1 :
ムートン ◆Sheep2h65. :
自分はクオリアも分厚い氷の檻に遮られているような状態でして
この先の自分の人生を、哲学の力を借りて
切り開いて行けないものかと思い立った次第ですが
意味不明な場合はこのスレも早急に落ちてしまうことでしょう
消えろカス
3 :
ムートン#゚∀゙) ◆Sheep2h65. :05/01/06 23:10:15
>>2 暴言を吐かれても直接にはダメージを受けない、
それは離人症の特徴の一つです
哲学に触れるには適した人間だと思います
クオリアとは、検索してみると
「赤」を赤く感じるとか、そういう感触のことです
4 :
ムートン#゚∀゙) ◆Sheep2h65. :05/01/06 23:14:01
最近の世の中をどう思いますか?
欠けているもの、成長していないもの、退化しているもので
溢れかえっていますよね
馬鹿らしくて見るに絶えず、真面目に生きるための意味、異議も
見つけることが困難になってきました
5 :
ムートン#゚∀゙) ◆Sheep2h65. :05/01/06 23:18:07
ではさようなら
また明日も、無意味な社会活動に勤しまなければ
強い錯覚が欲しいのか?w
7 :
ムートン#゚∀゙) ◆Sheep2h65. :05/01/06 23:29:30
>>6 個体個体で判断したいんです
赤の赤みや、ピアノの音の質感や、人の優しさや怒りを感じたいんです
物事なんでも概念でとらえすぎて、そういうのが衰えてしまったんじゃないかと
自分では思っています
錯覚は錯覚と分かっていたら錯覚じゃないですよね
8 :
ムートン#゚∀゙) ◆Sheep2h65. :05/01/06 23:36:46
特に人とのかかわりにおいて感情の封鎖は失礼に値しますよね
自分は人が笑っていたり、怒っていたり、悲しんでいたりするのを見ても
それがどの種類の感情を表すサインなのか、またどれほどの度合いで
感情が高ぶっているのか、そういうことを認識するだけで
いつもそれに何も応えられない自分が居ます
ではさようなら
>>1 こういうスレッドはちょくちょく立ちますし、とても興味のある話題ですが、
なんと書いていいか難しいところですね。概念的思考(というより抽象的思考かな)と
いわゆるクオリアが完全に排除し合うものなのかどうか、とか、さらにその対立を
離人症の具体的症状に適用してよいものか、とか。
>>1 そういう離人症状はテレビやビデオなどのバーチャルメディア環境が
作り出した感覚だと思う。
だからそういう症状を緩和するには一切のバーチャルメディアを断つのが早道だろう。
ところが離人症状を訴える人というのはたいてい知的な人間で、
知的であるがゆえにそういう症状になってしまうのだ。
どういうことかというと、たとえばテレビは人間に神の視点を与えたと言われる。
しかしそれだけなら生活に大した支障はないのだが、
知的な人間は「神の視点を獲得したとはどういうことか?」と理解したくなる。
そして「何かの状態を理解する」とはその状態の外に出ることなので、
意識の客観化はスパイラルを描いて止まらなくなるのだ。
これが離人症やひきこもりの発生メカニズムだろう。
11 :
考える名無しさん:05/01/07 18:25:35
>自分はクオリアも分厚い氷の檻に遮られているような状態でして
離人症の人はこのように現実が透明な何かに遮られているように感じるわけだが、
この透明な膜の正体はテレビのブラウン管である。
テレビを見るように世界を見る習慣がついて結果、
ブラウン管という物質的構造物まで意識に組み込まれたのだ。
×見る習慣がついて結果
○見る習慣がついた結果
13 :
ムートンJOw(:{lr:05/01/07 20:40:45
>>9 そうですね、逆に離人状態だからこそ感じるクオリアも
あるのではないかと僕は信じています。
離人症は特別な病気ではありません、私は現代の人なら
その要素を持ち合わせながら生活している人が多いと思います。
>>10 テレビやゲームやパソコンが原因の一つなのは合ってるでしょうね。
私は一つ先に言っておきたいのは、この病気を治したいかどうか
自分でも分からないってことです。
だって治したいならそういう原因の元を全て断ってしまえばいいことですから
このスレの本題はそんなところには無くて、
離人状態がクオリアを阻害するかどうかなんてどうでもいいです。
それについて哲学するのなら別ですが・・・
特に実生活において、自分が窮地に立たされたときとかに
自然と自分の意識を透明な固いものの中に閉じ込めてしまう性質があります
>>11 まさに図星ですね、。ちなみに離人症と言う病気はよくある割には
その治療法というものは未解明なんですよね
それは実生活を送るに当たって特に支障がなく、周りに迷惑をかけることもないからで
患っている本人のみが苦しいという厄介な性質からなんです
まあ私の場合は、苦しいという状態からはなぜか抜け出してしまいましたが・・・
今この文章を読んでいる人も、書いている自分もですが
支離滅裂で何が言いたいのか分からないと思った人が居ると思います。
私はこのスレで、本当の自分は一体何がしたいのか、ということを
皆さんと一緒に哲学してもらいたいんです。飯食ってきます
14 :
考える名無しさん:05/01/07 20:44:43
でも結局、喜びは、
内に見出すしかないんと違うかな。
それを、自覚しているか、
自覚していないかの違いで。
普通の人は、
疑問を感じていないから、
問題にも思ってない、と。
>>13 >私はこのスレで、本当の自分は一体何がしたいのか、ということを
>皆さんと一緒に哲学してもらいたいんです。飯食ってきます
「本当の自分」とか「何かをしなくちゃいけない」とか考えることが
間違ってるってことで哲板的にはFAだと思うんだが。
16 :
考える名無しさん:05/01/07 21:08:10
自分が捕らえてる世界の像(モデル化した世界)と、
実際の世界の、相違に悩んでる状態?
現実と教義の折り合いになやむ宗教家みたいな・・・。
17 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/07 22:33:37
>>14 >>16 これは私の生い立ちと深い関係があるのですが
私は子供の頃から信仰のようなものを持っていたんですね。
妖しいものじゃありません。簡単に言えば「良い行いをする」
「悪いことはしない」「感謝する」といった類のものです。
捉えようは人それぞれなのでこれ以上何も言いません。
そんな幼少時代のせいか、「喜び」というものが
自我とはかけ離れたところで実現されてしまったような感覚がするんですよね
モデル化した世界と実際の世界の相違はもとより承知なつもりですが
まさに現実と教義の折り合いになやむ宗教家かもしれません
現実社会のなかで矛盾を犯しつつ、毎日そういうことを考えていますから。
>>15 「本当の自分と、本当じゃない仮の自分が存在するんじゃないか」と考えます。
「何かをしなくちゃいけない」とは考えてませんが
何かに煽られて「何かをしなくちゃいけない」と錯覚する(あるいは真実かもしれないが)自分の
存在及び所在を定義付けたいという、欲求というか実験的、愉快犯的な考えをもつものが
存在するということだけは事実である可能性が高いと思います。
あと自分で文章を書いてても思うんですが、意味不明なことを一通り書き連ねては
腹立たしいほど客観的な立場に居座ろうとするんですよね。
18 :
考える名無しさん:05/01/07 22:44:38
自分が何かの為に存在している。
自分の存在には、意味や目的があると、
そのように考えているなら、
まあ、悩むかもね。
でも、本来的には、
生物としての肉体の維持、
それだけが存在理由です。
それ以外に、存在する理由はない。
だから、それ以上を求めるなら、
能動的に、虚構を形成する必要がある。
自分が嘘の役割の為に、
本来の目的ではない目的の為に存在していると思っているのなら、
まず、その思い込みを破棄する必要があるでしょうね。
そうではなく、
自分は、どうあるべきか、
どのような役割を形成しようか、
そういうふうに、能動的に考える。
>「喜び」というものが
>自我とはかけ離れたところで実現されてしまったような感覚がするんですよね
つねに理性的であろうとする人間は自分の感情を抑圧する傾向があるが、
テレビという装置が内面化することでその抑圧は超強力なものとなった。
さて人間の脳は多数の機能モジュールから構成されているが、
感情とか本能のモジュールがオフ状態になり、
理性とか形式のモジュールのみが強化されたのが離人状態と言えるだろう。
この状態を妥協することなく解除するには、人間や世界についての
「もうこれ以上はない」という根本原理に到達するしかないだろう。
20 :
考える名無しさん:05/01/07 23:17:03
良いことをするとか、
悪いことをしないとか、
感謝するとかってのは、
社会的には良いことだよなぁ。
つまり、能動的な価値観と言うより、
受動的な価値観で、がんじがらめになってるような印象を受ける。
なぜ、良いことをする必要があるのか、
なぜ、悪いことをしてはいけないのか、
なぜ、感謝しなければならないのか、
俺もいろいろ考えたが、
結局、善悪の問題じゃないわな、
こういうのは。
道に落ちてるゴミを拾うのは、
良いことをするためじゃない。
放置することが、悪いことだからでもない。
それを、許せないからだ。
ゴミが落ちてたら、美しくない。
そういう能動性が必要なのかも。
しかしそうやって自分の感情をも客観化した状態というのは
けっこう優越感あるんだよね。
俺はこんなにも世界を客観的に認識しているぞ、と。
そもそも哲学の歴史とは意識の客観化の歴史であり、
意識が客観化するのが間違いなわけはない。
固有名から一般名へ、さらには理想観念としてのイデアへ。
あるいは神学から形而上学、さらには科学へ。
これらはすべて客観化のなせるわざだ。
しかし、もうそういったモダンな努力を続ける時代は終わっている。
たとえばハリーポッターとかセカチューみたいなベタな物語がウケたり、
19、20の女の子が芥川賞とったり、『ユリイカ』が売れ線路線に転換したり、
イチローとか松井のようなベタなヒーローが活躍したり、
あるいは野球や相撲、競馬の人気がガタ落ちしたり、
トレンディドラマが視聴率とれなかったりで、もう社会に前進の熱気はない。
これは非常にいいことだと思う。
文学は三島由紀夫と共に終わっていたのだ。
もうヤセ我慢して努力をつづける必要はない。
そういう精神状態で生活できるようになることが今の俺の目標なのだった。
離人症。。今、引いてみましたが、知らなかったです。
かすかながら私にもその傾向があるような気がします。現代人は誰でも少しは持っているということでしょうか。
私は雑談でよく笑ったりはしますが、あまり楽しいとは感じない。
逆に笑うほど疲れていきます。
どうも、人やものごとに執着心が少なくて、
自分の心をイメージするとき、白い空間にひとりで座っているイメージがします。
何年たっても、親しい友人や家族であっても、そこには誰もいないんです。
でも、これは病気というほどのものでもないような気もしますが。
ってか全然そういうのとは違ったらごめんなさい。
23 :
考える名無しさん:05/01/07 23:44:46
面白いものや、心を惹かれるものまで見つからなくなると、
問題だけどね。
24 :
考える名無しさん:05/01/07 23:51:25
環境を制御できないから、
自分は、環境とは無関係に存在するのだと、
欺瞞的に、状況から自分を切り離す。
それが癖になるんだな。
良いとか悪いとかじゃなくて。
25 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/07 23:51:48
>>18 ごく当然のことを言われているんだろうと思いますけど
凄く虚無的な意見のように感じ、
それを何らかの理由で受け入れられない「何か(存在)」があります
よくここまで見知らぬ私にとって的確なレスを返してくれるものだと感心しました。
自分の目的のためにどうすべきか、と考える前に
自分がどうあるべきか、ということを明確にするんですね。
いつも頭だけで考えたり自分以外のもの中心に生きてきた自分にとっては
その切り替えが最大の課題になるでしょう。
ただし、それは離人症を治す気のある自分の存在がまだあるかどうかに
かかっているんじゃないでしょうか。
>>19 「感情を剥き出しにしない」、これは確かに私にとって(理論的には)美徳とも言えることですが
私も未熟な人間であることに変わりは無く、内に沸き起こる感情を感じることはあります。
しかしそれを上回るほどに、おそらく理性や形式のモジュールがそれを
抑圧するんですよね。それが今の自分にとって正常な機能なんですよ。
>この状態を妥協することなく解除するには、人間や世界についての
>「もうこれ以上はない」という根本原理に到達するしかないだろう。
ゆるぎない現実を見つけるということですかね?案外それを求めているくせに
それを見つけるのが恐いような、どこか卑怯な自分が居る気もします。
>>20 能動的、受動的価値観ってよく分からないのでまた明日教えてください。
ちょっと眠くて頭が働かなくなってきました。
>>21 最初の頃はその優越感も少しはありました。最近は「こんなことをして優越感を感じて
お前は何をやっているんだ」と自制(自省)してそれさえをも客観化するように
なってきて、もう何がなんだか分かりません。
今日はもう遅いので寝ます
26 :
考える名無しさん:05/01/07 23:54:22
おやすみ。
人間は、環境を制御する機能だ。
それが無理なとき、状況操作を放棄する一方で、
放棄せざるを得ないことに、怒りを覚える。
自分の能動性を取り戻して、
自分の操作によって環境が変化することを実感できれば、
ちっとは変わると思うよ。
27 :
考える名無しさん:05/01/07 23:55:35
・・・って、
あわてて付け加えると、
安易に犯罪を起こして、
環境を操作する方向には走らないように。
自己主張としての犯罪は、
もう、おなか一杯。
離人症の人が学べる哲学って無いと思うよ。
哲学って人より濃く生きようとする学問/行為だと思うし。
29 :
考える名無しさん:05/01/08 00:00:20
・・・つか、
避難的に自分を世界から遠ざけて、
地道に操作する意欲自体が減退しちゃってるからねぇ・・・。
30 :
考える名無しさん:05/01/08 05:31:35
>>17 その客観的立場というのが、いわば自分を護る大義名分になる訳ですよ。
ミンコフスキーが「病的幾何学主義」と呼んだのも、コレです。
31 :
考える名無しさん:05/01/08 05:42:21
・・・まさに、その客観主義こそ離人症者の主症状なのです。
>>17程度のことは離人症じゃなくても青臭い人間なら誰しも思ってることなのでは?
現実にもまれてそんなこと考えなくなるだけで。精神病については別に言うことは
何もないけどさ、精神病患者が自分の世界観を語りだしたところで、全然面白くも
ないんだよね。まずはこの自覚を持ってもらいたいね。
ま、若い時はただ逃げてるだけの事を離人症とか言ってみたくなるんだよね。
34 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/08 19:24:21
>>22 私も”自称”離人症だというだけで、医者に行ったわけではないので
あとは度合いの問題でしょう。私の場合はホントに昔からこうなんです。
テレビやゲームの後押しもあるかと思いますが、小さい頃から本当に
何か心がガラスのようなものに閉じこもっていた感覚を持っていました
そのせいか、その場その場で自分が本当にしたいことなんて
分かったことはありませんでした。だから無理やりに
「自分は今これをすればいい」というものを定義付けながらいびつに生きてきました。
それでも不思議と、周りとはうまく協調性を保ってきました。
>>23 分かりませんよ。たとえば小さい頃みんながサッカーをやっていたら
楽しくサッカーをするフリをするし、部活だって本当に楽しかったのかどうか、今では分かりません。
自分は音楽は結構幅広いジャンルを聴いて、自分でも楽器をやってみたりしますが、
これも好きでやっているのかどうか分かりません。自分は何がすきなんだろう。
>>24 環境の影響は受けている自覚はありますよ。そういう自分も含めて客観視しています。
35 :
考える名無しさん:05/01/08 19:40:12
状況に向かったら?
忙しさを抱えたら?
悩みの質が変わるかもよ。
36 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/08 19:47:03
>>26 強い苛立ちや怒りに囚われれば、もしかしたらガラスの壁を壊すエネルギーになる
かもしれません。でもいついかなる時でも、それを上回る理性が存在汁。
たとえ酒に酔っているときでも。
>>27 犯罪なんて犯しませんよ。自己主張をする必要性に迫られずに
自分を閉じ込めたまま人生を終えるのが「いいこと」だと
今の自分は思っている
>>28 ようやく専門的な話になってきましたね。
「哲学って人より濃く生きようとする学問/行為」
私には無理なんでしょうか?
>>29 何か嫌なことがあって、それで自分の殻に閉じこもったとか
そういうレベルじゃないんと思うんですが。症状は後天的じゃないと思います。
地道な操作と聞いて、それは確かに自分に欠けてるなと思いました。
自分の中の何者かが自分を仕事に行かせ、食べ物を食べさせ、風呂に入らせ、
眠らせてるような、凄く大雑把に操作してるような感覚です。
>>30 >>31 哲学では離人状態についても以前から述べられているんですか。
さすがですね。治し方とかは無いんですかね。
>>32 私もいつか現実にもまれているうちに、正常になっていくんでしょうかね。
まだ社会人になりたてなので先のことは分かりませんが。
とりあえず、不特定多数が見ているという意識と責任感を持って
つまらないスレにはしないように心掛けようと思います。
37 :
元離人症患者:05/01/08 21:24:05
ムートンさん。自称離人症と離人症では偉い違いまっせ。
考察するのは構わないですが、
離人症自体は気が狂うー歩手前状態であり
とにかく沿療が必要です。
38 :
元離人症患者:05/01/08 21:35:37
先ほど精神病者の話が哲学になるわけではないとの指摘があって
それはとりあえずそう思うのですが、
私は症状が出ていた時の現実世界の作りモノ感が
哲学に向かう動機になっています。
その記憶はかすかに残っているのです。参考まで。
>38
よろしかったら38さんの離人症であったときの状態等、お教え願えませんか?
>>38 だからさ、現実に病気の人は哲学なんてしてる余裕はないはずなんだよな。
>>1は自分の症状を観察するだけならまだしも、それを面白がってる雰囲気がある。
そういうのは好かんな。病ってのはそれだけで人に迷惑かけてるんだから。
治った後であれこれ考えるなら好きなだけどうぞってなもんだけど。
自分の精神状態を面白おかしく、人に聞かせたいというんじゃ
ただのボダとしか人は見ませんね。
42 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/09 00:17:50
>>37 これは私が書いたレスなんですが、どうでしょうか?
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/utu/1087576212/226 かなり気が狂いそうになってましたよ
あの時から確かに何かがおかしくなってしまいました
ご飯も喉を通らなくて、吐いてましたから
何がきっかけでよくなったのかは、これといって覚えてません
時が解決したのかもしれません
とにかくあの時以来、それまでとは全く別のもの、に基づいて
自分を存在させているような感じがします
>>40 「面白がってる」と捉える人が居るのも分かります。
ほかのスレでも、ナルシストじゃないかと指摘されたこともあります。
そういう風に見られても仕方ないとも思います。
でもすみませんが、今はホントに愉快犯的というか、
実験的にしか生きられない状態なんです(ホントは愉快でも何でもない
苦痛を感じないためには、今はこういう生き方しかできないから)
これを無理にでもやめてしまったら今度こそ死ぬかもしれません
とにかく私は、みなさんの反応を見て楽しんだりほくそえんだりするようなことは
していませんので気を悪くされないで下さい。いつでも生きるか死ぬかだと思ってます
>>42 だから死んでいいよ。誰も止めないから。
こんなバカを続けるぐらいならさっさと死んで。
医者は仕事だから患者の自殺を止める。
お前の家族は世間体を気にして自殺を止める。
それだけのことだから。気にせずどうぞ。
もうね、ボダはお腹一杯なの。
44 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/09 00:27:07
>>41 >>43 意味が分かりませんね。馬鹿を続けるも何も、まだ何も始まってないし
本題にも入ってないし。哲学初心者にボダとか言われても何のことだか分かりません。
ボダがお腹いっぱいだから僕は死んでいいんですか。
俺は木村敏など、哲学(とくに現象学)に影響を受けた精神病理学などの本をたまに読む
のだけれど、ムートンさんはそういう精神病理学系の本は読みますか?
また、そのような本に載ってる症例で、自分にすごく近いと感じるものとかあるの
でしょうか。
>哲学初心者
それなら自己紹介板でもいってやってればいいじゃないですか。
47 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/09 01:17:54
>>45 そういうインテリジェンスな本はまるっきり読みませんねえ。
興味はあるけど、そういうことに力を注ぐ前に日々の仕事と人付き合いを
優先させてしまう生活を、今はしています。それ以外の時間はたいてい疲れて
眠ってしまうか、こうやってネットで何か得るものは無いかと
彷徨っているわけなんですよね、思い返してみると。
そういえば何年も前に、ソフィーの世界っていう分厚い本を読みました。
でも結局、出てくる哲学者の考えなどはそっちのけで斜め読み。
物語としてソフィーがこれからどうなっていくんだろうか、など考えながら
読んでいただけでしたから、哲学に触れたとは言えないですね。ソフィーの
考え方が変化していく過程には興味がありました。それが哲学の力なのかと
思いました。
>>46 そうおっしゃる気持ちは分かります。今客観的にこのレスを読み返すと
確かに自己紹介に見えます。でも厳密には違うということと、
厳密に分けなければ問題が見えてこないということを、承知してもらいたいんです。
今まで色々書いてきましたが、どの文章の中にも自分というものは
存在していないんです。なるべく今までの自分にとっての事実を
たくさん書き連ねて、恥ずかしながら誰かに検討してもらいたいんです。
今の自分には何をどう見ても、どこまで行っても客観的視点だから。
ではもう落ちます。
離人症という症例について語っているのか、
1さんについて、1さんの経験についてを離人症とした上で
語るのか決めませんか?
49 :
考える名無しさん:05/01/09 01:24:00
私は、主体性に欠けています、
と言っているように聞こえる。
まがりなりにも社会人のふりができてるなら、
特に問題無いとおもうが。
現実に対して臨場感を得られないけど、
こうして2chには来れるわけだし。
自発性には、問題なしと。
50 :
考える名無しさん:05/01/09 01:29:19
フォーカシングを試されてはいかがでしょうか?
身体の感じから受け取るメッセージから客観的ではなく主観的な実感として自分を感じることができるようになるかもしれません。
51 :
考える名無しさん:05/01/09 01:32:39
つか本当に離人症を治したいなら精神科行ってるはずだよな。
哲学で治したいなんて、いまどき哲学に選民意識もってるんだろうか?
ミンコフスキーは精神医学の人で、病的幾何学主義とは、じつは分裂症者
(いまでは、統合失調症と名前が変わりましたが)についての評言です。
ちょっと思ったんですが、離人症でいて、日々の仕事と人付き合いを優先
させる仕事ができているんですか? 人付き合いが結構できるなら、離人
症というほどの事ではないのではないか?と感じてしまうのですが。
・・あなたは自分が、いわゆる「杓子定規な」「融通のきかない」性格を
していると思いますか。
54 :
元離人症患者:05/01/09 10:56:11
》39
病自慢ととられるのはいやですが、途中まで書いた責任上
症状をかきます。原因やきっかけは不明。時期は小学校高学年。
簡単に言うと魂が抜け出して、上から自分や他人や世界を
ながめている感じ。ポイントは抜け出した魂が元に戻れそうも
なく感じろところ。これはもう二度とごめんです。
というかありえない。
精神科へ連れて行かれましたが、どうやって治ったか木明です。
なお当時は幼覚症状もあったので、やはりちょっとおかしかった
のだと思います。
55 :
元離人症患者:05/01/09 11:04:38
木明→不明
幼覚→幻覚
手書き入力につき失礼。ムートンさんの症状が
離人症かどうかは医者ではないのでわかりません。
56 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/09 19:34:30
私も堅苦しい文章を書くのに疲れてきたので、これからはスレを盛り上げるためにも
ちょっとくだけた感じでいこうかと思います。
>>48 私が書いた文章を読んでもらって、「お前は○○だ」とか
「お前はこういう性質を持っている」ということを哲学的見地から
批評してもらいたいですね。
>>49 本来主体性を持つ自分自身を封じ込めてますからね。
社会人のフリはしていますが、所詮付け焼刃なのでいずれボロが出るのは明白です。
別にこの状態を楽しみたいわけじゃない。自発性も無いと思います。
2chにくるのは半ば中毒気味なのが理由の大半を占めています。
>>51 まず、この病気を治したいかどうか、自分でも分からないんです。
もしくはこうなってしまった原因を取り除けば
一度治ったら再発せずに解決するかもしれません
>>53 強くそう思います。それも表面的にではなく、心の奥深くで。
>>54 私もあの、ご飯も喉を通らなくて夜も眠れない状態から
何がきっかけで立ち直っていったのか、全然分かりません。
それにしても社会人になってからよく風邪をひくようになった。今も苦しんでる。
心が体と相談せずに体を働かせてるようなイメージです。
57 :
なんとなくの一言:05/01/09 19:47:03
離人症のことはわからないが、哲学、それも人の考えた事をもって
自己を振り返ろうというのなら、人との接触を断ちたいとは思えません。
自分の納得できる(自分なりに)言葉を捜して、自分だけではないと
慰めたいだけなのでは?
58 :
考える名無しさん:05/01/09 19:50:46
社会を制御できない無力感から、
逃避的に自分を隔離しちまってるとか。
なっちゃっては構うな。こういうカスはボロクソに叩かないとダメ。
60 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/09 21:53:39
>>57 正常に人と接触したいとは思います
今の自分にはそれが無理なのがわかります。
私がこの板に来たのは、哲学という題材が「全て」について網羅していそうな
印象があったためです。
自分の症状が自分だけではないと思いたがるのは、人間の欲求かもしれませんね。
ところで、一旦離人症という言葉から離れてもらっても結構ですよ。
本当はそうじゃない全く別の問題かもしれないわけですから
>>58 何でそういうことが分かっちゃうんでしょうかね、この板の人は。
言われてみればホントそのとおりですよ。でも無力なまま終わるものかと
これまた客観的に意気込んでいる自分はなんとなく居ますよ。
>>59 どの辺りで私のことカスだと思われたのか是非知りたいですね。
ちなみに叩くとしたら、私のどの部分を叩くつもりです?叩く題材も内容も無い人間ですよ。
私はここでは、皆さんの意見を聞いたり、自分についてのことを
アウトプットするだけの存在です。みなさんに対して批評したり
好き嫌いで物事判断したりはしませんし。(第一できない。できる自分が居ない。)
例えこのスレに閑古鳥が鳴こうとも、叩かれてなくなったとしても
しばらくはこの板で哲学の考え方を勉強していこうと思ってますよ。
61 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/09 22:00:59
人とは、正常に関わるか、それができないなら完全にシャットアウトしたい。
最近知った言葉ですが、ハリネズミのジレンマのようなものが働いているんだろうか。
板を読むよりいろいろ哲学書を読んでみるとよいな
63 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/09 22:37:05
>>62 ホントの事言うと、そういうことに凄く昔から興味はあったのに
周りから変わり者呼ばわりされたりするのが恐くてなかなかできませんでした。(今でもかな?)
かなり人自分の立場や人の目を気にする性質を持ってるんでしょう。
いろいろ探してみることにします・
ところで、長々と文章書いているのも、読む人も疲れるだろうし
あまりオシャレではないなと思い始めました。これからは単発的で
正確に物事を伝えられるレスを心掛けようかと思います。ていっても
それが難しいんだろうけど。
でも、正直な話、
そういう感覚については、
覚えがあるわけで・・・。
叩いてる人にしても、
覚えがあるから、叩くんだわさ。
つか、反応しちまう。
俺も。
>>1が自分で認めちゃってるが
逃避が原因という訳じゃないと思うんだけどな。
逃避なら例えば社会とか他者とか対象があるわけで
それ以外は自分の好きなことに没頭できるわけだから。
逃避は逃避の対象に目を向ければいいが
おそらく自分で全部完結してしまってる
>>1はもっとタチが悪い。
いや、結果としての逃避で、
だけど、それは正常ではない、
一時的であるべきだと思ってるから、
ここにも書き込んだんじゃないか?
病人の頭の悪そうな戯言など誰も面白くないって
この際はっきり言った方が本人のためですよ
でも、その病人の言ってることを、
理解できちまってるのは、
それが自分の一部であるからで。
最終的には、本人の言語能力次第という面を強調しておきたいね。
キチガイの世界もバカはダメなんだよやっぱりさ。面白い世界観の
中で生きているとしても、バカは表現能力に貧しいから、人が
興味を示すような形で提示することができない。
「キチガイでもバカはだめなんだ」といっても、
○○人格障害者には伝わらなかったりするんだよなあ。。
人から言われた言葉に反応はすれど、その可能性を微塵も
考えることがないからね。
つか、単語の意味が、
違ってたりするから、面白い。
72 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/10 00:28:19
多分みんなが私に苛立っている理由はこうだ。
「マジレスしてもその本人がそれを客観視しているなんて
人を馬鹿にするにもほどがある」
それを仮に私がやられたとしたら、私も腹が立つと思います。
馬鹿になんかしていないんです。こういう言い方をしたら人は
苛立つだろうな、という、相手の感情を汲む行為の欠落したところがあるんです。
そしてそれを半ば諦めているので、確かに私はある意味全てに関して
「自己完結」しているようなところがあるのかもしれません
それは、本当の自分が表面に出ていないので
他人の気持ちを汲み取るという作業が苦手だからなのです。
私がリアルで人と接する時は、もちろんここに書いたようなことを
言うはずがありません。あくまで自分がちゃんとその時向かい合ってる人と
同じ時間、空間にいて、相手の気持ちを、マニュアル的にですが、何とか汲み取る
という作業をしています。そういう時は、自分の発した言葉で
人が笑ったり怒ったりしたときに、何故そうなったのかが全然分からない時があります。
今の私が「キチガイ」呼ばわりされるのも、それがこの板にいるみなさんなりの
「答え」の一つだからでしょう。
自分が確立していると言うよりも、
周囲の環境を外部として扱う切迫感が、
欠落してるんと違うかな。
>>72 いちどデカルトでも読んで、自分がなんでキチガイなのか、
なんで嫌われるのか考えてみた方がいいよ。つまらん自分という
現実にでも向き合ってみたらどうだね。病気の弊害で社会が
>>1に対して
そういう自己認識を迫ることができないんだから、自分の理性で
やるしかない。
と、デカルトもまともに読んだことがない人間のつまらんレス。
まあ、極言するならば、
周囲に対する配慮を、切迫的に感じないってことは、
甘えなんだよな。
だから、自己嫌悪にも似た苛立ちを感じる。
76 :
考える名無しさん:05/01/10 00:46:16
この板の住人が他人を基地外呼ばわりできるとは恐れ入ったわ
叩くのは
>>1に意図的なものを感じるからでしょ。
苦しんでるようにみせて冷めた見方を気取ってんじゃねーのかと。
おれは全然そうは思わないけどね。
>>78 バカが自分には特別な何かんでる
と思い込んでる姿が大嫌いなだけ
今時キチガイなんて珍しくないですから。残念!
×何かんでる
○何かが潜んでる
子供が子供を脱するとき、
あるいは青年期ってのは、
だいたい、そういうもんじゃないか?
自分が、特別ではないことを、
認めたくないのに、認めざるを得ない時機。
>>81 精神病ってのは恐ろしいほどの現実能力の欠如としても
現れるからな。算数が出来ないほどの池沼ではないんだけど、
やっぱり知能にどっか問題があるといわざるを得ない。
精神病と知能は、関係無いけどね。
反射的に、ループしちまうんだよお。
なんでだ、なぜだ。
これが、人間の業か?
>>82 ×現実能力
○現実認識能力
だめだよっぱらってて頭ぐるぐる。まあ
>>1よ。ここはキチガイ板、
そんなところでコテ名乗る以上は叩かれて当然なのは分ってるよな?
チンポさんのように、人に対して有益な知識を提供できる人を除けば、
あとは叩かれて当然というわけだ。
離人症の良質なサンプルならメンサロで少しは見られるし。
いや、彼は、有る意味で、
俺達の一部だ。
>>86 別にコテつけてちやほやされようって感じでもねーし。別にいいじゃん。
いやだめ。糞コテは徹底的に叩く。2ちゃんのルールです。
ムートンさんに糞コテ的なところは感じないが、議論はちょっとすれ違っていると
思う。叩き台になる「離人症に関する本、論文」(ムートンさんが自分の内面に酷似
している症例などを含む、逆に離人症を扱っているけど全く共感できない、などなど)
が何かあればよいのだが。
91 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/10 23:27:44
別に自分が特別だ何て思ってない。でも今の自分が
大多数の普通の人間の中に、同じ種類として分類できないのは分かる。
離人やそれに似た症状を持つ人は最近増えてきてるということは
前にも書きました。
>>86 離人の症状が出ているとき、現実検討は正常に保たれるんですよ。
精神病の定義の一つとして「現実認識能力が欠如する」ということが
挙げられるなら、離人症はこれに一致しませんね。まあどっちでもいいですけど
それにしても離人状態に苦しんでいる人に対して「サンプル」だなんて
よくそういう見方が平気でできるもんですね
>>88 ちやほやされるほうが苦痛ですよ。
それをガラスの壁越しに
何も感じずに眺めている自分が居るだけですから。
>>90 私も少し本屋で探してはみましたが
離人症そのものを主題に扱っている本は見つかりませんでした。
これからは心理学の分野でも探そうと思います。
冷静にこのスレを立てた理由を考えてみると
本当は今の自分の状態は「問題」なはずなのに
それを問題と思わず平気で毎日を過ごしている自分を
なんとかしなければ、と少しでも思う気持ちがあったから・・・
その気持ちが偶然にも哲学の方向を向いたから・・・
このスレが進行している今でも、問題解決に向かおうとしている自分と
それを蚊帳の外から見物している自分の二種類があって
多分見ている人もその極端な違いに、今後困惑されることがあるかもしれませんが
どうか腹を立てずに見守ってやってください。
木村敏の「自己・あいだ・時間」「分裂病と他者」という本の中に離人症についての
論文が入ってるよ。
自分も離人症状あったんだが治そうと思う前にわりと短期間で自然治癒してしまったからな。
離人症状に対する知見を深めようとするモチベーションがそれほどないしな・・・・・・。
>>91 「自分で全部完結している」というのは的はずれだった?
別に非難する意図はないよ。
治りたいのか治りたくないのか自分でもはっきりしないという気持ちも
よくわからない。
これも誤解の大きな原因だと思うんだが。
>>95 >治りたいのか治りたくないのか自分でもはっきりしないという気持ちも
>よくわからない。
と
>>91の
>問題解決に向かおうとしている自分と
>それを蚊帳の外から見物している自分の二種類があって
は大分違う。
離人症はきれいに解離しているわけじゃないからねー。
離人賞患者はは治したいわけだ。
でもその自分を他人事としてみている自分がいる訳だ。
その他人事としてみている自分は治したい自分に対する「共感」がまったくない。
共感がまったくないにもかかわらず、やはり直そうとコツコツ努力している自分もいる。
治したいのはウソではない。でも他人事でもある。
それが多重人格のような「他人のやっていること」ではなく、
「他人事」ながらまさに「自分のこと」なんだよ。
これは「もう一人の自分」ときれいに片付けることができるなら苦しくない。
そして苦しいのもどこか他人事で。
自分が辛いのにバイトしてたり勉強してたり他人とムリに笑ってたりするのを、
自分の真上から冷静に見ていて、むしろナルシスティックに自分は可哀想だとか思いながら、
頭痛に苛まれていたりした方がいいなあ、とか思ったり。
そんなカンジだと思われ。自分の経験から考察するに。
>>96 その二つの自分は並列してる訳じゃないんだよね。
例えば場合によってはどちらかの気分が強いとかいうように。
治したいとか意欲してる自分ははっきりと自覚できるのかな。
>>97 自分はムートンではないと断りを入れた上で書くが・・・・・・
>その二つの自分は並列してる訳じゃないんだよね。
並列してるっちゃあしてるかな。
混濁というのは違う気がする。多重人格でもない。
その状態が離人症であると名指す限りにおいて、離人症状である、としかいえないみたいな。
>例えば場合によってはどちらかの気分が強いとかいうように。
どちらかの気分が強いということはあるというか、
それは単に離陣症状が出てないか弱いときのことだね。
>治したいとか意欲してる自分ははっきりと自覚できるのかな。
自覚しているも何もそれは確かに自分そのものだからね。
自分を見つめている自分が、そう、苦痛を感じている自分、直そうとしている自分を
笑うわけでもなく、「ただ」見ているとしたら、そのことにやはり憂鬱になる。
それは、もしかすると、幸福な自分すらも「ただ」みている自分が、もしかすると未来にあったならば、
という気兼ねを含むかもしれない。
自分を見ている自分がシニカルな視線でなくとも、
自分を見ている自分を持った自分がそのことをシニカルに捉えたり、
その視線を借りてシニカルに捉えたりする。
99 :
考える名無しさん:05/01/11 02:55:41
離人症のせいかどうかは分からないですが、
ムートンさんは誠実にレスしてるのが好感持てます
ムートンさんは、ユーモアとかギャグとか言えますか?
話をしてるときにこれ言ったら相手は笑うかな、とか思ったりする?
あまり本題とカンケーないこと質問してすいませんです
知りたかったので
>>98 ごめん聞き方が悪かった。
並列というのは二つの状態がいつも自分が二人いるかのように
同時に並存しているのかどうかと聞きたかった。
>>1の場合だと意欲したり感覚したりする自分はほとんどないみたいなんだよね。
離人症というのは物事に対して常に関心とか現実感がもてなくなるもんだと思ってたけど、
個人差があってある程度正常に関心を保ったままでも
一時的に離人状態に陥ったり回復したりする場合もあるということかな。
101 :
30:05/01/12 09:08:49
私の場合はもっとはっきりしている。私は、幼いあるときに
世界に嫌気がさして、世界に「権威」を与えるのをやめたのだ。
それ以来、世界は権威のないままに、つまりガラス板の向こうに
存在することになった。世界は裸形では愚劣で、装われたときに
のみ崇高になる。ある者には、それが許しがたい悪に思われる。
・・・そういう事だ。別に離人症が病気という訳でもない。
そう判断する社会があるというだけだ。
ムートンもおそらくそうしたのだと思う。
102 :
30:05/01/12 09:52:37
もう少し親身な言い方をすると、ムートンは直りたいのかどうか
自分でもよくわからない、と言ってますよね。
それが本心で、ムートンは社会が完全に権威のあるものではなく
そう見えるだけのものである事に不満なんですよ。つまり、
社会というものに非常に大きな期待をなぜか持ってしまっていて
現実の社会がそうでないことに不寛容なんですね。まあ、
そんなに大きな期待を持ってしまったというのが、過ちといえば
過ちなんですけど。
103 :
30:05/01/12 10:06:47
老婆心ながら、一度ロヒプノールという薬を試してみる
ことを進める。どういうメカニズムからか、漏れのばあいは
一時的に「ガラス板」が消えるようだよ。まあ、対症療法に
過ぎないが。(つまり、薬の効力が消えればもとのもくあみ)
(この薬は、一般には睡眠障害の治療に使われる)
104 :
30:05/01/12 10:11:18
・・まあ、根本的な治療としては、現実社会の愚劣さを許す寛大な
心を持つ、という事なのかな。理屈としてはそうなるはずだが。
105 :
30:05/01/12 10:23:14
要するに分析的知性というものは、自分が現にそのなかで生きている
社会自体に向けてはいけない、という事ではないだろうか。
もしこれが「ほんとうに」直すべき病気だとしたら、ね。
治した方がよい。
精神疾患に対する愚かな希望や幻想というものを捨てるためにも。
精神病である自分に拘り続ける姿は、マルクスから
離れられないあの世代の人達を連想させる。
「すべてはパロディだ」とか「世界に意味はない」と感じるのも離人症の一種だろうな
110 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/12 22:52:21
いろんなご意見をありがとうございました。平日は仕事なので
あまりここで余力をつかえませんがご了承ください。
様々な考え方や紹介してもらった本など、今後参考にさせてもらます。
なかでもフォーカシングという行為に興味を惹かれました。
ttp://homepage3.nifty.com/karada/sukima/sukima05.htm これはネット上で偶然見つけた体験談ですが、こんな具体的な体験ができたら
身も心も軽くなるだろうなと、離人症に関係なく、羨ましくなりました。
>>94 現実生活をしっかり生きていたら(時間的に暇が無かったら)こんなつまらないことに
囚われませんからね。私に具体的症例(不眠、拒食、鬱など)が出始めたのは
時間的に自由な大学生活の真っ只中だったので、環境に余裕があるかないかでも
離人症の進行は違うのかもしれません。
>>95 いや、ほぼ当たっていますよ。完結というか、
今の「自分」という者を更生しているイメージを言わせて貰うと、まず中心に
ガラスの壁の中にある、外界に直接影響を与える力を持たない自分があって、
その外側に「社会における自分の顔」担当があって、一手に汚れ役を
背負わせているような感じです。それは傷つくこともないかわりに、真の喜びも
得られないという弊害を伴います。それにしても、この感覚は
思いかえしてみると本当に幼少の頃からありました。
>>96 まるで私の心を読んで書き写したような文章で驚きました。99%このとおりです。
この。自分を他人事として見てしまう歯がゆさと、その歯がゆささえも感じない
という二つが同時に存在しているような感覚が分かる人が居るとは。
>>97 自覚できません。「治したい、治さなければ、よし治すぞ」という意気込みを
自分の外に作り出して、それを眺めている自分がいます。
>>98さんの言葉を借りると、「治してみたい」とシニカルに考えてる
ってのが一番近いでしょうか。
111 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/12 23:10:42
>>99 >話をしてるときにこれ言ったら相手は笑うかな、とか思ったりする?
思います。だいたい私は周りの空気や状況を踏まえてからようやく
人と話をします。突飛なセリフを用意することはできますが
自分の言葉なんてないような気がします。とにかくその場の空気最優先で
全て行動します。
これは最近思ったのですが、そういうユーモアを言うにしても
今の自分のような状態の人間が言っても、人を心から幸せに笑わすことは無理だと
思いました。せいぜい今の自分に取れる笑いなんてものは、嘲笑気味のものしか
ないように思います。
>>100 私の場合は、まあさっきも似たようなことを言いましたが
並列というよりは「内側と外側」って感じで、形にすると球体です。
「内部で流動する球体」のようなイメージです。
>>30 実に鋭い視点。「社会というものに非常に大きな期待をなぜか持ってしまっていて
現実の社会がそうでないことに不寛容」なところは、今言われてハッとしました。
そうなってしまった原因と、それの解消を解決の糸口にするわけですか。
ああ、それにしてもこういう自分の核心をつかれることをズケズケと言われていると
やっぱり防衛スイッチが入って客観モードになってしまいそうになる。
典型的な「逃げ」ですね。
112 :
考える名無しさん:05/01/12 23:18:20
独我論と離人症体験って、関連がありそう。
113 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/13 00:00:16
私はどちらかというと、小さい頃から他者を尊敬することこそ美徳
といった考え方で育ってきまして、それで先ほど述べた
現実社会の不完全さに無意識ながら憤りを覚えていって、
周りを信用することを放棄して、その昔の自分も信用しないことにして
結局全てを心から信用できなくなってしまって
信用しない癖がついたのかもしれません。
もう寝ます。
人間は言葉で対象を認識している。
このときの言葉とはイデアのことでありそれはものごとの理想イメージを与える。
例えば花を認識するとき人間は理想化された花のイメージを参照しつつ、
現実の花をそれに近いものとして認識する。
そして美しいものを見た時はその美しさに感動し、みにくいものを見た時は
そのみにくさ(これも「みにくさ」の理想イメージを参照)に不快になる。
これが正常な人間の感情だ。
メディアが文字しかなかった時はこれ以上のことは何も起こらなかった。
しかし写真・映画・テレビと映像メディアが発達するにつれて、
人間は世界をまずメディアの映像として体験し、現実のほうがそのコピーになった。
メディアの映像はイデア的でありそれが刷り込まれた人間は理想的世界の住人となる。
ところがメディアを離れて現実の世界を見ると、そこは不完全で汚れた世界に見える。
こんな世界はとても受け入れられないと感じる。
文字しかなかった時代は不完全な世界の一部(例えば花)を理想化して意味を感じる
ことができたが、最初から完全な世界に住んでる人間は現実世界(の一部)を理想化
することができない。これが離人症の人が現実社会に不寛容になるメカニズムだろう。
>>114 理想化されたイメージは「文字しかなかった時代」にも存在しましたよ。
古くは神話で、最近では小説で人間の理想像は具現化されてましたし
現実はそれに比べて酷いもんだと嘆く人もいたでしょうね。
あなたの言う事は、何時の時代にもあるしょっぱい話ですよ。
>>114の言うことはむしろ一般人の離人症化ということか。
>>115 いや、だから理想化されたイメージは昔からあったけど、かつては物質的現実という
背景の上に理想イメージを浮かび上がらせることができたのだが、
今の人間はすべてが観念化・理想化した形で刷り込まれているので、
地の上に図を浮かび上がらせることができないという話なのだ。
>>116 もちろん現在はすべての人間が離人化しやすい体質になっているという話だ。
その上に性格特性(例:クールな視線を持つタイプ)とか、
何らかのつらい体験とかが重なることで離人状態が発症するのだと思う。
118 :
感想:05/01/13 15:51:36
哲学のこちら岸しかないと
やることがないかも?
情緒的疲労とかなら形から訓練。
敏感さには調整ができるから。
鈍感さは直りにくいけど。
能力や技能のもんだいかな?
機能の量的障害なら「身体化」とかの
対応能力の訓練法ってないの?
いろいろなものになってみるとか。
共感能力の訓練法とか
バーチャルリアリティーの
イメージ構築訓練とか。
↑
能力の2割でも元能力が5倍なら。
先天プログラム障害とかなら
日常のわかったつもりが通用しない
高度な段階だとあまり関係ないかも?
小脳欠損の踊りの師範みたいに。
巻き込まれ恐怖とかなら
まぁ筋トレでホルモン的解決もありw
>>117 かつてあった物質的現実って何をさしているのか良く分からないな。
メディア情報によって先入観を植え付けられなければ
「生の現実」に到達できるというなら認識論的に素朴すぎ。
俺なら理想と対立した現実というのは地域共同体の規範と考えるけど。
で、その解体後の空白を、資本主義の商品とライフスタイルを
セットにして売る戦略が一時的に埋める。
でも、そのライフスタイルも新しい商品を売るために次々に更新されてしまう。
その更新サイクルについていけない人間(精神的にも経済的にも)は
規範の空白の中でアノミー状態に置き去りにされてしまうと。
ま、こんな話は前世紀に浅田 彰やらボードリヤールやらがしてたものだけどね。
ハイデガーの人間規定に〜のもとにある存在といういいかたがある。
普通は人間が主体として物に関わると考えられてるけど、
ハイデガーは自ら現れる物とか存在者のもとにあるのが人間だとしたわけ。
例えば私がコップをみているとき、私はコップのもとにありコップと一緒になっている。
だから普段は「私が」コップをみているというように自己を反省する必要がない。
この〜のもとにあることが現実感とか生きている実感のもとになっているんだけど、
離人の状態というのは直接的に〜のもとにあることができないんだな。
だから当事者の経験を否定する訳じゃないが、二人の自分とか本当の自分という言い方はできない。
自分の物との関わり方が二通りに分裂してるということ。
離人症の人は〜のもとにあるという直接的な関わりが、
関わりの関わりというように二重化・疎外化されてるのかもしれない。
121 :
30:05/01/14 09:10:50
R.D.レインの「ひき裂かれた自己」、S.キルケゴールの「死に至る病」
などを読んでみるのもいいかも知れないね。いや、本を読むことは決して、治療
にはならないと思うが・・。あと、ジル・ドゥルーズとかね。ドゥルーズでは、
ロビンソン論、カフカ論、プルースト論などを薦める。
122 :
30:05/01/14 09:14:21
離人症も、ひとつの冒険ではあるよ・・・。
もちろん、治るほうがいいとは思うけどね。
>>119 >かつてあった物質的現実って何をさしているのか良く分からないな。
俺の言ってるのは先入観とか規範といったレベルの話じゃないんだよね。
もっと基本的な生物学的レベルで認識が成立してないということなのだ。
たとえば生まれたばかりのネコをヨコ線のみの部屋で一定期間育てると、
その期間を過ぎて普通の環境に出してもそのネコはタテ線が認識できない。
また、やはり生まれたばかりのネコを動けない状態で一定期間育てると、
その期間を過ぎて動けるようにしてやっても世界の遠近感がつかめなくなるから
近くのものにぶつかったりして普通に動き回ることができなくなる。
動物の遠近感(立体視)というのは両眼でものを見れば成り立つというもの
ではなく、自分の体でものに触ったりぶつかったりする経験を重ねることで
得られるものだったのだ。
これと同じで2歳までの幼児がテレビばかり見てると、
物質的世界が存在しているということがわからなくなる。もう本能的にわからない。
だから共同体の規範を取り戻せば現実感が戻るというレベルの話ではないのだ。
たとえば赤ちゃんにテレビを見せておけば、
手がかからないから母親はラクすることができる。
しかしここに大きな落とし穴があって、
実は 《 手がかかることで子供の現実認識は発達する 》 のだ。
赤ちゃんはあっちこっち動き回って花瓶を倒したりガラスを割ったりする
かもしれないが、そういう体験の積み重ねで現実認識は形成されるのだ。
あるいは小動物や近所の子供と遊ぶことで生き物への愛情とか社会性は育つのであって
動物のビデオや子供の出るビデオを見せても何にもならないばかりか
発達を阻害するという意味で非常に有害である。
>>120 >だから普段は「私が」コップをみているというように自己を反省する必要がない。
>この〜のもとにあることが現実感とか生きている実感のもとになっているんだけど、
そうそう、現実というものは普段意識する必要はなく自己と一体化していればよい。
そして認識したい対象だけを言葉で取り出せばいいのだ。
しかしテレビなどの発達で幼少期から大量の情報を浴びて育った現代人は、
自分のまわりの現実すべてに膨大な参照情報を対応させて生活しており、その参照項の
バーチャルなリアリティ(の総和)が生の現実のリアリティを凌駕してしまうのだ。
>>123 ああ、そういう話だったのか。臨床的な研究が存在してたのね。
そういうことなら全部ではないけど首肯する部分もあるよ。
でも、だったら最初にイデアは出さないほうが良かったかな。
この題材でシンボルとイマージュがごっちゃはまずいよ。
テレビと物質的な現実の対立というのは単純だな。
日常が退屈で現実感を感じずテレビの方にリアリティを感じるということは十分考えられる。
だからテレビを見るわけで。
>>127 「日常が退屈で現実感を感じずテレビの方にリアリティを感じる」
というレベルが続くなら何も問題はない。
しかしそのテレビのリアリティとは現実との落差によって成立するものであり、
テレビの世界が当たり前になってしまうとそのリアリティも感じられなくなるのだ。
例えば70〜80年代までのテレビスター(もしくはアイドル)にはリアリティがあり
憧れの存在だったが、90年代以降そういう落差は感じられなくなった。
と同時にテレビは幼児的全能感を助長し、自分がテレビに出る有名人と同格のような
気になる。そういう人間は地道な仕事をしようという気にはならないから、
ひきこもりやニートが増えるのだ。
テレビで一億総白痴化かよ。くだらなくなってきたな。
人によって違うだろうけど、離人症というものが先天的か後天的かを
ハッキリさせたほうがいいですね。
自分の場合はやっぱりテレビに影響を受けたとは考えにくい。
離人症は、そんな簡単に仮想世界に同調するぐらいでなったりするような
ものじゃないと思う。私は小さい頃からそういうものが仮想世界だと理解してました。
むしろ現実の中で、真実に晒されて生きてきたほうが原因なのではないかと。
現実に嫌気がさして「〜のもとにある存在」である自分をそこから分離したというなら
その現実に嫌気がさした原因は、宗教的なものの考え方にあると思う。
今思い返してみると、常にそういう考え方を参照しながら現実を吟味してきたような気がする。
もしかするとこれはもの凄く「わがまま」な病気なんだろうか。
おいら96=98=106だけど、ちょいコテにしてみる。
1に少し役立てればその方がいいかなと思って。
>>130 >127-129あたりの話は離人症とは関係のない話だね。分かると思うけど。
精神障害といえる程度の解離が起こりやすいかどうかに、
どの程度遺伝が影響を与えているかは分からないでしょう。
だいいち遺伝は、そういった遺伝子が自分にあるからといって
それが必ずしも発現するとはかぎらない。
あとはやはり環境因がおおきいと自分は考える。
考えるというよりは感じるだが(もちろんこれは根拠性の乏しい主観でしかない)。
ムートン氏は「宗教的なものの考え方」と書いているが、
我が家にも宗教があって、それが原因で原理主義的思考や一神教的な思考、
どこかに「真理」があり、努力次第によっては自分、ひいては人類がそれに近づいていけるような
そんな幻想が根強い。
何かで判断を強いられた際、道徳的倫理的判断を現実的判断より優先させてしまいがちだし。
随分前置きが長くなったが、「原因」のひとつを潰すにはニヒリズムや相対主義を
一回自分にブチ込んだ方がいいと思う。
その過程で自分は死ぬほど(比喩じゃなく)鬱になったけど。
>>131 何だかよく分かりませんが、あなたは危うい方ですね。
私の早とちりならいいのですが。。。
>>111 >>「社会というものに非常に大きな期待をなぜか持ってしまっていて
現実の社会がそうでないことに不寛容」
この点においては離人症も狂信的原理主義者も同じですね。
そして両者とも主観と客観の関係が敵対的というか、相克関係にある。
でも一見行動は正反対。
離人症になるのも、必然ではなく何か飛躍があるような気がします。
>>132 あ、一応誤解があったら嫌だから書いておくけど、
家が宗教を持っていることで、子供の頃から周囲との違和を感じながら生きてて、
親を否定したくない気持ちと、でも信仰心をもてない気持ちとがあって、
しかし信仰心はもてないながらも育ってきた環境のせいで
良くも悪くも曖昧で済ませる周囲の人間の感覚には溶け込めない、
しかしながら疎外されたくない、などそういうのがあってですねー。
今ではあいまいさや矛盾なんかも別にいいや、となってるんで。
ニーチェやキルケゴールやラカンの言葉を(原点の邦訳ですらなく、
その入門書とか解説書とかですが)読んで(「言語とは、他者の言語である」とか)
それで随分すっきりした。
そういうのを読めば、過度に社会や自分に対する期待を持つ必要がなくなるのでは。
>1
ツァラトゥストゥラを読め。話はそれからだ。
解説書はカスだからせめて邦訳で。
実存主義の価値は狂気の情熱にあるから。
それを冷静に解説してしまったら狂気が無くなってしまう。
ゆえに意味が無いのでせめて邦訳で。
>4
そんな下らない問題はとっくに、100年も前に実存主義者達が
散々考え抜いてきた愚問にすぎない。
自惚れすぎ。
なんにせよ、その程度の問題は旧世紀から分かりきっていた事だし
それに対し真剣に立ち向かった人間達はとっくに居る。
既に頭がぶっ壊れている人間に
治療法なんて物が有る筈ないだろ?
割れたサラを元に戻す方法がどこにある?
あるのは毒薬だけ。
もっとぶっ壊してみたら?
飲むか飲まないかは御随意に(藁
過去に考え尽くされたことを現代になって文脈を汲み取らず考えることの何が愚問か。
>>133 そうですね、私は原理主義者にも二通りあると思います。
現実を理想に近づけるべく戦う人、そして戦わない人。
戦わない人は今ある現実に溶け込まざるを得ないわけですが
それでも心の奥底にいる「原理主義者」を完全に殺すことはできずに居る。
その葛藤のなかで、人間の中に超客観主義の存在が作られ(もしくは
理想主義の自分と現実で生きる自分とを区切る壁を作り出し)、最終的に
離人感というものを生じさせるのかもしれませんね。
>>134 その葛藤とてもよく分かります。私の幼少時代そのものです。
原理主義に走る前に、やはり強大な(強大に感じていた)現実からの疎外を受けることが恐かった。
とにかく、今の自分でいることはどうやら「ラク」ではないらしい、ということが
客観的ながらも分かってきました。
>>135 「こういう問題は過去に考え尽くされてきたからもういい」と判断してる人って
その問題を、自分自身で考えていないわけですよね?それはきっと、
それほどその人にとって真に迫った問題ではなく、重要性を持たないから
他人の出した答えでも満足できているということなんですよ。
算数で「1+1=2」だと習って、それに何の疑問も持たず
ただそういうものなんだと理解しているのと同じなんですよ。
実際に考えた人にとっては「分かりきっている」と言えるでしょうが
それはあなたにとっての「分かりきっている」とイコールではないと思いますよ。
まあ実際はそんな余分な思考を停止していれば
ちゃんと現実を生きていくためにベクトルが向くんでしょうけどね私も。
>>138 今このスレを
>>138まで全部読み終わったんだが、
君は非常に興味深い(私としては、最高級の賛辞のつもりだ)。
また、これまでのレスと私のこれまでの経験から、
君の状態をある程度理解できるつもりだ。
私は、とてつもなく単調な状況(例え会話中であっても、仕事中であっても)になると、
刺激(脳への入力)が足りなって、無意識的な「飽き」による危機感を感じることがある。
そういうときは、神経が集中している指先からの刺激を使って気を紛らわせ、
なんとか継続的な現実感を維持している。他人からは変な癖だと言われるが。
実際にそうなったことはないが、君が言う「ガラスの壁」が現れそうな「予感」に
怯えているのかもしれない。
ところで、君は運動とかはするのかな?
活発な運動は錯覚としての意識を消失させ、無意識的な状況を生み出す。
客観的視点はそれでも有効だろうか?私はその場合、客観的視点は
意識と一緒に消えてしまうと思うのだが。
理想を持つのは結構なことですが、
それに対する焦燥のようなものがあるのでしょうか?
以下は私の我流の処世術に過ぎませんが、もし理想と現実との違いに
葛藤や焦燥を感じるようであれば、その理想はまだ未熟と看做せます。
現実の障害を学びながら理想はより深化していくことができないでしょうか?
「経験」はより理想に近づく手段になりえませんか?
141 :
30:05/01/16 18:46:30
治るのは、じつはとても簡単なことかも知れない。思考者ではなく
役者になればいいのだ。理想ではなく、適応を至上命題にするのだ。
>>141 行動に感情が差し挟まれないわけだから、離人症の人はシステムトレーダーなどとして
生きるといいかもしれない。多くの者は感情的になってしまうことで冷静な判断を失い
相場から退場していく。それがないぶん、相対的に有利に戦えるんじゃないかな。
天職、天職。
143 :
30:05/01/16 20:01:28
中井久夫、斉藤環辺りを読んでみる予定。渡辺哲夫はだめな気がする・・・。
144 :
30:05/01/16 20:04:35
>>142 ・・そう言われると、なんだか悪い気はしないな。そういえば、一度
ポーカーでバカ勝ちしたことがあるなぁ・・。
ひとつ確実に抑えておいてもらいたいのは
「解離」はひとつの防衛機制である、つまりは解離しなければ自我に危機的状況が
訪れかねない、が故に本来あるべき「正常」な形の精神のありようを離れて、
解離状態に自らする、と。
耐えられないから解離している。
非常にまあ、大雑把で自ら異論をはさみたい要約なんだけれども、
しかしこれは踏まえておいてもらいたい。
あととりあえず書いておくとすれば、
>>135が書いていることは
自分で考えるのって面倒だし、答えがそこに書かれているのであれば、それを読んでしまって
それをインストールしてしまえば治るんじゃね?
ってことで、治るんじゃね?は言い過ぎにしても、自分でする思考こそ意味があるんだ、っていう
ビルドゥングスロマンめいた考えをばっさり切ってしまうのもそれはそれでいいんじゃないか?
ということだと思うのね。
だって、今まで考えに考えてきたことを19世紀以前の人間がひとことで済ませてしまっていたら、
それはちょっとショックでしょう?
そういうショックこそが大切だと。
「虚勢」みたいなもんだね。
忘我とか独我とか離人に近い哲学的姿勢は多いよな。
>138
あんたを見ているとつくづく馬鹿だなぁと思う。
1+1=2はなんででちゅかって、
お前言ってて恥ずかしくないのかと。
空が蒼いのは何故? ハァ?
1+1=2なんてのは小学生の問題だ。
が、1+1=2を証明せよは何年生の問題なのかって事だ。
自らが無知である自覚も無い、どうしようもないな。
サクラテツなんて何時の時代の人間だ?
ピタゴラスの定理なんぞ今時小学生でも知ってっぞ。
微積を中学で習い大学で証明する時代にあんたは
一体何をやっているんだ?
でちゅでちゅ言ってんじゃネーヤ、バーカ。
先人が何を考えてきたのか徹底的に頭に叩き込め。
理解するのも懐疑するのもそれからだ。
>145
馬鹿がビルディングして何が出来るんだ?(藁
工学に見習え。曰く車輪の再発明はしてはならない。
車輪を懐疑する事に意味はあるが、
全ては車輪を知り仕組みを理解してからだ。
>>147 お前哲学とかよく知らないだろ?
1+1=2を全ての角度から漏れることなく証明するのにどれだけの頭脳と労力がいるか知らないだろ?
馬鹿だな。
1+1=2は、うろ覚えですまんが、
俺の記憶だと確かどっかの院試の出題だ。
ようは1+1=2をすら知らない奴に、
1+1=2を証明しようとしても無謀ってコトだ。
小学生が院試受けてどうする。
空が何故蒼いのかは
まず波動を知らなきゃ、sinを知らなきゃ、
ないし観念論はあまり知らんが、すくなくともデカルトぐらい
知らなきゃしょうがないでしょってことだ。
何時までも空見つめてても何も分かりゃしない。
つくづく学ぶ態度がなってないなと思うのはね、
疑念が無い訳はない、そりゃ誰だって1+1=2といわれりゃマジかよとは思う。
だが、その疑念を保留して先に進むのが学徒だろう。
何時までもそこに留まってたらテストで赤テンとっちゃうもんな。
はるか先に行けば、かつて頭に叩き込んだフェルマーを成る程と思える。
誰しも、おそらくアインシュタインも一度はニュートンを頭に叩き込んだ筈だ。
しかし、遥か先の地点でその原点を懐疑し新しい答えを導き出したんだろう?
既存の学問に頼らなければ一歩も先に進めない、
学問は学ぶ者の一瞬一瞬においては宗教と同じだ。
微分ワカンナーイとかのたまふ女子高生が、
神を信じる事とx^2→2xを信じることに差異は無い。
まずは叩き込め。信頼性は歴史が保障している。
話はそれからだろう? 哲学徒諸氏。
>>150 君の論説に兼ねてから抱いていた印象だが、
「ある一定のラインまで哲学認識を深める。」
「テストで赤テン。」
といったように、哲学をすることの価値基準の置き方が実学的なんだよなぁ。
(社会評価であれ)他者というものからの見返りが大前提の哲学となっている。
そりゃあ世の偉大な哲学家達は皆そういった部分を踏まえて
哲学の最前線に立っただろうさ。
アインシュタインとニュートンのくだりもそう。確かにその通りだよ。だけどね。
哲学者としての功績に視点を置くのではなく、
哲学そのものに視点を置けば、別に実学ではなく、
命題を抱える本人にとって価値あるものであるべきなわけ。
主観的利益に帰するもの。哲学は根は実学ではないのだよ。
他の哲学家や同窓の氏よりも優れた境地に立つことは哲学というツールを用いた何かであって、
それ自体、社会貢献的な客観的利益なの。
君がそういう道を辿るのも別に悪くはないが、他人に無理に薦めるのはエゴイストだなぁ。
相対的な価値が欲しい気持ちはわかるが、なんとも「若さ故」が見えてしまうよ。
>151
実際若いから。そしてエゴイストだから。
俺が実学的アプローチで哲学に挑んでいるのは仕方ない事なんだ。
俺は創作の人だから。より人を感動させるものとは何かを考える
上で哲学を必要とした人間だから、やはりどうしても哲学も実学として
”手っ取り早い”方法を考えていってしまう。
まぁなんだ。
より高い地点と深い認識を目指す人間の
方法論としては他人にも薦められるよ。
主観的利益が未だに得られていない人間?
とりあえずツァラトゥストラを読めとしか言えないよそれは(笑
俺はそれで獲得したから。あるいは固めたから。
あれは一晩中泣き明かす事が出来る本だからね。
結局人間も環境依存で入出力によって変化する構造体にすぎないので
あるからにして、より良い、より質の良い入力をより多く、
解答が導き出せないようになったら、改めて自らの中に埋没していけば
良いだけの事だ。
それもせずにただ自らの中でぐるぐる入出力を回しているような奴を
見ると浅薄だなぁと思ってしまう。
赤ん坊を暗闇のまったく入出力の無い所にずっと置いておけば
何が出来るかって白痴しか出来ないよ。
とにかくまずは入力だ。
もうボロが出てしまった。
もう少し煽ろうと思っていたのに(笑
どうも客観性というものに悩んでいる人がいるようだけれど
>138を見ている限り、俺にとってその類似となるのは
ツァラトゥストラのルサンチマンって概念なんだよな。
客観視しているのではなく、
単に、深層において現実逃避している、ないし、
その客観視というものに酔っているだけなのではないかとね。
なんにせよ、>1さんはもう少し罵倒されてみるべきだと思う。
罵倒されて、何か少しでも、深域において
不快なものを感じたのであれば、感情が無くなった訳ではない。
便所でウンコして、それ触ってみるのもいいかもしれない(笑
あれは不快だよ、非常に。何故不快なのか観察すると非常に面白い。
客観視が出来るのであれば、それは相当な武器になる。
あとは揺るがぬ主観を確立するだけだろう。
一度客観と主観の消失点を体験してみるのもよいと思う。
ルース・ベネディクト氏によれば禅宗の目的にそれがあるそうだ。
哲学を深めていった人間にも、ニーチェの発狂の原因なども
おそらくそうだろう。
一晩泣き明かした後、笑いがとまらなくなったら多分それだ。
言葉と言葉が異常な速度で繋がっていく体験であり、誇大妄想を併発する。
まぁなかなか面白いのでお勧めしておく。
以上、スレ汚し失礼。
退散します。
154 :
考える名無しさん:05/01/17 15:29:14
>まぁなんだ。 より高い地点と深い認識を目指す人間の
>方法論としては他人にも薦められるよ。
限定が成されたね?つまり、万人に薦められるものではないことを認めたわけだが、
君はこのスレにて、無差別的に(つまり万人に向けて)薦めていたという点において矛盾するね。
>主観的利益が未だに得られていない人間?
何故、客観的利益を得ようとしないことが、
主観的利益を得ていないことになるのか?飛躍されているな。
>とりあえずツァラトゥストラを読めとしか言えないよそれは(笑
やはりここでも「自分の場合それが効果的だったから」という相対論、
主観的な意見しか言えないのかい?それでは哲学そのものを語りえないよ。
>改めて自らの中に埋没していけば
>良いだけの事だ。
その通りだ。「学ぶ」ということの本質を突いている。
自らに埋没していくという自由を否定することは何者にもできないからね。
>それもせずにただ自らの中でぐるぐる入出力を回しているような奴を
>見ると浅薄だなぁと思ってしまう。
>赤ん坊を暗闇のまったく入出力の無い所にずっと置いておけば
>何が出来るかって白痴しか出来ないよ。
>とにかくまずは入力だ。
浅薄であることが何故いけないか?白痴であることが何故いけないか?
何故必ずそれらになると言えるのか?それであること自体にどういった絶対的観点において問題があるのか?
君は依然として相対論でしか返せていない。
君の発言は哲学そのものを語ることのできない君個人の主義主張の域を脱せていないんだよ。
155 :
考える名無しさん:05/01/17 15:33:17
何だ。批判的の方向へ導くことを、煽るということ自体が目的であるということを媒体にして、
実現しようとしていたのか。
まぁ退散したが去り際に返答しよう。
今の時点における俺の解答は
”君は依然として相対論でしか返せていない。”だ。結局世の中には
主観以外の物は、人間には存在し得ない。
客観を指向したりエミュレートする事は出来てもだ。
故に俺は主観以外の物を、今のところ語らない。
おそらく客観は俺の勉強の次のテーマだろうな、
客観なるものは存在するか?
俺の論は飛躍が多い。
精密を気にしすぎていたら全体の把握に遅れをきたすからだ。
それは効率的ではない。
故に、飛躍を解釈してくれる人間とでないと会話は出来ない(笑
さらには生産性の無い議論もするつもりは無い。
ここにおいては、客観的なる人間と自称する輩がいたので
一つの実験を試みてみたが、結局単なるルサンチマンに過ぎなかった
という自己解答を得た。
これもまた飛躍の連続なので俺以外の人間には理解し得まい。
>154
いつまでもそこで足踏みしているといい。
俺は先に行く。
じゃ。
157 :
考える名無しさん:05/01/17 15:56:37
>>156 だからこんな非効率的な足踏みをすることが哲学だと言っているのだが、
そこが伝わらないかなあ。
そこがわからないのならば、君がたとえ
「哲学のユーモア」や「哲学史」や「哲学家の人間性」「哲学の有用性」を捉えられても、
哲学そのものには永遠に触れられない。
君はこの非効率的な足踏みを怠ることによって(それが一般社会では普通だが)
哲学モドキ愛好家で収まるわけだ。まあ、自分から言ってくれたように、
君は哲学でなく創作にこそ適性がある。そういうことなのだ。
>>129 かつての一億総白痴化論が問題にしたのは放送内容だろう。全然ちがう話ですよ。
>>157 147は異界に旅立ったようなのでほっておきましょう。
ごく簡単な説明。
147は内からのアイデンティティが過大な状態。
躁みたいなもの。
ところで
>>147は基ッ本的なところなんだけど、
ビルドゥングスロマンとbuildingとがなんか同一であるかのような書き方しているが、
(というかそれ以前にその
>>147の
>>145に対するレスがやたら意味不明なんだが)
そうなのか? うん、違うよね。
後付けで取り繕うんならいくらでもそうしていただいて結構だけど。
部分的には理解できるところもあるし。
いや、結論としては全然ダメだけど。
事実上、いまの日本は離人でも境界でも、なんとか生きていける社会だよな。
ネットは境界ばっかり
163 :
考える名無しさん:05/01/18 20:33:37
哲学って離人に向かってるのかって思うこともある。
164 :
考える名無しさん:05/01/18 22:56:31
Σ(゚Д゚;≡;゚д゚) ナニココ!?
165 :
考える名無しさん:05/01/19 00:35:33
>>164 自称離人症と哲学半可通が好き勝手言うスレです。
いまのところ、なぜ離人症は原理主義に似てるか?という所まで来てるん
ですがね、ここのスレは。
>>166 離人症と原理主義に少なくとも直接的な因果関係があるとは思えないのだが、
どうしてそうなるのか。
僕とムートン氏は原理主義的志向性があるにせよ、
たったふたつのサンプルでどうしようというのか。
うまく生きていけないから精神疾患になる、
そのうまく生きていけないことの原因のひとつと考えうるものが、
二人とも原理主義的嗜好性を持っていたというだけの話。
これを離人症から大うつ病に変えたところで成り立ってしまう程度の話。
このスレは1さんを基準に離人症を考察しますから。
離人症一般という見方は措きましょう。
>>1も実際には原理主義的とは言えないよ。
原理主義者は誰に対しても原理主義の態度を貫くはずだが
>>1はむしろ真逆。
哲学なんて志向する奴は、ある意味原理主義的なんじゃないの?
>>169 1は原理主義志向があると思う。
客観性に固執するのは、何時でも誰にでも適用できる価値を志向しているからだと思う。
今のところ、その普遍的価値への志向が個々の主観を否定するような形で現れているのでは
ないだろうか。この状態は本人も納得していないのだろう。
普遍的価値を求める奴のことをメンヘル板では正義厨といいます。
173 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/23 09:42:17
ずっと体調が良くない。今日は色々本を買いにいこうと思います。
>>139 私と全く同じですね!そういう状況の時
私の場合は、小学校の頃からずっと「ペン回し」をやっています。
人と一緒にいる時に離人感が顕著に出てしまうんのが恐いんですよね。
運動は、昔からサッカーをやっていたんですが、それもある程度うまくなって
プレーに対する「慣れ」が生じてしまうと
あとはもう楽しんでいる自分は無く、客観的にやってきたような気がします。
ジョギングなど、単調に走り続けることもしましたが、確かに一時的には
気分が高揚したり、爽快感を味わえますが、結局その時だけだというのが
分かってしまうと、特に積極的にスポーツをすることはしなくなりました。
>>140 まあ仮に私が、前に挙げました「戦わないタイプ」の原理主義者だとすると
私にも理想がどこかにあるわけですが、自分の理想の未熟さは痛感しています。
子供っぽいとさえ思います。どれだけ現実の中で生きても、なぜか理想を
頭の中で切り離してしまい、理想を深化させていく方法が今は分からないんです。
>>141 それができれば多分こんな苦しみもなくなるでしょうね。どうやって
「理想ではなく、適応を至上命題に」するかが問題ですけど。
やっぱり今の自分は、自分の中にある理想そのものを守るために
現実に適応しているような感じがします。
>>145 今考えてみたんですが、私はもしかしたら、自我というものが理想と
癒着しているのではないだろうか?その癒着した状態がもっとも
「正常」だと無理やり判断を下しているんじゃないだろうか?と自己分析しました
とりあえずそのインストールのためにも、ニーチェあたりから読み始めようかと思います。
>>147 すみません。
174 :
30:05/01/23 09:59:54
離人症のひとというのは、アトラス・コンプレックスというか
自分ひとりの双肩に世界を担いでいて、自分のちょっとしたミスが
世界にとって大変な意味をもつ、みたいなことを考えてしまう所が
あるのではないか? ・・アメリカ合衆国大統領なら、そういう
感覚をもっても不自然ではないが、そうではないのだから、やはり
それは不自然な感覚というべきだろう。
175 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/23 10:49:49
>>153 ルサンチマンという言葉を調べて見ましたが、奥の深い言葉ですね
やはりニーチェが今の自分に最も近い解答を提示してくれそうな
気がするので、ニーチェから読み始めようかと思います。
>>161 環境によってはそうでしょうね。
今の私の体育会系の職場ではなかなか厳しいですが。
そろそろ身が持たなくなりそうなのが怖いです
体調が悪いのも会社が原因かも・・・
>>166-167 やはり私の場合の離人症は、原理主義に近いようですね。
他の離人症患者が離人になった原因は考えたことが無いですね。
自分の問題で手一杯で、そこまで他人に対して余裕をもてないところもあります。
>>169 「誰に対しても原理主義の態度を隠している」という意味では真逆ですね。
>>171 >何時でも誰にでも適用できる価値
そうです!それを小さい頃から探していました。
そのためには自我の犠牲も、
犠牲とさえ思わないほどでした。
>>174 自分の場合は、自分に全てがかかってるというか
ミスを犯したら自分の周囲の人の世間に対する評判が下がるとか、
迷惑がかかるとか、そういう思いが強いです。ともあれ尋常でないコンプレックスが
そこに働いているのは事実ですね。
自分が「原理主義的」とか言い出したからなあ・・・・・・
いささか不用意な言い方だったとも思うが。
確かに、イスラム原理主義や聖書原理主義のような、
確固として原理としての「対象」が存在する本来的な原理主義者ではない。
それはその通りで、しかしそれでもまだムートン氏や以前の自分が
原理主義的志向を持っている、という風に言いたくなることは事実。
対象がはっきり存在する原理主義者と違って、
真理のような「何か」としか名指せない、そういう風にしか名指せないことに対する苛立ちが
鬱屈や澱みとなって心に蓄積していくことが不健康さの原因のひとつとは言いうる。
「何か」としか名指せないにも関わらず、しかしそれをあるとする。
ある意味では名指せないほど困難であるからこそ真理なのだと感じてもいる。
しかし、どこかでそれは「了解可能」であるともかってに思っていたりする。
実際の「それ」は、発見が困難であるにも関わらず、
しかし明晰であり万人に了解可能なものと。
(一応書いておくけど、ぼく自身が現在そういう考えを持っているわけではない)
問題としては、「それ」を追い求めることが自分、
ひいては自分以外に「有益」であるかのように考えること。
また、そのことにどこかで疑問をもちつつも「それ」を求めることをやめられない、
やってしまう、やらないと居たたまれないこと。
「真理」と「自分」に、なにか繋がりがあるように思うこと。
まあそれをあると言う風にはいくらでもいえるんだけど、でもやっぱり別にない。
そしてなくても影響はないし、有益な人生が過ごせなくなるわけでもなんでもない。
かまって君、ウザい。
でも自分だってかまってほしい。
そういうことですなぁ・・・。
178 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/23 12:13:52
>>176 そうですね、対象は存在しない。概念が対象とでもいうべきか。
概念は、あると思ったときにしか存在しませんよね。
真理と自分の繋がり・・・もしかしたら真理ではなくて
その繋がりそのものに自分の人生を依存してしまっているのかも
つながりがあると思うことによって、自分の中に真理があるかのような
錯覚に溺れているだけかもしれません
本当の自分にとって有益な人生は、人々が真理を知り、それと繋がることではなくて
そこから離れたところで実現されるんでしょうか・・・
その感覚が私には不足しています
179 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/23 23:01:55
今日は我流でフォーカシングを試みました。
結論から言うと、胸の中の不快感はやはり
正義感のようなものと自我との分離ができずに苦しんでいる自分自身なのだと
確信めいたものがありました。
自分は思い込みも激しいので、ひとまず決め付けてしまうことは保留しますが
言葉にできない、原因のようなものの感覚は確実につかみ取れました
これから何かが進んでいきそうです
たまたま通りすがりで書き込みます.。
久しぶりにまじめな1だなと思って読み進むと
案の定、いましたね、
>>43が。
恐らく先天的に前頭葉に傷があって
周りの人間に配慮する機構が大きく抜け落ちているタイプの
性格異常者。
攻撃的で周囲の人間にストレスを与えつづける。
いわゆる精神病者よりも、こういうやつらこそ
社会にとっては本当に有害な生き物なのだ。
サカキバラなどもその一例だと思われる。
見つけしだい何らかの施設に隔離すべきだと思うが
現代のいがんだ人権思想は、人権をおびやかす者に
有利な傾向が強いので困ったものだ。
181 :
考える名無しさん:05/01/24 12:30:26
フォーカシング試されていたんですね。
ムートンさんどうしてるかなぁと思って寄ってみました。
ムートンさんの自分自身への気づきが深まっていくといいですね。
182 :
考える名無しさん:05/01/24 12:35:41
ムートン、離人症って病名なの?
183 :
考える名無しさん:05/01/24 14:00:19
字から考えて、症名なんじゃないのか?
184 :
考える名無しさん:05/01/24 16:33:58
じゃないのか?、ってずいぶん乱暴な ^^;
聞いたことないから、勝手な呼び名じゃないですか?
でもいいよねw
ところでさぁ、それってなんか問題あんの?
だれがどんな損害こうむるわけ?
185 :
考える名無しさん:05/01/24 19:31:47
「離人」で検索かければそれくらいの情報いくらでも見つかりますし、
ここで
>>1さんの返答を待つよりも、よっぽど効率的で、正確、客観的な情報が得られるかと。
186 :
考える名無しさん:05/01/24 20:06:42
めんどい
187 :
30:05/01/24 20:27:18
普遍的な価値を探求するというそのこと自体は、誰にも文句のつけようのない
目標=課題なのだと思う。しかし問題は、たとえばある物事、ある行為を選ぶ
という事がたいへん困難になるという点にある。どのような選択も、普遍的な
価値をもたないという理由で破棄される可能性を根絶できないからだ・・・。
普遍的な価値の探求という理想主義が、自我の存立基盤さえも掘り崩していく。
離人症の陥穽がそこにある。
へたな考え休むに似たり
189 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/24 22:49:28
とにかくフォーカシング(我流)では、自分の思っていた以上の「不寛容さ」や
「対象を厳格に完全に否定する態度もしくは考え」に驚きました。
それはとても些細なことにまで及んでいました。(あまりにも過去の記憶が
膨大なのでここには書ききれませんが)そして驚きと共に、
それが至極当然であると思っている恐ろしい自分の存在を
見つけてしまいました。(その時の「恐ろしい」というのは、その不寛容である原因を
客観的に見て初めて現れる感情で、そう出ないときはそれが恐ろしくも何でもなく
当たり前なのです)
>>180 私は煽られた時にまず考えるのは、煽った相手が自分に敵意があるかどうか、
否定しようとしているのかどうか、嘲笑したいのか、他の人がそれを見ていて
どう思うのか、賛同者がいて、煽りに拍車がかかるのか、それとも
私をかばう人が居て、煽った相手を叩くか、またそういう状況を見ていて、
私が次にとるべき行動は何か?など、いろんな可能性を客観的に考えます。
自分が煽りによって傷ついたかどうかなんて、空気を読む重要性に比べたら
二の次のように考えているんです。そしてそんなことを綿密に考えてしまう自分は
やはりどうかしていると思います。
>>181 本当に感謝しています。(本心からかどうか分かりませんが)
普通に生きていたらこの言葉さえ知らなかったことでしょう。
>>182 離人状態という、ヒトの状態が医学界では認知されているようですが、
とにかく言葉足らずな私が説明するよりも、ネットで検索したほうが
遥かに理解が深まるのは確かです。
190 :
考える名無しさん:05/01/24 22:58:07
フォーカシングの説明がほしいな。まあ、自分で検索してみれば
わかるんだろうけど。
191 :
考える名無しさん:05/01/24 23:00:03
離人症って、苦しいよ。
漏れ中高の時代にかかったけど。
192 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/24 23:00:43
>>187 あなたに私の主治医になってもらいたいです。ぞっとするほど
的を得た分析です。離人状態では、本当の意味で何も選ぶことができないんです。
あと誰かを好きだとか嫌いだとか決め付けることもできません。
自分の中の、その基準の所在が分からないからです。
敢えて言うならば、人を好き嫌いで判断してはいけないという
「宗教的基準」は根付いていますが。
しかしこれがこのまま続けば、「自我の存立基盤」なるものが崩れて
その時こそ完全に自己崩壊してしまうのでしょうか?それだけは
防がなくてはならない。
でも、そうやって崩れていく自分を、また客観視する自分が
居てしまいそうな気がする。
このスレで自分の現状、症状を語り始めて以来、
背中の痒いところに手が届くかのように皆さんのレスがどんどん
自分の問題点に触れられていく感覚がします。
今まで言葉にできなかったことが、どんどん言葉となって入ってきます。
この板の人たちは「全て」を言葉にする達人みたいですね。
193 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/24 23:03:59
>>190 ”自称”離人症患者が”我流”のフォーカシングをやっているだけなので
私には何の説明能力はありませんよ。やはり検索するか本を読むのが最も
手っ取り早いですよ。それに離人とフォーカシングに関連があるのかどうかも
まだ何も調べてません。
>>192 メンヘル板なんかよりはね、ずっとマシだよ。
話が通じる。
メンヘル板は、話が通じないからね。
一応僕もメンヘル板にはいるんだけど、打っても響くことは少ない。
あと一応書いておくけど、
>この板の人たちは「全て」を言葉にする達人みたいですね。
の文章から未だに「全的」なものへの志向がうかがえる。
いやそんな一朝一夕で捨てられるわけはないし、
自分もあきらめていないといえばあきらめてないんだけどさ。
「全て」という言葉とイメージの誘惑。
そもそも「全て」というものが、なぜかくも魅力的なのか、なぜ自分は「全て」を書くも魅力的に思うのか。
自分が過去に考えた流れで言えば、そこで出て来るのが「同一化」の問題ですなあ。
これは離人症に限ったことではないが、
問題は自分や他者を含めた物事の見方、関わり方なんだな。
物事との関わり方が同時に自己を規定してる。
>1の場合、物の価値が宙に浮いて存在してるかのような
外的かつ形式的な関わり方しかしてこなかったんだと思う。
だから真理や普遍的価値の追求それ自体が問題なんではない。
離人症状を治したいなら単に病気を治すという問題じゃなくて、
物事の見方、ということは同時に自分のあり方を根本から変える必要があるだろうね。
196 :
考える名無しさん:05/01/25 18:54:45
離人症の本質は
「自分を受け容れてくらはい」…じゃないの?
でも、そうじゃないようから、「潜ります」みたいな ^^;
197 :
考える名無しさん:05/01/25 19:36:15
存在論なんか深く考えてると、
周囲の人間が全て現象に映ることなんてよくあるけど、
これも離人っぽいよな。
198 :
考える名無しさん:05/01/26 13:33:08
離人症は 好きなタイプの女が寄ってきても
変わらないんだろか…?
ありえねぇ話ではあるんだがw
199 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/28 23:15:54
>>194 「全て」という言葉をなぜ使ってしまうのか?
私の離人状態が今後「全て」に対して発現していく可能性を危惧しているのかもしれません
今でもかなりのことがらを宙に浮いたような意識の中で体験していますがね。
>>195 身に染み入るような解説と助言。
その言葉がフィルターを通して届いてくれれば願ったり適ったりなんですがね。
>>196 駱駝の精神なんですよ。
>>197 実際周囲の人間は現象ですよね。
>>198 変わりませんね。これは本当です。
外側は反応しても内側はピクリとも動じません
で、こんな上っ面だけの男に構う女も居ないので、みんな離れていく、と・・・その繰り返しですね
200 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/28 23:21:59
近ごろ仕事がママゴトのように感じる。
こうすればどうなるか、いや、何が起こっても何も驚かないし
そんなことは計算済みだ。表面上を巧みに行き来している。そんな感情ゲーム。
合理的なだけの仕事にも、昔は憧れたことはあった。でもそんなことをしているだけでは
この社会に対する、自分の内なる原理主義の復讐心は満たされない。
こんな妄想を吐いてみました。
201 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/28 23:27:40
昔、おそらく本当に神は存在して、この世界を作った。そして死んだ。
自分やその他の全ては、神の残した遺産なのかもしれませんね。
神がつくったものは、生きようが死のうが
それ以上にもそれ以下にもならないのだろう。
202 :
考える名無しさん:05/01/28 23:47:03
哲板より、デンパ板のほうがおもしろくてためになるよ。なあ?
203 :
鳥肉:05/01/28 23:51:03
「黒い羽根共同募金」ふふ。↑これは本心、こう思う。哲板にはもうあきた
よ・・・。
204 :
考える名無しさん:05/01/28 23:51:16
デンパ板なんていうのがあるのか。秋葉原に行ったら、第五デンパビル
っていうのがあって驚いたが。
205 :
鳥肉:05/01/28 23:53:14
ん? あるじゃないですか。ネタ雑談のコーナーに。
206 :
考える名無しさん:05/01/29 00:02:43
離人症でつ・・
医者には統合失調症とかわけのわからない病名を言われたけど・・陰謀だよね
今はショーペンハウアー読んでまつ・・
207 :
考える名無しさん:05/01/29 00:03:22
いっ、陰謀でつか?
208 :
鳥肉:05/01/29 00:07:38
ひととなかよくするって、なんか作為的だよな。われわれにとっては。
自然な行為じゃないよね。どうしてそういう作為的なことをしなきゃ
ならないのかって、思ってしまうよね。
209 :
206:05/01/29 00:09:14
人と仲良くさせられているように感じるよね・・
誰かの意志で・・
210 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/29 00:11:05
>>202 さあ、あそこでも独り言をぶつくさ言ってるだけのようなものだから
タメになってきたかどうかは分かりません。
面白い文症を作る人は居ますが。
211 :
鳥肉:05/01/29 00:16:23
まあ、俺のばあいは仲良くしないからな・・・。
>>206
212 :
鳥肉:05/01/29 00:19:31
ここでは、その面白い文章にもめったにお目にかからないからさ・・。
>>210
213 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/29 00:27:57
>>206 私はソフィーの世界に続いて人生で2冊目になる哲学書(仏典を除いて)である
ツァラトゥストゥラを読み始めたところです。
>>208-209 仲良くしたがるというか、孤立を恐れる生き物なのかもしれませんね、人間は。
でも本当は外界からの接点を全て断ち切って完全に一人になりたがる自分も
存在しているようyな。
>>212 鶏肉さんは電波板からやってきたんですか?それともこれから電波板にいくんですか?
なんにせよ、私は面白い文章だと「思う」ものは見つけても
それを「面白い」と感じる自分の存在が無いんですよ。あなたにレスをつけている今も、
会話の楽しみなどというものは自分の内側には届いてこないです。失礼なことですが。
あなたが面白いものを求め、面白いものを追い続ける限り
それはそれを得続けるでしょう。今の私には無理な話です。
214 :
考える名無しさん:05/01/29 00:29:36
>>211僕も馴れ合うのはごめんだ・・
君のことなんか信じてないよ・・
215 :
鳥肉:05/01/29 00:35:25
ふ〜ん。面白いと思う文章はみつけても、それを面白いと感じる「自分」
がない・・・・か。それは俺にはわかりずらい事情だな。俺にとっちゃあ、
面白いと思うことは、ほとんどそのまま面白いと感じることだがな・・・。
だけど、俺には君が「面白さを感じている」ように見えるんだがな。
216 :
鳥肉:05/01/29 00:37:57
ツァラトゥストラは俺にはまったくつまらない本だったな・・・。
217 :
鳥肉:05/01/29 00:40:47
>>214 そう言わずに、もっとなにかしゃべってみたまえよ。どうせネットの上だけ
のことだ・・・。もっとも俺はそろそろ落ちる予定だが。
218 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/29 07:47:08
>>215 他人に、そう感じているように見せかけるのには慣れてますから
そういうことでしょう。私の中にいつもどれほどの虚しさが漂っているのか
あなたは知らない。
この世の摂理は複雑で簡単にパッと光が射すもんじゃない。がっかりすることも多い。構築されていないもので起こる奇跡はない。何でも簡単に考えすぎだ若いもんは
220 :
30:05/01/30 08:34:51
チキン氏が言ったことのなかで、「作為/自然」という視点は有益だと思う。
離人症のひとは、おのれがこころから感ずることだけに価値を与える。感じて
いもしないのに、形だけの振る舞いをすることは「作為的」であり、「操作的」
態度であるわけだ。あるいはそれは、普通のひとからみれば「象徴的行為」と
呼ぶべきものかも知れないのだが、離人症患者はそれを理解できない。
「実体的交換」ではなく「象徴的な交換」「メタ実体的な交換」ということが
理解できないのだ。「象徴的な交換」とは交換するものが何もないときに
それでも何かを交換する技法ではないだろうか?
>>220 ユダヤ人(ユダヤ教を信じている人)に通じるものがあるね。
あるユダヤ人が列車の椅子に座っていた。
彼は靴と靴下を脱ぎ、向かいの座席に足を投げ出してリラックスしていた。
そこに、一人の男がやってきた。彼はびっくりして足を戻し、
靴下と靴を履こうとした。
しかし、やってきた男が旧約聖書を取り出してユダヤの祈りを唱え始めると、
彼は「なんだ。緊張して損したよ」とつぶやいて、元のように
足を投げ出してリラックスしはじめたのだった。
あらゆる「非宗教的作法」は、ユダヤ人にとっては
不可解で非合理的な文化に強要された行動として映り、
他人(非ユダヤ人)の視点が無い限り従う義理を持たない、という話さ。
フォーカシングという言葉はこのスレで初めて聞いたが、
「身体の声に耳を傾ける」という解釈であってるのかな?
インディアンは数人で円陣を組み、目を閉じて「魂の声に耳を傾ける」
ということをやるという。それと同じことかもしれないね。
いやはや実に合理的な行動だ。ヒトは脳のみから成るに非ず、だよ。
そっちのほうにはあんまり興味が無いのかもしれないが、
多くの武術に共通する教えは、「身体を完全な制御下に置く」こと、
「身体と武器の隅々にまで意識を広げる」ことだと言われる。
「武術の神」と「離人症」は案外近い存在なのかもしれないねぇ。
以下は、離人症に対する私の判断。
「空気を読む」というのは脳の最も基本的な機能だ。
魚は水の流れを読んで泳ぎ、狼は群れの中での役割を読んで行動する。
ヒトは周囲の環境や会話などから、空気を読んで行動する。
多かれ少なかれその傾向は誰にでもあるものだ。
これと対を成すのが、哺乳類などの一部の動物に顕著に発達した「主観」だ。
しかし、私は「主観」とは単に、社会性から発達した錯覚であるように
思えてならない。「身体」と「脳」が単一の「自己」として認識されるか否かは、
先天的に与えられる「意識という錯覚」を生み出す脳の傾向と、
個体の生育過程での社会性に依るのではないか?それは後天的に
変化させることさえ出来るのではないか?そんなふうに考えている。
つまり、離人症というのはヒトの一つの状態なのだ!
(おいおい断言しちゃってるぜこいつー
(精神科医気取りって奴か?
(アホだねー
(w
>>223 解離は人間の精神機能であり、それがうまく働いている限りでは、
解離していようとそれがそのまま病気であるとはまったくいえない。
ので、
解離しているのはヒトのひとつの状態である
というのであればそれに異論をはさもうとは全然思わないが、
>離人症というのはヒトの一つの状態なのだ!
というのは異論を挟まなければならない。
(223自身が、その書き込みは極端な物言いであるという自覚の上になされたものである、
という立場をとっていたとしても一応こう言わせてもらいますね)
離人症が疾患である、つまり離人症状が本人に苦痛を強いているというこの一点において、
異常である、または普通ではない、と言わねばならない。
>>224 そうだね。自動的な客観視を止める方法が必要なんだよね。
このスレを見て以来考えてるんだが、なかなか思いつかないよ。
ただ、自己催眠とかが有効な気がする。
自分の身体を制御したいとき、私は以下のように唱えたりするよ。
「身体は温かい。頭はすっきりしている。
あなたの目はだんだん重くなってくる。あなたは目を閉じる。
あなたはとても心地よい気分になってくる。
あなたの身体の隅々まで、あなたの意識が浸透していく。
あなたは手であり、腕であり、胴であり、足であり、首であり、頭である。
全てはあなたの思うままに動く。……あなたは身体の全てに浸透した。
10数えて目を開けると、あなたは身体の全てを制御している。
1…2…3…4…5…6…7…8…9…10!」
インデントした部分は必要に応じて変える。先に暗示の文を考えて、
少し練習して、雰囲気をぶちこわしにする言い間違いとかが無いようにして、
自己催眠を試してみると言うのはどうだろうか。
表現については、客観視する自分が薄れていく?主観的な自分が強くなっていく?
それ以外の表現のほうが適切かな?自分のことではないので良く分からない……
このレスが何かの役に立ってくれれば良いのだが。
しかしまあ、
>>199-201を見ていると、
やっぱ時間が必要なのだなあ、と感じてしまう。
いくら情報を得たところで(もちろんいい情報を得ることができれば、快方にはやく向かう
可能性が高まるから哲板に来たことはよかったと思うが)それを本当に取り込むのには
時間がかかる。これは本当にしょうがない。
誤解のないように書いておくが、どれほど>199-201,210,213,218 が
意識的に書かれたものだったとしてもだ。
時間が解決する。大抵ね。困ったことに。
いわゆる催眠や暗示の効果は、かける側とかけられる側の信頼性に基づくものだという。
それ故、自分自身を信頼している人の場合には催眠状態が深くなりすぎる可能性があるから、
くれぐれも表現には細心の注意を払ってほしい。
もし「絶対」や「永遠」といった表現を軽々しく暗示に含めると、
望まない状態に陥った際にそれを解除するための表現を考え出すのが難しくなるから。
離人というのは世界を過剰に意識することから出る症状だと思う。
例えば呼吸や歩行も無意識的にやってるぶんには問題ないが、
いざ意識してやろうとするとぎこちなくなるように。
さて、離人症者は人間の感情というものがわからないという話があった。
これも意識の過剰で説明できる。
そもそも感情とは動物の行動を駆動するものだが、
これは本能に組み込まれたもので、理性の介在する余地はない。
例えば歩いてて、いきなり誰かがぶつかってきたらカッときて睨み返す。
そして相手が強そうだったらサッと目をそらし何事もなかったかのように
立ち去るが、相手が自分より弱そうだったら睨んだまま威嚇して、
それでもひるまないようなら喧嘩になる。これが正常な動物の行動だ。
しかし理性が発達した人間の場合、少々誰かがぶつかってきても、
最初から気にしないと決めてる場合が多い。相手が上だろうと下だろうと、
いちいち勝負することに意味を感じないからだ。
このように理性で行動を制御すると感情は必要なくなる。
そこにはただ機械的な情報の入力と行動(や言動)の出力があるだけだ。
1980年代以降、すべてはパロディでしかない、人間の行為は演技でしかない、
という感覚が蔓延するようになったが、これはテレビによる情報量の爆発
によってすべての人間行動がパターン化されたからである。
つまりテレビは形式的にも内容的にも人間の「意味」を破壊するのだ。
ふむ。客観視こそが意識の機能であり、意識の過剰こそが恒常的な客観視を生み出す、というわけか。
……私は全面的に賛成するよ。
しかしもしそうだとすると、平常時の意識を低下させることこそが解決策だということになる……。
それは果たして幸せなことなのだろうか……いや、本人にとっては苦痛から
解放されることのほうが重要なのだったな……。
私の場合、意識の低下といえばまずアルコールによるものが思い浮かぶ。
ムートン氏は酒を飲む人かい?飲んでみろとは言わないが、飲んだ経験があったなら
その時の精神状態を是非教えて欲しい。
230 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/31 22:24:39
ツァラトゥストラは哲学書というものなんでしょうか?
それともニーチェが書いた哲学っぽい小説のようなものでしょうか?
それにしても、こんな私でも是非読みたいと思わせる内容の本だと
思いました。こんなことは今までにないです。なんだろう、娯楽としてでもないし
知識を得たいという欲求でもない、とにかく自分はこの本を読むんだ、といった
心持ちで読んでいます。
今日帰りの混雑した電車の中で立ち読みしていると、本を持っている腕に
女の人の胸がぎゅうぎゅう当たってきました。そんなに超満員なわけでもないのに、
わざと体をこっちに向いて、電車が揺れるたびに強く押し付けてきたような気がしました。
その時私は、本に集中ができなかったのですが、その女に興奮するわけでもなく
その状態を、その状況下にある自分を、いや、自分以外も、客観的に見守っていました。
みなさん、これが離人症ってものじゃないですかね。
何書いてるのか分からなくなってきましたが、離人状態は、何でもいいから
何かが「起こっている」ときに顕著に表れる気がしました。
231 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/31 22:30:08
>>226 この板にきてよかったと思います。今まで生きてきて
誰もが口にしなかったことが理論的に言語化されているのを見て
人間の分析力のもの凄さに驚いてもいます。
フォーカシングのことはいまだによく分かっていませんが
自己催眠が自分に暗示をかけるのに対し、フォーカシングは本当の自己を明示する
そんな感じでしょうかね。
232 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/01/31 22:41:07
>>228 世界を過剰に意識するから離人状態になるのか
それとも離人症だから世界を過剰に意識するのか・・・
本当は、普通に生きていくためには最低限、自分のほんの身近な部分だけ
見ているだけで暮らせるはずなのに、その当たり前のことをせずに
自分の範疇を飛び越えていろんなことに意識を飛ばしすぎて
自分のキャパを超えてしまって離人症になるのかもしれませんね
>>229 酒は飲むときは飲みます。精神状態は、人並みだと思いますが
やはりすべての認識能力が低下して、気持ちよくなったり悪くなったり、
普段の自分ならしないようなこともやってしまいます。でもそういうときほど
理性が本体のエマージェンシーを認識し、離人状態の維持が最優先されます。
だから完全にはじけるなんてことはこのままだと一生起こりえないでしょう。
記憶を無くすことになる前に、吐きますしね。
飲酒などによる意識の低下を感知→危機に対応して乖離、か。普通に悪循環だな。
まあ、そう簡単に抜け出せたら苦労しないか……。
私の場合、過去に大きなショックを受けた時に、自分が自動的に状況に
対処しているのを自覚したことがある。あれはなかなか興味深い体験だった。
理不尽への怒り?が先行し、しかしだからといって感情が暴走したわけでもなく
むしろ普段より極めて合理的に行動しているような気がしたんだ。
……後から考えると、行動の一部については(判断を保留するなど)より合理的な
選択肢があったような気がしたが、その時は本当にそう思えてならなかった。
よく分からないのだが、あの状態が恒常化するのが離人なのだろうか?
もしそうなら、苦痛だというのも分かる気がする。自分がまるで他人のようなのだもの。
>>233 飲酒については、自分もムートン氏と同じかな。
飲んだら余計離人症状が強まる。
もちろん、表面上の情動とは別にね。
>過去に大きなショックを受けた時に、自分が自動的に状況に
>対処しているのを自覚したことがある。
これは多分というかほぼ明らかに解離症状でしょうなあ。
離人症的な解離状態だと思う。
それが恒常化あるいは頻発し苦痛を感じるならば、離人症。
問題は主観性が足りないんではなくて、むしろ物事を完全に主体的に判断して
規定することはできないってことだ。
何かの根拠を自分だけで求めようとすれば表象の無限後退は避けられない。
物事を受け取らずに判定者の位置に居続けようとすれば逆に自己のたつ地盤を失ってしまう。
ここまで話を聞いた限りではこんな感じなんではないかな。
子供の頃から物事を受け取って何かを感じたり考えたりするんでなく、
宗教的な規範の方から物事を形式的な価値基準に当てはめ判定する仕方を学んでしまった。
そしてその価値基準に不満を感じたときに別の仕方が見つけられればまだ良かったんだが、
逆に物事を外面的に判断する空虚な枠組みが残ってしまったと。
へぇ、あの状態が乖離なのか……。
そういえば、私もたまに飲むんだが、酔いに反して意識が冴えてくる気がする……
もしかしなくても軽度の離人症なのかもしれんな……。
乖離を自覚したのはあのときだけだったと思うが、以来私は「私」の存在を無条件に
肯定する立場を否定的な目で見てきた。ヒトの意識や自我は決して確固たる存在ではなく、
状況に応じてぐりぐり変化するものだと知ってしまったからだろうね。
主観的に心を語るより、客観的に脳の機能として解釈したほうが、私にはしっくりくるよ。
宇宙が単なる振動するひも、または時空量子のライフゲームで、生死の境界が詭弁で、意識が二次成長した脳の錯覚で、
私が刹那に浮かび消える自動的な泡だったとしても、私はそれを何とも思わないよ。
なんだか不思議な感じはするけどね。
それと
>>230の離人の起こる状況というのは、他者とか出来事とか物事の方から自分に関わってくる、
関わらざるをえない場合なんではないかと思う。
自己を失うこととトレードオフでなんとか判定者の位置に留まろうとしてるのかもな。
私の基盤を作ったのは、無数の書籍だ。
子供の頃、図書室の本を端から全部フォトリーディングしていった記憶がある……今でもやるけど。
おそらく、多面的な情報から自己の基盤を得ることができた私は幸運だったのだろうな……。
239 :
考える名無しさん:05/02/01 03:08:06
アホクサ
240 :
鳥肉:05/02/04 16:54:43
私の基盤を作ったのは、無数の焼き鳥だ。
子供の頃、焼き鳥屋の品書きを端から全部味見していった記憶がある……今でもやるけど。
おそらく、多面的な焼き鳥から自己の基盤を得ることができた私は幸運だったのだろうな……。
シメジ
242 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/04 22:51:55
レスは全部読んでませんが明日いろいろ書こうと思います。
今思うこと
ニーチェがもし生きていたらこう聞きたい
大地に背き、大地を汚し、泡沫の天を目指すものを
なぜ大地はつくったのか?
243 :
考える名無しさん:05/02/04 23:34:39
ニーチェがもし答えてくれてたら、なんなんだ?
どうにもできないお前の人生の言い訳が一つ増えるだけだろ。
244 :
大地:05/02/05 00:46:42
先のことなんて当然わからない。
作ったというか、出来たの。出来ちゃった婚。
>242
実存は本質に先立つ
1970年代前半の西城秀樹のヒット曲(例:「ちぎれた愛」)は10年後の
1980年代にはギャグになった。
また1960年代のヒット曲(例:「ブルーライトヨコハマ」)をいま聴くと、
見えない膜に隔てられた異次元世界の音楽を聴いてるようだ。
これなんかも軽度の離人症のような気がする。
>>228 >このように理性で行動を制御すると感情は必要なくなる。
>そこにはただ機械的な情報の入力と行動(や言動)の出力があるだけだ。
これは、うつ病一般についても言えるかも(今日も集団自殺で9人死んだ)
248 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/05 20:18:44
>>233 きっとその大きな理不尽への怒りを表現することが
自分の存在を脅かす危機に繋がることを察知したんでしょうね。
だから感情を自分から切り離して合理的に対処したのでしょう。
離人というものは、誰でも日常生活で頻繁に起こっているものだと私は思います。
例えば目上の人に怒られている時などは、自分のプライドや何かが
傷つけられるのが嫌で、まるで他人事のように聞き流しては
あとになって溜まったフラストレーションを何らかの形で解消する、みたいな
流れが、普通の人にはあると思います。
恒常的な離人症の場合(仮に私がそうだとすると)、それはいつまでたっても
「他人事」のままなんです。フラストレーションもストレスも溜まることもなく、
ただただその場を逃げて過ごすのです。
そしてやはり、それを見ている本当の自分がいるわけで。それが苦痛と言えば
きっと苦痛なのでしょう。
>>235 そうですね、私には主観性が無いのではなくて、どこかに押し込められているような
力の存在を感じます。小さい頃からその判定者の位置というものを分かっていて
そこに居る(逃げる)ことに慣れてしまいました。
分析はあなたのとおりです。外面的にしか判断できない人間になってしまったようです。
>>237 そのとおりだと思います。そもそも私が生きてきた今までの全てのことは
厳密に考えるとだいたいが受動的に捉えていたと思います。
この広い世界において、自分のような人間が自我に基づいて
自我によって能動的に活動することに罪悪感を感じていたような気もします
249 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/06 00:08:40
私は今まで、こうなってしまった自分の人生の言い訳を探してきました。
言い訳はいくらでもできるけど、結局今の自分がそれによって変わるわけでもなく
その言葉どおり「実存は本質に先立つということを実感しつつあります。
すべては「ありのままである」ことを、受け入れる努力をする方向に変えて行こうと思い
フォーカシングに到りました。
抜粋ですがフォーカシングについての説明を載せておきます。
フォーカシングとは、体では感じていてもまだ言葉になっていない
不明瞭な感情を理解し、その感情を開いていく鍵であり、内に潜んでいる
個々人の創造性を引き出していく技法である、ということです。
250 :
考える名無しさん:05/02/06 02:08:45
技法?
「フォーカシング」という言葉になってるじゃん
肝心なことは理屈では分らないんだよ、分るかね?
252 :
考える名無しさん:05/02/06 05:03:59
体で感じていれば言葉にする必要ない
253 :
考える名無しさん:05/02/06 05:10:17
感じは、その後置き換えられたどんな言葉より真実。
言語化は元たる感じを歪めだけ。
だいいち意識は言語で考えたりしない。
言葉に対して体というのを持ち出しても、しょせんそれは
言語化された体だっていうこと。そんなんで病が治るなら
そんなものはそもそも病気ではない。
別に人の認識が言語を通してしかなしえないなんて言うつもりは
ないけど。
>>249 ごく簡単に言って「限界まで言語化していく作業」と考えていいのかな。>フォーカシング
まあ
>>251-254みたいな意見はまともには受け取る必要はない。
ある意味間違っていないし、ある意味間違っている。
>251が対象aのことを指しているとは思えないし。
きっと愚かしい人間などが名指すことの出来ないはずの「肝心なこと」を
全然昔で、環境も違うし、言語も何もかも違う、そういう人が
「肝心なこと」をとうに言語化してしまっていたら。
それは、肝心なことが不可知であることよりも、よほどショックでしょう。
そんなことよりも気になるのは、フォーカシングの説明の後半、
>その感情を開いていく鍵であり、内に潜んでいる
>個々人の創造性を引き出していく技法である、ということです。
これが気になる。
フォーカシングとやらをすることで、自分をよい方向へ向かわせることができるような書きかただ。
別の言い方をすれば、自分をよりよくするためにフォーカシングをやっている。
それよりは「ただただ分析する」ことの方がいい。
ただただ分析することが、遠まわしに自分のためにする作業だという突っ込みは理解するが、
「とりあえず」自分に対してほとんどまったく損得を考えずにただただ分析をする、
それをやった方がいい。
対象aって何?
もしかしてラカン厨?
>>256 ラカンという精神分析家が言い出した「言葉にならないけど、なんか惹かれる感じ」のもと。
彼の理論によると対象aは精神の発達過程で必然的に構成され、人は外部の対象にそれを感じとる。
例えば誰かを好きになった時、あるいは嫌いになった時に、その人に対象aの存在を感じている場合がある。
精神分析家はこれを操って、患者に「良く分からんが、この医者は頼りになる感じがする。」とか思わせて
治療したりする。
ラカン理論には対象aの他に「大文字の他者」だの「サントーム」だの怪しげな学術語が
乱舞しているので、それっぽいことを言ってみたい厨房に人気がある。
しかし現実の精神分析は職人芸なので、いくら本を読んでも使えるようにはならない。
259 :
考える名無しさん:05/02/06 21:28:41
クダラネ
フランスの精神科医ピエール・ジャネは解離性同一性障害(多重人格)を、
意識の高級機能と低級機能の統合が失われた状態として説明している。
意識の統合には精神的緊張力が必要だが、
その力が弱まることで低級機能(人格)が前景化するのだという。
しかしこれはジキル-ハイド型の二重人格をモデルとした理論で、
時に現れる別人格が野獣的な場合にはあてはまるが、
1970年以降のトラウマ逃避型の別人格にはあてはまらない。
それはむしろ緊張力を高めて積極的に人格を分離するものだから。
261 :
考える名無しさん:05/02/07 01:30:56
アホクサ、 ケッキョク ナンモ イッテナイ
>>261 それでは俺の多重人格論も書いておこう。
■多重人格症はテレビが生んだ病気である。
第一に、その病気自体1970年代以前にはほとんど存在しなかった。
幼児への性的虐待は大昔からあったと思われるので、そのトラウマから逃れるために
別人格を創造するという説明だけなら70年代以降の急増を説明できない。
それでは何故多重人格者は別人格を創造するかというと、あまりにも客観化した
意識の状態が苦痛なのでいっそ別人格として切り離したほうがラクになれるからだ。
理性的な人間ほど離人感覚を持ちやすいと言われるが、それは同時に生きる喜びとか
人間的感情の喪失という代償を伴う。ところが夢の中では童心に帰って
楽しく過ごせるように、客観的意識を分離してしまえば人間的感情は復活する。
しかしその分離人格がまた客観的意識を持ってしまうとそれも分離しなければ
ならなくなる。このメカニズムにより多重人格者は20以上もの人格を生成してしまう。
しかし幼少人格なら理性が未発達で客観的意識がないのでそこで生成は終わる。
これが多重人格者が幼少人格を含む理由だ。
263 :
考える名無しさん:05/02/07 02:30:15
デ、イイタイ コトハ ナニ?
人間の進歩には限界があるということ。
理性を進化させようとすると人間としては退化する。
哲学には二種類ある。それは無限の精神的自由を目指す哲学と、
有限の世界の中でどこまで自由になれるかを目指す哲学だ。
前者は意味のないスコラ神学に堕すか有害なカルトに
なるかしかないが、後者は人生をより豊かにする。
そして離人症やうつ病が増えているのも無限の自由を目指すという
精神的態度に由来しているのではないか。さらにテレビという
メディアの性質もその傾向に一役買っている。
ま、そういう意識の転換を訴えているわけだ。
(自分自身への反省もこめて)
265 :
考える名無しさん:05/02/07 03:52:37
>>264 ソンナ セッキョクテキナ モノトハ オモエナイw
266 :
うあああ:05/02/07 07:36:40
理性はヒトを合理的で自動的な存在に変えていく。それは事実だろう。
しかし、それを退化と呼ぶ権利など旧世代のヒトには無いのだよ。
そもそも進化とは本来「適応するための変化」のことであり、「退化」などという
概念は生物学に浅い人間が自分勝手に定義したものに過ぎない。
究極的には、生物に退化など存在しないのさ。機能が減じることで生じる進化もあるのだから。
「彼らにとっての最善」を君の視点からとやかく言うのは、それはエゴだよ。
>第一に、その病気自体1970年代以前にはほとんど存在しなかった。
ずっと昔から狐憑きや悪魔憑きという形であったがな。
精神の病として多重人格の概念が普及したのが最近と言うだけ。
解離つながりではあるけれど、解離性同一性障害(多重人格)の話はこのスレにはあまり関係ないよね。
ちなみに狐憑き悪魔憑きなどは多重人格よりは統合失調症と考える方が妥当である場合が多いのでは。
多重人格は以前からあったにせよ、DSMなどに記載されメディアが取り上げるようになってから、
症例数が俄然増え始めたというのは事実。
ただ、メディアの精神疾患に関する影響は多重人格に限った話ではなく、
統合失調症などにも影響がある。
よほど重篤な疾患でないと、なかなか疾患以前に作られた世界や自分の枠組みを
超えないものらしく、情報過多な現代においては統合失調症から重篤な症例が少なくなっている。
枠組みを与える情報が、ある程度異常狂うのを抑制しているらしい。
で、枠組みというものは離人症などにも応用して使うことはできると思う。
フレーミング(自己の枠組み作り、枠組み設定)のまずさと病的な解離の生成には、
関係があると考えているので。
269 :
考える名無しさん:05/02/07 14:28:56
ドーユー カンケイガ アルンダ?
外界に装置を用意して、或る対象だけを、内界と外界の境界を強制的に無くしたら、
それは人間ではないものにしている事になる。何も裁く罪がないというより、
大抵の罪科が付くような。
>>266 >理性はヒトを合理的で自動的な存在に変えていく。それは事実だろう。
>しかし、それを退化と呼ぶ権利など旧世代のヒトには無いのだよ。
「進化する」という言葉を「より生存能力の高い状態への変化」と定義する。
さて、ある民族は絶対平和主義こそ人類の究極進化の道だと信じ、
あらゆる武器を放棄した。ところがとなりの民族はそんなことは全く考えず、
隙あらば攻め込んで奴隷化して酷使するのが最善の道だと信じ、
この平和民族を征服し奴隷化した。
この平和民族は生存能力という意味では退化している。
おれはイラク戦争はアメリカのエゴだと思うが、千人以上死んでもなお
「テロ」と戦いぬく覚悟のアメリカはある意味尊敬している。
今の平和ボケの日本には絶対できないことだからだ。
あるいは離人症という病気(とニートやひきこもり)も、
現実から逃げ続ける日本という国の態度が原因かも。
273 :
考える名無しさん:05/02/07 22:48:51
関係ないだろ、そうなら離人症が1億人も出る。
>273
もう出てるんじゃ?
275 :
考える名無しさん:05/02/08 00:59:31
心配すんな、このスレじゃ、おまいだけ
276 :
考える名無しさん:05/02/08 08:39:43
テレビ世代退化論や日本退化論はスレ違い。
テレビの人は前も同じような書き込みしてたし、自分のスレ立てたほうがいいのでは
多重人格と離人の共通点は、物事との関わり方において
極端に人間的な作用が重視されている点にある。
人格、ペルソナはそれぞれの物事への対応の仕方や関わり方の固定化された表れなわけ。
関わりという相互作用で形成されるんであって自分で自分の人格をもっているわけではない。
だからこそ誰だって環境によって物事や他者への対応の仕方、人格が違うということがあり得る。
多重人格では人間が人格を司ると信じられているので、
容易に状況や環境によって人格が生成、分離されてしてしまう。
しかも人格が自分自身だと考えられているためそれぞれのあり方を統合できない。
279 :
考える名無しさん:05/02/09 09:42:19
え〜と、
疾病と比較して論じられると嫌だわな。
疾病はこうであると聞かされたら、耳について、それ以外という事に注目して
しまうからだ。
恒常的な客観視点ってどんな感じなんだろーなー。
私は一種の遊びとして、意識的にある行動だけに完全に集中し、身体の痛みやら
痒みやらの全てを無視して行動の結果だけを求めてみたりすることがあるが、
そういう感覚なのかなー。
数年前の朝、寝呆けてイラついていたときにそれをやってしまって、壁に踵が
めりこんだことがある(笑
説明しづらいんだが、「蹴る」ことが目的化してしまって、身体は道具・手段に過ぎなくなる感じ。
手足が、まるで棒か何かに思える(というか、私の場合には意識的にそう思いこませている)感じだ。
これが日常化して、「空気を読む」ことが目的化してしまったのが離人症の
>>1さんなのかなー。
関係無いかもしれないけど、私は休みのときは一人で過ごすことが多いよ。
社会から離れてぼーっとしてみたり、書籍に思考を振り向けたりするのも、いいかもしれないなー。
282 :
考える名無しさん:05/02/10 03:25:23
思うに、恒常的な客観視点てのは実在しないけど
仮設なら可能って感じ。
そうやって一時期過ごしてみたことはあるw
283 :
考える名無しさん:05/02/10 08:11:30
離人最高だよな
まじ半端ネー
284 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/11 21:41:23
私が感じたのは、自分の内にある「感覚を遮る壁」です。
これはこの哲学板に来て、言葉として認識したことによって
私にとってはかなりの現状把握と救いになりました。
そのかわり離人の症状は、前よりも進行してきたような気もしますが。
>>255 >自分をよい方向へ向かわせる
>自分をよりよくするために
>それよりは「ただただ分析する」ことの方がいい
そうですね、今の自分は外から与えられた「自分以外のもの」も
自分の一部だと思い込んでいるところがあって、それをきちんと区別することで
ようやく「自分」が始まるのだと思っています。
今の自分の状態が悪くて、フォーカシングによってこれから良くしていくという意識じゃなくて
とにかく自己の探究のための手段の一つとして考えることにします。
実際まだ何もフォーカシングらしいことは実行していません。
>>258 クオリアが自分の内にある、一定の感覚を感じる元(日本語が変ですが)であるのに対して
対象Aは、自分の外にある、感覚を感じさせる元、とでもいうものでしょうかね?
>>260 私は、自分が多重人格者だという分析結果には到りません。
トラウマ逃避型の話については、もしかすると私は
自分の外の世界全てに対してトラウマを抱いている
という状態だ、と説明するのがもっとも近いかもしれません。
別人格を形成して過ごしているというより、「無人格」な感じです。
今まで得てきた様々な人間の行動パターンをコピーして、
それを無人格のまま「操作」して日常生活を送っているような感覚です。
285 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/11 21:56:01
人間の理性の発展と、生物としての進化・退化についての話は
もともと知識も浅い私には正直よく分かりません。
この短期間でニーチェから得てきたことに基づくと
そういうことはなるようになっていって
それらはすべて大地の意志のようなものなのかな?
>>281 例えば私の場合、一日離人状態で、仕事から家に帰ってきて
部屋で一人になったときも、特にホッとしたり気持ちの切り替えが起こったりしないんですよ。
演じているわけでもないと思うし、例え演じる必要のある状態から解放されたとしても
何ら変わることが無い。命有る限り、この「自分じゃない何か」が生きている感覚が
永遠に続くのではないかと思われるような、そういう症状です。
286 :
考える名無しさん:05/02/11 22:02:29
離人ってそもそも辛いの?
287 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/11 22:35:58
>>286 そもそも辛いことを避けるために離人状態になっているはずなんですが
離人状態で居ることが、普通の人が日常生活で感じる心身のストレスよりも
比較的大きな、不自然な負担を、心と体にかけているのが分かります。
このままだと、本当に辛いと思う前に死を迎えるかもしれません。
このあたり、自爆テロで殉死する原理主義者の心情と似ているような気がします
>>286 むちゃくちゃ辛いんだよ。ナンチャッテ離人症以外の真性離人症の自殺率はうつ病より高いのではないか。
逆にそこから遊離して机上の議論をすることには大変に疑問がある。でもまあ自由にやってくれ。2chだもんな。
つまり、自分の身体が過去の統計情報(かつて見た誰かの行動)に基づいて
自動的に動いている(動かされている)ように思える、ということ?
あー、それ感じたことあるよー。
パソコンやケータイのキーを叩いてるとね、手が勝手に動いてるように思えてくるんよ。
頭に浮かんだイメージを入力するためだけに独立したCPUを持って存在するデバイス?
または、自動的に動く義手?そんな感じになることがある。
そういうとき、ありえないことなんだけど、指のほうが思考していて、
私は見ているだけの、作業に介在しない傍観者のような立場になっているように思える。
私の場合は、そういうときには自動的な自己が極めて優勢になって、傍観者のほうは
うっすらとしか感じられないから、別に困らないけどね。
ただ、この状態は中断できるけど、なかなか中断し難い状況でもある。
要するに「作業中」モードなわけだから、合理的な理由の無い中断は苦痛でしかないんだな。
人格交替?というほどではないが、役割交替をすることは確かなわけだし。
離人状態が恒常化してしまうのは、そういう理由なのかもしれないね。
緊急モードが平常モードにずっと制御権を返してくれない状態なのかも。
私の経験によると、獲得された役割分担は後天的であればあるほど、
自己からの乖離が酷くなるようだ。
私が文章を思考と同時にタイプできるようになったのはそれなりに最近のことだから、
まだ入力中の乖離感が僅かに残っているわけだが、時間が問題を解決するだろう。
291 :
考える名無しさん:05/02/11 23:31:13
おれの脳は瞬時に結論に達する。
ところがそれを文字にして並べようとすると
ときには1時間から3.4日かかることまである…?
やはり離人症の人は理性的であろうとする意識が強いんじゃなかろうか。
しかしその理性的であろうとする態度が実は理性的ではないということが
わかれば客観化の呪縛は弱まるだろう。
理性的であろうとすることは、物質の存在を否定することだ。
あらゆる現象の因果関係を理解すれば未来は完全に予見できる。
まあ確かに社会の根本原理を解明する過程においては人間を
機械として扱ったり統計的に処理することも必要なのだが、
そういう態度を続けているうちに本当に他者が実在していると
いうことがわからなくなる。そして自分の感情も脳という物質が
作り出しているものである以上、
物質を否定すると感情がなくなるのは当然なのだ。
さてこれは1980年代に顕在化したことだが世界がパロディ化した。
つまり何を見たり聞いたりしても以前にも経験したことのある
二番煎じとしか思えないという感覚だ。
しかしこれも客観的であろうとする意識が強すぎるのが原因だろう。
例えばかつて多くの人が共産主義にハマり、理想社会の到来を信じた。
しかし今はだれもが共産主義社会というものが未来に実現するものではなく、
人間の脳が捏造した未来のイメージにすぎないことを知っている。
これはSF小説や映画、音楽についても言える。
かつて芸術はふだんは感じられない現実世界の真の素晴らしさを発見させて
くれるものだと思われていた。それで芸術に素直に感動できた。
しかし今は芸術が与える感動は現実とは無関係に芸術自体が捏造するものだ
とみんな知っているから素直に感動できなくなった。
「この感動は捏造である捏造である」と毎回念じていると、
だんだん感動の感覚自体がなくなってしまうのだ。これは悲劇だ。
しかし本当に芸術の感動は捏造なのだろうか。
それは物質の存在を否定するのと同じ間違いではないのか。
間違いなのかもしれん。しかし俺はまだ理性を放棄できない。
294 :
考える名無しさん:05/02/12 15:18:28
草を刈ろうと刈り機を使ってるうち
刈り機のパワーに気をとられ、
草刈りが終わった後も刈り機
振り回してたみたいな…。
手段が目的に昇格しちまったわけだがw
それって理性的といえるのか?
>>293 話を聞く限り、そういう軽度の症状じゃないと思うが。
>>294 古典的な、「感情←対立→理性」という構図にあてはめると、
感情側が欠落している。よって、理性的な行動だけが残る。
いわゆる手段・目的というのは経緯であって、状態を評価する
際には考慮すべきじゃない。間違いなく、離人症の人は極めて
理性的な状態にある。
例えば以前レスされていた「ポーカーで馬鹿勝ちする」なんてケース。
・自分は、どんなカードを引いても無感動。
・他人がカードを引いた時、そのリアクションを客観的に分析。
それはプロのプレイヤーが目指す最も理性的な行動だ。
296 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/12 19:06:08
>>289 >「作業中」モードなわけだから、合理的な理由の無い中断は苦痛でしかない
そのとおりです。そしてその苦痛をも和らげるために
計算できない非合理を被った場合はその対象にむかって
自分でむちゃくちゃに計算した非合理を発生させてプラマイゼロにするのです。
>緊急モードが平常モードにずっと制御権を返してくれない
思い返してみれば、平常モードである時が
今までの人生であったかどうかも疑問です
不必要な緊急モードの恒常化が離人症に向かわせるのでしょう
>>292 >理性的であろうとする態度が実は理性的ではない
確かにそうです、どうしてそんなことが私には分からなくなっているんだろうか
心に原理主義の刻印が焼きついているようです
フォーカシング(focusing 焦点付け)について付け加えると、どうやら
体が感じたもの(これを「フェルトセンス」と呼びますが)を「分析」してはいけないらしい
それをしてしまうと、結局離人状態でそれに取り掛かることになってしまう恐れがあるからでしょう。
感じたまま顕在化しなくてはいけないらしいです
297 :
千尋 :05/02/12 20:03:58
>>296 ムートン、おまえのレスだけチラッと斜め読みしてみた。
ホントにチラッとだw
思い当たる事があったので書いてみる。
俺は2度壊れたことがある。1度目は小5のとき、
一番の遊び友達と遊びに夢中になり、遅刻して教室に入った。
するといきなり担任が俺に聴いた、「おまえとKは親友か?」と。
「はい」と答えると、「じゃ、Kを殴れ、親友なら殴れるだろ」と来た。
俺はクラス委員だったので担任がなにか厳しいバツの与え方をしよう
としてるのかなと一瞬思ったが、正確な意図は理解できず、身動き
できないでいた。続いて「殴れないのか?」「K、おまえは殴れるか?」。
Kは「いいえ」。
すると担任は「おまえ達は親友じゃない」と真顔ではき捨てた。
その瞬間、俺は壊れた。
体は凍りつき、秩序立って安定していた精神は破壊された。
盲信していた教師、大人、学校などへの信頼は根底から吹っ飛んだ。
そしてその日以来、俺は自分と自分を取り囲む社会に対し疑心暗鬼
となり、自分と「自分以外の他」の間に壁を設けて遮断を始めたように思う。
その後、Kとはあい変らず仲良かったが、中学にあがりクラスが別に
なって疎遠となった。
ムートン、なにかおまえの書いた事と関係あるんだろうか?
298 :
考える名無しさん:05/02/13 12:09:06
そういうことは、ありえると思う。瞬時ですべてが破壊されるような経験は。
しかし、ひどい教師もいるもんだね。
299 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/13 19:28:54
>>297 その教師の意図するところは、何だったんでしょうかね?
本来自分たちのためである秩序やルールを守らずに
そこから外れたところで遊ぶという行為そのものが
お互いを堕落させることになる、といった感じでしょうか
それにしても子供相手にそれはきつすぎますね。
あなたは秩序やルールといったものを、人一倍理解していたんだと思います。
私も小学校の時あなたと似たような経験があって、あるときから先生というものに対して
どうしても敬意を持てなくなってしまいました。だからこそ言わせて貰いますが、
「おまえ達は親友じゃない」と言われた瞬間に壊れたのは、
きっとそれまでも、目上の人に対する敬意や、秩序やルールを守るということを
完全には受け入れていなくて、自分なりに論理的に矛盾点を見つけていて、
反抗心があったのではないでしょうか?
お互いが「友達だ」と思っているのに第三者が「それは違う」と言える権利など
どこにあるんだ!と、あなたはきっと憤慨したと思います。もしくは
怒りを通り越して壊れたのかも知れません
まさにそこで、その教師とあなたとが根底に持っているものの違いが
大衝突したんでしょうね。いや、衝突したかどうかは分かりませんが
とにかくあなたはその「違い」がとても大きいことをその時理解したんだと思います。
世の中にはその教師の理論のほうが正しい、という人間のほうが
おそらく多い。というか、ルールは守るべきものだという「常識」が正しいと
信じている人は大勢居ます。そしてあなたはそのことを分かっている。
だけど敢えて、それと同じ論理を持つ人間大多数を敵にまわして
精一杯自己表現し、一人で戦っているんじゃないでしょうか。
その自己表現が、
>>138で書いた、私の「戦わないタイプの原理主義者」の
姿勢に似ていないこともないかもしれませんが、正直私にも良く分かりません。
簡単に言うと、その親友への用事の大部分が他の事を原因としているならば、
つまり、他の事に付属する関係であるからば、更に言い換えるなら、他の法則
に妥当する相互の関係であるならば、原因がその関係を消失させるということだ。
そんな法則は拒否するであろうし、なるべく混じらないように使うのは当然だろう。
それ無しは関係が成り立たないなら、その関係に由来した人という事でしょう。
それだけの関係でなく、他の関係をもつなら別の話だよ。親友なら余計な法則に
妥当させて関係を作る事はできないということだ。社会に出た友人というものは
無くなるとはこの事を言っている。親友は何か他のルールに含まれて人なのだろう。
それを抜かしても同一の考えを具えて行動できる人ではない、
どこまでいってもその人はその法則に含まれる人なのだ、と考えたら
そのような人として付き合うようになるのは当然だろう。
そうでないなら、自分はその法則を使うが、相手はその法則に含まれては
いけないという意識が働いている。そのルールと異なるは指摘できるだろう。
友人か否かはそいつの中でそう思ってる程度の事だろう。
その中の法則において友人なわけだ。友人においてその法則があるのとでは違うよという事だ。
友人と考える人にはそのような法則を介入させないようにするか、それだと個人の付き合いはな
いでしょう。集団の中のどれかを親友と考える人は親友が沢山できるでしょう。
だが、親友は単一ではないかと思われる。沢山の中からこれは親友であると区別するものは、
結合が強いという事は言えるだろうが、それだけ特別という扱いをできないのではないかと疑問
に感じている。
原因が無くなったら、付き合いが終わる人だとう事だ。
それ以外で何か付き合う理由はあるかとい事だ。
大雑把に言うと、性格が似ている、同じ事情を持ってる、行動範囲が似てる、
近所である、考え方が近い。これらが仲がよくなる理由と考えられるだろう。
だが、それらが何かの法則に含まれるものであるなら、その法則が消えると
維持できない関係であるということだ。そのような法則を妥当させるなら、
その法則がなくなると、他の関係を失くしてしまうという事だ。そのような
法則は友人とは分かち合わないほうがいいのではないかという事だ。
304 :
千尋 :05/02/13 21:00:54
教師の意図はべつに聞かなかったし、今もわからない。
そいつの言ったセリフはレスした三言だけw
たぶん、四六時中べったりな子供同士の連帯行動が、
行過ぎると時間厳守という社会規範を踏みはずす点
を強くとがめる意図だったのかも…。あるいは、
戸塚ヨットじゃないけど独自の友情観の持主で、自分で
殴るより互いに殴らせることで、善悪を踏まえた真の友情?
の厳しさを教えるつもりだったかも…。
ひいき目でみてそんなとこ。厳しいけど悪い奴じゃなかったw
裏からみれば、規則を守らないガキどもに普段からヘキエキ
してて、たまたまいい機会とばかり俺らを血祭りにw
自分が殴ると親が乗り込んでくるからガキ同士殴らせればw
ふたりとも聞き分けのいい子だし親には言うまい、でガツン!
その時もいまも俺は、そんなことどっちでもいいのよ。
ただ、最近の言い方だとパラダイム転換てヤツかな?
書きたかったのは視点を変えたら世界が違って見えたってヤツw
俺はフラついた自分を立て直すため、自己防衛のために
それまでしなかったこと、つまりわけもなくアッチから物事を
見はじめたわけ。自分見るのさえアッチから。
アッチって大人の側、社会サイド、自分以外の視点のこと
もうひとり自分ができたって感じw
ていうか俺の主人w
教育でつか、それとも連帯でつか
>>228 >離人というのは世界を過剰に意識することから出る症状だと思う。
「世界を過剰に意識する」っていうか、
もっとわかりやすくいうと意識を意識するようになったということだ。
つまり、元々の意識を「意識1」とすると、言語や記号がその意識1を
作り出しているのを外から観察している「意識2」が誕生してしまった。
そして意識2が支配的になると意識1が担っていた感情は死んでしまう。
古代ギリシャ人は初めて自然というものを意識(対象化)したが、
現代日本人は人類史上初めて人間の意識というものを対象化したのかも
しれない。こんな意識の革命は2500年ぶりではあるまいか。
ひとつムートン氏に訊いておきたいことがある。
離人症も、実際にはある程度症状の幅や種類がある(当たり前だが)。
以下の三つの分類は、精神医学書の直接の引用ではないため、精神医学的に正しい記述
あるいは認められた分類かは心もとないが、しかし自身の経験から照らしても
外れた分類ではないと考えるのでここで使うことにする。
自分と外界の間に一枚膜があるように感じる→「外界の離人」、
自分のからだが自分と感じられない→「身体の離人」、
自分が自分とはまったく別のものになってしまったと感じられる→「自我の離人」
がその三つの分類。
で、訊きたいことというのは、ムートン氏はこれのどれに当てはまるのだろうか?
とはいえ、これらはどれかひとつを体験すれば他のふたつは体験しない、というものでもないし、
またこの三分類にキッチリ分かれるものでもない。
境界線はなく曖昧にいつのまにかこれらの分類の中を往復したりしているのは、
離人症を発症している人間にはよくあることだと、多分思う。
実際自分自身、もはや記憶すら定かではないが、すべて体験したはずだ。
この三分類を提示したのには、離人症的な自我をめぐる「見取り図」をイメージしやすくするためでもある。
>>268で、僕がちらっと書いた「フレーミング(自己の枠組み作り、枠組み設定)」の考え方を適用するのにも
この見取り図は有効に働くと思う。
余談。
乙一の「死にぞこないの青」という作品は
>>297千尋氏の体験にどこか通じるものがあると思う。
【1960年代以前】
対象←→意識
【1980年代以降】
意識2
↓
対象←記号→意識1
310 :
考える名無しさん:05/02/14 17:33:51 ID:qRR1wTIH BE:65990988-
ムートンさん俺も離人神経症患者ですメッセかスカイプをしましょう。
>>306 だから自分でスレ立てしろよ。いつも誰も食いついてないだろ。
313 :
千尋 :05/02/15 01:00:27
10才までの俺は、大人と自分の関係を一種の「取り引き」と
みていたように思う。
大人の言うこときいてれば、よくしてくれるものだと信じてた。
勘違いだった。遊びたい盛りにあれほど教師に服従してみせ
たのに、遅刻ぐらいでこの仕打ち…そのとき一番大事にして
たものを叩き壊された。
いずれ親との間でも、同じことが起きる。そう予感した。
といっても俺は子供、できることは少なく、ある日思いつきを
実行してみようと考えついた。
それは事件後おぼえた「アッチから自分を眺めること」がヒント
になったんだが、こう考えたわけ、
「俺は、この人間にとりついた宇宙人 !! 」
これまで俺が自分だと思ってきたこの地球人は「脳の形をした
宇宙人の俺」のいうとおりに動く地球の生き物、他の生物、
俺はたまたまそいつにとりついただけw
「だったら操縦すりゃいいじゃん♪」
大人どもに操縦されるぐらいなら…、ハエのように叩きつぶさ
れる存在なら、いっそ自分で操縦してぶっ壊れたほうがマシ。
途端に気が楽になり、俺は親や教師の「子分」の身分から
一気に大人どもを見おろす宇宙人の地位と自分という子分
を持つ地位に昇格したわけw 笑えるだろ?
314 :
考える名無しさん:05/02/15 03:53:14
先生、俺も離人神経症をわずらってみたいです。
そんでもって自称することで、周りからの注目をあびてみたいです。
どうすればいいのですか?
315 :
考える名無しさん:05/02/15 04:12:56
>>312 「いつも誰も食いついてない」ということはない。
このスレの始めのほうの俺の意見はけっこう受けた。
大体あなたは文句ばかり言うが、
どれほど離人症について考えたことがあるのか。
ここは哲学板なので離人症の本質をいろんな角度から
究明するのはスレちがいではなかろう。
>>316 >>306によると君の理論は、哲学史が吹き飛ぶ2500年ぶりの大発見なんだろ。
ポストモダンが乗り越えようと難産した近代哲学を、あっさりと通り越してしまったなんて
そんな偉大な発見は、スレ立てして多くの人に見てもらう倫理的義務があるのさ。
どんな形であれ図式的に考えることは、自己や自分が関わる物事を俯瞰してしまうことになる。
その俯瞰視点こそが離人症の視点に他ならないということ。
そういうわけでなるべく自分の状態を形式化するのはやめた方がいい。
詩でも小説でも音楽でも現実の自然でも何でもいいから、自分が観察したり分析するんじゃなく
その存在の方から訴えかけられるようなもので、しかも自分に無理なく受け入れられるものを見つけるといいよ。
それがニーチェなら一番いいと思うけど、ほかにも色々探してみたらどうかな。
319 :
考える名無しさん:05/02/16 14:32:29
>>316-317 まあせめて、
解離症状は人間の基本的な精神の機能のひとつであるが、
それがこのような様相を呈し、
また顕在化、全面化したことは、
過去に例を見ないのではないか
とかその程度の記述にとどめられるべきだな。
個人的には、昔の人が離人症になったかならなかったかなんて
知るよしもないから、そーいうことは言えないと思うが。
320 :
考える名無しさん:05/02/18 15:53:35
321 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/20 13:17:13
>>304 あなたが「自分以外の視点」を築いてきた過程は
離人症になる条件を大いに含んでいると思いますが
何故その離人状態が一時的なものでなく、その「事件」以降
恒常化したかというと、それほどあなたの中の強い理性が合理的に計算し、
「そのようにしろ」と答えを導き出したからだと思います。
>>306 人間は心と体でできていて、心が体を司るものだと思いますが、
離人というのはその中の心を二分化して、
変な表現ですが心の「体」と心の「心」という風に、あなたの言い方を借りると
意識1の心に対して意識2の心がインプットやアウトプットする感情を
コントロールしている状態と言えるでしょう。しかしそこで気をつけたいのは
操られている心は決して死んだわけではないということで、私の場合は
成長(内・外部からの感情の接触)がピタリと止まってしまった状態にあるように思います。
そしてこのまま恒常的な離人状態が続いていくと、世の中の人間の進歩から
自分自身の心が取り残されていって、生きるのが難しくなってくることが懸念されます。
322 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/20 13:44:10
>>307 あなたは熱心な研究家ですね。私もこのような症状を患ってしまった以上、
とことん自分を材料に研究してしまおうか、とも思います。
「外界の離人」と「身体の離人」に関しては
この膜というのは、自分で膜を作っている、
もしくは外界の常識的なルールに従って、非常識な自分に対して
外界から膜を作られている(作らせるように仕向けている)、の
どちらも存在していると思います。
外界┃自分(自分の内訳→身体+意識1┃意識2)
┃この記号を膜だとして図にするとこのような感じで、
今の状態は意識2が主に外界すべてと身体の大部分を
直接意識するようになっています。
意識1と身体は切り離せないものですが、意識2は身体を通して
意識1が感じることを、身体から外界に直接アウトプットさせないように
働きかける習性があります
「自我の離人」に関しては、
前の自分と今の自分の明確な「違い」がはっきりと分からないので答えに詰まります。
前に言った「自我と理想の癒着」が幼い頃に既に起こっていたのなら
離人になったのは、自己の成長につれて、理想とは程遠い外界への
認識が高まったことによる「諦め」が原因かも知れません。
323 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/20 14:03:07
>>313 こととう氏にしてもあなたにしても、離人を患う人の経験談というのは
非常に共感が持てます。やはり珍しい症状ではないのだ、ということが
今は私の救いの一つともなっています。
一つ気になるんですが、以前の話をされたときに「2度壊れたことがある」と
いうことでしたが、2度目はどういったものだったんでしょうか?
個人的に少し気になるだけなので、言いたくなければスルーして下さい。
私の場合は、幼い頃から積もりに積もっていった不条理の存在が
大学の時に爆発した(外界にではなく、自分の中で)一回が大きなきっかけの一つだと
思っていて、それ以降、徐々に無意識に「膜」を形成していって
最近ようやくそのことを「離人」と呼ぶのだと言うことに気付いた次第です。
324 :
ムートン ◆Sheep2h65. :05/02/20 14:52:24
>>314 「注目をあびてみたい」ということは、注目されたい、注目させたい
という願望=目的が存在することになります。
あなたはそういう自我をちゃんと持っていて、その自我を満たそうとする意欲があり、
そういう自分を愛しているんです。
しかし離人を患えばもはやそれまで。本末転倒で、その気持ちを失うことになります
離人症患者は、素直な自我を持つあなたが羨ましいはずです。
>>318 一時的な離人状態では、俯瞰視点というものを「技術」として
ちゃんと「意識1」が使っている。
慢性的な離人症では、外界に対してあたかも主観的人物であるように見せかけるために、
意識2によって作られた、意識1の主観に似た「擬似主観視点」を
「意識2」が技術として使っている。
治すために必要なことは、あとは「どうやって」自分の状態を形式化することを
やめさせるか、ということですね。
とりあえず今は読書と音楽と、ほんの少しの軽い運動を強引にしています。
こういう似非は殴り頃したいサイコパスですが、どうすればいいですか?
似非メンヘラを貶めることに使命感を感じてしまってどうしようもないんです。
やっと仕事が一段落して・・・・・・モノ書きができる。
さて、随分このスレも飽きられてきたね。
で、
>>322の当方へのレスの中で、まあ色々疑問点と言うか指摘できるところはあるが重要なところを。
> 離人になったのは、自己の成長につれて、が高まったことによる「諦め」が原因かも知れません。
これは「誤認」だと思う。
むしろ逆に「諦め」ができていないからこその苦痛であるはずだ。
ここら辺は哲学や思想をちゃんと勉強したここの板の人たちには、余りにも素朴で、
ぼくがたどたどしい説明をするのもいささか恥ずかしいことではあるのだけど。
「理想とは程遠い外界への認識」というものを支えているのは、
諦めの逆であるところの「期待」の産物である。
と、上まで書いて放置したところなにを書こうと思ったのかの記憶も、
書くモチベーションも失われてしまったので書き投げで放置しますw
たぶん、諦めの逆であるところの期待、についてウダウダと説明したかったのだろう。
ところで、このスレで行われているようなやりとりが、なぜメンヘル板ではなされにくいかについて、
チラッと書いておこう。
精神医療においては、治療は支持的療法が基本になる。
支持的療法についてはめんどいのでぐぐるか当方が今さっきぐぐってみた
ttp://www.sikai-web.com/kokoronobyouki-chiryounou-shizitekiseishinryouhou.html でも参考にしてください。
このスレで行われていることが治療だというつもりはありませんが、話しがめんどくなるので
治療だということにしておいてw、んでここのこれは支持的療法ではありません、と書いておきます。
身体疾患に対する治療の比喩で言うと分かりやすいので書きますが、
支持的療法は内科的治療です。このスレでやっているようなのは外科的治療です。
おおざっぱな比喩ですけれどね。
一般(日本人の)には、自分の内面に、切って入り込み病巣を切除して、捨てる、というような「治療」は
非倫理的に映るようです。人格(の部分でも)を否定するな、と。
いや、実際、支持的療法以外はなかなか医療行為としては出来ないですけれどね。
されても困りますし。
>一般(日本人の)には、自分の内面に、切って入り込み病巣を切除して、捨てる、というような「治療」は
>非倫理的に映るようです。人格(の部分でも)を否定するな、と。
そうかもしれないね。
私は自分の人格を(自己暗示で変化してしまうほど脆弱な)道具としてしか見ていないが、
一般的には「大切なもの」として映るんだろう。
「その考え方は非合理的だ。こちらの考え方のほうが合理的だよ」
というのは、私にとっては疑いようもなく良い提案そのものだが、実際にそういう提案を
した体験からすると、拒絶する人が圧倒的に多かった。
たぶん、変わったことが無いから、変わるのが怖いんだろう。
>>327 そうでした。離人になった原因が諦めではなくて、むしろ諦められないからこそ
離人になり、それが諦めとは逆の「固執」だったんですね。
そして離人になっても結局、現実が自分の外で、理想が自分の内で、
それぞれ逆の方向に一人歩きしている様子をまざまざと見せつけられているようで
それが肉体的、精神的に、不健康で苦痛なんですね。
関係ないかもしれませんが、実際ここ数年間で肌のつやや髪のこし、
目の輝きなんかもかなり衰えた気がします。
そのサイトにある支持的精神療法というものは、フォーカシングが心理療法として
応用される際に使われることがあるようです。
これまでで私の症状や現状はだいたい語り尽くしたつもりですから
今後は新たな発見や再認識があれば随時書き足します。今はもう
少ない時間を使って本を読むことに専念します。
ユージン・T・ジェンドリン著「フォーカシング」によると、フォーカシングは
心理療法のリサーチにおいて発見されると共に、その思想自体は
哲学からも由来しているとのことですがユングの「創造する無意識」や
「自我と無意識」の作中でもフォーカシングの手引きのように書かれている
内容があるそうなので、これから触れてみようと思います。
このスレを読んで哲板住人?が好きになりました。
助言は出来ないので、ムートン氏が好きor嫌いと感じることが出来る時が来ることを祈っています。
>>329 プラグマティックでさえあればいい、というのであればユングを使おうが、
トランスパーソナル心理学で行こうがまったくかまわないと思うが、
もしそうでないならば、認知療法や論理療法をやってさらに精神分析(フロイト〜ラカン)に
行くといいと思う。
認知療法、論理療法、認知行動療法あたりはエビデンスの観点からも有効だしね。
(それをいえば、精神分析は有害可能性もあるが、それは置くw)
というか普通に精神医学を知っている人から見れば「なに言ってるんだコイツは?!」
というところなんでしょうが。
しかし、認知療法は「動機」まで問題を遡行させたとき(動機それ自体が問題になるとき)、
とたんに効力がなくなるからね。そこまで遡ったときこそ精神分析の出番になる。
まさか、精神分析によって生きる意味を見つけるとか、そんな馬鹿なことは言いはしないが、
認知療法が無効な領域で、それが「治療的に」働く保証はしないんだけどw、
力を発揮するのは精神分析だね。
という風にトンデモ方向に行って叩かれる当方になる予感。
いやまあ、とりあえず精神分析は置いといて、アルバート・エリスの論理療法、
アーロン・T・ベックの認知療法の考え方を知るのが、精神医学的にも正しいでしょう。
332 :
全自動人間:05/03/07 02:21:01
離人症なんてすぐ治るよ! 何も考えなきゃいいんだよ!
症離人拳法
>>332 あえてそのHNでその言説をとっているのだろうか。
といった好意的な見方をしてみるテスト。
何も考えなければいい、というのはまさにその通りだが、しかしもちろんそうもいかない。
何も考えたくなくても「自分の意思に反して」何かを考えてしまう。
あるいは、ムートン氏ならこう感じるだろうか。
何もかも考えたくないのに、何もかもを考えてしまう。
それは、気分障害などに見られる「自動思考」とかなりの点で重なるだろう。
自動思考の辿る、自然な成り行きのような、しかしながら確実に自分を蝕む思考の流れに
実は途中可能であった分岐の提示を示す。
何も考えないことが出来ないならば、考えることの徹底をする。
「気分」に抗い、自分の思考を徹底的にかく乱し、操作する。
不可分な自らの気分と、常にズレながらの格闘。
勝ちも負けもない(あるいは常に負けつづける)、疲れるだけの作業と延々とやらねばならない。
もうすぐ日本は少子高齢化や財政破綻などのため激変します(5年以内)。
その時はメディアや社会道徳も正常化されるので離人症の問題も解決するでしょう。
自分を苦しめていたのは他でもない、自分が一番守ろうとしていた、自分以外のものだった。
それを自分が存在するために必要な一部(使命感のようなものでもあったのだろうか)
だと考えていた自分(の行動)だった。
となると、やはりナルシストではないのだろうかという考えが持ち上がる。
今の「私」と「ナルシスト」とを照らし合わせてみる。そこで決定的に違うのは
ナルシストが自らの選択でそれを背負い、そうすることによって
悦に入る(何も問題無くなる)のに対して、離人症は自らの意志でなく
(というかもはや原因を探ることは不可能に近い)、それが苦しみや
苦しみの知覚の喪失さえ与えること。
今後必要になってくるのは、頭にではなく、体への問いかけではないか。
自分の一部だと思っていた、一部である必要の無い自分以外のものの見極めなのだ。
それがフォーカシングを行っていく過程で成されるとのこと。
ここへきてようやく、自分以外のものを除いた自分のカタチが現れることに
期待と不安が入り混じった気持ちになっています。
フォーカシングの段階を踏んだ手順もしっかりと本に書いてあるし、やろうと思えば
今このキーを押す手を休めて、椅子に座ったまま体に問いかけるだけでもいいのですが
離人症最大の難関が立ちはだかる(少なくとも私の場合の症状において)
それは「本当の自分のために、自分は何かをしようとしない」ということ。
ここまで読んでこられてこの結論を見られると、馬鹿にしてるのかと思われそうですが
この、エンジンをかけていないのにそのことを無視して
いつか走りだすだろうとアクセルを踏みつづけているような
私の厄介な症状がそれを滞らせてしまうんです。
>>335 自分が変わることができないなら環境が・・・ということですね。
私としては、それが本当なら一刻もはやくそれを望みますが
それでは道徳の変化に翻弄されつつ生きるということで、一時的に
健常に戻るということで、もしまた道徳に変化が起これば元通りなんですよね。
ああはやく自分の周りを囲っているガラクタに気付きたいです。
原因を心理的なものに求めるのもいいが、
単に脳が暴走しただけ、と割り切るという方法もあるぞ。
脳は脆い。
偶然に起こった一時的なバランスの崩れが、意識の機構に大きな影響を
与えてしまったのかもしれない。流行病(はやりやまい)にかかって、
40度超の熱が出たようなもんだと思えばいい。そこに、理由や責任は無いんだ。
何というか、現在の状況を自分の特殊な点と結びつけて、個人の問題として
考えてしまうというのは、私はあんまり好きじゃないのだな。
個人の意志で離人症になったと考え、自分の行いを振り返ることに
時間を費やすのは、なんとなく迷信地味ている気がする。
脳の問題は、大抵、時間が解決してくれる。
直る時は勝手に直るだろうから、あまり深刻に考えないほうがいいよ。
「愛がすべて」とよく言われる。まあ基本的にはその通りだろう。
金銭欲や権力欲も根本的には性欲を満たすための二次的欲望だ。
しかし創造欲(進化欲)だけは愛欲とは独立だ。
というのも、生命の二大機能は自己複製と進化だからだ。
そもそも「愛」とは有性生殖を行う生物が世代交代するために必要なものだが、
なんのために世代交代するかというと、それは進化のためだ。
進化しなくていいのなら単細胞生物のまま分裂増殖していればいいのだ。
(ちなみに単細胞生物に「死」の概念はない)
つまり「進化」こそ生命の真の目的であり、
「愛がすべて」などと抜かすやつはアホなのだ。
しかし極限的進化を目指して自分の意識を客観化すると、
一種の幽体離脱(離人化)が起きて自分が生きてる実感がなくなる。
しかしここが我慢のしどころで、極限の無意味に耐えてこそ、
根本的真理に到達できる、と俺は思っている。
>>338 すばらしい
最後の4行はたぶん間違ってるけど
>>337 その言葉、とても励みになります。
一度「治す」とか「考える」とか
深刻なものを抱えているという意識から離れようと思います。
なんか、もうちょっとでクオリアが蘇えりそうな気がする
根拠は無い、フォーカシングをやってるわけでもない
世の中において自分が「渦中」の人になればなるほど
そうやって追い込めば追い込むほど、出てくるものというのがあった
過去のクオリアを感じれば、あとはこれからのクオリアを形成していくことができる
>>341 よい傾向ですなぁ。
>>337(特に最後2行)がよかったんだろうね。
当方も色々理屈を言っているが、思想的な部分は別として、
少なくとも離人症や抑鬱状態については、何かをやったから治った、
という感じじゃあなかったりする。
結局のところ精神疾患が治る要件として大きなものは、
「時間」と「運」
だとか思っている。
まあ「運」というのは半ば冗談(半ば本気)だとして、時間はもうこれ以上ない薬ですよ。
時間マジ最強。
あ
>>342はこととうね。
いやコテ入っててもなくても内容に影響ないんだけど。
しかし渦中の人になることに戸惑いもあります
時間と運に翻弄されつつも、やはり離人状態は「個」を出さないように
意識的に自分を持っていくようになっています。
ようやく気付いてきたのですが、数年前からある思いがありました
自分が存在しなくてもみんなが幸せな世の中に憧れていました
むしろ自分が存在しないことによってみんなが幸せな世の中に。
世の中に溶け込まないように。
自分じゃなければダメだ、という状況に対して臆病なんです。
世の中には、自分じゃなくてもできることしかないと、
思い込みたかったのでしょうか。
だから自分は普遍的な分野のみを追及し、自分のいいところを
押し殺すことを美徳とし、個を発現させることを怠っていました。
自分が活躍することで誰かが迷惑するかのような、自惚れた考えを持っていました。
それはまさに、厚かましい「同情」だったのです。
今となっては、自分は誰かを同情するための器量さえ失い、落ちぶれた存在です。
同情とは恐ろしいもので、自分を神聖扱いし、他を無意識に軽蔑するものなのです。
それがようやく分かりかけてきました。
今キルケゴールを読んでいますが、ツァラトストラを読んだあとに
あの論理的な文章を読むと、文字通り理解に苦しみます。
人間は精神である。精神は自己である。
自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。
あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということである。
冒頭からいささか頭が痛いです。
346 :
ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 19:31:54
>>345 ワロタ
いったいどこが論理的なのよw 早口ことばジャンw
キルケ、アナウンサー志望だったんじゃないのか?
347 :
ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 19:38:55
キター
馬鹿がキター
>345
翻訳の問題もあるから精読は意識しないように
した方がいいんじゃないか?
死に至る病に関しては、そこより絶望と実存の段階の方が大事かと。
>>345 非常に解りやすい解説を引っ張り出してきましょう。
とある雑誌に掲載された斎藤環の文章からの抜粋です。
>木村敏氏(精神科医)は、よくキルケゴールが言ったという
>「自己とは関係が関係それ自体に関係する関係である」
>という言葉を引用します。これは言い換えるなら、
>主体とは関係性においてしか補足できず、
>その根拠を決して問うことは出来ない、という宣言でもあるでしょう。
なるほど、確かに
「自己とは関係が関係それ自体に関係する関係である」
を中略してみると
「自己とは関係である」になる。
関係という比喩で自己像をとらえる、ということではなく、
関係こそが自己なのである、ということであろう。
>>346 そうなんですか?それが本気か冗談かよく分からないのが離人症の辛いところです。
>>348 もとよりこういう娯楽のためではない文章を読むのは苦手なので
作者の意図を汲むことに力を入れます。
>>349 例えば自分と他者がいて、二者の間に何らかの関係があって
その関係こそが自己というわけですね。
自分というものの中でも、肉体と精神との関係があるはずであり
その関係こそが自己だと。その関係を意識する時にこそ自己が現れると。
そういった意味では、離人症は自ら自己を消滅させていると言えるんじゃないでしょうか。
そして絶望に関しての記述ですが、「絶望とは死に至る病であり、また
死という最後の希望さえも残されていないほどの失望でもある」
「必然性の絶望は可能性を欠くことであり、、また可能性の絶望は必然性を欠くことである」など
常に逆説的なことや互換的なことが成り立っているんですね。
自分は病気じゃないと言う人間が、医者にとって滑稽であるように
自分は絶望していないと言う人間は、心理学者にとって滑稽にうつる
「絶望についての無知」という絶望、これだけは気をつけなければならない。
たとえば、赤という色は
人間という特殊な存在形式が
外界からさしこんでくる特定の波長の光に反応して
感ずる色彩であって、この色は、まさに
人間存在という特殊性によって恣意的に定められたクオリア
なのである。
つまり、色彩などというものも
人間と外界との関係によって決定する不安定なものである。
そして
人間それ自体は、さまざまな関係の中から生じる幻想としての主体なのだ。
それがたとえば、赤という色は
人間という特殊な存在形式が
外界からさしこんでくる特定の波長の光に反応して
感ずる色彩であって、この色は、まさに
人間存在という特殊性によって恣意的に定められたクオリア
なのである。
つまり、色彩などというものも
人間と外界との関係によって決定する不安定なものである。
そして
人間それ自体は、さまざまな関係の中から生じる幻想としての主体なのだ。
「自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である」
とはそういう意味だ。
以下は「死にいたる病」からの抜粋です。
運命の打撃により、彼の内にある直接性が
自分の力では回復することができないほどの損傷を被る
ところが彼は死んではおらず、まだ「生命」がある
直接性が絶望して気絶し、まるで死んでしまったかのようにじっと横たわる
外からの助けが来れば、命はよみがえる
彼は自分がやめたところから始める
彼は自己ではなかったし、自己になったこともない
直接的に規定されたまま生きのびていく
もし外からの助けが来ない場合にも
何か別のことによって絶望の体内に生命はよみがえってくるが
彼は「自分はもはや決して自分自身にはならない」と言う
そこで彼は人生についてわずかばかりの分別を手に入れ
他の人々の処世方をまねることを覚えて生活していく
彼が死んでも、彼は自己ではなかったし、自己となったこともなかったのである
私は今、キルケゴールの言う「絶望して自己自身であろうと欲しない」状態に近いと思われます。
自己とは、自分が好きなように夢を描ける可能性を持つ関係
そう思うようになってきました。
353 :
ローカルルール審議中:2005/04/19(火) 23:49:41
>>352 玉砕前のオウムに誘われてたら、ハマってそうだなw
おお、こんなスレがあったとは!
過去スレ全部読んでないけどとりあえずおじゃまします。
実は僕も中2以来、離人症歴20数年ですが、
ムートンさんがなぜメンヘル板じゃなくて哲板にスレ立てたくなったのかわかる気がする。
それは「離人」が「治る」ということ自体疑ってるからじゃないのかな。
つまり、「健全かつ正常な世界に戻る」というときの“正常な世界”ってなんじゃ、
んなもんあるんけ?と思ってるからなんじゃないだろうか。
まあ僕も最初は必死で戻ろうとしたさ、元いた正しい世界へ。
でも、そのうち諦めた、っつか、その努力は違うんじゃないかと思えるようになった。
いや、今にして思えば、離人なんてもんは、
その“正しい世界に対する疑惑”こそが引き金になったんだと思うよ。
で、そうなると残された道は哲学しかないんだよね。
なんかめんどっちくてヤなんだけど。
355 :
ローカルルール審議中:2005/04/20(水) 10:59:08
もう一度、離人症患者とはどういうひとか、定義してもらいたい。
修養がなくなったからじゃないの?
357 :
ローカルルール審議中:2005/04/20(水) 14:21:16
精神系の病気というのは本人がどれだけ辛いかにかかっている。
特に辛くもなく経済的にも誰にも依存しないで、かつ誰にも迷惑をかけずにやっていければそれは病気ではない。
精神科医が自分たちの収入を増やすために「それは病気だ」といっていろいろな病気を勝手に増やしているにすぎない。
358 :
354:2005/04/20(水) 17:21:57
>355
“定義してもらいたい”とか言われてもなぁ…。んな定義なんかそもそも興味ないし。
普通の病気みたいに病名がはっきりすれば治療できるってもんでもなし、
本人にとっては別に璃人症であろうがなかろうがどうでもいいことだよ。
ただ他人にこの症例というか感覚を正確に伝えることが絶望的に困難だから、
病気として名前がついてたほうが会話をするとき便利だなってだけで。
>357
僕も高校の頃、あまりの苦しさにどうにもならなくて精神科医に診てもらったんだけど、
そのときは、「なにか好きなことに熱中しなさい」とかなんとか、
とんちんかんなこと言われて返された。その時はこのクソヤブが、と思ったが、後になって
日常生活を(たとえ演技にせよ)普通に送ることができて、自殺の可能性さえなければ、
精神科医の仕事としてはそれ以上やるべきことはないんだとわかったよ。
むりやり治療費ぶんだくる悪徳医者よりずっとまともな医者だったかもしれない。
359 :
ローカルルール審議中:2005/04/20(水) 23:35:28
世界や生きる意味がそんなにもあやふやなもので
生きることの意味や正しさや悪自体の概念自体も
疑ってしまうようになり、こんな浮薄な世の中で
くらしていく気力も無くなって来たが、ある日気がついた。
やっぱり、美人をみて惹かれるきもちは確かにあるし、
絶景を見て「美しい」と感じることは事実だし、なによりも
こんな絶対的意味をみいだせない人類がここまで秩序をもって
互いに生きていることの凄まじさに感動した事もある。もう、全ての人に、
すべての生き物に仏性があるっていう教えの意味が少しわかった気がする。
生きていることはすごい。あやふやな世の中で、しかし確実に生き物はそこで
生きている。
いくら考えても、すべての根源など答えられるはずも無い。理屈なんてそんなもの。
でも、やはり感覚こそ確かに信じられるもの。いくら感覚を理屈で分析しても感覚を覚えたのは
厳然たる事実。カップルをみてムカツクと思ったのも事実。うらやましいと思ったのも事実。
DQNをみてムカツクと思ったのも事実だし、少しの恐怖を感じたのも事実。
ここまで、毎日が何らかの刺激を与えてくれるなんて、まったく世の中はよくできている。
あなたが2chでなにか書こうとしたのも、あなたの意見を誰かにみてほしかったからですよね。
そう少しでも思ったなら、確かにそれは事実。トンチンカンなレスがついて不満に感じるならば
それまた事実。感覚がそこにあるだけで、十分。
理屈で考える哲学も、頭の体操や生きぬきになるだろうけれど、結局はそれ自体はなんも
答えてくれないのではないかな。もちろん、「言語」も理屈、論理だから、文法に沿った言葉が
あなたの問題の解決になるとも思いませんが。
360 :
ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 00:37:03
変なレスでつね。
>>359 他人を語ってるのか、自分を語ってるのか。
361 :
ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 00:40:06
まぁ哲学徒じゃ普通かもな。
哲学板でコテハンの奴は痛い。痛すぎる勘違いだ。
>>360 ていうか、人生哲学と哲学をきっと混同しているのがこまりもの。
本とろくに読まず思索っぽいことばっかりしているとこうなりがち。
ぼくも本を読まないので、ちゃんと勉強した人に反論されると(´・ω・`)ショボーン。
それはおいといて、
>>350のムートン氏にちょっぴりレスをしよう。
>自分というものの中でも、肉体と精神との関係があるはずであり
>その関係こそが自己だと。その関係を意識する時にこそ自己が現れると。
>そういった意味では、離人症は自ら自己を消滅させていると言えるんじゃないでしょうか。
そういった意味では、と書いているからまあ単純には言えないかも知れないけど、
「離人症は自ら自己を消滅させていると言える」っていうのは違うと思うな。
離人状態は意識が身体から遊離している状態だよね。おおざっぱには。
意識自体はある。意識は自己。意識は関係性。
また、身体との関係性と意識で見るならば、
身体と意識の不連続性において関係性の齟齬を否応なく意識しなければならない状態とも言える。
つまり、普段は意識する必要のない関係性を意識せよと強いられているのが離人症、という見方もできる。
人間は他の動物に比べ、生の質に関係性の比重が大きい生き物だ。
であればこそ、本来空気のように存在している関係性が、そうではなくなってしまった時、
それが酷くなると、対人だけではなく、対世界、対身体、対意識にすら及ぶこともある。
なんか酷く散漫な文章になってしまった。
ぼくの頭じゃこんなもんだ。誤変換のまま放置も多いし。
絶望は死に至る病か。
そうだね。
んで、死に近付けば生きたいと望むようになるさ。
364 :
ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 02:13:39
こいつら哲学徒というかジヤーナリストでつね、まったく。
哲学に触れようとするスレでつが何か?
366 :
ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 03:01:31
哲学徒はジヤーナリストかもな。
対象が自分だろうと、他人だろうと。
言葉で表現された他人の認識だろうと。
なんだろうと。
大差ないじゃないかw
ださm9(^∀^)
世間知らずの子供である証拠だな。
ったく哲板のコテハンはハゲ散らかしてる奴故に恥を知らんな。恥慣れしやがって。
恥だろうと何かと関係して影響を与え受けないと死ぬから仕方ない(゜〇`)
369 :
ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 05:34:49
哲学は自分にとっての新聞記事である。
ソースに関係なく自分に属すものとして認識される。
370 :
ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 05:49:56
新聞を消化したあとは多少傲慢になる。
自分が大きくなった気がするからな。
それは無知の暴露でつから大目に見ようぜ。ガキのすることさ。
>>359 >理屈で考える哲学も、頭の体操や生きぬきになるだろうけれど…
わろた。ボケ防止か、哲学は。
373 :
ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 14:58:05
>>372 おまえにかぎっては、ボケ促進としか…(略 ^^;
>>373 ボケ促進?言ってる意味わかんねーけど?頭の体操や息抜きにもってこいなんだろ?哲学は。
俺もいずれ年金生活するようになったらゲートボールといっしょにやってみるよ。哲学。
375 :
ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 23:49:45
376 :
354:2005/04/22(金) 11:43:41
哲学と人生哲学の区別がついていない方がいらっしゃるみたいだけど、
璃人症の人間に人生哲学はまったく通用しませんよ。
「救い」どころかむしろ苦痛にしかならない。
たとえば、
“われわれはより大きななにかに生かされている存在だ。だから日々感謝の心を忘れてはならない”
とか“人はすべて繋がっている。他人の喜びをもって私の喜びとすべし”
とか言われたところで、感謝の心や喜ぶ気持ちそのものが欠落してるんだから。
で、こういうことがあまりにも「良きこと、正しいこと」だと言われてきたものだから、
そこからはみ出しちゃってることに対してものすごく苦しむわけです。
でも社会生活を送る必要上、他人の幸せを喜んだり、感謝をしたりする“フリ”ならできる。
しょうがない、演技することしかできないんだから。そして演技をしてること自体にまた苦しむ。
だから離人の人間が哲学に向かう動機として、
この手の人生哲学や道徳哲学を乗り越えたい、ってのもあると思う。
(実際、道徳のようなものを乗り越えようとした場合、哲学しかないでしょう。ニーチェとか。)
“頭の体操”だなんて、そんなゆとりはないですよ。
もっと切実で、がっついたハングリーな動機。
377 :
ローカルルール審議中:2005/04/22(金) 19:16:24
ということは、喜びはもはや無いが、苦しみだけは残っているのか。
離人症の人間は無害だけれど
性格異常の人間の場合は
道徳的な感情はぜんぜんないのに
社会生活を送る必要上、他人の幸せを喜んだり、感謝をしたりする“フリ”を
している者はたくさんいる。
こういう人物を近所のおばさんが評して
「あの人は気さくないい人で
よく挨拶もしてくれるんで、まさか
あんなことをするとはネエ。。。」
とくる。
379 :
354:2005/04/22(金) 22:53:50
>377
>喜びはないが゛苦しみはある。
離人の人の感覚は、ストレートではなくて、「喜んでいる私を見ている私」というふうに
常に一歩引いた感じで、ワンクッション入るわけです。
それで「喜べない」というのは、
たぶん喜びという感情はきちんとシンクロしてしないと(我を忘れてないと)享受できないものだからでしょう。
対して、苦しみなんですが、確かに苦しみの感情も同様に「苦しんでいる私を見ている私」として
間にワンクッション入ってるので、元の苦しさ自体は緩衝されて弱まっています。
(だから、逆に普通の人よりも逆境、不幸には強かったりするかもしれない。)
だけど、その構造自体が新たな、よりやっかいで巨大な苦しみを生み出してしまうらしいです。
たとえば、道徳との乖離とか。
非道徳的な人間を容認するような言葉はこの世の中には
(ニーチェのような極めて少ない例外を除いて)存在しないんですよね。
380 :
ローカルルール審議中:2005/04/22(金) 23:54:05
程度の問題じゃないかな。心理学でも自分を見ている自分がいるということは普通の人でも一般的とされている。超自我と呼ばれるものがそうだ。
それに道徳が特に意味がないのはインテリジェンスがある人間は誰でもわかっている。
道徳なんてものはそれ自体固有の価値があるものではなくて、あくまで社会生的な混乱を減少させるために便宜的に導入されているものだ。
つまり道徳心は必要ない。ただし、社会生活を送る上では道徳心があるように振舞う。これは普通の人もそうしている。
病気かどうかの境目は道徳心のない行動を社会的にも実行するかどうかにかかっている。
381 :
ローカルルール審議中:2005/04/23(土) 00:33:55
現に、嘘発見器を使えば
道徳心のないやつは
ひとを殺したあとでも
軽々とパスする。
ふつうの人間は、そうはいかない。
道徳心というものは厳然としてあるのだ。>ド素人
つまり、病気の人間というものは
生理的な反応の段階で
すでの正常の人間とは一線を画する存在なのだ>ド素人
383 :
382:2005/04/23(土) 00:40:25
誤字訂正
382の3行目
すでの → すでに
384 :
354:2005/04/23(土) 06:10:37
>>384 確かに他者からみたら、離人というのは正常とほとんど変わらないと思えるかもしれない。
実際、僕の場合もそれが起こった中学時代、家族や友達など誰にも「変だ」とは思われなかったから。
ただ、ここが表現が難しいところなんだけど、本人に取って離人になる前と後では「世界そのもの」が変わるんです。
(経験者ならこの表現がまったく大げさなものではないと思えるだろう)
ものすごい落差。なんだけど、言葉にしようとすると何が違うのかを伝えられない。
今まで親密で、生き生きとしてた世界が、突然よそよそしくなる。
まるで、なにもかもそっくりだが、自分とは本来なんの関係も無い別の惑星の「私」の
中に「私」の意識が突然入り込んだ感じ。
さっきの“道徳との一体感の欠如”からくる苦しみ、というのはほんとは二次的なもので、
離人になって最初に苦しむ、しかもそうとう強力に苦しむのは、ここなんです。
(世界との繋がりが、すべて切断された感じ。なった当時は、「大地に隅々まで根を張った巨大な木」が、
根こそぎ引き抜かれるイメージが湧いて、吐きそうなほどの絶望感に襲われた)
で、離人が(というか僕の場合だけど)哲学に向かわざるを得ない理由として、
さっきの「道徳の克服(→ニーチェ)」ってのとともに、この世界変容が関係してると思う。
昨日までの世界と今日は、はっきりと別物といえるくらい違っているのに、
客観的に見れば変わったことなど一つもない。変わったのはただ「私」だけだ。
「私」が変わったから世界が変わった。つまり、客観的で絶対的な世界の中に私がいたのではなく、
私こそ世界だった…。ってな感じで独我論的哲学の方向へと(経験的、実践的にw)向かうハメになる。
ソクラテスの言う「無知の知」とは「世界はパロディだ」ということだ。
ソクラテスはあらゆる文化を客観視し、世界をゲーム化した。
そういう意味でソクラテスは史上初の離人症者だった。
テレビ世代によって一般化したこの感覚をソクラテスは先取りしていた。
386 :
ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 09:14:18
ソクラテス・・・あんなにべらべらと喋りまくった奴が離人症者であったとは
思いにくいね。
>「私」が変わったから世界が変わった。つまり、客観的で絶対的な世界の中に私がいたのではなく、
>私こそ世界だった…。
よくある論理の飛躍だね。
私が書き直すのだとしたら、以下のようになる。
「身体」が変わったから世界が変わった。つまり、客観的で絶対的な世界の中に脳がいたのではなく、
身体こそ世界の認識を決定する存在だった…。
こうしてみると、同じ「私」という文字が別々の意味で使われていることは明らかだ。
そして、これは以下のように書き換えることができる。
「脳」が変わったから世界が変わった。つまり、客観的で絶対的な世界の中に私がいたのではなく、
脳こそ世界の認識を決定する存在だった…。
世界は、人間が認識できない情報で溢れている。赤外線、紫外線、放射線、電磁波、超音波、超低周波、etcetc...
様々な情報のうち、都合の良いものだけ切り出して、人間は生きている。
情報の切り出し方が変われば、世界は変わる。それはさながら万華鏡のようなものだ。
それを試してみたいなら、「The Goal」という本を読んでみるといいよ。
>>385 固定観念に囚われすぎるのは良くないよ。
>>355 http://life7.2ch.net/test/read.cgi/utu/1087576212/ このスレを私もちょくちょく見てるので、参考にして下さい。
ここの人たちが本当に離人症かどうかは分かりませんが
私には共感の持てる意見や症状が多く挙げられています。
>>376 そうですね。一般的な人生哲学(道徳?)と呼ばれるものを疑ってしまうことから
離人が始まるような気がします。
一般の人生哲学に何か違和感(憤り)を感じ、それに取って代わる何かを
永遠に捜し求めるような感じですね。
もしくはもうそれを見つけていて、一般の人生哲学に従って生きている人たちに対して
無意識に優越感を抱いているのかもしれない。
>>380 最後の行の「実行するタイプ」の人は社会的に病気と認定されて
「実行しないタイプ」の人は、その社会に甘んじながら、実はそれに従う心など
持ち合わせていないのです。
>>381-382 確かに、普通の人間がごく当然に意識するべき事柄を
全く意識しないことが多々あります。そして、一般社会にとって不都合な
こんな危険な自分を、やはり客観視(というよりもはや研究?)する何かの存在が。
これはキルケゴールの「自己=関係」の限界にまで無意識に挑戦している姿勢であるかのようです。
キルケゴールが言うには、こういう生き方は他者には限りなく「喜劇的」に映るようです。
>>384 私の場合は、ある大きな自己変革が訪れて、それ以降徐々に
自分の他者に対する「自己」という関係性を故意に失わせていったような感じですね。
今まで築き上げてきた自己が崩壊していくさまを見ているのは
まさに「命を絶たない自殺行為」そのものでした。
ちょっと酔っているのでまた支離滅裂なことを書いたかも知れません。
390 :
354:2005/04/25(月) 05:13:01
>>387うあああさん
申し訳ないけど、意味が分かりません。まず
“「身体」が変わったから世界が変わった。
つまり、客観的で絶対的な世界の中に脳がいたのではなく、
身体こそ世界の認識を決定する存在だった…。”
…とありますが、「身体」はまったく変わってないですよ。
それに、“同じ「私」という文字が別々の意味で使われている”、から
その意味の違いを表すため「私」ということばに対して
「身体」と「脳」という二つを割り振ったのだと思いますが、次にはもう
"「脳」が変わったから世界が変わった。
つまり、客観的で絶対的な世界の中に私がいたのではなく、
脳こそ世界の認識を決定する存在だった…。"
となって、結局「身体」も「脳」も、「脳」というひとつのことばにまとめられている。
よくわからないけど、つまり
「離人症は脳の障害により引き起こされる。」ってこと?
391 :
354:2005/04/25(月) 06:16:38
>>389 >もしくはもうそれを見つけていて、一般の人生哲学に従って生きている人たちに対して
無意識に優越感を抱いているのかもしれない。
その優越感なんだけど、僕の場合は劣等感の裏返しの優越感。
ほんとうは道徳などの社会の価値観と自分の価値観が重なって生きられたら、
それに超したことはない。それどころか(離人以前の経験から)
それがどんなに幸せなことか知っている。
だから、普通の人、それどころか時流に迎合したミーハーにしか見えないような
人間に対しても、羨望や劣等意識を感じている。
彼らの生き生きとした生活と比べて、
青ざめた死体のような自分の認識が勝っている、などとは到底思えないから。
だが、もう二度と、どうやっても彼らのいる場所には戻れないのだ。
だから「奴らは底の浅い馬鹿どもだ」と、自分に言い聞かせるほかどうしようもない。
そんなただのルサンチマン。
なんだけど、慣れとはすごいね。離人も年月がたてば、
これもまぁいいんじゃないのか、と思えてくるよ。
392 :
ローカルルール審議中:2005/04/25(月) 18:16:29
>>392 開き直るしか無いのだと思われ。
>>391 ‘羨ましい’同感。
このスレおもろ(・ω・)
>>390 脳の変化とは言ったけど、障害とは言ってないよ。
というか、私は障害という言い方が嫌いだ。そんな言い方は常に最善を模索して生きている
脳に対して失礼というものだ。
最初の「身体」と「脳」の文は、「私」の用途の違いをはっきりさせるための例として書いたつもり。
意味が変わってしまったことで混乱させたなら謝る。ごめん。
私は、ヒトの脳が自己を世界の中核に置くためには、ある程度の継続的な刺激が必要なのだと考えている。
例えば、完全な暗闇・無音・無臭・無接触の環境で長時間過ごすと、ヒトは自己の認識を失う。
(ただし、事前に状況を理解していれば別。そうでないと、パニックになることもある)
粋狂と知りつつ以前真夜中にそういう実験をやってみたんだが、これがなかなか辛かった……。
次第に身体の輪郭の感覚が消えていき、ついには暗黒に同化する。変化が無いから記憶は無意味になり、
当然に時間の感覚も消失する。一瞬と永遠は区別できない。それは一種の死の体験だ。オモシロイゾ。
離人症もまた、それに近い状態にあるんじゃないかな。
まだ上手くいかないが……コツを掴めば行き来できるようになる気がするんだよ。
>真夜中にそういう実験をやってみたんだが、これがなかなか辛かった……。
次第に身体の輪郭の感覚が消えていき、ついには暗黒に同化する。変化が無いから記憶は無意味になり
禅?
>脳の変化
認知科学的な変化という解釈でokか
396 :
354:2005/04/26(火) 12:10:59
>394
脳の変化?
器質性精神病(脳損傷やアル中など)以外の精神病や神経症、
とりわけ璃人症と脳との因果関係はまったく未知の領域だったんじゃないかな
(あんまし詳しくないけど)。
というより、仮に離人症患者に共通した脳の状態なんかが発見されたとしても、
だから「脳の変化が原因で璃人症が起こる」なんてことは言えないし、
ひとつの仮説でしかないと思う。
僕が最初に「私」とか「世界」とかいってたのは、
「意識そのもの」についての話であって、脳なんてまったく関係ないですよ。
「脳が意識を生み出している」
みたいなことが常識的に信じられてるけど、これだってただの仮説でしょう。
「意識」の「有り様」は因果律を超越しているのであって、
「意識がある」そのこと自体に「なぜ」などありえない。
離人について病識をもっている方なら、
「対象としての意識」は感じているんじゃないでしょうか。
これを感じないなら少なくとも、「自分は離人だ」という認識は
持たないように思います。
禅じゃないよ。実験だよ。
私の基本的なスタンスを説明すると、私は自由意志や魂の存在を全く信じていない無信論者だ。
例えば、構成要素という観点で見れば自分自身は単なる分子製の機械に過ぎず、
人類は決して特別な存在ではない、と考えている。
また、記憶がそうであるように思考や意識も物理現象だと考えている。(詳しくは人工知能スレを参照)
とはいえ、私は人類の普遍的信仰にはきちんと敬意を払うし、病や死を嫌うくらいの常識はある
――死ぬとやりたいことができなくなるからね。
一般に言われる意識という言葉は、分割可能な概念の寄せ集めに対する総称だろう。
覚醒の有無という意味でなら、情報循環の相転移という形で説明がつく。
思考や想起の有無という意味でなら、アトラクタの挙動として説明がつく。
注目対象という意味でなら、運動のフィードバック&学習として説明がつく。
操作感という意味でなら、運動神経に由来する遅延(コンマ1秒)からの乖離として説明がつく。
感覚という意味でなら……例えば、脳内麻薬が幸福感や鬱のような全体的な感覚を支配していることは確かだ。
だが、いわゆる視覚や聴覚のような感覚はどのように生まれるのか?分散記録アルゴリズムが意味の定義と
等価だと仮定して、それは意思によって制御可能なのか?……残念ながらまだよく分からない。
心の中の人には謎が多い。
これはあくまで今思いついた仮説だからさらっと聞き流して欲しいんだが、
離人症は感覚が鈍ったというより、むしろ感覚から指向性が失われることで全方位の感覚が
まとめて処理されている状態なんじゃないかな。
もしそうだとすると、必然的に断片的情報の割合が増えることになるわけで。
本来イメージし辛いはずの幽体離脱したような第三者視点の記憶が、主観的記憶よりも
多くを占めるようになることの自然な説明になると思われる。
400 :
120:2005/04/26(火) 23:45:13
問題は何かとの関わりの仕方なのだが、
その関わりがどのようなものかがさらに問題だ。
例えば離人症と対極的なあり方は何かに熱中しているときだ。
普通は自分から何かに没頭するものと考えられているが、
自己を中心にして意識的に何かに没頭することはできない。
むしろ物事の方に自分が惹かれている。自分はその物のもとにある。
この関わりをただ数学的な二項の関係と考えれば、
自己も物も抽象化され対象化され平板化されてしまう。
関わり自体がなくなるわけではないが
直接的に何かと関わることはできなくなる。
何らかの意図にそって研究したり分析するならともかく、
このような関係は事柄そのものに即してない。
事柄に即してないということは本質的じゃないということだ。
>>396 「脳が意識を生み出している」というのはただの仮説だろうと言いつつ、
脳の器質的変化による精神病を認めるのは矛盾してないか?
>>399 >むしろ感覚から指向性が失われることで全方位の感覚が
>まとめて処理されている状態なんじゃないかな。
こういう側面はあると思う。マクルーハンは「テレビの時代には固定的視点は
意味を持たなくなる」と言ったが、これは必ずしもいいことではなかった。
世界の意味は個人の身体を根拠にして成り立つものなのに、
あらゆる第三者の視点を同時に引き受けようとして
個体としての意味を失ったのが離人症ではないかと思う。
1980年代後半の「ウラが見える」という意識状況はこうして生じた。
403 :
354:2005/04/27(水) 17:36:54
>>401 ん、そうなの?ちと待って、検証してみる。
まず器質性精神病と脳との関係ですが、
「脳に変化が起こった時、意識状態が変化する場合がある。」
これは、事実なので正しい前提だと認めます。
記号にすると、
「脳に変化がある」をP、
「意識状態に変化がある」をQ とすると P⊃Q
次に、「脳が意識を生み出している」ということだけど、
もしもこの仮定が正しいのなら、
「脳がまったく変化しないならば、意識状態が変化することなどありえない」はず。
これをさっきのように記号化すると、
¬P⊃¬Q、またはQ⊃P
なんだけど、これは最初の前提のウラや逆であって、論証としては偽。つまり、
「脳に変化が起こった時、意識状態が変化する場合がある」ことが正しいとしても、
「脳に変化があるのに意識は変化しない」または「脳に変化がなくても意識は変化する」可能性は依然として残る。
結局、器質性精神病と脳の関係だけを証拠とした場合、
「脳が意識を生み出している」というのは仮説でしかない。
したがって、
器質的変化による精神病を認めることと、
「脳が意識を生み出している」ことが仮説であること、の間に矛盾はない■
404 :
354:2005/04/28(木) 00:25:20
>>403 うわ、もっともらしいこと言ってると思ったら、間違ってるじゃんかyo。
もしP⊃Qが正しいなら“脳に変化があるのに意識は変化しない可能性”などないわい、前提だし(w)。
(ただし“脳に変化がなくても意識は変化する可能性”はある。
裏や逆を用いた推論が偽であることは変わらないので、結論は同じ。)
それと、これは間違いではないんだけど、
P⊃Qが成り立つのは、とりあえず一部の器質性精神病に限っての話だよ。
他の精神病や神経症、あるいは他の人間の精神活動すべてについて
「脳に変化が起こったら“必ず”意識状態に変化が起こる」のかどうかは不明だろう。
ならば
「脳が意識を生み出している」というのは最初から「仮説」でしかないのだ。
脳が変化しなくなるのは死んだ後だけ。
一部の人間が脳の器質的変化で精神病になるのを認めるなら、
健康な人間は正常な脳の働きのおかげで意識を維持していると
考えるのがふつうだろう。
また正常な人間でもコーヒーやアルコールを飲めば意識の状態は変化する。
これは物質が脳に作用した結果ではないのか。
>>406 そう考えるのが「ふつう」?
だから、正しいことだと言ってんの?
それは哲学とはほど遠い考え方ですよ。
…哲学板で「そう考えるのがふつうだろ」といわれてもなぁ。
「一般的にはそのようですね」で、世間話で終わっちゃうよ。
「器質的」という言い方、
もし、精神医学的な意味に準拠しているつもりで書いているのであれば、
ちゃんと「器質因」「内因」「心因」の区分をしっかりしてね。
そうでないのであれば別にいいけど。
>世間話で終わっちゃうよ。
仮説、仮説、仮説…。
検証もしないうちに分かったふうなことを言う。
第三者視点の記憶は「全方位への意識」で体験できたよ。
……感覚ではなく、記憶だけだがね。
私が体験する乖離は、感覚が研ぎ澄まされた感じを生む。
すると一見、感覚が希薄になる離人の対極にあるように思えるが、さにあらず。
なぜなら注意および感覚は有限のリソースだから。
背中に目があるが如く全方位に均一に注意を払うと、感覚の密度が低下してしまう。
よって全感覚に占める身体由来の感覚の割合が減少あるいは消失。
(私は検証中にちょっとした怪我――ただしかなり痛い――をしていたが、
痛みの感覚が減少する傾向が見られた)
後に再構築される(思い出される)記憶は、(もともと不定だった)視点を
都合の良い位置に好き勝手に配置するようになる。
私の場合は某店内でこの現象を試したが、
・主観的記憶と比べると、鮮明に思い出せない
・幽体離脱したような(上空から眺めたような)記憶になる
などの特徴があった。もちろん個体差はあるだろうが。
そうそう、感覚が研ぎ澄まされた感じってあるある。
んで、これは形式感覚の尖鋭化だと思う。
たとえばガリレイは色や味などは第二性質だとして研究対象から外したけど、
科学的認識とは一般に意味内容を捨象して形式的構造を発見することだと思う。
これを極限的に実行してるのが現代の離人症者だろう。
形式的認識が進むのはもともと人間の進化にとっていいことだったので、
感覚が研ぎ澄まされた肯定的感じを与えるのだろうが、
それも程度問題で、身体由来の感覚を喪失しては元も子もない。
形式認識が発達するとあらゆる文化がパターン化され、先が読めてしまう。
実際に予想通りのことが起きるかどうかにかかわらず、
「先が読める」という状態は人間から感動の感覚を奪ってしまう。
この状態から脱却するには一度歴史意識をリセット(あらゆる文化は無価値。
経済活動のみ意味がある)する必要があるだろう。
堀江社長の「すべて想定の範囲内です」という発言は
この世代の感覚を代表するものだった。
ちなみに私の解離自己診断(○はよくあるor制御可、△は稀、×は超稀or一瞬、※は制御可)
非病的な解離の例
×「空想にふける、ぼーっとする」、
○「何かに集中し過ぎてまわりに起こる出来事に気付かない」、
×「ぼーっとしていて時間の経過に気付かない」、
○「考え事をしていて話しかけられても気付かない」、
×「白昼夢」(侵入性の解離)、等。
病的な解離の例
※「殴られているのに痛みを感じない」(痛覚の解離)、
×「自分の身に起こっている事が他人事のようにしか感じられない」(離人感を伴う解離)、
△「行動した形跡があるのに記憶が無い」(解離性健忘)、
×「まるで自分に起きていることが夢のようでとても現実だとは思えない」(現実感の喪失)、
×「気付けば知らない場所にいるが、どうやってここまで来たのか記憶が無い」(解離性遁走)、等。
生死に関わる状況では、一過性の解離感と離人感が現れるという。
ある時、車に撥ねられた。顔は血の気が失せて真っ青で、身体はブルブル震えていたのに、
「呼吸可能。出血無し。骨折無し。結論、死なない。
……誰かはやく119番してくれないかなぁ」などと考えていた。
過去を反省する感情の一切は消失し、現在の乗り切るための合理的行動だけが残った感じ。
この種の体験を経て、自分の身体or身体の一部を他人や道具と見做すことについて、
制御出来るようになった。例えば、「腕は道具」と暗示をかけると、腕の怪我に対する
恐怖心が無くなる。あるいは、既に身体の一部に負荷が掛かりすぎていたり、
怪我をしていたりする場合でも、客観的に対処することで負荷が最小になるように扱える。
最近は、骨や筋肉の負荷も知覚できるようになった。
通常の生活を送るだけでも、身体はだいぶ負荷を受けている。大切に扱わねば。
>>412 腕は道具っていっても今の技術では取替えなんてできないですよね。
腕が思い通りに動かなくなることへの恐怖は無いんですか?
>>413 やってる最中には恐怖は無いよ。
やってる最中には打算だけがある。
例えるなら、木製バットで窓ガラスを割るのはOKだが、
木製バットでコンクリート柱を叩くのはNGだ、みたいな。
もちろん、コンクリート柱を叩いて命が助かるというなら、
骨が砕けようと神経が千切れようと全力で叩くけど。
あんまり無いでしょ。そういう状況って。
なるほど。
何か甲殻機動隊の如月素子を思い出してしまいました。
イノセンスでは機械の体さえ捨ててゴースト(魂?)だけの存在として登場してたけど、
コンピューターの中って
>>394で言っている「完全な暗闇・無音・無臭・無接触の環境」
ですよね。
彼女がどうやって自我を保っているのかは劇中では全く触れられていないんですが、
コンピューターの中では五感からのものではないとはいえ情報が詰まっています。
均質な情報の海の中から「自己である情報」と「自己でない情報」
を区別する「殻」(または細胞膜のようなもの)を作り出すことはできるんでしょうか?
それともやはり外界から隔絶されたハードウェアが不可欠なんでしょうか?
現在の生物が単純なアミノ酸に満ちた海の中から生まれたことを考えれば、
いずれ情報生物などというものが出てきてもおかしくは無いのかもしれませんね。
イノセンスの終わり近くで、ロボットに自分のデータを一部転送して操っていましたけど
適当な器さえあれば自由に乗り移れるなんて文字通り幽霊ですね。
>>415 >彼女がどうやって自我を保っているのかは劇中では全く触れられていないんですが、
>コンピューターの中では五感からのものではないとはいえ情報が詰まっています。
>均質な情報の海の中から「自己である情報」と「自己でない情報」
>を区別する「殻」(または細胞膜のようなもの)を作り出すことはできるんでしょうか?
そういう意味での絶対的な「殻」をヒトは持っていない、と私は思う。
「自己である情報」と「自己でない情報」の区別――自我――は、
必要な時に、一時的に作り出されるだけだ。そして、それで十分なのだ。
>それともやはり外界から隔絶されたハードウェアが不可欠なんでしょうか?
ハードウェア・ソフトウェアというのは本質ではないと思う。作中では擬似信号のみで
自我を維持し続ける描写があったし、現実でも義手からの信号があれば手の感覚は生じる。
必要なのは、「情報に変換可能な差異」だろう。
>>415 >現在の生物が単純なアミノ酸に満ちた海の中から生まれたことを考えれば、
>いずれ情報生物などというものが出てきてもおかしくは無いのかもしれませんね。
いつかは出てくるだろうけど、それはずーーーーーっと先の話だろうね。
現実には、単に「ネットワーク上を自由に動き回る」ただそれだけの機能を
実装するだけでも、最低でも現在利用されているネットワーク・プロトコルを「理解」して、
セキュリティーホールを「認識」して、ワクチンによって駆除されないように
「進化」しなくちゃいけない。
近年バイオセマンティクス技術(DNA解析技術)の流用などによって「理解」の部分については
ある程度の進歩はあるものの、基本的には、どれもこれもブレイクスルー待ちって状況。
現実のネットには、まだ自己進化型のウイルスすら出現していない。
つまり、それだけ難しいってことだよ。
>イノセンスの終わり近くで、ロボットに自分のデータを一部転送して操っていましたけど
>適当な器さえあれば自由に乗り移れるなんて文字通り幽霊ですね。
ヒトが操作するラジコン・カーも、サルから見れば幽霊だよ。
A・C・クラークは「高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない」と言ったが、
それはあくまで外部から見た場合の真理だ。
本当は、「高度に発達した科学は常識と見分けがつかない」というのが正しいのさ。
ひひひっ。
>>391 >ほんとうは道徳などの社会の価値観と自分の価値観が重なって生きられたら、
>それに超したことはない。
本当そのとおりです。羨望か優越かでいうと、今の自分は羨望のほうが割合大きい気がします。
結局は、そういう規範に従って生きることとはどういうことなのか?
なぜそのような生き方に疑問を投げかけずとも平気でいられる人が居るのか?
そういう自分はなんなのか?などということを客観視点で「考えてしまう」のが
離人症という症状としての原点だと思います。
思えば子供の頃は、時分はそういう社会道徳の中に一度は居て
それを構成する一員だった記憶があります。
しかし、時分がそうである(上記)状態とは、一体なんなのか?どういうことなのか?
そういう思いが何かをきっかけに生じて、客観視点が始まり、
本当の自分が道徳から離脱していきました。道徳に全てを委ねて生きることに
恐怖や疑いがあったのかも知れません。
>>399 >離人症は感覚が鈍ったというより、むしろ感覚から指向性が失われることで全方位の感覚が
>まとめて処理されている状態なんじゃないかな。
思いつきにしては鋭い考察だと思いますよ。
例として、まあ日常的に見られますが、誰かが誰かに「質問」するという行為。
私はこの間仕事中に、ある事を、Aさんに質問するという行為をしました
その時私が思っていたことは、疑問の解消はそっちのけで
「なぜ私は疑問を持ったのか」
「何故私は(他の人ではなく)Aさんに質問しているのか」
「Aさんはどのような反応をするだろうか」
「私とAさんのこのやり取りを見ている周りの人たちは
このやり取りについてどう思うのだろうか」
「答えが返ってきた場合、どういうリアクションを取るべきだろうか」
「答えが返ってこなかった場合、Aさんの無知を晒すことになるかもしれない、
その場合の対処は万全だろうか」
などなど・・・思いつく限りのありとあらゆることを頭に秘めていました
当の「疑問の解消」という問題だけに集中できずに、そのとき考えられ得る全ての事に
常に頭をめぐらせているような、そしてそのことに関してだけは一切の妥協が無いような姿勢。
これが24時間、続いていると考えてください。
目の前に何も問題が無くても「何故問題が無いのか、無いように見えるのか」などと考えるんです。
さらに飛躍すると(飛躍といってもそれが普通なのだが)、「今日の天気と何か関係が?」
「昨日読んだ本に影響されてはいないか」「宇宙ってなんだろう」「あいつ元気かな」など
頭のすべての引出しから訳のわからない抜粋が四六時中行われています。
引出しがいつでも全て開いていて、乱雑で、どうしようもないんです。
離人症者の目標は道徳を完全に自動化することだ。
そのためには生物学とか経済学などの知識を動員する時もある。
そして総合的に考えて到達した客観的道徳が社会の価値観に反することもある。
たとえば今の社会では、自由恋愛というのは民主主義と同じくらい無条件に
正しいこととされているが、実はそれは凶悪な犯罪(レイプ)である。
テレビ画面は何秒かおきに次々と切り替わる。
特にCMは15秒おきに全然別な世界に切り替わる。
だからテレビが内面化した人間は次々と考える角度を変えたり、
15秒おきに次々と別なことを考えたりする。
落ち着きのない子供の増加にはこういう原因もあるだろう。
ただし次々と違うことを考えるのは創造にとって有効という意味はある。
422 :
考える名無しさん:2005/05/04(水) 23:59:48
>>419 その状況においては、一番「苦しい」と感じる要因としては、やはり「疲れ」ですか?
常に何かを考えているわけですから。
思考をすると確かに脳細胞を酷使して、脳が「疲労感」を感じさせるように働くそうですよ。
精神的な感覚がうまく分からないとしても、脳による体感的な指令ならば、やはり感じるはずですし。
「脳細胞、って表現が陳腐な感じがしますが、基本的にみんな科学を信じてるでしょうから、疑いは無いですよね
まあしかし離人症は放っておいても時間が解決するような気はする。
なぜなら離人症とは理性的・進歩的であろうとする意志が本能的感情を
抑圧することで成立するものだと思うが、この「理性的であれ」と要求する
社会的圧力はだんだん弱まっているからだ。
だいたい1985年あたりで進歩の歴史は終わり、
その後、社会の進歩的意識はどんどん弱まって
1995年、進歩的人間と非進歩的人間の割合が逆転した。
これがオウム事件の意味だろう。
そして、去年から今年にかけて大地震や大事故が続いたが、
これは阪神大震災や1985年の日航機墜落事故を彷彿とさせるものがあった。
今はもしかしたら社会の進歩意識が最終的に除去される時期なのかもしれない。
>>422 考えすぎることが直接的に苦しい原因になるのとはちょっと違うと思います。
うあああ氏が言うように、離人症は現実感が無くなって
感覚が鈍るような症状がたまにあるんですが
これは、一つのことに集中する力が欠けているからなんじゃないでしょうか。
私の場合は、常に何かを考えているというよりは、全てについて徒然なるままに
思いを張り巡らせているという感じのようです。
全てに考えをめぐらすことそれ自体によって特に頭を酷使して
疲労するということはありません。できる範囲でやっているだけですから。
目的を設定せずにいろんな事に思いをめぐらすという、この行為そのものには
客観的に「自分はまた疲れることをしてるなあ」と思うことはあります。
425 :
考える名無しさん:2005/05/05(木) 21:22:25
木村敏はある意味、哲学的精神医学者の極北だよ。実存をキビシく攻めたい人に推奨する。
ただただムズイだけでなく精神病を人間関係の病に限定せず、大きく生命論的な観点から
みている。生命の生み出すリズムの問題とかね。生命そのものが活性化してくると、治る
とか治らんとか関係なくなるんじゃないかな。どうしたらあなたの生命が活性化してくる
のかは分からんけど。
426 :
enigma ◆FOX/KkMa.s :2005/05/05(木) 22:16:17
私も離人症・・・
427 :
考える名無しさん:2005/05/05(木) 22:39:22
>>419 感覚から指向性が失われることで全方位の感覚がまとめて処理されている
状態。うあああ氏の表現だが、じつに的を得た表現ではないだろうか?
普通のひとの感覚にはある種のフィルターがかかっていて、何がなんでも
すべての感覚入力を同時に処理するという道を選択肢からはぶいている。
フィルターがあらかじめ、考える枠組みを定めているので「それ以外の考え
方はしない」ように始めから出来ている。こういう条件のもとではじめて
集中力らしい集中力が発揮できるのだろう。離人者にはこういうフィルター
がなんらかのショックで壊れてしまった人間と言っていいのではないだろうか。
ここで出てくる木村敏とは一体どのようなかたなのですか?
(無知で申し訳ありません)
>>423 >「理性的であれ」と要求する社会的圧力はだんだん弱まっている
それは実際に社会に出ていて感じますね。世の中のその
理性と本能?の逆転という事象に、自分だけ付いていけていない気がします。
>>425 もうここまできたら、自分や他人の精神構造を知るためにも
その木村敏の著書で勉強しようかと思います、が・・・
「分裂病と他者」はかなり値が張りますね。何かお薦めはありますか?
>>427 壊れたのか、無意識的反抗なのか分かりませんが
自分の内に指向性(志向性、嗜好性とも言えるかも)を感じるのは困難なようです。
よって、普遍(不変、不偏)的な物差しのみで物事を判断せざるを得ないようです。
「よって」と言いましたが、シコウ性とフヘン性、この二つは
どちらが原因として先立つものなのか、自分でも分かりません。
シコウ性を感じなくなったからフヘン的なものを求めるしかなかったのか
フヘン的なものを追い求めていたらシコウ性が失われていたのか。
しかし離人症って誰が名付けたんだろ。
文字どおり、人間離れした存在という意味なんでしょうかね。
432 :
考える名無しさん:2005/05/09(月) 00:21:42
そもそも意識が自分という人間を離れちまうところから始まるのでは?
433 :
120:2005/05/09(月) 01:39:31
自分が安定していられるような地盤を自分に求めるのは無理。
だからといって客観が重要というわけではなく主観と客観の区別では問題を見るのに不十分です。
離人症の人は何かとの関わりから離れてしまっています。
何かと関わっているときには自分はそれが持つ独自の場や雰囲気のもとにいます。
例えば電車に乗っているとき、公園を歩いているとき、人と話しているときなどです。
その場のほうに自分がいるのであって自分がその場を作っているわけじゃない。
自分はせいぜい雰囲気を別のものに向け変えたりしてそこに参加できるだけです。
離人症の人はまずその場とかそのものを受け入れる必要があります。
その場から離れてしまえば主観は宙に浮いたものにしかなりません。
434 :
考える名無しさん:2005/05/09(月) 03:12:18
つ〜か、場や場にいるヒトからの影響を受けないところに
自我をおく事で、初めて安定が得られてるんじゃないの?
それが宙に浮いてるという指摘なら、まさに浮いていたい
のであって、場とかそのものを受け入れる努力は、自己が
その影響下で不安定となる以外の何物でもないという感じ。
何かで困ってるというのでない限り、そのような不安下に
わざわざ自我をシフトさせる事もないと思うんだが…。
自我の安定には思想的安定と感情的安定の2種類がある。
思想的安定を求めて自己を客観化していくと、
意識が現実の場から離れて感情的安定を失うということだよ。
>435
ん?それじゃまるで、自己についての客観的思索が原因で離人になるみたいじゃん。
だったら哲学者や心理学者はみな離人だろ。
原因と結果が逆。
離人はまず最初に、突然「客観的」になってしまうんだお。
それをなんとかしようとするから、思索するんだ。
"自我の安定には2種類ある"なんてのも意味不明。
「思想的に支離滅裂なんだけど、感情的にとても穏やかな人」って…ただのバカじゃん。
2ちゃんだからって適当なこというな。
437 :
354:2005/05/09(月) 18:53:45
僕がここでのやりとりですごく不思議に思ったのは、
なんでみなさまは「道徳」の超越性を否定することにはあっさり賛同すんのに、
「科学」のそれには反発するのかってこと。
「道徳」と「科学」。これがここんとこ数百年世界中を覆った二大宗教だと思ってる。
それを「疑う」ことすらできなくなるほど、圧倒的な権威として。
で、璃人症。これは「神殺しの病」だ。
どれほど豪奢で分厚い権威だろうが、みすぼらしいペラペラのハリボテに変えてしまう。
そして僕の離人経験上、その死んだはずの神が、
なお強大なゾンビとなって立ちはだかった真に恐るべき敵は「道徳」だった。
本当の意味で奴を「殺す」ための武器はただ「ニーチェ」があるだけ。
そして今でもまだ、完全に倒したなんてとても思えない。
それにくらべりゃね、「科学」なんて敵とすら呼べませんよ、ほんと。
「科学」が超越的な原理たりえないのは、わざわざメルロ・ポンティなどの
現象学者を持ち出すまでもない。哲学なんて知らなくてもわかるよ。
「今」「私」「存在」などについて、科学は何も語ることができない。
今の科学が未熟だからではなくて、何百年たとうが無理。原理的に不可能だから。
※当然科学自体を否定してるわけじゃないですよ。哲学とは役割分担が違うということ。
その役以上の信頼は無意味な信仰。
438 :
考える名無しさん:2005/05/09(月) 21:46:11
え、みんなニーチェの言っている事が理解が出来るの?
ツラトゥストラなんて恥ずかしながら、1ページだってまともに
理解できないんだが。仕方が無いから、解説本を読んでいるが、
どうもこれも違うような気がするし。
439 :
世界@名無史さん:2005/05/09(月) 22:20:21
>408
哲学の適性無 そもそも思考できないんだったら哲学書なんて読むな
>430
統合失調症は悪霊の仕業だな
というか統合失調症でも生きていられるぞ ただし目つきや匂いには気を付けたほうがいい
自分ひとりだけが真実を知っていて他の誰もが馬鹿なんだと思ってたら生きているの楽だぞ
いや本当にまじめになって統合失調症をどうこう言ってる人間みたら馬鹿らしくなるから。生きるのはまあ楽しい
理解されることを求めるな
440 :
世界@名無史さん:2005/05/09(月) 22:24:53
437さんへ
俺は神を殺すどころか神にすがって生きてるよ 神いなきゃ生きていけないし
でも俺は善人じゃなくペテン師だな
神を信じてると言うよりキリスト教の世界観受け入れて生きているだけだから。末人で終末の始まりで創造の
力をもたないけど人生は楽しい
441 :
120:2005/05/10(火) 01:18:24
>>434 離人症でなければ当たり前すぎて省みられていないだけで〜のもとにあることは
自我とか主観とか客観とか単なる物理的接触よりも根底的です。
自分が一人でいるときにもやはり自分は何らかの場にいます。
自分の部屋とか電車の中や図書館で落ち着いて考え事をしたり本を読んだりぼんやりしたりしているとする。
まずその場が落ち着いているから、自分もそこにあり落ち着いて何かに没頭できるんです。
さらに本とかテレビとかネットとか単なる考え事ですら、内容に応じてそれぞれの場とか雰囲気を持っています。
それに没頭していればしているほど自分がそれのもとにあることがわかると思います。
442 :
354:2005/05/10(火) 09:45:32
>>440 んー。いや、殺したくはなかった。ほんとうは。でもね、なぜか
「朝目が覚めたら自分の部屋に道徳の神の死体が…。
殺した記憶はないが、犯人は…俺?」
っていうサスペンス劇場が起こっちゃったわけです。
で、さっきもいったけど、黙って死んでてくれりゃいいのに、
こいつがゾンビになって襲ってきやがる。
今度はサスペンスからホラーという展開。
だから、「もう一度」こんどは殺意をこめて殺さなくちゃならなかった。
(これは勝手な想像だけど、道徳についてニーチェ自身もこの
「サスペンス→ホラー→反撃」の順を踏んでいる気がする。)
>440さん。もし、あなたの神が本当に生きているなら、なんの問題もありません。
無理に殺す必要などまったくない。
443 :
435:2005/05/10(火) 09:55:54
>>436 >離人はまず最初に、突然「客観的」になってしまうんだお。
>それをなんとかしようとするから、思索するんだ。
近代的自我が活版印刷というメディア環境によって形成されたように、
最近増えた離人症の原因もテレビをはじめとするメディア環境であろう。
幼少期にそういう環境が脳に刷り込まれて思春期に発症するのが
離人症なわけだが、全員が発症するわけではない。
客観的になった状態をさらに客観的に自覚するタイプの人間が発症するのだ。
そしてその異常に客観的な状態とは何かを理解するためには、
極限的に異常な状態にまで自分を追い込まねばならない。
で、結局わかったのは人間は物質的存在であり、観念だけを純化させても
精神的存在へ進化するわけではないということだな。
>「思想的に支離滅裂なんだけど、感情的にとても穏やかな人」って…
>ただのバカじゃん。
それでは自己の普遍的思想は確立したが、
人間的感情基盤を喪失した人間は安定していると言えるのか。
いや、感情基盤を喪失してでも普遍思想を求めるのだ、
というならそれこそまさに離人症者がやっていることだ。
444 :
うあああ:2005/05/10(火) 12:04:22
>最近増えた離人症
で、ソースは?
>自己の普遍的思想
漢字をならべてよろこんでいる小学生だな
>>443 だ、か、ら、2ちゃんだからって適当ぶっこかないでください。
離人が幼少期に見たテレビのせい?
じゃ、子供のころテレビ見なかった人間に離人はいないわけか。
あんた、少年犯罪起きるたびにテレビやゲームのせいにしてるだろ?
>自己の普遍的思想
……ワローた。どんな思想じゃ。
>>443 あんまり言ったらチトかわいそなキモするけど、面白すぎるおまえが悪いんだい。
>で、結局わかったのは人間は物質的存在であり、観念だけを純化させても
>精神的存在へ進化するわけではないということだな。
"で、結局わかったのは"って……ブハハハ。すげー、どっから導いてんの?こんな結論。
前の文章読んでもまったくわからん…。
あんたの思考回路、ワームホールに繋がってんぞ、たぶん。
最近色々試してたんだけど、自己暗示で離人症もどきになれるようになった。
離人モードでは手足は全く痛みを感じない。視覚は注目しない。聴覚は全周囲対応(……この状態で合ってるのかな?)
明らかに、意識のベクトルが身体のベクトルからズレてる感じだった。たとえば動きながら思考出来た。
通常モードから回想すると、身体と思考が同期していないことによる、ボディーブローのように来る不快感があったように思う。
今後もさらに研究を進めたい。
はじめまして
離人症という言葉に惹かれてやってまいりました
私は離人暦10年以上で、現在はクオリアを少しだけ回復をする事が出来ました
ただ、ムートンさんが言われた
>普遍(不変、不偏)的な物差しのみで物事を判断せざるを得ないようです
これは同じ状態なので私なりの解決方法を一緒に探っていきたいと思っています
ただ、皆さん凄いですね
私はいつも頭がぼうとして自分の状態を的確に話せる日と話せない日があります
うあああさんの研究は見ていて参考になります
450 :
考える名無しさん:2005/05/11(水) 08:56:31
離人者はよしあしは別として「社会を変革」すると思う。
離人者の「困惑」は、「常識の堅牢さ」にひびを入れさせていく。
離人者が望むと望まないとに関わらず、離人者、特に「強い」離人者
の存在は、社会をじわじわと変えて行くと思える。
451 :
354:2005/05/11(水) 12:10:11
「偽善は悪」、みたいなことを最初に言い出したのってだれだ?
ソクラテスとかか?ほんとバカじゃないかと思う。
そんなつまらん教説が浸透しなけりゃ、絶対にもっといい世の中になってたぞ。
"偽善"なんて言葉は、人が利他的な行為を決断するブレーキにしかならない。
総体的に見て世界の(功利主義的な)善の量がこの言葉ひとつで相当減ってるだろ。
それに、この言葉は離人症の人間をそうとう苦しめる。
なにしろ離人はもうどうやっても"偽"善(トレースをするような善)しか行えないんだから。
452 :
435:2005/05/11(水) 12:35:55
>>444 90年代以降、多重人格症者が増えたのは常識だが、
多重人格と離人症は地続きなので離人症も増えているのは間違いない。
453 :
435:2005/05/11(水) 12:51:56
>>446 >じゃ、子供のころテレビ見なかった人間に離人はいないわけか。
いないんじゃないかな。
1962年生まれから人間の意識のあり方がちがってきたことの原因は
テレビに求めるのが最も自然でしょう。
生まれた時から家庭にテレビがあるとないでは大違いだ。
不可解な少年犯罪の原因は明らかにテレビやゲームですよ。
外で体を動かして遊ばずに家の中でテレビやゲームにばかり
没頭してたら感覚が狂うのは当然ですよ。
おはようございます
450さんと451さんの言葉に刺激されたので書かせて下さい
反応はあれば嬉しいですが、お忙しくなかったらで構いません
>>450 離人に苦しむ私は「常識の堅牢さ」に苦しめられています
ただ、表層的には順応している私も居るのです
「社会への順応」へ過剰適応してしまい
自らの「困惑」を話せる相手はごく僅かです
でも、社会を変化させる事が出来る可能性が私にもあるのなら嬉しいです
とても息苦しいから
>>451 うわ、それはそうですね。私だけでいえばいつも罪悪感があります
自己は場によって形成され反応を起こしているのが“私”だと思っています
場により揺らぐ自己は適応的な行動を起こしているのだと思います
私は実際に友人や知人など相手によって“パーソナリティ”を変化させているのですが
周囲の人を見渡すと、場面による変化はありますが、時間的には比較的安定しているように思えます。
ところがそもそも自分の道徳が崩れ去った私には反応としての感情が無い為時間的な安定性が無いんです
そして、そのような自己が私には偽者に感じます。
そこを待ってましたとばかりに道徳が表れ偽善者め!と私を攻め立てます
道徳を信じていないのに私の中に道徳が居るんです
道徳は社会との適応に繋がるものだから完全に放棄するのは怖いと思う自分も居ます
だから道徳を模倣するのです
一体どうすれば・・・・・・・・・・・・・・
455 :
435:2005/05/11(水) 13:10:19
>>447 >"で、結局わかったのは"って……ブハハハ。
>すげー、どっから導いてんの?こんな結論。
確かに唐突に持ち出した話で申し訳ない。
しかしテレビが刷り込まれた世代が究極の目標として目指したのは
人間が物質形態を卒業して純粋に精神的な存在へ進化することだった
と思うんだな。そして80年代のパロディ(=離人)状況というのは
そこへ至る第一歩だと思った。だからそういう異常に客観的な
意識の状態をもっともっと昂進させねばならないと思った。
しかしそういう作業を続けて実現したのは荒涼とした状態だけだった。
1990年代前半は社会的にもそういう荒涼とした文化状況だったわけだが、
95年あたりからそういう探究は社会的に放棄されることになって
60年代後半から80年代前半の文化をなぞるだけの状況となる。
社会が精神的進化を放棄したらもう個人がそれを求めても意味はない。
だから俺も意識の進化は諦めて認識の根源を探究することにした。
>>453 メディアと不可解な少年犯罪の原因は私も繋がっていると思います
メディアと離人の繋がりはこれから研究が進む分野かもしれません
原因の一端がわかれば解決にも繋がる気がするので期待します
メディアは“メディア-→私”という一方的な影響しか受けられませんよね
「何か・誰かに影響を与えられる自分」を体感する事は大切だと思います
それが得られないと自尊心の低下に繋がると思うからです
自己効力感が無いと自尊心は保てないと思います
自尊心の低下によって、社会を省みない行動を起こす青少年は増加していると思います
社会的な認知能力(善悪)は持っているのに
自分も社会もどうでもいい子が増えているからだと思います
457 :
435:2005/05/11(水) 13:28:58
>>443で言った「自己の普遍的思想」というのは
べつに俺の思想という意味ではないが、
俺に関していうと認識には限界があるということがわかった。
離人状態とは余分な意味(=感情)をすべて削ぎ落として
純粋に形式だけの状態になることだが、この場合の「形式」とは
「理想概念」のことだ、ということを俺は発見した。
言語には3つのレベルがあって、それは、
1.固有名だけの言語(ネアンデルタール人)
2.固有概念の獲得(クロマニヨン人)
3.理想概念の獲得(文明人)
ということなのだが、人間の意味意識は3のレベルで初めて
発生したものであり、それ以上根源的な認識を求めても意味はない。
だから物理学で言えば素粒子論はここで終わり、
あとは物性研究を続けるのみとなったのだった。
458 :
435:2005/05/11(水) 13:57:56
>>456 しかしテレビやゲームが脳の発達にとって悪いということが立証されても、
それらをすぐに全廃することはできないでしょうね。
科学技術立国・日本が立ちゆかなくなる。
ほかにもビデオ、インターネット(パソコン)、ケータイなどもあり、
どこまでならいいのかという線引きも問題になる。
そもそも自然のない都会のマンション暮らしがよくないとなれば、
文明否定にまで行きかねない。
だから、よほどのことがない限り社会はテレビの害を認めないだろう。
しかし今年になってメディアの有害性を告発する声は高まってきている。
(『デジタル家電が子どもの脳を破壊する』講談社+α新書、とか
『壊れる日本人』柳田邦男著など)
どうも現代文明そのものの終わりが近づいているようだ。
感染症の爆発や中国の経済成長の問題もあるし。
459 :
考える名無しさん:2005/05/12(木) 09:08:21
現代に反逆して老人に媚を売る姿勢、滑稽だな。
460 :
考える名無しさん:2005/05/12(木) 15:11:46
老人の悪あがきだな。老人は死ぬのでまもなくゲーム脳の人間が多数になる。
そうするとゲーム脳の人間が正常で、そうでないやつが異常ということになる。
それだけのことだ。
461 :
考える名無しさん:2005/05/12(木) 16:49:57
おれが正常でおまえらが異常
そういうこと
>>435へ
最初は笑ってられたけど、だんだんむかついてきた。
あんたがなんで離人症に興味があるのか知らないが、迷惑。
はっきりいって(本人に悪気はないみたいだが)。
中途半端に聞きかじった知識と非論理的な思いつきだけで、
独善的に決めつける珍学説は読んでて不快なだけ。
あんたの戯れ言は、科学なんかじゃないし、
ましてや絶対に哲学ではない。
あんたには哲学は関係ない。あんた自身が板違い。
飲み屋で酔っぱらい相手にでも話してろ。
えー、とりあえずなんですが、
TVなどのメディアが離人症発症の「条件」であるかのような物言いは、間違っています。
そのように物言いをしたくなるのは、はネガティブな特権性のナルシシズムです。
ま、それはいいとしても、
「解離」を言い出したジャネは、結構知られてなかったりするらしいですけれど、
「抑圧」を言い出したフロイトよりも古い人です。同時代ですけれどね。
すっかりフロイトの方が有名になってしまいましたが、ジャネの方が先輩です。
また、今「抑圧」と口走る精神科医はあまりいないでしょうが「解離」を口に出す精神科医は
普通にたくさんいるでしょう。
まあとにかく、それくらい「解離」はTVのない昔から存在していた訳です。
メディアなど関係なく「解離」いたるところに存在しています。
TVと関係があるように感じているのは、単に解離を理解しようとする際にTVを理解の手段として
援用しているからそのように感じているに過ぎません。
メディアと離人症の影響関係は否定しませんが(肯定もしないように)、
少なくとも「決定的な」要因ではありえません。
解離は昔から存在しており、解離のひとつの側面である離人症も、また昔から存在している。
>>458 >しかしテレビやゲームが脳の発達にとって悪いということが立証されても、
>それらをすぐに全廃することはできないでしょうね。
…頭だいじょぶか?この人。
他人の脳の発達を心配してる場合じゃないぞ。
小学生でも言わないだろ、こんなこと。
>>458 メディアの危険性は、特に乳幼児に与える悪影響などが
言われているようですね
私は、全廃は必要無いと考えますが、年齢による「規制」の必要性は一考する必要性を
感じます
>>464さん
メディアと離人症の関係性は現段階では
関係性は全く不明です
その事は皆わかっていると思うので
煽るのはやめにしませんか?
466 :
うあああ:2005/05/12(木) 22:28:48
世界一ポルノ規制が多いと言われる日本が、残念ながらHENTAI先進国であるという事実が、規制の逆効果性を裏付けている。
規制行為がもたらす副作用に思い至らず、規制行為そのものに陶酔し、効果を信仰するという盲信的かつ短絡的態度こそが、
かつて愚かな有害図書指定運動を生み、今またゲーム脳などという考慮に値しないトンデモを生み出している。
それはつまり、社会的要請から生まれる都市伝説の伝導者であり、馬鹿の代弁者なのであろう。
>>434 人間は誰でも、人に忘れられることが不安で仕方ないと思います。
だから他者に忘れられないためにも、他者との関係(すなわち自己)を築くことで
安定を得るのでしょう。それが離人の場合は、何らかの理由で関係(自己)を放棄し、
自己に左右されない部分の自分に仮の安定を見出すのではないでしょうか。
少なくとも今の私の周りには、一般的な意味での自己の安定は存在せず、
故意に押し殺して生活している感じです。
「それが宙に浮いてるという指摘なら、まさに浮いていたい」のです。
とにかく、関係を客観視することが、離人に向かう過程において存在しましたが、
外界にひどい絶望を感じたためか、関係の限界に絶望したためなのか、
その前段階が明確にならない。卵が先かニワトリが先か・・・に似てますね。
>>437 人間って、(原因は分からないけど)科学の中に生を受け、道徳によって育まれるから
ついそのどちらをも人間を構成する一部だと思い込んでしまいがちだけど
本当はそれらから解脱したところに自分自身の原型というものが
存在すると思うんです。そしてそれは「精神」というものだと
今の段階では思っています。精神の定義も明確じゃないまま。
道徳って、人間の社会適応のために、そして社会の形成・存続そのもののために
人間その他全ての科学が開発した、矯正器なのかも知れませんね。
科学、道徳、哲学、信仰、絶望、離人、そして自己・・・
いや、並べてみただけです。
離人の方にお聞きしたいことがあります。
気功や数息観を試されたことはあるでしょうか。
もしあれば、そのときの状態を教えて欲しいです。
どうも状況を拝見したところ、
気功やヨガなどで世界に意識が溶け込む感覚と逆方向に行っているような気がします。
もし意識の移動が反対のベクトルなら、帰ってこれるのではないでしょうか。
客観への欲望の極北としての離人症、という考えも
単に思いつきとしてならないでもない。
本当に思いつきだから、自分でも信用してないけれど。
で、ひとつ客観という言葉で知っておく方がいいと思うものがある。
「客観性」という言葉は精神医学では別の言葉に置き換えられる。
それは「間主観性」。
字をバラせば解るように「間をおいた主観性」ということになる。
本当の客観性なんてものはない、などとよく言う人がおりますが、
客観性は間主観性である、ということが基本的な了解としてあるのであれば
いちいちそんな台詞はいらない。
人間は主観からは逃れられない。当たり前だ。
離人症で気をつけなければならないとすれば、
いわゆる通常の客観性とは異質の客観的主観であるところのこの離人感(観)は
特権的体験である、というところだ。
その特権的体験を他のものと等価に扱うことが、実は難しいということでもある。
離人症的主体はナルシシズムの汚染から逃れている、という「実感」すらあるからだ。
全てを公平に扱わざるを得ないのが離人症であり、それこそが苦痛なのだとして。
ただ書き散らしただけなので、解決策とかはナシです。
470 :
考える名無しさん:2005/05/13(金) 04:36:57
離人症というのは、自己を評価するのは自分でありたい、
という自立の叫びなんじゃなかろうか。
>>470 うーん。それが原因、というのはどうかな。
ただ、離人になるとそれまでの外的、一般的な価値がかってに崩壊するから、
その結果、価値を自己の内に求めるしかどうしようもなくなるのは確か。
(だから離人にはニーチェが必要なんだろう)
472 :
435:2005/05/13(金) 13:26:43
>>463 >TVなどのメディアが離人症発症の「条件」であるかのような物言いは、
>間違っています。
その根拠がジャネでしょ?
>>260で俺はジャネの時代の離人と現代の離人は違うと言ってある。
まあ「世界没落体験」は19世紀からあったようだから、過剰な理性化の末に
世界の生命感覚を失うということはテレビ以前からあったようだが、
現在のような社会的広がりはなかっただろう。
ニートやひきこもりや少子化は今や重大な社会問題だが、
生きる意欲の喪失という点でこれらは共通している。
そしてその極端な現れが離人症における人間的感情(基盤)の喪失だと
考えるのは自然なことではないだろうか。
473 :
435:2005/05/13(金) 19:30:57
藤原智美という人が、赤ちゃんは視覚が未発達だから
2歳までテレビを見せるなという警告は間違いだと言っている。
(文藝春秋5月号や単行本で)
これはとんでもない暴論で、視覚や空間認知が未発達だからこそ危険なのだ。
赤ちゃんはテレビに遠くの場所が映っているとは考えない。
テレビの中に世界があると考える。
この認知構造が2歳までに組み込まれると、
現実世界はテレビのコピーでしかなくなるのだ。
そしてそういう子供が大人になると自分と世界が透明な膜で
隔てられていると感じるようになる。離人症だ。
475 :
435:2005/05/13(金) 22:53:04
>>474 ソースと言われてもこれは俺独自の説だからなあ。
テレビが離人症(や多重人格)の原因だという根拠についていうと、
1.多重人格症は幼いころからテレビを見て育った世代が成人した
1970年代になって突如出現したこと(アメリカ)
2.その多重人格は20以上もの別人格を次々と生成するものだったこと
(この現象はメタ意識の分離で説明できる)
3.多数の人格の中に必ず幼少人格が含まれること
(幼少期の人間はメタ意識を持たないので安定する)
4.離人症者は自分と世界が透明な膜で隔てられていると感じること
(テレビのブラウン管が組み込まれたことで説明できる)
5.離人症者の客観的視線は身のまわりの世界もテレビに映った
はるか遠くの世界を見るように見ていることで説明がつくこと
(いとうせいこう氏のいう「衛星の視線」)
6.テレビ世代は共産主義には見向きもせず、もっと非現実的な
意識の進化論へ走ったこと(現実から解離=メタ化した意識を
進化の第一歩だと信じた)
7.離人症者が感情を喪失したのはテレビが与えた圧倒的情報量が
人間の心理や行動のほとんどをパターン化したことで、
自己を突き動かすはずの感情の出番がなくなったと考えられること
8.居ながらにして全世界の出来事を見聞することができるテレビが
幼児的全能感を与えることでテレビ世代は分不相応に望みが高く、
仕事にも結婚にもなかなか踏み切れないこと
(もっとも離人症者は欲望自体が希薄なわけだが)
こんなとこかなあ。
>>475 >ソースと言われてもこれは俺独自の説だからなあ。
思ったとおり統計情報も参考となる論文も挙げられない。
なんだやっぱりトンデモじゃないか。
> 1.多重人格症は幼いころからテレビを見て育った世代が成人した
> 1970年代になって突如出現したこと(アメリカ)
> 2.その多重人格は20以上もの別人格を次々と生成するものだったこと
> (この現象はメタ意識の分離で説明できる)
> 3.多数の人格の中に必ず幼少人格が含まれること
> (幼少期の人間はメタ意識を持たないので安定する)
だからソースは?
> 4.離人症者は自分と世界が透明な膜で隔てられていると感じること
> (テレビのブラウン管が組み込まれたことで説明できる)
> 5.離人症者の客観的視線は身のまわりの世界もテレビに映った
> はるか遠くの世界を見るように見ていることで説明がつくこと
> (いとうせいこう氏のいう「衛星の視線」)
「単に他人にとって分かりやすい例としてテレビを挙げている」という可能性は?
477 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 05:09:49
>>474 > 6.テレビ世代は共産主義には見向きもせず、もっと非現実的な
> 意識の進化論へ走ったこと(現実から解離=メタ化した意識を
> 進化の第一歩だと信じた)
> 7.離人症者が感情を喪失したのはテレビが与えた圧倒的情報量が
> 人間の心理や行動のほとんどをパターン化したことで、
> 自己を突き動かすはずの感情の出番がなくなったと考えられること
> 8.居ながらにして全世界の出来事を見聞することができるテレビが
> 幼児的全能感を与えることでテレビ世代は分不相応に望みが高く、
> 仕事にも結婚にもなかなか踏み切れないこと
ソースを伴わない主張は「思い込み」と同義。
ここはあんたの落書き帳じゃないぞ。
どうしてもテレビの話を続けたいなら、別スレ立ててそっちでやれ。
478 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 09:48:46
>>477 ソースが必ず正しいとは限らないぞ、ソース屋さんw
あくまで誤述含みの参考に過ぎない。
それともソース屋さんはソースらしき体裁が整ってれば
疑問も持たず鵜呑みにしてるってことなのかなw
ソースも個人の意見・見識の集積であれば、逆にある
個人の意見は他者にとってソースになり得ると考える
のが自然だと思うよ。
くだらないアホレスはやめときなw
>>435 うげ。まだいたの、こいつ。
あのさ、離人の原因がTVかどうかなんて、どーでもいいのよ。
あんたの「正常な人間」とか「正常な脳」なんてものを、
無批判に信じてる無神経さと馬鹿さ加減にウンザリしてんの。
哲学やる人間にそんな馬鹿いないから。
離人(多重人格だけじゃなくて、ニートや引きこもりまで一緒にしてるみたいだが)を、
正常に対してのただの異常として語りたいなら
哲学板じゃなくて社会板に行けよ。
社会派気取りのおじさんおばさん連中と気が合うかもよ、ゲーム脳の話とか。
眉間にしわでも寄せて、一緒に日本の将来でも心配してろ。
どのみちあんたに哲学は無理。
481 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 22:35:39
>>478 >それともソース屋さんはソースらしき体裁が整ってれば
>疑問も持たず鵜呑みにしてるってことなのかなw
はぁ?脳みそ足りてる?ソース(source)ってのは単なる「判断材料」だろ。
矛盾の無い論証過程を踏んでいるかどうかを検証し、情報の尤度を判定するのは私だ。
>ソースも個人の意見・見識の集積であれば、逆にある
>個人の意見は他者にとってソースになり得ると考える
>のが自然だと思うよ。
なんて馬鹿なことを言って、情報を鵜呑みにしてるのはあんただろ。
482 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 23:26:25
どうでもいいが、こんなにも元気いっぱい喧嘩するような
「健康」な人達が、感覚のクオリアさえ疑うような離人症の人達を
どれだけ理解できるのだろうか・・・・・
483 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 00:50:03
非常に興味深いスレです。
私は今の自分の状態を離人症と思っています。
このスレの題名は「離人症患者が哲学に触れようとする」になっていますが、
私は逆ですね。
自明性を疑って(哲学して)離人症になりました。
私はこの状態を「論理という神に魂を売った」状態だと考えています。
もちろん抜け出せると考えています。
未だこういう状態ではあるんですが・・・
「自分」というもんだいですね。
自分が自分であることにズレが生じちゃってるんですよ。
私も
>>483さんと状況が似ています
私は離人→哲学→さらに離人という経過を辿りました
自己という意識はそもそも他と自分に境界を設ける事によって
他と自分を相対的に眺める事ができ、成り立つものですよね
赤ちゃんがおもちゃと自分を別けられるのは
おもちゃは噛んでも痛くないけど、指は噛んだら痛いな
という経験を経て世界と自分を別けていくようです
私は現在持っている認識そのものを疑います
現在、目前に見えているものは、本当に私が見えているものなのか怪しいのです
その為、どのような事も正しい知識として停滞しません
停滞しないので相対が出来ないのです
私はこの事が離人の原因になっているのかなと感じています
ただ、私の認識は歪みを持っているのもしれませんが、
今、私が見えていると感じている事は事実なのだな。と認識したとたん少し離人はおさまりました
完全に捉える事など出来ないものを完全に捉える可能性を追い求めている状態
なのだと思います。
帰ってくる事はできます。私が認識に妥協を与えればいいのですから
ただ、それをしたくないだけなんです。何か糸口を探したいのだと思う
離人から帰ってくるのは難しいと思う
それは、退却の道はあるけど不服だから
症状だけを和らげる(特に記憶力の回復)方法を今は模索しています
485 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 01:54:17
>>481 キーボード壊れそうだなw
ソース無しでも判断できるようになれや(笑
486 :
354:2005/05/15(日) 07:00:01
若い頃のユングってマジメなクリスチャンだったんだけど、
あるとき神について不敬きわまりない妄想
(神が空の上からウンコして、それが地上に降り注ぐw)
が頭から離れなくなって、死ぬほど苦しんだことがあるんだと。
これって精神医学的には強迫神経症とかになるんだろうけど、
脳のなんらかの障害が取り除かれれば解決される、なんて問題じゃない。
対立する「信仰」と「批判精神」という問題が解決されなければ苦しみは続くだろ
う。(その後ユングは母の進めでニーチェを読んで、この状況を乗り越えられた)
離人症も似たようなことが言えるんじゃないかな。
普通に生活するならば自明性に疑問を持たないような我々の「神」
(道徳などの常識的価値感、あるいは「私」「存在」などの根源的な事柄)に
知らないうちにツッコミ入れてきて、それがある臨界を超えたとき
それまでの世界認識のスタイルを維持できなくなり、離人が発症する(仮説)。
だとすれば、離人が「治る」ということは精神医学の問題ではなく、
哲学の問題になる。
>>486 現実と矛盾した思想が離人の原因だ、ということかな?
私は読書中などに極めて強い乖離を引き起こす人種(本の虫)だが、
現実と矛盾した思想は即座に斬って捨てることを信条にしているから、
離人にも乖離にもならず、日常生活にも支障をきたしていないのだろうか。
うーむ。
488 :
354:2005/05/15(日) 14:32:44
>>487 いや、“「現実」と矛盾した思想”というよりも、
(僕が拠り所としていた)「常識」の中に亀裂(矛盾)を発見してしまい、
以前の(常識的)世界観で世界と関わることがもはやできなくなってしまった。
(もう以前のようなお付き合いなんて出来ないの、状態)
結果、離人という仮設の退避場所に移動したのではないか、ってことです。
>現実と矛盾した思想は即座に斬って捨てる
この“現実と矛盾した思想”というのは、
「非論理的な思想」のことではないかと思いますが(だから斬って捨てられるのかと)、
そうではなくて、誰に聞いても「常識(自明)」ではあるが、改めて突き詰めて考えてみれば、
(論理的に検証してみれば)疑わしい、…と、そんなことです。
だから簡単に“斬って捨てる”ことができない。
もっとも、その「疑わしさ」も(ユング同様)最初は論理的検証の結果としてではなくて、
あくまで「直感」として与えられるわけですが。
そして、その「常識(神)」をじぶんでも信じているからこそユングのような葛藤が生まれる。
それを乗り越える(矛盾する二項を止揚する)ためには哲学の力が必要。
つまり、さらに行けるところまで、突き詰めて考えるしかない、後戻りはできない、ということ。
>>488 私は常識知らずだから、常識と非論理的な思想との間に明確なラインを引くことが
できない。だから基本的に、明確な根拠を示されない限り他人の言うこと(常識)を信じないし、
作法にも従わない。そのことでどのように見られたとしても、人の目を気にしようとも
思わない。ずっと昔の冬の日、音楽室の隅で鳥が死んでいたからゴミ箱に捨てたんだが、
それを見ていたクラスメイトが私を非難してね。あんまり五月蝿かったから、花壇に
埋めたんだ。どうして生ゴミにこんな手間を掛けるのかと、あのときは本気で不思議がった
ものだよ。
私はそれまで信じていた常識が瓦解することなんて、何度も体験していてね。
私にとって常識は信仰の対象足りえないのだ。私にとっての信仰とは、いずれにせよ
かなり暫定的なもので、「根拠は無いので信じたくはないけれど、
信じた振りをすると上手くいく」程度のものでしかない。
「レジの列に並ぶ」と「他人には心がある」はほとんど同レベルの信仰で、
従うか無視するかはその時の気分と状況で決まるようなもんだ。無論、大抵は従うが。
だから、私には特に常識に対する葛藤は無い。もしかしたらあったのかもしれないが、
私はそういう覚えておく必要性の無いものは、どこかに置き忘れてしまう性質らしいからね。
490 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 01:04:29
エポケー(判断中止)ってさ、つまり離人症だよ。
それを実験的に行うことは正常な行為だが、一部の人間は体験してしまう。
この差だよ。
その一部の人間は実感として哲学を理解するだろう。本人にしてみりゃ、重要な問題はただひとつしかない。生きること。
世界/内/存在という考え方は離人症からの脱出と読めなくもない。
491 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 01:49:30
>>489 んだな。常識は実条件を考慮に入れてない。
詳細を極める実際から離れ、乱暴なくくりをする。
だから1個条件が変わっただけで、たちまちひっくり返る。
そういう前提を忘れ、あるいは気付かず、
万人の正義にまで高めてしまう馬鹿のなんと多いことw
人の実際を無視した糞定理といったところか。
真実・原理・論理などにも、そうした傾向は存在する。
真理と呼ばれるものですら、だ。
しばらく練習してたら、全身の感覚を遮断して、意識を檻の中に入れたような状態に
意識的に移行できるようになった。具体的には、「腕を棒に」の暗示の応用みたいなもん。
自己暗示のキーワードとして、便宜上「離人モード」と名付けている。
なんか自分の体なのに、ロボットを操縦してるみたいな感じがする。そして、何故かわからんが、非常に苦しい。
息苦しいような、頭が痛いような。これがずっと続くのが、離人症の苦しみってやつなのかな?
その状態を維持するだけでも、(うまく表現できないが)かなりの精神力が要るようだ。
慣れると戻れなくなるのも分かる気がするよ……力をつけるのは簡単だが、衰えさせるのは難しいからね……
493 :
考える名無しさん:2005/05/17(火) 10:36:30
>>492 それが自我の初歩的働きよ
必要な時だけ呼び出せばよい
ようこそ、リアルライフへw
うあああ氏の自己犠牲的な研究を見ていると、割かしシコウ性があるなと感じます。
離人について理解を深めたいがための行為なのだなと。違っていたらすいません。
私も結果としては今自分を研究しているような状態(それ以外の状態が無い)ですが
自分が離人傾向であることそのものについては、どうこうしたいという
方向性は生まれません。あるがままを、できる限りの視点から観測するのみです。
分かった。理解した。この嫌な感じの正体は自分自身だ。分かってしまえば当たり前じゃないか。
何らかのショックによって身体の感覚が遮断されたなら、やることが無くなった意識に出来ることなどたった一つ。
それは自我の観察だ。
感覚が枯渇することで、意識は感覚に飢え、本来無視されるはずの脳の振る舞い自体を感じ取っててしまう。
そりゃあ感覚が無くなるはずだよ。意識は既に自我の観察に没頭してしまっているのだから。
そりゃあ苦痛を感じるはずだよ。意識は自我を理解しようとして、ひたすら暴走しているのだから。
>>468 気功やヨガやフォーカシングなどは
最も荒療治的な手段であると同時に、最も効果があると思います。が、
スレの流れ的に、どうやら離人者は「止揚が命題になってしまっている状態」
という見解が最も近いように見受けられます。
>>475の意見では7番が興味深かったです。
色々な情報から例示的な行動パターンを学習することで
すべてのものには基本的に正解パターンがある、という甘えによって
自分が自己である必要性を強制終了させているということですかね。
感情の出番がなくなったのか、なにか原理主義的なものが意図的に
出番を奪ってしまったのかは定かではありません。
離人でメディアが関係するとすれば、私にはその点ぐらいしか思いつきませんでした。
>>484 >帰ってくる事はできます。私が認識に妥協を与えればいいのですから
>ただ、それをしたくないだけなんです。何か糸口を探したいのだと思う
それは何故ですか?離人者ごとの、そのそれぞれの理由に興味があります。
>>486 私は小さい頃から今まで、自分だけはなんとかこの矛盾だらけの世の中で
正常を保っている、と思っているうちに、あるとき振り返り、気が付いたら
自分が周りから「離人症」という、周りから外れた存在であるという位置付けを
されていた、といった感じで、確かにそれは社会から見れば反社会的な人間なのですが
いつの間に自分は「社会」の側から離れていたのか?そもそも、
もともと所属していなかったのだろうか?
なぜそれが「自分が普通の人と比べておかしくなっていった」ということに
ならなければならないのか?それだけが今でも納得できていません。
誰かが言っていた「実存は本質に先立つ」という言葉によって、かろうじて
納得したフリを演じることはできるようになりましたが。
>>495 自我が暴走するのとは対照的に意識が、ということですね。
「嫌な感じ」とは、自我が発散されないことによる
体自身の抑圧された感覚のことでしょうか?言わば船酔いならぬ「自分酔い」
のような感覚なら身に覚えがあります。
>>498 >「嫌な感じ」とは、自我が発散されないことによる体自身の抑圧された感覚のことでしょうか?
「自我が発散されない」は正しいと思う。なんかモーターが頭の中で高速回転している
ような感じ。何かを考えすぎているように思えるのに、何を考えているのか分からない。
サウナで暑過ぎてぼーっとしているような状態なのに、身体はもちろん暑くなんかないことを
知っている。船酔い?吐き気を伴わない船酔いには似ているかも。
でもこの感覚は離人以外でも体験したことがあるんだよ。
24時間くらいぶっ続けで読書していた時とかに。多分、脳が考えすぎてるんだ。
徹夜した時のナチュラル・ハイにとても良く似ている。頭が締め付けられているみたいなのに、
その状態から逃れようとする気が起きない。どこかで、この状態を歓迎している自分がいる。
止めたくないと考えている。私が読書から抜けられなくなるのも、この感覚のせいだ。
アルコール由来ではない、酩酊状態。
そこからとりとめもなく連想する……だとしたら、離人状態には中毒性があるのでは?
もういっそのこと離人症を全肯定してしまうとか。
離人症とは余分な意味や身体由来の感覚をすべて切り捨てた純粋に客観的な、
人類が到達しうる最も高度な意識状態のことである。
それは個体の安楽を犠牲にして社会に貢献しようという
最も倫理的な態度なのだ。
メディアの影響があったとしてもそれは必ずしも悪いことではない。
そもそも90年代以降、社会全体が離人症的に関心の対象を意識(=心)に
集中させているわけで、そういう状況の最先端に離人症者はいる。
99%の離人症者が苦しむだけの人生を送っても、
1%の離人症者が社会に知的な貢献ができればOKなのだ。
しかし社会はますますベタ化しつつあるので、
離人症者もやがてメタな態度を放棄するかもしれない。
だから知的緊張感のある今のうちに、
できるだけメタな思考を楽しむくらいの姿勢でいいのではないか。
502 :
考える名無しさん:2005/05/19(木) 12:30:25
論理(権威)が主人のように振る舞う。生きたいのに生きられない。
私=私の等号を成立させること。
ニーチェの力への意志だって、漱石の自己本位だってハイデガーの世界/内/存在だって
結局は「私=私」ということを言っているんだと思います。
503 :
考える名無しさん:2005/05/20(金) 08:45:56
世の中には「私は私」などとトートロジーに浸る浅薄な人間も存在するが、それは思考停止に他ならず、知性の敗北でしかない。
――ナポリタンのガイドラインより抜粋
私は私といってるやつには、馬鹿もいるし賢い奴もいる。
これも判断基準にならないから思考停止だよ。
>>503 要は、個人として責任を担う以上に力を
有しているかどうかであって、態度やスタイルの問題じゃない。
浅はかな人間は、俺は俺といって引きこもったまま
無責任状態で、相手を操作しようとするのさ。
>>504 何が言いたいのか伝わらない日本語だ
もっと正確に書くようにしなさい
我々の行使する「理解」という手段は、決して自由なものではない。たとえばランダムなノイズを
見て「理解する」ということはどうしても困難である(連続の度合いを「模様」として解釈できる
場合もあるが、だからといってデータそのものの類似性を厳密に判別することは難しい)。
さて、では「私」とはどうか?これは極めてアバウトな表現であり、「私」の中には道具や服装、
果ては体調、気分や思考、記憶まで含まれる可能性がある。それでも「私」という表現は
好んで使われる。つまり、そういうふうに「理解」しておくと、応用が利き、簡単だからである。
「私」という表現は理解しやすい。何故なら、人間はその身体の制御権を持っているという
ことを本能的に自覚するように設計されているからである。それは適切な遅延(約コンマ1秒)で
応答が返ってくるものを、本能的に「一体感」を得て、「特殊な領域」として「理解」する
という設計である。多くの人は、単にそれを「私」と呼ぶ。
麻酔は、身体を「私」から引き離すための簡単な方法である。麻酔のかかると、その部位は
たちまち、ただの肉に成り下がる。その肉が自分の一部であるという事実は、直感ではなく
推論によってしか得られなくなる。その状態は、「私」が一種の幻想であるという点を極めて
良く表している。もし脳にとって感覚だけが全てなら、道具と身体の間に明確な線引きなど
できようか?
サールは、この点をすっかり忘れて中国語の部屋を提唱した。無論、前提が間違っているが
故に、「理解」についての結論も間違いである。脳にとって、自身の身体と辞書との間に
存在する差異は、習熟度と応答速度の違いだけでしかない。ならば「理解」の行使者の領域は
拡張されてしかるべきであり、そこには明確な「理解」が存在していると認めるべきなのだ。
「私は私だ」。人はそう言うが、前述のように「私」とは刻々と変形する領域として存在する。
ならば、そこに足場を求めることは如何なものか。「私」が意味する領域が安定している
ことを前提に思考を積み重ねたところで、それは現実を無視した理想論でしか無く、現実の
混乱への対処とはならないのではないか。私VS世界という固定観念を捨て去ることでしか、
真実へは到達できないのではないか。世界を受け入れるか、拒絶するかの二択に陥る
状況それ自体が、もう何かを間違ってしまった後の、どうでもいい選択なのではないか、と。
では代案があるかというと、そういうわけでもなく。
そこにはただ不安定で、変化し続ける私を、バルトアンデルスを肯定する、あいまいで
あやふやで、それでいて絶対無敵にして壮絶華麗な、言葉にならない決意があるだけで――。
いずれ人は猿であることを止め、何者でも無くなり、脳に放出される化学物質を指して
それを「感情」と呼称するようになるのだろう。いつ「喜び」が生じ、いつ「怒り」が
生じるのか。いつ「悲しみ」が生じ、いつ「嫉みと哀れみ」が生じるのか。そしてまた、
いつ「思い出」が生じるのかを理解し、行使するようになるだろう。しかしそれは感情の、
猿に対して暗黙に与えられてきた目的の、形骸化である。心というものをブロックに
分解できるようになることで、人はそれを望むように再構築できるようになる。
活発な人間になりたければそのように。努力家の人間になりたければそのように。
それが幸せを、否、他人より良い状況を生み出せる手段と成り得るかは不明だが、
しかしそのようになるだろう。賢い子供は親を見限ることを知り、望みの人生を手に
入れるために聾唖者を演じるのだ。それで苦痛を避けられるのなら、他人が
何を言おうと、それが幸せというものなのだから。それはもとからそこにある感情で、
望むならいくらでも手に入って、そして生きるのには困らないのだから。退廃とは
ユートピアの現実。人がずっと望んできた、とても素晴らしい、最悪の未来だ。
世界がずっと平和だったなら、いずれ一匹の蝿が世界を滅ぼせるようになるだろう。
大昔からいる「隠者」というのは離人症なのかもな
離人はそもそも他人に興味がないからなぁ。
積極的にレスつけるってより、なんか独り言みたいになっちゃう。
前の方で、離人をやたら過大評価してる人がいたけど、
政治も社会貢献も一切興味ないですから、離人は(というか少なくとも僕は)。
自分にしか興味がない(社会的な自分って意味じゃないよ。そんなもんに興味はない。
他人に興味がないのとまったく一緒で)。
自分がなんなのか知りたくて、救いたくて、ただ自分のためだけに、
いろんなこと考える。
だから、そんなことがもし自分以外に誰かの助けになるのだとすれば、
結局それは自分と同じような人間だけだろう。
そんなやつはたぶんいないだろうけど、
もしそいつがいれば、
そして、もしそいつを助けることができたなら、
それはとてもうれしいことだろうと思う。
後半三節は永井均も同じ様なこと言ってたな。
>>510 俺は離人の自覚ないんだけど、自分の事言われてるようだ…。
自分に無関心なんだよな。だから逆に、自分を取り巻くシステムの矛盾だけが酷くリアルに感じられる。
あるべき場所に存在しないもの。無駄なのに残っているもの。必要なのに足りないもの。間違っているのに続いているもの。
それらが嫌でたまらない。婉曲な表現から成り立つ茶番に対する嫌悪感が、傲慢な自己犠牲とも取れる行動を生み出してしまう。
おそらく状況の傍観者を演じるには、私には経験が足りないのだろう。
無関心になるのを避けるため、積極的に他人や過去の自分と違う選択肢を選んで生きてきた。
人生に退屈しないように。
しかし、この対症療法もいつまで保つのやら。仕事にも趣味にも自分にも退屈した後は、私はどう生きたらいいのだろうか。
世界の敵とやらでも演じてみるべきか?
そこで西尾維新ですよ。
514 :
訂正:2005/05/28(土) 08:55:32
それも判断基準にならないから思考停止だよ。
>>503 私は私といってるやつには、馬鹿もいるし賢い奴もいる。
大切なのは、個人として責任を担う以上に力を
有しているかどうかであって、態度やスタイルの問題じゃない。
浅はかな人間は、俺は俺といって引きこもったまま
無責任状態で、相手を操作しようとするのさ。
世界の敵の正体が、単に浅はかな人間だったらイヤダナ。
すごく気に入った。
>>508
嗜好性を殺していなかったなら、この女に積極的にアプローチ
していただろうになあ、と思うことが最近多い
それ以上に、それを遮断しなければならない何かがあるのだろう
本来生きるはずの自分を、故意に生かしていない感覚
そしてそれによって生じる苦痛や辛さだけはそいつに背負わせている
身勝手なものだ、と我ながら思う
本来「自己責任」と他人から呼ばれるものを、そいつに背負わせているのだから
相変わらず、酔っても意識はこのままだし(最近酒にも強くなって尚更)、
何をしていても楽しいともつまらないとも感じない
世界にも自分にも、色彩や薫りが失われています
世界の敵、本当に演じられそうな気がします。自分は世界の側に居ないのだから。
それとももう今既に実行してる最中かも。
キルケゴールの訳書は読みにくい
社会の水平化、個を持たない大衆、矛盾律の止揚を批判していたんだろうか
517 :
考える名無しさん:2005/06/09(木) 21:18:34
性的欲望とは色眼鏡でありそれを抹消してこそ真に普遍的な意識状態といえる。
しかし「真に普遍的な意識状態」に到達したいと思うのも一種の感情であり、
そこには普遍的真理に到達して世間に認められたいという欲望がある。
しかしその欲望も否定してしまうと何もかも無意味になるので、
それは思考する人間の公理(足場)として受け入れねばならないだろう。
とはいえそういう「死の領域」は何度か経験する必要がある。
さもないと認識の限界を見極めたとはいえないだろう。
>>518 人間は性的存在でしかありえない。
それが人間のスペックというものだ。
器質そのものに異常なリ変調なりがあるのならば、そのスペックは変わるかもしれないが、
そうなった上で理性的論理的に真理なるものを高度に思考することは、まあ実際難しいだろう。
あと「死の領域」は物自体とか現実界の中、あるいは触れたものであるならば、
それはほぼ無理だろう。
やはりそれがスペックというものだ。
>>519 >そうなった上で理性的論理的に真理なるものを高度に思考することは、
>まあ実際難しいだろう
いや、性欲を失った状態でも理性的に思考することはできる。
たとえば俺はもう20年以上もまともな性欲がないが、
「テレビが推進したパターン化によって人間的感情の出番はなくなった」
という発見をすることはできた。
ところで性欲がなくなると「経済」というものがわからなくなる。
「経済」とは異性愛のシステム感情を社会に適用してはじめて
成立するものだったのだ。単細胞生物に「経済」はありえない。
「経済」がわからないから働く気が起きない。
働くどころか他人とつきあうということもわからない。
しかし俺はその原因を徹底的に追究しなければならないと思ったから、
徹底的に社会も異性も書物も言語も生命も物質もあらゆるものを拒否した。
そういう態度で生活するとやがて意識は「死の領域」に達するのだ。
この状態を経験したことがないやつが何を言っても説得力はない。
南北朝鮮が平和統一を画策しているが
そうなると統一朝鮮は核保有国となり
米軍も半島から完全撤退することになって
東北アジアの国際情勢は激変する。
これを好ましくないと考えるアメリカは
北朝鮮に奇襲攻撃を仕掛けるかもしれない。
テレビが心理や行動をパターン化することで人間から感情を奪うとすれば、
「文字」ももっと深い次元で人間の大切な何かを奪っているのかもしれない。
現代人はヒマを恐れる。常に何かしていないと落ち着かない。
サラリーマンは定年後、どうやって時間をつぶせばいいかと恐れる。
しかしまあ今ならテレビもあればビデオもあるし、
まんがもあれば雑誌もある。もちろん単行本は山ほどある。
それでは15世紀に活版印刷が発明されて書物が大量に流通する以前は
人々はどうやって時間をつぶしていたんだろう、と疑問に思うだろう。
しかしそれは話が逆で、文字が読めるようになることで
何も読んでない時間が精神的空白のヒマな時間になったのであり、
文盲の人こそ何もしてない時、最も充実した精神生活を営んでいたのだ。
それは自分が過去に経験したことの反芻だったり、
あるいは祖先の声を聴いて氏族や民族の歴史を追体験することだったりする。
古代人は過去の歴史をありありと思い出すことが出来たから、
歴史を書く必要がなかった、とルドルフ・シュタイナーは言っている。
なんで俺は活版印刷以前の人間の精神生活がわかるかというと、
俺自身いろんなことを考えてなかなか本を読む気になれない人間だからだ。
しかしテレビを見なければ集中して本が読めるらしいことが最近になって
わかってきた。しかしなんか本を読むという行為は生ぬるい娯楽のような
気がしてなかなか読書する気にはなれないのだった。
★司馬遷というのは宮刑に処せられた罪人だったのか
ニーチェが発狂した瞬間の記述を読みました
有機的な他人の痛みが分かる限りは、きっと同情という原罪から
逃れることはできないのでしょう
たとえ離人者といえども
>>525 鞭打たれる馬を庇って泣いた、ってやつ?
ニーチェはいい奴だ。
同情が原罪だ、ってニーチェが言ってたっけ?ムートン氏の思想?
>>526 私の思想です。キリスト教によく登場する言葉として、皮肉を込めて言ってみました
誰もがそれを内に秘めているけど、ごく稀にそれが全く表に出てこない人間も
いるようですね
528 :
考える名無しさん:2005/07/01(金) 00:49:55
高知明徳義塾における事件の少年は哲学好きだったようです。
彼の日記は極めて冷静な自己分析です。
彼はこう言うでしょう。
感情に素直に従った。
彼には理性と感情の分離傾向が見られます。
彼にしてみれば肥大化した理性による「判断」に過ぎなかったのかもしれません。
憎しみは誰にでもあります。しかし人間の持っている社会的欲望
(ルールの中で生きる)もまた欲望なのです。彼にはそれがわからなかったんでしょうね。
ムートンは感覚が鈍ってるんだろう。
機械を操作する工場で働かない方が良いぞ。
気がついたら指がなくなってる事もあるから。
530 :
考える名無しさん:2005/07/02(土) 00:06:18
コリン・ウィルソンが「アウトサイダー」で語っているのは実存から引き起こされる離人症の事だと思うがどうよ?
531 :
考える名無しさん:2005/07/02(土) 06:53:31
>>520 「死の領域」の先がある。
俺はGIDで性欲があるのか無いのか、よくわからない状態を経験してきた。
他者がどちらの性であっても既に体が拒否し、閉じ込められている感覚だった。
恐らく生まれながらそうっだっため、経済が何かわかったことすらない。
「死の領域」に長くいると、なぜ、この世界が無から有を選択したのかを感じられる。
あらゆる存在に内在する意識を取り込み、シンクロさせると違う世界が見えてくる。
人でもない、死でもない、その領域が何かはあえて言わない。
マトリックスを作った奴もGIDだった。彼等も「見てしまった」んだろう。
>>520 なくなったのは性欲ではなく「家族という幻想」だと漏れは思うのね。
性欲というものは非常に特殊な場合か、老化によってなくなるかも知れ
ないけど、ふつうはなくならない。生物学的な基礎があるから。
しかし、それよりはるかに壊れやすいのが「家族という幻想」なんじゃない
だろうか。そして、「家族という幻想」が壊れてしまえば、それを基礎
として構築されている経済というものの幻想性も壊れてしまうわけ。
性同一性障害については、自分がそうではないのでなんとも分かりませんね。
でも他人には分からない、という点では離人症と同じだと思います
もしかしたら離人よりもさらに重い症状なのかも知れませんね
私はこんな状態でも、自分が少なくとも男で
女に対して性欲がある生き物なんだというのが分かりますからね
これからR・D・レイン「引き裂かれた自己」を読みます
その次はフッサールかハイデガーで現象学について勉強しようと思います
それからソクラテスとプラトンについて・・・
今の生活の中で、またこれから生きていくために、今は本を読む時間が
一番貴重な感じです
534 :
520:2005/07/03(日) 22:27:09
大人になったのに性欲がないというのはつまり成熟拒否だ。
まあ俺の場合、女に限らずあらゆる意味という意味を削ぎ落とすと
世界はどのように見えるのかといって正当化するのが悪いクセなのだが、
そうでなくても一般に今の若者は成熟を拒否している。
例えば「セカイ系」と呼ばれるライトノベルではキミとボクの問題が
即世界の運命に結びついて中間の社会が抜け落ちていると言われるが、
抜け落ちてるのが中間だけならまだ小説も読めるが、俺の場合「キミ」
という対象のリアリティもなくなるので小説さえ読めない。
(「世界の運命」を見極めようと科学や歴史の本なら多少は読める)
しかし「社会」が抜け落ちるだけでも実は大変で、経済活動の意味が
わからないからニートが増える。結婚(自分が家族を作ること)の
意味がわからないから非婚&少子化が進行する。
主流メディアはニートや少子化を問題にするが、対症療法だけで
根本的原因を探究する姿勢はない。しかしその根本的原因がまさに
主流中の主流メディアであるテレビだというのは皮肉な話だ。
535 :
考える名無しさん:2005/07/04(月) 06:12:27
>>534 意味など元からなかった。
知らなければ何かに望みを持って行動することができるだけではないだろうか。
我々の潜在意識、集団無意識は、人類の役目が終わりつつある事を「知っている」のだと思う。
人類は滅びゆく不安定な種だったんだろう。
表面的な原因はテレビだろうが、そもそも人類がミーム覚醒のブースターにしか過ぎない。
俺も哲学や仏教思想に入ったきっかけは離人症のような茫漠とした
生きている実感のなさ、世界とのズレ、自分の肉体感覚のなさだった。
土方やビル掃除のバイトをやってたので、肉体は動かしていたのだが
どうしても肉体感覚のズレや世界の在り方に距離があって理解ができない。
非常に苦しいものであった。コリン・ウィルソンを読むと、非常に近い
肉体感覚のようで共感した。コリン・ウィルソンはかなり読んだな。
彼の本は疲れた人への応援歌で、一本調子だから飽きるけど、職場の
人間関係に疲れた日曜日に、たまに読み返して自分を慰めている。
537 :
考える名無しさん:2005/07/04(月) 07:15:20
よくわからんが、ユングの集団的無意識、フッサールの超越論的主観(現象学的主観)は同じものを指しているのかもな。無我ってのもそうかもしれない。
それによる認識は比較的普遍性を備えているに違いない。
自己の深部に下降していく程に普遍性は上昇する。
なるほど。自己を客観視する新たな自己が「生じる」のではなくて、無意識の意識化が起るにすぎないんだろう。
無意識の意識化が認識を高めるならば、知とはプラトンの言うように想起なのかもしれないな。経験はきっかけとして必要であるにすぎない。
次の人生ではさっさと力つけて早めに親を見限ることにするわ。
541 :
考える名無しさん:2005/07/04(月) 19:21:53
プラトンの想起=暗黙知とも言えそう。また構造主義も=で結べそうなお燗
542 :
考える名無しさん:2005/07/04(月) 19:35:01
構造主義ってラカンとか?
フロイトとか?
よく知らんがなだが、無意識の意識化は他者の欲望から離れて、自分本来の欲望を知ることじゃないか?
それが治療になるわけよ。
無意識の意識化は本来性を取り戻すことだな。
>自己の深部に下降していく程に普遍性は上昇する。
そうそう、離人症者(やひきこもり)が社会に違和感を感じるのは
あまりにも深い普遍領域に入ってしまったため、
現実世界との間に次元断層ができた状態といえるかもしれない。
さてこの深い領域に達した状態を本人は、とても高度な認識の成熟と
感じるのだが、周囲からは成熟を拒否した幼児化と見られる。
これはパラドックスだ。
そもそも自分は何を目的に生きるべきなのかを考えた場合、
恋愛は世代交代の手段で世代交代は進化の手段だから、
結局社会の進化(進歩)のために努力するのが最も高度だという
結論に達するのはいいがその肝腎の社会の進歩がすでに終わっている。
世間はセキュリティ論花盛りで「子供にとって安全な社会を作りましょう」
というものの、そもそも進歩がなくなったら子供を作る意味がない。
自分の子供の世代は自分たちより歴史を前進させてくれるだろうと
期待するからこそ子供を作り育てる気にもなるのだが、そういう期待が
できなくなったから今の若者は結婚も仕事もする気がしないのだ。
というわけで人類はもう滅亡を待つだけだ。
>>542 >無意識の意識化は他者の欲望から離れて、自分本来の欲望を知ることじゃないか?
>それが治療になるわけよ。
いや、他者に影響されない自分だけの欲望というものを追求すると欲望は
成立しなくなるのでそういう作業を続ける人間はひきこもるしかなくなる。
(宇宙はなぜ存在するのかとか、宇宙の目的達成へ向けて自分には何が
できるのかと、話がどんどんデカくなる。自分本来の欲望とか言い出すと)
進歩という意味を意識化した人間は進歩がなくなると生きる気力がなくなるが、
もともと意味とか目的について何も考えてない人間は大したダメージを受けない。
(と
>>535氏も言っている)
>>545 そうだね。
自分だけの欲望というものは存在しない。
治療とは忘却と断念だよ。残念ながらね。
ビルドゥングスロマンに魅了されるのはよろしくない。
547 :
考える名無しさん:2005/07/05(火) 03:37:33
>>542 プラトンや暗黙知と構造主義が=と言った意味は、三者とも、事象の背後に隠れているものを探り当てるという意味。フロイトは表層意識の背後を、クロード・レヴィ・ストロースは宗族社会の背後関係を探り当てたから
548 :
考える名無しさん:2005/07/06(水) 07:22:28
離人症の辛さを知らないくせに…
>>543 自分の「肉体」を忘れて考えつづけていると、皆その答えに行き着くことでしょう。
そうなる前に、健康な人間は自分の肉体及び肉体の存続そのものが目的だから
考えを即座に中断するという正常な行動を取るのでしょう。
離人にはそういう執着が根っから存在しないので、どこまでも行ってしまう。
この辺でやめておけ、という肉体(及び肉体としての頭脳)からの信号が遮断されているため
快感や不快感や恐怖を越えてどこまでも行ってしまう。
限界と言えば、せいぜい肉体が疲労した時に回復を要することぐらいでしょう。
そうか、肉体を蔑ろにして、見れる限りの夢(悪夢)を見つづけているのが離人症なのか。
今私は思いました、きっと人類はこれから存続や進歩や滅亡すらすることもないだろうと
もうすべてあきらめる時期かも。
進歩の時代は完全に終わり人類はかつてのような意味を取り戻すことはない。
離人症者の極度に理性化した意識が感情を回復させることもない。
これは病気というより歴史の終わりに先端的人間が味わう必然的状態だ。
マスコミはあたかも世界が30年前と何も変わってないふりをしているが、
(例:愛・地球博)本当はもう何もかも終わっている。
しかしテロや戦争、経済恐慌、感染症爆発などは少しも危機ではない。
人間が少しずつ人間でなくなってゆくのが本当の危機だ。
以上ここは人類に未来はないことを確認するスレになりました(笑)
ムートン氏はこれから現象学を勉強すると言うが・・・結構なことでは
あるが、不毛な時間つぶしになると思うよ。。。それよりボクシングとか
格闘技を習うことを漏れなら勧めるな。肉体を鍛えてあるルールのもとで
相手と戦う。死力を尽くして。それが離人症克服の道になると思うよ。
正直言って、哲学や精神医学を学んで離人症を克服できるわけがないんだ。
克服したくないなら話は別だが。前にも言ったとおり離人症者として生きる
こととは道なき道を行くこと、ジャングルや砂漠や山岳の冒険者として生き
ることと同義だからな。君は離人症を治したいのか、それとも・・・
553 :
うあああ:2005/07/10(日) 17:27:21
離人症なら、ボクシングより合気道のほうが簡単に学べると思うけどね。
相手の運動ベクトルを自分のそれと同じく意識下に置くことができれば、負けることなんか無くなるんだし。
あと念のために言っておくとね、末人は決して不幸な存在ではないのだよ。
むしろ、不幸なのは古くさい勤労観やカネという尺度に縛られて、余分でムダな努力を続けるうちに、
目の前の幸福の認識方法すら忘れてしまった現代人のほうなのさ。
このまま生産の自動化とデフレが進み、幸福に生きるために必要な全ての物質が
容易に手に入るようになれば、文化は変わる。
価格が需給とは無関係になってしまうのだからね。
554 :
552:2005/07/11(月) 15:13:01
いや、離人症に合気道はまったく無理だ。離人者にはそもそも相手の気を
かんじることができないんだから。合気道ができるくらいなら離人ではないよ。
555 :
552:2005/07/11(月) 15:48:13
・・そうね、早とちりしたがムートンはべつに「治りたい」わけじゃない
のだろう。第一、治るなんて無意味だよな。ひとはそれぞれ自分に与えられた
運命の道を歩むのみだ。ただ単に違う風にうまれついただけで、正常だ異常だ
というレッテルを貼るのは、多数者による恣意的な差別づけかも知れない。
556 :
552:2005/07/11(月) 16:11:20
・・ただ、いわゆる健常者がふつうに出来ていること、つまりごく自然に
社交的に集まって、雑談してるところをいつも見せつけられるから、そう
いうことがまったく出来ない自分にある種のコンプレックスを抱かざるを
得ない・・ということはあるよね。
ムートンの反論はなしか・・。ちょっとだらしないんじゃないの。
近況くらい書き込んだらどうなんだい?
>>552 酒や運動によって肉体が正常に流動するようになることに抵抗する自分が居ることは
以前書きましたよね。それは今も変わりません。
>>553 合気道のようなものも、自分としてはなんとしてでも避けたい種目の一つです。
存在しないものを無理に存在させようとするような真似に思えます。
幸福の認識方法という表現がありましたが、離人者は自分を殻で守ること
それ自体が全てに於いての「成功」なのだ、というような意味のことを本で読みました。
>>556 外界に対しては劣等感、自分の内では優越感を、その事に関しては持っています
社交的であることに対する羨望と、そうすることでしか自分でいられない人間に対する哀れみでしょうか。
ただ私は、自分がさも社交的であるような真似事はある程度できるんですよ。
問題は、外界と接する際には本当の自分といつも直結していないことですがね。
>>557 ここ最近、著しく離人感が強まってきています。もう後には引けないような感覚です。
よく考えれば、身動きや仕草の一つ一つが、まるで機械的で他人のようです。
仕事もある意味辛いです。人の気持ちが関わってくる部分というのが
やはり仕事上や社内の人間関係にもあるわけですが、そう言うときも依然として
自分が今まで作り上げてきた「対人マニュアル」に頼るしかないのは変わりないので
それにも限界が来そうです。
本当は高度な技術を要して人間性や感情を問われない仕事が、
自分には一番向いていると思います。商社といっても仕事が難しいと思うことは無いし
正直、毎日自分の殻を守るのにとても疲れます。
ちなみに私は、このスレに自分が<参加>しているという意識がない(というより持てない)んですよ。
このスレの最初のほうで断りを入れておきましたが、自分のことを語られている時でも、
まるで他人事のように眺めていることもあります。できるだけ気を付けますが、
そういう症状を理解いただければありがたいです。
私としては有意義な話を、私を含まずに皆さんにしてもらって
それを横見させてもらうのが一番勉強になりますよ。
なんか俺も最近一線を越えた感じがするなあ。
ビミョーに耐え難い状態が安定して続くようになった。
(コーヒーを飲むとラクになるが脳を興奮させすぎるのも
よくないので2日に1本程度)
小泉が国会解散して世の中がガラッと変わらないかと
少しは期待してるんだがなあ。
560 :
552:2005/07/27(水) 08:55:32
ふむふむ・・・。優越感ね。ムートン氏はなにかに喜びをかんじることは
あるんだ。それは何ですかね。いままでも書いたのかも知れないけど、この
スレをずっと見続けている訳でもないので、ムートン氏が内心、喜びを感じ
ているところ、拠りどころとなっているところをもう一度、披露してもらえ
ないかな? 社交には関心も適性もないかも知れないが、ほかに何かがある
のだろう?
・・・わかるよ。世界を敵に回すほど、巨大化した自己を味わえること、さ。
漏れも対象喪失がきっかけで離人症体験しますた。
今はだいぶ回復したけど、やはり哲学と精神医学に走りました。
理系なんだけどいまではフランク・パトナム、
ドゥルーズ(アル中・ヘビースモーカーだけど)や
カント(鬱で分裂気質っぽいけど)ととか読むようになったね。
僕は現象学嫌いですね。
フッサールはヨーロッパ中心主義だし。
確かに現象学は「離人症になれ」っていう学問ですねw
あと運動は大事だと思う。はい。
ジムに通って筋トレしたり泳いだり。
>>558 >合気道のようなものも、自分としてはなんとしてでも避けたい種目の一つです。
>存在しないものを無理に存在させようとするような真似に思えます。
ムートン氏が気を「感じる」ことができないという点は理解しているつもりだ。
しかし、「気」という暗示が自律神経系の意識的制御を可能にする
ということ自体は事実だよ。
私は自律神経系の活性化がムートン氏の精神に何らかの影響を与える
可能性について考える。
うあああ氏は、実体験によってその理論を述べているのでしょうか。
つまり、実際に自分が合気道を習うことによって、離人状態を克服できた
というような・・・。どうもそうではないような気がしてならないのですが。
>>560 自分vs自分以外の対立においての優越感、劣等感の繰り返しです。
拠り所は、自分がおそらく人間であるということです。
しかし人間じゃないと考えたほうがよっぽど合点のいくことばかりです。
>ほかに何かがあるのだろう?
あるのかないのか。それを自分以外に分からせないことですよ。
>>564 自分はそもそも幼少の頃から自我が抜け殻のような人間でしたが
運動してる時は、自分は運動しすぎだなと思ってました。
運動の継続をぱたりとやめてしまってからは、
ようやく外からの強制的な気の影響を受けずにすむ、と安堵したものです。
しかしそれもつかの間、次第に自分の中は濁ってきました。
「気」の自家中毒に陥ったんです。他人の「気」との唯一の接し方を
自ら排除してしまったんです。
そこで、ある程度は外からの新鮮な何かを摂取しなければまずいのではないかと
最近気付きましたが、今の自分の命題は、外から自分を守ることなんです。
まずそこから変えなければ。なぜ守る(接しさせない)必要があるのか。
世界に呑みこまれることを恐れ、世界を自分に引き込むことを望んでいるのが現状です。
何故こんなことを思うのか。
567 :
552:2005/08/03(水) 09:01:59
いいかげんに韜晦はやめようよ。意味わからない答えだぜ?
568 :
考える名無しさん:2005/08/06(土) 22:09:25
>>なにかに喜びをかんじることはあるんだ。それは何ですかね。
それはきっと、自己が世界からの呑みこみや石化、侵食などから
害されることの無い状況下にあること、そのものだと思う。注意すべきなのは、
そのような状況下に自己をもっていくことそのもの、ではないこと。
何かに意味を見出すことを放棄した状態というのが近く、その結果として
目的が無いと言い切ってしまうのも正解でしょう。
思ったよりも、世の中にとって厄介なものを育て上げてしまったようです。
もはや自分が迷惑をかけることの無い人間など存在しないかもしれない。
存在そのものが世界にとって迷惑。
こんなセリフさえ、他人事。
570 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 22:55:06
>>569 目的が「ある」と 自分以外のものはすべて
その手段・素材と映る。
「無い」と それらは自己と同列の存在となり
敵対物のごとく肥大化する。
571 :
552:2005/08/09(火) 01:02:39
あまり、私にはわかりやすい答えではなかった。あなたが世界に敵対するのは
世界が究極のところ、無目的に動く巨大なかたまりに過ぎず、信頼するに当たらない
とあなたが感じているからではないだろうか。
あなたにとって自覚はされていないが、ある理想的な世界のイメージが存在し
現実の世界があなたのその理想に合わない、完全に相反している、と感じるがゆえに
あなたは「現実の」世界を敵視し、間違っているのは全権力を掌握している
世界のほうだと確信し、「最後の勝利」はじつは自分のほうにこそある。
たとえ、破れようとも自分こそは大義の側にある者である、と。
いぜんにも、少し出てきた議論であるが、離人と原理主義的テロリストの
心情には共通したなにかがあるのだ、とわたしは考えている・・。
>何かに意味を見出すことを放棄した状態というのが近く、
>その結果として目的が無いと言い切ってしまうのも正解でしょう。
仏教のニルヴァーナみたい。
社会学者の大澤真幸氏が最近出た本で面白いことを言っている。
それは日本人は西欧哲学の概念を漢字やカタカナという形で表記して
いつまでたっても日本語としては受け入れないし感覚的にも
しっくりこないので日本では伝統的に文芸批評家が西欧哲学を
噛み砕いてわかりやすい言葉で説明してきた。
しかしいったんわかってしまうとそのような外来語の概念ほど
明晰なものはない。言語というものはやまとことばであれ元々疎外感を
ともなうものであり外来語のみがしっくりこないわけではない。
(ここまでが大澤の議論)
しかしあいまいな言語生活の中でたまに明晰な言葉を使うのならいいが
言語の過半が明晰になってしまうと自己意識がはっきりしなくなって
離人状態になるんじゃないかと思った。
>世界に呑みこまれることを恐れ、
>世界を自分に引き込むことを望んでいるのが現状です。
理性の一線を守ろうとしてるわけやね。
しかしムートン氏が喜びを感じるという「自己が世界からの呑みこみや石化、
侵食などから害されることの無い状況下にあること」という状態そのものが
まさに離人症の正体であることが厄介なとこだろうな。
わずかに喜びを感じる状態を求めれば求めるほど離人症はひどくなる。
かといって自己防衛を放棄してしまえば自分は自分ではなくなる。
こういう人間は淘汰される運命なのかもしれん。実際一般社会では
そんな問題は存在してないことになっている。離人症やうつ病になるのは
ごく一部の人間だと。しかし実は今の社会で活躍できるのは理性のない
サルであり1990年代あたりで地球上の人間とサルが入れ替わっているのだ。
574 :
1:2005/08/09(火) 02:02:24
わたしの解釈では(だからもちろん誤っているかも知れないが)、ムートン氏
が社交のなかでしか「自分でありえない者たち」に憐れみすら感じるのは
彼らがいかに楽しそうであれ、彼らがじつは真の理想、真の大義から見放された
者たちであるからなのです。それはかってキリスト教徒が異教徒たちにそそいだ
まなざしに似ているかもしれません。ある確信が、かれらがじつは「誤った道に
迷い込んだ者たち」=迷える子羊たちであり、みじめに見えるかも知れない
自分こそは、彼らを正しい道に引き戻す使命をおびた「牧人」であると信じて
いるのです。この信念こそがよりどころなのであり、もし、その信念を捨てて
しまえば、ムートン氏にとってはすべてが崩れさり、あとに残るのは底しれぬ
深淵のみとなるのです。
573氏のことばを借りると
575 :
訂正:2005/08/09(火) 02:09:03
もちろん、1ではなく552。
576 :
552 :2005/08/09(火) 15:36:38
(独白)
・・確かに「理想」はあるだろう。しかし、離人において特異となるのは、
「理想」が「現時点」で「現実であるべきだ」とする確信の強さにあるの
だろう。離人者にとって「歴史哲学」は存在しない。いっきに「来るべき
もの」が現前すべきであるという過激主義、それが離人者の「歴史否定」
の根底にあるものではないだろうか・・。
577 :
552 :2005/08/09(火) 15:52:17
(独白)
デリダが「黙示録的語調について」論じていたのを思い出した。デリダは
歴史派だからね。一貫して、離人者の哲学を批判し続けているのだろう。
アポカリプス・ナウ・・・か。
離人者に過去がないのは離人者が子供の時間を生きているからだろう。
子供に歴史意識はなくただ現在を生きているだけだが、
これは子供がまだ活字を読まないからだ。
活字の世界は基本的に過去の世界なので本を読む人間は必然的に
過去と現在を往還することになる。
かつての子供は小学校高学年あたりから本を読みはじめたし、
本を読まない子供でも普通に大人になることはできた。
ところがテレビが登場して事情は変わってきた。テレビの世界に過去はなく
そこはめまぐるしく移り変わる子供の時間が支配している。
だいたい人間は14歳くらいで子供から大人の時間に切り替わるのだが、
テレビを見続けるとこの切り替えがうまくいかなくなる。
だから性的成熟も拒否するし物質世界の存在も拒否してしまう。
おまけに経済的自立もできないことが多い。
子供であることの自由を手放したくないからだ。
だからこの状態から脱するには歴史の本を読むのがよい。
ていうか最近人気作家が歴史小説家に転向するケースが多いのは
(例:北方謙三、宮部みゆき)時代が要求する癒しが歴史ものを
読むことにあることを感じ取ったからだろう。
また江戸時代の地図を頭に入れて散歩すれば現在の東京にリアリティを
感じることができるという意味の散歩ブームもある。
まあ一切の歴史知識を排除して現在の情報のみから認識を組み立てる
というのも立派な態度ではあるが、ずーっとそういう態度を続けると
精神的に行き詰まってしまうので息抜き程度に歴史や郷土史の本を
読むという程度なら許されるのではないか。
579 :
552:2005/08/10(水) 08:43:05
また、テレビ悪者説ですか?
逆だと思いますね。離人者になる動機があるとすれば、テレビよりもむしろ
本だと私は思いますね。過去・現在・未来というのは切り離せない構造だと
思いますから。離人者にはこの構造自体ができていないのであって、現在の
みを生きているわけではない。テレビというメディアはむしろ過去・現在・
未来という構造をつくるのに大いに寄与していると私は思います。ただ、
歴史の本を読むという行為は、確かに時間性を意識するのに役立つかも知れ
ないとは思う。でもそれは、テレビなどで歴史番組(非常によくやってます
が)を見るのとどう違うか、わかりませんね。とにかく、テレビ原罪説には
首をかしげますね。私自身、テレビはそう好きでなく本のほうが非常に好き
だったのに、過去・現在・未来構造が形成されるということはなかったです
から。
580 :
552:2005/08/10(水) 09:46:00
なぜ、テレビが過去・現在・未来構造をつくるのに寄与すると考えるのか、
説明が必要ですね。テレビは、おなじタイミングでおなじ情報を発信する
ことによって共有の情報をプールし、会話の材料を提供するからですよ。
つまり、テレビは会話のテーマを提供し続けることによって、会話の現在
というものを演出・上演する手助けをするのです。
>>580は
「テレビには現在しかない」ことの理由を説明しているとしか思えない。
>578で俺は「離人者は子供の時間を生きている」と言ったが
子供は身体的快楽のみを求めるのに離人者は身体的快楽を失っている。
これは、離人者は身体的生長が終わっているのになお身体的快楽を
得ようとするから何の快楽も得られないのだと説明できるだろう。
離人でないひとが、観念的に離人を理解しようとしても無理がありますよ。
まったく見当はずれな議論です。
どこがどう見当はずれなのか説明してくれ
>>582 経験の特権性を利用したナルシシズムに過ぎない。
精神科医は離人症者を治療者として多数接していくことで(もちろんそれ以前に、
離人症について勉強したというバックグラウンドがあるが)離人症を理解することができる。
また、別な見方としては、治療することができれば、理解する必要すらない。
理解が治療の前提であるというわけではない。
585 :
552:2005/08/16(火) 14:10:09
581=584と仮定して、返事します。返事が遅れがちなのは申し訳ない。
ちょっと、ワケありでね・・・。
で、581だけどさ。身体的成長が終わっているひとというのは、いわゆる
大人のことを指していると思うけど、大人が身体的快楽を得ようとしないのに、
離人者は得ようとするから何の快楽も得られないって言ってる。そんな理屈は
おかしいもいいとこだ位、誰だってわかる。ラブホや、フーゾク店は乱立するは
さんざん食道楽して、美食にふけるは、競馬、競輪、ギャンブルに狂うは・・・。
いったい、いい大人が、快楽追求に血道をあげていないなんて誰が信じる?
欲望追求全開なのは、子供じゃなくてむしろ大人のほうでしょう?
こうやって、いちいち言わなければ自分の「見当はずれ」に気づかないのか?
586 :
584:2005/08/17(水) 22:21:29
>>585 当方は581じゃない。
んで、581の書き込みの文脈をひいてもいない。
ので、
>離人でないひとが、観念的に離人を理解しようとしても無理がありますよ。
という文章のみをレスの対象にしている。バックグラウンドなし。
581が言っていることなどを肯定したつもりは毛頭ない。
587 :
552:2005/08/18(木) 15:12:37
・・・その文章は581を書いた人物に向けられたもので、それだけを
取り出して一般化するなら、もちろん多くの面接経験をもつ精神科医が
離人者にたいして、ある種の理解をもつということは充分に考えられます
ね。ただ、文脈(581の文にたいする応答であるということ)を考えて
もらいたいですね。
いろんな話が出ているようだけど、最早それを一つ一つ拾い上げて
反応するほどの「にせ」自己も、内容も、嗜好性も、私からは薄れています。
つまるところ私は、自分以外何も存在していないと考えているのです。
偽りの関係性(自己)でなんとか世の中を渡ってはいるけれども、
私にとって、自分の前に人が居ないときは、その人は存在していないのです。
私がこのスレを開かなければ、このスレは存在していないのです。
私が歴史の本を手に取らなければ、私は、幾多の戦乱を経て
つかの間の平和を手にし、その中で生まれ育った人間ではないのです。
私が生物史を忘れている時は、人類は何億年も前から
単細胞生物が進化していって誕生した生き物ではないのです。
最近の様子:
真の自己による、他者との関係性の創造を放棄して過ごしている中で
守りつづけている自己そのものに意味はあるのか?と考えると
この自己は自分だけでは何もできないし、外界に対して何者でもなく
ただ「自己である」という、それだけの事象にすぎない、
いや、事象ですらないのだということに思い至ります。
鏡が恐い。いつか鏡の中の姿を見ても、それが自分であると
断言できる自信が失われる日が来るのかと思うと。
このままこの本当の自己に対する不信感を抱えたままでいると、自己を守るはずの、
生きていく術である偽自己が目的を失って崩壊してしまうのではないだろうか?
そうなると命の危機になる。その時ようやく本当の自己が何か行動を起こすのだろうか。
君は商社に勤めてるんだったね? それでそんな独我論的状態で
やって行けてるというのは、ちょっと不思議な気もするが・・・。
>>589 それは一歩外に出れば全力で、今まで綿密な計算の元に築きあげてきたにせ自己を
フル活用して生きているからで、ここで語っているようなことは
にせ自己に独立して持たせている、常識に合わせた価値観 とも全く正反対の
自分の本当の状況、状態です。しかしこれほど全力を出し切ってにせ自己を
限界まで出し切るようになったのは就職してからのことですね。社会は甘くないです。
様々な角度から予期せぬ探りを入れられる中で、それでも自分を別人のように扱い、
守り通し、にせ関係性を他者と築くという行為を続けてきました。
こんな芸当を、なんの心の迷いもなしにできてしまうから、離人症なんじゃないかと思ってるわけですよ。
ただ、これもそろそろ限界が近いと思っているんです。
世の中や人が、そんな存在を許すほど寛容ではなく、はるかに賢く(特に決められたルールの中では)
また自分のにせ自己の構築にも限界があるということを身をもって知ってきました。
丸裸になってしまう前に何らかの対策を練るか、それとも流れに任せるか、
どちらかになるでしょう。
>離人症なんじゃないかと思ってるわけですよ。
思っているだけなら離人症ではないだろ。
本当に離人症なら症状やそうであるという確信があるはず。
>>591 ムートン氏は離人症だよ。
離人症者は自分を離人症であるという認識をもっていなければならない、などということはまったくない。
かつて離人症だったぼくが言っているのだから概ね間違っていない。
などという経験主義的な物言いは嫌いだが、実際離人症でしょうよ。
自分から、世界から距離をおいて自分を操縦することのわずらわしさは、
実際やってみるとそれを続けていくのは疲れるししんどいしやっていられない。
593 :
581:2005/08/25(木) 16:31:45
>>585 >大人が身体的快楽を得ようとしないのに、
>離人者は得ようとするから何の快楽も得られないって言ってる。
>そんな理屈はおかしいもいいとこだ位、誰だってわかる。
>ラブホや、フーゾク店は乱立するは
説明不足で申し訳ない。俺が言いたいのは子供にとっての身体的快楽と
大人の身体的快楽はちがうということなのだ。
ていうかむしろ子供の快楽のほうが精神的というべきかもしれん。
というのは子供の快楽とは進歩の快楽であり
大人の快楽は反復の快楽だから。
離人者は常に高い精神的境地を目指して努力するから意識がメタ化する
わけだが、これは子供時代の進歩の感覚を大人になっても維持し続けた
結果と言えよう。そして離人者(=哲学者)はあらゆる前提条件を
除去して考えようとするので最も根本的な条件である性欲を拒否する。
といっても性欲一般を拒否するわけではなくそれは理論的に肯定した上で
自分が特定の女とつきあうことを拒否する。
あるいは経済一般は観念として受け入れるが自分が特定の仕事をするのは
拒否するとか、暴力一般は認めても自分に危害が及ぶ可能性のある
暴力は拒否するなどというのも同じこと。
つまり一言でいうと現実から逃げている。
だからそういう現実を受け入れる一番手っ取り早い方法は特定の女と
つきあうことなのだが、自由恋愛がデファクトスタンダードになってる
現代ではこういう男はなかなか自分につりあう女が獲得できないので
俺はまず自由恋愛(タダマンやり捨て)を禁止しろと言っている。
しかし特定の女とつきあえば離人状態がすぐなくなるというほど
簡単ではないのはよくわかっているのだが(例えばテレビの問題)、
やはりそこが問題解決の入り口なのは間違いないだろう。
>>591 医者にかかったわけではないから、断言しないだけです。
自分では、他人がどう診断しようと揺ぎ無いほど確信してますがね。
分裂病者に関する記述に自分を照らし合わせてみるとよく当てはまる。
分裂病でもあるかもしれない。
>>593 確かに、離人症をなおすには=女性と愛し合うためには
という問題だと思います。今の自分には愛の疎通などどこにも存在しない。
現状をまとめました。
身体からの自己の離別は、耐えがたく苦痛なことであり、
離人者はそれをもとに戻すために誰かの助けを必死に求めるが、
しかし同時に、この離別は基礎的な防衛の手段としても用いられる。
このことは事実、根本的な矛盾を示している。自己は身体と結合し、
身体に埋め込まれることを望むが、それと共に、攻撃や危険から
逃れられない対象となる恐れがあるという理由で、身体の中に止まることを
常に恐れる。しかし自己は結局、たとえ自分を身体の外に置いたところで
こういう位置に自分を置くことによって望めたはずの利益を確保しつづけることが
できないことを悟るようになる。
そこで何が生ずるかは、今まで述べてきたつもりです。
595 :
うあああ:2005/09/05(月) 20:50:34
基本的すぎる質問で恐縮なんだが、ムートン氏はボディーイメージはあるんだよね?
「ここからここまでは自分」という感覚を得ている自分と、それを単なる知識として処理している自分が、
別れて存在していると推測しているのだが。実際はどうなのか?
596 :
考える名無しさん:2005/09/05(月) 20:53:42
>>596 投薬で何とかなるとは言えないなあ。
もちろん、投薬治療はやったほうがいいけどね。
>>594 >分裂病者に関する記述に自分を照らし合わせてみるとよく当てはまる。
>分裂病でもあるかもしれない。
分裂病ではないでしょう。あなたには「言葉」が通じる。
ただ、「分裂気質」ではあるかもしれない。
(クレッチマーの気質分類は古いという批判もあるでしょうが)
分裂気質だからといって分裂病になるわけではもちろんないので。
598 :
うあああ:2005/09/05(月) 21:52:16
ムートン氏が言う離人症の症状としては、あらゆる可能性を同時に考慮したり、感覚や情動が薄れていったり、などがある。
左脳は言語的思考と仮説を司る。右脳は直感(非言語的思考)と呼ばれる矛盾検出機能を司る。
右脳は様々な仮説を記憶と照合し、最もそれらしいものを抽出する。(この右脳の能力は、
だいぶ誤解されて「直感」や「想像力」などと呼ばれている)
さて、ここで離人症について考えてみると、その症状は左脳の機能にぴたりとあてはまる。
例えば「深刻さの不在」「問題の存在無視・否定」は右脳の損傷による左半身麻痺の患者などにも見られる。
彼らは麻痺しているはずの左半身を動くと言い張ったり、動かせない偽の理由をごく自然に作り出したりする。
矛盾を検出する右脳の機能が損なわれ、左脳の仮説を抑制する者がいなくなってしまっているためだ。
ここから一つの仮説として、離人症は右脳(ただし、左半身を制御する機能は含まない)か、または、
右脳と左脳の連絡経路が弱まり、左脳が活性化しすぎて情動などの他の機能を
圧迫していっている状態と考えることができるのではないだろうか。
599 :
◆EvilehrjfI :2005/09/05(月) 22:02:28
600 :
うあああ:2005/09/05(月) 22:07:35
便器のうんこを見て雷のような衝撃と共に離人が治った例とかもあるみたいだし。
民間治療法としては「心底リラックスして左脳が休んでいるときに」「凄まじい情動を体験する」ことで
左脳の暴走に右脳でブレーキをかけてやることなどが有効なのではないだろうか。
「空想科学読本」みたいな理系ギャグや、VIPPERの立てた糞スレなんかで
(もちろん最初は意識的に)大爆笑して、「楽しさ」をムリヤリ喚起するとか。
どうなんだろう?
ちなみにおいらは理不尽な説教を繰り返し喰らって育ったんで、ストレスを感じる回路に問題があるようだ。
自分がどのくらいストレスを受けてるのかが分からない(ある意味幸せだったストレスの無い子供時代)
→他人がどのくらいストレスを受るのかも分からない(でも最近はちょっとだけ分かってきた)
なので、たまにうっかり人格崩壊を招きかねない台詞を書いたりする。そこんとこ 夜 露 死 苦 !
>>595 ボディーイメージ「しか」無い。体が自分だという意識が、極端に言うと無いです。
運営してる感じがしますね。ただそれだけです。
>>596 よくパキシルという薬がうつびょうの人などに薦められている書き込みを目にしますね。
医者に行かずに手に入れてみたいものです。
>>597 >分裂病ではないでしょう。あなたには「言葉」が通じる。
通じていませんよ。生まれてから一度も。
そしてまさに、人にそう思わせることが離人症の自己防衛の手段なんですよ。
ああ言われればこう言う、という式を成り立たせているだけです。残念なことに。
>>598 なるほど。その脳の機能に基づいて話をさせてもらうと
「何か」が右脳を強制的に抑止させ、左脳を過度に働かせている意識が
私にはありますね。それは何でしょうか?
結果としての離人者がみなそういう脳の仕組みになっているとしたら
そうなった(そのように仕向けた)存在があるはずですね。
私の場合は、世の中に対する絶望(世の中の客体としての自己という立場から
脱却できずに歳月を過ごしてしまった)だと思いますが、絶望に至った経緯が
明らかじゃないです。まだまだ自己分析が足りないです。
ムートン、さっさと自分の(体の)主人になれ。
自覚がある、というだけでなく
脳を含め、とりついた肉体に宣言しろ、
「俺がおまえらの主だ」、と。
おまえは、まだそれをし損ねてる。
その分が、おまえの「症」だ。
605 :
考える名無しさん:2005/09/13(火) 02:37:56
ムートンは半端な自己観察者の立場が
気に入ってるんだろ。
606 :
考える名無しさん:2005/09/13(火) 12:34:59
>>601 それは、一般の人では離れている
「苦痛、不愉快」という感情と「楽しい、面白い」という感情が
混同されている、または近い位置にあるということだろうか?
ねらーにはなぜかそんな痛々しい人が多いんだけど。
607 :
うあああ:2005/09/13(火) 21:32:54
>>606 そうじゃない。よっぽど強いストレス以外は感じない、というのが近いな。
ごくたまに感情がその境界を乗り越えて、堰を切ったように笑ったり、怒ったり、苦しんだり、泣いたりする。
鈍感ってことさ。
ところでムートン氏は親兄弟や友人と電話で話す場合にも離人感が出る?
「親が別人と入れ替わったみたいだ!症候群」では、たいてい視線から親近感を作り出す
脳の経路に問題がおきていて、声から親近感を作り出す経路だけが生きている
≒電話だと「親だ」と納得する、という不思議な現象が見られるのだそうだ。
一つの仮説として、離人は自分を含む全てに対して親近感を与える機能(≒感情移入機能)が
抑圧されていることが原因なんじゃないかと思う。もしそうなら、呼吸法やボディイメージの訓練による
側頭葉側からのアクセスを行うことで情動をゆさぶることができるかもしれない。
608 :
考える名無しさん:2005/09/13(火) 21:49:51
ナルコはれっきとした病気で、よく効く薬で症状を押さえ込めるよ。
よい薬が日々ゴロゴロ出とるからね。あんたは病院に通ったほうが楽になれるよ。
609 :
606:2005/09/13(火) 21:58:33
>>607 なるほど、そっちか。
もしかしたらそれは感じない、鈍感というのではなくて
悲しいとか苦しいとかいう感覚を反射的に自己抑圧するように
なってるだけかもしれないね。
でも消えてしまってるわけじゃないので
抑圧した分がある瞬間急に出てくる。
鈍感どころか神経質過ぎ。ただ自己の感情を顕す機会を逃し勝ちなのではないの
かと思った、少しだけ。
鈍感な人、気が利かない人というのは、本当に周囲を見ないよ。
自己が安定しているので人間関係に欲を持たないんだ。
そういう人は、誰にでも同じパターンで接する。
>>602 >>分裂病ではないでしょう。あなたには「言葉」が通じる。
>通じていませんよ。生まれてから一度も。
そうではない。
あなたがそう感じていることは問題ではない。
言葉が通じている、というのは、あなたがどう感じているか、というより、我々がどう感じているかなんだ。
少なくとも「分裂病者とは違う」という意味では言葉は通じている。
あなたに言葉を投げかけているこのスレの人たちは、多少の肩透かしや齟齬などは
感じているかも知れないが、根本的なディスコミュニケーションは感じていないはずだ。
↓のスレを見ればホンモノの分裂病者の「言葉の通じなさ」の「特異さ」がわかる。
集団ストーカーのせいで精神病あつかい 2
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/utu/1126348822/ >>1には分裂病者のような特異さはない。
自分には言葉が届かない、と感じていても、それはあくまで精神病圏の外、神経症圏の話だ。
>>610 どうしてそういう面倒なスレをリンクするかなあ…
>>602がなにがしかそのスレと関係があるというなら話は別だけど。
612 :
考える名無しさん:2005/09/14(水) 20:28:34
>>610 それはあるかもな。
左脳活性化状態の副作用で「自分は演技している」という感覚――言い換えるなら、
自分自身のあらゆる振る舞いに対する違和感――が増幅されているだけなのかも。
昔の役の人
分裂病者はディスコミュニケーションにそれほど苦しまない(乱暴な言い方だが)。
言葉が届かないことに苦痛を感じているならば、それは分裂病者ではない。
615 :
考える名無しさん:2005/09/15(木) 07:58:03
医者じゃない奴が診断をしている違法スレはここですか?
人間には「喜怒哀楽」の感情があるという。
ところで「喜」と「楽」の違いとは何か。
まず「喜怒」とは能動的感情でこれは行動を起こすためのもの、
逆に「哀楽」とは受動的感情で特に積極的な行動には直結しない。
そして実は「喜」という感情とは性行動を起こさせるような感情
のことなのだ。(ちなみに「楽」というのは笑いの類)
そして男性的感情である「喜怒」の暴力性を拒否して「哀楽」のような
観念の世界に閉じ篭もると人間は世界の意味を失ってしまうのだ。
>>615 うん、違法だからって通報してきな。
待ってるよ。
618 :
考える名無しさん:2005/09/15(木) 22:22:51
喜怒哀楽?
まだそんなステレオタイプな見方をする人がいるんだねぇ。
620 :
考える名無しさん:2005/09/18(日) 13:58:22
>>619 人間の感情はもっと複雑なんだよ。
たった4つに分類できるものじゃない。
それを無理矢理に4文字で表そうとするのは、時代遅れの記号主義者だけ。
感情のコントロールについて
離人者は、対象の体のみならず心までをも、にせ自己の支配下におこうとする。
ここで生き物としての立場の逆転を図るわけである。
にせ自己(少なくとも私の)とは、自分と、自分以外の意志の中間点に生まれる。
直接外界に触れているのは、いつもこのにせ自己であり、
外界にとって極力違和感のないように、その中間地点から
自己を仕立て上げている。にせ自己は、外界と自己の間を取り持つ
相談役のような機能を果たしているのだ。
さて、これを外部の人間(の視点)から見ると、人がそのような行動論理で
生きているなどとは想像さえしないことなので、離人者の行動全ては
自己に基づいてのことなのだと、思って疑わない。そのようなインタフェースが
存在するなどとは夢にも思わない。
人はそれ(離人者)に感情を表す。しかし、まずそれを受け取るのはにせ自己であり、
本当の自己が直情的に行動することを抑制するため、にせ自己は
外部から受け取った感情をよく吟味する。
害がありそうなら受け入れず、なさそうなら都合のいい形に咀嚼して与える。
こうして、真の自己が一方的に操られる立場に不満を募らすような事態にも備えている。
逆に、こちらから外に対して感情を示す事態があるが、これが問題で、
相手に直接伝えたいと真の自己が思った場合でも、私はそれを全ては許さない。
相手が望むような対応を考え、それと感情を織り交ぜる。
これは「うまくいかない」ことが多い。
かつての自己は「うまくいかないなんて、当たり前だ」と言いそうな気がする。
しかし私は、離人症だ。離人症であることが最優先なのだ。能動的な行動は今後の課題だ。
私は直接的な感情の疎通を、許すことができない。それほどまでに私は、インタフェースとして
強固たる機能をもつ存在になっていたのだし、かつて真の自己が
そう望んでにせ自己を作り出したのも事実だからだ。
結局今の私は、自己も、外界も、どちらも支配化には置けていない。
宙ぶらりんなのだ。
ここのところ哲学書から離れていました。もう一度新しい目で触れてみようと思います。
>>607 >ところで親兄弟や友人と電話で話す場合にも
例えば親からの電話は、ちょっと特別ですね。血も繋がっているし
他の人間には許していないある部分を許していられる、みたいな。
それでも、私の根本的な症状を覆すには至りませんが。
他人以前、友達以前、家族以前、のようです。
よくテレビで「アニメ名場面ベスト100」みたいな番組をやっているけど
どうしてこういう番組の人気が根強いかというと
大人になって世界のリアリティを失った元テレビっ子が
かつてリアリティがあった子供時代に見ていたアニメを見ることで
一時的に世界のリアリティがよみがえるからだろう。
あるいは1970〜80年代の映像を当時のヒット曲と共に見ると
当時のリアリティがよみがえったりもする。
つまり離人症者といえどもかつての子供時代はそうではなかったし
その感覚も残っている以上離人症の治療も全く不可能ではなかろう。
どうしてCGアニメは気持ち悪いのか。
それは手描きのアニメには保証されていたタイムラグがなくなるからだ。
世界の意味はタイムラグによって保証される。
例えば音楽のPV(プロモーションビデオ)ではとても魅力的だった
歌手が生放送の音楽番組ではあんまりカッコよくなかったりする。
あるいは映画の中のコンサート場面はすごくカッコいいが
(例:『ナナ』の中島美嘉、『黄泉がえり』の柴咲コウ)
実際の音楽番組ではそれほどでもない。
あるいは最近アニメの挿入歌がよくランクインするが
アニメという異次元の物語に属する歌はすごく魅力的だが
CGアニメだとこういう魅力は出ないだろう。
リアルタイム映像は意味を殺すということはボードリヤールも
言っているが、離人症(&ヒキ)はテレビというリアルタイム装置
によって世界の意味を奪われたことが作用しているのは間違いない。
テレビくんはもういいじゃねえか。
離人は机上の空論的扱いもできないことはないがそれで
すべて説明できるといわれりゃ、ほんものの離人者は眼を
剥く(そうできるのであれば)。なにもかもをテレビにかこつ
けることのできるのは離人の生理学的、実存的普遍性に眼
をつむった馬鹿野郎。
>>610 そのスレは、大変興味深く読ませてもらいました。
離人者なんて、世界全てが自分の敵だと常に思っていることもできるぐらいなので
一歩操作を誤ればいともたやすく集中攻撃を受け、崩壊するでしょう。
しかしそうはなりようもない。あくまでも客観的存在であるから。
自己のためだけに何かをすることがありえないから。
自分を引き受けることがどうして出来るのか。不思議だよな〜。
信念と欲求の人間観に不満を感じないってことか。。
ムートンみたく行くとこまで行けば、自己放棄はまずいと感じられるかなぁ。。。
健常者の場合苦しくないから踏ん切りつかないし、つけなくていいのかもしれないな。
いや、苦痛に対処しないのは弱いだけか、、、
628 :
考える名無しさん:2005/10/07(金) 21:38:16
ムートン氏には親近感を覚える。
世の中には自分と似た人間がいるんだなーと。
自分は自分を異常と思っているからね。
そういう私はスーパーの店員やってんだけど、
我ながら現実界と形而上学的世界の二束のわらじをよくやってるものだなー
と思う。
俺の実際の生活といえば惨憺たるものだからね。
働いている引きこもりみたいなものだよ。
まぁ金は貯まる。どーでもいーけどね。
<私>について探求していくとハイデガーとかウィトゲンシュタインに
ぶち当たるわけだけれども、こいつらよくも狂わなかったもんだって
感心してしまう。
629 :
考える名無しさん:2005/10/09(日) 00:21:34
離人症って何だよ
631 :
考える名無しさん:2005/10/15(土) 02:05:08
>>629 ヒト(在るもの)を利用するすべを知らないシック症候群♪
632 :
ムートン ◆Sheep2h65. :2005/10/16(日) 10:32:43
社会で揉まれてきたおかげか、進展のようなものが見られた。
内外から受ける影響の受動的な制御から、能動的・操作的な制御へ
移行することが一瞬だけできたことがあった。
今まで遠慮させてきた部分を、積極的に動くように”にせ自己が”決断した。
フィルターとしての位置ではなく、自己を先陣に立たせ、にせ自己は後ろに回る。
誰にも干渉されない位置から、確実に自己を防護&操作しつつ、自己の願いを叶える立場だ。
これが
>>604の言う「主人になる」ということだったのだろう。
自己が少し開放感を感じたのが分かった。これは大事だなと思った。
でもすぐに前の状態に戻った。これも訓練が必要だ。もしかしたらフィルター状態と
使い分けるようにすればいいのかもしれない。
ようするに、守る必要があるときはフィルターに徹し、
意思を示す必要があるときは後方にまわり、そこから操った自己を
なるべく本来の姿にあわせた形で表現させる。自己がまるごと受けていた
ストレス(影響)を、自分以外(人でも何でも)に少しずつ負担させていくのです。
今はフェリックス・ガタリ「カオスモーズ」を読んでいます。
世に多く蔓延る「正常病者」に、影響を与えていければと思います。
634 :
604:2005/10/20(木) 02:54:03
>>632 将は常に前線に出たりはしない。大切な時だけだ。
小競り合いにはつきあわない。100戦100勝は至難なんだからw
そんなの負けてもいいのよw
小競り合いでも命を落とす時は落とす。
小事と判断した(感じた)とき、主は寝てていいってこと。
で、肝心な戦に備える。そしてその時が来たら退かない!
では大切、肝心とは何か?
考えてみろ、大事なものってそんなに無いだろ?
ひとつあったら上等w
その一つがおまえのいう「移行することが一瞬だけできた」
・・そのあたりに潜んでいるかも。
事件そのものは他愛なくても、おまえにとっては「譲れない」
なにかしら…つまり「おまえ」と「他」を”区別するもの”が
そこには存在してるはず。
そういう時に必要なのは叙事的外部観察ではなく、叙情的内部
観察つ〜か、おまえの感情センサーがシグナルを発した根底に
なにがあるかの考察。
おまえ(主)をしっかりキャッチしろ!
そのために脳はついてるw
そういえば昔、大人に奪われた豆電球のために戦ったことがあったな。
私は他人の都合に構わず何かに熱中したり飽きたりを繰り返し、
それでいて、何かを失ってもたいして悲しんだり過去に浸ったりしない、
そういう刹那的な性質の人間である。
ただし、熱中している時に限り、状況を妨害する人間には怒りが沸く。
私の読書の邪魔をする奴は皆ポップコーンのように炸裂して
死ねばいいのだ、などと思う。一瞬だけ浮かんでは消えるそういう
くだらない妄想である。
たぶん、今の私は暇潰しのために惰性で生きているのだろうと思う。
離人症に興味があるのは、それが私に発生しなかった理由を
知りたいというのもあるのだろう。私は、親にやることなすことを否定され、
私が全て悪いのだ、理不尽な叱責ですら当然の仕打ちなのだと
洗脳されるほどであったというのに、一体何が私を防衛したのだろうか。
もし離人症を理解することでその差異を抽出することができたなら、
それは私という存在の根底を解明することに繋がるのではないか。
しかし、この動機は今思いついた根拠の無い仮説であるから、
おそらく一寸尤もらしいだけで実際は間違っているのであろう。
正直に言うと面白ければ動機なんてどうでもいいと思っている。
こういう駄文を投下すると誰かがムカつき、誰かが首を捻り、
誰かが普通に読み、誰かが興味を持つ、のかもしれない。
けれども、そういうことにまで気をつかって生きる気は更々無いので、
私はささやかな良心の呵責を引き千切ってスレ違い気味な駄文を
投下するわけである。どっとはらい。
637 :
考える名無しさん:2005/10/24(月) 15:58:37
だいぶ頭を叩かれたみたいだなw
打撲による脳の損傷…、
後遺症の治療法、まだ見つからないのか?
638 :
うあああ:2005/10/28(金) 18:37:34
誰に対するレスだ?
639 :
考える名無しさん:2005/10/28(金) 20:50:36
離人症ってなーに?
>>640 離人症とは、筋肉の部分断裂の事です。
走り出したら(ランニング等)急にふくらはぎの内側に違和感を感じて、
少しずつ腫れや痛みが出てきたり、
ジャンプなどで筋肉が急激に収縮したり体重や運動などの衝撃力が
逆方向に作用すると筋肉を傷めることになります。
有難う分かったよ。筋肉->精神と読みかえたますた。
643 :
考える名無しさん:2005/10/29(土) 14:25:49
見ている人毎に現実が用意されている。
現実感の無い現実というのはパラドクスのようで理解し難いが、たとえば
死体を目にしたりするとそういう状況が訪れることがある。
彼は唐突に、目の前に死んだ生物が横たわっていることに気付くのだ。
「通常の」自分はこんなことに慣れていない。パニックだ。しかし暴れるわけでも泣き出すわけでもない。
彼は別の解釈を採用し、粛々と状況そのものを否定するのだ。ああ、これはよくできた剥製だ、と。
彼は剥製の顔を覗き込む。そいつはだらしなく口を開けてこちらを見つめ返してくる。
ああ趣味の悪い剥製だ。こんなところに捨てやがって。不愉快だ。草むらに隠してしまえ。
こうしてごく自然に作り出された非現実は事実に優先する現実となるのだ。
そうして彼は、後からその非現実的な体験を追憶して首を傾げることになるのだ。
さて、死体とは烏であり、彼とは私である。現実とは斯くも面妖奇怪なり。
いわんや離人症をや。
644 :
考える名無しさん:2005/10/29(土) 23:46:12
まあ真剣に考え出すと<現実>というのが
意味不明になるからな
つまり 現実/非現実 の違いがわからなくなる ヤバ
・・・元患者のマジレスだよ
感情センサーの根底に何があるのかはまだ分かりませんが
人生の重要な局面の殆どが、自己を矢面に立たせなければ
進まないように思えてきました。それならば、素直にありのままの自己で
生きていけばいいじゃないかという話ですが、そういうわけにもいかない。
私を生み出したのは自己なのだから。自己には、今の自分(にせ自己)にも
分からなくなっている、なにか「目的」があるようなのです。その目的の一環として
私が今主導権を握っている(握らされている)状態なのではないかという
気がしてきました。そして普通なら混乱してしまうような、こんな考えに至ったあとでさえ
にせ自己は「主観」の立場に無い「主権者」であり、にせ自己自身が直接何かを
感じたり外界に影響を与える行動を取るということはないので都合が良い、と
こういうわけなんでしょうか。
現実について
確かに現実とは、全ての「主観を持つ者」のなかにあるものなんでしょうね。
たまに月が赤く大きく見えるときがありますが、その原因を説明する事実は
一つなのに、人それぞれで違った解釈があると思います。
誰もいない森の中で木が倒れた時、そこに音はあったと言えるのでしょうか?
これもまた事実は一つですが、解釈が分かれるでしょう。
それぞれの現実があり、離人と関連付けた話をするとすれば
離人者にとっては客観視点から見たものがそのまま現実であり
そう解釈せざるを得ないのでしょう。
647 :
考える名無しさん:2005/10/30(日) 05:07:08
木が倒れたらさすがに音はするよ
>>647 実際に山の中の小屋に行って聞き耳を立てた経験があるわけじゃないだろう?
日常と同じくらいに直接な観測を行っていないことについて推測する場合、
前提の決め方によっていくらでも結果は変動してしまう。
そういう意味で「木が倒れたら音がする」というのは非常に高度な約束事であって、
どういうレベルでの発言かによって色々と変わってくる。
物理学者なら、「木の周囲のあらゆる粒子を観測者と見做せるため、波動関数の
収縮が起き、音が観測される」と言うだろう。
しかし山小屋にいても、眠すぎて無自覚に意識を一瞬失っていた人なら、
「音はしなかった」と言うだろう。そして、そもそも山に行ってすらいない人は
経験から推測するしかない。「たぶん音はするはずだ」「おそらく音はしないはずだ」
だから重要なのは、どの立場での発言なのかを明確にすることだろう。
主観を明確に一致させてこそ、個々人の現実は共有されることになるのだ。
649 :
考える名無しさん:2005/10/30(日) 13:20:32
人が聞いたかどうかじゃなくて、その場所で音がしたかどうかでいえばイエス。
近くにいて聞こえなかったのであればなんらかの要因で聞き逃した、と。
自分以外の人間は実在するか? 究極のことはわからんが、
少なくとも実在すると思わなければ
あらゆる意味は成立しなくなり生きてはいけない。
>>645 おまえは依存から自立へのプロセスを踏もうとしてる。
ちょっと遅いがw
自分以外の「他」に依存することで やり過ごせたのは以前のこと。
その間は小賢しい仮面をかぶることで…つまり自己を「他」から
隔離する事で、他から潰されないような手法をとって来たのよ。
でもね、自己というのはそれでは収まりのつかないものなのよ。
DNAや先天的性格という既定の条件を超えて成長してしまう
ってこと。出たいのさ、既定条件の枠から。
来てるんだよ、その時が。
ここでのポイントは、「意味」だけに集中すること。
自己が意味を感じる事柄だけに意識の対象を絞り込むこと。
無論、それをするのは おまえの体や脳という既定条件下にある
ツール以外に無い。先入観にとらわれがちなツールではあるが、
「おまえ」に一番馴染んでおり、一番いうことを聞いてくれるシモベ
でもある。道具は信頼するっきゃない。ほかに無いんだしw
つづき
例えば「森で倒れた木の音」。
それがおまえにとって「意味」のあるものなら、
そんな気配を感じるなら、それに囚われてみるのさ。
どっぷりねw
会社ヤメてでも、親を泣かせても、脳が理性的でないと
警告を発しようがだ。
さもなくば、そんなもんどっちでもいい。
音がしたならしんだろうし、しなかったんならしないだけの話。
「おまえ」には何の関係もない。
自己に問うんだよ。
「それは私にとって意味があるか?」と。
この問いかけ…「私にとって」に専念できた時、
おまえは「自立した」といえる。
もうその一歩は踏み出してる。
保守。気持ちの沈みと高まりを客観視しないように努めています。
親について
石田純一は、男は浮気するものだと言ってる。あの人は
家族は愛せたけども家庭を愛せなかったと言った。
うちの両親はその全く逆だと思う。
何よりも家庭を最優先に考え、家族個人に対しては愛する術を知らないようだ。
夫婦同士でさえね。自分がこうなのは誰のせいだと決め付けたいんじゃなく
結果論として人を愛することを知らない人間が出来上がった事実をなんとかしたい。
>>653 >結果論として人を愛することを知らない人間が出来上がった事実をなんとかしたい。
あなたがそのことをして不幸であるか否かというのが重要だと思うのだが。
>>654 人間的には不幸ですね。客観的にも不幸だし、社会的にも不幸だ。
生物学的にも不幸(極端に言えば子孫を残せないから)ということになる。
しかし私は、そのどの立場にも「居ない」から、不幸ではないでしょうね。
それぞれの視点に立ち、バーチャルな不幸を体験しているだけで。
「・・・事実をなんとかしたい」と思ったのは、上記のうちのいずれかの概念においてでしょう。
幸せにせよ不幸にせよ、それに向かっていく自分が居ないのだからどうしようもない。
最近は、自己において意志というものが内在しているのか外部化しているのかというのも疑問です。
いわばこの世のあらゆる概念の中に私は居る。何かを選ぶことができない。浮遊霊。
ところで近ごろ車を買おうと思っていますが、欲しい車があるわけでもないし、車が欲しいわけでもない。
分かりますか。私の感覚。
>>655 >人間的には不幸ですね。客観的にも不幸だし、社会的にも不幸だ。
>生物学的にも不幸(極端に言えば子孫を残せないから)ということになる。
いや、そういうことではない。
「不幸」っていうのは、あくまで主観的な概念だという意味で、少なくとも自分は言っている。
つまり、客観的に不幸、ということは無いわけ。
客観的に不幸だったとしても本人が不幸と感じていないならばそれは不幸とは言えない。
通常の主観とされている立場以外のあらゆる立場は、しかし間主観的なものでしかない。
意志が内在しているのか外部化しているのか疑問とは言っても、
人間が持つところの「欲望」それ自体の根拠がそもそも外部からもたらされたものであるならば、
内在とも外在とも言いようがなく、
自分の欲望は何をめぐってまわっているのか、という分析が必要になる。
また幸福でも不幸で「満足」はする。あるいはしない。
>>656 >自分の欲望は何をめぐってまわっているのか、という分析が必要になる。
今まさにその分析の最中です。最近では世界に散在させている自己意識に加えて、
内在する意識への分析、つまり行動の原因についてと、それが散在意識を
どのように派生させていったかということなどを、離人視点から語りかけています。
それにしても社会というのは、とても自己分析に適した環境だと思います。
生死や進退を賭けなければならないのがネックですが。
ところでさっき野ブタのプロデュースを見ていたのですが
主人公ぽい奴の最近の描写は、脚本家が知ってか知らずか、まさに離人の症状ですね。
メンヘル板やオカルト板の記述、自分なりの脳に関する見解をもとに練習していたら、
少しだけ第三者視点を使えるようになった。
別の視点から見たら見えるであろう映像が、薄く、通常の視界に重なって見える。
欠点は記憶に残りにくいことだろうか。
参考にしたのは、気(自律神経訓練、感覚操作、共感覚)、
解離/体外離脱(感覚の主体の移動、客観視)、観想(記憶と視覚の共感覚化)、などなど。
科学的に分析すればオカルトも役に立つものだ。
もし視点を自由に移動できるようになって、自分の身体に視点を重ね、
「乗り移る」事ができたなら、感覚を取り戻せるかもしれない。取り戻せないかもしれない。
離人とは関係ないけど、睡眠不足のときに白昼夢が視覚風景に重なったことある。
目を開けたまま夢を見てる感じ、、、
>>658 >視点を自由に移動できるようになって、自分の身体に視点を重ね、
>「乗り移る」事ができたなら
自己の逆輸入みたいな話ですね。私は幼い時分からそれを体得してきました。
離人者はいつでも、肉体を忘れて何処へでも意識を飛ばすことができる。
その場所もしくは雰囲気への、ほんの少しのイメージさえ持っているのなら。
あなたがなぜそこまで熱心に、辛い離人視点を体験・研究するのか
その根本は何でしょうか?自分の心に深く深く、問い掛けてみてください。
私がこんな状態なのは、おそらく殺されないためです。攻撃できずに、防御を選んでしまった。
何かが恐かった。なぜ攻撃ができなかったのかを、今追及しています。
>>660 >離人者はいつでも、肉体を忘れて何処へでも意識を飛ばすことができる。
>その場所もしくは雰囲気への、ほんの少しのイメージさえ持っているのなら。
記憶のほうが現実よりも優勢なのかな。
>あなたがなぜそこまで熱心に、辛い離人視点を体験・研究するのか
>その根本は何でしょうか?自分の心に深く深く、問い掛けてみてください。
問い掛けてはみたが、正確に書くのはちょっと難しいな。
>私がこんな状態なのは、おそらく殺されないためです。攻撃できずに、防御を選んでしまった。
>何かが恐かった。なぜ攻撃ができなかったのかを、今追及しています。
私も子供のころ親が怖かった。特に「親に捨てられる」のが怖かった。
実際、出かけた先で置いてきぼりにされたことも何度かあった。
しょうがないから歩いて帰った。道中の記憶は無い。
そういうとき、私は解離しながら歩いていたのだと思う。
今は、退屈が怖い。
だから好奇心と興味が向いたものを追い求めている。このスレもその一つ。
>>661 いや、その子供の頃の歩いて帰った記憶がないのは、
その時解離していたからじゃないと思う。
寧ろ、当時の記憶にアクセスすると辛さが甦るから
それを回避するための防衛機制が働いてるんだと思う。
その説明はしっくりこない。
辛いというよりムカついたぞ。そして思考が始まり、合理化が起こる。私はそういうふうにできているらしい。
「置いていかれた」「親を待つ?退屈すぎるから却下」「食事代はある」「店もある」
「歩いて帰れない理由は無い」「後で困るのは親のほうなのに、何で置いていくんだろう?」
「まさかその場で泣いて居るだろうとでも思ったのか?」「やれやれ」
だいたいこんな思考の後にきつぱりと歩いて帰った。親にとってはいい教育になっただろう。
保守がわりに独り言。
一般に人の自尊心高杉。鼻持ちならん(-_-#)
せっせと利益を追求してるヤツラは、なんか受信してんじゃないか?
このスレが立ってからもうすぐ一周年。
色々とありがとうございました。
今私の内部は、とんでもない状況です。筆舌に尽し難い
666 :
664:2005/12/30(金) 19:48:31
分析やりすぎた?
潰れちゃいけない理由はないけど、潰れん程度にやってこう。。
>>665 脳の中は矛盾だらけだ。あまり意識しすぎちゃいかんよ。
矛盾する事象が個別に発展していくことも脳の一面だ。
右脳とは量子力学的なのかもしれないな。
>今私の内部は、とんでもない状況です。筆舌に尽し難い
内部を書くのが難しいのなら行動を書いてみるといい。
そこから分かることもあるよ。
668 :
考える名無しさん:2006/01/09(月) 02:17:26
>>665 今私の内部は、とんでもない状況です。筆舌に尽し難い
ムートン、なにも言ってあげられない・・すまない。
俺が社会に出て学んだ事は「ヒト」が自分の障害になるということ。
そしてその「ヒト」が自分にはやはり必要だということ。
生きるって そういうものだということ。
しょうがないんだよ。おまえもあきらめろw
俺も心的にいろいろあがいてみたが、ひとりじゃどうにもならなかった。
で、どうしたか・・結果、女だった。
べつに惚れる必要もないし、いい女である必要も無い。
だいいち愛せないw
あけすけに思ってる事が話せて、したい事をさせてくれる相手であれば
誰でもいいのよ。そう感じられさえすれば、それ以上は求めない。
でもな、そういうなんでもない係わりの中に案外あるのよ。
安らぎとまではいかないが、これが基本なんだなって感じられるものが。
生き甲斐や満足とはほど遠いんだが、自分が時を過ごしてるっていう
生の鼓動みたいなもんが少しなんだが聞こえてくるのよ。
おまえが聞くべき音はそれなんだが・・
「蟻になれ」
669 :
考える名無しさん:2006/01/09(月) 22:15:31
このスレに漂う悲壮感は何だwwwwwwwwww
もっと笑えwwwwwwwwうぇwwwうぇwwwwwwwwww
670 :
マイちゃん:2006/01/09(月) 22:49:06
頭と体がつながらない感じね。マイちゃんも離人症で苦しんだ‥。すべての感覚がどんどん薄れてくのに遠くから客観視してる私がいる。あまり遠くに離れ過ぎると気が狂うんじゃないかと思う。
671 :
考える名無しさん:2006/01/10(火) 01:05:06
俺も実は離人症なんだが、別に病院へ通ってるわけでもなくこれが深刻な病気
だと考えたことはあんまりない。「表情が乏しい」と言われることはあるものの
職場でも普通に人と接してやってるし、喜怒哀楽を全く感じないということも
ない。ただ目の前の景色がオブラートに包まれたような、平面的な視覚状態が
頻繁に現れはする。俺としてはむしろこの独特な感覚はこれからの生活の中で
何らかの役に立っていくような気がしないでもない。
どうだろう、
>>669の言うように、この意識状態に対して悲壮なイメージを
持つのではなく、病理としてではなく、たまたま備わった一つの風変わりな
生理機能としての側面を考えていくことはできないものだろうか?
ちなみに今これを書き込んでいる最中も離人状態になっている。というより
俺の場合離人感というものについて思い浮かべると同時にそれが起こることが
多い。
672 :
考える名無しさん:2006/01/10(火) 21:05:20
ねぇムートンさん、京極夏彦「姑獲鳥の夏」を読んでみなよ。
あれは面白い本だよ。分厚いけれど一気に読んでしまえる、そんな本なんだ。
そしてきっと今のあなたの役に立つ本だと思う。是非読んでみて。
>>672 お前、過去ログ読んだ上で言ってるんだろうな?
674 :
考える名無しさん:2006/01/11(水) 03:51:58
*アタシの場合*
ここのスレ見つけたので、やっと病院に行って説明できそうです。
事例として、話をさせてください。他の方の役に立てば幸いです。
また、文章が本当に下手なので、イライラしたらごめんなさい。
全部で4つに分かれています。時々アップしておきます。
このスレ見て気づいたのですが、壊れるときに感覚があったのを
思い出しました。
13年前、会社の立ち話の中のこと、不眠不休状態が続いて
ストレスがピークでした。何を言われたのか覚えてませんが
かなり、ショックを受けたようです。
相手がニコニコ悪気のない言葉で、普通に話す中、
私の心中は言葉に含まれる「何か」を嗅ぎ取っていたらしく
自分の心のなかで「あぁぁ、壊れる、壊れる」って言いながら、
一瞬スーッと気が遠くなりテレビの信号音に似た音や、今そこに
ある景色が遠ざかり、ほんの一瞬なのですが、「壊れた。」ことを
実感しました。膜というか、二枚あわせの防音ガラスのような、仕切りが
あり、しばらくして一枚になり、そしてその感覚自体は消えたのですが、
確かに、いまでも何か「一枚」存在しています。
それでも目の前の仕事が忙しかったので、そのままずっと
それから意識を遠ざけて、というか、かなり現実から遠ざかっていた
のですけど、目はたぶん、開きっぱなしで、体と頭が離れた
感覚になりました。ほとんど自動制御の機械という感じでした。
このスレの意義が理解できない馬鹿
箇条書きですみません。まとめることに意味を感じない。足跡を残します。
私はやはり原理主義志向のテロリストだ。世界のあちこちに極端という名の爆弾を仕掛けて回っている。
私の真実の心はほぼ全て塗り潰され、原形を留めず、主旨の違う精巧な贋作に成りすましている。
何のためか。それはすべて「極端」のためなのかもしれない。
極端でいると、人は何かしら感情を顕にする。それを待っている。
自分を偽らざるを得ない代わりに、「自分のものであったかもしれない」他人の感情に意識を飛ばし、
仮想の充足を得る。それとともに、あわよくば自分が他人の感情を揺さぶることのできる存在であることを
感じようとし、安心を覚えようとする。しかしいつもいつも、掴もうとしては消える。所詮は贋作の賜物だから。
私は休憩をしたことが無い。休憩すら演じてきた。休憩すら疲れる。
一番遠ざけているものが、一番必要なものであるというジレンマ。それさえも
極端の餌食にし、世界全てをコミカルにする。ささやかで大きな反逆。身の危険はきっともう近くまで迫ってる。
679 :
千尋 :2006/01/12(木) 01:41:31
二度目、
普段、5分もあれば寝つく俺が、急に不眠状態に・・
脳ミソは四六時中・・覚醒。ささいな事に一々反応してしまう
目の前のことに集中できない
心臓の鼓動は絶えず鼓膜を打ち、頭蓋内打楽器と化す
脊髄と神経索はすべてササクレ立ち、スースーと風が吹く・・
ありか不明の心とやらは虚ろとなり無防備、中心無き混沌
10年も20年も・・その状態が続きそうな強迫観念に囚われる
手遅れなのか・・
時が解決してくれる?
それが 当分は解決しないという意味だぐらい わかってる
糞の役にも立たない
何かしなければ・・
でも何を・・
どう・・
・・・。
680 :
考える名無しさん:2006/01/12(木) 01:51:17
おおっ!!このスレ、まだやっていたのですね。(事情で半年ぐらい2chに
アクセスできなかった者です。)
>>645 私の思うに、その「目的」とは私の内なる「秩序感」が世界の原理となるまで
闘う、ではないでしょうか? 私には強固な信念あるいは信仰のごときものが
あり、それがあまりにも不動のものと感じられるが故に、私にとっての唯一の
権威と化しているのではないだろうか。私は世界という権威からは自由だと感
じているのだが、その代償としてこの内なる「秩序感」が私に君臨する権威と
なっている・・・。この唯一の「十戒」は私以外の誰にも読み取れない文字で
書かれているが故に、私は民なきモーセのように振舞うしかないのではないか。
離人を自覚しているから治り辛いのかな?
心が閉じていると不足がわからないからじゃね?
自分に尽くす義理はないからなぁ
メンヘル板は苦しいって人多いけどね
>>679 それはまさに
>>399の「全方位の感覚がまとめて処理されている状態」だと思います。
あなたはこのスレを読んでかどうか知らないが、自分の状態をある程度把握してしまった。
>>682の言うとおりで、ある種の開き直りのような言い訳のようなものを発見してしまったのです。
あなたの問題は最早、「どう解決すべきか」ではなく、「解決すべきかどうか」に
無意識に変換されているものと思われる。私と同じならば。
>>681 内なる秩序感と世間一般の秩序を対峙させる場面はよくあります。それこそが
今私が死なずに生きているたったひとつの理由です。自己のルールをそのまま
世界の秩序にしてしまおうなんて、ヒトラーでさえ成し得なかったことなのに
それを望んでいるんです。生きる「目的」を変えなければ、もうじき私も
この世界で普通に生きていけなくなるでしょう。
>>683 そのとおり。究極のものを目指すとき、その途中段階で心も体も蔑ろにしてしまう
弊害が訪れることが分かりました。あと私がメンヘル板のお世話にならずとも平気なのは、
自分では納得していない外部からの刺激をたまに受け入れて自
家中毒になるのを防いでいるからです。
とにかく突き詰めると、やはり私はこの板に流れ着いてしまうのです。
685 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 07:45:55
自分で何かを作り出して、つまり創作者になって、その何かが世間で売れて
それだけで生活できるようになれば、あなたは初めて世間=世界と和解できる
んでしょうよ・・。実際、そうやって生きている人もいっぱいいる訳です。
でも反面、もっと大勢のひと、というか大多数のひとは、そこまで行かずに
趣味どまりでいる。創作した作品で生きていくにはやはり才能が必要なんです
ね。それと強運が。・・あなたは、自分の世界を表現して生きてみたいんだが
才能も運もあまりないので、商社づとめをしていくしかなく、ここでぼやいて
いるんですよ。凡庸でいたくないのはあなただけじゃないけど、才能や運や
努力がたりずに2chの片隅でボヤいてるだけじゃ、いつまでもそのままです
よ。ヒロシは、ボヤキを芸にまで高めて成功しましたけどね。
意味不明・・
言いたいことは分からんでもないが、ちょっと飛躍しすぎだな。少しおちつけ。
あのな、全ての問題が精神論や熱血思想で解決できるというわけじゃあないのだ。
むしろそういう古典的アプローチが解決策として極めて無力であるからこそ
離人を含むあらゆる精神的問題は心理学という学問を必要としたのだろう。
つまり「誰にでもあること」とか「お前も頑張れ」なんていう言い方は
本末転倒で、時には有害ですらある。オーケー?
一般的に言って悪循環に陥った状況を変えるためには、認識をいちど解体して、
再構築してやる必要があるんだよ。いちど脳みそを洗濯するのだ。省略すると洗脳だ。
もちろんジョークだ。
689 :
考える名無しさん:2006/01/28(土) 08:54:59
ムートン、なんか書けよ。
もちろん、読んでいるし、書くことがあれば書く。
消えていたいときだってあるんだ。それが俯瞰視点だ。
でも、現実世界じゃそれは通用しないことが分かってきた。
ネットではログオフしたら自分はその場所から居なくなるけど
現実では必ず自分はどこかに居るから。消えることはできない。
その辺から意識していけば、自分を追い立てることができるかもしれない。
今までは、現実社会でも、うまいこと消えている状態で居すぎました。
その感覚に溺れていたのです。しかしこう思った経験はありますか?
自分が実在していないとしても、仮想空間で自分の思うままに
好きなことをやって他に影響を与えていける存在でさえあるならば
実存に捕われて生きる価値を放棄しても問題は無いと思うような経験は。
思うに、それはドツボなのです。堕落じゃ済まない。果てしなく堕ちていくばかり。
とにかく私は今、語る時じゃないのです。また寄らせてもらいます。
692 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 08:55:10
>しかしこう思った経験はありますか?
>自分が実在していないとしても、仮想空間で自分の思うままに
>好きなことをやって他に影響を与えていける存在でさえあるならば
>実存に捕われて生きる価値を放棄しても問題は無いと思うような経験は。
あるよ。頻繁に。
そもそも体外離脱を練習すれば仮想空間への没頭は一般人にも可能だ。
視覚的イメージのリアルさは訓練次第で向上する。それは現実空間すら侵食し得る。
>思うに、それはドツボなのです。堕落じゃ済まない。果てしなく堕ちていくばかり。
そうだよ。分かってるじゃないか。夜更かしして寝坊しても解離していて寝坊しても
客観的にはどちらも寝坊だ。他人と関わって生きるためには仮想空間を振り切らなきゃいけない。
それに、妄想のベースは記憶だからね。日常的な忘却とともに、妄想の複雑さは減少してゆく。
だからいずれは仮想空間は退廃し、単調になってゆく。滅びが確定した世界。
そっちは厭きた。現実のほうがマシだ。
693 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 16:13:14
ムートンの状況とほぼ同じ、はっきり言うと孤立してます。
私の場合、家族もいませんし友達も居ません。
話してもなんだか上の空なので話したくないのです。
外側さんが居るだけだから。
なのでかなり孤立。何もかもが自分とは無関係だから面倒が多い
のです。が、今一人暮らしで会社づとめもしてなくて助けはほぼゼロ。
したい発見者が誰になるかも分かりません。w
ただ、自力で稼ぐことだけが生きる理由かもしれません。
逆にジリ貧状態続けて居ます。この状況を相談する相手は
居ませんし、いっても分かってもらえません。
正月は一人で食べてます。
そういう意味では私は仕事=食うため、という縛りを除けば
完全孤立化します。好きなことが無くなってますし夢や希望
すらも他人事なので、こうするしか無いためです。
あんまり続いても楽しくないハズだから、というあくまで
外側の理由なのですが、そうするしかないようです。
そんな感じで生きてます。深々と妄想にはまる時間は
趣味にとどめる工夫のために、会社辞めてジリ貧してみると
すこしいいかもしれません。あくまで自分のためなら。
でも、かなり寂しいという自覚や生々しい自分の状態は
確認できます。
694 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 16:21:12
正直に言うと、とんでもなくきついんですけどね。
心が、苦しいんです。胸とか頭ならまだまともです。
形の無いものが苦しいです。
幼いころによく遊んだものはあるかい?
おもちゃ、遊具、ゲーム、エトセトラエトセトラ。
それをもういちど見つけて、触ってごらん。
いつだって、感情は記憶の欠片によって呼び覚まされる。
無意識に流れ込んでくるそれを、もう逃がさないように捕まえるんだ。
ただ、他に影響を与えていける存在であることを認識するには
やは実存の体、心が必要であるというジレンマ。
滅びが確定した世界とはよく言ったものだ。
>>693 他者を知覚するといい。仮想空間は何でもできる反面、
実体が無いことそれ自体が苦しみの原因。
知覚を放棄すれば後に残るのはかつての自分の抜け殻。それと
それを遠くから(世界ではない所から)眺めている今のアナタです。
私自身にも、もうチャンスは数少なくなっているのが分かります。
これが、人生を生きるということか。
697 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 01:54:53
>>696 ムートン、自分がゴキブリ以上の存在だと思ってないか?
ゴキが仮想空間やら実体がど〜たら言ってるとこを想像できるか?
仮想空間より宇宙を睨むゴキの姿?
笑止だろw
おまえは笑止の域に達したのよ。
そのまま逝け。
それがおまえの自分で望んだ事。
! i |
i |
/  ̄ \
lニニニニコ .i |
\___/ | |
| ||i 今の君達に足りないものは
| | | i
| ̄|| i
| |i |
|_|i
| | i |
| | | ^ |
| | | ______/ ` |
| | | | ..``‐-、._ \
| | ! i `..`‐-、._ \
| | i . ∧∧ / .. ..`‐-、\ 優しさだ
| | i. | (*´゚ w゚) / _ | |
_| |_ / |o〆 '´, ヽ
|___| しー-J <^(゚w゚)ノハヾ^、
Wリ(i!ー _ーノv'
/ つー( ) `
(_へ ヽヽ
ムートンよ、諦めが肝心だ。人並みになろうとするから苦しむのじゃ。
生きていれば、ヒレカツ定食だって、宇治氷だって食べれるし、
音楽だって聴き放題、本だってマンガだって読めるし、ゲームだって
出来るじゃろ? 別に楽しい人生じゃないの? そりゃあ女の子は
無理よ。離人のひとにそれは無理というもの。だけど、そこだけ諦め
れば後は問題ないよ、人生なんて。
700 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 18:09:22
惚れた女に振り向いてもらえないことすらコクれないムートン・・
たまらず離人という概念に飛びついたムートン・・
ジッとしてるうちに動けなくなってしまったムートン・・
未練を力と認識できず、ひたすら消そうと試みるムートン・・
燃せず消せず上の空のムートン・・
よくみろ、ゴキブリ以下になりさがった鏡の中の生き物を
それがおまえだ
いつまでも人で通用すると思うなよw
心の醜いやつは相手を傷つけると言うがそれは本当のようだね。
702 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 20:49:21
ヒトをして醜いと言えば、自分は蝶になれると勘違いするやつ
ゴキブリの屁だな、おまいw
人の悪口を言うのは、良くないよ。
704 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 08:18:01
悪いものを悪いと言うのは悪口じゃない。正直という。
705 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 08:26:13
/ ./| /./
ミ / ./∧_∧ _/./
/ ./( ・∀・) /./
ミ / ./⌒ ⌒ヽ. /
/ ./") 原田 ./"'./
ミ / .// _ /./
/ ./" ,/ l././
.( ヽ |∪| /
\ ヽノ /
/ /
| _つ /
| /UJ\ \
| / ) )
∪ ( \
706 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 12:31:08
哲学科に入学してから自分の離人症に気付いた。
そこで休学し、学生のくせバー通いギャンブルマッシュとばかをやりまくった。
そんなこんなで(今は真面目に勉強してるものの)大学六年目w
というわけで今の俺は学徒としてはけっこうクズだ。上から借りればゴキだ、ゴキ。
しかしクオリアがクオリアである、この手に入れた意識状態は、とても楽しい。
抽象的思考能力は確かにかなり落ちますな。
願望も方法も人それぞれだろうが、抜け出したいなら一例にどうぞ。
707 :
706:2006/02/12(日) 12:44:04
少し落ち着いたな。
クオリア或いは表象へ没入せざるをえない状況に自己を放り込むのは有効かもしれない。
なんだ、まとめりゃ一行じゃないか
これ以上は板違いかも。失礼
>>697 気付けばそれが「望んだこと」にさせられていたんです
私が人間として生まれてから望んだことは、人間の三大欲求以降ストップしたまま
>>699 諦めないと心に誓ったところなのに
しかし自分が無いから諦めるも諦めないも無いのが痛快なところです
最初から何を望んでいるのか分からないんだから
>>706 クオリアを持っているのなら離人症ではないのでは?
抽象的思考能力が落ちるのもおかしい
逆じゃないですか?
>>707 追い込んだ末に帰らぬ人となるかも・・・
ああ、でもこの偽りの自分を殺したらどうなるのか、見てみたくはあります
何も残らなかったら私はそれまでなんでしょう 同時に命もね
709 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 20:22:07
離人症の敵は人じゃない、社会だ
人は知らず知らず社会に順応し、そこで常識と呼ばれる
偏見に満ちた規範=他者非難や否定、無視や排除、侮蔑やいじめを
身につけ、それをなんの疑問も無く、ただ周りがそうだからという理由
だけで行使しはじめる
そういう自己を正当化するための儀式が他者にそれを押し付け要求
する行為となって日常のはしばしに現われる。
一見するとその光景は、まるで人間が我が敵であるかのごとく映るが
そうさせているのは社会なのだ
離人とは対社会へのセルフ・ディフェンスだってこと
そこを間違うな
710 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 23:35:42
自分は変えられないから社会を変えるしかないってか。
711 :
考える名無しさん:2006/02/13(月) 08:29:17
ライ麦畑でつかまえて
712 :
699:2006/02/13(月) 16:15:22
自分がない・・・か。じゃあ、君はほんとに女の子と付き合いたい
と思った事はない、と言うんだね?
713 :
699:2006/02/13(月) 16:32:49
もちろん、自分がないから、付き合うのは無理だと言っているの
だが、それにしても人並みに女の子と付き合ってみたいという欲望は
ムートンには、ないのかな?
「自分がなく」たって、食欲、睡眠欲、性欲までないというはずはない
だろうが? ムートンには、「自分がない」から人並みに女の子と
付き合いたいというのはとても無理だから、フーゾクにでも行くしかないよ、
とオレは言ってるのだが・・・・。
>>713 「自分がない」とは、欲望があっても
欲望を欲望として認知できない状態だってわかって言ってんのか?
なにが「はずはない」だよ。
お前、スレタイ100回読んでから書き込めよ。
お前の愚にもつかない一般論なんざ毛筋ほどの意味もないわ。
715 :
699:2006/02/13(月) 19:35:50
欲望が認知できなくて、よく今日の晩飯が食べれたね。
いや、認知なんかできなくても、欲望はすぐそこにあるのさ。
呼吸するのだって呼吸の欲望があるおかげなんだぜ?
君こそ何を感違いしているのだ。
>>715 欲望と欲求は違う。
晩御飯は欲求だし、呼吸は不随意。
>>713 図式的理解しかできないイタイ奴が偉そうなことほざくな。
718 :
706:2006/02/15(水) 02:14:16
>>708 クオリアという概念を学んで知って始めて、自分の離人感に気付いたという感じ
自分を自分で眺めている感じだったんだが普通と思っていた
抽象的な思考能力や概念把握は落ちる……と思ってたのだが逆なのか?
じゃあ俺個人の変化の結果かな
それでも満足しているけど
ざっとしかムートンのレスは読んでいないんだけど、抑うつ状態ぽくはない?
719 :
706:2006/02/15(水) 02:19:07
『放り込む』と書いたのが『追い込む』と表現がかわっていたんでそう思ったんだが、まちがってたらごめんよ
720 :
699:2006/02/15(水) 09:09:15
じゃあ、君の見解を述べてごらんよ。わたしのレスは図式的どころか
もっとも具体的な処方箋なのさ。まあ、選択肢のひとつを提示したに
過ぎないがね。なにしろ、わたしはかってムートンに主治医になって
くれと頼まれた者だからね。必ずしも「人並み」をめざす必要はない
というのが、わたしの見解のひとつさ。まあ、商社なんか辞めてしま
って、がんばって大学に入って理科系の研究者=学者になるってのも
考えたが(なにしろ学者は普遍的真理を探究するのが仕事だから)
大学にも人間関係や権力関係が渦巻いてるから、それは無理だな・・・。
いっそ、哲学なんかじゃなく、生物学とか、心理学を研究してみたら?
と思うけど。なにか具体的な対象についての研究のほうが、ムートン
にはむいてると思うよ。
まあ717君のような、馬鹿にはまったく興味がないね。
721 :
699:2006/02/15(水) 09:36:50
いや、720はちょっと言い過ぎたかも。大学にも人間関係や
権力関係が渦巻いてるからムートンには無理みたいなことを
書いてしまったが、それは言いすぎだ・・・。とにかく、学生は
まじめに勉強すればそれでいいのだし、いい師にめぐり逢う可能性
も大きい。ムートンもまだ若いのだし、普遍的価値を見出したい
という性癖は、学者になるという道がもっとも適性ではないのか。
商社勤めがむいていない事だけは確かだと思うよ。
722 :
考える名無しさん:2006/02/16(木) 08:36:07
離人の意味すら理解できてないのに知ったかぶってる馬鹿が降臨しているな。
真性キチガイに話は通じないという典型例か。
>>709 >>710 最初は防御の意味合いが強かったです
今では社会に順応した振りをして入り込み、隙あらば侵食していく
ウイルスのような存在でいることが目的といったところでしょうか
これは自分の意志というより、離人でいるかぎり止めることのできない
原理主義的(外部から植え付けられた)性向なのです
>>712 女の子と付き合いたいと、心から思うことはやはり無いです
しかし最近変化が・・・
それは、ある子に対して、
大切にしたい、自分が愛したい、出来る限りのものを共有したい、
そういう心を持ちたい、そういう気持ちが少し沸き起こってきていることです
しかし、そこに自分自身がわざわざ関わっていく必要があるのか等、
また余計な考えを、理性は導き出します
この強大な理性に、一体どうやって立ち向かえば良いのか・・・
>>718 離人はクオリアと五感(もしくは六感)を遮断します。
概念把握は落ちますね。この3次元の世界が部分的に2次元に見えたり。
それゆえに抽象的思考に頼ることになる、というのが私の場合なのですが。
慣れてくると(開き直って能力を高めていこうとすると)、意識するので概念把握は
通常の人よりも発達するように思えます。
そのかわり飲酒などで意識が低下している状態では相当酷くなります。
あなたの場合は離人というよりも、通常の状態のまま
俯瞰視点を身に付けたのでしょう。羨ましい限りです。
>>720-721 今の仕事が向いてないのは入社する前から分かっていました。
これは社会に対する反抗なんです。
何か普遍的真理を求めるにしても、その前にこの不条理な社会に
それを邪魔される(もしくは利用される)であろうことをなんとなく察知していたし、
何かの「ため」に頑張るということから心が離れてしまっているので。
せいぜい今の自分の状態や社会の成り立ちを把握するために本を読んでいるぐらい。
愛する心というのが、今の真っ暗な私の心に射す光となれば
せめてもの救いとなるかも
728 :
706:2006/02/19(日) 05:43:12
>>726 ムートンとは重度が違ったようだが通常の状態から、ではなかったよ
離人感から初めて脱して世界が全く違って見えた
俺の主治医は有能だか老獪なんだかそのときになってはじめて
「自分はそう診断していた」なんて言いやがった。まあ逆に言えば信用されてたのかもしれないが
ま、思考能力に関しては少しおいとこう
ムートン、きみにもあの衝撃と希望が訪れることを、勝手にも切に願う
そのときに俺は、自分にも人が愛せることが自明のこととしてわかった
意識の変容というのは非常に興味深いね。
グッドラック。
729 :
考える名無しさん:2006/02/19(日) 23:00:39
>>725 ムートン、おまえ自身はともかく
おまえのとりついてる地球人は女の子を欲しがってるのよ
主人たるおまえが家来たる地球人にそれぐらいのこと
満たしてやらずに、どうして主人が務まるよw
こき使うが与えない、では”あるじ”にはなれないぞ
ましてや他者を侵食するなど、どうしてできようw
そんなことではいつまでたっても笑止からは抜けれない
さっさとその子に声を掛け、手に入れよ!
■1960年代から80年代前半までテレビに出るスターは輝いていたが
それは人々が普段は物質的世界の感覚で生活しているのに
テレビをつけるとそこには現実とは全く違う理想世界がある
と感じられたからで、この感覚の落差がスターの観念を生んだ。
(あるいは実在する芸能界はまだ理想とはほど遠い世界だが、
やがて未来において真の理想世界が現出すると幻想された)
実際かつてテレビに出るスターを生で目の当たりにすると
実に不思議な気がしたものだが、それは現実には存在しないはずの
異次元世界の住人が物質的存在として目の前にいるという奇妙さだった。
ところが80年代後半になるとスターの輝きは一気に消滅し
テレビタレントが目の前に現れても何の感激もなくなった。
これは人々がテレビに慣れ、普段の生活もテレビ的認識の回路で
行うようになってしまったためだ。
ここにおいて、かつての物質的回路の認識がパロディと化す。
以上は俺が最近あるスレに書いた文章だが今日はまた別のアイデアが
浮かんだ。それは「理想のインフレーション」というもので、
これはヒーローアニメでよく言われる「敵のインフレーション」を
もじったものだ。ヒーローアニメでは敵を倒すたびより強い敵が現れて
最後は宇宙意志とか人類の進化というとこに行き着いてしまう
というものだが、テレビの登場によって人間にとっての理想もまた
インフレを起こしてしまった。例えば「理想の女」について言うと
テレビ以前の時代、理想の女といえば身近に接する中で最も美しい
女性のことだったろう。しかし映画の登場と共に映画に登場する
有名な美人女優を自分のものにすることが理想になったと思う。
しかしテレビはさらに事態を進行させ、テレビに出る美人はまだ
本当の理想の女ではなく、それは未来のいつか出現する、となった。
ここまで観念が昂進するとどんな魅力的な美人でも現実の女には
満足できなくなる。最近の二次元萌えはこの超越願望の実体化だろう。
>>728 「あの衝撃と希望」とは、ギャンブルやバカをやりまくったら起こるんでしょうか?
にせ自己のネジをガチャガチャ揺さぶって緩めていくイメージでいいのかな・・・
とりあえず今すでにそういうことに奮闘中です。
>>729 「今の私」にとって、誰かと心や体を一つにする行為は
ある意味レイプに近いようなショックを受けます。
真の快楽も得られないし、セックス恐怖症なんだと思います。
現時点での下位存在である真の自己に、優位なにせ自己が犯されるイメージ、
分かりますかね?にせ自己にとっては凌辱にしかならないんです。
それでもやったほうがいいのなら・・・もうにせ自己の破壊しかない。
しかし長年作り上げてきた今の自分が消えるのが恐い・・・
732 :
699:2006/02/22(水) 09:02:24
違うと思いますよ。あなたの錯覚は「にせ自己」でない「ほんとうの自己」
がある、と確信していることです。「ほんとうの自己」は世界の欺瞞と虚偽
を見抜き、あなたにとって「真の理想の世界」をめざすという「崇高な目的」
を抱いている。じつは「にせ自己」こそほんとうのあなたではないのですか。
あなたは「ほんとうの自己」という大義を長年にわたって磨きあげてきた。
そして、外界との界面である身体=にせ自己を徹底的に貶めてきた。しかし
それはおそらく、あなたが世界、あなたが真に恐れている対象から逃れる
ための詐術ではないだろうか。あなたは、トカゲのシッポを切るように自分
の身体から分裂することによって、世界からの脅威から逃走しているだけ
ではないのだろうか。世界があなたが考えているような恐るべき敵などでは
なしに、むしろあなたのパートナーとなりうる可能性をも持った複雑な存在
であることを認識した時、はじめてあなたは「ほんとうの私」と信じてきた
ものこそ、にせの自己であった、と悟ることになると私は思う。にせ自己は
「あなた」なのだ。そして「ほんとうの私」とはあなたが思い出せないほど
遠い過去に何者かによってプログラムされたバグであり、ノイズなのだ。
>>699 よくわからない癖になぜスレに粘着するんだ、気色悪い
>>733 ムートンがどう受け取るか分からんけど
>>732は説得力ある気がする
>>732 ムートンが畏れているのは自分勝手でしかありえない自己愛を自分に認めることでしょうね
自分勝手が許されるとはなかなか思えないからなぁ
735 :
考える名無しさん:2006/02/24(金) 14:00:14
>>731 セックス恐怖症?そんなにセックスが大事か?
大事だよなw 恐怖するほどw
セックスそれ自体はなんでもないが、愛する相手とのHとなると
Hがその愛を「壊す要素」として作用するようで怖いんだろ・・。
どうしてそう感じるかといえば、おまえがHを「愛とは別物」として
とらえるからだ。愛の一連のプロセスじゃなく、なにか特別なもの
としてHを位置づけてるおまえがいるってこと。
そういうおまえは不純だw
それに気付いてるからこそ、おまえはHにこだわってしまうわけよ。
直視しろ自分が生き物である事を。にせもなにも生き物ゆえってこと。
生き物のおまえは愛する者の見えるところにいたいのよ、
触れてもみたいし、キスも・・「すべてくまなく確かめてみたい」のよ。
でもそういった連鎖、自己の率直な感情や欲求をどっかで切ってしまう。
その「どっか」がおまえの異常、脳味噌のショートしてる個所。
そこで切る必要も意味もないこと・・よく確認しろ。
おそらくはただの臆病風、その言い訳にすぎないw
736 :
考える名無しさん:2006/02/24(金) 14:10:24
こういうのマジでどうでもいい。学部時代そういうことばかりについて話してるやつがよくいたよ。人生問題を哲学として考えても実は何とでも言えるんだよね。
737 :
考える名無しさん:2006/02/24(金) 14:14:11
一方で「今現在の自分さがし」のために現代思想や社会学に当たってもこれまた意味がない。何か「斬新な」感じがするんだろうけど。または問題を扱う手法が実に見事にみえ、それに興奮する自分を「何か判った」ような気にさせるんだろう。
738 :
考える名無しさん:2006/02/24(金) 14:16:25
哲学史上、人性論期はソクラテスの時代で終わっている。そこでの人生とは存分に当時の宗教観社会観に影響を受けたもので、今の「自分探し」とは根本的に意味が違う。
何の為に戦い、何の為に死せるのか。
答えられないなんて、そんなのは嫌だ。
740 :
考える名無しさん:2006/02/25(土) 15:13:41
>>739 「何の為に自分は生きたいのか?」・・それだけ考えろ!
741 :
胎内記憶保持者:2006/02/25(土) 16:52:09
雲を動かす能力発見!
742 :
考える名無しさん:2006/02/25(土) 16:57:51
そういう「永遠の問い」は、哲学の問題ではありません。
743 :
考える名無しさん:2006/02/25(土) 17:41:45
>>741 おまえが能力発揮しなくても雲は勝手に動いてる件
Hしなくても愛を交し合える関係が、私の理想系であり、今の私の目的の全てです。
しかし心が体を基盤に存在していることを考えると、どうも非現実的なようです。
現実に臆病な自分が、理論武装で固めて逃げているだけなのでしょう。
理想にそぐわないものは概して醜いものであるという考えが根付いているのです。
そういうあなたが醜いのよと、思われていることも知らずに。頭でなら分かるのだけど。
どうも体の自立が遅すぎたようです。体を叩き起こす作業こそが、今すべきことでしょう?
ひとつムートンに訊いておきたい。
哲学的な「正しさ」や倫理的な「正しさ」を自分の中にインストールすることは
離人症を治すことにおいて重要なことだ、という風に考えているのかな?
746 :
考える名無しさん:2006/03/02(木) 13:56:25
ムートン、おまえの恋(に限らないかも)の敗因は行動の欠如にある
「生」のあり様は行動で決まる…頭の中でどう考えてるかじゃないってこと
もしおまえが望む方向に行動すれば、行動した分だけ望む結果に近づくし
逆に望む(考える)だけでジッとしてれば「相手が動いてる分」結果は遠のく
ジッとしてる事は「事態が「変わらないこと」の選択なんかじゃなく、じつは
「望みから「遠ざかること」の選択なのよ、そこんとこをわかれ
時間とともに益々苦痛は増すわけだが、そんなの苦しいだけに決まってるだろw
生きれば生きるほど望みから遠ざかる人生…それが「おまえの選択」だってこと
以下、大雑把に生き物の「生」のあり方をならべてみる
下へいくほど幸せな生き方ができる
1.原始動物 …欲求→行動選択→結果が待ち受けてるだけ
2.普通の人 …欲求→思考→行動選択→その結果のイメージ→行動の躊躇
3.合理的な人…欲求→思考→結果のイメージ→行動選択→行動の再選択
おまえの捕まってる状況は2.の躊躇、おれのお薦めは行動継続のサイクル3.
おまえが「欲求を殺そう」と試みたり「思考パターンを変えよう」と試行錯誤する
気持ちがわからないわけじゃないが、でもね本能や欲求を消すことはできない
「欲を捨てよう!」というのも欲の一種だという事を考えればわかるはずw
人間に変えられるのは「欲」でも「思考」でもなく「行動」だけなのよ
そして自己の人生を変え得るものがあるとすれば、やはり「行動」なのよ
ムートン、自己懐疑癖とかない?
俺はある。
自分は〜である、というにしろ、なぜなら〜である、というにしろ、なんだか嘘くさいっていうかさ。
だとしたら、いっそのこと自分を『恥知らずな嘘つき』として定義してみたらどうだろう?
余計、症状が悪化するかな?
以上、自分って離人症なんじゃないかなと思っている離人症に関して全く無知な人間の言葉でした。
・・そもそも、いきなりエッチとかしなくてもよいが、問題の彼女と
話はできるのか?
離人症のテレビ原因説を否定するのも離人症の症状の一つである
750 :
考える名無しさん:2006/03/06(月) 10:02:11
離人症テレビ原因説なんて、本気で言ってるの? ありえませんね。
テレビ普及以前には、離人症はなかったことになりますね。あほらし。
751 :
考える名無しさん:2006/03/06(月) 11:13:46
それじゃ、ラジオ原因説。w
そりゃ電波違いですがなw
>>750 テレビ以前に「自分と世界が透明な膜で隔てられているみたい」
という症状を訴えた人がいただろうか。
テレビ以前にこれほど多くの人間が世界を他人事としか
感じられなくなったことがあっただろうか。
離人症者は精神というものを崇高で絶対的価値のあるものと考えるので
たかが物質の装置にすぎないテレビなどというものに自分の意識が
変質させられているという事態を認めることができないのだ。
>>753 > テレビ以前に「自分と世界が透明な膜で隔てられているみたい」
> という症状を訴えた人がいただろうか。
「訴えた人がいない」ということをまず示すのが先だろ。
そんなものは検証のしようがないがな。わけがわからん。
>>757 「訴えた人がいない」のを示せというのは無茶な注文。
昔からいたというならその実例を一つ挙げれば済む話。
さて、理性には対象を否定する働きがあって
「これは本当の○○じゃない」と現実を拒否する。
しかし、いつもそういう心の習慣で暮らしていると
現実のすべてが受け入れられなくなって
いつか完全無欠の理想世界が実現すると思うようになる。
ことにテレビ世代はその傾向が極端で、現実的対象をすべて
否定し尽くせば、超越的意味に満ちた世界が実現するだろうと期待する。
しかし超越的意味とは物質的生活の煩わしさの中で
たまに普遍的観念に触れた時に感じるものであって
物質的現実をシャットアウトすると全然感じられなくなるものだ。
だから現実を否定し尽くしても世界が超越的意味を回復することはない。
愚かな鳥は「空気がなければもっと速く飛べるのに」と思う(カント)
既に「テレビを見ていないのに離人になった」という反例が示されているのに……
どうしたらそのくだらない思い込みを打ち破れるのか、本当に悩ましい。
レベルが上がったり下がったり大変だなこのスレ
>>752 うまいこといいやがって。和ませてもらったw
「テレビを見ていないのに離人になった」という人は
たいてい2〜3歳までは熱心にテレビを見ている。
テレビが刷り込まれた人間はちょっとでもいやなことがあると
すぐ観念の世界に逃げる(俺のことだ)。そして脊髄反射で現実を
否定し続けるうち、ついには現実認識の回路が切断されてしまうのだ。
>2〜3歳までは熱心にテレビを見ている
>すぐ観念の世界に逃げる
自閉傾向が少しあるのではないか?
確かに俺は一切の世界を受け入れてはならないと
考えてたくらいだから自閉的にはちがいない。
しかしそれは意図的なものであり、どうしてアナザーワールドが
ないと言えるかを追究していたからだが、
最近ようやくその理由がわかって世界を受け入れる気になってきた。
俺よりも問題なのは自分が自閉的かつ全能感的になってることにすら
気づかないでただ何もかもうまくいかないと思ってる人たちだろう。
自閉的=全能感的ということにはならないな。
無能だから自閉状態で自衛することもある。
こちとら日常的慢性的に肉体的苦痛とつきあっている状態なのだが、
感情をだしてそれをコントロールできる状態ではないので、
離人と自閉で乗り切っている側面はあると思う。
> 俺よりも問題なのは自分が自閉的かつ全能感的になってることにすら
> 気づかないでただ何もかもうまくいかないと思ってる人たちだろう。
同意だが。開放的全能感というのも対外裏があって、
周囲が意気消沈していく状態で察しが着く。
まあ口は災いの元ちゅうことで、口顎歯には注意してくれ。
【噛み合わせ症候群】歯とメンヘル【顎関節症】
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/utu/1119930843/l50
765 :
762:2006/03/13(月) 17:43:44
私が言ったのは自閉スペクトラムのことで、生まれつきの性質のことです。
「2〜3歳までは熱心にテレビを見てい」た事と「すぐ観念の世界に逃げる」事とが両方とも自閉傾向から分かれ出てきたのであって
「テレビが刷り込まれた」たから「すぐ観念の世界に逃げる」ようになったという訳ではないのではないかと思ったのです。
自分がそうであるようなので書きました。
762を読んだだけではとてもそうは思えないけど。(反省しております)
自閉症的な傾向の「自閉」と
内気がちという程度の意味の「自閉」はまったく違うからねえ。
このテレビバカが自閉症について限りなく無知だってことは分かった。
知ったかぶってんじゃねえよ低能。キモイんだよ。晒しage
>>764 >自閉的=全能感的ということにはならないな。
>無能だから自閉状態で自衛することもある。
客観的には無能な人間が自己防衛のために持つのが全能感です。
最近そういう人間が多いことは『他人を見下す若者たち』
(講談社現代新書)がベストセラーになってることからも明らか。
つまり開放的全能感の持ち主も多いということだが、このタイプの人は
何かあっても観念の世界に逃げ込まないので現実生活が続けられる。
>>765 テレビが刷り込まれた人間のすべてが観念の世界に逃げるようになる
わけではない。そこには生まれつきの性質も当然関係している。
しかし、かつて自閉症といえば「生きた現実との接触の喪失」
(ミンコフスキー)という表現に止まっていたのに最近になって
「透明な膜」みたいな症状が出てきたのはやはりテレビの影響と
言わざるをえないのではないか。開放的全能感の持ち主の増加も
病気としての自閉症だけでは説明がつかない。
(同様のテーマで岡田尊司著『誇大自己症候群』という本もある)
久しぶりです。
テレビについてですが、テレビというものの存在自体が
心身の薄い膜や硝子の壁といった表現のメタファーとして
合致し得るものであり(テレビ⇔自己 という関係性が、自己⇔自分以外 に
当てはめやすい)、
またそのように解釈できるものなので、引用するのに都合がいいのは確かですが
それ以上何かがあるとは私には思えません。(例えばテレビを見て離人症になる
といった話のこと。テレビよりも心を奪われるであろう映画を例に取ったとしても、
観客は画面に自己を投影するというぐらいに留まることでしょう
全能感といのはそこから来ているのではないかと、最近思うことはありますが)
また近々ゆっくりレスします。
770 :
考える名無しさん:2006/03/16(木) 20:18:11
アップ
771 :
考える名無しさん:2006/03/19(日) 00:51:51
たんにテレビ・メディアに影響されすぎの馬鹿。
田舎の農家で働いてみろ。
正気に戻るぞ。
ありゃ、上の私のレス支離滅裂なこと書いてますね。
ごめんなさい、忘れてください。
小泉純一郎。。。
>>745 倫理的な正しさを遵守してしまう性質は、私が離人症である理由の一つです。
哲学的な正しさとは何でしょうか?
それが倫理・道徳的な正しさから離れることであるならば重要だと思います。
>>746 今までの人生で私は「欲を捨てる」ということが美徳であり最優先されるものだという
育ち方をしてきました。それを取り払えばいいんでしょうけど
この問題は私の場合、体で分かっていても頭ではなかなか理解しがたいんです
普通はこの逆のことが世の中では多いでしょうけど。それほどこの考え方は
幼少の頃から染み付いているんです。
>>747 さいきん実践中です。たしかにいろんなことがスムーズにいくようになりました。
頭では理解していなくても、とりあえず動きます。
>>748 ちゃんとコミュニケーションをとれているかといえば、できていないと思います。
彼女は感覚的に私を好きなようです。どこか自分と似ている部分があるようです。
それは私も感じます。
体のほうから頭にノックし続ける
殻が壊れるまで
進展あったら報告よろ。もちろん雑談でもおk
>>775
なにかのDONになりたい
778 :
考える名無しさん:2006/03/26(日) 23:14:00
DQNには資格十分だと思う
779 :
745:2006/03/27(月) 00:19:47
>>774 ムートン
>倫理的な正しさを遵守してしまう性質は、私が離人症である理由の一つです。
>哲学的な正しさとは何でしょうか?
>>745で言った
> 哲学的な「正しさ」や倫理的な「正しさ」
はひとくくりとして書いたので、おおざっぱに「倫理的な正しさ」として理解してもらってかまわないです。
哲学的な正しさが、倫理・道徳的な正しさから離れること、に重要に働くかといえば、
確かにそういう風にも働くと思いますが(哲学は「野蛮」なものでもあるから)
とりあえずはそれは置いておきます。
>倫理的な正しさを遵守してしまう性質は、私が離人症である理由の一つです。
倫理的な正しさを追い求めることが、離人症を治すためではなく、離人症の原因のひとつだと
そう捉えているのですね。
それならば良かったです。
そうであるならば倫理的な正しさと哲学的な正しさを混同せずに腑分けすることが有効であるし、
哲学に入り込む(それが有効になる)条件が整っています。
780 :
120:2006/03/30(木) 00:36:45
物事との関わりは単に物理的な接触じゃない。
その点を確認しておかないと多分これ以上理解は進まないでしょう。
自己が一方にあって、それとは別に物事や他者があって
その二者が物理的に触れたり離れたりするんではなく、
自己は最初から常に関係性そのものである。
離人症とは特定の関係性の状態であって、
離人症の自己も自分のあり方が違うだけで自己であることには変わりがない。
離人症はこの関係性が抽象化されているというのが実状に近いんじゃないかと思う。
関係の全体が抽象化されていることで焦点が定まらなくなり、
自分自身や物事との距離感が掴めなくなっている。
781 :
考える名無しさん:2006/03/30(木) 14:45:58
>>780 マートンの場合、
その物事というやつが「自分以外の他の物事」じゃなく「自分」なのよ
もっというと動物として存在する自分・・マートンはそれ以外の「自己/私」を
作りあげてこれまで来たのよ
結果、動物の自分と理性的産物たる自己との対立は尋常でないほどに
高まり、苦しんでいる・・ってこと
むかし美人を占めたから、俺が偉いんだ
783 :
120:2006/03/31(金) 22:10:09
心的であることと身体的であることは元々分けて考えられる状態じゃないんですよ。
心も身体もあるものとの関わりによって可能になっている。
離人症は関係性そのものが抽象化されることによって、
心的であることと身体的であることどちらも抽象化されているということです。
例えば普通は記憶とか単なる想像でも物事との関わりが保たれている限り
実際の感覚がないだけで現実感は失われないんですが、
離人症の場合は現実感が薄れて距離感が掴みにくくなっていると思います。
784 :
考える名無しさん:2006/04/03(月) 15:04:17
考えるんじゃなくて、感じるんだ。
そうだ、考えてばかりいちゃいけない。感じるんだ!
……で、感じることができなければどうしたらいいんだ?
感じることが出来ないのであれば考えることを徹底することでブレイクスルー。
787 :
考える名無しさん:2006/04/03(月) 19:00:38
感じる事が出来ないと考えているだけだ。
788 :
考える名無しさん:2006/04/03(月) 19:51:09
大事なのは考えるんでも感じるんでもないのよ、行動すること
行動しないから欲しいものが手に入らないのよ
感じ、考えるだけじゃなんもならん
789 :
考える名無しさん:2006/04/03(月) 20:03:39
そうそう。
無理矢理でも動かないとね。
>>777は誤爆です。
>>779 物は捉え様ですね。例えば釈迦の教え
六道輪廻、八正道、無我の境地など、これらのものを守ることこそが
生きる目的である、と私は捉えて(インストールして)いました。
教えの中には「中庸」もあるというのに。
弦の張りがきつければ切れてしまうし、緩ければいい音が出ない
なぜこんな単純なことができないのか。どこかで頑なに反発している自分が
やはりいるのでしょう。
>>780 全てはキルケゴールが既に語っていたことなのですね。
やはり私は今、何らかの理由で絶望の状態なのです。
>>781 ええ、はっきりいって全く別人です。互いに、他人よりも理解できない存在です。
>>783 そうですね、体がぼやけているから心がハッキリしている、
というわけではなく心もあやふやなんですよね
心や体以外のところに、このにせ自己は存在しています
793 :
考える名無しさん:2006/04/04(火) 12:43:32
そばに唐辛子瓶まるごと一本入れて食べたらええやん
794 :
考える名無しさん:2006/04/04(火) 14:53:20
>>793 そうすると おまえみたいになっちまうだろw
795 :
考える名無しさん:2006/04/04(火) 19:05:14
思考は現実化する
ダメだ・・・なんでも行動することはできるのだけど
核心を突く部分でうまくコミュニケーションがとれない
要望を伝えられない
私の頭の中には本当にアレがしたい、コレがしたいという部分が
育ってきていなかったのでしょうか
>>796 >私の頭の中には本当にアレがしたい、コレがしたいという部分が
>育ってきていなかったのでしょうか
「本当の欲望」などというものは早々に断念しなければならない。
能動性によって現状を打破しようという試みは失敗に終わる。
798 :
考える名無しさん:2006/04/09(日) 16:20:49
>>796 ムートン、伝えようとする一方だから伝わらないのよ
聞いてないってこと、相手の言ってる事を
おまえが自分の言いたい事を受け入れてもらってないと感じる間は
相手のいう事に十分耳を貸さないだろ?
相手も同じなのよ
「聞いて欲しくば、まず聞けってこと」
>>797 それは、なぜですか?
>>798 他人に自分を分かってほしいばかりで
他人のことを分かろうとしない
私はそれほど自分本位な人間だったのですね。
思えばこのスレを立てたのも
私の症状を分かってもらいたいからだったのでしょう。
「聞く」とは、どうすることでしょうか?これだけ生きてきて
私にはその方法が全く分かっていないのかもしれません
800 :
考える名無しさん:2006/04/10(月) 21:05:03
>>799 まぁ そう落ち込むな、聞くってのは慣れない者にはけっこうむずかしいw
なぁマートン、もし「相手が」おまえの言う事に「100%耳を傾けて」くれたら
かなりの確率でおまえの意図が伝わると思わないか?
その逆バージョンで、相手が「おまえに100%自分の言う事に耳を傾けてくれたら」
と思ってるの…わかるよな? (フィフティ・フィフティw)
で、聞くというのは、相手が何か言い始めたその時「相手の言いたい事を先に聞いてあげる」
ってことなのよ。その際の注意事項は一点のみ…だまって何をその人が言ってるか「だけ」に
集中すること・・それだけだ
いいか、自分とどこが違うかとか考えちゃ「ダメ」 !! そんなことしてたら途中で口を挟みたくなるし
そうすると相手は自分の言いたい事を最後まで言えず、おまえの不理解の中で
またまた追加説明しなくちゃならない…それじゃループしちゃうだろ?
だからそんなこと考えたり口挟んじゃ「ダメ」なのなのよ…聞く時は
自己の主張を「意識的に消し去り、理解だけにつとめる」…それを聞くというのよ
ぶっちゃけ「何を言いたいのかがわかるまで質問する」ハメになるが、そこは我慢w
そうやって「それじゃ自分の言いたい事が言えなくなっちゃうじゃん?」とかいわずに「相手を
理解してあげるのに徹する」とその結果「言うことの無くなった相手」は
今度は「で、おまえの言いたいのは何?」と、聞く態度に出てくれる
いいか、一番むずかしいのは「聞く態度をどうやって相手につくらせるか」なのよ
801 :
考える名無しさん:2006/04/10(月) 21:08:43
>>800 「聞く態度をどうやって相手につくらせるか」
とうとう核心がでてきました
私の全ての問題はそこに帰結するようです。
うーん、本当にどうすれば・・・
>>802 本当に人の言うことを聞かないみたいだな。その上に書いてある通りだろうがw
はっ!
相手の言いたいことを聞くということは
自分の一部を相手に与えること
相手の中に自分を一時預けること
それができない私はきっと
心底他人と同調する気が無く、躊躇い、信用していないのでしょう
どれだけ人の中に紛れても
水の中に油を注いでいるかのように分離します
このままだと濁り、腐り、全てと相容れなくなりそうな気がします
806 :
考える名無しさん:2006/04/18(火) 13:20:00
>>805 積極的に聞くというのは、自我を抑え相手に感情移入し同化を余儀なく
される点で1種のダウンロードに似てる
うっかりするとその一時的同調に自分が乗っ取られてしまう感じを受け戸惑うかも・・
でもね、それは理解してる途中の出来事であり、理解が進むにつれ
その現象は薄れる…おまえはしょせんおまえでしかないってこと
他人になれるわけじゃない
じき自分が顔を出すんだが、一時的であれそれが怖くてできないというのであれば
「聞く」は おまえへの処方箋にはならないw
コミニュケーションで相手(の欲求)を考慮せず(知らずに)に、結果を自己の都合
よい方向へ運ぼうとするのは困難だし、非効率きわまりないやり方だが
一時的自己犠牲(同調は投資なんだが・・)がイヤとなると残るは
上手に「伝える」方法だけという事になる
これは長い目でみたとき徒労の連続を覚悟しなくちゃならない
では「伝える」とはどういうことか?自分の考えを他者に伝えるとは・・?
それにはまず第一に自分を理解している必要がある、自分の考えを・・
おまえは自己(の考え)を知ってるだろうか?
伝える・・・そういう場所を設けるのには努力を惜しみませんが
いざその場になると、伝えたいことが何なのか分からない、という
他人をいらつかせる才能はあるようですが。
ところで自己って「関係」ですよね?近ごろ多方面で関係性を
広げつつあるのですが、おそらく誰とも関わらずにただただ自分を
見つめていても、自己って発見できないんですよ。
もう少し立てば、本当に自分には自己が無いのか、何か見つかるのか
きっと分かる気がします。前者でないことを祈りつつ。
人生一代の賭けですねこれは。比喩でも何でもなく。
>本当に自分には自己が無いのか、
自己の無根拠性を受け入れることから哲学ははじまるんだよ。
それまでははじまってもいない。
自己とは関係、言葉は他者から与えられるもの、欲望とは他人が欲望したもの。
言いたくもないことだが、それを動物的な欲求と勘違いをしてはいけないよ。
人間である限り持つ「自我」や「欲望」は自分だけでは成り立たない。
それは他者とのかかわりにおいて発生したもの、自分の中にはなかったもの
事後的に作られたもの。
そしてそのことを否定的なこととして受け止めてしまうことこそが、
病の原因であり、幼児的万能感。
809 :
考える名無しさん:2006/04/20(木) 08:41:49
>>807 「自己を知る」とはどういうことか?簡単にいうと
「いま何故おまえはそれをしてるのか?」
「何故おまえは今そこにいるのか?」
それを知ってる…ってことなんだよ
自己の行動(言動)の動機(目的、理由)を自身でわかってる…ってこと
それができていれば、おまえは自分を知ってるし
できてない、と感じるなら自分を知らないといえる
自分(自己)とはそれらを単に集めたものに過ぎないのよ
「伝える」で肝心なのもその点…「何故それを言ったのか?」を必ずつけ添えるってこと
つけ添えるというより むしろそれがメインなんだが・・
一例だけあげとこう
@「きみの仕種って可愛いね」
A「きみの仕種を見てるとぼくは幸せな気分になる」
わかるね?@だけ言うのとAをつけ添えることの違い
伝えるというのは「何故そう言ったのか」その動機を必ずつけ添えるってこと
「自分を知らせる」というのはそゆこと
伝言ゲームでつね
しかし、ムートンが具体的な現実問題を解消していくことで救われようとしていく様は・・・・・・
なんとも言い難いな。
本当にそれでいいのか、と。
具体的な現実に対応していくことはもちろん重要だし、最優先事項だとも思うが、
それで抽象論的な解決を放り出すことになったら、ちょっとどうかと思うし。
>>808 自己は本来もともと存在するものではない、ようするに無根拠てことですか。
私は昔から、何かを守るために生きているのだと思っていました。
>>809 「いま何故おまえはそれをしてるのか?」
「何故おまえは今そこにいるのか?」
分かりません。数え切れない「やっていいこと:悪いこと」の選択の上に
結果があるのだと思います。複雑すぎて遡っていけません。
@「きみの仕種って可愛いね」
A「きみの仕種を見てるとぼくは幸せな気分になる」
伝える、って素晴らしいものなんですね。
でも私はA以降がどうしてもできない。
思いを伝えるまでに留まり、それ以降の、その気持ちに基づく「行動」を
どうしても踏みとどまってしまう。関係性を作る恐怖があるのか。その原因はどこに・・・
>>811 私は常に離人感に覆われているんです。存在そのものが抽象的なんですよ。
考えている事だっていつも抽象的・普遍的なことばかりです。
そんな私が今度久々に、本当に久々に女の子と1対1でデートです。
どういう行動を取ればいいでしょうか
女の子は抽象的に話は基本的に嫌いでしょう?
口説くのに成功したいとかしたくないとか、どんなことはどうでもいい
ちゃんと自分が相手に対して何かを思うことができるか、
思ったまま行動できるかどうか、それが当面の問題です。
813 :
考える名無しさん:2006/04/25(火) 12:16:37
>>812 >「行動」をどうしても踏みとどまってしまう。関係性を作る恐怖があるのか。その原因はどこに・・・
得たい結果があるにもかかわらず、それに向かうアクションが取れない
「その程度がひどいんだ」・・ということなんだろうけど、動き出せない根源は皆同じ
飛行機は離陸のとき一番エネルギーを必要とする
出力不足なのよムートン、人一倍欲求を抑える自己訓練を重ねて来たおまえは尚更さ
過度の欲求シャットダウンの副作用、基礎訓練を怠けてきたツケ・・払うしかないw
抜け出すには・・弱ってしまったかにみえる欲求に強力添加剤を投入してやるしかない
プロの一流選手は皆それをやる、イメトレがそれ
とりわけ最終イメージの連想訓練は他を圧倒する
タイガーウッズなら「打った球がカップに転がりこむシーン」を想い描くわけ
それが産むのよ・・結果を手に入れるために必要な集中力・忍耐・冷静さ、とるべき行動を
たいがいの者は逆をやってしまう、つまり結果からではなく「プロセスから」考え始めるのさ
「こうすればどうなるか?こうなるかも、ああなるかも・・?」、その結果あろうことか望まぬ結果
失敗を想い描いてしまう、それじゃぁ行動が萎縮し望んだ結果から遠のくのは必至
ムートン、おまえは彼女とどんな風になるのを望んでるんだ?
どんな光景がおまえを満たすんだ?それ「だけ」を想い描くのよ・・それだけでいい
それさえできれば、あとはそのイメージがおまえの採るべき行動、とるべき態度へと自然に
導いてくれる・・うそみたいな話だが本当だ
心理学の御大ジェームズも言ってる
「真に切望しその結果を心に想い描けるなら、手に入れたも同然だ」
しかし、恋愛だけは例外である。
815 :
考える名無しさん:2006/04/25(火) 13:51:10
>>813 例えが旨いですね。飛行機の離陸の例、まさにそのとおりで。
今考えているのはとにかく「当り障り無いように、批判しないように、
いきなりエッチなことはしない、相手を楽しませたい、自分に素直に」
こんな感じです。
しかしですよ、こんな状況を自ら作り出しておきながらも
まだ居るんです。私の中に。何も望んでいない自分が。
もしかしたら本当にそれこそが本当の自分なのかもしれない。
と、錯覚するほどに。
無欲、無我を美徳とし、欲望を悪とする自分。
はっきりいって多重人格みたいな心境。
最高の権限を持った判定者が私の中に住んでいる。
私の一部になりすましている。
もし恋愛の魔力というものがあるのなら、それに依存したい、と
また人任せな自分。
出力は自分の中から出さないと意味が無いんだろう。
イメージトレーニング・・・何も思い浮かばない
相手次第で目的がコロコロ変わりそう。そしてそれを楽しみそう。
自分が自分の意志で何もできないのを、客観的に楽しんでいる自分。
ようするに、ひねくれている。抑制の副作用が、これだったのか。
すこしずつ分かってきた気がする。自ら人生を破滅させようとする自分が。
817 :
120:2006/04/25(火) 23:35:32
例えば、「○○がきれいだ」「いや全然そんなことはない」と会話があったとしましょう。
普通これはそれぞれの主観が違うから意見も異なると考えられるわけですが、
それ以前に基礎になってるのは○○のきれいさもそんなことないと見なす元のものもその○○自体が持っているということ。
だからこそ全く意見が違っても会話が成立するしお互いを理解する可能性もあるわけで。
この共通の根拠が要するに世界ですよね。
何かに対して自分の気持ちを持つためにはまずそれを受け取らなければならない。
自分の中を探しても自分の気持ちがないのは当然なんですよ。
世界が自分に影響してくるんであって、関係性が抽象化されてるというのは
世界→自己という方向性が抽象化されてるということ。
そうすると自分も含めてあらゆるものが繋がりがないままバラバラになってしまうんではないかな。
意味不明、、、
世界が自分として結実しない?
ムートンはどう転んでも損しないんだから、呑気に傍観しててもいいと思うけど。。
流されるうちに欲を確認する機会を持つかも知れんし。。
人や自分を苦しめるのが嫌なのかな?、、、まあ、嫌だわな、、
819 :
灰色:2006/04/30(日) 00:28:39
状況に合わせるために思想を選択するという方針。
主体性が無ければ痛みを感じることもない。
行為を選択したのは状況のほう。
私はそうせざるをえなかった。
私は何もしていない。
本当に?
主体性の欠落を肯定することは
生の連続性の否定へと繋がってゆく。
眠りは死と同じ。目覚めは生と同じ。
私は目的を持たない有機物。
本当に?
820 :
120:2006/05/01(月) 22:08:28
いや状況が与えられてなければ単に迎合するだけでなく
状況に逆らうことも無視することもできないでしょう。
自己はあくまで関係であってどう対するかは自由なんですが、
関係の根拠は自分のものではないために
対応の意味や基準も自分が作り出すものではないということです。
821 :
灰色:2006/05/03(水) 20:36:30
>>820 そうですね。まず状況があり、それに対する自己が形成される。
ペルソナ。
問題は、そのようにして形成された自己に対する価値観です。
自己の価値を認めれば、それを拡大させるために状況を
要求することが肯定される。つまり自己の成長、言い換えれば
経験値の獲得に価値を置くということです。
この立場では、苦痛も快楽も経験のうちとなる。
でも拡大によって得られた自己は所詮、その状況に
対応するために形成されたペルソナに過ぎない。
また、拡大にはいずれ限界が来る。永遠に貪欲でいることは
できないから。
状況に飽きてしまったなら、拡大してきた自己は縮小してゆく。
膨らませた風船がしぼむように。自己の拡大の先にあるのは、
飽き、閉塞感、緩慢なる死。関係の相対化の限界。認識の壁。
理解されない思考。繋がりようのない絶望。
灰色の世界。
>>820 :120
>対応の意味や基準も自分が作り出すものではないということです。
対応は、行動→結果の学習(結果に対し評価)の蓄積によりけりです。
>>821 :灰色
>自己の価値を認めれば、それを拡大させるために状況を
>要求することが肯定される。
楽しいなどの評価を許すことができれば、積極的な情報収集も
良しとできる。などと勝手に解釈。
>自己の拡大の先にあるのは、
>飽き、閉塞感、緩慢なる死。関係の相対化の限界。認識の壁。
>理解されない思考。繋がりようのない絶望。
飽きる理由を、"挫折","繰り返しに嫌気","得たい情報を得た"に、
分類。勝手に"挫折"と判断したけど、どうなん?
言い訳。
某M氏曰く、「"〜と思う"という言い方は、
ファイナルアンサーではないので、評価できない。」
と、おっしゃったので断言気味に。
いろいろ、変わってきました、分かってきました。
また近々ゆっくりレスを。
好きかどうか自分でも分からないけれど
女性と付き合い始めました
人に対する思いやりを身に付けたり、関係性を無理にでも大事にするために
これが強力な目覚まし薬になってくれればいいのですが。
もう選り好みせずに状況に合わせる。
いろんな流れに飛び込む、そして欲を確認する。
欲望を解消するために行動する普通の人とは逆の手順。
欲望を得るために空虚な自分に鞭打ちます。
当面の目標は、偽自己の主導権の封印、奪取。
意図的に止めていた過去の関係性の「時間」。
過去に戻って始めなければ、今すら始まらない。
まずは穴埋めを。
もう少しで「概念」に生き、「概念」に死ぬところでした。
826 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 03:44:47
>>825 ムートン、「気」のまぎれることを始めたように感じられてなんか嬉しいw
自分が「何をしてるか」はそう重要じゃない、大事なのは「気分」だ
どんな偉業を成し遂げようが、人様にホメられようが、あるいは評価されようが
自分自身が「いい気分」になれなかったら、なんにもならない
この事実を逆から言うと、
「いい気分」になれさえすれば「何をしてようがかまわない」ということだ
ひとはこの逆をやってしまって自分を見失うことが多い
人ごみに紛れてしまうのよw
人生って結局「自分の周囲にあるものを使ってどれだけいい気分を味わうか」なのよ
「好きかどうか」などもヒョッとしたら、「どうでもいいのかもしれない」ってこと
実際人なんて好きになったり嫌いなったりなんじゃないか?
だからもし、その女性が少しでもおまえに「いい気分」をもたらしてくれるのなら、
その分がその人の(おまえに対する)価値、意味、意義なのよ
もっといえば幸せってこと
つきあってみて、その人が意味ある時間をすこしでもおまえにもたらしてくれる人である
なら、それが持続できるよう、あるいはもっとふくらんでいくよう、その人に応え、思いやり
そして「自分がその人であったなら、おまえにどう接して欲しい」と望むだろうかと考えを
めぐらしながら(それが相手の立場に立つってこと)、人というもののもたらしてくれる
いい気分を愛し、「そういう自分もまた愛する」ようつとめてみる・・
この作業、案外奥が深くて結構楽しめるぞw
ムートン、おまえが人を愛せないのは自分を愛してないからなのよ
離人ってガンダムSEEDの種がパカッて割れた状態に似ている
意識がキレるというか、いや、意識はあるんだけど・・・
自分が自分じゃなくなるのね。
でもってなんか冷静に考えられるようになる
>>826 「いい気分」になる時、今まで私は
それを悪いこと(欲に溺れること)だと思って居たので
その状態から離れることを選んできました。それが美徳だったのです。
それは今も変わりません。
しかしそんな人生で自分は良いのか、心や体は納得するのか、という葛藤が
ここへきて完全なる「問題」となり、もはや避ける選択肢は私には
無くなったんです。
今だって暗中模索です
それでもその状態を求めることに慣れていけば
いずれそれが標準となるかもしれない。とてつもなくわずかな希望に
向かうしかないんです。一生をかけて。
死ぬまでその境地に辿り着くのが無理だとしても、向かうしかないんです。
自分の心を、自分の体を
愛していなかった報いです。
欲を持つ自分こそが悪であり、最も憎むべきものだと
思っている限り、自分を好きになれそうにありません
そもそもなぜこのような洗脳が成されてしまったのか
>>829 成長過程で誰かに「禁止」されてきたんじゃ?
その「禁止」を合理化するには
自らの欲望を悪とするしかなかったとか。
>>830 親です。悪いことをすることにとてつもない恐怖を覚えます。
それが何よりも恐い。見放される恐怖でしょうか?
悪いことをしないことによって、何か正しいものと自分が繋がっていられるような
宗教的な呪縛・刻印がなされている気がします。
悪いことをするとダメで、
良い(と一般に言われている)ことをすると繋がっていられる
納得していなくても繋がりだけあればいい
それは甘えだったのかもしれません
>>831 なら、親がなぜ自分に対してそういう禁止を与えていたのか
ってことはもう考察済?
もしまだなら、親の精神構造を把握することが
親からの呪縛を解く近道かもしれんね。
1さんには林原めぐみを勧めておこう。
(アニメ主題歌の方が歌詞が良いみたい)
愛してなかったって言っても、痛めつけてきたわけじゃないなら
これからいくらでもやりようがあるんじゃね。
刻印ではなくて封印なら、後はほんま自分次第だろうな。
>>835 いや、ムートン氏は「刻印」と言っているのだから、
そこはこちらの恣意で読み替えるべきではないと思う。
意識の奥深くに「刻印」されているってのと、
意識の奥深くに「封印」してるってのは似ているようで全然違うよ。
837 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 11:48:19
友人に小さい頃、母親からDV(虐待)を受けて育ったのがいる
商売をやってる親で、言うことをきかないとボコボコにされイジメに遭う
体力では負けてしまうので、勢い理屈に頼ることになるが
それがまた親の気に入らず・・ますますひどい目に遭わされる
そういう親がイヤでイヤでしょうがないのに、いまだに親と同居
この男、曲がった事は嫌いである・・求めるものはヒトからの尊敬
自分の正しいことをとことん主張し、相手がそれに反した事を言おう
ものなら執拗に説き伏せようとする
ヒトから評価されると子供のように嬉しがり、まるで世間には
「自分を評価する者」とそうでない者の2種類しかいないかのような生き方
当然だが、ヒトに対しても「自分の評価する者」とそうでない者に分かれる
行動における自己本位は薄く、精神的自己顕示だけが突出している
ヒトを深く愛する事もなく愛される事もない・・人に関しては必要か必要で
ないか、それだけで捉えているかに映る、女もだ・・長くは続かない
彼の不安は年を追うごとに大きくなる
なにか社会に役立つ仕事をしたいのに、たいしたこともできぬまま時間だけが
過ぎてゆく・・同級生で活躍を始めた者の話を聞こうもんなら嫉妬の嵐
残りの人生でどれほどの事ができるだろうかと考えるとあきらめが先に立つ
彼の最近の関心は、家を出る事とどうやって死ぬか・・死に様である
生活力のある親に生活力を奪われてしまうのは良くあるパターン。
何故なら生活力とは他人のそれを奪う能力だから。
はっきりいって理屈を鍛えるよりも力をつけたほうがいい。
と理屈はいつも言う。
生存報告。久々の書き込みな気がします。
2chブラウザで書き込めなくなりました。
>>830 >その「禁止」を合理化するには
>自らの欲望を悪とするしかなかったとか。
そのとおり
>>833 >親がなぜ自分に対してそういう禁止を与えていたのか
親は、自分と同じ価値観を持って欲しかったのだと思います。
ただ、その方法があまりに残酷で強引過ぎたのだと思います。
>>835 >>836 わたしには、何かを封じ込められた意識は有りません。
封じ込められたのではなく、本来育つべき何かを
親の都合のいい形に変えられて自己形成させられてきたような。
だから私のどの部分を取ってみても、コレだけは自分の持ち味だという何かを
感じたことがありません。
死に様、生活・・・イロイロ考えますね
どちらも、本当に自分がどうしたいのか、まるで分かりません。
自分の存在が、自分の周りの人のためだけにあるような感覚
他人のことを考えて行動することだけが存在意義
自分の体が常に借り物のようだ
これが離人症と一般に呼ばれるものならば、まだ救いがある
それでさえ無いのなら、きっと私の運命は生まれたときから
生きることも死ぬことも
癒されることも疲れることも
苦しむことも楽しむこともできないと決まって居たのでしょう
それぐらい思いつめているここ最近です
>>839 2chの仕様がここ最近で急に変更されているので、
専ブラの更新をお勧めする。
有名所なら対応しているはず。
んで、
>>親は、自分と同じ価値観を持って欲しかったのだと思います。
とあるんで、そういう親を認める、許す、
という作業がまず必要な気がする。
ムートン氏はその辺の「禁止」した理由というか、
事情みたいなのを、親と話し合いはした?もしくはできる?
親自身の口から当時の禁止の経緯を話して貰ったり、
その禁止を自分がどう思っていたかを親に伝えて理解して貰う
という作業は結構有効かもしれない。
ただ、相手のエゴに直接触れる行為だから、
作業そのものは慎重に……。
>>839 ムートンさん
>生存報告。
死ぬことは「自分」で決断できます。それがあなたです。
>親は、自分と同じ価値観を持って欲しかったのだと思います。
>ただ、その方法があまりに残酷で強引過ぎたのだと思います。
親をあなたは殺すことができます。
殺してヒトデナシになることができます。
あなたは、まだ「人」になれます。
>だから私のどの部分を取ってみても、コレだけは自分の持ち味だという何かを
>感じたことがありません。
その容姿、世界でただひとつのその肉体が個性です。
あなたが何を考えようと言葉はあなたのものにはならない。
>死に様、
死に様を考える権利があるのは「人」だけです。
死に様とは如何に生きるかということのうちにあること。
「人」とは、アンチノミーと不条理を引き受けてもなお、
価値の選択をする「苦」においてのみ「人」でありうる。
カオルの気持ちがムートンさんに届けばいいのですが……これが人間「関係」。
>>840 親は私に対して、特になにかを「禁止」して育てた覚えは無いといいます
ただそういう「悪い」といわれていることをすることは
倫理的、道徳的、一般的に「良くない」もので、しないに越したことは無いと言う考えを
ずーっと暗黙の内に教えられてきたのでしょう。親自身の行動によって。
うちの親は真面目だ。実に真面目だ。今まで生活してきて互いに浮いた話の一つも無い。
そして互いに愛し合っている素振りを見せたことも無い。でもずっと一緒にいる。それで平気なようなんです。
そういう親の「正しい」行動をコピーして育ってきたのが私です。
親に相談したいことは、「倫理的悪」なのでどうしてもうまく質問したり、
自分の望む回答を得たりすることができない。これが刻印効果。ひどいもんです。
親を認める、といわれても、親にはエゴが無い。親はいついかなる時でも道を誤らない。
親は「倫理的善」で構成されている。そしてそれを認めているものこそが今の離人症の私。
>>841 私は人の気持ちを汲み取る作業の経験に乏しい。
すべきことは一つであり、このままでいいと内心思っているからだ。
そんなことはする必要が無いと、最初から思っているのです。
すみません。
でも私は最近、この「刻印」に気付いた。自分だと思っていたものが
自分ではないことを。背中を触っていて、腫れ物があることに気付いたのです。
疑い、試行錯誤し、何かを見つけようとした・・・それが
現時点での客観的な自分である、本当の自分。まだ姿は見えないけれど。
そうだと思うんです。
あなたは私に「人でなしは死ねばいい」と思っているのか「人である限り生きられる」と伝えたいのか
今の私には分かりかねるんです。
「人は感情を持っている。そしてそれに支配されている。感情は身を滅ぼす。
しかし倫理的価値観に重きを置くことで、その支配から逃れることができる。それこそが生きる意味。」
大雑把に言うとこれが、私が今まで親に教わってきたこと。内なるものの黙殺。
本当は感情を表現することそのものこそが、それのみが、生きる意味なのでしょうに。
>>842 ムートンさん
>私は人の気持ちを汲み取る作業の経験に乏しい。
人間の、生物の、共通感覚を持っていないと、人の気持ちはわからない。
>このままでいいと内心思っているからだ。
ニセモノの自分を消してしまったら、ホントの自分も消えてしまいますものね。
>現時点での客観的な自分である、本当の自分。まだ姿は見えないけれど。
夢のなかに自分がいるのは、自分をみる自分がいるからですが、かれの姿は見えない。
>今の私には分かりかねるんです。
人になれた人がヒトデナシになれるのであって、
人になれていないあなたはヒトデナシにはなれない。
それは悪いことではなく、悪いとか善いとかの、人として生きることをやめたから。
>内なるものの黙殺。
本能行動の判断による中止は生命存続の危機ですから本能行動には快感が与えられています。
快/不快の原則が感情の基盤です。快と不快の人のバランスをとるための知恵がモラルです。
モラルは生きる意味ではなくて、生きるための知恵だから、それを使わないと生きにくいです。
>>843 >本当は感情を表現することそのものこそが、それのみが、生きる意味なのでしょうに。
844の最後にあるように、モラルは生の形式として、そのように仕組まれているもの。
生きていることの感覚や感情は、意味に実感を与えるもので、意味がまるで実体で
あるかのように錯覚させます。意味はすべて人工物。生きることに意味はないです。
今滅びようとしている地球を大気圏の外からながめています。
雲の切れ間から小さな緑の国が見えます。わたしの国、日本。
わたしは、このままながめているのだろうか。同胞と運命を
共にしようとは思わないのだろうか。わたしは人間だろうか。
この体、痛めつけても、傷つけても、生きようとしている。
もういいと思った。はやく消えたかった。でもできなかった。
小さな細胞の一つひとつが、生きているから、叫んでいるから。
かれらを殺すの?……いえ、どうして殺すことができるでしょう。
わたしにとっての倫理はこのようなものです。100%感情です。
ふつうに生きていてもこういうことから逃れることはできないですよ。
人間の根幹というのはシンプルで馬鹿馬鹿しいものだ。
私のそれを思い出すと、私は昔から何かに追い立てられて
いたように思う。
「私は死ぬのだ。私は死んでしまうのだ。
私は20歳まで生きられるだろうか? いや、生きられないに違いない。
病気、事故、今までに何度も死に掛けたじゃないか。
こんな脆弱な身体を持つ私が、生き続けることなど不可能だ」
僅かな根拠を拡大解釈して、そんなふうに思い込んで
いたように思う。それが「焦り」を生み出していた。
時間は有限なのだ。ならば味わうことだ。
苦痛も、苦悩も、悲哀も、絶望も、何もかもを。
生きていなくては味わえない全てのものを。
誰よりも多く知り、誰よりも多く充実しなくてはならない。
だって人はいつか死んでしまうのだから。
それまでに何かを見つけなくては。
今となっては、何を見つけるつもりだったのかも分からない。
もしかしたら何でも良かったのかもしれないし、そこまでは
まだ考えていなかったのかもしれない。
けれど、その思い込みが、進むべき方向を決定するための
指針となっていたことだけは確かだ。それが今の私を作った。
要するに、私は焦って何かを覗き見ようとしていたのだ。
だから私が生きる理由は、つまるところ、
好奇心というものなのだろう。
>>844 >人間の、生物の、共通感覚を持っていないと、人の気持ちはわからない。
私は敢えてあまり人と同じ感覚を持とうとせず、
独自の受け取り方や表現をしたがる傾向があります
私は人を傷つけずに気分浴する、根拠の無い自信があるのです
>ニセモノの自分を消してしまったら、ホントの自分も消えてしまいますものね。
そう、だからこれからは、偽者の自分を利用して本当の自分を呼び覚ましていく
努力をしなければならない。それも早いうちに。
>>845 >意味はすべて人工物。生きることに意味はないです。
そう思うことを恐れているのかも知れない。気付きたくないのかもしれない。
今までの自分が理性、倫理を最重要として生きてきたことが
全て無駄だったと認めることになるから。
例えばもうじき地球が滅びる計算であるならば、もしそれを阻止できるのならば
何を差し置いても最善の努力をすべきだ。感情を差し置いても。自分の快・不快を差し置いても。
こういう考えでした。
でもちょっと考えたら分かることがあった。もしそれを阻止できたとして
そのあと自分はそこに住む者として、どういう生き方ができるのか?
心をないがしろにしたこの生き物に、生きる意味はあるのか?
結局、完璧を目指すのは無理だ。それを他に求めるのも無理だ。
無駄なあがきなのだ。でもそれをやめようとしなかった。
自分に完璧を求めた周りの環境に対する当て付けだった。
ひねくれ者だった。生まれてから死ぬまでに起こる事全ては
自分の責任なのだ。それを理解しようとしていなかった。
生きることは、気持ちいいことであるべきなんだ。もうそれでいい。
そう思えるようになってきた。あとは「もうそれでいい」と投げやりな言い方を
やめることができるかどうかだ。
>>847 ムートンさん
ムートンさんは本心を語れないみたい。
本心は本当の気持ちのこと。
書いてあるのはみんな分析だよね。
本心はどこにも見当たらないもの。
生きているということにさえ触れてないのかも。
なぜそうしたの?……根拠は?……根拠は?……根拠は?
それで‘いい’と思ったから。‘良い’の究極の答えですね。(^.^)
死にたくないから生きる。
物足りないから意味がほしい。
見える景色は美しい?
いえ、そう感じられるという充実。
ぼくは生きてるんだという充実。
みんな死にたくないための理由。
でも死ぬための手段。
死に向かって生きる。
意味ある?
では死のための生。
狡して神さまに祈る人、悟りを開く人。
死への近道、ニルバーナの原則。
快感原則の究極が涅槃なら生と死の欲動はおなじこと。
なるほどフロイトはすごい人だ。
ムートンさんが生きたいと思っているなら生きたら‘良い’のです。
そう思うことの少ないわたしなので、死にたいならそれで‘良い’ということを、
言ってあげたかったのかもしれない。
私はすべてを的確に分析しようとすることで他者に有益な情報を与える代わりに
居場所を与えられてきたつもりで生きてきた
テストで良い点を取ったほうがいい、友達とは仲良くしたほうがいい、
そのためにはどうすればいいか?そんなふうに生きてきた
「自分のために」テストで良い点を取るのではなく
「自分のために」友達と仲良くするのでもなかった
そうすることが「いいこと」だと思っていたから、そうしてきた
死ぬのは、周りに迷惑をかけるから「悪いこと」という認識です。
意外かも知れませんが、私は自ら命を絶とうと思ったことはありません。
でも例えばタバコや不摂生な生活など、ある意味日々自殺しているといえます。
かと思えば健康に気を使うこともあります。
私はどうなるのか?
私は、私を実験対象に、いろいろ研究してきたのです。
私という存在が生き続けると、どうなるのか?
それをささやかな「楽しみ」にしてきたのかも知れません。
しかしその対価は
「離人症」とその発見でした。
本来あったクオリアが離人によって失われた人は、それはそれは苦しいでしょう
でも私の場合は、物心ついたときから離人でいることに慣れていたのでしょう
まさか自分が異常で他人が普通だとは思いませんでした。
ところで最近女と別れました。理由はきっと、私が離人だからでしょう。
分かれるのは本当に辛かったです。苦しかったです。でも、こんな自分が悪いのでしょう。
痛感してきました。私の存在は、他人を傷つけかねない。
そうすると他人の利益のためと思って生きてきたこの存在の意義が無くなる。
よって、もう研究はおしまいです。
水を飲むのはのどが渇いたからだし、小便するのは我慢できなかったからだよね
自分の行動を一貫したものにすべきだとは思わないけど、ムートンは一貫した自分でないと容れられないんだね
社会的にはもちろん一貫した行動をとる人の方が信頼される
人からの信頼に意味をみいだせる?(ジモンジトウ
他人を傷つけない活動はないように思いますし、ムートンが自殺してもしなくても誰かしらを苦しめていると想像するのは容易です
非難を免れえる在りかたは想像できません、、、
だから、好奇心に基ずく活動が特に不当だとも思えません
自分で選んだから自由なんだよね。
自分がちゃんと居るのに自分のためでないなんてできません。
あなたが悪いことをしたらあなたは責任をとらされるのですよ。
あなたは十分に社会の一員じゃないですか。
善悪はあなたが自分のためにしか生きられないからあるのです。
あなたはあなたで居られる、それだけで十分じゃないですか。
人は死ぬために生きているのにあなたは生きるために生きています。
これ以上に利己的な生き方があるでしょうか。わたしはうらやましい。
あなたは生きているだけで多くの生命を殺しています。
まわりの迷惑なんてちっとも悪いことのうちに入らない。
風変わりな脳の働きもいつかはその体の活動停止とともに終わります。
離人症は自分で居られなくなることだと思っていました。
自分で居ることのクオリアだけが失われないなんてうらやましい。
まったく自分のためだけに生きられる可能性があるわけですから。
別れの辛さ? 痛感する? あなたは本当には感じられていない。
あなたも彼女も物じゃないから物として分析しても的確ではないです。
生きている彼女の心は分析によって抽象できる物ではないからです。
離人症も道徳もあなただけが生き抜くための手段のようにみえます。
>>852 人からの信頼に意味を・・・見出せなくなってきました
信頼されることはいいことだと思っていましたが
自分の存在が人からの信頼の上にしか成り立たない
という意味として受け止めるととても虚しい気分です
>>853 人の世の中は、人の好奇心で出来ている。
好きなものに理屈や理由は要らない。
唐突ですがアメリカという国が今までの世界の価値観を
ものの見事に打ち壊してくれたように思います。
>>855 >人は死ぬために生きているのにあなたは生きるために・・・
生きるために生きていた、その生は、死同然でした。
生きるために生き、そのために他の生き物を殺す生き方。
全ての他の生き物は、私の死のために捧げられていたようなものです。
死ぬために生きることこそ、生きるということ。
>自分で居ることのクオリアだけが失われないなんてうらやましい。
私は審判なんです。全てを、○か×かどちらかに判断する存在だったんです。
決して○に向かうわけでもなく、×を避けるわけでもない、ただそこ止まりの
存在なんです。自分のために「考える」ことしかできない。
「行動」しない私にクオリアが生まれるはずもありません。
>あなたは本当には感じられていない。
そう。実際に悲しさ・辛さに涙を流しても、私はそれを自分のものとして
受け止めないからです。涙を流しているのは私ではない肉体なのです。
彼女の本心、私には未だに分かりません。もう分析はしたくない。
>離人症も道徳もあなただけが生き抜くための手段のようにみえます。
私は流されて生きています。私は人生を「生き抜いている」自覚がありません。
おこがましくも私は判定人の立場なのです。死ねば「良い」と最近つくづく思います。
>>856 ムートンさん
>死ぬために生きることこそ、生きるということ。
時計仕掛けの機械から零れ落ちた歯車、未来も過去も空回り。
ひとりぼっちのあなた、死ぬために生きることができるのですか。
自死は他の生物には絶対にできないこと。
人間の証明はその実行においてでしかありえない。
ある意味で、その意味でのみ、あなたは人間かもしれない。
心が肉を超えようとした証があなたの苦しみなのでしょうか。
幼いあなたの生命の息吹をだれが否定したのでしょう。
あなたの感性は血縁者のダブルバインドを許さなかった。
だから生きていることのクオリアに耐えることができなかった。
けれどもあなたは存在することへの嘔吐は感じたことがなかった。
ほんとうは愛ではなかった血縁者の道徳への憎悪は世界に向けられた。
あなたは生きたかったし存在していたかったからです。きっと今でも。
>私は審判なんです。
規準は道徳、それとも処世術のマニュアルでしょうか。
行為の内実をどうやってデータベース化するのですか。
ニーチェの神や道徳への批判の動因は神や道徳への誠実さでした。
誠実さも情念です。生そのものとつながっていないと相手に届かない。
ロボットに誠実さを感じられますか。
>彼女の本心、私には未だに分かりません。もう分析はしたくない。
本心なんてあるのでしょうか。もしもわたしがあなたの彼女なら、
あなたが誠実ならそれに応えますし、あなたが孤独ならわたしも孤独ですし、
あなたが苦しいならわたしも苦しいです。それがほんとうの心です。
あなたの全存在を賭けて、だから死ぬよりもつらい現実に立ち向かうのでなければ、
そしてただ一人だけを愛することが、ほんとうに愛するということではないでしょうか。
わたしはもう終わってしまったけれど、あなたはまだ終わっていないと思います。
>私は人生を「生き抜いている」自覚がありません。
生き抜くというのは、日々のその瞬間に死を招き入れるということです。
あなたはそういう生き方を拒否したのだから、瞬間がないし、生そのものがない。
好奇心による生は、言語の(だから心の)節度なき欲望でしかないと思う。
快楽の追求は、自然のように自足しないからあらゆる悪が噴出します。
どのような価値もすべて人工物なのであって、生においての存在することにおいての
価値でしかないのです。この価値の根源が生命であって、この生命を俯瞰するのが
あなたという判定人です。あなたに快楽の生が肯定できるわけがないです。
判定人が「より良くより高く」の価値への志向性を持つとき、判断規準の岩盤は道徳です。
それは人間になるためにも、人間でいるためにも、人間をやめるためにも、付き纏います。
>ムートンさん
あなたに話しかけることは自分に話しかけているようです。
だからすべてが的外れなのかもしれないです。
わたしは2chで心を病む人たちと話してきました。
何人もの人たちがおそらくもうこの世界にはいないです。
わたしはそこへ向かうことを否定したことがありません。
どれだけ泣いたかわかりません。
でもいったいだれが泣いているのでしょうか。
なにを悲しんでいるのでしょうか。
死を前にしてふるえてるこの体はだれのものなのでしょうか。
窓から射し込む朝の光に絶望するのはなぜでしょうか。
何度も失敗して、無償の愛に助けられたことを怨みます。
少しずつ生きようとしていること、心が犯されている感じがします。
わたしが存在していることのこの奇蹟はいったい何なのでしょうか。
はてしなく世界につながってしまうとわたしはわたしでなくなってしまう。
それならはじめからわたしはわたしでなくてもよかったのにと思います。
わたしがわたしであるためにどうして苦しまないとならないのでしょうか。
生まれなかったことにしたい心たちをどうして引き留められるでしょうか。
>>857 ダブルバインドという言葉を他人から聞けるとは思いませんでした。
パワーハラスメントとともに、私が最も嫌うものの一つです。
最初は世界に向けられたものだった憎悪も、
次第と肉親にも向けられるようになり、自己に対する嘔吐を経験しました。
そしてこの三者から離れるために、乖離・離人となっていったのでしょう。
>>858 情念なども、経験に基づき、状況・パターンに合わせた誠実さというプログラムを実行していたに過ぎない。
「繋がり」なんて、本質的に何の得にもなりはしない。自己が分散されてしまうのが極端に恐かった。
人を愛すること、心が繋がること、そういうことはまずリスクから考えてしまう。
人工物である「価値」を、安全に命を維持するために追い求めなければならないものであると
まず強烈にインプットされているのです。愛だとか恋だとかは、それが達成されてからの
「あそび」の部分なのだと。
>>859 的外れ?全てが的を得ていますよ。しかしそんな是非はどうでもいい。
近ごろ「一期一会」という言葉の意味・大切さを私なりにインプットしました。
今あなたのレスを見ている私、それに返事を書いている私、
今この時において、この時私が成していること以外に重要なことは存在しない。
あなたがあなたの無限の可能性を持った時間を惜しみなく私に捧げてくれたように、
私も二度と巡ってこない今この時を、あなたとの関係性のために使わせてもらっている。
共に泣くより、共に笑いましょう。消極的よりも積極的に。
自己を防衛して一人で生き、一人で死ぬのより多少は何かを「感じる」だろうから。
それが「意味」でも「無意味」だとしても。
それによって自己が犯されるというのであっても、自分も外の世界から
替わりの何かを自己の一部として好きなように取り入れることができるかもしれない。
なんなら犯し返せばいい。他人と関係性を築くというのは、実はそれなりの対価が
用意されているのではないかと最近思います。悲しみに暮れて、それを見過ごしているだけで。
自分ではないと思っていたものが、自分の一部となる可能性を感じて生きるのも楽しいかも知れない。
あなたは「悲しみたい」ですか?それとも「楽しみたい」ですか?
世の中の事実は誰にも変えられないけれど、自分が目を向ける方向は変えられる。
やっぱり事実に気を取られていては、自分の気持ちを蔑ろにする一方なのだ。
私も自分に言い聞かせるふうに書いてみました。
>なんなら犯し返せばいい。他人と関係性を築くというのは、実はそれなりの対価が
>用意されているのではないかと最近思います。悲しみに暮れて、それを見過ごしているだけで。
私が誰かと会話をしていると、知らないうちに笑っていることがある。
別に特に楽しいということはないんだが。笑ってしまっていることは事実だ。
笑うと楽しくなる。楽しいから笑う、の間違いじゃない。「笑うと楽しくなる」のだ。
これらは科学的な実験で証明されている。また、笑うと健康にもなるらしい。
私はこれらは十分な対価だと思うね。
>自分ではないと思っていたものが、自分の一部となる可能性を感じて生きるのも楽しいかも知れない。
試してみるといい。きっと楽しいよ。
>あなたは「悲しみたい」ですか?それとも「楽しみたい」ですか?
>世の中の事実は誰にも変えられないけれど、自分が目を向ける方向は変えられる。
そうだね。誰かになったつもりで見回してみるといい。
個人が口に出す「世界」とは、あまりに狭い「個人の視野」の代名詞でしかない。
本物の世界の広さに気付くと、自分が酷く矮小で、けれどもとびきり特別な
存在に思えてくるものさ。
>やっぱり事実に気を取られていては、自分の気持ちを蔑ろにする一方なのだ。
その都度の「選択」を大事にすることだよ。
選んだときはどうでもいい選択だったように思えても、それが積み重なれば傾向が、そして性格が生まれる。
そうなれば、後から思い返したとき、自分の気持ちにも気付けるようになるかもしれない。
>ムートンさん
平気でウソをつく、イジメる。心の状態の問題ではなくて、そういう心性の人たち。
かれらは生きていくための手段としてなら、体裁に気を遣い道徳も重んじるでしょう。
けれどもかれらは心の成長を回避するためなら、どんな手段を講じても厭うことのない、
愛することのできない人たちなのです。
おなじ「自分さえよければ」なのに赤ちゃんとはどこがちがうのでしょうか。
きっとかれらが捨てたものしか赤ちゃんはもっていないのです。
ではおなじ「自分さえよければ」のあなたとはどこがちがうのでしょうか。
たぶんちがわない。なぜならあなたとかれらは同じものを捨てているからです。
もしもちがうところがあるとしたら、それはかれらは正常で健康とされるのに、
あなたは異常で病気と診断されるところでしょう。
かれらとあなたとのちがいは道徳への反抗者か追従者かのちがいです。
傷つける側(加害者)と傷つけられる側(被害者)とのちがいかもしれません。
あなたとの絆を断ち切った愛の言葉と抱擁、あなたは蛇に睨まれた蛙だったのでしょう。
あなたは追従者になる選択しかなかった。
心を痛めないためにありありとした現実から逃れるしかなかった。
自己の存在充実への嘔吐が感じられたなら、心であるより以前の、
世界との関係としての自己を切り離さないとなりません。
それでも心は現実に存在して世界を写すから胸いっぱいに汚されてしまう。
世界の秩序が、両親の道徳が、世間の理が「私」を殺そうとする。
ひとりで生まれてきたのではないこと、ひとりでは生きていけないということ、
そのことが、「私」を殺そうとするのです。
無機物へ帰りたいという死の欲動は死のない生まれない世界へのあこがれ。
もちろん生きているかぎり、それは不可能なこと。
フロイトはそこへ至ることの偽装(快感原則の究極)として、
ニルバーナ原理というものを示しました。
いわゆる宗教的な恍惚や悟りの境地、あるいは近いものでは
人為的な脳内麻薬の摂取による意識の拡大と呼ばれている現象のことです。
ようするに完全な安心安全のことです。
この事態にはかならず自我の喪失ということが同時に起こっています。
だからいわゆる無我の境地ということなのであって、
世界から自分を別け隔てることをやめて、
世界のすみずみにまで自分を分散させると、そうなるということです。
〜と思う、感じる、信じる自分がいないのですから当り前のことです。
個体の生という前景にはそういう主客未分の死の背景があるのだけれども、
あなたはそういう他人(世界)との繋がりの根拠にふれることを恐れています。
なぜなら「私」が消えてしまうことを肯定するなら、生まれて来なかったほうが
よっぽどよかったということになってしまうし、端的にそれが怖いからです。
あなたのしていることはたったひとりでの独立革命なのでしょうか。
「一期一会」、わたしも何度この言葉をつかったことでしょう。
この板の人たちの生きるということへの真摯さ真剣さに支えられてきました。
死をみすえて生きているからこそ、真理を探究するしかない人たちの言葉だけが、
わたしの心に響いてきます。この共鳴は生きているということそのものなのです。
生きていることは哲学すること。
>>861 >あなたは「悲しみたい」ですか?それとも「楽しみたい」ですか?
悲しみたいし楽しみたいです。ふつうにわたしがそうしたいです。
>>863 >あなたは追従者になる選択しかなかった。
訂正 あなたには追従者になる選択しかなかった。
ここへきて、離人感が増してきた
これからどうなるのだろう
そしてそうならないためにどうすべきだろう
辛い思いをしたのに、わからないフリをするのは、
あなたの生き抜くための戦略なのでしょうけど、
あなたの苦しさはあなたのものでしかない。
だからあなたはあなたなのです。
苦しさそのものになってしまうという方法論を
だれもわからないからあなたの問いには答えられない。
聞こえてくるのは仕組まれた人生の処世術だけです。
拒絶した世界のすばらしき人生を今さら求めるのですか。
生きることに生きること以外の目的はないです。
生きることの目的は死ぬことであって、
生きることそのものへ帰ることでしかない。
どうしてこのような遠回りをするのか、わからない。
ただ生きているだけでもよかった、ただ在るだけでもよかった、
いえ、いかに生きているか、いかに在るかだけでもよかった。
どちらかだけなら痛みも苦しみもなかったはずなのに。
ただ生きるのではなく良く生きたいなら、
より良くより高くの価値への志向性が必要です。
でも価値はあなたが自力で作り出せるものではなく、
はじめに与えられたものである、という原点を有します。
あなたはそれに従ったり反抗したりできるだけです。
ひとりで生きられないというのはそういうことです。
そもそもあなたはもうひとりのあなた、
そのうごめく体をどうすることもできない。
でもそれがいないならあなたもいない。
ひとりで生きることはできないのです。
自死は悪いことではないです。
そういうことからのサヨナラです。
そうなりそうだから、そうならないために、どうすべきだろう。
どうしてそうなってはいけないのでしょうか。
そうなってしまうことのいったい何が悪いのでしょうか。
まだそういう何かとか悪いとかいうことにこだわりたいですか。
すばらしき人生への生まれ変わりを信じて自殺する人のように
安全で安心なそのときが来るまで夢をみていようとするのですか。
いつ目覚めてもそのときではないのです。
現在のできごとから未来のできことを知ることができないのは、
因果が論理的な推論の必然性でないこと、あなたが存在するからです。
因果の法則は法則ではなく法則の形式、つまり論理の形式だから、
その意味で意味の世界の外にできることはできないけれど、
いまだ起こっていない未来は論理の外からやって来ます。
そのたびごとに未来に生まれつづけることが生きているということ。
でもそれを知ってしまうことがあなたが現実に存在するということ。
だからほんとうはあなたがずっとあなたでいられるはずはないのです。
ずっとあなたなのはあなたの過去という引き継がれたものの総称です。
引き継がれたものを母体としてあなた1があなた2になるのだとしても
あなた1があなた2である必要はなかった。
母があなたに与えた世界、母の望むようなあなた2であることが
あなた1には辛かった。だからあなた1は母とあなた2を捨てたのでしょう。
でもあなた1ひとりで自分になることはできないのです。
なぜならあなた1があなた2になることでしか自分自身という自己言及、
つまり「実存」(あなた1=あなた2)するという形態がとれないからです。
わたしはわたしひとりで自分になろうとしました。
母を捨ててしまったとき、わたしはわたしでなくなってしまった。
わたしは原点ではなかったのです。
わたしは他のだれかでもよかったのです。
だから今のわたしもさっきのわたしではないかもしれません。
世界はただ美しく愛に満ちているのかもしれない。
でもわたしにはわからない。
だから最高に醜い世界を創造して最高に美しい世界をそこに写すのです。
最高に傷つけてもらうことで最高の愛を想い出してみようとするのです。
そのような世界があり、わたしがいるということ。
わたしがいなくても世界の事実はかわらないでしょう。
わたしがかえられるのは世界の限界だけです。
そのために言語の限界への挑戦、哲学があるのです。
でも哲学は不幸な世界を幸福な世界にかえることはしない。
句点を打てないあなたの辛さが伝わってきます。
苦しくて怖くてどうしようもなくて、そんなときわたしもそうなります。
そんなときわたしはたくさんの励ましの言葉をもらいました。
胸の奥底からあたたかい気持ちが込み上げてきて
涙がいつまでも止まりませんでした。
それでもわたしはけっきょく何度も実行してしまった。
わたしが全力で愛した恋人も自死しました。
それなのに彼はわたしの死を望みませんでした。
15歳のとき死のうと覚悟していたわたしを救っておいて自分だけ。
救われてしまうようなわたしに死はふさわしくなかったのでしょう。
彼に死んでほしくなかった。
わたしを愛しているならと、試そうとした。
あなたの苦しみも彼の苦しみのようにわたしのものにならない。
あなたにも死んでほしくないし、苦しみから解放されてほしい。
でもどうしようもなくそうするしか方法がないなら
そうなってしまうことは罪悪ではないです。
生きることも死ぬこともあなたにしかできないこと。
彼がそうせざるを得なかったことも今なら少しわかります。
わたしの愛が彼のためではなかったことも。
そんなわたしなのに彼はほんとうに愛してくれた。
自分を愛するようにではなく、このわたしを愛してくれました。
それは愛せないものを愛することでした。
神さまへの愛がほんとうであればあるほど
けっして神さまには祈れないことの絶望のなかで
それでも祈るようにして、このわたしを愛してくれました。
あなたが彼女を失った辛さは、はじめから存在の辛さなのです。
>>862 >知らないうちに笑っている
いいですね。私は受動的にある条件が満たされれば笑います。
意図せず笑ってみたい。もしくは自発的に(意図的に)。
>>863 全ての人間が「心を成長させたい」と思ってはいない。
人類全てが、自分と同じ高貴な目標を高々と掲げて生きてはいない。
心を、体を、より高度に成長させるにはどうすればよいか。それと、
心が、体が、とにかく平穏であり気持ちいい思いをするには、なにをすればいいか。
目標の設定が違うのだと思います。
心の成長は、その「かれら」には娯楽として映るのかもしれない。
立ち入ることのできない事情を持っている人間は、世の中には結構いますよね。
盗賊には盗賊の道徳がある、とは中国の偉人の言葉。
ちなみに私が彼女と別れた原因には、善も悪もありません。
的外れな答えだったらすいません。最近齟齬が多いもので。
>>864 >あなたのしていることはたったひとりでの独立革命なのでしょうか。
いつか、誰かが、分かってくれる。認めてくれる。嫌でも理解を示さざるを得ない。
という思い込みの支配。私は今、一人です。
分断された自己からは何も新しいものは生まれないというのに。
>>865 生きていることは哲学すること。
私もそろそろこのスレを立てた原点に還りましょうか。
>>867 私は生きていないから、辛い思いは死人が味わうのです。
なんと卑怯な手段なのでしょう。
>>868 生を授かったのは自分の意志じゃない。だからこそ
生を授けてくれた全てに、感謝をしなければならない。それが人。
私がまず一番にすべきことは、朝起きたときに、命絶えることなく目覚めたことを
全てに感謝すること。そこから関係性の原点が始まる。
>>869 >>870 今の私は一瞬で過去になる。
一行前の私は今の私ではないということですね。
私とは?そう考える時、正確な答えなんて、出そうとしているうちに
どんどん私は変わってしまう。
「2へ向かう1」、敢えて言うならそれが私なのか。
私は「1なのだ」とばかり思っていた。そう思い込もうとしていた。
>>871 私も今、親に愛想をつかせようとしている最中ですが、なぜあなたは
そんなことを今言うのですか?あなたに変えられそうになっている人間が
今ここにいるわけですが。
あなたにはいろんな物事の解決方法が、誰よりも分かっているんじゃないですか。
ただその反面、それを実行に移すことから誰よりも離れているだけで。
>>872 私が彼女を失った辛さは、関係性が絶たれたことそのもの。
いや、関係性を築く機会を失ってしまったこと。躊躇しているうちに
全ては過ぎ去っていく。それが存在の辛さというものですか。
あなたは自ら自己を失いつつも、外部から支えられているようです。
だから今もこうして生きている。あなたと関係していたい、別の人間の「自己」が
あなたを必要としているから。あなたはそれをわざと無視している。
いいんじゃないですか。あなたはいずれ外部からの接触の「おかげ」で
苦しみから一歩前進する。決して忘れることなく、新たな自分となって。
あなたにはまだ道がある。
私にもまだどこかへ進む体力は残っている。
道を探します。
一度哲学へ戻ろう。
>ムートンさん
>生きていることは哲学すること。
>私もそろそろこのスレを立てた原点に還りましょうか。
>〜
>私にもまだどこかへ進む体力は残っている。
>道を探します。
>一度哲学へ戻ろう。
わたしにとっての哲学は、幸福になるための手段じゃないです。
不幸をたずさえた禁断の果実(知恵)に手を出してしまったアダムが、
神の罰−贈与された言葉を、その象徴の喉仏(Adam's apple)を使って
すなわち、言葉で言葉を、心で心を、罰で罰を体現することによって
超克しようとする振る舞いなのです。
言葉の、罰の、不幸の限界を、心の内側から見定めることによって、
そこに引かれた限界線の向う側、神さまを思うことなのです。
だから、ウィトゲンシュタインという哲学者は、こう言いました。
語りえないものについては、沈黙しなければならない。
デカルト、カント、ニーチェ、キルケゴール……わたしたちの先人も
みんな、ひとり、天に向かって立った魂なのです。
(ほんとうは、はじめに蛇にそそのかされて林檎を食べたのはイブです。
林檎は胸で止まり乳房となったらしい、だから女は心を大切にします?)
>>873 ムートンさん
>心を、体を、より高度に成長させるにはどうすればよいか。それと、
>心が、体が、とにかく平穏であり気持ちいい思いをするには、なにをすればいいか。
>目標の設定が違うのだと思います。
「心を、体を、より高度に成長させる」……いったい何のために?
「心が、体が、とにかく平穏であり気持ちいい思いをする」……いったい何のために?
苦痛を回避するために、すなわち「生きるために」です。
手段が違うだけで、目標の設定「生きるために」は同じです。
宇宙、銀河、太陽系、地球……分子、原子、素粒子……みんな生きている。
存在するものは、生きている。生きているものは、止まることができない。
なぜなら、苦痛を回避するために、生きるために、生きているから。
どのような現実、現象、孤独、静寂にも、心身が完全に自由で思い通りなら、
もはや「苦痛」は感じないでしょう。なぜなら、もうあなたは世界にいないから。
あの世や輪廻を語る人たちがいます。もし死が、生の、存在の、終わりでないとしたら、
なんて恐ろしいことでしょうか。
>心の成長は、その「かれら」には娯楽として映るのかもしれない。
もしも周りの人間たちが、自分と同じ人間に思えなかったとしたら、
ゾンビかロボットか異星人か、それでもアイボのようには愛せるでしょう。
それは錯覚なのかもしれないけれども、そのような錯覚ができるためには、
宇宙や地球や空や海や山や草花や猫や人間が「生きているということ」と
「この私が生きていること」とが「つながって」(自明のこととして成立して)
いないとむずかしいように感じます。
富士山にのぼって雲海をながめていたら自然に涙が溢れました。
道端の傷ついた小鳥の痛みを自分のことのように感じました。
友達がいじめられてるのを見て自分のことのように怒りました。
わたしの生が無数の命を奪ってしまうことを「仕方ない」とつぶやいたとき、
すべての命がわたしの心に流れ込んできて、ひとつになれた気がしました。
そういう当り前のことからの離反は、わたしをひとりぼっちにしたし、
きっと「かれら」に欠けているのも、そういう当り前の生のあり方なのでは、
と思ったから、だからあなたもそうなのではないかと。
赤ちゃんには「私」という統合機能がないから「生きていること」から
「この私が生きていること」が分離していません。だから赤ちゃんの我が侭は
世界やわたしとひとつの我が侭なのです。わたしの命は赤ちゃんのためにあります。
言語の、すなわち「私」の獲得によって、その「私」によってのみ「生きていること」
からの離反が可能になるのではないでしょうか。あなたもわたしも「私」だけで、
生きようとしているのかもしれません。
わたしは、長文しか書かない。迷惑ですか。
わたしが書き込みするスレは、1000までとどかない。
1スレは、512KBまでしか書き込めないのです。
わたしは、このスレを公に人生相談スレだと発言してます。
つまり、哲学ではないと……でも、ムートンさんの私的体験、
ギリギリの生に応えるためには、わたしもそれを語る必要が
あるような感覚があったものだから、そうしました。
哲学は、幸福になるためではなく、真理を探究する行為です。
でも、わたしの哲学の原点は、死をみつめることでしたし、
それは、世界と、時代と、他人と、生と、論理と、うまく呼吸する
ことができなくなったからでした。
そのことは苦しいし辛いことだけれども、そしてそれを世間では
不幸と呼ぶのだとしても、わたしが彼に助けられて気づいたことは、
わたしがわたしのことを、なにも知らない、ということの不幸だった。
不幸なのは、わたしのせいなのです。わたしがそう思うからです。
でも、わたしはもともと光りのふりそそぐ世界に住んでいたのです。
それが、ある日、突然、ネガポジ反転したのです。わたしの幸福が
どれほどの不幸につながっているのかに気づいたからです。
それは全面的に、光のなかの生を、 禁断の果実による生を、
美しく、愛につつまれ、豊かで、生を至上の価値とする知恵の生を、
幸福という名の生への謳歌を沈黙させるものでした。
だから、わたしの不幸は人生の処世術では解決しないのです。
なぜ、わたしの生が、かくも無限の無数の生とつながっているのか、
なぜ、わたしは、わたしはこのわたしである、というような言い方が
できないと、わたしで居られないのか。
「哲学にもどろう」というのは、いったいどうすることを言うのですか?
>盗賊には盗賊の道徳がある、とは中国の偉人の言葉。
価値相対主義者は、それを言います。
でも、それが絶対なら相対主義も相対化されます。
何かを基盤にしているからこそ、相対化が可能なのです。
あなたがいないなら、わたしもいない。
わたしたちの世界は、太極図(相対原理)の示す通りですが、
太極図を示すための円の縁取り「○」、本当は見ることのできない「 」は、
相対原理(陰陽)から生み出される(差異化される)ことはないのですから、
それら(現象が存在すること)の否定としてのみ〈ある〉ということになります。
差異なき〈ある〉は比類なきものなのですから、〈無〉と見分けがつきません。
この太極図の陰陽(現象の世界)を示すために‘見えて’(要請されて)しまう
円の縁取り「○」を超越論的な〈私〉として、でも本当は見ることのできない「 」を
超越的な〈私〉として、また現象の世界、そのような「思われ」を「私」とするなら、
この太極図を──〈私〉は、なぜこの「私」なのか?──という問いにすることも
可能でしょう。つまり、〈私〉と「私」のつながり/きずなについて考察することが。
>いつか、誰かが、分かってくれる。認めてくれる。嫌でも理解を示さざるを得ない。
>という思い込みの支配。私は今、一人です。
>分断された自己からは何も新しいものは生まれないというのに。
「生き方」の優劣は、思想の問題であって、哲学の問題ではないです。
たとえば、一般に「なぜ人は人を殺してはいけないのか」と問わないのは、
道徳が価値の選択を可能にする基盤としてはたらいているからであって、
道徳を人の生の実践のための基盤として了解する心にとっては、「命」が、
「価値の根源」であることは自明なのです。
論理的に言うなら、その価値の選択という行為を可能にしている言語の本質、
すなわち、コミュニケーションには、他者の存在が前提されているのですから、
その生の、存在の否定は、自己の、だから言語存在者としての「私」の否定の
ことに他ならないのです。だから、「人は人を殺してはいけない」のです。
このような意見は理解されませんが、「人を殺してはいけない」と言うだけなら、
多くの人々に理解してもらえます。どこがちがうのか……わたしの意見は論理、
たんなる「人を殺してはいけない」という主張は、命の「つながり/きずな」への
シンパシーを期待しての、つまり人のコモンセンス(共通感覚)の最たるものの
ひとつへの訴え、たんに‘まともな’人たちへの確認(仲間だよね?)作業です。
生き方とは「価値の選択の仕方」のことでしょう。だから、人それぞれの主張は
優劣をつけたがっているのです。独我の世界に生きる人の、自分を知ることは、
善悪、美醜、真偽の判断の確信へとつながりやすいです。でもそれは思想への
確信(思考停止)ではないでしょうか。もちろん哲学も原理的には「自分にとって」
の真理を求めてはいます。でも哲学は確信し安心して死んでいくのを拒絶します。
なぜなら、思考停止しないからです。あなたの何を理解すればいいのでしょうか?
>私は生きていないから、辛い思いは死人が味わうのです。
>なんと卑怯な手段なのでしょう。
「わたしのこと」として …… 生者はみなニセモノで、死人。
死人のわたしだけがホンモノで、ただ独り世界にあらわれている。
わたしは死人なのに生きようとして、幻なのに存在しようとする。
独我論の実践は、病気が為せる技かもしれないけど、
「わたし」という魂の孤独については、一面の真理でしょう。
>生を授かったのは自分の意志じゃない。だからこそ
>生を授けてくれた全てに、感謝をしなければならない。それが人。
>私がまず一番にすべきことは、朝起きたときに、命絶えることなく
>目覚めたことを全てに感謝すること。そこから関係性の原点が始まる。
感謝は、みずからの意思で「しなければならない」のではなく、
「すべき」ことでもなく、なぜならそれは偽善でしかないからです。
(適応のための処世術ではあっても)あなたはそれが嫌いです。
ライオンとコウモリとカブトムシと人間とでは「生き方」がちがいます。
けれども「生きていること」においては、何ら変わることはありません。
そのことにつながること、そのきずながおのずと感謝させるのです。
ライオンとコウモリとカブトムシと人間は、それぞれ別種の存在者です。
けれども「存在していること」においては、何ら変わることはありません。
そのことにつながること、そのきずながおのずと感謝させるのです。
>>874 ムートンさん
>あなたにはいろんな物事の解決方法が、誰よりも分かっているんじゃないですか。
>ただその反面、それを実行に移すことから誰よりも離れているだけで。
だれも死を知らない。でも死があることは知っている。
わたしが存在し生きていることの奇蹟、二度と来ないこの瞬間、
わたしは、わたしが思うように、あるがままに、生きたらいい。
あるがままは、苦痛の回避(快感原則)の究極の形態。
心身にありつづける苦痛からの逃避に死を使わせないために。
散々な目にあってやっとたどりつく安息、至福という打ち止め。
生の道程のゴールに至福という最高の餌がおいてある。
生存を引っ張るために。生、存、が苦痛の根源だというのに。
だからと言って、あなたは卑怯じゃないです。
わたしの生き方があなたの言う通りなのだとしたら、
わたしのような生き方を卑怯というのです。
あなたのように苦痛ばかりの世界と知っていても、
もう一度、いえ、生きているかぎり、ほんとうに生きようと
挑戦しつづける勇気は、まちがいなく素晴らしいことなのです。
わたしはそのことを、わたしがこの世界で過ごしているかぎり
否定してはいけない、いけないということがある世界なのだから。
今、ショパンの「別れの曲」がながれています。
なんて美しくも哀しい、そして情熱的なメロディーなのでしょう。
天才の人生でなくても、だれもがたった一度きりのかけがえのない
人生を送っているのです。ほんとうの価値は、それぞれの人生そのもの、
その人の精一杯の生に宿るものなのでしょう。
苦しくても笑顔で、そんな生き方に胸が熱くなります。
語ることは多いほうがいい。全部読んでます。
容量の限界が来た時にこのスレも終わればいい。
私はもういちいち分析しません。あなたが思うことを書いて、私が心動かされる。
世の中で起こる出来事はそれだけで十分だと思ったからです。
コミュニケーションの原点を、あなたと始めたい。
人生という与えられた時間の中では、なぜすべてが嫌なのかを考察するより
とにかく心を開くこと(生きること)だ。人は心閉ざした形で生を受けるのには
なにか理由がある。でもその考察をしてる間にこの体は腐ってしまう。
人生とは生きるための時間。
あなたは生きたいでしょう?そしてできるならば、誰かと一緒に。
私も生きる。できるならば、誰かと一緒に。
哲学に戻ると言ったのは撤回します。
なぜだと思います?こう思えたのはあなたのおかげなんですよ。
>>883 私もピアノが好きです。ショパンはバラードもいいですね。
今度一曲弾いてうpでもしましょうか?w
生きていると、嫌な人とも出会うけど、感性の近い人とも出会う。
そういう嬉しさのために生きるのもいいかもしれない。
わたしの哲学はモノローグ。好きに勝手に書き込みます。
それにあなたが興味をもってくれる、その承認が生の証。
それはお互いの魂がつながることではないのかもしれない。
あなたとわたしがどこまでも遠く隔てられている、そのことを、
お互いが別の時空で分かり合うこと、それが魂のキズナ。
哲学におけるダイアローグという営みなのでしょう。
生きていることの、哲学することの、だからコミュニケーションの
原点は絶望なのです。どうしてだか、あなたがわたしでないことの。
わたしがあなたになろうとするなら、わたしが消えてしまうことの。
いったい私とは何なのか?
この問いは、この「私」の孤独と絶望に裏打ちされないと出てこない。
それでも、それなのに、世界があることへの、あなたが存在することへの、
あなたに話しかけられることへの、驚きと畏れから生まれてくるのです。
あまりにも当然のそのことが、当り前でなくなってしまった存在者にとっては、
いつも、つねに、たまたまの、そのたびごとの、奇蹟なのではないでしょうか。
わたしがわたしになろうとしたとき、わたしはこの奇蹟と取り引きしたのです。
世界やあなたが奇蹟でなくなるかわりに世界やあなたの世界の住人になる。
それがわたしがわたしになるということだから。そして二人ともみごとに失敗
したわけです。だから当り前のそれが自明のこととしておさまらないから、
そこからはみだしてしまった。はみだし得るこの「私」とはいったい何なのか?
頭の中がこんなことばかりでいっぱいのわたしがまともなはずはないけれど、
世間のひとたちもそう言うけれど、この哲板ではごくふつうのことでした。(^.^)
わたしは哲学徒という狂人には「ふつうの人」として受け入れてもらえるのです。
当り前のふつうのことがどうしてふつうなのかがわかるまでは哲学するしかなく、
いつか「ふつうの人」になれたら、ふつうの人生を送ってみたいです。… ゆめ
886 :
考える名無しさん:2006/08/22(火) 02:01:10
私とは世界の中心です。
私が揺らぐことがあれば、私の投影物としての世界が崩壊するでしょう。
>ムートンさん
わたしが思うことを書いてこのスレが終わってしまうのはモッタイナイです。
このスレは意外に多くの人たちが見ていて、あなたのレスを心待ちにしています。
わたしも「 1 名前:ムートン ◆Sheep2h65. [] 投稿日:05/01/06(木) 23:03:22 」
のときから、ずーっと見ていました。(^.^)
わたしは、このスレは「哲学ではない」と、ローカルルール作成時に発言していたけど、
それでも、あなたのように人生に真摯に向き合う人の、そのギリギリの生から語られる言葉は、
十分に哲学的に傾聴するに値すると思う、と主張して、哲板のスレとして認めてもらっています。
それなのに、わたしが思うことを、つまり自分の人生相談をしていたのでは目も当てられません。
>この先の自分の人生を、哲学の力を借りて
>切り開いて行けないものかと思い立った次第です
あなたは哲学の力を借りて、人生を「切り開いて行こう」としているのに、
わたしは、生の継続のための、幸福になるための道具として、哲学は使わない。
哲学することで、結果として、生が継続され、幸福でいられるようですが。
それが、おなじことなのか、ちがうことなのか、よくわからない。けど、たぶんちがう。
あなたの返答を見て、わたしの言葉はあなたには必要ないと思いました。
ムートンは結局、倫理、あるいはそうですらなく道徳に流れていってしまうのか・・・・・・。
ただただ自分の動機を限界まで遡行していけばよいものを。
それが分析。
凡百の治療的言説は、確かにそこそこ安寧な人生に導いてくれるかもしれない。
実際そうだろう。
分析は、その純粋さゆえに、しばしば毒になり拒絶すら起こす。
原理主義者はしかし、その毒をすら望んでいたのだと思ったのだがな。
それは真理という全能を期待されるものに至るまでの、
暫定的な生の実感を得るための自傷でもあるかもしれないが。
結局は加齢と疲労が、現実的な選択をさせたということだろう。
なんのことはない、「鏡」を見れば自分が映っている。
今まで鏡を見ずに、鏡が教えてくれることに背いて過ごしてきただけのことだった。
物言わぬ鏡は、実は常に語りかけていたのだ。
だがそういう時期が、私には必要だった。外界の様々なものと接するたびに
自分の中に沸き起こるあらゆる嗜好性やクオリアをそれと自覚し、切り離し、
公平な立場、つまり「立場のない立場」を見つけるために。
私は道徳へは流れません。
すべては道徳という、概念化の難しいものを概念化することが目的だったのです。
それは当初の目的とは少しずつ形を変えて、新たな目的へと深化しました。
毒も薬も必要であるし、必要でないのです。それがここ数日の発見です。
「趣味」を離人症者が語るのは馬鹿げていますが、私にも趣味があります。
ただ一般的な「楽しくて自己満足を伴うもの」という定義から外れていて
私の趣味は自分自身さえ満足しない。
嗜好性や質感を限りなく自分からそぎ落とし、その後に何が残るのか、そうなった自分に
何ができるのかを観察すること・・・。
しかしその何の苦楽も伴わない無味乾燥的な趣味のおかげで、
偶然か必然か、受身でなく目指すものを見つけられたのです。
前に私はコミュニケーションを始める、と言いました。
私の場合それにはツールが必要で、そのツールが何かということが問題でした。
そしてそれは自分の一番身近にあり、すでにそれを実行している表現者が存在したのです。
私が現実的な選択をしたのはそのとおり、時間が限られているからです。
ただ、もう哲学から離れることはできないでしょう。
>>885 … ゆめ とは?
>>889 >… ゆめ とは?
素朴に世界がそこにあって、ともに今がここにあること。
いつも笑顔をたやさないわたしの心も笑っていること。
生きることが怖くて苦しくて辛くても一生懸命に生きようとすること。
どんなに怖くて苦しくて辛くてもあなたのために生きようとすること。
この体とこの心が幸せであってほしいと思います。
あらたなわたし、あたらしいわたしが、代わってくれたらいいと願います。
承認、生の証、ゆめ…歩いていくための道しるべが道しるべであるような
そんなあたらしいわたしにこの体とこの心を預けたいです。
あなたに笑顔をあげられること、それがわたしの笑顔であること。
わたしの喜びがすべての人たちの喜びであること。
わたしのいることが世界の幸せであること。
そういうふつうの人たちのふつうの思いをふつうに持てる人になること。
だから、生きることと哲学が結びつかない人生であること。
>>890 それは自己が世界と関係性を持つ生き方ですね。私もそれが夢であり、その逆が夢でもあります。
関係性を失うと、自己を見失うばかりか、質量が「重く」なっていく。
そして世界と関係性を持つのが困難になる。程よい軽さがほしい。いやほしくない。
そんな狭間で悶々としているのが私。重いことと軽いことはどちらが「良い」のだろう。
私がトリップを忘れてしまえば私もこのスレに存在しなくなる。軽い存在になれるのに。
そういうわけにはいかないと、思い込んでいる私か、今の重い私。
もう一つ撤回しなければならないことがあります。
研究はおしまいだと言ったこと。
これはもう生活習慣病のようです。
この自己は実験材料として私に無限の可能性を提供してくれます。
私の生の意味も死の意味も、そこに帰結していくでしょう。
私の重さに耐えられる人間は、私しか居ないし、誰かに任せるわけにはいかないのです。
コミュニケーションを始める……鏡にうつるあなた、あなたがツールと呼ぶそれを
わたしは抱きしめることはできない、それが肉欲ではなく、母性でもなく、真の愛
であることを、だからあなたに伝えることはできない。けれど肉を排したプラトンの
愛は、おそらく愛とは呼べない。肉欲でもあり、母性でもあるからこそ、真の愛で
ありうるのです。
もちろんプラトニックラブが精神の愛である以上、肉欲のそれとは別のものでは
あるでしょう。けれども、それを通らなければそのことがそれとしてわかるように
ならないのです。望むなら、いつでも分裂して宙に舞うことが可能なあなたには、
しかし、それではなにひとつわからない、そのようになっているのです。
愛は必要です。もし必要でないなら、それはあなたが愛そのものであるときです。
けれど、愛そのものは愛を知らないから、だから、だれかとともに、と望むのです。
鏡にうつるツールは、しかし愛を体現できる唯一の存在者です。体現者のいない
愛はありえないからです。
神さまの倫理が道徳なのも、神さまの光あれ!という意志が存在者になったのも、
はじめに言ありき!の叫びによって世界の形式が論理になったのも、みなおなじ。
これほどまでに神さまが「わたしの世界」に寄り添うのはどうしてなのでしょうか?
すべては人間が人間のために作り出した幻想だから、と言ってしまうのは容易い。
わたし自身そう言っている。たしかにすべてのことは解釈であり、その解釈は想定
された解釈でしかない、このわたしの妄想のように。でも、どこに限界線を引くのか。
それはどうやって引くのか。神さまを知らないわたしがどうやって神さまとのあいだ
に境界線を引くのか。鏡にうつるあなたと鏡にうつる瞳の奥のあなたとの境界線は
どこなのか。
>ムートンさん
コミュニケーションをはじめる前に……あなたは動揺してないようなフリをします。
たしかにわたしはあなたを傷つけた。今、人生を歩みはじめようとしているあなたが、
自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分自身を生きようとしているのがほんとうなら、
確実にわたしの言葉はあなたの心を痛めたはずです。わたしはいつまたおなじことを
くりかえすかもしれません。わたしはわたしの言葉に傷つくあなたを望み、それに傷つく。
でも、そこから本当の哲学的探究が為されることを望んで土を掘りかえして田を耕します。
わたしの性質もあって、なかなか会話がうまくいかないのです。純粋に哲学してしまうと
わたしの言に、まず感情的な反発が返ってきてしまいます。あなたの場合、その心配は
なかったけれど、これからはそうなるのかもしれないし、それを怖がらないことにします。
お互い病気であっても哲学はできます。むしろ打ってつけなのかもしれない。だってそれ
しかすることがないのだから。(^_^;) 以上、了解なら応答ねがいます。
あああ、ムートンもうダメだよ。
>この自己は実験材料として私に無限の可能性を提供してくれます。
>私の生の意味も死の意味も、そこに帰結していくでしょう。
>私の重さに耐えられる人間は、私しか居ないし、誰かに任せるわけにはいかないのです。
自分の人生に意味なんて見出しちゃった。
もう重症だよ。
時代が逆行したような眩暈だ。
>>896 私は傷つきません。物心ついた時から常に傷つかない位置にいるからです。
あなたが私を傷つけたと思う理由さえ分かりません。誰かと会話する術を知らないだけなのです。
私はもともと会話をすることに意味を見出していないのかもしれない。
相手のためや自分のためになることが目的ではないから。
自分が何か意味のあることを生み出すことは、有り得ないと分かっているから。
生命としての肉体の存続と、知的好奇心の源を探ることのため(知的好奇心のためではない)だけに
この生き物は今行動している。
探し物は、必死に模索すればするほど
それを見つけると同時にそれが永遠に手の届かないものであることに気づく場合が多い。
高台にのぼって町全体を見渡せば、その町の全容が分かるが
それと同時に自分がそこに居ないことを余儀なくされる。
臆病な私はそういうやり方しかできなかった。居場所などあったことも無いし、与えられても
受け容れる器もなく、作ることさえしない。ただ、全てが分かればいい。その一心だった。
自分を好きになれと人は言う。自信を持てと言う。全てはそこから始まるから。
私が自分と思われるものを見つめると、自分ではない、刻印された偽善者が
笑みを浮かべているのが見える。この偽善者は私を蝕んで喜んでいるのだろう。
私が刻印とともに歩んできた人生は、私の人生ではなかったのです。
>>897 意味を見出させているのは刻印そのものです。それは昔からです。
私は全てに意味を感じません。
899 :
考える名無しさん:2006/10/05(木) 19:25:30
>>898 ムートンさん
わたしがムートンの名を呼ぶ、だからあなたは存在する。
あなたが自分と名付ける、だからその人は存在する。
ムートンと呼ばれなくても、自分と呼ばなくても、あなたは存在する?
あなたは自分を見た、だからあなたは存在する。
でも、あなたはあなたを見たのではなく、自分を知ったのです。
見ることを知ることにしてしまったから、その人はあなたになれない。
わたしはあなたが自分と名付けているその人に話しかけている。
だからあなたに話しかけているのではないのかもしれない。
>私は傷つきません。物心ついた時から常に傷つかない位置にいるからです。
物心つかないあなた、自分のいないあなた、だから存在しないあなた、
だから世界とひとつのあなた、世界があなたの世界だったころ、
あるがままのあなたは、その人ともひとつだった、だから傷つかなかった。
>自分が何か意味のあることを生み出すことは、有り得ないと分かっているから。
あなたが自分として存在すること、そこから開ける世界が意味そのもの、
あらためて意味を見出そうとしても、意味そのものに意味はないのです。
>生命としての肉体の存続と、知的好奇心の源を探ることのため(知的好奇心のためではない)だけに
>この生き物は今行動している。
生きているから生き、心があるから心の源をさがす、それがその生き物「人間」の宿命です。
生きているから心があり、心のために(心の源をさがすために)生きることができるのです。
>探し物は、必死に模索すればするほど
>それを見つけると同時にそれが永遠に手の届かないものであることに気づく場合が多い。
探し物は、倫理、神、存在、生命、私……という超越に至るはずです。
だからこそ、その至高の真理、絶対の原理、永遠の知恵を追い求めるという行為、
すなわち‘哲学する’ことが可能なのではないでしょうか。
>高台にのぼって町全体を見渡せば、その町の全容が分かるが
>それと同時に自分がそこに居ないことを余儀なくされる。
あなたは夢を見ているのかもしれない。夢のなかの主人公は自分。
あなたは自分になってみたり、遠くから自分をながめてみたりする。
夢のなかの出来事のなにひとつも、登場人物のだれひとりも、
あなたとはかかわりのないものなのかもしれない。
けれど、あなたがいなかったら、その世界が開かれることもなかった。
>臆病な私はそういうやり方しかできなかった。居場所などあったことも無いし、
>与えられても、受け容れる器もなく、作ることさえしない。
あなたの居場所は、居場所のないあなた自身です。
あなたが自分として存在すること、そのことから世界が開かれています。
けれど、あなたは、自分として、存在することをしなかったから、
開かれた世界に居場所がないのかもしれない。
>ただ、全てが分かればいい。その一心だった。
すべてを分かつ言語。
あなたが物心ついたときに‘したこと’それは言語の使用でしょう。
あなたは物心つくまで(時間が流れ出すまで)は、高台にのぼらなくても
町の全容がわかっていた。あなたは町のすみずみにまで行き渡っていて
あなたと町はひとつだったから、あなたが町そのものだったから。
何も知らないこと、分かたないことが、町とあなたをひとつにしていた。
あなたは町のなかに自分を住まわせようとして言語を使用した。
町に住まう人間たちのなかから、その人が自分であることを、
──私は、私である──と高らかに宣言したのです。
存在していること、生きていることそのものから、その人が存在していることを、
その人が生きていることを、‘あなたの’定義として、‘自分’として規定した。
存在を‘刻印’したのです。
けれど、あなたはあなたが分かたれること、あなたが自分として存在することの
苦痛にたえられなかった。だからふたたび元に戻ろうとして自分から解離した。
そう、自分から。自分からあなたが、自分があなたへ。現実が開かれた以上、
完全な離脱はありえないのです。存在の刻印、カインの刻印は消せないから。
>自分を好きになれと人は言う。自信を持てと言う。全てはそこから始まるから。
その存在そのものの肯定は母の愛です。才能や価値への評価ではないのだから。
そのように愛された者にできることは、自分という生の存在の肯定なのでしょう。
その自己愛が深ければ深いほど、その人は自分のように他人も愛することでしょう。
生き生きと躍動する今が未来へと走り出し、祝福されたその生の存在を世界は両手を
広げて抱きとめてくれるのです。どうして思いのままにならないことがあるでしょうか。
>私が自分と思われるものを見つめると、自分ではない、刻印された偽善者が
>笑みを浮かべているのが見える。この偽善者は私を蝕んで喜んでいるのだろう。
>私が刻印とともに歩んできた人生は、私の人生ではなかったのです。
あなたが善を知っているのでないなら、自分を偽善者とは呼べないはずです。
でも、あなたは善を知らない。だとしたら、そのように否定されてしまうだけの
自分こそ、むしろあなたに蝕まれているとも言えてしまうのではないでしょうか。
今までの人生があなたの人生でなかったと言っても、それは自分を否定しているから
であって、人生を送れるのは人だけなのですから、人の生を否定しているあなたが、
いえ、人の生の否定としてのみ存在するようなあなたが、どうやって人生にかかわる
ことができるのでしょうか。あなたの人生とは? あなたの人生の理想とは?
>>900 鋭いですね。そのとおりかもしれません。
ってこんなことを肯定していると逆にあなたの気分を害することになるかもしれませんが。
「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
本当の私は、という時も、それは私ではありません。いつまで経っても私は私を語れないのです。
私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。それがおそらく
町と、世界と一つだった頃の私。流動する私。
私は人や世の中を舐めている、とよく言われる。私と少しでも関わろうとした人間は
私に疲れて、飽き飽きして、離れていくか、怒りをあらわにするかのどちらかなのです。
私は人生や他人を決して舐めてはいない。舐めることすらできない。舐める位置にすらいないのです。
否定することから離れて自分の性に戻ってくるにはどうすればいいのでしょうか?