552 :
し:2009/06/06(土) 23:34:53 O
黄檗宗ー三禅といわれ臨済宗と通じている。中国人隠元が開祖であり
553 :
外国人:2009/06/07(日) 00:30:25 0
長男は寺にいて戦いがないことに気づかなかった。
次男はいちはやく米沢にいって鶴岡へ移送された。
三男・・・
554 :
道元禅師 法然聖人 法華 市川亀次郎:2009/07/13(月) 20:57:26 O
ようやく到達だ。受け取れ。それが全員の親だ。完
555 :
にるば:2009/07/13(月) 21:03:49 O
ひそーひひそー
556 :
四ノ宮:2009/07/30(木) 03:29:57 O
降下するの意味わかるか?十二縁起のなかに涅槃と仏生がある。思った以上に縁はすべてに対している。地獄界の入り口は果報に向かって来る。
557 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 10:02:35 O
('A`)
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| ●|
∪ ∪
558 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 12:52:35 0
仏教の因果律に一念三千世界という観念がある。十如是、十界、三世間の
一念三千大世界。即ち十如是は時間の観念に相当する。相、性、体、力、
作、因、縁、果、報、本末究きょう等。もともと仏教の観念は空の観念で
相とはもともとの性質。この性質はそのまま社会構造といってもいい。
つまり人間でも物でもすべては経過して蓄積された地層がある。これが因果応報
によってすべての因になる。性質が体にやどりそれが物事を動かす力に
なる。ほっておいても石はいつか動く。動かぬ石は動く可能性を有して存在する。
時間の観念は急に物事が起こるというのではなくちゃんと経過した時間の
もとに起こるもので放置すれば物事の動きは遅れる。また悪い力は別に作用
していくものだ。社会構造は十如是というもともとの宇宙の始まりから
十界という段差ある社会構造へと変化しこの時間は経過を辿る。
559 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 12:57:46 0
天台宗の考え方だが空は無我。無我にはちゃんと相がある。それでもわだかまりのない心で
いることは難しい。経過は結局経過。無理してもしょうがない。多少無理にすべきところはあるが
560 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 13:06:46 0
浅田彰の構造と力ではピュシスとサンスがいかなる方向を取って
社会構造となるまでの説明と聖と俗のところに社会構造のそもそもの忌みがある。
つまりよごれについて相には濁点やよごれみたいなものはまとわりつく
識のはたらきにも汚れたマナスなるものが言われるが平安時代のよごれ
室町時代の穢れ、江戸時代の中期あたりからの権力構造。赤穂浪士や雲や鬼
もちゃんと社会構造に組み込まれている。それを無視してきれいなオフィスで
仕事はなかなかないのだ。疲れる
561 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 18:37:27 O
どうにかしたい。肌荒れもどうにかしたい。
562 :
考える名無しさん:2009/08/14(金) 01:36:25 O
('A`)
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| ●|
∪ ∪
563 :
考える名無しさん:2009/09/30(水) 14:53:26 O
(^∀^)ノ
まんこ痛い
565 :
し:2009/10/03(土) 12:00:43 0
融通念仏宗は華厳経と法華経を正依と旁依においている。
空の概念はものごとの連続性を示していて色は空に異ならず
空は色に異ならない。つまりは空は常に終わりなく続くものごとの
地続きを言う。つまりは終わりがあるようでものごとには終わりはない。
社会の構造が混乱をきたしたときにそれが終息することはああるが
それは空の概念からすれば前の続きの静けさに過ぎない。空は色
つまりはものごとには生気があり地続きは常に色がある。
ここから巨編である華厳経と法華経が始まる
566 :
し:2009/10/03(土) 12:11:18 0
つまりは意識の上では終わりはあっても
すべては空の地続きにありものごとの終わりはなく
終わりなく常に続く状態を色としてみる。
法華経は物語と十如是(時間と因果)と十界で成り立つ。
華厳経は物語とものごとの成り立ちの美しさの論を示す。
567 :
考える名無しさん:2009/10/03(土) 19:28:50 0
聖徳太子が飛鳥から三論、倶舎、成実、法相宗、華厳、律の南都六宗を
招いたときに伝来した華厳宗が残っている。東大寺、興福寺、薬師寺などの
寺も立てられた。
全てを知る(認識する)
時間を超越した自我の状態
そこでは涅槃は語られず、涅槃は言葉として在るのみ。
理は言葉に、言葉は虚無に、虚無は涅槃に還る。
人間は本来そうして始まるものだね。
涅槃に立ってから、生きるに歩む。
570 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 08:55:56 0
571 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 15:42:08 0
この世は、「諸行無常」で、実体は無い。「諸法無我」。そして
「一切皆苦」。しかし、悟れば「涅槃寂静」。
其処までは、単純には行けない。
573 :
あめのみやつこ:2010/02/11(木) 08:32:50 0
今死ねたらどんなにいいだろう?
ただ死ぬときはどんな死に方をしても痛い。
一度生を手放すと駄目だな。寝るときに思う。
ああもうこれで終わりなんだと・・・・
574 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 01:07:09 0
575 :
考える名無しさん:2010/04/05(月) 16:51:36 O
私には何もない。私には何もないのだ。だから私は貴方に何も与えることはできない。与えるどころか何かを奪いたい気持ちになるかもしれないのだ。嗚呼ダルマのなかで私はニルバーナに至ることが私にはないのだ。
576 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 14:28:06 O
生きながらえて夜明けをみる
577 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 14:55:43 O
ガンタンク
578 :
考える名無しさん:2010/06/16(水) 04:14:33 O
さあまた夜が明けるが今日は陽がでない
579 :
考える名無しさん:2010/06/17(木) 03:32:09 O
雲がない。ふたたび陽は昇るだろう
580 :
考える名無しさん:2010/06/19(土) 04:33:30 O
雨で太陽がでませんね
581 :
し:2010/06/20(日) 04:26:40 O
ライジングサン
582 :
やみつき:2010/06/20(日) 19:47:38 O
結局陽がでない。
583 :
し:2010/06/26(土) 05:04:01 O
また朝に陽が昇らぬのか
584 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 04:23:23 O
さあ今日も夜が明けますよ。今日は陽がでそう
585 :
考える名無しさん:2010/07/01(木) 21:19:28 0
おれは自己の考えを通して世界を再構築している。
おれはおれから出ることができない。
おれはおまえを見ておれの考えを知る。
586 :
やみつき:2010/07/04(日) 05:44:16 O
さあ晴れの日だ
587 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 04:54:23 O
悩み大き夜明け
588 :
考える名無しさん:2010/07/14(水) 05:54:04 O
アングリマーラよよく見るがいい。本質は元来悪である。人間はその中心に悪を抱えているのだ。その悪は果物の実と同じである。そのことをよく考えるのだ。その本質の意味するところははじめは美しく甘い実なのだ。よく見るがいい
589 :
考える名無しさん:2010/07/14(水) 06:11:16 O
仏陀が鳥が羽を広げたように手をゆっくりと広げ鳥と同じように風に逆らわずによく自然な動作で手を仰ぐと陽が現れあまねくすべての万物を照らした。そうして仏陀はゆっくりとまた話はじめた
590 :
考える名無しさん:2010/07/14(水) 06:20:37 O
アングリマーラよ陽は美しい。そして果実は美しい。そして人間の本質は美しい。仏陀よよくあなたの言うことはわかる。そうその通りだ。しかしあなたは私の悪を見ている。私の抱えている悪を。そう私は果実の甘い部分ともうひとつ黒いものを抱えている。
アングリマーラよ美というものが人間の本質であるのと同等に悪というものも人間の本質なのだ。人生とは本来甘美である。しかし同時に黒い陰も落とす。悪というものを今から語ろうアングリマーラよ。そうすることが必要なのだ
すべての実体あるものはすべてその内部で変化し成長する。そういった意味で鳥も植物も同じつまりは清んだところを通って生成していくのだ。生成は美であるのだアングリマーラよ
そして生成と相反する要素は死に絶え腐っていくことである。それこそが悪の根源である
ひとつのところに腐って落ち生成されずにまま密閉され異臭を放つもを私は悪と呼びたくはない。しかし静止し生成の円環を拒否する精神や内部は腐る。そしてそれは摂理である
アングリマーラよ私はそれを拒否しない。悪は生成を拒否し静止しているのだ。私はそれを知っている。そして私はいつでも生成の精神である
仏陀よ。あなたはそれを拒否しない。あなたは山から森を通って最上の飲み水になり涌き出す水のごとくまた鳥が空を飛ぶときに受け入れた自分の生成のように覚りを開いた。しかしあなたは地獄に下りたち悪をも見ようというのか?その必要が何故あるのか?
悪との縁起をもつことは私のカルマによるものだ。私には実体によるはじめから創始され生成された実体を梵からわかりカルマをともなう実体とそれをとりまくすべての世界(層)に立脚し自然と法に関係する必要がある
清らかな湧き水はすべて生成の摂理のままに雨が山に降り山から森を通って小川に流れ生成したものである。そして清らかではない水がどこかに止まり泥にまみれてもそれが摂理なのだ
汚水が溜まることが摂理なら、その汚水の浄化を食い止めることも摂理だ。
もっとも、これらは実際には「摂理」ではなく人間自身の恣意でしかないが。
汚水が溜まることが摂理なら、その汚水の浄化を試みることも摂理だ。
もっとも、これらは実際には「摂理」ではなく人間自身の恣意でしかないが。
まじで人間馬鹿ばっかりで、やり取りするのもくだらない。
こいつら5分先の気分を回復できたら5分後も生きてる自動生命維持装置でしかないだろ。