあり方にスポットを当てているのだから。
永井均からウンコ臭がするのは何故?
30 :
B:2006/06/10(土) 04:31:56
31 :
B:2006/06/11(日) 12:33:22
別スレで永井均批判ぽいことがされているけど・・・。
私的言語が問題になっているのは一言でいうと
<独在性>が「公共性」からの無限の逸脱運動だとしたら、<私的言語>が「言語ゲーム」からの無限の逸脱運動だから。
「私的言語が可能か否か」とかありきたりの哲学問題に回収して永井批判「ぽい」ことをするのはやめてほしい。
私的言語が公共言語と違う性質を持っているのは定義上自明であり、それを理由に私的言語が不可能というのは論外。
問題の意味が受け取れない人、受け取ろうともしない人たちにはどんなに知識が豊富でも――豊富だったとしてもだけど――われわれ!?の問題には
近づくことすらできないと思う。
32 :
考える名無しさん:2006/06/15(木) 09:47:04
普通の意味での(ウィトゲンシュタインが想定しているような)私的言語が
可能であること自体は、奥雅博のような正統派ウィトゲンシュタイン研究者
も認めていますね。ウィトゲンシュタインの権威を除いて、素直に考えれば
とくに主張するほどのこともない、ぜんぜんあたりまえのことですけれども。
33 :
B:2006/06/16(金) 21:43:31
>>32 ふーん、そうなんですか。へー、正統派ウィトゲンシュタイン研究者か、読んでみたいなぁ。
そういえばこちらは正統な永井スレではありませんよ。
しかし、あちらの正統なほうで、「意味のない言語は言語ではない」(>>467)という「言語ゲーム」概念を
無視した言語理解が提示されていて――もちろん「私の中で」という逃げを打ってありますが――あれでどうやって
後期ウィトゲンシュタインの思索や、永井均の問題領域に立ち入ろうというのか、私は興味津々です。
34 :
B:2006/06/17(土) 12:01:17
>>33 なんかとても嫌なレスだなぁ。
このレスで言いたいことはこれだけ。
正統な永井スレの方でいろいろな本からの引用が乱れ飛んでいるけど内容がない。
ただただ自分の博識をアピールするのが目的。ちなみに金持ちよりは貧乏人の方が金に執着する。
ただまぁ、これは
>>32のレスと関係がないので無理に関連させると
>>33みたいになってしまった。
35 :
B:2006/06/22(木) 14:34:31
まず初めに確認しておかねばならないのはこの問題領域(<私>)が公共言語の外側にあるということだ。
これは大変わかりやすい。われわれの言わんとしていることは実はいえないということにすぎないからだ。
しかし一方で公共言語に外部はない。問題はここで一気に沸点に達する。
もし本当に外部がないとしたらわれわれの言わんとしている事もないのか。
さあここからめくるめく論理の転覆が始まる。
・・・詳しくは永井均の本で。
なんだか宣伝みたいになってしまうが説明すれば本1冊ほどの文量が必要になるのだから仕方ない。
(結論だけ言えば「あるのでもないのでもある」ということになる)
ところで、哲学とは実証不可能なものについて延々と論じる倒錯的な努力である。
われわれの問題にしている<私>とは本来的に語りえない公共性からの無限の逸脱運動を、語ってしまったものだ。
であるから<私>と類比的に考えられている<私的言語>も当然
誰もが話し理解する公共言語の中に位置づけられてしまわざるを得ない。
この構図を理解できずに「永井均は私的言語が可能であると主張しているがそれは間違いだ」
といった永井均批判をする人がいる。
また、<私的言語>が重要な意味を持つのは公共言語に外部がないという別の理由もある。
これは「誰もが持つ私秘的なもの」へと必ず転落してしまう<私>というものが
本当に存在するのかという問題と密接に関係している。
すでにおわかりのとおり、公共言語と「誰もが持つ私秘性」には外部がないという共通点があるからだ。
そしてわれわれにとって真に重要なのはその外部であった。
36 :
B:2006/06/22(木) 14:38:45
(略)
だから永井均は、開闢が開闢された世界の内部に位置づけられるという。
開いたものが開かれた中に位置づけられて初めて現実が成立するという。
公共言語を成り立たせるために私的言語が必要であるという。
そして、私的言語があるという。
しかしその私的言語に効果的な言及をするのは不可能だという。
それが不可能であるゆえに哲学はまだ始まっていないという。
「言語が可能である以上、私的言語もまた可能であったのでなければならない。
そして、またそのことこそが私的言語を不可能にするのだ。」
という謎めいた一文は、ウィトゲンシュタインの私的言語論とはある程度独立して
<私>という存在が、外部と内部という正反対のものが折り重なって
癒着し相反するリアリティーを持っていることを示唆している。
追記:(略)にあたる部分は考える楽しみのためにも残しておいた。
実は時間がないという理由もあるが。
珍妙な永井批判を読むよりは(略)にあたる部分を考えたほうがよっぽど趣味がいいだろう。
37 :
B:2006/06/23(金) 01:02:21
誤解を恐れずに言えば、<私的言語>はある。
<私>があるように。
(私的言語の特質上「ない」派が有利なのは明らかだが
完璧に「ない」と考えている人は永井均の問いを理解できないだろう――別に悪いことではない。)
38 :
B:2006/06/23(金) 01:15:06
私的言語が「ある」といえないのだとしたら、同じ理由で「ない」ともいえない。
それは神が「いる」といえないのだとしたら、同じ理由で「いない」ともいえないのと類比的である。
だから近刊で神の存在証明が問題になった。
しかし、あえて言えばわれわれの問題は「ない/いない」というところにはない。
どちらかといえば、われわれの問題は「ある/いる」というところにあるからだ。
問題がここまで深くなってくるとだんだん永井均に賛同できる人も減ってくるだろうけど。
39 :
B:2006/06/23(金) 05:59:06
隣のスレで私的言語が不可能だといっている変なコテがいるが
不可能だとはいえないのは確かだ。(だから永井均の議論は否定されるべきものではない)
不可能だとしたら何が不可能なのかを明らかにしなければならない。
ちなみに私的言語とは公共言語からの無限の逸脱運動なのだから明確にすることはできない。
可能だとも不可能だともいえない、ということが
「言語が可能である以上、私的言語もまた可能であったのでなければならない。
そして、またそのことこそが私的言語を不可能にするのだ。」(『私・今・そして神』P187)
という言葉を導き出す。
40 :
B:2006/06/23(金) 06:16:43
>可能だとも不可能だともいえない、ということが
ここ違うなぁ。
「可能だとも不可能だともいえる、ということが」
だな。
日本負けたしもう寝よう。
41 :
B:2006/06/23(金) 23:54:51
もしこの私がはじめから完全に孤独な存在であって日本語を話すとしたら、その日本語は私的言語である。
しかし注意しなければならないのは、ここで言われている「日本語」という言葉についてである。
完全に孤独である私が話す「日本語」とは、この公共言語としての「日本語」をベースにしてしか考えられない。
だからといって「日本語」を「英語」に変えても同じだし、「私がそこで用いるべき言語」と名づけても同じである。
端的に「私的言語」といってもおなじである(!)。
それが言語ゲーム(公共言語)には外部がないという言葉の意味することだ。
完全に孤独な私が発すべき言語が、今こうして多くの人に向かって公共言語をとおして扱われている
このこと自体が背理なのである。
この背理の構造が<私>をめぐる背理の構造と類型的であることにわれわれの注意は向けられなけばならない。
だからある面において<私的言語>は「ある」といわなければならないし、
「ある」のでなければならない。(この結論は少し飛躍気味かな)
42 :
B:2006/06/24(土) 00:03:51
向こうのスレをウオッチするのもなんだか飽きたし、時間もないし、
かなり惨めな気もするのでやめよう。
43 :
B:2006/06/24(土) 11:21:30
「えもい」「しくい」などの思考実験で永井均が明らかにせんとしているのは
私的言語の構造についてである。とりわけ公共言語の特質である「誤りうる」という
問題や言語の本質を私的言語が備えているかという問題を論じている。
もちろん私的言語は単純な意味で取り扱えないものなのだが、その構造を明らかにしようとするとき
あたかも単純に私的言語が可能であるという体裁で議論をせねばならない。
われわれの問題は「ない/いない」ではなく「ある/いる」というところにあるのからだ。
ところで「ウィトゲンシュタインがそういう間違いを犯すと思うほうがどうかしている」
という一方で、「永井は<私>と「私」をごっちゃにしている」(超初歩的な誤りを犯しているという)という。
ごっちゃにしているという理由がまったくわからないのだけれど、
そろそろこういう風に言いたい心性を問題にしてもいいのではないだろうか。
おっと、いかんいかん。ウオッチするのをやめなくちゃ。
44 :
B:2006/06/25(日) 15:41:37
<私>をめぐる背理の構造を思い出さねばならない。
唯一無二のこの私を表さんとするその言葉は常に、的をはずしてしまう。
<私>には隣人がいないはずなのにそれに賛同する人たちによって、<私>は
隣人を持ってしまう。この構造は<隣人を持たない私>と表記したところで一向に変わらない。
隣人なきこの私を大勢の人向かって語っていること自体がすでに背理なのである。
だがあえて言うならば<私>はある。そして私的言語もある。
いけね、今度こそやめよう。
45 :
B:2006/06/25(日) 23:05:20
誤解がないように言っておきたいのは、私は455さんと483さんを尊敬しているということ。
少なくとも両者は私よりも頭がいい。
なにより永井スレが盛り上がるのはいいことだと思う。
(盛り下がっていたのは私の責任が大きいし)
「変なコテ」といったのはカオルさんのこと。
個人的な信頼関係といざこざがあったから、あえてそう言った。
もう直接かかわるつもりはないけれど、一応親しみを持って言っているつもり。
上にも書いたけれど彼ら(455&483)は私よりも頭がいいので、私がしたり顔で
色々言っていると手痛いしっぺ返しを喰らいそう。
だから干渉しないようにしようと思う。
(ウオッチしないというのは理想が高すぎるようだ)
46 :
考える名無しさん:2006/06/26(月) 01:10:22
■なぜ「純一」はむなしくならずに「気狂いポジティブ」を続けることができるのか。
<実生活>
・性格はくそ真面目。実生活で小さいころから空気を読めずに浮いていた。
・まわりと上手くやれず、仕事がつづかない。最近もやめた。
・30後半で、女性とつきあったこともなく、童貞だ。
・不安な毎日を過ごしている。
<哲学板>
・ネットでもくそ真面目で同じように浮いてしまった。
・どうせ回りから浮くなら、開き直って荒らしになった。
・電車で独り言をいうように「気狂いポジティブ」にふるまって、真面目だから浮いているのを
荒らしだから浮いているようにごまかしている。
・自分への劣等感から自己言及がない。
・オマエモナーをぴかぁ〜モナーしてぴかぁ叩きで自己言及から逃げている。
・3回アク禁になったが、もはや「気狂いポジティブ」な荒し以外に人生の逃げ場がない。
■純一本人によるエゴグラムの性格分類結果
お手あげタイプ(V型)
http://www.egogram-f.jp/seikaku/aisyou/v.htm いつも実力以上のことをやろうとしては失敗し、自分の実際以上に良く思われよう、気に
入られようとしては思うようにいかず、自己不信や劣等感におちいっていくタイプです。他者に
対する批判精神は非常に厳しいものがありますので、他人と自分の双方を同時にうらむような
ことが、しばしば起こってくるタイプです。要は、自分の性格のなかの厳しさを減らすか、イイ子に
なろうとする欲をへらすかです。そして、人生を八分目で満足するようにし、気ばかりを先行
させないことが大切でしょう。
47 :
B:2006/06/26(月) 02:46:55
友情から忠告しておくけれど、
カオルがだめなのは批判されたり間違いを指摘されるとむきになって
自分の力を誇示しようとしだすところ。だから大事なところで議論ができない。
問題がいつの間にか「力」があるかないかにすり替わってしまう。
私的言語が「事実上不可能」だといってみたり私的言語が「可能」だといってみたり
一貫しない姿勢で批判反論を交わそうとする。
もちろん永井均も不可能と言ってみたり可能というがあくまで可能という点に力点がおいてある。
カオルはどちらに力点がおいてあるのか不明。批判されたらどちらにでも乗り換えられるように身構えている。
何が言いたいのかわからないのだから、これでは議論する相手として不適。
相手を論破するとか、されるとかそんなものはくそ食らえなのだが。
(そうは言っても私だって手痛いしっぺ返しを食らわないようにと考えていたりするが)
それと、どうも私の書き込みを少しだけ変奏したものを
時々書き込んでいることがあると思うのだけれど。被害妄想だろうか。
あと、<私>がよくわからないといいつつ、一方で<私>という実感を伴わないがゆえに
はるかに難解な<私的言語>という類比的な問題がよくわかるというのは奇妙極まりないと思う。
そもそも「言語が可能である以上、私的言語もまた可能であったのでなければならない。
そして、またそのことこそが私的言語を不可能にするのだ。」(『私・今・そして神』P187)
という一文を理解していて、賛成しているのに永井均を批判するのはなぜなのだろう。
というか、そんなことができるのだろうか。
うーん、私は少々しゃべりすぎたようだ。
雲行きも怪しくなってきたし「沈黙は金」といこうかな。
48 :
B:2006/06/26(月) 02:54:59
ちなみに私は
「言語が可能である以上、私的言語もまた可能であったのでなければならない。
そして、またそのことこそが私的言語を不可能にするのだ。」(『私・今・そして神』P187)
という言葉の意味がよくわからないのだけれど。
そこに至る道筋のようなものは見えるのだけれど、なぜそういえるのかよくわからない。
>ニップルさんへ
わたしの知らないところで陰口を叩いて恥ずかしくないですか?
たしかにわたしはあなたの言うようなところがあるかもしれない。
でもわたしはこのような卑怯なことはしない。
それでもわたしはあなたに非難される人間です。
心性を疑われても仕方のない人間です。
でも肝心なのはそれが哲学とは関係がないことです。
わたしは哲板を公共空間だとみとめてからは
悪態もつかないようにしている、注意はしている。
それは放っておいたらそういう反応をする人間だからです。
でも哲学する人間にそんな人間性や道徳は関係ないです。
哲学は哲学することがすべてです。それ以外はアクセサリーです。
そんなもので着飾ってもなんの足しにもなりません。
>一応親しみを持って言っているつもり。
わたしはこの言葉だけで十分です。あなたを信頼しています。
50 :
B:2006/06/27(火) 17:18:40
<私的言語>とは語りえないものなのだから、私的言語批判も――それが語られる限り――
「仄めかし」でしかない。
ただし、語りえず示しうるものなのか、語りえず示しえないものなのか、どちらなのかが問題だ。
51 :
B:2006/06/28(水) 01:36:35
>>49 私には悔いも恥もない。
さて、以下は私の独り言なのでみなさん気にしないでほしい。
「知っている」ということを誇示したいものは借り物の言葉でわかりもしないことを
したり顔で語る。矛盾しても間違えてもお構いなし。
素朴に「私的言語はなぜ不可能なのか」(「この私はなぜ語りえないのか」)と問えることの
すばらしさを理解できない。借り物の知識でそれは不可能なのだと語る。
「知らない」「わからない」といえない、
あるいは「わからない」といってもその数倍「わかっている」といってしまう
その態度が「問う」という姿勢の対極にあることを知らねばならない。
クイズと哲学はまったく違う。クイズのふもとにあるものが「知っている」であるならば
哲学のふもとにあるものは「問い」であり「わからない」である。
その点で借り物の知識を振り回すものよりも、素朴に「私的言語はなぜ不可能なのか」と語る
人間のほうが哲学にふさわしい。
もちろんこの独り言は厳しく私自身にも当てはめねばならない。
…‥そうだ!「沈黙は金」だった。
さすがにこれ以上は自重しよう。
52 :
B:2006/06/28(水) 21:54:18
昨日の独り言で強調したかったのは455さんと509さんの姿勢のすばらしさ。
とりわけ文量が少ないので見過ごされがちな509さんの思考実験は面白いと思う。
(ただし509さんに異論がないわけではない)
ところで今、永井均関連スレで
「言語が可能である以上、私的言語もまた可能であったのでなければならない。
そして、またそのことこそが私的言語を不可能にするのだ。」(『私・今・そして神』P187)
という謎めいた言葉に一番近いのは509さんではないだろうか。
特に512の思考実験はこの謎めいた言葉の言いあらわさんとした場面に近いように思える。
53 :
考える名無しさん:2006/06/28(水) 23:51:41
バリー・ストラウド 著/永井 均 訳
4-6 504頁 税込 3,990円
(本体 3,800円)
現代哲学への招待
『君はいま夢をみていないとどうして言えるのか』
54 :
B:2006/06/29(木) 16:06:26
正直相手にすべきでないことは重々承知しているけれど、一応友情から言わざるを得ない気がする。
細かいことを言ったら本当にきりがないから
>そもそも「言語が可能である以上、私的言語もまた可能であったのでなければならない。
>そして、またそのことこそが私的言語を不可能にするのだ。」(『私・今・そして神』P187)
>という一文を理解していて、賛成しているのに永井均を批判するのはなぜなのだろう。
>というか、そんなことができるのだろうか。
この質問だけでいい。この質問にカオルが答えられるなら好きなようにやればいい。
ちなみにカオルが『私・今・そして神』P187の一文を理解していることはありえない。
>>33でも指摘したが「言語ゲーム」概念の理解がむちゃくちゃだからだ。
だからしばしば「無意味(不在)」などと書いて過ちを犯す。
「無意味な言葉」でも言語ゲーム上での位置を持つと、ウィトゲンシュタインは私的言語批判と呼ばれる箇所で
論じているはずだ(『探求』二六一節)。だから語りえないものを「無意味(不在)」などと表現するのは
何も理解していないことを吐露するようなものだ。
もちろん、ウィトゲンシュタインの権威を傘にきて語ろうとしなければ特に問題はないのだが
「ウィトゲンシュタインの私的言語批判を踏まえて永井批判をしている」などと
途方もないことを言うから墓穴を掘る。
さらに付け加えるなら、<私>を理解できない人間が<私>と類比的な問題としてフォーカスが当たっている
<私的言語>の問題を理解できる、というのはナンセンス以外の何でもないだろう。
また、こういう厳しい対立の局面において’それ’などという、内容を後からいかようにでも
変えられる言葉で議論をすることはまったく許されない。
55 :
B:2006/06/29(木) 16:38:12
それともうひとつ、こちらこそが友情から言うべきことだと思うのだけど、
このスレの
>>49で
>わたしの知らないところで陰口を叩いて恥ずかしくないですか?
>たしかにわたしはあなたの言うようなところがあるかもしれない。
>でもわたしはこのような卑怯なことはしない。
と他人に向かって言っておきながらその直後には
>それでもわたしはあなたに非難される人間です。
>心性を疑われても仕方のない人間です。
>でも肝心なのはそれが哲学とは関係がないことです。
といい、そして最後にこう結論している。
>でも哲学する人間にそんな人間性や道徳は関係ないです。
>哲学は哲学することがすべてです。それ以外はアクセサリーです。
>そんなもので着飾ってもなんの足しにもなりません。
はじめの三行で私の卑怯さという不道徳をなじりながら、続く三行で
自分に話が展開すると哲学に不道徳なんぞは関係ないという。
結論はさらにそれを強調。
論理的に完全に破綻しているけれど、読後の率直な感想を言えば
私の卑怯さをなじりながら自分の不道徳は擁護している、としか思えない。
この姿勢は依然私とカオルとの間でいざこざがあったとき、再三にわたって指摘したものだ。
また、
>>47での私の忠告の後、別スレで455さんを「私ほど勉強していない」と攻撃した。
これは率直な忠告に怒ったカオルが忠告した内容をそのまま行ってしまったように思える。
私はカオルはもう少し精神的な余裕がもてるようにならないと哲学はできないと思う。
…せっかくスレが盛り上がっていたのに水をさすような結果になってしまい申し訳なく思う。
>>54 ニップルさん
>一応友情から言わざるを得ない気がする。
では、わたしも友情か言わせてもらいます。
あなたのやっていることは、たんなる私怨の吐露にすぎないと思います。
それをまるで哲学の庇護者であるかのように自己正当化するのはやめてほしい。
わたしにつきまとって、わたしの人格批判をすることのどこが哲学なのでしょうか。
今あなたがしているようなことを回避するために住み分けたはずではないですか。
それを当の議論に参加もしないで、陰で悪口を言うことのどこが哲学なのですか。
まじめに真剣に哲学に取り組んでいるのに、どうして非難されないといけないの?
あなたのしていることが、どうして正当な行為であるのかの理由を教えてください。
>>54 ニップルさん
>そもそも「言語が可能である以上、私的言語もまた可能であったのでなければならない。
>そして、またそのことこそが私的言語を不可能にするのだ。」(『私・今・そして神』P187)
>という一文を理解していて、賛成しているのに永井均を批判するのはなぜなのだろう。
>というか、そんなことができるのだろうか。
>この質問だけでいい。この質問にカオルが答えられるなら好きなようにやればいい。
わたしの論はどれもみんな、けっきょくは私的言語を擁護しています。(よく読んでほしい)
わたしは、永井がやったような想定での私的言語(「しくい気分」「かまい感覚」「ろましい感情」……)を
否定しているだけです。
>「無意味な言葉」でも言語ゲーム上での位置を持つと、ウィトゲンシュタインは私的言語批判と
>呼ばれる箇所で論じているはずだ(『探求』二六一節)。だから語りえないものを「無意味(不在)」
>などと表現するのは何も理解していないことを吐露するようなものだ。
私的言語を追いつめていったらどうなるのか、についてもちゃんと論じています。(よく読んでほしい)
たとえば、一万歩ゆずって永井の想定を受け入れたとします。そうすると、永井の想定した私的言語は、
@言語ゲームに回収されるか、A永井の想定そのものが成り立たないか(無意味)、に帰着するのです。
『探求』の261節は、このことを言っているのです。
>>54 ニップルさん
>もちろん、ウィトゲンシュタインの権威を傘にきて語ろうとしなければ特に問題はないのだが
>「ウィトゲンシュタインの私的言語批判を踏まえて永井批判をしている」などと途方もないことを
>言うから墓穴を掘る。
永井の私的言語論が、ウィトゲンシュタインの私的言語批判に耐えられるとは到底思えない
ですが、……理解もしてないのにウィトゲンシュタインの権威を傘にきていると思われるなら、
わたしのMy哲学、My解釈だと思ってもらってかまわないです。とても嫌われるやり方なので
自分なりに気を遣っているだけですから。それにわたしの場合、どう転んでも、けっきょくMy哲学、
My解釈になってしまうわけですからね。
>さらに付け加えるなら、<私>を理解できない人間が<私>と類比的な問題としてフォーカスが
>当たっている<私的言語>の問題を理解できる、というのはナンセンス以外の何でもないだろう。
<私>は、もちろん理解できない、それに加えて感じることも信じることもできないです。
以前からそう言っています。私的言語についてもさまざまな解釈をしているくらいだから
わかっていないと言われたらその通りかもしれない。でも、<私>そのものではなく、
「この私」を通しての議論ができるのではないかと思ったので、そのような議論をしてみました。
>また、こういう厳しい対立の局面において’それ’などという、内容を後からいかようにでも
>変えられる言葉で議論をすることはまったく許されない。
‘それ’とも書きたくないのだけど、それだと何も書けなくなってしまうから。
>>55 ニップルさん
>論理的に完全に破綻しているけれど、読後の率直な感想を言えば
>私の卑怯さをなじりながら自分の不道徳は擁護している、としか思えない。
気持ちを伝えているのに論理的に破綻とか言われても困ります。
自分の気持ち、あなたへの気持ちを正直に書くとそうなりました。
あなたに好かれていたときだっておなじわたしだったはずです。
でもわからない。だからわたしは自分を信頼できません。
あなたを信頼しています。あなたの言う通りにします。
あなたの言うことが正しいと思う。
わたしが書き込まなければ、それでいいのですよね?
あなたがそのほうがいいというなら、そうします。
あなたのせいにしたいのではなくて、こういうことを
自分で判断できないし決められないんです。
このことも前に言ったような気がするけど。
>私はカオルはもう少し精神的な余裕がもてるようにならないと哲学はできないと思う。
余裕がもてるようになったらいいな……夢物語、きっと哲学もおわり。
生きているあいだは哲学をして、哲学をやめるときは死ぬんだと思う。
たくさんの信頼できる人たちに囲まれて許されて今までやってきました。
ニップルさんもまちがいなくその一人なのは疑いようがないです。
だからあなたに許してもらえないなら、諦めるしかないと思っています。
60 :
B:2006/06/29(木) 23:54:28
ハァ、相手にならないなぁ。
よく読め?こちらがよく説明しろといえないのはなぜなの?
後から後から憲法9条解釈並みのアクロバットで言い逃れをするのに「よく読め」といわれてもねぇ。
>それを当の議論に参加もしないで、陰で悪口を言うことのどこが哲学なのですか。
>まじめに真剣に哲学に取り組んでいるのに、どうして非難されないといけないの?
相手が悪くて自分は正しい、という構図から抜け出られないカオルには何が問題なのかわからないんだろうなぁ…。
ところで永井均の「私的言語論」を批判している人間が、私的言語を擁護できると思っているのは、
問題に対する無理解を告白しているようなものだ。
私的言語は語りえないのだからそれを語ることで擁護しようとしたら多かれ少なかれ過ちを犯す。
そんな中で永井均は、裸足でアザミを踏みしめる情熱を持って私的言語を擁護しようとしたにすぎない。
擁護するというのは理由も明確にせずに時折、「私的言語は可能」と予防線を張っておくことではない。
仮にカオルが私的言語を擁護していたとしても、永井均を非難する資格はない。
語りえないものを語るという点で永井均もカオルも同じだからだ。
それなのに自分の私的言語論は批判されずに永井均だけ非難できると思うのは問題をまったく理解していない証拠。
そしてこの無理解はカオルの精神的な傾向に由来しているだろう。
あと、私をストーカー扱いするのは勝手だが、それは人の家に上がりこんでそこの家の住人を
ストーカー扱いするのと同じだ。そんな精神性で哲学などは到底無理だよ。
問題を理解していないカオルがスレの自由を守るため居座っていいのに、私は陰口?をたたくので排除されるの?
それと、もし、カオルの悪口を言っているように見えるとしたら、それはカオルが議論できるレベルにないから。
別スレの565とそれをうけた
>>50を見たら誰でも議論が成立していることはわかると思う。
それがわからないのだから、なにをかいわんやだ。
61 :
B:2006/06/30(金) 00:13:21
誤解を与えるような表現をするのはやめてほしい。
しかし仲がよかったのは事実だ。
だからこそ友情から、もう少し精神的に成熟してから哲学をするように勧めている。
それと勘違いされては困るが、仲のよかったときも私はよくカオルの言わんとしたことを
理解していたつもりだ。だからjun1さんが嫉妬したりとどうでもいいことがよくおきた。
そして今もカオルの言わんとしていることはよく理解しているはずだ。
ただ、いまは厳しく対立しているから私が変わったように思えるだけ。
ま、相手にするのはもうやめる。好きにすればいい。
私はスレの平和を守る正義のヒーローではないからどうこういわない。
言うと問題がもっと根深くなるだけだろう
でもカオルがここにいればいるほど哲学から遠のいていくのは確かだろうが。
わたしはどうしたら許してもらえるのですか?
それと、「永井均と <独在性>」スレは、ニップルさんが立てたスレなのですか?
わたしが心の病気を治したら哲学していいの?
わたしの哲学がだめだから、永井を批判してはいけないの?
それとも哲学する資格がないから、哲学することがいけないの?
哲板があったからわたしは今も生きているのです。
いえ、哲板にたくさん仲間がいたから
どうしたらいいのかわかりません。
永井均と <独在性>スレに書き込まなければいいのですか?
ニップルさんとポールさんが仲良くしてくれたらいいなって思いました。
それなのにわたしはニップルさんにもポールさんにも嫌われてしまいました。
どうしたらいいのですか。
68 :
B:2006/06/30(金) 00:31:22
ゆっくりと深呼吸しろ。
そして何も考えずボーっとすること。
許す?もちろん許すよ。
69 :
B:2006/06/30(金) 00:34:54
わかった。わかった。
もうそれ以上書き込むな。
別に嫌っちゃいないから。
後から面倒なやつがコピペしてくるぞ。
namidagatomarimasen
watasigananigawaruinokawakarimasen
damedakaradamedakara
gomennasaigomennasai
71 :
B:2006/06/30(金) 01:05:10
言うまでもないことかもしれないが、カオルは魅力的な人間だ。
私が『永井均と<独在性>』スレについて言及せねばならなかったのは
カオルの魅力に吸引されて永井批判が盛り上がってきていたから。
だから永井批判に釘をさす意味でもシンボルとしてのカオルを批判せねばならなかった。
ちなみに私は、455さんや509さんの率直さを讃える。
それは特別な知識や高度な知能にあまり意味を見出していないからだ。
だからもし、議論に参加したいのであれば率直な――馬鹿がつくような率直な――意見や疑問を提示するといい。
(的外れでもいいと思う 的は常に射抜けはしないから狙うのだろう)
永井均スレには頭のいい人もいるが――永井均と違って――性格のいい人もいるから私以外の人からも
的確な応答があるかもしれないし。
72 :
B:2006/06/30(金) 01:22:33
>>70 カオルがだめなんじゃあない。
むしろカオルをそこまで追い詰めていたのにそれを知らないで
>そして今もカオルの言わんとしていることはよく理解しているはずだ。
なんておおみえをきっている私がだめなんだ。
こんなだめな私だがカオルへの友情が変わらないことを約束する。
73 :
b:2006/06/30(金) 15:53:27
きもい。うざい。あたまおかしい。
74 :
B:2006/07/01(土) 00:12:50
>カオル
カオルがここまで率直に気持ちを表しているのに私だけ高みの見物をしているのは
悪趣味だ。
私が書いたカオルへの批判は今読み返すとかなり敵意に満ちているようだ。
永井均を批判していたのはカオルだけではない。
483さんも同じだ。
それなのにカオルだけを狙い撃ちするような私のやり方は確かに卑怯で下劣だ。
もしかしたら、取って付けたように聞こえるかもしれないけれど
私は今のカオルが特別ダメだとは思っていない。
永井均をはじめから否定的に見て難癖をつけてくる人物は少なくないし、
そういう人物は普通カオルほど永井均の本を読まない。
455さんに「勉強不足」と指摘した件についても、多読や情報量が重宝される
この板にあってはかなり穏やかな批判の部類に入るし、冷徹に見ればその批判は正しい。
いろいろごちゃごちゃ言わずにはっきり言えば、
カオルはこの板の中では、いろんな意味でいいほうの部類に入ると思う。
>もう少し精神的な余裕がもてるようにならないと哲学はできないと思う。
という言葉は敵意によって誇張された表現だから、「もう少し精神的に余裕を持てるようになったら
哲学的な問題が別様に見えることもあるだろう」くらいに理解してくれるといい。
75 :
B:2006/07/01(土) 00:27:07
>カオル
もし2chを見るのがつらいなら見なくていいし、
私と話すのがつらいなら永井スレに書き込みをしなくてもいい。
もちろん書き込みたいなら止めはしない。
どこかで傷を癒したいならそうすればいい。
どうしても白々しく聞こえるだろうから、私がかけてあげられる言葉は
限られてしまうだろう。だから私がカオルの傷を癒すのは簡単ではないかもしれない。
ああ、それと気が変わって「昨日はなんてことを書いてしまったんだろう」
って思っているなら「ニップルのバーカ」って書き込んでくれ。
あまり冗長に書くと説得力がなくなるからこの辺でやめとく。
あたまおかしい。
77 :
B:2006/07/01(土) 12:38:48
>>76 妙な雰囲気になっているというのならそれを変えるような書き込みをしてほしい。
わたしはわたしのことがよくわかりません。
わたしがこのわたしでなくなることは日常的に起こるから
いえ、このわたしがわたしでなくなってしまうのかもしれません。
だからわたしはわたしでいられるように全力をつくします。
わたしはわたしのままで死にたいからです。
わたしは自分自身で輝いて死にたいです。
〈私〉にとってわたしは他の誰でもかまわない現実があるのに
永井さんはそこに必然性を見つけてくれようとしています。
それは死と狂気以外の選択の道、哲学することと同じです。
必然性なんて最初からないのに……それは生きるためなの?
でも生そのものはフロイトがいうように死でしかないでしょうし
それとの対決はこのわたしでいられなくなるという狂気です。
人間でいるには生活様式という歴史の力にしたがうしかないし
それが盲目の生命を秩序づける言葉という神の知なのでしょう。
でも神の意志はけっしてこのわたしにとどくことはないでしょう。
>Bさんへ
永井の哲学はわたしを殺します、だからわたしは抵抗します。
ニーチェやウィトゲンシュタインへの同志的な親近感とは相反する
異邦人への恐れなのかもしれません。
それは倫理・道徳への誠実さのちがいなのだと直観しています。
だからわたしは永井の倫理・道徳についての著作や記述は読まない。
おそらく抑えることのできない憎しみが湧いてくるだろうからです。
私的言語、わたしという言葉への侵犯にさえ憎しみを感じてしまうのは
理由なき反抗ではないはずです。
理性のオバケのようなその理論が人間のそれではないことを暴きたい。
異星人の真理が人間のそれではないことを証明したい。
あの冷徹なまなざしは仲間ではないからだと感じるからです。
わたしが世間からはじかれるのとはわけがちがうと思うからです。
殺さなければ殺されてしまう最高度の言葉の暴力です。
余計なことをまた書いてしまったでしょうか。
何を書いてもきっとあなたを苛立たせるのでしょうね。
わたしの心の中の気持ちを正直に話しておきたかった。
わたしの書き込みこそ私怨の吐露にすぎなかったのです。
あなたはこの心情を察していたからこそ非難したのです。
だからあなたはまちがっていない。反省なんかしないでください。
80 :
B:2006/07/07(金) 23:02:30
たしかに<この私だけの問題>を語る永井均は、<この私だけの問題>であるはずのものを
永井均の問題へと変えてしまう。これはある意味で殺人だ。
考え方によっては、ウィトゲンシュタインは語りえぬものと語りうるものを分けることによって
殺人を戒めたとも考えられるだろう。
しかし<問題>を永井均の問題としていったん受け取ってしまえば、つまりいったん殺されてしまえば
つぎは永井均を殺す番だ。
・・・うーん、物騒なだけでこの話は面白くないのでここら辺でやめよう。
ところでニーチェは神の不在にこだわった。そのこだわりは異様なものだ。
永井均はそのこだわりの中にニーチェの信仰する神の現前を見る。
カオルさん(今更こう呼ぶのもおかしいかなぁ)が<私>の不在にこだわるのも
何か共通するものを感じなくもない。
あ、それと私は別に気分を害してなどいないですよ。
愛と憎しみは一緒なのですね。
自分の文章を読むとそう思います。
気持ちの整合性とかそんなの無理なんです。
私的言語も狂気のうちでは普通の言語かもしれません。
厳密にはそうではないけど……応答しようとはしているから。
世界がオカシイから私が世界を創らなければならないのです。
存在する神に祈ることは偶像の崇拝と同じです。
そのような神にどうして祈ることができるでしょう。
神への愛に気づくことは愛せないことへの絶望なのです。
〈私〉はつねにいつも不在なのです。
いえ、非在といったほうがいいのかもしれません。
不在の〈私〉は超越論的、非在の〈私〉は超越的なのです。
とかいっても、形而上学的にそのように理解しているだけです。
認識が可能になるための条件として要請されるところの現象の
背後に〈ある〉物自体は超越論的、〈ある〉は超越的みたいに。
あと、呼び捨てでかまいませんよ。
わたしがわたしで居られなくなることと
〈私〉の不在とは関係があるのでしょうか。
我を忘れてとか、赤ちゃんを抱いてるときとか、
そういうときって、わたしって居なくなりますよね?
こういうときの絆みたいなものがなくなってしまっても
どうしてだかわたしって居なくなってしまいますけどね。
あなたが居るからわたしが居るという当り前のことが、
あなたとわたしが一緒になったり、あなたが居なくても
わたしが居られるようにとかなるとおかしくなるのです。
あげとくか
86 :
考える名無しさん:2006/10/09(月) 07:47:25
ミスティックリバー「深い川」 イッツジーニアスザットユーハブアグッドアンドエビル
87 :
考える名無しさん:2006/11/11(土) 00:09:16
アゲいん
88 :
考える名無しさん:2006/11/20(月) 15:31:15
来年から日大に行くみたい
89 :
考える名無しさん:2006/11/20(月) 18:53:19
>>635 >量子というのは運動量を観測すれば位置がデタラメになりどこにあるんだかわからなくなる。
>位置を観測すれば運動量が無限大に不正確になってしまう。
>であるから観測するまでは確率的にしかわかりませんよという不確定性原理なんだろう。
>観測する行為自体が対象に影響を与えるんだから。
こんな基本的なことはわかってる。
巧妙な曲解で騙そうとしていることが
汚いんだよ。
91 :
考える名無しさん:2007/01/15(月) 12:29:26
国立は色々とめんどくさいだそうな
92 :
考える名無しさん:2007/01/15(月) 12:53:14
今までありがとう(´;ω;`)ブワッ
93 :
考える名無しさん:2007/03/05(月) 17:08:12
永井均の話題がなくね?
94 :
考える名無しさん:2007/03/05(月) 17:19:15
ん、90番台は全部永井均についての話題だろ?
95 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 13:09:26
age
96 :
考える名無しさん:2007/07/08(日) 21:05:29 O
age
あくまでネタとして。
<私>とか<今>に固執している(と、見えちゃうんだけど。入れ込んでる人ごめんね)永井ってさ、「均」という名前に勝っているんだろうか、それとも負けているんだろうか。
「均」っていうと、やっぱり「平均」とか「均一」という語を連想するんだけど、彼の頭の中身はそれとは対極にあるような気がするんですよ、ええ。
「独」と書いて「ひとし」と読むように改名したほうが似合うと思う。
彼の著作を読むと、つくづくそう思う。
自分に子どもが生まれて、その子が永井みたいだったら教育はどうしよう、とか思ったりしませんか。
98 :
考える名無しさん:2007/07/10(火) 21:54:35 0
みんな、出発点しか理解してないねー。逆、逆ですよー。
あの哲学はものすごく「均」なんですよ。
『西田幾多郎』の第3章とか読んでごらんよ。
普通の人のように「均」を自明の前提にしないで、
それを根底から基礎づける議論を徹底的に「基礎づけ主義」的に考えている。
だから、それがそのまま「教育の原理」にもなるんですよ。
以上、あくまでマジ。
>98 マジだというのでちょっと書いてみた
「均」だという面が(も)ある,という指摘はありだと思うけど,「教育の原理」
というのは何?
ああ,「たいていの親は実は愛情深くないので,子どもに道徳を教えるが,
私は愛情があるので,道徳などにとらわれないように育てる」というアレの
こと?w いや,でも,そう育てるということは,「均」を否定する方向を
教えるということなんじゃ。
100 :
97:2007/07/12(木) 01:10:39 0
「永井独士(ひとし)」とか、哲学者としてかっこよくないですかね‥‥。
親がつけた名前といえば、柄谷の本名「善男」も自分のコードに引っかかります。
よりによってあの人物が「善男」はないだろう「善男」は、って思います。
「善男善女」なんて熟語もあるんだし‥‥。
ま、それもあって柄谷は「行人」を名乗ったんでしょうけどね。
「悪魔くん」の話題が数年前世間にありましたが、「悪魔」とか「大悪魔」なんて名が日本で最もふさわしいのは柄谷な気がします。
あ、いちおう持ち上げてるんですよ(笑)
大抵の人は「悪魔」なんて大層な命名に名前負けするでしょうから。
そのうち読んでみます<『西田幾多郎』の第3章
しかし「原理」とはまた、誰かさんみたいなこと言い出しますね。
ほら「〈子ども〉のための哲学」で叩かれてる‥‥(汗)
ある個人が「これが〜の原理だ」と思うのは自由ですけど、それを社会に対して発言することに対しては、自分は慎重に対応せざるを得ません。
「社会というテクストの豊穣さ」(永井)を常に考えます。
「教育の原理」なんて要らない、という教育方針も、考え得るのですから。
ま、いいですけど。
レス、ありがとうございます。
なお、自分は99さんではありません。念のため。
101 :
考える名無しさん:2007/07/12(木) 22:30:54 0
教育の原理は、自分が多数の人間(存在者)の内の一人(一つ)にすぎない
ということを教えることに尽きる。それがすなわち道徳教育で、
しかも、あらゆる教育は(国語も理科も…)ぜんぶ道徳教育なんだって。
永井はいつもそう言っているよ。
102 :
考える名無しさん:2007/07/12(木) 23:47:15 0
永井ってのは、ネーゲルの哲学の劣化コピーを自らの独創のように偽装して出荷する、
哲学界のミートホープなのか?
103 :
考える名無しさん:2007/07/13(金) 00:02:45 0
>>101 >永井はいつもそう言っているよ。
具体的に一箇所挙げてもらえますか?
104 :
考える名無しさん:2007/07/14(土) 09:11:02 0
>
>>103 >そう書いているという意味に取ったのかな。
そりゃそうでしょう。いや,永井が,(著作ではなく)講義やゼミでは
>>101のような
発言を繰り返しているというのなら,情報提供としては貴重で,ありがたいけど。
しかし,普通の読者はそんなこと知らんがなw
(ちなみに,著作で探すと,『転校生とブラック・ジャック』の93頁?しかし,
永井自身がそういう教育を肯定してるわけじゃないのは明らかだと思うけど)
106 :
考える名無しさん:2007/07/14(土) 15:51:34 O
三浦俊彦に批判されて遠回しなやり方でやり返す永井寒すぎ。
107 :
考える名無しさん:2007/07/14(土) 16:57:59 0
三浦俊彦はカス
永井ktkr(w
ktkrってなに?
wでも(wでももうどっちでもいいよ
111 :
アフター:2007/09/03(月) 01:43:15 0
カント原理とライプニッツ原理はお互いに打ち消しあいながら
それでも支えあっている。
この関係は<独在性>を否定することで成立する「現実」と、
その「現実」をかたくなに拒絶することで成立する<独在性>、
この両者の間の関係と類比的なのだ。
だからカント原理を補強するものとしてライプニッツ原理を考えることも
その逆も間違っている。
だが、あえて言うならば、たしかに三部作以前の永井均はライプニッツ的である。
そしてその一方で、三部作以降の永井均はカントとライプニッツに対して中立的だ。
ひさびさの書き込みだから鈍っててもやさしく突っ込んでください。
>>88 あぁ、きたよきたよ。
純粋理性批判の解説してる
113 :
考える名無しさん:2007/10/16(火) 20:40:31 0
哲学に興味があって、永井均先生の研究室にお邪魔したら、
ボードにフルで名前書かされた・・
先生はいろいろ危ない目にあってるみたいだから
懐疑的なのかもしれない・・
ブラックリストに追加されるのかな・・
だれかその辺詳しい方いらっしゃいます?
114 :
考える名無しさん:2007/10/17(水) 21:55:33 0
名前を覚えるためらしいっすよ。
>>113 大学の学生さんですか。
関係ない素人でも訪問していいのですか。
116 :
113:2007/10/18(木) 02:14:44 O
大学は基本的に誰でも自由に出入りできますし、声をかければ聴講は可能です。
まあ授業の学生です。純粋に哲学に興味がありまして研究室に訪れました。
はっきり言って先生は僕には興味ない感じです。
僕に似たような生徒は腐るほどいっぱいいましたから
特別興味もわかないでしょう。このタイプまたかってオーラです。
面倒くさい奴だと思われたと思います。多分危険な目にあった経験が
多いから危機管理上のリストだと勝手に思ったんです。
研究室の本とかパクってないかとか危ない活動した時に
足がつくようにするためだと思ったんです。
本当はどうでしょう?
117 :
考える名無しさん:2007/10/19(金) 09:02:06 0
だから、名前を覚えるためだって聞いたけどね。
歳をとって、一度聞いただけでは名前覚えられないからって。
固有名は対象との結合の仕方が個別的に恣意的なので、記憶に向かないんだとかなんとか…
歳なのか、そのよくわからない理由なのか、どっちなんだw
しかし、飛び込みの人の名前をわざわざ覚えるんですな。
関係ないけど、シューベルトの名前はシューベルトという人にピッタリだ、
という迷台詞を残した人もいるらしい。
119 :
113:2007/10/23(火) 05:35:18 0
そうそう飛び込みのひとです。
興味なさそうなのに名前書かせるから。危機管理リストかと。
僕に興味がない証拠に、僕から話かけないと会話にならず、
僕が話さないと沈黙のまま時間が過ぎていきました。
名前覚えたいとか相手に興味あるなら何かしら興味持って
話しかけたり聞いたりするだろうと。
117>>
恣意的ってW。
友達の選択や今晩のおかずの決定など日常生活のほとんど恣意的じゃないか?恣意的かどうかいちいち考えてたら日常生活に差し支える気がする
日本語で犬と呼んでるアレを「犬」と呼ぶか「dog」と呼ぶか、また同じ日本語でも
時代によってある種の動物が「犬」と別の名で呼ばれるか「犬」にまとめられるかは
恣意的だ、なんていう話は、入門書で見たことあるけどね。
固有名は特に恣意的だから覚えづらい、と言われたら、実感としてはそんな気もするなw
122 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 21:57:26 0
「犬」たちや「鈴」たちは似ているけど、
「犬塚」たちや「鈴木」たちは似ていないね!
123 :
考える名無しさん:2007/11/01(木) 01:00:18 0
124 :
考える名無しさん:2007/11/01(木) 09:24:43 0
▼福田和也研究会
ゲストレクチャー 永井均「<オトナ>のための哲学対話」
・日時/場所:11/2(金)16:45-
125 :
考える名無しさん:2007/11/01(木) 09:50:43 0
場所は?
>125
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC) ι(イオタ) 11教室
小田急線・相鉄線・横浜市営地下鉄湘南台駅からバス/タクシーで20分、JR辻堂駅からバス/タクシーで30分
だそうです。mixiのコミュより。
ここ最近の二冊は分かりづらくなってるね。
129 :
考える名無しさん:2007/11/24(土) 23:37:23 0
二冊ではなく、ここ最近の四冊だろう(『倫理とは何か』を除く)。
130 :
考える名無しさん:2007/11/25(日) 17:15:19 0
ここ最近の二冊は分かりづらくなってるね。
131 :
考える名無しさん:2007/11/27(火) 23:21:54 0
二冊か四冊かはともかく(俺は四冊説に賛成だが)
一般書においても格段にレベルを上げて妥協なく書くようになったことは事実だ。
かつての(阿呆な)信者を振り切りつつあることは好ましい。
まあ、以前の本が分かりやすかったという事実も、別にない気がするけどね。
レベルがどうとかじゃなくて、叙述方法が難しくなっている気がする
134 :
考える名無しさん:2007/11/28(水) 18:18:30 0
いや、間違いなく問題そのものが遥かに難しく複雑になっている。
人称と時制との類比から、そこに更に様相が絡んできてからだから、
『転校生とブラック・ジャック』からというより『私・今・そして神』からではないだろうか?
そうであるすると、最近の2冊でも4冊でもなく3冊ということになるが。
新著でも、最も分かりずらいがと同時に恐らく最も重要でもある箇所は、
142頁から143頁にかけて短く様相に言及している箇所ではないだろうか?
135 :
論理的虚構 ◆vWilh8Qklc :2007/12/02(日) 07:57:17 0
このスレッド「も」事実ならびに/あるいは規範についての独断バカによる書き込みが大半を占めているようである。(という言明を受けて、独断バカがただ1つの立場から構成されていると誤読する独断バカはいないだろうな?)
数学は、公理という独断を採用しているために絶対確実に正しいかどうか分からない。
自然科学は、それに加えて実験による証明という、何らかの枠組みを独断的に前提しているために絶対確実性からさらに遠ざかった。
科学哲学は、科学を擁護したいがために、形而上学的実在論、科学的実在論、道具主義、操作主義、実証主義、奇跡論法、構成主義的経験論、介入、構造的実在論、内在的実在論などの独断に陥っている。
俗流心理学に至っては、ただ1つの演繹すらない。
しかし、演繹という語にまつわる問題もある。それは……。
どちらの陣営にも個人的な、あるいは自らが属する集団に共有されている感覚や感情を不当に〔論証なしに〕正当化するという事態が蔓延しているが、実際にはいずれも同一の誤謬に陥っているという点を以って同一項で括ることができる。
わたしは、それが暫定的なものであれ不確実なものを魔術的な仕方で確実なものに変換してしまう独断バカを一般人(これには一般的な多数派と一般的な少数派の双方が含まれる)と呼んでいる。
わたしは、こうした頭の弱い存在者群に対して啓蒙を実践しているところである……。
この問題に絶対確実な回答を与えるには、まず絶対主義対相対主義、超越論対非超越論に決着をつけねばなるまい。
「そして、指示の理論について考えねば……!」
# 記述説、因果説、記述の束説
それは、すべての独断バカを消去=救済する計画――。(隘路であることが判明したが、それでも……!)
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%22%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E6%87%90%E7%96%91%22&lr=lang_ja
新刊をただ読んでいるのもなんだから、つまらない疑問かもしれないけど書いてみる。
どこまでも累進するというのは、どういうことだろう?
「現象的」と「心理的」で言うと、まず、私自身についてはこの対比が
現実に働いている(最上段)。
それが他人に伝達されるとなると、本来の私の対比としては「心理的」の中でしか
ないのだが、「現象的」と「心理的」の対比がもう一度起こる(二段目)。
ところが、他人の「現象的」と「心理的」も、やはり本来の対比とされてしまうので、
その「心理的」の中で、さらにもう一度「現象的」と「心理的」が対比される(三段目)。
このへんまではいいとして、その後どこまでも続いたりはしないのでは?
「現象的」の中にも「現象的」と「心理的」が…という字面を見ると、どこまでも
進むようにも見えるけど、具体的な内容はどういうことなんだろう。
何か阿呆な見落としをしてますかね?
あるいは、別の言い方を試みると、二段目もやはり本来の対比とされてしまう、という時点で、
何と言うか二段目は最上段にジャンプして戻る(?)のであって、三、四、…と下がって
いくわけではないのではないか、というか。
155頁が答なのかもしれないけど。
137 :
↑:2007/12/04(火) 23:23:00 O
別スレのほうに書こうとしたんだけど、容量オーバーと言われたので、
こちらに書かせてもらいました。悪しからず。
138 :
136:2007/12/05(水) 01:04:57 O
書いてしまってから振り返ると(書く前に気付いてしかるべきだけど)、
「別の言い方を試みると」の前後の内容は整合してないんだよな。
「もっと言ってみると」とでも言うべきだったろうけど、もう書いてしまったので失礼。
ものすごくどうでもいいことだけど。
新刊の「ブトム」って、なぜブトムという名前なんだろうと思っていたんだけど、
やはり、甲虫(カブトムシ)byウィトゲンシュタインをもじって、というか単に2文字削って
(カ)「ブトム」(シ)なのかなあ。
…こんなことを真っ昼間から思い付いてしまう自分が嫌だw
140 :
考える名無しさん:2007/12/09(日) 02:36:28 0
もちろん。あたりまえのことだ。あたりまえだが、どうでもいいことではない。
例えば、11頁の終わりから12頁にかけての段落は、
明らかにウィトゲンシュタインの「カブトムシ」の比喩に対する批判だから。
そういうところが読めないと面白くないだろう?
言うまでもないことではあるが、老婆心から注意しておけば、
この章全体は、コリン・マッギンの「神秘の炎」説に対する批判だ。
マッギンがチャーマーズの前座をつとめているというわけだな。
141 :
考える名無しさん:2007/12/17(月) 20:47:50 0
47 名前: ◆mgNCaLKg6. 投稿日: 2007/12/17(月) 18:50:06 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1197640265/l50 >>
>我々の手で新しい思想の創造を行いましょう
>嫌だよ 功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
>私は京都大学の文学部で博士課程まで哲学に関する研究を行いました。現在は金融に就職しているので研究室での研究とは疎遠な状態ですが、私も独自の体系を日々完成に近づける努力を続けています。
>この思想は私が学部の卒業論文で最初に提起し、修士、博士課程において主に研究、精錬を重ねたものです。
>また、高名な教授と議論をすることができますし、永井均先生等、第一線で活躍しておられる哲学者の方に直接触れる機会も多いです。
>最後に、これから哲学(ないしは哲学的思索)が社会において有効性を発揮する分野としては環境倫理学、生命倫理学があると思います
特に生命倫理に関しては京都大学の研究室では万能細胞を皮膚から作ることに世界で初めて成功しましたが、
このことによって生命倫理的なより精錬された議論が必要となると思われます
<<
あー、おまえは「永井均」ほんにんだろうwもしくは、せいぜいかんけいしゃとかしそうにかんかされたやつにしといてやるかwww
で、そういうせこいことで「じせつ」をせんでんするのやめないか?
おなにーなら「ぶろぐ」ですきなだけやればよろしい。
そこならすきなだけでんぱ「ゆんゆん」していいから。
ちょっとしらべてみたけど、ひでーな。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1140442849/l50 「永井均関係者=純一 ◆Fn0dptrDJw=精神病一歩手前」
「嫌だよ。功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない。」
142 :
考える名無しさん:2007/12/18(火) 03:59:18 0
>>141 貴方の馬鹿さかげんはよおくわかりました
143 :
考える名無しさん:2007/12/18(火) 10:37:20 0
144 :
考える名無しさん:2007/12/20(木) 13:10:50 0
嫌だよ
功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
145 :
考える名無しさん:2007/12/21(金) 21:50:37 0
564 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 01:11:20 0
>また、高名な教授と議論をすることができますし、永井均先生等、第一線で活躍しておられる哲学者の方に直接触れる機会も多いです。
ってどこかに書いてあったんですけど
永井均先生は第一線で活躍している高名な哲学者なのでしょうか?
評判は「主張が独断かつ眠すぎて最悪」「電波の発生源」らしいんですけど…
565 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 05:19:55 0
>>564 この板によく出没してますよ。
自身のスレ2つも立ててるし、きっと2chで限界突破してるんじゃないですか?
まあ、あの真理はまだ知らないんでしょうけど…
568 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 12:41:59 0
>>564 ああ、その人の思想は感動したとかいうキモオタと話したことあります。
そいつの脳を読んでみると、寄生獣に出てくるような幻獣がいっぱいいました。
どうも夢にたくさんの目玉が出てくるようです。
いつも何かの視線を感じるていてうなされてるといってました。
お気の毒なことです…
146 :
考える名無しさん:2007/12/21(金) 21:51:09 0
576 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 18:57:04 0
永井均は
日本大学文理学部哲学科倫理学教授永井均w
の肩書きを取れば
「主張が独断かつ眠すぎて最悪」「電波の発生源」
そのものなんじゃないか?
その辺のブログとかで電波出してる奴らと変わらんよw
少し哲学っぽい専門用語使ってるだけじゃないかな?
といっても大切な肩書きも「日大」だしw
577 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 19:11:53 0
永井均は
日本大学文理学部哲学科倫理学教授永井均w
の肩書きを取れば
永井均w
あっ
ぷっwww
582 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/21(金) 06:20:57 0
>>564 たしかに強力な電波の発生源であるよw
思うんだけどあの人のトリックに引っかかるのは頭が弱い証拠だろうなw
584 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/21(金) 13:49:46 0
トリック?
ああ、そりゃトリック明かしたら奴がかわいそうだなw
だって、
嫌だよ
功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
だしww
てか、奴はキモすぎるwww
147 :
低能の生態w:2007/12/21(金) 23:28:56 0
620 :考える名無しさん:2007/12/15(土) 04:48:53 0 ←www
>>449 無理しないで堵愚慧螺読めよ
148 :
考える名無しさん:2007/12/22(土) 08:25:06 0
A_A___A_A
,;';;;;;_-=・=-;;;;; -=・=-彡
\\ -=〓=- //
川出 ::::::⌒ ⌒ヽ
出川::::::::ー◎-◎-)
/⌒ ィ `◎´ )
! ,,,ノ爻-=・=-∵-=・= > ) 屁っ屁っ屁っ
( <_ \ヘ、, -=ニ=-rノ/ / いいかげん杜玖椀構造に気づいたらどうかね?
ヽ_ \ )ゝ、__,+、_ア〃 /
|.( 'ー-‐' ヽ. ー' |
ヽ. /(_,、_,)ヽ |
._|. / ___ .|
_/:|ヽ ノエェェエ> |
:::::::::::::ヽヽ ー--‐ /
::::::::::::::::ヽ \ ___/ヽ
149 :
考える名無しさん:
78 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/26(水) 07:30:18 0
>永井均先生等、第一線で活躍
このいたにあるかくかくのすれたいは、おまえのほんのたいとるそのまんまじゃんw
くだらん「ちょしょ」かいて「とんでも」「でんぱ」を「ゆんゆん」しなくてよろしい。
おまえの「〈私〉」しそうなどにきょうみねーよ。
サルがw
ウィキ:「永井均w=〈私〉=倫理=日大教授(文理)=トンデモらしいw」
* 『〈私〉のメタフィジックス』(勁草書房、1986年)
* 『〈魂〉に対する態度』(勁草書房, 1991年)
* 『ウィトゲンシュタイン入門』(筑摩書房[ちくま新書]、1995年)
* 『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』(ナカニシヤ出版、1995年)
* 『<子ども>のための哲学』(講談社[講談社現代新書]、1996年)
* 『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社、1997年)
* 『子どものための哲学対話――人間は遊ぶために生きている!』(講談社、1997年)
* 『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房、1998年)
* 『これがニーチェだ』(講談社[講談社現代新書]、1998年)
* 『マンガは哲学する』(講談社、2000年)
* 『転校生とブラック・ジャック――独在性をめぐるセミナー』(岩波書店、2001年)
* 『倫理とは何か――猫のアインジヒトの挑戦』(産業図書、2003年)
* 『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社[講談社現代新書]、2004年)