◎ リアルへの没入(まなざしの快楽)PART5 ◎
1 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :
■最近の脳科学の研究で、人はアイコンタクトによって他者に自分が認識されたときに脳内で
ドーパミンが分泌されて快感を感じる。自分が好んでいる人に認識されるほど反応が大きいらしい
ということがわかった。
■このような「まなざしの快楽」は、実際に見られていことを確認したときにだけ生まれるのではないだろう。
「私は見られている」という自意識が快楽を生む。そしてさらに「まなざしの快楽」は、他者との関係性、
コミュニティ(まなざしのネットワーク=<象徴界>)の中の位置によって、 私が何ものである承認される
快楽ではないだろうか。
■しかし現代のようなアイロニカルな社会においては、社会規範的な他者との関係性は流動化し、
私が何ものである承認を得ることは困難になっている。そのために、リストカットの痛み、物語への感動など
のように、他者との関係性は、「生理的な経験」(=象徴的な<現実界>)に求められ、
かろうじてコミュニティ(まなざしのネットワーク=<象徴界>)の中の位置は確保される。
■ここには、アイロニカルに流動化する「拡散層」と、「生理的な経験」で共有する「収束層」の二重構造があり、
「拡散」が進むほどに、「生理的な経験」による「収束」へと「転倒」される。しかし、このような<現実界>への接近
による「収束」は、「人間」そのものを解体する危険な接近であり、TVの「感動の全体主義」、
オウムの「アイロニカルな没入」、2ちゃんねるの「ロマン主義的なシニシズム」のように「まなざしの快楽」を
「暴力的破壊的」傾向へと傾斜させる。
PART4
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1106147761/l50 はてな
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/
チラシの裏にどうぞ
3 :
ローカルルール審議中:2005/04/06(水) 01:11:12
>>1 三段目までは、ともかく、四段目については?
ぴかぁ自身が十分に消化し切れてないような印象を持つ。
まなざしたって見る、観る、視るとかいろいろ。
5 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 01:13:58
>>3 スペースの関係ではしょりました。
詳しくははてなの「収束するポストモダン」を参照ください。
>>5 で? 東言葉らしい「動物化」ってなんなんだ?
しろうと しても ぴかぁにしても、東言葉を前提にして、さもありなん なことを言っているけど、
そもそも東言葉が、(すくなくとも漏れには)みなに、認知されてないように思うんだけど?
7 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 01:54:11
>>6 「動物」は、ヘーゲルの、そしてコジェーブのヘーゲル理解の理解です。
特に構造主義以後、ポストモダンを語るには、
人間/動物の差異を理解することは、基本です。
じれったい。
9 :
おやすみ:2005/04/06(水) 02:47:04
>>7は、固有名を列挙しただけで、何も説明してないじゃないか?
俺にとってのぴかぁ(または、ぴかぁにとっての俺)のような対土人(あるいは、対宇宙人)と、
コミュニケーション可能であるとして、東言葉の「動物化」について語ってみよ。
10 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 09:16:12
11 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 11:52:12
2ちゃんねるはテレビとの差異の位置に立ち、
ブログはその2ちゃんねるとの差異の位置に立つという
アイロニカルな構造が成り立つ。
テレビ的な(建前な)倫理な位置/2チャンネル的な本音という位置/
ブログ的な倫理(本音の本音)とい位置
それが現代の主体のスキゾな多重人格性である。
しかしこれらのアイロニカルな構造に、「メタ言語は存在しない」のであり、
一つの平面上にしか存在しない。
12 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 11:57:00
たとえば、電車男のような「感動」を考えた場合に、
このようなアイロニカルな多重構造を突き刺し、
統一性をもたらす。
散乱する主体が、擬似的に統一されるのである。
それが、「生理的な経験」(現実界への近接)による
「収束」への「転倒」である。
13 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 12:02:43
逆に社会規範的ことを語る場合には、主体は
アイロニカルな構造の中で拡散するのである。
たとえば最近では、ライブドアの問題がある。
特にテレビ側から、ホリエモンに対して、
金でなんでも買えるのか、ジャーナリズムという倫理観がない、
放送の公共性を無視しているような反論がでるとき、
ホリエモンへの賛同と反対の間で、ボクたちの主体性は散乱する。
たとえば、ネットはどうあるべきか、その倫理性について、
簡単には2ちゃんねるについて語る場合も、
どうような多重性が表出し、混乱する。
14 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 12:10:24
少し前では、アメリカのイラク侵攻是非に対する反応があった。
ここでも主体は、「はっきりものがいえない」ような散乱を見せた。
たとえば、高校生が反対のためにデモをしたことが話題になったが、
彼らにリアリティはなく、小さなお祭りのようであった。
これは、倫理的な主張によるものというよりも、
戦争の悲惨さのような「生理的な経験」(現実界への近接)による
「収束」への「転倒」を示している。
これらは北田がいう2ちゃんねるの「ロマン主義的なシニシズム」のように
政治的、倫理的なものを語りながら、実は「生理的な経験」(現実界への近接)による
「収束」への「転倒」であり、お祭り騒ぎである。
たとえば、最近のイラク人質、あびる優バッシングに倫理的な主張、
彼らの間違いを主張するものと考えてはいけない。
そこには、イラク人質の恐怖、あびる優の衝撃のような
「生理的な経験」(現実界への近接)をフックにした
「収束」への「転倒」であり、その転倒によって、
アイロニカルな多重性からの解放としての、
間主観性復活のお祝い祭り騒ぎである。
15 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 12:15:30
ライブドア問題も祭りの様相をていしているが、
これもその話題性という衝撃をフックにした祭り騒ぎであり、
ホリエモンへのバッシングのようなお祭り騒ぎである。
それが、「まじめに」ホリエモンへの倫理的な発言をしよとすると
途端に主体は多重化し錯乱してしまう。
このような状況は、安易な「生理的な経験」(現実界への近接)への没入を
誘発する傾向がある。それが2ちゃんねるの祭りの構造である。
実際、ボク自身も社会的な衝撃的なことがあると、
2ちゃんねるの祭りを想像して、見に行って、実際にお祭りが
行われていることに、わくわくする。
16 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 12:20:33
それはテレビでは起こりえない狂乱である。
ネットはマスメディアを駆逐するのか、というときに、
パーソナルなメディアであり、個人が発言権ともつというようなことよりも、
あまり語られないが、考慮しなければならないのは、
ネットのみで可能になったお祭りへの熱狂ではないだろうか。
人々はそれほど倫理的な発言を望んでいないし、その力が限られたものであることを
知っている。
人々がネットへ向かうのは、このようなお祭り性によるものである。
それは2ちゃんねるだけのものではない、
ブログも同じようなものである。
17 :
ローカルルール審議中:2005/04/06(水) 12:30:27
まとめろよ>ピカチュウ
18 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 12:34:32
たとえば、ホリエモンがいう、アクセス数重視のニュース番組などの
ネットとテレビの融合もこのようなイメージに近いのかもしれない。
ここにあるのは、もはやテレビのような倫理的な基準によるニュースでは
完結しない。
ネットになるほど、「そのソースは?」というソース元の確からしさは
重要になり、マスメディア的なニュース情報は今後の貴重であるが、
ニュース番組としては、それに対するお祭り騒ぎを含有しなければ、
ニュースのリアリティは完結しない、のではないでろうか。
ニュース速報+などは、実際そのような形態になっているが。
テレビでジャーナリストがホリエモンはネットとテレビの融合のビジョンを示せていない、
と吠えるときに、テレビで、このような主体の散乱性を考慮した融合を
語ることはタブーである、言ってもテレビの倫理観によって、理解されない
というパラドクスがあるのではないだろうか。
19 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/06(水) 12:48:27
それは、テレビで語るジャーナリストが、テレビの倫理的主体像を
信じているのではなく、彼もそれに対してアイロニカルな視線を持ち
もはや信じていないにもかかわらず、
テレビの倫理的な主体像を維持しなければならないという、
ジジェクの「シニシシズム」あるいは、大澤の「アイロニカルな没入」がある。
そこにもかつての象徴界的であるが没入があり、
2ちゃんねる的なお祭りは、現実界により近接した象徴的な没入であり、
そこに共通してあるのが、主体の確保である。まなざしの快楽の維持である。
簡単には、それぞれが自分であるために基盤の保持であり、
ゼネレーションギャップであり、大括りの虚像的なイデオロギー対立である。
しかしまた単純に没入できないのも事実であり、彼らはテレビだから、2ちゃんねるたから、言っただけて
宙ずり感をたえず抱えているだろう
21 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/07(木) 19:04:30
ん?
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23 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 13:28:57
汚物への没入
24 :
ローカルルール審議中:2005/04/08(金) 13:51:44
なぜ、花見が好きなの?
25 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 14:21:30
桜の下には死体が埋まっています
この狂気、すなわち現実的なものをフックにした集団的没入が
花見という祭りのまなざしの快楽です
26 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 14:23:02
すなわち祭りとは汚物への没入です
うーんそれはちょっと
「友達いないやつの意見」だな。
28 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 14:38:27
ドゥルーズが精神分析のエディプスを欲望を家庭に閉じ込めたものというとき
エディプスとエディプスコンプレックスの差異が失われているのではないだろうか
29 :
神 ◆ZYEMgbhZg2 :2005/04/08(金) 14:46:15
>>25 なぜ、サクラの下に死体が埋まっていることが狂気なの??
30 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 14:46:31
すなわちエディプスにおける父母は本当の父母とは関係がない
はじめに想像的関係になるものとしての母と
その関係を断ち切り社会性へ導く掟を与える象徴的なものとしての父であり
それはかつてより実際の父母ではなかった
31 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 14:48:50
それが現実の家庭に閉じるときにおきる混乱がエディプスコンプレックスである
その役割を現実の父母のみに帰することの困難さからくる
32 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 14:52:33
死とは未知への裂け目であり決してみることができない現実的なものです
故にそれへの接近である死体は人を解体する=狂気の効果があります
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梶井基次郎ね
35 :
ローカルルール審議中:2005/04/08(金) 16:40:17
36 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 16:48:00
墓場は狂気を象徴化するのです
それが宗教の役割です
37 :
ローカルルール審議中:2005/04/08(金) 16:54:03
狂気とは何だ?
高橋留美子ね。
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40 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 19:00:44
花見の狂気
桜の下には死体が埋まっています。この狂気、すなわち現実的なものをフックにした
集団的没入が花見という祭りのまなざしの快楽です。祭りとは汚物への没入です。
死とは未知への裂け目であり決してみることができない現実的なものです。
故にそれへの接近である死体は人を解体する=狂気の効果があります。
じゃぁ墓場は狂気の場なのか?否、墓場は狂気を象徴化する場です。
このような現実的なものを、象徴化するのが宗教の役割です。
だから桜の下には、供養されていない死体が埋められている故に、狂気なのです。
41 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/08(金) 19:01:44
エディプスとエディプスコンプレックス
ドゥルーズが精神分析のエディプスを欲望を家庭に閉じ込めたものというとき、
エディプスとエディプスコンプレックスの差異が失われているのではないだろうか。
エディプスにおける父母は本当の父母とは関係がない。はじめに想像的関係になる
ものとしての母であり、その関係を断ち切り社会性へ導く掟を与える象徴的なものとしての
父である。
欲望の特性、「他者の欲望を欲望する」というパラノ構造は、
欲望の根元的な特性ではないだろうか。そして個体が集団の法則に帰属するときに、
象徴化が行われる。すなわちエディプスの構造は、人に根元的である。
さらには動物界にもそれは見いだせるのではないだろうか。
成人になるということは、母親との想像的な関係から断絶することである。
そこに言語がなくても、原−エディプスと言うべき構造は、高等な動物に見られる。
ドゥルーズが精神分析のエディプスを欲望を家庭に閉じ込めたものというとき、
資本主義社会において、エディプスが現実の家庭に閉じるときにおきる混乱である
エディプスコンプレックスへの指摘だろう。資本主義社会では、エディプスの父母の役割を、
現実の父母にに帰することになる。しかし現実の父母に十分なエディプス構造を担うことに
無理がある。そのために、特に想像的な関係から社会化できない、去勢されない
エディプスコンプレックスが起きる。
さらには、ポストモダンにおいては、家庭自身も機能しない。
想像的な関係は、家庭の外に開いていく。消費を含めた情報へ向けられる。
それは多重なパラノであり、ドゥルーズ的なスキゾ構造が生まれる。
すげぇなあんた。そんなに色々発見したんか。でも哲学板の話じゃない。科学は他でやんな
43 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/09(土) 01:19:22
宮台の「サイファを覚醒せよ!」読んでいますが、あまりに楽観的なところがおもしろいですね。
宮台のいう「第三の道」とは、簡単にいうと
ある女性を死ぬほど好きになってしまった。そのときに湧き上がる奇跡であり、運命であり、
彼女は地上に舞い降りたボクの天使だ、というような「捏造される神性」=「サイファ」を、リバースする。
なぜボクはその女性を選んだのか、なぜその女性を好きになったのか、と疑う。
そこには論理的な根拠は見いだせない。そこにあるのは、無数にいる女性の中のたった一人ではなく、
たまたまの一人でしかないという偶有的な解しか見いだせない。という「世界の根元的な未規定性」に到達する。
ということはどこにも到達しない。
このような懐疑によって、冷静に女性を見て、ウブなボクを騙そうとする海千山千の性悪女に
騙されないようにする、というような大変世知がないことになる。
ここには、様々な困難があるでしょう。
恋に落ちたときに、感情は訪れるものである、として、彼女が好きになる根拠はないと、
疑えるだろうか。さらにこのような「突発的な「名状しがたい、すごいもの」への感染」は、
それがまさに「自己承認」の構造をもっている、それが私の一部であるということに
根ざしています。。
さらにはこのような感染は大澤のいう「アイロニカルな没入」の構造があるということです。
ラブコメでもよくありますが、あいつは嫌いだという言説が相手への気になるということであり、
いつの間にか好きになっている自分がいたということです。
このような没入は、懐疑によって距離を取ることはできません。
ぴかぁとぴかぁコンプレックス
主治医がぴかぁ分析の権威主義をその欲望を2ちゃんに閉じ込めたものというとき、
ぴかぁ症例とぴかぁコンプレックスの差異がうしなわれているのではないだろうか。
ぴかぁにおける権威は本当の権威とは関係がない。はじめに想像的関係なる
ものとしての母性であり、その関係を断ち切り社会性へ導く絆を与える嘲笑的なものとしての
他者である。
ぴかぁの特性、「他者の模倣を模倣する」というパラノ構造は、」
ぴかぁよ、御身を超えよ!
45 :
↓ぴか:2005/04/09(土) 08:28:49
/\___/\
/ ⌒ ⌒ ::: \. / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| (●), 、(●)、 | │ 実際、ボク自身も社会的な衝撃的なことがあると、
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, | < 2ちゃんねるの祭りを想像して、見に行って、
| ト‐=‐ァ' .::::| │ 実際にお祭りが行われていることに、わくわくする。
\ `ニニ´ .:::/ .\_____
/`ー‐--‐‐―´´\
46 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/10(日) 15:31:12
再度、サイファを覚醒するとは、
たとえば「なんのために生きているのだろ」と問うときに、
現代の一般的な解答は「生きていることに意味などない」と言うモノです。
この先には、なにかに熱中することは、恋をすることは無駄だと、
「生きること」を放棄する脱社会的な存在になるか、
それにつかれてエセ宗教の安易な生きる意味へはまるかです。
そうではなくて、自分の感性によって、「熱中する」。
恋をして、興味のあるもにはまって、楽しむ。
それによって、なぜいまボクははまっているのかを考える。
そうすると、ボクらの世界には、「生きている意味」以外に、
「理解することができない未規定な世界」があり、
それによって、はまっていることがわかる。
世界とはそのような豊かなものだとわかる。
だから「欲望することからはじめよう」みたいなことですね。
47 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/10(日) 15:31:48
この後半の、「ボクらの世界には、「生きている意味」以外に、
「理解することができない未規定な世界」があり、
それによって、はまっていることがわかる。
世界とはそのような豊かなものだとわかる。」
とはまったく楽観的なものですね。
現代、むしろ多くの人が「熱中」することに「熱中」している面が
大きいと思います。
たとえばこれは北田の「ロマン主義的シニシズム」などみられるように、
2ちゃんねるの祭りなどの熱狂は、みんなが熱狂しているから、熱狂している。
あびる優の倫理観を真面目に批判したい人などいない、
みんなとの熱中が目的化している、ということです。
この本は2000年の本なので、時代が流れているのかもしれませんが。
48 :
ローカルルール審議中:2005/04/10(日) 16:20:27
働け
ぴかぁ〜、blogではてなユーザー以外を弾く設定にしてるだろ。
批判はきちんと受け止めるが自分の為だぞ。
50 :
☆kiki+ki ゜Д゜♪(2代目) ◆x/cQLuG.4c :2005/04/10(日) 17:23:01
篭る部屋、
という砂漠へようこそ(^Д^)
51 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/11(月) 00:06:37
原初的共同体的な、アミニズム的・トーミニズム的世界観。
「社会」と「世界」が未分化で象徴界全体に神性を媒介として、
現実的なものをとけ込んでいる世界。
そこでは世界のありとあらゆるものが、コミュニケーション可能だと考えられていた。
ある意味で芸術家的な世界観である。
現代なら、僕たちを音楽に浸るときの感性である。
よく言うところの「癒し」というものかもしれない。
52 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/11(月) 00:11:58
論理性への傾倒は、必ず未規定性(現実的なもの)を「汚物」として
排除する方向へ向かう。
53 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/11(月) 00:15:57
2ちゃんねるの祭りにしろ、TVの感動の全体主義化にしろ、
このような排除による抑圧に対抗し、「情動の共有」による
安心として行われる。「汚物」を排除しながら、
僕たちは「汚物」であることの共有による安心である。
「トーミニズム的世界観」って何?
55 :
ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 00:19:02
ぴかぁ〜寝ないの?
ぴかぁの着眼点は、時に天才秀才にあるような、と想像する、ひらめき、のようなもの、を感じることがある。
それにしても、ぴかぁは、いわゆる異言の語り部でありたいのか?
現代は、情報消費社会だろ? 今やどっかのセクハラ牧師みたいに強圧的な断定口調で喋るか、
ひと頃の東氏みたいに、噛み砕いて噛み砕いて語るしかないんではないか?
ぴかぁがぴかぁの問題意識を噛み砕くことが出来るなら、そういう表現にしたら良いじゃないか。
57 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/11(月) 12:12:54
ピカーン(-_-+
58 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/12(火) 10:53:43
科学とはカオスを神とする否定神学である
59 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/12(火) 11:57:09
新興宗教にはまるだけでなく、リスカ、自殺、引きこもり、脱社会も没入の一種である
没入であるとはそれがなんらかのメッセージである、ということである
さっさと死ね 引き篭り中年
ぴかぁ〜
公文式哲学クラス主席卒業後、2ch哲学板にて華々しくデビュー。「読まずに理解する」を
モットーに哲学、社会学、生物学、その他あらゆるジャンルを横断しつつ、絶えず先鋭的
な理論を発表し続ける鬼才。芸術にも造詣が深く、思い切り知ったかしまくった後で遁走
するシッターカ形式とフーガ形式はバッハにインスパイアされたものだといわれている。
めちゃイケファン。童貞。
62 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/13(水) 11:25:42
リアルとの近接にいかに向き合うか、とは
あなたという意味の消失にどのように対処するかではなく
あなたという獲得にどのように対処するかである
63 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/13(水) 11:29:52
あなたがあなたであるために、疎外している生け贄についてである
64 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/13(水) 12:47:13
たとえばリストカットっという行為において疎外しているのは
社会そのものである
65 :
ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 13:24:56
ぴかぁ〜はホントに哲学してる。きょうびはプロの哲学者でも珍しいよ。
66 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/13(水) 15:13:56
リストカット者が疎外しているのは自分自身であるというのは正しくないだろう
彼が疎外しているのは、生け贄にしているのぱ自分の中の他者である
この生け贄を引き替えに、まなざしを手に入れる、すなわち自分を手に入れるのである
67 :
ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 15:50:31
ぴかぁ〜のスレって本にならないのかな。
どっかの出版社が企画してほしいよ。
68 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/13(水) 23:00:52
動物的人間化
人間/動物の違いをもっともわかりやすくいえば、そこに「物語」はあるか、ということです。
人間とは物語です。そして大きな物語が凋落し、小さな物語化しているということは、
一般的な見解ですが、東が動ポスでオタクが動物化しているといったときに、
その欲望が、物語からデーターベース(パーツなど)へ向かっているということです。
ネットのような「無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁き」では、物語が作られることは
ないだろう。部分部分に反応するという動物化しかないということです。
テレビをみても、80年代以降のバラエティー全盛のテレビは、その場その場の
刺激的な場面を流す傾向にあるのは確かです。
80年代から流行っているトレンディードラマも物語だけでなく、その中のアイテムが、
パーツパーツとして楽しませていたという面もあり、(俳優も一つのパーツ化しているといえます。)
しかし物語性の低下は、そんなドラマさえ衰退させています。
69 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/13(水) 23:01:59
しかしいまもっともおもしろいテレビの物語はなんでしょうか。
ホリエモン物語ではないでしょうか。このような(ワイドショーネタ的)物語は継続して作られています。
マスメディア全体と視聴者も含めて、長編の物語をつくっています。
ボクはマスメディアでも特にテレビは現代もっとも倫理的な価値観を維持している、
倫理的な境界を呈示していると考えています。
僕たちは子供の頃から、テレビとの擬似的な象徴的な同一化によって、価値をうけとり、
さらには倫理的な価値を受け取っています。
だから、多くの(ワイドショーネタ的)物語も、下世話であったり、偽善的であっても、
倫理的な物語として語られいてるのです。
多チャンネル化するテレビですが、まだまだ地上派のメイン数局が多くの視聴者を獲得しています。
そのような意味でも、テレビはいまでの現代の一つの物語を語る装置なのです。
ではネットはどうだろうでしょう。ネット、2ちゃんねるの多くにおいて、データーベース的ではあります。
しかしボクは、2ちゃんねるは、テレビの倫理的な物語との差異の位置取りをしていると思っています。
だからあえて過激な、罵倒する発言が大きいのです。それはテレビ視聴者であり、
テレビ的倫理観をもった人が、また2ちゃねらーなのです。
そして「無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁き」のごとき、2ちゃんねるも
実はテレビ的な物語を補完するように物語を紡いでいます。
ホリエモンであり、あびるであり、そしてイラク人質バッシングなどで顕著です。
これらは、サイバーカスケードともいわれますが、
それはマスメディアとのコラボレーション的な構造によって、創発的に一つ物語を紡いでいます。
70 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/13(水) 23:02:30
そして最近ではブログです。ブログもニュースなどのリンクを羅列するデーターベース型と、
テーマについて個人的な物語を語る物語型に分かれます。
そして物語型は、2ちゃんねるとの差異の位置取りを考えることができるでしょう。
2ちゃんねるではあまりにメタメタすぎることから、創発的な構造よりも、自立した主体としての
物語を語る欲望のための装置です。
このように考えるも、ブログも、TVと2ちゃんねるとコラボレーションする形で、
創発的な物語を形成するように機能しているのです。
多くの人が問題視しているのが、情報化が活性化した現代においての、
人であろうとするための、物語化の仕方です。
象徴界(大きな物語)が流動化しているということであり、そのために、
小さな物語が突発的に、不気味の立ち現れてくる様相です。
たとえば、それは、宮台の社会の底が抜けている、北田のいう感動の全体主義、
ロマン主義的シニシズム、 鈴木のサーバーカスケード、大澤の現実への逃避あるいは
アイロニカルな没入、 ボクがいう現実界への近接というように表現されます。
それは、東のいう(人間の)動物化ではなく、「動物的な人間化」というようなことです。
71 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/14(木) 12:49:54
宮台のまったり革命もまつったり動物のように生きようということでしょう
それは一見うまく行くように見える
2ちゃねらーでも即時的にコミュニケーションしその場その場で満足させる
しかしまったりしているようで突然豹変する
イラク人質バッシング、あびる祭り、ホリエモンバッシングなど
なぁ。ぴかぁ。俺としゃべろうよ
あんたすげーよ
>>73 確かにすごいな。
自分の思想をもっている。
しょぼい自演をはさむのやめないと
すごい叩きが来るかも知れないよ。
76 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/14(木) 19:24:39
ポストモダンの二重構造 発散と収束
<@ 発散>
大きな物語の凋落。
科学における決定論(物理還元主義)から非決定論(非還元論)へ転換。
思想の相対主義化。
「社会の底が抜けている(宮台)」ことが露呈。現実界の(トラウマ的な)近接。
この世界に意味がないという宙づり状態の不安感。
象徴界の流動化。
「父親の審級」による去勢が行われず、幼児的全能感から抜け出せず、
高い「プライド」、低い「自己信頼」によって、「脱社会的な存在」となる。(宮台)
人々が、「ナイーブ」になっている。
77 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/14(木) 19:38:57
<A 発散維持(動物化)>
島宇宙化
他者(現実界)との適切な距離の維持
他者とのは現実界である。(ジジェク)社会の底が抜けて、他者が現実界として現れてくる。
街の中の「無関心の儀礼」。(ゴフマン)
安全圏からの、コミュニケーション=携帯、ネットコミュニケーション。
寛容、アイロニー(ローティ)
寛容とは、「一人にしてくれ」という不寛容の究極の形式である。(ジジェク)
アイロニーなどのメタゲームは、現実界のトラウマ的な近接への恐怖からの、
距離感の取り方である。
2ちゃんねる的な無限のメタゲーム。アイロニーからシニシズムへの変容。
動物化(東)
まったり革命。終わりなき日常を生きろ。(宮台)
コンビニ、ファーストフードにより動物のように欲求を満たす。
物語からデーターベースへ
ジジェク的には、「現実など虚像である」という言説ではなく、「虚像の中にある現実的なものを
考える」ことが重要である。すなわち「現実など虚像である」というアイロニーが、
現実的なものの近接を隠蔽している。見ぬ振りをしている。動物化は、
そのような隠蔽構造をもっていないだろうか。すなわち、動物のフリによる隠蔽である。
78 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/14(木) 20:01:34
<過剰な収束(転倒)>
現実界へ逃避(大澤)
(疑似)動物化からの転落。
「発散維持(動物化)」はあまりに不安定であるために、急激に収束過程(象徴化)
へと転倒する。
現実から次第に乖離していくという傾向が反転させてしまうような現象ではないか。
つまり、現実「からの」逃避が、現実「への」逃避へと転換しているように見えるわけです。
しかも「現実への逃避」と言ったときの「現実」というのは、現実のまさに現実性を
体現しているような激しく、暴力的な現実です。(大澤)
多くの現象に現実界との接触感を回復しようとするやみくもな試みが見られる(ジジェク)
現実界への近接による転倒
より現実界に近いところ(感情的なもの)をフックに、他者との共有性回復する。
感情的なものとして、生け贄(スケープゴード)への暴力という狂気が使われる。
ラカンのテーゼの改良は、ユートピア幻想という象徴化は、ユートピアの根元的な不可能性
=現実的なものを隠蔽ために、生け贄(スケープゴード)を必要とする。(例、ナチのユダヤ人迫害)
いじめ。
自殺、リストカッター。
アイロニカルな没入(大澤)。エセ宗教への没入。
感動の全体主義(北田)。
サイバーカスケード(鈴木)。
ロマン主義的なシニシズム(シニカルな態度をとりつつベタな感動を指向するポジショニング)(北田)
79 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/14(木) 20:58:31
象徴化の再起動、再人間化
死への欲望
再魔術化、超越性への接近、エセ宗教、占いブーム
噂話型(自己組織型)、ブーム型物語
シニカルの中で物語語りは解体されるため、また情報化による伝達速度の向上によって
起源の見えない、たどれない、噂話型ブーム物語へ
幽霊のように出現する主体
イラク人質、あびる、ホリエモン、電車男などへの突然沸き上がる倫理感
そんな倫理感どっからでてきたんだよ!的
80 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/14(木) 21:01:32
どっから出てきたんだよサッカーファン
どっからでてきたんだよ、W杯ナショナリズム、愛国心
↑
社会から。
82 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/14(木) 21:05:09
主体なき物語
83 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/14(木) 21:20:08
動物化したんじなかったのかい、おい
マックでだまってバーガー食ってたんじゃなかったのか、おい
どっからきでてきたんだよ人間ども、おい!的な
馬鹿
ぴかぁ〜もすっかり、タームを使って権威づける術を身に着けちゃったね。
前に知識を与えてあげようとして教えてあげたことが、こんなことになるとは……
やっぱり元々のぴかぁ〜の人間性が、哲学の知的権威性にしか惹かれてなかったって
ことだね、残念だけど、もうぴかぁ〜に何ら希望を持つことは止めるよ、さよなら。
86 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :
おいおい、いままでどこにいたんだよ
わしの理解者!的な象徴化?