1 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :
糞スレ
なるほど…。
最近の脳科学の研究で、人はアイコンタクトによって他者に自分が認識されたときに脳内で
ドーパミンが分泌されて快感を感じる。自分が好んでいる人に認識されるほど反応が大きいらしい
ということがわかったのですね…。
このような「まなざしの快楽」は、実際に見られていことを確認したときにだけ生まれるのではないのですね…。
「私は見られている」という自意識が快楽を生むのですね…。おしゃれをして街にでることの楽しさは、実際に
どれだけの人が彼女をみるかではなく、「今日はいけているからみんなにみられるだろう」という
まなざしの捏造が快楽を生むのですね…。
そしてさらに「まなざしの快楽」は、他者との関係性、コミュニティの中の位置によって、
私が何ものである承認される快楽ではないだろうかということですね…。だから社会関係において、ボクたちは様々な人と
まなざしを交換し、さらに交換されているように捏造して、私が何ものであるかの承認を得ているのであるのですね…。
タイトルがぴかぁらしくないな
なまざしの快楽と溢れる死体 PART4.1 で立て直せよ(w
5 :
考える名無しさん:05/01/20 18:25:15
段ボールにくるまってただじーっと寝てるぴか……
頭は一年以上も洗わず、ぼさぼさ……
道往く人々の哀れみと軽蔑のまなざし……
同情するでもなくゴミでも扱うように排除する警察と駅員……
ぴかも必死に仕事を探したんだ……
金が無くなる直前は、それこそ頼み込むようにして……
だが、会社は、たとえバイト・日雇いでも決してぴかを雇おうとはしなかった……
金が無くなった時、ぴかは数カ月滞納し大家に退去を迫られているアパートの中で、
絶望の涙を流した……
あれから、数カ月……
もはや、「普通の人」への道は閉ざされた……
「ホームレス」と呼ばれる事に慣れてしまった今、ぴかはつくづく、こう思う……
「仕事」は実力と熱意が共に備わった者だけが、ありつけるものだと……
「実力」だけでは駄目だと……
「熱意」だけでは駄目だと……
ホームレス仲間の間からさえも排除され、もう数日間、全く食料を口にしていない……
ぴかの「餓死」がもう目前に迫ってきているようだ……
そうなったとき、こういうゴミのようなぴかに対して涙を流してくれる人はいるのだろうか……
6 :
考える名無しさん:05/01/20 19:59:01
しどうあげ
7 :
考える名無しさん:05/01/20 20:51:40
タイコ持ち来たか?
** 駄スレ・荒らしにはレスしないようにしてください。レスしてしまうと削除依頼が通りにくくなります。 **
65 :考える名無しさん :04/08/06 23:42
ウソをウソと見抜いて徹底無視できないようでは
2ちゃねらーはつとまらんのだが・・・。粘着のキャラかぶりDQNは
構ったり話題にすればかえって狂喜する。どんなレスも完全無視で
そこにあっても無いのと同じようにして粛々と自分のレスだけに
集中すればよい。それがDQNに対応する唯一絶対の方法。
12 :
考える名無しさん:05/01/23 14:34:05
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l イ '- |:/ tbノノ \ わし哲学者やし
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ヽトェ-ェェ-:) -r' \ ぴかぁ〜(35・無職)
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≪ぴかポモ教団≫
アスキーからでも出版してもらえ!
15 :
考える名無しさん:05/01/23 19:21:17
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16 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/23 20:05:09
物語は、表象される視覚としての視点とともに、心の視点がある。
たとえば、典型的な形式としては、シャーロックホームズの物語がある。
この物語は、助手のワトソンの視点で進む。
これが映像化された場合には、視覚は俯瞰したアングルとして映し出されても、
心の視点はたえずワトソンにある。
いわば、ワトソンの心のライトがあたっており、
そのときに、ホームズの心は影になっているのである。
たとえば、受験などで見知らぬ人々が教室に集められるとき、
回りの人が賢く見えるとよく言われるが、
この場合には、心の視点は当然自分にあり、まわりの他者たちは
影になっている。
すなわちワトソンが主体であって、ホームズが他者であり、
物語では、主体は読者によって投射され、思い入れがおこりる。
そして他者は読者からは、影になっている故に、ミステリアスに
見えるのである。そしてそこにホームズのような超越性を演出される。
シャーロックホームズの物語の光と影の方式は、今では一般的な手法であるが、
物語は多かれ少なかれ、心の視線の展開が、物語を作る上で上手く演出されている。
そして、このような心の視点は、認識論的視点である。
謎以外に何を愛し得ようか、と誰かが言っていたな
>ぴかぁ〜
今日、日テレでネット依存についての番組が放送されるよ。
じゃあ、
涼宮ハルヒは?
おい、ぴかぁ〜、日テレ見ろよ、やってるぞ。
22 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 00:39:25
「なんのために生きるのか、
最後に死ぬことが決まっているなら、最初から死んでも一緒だろう」
という笑えないギャグがある。
23 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 00:41:20
このギャグを支えているのが、「人間は死ぬ/死ねる」ということである。
24 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 00:44:42
また気が付いたときにはすでに物質的に恵まれている状態にあれば、
それを反復する(大人として経済的に自立する)意味が見いだせない。
すなわち反復の中の差異が見いだせない。
さらには、現代の環境問題などでは、人が生きていること(反復)そのものが「悪」である
ような思想まである。
25 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 00:46:05
それが、次のギャグにつながる。
「死ねないから生きている」
26 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 00:49:58
ここでもギャグを支えているのが、「人間は死ぬ/死ねる」ということである。
現代においても、「人間は死ぬ/死ねる」という思想は有効ではある。
それ故に、人は多くにおいて死なないのだろう。
しかし、「死」そのものが、超越されたとき、すなわち「動物化」したときに、
「動物は死なないし、自ら死なない」のである。
27 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 00:53:24
結局のところ、「人間は死ぬ/死ねる」故に、多くにおいて
人は死なないのであるが、
ならば、この反復社会の中で、どのように差異を見いだすのか、が
根本的な問題と言うことだろうか。
すなわち簡単にいえば、「この暇をどのように過ごすか」ということである。
28 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 00:56:11
さらに言えば、
「如何にして、欲望し続けるのか」ということである。
29 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 00:57:23
さらにいえば、
「如何にして、他者の欲望を捏造し続けるのか」ということである。
30 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 01:13:58
かつては、それは「モーレツ社員」だった。
そしていまは、オタク指向だろう。
オタクとは、内的に、他者の欲望を捏造し続ける機械である。
31 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 01:16:10
大義、使命、仲間、危機、期待を捏造する。
すなわち「まなざし」を捏造するのである。
32 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 01:23:37
このような状況で、とても大切なものが「宗教」である。
「宗教」の存在意義は、強烈なまなざしを供給することにある。
33 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 01:24:33
「宗教」の存在意義は、このような迷える人々に、
強烈なまなざしを供給することにある。
それによって、人は生きることができ、そして死ねことができるのである。
34 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 01:30:58
しかし現代は、このような意味での「宗教的なもの」は宗教である必要がない。
多くの情報が溢れているが、そこに引かれるということ、そのものが
すでに信仰であり、「宗教的なもの」である。
そして大きな物語が凋落し、小さな物語の世界になった、という物語に繋がる。
小さな「宗教的なもの」、まなざしを供給するもので溢れてる。
「目指す」とは何か?それは方向感覚である。
36 :
考える名無しさん:05/01/24 04:50:25
おはよう
おはヨーグルト
38 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 14:38:18
人間が創造したものでもっともすばらしいものは音楽である。
39 :
考える名無しさん:05/01/24 14:43:18
ん?
40 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 14:57:08
ラカンは言語構造の基本に隠喩においた。
言語とは、詩のようなものだということである。
41 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 15:01:17
現代は、音楽の時代とも言えるだろう。
大衆音楽が、街に溢れている。
それを支えているのが、様々なテクノロジーと、流通である。
ラジオの通信メディア、あるいはレコードのような記録メディアの
発達の前は、かつては音楽はライブのような一回限りにものとして、
流通させるのがむずかしかっただろう。
42 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 15:05:32
でもこのようなテクノロジーが「解放」した音楽の魅力とは
なんだろうか。
なぜ人々はこんなに音楽に欲望するのだろうか。
それは、その抽象性、隠喩性ではないだろうか。
そもそもにそこに還元される明確な意味がないということである。
それは、文学、詩、絵画など芸術表現一般の特徴である。
現代は音楽に有利に働いているということだろう。
43 :
考える名無しさん:05/01/24 15:08:38
ん?
44 :
考える名無しさん:05/01/24 15:09:42
ん?
45 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 16:29:01
「負け犬」ばやりであるが、30以上で未婚で子供のいない女性
滑稽さがともなう。
いまどき「30以上で未婚で子供のいない女性」には特別性も
排他性もみいいだせない。
どこにでもごろごろいるし、だからどうなの、っていう感じである。
それでも「負け犬」という言葉が流行るのは、
多くにおいて、自己言及的な意味においてではないだろうか。
46 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 16:33:19
多くにおいて、名付けは外部からくるものである。
不気味なものを、名付けによって抑圧し、閉じこめて安心する。
「オタク」、「新人類」などなど、このような多くの名付けは
そのような主体が外部にある。
だから最近の女児殺人事件という不気味なものへの名付けとして
使われるのである。
すなわちそれは外部の「オタク」、「ロリコン」故に犯罪を起こしたのであり、
内部の私たちとは違うものであるということである。
47 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 16:35:33
しかし「負け犬」という名付けは、
「30以上で未婚で子供のいない女性」が、自らの名付けではないだろうか。
自ら受け入れたのではないだろうか。
彼女たちは、名付けられたかったのではないだろうか。
48 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 16:43:10
自ら名付けることによって、そして自虐的に、
自ら抑圧されることによって、
何ものであるのか、ありたい、ということだろう。
49 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 16:47:06
でなければ、「30以上で未婚で子供のいない女性」という括りで、
名付ける、それも「負け犬」など、意味を見いだせないだろう。
本質は、彼女たちが、何ものであるのか、
ある種の浮遊感の中にいるということかもしれない。
潜水艦発する電波のように、自らネタにすることによって、
まわりの反応をみようとしている
50 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/24 16:54:00
彼女たちが、バブルの経験者であるということもあるのかもしれない。
自己顕示欲である。
それは、私たちはなにものかであり続けたい、ということだろうか。
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ヽトェ-ェェ-:) -r' \ ぴかぁ〜(35・無職)
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52 :
考える名無しさん:05/01/24 21:03:09
日曜日に、テレビにでてたね。テレビ出演、おめでとう!!
53 :
考える名無しさん:05/01/24 21:16:57
しかし、びかぁ太りすぎだよな。画面からはみだしてたじゃん。
54 :
考える名無しさん:05/01/25 03:24:46
マジかよwww
TV全然見ないけど、とうとうマスディアに出てまでの売名行為とは、
いやはや、人の欲のなせる技ですなぁ・・・。
55 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/25 09:38:32
ん?
56 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/25 12:54:36
現代の食事事情は、必ずしも空腹だから食べるわけではない
食事はイベントである
57 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/25 12:58:13
不規則につままれる
これはまさに現代の欲望の在り方を示している
欲望という欠落への応答性の速さである
それは的確であるとか、満足であるとかではなく、
ただ速く応答される
58 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/25 12:59:59
まさにこれがコジェーブ的、あるいは東的な動物化に対応するのだろう
59 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/25 13:01:57
欲望は情報化され、より加速可能であることから満たされるのである
60 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/25 13:17:18
ここで重要なことは欲望への質でも量でもなく、応答性、速度である
このためにそのはじめは消費、商品のフェティシズムであり
つぎはコンピュータの速答性は迎う
そしていまはネットワークということだ
61 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/25 13:29:34
その意味でフェティシズムを深化させるオタク像は古いのかもしれない
62 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/25 13:42:57
閉じたコンピュータは速度が見たされ質に向かっている
たとえばゲームのように
開いたネットワークは速度に向かっている
なら、このさきはネットワークも質に向かうのだろうか
63 :
考える名無しさん:05/01/25 13:48:26
ん?
これは、統合失調症の患者さんか?
つーか、おまえ前田だろ?
もう、退院したのか?
64 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/25 13:59:03
閉じたコンピュータはそこに世界の構築が必要であるが
ネットワークとは世界への接続である
65 :
考える名無しさん:05/01/25 14:11:57
(「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用)
宮台君や、そのたの、マーダ、ポストモダンを,言っている人たちがいるようですが、残念ながら、もう、世界規模では、捨てられた思想です。
37歳ぐらいからうえが、感染している病気ですね。
東なんとか君の本など、どうせ、何を、いいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。
はじめから、この人たちは、「読者に、わけが分かるようには、」書きません。
「 大正デモクラシー」のころの、(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの、「新カント学派」の、影響で、
とにかく、訳が分からないように書く。読者より、自分が、頭がよいように思わせるように書く。これが、この手の人たちの、本性です。
愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。室町・鎌倉期の五山の、僧侶たちも、こうだったのでしょう。
かれらは、坊主(僧)だったのに、密かに、朱子学(南宋学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。
これと、今の、おフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。
じつは、フランスでも、一番頭のいい、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちは、
フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の、衒学趣味ではなく、本気で、どうやったら、
アメリカの支配から、脱出できるのか、を、国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。
日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、考えていたのです。
フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。
(引用おわり)
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67 :
考える名無しさん:05/01/25 15:31:39
ぴかあさんを馬鹿にすんなよ
俺もぴかあさんのように、カリスマ・ニートを目指します!!!
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ヽトェ-ェェ-:) -r' \ ぴかぁ〜(35・無職)
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69 :
考える名無しさん:05/01/26 08:45:19
日曜日のニッテレの深夜番組に確かに出てた。あれは、びかぁそのひとに
もちがいないよね?
どういう奴だった?ヲタク系?
71 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 11:54:23
ん?
>>8 わたしのスタンスとしては、共感できることや同意できる内容、
あるいは、問うてみたいことに対してのみ、発言します。
なぜなら、わたしはここの板では批判できるほどの能力を
持ち得ていないからです。
批判するということは、書かれた内容に対してかなり深く理解し、
自分がそれとは異なる見解であることを、きちんと表現できる能力や
知識を必要とします。
わたしは、それらを持ち得ていないのです。
>>72 安心しろ。
ぴかぁもなんも理解してないから。
ぴかぁ〜さん
前スレからの続きの遅い書き込みで失礼します。
うまく整理できているかわからない状態ですが…。
>人は死を選ぶそのときに、究極の神のまなざしを手に入れるということです。
【前提1】人間の欲望とは他者の欲望である。
【前提2】人間にとって大文字の他者Aとは、神である。
【前提3】「私」が「私」であることを承認してくれる大文字の他者Aとは、神である。
「私」が死を選ぶという欲望は、他者A=神、の欲望である(だろう)。
ところが、他者A=神は死を選ぶことは悪であるがゆえに禁じている。
にも拘わらず「私」が死を選ぶということは、つまり、タブーを破るという行為は、
そこには当然強い悪の快楽がはたらく。
これが、――究極の「偶有性から単独性への転倒」の瞬間、すなわち、
究極の神のまなざしを手に入れる瞬間である、――
と解釈してよろしいのでしょうか?
(つづきます)
>ではなぜ人は死を選ばないのか?この究極のカードは
>使わないことによって、意味があるからです。
>切り札は使うことではなく、使わずにおきつづけることに意味があるのです。
死というカードは一回しか使えないものであります。
そして、このカードはいつでも使えるにも拘わらず、あえて使わないでいること、
そのことにこそ意味がある、ということですね。
仮に、何をしてもいい自由が与えられたとき、あらゆる悪を為す人もいれば、
あえて踏みとどまる人もいますね。
「使わずにおきつづける」切り札のカードとは、人はいつでも悪を為すことが
可能であっても、自らの意志で悪を為さないことにも通じているのでは?
と思いました。
76 :
考える名無しさん:05/01/26 14:02:02
溢れる汚物って、ぴかぁ〜 のことかな
77 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 17:09:44
なぜかわいい子を見るとセックスしたくなるのだろうか?
本能?制服欲?消費?
78 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 19:22:49
>>74 よくどんな生命もいつかは必ず「死ぬ」といいますが、これはまったくの嘘です。
どういうことかというと、たとえばドーキンスの「利己的な遺伝子」という考え方があります。
人は遺伝子を運ぶ乗り物である、という考えです。重要なのは遺伝子が世代を越えて
伝達されることであると、いうことです。ここで人の「死」とはなんだろうと、なります。
遺伝子が主であれば、遺伝子が伝達されないことが終わり(死)であり、
遺伝子が伝達されていれば、人の肉体が滅んでもそれは終わり(死)ではないのではないか?
ということです。
すなわち「死」とはなにか?肉体の滅亡?精神の停止?遺伝子の伝達不能?
「死」には定義が必要なものです。
79 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 19:29:56
ボクたちが「死ぬ」というとき、その定義は、どのようなものか?
ハイデガーは、人は「現存在」であり、その他の存在とは異なる。
人は世界に「関心(気遣い)する」存在である、と考えました。
「関心(気遣い)」の終焉が、人(現存在)の終わり(死)であり、
さらに人は「死」を自覚することができることで、「生の全体性」を意識できる。
人のみが死ねるのであり、その意味で人は動物とは違うのです。
またヘーゲルは、人は動物とは違う、欲望する存在である、
そして欲望は他者の欲望である、と言いました。
ヘーゲルは死には特に言及していませんが、
ヘーゲルの欲望≒ハイデガーの「関心(気遣い)」とつなげることができます。
(これがラカンの師匠コジェーブの読みなわけですが。)
ここから、人は死を自覚し、他者を欲望することによって、始まり、終わる一つの「物語」を
作り出す存在であると、考えられます。
80 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 19:45:57
ヘーゲル的、ハイデガー的な「人」は、世界へ関心(気遣い)=欲望することによって、
「人」であるといえます。
コジェーブは戦後のアメリカ型消費社会をみて、人が「動物化」していると言いました。
すなわち、人々が物質に満たされ、世界へ関心(気遣い)=欲望することが、
希薄化していると考えました。東は、ここから「オタクは動物化している」と言いました。
この「動物と人」の関係を、ボクは「偶有性と単独性」と呼びました。
だからボクが「偶有性から単独性への転倒」と言うときには、
人が「人」であろうとして、他者のまなざしを欲望することです。
そして他者のまなざしを欲望することによって、「人」は「死」ねるといえます。
81 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 20:01:17
「人は死を選ぶそのときに、究極の神のまなざしを手に入れる」ということは、
私が「死」を選ぶときに、完全に「人」になる、物語を完結させるだろうということ、
=人が人であるための「死」の究極性は、人々によって共有されています。
そのために、「死」を選ぶことによって、他者たちに大きな衝撃を与えるだろう=
他者たちのまなざしを手に入れるだろうということです。
そして究極的な他者とは、超越的他者であって、「神(大文字の他者)」です。
82 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 20:02:08
ではなぜ人は死を選ばないのか?といえば、この究極のカードは
使わないことによって、意味があるからです。
死んでしまうと、偶有的な存在に戻ることをまた知っています。
「私」という「物語」は完結しても、世界は終わることなく、
続いていくことを人は知っています。
だから「死」という切り札は使うことではなく、使わずにおきつづけることに
意味があるのです。
83 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 20:10:31
人が生きるとは、私の存在、そして生きていることが特別な時間である。
そしてみんながそれを望んでいる、という自己中心的な強い思いこみと
いうことになります。
だから欲望し、欲望されること=
愛し、愛されること、望み、望まれること、逆説的に憎しみ、憎まれることによって
人は、その思いこむことを支え、生きることができると言えます。
84 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 20:11:16
そしてまた「死」ぬことができる、と言えます。
85 :
ぴっか〜とん:05/01/26 20:12:05
しどうあげ
86 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 20:14:19
当然、この「思いこみ」とは、意識的、思惟的なことではなく、
ハイデガーが「人は「現存在」である」
ヘーゲルが「人は他者の欲望を欲望する」というように、
生理的な、無意識的なものであって、
人が逃れられない「性(サガ)」であるのですが。
「なぜボクは社会でなくネットで欲望を満たそうとするのか?」
88 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 22:41:55
「私はなんのために生きているのか?」ととうことは、
飢え死にしかけのホームレスが、おれには銀行に1億円の預金があるんだ。
なにに使おうかなと、にやにやするようなものである。
そもそも「私」というのはなく、そしてない「私」が生きていることもない。
89 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 22:43:27
しいていえば、「私」であろうとする持続力があるだ。
90 :
考える名無しさん:05/01/26 22:45:50
-=・=‐, =・=-
91 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 22:48:37
ハイデガーはデカルトのコギトを、自己表象化であるといった。
私の前の私を表象する。私の前の私をまなざす。
そしてラカンの鏡像理論に対応できるだろう。
私の前の私とは、鏡像=私が投影されただろう他者である。
私は、私の前の他者を、表象された私であると錯覚するのである。
しかし重要なことには、投影される前にそもそも「私」はないということである。
他者が私に投影される=他者の欲望を欲望することにより、
「私」を表象しようとするのである。
92 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 22:51:47
すなわち他者のまなざしとは、表象された私への私のまなざしである。
他者のまなざしを通してしか、表象された私は見ることができないのであり、
さらには、そもそも私はないのであり、明確に見ることができないのである。
他者にまなざされたときにのみ現れる幻影のようなものである。
だからまなざされることによって、快楽を味わうのである。
93 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 22:53:17
だから「私」であろうとする持続力とは、
他者にまなざされようとしつづけることである。
94 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/26 22:59:28
そのために、欲望しつづける。すなわち(商品のフェティシズム(物神性))を消費しつづけ、
コミュニケーションし続ける。
ぴかぁ〜さん
大変丁寧な長文の回答、ありがとうございます。
わたしは前スレ同様、スロー・ペースですが、よろしくお願いします。
>>78 >よくどんな生命もいつかは必ず「死ぬ」といいますが、これはまったくの嘘です。
同意します。
たとえ遺伝子を次世代に伝えられずに、その世代のみで生を終えたとしても、
そこで終焉ではないと思います。
例えば、落ち葉は朽ちて堆肥になり、春になるとそこから新芽が出ます。
これは遺伝子とはまったく関係ない一例ですが、朽ちた落ち葉は「死ぬ」のでは
なく、新しい世代の大切な栄養素となりますね。
>>79 わたしたちが今使っている石油という資源は、数億年前の生物の死骸が化学変化を起こしてできた化石燃料です。
すでに死に絶えた大昔の生物がくれた恩恵に与って、わたしたちは生きていると
言えると思うのです。
人の場合は、遺伝子として次世代を残さなくても、思想、作品(文学、音楽、絵画など)
を残すことによって、普遍的かつ永遠なるものを伝えることができるのでしょう。
>さらに人は「死」を自覚することができることで、「生の全体性」を意識できる。
>人のみが死ねるのであり、その意味で人は動物とは違うのです。
逆説的ですが、人は「死」を意識したとき、初めて「生」を強く意識しますね。
つまり、死の影に怯えることなく普通に生きているときは、人は「死」を意識
することはあまり無いと言えるのではないでしょうか。
>>79 >ハイデガーは、人は「現存在」であり、その他の存在とは異なる。
>人は世界に「関心(気遣い)する」存在である、と考えました。
>「関心(気遣い)」の終焉が、人(現存在)の終わり(死)であり、
質問なのですが、
人が世界に関心を持たなくなること、それがひとつの「死」だとすれば、
人が他者を欲望しなくなることも、ひとつの「死」と考えてよろしいのでしょうか?
もしそうであるならば、これが人と動物との決定的な違いと言えますね。
>>80 >ヘーゲル的、ハイデガー的な「人」は、世界へ関心(気遣い)=欲望することに
>よって、「人」であるといえます。
>だからボクが「偶有性から単独性への転倒」と言うときには、
>人が「人」であろうとして、他者のまなざしを欲望することです。
人が人たり得るためには、世界へ関心(気遣い)を持つこと、
ここで言う世界とは、自分の閉じた内なる世界ではなく、外側の開かれた世界
という意味ですね?
一素人の素朴な感想なのですが……、
哲学者とはつねに思索の人であり、思索とは外側の世界を遮断し、自ら内なる
世界に籠り孤独に徹し続ける人、という先入観を持っていたのですが、
ちょっと意外でした!
>そして他者のまなざしを欲望することによって、「人」は「死」ねるといえます。
これは同時に、他者のまなざしを欲望することによって、「人」は「生きる」こと
ができる、にも繋がると思います。
>>81 >人が人であるための「死」の究極性は、人々によって共有されています。
>そのために、「死」を選ぶことによって、他者たちに大きな衝撃を与えるだろう
他者たちに大きな衝撃を与えることは、他者のまなざしを確かに手に入れる
ことはできるでしょうね。
けれども、その「死」を選ぶ行為は、世界に「関心(気遣い)する」ものでは
ないなあ、というのが率直な感想です。
ハイデガーの言うところの人としての終焉は、実際的な死にもあてはまると
思いました。
そして同時に、死を選ぶことは、ひいては究極的な大文字の他者=神に対しても
気遣いしていない、と言えるのではないでしょうか?
>>82 >死んでしまうと、偶有的な存在に戻ることをまた知っています。
>「私」という「物語」は完結しても、世界は終わることなく、
>続いていくことを人は知っています。
何と言いますか、人とは実に矛盾した考えを持った複雑な存在ですね……。
一方では、「死」を選ぶことで他者たちや神のまなざしを手に入れたい、
と望み、
もう一方では、「私」が滅んでも(再び偶有的な存在に戻ること)世界は
続いていく、それは嫌だ、つねに「ただ一人の私」(単独性)でありたい、
と願います。
この欲望が「死」というカードを切らせずに、人を生かしているのだとすれば、
人間の欲望は他者の欲望であることを、歓迎せざるを得ないと思います。
>>83以降については、また、少しずつ考えて書き込みしたいと思っています。
ありがとうございました。この辺で失礼します。
――それでは。
101 :
考える名無しさん:05/01/27 21:38:39
しどうあげ
102 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 00:56:04
>人が世界に関心を持たなくなること、それがひとつの「死」だとすれば、
>人が他者を欲望しなくなることも、ひとつの「死」と考えてよろしいのでしょうか?
ハイデガーの関心≒ヘーゲルの欲望
という意味でそうなりますね。
103 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 01:01:37
>けれども、その「死」を選ぶ行為は、世界に「関心(気遣い)する」ものでは
>ないなあ、というのが率直な感想です。
>ハイデガーの言うところの人としての終焉は、実際的な死にもあてはまると
>思いました。
>そして同時に、死を選ぶことは、ひいては究極的な大文字の他者=神に対しても
>気遣いしていない、と言えるのではないでしょうか?
これは、
>よくどんな生命もいつかは必ず「死ぬ」といいますが、これはまったくの嘘です。
に繋がります。
「死」は、「関心(気遣い)する」=欲望が無ければ、ありません。
人でなければ「死」ねない。
生の彼岸に、「死」というあるという「関心」からしか、
「死」はうまれません。
人しか、自殺できないのは、そのためにですね。
ぴかぁ〜さん
レス、ありがとうございます。(
>>102-103)
>「死」は、「関心(気遣い)する」=欲望が無ければ、ありません。
>人でなければ「死」ねない。(
>>103)
なるほど…。
どうやら、わたしはまったく違う意味に解釈していたようです。
世界に「関心(気遣い)する」ということは、世界=私が生きている世界であり、
この世界に関心がなくなる(気遣いしなくなる)、つまり、背を向ける行為が
「死」を選ぶことである、ととらえていました。
そうではないのですね。
「死」を選ぶことそのもの(行為)が、欲望であり、
その欲望とはイコール「関心(気遣い)する」ということなのですね?
「死」に関心があるもの=人しか自殺できないのは、そのためなのですね。
わたしは、これからもトンデモナイ解釈や読み違いを多々しでかすとは
思いますが、その都度、補足や訂正をしていただけると、
とてもありがたいです。
105 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 16:37:59
>>104 そもそも「私」というのはないのです。「私であろうとする欲動」=欲望=関心が
「私」という幻想を作り出しているのです。
「私」がなければ、「私」の「死」の幻想です。
「私であろうとする欲動」=欲望が、「私」を作り出す方法が、
他者の欲望を欲望する=他者にまなざされることなのです。
だから「私」であろうとまなざしの快楽を求めるのです。
「死」を選ぶことよりも、まず「死」を作り出すこと、「私」を作り出すことが
重要です。
「死」がなければ、自ら「死」を選ぶこともできなせんから。動物のように。
より「私」を作りだそうとする、あるいは今の「私」を保持しようとする方法として、
タブーを越えることが行われます。その一つが「死を選ぶこと」です。
106 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 16:39:38
「私」がなければ、「私の死」も幻想です。
107 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 17:14:30
もう一度、「私とはなにか?」と考えると、
「私」は、「私であろうとする欲動」=欲望=関心が作り出す
「像」だと言えます。
それは必ずしも、身体と同一ではなく、位相的な「像」です。
しかしこれは必ずしもデカルト的な心身二元論ということでもありません。
身体と「私」という像は密接に結びついているからです。
たとえば「私であろうとする欲動」とは、物理的な反復です。
そのはじめは、母の乳と口唇との接触部の振動と言われています。
108 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 17:23:19
しかし「私であろうとする欲動」が、作り出す「私という像」は、
私の身体に拘束されません。
たとえば、母親が自分を犠牲にして、子供を助ける場合には、
母親にとっての「私」には、「私の一部」とし子供も含まれています。
これは特別なことではなく、誰もが「私とはなにか?」と考えれば
わかると思います。
人間関係、所有物、社会的な地位などを含めて、私であります。
そして、財産や大切な人が失われたときに、自ら「死」を選ぶことがあります。
それはすでに「私の一部」が失われて、「死にかけている」ためでしょう。
109 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 17:36:56
この理由は、「私であろうとする欲動」=欲望が、他者の欲望であるからです。
他者を投影することによってしか、「私の像」が作り出せないからです。
このために「私」は身体に閉じることができずに、世界との関係によってしか
作り出せません。
馬鹿
いやん
112 :
考える名無しさん:05/01/28 21:52:04
少し通俗的なネタを投下してあげよう。
今の日本の言論界で、国民に浸透力のある言説をただ一人放っているのは
細木数子だけだよね、絶対。さっき、その人がテレビで言ってたけど、
このままで行くと日本国民はあと15年ぐらいで全員、餓死するのだそうです。
まあ、オーバーだけど、あながち間違っていないような気もする。
高齢者が多いし、若い層がニートとネットでお茶を濁してぼやーっと
してれば、自然にそうなるよね。女性天皇の問題にも言及して欲しかった。
これ、将来実現する可能性高いと思う。
私が予想するに未来からやって来る新しい哲学者もきっと女性であり、
それは科学的というよりもシャーマン的な実存を多分に有しているでしょう。
なぜかと言えば異常に分断化された情報化社会では、専門家の個別的な見解など
よりも、そうした言説の方が包括的に社会を把捉し、そのイメージや問題点など
をより良く、一般人に伝達することができるから。
113 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 22:33:26
本物のネタやん・・・
114 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 22:54:38
シャーマンとは、未知=謎に対して新たな神話を語るものです。
現代における、科学者もシャーマンであるわけです。
ようは、科学とはなにか、ということですが、
それは、「多数の同意」の上にしか成り立たないと言う意味で、
現代のもっとも支持された神話であるわけです。
細木数子は視聴率を取っている意味で、シャーマンとしては
成功しているといえなくもないですが、
現代のシャーマンはより科学的な無ければ、科学という神話を
語るものである必要があるでしょうね。
その意味では、ビルゲイツとか、グリンスパンとか、小泉とかの方が、
シャーマンでは?
ぴかぁ〜って馬鹿だよな。
いや、シャーマンは未知を紐解く単なる語り部、解説者と
いうよりも、その御当人自身がヴェールに覆われた深遠を
持つ謎のようなものでしょ?何かが降りて来てるんだから、
ああした特殊な能力で私達の平均的な既成概念や象徴界を
宙吊りするような能力を楽しそうに発揮してるという訳ですよ。
117 :
考える名無しさん:05/01/28 23:32:27
ぴかぁーさんは、なかなか頭いい人だと思いますよ。
哲板では、なんやかんや言っても一番影響力ある
コテハンさんなんじゃない?レスは少なくても、
みんなこの板来る人はここ読んでますよ、たぶん。
シャーマンの域まで、もうすぐ?ahaha
118 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 23:32:45
シャーマンをスタイルで捉えても意味がないよ。
何かが降りくる電波ビンビンなど、腐るほどいるんだから。
「多数の同意」を持ちえらたものと言う意味で捉えないと。
細木数子一人だけが浸透力あるんですか?
フリーペーパーの占いだって、結構なもんですよ。
それとオウム的な問題を振り返れば、その「多数の同意」を
得られる筈の科学の価値体系だけでは決して生きられないという
実存的な問題が一部の人間に発生して、その信者たちは破滅した
のであるけれども、科学的な真理値だけではレゾン・デートルを
決して見出せない、みたいな層はまた結構出て来るんじゃないの?
それで、引きこもりやニートなどの人達にもそういう部分があるのかな?って。
幻想的に母胎回帰して、なんとか精神を維持してるみたいな感じではなくって?
ネットの中だけで何かをしようと企図する人間にも、それに似た感触を覚えるね。
121 :
考える名無しさん:05/01/29 00:07:23
811 名前:ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 23:56:03
▲ ▲
__ \ ヽ、 / /
ヽ ` ̄\_ \ `ー一'´ <
`ー-、,_ \ / _ノ' 'ヽ、_ヽ
> / / -=・-, 、-=・-、
/ / / ●⌒) ・_・)⌒● エッ?
\ \ /▲ ┃トョェェイ┃ l
> > /▲ l ┃ヽニソ┃ ノ
\ \l ヽ ヽ ┗━┛ l
> ノ ヽ、__) (_ノ
 ̄`\ ) <
`'r,_c〈 ──r,_c<
122 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 00:52:40
>>120 「シャーマン」のとらえ方の違いかな。
「シャーマン」という時代遅れ、うさんくささという意味が含まれているという意味での
「シャーマン」ということかな。
そうではなくて、「シャーマン」の原理的な、本質的な意味に踏み込むと、
「科学は呪術である、科学者はシャーマンである」ということが見えてくる。
すなわち謎(タブー)をシニフィアンへと転換し、人々の「多数の同意」を元に神話を
提供する、という意味で。
だから、科学/非科学の境界でものを言っても仕方がない。
確かにより科学的な(反証可能性が高い)言葉は、分節化が進んでいるという特徴から
人の余剰を乗せにくい。
たとえば、「歌手にありたいから、がんばる」という人に対して、
「統計的に歌手として成功するのは、約0.003%しかない」といってしまうことは
思い入れをくじく。
そうではなくて、科学が現代では、分節化が進みすぎている故に、もはや専門用語
が理解できない。故に、シャーマン的になるということ。
医者は、科学的に理解できない専門用語を並べ立てることによって、信用される、
みたいなこと。
123 :
鳥肉:05/01/29 00:55:35
なるほど・・・。意外といいこと言うね?
124 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 00:59:57
実は、オウムの成功も、このような面をもっていると言われているよね。
宗教的な用語を科学的な専門用語のように構造化することによって、
煙に巻くというか。だから科学的なものをうまく利用している。
サリンをつくったりした科学省?みたいなものがあったり、
コンピュータを製造販売したらい。
>それで、引きこもりやニートなどの人達にもそういう部分があるのかな?って。
>幻想的に母胎回帰して、なんとか精神を維持してるみたいな感じではなくって?
>ネットの中だけで何かをしようと企図する人間にも、それに似た感触を覚えるね。
これはちょっとわからなかった
125 :
考える名無しさん:05/01/29 01:16:29
811 名前:ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/28 23:56:03
▲ ▲
__ \ ヽ、 / /
ヽ ` ̄\_ \ `ー一'´ <
`ー-、,_ \ / _ノ' 'ヽ、_ヽ
> / / -=・-, 、-=・-、
/ / / ●⌒) ・_・)⌒● 「歌手にありたいから、がんばる」
\ \ /▲ ┃トョェェイ┃ l
> > /▲ l ┃ヽニソ┃ ノ
\ \l ヽ ヽ ┗━┛ l
> ノ ヽ、__) (_ノ
 ̄`\ ) <
`'r,_c〈 ──r,_c<
だから、一般社会の枠組みから自発的に降りてしまっている人たちは、
このスレタイとは逆に、まなざしが快楽には少しもなってなくて、
その理由は色々あると思うし、自分にはよく分からないけど、
他者のまなざし(価値体系・フレーム)がその人にとって不快及び、苦痛の
対象になっているからこそ退却というか、一種の退行の様相を呈してしまって
いるんじゃないの?ネットだと多少は匿名化されるから、そうした人でも
何とかコミットできるスペースとして機能できるというか。
>>122>>124、ほぼ同意。
それと眼差しと言っても、それはあくまで差異の戯れ、限度ない相対化の海に
ユラユラして船酔いしているような状態だから、そういう人にはニヒリズムが
形成されやすいのでは?そして平面的なその戯れに耐えられない人たちが、
今度は極端な垂直的価値にフルコミットしてしまうというのも分かるんだけど、
私は、こうした宗教的なモノ(言説)がこれから必要になって来る人が増えると思うな。
科学の価値体系や資本の論理、あるいは生理学的な快・不快だけでは回収できない
ような、形而上学的なファクター。まあ、バランスなんだけど結局は・・。
127 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 02:39:37
>他者のまなざし(価値体系・フレーム)がその人にとって不快及び、苦痛の
>対象になっているからこそ退却というか、一種の退行の様相を呈してしまって
>いるんじゃないの?ネットだと多少は匿名化されるから、そうした人でも
>何とかコミットできるスペースとして機能できるというか。
まなざされることの不快は、まなざしの快楽から来ているということですね。
たとえばフーコーのパノプティコンのように、まなざしは、人をある価値(シニフィアン)へ
拘束する力を持ちます。
この拘束されるということは、象徴界への参入であり、「私」の獲得でもある。
だから本質的にこれは快楽なのです。
ここでも快楽と、不快の関係を、単純な例で説明すると、
裸で生活するのは、いやなので、服を着るわけですが、その服は他者からもらうしかない。
しかし必ずしも自分の気に入った服をもらえるとはかぎらない。
でも裸でいるよりもましである。ということですね。
このように考えると、「一種の退行の様相」というのは、豊かになり、価値が多様になっている
ために、服をもらえる他者を選ぼうとしているわけです。
今までなら、家族や学校など地域的な社会の他者から服をもらうものだった。
でも往々にしてダサイですよね。親の勝ってきた服なんって。
だからもっと広く「他者」を捜す。それは、社会性(現前性)を越えていく。
オタクのように趣味を同じくする、そして現前で会うことはない他者、
ネットコミュニティ上の趣味を同じくする、匿名の他者
などに向かうわけですね。
さらにいえば、他者の多様性は、「もらえる服」の交換の早さにもつながります。
次々に他者を交換していく。
これは、欲望と満足のサイクルの加速化、すなわち「動物化」ということですね。
まなざざれるって何だよ。アホか?
キーワードを適当に散りばめれば人が寄ってくると思って
好き勝手に使うなよな。
129 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 02:47:41
>私は、こうした宗教的なモノ(言説)がこれから必要になって来る人が増えると思うな。
>科学の価値体系や資本の論理、あるいは生理学的な快・不快だけでは回収できない
>ような、形而上学的なファクター。まあ、バランスなんだけど結局は・・。
このような最強の他者は、神ですね。完全に満足する「服」を提供してくれるわけですから。
しかし「神は死んだ」のですから、そんな超越的な「服」は望めないわけです。
だから、趣味、消費、ネットコミュニケーションの無効の他者へ目指すわけです。
そして現代の「宗教的なモノ(言説)」も、その一つでしかない。
モーヲタであることと、オウムに入信することに大差はないわけです。
あえて言えば、つんくよりも麻原の方が、マインドコントロール技術に長けているわけですね。
現代において、科学の価値体系、資本の論理などは、リアルであるから、それをうまく使うことで
人々がより魅力的と感じる「服」をつくることができる。一つのアイテムということです。
欲望は欲望でも他者を介在させない欲望。つまりパースペクティブの構築過程としての欲望が先にあり次に事実的現前の他者に対してもつ欲求を希求する欲望が前者を基盤として生まれてくる。
米国でもイラクでも神は健在じゃないのかな?
132 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 02:57:17
>>130 他者を介在させない欲望などないでしょう。
それは、鏡像段階でも、象徴界への参入(言語の獲得)を考えれば
わかります。これは、人間ほどでなくても、動物でも見られることですね。
まなざし等無くても私は私だよ。私は身体から離れないよ。まなざされる事等無くても私がまなざせばいいんだよ。
134 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:06:51
>>133 「君」は、ほぼ100%まなざしでできている。
そんなわけないでしょう。
じゃあ、それを証明してください。
136 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:14:14
>>131 >米国でもイラクでも神は健在じゃないのかな?
まず神には二種類います。宗教的な神と内的な神(超越的な他者)です。
内的な神(超越的な他者)はだれの中にもある「まなざし」です。
たとえば、誰でも頭では疑っていても、運命、奇跡をもっていまし、
神聖な気持ちになったりします。
宗教的な神は、体系的な言説によって、人々の内的な神(超越的な他者)を
同期させるものです。
ニーチェが「神は死んだ」と言って時には、キリスト教的な神=宗教的な神への
盲目的な信仰の終焉を言ったわけです。
米国、イラクでの信仰心は、体系的な言説への信仰の強度ということになります。
米国はよくわかりませんが、イラクでは強い強度が残っているのでしょうね。
眼差しで出来ているのは対象の世界だけで十分なんだよ
財産の無い私も私なんだよ
他者の居ない私も私で在り続けるんだよ
他者など無くてもまなざす対象があれば十分なんだよ
138 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:20:32
>>135 ヴィトゲンシュタインのパラドクスというものがあります。
人は行為を行うために規則を必要としますが、
その規則がなぜ規則として成り立っているのだろう、ということです。
その解答の一つが、その規則を「みなで共有しているだろう」という内的な確信です。
あなたの中で、あなたの行為を承認する「超越的な他者」が内在しているということです。
すなわちこれが「まなざし」であり、「まなざし」がなければ、
原理的には、あなたは一歩も歩けません。
多くのおいて、これは言語の習得を表すでしょう。
言語習得とは、他者のまなざしを内在することです。
「だれのなかにもあるまなざし」は超自我を思い起こさせるけど、そういう意味?
まったく個人的な規則もあると思われ。おかずを食べる順番とかw
141 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:27:19
>>139 フロイト的分類は、好きではないのですが、
近いですね。
ラカンの象徴界という方が近いでしょう。
142 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:27:58
そういう超越的な他者は時と場合によっていくらでも
造り出せばいいじゃないか
他者の居ない状況で超越的(共有的)な言語に何の意味があろう
個人的な規則はどう説明するんですか?
145 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:32:01
>>143 もっと簡単にいえば、いま君は「私」という統一感、自己同一性を
もっていますね。そこにどのような根拠があるのでしょうか。
それをささえているのが、まなざしです。
説明しようがない小石川
147 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:33:06
>>147 そうだと、自由意志がないことになりますが。
149 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:36:23
>>148 自由意志とはなにか、ということですね。
他者のまなざし達の総体としての私の行為は、私の自由意志である。
ということですね。
規則は作り出されるものじゃないかな?内外の条件をすりあわせて。
それが共有されるかどうかは別だけど。例えば流行語の用法。
??
他者のまなざし=私ではないでしょう?
他者は他者で、私は私でこのすきまは埋められないものでは。
>>145 根拠はまなざし?
私が統一感を持たざるを得ないのは
「私がまなざす」からなんだよ
それには他者など不要で、「私がまなざす」対象があればいいんだよ
153 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:40:04
>>150 言語を考えるとわかりやすいですね。
生き物のように絶えず新陳代謝を繰り返しています。
それを支えるのが、コミュニケーション(まなざしの交換)ですね。
154 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:41:32
>>152 私が私をまなざすとは、私は他者のように私をまなざす、
ということです。
そこには他者(言語)が介在しているわけです。
まず、神は生きたり死んだりする生物じゃないと思う。
これは内的直感だけで言ってるだけだから、スルーしてください。
哲学史における「神は死んだ」という言説は、どちらかと言えば教会的な権威や
そこで生産されて来た宗教的な言説が科学の勃興で相対化(無化)されてきたと
いうだけであって。イスラム原理主義者などは、今でもアラーのために殺人までしてます。
そう、
>>129で言われてる「服」は、まあ「承認」や「幸福」と呼び換えてもいいのかな?
と思うけれど、そうした凡庸なパーツいじりとシーニュの組換え、操作に、人はやがて
飽きるだろうし、またそんな自由がずっと許されていることもあまりないんじゃない?
厳しい現実は、誰にでもいつか襲ってくるし。趣味に戯れてばかりもいられないでしょ?
仕事でやってるならいいんだけど。コスプレ好きの女子が老人になった時、それをまだ
10代の頃のように楽しめますか?
宗教的な聖性さえもまた消費化の対象になり、容易にツール化、アイテム化
されてしまうという意見には納得なんだけど、ただ、人が人生の途上で
大きな困難や苦難に遭遇した時に、そうした遊びレベルの宗教感覚ではなく、
もっと本格的にその苦難を超越論的な次元でポジティヴに意味付けたり、
あるいは癒すことのできるような言説、イデアが多少はあるといいのでは?と
思ったけど、よく考えると難しいなぁ。また今度、その辺について考えておこっと。
156 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:43:14
>>151 他者は他者で、私は私でこのすきまは埋められないもの。と、
他者のまなざし=私は、対立しないですよ。
私がぴかぁ〜さんをまなざしたとしても、それがぴかぁ〜さんの
自由意志を基礎づけることにはならないのではないでしょうか。
同調圧力という言葉があるがすべて同調するわけじゃないし。
やはり内外のすりあわせがある。
>>154 どうして私が私をまなざさなくてはならないんだよ
160 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 03:59:47
>>155 >厳しい現実は、誰にでもいつか襲ってくるし。趣味に戯れてばかりもいられないでしょ?
>もっと本格的にその苦難を超越論的な次元でポジティヴに意味付けたり、
>あるいは癒すことのできるような言説、イデアが多少はあるといいのでは?と
私は、近代の根底にテクノロジーの進歩を考えています。
「神を殺した」のも宗教的言説から、科学的言説への転換ですね。
その意味で現代は情報化社会、言説が拘束で飛びかう状況=象徴界の活性化と
ということだと思います。
そして、このようなダイナミックな状況が、「もっと本格的にその苦難を超越論的な次元で
ポジティヴに意味付けたり、 あるいは癒すことのできるような言説」という
スタティック(静的)な言説を絶えず揺らしているのです。
161 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:00:51
だから
>そうした凡庸なパーツいじりとシーニュの組換え、操作に、人はやがて
>飽きるだろうし、またそんな自由がずっと許されていることもあまりないんじゃない?
のではなく、そうせざる終えない、ということです。それは自由であるが、また
不安定ともいえます。
>仕事でやってるならいいんだけど。コスプレ好きの女子が老人になった時、それをまだ
>10代の頃のように楽しめますか?
最近の老人の楽しみはなんですか。ペットの過剰な愛情?宗教というコミュニケーション場であり、
イベント場への参加?
162 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:02:16
>>157 小さくても、私の中に、まなざしとして影響を与えますよ。
163 :
考える名無しさん:05/01/29 04:02:23
人間はいろんなサルにたとえられるけど
一番本質を着いているのは
道具を作るサル
だからテクノロジーこそ生物としての人間を特徴付けるものだ。
アーン、誰かと間違えてる。完璧に・・
ぴ氏より、ずっと若いし。
165 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:05:09
166 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:07:53
>>164 ん?
最近の(世の)老人の楽しみはなんでしょうか。
167 :
考える名無しさん:05/01/29 04:10:22
言語をもってる動物はたくさんいますよって言うバ化と同じw
私は私を物語化出来るけど
物語化しなくても私の根拠が無くなるわけではない
むしろ本来の私は物語化されていない
169 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:13:54
最近、知識人の中で流行っているのは「自由とはなにか?」
ですね。
情報化社会、言説が拘束で飛びかう状況=象徴界の活性化という
ダイナミックな中で、
スタスティックな「倫理」を構築することの難しさが、
「楽しみ」になっています。
pのなかでは知識人=竹田w
171 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:15:57
>>168 心身二元論的にいえば、
その文中の4つの私は、どのように分けられるのかということですね。
>>171 「私を認識する事」と「私」は違う、ということ
173 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:20:28
>>173 「私」は対象が存在する事によって確立出来る、
この「私」は結果的な「私」である
「私を認識する事」は私という他者が要る
175 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:37:53
デカルト?
いや
「不可視な私」とでも言おうか・・・
159=174
です
177 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:40:17
「私」という自己同一性が、すでに始めにあるように
語られることが、形而上学的ということでしょうか。
178 :
考える名無しさん:05/01/29 04:44:39
鏡見て大好きな自分が自分を見ているので脳内ドーパミンがとまらない快感の嵐。
いわゆるナルシスト。
そういう奴って自分が好きっていう点だけが変てことなのかな。
179 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:47:42
ナルシシスムは、想像的な関係の基本です。
鏡を見ている私は、他者が見てるように見ている。
他者のまなざしで見ているのですね。
鏡見て脳内ドーパミンがとまらない快感とは、
他者に見られている、まなざしの快楽です。
180 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 04:48:41
いわゆる、普通ですね。
んじゃ、ぴかぁ〜もまなざしの快楽を求めに
このスレに来てるってことだな?
>>177 の質問の意図がいまいち分らないのですが
「不可視な私」では鏡(私を映すものとしての)は存在しません
鏡は無くて窓しか無い
183 :
考える名無しさん:05/01/29 05:19:29
自分が一番他人だと思っていて、大好きだったらナルシストとなっちゃうのかな。
184 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 06:02:20
ええっとつまり
172で「私を認識する事」と「私」は違うと言いました
この区別での「私」を、まなざされない私、「不可視な私」と呼びます
174ではこの「私」=「不可視な私」は対象が存在する事によって確立できると言いました
私は反論してるんです
そしてこの「私」はまなざされるのでは無くて、まなざす事によって私を確立します
ぴかぁ〜さんは「私」という自己同一性がすでに始めにあるように語ってはいないですよね?
186 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 15:29:56
「まなざしの私」と「不可視な私」と対比は、ラカンの小文字の他者aと
対象aの対比のようでおもしろいなと、少し思いましたが、
そのような意味ではないのかな?
>そしてこの「私」はまなざされるのでは無くて、まなざす事によって私を確立します
まなざすことは、まなざされることなのですね。
他者を見ると言うことは、他者のまなざしを通して、自分を見ているということなのです。
想像的な関係とはそういうことですね。
187 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 16:15:46
昨日の議論がおもしろかったので、はてなに
まとめました。
(2ちゃんねる哲学板)なぜ「神は死んだ」のか?
ラカンがどう言ったかは知りませんが
>まなざすことは、まなざされること
「不可視な私」にとって、他者は単なる対象です
他者のまなざしを通して自分を見る事ができません
この対象は捏造されますが、「不可視な私」の行為を承認する積極性を持ちません。
対象をまなざす事が最終的に私を確立します、しかし「不可視な私」が求めているのはあくまで対象であって、「私という私(物語化された私)」ではないのです
そして「不可視な私」は、眼差されない故に私であるのです
189 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 17:58:25
>>188 まなざしとは、まずもって現象学的に捉えなければなりません。
すなわちまなざしは主体の内的なものですかないということです。
まなざすとは、「関心」をもつというようなことですが、
ほんとうに他者が関心をもっているか、どのように関心をもっているか
ということは、主体にはわかりません。
すなわちまなざしは主体の内的にしかない、他者は関心をもっているだろう
こと、捏造されたものでしかないのです。
だから少女は浜崎あゆみをまなざし、またまなざされることができるのです。
190 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 18:04:52
だからまなざしとは、まなざされることなのです。
他者のまなざしを通してしか自分を見る事ができません。
「不可視な私」という超越的なシニフィアンの内実はよくわかりませんが、
まなざしを光学的な、物理的なものとして、語っているだけで、
私の言う「まなざし」と同じことを言っているのではないでしょうか。
191 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 18:38:33
インリン オブ ジョイトイの魅力は、あえてのベタさである。
192 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 18:42:59
すなわちそのベタさが魅力となる特異性である。
その一つの要因が「外人」ということではないだろうか。
芸能界において、「外人」枠と言うべき、「外人」であること
このものが差異化された枠がある。
そこでも魅力は、外人であることそのものである。
そしてこの外人であるという差異化の価値は、
世間知らず、幼稚性、ということである。
片言の日本語というベタなボクさが、
彼らが外国人であることによって、リアリティをもつことができる。
193 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 18:44:19
そしてさらには、神秘性である。
外国ということが超越性を生むのである。
>>190 他者のまなざしを通して見えるのは捏造された自分であり物語化された自分です、そこに「不可視な私」は見えません
私は私に関心を持たない場合でも私で在り、物語化された私を捨てても私で在り続けるのです。
(この場合)まなざしが物理的というよりも、他者が物理的、物質的なのです。捏造される他者なのですが物質的です。
195 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 19:52:17
>>194 少しずつ、ボクとの差異が見えてきましたが、
>私は私に関心を持たない場合でも私で在り、物語化された私を捨てても私で在り続けるのです。
これは、理念的なものと考えていいのでしょうね。
そうありたい、ということですね。
>>195 いいえ、まあ全く理念的と言えない事も無いのですが
「私」に関心を持たない場合でも「不可視な私」は在り、「物語化された私」が無くなったとしても「不可視な私」は在り続けるのです
「不可視な私」は潜在的ではありますが明白にあります
なぜかというと、まなざす対象があるからです
なぜまなざす対象があると私が確立されるのかというと
まなざす対象に、私が無いからです、つまり「鏡は存在しない」わけです
197 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 20:42:21
>>196 理念的でないのならば、もう少し論理展開する必要がありそうですね。
そうしないと、議論することができません。
198 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 20:52:29
おもしろいと思うのは、実は、言っていることは、
ラカンの対象aを巡る論説にとても近いのですね。
私はそもそも無である。私が欲望する(まなざす)対象は鏡ではない、穴である。
しかしこれは私のまなざしの快楽にも繋がります。
論理展開してるつもりですが、
いまいち伝わらないようですね
まあ私が説明下手なのですが・・・
>しかしこれは私のまなざしの快楽にも繋がります。
どのように?
201 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 21:38:34
202 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/29 22:00:43
>>200 まなざしとは、正確には鏡像関係ではありません。
主体がまなざしているのは他者という物質的な対象ではなく、
他者がまなざしているだろう主体自身です。
しかし主体はその始めに「去勢」により失われています。
すなわちまなざしの先の他者は鏡であり、また穴です。
203 :
考える名無しさん:05/01/29 22:03:05
きちがい
204 :
考える名無しさん:05/01/29 22:04:57
吉が胃
>>201 理念系電波?
意味不明でわけがわからないと言いたいのですか
>>202 なぜ主体は、他者がまなざしているであろう主体自身をまなざすのですか?
206 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 00:30:11
>>205 自己表象するためです。
私とはなにものであるのかを、表象するためです。
そのためには、私は他者を迂回することによってしか、私をみることができないのです。
だから他者をまなざすことによって、他者がまなざしているだろう私をまなざしているのです。
他者を迂回して、自己表象しているのですね。
207 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 00:37:38
説明すべき論理性があると信じて、つっこんでみましょう。
・「「物語化された私」が無くなったとしても「不可視な私」」とは、具体的などのような私でしょうか。
・「まなざす対象に、私が無いと、私が確立される」とは具体的に、どのような状態でしょうか。
・>「不可視な私」は潜在的ではありますが明白にあります。
潜在的、明白とはどのような意味ですか?
>>207 具体的に言うと、何かを観測している私です。
たとえば猫を見ています、猫が箱の中に隠れました、猫は隠されていて見えません。
しかし猫は居ます。単に箱の中に隠れただけで見えないだけです。(実際には猫は居ないかもしれませんが、猫を捏造しています)。
猫が歩くには地面が要りますし、猫が歩くには空間が要ります。猫が存在するために様々なものを捏造します。
しかし猫が歩くために私は要りませんから、捏造はされません。そして私自身を観測する事は出来ません。
猫が私の目を通る事は出来ませんし、通ったとしたら私には目がありません。私の目が地面になる事はできるでしょうか、私の目は地面にはなり得ません。
もし私の目が地面であったらそもそも見えないからです
猫になり得ず、地面になり得ません。これを無数に繰り返していきます
そうすると消去法的に浮かび上がります。猫や地面等の対象が図で、私が地です
潜在的とは実際にこのように私を確認する事は不可能であり、私を意識する場合は「物語化された私」が見えてくるわけです
明白とは論理的に明白という事です。猫は目を通りません
この私は不可視であり、この私は言語化出来ません。まなざす対象に私が無いので、私が確立されます
そして、私がなにものであるのかを、表象せずとも、私は在るのです
209 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 02:54:34
>>208 >しかし猫が歩くために私は要りませんから、捏造はされません。
まず、人は世界を言語として「見る」、ということは、わかりますか?
私が見なければ、そこに「猫」はなく、「地面」がなく、「空間」もありません。
私がそれを「猫」として見るから、それは猫なのです。
基本的な認識論的な視点です。
これは、猫そのものを殺し、象徴化する。ラカン的には「ものの殺害」といいますが。
細かいつっこみは満載ですが、どの程度哲学知識があり、既存の哲学との相対的な位置が
見えないので、コメントしがたいですね。
このスレはそういうスレではないので、新スレ立てて、もう少し思考してみてはどうですか。
気が向けば、そちらでつっこませていただきますが。
210 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 02:57:30
*なぜインリン・オブ・ジョイトイはみんなを引きつけるのか?
<b>「あえてベタ」とお呼び! </b>
>>
“インリン様”とお呼び!!「ハッスル7」(2月11日・愛知県体育館)でプロレスデビューするグラビアアイドル
のインリン・オブ・ジョイトイ(年齢不詳)が27日、「インリン様」と“改名”し、都内で高田モンスター軍(M軍)・
高田総統(年齢不詳)と初のツーショット会見を実現させた。インリン様は“キャプテン・ハッスル”こと
小川直也(36)との2・11激突に向け、公開練習で戦りつの「鞭(むち)打ち刑」を初披露。前代未聞の
「エロテロリストVS五輪メダリスト」の対決は6人タッグ戦に決定した。
「インリン、姿を現すがいい!!」。高田総統の呼び掛けで、インリン様が会見のステージに降臨した。
黒のロングブーツにボンデージ風パンツ、紫の羽根飾りをまとった女王様は「これからは私のことを
“インリン様”とお呼び!」と衝撃の改名宣言。「チキン小川をたっぷり調教してみせるわ」と名古屋のリングで
小川を“M奴隷”にすると予告した。
<<
インリン・オブ・ジョイトイは、ほんと「馬鹿」ですねぇ〜。「インリン・オブ・ジョイトイって!」、
「エロテロリストって!、エロで革命かよ!」その存在からつっこみどころ満載ですね。
もはやプロレスの演出性を疑う人はいないでしょう。だからといって、「演技じゃん!」ということは、野暮です。
それは演出であることがわかってうえで、そのベタな演出を楽しむのですね。すなわちそれは「ベタ」ではなく、
「あえてベタ」です。そしてインリンもまさに「あえてベタ」な存在であるから、「はぁ?インリンなにしてんの?」と
いう野暮なつっこみなく、プロレスノリに合ってしまえるのでしょう。
211 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 02:58:48
ベタと「あえてベタ」の冷たい差異
ベタであるとは、反復であり、象徴的な回帰である。静的に構造化された帰るべきところに回帰する、
ということである。そこから生まれるのは、安心と退屈である。しかし「あえてベタ」は「ベタ」ではない。
それは、意図的な反復、パロディである。意図的な反復とは、反復によって構造化されつつある対象を、
反復するものである。だからベタとあえてベタには差異がある。
>>
今回の27時間テレビでも、極楽加藤のマラソンは明らかに日本テレビの24時間テレビのマラソンという
ベタのベタなパロディです。加藤のマラソンが中継されるごとに、みなが軽くあしらい続けることによって、
加藤がやっていること自体がかっこわるいベタなことであることが強調されます。それでも加藤が画面に
登場するごとに、ほんとうに顔がやせ衰えていくのです。そのベタさとやせ衰えていく身体性とのギャップに
リアリティが生まれるわけです。ベタを一生懸命演じる身体的な苦痛によって、リアリティを確保している
わけです。
なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040807#p1 <<
ここでは24時間テレビのマラソンは、毎年行われるものである。それは走る人が異なるなど、反復であるが
反復ではない。そしてこの反復でない反復を反復として抑圧し、表象する。そしてそれを反復した27時間テレビ
が、「あえてベタ」というパロディでり、往々にしてデフォルメがある。ここには、明らかにベタに対する冷笑的な
態度(シニシズム)があることは否めない。
たとえば、全く同じであっても、ベタに比べて、「あえてベタ」は、その「冷めた」メタな視線の混入が、
反復でない差異であり、破壊的な意味を持つのである。
212 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 02:59:35
ベタなモー娘。と、あえてベタなマツケンサンバ
ベタとあえてベタの差異は、一つの開き直りである。そして笑われると、笑わせるの大きな差異であるが、
その境界は微妙で接している。たとえば、最近、なにかと流行の「マツケンサンバ」は、ベタか、あえてベタか
である。「マツケン」は笑われているのか、笑わせているのか、ということである。もし笑われているだけで
あれば、あれほど受けないだろう。そこに、ベタへの冷笑的な視線(シニシズム)の混入による新鮮さに
よって、人気を呼ぶのである。
個人的には、最近もモー娘。の人気のなさは、このベタとあえてベタの立ち位置に関係しているように思う。
すなわち本来、アイドルヲタであったつんくが、かつてのアイドルというベタを、あえてベタとして、すなわち
冷笑的な視線(シニシズム)を混入させながら、つくったのがモー娘。であったのではないか。
もともとオーディションの落選組、そのふざけたグループ名から、アイドルのパロディであったのではないのか。
それはいつのまに王道になってしまっている。ベタになり、冷笑的な視線(シニシズム)が排除され、
退屈なものになってしまったのではないだろうか。
213 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 03:03:05
インリン・オブ・メタジョイトイ
だから一見、ベタベタな存在であるインリンの魅力は、彼女の意図的なものか、誰かの演出かどうかは
わからないが、「あえてベタ」である冷笑的な視線(シニシズム)が混入させていることにある。
そしてさらにはそこには、ベタである故に、あえてベタであることが強力である、ということがある。
あえてベタは絶えず、ベタの差異としてしか表れない。ベタであればあるほど、あえてベタが
生きるのである。だからインリンの魅力は、その強力なベタさにあるといえるだろう。
214 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 03:12:29
「あえてベタ」とは、ベタは裏を表であるが、それ故に、
「あえてベタ」という冷たいまなざしの混入は、すなわち脱構築である。
インリン・オブ・ディスコンストラクションは、「あえてベタ」とお呼び!と
今日も行くのである・・・
215 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 19:13:43
ん?
216 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 19:33:43
>>208 なんかわかった。
ようは、ハイデガーのいう開示性(世界の裂け目)かな。
そしてヴィトゲンシュタインの自己言及パラドクスかな。
ヴィトゲンシュタインが独我論の正当性を説明するときに、「たとえば、私が「世界見たまま」という
本を書いたとすると、書いている主体についてだけは、その本の中で書くことができない。」
私は、私を語れない。私を表象できない。
それが、「不可視な私」かな。
それは、まさにまなざしの快楽だね。「私」はその始めに「失われた(不可視)もの」であるが故に、
他者をまなざし、鏡像的に「私」を獲得しようとする。、すなわち欲望する。
しかしいくら他者を鏡像的に獲得しても、失われたものは獲得できない。なぜならどこまでいっても
他者は「私」ではないし、また他者も「失われた(不可視)もの」であるから。
だから私は不可視であり続ける。すなわち欲望し続け、私という物語を作ろうとし続けるが、
それは不可能である。ということですね。
217 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 19:45:08
私は、なにか「私」という確かなものがあるように振る舞いますね。
その極限が、「死」への対応です。
いつか「死」ぬこと自覚し、また自殺する、あるいは自殺できると
考える。
このとき、ほんとうは「不可視であるはずの私」が、可視化された「私」
でるように振る舞っています。
なぜなら私が不可視であるなら、死ぬことも、(自分を)殺すことも
できません。だって見えないものは消せないでしょう。
私の「死」への対応(欲望、恐れ、神性化などは、
もっとも私が可視化(他者の欲望を欲望)しようとしていることが
わかります。
だから、人のまなざしは、どのような対象に対しても、
そこにまなざされることを前提としているということです。
どのような対象も、猫も、箱も、地面も、まなざす(認識する)ときには、
それは他者の痕跡であり、他者にまなざされているのです。
ヴィト、ショーペも主観-私は世界の内には無いという立場ですね。
219 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 20:03:58
>>218 世界内とは、ヴィト的には「語り得るもの」ということですね。
すなわちラカンの象徴界であり、
ラカンが対象aは現実界への象徴界の穴といいました。
現実界は、カントの「ものそのもの」であり、
人の認識世界の外ということですね。
220 :
哲子:05/01/30 20:13:18
論理的に考えれば死は生の出来事ではないでしょう。
だから、生きてる私にとって死はない、私は不死である
ということが論証される。お釈迦さまも成道したとき
そのように言って顰蹙を買っていた。
だからといって何の気休めにもならない。
221 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 20:21:30
>>220 いや、「死」は生の出来事でしかないです。
生きている私にとってしか、「死」はない。
だから私は不死でなく、「死」ぬことができる。
すなわち「この究極のカードは使わないことによって、意味があります。」
この辺りは
>>78-84に語りましたが。
222 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 20:30:25
さらにいえば、「死」とは言葉でしかない。
だから「死」という言葉が無くなれば、
だれも「死」ぬことはありません。
お釈迦さまは良く知りませんが、
このようなことかもしれません。
223 :
哲子:05/01/30 20:53:03
>>221 生きていることは死ではない。
死は生きていることではない。
もし、これが不審におもえるなら
死亡診断書を発行する医者に聞いてみたまえ。
224 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/30 21:13:11
>>223 医者ですか・・・
医学的、脳死的「死」の基準を遵守することは、
悪いことではないですね。
たとえ、それが様々な妥協による境界あってもです。
その時代に、その社会に適切だろう線は引かなければ、
社会は立ちゆかない。ということですね。
ぴかぁ〜っ定職就いたことないだろ。
大丈夫なのか?この先。
226 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 08:22:16
しかしただアイロニカルなことだけではもはやリアリティの確保はできない
だから加藤は走ったわけである
リアルを確保するものが必要になる
ではインリンのリアリティはなににより確保されているのだろうか
227 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 12:05:45
インリンに対して、ベタだなあとか、さらあえてベタだなあということはかっこわるいのである
すなわちインリンが示すのは強力なべたさの前ではアイロニカルな姿勢は無効にされる、
欲望せざるおえないという単純な事実である
最強のべたさとはあえてべたなのである
228 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 12:12:39
最強のベタさとは反復され、アイロニカルなまなざしにさらされ、
再度反復(あえてベタに)され、またアイロニカルにまなざされ、
再々度反復(あえてあえてベタに)されつづけたベタである
229 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 12:18:33
ここにあるのはアイロニーはベタを強化するということである
これはデリダの脱構築への批判になっている
そして秩序は、混沌と秩序の境界、カオスの辺縁で形成される
230 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 12:24:40
だからインリンへのつっこみは、かっこわるいだけでなく、「おいしい」のである
デリダに脱構築されるのは「おいしい」のである
231 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 12:33:04
ボケという宙吊りはツッコミを呼び込む
すなわちラカンのテーゼ「メタ言語は存在しない」
これらは相補的協約関係にある
232 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 12:41:31
すなわち加藤が走るとき、マツケンがサンパを踊るときインリンがM字開脚するとき
ボクらにつっこみの次元が開かれる
そしてアイロニカルに突っ込むとき、すでに巻き込まれている
それは突っ込みであり、突っ込まされている
233 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 12:51:03
さらに突っこみはぼけを呼ぶ
このあたりの言説でおもしろいのは宮台かもしれない
彼の言説は、再帰性、ひとり突っ込みの世界である
おそらくもはや自分でもどれが本心かわからないだろう
ぼけはつっこみを呼び、つっこみはぼけを呼ぶ
まさにオートポエティクなシステムであり
システム内にいるボクたちに「メタ言語は存在しない」
234 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 13:05:01
宮台が対談集を出版しつづけることを、むりやり説明するなら
一人突っこみは本にならない、書いたはしから、つっこみたくなるためかもしれない
かわりにつっんでくれるひとを必要とする
235 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 13:09:18
すなわち長期的に、体系化して言い切る言説がない
つっこむがぼけであり、ぼけがつっこみである
ラカンは「発話はすべて嘘である」「人は本当のことを話すことはできない」といった
236 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 13:15:19
ボケる快楽、つっこむ快楽、すなわちそこにあるのはまなざしの快楽のみである
237 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/01/31 13:17:56
最近のピン芸人の言説は、つっこみであり、ぼけである
ぴかぁ〜さん (
>>105-109)
遅いレスで失礼いたします。
――ぼんやりとした何もない空間の私の世界。
私自身の存在が本当に確かなものなのかも疑わしくなる。
他者を通じてしか自己を知ることができぬ。他者の中でしか存在できぬ、
他者との関係においてしか自己は存在せぬ。
自己とは? 自己とは? 自己とは?……
他者を通してのみ自己を知ることができるが、自己の存在は自分で
負わなくてはならない。生きていくのは自己である。他者の実存を実存として
認めよ。――高野悦子『二十歳の原点』より引用
先週、久しぶりにこの本を読み返しました。(十代の頃、衝撃を受けた一冊)
そして、思い出したことがありました。このスレ内容から、かなり外れるかも
しれないのですが……。
わたしは約半年ほど某民間講座で「エニアグラム九つの性格〜自分探しの旅〜」
という講座を受講していたことがあります。
エニアグラムの講座について、説明いたしますと、
先ず用紙を渡され全部で180個近くの質問に丸印をつけるのです。そして、
その中で一番丸印が多い項目の番号が自分の性格、ということになります。
それから、さらに各性格同士(1〜9)でグループ分けになり、話し合いがあります。
そのとき、自分はこのタイプだと思っていたのに、同じグループの人から
「いや、あなたはどちらかと言うと○○番ですよ、あちらのグループの人と話されたら
どうでしょう」という指摘を半年の間に何回か受けました。
参加者はこうして、他者の指摘を受けてあちこちのグループに参加しながら、
ようやく自分の性格を探し当てていく、ということになるのです。
(つづきます)
講座のあと、毎回わたしはとても奇妙な気持ちになったことをよく覚えています。
わたしが自己申告(自己判断)した当初の性格と、他者が指摘するわたしの
性格番号にかなり隔たりがあったからです。
実際、同じ性格番号の人たちと話していて共通するところもかなりあれば、逆に
まったく相容れないところもありました。そのときは、正直、不快な気分でした。
その上、講座の途中で鈴木秀子さん(日本で初めてエニアを紹介した人)が
ゲストでいらして、「人は本当のことを指摘されると怒る」ということを知りました。
わたしが丸印をつけて自己申告したわたしは「私」では、ない……。
つまり、【人は他者をとおしてでしか自分を知ることができない】、ということですね。
ここで初めて、――
>そもそも「私」というのはないのです。「私であろうとする欲動」=欲望=関心が
>「私」という幻想を作り出しているのです。(
>>105)
>他者を投影することによってしか、「私の像」が作り出せないからです。(
>>109)
――に繋がることがわかりました。
(つづきます)
個々人の性格というものは、相対的なものであります。
他者が指摘した「私」とわたし自身が申告した「私」に差異が生じた理由を、
わたしなりに考えてみました。
一応、ふたつの理由が今のところ、考えられます。
ひとつめは、人は嘘をつく存在である、ということです。
自己申告というものは、その結果を他者に見られても見られなくても、100パーセント本当のものではない、ということです。(全部が嘘、ということではありません)
>ラカンは「発話はすべて嘘である」「人は本当のことを話すことはできない」
>といった (
>>235)
ふたつめは、わたしが「私」を申告する際には、そこには客観性がなくては
なりません。つまり、他者の目(まなざし)を必要とするのです。
そして、その他者のまなざしとは具体的に何か? と問われればわたしに内在する
「捏造」した他者のまなざしに他ならないのです。
(つづきます)
グループの話し合いでは、本物の実在する他者です。
わたしが「捏造」した、私をこう見ているだろう他者、私をこう見てほしい他者、
とでは、当然差異が生じてくるわけなのですね。
そして、その結果、指摘されるたびにわたしが感じた不快さは=快楽であると
考えられます。
>「私であろうとする欲動」=欲望が、「私」を作り出す方法が、
>他者の欲望を欲望する=他者にまなざされることなのです。
>だから「私」であろうとまなざしの快楽を求めるのです。 (
>>105)
私を決定づける(であろう)性格は、他者にまなざされることでしか、為されない。
それが、――
>このために「私」は身体に閉じることができずに、世界との関係によってしか
>作り出せません。 (
>>109)
――ここに、結びつくと思います。わたしは人々のなかにあって初めて「私」を
作り出せるのですね。わたしは、「私」だけでは「私」を獲得できません。
長文、失礼しました。
ぴかぁ〜ってリアルで何歳なんだろ?
もう、30はきてるのか?
職安行けよ。
244 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/01 09:10:24
ん?
245 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/01 12:33:50
それはベタであり、予測された反復なのだから、笑っていればいいはずが
なぜか予測外に興奮し、宙ずりにされているのである
すなわち加藤は遠くの他者でなく、私なのであり、加藤の欲望を欲望しているのであり、加藤にまなざされているのである
246 :
考える名無しさん:05/02/01 12:34:27
加藤?
247 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/01 14:08:21
あえてべたに落としこむとき、アイロニーを徹底するときに生まれる自己へのシニシズム
すなわちそこに潜む自虐性は欲望を呼び込み
あらたなリアル、ハイパーリアルを生む
248 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/01 14:12:26
それがインリンの強力さであり、どのような反論言説でも
つっこまれるほども自虐的に「おいしい」のである
249 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/01 18:50:10
>>238 「エニアグラム九つの性格〜自分探しの旅〜」ですか。良く知りませんね。
エゴグラムは、結構好きです。
http://www.egogram-f.jp/seikaku/ このような性格判断そのものが、まなざしの快楽ですね。
まなざしとは、究極的には「私とはXである」と表されることですね。
それはありえないわけですが、占いも含めて「あなたは〜である」という言説へは
欲望してしまいます。
ここで行われているのは「偶有性から単独性の転倒」です。
「あなたはXである」と言われたとき、それはすでにはじめから
あたかも神にまなざされたように、あったものとして転倒しますが、
「私」というなにものかがあるというよりも、その他者との関係性で現れるものであって、
さらに、刻々と変化し続けています。
「あなたはXである」というその言説(そのもの)が、あなたを抑圧する面は
否めません。
それでも、私はまったくの流動性でなく、経験として作られてきているものでも
ありますから、それを統計的な手法で分類することに
まったく意味がないと言うことでもないと思います。
250 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/01 19:00:07
だから、エゴグラムみたいなものは、
>人の言葉をさえぎって、自分の考えを述べることがありますか。
>義理と人情を重視しますか。
などの質問内容が表象するような
社会適応的な「私」を、多くの統計データを元にした確率論として、
表層するのではないかと思います。
そのときの気分にも影響されますし
まだこいつやってんのか
ぴかぁ〜さん、レスありがとうございます。(
>>249-250)
エゴグラムのサイトも貼りつけていただき、ありがとうございました。
初めて知りました。さっそくやってみましたら、エニアの結果とかなり近いです。
>まなざしとは、究極的には「私とはXである」と表されることですね。
この「私とはXである」の「私」は、本当は「不可視」なものなのですね?
そこで、「不可視な私」についての素朴な疑問なのですが……、
「アリバイ」という言葉がありますよね。
アリバイとは本来、何か事件が起きた時、現場に不在であったことを証明する
ものです。
そのとき、重要なのは「私」は現場にはいなかった、と証言できる他者の存在で
あります。つまり、「私」は現場にはいなかった、と証明できるのは「私」ではなく
他者でしかないということです。
「私」は現場ではなく、違う場所に誰かといたと言っても、その誰かが「私」の存在を
認めてくれなければ、「私」は不在、ということになります。
「私」は「私」を視ることができない、投影される前にそもそも「私」はないということで
ある、とはこのようなことなのでしょうか?
もうひとつ、自己の存在を問うことについての質問なのですが、
>「私はなんのために生きているのか?」ととうことは、
>飢え死にしかけのホームレスが、おれには銀行に1億円の預金があるんだ。
>なにに使おうかなと、にやにやするようなものである。
>そもそも「私」というのはなく、そしてない「私」が生きていることもない。(
>>88)
……すみません、ここの部分をもう少し説明していただけたら、と思います。
「私」という存在そのものが希薄なのに、その「私」が生きる意味を問うのは
滑稽かつ意味の無いことである、と捉えてよろしいのでしょうか?
そこには、存在意義などあろうはずもなく、これが
>しいていえば、「私」であろうとする持続力があるだ。(
>>89)
に繋がると解釈してよろしいのでしょうか?
254 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/01 23:00:23
>>253 「不可視な私」という表現は、なかなか微妙で、なにか確かな「私」があって
ただ見えないだけみたいに感じですね。「アリバイ」も近い感じがします。
それを、
>飢え死にしかけのホームレスが、おれには銀行に1億円の預金があるんだ。
>なにに使おうかなと、にやにやするようなものである。
と言いました。
>そもそも「私」というのはなく、そしてない「私」が生きていることもない。
>しいていえば、「私」であろうとする持続力があるだ。
根元的にあるのは、「私」であろうとする持続力=欲動です。
それはいわば、貧乏揺すりみたいな振動です。
その振動が、欠乏を生み出します。
そしてその欠乏=穴を埋めようと、他者の欲望を欲望します。
鏡像的な埋めようとするのです。
このために、私とは、絶えず移ろい、変化する欠乏です。
ぴかぁ〜さん (
>>254)
たびたびの回答、ありがとうございます。
>ほんとうは「不可視であるはずの私」が、可視化された「私」
>であるように振る舞っています →(
>>217)
ぴかぁ〜さんがここで使われた「不可視」という表現にとても興味を抱きました。
>なにか確かな「私」があってただ見えないだけみたいに感じですね。
そう言われればそうですね……。
もともと確かな「私」など存在しないのですね?
>根元的にあるのは、「私」であろうとする持続力=欲動です。
なるほど…。確かな「私」がそもそも初めから無いからこそ、「私」であろうとする
欲動が生まれるのですね?
>このために、私とは、絶えず移ろい、変化する欠乏です。
「私」を水に喩えると、水は掴まえどころがなく何にでも形を変えられますね。
そして、他者の欲望を欲望することによって、氷になったり、蒸気になったり
します。それは、もともと確たる「私」が無いからなのですね?
「私」であり続けたいと欲望することは、他者をまなざし、まなざされたい、という
ことに繋がるのでしょうね。
今日はこの辺で失礼します。ありがとうございました。
――それでは。
256 :
考える名無しさん:05/02/02 00:33:55
ぴかぁ〜ブログ見たけど、毎日ほっつき歩いてて、
親は何も言わないのか?
257 :
考える名無しさん:05/02/02 00:38:37
というか、質問してる
>>255は一体誰なんだろ?
しろうと?
タイコ持ちだろ
259 :
考える名無しさん:05/02/02 04:56:43
ドラマーだ。
>>257-259 皆さまのように哲学の知識すら無い、つまり哲学徒でさえも無い、
初心者以前のほんの一素人にすぎないものです。→(
>>72)
>>258 前スレPart3で、なぜ中途半端な仮数字コテを統一しないのか?
という注意を受けました。
お詫びします。今回は見苦しくならないよう統一しました。
261 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/02 18:22:47
ん?
>>216 不可視な私は「失われたもの」ではありません
不可視な私は得られた事が無いので失う事が出来ないからです。
よって不可視な私は欲望される事はありません
「物語化された私」が顕在的であり、「不可視な私」は潜在的です
例えばある人が何かに対して夢中になっている時「我を失っている」というような言い方をします。欲望は対象に向かいますが私には向かいません。このような状態で「私」は構築されませんし、構築されなくても構わないのです
このような状態の「私」は、例えば円周率の求まっていない部分のようなものでしょう。「確かにある事にはあるのでしょうが、知る事は出来ないだろうし、知りたいとも思わない」
「私」という確かなものがあるように振る舞う必要が無いのです
また、もし「私」が「無い」事によって「私」が「在る」のならば「私」を構築する事、物語化する事を欲望する事が出来ない
「不可視の私」とは、「根底」、「無底」、「神」などでも有るいうるでしょう。
264 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/02 21:28:49
>>262 >例えばある人が何かに対して夢中になっている時「我を失っている」というような言い方をします。
>欲望は対象に向かいますが私には向かいません。
対象への欲望とはなんでしょうか?
私に向かわない欲望はないですね。
対象を欲望するとは、それを私のものとして、手に入れたい
支配したい、対象になりたいということです。
265 :
考える名無しさん:05/02/02 21:45:42
欲望は取込みと排除の二方向で副次的に「もやもや」が発生し
この解消がまた欲望です。
266 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/02 21:55:54
対象があるから欲望するのではなく、
欲望があるから、対象があるのですね。
「猫」がいるから、かわいいのではなく、
かわいがりたいから、「猫」がいるのです。
267 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/02 21:59:18
だから「我を失って」いようと、
私に向かわずに、欲望が対象へ向かうことはないのですね。
私に向かわなければ、対象はないのですから。
268 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/02 22:01:27
269 :
考える名無しさん:05/02/02 22:03:02
欲望ー対象は現実界の「できごと」だろうか。
270 :
考える名無しさん:05/02/02 22:15:09
test
271 :
考える名無しさん:05/02/02 22:16:52
ごめん
もういっかいテスト
272 :
考える名無しさん:05/02/02 22:20:59
うぜい
273 :
考える名無しさん:05/02/02 22:29:24
リアルはセンスの問題。言語以前。
274 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/02 22:31:14
>>269 現実界、あるいは想像界、象徴界という世界が
あるわけではないです。
275 :
考える名無しさん:05/02/02 22:38:42
276 :
275:05/02/02 22:48:45
言い換えが許されるなら、少し極端かもしれませんが
現実界=物質(的相互関係)界、
想像界=人間、動物共通にある「像、イメージ」界
象徴界=言語・規範界
でしょうか。
277 :
考える名無しさん:05/02/02 23:28:49
親が何も言わないんじゃなくて、親に何か言われるのが怖いから
外に出かけるだけか・・・。
278 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/02 23:43:44
>>267 私たちは、今、現実界、想像界、象徴界の中にいるということですね。
279 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/02 23:55:32
言われるのは、なぜラカンは、これらを明確に区分することに
こだわったのか、と言われることがあります。
そもそも分割できるようなものではない。
それは、「因縁の」分析方法に関わっている。
すなわち、象徴界というものの重要性を強調する必要があった
といわれています。
280 :
考える名無しさん:05/02/03 00:19:10
なぜ?
281 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/03 12:35:34
ん?
282 :
考える名無しさん:05/02/03 12:37:29
廃人ぴかぁ〜w
283 :
考える名無しさん:05/02/03 16:51:16
てか、なんで日本ではラカンが流行ってんの?
別にアカデミーではどーでもいいトンデモだと思われているわけだが。
284 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/03 18:14:36
ある意味最強だからじゃないでしょうか
285 :
考える名無しさん:05/02/03 18:17:28
もちろんトンデモだからです。
286 :
考える名無しさん:05/02/03 18:21:57
m9(^Д^)プギャー
287 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/04 09:11:07
ん?
288 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/04 09:12:14
そもそも、タレントとはハイパーリアルです
289 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/04 09:15:10
ボードリヤールは湾岸戦争はなかったといいました
すなわちボク等がテレビごしに見ていた湾岸戦争はハイパーリアルでしかない、ということです
タモリはいなかった、ということです
290 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/04 09:18:24
しかし逆にタモリしかいなかった、ともいえるでしょう
他になにがあるというのでしょうか
リアルとはハイパーリアルでしかない
291 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/04 09:23:33
すなわちこれは対象aにかかわるリアルであり、
タモリのグラサンの奥に潜む自虐性、それでもテレビにでる
テレビに出続けること、露出そのものが隠すという
対象aではないでしょうか
テレビにでることでお金がはいってくるんだから、いいじゃない。
仕事でしょ?
ご名答@
294 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/04 11:14:27
巨乳とは歪さであり、奇形である
故にリアルである
295 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/04 11:22:12
すなわち巨乳は「なにか」を隠している
よってボクたちは欲望する
では「なにか」とはなにか?
296 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/04 11:24:30
すなわちタモリのグラサン、ワカパイの隠している剰余享楽、それが溢るる汚物である
297 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/04 19:56:06
ん?
屑
299 :
考える名無しさん:05/02/04 21:55:57
おまえはまじで小ネタ男だなww
何が
巨乳とは歪さであり、奇形である
故にリアルである
だバカ。いっつもウケ狙ってばっかww
○荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。
||
|| ○放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを
|| 与えないで下さい。
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。
301 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/05 14:38:24
300!
世界のすべてを言語をとおして視る、ということにとても興味があります。
例えば「五月」という言葉があります。
五月は、実際には「これです」「あれがそうです」と具体的に示し、触れられる
ものではありません。
わたしたちは「五月」という言葉にひとつのイメージを抱いて、世界を視るのでは
ないでしょうか?
あざやかな新緑の木々、薫風、澄み渡った青い空……など。
言語をとおして語られて初めてわたしたちは、その対象をとらえることができる
のだと思いました。
>根元的にあるのは、「私」であろうとする持続力=欲動です
(
>>254)
ある人は、書くことは自分を失うことだ、と言いました。
わたしとはまったく逆の意見でした。
話したり書いたりすることによって初めてわたしは自分の考えや、思いを
確認することができます。
頭のなかで何か考えていても、それが混沌としていて言語をとおして現さない
うちは、その考えは考えとすら呼べません。
つまり、わたしは考えを言語にして初めて自分を確立しようとします。
書くことで自分を失う人は、「確かな私が在る」という前提なのでしょうね。
けれども、そもそも「私」とは初めから無い、という前提に立つなら、
言語をとおして「私」を確立しようとするのも、ひとつの欲動でしょうか?
304 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/05 18:52:34
>>303 書くことは、自分を失いことであり、自分を確立することですね。
すなわち書くということは書かされることです。
日本の法則、あるいは社会の法則に、のっとるということです。
たとえば、足の爪をタンスの角でうったときに、「うぅぅぅぅ!」となります。
それを「痛い」というときには、「痛い」という言葉に抑圧されます。
「うぅぅぅぅ!」は、言葉で表すことはできることではないのです。
そのように様々な私が、言葉で表現することで抑圧されます。
305 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/05 18:58:05
小説家などの芸術家は、ある表現した思いがあるときに、
如何にそれを書くかに苦労します。
単に「寂しかった」では表現できないのです。
だからたとえば情景を細密に描く、
「夕暮れで、日が落ちる中に海岸線の向こうに一隻の船が影になり・・・」
などのように、それにある種に心理描写を間接的に描いたりします。
さらにいうと、言語とはコミュニケーション方法なのですね。
コミュニケーションがなければ、「うぅぅぅぅ!」を言語にする必要は
ありません。自分の中にあれば、良いだけです。
ラカンは、言語とは隠喩(メタファー)であると言いましたが、
私の中に「うぅぅぅぅ!」を如何に相手に伝えるのか。
306 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/05 19:04:22
言語化することは、相手に伝えること。
コミュニケーションであり、それによって他者の欲望を
欲望することができる。
すなわち書くことで、「言語的な、社会的な」自分を確立します。
しかしそのときの私は「本当の私」ではない。失われた私です。
では、そもそも確かな私があったのか?
最初に確かな私はないのです。
307 :
THE グル :05/02/05 19:05:36
>>305 いいですか、
おっしゃっておられることが少々解りにくいですね。
もう少し文章を推敲してから書くべきなんです。
どうかしましたか?
別に。
309 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/05 21:29:20
ん?
310 :
考える名無しさん:05/02/05 22:47:09
せっかくっぴかたんががんばって書いたのに。
THE グルのばか、ばか、ばか!
>>304-306 回答、ありがとうございます。
>そのように様々な私が、言葉で表現することで抑圧されます。(
>>304 )
これは、言葉は「私」を拘束し、「私」は言葉にとらわれてしまう、と解釈して
よろしいのでしょうか? 「うぅぅぅぅ!」→「痛い」というふうに。
確かに言葉に拘束されてしまうと「私」は失われますね。
つまり、その人が言った「書くことは自分を失うこと」は、根本的には
わたしと同じことを言ってるのかな? と思いました。
>すなわち書くことで、「言語的な、社会的な」自分を確立します。(
>>306)
はい。
わたしは言語を介してでしか自分の考えや意見を確立できません。
なぜなら、最初から「私」は不確かなものであり、無いものであるから。
そして、書くということはそれがどのようなものであっても、他者に読まれる
ことを前提にして為されるものである、ということです。
「私」が書く、それは他者をまなざし、まなざれることを想定しています。
書くことが楽しいのは、捏造した他者にまなざされることが快楽だからです。
遅いレスの感想をひとつ。
>だから、人のまなざしは、どのような対象に対しても、
>そこにまなざされることを前提としているということです。
>それは他者の痕跡であり、他者にまなざされているのです (
>>217)
世界を擬人化して視る、そこに誰か(他者)のメッセージ=「痕跡」を視る
松任谷由実さんが荒井由実時代に作った名曲、「やさしさにつつまれたなら」は
とても好きな歌です。
〜雨上がりの庭の くちなしの香りのやさしさにつつまれたなら
きっと目に映るすべてのことは メッセージ
カーテンをひらいて 静かな木漏れ日のやさしさにつつまれたなら
きっと目に映るすべてのことは メッセージ〜
わたしたちが、夕陽や虹や星の光、花や樹の美しさに感動するのは、
そこに誰かのメッセージ=「痕跡」を視るからなのですね?
まなざし(超越的な他者の痕跡)とは、やさしさであり、それは究極的には
愛であり、<神は細部に宿る>とは、そういうことなのかな、と思いました。
屑
315 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/06 19:07:49
ん?
>ぴかぁ〜さん
休みはゆっくり出来ましたか?
明日からまた引き篭りのぴかぁ〜さんにとって恐怖の一週間が始まりますよ。
また2ちゃんに逃避しますか?
月曜日が一番自殺率が高いらしいですよ。きをつけてね。
317 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/07 08:12:54
ん?
318 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/07 19:58:12
「やさしさにつつまれたなら」いいですね。
荒井由実時代は名作が多い。
卒業写真とか。
でたよ、「馴れ合い」。もうずっと前からネタ不足のようで、君のブログもつまらんよ。
同じ概念の繰り返しだ。
一番の問題は”つまらない”ということ
321 :
考える名無しさん:05/02/08 00:59:44
えっ、ぴかぁ〜って死滅しちゃうの? Σ(゚д゚lll)
322 :
考える名無しさん:05/02/08 01:04:11
ぴかぁ〜って死滅しちゃうの? Σ(゚д゚lll)
ぴかぁ〜って死滅しちゃうの? Σ(゚д゚lll)ぴかぁ〜って死滅しちゃうの? Σ(゚д゚lll)
ぴかぁ〜って死滅しちゃうの? Σ(゚д゚lll)ぴかぁ〜って死滅しちゃうの? Σ(゚д゚lll)ぴかぁ〜って死滅しちゃうの? Σ(゚д゚lll)
459 :名無しさん :05/02/02 02:02:03
いつの世にも、真面目さや、一生懸命さにチャチャを入れるバカがいる。
バカはバカなりに自省しておけばよいのに、他者を巻き込もうとバカなりに考える。
この手のバカは止め様も無いし、その自覚も無いから無視して自滅させておけば良い。
ぴかぁは死滅しない。
ぴかぁがぴかぁで無くなるとは彼の本名に戻ることだが、
それは現実と向き合うということ。
そこでは惨めな自分を直視せざるを得ない。
ぴかぁはぴかぁである限り遁走し続ける。
遁走こそぴかぁがぴかぁである証である。
325 :
考える名無しさん:05/02/08 22:08:31
言葉が「私」をデフォルメするなら、言葉を介さない時の「私」ってどこ?
326 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/08 22:14:03
>>325 「私」(という言葉)無きときに、「私」はあるのだろうか?
バイトの履歴書にもぴかぁ〜と書くぴかぁ〜
過去の職歴はもちろん哲学者w
328 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 10:55:56
想像的同一性、転移は協力関係であるとともに
パラノイア的な暴力を生みます
この微妙な境界が象徴化にあるのでしょう
テキストベースの掲示板では論客として脱立(エレクト)できるか、にかかわるでしょう
できない人はパラノイア的粘着としてエレクトできずに
勃起したままもんもんとしてしまう、ということですね
329 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 10:58:55
ようは、「議論できないと、人格攻撃」ってやつです
330 :
考える名無しさん:05/02/09 11:02:36
なんか悔しいことでもあったの?
331 :
考える名無しさん:05/02/09 11:05:49
つまり人格攻撃されて痛かったってことでいいの?
332 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 11:12:50
というのが俗にいう「倫理」というものです
しかしここにある二項対立はなにものであるか?
ここから議論がスタートするわけですね
333 :
考える名無しさん:05/02/09 11:12:55
ふむ。
ピカァ=哲学者最高位だったか。
334 :
考える名無しさん:05/02/09 11:21:26
ウーン、人格攻撃と捉えるところがまたいいねd(^-^)
ぴかぁ壊れたな。
336 :
考える名無しさん:05/02/09 11:59:23
よーい、ドン!
337 :
考える名無しさん:05/02/09 16:19:46
ぴかぁ〜に質問
はてな最近使い始めたんだけど
どうやったら日記のカテゴライズできるのかわからないんだよ
やりかた教えてもらえないかな?
338 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 16:55:34
日記のカテゴライズとは?
339 :
考える名無しさん:05/02/09 17:42:07
[映画][音楽]
とか日記をカテゴリーに分けて整理できる機能があるじゃない
あれどうやるのかなと思って
中央フリーウェイって中央自動車道なのね。
341 :
THE グル :05/02/09 18:52:47
>>310 いいですか、
推敲したらもっと良文が書けると踏んでのことなんです。
どうかしましたか?
342 :
考える名無しさん:05/02/09 19:05:32
343 :
考える名無しさん:05/02/09 19:06:22
はいでぇーっ!!
北朝鮮!!
>>340 はい。
思春期に一度でも、ユーミンの洗礼を受けますと
その後も信者のままですね
345 :
THE グル :05/02/09 19:21:55
>>311 いいですか、
それは大きな勘違いなんです。
言葉は「私」を拘束するとし、
言葉に拘束されると「私」は失われるとおっしゃっておられますが、
言語は理性の働きそのものでありまして、
「私」を存在させているものこそが理性であり、
言語の働きなんです。
ですから、
理性(「私」)のない動物と、
理性(「私」)のある人間を分かつものの一つに、
言語という構成概念の使用の有無による差異があるワケなんです。
どうかしましたか?
346 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 20:07:58
>>339 *[カテゴリ]題目
*の後が題目になるので、*のすぐ後に[ ]で囲うと
カテゴリーになります。
ひきこもりは死ね
>>345 レス、ありがとうございます。
>理性(「私」)のない動物と、
>理性(「私」)のある人間を分かつものの一つに、
>言語という構成概念の使用の有無による差異があるワケなんです。
自分なりに、少し整理してみました。
>「私」を存在させているものこそが理性である、ことを前提として、
ある人が言った「書くことで自分を失う」という意味は「書くことで自分の理性を失う」
ということを言いたかったのかな、と改めて思いました。
感情だけが先走っている状態、興奮状態などがそうですね……。
そして、
わたしが言うところの「書くことで自分を確立する」は、同時にその「理性」を
冷静に使うことによって、考えなどを確かなものにする、ということです。
要は、書く上で「理性」とどのように向かい合っていくか、ということでしょうかね……。
ぴかぁ〜さん
ラカン関連のスレに斎藤環さんの「対象a」に関する見解のサイトを、貼りつけて
いただきありがとうございました。大変興味深く読みました。
「対象a」を「お金」に喩えて、「欲望」をわかりやすく説明してありますね。
何よりもわたしの興味を惹いたのは宮沢賢治の作品を引用してあることでした。
〜宮澤賢治は、あきらかにラカン読んでますね。なぜならラカンによれば、
そういう「手紙」は必ず宛先に届くのだから〜
という斉藤さんのラストを飾る秀逸な言葉。
賢治は、今も昔もわたしを惹きつけて止まない作家のひとりなのですよ。
『銀河鉄道の夜』は未完の傑作です。(文学板にいくつか賢治関連のスレが立って
います。実はわたしもかなり書き込みしています。)
(つづきます)
この物語は宗教色がかなり濃厚に漂う作品です。
『銀河鉄道の夜』の物語の最後に近い場面、ジョバンニの決意の言葉、
――「僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸いのためならば
僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
――「きっとみんなの本当の幸いを探しに行きます」
ここで初めて、死んでしまったカムパネルラの精神(「利他的」、「自己犠牲」)は
当初「利己的」であったジョバンニへと引き継がれることになります。
つまり、「手紙は必ず届く」が完成されます。
この物語は、少年が大人へと変わっていく通過儀礼の物語であり、成長の物語
であると、わたしはとらえていたのですが、
ラカン的な読み方をすれば、また別の新たな読み方がなされますね。
ラカンは、今までまったく知らなかったので、本当に新鮮で、かつ驚きの連続です。
351 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 21:31:43
352 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 21:39:37
>>348 横レス
欲望(「私」)のない動物と、
欲望(「私」)のある人間を分かつものの一つに、
言語という構成概念の使用の有無による差異があるワケなんです。
ヘーゲル、あるいはラカン的には、このようにもかけますね。
理性でなくなぜ欲望なのか、ということですが、
理性は意識、欲望は無意識+意識ということです。
さらにラカンの「無意識は言語でできている。」
ということに繋がります。
353 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 21:46:36
さらに、私的には、欲望はまなざしの快楽ですから、
いわば、まなざしによって自己表象化される。
すなわち「私」を目の前に置き、見るということです。(それは他者を介してですが。)
すなわち理性=意識によって、目の前に表象される「私」、「猫」、「痛み」は
言葉によって、理性によって、抑圧され、失われているのです。
これを「パラノイア的認識」などとも言われます。
354 :
THE グル :05/02/09 22:56:39
>>352 いいですか、
>理性でなくなぜ欲望なのか、ということですが、
>理性は意識、欲望は無意識+意識ということです。
>さらにラカンの「無意識は言語でできている。」ということに繋がります。
とおっしゃっておられますが、
ラカンがその語を用いたのは、
無意識を語ることもやはり言語を通じてしか有り得ず、
それ故に、
無意識は言語のように構造化されているということについてでありまして、
欲望が無意識+意識であるということから導き出されるものではなく、
また、
ラカンの欲望のグラフを見ていただければ解り易いのですが、
あなたのされたように、
理性に欲望を代入して、
欲望(「私」)のない動物と、
欲望(「私」)のある人間と置き換えることは誤解以外の何ものでもないんです。
といいますのも、
動物にはmはありませんし、
言語あるいは他者としてのAもありませんから、
人間におけるそれと同様に欲望と置き換えることは間違いでしかないんです。
これが今では定説です。
どうかしましたか?
355 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 23:19:44
>>354 ラカンの欲望は、ヘーゲルから引き継いだものです。
それは動物/人間=欲求/欲求という対立ですね。
無意識は言語のように構造化されているとは、
「無意識を語ることもやはり言語を通じてしか有り得ず、」というよりも、
もっと端的に、無意識は、言語である。ということそのものです。
そしてこの言語の獲得、象徴界への参入、無意識の発生そのものが、
欲求ではなく、欲望の発生なのですね。
このような意味で、以下はラカン的ですね。
>欲望(「私」)のない動物と、
>欲望(「私」)のある人間を分かつものの一つに、
>言語という構成概念の使用の有無による差異があるワケなんです。
356 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 23:23:55
言語の獲得、象徴界への参入が、無意識を、欲望をつくる
ということですね。
357 :
Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :05/02/09 23:25:15
最近、市況2板に居ついてるんだけど、
構造的にぴかぁ〜君にそっくりな奴がいるね。
カワセ・ヒッキ ◆QsgHe567Gc
っていうのがそれだ。
358 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 23:28:43
それは動物/人間=欲求/欲望という対立ですね。
359 :
考える名無しさん:05/02/09 23:33:21
でチミは直感を欠いていて、言語に依存しきっているから内容がないからこそ、
私に粘着していて異常に虚栄心や欲望が強いというわけだね。
360 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 23:41:07
>>359 これはとても確かな疑問です。
ラカンの徹底的な情動あるいは直感の排除。
欲望(言語)還元主義とでもいうようなものです。
フロイトでさえ、欲望の前の情動の存在を認めていました。
ある意味、これはハイデガー的なのですね。
すなわち人間だけが、他の存在とは異なり、現存在であるということ。
それが、言語、欲望に繋がる故に、まさに構造主義的なわけです。
それでも、ラカンは後期になると、現実界へ傾倒していくわけです。
言語化できない「ものそのもの」ですね。
361 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 23:47:42
これ根元的には、精神分析/心理学の対立でもあるでしょう。
さらには、構造主義/現象学ですね。
現象学的認識は、まさに(純粋)直観の志向性として現れます。
362 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 23:52:16
再度いえば、タンスの角で小指をつった「痛さ」は、
言語としての「痛さ」が無ければない。ということです。
だから動物には、「痛さ」はないのですね。
これの展開はラカンの「女性はいない」というテーゼまで
繋がります。
このヘーゲル的、ラカン的な解釈をどのように捉えるか
ということですね。
363 :
考える名無しさん:05/02/09 23:53:43
んで私から離れ直感しているときには言語からも解き離たれるからこそ欲望からも解放されるというわけかい。
私が消える時、言語も一緒に消えるんだから、
この二つは一緒なんじゃないか。
だから私は言葉に影響を受けるんだろ。
特にオマイみたいな奴にバッチリ当てはまるわ。オマイは言魂ってやつだ。
364 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 23:55:33
日本戦の興奮でついついしゃべりすぎました。
いやぁ〜興奮しました。
動物化、象徴界の機能不全(活性化)で、
ラカン的に単純に欲望することが困難な昨今、
Wカップは、欲望の解放、まなざしの快楽全開です。
365 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/09 23:56:59
>んで私から離れ直感しているときには言語からも解き離たれるからこそ欲望からも解放されるというわけかい。
私から離れる???霊的なものですか???
366 :
考える名無しさん:05/02/10 00:03:41
私(言魂)ってのは構造であって内容がない。いわば真空である。
したがって掃除機みたいなもんだ。
これが欲望の正体なのである。
367 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/10 00:05:46
>>366 それが、ラカンのテーゼです。
私は無であり、欲望は無への欲望である。
フーン
0o。(-.-)y-゜゜
無への欲望なのか
ラカンは内容を否定したのか
370 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/10 09:27:39
>>369 主体が、無であるなら、他者も無であり、
他者の欲望を欲望するとは、無を欲望すること。
無はゼロや中和・平衡、またはマイナス・不足・欠如にも受け取れるので曖昧です。
372 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/11 19:06:41
ん?
373 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/13 00:01:19
*続 なぜ人は「なんのために生きているのか」と問うのか
<b>どうせ死ぬのならば、いま死んでも一緒</b>
「私はなんのために生きるのか、どうせ死ぬのならば、いま死んでも一緒だろう」という笑えないギャグが
あります。ここで問題になっているのは反復です。私には始めがあり、終わりがあり、人々にも同様に
始まりが終わりがあります。多くの「人生」が反復されるなかで、私の「人生」はその一つです。ならば、
そこに大きな意味は見いだせないだろう、ということです。
たとえば、いま「私」が高校生ならば、大人になり就職し、結婚して、子供を持ち、子供が高校生になります。
そのときに今が再現されます。私は、子供から親に写っていますが。反復して同じ地点に戻っています。
同じことを反復することに意味が見いだせない、と言うわけです。
このようなギャグがリアルでありえるのは、現代では、生まれて、気が付いたときには、すでに物質的に
恵まれている状態あり、「欲望」することが希薄ならば、反復は同一反復であり、差異が見いだせない、
ということです。さらには、現代の環境問題などでは、人が生きていること(反復)そのものが
「悪」であるような思想まであります。
374 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/13 00:02:09
<b>「死」ぬための「主体」</b>
よくどんな生命もいつかは必ず「死ぬ」といいますが、そうでしょうか。たとえばリチャード・ドーキンスの
「利己的な遺伝子」という考え方があります。人は遺伝子を運ぶ乗り物である、という考えです。
重要なのは遺伝子が世代を越えて伝達されることであるということです。この考えは、社会的に
大きな反響をよび、現にドーキンスは、倫理的に様々な非難にさらされたらしいです。
遺伝子が主であれば、遺伝子が伝達されないことが終わり(死)であり、遺伝子が伝達されていれば、
人の肉体が滅んでもそれは終わり(死)ではないのではないか?ということです。「死」とはなにか?
肉体の滅亡?精神の停止?遺伝子の伝達不能?
すなわち「死」にはまずもって死ぬ「対象」が明確化される必要があるということです。
そして「利己的な遺伝子」は「主体」が遺伝子にあり、いま「私」というものの価値が貶められるのでは、
誤解を呼び、倫理的な反響を呼んだと言うことでしょう。
375 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/13 00:03:07
<b>「私」と「死」の相補関係</b>
「私」が「死ぬ」ためには、まず「私」が明確化される必要があります。ハイデガーは、人は「現存在」であり、
その他の存在とは異なる。人は世界に「関心(気遣い)する」存在である、と考えました。さらに人は「死」を
自覚することができることで、「生の全体性」を意識できる。「関心(気遣い)」の終焉が、人(現存在)の
終わり(死)であり、その意味で人のみが死ねるのであり、人は動物とは違うということです。
さらにコジェーブはヘーゲルの読解として、人は動物とは違う、欲望する存在であるといいました。ここから
人であるということは、ヘーゲルの欲望≒ハイデガーの「関心(気遣い)」を持つと、つなげることができます。
これは、「私」と「死」の相補関係を表しているといえます。「私」という対象が明確化されることによって
「死」ぬことができる、「死」への自覚があるから、「私」という対象が明確化される。さらには「死」を欲望する
ことによって、「私」が明確化するということです。
ではなぜ人は死を選ばないのか?それは、「私」と「死」が相補関係にあるからです。すなわち「私」で
あるためには、この究極のカードは使わずに、持ち続けることに意味があるのです。
376 :
考える名無しさん:05/02/13 05:41:00
377 :
t523224.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp:05/02/13 07:11:27
未消化Pナッツ
いよう!
いぃいやあぁあ
頭きた
おい、君
頭きたぞ。まる
378 :
考える名無しさん:05/02/13 11:52:12
あ?
379 :
考える名無しさん:05/02/13 12:28:38
「私」と「死」が相補的関係にあるとはどういう意味でしょう?
死はいかなるものとも関係しないのではないでしょうか。
380 :
考える名無しさん:05/02/13 21:47:33
修正し過ぎなんじゃないの?
382 :
考える名無しさん:05/02/13 22:27:19
団子鼻で、目の周辺の皮膚が過剰だ。だが、おっぱいも大きいし、肌も白い、
全体的にスラリとしているので美人に入るだろう。
384 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/14 00:01:46
画像なんか怖くてふめねぇ〜
>ぴかぁ〜さん
連休中はここには来なかったようですね。
気持ち穏やかに過ごせたようで何よりです。
しかしまた明日より恐怖の一週間が始まります。
哲学板に逃避する毎日、がんばってください。
386 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/14 11:10:04
ん?
387 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/14 11:34:16
なぜ欲望はダサいのか?
388 :
考える名無しさん:05/02/14 11:47:28
389 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/14 12:58:05
欲望の致命的な空虚に直面するよりも、
想像的な他我と競合する方を好む
390 :
考える名無しさん:05/02/14 13:36:14
最近ネタ切れしてつまんねーぞ >P
おまえが生きる場所はここしかねーんだから、もっと気合入れんか!
また以前の惨めな屑に戻りてーのか!!!!!!!!!!!!!
391 :
考える名無しさん:05/02/14 15:22:40
マジ眠てー
392 :
(^) :05/02/14 17:54:10
ここ使っていいかな?
393 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/14 20:48:35
欲望は満たされることがない。欲望は、他者の欲望という無を有として、
そしてそれが禁止され何か隠されているように振る舞われるという
への延命である。
394 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/14 20:52:46
ここには、鍵と鍵穴のように関係性はない。
欲望という鍵穴は、どのような鍵でも開くふりをするが、
決して開くことがない鍵穴である。
ならば、逆説的に鍵はどの鍵でもよい、ということが言える。
それはまさに「手紙は必ず届く」という転倒である。
鍵穴に合った鍵は、まさにそれでなければならない鍵である!
という振りで、欲望とはどの鍵でも合う鍵穴なのである。
そしてそれは、どの鍵でも完全に開かない鍵穴なのである。
395 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/14 20:54:03
奇跡的にであった運命の彼女という鍵によって、
開けられる私・・・
それこそが「私」である。
396 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/14 20:57:45
しかしどの鍵でも合うとすれば、鍵そのものではなく、
いかに早くなんでも鍵を入れるかという、速度の問題へとなる。
それは決して完全に開くことがないが、どんな鍵でも合うのである。
397 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/14 21:01:57
しかしそのとき、それは欲望だろうか・・・
それが、コジェーブの「動物化」である。
398 :
考える名無しさん:05/02/14 21:38:31
じゃあ手紙にして机の上に置いて於いて。それでいいっしょ
385 :考える名無しさん :05/02/14 01:41:23
>ぴかぁ〜さん
連休中はここには来なかったようですね。
気持ち穏やかに過ごせたようで何よりです。
しかしまた明日より恐怖の一週間が始まります。
哲学板に逃避する毎日、がんばってください。
さっそく逃避してまんがな(w
400 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 16:37:17
ん?
401 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 16:40:28
少し大きなパースペクティブで、
たとえば、流れ星が地球に落ちてきて、地球環境が激変したと
すれば・・・
402 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 16:43:17
すなわち人は、自分にはどうにもならない環境というものの中にいる。
403 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 19:03:43
遺灰ダイヤモンドなるものがあるらしい。
原理は簡単である。死者を焼いた灰で人口ダイヤモンドをつくる。
しかし、ここには強烈な転倒がある。
404 :
考える名無しさん:05/02/15 19:07:59
ココデスカ、ビョーイン?
405 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 19:12:25
すなわち、亡き人の魂が地上最強の堅さという力をもって、
永遠に輝き続ける、ということである。
406 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 19:15:31
この転倒は、逆にある種の恐怖がある。
もはや何事によって傷つくことなく、永遠の力を持つという、
あまりに超越的な力である。
まさに「死ねない」という恐怖である。
407 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 19:17:59
ダイアモンドに閉じこめられた魂は、
永遠にそこから解放されない。
408 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 19:20:01
遺灰ダイヤモンドなるものがあるらしい。 原理は簡単である。死者を焼いた灰で人口ダイヤモンドをつくる。
しかし、ここには強烈な転倒がある。 すなわち、亡き人の魂が地上最強の堅さという力をもって、
永遠に輝き続ける、ということである。
この転倒は、逆にある種の恐怖がある。 もはや何事によって傷つくことなく、永遠の力を持つという、
あまりに超越的な力である。まさに「死ねない」という恐怖である。ダイアモンドに閉じこめられた魂は、
永遠にそこから解放されない。
409 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 19:36:05
ここでいう「転倒」とは、私がいうところに、「単独性から偶有性への転倒」であり、「遺灰ダイヤモンド」とは、
強烈なまなざしの対象です。そしてこのまなざしの強烈さを支えているのが、それが「死」に関わるものであり、
さらにはそれ故に「生」への「私」への強烈な執着です。
ただここで間違えてはいけないのは、「死」、「生」、「私」への執着とは、死して、「遺灰ダイヤモンド」と化した
人のものではなく、いまそれを手に取る人がもつ「力」である。
410 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 19:37:36
偶有的な「私」とは、確率論的な「私」です。たとえばこの世界は驚くほど、確率論的にできているという話が
あります。ある街で犬に噛まれて怪我をする件数はほぼ決まっているというようなことです。これが意味する
のは、私の個性と言われるものが、全体の中の統計の中に埋もれてしまうということです。たとえば身長が
2mある人はそうそういませんし、それは劣等感であるか、優越感であるか別にして、その人の大きな特徴
でしょう。しかし身長が2m以上の人の発生確率が100年間に100人というように、ほぼ決まっていると
するとどうでしょうか。それは全体性の中の必然性であって、必ずしも彼である必要はなかった。
ここに一つの転倒が起こっています。それは誰でもよいものであったのが、そこに発生することによって、
特別な、奇跡的な、何かになる。それが単独的な「私」です。しかしこれはおかしな表現かもしれません。
偶有的ならば「私」はありません。単独的だから「私」が存在するのです。そして「私」が無ければ、
「死」もありません。
411 :
考える名無しさん:05/02/15 19:42:18
ホーセキノ ホーモン ハンバイデ ダマサレタ ヒト イルッテ キータンデスガ ココデスカ?
412 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 20:10:59
しかしこれはおかしな表現かもしれません。 偶有的ならば「私」はありません。単独的だから「私」が
存在するのです。そして「私」が無ければ、「死」もありません。
よくどんな生命もいつかは必ず「死ぬ」といいますが、そうでしょうか。たとえばリチャード・ドーキンスの
「利己的な遺伝子」という考え方があります。人は遺伝子を運ぶ乗り物である、という考えです。重要なのは
遺伝子が世代を越えて伝達されることであるということです。この考えは、社会的に大きな反響をよび、
現にドーキンスは、倫理的に様々な非難にさらされたらしいです。
遺伝子が主であれば、遺伝子が伝達されないことが終わり(死)であり、遺伝子が伝達されていれば、
人の肉体が滅んでもそれは終わり(死)ではないのではないか?ということです。「死」とはなにか?
肉体の滅亡?精神の停止?遺伝子の伝達不能?
413 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/15 20:12:08
すなわち「死」にはまずもって死ぬ「対象」が明確化される必要がある、単独性が必要とされるのです。
だから「死」とは単独性でしかありません。そして「利己的な遺伝子」は「主体」が遺伝子にあり、
いま「私」というものの価値が貶められるのでは、誤解を呼び、倫理的な反響を呼んだと言うことでしょう。
偶有的な存在には「死」はありません。それは秩序の維持の欠落として機能します。しかしそれ故に偶有的な
存在の「生」への「執着」には強烈な「力への意志」があります。野生の世界の弱肉強食、非情さ、残酷さ
このような「生」への「執着」によるものであり、この現実界的世界では、象徴界的な「掟」は意味を持ちません。
ライオンがシマウマを殺すことに、「善、悪」は存在しません。
引き篭ってポン
415 :
◆SrzpdufPJY :05/02/15 21:38:35
ぴかぁ〜さん (
>>351-353)
遅いレスで失礼します。
「生き延びるためのラカン 斎藤環」の晶文社のサイトを貼りつけていただき、
ありがとうございました。リンク切れしないように早速ワードに貼りつけました。
連載ものでまだまだ続くのですね? 楽しみです。
「ヒステリー」、「転移」の項はなかなか面白いですね!
〜転移というのは、ある種の人間関係の中で、相手に無意識の欲望が向けられ、
現実化させられる現象を指している。(第18回・転移の問題1より)〜
エメという女性の症例でもそうですが、やはりりここでも「欲望」がキイ・ワード。
わたしたちが通常使っている「〜のようになりたい」、「〜のようにだけはなりたくない」
という言葉は、元々「私」が「無い」からこそ、他者を願望(欲望)するのでしょうね。
「私」という確たるものがあれば、他者を欲望する必要もないのでしょう。
そして、<人間の欲望は他者の欲望である>の<欲望>とは何も能動的、積極的な
ものだけに留まらず、消極的、否定的なものも<欲望>のひとつだと思うのです。
(つづきます)
416 :
◆SrzpdufPJY :05/02/15 21:39:29
>主体が、無であるなら、他者も無であり、
>他者の欲望を欲望するとは、無を欲望すること。(
>>370)
「忘却の河」(福永武彦)に登場するのは、間引きの失敗ゆえにこの世に
生を受けた男です。そして、自分が死ぬはずだった戦争でも生き延びてしまった男。
自分は一度死んだ人間であり、生きている自分とは「元から無い私」なのです。
かと言って自棄になるでもなく日常生活を淡々と送っています。
つねに「喪失感」に襲われながら……。
この男はものごころついた頃から、自分が「無」であることを自覚しています。
そして、唯一欲望しているものは、「死」。
「死」だけが自分の生きた証しを立てられる最後のものであると、固く信じている。
何もこの男だけが特別な存在なのではなく、わたしたちは皆、初めから「私」が
失われているのですよね?
だから、わたしたちは常に「何か」を「誰か」を欲望せずにはいられない。
確実な「死」が訪れるまで、タンタロスの飢餓のように、手に入らないものを延々と。
(つづきます)
417 :
◆SrzpdufPJY :05/02/15 21:40:54
>理性は意識、欲望は無意識+意識ということです。
>さらにラカンの「無意識は言語でできている。」
>ということに繋がります。(
>>352)
発話以前のもの、すなわち「無意識」もすでに言語でできているとは驚きです!
例えば何かを書こうとするとき、最初にあるのはおそらく無意識だと思うのです。
まだ、はっきりしたものにはなっていない、もやもやとしたもの、とでも言いますか。
それらを何とか的確な言葉(言語)に変換することによって初めて、文節になり
ひとつの形式をなしていくのだ、と思っていました。
よく言われることなのですが、何かを書く上で一番大切なのは、動機であると。
テーマなどはあとからついてくる、とにかく動機が最重要である、と。
ラカンによれば、書きたいと欲望(無意識+意識)した時点ですでに言語化
(無意識=言語)されているのですね?
なぜなら、わたしは理性のみでは書けないから。
それに先立つ欲望が、確実に必要だから。
小説を読むとき、登場人物に自分を投影し、重ねながら読むのもひとつの
「転移」なのかな?……と思いました。
(追記)
ラカン関連のスレにまた「ラカンの精神分析」のスレを2つ貼りつけていただき、
こちらの方も、ありがとうございました。大変貴重なスレですね。
今日の新しい書き込みは、時間をかけてゆっくり読ませていただきます。
――それでは。
419 :
考える名無しさん:05/02/16 01:55:55
ぴかぁ〜最近ネタ切れ気味でつまんない。
はてな見て思ったけど、
ぴかぁ〜みたいな厨房でも、象徴界やら想像界のターム使えば
それなりに思考しているようには見えるもんだね。
恐ろしい時代だ。
>>420 少しぐらい洞察力のある者であれば、誰でもそのことを
見抜くことができるので、その者達に対しての心配はない。問題は
目に見える情報を鵜呑みにする思考力のない初心者である。
「」の中に入れてまで言葉を対象化する
それは人為的だ
423 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/16 10:01:28
ん?
>>421 初心者以前の一素人にすぎないものであるわたしへのお気遣い、
ありがとうございます。
わたしはこの板の住人ではありませんが、「まなざし」というものに大変
興味を持っております。
例えば小説の登場人物と、その作者の言葉(言語)を介してのまなざし。
また、絵画や音楽など、作品そのものが鑑賞するものに直接語りかけてくる
まなざしと、その創作者のまなざし。
自然界のものがはたらきかけるまなざしと、それを創られた超越的な他者の
まなざしなどにとても惹かれるのです。
読書感想文、美術鑑賞文などはすべて言葉(言語)をとおして語られます。
作品がわたしに語りかけてくるまなざしが言葉であるなら、そのまなざしとの
対話への感想もやはり言葉で語られます。
今後も、稚拙な駄文を連ねることはお目汚しかとは思いますが、
どうかご容赦いただければ、と思います。
425 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/16 11:01:46
>>416 ラカン的物語ですが、少し違いますね
ラカンは「自分の欲望に譲歩するな」といいます、欲望が無への欲望だとしてもです
物語の彼の場合には、欲望することを恐れています
426 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/16 11:34:25
さらに欲望することが、健全であるといえます
欲望はそこにかならず生理的な「渇望」と結びついている、
象徴界をこえた現実界からの要請があるからです
名無しであろうが生き生き生きようとする、まさに野性動物のように、ということですが
だから欲望することを譲歩してはならないのではないでしょうか
427 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/16 11:46:02
まなざしをこえたところの「渇き」、溢れる汚物を、を抑圧しすぎ、象徴界に埋もれることがないよう
物語の男のように、無という役割を演じすぎないよう
欲望をコントロールするように抑圧こと、
ことばでいえば簡単ですが
>>425-427 ぴかぁ〜さん、早速のレス、ありがとうございます。
>物語の彼の場合には、欲望することを恐れています
>さらに欲望することが、健全であるといえます
>名無しであろうが生き生き生きようとする、まさに野性動物のように
はい。まさしくそのとおりです。この男は生きることを放棄、とまでは
言いませんが、「生」への欲望がまるでありません。
喪失感というよりも、退廃と言ったほうがふさわしいかもしれません。
とにかく唯一欲望しているのは「死」だけなのですから。
日常生活は傍目にはきちんと送りながら、つまり脱落者になっていないということ
なのですが、こころは生ける屍そのものです。
「忘却の河」とは生者があの世へ渡る三途の川、という意味合いが込められて
いるそうです。
>物語の男のように、無という役割を演じすぎないよう
わたしも最初はポーズなのかな? と思ったのですが、彼の意識は完全に
「死」に向かい、呑み込まれています。
そうですね、確かにラカンの言う「私は初めから無い」と、この男とでは「無」の
有り方がまったく異なりますね…。
ラカンの「無い」は状態を指し、この男の「無」は否定を指しているような……?
>ラカンは「自分の欲望に譲歩するな」といいます
この男の欲望するものは「死」ですが、意識の上では望んでいても決して行動に
は移さない、つまり自殺しないのです。
生きることも渇望できず、かといって死を実行することもできない……。
けれども、カタルシスとでも言いますか、読後感はかなり深い作品でした。
それでは。
430 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/16 12:58:37
物語を読んでいないのでなんともいえませんが
「俺なんかどうでもいいよ」というヤツが一番生きることに貪欲だったり、
あるいは好みのタイプを聞かれて「だれでもいいよ」という子が一番面食いだったりします
これは、ラカンの「言葉はすべてうそである」につながります
431 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/16 13:00:54
物語の男も「死」への欲望そのものが、生への執着になっているかもしれませんね
追記
この男のこころには、自殺したかつての恋人のまなざしがいつも
はたらいています。
彼女のまなざしは、生きながら死んでいる彼にとってはレクイエムそのものです。
まなざしは、快楽でもありますが、時として残酷でもあるのですね……。
>生きながら死んでいる彼にとってはレクイエム
『生きながら死んでるような可哀想な僕ちゃんを見てみて!!』ということ。
その深層意識を窺えばね。
文学の毒、哲学の毒、ネット、2ちゃんの中毒に無防備な人間も時機≒自棄にそうなる。
>これは、ラカンの「言葉はすべてうそである」につながります 。
これはゲーデル命題、囚人のジレンマ、パラドクスになるね。
精神分析の言説がこれで全て全否定されるじゃん。
434 :
考える名無しさん:05/02/16 13:45:42
> これはゲーデル命題、囚人のジレンマ、パラドクスになるね。
この3つの共通点は何?
435 :
考える名無しさん:05/02/16 15:59:55
心は、言葉じゃないからね
436 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/16 20:40:22
>>433 たぶん「嘘つきのパラドクス」のことがいいたいのでしょう。
しかしこれは嘘つきのパラドクスではないです。
この真実とは「語りえぬもの」だからです。
それは、嘘でしかあり得ないから故に、また「真実」だからです。
437 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/16 20:56:27
「嘘つきのパラドクス」のように、真実は象徴界にはなく、
現実界にしかない、ということです。
「ぴかぁ〜」?
程々に出来ないものなのかな?
439 :
短パン:05/02/16 21:55:32
スレッド伸ばすのは、勝手だ。が、、、、?
440 :
短パン:05/02/16 22:05:43
理屈で落とせる「世の中」を。君は望むのかぁ?
「恍惚とする自分。」その、くっせぇ姿を何処に見るのか?って、話だよ?
441 :
短パン:05/02/16 22:07:46
己は、それ程、立派な自己かよ?
442 :
短パン:05/02/16 22:14:10
おぃ。人の表現を甘く見るなよ?
443 :
短パン:05/02/16 22:19:10
「なめるな。」?
444 :
短パン:05/02/17 00:42:47
1理屈だけ。
445 :
短パン:05/02/17 00:44:57
ふざけるな!
446 :
短パン:05/02/17 00:51:24
殺しに逝くぞ?
いいかげんにしてくれや!!!
447 :
短パン:05/02/17 00:53:40
「ぴかぁー」さんよぉ?
448 :
短パン:05/02/17 01:03:28
どうした?
449 :
短パン:05/02/17 01:14:55
なんつってな。
450 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/17 09:01:19
ん?
451 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/17 12:15:23
カオスの辺縁では、「女性がいて、性関係は存在する」
人間にも生理的、動物的、異性を求め、子孫を残す性欲は存在する
ということである
452 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/17 12:17:48
しかしまたラカン的に「女性はおらず、性関係は存在しない」
なぜならそれらは語りえぬものだからである
453 :
考える名無しさん:05/02/17 12:34:08
おまい、本当に馬鹿だなあ。
454 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/17 12:43:26
カオスの辺縁そのものが自我である、といえないだろうか
455 :
考える名無しさん:05/02/17 12:46:09
いえないよ。
456 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/17 12:53:17
シニフィアンとは存在である
象徴界を人間に限定することはできない
457 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/17 15:03:22
芸術と大衆芸術は、同じカオスの辺縁に位置する
しかし芸術が高尚であるとされるのは
いかに現実界に近付けるかのチキンレースにおいて、勝っているからである
458 :
考える名無しさん:05/02/17 15:05:44
他人の事はどーでもいいが、
あんたの「作品」は?
459 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/17 18:55:35
芸術と大衆芸術は、同じカオスの辺縁に位置する。すなわち象徴界と現実界の境界にあり、
象徴的な秩序の中に、対象aとしての「命を吹き込み」、リアリティを獲得する作業である。
どのような作品もかならず模倣である、と言われるように、象徴的な秩序をもとに作品を作られる。
しかしそこにわずかでも、現実界への繋がりがなければ、すなわち対象aとして作動していなければ、
作品は死したものであり、単なるイミテーションで、退屈で、欲望などされない。
しかし象徴的でなく、模倣性がそぎ落とされたものであれば、他者はそれが作品であることさえも
理解することができない「クズ」である。だから大衆芸術としてのポピュラリティーの獲得は、
このようなカオスの辺縁としての位置取りにある。絶えず揺れ動くカオスの辺縁において、
象徴と現実のバランスにおいて、より多くの欲望を勝ち取ることができる。
460 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/17 18:56:52
芸術が高尚であるとされるのは、いかに現実界に近付けるかのチキンレースにおいて、
大衆芸術よりも勝っているからである。ポピュラリティーの獲得に走らないそのストイックさ
(やせ我慢)故に、人々は拍手を送るのである。
しかし現実界に近づくことは、孤独への投降である。社会(他者)から離れ、一人、カオス的な世界に
身を投げることである。ただただ自分の中へ中へ没入し、思考を離れ、生理的な原点へ、
それは達することができない地を目指して落ちていくことである。そこには他者はなく、理解されることも、
言葉もない世界である。しかしダイブは帰還することをもとに行われる。たえずまなざしをあびながら
行われるのである。もしそこまなざしを見失えば、カオスへ転落し、そこは狂気の世界である。
どこまで埋没することができるのか、そのぎりぎりのところで、大文字の他者に向けて、わずかな確率で、
言葉を発すること。それがわずかな確率で届いたとき、それは芸術と呼ばれ、ほとんどの場合、
届かないときは、意味不明なものとされる。そしてそれが芸術として成り立ったとき、象徴的な共有
以上の共感をえることができる。
だから多くにおいて現実界への接近は、上手く帰還することができない。帰還することができたときに、
人々は拍手を送るのである。このような極地へのダイブは、人間が動物でない故に行われる。
まさに人間という症候として行われる。それはまなざしの快楽として行われる。この賭に勝つことが、
カオスの辺縁における象徴的秩序の位置を勝ち得ることができるためである。象徴的に確固たる位置を
見いだすためである。大文字の他者に究極的なまなざされるために行われる。
461 :
考える名無しさん:05/02/17 19:17:40
マジ眠くなってきた
462 :
考える名無しさん:05/02/17 19:22:06
ぴかぁ〜
ぴかぁ〜ってある意味天才かもな。素人なら、なんか高尚なことが書いてあるように
思うかもしれん。
>芸術が高尚であるとされるのは、いかに現実界に近付けるかのチキンレースにおいて、
大衆芸術よりも勝っているからである。
この文章が凄い!馬鹿だったら一発でだまされるよ。
464 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/18 09:26:44
ん?
465 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/18 09:33:17
ホリエモンは象徴界に訴えるわりに、想像的すぎる
だからいつもまわりが感情論、欲望的になる
まなざしを求めすぎる
466 :
短パン:05/02/19 09:38:19
極まった言葉は「簡単に」落とされる。
・・・。なんて、言う人もいるようだよ?
上手い事、一致してくれる事を、願います。
がんがって。。。な?
467 :
短パン:05/02/19 09:49:49
『哲学とは何ぞや?』
あぁ、それは、単なる、歴史上の誤解の繰り返しが生んだ、「誤訳の聖書」だ。
だからな?程々にって、言っているだろう!
468 :
短パン:05/02/19 09:57:59
『貴様。キリスト教だな?』
ウエ〜ハッハッハ。
そんなに上手い事段取り出来ないわ。
「宗教」は俺にとっては、思想の自由を妨げる存在だから、何処にも、
所属は、しないんだ?
469 :
短パン:05/02/19 10:05:38
「集団に属さない。」というのは、自由ではある。だけど、生きてゆく上で、そりゃ、とっても
心細い事でもありますよ?。
『哲学』ってのは、それを、内包して、そして、進むものだと思っています。
孤独な作業だから、「人の言葉を聞きたくなる事も。」あるんだけれど、
これって、「哲学を重んじようとする人の姿かなぁ?」って、、、、ふと。。。ね?
470 :
短パン:05/02/19 10:15:43
背中で男を語れるような、、、、。うひょひょ。
そんなに成れればいいなぁ〜。えぇ?「ぴかぁ〜」さん?
471 :
短パン:05/02/19 10:21:43
でも、それを語るには、「思想」と「哲学」は必要なんだ。
男の背中に漂うのは、これ。正しく「哲学」だもん・・・。
理論だけで、おしまいにしないでな?
俺が言おうと思ったのはきっとそんな事だったと思います。
それじゃ。(でも、きっと、また来ると思う・・・。けど!イヤァ〜〜。)
呪怨・・・。絶賛公演中(マジ?)
知らんがね・・・・。
私は謎ではなくて無である
しかし対象は謎である
言葉の無い世界に私は「無い」、しかしこの「無い」は言葉である
>理解される事も、言葉も無い世界
言語のない世界を認めるのか? それがカオス的な世界?
…芸術家は言葉による伝達を諦めている人間では無いか?
474 :
短パン:05/02/19 11:48:31
そこに伝達の手段を求めよともがくのが、
「正しい、芸術家。」・・・?
475 :
短パン:05/02/19 11:52:24
『理解されぬ。』と感じるのは、恐らく、「哲学」を考えてもいい人の登竜門。だなんて、思ってしまう。
これ。誰もが、感じ得る感覚では、無いはず、(本人は気付く術も無いのかも知れないが・・・。)
476 :
短パン:05/02/19 12:08:56
「無」というものを、例えば。僕なんぞの、つたない、言葉でひょうげんするなら・・・。
それは、「例えようの無い、寂しさ。」だ・・・。
どうする事の出来ない寂しさ。です・・・。
だから、恐らく文面上は「無感動」「無関心」に読み取れるけれど、全然逆で・・・。
『アンタに!!!』
解らんよ?何処の誰かの知らないから・・・。
言わせてもらうけど、例え貴方が、死のうとしていても、俺は「あぁ、んじゃ。勝手に死ねば?」
ってしか、書けないし・・・。
そういうのを「無責任」って思うのも、貴方の勝手です。
そんなで死んじゃうんなら、元より「哲学板」なんかでなく、
『人生相談板』とかいって、さんざか、思いのたけを書き殴ってから、勝手に死んでくれや?
「生も死も」言う人が多いけど、ここ。人生相談所じゃないから、冷たいかもしれないけど、
そこいら辺だけは、どうか、混同しないで・・・?頼んだよ。。。。?
477 :
短パン:05/02/19 12:13:41
あいやぁ・・・。「ぴかぁ〜」って人のスレ(?)らしいから、
ちょっと、はしゃぎすぎたかもなぁ〜・・・・。
478 :
ハンサムなプレイボーイ:05/02/19 13:05:49
今夜も来てくれないかな〜インリン・・・
ぴかぁ〜より短パンの方がセンスがある
このまま続けて善し
480 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/19 21:56:26
ん?
481 :
ニコライV ◆ggDFgffMfs :05/02/19 23:49:46
「無」ってつまり無いことだろ?
無を「語る」時点でその試みは死んでるんじゃないかな?
どうだろう?
動物=即自存在(とまとめて良いかな?)のように無垢を体現しなければ無を示すのは不可能じゃないかな?
482 :
ニコライV ◆ggDFgffMfs :05/02/19 23:54:35
それにしても既存の専門用語に頼るようになっちまったらもう俺も駄目かもしれんね。
新しいはずの実在を既存の枠組みで裁断してるんだ、哲学不可能かもしれん。
リハビリになる本、誰か知らないか?
483 :
短パン:05/02/21 07:51:59
えっと、
「すまない。ひかぁ〜って人」
なんか、『無』の話(多分こっちの打ち込みに関するレス。)打ち込んでくれた人がいるので、
返して、去ろうと、思っています。。。(はたして、、、、どうだろう?去れれば良いのです。)
>>481 んと・・・。例えて言うならば、「エロス」と「タナトス」の話が適当なのだろう、か?
僕は『感情論』をまとめて、ここに落としてみたんです。。。こりゃ、当然誤解を相当に
受けなきゃならん・・・それが。こんな表現をした私の宿命なんですが、、、、。
今が哲学の君(浜田省吾みたいだ・・・。)
も、多分、いや。きっと、何処かで、「・・・。はっ、そ、そうだったのか!」
なんて、閃いてしまう自分をみるのかもしれないですし、(ぴかぁ〜もなんだけど。)
もうね、いまは。そのまま、「ゆくだけ。」ですわいな?えぇ、勿論自信を持って
そのまま、「いってみれ!」って、個人的には、そう思っています。
愚言でごめんなさい・・・。
484 :
短パン:05/02/21 08:12:08
いや、私はね。「哲学」を極めれば、それは決して『宗教』では無いし、
『数学』『法律』『政治』でも無くて、、、。「こりゃ、結局。おのおのが持っている、
心。落ち着かせるが為に存在する学問」ちゃうんかい?と・・・・。
何時からだか、「みんなが平等。」って、本当に人をバカにした教育なんか始めたものだから、
もう。これじゃ、誰も、何も育たないじゃん!
まず。自分というこの存在は「ありとあらゆる、幸福と脅威の只中に在る。」
で、よ?
まぁ・・・。よぉ?
そんな感じ。(バカ
485 :
短パン:05/02/21 08:22:45
注目された「アーティスト」のアルバム程、
『サードアルバム』が、限界ですよ。えぇ・・・。
持続とて、「力のひとつ」と、思おうよ?
あぁ、そう。わたしは、キャッチャーな語句を作るのが得意なのかもしれないです。
・・・。結局、文字でしか存在していない私だから、それだけは、どうか。
『誤解』しないで・・・。
それじゃ。
486 :
短パン:05/02/21 08:38:33
・・・ははっ、僕はただ、「代弁者」やっているだけだしょ?
(これを記すのもそれなりに、人生経験とかが必要とかって話し??)
哲学は、色々なもの乗せて語れよ?
熱も入るさ。そんなの当たり前だ!
487 :
短パン:05/02/21 08:40:39
そんだけ。
済まん、おまいら、好きにやれ!
488 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/21 13:00:27
ん?ブログも一年続いたか
489 :
短パン:05/02/21 14:48:05
おほぅ。
「ん?」だけとか、
「また来たんだ。」とか、
では。捨てられなかったのかい?
つい。「年季」なんてぇものを表現したくなったぴかぁ〜さん。か・・・・。
俺は、それも愛嬌だと思うんだ?がな・・・・。
しっかり、てめぇのスレを死守すれよ?(いつでも、来るぜ?私は・・・。)
茶を濁しました。。。
そのうち、また、違う所で会うのかもしれないけど、それでも、「よろしく」な?
ははっ。では、ね?
490 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/21 14:48:35
哲学という症候、そして快楽
491 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/21 15:07:55
解読という快楽
より難解なものへ
1/fゆらぎへの還元
492 :
考える名無しさん:05/02/21 15:11:40
ん?
493 :
考える名無しさん:05/02/21 15:19:25
>ボクのラカン理解は必ずしも正当なものではないだろう。
>ボクなりの思考とラカンとを意図的に「混同」させ語っていることが、たぶんにある。
>それを強いて言えば、偶有性/単独性、自然/文化、生理/理性、そして現実界/象徴界という相似性にある。
>さらにはラカン理論を動的に捉えたいということである。これによって、
>「人間のもつ、動物的層と(ラカン的な)言語的層という2つの側面が併存する」
>パースペクティブな視点に立つということである。
m9(^Д^)プギャーーーッ
494 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/21 16:41:01
ジジェクによるジジェク出たよ
495 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/21 16:44:44
動物的層と言語的層って結局東チックだなあ
496 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/21 20:40:18
工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
平日は現実逃避か
おまえの生活パターン、心理状態が丸見え
ひきこもりはつらいな
498 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/22 00:47:19
偶有性から単独性への転倒とは、「現実界」との出会いを、
無限に延期し続けることである。
,,
/ `-‐‐‐-' \
/ /〈 ╋ 〉、 \
/ // ´  ̄ `ヽヽ i
ゝ- '》 /ノノハノ)))《ヽ,,ノ
(ノ| |. ┃ ┃{!|ヾ)
从从''' ヮ'' 从 <こばわ ヒューストン
乂`フ=i' 毎日が休日の始まりです♪
乂 /''|♀|ヽ
おはよう。
ざっと読んだかぎり、私はラカンを知らないので理解不十分だけれど、
来週には何かしらレスを付けたいと思う。よろしく。
ちなみに「偶然性」とは「他でもありうること」であり、
そうした偶然性を人間が「統計」で飼いならすと「確率」になると思う。
501 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/22 09:16:19
ジジェクによるジジェクはなかなかわかりやすくておもしろい
502 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 08:54:12
ん?
ぴかぁ〜さん
2月16日付けの「はてなダイアリ」読ませていただきました。
遺灰ダイアモンド、ですか……。
ある種の人たちは母の強い情愛に胸を打たれるのでしょうが、
正直言って、わたしもぴかぁ〜さんと同じように身震いしました。
故人を偲ぶということは、いったいどういうことなのでしょうね。
生前故人と親しかった人たちが形見として、故人のものを身につける
ということなら、わかります。
けれども故人の遺体の一部、あるいは遺灰から何かを作るという行為に
鳥肌が立ってしまうのです。
死者は死者としてあの世に送り出してあげるのが一番の弔いなのでは
ないかと思うのですね。
これは死者を忘れろ、ということではありません。
残された人たちは繰り返し故人を語ることで、故人を偲ぶということができる
のですから。それが、供養ということなのだと思います。
(つづきます)
>「死」が、すなわち「私」が容易に物象化されることの恐怖、ダイアモンドに
>閉じこめられた魂は、永遠にそこから解放されない。 「永遠の死」、
>永遠に「死ねない」という不気味さである。
これは同時に、生きている者の魂も永遠に死者から解放されない、
ということでもありますね。死者が生者を強く拘束するということでしょう。
互いに拘束し合う関係です。両者共に逃げられない関係です。
死者の魂の込められた遺灰ダイアモンドから発せられる「まなざし」は
おそらく快楽のなかでも最も強烈なものでしょう。
同時に、それは生きている人のこころを壊す威力もある、ということです。
(つづきます)
「死はまさに神が人間に与えた最後の恩寵である」、という言葉があります。
「永遠に死ねない」とは、神の恩寵を拒否すること、人が人でなくなってしまう
恐怖を感じます。
昔読んだ『わが恋の墓標』(曽野綾子)という小説をふと思い出しました。
男の恋人が亡くなり、男は彼女の遺骨を入れたペンダントをいつも身につけて
います。その後、どんな女性が現れても男は故人から解放されません。
この男はこころを病んでいる人、壊れた人、として描かれていました。
前々スレで人を生かすも殺すのもまなざしである、とありましたが、
同様に人を壊すのもまなざしであるのだと思いました。
506 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 17:20:49
遺灰ダイヤモンドという強烈なまなざしも
死を神の恩寵と考えるまなざしも
同じまなざしなんですね
しかし遺灰ダイヤモンドに気持ち悪さを感じるのはなぜか、
単なる強度、慣れの問題 のか
507 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 17:36:56
たしかにこれは強度の問題なんだと思います
いつか遺灰ダイヤモンドも普通になるときもあるかもしれません
そしてもしかすると、このような時代的な常識、象徴的な価値は大きな問題ではないのかもしれません
なぜならまだ「死」に対する敬意がありますから
508 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 17:44:29
「死」に対する問題は現実界的なものかもしれません
たとえば医学的なむりな延命や、遺伝子操作によりクローンづくりなどですが
話が飛躍しましたが、他者、あるいは自分の「死」への執着が現実にそのような可能性を産める時代ですから
509 :
考える名無しさん:05/02/23 17:46:20
氏ね
510 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 17:51:54
科学技術の発展が、灰からダイヤモンドを作ることを可能にして、
遺灰をダイヤモンドにする
科学技術の発展が、死者の遺伝子からクローンを作ることを可能にする
この象徴的行為と現実的行為の差異ということです
511 :
考える名無しさん:05/02/23 17:53:49
何も言ってねえw
こいつ作文の練習でもしてんのか?
ねらーすげえ
512 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:03:29
すなわち遺伝子操作においては、「死」、すなわち「私」は残るのか
まなざしはどこにいくのかということです
513 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:36:53
クローン人間は倫理的にさまざまな問題をよんでいますが
実際どうなんでしょうか
そこにはある種の神話も生まれていますね
すなわちSFチックに突然「私」がもう一人あらわれるというものです
514 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:37:29
クローン人間は倫理的にさまざまな問題をよんでいますが
実際どうなんでしょうか
そこにはある種の神話も生まれていますね
すなわちSFチックに突然「私」がもう一人あらわれるというものです
515 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:38:01
クローン人間は倫理的にさまざまな問題をよんでいますが
実際どうなんでしょうか
そこにはある種の神話も生まれていますね
すなわちSFチックに突然「私」がもう一人あらわれるというものです
516 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:38:36
クローン人間は倫理的にさまざまな問題をよんでいますが
実際どうなんでしょうか
そこにはある種の神話も生まれていますね
すなわちSFチックに突然「私」がもう一人あらわれるというものです
517 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:39:22
クローン人間は倫理的にさまざまな問題をよんでいますが
実際どうなんでしょうか
そこにはある種の神話も生まれていますね
すなわちSFチックに突然「私」がもう一人あらわれるというものです
518 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:40:31
クローン人間は倫理的にさまざまな問題をよんでいますが
実際どうなんでしょうか
そこにはある種の神話も生まれていますね
すなわちSFチックに突然「私」がもう一人あらわれるというものです
519 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:41:33
クローン人間は倫理的にさまざまな問題をよんでいますが
実際どうなんでしょうか
そこにはある種の神話も生まれていますね
すなわちSFチックに突然「私」がもう一人あらわれるというものです
520 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:44:23
たとえばヒトラーの遺伝子があればヒトラーをまた「作れる」たぐいのやつですが
当然まったくそんなことはなく、結局「私」とはなにかにいきつくわけですが
遺伝子が同じことが「私」であることにどれほどの意味があるのか、ということです
それは単なる「他者」であるならなぜクローンをつくることがダメなのかとなります
(゚д゚)ハニカムハーツ
522 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:46:08
実際、自然界ではむしろ生殖なく分裂する、すなわち遺伝子はかわらない
増殖の方が一般的です
お、懐かしいねえ。
524 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:48:02
回線不良でコピペ状態になってしまいました
525 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 18:54:23
たとえば「私」のクロールが作られればそれは、子供をつくり、育てることに近いでしょう
まったく異なる「私」=他者です
たとえば「私」軍団をつくってもそれは遺伝子が同じである象徴的情報による軍団でしかないでしょう
宗教団体をつくる方がよいかもしれません
526 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 19:01:13
といてもクローン人間製造には様様な問題があるわけですが
たとえば容易に作られた場合に、その人の人権は確保されるのか
失敗もするでしょう、そのとき人して育てられるのか
さらに最近のスマトラ地震のあとに起こった幼児誘拐、臓器売買のためですね
臓器のためにクロール人間が作られるなどです
527 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 19:15:16
すなわち、クローンによる弊害は、
「私」の強化、まなざしの快楽というよりも、
まなざしの希薄化、「私」の希薄化ということですね。
象徴的な価値が、動物化以上に、生命化し、
貶められるということでしょうか。
528 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 19:38:28
器質化
529 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 22:16:49
遺灰ダイヤモンドという強烈なまなざしも、死を神の恩寵と考えるまなざしも、同じまなざしなんですね。
しかし遺灰ダイヤモンドに気持ち悪さを感じるのはなぜか、単なる強度、慣れの問題 のか。
たしかにこれは強度の問題なんだと思います。いつか遺灰ダイヤモンドも普通になるときも
あるかもしれません。そしてもしかすると、このような時代的な常識、象徴的な価値は
大きな問題ではないのかもしれません。 なぜならまだ「死」に対する敬意がありますから。
「死」に対する問題は現実界的なものかもしれません。たとえば医学的なむりな延命や、
遺伝子操作によりクローンづくりなどですが、話が飛躍しましたが、他者、あるいは自分の「死」への執着が
現実にそのような可能性を産める時代ですから。科学技術の発展が、灰からダイヤモンドを作ることを
可能にして、遺灰をダイヤモンドにする。科学技術の発展が、死者の遺伝子からクローンを作ることを
可能にする。この象徴的行為と現実的行為の差異ということです。すなわち遺伝子操作においては、
「死」、すなわち「私」は残るのか、まなざしはどこにいくのかということです。
530 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 22:18:07
クローン人間は倫理的にさまざまな問題をよんでいますが、実際どうなんでしょうか。そこにはある種の
神話も生まれていますね。すなわちSFチックに突然「私」がもう一人あらわれるというものです。
たとえばヒトラーの遺伝子があればヒトラーをまた「作れる」たぐいのやつですが、
当然まったくそんなことはなく、結局「私」とはなにかにいきつくわけですが、遺伝子が同じことが
「私」であることにどれほどの意味があるのか、ということです。
それは単なる「他者」であるならなぜクローンをつくることがダメなのかとなります。 実際、自然界では
むしろ生殖なく分裂する、すなわち遺伝子はかわらない。増殖の方が一般的です。
たとえば「私」のクロールが作られればそれは、子供をつくり、育てることに近いでしょう。
まったく異なる「私」=他者です。たとえば「私」軍団をつくってもそれは遺伝子が同じである象徴的情報
による軍団でしかないでしょう。宗教団体をつくる方がよいかもしれません。
といってもクローン人間製造には様様な問題があるわけですが、たとえば容易に作られた場合に、
その人の人権は確保されるのか。失敗もするでしょう、そのとき人して育てられるのか。
さらに最近のスマトラ地震のあとに起こった幼児誘拐、臓器売買のためですね。
臓器のためにクロール人間が作られるなどです。すなわち、クローンによる弊害は、「私」の強化、
まなざしの快楽というよりも、まなざしの希薄化、「私」の希薄化ということですね。 象徴的な価値が、
動物化以上に、生命化、器質化し、貶められるということでしょうか。
クローンは人工的すぎるからじゃない?代理出産ですら大騒ぎなんだし
それと悪用される恐れを懸念してるてのもあるかもね
総じて生命をかるんじるようになるからとか
532 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 23:28:26
>>531 そのようなことですね。倫理という「人間」(の尊厳)を守るという
ことから様々な問題があり、さらに突き詰めると宗教的なところに
行き着くでしょう。
533 :
考える名無しさん:05/02/23 23:31:23
クローン人間がとっくにできてるの
知らないの?
534 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/23 23:32:00
>>533 どっかの国の怪しげな科学者が人間のクローンに成功したと言ってるって話前にあったね
言ってるだけで何の証拠も出さないらしいけどw
536 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 09:55:46
あの話も最近聞かないですがどうなったのでしょうね
国連でも禁止が可決されましたが、また誰かがやるのでしょうね
537 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 09:57:47
遺伝子操作そのものはバイオとして一大革命ですから
単純に人クローン禁止でかたがつくものではないですね
知らない?僕は・・・・という・・作ってるんだけど。
知らない。
嘘だ、あなたも見ているよ。依頼があったんだよ、最近元気ない奴が
いるから元気ださせてあげてくれって。
******************************
あなたね、人をその気にさせて、責任取りなさいよ
******************************
私たちはこうやって奴隷を決めているの
******************************
いいじゃん、別に害は無いんだから
******************************
この間まで死んだようになっていた
********************************
みんな気づかないんだよ
********************************
どういうことが分からないのか
********************************
もお、いいの
540 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 12:29:30
問題は反復と差異ではないだろうか
差異のない反復には欲望は生まれない
差異こそが欲望の源泉であり、すなわち対象aである
541 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 12:32:30
快感原則、経済原則がめざすのは差異なき反復の世界である
それは象徴化された静寂の世界
ただ機械が繰り返し、繰り返し動きつづける世界である
ぴかぁ〜さん、丁寧なレス、ありがとうございます。 (
>>529-530)
>すなわち遺伝子操作においては、「死」、すなわち「私」は残るのか、
>まなざしはどこにいくのかということです。 (
>>529)
>すなわち、クローンによる弊害は、「私」の強化、まなざしの快楽というよりも、
>まなざしの希薄化、「私」の希薄化ということですね。 (
>>530)
そうですね、クローン人間が許可されることで「私2号」「私3号」が次々と
生産された場合、「私」は確かに希薄な存在となりますね。
そこにおいては、「この私!」という概念ももはや皆無なのかもしれません……。
「偶有性から単独性へ転倒」されることによって「私」が唯一のものになるどころか、
むしろ逆に「私」はその他大勢に帰してしまう、「単独性から偶有性へ転倒」されて
しまう可能性の方が高いのでしょう。
「私」の存在、「まなざし」がたとえ「私2号」「私3号」と異なったものであったとしても、
区別することは困難なのかもしれません。容易でないことだけは確かです。
(つづきます)
>結局「私」とはなにかにいきつくわけですが、遺伝子が同じことが「私」であることに
>どれほどの意味があるのか、ということです。 (
>>530)
生命倫理、人間の尊厳ということを踏まえて考えるならば、ただたんに遺伝子が同じ
であるだけでは、「私」=「私2号」=「私3号」であってはなりませんね。
人間の尊厳とは、人が人であることに敬意を払われて然るべきもの、
つまり、「私」が「私」であることが何よりも尊重されること、だと思うのです。
また、クローン、臓器移植、こうした問題について述べるとき、わたしが何よりも
自戒しなければならないのは、わたしが健常者であるという多数の立場から
述べている、ということです。
もし、仮にわたしが臓器移植を欲している患者であったり、あるいは身内に
そうした人がいた場合、わたしの意見は逆なものとなってしまうでしょう。
中立的、公正な立場から発言することは、なかなか困難でありますね。
人が神の目を持てない以上、己の限界を感じます……。
――それでは。
544 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 12:38:13
経済原則を指向する科学技術の攻め方は、マトリクス的な機械が人をのっとる、
差異そのもの排除するではない
それは人が機械人にかわるというひねりのないギャクである
545 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 12:41:52
そうではなくて、差異の迅速の解消、差異解消の加速化である
それは欲望を加速させることであり、差異を増大させることである
546 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 12:45:04
しかし欲望の増大こそが差異の解消である
すなわち差異そのものが反復されるとき
差異の反復そのものが差異のない反復となるのである
547 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 12:53:06
簡単にいえば変人がたくさん集まれば、もはやそれは普通である、ということだ
そこでは変人をまともにする必要はない
ただ変人をたくさん集めればよい
すなわち差異を排除することはなく、差異をたくさん反復させればよい、というわけだ
548 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 13:00:52
それがまさにいまのボクたちというわけである
ボクたちは自由であり、個性的だ
機械のように差異のない反復をくりかえすように強制されることもない
すきな服をきて、思いついたことをする、することができる
しかし欲望の実現が容易であれために、それは本来の欲望とはことなっている
549 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 13:07:48
これは確率論的真理である
三つのサイコロを投げる三つとも1であった!すごい!
しかし確率論ではそれもあるだろう当たり前である
宝くじ一億あたった!すごい、しかし確率論的にはだれかはかならずあたるから、当たり前
550 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 13:13:34
差異の反復が反復される
欲望が当たり前になり、陳腐化する
すなわちメタ反復である
そこでは差異が見えない
そしてこの最終的な帰結は「どうせ死ねのなら、今生きれいまはない」である
551 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 13:17:29
すなわち人生が差異ない反復ならば、ボクが反復する必然性はない
だれかが反復するだろうし、無数に反復されてきただろう
あえてボクが同じことする意味がどこにある
552 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 13:21:24
たとえば親が反復したからボクがいて、いまが豊かであるなら
なぜボクが一から就職し家庭をもち、子供をそだて、今の時点に(今度は親として)もどってくる、反復に何の意味があるのか
ひきこもりとはこのようなことかもしれない
553 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 13:26:51
確率論、遺伝子工学
すなわち現実界が浮かびあがる時代
それはデータベースかもしれないし、アーキテクチャ、あるいは環境管理型権力かもしれないが
とにかく問題は現実界である
554 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 13:30:14
象徴的、あるいは想像的価値をカオスの中に消失させる世界
555 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 14:37:20
簡単にいえば、相対主義化である
そして相対化は情報量の増大による当然の帰結だろう
「自然」な世界の姿ともいえる
すなわちエントロピ増大である
556 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 14:42:12
しかし勘違いしてはいけないのは現実界そのものは人は認識できない
これは象徴上、想像上のものである
だからゲノム表記も、確率論の数字も、さらにそこから与えられる言葉も、
あくまで象徴的なもの、シュミラークルである
557 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 14:44:39
そもそも現実界には反復も差異も存在しない
それは象徴界にのみ存在する
558 :
考える名無しさん:05/02/24 14:48:05
ぴかぁ、孤独なのか?
559 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 14:49:51
ここには、現実界的象徴界の問題と
現実界的現実界の二種類の問題があるということだ
560 :
考える名無しさん:05/02/24 14:56:33
561 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 16:47:20
すなわち科学技術情報氾濫と科学技術の行使である
そして前者は心理学化する社会、再帰性などの議論へ、
また後者は環境管理権力などにつながるだろう
562 :
考える名無しさん:05/02/24 16:48:26
ハゲキター
563 :
考える名無しさん:05/02/24 16:49:45
今日も作文の練習かあ。感心だなあ。
・・・彼岸
プッ!
快楽は心が震えるというように表現される。何故、まなざしに震えたのかだ。
倫理の問題ですね
567 :
考える名無しさん:05/02/24 18:53:45
>>561 なにか具体的な問題がそれらにあるのか?
568 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 18:55:35
問題は反復と差異ではないだろうか。差異のない反復には欲望は生まれない。
差異こそが欲望の源泉であり、すなわち対象aである。快感原則、経済原則がめざすのは
差異なき反復の世界である。それは象徴化された静寂の世界、ただ「機械」が繰り返し、
繰り返し動きつづける世界である。
経済原則を指向する科学技術の攻め方は、マトリクス的な機械が人をのっとる、
差異そのもの排除するではない。それは人が機械人にかわるというひねりのないギャクである。
そうではなくて、差異の迅速の解消、差異解消の加速化である。それは欲望を加速させることであり、
差異を増大させることである。しかし欲望の増大こそが差異の解消である。
すなわち差異そのものが反復されるとき、差異の反復そのものが差異のない反復となるのである。
簡単にいえば変人がたくさん集まれば、もはやそれは普通である、ということだ。
そこでは変人をまともにする必要はない。ただ変人をたくさん集めればよい。
すなわち差異を排除することはなく、差異をたくさん反復させればよい、というわけだ。
それがまさにいまのボクたちというわけである。ボクたちは自由であり、個性的だ。
機械のように差異のない反復をくりかえすように強制されることもない。すきな服をきて、
思いついたことをする、することができる。しかし欲望の実現が容易であれために、
それは本来の欲望とはことなっている。これは確率論的真理である。
三つのサイコロを投げる三つとも1であった!すごい!しかし確率論ではそれもあるだろう。
当たり前である。宝くじ一億あたった!すごい、しかし確率論的にはだれかはかならずあたるから、当たり前。
569 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 18:56:54
差異の反復が反復される。欲望が当たり前になり、陳腐化する。すなわちメタ反復である。
そこでは差異が見えない。そしてこの最終的な帰結は「どうせ死ねのなら、今生きれる意味はない。」である。
すなわち人生が差異ない反復ならば、ボクが反復する必然性はない。だれかが反復するだろうし、
無数に反復されてきただろう。あえてボクが同じことする意味がどこにある。
たとえば親が反復したからボクがいて、いまが豊かであるなら、なぜボクが一から就職し家庭をもち、
子供をそだて、今の時点に(今度は親として)もどってくる、反復に何の意味があるのか。
ひきこもりとはこのようなことかもしれない。
確率論、遺伝子工学、すなわち現実界が浮かびあがる時代。それはデータベースかもしれないし、
アーキテクチャ、あるいは環境管理型権力かもしれないが、とにかく問題は現実界である。
象徴的、あるいは想像的価値をカオスの中に消失させる世界。
簡単にいえば、相対主義化である。そして相対化は情報量の増大による当然の帰結だろう。
「自然」な世界の姿ともいえる。すなわちエントロピ増大である。しかし勘違いしてはいけないのは
現実界そのものは人は認識できない。これは象徴上、想像上のものである。
だからゲノム表記も、確率論の数字も、さらにそこから与えられる言葉も、
あくまで象徴的なもの、シュミラークルである。
そもそも現実界には反復も差異も存在しない。それは象徴界にのみ存在する。
ここには、現実界的象徴界の問題と現実界的現実界の二種類の問題があるということだ。
すなわち科学技術情報氾濫と科学技術の行使である。
そして前者は心理学化する社会、再帰性などの議論へ、また後者は環境管理権力などにつながるだろう。
570 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 19:08:02
>>542 いや、これこそがまさしくクローンに関する誤解だと思うのです。
クローンができても、「私2号」「私3号」は生産されないし、
ヒトラーの遺伝子からヒトラーを「作る」ことはできません。
クローンによって、「私」が希薄化するのは、「私2号」「私3号」が作られないから。
無名の人間が次々作られることによって、「私」たちの「私」も
希薄化するのではないかということです。
>>543 >もし、仮にわたしが臓器移植を欲している患者であったり、あるいは身内に
>そうした人がいた場合、わたしの意見は逆なものとなってしまうでしょう。
それが「あなたの(愛する人の)運命です。」とは言えないのですね。
まさに、遺灰ダイアモンド、強烈なまなざしに回帰しました。
本当に遺灰ダイアモンドを求める人は、いるし、
それを否定することはできないのですね。
571 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/24 19:09:18
>>567 >なにか具体的な問題がそれらにあるのか?
問題として提出されてもいますね。
おおきなくまになったら
きにいったアメリカ杉をみつけて
そのそばでくらそう
めがさめたら あさはひとりで
みずうみを みにいこう
ひとりでもこわくない
ひとりでもさびしくない
ひとりでもふるえない ふるえない
だけど
じんじんとむねがなるときは
やまのせなかを ながめて きみと
ともだちのあいさつをしよう
573 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/26 21:17:28
ん?
>それが「あなたの(愛する人の)運命です。」とは言えないのですね。
>まさに、遺灰ダイアモンド、強烈なまなざしに回帰しました。
m9(^Д^)プギャーーーッ
kokoha ni-tono su desune
576 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 11:44:43
ん?
577 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 11:48:03
かつて、夜なかなか寝付けず、睡眠不足でつらい日々が続いていたことがあった。
仕事のストレスがたまっているのだろうか、と思っていたが、
なにげに、寝るときのエアコンの温度を2度ほど下げてみた。
すると、その日からすんなり眠れるようになった。
578 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 11:52:39
この物語は、眠れないという精神的な原因を、
複雑な社会的なものではなく、
温度調整というごく生理的な原因に還元したのである。
うがった見方をすれば、「エアコンの温度を2度ほど下げる」という
行為そのものに、精神的な、儀式的な意味があったのかもしれない。
すなわちなにごとも、生理的な原因に還元することは難しい、
あるいは、そのような単純化は、危険である、ということだ。
579 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 11:57:33
すなわち、主体というものを動物化、あるいは機械化することに
繋がる。
機嫌がわるい→飯でも食わせておけ。的な社会に繋がると
いうことである。
しかしまた「動物化するオタク」的な言説では、
むしろ人々は、多くの場面で、動物のように、機械のように
扱われることを望んでいるということである。
必要以上に主体として「気を使わないでくれ」
腹を減ったのだから、ただ速やかに食い物を与えてくれればいい。
ということである。
580 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 12:02:00
問題を、すみやかに、生理的に、単純に処理してほしい。
それは、環境管理的に、人間工学的に、
すなわち、それが行われているとは気づかないように、
「無意識」のうちに処理して欲しい。
581 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 12:05:47
自分に適した、寝付けやすいように快適な温度に、
知らないうちに調整してくれるようなインテリゼンスをもった
エアコンというようなことである。
582 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 12:09:35
これは、「彼岸なき快感原則」の世界、
「まなざしなき快感」ということである。
君おもろい!さあ続けて
>仕事のストレスがたまっているのだろうか、と思っていたが、
m9(^Д^)プギャーーーッ
585 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 15:01:56
現代のかっこよさの価値基準に「クール」がある。
それはなにものにも動じないということであるが、
特に強い者からの権力に動じず、弱い者にはやさいいというような、
「高倉健」的な倫理観とは少し違っているように思う。
まず現代において、闘うべき場所、権力が見えなくなっている
と言うことがある。
政治であり、あるいは学校権力への抵抗などは、
まったく「クール」ではなく、逆にださい。
586 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 15:03:09
現代の「クール」さとは、再帰的、自己に向かっていると
言えるだろう。
すなわちそれは「欲望」しないということである。
587 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 15:06:05
欲望しないということは、すなわち
他者の欲望を欲望しないということ。
如何に価値基準の中から他者のまなざしを断ち切り、
自己内省的に、価値を生み出すかということである。
誰かの欲望を欲望する、だれかのまなざしを気にしながら
行為しないこと、それが現代の「クール」である、ということだ。
588 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 15:09:07
しかし現実的には、
誰かの欲望を欲望する、だれかのまなざしを気にしながら
行為しないことなど、不可能である。
ということは、それは欲望していないように見せるしかない。
さらには欲望していないように、まなざしを気にしていないような
振りが求められることになる。
589 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 15:12:05
しかし欲望していないようなどのような「演技」もばれる。
このために、「演技」を越える必要がある。
どこかで、自己犠牲的で生理的に苦痛を強いられる、
それは多くにおいて暴力的なこと実行することが求められる。
簡単にいえば、度胸試し、ということである。
よく分からないな、なぜ「演技」を越える?事が生理的に苦痛を強いられたり暴力的なことを実行する事になるのか
591 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 19:08:00
>>590 痛い振りをする=演技、ほんとに痛い=生理的な苦痛
振りは、必ず見破られる。
だから自ら生理的に苦痛を与え、それに耐えてみせる。
たとえば、チキンレースはほんとに恐怖を受ける。
それに耐えることで、「クール」であることを証明する、ということ。
誰か読んであげてるひといるの?
ダラダラダラダラいつまでも続くこの文章に嘔吐感をもよおして
しまいますです
593 :
考える名無しさん:05/02/27 21:35:16
馬鹿だな、読んだのかよw
594 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/27 23:07:04
現代のかっこよさの価値基準に「クール」がある。それはなにものにも動じないということであるが、
特に強い者からの権力に動じず、弱い者にはやさいいというような、「高倉健」的な倫理観とは
少し違っているように思う。 まず現代において、闘うべき場所、権力が見えなくなっていると言うことがある。
政治であり、あるいは学校権力への抵抗などは、まったく「クール」ではなく、逆にださい。
現代の「クール」さとは、再帰的、自己に向かっていると言えるだろう。
すなわちそれは「欲望」しないということである。
欲望しないということは、すなわち他者の欲望を欲望しないということ。如何に価値基準の中から
他者のまなざしを断ち切り、自己内省的に、価値を生み出すかということである。
誰かの欲望を欲望する、だれかのまなざしを気にしながら、行為しないこと、
それが現代の「クール」である、ということだ。
しかし現実的には、誰かの欲望を欲望する、だれかのまなざしを気にしながら、行為しないことなど、
不可能である。ということは、それは欲望していないように見せるしかない。
さらには欲望していないように、まなざしを気にしていないような振りが求められることになる。
しかし欲望していないようなどのような「演技」もばれる。このために、「演技」を越える必要がある。
どこかで、自己犠牲的で生理的に苦痛を強いられる、それは多くにおいて暴力的なこと実行することが
求められる。簡単にいえば、度胸試し、ということである。
595 :
考える名無しさん:05/02/28 00:02:48
ダサい駄目。そうですか。わからないんですか。
僕もわからないんですよ
597 :
考える名無しさん:05/02/28 13:24:43
「高倉健」的な倫理観… (ノ_ _)ノ
598 :
考える名無しさん:05/02/28 13:40:00
高倉健的とはアンチゴネー的?
599 :
考える名無しさん:05/02/28 14:50:15
ホモ的以外ないじゃんよw
600 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/02/28 23:45:26
ん?
おっ、ぴかぁ〜 元気かーい?
602 :
考える名無しさん:05/03/01 00:38:33
まだ続けてたの?
ぴかぁ〜はしろうとと絡まないとまったくおもろくないw
604 :
考える名無しさん:05/03/01 02:46:43
そだね、素人は素人とナシしたほがイイね。
素人の独り言はつまらん
605 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/01 17:27:50
ん?
606 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/01 17:31:35
『嗤う日本の「ナショナリズム」』読んでいます。
で? お前スレを個人的に使いすぎぢゃん?
608 :
考える名無しさん:05/03/01 17:44:15
オレ、ぴかぁ〜って壮大な釣り師のような気がしてきたよ…
だって、こんな論理性皆無の気の狂った膨大なレスを
マトモな人が書くはずないからな。脳にウジの湧いた人でもなければ。
609 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/01 18:01:48
NHKでスマトラ沖の津波の特集をやっていましたね。
海岸から遠くに見える波を見つめる人々
彼らはなにが起ころうとしているのかわかりません。
そしてそれがトンデモない自体だと気が付いたときには
すでに遅い、のです。
そのビデオを見ているボクたちは、さっさと逃げろ!と
思ってしまうのですが、ぼーと立ちつくす人々、
おもしろがってさえいるように見えます。
610 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/01 18:03:49
NHKの科学実験では、そのような津波は遠くにあるときは、
普通の波と同じように見えてしまうということを
再現していました。
しかしそこには「まさか私が死ぬわけがない」という
死ぬことの非現実性があるのでしょう。
611 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/01 18:09:20
まったくもって、人とはそのようなものです。
たとえばNYのツインタワー崩壊のときもそのようなことが
あったようです。
飛行機がビルにつっこんでから、逃げるまで、
さらにはビルが崩壊するまで、そこまでの惨事を予想していなかった。
と言う面が大きいでしょう。
「まさか私が死ぬわけがない」
さらには、「私だけ必死で逃げるなどかっこわるい。」
そこにはきっと「まあなんとかなるでしょ」というような
ニヒルな笑いあい、まなざしがあったのではないでしょうか。
612 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/01 18:10:14
しかし惨事はそのような「冷めたコミュニティ」そのものを
飲み込んでしまった。ということです。
613 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/01 18:16:44
系の中にいると、その外を疑うことはとても難しいことです。
たとえば、2ちゃねらーはどこまで、2ちゃんねるを
客観視できるのか、みたいなことです。
それは、論理性、知識の問題ではないということです。
614 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/01 20:32:00
たとえば、北田は『嗤う日本の「ナショナリズム」』で
赤軍派の「総括」という名のもとに行われた
仲間へのリンチ殺害に言及しています。
あるいはジジェクの言及する、
イデオロギーはその内容を理解しない故に、作動する、ということにも
繋がるかもしれません。
しかしこのようなイデオロギー的な言説による象徴的な秩序と、
災害のような現実的なものへの対処を同一するのはナンセンスでしょうか。
これらを繋がるものは、想像的なまなざしの、そして
他者の欲望を欲望するという現実的な特性=欲動ということです。
人はどのような判断であれ、大文字の他者、コミュニティの「同意」をもとに
行うという特性があるということです。
コミュニティとしての求心力が働いているということです。
だから、系そのもの力の前には、ただ立ちつくすしかない、ということです。
615 :
考える名無しさん:05/03/01 20:48:52
立ちつくさず、まず座って落ち着け
話はそれからだ
616 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 11:39:05
ボクたちはまったくもって科学の世界に生きている
すなわち余剰が排除され論理的に組み立てられた世界である
完全に象徴化された、すなわち静寂の死の世界があればそれは科学の世界だろう
617 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 11:41:47
たとえばコンピューターシミュレーションの世界は死の世界である
命令にしたがい何度でも同じことが繰り返される
618 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 11:42:56
ゲームでは人がそこにカオスを注ぎ込む
619 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 11:48:09
思い付きという定期的なカオスの挿入が
ゲームの結果を不確定なものとする
しかしゲームのコードは論理的な象徴界であるために
自由度自体は、抑圧されている
620 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 11:53:09
ゲームコードという象徴的抑圧、そして人の無意識という象徴的抑圧があるにしても
人がそのときにどのように命令するかは、予測不可能である
そこには現実的なカオスとしての人がいる
621 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 12:00:54
そして人工的なインテリジェンスに対峙する楽しさはここにある
すなわち思い通りになるということ、カオスは私しかいない、あとは命令にしたがうだけ、私だけの世界であり、
人工的なインテリジェンスという擬似他者はおもいどうりである
622 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 12:02:58
ここで生きているのは私だけであるが、それは隠される
しかしこの退屈さはいくつかの方法で乗り越えられなければならない
623 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 12:06:37
一つは対戦ゲームとして自分以外のカオス=他者を呼び込む
ゲーム自体の知能をあげて擬似他者のカオス性をあげる
さらにゲーム製作者というメタ的他者を開示する、製作者の意図と対戦する
まだ引き篭ってるのか
626 :
考える名無しさん:05/03/02 15:30:35
ぴかぁ〜、カタカナ語と漢字を取り除いた文章を書いてみろ
そこに残ったのがおまえだ
ヨロイに頼っていたら生身の身体はやせ細るのみ
627 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 15:30:40
どちらにしろ秩序と混沌(カオス)のバランスである
そしてそれは大いなる貧乏揺すり=欲動にいきつくだろう
人は安定を求めるが、刺激なく生きていけない
628 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 15:32:39
科学の優位性は数字という言語の導入である
数字はまさに反復そのものを表す言語であり、
このために差異は排除される
より正確なコミュニケーションを可能にする
しかしこのような論理実証主義ではカオスそのものは排除される
629 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 15:39:49
ラカンの想像界、象徴界、現実界の区分は、まさに科学的な世界と非科学的な世界を炙り出す
語りえぬものの境界を顕にするのである
630 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 15:47:41
すなわち象徴界/現実界、快感原則/彼岸、秩序/混沌、これらの辺縁、そこにボクたちはいる
631 :
考える名無しさん:05/03/02 15:54:34
こうやって、ますますやせてくわけだが… (ノ_ _)ノ
632 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 15:56:12
数字体系は完全なものではない
人間は一人二人と反復に還元できるが、これはときと場合による
子供が十人いるからといって親にとって誰でも同じとはいかないし
個性、人権を考えなければいけない
ものにしても愛着ありものは代替(反復)はでない
633 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 16:01:15
さらにテクニカルにはゼノンのパラドクスのようなものもある
同一反復を表す数字体系はその反復を限りなき分割可能でありということだ
ゼノンのパラドクスは距離を数字化する故に、そこに無限反復を呼び込むことになる
これは数字化されたすべてに当てはまるパラドクスである
634 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 16:10:07
カオスの辺縁で命は生まれ、言語はうまれ、人は作られるわけである
たとえばにちゃんもカオスの辺縁でにちゃんたりえているのである
635 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 16:57:14
たとえばテレビゲームと言語ゲームにちゃんねるを比較するとその差異がよくわかる
テレビゲームは、ゲームプログラムという象徴的な世界に、操作というカオスを注ぎ込むが
本質的にストーリーに変化はない
しかしにちゃんでは操作というカオスの注入がいわばプログラム自体を変化させる
観測とは操作だ
637 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 20:38:46
加速するリアリティ
リアリティとは刺激、欲動であり、現実界から象徴界へのカオスの侵入である
加速されたカオスの侵入は象徴的秩序を流動化させる移り変わるまなざしの話の前では、それは単なる視線へと変容する
リアリティには二種類ある
一つはリアルであると思わないほどのリアルである
あまりにリアルすぎて意識にあがってこない
もう一つは意識を刺激するリアルである
リアルすぎて意識にあがってくるリアルである
人は動的リアリティなく生きていけない
すなわちそれはいかにカオスと秩序のバランスをとるかということだ
この死にゆく象徴界に
それがリアルの意味であり欲望の意味である
638 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/02 22:05:57
すなわち、リアルであると思わないほどのリアル=静的リアリティ
とは、無意識である。構造化された象徴界である。
リアルすぎて意識にあがってくるリアル=動的なリアリティ
とは、(有)意識そのものである。
象徴界へ進入する現実界(カオス)を象徴化する行為である。
ひきこもってポン
|┃ | │ ┃| / / / ( / ノ⌒)
|┗━━┷━━┷━━┛| / / / / / / ( ,/
|──────────,ノ\___ノヽ /⌒⌒`ヽ/ ./ / /
|─────────/'''''' ''''''::::::\ _ \ / /
| 〇 /(●), 、(●)、.| / \ ヽ' /
|________/ ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::| ./\__.\__ノ
│ │[=.=]| | ` -=ニ=- ' .:::://
└──┴──┴─ヽ、_ `ニニ´ .::::ノ
/ \//  ̄ ̄ ̄/ /
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/ (_/ \ / /
/ I \ (_/
738 :しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/09 18:45:33
ぶっちゃけ迷惑なんですよね
このスレのキーワードのほとんどを自分のレスからパクってきたのは丸分かりだけど
元の文脈を知らないで知ったかで適当に使うから間違いだらけになる
それを指摘されても開き直るだけだし
自分の言葉で喋ってた頃(曖昧な境界がどうとか)はともかく
ポストモダニズム一般がぴかぁ〜さんと一緒にされちゃうから、今の状況は迷惑
ぴかぁ〜さんはスレッドひきこもりというだけではなくて
言葉の誤用で信用を食いつぶすタダ乗りなんです
哲板のどんな固定からも学ぶべき所はあると思ってましたけど
ぴかぁ〜さんは別、ほとんどが自分の劣化コピーだから
938 :しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/14 18:32:20
>>932 なんでぴかぁ〜さんが他の人の解釈を間違いとか言えるんだろう
>>それがラカンの現実界=小文字の他者=対象aというわけでしょう。
>たとえば、これはラカン解釈として間違いですが
なぜ間違っているのか説明できるかな?
941 :考える名無しさん :04/12/14 18:48:47
ぴかぁはラカンなんて読んだことがないのに
どうしてラカン解釈を語っているのだろう?
942 :しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/14 18:48:53
なぜ間違っているのか説明できないんだ、やっぱりな
>>631 顔マークの意味おしえて
他スレでも見たんだけど意味不明
644 :
考える名無しさん:05/03/05 17:11:02
(ノ_ _)ノ オテアゲ
そういう意味だったのか…
いや、自分も前に他スレでつけられたんだよね
ついでに恥の上塗りで言うけどさ、オテアゲとは知らずに
相手が降参したのかと思ったよ
647 :
THE グル :05/03/05 21:02:01
>>355 いいですか、
>無意識は言語のように構造化されているとは、
>「無意識を語ることもやはり言語を通じてしか有り得ず、」というよりも、
>もっと端的に、無意識は、言語である。ということそのものです。
とおっしゃっておられますが、
これは少々勘違いなさっておられますね。
といいますのも、
ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」というテーゼは、
ラングとランガージュの違いをはっきりさせないと読み違えてしまうものでありまして、
ぴかぁ〜さんは、
>無意識は言語である〜云々に続ける形で、
>そしてこの言語の獲得〜云々とご自分でおっしゃっておられるように、
ラングで読んでしまっていることが明らかですが、
そのため、
それ以下の文章も引きづられるようにちぐはぐな展開になっているんです。
ちなみに、
動物を人間と対比で見るのならば欲望ではなく、
言語活動によって実現されるものとしての要求(demande)の有無を用いるべきなんです。
どうかしましたか?
648 :
THE グル :05/03/05 21:15:12
>>549 いいですか、
それは検定あるいは、
試行独立の定理または、棄却域を無視した確率論ですね。
まあ、
宝くじにしろ何にしろ全体を100%としているのですから、
その時点で真理も何もないと思いますがね。
どうかしましたか?
649 :
考える名無しさん:05/03/06 00:21:00
650 :
考える名無しさん:05/03/06 01:33:09
つかえねー
651 :
流転:05/03/07 02:05:24
>>647 相変わらずの鋭い指摘、ありがとうございます。
ここ2・3日ガチに考えましたところ、やはりグルさんの意見が
正しいことを認識致しました。
私の哲学は新たな展開を迎える準備が整っております。
ここから私の転回ははじまるのです。
アディオス。
652 :
流転:05/03/07 02:11:00
ボクは「テクノロジー還元主義者?」であり、
近代以降の「歴史」はテクノロジーの発展が支えていると考えている。
このために、このようなポストモダン以降は、コミュニケーション、
メディアテクノロジーの時代であるといえるだろう。
自意識とは「私とはなにか?」というメタ的な視線をもつということ、
再帰性をもつ存在であり、アイロニカルであることが「人間」の要件でもある。
だからギデンズが、「再帰的近代的」というときには、再帰的モニタリングの
反復が加速されているということだろう。その加速化を支えているのが、
情報量の増大ということだろう。
アイロニカル、あるいはシニシズムは、「人間」であることに内在するものであり、ポストモダンにおいて、あえて「アイロニズム」、「シニシズム」と呼ばれるとき、情報量の増加による再帰的モニタリングがさらに加速していることを表しているのだろう。
653 :
流転:05/03/07 02:13:38
2ちゃんねるの特徴として語られることは、コミュニケーションそのものが目的化し、
メタメタメタ・・・なシニカルなコミュニケーションが続くということである。
またボクは、2ちゃんねるを、価値を飲み込み解体する「脱構築装置」と呼んだ。
そしてその拡散過程、そして収束過程において、TV的大衆像との差異化が行われている、
といえるだろう。
たとえば、最近あった「あびる優」祭りの意味は、TV的大衆像幻想への攻撃、差異である。
ほんとは誰も「あびる優」の犯罪まがいそのものに関心などないだろう。「あびる優」、
あるいはTV局の、放送でそのような事実を放送したというミスそのものへの嘲笑であり、
「TV的な大衆像」のへまを、倫理的な偽善性を嗤うのであるが、またそのシニカルそのものも
目的ではない。
祭りそのものが目的なのであり、祭りの中から、不気味に収束し立ち現れる「2ちゃんねる的主体像」
を喚問しているのである。それはTV的大衆像の差異化されることに現れやすい故に、
「TV的な大衆像」のへまはかっこうのネタとなる。祭りとはそのような幻影へ
「アイロニカルに集団的に没入」しているという、共同体幻想であり、主体性を獲得した
という快楽である。そして、TV的大衆像とは、自分自身であり、また欲望すべき他者である。
そして「2ちゃんねる的主体像」とは、TV的大衆像と差異化され、より収束しただろう
自分自身の獲得である。
654 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/07 11:22:53
ん?
こんばんは。コメントを簡単に用意してきたんですが、また次回書きます。
予告しながら遅れてすまん。
ぴかぁ〜さん
絵画展などに行ったときに、その中でほんの一点か二点、わたしを惹きつける
作品があります。
この瞬間、わたしはその絵をまなざし、同時にまなざされることによってまなざしの
快楽を体験します。
わたしは展示されている作品を順番に観ていくのですが、同じように観ていて、
なぜ他の作品には快楽が生じないのでしょう?
たんなる好みでしょうか? それもあるでしょうが、一番の理由は、まなざし、
まなざされるという相関関係が生じるからだと思います。
他の作品は、わたしがただ一方的にまなざすのみに留まります。
ところが、ほんの数点はわたしをまなざし返すのです。
その瞬間、その絵はわたしにとって特別なものとなります。
(つづきます)
例えば一枚の絵があります。
どこにでもある、ありふれた風景画です。その絵がわたしを強烈に惹きつけるのは
かつて、旅先で同じような風景を目にしたからかもしれません。あるいはまた、
わたし自身にとって非常に思い出のある場所に似ているからかもしれません。
わたしの記憶が絵に投影し、過去に回帰したからといえましょう。
「まなざし=言語」であることを知らなかったわたしは、まなざしとは文字通り
たんなる視線であると、とらえていました。
人間の、他者のまなざしがそうでした。
そして、対象が人ではなく、モノ(作品)――絵画や、小説、自然界の被造物、
などである場合、まなざしとはわたしにとって何らかのメッセージ性をもった
「ささやき」――聞き取れないけれどささやきかけてくるようなもの、でありました。
(つづきます)
つまり、まなざしは対象が人である場合は、「視線」、
それ以外のものである場合は、「ささやき」として区別してとらえていたのです。
けれども、「まなざし=言語」であるとすれば、対象が人であれ、モノであれ
統一性がはかれるのですね。
わたしにとって、必ずしも「その絵」である必要はなかったのかもしれません。
館内にその絵が偶然に展示されていたこと、多くのなかで「その絵」が偶然にも
ある種のなつかしさをわたしに感じさせたこと、理由はそれだけで充分なのです。
>それは誰でもよかった存在が、奇跡的に、運命的に、「私」が存在するということへ
>転倒される。だから偶有的な「私」はいない。「私」は、転倒された単独的な存在で
>ある。すなわち、「私」とは、一つの転倒である
(2月16日付けの「はてなダイアリより)
上記に倣い、わたしのこころをとらえた作品を以下のように書き換えてみました。
(本歌取りさせていただきました。)
(つづきます)
それはどれでもよかった作品が、奇跡的に、運命的に、「ただひとつの作品」
が存在するということへ転倒される。だから偶有的な「ただひとつの作品」はない。
「ただひとつの作品」は、転倒された単独的な存在である。
すなわち、「ただひとつの作品」とは、一つの転倒である
わたしにささやきかける作品は、「偶有性から単独性へ転倒」され、わたしにとって
ただひとつの作品、になります。
その作品をたとえわたしが所有しなくとも、たくさんの中からわたしがまなざし、
まなざれたもの、として、まなざしの快楽は充分にはたらくのですね。
――それでは。
660 :
考える名無しさん:05/03/07 22:39:26
タイサク ダッタ ^^;
661 :
考える名無しさん:05/03/07 23:09:27
今日もパンツを汚しました
明日からどーやって生きていけばいいでしょう?
.
>◆SrzpdufPJY
おまえキモイぞ
663 :
考える名無しさん:05/03/07 23:24:37
◆SrzpdufPJY はじゆんのほめ殺し作戦だ。じゆんいいかげんにしな!
665 :
THE グル :05/03/08 00:51:07
>>651 >>652 >>653 いいですか、
なかなか面白い視座をお持ちですね。
補遺として、
グルの意見を少々述べるならば、
流転さんがご指摘の現象は、
即ち、
土着的共同体への憧憬でありまして、
既存の村社会が崩れ、
急速に欧米的な個人主義が台頭する一方で、
日本古来のウェット(農耕社会)な土壌に、
そうしたドライなスタイルが、
やはりそうそう根付くワケもなく、
建前として都会的に振舞う一方で、
そうした共同体としての村社会へある種の郷愁を感じており、
前面には出さないものの、
たえず共同体への参入の機会を窺(うかが)っているのが現代日本人でありまして、
ネットなど匿名の場においてそれが最大限に発揮されていると感じるんです。
どうかしましたか?
666 :
流転:05/03/08 01:16:12
>>665 ご意見、ありがとうございます。
僕はこれを北田の「笑う日本のナショナリズム」から考えましたが、
本体のはてななどの論に真面目に付き合わせていることを考えると、
余計な負担をおかけしているのではないかと思います。
個人的な意見を書きますと、北田も本体もこの社会現象を斬ったとはあまり
思えません。ネットを主とするものとしての視点しか持っていないのでは、
と思っています。ではでは。
667 :
考える名無しさん:05/03/08 01:18:11
>>665 グル、カタリクチ オモシローイ♪ o(^-^o)(o^-^)o ワーイ
668 :
考える名無しさん:05/03/08 01:21:38
669 :
考える名無しさん:05/03/08 01:39:13
>>668 ソー ダッタラ ナーニ? ソー ジャ ナカッタラ ナーニ? (^-^) ニコ
670 :
考える名無しさん:05/03/08 01:39:59
か、かわゆい……。
カオスの波面における意識の戯れが言語であり、陰画的刻印に過ぎないわけです。
672 :
考える名無しさん:05/03/08 06:13:43
ボクですか・・・ハニーへの愛へ没入中です・・・
673 :
考える名無しさん:05/03/08 06:23:45
ぴかぁ〜のネタ元って、全部リンク先からパクってきてんだね。
呆れた……。
674 :
考える名無しさん:05/03/08 07:09:43
>>660 ありがとうです。とても嬉しいです!
>>662 ・゚・゚・(。´Д⊂) ・゚・゚・ ウワァァァン!!
>>663 ご配慮、ありがとうございます。
騎士道精神をお持ちの方ですね。
>>664 どなたかと、お間違えではないでしょうか?
わたしは、その方ではありません…… →(
>>72)
676 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/08 11:56:36
何言ってんだ?しろうとからパクったのはおまえだろ?
>>676 >違うよ。ここに書いたことが、リンク先にパクられてるんだよ。
究極の関係妄想ですね。しばらくの間、ネットから離れてみたほうがよいでしょう。
679 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 08:58:52
ポストモダンの臨界点としての拡散と収束
680 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 09:01:49
いかに着地するか
たとえばそれは、私は何のために生まれてきたのか、であり
わたしのやりたいことはなに、であり
わたしの居場所はどこ、である
あんなタバコはガキのタバコや
682 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 12:19:41
ここで重要な点が、自由である
それは強制された着地点ではダメなのである
自由な選択でなければだめなのだ
正確には自由が、また選択の可能性がある必要があり
選択そのものが必要とされるわけではない
683 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 12:21:57
簡単にいえば、選びたいときには選びたいが
多くはめんどくさいのである
多くは選択せずに過ごしたいが、ある部分は選択したいのである
684 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 12:36:18
ここにはまずハードな問題があるだろう
物理的にすべてを選択する処理能力は人にない
685 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 12:37:10
すなわちなにを選択するかの選択が必要となる
686 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 13:08:02
そしてこのようなメタ選択はより根源的なところへ、
すなわち生理的なところ向かう
687 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 14:15:22
生理的なところとはどこだろうか
二つの場所がある
一つは現代の認知科学とも相性が良い現象学的な直観、
もう一つはフロイト的、あるいはラカン的な、快感原則の彼岸、欲動である
馬鹿発見
689 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 14:20:03
拡散過程とはまさに主体の自由化である
そして自由化は選択の増大、そして認識能力の飽和へ向かう
そのためにメタ選択が重要とされる
690 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 14:23:58
収束過程はメタ選択で行われる
なにが大切でなにに注意し、どこに向かうべきか
それはまさにメタメタへの深化である
拡散が激しいほどに深化は深くなるだろう
そこにあるのは直観と欲動である
691 :
☆kiki+ki ゜Д゜♪(2代目) ◆x/cQLuG.4c :05/03/09 14:24:50
ぴかぁ〜は、
相変わらず難しい事言ってるね(^Д^)
692 :
考える名無しさん:05/03/09 16:11:57
頭が固いんだろ 智恵LESS
メタ選択ってなんですか?
694 :
考える名無しさん:05/03/09 17:50:30
メタンガスでお洗濯
695 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/09 20:43:27
ポストモダンの臨界点としての拡散と収束
いかに着地するか。たとえばそれは、「私は何のために生まれてきたのか」であり、
「わたしのやりたいことはなに」であり、「わたしの居場所はどこ」である。ここで重要なことは、
「自由」である。すなわちその着地点は、強制されたものではなく、自由な選択でなければダメなのだ。
しかしまたこの「自由」こそが問題である。主体の自由化とは、まさに拡散過程である。
選択の可能性が増大する。そして、ハードな問題として、すべてを選択する処理能力は人にない。
選びたいときには選べるという自由は必要とされるが、いちいち選択することは、めんどくさい。
選択する価値があることのみ選択したい。
このために、なにを選択するかの選択=メタ選択が必要となる。なにが大切でなにに注意し、
どこに向かうべきか。それはまさにメタメタへの深化である。そして拡散が激しいほどに
深化は深くなるだろう。そしてこのようなメタ選択はより根源的なところ=現実的なものへ向かう。
そこには二種類の場所があるだろう。一つは現代の認知科学とも相性が良い現象学的な原的直観、
もう一つはフロイト的、あるいはラカン的な、快感原則の彼岸、欲動である。
ここに捻れがあるだろう。自由であることを享受しようとすると、最終的には、根元的なところに
収束を求めることになる。それは、自由の限界、「最終的な拘束」である。
696 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/10 01:04:32
このようなメタ選択の話は、まさに人工知能のフレーム問題である。
自由度が増えたときに、選択の発散が起こり、選択することが困難になる、
ということであり、
そのために人間は、自分の能力に合った形に、自由を抑圧し、
状況を単純化する必要がある、ということだ。
697 :
考える名無しさん:05/03/10 01:06:19
>一つは現代の認知科学とも相性が良い現象学的な原的直観
?????
698 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/10 01:06:35
そしてこの単純化という収束は、自由度が高いほど、難しくなる。
それは浅く広く、よりも深く狭くへ向かう。
ぴかぁ〜よ、俺はどうしても君に会いたくなった。会って直接いじめたい。
2chなんていう甘やかされた場所じゃなくて、現実で会おう。
いつにする?
700 :
考える名無しさん:05/03/10 01:31:22
餅は餅屋に任せれば良いけど、
餅屋になって餅を作るのもアリだねってこと?
701 :
考える名無しさん:05/03/10 01:33:23
どこかで会うのかい?場所と日時をおしてといてくれ。みにいく。
702 :
考える名無しさん:05/03/10 01:33:43
701はぴかぁ〜じゃないよ。
>>695 拡散が激しいほどに
深化は深くなるだろう
意味が今一わからんが、何が拡散するんだ?
そして拡散して深化とはあり得るのか?
二律背反とは
「相互に反対・矛盾する二個の命題が同等の権利にて主張されること」
『岩波哲学小事典』
>>695-696 >そして拡散が激しいほどに深化は深くなるだろう
一極集中化するということ?
>自由度が増えたときに、選択の発散が起こり、選択することが困難になる、
>ということであり、
>そのために人間は、自分の能力に合った形に、自由を抑圧し、
>状況を単純化する必要がある、ということだ。
自由=拘束を求めることに帰結
不自由=囲いの中での開かれた自由
人は本来、完全なる自由など求めてはいないのかも
むしろ、選択肢の幅が狭い不自由ということを享受しながら、
その中でこそ、己の求める真の自由を味わえる…
706 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/10 16:52:07
オタク化するということです
欲望は無への欲望である。
隠される故に見たくなる。暴露されると飽きる。対象aとはそのようなものです。
707 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/10 16:55:20
すなわち自由とはまさに欲望の対象なのではないでしょうか
俺らは自由じゃないんだろうか?
考えてみると、不自由と思うことは難しい。
逆に自由だと思う方がたやすい。
私たちは勝手に自らを束縛しているんじゃないのか。
私たちは自らに義務を課しているんじゃないのか。
ぴかあ。さん。あなたはある意味うらやましい。
あなたは飽きないものを見いだしたように感じる。
いつまでも飽きない、最高だ。
青春とはこころの若さである
ヘルマン・ヘッセ
711 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/11 08:19:43
ん?
こ?
自由という言葉で孤独を連想しました。
オタク化、ですか。
ひとつのものに対してマニアックに極めていく彼らは、対人関係を避け、
ひたすら自分の独りだけの世界に没頭しているように見えます。
対人関係なしでもいい彼らは一見、孤独に強そうに見えます。
けれども、実際はそうではなく、ネットというコミュニケーションに
頼っているのが実情ではないでしょうか?
つまり、孤独に対しては非常に脆弱なのではないかと…
・我々はみな真理のために闘っている。
だから孤独なのだ。寂しいのだ。しかし、だから強くなれるのだ。
byイプセン
・社会が性格にとって有益なものであると同じように、
孤独は想像力にとって有益なものである。
byローウェル
・自ら進んで求めた孤独や他者からの分離は、
人間関係から生ずる苦悩に対してもっとも手近な防衛となるものである。
byフロイト
715 :
考える名無しさん:05/03/12 22:22:34
アンガールズのおもしろさわかった?
716 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/13 02:54:09
アンガールズは、さらに人気出てきましたね。
新作DVDもでましたね。
なんとなく面白さがわかってきました。
「きもかわいい」などと言われています。
その本質は、笑いの近接化ということでしょうか。
日常の空間の笑いともいえない、笑いをあえて、
舞台に出す。メタ視線にさらす。ある意味でもあるあるの延長線ですね。
717 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/13 02:57:48
今日も、デートでハニーといちゃいちゃしていましたが、
ふと考えると、そこには、アンガールズのコント的な世界が
ありました。
笑い合っていますが、なにか作り込まれた笑いがあるわけでなく、
ただ場として笑い場なのですね。
箸が転んでもおもしろいなどといいますが、
アンガールズは、その場そのものの滑稽さを、笑うという位置でしょうか。
718 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/13 19:01:25
「きもかわいい」とは、その場作りの大切な要因ですね。
719 :
考える名無しさん:05/03/13 19:03:34
確定申告はあさってまでです。
ぴかぁ〜はただキモイだけだもんな。
ん?
721 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 12:36:28
如何に他者とコミュニケーションするか
論理的、心理的、動物的、生理的、遺伝子操作的
722 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 21:03:23
「偶有性から単独性への転倒」において、
偶有性とは、現実界であり、現実界との遭遇とは、トラウマ的である。
だから人は、そこに大文字の他者を介在させて、転倒するのである。
すなわち象徴的な衣によって、隠すのである。
たとえば偶有性とは、私とは他者でありえたということだ。
私が私である必然性が、疑われる。たまたまここにいるだけである、ということだ。
ボクたちはこの遭遇に耐えられない。私は誰かであったかもしれないなんって・・・
だから私が私である。単独な私であるということを求めるのである。
723 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 21:07:59
単独性とは、形而上学である。
ポストモダンにおいて、そこに単独性のなんの根拠もないことが
すでに明らかである。
「私はなんのために生きているのか」「私とはなにか」という問いに、
だれもが「理由などない」と答えるだろう。それが現代の意味である。
すなわち「単独性から偶有性への逆転倒」が、ポストモダンの意味である。
724 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 21:11:38
そしてこの「逆転倒」、すなわち発散過程を加速させるのは、
情報化の加速である。多様な価値観にさらされる中で、
主体は発散にさらされているのである。
そしてそれで、ボクたちは収束を目指す。私が何であるのか、と目指す。
それは「アイロニカルな没入」である。
この拡散と発散のバランス、そのゆらぎが現代的な主体像である。
転倒ではなく、偶有性から個別性に移行するという事は如何にして可能であるのか。
または、一般から単一性という組み合わせだ。単に分量が少ないという事で可能で
しょうか。
726 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 21:33:06
<発散>
デリダ 脱構築
ローティ アイロニー
宮台 あえてベタ
東 動物化
大澤 <不確実性>
<収束>
大澤 アイロニカルな没入
北田 ロマン的な対象、感動の全体主義
鈴木 サイバーカスケード
ジジェク 想像的な<現実界>
727 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 21:35:32
>>725 「移行」では、弱いでしょう。「転倒」です。
728 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 21:50:42
「<不確実性>は他者の本性だとすると、・・・今や、アメリカは、他者の他者性に、
他者が存在しているということそれ時代におよそ耐えられない、というところに来ているのです。・・・
僕はローティ的な精神が、他人の存在そのものに脅威を覚えるような感受性へと転化しうる、
ということを述べました。もともとは寛容の精神だったはずのものが、その正反対の、
最も徹底した不寛容に転化してしまっているわけです。」現実の向こう 大澤
729 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 21:57:08
ここにあるのも、「偶有性から単独性への転倒」です。
ローティ的な「寛容」とは、一見、収束であるが、
正確には収束のコントロールである。
しかし臨界点を越えたときに、そのコントロールは不能になる。
それは、偶有性=<現実界>があまりにトラウマ的だからだろう。
一気に「転倒」され、「不寛容」へ転倒する。
それは、主体性への収束するのである。
主体性への収束とは、境界を設定する=外部との城壁を築くことである。
ジジェクは他者は<現実界>であるといった。<現実界>を外部へ排除する、
象徴的なものによってプロテクトするのである。
それが「転倒」である。
730 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 22:00:04
この転倒は、理性的な主体として行われるのではない。
転倒によって、理性的な主体という象徴的な幻想が生まれるのである。
転倒自体は、アイロニカルな没入、ロマン的な対象、感動の全体主義、
サイバーカスケードなど、
主体なき没入によって、欲動の自己組織化によって、湧き上がる。
タトゥーについての特集やってるね。これはインターフェイスとまなざしの命題だろ
732 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/14 22:52:03
見ていませんが、
タトゥーは、まさに象徴的、まなざし的かもしれませんね。
消せない印を刻むという唯一性が、単独性へ繋がります。
たとえば思い出のペンダントなどの強力版です。
発散する主体をつなぎとめる「印」ですね。
733 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/15 00:31:30
主体なき自己組織的な没入は、なぜ気持ちがよいのか。
734 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/15 00:34:30
それは、主体的であることが求められる社会であるが故に、
祭りは快楽なのである。
現代は、ポストモダン的に主体の解体が起こる。
主体的であることが求められるほどに、
なにものかであれと言われるほどに、解体されると言う
パラドクスがある。
主体的であることが求められる社会はモダン社会だろ?だから、定期的にそれとは
完全に区別され、かつ相補的である「祭り」の時空間が要請される。
でも現代はハレとケが時間的・空間的に区別されず同居している社会といったほうが
いい。主体なき自己組織的な没入が気持ちいい、というのはきわめてモダンな考えで、
ポストモダン社会の特徴の説明ではないよ。
むしろ現代人は、ハレとケの混在状態(日常)の上に人工的にハレとケの区分をし、
あらためて解体する、という二重性を生きていると言ったほうがよいのではないか。
プレモダン 日常=主他未分 祝祭=主他分離
モダン前期 日常=主他分離 祝祭=主他未分
モダン後期 日常=主他分離-(相補性)-祝祭=主他未分
ポストモダン 日常=主他分離/主他未分の未分 祝祭=存在不可能もしくは擬似祝祭(あえてベタ)
って感じじゃねえか。
737 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/15 08:29:57
二重性を生きるとは、ボクのいう拡散と収束の間のゆらぎでしょう
ゆらぎそのものは人間の特性で、現代はその振幅、周期が大きいということです
そして収束とは主体的であれということであり、ポストモダンだから収束過程がない、ということはないでしょう
ぴかぁ〜がガムスレを荒らしているというのは本当か?
>>738は俺だが、いちおう我無スレに貼ったものをここにも貼っておくよ。
520 :考える名無しさん :05/03/15 08:52:06
なぜ俺がぴかぁ〜のせいじゃないかと疑ったかというと、
このスレが荒らされているとき、
だいたいぴかぁ〜が常駐しているときだったからだ。
時間帯を見ればだいたい一致しているし。
実は、
>>518もぴかぁ〜ではないかと思っているし
>>508-515も彼の仕業じゃないかと思っている。
524 :考える名無しさん :05/03/15 09:21:15
ほら、まずこれで
>>522は
>>508-515の荒らしと同一人物であることがほぼ証明された。
これで
>>518も
>>522だと証明することができれば、
少しずつ荒らしが誰か暴かれるのになあ、と思う。
そして、ぴかぁ〜が現時点でその可能性が最も高く、
他の可能性の余地が少ないことを含めて、言上げしておこう。
741 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/15 15:58:19
だからハレとケ?の混在状態とはまさにポストモダンにおいて
主体なき自己組織化が促進されている状態と考えればよいわけです
742 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/16 11:38:25
2ちゃんねるをシニシズム、ロマン主義、サイバーカスケードで語るのは間違いである
その本質は差異化運動であり、相対位置の獲得という深化である
びかぁ〜
我無スレを荒らしているのはお前か?
744 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/16 11:44:50
ライブドア関連でおもしろいのは、いままで超越的な他者として隠されていた社長が露出し
その滑稽さが暴露されていくことである
それはそのまま日本の(会社)社会の暴露でもある
違うのかな?
>>744 >超越的な他者として隠されていた社長
とりあえず一言。
「超越論的な他者」の使い方が根本的に間違っている。
邪魔な相手を名無しで荒らす攻撃は昔から得意だったぞ、ぴかぁ〜は。
規制議論はその典型だった。
それで成り上がってきたようなものだ、この馬鹿は。
749 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/16 11:59:09
超越論???
750 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/16 12:01:19
未来は決定できない
なぜなら究極的にこの世界にいかなろ反復も存在しないからだ
751 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/16 12:05:27
反復とは多量な情報を処理する方法でしかない
ない。
2ちゃんでは常駐できる引き篭りが一番強い。
普通は数ヶ月荒らせば飽きてやめるんだが、
こいつはマジ人生諦めてるから無理。
ぴかぁ〜はもうすでに手遅れだからいいんだか、
キモイのはこのスレに常駐するぴかぁ〜信者。
この馬鹿のスレやサイトを読む時間があったら、
自分で哲学書に直に当たれって。
この馬鹿がどれだけ馬鹿かよくわかるから。
つまり昨日のぴかぁ〜と今日のぴかぁ〜は同じぴかぁ〜ではないと。
755 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/16 12:41:42
昨日のぴかぁ〜と今日のぴかぁ〜は同じでしかないということ
人は反復という情報処理でしか世界を認識できない
すなわち現実界は認識できず象徴化するしかない
ということ
>>753 別にこのスレにやってくる人は、好きできているんだから構わない。
ただ他スレを荒らしているなら、やめろと。
757 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/16 12:46:16
たとえば固有名の確定記述に還元できない残余とは
反復できない情報であり
人には認識できない現実界である
とりあえず俺が考えているのは、あのスレが荒れたら
ここでぴかぁ〜に問いつめるしか方法がないのではということ。
他スレを自由に荒らして構わないという道理はない。
どのスレ荒らしてんだ?
ぴかぁ〜は自分よりできる人間や人気があるコテに
嫉妬で粘着するから、ある意味名誉なことなんじゃないか?
ぴかぁ〜なんかに認められたら逆に不名誉かもしれんが。
>>759 ガムスレを荒らしている。
雑談スレがつぶされようとしている。
ガムスレは、わりとクールな雑談が続いたスレなんだ。
でもアンチが多かったのは確か。
ポリシーあるスレだったからしょうがない。
荒らしがないときにはかなり良質な話題が提供できるスレだった。
まあ若干、俺の妄想が入っているかもしれないけど。
762 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/18 01:39:35
汚物キターーーーーー!
764 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/18 10:24:04
偶有性は人間を解体する
それは私であることから、誰でもよかったことに向かう
しかしもはやそこにしかリアリティがない
私は唯一な私など、たわごとでしかない
そしてそれは現実界への危険な接近に向かう
765 :
考える名無しさん:05/03/18 10:54:06
ぴかあさん
ぼく、もう疲れたよ
766 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/18 10:58:20
現在、ジジェクが人気があるのは、まさに現実界についてたくみに語るからである
ジジェクはラカンの欲望論を現実界論へと現代風にアレンジしている
767 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/18 11:06:15
特にその他の現実界的なものを語る人びとか、今までの象徴的なものとは別なもの
すなわち心身二言論における身体の回帰のようにかたるのにたいして
ジジェクはあくまで象徴界に内在した現実界の問題であると
適切に位置付けてみせるのである
768 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/18 11:21:40
リストカットは、象徴的なものから、自己完結的な現実界的なものへの逃避ではない
他者の欲望から自己の欲求ではない
リストカットは、象徴的なものとして、他者に欲望されたいことの逆説として、他者のまなざしを求めおこなわれる欲望である
ただそれは現実界への接近という形態をとるだけのことである
769 :
考える名無しさん:05/03/18 18:40:13
我無ってぴかぁ〜だろ。なんで荒らしてるのかおれにゃわからんが
ちんかす
771 :
考える名無しさん:05/03/19 08:18:30
ぴかぁ〜よ、
ガムスレ荒らしたら、このスレも埋めるからな。
せいぜい覚悟しとけよ。
2chのコテハンは8割以上、実生活で精神科に通ってるような
やつばかりだ。だから、ウザイコテがいたら、こらキチガイ
静かにさらせ、とか言ってやると効果てきめん。自分の素性が
なぜばれたのかとあせるコテハンが笑える。
そもそも2chにいりびたってるようなやつは
精神不安定な半キチガイばかりだから、そこのところを
常に意識においておく必要がある。
それどころか、2chの管理人はじめ、ここの運営をやってる
やつらは、いちおう商売人ではあるが、同時に
精神的にアッチへ逝ってるやつばかり。
まともな人間を相手にしていると考えると、とんでもない
勘違いだから注意しておくWWWWWW
773 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :05/03/19 20:11:01
収束するポストモダン
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/ その1 なぜ2ちゃねらーは「藁(わら)い」ながら「没入」するのか? 北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」
その2 なぜリストをカットするのか? 大澤真幸「現実の向こう」
その3 なぜ「剥き出しの生」を求めるのか? 東浩紀・大澤真幸「自由を考える 9・11以降の現代思想」
774 :
考える名無しさん:05/03/19 21:13:34
ぴかあさん
ぼくもうだめみたいです
だめになりそうなときは、風のなかを歩きましょう
風がいろいろなことを、吹き去ってくれるでしょう
ボブ・ディランの「風に吹かれて」を聴いてみましょう
776 :
考える名無しさん:05/03/20 12:27:43
さようなら
いつまでも現実逃避してないで働けよ
778 :
考える名無しさん:05/03/20 18:58:00
最後に残りの預金全部で株買います
たいした額じゃないですけど
これで最後にします
779 :
考える名無しさん:05/03/21 02:40:36
はて、20円の株なんて今どきあったかな
やはりラカンが分からないので、よく理解できていないのだけれど、いくつか調べていたら、
『ハイデッガーを学ぶ人のために』324ページに、
ラカンによるハイデガー「ロゴス」論文の解釈への言及がありました。
どうやらラカンはハイデガーの思惟変遷は問題にせず、『存在と時間』の一部
(とりわけ、ザイン・ツム・トーデ)と「ロゴス」論文を融合して考えていた模様ですね
(どうやって融合させうるのか、想像つかないですが…)。
このレスでは君が時事問題を解釈したり、トリップくんが文学と哲学のあいだで
考えたことを書いたりしています。そうした営みこそ、哲学版がもつ可能性のひとつなんでしょう。
トリップくんの文章、美しいですね。
予告したわりには情けないコメントですが、これくらい。
また明日から現実逃避の毎日か
つらいなぁ、ぴかぁ〜
783 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/23(水) 17:19:56
ん?
784 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 11:51:34
公共性?放送倫理?金で買えない?
亡霊だなあ〜
785 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 11:56:46
ホリエモンが車会社を買収したらみなこういうだろう
ホリエモンは車についてなにもしらないから、車の事故はなくならないだろう
嫌われるとはそういうものだ
786 :
春厨:2005/03/24(木) 12:38:17
>783,784,785
氏ね。
787 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 14:22:33
現実的なものとはなにかそのようなものがあるというよりも象徴的なものにより失われたものがある
という形で現われる
たとえば痛みは象徴的な痛みであり、現実的な痛みは失われているとしてある
788 :
春厨:2005/03/24(木) 14:25:07
おめえは現実的に痛いプヒャゲラ
氏ね
789 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 14:27:04
ボクたちの痛みは象徴的なものでしかない、のではなく
現実的なものが失われることとしてある
そこに失われた本当の痛みがあったから、痛いのであり
単なる妄想ではないのである
790 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 14:31:33
だから現実的なものへの接近は象徴化を越えようとする試みである
ことばにならない、経験したことがない痛みを感じることである
不可能なものへの接近であり、自己、人間を越える、解体する試みである
また明日から現実逃避の毎日か
つらいなぁ、ぴかぁ〜
792 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 18:41:59
欲望は過剰性をめざす
過剰は余剰、なぜそこにあるのかわからないものである
快感原則、経済原則の彼岸である
793 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 18:44:20
たとえばパソコンの神話はそんなもの誰も望んでいなかった、というものである
だから原則に従わないマニアが開発した過剰なものなのだ
794 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 18:48:11
ヒット商品の多くはこの過剰をもって登場する
たとえば日本製品が品質がよく一番である言われたときも
あたかも壊れにくいという原則に従い売れたようにいわれながら
それは過剰品質であるために売れたのである
795 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 18:50:22
たとえばそれは日本車をみてもわかる
品質が過剰、機能が過剰だから売れるのである
携帯電話の過剰性はいわずもがなである
796 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 18:54:07
すると問題になるのが過剰性をいかに管理するか、ということである
たとえば一時期ソニーは独自の切り口で製品を作るから良いと言われた
すなわちソニーブランドには過剰があったということである
797 :
考える名無しさん:2005/03/24(木) 19:12:50
汚物に快楽を感じる=スカトロか?
798 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 19:30:46
しかしこの過剰性は、単に過剰であるだけではダメだ。
それは予測不可能な過剰性なのである。
なぜにその過剰に人々が欲望するのか、そこには解はない。
たとえばかつてのもっていたソニー的な過剰性とは、何ものであるか。
他社とは異なる独自性?それは言語に還元することができない過剰性である。
つまりどういうことだ
800 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/24(木) 20:03:55
欲望は過剰性をめざす。過剰は余剰、なぜそこにあるのかわからないものである。快感原則、経済原則の
彼岸である。たとえばパソコンの神話はそんなもの誰も望んでいなかった、というものである。
だから原則に従わないマニアが開発した過剰なものなのだ。
ヒット商品の多くはこの過剰をもって登場する。たとえば日本製品が品質がよく一番である言われたときも、
あたかも壊れにくいという原則に従い売れたようにいわれながら、それは過剰品質であるために
売れたのである。たとえばそれは日本車をみてもわかる。品質が過剰、機能が過剰だから売れるのである。
携帯電話の過剰性はいわずもがなである。
すると問題になるのが過剰性をいかに管理するか、ということである。たとえば一時期ソニーは独自の
切り口で製品を作るから良いと言われた。すなわちソニーブランドには過剰があったということである。
しかしこの過剰性は、単に過剰であるだけではダメだ。それは予測不可能な過剰性なのである。
なぜにその過剰に人々が欲望するのか、そこには解はない。たとえばかつてのもっていた
ソニー的な過剰性とは、何ものであるか。他社とは異なる独自性?それは言語に還元することができない
過剰性である。
また明日から現実逃避の毎日か
つらいなぁ、ぴかぁ〜
802 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/25(金) 16:16:11
がぜびいだ ばなづばびだ
803 :
考える名無しさん:2005/03/25(金) 16:50:59
>802
一生ひいてろ
>>800 つまりぴかぁ〜さんみたいにありきたりで薄っぺらだとみんなから
飽きられるんだね
807 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/27(日) 18:40:37
問題と悩みとは、コンスタティブとパフォーマティブである
すなわち問題の要因を自己性質的なものへと展開することによる
808 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/27(日) 18:44:16
たとえば他者から相談された他人事と
自分自身の問題の差異である
そして往々に悩みは悩む程に自己の人格攻撃へ迎う
何だかんだいってもお二人は仲がいいですね。
810 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 09:16:02
ライブドア関連でテレビとネットの違い、融合など語られてますが
よばれる知識人は、経済系、理系ですね
哲学、社会学、メディア論など皆無ですね
なかなか意味深いですね
811 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 09:34:04
現実的なものがせり出してきている、というとき
科学技術の発展を無視することができないのではないだろうか
想像界のことばが解体され象徴界のことばへ移るとき
心象が解体され、動物化へ向かうとき、
ボクらを支えるのはまた動物的なむき出しの生であり、
それは科学に支えられた生である
812 :
考える名無しさん:2005/03/28(月) 09:40:12
自己の人格攻撃・・自己を救うものは何ですか?
813 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 09:44:31
北田、大澤
象徴界を機能させるための動物化
この象徴界とは科学的言説である
東
象徴界を必要としなくなった動物化
814 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 09:47:53
科学的言説さえ解体された動物化と理系離れの関係
815 :
811:2005/03/28(月) 09:53:43
聞いておいて何ですが、ま〜何でもいいんでしょうねぇ。
自分としては逃げてもいいんだという考えでしたけど。
816 :
811→812でした。:2005/03/28(月) 09:54:44
失礼。
817 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 12:48:00
救うという表現が難しいですね
救うとはなにか?
818 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 13:06:40
動物的な言説とは、生理的なことばであり、それを担保に間主観性は保たれる
ここにあるのはリスカ、あるいは虐待などの享楽である
それに対して動物化とは間主観性自体が求められない
享楽は崩壊し、自己に閉じた快楽の世界である
819 :
THE グル :2005/03/28(月) 13:23:41
いいですか、
ぴかぁ〜さんは、
おっしゃっておられることが無茶苦茶ですね。
といいますのも、
あなたは勝手な想像と誤謬から多くの引用をし、
また、
テクニカルタームの多用で一見すると体をなしているようにも見えますが、
その実、
よくよく見るならば、
その誤用や誤った理解が目立つんです。
もっと平易な文にしようと努力するならば、
その間違いにも気付き、
もっと論旨も明確になって良くなると思うんですがね。
どうかしましたか?
820 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 13:28:21
たとえば?
821 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 13:33:38
一見同じように見える北田、大澤/東の言説には
このような逆の意味がある
これは動ポスの中の東のジジェクのシニシズム論批判の中に見て取れる
それは大澤のアイロニカルな没入に対応する
まさに東はアイロニーもシニシズムもないといっているのである
822 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 13:37:43
アイロニー、シニシズムという間主観性からの没入は間主観的な没入であり、
東の動物化は没入であっても自己閉塞的な没入である
823 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 13:42:49
だから問題は、東のいうようにオタクは動物化、自己完結的な没入なのか、ということだ
オタクの自閉性はまさに自己間欠的な没入に見えるし、そのように言われる
しかし動物化的な自己完結とは物理的な自閉とは異なる
たとえばひきこもりは動物的自閉か、というとそうともいえない
824 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 13:51:56
たとえばひきこもりが苦悩するのは、象徴的ネットワーク=社会とのつながりを
断ち切れないところから生まれる
家畜のように部屋に閉じこもり充足できないのである
825 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 13:54:53
オタクはひきこもりよりも自己充足的に見える
もはや社会にも興味がない
ひきこもりのように苦痛から社会に対して理論武装するために
社会的言説に回帰する必要もないように思う
826 :
THE グル :2005/03/28(月) 14:18:43
>>820 いいですか、
例えば、
一番最近の
>>818を取り上げ端的にご指摘いたしますと、
動物化は間主観性自体が求められないとしておりますが、
彼らが世界から完全的、
絶対的に切り離され独立して存在できない存在である以上、
「認識された(知られた)」彼らが形成する超越論的な場における他者と構成される共同体に属するワケであり、
他者を必要とする欲望の支配を免れないんです。
意図してなのか知らずにか、
ぴかぁ〜さんの文章には、
東さんの受け売りが目立ちますね。
どうかしましたか?
827 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 14:27:20
受け売りではなく、東の動物化についてかたっているわけですね
ぴかももう古いよな。放置すべき。
829 :
考える名無しさん:2005/03/28(月) 14:40:59
あっちゃんへ
このスレ見たら連絡ください
待ってます。
830 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 15:19:00
動物化しているのか?を突き詰めれば、
たとえば人間はそれほど人間なのか、ということに行き着くだろう
象徴的に主体でありえているのか
831 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/28(月) 15:37:52
それはまさに現実界の問題である
わたしがなにもであるか、決していいことができない、故に私がなにもでありかというトラウマからのがれられない
人間になりきれない故に人間になることからのがれられないという否定の過剰性
801 :考える名無しさん :2005/03/24(木) 21:43:48
また明日から現実逃避の毎日か
つらいなぁ、ぴかぁ〜
ニートって他人も休んでいる休日しか心が落ち着かないらしいね
平日は現実逃避の毎日
平日カキコ、休日休みのぴかぁ〜
つらいな〜
834 :
考える名無しさん:2005/03/28(月) 23:25:54
いまだに誰一人としてぴかぁ〜思想の革新性を理解していないというのは驚き以外の
なにものでもありませんね。ぴかぁ〜氏がこれだけ多くのわかり易いレスを書いている
というのに、まったく哲学板住人の目は本当に節穴なのでしょうか。
ぴかぁ〜氏の主張は最初から一貫しています。
「自分で書いたものが何を意味しているのか自分でもわからない」これがぴかぁ〜氏の
言説形成のコアの部分でありもう何年も前からまったく変わっていません。
東浩紀風に言えば、1形而上学的→2存在論的→3郵便的 からさらに進んだ4脳内郵便的
脱構築の実践に他ならないのです。
自演乙w
凝った自演乙w
837 :
考える名無しさん:2005/03/29(火) 00:09:31
>>835 自演じゃないんですけど・・・
「自分で書いたものが何を意味しているのか自分でもわからない」
これはちょっと誤解を招く書き方でしたね。これは「自分で書いたものが何を意味す
ることになるのか(他者にどうとられるのか)自分でも決定できない」という意味ではなく、
「自分で書いたものにどういう意味を付与することになるのか(自分がどうとることになる
のか)自分でも決定できない」という意味ですね。ですから
>>819のグル氏のような批判は
まったく的が外れているのです。グル氏のような批判をする方々はいまだに「自分で書い
たものが何を意味することになるのか(他者にどうとられるのか)自分でも決定できない」
の次元にいます。自分で書いたものを脳内郵便空間に投函せずに書いているのです。
チラシの裏にどうぞ
ぴか自演乙ww
840 :
考える名無しさん:2005/03/29(火) 01:30:53
重要なのはいかにして一人で散種し、単数で複数になるかということですね。
>>810 それ、興味あるな。なんでだろうね? 時には、ざっくばらんに、ぴかぁ〜よ語れ。
842 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 08:38:28
テレビはそこにある倫理的な主体をつくりだすということです
それはテレビの公共性であり、影響力ゆえですが
そこにはかなりの抑圧が働くということです
だからテレビ=うわべ、ネット=本音という幻想がなりたつわけです
それは対立ではなく差異化し、補完しあっているわけです
その手のこともわからずにネットでなにができるか、動画が動いたなどのテクニカルな話から
はじまるのもまたテレビですね
843 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 08:52:01
科学が今までの物語とことなるのは偶有性の物語ということである
844 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 10:41:05
東の魅力はまさに動物化という言葉にある
煩わしい他者からおさらばし、自己充足的に生きる
そこには言葉さえ必要がない
しかしこれはあまりにロマン主義すぎないだろうか、ということである
動物化という言葉自体が動物的なことばであるということ
人間であり続けるための、象徴界を確保しつづけるための、現実界への接近ではないだろうか
ということである
845 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 11:26:09
動物化と言葉の動物化では逆の意味になる
動物化はだれでもない存在として充足することができるが
言葉の動物化では、だれでもない存在でいることに我慢できずに
どこかで感情的、暴力的な叫び(言葉)をあげずには折れないのである
846 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 11:27:51
だから問題はこの情報化という主体の散乱に順応できるのだろうか
ということである
847 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 11:35:02
北田、大澤、ジジェクにしろ問題にしているのが
この暴力的転倒である
ネオコン支持にしろ、イラク人質バッシングにしろ、オウムにしろ
充足しているようにみえ突然豹変するこの転倒である
848 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 11:43:33
他者とコミュニケートするためには
手首を切るか、相手を刺すかしかないという
現実界への接近
動物化しコミュニケートせずにおれればよいが…
849 :
考える名無しさん:2005/03/29(火) 12:52:13
>all
独語。対話の不在。読む気も失せた者たちの非難。
自演としか思えないあからさまな擁護派。
おまいらいつまでこんな流れを続けるつもり?
850 :
考える名無しさん:2005/03/29(火) 12:54:24
引き篭りはしかたないべ
851 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 14:51:50
現実的なものの近接とは、科学的言説によるものではないだろうか
科学的言説とは偶有性の物語である
この世界はなにもの意図もなく、偶有性によりできている
それが科学体系の最終目標である
たとえば神の啓示のような美しい自然法則の方程式もその先にはかならず偶有性から説明されるだろう、ということである
852 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 14:53:52
そしてこの偶有性への対抗としてあるのが、ヘーゲルの否定性であり、ハイディガーの現存在であり、
ラカンの対象aである
854 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 15:30:29
動物は現実的なものを受け入れてしまうが
人間にとってはあまりにトラウマ的であるために象徴的なものを通しと無として、否定として近接する
そして科学的言説はまさに現実的なものとの接近を可能にする
ものそのものに近づく
俺は人に見られると不快感を感じる。
できれば透明な存在で、「そこに居る」ことだけが認知される人間になりたい。
857 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/29(火) 16:48:15
人にみられると不快であるのと、人にみられると快感であるは
同じ意味です
動物化とはまなざしが消失するのです
858 :
ゴーダ:2005/03/29(火) 16:54:37
つまり君はいままさに動物化していると、
そう言いたいわけかね?
859 :
考える名無しさん:2005/03/29(火) 23:44:57
まったく今日もぴかぁ〜氏のやりたいことを全くわかっていない人たちばかりですね。
「正当性は?」「根拠は?」「出典は?」まったくもってお幸せですねえ・・・
書き手に対しての正当性や根拠や出典の要請というのは、書き手によって「パフォーマテ
ィヴな言明をするためのコンスタティヴなテクスト」が書かれた場合にのみ意味を持つん
です。つまり、議論を展開させるために書かれたものに対してのみ(切り-開こうとせんと
するがために閉じているテクストに対してのみ)有効なんですね。
ぴかぁ〜氏の場合は最初から意図が違うんです。彼は最初から自閉したいだけなのです。
彼は2ちゃんねるという新しい言説空間においては、これまでの言説空間と事態が全く
逆であることにいちはやく気付いた。簡単に言えば、開けば開くほど閉じることができる、
ということです。未知の哲学や科学のタームの濫用によってテクストは無限に切り-開か
れる(「正当性は?」「根拠は?」「出典は?」という対応の無限生産を呼び込む)が、それ
によって対話は無限に閉じてゆく。2ちゃんねるやブログというものは日記的自閉やマイ哲
学ノート的自閉においては質的にも量的にもありえなかったレベルの自閉を可能にします。
チラシの裏にどうぞ
861 :
考える名無しさん:2005/03/30(水) 00:08:15
なので、ぴかぁ〜氏のスレにおいて用語や概念の誤使用を指摘したり、文章の論理的
整合性を求めたりする方たちはぴかぁ〜氏の鮮やかな自閉手法に嫉妬しているとしか
思えないんです。ぴかぁ〜氏が用語や概念を適当に使い、デタラメな論理で文章を書いて
いることは明らかであると認識しているにも関わらず、その認識を忘却、抑圧してまで
ぴかぁ〜氏に対応を求めてしまう。これは明らかに異常な光景と言わざるを得ません。
2ちゃんねるという新しい言説空間を理解していないから、ぴかぁ〜氏が書いたチラシの
裏や日記の内容をクリティカルに取り上げ衆目にさらすことが、ぴかぁ〜氏を開くこと
(転じて自己の自閉の相対的優位を守ること)になるといまだに思っている。事態は全く
逆だというのに。2ちゃんねる空間で自閉したければ逆に「開く」のです!
チラシの裏にどうぞ
>859,861
ADの前説か(笑、くだらん。つまりぴかは当初考えられた
機能をもう果たしていないということだろう。
掲示板に対する認識が古いんだ。
もうやめれ。ぶざまだ。
ひきこもってポン
865 :
考える名無しさん:2005/03/30(水) 15:21:28
「ロンっ !! イチニッパー」 o(^-^o) (o^-^o) (o^-^)o ニゲキリ ニゲキリw
866 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/30(水) 21:43:49
現在の主体像を支えているのが、認知科学ではないだろうか。生物としての私、遺伝子としての私、
脳としての私など、「認知科学的な私」が、TV番組であり、本であり、利己的遺伝子から、馬鹿の壁、
クオリアなど、その手のものが巷にあふれている。そして、なかなかおもしろい。
科学的言説とは偶有性の物語である。この世界はなにものの意図もなく、偶有性によりできている。
それが科学体系の最終目標である。たとえば神の啓示のような美しい自然法則の方程式も、
その先にはかならず偶有性から説明されるだろう、ということである。
だからこのような「現実界における知」の解は、「単なる分子の配列であり、一個の脳の妄想である。」という
「あなたがあなたであることに意味はない。」という偶有性である。だから「認知科学的な私」と言う言葉は、
パラドクスを含んでいる。認知科学が提示するのが、そこに生物(動物)としての人間はいても、
主体としての「私」はいない、ということである。
このような問いに対するジジェクの解答は、遺伝子や脳に還元されえない「過剰」がそこにあるということで
ある。「私はなにものであるか?」と問うことそのものが、還元されないということである。
動物と変わらない分子情報であり、脳という器官にそのような過剰はどこにも見いだせない
この過剰こそが人間そのものであり、それが知としての現実界ではない、現実界の近接として
トラウマ的裂け目である、というである。
867 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/30(水) 21:51:01
ならば、なぜボクたちが認知科学に引きつけられるだろうか。
科学的言説はまさに「現実的なもの」との接近を可能にする。それはラカンがいうところの
「現実界における知」である。近代以降、このような科学的言説の浸透、「現実界における知」を通して、
現代の「現実的なものへの近接」か加速されているのではないだろうか。
「私はなにものであるか」という解答に、「現実界における知」である認知科学は、
「あなたは単なる脳だ、遺伝子でしかない」というトラウマ的な解答を与える。
このときに起こる「何かが間違っている」という思い、それは小さな「リストカット」のように
私に小さな痛みを与える。そしてこの「現実界の経験」が、リアリティであり、
「主体を存続」させるための経験なのである。
たとえば、それは「ボクたちは動物化している」という言葉も同様である。
チラシの裏にどうぞ
俺は、言葉もまなざしも超えて見せる
870 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/30(水) 21:58:38
「現実的なもの」をもとにした「主体の存続」とは、「現実的なもの」の近接は、
人間にとっては、人間を解体する、あまりにトラウマ的なものであるために、
象徴的なものを介して近接せざるおえない。だから「現実的なもの」の近接は、
まさに人間である契機であるということになる。
これに対して、東の「動物化」は、動物は「現実的なもの」を受け入れてしまう。
だから「現実的なもの」の近接を、人間が「素直に」受け入れ、自己充足できれば、
みんながまったり動物的に生きることができる。煩わしい他者からおさらばし、
自己充足的に生きる。そこには言葉さえ必要がない。
しかしここにまさに「認知主義的な私」がいるのではないだろうか。
「あなたは動物になっている。」というトラウマ的な解答が、「小さな「リストカット」のように
私に小さな痛みを与える。そしてこの「現実界の経験」が、リアリティであり、
「主体を存続」させるための経験なのである。」
すなわち「動物化」という言葉自体も、「主体を存続」させるために、象徴界を「裏返した形式」で
かろうじて回復しよう」としているのではないだろうか、ということである。
871 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/30(水) 22:00:23
そして、これは、北田、大澤、ジジェク等が問題にしている、いかように「主体は存続」されるようと
しているのか、という問題につながる。たとえは、「動物化」が、東がいうような「(人間からの)動物化」で
あるのか、主体を存続させるための、「言葉の動物化」(「動物化によって人間を存在する」)
であるのか、ではその意味は逆である。「(人間からの)動物化」はだれでもない存在として
充足することができるが、「言葉の動物化」では、だれでもない存在でいることに我慢できずに、
どこかで感情的、暴力的な叫び(言葉)をあげ、それによって他者との間主観的な世界を
開こうとするものである。それは極端には、他者とコミュニケートするためには、
自分の手首を切ってみせるかか、相手を刺すかしかないということである 。
このような「言葉の動物化」は、ボクの言葉でいえば、主体の「拡散」が進めば進むほどに、
その反動としての「収束」への転倒は、暴力的なものになる、ということであり、
ネオコン支持にしろ、イラク人質バッシングにしろ、オウムにしろ、充足しているようにみえ、
突然豹変するような転倒である。
チラシの裏にどうぞ
873 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/30(水) 22:03:45
ジジェクが「リアリティ」を持ち続けていることも、「認知科学的な私」、「動物な私」に近い「ジジェク的な私」が
そこにあるからかもしれない。ジジェクのラカン思想の中でも特に、「現実界=現実的なもの」の独自の
展開にある。それは現代、生理的あるいは動物的なもの、「剥き出しの生」のような「現実的なもの」が
せり出してきている中で、ジジェクは、「現実的なもの」を巧みに語るということ、
そして「現実的なもの」をもとに「主体の存続」にこだわっている、ということである。
まさにジジェクの存在そのものが、ボクのいう「ポストモダンの(主体の)収束過程」に対応している、といえる。
874 :
考える名無しさん:2005/03/31(木) 03:31:39
ぴかぁ〜、着眼点はいいんじゃないの。
現実を離れたものを哲学とは呼べない。
なぜなら真理とは真実のことであり、
真実とは事実、つまり現実のことだからね。
それ、本線だってこと。保証するw
自演は良いから根拠示せよぴか。
じゃなきゃガキの戯言と変わらん。
877 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 10:43:37
人々は合理的をめざす。しかしそこにはいつも、なぜそうするのか、という問いが隠されている。
その問いはすべてを機能不全に陥れる
なぜならかならず答えられないからである
そしてそのつまずきこそが「人間」である
878 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 11:18:05
なぜ?などという欲望はださい
答えなどないことはいまさらいうことではないだろう
だまって受け入れ、行為する、それがクールなのである
これは馬鹿とは違う。ボクたちはあえて受け入れているのだ
879 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 11:19:50
にちゃんねるが非生産的?くだらない?そんなことわかっている
あえてやってるんだ。暇つぶしのゲームなんだよ
880 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 11:26:22
「にちゃんねるは非生産的?そんなことたわかっている
必死になどなっていない。あえて必死にみせるゲームだろう。
もしかして必死?」
あえての中で宙ずりにされた、なぜ?はどこに向かうのか
881 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 11:29:40
他者のまなざしなど気にしない
クールに、クールに
そして気にしているようにみせのも、他者への寛容な「フリ」である
882 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 11:34:22
この宙ずりはどこかで爆発するだろう
宙ずりにされつづけたクールな寛容のエネルギーは、欲望という空気抜きを通り過ぎ、
興奮へと転倒する
883 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 11:35:35
その転倒のタイミング、行き場は不確定になっている
884 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 11:39:24
引きこもりとは寛容の宙ずり状態ではないだろうか
885 :
ゴーダ:2005/03/31(木) 11:53:19
仮にすべてに眼をつむり、
放置するとしても、「何故ageるのか?」
という疑問が残るな。
886 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 14:42:38
なぜageるのか?
良いですね、キャチですね
887 :
考える名無しさん:2005/03/31(木) 14:47:06
ひきこもってポン
888 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 14:53:48
科学的な人間=動物と人間の対立
科学による人間の抑圧
科学的な人間こそ人間である、という抑圧
しどうあげ
ぴかぁ〜、少しは働けよ
部屋に閉じこもってばかりじゃあ、
かあちゃん泣いてるぞ
891 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 15:09:24
たとえばビジネスでは如何にイノベーションを管理するか、という問題がある
新しいイノベーションは現在の技術の延長線にはないからである
いかに不確定性を管理するか
それが一時代を築いた経営者が躓く要因にもなっている
892 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 15:11:05
科学技術とは不確定性の管理記述である
だから科学的な人間とは予測される人間である
893 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 15:13:24
科学とは予測技術であり
偶有的な世界である
894 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 15:18:13
科学技術により予測性を高める人々と
科学技術による抑圧から救う人々
895 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 15:24:03
たとえば重力とは
物理運動を予測し、単純化する
カオス性を飼い馴らす
また重力法則は力の統一理論により偶有性に還元する
重力はたまたま生まれたものであり、予測することができる
この思想は人間はたまたま生まれたものであり、予測することができる、まで拡張される
現実界の管理である
896 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/03/31(木) 15:25:56
ここには二つの反応がある
現実界としての他者の飼い馴らしという快楽と
現実界としての自己の飼い馴らされの不快である
898 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/01(金) 12:40:53
現実界の暴力的近接
899 :
ローカルルール審議中:皇紀2665/04/01(金) 15:29:50
意識が薄れてきました
さいごですありがう
900 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/01(金) 18:06:26
現実を飼いならせ!
901 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/01(金) 18:23:33
神話(象徴界)が磨耗して不確定性(現実界)が近接している
それがまさにポストモダンである
902 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/01(金) 19:26:47
リアルを飼いならせ!
903 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/02(土) 01:37:13
神話(象徴界)が磨耗して不確定性(現実界)が近接している。
たとえばそれは、神話から続く科学的な決定論という物語が、偶然という非決定論に
かわったということである。世界は偶然であるというとき、
不確定性(現実界)が近接しいるのである。
そしてボクたちという存在は、不確実な存在である、というところから、始まるのである。
904 :
ローカルルール審議中:皇紀2665/04/02(土) 01:40:11
905 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/02(土) 01:40:51
そこには、ボクたちはなにものでもない、という小さな痛みこそが、ボクたちのリアリティであり、
ボクたちという主体を支えているというパラドクスがある。
「遺伝子というの私」、「脳としての私」、「動物としての私」という
パラドクスこそが、リアリティという虚像であり、
その虚像にこそ、リアルな私が存在するのである。
906 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/02(土) 01:43:20
科学技術という現実は、さらに現実界へ近接していく。
「遺伝子というの私」、「脳としての私」、「動物としての私」へ
ダイブしていく。その痛みこそが、主体を存続させているのである。
907 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/02(土) 01:47:02
この小さな「リストカット」こそが、主体を存続させる。
ネットであれ、ゲームであれ、アニメであれ、ファッションであれ、
情報の海へのダイブし、主体を解体される痛みこそが
主体を存続させているのである。
すなわち、「リアルを飼いならせ!」、そういうことだ・・・
908 :
ローカルルール審議中:皇紀2665/04/02(土) 01:50:05
す、すげえーーーーーっ! 完璧な自閉ですね、ぴかぁ〜さん。
909 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/02(土) 01:53:37
リアルを飼いならせ!
神話(象徴界)が磨耗して不確定性(現実界)が近接している。たとえばそれは、神話から続く
科学的な決定論という物語が、偶然という非決定論にかわったということである。
世界は偶然であるというとき、 不確定性(現実界)が近接しいるのである。
科学技術は、さらにリアルへ近接していく。ボクたちという存在は、不確実な存在である。
「私とは遺伝子である。」、「私とは脳である。」、「私とは動物である。」
このリアルへの近接という小さな「リストカット」こそが、ボクたちのリアリティであり、
主体を存続させているのである。
ネットであれ、ゲームであれ、アニメであれ、ファッションであれ、
リアルへの近接という情報の海へダイブし、主体を脱構築される痛みを味わう。
それこそが、主体を存続させているのである。
さあ、「リアルを飼いならせ!」そういうことだ・・・
910 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/02(土) 01:56:12
己の欲望に情報するな。「寛容」に譲歩するな。
911 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :皇紀2665/04/02(土) 01:57:10
己の欲望に譲歩するな。「寛容」に譲歩するな。
さあ、「リアルを飼いならせ!」そういうことだ・・・
912 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 12:16:10
「私とは遺伝子である。」、「私とは脳である。」、「私とは動物である。」 というとき、
それは、私を数字へと還元する、切り刻みもうとする小さな「リストカット」的な行為である。
それこそが脱構築という主体の解体に内在する、「死への欲動」である。
現代は、このような「リアルへの逃避」によって、主体は確保される。
TVゲームであり、ネットであり、認知主義であり、そこへ没入する快楽は、
まさに主体が解体されることによって、主体が存続されるまなざしの快楽である。
913 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 12:34:19
914 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 13:26:26
女子高生のスカートはなぜ短いのか
性のプレゼンテーションである。
彼女たちにとって、性はリアルなのである。
象徴的な性を抑圧した倫理観が低下し、
性への興奮というリアルを担保に、主体性を確保しようとする。
しかしそれは彼女たちに、そのような主張があるわけではない。
リアルを担保にした、主体性の確保は、集団的な没入形態をとる。
みんながやるから、私もやる。という形態を取る。
915 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 13:32:24
人々が、リアルへ没入するときに、そこに理屈はない。
たとえば、ある彼が「萌え絵」に引かれ、オタクへ向かうとき、
それはただそれがリアルだあり、引かれるだけである。
916 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 13:55:09
ライブドア問題は、ホリエモンが口を閉ざしたことによって
さらにヒステリックな様相を呈してきた。
ホリエモンはすっかりヒールである。
将来のビジョンがない、人を軽くみて金だけだ。
ジャーナリズムという倫理観がない。
放送の公共性を無視している。
917 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 13:58:20
これらの罵倒は、つい最近マスメディア自身が非難されてきたこと
そのままである。視聴率という金儲け主義、やらせなど倫理観の低下。
918 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 14:01:48
しかしこのようなヒステリックな状況を生んでいる大きな要因は、
すでにいわれているように、ホリエモンはなぜあれほど、劇場型にふるまうのだろうか。
というところにある。
なぜ社会を「煽る」のか、ということである。
そこに「まなざしの快楽」があることは否めないだろう。
919 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 14:19:41
ここには、象徴的なものと、現実的なものとの対立があるかもしれない。
すなわち現実界との距離である。
ホリエモンに「煽り体質」が内在するとしても、彼のスタンスは
オープンである。思っていること、やろうとしていることを
隠さずに、話す。聞かれるから、答える。
それはネット的な、そしてアメリカ型資本主義的なオープンである。
それは、科学技術に支えられた合理性であり、
現実的なものへの近接している、象徴化である。
920 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 16:59:07
それと対立するのが、日本のマスメディア的な倫理性である。
しかしこのような対立は、昔からある、まったくもって古いモノである。
921 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 17:00:33
認知科学で乗り越えられない領域
象徴化されない現実界。
たとえばなぜ花は美しいのか。
922 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 17:08:29
ボクらが越えられないのは、生命の神秘というヤツである。
様々な生命の順応性には、驚愕する。
それは、「神が設計したもの」としか、形容しようがないものである。
それに対する進化論的な答えは、「自然淘汰」である。
すべては偶然によるものである。
923 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/02(土) 17:10:34
だから、ボクらが花を見て、美しいと思うのも、
偶然の産物であり、偶然の経験の中の淘汰である。
924 :
ローカルルール審議中:2005/04/02(土) 17:15:57
偶然は必然
925 :
ローカルルール審議中:2005/04/02(土) 19:43:02
ぴかぁ〜、自分の姿焼き作成中w
926 :
短パン:2005/04/03(日) 21:04:17
まなざしの快楽と溢れる汚物
・・・。なんにせwよ、このタイトルを維持しなくてはならん。貴殿の苦労に、とりあえず。乙!
だけどなぁ。。。「何が言いたいのか」は未だ、闇の中に捨てられたまんまなんだなぁ〜?
『いうたら、スレッドも終わる頃だな。』
・・・。伸ばすが為の愚考かよ?まぁ、いいけどさ・・・・・・・・・・>
なんてので、反応アリかね?
927 :
ローカルルール審議中:2005/04/03(日) 21:17:39
そんな自己肯定ばっかりしてるから成長しないんだよ
928 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/03(日) 23:56:35
現在僕らが見ている現象は、現実から次第に乖離していくという傾向が反転させてしまう
ような現象ではないか。つまり、現実「からの」逃避が、現実「への」逃避へと転換している
ように見えるわけです。しかも「現実への逃避」と言ったときの「現実」というのは、
普通の現実ではない。「現実の中の現実」「現実以上の現実」、現実のまさに現実性を
体現しているような激しく、暴力的な現実です。 大澤真幸「現実の向こう」
本来あるべき理性的な象徴界は、シニカル化、アイロニカル化され、流動性が高くる。
この「拡散層」ではリアリティを確保し、共有することが困難になり、「まなざしのネットワーク」の
形成が困難になる。そのために、「現実への逃避」=「生理的なもの」のような
象徴界における現実界との近接部の流動性の低い「収束層」で、リアリティは確保され、
共有され、「まなざしのネットワーク」が形成される。
929 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/03(日) 23:57:10
しかし現実界という「ものそのもの」を本来人間は認識することはできない。
現実界への接近は「人間」そのものを解体する故に、象徴的なものによって隠されている。
しかし拡散層によるネットワークが困難になる中で、リアリティ(すなわち他者からの価値承認)は、
現実界というこの「危険な近接」がなければ、獲得できないのである。これが、
大澤のいうように、現実を「暴力的破壊的」なものへ向かわせることになる。
たとえば、2ちゃんねるの祭りは、祭りそのものが目的であり、それによって現実を
獲得しようとする行為である。そこでは往々にして、あびる優などのように、「生け贄」が必要とされる。
「生け贄」への「暴力的破壊的」で、シニカルな発言の数々によって、生まれる生理的なもの=
「全体主義的な高揚感」が、収束層となり、「まなざしのネットワーク」が構築される。
この没入は、本来の象徴界としての言説化された主体性はきわめて薄い。このために
どのような「反論」も意味をなさない「主体なき巧妙な没入」として現れるのである。
930 :
ローカルルール審議中:2005/04/04(月) 00:00:12
_____
/ ̄ ̄ ̄ ̄\,, / \
/_____ ヽ / ______ \
| | | / / \ ヽ
|,,_ _, |___/ |/ ,,_ _, ヽ |
| "゚'` } "゚` 6 l | "゚'` } "゚` | |
. ヽ __''_, ,-′ | __''_, | l
ヽ. ー__ /ヽ ヽ ー / /
/ |/\/ l ^ヽ \ / / 何で働かないの?
| | | | l━━(t)━━━━
931 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/04(月) 08:52:29
ん?
932 :
ローカルルール審議中:2005/04/04(月) 10:52:31
金持ち働かず
30過ぎてのニートは痛い
934 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/04(月) 12:38:33
現実的な知は不確実性を飼いならす
それは人をより現実界近傍で管理する、利便性があがる
しかし主体とは現実界でありそれは主体という不確実性抑圧する
これは従来のような主体を不自由にする抑圧ではなく
主体を自由にする抑圧である 主体=自由から、主体と自由が分離される
935 :
ローカルルール審議中:2005/04/04(月) 13:04:05
死ね、ひきこもり!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1
936 :
ローカルルール審議中:2005/04/04(月) 13:34:27
お前がしねや
チンカス
自分のすごい思想を発表したいなら哲学誌にでも投稿するなり
学会に送るなりしろ。
ここに書くとそれだけでサーバーの負担になって人に迷惑をかけている
ことを分かってんのか
938 :
ローカルルール審議中:2005/04/04(月) 15:19:47
うるちゃい!!!!
おまえみたいな情報の価値ゼロのチンカスが消えば
鯖の負担も減るわ
939 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/04/04(月) 16:10:49
ジジェクのシニシシズム
ウインドウズ独裁はいかんといいなが
ウインドウズに熱狂する
社会経験はあるんだろうし今は抜け穴が塞がれてるからなぁ。