■スレッド立てるまでもない質問5@哲学板■

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549ローカルルール審議中:2005/04/10(日) 23:22:00
>>548
文脈から察するに、「形而上学的な対象」のことだろう。
なんとなく「超越論的」という言葉を使いたかっただけでしょ。

要するに、アリストテレスもカントも知らずに哲学できる気になってる馬鹿。
550ローカルルール審議中:2005/04/10(日) 23:32:38
質問です。
自己実現って言葉は哲学者の言葉ですか。
だとしたら名前を教えてください。
551ローカルルール審議中:2005/04/10(日) 23:40:10
>文脈から察するに、「形而上学的な対象」のことだろう。
>なんとなく「超越論的」という言葉を使いたかっただけでしょ。

>要するに、アリストテレスもカントも知らずに哲学できる気になってる馬鹿。


ぴかぁ〜だ!
552ローカルルール審議中:2005/04/10(日) 23:44:51
>>549は、
「超越論的対象」を「形而上学的な対象」と言い換えただけではないか。
「形而上学的な対象」とは例えばなんぞや?
アリストテレスもカントも押さえているらしいチミに尋ねたい。
553ローカルルール審議中:2005/04/10(日) 23:46:06
からむなよド低脳
554ローカルルール審議中:2005/04/10(日) 23:53:43
>>553が、>>551であるなら、改めてお尋ねする。
「形而上学的な対象」とは、例えば、どのような文脈の中で語られる事柄なのであろうか?
一例を示されれよ。
555ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 00:11:43
>形而上学的な対象
横槍だけど、goo辞書で「形而上学」

(1)存在者を存在者たらしめている超越的な原理、
 さらには神・世界・霊魂などを研究対象とする学問。第一哲学。

つまり、形而上学的な対象って神や世界や霊魂かと。
556ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 00:19:17
>>555
>つまり、形而上学的な対象って神や世界や霊魂かと。

そのカントによる有名な規定は、実はヴォルフによる規定のなぞりなんだけどな。
557ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 00:31:57
超越論的と超越的を混同してるだけじゃないの?
558544:2005/04/11(月) 01:08:55
なんでもまいらは、こっちの意図と違うところばっかつっこみいれやがるw
超越論的は、おっしゃるとおり形而上学的という意味で使いました。
経験の彼岸にあるもの、そう言う意味で使いました。

>545め、それはそれで正しいじゃないかw

でもそう言うことを聞きたいんじゃないのよ。俺が聞きたい中心点は
「逆に言うと」以後です。
559544:2005/04/11(月) 01:14:13
誰でもいいんですが、例えばラカンのエクリについて、
いろんな解釈が出てきます。
そこで、論争が起きます。これは誤読だ、いや、あれが誤読だ。
しかし、そもそも「誤読」というなら「正当な読み方」があるわけです。

そこで疑問は、
1)「正当な読み方」は「正当に伝わる」ように書かれているはずなのに、
何故か複数の解釈を許してしまう。それはなぜか?
2)「正当な読み方」の「正当性」は何を担保にしているのか。
3)「誤読」が「誤読」であることを、その「誤読」である解釈と当のテキストだけで
証明は出来ないのか。

と、展開してみる。
560ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 01:36:09
デリダに詳しい人なら何か言えそうだけど…。
561ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 01:59:02
テキスト自体の文脈に照らし合わせることと、その作者の他のテキストとの関連を
考慮に入れることと、時代考証(その当時の用語・文法、影響を受けた学問、事件など)
をしっかりやるくらいかいな。

562ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 02:06:56
>>559

誰かが書いた本人(ラカン)に聞けばよかったのにね。
563おやすみ:2005/04/11(月) 02:10:58
一枚の絵を観て、その意味は意図は、更には、その画家の最初のエッチは、
鑑賞に堪えうる行為であったのか、と問うようなことだろうよ。
564ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 03:00:45
>>559
具体的な例を挙げて説明した方が判りやすいでしょう。

まず(3)だが、限定された状況ながら証明は出来る。
私は西洋哲学が専門なのだが、とっさに良い例が思い浮かばなかったので東洋哲学から例を挙げます。
論語に「孝悌也者,其爲仁之本與」と言う文があり、
朱子学ではこれを「孝悌なる者、其れ仁(じん)を為すの本か」と読む。
しかし、明末から清にかけて勃興した考証学がやったのは徹底的なテキストクリティーク、
古今東西の文章を調べて、文法的に正しい読み方をするということだったわけ。
つまり、ある単語の次にこの単語が来た場合、それは動詞として扱われるのか名詞として扱われるのか、どの意味になるのか、とかね。
そうして一文一語文法的に丁寧に調べていった結果、
上の原文は「孝悌なる者、其れ仁(ひと)の本為(たる)か」と読むのが正しいと結論づけられた。

じゃあなぜ朱子学ではこうした誤読をしてしまったのか?((1)についての解答。)
簡単に言うと、朱子学は「理」という主観的な形而上学説(仏教由来)が至上のモノであるという大前提から論語を読んだから。
だから孝悌(目上の人に対して従うという形而下の現象)が進歩して仁(じん=形而上的な理)に成るのだ!と誤読した。
しかし、文法的に正しい文を再現しようとすると、「目上の人に従うということが人(=仁)としての本分だよ」となる。
このように正当な読み方の保証((2)に対する解答)はまず文法的に正しく読むということにある。
あと、古い文献だと手で書く写本だから誤字脱字、あるいは意図的な改ざんがあり、それを修正することも正当な読み方を保証する。
565564:2005/04/11(月) 03:01:11
で、それは大前提。実際その正しい文を読む際には「解釈」というのが必要になる。
というのは我々は文章を単に朗読するだけじゃなくて「理解」しようとするから。
それで、なぜ一つのテキストが複数の解釈を許すのかについてはいくつか理由があるけど
結局は我々の使う言語の不完全さというかファジーさにあると言えるのではないかと。
我々の言語は、たった一つカンマをピリオドと打ち間違えただけで全く動かなくなるコンピューター言語とは違って曖昧だから。
もちろんそれは欠点だけではなく利点でもあって、
例えば「君って本当に頭がいいね!」という文が状況によったら賞賛になったり皮肉になったりするでしょ。

ちょっと話がずれたけど、同じ文章や単語でも読まれるときの状況や時代によって意味が変わる。
「心」って言う単語も脳科学を知ってる人と知らない人とでは全く違った意味になってる場合がある。
デモクリトスの「原子」と我々が一般に使う「原子」は言葉こそ同じだけど全く違った概念でしょう。
そうしたズレがあるからプラトンなんて2000年に渡って様々に解釈されてきたわけです。
それに544が
>超越論的は、おっしゃるとおり形而上学的という意味で使いました。
って言ってるけど、私は超越論的という言葉を形而上学的という意味で使ったりはしないように個々人によってある単語の含意する概念とかニュアンスが変わってくる。
著名な哲学者だって、結構同じ単語を多義的に使って意味が曖昧になったりしてるのが多い。
例えば「経験」とか「観念」とかの基本的な単語さえも各哲学者によって含意される内容が異なってる。
その辺のズレが一つのテキストに対して多くの解釈を生み出す要因かな。

もっとも一つのテキストには究極的に一つの解釈だけが存在するのか、それとも多様な解釈に開かれているのかは別の問題ですけど。
566564:2005/04/11(月) 03:03:08
すんごい長文の上、論旨がすごくわかりにくいところが多々あるね。
すみません。
567544:2005/04/11(月) 08:06:40
>564 丁重かつ大変興味深いレスありがとう。

>もっとも一つのテキストには究極的に一つの解釈だけが存在するのか、
>それとも多様な解釈に開かれているのかは別の問題ですけど。

ここをもっと知りたいです。

誤読かどうか、と言う議論は非生産的なものと生産的なものがあると
思うのです。
精読にこだわるべきレベルと、多様な解釈をするレベルがあると思う。
「しくじり行為」をノイズと見ず、必然と見るところから無意識を説明した
フロイトのように、誤読を「逆から見る」ことをしたかったのです。
そこを峻別することが出来ると、議論はスムースになると思うのです。

超越論的と形而上学的については、もっと勉強します。すんません。
568564:2005/04/11(月) 22:05:17
自分の書いた文章を読み返してorzグダグダじゃん…
やっぱ眠さで頭がガクガクしてる状態で文章を書くものじゃないですね、恥ずかしい…

>もっとも一つのテキストには究極的に一つの解釈だけが存在するのか、それとも多様な解釈に開かれているのか
の部分ですが、これは解釈学の根本問題の一つで決定的な解答は出てないでしょう。
解釈学的循環とかその他の難しいことを除いて、あえてこの問題を簡単に図式化してみると

作者の意図―(記述)→【テキスト】←(解釈)―読み手

となります。
作者は自分自身の考えや感想を書き込みます。
その際、基本的には作者の意図は一つです。
もっとも作者自身が気づいているいないに関わらず、作者の意図が不明瞭で曖昧な文章に成る場合も多々ありますけど。

個人的には作者側か読み手側か、どちらに重点を置くかは形而上学的な真理は一つかどうかという問いと言うよりも個々人の世界観のような気がします。
あくまで個人的な感想ですけど。

さて、作者に対して読み手が忠実であろうとする場合、意図は一つなので読み方は一つになります。
つまり、その作者、例えばプラトンの著作はプラトン自身どの様な意図で書いたのかをプラトンの属する時代、社会情勢、言語、文化・習慣に即して理解しようとします。
究極的には「作者よりも作者について詳しく知る」ことを目的としてテキストを読むことになります。
こうした作者の意図に重きを置く解釈の手法の欠点は柔軟な広がりに欠けることでしょうか。
「当時の人間の様に」そのテキストを理解してそこで終わりです。
これは先に述べた明−清にかけての考証学や文献学などがそれに当たるでしょう。
569564:2005/04/11(月) 22:05:56
一方、これとは逆に作者の意図を当時の時代に限定せず読み手の側を重視する解釈の方法もあります。
一般的に我々が古典小説などを読むときなんかも、このやり方をしますね。
例えば古い小説を読むとき当時の物の見方や考え方を「当時の人間の様に」受け入れて小説を読んだりしないわけです。
(それ故古典には注釈が多かったりします)
こうしたやり方だと作者側に立つ方法と違ってテキストを使って色々な事が出来る様になります。
例えばプラトンの国家論を使って現代国家を論じたりとか。
古代ギリシャと現代国家(しかも日本)という全く共通点がなさそうなモノをプラトンのエッセンスを抜き出して(歪めて?)きて論じることが出来るのが大きな利点でしょう。
ただ、突き詰めると究極的には読み手の数だけ解釈があり、しかもどれが正しいとは言えなくなるのがこの方法の欠点と言えば欠点でしょうか。
あるのは個々の解釈だけで正しい解釈は存在しない、という主張もあるほどです。
そこまで行くと「正しさの基準とは?」と悩まずにはいられなくなりますね。
それは私が真理についてのプラトン主義的思考をしてるからかもしれませんが。
こうした読み手を重視する立場はハイデガー以降の解釈学でしょうか。ガダマーとか。
個別解釈学から一般解釈学を確立したシュライアーマッハーはちょうど作者と読み手の中間点ですかね。ディルタイもどちらかに偏ることなく宙ぶらりんですね。

>そこを峻別することが出来ると、議論はスムースになると思うのです。
個人的経験から言うと実際誤読かどうかで議論が滞るのはどちらかに基本的な知識が欠けてる場合ですね。
例えばこの板とか(苦笑)。
専門的な知識がお互いしっかりしてると突飛な発想からものを言っててもまあほぼ議論はスムーズに行きます。
例えばドゥルーズの「ヒューム」とかはたぶん意図的に誤読してますけど、結構楽しいですよ。
「ヒューム研究」として学術的に認めるかどうかはまあアレかもしれませんけど。
そういえばカントはヒュームの著作を読んで「独断のまどろみから醒め」て大著「純粋理性批判」を書きましたが、カントはヒュームを誤読してますね。
これは意図的な誤読じゃないですけど結果オーライでしょう。
そう考えてみると哲学は>>545氏の言う様に「むしろ全部誤読」とも言えなくもないですね。
570544:2005/04/11(月) 23:42:57
ものを知らないお馬鹿の相手をしてくれてありがとう。とても勉強になります。
今日は時間がないので、きちんとしたご返答が出来ません。
とりあえず感謝のみ記します。スレ汚しスマソ。
571ローカルルールのルールとはオナニー:2005/04/12(火) 00:08:20
>>540
おまえのオナニーで浴びせられる精液は男にとっては精神の汚物だな。
ナチめ。あるいは中国共産党か?
572544:2005/04/12(火) 00:50:05
書いていただいた文章を読んで、自分の問題にしたい点がはっきりしてきたので、今日はその点だけ書きます。
これまで質問してきたこととは別のことを言い始めているので、その点失礼とは思います。済みません。
それは、「曖昧なものの『曖昧である』とは、なにを持って決められるのか?」という点です。
>565
>同じ文章や単語でも読まれるときの状況や時代によって意味が変わる。
>我々の言語は、…曖昧だから。
この「曖昧さ」の場所がどこに位置するのか、を問題にしたいのです。
573544:2005/04/12(火) 00:52:49
>564では、
「朱子学」が論語の一節を「誤読」したことを書かれたと思うのですが、
それは言い換えると「朱子学の解釈」が論語と正しい接続を果たせなかった、ということになります。
そのときに、問題意識としては「朱子学の解釈」は論語の一節の解釈として導き出そうとしたのだから、これは
失敗だった、と言うことになりますが、「曖昧な解釈の一つ」である「朱子学の解釈」というひとまとまりの言葉
(どういう表現を使っていいのかわからないのでこう書きます)は、「朱子学」の体系の中に存在します。

これは言い換えると、「朱子学の解釈」という論語の一節の解釈は、論語の体系の中には存在出来ませんが、
「朱子学」という体系の中には存在していますよね。
これは「朱子学」という体系が存在した上で論語を解釈して、その接続にうまくいかなかったわけで、時間的経過から
いって納得出来ます。
574544:2005/04/12(火) 00:54:54
しかし、「朱子学」という体系が存在しなくても、論語の一節は多様に読まれてしまいます。そのとき、「曖昧な解釈」に注目
すると、それは言葉のまとまりとして現に存在しています。そして、それが意味をなすのは他の言葉との結びつきの中であり、
つまりまだ名付けられていない「体系」の中にあると言えます。

このときに、この「体系」は元々存在していたのか、新しく生みだされたのか、どちらなんだろう、というのが問いです。
そしてどちらにしてもおかしいのです。元々存在していたのなら、それらが結びつけられることは、論理的矛盾なのだから
あり得ないんです(それが人間の能力だといわれればそれまでですが)
また、新しく生みだされたのなら、どこにその「場所」は存在するのだろうか、ということです。
575詠み人知らず:2005/04/12(火) 01:39:42
朱子学が成立する以前にも、朱子学的な誤読があった可能性はある。
しかし、様々な解釈の或る一つの解釈が、後の朱子学の誤読と一致したからと言って、
その誤読の時点では、その誤読が、未だない後の朱子学の大系の中に存在する
というのは無理がある。

人工的にランダムに言葉を組み合わせて俳句や短歌を作り出すソフトがある。
その意味では、これから詠まれる俳句や短歌は、「元々存在していた」と言えるかもしれない。
しかし、俳句や短歌の作者は、新しく句を生み出し詠む。
潜在的に数多ある言葉の組み合わせから、選び取ることが、創作することなのではないか。
576ローカルルール審議中:2005/04/12(火) 23:27:20
因果関係は存在しないという命題に共感していたのですが、
因果関係は存在しないという命題の理由を考えることは
因果関係の存在を認めることになると思い至りました
これは矛盾してますよね?
どちらが真に正しいのか、もしくはこの問題を詳しく扱っている哲学者を
教えてください
577ローカルルール審議中:2005/04/12(火) 23:32:54
>因果関係は存在しないという命題の理由を考えることは
>因果関係の存在を認めることになると思い至りました

ここを詳しく。
578ローカルルール審議中:2005/04/12(火) 23:45:59
>>577
因果関係とは原因と結果の繋がりのこと。因果関係の真偽の理由を考える
つまりその理由によって因果関係を信じないという結果を
導き出すことは理由と結果の繋がりを肯定することになるのではないかと
579ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 00:11:02
>>578
即レスどうも。
論理的なつながり(理由と結論)と因果関係は別物ではないかと。

たとえば「彼は転んで怪我をした」という場合なら、転んだのが原因で怪我をしたと言える。
しかし概念分析などだと、たとえば「彼は独身なので結婚していない」という文では、
「独身だから結婚していない」という論理的なつながりは正しい(トートロジー)といえるが、
「独身」が原因で「結婚していない」という結果が生じているわけではない。

だから因果関係が存在しないことの理由を求めても、それすなわち矛盾とはならないんじゃないかと。

因果論でたぶん一番有名なのはデイヴィッド・ヒューム。
そういえば確かヒュームも因果関係の実在を否定してたはず。
「自然が因果的に出来ているのではなく、我々が因果的にしか自然を理解できないのだ」
とかなんとか。
でも俺はあんまり詳しくないんで説明できない。ごめん。
580ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 00:14:58
先ごろ亡くなられたヨハネ・パウロ2世によって名誉回復がなされたガリレオの、
「それでも地球は回っている」って原文は一体どうなってるのでしょうか?
ガリレオがどこの国の人かも知らないし、そもそも書物上の言葉じゃなさそうですけど。

英語だと、The earth is globe. ・・・なのかな??
とすると「回っている」ではなく、「地球は丸い」になってしまうから違うのか・・・

The earth is turning around. かな? spinだと自転のことになるだろうから、公転のことですよね。

教えてえろい人!
581ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 00:20:46
>>580
Yet the earth does move.
582ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 00:28:31
>>580
エロくないけど、"Galileo the earth"でググってみた。これじゃね?

Yet the earth does move.---Galileo Galilei
583ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 00:37:06
>>579
なるほど、そう言われるとそんな気がします
もう少し勉強してみますサンクス
584ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 01:41:14
>>581-582
早速のお答え有難うございます〜
585ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 02:12:25

人間は結果に関係なく、因を創り出してると思うが  ^^;

いったいどこから

            原因→結果→原因

で間違いない、の結論を導いたんだ?
586ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 02:47:12
>>585
それはアプリオリな原理だったと思う
587ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 03:44:35
これは哲学板じゃないような希ガスと思いながら・・・

アルキメデスが殺される前に吐いた台詞

     「私の円を乱すな」

オリジナルの言語では、どういう綴りで書かれるんですか?
588ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 22:14:55
クオリアとフッサールの現象学との関係を端的に説明よろ。
589ローカルルール審議中:2005/04/14(木) 01:42:45
>>588
自分で考えろ。

>>587
どっちにせよ逸話だよ。
590558:2005/04/14(木) 02:18:16
>>589
できれば、まとめて疑問点を問いたい。その後に、拙くも思うところを書いてみたいと思っている。
このスレを参照する限り、時に真摯なレスが期待できるので、質問してみた。
591ローカルルール審議中:2005/04/14(木) 05:02:50
>>558
なんか色々な解釈があるみたいですね。

知覚ノエマは知覚対象そのものである。

知覚ノエマは現象学的還元の後に把握される理念的対象である。

等々……
592ローカルルール審議中:2005/04/14(木) 05:16:47
前からの疑問なんですけど、
どうしてエピステーメーは1つの時代に1つしかないんですか?
593ローカルルール審議中:2005/04/14(木) 06:05:22
ああ、すいません。フーコーの言うところのエピステーメーのことです。
594ローカルルール審議中:2005/04/14(木) 07:44:25
関係は定義するものだ
〜という関係、という形式で
その意味では相対的
条件も定義されるもの

という考え方もあるよね
595考える名無しさん:2005/04/14(木) 11:51:51
「それでも言っていかねばならない」
「言い続けなければならない(道徳を?)」

みたいなことを言った哲学者だれでしたっけ。
596588:2005/04/14(木) 18:34:15
>>590のコテ>>558は、>>588の打ち損じ。>>558さんスマソ。
当該スレが立ったようなので、そちらで聞いてみる。
597ローカルルール審議中:2005/04/14(木) 23:58:43
明日世界が滅びようとも、私は花を植える。
この言葉は誰の言葉ですか?
598ローカルルール審議中
昼間、隣のバァちゃんが庭先でそう言ってたぽ  ^^;