1 :
考える名無しさん:
絶対的な恐怖ではない。
たとえば
自殺方法で悩む人間が多いように
「醜さ」「痛み」のほうが死よりも重い。
少なくとも最近のニンゲンにとってはそうだ。
だから人は、容易に自殺を口にする。
自殺志願者に
生そのものの意味を問う人間は多いが
死そのものの意味を問う人間はいない。
死は軽いのだろうか?
死の重さを、哲板の賢人の力で調整したい。
一般人をだませるようなウソでもよい。
そこで神様と死後の世界ですよ
3 :
考える名無しさん:04/09/10 10:16
氏ね
5 :
考える名無しさん:04/09/10 10:25
>1さんは根がスケベなので若い女性をだましても良いと思っていますよね
6 :
考える名無しさん:04/09/10 10:33
死が軽いのか、命が軽いのか?
7 :
考える名無しさん:04/09/10 10:43
>1さんの命は軽いけれど>1さんが死んで誰も悲しまないことはないですよね
8 :
考える名無しさん:04/09/10 11:05
死がサクサクっと軽い
9 :
考える名無しさん:04/09/10 12:34
>>8 どっかに騙されて、自爆テロとか考えてねーだろうな?
>>1 死が軽いから容易に自殺を口にするのではなく、
むしろ生が軽いから自殺を口にするんでしょう。
進んで死に赴くということは、死は生よりも重い
(価値がある)ということの証拠ですよ。
11 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/09/10 12:58
死はね、物語でしかないんだね
たとえばだよ、チンパンジーは死を恐がるか?
なことないよね
だって死ぬってことをしらないんだからさ
彼らにとって危険は傷つくから恐いのさ
死は知識であり、物語だからね
重くするために、いろんな物語がつくられてきたんだよ、天国と地獄とかね
現代は科学の時代だからね。その手の話はリアリティないからね やっぱコミュニケーション、関係性にうったえかけるのかな
おまえの意味はおまえ一人だけのものではないぞ
有史以来のつながりの上にいるんだぞ、みたいなね
生は重いのか?
これ前にもぴかぁ〜がなんか言ってたな。
死が常態であり、むしろ生の方が異常な状態なのだ。
自殺志願者に
生そのものの意味を問う人間は多いが
死そのものの意味を問う人間はいない。
↑
そうか?
16 :
考える名無しさん:04/09/12 11:06:33
いないとは言い切れないが、
僕は会ってないです。
死は救済、苦痛の終わりとして
意味づけられているように思われます。
>>1 死んだ後はどうか知らんが死には「醜さ」「痛み」が含まれていると思うよ
18 :
考える名無しさん:04/09/12 16:50:26
死そのものが痛いのかな?
死ぬまでは痛くて醜いけど、死そのものじゃないと思う。
死の定義によるんでしょうけど死は生の消失点、その一点で
痛みや醜さを乗り越えたところに死がある、って思ってます。
19 :
考える名無しさん:04/09/12 17:02:00
「うちの孫娘はそんなに馬鹿じゃない。」
知識は教えてても、無理なものは無理。
精神的に荒れてるうちは無理。
20 :
考える名無しさん:04/09/12 17:10:27
よーが都合の悪いこと報告してないんだよー。
いやー暑いですな
しかし残暑が厳しいねぇ
軽かろうが重かろうが
どうせいずれは死ぬんだからさ〜
無理して死期を早めることないじゃん
自然に死ぬまで適当に生きてろや
自然にしてろ、そしたら、いつか勝手に死んでるさ。
24 :
考える名無しさん:04/09/12 17:53:25
そうせ死ぬなら、はやく死んでもよいのでは?
無理して生きることもないのでは?
現代において、社会的に生きることは
「自然に生きる」ことではないのでは。
と、いうのを否定できたら、いいよ。
>>24 む?人間は社会性動物なんでないの?山の中に一人で住んで
縄張りを放浪してたまたまであった異性の個体と子作りするー
なんて話は聞いたこと無いけど。
と書いたところで「社会」っていうのを「(会社勤めとか、狭義の)社会」っていう意味で書いたのかしら?と思った。
「自然に生きる」って具体的にどういうことを想定してらっしゃいますか?
無理せず死ねるのかな?
自然にしてれば生きようとするものさ
何故だか知らんがな。
「社会的に生きる」
そんなものは後から付け加えられた概念さ
そんなものは自然ではない。
27 :
考える名無しさん:04/09/12 18:27:19
>>25 うん、狭義。
>>26 つまりさ、自然にしてたら、生きることはできるよ。
それはヒキコモリだってそうだよね
ヒキコモリ賛美なら別にいいと思うよ。
ヒキコモリって彼らにとっては自然な生き方だから。
生きるという意味で、もっとも自然だよね。
道徳とかに左右されてないって意味では。
無理せず死ねないとしても
無理しないと生きられないでしょ?
違うかな。
28 :
考える名無しさん:04/09/12 18:30:59
自然な生き方、といったときに
生き方をある程度規定する
社会制度が、自然であるかということよ。
猿も狼も鰯でさえも
群集を単位として生きてますが。
人間以外の動物が自発的に群れ社会から逸脱する
行動することはないが、偶然(不運)が重なって結果的に群れ社会から
逸脱することはある。
この時、この個が群れ社会に戻ろうとしても
疎外され、場合によっては集団リンチを受ける。
野生環境では集団に属せない個ほど
生存が不利になる(元々集団を形成するような種は
それによって自らを有利にしていたわけだから)
個の生き方を集団によって規定するというのは
むしろ動物的自然の中の方が人間社会より数段厳しいよ。
>>27 自然にしてて、ヒキコモリで生きてゆけるということは、
そこにヒキコモリしてても生きてゆける環境があるという事、
なぜその環境があるのか、その理由はそれぞれだろうがな、
その環境が存在してる間は、そいつにとってはそれが自然なんじゃないの
その環境が無くなった時、そいつらがどうするか?
そんなこと他人の俺が知った事じゃないが、
その状態に成った時でも、自然にしてればなんとか生きてゆこうとするだろう、
死を選ぶ奴は無理をして死ぬんだろうさ。
32 :
考える名無しさん:04/09/12 19:05:36
>>29 群集を単位とするのと、社会の中で生きるのは
また別の話だよ。
>>31 なるほど。それならわかるな。
つまり、君の言う自然というのは
「生きるという本能的な欲望」の自然さを言ってるわけだ。
それなら、ヒキコモリができなくなったらそれなりに生きるだろう。
それはもっともだ。
「自然な自分」って言われたら、本能のままに生きることを考えるだろうか?
こうありたい自分、こうあるべき自分みたいなものをうかべないかな?
そういう意味での理性的な「自然」みたいな意味で捉えた場合は
「自然に生きる」ことが不可能な状況に追い込まれることってあるよね。
そういうときに、死を選ぶことってあり得るんじゃない?
この場合は、生が自然、死が自然ということ以外に
「自然でない生」も存在してしまうから、生と死のどちらが自然だ!なんてのは
無意味になるよね。
33 :
考えなし名無し:04/09/12 19:36:05
死は生物がこの世に成しえる最後の行動である。
死、以降に他への外的要因になることは出来ず。
死、以上の影響力は無い。
「死」自体に価値は無い。
しに付加するものに価値がある野田。
最終手段を早めに使うかどうかはその人次第。
byAGE
34 :
考える名無しさん:04/09/12 19:42:41
死って「行動」なん?
自殺は行動かもしらんが、自然死は行動なん?
行動というと、能動的なイメージがあって、「それをしない」という
選択肢もありそうだけど・・・
まぁ、話の本筋とは関係ないんだけども。
>>32 そうだね、じゃけど、こと生死に関しては、「理性的な自然」よりも
「本能的な自然」の意味合いの方が強く影響されるもんだと思っとる訳だわ、
それとね、理性的であれ本能的であれ真の「自然の自分」ってのは、
死を選ぶことは無いと思っとる、そういう風に俺は考えとるよ、
こうありたい自分、こうあるべき自分というものを「自然な自分」と捉えてしまうのは、
俺の考えてる「自然な自分」とはちょっと違う感じだね、
それは自分の思い込みによって作り出してしまった「理想の自分」って感じだね、
死を恐れず、死ぬ事など考えずに、「自然な自分」のままに振舞ってゆくなら有りだと思うが、
「自然な自分」で居る事が不可能な状態だから死を選ぶってのは違う感じだ、
「自然な自分」であれば、どんな状況であろうとも、その状況での自然な振る舞い方が見つけられるはずだ、
故に、自然に振舞ってる限り、寿命や病気や事故や殺される以外の、自殺ってのは無いと思うな、
自殺は自然には起こらないだろう、自殺は、やはり自然で無い自分が無理に行うものだろう、
そこには、自分の思い込みに偏っちまった結果してしまうとかね、どちらにしても自然な行為では無いと思う。
知らぬまに死の影が迫っていることを知らずに日々を過ごす。死というものは突然に意識されるものであり知らずにいることにより後の助長は深いのかもしれない。今は死に身を任せることが私にとっての日々になる
37 :
考えなし名無し:04/09/12 20:14:41
>>34 本来は受動的なものだろうけど
「自殺するなら」って前提で書いた。すまん。
でも、「受動」であっても。
他に対する影響はそれが最後ぢゃない?
平成における死の観念は日常と切り離されたところにある。元来あった死も日常に軽いかたちになって吸収されている。死の影に無防備になっている我々にとって動かされざる死の残骸から本来の死に対処しうるだけの免疫が備わっているか疑問だ
娼婦と過ごすことにより知らないという観念が肉体的な緊密性の中に入り込み時間の経過と空白を繰り返す。死を日常に知るとはこういうことであるのだがしかし知りはじめたものがそこに黒い翳を投げ掛ける
知らぬものの肉体は知ってるが知るもの、或いは知りたいと欲するもののそれは知らない。そしてこの両方の複雑な死を生に抱えるとはなんだろうか
41 :
考える名無しさん:04/09/13 09:36:00
「なんでキレないのよ!私ならキレてる!」
「私なら暴れまくる!」
精神的にアレてるときはアレまくり。
日本じゃ死後の世界信じる人いないからね
だからどうしても、逃れらない運命を「とるにたらない軽いこと」という風に
思考をもってくことになる
43 :
考える名無しさん:04/09/13 12:00:39
考えても分からないということは、誰でも知っているから。
だから考えずに楽しめることして生きてるの。
まさかこんな恥ずかしいこといまさら誰にも話せないしね。
44 :
考える名無しさん:04/09/13 20:59:05
>>42 死後の世界信じてるんじゃないですか?
葬式とかするし。
45 :
考える名無しさん:04/09/13 21:00:34
46 :
考える名無しさん:04/09/13 21:02:28
>>45 ぶっちゃけ、オレもそう思ってますけど
親に言ったら起こられました。
バチあたりがっ!ってね。
それにうちのかーちゃんは創価じゃないけど、田舎育ちなんで
檀家さんとかあって、よくお寺に行ってたそうでねー。
あと、幽霊が怖いのは死後の世界を信じてるからじゃない?
違うか。違うね。
47 :
考える名無しさん:04/09/13 21:16:42
葬式は世間を納得させるためというより、残された自分たちを納得させるためというほうがおおきい
48 :
考える名無しさん:04/09/15 06:02:29
親が死ぬとき、葬式はしないでくれといった場合、
しないでいられるかどうか。
>>41 >「なんでキレないのよ!私ならキレてる!」
>「私なら暴れまくる!」
>精神的にアレてるときはアレまくり。
その時、精神的にアレまくってて、キレたとして、
後に、あの時キレて、取り返しのつかない事をしてしまったと思っても、もう戻れない、
なぜキレてしまったのだろう、なんてバカだったのだろうと、自分自身に後悔の念がある、
自我を責める自己から逃れるすべは無い、どこにも隠れる場所は無いのだ、
その苦しみは死ぬまで続く、
その苦しみに比べれば、その時、キレないで過す苦しみなど軽過ぎる、
自分を大切にするなら、自然と後者のキレずに過す方を選択するようになるはずだ、
そういう後悔の念というものを、些細な事でも一度経験すると、簡単にはキレなくなるものだ、
些細な事で経験してる間に、それに気づくことが重要、
重大な事で経験してしまった後では、もう取り返しがつかん、
例えば殺人をしてしまった後で後悔の念を抱いても、もう遅い、
自我を責める自己、その苦しみから逃れるすべ無く、死ぬまで続くのである。
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