この作品は、聖書を逆に辿っていく物語らしい。
つまり、聖書は天地創造→アダムとイヴ→アベルとカイン
等と繋がっていくが、エヴァンゲリオンではこれを
逆に、アベルとカイン→アダムとイヴ→天地創造と
聖書を逆に辿る。これを理解するには、作者の世界観を
理解する必要がある。それを知るにはベークライトに包まれた
あのアダムを見るだけで十分だ。理科の教科書にも載っていた、
亀と蛙、メダカ、犬、猿等の幼生というか、胎生を見ても
分かる様に、胎児の状態では、人間の胎生と全く同じ姿、
つまり、ベークライトに包まれたあのアダムと同じ姿をしている。
ベークライトに包まれたあのアダムの様に、
要するに、蛙も亀も犬も猿も人もかつては同じ種の先祖から
分かれた、という事を意味する。
エヴァンゲリオンに通低している哲学とは実はこの
分かつ、という働きである。分かりにくいかもしれないが、
エヴァンゲリオンの作者は、この様に、人と猿、蛙や亀が、
かつては同じ種であったのに、それが時代と共に、
別の種へと進化し、それが別の個体となった時に争いが生じる、
エヴァンゲリオンの作者はこう考える。
つまり、こういう事だ。
実はエヴァンゲリオンの哲学とは、
人は何故争うのか?という問いに捧げられている。
↑の様な疑問に、エヴァンゲリオンの作者側はこう説明する。
あのベークライトに包まれたアダムの様に、
かつて、人は亀や蛙、犬や魚とまったく同じで、
そこには争う形跡は見当たらなかった、ところが、
お互い別となって分かれた為に、生命同士は食い、争う様になった、と。
そして、作者はこの分かつ、という働きを
ATフィールド等と呼び、それを人の人間関係にまで
拡大解釈する、つまり、人が争うには、まず、
人と人が種として、個体として分かれていなければならず、
逆に言えば、人が人として個体化した時に初めて、
人同士は争う事が可能になる、とね。
人類保管計画では、進化によって、
それぞれの、例えば、人、猿、犬、亀、蛙、魚等と、
(ATフィールドによって)分けられてしまった個体、
それはもちろん、人と人が分かり合えない隙間をも意味する。
そういうものを一気に埋めてしまう、という計画が
人類補完計画な訳だ。
つまり、生物が進化し、分化した種の壁(=ATフィールド)を
一気に人も猿も犬も亀も蛙も魚も、一回元の種の壁の無い
一つのものに還元してしまおう、という計画なのさ。
では、それを具体的にどうやってやるのか?
勿論、現実には無理だが、
エヴァンゲリオンでは、これを一種の幻想理論によって乗り越える。
つまり、聖書を逆に辿れば良いじゃん、という事だ。
聖書は天地創造をして、一個だったものを多へと導く、
そうする事で、まず、アダムとイヴで男と女の争いが
どう生まれたかを語り、アベルとカインで人殺しが何故生まれたのかを
分化しつつ語る訳だ。
これをセフィロト(カバラ)等を使い、逆に辿れば、
多は一となっていく、そうして多は最終的に一となる、
という訳だ。ゼーレなんかは、ここに単体の完全な生物としての
人間を目指し、他の人間は大体、人が個体として存在する事の
隙間を埋める為に、この人類補完計画を利用しようとした訳だ。
>>408 おれならこうやってやる
φ(*゚▽゚*)ψいただきまーす
面白いは使途という存在である。
実は第十三使徒?だったかな?カオル君ってのが、
ほぼ人間に近い姿なんだが、ちょっとだけ違い、
人間では無い訳だ。
で、カオル君によれば、実は
我々人間ってのは、カオル君の後に来る、
丁度十四番目?の使途である事が明らかとなる。
わからん?つまり、こういう事だ。
いままで、散々テレビシリーズでバカバカと倒してきた使徒ってのは、
実は人間の一種であって、遺伝的にちょっと違うだけだった訳だ。
そして、映画版では更に皮肉な作者の思想が見える、
つまり、今までテレビシリーズで倒してきた使徒ってのは、
一種の人間だった訳だ。
すると、今までジオフロントに責めてきた使徒ってのは、
人間の一種である訳だ。
ところが、劇場版では、十四番目?の使徒が実は我々
人間だった事が明らかとなる、
すると?そう、つまりここから本題の、
『人間(十四番目?の使徒)同士の争い』が描かれる事になるのだ。
人間同士の争い、その通り、作者が描きたかったのは、
実はこれだ、人は何故争うのか?→個体の壁(ATフィールド)があるからだ、とね。
そして、いつもは怪物の姿をした使徒しか責めてこないが、
劇場版では、我々人間は最後の使徒である事が判明したのだから、
無論、描かれるのはロボットと怪物の戦いでは無く、
人間(最後の使徒)と人間との殺し合いである。
だからこそ、最終的に軍がジオフロントを攻めてきて、
人同士の殺し合いが描かれる。
二号機も個体と個体の争いの象徴である、
食う、食われる、という方法で印象的に殺される訳だ。
そこで、作者は問う、何でこんな風になって生きてんだ?
意味あるのか?と、
そして、作者はこう問う、我々は分かれなければ争わなかったんじゃね?
ってね。
じゃあ、個体として壁(ATフィールド)を全部、
反転(アンチATフィールド)させて、聖書を逆転させて、
全部1個に戻してしまえば全部解決なの?って、
ここをシンジを使って、考えさせる。
そして、最終的に、シンジは全部が1個になったら楽だけど、
でも、何か違うと、個体でわかりあえなくても、
僕はもう一度、個体としてでも彼等に会いたいと思った、
それは本当だと思う、と言う。
で、最後に個体化の解消して、
全部を一にする事を拒否したシンジには、
他者としてのアスカがまた、争いの種として当然の事ながら
現れる、そこで映画は終わる。
あとは自分で考えろって訳さ。
作者はそういってるんだろうね。