荘厳さと難解さは違うんですな。もちろん平易さとも。
文章の内容に合った臨機応変の対処を。
503 :
考える名無しさん:2008/11/22(土) 19:53:09 0
[569] 以下の一連の投稿文に、私の考えを書きます。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/05/31(Thu) 05:30:06
私たちは、「研究者」などで食べて、生きているのではありません。そういう気取りが、今後、
どれぐらい、学問道場を、重苦しくするか、と思いまして、こういう、日本国での学問の
やりかたの基本の点は、決して、大きく間違わないように、私が、徹底的に今のうちから、
目を光らせようとおもいます。
大事なことは、日々、読書して、そして、それが楽しくて、発見があって、「ああ、そうだったのか」
「なるほどなあ」と、驚く喜びに満ちていることです。それ以外の学問は邪道だ。自分たちだけ
偉いお坊様だと気取って、哀れなことに信じ込んだ、天台密教のクソ坊主たち、新カント学を
名乗って、アホダラ経の、自分たちにも意味不明のことを書き続けた、東大のクソ学者たちの
やったことだ。 私たちは、あの悲惨な轍(てつ)は、絶対に踏まない。
釈迦は王子なのに実力主義者だろ。
そもそもバラモンを勝手に再定義してしまう釈迦が裏切り者なのだ。
仏教もあくまで一種の社会学だ。
それもカースト制っていう、最大級の格差社会で生まれた。
社会を十分に傍観的に研究するために釈迦も出家をした。
社会の内側で研究してる内は、どうしたって少なからず
自分自身の利益を考えてしまう。自分の利益よりも他人の利益を
第一に考えるという、普通の社会人とは逆の立場にあえて
身を置き、そういう自分と普通の社会人との関係性によって
社会全体の均衡を保つ、絶対的傍観者であるが故の特殊な
社会的立場までも考慮に入れている、そこまで配慮している。
決してただの厭世には留まらない、最大級の厭世からまた
社会への配慮に戻っている、鎮護国家という余裕すらある。
国家主義を超えた厭世主義であるがために、余裕としてまた
国家までも包含してしまう、そこまで行って初めて真の仏陀となる。
「仏陀である」という自覚があるのなら、
おそらくそれは「キリストではない」という自覚と同義となる。
社会を十分に傍観する立場に立つのが仏陀なら、
社会をそのまま自分自身に内包してしまうのがキリスト。
自意識が社会と一致するか、もしくは社会以上の大きさとなる、
社会は自分であり、自分が社会だから、自分がやっていいと
思うことは何でも社会で許されるという極大の自意識過剰。
自分が許せることが何一つ社会では許されないからこそ
社会の外側に出てしまう、そこでまた社会を見詰め直す
仏陀とは真逆の存在。
【キリ(社会)スト】 ⇔ 【仏陀】 (社会)
仮に仏陀もキリストもいるというのなら、仲良しなどは絶対無理、
一つの社会を巡った場合の天敵同士になるだろう。
仏陀はおそらく実在したし、仮に実在しなかったとしても
仏教徒が涅槃と呼ぶような状態は実在しても何もおかしくない。
一方で、キリストはおそらく実在しなかったし、仮に実在しても
キリスト教徒が復活と呼んでいるような死者の蘇生は
実在しない。キリストも普通に長生きして死んだだけ。
イスラム教徒含む、非聖書圏の人間のほぼ一致した見解。
ただ聖書圏の人間だけが、
>>493を見ても分かるように
仏陀の実在を信じつつ、さらにキリストの実在までも信じる。
くそを信じずみそだけを信じるのと、みそもくそも信じる分かれ目。
信仰を健全な範囲内に留めるのと、何もかもを信じ込む白痴、
迷信までも完全に容認してしまったのの分かれ目。
508 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 23:26:43 O
地球はあと20億年かかる。
509 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 04:05:22 0
www
510 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 04:38:52 0
あ
511 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 05:07:56 0
え
512 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/12/03(水) 12:03:24 0
>>507 あなたは幻術を理解するまで何年かかりますかね?
800年
あなた方が私並みに迷信を捨て去るのにかかる年月と同じです。
とりあえずスプーン曲げ(精神コントロールを応用するほう)から練習した方がいいんじゃね?
迷信は、精神的に苦痛なんで、いらーん
いらんといってもそれを少しでも拠り所にしている以上、無くせないだろう
なくなったらこまるのだから
それは、スプーン曲げができるようになるには十分な精神コントロールが必要であるのと似ている
精神コントロールもおぼつかないのに金属を自由に曲げれる力だけ得たら生活に支障がでるから
生物というのは段階をふむようにできているようだ
少しずつ、迷信に頼らない楽な精神性に成長すればよろしい。
それこそ世代を踏んで、本当に800年かけてでもいいから、
進んで火に飛び込むウサギから、犬猫ぐらいまで進化する。
そこにこそ、楽に開けた真の浄土がある。いくら拡充した所で、
天国や煉獄もどきの地獄でしかない領域とは全くの別物の。
518 :
考える名無しさん:2008/12/17(水) 13:43:35 0
人間界の上が神界でこれは一応連続性があることになってるけど、
すると仏界は全く違う第三(第二の)の世界だといえるんだろうけど、
道元とかも仏道修行も終わりはないと言ってるから結局輪廻から逃れられない気がするが。
519 :
し:2009/01/03(土) 00:29:02 O
いいか?仏陀が菩提樹の下にいると何人かの縁がある人が順に来たそうだ。縁が縁を呼び光から闇に良い人から悪魔に縁が繋がったそうだ。良いことの後に悪いことが悪いことの後に良いことがあるのは何故か?
520 :
考える名無しさん:2009/01/03(土) 00:53:55 O
まあいいや仏陀は自然の産物だ。そもそも自と他は違う。違うが差異があり同じだ。だから歴史はすべて自と他から哲学から入っている。それから認識が先行したのは良くない。良くないが数学が発達して否応なしに悪いことが頭でされてる
521 :
考える名無しさん:2009/01/03(土) 01:57:44 0
確かに科学がもたらした物は大いに肯定できるようなもんじゃないけど
物理?や数学が悪って決めつけるのもどうかと。数学や物理学は一つの認識であって、
それがどう発展しようと神仏は気にも留めてないだろうしそれで簡単に宇宙が分かるわけでもない。
つまりこの世の現象は(全くとはいわないが)認識とはほとんど隔絶されて無関係に動く。
だから数学の発展とかお構いなく哲学は哲学でやっていけばいいと思うんだけどな。
522 :
し:2009/01/03(土) 07:26:47 O
北宋・五胡十六国時代・南宋・元・明←ここ・清
523 :
考える名無しさん:2009/01/31(土) 00:06:41 0
科学者は宗教をバカにしたりするが、真っ当な宗教家は科学をバカにしたりしない。
これだけでもう、科学者のほうが不誠実で、真っ当な宗教家のほうが誠実だって分かる。
科学は人間性を司ったりはしない。人間性を司っているのはあくまで宗教だったり道徳だったり。
宗教や道徳をバカにして反故にするんなら、人間としてはただの犯罪主義者にしかならない。
その人間自身の科学や哲学の修得度とはまた別のものとしてある、人間性の善し悪し。
524 :
考える名無しさん:2009/01/31(土) 23:02:26 0
一口に宗教と言っても、現代日本の巷に溢れてるような
オカルトまがいなやつとか、自己啓発的な新興宗教とかを宗教と
言っていいのかはかなり懐疑的
真っ当な宗教か、カルトかの違い。
道徳のための宗教や宗教のための道徳であるか、
犯罪のための宗教や宗教のための犯罪であるか。
道徳のドミノ倒しを促すか、犯罪のドミノ倒しを促すか、
天と地どころか、天と地中ほどの落差を両者間に与える。
526 :
考える名無しさん:2009/02/04(水) 23:22:31 0
科学者や法律家であるが故に偉いということは、
お坊さんやお侍さんであるが故に偉いということを決して上回らない。
数学的帰納法によるプラスマイナスゼロ、罪と罰のマッチポンプ、
いつだって人間としての実体性や実在性に沿わない概念の処理ばかりに奔走し、
一概に善良な人間性を追い求めようとする努力などをしたことはない。
紛う方なき実体性や実在性に基づいている人間の、善良さの真理(善智識)や
道徳こそを積極的に追い求めてきた僧侶や武士などに比べれば、
人間としての偉大さは幼稚園児と大人ほどの差にまで開ききっている。
科学や法律を「悪用せずに善用する」という、一概な姿勢を保てない限り
科学者や法律家が僧侶や武士並みに偉くなるなんてことは絶対無理だが、
現状では何でもアリな概念遊びの塊りでしかない科学理論や実定法から、
真に実体や実在である人間にとって有用かつ善良であるものだけを
抽出する作業が必要となり、それはいま科学者や法律家が自分たちの
職務をこなす上で全く義務とも嗜好ともしてないところ。
人間にとっての善智識や道徳に基づいてのみ科学や法律を活用する、
怠ってきたが故にこそ無駄に概念ばかりが拡張されてきた所もあるから、
概念の拡張以上の善用と悪用の取捨選択こそがいま求められている。
527 :
考える名無しさん:2009/02/26(木) 22:09:39 0
涅槃って「悟り」と混同されてる場合が多いようだが、釈迦入滅が涅槃だぜ?
悟りを開くことは「成道」。華厳時の悟り。法華涅槃時の入滅。
前者が有余涅槃で後者が無余涅槃とも。
成道か有余涅槃とちゃんと言わなけりゃ、カートコバーンの自殺あたり
とまでごちゃ混ぜになってしまう。ちゃんと悟りを大成する青年期の釈迦。
こちらを追い求めている人間のほうが遥かに多い、現世利益の時代の実質。
528 :
NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/02/27(金) 00:21:47 0
ヤコブの手紙4.4
神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。
世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵となるのです。
529 :
考える名無しさん:2009/02/27(金) 00:22:06 0
うん、オウム真理教の入信者たちも、
「現世で最終解脱を目指したいと思います」って
選手宣誓みたいに宣言してたよね。
530 :
考える名無しさん:2009/02/27(金) 00:28:26 0
「数学的帰納法によるプラスマイナスゼロ」って何だ?
わけ分からん。
釈迦の場合、成道から涅槃まで45年。無理な布教をしなけりゃあと20年は生きられたとも。
悟りを得ることは、長生きで真っ当な人生を送る要でこそあるのであって、
早死にしたり犯罪したりは全く悟りの本質に背いている。
道元や日蓮がいくら峻厳で突出した教義を示そうとも、5,60歳で死んじまったんじゃあ
8,90歳まで生きた法然や親鸞に支持率で負けるのも仕方がない。
いくら教義が緩かろうが、釈迦の生き様を体得してるのはこっちだから。
532 :
考える名無しさん:2009/03/02(月) 02:39:54 O
カトゥマンズの僧侶に会いに行くか?ミスティックリバー〜深い河
533 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 14:38:49 O
アングリマーラよよく見るが良い
534 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 20:32:22 0
[850] 自画像を描くチェンマイの象の映像です。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2008/04/20(Sun) 06:18:47
副島隆彦から
私も、このチェンマイの象が描く絵に感動しました。
仕付けたらこれぐらいは出来る、ということなのか、それとも、高等動物はこれぐらいの正確な外界認識をもともと
しているものなのか、と自問します。動物行動学(本当は、社会生物学、ソシオ・バイオロジー)の研究者たちが、
実験観察用に飼い慣らしているチンパンジーやゴリラでもこれほどの描写能力は無いでしょう。
私は、人間は、犬猫などの動物よりも劣る愚かな生物である、という、山本夏彦(やまもとなつひこ)翁の思想に
影響されて、ずっと30年ぐらい、そのように考えてきた人間ですから、さらにこの考えを深くします。
人間は、狂った猿である、と本当に思います。動物には、芸能人も、スポーツ選手も、政治家も、王様も、税金
取りも、官僚もいません。
動物は無益な争いはしません。餌を取る為にしか他の動物を殺しません。生活環境の改善と「生命の再生産」
( reproduction of life リプロダクション・オブ・ライフ、子育て、種の繁栄)以外のことには熱中しません。
スタジアムに集まって数万人で観戦や芸能に酔いしれるというような馬鹿なこともしません。
人間が持つ愚か極まりない、共同幻想(=集合的な無意識、イデオロギーや宗教などもこれ ) がありません。
西欧人は、近代(モダン Modern )が、はじまった今から丁度500年前から、「狂気としての人類の近代」を
生きざるを得なくなったのだと、私は判定しています。やめておけばいいのに自己の存在の理由を問いただしはじめた。
535 :
涅槃:2009/04/10(金) 03:11:23 O
蓄積されたものというものは時間の経過がないと解消されない。だから怖いし一筋縄ではいかないのです。起きてしまったものは止めようがない。それから皆苦しみの中に目的がある。慎重にいかないと全部がいい平らかな道はないのですよ
根本的な方向性が、人類の繁栄ではない破滅という反対方向に
振れ切っているんで、ちょっとやそっとの方向修正ではどうにも。
537 :
考える名無しさん:2009/04/10(金) 10:34:04 0
ピンポイントに破滅に向かっているからこそ辛く苦しいんだよ。
人類という存在性にとって、厳密に間違いきっている存在性(共食い)だけを
わざわざ特別な追求対象としているからこそ辛く苦しい。
間違いきってはいない限りでの存在性の追及であればちっとも苦しくなく、
3000年以上前からそれはそれで追求されているんだが、あまり重視されない。
本物の真理の追究なんかよりも、間違いきっているが故の狂乱のほうに
心を奪われて、すでにある真理すらも見えなくなってしまっている。
538 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 21:20:45 0
無限に柔らかい、無限量の綿の中に、
どこまでも限り無く沈み込んでいく感じ。
早い話がリラックス。どこまでも限り無い。
539 :
考える名無しさん:2009/05/28(木) 22:09:34 0
栄西−空海−華厳経
一遍−融通念仏宗−日蓮―最澄−浄土宗法然−キリシタン−浄土真宗−
わたしが来たのは地上に剣をもたらすためだ、と思ってはならない。
剣ではなく、便器をもたらすために来たのだ by キリスト
541 :
考える名無しさん:2009/05/29(金) 22:19:45 0
実はもう、キリストなんてちっとも信じちゃいないくせに。
ただ信仰破棄に伴う罪や責任の受け入れが怖いだけのくせに。
信仰のフリした信仰ごっこ。宗教のフリした宗教ごっこ。
本物の信教からすりゃ甚だ迷惑なだけの。
542 :
考える名無しさん:2009/05/30(土) 06:42:23 O
殺害にいたる論理に精通しているのが法然と親鸞それから日蓮だが現代の日蓮宗はようやくいくつかの問題を脱したようだ。浄土宗は純粋善で禅宗に至る
543 :
考える名無しさん:2009/05/30(土) 06:55:03 0
昔から坂の問題はあったようだが一遍のひじりは遊行−楽にすることだ。
一遍にも迷いはあったが夜明け前苦行をやめて遊行に移ってから民衆がついて
きた。では苦行とは何かということになる。楽か苦か?善か非か?
544 :
考える名無しさん:2009/05/30(土) 08:25:59 O
まあ熊野速玉大社ですよつまるところ
嫌がらせじゃない。禅も臨済宗禅は坐禅苦行したあとに楽な姿勢をとらせる。曹洞宗は基本的に現在苦行は自然に反するかを今迷っている元来は苦行。
546 :
考える名無しさん:2009/05/30(土) 10:46:28 0
富貴にも苦行にも偏らない中道を釈迦が説いたにも関わらず浄土門以外の
仏教宗派が苦行を行うのは、華厳経などを拠り所にしている場合が多い。
高い崖から飛び降りるような苦行もあれば、錬金術まがいの利殖行為もあり、
売春もあり、喉に溶けた鉄を流し込むような重罰の描写もある。
それら全ての重々無尽の縁起を踏まえつつ、普賢菩薩の導きによって
最後には最高の悟りの境地へと至る善財童子。全く富貴にも苦行にも偏らず
ど真ん中だけを保ち続けるんなら、別に儒家の中庸であってもいい。
そうではなく、一応は富貴と苦行の両極端に到達し、森羅万象の縁起を
確かめてからまた中正に戻ることで仏教独特の中道が確立される。
何ものをも知り尽くしてしかも囚われぬ、開いて結ぶ戯れの妙技がある。
547 :
考える名無しさん:2009/05/30(土) 13:48:01 0
548 :
考える名無しさん:2009/05/30(土) 16:13:07 0
釈迦が誕生直後に発したとされる言葉「天上天下唯我独尊」、
生まれた直後ってのは冗談にしろ、「真俗二諦」への潜在的な達観を
述べた言葉としては、驚愕に値する意義を持っている。
真諦を表す「天上」、俗諦を表す「天下」、今風に言えば「宇宙」と「地球」。
宇宙の真理を体得して、地球上の公共性にも沿った見解を持つ。
2500年前のインド・ネパール国境付近で生まれた王族の子供が
すでにその段階に値する識見を会得していたとする頼もしさ。
そこを目指しているのではなく、そこから仏教は始まっているし、
俗諦だけなら同時期に中国で生まれた儒教などもそこから始めている。
宇宙の真理と地球上の公共性との、極端な誤りのない範囲での追求を
現世界人口の半数程度にも値する地域で競争させてきた系統としての価値。
大間違いの価値観こそを増殖させてきた人類の1/3(イスラムは含まない)
を屈服させて支配下においたとて、自分たちのほうがすでに多数派なので
闇雲に利益を貪り取ろうだなんて妄念は生まれ得ない。正しい識見の
持ち主こそは、悪いことをし続けるだけの少数派としての猶予も持たない。
個々の国としてではなく、仏教圏や儒教圏としての非アブラハム教圏が
全体的に天上天下唯我独尊であり、故にこそ慈しみを以て外界にも接する。
549 :
考える名無しさん:2009/06/06(土) 00:17:01 0
仏教6道輪廻 地獄 餓鬼 畜生 修羅 人 天のうち
地獄は甘くさい血のにおい、餓鬼は貧しさ、畜生
日本13宗の宗派にはそれぞれ問題への知恵がある。
日本人のカルマはすべて仏教とキリシタンに入っているといっていい。
一遍からが曹洞宗との対峙になるが楽が苦になる前提が出てきた。
駆け込み寺といえば日蓮宗と臨済宗、曹洞宗。
北海道問題がこちらに移行している。
競輪競馬は中国絡みで日蓮宗より曹洞宗に因っている。
曹洞宗の原理が果たしていいのかという言説になってくる。
キリシタンなど、創価学会と同程度の扱いだ。
仏教全体と比肩させるほどのもんでもない。
地獄餓鬼畜生の三悪趣しか知らないカルト。
ウチの親戚に、ちょっとヤバめのおばさんがいて、
酒が回ると神様がどうだ、聖書がどうだとイっちゃった目で語るんだが、
友人に誘われたかなんかして、アムウェイの販促に凝り始めて、
鍋やら洗剤やらを買わされたりもしたんだが(鍋は数年で把手が駄目になった)、
「まあ、キリスト教とかに入るよりはマシだよねえ」と噂してたもんだ。
こんなもんだ、大体の日本人のキリスト教観ってのは。アムウェイ以下。
オウム事件も創価やキリシタンみたいなカルトにとってこそ響き、
普通の神道や仏教には何の関係もない。完全に断絶している信頼の壁。
正統宗教とカルト宗教の間。浄土真宗以上とアムウェイ以下の間。
552 :
し:2009/06/06(土) 23:34:53 O
黄檗宗ー三禅といわれ臨済宗と通じている。中国人隠元が開祖であり
553 :
外国人:2009/06/07(日) 00:30:25 0
長男は寺にいて戦いがないことに気づかなかった。
次男はいちはやく米沢にいって鶴岡へ移送された。
三男・・・
554 :
道元禅師 法然聖人 法華 市川亀次郎:2009/07/13(月) 20:57:26 O
ようやく到達だ。受け取れ。それが全員の親だ。完
555 :
にるば:2009/07/13(月) 21:03:49 O
ひそーひひそー
556 :
四ノ宮:2009/07/30(木) 03:29:57 O
降下するの意味わかるか?十二縁起のなかに涅槃と仏生がある。思った以上に縁はすべてに対している。地獄界の入り口は果報に向かって来る。
557 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 10:02:35 O
('A`)
(| |)
| ●|
∪ ∪
558 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 12:52:35 0
仏教の因果律に一念三千世界という観念がある。十如是、十界、三世間の
一念三千大世界。即ち十如是は時間の観念に相当する。相、性、体、力、
作、因、縁、果、報、本末究きょう等。もともと仏教の観念は空の観念で
相とはもともとの性質。この性質はそのまま社会構造といってもいい。
つまり人間でも物でもすべては経過して蓄積された地層がある。これが因果応報
によってすべての因になる。性質が体にやどりそれが物事を動かす力に
なる。ほっておいても石はいつか動く。動かぬ石は動く可能性を有して存在する。
時間の観念は急に物事が起こるというのではなくちゃんと経過した時間の
もとに起こるもので放置すれば物事の動きは遅れる。また悪い力は別に作用
していくものだ。社会構造は十如是というもともとの宇宙の始まりから
十界という段差ある社会構造へと変化しこの時間は経過を辿る。
559 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 12:57:46 0
天台宗の考え方だが空は無我。無我にはちゃんと相がある。それでもわだかまりのない心で
いることは難しい。経過は結局経過。無理してもしょうがない。多少無理にすべきところはあるが
560 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 13:06:46 0
浅田彰の構造と力ではピュシスとサンスがいかなる方向を取って
社会構造となるまでの説明と聖と俗のところに社会構造のそもそもの忌みがある。
つまりよごれについて相には濁点やよごれみたいなものはまとわりつく
識のはたらきにも汚れたマナスなるものが言われるが平安時代のよごれ
室町時代の穢れ、江戸時代の中期あたりからの権力構造。赤穂浪士や雲や鬼
もちゃんと社会構造に組み込まれている。それを無視してきれいなオフィスで
仕事はなかなかないのだ。疲れる
561 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 18:37:27 O
どうにかしたい。肌荒れもどうにかしたい。
562 :
考える名無しさん:2009/08/14(金) 01:36:25 O
('A`)
(| |)
| ●|
∪ ∪
563 :
考える名無しさん:2009/09/30(水) 14:53:26 O
(^∀^)ノ
まんこ痛い
565 :
し:2009/10/03(土) 12:00:43 0
融通念仏宗は華厳経と法華経を正依と旁依においている。
空の概念はものごとの連続性を示していて色は空に異ならず
空は色に異ならない。つまりは空は常に終わりなく続くものごとの
地続きを言う。つまりは終わりがあるようでものごとには終わりはない。
社会の構造が混乱をきたしたときにそれが終息することはああるが
それは空の概念からすれば前の続きの静けさに過ぎない。空は色
つまりはものごとには生気があり地続きは常に色がある。
ここから巨編である華厳経と法華経が始まる
566 :
し:2009/10/03(土) 12:11:18 0
つまりは意識の上では終わりはあっても
すべては空の地続きにありものごとの終わりはなく
終わりなく常に続く状態を色としてみる。
法華経は物語と十如是(時間と因果)と十界で成り立つ。
華厳経は物語とものごとの成り立ちの美しさの論を示す。
567 :
考える名無しさん:2009/10/03(土) 19:28:50 0
聖徳太子が飛鳥から三論、倶舎、成実、法相宗、華厳、律の南都六宗を
招いたときに伝来した華厳宗が残っている。東大寺、興福寺、薬師寺などの
寺も立てられた。
全てを知る(認識する)
時間を超越した自我の状態
そこでは涅槃は語られず、涅槃は言葉として在るのみ。
理は言葉に、言葉は虚無に、虚無は涅槃に還る。
人間は本来そうして始まるものだね。
涅槃に立ってから、生きるに歩む。
570 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 08:55:56 0
571 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 15:42:08 0
この世は、「諸行無常」で、実体は無い。「諸法無我」。そして
「一切皆苦」。しかし、悟れば「涅槃寂静」。
其処までは、単純には行けない。
573 :
あめのみやつこ:2010/02/11(木) 08:32:50 0
今死ねたらどんなにいいだろう?
ただ死ぬときはどんな死に方をしても痛い。
一度生を手放すと駄目だな。寝るときに思う。
ああもうこれで終わりなんだと・・・・
574 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 01:07:09 0
575 :
考える名無しさん:2010/04/05(月) 16:51:36 O
私には何もない。私には何もないのだ。だから私は貴方に何も与えることはできない。与えるどころか何かを奪いたい気持ちになるかもしれないのだ。嗚呼ダルマのなかで私はニルバーナに至ることが私にはないのだ。
576 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 14:28:06 O
生きながらえて夜明けをみる
577 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 14:55:43 O
ガンタンク
578 :
考える名無しさん:2010/06/16(水) 04:14:33 O
さあまた夜が明けるが今日は陽がでない
579 :
考える名無しさん:2010/06/17(木) 03:32:09 O
雲がない。ふたたび陽は昇るだろう
580 :
考える名無しさん:2010/06/19(土) 04:33:30 O
雨で太陽がでませんね
581 :
し:2010/06/20(日) 04:26:40 O
ライジングサン
582 :
やみつき:2010/06/20(日) 19:47:38 O
結局陽がでない。
583 :
し:2010/06/26(土) 05:04:01 O
また朝に陽が昇らぬのか
584 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 04:23:23 O
さあ今日も夜が明けますよ。今日は陽がでそう
585 :
考える名無しさん:2010/07/01(木) 21:19:28 0
おれは自己の考えを通して世界を再構築している。
おれはおれから出ることができない。
おれはおまえを見ておれの考えを知る。
586 :
やみつき:2010/07/04(日) 05:44:16 O
さあ晴れの日だ
587 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 04:54:23 O
悩み大き夜明け
588 :
考える名無しさん:2010/07/14(水) 05:54:04 O
アングリマーラよよく見るがいい。本質は元来悪である。人間はその中心に悪を抱えているのだ。その悪は果物の実と同じである。そのことをよく考えるのだ。その本質の意味するところははじめは美しく甘い実なのだ。よく見るがいい
589 :
考える名無しさん:2010/07/14(水) 06:11:16 O
仏陀が鳥が羽を広げたように手をゆっくりと広げ鳥と同じように風に逆らわずによく自然な動作で手を仰ぐと陽が現れあまねくすべての万物を照らした。そうして仏陀はゆっくりとまた話はじめた
590 :
考える名無しさん:2010/07/14(水) 06:20:37 O
アングリマーラよ陽は美しい。そして果実は美しい。そして人間の本質は美しい。仏陀よよくあなたの言うことはわかる。そうその通りだ。しかしあなたは私の悪を見ている。私の抱えている悪を。そう私は果実の甘い部分ともうひとつ黒いものを抱えている。
アングリマーラよ美というものが人間の本質であるのと同等に悪というものも人間の本質なのだ。人生とは本来甘美である。しかし同時に黒い陰も落とす。悪というものを今から語ろうアングリマーラよ。そうすることが必要なのだ
すべての実体あるものはすべてその内部で変化し成長する。そういった意味で鳥も植物も同じつまりは清んだところを通って生成していくのだ。生成は美であるのだアングリマーラよ
そして生成と相反する要素は死に絶え腐っていくことである。それこそが悪の根源である
ひとつのところに腐って落ち生成されずにまま密閉され異臭を放つもを私は悪と呼びたくはない。しかし静止し生成の円環を拒否する精神や内部は腐る。そしてそれは摂理である
アングリマーラよ私はそれを拒否しない。悪は生成を拒否し静止しているのだ。私はそれを知っている。そして私はいつでも生成の精神である
仏陀よ。あなたはそれを拒否しない。あなたは山から森を通って最上の飲み水になり涌き出す水のごとくまた鳥が空を飛ぶときに受け入れた自分の生成のように覚りを開いた。しかしあなたは地獄に下りたち悪をも見ようというのか?その必要が何故あるのか?
悪との縁起をもつことは私のカルマによるものだ。私には実体によるはじめから創始され生成された実体を梵からわかりカルマをともなう実体とそれをとりまくすべての世界(層)に立脚し自然と法に関係する必要がある
清らかな湧き水はすべて生成の摂理のままに雨が山に降り山から森を通って小川に流れ生成したものである。そして清らかではない水がどこかに止まり泥にまみれてもそれが摂理なのだ
汚水が溜まることが摂理なら、その汚水の浄化を食い止めることも摂理だ。
もっとも、これらは実際には「摂理」ではなく人間自身の恣意でしかないが。
汚水が溜まることが摂理なら、その汚水の浄化を試みることも摂理だ。
もっとも、これらは実際には「摂理」ではなく人間自身の恣意でしかないが。
まじで人間馬鹿ばっかりで、やり取りするのもくだらない。
こいつら5分先の気分を回復できたら5分後も生きてる自動生命維持装置でしかないだろ。