1 :
考える名無しさん:
2 :
考える名無しさん:04/07/22 14:22
nanndakonosure?
3 :
考える名無しさん:04/07/22 21:52
法学だからだろう。哲学と法学は、方角(ほうがく)が違うぞ。
4 :
考える名無しさん:04/07/22 22:12
5 :
考える名無しさん:04/07/22 22:18
世界共通の法律って作れる?京大さん
できなくて当たり前だろ
7 :
考える名無しさん:04/07/22 22:21
8 :
考える名無しさん:04/07/22 22:29
軍事力では圧倒的な某国も、完全自給出来てないから・・
もはや徒党を組んだ世界を敵に回すのは難しい時代かと世界情勢に疎い漏れが言ってみるテスト
始皇帝はそんな感じだね。
10 :
考える名無しさん:04/07/22 22:42
ま、法律ってその国々が有利になる為に一生懸命作って(作った人が
人としてどこまでのレベルの人かわからんが)人としての理性で作った
わけちゃうからしゃーないか
11 :
考える名無しさん:04/07/22 22:46
純粋理性批判はカルトだよ!!
12 :
考える名無しさん:04/07/22 22:52
ちがうだろ。カルトは『省察』とかだろ?
16 :
考える名無しさん:04/07/23 20:34
age
17 :
考える名無しさん:04/07/24 14:37
/`ー──一'\
,r(●)プププ(●)\
.| '"ー=ニ=-'` .:|
|. `ニニ´ .::::|
|. `ニニ´ .::::|
|. `ニニ´ .::::|
|. `ニニ´ .::::|
20
19 :
考える名無しさん:04/09/06 06:25
つまり昨今の鏡台は(ry
騒人あたりに天才はいないのかね?
>>12 どうせなら『方法叙説』をあげてほしかった
いや、ただはじめに読んだデカルトの著作ってだけなんだがな。
ところで、カルトってのがフランス語だか何語だかでのデカルトの名前だから
そういってんだよな?「デ」ってのは本来は日本語の助詞みたいに独立した意味持ってないんだろ?
カルテジアンって言葉もあるぐらいだしな
デカルトがカルト宗教みたいだとかいう意味じゃねえよな
笑った.
つまんねえよhage。
数学科卒だが論理哲学考てんでわからん。
25 :
考える名無しさん:04/12/04 20:24:25
哲学科卒だが、倫理学がちっともわからん、それに宗教学も…
>>25 宗教学は社会学と考えたほうがいいのでは。
宗教哲学・神学・仏教学みたいなものを指しているのなら話は別だが。
27 :
考える名無しさん:05/02/05 11:58:47
簡単だよ。
「理性では証明できないことがある」ということを証明してるだけ。
たとえば宇宙の始まりとか神の存在とか。
29 :
考える名無しさん:05/02/10 03:15:50
東大医学部ですが純粋理性批判を理解できません
ライス国務長官ですが純粋(ry
31 :
考える名無しさん:05/02/10 12:47:34
ブッシュですが爆撃します。
32 :
考える名無しさん:05/02/10 13:21:27
ヘーゲルです。
「ミネルヴァの梟」が飛びません!
ヘーゲルです。
33 :
考える名無しさん:05/02/10 13:41:02
カントの著作ですね。あれは一生かけて読書するものです。
一読で理解できるなんて天才です。
34 :
考える名無しさん:05/02/10 13:47:12
カントは和訳で読むとさっぱりわからないが、英訳を読むと
よくわかる、という話を聞いたのですが、本当でしょうか。
一生かけて死ぬ直前に理解できてもむなしいと思います
36 :
学者の声:05/02/10 17:01:28
「嘘だ」とまではいいませんが、
そのご質問に関してイエス・オア・ノーを確定するのは、とっても難しいと思います。
邦訳であれ、英訳であれ、
カントの翻訳を読んで、カントの何を理解できたのか、という、
二つ目の問題が出てくる。
例えば、もっとも影響を持っている英訳は、ノルマン・ケンプ・スミス訳。
この英訳を使って理解したカントが、本当にカントだろうかという問題です。
(因みに、英米のカント学者の大半は、『批判』をドイツ語じゃなくてスミス訳で読んでる。)
英米系のカント解釈というのは、かなり独特なものがありまして、
それを「ああ、これがカントなんだ」という風に、
言ってしまってよいものか、難しい。
英米的カント解釈にコミットしてる人は、
「英訳を読むとよくわかる!」と言うでしょうし、
コミットしてない人は、
「あんなもん、カントぢゃねえ!」って言うでしょうし、ということです。
つーか、そんなわかりにくい本を書くカントが馬鹿ってことでは?
なんか「これで形而上学は完璧」みたいなこと書いてるけどさ。
それともそれを上手く解説できないそれ以降の哲学の先生達が馬鹿?
言ってることなんて簡単じゃん。結局は
「世の中には分らんことがある」ってだけじゃん。
物自体なんて俺は認めないぞ!
41 :
考える名無しさん:05/02/10 17:31:18
と、分かったふりをしたバカが申しております。知ったかいくない・・
あれが実は簡単だ、ってことがバレると都合が悪いんだろーな
>>41 先験的観念論では、我々が認識できるのは現象だけで
物それ自体は分らない。しかしカントはそうした分らない
対象から感覚を受け取るのだと書いてる。
物自体からの触発がなければ人間は認識の材料を得ることは出来ない。
だから物自体はよく分らないが認識の原因であることになる
これは理不尽だ。
「世の中には分らんことがある」ってんでは、分かったことにはならないから
ダメだっ、てカントは言うだろうな。そりゃ話の分らん香具師には難しいわな。
しょーもない。
カントはな、おまえらみたいな屁理屈いう奴らに突っ込まれないために
あんなにクドクドと書いたわけであって、いいたいこと自体は至って簡単なんだよ。
「世の中には分かりようがないことがある」
もう一つ言えるのは、おまえらは決して要旨を一言では言えないということだ。
立場的にも性格的にも。
カントの説は、脳とか意識に関する知見やゲーデルの不完全性定理が得られている
現代においては、至って普通の、納得できる説にすぎないんだよ。
またシッタカか――読めよ。
2日で読めたっつーの。
おまえらにはつらいだろうね、一生かけて読もうなんてやつらもいるんだから。
いいか? そんなちまちまやってたら一生かかっても理解できないよ。
あのながーい部分は単なる証明なの。証明を全部いちいちフォローしなくても
定理は使えるの。分かる?
さらにいうと、そんなカントの分かりにくい証明なんか使わなくたって、
その定理にたいするもっとわかりやすい別の証明があるの。
まあ、こんなこと書いてやっても、おまえら自身があの本を理解できてないんだから
正しいのかどうかも判断できないんだろうな。
自分は理解できなかった。 しかし 俺の書いてることは簡単だ。
そんなはずない! って感じだろ。
必死だね。自画自賛したければお経でも読んでろ
50 :
考える名無しさん:05/02/11 00:07:58
プロレゴメナすら何かいてあるのかさっぱりでした。
51 :
学者の声:05/02/11 03:11:03
カントが「馬鹿」・・・とまで言うのは躊躇しちゃうけれども、
相当カントが血迷っている箇所、自分でパニックしてる箇所は、
沢山ありますね。
パニクったところを、そのまま後世に残しちゃったもんだから、
残されたお偉いさん達がエライ苦労している、という感じじゃないかしら?
逆に言うと、解釈がオープンになってるから、
色々読み込めて面白いと思うんだがなあ・・・。
「理解」っていう話から逸れちゃってますけどね。
あと、「証明」だけれど、
カントが「証明だ〜!」とのたまう箇所は、
ホントに証明なんかいな?
「演繹論」は、全然「演繹」じゃないし、
「証明」とあって、「何が」証明されてるかも分からなきゃ、
「どうやって」証明されているかも分からない、
そんな「証明」が『批判』には沢山ある。
だから47氏のおっしゃる通り、「どうやって」がポイントじゃないってのは
確かにあるよね。でも、
「何が」の部分は、やっぱり大事なんじゃないかなぁ。んで、それが分からないから、
やっぱり分からないんじゃないかなぁ。
ところで、「あのながーい部分」ってどこかしら、長いとこがいっぱいあるよね。
あと、「もっとわかりやすい別の証明」どこかしら。
52 :
学者の声:05/02/11 03:21:29
あとさ、あとさ、(長くてゴメンネ)でもさ、確かにさ、
「世の中には分らんことがある」
「世の中には分かりようがないことがある」
って言うのが、カントの根本テーゼの一つだってのは、その通りだと思うんだけどさ、
それを乗り越える認識、としての「形而上学」がカントの一大事だったわけですから、
だから、『批判』の先にある「批判哲学」の最終目標は、
世の中の分からんことを越えた先にあると思うのです。
だからって、物自体に辿りつくよ、という解決ではなくて。
確かに、
見えない神様に全てを押し付けんな、
知性(にしときますね)の推論には限界がある(ゲーデル)、
それはまさに『批判』のいちテーゼだと思います。
でも、そこで話が終わってしまうのであれば、
「超越論的理念」なんて話は出てこない筈だし。
「見えないけれど、あるとしなければ人間理性の話は駄目になる!」的なもの、
カントが「要請」って言ってるもの、
その話は、やっぱり「世の中には分らんことがある」の先にあるものでは。
純粋理性批判は、判断力批判の準備運動だよね
54 :
考える名無しさん:05/02/11 06:55:48
55 :
考える名無しさん:05/02/11 13:29:06
というか、学部生ごときに一発で、分かってもらおうとは、
カントのおじさんも思ってねぇでしょ。
名著とは、何回も読むごとに(自分の成長とか挫折とかを経ながら)
深みを、もしくは、違う理解をするものだと、思いますが。
それは君がそういうふうにしか理解できないだけ
57 :
考える名無しさん:05/02/13 02:02:20
>>51 演繹は論理学用語じゃないよ。(当時の)法学用語。
第二版序文でダウンしそうなんですが、なんとかして下さい。
序文より本論の方が簡単ですか? それとも難しい?
まず日本語がちゃんと使えるようにならないとね。
「なんとかして下さい」なんて言われる覚えはないよ。
>>58 序文と本論は繰返し相互に参照しつつ読むとよい。
61 :
考える名無しさん:05/02/13 19:44:16
63 :
学者の声:05/02/14 03:22:05
>>57氏
おお!「演繹」は論理学用語ではなく法学用語ですか。
確かに、演繹が論理学用語ではない、ということは分かります。
論理学はそもそも頭から尻尾まで演繹であって、
論理学内の用語ではありえないといえるでしょうね。
でも、演繹が法学用語だってのは、初めて聞きました。
演繹論に出てくる「事実問題」「権利問題」という用語は、
法学用語だそうです、カントのいうところでは。
もし演繹も法学用語だとしたら、そこから、
「カントが演繹論の内容を法学にひきつけて組み立てていた」
という考えも出てきそうで面白いよね。
ワタクシ、法学の造詣ゼロでして、
詳しく教えてくれません?
さて、58氏へ。『批判』の序文はキツいです。
そもそも、本文のどこのことを述べているか、序文を見ても分からない。
だから、むしろ『プロレゴメナ』を『批判』の序文(というか解説)として、
読まれてはいかが?
>>63 わかりました。本当に読めそうもなくなったら、そちらを読んでみます。
ところで篠田訳って誤訳が多いという批判がありますが、
それほど酷いものなんですか?
初心者だから気にならない?
65 :
学者の声:05/02/15 02:16:42
ええと、篠田訳に対する批判は、
「誤訳」という言葉の定義に左右されると思います。
こちらの場にお邪魔する前の「カント『純粋理性批判』を読みませんか?」でも
もう述べてしまったのですが、
篠田さん、哲学専門なのではなくて、ドイツ文学専門なんですね。
「哲学者という権威付けがなぁい!」とかそういうことでなくて、
やっぱりドイツ文学者の訳は、ドイツ文学者の訳になっちゃってると。
例えば、「可能的経験」っていう言い回しと、「経験」っていう言い回し、
カント読みにとっては、絶対区別しなきゃなんないモノなんですが、
読みやすさのために、やっぱり「経験」に還元しちゃう箇所が多い。
だから、結論を申しますと、確かに篠田訳は読みやすいですよ〜。
ただ、それが本当に、許容できる範囲で、カントの真意とシンクロしているか、
それが疑問になってくる、と、こういうわけです。
いかが?
>>65 どうもです。
意味が通じなくなったりはしていない訳ですね。
それなら安心して読みすすめます。
で、今度平凡社ライブラリーから出た
原佑訳(渡辺二郎補訳)の『純粋理性批判』の訳はどんなもんなんでしょ?
よさそうだよね。買ってみまつ
なにしろ廉価なのがイイ
平凡社版原訳・・・
すみません。実はまだ買ってない・・・。従って使っていない・・・。
以下は、チェックしてない人間の、訳者補訳者情報だけに依拠した戯言として聞いて頂きたい。
理想社版カント全集の時点での原祐訳は、
ドイツ語勉強している人にとってはいい訳でした。
人によっては、原祐訳から、独訳できちゃうんじゃないかというくらい。
でも、聖書の翻訳みたいで(というと言いすぎかもしれませんが)、
ドイツ語から訳出されたその日本語が、理解というものを度外視してある。
一方渡辺二郎。
まず、この人はカント学者じゃなくてフッサール学者だという点。
(だからといって、「カント学者という権威付けがなぁい!」とかそういうことでないよ。)
それから、私見の限りでは、この人、天下一のパラフレーズ大王なんですね。
みすず出版から出ているフッサールシリーズの
『現象学の理念』や、
いわゆる『イデーン』等、ご覧ください。
パラフレーズは、訳者の理解のために必要だとは思うけれど、
果たして、原文と訳文が、同じ著作なのか・・・分からん・・・。凄いよホント。
そのパラフレーズの注もついて、『イデーン』の翻訳書の注釈は原文より長い。
そんな方です。
だから、原氏と渡辺氏は、その翻訳スタンスに関しては対極に位置するといっていい。
渡辺による、原祐の「補完」・・・。
果たして、それは原祐なのか、渡辺二郎なのか。
渡辺二郎色なら、フッサール色の相当強いカント。
原祐色なら、依然変わらぬ「聖書」です。
原文に当たらずにいい加減なこと書いてます。参照になったのかしら・・・。
まあ実際に読んでみないことには何ともいえない、と。
72 :
考える名無しさん:05/02/16 01:39:39
じゃあちょうど原=渡辺が半々の感じなら名訳ってことか。
>>72 それぞれの欠点が是正されるだけなのだから、普通の訳になるのでは?
中身自体が今となってはたいしたことないから名訳ってのはどうかと
>>74 >中身自体が今となってはたいしたことない
『純粋理性批判』が? どゆこと?
>>70 平凡社版を入手して是非意見を聞かせて下さい。
原訳の全面改訂としての渡辺訳というのは
中公クラシックスとして新たに出た、
ハイデガー『存在と時間』にも言えますね。
こちらに関して言えば、恣意的なパラフレーズで
原意が損なわれているといったことはなかったです。
確かに漢語句を和語句に直し過ぎており
逆に読み辛くなっているようなところはありましたが。
私も『純粋理性批判』の原・渡辺訳はまだ見てませんが
去年出た宇都宮訳は非常に高価だったこともあり、
評判の悪い岩波の篠田訳に代わって、
こちらが『純粋理性批判』の普及版として
これからスタンダードになるような気がしています。
>>75 形而上学も物理とか数学みたいにしっかりしたもんにしようよ、
そのためには公理とルールを決めて、あとは演繹で組み立てられるようにしようよ、
とか、言ってるだけだから。
結構いい加減だし。4つの判断とかカテゴリーで完璧だなんて書いてるけど根拠ねーし。
>>77 『純粋理性批判』をまるで理解できてないようですから
再読の上、このスレで質問した方がいいですね。
79 :
学者の声:05/02/17 04:08:31
一つお詫び。
『現象学の理念』の訳者は立松弘孝であって、渡辺センセぢゃありません。
ごめんなさい。
76氏の仰る通り、平凡社版がカント読みに膾炙するのを切に願わんばかりです。
篠田センセに罪はないとは思うが(偏に裏事情&岩波の人選ミス)。
77さんのおっしゃることには、
真面目に受け取ることができないところが確かにあると同時に、
真面目に検討しなければならないことも、実はあるんじゃないかな〜。
「そのためには公理とルールを決めて、あとは演繹で組み立てられるようにしようよ」
っていうのは、真摯にカントに帰せしめているんなら、ちょっとまずいんでない?
先ず、「公理」、「演繹」という言葉の使用が、余りにザッパじゃ。
数学の手段としての「公理」のステータスの問題、
「演繹論」の「演繹」は本当に合理主義の方法としての「演繹」なのかという問題、
それをちゃんと意識して述べてる?
前者に関しては、カントは数学の方法と形而上学の方法、きっちり分けてるよ。
「超越論的方法論」の「純粋理性の訓練」、数学についての箇所参照願いたし。
後者に関しては、デカルト、ライプニッツ(できればヴォルフ)等々との、相違を
この場で議論して頂戴。「おお!」って議論だったら、畏敬の念で接します。
80 :
学者の声:05/02/17 04:12:05
ただね、
「4つの判断とかカテゴリーで完璧だなんて書いてるけど根拠ねーし」
っていうのは、的があたってると思います。
「アンチノミー」の証明にしても、
「原則論」の証明にしても、
空間時間の「形而上学的究明」の論証にしても、
そして無論、「カテゴリー表」の導出にしても、
もうちょっと、証明力が欲しい・・・。
これは、後の「脱カント教」のカント学者が一時期ガンガン突っ込んだところです。
『純粋理性批判』の体系は、哲学的議論としてとても面白いと思う。
けれども、一つ一つの議論をちゃんと吟味してみると、意外に脆いところは多いんでないか。
カテゴリー表は本当に絶対か。
例えば、アリストテレスのカテゴリー表と、本当に相対化されないのか。
更に言ってしまえば、アリストテレスは空間時間をカテゴリーに入れているが、
本当に、空間時間は「感性」形式であって、カテゴリーではありえないのか。
そうだとしたら、その証明はどこか。
独断論を潰しにかかるカントその人が、実は結構、独断的主張をしていること、
時々あるように見えます。
81 :
考える名無しさん:05/02/17 04:48:25
空間とは位置に関する次元・尺度でありまして、対象を「それ」と「指差す」時
まずもって「位置」なのであります。視覚的に言えば色彩(色相、彩度、明度)など
位置に還元されない次元もあるのですが、「指差す」ことにおいては「位置」が
つまり「空間」が特権的な尺度といえましょう。
82 :
考える名無しさん:05/02/17 04:54:09
>>81 んー、そういう話なら物理を学んだ方がいいような気がしないでもないんだけど。
位置は可能性ではないかな。空間であるなら、直観が関係するか、概念を作用させるとされるようだが、
何故、場所?
84 :
考える名無しさん:05/02/17 05:32:56
>>83 直観とは知覚ですが、認識において対象が示され、また捉えられるのは
位置においてということです。
対象が持つ様々な性質に先立って、対象を特定するのは、まずもって
その位置なわけです。
このことは他人に対象を示すという場合を考えれば明瞭になるといえるでしょう。
あれ、これ、それ などはこの「指差し」の言語化なのです。
位置ならば、どこにあるのか、という事が認識を左右する事になる。
位置から空間や可能性を導き出せないだろうか。
空間がないなら、位置というものは成立しないのであり、どこにでも置ける
という可能性が無いなら、三次元の広がりも意味する事ができなくなるだろう。
直観されるならば、可能性と空間が必要にならないだろうか。
既に、対象が与えられていて、その可能性を考えているというのではなく、
直観の形式に可能性が含まれているというならば、可能性という無限に直観できるという
事にならないだろうか。そして、何かの可能性の無いものは直観すらできない
という事になる。ただ、自己を規定するとなると、それを決定する場所は概念に由来する
訳であり、場所が基づくようなものが位置だろうか、或る場所において直観しないように
するという事を人間は可能なようだ。
位置は空間を前提としてますが・・・
すると、更に前提にされるものを含んだ概念により規定しているならば、
それだけではなくて他のものにも基づいているだろう。直観は更に前提を
含んだもの基づいているものだろうか。
>>79 大した違いないと思う。数学だって非ユークリッド幾何学みたいな
違う公理系が成立するんだから。
形而上学では、
最初に公理系がこれだ、って決まってるわけじゃなくて、いくつか可能な公理系の
なかで、実際に合う公理系を選ぶべし、ってだけで、これは今や数学でも同じ。
あの本を信用しすぎて細かく読もうとしすぎると本質が見えなくなるんじゃないかと。
91 :
考える名無しさん:05/02/17 23:36:54
ここには学者さんがいるようなんで、こっちに書いておく。
207 名前:考える名無しさん :05/02/17 23:14:53
>>204 カント的に、相対性理論ってどうなるんだろうね。
認識のアプリオリな形式は、あくまでユークリッド的な3次元の空間と、1次元の時間なわけで、
それは相対性理論があろうとなかろうと、変らない。
(物理学者を含む我々自身が日常、そのような空間を感じつつ生きている、という意味で)
そうするとカントにあっては、「我々にとって根源的」なアプリオリなユークリッド空間と、
「自然科学上根源的」な4次元の擬リーマン空間との双方が並立されなくてはならなくなる。
しかしこの後者についての知識(つまり、相対性理論の知識だが)の客観性は、正しく保証され得るのだろうか。
カントに詳しい人、誰か教えてくれ
どうもこうもなるわけないじゃん。カント先生に取っては時間はアプリオリ
に与えられるもんなんだから、「時間が相対的?そんな事考えても無意味!
人間が考えられるはずが無い」てなもんでしょ。
カントは昔にしてはよくやった、ってぐらいのもんだよ。
あれ読んで何が解明できたことあるか?
- 神様が存在するかどうか
- 自分というこの意識はいったいどういうもんなのか
- 時間とはなんなのか?
- 宇宙とはいったいなんなのか
一切分からんでしょ。分からんはずってことになってる。
あれは、「これからの形而上学は俺が決めたこういうベースの上でやろうよ」
って提案なだけだと思う。でもそれはあんまり賛同を受けなかった、という。
だったらあれをそんなに真剣に、(一生かかって?)理解したってあんまり
意味ないのではないか?あれはスタートラインで、しかもすたれちゃってるスタート
ラインなんだから。
一生かかって理解するのは老子とか無門関とかにしないと。
カントのは説明が下手 & 今となってはちょっと間違ってるんだと思う。
科学が進んだら否定されるような事を書いちゃってるってのもまずかったよなあ。
老子とか無門関とかみたいに、うまーく普遍的な感じに書きゃよかったのに。
マルチでカキコしてしまったためもう一つのスレでも議論してるんだが(スマン)、
>>92 相対性理論ってのは、別に哲学的な「相対主義」とかとは全く関係がないんだけど。
単に、空間の計量が一定値でない、つまり空間が「曲がっている」「歪んでいる」というのが
アインシュタインの理論だよ。
で、その「曲がった空間」の理論である相対性理論を、アプリオリな裏づけができないから客観的でない、と
蹴っ飛ばしてしまうのか。もしそれならば、カント哲学は現代には受け入れられない、ということになるわけだが、
俺はもう少しカントに好意的になってみたい。その場合、どういう見方があるのだろう、と。
ちなみに、無門関を理解したかったら坐禅とかすればいいわけで。
別に一生かからなくても、真面目にやれば数年で見性できるはずだよ。
見性(悟りを開く)ってすごいんだろ?すごい快感で、人生これで上がりってな
感じなんだろ?そういうの目指さなきゃ。
カントのは単にスタートラインに過ぎないんだから。
でも、座禅 x 数年で悟り開けちゃうの? 人によるんじゃないの?
あとさ、相対性理論を持ち出すより、「もしもカントがビッグバンという概念
を知ったら」って方がぴったり来ない? カント先生、気が狂っちゃうかも(w
>>94 それはもう学としての哲学をこえてるだろ。
96 :
考える名無しさん:05/02/18 03:00:20
何を、いまさら。
>あとさ、相対性理論を持ち出すより、「もしもカントがビッグバンという概念
>を知ったら」って方がぴったり来ない? カント先生、気が狂っちゃうかも(w
時間に始まりはあるか? のアンチノミーの箇所をつくづく読んでみると、
カントはそれっきしのことで頭がおかしくなったりはしないと思う。
ビッグバンの原因とされる「無のゆらぎ」についても、
何となくカントの「無の定義」にそくして考えると、さもありなんと思えて来るから不思議。
信じすぎて正しい判断が出来なくなっちゃってるんだな…
「ビッグバンを知っていたらカントは気が狂っていたかも?」
という意見に同意すればいいんですね。
同意しました。
さすが、俺。正しい判断の持ち主だ。
間違ってるのはそこじゃないけど…
全部、あんたの言う通りでいいよ。
カントにたいしてもこういう態度なんだろうな…
そうだよ。
負けた…