今度、永井均と飲み会やるんだけど・・・

このエントリーをはてなブックマークに追加
1驚天絶後
聞いてほしいこととか、やってほしいこととかある?
2考える名無しさん:04/07/10 23:13
2ゲト―――――ッ
3考える名無しさん:04/07/10 23:17
俺も行ってみたい!
4考える名無しさん:04/07/10 23:18
「ビッグバン以前の宇宙はどうなっていたん?」
5考える名無しさん:04/07/10 23:21
「お前、機械=ぴかぁ〜=フマだろ。」
6考える名無しさん:04/07/10 23:21
ペネトレシリーズ

第2弾きぼんぬ

あれが一番面白いです
7考える名無しさん:04/07/10 23:24
>>1
つうか、お前だれよ?
8考える名無しさん:04/07/10 23:33
竹田をどう思ってるのか聞いてきて欲しい。
本音が聞きたい。
9考える名無しさん:04/07/10 23:38
未熟なまま年とっちゃったおれみたいな人が大人になるにはどうすればいいか聞いて!!
お願いします!!
10考える名無しさん:04/07/10 23:50
こんばんは、永井です。

間違いない!!
11考える名無しさん:04/07/16 20:06
>>9
永井先生は答えを用意する人ではないでしょ。
12考える名無しさん:04/07/16 20:16
4と5と8は俺も聞いてほすぃ
13考える名無しさん:04/07/28 03:59
なぜ、永井くんが現在のわたしを特権化するのか、聞いてくれる?
つまり、将来の自分とか、過去の自分と現在の自分で、どれも平等に重要視する必然性はないにせよ、永井くんのように、いまの自分を特権ばする必然性もないわけじゃないのかな?
14考える名無しさん:04/07/30 14:12
思考したい哲学したりできるのが今のわたしだけだからじゃないの。
15考える名無しさん:04/07/31 02:38
なぜ、思考したり、哲学する将来の私だってあるっしょ。
そして、思考もしない、だらだらとしているいまの自分もあるっしょ。
16考える名無しさん:04/07/31 03:08
だらだらしてても人間は考えてるよ。
将来考えるというのは、今の自分が「将来の自分も考える」と考えているからであって
実際にはまだ将来の自分は考えていないんだよ。あたりまえだけど。
そして「将来の自分が考える」かどうかなんてものわからない。今の時点で予測はするが確証はない。二秒後に死ぬかもしれないんだから。

という考えも、今のぼくがやっていることなんだな。これが。

今の自分しか、未来と過去を認識できない。時間は無限の今。
17考える名無しさん:04/07/31 03:55
おまいら全員ハゲ
18考える名無しさん:04/07/31 04:19
永井の思考枠で考えてみたい。
仮に、2秒後に死なないとして、仮に将来考えているとして、仮にいま考えていないとしても、
永井は今の自分を特権化するんだ。
考えているからではない。喜んで殺意を実行している今の自分さえ永井は肯定するんだ。


19考える名無しさん:04/07/31 04:23
未来はハゲるぞ
20考える名無しさん:04/07/31 04:24
どの時点の自己を特権化するにしても
それを決定するのは常に今の私なんよって意味において
今の私は特権的な位置にいるんだよ。
ただそんだけの話。

まあ、永井の本なんざ読んでいいのは中学生までだね。
21考える名無しさん:04/07/31 04:29
飲み会のおつまみ
http://hk.geocities.com/ennet369/
22考える名無しさん:04/07/31 12:46
>>21
別にいいんじゃないの?胎児の死体食うくらい。
永井さんなら肯定するね。俺も肯定するけど。
23考える名無しさん:04/07/31 14:00
さっきは猫を食う写真のリンクで、今度は胎児か。
厨房はグロが好きだから、夏休み中はしょうがないか。
24考える名無しさん:04/07/31 20:27
あんな幼稚な本ばかり書いて、
恥ずかしくないのか聞いて欲しい。
25考える名無しさん:04/07/31 20:32
なんであんたがそんなこと聞きたいのか聞いてみたい
26考える名無しさん:04/07/31 20:58
俺も。
そもそも幼稚とか幼稚じゃないの基準が
どういう哲学から生まれたのか知りたいね。
27考える名無しさん:04/07/31 21:09
>>25
普通に読んでると恥ずかしくなるから、
書いてる人は、相当恥ずかしい筈。俺なら、書くのを止める。
でも相変わらず、同じような本を書いてるから、
ひょっとして恥ずかしくないのかという疑問が生じた。
だから聞いて見たい。
28考える名無しさん:04/07/31 21:11
>>26
幼稚かどうかの基準は哲学から生まれはしない。
他の本との比較で決まる。
29考える名無しさん:04/07/31 21:24
きみの書き込みのほうが読んでいて恥ずかしい
30考える名無しさん:04/07/31 21:27
俺の書き込みは、数行。
永井の恥ずかしい本は、山ほどある。
31考える名無しさん:04/07/31 21:31
他の本との比較と

書いた分量

ですか

何で哲学板にいるの?
32考える名無しさん:04/07/31 21:33
>>31
実に哲学的な回答じゃない。
わからない?
何であなたは、哲学板にいるの?
33考える名無しさん:04/07/31 21:34
絆だから。

わたしには何もないもの。
34考える名無しさん:04/07/31 21:35
35考える名無しさん:04/07/31 21:37
わかりませんね

私がこの板にいるのは
考えさせられる書き込みが(時に)見つかるからです

あなたの存在は別の意味で「考えさせられる」けどねw
36考える名無しさん:04/07/31 21:47
>>35
何を考えさせられたの?
37考える名無しさん:04/07/31 22:29
>>20 論理的ではない。
今の自分に決定権があるから、といって、今の自分を特権化することは帰結されない。
38考える名無しさん:04/07/31 23:52
幼稚とか言ってる人の基準が曖昧なことがわかった。
永井氏の哲学では、まさにそういう奴らが叩かれてるんだよね。
ようするに永井氏の哲学とウマが合わないだけでしょう。
それを幼稚とか言っちゃうのだから、自分こそ幼稚だということに気づいてほしいところじゃね。

>>37
世界の始まりはどこかということだよ。
決定権の問題とは違うんじゃない。
ちなみに僕は>>20じゃないけど。
過去については記憶でしかないし
未来については予測でしかない。
これに特権を置く理由がある?消去法で今の自分じゃない?

確証のない世界において、ただ今の自分だけがもっとも確かな存在じゃないの。
我思うゆえに我あり。
39考える名無しさん:04/07/31 23:53
あ、変だな、なんか。>>37へのレスはなかったことに。
40考える名無しさん:04/07/31 23:54
永井が幼稚なのは、事実。
これは、仕方なかろう。
41考える名無しさん:04/07/31 23:56
まぁ、>>40よりはマシだがな。
42考える名無しさん:04/08/01 00:02
>>1はスレ立てて逃げた?
43考える名無しさん:04/08/01 00:06
>>40
事実?
君の勝手な解釈でしょ?
なんで事実になんのヨ!
説明せいや。その幼稚と解釈した根拠をさ。
44考える名無しさん:04/08/01 00:07
永井サンが得難い著述家なのは否定できないでしょ

ウマが合わない人はこんなところに来ないで
好きな人のところに逝ってればいいじゃん

来るなら来るでもっと面白いこと書いてよw
45考える名無しさん:04/08/01 00:07
もう飲み会も終わったんだろ。
それにしても相変わらず永井に対する妬みが多いな。
こんなところでしか表で活躍してる人間を貶すことができないという事実に対して、
ここまで無頓着でいられるということに感動すら覚えるよ。
よっぽど無恥なんだろうね。
46考える名無しさん:04/08/01 00:14
そういう人のことを永井サンけっこう痛烈に批判してるんだよね
子ども向けの本においてすらグサっと

だからといってこんなところで粘着しててもなぁ
悔しいのは分かるけどさ
47考える名無しさん:04/08/01 00:15
>>43
永井の文は、論になっていないし、広がらない。
あまり考えずに書いた文章だね。
幼稚が悪けりゃ、稚拙に変えるよ。

>>44
恥ずかしさでは得難いね。

>>45
永井ほどではない。
48考える名無しさん:04/08/01 00:18
中学生みたいな感想乙
49考える名無しさん:04/08/01 00:20
>>48
永井みたいと言ってくれよ。
50考える名無しさん:04/08/01 00:21
お前は永井より恥ずかしい奴だから尊敬を込めて



夏房乙
51考える名無しさん:04/08/01 00:23
>>50
ボキャブラリが少ないんだね。w
52考える名無しさん:04/08/01 00:23
ま、あれだ

夏厨が粘着するほど永井サンは読まれてるってことで
手を打ちましょう
53考える名無しさん:04/08/01 00:25
そうだね なんだか可愛いよね
54考える名無しさん:04/08/01 00:26
>>52
永井は、夏厨に読まれてしまう程度ってことで
手を打ちましょう
55考える名無しさん:04/08/01 00:27
はいはい、それでいいよ。
56考える名無しさん:04/08/01 00:28
54は永井のように素晴らしい哲学者だよ
57考える名無しさん:04/08/01 00:28
>>47
論になってないというのはどういうこと?
あと広がらないのは、君が広げられないだけだろうし
広がらないこと自体は悪い意味を持つとは限らないよね?
58考える名無しさん:04/08/01 00:28
もう54=永井といってもいい
59考える名無しさん:04/08/01 00:29
しょうがないなぁ

でもこれが日本の夏、2ちゃんのなんだよねw
60考える名無しさん:04/08/01 00:29
2ちゃんの夏

61考える名無しさん:04/08/01 00:34
どどーん
62考える名無しさん:04/08/01 00:38
そう言えばテレ朝の上山サン
金鳥の創業者一族なんだってね

スレちがいごめんなさいw
63考える名無しさん:04/08/01 00:44
>>57
広がらないのは、つまらないからだよ。
64考える名無しさん:04/08/01 00:44
まあ人それぞれだしね
65考える名無しさん:04/08/01 00:47
よし

それで手を打とうじゃないか
66考える名無しさん:04/08/01 00:48
じゃあ夏休みのしゅくだいとして
永井の本の読書感想文を
400文字以上でまとめてみよう
67考える名無しさん:04/08/01 00:50
それで手を打つから

夏は休んでてね
68考える名無しさん:04/08/01 01:01
>>66
提出先はどこですか?提出日は?
69考える名無しさん:04/08/01 01:04
9/1に神秘的なところにうp
70考える名無しさん:04/08/01 01:17
>>69
神秘的なところってどこですか?
71考える名無しさん:04/08/01 01:19
>>63
君のレスよりは面白いよw
72富むヤン君:04/08/01 01:21
あのー、ここにいる人は
永野潤って知ってます?
73考える名無しさん:04/08/01 01:22
幼稚舎出身ってマジですか?
74考える名無しさん:04/08/01 01:24
たまに湧いてくるよな。
永井に対して僻みつーか劣等感丸出しの奴。
みっともないからやめた方がいいよ。w
75考える名無しさん:04/08/01 01:25
>>71
君のレスの方がつまらないw
76考える名無しさん:04/08/01 01:25
まだ居たよ
77考える名無しさん:04/08/01 01:27
>>74
永井に劣等感を感じたことないけど??
78考える名無しさん:04/08/01 01:27
>>75
君よりはマシだよw
早く寝た方がいいんじゃない?
79考える名無しさん:04/08/01 01:28
ほどほどってのを理解できないのが夏厨たるゆえんだね
80考える名無しさん:04/08/01 01:32
>>78
それは君の思い込みだねw
81考える名無しさん:04/08/01 01:33
坊主、もう寝ろ
82考える名無しさん:04/08/01 01:33
>>79
永井の駄本の数より粘着してないよ。
83考える名無しさん:04/08/01 01:34
>>80
いやいや、君の思い込みだよ。w
だって君アフォでしょ
84考える名無しさん:04/08/01 01:34
放置
85考える名無しさん:04/08/01 01:36
>>83
そんなことないよ。私は賢いよ。
永井の本がくだらいのが分かるんだもん。
86考える名無しさん:04/08/01 01:39
放置
87考える名無しさん:04/08/01 01:39
85 :考える名無しさん :04/08/01 01:36
>>83
そんなことないよ。私は賢いよ。
永井の本がくだらいのが分かるんだもん。

よくこんな恥ずかしいレスができるね。
よっぽどアフォなんだね
永井の本は少なくとも君のレスよりはくだらなくないよww
88考える名無しさん:04/08/01 01:40
放置
89考える名無しさん:04/08/01 01:43
>>87
そんなことないよ。それは、君の思い込みだね。
永井がくだらないのは事実でしょ。
90考える名無しさん:04/08/01 01:44
放置
91考える名無しさん:04/08/01 01:45
>>89
それこそ君の思い込みだよ。w
だって君アフォでしょww
92考える名無しさん:04/08/01 01:46
永井と飲み会なんて、
自慢にならないやね。
93考える名無しさん:04/08/01 01:47
なんだ自作自演か
94考える名無しさん:04/08/01 01:47
>>91
くだらないレスだね。w
95考える名無しさん:04/08/01 01:48
相変わらずアンチ永井は低脳だな
96考える名無しさん:04/08/01 01:48
そうなんだ。道理で一本調子のレスが続くはずだね。
97考える名無しさん:04/08/01 01:49
嵐はもう寝てください、おながいします
98考える名無しさん:04/08/01 01:49
>>93
違うよ。
99考える名無しさん:04/08/01 01:49
いいからももう寝る
100考える名無しさん:04/08/01 01:50
了解
101考える名無しさん:04/08/01 01:51
>>96
一本調子でないレスの見本を見せてよ。
君には、無理そうだけど。w
102考える名無しさん:04/08/01 01:51
そういうわけで今夜は終了
103考える名無しさん:04/08/01 01:51
>>99
人のことはいいから、自分が寝れば。
104考える名無しさん:04/08/01 01:52
ジサク(・∀・)ジエンデスタ
105考える名無しさん:04/08/01 01:53
>>102
「今夜」じゃなくて「このスレ」でしょ。
106考える名無しさん:04/08/01 01:54
アンチ、必死だなw
107考える名無しさん:04/08/01 01:54
>>104
違うよ。
108考える名無しさん:04/08/01 01:56
>>106
紋切り型の書き込みだね。w
109考える名無しさん:04/08/01 01:56
ジサク(・∀・)ジエンデスタ
110考える名無しさん:04/08/01 01:58
>>108
紋切り型であろうとなかろうと君が必死なことに変わりはないから。
自作自演も程々にしなよ。w
111考える名無しさん:04/08/01 01:59
ジサク(・∀・)ジエンデスタ
112考える名無しさん:04/08/01 02:01
>>110
そのパターン化された書き込みは、
まさに永井の影響ですね。w
止めた方がいいよ。
113考える名無しさん:04/08/01 02:04
>>112
何をそんなに必死になってるの?w
馬鹿?ああ、馬鹿だから必死になるんだね。w
114考える名無しさん:04/08/01 02:05
アンチは本当にキモいな
115考える名無しさん:04/08/01 02:06
おまいら瓜二つだな

どうでもいいけどヨソでやってくれ
116考える名無しさん:04/08/01 02:11
あらしやアンチの書き込みが低レベルなのは、仕方ないとしても、
このスレの本来の住人もまともな書き込みをしないね。
永井ヲタってのは、相当レベルが低い見たいだね。
117考える名無しさん:04/08/01 02:13
ひきこもりほどひまじゃないのだろう
118考える名無しさん:04/08/01 02:13
>>116
さすがアンチ、言うことが低レベルww
119考える名無しさん:04/08/01 02:14
おまいら瓜二つだな

どうでもいいけどヨソでやってくれ
120考える名無しさん:04/08/01 02:14
止揚してみようぜ
121考える名無しさん:04/08/01 02:16
信者とアンチは逝って良し
122考える名無しさん:04/08/01 02:17
そして印税はなにもなくなった
123考える名無しさん:04/08/01 02:22
そうか、ここには、永井の理解者はいないのか。
永井の考え方くらい書くのかと思ったけど、
全員厨房じゃ仕方がないやね。
124考える名無しさん:04/08/01 02:23
まぁ、低脳アンチしか基本的にこのスレには来ないからな
125考える名無しさん:04/08/01 13:44
急速に伸びてるなこのすれ
126考える名無しさん:04/08/01 13:44
>>39 で、結局どう思うの?
127考える名無しさん:04/08/01 13:58
永井は哲学してるよ、ある種の精神的な病がないと哲学にはむかない。
世界観が欲しかったり、宣伝したいんじゃなくて、
自分のなかからでてくる存在の根本的な問から逃れられない・・・そんな病にとりつかれてる。
128考える名無しさん:04/08/01 14:03
だから読者がいるんだろうね
129考える名無しさん:04/08/01 15:40
永井均氏って千葉大の教授だよね?
均ってすごい良い名前だなあ。うらやましいなあ。
俺もこんなかっこいい名前つけてほしかった・・・
130考える名無しさん:04/08/01 16:20
おれの好きな日本の哲学者
西田
広松
永井
全然違うタイプだが、自分の魂から疑問と苦悩に答えようとしてる。
131考える名無しさん:04/08/01 22:24
>>130
大森は?
132考える名無しさん:04/08/01 22:31
初心者向けにフルネーム紹介

西田幾多郎(にしだきたろう)
廣松渉(ひろまつわたる)
大森荘蔵(おおもりしょうぞう)
133考える名無しさん:04/08/01 23:10
大森はなんか性にあわないんだ。あいつはおもしろいんだけど、なんかどろどろしたものを感じないんだ。自分で考えているって感じはあるんだけど、狂気を感じないせいか?
134ポール:04/08/01 23:41
>>133
そうですか?
僕は大森さんほど狂気を感じる哲学者はあまりいないと思いますが・・。
大森全集の何巻か忘れたけど、次のような話が載ってあった。

  「大森にとって世界とは私(大森)の世界であり、彼(大森)が死ねば世界も消滅する
   と信じていた。だから生命保険など何の意味もないと常々語っていた。
   それで、彼が生命保険に入った時、仲間内でちょっとした話題になった。
   理由を聞くと、『今だに生命保険は無意味だと思ってるけど、家族がうるさくてね』と
   正直な答えが返ってきた」

大体、こんな話。
大森さんにこの手の逸話は事欠かない。そして、彼の哲学より、
彼のこの狂気を孕んだ世界の見方こそ、多くの大森ファンを惹きつける
要因なのではないでしょうか?

「なぜ私は私の葬式を見ることができないのか?」とは、僕にとっても未だ理解できない
大森哲学のキーワード。
135考える名無しさん:04/08/01 23:46
なんか永井サンに通じるものがありますね

私は野矢茂樹サンや古東哲明サンにも>>130サンの仰るような「病」を感じます
136考える名無しさん:04/08/02 00:15
>>134そうですか、興味深い話しですね。私は全集は読んでないです。流れとよどみとか、バークレーのなにかとあとちょっとですね。そのときの感想ですから、当てにならないです。
で、その話しでも、なんかあっさりしすぎてる。
西田なんかは必死さ
広松は理想への情念
永井はあっさりしているようで、ときどき愛などといってる。
大森の思想からして、私の世界が消滅すれば世界も消滅するとして、世界が消滅する不安からの葛藤みたい、どろどろしたものがない。ガラスの世界をのぞいているような印象で個人的にはしっくりこなかったのです。
137考える名無しさん:04/08/02 00:28
すごい雑な表現ですね

ちょとビクーリ
138考える名無しさん:04/08/02 00:33
驚かせてごめんね。
てか、大森に感動しなかったから、私は大森を語る資格ないです、という意味です。
悪気はないです。思いついたままですみません。
139考える名無しさん:04/08/02 00:38
てか、、私も自分の病にあった哲学者に興味を持ったり、考えているだけで、他人様用の哲学は最近やってないんです。大森ファンの方できづつけてしまったならごめんなさい。
140考える名無しさん:04/08/02 00:57
病人が行くべきなのは哲学科じゃなくて精神科
141考える名無しさん:04/08/02 01:07
そう?
逃げ込む先は
宗教でも恋愛でも哲学でも仕事でもいいではないですか

ほんとにどうしようもなくなったら
ほっといてもまわりが病院に連れて行ってくれますよ
142考える名無しさん:04/08/02 03:24
そうだね・・・ありがとう。参考にしておきます。
143考える名無しさん:04/08/02 03:37
そこまでほっといたらまわりが迷惑なのよ
144考える名無しさん:04/08/02 03:56
迷惑かけないようにしてますよ、ちゃんと。
事柄について考えたいと思っていたが、やっぱ無理のようですね。ありがとう。
145考える名無しさん:04/08/02 03:58
>>141
思考ってのは自由意志じゃないんだ。哲学してしまう、ってのはある種の人々にとっては必然なんだよ。病院の件は同意
146考える名無しさん:04/08/02 10:18
迷惑かけたらいけないってのは、なぜなの?
147考える名無しさん:04/08/02 10:29
迷惑をかけられたくないから
148考える名無しさん:04/08/02 10:59
>>147
その根本原理は相互性でしょ?
それってほんとうに成り立つの?
自分は迷惑をかけられたくないけど、他人に迷惑をかけてもよい
ということは成り立つんじゃないの?
人だけよければいい、なんてことは多かれ少なかれみんなやってるでしょ。
だからこの理屈はただの思考停止でしかないよ。
149考える名無しさん:04/08/02 11:19
>148
(俺に)迷惑をかけてはいけない
150考える名無しさん:04/08/02 12:09
>>140
心理学科のシラバスに「心理学科に毎年、心の病を持った学生が来ますが
うちの科はそのような学生をみるところではありません」と書いてあったよ。
151考える名無しさん:04/08/02 12:23
わはは、は。


笑えん。
152考える名無しさん:04/08/02 14:51
高校生と新入生の集まり?
153考える名無しさん:04/08/02 15:17
心の病を抱えた人間は教官だけで間に合ってる

つか、あちーよ
マンコ喫茶に炒ってくる
154考える名無しさん:04/08/02 15:25
マンコ喫茶って何?
155考える名無しさん:04/08/02 15:46
マンコ弄りながらお茶飲むところ
156考える名無しさん:04/08/02 15:51
この世の終わりだな
157考える名無しさん:04/08/02 16:19
この世の終わりと始まりは私自身であーる!!
158考える名無しさん:04/08/02 16:26
お前「ぼくどらえもん」ってレスした奴だろ?
あれはマジでやばいよ
159考える名無しさん:04/08/02 16:34
知らん。
そんなレスした記憶はないのである。
我輩はネコ型ロボットではないのである。
160考える名無しさん:04/08/02 20:40
>>155
最高じゃん
161考える名無しさん:04/08/04 13:30

永井均: 〈子ども〉のための哲学
はじめて永井均を読んでみた。いいたいことはわかるが、
なんだか波動が悪かった。これは何なのだろう?
162考える名無しさん:04/08/05 01:31
永井さんのを理解しようとすると
どう生きてけばいいかわかんねくなるから。
163考える名無しさん:04/08/05 01:36
トーホグにはトーホグの哲学があるべす
164考える名無しさん:04/08/05 13:16
永井とファンは理解できて生きている罠
165考える名無しさん:04/08/05 13:25
中卒・高卒板に名前変えたほうがいいな
166考える名無しさん:04/08/05 13:29
中卒・高卒が荒らしに来る板

でしょ
167考える名無しさん:04/08/09 05:28
やっぱ、ここは中卒ばっかだったのか・・・・納得しました。
168考える名無しさん:04/08/09 13:53
永井には,「本当は,私こそが神の子なんですよね?
永井さんは,それを私に教えに来た神の使いなんですよね?」
と聞いてみたい。

だって,そうとしか考えられないもーん。
169考える名無しさん:04/08/09 15:32
永井さんだったら
「いいえ、神の子というものがあるとして、それは私です。君がどうであるかは知りません」
とか言うじゃろ。

永井さんに聞く時点で理解してないんじゃよ。
170168:04/08/09 16:05
いーや,私はきちんと理解しています。
私から開けているこの世界こそが,唯一本当に存在する世界で,
永井だってその中に現れる他人にすぎないんだ。
永井がいくら「いや,この私こそが・・・」と言ってみたって,この世界が
私からのみ開けていることに変わりないのさっ。

とか言い張ってみる。
171考える名無しさん:04/08/09 22:02
あなたの意識は私の意識の一部なのですよ フフフ・・・・

とか言われたらどーしよっ
172考える名無しさん:04/08/09 23:32
>>1
で、飲み会はもうあったの?
173考える名無しさん:04/08/11 01:02
野矢茂樹氏とは仲がいいんですか?と聞いてみたい。
両方とも,ときどき本の中で名前を出している。
174考える名無しさん:04/08/12 21:14
「今度、○○と飲み会やるんだけど」

ネタでもいいからシリーズ化きぼん!
175考える名無しさん:04/08/12 21:26
馬鹿同士は、気が合うらしい。
176考える名無しさん:04/08/12 21:36
アンタとも気が合いそうだ
177考える名無しさん:04/09/02 02:54
一緒に飲みたい
178考える名無しさん:04/09/07 23:40
で,『マンガは哲学する』の文庫版が出てたわけだが。
179考える名無しさん:04/09/12 22:34:33
永井さんて講義を聴くと、その著書と違ってけっこう慎重に厳密なこと考えてるんだよ、
本人は。カラオケ好きだしさ。
180考える名無しさん:04/09/13 19:14:15
>179
ヘェーヘェー
本を読むと,なぜか,独断的な主張をしているように見えてしまうんですな。
181考える名無しさん:04/09/18 21:56:02
ひーくんは今何してるの?
182考える名無しさん:04/09/19 23:00:50
雑誌「本」で連載されていたのが,そのうち,
『私,今,そして神』(講談社)として出版されるそうな。
連載の内容は知らないんだけど。
183考える名無しさん:04/09/20 19:35:12
独我論の入門書って結局書いたの?
なんか準備しているって聞いたんだが
184考える名無しさん:04/10/17 14:55:46
部屋とワイシャツと<私> 永井均
185考える名無しさん:04/10/17 20:22:49
>>182
今月の現代新書で出ると新聞にでてる。
186考える名無しさん:04/10/17 20:32:20
永井均の本はあらかた読んだ、
好き。

でもなあ、ニーチェやウィトゲンシュタインについて書いたもののオモシロさに比べ、
彼独自の論が書かれてある本(独我論系の本)は、読み終わってよく考えてみると、結局何も書いてないのと同じ、という気がする。
187あげ:04/10/17 20:34:14
あるいは、それは、独我論は結局そうあらざるを得ないものからだから、ということなのかもしれないが。
188はげ:04/10/17 20:36:27
<私>の存在という不思議、
について手を変え品を変え、それをできるだけ厳密に表現する努力、
独我論について何事かを語ろうとするのにはそれ以外には
189はげ:04/10/17 20:38:19
西武、勝ちそうだな。
落合に勝たしてやりたかったんだが。
190はげ:04/10/17 20:39:34
チェ・ゲバラの「モーターサイクル・ダイヤリーズ」、好評発売中です。
嫁。
191はげ:04/10/17 20:42:33
<私>を「私」を分けるのって、ちとセンスがない。
「構造」とか「現象」とか、そういう5回されやすい術語のほうが、まだ
192はげ:04/10/17 20:43:21
誤解。
193はげ:04/10/17 20:45:28
あれだけ独我論好きのくせに、専らウィトゲンシュタインを参照するばかりでフッサールにほとんどまったく言及しないところ
194はげ:04/10/17 20:48:24
独我論を論じようとする徒な努力だけは…認め…
いったい誰に認めてほしんか?
195はげ:04/10/17 20:58:28
この間、会社の女の子に独我論について簡単に説明しようと思ったら、
「え?あれなんだっけ?あの、あれ」とか言い出して、よくよく聞いてみると
「テンガロンハット」のことだった。

。。。。。。
196はげ:04/10/17 21:03:48
この間、テレビ観てたらオバサンレポーターが「ティンガロンハット」と発音していた。
「10」ガロン入りそうな帽子だから「テン」ガロンハット、というのだ。
197はげ:04/10/17 21:04:39
お、中日ヒット!
198考える名無しさん:04/10/17 21:09:13
中日奇跡の童貞ホームラン!
199考える名無しさん:04/10/17 21:20:24
ついに松坂ノックアウト
200はげ:04/10/17 21:25:06
意識、クオリア、主観、と、<私>との関係を
201考える名無しさん:04/10/20 18:44:39
新刊買った。今読んでる。
202考える名無しさん:04/10/22 00:06:28
上に同じ。
なんか,厚さのわりに,読み通すには骨が折れそうだ。
203考える名無しさん:04/10/22 01:21:58
まえがきにあった、古典的な哲学を使うことにより、自分自身の哲学をする、ってのは
そういう路線でいきたい哲専の学生にはなかなか良い提案だろうな(言われなくとも
既にやってる奴もいるだろうが)。つかデリダなんてこのテの人だろうし。

ただ木田元みたいな人が指導凶漢だったら、激しく対立しそう
204考える名無しさん:04/10/22 10:19:33
昔、この板で永井ファンの1人が、
「そういった永井の態度や能力を鍛え上げた方法っていうのが結局木田のいうような方法(デリダも)
なんだから、永井自身、自分の主張とのギャップに苦悩している」云々て言っていたな
205考える名無しさん:04/10/22 15:30:33
>>204
50過ぎても、ますます哲学にのめり込んでる、と言ってる位なので苦悩してる
ようにはとてもみえない
206考える名無しさん:04/10/22 16:48:12
>ますます哲学にのめり込んでる

苦悩してる証拠じゃないか。
哲学を研究するならまだしも哲学にのめりこむのは
苦しいぜ。
207考える名無しさん:04/10/22 17:13:37
永井均って変なことばっかりいっているのに、なんで人気あるの?
208考える名無しさん:04/10/22 17:53:35
まさに変なことばかりいっているが故になり
209考える名無しさん:04/10/22 19:34:31
本書では哲学研究者が擁護されてるんだが。
よっく考えると三浦批判だな。哲学練習問題のとこ。
210考える名無しさん:04/10/23 01:39:34
永井均の云ってることは変なことじゃないよな。
独我論に正面から取り組む人がほとんどいないから、ということだよ、。
独我論が実は最重要なことなんだから。
211考える名無しさん:04/10/23 02:12:29
永井俊哉サイトがなくなったぽい。
212考える名無しさん:04/10/23 07:56:23
永井違いだ。しかも復活してるし。
213考える名無しさん:04/10/24 00:52:28
「私、今、そして神」買ってきた。
永井先生、相変わらず飛ばしてます。

でも講談者現代新書の新しい装丁のデザイン、最悪です。
全新書中、どちらかというと上の部類だった装丁のデザインが、最低となりました。
214考える名無しさん:04/10/24 14:15:16
永井先生の議論は相変わらずゴマカシがありまつね
215考える名無しさん:04/10/24 17:42:07
>>214
新刊のこと? 
今読んでる途中だから、どの辺か教えて。
216考える名無しさん:04/10/24 21:56:52
>>215
例えば「人間の心を奪う」という箇所なんかそうだが
「開闢の奇跡」なんてものを持ち出すのは、神学の手口とどう違うのか?

まぁ全部よんだわけではないが、まずは独我論だの超越的概念だのを正当化する議論をしてもらわないと。
永井の議論にはいつもこれが抜けている。そしてやれ奇跡だの語り得ないだのとごまかす。
217考える名無しさん:04/10/24 22:34:08
永井の議論の出発点は、「永井という人間からの
み世界が開けていて、他の人間から開けているよ
うなことはない」という事実。
これは、動かせない事実であって、とくに正当化
は必要ないんじゃないかと。

・・・と言いたいところだけど、「永井からのみ
世界が開けている」というのは、今このレスを書
いている僕にとっては事実ではないので、言い換
えないといけない。
ということで、「僕という人間からのみ世界が開
けていて、他の人間からは開けていない」という
事実は、僕にとっては動かせない事実であって、
正当化などは必要ないと思われるんだけど。
218217:04/10/24 22:44:17
216にとっても、世界は216からのみ開けているん
じゃないんですか?そうだとすれば、正当化とし
て何を要求しているのか、よくわからんのですが。

それとも、ひょっとして、世界が二人以上の人間
から開けているような人って、存在してるのかな(W
なにせ他人の心は分からないから、確認できないし。
219考える名無しさん:04/10/24 23:07:06
いま読終わった。
今回のはなかなかわかりやすい。
と思う。
私は飛ばして読んだところがあるからまだ、ちゃんとは説明できないけど、
>>216>>217氏のような議論も詳細かつ明快に書かれてましたよ。
220考える名無しさん:04/10/24 23:14:00
ちゃんと説明できないのに、詳細かつ明快な議論とは
221彼思う、故に彼在り:04/10/24 23:15:15
我思う、故に我あり。
これは一見、証明のようにみえるが、実は証明ではない。

わたしから、世界が開闢している、ということの表明なのだ。
そうでなければ、(つまりコギトが証明だとすると)私秘的言語が言語ゲームの一部となってしまう
いや、そうなるからまずいわけでは勿論ない。

と言ってみるテスト
222考える名無しさん:04/10/24 23:16:40
じゃあさあ、ためしに何、説明して欲しい?
223考える名無しさん:04/10/24 23:19:14
まあ、わたしは永井よりさらに先を行っているんだが。
224考える名無しさん:04/10/24 23:21:40
>>223
本書けば売れるよ
225考える名無しさん:04/10/24 23:23:49
うん。
だから2ちゃんではそこは書かないことにしてる。
226考える名無しさん:04/10/24 23:24:33
>>222

>>216-217のような議論
227考える名無しさん:04/10/24 23:29:36
>>226
そこは本に書いてあることだから、そっちみてください。
228考える名無しさん:04/10/24 23:31:36
>>227
なるほど。これが詳細かつ明快な説明か。
229考える名無しさん:04/10/24 23:32:22
うん。そう。
230考える名無しさん:04/10/24 23:35:00
でもほんとに今回のはいいよ。
深化してるし、何かが書かれているのは確か。

独我論は実質的にデカルトからほとんど一歩も出てないんだが、今回の永井の本には何かが書かれている。
231考える名無しさん:04/10/24 23:37:55
>>230
編集者かw
232考える名無しさん:04/10/24 23:38:35
笑われた。
233231:04/10/24 23:42:03
>>232
笑ってスマン。でも
> 独我論は実質的にデカルトからほとんど一歩も出てないんだが、今回の永井の本には何かが書かれている。
こう書かれたらそりゃ読みたくなるよw
234考える名無しさん:04/10/24 23:42:11
「詳細かつ明快に書かれてましたよ。」
235考える名無しさん:04/10/24 23:48:19
>>217-218
わかる、わかる。
僕は永井さんの言うことは
君の言うようなことだと理解しているよ。

永井さんの独我論をさ、客観的にこの世には永井さんしかいない
俺は存在しない、って考えるからいけない。

「パースペクティブ」「解釈」ってキーワードをもとに考えれば
永井さんには永井さんからの世界がひらけていってるし
僕には僕からの世界がひらけていっている。
異なる光のもとに異なる影が生まれ、僕たちはそれぞれその
異なる影を見ている。

語りえないのは、言葉においても、作られる影が違う、という前提のもとに
永井さんの独我論が展開しているからではないの?

それからもうひとつ、<私>の意味の捉え方による。
独我論というか独<私>論だからね。
永井さんは、多くの人に「わたし」があるのは認めてるんじゃなかな。
自我という次元ではね。ただし<私>は無い。<私>は永井さんにしかないという考えでしょ。
236考える名無しさん:04/10/24 23:52:47
まあ、今回の展開で面白い点のひとつは
237考える名無しさん:04/10/24 23:54:08
大森荘三さんがデカルトとガリレオを悪人よばわりしてて
おもしろかった。
238考える名無しさん:04/10/24 23:56:56
で、永井さんに文句たれてる人は
他我問題についてはどう思いますか?
他我(他私)問題を考えると
永井さんの独我論は説得力あると思うんだけど。
239考える名無しさん:04/10/24 23:58:38
すくなくとも今日のこのスレには文句たれてる人いないよ。
240考える名無しさん:04/10/25 00:00:24
そうですね。
永井さんの独我論が理解し難いと思ってる人、もしくは
説明が十分でないと思っている人は
他我問題について、どのように考えているのかな、と思って。
241考える名無しさん:04/10/25 00:06:18
ほんと言うと今回の永井先生の本と(論考じたいを足がかりになどとてもできないので)
野矢先生の「論考を読む」を足がかりにして、
究極の岩盤に発破をかけたいんだがなあ。
242考える名無しさん:04/10/25 00:08:49
子供の頃、言語についてあきらかにしないかぎり、世界と人生の究極は知り得ないと思っていた。
現代の日本に生まれてよかった。

243考える名無しさん:04/10/25 00:10:06
そうね
永井サンと野矢サンがバリバリ現役の時代で良かった
面白いもんこの人たち
244考える名無しさん:04/10/25 00:15:55
僕は子供の頃はファミコンで時間潰すことと
人は死ねば終わることとノストラダムスのことしか考えてなかったなー。
永井さんとか中島さんとか>>242とかみたいな
特別な経験をしていないことに劣等感を持つのは
どこまでも僕が弱いからか。去勢ができてないのかな。

しかし、永井さんと野矢さんはほんとに面白い。
のたうちまわってる感が、とても。
245考える名無しさん:04/10/25 00:20:08
まあ、大馬鹿モンではあるよね。もちろんいい意味で。
馬鹿としかいいようがない。
246考える名無しさん:04/10/25 00:24:34
存在自体が奇跡だ、という永井を読んでる人間が、
そんな種類の劣等感を本当に感じているとすると、
それはかなりビックリモンです。
247考える名無しさん:04/10/25 00:29:07
>>246
存在は奇跡だけど
それが良いことか、悪いことは別ですから。
奇跡は、確率が低い、ということでしかありません。
248考える名無しさん:04/10/25 00:34:59
確率というのはちょっと誤解をまねくかもしれません。
僕が僕としてここにあるのは軌跡ですが
僕が僕でなくてもよかったはずだ、という懐疑がさしはさめる時点で
どこまでも絶望的です。
249考える名無しさん:04/10/25 00:51:50
おっミニミニ永井君達ageてるね

だからさー奇跡だの神秘だのってのを持ち出すのは宗教と一緒じゃん

肝心のカントの「神の存在証明」批判に対しても、何も答えてねーしな
250考える名無しさん:04/10/25 00:56:51
>>241
論考を読む→野矢訳論考
と読んだらだいたい理解できますよ
251考える名無しさん:04/10/25 00:56:56
じゃさあ、試しに<私>の存在を奇跡とか神秘とかいう言葉を使わずに、精密に実感を伴って描写しようとしてみなよ。
252考える名無しさん:04/10/25 01:02:18
古東サンのハイデッガーだって相当だけど

私は好きですよ、ああいうノリ
253考える名無しさん:04/10/25 01:06:13
毎瞬間に開闢する、という思想は2千年くらい前にあります。
254249:04/10/25 01:19:43
>>251
単純に言えば<私>の存在の根拠を、永井が明確に述べていない点を問題にしてるの
根拠のないものについて、実感を伴って描写も糞もないよ
その点を明確にせずに、永井は奇跡だの開闢だのとレトリック使って回避してるわけだ
255217:04/10/25 01:48:27
>>254
だから,僕にとって,世界が僕という人間からのみ開けていることは,
事実そのとおりなんですが。僕つまり217の目からだけ見え,217の
体だけ動かせる,ということになってるんですが。

ああ,でも,考えてみると,根拠を示せと言われたら示せないですな。
僕の目から見えているものをそのまま見てもらう,などということは
できないし。

しかし,かりに,一般的に「他人に確認できないものは存在しない」
と言ってしまうと,例えば「ある人が痛みを感じていること」は,誰の
痛みであってもその人しか確認できず,他の人は直接には確認
できないから,誰の痛みも実は存在しない,ということになりかね
ないですな。
>>254の論旨は,そういうものではないだろうけど。

できたら,「存在の根拠を示す」ということで,具体的に何を示せば
いいということなのか,書いて欲しいところですが。僕が明確に答え
られるかどうかはともかく。
256249:04/10/25 02:30:24
>>255
別にあなたが根拠を示す必要ないよ。その責任は永井にあるのだから
ただ永井の議論を擁護したいならその根拠はあなた自身で考えるべきであって
私に責任転嫁すべきでないよ。
それにねーあなたの言ってることは『転向生とブラックジャック』でいう「とっては話」であって独我論ではない。
257249:04/10/25 02:36:54
>>255
補足。おおざっぱにいって、人間だけでなく特定の痛みに対応する神経系を持つ
生物一般は痛みを感じるに決まっているではないか。もうそのテの懐疑論は馬鹿げてるよ
258考える名無しさん:04/10/25 03:11:04
根拠の責任転嫁というか、自明すぎてどこに無根拠さを感じてるのか判らない。
だからこそ「どうしたら根拠を示すことになるのか教えてほしい」となるのでは。
つか、<私>に根拠を求める人はそもそも何を根拠と感じるのかよくわからないなあ。

>>257
> 特定の痛みに対応する神経系を持つ生物一般は痛みを感じる
痛みを感じる能力を持つ生物は痛みを感じる、というのはトートロジー。
「特定の痛みに対応する」という風に先に「痛み」を使ってるからなんだけど。
259考える名無しさん:04/10/25 03:26:39
>>256
>永井の議論を擁護したいならその根拠はあなた自身で考えるべきであって
>私に責任転嫁すべきでないよ。

僕が言いたかったのは,「僕の目からのみ見える」ということの根拠として,
まさに僕にはそのように見えるということがあるではないか,それで根拠と
ならないのはなぜなのか,ということです。
まあ確かに,それだけで確実な根拠になるのかと聞かれたら,ならない
だろうけど。

>それにねーあなたの言ってることは『転向生とブラックジャック』でいう「とっては話」であって独我論ではない。

ここは,指摘の趣旨がよくわからんのですが。
永井の議論について話をする以上,永井の議論に合わせた話をするのは
当然ではないかと。なぜ,永井が論じていないような形での独我論について,
このスレで話題にしないといけないのですか?

>>257
念のため。>>255の,痛みがどうのこうのという話は,もしも「他人に確認
できないことは存在しない」と言ってしまったら,えらいことになるかなー,
と思って書いてみただけです。別に僕が懐疑論を主張したいわけでは
ないので。よけいなことを書いて失礼。
260217:04/10/25 03:30:59
名前書くの忘れた。
それと新着レスをチェックしてなかった。>>258の前半には
まさに同感です。
261考える名無しさん:04/10/25 04:45:49
て、「転校生とブラックジャック」は永井さんの著書ですよ。

>永井の議論について話をする以上,永井の議論に合わせた話をするのは
>当然ではないかと。なぜ,永井が論じていないような形での独我論について,
>このスレで話題にしないといけないのですか?
262217:04/10/25 19:36:14
ん?書き方がまずかったですかね。
確かに僕の書き込みは『転校生とブラック・ジャック』の
内容に沿ったもので,他の人の独我論の内容とは
違うものです(多分)。それは,永井の議論についての
書き込みなので,当然そうなると思っています。
だから,なぜ,「あなたの書いているのは『転校生〜』の
議論であって独我論ではない」という指摘を受けている
のか,わからないわけです。
263考える名無しさん:04/10/26 00:15:10
単純なすれ違いがたくさんあるので、ちと整理させていただきます。
・まず「独我論」。最も単純素朴な独我論は「他者は存在しない」ですが、こんな単純なものは、ウィトゲンシュタインも永井均もこのスレの永井擁護派も問題にすらしていません。
 (反対者の中で一人、そういう単純な人がいるみたいですが、これは単純すぎ)
・まず、私からのみ世界が開けている、ということは、表現することができない。
 これについて根拠を述べよ、といっている人は、そもそもウィトゲンシュタインや永井やこのスレの永井擁護派が直面している問題の水準まで達していない。
 神経系を持っていれば痛みを感じるはずだ、とか、彼等の議論を懐疑論だとか、あまりにも単純なレベルに留まっている。

 こういう議論では、問題の水準に達していない無理解な人間は、わかりきった単純なことを繰り返すだけのことが多いですね。

 自分が余裕で議論に勝っている、と感じているんでしょうが、そういうときはお話にならないほど負けている場合がほとんどです。
264考える名無しさん:04/10/26 00:17:00
ばか同士の議論はどっちも負けてんじゃね?
265考える名無しさん:04/10/26 00:23:55
>>264
でもまあ、そもそもの問題の水準にいってないのに、余裕で反論してるつもりになってるのって、、、、、恥かしくない?
266考える名無しさん:04/10/26 00:28:49
問題の水準にいっていないから駄目って…。
なんだか宗教じみてきましたね
267考える名無しさん:04/10/26 00:33:13
光に速度があるかどうか?を問題にしている人たちに対して、
そんなもの一瞬に決まっている、と反論し続ける人、
ということです。

ちっとも宗教じみているとは思いませんが。
268考える名無しさん:04/10/26 00:36:23
光速度の測定方法を問題にしている人たちに対して、
そんなもの俺には計れないから一瞬に決まっていると反論し続ける人、
と言ったほうがわかりやすいかな。
269考える名無しさん:04/10/26 00:49:02
>>257君!横レスだ。

自分の感じている世界と自分の存在は不可分である。

「僕の痛み」と「彼の痛み」は同じではない。
「僕の痛み」の「僕」と「痛み」は不可分であり
「彼の痛み」の「彼」と「痛み」は不可分である。
そこに(僕の)痛み=(彼の)痛み なんて公式は成り立つ余地がない。
だから、僕は「彼の痛み」は理解できるはずがない。

しかし、「彼の痛み」に「僕の痛み」を投影して理解したような気になっている。
「彼の痛み」を彼の傷や行動から、「僕の痛み」によって解釈しているにすぎない。
270考える名無しさん:04/10/26 01:04:54
そうかなあ?
彼の痛みを投影によって理解したり、解釈したりしてる?

彼の傷や行動と彼の「痛い!」という言葉、そして彼がごくまっとうに言語を理解できると
考えられる大人であった場合、
彼は痛みを感じている、
というのが言語ゲームである、じゃない?
271考える名無しさん:04/10/26 01:07:40
つまり、もともと言語ゲームが成立していないところでは、解釈でも投影でも言葉の意味は通じないから。
272249:04/10/26 01:17:12
>>268
てゆーか光の測定のごとき明確な問題の立てかたを、永井もこのスレの信者も
してないこと自体を俺は問題にしてるんだが。
273249:04/10/26 02:04:43
>>263
単純な人って俺のこと?あのさ俺も一応永井の本は一通り読んでるからさ、
あんたが言う他人が存在しない、っていう独我論を批判しているつもりはないよ(てか俺がそんなことどこで言った?よく読め)。
それに俺は議論の勝ち負けなんてどーでもいい。俺の言ってることが、結果的に間違ってても全然かまわない。
274考える名無しさん:04/10/26 02:05:51
そこで言われている「問題の立て方」って、具体的にどういうこと?
それに、「世界が私からのみ開けている」ということの根拠として、「そ
のように見えていることは自明だ」ということは、永井もこのスレの住人
数人もあげているけど、それはどうなるんです?
275考える名無しさん:04/10/26 02:08:35
274は272へのレス
276考える名無しさん:04/10/26 02:17:15

永井均: 〈子ども〉のための哲学
はじめて永井均を読んでみた。
いいたいことはわかるが、なんだか波動が悪かった。
これは何なのだろう?

http://reisei.way-nifty.com/spiritsoulbody/
277考える名無しさん:04/10/26 09:51:48
>>270
それは痛いという言葉や彼の反応に
「自分の痛み」を投影させているだけにすぎないよ。
彼の痛みを理解することはできていないんだよ。

パターン認識っていうか。

推測でしかない、っていうかね。
278考える名無しさん:04/10/26 10:11:51
「自分の痛み」というときの「痛み」とは何か。
それは言語ゲームからしか得られないのではないか。
279249:04/10/26 13:55:17
>>274
>そのように見えることは自明だ
…おまえは哲学云々の以前に論証とか議論の方法について学んだ方がいいよ。
ただ自明だ、というだけで何か説明がついたとでも思っているのか?
めんどくさくなってきたので、もう信者相手にすんの止めるわ。じゃあね。
280考える名無しさん:04/10/26 15:27:08
>>279
>>274君の言い回しがあまりよくないというのは
受け入れるとしてもだね
君の無理解っぷりも、ちょっと疑問なんだが・・・

普通、哲学的な疑問は、その命題の構造を理解したうえで
そこを懐疑していくわけだが、君はその構造を理解していないで
どうなってるの?というからタチが悪いのだ。
結局のところ、君は他我問題について、どう考えているのか
そこらへんから説明してくんないかな。
それから、色やにおいについても。
281考える名無しさん:04/10/27 00:17:45
つうか、永井の言う<私>って一種の私的言語なわけだろ。私の見える青を<青>
というようにね。
282考える名無しさん:04/10/27 00:36:55
永井さんは<私>は語り得ないにも関わらず、その思想自体は理解できてしまうことがまた不思議だ(別の問題だ)と云っていた。

しかし、249さんのように理解できない人がいるわけだから、そういう意味では永井さんのこれ↑は、間違ってるね。
結局、わかる人にしかわからないんだから。
283考える名無しさん:04/10/27 00:38:36
>>281
なるほど、わかりやすい解釈ですね。
284考える名無しさん:04/10/27 00:41:33
>>279
>ただ自明だ、というだけで何か説明がついたとでも思っているのか?

自明だ、ということは、説明不要、ということだ。
何を原理的(根源的、遡及不能)と考えるか、ということがずれている。
2×2=4ということだ。
285考える名無しさん:04/10/27 00:48:35
>>273
>他人が存在しない、っていう独我論を批判しているつもりはないよ(てか俺がそんなことどこで言った?よく読め)。

独我論にはいろんな水準がある。
そういうことを踏まえず、ただ「そんなもの独我論じゃない」などとだけ言い放ったり、
「よく読め」じゃあ、迂闊過ぎるんじゃなかな。

>議論の勝ち負けなんてどーでもいい。

単純な人用に、便宜的に「勝ち負け」って云っただけです。
ここまでのやりとりで、単純な人であることは「自明」なものでね。
286考える名無しさん:04/10/27 01:03:26
<私>だけでは単語だな。いいたいことはわかるが。

<私>は唯一確実な実在である。とかなんとかいったらそれは私的言語か?

たぶん私的言語なんだろうな。
この言明の真偽のチェックは<私>自身の確信だけだからな。
287考える名無しさん:04/10/27 01:37:13
>>1
「私、今、そして神」をもう少しまとめたものを出版してください、
とくれぐれも伝えてください。
288281:04/10/28 00:17:38
><私>だけでは単語だな。いいたいことはわかるが。

これは俺へのレスかな?もしそうなら、永井の言う<私>と書いてるではないか?

>283

どうも。もう少し言葉を足せば永井のいう<私>とは私的言語を成り立たせる当の
ものといえるかもしれない。この私(=<私>)がみた青が<青>であるためには、
<私>は不可欠なわけだ。だから<私>を想定しない私的言語(例えば<青>とかね)
はありえないと言えるんじゃないかなぁ。

個人的には永井の独我論より道徳論の方が好きなんだよなぁ。

ま、いずれにしても倫理とか私的言語とか本来語りえないものを永井も語りたい
んだろうな。
289考える名無しさん:04/10/28 00:32:40
さーて。読み終わったからここで読書スレでもおっぱじめるかの。
290281:04/10/28 00:37:39
逆に言えば、<私>という観点から語られるものは全て私的言語といえる
わけだ。だから、永井の存在論的独我論の空間は私的言語の空間とも言
えると思う。つまり、<私>を先験的に想定し、私的言語を可能なものと
しない限り成り立たない空間なんだと思う。
291考える名無しさん:04/10/28 00:37:48
いちばん気になったのはライプニッツと三島由紀夫。
292考える名無しさん:04/10/28 00:44:00
ああ、たしかに。
なんでライプニッツなの?ミシマなの?とは思った。
293考える名無しさん:04/10/28 00:45:45
わし、ほっとくとたぶん一生、ライプニッツもミシマも読まない。
294考える名無しさん:04/10/28 00:52:57
世界が5分前に始まったかもしれない、というのは良く考える。
夜、睡眠と共に世界は消え去り、朝、目覚めとともに世界も自分も新しく生まれる、ということも良く考える。

世界は瞬間、瞬間に発生し、瞬間、瞬間に消え去る、という考え方はもっとしばしばする。
(この考え方は説一切有部の「刹那滅」という考え方と同じといえば同じです。)
295考える名無しさん:04/10/28 00:59:28
時間旅行を文字どおり、時間を過去に向かって遡る、と言いかえると奇妙なはなしになってくる。
296考える名無しさん:04/10/30 02:54:23
ike
297考える名無しさん:04/10/30 03:44:30
 
298考える名無しさん:04/10/31 11:14:16
299考える名無しさん:04/10/31 11:25:52
>>295
>時間を過去に向かって遡る、と言いかえると奇妙なはなしになってくる。

ビデオでも逆廻し再生すると奇妙な光景が見えます。
なぜ、時は一方向に流れるのだろう。 
300考える名無しさん:04/10/31 12:58:02
<300>
301295:04/10/31 21:01:27
>>299
いや、そういう意味で言ったわけじゃないんです。
302考える名無しさん:04/11/04 09:41:18
質問。『マンガは哲学する』のなかで、男女の入れ替わりモノのマンガは扱われていますか?
303考える名無しさん:04/11/04 09:41:45
暇なら
http://search.personalwebsite.jp/New.shtml
から面白いHPを見つけよう。
今日中に全部のHPを見ること。
11ジまでに一人一つあげとく
見事一位に輝いたHPの管理人へみんなでお祝いメールしようぜ
304考える名無しさん:04/11/04 11:41:17
講談社現代新書「私・今・そして神」を読んだけど、
永井さん、マクタガートについてはちゃんと理解してないみたいだね。
305考える名無しさん:04/11/04 20:51:35
詳説きぼんぬ。
306考える名無しさん:04/11/05 13:11:18
>>305
この著書はもう読んだ?
マクタガートに関して多少の知識はあることを前提として話すと、
永井氏は、P150以降で、「A系列VS.B系列の対立なんて見せかけだ」と題し、
ラッセル(B系列論者)とマクタガートの論争を省略しながら紹介したあと、
「A系列とB系列の区別は存在しないと思う。」とか、
「そのように一般化されたA系列(それがB系列なるものの正体である)」と
書いているけど、これにはちょっと驚いたな。

実は、以前、この板にマクタガートのスレがあって、そこで様々な論争がされていた。
その中に、永井氏と同じような考えの人がいたんだけど、まさか、本人じゃないよな。
ちなみに、その書き込みの一部が、これ。

 >>257の「B系列はA系列の前提にもなっている。
 任意の現在からみて、過去は未来より先であり、その逆はない」
 というところで私が言いたかったのは、
 「A系列」の概念には、「B系列」すなわち先後関係の概念が含まれる、
 ということです。言い換えれば、
 「過去である」「現在である」「未来である」というA特性の述語は、
 出来事の存在時点と現在時点の先後関係で定義されている、ということです。

 >>307
 >そんな簡単に論破できるなら、誰かがもうとっくに論破してるって(w

 私も不思議なんですが、なぜこんな単純なことが分からないんでしょうね。
307考える名無しさん:04/11/05 13:20:07
(上の続き)

ところで、マクタガートは
「A系列に関する事実はB系列に還元できないが、その逆は可能である。」
と述べているが、「A系列からB系列が導ける」と考えるのは、
ごく一般的な(哲学素人的)反論者なんだよね。
だから、永井氏がこうした考えをこの著書で書いているのを読んだとき、
「はぁ? これじゃ素人の考えと同じじゃん」と思ってしまったわけです。

308考える名無しさん:04/11/05 13:59:15
あんたも素人やん
309考える名無しさん:04/11/05 14:13:30
永井さんの言ったことが素人と同じということと
それが正しいかどうかは関係無いね。

で、その素人を論理的に反駁できるだけの回答はあったの?
それは見方の違いという次元じゃなく、絶対的に間違いだったの?
310考える名無しさん:04/11/05 14:21:16
おいみんな、

> 「A系列に関する事実はB系列に還元できないが、その逆は可能である。」
> と述べているが、「A系列からB系列が導ける」と考えるのは、
> ごく一般的な(哲学素人的)反論者なんだよね。

の意味わかってるの? つうか俺はわからんのだ。

ここの「その逆は可能である。」ってのはつまり
「B系列に関する事実はA系列に還元できる」ってことだよな。
それって「A系列からB系列が導ける」とどう違うのさ。
いったいどこが反論になってるんだ。
311考える名無しさん:04/11/05 16:15:03
書いてる方も良く分かってないんだろ。

まあさ、A系列とB系列が同一かどうかって問題は、
A特性(とかA述語とか)とB特性(述語)との間の
還元可能性の問題とはまた別なわけなんだけど。
312考える名無しさん:04/11/05 16:20:49
         ナ ゝ   ナ ゝ /    十_"    ー;=‐         |! |!   
          cト    cト /^、_ノ  | 、.__ つ  (.__    ̄ ̄ ̄ ̄   ・ ・   
                                             
            ,. -─- 、._               ,. -─v─- 、._     _
            ,. ‐'´      `‐、        __, ‐'´           ヽ, ‐''´~   `´ ̄`‐、
       /           ヽ、_/)ノ   ≦         ヽ‐'´            `‐、
      /     / ̄~`'''‐- 、.._   ノ   ≦         ≦               ヽ
      i.    /          ̄l 7    1  イ/l/|ヘ ヽヘ ≦   , ,ヘ 、           i
      ,!ヘ. / ‐- 、._   u    |/      l |/ ! ! | ヾ ヾ ヽ_、l イ/l/|/ヽlヘト、      │
.      |〃、!ミ:   -─ゝ、    __ .l         レ二ヽ、 、__∠´_ |/ | ! |  | ヾ ヾヘト、    l
      !_ヒ;    L(.:)_ `ー'"〈:)_,` /       riヽ_(:)_i  '_(:)_/ ! ‐;-、   、__,._-─‐ヽ. ,.-'、
      /`゙i u       ´    ヽ  !        !{   ,!   `   ( } ' (:)〉  ´(.:)`i    |//ニ !
    _/:::::::!             ,,..ゝ!       ゙!   ヽ '      .゙!  7     ̄    | トy'/
_,,. -‐ヘ::::::::::::::ヽ、    r'´~`''‐、  /        !、  ‐=ニ⊃    /!  `ヽ"    u    ;-‐i´
 !    \::::::::::::::ヽ   `ー─ ' /             ヽ  ‐-   / ヽ  ` ̄二)      /ヽト、
 i、     \:::::::::::::::..、  ~" /             ヽ.___,./  //ヽ、 ー        

313考える名無しさん:04/11/05 16:35:25
ただの愚痴だが、なぜ分析哲学ってのは、こうわかりきったことを再確認す
るかたちになってしまうのか不思議ですね。まぁ、形式論理のあいだで、考察
するってのが、めんどいから、読まないだけの無精だが。ただ、ヴィトゲンシュ
タインの直面していた問題ってのは、逆手にとれば、ヴィトゲンシュタインが
こう言っているじゃないか、だけで丸投げできてしまうという。
 マクタガートは読んでないんだが、入不二のレジュメがpdfで出ている。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_data/36ws/irifuji.pdf
 「時間は矛盾を含むゆえに実在しない」のではなく、「時間は決定的
に相容れない二つのリアリティによって構成されている」と言うべきである
、と結論されている。
 これだって、カントの「時間の常住不変性」についての叙述を改造して
いるだけって気がするんだが。大陸系と英米分析系っていうのは、ほんとは
どうなのかしら。哲学プロパーじゃないから知らんけど。クリプキは、
あるいみで、私的言語論はあきらかにカント的な問いだと言っていたが。
 まぁ、カントとハイデガーのあいだで、「時間」論は可能だけどさ。
でも、ハイデガー的にいえば、存在する=時間があるってことだから、
時間が実在するって、あるはある、存在は存在する、時間は時間である
ってことだ。パルメニデス解釈だなぁ。
 どうも英米分析出のひとの議論は、苦手。
 思考する愉楽ということかね。

314考える名無しさん:04/11/05 17:16:03
永井と入不二の8年差というあの関係は、
いったいなんなんですか? あやしいな〜

で、よく知らないのですが、
「AはBである」が真として成立するとき、
「BはAである」が真であるとはかぎらない。

しかるに、形式論理はしばしば「AはBである」というのを、
A=Aという意味で使っている。「BはAである」も真であること
を前提にしている。だが、「AはBである」「BはAである」が
同時に成り立つのは、ヘーゲルの絶対知みたいな根源的なる
もの。「理性的なものは現実的、現実的なものは理性的」って
いうやつ。だが、じゃあ非理性的な現実は受け入れねえのか、
とか、現実は弁証法的に(あるいは形式論理的に、三段論法的に)
成り立っていねえから、理性的とは言えねえ、とかいうことになる。
むろん、ヘーゲルはそんな安易に言っていないが、テーゼだけ
取り出すとそうなる。
 
だが、それでは推論のレベルと、存在(者)のレベルとの乖
離ということにしかならんなぁ。
315考える名無しさん:04/11/05 17:17:34
もひとつは、形而上学とか形式論理ってのは、三位一体とか、
第三項なしに、成り立たないという。
三段論法くわしくないのですが、
1 すべてのAはBである
2 CはAである
3 ゆえに、CはBである

で、いろいろ調べると、入不二は、
A:B=B:C=C:D=D:E=E:F……という式にしている。
要するに、AとBの系列は必ずCという第三項を必要とする、
中間項を必要とするってことらしい。
でもさ、三段論法を無限に連鎖してゆくと、カントの
二律背反におちいるという。やっぱカントじゃんか〜
「私」であろうと「時間」であろうとカントじゃんか〜
だが、三段論法の形式論理で把握するってのは、現象学
以降、「私」という問題を発生させる。ま、コギト解釈
と私的言語論だけではないはずだが。

もっともそれは形而上学的に考えた場合。「AはBである」
が成り立つとき、「BはCである」さらには「CはDである」
というふうに横向きに考えていくと、簡単に詭弁が成立。
「あなたの彼女はおたくである」
「おたく女は似非紳士が好きである」
「わたくしは似非紳士である」
「だからあなたの彼女は、わたくしが好きである」
といっても(まぁそもそも真として成立していないことばっかりで
取り上げるに値しないのだが)じっさい、あなたの彼女がわたくし
を好いていなければ意味がない。
316考える名無しさん:04/11/05 17:19:01
 中学生の算数もうろ覚えなんですが、実際には、形式論理って、
対偶が正しいらしい。だから、
「AはBである」が真のときは、「非Bは非Aである」が真で、
「BはAである」が成り立たないんですって。だが、そもそも
真であるかどうか確かめらんないことが多いんだから、形式
論理ってなんだ? だいいち、ベン図書くだけ? ま、俺が
アタマわるいだけだろうけどね
317考える名無しさん:04/11/05 17:25:24
ただの愚痴だが、なぜ分析哲学ってのに、こうわかりきったことの再確認しか
見ないのか不思議ですね。
318306:04/11/05 17:48:08
>>309
>永井さんの言ったことが素人と同じということと
>それが正しいかどうかは関係無いね。

全く仰せの通り。
俺は、永井氏が正しいとも間違っているとも言ってないよ。
しかし、永井氏が「A系列とB系列の区別は存在しないと思う。」とか、
「そのように一般化されたA系列(それがB系列なるものの正体である)」と
書いていることから、マクタガートを理解していないと思っただけ。

>>310、311
わからないなら、わからないでいいよ。説明するのめんどくさいから。
319:04/11/05 17:56:14
これ最強
320考える名無しさん:04/11/05 18:14:30
私は今〜♪
321考える名無しさん:04/11/05 19:41:38
根拠を説明する気がないならただの感想文と同じだな。

「俺は>>306が全面的に間違ってると思う。理由を説明するのは面倒くさいけど」
(↑これと同レベル)
322310:04/11/05 20:04:04
そこまで煽ってやるほどのことでもないでしょ。

しかし

> 俺は、永井氏が正しいとも間違っているとも言ってないよ。
> しかし、永井氏が・・・と
> 書いていることから、マクタガートを理解していないと思っただけ。

いったいどっちなんだ。
「永井氏がマクタガートを理解していない」と書きながら、
「永井氏が間違っている」とは言っていない、ってどういうことなんだ。
それとも誤解は間違いではないのか。「(正しく)理解していない」は
誤解を含意しないのか。マクタガートを理解も誤解もすることなく
永井さんがA系列B系列について喋っているということなのか。

まあどうも>>306の文章のスタイルは俺にはあわんみたいだから、
詳しく説明されても労力の無駄かも。306はもっと有意義なことに
時間使ってください。
323考える名無しさん:04/11/05 23:19:52
ttp://www.ne.jp/asahi/takuo/time/Kisoron_2004-11_AOYAMA.pdf

↑このファイルがなんかうまく開けないんだけど。(説明するのはめんどくさいが)
324考える名無しさん:04/11/06 00:19:28
僕は>>309だけど>>318はわかるよ。
ようするに、それが永井氏の言ってること”正しい”かもしれないが
それはマクタガードの言ってることは別のこととして考えるべきだと
言いたいわけだね。
マクタガートを理解してそれを否定しているわけじゃないと。

でも、それじゃマクタガートさんのお話と永井さんの話が
ほんとうに別のものとして考えられるのか、疑問が生まれるんだけど
僕はマクタガートさんについてよく知らないので、深追いはしない。
わからないことはわからない。
325考える名無しさん:04/11/06 20:19:51
>>323
俺も開けないんだけど。
326考える名無しさん:04/11/08 16:30:46
 確かに永井氏は、マクタガートに対して誤解があるようだ。
 マクタガートに対する永井氏の誤解と思われる部分(P152・15行目からP153・10行目まで)を、以下にまとめてみた。

>たとえば、「明日」はA系列(+C系列)上の位置づけであり、「翌日」はB系列(+C系列上の位置づけだといえる(C系列が加わるのは「未来」などと違って日という単位で区切られているからである)。

 マクタガートによれば、「A系列とC系列から、B系列が構成される」とある。つまり、永井氏が、「「明日」はA系列(+C系列)上の位置づけであり」と書いた「明日」とはすでに、B系列の記述なのである。
 「「翌日」はB系列(+C系列上の位置づけだといえる」とあるのは間違いで、B系列の概念には、すでにC系列の(Order・秩序)という概念が含まれている。C系列に時間的な方向を与えたものがB系列なのである。

327考える名無しさん:04/11/08 16:38:58
(続き)

「翌日」をA系列+C系列、「明日」をB系列+C系列と「勝手に」解釈し、それに対して語用論の違いだけで意味論は変わらず、それゆえ、A系列、B系列の区別は存在しないというのは、いかがなものであろうか。
 実は、その後にある()書きの記述の方に、永井氏のマクタガートに対する大きな誤解がある。
 
>(ところで、マクタガートはA系列+C系列でB系列ができあがると言っているが、これは単純な誤りだとう。「明日」はA+C表現だが、C性が加わったことによってB表現である「翌日」の意味が出てくるわけではないから。

 まず、「明日」はA+Cにより、すでにB表現なのである。永井氏は「翌日」がB表現あることを認めているが、「明日」には翌日の意味がないと思っている。
しかし、その直前で、自ら書いているように、「明日」と「翌日」は、「語用論が異なるだけで意味論は異ならない」のである。
 例えば、10日に「明日は11日である」と述べるのと、「翌日は11日である」と述べるのは、ともに真である。そしてこれは、どちらも日付の順序(これがC系列)は示しているが、「時間」を表していない。だからこそ、両方とも、B系列なのである。
 そこで、「現在、過去、未来」を示したものがA系列なのである。(だからマクタガートはこれを時間の本質と考えた)

>逆に、裸のA系列である現在・過去・未来は、C性を付与されてなくても、そのまま一般化されるだけで、その時・より以前・より以後、というB系列的意味を持たされてしまうだろう。)

 以上に示した通り、「裸のA系列を一般化する」操作こそが、「A+C」なのである。
328考える名無しさん:04/11/08 16:42:27
327の文頭には、永井氏の引用文が抜けていたので、以下に示す

>しかし、「翌日」とは、ある日をかりに今日と見なした場合の「明日」のことでしかなく、逆に、「明日」とは今日から見たときにのみ使えるその「翌日」のことであるに過ぎない(ちょっと専門的に表現すれば、語用論が異なるだけで意味論は異ならない)。
それゆえ、マクタガートが提示し、今日ふつうに受け入れられている意味では、A系列とB系列の区別は存在しないと思う。

329ホメイニ刺:04/11/08 16:49:59
ともかくもクンデラ読めと伝えとけ
330考える名無しさん:04/11/08 20:50:28
何いってんだかわからん
331考える名無しさん:04/11/08 20:57:18
…飲み会のれぽはどーなっつてるの?
332考える名無しさん:04/11/08 21:14:28
飲み会は矛盾をはらむので実在しないことが証明された
333考える名無しさん:04/11/09 01:35:22
永井の主張のポイントは、「時点間の前後関係というB系列は、二つの時点の間にかりに現在を置いたら一方は過去で他方は未来であるという意味でしかなく、それはすでにA系列ではないか」(145頁)というところじゃないの?
まあ、なぜB系列の意味はそのようにしか言えないか、それ以上の説明はないから、根拠がわからんのは確かだけど。
334考える名無しさん:04/11/09 13:07:43
>333
>「時点間の前後関係というB系列は、二つの時点の間にかりに現在を置いたら
>一方は過去で他方は未来であるという意味でしかなく、それはすでにA系列ではないか」

これは、反マクタガート側の主張に対する、マクタガートの反論そのもの。
つまり、反マクタガート側は、「A系列がなくても、B系列だけで、時間を構成できる」と主張するけど、マクタガートとしては、
「それは、すでにB系列ではなく、A系列の概念が混じっている」というわけ。

思うに、永井氏はマクタガートを中途半端に流用してしまい、自分の言いたいことをきちんと整理していないような気がする。
335考える名無しさん:04/11/09 13:48:01
「A系列+C系列=B系列」というのは、入不二氏などがこう書いているけど、
これだと「B系列の中にA系列が含まれる」もしくは、「A系列からB系列が導ける」
のように捉えられかねない。これは誤解のもとだね。
マクタガート自身はこんな書き方はしていない。
永井氏は原典を読んでいないのかも・・。
マクタガートの主旨で一番のポイントは、
A系列には「変化」があるけど、B系列には「変化」がないってこと。
336考える名無しさん:04/11/12 23:17:16
流れを無視して言ってみる
「独我論的立場に立たなくても、『客観的な今など必要ない、私の今で
十分だ』と言える」(38頁)
というのは、面白いと思う。でも本当にそうなのかな?
Nさんという人が、私より先に「カラスが飛んできた」と言ったり、私より
先に信号を渡りだしたりしたら、私とNさんに共通の客観的今があると
言えるんだろうか。
337考える名無しさん:04/11/13 21:15:22
>共通の客観的今があると言えるんだろうか

『客観的な今など必要ない』って自分で引用してるじゃないか
338考える名無しさん:04/11/13 21:25:25
それを永井さんの言葉抜きに
検討してみたいってことじゃない?

それに、「必要ない」のと「あるのか、ないのか」は違うことだしね。

まぁ、>>336は文の流れがすっきりしてないね。
339考える名無しさん:04/11/14 00:24:39
ttp://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/books.htm
稲葉振一郎の永井の最新作批評
340336:04/11/14 00:39:25
指摘をきっかけに、僕が永井の趣旨を誤解していたことに気づいた。
永井は、「(他の問題についてはともかく)『今』については、独我論的に考えざるを得ない」
と言っているのであって、
「独我論的に考えなくても『私の今で十分だ』と言える」と言っているのではないですな。
それで、独我論的でない「今」というものがあるだろうか、と考えてみたけど、確かに無理だった。
341考える名無しさん:04/11/15 00:57:31
けなしていうわけではないが、永井の哲学って結局オナニーだよな。
こういう姿勢には好感がもてる
342考える名無しさん:04/11/15 20:45:08
ちなみに永井さん不在の千葉大学には
年末、集中講義で入不二さんが来ます。
>>335
原典は読んでたよ。目の前で。
343考える名無しさん:04/11/16 01:57:55
>>342
なぜ不在なの?
344考える名無しさん:04/11/16 02:20:13
三十過ぎて今まで彼女いたこと無くて、男友達も十数年いなくて、
しがないポスドクで年収240万で、研究室では何の物理の進歩にも繋がらない
雑用仕事だけしてて、その仕事も満足にこなせなくて、素人童貞で、セックス経験
3回しかなくて、オナニー性遅漏で射精できなったから今でも半分童貞みたいな
もんで、キスは風俗嬢に嫌がられながら1回しただけで、女性と手を繋いだことなくて
素人女性とはデートはもちろん、食事やお茶したこともなくて、一分以上楽しく雑談
したこともなくて、性欲処理はオナニーだけで、その時レイプとか性奴隷妄想とか
ばっかり想像して、スポーツ全般駄目で、映画・音楽興味なくて、休日は家でゴロゴロ
してるだけで、趣味がなくて、おしゃれなレストランとか怖くて行けなくて、吉牛とか
しか行けなくて、母親がダイエーで買ってくる服だけ着てて、ユニクロすら行ったこと
なくて、着こなしなんか考えたこともなくて、普段着二着しか持ってなくて、髪形適当で
1700円くらいの格安の床屋しか行かなくて、美容院とか一度も行ったことなくて、
靴二足しか持ってなくて、それもダイエーで買ったやつで、短足で胴長で足が臭くて
基本的にガリガリキモイ系なのに腹だけ出っ張ってて、裸のとき鏡見たら、アフリカの
栄養失調の子供みたいな体型で、陰嚢湿疹で股間が赤く腫れてて痒くて、学部時代
一年間引き篭もってて、軽い対人恐怖症で、他人と会うのが欝で、オフ会とかも
行ったこと無くて、ちょっとしたことですぐイライラして、堪え性がなくて、
嫌なことからひたすら逃げ回るタイプで、臆病者で、性格が暗くて、
車も持ってなくて、どこ行くにもママチャリ乗って行って、研究室と本屋と家電量販店と
エロビデオ屋くらいしか行くとこ無くて、高校の修学旅行以来、旅行もしたことなくて、
高校の水泳の授業以来、プールも海にも行ったこと無くて、泳げなくて、今まで
一人暮らししたことなくて、家事一切を母親にやってもらってて、簡単な料理も
できなくて、何の特技も資格もなくて、毎日毒男板に一時間以上常駐してて、
ネットで調べたところ、どうも回避性人格障害らしいので、彼女ができない俺
345にこにこティンティン ◆wMDHqGPerU :04/11/16 02:27:19
>>344
・・・・
346考える名無しさん:04/11/16 12:17:48
永井は哲学入門者にはよいとおもう。
347考える名無しさん:04/11/16 12:29:35
>>344
なにぃ!俺は靴1足だぞ!
348考える名無しさん:04/11/16 15:02:19
>>342
もう辞めちゃったの?
349342:04/11/16 20:42:56
留学中。
350考える名無しさん:04/11/21 04:27:10
永井さんの学生でマクタガートやってた人いたよね?
351考える名無しさん:04/11/23 02:01:50
新刊、読んだ。いつもよりかなりテンションが高いのでついていけないとこが
いっぱいあったな。
結局のところ、「今、ここ」の〈私〉の神秘を言語で語ろうとしても
言語というものの性質上、それは必ず一般化されて理解されてしまうことの
ジレンマを語ってるってことでは従来語ってきたことと同じだろうけど、
本書で何か新しいことを言っているとしたら何だろね?

永井的〈私〉の語り相手は結局のところ神しかいないって自覚がよく強まったってことかな
352考える名無しさん:04/11/23 17:39:10
折れも新刊読んだ。
「<子ども>のための哲学」に比べると、
文体の偉そうな感じが増した。
353考える名無しさん:04/11/23 22:36:43
>>352
偉そうも何も実際に偉いんだから。
354考える名無しさん:04/11/23 23:37:30
なんつってもアカデミズムのどまんなかにいて、その専門で新書を出して、
あからさまに「神」だの「奇跡」だの書いてあるんだから、
エライとしかいいようがない。
355考える名無しさん:04/11/24 00:03:28
カタカナで書くとえもいわれぬニュアンスが生じる。
356考える名無しさん:04/11/24 00:35:35
「カント原理」というのは、今までにはあまりない内容では?
そうでもないですか?
357考える名無しさん:04/11/24 03:22:24
>>354
アカデミズムのど真ん中にいるか?
358考える名無しさん:04/11/24 03:26:00
>>357
そりゃ、ど真ん中でしょう彼は。

359考える名無しさん:04/11/24 06:13:25
>>356
ブラックジャックの統覚原理がそれじゃないの?
360考える名無しさん:04/11/24 06:25:06
>>358
飯田隆なら日本の哲学アカデミズムの
ど真ん中と言ってもいいだろうが
永井均はさすがにアウトだろ
361考える名無しさん:04/11/24 07:23:56
しかし読み物として永井が面白いことは事実。ギャグのセンスとか。
今度の新刊でも予期しないときにつまらんギャクをかまされて
不覚にも笑ってしまったよ
362考える名無しさん:04/11/24 22:32:46
因果性の問題に踏み込まなくともマトモなメタフィジックスができるかのような
誤解を広めた罪は大きい。
363考える名無しさん:04/11/25 00:24:21
永井の思考は「××はなぜ○○でなくて××なのか」という問いの形を
とることが多いけど、これってそもそも哲学的な問いなのだろうか。
つまり公理の基盤を問うたところでそれは端的にそうだからとしか
言いようがない。
364考える名無しさん:04/11/25 00:33:41
その形の問いの代表的なものって何があったっけ?
365考える名無しさん:04/11/25 00:50:37
>>363
きみはすうがくをきちんとやろう
366考える名無しさん:04/11/25 00:59:02
〈私〉はなぜ千葉大学の教師である〈私〉でブッシュ大統領の〈私〉ではないのか
とか、今はなぜペリーが来航してる時じゃなくて04年の今なのかとか。
つまり無限の可能世界がありうる中で、なぜ一つの現実が実現してるかって
ことだけど、それはやはり端的にそうだからそうとしかいえない問題であって。
それ以上なぜと問うなら、もはやその現実を「意志」して「実行」した
神を想定するしかなくなるのは必定。
367考える名無しさん:04/11/25 01:13:02
「なぜ」って言ってても理由を聞いてるわけじゃないものも多いよ。
確かに理由で答えるなら「誰か(神)がそれを意志したから」となるけど、
永井はそんな風に答えてはいないし、神もそんな意味では使ってないはず。

永井均を<私>たらしめているものは何か、
永井均が<私>ではなくなるというのは何が変わったということなのか、
またそういう想定ができるということはどういうことなのか、というのが論点で、
それらの中で超越的な(あるいは超越論的な)視点として神の視座を持ち出してる。
368考える名無しさん:04/11/25 01:41:05
まあ永井自身が言ってるように彼は問いを提出すること(それも
できるだけ精密な形で)が目的で、その問いに解答を出すことでは
ないのだろう。しかし漏れは彼の哲学的な出発点は〈私〉の神秘に
関する一種の畏怖というか宗教的な驚きだったような気がする。
彼が安易な解答として神を持ち出すことはもちろんないだろうけど
彼の哲学的営みは〈私〉の神秘をできるだけ精密に分析することで
背後にいる神をあぶり出そうと努力してるような印象がある。
369考える名無しさん:04/11/25 02:20:57
あっそ
370考える名無しさん:04/11/25 07:37:31
>>367が言ってることは完全に正しいと思う。
だからこそ逆に俺は、なんで「なぜ」って形の問いで
表現すんのかな〜と思う。
「なぜ」って問いを文字通り取れば、>>363みたいな
疑問が出るのも当然だしね。

まあ、これは本質的な問題じゃないけど。
371考える名無しさん:04/11/25 07:39:43
> だからこそ逆に俺は、なんで「なぜ」って形の問いで
> 表現すんのかな〜と思う。

売れるからです!!
372考える名無しさん:04/11/25 11:07:01
横レスだけど
超越論を持ち出して、神を肯定する人がいるけどさ
それって、ほんとに神なのかなぁ。どうなのかなぁ。
それが神だとしても、特定の宗派に属する必要は無いんだよね。
キリスト教でもいいし、イスラム教でもいいし。
結局宗教の肯定にはならないよね。
373考える名無しさん:04/11/25 11:14:53
カントはそういうのを理性宗教とか呼んだんだろ
そんで弾圧されたんだろ
374考える名無しさん:04/11/25 18:04:08
今度の永井の新刊では神への言及は二種類のタイプがあったね。

一、永井的〈私〉を見分ける能力がある存在=〈神〉っていう構図。
二、他の人間の〈私〉の存在を信じ、それを前提に生きている人間は
〈私〉を見渡せる超越的存在=神の存在を信仰しているのとパラレル?である。

永井均は神の存在を信じてるそうだけど、二の意味でそう言ってるのかな
375370:04/11/26 08:42:27
>>371
なるほど
376考える名無しさん:04/11/26 21:27:55
「私をこれからブッシュ大統領にしたりできる神」というのは、また別じゃ
なかったっけ。
永井はそこまで信じてるんだろうか。
377考える名無しさん:04/11/26 22:58:41
論理的に存在を仮定しているだけで
信じているかどうかは別。
378考える名無しさん:04/11/27 05:53:14
脳を分割するとか複製するとかそういうのってありなの?
379考える名無しさん:04/11/27 14:15:57
物体としての脳みそが分裂する、という話をしてるわけじゃないんじゃないかと。
とは言え、私の分裂という言い方は、何が分裂してるのかよくわからない
ですな。未来のある時点で、私にそっくりな人間が二人いる、という言い方
のほうが、わかりやすいかも。
380考える名無しさん:04/11/27 14:42:55
ttp://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/kato/info.html
加藤尚武に↑みたいなパーフィット批判があるけどどうでしょう?
381考える名無しさん:04/11/27 16:43:47
>>380
加藤尚武は「生命は情報に還元できない。生命は情報媒体に依存する」と言っているが、
「情報媒体がどのようであるか」も一つの情報である以上、生命は情報に還元できるはず。
そうすると、たとえば「人工生命は生命のコピーであって、生命ではない」という部分も怪しくなる。

また、これだけ語っている割には人格同一性もきちんと定義していない。
何が何に抱合されるかという例は示しているが、それも絶対ではないし、その根拠も挙げていない。

さらに、永井の読者にはお馴染みの<私>の問題にも加藤は触れていない。
それを持ち出せば「転校生とブラックジャック」のような議論の題材としても使えるのに。

加藤は現実のクローン問題などでの杜撰な議論を批判しているのだろうが、
現実を離れたパーフィットのような“思考実験”の意義を理解していない。
また、自身の議論も十分杜撰であるので、批判として適切ではない。
382考える名無しさん:04/11/27 17:05:54
> 「情報媒体がどのようであるか」も一つの情報である以上、生命は情報に還元できるはず。
ほんとう?
383381:04/11/27 17:33:14
「ほんとう?」ってのが何を訊いてるのかよく分からないけど……
現在の技術で可能かどうかは知らないが、原理的には当然そうなるだろう。
384考える名無しさん:04/11/27 17:55:02
脳=人格という脳還元主義的な前提がなければ分割の議論は成り立たない気がする
385考える名無しさん:04/11/27 22:14:20
>380のリンク先
人格の同一性の条件にかかわると思われるものを、抜き出してみた。

1.記憶の同一性は人格同一性の成立条件の一部である
2.自分の過去や家族の同一性にかかわる記憶をすべて失ったとしても、人格の同一性が認められるのは、精神に断絶があれば身体の連続性が、人格的同一性の認識根拠になるからである
3.記憶の同一性を人格同一性の必要条件と見なすなら、その記憶を失った人は、私と同一人格ではない
4.人格は情報の内容ではなくて、情報を統合するシステムである

これらは、結局、どういう関係にあるんだろう?論理的なつながりがさっぱりわからない。

それから、この記述。
>パーフィットは、脳という情報媒体と人格という情報内容を混同している。

ということは、加藤は、脳細胞の位置関係だの働き具合だのが全く同一だと
しても、記憶内容などが異なりうる、と考えているのかなあ。
まあそう考えて悪いとは言わないけど。
(ついでに言えば、上に引用した4.「人格は情報の内容ではない」と、この
「人格という情報内容」という表現とは、どういう関係になるんだろうか。
用語の使い方が整理されてないんじゃないか。)
386考える名無しさん:04/11/28 09:30:15
尚武さんももと千葉大だっけ。
387考える名無しさん:04/11/28 09:34:05
パーフィットの読書会スレやったら面白そうだね
初心者も参加しやすいだろうし
388考える名無しさん:04/11/28 10:10:06
ただ、パーフィットの『理由と人格』は初心者が買うにはちょっと――いやかなり高い。
389考える名無しさん:04/11/28 10:29:17
ペーパーバックは4000円以下だったと思うから手が出ないこともないかと
390考える名無しさん:04/11/28 21:24:36
オツムがパーフィット
391考える名無しさん:04/12/09 21:09:23
で、結局、カントとライプニッツはどっちがえらいの?
392考える名無しさん:04/12/10 17:30:12
しくい
393考える名無しさん:04/12/16 22:28:15
永井さんて偉いの?
394考える名無しさん:04/12/16 22:48:54
>>385
人格の同一性ですが、現象により一概には言えない部分があると思われる。
社会の規定による人格は、主体の人格は客体を考慮していないからだ。
人格は特定の社会性であるという判断により規定されるのであって、現象
ではない。現象は主体・客体を社会が規定するものと考えられる。対象が
別個であるにも関わらず、特定の人格を規定する事はできない。
395考える名無しさん:04/12/16 22:57:00
客体が異なる場合には主体の共通した内部構造は異なる仕方で観察されるからだ。
故に、それを社会が判断するできない。
396考える名無しさん:04/12/16 23:54:39
日本語でお願いします
397考える名無しさん:04/12/17 00:05:29
人柄は自己と対象の関係である。関係は社会により規定されるものである。
だが、人格は自己を社会が規定したものである。人格に対象は含まれていない。
従って、人格は自己が社会においてどうであるかを示す事はできるが、自己と対象の関係ではない。
簡単に言うと、すごい上品な人があんなに怒るなんて、という事が言えるのだという事だ。
全くの日本語だ。
398考える名無しさん:04/12/17 14:41:26
>>397
だからお前バカか?
日本語かけるのか、外人か?
399考える名無しさん:04/12/17 15:53:05
語彙の貧困さから見て小学生でしょう。。。
400考える名無しさん:04/12/17 16:14:52
結局、永井のいう<私>の物理的性質は何になるの?
401考える名無しさん:04/12/17 23:02:44
永井先生あまり授業してないんだよね
何やってるんだろう
402考える名無しさん:04/12/18 01:16:20
なにもしていない。
おそらく存在もしていない。
403考える名無しさん:04/12/18 01:43:05
>>401
いやいや、いるときはそれなりに授業してたよ。
今は留学ちゅー。はやくかえってきてー。
404考える名無しさん:04/12/18 06:53:15
海外行ってるのか。どこの大学?
405考える名無しさん:04/12/18 21:06:49
常連さんのように、哲学に詳しくて読んでいる訳じゃないものにとっては、永井の本は
「頭の体操」。凝り固まった思考の枠が揺れる感じが面白い。でも、それを味わったらそれまで。
ある思考の枠組みに固まった俺から少しだけ自由になった自分に変わるだけで、長いが何を言いた
いのかなどは考えることもなく、内容も忘れる。
406考える名無しさん:04/12/18 22:49:11
三浦俊彦の『論理学入門』(NHKブックス)に載っている
永井均批判に対する永井の回答というのがあったら教えて下さい。
407考える名無しさん:04/12/21 03:37:29
漏れとしては、そこが批判として成り立っているのか知りたい。
誰かわかります?
例えば、229頁11行目に「無数の「私」の中から、ある特殊な問いが
<私>を選択した。」とあるけど、問いが<私>を選択するということの
意味がよくわからない。
408考える名無しさん:04/12/23 06:39:45
>>403
あの年で海外へ行くわけ?永井先生を慕って、院にくる人もいるんだから、勝手に海外いかれても困るような・・
409考える名無しさん:04/12/23 11:19:14
永井先生は(彼流の)独我論者だぜ?
それがわかってりゃ叩くのがおかしいぜ!
410考える名無しさん:04/12/23 13:10:30
ものすごく海外に行きそうにない哲学者だよね
411考える名無しさん:04/12/23 18:44:31
>>372
俺哲学してて宗教信じてるけど、
まともに宗教を信じてる人は哲学が
特定の宗教を直接肯定できるとは思っていないよ
(そしたら宗教の重要な要素である「信仰」はいらないでしょ?)

まあ、あなたの考えでなら超越論で神を肯定する人の哲学は
宗教と哲学が矛盾しないってことを示せてるだけになる。
そういう人でまともな人はその宗教と哲学が矛盾しない結論だけで満足して、
知識人の神から信者の神へと信仰で超えていくだけ。
412考える名無しさん:04/12/23 19:08:30
>>411
なるほど。
神を直接肯定しているんじゃなくて
超越者として神を仮定しても問題ない、ってことなのね。
信仰はあなた次第ですよ、ということか。
413 :04/12/30 22:02:29
単に<私>を含めた世界の外から眺めている視点として<神>を設定して問いが成立するようにしているだけでしょ?
永井の著作は思考ゲームでしかないってわからない?
414考える名無しさん:04/12/31 01:44:44
思考ゲームが成り立つだけまし。
415考える名無しさん:05/01/04 01:38:27
もしこんなふうでもおかしくないでしょ?って言ってるだけのように思うのだけど…
416考える名無しさん:05/01/11 19:40:58
ああ、今日もしくいなあ。

そういえば、『転校生とブラック・ジャック』には、
<私>に自己意識はなくてもいいと書いてあったけど、新刊では考えが
変わったのかな。
417考える名無しさん:05/02/03 20:43:37
アインジヒトってinsightのもじりなの?
418考える名無しさん:05/02/05 19:02:59
永井の哲学で神を設定するとしたらどんなものになるか?が新刊の主題(の一つ)なんだが、
なによりそれより、なぜ・どうして永井は神を信じているのか?の方が気になってしまった。
419考える名無しさん:05/02/06 06:46:50
>>417
なるほど!
420考える名無しさん:05/02/08 03:45:48
まあ、奇跡とか開闢とかいいだすと、そろそろ神かなあ、とは思ったね。
421考える名無しさん:05/02/08 04:34:02
ein Sichtなんじゃないの
422考える名無しさん:05/02/08 15:57:05
a sightか。一見識みたいな感じかな。
423考える名無しさん:05/02/08 20:59:51
っていうかinsightをそのままドイツ語にしただけ >Einsicht
424考える名無しさん:05/02/22 20:36:02
当然ペネトレもinsightなんだな
425考える名無しさん:05/03/05 00:07:50
サイトのコピペ貼ってあったんで覗きに来たんだけど、プププw
永井もおまいらもアホ?
426考える名無しさん:05/03/05 00:58:56
サイト?
427考える名無しさん:05/03/05 14:06:21
>>1
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30467064
なぜ人を殺してはいけないのか?
永井均/〔著〕 小泉義之/〔著〕

この対談の後、本を読んでどうだった?
って聞いてくれ。
428考える名無しさん:05/03/05 14:18:06
あきたら、ポイ。いまはネタにされてるだけ。>>619文芸・思想エリートにオタクはかてん。
429考える名無しさん:05/03/14 18:03:14
神と呼び捨てにするな
神様と呼びたまえ失敬な
430考える名無しさん:05/03/16 12:36:30
しょっぱなから呼び捨てにしといて、こいつ (ノ_ _)ノ 
431ニプレス:05/03/16 21:14:02
>>416
 いや、考えは変わってないでしょう。
「心」(=自己意識)の存在が<わたし>を担保するとしたら、<わたし>以外が「心」を持つことを
認められなくなってしまう。
 永井均は「他者の心」=「他の自己意識」を認めるのだから、それはある超越性の存在を認めること、
すなわち神の存在を信じることに通じる。
 自分と自分以外の人に「心」あるいは「自己意識」の存在を認めることになるのだから、
「心」の「ある」「なし」では <わたし> か否かを決められなくなる。
 ですから<わたし>は言語化不能で(<わたし>のいないところでは反復不能)、「心」とも切り離された
「何か」(語りえぬもの)であるという永井均の主張は基本的にかわらない/かわれないと思います。

 新書でカントの「統覚」やデカルトのコギトなどと重ねられるように語られる永井均の<わたし>は
あくまでカントの洞察、世界と切り離されたような自己意識(この場合<わたし>も含まれると思う)は
存在しないという意見、に対する反論、反駁なのではないでしょうか。
「差異」に敏感にであれ、と何度か強調するのも<わたし>=「統覚」、<わたし>=「コギト」のような
混同を戒めるような意図の下に書かれているのではないでしょうか。
432考える名無しさん:05/03/16 21:45:07
カキコ内容と名前欄のギャップがすごいな……。
433考える名無しさん:05/03/17 01:27:19
おまえのだってかなり…w
434二プレス:05/03/17 18:09:14
 世界を開くこと、すなわち開闢(原理)とは『<子ども>のための哲学』でいうところの
「<子ども>の哲学」に相当するのではないでしょうか。世界の不思議をただただ問う<子ども>と
開闢(原理)とは基底的(根本的)であるという点で共通しているように思います。
 他方「開かれた世界」、すなわち開闢された世界(に開闢原理そのものが位置づけ直されるような原理)は
「青年の哲学」あるいは「大人の哲学」に相当しうるのではないでしょうか。
「青年の哲学」や「大人の哲学」は基底的ではないけれど社会的には大きな力を持っていて
通用するという点で、「開かれた世界」と相似的な関係にあるといっていいと思います。

 問題はカントの「統覚」が開闢(原理)と「開かれた世界」(原初として絶対的な位置にあるはずの
「開闢」が非原初としての相対的な位置に位置づけなおされるような原理)の関係を鋭く描写していることにあります。
だから永井均はカントの洞察を「驚天動地」として(あるいは空前絶後として)高く評価します。
でもその直後に手のひらを返して「カントなんて駄目だ」と言い出します。
435二プレス:05/03/17 18:10:40
 そこには「開闢」と「開かれた世界」の関係を鋭くえぐりながら、(永井均が最も重要だと考える)
「決定的に他と違うあり方をする<わたし>」という「差異」にカントの「統覚」はあまりにも
鈍感だからではないでしょうか。
 <子ども>と大人(青年)の区分を用いるなら、<子ども>哲学の基底性に鋭く迫りながら
大人(あるいは青年)の哲学に自らを位置づけてしまうような錯誤をカントは犯していると言えないでしょうか。

 ただし、<子ども>、青年、大人…というような区分は永井均の「つながり」の無さという問題意識と
対立してしまうようなところがあると思うので、そのような区分を撤回して「開闢」と「開かれた世界」
というような対立軸を新たに用意したと考えるほうが妥当だとは思います。
 まぁ以前いっていたことを当てはめて考えるとより整理しやすいのではないかと思ったので…。
436二プレス:05/03/17 18:53:20
 「開闢」と「開闢された世界」というモチーフを追っていくと 
永井均が今度(いつかは知らないけれど)西田哲学の解説本を書くというのも
(個人的には非常に興味があります)「開闢」と「開闢された世界」という関係を元に
西田哲学の「換骨奪胎」を狙っているのではないか、と思えてきます。

 教科書的には「西田哲学」は「主客の合一」をテーマとして「独我論」的な、あるいは
二元論的な問題に取り組むひとつの有力な姿勢としての評価を得ている、と思います。
(間違っていたらすみません)
 「純粋経験」のような「主客の合一」のモチーフは、「際限の無いつながり」の中で
事後的に「私」を生成するという点で一見して永井均と相性が悪そうに見えます。
ですが「開闢」と「開闢された世界」という対立軸に照らし合わせながらかんがみると
事態は反転してくるように思われます。

 おそらく、永井均が「西田哲学」を「換骨奪胎」するためには「自覚」(自己限定)の
議論が鍵を握るのではないか、と思います。「自覚」は「際限の無いつながり」の中で
「開闢」をもたらす働きと密接に関係しているでしょうから。
そして「自覚」が「純粋経験」という「開闢」以後に立ち現れるのか、同時に立ち現れるのか、
以前に立ち現れているのか、というところが「換骨奪胎」のミソになるのではないでしょうか。
(違うかなぁ?)
437考える名無しさん:05/03/17 23:18:22
>永井均が今度(いつかは知らないけれど)西田哲学の解説本を書く
なんだそれは。
どこかに書いてあったのか。
438考える名無しさん:05/03/18 01:32:41
西田で書くかデリダで書くか迷ってるって聞いたけど、
西田に決まったのか?
439考える名無しさん:05/03/18 04:03:50
永井がデリダ!?
440考える名無しさん:05/03/18 07:41:38
神を信じる、他者を信じる、か。

「敵は菩薩」と言った昔の剣豪を思い出した。
441考える名無しさん:05/03/18 07:55:20
あー、でも永井の信仰する《上位の神》は<わたし>を見分けられるんだっけ。

単なる他者とは大違い。
442考える名無しさん:05/03/19 01:25:35
単なる他者じゃない<他者>を信じる
すなわち
神を信じる

…あれ、この神は本当に<私>を見分けられるのか?
443考える名無しさん:05/03/19 18:03:27
>>437
シリーズ 哲学のエッセンス(飯田隆がクリプキについて書いた本が
入ってるシリーズ)の今年でた本の帯に今後出る本の予定が書いてあって
そこに永井が西田で書くことが出ていた。
444二プレス:05/03/20 22:19:24
>>442
 永井均は 私 という言葉が端的な<わたし>を棄却することで成立すると
論じます。また、それゆえに<わたし>は「語りえぬもの」という位置を占めるとも。
 そして端的な<わたし>が棄却されることで成立する 私 (という言葉)だけが
「他の」 私 という存在を指し示す根拠であると言います。

 このような永井均の「他者」観からは「神」という概念はなかなか見出しにくいと思います。
ですから永井均が「神」を見出す時の「他者」とは上記のものとは異なるのではないでしょうか。
それはこのようなものではないでしょうか。
 例えば新書(=私、今、そして神)の2章末尾での内容。
古代ギリシアからデカルト、カントといった(一般概念としての)「哲学」の系譜が一貫して
問題にしてきたモチーフに、自分勝手に哲学をしてきた私=永井均がたどり着く。
(話は少しずれるがその意味では永井均は「マイ哲学」の大頭目という事になる)
つまり永井均は一貫して<わたし>という「他と決定的に違うあり方をしたもの」を
追いかけてきたのに、そういう意味では「差異」に固執してきたとも言えるのに、
ついに <皆が> 問題にしてきたモチーフにたどり着いた(!)と主張するのです。
445二プレス:05/03/20 22:22:53
 このような、他者との<つながりの無さ>を追求すると他者との<つながり>に出逢う、
という構図は「<子ども>のための哲学」でも繰り返し出てくる構図です。
そしてこのような場面で突き当たる <他者> こそが永井均に「神」の実在を信じさせる
力を持っている、のだと思います。それは<わたし>という隔絶を論じてきたのに
ついに<他者>に出会った、つまり<わたし>の超越を垣間見たからです。
それは永井均にとって、「神との出会い」にあたるのではないでしょうか。

 永井均の最大のテーマ、<わたし>を追求した果てに出逢った「神」ですから、当然
<わたし>を分かってもらわないといけないという事にもなるでしょう。
(ただ、この直前の説明はウラの説明であって建前=理論上の説明にはふさわしくないものですが)
446二プレス:05/03/20 22:26:29
 ところで私は新書=『私、今、そして神』において「私、今、現実、神」というテーマ以外に
もう一つ「愛」というテーマを取り扱うべきではなかったか、と思っています。
 端的な「今」というものが可能的な「今」と並べられることで、端的な本来的な意味での「今」が
棄却される。しかしそこではじめて「今」という語の理解や使用が可能になるように、「愛」もやはり
端的な本来的な意味での「他者」というものが棄却されてはじめて「愛すること」が可能になります。
だから「今」や「私」が端的な<今>や<わたし>を表しえないように、「愛」も端的な「他者」を
捉えきれない。
 しかし「愛」は、捉え切れなさが隠されがちな「今」や「私」とは違って、「愛すること=他者の棄却」
に対する抗議があります。だから「愛」は一方で「他者の棄却」という断絶でありながら、その当の
「他者」の抗議によって鋭く「他者」と交差するのです。

 他者との「交差」を経てもなお自らの「愛」を貫こうとする時、「愛する」がゆえに他者との「交差」を断つ、
すなわち「愛するもの」を捨てるという「アイロニカルな現実」が開かれます。
(それゆえにキルケゴールはレギーネとの婚約を破棄した)
447二プレス:05/03/20 22:28:53
 話は多少横道にそれたけれど「私、今、現実、神」にくわえて「愛」があの本のモチーフとして
取り入れられていれば「他者との交差」という(永井均にとっても)興味深いテーマ(結局
それが永井均に「神」を信じさせているのだから)をもっと深くえぐれたのではないか、と私は思っています。

 しかしここまで書いて思うに、「愛」について論じるべきだったと私が感じること、そして「愛」について
私が曲がりなりにも考えることは、永井均の言う「哲学の始まり」にあたることかもしれません。
もしかしたら永井均が新書で含みを残した書き方をわざわざしていたのも、「哲学の始まり」に
読者をいざなう仕掛けだったのかもしれない。そうなると結局私は永井均の手のひらの上で
泳がされているだけなのかもしれません。
448考える名無しさん:05/03/20 23:07:33
ナガイノ アホニ オドラサレ テル トハ(プッw
449考える名無しさん:05/03/20 23:19:52
>>444
永井はむしろ<私>は実質で、単なる「私」が差異だと言ってるんじゃないの?
<私>は実質であるが故に語りえない。
一方で、言語的な差異だけでも、無数の「私」の中でどれが<私>なのか分からない。
その意味で<私>を棄却した単なる「私」は言語ゲームの駒としても使えなくなるはず。

要するに、実質としての<私>があるからこそ、「私」という語によって示される差異が生じる。
言語は差異だから、「私」という語の差異としての内容は「私でないものではない」ということになるが、
<私>を棄却するとすべてが「(その人にとっての)私」となり、示すべき差異が消えてしまう。

俺の読むところでは、永井の他者観は実質としての(差異化できない)<他者>だろう。
つまり、<私>に対する<他者>。
もちろん<私>は並置しうる存在がいないはずの唯一者だが、<私>を語るその過程に、
世界を隔てた別の<私>すなわち<他者>の存在を示すことになるんじゃないだろうか。

たとえば、ある日からロボットが<私>になる(または<私>でなくなる)という想定がある。
そのことの意味は語られないはずなのに、我々はそこに違いを見出すことができる。
そのような場合にのみ<私>は実質でありながら差異化されるということではないか。
450考える名無しさん:2005/03/21(月) 12:02:44
永井が信仰している神はどのような形でも、
他者の不可能性と重ね合わさられる性質のものではなない。
そんなありがちな結論に安易に結びつかされては、
これまで永井が徹底して<わたし>の言い尽くせなさを語った意味がない。

なぜなら<わたし>が言い尽くせないように、<他者>も言い尽くせないものなのであり、
それが同様な言い尽くせなさで表せてしまうのでならば、<わたし>とはなんら特別なものではない。
端的に言うとそのような言い尽くせなさは、「神」として共遇できてしまうものでしかない。
二プレスが見いだした神は、永井が言うところの「低階の神」だ。

<わたし><いま>をとり分けられる神とは、
<わたし>の在り方に直截に関わる神であって、他者とはまったく関係ない。
その関係なさの過程、すなわち徹底的に<わたし><いま>にしか顕れないその構造を通らずして
他者だの愛だのいっても、通俗のコミュニケーション論と大して変わるものではない。
451考える名無しさん:2005/03/21(月) 13:08:27
<私>は本質的・必然的なものだけど、「私」は偶有的・偶然的なもの。
徹底して<私>にこだわる永井が絶対的必然としての神の概念を言い出してもなんらおかしくはない。
その点で俗に言う実存主義と永井は全然違うと思います。
総じて哲学(学問)の伝統は必然性(ロゴス)の探求にこそあったわけで、
その意味では永井は実にまっとうな学者ですよ。
452考える名無しさん:2005/03/21(月) 15:48:48
・・・しかし何でも神とか言い出すと、いっきに胡散臭くなりますね。
キリスト教神学的伝統のない日本では、なおさらに。
453二プレス:2005/03/21(月) 16:35:10
>>449
 高圧的に断定的に「間違っている」という指摘をされていますね(笑)私もこれからしますけど(笑)
(ちなみにこういう指摘の仕方は「マイ哲学」を敵視している人たちに多いですよね?)

 >永井はむしろ<私>は実質で、単なる「私」が差異だと言ってるんじゃないの?
「私」が(決定的)「差異」だと思っている方は、各人の「差異」が「アイデンティティ」の相違、
「他者」と並置されたうえでの相違であると考えているに等しい間違いです。
<わたし>とは絶対的な「差異」、「開闢」(原理)として「世界を開く」ものです。
(他人ではなく私の目からしか世界は見られないというような「差異」)
それが「開闢された世界」のなかに位置づけなおされることで、つまり絶対的な位置を失うことで
(このことを<わたし>の棄却と呼んでいる)「客観的世界」が成立する、と永井均は言っています。
そしてこのような形で<わたし>が捨てられなければ「客観的世界」は認識されえない、
また「私」という言葉の理解と使用も不可能だといいます。
このように<わたし>という「差異」に永井均は固執しているのです。
454二プレス:2005/03/21(月) 16:40:07
>要するに、実質としての<私>があるからこそ、「私」という語によって示される差異が生じる。
>言語は差異だから、「私」という語の差異としての内容は「私でないものではない」ということになるが、
><私>を棄却するとすべてが「(その人にとっての)私」となり、示すべき差異が消えてしまう。
言語が「差異」だという意見に無条件には賛成できませんが(少なくとも永井均は逆のことをいっているはず)
そのような「差異」が消えることで「客観的世界」や「ことば」が可能になると永井均は言っていると思います。
(だって端的な<わたし>や「今」は言語化できないと繰り返し述べていたはずでしょ)

 そして決定的にマズイのはあなた(449さん)の言う<わたし>は
一般化されうる「私」だということです。<わたし>が「差異」でなく「実質」だということの
意味はそういうことになるはずです。
 あと「ロボットにされるわたし(あるいはロボットがわたしになる)」というところで「だけ」
<わたし>が「差異」であるといってよい、というあなたの意見の根拠が私にはまったく不明です。
あの「思考実験」で永井均が企んでいたことは<わたし>が「差異」であるということを端的に
示すこと、(その意味では「<子ども>のための哲学」における「魂の存在証明」に近い働きがある、
と思います)だったと思いますよ。小難しそうな言い回しですけどいってることはでたらめに聞こえます。
でたらめでなかったら説明していただきたい。(それが「マイ哲学」と「学的哲学」の違いなのでしょうし)
455二プレス:2005/03/21(月) 16:40:51
 それに>>450で私の>>444-445に反論したとお考えのようですが、はたしてそれはうまくいっているでしょうか。
>二プレスが見いだした神は、永井が言うところの「低階の神」だ。
この批判はかなり鋭そうですけど再び根拠が不明です。
確かに永井均の言う「神」が<わたし>を捉える以上、プロテスタント的な、個人と直接つながるような
「神」というイメージは妥当なものだといえるでしょう。
私にとってもここはひとつの「つまづき」でした永井均はそもそも「神」に<わたし>の超越を
託した(つまり神に「他者」の実在を託した)のに、「神」と<わたし>の関係においては
「他者」がむしろ排除されているように見えるのですから。
(449さんの「神」はこの「<わたし>との関係」においてのみ考えられている限定的な「神」像です)
 だからこそ私は、永井均に「神」の実在を信じさせる契機としての「他者」があるだろう、と考えたのです。
それがつまり>>444-445で書いた「つながりのなさを追求するとつながりに出会う」という、「他者との遭遇体験」
なのです。449さんの>>450での反論はこういう論理展開にまったくついてこれていないといわざるを得ない、
というのが正直な私の気持ちです。
456二プレス:2005/03/21(月) 16:45:13
 最後に>>451ですが永井均は攻撃精神旺盛で自説の強化解体に熱心で、ほかの事はあまり興味がない
という意味では「実にまっとうな学者」でしょうけど、伝統や流行を忌避するような姿勢
(それが自分勝手に哲学をしてきたということの意味でしょう)からは「学的哲学」の伝統、
(それがロゴスの探求であったというのはあまりにも永井仁以外の人物の哲学観を反映しすぎているのでは?
だってロゴスの探求が「哲学」の伝統だったとしたら永井均は新書で「ロゴス」を論じていたことになりますから)
つまり端的な「現実」というものの追求という伝統に…。

 あまりにも読みにくいので改めて書くと、伝統や流行という寄る辺に頼らないで「自分勝手に
哲学をしてきた」永井均が、「哲学」が伝統的に問題にしてきた端的な「現実」という問題に
新書で突き当たった、という「アイロニー」を449さんはまったく理解できていない、と思います。
反論があればお聞かせいただきたいところです。

 ちなみに「哲学の伝統」が万人に共通するロゴスにあったという意見は「哲学」が個人のものでしかない、
という永井均の主張をまるっきり無視したもののように受け取れるのですが、もしかして哲学が「公共物」であって
(「哲学」の公共性はどこかで誰かが―より不特定であるほうが好ましい―「学問的」とすることによって担保される?)
「公共性」を損なうような「自分勝手な哲学」(つまりマイ哲学というようなもの)は排除するべきと
お考えの方ですか?だから私が永井均の誘いに乗って「哲学」を始めたことに反発しているのですか?
ここはそういう問題を議論するところではないけど、449さんが永井均解釈をしながら一方で
永井均の考えを前提にしていない(!)というアクロバティックをしているのではないか、という疑いは
>>449-451の「反論」(?)を読むときに重要な手がかりとなる可能性がありますので、一応までに(笑)
457考える名無しさん:2005/03/21(月) 17:43:47
>>452

神が他者の謂であるなら、素直に最初から、他者といえばいいだけなんだがな。
他者の絶対性や超越性とやらを“信仰”するのも、おかしな話だが。
458考える名無しさん:2005/03/21(月) 17:47:36
>ニプレス

え〜とだな・・・。

まず最初に言っておくが、おれ(450)は、449でも、451でもない。
449と450が同一人であるかどうかは不明だが、
内容・文体・時間から判断して、おれと449・451を同一視できるのは驚きだ。
言ってることがあまりに違う。
451など、おれは450への牽制的サジェスチョンとして読んだくらいだが。

おかげできみの文章のどこにレスすべきなのか迷うが、
一応、大きな誤解がある点だけに絞って、とりあえずの指摘をしておく。

>永井均の言う「神」が<わたし>を捉える以上、プロテスタント的な、個人と直接つながるような
>「神」というイメージは妥当なものだといえるでしょう。

全く同意できない。
むしろ永井の神は、キリスト教的なそれよりグノーシス的なイメージがある。
永井がわざわざ<いま>と<わたし>を見分けるとしたものを、
『個人と直接つながるような「神」』というあまりに普遍的な言辞で把握するに至っては、
言うべき言葉を持たない。

>私にとってもここはひとつの「つまづき」でした永井均はそもそも「神」に<わたし>の超越を
>託した(つまり神に「他者」の実在を託した)のに、「神」と<わたし>の関係においては
>「他者」がむしろ排除されているように見えるのですから。

これは論理が転倒している。他者が排除されているのではない。
そのような上階の神が<わたし>以外の他者に想定できるかどうか、
<わたし>にはわかりようもないことであり、また他者には<わたし>の神を完全には理解できない
(そもそも<わたし>とはそのようなものである)。
459考える名無しさん:2005/03/21(月) 17:49:46
ニプレスはおそらく、神−他者という「哲学」学伝統の推論から、
永井の神もまたその種のものであろうと事前的に読み込んでいるようだが。
だがいまはその種のものである可能性はあるともないとも言える、これだけだろう。
460考える名無しさん:2005/03/21(月) 17:58:01
誤 :449と450が同一人であるかどうかは不明だが
正 :449と451が同一人であるかどうかは不明だが
461二プレス:2005/03/21(月) 18:09:50
 あなた(450さん?)の言う(永井均の)「神」は何をするのでしょう?

>これは論理が転倒している。他者が排除されているのではない。
>そのような上階の神が<わたし>以外の他者に想定できるかどうか、
><わたし>にはわかりようもないことであり、また他者には<わたし>の神を完全には理解できない
>(そもそも<わたし>とはそのようなものである)。

 他者は知りえないとか、他者に「心」があるかどうかはわからない、というような
「独我論」を永井均は拒否しているはずです。永井均は「他者の実在を認める」実在論者なのでしょう?
この「他者の実在」というテーマに「神」が絡んでくるのが新書での議論なはずです。
あなたは(450さんでいいの?)永井均が「たれながす哲学」において考えた神学上の
「上位」「下位」という枠組みにとらわれすぎてその本来の目的を見失っているのではないでしょうか?
(もちろん上位下位という枠組み自体は永井均の「他者の実在」という議論を補強するために
導入されているものではありますが)
462二プレス:2005/03/21(月) 18:25:53
>>458
 グノーシス主義?だろうとキリスト教的(プロテスタント的)だろうと
結局は永井均が既存の宗教に対して批判的であることから、哲学の伝統とも
距離を置いていることから、永井均の「神」像の例として不適切だということは可能でしょう。

>永井均の言う「神」が<わたし>を捉える以上、プロテスタント的な、個人と直接つながるような
>「神」というイメージは妥当なものだといえるでしょう。

 この表現がそんなにおかしなものでしょうか?端的な<わたし>とはそもそも言語化
されえないものですし、その<わたし>を「個人」と書いてみたからといって言語化される
ことによってそもそも失われてしまう「端的さ」にはそんなに違いがない、と思いますが?
463考える名無しさん:2005/03/21(月) 18:25:59
>>461
>他者は知りえないとか、他者に「心」があるかどうかはわからない、というような
>「独我論」を永井均は拒否しているはずです

???
このような話はいったいどの文脈から出てきたのだろうか?
ここでおれが言ってるのは
永井自身が「上階の神」と読んでいるものと、
(上とか下とかいう枠組が気に入らないというなら、それは永井にいうべき。おれにではない)
独在なる<わたし>の関係だ。

他者の不可知だとか、他人の心の実在など、おれは話題にしていない。
むしろそれとは関係なく、永井の信仰はあるのではないか、と言っているのだ。
(無論、それが他者への眼差しを導く道すがらのようなものにはなるかもしれない。
しかしそこまではまだいってないだろう)
464考える名無しさん:2005/03/21(月) 18:30:25
>>462

・・・これもなんだかよくわからんな。
きみは永井の神像として不適切だと思ったのに、

>永井均の言う「神」が<わたし>を捉える以上、プロテスタント的な、個人と直接つながるような
>「神」というイメージは妥当なものだといえるでしょう

と書いたのかね?

>その<わたし>を「個人」と書いてみたからといって言語化される
>ことによってそもそも失われてしまう「端的さ」にはそんなに違いがない

<わたし>はいわゆる一般的な信仰者(キリスト教徒とか、哲学的信仰者とか)としての個人ではないよ。
まったく違う。
465二プレス:2005/03/21(月) 18:43:46
>>463
 なるほど、他者の実在と「神」を関連させて考えてなくて、単に<わたし>と「神」との
関係を一面的に、考えているわけですね。

 しかしそのことを>>445
>449さんの「神」はこの「<わたし>との関係」においてのみ考えられている限定的な「神」像です
と指摘したつもりだったのですが。まぁいいか。

 >>464
 例えや要約において、例えや要約しようという対象(文)をそのまま
書き写さない限り、元の文を裏切ってしまうことは致し方のないことだと思います。
だから要約や例えの主旨を理解しないで小さな裏切りをことさらに問題にする気には
ならなかったのです。(ちょっと苦しいかな、でも本当なんですよ)

 「個人」と<わたし>が同じものを指しているというつもりはないですよ。
どのみち<わたし>の「端的さ」は失われるのだから、目くじらを立てても
仕方ないのではないか、といっているまでのことです。
まぁ上記と同じ理由でああいう表現になったまでのことです。
466二プレス:2005/03/21(月) 18:56:25
 いや、今日はちょっとやりすぎたなぁ、と自分でも思います。
最近は体の調子も悪いし、ちょっとおかしいな。
 休養しようっと。
467考える名無しさん:2005/03/21(月) 18:57:23
>>465
限定的にとらえる必要があるときには限定的に捉えるべきだ。
当然だろう。
きみのは明らかに逸脱し、永井が言ってない性質まで、永井の「神」に賦与している。
まあ永井哲学自体、そのケは強いのだが。
468考える名無しさん:2005/03/21(月) 19:03:59
ヒトの主張を代弁するのは無意味かつ不可能ってことだろ
テメェの主張したほが、なんぼもマシだってことに気づけ!
469考える名無しさん:2005/03/21(月) 19:04:57
>例えや要約において、例えや要約しようという対象(文)をそのまま
(以下略)

まあ一般論はいいとして、
きみがキリスト神とのアナロジーで早とちりしたのは面白い事だと思っているよ。
哲学が他者を神のアナロジーで語る悪弊同様にね。
470考える名無しさん:2005/03/21(月) 19:06:39
>>468

だったら永井の名前や行いを借りずに、自分の言葉と自分の力でやり給え。

独自にスレを立てるなら、さらにグッド。
471考える名無しさん:2005/03/21(月) 19:18:14
一応言っておくけど漏れも>>450,451とは関係ないよ。

>>453
えーと、まず<私>は間違いなく実質であって差異ではない。これは語の定義として。
><わたし>とは絶対的な「差異」、「開闢」(原理)として「世界を開く」ものです。
こういうのは差異とは言わない。差異とは相対的なものに対して使う語。
その意味で言語は差異であり、私的体験つまり内容は実質。
もしかしたら漏れは単なる用語ミスに長文で突っ込んじゃったのかもしれないけど、
とにかくその辺を加味してもう1回読んでほしい。その上でツッコミがあれば拝聴します。

あと、開闢された世界の中に位置づけられる「私」というのはカント的な経験的レベルだと思う。
そういうレベルでは「どれが私か分からない」というのが永井の言うカント原理じゃないかな。


「差異と実質」の区別については永井の同名の論文のまま。
あと漏れは449を高圧的・断定的に書いたつもりはないんだけど、そう読めたのなら申し訳ない。
もしよければ、後学のためにどこら辺がまずかったかを教えてください。
472考える名無しさん:2005/03/21(月) 19:18:43
↑449です
473考える名無しさん:2005/03/22(火) 03:16:06
議論を見て思ったけど(ただ、これから書くことは
議論の内容自体とは関係なくてすまんけど)
永井は、心とか感覚とかいう問題と、<私>の
問題の関係を、どういうふうに考えているんだろう。

具体的には、永井は、人間から心を奪うという
想定の本質は実は私が私でないものにされることだ、
としている。(新刊51頁あたり)
でも、この問題は、<私>の消滅というような
問題にしなくても、<私>が存在し続けてはいるが
感覚を全て奪われてしまった状態として考える
ことができるんじゃないか。
474二プレス:2005/03/24(木) 14:30:33
>>471
・・・元ネタがあった上での話ですか。
「差異と実質」という論文を読んでいないから突然「実質」という言葉が
出てきて戸惑ったけど(ちょっと苦しい?)、「用語ミス」という烙印を押すのは
少し早いのではないでしょうかね。
 いや、永井均の解釈をしているのだから「解釈」という枠組みから見ると間違いなく
ミスではあるのでしょうけど(笑)
 私がいう「差異」とは<わたし>と「他者」の間にある「絶対的な違い」(私の目からしか
世界が捉えられないというような)、その「違い」を「差異」と呼んでいるのです。
このような違いが<わたし>の唯一さに通じているのは明らかなように私には思えます。
(「差異」という言葉が相対的な違いを示すというのなら、このような絶対的な違いは
あなたの言う「実質」にあたるのでしょうか)
475二プレス:2005/03/24(木) 14:34:00
 ところで私には興味深いことが二つ書いてあったのでそれについて少し。
まず、
>あと、開闢された世界の中に位置づけられる「私」というのはカント的な経験的レベルだと思う。
>そういうレベルでは「どれが私か分からない」というのが永井の言うカント原理じゃないかな。
という指摘。
 私自身は正直言って永井均が言う「カント原理」と「ライプニッツ原理」をつかみ損ねていると思っています。
私の理解では「今」を「開闢」として重要視する中で、5分前世界創造説で問われるような「開闢された」過去の
虚構(可能)性が「今」と接続される二つの方法、それが「カント原理」と「ライプニッツ原理」なのですが。
 「ライプニッツ原理」が「開闢」そのものを擁護しようという姿勢に近く、「カント原理」が
「開闢された世界」の擁護を通じて「開闢」と「開闢された世界」=客観的世界の「架橋」を担うというような
イメージをもっています。(ちがうかなぁ?)
 だから>>473に私はこう答えます。「私」の心がロボットにすりかえられるということが<わたし>の消滅と
捉えられるのは<わたし>という「開闢」と「開闢された世界」(この場合は「私の心」という事になって
とても分かりにくいけれど)がつながっていることを永井均が認めるからだ、と。
 何が起こってもそれは わたし だという「ライプニッツ原理」にだけ従えば<わたし>は存在し続けている
という473さんの意見・疑問はまったく正当だと私は思います。
(こう考えると>>431での私の結論は誤っているという事になるなぁ)
476二プレス:2005/03/24(木) 14:36:26
 そしてもう一つの興味は
>もちろん<私>は並置しうる存在がいないはずの唯一者だが、<私>を語るその過程に、
>世界を隔てた別の<私>すなわち<他者>の存在を示すことになるんじゃないだろうか。
という点です。

 一つのモナド(≒<わたし>)が他のモナドに出逢う(示すではなくて)ということは
完結された一つの世界=モナドのなかでは出来ないはずです。
><私>を語るその過程に、 世界を隔てた別の<私>すなわち<他者>の存在を
>示すことになるんじゃないだろうか。
だからここで言われる「<他者>の存在を示す」とはモナド(≒<わたし>)を超越するものがなければ、
そういう「超越」を垣間見ること無しには、(他のモナドに出逢うことなど)ありえない。

 …「神」とか「愛」とかの話をすると嫌がられるみたいだし、疲れたからもういいや。
477考える名無しさん:2005/03/24(木) 21:40:44

他者−神−外部みたいな、割とオーソドックスな哲学命題に回帰してしまうのかな、
永井均も。
まぁこっち(読む方)がオーソドキシーに回収してるだけかもしれないけど。
なんかホッとするような、つまんないような、だね。
478考える名無しさん:2005/03/24(木) 22:34:40
おれは神を信じない。
でも他者は信じるよ。
普通だろ。
479考える名無しさん:2005/03/25(金) 00:28:15
そもそも永井は、他者について、重要なものとして論じていたっけ?
『転校生とブラック・ジャック』169頁では、他者とは現実世界と内容
の重なる可能世界のことである、と書いているけど(漏れの読み方では、
私以外の他人から開けている世界を考えると、それがつまり他者だという
ことだと思うけど)。
これだけだったら、要は私が世界をどう捉えるか、その捉えかたが他人にも
当てはまるとしたらどうなるか、というのが問題であって、それと違う
他者というものがとくに問題になるとは思えないんだよね。
480479:2005/03/25(金) 00:51:13
あと、ものすごくしょーもない疑問なんだけど、神が私を見分けるって、
どうやるんでしょうね?
神が私を見るとなると、神から開けている世界の中で私が特別に見える
のかと思ったけど、でも神から開けている世界は神から開けている以上、
私から開けているということはないはずで、神には私の特別さなどわから
ないんじゃないか。神なだけに、見るとか開けるとかいうことを超える
能力を持ってるのかな。でも、いくら神でもわれわれの理解できないことをするのは不可能だ、
というのが永井の議論のはずで。
むしろ、私の特別さが分かるのは何たって私なんだから、つまり私こそ
神の資格があるということか(w
481考える名無しさん:2005/03/25(金) 01:53:53
>>479
同P169から引用すると
「<私>の場合は、そのように中心化された世界が現実世界であるのに対し、
他人に中心化された世界は可能世界(←傍点付き)である」とあるように、
私以外の他人から開けている世界は、どこまでも私にとっての
この現実世界の中には組み込めないという意味で問題になる。

つまり私が他人の世界を想像しても、それらは私の想像という形で私の世界の内部に入る。
私の世界の外にある本当の他者の世界にはどうやっても到達できない、というのが他者の問題。

>>480
>神が私を見分けるって、どうやるんでしょうね?
確か、神が世界を開いている私コミで世界を作ればいいんじゃなかったっけ。
そうすれば神にはその世界における私が特定できる。

たとえばA世界・B世界・C世界…という風にいくつも世界を作っておく。
A世界は「Aさんが開いてる世界」という意味。すると神には個々の世界の私がすぐ分かる。
もちろんこのためには神は個々の世界を超越してないといけないけど。
482考える名無しさん:2005/03/25(金) 03:35:17
平行世界の創造神
483考える名無しさん:2005/03/25(金) 08:17:49
パラレルな<私>たちの世界群を創造し得る神、とは、<私>にとって神があるとしたら? という疑問ありきで導き出されたもので、言うまでもなく、神の実在を証明したものではない。
そして、ここから直接に信仰へ連結してゆくようなものでもない。
いまこの宇宙が神抜きで在りて在るように、そうした世界像も神抜きで在りて在り得る。この点で神とは世界原理の言い換えだ。

神を他者の謂ではなく、超越性の謂とするのならそれもいいが、では超越(性)への信仰とはいったいどんな事態を指しているのか。
他者や世界や未来を、その超越性ゆえ信じる(信じるしかない)という在り方と、超越性という性質そのものを信仰するという行為は、やはり結びつかない。
手の届かぬもの、存在そのものへの畏敬の念は、たぶん、誰しも持つ。しかし、そう、確かに、神抜きでも他人は信じることが出来る、それがむしろ自然かと思う。
484考える名無しさん:2005/03/25(金) 23:38:10
最近、私は「僕は今日から心をもっているんだぞ」という言葉に
ついて考えている。
485考える名無しさん:2005/03/26(土) 01:10:09
>>484
「今日」と「ぞ」に関心もったわけだ
486考える名無しさん:2005/03/26(土) 02:18:17
りかちゃんへ

このスレを見たら連絡ください。
待ってます。














487二プレス:2005/04/04(月) 16:05:57
>>479 479さん

 「他者」に問題意識を持っているのはこの私です。だから他者と神の問題を取り上げてみました。

 「私」が「開闢」として「世界を開く」以上、「他者」は「私」に回収されざるを得ない
構造を必然と持つ。(私の捉えた他者というような構造)
そのことは理解できるのです。しかしその上で、汲みつくしえない「他者」が「実在」する(!)
といえるのはなぜでしょうか?

 「他人に中心化された世界は<どこまで行っても>可能世界である」とは永井均が新書の3章で
繰り返し述べていた「回せはしても他と連動することのない歯車」という概念に相当しうるのかもしれません。
 実在する他者とはどこまで行っても完全に連動することのない(「私」にとっての)「他者」とは
いわば虚構に等しいけれど、この虚構が唯一無二の「現実の源泉」である「私」と併置されて
はじめてこの「客観世界」が立ち現れうる。
488二プレス:2005/04/04(月) 16:06:22
 しかし問題は「回せはしても他とは連動することのない歯車」=虚像としての「他者」が
背後に「実在」という「真性」を隠し持っていることにあります。(そもそも「実在」という「真性」が
なければ「他者の虚像」と呼ぶことすらできない)
 ではこの他者の実在という「真性」は何ゆえに私に捕まえられているのでしょうか。
ここはかなり一筋縄ではいかないところでしょうけれど、(私の読みでは)<わたし>と
「公(他者)」の切り離しが不可能であるということを繰り返し論じた、新書の3章での
議論が導き手になるのではないでしょうか。

 ただ残念なことにそれを十分に論じるだけの理解がいまだにできていないのですけれど。
(特に私は>>474で端的に示しているとおり <わたし> を、
言語されることによって客観化された世界では『差異』としか呼べないような
絶対的な「隔絶」として理解しており、永井均が新書の3章で論じていたような「個」と「公」の
ような関係をまったく理解できないでいます)
489二プレス:2005/04/04(月) 17:42:53
>>488
 488のモチーフを追いかけていくとどうしても「他者との遭遇体験」に
行き着いてしまうのですが、永井均自身は新書の3章で「私と同格の他者はいない」と
述べています。

 私自身はどうしても私と同格の「他者」がいるということを暗黙のうちに前提してしまっている
節があります。しかもその同格は「開闢」としての「同格」です。
 だって、そう考えなければ私は他者を鏡として、その鏡に自らの「鏡像=虚像」を
投影しているだけになってしまうのではないでしょうか。
それは「他者」が実在からはかけ離れた「虚像」から、自らの「虚像」に回収されてしまう
工程のように思われます。

 当然、「私」は「開闢」なわけですから「開かれていく中で」「他者」も捉えられるという点で
他者は「同格」というよりも「事後的」なわけですが、他者があくまで「事後的」で
甘んじるならばそこには「神」の要請される隙はどこにもない、ように思います。
本来は「同格」であってはならない「事後的」なはずの「他者」が、「同格」である。
(それは「言語」や私の言う「遭遇体験」で示されているのではないだろうか)
こういう隙にこそ「超越性=神」が潜んでいるのではないか、と疑問に思っています。
490二プレス:2005/04/07(木) 19:51:47
 私・今・そして神 の3章を読み解くために永井均のウィトゲンシュタイン理解に
近づこうと「ウィトゲンシュタイン入門」を買ってみました。

 そこでであった興味深い記述に「内側から自らを自己規定するには、外側を何らかの仕方で
つかんでおかねばならない」という内容のものがありました。
これは「明晰に語りうるもの」と「語りえぬもの」を「語りうるもの」の側から線引きするという
ウィトゲンシュタインの手法について言及したものですが、この洞察こそが
私の>>487-489の疑問にざっくりと答えるものだと今、思っています。

 永井均が <わたし> を論じることで <他者> に出会うのも不思議ではない、
というかむしろそれは必然であるとすら言える。なぜなら永井均は <わたし> を
その内部から論じ境界線を明らかにすることによって、 <他者> という外部を規定
しようとしている、と考えることが出来るからです。
491二プレス:2005/04/07(木) 19:52:14
 だから>>483で提出された疑問にはこう答えることも出来るのではないでしょうか。
パラレルな<わたし>たちの世界群=個々のモナドたち、は自らのモナドの中で
自らの範囲を自己限定していくことでしか「世界」を語ることは出来ない。
 しかしこの自己限定のためにはあらかじめ「非自己」を何らかの仕方でつかんでおかねば
ならない。つまりこの<モナド>を自己限定するためにはこの<モナド>の外部をつかんでおく必要がある。
これは明らかに、自己という閉じたモナドの「超越」がなければ、自己自身のモナドを
内部から限定することすらできない、ということを意味してはいないでしょうか。
(ここに「神」や「他者の実在」が垣間見られる地平が現れる)

 さらに考えを進めると<独我論>は <わたし> という「差異=隔絶=実質」を追い求める限りにおいて
<他者>の「実在」を前提しなければ成立し得ない、という永井均が「<子ども>のための哲学」で
いずれ論じたいと記していた構想にまで行き着くことが可能ではないでしょうか。
(そしてこの内部と外部の横断可能性を前提とすることで永井均は西田を「換骨奪胎」出来るのではないか?)
492二プレス:2005/04/07(木) 20:06:46
 ということは私の言う「他者との遭遇体験」も根本的な体験、たとえば「独我論者」が
他者の存在を確信する体験的な論拠ではありえないということになりますね。
なぜならこの「遭遇」は必然的ですらあるからです。
493二プレス:2005/04/07(木) 20:25:19
 もし、私の関心に誰もついてくる気が無いのならもう書き込むべきでは無いでしょうね。
それは慎みを欠く行為でしょうから。
(というか、もう書きたいことは永井均についてぐらいしかないのだけれど)
494ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 20:31:00
偶然は一般的な概念であろうか。
或いは、カテゴリーに相当するのだろうか。
それとも、物理法則の事であるのか。
独我論者は外部というものをどのように認識しているのかだ。
どうして偶然が必然であると考えられるのか。
495ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 20:50:31
>>490-491
他者問題の根源は自他の区別ではなく、世界と他者の区別。
<私>が内部だとすれば、外部は「世界」でありそれ以上ではないはずだが、
その世界の中に<他者>を見出すというのがなぜ可能なのかという問題。

>>493
そんなことないと思う。スレ違いのことを書いてるわけじゃないし。
496ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 21:06:39
私というものにおいて、概念と私はどのように関係しているのか。
497考える名無しさん:2005/04/07(木) 22:14:40
永井に俺の考え、つまりはネタを提供したいんだが、
彼のメアドって一般公開されてる?
498ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 22:41:30
<私>のメタフィジックスには住所が載ってる。
499ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 23:19:29
そんな古い情報がアテになるのか…?
500ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 23:21:12
千葉大のサイトに公開されてんじゃないの?
てか日本に今いるのかな
501ローカルルール審議中:2005/04/08(金) 20:01:19
俺の持ってる「<私>のメタフィジックス」は千葉県の住所だぞ。
502ローカルルール審議中:2005/04/08(金) 20:03:16
あれ?俺が持ってるのは島根だったけど・・・。
503ローカルルール審議中:2005/04/08(金) 20:19:41
みんな古い本持ってるなあ。

「ウィトゲンシュタイン入門」以降の本は全部持ってるけど、
それ以前の本ってどうなの? 
なんか内容が重複してそうな予感がして買えないんだが…。
504ローカルルール審議中:2005/04/08(金) 21:14:29
私の存在の比類なさ」はいらないだろ
その前の2冊は読んでもいいんじゃない
505ローカルルール審議中:2005/04/08(金) 21:38:30
「<私>のメタフィジックス」は俺の好きな哲学書の一つだ。
いろんな妄想ふくらませながら、楽しく読んだ。
506ローカルルール審議中:2005/04/09(土) 01:06:39
神神言いたがるやつは粘着で困る
507ローカルルール審議中:2005/04/09(土) 01:59:40
そこの粘着さがなければ伝統的な西洋哲学に取り組む意味がないと思いますが。
仏教も武士道といった日本思想にしても、ある種の超越を無視しては語れないはず。
このスレは永井のスレだから彼の関心で言えば、超越を考えなくていいのって功利主義くらいか?
508ローカルルール審議中:2005/04/09(土) 02:07:36
哲学を粘着の口実に使うのなら、西も東もない、ただのオレ哲学だよ。
超越を考えるのはいい。神は要らない。神の前にまず他者が在るのだから。
509ローカルルール審議中:2005/04/09(土) 03:40:32
超越とか神は置いといて、
ものごとを徹底的に考えるのが哲学ならば、
哲学者がある意味粘着なのは当然のこと。
ただ、粘着は哲学者の十分条件ではないわけで、
哲学とは全然関係ない粘着が大半なんでしょうね。
510ローカルルール審議中:2005/04/09(土) 10:00:20
同義反復、以上終了。
511二プレス:2005/04/10(日) 21:46:01
>>495
 とても鋭い指摘ですね。
捉えられる「他者」像が「他者」の虚像であろうが、「自己」の「鏡像=虚像」で
あろうがそんなことは関係が無い。そうすると要点は <わたし> に付随する「世界」が
<他者> という異物に侵食されていること、ということになるのでしょうか。

 そういえば、いま「ウィトゲンシュタイン入門」を読んでいますが、あの本を
読んでいると永井均がどれだけウィトゲンシュタインに負債を負っているかが
よくわかるような気がします。
 「<子ども>のための哲学」で哲学の真髄を「(哲学)すること」だけに認めていた彼が
新書においては「受け取ること」にまでその範囲を拡大したのも、負債が増大したことを
暗に彼が認めているからだとも考えられるかもしれません。

 ところで私は自らの問題意識に固執してしまって「神」について少々書き込みすぎた
かもしれません。(本当はもっと以前の失礼な書き込みを反省すべきですが)
512二プレス:2005/04/10(日) 21:47:43
 「他者」についての私の見解は、永井均の「言語ゲーム」をとおして
現れる「他者」を退けようとしていたのではないか。その上で「神」に通じる
ような「超越性」と結びついた「他者」を導き出そうとしていたのではないか。
 「神」概念のようなものを持ち出してまさに「超越」でしかありえないような
「他者」の「実質」を丸ごと捉えようとすること、私のしようとしていた事は
そのようなことではなかったか。しかし永井均の言う「他者」とはあくまで
「言語ゲーム」から演繹される帰結、つまり形式的なものだったのではないか。
 彼の「他者」が丸ごとのそれでなく、形式的なそれであったならむしろ彼は
「神」を持ち出して「他者」丸ごとをつかもうというような試みに対して批判的
であると考えられるのではないか。
 「他者」の実在は形式的でしかありえない、ということを永井均は「私と同格の他者はいない」
で言おうとしていたのではなかったか。今はそんなことを考えています。
513ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 01:47:52
レスの流れとあまり合ってなくて申し訳ないけど,漏れにとって「他者」の存在と
いうことで問題になるのは,永井均という他者の存在なんだよな(w

というのは,いくら漏れ(513)が「<私>こそが世界の中心だ」とか言ってみても,
その言い方・考え方は,漏れが自分で考えたのではなく,永井均という他人が
考えたものだ。これは否定しようがない(当たり前だけど)。
すると,世界の中心である<私>(513)以外に,世界の中心である永井均
というものも,同格のものとして存在すると考えざるを得ないんじゃないだろうか。
(なんか全体的に馬鹿みたいなこと書いているように見えるけど,<私>は
他人とはまったく違う,という出発点にこだわるならば,永井均といえども,
とりあえずは<私>の世界に現れる他人の一人にすぎないはずなので。)

さらに言うと,永井均の議論を理解して,このスレに書き込んでいるような人たちも,
やはり<私>と同格のものとして存在すると考えざるを得ないだろう。
しかし,ここまで来ると,そもそも漏れって本当に何らかの意味で特別だと
言えるんだろうか,という疑問が出てくる。
やっぱりこの議論は,わかったようでよくわからん。勝手に自己完結して失礼。
514ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 14:34:41
俺が特別ということは自明なことだ。
それが端的にわかっている人間が、永井の議論に興味を持つわけだろう。

その特別さは語りえないというのが永井の結論だと思うが。
515二プレス:2005/04/11(月) 17:04:36
>>511-512
 永井均が「他者」は「形式的」にしか捉えられないと仮に考えていたとしたら、
私のこれまでの書き込みに見られるような、あるいは>>513で提出されている
疑問で表明されるような、「実質(=差異=隔絶)」的な「他者」の存在を
信じているということは「超越」を垣間見ている、と考えられるのではないでしょうか。

 ?…自分でも読みにくいので書き直すと、
「形式的」な「他者」の実在を「超越」して「実質的」な「他者」の存在を
私(たち)が信じるとき(私にはほとんどの人がそのように生活していると思われる)、
そこに「神」の存在が垣間見られる地平が開ける、と考えられるのではないでしょうか。
516二プレス:2005/04/11(月) 17:07:00
 そして永井均が <わたし> の独在性を基礎に据える以上、「開闢」を大事にする以上、
「他者」とはどこまでいっても形式的でしかない、と考えざるをえない。
一方で私(たち)は「すでにつねに」「他者」の実在を想定しながら生きている。

 だからなんだかんだで、「他者」の実在を「超越」としての「神」が保障しているとは
永井均は口が裂けてもいっていない、と考えたほうがよいのかもしれない。
 彼の「神」も、「信仰」も形式的な「他者」でしかありえないはずのそれが
「実質的」なそれとして取り扱われるという「開闢」と「開闢された世界」の関係の
必然的な帰結として、(私の考えたような)「ねっとり」とした「信仰」ではなく
もっと「乾いた」それとして、考えるべきかもしれない。
(ちなみにマクタガートからみでB系列は結局A系列に回収されてしまう、
という永井均の主張も「開闢された世界」=Bと「開闢」=Aという二元的(?)図式で
考えるべきだと思われるけれど、それについても十分に語る知識はなかったりする)
517ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 18:58:55
神なんかいないだろ(笑
馬鹿か、おまい。

あと永井とかもなw
518ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 19:15:26
他者とは、ゲームを通じてしか関わることのできないものです。
つまり「あるゲームの対戦相手」というのが、他者の定義だと
思われます。
519ローカルルール審議中:2005/04/11(月) 19:34:37
この定義に従えば、当然コンピュータもあるゲームにおける
他者だという事になります。
いいですか。私たちは、私以外には「ゲームの対戦相手」しか
もってはいないのです。
520二プレス:2005/04/14(木) 15:58:33
>>519
>いいですか。私たちは、私以外には「ゲームの対戦相手」しか
>もってはいないのです。

 非常に興味深い指摘です。
と言うのは、「私以外には『ゲームの対戦相手』しかもってはいない」と言う指摘は
『私たち』に対して適用されているからです。これは結局この <わたし> という端的な「開け」を
どこまでいってもこの言語(私<たち>の理解する唯一の言語)は描き出すことができない、ということを
示していると考えられるからです。

 そして永井均は新書で「私」と言う言葉を使用し理解するためには、つまり「言語ゲーム」を行うためには
(ちがう?)端的なこの <わたし> という唯一の「現実」の源泉、「開闢」を捨て去って、ほかの「可能的な」
 わたし の一例として自らを引き受けることが求められる、と論じています。

 518さんの言い方を借りれば「ゲームの対戦相手」としての「他者」は、可逆的にひるがえって
 <わたし> を「(他者にとっての)ゲームの対戦相手」とする、そうすることでしか
身分の違う私と他者の間をつなぐ「ゲーム」は成立し得ない。そう言うことになるのかもしれません。
521ローカルルール審議中:2005/04/14(木) 15:59:11
          ___                _
       / ____ヽ           /  ̄   ̄ \
       |  | /, −、, -、l           /、          ヽ
       | _| -|  ・|< ||           |・ |―-、       |
   , ―-、 (6  _ー っ-´、}         q -´ 二 ヽ      |
   | -⊂) \ ヽ_  ̄ ̄ノノ          ノ_ ー  |     |
    | ̄ ̄|/ (_ ∧ ̄ / 、 \        \. ̄`  |      /
    ヽ  ` ,.|     ̄  |  |         O===== |
      `− ´ |       | _|        /          |
         |       (t  )       /    /      |
 「のびたま子って変な名前だよね!」       「ぶっちゃけ、伸びたマンコみたいな
                               響きだよね」

522ローカルルール審議中:2005/04/14(木) 21:29:10
ゲームという語はゲームではないものとの対比で成り立つと思われ
523ローカルルール審議中:2005/04/20(水) 16:53:04
永井教授・・・飛躍してる気がします

正確に表現すると

私という存在を知覚してる、のでは?

で、私という存在を知覚してる“私”が存在する、のでは?

いや、私という存在を知覚してる私が存在する、と知覚してるのでは?

すると、私という存在を知覚してる私が存在すると知覚する“私”が存在するのでは?

それなら、私という存在を知覚してる私が存在すると知覚する私が存在する、と知覚してるのでは?

ということは、私という存在を知覚してる私が存在すると知覚する私が存在する“私”が存在するのでは?

つまり…“私”は、私という存在を無限に知覚した存在なんですね
524ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 05:27:35
だからなに?
525二プレス:2005/04/21(木) 16:36:56
>>523
 永井均に訴えているのに横槍ですけれど、私はこうおもいます。
永井均論として読まない限りにおいては面白そうな洞察だと個人的には思いますが、
523さんが「“私”は、私という存在を無限に知覚した存在なんですね 」というとき
本来523さんが指していた当の“私”(つまり523さん自身)という絶対的な 私 が
その絶対的な地位を失って、たとえば永井均が読んだとき永井均にとっての 私 を指しているとも
受け取られうる。このとき決定的に取り逃しているものこそが永井均のいう <わたし> なのです。
(それは結局 <わたし> と表記したところで捉えきれるものではないのですから、強い自己否定を
内在させている言葉でもあるのでしょうけれど)

 永井均は新書でデカルトのコギトを扱うときにでも「知覚」を主題にしてはいなかったように思います。
コギトの「われ」とは結局誰を指すのかというような方向からメスを入れていました。
言語を探求したうえで言語において捉えきれない <わたし> といったモチーフを描いておいて、一見すると人を馬鹿にしていると
思えるような思考実験でそれをえぐりとろうとする。それが永井均の手口だと思います。
ですから「言語」でなく「知覚」というキーワードで永井均を論じるのは多少の困難があるのではないでしょうか。
526ローカルルール審議中:2005/04/21(木) 16:38:48
知覚は構想までだろ
527二プレス:2005/04/21(木) 16:51:31
>>526
もう少し「前後」を補って説明してもらえないと私にはよくわからないのですが。
528二プレス:2005/04/21(木) 17:06:26
 カントの話とかを持ってきたわけではないですよね。
持ってきてもご期待に添えないですよ。
529ローカルルール審議中:2005/04/23(土) 09:18:52
本気でカスだ こいつ
530ローカルルール審議中:2005/04/23(土) 17:16:08
カスから目をそむけれないクソをなんと評したら・・
531ローカルルール審議中:2005/04/23(土) 17:20:10
何でもええよう
532ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 16:11:52
新書の新刊と「翔太と猫の―」では、他我のとらえ方が違っていると思う。
私は、「翔太」のほうが正しいと思う。
533ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 22:59:23
正しいとは?
534ローカルルール審議中:2005/04/25(月) 00:11:47
というか、あんなややこしい考え方、ついていけないというだけだけど…
535ローカルルール審議中:2005/05/07(土) 01:22:58
二プレス氏>
永井論を使うと、宇宙の最初も説明できますね。
不思議なのは何故<私>がこの私なのかだけであって、
物質と法則があるから、
その前は?その前は?と続くだけですね。
一秒前に宇宙ができたのなら簡単ですが、
今の物理ではそうじゃないので、ただ
無限に過去が続いてるという理論を不思議がる結果になるんです。
536考える名無しさん:2005/05/07(土) 19:52:08
まあ、どうとでも言えるってことでしょ?
537二プレス:2005/05/09(月) 18:06:17
>>529
 あなたが何を言いたいのかはよくわかりませんが、あなたの529での結論は
まったく自明なものです。
 ところで、永井均は「この当の私」の独在性、つまり「この<わたし>だけが特別である」
という自明なテーマを延々と考え続け、しつこく議論し続けています。
 ここは永井均に関係したスレですから、自明なテーマをしつこく論じる永井均の姿勢に
習ってあなた(529氏)も私が愚かであるという自明なテーマをできるだけ詳しく説明しては
いかがでしょうか。
538二プレス:2005/05/09(月) 18:44:02
>>535
 「科学」という営みが究極的な真理に無限に接近していくことができる/しかできない、
という可謬主義的な知識観を背景にもつとき、(永井均の言う)「哲学」という営みは
それ以上遡ることのできない地点(正誤の区別のない地点)にまでたどり着こうとする。

 だから「科学」(物理というべき?)は誤りうるという利点を生かして客観的現実世界を
描写しようとする。だからいろいろなことを論じえるけれどもこの客観的現実世界を
離れることはできない。一方で(永井均の)「哲学」はそれ以上遡ることのできない地点を目指すだけで
いろいろなことを論じることはしない。「引力」や「光」、「直線」といったモチーフはそこには存在しない。
一方でその「地点」に到達するためには客観的現実世界を置き去りにすることすらいとわない。
だから5分前に世界が創造されたり、「今」「過去」が作られたりといった議論展開が可能となる。

 一言で言うと、土俵が違うのではないか、と私は思います。
539二プレス:2005/05/09(月) 20:14:58
 今日は本当は、永井均の<独我論>は<孤独論>なのではないか。
という考察を書き込みたかったのですが、なんとなくその議論展開の輪郭を
忘れてしまったので大雑把に書くだけ書いてみようと思います。
興味のない人は脳内あぼーんをしてもらって結構です。

 永井均が哲学の真髄を「すること」から「受け取ること」へまで拡大したのには
永井均が哲学の伝統から借り受けた「負債」が増大したことを暗に物語っているのかも
しれません。
 ん?ということは永井均が言う、「まだ始まっていない本当の哲学」に理解を示しうる
哲学の伝統があるということでしょうか。新書ではウィトゲンシュタインやライプニッツや
カント、ハイデガーなどの名がちらちらと出ていましたが、彼らが永井均に理解を示す伝統
なのでしょうか。
 ところでラッセルの名も何度か出てきました。しかし永井均は彼に対してはいささか冷淡な態度を
とっていたように思います。「5分前世界創造説」で彼に言及するときも「良いところまで行くけど結局だめ」的な
扱いだったように思います。新書を読みながら、他者に対する希望と(それに付随する)失望をラッセルに
重ねているなぁ、としばしば思ったものです。
540二プレス:2005/05/09(月) 20:18:31
 では、ウィトゲンシュタインらが永井均の応援団でラッセルに代表されるのが「わからず屋」
という理解で良いのかというと話はそれほど単純ではないと思うのです。
だってそれでは永井均がなぜ「本当の哲学」はまだ始まっていない、というのかが
まったく理解できないではないですか。

 結局永井均は自分の一番の理解者である(と彼が理解する)ウィトゲンシュタインすら全面的でないですが
新書の3章で批判することになります。それは確かに孤高なる哲学的な姿勢でもあるのですが…。
 ラッセルのような「わからずや」だけでなくウィトゲンシュタインのような同志とすら対立してしまう。
<わたし> の特別さ、<独在性>を語るのだから特別さを共有し得ない「ほかの者」と鋭く対立するのは
当然ともいえます。ここに<独在性>と<孤独>の近親性が表れているのではないかと、思ったりしたのです。

 <孤独>を語ると一種独特のべとついた感覚を伴ってしまいます。一方で永井均は笑い転げてしまうような
「哲学」を志向しているのですからこのような<独在性>の議論の読み替えに彼自身は不満を表すでしょう。
が、永井均の議論に一定以上の確からしさを認めたものにとっては、彼を克服するにはいろいろな観点から彼の議論を見、
彼よりも先に行くしかない。それは永井均がカントやライプニッツやハイデガー、果てにはラッセルまでもを
援用してウィトゲンシュタインを乗り越えていこうとしているのと同じような動機に支えられている。
(当然、私の実力はともかくとしておいてください)
 ということで永井均よりも先に行こうとして、永井均を読み替えていくことはむしろ彼自身が望むことなのかも
しれないとおもったりしました。
541二プレス:2005/05/09(月) 20:31:37
>ということで永井均よりも先に行こうとして、永井均を読み替えていくことはむしろ彼自身が望むことなのかも
>しれないとおもったりしました。

 結論はこうじゃなくて以下のようになるべきですね。

「本当の哲学を始めるために永井均を読み替えていくことは、彼自身がラッセルやカントやライプニッツを
読み替えることを認めていることからも、彼が不満に思っても反対はしないだろう。」
542二プレス:2005/05/09(月) 20:43:01
>>541
ん?これもちょっと違うなぁ。
でも疲れたからもういいか。
543考える名無しさん:2005/05/16(月) 03:46:55
要するに
<私>や<今>や<現実>や<神>は
それ自体における内的同一性ではなく
世界の開闢性であるということだ
だから同じ種類の他のものと対比された時には
どうしてもそのもの自体における内的な同一性として現象してしまう
これまでの哲学はみなそこのところを誤解してた・・・
544考える名無しさん:2005/05/16(月) 23:59:15
愚者に自分の愚かさを悟らせようとすることほど愚かな試みはない。

愚者よ自ら悟るべし、だ。まあ成功例を見たことはないが。
545考える名無しさん:2005/05/17(火) 04:34:48
>>543
違います。
あなたの言葉を使うなら、
それが同時にまた「それ自体における内的同一性」でもある、
というところがミソなのですよ。
必ず「同じ種類の他のもの対比」されてもいるから。
だから、これまでの哲学が誤解だったわけではない。
ただ、神や現実のような「開闢性」とのつながりが考えられていなかったとはいえる。
546考える名無しさん:2005/05/21(土) 19:08:59
つまり、自己言及と開闢との関係ということだよね?
自己言及性が存在することと世界の開闢が存在する(そこから世界が開闢する)ことは独立だろう。
でも、自己言及が開闢的でないことは可能だけど、逆は不可能ではないのか?
どうしてか分からないけど・・・・・
547二プレス:2005/05/21(土) 21:23:07
 >>546
「自己言及」や「内的同一性」という言葉の意味が私にははっきりしないのですが
レスをさせてください。

 永井均がウィトゲンシュタインに最も感銘を受けているのは(おそらく)、彼が
独我論を正しく守ったことにあるのではないでしょうか。
 言語ゲームの外部は端的に存在しない、と永井均は考える一方で<独我論>は「存在しない」
「外部」に向けて放逐されたとも考えている。
(その点では私には「自己言及」――つまり言語ゲーム内での行為――と「開闢」という二項関係で
彼の言う<独我論>を捉え切れるのか疑問がある)

 ただ、永井均のウィトゲンシュタイン評にはもうひとつの奇妙な指摘がある。
それは彼(ウィトゲンシュタイン)をしても「本当の哲学」を始めていないという指摘である。
そのことはいまだに「本当の哲学」が始まっていないと彼が主張することからもうかがい知れる。
そして永井均が言うには「哲学」とは倒錯的な努力に血眼になること、と定義できる。
(たとえば永井均自身が「言語ゲームの外部に放逐された」はずの独我論を「言語ゲームの内部」
――たとえば書物、講義、演習――に引き戻そうとするように)
(ウィトゲンシュタインが後期において独我論を語らなくなったのはそれを言語ゲームの外部に放逐したからであり
確かに彼は独我論を正しく守ったが、しかしそれは哲学的、倒錯的な努力を欠いていたと永井均は見ているようだ)

 「哲学=倒錯的努力」という形式を受け入れるとき、「自己言及」というキーワードでもって
われわれ(!?)の問題領域はひらかれていくかもしれないですね。
548二プレス:2005/05/21(土) 21:29:50
どうかなぁ、開かれないかなぁ?
どっちかというと開かれないんじゃないかと当初は思っていたんだけど、
こういう結論になっちゃったしなぁ。
549考える名無しさん:2005/05/21(土) 23:51:38
永井は,ウィトゲンシュタインが独我論を正しく守ったとは思って
いないんじゃないだろうか。なにせ,永井は,独我論についてあれこれ
語っているんだから,ウィトゲンシュタインが正しいのなら永井は
間違ったことをしていることになる。(ウィトゲンシュタインは独我論を
語り得ないと考えて,そして実際に語らなくなったという意味で,
首尾一貫させたとは言えるだろうけど。)

まあそれはともかく,私が他人たちと同じ種類の「人間」の一例だと
理解するのが(通常はそうだろうけど)必然だというのは,よくわからない。
他人と私との違いは非常に大きいんだから,子どものころから「人間」
について教えられてきたにもかかわらず,どうしても理解・納得しない
ということは可能だと思うんだけど。
他人との間で言葉を使う以上は,私と他人が同じ種類であることは前提に
なるかなあ。でも,私が「赤いリンゴ5つ」と言って,リンゴ屋さんがそれに
対してリンゴを持ってきてくれれば,それでつまり言葉を使えていることに
なるわけで,私とリンゴ屋さんが同じ種類である(例えば同じような心を
持っている)なんてことは関係ないような気がする。
550549:2005/05/22(日) 00:02:32
…と思ったけど,そうはいかないか。
『ウィトゲンシュタイン入門』に出てくる,子どもが「歯が痛い」という言葉を
学ぶ場面では,子どもは自分がどういう場面で「歯が痛い」という言葉を
使えばいいのかを,周りの大人が「歯が痛い」と言っている場面を通じて
学ぶことになる。(考えてみると変な話だけど,多分そのとおりだろう。)
そうすると,やはり,言葉を学ぶには,私と他人が同じような心を持っていて
同じように痛みを感じている,ということが前提になるのかな。
551考える名無しさん:2005/05/22(日) 13:53:26
・・・それでも疑問に思うのが

ほかの人は勝手に動くのに
私は自分で動かさなきゃいけないことだ

これは私が他の人とは異質なことの最も大きな理由である
552二プレス:2005/05/25(水) 20:57:25
>>549
 具体的な論点を出していただいて非常にレスをしやすいです。
ところで私は永井均は自覚的に(それゆえに倒錯的に)「言語ゲーム」に引きずり出されることのない
<独我論>を「言語ゲーム」に引きずり出そうとしている、のだと思います。
その点で、永井均は間違っている(倒錯しているというべき?)といえると思います。

 ウィトゲンシュタインを引き合いに出せば、永井均は後期ウィトゲンシュタインの思考を継承しながら
前期ウィトゲンシュタインの立場を(自覚的に)とっている、のではないかと思います。
 ウィトゲンシュタインは後期において「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と
語ることすらしなくなった。「語りえない」と語ることすらしなくなった後期の姿勢、
その基底をなす諸概念を継承しながら一方では「語りえない」と永井均は語る。
それは後期の思考で前期の立場にたつ、と考えられるのではないかと思います。
553考える名無しさん:2005/05/25(水) 21:12:10
>>552
いや、ウィトゲンシュタインの言う「語りえない独我論」は
「語りえない」というかたちでどこまでも語りえてしまうんじゃないの?
現に永井が(それが語りえないことも含めて)語ることにより、
なぜ語りえないのか、何を語りえないのかは俺らに伝わってしまうわけで。
554二プレス:2005/05/25(水) 21:12:41
 「りんご 5つ」の件は、
言語使用者の「考え」や「心」のような類のものが「言語ゲーム」の背景にあって
その背景のものを映す影のような役割として言語があるのではない、という指摘と
私は受け取っています。
だから、むしろ「言語ゲーム」はその背景を抹消したと私は考えています。
そしてこここそが『入門』の問題点なのではないでしょうか。
(この抹消された部分に<独我論>が含まれている!?)
555考える名無しさん:2005/05/25(水) 21:18:12
>>554
俺の読解力のせいだろうけど、何が問題点として示されているのかよく分からない。
もうちょっと詳しく頼む。
556二プレス:2005/05/25(水) 21:34:16
>>550
 これは私にはとうてい手に負えない厄介な問題ですが、
私が最初に思いついたのはラカンの鏡像段階の話です。
われわれは幼児期に自らの鏡像にナルシス的に魅了され、分裂症の契機を
進んで抱え込む、とかいうようなやつ、不正確にはしょってるかもしれませんが。
 ともかく「歯痛」を学ぶというテーマの裏に「自己」のうちに潜む
「他者」というモチーフが隠されているのかなと最初は思いました。

 でも今は、永井均が(いやウィトゲンシュタインはと言うべきか?)
「言語ゲーム」は 「この」 歯痛を捉えきれないんだ、という主張をしていたのではないか
と思っています。
 「言語ゲーム」においては 「この」 という端的さが破棄されてしまう、
と永井均は考えているのですから。(それゆえに独我論は「語りえない」)
557二プレス:2005/05/25(水) 21:36:00
>>551
 こういうのはとても永井的な観点ですね。
すごいと思う。私はとても普通な観点だろうから。
558二プレス:2005/05/25(水) 21:43:04
>>555
 つまり「言語ゲーム」においては「他者」が
「同じような心」を持っている必要はない、のではないかと言いたかったのです。
『入門』でも再三「言語ゲームには外部がない」と述べていたのではないでしょうか。
「心」のような「外部」は「言語ゲーム」には存在しない、ということではないかと
私は考えているのですけど。

(ちなみに私の文章力のほうに問題がありそうですけど)
559二プレス:2005/05/25(水) 22:02:52
>>553
 そうですね。でも、それが伝わってしまうことこそが<独我論>の真髄、
<わたし>の特別さをぶち壊してしまうのだとおもいます。

 <この> わたし は特別だと言う<この>特別さが誰かに伝わるとき、伝わった当人にとっての
特別さとして <この> 当の わたし の特別さが変換されてしまうのではないでしょうか。
永井均の<独我論>に私たちが触れるとき、一方で私たちは永井均の 当の 特別さには触れることが
できない。だからこそ語りえない。

 「他と違う」と言う <この> わたし 以外のわたし(=他) に<独我論>は適用されてもならないし
触れられてもならないはずなのです。だから「言語ゲーム」と言う「公的な枠組み」に乗っかってはならないのです。
560二プレス:2005/05/26(木) 13:52:41
 永井均は「後期ウィトゲンシュタインを読む者はウィトゲンシュタインが
言語ゲームにおいて何を断念したかを知らなければならない」というようなことを
言っていたように思います。(確か『子どものための哲学』で)

 彼の言う「ウィトゲンシュタインの断念したもの」こそが独我「論」なのです。
しかしその「断念」だけが独我「論」の言わんとしたことを守ることができる。
けれどもそれを認めた上で彼はその「断念」には哲学的情熱やそれと不可分な倒錯的努力が
欠けていたと考えている。だから彼はウィトゲンシュタインが断念したものを
再び「言語ゲーム」上に乗せようする。

 このように何重にもねじれた構造はそれだけである種の人々(素直な方々)を
遠ざけてしまう力を持っているでしょう。
ウィトゲンシュタインがマルコムたちのようなよき理解者を得たことを永井均は
羨望交じりに『入門』に記している。永井均がよき理解者に恵まれないのだとしたら
それはこのような複雑なねじれに原因があると考えてもよさそうなものです。
561二プレス:2005/05/26(木) 15:04:46
 独我論の言わんとしたことは「言語ゲーム」に引きずり出されるたびに
損なわれてしまう。だから独我論を語ることを放棄して独我論を守る。
(守られたそれは論といえるのか?)

 とりあえずこのような私の理解に問題がなければ、私には思うことがあります。
確かにウィトゲンシュタインは独我論を正しく守ったけれどもその正しさとは
強引にたとえて言うなら「どうせ死ぬんだから生きない」というような類の正しさ
なのではないでしょうか。

 そこにウィトゲンシュタインの自殺願望が投影されているのかどうかはよくわかりませんが、
この種の正しさには決定的にある方向に向かっての情熱や努力が欠けている事はわかります。
 何の役にも立たない。普通(?)の人が最初から立っている地平に渾身の力を振り絞って
たどり着く。ウィトゲンシュタインや永井均の努力がこのように形容されるとき、
そこにも「どうせ死ぬんだから生きない」というような類の正しさの影が垣間見られうる。
 「今ここ」や「私」を私たちが追い求めるとき不毛さを承知で歩を進める勇気と無縁ではいられない。
その点でウィトゲンシュタインの正しさは永井均の不毛さに遅れをとっているとは思う。

 ん?なんだか人生哲学っぽくなってきたなぁ。
562考える名無しさん:2005/05/26(木) 21:07:22
その昔、信大の人文学部に在籍しておられた(現千葉大の)哲学者、永井均氏と
話し合ったことがあった。そのテーマは学問領域と禿げの関係である。簡単にい
うと「いかなる学問をやると禿げるか」ということであった。

いまから15年ぐらい前のことだから、わたし自身もわたしの周囲にいた歴史学者
たちもまだ若くて、禿げている人は例外的な存在であった。その当時わたしは「歴
史学者に禿げは少ない」という仮説をひそかに抱いていた。

その仮説を永井氏とともに検証したのであるが、氏は断固たる確信を持って明言
された。「哲学をやると禿げます」と。

「あることを徹底して考え抜くと、どうしても頭に血がのぼります。これが血行を促進
して発毛を促すと考える人もいますが、ぼくはそうではないと見ています。頭に血が
のぼって脱毛が激しくなるのです」という氏の説明を聞いて、わたしは哲学関係の知
人を思い浮かべながら深く感じるところがあったのをおぼえている。
563考える名無しさん:2005/05/26(木) 21:45:30
>これが血行を促進して発毛を促すと考える人もいますが、
>ぼくはそうではないと見ています。頭に血が のぼって
>脱毛が激しくなるのです

さすが、ウィットで気がきいたお茶目な冗談だな。上手い。

564考える名無しさん:2005/05/26(木) 22:15:56
べたべたやん・・・
565563:2005/05/26(木) 22:35:48
>>564
漏れの冗談も理解すれよ。

だからこの場合、564タンは、>おおまさに神 とか返さないと
お笑いの構図、構造が狂いまつよ。wwwwwwwwwwww
566二プレス:2005/05/29(日) 21:37:03
 おっと、こういう公共の場で饒舌に永井的な問題意識を語ることなぞは
慎みを書いた行為でしたね。

 もうこういうのはよすとして、竹田と永井均が直接対談したという噂を小耳に挟んだのですが
その内容をぜひ知りたいです。どうしたら読めるんでしょう?
567考える名無しさん:2005/05/29(日) 23:35:29
ニーチェについて対談したやつなら、竹田の

『現代社会と「超越」―竹田青嗣コレクション〈4〉』
ISBN:4874152147
415p 19cm(B6)
(福岡)海鳥社 (1998-01-20出版)

に収録されてますよ。昔読んだけど内容は忘れました。
568考える名無しさん:2005/06/02(木) 05:58:27
しかし、あれ
後半の、永井がしゃべり始めるところがぜんぶ脱落していて、
後から冊子が差込まれている。
ところが、図書館なんかでは差込がないまま置いてあったりする。
差込がないまま読んだ人は、
何が話されたのか、ぜんぜんわからんだろう。
脱落したまま買ってしまった読者はいったいどうなるんだ?
ひどい本、というか、ひどい出版社だな。
569考える名無しさん:2005/06/03(金) 02:47:31
漏れが読んだのには冊子なんて差し込まれてなかったけど
たしかに短すぎてまだ何も話されてないような・・・
あれって途中なの?
570考える名無しさん:2005/06/03(金) 17:08:56
そんなことより、
応用問題を解くように、って言ってるけど
どの部分がどのように応用されているのか、
がよく分からない。
漠然とはわかるような気はするけど
だれかよく分かる人いる?
571考える名無しさん:2005/06/03(金) 19:20:39
永井均は幼稚
同じ内容の事を書くにしても

永井の場合
「善いとされることは、人が好いと思うことで、悪いと〜」
という感じに冗長なのに対し

福沢諭吉の場合
「善悪の標準は人の好悪によって定まる」
と簡潔にまとめている
572考える名無しさん:2005/06/04(土) 05:19:19
それは『〈子ども〉のための哲学』しか読んでないから。
子ども向きの本はもちろん子どもっぽく書かれているけど、
普通の本は普通だし、
『倫理とは何か』では「好悪」という概念は使われていない。
しかし、
どう応用問題を解くように解かれているのかは俺にもわからない。
573考える名無しさん:2005/06/04(土) 05:24:13
飲み会にはいったのかね?
574考える名無しさん:2005/06/04(土) 22:38:08
>>568
>>569
アドレス忘れたけど、
567に書いてある出版社に請求すると、
ただで送ってくれるよ。
そしてあの部分は重要。
575二プレス:2005/06/05(日) 21:40:40
>>570
 私にもよくわからないです。ただ『<子ども>のための哲学』の巻末あたりに
<独在性>の議論と「倫理」についての考察は同じ根幹を共有しているとして
「究極的なところでは他者と共有される『問題』であり続けることが出来ない」と
永井均はつづっているはずです。
 個人的にはこの部分に強く注意を払って永井均の議論を見なければならないと
考えています。
576二プレス:2005/06/05(日) 21:45:20
>>567
 ありがとう。図書館にいってもあるのかなぁ。
暇になったら探して見ます。
 偶然今、「これがニーチェだ」を読んでいます。
577二プレス:2005/06/05(日) 22:05:31
>>571
 …それは少し永井均に対して厳しすぎるのではないでしょうか。
例えばウィトゲンシュタインのようにかなり端的に自分の問題を表現する人もいますが
そういう場合何が問題にされていたのかですら論争になってしまう危険性があります。

 注目すべきは端的に自分の問題を表現する人物、たとえばウィトゲンシュタインについて
彼は哲学的な、倒錯的な努力が欠落しているという評価を下していることです。
 また『翔太と猫の−−』ではハイデガーが「存在」と「存在者」を区別して「存在」のほうは
「無」であると述べたことについて、その表現に一定の理解を示しながらも、
その表現が不適切であるとして、ハイデガーがそもそも適切な表現を心がけていなかったと
論じています。永井均から言えばハイデガーにもまた倒錯的努力が欠落していたのでしょう。

 一言でいえば冗長であるとあなたが感じるのも無理はないはずなのです。
それこそが永井均の言う「哲学」(の魅力)なのですから。
(新書の「はじめに」で芸術と哲学を対比する箇所を参照してみてください)
578考える名無しさん:2005/06/05(日) 22:35:18
冗長な固定ハン
579考える名無しさん:2005/06/07(火) 04:17:43
>>568
あれはわざとだったという説がある。
あとで抗議を受けて慌てて冊子を挟んだらしいよ。
580考える名無しさん:2005/06/08(水) 06:47:50
『私・今・そして神』読んだが、さっぱりわかんねwwwwwwwww
581考える名無しさん:2005/06/08(水) 06:49:34
永井くらいのあいまいでいい加減な思想なら、
ちょっとませた高校生のほうが上だよw
582考える名無しさん:2005/06/08(水) 08:44:37
なんだと、このやろ!
583考える名無しさん:2005/06/08(水) 22:53:17
今度、カールマルクスと飲み会やるんだけど・・・
聞いてほしいこととか、やってほしいこととかある?
584二プレス:2005/06/09(木) 16:25:33
 「これがニーチェだ」を今読んでいますが、「言語ゲーム」に関連して
どうしても気になって仕方ないことがあります。
 >>471で「言語ゲーム」を成り立たせるものとしての「実質」という話が出てきますよね。
新書でもたしかウィトゲンシュタインの「確実性の問題」に触れながら、
「言語ゲーム」を成り立たせるものとしての「実質」的なものを「私的言語」に
重ねながら論じる箇所があったと思うのです。

 でも、「言語ゲーム」に外部はないはずです。だってその「言語ゲーム」を成り立たせているはずの
「実質」も、「私的言語」ですら今ここで「言語ゲーム」上に引きずり出されてしまっているのですから。
結局、それを成り立たせているものですら「言語ゲーム」内部に包み込まれてしまう。
(それが「汎言語ゲーム」という言葉の意味だろう)

 ということは、「実質」も「私的言語」も<わたし>も(独我論化された)「今」も
「言語ゲーム」を可能ならしめるために「あると考えられなければならない」全てのものたちは
永井均がそう語るたびに、どこまでも、後方に退いていくということになりはしないだろうか。
 ここに『<私>のメタフィジックス』というタイトルの理由が示されはしないだろうか。
それはどこまで行っても得体の知れない「メタフィジックス(形而上学)」という批判をまぬかれ得ない。
とくに現代の「ウィーン学団」ともいうべき誤解者(というよりも敵対者)たちにとっては肝心の
「メタフィジックス」の部分が言葉遊びでしかないと写るだろう。
585二プレス:2005/06/09(木) 16:39:02
 とは言っても私は『<私>のメタフィジックス』を読んでいないのですけどね。
586471:2005/06/09(木) 18:33:12
>>584
「実質」は言語ゲームを成立させるものじゃないよ。
というか、俺はどこにもそんなこと書いてないはずだが…。
587考える名無しさん:2005/06/11(土) 03:47:23
>>580
あの本は実は全面プロ向き。
というか、
永井哲学は本人の表向きの宣伝文句に反して実はきわめてプロ向きの哲学で、
シロウトにはまず絶対に理解できない代物なんですよ。

>>584
あの対比を使うなら、
言語ゲームを成り立たせるものは、
もちろん、実質ではなく差異です。
588考える名無しさん:2005/06/11(土) 04:41:13


笑い杉てしまいました。
589考える名無しさん:2005/06/11(土) 18:32:09
>>587>永井哲学は本人の表向きの宣伝文句に反して実はきわめてプロ向きの哲学

ちょっと留保をしたい。
1、文字通り専門家に向けて書いた「<私>のメタフィジックス」など剄草書房の本三冊。
2、対象層の水準によって難易度が違うもの。
  <子ども>>翔太>>>>>>>>>>子どものための哲学対話
3、「マンガ」以降「転校生」「そして神」は、時間論などの比重が増した。
  この頃から、以前にも増して、好みのおもむくまま書くようになった印象。
  (>>580<子ども>からいきなり「そして神」に飛ぶと分かりにくいかも。
   マンガと転校生を読んでからのほうがとっつきやすい)
4、入門書の類
590考える名無しさん:2005/06/11(土) 19:43:32
一応永井が関わった人物と比較

大庭健よりは確実に良い
竹田青嗣よりは確実に面白い
現在の柄谷行人よりは有益

褒めたことにならんかw
591考える名無しさん:2005/06/11(土) 20:21:13
柄谷とはなにで関わったの?
592考える名無しさん:2005/06/11(土) 22:20:12
探究の書評を書いて、高橋哲哉らに送付した過去がある
あと、最初の著作の後書きでも、探究Tから引用
593考える名無しさん:2005/06/11(土) 22:35:19

>あの本は実は全面プロ向き。
>というか、
>永井哲学は本人の表向きの宣伝文句に反して実はきわめてプロ向きの哲学で、
>シロウトにはまず絶対に理解できない代物なんですよ。

こういうことを真顔でいえるのは信者の証。


>現在の柄谷行人よりは有益


594考える名無しさん:2005/06/11(土) 23:27:54
つーか、昔は大澤真幸に賛意を示したりもしてたんよ

「流行思想業界の下らなさ」とか言い出すのは90年代以降なんで
595考える名無しさん:2005/06/11(土) 23:48:12
ここの煽りは柄谷読者だったのか

柄谷は内省と遡行までは哲学してたね
最近のトラクリなんかはすっかり世のため人のため状態だけど

まあ永井も左翼系の本読んでた時期があったそうだから、柄谷にコメントしていてもおかしくはないと思うが
596考える名無しさん:2005/06/12(日) 06:06:37
信者ではないが「プロ向き」という評価には基本的に賛成。
現に存在する(素人はふつう知らない)学説を実は暗に批判している場合が非常に多いから。
それだけ読んでも何を問題にしているのかさえわからない。
批判対象を名指さないという悪癖は大森荘蔵に由来するのではないだろうか?
597考える名無しさん:2005/06/12(日) 06:10:28
延棒
598考える名無しさん:2005/06/12(日) 12:05:09
>>596
何を問題にしているのかわからない、とはどういうこと?

わざわざ批判論文を書くときや書評を書くときは別にして、
そもそも、すでに存在する学説を批判したり、他人の考えを批判するのは、
ある意味暇人のおせっかいに属することで、基本的には時間の無駄じゃない?
批判対象を明示しないと文章が書けない、哲学できないのであれば、
業界に対する意識が強い、悪い意味でのプロだと思う。
599二プレス:2005/06/12(日) 21:21:17
>>586
 …そうなのか。『差異と実質』に直接あたってみます。
600二プレス:2005/06/12(日) 21:25:14
>>596
 私は「プロ向き」という評価はどうなのかなぁ、と思います。たしかに
「これ聞いたことある」というような話が出てきてそれが批判されるというような
経過はよくありますけど、それはむしろ「これ聞いたことある」というような話を
主題化しないためのテクニックなのではないかと思うのですが。

 永井均が「わからない人にはわからない」というのは(永井均の言う)「哲学」の領域が
「明晰に語りうる」領域ではないから、というのもその一因なのではないでしょうか。
というか、問題領域はすでに「語りえず示しうる」ものとしての わたし ですらないはずです。
「語りえず示しえない」ものとしての <わたし> (だからこれはナンセンスでしかありえない)
こそが問われる領域に私たち(!?)はいる。
 だからこそウィトゲンシュタインは後期以降「独我論」を否認したと解されるほどに語らなくなった。
「語りえず示しうる」のであれば、彼が「独我論」の立場をとる限りそれは示されねばならない。
「独我論者」でありながらそれを示しさえしなくなったとしたら(ここに永井均は驚嘆しているわけだが)、
「独我論」の言わんとしていることは「語りえず示しえない」ものである。
ここで奇妙なことが起こっている。それは「語りえず示しえない」ものが「伝わっている」ということである。

 だから永井均の問題領域はついに「語りえず示しえない」ものを「伝える」という地平にまで到達していると
私は理解しています。
 永井均の問題領域は唯一とすら表現できない原点としての 私 をつかめるか否かにまずかかってくる。
そこにプロとノンプロの違いはおおよそかかわり無いように私には思えます。

 ちなみに「実質」というものがこういう文脈で関わってくるのかと思っていました。
601考える名無しさん:2005/06/12(日) 21:28:14
> そもそも、すでに存在する学説を批判したり、他人の考えを批判するのは、
> ある意味暇人のおせっかいに属することで、基本的には時間の無駄じゃない?

哲学も含めて、学問と言うのは批判の積み重ねで発展していくものなんですが。
602考える名無しさん:2005/06/12(日) 21:30:19
>>600
「裸の王様」原理で成立するカルト宗教みたいだな。
603考える名無しさん:2005/06/12(日) 21:40:44
邪信
604二プレス:2005/06/12(日) 21:51:48
>>600
 だから「語りえず示しえない」ものが「伝わる」ということすらナンセンスなのですが…。
それを解きほぐしながら考えていこうとしているのが『私・今・そして神』なのではないかと思っていますが。
あれが非常に難解なものであるという点ではおそらく多くの人と一致するところでしょう。
605二プレス:2005/06/12(日) 21:58:25
>>601
 永井均は諸哲学説のカタログのような哲学史の教科書を批判していたと思います。
そういう彼の立場からしてたくさんの哲学説を自分の本に載せて紹介することは
(結果的にそれを批判するにしても)気が引けることなのではないでしょうか。
606考える名無しさん:2005/06/12(日) 22:01:32
>>601
学問としての哲学、少なくとも諸学の基礎としての哲学は、永井にとってどうでもいいことでしょう。
ウィトに対しても、単に一部の人のためにしか意味のない問題をしつこく考えた人と見てる訳だし。
607二プレス:2005/06/13(月) 17:00:30
 昨日の晩から今日の昼間にかけて『差異と実質』を読みました。
>>586>>587
 …私の読みではあの論文ではやはり「実質」が言語ゲームの成立に欠かせない、
「差異」の根っこである、と論じられていると思うのですが。

 いや、たしかに「言語」=「差異」であるという指摘はソシュールを引用したりしながら
永井均自身が繰り返し強調していました。
また、「実質」はチェスにおける駒の形状や材質にあたるもの、つまり「言語」=「差異」にとって
「外部」に当たるものとして論じられていました。(それに対して「ルール」や「駒の数」は「内部」にあたる)
608二プレス:2005/06/13(月) 17:01:22
 ですがあの論文のどこにも「差異は浮遊している」というようなことは書かれていなかったはずです。
むしろ「図」(P260)で示されているように「差異」としての区分線は「実質」としての「面」(を表す線)の
内側にしか書かれえない。だから「実質なき差異(浮遊した差異)」は存在し得ない。
 でありながら一方で、「赤」という言葉を発するとき発話者がどのような明度、濃度の色彩感覚を
保持しているのかという「実質」は問題にならない。なぜなら「言語」とは「差異」だからである。

 私には「実質」なき「差異」は存在し得ないように思われるが、他方では「差異」だけでも短絡させて
説明ができる永井均はという。(「実質」が語りえず示されえないものならば、そういう説明は一面で正しい)
 このように『差異と実質』という古い論文で問題にされていたことはそのまま『私・今・そして神』で
問題にされていた「開闢」=<私>と「開闢された世界」=「客観的世界」の図式と見事に重なる。

 …>>584の私の見解が明らかに間違っているのは「実質」を「あると考えられなければならない」と
している点でしょう。実は「ないとも考えられうる」と言うべきでしたから。
609考える名無しさん:2005/06/13(月) 21:37:44
永井と飲み会やんの?よろしくゐっといてよ
610考える名無しさん:2005/06/13(月) 21:50:49

永井くんに、こないだ貸した 2000 円、早く返してくれ、

と、言っといて、えっ ?  そう言えばわかるからっ !
611考える名無しさん:2005/06/14(火) 00:43:51
>>608までの流れを読んでいたら,なんか,このスレで議論している
漏れらのような人間こそが「現代のウィーン学団」であるような気がしてきた(w

つまり,永井にとっては<私>なり「実質」なりこそが重要であって,しかも
永井自身の<私>だけでなく他者の<私>まで議論しようとしているんだけど,
永井の議論についていこうとする人間は,「<私>は結局は語り得ないはず
ではないか」という方向に傾いていって(議論を理解しようとすれば,そうなら
ざるを得ないとは思うけど),実は永井本人にとって重要であるものを切り捨て
ようとしているんではないか,ということね。
612考える名無しさん:2005/06/15(水) 20:09:28
>>587
>永井哲学は本人の表向きの宣伝文句に反して実はきわめてプロ向きの哲学で、
>シロウトにはまず絶対に理解できない代物なんですよ。

永井の本をおもしろく読んでる私は、プロだったのか…
613612:2005/06/15(水) 20:18:58
それとも、バカが錯覚起こしているだけだとでも言うのかな。
614考える名無しさん:2005/06/15(水) 20:31:04
じゃあ俺はプロ!
615考える名無しさん:2005/06/15(水) 20:45:41
プロもうひとり。
616理系な哲学好き:2005/06/15(水) 21:03:00
>>587
>永井哲学は本人の表向きの宣伝文句に反して実はきわめてプロ向きの哲学で、
>シロウトにはまず絶対に理解できない代物なんですよ。

 >>612さん同様に、

永井の本をおもしろく読んでる私は、プロだったのか…wwww
っていうか、永井は理系的だから。wwww
617二プレス:2005/06/15(水) 21:12:14
>>611
 そうですね。言われてみれば、私たちは原理的に「現代のウィーン学団」
でしかありえないのかもしれません。
永井均の<独我論>という問題領域に私たち(!?)は果たしてたちうるのでしょうか。

 ただ、今私が思うのは、永井均の挑戦は「あると考えなければならない」と「ないとも考えられうる」
というお互いに打ち消しあう性質のものをひとつにつなごうというものなのではないか、ということです。
それは今、『私・今・そして神』で「開闢」と「開闢された世界」という形で論じられているものです。
 それはいずれ「あると考えなければならない」端的なこの<わたし>と、「ないとも考えられうる」そのほかの
<わたし>とをつなぐことになるかもしれません。
その過程で私たち(!?)のウィーン学団性についても何らかの返答があるのかもしれないと思ったりします。
618二プレス:2005/06/15(水) 22:07:38
>>611
 ひょっとして611さんが私の立場について誤解している可能性があるかもしれません。
私は(永井均の言う) <わたし> というものが「語りえず示しえない」ということに関心を持っています。
しかしそれは「伝わっている」のではないか、とも思っています。
いわば「語りえず示しえないものが伝わっている」という立場にあります。
これは「言語ゲーム」の内部においてまったくナンセンスな立場であるとは思いますが。
619考える名無しさん:2005/06/18(土) 20:07:17
永井的<私>が「語りえない」っていうことが、どうして哲学的な問題になるのか
漏れはよくわからないんだよな。それって赤という色が他人の目にどう映っているのかは
永遠に比較のしようがないってことと同じような、端的な事実ってだけの話じゃないのかな。
それとも永井はその「事実」を強調することで、何か別のことを言おうとしてるのかな?
620考える名無しさん:2005/06/18(土) 21:23:57
>>619
A:
「誰にとっても、自分の見ている色しか分からない」という場合、
その分かる色がなぜ「この私」の見ている「この色」でなければならないのか
ということには触れられていない(答えられないだけではなく、問われてすらいない)。
問題がこのように文法的事実として捉えられると、一般化され誰にでも妥当してしまう。

B:
しかし、「私には、“この私”の見ている“この色”しか分からない」という場合では、
他でもありえたのにどうしてこの私なのか、どうしてこの色なのか、
ということを問題にすることができる(……けど、別に答えが得られるわけではない)。

C:
と、こう考えたとき、しかしBもやはり誰かに理解されうる(誰でも理解しうる)なら、
やはりBは「この私」の問題には触れていないことになる。ここに本当の問題がある。
<私>の語りえなさが、「<私>は語りえない」という形で一般化され語られてしまうという矛盾。
こういう構造を永井は語りたいんだけど、それを「そういう構造」として捉えるとまた一般化され(ry
621620:2005/06/18(土) 21:29:41
……と偉そうに長文書いちゃったけど、漏れもよく分からなくなってきた_| ̄|○
書いてるうちは分かってたつもりだったのに、自分のレスを読み直してるともうだめぽ
622考える名無しさん:2005/06/18(土) 23:41:02
「ここに語り、伝えられないものがある」と言葉にすることが出来る。
その言葉自体は語れるし、伝わる。

「ここにはリンゴが無い」ことは言葉に出来るが、ここに無いリンゴは絵に描けない。
示し得ないものが伝わるのは、むしろ言語にとって本来的。

それは陰画のようなものだ。
実像はわからない(絵には描けない)が、輪郭から推測できる。
623永井的角栄:2005/06/19(日) 00:36:49
まぁ このぉ<私>の神秘は語りえんじゃろ

624考える名無しさん:2005/06/19(日) 10:44:31
他人との関係だけでなく,過去や未来の自分との関係でも全く語り得ない
となると,哲学的な問題と言えるかどうかはともかく,びっくりする話では
あるんじゃないですかね。

1.昨日の自分の日記「このリンゴは赤い」←実は,今の私なら青く見えている
2.今の自分の日記「このリンゴは今日も赤い」←そのとおり赤く見えている
3.明日の自分の日記「このリンゴはやっぱり赤い」←実は,今の私なら酸っぱい味がしている(?)

こういう状況であっても,「リンゴは赤い」という言葉は何ら問題なく
使用されている。ということは,言葉は,今の自分の見え方・感じ方
という,最も大切,確実と思えるようなものを,何ら捉えられていない
ことになる。はたして,これを単なる事実と言って済ませていいものかどうか。

(新刊の「絵日記ほど恐ろしいものはない」あたりは,このような話のことだと
思うんだけど,難しくてなかなか頭に入らん。)
625考える名無しさん:2005/06/20(月) 02:01:54
もしある朝起きてみたら、私の肉体が姿かたちだけでなく、性格や記憶も含めて、
まったく同じ二つの体に分裂していた場合を想像してみよう。

見かけも性格も瓜二つの存在があり、しかもその一方に<私>がいる場合、
その一方の側に<私>がいることは端的な事実として現れるが、
その一方に「配剤」されたことの条件もしくは理由を考えることができるだろうか?

これは哲学的疑問というより、宗教的な問いのように思える。
626唐辛子:2005/06/20(月) 07:41:31
>その一方に「配剤」されたことの条件もしくは理由を考えることができるだろうか?
座標じゃないですか?A点にある肉体とB点にある肉体は周囲からの影響が違う

多重人格にこの問題のヒントがないだろうか?
肉体は同じだが、この間は私はAさんでなくBさんだった。
私がBさんの時はAさんの記憶は無く、Aさんの時はBさんの記憶は無い。
これは肉体を同じくして記憶と性格が変わった、
私は肉体以外は変えられたと言えないだろうか?
627唐辛子:2005/06/20(月) 07:51:04
何処までが<私>だろうか。

体?脳?脳細胞の一部?脳細胞1つ?分子?原子?電子か?それとも素粒子?
この部分が無くても<私>は知覚するというのを何処までもやってくと、
より小さな物質の動きへ、を無限に辿る事になるような
628二プレス:2005/06/20(月) 12:30:57
>>627
 <わたし>は物質ではないはずです。私の持っているすべての(時間的物理的)性質がそろっていても
この<わたし>でない可能性はありうると永井均は考えているはずです。
科学に対して距離を保つこと(簡単に否定するのではない)が(永井均の言う)哲学の
ひとつの条件ではないでしょうか。
629唐辛子:2005/06/20(月) 13:25:30
>>628
それは同意します。627は結論を導く為の思考実験ですね。
辿ってくと意識はより細かい物質の動きとなるが、
物質はどこまで細かくなるのか?
いや、物質とはそもそも何なのか?
となりますね。(たぶん)

少々疑問を挙げます。
体感時間についてはどう扱われるのでしょうね?
とある我にとっての1秒が別の我にとっての1年で
その我にとっての1秒が別の我にとっての1年で
さらにその我の1秒が別の我の1年で・・・

ここで言う我は単なる生物ではなく、あらゆる空間に存在する全ての我です。
物質はどこまでも細かくなる→どこまでも我を定義できる→
どこまでも時間が増える・・・!?
630二プレス:2005/06/20(月) 13:49:25
 >>619>>620>>624いろいろと考えさせられるレスです。
あなたたちのレスと少し関連する問題領域で、どうも私は根本的な勘違いをしていたようです。

 私が <わたし> は語られえない(言語ゲームで捉えきれない)と主張すると、何らかの形でレスが
返ってくることがある。実はここでは <わたし> について「言語ゲーム」が成立しているのではないか。
>>624さんの言うとおり「言語ゲーム」において語られることは、同じ「りんご赤い」という
「言語=差異」であっても同じ「内容=実質」を示すとは限らない。ただ「言語=差異」で
一定のやりとりを行っている限りで「意味」が発生する。
つまり「言語」と「内容」、「差異」と「実質」の断絶はあらかじめ「言語ゲーム」に組み込まれていた、
もっと強く言えばこの「断絶」こそを「言語ゲーム」と呼んでいた、ということになるかもしれない。

 とすれば <わたし> という言葉は「ナンセンス」とは言えないのではないか。ここでのやり取りを見る以上は。
だが <わたし> は「本当の哲学の始まり」を司るような「特別」なもののはず。それは「りんご」とは違う。
631二プレス:2005/06/20(月) 13:53:07
 「赤い りんご 5つ」と書いた紙切れを商人に渡せば、赤いりんごが5つ出てくるだろう。
「言語ゲーム」の観点から見て、「赤さ」が云々は、問題にならないのだからこれでいい。
でも、この商人に <わたし> と書いた紙切れを渡すとどうだろう。彼は <わたし> を
引き出しから出せるだろうか。
仮に彼が腕利きで <わたし> の在庫を抱えているとしても、ここで差し出される
 <わたし> がこの当の <わたし> であるとは思えない。

 ここで誤解してはいけないと思う重要なポイントは <わたし> という言葉=差異が
「この当の <わたし> 」という内容=実質を指しえないとか云々はあらかじめ「言語ゲーム」の
問題の外にある、ということだろう。(ここで私は誤解をしていた)

 「言語ゲーム」において <わたし> という言葉が「有意味」であるということは
腕利きの彼が <わたし> を引き出しから出すということに他ならないだろう。
「りんご」であれば赤いりんごが5つ出てくるので「言語ゲーム」は成立する。
一方 <わたし> であっても「言語ゲーム」は成立する。
しかしここで成立してしまった「言語ゲーム」は <わたし> の言わんとしたことを
取り逃がしてしまっている。しかし取り逃がしてしまっているということがかろうじて
 <わたし> を示すのだ。

 だから>>600で私が <わたし> を「語りえず示しえない」ものとしたのは明確に誤っている。
632二プレス:2005/06/20(月) 13:59:59
>>629
 んー、どこまでも時間が増えると考えていいのではないでしょうか。
633唐辛子:2005/06/20(月) 16:59:25
>>632
とすると奇妙な事になりますよ?
体感時間がどこまでも増殖すると、
いつまでも時間が流れない事になる。
<私>が1秒を知覚するには他我が1年を知覚せねばならない。
その我が1秒を知覚するには別の我が1年を知覚せねばならない。
さらに別の我が・・・
と考えていくと時間は進まないのではないでしょうか。

つまり、我が無数に有るというのは、間違ってるという根拠に思えるのです。
634唐辛子:2005/06/21(火) 17:46:43
そもそもの<私>は今のこの私というのが間違ってるのではないか?

体と呼ぶ存在を認識する、体がこうなるとこう感じるというのを認識する、
<私>とは何か?なぜ今の<私>なのかといった問いを認識する・・・
これ等を感じている状態が今なのではないか。

<私>はなぜ今の私なのか、ではなく
何故「<私>はAだ」といったことを感じるか、
という問いではどうだろうか?
635二プレス:2005/06/22(水) 14:03:19
>>633

 私の理解では永井均が「今」を <独我論化> したのは「同じ時を生きている」というような
浅はかな「つながり」を剥ぎ取るためだったと思っています。
ですから <今> とは <わたし> が決して他人に触れられたりのぞかれたりしないのと
同じように 決してほかの <今> に影響されたりしないのだと思います。
636考える名無しさん:2005/06/23(木) 01:32:26
独我論かつ独今論を貫けば,例えば私が今「ブッシュ」という人間の
身体を動かすことができ,ブッシュの目から見え,ブッシュとしての
記憶を持ち,ブッシュとして未来について考える,というのが出発点に
なるからねえ。なぜかそうなっているという事実が全ての出発点なんだ
から,それ以上にブッシュという個人であることを意識することに意味が
あるとは思えないけどね。
637考える名無しさん:2005/06/24(金) 03:41:55
>>578

>あれはわざとだったという説がある。
>あとで抗議を受けて慌てて冊子を挟んだらしいよ。

 「わざと」とはどういう意味?
 誰が「抗議」したの?

638考える名無しさん:2005/06/24(金) 03:48:24
誇張し過ぎということがあるのではないか、独我論者は何を信じている
のか。
639二プレス:2005/06/24(金) 17:35:10
 <わたし> が「言語ゲーム」からはじき出される性格のものだとしたら
<わたし> は「えもい」のかもしれない。
640考える名無しさん:2005/06/25(土) 00:26:46
しかし永井的<私>を「こころ」とか「魂」と言ってしまってはマズいのかな。
結局「こころ」にしても「魂」にしても、それの輪郭は言語で縁取りできるけれど、
その内実を描出することはできないわけだし。

もちろん他人の魂やこころの存在の可否を云々できないのは唯我論が論理的には反駁できないのと同じ事情で、唯一扱えるのは
「われ思うゆえにわれあり」のわたしのコギトだけだっていうことはあるにしても。

おれは永井がなぜ<私>が言語ゲームの網目に救えないことを強調してるのか
どうも今ひとつピンとこない。
641考える名無しさん:2005/06/25(土) 05:27:57
確かに永井には<心>と<私>を同列に扱っている文脈がありますね。
まず最初にある名づけえないもの(とにかくおれが「これ」と言いたくなるようなまさにこの「これ」)があって、
それが他人と対比されれば<私>になり、体と対比されれば<心>になり、過去や未来と対比されれば<今>となる。

そして永井が言語ゲームで語りえないといって言うのはその名づけえないものなんじゃないでしょうか。
それは言語ゲームを存在させている当のそのものです。

ただしここで気をつけなきゃなのが、おれは今語りえないはずのことを語ってしまっていること。
つまり、おれが本当に言いたいことは誰にも伝わっていないし、伝わってはいけないはずです。
642考える名無しさん:2005/06/28(火) 23:28:01
ああ、こじむいワインが飲みたい。

それはさておき、もしも私が全く言葉を学ばず、私と他人の対比とか
今と過去・未来の対比とかを全く知らなかったとしたら、<私>の特別さは
損なわれることなく保たれるんだろうか。それとも、その場合は、他人や
過去・未来を知らないがゆえに<私>の特別さもないということになるんだろうか。

どちらにしても、すでに他人・過去などを学んでいる現在の私とは全く
違う世界で暮らすことになるような気がするけど、言葉とか概念とかを
学ぶか学ばないかによって、世界のありよう自体が変わってしまうという
のは、変ではないだろうか。
643考える名無しさん:2005/06/29(水) 14:33:01
ことば以前に わたしは 在ったと いいうるか
644考える名無しさん:2005/07/03(日) 20:54:41
>>641
>ただしここで気をつけなきゃなのが、おれは今語りえないはずのことを語ってしまっていること。
>つまり、おれが本当に言いたいことは誰にも伝わっていないし、伝わってはいけないはずです。
実は語りうることだったという可能性もある。
645考える名無しさん:2005/07/03(日) 21:00:46
なにを語るとしても、それを解釈、理解する“他者”を想定している。
(それは、他の時点の自分なのかもしれない)
646考える名無しさん:2005/07/03(日) 21:08:02
><わたし> が「言語ゲーム」からはじき出される性格のもの

>永井がなぜ<私>が言語ゲームの網目に救えないことを強調してる

そうなんですか?
647考える名無しさん:2005/07/03(日) 21:26:45
語りえないのです
648考える名無しさん:2005/07/04(月) 13:42:02
永井が語っていることは、全て語りうることだと思う。
語りえないとわかっていることを、人は語ろうとするだろうか。
649考える名無しさん:2005/07/04(月) 13:57:16
<私>が語りえないのは全ての人が<私>だから(それが「私」という語に組み込まれてる)。
しかし<本当は>、<私>はひとつなのだから、それは語りえない。
650二プレス:2005/07/04(月) 19:43:10
>>648
 永井均が(そしてわれわれが!?)言わんとしていることは、まさに「語りえないもの」です。
「語りえないもの」を「語る」ことによってその当のものを取り逃がす。
しかし取り逃がされたその瞬間、それは「示される」のです。

 あなたの問題領域において(そしてそれはおそらく私の問題領域でもある)重要なのは
> <私>が語りえないのは全ての人が<私>だから(それが「私」という語に組み込まれてる)。
> しかし<本当は>、<私>はひとつなのだから、それは語りえない。 (>>649
というような形で「つねにすでに」 <わたし> は雄弁に「語られてきた」ということです。
 われわれの伝えようとしていることは宿命的に「言語ゲーム」の内部に位置づけられざるをえない。
(「語りえない」と語るように)
(この点ではあなたの言わんとしていることはもっともだ)

 永井均の読み解くウィトゲンシュタインは「独我論」の核心を保持したまま、 <それ> を「論じる」事を、
すなわち <それ> を「言語ゲーム」の内部に位置づけることを、放棄した。いや、放棄せざるをえなかった。
 <それ> は「論じられる」と「言語ゲーム」にからめとられてしまうから。
651二プレス:2005/07/04(月) 19:43:38
 ここでもうひとつわれわれにとって(特に私にとって)重要なのは <これ> がどのような意味で
「言語ゲーム」の内部に位置づけられないのか、ということです。

 「言語ゲーム」では「赤い」と言う時、どのような明度の赤さをイメージしているか等は
つまり当人しか掴みえないようなものは、問題にならないようにあらかじめ排除されている。
「言語ゲーム」では「赤いりんご」と言ったとき「赤いりんご」が出てくれば問題がない。

 問題なのは、 <わたし> が自他の区別の根幹を支えるゆえにこの私にしか掴みえない性質を持つことです。
この私にしか掴みようがない <これ> とは結局のところ「言語ゲーム」からはじき出される
「私的言語」と同じ性質を持つことになる。
(もしかしたら <それ> は「私的言語」であると新書の三章では述べているのかもしれない)

 <わたし> という「私的言語」がなければ「言語ゲーム」は存在し得ないけれど、「言語ゲーム」が成立した後では
(われわれは「つねにすでに」そのような場所にしか立つことはできない)「私的言語」の必要性はなかったことになりうる。
…これ以上のことは永井均の著作に直接当たってもらうしかないです。
 その後で是非私の解釈の誤りを訂正してもらいたい、と思います。
652考える名無しさん:2005/07/05(火) 01:17:29
649だけでじゅうぶんだったな・・・・
653考える名無しさん:2005/07/05(火) 03:43:45
しかし、
古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』ちくま文庫
の「解説」では
自分は古東哲学の下請け仕事をやっているにすぎない
と言っている
654考える名無しさん:2005/07/05(火) 04:20:05
語りえないことはいくらでもある。
永井は<私>にこだわった。
655二プレス:2005/07/05(火) 19:44:52
>>652
 …名前を「ザ・蛇足」にでも変えたほうがいいかなぁ。
656考える名無しさん:2005/07/06(水) 06:53:36
つまり、、
永井的<私>の語り得なさ=私の感じる<赤い色>の語り得なさ
でOK?
なんかそう考えるとわかりやすいけど、そんな単純な問題だったっけ?
657考える名無しさん:2005/07/06(水) 08:58:15
>>656
私は、個人的にはそれでもいいと思っている。

しかし、永井がそんな単純なこと考えてるわけではないというのは確か。
658考える名無しさん:2005/07/07(木) 01:00:22
とりあえず,それでいいんじゃないですかね。
@誰にとってもその人の<赤い色>は他人に対して語ることはできない
ということではなくて,私が今見ている<赤い色>こそが問題であるということ,
Aとは言っても,「私が今見ている<赤い色>こそが問題」という言葉は,
やはり,誰にでも理解されてしまうこと,
ということに気をつけていれば。
659考える名無しさん:2005/07/07(木) 20:42:33
<わたし>というものもまた言語によって表出されてしまう以上、
<語り得なさ>一般の問題と<わたしの語り得なさ>という独在的問題は
分別されずに語られがちだということだ。
660考える名無しさん:2005/07/08(金) 14:06:22
<語り得なさ>は本来徹底して語り得ないものことを指し示すのだから、
<語り得なさ>は抑も一般化できない。一般化はそれこそ言語の問題だからな。
この点で<わたし>であれ、<いまわたしの目の前にある鉛筆>であれ、
他の何か(他者、宇宙、神、その他)であれ、
その<語り得なさ>は、他との類似において一般化したり、
他との比較対照で特別視したりすることはできない。
出来るように見えれば、たぶんそれは<語り得て>しまうだろう。
661考える名無しさん:2005/07/09(土) 20:35:02
だから何?っていうかさー
永井はその語り得なさを指摘することによって
結局何が言いたいのかな?
神秘とか?
662考える名無しさん:2005/07/09(土) 21:05:01
<私>=永井
663考える名無しさん:2005/07/10(日) 00:39:26
>662
ワロス
664考える名無しさん:2005/07/10(日) 04:56:11
その語り得なさを語るってことは世界には唯一無二の<おれ>しか存在しないって
いう唯我論を他人に説く矛盾に近いものはあるかもね
665考える名無しさん:2005/07/10(日) 13:39:27
なぜ、永井を殺してはいけないのか?
666考える名無しさん:2005/07/10(日) 19:55:50
趣味の問題だ
667考える名無しさん:2005/07/10(日) 23:47:53
>>649
<私>が語りえないのは全ての人が<私>だから(それが「私」という語に組み込まれてる)。


こんなことは言えないんじゃないの。私の<私>が語りえないなら、
全ての人が<私>だ、とは言えないはずだ。私が<私>を語りえないことを
知っているのは、それが私の<私>だからで、<私>という構造が言語内に
あるからではないのだろ? 違うのか?
668考える名無しさん:2005/07/11(月) 10:09:42
「永井均が<私>だ」という言明は、永井均以外には何の意味もない
というようなことが「私のメタフィジックス」に書かれていた。

そのようなものとして私は「<私>」を理解する。
理解できるのは、「私」という語にそれが組み込まれているから。
669考える名無しさん :2005/07/11(月) 15:07:09
随分前の著書だが「マンガは哲学する」を読み返して疑問に思ったのだが。
この本の62p以下で取り上げられてる高橋葉介「壜の中」で、
少女がある日海岸で見つけた壜の中から自分にそっくりな少女が現れ
最後には元の少女が代わりに壜の中に閉じ込められてしまう、という話。

永井はこれについて「少女がこれまでの殻を破って新しい自分になっていく」というような
<文学的な>読みは嫌いである、と書いている。

確かにこのマンガの原作者もそんな風に読まれない、即ち<本当の>私は壜の中に
閉じ込められた方である、という(恐ろしい方の)読みを読者にさせようとしている。

ところが永井の言う<哲学的な>読みを徹底させると必ずこの恐ろしい方の読みになるだろうか。
ここで永井は元の少女に中心化された世界解釈を取ってるけど、それが可能なら
壜から出てきた少女に中心化された世界解釈を取ってもいいってことにもなるのではないか。
どうしてそれはいけないのか。(それならこの話は文字通りハッピーエンディングではなかろうか)

でももっと重要なのは永井の言う<私>というのは他人や太陽や冷蔵庫や三角形と区別された
特別な唯一のものだったはずだ。とするとこのマンガの元の少女と壜から出てきた少女も
太陽や冷蔵庫や・・・・といったものと同列に扱われるより仕方が無いのではないか。

つまり中心化という方法でこのマンガを解釈すると、永井の嫌いな<文学的>読みも
ほとんど必然的に生まれてしまうのではないかということだ。
(ということはそもそも永井の<私>議論には中心化という方法そのものが場違いではないのか)
670考える名無しさん:2005/07/11(月) 16:43:54
>>669
<私>を議論するうえで都合がいいからではないでしょうか。
我が少女や他人や太陽や冷蔵庫や永井や読者でもいいんですが、
それら全てが<私>を語ってしまうよりは
永井だけが語った方が例として出し易いのでしょう。
671669:2005/07/11(月) 18:42:32
>>670
自分が言いたかったのは<中心化>という方法が永井の<私>議論を
永井自身で破綻させているんじゃないかってこと。

永井がこの方法は結局意味が無いんだ、という方向で話を進めるのは正しいけど
この著書では(別の著書でも)中心化という方法を無造作に使ってるような気がする。
(例えば隣に座っている人が<私>だったら、とか)

中心化っていうのは独我論を他人に説明する為の形式化された表現だ。
この方法は結局頽落した独我論の再密輸ではないのか。素知らぬ顔で
入り込もうとしてるけど。この中心化を普通に理解し、受け入れてしまったら
<私>の主張は全部台無しになるんじゃないか。
672考える名無しさん:2005/07/11(月) 19:17:15
「マンガは哲学する」以降とそれ以前では、違う問題を扱ってる
というようなことを言ってたと思う。
673考える名無しさん:2005/07/12(火) 01:18:41
「もし隣に座っている人が<私>だったら…」あたりの議論は,
<私>が身体の連続性とか記憶の連続性によって生まれて
いるのではない,という議論としての意味はあると思うけどね。

しかし,実際に,中心化の話というのは,世界がそこから開けて
いる人一般に当てはまる議論になっているから,<私>の
特別さとは離れていっている面があるのは確かだと思う。
むしろ,本当に<私>の特別さというものは成り立つのか,
あえて批判的に検討している面もあるんじゃないかと。
674673:2005/07/12(火) 01:29:04
例えば,『転校生とブラック・ジャック』の後半には,世界が中心化
されていないことはあり得るか,という議論が出てくる(何言ってる
のかほとんどわからんけど。)。
わからんながらも言ってみると,もし,「どんな世界であっても,
その世界は<私>から開けているという形にならざるを得ない」
と言えるとすると,いくら世界は<私>からのみ開けていると
<私>の特別さを強調したって,どんな世界でもそうなのだから,
その特別さには実は内容がないような気がするんですな。
675考える名無しさん:2005/07/12(火) 02:32:45
だからそこに「現実」という話が入ってくるんじゃないの?
中心化された現実世界と中心化された可能世界と。
しかし、その「現実」もまた概念化されて・・・
という話にもうなっていると思うけど。
676考える名無しさん:2005/07/12(火) 14:36:42
>>674
その場合は〈私〉と《私》を区別してるでしょ
677考える名無しさん:2005/07/13(水) 23:00:29
永井は永井均という人間が生まれても<永井のコノ私>が生まれなかった可能性を
ありえるように言ってるけど、じっさいにはこういう可能性ってないんじゃないかな。

永井均という人間が生まれるためには両親の性行為があればいいけど、
永井のコノ私が生まれるためにはプラスαが必要みたいに言ってるけど本当に
そうなのかな。

実際問題として、そこから世界が開けていく開闢点としての<私>と
一人の人間の肉体のユニークさというのは不即不離の関係である以上、
<私>の成立にだけ、プラスαというか神の手の一振りみたいな特別さを
設けるのは何か間違ってるような気がして仕方ないんだけども。
678考える名無しさん:2005/07/14(木) 04:25:05
そうだとしても、
その不即不離の関係とはどんな関係なのか、
という問題に問いが移るだけで、
問題そのものは消えない、
どころか
もっと不思議なことになるのではないか?
679考える名無しさん:2005/07/14(木) 04:39:55
一般的に言えば「私」という「自意識」が生ずるのは3歳以後である。
他者にも心があると思うようになるのも同様である。
680考える名無しさん:2005/07/14(木) 05:37:43
良い悪いに括ろうとするやつは話になんねえな
681考える名無しさん:2005/07/14(木) 05:43:59
理性的な推論になると善悪としか受け取れないのも困るわな
682考える名無しさん:2005/07/14(木) 07:25:26
>>678
もちろんそれで<コノ私>が存在することの不思議が消えてなくなりは
しないが、<私>というものを世界を開示させる単なる点のようなものとして
その点がどうして存在しえたのかと問うよりも、
両親の性行為の結果、たまたまある卵子とある精子の組み合わせで
この肉体=<この私>が生まれたとする説明でいいんじゃないか・・・
とここまで書いて、ぜんぜんよくないことに気づいたw

問題はそういうユニークな開闢点が存在したことじゃなくて、なぜその点が<この私>で
ありえたか、だっけ。。。
しかしそんなことが人間業でわかる筈ないわな
683669:2005/07/14(木) 14:08:50
>>682
ちょっと言っておきたいんだけど・・・・
671で書いたけど中心化っていうのは独我論の形式を他人に伝えるためのもので
それ自体既に独我論が頽落したものだ。

だからそれを「世界を開示させる点」とか「開闢点としての<私>」とか称しても
同じ事だよ。言葉を換えれば一瞬は上手くいくように見えるけど、堂堂巡りしている。
可能世界っていう道具を持ってきたところで当然一歩も議論は進まない。

(論理学における可能世界という分析方法は、素朴で直感的な「可能性」と「必然性」
についての妥当なモデルを与えるかもしれないけど、これが形而上学的な問題を
扱っているという見解は<可能世界>というメルヘンチックな名前による所からの
誤解が大なのではないか)
684考える名無しさん:2005/07/14(木) 17:12:33
永井の可能世界は論理学のではなくてライプニッツのだから
最初からまったく形而上学的な問題を扱っている
というか形而上学的な問題しか扱っていないと思う。
と書いてみて思ったのだが
考えてみると
ライプニッツ的な形而上学的可能世界論と様相論理の可能世界意味論の間に
すでに「堂々巡り」があるのではないか?
どっちがどっちを「誤解」しているのか?
685考える名無しさん:2005/07/14(木) 22:42:08
そうなのよ・・・。
686考える名無しさん:2005/07/15(金) 01:16:54
>最初からまったく形而上学的な問題を扱っている
>というか形而上学的な問題しか扱っていないと思う。

<私>を成立させる条件とは何か?っていう疑問自体が
形而上学的問題ってことでOK?

あるいは<私>の<今>はペリー来航の時点でも「ありえた」のに、
今が<この今>であることの理由を問うというのも?
687二プレス:2005/07/15(金) 13:15:03
 久々にのぞいてみると盛り上がってますね。
>>683
 <わたし> をめぐる永井均自身の態度は確かに錯綜しているところがあると
私も思います。ですが、永井均はそれほど簡単に隙を見せてはいないように思います。

 いま、『倫理とは何か』という本を途中で放り投げているところですが、あの本でしきりに
取り上げられているのは「この私」の利益と「この私」を含む「この共同体」の利益が交差して
逆転されるということだと思います。
 たとえば「この私」が泥棒をするということを拒否するのは、つまり自らの利益を
ないがしろにするのは「この共同体」の利益を通して「この私」を見ているからといえます。
永井均の洞察が常々、「この私(つまり <わたし> )」を通して「この共同体(ある種の客観)」に
向けられているのはみなさんご承知のとおりです。
共同体(客観)から捉えられる「私」と <わたし> から捉えられる「客観」。
永井均は理論哲学においても倫理学においてもこの「逆転構造」を問題にしているように思えます。
688二プレス:2005/07/15(金) 13:16:05
 永井均がこの「逆転構造」を問題にしているとしたら、ここに議論の錯綜の余地が生まれます。
たとえば再び泥棒の例でいくと、この私が泥棒をしないのは 「私にとって」 好ましくないから
という説明をすることも可能なのです。先の泥棒の例を「客観」に対する視線だとすれば、今回の泥棒の例は
<わたし> に対する視線だと言えるでしょう。
 永井均の議論ではしばしばこの二つの視線が交差していると思います。
それこそがこの <現実> なのだと本人は考えているのかもしれませんが。
689二プレス:2005/07/15(金) 13:32:51
 …うまくいってないですね。
「逆転構造」というよりは「二層構造」というほうが適切かもしれません。

 まぁ、とにかく今や永井均の問題領域は「語りえないもの」をつまびらかにしていくことから
この <現実> に移行していると考えるべきではないでしょうか。

 「語りえないもの」をどんなにつまびらかにしても、結局 <それ> は「語りえない」のだという
トートロジー的な結論に行き着くほか無く、その点から言って堂々巡りであるのは間違い無いでしょう。
しかし「語りえない」はずのものが「語られてきた」という構造があります。
それがこの <現実> ではなかったか。そして今や <これ> こそがわれわれ!?の問題領域ではないのか。

 こんなのでどうですかね?
690考える名無しさん:2005/07/15(金) 15:22:12
>>687-689
何か誤解をしているようだが、何を言っているのかいまひとつ分からない。
もうちょっと簡潔に論理的に述べてくれ。
691669:2005/07/15(金) 15:36:50
>>684
ライプニッツの構想に永井が言うような「開闢点としての<私>」という考えを取り入れる
のは言わば体内に別の血液型の輸血をするようなものじゃないのか。

ライプニッツはもちろん自分が数多くいる人間の一人であることは自明と見なしていた
はずだ。彼にとってこの世界が特別なのは、神がこの現実世界を最良と見なした選択であって
<私>がいるかどうかじゃない。そもそも可能世界をどう解釈したところで<私>議論にとって
どうでもいい、単なる哲学的見せかけに過ぎないと思う。
(だからパーフィットの火星旅行のエピソードなんかもすごく下らなく感じる。
複雑な手続きで誤魔化されそうになるけど。)
692考える名無しさん:2005/07/15(金) 16:25:37
>自分が言いたかったのは<中心化>という方法が永井の<私>議論を
>永井自身で破綻させているんじゃないかってこと。
中心化は「転校生とBJ」でいうところの統覚原理であって、独在性とは別物。
だから中心化は<私>の独我論(独在性)を伝えない――というところまでは分かる。

でも永井が独在性だけではなく統覚原理も語るということには意味がある。
独在性はいわば完全な真理だが、<現実世界>における<今>の<私>にしか使えない。
だが、たとえば人格同一性の文脈において過去や未来の<私>が
(というより、過去や未来において<私>であると理解されざるを得ないものが)
どれであるかは統覚原理や同一性原理(空間的的連続性など)によるしかない。

統覚原理はそりゃある意味で確かに形骸だが、それらの形骸なくしては
「今この現実世界でこれが私である」ということに意味が与えられなくなる。
<私>←このカッコの中に入るのが「私」という語でなければならないということの理解は、
何かしらのナマの事実から与えられるのではなく、「私」という概念から与えられるはずだ。

永井は事実として<私>が存在することを哲学しているのではなく(それは出発点)、
<私>はどうしても語りえないのか、語りえないものが伝わるのはなぜか、
<私>が真に語りえないなら<私>は存在しなくなってしまうのか、ということを哲学している。
そのために統覚原理は無駄じゃないと思う。(面白くないというなら分からないでもないけど)
693669:2005/07/15(金) 17:03:07
>>692
>それらの形骸なくしては 「今この現実世界でこれが私である」
>ということに意味が与えられなくなる。
というのは692さんの端的な誤りだろう。「それらの形骸無しには、この哲学的議論に
意味が与えられなくなる」とは言えても。(これは哲学者の自己防衛の為の言い訳なんじゃないか。
<私>議論は形骸としての独我論を認めるものじゃないはずだ。)

或る意味では「今この現実世界でこれが私である」というのはまともに
表現することのできないものだ。この言いかたそのものが可能世界の考え方
を取り入れなければ誰も考え付かない表現であって、最初から何かポイントがずれている。
694692:2005/07/15(金) 17:16:34
>>693
いや、たとえばその独在性としての<私>を<彼>と書いちゃ駄目な理由というのは、
概念としての「私」と「彼」の対比の中からしか与えられない、ということ。

>この言いかたそのものが可能世界の考え方を取り入れなければ
>誰も考え付かない表現であって、最初から何かポイントがずれている
俺はここがおかしいように思う。
可能世界と対比しなければ「現実世界」ということに意味が与えられない
というのはどこまでも当然なことであって、ポイントはずれていない。

永井が「言語哲学に頭をやられていなければわかる」という<私>は、
それでも言語化される以上こうでなければならないという言語の道筋に沿わなければならない。
「永井が<私>についての本を書いたことからして間違いだ」というのでなければ、
このようでなければならないという道筋を永井が特に外れているとは思えない。
695669:2005/07/15(金) 17:57:31
>>694
ああ、確かに究極的には「永井が<私>についての本を書いたことからして間違いだ」
というのは正しいな。もちろん最初の一歩としては仕方がないことは僕も認める。
だから「こどものための哲学」の最初の方はとってもいい感じだ。
でも可能世界の話を持ち出されると何か決定的に最初の感覚から遠のいてしまう。

現実世界っていうのは<私>から発しているはずだろう?そこでどうして可能世界が
持ち出されて来るんだい?こっちはメインじゃない。永井が言えるのは、そして言うべきなのは
可能世界やら中心化やらっていうのは捨てられる為のはしごだっていう議論なんじゃないのか。
(そういう議論が既に為されているのならこの発言は無駄足ということだけどね)
696692:2005/07/15(金) 19:06:53
>>695
>現実世界っていうのは<私>から発しているはずだろう?
俺が思うにこれは逆からも同じことがいえるはずだと思う。
「<私>ってのはこの現実世界を中心化している存在だろう?」と。

そう考えると、まず初めにこの<現実世界>ありきで、
<私>は単にこの<現実世界>を中心化する開闢点に過ぎなくなる。
そして、私がどこまでも他者との対比でしか理解できないように
現実世界は可能世界との対比でしか理解できないから、可能世界が出てくる。

たとえば、「両親がセックスして永井均が生まれても、それが<私>でないことはありうる」
という話に何らかのリアリティを感じるのなら、
「両親がセックスして永井均が生まれる世界があっても、それが現実世界でないことはありうる」
という話にも同じリアリティを感じなければならないはずだと俺は思う。
697669:2005/07/15(金) 19:29:57
>>696
何故<中心化>っていう言葉が出て来るんだい?もともとの始めにはこんなもの
無かったはずじゃないか。
中心化なんて哲学用語無しに<私>について永井はとにかく始められたんじゃないか。
(そしてそれを僕らも理解したんじゃないか)
いきなり中心化の方から考え始めたのなら独在性の<私>なんて出てくる幕は無い。

両親がセックスしてそれが<私>ではないこともあり得るなんて話も一番重要なところを
すっ飛ばしてる。だって、それが<私>だったからこんな話が出来るんじゃないか。
「あり得る」方の(<私>が存在しない)話なんて、てんでどうでもいいじゃないか。
リアリティという話ならまさしく<私>だった方に決まってる。
698考える名無しさん:2005/07/15(金) 21:16:35
ど素人?
だからプロ向きだって言っているのに。
もうプロにしか面白みが分からない話に移ってるんですよ。
699692:2005/07/15(金) 21:46:00
>>697
>何故<中心化>っていう言葉が出て来るんだい?
>もともとの始めにはこんなもの無かったはずじゃないか。
言葉として示されなかっただけで、中心化という概念は最初からあると思う。
「ぼくは、他人たちとぜんぜん似ていない『ぼく』というものの存在に驚嘆したのだ」(子どもP44)
とあるが、ぼくと他人がどう似てないかというと、世界がなぜかぼくに中心化されており、
なぜか他の誰にも中心化されていないという点で似てない、としか読めない。
700669:2005/07/15(金) 23:35:41
>>699
その『ぼく』は他人の中心化なんて全然関係無いところから発しているんじゃないか。

と言うのも「世界がなぜかぼくに中心化されており、 なぜか他の誰にも中心化されていない・・・」
と言う時の692さんの<中心化>は最初から他人も中心化しうる(言わば普通の)中心化に
なっちゃってるじゃないか。これは独我論の形骸化と同じだ。

中心化(及び可能世界)という概念は<私>議論を洗練させたわけじゃなくて
哲学用語の中で僕らを誤解させる役割しか果たしていない。
(だからそれを誤解して698みたいにプロにしか分らないんだ、なんていう
事を言い出す人が出てくる。本当に重要な部分<だけ>すっ飛ばして
華麗な哲学的議論を尊ぶような。それなら哲学なんて、哲学をよく知らない人が
言うように単なる屁理屈になっちゃう。)
701考える名無しさん:2005/07/16(土) 00:36:36
>>700
俺は「<私>に中心化された現実世界」という言葉で子どもP91下図を指しているんだけど、
それはP98図に読み替えられてしまうから駄目だ、という批判なんだろうか。
それとも俺の言葉ではP91下図を示せてないから駄目だ、という批判なんだろうか。

うーむ、どこでこんなに両者の認識がずれるのかよく分からない。
試しに、中心化という概念がどこでどう悪い使われ方をしているのか、
「マンガは哲学する」以外の具体的な部分とともに示してくれないだろうか。
(マンガと魂と翔太はいま手元にないのでできれば別の本からお願いしたい)
702692:2005/07/16(土) 00:37:16
↑も692
703考える名無しさん:2005/07/16(土) 04:08:55
>本当に重要な部分<だけ>すっ飛ばして華麗な哲学的議論を尊ぶような。

というように素人には見えるということなんだ、残念ながら。
永井の議論が本当の哲学的意味を持ってきたのはごく最近のことで、
可能世界概念に関する684さんが言うような「堂々巡り」との類比に彼が気づき、
さらにマクタガートのパラドクスや神の存在論的証明の中に同じ種類の問題を看取しててから後のことなんだ。

哲学にも歴史と累積があって、そこに繋留しない議論は、どんなに一見「本当に重要」に見えても、
ヘーゲルふうにいえばまだ「展開されていない」幼児の戯言と変わらないんだよ。
つまり、永井もやっと大人(=プロ)になって、真に意味のあることが言えるようになったってわけさ。
669さんにはもちろんこの事実を認めないだろうけど。

ついでに一言いうと『私・今・そして神』ではもう「中心化」という概念は捨てられているね。
704考える名無しさん:2005/07/16(土) 04:28:41
>703
形而上学こそが本当の哲学だと思ってるのは一番の素人www
705考える名無しさん:2005/07/16(土) 05:05:57
素人だらけだな
706669:2005/07/16(土) 13:07:42
>>701
端的に言えば(子どもの哲学)P91図(上下)、P98図はどれも同じ物の
別表現でしかないということ。
それぞれ違う物のように見えているということはそういう見方をこの図式化によって
与えられたということでしかない。(僕も最初は納得させられたけど)

僕と962さんには認識のずれは実は無いと思う。がっちりと噛み合ってるからどちらも
相手に食い込めないだけで。(これは「子どもの哲学」のP71でのウィトゲンシュタイン
の章句における対話に対応していると思う。)
ところで僕は962さんの議論はよくわかるんですよ。でもそれを一度経てゼロから
思考してみた時にこの種の図式化にまだ意味が残っているだろうか。
もうその役割は終えてしまわざるを得ないんじゃないか。

本当の意味でずれているのは(というより隔絶しているのは)703さんのような人達
だろう。プロだとか素人だとかいう(下らない)区別で僕の議論を切り捨てた気で
いるみたいだけど。703さんのような人は最初から僕と692さんとの議論で問題になってる
ようなことには全然興味が無いのに「そんな子どもじみたことを」と言って
自分を上に置いて思想的に裁断して満足している。
(そうじゃないというのなら<素人>なんて言葉を使いはしないだろう。
703さん、<私>の議論についてそのマクタガートのパラドックスやらで703さん
なりに議論してみて下さい。そうでなければあなたのような人が文句だけ言って
勝ち逃げするだけじゃないですか。)
707692:2005/07/16(土) 16:56:17
>>706
>それぞれ違う物のように見えているということはそういう見方を
>この図式化によって与えられたということでしかない。
それは分かるけど、はたしてそれ以外に<私>には表現のしようがあるんだろうか、
どんなうまい表現を使ってもやはりこれらの図と同じことしか示さないのではないか、
というのが俺の疑問。

これは言い換えれば、結局は<私>←これだって記号に過ぎないということでもある。
たとえば、「現に世界を中心化している私」と<私>が違うように思えるとすれば、
まさに「それぞれ違う物のように見えているということはそういう見方を
この図式化によって与えられたということでしかない。」ということになるんじゃないかな。
708703:2005/07/17(日) 04:11:31
><私>の議論についてそのマクタガートのパラドックスやらで703さんなりに議論してみて下さい。

マクタガートのパラドクスそのものは知っているという前提のもとで要点を述べよう。
まず<私>に対応するのは勿論<今>だ。なぜ今年は2005年なのか、という問いでよい。
しかし、この問いはどの年においても立てられる。また、2005年は未来でも今年でも過去でもありうる。
ここからマクタガートのテーゼとアンチテーゼの応酬が始まるのご存知(と仮定する)の通りだ。
マクタガート自身はここから、A系列には矛盾があるので実在しないという結論を導き、そこから長い長い議論がなされてきたわけだ。
が、永井はこの矛盾は「今(現在)」概念にちょうど<私>と「私」と同じ二義性が含まれている(それが《私》を生む)ための見かけの矛盾にすぎないとみなす。
ここで極めて重要なのは<今>にあたるほうが「現実的」現在とされ、「今」にあたるほうが「可能的」現在とされる点だ。
つまり、<今>についても(<私>についてもということになって、これが例の「中心化」という論点と結びつくのだが)、
じつは様相における「堂々巡り」を反復せざるをえないのだよ!(ここで驚かない人と共に哲学を語りたくないな。)
この「せざるをえなさ」の認識と、それが哲学のあらゆる問題に隠されていることの洞察こそが、永井哲学の成果だろう。
ここまできて、<私>をめぐる議論がもっていた哲学的含意がはじめて本当に「展開され」顕在化するんだ。わかってもらえるかなあ。
しかし、このこと真価が本当にわかるには、残念ながらやはり、(例えば)存在論的証明をめぐる長い歴史を追ったことがあったり、
(永井が暗に批判している)J.ペリーらの自己意識論やH.メラーらのB系列主義やD.ルイスらの可能世界論を研究したりしている必要があるんだよ。
わかってもらえないかもしれないが、哲学もまた学問である以上、本当に残念ながら、それはやむをえない事実なんだ。
しかし、だからこそ学び甲斐もやり甲斐もあるのではないか? この問題にはまだまだ先があるかもしれないんだから。
709考える名無しさん:2005/07/17(日) 10:05:38
>>708
自分が苦労してたくさん本を読んでやっとこさ理解できたことが
他人が新書一冊で理解してしまうことが悔しくて仕方がないみたいだなww
710考える名無しさん:2005/07/17(日) 12:48:17
>>703
>『私・今・そして神』ではもう「中心化」という概念は捨てられているね。

表だって論じられていられていないとは思うけど,「捨てられた」というのは?
例えば「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」「何が経験されようと
経験するのは私だ」(105頁)というのは,世界が私に中心化されていて,
現に見える・聞こえる等が起こるのは私だけだ,という考え方が前提なんじゃ
ないんですか?
711669:2005/07/17(日) 13:10:15
>>707
僕が言いたかった図式化というのは、即ちP91上図から下図、さらにP98図へ
(そして又P91図上に戻る)という<運動>の図式化のことだ。そのような運動は
永井の図式化によって誘導された(誘導されざるを得ない)錯覚ではないのか。
(もちろん単純に一つ一つの図式も誤解への第一歩になっていると思うけど、
個々の場合には<哲学的>含意は少ないから問題は無い。)

692さんはこの読み換え運動を当然のことと見なしているけど、ここに「否」
というのが<私>なんだからこの読み換え運動の説明は<私>議論の役には
立たないことは明白だ。あの図式の、世界a,b,c・・・人間a,b,c・・・
視点a,b,c・・・なんて全部普通のこと、ただ単に人はそれぞれ違うということ
でしかない。それぞれは好みの、ただ一つの表現に統一してしまえる。
でも<私>というのはこの議論『から』生まれたはずじゃなかったはずだ。

703さんの<今>についてもそうだ。(ただ個人的には時間についての哲学的議論
は全然違う取り組み方があるように思える。ウィトゲンシュタインはほとんど
時間論に触れなかったし。全く個人的にハイデガーの捉え方には興味がある。
この人は色々問題があるけど。)
712669:2005/07/17(日) 13:12:52
連続で悪いけど文章が長すぎたので・・・・

>>708
703さんは哲学的議論というのは色々な哲学本を研究しなければ味わうことが出来ないのだ
と言われましたね。(これは僕も某大学の哲学の先生に言われたことですが)
でも自分自身の中に哲学的問題が無いのなら、そうした本をいくら読んでも何にも
感じることは出来ない。逆にそいつに何らかの哲学的疑問があるのなら、他の
哲学者の言ったことは何であれ全て自分の為に利用するだけのものに過ぎない。
僕は哲学を<専門的に>学ぶことは不可能だと思ってる。もちろん自分と同じ
考えを持っている人を探すものでもないと思う。

最後に703さん
>ここで驚かない人と共に哲学を語りたくないな。
というのはそもそも驚く点が僕とあなたでは違うように見える。
哲学というのは驚くことがほとんど不可能であるようなところに
(無理やり)驚くような行為だ。703さんが本当にやるべきことは
703さんが当然と思ってるような哲学的議論の前提を自分自身で覆す
ことじゃないだろうか。もう既に703さんは安定した哲学議論の上に
安住して、安心して「驚いて」いるんじゃないのか。
713692:2005/07/17(日) 14:30:02
>>711
うーん、俺とて中心化が<私>を表現すると思ってるわけじゃないんだけどな。
要するに俺が言いたいのはこういうこと。「中心化よりもっとうまい方法があるの?」と。

たとえば読み替えの問題でいえば、「読み替え運動を拒否する」という言い方も
誰にでも通用するそういう読み替え方として運動の中に組み込まれざるをえないということ。
つまり、他にどんな手法を持ってきてもそれは「特別な中心化」としてしか理解しえないし、
中心化から<私>に到達するためには、結局読者の側に飛躍が必要だということ。
714考える名無しさん:2005/07/17(日) 16:05:46
哲学的に「驚く」ポイントは人によって違うよな。
715669:2005/07/17(日) 17:31:12
>>713
>「中心化よりもっとうまい方法があるの?」

無い。確かにこの方法は或る意味で<うまい>方法だけど、むしろその<うまさ>の為に
失われることの方が重要であることを示したのならそれで役割は終わりだ。
(そのことを示せないのならそれは<うまくない>方法だということだ。
そして僕は、人に一度は理解させて『すぐその後で』誤解させるという意味でこの
<中心化>という方法は決定的に<うまくない>と思う。)

>中心化から<私>に到達するためには、結局読者の側に飛躍が必要だということ。

逆だろう。この飛躍が出来るのなら、飛躍なんて最初から無いことを示してる。
中心化からなんか始まりやしない。それは哲学議論の始まりであるだけだ。
(哲学議論なんて(僕らがやってるみたいに)局所的なものに過ぎない)

962さんが「飛躍」という語を使ったけど、これこそ中心化の議論が最終的に
捨てられるべきことを(何故ならそんなものを通り越してしまうから)
自ら示しているんじゃないか。

716703:2005/07/18(月) 03:39:03
>でも自分自身の中に哲学的問題が無いのなら、そうした本をいくら読んでも何にも
感じることは出来ない。逆に・・・

情熱的な恋愛からはじまる結婚が真の幸福をもたらすとは限らない。
単なる思慮に基づく見合い結婚が真の幸福をもたらすこともある。
人生というものは、そして哲学も、そんなに単純ではないんだよ。
現に恋愛中の若者にこんなことを説いても分かってもらえるはずもないけどね。

さて、そのうえで、最重要の論点は、
同じ問題が人称に現れても時制に現れても、実は様相に現れていた問題を反復すること「しかできない」という点にあるのだ。
どうしてその逆ではありえないのか? 
熱愛から哲学を始めた人も、このような問いに問い進んで行かなければ、そもそも哲学を「する」段階に至らないだろう。
現実に愛を実らせるのは長く続く地味で地道な作業で、「前提を自分自身で覆え」して新たな恋愛を始めるような目覚しさとは無縁なんだな。これまた残念ながら。

717考える名無しさん:2005/07/18(月) 04:54:28
>この「せざるをえなさ」の認識と、それが哲学のあらゆる問題に隠されていることの洞察こそが、
永井哲学の成果だろう。

この言い回しって永井がカントの認識論について言ってることのサルマネじゃねーかw


718669:2005/07/18(月) 11:46:35
>>716
恋愛結婚と見合い結婚の比喩は陳腐だなあ。でもそれに乗っかると、
その地道な作業によって実らされると言われる<愛>とは何なのか、っていうのが
重要な問題なんだから。それが恋愛結婚だろうが、見合い結婚だろうがどうでもいい
のは明らかだと思うけど。
(703さんの言葉を読んでいるとむしろ703さんの方が恋愛結婚の方で僕の方が
見合い結婚のように見えるな。だって「愛を実らせる」なんて言い方が既に
理想主義的だし。その<愛>ってやつは何なのだ?それが何の役に立つんだ?などと
問うてしまう僕などはかなり醒めた感覚の持ち主だからな。)

まあそんな戯言は置いといて、703さんの言う「様相に現れていた問題」って
クリプキらの様相論理に現れていた問題の意?
719692:2005/07/18(月) 12:10:28
>>715
中心化よりうまい方法がないなら、中心化を使ってることで永井を非難しても仕方ない。
それに中心化を捨てると、架空世界や過去・未来について語ることもできなくなる。
もちろんこれらの(<私>そのものではない)話に興味を持つかどうかは人それぞれだが、
俺自身はたとえば「転校生とBJ」の最後のレポートみたいなのは十分面白いと思う。

>この飛躍が出来るのなら、飛躍なんて最初から無いことを示してる。
最初からそうだったということに気づくために、飛躍しなければならない。

ちょっと思うんだが、真理は常に「最初からそうだった」ものとして与えられると思う。
たとえば、デカルトがコギトを示すまで誰も世の中に確かなものがあることに気づかなかった。
しかしいったん示されてしまえばそれは「気づく前から確かなものはあった」として理解されてしまう。
だけど、そのことによって途中の議論自体が無意味とされるのは違うと思う。

ウィトゲンシュタイン風にいえば、理解したならハシゴは捨てるべきだけど、
永井も読者も<私>の理解はもうすでに前提した上で今はハシゴを研究してるように思う。
なぜハシゴは捨てられなければならないのか、それはハシゴのどういう性質によるのか、
という感じでそっち方面から<私>に辿り着く道もあるんじゃないか、と。
720669:2005/07/18(月) 12:37:34
>>719
もちろん「非難」なんかしてない。中心化という方法はもちろん、普通の意味で有効な概念だ。
ただ永井がその最初に提示した<私>とは永遠に重ならない手法だ、と「批判」しただけ。
永井の精神に則って。結構僕はお人好しなんだ。そんなことする義理は何も無いのに。

>中心化を捨てると、架空世界や過去・未来について語ることもできなくなる。

これって本当かな。それらについて中心化を適用して解釈することはできるけど、
架空世界や過去・未来を語る為の必要十分条件が中心化という手法ということに
本当になるだろうか。

たくさんの登場人物が出てきて、一人称形式を取らない小説では何に対して
中心化が『為されなければならない』のか。そうしなければその小説は理解不可能になるのか。

あと最後に。ハシゴの研究をするということはミイラ取りがミイラになる
ようなものじゃないか。(もっとも、ここでもミイラにならざるを得ない、
という形で学ぶことが出来ないわけじゃないけど。でもこの研究自体は
やっぱり最終的に捨てられなければならないのは明白だ。ミイラになって
博物館に飾られるのが目的なら話は別だけど。)
721669:2005/07/18(月) 12:48:55
>>719
連続で無駄レスだけど692さんはデカルトの議論なんて全然知らない人のことを
忘れていると思う。そういう人達にとって「デカルトのコギト」が真理だ、
なんていうことは馬鹿げた発言にならざるを得ないんじゃないのか。
(だからこの場合の『真理』は一種独特な真理なんじゃないのか。デカルト
の見解とは裏腹に。)
722692:2005/07/18(月) 13:27:02
>>720
>永井がその最初に提示した<私>とは永遠に重ならない手法だ
というのは永井自身も分かってるはず。
俺は669さんの批判の内容が的外れだと言ってるんじゃなく、
すでに踏まえられてることだと言ってる(ので内容はともかく批判として的外れだと思う)。
……あるいは俺が永井を過剰に買いかぶった読み方をしているだけなんだろうか?

>架空世界や過去・未来を語る為の必要十分条件が中心化という手法ということに
>本当になるだろうか。
ごめん。間違えた。「過去や未来における<私>を語ることができなくなる」でした。
つまり、現在においては人格同一性の話に<私>が登場せざるをえないが、
同一性は常に「持続」として語られる以上、過去や未来においてどれが<私>かという話は必須。
でないと現在において人格同一性と<私>の問題を絡めることすらできなくなる、ということ。
(<私>の人格同一性というのは、過去の<私>と現在の<私>が同一だ、という意味だから)

>ハシゴの研究をするということはミイラ取りがミイラになるようなものじゃないか。
ハシゴの研究が駄目なら何をどう研究すればいいんだろう。
ここでも669さんの批判内容は分かるけど、どうすべきだと思っているのかが分からない。
そして仮に669さんが「こうすべきだ」と具体的に示してくれたとしても、
俺はそれに対して「それも形を変えた中心化であらざるをえない」と言うと思う。

>>721
確かに配慮が足りなかったかも。(一応「私のメタフィジックス」で言及されてるから出したんだけど)
デカルトの議論を知らない人は、「計算される前から円周率はある(あった)」とか
「ガリレオ以前から地球は太陽の周りをまわっていた」という風に読み替えてください。(長文でスマソ)
723669:2005/07/18(月) 14:31:21
>>722
もしこのことを踏まえているんだとしたら、どうしてそれが<私>議論の
足しになるのか。足しにならないことが判明しているなら永井は原稿用紙
を埋める為だけに中心化の話を進めているんじゃないのか、という疑問が
頭をもたげてくる。(これは誠実ではないと思う)
このハシゴの研究が第一義的なものなら<私>の方は完全に捨て去らなければ
ならないだろう。だってどこまでいってもそれは<私>議論とは関係無いことを
示すだけだから。

>「過去や未来における<私>を語ることができなくなる」

という論点に関して、例えば過去の<私>ということは全然重要ではなくて
<今>ということと<私>ということは同じことの別表現である、というのが
永井の見解だと理解していたのだが。

実際、過去の話について「私はその時・・・を見た」と言う時には大抵「・・・」
の方だけが重要であって「私」の方に重点が置かれることは特殊な場合ではないか
ということがある。(「それを本当にあなたが見たのか。誰かの話を聞いたのではないか」
というような場合に。そして当然哲学の議論をしている場合も。)

>「計算される前から円周率はある(あった)」とか
>「ガリレオ以前から地球は太陽の周りをまわっていた」

これらはそれぞれ別々の哲学的議論が必要なんじゃないかなあ。デカルトのコギトも。
(だからこれらを一緒くたにするのは賛成できない。)
724692:2005/07/18(月) 15:02:12
>>723
>どうしてそれが<私>議論の足しになるのか。
過去や未来において<私>がどう捉えられるかという問題は、
現在の端的な<私>が人格同一性の問題に適用できるかどうかに関わる。

>過去の話について〜(中略)〜「私」の方に重点が置かれることは特殊な場合ではないか
上にも書いたように永井が人格同一性の話に<私>を組み込もうとしてるなら、
過去や未来の<私>がどのように決定されるのかも考えないといけない。
たとえば「転校生とBJ」の最後のレポートでは、記憶が同一性の条件になってるんじゃなく、
人格同一性こそがそれが記憶であるための超越論的条件になってるという形で、
結局のところ過去の<私>がどう捉えられざるをえないかという話をしている。

というか、もうハッキリと「<私>は議論の対象にならない」と断言してしまおう。
だからこそ669さんが<私>議論のためにどうすべきだと言っているのかが分からない。
<私>と直接関係のある話をしろというのは、永井に「何も語るな」と言うのと同義だ。
永井は「<私>は議論の対象にならない」という問題について、
それが言葉のどのような性質によるのか(単なるウィト風の文法問題なのか、
それとも主体に関するカント風の超越論的構成がそうさせるのか、など)について語ってるわけで。

最後にもう一回くり返すけど、俺は669さんの発言の意味が分からないのではなく、
発言の意図(結局どうすべきだと言っているのか)が分からない。それを教えてください。
「意味が分かる」という意味では我々の話はぴったり噛み合ってるけど、
「意図が分からない」という意味では我々の話はぜんぜん噛み合ってない。
725669:2005/07/18(月) 15:59:41
>>724
もし永井も692さんのように「ハッキリと「<私>は議論の対象にならない」と断言してしま」ったと
したら彼の中心化やら、人格同一性やらの議論は全部糸の切れた凧みたいにどっかに
飛んでいってしまう。(何作かの著作は無意味になってしまうだろう)
それを(かろうじて)繋ぎ止めているのが<私>なんだから692さんの
「ハッキリと「<私>は議論の対象にならない」と断言してしまおう」というのは
永井の議論を根本から見誤っているように見える。でもまあ、692さんの見解として
ならそれで構わない。

直接<私>について語ろうとすると上手くいかないのは中心化の議論でも
明らかになっている。でも、だから本当に重要なのは中心化や人格同一性やら
の方なんだ、というならそれは早とちりだろう。
(それは「世界がある」ということではなくて、「世界がこのようにある」ということだ。
そして後者にはウィトゲンシュタインが述べたように神秘は無いだろう。)

あと692さんの言う過去の<私>というのが今一つ分らない。もう一度繰り返すけど過去の記憶について
それが他人の過去を移植されたのだとかいう仮定にしてもどうでもいいものにしか
思えないんだが。そんなに過去が重要になることなんてあるの?(692さんの哲学的前提
として重要なだけではないのか。何か僕が挙げた以外で過去の<私>が重要になる例を
挙げて下さい。無いと思うけど。)

結局どうすべきか、という点について僕は何も展望が無い。僕は政治家じゃないから。
政策立案は官僚に任せておけばいい。

まあそれでは余りにも無責任かもしれないから一つ言えば、繰り返しになるが例えば
>「計算される前から円周率はある(あった)」とか
>「ガリレオ以前から地球は太陽の周りをまわっていた」

については全く別々の議論をするべきだということ。一人一人の体型が違うのだから
その為の服もそれぞれ違ったものになるだろう。哲学用語はしばしばそういう繊細さを失うから。
726703:2005/07/18(月) 17:55:00
>703さんの言う「様相に現れていた問題」ってクリプキらの様相論理に現れていた問題の意?

違う。すでに言っていると思うが、「私」や「今」と同じように「現実」概念がもたざるをえない二義性のことだ。
「私」や「今」に現れた問題の意味を共に論じ合うときには(実は自分が理解するときすでに)、
問題の(共通)理解自体が様相における二義性に依存せざるをえないということだ。

>表だって論じられていられていないとは思うけど,「捨てられた」というのは?

何が経験されようと経験するのは私だ」は世界が私に中心化されているが,
「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」はそうではなく、論空間全体が「現実」に中心化されるているんだ。
だから、「現に見える・聞こえる等が起こるのは私だけだ,という考え方が前提」になってはいないんだよ。
そうではなく、この二つ思考法がたんに「類比」されているんだ。これがつまり「私」と「現実」の「類比」だ。
「中心化」は明らかに捨てられている。かわりに登場するのが「カント原理」で、現実世界の連続性の基準が私の連続性の基準と一体になっているという議論だ。
あくまでも「連続性」において、というところが味噌だ。
そして最後にそれがまさにこのことを論じているこの言語そのものの連続性として甦生するという仕組みになっていて、
なかなかよく考えられているとは思うね。
727692:2005/07/18(月) 21:41:32
>>725
>「ハッキリと「<私>は議論の対象にならない」と断言してしまおう」というのは
>永井の議論を根本から見誤っているように見える。
分かれ目はここだな。
ハッキリと「<私>は議論できる」と言う人がいればその人は永井の議論を根本から(ry
もちろんそれが669さんの個人的見解にすぎないというならそれはそれで構わないが。
というか、「できるできる」って言うよりも具体的にやってみせてほしい。
そしたらすぐに俺は「それも結局(高次の)中心化でしかない」と指摘するから。

>僕には何も展望がない。
って言ってるけど、俺は「そのような展望は原理的にありえない」と言ってる。

>でも、だから本当に重要なのは中心化や人格同一性やら
>の方なんだ、というならそれは早とちりだろう。
俺のレスを「だから重要なのは中心化である」と読んだのならそれこそ早とちりだよ。

>あと692さんの言う過去の<私>というのが今一つ分らない。
なぜ分からないのかが分からない。いままで何度も説明してきたのに。
正直、不毛なやりとりをしているようにしか思えなくなってきた…。
728考える名無しさん:2005/07/18(月) 22:06:31
素朴な疑問なんだけどさ
<私>の問題を他人に伝えようとすると「私」という一般性に
回収されちゃうという表現不可能性が出てくるけども、
別にそんなことはどうでもいいんと違う?
だって<私>が存在するっていうのがそもそも出発点の認識であって、
そのことを他人が自分のこととして当てはめようがなかろうが、
どーでもいい気がするんだけど。
そもそも永井の問題っていうのは<私>という存在の表現不可能性が
問題だったんだっけ?
729710:2005/07/18(月) 22:37:58
>>726
>何が経験されようと経験するのは私だ」は世界が私に中心化されているが,
>「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」はそうではなく、論空間全体が「現実」に中心化されるているんだ。
>だから、「現に見える・聞こえる等が起こるのは私だけだ,という考え方が前提」になってはいないんだよ。

現実世界と可能世界という話が,それが誰に中心化されているかという話とは
別のことだ,というのは確かにそのとおりだと思います。
ただ,永井が今まで論じていた可能世界についての議論は,中心化と一緒になさ
れていた(例えば『転校生』のFさんのレポートで,他者とは現実世界とは中心が違い,
他の内容等は現実世界と同じである可能世界のことだ,という議論がなされている)
ので,「捨てられた」と言われると,それまでの議論が全く撤回されたような印象が
あったので,気になっただけです。たいした話じゃなくて失礼。
730考える名無しさん:2005/07/18(月) 23:26:45
>728
永井の言い方で言うと,例えば,他のものとは全く違う唯一の<私>という
ものが1951年に生まれた(それ以前には生まれず,また2100年にはまず
存在しなくなっているだろう)ことが不思議だ,ということになるんですかね。

で,ここで,永井の議論を勝手に利用して妄想してみる。もし,
@<私>が1951年に永井均として生まれ,2100年の前には死んだ
Aその後,同じ<私>が,2200年にアメリカ大統領として生まれ,その後死んだ
Bその後(?),同じ<私>が,19世紀末にオーストリアの資産家の家に
生まれ,一冊の本とたくさんの遺稿を残して20世紀半ばに死んだ
Cその後,…
ということが可能だとすると,<私>が他のものとは違うこととか,1951年に
生まれそれ以前には生まれなかったこととかは,本当は不思議なことでは
なく,いつでもどこでも起こりうるにすぎないことを「不思議だ」と思いこんで
しまっただけだ,ということにならないですかね。
そうでなくて本当に不思議なことだと言うためには,同じ<私>だと言える
ための条件や,現実世界と可能世界の違いとかを考えていくことに,
やはり意味があるんじゃないですかね。
勝手に長文で失礼。
731考える名無しさん:2005/07/18(月) 23:46:11
>いつでもどこでも起こりうるにすぎないことを「不思議だ」と思いこんで
>しまっただけだ,ということにならないですかね。

この可能性は否定できないな。
もしかしたら<私>というのは実はただ一つの宇宙的<私>しかないのかも
しれない。
人間というのは宇宙的<私>を収容する容器にしか過ぎず、すべての
開闢点としての<私>は一見バラバラで繋がっていないように見えるけれど、
実は同じ<私>が突出してる<出店>でしか過ぎないのかも。。

・・・というようなことを渡辺恒夫というオカルトに往っちゃった
学者が書いてたけど、論理的には否定はできないと思った

732考える名無しさん:2005/07/19(火) 04:02:48
<私>っていうのが性格や記憶とも独立した世界の開闢点みたいなものだと
したら、一回寝て、目が覚めたときに自分がブッシュ大統領になってたとしても、
<私>自身も、そこに移動があったことすら気がつかないんじゃないの?

<私>が今、コノ肉体に宿ってるということに何の必然性もないのであれば、
寝て起きたらブッシュになってても不思議はないし、そしてそういうことが
「現実に」起こったとしても、それが起こったことに誰も気づかないし、
そもそもそういうことが起こったということを確かめる方法が原理的にない。

永井は原理的に不可能なこの方法を探るという不可能な試みをしているのではないか?
733669:2005/07/19(火) 13:33:18
>>726
二義性って本当にあるのかな。「私」、「今」、「現実」といった概念がウィトゲンシュタイン
言う所の<超概念>として使われた際の、言語の生み出す錯覚じゃないのか。
(哲学的議論をしている時だけそれが生じるのは明らかじゃないか。だとしたらこれは
怪しくないか。)

>>727
692さんに誤解させる書き方をしたかもしれない。
「直接<私>について語ろうとすると上手くいかない」
と725ではっきり書いておいたはずだけど。だからもちろん「できるできる」
なんて言っていない。

過去の<私>が分らない、と書いたのは表記の仕方。これは過去の「私」のこと
だよね?(<私>の方は<今>と類比的に語られると思うんだけど)

前に書いたかもしれないけど>>724「『永井に何も語るな』と言っているのと同義」
というのは或る意味で賛成。でも永井だって哲学者である以前に普通の社会人
だから原稿料その他で生活の足しにするのは当然だと言える。
でも中心化や可能世界や人格同一性やらで結局砂上の楼閣を作っている印象は
拭えない。こういう哲学用語は全部まやかしだと思うんだけどな。

僕の言っている展望っていうのはもっとつまらないもの。中心化とか可能世界
ていうのはそもそも僕らが知っている普通の言葉遣いから生まれた概念だろう。
だから中心化とか可能世界といった概念を使って何かをするべきなのではなく、
それぞれを単純な形に戻してやるべきなんじゃないかということ。
僕はこういう言葉遣いをやめるべきだと思っている。でも692さんや703さんは
これらの概念を使って何かをしようとしている。
それらの概念は哲学をしている時だけ働いているのではないか。
734703:2005/07/19(火) 17:18:02
>二義性って本当にあるのかな。「私」、「今」、「現実」といった概念がウィトゲンシュタイン言う所の<超概念>として使われた際の、言語の生み出す錯覚じゃないのか。

「錯覚」とは何か? それは超越的な(与えられた知覚像を超越した)実在と対比されたとき「偽」とされる知覚像のことだろう。ゆえに、「錯覚」と言う以上、ここでなされているような議論においてもこの「実在」にあたるものがあると主張していることになる。
それは何か? とりわけ「言語の生み出す錯覚」とは何か? そもそも言語が「錯覚」を生み出すなどということがどうして可能なのか? その「錯覚」を「錯覚」でないものと区別する基準は何か?
ウィトゲンシュタインはどこで「錯覚」と言っているのか? それこそが彼が彼の後期思想を構築するために捏造した根拠なきイデオロギーにすぎない可能性をなぜ疑ってみないのか?

>哲学的議論をしている時だけそれが生じるのは明らかじゃないか。

端的な「今年」と(例えば)ロンドンオリンピック開催時の人々にとっての「今年」の区別はごく自然になされ、誰でもその区別(「今年」概念の二義性)を知っていて使いこなしている。それがつまり「可能的(possible)」今年だ。
哲学的議論をしている時だけに生じるのは「明らか」だという根拠は?
735考える名無しさん:2005/07/19(火) 17:34:09
はあ?
736唐辛子:2005/07/19(火) 20:06:36
>>732
>永井は原理的に不可能なこの方法を探るという不可能な試みをしているのではないか?
そうです。意識・私・この世・第一原因・・・・こういった事の理由
を探しています。

でもそもそも問題なのは、
今のこの私が確かめて解ったとしても、次の瞬間には
<私>が解ってない状態の私になってしまう可能性があるという事です。

まあこの論を使えば一瞬前には理由が解っていたとも言えますが・・・
737692:2005/07/19(火) 21:20:32
>>733
「直接<私>について語れないから、中心化という方法を用いてる」っていうんじゃ駄目? 
というか原理的に同程度の方法しかありえないのに「それじゃ駄目」と言われても、
669さんがどういう方法を「駄目でない」と思っているのか分からないので意図が伝わらない。

>過去の<私>が分らない、と書いたのは表記の仕方。これは過去の「私」のことだよね?
なるほど。これは確かにこちらがまずかった。
「過去の<私>」というのは、過去において<私>と同定されざるをえないものという意味。
(だから正確には、過去の「私」とか過去の<<私>>という表記を用いるべきだった。スマソ)
人格同一性の話で<私>を用いるときに、同一性というのはあくまで時間経過の中で
語られなければならないから、<私>は過去どうだったか未来にはどうなるかが問題になる。
もちろん「人格同一性の話なんて面白くない」と言われたらそれで終わりだけど。

>中心化とか可能世界といった概念を使って何かをするべきなのではなく、
>それぞれを単純な形に戻してやるべきなんじゃないかということ。
>僕はこういう言葉遣いをやめるべきだと思っている。
俺がどうしても納得できないのはここ。中心化・可能世界などの概念が抱える欠陥は、
言葉遣いの問題じゃなく、およそ言葉である以上原理的に避けられない欠陥。
もし669さんが「やりようによっては何とかなる」と思ってるなら、そこで意見が分かれる。
738二プレス:2005/07/19(火) 22:36:39
すごくレベルの高い議論がされていますね。
ただ、永井均の議論をもっと積極的に評価する姿勢がないと <これ> を論じる意味は
わからなくなるのではないでしょうか。

 永井均は「哲学」が「倒錯的な努力」であると指摘しました。「無駄」にしか見えないような「倒錯的努力」を
そぎ落とした先には「どうせ死ぬのだから生きない」というような結論が待っているのではないでしょうか。
(語りえないものを語らないというような態度)

 それと永井均は新刊を「本当の哲学の開闢」たらしめんと考えているのですから、哲学の「伝統」が必須である
というような考えとは距離があるように思います。
 永井均の「仕事」が哲学の伝統の中で置き去りにされてきた <独在性> に光を当てたことに代表されるならば、
永井均はこれまでの伝統を否定したと考えられるのですから。
ただし、「伝統の否定」を「伝統」の中に引き入れることはできるでしょうが。
(これはこれで永井的な問題だろう)
739669:2005/07/20(水) 13:08:08
>>734
『錯覚』という語は確かにまずかったな。でも『言語の生み出す錯覚』というのは
703さんが僕の『錯覚』という語に反応して使った『実在』なんていう語に顕著では
ないかな。この語を使った途端に実在なるものについて究明しなければならなく感じられ
始めてしまうんだから。その時にはもう『実在』という語は<実在感>を持ち始めてしまう。

>端的な「今年」と(例えば)ロンドンオリンピック開催時の人々にとっての「今年」の区別は
>ごく自然になされ、誰でもその区別(「今年」概念の二義性)を知っていて使いこなしている。

もちろんその通り。でもこの二義性は一体誰が(哲学者以外が)<問題>だと思うのか
ということ。

例えば10年前の自分の日記に「今日は1995年7月20日である」と書いてあったとして
「これは間違ってる。<今日>は2005年7月20日じゃないか。」なんて言う人は<いない>。
(もしそんなことがしょっちゅう起こるのなら「今日」なんて語は書きつけておく為には
何の役にも立たないということだろう)

(703さんが挙げたような)普通の場合<二義性>なんて問題になっていない。
上の(哲学的)例の場合だけ確かに「今日」という語には二義性がある、ということが
重大な問題として現れるだろう。
(時制論理だってこの二義性を論理の中で既知のものとして表現することが出来るだけで、
それ自体が何故生じるかなんて最初から眼中に無い。)

703さんのような哲学的疑問は我々の時制の慣習そのものに向けられているのではないか。
我々の知らない未開の部族の習慣について、彼らの或る行為が「神への祈り」である
ことが判明したのなら<それ以上>の解明はあり得ないだろう。ところが僕らは
僕らの時制の慣習についてもう既によく知っているのだ。そしてこの慣習そのもの
を<それ以上>解明しようとしても無駄だろう。
740669:2005/07/20(水) 13:44:45
>>737
僕には方法なんて無い。可能世界や中心化はそれ自体で何かが出来るわけではなく
ただ批判的に検討されるだけのものだろう。
哲学というのは言わば護身術のようなものだ。向こうから打ってきたらこうする、
というような。

692さんの人格同一性っていうのは未来は関係無いんじゃないのかなあ。
未来にどうなるかというのはもちろん予言の話じゃないよね?(アカシック・レコードとか・・・)

過去の「私」というのは単純に記憶の問題ということだと思うけど、僕が言いたいのは
過去について語ったり、過去のイメージを思い出す時にはそれは<今>で<私>だ、という
意味で『過去の「私」なんてどうして問題になるのか』と723や725で主張したんだけど。
『過去』ではなくて『記憶』という語を使えば哲学的混乱はかなり避けられるんじゃないかと思う。
(普通の意味では『過去の私』なんて言うけど、これは全然哲学とは関係無いしね。
そして692さんの議論もこういう意味じゃないだろう)
741考える名無しさん:2005/07/20(水) 15:01:41
ニコニコ日記
742703:2005/07/20(水) 17:24:31
ということは、
>哲学的議論をしている時だけそれが生じるのは明らかじゃないか
と言うときの「それ」ってなんだったんだ???
俺にはあなたが(後期ウィトゲンシュタインの尻馬に乗って)哲学的議論一般を批判し始めたようにみえてきた。そこでまず、
>それこそが彼が彼の後期思想を構築するために捏造した根拠なきイデオロギーにすぎない可能性をなぜ疑ってみないのか?
に答えて欲しい。
さてそれで、あなたの(特に最後の段落のような)主張は哲学的議論一般に、あるいは大部分のそれに向けられざるをえないだろうが
(もちろんおれはそれを後期ヴィトゲンシュタインが自分自身の病気を治療するために作り出した戯言だと思うが、それはともかく)
そうなると、あなたの主張はとくに永井の議論だけにかかわるわけではないので、ここで論じるのはirrelevantになってこないか? 
いや、もうそうなってしまってるよ。あなたの主張に従えば『純粋理性批判』の仕事だって「無駄」ということにならないか? 
われわれが既によく知っている慣習の、文字通りの「それ以上」の解明だから。
743669:2005/07/20(水) 18:28:41
>>742
>哲学的議論をしている時だけそれが生じるのは明らかじゃないか
>と言うときの「それ」ってなんだったんだ???

もちろん普通の人も時間について語る。でも哲学者はそこに重大な何かがある、
というように解釈する。
普通の人と哲学者は「時間」について別様に反応している。そして哲学者はもちろん
普通の人の素朴な時間概念から自分達の哲学的議論を引き出している。
僕は哲学者が普通の人よりも洞察力があるわけじゃない、ということを示しているだけだよ。

イデオロギーうんぬんについてはよく分らない。ウィトゲンシュタインにはそんな
戦略はまるで無かったと思う。もちろん僕にも無い。
「自分の思想を構築する為に」哲学をすることは不可能じゃないかな。(もしできたとしても
何の為にそんなことをするのか分らない。学問的名声の為か?世の中を善に導く為?
マルクスなら分るけどウィトゲンシュタインはどんな意味でも役に立たないしね。)

或る考えを批判する人は、それとは別の考えを持っているという想定は誤解だと思う。
政治の世界ではそうかもしれないけど。
それから「根拠無き」というのは批判になるかなあ。もちろん根拠の根拠はもう無いんだから。

『純粋理性批判』は真の意味で哲学的な著作だと思うよ。色々な欠陥はあるけど
その欠陥からも学べるという意味でも優れてる。
もっとも確かに哲学に興味の無い人にとっては全く「無駄」であることに変わりは無いけど。

>われわれが既によく知っている慣習の、文字通りの「それ以上」の解明だから。

これはカントの「超越論的」ということの明らかな誤解じゃないのか。
そんなことは不可能だ、ということを示すことがカントの目論見だったんだから。
744考える名無しさん:2005/07/20(水) 18:40:31
825 :しろうと :2005/07/10(日) 16:16:34 ID:???
>>813の人は司法試験は合格されたんですか?
学者世界のマニアックな論争より
現行司法試験に合格させてなんぼですから、つまり学界とは目的が違うわけですから
予備校講師としては柴田ってニーズにかなう優秀な人なんじゃないんですか?
初学者で柴田の通信受講の者ですけど。
http://school5.2ch.net/test/read.cgi/shihou/1113862441/

745692:2005/07/20(水) 20:38:27
>>740
他の人へのレス(>>743)から拝借させてもらうと、
>或る考えを批判する人は、それとは別の考えを持っているという想定は誤解だと思う。
という部分に誤解がある。
俺が言いたいのはそうではなく、それと同じように書くなら以下の感じ。
「或る考えを批判する人は、その批判の基準(何がよくて何が悪いか)を示せる」

たとえば、「美しい」という語を適切に使う人は「Aは美しい、Bは美しくない」と言う。
それに比べて669さんは「すべてが美しい」と言っているようにしか見えない。
「すべてが美しい」と言う人は「美しい」という語を正しく使えてない、と言わざるをえない。
(その人の「美しい」という語の使い方は私的言語化している)

>過去のイメージを思い出す時にはそれは<今>で<私>だ、という
>意味で『過去の「私」なんてどうして問題になるのか』
今現在の「これ」が<今>で<私>だから、過去や他者との対比が必要になる。
もし「私の存在の比類なさ」を持っていたら、「他者」を読み返してほしい。
そこで「<他者>はポジティブには語られない」と言っているが、あれが<私>概念の苦しいところで、
<私>を<私>として捉える以上必ず<他者>なり<世界>なりが必要だからそう言っている。
(そうでなければ<これ>がどうして<私>と表記できるのか分からない)
でも<他者>や<世界>なんてものを立ててしまうと<私>は特別ではなくなるという矛盾もある。
それと同じように、ポジティブに語られない<過去>も、<今>が<今>であるために必要ということ。
746703:2005/07/21(木) 05:00:30
>もしできたとしても何の為にそんなことをするのか分らない。学問的名声の為か?世の中を善に導く為?
自分の病気の自己治療のためだとはっきり書いているはずだが、なんで無視するのかな。

>あなたの主張は哲学的議論一般に、あるいは大部分のそれに向けられざるをえないだろうが、
そうなると、とくに永井の議論だけにかかわるわけではないので、ここで論じるのはirrelevantになってこないか?
という前回の主要な点に答えてほしい。
カントの話は例にすぎないので、例に対して例示の趣旨と違う解釈を与えて「誤解」だと言っても、論点に関係のある答えにはならない。
議論を拡散させないで、固有に永井の議論に対してあなたが抱いている問題に迫る努力をしてほしい。
時制や可能世界(や中心化)について論じているのは永井なのだから。
あなたの前回の主張が(たとえばカントには当てはまらず)固有に永井のそれらの議論には当てはまるのはなぜなのかを教えて欲しい。
そうでないと、745さんも言っているように、古典的な言い方をすれば「すべての牛を黒くする」議論になってしまうよ。
747669:2005/07/21(木) 15:15:53
>>745
ええと、「或る考えを批判する人は、それとは別の・・・」というのは703さんに向けての
ものなんだけど。

>669さんは「すべてが美しい」と言っているようにしか見えない。

というのは意味不明だった。そういうことなら僕は例えば中心化の議論なんかについて
「美しくない」と思うけど。
それから過去の<私>については一旦置いといて、未来の方は人格同一性と関係無いんだよね?

>>746
よく分らないんだがイデオロギーということで何を批判しているのかなあ。
僕はイデオロギー=人を或る方向に導く思想だと解釈してるけど、哲学には
そんなご大層なものは無いだろう。フロイト流に相手の裏側を読もうとしているのか。

いや、例えウィトゲンシュタインにその種の分析をやったところでゴミしか出て来ないんじゃないか。
<哲学の>病気の自己治療というなら勝手にやらせとけばいいんじゃないの?
捏造した、というのもよく分らない。哲学なんてみんな普通の人から見たら無理やり捏造したものにしか
見えないんじゃないか。

あと、カントの超越論的議論についてはっきり誤解していることを、或いは間違った文章を
書いたことを認めるべきだと思う。
「われわれが既によく知っている慣習の、文字通りの「それ以上」の解明」なんてそもそも
不可能であることの論証がカントの超越論なんだから。

「固有に永井の議論について抱いてる問題」というのはもちろん可能世界(や中心化)
は捨てられるべきものに過ぎない、ということ。ここには何の成果も無いことは
明らかだということ。(そして時制については哲学的アプローチを取るべきではない
ということ)
言っておくけど703さんは僕が何らかのイデオロギーを持っていると考えて
答えを迫るけど、僕にはそんなものは無いという事だ。
748703:2005/07/21(木) 18:01:58
カントは誰もがすでによく知っている「物は誰も見ていないときにも持続的に存在する」というようなことがなぜいえるのかを、
時間空間とカテゴリーの超越論的観念性という壮大な装置によってさらに解明し根拠づけて見せた。
そもそも不可能どころか、それがカントのやったことだ。だからこの作業は無意味な徒労だという主張はありうるし現にある。
「そもそも不可能であることの論証」だというあたたの解釈の根拠は? またカントの「超越論」とは何か? 何も形容していない名詞の「超越論」とは???

俺はあなたが「何らかのイデオロギー」を持っているなどとまったく思っていない。俺が聞いているのはごく単純なこと。
「可能世界(や中心化)は捨てられるべきものに過ぎない、ということ。ここには何の成果も無いことは明らかだ」
と言われても、ただ「明らかだ」と繰り返されるばかりで、なぜそう考えるのかを言ってくれなければ(「明らか」だと思っていない者にとっては)
話にならない、という単純自明のことにすぎない。
あなたのその考えの(結論だけでなく)思考のプロセスとその際の論拠をきちんと提示してほしい。そうすれば、それについて議論できる。
749考える名無しさん:2005/07/21(木) 18:30:51
世界の開闢点とか中心化という言葉を使ってどんなに精細に<私>を描出しても
結局のところ、それらの言葉は誰にでも当てはまる。
私>の神秘を語ろうとしても、人称というものの性格上、
それは一般的なものとして回収されてしまう。
その{避けがたさ}を永井は長々と語っているわけだが、それは永井が
本当にやろうとしていることとは別のことだって言いたいんではないかな。
漏れもそういう{避けがたさ}の指摘っていうのは大した問題じゃないっていうか、
そういう議論はもう飽きた気がする。
そういうのは前提とした上で、そろそろ次のステージ(というものが可能なら)っていうか
<私>の神秘そのものに迫る議論へ移ってほしい。
近刊のライプニッツの議論はそういう点ではちょっと面白かったんだが。
750703:2005/07/21(木) 20:53:40
>>749
その「避けがたさ」の議論は永井においてはもう終わっている(俺はむしろまだまだ詰めが甘くてもっと本格的な言語哲学的議論そちゃんとやるべきだと思うが)。
むしろ<私>の神秘にあたるものが実は他の領域にもあったし、あらざるをえない、という驚くべき「形而上学的」主張がなされて、
そのことこそがそもそも<私>をめぐる議論(話が通じること)を可能にしている、という構成になっている。
だからこそ新しく「神」なんて話が出てきているんだ(むしろここから「神」について新たに考え直す可能性がある)。
「近刊のライプニッツの議論はそういう点ではちょっと面白かったんだが。」
どころではなく、全体がもうそっちに移っているのに、むしろ読者の方がついていっていないんだよ。
それだけでなく、前にも言ったように「中心化」は「カント原理」に変化していてそっちも固有の問題性があるのに、
こっちも今だに「中心化」の段階の論議に終始しているんだから、嫌になるよ。
俺はそこから先の議論をしたかったのに、そもそもの前提そのものがちっとも共有されていないんだなあ。
751669:2005/07/22(金) 11:35:17
>>748
やっぱり誤解だ。「壮大な装置」と言ってる時点で。カントの哲学用語に酔い痴れてる
だけだ。『そっち』の方が好きな人は哲学者が何でこんな不自然な哲学用語を
ひねり出さなければならなくなったかを全然理解していない。

>「物は誰も見ていないときにも持続的に存在する」

というのは『物自体』の事と解釈したのだが。(『純粋理性批判』からはそうとしか読めない)
703さんの例題かな?
多分カントはこんなことを言われたら、「そんなことは言えない」と言うんじゃないか。
そうしたことは悟性と感性の外だから。カントは物は見ていない間に消えているなんて絶対
思わなかっただろうけど、逆に見ていない間も物は存在し続けるなんてことは
限りある人間には言えないってことを示したんじゃないか。

物理学の最新の理論について研究している人が100年前の物理学を勉強している
人に対して『君はまだそんな段階なのか』ということはできるけど、哲学では
何と言うか的外れな感じだ。
永井の議論が<先に行ってる>というのはとんでもない(哲学そのものに対しても)
誤解だと思う。

可能世界、中心化等の哲学用語が最終的には捨てられるべきという点については
749さんの前半部の通り。
哲学を(703さんみたいに)『楽しんで』やることは僕には不可能だ。
インテリが書斎で『純粋理性批判』を<楽しむ>のは何か根本的な誤解が無ければ
成立しないように思う。彼らには哲学が何か『高度な』ことをやってるという思い込みがある。
何気ない普通の事(インテリなどは最初から素通りしている事)が普通に見えなかったから
哲学を始めたんじゃないか。
752考える名無しさん:2005/07/22(金) 12:35:18
>>751
後半の書き込みは余計ですな
その手のことは永井読者であれば何度も読まされてる。
無意味な喧嘩の種になるだけですよ
753703:2005/07/22(金) 18:19:47
>「物は誰も見ていないときにも持続的に存在する」というのは『物自体』の事と解釈したのだが。(『純粋理性批判』からはそうとしか
>読めない)
冗談か? 本当に『純粋理性批判』を通読したことがあるか? 誤魔化さずに正直に答えて欲しい。そしてもう一度聞くけど「超越論」
とは何か?
>カントは物は見ていない間に消えているなんて絶対思わなかっただろうけど、逆に見ていない間も物は存在し続けるなんてことは
>限りある人間には言えないってことを示したんじゃないか。
冗談の続きか? 「思わなかっただろうけど」? esse is percipi はもちろんバークリだよ。「限りある人間には言えない」? 
カントがそのバークリの経験的観念論を超越論的観念論によって徹底的に批判して外界の対象の持続的存在を論証したことは常識中
の常識じゃないか。それとも、あなたはカントに対してきわめて独創的な解釈を持っているのか?
>永井の議論が<先に行ってる>というのはとんでもない(哲学そのものに対しても)誤解だと思う。
誰がそんなことを言ったんだ? 彼の議論はあなたの言う意味で<先に行って> などいない。彼の考察段階として次の段階に「移
って」いるだけで、「先」どころか同じ問題をさらに考え続けているだけだろう。
>「可能世界(や中心化)は捨てられるべきものに過ぎない、ということ。ここには何の成果も無いことは明らかだ」
と主張する根拠を尋ねているのに対し、あなたはまたしても哲学一般に関する自分の嗜好を語るばかりで、固有に永井の議論に関係することを言わない。
それだけの理由なら「だから僕は読まない」と言うだけでいい。というか、そもそもそんなことを「言う」必要もない。誰だってそういう理由で読まない
ものなどいくらもあるだろうから。そうではなく「捨てられるべき」だと主張するには、単なる自分の嗜好以上の、議論内容そのものに直接関係する
(relevantな)論拠が必要なのだ。なぜそれを提示し議論しようとしない? もし論拠は「ない」なら、正直にそう言ってくれ。これで終わりにしよう。
見ず知らずの他人の単なる嗜好に対して言うべきことなどもちろんないから。
754考える名無しさん:2005/07/23(土) 02:06:24
ワラタ。ほんと冗談としか思えない
傍から見てると漫才みたいだ
755考える名無しさん:2005/07/23(土) 02:45:08
とどのつまりですね、もの自体とは現象という影の本体ですよ。
時間や空間という主観カメラ(形式)を通して見る世界=現象はもの自体の影なんですね。
比喩的には生身の芸能人とお茶の間のTVに映る芸能人と思っていいですよ。

またカントはもの自体を概念として認識する頭の中にもあると言っているんですね。
永井はこれを「違うフキダシだ」と言って退けてますがね。
つまり理性がもの自体という英知界と知覚されるものという感性界をつなぐんですね。
超越論とはそういうつながり性を「考えざるを得ない」論ですよ。
とどのつまりですよ、これが完璧な定義なんですね。
756考える名無しさん:2005/07/23(土) 05:28:23
このスレの人は対立している人もみな749の人の言う「一般的なものとして回収されて
しまう避けがたさ」の議論を大した問題じゃないというか、軽視してるように見えるけど、
それはみなさんが永井倫理学のほうの問題に興味をもっていないからじゃないでしょうか。
倫理学だと<私>の語り得なさは<悪>の語り得なさに対応していて、それなのにそれが
どうしてもどこまでも語られていってしまうという人間の本質的な偽善性のようなものが
問題にされていて、<私>の問題よりも倫理の問題に関心がある者にとっては、何という
か実を言えばちょっと身につまされるところがあるんですけど。みなさんはそういう問題
にはちょっとも関心がないんですか。だとすれば不思議です。
757考える名無しさん:2005/07/23(土) 06:50:33
<悪>の語り得なさ???
ハァ?と思ったけど、言いたいことがなんとなくわかった。

「人間の本質的な偽善性」というよりも、人称の問題と同じく
「人間の本質的な社会性」というべきだろう。

<私>という超社会的実存はギリギリの選択の場面で社会の法規
に基づいて行動するべきか?
永井の答えはNOなんだよね。
殺したければ殺すしかない、否、積極的に殺すべきだ。
つまり<私>の神秘をこそ最上位に置いている永井としては
人間の本質的な社会性(つまり中心化の並列的視点)は人称の一般性と同じく、
最後のステージでは退けられなければならないというスタンスなんだな。

だから756の考えとは反して、倫理学でも永井がやろうとしてることは同じじゃないだろか。
「一般的なものとして回収されてしまう避けがたさ」は社会の
一員である以上、それは人称の問題と同じく避けがたいけれど、
永井の力点は「一般性」ではなく、<私>のほうにあり、
そういう一般性は最終的には退けられるべきだと永井は言っているように思うが。
758669:2005/07/23(土) 13:24:07
>>753
僕はカントの見解に盲従してるわけじゃないからなあ。カントは個々の論点では
到底納得できないことばっか言ってるから。(当時の数学・論理学・物理学の水準を
考えれば致し方ないにしても)

「物は誰も見ていないときにも持続的に存在する」について<私>の議論に引き付けて
言えば<私>が見ていない時に物が持続的に存在するか否か、なんてことはどうでもいい。
そんなの<私>に確認しようのないものだから。だからってその物が見ていないときには
消滅すると考えられるわけでもない。それは<私>の外だ。

物そのもの(物自体)について我々は現象という形でしか捉えられないというカント
の見解から言っても「物は誰も見ていないときにも持続的に存在する」なんて言えるわけない。
カントが(バークリの経験的観念論を批判して)物の持続性を証明した?知らないなあ。
それならカントよりも僕の方がカントに忠実だったわけだ。

703さんは随分怒ってるみたいだけど、その理由が分らない。
<私>がそもそもの出発点なんだから可能世界や中心化がどうたらというのが
副次的なものに留まるのは明らかだと言っているんだが。
(永井だってそう書いてるようにしか読めない。そうした議論の為の装置が
あくまで副次的であることをこそ、永井は何度も何度も繰り返し強調しているんだろう。)
759669:2005/07/23(土) 13:56:51
>>757
>そういう一般性は最終的には退けられるべきだと永井は言っているように思うが。

「最終的に」というのがミソだね。全くその通りだと思うけど、例えば殺人について
哲学的に考慮されて「最終的に」行われる殺人というのは絶対無い、とは言えないけど
ほとんどあり得ないんじゃなかろうか、という疑問がある。

ということは永井のこの結論「殺したければ殺すしかない、否、積極的に殺すべきだ。」
は普通の殺人にはほとんど当てはまらないんじゃないか。人を殺す人は大抵こんな
哲学的考慮をすっ飛ばして普通に人を殺すんじゃなかろうか。

また、自分を殺そうとしている人に対して「殺したければ殺すしかない、否、積極的に殺すべきだ。」
とは言えそうにない。このこともこの永井の結論に対する強い反論にならないか。

そもそも「殺す」ということが哲学的な問題になるのは自分の死の場合だけではなかろうか。
760692:2005/07/23(土) 16:57:52
>>747
うーむ、俺にはそれ以上平易な説明が思いつかないです。脱落します。
なぜこんなに話が通じないのか俺にはどうしても分からない。
669さんは俺と話が噛み合ってると言ったけど、俺のほうは全然そう思えなかった。
むしろ内容的には703さんの言ってることのほうに(素人云々はともかくとして)興味を覚える。

>>758
以下は蛇足だけど、横から見てる限りではお二人の実りある議論は期待できないと思う。
もしまだ続けるつもりなら、
・本当に純理を通読したことがあるのか
・何も形容しない「超越論」とは何か
・「明らかだ」というだけでなく、思考の筋道及びその都度の論拠を示してくれ
というような703さんの一つ一つの質問に669さんはきちんと答えるべきだと思う。
(もし703さんが怒ってるなら、それは669さんが特に3番目の質問に答えないのが原因かと)

それとカントについて、669さんは超越的/超越論的/経験的の区別がついてないのでは。
(だから観念論といえば経験的観念論としか捉えられないし、
「見る」「物がある」についても経験的実在論ではなく超越論的実在論に話が飛んでしまう)
761669:2005/07/23(土) 18:39:58
>>760
簡単に言うと692さんと僕との食い違いは<私>の取り扱い方に現れるんだろう。
可能世界や人格同一性の議論には僕は重点が置けなかった。(永井だってそうだ、
と僕は勝手に思ってる。)こういう哲学的議論『から』、<私>が生じたわけ
じゃないだろう、というのは僕には崩せない。<私>という語り得ないものを
何とか表現しようという過程で副次的に使われた諸概念はそれを理解されたのなら
捨てられるべきなんだ。

僕は専門的なカント研究者じゃないから曖昧な用語の使い方をして混乱を招いたかも
しれない。でも「物は誰も見ていないときにも持続的に存在する」について僕が
間違ってるとは思えない。この正体不明の「誰も見ていないときにも持続する物」って何なのだ?
証明も反証も出来ないのは明らかじゃないか。カントはどうやってこのことを
証明したんだ?カントに証明出来たことは空間と時間の形式の中にあるものだけだろう。
しかもそれは単なる現象だ、というのだから。
(それとも現象は「誰も見ていないときにも持続する」なんて性質を持ってるのか?
そんな馬鹿な。)
762考える名無しさん:2005/07/23(土) 19:21:14
俺も761に同感だな。
俺は哲学的な教養がないので永井をほとんど文学的に読んでる単なる
ファンだけども、人称問題とかを含む「私」一般の話は、推理小説で
いえば事件の状況の説明っていうかさ、とりあえず真相究明のための
足がかりでしかない気がする。永井のミステリの「真犯人」は
あくまでも<私>であるみたいな。そしてその真犯人は事件の状況から
浮上したのではなく、初めから直感的にわかってる、みたいな。
763考える名無しさん:2005/07/23(土) 19:34:16
あと哲学の門外漢から見て永井が面白いのは、
永井の<私>っていうのは何か「うっ」ってクるものがあるんだよね。
たとえば人間って言葉は無色透明でさ、何も「うっ」ってこないけど、
一人の人間の顔をじかに見ると、「うっ」ってクるナマナマしさって
あるでしょう。生身の人間のキモさっていうか。
ライプニッツの議論が面白かったのは、可能世界が現実の存在として
有らしめられる場合、そこに飛躍というか断層みたいなことが書かれてて、
これは目の前にある現実というものに直面したときの「うっ」の説明として
面白いと思ったんだよね。
私一般の話はコノ現実とかコノ存在に直面したときの「うっ」と感じる
不気味さが蒸発しちゃってる。
でも<私>の議論は「うっ」がある。
哲学の素養がないもんで、感覚的な話ばっかですんません。
76470:2005/07/23(土) 19:54:19
>カントが(バークリの経験的観念論を批判して)物の持続性を証明した?知らないなあ。
>(それとも現象は「誰も見ていないときにも持続する」なんて性質を持ってるのか? そんな馬鹿な。)

馬鹿なのは君だ。760も言うように、669が「超越論的」の意味も知らずにカントについて語るただの
馬鹿であるころが判明したので、議論の相手とするのはやめる。
これでは(例えば)永井の「カント原理」の意味を理解できるはずもない。
ただ一つ残念だったこと。『純粋理性批判』を読んでいないなら堂々とそう言うべきではなかったか。
それを言わない(それが言えない=それを隠す)ことの内に君自身の哲学観の「嘘」が示されている。
765703:2005/07/23(土) 19:59:19
うえの「70」というのは「703」の間違い。
ついでに一言。
一まとまりの「<私>」ではなく「<>」の意味について考えてみたかった
ということを付け加えておく。哲学としてはここが重要だと思うので。
766669:2005/07/23(土) 22:30:48
>>764
?よく分らない。用語に関して誤解を招いたかもしれないけど、
肝心な論点に関しては間違ったつもりはない。

くどいようだけど「物は誰も見ていないときにも持続的に存在する」という時の「物」って何?
こんなことが言えるんなら物自体と現象の区別なんて徒労もいいところじゃないか。
703さんの口が滑った(精確には指が滑った)間違った例だと思うんだが。

それでも僕のことを馬鹿呼ばわりするのなら703さんこそ物自体と現象の
区別がついていないんじゃないか。そうでなければこの例は撤回するべきだろう。
767考える名無しさん:2005/07/24(日) 23:21:08
「私はハイデガーが存在と不安について考えていることを
十分に考えることができる。人間には言語の限界へ向かっ
て突進しようという衝動がある。たとえば、何かが存在す
るという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形
で表現することはできないし、また答えなど存在しない。
それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突
進するのだ。」
768考える名無しさん:2005/07/25(月) 02:28:44
 669と703の話し合いが面白いな。
個人的に、議論を放棄せずに建設的な議論を行ってほしい。
 読んでて思ったが、703は知識は豊富だけど、口下手だと思う。
もったいないな。
「なんで俺の言ってることがわからないんだ!」みたいな。
 あと、669が『純粋理性批判』を読んでいないと言わなかったのは、聞かれなかったからだけかと。
「お前ニューハーフだったのか!なんで黙ってた!?」
「だってあなた、聞かなかったじゃない!」みたいな。
 703を彼氏、669を彼女として見ると、実に微笑ましい。
いやぁ、日本は平和ですなぁ。
769考える名無しさん:2005/07/25(月) 02:37:55
夏休みバカ感想文大会
770考える名無しさん:2005/07/25(月) 10:25:21
>>753
>本当に『純粋理性批判』を通読したことがあるか?
771考える名無しさん:2005/07/25(月) 15:44:16
カントの話はもういいよ。永井ってカント読んでないと理解できんの?
772考える名無しさん:2005/07/25(月) 17:40:32
というか、ちゃんと永井を読んでればカントも身につくはず
773考える名無しさん:2005/07/25(月) 19:05:38
カントじゃないけど、哲学素人としては、『言語哲学大全V』の可能世界
の話が面白かった。何が面白いって、永井の話と全然違うように見えるところがw
デカルトが「私は存在する」と発言したとして、それが必然的に真であるか
どうか分析する中で、「デカルトが存在するのは偶然でしかあるまい」と
書いてあったり、素人としては勝手に楽しめました。
774二プレス:2005/07/26(火) 07:10:26
>703さん
 議論もひと段落したみたいだし、(692さんが言うように)>>750で指摘されていた
「近刊」の理解を私もぜひ教えてもらいたいと思います。

 議論の枠組みが <わたし> の語り得なさの追求から、語りえぬ <わたし> が
どこまでも語られてしまうということ(つまりそれは自分自身の哲学を可能ならしめているもの?)
に移ったとしたら実に興味深いですから。
(だから、近刊でウィトゲンシュタインはこの手の話が通じるということに何も答えていない
という指摘があったのか)

 …それとこれは完全に蛇足ですが669さんの抱いているような疑問には永井均は近刊において
デリダのフッサール批判云々といっている箇所で答えていたのではないかと思います。
(パラパラと近刊を見返してこの箇所を見つけようとしたのですが見つけられませんでした、
だからどうも自信がないのですが)
もし669さんの疑問が少しでも晴れる手助けになるなら参考にしてください。
775考える名無しさん:2005/07/30(土) 22:50:36
>ニプレス氏
貴方は「原理的に不可能な方法を探るという不可能な試み」を
行ってると見受けますが、
どうやって行ったら謎が解けると思いますか?
永井氏のような思考実験か脳科学のどちらかで解けるのでしょうか?
というか、どうなったら永井論の解が見つかった状態なのでしょうか?
私は分かったけど忘れたというのは分かったとも言えるのではないでしょうかね?

私が知ってる確実なのを挙げると意識(私)は
永遠に存在するor永遠に存在しないかどちらかなので、
意識(私)も存在する/しないには左右されるので
より根源的なのは存在する/しないではないでしょうか?
776二プレス:2005/08/02(火) 16:05:33
>>775
 もし仮に「存在する/しない」が「開闢」の根源性を脅かすのではと問うているのならば、
私は「開闢」の根源性、すなわち <わたし> の根源性は、「存在」とは別種の根源性ではないか
と答えます。

>どうやって行ったら謎が解けると思いますか?

 『ウィトゲンシュタイン入門』では「哲学的な問いに解答で答えようとするのではなく、
新たな問いでもって答えるべきだ」というような意味のウィトゲンシュタインの言葉が
引用されています。
 個人的なたとえを用いるなら、「謎を解く」ということは「哲学の死」に等しいと思います。
われわれの議論でも「哲学の死」に向かって投げかけられているでしょうが、哲学が
「ほんとに死ぬのかな?」と思うほどの強靭な生命力を持っているのは確かなようです。
777二プレス:2005/08/02(火) 17:33:26
>というか、どうなったら永井論の解が見つかった状態なのでしょうか?

 私は永井均はある程度の解答を出しているのではないかとおもいます。
だから703さんの言うとおり問題領域が移行している(すくなくともそう見える)のではないでしょうか。

 <わたし> という言葉の言わんとしたことはどうしても語りえぬものであり、
公共言語の網目の中に位置づけられてはならないもの、です。
しかし、他方では <わたし> (=実質)という的を決して射ぬけぬこの言葉(=差異)は
この私に向かって投げかけられていたはずです。
この「志向性」こそが <わたし> をナンセンスの闇から救い出すのではないでしょうか。

 「差異(=言葉)」の体系内で完結すれば <わたし> という言葉はナンセンスでしかありえません。
決して射抜けぬ <わたし> という「実質」に向けて放たれなければこの言葉はまさしく無意味だからです。
いや、こう言い換えたほうがいいでしょうか。「この私」(=実質)という核を持たずに <わたし> (という差異)を
語ることがどれほど無意味か、と。
 いずれにせよ「差異」の体系を飛び越えて「実質」に向けられる「差異」(だから結局「差異」の体系に回収されるのだが)、
というようなぐるぐる目の回るような論理展開に食らいついていかねばならないと思います。

 しかし、当然といえば当然ですが、こう見てみると永井均も669さん他の言っていたように「この私そのもの」
に向けて <わたし> という言葉を放っていたようです。ただしそれはぐるぐる目の回るような論理展開を経て
「不可能な試み」に転じるのだけれど。

 ちなみにこのような議論は問題領域を共有しない人たちにとっては「不毛」の一言に尽きる性質のものでしょう。
それは死んだじいさんの一生が私にとってはまったく「不毛」であるとしか思えないのと類比的だと思います。
778考える名無しさん:2005/08/04(木) 22:21:10
一冊読んだだけだけど、永井のいう<私>はホムンクルスっぽく感じた。

単なる人称の問題でない、世界でただ一つの比類ない<私>
世界を開く唯一の原点としての<私>

上の表現は「世界を認知する唯一の原点としてのホムンクルス」
と言い換えても違和感が無いような・・
779考える名無しさん:2005/08/04(木) 22:26:49
ホムンクルスって何だ?
780考える名無しさん:2005/08/04(木) 23:22:43
なかのひとのこと。
781考える名無しさん:2005/08/05(金) 23:18:56
猫のアインジヒトの挑戦って…、この人、猫好きなの?
アインジヒトって名前は何から取ってるんだろ?
782二プレス:2005/08/06(土) 00:26:38
 >>777
 我ながらですが、煩雑な文章でテーマが絞りきれていません。
ここで言いたかったのは、たとえば <わたし> という「言葉」が「この当の私」(としか言いようのないもの)
と無関係に「言語ゲーム」上で流通してしまうということだけではありません。
なぜならこれは何度もここで確認されてきたことだからです。

 むしろ私が主題にしたかったのは、「この当の私」としか言いようのないもの
に向けて <わたし> という言葉が投げかけられているということです。

 「この当の私」(としか言いようのないもの)と無関係に <わたし> という言葉がやり取りされるなら
「この当の私」(としか言いようのないもの)とは無いに等しいとしか言えないと思えます。
実際永井均は『ウィトゲンシュタイン入門』で、ウィトゲンシュタインは「独我論を言語の外=無に向かって放逐した」
と言っています。これに永井均は驚嘆しましたが、669さんは不満を抱いたのではないでしょうか。
783二プレス:2005/08/06(土) 00:27:34
 そして「プライベートな <わたし> をパブリックな公共言語体系の場面に引きずり出すことは原理的に不可能なんですよ」
という説明が669さんを納得させなかったのは、それでもここに指し示されている <わたし> そのもの(としか言いようのないもの)
がいて、ここに向かって <わたし> という言葉が発せられているではないか、という思いがあったからではないでしょうか。
「不可能」という公式見解を無視するかのように実は <ここ> ではっきりと「実現」しているではないか。
 しかしこのことすら結局ほかの人にも当てはまってしまって「この私の特別さ」=「言わんとしたこと」
は瓦解してしまいます。

 「この当の私」(としか言いようのないもの)に向けて <わたし> という言葉を投げかける。
すると成功するようで失敗してしまう。そして言わんとしたことは公共言語の網の目に絡めとられてしまう。
 でもこの種の失敗が無ければ、公共言語の網目は成立しないのではないか。
(ちなみに参考文献 『差異と実質』『私今そして神』)

 「この当の私」としか言いようのないものに向けて <わたし> という言葉が投げかけられている。
これを手がかりに、669さんの疑問(というかおそらく不満)を追ってみたいとおもって777を書きました。
相変わらず長文、すみません。
784二プレス:2005/08/06(土) 01:01:48
 それと703さんの>>750を勝手に考えているのだけれど
近刊の永井均の問題領域は「目の回るような論理展開」で <わたし> の問題に切り込んでいくというところから
「目の回るような論理展開」そのものを「目の回るような論理展開」で問題にするというところに移行した
ということなのだろうか?

 永井均は、ウィトゲンシュタインの「誠実さ」ではどうしても見通せない地平が一箇所だけある。
それは自らの「誠実さ」そのものだ、と言う。
他方、ニーチェは自らの(キリスト教由来の)「誠実さ」を問題にする「誠実さ」を持っていた。
(ここからは永井均お得意のめくるめく論理展開があって「誠実さ」を問題にする「誠実さ」が
ある限り別様の「神」が要請されるというようなことを言っていたがあまり理解できていない)

 このウィトゲンシュタインとニーチェの「誠実さ」の議論構造を自分自身に
適用しつつあるのが今の永井均なのだろうか?
785二プレス:2005/08/06(土) 01:07:21
 ちなみに永井均の「西田幾多郎」解説本はそろそろ出てもいいんじゃないのかなぁ。
入不二って言う人の「ウィトゲンシュタイン」解説本も見てみたいけど。
786考える名無しさん:2005/08/06(土) 04:51:35
永井均が存在神秘の古東の本の文庫解説してるらしいが、どんなこと
書いてあるのかな。まさか影響を受けたってことないよね
787考える名無しさん:2005/08/06(土) 13:22:14
>>781
Einsicht(ドイツ語)
insight(英語)
洞察(日本語)
788778:2005/08/06(土) 21:54:05
>>783
それってやはりホムンクルス的なものを想定してるみたいですね。
認知科学の一部ではホムンクルス的「認知主体」を想定すると無限後退の
ジレンマに陥るので、それをクオリアとかアフォーダンスとか苦し紛れの
理論で克服しようとしている人々がいますが、永井均はそのへん何も語って
ないのでしょうか?
789考える名無しさん:2005/08/07(日) 15:43:18
>二プレス氏
人間という生物特有の、自他を分ける意味での<私>が存在するから
永井論としての<私>はややこしくなるのではないでしょうか。

別に、永井均という人間、もっと言えば永井均という名の物質
が『今の<私>』でなくても良い訳で、
例えばそこら辺のチリが「私は永井均だ」と認識していても
何ら問題ない訳です。(この辺は、映画マトリックスのような
現実とは何か?が参考になると思います)

つまり何が言いたいかと言うと、今<私>は永井均だという人間的な
解釈ではなく、
「今<私>は『私は永井均だ』と認識している」という解釈の方が、
より真理に近づくのではないでしょうか。
同様に、
<私>が永井均ではなくブッシュに『なる』という表現より、
永井均ではなくブッシュと『認識する』という表現の方が、
適切ではないでしょうか?

永井論を語るにあたって、
上記の事は永井氏はいかに考えておられるのでしょうかね。
790考える名無しさん:2005/08/07(日) 16:49:04
>>789
「『認識している』と認識している」と認識している…
という風に無限背進に陥るだけ。
「〜であると認識している」という部分は意味を為さない。
791考える名無しさん:2005/08/07(日) 19:09:12
>例えばそこら辺のチリが「私は永井均だ」と認識していても
>何ら問題ない訳です。

だめだめ。
チリは<私>たりえない。
なぜならばチリは意識をもっていないから。(まあもちろん持っていないことを立証は
できないけれども)
認識をするための必要条件は意識をもつことだろう。
おそらくは意識を持ち得るものだけが<私>たりえる。
もっといえばおそらくは自己意識を持ちうるものだけが<私>たりえる。
(この点に関して「魂に対する態度」での永井は分裂している。その後「子供のための
哲学?」で間違いを認めているが、そこでもまだ冷蔵庫はなぜ私ではないかという
ナンセンスな問いが提出されている。)

よって
>人間という生物特有の、自他を分ける意味での<私>が存在するから
>永井論としての<私>はややこしくなるのではないでしょうか。

というのはこの問題の本質。
というのも<私>というのは自己意識に必然的につきまとうある種の(おそらくは
認知上の)錯覚という可能性はつねに残るから。

永井の語る<私>の表現をめぐる一般化の運動(たえずその全文を括弧に囲んで
最後に「と一般化されうる」が永遠に続く)は、実は<私>それ自体が
自己意識に付随する一般的作用の可能性を示唆する。
もともと一般的問題がその表現において一般化されるのは当然だから。

いずれにせよ、自己意識が存在するならばそれは「誰か」でなければならないのだが、
その「誰か」がなぜか「この私」だったことにとかれるべき謎があるという
こと自体自明でない。
第一にそこに本当に謎があるのか。
また謎があるとしてそれは本当に解かれるべき謎なのか。
792778:2005/08/07(日) 22:40:22
>>791
>その「誰か」がなぜか「この私」だったことにとかれるべき謎があるという
こと自体自明でない。

私が永井均を読んで違和感を感じたのがまさにその点で、この人はホムンクルス
的ななにかを想定していると思わざるをえなかった。
トンデモ論ではあるけど茂木健一郎みたいなイデア主義的クオリア論では自己意識
じたいに共有可能性があるので「この私」とか言っても意味がないわけで。

いずれにしても永井均はチャーマーズが言う「心脳問題のハードプロブレム」を
スルーして、この私の肉体が「認知主体」という、あまりに素朴すぎる「前提」
から議論を始めていると思う。
793考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:46:43
>>792
クオリア論て読んだことないからよくわからんのだが、
自己意識の共有可能性は当たり前の話で、それは永井も
わかってると思うよ。謎は私というクオリアを感じる
主体が、「いま、ここ」に成立してしまっているということへの
驚きなんじゃないか。
794778:2005/08/08(月) 01:12:38
>>793
そう。「いまここに」ということ自体、この私の肉体が
認知主体(ホムンクルス)という前提なわけで。
認知科学のアポリアを完全にスルーしてるのでは、と思ってしまう。
795考える名無しさん :2005/08/08(月) 12:00:45
>>794
スルーなんかしないよ。と言うか全然違う問題だ。
<私>の方は世界そのものも一挙に成り立たせるようなもので、ホムンクルスなんて
せいぜい自己意識とは何かを自分の中に探ろうとする時に出てくる幼稚な表現に
過ぎない。(丁度マジンガーZの乗り込む人間を想像するような)これを「間違ってる」
なんて主張したって子供の絵を馬鹿にするのと同じ位無意味なことのように思えるなあ。
796二プレス:2005/08/08(月) 14:29:49
>778さん
 永井均は認知主体を前提になどはしていません!
肉体も超越論敵統覚ですら(これらは結局一般されるので)飛び越えた <わたし> を
問題にしているのです(結局飛び越えることはできないが)。
これを押さえずに永井批判をしようとしても無意味ですよ。

 ホムルンクス?という問題意識も『翔太と猫のインサイトの夏休み』を参照にしてみたら
あなたにもわかりやすく書かれているのではないでしょうか。

>>791
 一般的な自己意識の問題としてこんなにも特別な <わたし> を一般化すること/されること
に永井均は問題意識を持っていて、それで何度か言及されている古東とか言う人と
共通の問題意識を持ちうるのだと思いますが。
797781:2005/08/08(月) 17:33:21
>>787
ありがとう。そういう意味だったのね。(・∀・)
798考える名無しさん:2005/08/08(月) 19:09:58
うめよーぜ どらごんぼーる
せかいでいっといかしたうんこー

(中略)

このよーはーでっかい こえだめさ
そうさーいまこそ くそべーんちゃー
799考える名無しさん:2005/08/08(月) 21:47:38
先日、精神医学の本を読んでいたら、インサイト、アインジヒトには
「病識」という意味があるということを知った。
800778:2005/08/08(月) 22:25:39
>>795
>>796
永井は「無意識に」ホムンクルス的な認知主体を前提にしているのでは?
というのが私の疑念です。

たとえば<わたし>とは「世界を開く」原点というけれどそれは
「世界を認知する」とどう違うのか?
また「いまここに」と場所を限定し、他者と差別化してしまうけれども、
その場所の限定は何の根拠があって言っているのか?

それらに対する説明がないので、今はすたれた古典的な認知科学の前提
を無意識に使ってるのでは?と思うのです。
801778:2005/08/08(月) 22:33:54
今の所『魂に対する態度』しか読んでないので、他の本では
説明があるかもしれませんね。
もう少し読んでみることにします。
永井氏の文章はまどろっこしいのが難点ですが・・
802考える名無しさん:2005/08/09(火) 13:42:02
>>800
認知科学のやり方は一旦忘れないと、そもそもこの人の本は
最初から意味が分からないと思うんだけど。

>その場所の限定は何の根拠があって言っているのか?

根拠なんて無い。と言うかそれが全ての根拠そのものだから、もうその根拠の根拠は無い。
これは778さんの問いが出てくる前の段階の議論だから、永井の本をどんなに読んだって
その問いは空振りに終わるなあ。
803二プレス:2005/08/09(火) 23:32:29
>>802
 すごく簡潔な文章でうらやましい限りです。

 ところで「認識する」ということに注目されている人が多いようですね。
この問題領域自体に私はあまり関心を持っていませんが永井均自身は聖書の記述を例にして
「天地創造」を語るこの視点はいかなる視点なのかという問題提起をしていました。
 また自己意識の共有可能性についても永井均自身は「言葉の定義上不可能」だと退けていると思います。
「他人の自己意識」を感じてしまったら「言葉の定義上」それは「自己意識」なのだ、と。

 古典的な認知科学?についての知識はありませんが、土台となる何らかの「岩盤」がなければならないと
考えることに778さんは不満なのでしょうか。「分析はいずれ終わる」と私も思いますが。

 このような考えに対してどのような反論が用意されているのかは知る由もありませんが、
「開闢」論を理解するには「世界」を「開闢」した当のものが、「開闢」された「世界」のうちに
位置づけなおされるという、永井均が「カント原理」と呼ぶものをセットで理解する必要があると思います。
804考える名無しさん:2005/08/15(月) 18:24:57
永井の「わたし」ってなんですか?
なんか特権的な位置を与えられている感じがする。
現存在と同じ意味で捉えてはいけないのでしょうか?
でも、よく考えてみると現存在は必ずしも私に還元されてしまうわけではないですよね。
それに永井の「わたし」論にはその生成における他者の関与が述べられていますか?
「わたし」が初めから「私」に内在しているような議論展開になっているのではないでしょうか?
独我論的な印象を受けてしまうのは私だけでしょうか?
805二プレス:2005/08/19(金) 07:21:02
>>803 自分でも何を言っているのかよくわからないなぁ。

>>804
>独我論的な印象を受けてしまうのは私だけでしょうか?
 確かに永井均の議論展開は「独我論」といえる要素をたぶんに持っています。
ただしそれは「この世界には自分しかいない」というような「消去」的な独我論ではありません。
この <わたし> の特別さ(≠偉大さ)をこの当の私に付け加える「付加」的な独我論なのです。
(たしか『子供のための哲学』でそんなことを言っていたように思います)

>でも、よく考えてみると現存在は必ずしも私に還元されてしまうわけではないですよね。
 〔特異な〕「現存在」と言い換えることも可能だと永井均自身述べています。が、
ウィトゲンシュタインの議論をなぞりながら「この」現存在という言葉でも言わんとしたことは
「語りえない」とも論じています。(しつこいですか?)
806二プレス:2005/08/19(金) 07:41:19
>それに永井の「わたし」論にはその生成における他者の関与が述べられていますか?
>「わたし」が初めから「私」に内在しているような議論展開になっているのではないでしょうか?
 個人的にはそういう「つまづき」はよくわかります。だからこそここは議論の核心とも言える部分
だと思います。この問題には「言語」の方面からアプローチされています。

 この私しか知らないこの痛みを私は「痛み」と表すように他者に教わった。また「クリーム色」に見えるという
私の発言を他者が訂正してくることもある。このように「私的」な部分に「公的」な部分が
食い込んでいるのを永井均も認めています。(ただし言葉の一貫性を必ずしも認めない)
 そしてここからが重要なのですが、驚いたことに永井均はこの公的と私的の関係を逆転する
(あるいは切り離す)のです。つまり公の一部としての私の否定あるいは留保です。
これは「開闢」論としてカント原理やライプニッツ原理を用いて論じられもしますが、
私的言語と公共言語という対立軸を用いても論じられています。
 804さんが「生成における他者の関与」が欠落しているのでは?「はじめから内在している」のでは?
といぶかしがるとしたら、「私的」なものより「公的」なものを根拠としているからでしょう。
永井均はその図式を反転させるべく「私が世界を開く、開かれた後は世界内に位置づけられる」という
二段論法を用いています。

 あくまでこれは私の『私・今・そして神』解釈です。私と違う解釈をしている人もいるようです。
言語分析で公的なものと私的なものとの関係を反転させるという壮大な企てが
うまくいっているのかと問うことはスリリングですが骨が折れそうでもあります。
807二プレス:2005/08/19(金) 08:10:52
>>800
 778さんの言わんとしたことをようやくはっきりとつかんだ感じがします。
でも『翔太と猫のインサイトの夏休み』をすすめたのは間違いではなかったでしょう。
(永井均の言うことを手っ取り早く理解したいのなら『子どものための哲学』がいいけれど)

 778さんの言う「認知主体」は『翔太』で言うところの培養液の脳にあたるでしょう。
私はその辺の議論にあまり興味がなかったから十分な理解には程遠いけれど、「認知主体」云々の
問題提起がナンセンスだと永井均は断じています。
 仮に私たちが培養液の中の脳を本体として持っていたとしても、私たちはこの状態(つまり培養液の中の脳ではない状態)で
それを思考することしかできず培養液の中の脳を捉えることはできない。そんなことを言ってたような気がします。
808考える名無しさん:2005/08/21(日) 14:58:13
age
809考える名無しさん:2005/08/22(月) 19:19:48
「ワタシ」なんかを考察するより「わたしたち」を考察する方が困難で重要な
問題だし価値があるんだけどね。
810考える名無しさん:2005/08/22(月) 23:32:32
まー、優先順位というものは、人それぞれだ。
811考える名無しさん:2005/08/23(火) 03:53:04
そーゆう問題かよ
812jun1:2005/08/23(火) 08:34:26

永井均は読んでないんですが、意見させてください。(つかさせてもらいます)

私は、<わたし>と言う構造は、<わたし>と<他者>という構造から生成されるのではなく、
むしろ<わたし>と<世界>という構造から、生成されるものだと思います。
ですから、他者なくとも、<わたし>は示されると言うことです。
これは、独我論のような<わたし>の独在性の根拠とも言えると思っています。

ではなぜ、<世界>においてのみ<わたし>が示されるかというと、
<わたし>という存在が、判断し行動する主体であるということです。
つまり自律的な意志を<わたし>は持っているがために、<わたし>は
わたし自身であり得ると言えるのだと言うことです。

これは、<わたし>が、自律的な意志を持たなかった場合のことを考えてみれば、
明らかなことだったんです。
もし<わたし>が自律的な意志を持たない物体だったとしましょう。
あなたは右に曲がりたいと思っても、曲がれず、まっすぐにしか進みません。
永遠にまっすぐにしか進まないのに、どうして<わたし>という自我が示せるでしょうか?
また、これは<わたし>という肉体が、何者かによって乗っ取られたときも、そのときの
<わたし>は<わたし>であることを否定してしまうのではないでしょうか?
また組織関係の下部に位置する人間は、組織の手足となって<わたし>の
存在を否定していることでしょう。

よって、<わたし>の生成は、その<わたし>に内在するところの自律性に基づいていると
言えるのだとわたしは考えています。そしてその自律性が世界に関与するところの当為が
<わたし>を際立たせるのではないでしょうか?
813jun1:2005/08/23(火) 08:36:04

また、<他者>の生成については、超越論的な<わたしたち>という同一性に基づいて
語られるのではないでしょうか? <わたし>は他者自身に他者自身の内部に語りかけるのではなく、
<わたしたち>という一般性を通過して、<わたし>と同等な存在である<他者>に対して呼びかける。
これが語りといわれる公共性の現象なんではないかなと私は考えています。
814考える名無しさん:2005/08/23(火) 10:55:56
>>812
>あなたは右に曲がりたいと思っても、曲がれず、まっすぐにしか進みません。
<私>にとって自律性なんかぜんぜん必要ない。
「右に曲がりたい」と思う主体があれば十分だし、永井が問題にしてるのもそれ。

>>813
概念的には
>超越論的な<わたしたち>という同一性に基づいて
いる必要があるだろうけど、永井は存在論的な話をしてる。
815jun1:2005/08/23(火) 11:13:57
多少スレ違いかなあと思われましたので当掲示板でこんなスレを立てました。


<わたし>について   ( in 哲学魂 )
http://bbs8.aimix-z.com/mttbbs.cgi?room=5775&mode=view&no=7

もし興味があれば、ご参加ください。
816jun1:2005/08/23(火) 11:18:27
>>814

主体のみで、主客の構造を捕えようとしたのは、近代哲学の大きな欠陥だと私は思っています。(永井を含む)
私が主張しているのは<私>の自律性です。
他我問題で私を見つめても無意味です。むしろ誤謬の元であると考えています。
ま、ここで言っても始まりませんから、よろしければ>>815のスレへどうぞ。
永井抜きで批判に応じたいと思っております。(もちろんあなたが永井を根拠にするのは自由ですが)
817二プレス:2005/08/23(火) 12:01:44
>jun1さん
 私以外の人の書き込みがあるのはとてもうれしいです。
でも残念なことにそれは私以外の人の提案、意見に同意できるという意味ではありません。
 誤解を恐れずに言うなら、永井均は一級の哲学者と言える人です。
その永井均を経ずにしかも永井均の提示した問題を考えようというのはいささか原理的な
難問を抱えているのではないでしょうか。

 個人的には>>812はいい線をいっていると思います。でも永井均はそれぞれに共通してしまう「主体」の
ようなものをもって <わたし> を論じているのではありません。この「共通する主体」に汲みつくされない部分を論じています。

>超越論的な<わたしたち>という同一性に基づいて
ここも私の理解とは違います。<わたしたち>に基づいていない、というのが永井均の核心だからです。
 <独在性> を表すことができない公共言語は確かに「わたしたち」ですがこの公共言語は私的言語を
踏み台にして成立するのです。だからむしろ <独在性>=<わたし> に基づいていると私は理解しています。
818jun1:2005/08/23(火) 12:45:49
>>817
ニプレスさん、よろしければ>>815の掲示板へどうぞお越しください。
できれば永井論者として来ていただければと思います。
(もちろんあなたがあなたであることは変わりませんが)

>だからむしろ <独在性>=<わたし> に基づいていると私は理解しています。
私は、<わたし>は、<われわれ>に基づいているとは言ってませんよ。
また私的言語に基づくとも言ってません。
<わたし>の自律性に基づくと言っています。
独在性そのものは、普遍を前提にしているがゆえに、(普遍、特殊という対立図式を)
<われわれ>に逆戻りするトートロジーなのでは? とわたしは考えます。

>誤解を恐れずに言うなら、永井均は一級の哲学者と言える人です。
あなたがそう思っているのはよく存じ上げております。
ですから、わたしはこのスレに書き込んだんです。

819jun1:2005/08/23(火) 12:49:04
おもむろにですが、あげておこう。
820jun1:2005/08/23(火) 13:12:34
もう、ニプレスさんいなくなりましたかね。
まあ、また今度にしようかな。
821考える名無しさん:2005/08/23(火) 13:14:16
>>820
向こうで相手した人間だけど、もうやめるね。
822jun1:2005/08/23(火) 13:43:52
>>821
ごめんね。
823考える名無しさん:2005/08/23(火) 15:01:47
>誤解を恐れずに言うなら、永井均は一級の哲学者と言える人です
>その永井均を経ずにしかも永井均の提示した問題を考えようというのはいささか原理的な
>難問を抱えているのではないでしょうか。

原理的な難問ってなに?
超難問は別に永井のオリジナルではないし。
というかなぜ『<私>のメタフィジックス』にネーゲルの言及がないのか
不思議。ネーゲルの本の翻訳までしているのに。
824考える名無しさん:2005/08/23(火) 15:15:24
>>802

>>その場所の限定は何の根拠があって言っているのか?

>根拠なんて無い。と言うかそれが全ての根拠そのものだから、もうその根拠の根拠は無い。
>これは778さんの問いが出てくる前の段階の議論だから、永井の本をどんなに読んだって
>その問いは空振りに終わるなあ。

これはなんか信仰告白みたいにみえる。

神が存在するといえる根拠はなんですか?

「根拠なんて無い。と言うかそれが全ての根拠そのものだから、
もうその根拠の根拠は無い。」みたいな。


825考える名無しさん:2005/08/23(火) 16:05:59
>778さんの言う「認知主体」は『翔太』で言うところの培養液の脳にあたるでしょう。


そうじゃなくて、脳の中に、「私」をつかさどるような主体的実体が
あるという考え方をホモンクルスといってるんじゃないの?
永井をそれを前提にして<私>論を論じていると。

実際、永井の独我論がどのような前提に依拠しているのかはそんなにはっきりして
いるわけではないけど、<私>が主体にスーパーヴィーンするというようなことを
いっていたと思う。

例えば認知科学の成果からこんな論証が成立するかもしれない。

@脳に主体が成立しているというのは幻想である。脳に主体は存在しない。
A<私>は主体にスーパーヴィーンする。
∴いなかる脳も<私>ではありえない。(よっておそらく<私>は幻想である)

まあ、実際には主体という言葉があいまいすぎるからもっと堅固な概念として
定義しないとだめだろうけどね。

826二プレス:2005/08/23(火) 16:45:38
若いですね。

>そうじゃなくて、脳の中に、「私」をつかさどるような主体的実体が
>あるという考え方をホモンクルスといってるんじゃないの?
>永井はそれを前提にして<私>論を論じていると。

 ホムンクルス?という想定が何ものもあらわしえていないと言いたかったのです。
「考えられないことを考える」というのと同じような「背理」なのではないか、と。
827考える名無しさん:2005/08/23(火) 17:12:05
>若いですね。

どのへんがですか?


>ホムンクルス?という想定が何ものもあらわしえていないと言いたかったのです。
>「考えられないことを考える」というのと同じような「背理」なのではないか、と。

ホムンクルスとパトナムの水槽の中の脳(指示の因果説)となんの関係があるんですか?
まったく関係ないとおもいますけど。
828二プレス:2005/08/23(火) 17:13:08
>>824
 神が本当に死んだ、あるいはいないのなら、神はいるといってもいいのではないでしょうか。
たとえばそれが役に立つときには。

 自らに不都合であるほどに「誠実」であるとき、その「誠実さ」は誰に向けられているのか?
少なくともその「誠実さ」はこの私に向けられたものではない、それは私には不都合なもの
(要らないもの)だから。
この私に不都合なものを選ばせているもの、人類の歴史に敬意を表するならそれをこう呼んでもいいのではないか、
「神」と。

 たとえば825さんが、神様万歳といっている人の人生が不毛だと思うとき、
信仰を持つものは認知科学、脳科学万歳といっている人の人生を不毛だと思うかもしれません。
もし、825さんが自分のほうが絶対に間違っていないと考えるなら、そこに神はいる。
 絶対に間違っていないと考え「ない」なら824の例えが何も言えていないことに気づくでしょう。
829考える名無しさん:2005/08/23(火) 17:13:30
ほ〜らほら、結局そうやって人を罵ることくらいしかでき
ないじゃんか(ハアト しかもお得意の感情論のゴリ押し&
強引な論点のすり替えかいw?
ネットやテレビの議論でもたまに見かけるけど、やたらと
自分の意見だけを正当化しようとする短絡的なバカの常套手段だよな。
結構結構w
830考える名無しさん:2005/08/23(火) 17:16:35
>神が本当に死んだ、あるいはいないのなら、神はいるといってもいいのではないでしょうか。
>たとえばそれが役に立つときには。

いるといってもいいし、いないといってもいいですけど。
わたし、神がいるとはいってはいけないとどこかで言いましたか?

831考える名無しさん:2005/08/23(火) 17:20:12
>自らに不都合であるほどに「誠実」であるとき、その「誠実さ」は誰に向けられているのか?
>少なくともその「誠実さ」はこの私に向けられたものではない、それは私には不都合なもの
>(要らないもの)だから。
>この私に不都合なものを選ばせているもの、人類の歴史に敬意を表するならそれをこう呼んでもいいのではないか、
>「神」と。


なんの話しですか?
永井さんのの誠実さをめぐるゲームの解説?


> たとえば825さんが、神様万歳といっている人の人生が不毛だと思うとき、
>信仰を持つものは認知科学、脳科学万歳といっている人の人生を不毛だと思うかもしれません。


どこかに認知科学万歳、脳科学万歳と言ってる人でもいるんですか?

>もし、825さんが自分のほうが絶対に間違っていないと考えるなら、そこに神はいる。
>絶対に間違っていないと考え「ない」なら824の例えが何も言えていないことに気づくでしょう

いったい、何時私が自分のほうが絶対に間違っていないなどといったんでしょうか。
というかそんなことをほのめかすような書き込みをしたんでしょうか?
理解に苦しみます。
832二プレス:2005/08/23(火) 17:21:43
…まさかパトナムとかネーゲルとかの名前を出してレスをすれば
相手が萎縮するとでも思っているのではないでしょう?
(いや、信じています)

 永井均の『翔太と猫の印サイトの夏休み』の話です。読みましたか?
>>827は参照部位とあなたのレスが内容的にまったく分離していて少なくとも私には
返答にはなっていないように思います。

 少し前の話ですが、ネーゲルだって永井均はムーアのときと同じように
言っている内容には共感できないがその姿勢には共感できる、すばらしいと述べていますよ。
こういうネーゲル評なのだから言及がなくても当然なのでは、と思うのですが?
833考える名無しさん:2005/08/23(火) 17:37:27
>…まさかパトナムとかネーゲルとかの名前を出してレスをすれば
>相手が萎縮するとでも思っているのではないでしょう?
>(いや、信じています)

別に畏怖するとはおもってませんが、それらについて私が多少知識をもっている
こと、したがってこの問題についてまったき無知ではないことを相手に
知らせる意図はありますけど。
なんでそういうふうに被害妄想的と私にはみえるような対応をなされるのか
わかりません。



>少し前の話ですが、ネーゲルだって永井均はムーアのときと同じように
>言っている内容には共感できないがその姿勢には共感できる、すばらしいと述べていますよ。
>こういうネーゲル評なのだから言及がなくても当然なのでは、と思うのですが?

それは道徳に関する問題の内容についてではないですか?
それにパーフィットの「私」感だって永井は共感はしてなくても
著書で言及しているでしょ。
まあ、ネーゲルに言及するかどうかはどうでもいいです。

834考える名無しさん:2005/08/23(火) 17:39:19
なんかよくわかりませんが、
私は別に誰かに喧嘩をうるつもりはありませんので、
これ以上つづけると罵倒劇に発展しそうな感じなので
やめておきます。
わたしはたぶんここに書き込むべきではなかったようです。
835二プレス:2005/08/23(火) 17:55:50
 正直に言いますが、私にはホムンクルス?という問題提起が何を言わんとしたいのかよくわからないのです。
たとえば「なぜ合理的でなければならないのか?」と問うとき、すでに「合理的な理由がなければならない」という
「合理主義」を前提にしているのではないでしょうか。

 同様に認知主体を別様なものだと想定するとき、すでに私という認知主体がいるのではないでしょうか。
「いない」というのなら問題提起は相当衝撃的ですが、「お前は誰だ」という反駁になんと答えるのでしょう?
「いや別様のものがありうる」とそれでも強弁するとき「そのようなものは指し示しえない」、つまり
「それはうまく想定できていない」とあの本で永井均は言っているのではないか、そう思っています。

 ところで科学で哲学議論を無効化という筋書きになると賑やかになりやすいという傾向が
あるようですね。いやいや、感想までに。
836二プレス:2005/08/23(火) 18:23:50
>>834

 >>829にも書き込みがあるように非は私にあるようです。
ただ何か他所での科学的成果をもとに永井均を断じるなどという姿勢が、言いにくいのですが
とても馬鹿らしく思えるのです。
 科学的視座とか現代思想の主流だとか分析哲学の本流だとか、なんと言えばいいかよくわからないですが
何かそういう観点から永井均を断じることは簡単です。ほとんど孤立無援だから。
 問題点があるならあるでいいのです。でも汲むべきところもあるのではないでしょうか。
両者を明らかにしていくのであれば、私はいくらでも礼を尽くしたい、と思っています。
837考える名無しさん:2005/08/23(火) 21:03:50
永井って一歩間違えればアホだと思われそうなこと考えてるな

「自分はなぜ永井均なのか」とか
838二プレス:2005/08/23(火) 21:48:30
>>834
 今日のことは明らかに私に非があります。
でもあなたが804さんだとは私にはわからなかった。
私には、できる限りわかりやすく誠実に答えているつもりなのに
またアンチがきたとしか思えませんでした。

 永井均は哲学上の中央―辺境、正統―異端の区分でいえば辺境で異端にあたるでしょう。
その永井均を中央、正統の観点から論じる限り彼の議論を捉えることはできないように思います。
だからネーゲルやパトナムの名を出して彼を論じるのは彼を理解しようとしていない証拠に思えた。

 いずれにせよここは私のスレではないのだから、たとえアンチが来たとしてもあのような行動は
してはならなかった。ましてや、アンチが来てなかったのだとしたら…。
839考える名無しさん:2005/08/23(火) 23:41:28
ある意味、お前自体がアンチなんだけど。
840考える名無しさん:2005/08/24(水) 07:21:05
ニプレスは以前に比べてかなり内容がまともになってるよ。
まあ明らかに理解が足りない奴の相手をしたのは良くないことだが。
841考える名無しさん:2005/08/24(水) 08:43:28
>>840

同意。815のスレみた?
ニプレス大人じゃん。



842802:2005/08/24(水) 13:40:27
>>824
何か突然引用されたなあ。信仰告白なんかじゃないって。だって単なる事実だもん。
例えば数学の公理だってそうでしょう。最低限必要な公理の理由はもう無い。
それがなきゃ成り立たないんだから。
この世界のあらゆる物だって「これは何故あるのか?」と問われれば常識的な説明なら出来るけど
それ以上の説明なんて出来ない。原子やクォークが何故存在するのかなんて答えようが無い。
それらの働きは解明できても。

824さんは神の存在理由を聞く想定をしてるけど、これはおかしいだろう。
神の存在を否定する人に同じ質問をしたらどうなるかちょっと考えてみればいいだろう。

そこらにある石や木ならその存在を否定する人はいないけど(どんなに懐疑的な哲学者だって
年がら年中疑うことは出来ないんだから)神はみんなが認めてるような存在じゃないから
ここでの例には不適切だな。
843唐辛子:2005/08/24(水) 14:37:16
>ニプレス様
重要なのは永井論であり各個人の哲学は無関係です。
スレを成立させる問いである
「スレがどうあるべきか」という議題ならば
有益だと思いますが
個人の哲学・感情論はこのスレの趣旨とは外れていると思います。

永井氏のように<私>の謎を考えている貴方様ならば造作もない
事象だと思いますが、より永井論を語り易くする為に
書き込みました。
これまで通り是非永井論について追求して欲しいです。
844唐辛子:2005/08/24(水) 14:41:25
続きでございます

賢明な永井氏・ニプレス両氏なら御察しが付くと予想されますけど、
仮に<私>の謎が分かったとしても
永井論で考えると次の瞬間に
<私>の謎が分かってない状態になるとも
言えますよね。
ですから分かったとしてもそれ自体ではあまり意味がなく、
如何すれば分かった状態を維持できるかも
考えなければならない事ではないでしょうか?
845考える名無しさん:2005/08/24(水) 14:51:40
クソスレフォーーーーーーーーーー!!!
846考える名無しさん :2005/08/24(水) 17:46:40
>>844
<私>に謎なんてないだろう。だって端的な事実だもんなあ。何か的が外れてるよ。
それが上手く語れないっていう所が問題なんだから。
847考える名無しさん:2005/08/24(水) 17:50:46
永井の哲学っていうのは結局のところ何かを解明してるというより、
現状認識をしてるだけっていう気もするな。
読んでも何かがわかるようになるわけではなく、謎が深まるだけ。
その謎自体が最初は一種の啓示のように映るんだが、
<わたし>が<在る>ってことがいかに不思議なことであるか、
微に入り、細にうがって記述してるだけで、その先は語りえぬものの
領域になってしまうっていうか。
848唐辛子:2005/08/24(水) 19:25:42
>>847
語りえぬものを語ろうとしているのが永井先生ではないでしょうか。
それとも過去の本に記述してあった通り
「<わたし>が<在る>ってことには如何なる
 精神的理由も物質的理由もない」
という神秘で終わってしまうのでしょうか。
849考える名無しさん:2005/08/24(水) 23:58:56
私 在る 謎 神秘 物質的理由 いい加減うざいw
850考える名無しさん:2005/08/25(木) 05:26:21
永井は永久にわからない事を考えているようですね。正に思考の呪いにかかっている。
851考える名無しさん:2005/08/25(木) 18:18:02
このスレを読み返すだけで頭が凄い速度で回る。

いい意味で言うと、
永井がそれだけ哲学的な問いを立てているようだということだ。
悪い意味で言うと、
永井の問いは脳みそをショートさせるという事だ。

いや、漏れは永井の大ファンだよ。
ただねぇ、永井の本読むとねぇ、
今まで自分がしてきた思考がねぇ、
根こそぎ潰される様な気がするんだよねぇ。
哲学ってそういうモンなんだろうか?
852ニプレス:2005/08/26(金) 17:40:12
  >唐辛子さん
 どうも私に対する過大評価が見受けられます。がっかりされるのが目に浮かぶようで気の毒なのですが・・・。

 ところで>>844の疑問は「探求するべきものを知らないのに、どうやってその知らないものを探求をするのか」
というような問題と「どのような突飛な想定をしても覆されない確かな基盤は何か」というような問題が
複雑に絡まっているのではないか、と思います。
 私にとってこれはとても即答できる類の疑問ではありません。
ただ、永井均が近刊で「悪脳問題」という問題を立てていたのはこの辺の問題と絡んでいるのかな、と思います。
まだ読み返していないのではっきりとしたことは言えませんが。

>ただねぇ、永井の本読むとねぇ、
>今まで自分がしてきた思考がねぇ、
>根こそぎ潰される様な気がするんだよねぇ。(>>851

 根こそぎつぶされるように見えてつぶされていないものがある、というのがこの話のミソだと思います。
それが「この当の私」(と言いたくなるもの)ではないでしょうか。
この私を取り囲んで生み出しているように見える全てのものが、実は「この当の私」によって開かれざるをえない。
ちなみに永井均が自らを「デカルト主義」と呼ぶとき、このような「逆転」が念頭に置かれているのだと思います。
853二プレス:2005/09/01(木) 15:57:16
>>844
>仮に<私>の謎が分かったとしても
>永井論で考えると次の瞬間に
><私>の謎が分かってない状態になるとも
>言えますよね。

 確かに何から何まで「偽り」の世界においてこの謎を解いたとしてもそれは幻である。
…いや、果たしてそうだろうか?「偽り」という概念も「幻」という言葉もやはりまた世界全体を覆う「偽り」の中に
あるのだから、これを「偽り」だと断じる観点はもはや世界の外に立つ「高階の神の観点」にほかならない。
決してこのような観点に私たちは立てない。だからこの世界とあまりにかけ離れた「真の世界」があるとしても、
それがわれわれの理解の範疇を超えるものならば、この「現実」を「真の世界」と考えるほかない。
 ありうべき永井均の返答はおそらくこういうものではないでしょうか。

 今までなら「すべてが偽りという想定すらこの私に開かれるほかはない」とライプニッツ原理(またはデカルト原理)を
前面に押し出して答えていたかもしれませんが、ここではライプニッツ原理すらも捏造された「偽り」である可能性が
想定されています。しかし、この想定が何を意味するか、理解することはおそらく不可能であり
その限りにおいてライプニッツ原理は認められるほかない、という筋書きのようです。
 一見すると <わたし> のアクセントが弱まった気がする。あるいは <わたし> を否定しても
否定しきれないと論じることでかえってアクセントを強めようとしているのだろうか。
854二プレス:2005/09/01(木) 16:42:50
 無用の用という言葉がある。
この私の <独在性> のレベルそのもの、あるいはそこから他の <独在性> を垣間見ること、
他者に利己的であれと勧めること、必要以上に「神の死」にこだわること、
これらはまさにこの「無用の用」といえるのではないか。

 この「無用の用」という言葉の言わんとすることをつかみ損ねる人たちにとって
永井均は「無用」の人物である。いや、ある面では永井均も認めるとおりこの議論は「無用」そのものと
言っていい。 <わたし> だって「開闢された世界」だけから見れば「無い」と言い切れる。
この私という特異な存在を取り除いて「各個人」を置けば、「全体の利益と個人の利益」の間に容易に通路を
かまえることができる。
 だから例えば永井均が疑問を共有しない人に冷たいとしたら、それは「引きこもり的精神」のなせる業ではない。
この問い、この議論がある面ではまったくの「無用」であることを深く理解しているからだ。
 ただ、この「無用」が「無用の用」として反転することに対して感度を持つ人がいるなら、
その人とはこの問いを、この議論を共有することができる。そう考えているのではないか。
 この議論がまったく「無用」であると主張してくる方をよく見かけるが、このような理由で
それに対して反論は無い。ズバリ的を射ていると思う。
ここから先の「無用の用」に関しては共有を迫らない。これは諦めというよりも慎みだから。
855考える名無しさん:2005/09/02(金) 00:12:04
永井はヴィトゲンシュタインにゾッコンだなw
856カオル:2005/09/04(日) 00:05:47
>>854 ニップルさん
>ただ、この「無用」が「無用の用」として反転することに対して感度を持つ人がいるなら、
>その人とはこの問いを、この議論を共有することができる。そう考えているのではないか。
> この議論がまったく「無用」であると主張してくる方をよく見かけるが、このような理由で
>それに対して反論は無い。ズバリ的を射ていると思う。

というか、永井さんはご自分の<わたし>論について『子どものための哲学』で
哲学の伝統のうちを探してみても、哲学の系譜をたどってみても、
そういう議論は今までされてこなかった(中心的な課題ではなかった)ようなことを
おっしゃっていたから、それならいったい永井さんオリジナルの<わたし>論って
どういうものなのかなって、まず先入的な規制を脳内に敷いてみてから
わたしみたいな素直な?読者は考えてみるわけで
そうするととたんに<わたし>論って手がつけられなくなるんですよね。
で、けっきょく<魂>かよ!みたいな。(笑) ← 議論が無用であると主張してくるカオル
857カオル:2005/09/04(日) 00:13:52

(つづき)

でもライプニッツとかカントを使って素直に説明してもらえると分かりやすいし
時制や人称の問題(時間の人称性の問題)に還元してもらえるとなお分かりやすいし
そういうことなら問いを共有することは簡単、というか多くの哲学徒にとってすでに
共有されている基本的な問題領域だったりします。そういうことを『私・今・そして神』では
おたがいに確認できてよかったなって思っています。(^.^)

ちなみにそういうことなのですから、竹田さんが古代ギリシアからポストモダンに至る
哲学の系譜という文脈のなかに永井さんの<わたし>論を位置づけて批評したことを
永井さんが怒るのはやっぱりおかしいと思います。それに竹田さんは

  永井は、人間の『独在性』(<この私>性)は、言語の構造上これを
  明示することはできない、というパラドクスの“発見”をした。(『子ども』103n)

とまで評価してくれているのに・・・だってこのパラドクスって永井さんがいうように
時制や人称や様相、あるいは生命や存在についても同様につきまとう問題のはずだから
“発見”とはとても言えない思うのだけど、「なぜか」そういってくれてるし・・・あっそうか!
つまり竹田さんやわたしが「共有」できていないってことなら、ある意味ナットク。(^_^;)
っていうか、わたしだけ取り残されてるわけ?(おなじ人間なのに)
858カオル:2005/09/04(日) 00:16:37
>>857
>“発見”とはとても言えない思うのだけど、

訂正 “発見”とはとても言えないと思うのだけど、
859考える名無しさん:2005/09/04(日) 00:58:00
頭が悪いというのはよく分かった。
860二プレス:2005/09/05(月) 13:21:12
>カオルさん

 おひさしぶりです。
久々にレスをもらえるというのはうれしいことですが相変わらず意見には隔たりがあるようです。

 永井均がオリジナルかどうかという問題は、永井均の問題系の外にいる人が解こうとすれば
必ずオリジナルで「ない」ということになるでしょう。伝統の中に位置づけられるしかないと思います。
なぜなら永井均の問題系の外とは、「公共」の中に「私」を位置づける場所だからです。

 けれども、われわれ(!?)には永井均がオリジナルということになりえます。
当然それはわれわれが「信者」だからという理由からではなく、「公共」と「私」の関係が
反転するという理由から由来します。
問題は私によって新たに開かれ「うる」のです。そして実際に永井均は開いた。
永井均という「私」が、伝統という「公共」に先んじたのです。
861二プレス:2005/09/05(月) 13:22:50
 竹田青嗣さんの件は完全に欠席裁判になるのを覚悟で言及すれば、彼は永井均が何について
怒っているのかをよくわかっていないのではないでしょうか。そういう人物でなければ、
永井均の議論を「フランス現代思想」などという「公共」の場(しかしその片隅)に位置づけようとは
しないはずだからです。

 ここまでぐだぐだ述べてきて何なのですが、「人間の『独在性』(<この私>性)は、言語の構造上これを
明示することはできない」というパラドクスをウィトゲンシュタインが最初に発見したと永井均が言う以上、
永井均も「伝統」に回収されざるを得ないことになります。これは <独在性> の議論が「言語ゲーム」という
公共の網目を伝わると魂を失うのと同じく、宿命的な事柄です。
 それゆえ永井均は「伝統」に配慮した書き方を近刊ではしたのだと理解しています。
862カオル:2005/09/07(水) 03:30:03
>ニップルさん

わたしの永井との出逢いは、ご存知のようにポールさんにわたしの「哲学とは何か」についての議論が
永井のそれを念頭においている、つまりモノマネしているかのようなことを言われたのがキッカケでした。

もちろんその考えがわたしにとってのわたしの考えであると言う意味ではつねにオリジナルであっても
その考えが言語ゲームという公共の網目を伝わりうるものなら、それはつねに誰かのモノマネでしょう。
その考えがわたしにとってのわたしに語られるときのパロールとしての「言」は、それが誰かに理解され
うるものなら、それはラングとしての「言語」として理解されるのだから、という意味でです。

「私」は、語り(わたしにとっての「私」)と、理解(誰もがそうであるところのそれぞれの「私」)との両義性を
無自覚のうちに生きているのです。(ヤスパースでいう了解と説明と言った方がわかりやすいでしょうか)
でもこの無自覚はたんなる自明性によるものではなくて「生きていくため」の戦略としてのエポケーでは
ないかと、わたしは自分の<わたし>体験からそう感じています。もしも永井のいう<わたし>感覚が
わたしのそれと同じものなら、わたしは永井のような気安さで子どもにそれを肯定するようには言えない。
どうしてかというと、自明性に安住しない<わたし>感覚は、そのまま自明性の欠如に繋がりうる可能性
なのですから、それをその必要条件にするような哲学者、それも永井のように様々な幸運にめぐまれて
非日常的なことを考えることで日常生活が保証されるような職業哲学者として立てるのならまだしも・・・。
863カオル:2005/09/07(水) 04:21:28

(つづき)

m(__)mなさい・・・話しを元に戻すと、あの頃のニップルさんは、ポールさんの永井肯定論(哲学は自明の
ことにたいする驚きからはじまって、自分の頭でそれに取り組むこと、云々)にたいして「永井の『子ども』
なんて数ページ読んでみたけどその先は読む気にはならない」というような反応でした。覚えてますか?
わたしは当時のニップルさんのこのような態度を肯定してるんですよね。ジックリ読みもしないで・・・とか
そういうことは言いたくないんです。同じ土俵に上ってこないヤツ(外にいる人)とどうやって議論するんだ
とか言われてもなぁ〜とか思うんです。土俵の外から楽しんだり、感動したり、批評してみたりっていうの
ふつうにアリだと思うんだけど・・・一応わたしも永井の本は6冊くらいは読んでみたから、永井の土俵に
上ることも可能だと思うけど(もちろん永井の土俵に上ったと思ったら、カオルの土俵だったというオチw)
やっぱりわたしは外からでも内からでもアプローチの仕方はさまざまであっていいと思うんです。
「わからないヤツにはわからない」永井の<わたし>論は、むしろ「わからないヤツ」と話してこそ、その
深淵に、その神髄に迫れるような気がしたりもするんですよね。

ニップルさんがわたしとの議論でよく持ち出していた他者の存在とか愛というのは、そういうつながり方
の肯定というか、頑ななわたしにそういう対話の仕方を諭していたように思ったのだけど、違いますか?
最近のニップルさんの発言を聞いていると、なんだかニップルさんの嫌いな学哲の(議論における)排除
の論理と、ニップルさんの永井の<わたし>論についての議論の前提がオーバーラップしてしまいます。
で、わたしがニップルさんに伝えたかったことは、哲板のみんなやあなたのお陰で、結局<魂>かよ!
ってほざいたわたしでも、今や<魂>について、どうして<魂>なのか?って考えるようになっていること
を伝えたかったんです。あんなイヤミで攻撃的なレスを書いておいて今更言えたことではないんだけど。
864二プレス:2005/09/13(火) 13:35:01
>カオルさん
 私自身が、かつて、哲学上の「中央―辺境」「正統―異端」の区分に囚われていたことは隠すことができません。
「学的哲学」「非学的哲学」の区分も「中央」「正統」の位置づけをめぐる争いだったのだと今は思います。

 永井均は私を遠くまで運んでしまいました。そのお陰で折り合いのついていないこともありますが、
私の彼に対する評価はご覧のように180度転換しました。この点については長々と言い訳するよりも
彼の著作を熟読してもらうのが一番いいだろうと思います。
 永井均に対しての批判は、以前の私自身にも当てはまることですが、彼の言わんとしたことを捉え損ねたものか、
誹謗中傷の類に大別されます。今の私にはそう思えます。

 流行のたとえを援用すれば、地動説をまったく受け入れるつもりのない天動説の守護者には地動説の真髄を
ともに論じることができません。確かに、だからといってすでに地動説を受け入れているものにしかその真髄に
迫れないのかと問われれば、「否」と答えなければならないでしょう。事あれば天動説を打ち捨てる用意のあるものも
真髄に迫れるでしょうし、そのものと共にしか行くことのできない地平もあるのかもしれません。
865カオル:2005/09/14(水) 02:05:58
>>864 ニップルさん
>彼の著作を熟読してもらうのが一番いいだろうと思います。
> 永井均に対しての批判は、以前の私自身にも当てはまることですが、彼の言わんとしたことを捉え損ねたものか、
>誹謗中傷の類に大別されます。今の私にはそう思えます。

たしかにわたしは熟読していないけど(^_^;)
それは永井のしようとしている議論を、というよりも彼のいう<子どもの驚き>を
わたしが彼の本を読む前から実感として「わかって」しまっているからでしょう。
ですからわたしにとっての永井は、ウィトゲンシュタインやニーチェに近いです。
なぜなら彼らは──<子ども>の驚きをもって世界に接したひと──だからです。
でもそれは──だからほんとうはすべてのひとが──ということではないかしら?
(『子ども』108n)

少なくとも哲板の住人のほとんどは「実感」において<それ>は共有していると思います。
でも永井の土俵に上る必要はないし、アプローチの仕方は様々であった方がいいとも思います。
866カオル:2005/09/14(水) 03:06:56

(つづき)

たとえば天動説ってまちがってる?
もしも永井の<わたし>論を「天動説(自我論)にたいする地動説(<わたし>論)」のようなものとして
受け入れる/受け入れない、まちがっている/まちがっていない、みたいなとらえ方をしているなら
その時点で永井的には完全にアウトだと思います。だってそれってほとんど竹田のアプローチの
仕方と同じ──永井の<わたし>論は、ヘーゲル的な自己(天動説)の解体論(地動説)──だもの。(笑)
でも、それがなに?、そういう議論を封殺するわけ?、それはおかしいとわたしは思います。たとえば、

 「そういう現代思想の動向を踏まえて言うと、この本での『自己問題』の語られ方は、
 ・・・・・なぜ『自己』や『主体』が重要な問題だったのかという背景が、どういう理由でか抹消されて」いる
 (『子ども』107n)

という竹田の主張は(文脈的にはちがうと言われるかもしれないけど)わたし的には>>862下段の主張
ともリンクしてるんです。つまり<わたし>論は、わたしにとっては倫理の根源を問うことでもあるんです。
わたしは竹田の発言にはそういう意図も込められていると(勝手に)思っています。たいして永井は

 抹消だって? 自己や主体が重要な問題であることに、もともと「背景」なんかありはしない。
 (『子ども』107n)

と反論します。これは「現代思想の動向を踏まえて」を浅く解釈しすぎです。たぶん故意に。(笑)
竹田は<わたし>という<それ>を共有しているからこそ、あえて「語られ方」を批判しているんです。
近刊の『倫理とは何か?』にふれるまでもなく、永井にとっても<わたし>の問題と倫理の問題とは
つねに平行していますよね。永井はこの二つの問題の重要性を竹田以上に了解しているかのような
発言をしているのに、なぜか人間の生の歴史というものにたいする、あるいは倫理的な意味での現実に
たいする「節度のなさ」を貫くんですよね。どういう理由でか・・・おそらく<子ども>のように純粋に哲学的な
ことの演出(彼なりの哲学にたいする誠意)か、ほんとうにそういう人なので竹田批判の真意が天然で
理解できないのか・・・どうでもいいけど。(笑)
867カオル:2005/09/14(水) 03:15:51
>ニップルさん

永井にたいする評価とか、永井の論にたいする議論の前提みたいなシバリなんて必要ないと思う。
ニップルさんにはとらえ損ねているとか誹謗中傷に思えるものが、わたしにはそうは思えないです。
ちなみに<魂>の存在を信じないわたしは「悟りスレ」でそれを信じる人たちと2年も話をしていました。
わたしが<魂>や<輪廻>を信じていなくても、みなさん真剣にわたしの相手をしてくれましたよ。感謝!
とにかく、いろいろな議論があっていいと思います、というのがわたしの意見でした。(^.^)
868カオル:2005/09/14(水) 03:35:19
>>866
>なぜか人間の生の歴史というものにたいする

→ なぜか人間の生への問い or 自我への問いの歴史というものにたいする

の方がいいかな。
869考える名無しさん:2005/09/14(水) 13:44:41
>>866
> 永井の<わたし>論は、ヘーゲル的な自己(天動説)の解体論(地動説)──だもの。
まず議論の前提として「ヘーゲル的自己」及びその「解体」の説明を頼む。
ヘーゲル的自己とは何か、そして永井はそれをどのように解体しているというのか。
(まさか「自我=ヘーゲル的自己」なんて独創的な理解してるわけじゃないよね?)
そこを説明しないとただ「永井はヘーゲル的自己を解体しようとしてる!」と叫んでるだけで、
> そういう議論を封殺するわけ?
と言うわりにはそちらもそもそも議論になってないことになる。

> これは「現代思想の動向を踏まえて」を浅く解釈しすぎです。たぶん故意に。
永井自身がそんなものを踏まえてない(誰もが踏まえなくてもこの疑問に立てる)のだから、
> どういう理由でか抹消されて
などいない、と永井は言ってるんだろう。別におかしくはないよ。

大体、子どものP107には
> でたらめではなく根拠があると言えるなら、竹田さん、ぜひきちんと説明してください!
とあるんだから、永井は少なくとも議論の「封殺」なんか全然してないよ。
永井はただ根拠の提示を求めてるだけ。
870考える名無しさん:2005/09/14(水) 14:49:05
ついでに、もし竹田の言うことが理解できるのなら、
> 「つまりこれは、すこし前に流行った『自己言及的』パラドクスの象徴的事例なのである
> (まさしくそれが『自己』の言及に関して指摘されているから)」
という部分も説明してくれないか。

俺の知ってる限りで自己言及的パラドクスとは、
ある言及の意味内容にその言及自体を含むということから生じるパラドクスなのだが。
この考えに間違いがあればそれを指摘して、竹田の考えの正しさを説明してくれ。
871考える名無しさん:2005/09/14(水) 19:10:02
>>869-870
竹田の発言は<わたし>論に対するアプローチのひとつの例として出されているだけであって、
ここでその発現をトレースする形で議論をしようとしているわけではなかろうからカオルにその説明を求めるのは筋違いと思うが。
別にカオルがそれをやってももちろん構わないけれど多分ややこしくなるだろう。


872二プレス:2005/09/15(木) 16:01:13
>>867 >カオルさん
 たしかに今見返してみると>>864の私の書き込みの中には
ある種のかたくなさが潜んでいるようです。

 天動説を打ち捨てる用意は要求するのに、自らの地動説を打ち捨てる用意はない。
そのかたくなさを問題にしているのなら明らかに私が折れるべきです。
事があれば地動説を打ち捨てる用意を持つべきでした。

 蛇足ですが(蛇足ばっかだなぁ)上のレスでもお分かりのとおり、ここには少なくとも
私より優れた論客が2人以上はいますので攻撃的な発言を重ねるのは戦略上好ましくないと思います。
いや、永井均に対して批判的であるべきではない、と言っているのではありません。
ただまともにやったら必然、大勢VS1の構図になりやすいと思います。(だってここは永井スレですから)
873二プレス:2005/09/15(木) 19:37:41
 それはそうと、永井均の問題領域において「無」の果たす役割はかなり大きいのではないか。
数学的な知識は皆無に等しいけれど、解が「0」のときと解が「無い」ときには違いがあると思う。
流石にこんなたとえでは何も言えないだろうけど、とりあえず「無」の多義性に興味がある。
 永井均と西田幾多郎の哲学を架橋するものがあるとしたら西田の「自覚」と永井均の <独在性> だろう。
と思っていたのだけれど、以上のような理由で「無」が二人の哲学を架橋するのではないかと思うようになった。

 永井均は「ウィトゲンシュタインは独我論を言語の外、つまり無に向かって放逐した」という。
しつこいくらいこの手の引用は用いてきたけれど、この引用をそのまま受け取ると「独我論」は「無化」されたことになる。
確かにわれわれが公共の差異体系=言語体系の中に身をおく以上、いかなる時も公共性はわれわれの足元にそっと
先回りしてもぐりこんでくる。
 だから永井均の <独在性> の議論が「胡散臭いもの」のように見えても不思議はないのかも知れない。
だって <独在性> は他の人とは決定的に「違う」ということを前提にしか表せないのだから、どうしても
公共性が <わたし> に先んじているように見えるから。ただ <独在性> が決定的に私的なので公共の言語に
乗ってしまうと言わんとしたことが損なわれてしまうという事態がここでは見逃されている。
 端的に言って差異=言語の公共性がいかなる時もそっと足元にもぐりこんでしまうがために独我論は「語りえない」。
874二プレス:2005/09/15(木) 19:40:19
 だから「語りえない」ということを語ったとしても <独在性> の「語りえなさ」には変化のしようが無い。
としたら <独在性> をめぐる議論とは宿命的に「背理」であらざるをえないのではないか。
 <独在性> をめぐる議論が宿命的に「背理」であるとしたら、「なぜ合理的でなければならないのか」と問う
議論と同様にこの議論もまた「虚空」に位置づけられざるをえないだろう。
「虚空」を「無」といい直しても大きな問題がないなら、次の問題は <独在性> がどのような「無」であるのかだ。

 「なぜ合理的でなければならないのか」という問いは知的に誠実な人間にはどう転んでも役に立ちそうに無い。
言ってみれば、反転の余地のない「無」だ。では <独在性> はどうだろう。これもまた反転の余地のない「無」であろうか。

 西田は「無」についての言及が多い。私にはちっとも意味がわからなかったが、もしこの手の文脈で永井均が
「無」を論じるのなら是非読んでみたい。(というか早く出せと言いたい)
875二プレス:2005/09/15(木) 19:45:22
 「りんご」という言葉は、つい5分前にすべてのりんごの果実がこの世からなくなってしまっても少なくとも
われわれには問題なく使うことができる。りんごの果実がなくなっても「りんご」という言葉はなくならない。
つまり、りんごの果実という「実質」と「りんご」という「言葉=差異」にはつながりがない。
「りんご」という「差異=言語」にとって、りんごの果実という「実質」は必要が「無」い。でも・・・。

 こんな永井均の「無」と、宗教的色彩の漂う西田の「無」が交差するとしたら…どんな本になるんだろう?
876カオル:2005/09/16(金) 03:06:28
>>866
>>永井の<わたし>論は、ヘーゲル的な自己(天動説)の解体論(地動説)──だもの。
>まず議論の前提として「ヘーゲル的自己」及びその「解体」の説明を頼む。
>ヘーゲル的自己とは何か、そして永井はそれをどのように解体しているというのか。

永井の<わたし>論を「ヘーゲル的な自己の解体論」と言っているのは竹田です。
わたしはニップルさんのたとえ話にたいして「それでは竹田の物言いと同じだよ」
って指摘しているのと、そういう議論があってもいいじゃない!って言ってるだけ。
レスの相手のニップルさんが理解してくれたので、この件はもういいです。

あとの詳しい用語の解説は永井か竹田に聞いてください。何しろ「子どものため」とかいって
永井はアカデミックな世界での議論を「子どものために」わかりやすく説明もしてくれないで
竹田批判をしているのですから「子どものように無知なカオル」にはぜんぜんわかりません。
とくに永井がちがーう!っていうところの永井の理解した「ヘーゲル的な自己の解体論」が。(笑)
877カオル:2005/09/16(金) 03:30:39
>>これは「現代思想の動向を踏まえて」を浅く解釈しすぎです。たぶん故意に。
>永井自身がそんなものを踏まえてない(誰もが踏まえなくてもこの疑問に立てる)のだから、

永井はアカデミックな世界の住人なので「現代思想の動向を踏まえて」と言われたら
わたし以上にそれの意味することがわかるはず。それに職業哲学者(プロ)である以上、
それを「踏まえて」(勉強して)いないはずがないじゃないですか。(笑)

彼の『<子ども>のための哲学』は一見わかりやすそうに思えるかもしれないけれど
とってもむずかしい内容です。いままで読んだ哲学書の中で一番むずかしい!って
別スレでわたしはニップルさんに告白してるんです。内容もさることながら、その論を
反駁することのむずかしさが際立ちます。どういうことかと言うと「踏まえて」いるんです。
なにをって? それは「「現代思想の動向」や「過去の哲学者たちの議論」を、です。
永井の著書はそう言う意味ではしっかりとプロの仕事なんです。

「誰もが踏まえなくてもこの疑問に立てる」、これにはもちろん同意です。
ですから、もしもわたしが竹田に永井のようなマイ哲学を披露できたとして、
そのマイ哲学について竹田がわたしに同様の批判をしてきたとしたら
わたしはポカーンとするしかなく、ちがーう!とも言えないわけですから
それはどうかと思いますけど、永井は「どういう理由でか抹消」するんです。
竹田やわたしにしてみたら、そこが知りたい!って思う。
誤解しているなら、そこを教えてくれたらわかるんじゃないかと思ってしまう。
だからそういう議論があってもいいと思うのです。
 
 でたらめではなく根拠があると言えるなら、竹田さん、ぜひきちんと説明してください!

と、そのまま永井さんにも言いたいです。ちがーう!と言える根拠があるのなら
「わからないひとにはわからない」とか言わないで教えてほしいです。できたらネ。
878カオル:2005/09/16(金) 04:05:55

>永井は少なくとも議論の「封殺」なんか全然してないよ。

えーと、これは永井にではなくてニップルさんに言っているんですけど。(^_^;)
でも永井は議論を封殺してないけど、議論するにあたっての前提を設けます。
永井はダメットの実在論を「新しい見地」(永井でいう<わたし>論)の例として
「新しい見地」には「ちがった」論駁の仕方がある、と主張します。作法だと。

たとえどのような立場からの論駁であっても、もしそれが

 ダメット的な意味であるなら、ダメットの手の中にいるし、
 もしダメット的な意味でないなら、ダメットの問題とは関係ない。
 哲学における新しい見地とはそういものではないだろうか。
 かりに意識していないとしても、何らかの新しい見地を提出すれば、
 それにともなってその見地を論駁する新しい仕方が
 同時に提起されることになるだろう。
 それをできるかぎり意識的におこなおうとするのが哲学の精神ではないか。

という感じです。(『子ども』104〜105n)

>>870
> 「つまりこれは、すこし前に流行った『自己言及的』パラドクスの象徴的事例なのである
> (まさしくそれが『自己』の言及に関して指摘されているから)」
>という部分も説明してくれないか。

わたしが何かを語っているとき、それをわたしは聞いていて理解しています。
というときの語るわたしと、語られたことを理解するわたしとの二義性のことでは?
語りにかかわるわたしとそれを理解するわたしとの断絶(意味と次元を変えてしまう)
というか・・・>>862も、永井が『私・今・そして神』の最後(222n)で言ってることを
わたしなりに表現してみたつもりなんだけど。
879カオル:2005/09/16(金) 04:30:33
>>871
>竹田の発言は<わたし>論に対するアプローチのひとつの例として出されているだけであって、
>ここでその発言をトレースする形で議論をしようとしているわけではなかろうから
>カオルにその説明を求めるのは筋違いと思うが。

フォローありがとうございます。

昔のわたしなら筋違いでも「わたしが教えてあげる」とか言ってたくらいだから
勢い勇んでえらそうに説明したかもしれないけど、最近はそういうことはしないです。
というか、遅れ馳せながら何もわかっていないことがわかってきたものですから。(^_^;)

ヘーゲルの自己意識についても『大論理学』と『精神現象学』のつながり問題とか色々
矛盾もあるし・・・たとえばハイデガー的に表現するなら「存在者が、みずからそれである
ところの自己自身になるのは、超越においてである」と言ったときの、この自己性を構成
する超越としての差異そのものへ論の重心がブレたたことが、ヘーゲルの自己意識に
かかわる生命論についての議論の変遷なのではないかと思ってみたりしてます。

双方の自己でもって自己であるところの現存在の現実を見つめたときに
永井は<わたし>に、ハイデガーは<存在>に、ニーチェは<力への意志>に、
そしてヘーゲルは、この超越としての差異を<生命>に求めたのではないでしょうか。
永井はちがーう!というかもしれないけれど、わたしはみんなつながっていると思う。
だってみんなおなじ人間なんだもの。(^.^)
880カオル:2005/09/16(金) 04:54:41
>>879
>超越としての差異そのものへ論の重心がブレたたことが

訂正 → 越としての差異そのものへ論の重心がブレたことが

>ニップルさん

レスありがとうございます。
わかってもらえて嬉しいです。(^.^)

それから「大勢VSカオルの構図」なんて気にしてません。
わたしは色々言ってもらえることの方を大切に思います。
でも心配してくれてありがとう。
哲板は口は悪くてもやさしい人ばかりだし
わたしはいつも初心者で、知識のプライドなんかないから大丈夫!(^_^;)
それよりちゃんとすぐにレスを返せないことがいつも申し訳ないです。
わたしが自スレを立てないのにはそういう理由もあるんです。
今日もニップルさんのレスまでいきませんでした。ごめんなさい。m(__)m
881考える名無しさん:2005/09/16(金) 11:35:09
>>876
>そういう議論があってもいいじゃない!
竹田を持ち出したのが一つの例なのは十分に分かってるけど、
あまりにもひどい例を出しておいて「こういう議論もいい」と言われると、
何か致命的な勘違いをしてるんじゃないかと思われてならない。

>>877
>それを「踏まえて」(勉強して)いないはずがないじゃないですか。
踏まえるってのは知ってるということじゃなく、
ある問題に立つために前提としてるかどうかってことだよ。
竹田から見れば「どういう理由でか抹消されている」というのは、逆から見れば
「どういう理由でかそこにないものを見出そうとして失敗している」とも見られるわけで。

>>878
自己言及的ってのはself-reference、つまり参照内容がそれ自体であるって意味だよ。
私の二義性はそういう構造になっていない。

>>879
>この自己性を構成する超越としての差異そのもの
せっかく多少なりとも説明してくれようとしてるなら、これをもっと詳細に説明してくれ。

あと最後の段落は、
>だってみんなおなじ人間なんだもの。
というのが根拠だとしたら浅薄としか言いようがない。
882考える名無しさん:2005/09/16(金) 11:35:41
と書いといて何だけど……

俺はカオルが何か俺の理解していないものを理解しているのかと思って
質問をぶつけてみたわけだけど、どうもそうではなさそうなので、
もしそうなら俺にレスせずニプレスとの議論(?)に戻ってくれればいい。
ただ一つ要望だけど、顔文字とか(笑)は見苦しいので使用をやめてほしい。
そうすればこちらもあとは適当にスルーするので。
883二プレス:2005/09/17(土) 15:57:21
 <独在性> の議論が「実質」をめぐるものである以上、「言語」(すなわち「差異」)の力でそれを暴き出すのは
原理的に不可能である。(ある「差異」にとって「実質」はもはや「無」に等しいのだから >>875)
それゆえ不可能であると語ることは可能でも、原理的な不可能性にはなんら影響はない。

 でも実はこの点は主題ではないと思うのです。 <ほんとうの問題> は <独在性> が
いわゆる「独我論」を乗り越えた後に開けた、ということにあるのではないでしょうか。(『<子ども>』P32他)
私には永井均のやらんとしていることは「公共」のなかに位置づけられる「私」を逆転させること、だと思えます。
 「私」によって「公共」が開かれるという素朴な事実を殊更に感じ取ること。ここに子どものように
固執することが彼の意図であるとすると <独在性> の出生の秘密が大きな躓きにならないでしょうか。

 もし <独在性> を「付加的な独我論」と言い換えることができるなら、すでにそこには「他の独我論」がある。
つまり <独在性> によって開かれるはずの「公共」が「すでに常に」先んじているのではないか。
そうなると「公共」と「私」の関係は、むしろ逆転されるどころかさらに「深化」してしまう。
「消去的な独我論」が過ぎ去った後に <独在性> が生まれたとしたらこうならざるをえないのではないか。

 もしこのように、「公共」を開く「私」への固執が「私」を「公共」の中に位置づけなおすとしたら、そして
それを竹田さんが「自己言及のパラドクス」と呼んだとしたら、用語法はともかく、言いたいことはわからなくはない。
(しかし私にはいまだに彼の真意がよくわからないが・・・)
いずれにせよ、彼は永井均がウィトゲンシュタインに対して大きな負債を背負っていることを見逃している。
884二プレス:2005/09/17(土) 15:58:25
 例えば、われわれがギリシア哲学を否定しようにも広い意味でギリシア出身のパラダイムや用語に囚われてしまう。
同じようにわれわれが「言語体系(=差異体系)」のなかで「実質」を目指し「差異」を乗り越えようとしても
必ず「差異」の網打ちに引っかかってしまう。それが「独在性と言語ゲームはどこまでも拮抗する」ということの意味だろう。
だから「沈黙しなければならない」とウィトゲンシュタインは言ったし、「倒錯的な努力」であると永井均は言う。

 要は <わたし> で「公共」と「私」の関係を逆転することが可能なのか、ということに尽きる。
ありていの言葉で言えば、この点が永井均のアルファでありオメガであるということになるだろうか。
もしそうだとした場合 <独在性> の出生の秘密、他の人と同じフィールドの中に自らを位置づけた後に
(つまり「独我論」を乗り越えた後に) <独在性> が生まれたことは影響しないだろうか。

 最終的にこれには影響すると答えざるをえない。「公共」を開く「私」への固執が「私」を「公共」のなかに位置づけ直す
とは「ライプニッツ原理」と「カント原理」の関係のことだし、「倫理学」においてこの構図はより鮮明に打ち出される。
つまり「公共」の中に「私」を位置づける思考法を単純に逆転することは不可能なのだ。

 だから永井均は一見不必要に見える他の <独在性> を語らざるをえないし <独在性> の中身を取り除いて
構造だけを温存した <魂> にも触れざるをえなかったのではないか。
 興味がないなら遠慮なくスルーで結構です。
885カオル:2005/09/18(日) 03:03:36
>>873 ニップルさん
>確かにわれわれが公共の差異体系=言語体系の中に身をおく以上、
>いかなる時も公共性はわれわれの足元にそっと先回りしてもぐりこんでくる。

時制に組み込むのはまちがっているけれど、便宜上時間的な表現をとるなら
いかなるときも特異点としての<開闢>が「はじまり」なのではないでしょうか。
なぜなら<わたし>が存在することそのものが「世界の開闢」なのですから。( by 永井w )

たとえば、もしも<わたし>の根源性を否定して、つまりその背後に超越的な意味をもたせないで
<わたし>は現前するものとしてしまうなら、<わたし>の現前は記号の差異システムのなかで
のみ可能な記号の反復ということになってしまいます。(現前する<わたし>→三人称の「わたし」)
けれどもこの差異システムが通用するのは、公共言語として表象された「わたし」についてであって
またそれがいわゆる論理の法則の内部で「一義的」に(たとえば「わたしはわたしである」のように)
決定されてしまうために、言語のもつ意味の多義性や決定不可能性が「自己言及"的"パラドクス」
のような事態になって現れてくるのではないでしょうか。
886カオル:2005/09/18(日) 03:05:19

(つづき)

で、この事態を説明するために、>>862>>878下段を書いたのですが、何が言いたいのかというと
語る<わたし>には主体としての「意」があるのであって、また「語り」という行為そのものは実存的な
企投なのだということです。だから「公共の差異体系=言語体系の中に身をおく」理解する三人称の
「わたし」にとっての相対化される意味や価値と、一人称の<わたし>の実存的な企投によって創出
される<わたし>にとっての絶対的な意味や価値とは、次元がちがうのだと思います。だから、
<わたし>と「わたし」を同一律によって「自己」としてしまうかぎり「パラドクス」は解消しないでしょう。
またこの<わたし>と「わたし」とのあいだの断絶がハイデガーでいうところの「存在論的差異」なの
ではないでしょうか。(これについては永井も肯定的だったように記憶しています)

ちなみに竹田が永井の<わたし>論について──『自己言及的』パラドクスの象徴的事例──である
と指摘し、その根拠として──まさしくそれが『自己』の言及に関して指摘されているから──と言うのは
上述のようなコンテクストにおける自己の二義性の構造(自己の存在論的差異)のことを問題にしている
からだと推測します。だからこそ──『自己』の言及に関して──という表現にならざるを得なかった、と。

推敲してないけどとりあえず。
その他についてもいろいろ書いてみたいけど、いつになることやら。m(__)m
887二プレス:2005/09/21(水) 13:34:57
 >カオルさん
 とても鋭い視線だと思います。問題を正確に抉り出しています。ですが反論もあります。

>なぜなら<わたし>が存在することそのものが「世界の開闢」なのですから。( by 永井w ) >>885
 とカオルさんが語るとき、この事態は「言語=差異=公共」の網目に乗って誰にでも当てはまってしまっていませんか?
先の引用で「この私が世界を開いている、この私の特別さ」という当たり前のことをあらわせているでしょうか。

 もし言えていないとしたら、いかなる時も公共性はわれわれの足元にそっと先回りしてもぐりこんでくる、と言わざるを
えないと思います。(それゆえ、公共性の先にあるものは「無」ということになるのではないでしょうか >>873-874)

 >>885の後半についてはとても難しくてついていけないところがあります。885を前提にした>>886についても同じです。
ただ、どうも誤解があるのではないかという気もします。

 カオルさんが「永井均」の内側から彼を論じることに否定的な立場である以上、永井均の前提を踏まえていない
といった反論を単独に投げかけても無意味であると言えるでしょう。
 ただし、永井均の問題領域がどのようなところにあるのかを明らかにするのは永井均の「内」と「外」を理解し
双方から彼を論じるために有効だと思います。
888二プレス:2005/09/21(水) 13:59:20
 そこで『私・今・そして神』の中心テーゼとされる永井均の「L」と「R」ヘの分裂を考えたいと思います。
 そのための道具として「私」や<<私>>(単独性の私)、 <わたし> を使いたいと思います。
(ちなみにまだ「ブラックジャック」を読んでいないので、間違っていたら誰でも教えてください)

 「分裂問題」とこの三つの区分を重ね合わせると、まず対応関係がはっきりするのは <<私>> と永井L(あるいはR)との
関係ではないでしょうか。 <<単独性>> には他のものとの対比が必要です。この場合同じ永井均であるR(あるいはL)が
対比関係を作ると考えられます。
 とすれば「私」に対応するのはどの永井均でしょうか。…それはLとRを融合した後の永井均ではないでしょうか。
同じ人間(永井均)であるという「同質性」とその同質性に抗う <<単独性>> (LまたはR)という「違い」、
これを両者に認めたうえに現れるもの。「同質性」と <<単独性>> の融合を強調するもの。それが「私」ではないでしょうか。
だからこの「私」のレベルとは「自我」、「主体」などのレベルだと考えられないでしょうか。
(それらも「同質性」と「違い」を内包しているから)
889二プレス:2005/09/21(水) 14:05:50
 以上のように考えると <わたし> に相当するのは分裂前の永井均だと言うことになるでしょう。
分裂前の永井均とは <<単独性>> を経る前の生身の <わたし> です。これを「開闢の私」と名づけることも可能だと思います。
(ですから「私」を「開闢された私」と名づけることもまた可能だと思う)
 われわれはこの分裂前の永井均に相当する、 <独在性> を目指してLかRといった <<単独性>> を語ってしまうのではないか。
であればデカルトの「コギト」は分裂前の永井均を目指して分裂後の永井均を語ったものだと受け取れる。
それが「デカルトの発見した私は近代的自我ではない」という言葉で永井均が言いたかったことではないか。

 少なくとも「近代的自我」とはLとRの融合後の永井均に相当する「私」であり、そんなものは端から懐疑の刃で切り落としていたはずだ。
 ちなみに竹田青嗣さんの著作ではデカルトの発見した近代的自我が、フロイトなどの仕事を通じて危機にさらされる
(その後たぶん現象学がそれを回復するのだろう)という構成をとっているように見えた。(目次を立ち読みした限りでは)

 最後に「自己言及のパラドクス」についてですが、何を指しているのか不明という一大事を棚上げすれば
実は結構いい線いっていると思っています。永井均の隙のなさは本を一冊読めばわかることですが、唯一直感できる問題は
永井均が <独在性> を通じて実は「一般化された私」を語っているのではないか、という問題です。
 <独在性> の議論を通じて「永井論者」が生産されている不思議を見ても <独在性> をめぐる議論のパラドキシカルな
状況に直面します。このような不思議、つまり、どんなに <独在性> を語ろうとしても「一般化された私」を語ってしまうということが
「自己言及のパラドクス」の言わんとしたことであるならば、その指摘は的を射ているといわなければなりません。
 そのような的を射た指摘すら永井均の描く予定調和の内にあるのは言うまでもないことでしょうが。
890カオル:2005/09/23(金) 04:09:58
>>887 ニップルさん
>>なぜなら<わたし>が存在することそのものが「世界の開闢」なのですから。
> とカオルさんが語るとき、この事態は「言語=差異=公共」の網目に乗って誰にでも当てはまってしまっていませんか?
>先の引用で「この私が世界を開いている、この私の特別さ」という当たり前のことをあらわせているでしょうか。

──<わたし>が存在することそのものが世界の開闢である──というのは──<わたし>が世界を開いている──
ということではないです。なぜなら、永井のいう<わたし>と<世界>とは同格なのであって、<わたし>は<世界>に
たいして主語として成立してしまうような──開闢された世界の論理空間に位置づけられた──「わたし」のことではない
からです。ですから、永井は「<わたし>という開闢」とか「開闢としての<わたし>」のような言い方しかしないのです。
もちろん、わたしがどのような説明を試みたとしても「言語の構造上……」というアポリアを超えることはできないですが。

>もし言えていないとしたら、いかなる時も公共性はわれわれの足元にそっと先回りしてもぐりこんでくる、と言わざるを
>えないと思います。(それゆえ、公共性の先にあるものは「無」ということになるのではないでしょうか

現前する<わたし>→「わたし」にとっては、つまり声を聞くものとしての−理解する「わたし」−にとっては
先回りされることが、すなわち「わたし」の現前を成立させている原理なのですから、先回りされるのは必然です。
で、その辺りの事情を書いたつもりが、>>885-886でした。

もしも精確な議論を期待されるなら、ジャック・デリダの『声と現象』(ちくま学芸文庫)をおススメします。オカイドク!
(議論相手としては失格ですね…ごめんなさい)
891カオル:2005/09/23(金) 04:13:48
>>887 ニップルさん
>カオルさんが「永井均」の内側から彼を論じることに否定的な立場である以上、永井均の前提を踏まえていない
>といった反論を単独に投げかけても無意味であると言えるでしょう。
>ただし、永井均の問題領域がどのようなところにあるのかを明らかにするのは永井均の「内」と「外」を理解し
>双方から彼を論じるために有効だと思います。

わたしは「内」を否定しているわけではないのです。
「内」を設定しているのは、永井であってわたしではないですから。
それにわたしには「内」とか「外」とか言われても、まだその「内」と「外」とがよくわかっていないです。
だから「内」と「外」を理解して……という意見には賛成です。それが可能かどうかは別ですけどね。
それから文句を言うわけではないのですが、ニップルさんの意見には論点が多すぎてついていけないです。
たとえば西田についてもニップルさんの考えがどういうものなのか、まずそれが知りたかったりします。
それといつもageてもらっててアレですけど、わたしがいる→隔離スレ、という哲板の法則知ってます?(^_^;)

だれかニップルさんにレスしてくださーい!
892カオル:2005/09/23(金) 04:47:53
>ニップルさん

── なぜ合理的でなければならないのか、という問いと問題領域の関係について ──

わたしに到来するものとしての出来事は思考の外からやってきます。
その出来事がたとえ思考の未来予想図とおなじであったとしても、やはりそれは外からやってきます。
なぜなら「生きている」ということ、それが「わたし──である」だからです。
「生きている」という位相において、出来事はつねに偶然性のリアリティとして生成されるのです。
そうやって世界と出逢いつづけること──つねに生成しつつある世界が、わたし─(は)─存在する、です。
この「存在する」や「──である」は実在的な述語ではないから「わたし」も主語としては成立しません。
つまり「生きていること」や「生成しつつある」という運動は、言語の法則(=論理)の外部なのです。
たとえばこの運動を「時間=わたし」としてとらえてみると、この「時間」は実在する「もの」としては
把握(分析によって抽象)できないことがわかります。当然その総合として理論化することもできないです。
要するに、外部は「了解」することはできるけれども(学として)「説明」することはできない、ということです。
893カオル:2005/09/23(金) 05:14:14

(つづき)

ですから問題は、「なぜ合理的でなければならないのか」と問うことではなくて、このような課題について、
なぜ、それが論理によっては説明できない(合理的に把握することはできない)のに了解されてしまうのか、
ということなのではないでしょうか。

永井の<わたし>論を了解してしまうことが、どうしてわたしの世界で起こり、またそれがわたしの世界で
起こったことだとするなら、それは「すでに」わたしの世界での出来事であって、永井の世界の出来事では
ないという意味での意味それ自身によって、永井はまるではじめからいなかったかのように、わたしの世界
から消えてしまう。けれどそれでもわたしがその事態にかかわっているということ、何かしらの態度をとって
いるということ、永井がわたしの世界からいなくなる契機としての「それ」が、本当はたった独りのわたしの
「まぼろし」じゃないのだとしたら、それはいったい「  」にたいしての「かかわり」や「態度」なのでしょうか。
またかりにこのかかわりや態度を他性へのものだとするなら、わたしの世界にいない意味の他者の不在
という事態との関係をいったいどのようにとらえたらいいのでしょうか。

一応、永井と西田の架け橋の前フリとして、西田の生の哲学と永井の「  」(魂?)という論点も考慮して
書いたつもりです。西田の生そのものの超越性における議論と、永井の世界を開闢する魂の超越性に
ついての議論とのつながりをニップルさんはどのようにとらえていらっしゃるのでしょうか?
ぜひご意見をうかがいたいです。シツコイですが。(笑)
894カオル:2005/09/26(月) 04:32:28
>>873 ニップルさん
>解が「0」のときと解が「無い」ときには違いがあると思う。

たとえば「1−1」の解が「0」であるということが、左側の「1」と右側の「1」が同じものである
ということを意味しているとして、仮にその解である「0」に「それ自身と同じでないもの」という
意味があるとしたなら、これっていったいどういうことなのかな?

もし「0」が対象であるなら「0」が存在しうるためには「0」には「それ自身と同じであるもの」
という「それ自身と同じでないもの」にたいする否定の概念が分岐しているはずなんだけど
でもそれなら、同じものから同じものを引いて「何もない(存在しない)」ということの意味が
わからなくなります。

なぜなら「事物A」が「存在してる」というときの「事物A」は「それ自身と同じであるもの」という
あり方で存在してるからです。だから「存在しない」という事態が対象「0」として「存在してる」
というときの「0」の存在の仕方は「思考の原理の外」にあることになります。

この解「0」の生起における事態にはふたつの位相がみられると思います。それは「0」という
「生起そのもの」と「0」が「生起した事態」です。「0」は「生起そのもの」としては自身としての
属性がなく実体がない「空」のように「存在しない」のに、生起と共に「生起した事態」としては
「それ自身と同じでない」というあり方で「それ自身と同じであるもの」の「色」のすべてを暗示
して、またそのことによって存在します。

「0」って「色即是空」そのまんまですね? 西田でいうと「絶対矛盾的自己同一」でしょうか?
895カオル:2005/09/26(月) 04:36:18

どう思われましたか?

「1」 → 「わたし」。現前した<わたし>。

 ・ デリダ゙でいうなら差延、現文脈では「記号の反復による自同性の保証」によって現前するコギトのこと。

「0」 → <わたし>。開闢としての、世界そのものとしての、わたし。

「生起そのもの」 → 開闢。<わたし>が存在するということ。

「存在しない」 → <わたし>は現前しない。(コギトは現前しない)

「生起した事態」 → 開闢された世界の実状=事実(物事の「こと」の方)。またその事実の総体としての世界。

「それ自身と同じであるもの」 → 開闢された世界の物事のうち(分析によって抽象できる)「もの」の方。

「それ自身と同じであること」 → 文面にないけど、これが開闢された世界としての<わたし>そのもの。

「それ自身と同じでないもの」 → 開闢された世界での<わたし>の「わたし」というあり方。

 ・ 自己の両義性のうち、それぞれにそれぞれであるところの個我。カントでいう経験的自我のこと。

「それ自身と同じでないこと」 → 開闢された世界での「わたし」の<わたし>というあり方。

 ・ 世界の開闢としての<わたし>は生起する事態−可能性のすべてとしての<わたし>なのだから
   開闢された世界での「わたし」の空間性(ある/ない)や時間性(同一性/差異性)には依存しない。
   ただ開闢された世界では開闢された世界での空間性や時間性を成立させる統一の原理として働く。
   カントでいう超越論的自我−統覚のこと。

とかって読み替えてみたら面白いかも。(^.^)
896カオル:2005/09/26(月) 23:18:38
>>883 ニップルさん
><ほんとうの問題> は <独在性> が、いわゆる「独我論」を乗り越えた後に開けた、
>ということにあるのではないでしょうか。(『<子ども>』P32他)

  ───独我論をめぐって───

  ──「ぼくはなぜ存在するのか」という子ども時代のぼくの問題
  
  小学二年ぐらいまで、ぼくはひどくぼんやりと生きていた。
  世の中がぼくに何を求めているのか、まったくわからなかった。
  ──小学三年のころ──意味が──急にはっきりしてきた。
  
  ──その中にひたりきって生きていたために、かえってはっきりつかむことのできなかったある問題を、
  その外に出てはじめてはっきりとつかんだようだ。──ぼくはたくさん居る人間のうちの一人なんだ、
  といことが実感できた、ということである。
  
  それまで、たぶんぼくは──ぼくというものはまったく特別のもので──それにたいしてすべてが
  存在している原点ようなもの──というふうに感じていた。

  ──あるとき、そういう蒙昧状態がぷつんとおわって──この無自覚的独我論から脱すると同時に、
  ぼくは一つの自覚的な「問題」をかかえこんでしまった。

  『<子ども>のための哲学』(30〜32n)
897カオル:2005/09/26(月) 23:25:06
>>884(つづき)
>要は <わたし> で「公共」と「私」の関係を逆転することが可能なのか、ということに尽きる。
>────<独在性> の出生の秘密、他の人と同じフィールドの中に自らを位置づけた後に
>(つまり「独我論」を乗り越えた後に) <独在性> が生まれたことは影響しないだろうか。

───<独在性>の出生の秘密について───

<わたし>と「わたし」との「関係」を「逆転」できないのは、−わたし−の「自覚」というものが
−わたし−という言葉によって「はじめて」成立してしまうという、その順序にあるのだと思います。
−わたし−の自覚というものの発生論的な意味での起源が、人間の言語の獲得を前提にしている以上、
その次元においては、つまりわたしたちが言葉を使用するかぎりにおいては、逆転はできないのです。

  ──あるとき、そういう蒙昧状態がぷつんとおわって──この無自覚的独我論から脱すると同時に、
  ぼくは一つの自覚的な問題をかかえこんでしまった。

「乗り越えた」(脱した)独我論とは「無自覚的独我論」のことであって、この独我論は「無自覚」、
つまり−わたし−という言葉によっては、まだ侵犯されていない世界を開闢する特異点としての
<わたし>──=(という)──独我論なのです。だから無自覚的独我論から脱するということは、
それによって、それと「同時」に、それを「自覚」すること=「わたし」の独我論が誕生することを
−意味−します。またこの−意味−の「生起」が−論理空間−と−わたし−の自覚を成立させて
−わたし−が自覚的に「問い」を発すること──問題をかかえこむこと──を可能にしてるのです。
898カオル:2005/09/26(月) 23:45:43
>>888-889 ニップルさん
>であればデカルトの「コギト」は分裂前の永井均を目指して分裂後の永井均を語ったものだと受け取れる。
>それが「デカルトの発見した私は近代的自我ではない」という言葉で永井均が言いたかったことではないか。

まったくその通りだと思います。別スレでのわたしの発言をみていたらわかると思うけど
わたしは、つねにその前提で話をしてきたつもりなんです。だからわたしのしてきた説明は
ほぼ 889,889 に書かれていることと同じだと思われるのですが、問題は、ニップルさんが、

>どうも誤解があるのではないかという気もします。 >>887

と言うときの、そのわたしの誤解がどこにあるのかが、わたしにはわからないことなんです。
899カオル:2005/09/26(月) 23:55:19

(つづき)

きっとその誤解が、わたしが「永井の土俵に立てない」「問題の在りかがわからない」ことの原因なんです。
もしそうでないなら、永井の議論はさんざん語られてきた哲学の中心的な課題の一つでしかないですから。
でも永井がそのような哲学の系譜を知らないわけはなく、それにもかかわらず<わたし>論の特別さを
強調するのは、たとえ永井が、

  私はずっと、自分の関心に従がってまったく自分勝手に哲学をやってきた。
  だが、本書で到達し本書で論じられたような問題が、古代ギリシアに始まり、デカルト、カントを経て
  今日にいたるあの固有名としての哲学にとっても最も中心的な課題であったことはまず疑いのないこと
  であるように思われる。『私・今・そして神』(180〜181n)

と言ったとしても、いまだに<わたし>論の「特別さ」を、たとえば>>878のような発言について
いっさいその言を撤回していないことからもわかるように、やっぱりそう思っているからでしょう?
わたしは大切なのは「かかえこんでいる問題にたいする態度」であって「アプローチの仕方」じゃない
と思うの……だから竹田のような<わたし>論にたいするアプローチの仕方があってもいいと思うし、
わたしの議論もそうだから、それだとどうして<わたし>論の議論にならないのかがわからないんです。
だったら、その「特別さ」とは何なのか?、またそれにともなった「特別なアプローチの仕方」というのを
ぜひ教えてもらいたいって思う。わたしはその「特別さ」に辿りつきたいんです。そこが知りたいんです。
だってそここそが<わたし>論の肝心要であって、ライプニッツでもカントでも西田でも誰のものでも
議論できない「特別さ」のはずだから──みんなおなじ人間なんだから──を超えているはずだから。
900カオル:2005/09/27(火) 00:16:09
>ニップルさん

たいぶ時間はかかったけど
(ニップルさんも無理しないでくださいね。
丈夫な方ではないみたいだから心配です。)
わたしの興味にしたがって大体はふれたつもりです。
あとは、西田哲学との「架け橋」の問題になりますね。
上でもふれたけど、もし架け橋が可能なのだとしたら
永井の議論は「特別」でも何でもないことになります。
だからわたしは架け橋ができないことを期待します。
架け橋できないことで<わたし>論に出逢いたい!(^.^)

おやすみなさい。
901二プレス:2005/09/28(水) 13:12:44
>カオルさん
 いくつかの論点を提出したつもりでしたからたくさんレスがあるのは(驚きましたが)
願ったり叶ったりというところでしょうか。

 まず最初に触れておきたいのは>>899の引用箇所、
 >私はずっと、自分の関心に従がってまったく自分勝手に哲学をやってきた。
 >だが、本書で到達し本書で論じられたような問題が、古代ギリシアに始まり、デカルト、カントを経て
 >今日にいたるあの固有名としての哲学にとっても最も中心的な課題であったことはまず疑いのないこと
 >であるように思われる。『私・今・そして神』(180〜181n)
 これを引用するセンスには脱帽ものだということです。

 ただ、明確にひとつ確認しておきたいは永井均の言語観をデリダの「原‐暴力」などと重ね合わせることは不毛ではないか
ということです。第一に永井均とデリダの双方をマッピングして両者の一致と不一致を論じるほどの実力が私にはないからです。
 がそれ以前に、まず初めに永井均をデリダとを重ね合わせておきながら続いて「ほら重なっている」という指摘を加えるのは
マッチポンプというやつではないでしょうか。
 私の知る限りデリダの「原‐暴力」はこの私だけを特別に問題視しているわけではないはずです。
どちらかというと「他者」という問題領域が大きいのではなかったでしょうか。
永井均にとっての「他者」は <わたし> という問題領域の先に――しかし不可分に――存在している問題領域だと理解しています。
これは重要な問題領域の違いですので両者をまず重ね合わせるということに無理があると思います。
902二プレス:2005/09/28(水) 14:07:32
>>901 (901の最後の段落の文頭に「また」という接続詞をつけるとわかりやすかったと後悔しています)

 最初に触れた>>899の引用箇所ですがこれは永井均の核心だと思います。
これこそが永井均の「公共」と「私」をひっくり返すという壮大な企ての「宣言文」だと思うからです。
カオルさんは「あの固有名としての哲学」の内部に永井均を位置づけて論じていますが(間違っていないと思います)、
ここで永井均が言っているのは「私」を追求していくと「公共」に出会ったということだと私は理解しています。
この構図は「ライプニッツ原理」と「カント原理」との関係や、「私的言語」と「公共言語」との関係などと
類比的なものです。
 つまりこの引用箇所を理解すれば『私・今・そして神』を丸ごと理解したことに匹敵すると私は思っています。
それゆえに的確にこの中心命題を射抜いたセンスに脱帽したわけです。

 次に、この観点から「みんなおなじ人間なんだから──を超えているはずだから」(>>899)という問題を
考えるとここに「誤解」があるのではないかと私には思えてきます。
誤解を恐れず端的に言って永井均の論法は <独在性> の議論においても「倫理」の議論においても「この特別な私」を
丁寧に考察すると「みんな同じ人間なんだ」に出会うという構造を持っています。

 ライプニッツ原理も私的言語も <わたし> も確かにあります。でもそれは否定されるものです。
ライプニッツ原理はカント原理に、私的言語は公共言語に、 <わたし> は「わたし」として。
つまり「プライベート」は「パブリック」に飲み込まれ否定されてしまうのです。
 これらが否定されてしまった後に生きるわれわれにとってはそれらは「無」に等しいものだといえないでしょうか。
しかし――前回の書き込みを自ら否定するようですが――それらは本当に「無」だと言い切ってよいのでしょうか。
本当の「無」をわれわれはなぜ知ることができるのでしょうか。
これが西田と永井均を架橋する橋になるのではないでしょうか。
903二プレス:2005/09/28(水) 15:25:35
 …威勢のいいことを書いてしまったのですが、よく考えると永井均と西田幾多郎の一致不一致を論じるほどの
力は私にはありませんでした。
 しかしいくつかのポイントを押さえることぐらいなら何とかできるのではないかと不遜にも思います。

1、ともに「私」(分裂問題で言うと永井LかRのどちらか)以前に遡及していこうという考えをもっている。
2、「無」をめぐる議論については永井均は最終的に否定的立場だろう。
3、西田哲学はしばしば二元論や独我論に対抗する考えとして位置づけられる。
4、「3」は誤りである。

 2、については注釈が必要でしょうか。私が「無」をめぐる議論に否定的なのではないかと邪推するのは
「有でも無でもない」という立場に永井均があるのではないかと考えるからです。

悲しいかな、これぐらいしか書けませんね。
904二プレス:2005/09/28(水) 16:00:40
 さて、議論が堂々巡りをする前にどうしても指摘しておかねばならないことがあります。
それはわれわれの「足場」についてです。

 ここでの議論を簡潔にまとめると、
まずカオルさんが永井均の言わんとしたことがわからないといいます。
そこで私が「こういうことではないのか」という提案(主張)をします。
すると、カオルさんから永井均の言わんとしていることはこういうことだ、という主旨の反論が返ってきます。
議論をしているのですからこういう形でやり取りがあるのは不思議ではないのかもしれませんが、
私はときどき「示唆されているのか、示唆しているのか」がよくわからなくなります。
カオルさんは永井均の言わんとしたことを一定程度理解した立場にあるのでしょうか、それとも・・・。

 いや、(私とは違う)理解をしているそういう立場にあってもまったく問題ないのですが、
「竹田さん」が出てきたり「デリダ」が出てきたり永井均自身が出てきたり、永井均の言わんとしたことが
わからないところから議論が始まったりという「足場」ではただでさえもつれた糸のように錯綜した議論が
なおさら錯綜するのではないかと不安になります。

 できれば「〜の立場から永井均を見たときには…」という「足場」を示すと余計な錯綜が減るのではないかと思うのです。
これはもちろん私自身にも当てはまることですが。
905カオル:2005/09/30(金) 02:41:41
>ニップルさん

わたしは、わたしの立場からしか議論をしたことがないです。
まさかウソつきのパラドクスを教えてもらって気づいたわけではないですし
わたしの魂の孤独について、他者との絆と断絶について、永井から聞いて
なるほど!って思ったわけでもないです。
永井の問いはすべて最初からわたしのものとしてあるのだけど
すべてをわたしの言葉づかいで通してしまうと(たとえばゼロについてとか)
マイ哲学批判という余計な議論が入り込んできてしまいます。
そういう哲学にとってどうでも良いことについてこだわる人の批判について
ある一定の立場を認めたのがローカルルールの改正でした。
そしてわたしはそれに賛成した立場ですから、その共存ルールにしたがって
もしもわたしの考えに似たような考えが、どこかの哲学書に書いてあったら
それに触れたり、著書を紹介したりすることを、半義務として行っているだけです。
驚くべきは、さがせば誰かの思惟の痕跡として、永井のここやあそこについての
議論がみつかることです。つまり何がいいたいのかと言うと
たとえばそのような既存の知識や議論やテクストを資料としないようなものは
批判されても仕方がない、ということについて、半分だけ認めるということです。
でもだからといって、このスレは永井のスレだから、永井のテクストに忠実に、
それのみの読解を目的にすることにわたしは反対です。
わたしにはニップルさんがそのような立場に見えたので、もっと自由でいいのでは?
ということを書いたのが最初のレスの意図ですし、そもそもそれだけ言いたかった!
ニップルさんが永井の土俵や永井の魂にたいする態度についての了解を
議論の前提にしたいということなら、わたしにとってそれはツマラナイことだから
それなら別のスレで魂について自由に議論したいと思います。
わたしは、わたしを起点にしてしか議論はしないです。

ということなので、さようなら。じゃ、またねー!
906考える名無しさん:2005/09/30(金) 09:06:49
それじゃ徹頭徹尾スレ違いじゃないか……
何しに来たんだ
907二プレス:2005/10/01(土) 14:13:48
>カオルさん
 >わたしは、わたしを起点にしてしか議論はしないです。>>905
 これを永井均にも認めてやると懸案の「オリジナル(起源)問題」は解決しそうに思います。

 私が永井均の観点や、立場にこだわるのは彼を最大限評価しているからです。
素直に表現すれば「最先端を走っている人はこういう見解にある」ということを明らかにして、そのあとで
あわよくば「この見解はおかしいのではないか」というような批判をしてその思考を鍛え上げえるのに加担したいのです。
そのような見通しはまったく立っていませんがね。

 それと言い訳じみたことを言いますと、>>892-894にかけてのカオルさんの書き込みは
日頃の思考の集大成というか、そういうようなものが一気呵成の迫力を持って書かれているので
理解するにはたくさんの穴埋めを埋めなければならないですし、とにかく時間と労力がかかります。
 ですから何を言わんとしているのかはよく分からないのですが、ただ何をせんとしているのかは
分かる気がします。おそらく、「永井均の問題領域はオリジナルではない」ということを明らかにせんと
しているのでしょう。私はこの問題に興味を覚えないのですが、ふと考えてみるとこの問題は
『私・今・そして神』の「はじめに」で永井均が読者に背負わしていた謎と関連があるように思えてきます。
 哲学の伝統とこれから始まる「本当の哲学」の伝統とはどう異なるのか?これまで言ってきたことと
『私・今・そして神』で言っていることが違うというけれどそれはどこか?
なんとなくこのような謎と「オリジナル問題」には関連があるように思えてきます。
908二プレス:2005/10/01(土) 15:02:23
 「オリジナル問題」についての見解を改めて考えて見ると永井均の思考の全体像と
かかわってくるのではないかという思いが徐々に強くなりましたのでちょっと書いてみます。
(別にカオルさんに対して欠席裁判をしようというつもりはありません)

 永井均の問題領域が彼を起源にするものであるか否かという「オリジナル問題」。
しかしオリジナルでないということを明らかにするには彼がオリジナルであるという立場の「内部」に立ち
それを徹底することによって、その「内部」を食い破って「外部」に至らなければならない。

 ここで気になるのは「内部」を食い破って「外部」に至るというディコトミー(二分法)の破砕は
プライベートを追求するとパブリックに出くわす(逆ではない)という永井均のディコトミーの破砕と瓜二つ
ではないかということである。近刊に書かれてあった「哲学の伝統」と「これから始まる本当の哲学」とに対する
矛盾したような言及も実はこの二分法の破砕が念頭にあったのだろうか。
909二プレス:2005/10/01(土) 15:57:09
 そう言えばつい先日『現代思想としてのギリシア哲学』(ちくま学芸文庫)を読んだら
ロンドンから永井均が解説を書き送ってきていました。何でロンドンに研究に行っているんだろ?
ウィトゲンシュタインについてさらなる研究をしてるんだろうか?
自分のウィトゲンシュタイン解釈を伝道に行ったのかな?留学先はケンブリッジかな?

 蛇足ついでだけど、次のスレッド名はできたら <独在性> をめぐるメタフィジカルサークル
にしてほしい。いや、なんとなく思いついただけだけど。
 でも永井均の名前が入ったほうがスレの趣旨がわかりやすいかなぁ。ならべつにいいけど。
910カオル:2005/10/04(火) 03:42:00
>>907 ニップルさん
>>わたしは、わたしを起点にしてしか議論はしないです。>>905
>これを永井均にも認めてやると懸案の「オリジナル(起源)問題」は解決しそうに思います。

わたしは、永井の「オリジナルさ」は、魂の「オリジナルさ」なのだと感じています。
この魂の孤独と、それゆえにだけ隣人であるうることのできる他者の存在の遠さについて想うとき、
それはまるで、孤独にたえられず他者をもとめて誕生したいくつもの宇宙がいくら寄り添ってみても
どこまでも重なり合うことも、触れ合うこともできないでいるかのようで、とてもかなしい。

わたしが「わたしを起点にして」というとき、それはそういうことなんです。
けっしてわたしの論がオリジナルなわけではありません。
たとえそれがどのような差異を作り出しているのだとしても「創発」ではないです。
もしそうなら、わたしの言葉は誰にも伝わらないでしょうから。
わたしの言葉は、つねに差異を作り出すためのオリジナルを必要とするのです。

そして永井の「語りえなさ」や「伝わらなさ」の本質は、つねに−わたし−や−今−や−言語−の
構造の自己言及的な位相のちがい(存在論的差異)とオーバーラップさせて語られることで示されます。
けれどもそれはそれらとの同質性を示すためではなくて、それらとの次元のちがいを示すために
それがそれらを超えたものとしてあることを示すためになされているようにわたしにはみえます。

  世界の内部で対称性の要請が満たされないとき、対称性は世界を超えて想定されるほかはない。
  だから、私は、本書において、この同じ世界に私と内属している読者の方々に語りかけているのでは
  ないことになる。((『私・今・そして神』 223n)

ということなのだと思います。
911カオル:2005/10/04(火) 03:46:48

> 私が永井均の観点や、立場にこだわるのは彼を最大限評価しているからです。
>素直に表現すれば「最先端を走っている人はこういう見解にある」ということを明らかにして、そのあとで
>あわよくば「この見解はおかしいのではないか」というような批判をしてその思考を鍛え上げえるのに加担したいのです。
>そのような見通しはまったく立っていませんがね。

真理を探究する同志としては、わたしだって永井を評価しています。
けれど彼が「最先端を走っている人」だとかそういう評価をする必要があるとは思えないです。
だってそういう最先端を批判してきた経緯こそが、竹田のいう「ポスト・モダン的議論の泥沼」(『子ども』106n)
なのに、またそのような哲学者の営みこそを永井は批判しているのに…けっきょく永井の観点や立場にこだわる
ことで同じことをくりかえしているようにしか見えないのです。もちろんそれもひとつのアプローチの方法としては
みとめますけどね。わたしはよく「おまえは現代哲学が乗り越えて来た道を逆戻りしている」とか言われるけれど
わたしにしたらこのような「新しさ」にこだわって、自分の足で"そこに"立ってみようとしない進歩主義者の方こそ
それこそヘーゲル哲学の範疇に留まっていると思ってしまう。でもそういう立場があってもいいと思っていますし
大切なのはそのことによって思考停止しないことではないかと。もちろん自分に言い聞かせているわけですけど。
912カオル:2005/10/04(火) 03:50:11

> ですから何を言わんとしているのかはよく分からないのですが、ただ何をせんとしているのかは
>分かる気がします。おそらく、「永井均の問題領域はオリジナルではない」ということを明らかにせんと
>しているのでしょう。

根本的にちがいます。たとえばデリダをもちだしたのは「それでない」ことを示すため、
わたしが永井の論はこう解釈できるのでは?と書くのは「そうでない」ことを明らかにしたから。
だからわたしはほんとうはニップルさんにはちゃんとカオルの解釈のここが「まちがっている」と
言われたかったのです。そうでなかったら議論する意味がないじゃないですか?
でもまさか「わからない」とかで反論がかえってこなかったとは考えていませんでした。
立場にばかりこだわって、わたしの論自体は無視されているとばかり思っていました。m(__)m
だから「さようなら」といったのだけど…今日から復帰です!(^.^)
913カオル:2005/10/04(火) 03:58:39
>ニップルさん

わたしなりに西田哲学を念頭において、彼の生命の超越論と永井の魂の超越論が
重なり合わないことを確認していきたいと思います。

−今−とは、やって来ることもなく、去っていくこともない、でしょう。
なぜなら、−今−とは、−わたし=生きている−ということ、だからです。
この止まることのない運動は、つねに現在進行形において、それでありつづけるのです。
ですからこの、可能性としてやって来ることもなく、必然性として去っていくこともない
−今−のことを、もし言語によって表現するなら−永遠の今−ということになるでしょう。
ここでいう−永遠の今−とは、−今−の実体性が無時間的であることを、そして−今−の
無時間的なあり方「それでありつづける」が、相対化されるような位置を持たないという
意味で非空間的であることを示しています。

  ── 9 哲学はまだ始まっていない ──

  端的な今がなかったら、そもそも世界がなくなってしまうんじゃないか。この問いは、
  開闢がなければ世界は開かれない(始まらない)じゃないか、という問いだ。たしかに
  そうなのである。しかし、開かれたり始まったりなんかしない世界が、それ自体として
  もともとただある、と考えることはつねに可能なのだ。世界は、そのようなものとして
  構成されたとき、はじめて「実在する」ものとなるのだから。(『私・今・そして神』154n)

「開かれたり始まったりしない世界」とは、「開かれたり始まったりするかもしれない」
すべての可能性を有して、ただ「ある」とき、はじめて世界として「実在する」のだとして
それが世界の真の姿だとするなら、開闢された世界は真の世界の幻影ということになります。
わたしは、この真の世界と真の世界の幻影とをつなぐのが、−永遠の今−という−わたし−
のあり方なのではないかと思っています。
914カオル:2005/10/04(火) 04:03:44

(つづき)

  つねに現実によって満たされる形式で、そして現に満たされている。(同書 132n)
  
  現実のA系列だった。
  しかし、その「現実の」という性質もまた相対化され、形式化されるのだった。
  あのとき私は「現実と形式のこの対立自体が形式化されることもまた必然」だと書いた。
  なぜなら、時制とはその事実を組み込んだ特別の形式だからである。(同書 155n)

−永遠の今−は、可能性としてやって来ることもなく、必然性として去っていくこともない
様相としての現実の実体性を表現したものであり、ほんとうの現在(現実的現在)のあり方を
示していますが、この−永遠の今−という現実の実体性は、今まさに使用したように
「現実の」という言葉に含意されてしまっている様相としての可能性や必然性、
あるいは、時制における未来や過去の否定として、つまり「可能性−現実−必然性」や
「未来−現在−過去」という「現実によって満たされる形式で、そして現に満たされている」
ところの「現実や現在でないこと」=「それ自身でないこと」によって「現実に満たされる形式で、
現に満たされている」事態=「生起した事態」=「開闢された世界」を成立させているのでは
ないでしょうか。
915カオル:2005/10/04(火) 04:14:33

(つづき)

  端的なA事実そのものを、そしてそれだけを語ったり指したりできる言語があったとしても、
  それは言語としての基本的な機能を果たせないだろう。いやそれどころか、かりにであれ、
  そういう「言語」を想定することができるだろうか。そういう想定をしようとしても、
  そもそも何を想定してみればいいのやら、わからなくはないか。
  それゆえに、ただそれゆえにのみ、「端的な」今的言語は不可能なのだ。
  ──するとやはり、「端的な」私的言語は不可能ということになるだろう。(同書 159〜160n)

たとえば−永遠の今−という表現は、その指し示そうとしている本質においては
「私だけ」に、そして「今だけ」に使える言語です。なぜなら、−わたし−という自覚は、
「生きているということ」そのものを、−わたし−として「規定」したことが、その起源だからです。

この規定こそが、世界の開闢としての特異点−わたし−なのであり、ゆえにそれは「私だけ」に
還元されうるものとして「ある」のです。そして−今−とは、世界が開かれるための原理である
生きているということ−わたし−自身が、みずからの原理にしたがって、開闢された世界に
「ある」−空間的な原点をとる−ことを可能にするための基本法則としての"それ"(運動)ですが
"それ"自身では−わたし−を世界に位置づけることはできません。現実には「記憶」が必要です。
つまり基本法則(止まることのない運動)が、開闢された世界に離散する無数の−わたし−(経験)
を空間的に規定しようとするとき、この規定を可能にするのが「記憶の能力」であって、
この能力によって、世界の開闢としての特異点=生きていることの自覚−わたし−が、
開闢された世界に−今−という原点としての"それ"(時間)によって、"それ"(わたし=今)として
時空間に位置づけられます。そしてこの開闢された世界におけるこの規定が、生の形式であり、
また論理の形式の起源なのではないでしょうか。
916カオル:2005/10/04(火) 04:21:44

(つづき)

  端的な今的言語は不可能なのだ。
  端的な私や今が言語で指せないからではなく、
  その端的さ(概念によってとらえられない現実存在)の意味を把握する仕事が
  言語の本質に反するからなのではなかろうか。(同書 160n)

わたしの上述してきたこと──その端的さ=概念によってとらえられない現実存在の意味──は、
意味が成立する以前の事態を、また意味としては把握できない事柄を、指しているのだから
言語の本質に反するでしょう。たとえば言語の属性であるコミュニケーションは他者の存在を前提に
していますが−わたし−や−今−の端的さの根源が「生きていること」や「止まることのない運動」に
あるのなら、それ自身は対象や他者の存在を前提していないでしょう。
なぜならそれ自身は、それらを成立させる原理としてあるのですから。

たとえ独我論の立場をとるとしても、対象や他者は「わたしの世界」のなかにいるのですから
またそのことによって事態の総体としての論理空間が存在して、思考の原理が原理として働くのだから
端的さの意味を把握することは言語の本質に反するというよりも、端的さが言語の本質を規定している
とはいえないでしょうか。だから本質を規定された当の言語によって、その規定する原理そのものを
把握することができないのだと。
917カオル:2005/10/04(火) 04:47:31

(つづき)

けれど、当の言語から「それではない」という仕方で原理に近づくことは可能かもしれないです。

  これに反して、端的なA事実もまた言語で語られるときには必然的に相対化されるのだから、
  逆に考えて、およそ言語というものが可能であるためには、端的でない私的言語や今的言語は
  可能でなければならない、とは考えられないだろうか?(同書 161n)

というように。

ところで永井は、なぜこの議論を「哲学はまだ始まっていない」の項に書いたのでしょう?

それはおそらく、およそ哲学というものが「言語」によって為される営みだからであり、
たとえば、フッサールが「エポケー」というときにも「言語」は「エポケー」されていないわけです。
(ちなみに、デリダの『声と現象』−フッサール批判における基本的な論点はココです。)
だから、その無自覚的な自明性についての自覚を原点に据えつつ「哲学する」ことが「哲学」なら
たしかに永井がいうように「哲学はまだ始まっていない」と言える部分もあるのでしょう。
けれど、もしもわたしのこの解釈が正しいとしたら、このような言語の問題への取り組みこそが
ウィトゲンシュタイン以降の言語哲学の営みであり、またハイデガー以降の形而上学批判であり
またさらにそのハイデガーをも脱構築しようとしたデリダをはじめとしたポストモダンの潮流では
なかったのでしょうか? みんなおなじ問題意識のなかで奮闘していたのではないでしょうか?
永井はなぜこのことを、そしてそのような取り組みをした哲学者や哲学徒を批判するのでしょう?
みんなその原点−真理の探究−においては何もちがわないと思う。
わたしには、たんにアプローチの仕方がちがうだけにしかみえないのです。
918カオル:2005/10/04(火) 05:09:45
>ニップルさん

ということで、西田と永井とのちがいについては、
とりあえず西田の側からの「思考のくせ」に乗せて<わたし>論を解釈すると
わたし的には「こうなる」みたいなものを示しました。
もちろんぜんぜんちがっていてほしい(つながらない)ものとして提出しています。
批判をお待ちしています。

それからわたしは相変わらず内部から食い破るとか外から食い破るとかには
こだわっていないです。イヤミを言うと、どうして内部がわかってしまうのか、
ちがう宇宙の内部にどうして入っていけるのか、なぜそのような気になってしまうのか、
そのような気分は傲慢なんじゃないのか、魂の態度として。と思ったりしてます。

では、おやすみなさい。(_ _).。oO
919カオル:2005/10/04(火) 05:26:09
>>912
>と書くのは「そうでない」ことを明らかにしたから。

→ と書くのは「そうでない」ことを明らかにしたいから。

なんだかけっきょく徹夜になってしまいそう。(^_^;)
明日こそはゆっくり寝よっと。
920二プレス:2005/10/05(水) 15:44:31
>カオルさん
 とりあえず、言及しやすい箇所からいきます。

>それからわたしは相変わらず内部から食い破るとか外から食い破るとかには
>こだわっていないです。イヤミを言うと、どうして内部がわかってしまうのか、
>ちがう宇宙の内部にどうして入っていけるのか、なぜそのような気になってしまうのか、
>そのような気分は傲慢なんじゃないのか、魂の態度として。と思ったりしてます。

 嫌味を言われてもいいのですが「違う宇宙」なのは、違う <独在性> のことではないでしょうか。
だから「この私の」 <独在性> 以外のもの(つまりほかの <独在性> )について−−ここで現に語られている
わけですが−−本来語られてはいけないという指摘ならばカオルさんの指摘は正しいものです。
一人一人の <独在性> と捉えられた途端にここで問題になっているものは <<単独性>> に変化してしまうからです。

 ただ、傲慢という言葉に託された批判はどうも真摯に受け止めなければならないように思えます。
921二プレス:2005/10/05(水) 16:10:29
>>911
 うーん、なんと言ったらわかってもらえるのかなぁ。
永井均が「徹底した思考を持って不徹底な思考を結果的に批判する」のは問題があるようには思えませんが。
われわれは不徹底な思考より徹底した思考をよしとするはずですから、その徹底した思考を「最先端」と肯定的に
評価するのに問題があるとはとても思えません。

 肯定的な評価の後に、「あわよくば永井均を批判したい」とわざわざ言及したのも「思考停止」とか「信者」といった
誤解を受けないためにその点には十分注意していますと言いたいために書いたのです。

 しかしこんな問題は枝葉の問題ですから、この辺でやめておきましょう。
922二プレス:2005/10/05(水) 17:19:38
−−議論を始める前に−−

 カオルさんの批判はレベルが高いので即答することが容易ではありません。
私も『私・今・そして神』をじっくり読み返してから返答したいと思います。

 ですからいまだに返答の準備段階なのですが、不安になることがあります。
仮にカオルさんに、西田の時間論が永井均の時間論と似ている→だから永井均はオリジナルではない、
という道筋があるのだとしたら少々不安になります。
 黄色の色眼鏡をかけて「世界中のものが黄色く見える」と主張するものが「黄色がかっていない青色」の
存在を否定することができるでしょうか。

 それに『現代思想としてのギリシア哲学』では永井均自らが「私の哲学は古東哲学の内部に位置づけられる」
と明言していますから孤立無援、独立独歩の「本当の哲学」を考えてはないようですし、そもそも旧来の「哲学」の伝統を
びたいち受け継いでいなかったら同じ「哲学」と表記するのはおかしくないでしょうか。

 彼が「本当の哲学」という言葉で言わんとしたことは「本当は問われるべきことが哲学の伝統では問われてこなかった。
これからそれが問われるのだとしたら本当の哲学が始まる。」ということではないでしょうか?
(「旧来の哲学」と「本当の哲学」が同じ哲学といえるのはともに真理の探究を礎にしているからではないでしょうか)
 ・・・もはやオリジナル問題はとても不毛な問題に思えて仕方ない。
923二プレス:2005/10/05(水) 17:47:58
 それと西田幾多郎は「現在しかない」というようなことを『善の研究』の冒頭あたりでも
確かに言っていますが、それを何らかの わたし と同一視していたでしょうか?

 西田の基本姿勢は私の覚えている限りでは「自他の境」以前に遡行することだと教わりました。
いまだに経験する側とされる側の区別すらない「純粋経験」などはいい例ではないでしょうか。
その西田が「今=私」という図式を持っていたというのは知りません。
後期になるとそういう図式で問題を抉り取ったのでしょうか?

 …正直に言うことがかえって問題を深刻化することが多いのは承知しています。
でもカオルさんを信頼してあえて直言しますと、どうも永井均的な <今>=<わたし> の関係を
西田の「絶対現在観」(=永遠の今)とでも言うべきものに重ね合わせた後に――だから必然的に
両者は似てくるのだが――永井均と西田との共通構造を取りあげているのではないでしょうか。

 たとえそうであっても、カオルさんの永井均解釈には固有の魅力があるのでそれはそれで
――オリジナル問題とは別個に――考えていきたいと思っています。
924カオル:2005/10/07(金) 02:27:16
>>920 ニップルさん

しばらく時間がなくて書けないと思うので
わたしの頭にあることに少し触れておきます。
それについて論を展開するかどうかは気分しだいです。(^_^;)

>嫌味を言われてもいいのですが「違う宇宙」なのは、違う <独在性> のことではないでしょうか。

はい。そのつもりで「オリジナルさ」を今回のレスの冒頭であえて魂と表現しました。
「オリジナルさ」の問題は、前にも言いましたが<独在性>を語る上での肝心要だと思います。
いきなり魂や無を持ち出してしまうと「ハイそこまで!」となってしまうから、わたしは慎重です。
でもあなたとつながるためにはどうしても必要なことのように思えたので、あえて…。

わたし的にはその前段階として「ちがう宇宙」と「おなじ宇宙」のお話しは、
それぞれが「ライプニッツの世界」と「カントの世界」につながるものです。
またさらにそれぞれは「量子力学の世界」と「ニュートン力学の世界」のお話しでもあります。
このふたつの世界の位相のちがいについては、そのロジックを考えてみたらわかりますが
明らかにハイゼンベルクの「不確定性原理」にむすびつくものであって、その解釈としての
「平行宇宙論」は「ちがう宇宙」=「ライプニッツの世界」の議論に、「コペンハーゲン解釈」は
「おなじ宇宙」=「カントの世界」の議論に、それぞれ転用することができます。
また当然のことのように、物理学のこの原理を言語や論理の決定不可能性や無根拠性の
アポリアにあてはめると、ゲーデルの「不完全性定理」ということになります。
あいかわらず永井やニップルさんには、ちがーーう!、って怒られるんでしょうけどね。(笑)
925カオル:2005/10/07(金) 02:40:12
>>922 ニップルさん
> 彼が「本当の哲学」という言葉で言わんとしたことは「本当は問われるべきことが哲学の伝統では問われてこなかった。
>これからそれが問われるのだとしたら本当の哲学が始まる。」ということではないでしょうか?
>(「旧来の哲学」と「本当の哲学」が同じ哲学といえるのはともに真理の探究を礎にしているからではないでしょうか)
> ・・・もはやオリジナル問題はとても不毛な問題に思えて仕方ない。

わたしには、永井やニップルさんが「問われてこなかった」と言っていることばかりが
まさに中心課題として徹底的に真剣に問われてきた歴史が哲学の歴史のようにしか思えないです。
天然でそう思っています。けれど、もし永井がオカル的な意味での魂に真剣に取り組もうとしているなら
話しは別ですけどね。だからこそ、魂の「オリジナルさ」の問題が、この議論の核心だと思うんです。
これも天然でそう思っています。(^_^;)

ということで、「オリジナルさ」の問題は、色眼鏡のさまざまな色の話ではなくて
そもそもの裸眼をも疑うことを視野にw入れていきたいです。内容を吟味するしかないということです。
926カオル:2005/10/07(金) 03:38:00
>>923 ニップルさん
>だから必然的に両者は似てくるのだが
>――永井均と西田との共通構造を取りあげているのではないでしょうか。

ん? いったい西田と永井の「架け橋」の希望はどこに行ってしまったの?
わたしは、はじめから言っているように−生命の超越論−と−魂の超越論−は
「重ならない」と思っているから、その「重ならなさ」を示すために、あえて重ねてみたのだけど?

もちろん重なるところもあるから、その重なるところとそうでないところを仕分けすることで
永井の<わたし>論の輪郭が、より明確になるんじゃないかって期待してたんだけどな…
こういう試みも否定されてしまうと、正直わたしは何をしたらいいのかわからなくなります。

もちろん上で書いたことは、西田の論を読む前からわたしのなかにあったものだから
わたし的な表現になっているけど、解釈についてはそれほどトンデモじゃないと思います。
西田の文献をわたしの論の展開の根拠として直接提示して語れということなら、そうします。
でもそれならはじめからそういってほしいです。(膨大な論述になるのでさけたかったけれど)
そうするにあたっては、ニップルさんもちゃんと西田を読んでくださいね。それが条件ですよ。

とりあえず使用する論文で適当なのがないかさがしてみます。
927二プレス:2005/10/07(金) 13:23:58
>カオルさん
 まず大事なことなので確認させてください。
私はカオルさんに対して特に敵対心を持っているわけではないですし永井信者でもないつもりですが、
永井均を認め彼を読むことにある程度力を入れているのでカオルさんが彼に対しはじめから否定的な態度をとると
結果的に批判や疑問を浴びせることになります。

 中でもカオルさんの立場に対しては再三疑問を呈してきましたがいろいろな理由があってなおざりにしてきました。
しかしここは議論するための下地ですからなおざりにして議論をするとやはり弊害があるようです。

 >>913-916の難解なテクストを私の力の及ぶ限り分析してみましたが、>>913-916は永井均と西田の時間論は
このように重なっているという主旨の書き込みだと思います。だから私は「重ならないですよ」、という大枠を
あらかじめ提示したのです。>>912でも「ここが間違っている」といってほしいと書いてありましたので。

 しかし>>918に書いてあることはどういうことでしょう。
>もちろんぜんぜんちがっていてほしい(つながらない)ものとして提出しています。
 西田と永井均はこういう風につながっているという主張が、つながらないものとして提出されるとは
どういう事態なのでしょうか?
 さらに続けて言えば、永井均の言っていることがわからないという方と永井均と西田幾多郎の接点を
めぐって議論するとはどういう事態なのでしょうか。

 逃げるわけではないですが、西田の論文を探したり読み込んだりするより永井均の本を読み込むのが筋だと思いますが。
928二プレス:2005/10/07(金) 13:56:53
 さて、気を取り直してご希望通りカオルさんの提示した解釈の内容を取り上げさせてもらいます。

 >>913の前半では ―わたし― や ―今― や ―永遠の今― が同じものの違う呼び名として登場し、
「生きているということ」として総括され、「それ以外ではありえないもの」として強調されています。
しかし本当に「それ以外ではありえない」のでしょうか。たとえば科学的な事実をもとに考えてみると、
私は60兆個の細胞で構成されています。その細胞群はただ「生きている」というよりも刻一刻生まれ、
刻一刻死滅しているのではなかったでしょうか。とすれば「生きるということ」は刻一刻死滅するという
「逸脱」に常にさらされているのではないでしょうか。ですから、たとえば「A以外でありえない」
(=「それ以外ではありえない」)というよりも「Aには〜Aが伴う」というべきだと思いますし、
それゆえに「生きるということ」を「それ以外ではありえないもの」として強調するよりも
生と死のひとつのハーモニーとして捉えるべきだと思います。
929二プレス:2005/10/07(金) 14:14:10
 次に>>913の後半ですが、確かに ―永遠の今― が端的な今の強調表現だとしたら真の世界の姿を
開くのは ―永遠の今― でしょう。
 ところで永井均は永井均は真の世界(実在世界)が端的な今(カオルさんの術語では―永遠の今―)よりも
根源的だとは決して考えていないようにおもいます。

>世界は、そのようなものとして構成されたとき、はじめて「実在する」ものとなるのだから。

と永井均は言っているのであって、「現象世界」を認識論的主体が構成すると言っているのではありません。
(近刊のP154の解釈をするのであればP142の一段落目を念頭に置きつつ話を進めるべきだと私は思います。)
930二プレス:2005/10/07(金) 14:41:19
 >>914の引用箇所は永井均のマクタガート批判(いやむしろ入不二批判?)の中枢だと思うのでおいそれと要約は
できませんが、少なくとも、それ以外ではありえない「端的な現在」と、五分前の現在とか五分後の現在といった形で複数個
存在する形式的な(端的でない)現在という二種類の現在が問題になっているのではないでしょうか。
 そしてこの二種類の現在の対立という問題は見せかけのもので、「端的な現在」が形式的な現在として取り込まれる
(それゆえに「語りえない」)という問題が本当の問題であるといっているように読めます。
 ですから「開闢された世界」の成立と「端的な現在」の関連について言及している箇所ではないと思います。

 >>914もそうですが>>915は明け方に書かれたもののようで、独特の文体になっていて私には解読不能の部分もあります。
率直に言って「生きているということ」そのものを ―わたし― としてあるいは ―永遠の今― として規定すると
なぜ「私だけ」に使える言葉になるのかわかりません。少なくとも「生きているということ」が私にだけ当てはまるとは
とても思えないからです。

 でも後半部分の―今―によって開闢された世界内に存在する「運動」としての―わたし―。
それが雲散しないために記憶の能力が働いて流動的な―わたし―に形を与える。一応の形を
与えられた―わたし―は「生きていることの自覚」となって時空間内に位置づけられる、という思考は
循環論法に陥らないように注意を払いながら、より研ぎ澄ましていく価値のあるものだと思います。
931二プレス:2005/10/07(金) 15:06:27
 >>916のカオルさんの言わんとしたことが言語の本質に反しているだろうということは
これまでの説明からも一応察しがつきます。また、言語を成立させている原理を言語上に
引きずり出すことができないという考えも納得できるものです。

 しかし、こと永井均の解釈(もしくは批判)としては納得できない部分もあります。
まず「言語ゲーム」においては、「赤い りんご 5つ」と書いた紙を渡すと実際に
赤いりんごが5つもらえる、といったことが「言語ゲーム」の成立と捉えられるはずです。
どのくらいの赤さやどのくらいの大きさといったことはここでは問題になりません。
ですから私の欲しかった端的なりんご像は問題になりません。どちらかといえば双方にやり取りが成立する
ことが大事で、私が私秘的に持つ端的さは問題になりません。

 このことは「言語ゲーム=公共」の図式を暴きだしデカルトが全てを疑ったつもりで「言語ゲーム」の基底性に
依存していたことと関連(カオルさんの例ではデリダのフッサール批判に関連)して「私的言語」が「公共言語=言語ゲーム」
を成立させるという永井均の近刊でのメインテーマ(デカルト擁護)に連なります。
 ここは現在の永井均の到達点なのでわれわれ永井均初心者が簡単に踏み込める領域ではないのでこの辺にしておきましょう。
932二プレス:2005/10/07(金) 15:42:47
>>925
 天然で思っているといわれても…。そこら辺をもう少し詳しく論じてもらえないでしょうか。
永井均は哲学史上の「独我論」の系譜すらを決して評価していません。彼らは「肝心要のこの問いに
多少なりとも肉薄」していないとさえいいます。
 「オリジナルさ」の問題が議論の核心だとしたらその「オリジナルさ」は誰にでも当てはまって
しまいます。それでは「肝心要のこの問題に多少なりとも肉薄」などはできないと思います。
だからこう表現するべきです。「オリジナルさ」の問題が語りえぬことが議論の核心だ、と。

>>926
 私は何度か永井均と西田幾多郎の接点を推測を交えて論じてきました。(最後は>>903
それは永井均の解釈をしているだけでは永井哲学の超克は図れないと思ったからです。
永井均の超克を図らずに彼の本を解釈しているだけでは「信者」のそしりを受けても仕方ないと
思いました。ですから刊行前の西田解説本の内容を推察して受動的な立場からの脱却を
少しだけ試みたのです。
 …まぁ、カオルさんがどうしても西田は「今=私」の構図を持っていたと言い張るのなら
テクストの検証は必要になってくるでしょうが、ただただスレの雰囲気が険悪になっていくだけでは
ないかと心配になりますけれど。
933考える名無しさん:2005/10/08(土) 22:49:17
アンチ過ぎれば信者となり

信者過ぎればアンチより邪魔
934カオル:2005/10/11(火) 03:45:55
>ニップルさん

わたしのなかでは哲学の議論は批判することが第一義です。
わたしは批判のあるところではさらにそれについての批判をします。
だからもしもニップルさんが永井批判をする人でこのスレの旗色が
そちらに傾いていたとしたらわたしは永井擁護の側にまわるでしょう。
けれどもそのことでもしも永井批判がなくなってしまうようなら
今度は手のひらを返して永井批判をするようになるでしょうね。
なのでわたしはよくダブルバインドだと非難されることがあります。
でもわたしにとってはどちらの立場であるとかそういうことはどうでもよくて
そんなことよりそういうダブルバインドが成り立たない批判を、真理を、
もとめているんです。そういう批判を受けたときわたしは一週間くらい
震えが止まらなくて夜も寝られなくなるけど、哲学徒としては幸せです。
935カオル:2005/10/11(火) 03:47:29
>ニップルさん

わたしの態度についてのさまざまな批判についてお答えします。

まずわたしはわたしなりに西田哲学を念頭においてはいても
あくまでもわたし的に解釈したマイ哲学として提出しています。
なぜなら先にそのことを考えたのはわたしなんですから。
もちろん時系列的には、永井はわたしが生まれる前から考えていたんでしょうし
西田に至っては、わたしが生まれる何十年も前にすでに論文を書いているわけですが。
ですからもしもそういうわたしのマイ哲学志向のやり方にはついていけないということなら
すっかりわたしがニップルさんについて誤解していたのだと思います。
ニップルさんは人生哲学やマイ哲学というあり方を大いに認める人だと思っていたので。
でもそれならかつてのポールさんへの批判や学哲にたいする批判やテクストを読みも
しないで批判することやそういうたくさんの行為について、まず反省の弁がほしいですね。
少なくともわたしは自分が反省したらそのことを公にしてきましたしちゃんと謝ってきました。
そういうことをしないでわたしにとやかくいうのは、無責任で自分勝手で都合のいいやり方
ではないですか。立場とか態度とかそういうことを相手にとやかくいうまえに、まず自分が
そういう人間としての基本的なところをしっかりしてからにしてください。
936カオル:2005/10/11(火) 04:21:13
>>928 ニップルさん

わたしの論がまったく理解されてないことについては、わたしの力不足なのでしょうから
先々努力しようと思っています。けれども「それ以外ではありえないもの」という限定とか
わたしがいう「生きていること」には死が含まれていないとか、そういう乱暴なとらえ方は
やめてほしいです。これではわたしがわざわざ「西田を念頭においている」と言うことの
意味がなくなってしまいます。

たとえば、西田は「生きていること」を「非連続の連族」として、「矛盾の自己統一」として
とらえているのですから、生が死とともにあることは当然ではないですか。
このようにいちいち西田哲学の基本から説明していかないとならないのでしょうか?
ほんとうにあなたは西田を読んだことがあるのでしょうか?

とりあえず、西田の『論理と生命』という論文だけでいいから読んでください。
おそらくこれを読んでもらえたら、わたしのゼロについての議論あたりから
理解できるようになると思います。それからもしできるなら、入不二基義さんの
『時間は実在するか』も立ち読みでいいので、マクタガートの時間論の背景に
なっている「実在論」のところと「永遠の今」のところを読んでほしいです。
なぜなら西田のさまざまな議論は「永遠の今」に集約できるという意見もあり
「永遠の今」がどのような位置づけをされているかの一つの例として知っていても
損はないと思うからです。ちなみにわたしの書いた「実在−永遠の今−幻影」
という構造が書かれています。これでもかなり気を配って書いてるんです。

ということなので、使用する論文は『論理と生命』にします。予定ではその(二)あたり。
たしか論文は、早稲田のデータベースにあったかと思います。そこで読んでくださいね。
937カオル:2005/10/11(火) 04:34:25
>>929 ニップルさん

「根源的ではない」という指摘については重く受け止めています。
もしそうなら永井の<わたし>論は、−魂の超越論−ではなくなってしまいますからね。
その他の批判については時間のあるときにしたいと思います。
ですが、

>(近刊のP154の解釈をするのであれば
>P142の一段落目を念頭に置きつつ話を進めるべきだと私は思います。)

とはいったいどういうことでしょうか?
わたしが永井を理解していないという前提?
わたしはもちろん142n〜をふまえて書いています。
でも説明しないと理解されないみたいだから時間のあるときにちゃんと書きます。
ちなみにわたしが「わからない」と言っているのは<魂>についてだけです。
ですからあなたの「根源的ではない」という指摘がもしもほんとうなら
わたしは根本的に永井の<わたし>論について誤解していることになります。
この点については議論のなかでおいおいあなたに説明してもらえたらと期待しています。
938カオル:2005/10/11(火) 04:42:46
>>936
>「非連続の連族」

→ 「非連続の連続」

周辺のことにしかレスできなくて、ごめんなさい。
では、おやすみなさい。
939二プレス:2005/10/12(水) 13:09:21
>カオルさん
 とても正直に言わしてもらいまして、
議論の構造が決定的に私に不利にできているのにその構造の中で議論ができるとは私には思えません。

 あなたの「西田解釈」は「永井」と「西田」をミックスしたものであって、その後で「永井哲学」と「西田哲学」の共通点を問題をあげています。
そのことを指摘したら「マイ哲学」として提出したのだ、と開き直られなんだかんだで私が謝罪しなければならないということになる(!!)。

 「永遠の今」という言葉がカオルさんの造語だと思って読んでいたら入不二の概念でした。仮にこの言葉の用法が入不二のものと違ったら
また「マイ哲学」なんだからいいんだと開き直って、なんだかんだで私が謝罪しなければならなくなるのではないでしょうか?
 また、細かいことを指摘したら「そんなのは哲学徒として常識的な知識だから前提していた」とか「そんなのは行間ににじませていた」とか言われます。
私は何か細かいことを指摘したり批判したりするたびに、「無知」、「無理解」の烙印を押されるのでしょうか?(その烙印自体は間違っていませんがね)
繰り返しになりますが、私は批判したり間違いを指摘したりできない状態で「議論」に参加するべきでしょうか?
そんなサンドバック状態で「議論」なんかできるんでしょうか?

 いろいろな概念をこっそり密輸入したり、「これを知らなければドキュン」みたいな地雷をこっそり仕掛けたりで議論をしている人が
真理を求めているなんてホントでしょうか。ただ、知識量を競ったり憂さ晴らしをしているだけに見えます。

 >>934で言っていることですべてなのですが(あなたは>>934のような姿勢の人とどう議論するのか是非ご教授ください)、
どうしても私よりも「わかっている」というところに自らを位置づけたいらしく、永井均を理解していると言ってくれましたので
あなたの理解する永井均を是非聞かせてもらいたいです。まさか疑問点を挙げたら「マイ哲学」に変質するなんてことはないでしょうから。
940二プレス:2005/10/12(水) 13:45:12
 それにしても永井均スレに来て西田をしっかり読めとか入不二を読めとか(入不二の時間論は読もうと思って買ってたけど)
筋違いなことがなぜまかり通るのだろうか?

 おっと、独り言はこのくらいにしてカオルさんの永井均理解がまったくでたらめであるということを
端的に明らかにするために>>895を参照にして見ましょう。お手を煩わしません、1行目だけではっきりしますから。

>1」 → 「わたし」。現前した<わたし>。

 「デリダを読んだ!」という自慢話でないとしたらこの <わたし> 理解はどうしようもなくでたらめです。
 <わたし> とは現前するその他一切のものと違って決して現前しないものです。それが永井均の言う、「存在論的差異」です。
だって <わたし> が現前してしまったらその <わたし> を見ているのは誰なのですか? <わたし> とはほかの人には
決して知ることのできないものですよ。これは私の視界内に私の眼が入らないのと類比的な事態です。
 デリダが云々なんていうのもなしです。だってそうでしょう?永井均は歴然とそういう「差異」を提示しているのに
自分勝手にデリダをかぶせて 「現前した<わたし>」 なんて言うのはでたらめすぎやしませんか。

 そもそも>>908でディコトミーの破砕(宙吊りといえばいいのか)を取り上げたとき、まったく意に介さなかった人が
デリダを引いてきたり解説したりというのは不思議現象としか言いようがないと思いますが。
941二プレス:2005/10/12(水) 14:09:36
>>937
 ええ、失礼を承知で言えばカオルさんはまったく永井均を理解していませんね。

>わたしは、この真の世界と真の世界の幻影とをつなぐのが、−永遠の今−という−わたし−
>のあり方なのではないかと思っています。

 この表現だと普通は「真のこの世界」
             |
「永遠の今」
             |
          「真の世界の幻影」のような図式を思い描きます。
 でも永井均が言っているのは
           <今>=<わたし>
            |    |
        「真の世界」…「真の世界の幻影」
 と言うことだと思いますよ。
942二プレス:2005/10/12(水) 14:12:07
>>941の上の図

「真の世界」
   |
「永遠の今」
   |
「真の世界の幻影」
943二プレス:2005/10/12(水) 14:50:01
 不思議なところは山ほどあるので一つ一つあげたらこのスレはすぐに終わってしまいます。
それに私がこのスレを占有するような形になっていることに対する不満もあるようです。
だからどうしても抑えておかなければならないところだけ言及しておきます。

 >>936で言われていることは「私は西田や入不二の本を読んだ」「あなたも読みなさい」と言うことぐらいで、
「生きているということ」が「私だけ」に当てはまる事態ではないと言う批判(>>930の中段)や「今=私」の構図を
西田は持っていないはずだと言う疑問(>>923)に対して一切触れられていません。
(あなたの指定したテクストを読めばこのような批判は消えてなくなるのでしょうか?)

 たとえば、>>924の書き込みがもっとも顕著な例ですが、何か不都合な書き込みがあると「私はこれだけ知っている」と
知識量を誇示するような書き込みをなされます。しかも知らないものにはさっぱりわからないような書き方で。
「知らない=ドキュン」という知識量の問題図式を「真偽」判定の場面に持ち込んで「言論封鎖」をするという、
そういうやり方にあなたは否定的な態度をとってきたのではないのですか?
あなたも同じ穴のムジナに見えて仕方ありません。>>936>>924でのあなたの書き込みはどういう意図があるのですか。
 たとえば、>>936で西田と入不二(マクタガート?)の接点が語られていますが問題は「西田」と「永井」のはずです。
そしてそれはつながらないのではないか、と指摘しました。『論理と生命』を読んで『時間は実在するか』を読めば
「西田」と「永井」の接点が見つかるのですね?もしそういう見取り図がなければ単にアカデミックなものを振り回しただけに
なりやしませんか。・・・私はそうでないことを心から祈るものですが。
944二プレス:2005/10/12(水) 15:17:43
 え〜と最後に>>940に対する反論にあらかじめ布石を打っておきます。
895に書いてあることであっていることも当然あります。
>「存在しない」 → <わたし>は現前しない。(コギトは現前しない)
 これなんかはいい例です。でも、あっている箇所があるからでたらめな箇所が相殺される
なんて論法はありません。でたらめな部分はでたらめままです。
945二プレス:2005/10/13(木) 15:05:44
>カオルさん
 昨日の書き込みはまったく冷静さを欠いていました。「私はこれだけ知っている」というような露骨に情報量を誇示する
書き込みを見ると学生時代に真面目でも優秀でもなかった自分を思い出してイライラしてしまいます。悪い癖です。
 今日はできるだけ冷静に2点だけ疑問点を挙げたいと思います。まず、>>912を参照にします。

>> ですから何を言わんとしているのかはよく分からないのですが、ただ何をせんとしているのかは
>>分かる気がします。おそらく、「永井均の問題領域はオリジナルではない」ということを明らかにせんと
>>しているのでしょう。 ・・・@

>根本的にちがいます。たとえばデリダをもちだしたのは「それでない」ことを示すため、
>わたしが永井の論はこう解釈できるのでは?と書くのは「そうでない」ことを明らかにしたかったから。 ・・・A

カオルさんの引用した箇所で私が言いたかったことは
「カオルさんは永井均がオリジナルでないことを明らかにしようとしているのでしょう」 ということです。

 @の引用の直後、カオルさんは「根本的に違います」と続けます。そしてその後に
>たとえばデリダをもちだしたのは「それでない」ことを示すため、
>わたしが永井の論はこう解釈できるのでは?と書くのは「そうでない」ことを明らかにしたから。
 と言う。ここでいう「それでない」や「そうでない」というのは「オリジナルでない」ということを意味しているはずです。
だとしたら私の言いたかったことと合致するはずです。それなのに「根本的に違う」というのはなぜでしょうか?
単なる勘違いかと私も疑いましたが、>>919で訂正を行っているのできっちり再読をされている様子。
ということは考えられるのは @ の引用部の「明らかにせんとしている」という文語調の箇所を「明らかにしないようにしている」
と解したのではないか、という疑惑です。もちろんここでは「明らかにしようとしている」と解釈するべきです。
なぜなら、ここでの「せん」は否定ではなく意思を表している言葉だからです。
946二プレス:2005/10/13(木) 15:06:36
 このぐらいのちょっとした教養の問題はなんでもないことですから事を荒立てませんでした。でも今は状況が変わりました。
今やカオルさんは「オリジナル問題」から私自身の「教養問題」に路線変更してきたと思えるからです。
936では「あなたは本当に西田を読んだのでしょうか」とカオルさんは詰め寄ってきます。…こういうことを表明するのは不本意ですが、
私は永井均が西田の解説本を書くと聞いて西田の解説本を読みました。一冊読んでもよくわからなかったので二冊目を買いました。
また今は西田の最初期の主著「善の研究」を折に触れ読んでいます。
 ここで問題を切り返しますが、仮にあの程度のちょっとした文語調(@)を正確に把握できない方がいた場合、その方は西田を読めるでしょうか?
もし「教養問題」が私の泣き所だと誰かが勘違いしているなら、それは嬉々として自らの墓穴を掘っているようなものではないかと心配です。
947二プレス:2005/10/13(木) 15:53:16
 第二点はもちろん>>934を参照にします。もうあえて引用はしません。

 二点目は突込みどころが満載なので何から手をつけて良いかわからないくらいですが、最大の問題は
論敵の立場は固定されているのにカオルさんが変幻自在に立場を変えて論敵を批判をできる、
そのことについては批判できないということです。
ダブルバインド?だという批判を受け付けず、自らの琴線に触れる批判だけを心待ちにしている態度。
気に入らない正当な批判を受け付けずに気に入る批判を待つなんてことが許されると考えているのは大変幼稚です。
百歩譲ってもそれはカオルさん個人の趣味の問題であって、ここで(つまり哲学で)取り扱うような問題では決してありません。
 また、自分自身で>>934を読み返してください。どうしたらこのような発言をする人物と「荒らし」を区別できるのですか?

 …お互いの醜態をこれ以上さらして皆さんに迷惑をかけるのはもうやめましょう。
「早稲田のデータベースからどうの」とか「現代哲学が乗り越えてきた道を逆戻りしている」とか
「あなたこそヘーゲル哲学の範疇に・・・」といった空っぽの話がしたいなら別のところがあるのでは、と思います。
948考える名無しさん:2005/10/13(木) 18:57:18
そろそろ次スレの季節ですよ。

次スレタイ案:
今度、永井均と二次会やるんだけど・・・
949カオル:2005/10/14(金) 03:17:16
>>939 ニップルさん
>議論の構造が決定的に私に不利にできているのにその構造の中で議論ができるとは私には思えません。
議論ができないと思うなら止めたら良いだけのことではないですか。

>「マイ哲学」として提出したのだ、と開き直られなんだかんだで
マイ哲学でも「西田哲学は念頭において」書いています。

> 「永遠の今」という言葉がカオルさんの造語だと思って読んでいたら入不二の概念でした。
「永遠の今」は、はじめからわたしの造語ではないし、入不二の概念でもないです。
プルーストやドストエフスキーやアウグスティヌスやルソーやシェリングやショーペンハウアーや
インド哲学でも宗教でもスピリチュアルな世界でも文学の世界でも広く一般に表現され論じられてきた
ポピュラーな概念のひとつです。西田の「永遠の今」については、以下を参照してください。

西田幾多郎データべース──西田幾多郎全集・第6巻『私と汝』
ttp://www.f.waseda.jp/guelberg/nishida/nkz6/nkz6-801.htm

>仮にこの言葉の用法が入不二のものと違ったら
「永遠の今」について、そもそも「永遠の今ってなに?」ってなったときに
西田と入不二と永井のそれを、とりあえずの資料として比較検討してみるのは
バランスのとれた議論の仕方だと思いますよ。今やわたしを論じるのに重要な
概念になると思いますから。でもあくまで三人のそれもとりあえずなのだから
わたしはそれにこだわるつもりはありませんけどね。

>(あなたは>>934のような姿勢の人とどう議論するのか是非ご教授ください)
ふつうに議論できてしまいますが。(笑)
たとえば具体例でいうと、哲板の分割議論やローカルルール議論でのわたしのやり方にたいして
ダブルバインドだと非難する人もいたけれど、総体的にはちゃんと議論はできていたと思います。
というか、相手がふつうに議論してくれたということですが。
950カオル:2005/10/14(金) 03:19:22
>>940 ニップルさん
>筋違いなことがなぜまかり通るのだろうか?

わたしには永井のお膳立てのうえでのみ思考するということができないし
あなたのように、ただ永井の考えたことを永井の言葉でいうだけのことに
何の意味があるのかサッパリわからない。それって哲学なのでしょうか?
入不二の時間論や西田の生命哲学やデリダの主体の形而上学批判やわたしのマイ哲学や
そういったさまざまな論考と永井の理論を比較検討することのどこが筋違いなのですか?
永井の本の中で取りあげられているウィトゲンシュタインやカントならOKなのですか?
もしかしたら永井が自分の理論の説明のために都合よく解釈しているかもしれないとは
思わないのですか?、それとも永井の解釈のなかでのウィトゲンシュタインやカントや
ライプニッツなら筋違いにならないということですか?

>>「1」 → 「わたし」。現前した<わたし>。
>>・ デリダ゙でいうなら差延、現文脈では「記号の反復による自同性の保証」によって現前するコギトのこと。
> <わたし> とは現前するその他一切のものと違って決して現前しないものです。

わたしがデリダの「差延」で補足したのは、まさにあなたがしたような誤解をされたくないためです。
非−今の反復性や非−現前的なもの──けっして現前しない、したことがない<わたし>──こそが、
「わたし」の現前性を保証するということです。

けっして「デリダを読んだ!」という自慢話でないですが、デリダを読めば必然的にわかることです。
もちろんデリダを読めということではなくて、デリダを読んだことがなく「差延」について知らないなら
その理解を抜きにして批判するのは、おかしい、ということです。
951カオル:2005/10/14(金) 03:32:04
>この <わたし> 理解はどうしようもなくでたらめです。
>〜これは私の視界内に私の眼が入らないのと類比的な事態です。

あなたとわたしは、このスレ以前に永井の<わたし>論についての議論の前提があります。
それなのに、いまさらウィトゲンシュタインを例にあげて、わたしの論について「でたらめ」の
烙印を押して、さらにわたしが以前にあなたに説明していた『論考』の「独我論→実在論」の
コンテクストのなかにある一文をもってきて「類比的な事態です」と説くことは失礼なのでは
ないですか? あえて象徴的な例なので別スレでの一連の議論をコピペさせてもらいます。

♪ わたしの思う永井の独我論−(その1) ♪

永井の独我論は、<ぼく>が「ぼく」に躓いたところからはじまります。
生への障壁になるかもしれない、その問いの存在が、世界に「ぼく」が
刻印されることによって現前していることに、<ぼく>は抵抗します。

「ぼく」は、何モノかと関係するかぎりにおいて、いつでもどこでも
個々の「ぼく」として存在してしまいます。
そのような「ぼく」の存在の仕方(の普遍性)から独立していることを
<ぼく>は、「ぼく」にうったえます。
うったえられた「ぼく」は、「ぼく」が匿名のだれかかもしれないと うたがいだします。
ほんとうの−ぼく−ってだれなの?

こうして「その」の問いは、「ぼく」の存在形式にしたがって
「ぼくら」の論理空間のなかをさまようことになります。
けれど「その」問いは、「ぼくら」の問いではないのです。
なぜなら「ぼく」を原点にしていないからです。
「その」問いは、きのうの「ぼく」や、あしたの「ぼく」や
きょうの「ぼく」の問いのように、バラバラにはならなくて
いつもはじめてで、いつもはじまりなのです。
だから「その」問いは、いつも<ぼく>でしかない
<ぼく>だけの問いなのです。
952カオル:2005/10/14(金) 03:34:08

>永井均はその考察の結びで―120ページぐらいですかね―、「本当の独我論は実在論である」とか
>「実在論とは本当の独我論のことではないか」というような言葉で表現します。

これは、ウィトの『論考』における独我論テーゼ「世界は私の世界である」と
主体否定テーゼ「私は私の世界である」からみちびかれる結論のようです。

詳しくは、『論理哲学論考』を読む(野矢 茂樹 著)
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/488679078X/249-8863026-0329955
が、断然おススメです!

参考のために結論の部分だけ抜粋しておきます。(同書 214n)

 独我論は主体否定テーゼを伴なって完成される。独我論は、「世界は私の世界である」と言う。
 しかし、主体否定テーゼに従えば、「私の世界」と言われるべき「私」は世界の内にはない。
 それは世界が存在するための前提であり、現れてくるのはただ世界だけである。
 それゆえ、独我論の「世界は私の世界である」という主張は、主体否定テーゼを経て、
 そこにおける「私」さえ消去されることとなり、結果として、たんに「世界はこの世界である」
 と主張するだけのものとなる。この点を捉えてウィトゲンシュタインは次のように主張する。
  
 五・六四 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。
 独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在がのこされる。
953カオル:2005/10/14(金) 03:35:16

> 永井均ははじめから「他者」をてこに「独我論」を進めてきたし、ついにその最終段階では
>「独我論」が「他者」の存在?(=実在論)に通底していると言います。

ウィトの独我論と永井のそれとが示している問題意識の存在論的な同質性は
ニップルさんのご指摘のとおり、他者の他者性にたいする感受性にその起源が
あるのかもしれません。

<ぼく>の独我論を「ぼく」の論理空間の唯一性によって説明しようとしても
「あなた」にそれが理解されてしまった時点で、その唯一性はホモロクエンス
としての人間のもつ普遍的な論理の形式のなかにのみこまれてしまいます。
唯一の、それゆえ閉じていたはずの論理空間は、今や存在論的に同格の
「ぼくら」に共有され、等しい思考可能性の場として開かれることになります。

ふたたび、野矢さんの著書から引用します。(216n)

 論理空間を共有していない他者 ── この、意味の他者という他者性にリアリティを感じない人、
 すべてがひとつの論理空間のもとに生きる<われわれ>であるという楽観を受け入れる人は、
 『論考』の独我論が排除したものを理解できないだろう。そして『論考』が「独我論」と称した
 ものがなぜ「独我論」なのか理解できないに違いない。

 ウィトゲンシュタインは、意味の他者のリアリティを人一倍強く感じていた、
 ── だからこそ、意味の他者を排除しようとしたのである。
954カオル:2005/10/14(金) 03:37:17

> カオルさんの言うように「私」の「生」がより大きなものに通じているならば、
>そして私の理解が永井均の「独我論」を理解するのに一定以上の妥当性を持つならば、いまや課題は
>「部分」=<ぼく>と「全体的部分」=「個々」がどのような形で絡み合っているのか、
>その絡みを解きほぐしながら示すことになるのではないでしょうか。

もうあきあきでしょうけど、ふたたびウィトの独我論から・・・

ウィトの独我論のテーゼ「世界は私の世界である」は
他者の論理空間は思考できない(⇒語れない、示せない)というものです。
ようするに、他者の「存在」を認めないという考えです。
当然、他者から見た「私」と「私(自我)」との対比もありえないので
論理的帰結として、「私」という実体も否定されることになります。

「私」はどこへ?

「世界は私の世界である」の「世界」と「私」は同格ですが
すでに「私」という実体は否定されているので
この命題は、「世界は世界である」というトートロジーに還元されます。
これは、独我論がみずからの手で「私」という実体を否定するなら
そこには、トートロジー(の集合)としての世界そのもの(実在)だけが
残されるということです。
955カオル:2005/10/14(金) 03:39:27

(つづき)

ウィトの世界は、「論理的必然性」によって「現に成立している事態を
すべて集めたもの」のことなので、「世界は世界である」ための前提として
この「論理的必然性」、つまり「論理の形式」を要請することになります。
この「論理の形式」が、実体としての存在を否定された「私」になります。

ウィトは、「論理空間の中にある諸事実、それが世界である」(TLP 1.13)
と考えました。これは論理の形式を世界そのものの形式と前提したからです。

ですが、世界はそのようにはできていないかもしれないのです。
たとえウィトの独我論が正しいのだとしても、排除されたのはあくまで
ホモロクエンスとして定義された「他者」の一側面でしかないでしょう。
別の生を引き受けている他者−「生の形式」を前提にした「存在者」を
論理によって切り捨てることなどできないと思うからです。
端的に、論理の世界があるのなら、生命の世界もあるのでしょうから。

ですから、ウィトの他者にたいする脅えも、永井の他者にたいする仕切りも
どうしてそうなるのかは、たんに論理空間を介しての意味論的な探究だけでは
足らないのではないかと感じています。
956カオル:2005/10/14(金) 04:28:14
>ニップルさん

次いでにいうと、別スレでわたしは西田につながる書き込み(生命論)も
していたんですよ。述語論理モドキの話もしてましたしね。
だからわたしはあなたが西田と永井の「架け橋」という提案をされたときには
すごーく期待していたんです。西田も永井も「相即の論理」とでもいうような
非論理的論理をもちいていますしね。そこがとても似てるなって思っていたし
955にも書いてあるように「論理の世界」と「生命の世界」の「架け橋」という
構想もあったから。

あとわたしの論にたいする批判にたいしての反論がない、という指摘ですが
そっち(本来の議論の方)まで手が回らないということです。書きたいんです。
でも今わたしたちがやっている議論が収束しないとそっちにいけないでしょ?

わたしが批判したり論破しようとしたり、つまり議論するのは
わたしが「わかっていない」ことを知るため、というのも大きな目的のひとつです。
たとえばテニスを上手になろうとしたら、同じようなレベルの相手と遊んでいても
上手くならないのと同じで、上手くなりたかったら男子で上手な人とかさがすわけです。
わたしがあなたを批判するのはそういうことなんです。
おそらくあなたのいう「わかっている、というところに自らを位置づけたいらしく」というのは、
もちろんわたしには、そういう「位置づけたい」なんていう気持ちはぜんぜんないけれども
わかっていないことがわかっていないとしたら、そのようにみえてしまうんでしょうね。
今していたコピペとか。わたしは、ただどこがまちがっているのかがわからないんです。
わたしは自分がダメダメなことは十分知っています。そしてあなたが人としてわたしより
まともなこともわかっています。わたしはあなたにすべてを任せたいって思っています。
だからどうしたらいいのか教えてください。あなたのレスをみて止まらない自分がいます。
このままだといくらでもあなたのことを傷つけてしまいます。
あなたのわたしへの荒らし認定=去れということがもしも本意ならわたしは去ります。
957ニプレス:2005/10/15(土) 11:28:40
傷つける?哲学をクイズだと思っている人は無関係な情報を大量に
陳列すれば論敵を傷つけられると思うのでしょうか。

デリダが云々なんてのは無しだと言ったのに「差延」とか言い出して…。
確かに差延についてデリダについて私の理解は不十分ですがね。
でもあなたは、現前した〈わたし〉、という文で、
〈わたし〉は現前しない、と言いたいわけですか?
別の部分に書いていることをわざと解りにくく書きなおしたわけ?
私には、〈わたし〉は現前するときとしないときがある、
と言っているようにしか見えませんが。
それにあなたがデリダを用いるなら「脱構築」を無視しては
ならないと暗に言った》908をいまだに無視するのはなぜ?
不思議がいっぱいです。
958ニプレス:2005/10/15(土) 12:57:02
自分に不都合な書きこみがあると無関係な情報を大量に羅列する。
相手が嫌気がさして取り合わなくなるまでこのサイクルは
続くのですか?

ホムンクルス問題からオリジナル問題、教養問題に至るまで
カオルさんはずっと蹴散らされています。その度にあなたは
「これ知ってますか」と情報量自慢を繰り出して
自らの惨敗をなかったことにしてきました。

「知―無知」の関係をを「真―偽」関係にあてはめるという
幼稚な発想を基にして、不精確な情報を振り回し
ほとんど荒唐無稽なやり方で論敵を「無知」に位置付け、
「偽」の烙印を押す。
立場を自由に変えて自らの発言にトコトン無責任。
しかし他者には発言の責任を求める。
…溜め息がでます。
959考える名無しさん:2005/10/15(土) 13:23:45
何だかよくわからんけど、永井スレである以上は永井と関連する話をして
くれんかね。と言っても、このスレ自体もともとネタスレだったんだが(w

次スレタイ案 今度、永井均と飲み会やるんだけど・・・2軒目
960ニプレス:2005/10/15(土) 13:51:07
「ホムンクルス」がどうのと言って永井均を批判できると
思っていた方が、「私は永井均の言っていることが概ねわかる」
と宣言したり、「せん」に意思の意味があることも分からない方が
「あなたは本当に西田を読んだのですか」と詰め寄ったり、
「脱構築」に無関心な方が熱心にデリダを引いてきたり、
聞きもしない野家のウィト解釈が大量に書き込まれたり…。

ここで起こっていることが荒らしでないならばなんでしょう。
…しかし948さんも話題の転換を求めています。
次のカオルさんの反論で終わりにしましょう。
とにかく私はもう嫌です。
961 jun1 :2005/10/16(日) 00:27:01
>>945 ニップルさん

おそらく誤解があると思うんですけど

>根本的にちがいます。たとえばデリダをもちだしたのは「それでない」ことを示すため、
>わたしが永井の論はこう解釈できるのでは?と書くのは「そうでない」ことを明らかにしたかったから。 ・・・A

の意味として「それでない」と「そうでない」では、指し示すものの内容が根本的に違うのではないでしょうか?

「それでない」は、ニップルさんが言及されたとおり
「カオルさんは永井均がオリジナルでないことを明らかにしようとしているのでしょう」を否定するものです。
つまりデリダを出すことによって、「永井の論がオリジナルではない」と証明することになります。

しかし、「そうではない」は、実は、その上記の解釈である「永井の論がオリジナルでない」を
入れ子構造上に、さらに否定するものであり、「永井の論はオリジナルである」と言う趣旨の
文になるのではないでしょうか?


つまり、「それではない」=「永井の論はオリジナルではない」
     「そうではない」=【「永井の論はオリジナルではない」ではない】ということです。


つまり、カオルさんの論の要点だけを抜き出せば永井の論は「オリジナルではない」が、
しかしながら「オリジナルである」ということになります。
962 jun1 :2005/10/16(日) 00:27:46
(つづき)

またこの「オリジナルではない」から「オリジナルである」への移行が、カオルさんの本当に
目指すものなのだと私には思われたのです。だからこそ、それが根本的な違いとして
カオルさんはあえて言及したのだろうと。

もちろん、永井をカオルさんが解釈することそのものによって、そのような移行が可能に
なるとは、一概には言えないものとは思いますが、(端的に言ってしまえば不可能だと私は思います)
それはつまり「オリジナルの問題」、あるいは「魂の問題」に通ずる無条件的な存在の
実在性が、「オリジナル」さの根拠になるからと思ったからなのではないでしょうか? 

ちなみに、「明らか」という言葉が示すのは、その存在の実在性を問うことだと私は思って
おりまして、つまり解釈することによって、「明らかさ」が導き出されるということをカオルさんが
言いたいのではなく、「実在性」を問題にしたとき、それ以前の問題として、
その存在の「オリジナル性」も無条件的に導出されているという結果を示したかったのではないでしょうか?

言い換えるならば意識の信念レベルの問題で、その存在が「オリジナル」であることを認めずに、
それが実在することはできない。つまりこの「オリジナル」という概念は、実は「実在性」よりも、
深く根本的な概念であるということです。(より形而上的な概念であるということ,アプリオリ)

以上のことがあったからこそ「オリジナルである」ことと「オリジナルでない」ことの
矛盾(ダブルスタンダード、二重基準)が、カオルさんの狙いとする議論にとって必要とされており、
そしてこの「オリジナル」という概念の定立の困難さが、つまり「あいまいさ」が、
存在の根源性の証明、つまり標準ともなるのではないかと私、個人的には考えております。
963jun1:2005/10/16(日) 00:28:31
(つづき)

以上の点、少し気になったのでレスをさせていただきました。
いちおう、ほぼ正確に代弁したつもりでいますので、もし違っていたり、また反論が
あるようでしたら、承りますのでよろしくお願いします。

では、いったんさらば。
964 jun1 :2005/10/16(日) 16:13:10
>>961

訂正


>「カオルさんは永井均がオリジナルでないことを明らかにしようとしているのでしょう」を否定するものです。

 「永井均の問題領域はオリジナルである」ことを否定するものです。

まったく意味が違ってますね。
965 jun1 :2005/10/16(日) 16:29:42

追加

まあ、私の論は(参照>>961-964)いちおう自分ではまったくオリジナルのつもりでいますが、実は
探せば同じようなことを考えている人はいたわけです。


ライプニッツ :モナドロジー 35

   定義することのできない単純な観念がある。また証明することができず、その必要もない
   公理や公準、一口で言うと、"原初的な原理"がある。これらは"自同的命題"で、その逆は、
   明白な矛盾をふくんでいる。


よく読めば分かるとおり私とほとんどまったく一緒のことを言っています。
つまりオリジナルと思っていたものが、オリジナルではなかった。
ついさっき「モナドロジー」を読んだばかりなのですが、落胆とともに、驚きがありました。
まあ個人的には、すでにライプニッツを超えているものと思っていますけどね。
とりあえずオリジナルの問題は、そういうことで。
966カオル:2005/10/18(火) 20:34:06
>>961 jun1さん

一応、わたしのことだから。

>>根本的にちがいます。たとえばデリダをもちだしたのは「それでない」ことを示すため、
「それでない」 → 「デリダでない」または「デリダのそれでない」ということ。
まだ何もしゃべってないのでアレですが、先々「それでない」ことが示せたらと。

>>わたしが永井の論はこう解釈できるのでは?と書くのは「そうでない」ことを明らかにしたかったから。
「そうでない」 → 「そう解釈できない」

>つまり、カオルさんの論の要点だけを抜き出せば永井の論は「オリジナルではない」が、
>しかしながら「オリジナルである」ということになります。
うん、そんな感じです。なぜか結論が当たっているところがビックリ。(笑)
967カオル:2005/10/18(火) 20:46:34
>>962
>またこの「オリジナルではない」から「オリジナルである」への移行が、カオルさんの本当に
>目指すものなのだと私には思われたのです。だからこそ、それが根本的な違いとして
>カオルさんはあえて言及したのだろうと。
うん、これもその通りです。
本の中の永井は誰の批判も受けることがないわけですからね。
でもちゃんと見抜いてる人がいましたよ。(^.^)
>アンチ過ぎれば信者となり >>933
こうならないように、というのがわたしのスタンスですね。でも振り子は大きく。

>もちろん、永井をカオルさんが解釈することそのものによって、そのような移行が可能に
>なるとは、一概には言えないものとは思いますが、(端的に言ってしまえば不可能だと私は思います)
>それはつまり「オリジナルの問題」、あるいは「魂の問題」に通ずる無条件的な存在の
>実在性が、「オリジナル」さの根拠になるからと思ったからなのではないでしょうか? 
うん、これもその通りです。

>「実在性」を問題にしたとき、それ以前の問題として、
>その存在の「オリジナル性」も無条件的に導出されているという結果を示したかったのではないでしょうか?
すごいすごい!(^.^)
わたしの場合の「実在性」は「ほんとうさ」や「実感」のレベルなんだけどね。(^_^;)
でも理論以前の問いの始まり−比類なきわたし−って"それ"でしょ?
だからそれ以上も、それ以外もないと思うの。
その虚構性を突き詰めていっても、いつのまにか元に戻ってた、みたいな。
968カオル:2005/10/18(火) 21:07:24

>言い換えるならば意識の信念レベルの問題で、その存在が「オリジナル」であることを認めずに、
>それが実在することはできない。つまりこの「オリジナル」という概念は、実は「実在性」よりも、
>深く根本的な概念であるということです。(より形而上的な概念であるということ,アプリオリ)

ここはjun1さんの<わたし>論の核心ですね。経験知としてわかりますよ。
何であっても"それ"が「わたしにとっての」でなくなった経験がないとわからないことかも。

>以上のことがあったからこそ「オリジナルである」ことと「オリジナルでない」ことの
>矛盾(ダブルスタンダード、二重基準)が、カオルさんの狙いとする議論にとって必要とされており、
>そしてこの「オリジナル」という概念の定立の困難さが、つまり「あいまいさ」が、
>存在の根源性の証明、つまり標準ともなるのではないかと私、個人的には考えております。

思惑としては、わたし自身がその素材になってみようとか、ちょっと思ってましたけどね。
たとえば「哲学とは何か」スレで「哲学とは何か」には答えずに「哲学する」姿を見せることで
「哲学とは何か」を示す、みたいな。

転倒や反転、相即の原理やダブルスタンダードの向こう側って? 何? 誰?
ちなみにデリダの脱構築は、常にこの問いを残すことにあったのではないでしょうか?
ほうっておくと、いつのまにか"それ"は「何か」や「誰か」にされてしまうから。(笑)
でもそれが仮に哲学の今の到達点なのだとしたら、まさに"それ"に驚き
"それ"に真っ正面からぶつかり、真剣に取り組むことこそが哲学なのではないか、
といって、永井は<わたし>に孤軍奮闘する。(みんなも一緒だよー!)
だから永井は「哲学はまだ始まっていない!」というわけです。信者ヤバイ。アハハ
969カオル:2005/10/18(火) 21:10:48
>ニップルさん

ごめんなさい。
970考える名無しさん:2005/10/19(水) 00:28:25
流れと関係なくて申し訳ないけど,『私・今・そして神』を読んで疑問に
思ったことを書き込んでみていいですか?別にたいした問題じゃなくて,
個人的に読んでみてよくわからない部分があるだけなんだけど。

例えば,19pで,「朝,目覚めかけたとき,いま見ていた夢が,夢の中の
時間経過どおりに経験されたのではなく,いまこの瞬間に,記憶という
仕方で,いきなりつくられたにすぎない,といった感じがすることがよくある。
ずっと経験してきたという思い自体が,じつはいまつくられた,といった感じ
である。夢の場合は,どちらでも文字通り同じことだといえるだろう。」
とあるけど,これ,何で同じことだといえるんでしょうね。
夢の中とはいえ,実際に(?)それまでずっと経験していたということと,
実際には(?)ずっと経験してはいなかったのだが,ある瞬間に「ずっと
経験していた」という思いこみを持つようになったこととは,明らかに違う
ような気がするんだけど。
夢という,客観的事実と対応することがそもそも予定されていない場面に
おいては,「ずっと経験した」ことと,「『ずっと経験した』と思いこんでいる」
こととが,区別できないという趣旨なんだろうか。それとも別の意味があるん
だろうか。ああよくわからん。
971考える名無しさん:2005/10/19(水) 01:56:18
>>970
>夢という,客観的事実と対応することがそもそも予定されていない場面に
>おいては,「ずっと経験した」ことと,「『ずっと経験した』と思いこんでいる」
>こととが,区別できないという趣旨なんだろうか。
俺はこれだと思って読んでたよ。
この両者が区別できる視点はありえないだろう。

たとえば時間的に見ても、寝てるうちは今が何時か分からないし、
起きてしまえば「ずっと見てた」のか「記憶だけある」のか分からない。
つまり、「本当に夢を見ていた」ということに意味が与えられない。
972 jun1 :2005/10/19(水) 11:15:20
>>966-968 カオルさんへ

レスをどうもです。

まあ、代弁と言う形では正確ではなかったかと思いますが、内容としてはきちんと
沿っていたことがあっていれば、だいたい満足なのでしょう。
べつに云々言うわけではないですが、一つ一つ確認を取っていったほうが
誤解がないかと思いまして、それにこういうやり方もときにはOKなのかもしれ
ないと思いまして、繰り返しになりますがレスしますね。

>「それでない」 → 「デリダでない」または「デリダのそれでない」ということ。
>まだ何もしゃべってないのでアレですが、先々「それでない」ことが示せたらと。

いちおう代弁と言う形をとったものですから、わたし自身は最終的にニップル
さんに語りかけていることになります。ですから、「オリジナルである」「オリジナル
でない」ことをはっきりさせることが、ニップルさんの問いかけていたことであり、
また答えを要求していたこととなります。ですから「オリジナル」という言葉に極力
焦点を当てて代弁させてもらいました。またカオルさんの>>912のレス自体、
ニップルさんの以上のような問いに"充"てられた問いであることから、
つまり偶意として「オリジナルであるかどうか」の文脈を忍び込ませていたのだろうと思います。
だから>なぜか結論が当たっているところがビックリ。(笑)
と言われるのも当然もっともなことなのでした。
こういった前提があるから、私も代弁ができたのであります。
973 jun1 :2005/10/19(水) 11:15:50
(つづき)

そしてデリダを持ち出した理由を考えてみると、やはり、永井とデリダの類比の関係を
とることにより、必然的に同等のものを議論において抽出できるだろうと言う視野が
あったからだと思われ(つまり永井≒デリダの関係)、またカオルさんが永井を解釈する
のは、比類なき永井論を導き出すため(つまり、永井>∞)という趣旨だということです。
ここで当然注意してもらいたいのは、ここでのデリダは、西田、ウィトゲンシュタイン、マクダガ
ードと概念的に交換可能であるということであり、またカオルさんが、永井を解釈することは、
まさに比類なきことで、永井においても、カオルさんにおいても概念的に交換可能では
ありません。なぜならカオルさんにおいて「カオル」は「わたし」であり、永井は、カオルに
とっての永井だからです。このようにカオルさんの例の文の一行目と二行目には、
構造上の超越が忍び込んでいたわけです。私はこの構造をとって、「入れ子状に」と
その正対している様を表現しました。

あいにく、「それではない」「そうではない」の指示するものは違いましたけど、
>つまり、カオルさんの論の要点だけを抜き出せば永井の論は「オリジナルではない」が、
>しかしながら「オリジナルである」ということになります。
として、文脈を捉えることは、どうやらできたようですね。

言い訳になりますけど、私はこういう誤謬って大事だなって思うことがあります。
この文脈を探すのにも結構苦労したわけですが、(1、2時間ぐらいカオルさんの
文とにらめっこしました)、このように解釈した瞬間とたんに、文脈を捉えることが
抵抗なく受け入れることができました。つまり誤謬に立ち入るということは、
違った視点を獲得するということです。落とし穴に落ちたら、落とし穴から見た視線は
今までとは違ったために新しい発見ができたというようなものです。ですから、
わたし自身はミスリードに対しては、あまり臆病になったりはしません。
(まあそれでも注意しないといけないわけですが) とりあえずそういうことです。
974 jun1 :2005/10/19(水) 11:16:46
(つづき)

また、>>962
>もちろん、永井をカオルさんが解釈することそのものによって、そのような移行が可能に
>なるとは、一概には言えないものとは思いますが、(端的に言ってしまえば不可能だと私は思います)

と私が述べた理由ですが、カオルさんが永井を語ることによって、カオルさん自身が
永井を比類なき存在として観て取ることは可能ですが、それを知らしめること、
あるいは論として成立させるのは不可能だということです。もちろん、私がやった
ように、カオルさんの意図(目的)を新たに正確に解釈することから、それをそうだと
定立させる(標準化する)ことは可能ですけどね。そして私の>>961-962の論の目的も
いちおうそこにありました。(最初からそのような目的が前提としてあったわけじゃありませんが、
レスをしたということは、そのような判断がレスした当初にあったということです)

>ここはjun1さんの<わたし>論の核心ですね。

まあ、それを発見したのは私ですが、それでもカオルさんの論を追いかけなかったら
分からなかったと思いますよ。最初、私も、どうしてカオルさんが<オリジナル>の
問題にこだわるのか、わかりませんでしたし。それに<オリジナル>という概念に対して
言及していたのは私ではなく、カオルさんたちでしょう?
975 jun1 :2005/10/19(水) 11:17:27
(つづき)

ちなみに「オリジナル」の問題は、それはそれで深いですが、また単純でもあります。
「オリジナル」を「起源(始源)を持つ」と置き換えるといっそう分かりやすいのではないでしょうか?
まあ「起源を持つ」という言葉自体、あいまいで取り留めのないものです。

ゆえにこのような概念に対して哲学的操作をしてはいけないという厳命を強く持つ必要が
あるのですが、私は永井がこれをことあるたびにこの禁を犯すのを見て閉口しながら、
彼の著作を読んでいました。別世界にいる<わたし>というのは、私のオリジナルという
概念を定点にしておけば、すべて論考に際して退けられるはずなんです。
またデカルトの「我思うゆえに我あり」、カントの「コペルニクス的転回」、ウィトの
「独我論的論考(べつにそういう概念があるわけじゃないですが)」は、
哲学は「主観」を基点として考えるべきいうことから導き出された言葉(教条)です。

別世界とか、5分後の世界とか、分裂した私とか、そういう「客観」の操作をまったく
許さないところから、哲学は始まるんです。おそらく彼は観念論を正しく理解できて
いないのでしょう。(ゆえに彼のライプニッツのモナド論なんてはっきり言って的外れなのです。)

もしそういう問題設定を通して哲学をしたければ、SF(サイエンスフィクション)作家に
なるべきだったのではないでしょうか。という意味で、彼の哲学はまだ始まって
いなかったという意味は、そのような意味で、始まっていないのかもしれませんね。
私がこのスレで、書き込みたくないのは、まあそういった批判を含んでしまうからなんですが、
(あまりにあからさまですから)しかし、このスレも終わりに近いのでこの際ありということにしましょう。

976 jun1 :2005/10/19(水) 11:18:05
>>970 (>>971

夢に対する記述も、実は私が永井にたいして杜撰だと思った箇所でしたね。
哲学者である前に科学者であれというのは哲学を試みるにあたって
当然のことだと思うのですが、永井に関しては、まったくそれができていないように思いました。

明晰夢という現象がありますが、とつぜん夢だとわかるという現象以前に、
起きているときから、徐々に夢に移行するというものがあります。このとき、
先の批判>>971さんの、

>たとえば時間的に見ても、寝てるうちは今が何時か分からないし、

というのはまったく的外れと言うことになるんですけどね。
なぜなら<わたし>は起きているときから断絶していないからです。もちろん記憶も引き継ぎます。
またラジオをつけっぱなしにしてラジオを聞きながら、夢に参加するということも可能です。
このときラジオの音源をたよりに時間を知ることも可能だとわかるはずです。

まあ、この手の議論は、どうもオカルトくさくなりがちで
(ただ催眠術の派生物として考えればいいだけなんですが)嫌悪する人が多いので、
あまり多く語りませんが、夢を論ずることは科学ですので、そのような知見を集めることから
970さんはされたほうがよいと思います。まあ興味があればと言うことですが。
ということなので、まちがっているという点においては、論考の価値は十分にあると思いますよ。

私見ですが哲学者や知識人が、『夢』を思考実験や、哲学的操作として用いた場合、
多くの場合、知見不足か間違っているかと言うことを念頭に置いたほうがよいと思います。
「唯脳論」や「マトリックス世界」、「パラレル世界」は思考世界の産物ですが、
「夢」は、それとは独立した意識表象です。つまり観念論の操作に代置できる代物ではなく、
立派な科学、哲学対象だと私は考えています。(まだまだ本当に未開拓ですが)
977 jun1 :2005/10/19(水) 11:19:25
>>968 ふたたびカオルさん

>ここはjun1さんの<わたし>論の核心ですね。経験知としてわかりますよ。
>何であっても"それ"が「わたしにとっての」でなくなった経験がないとわからないことかも。

たとえば私が考えたものだと思っていたものが、そうじゃなかった。
過去にもあったし、なにしろ他の人にも再現可能だった。こういう経験のことでしょうか。
このとき観念論の中の言語法則の中に私の個性もすべて飲み込まれてしまいます。

しかし、態度だけは飲み込むことはできません。なぜなら態度だけはそれに行き着く
方法であり原因でもあるからです。だからカオルさんが態度を大事にするのだと思いますし、
共感可能であるためには、この態度を理解するためなのだと思います。
観念論(形而上学)の次に論ずる箇所と言えば、だいたいが神学しかないのですが、
一連の議論の応答として観取するにはふさわしく、また非常に興味深い箇所ですので
引用させていただきます。

   私には分かります。(神と人との)結合を成立させるものとしての受容能力は類似として
   のみ存在するものであり、非受容性は非類似性から存在するものであるということが。
   したがって、もし私が何らかの可能な方法によってあなたの善性に類似したものになる
   ならば、その類似の段階に応じて私は真理を受容しうる者になるはずです。 
                         ── クザーヌス 著 「神を観ることについて」──

まあ、善性を理解するために哲学をしているのではないと言われる方もいるのかもしれませんが
クザーヌスにとって真理とは善とまったく等しいものでした。(もちろん神の系列が歴然と
あった(哲学の体系の中に)からこそ、このような言明が可能であったことはいうまでも
ありませんが)、このような類似の関係に"まぎれもなく"あてはまるのは、「態度」です。

                       (まぎれもなく≒つまり比類なき存在であること)
978 jun1 :2005/10/19(水) 11:20:04
(つづき)

まあそういうわけですから、「態度」を鑑みることこそ、私は本当の哲学の始まりなのでは
ないかなと思う次第です。それは学問哲学でも、人生哲学でも、マイ哲学でも、
あるいは趣味でも、仕事でも、恋愛でも、なんでもそうなのだと思います。

それから、オリジナルの問題に触れますが、クザーヌスに関してなんですが、彼は
「反対対立の合致」という、西田の「絶対矛盾の自己同一」と、ほぼまったく一緒の
ことを唱えていました。むろん西田のほうが後なんですが、風貌を鑑みると、
西田のほうが先に見えるから不思議ですよね(笑)

なんだか、これまでの議論をまとめるような形になっていますが、当然私のこんなレスなんかで
お二人の議論がまとめられるはずがないと思っています。つまり私が指摘したり配慮したのも
お二人の意見のほんの一部だと言うことをご留意ください。よろしくお願いします。


あと「考える(かんがえる)」という言葉についてなんですが、おそらく「鑑みる」の正式の
意、『鑑(鏡)を見る』から派生した言葉なんじゃないかなあとふと思いました。

かんがえる(考える)→かがみからえる(鑑から得る)

まあどうでもいいことなんですが、ごく一部の人の興味が湧かせることも
可能かと思いましたので、そういうことで。それでは。
979考える名無しさん:2005/10/19(水) 11:50:42
>>976
「明晰夢」と「明晰夢を見ているという夢」はどうやって区別するんだろう。
たとえば、ラジオの音との時間的繋がり自体が起きた瞬間に作られたのではないか、とか。
一方でラジオの音を無意識に聴いており、一方で明晰夢を見たという記憶がある場合、
そのラジオの音を元に夢の記憶が構成されたなら当然ラジオの音が夢に出てくることになる。
こう考えるとラジオの音は、必ずしも現実と夢の時間的繋がりを担保しなくなるのでは。

または明晰夢になった状態というのは起きながら空想している状態で、
明晰夢以前の(完全な)夢が明晰になった時点で作られた記憶であるとしたらどうだろう。
980 jun1 :2005/10/19(水) 12:35:32
>>979
まあ、残念ですがスレ違いなんで応答は控えさせてもらいますね。
質疑の内容が哲学というより科学の部分なんで。
981考える名無しさん:2005/10/19(水) 12:53:00
>>970
俺、永井の本読んでないんだけどここだけ見ると>>971さんの見方で良いんじゃないかと思えます。
「5分前世界創造説」のからみででてきてるんでしょう?

>起きてしまえば「ずっと見てた」のか「記憶だけある」のか分からない。
982ニプレス:2005/10/20(木) 00:21:55
 <わたし>だけが権利を持つ、と憲法に明記するとどうなるだろうか。

 <独在性>の議論は、私秘性と公共性、独在性と単独性が錯綜することによって
複雑さを増し混乱が生じることが多い。だからそこが弱点だろう。
「<わたし>だけが権利を持つ」という独在性条項は結果的に単独性条項に
変質してしまうのだろうか?確かに世界外の視点から見るとそうだろうが…。
こういうのを次スレで時にラフに時に綿密に考えるというのはどうですか?
嫌なら別スレにするけど。
983考える名無しさん:2005/10/20(木) 00:28:58
>>980
そこでスレ違いで逃げるくらいなら最初からちょっかい出さなきゃいいのに。
984ニプレス:2005/10/20(木) 00:41:05
おっと、すみません。
こんなにレスが伸びているとは思わなかったから。
どうぞ埋立を続けてください。
985970:2005/10/20(木) 01:07:43
>>971, >>981
せっかくなんで,もうちょっと詳しく書いてみます。

僕の理解によると,永井は,5分前世界創造説に関して,こんな議論をしている。

1.「5分前に世界がつくられたことなどあり得ない。現在の証拠(記憶など)
と独立の過去そのもののなどというものはないからだ。」という考え方がある。
これによると,世界がずっと続いていたことを示す証拠がある以上,それに
対応した過去があるのであって,実は証拠に対応する過去がなかったこと
などはありえない。
しかし,永井自身は,この考え方をとっていない。理由は,過去の事実がまず
あって,それが現在に記憶などの証拠を残す,という構図は崩せないと思わ
れるから。

2.5分前世界創造説を,「もともと過去の事実はなかったのだが,5分前の
時点で,過去の事実を示す 証 拠 (記 憶 な ど) が作られた。」と捉える。
永井は,これはあり得る自体だとしている。

3.5分前世界創造説を,「もともと過去の事実はなかったのだが,5分前の
時点で, 過 去 の 事 実 そ の も の が作られた。」と捉える。
永井は,これを不可能,もっと強く無意味であり,全能の神でさえそんなことは
できないとしている。理由は,「5分前の時点で,もっと前(例えば5年前)の
事実を作るということが理解できない(その事実は,「5年前の事実」である
以上は5年前にできたのか,それとも,「5分前に作った」以上はやはり5分前に
できたにすぎないのか,わからない)から。
(以上,『私・今・そして神』p24〜29)

そして,永井は,2.について,われわれの能力で識別することはできないが,
知性で理解することはできる,としている。(同p46〜47)
986970:2005/10/20(木) 01:24:44
で,以上の前フリを,>>970の「夢の場合,ずっと経験したことと,そういう思いを
今(便宜上,目覚める直前の時点ということにします)作られたことが,文字通り
同じことだ」という話に当てはめてみると,うまくいかない気がする。

1.まず,この話を,「目覚める時点での『ずっと経験してきた』という記憶と独立の,
夢の中の経験などというものはない。」と捉えると,それはそれであり得るとは
思うけれど,永井はそういう考え方をとっていないはず。

2.次にこの話を,「もともと夢の中の経験はなかったのだが,目覚める直前の
時点で,ずっと経験していたことを示す 記 憶 が作られた。」と捉えると,
これは,識別はできないが理解はできる違いに当たるはずであって,文字通りに
同じなどということはないはず。

3.次にこの話を,「もともと夢の中の経験はなかったのだが,目覚める直前の
時点で,それより前の 経 験 自 体 が作られた。」と捉えると,これは無意味な
想定であって,文字通り同じなどというのは変ではないか。

・・・というわけで,どうもうまく当てはまらんのですよね。
夢の中の経験については,普通の事実と異なり,過去の事実→現在の証拠
という構図が当てはまらないという趣旨なのかなあ,と思ってみたり。
987970:2005/10/20(木) 01:38:02
訂正
>>985
>永井は,これはあり得る自体だとしている。
「自体」→「事態」

スレの終わり際に勝手な話題を始めてしまって失礼。
実は,次スレ建てようとしたら,ホストが不正とか言われてしまったんで,
誰かお願いします。

あと,僕はあくまで永井の本を読んでいるのであって(別の本だと,永井は,
「夢」を「心の中にあって外界に実在しないもの」をあらわす比喩としたりしている),
夢について科学的に論じているわけではないので,あしからず >>976
988ニプレス:2005/10/20(木) 01:51:07
 理路整然とした書き込み、とても羨ましい。

ところで、理解は出来ても識別は出来ない事柄とは短絡させて「無かった」ことに
出来るのではないでしょうか。
989考える名無しさん:2005/10/20(木) 02:02:53
始まりが無であるのか
990考える名無しさん:2005/10/20(木) 02:15:03
勃起した
991考える名無しさん:2005/10/20(木) 02:22:43
始まりがあると、終わりが考えられるようだ。
それは無かった出来事だ。
それだと、始まりが否定されるようだ。
或は、これで終わりにする、と考えられる。
992ニプレス:2005/10/20(木) 02:30:17
間違ってますね、私。
993考える名無しさん:2005/10/20(木) 12:11:52
>>985-986
「いま見ていた夢が、夢の中の時間経過どおりに経験されたのではなく、
いまこの瞬間に、記憶という仕方で、いきなりつくられたにすぎない、〜」(P19)

とあるので、夢と現実の両方に共通の時間軸がないことを言ってるんだと思う。
たとえば、2〜3分のうたた寝で1時間ドラマを夢を見ることはできるので、
少なくとも夢は「夢の中の時間経過どおりに経験された」とはいえない、と。

そして、夢時間と現実時間のあいだに共通する時間軸がないということは、
「ずっと夢を見ていた」のと「夢を見ていたという記憶が作られた」のは同じことになる。
(2〜3分で1時間分の夢を見るのと、2〜3分で1時間分の夢の記憶を作るのは同じ。
高速で夢体験が可能なら、その極限が「一瞬で記憶を作る」となり、両者に質的な差はなくなる)
994考える名無しさん:2005/10/20(木) 14:51:15
ん……ごめん、わけ分からなくなった。↑のナシ。
995考える名無しさん:2005/10/20(木) 17:20:48
>3.次にこの話を,「もともと夢の中の経験はなかったのだが,目覚める直前の
>時点で,それより前の 経 験 自 体 が作られた。」と捉えると,これは無意味な
>想定であって,文字通り同じなどというのは変ではないか。

経験がつくられるって表現が意味不明。
”経験をつくる”ってどういうこと?
経験させるってこと?
996二プレス:2005/10/20(木) 17:24:25
>>986
 言われてみれば確かに「文字通り同じ」という永井均の発言は少し不正確なものかも知れません。
「夢」においても、過去の痕跡が現在に過去の有り様を示す、という構図は変化しないはずです。
つまり過去の痕跡である「夢を見た」に対応する過去そのものがなければ、夢は見れないはずです。

 だからたとえば現実世界で戦中の出来事としての南○大虐殺が、戦後に作られるということが
ありえないのと同じように、「夢を見たという過去そのもの」が目覚めた瞬間に作り出される、という事を
夢を見たという記憶が捏造される、のと同一視していいのかは大いに疑問です。

 でもこの話を『ブラックジャック』のJ(T)=体が次郎で心が太郎と、T(J)=体が太郎で心が次郎の
二人の交換手術と関連させて考えてみるとどうでしょうか。
 永井論者から言わせればもともとはT(T)=体も心も太郎であった <わたし> が交換手術によって
J(J)=次郎になるのですが、それは誰にも気づかれない変化です。
では、この時 <わたし> が抱いている次郎としての過去の記憶その他は「偽」でしょうか「真」でしょうか。
それを判定するレベルは高階の神のレベルでしょうから人間には縁のないレベルです。
ということは太郎から次郎への変化そのものがなかったことになりうる。いや、むしろ無かった事になるしかない。

 これを「夢を見た過去そのものが後から生じること」と「夢を見た過去が後から捏造されること」を同一視する
問題の箇所に当てはめて考えると、夢から現実への変化以後の視点では「過去そのものが後から生じる」のも
「後から捏造される」のも同じことになる。・・・といえるのかなぁ?

 とりあえず永井均は夢と現実を区別して考えていると思います。でも970さんは夢が現実に包含される図式で
問題を捉えているのではないでしょうか。そのズレが結論のズレを招いているではないかと思います。
個人的には永井均の思考に漏れがあったのではないかと思います――夢ではなく別世界といっても問題は解決しないけど
わかりやすくなったとは思う。
 いや待てよ、後々こんなことを言っていたような気もするなぁ。
997考える名無しさん:2005/10/20(木) 18:23:31
いつの間にか次スレが立ってたみたい。俺のスレタイ案はボツか…。

永井均と <独在性>
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1129797991/l50
998考える名無しさん:2005/10/20(木) 19:18:52
1000取るぞ
999考える名無しさん:2005/10/20(木) 19:19:30
999
1000考える名無しさん:2005/10/20(木) 19:20:06
1000
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。