1 :
A:
もともと日本語の文脈における愛は、仏教用語からきたものであり、愛別離苦の1を占める煩悩の意味であった。
近代に入り、西洋から新しい意味が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシャ的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、混乱の中から、現在の複雑な愛の意味が作られてきた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B
3 :
考える名無しさん:2005/09/24(土) 09:27:31
愛と言う気持ちは言葉で言うからわかるものじゃないのか
おさーるさーんだよー♪
5 :
考える名無しさん:2005/09/24(土) 11:11:11
定期的に立つね、
この手のスレ。
そんなことよりお前さん聞いてくれ。
今朝鶏丼もどきを作ったら、割り入れた卵が双子でやんの。
珍しくて壊せずにそのまま煮て、食卓に運んでいっちゃったよw
6 :
考える名無しさん:2005/09/24(土) 11:35:36
>>5 しかも 11:11:11 ですねw
宝くじ買ったら当たるかも。
7 :
考える名無しさん:2005/09/24(土) 11:58:24
あたしゃ猜疑心のあまりに他人の全てを握らないと
安心できない人は嫌いだな。
そういう人はだれかの作った「支配⇔被支配」の概念の奴隷だからさ。
面白い話なんだけど、そんな人はなぜかいつも寂しい。
9 :
考える名無しさん:2005/09/25(日) 06:14:12
何かを得るということはそれに支配されること。
その支配を拒否するということはそれを捨てることだ。
支配されることで支配することになる。
逆も然り。
何かを本当にものにしようと思ったら命を賭けなきゃいけない。
そうしないとそれと一つにはなれない。
まぁ、道具として利用するだけなら命を賭ける必要はないが、道具は漸次的に廃れていくし、道具に自分も廃れさせられることになる。
自由の対価は消費である。
生の対価が死だ。
自由な社会は自他の消費社会である。
>>1 公開オナニー乙(・∀・)
いやん何この恥ずかしいスレタイw
何でも遠くにあり、しかも尚、それらは時につれて遠ざかる。
あらゆる方向に向かって。
さぁ、何に向かい、何を追い、何をものにしてやろう?
それとも静止するか?さすれば存在というブラックホールに飲み込まれるだろう。
そしてそのあまりに巨大な重力は何人をも完全に押し潰すだろう。
生きるなら歩み続けねば。
一時にあらゆる方向に向かうならほとんど進めまい。
目標を絞り矢のように真っ直ぐに歩まねば何にも追い付けまい。
進み続けるよりない、存在に飲み込まれないために。
そう、存在の彼方へと。
だがいつか力尽きて存在に飲み込まれるかもしれない。
現象の終焉、存在への帰還、それが死か。