1 :
考える名無しさん :
04/06/06 01:39 古いタイプの脳みそじゃいくら考えたって先人は超えられないさ 人間自体が変わらなきゃ というわけでどうやったら進化できるかを考えよう
2 :
救世主 ◆ou2gZwaiBw :04/06/06 01:42
まず死ね
糞スレは粛々とスレッドあぼーんに追加。 Janeは便利。
( 違う! 違う! そうやない! 次のバッターはシンカーに強い ここはカーブや )
5 :
考える名無しさん :04/06/06 02:03
何を以って進化といえるのかわからない
>>5 「進化」というのはあくまで結果論であって実際には「適応」だね。
現在の自分が最も優れていると思うからこそ、それは進化なわけだ。
進化が結果論だという文脈で考えるなら、適応も結果論なわけだが・・・
8 :
考える名無しさん :04/06/06 05:39
ふいんきだけで考えてても頭はよくならないんじゃないかなあ。
んだば他のとこもう一度行くかい?おりゃあ構わない
10 :
考える名無しさん :04/06/06 09:38
>>1 やっぱ、科学技術でしょ。
遺伝子工学等の駆使。
11 :
考える名無しさん :04/06/06 09:52
感謝と肯定、そして遠回り。
遺伝子工学でいじりまくることは、「進化」と言えるのか? 脳も進化の産物であるから、それが生み出す工学的操作も「進化」であるのか? では、脳が作り出したナチ的選民思想も「進化」範疇となるのか?
13 :
考える名無しさん :04/06/08 21:46
いっそ退化した方がうまくいくとおもう
知れば知るほど肯定はするが否定もするぞ。わかってると思うが容赦なく。
15 :
考える名無しさん :04/06/08 21:52
進化ってのは、偶然と淘汰で成り立つものであって意図して出来る ものじゃない。意図したものはその時に考えうる最善に過ぎず、後に なれば最善ではなくなる。今を越えようとするなら、逆に先を考えない ことです。頭を空っぽにして気紛れに、思いもよらなかった偶然を積み 重ねて新しい事を取り入れ続けることです。
16 :
考える名無しさん :04/06/08 21:54
おでのちんちんしんかしたのかなぁ〜 かた〜くでっかくなったぞぅ!
自発性を自称するつもりはない。あるべきところに進むだけだ。 あるべきところがわかなないときはあるべきではないところを 通らない、ただそれだけだ
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a
もうすぐ世界は全地球的ファシズム体制へ進化します
(メタ意識)×(ベタ意識)=1
>さてここでメタ意識とベタ意識の割合を「メタベタ比率」と呼ぼう。 >このとき注意すべきはメタベタ比率は連続的に変化するのではなく、 >ある安定比率から別の安定比率へ一気にジャンプするということだ。 >近代の精神史は一貫してメタ意識の割合が増大する過程だったが、 >ここに来てベタ意識の巻き返し傾向がはっきりしてきた。 >はたしてこの先とめどなくベタ意識が増大するのか、 >それとも最適比率が見出されるのか注意深く見守る必要がある。 >ただ短期的にはもう一段、ベタ意識は増大するだろう。 >そのときは同時にメタ意識のもう一段の洗練も起きるにちがいない。 山川凶介著『私は本当に狂っているのか』より
>>21 >この式は何を意味するかというと、欲望(=ベタ意識)を無限小に縮小すると、
>メタ意識は無限大に拡大するということだ。
欲望がなくなると人間が人間に見えなくなる。 人間が人間に見えるとは、一人一人の人間が固有の人格を持っているということだが、 それが単に遺伝子に行動パターンがプログラムされた個性のない動物と化すのだ。 力学で言う「質点」。そしてこの「意味を剥ぎ取った状態」がたぶん宇宙の真の姿なのだ。
天皇家に男子が生まれないのは宇宙の意志だろうな。 やはり俺が「世界総統」になるしかないのか。
V 彡川三三三ミ 川川 ::::::⌒ ⌒ヽ 川川::::::::ー◎-◎-) 川(6|:::::::: ( 。。)) カタカタカタ 川川;;;::∴ ノ 3 ノ ______ \_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ | | ̄ ̄\ \ / \__| | | ̄ ̄| / \___ | | |__| | \ |つ |__|__/ / /  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
>新人類は共産主義などの具体的実現可能なたぐいの変革思想はあげつらったけど、 >もっと抽象的で予想不可能な世界の根本的変革の可能性はあきらめなかった。 >つねに「突破の予感」というものを持ち続けていた。 しかしもうすぐ大きな時代の転換が起きて「突破の予感」の賞味期限も切れそうな気がする。 1985年の転換で未来の賞味期限が切れたように。
28 :
考える名無しさん :04/07/07 23:28
AERAが「2ちゃんねるに対する社会の風当たりも厳しくなってきている」だってさ。 アホか。朝日や岩波のような発狂サヨクがついに2ちゃんを無視できなくなって、 反社会的だとか言ってるだけだろうがこのボケ! しかし浅田も柄谷も東も大澤も北田もみんなサヨクなわけだが、 そういう連中を持ち上げる哲板というのはサヨクの巣窟だな。
なんか2ちゃんねるが戦前ドイツのナチとダブッて見えてきた。 ヒトラー政権以前のドイツでは大学でナチ学生が盛んにリベラルな風潮を批判していた。 今の2ちゃんのように。
なんで今頃またオウムかというと、これは歴史の逆回転なのである。 すなわち1995年に対応するのが2004年というわけだ。 95年が大きな転換の年だったように、今年もかなり大きな時代の転換が進行中である。
1995年=もんじゅ事故情報隠し 2004年=核燃料コスト比較情報隠し
漢字の部首に「ウかんむり」というのがある。 どうしてウかんむりと言うかというと「宇」という字のかんむりだからであって、 カタカナのウという形をしているからではない。 もともと「ウかんむり」の形に「う」という読み(発声)はないのだ。
柄谷行人が哲学の終わりを叫んでいる(「新潮」福田和也との対談)。 思えば柄谷は1994年にも「世界史の煮詰まり」をいろんな雑誌で訴えていたが、 その直後、松本サリン事件は起きた。 また柄谷は1984年ごろも哲学の行き詰まりを感じていたが(10年周期だ)、 1985年には巨大な文化変動(進歩の終わり)があった。 つまり柄谷が歴史の閉塞感を声高に訴えた(または感じた)直後には、 常に大きな変化が発生するのだ。今年中にも何か巨大な変化が起こるにちがいない。
柄谷は予言者かっつーの。
柄谷のいう60年周期という意味でも今年から来年にかけては重要な節目だよね
よく猟奇的な少年犯罪が起きると「現実と虚構の区別がつかない」と言われる。 しかし実際は現実のリアリティを失うと同時に虚構のリアリティも失っているのだ。 東浩紀氏が「ファウスト」でそう言ってる。俺も長年そう思ってきた。 現実のリアリティは虚構のリアリティが作り出すものであり、世界のリアリティを 失った人間はまず虚構のリアリティを回復させようとメディアにかじりつく。 ところが実はリアリティ喪失はメディアが原因でありこれは悪循環なのだ。 だからいったんテレビ放送を全面禁止しなければならないのだ。
柄谷・福田対談でも「超感性的認識が死ぬと感性的認識も死ぬ」と強調されていた。 東の「現実のリアリティが失われると同時に虚構のリアリティも失われる」 という発言はこれと並行している。 ていうか俺自身さいきん本とか知識とかいうものがどうでもよくなってきたな。 べつに常に世界全体の状況を把握しておく必要なんかないんじゃないか。 自動車や音楽やファッションの雑誌を読む人間の気持ちがわかるというか、 人間としてそっちのほうが正しいんじゃなかろうか。
>しかし今やすべての人間が進歩を放棄する局面に到達した。 >「古い」という言葉は死語になった。 >昭和初期も1960年代ももはや古くない。むしろカッコいい。 >「レトロブーム」も死語だ。レトロでないブームはない。 >最先端はない/すべてが最先端である、という21世紀のユートピアが今まさに始まるのだ。 きのう教育テレビの江戸川乱歩の番組で美輪明宏も同じことを言ってた。 新しい古いという問題ではなく王道の文化というのがあるのだと。
20世紀の人間にとって15世紀の歴史がどうでもいいように、 25世紀の人間にとって20世紀の歴史なんかどうでもいいんだろうな〜。
鉄筋コンクリートの建物ってどれくらいもつんだろう。 エジプトのピラミッドは4500年たってもしっかり原型をとどめてるけど、 もしいま人類が滅亡して1000年後、地球を訪れた宇宙人は 建物のほとんどが倒壊した都市を目撃するんだろうな〜。
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代表制の危機がファシズムを生むと柄谷は10年以上前から強調していたが、 その危機もついに来るところまで来たようだ。 代表制の危機は最も根本的には意味の危機として現れる。 すなわちすべてが平準化されることで差異がなくなり意味の内実が失われてしまう。 たとえば女の社会進出は長いあいだ人間の自由を増大させると思われていたが、 実際は男女の差異を消してしまい、女という意味が成立しなくなるのだ。 あるいはかつて超越的存在だったテレビのスターは今や河原乞食的存在でしかない。 テレビがすべてを平準化した結果、人間は意味を喪失し、 自殺は激増、極端な少子化も進行という事態になっている。 セキュリティ意識が高まったのは現実の危険が増大したからというより、 危険というものが精神安定剤として要請されたからだ。 アメリカはテロを恐れているというよりテロを熱望しているのだ。 実は日本人も熱望している。この傾向はもう止まらない。 21世紀はテロが荒れ狂う明るい世界になるだろう。ま、世の中そんなもんやろ。
43 :
考える名無しさん :04/08/18 00:46
死ね
柄谷はいつだって「行き詰まり感」に囚われてるだけなんだよ。
46 :
考える名無しさん :04/08/18 15:04
窪塚を見習って、飛べ!
日本は第二次大戦後、左と右が華々しい対立を演じたが、 これはドイツの第一次大戦後の状況に対応している。ちなみにドイツは第二次大戦後は シーンと静まりかえり、社会民主党も早々と綱領を改正している。 つまり同じ時代を生きていても日本と欧米では歴史的段階がちがうのだ。 日本の1890年代=欧米の1830〜1840年代 日本の1900年代=欧米の1850〜1860年代 日本の1910年代=欧米の1870〜1880年代 日本の1920年代=欧米の1890〜1900年代 だいたいこんな感じだ。つまり日本は欧米の2倍くらいのスピードで歴史を体験しているのだ。 そのおかげで欧米人には見えなかったものが日本人には見えるということもある。 (例:柄谷の「日本近代文学の起源」) そしていま日本は1970年代以降の急激なテクノロジー環境の変化によって、 ひきこもりや少子化という問題が一気に浮上したわけだが、これらは実は現代世界に 普遍的な問題でもある。そしてそれらの原因を解明して問題を解決することが、 日本に与えられた世界史的使命であろう。
48 :
考える名無しさん :04/08/19 06:45
>柄谷はいつだって「行き詰まり感」に囚われてるだけなんだよ。 「行き詰まり感」に囚われる→「自分に原因が」と考える→鬱、精神衰弱 ↓ 「世界に原因が」と考える→「思想家」への道、というより「思想家」とはそもそもそういう人種(\_\;
言語学板、認知言語学IIより哲学板の有志諸氏へ応援要請をいたします。 哲学に対する冒涜とも取れる発言が現在横行しております! 諸学問の源流たる哲学を冒涜する態度は認知言語学をしている私にも耐えがたい 事です。是非とも認知言語学IIスレの住民にこれをお教え願いたい! 以下のような発言が実際にされております! >>哲学板だとキチガイコテが結構多い、言語板はこういう自意識過剰・自己顕示欲の塊みたいなのが少ないから助かるね なんでここまで「自分自分」と叫べるのか?恥ずかしくならないのかね〜
>柄谷はいつだって「行き詰まり感」に囚われてるだけなんだよ。 そんなことはない。1998年には「なんで今までこんなことに気付かなかったのか」 という発見をして、その後NAMに邁進したのはご存じのとおり(挫折したけど)。
テレビの黄金時代は9歳である (例:ちびまる子ちゃんは1974年の物語だが、当時さくらももこ9歳)
1970年当時はテレビも若かった。 「サインはV」「金メダルへのターン」「アテンションプリーズ」などの根性ドラマには 小学校低学年でも素直に感情移入できた。 この世代はテレビと人間個体の発達がシンクロしている。 しかし同じスチュワーデスものでも1983年の「スチュワーデス物語」に 小学生が素直に感情移入できるだろうか。できるわけがない。 1970年代生まれはテレビの発達から切り離されている。
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>社会のセキュリティ化は非常に危険だ。 >社会のセキュリティ化という現象は自意識を持った人間の割合が増えたことで発生した。 >かつて自意識を持った人間は3分の1以下だったのでDQNの迷惑行為は仕方ないものとされた。 >しかしテレビの普及によって自意識を持った人間の割合が3分の2以上となり、 >DQNの迷惑行為が社会的に耐え難いものと感じられるようになって、 >犯罪を犯すようなDQNはすべて殺してもかまわないという感覚が主流となってきた。 > >しかし実はこれは理性の自殺行為なのだ。 >理性とはあくまで物質の上澄みであり、物質的基盤を否定すると理性も存在できなくなる。 >DQNというのも実は理性の基盤であり、抹殺してはならないものなのだ。 >だからあずまんはこう言わねばならない。 >自意識を持たないDQNを増やすためテレビ放送はすべて廃止すべきだ。 >もっと理想を言えばギャルゲーやネットも全廃すべきだ。 >つまりあずまんは矛盾している。社会のセキュリティ化の危険を訴えるのなら、 >アニメやゲームなどのおたく文化もすべて否定しなければならないのだ。
ケーモーケーモー!
かつて有名人には超越性のオーラがあったが、今やそんなものはない。 テレビ番組は近所の学芸会と化した。 かつて芸能人に輝きがあったのは、本当は手の届かない遠い存在を テレビで見ることができるという落差の感覚による。 しかしテレビを見慣れるうちに世界はすべて手の届く範囲にあるような気になり、 芸能人の有り難みもなくなってテレビは学芸会と化した。 かつてテレビに出るといえばすごいことという感覚があったが、今は何でもない。 近所のカラオケ大会に出るのと何のちがいもない。 しかしこれはよくないことだ。生きてることに何の感激もなくなる。 だからテレビ放送は全廃しないといけないのだ。
柄谷行人は「場所の感覚がなくなった」「哲学の時代は終わった」と言っているが、 これは原因と結果の関係にある。 テレビによって世界は極限的に小さくなり、他者や距離の感覚もなくなった。 それにより社会の存在も実感できなくなる。そして社会をコントロールするのが理性であり、 社会がなくなれば理性も必要なくなるので哲学の時代は終わるのだ。
たとえばこの2ちゃんねるの参加者が数百万人なんて信じられるか? 俺は信じられない。せいぜい千人くらいの人間が意見を戦わせていると思っている。 人間は自分が体験した以上の規模を想像することができないのだ。 芸能界が近所の学芸会でもいいじゃないかと言われるかもしれないが、 それだと本当の近所の学芸会は無意味になってしまう。 超越的対象はあくまで超越的なままでなければならないし、 それは実は簡単なことなのだ。隠せばいい。 これは女の価値についても言える。女はタダでセックスさせてはならない。 また、エロ写真は簡単に買えてはならない。女の価値が暴落する。 有名人にせよ女(の裸)にせよ、その超越的価値を守ろうとするなら それを隠す努力をしなければならないのだ。
59 :
考える名無しさん :04/09/24 16:40:50
テレビはすべてを過去化する。それも半端な過去ではない。 すべての生命が死に絶えた何十億年もの過去として現在を認識するのだ。 これは別名「世界没落体験」ともいう。 なぜそんな感覚が生まれるのか。それは思惟経済の原理による。 テレビは映画とちがって過去の録画も現在の生中継も同じように放送する。 すると人間の意識はこれを区別するのを面倒がり、すべてを過去に統一するのだ。 そしてテレビをすべて過去のものとして認識する習慣がつくと、 現実世界も同様にはるか昔に終わった世界として見るようになるのだ。 かくして「世界はすでに終わっている」という感覚が支配的になるのだ。 ちょっと考えると映画こそ現像という過程が必要だから、すべてを過去化しそうなものだが、 むしろ映画は現実(=現在)と虚構(=過去)をきっちり区別させるのだ。
稲増龍夫は1980年代半ば以降、「ウラが見える」「先が読める」という 意識状況が現出したという。しかしこれは別々の現象ではない。 「ウラが見える」が基本的で、「先が読める」は一つの結果にすぎない。 たとえば刑事ドラマやバラエティ番組の展開が読めるようになったのは、 テレビ製作のウラ側(お約束)が見えるようになったからだ。
>>56 >しかしテレビを見慣れるうちに世界はすべて手の届く範囲にあるような気になり、
これは「テレビは人間を観念の世界に閉じ込める」とも言い換えられる。
テレビを見慣れると、近景(観念)しか見えなくなって、遠景(現実)は認識できなくなる。
(だからテレビばかり見てると近眼になるのだ)
DQNの迷惑行為が我慢できなくなってセキュリティが強化されるのも、
外界を認識する回路が機能麻痺して、現実が受け入れられなくなったからだろう。
大塚英志氏によれば今の若い人は、 「自分たちは携帯電話やネットが広がった時代に生きている若者なので、 社会と「私」の関係がわからない」 と言うそうだ。(「物語消滅論」P142) しかしそういう意識状況を作り出したのは主としてテレビの作用によるものだろう。
■10月12日、集団自殺で合計9人が死んだ。 (埼玉県皆野町では9月28日にも4人が集団自殺) 実は俺は前からこの日に何か起こるんじゃないかと予想していた。 それは2004年10月12日が1995年3月20日(地下鉄サリン事件)の逆回転の日に当たるからだ。 しかもその集団自殺の3日前にはUFJ銀行に強制捜査が入っているが、 それはオウム真理教への強制捜査に対応してもいるのだ。歴史の逆回転おそるべし。 ■ちなみに2001年6月上旬の池田小児童殺害事件は、 1998年7月下旬の和歌山カレー事件に対応した無差別テロだった。 ついでに言うと、1998年の7月に起きた和歌山カレー事件は、 1980年代半ばの三浦事件(保険金殺人)とグリコ森永事件(毒物混入)に対応した事件だった。
■1995年4月、ダウンタウンの浜田雅功が「H JUNGLE with t」として ヒットチャート第一位を記録した。(「ウォーウォートゥナイト」) その逆回転の2004年9月、ガレッジセールのゴリが「Gorie with Jasmine&Joann」 としてヒットチャート第一位を記録した。(「Mickey」) お笑い芸人がグループ名に「with」を含んだ作品で第一位を記録と見事に反復している。 ■果たして阪神大震災の逆回転の大地震は起きるのだろうか。
子供は5歳までがかわいいという。なぜか。5歳までの子供は一人では生きられないからだ。 それでは人間はどういう時に生きる意欲を持つかというと、何もしないと死んでしまう時だ。 逆に言うと、何もしなくても生きられる場合、人間は生きる意欲を失う。 社会が豊かで便利になればなるほど人間(とくに若者)は無気力になる。 これは逃れられない人類の宿命だ。 もう世界は終わりだな。
自分の行動がすべて論理的にシミュレートできてしまうと「感情」の出番がなくなるというのもある。 つまり現代の人間はテレビ、経済、知識という三重疎外状況にある。 これらの要因が重なって理性は極限にまで先鋭化し世界を徹底的に拒否してしまうのだ。
1985年、世界は死んだ。 1977年に始まった意識のメタ化作業を続けていけば、 その果てには素晴らしい新世界が開けるはずだったが、 実際は意識が現実から遊離して包括的な意味の死を招いただけだった。 しかしまだ俺はその「世界の死」すらも進化のための過程だと信じていた。 さらなる進化のためには世界を受け入れられる部分と受け入れられない部分に 分けねばならない。そして特に進化とは関係ない定番文化は放っといて、 何かブレイクスルーができそうな部分について集中的に考えればよい。 この段階ではまだ人類のさらなる進化の可能性を捨ててはいない。 しかし1998年、いきなり未来の可能性が信じられなくなった。 この年、自殺者が急増したのはやはり未来の希望が感じられなくなったからだろう。 それはなぜかというと、1988年あたりから始まった世界の定常化への動きが この1998年にある一定の臨界値を越えたのだろう。たぶん。 受け入れられない部分が49%の時まではよかったのだが、50%を越えた時点で いきなり世界全体が受け入れ不可能になってしまったのだ。 それ以来、俺は言語も生命も経済も歴史も何もかも受け入れられない おかしな精神状態になってしまった。 しかし今、1998年に何が起きたかはわかったので、一段高い場所から自分の精神を コントロールできるようになるのではないかと思っている。
未来が崩壊したから絶望するというのは恋愛に破れて絶望するとか、 東大に落ちて絶望するというのに似てる。 どれもぜいたくな悩みだということだ。
「一段高い場所から自分の精神をコントロールできるようになる」っていうか、 今は(第二の)江戸時代だと認識するってぇことだな。 いまテレビに出てるお笑いタレントとか女優を見ても、 こいつら完全に江戸時代の人間だって思うし。 1998年までが異常な時代だった。
俺も新しい自分に進化するぞ という思いで毎日頑張っている。
今けっこう大きな時代の転換が起きてるかも。 自然災害の続発とかプロ野球再編とかダイエー、読売、西武のカリスマが失墜したり、 イラクで日本人は首切られるはアラファトは死ぬは紳助は問題起こすは中国の潜水艦は・・・等々。 たぶんこれは柄谷行人や公文俊平の言う歴史の60年周期というやつで、 来年あたりドカ〜ンと大きな体制変化でも起きるんじゃなかろうか。 特に11月に入って動きが急になってきたのは 60年前の1944年11月から本土空襲が始まったのと関係あるかも。 ここ半年から一年はけっこう盛り上がりそうな気がする。
進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ 進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ 進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ 進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ 進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ進化するぞ
いま緊急の問題は日本の戦後文化が限界に達したということだ。 日本の戦後文化とはひとことで言えば反権力であり、 結果としてそれはDQNを増長させた。 しかし紳助やショーケンの告訴や中国潜水艦への怒り爆発など、 もうこれ以上DQNの増長は放置できないと日本社会は決断したのだ。
言語システムは生命システムや経済システムの外にある
76 :
考える名無しさん :04/12/02 00:09:27
哲学はまず精神をまったくの空洞状態にすることから始まる。 そしてこの空洞を少しずつジグソーパズルのピースで埋めてゆくわけだが、 最後には中心にピースひとつ分の空白が残る。 このピースが埋まるとき哲学は完成し、世界全体の形も確定する。 ところがこの最後の1ピースの形がなかなかわからない。 どうもこのラストピースの形は理性によっては決定できないのではないか。 つまり、このラストピースの形が決まれば世界全体の形が決まるんじゃなくて、 このラストピース(中心原理)の形がすなわち世界全体の形ではないのか。 となるとこれは一種の自己言及であり論理的には解決できない。 あとは「エイヤッ」と世界に飛び込むことだけなのかもしれない。
進化などなかった!!!
1984年まで人間は進化の山に作られたらせん状の坂道を一歩一歩登っていると思っていた。 しかし90年代になってある日気が付けば、その山は実は立体ではなく平面に立体っぽく リアルに描かれたものでしかなかった。と、いままで俺は解釈していた。 これは「進化などもともとなかった」という考えだが、最近は別な考えをするようになった。 例えば我々は1984年まで2次元世界の住人で、そこにある進化の山を登っていたのだが、 1985年に意識の次元上昇があって3次元からかつての2次元世界を見降ろすように なったので、進化の歴史が最初からフラットだったように見えるのではあるまいか。 つまり1985年は進化が崩壊した絶望の年ではなく、人間意識が究極の進化を遂げた 記念すべき希望の年だったのではないかということだ。
共産主義は活字が作り出した妄想だ。 これは人間の政治的観念を狂わせ、社会に巨大な災厄を与えた。 ニューエイジはテレビが作り出した妄想だが、これは社会的に大して害は与えてない。 なぜか。それは、活字が狂わせるのは政治という一部の観念対象だけだが、 テレビは肉体も物質も言語も社会もすべてひっくるめた世界全体を否定してしまうので、 彼らは政治体制だけでなく、世界全体が全く新しいものに生まれ変わるのを希求するのだが、 それがどんなものであるか想像できないので具体的行動を起こすことはできない。 (オウム真理教は具体的行動というよりヤケクソな自己崩壊)
まあ「世界が全く新しいものに生まれ変わる」というのは妄想だったが、 世界全体を否定する極限的思考を続けるうちちに色んな成果は得られたので、 今後はそれを提示することでこの日常的世界のトップになるくらいで満足するとしよう。
人間の脳は通常回路とメタ回路から成り立っている。 メタ回路の形成は1977年に始まり1985年に社会化した。 しかし1960年以前に生まれた人間にメタ回路は今だに形成されてない。 さらに1970年以降に生まれた人間はメタ回路以外の認識を知らない。 結局、通常回路からメタ回路への移行を体験したのは1960年代生まれだけで、 それは非常な苦痛をもたらした。 つまり、それまで通常回路で世界の意味を了解していたのが、ある日突然意識の所在地が メタ回路へ移動したせいで、それまで感じていた意味や興味が失われてしまったのだ。 「すべてがパロディに見える」とか「すべての人間の行為が演技に見える」のはそのせいだ。 通常回路の機能が低下し、日常生活も困難になる。 その代わり、進歩の意識は残ったままメタ回路は強化されているので、 けっこういいアイデアも浮かんだりする。 してみると1960年代生まれというのは空前絶後の世代なのかもしれん。
50万年前=固有名 5万年前=固有概念 5千年前(紀元前3000年)=理想概念(=文字)【神話的〜形而上学的思考】 500年前(西暦1500年)=活字【科学的思考】 50年前(西暦1950年)=テレビ【客観的思考】 20世紀は思考自体を思考しはじめた時代であった。言語論的転回とか、 文化の形式化などと言われてきたが何が起きたか今まではピンと来なかった。 しかし俺は今回はっきり自覚した。20世紀は「客観革命」の時代だったのだ。 意識の客観化は1960年代生まれのテレビ世代に至って頂点に達し、 自分自身を外から観察するようになって人間的感情を失った。 その結果、テレビ世代のもっとも良質な部分はひきこもらざるをえなくなる。 しかしその感情喪失状態をさらに客観化することで再び人間的生活は可能になるのだ。 このように「客観的思考」とは終わりなき継続革命なのである。 進歩は減速しているものの、客観的思考の時代は最低でも2050年くらいまでは続くだろう。
「客観化」(客観的思考)は「メタ化」(メタ的思考)とも言う
1916年のベルリン五輪と1940の東京五輪はともに戦争で中止になった
ドイツと日本はアングロ・サクソンの世界支配に挑戦して敗れた
そして今またアングロ・サクソンの世界支配に挑戦している国がある
中国だ
奇しくも2008年には北京五輪が予定されている
歴史のジンクスからいうと、これも戦争で中止になる公算が大きい
北朝鮮は「経済制裁は宣戦布告と見なす」と言っている
戦争が始まるとすればこの辺からだろう
2004年12月15日は阪神大震災(1995年1月17日)の逆回転の日だった
この日、愛媛県沖ではタンカーが爆発・炎上して沈没
広島ではマツダの工場で火災があり9000平方メートル以上が焼失
いずれも神戸地震での火災を思い起こさせる事件だ
さらにこの15日、さいたまのドンキホーテに2度目の放火があった
わざわざ逮捕される危険を冒して再び放火したのはなぜか
それは12月15日という特別な日が引き寄せた魔力としか思えない
実際、容疑者として逮捕されたのは時代の空気を感じやすい精神的不安定な女だった
これらの火災は時代転換のための象徴的儀式なのだ
1995年に阪神大震災とオウム事件で時代の空気がガラッと変わったように、 今年の度重なる「災」も時代を転換させる象徴的出来事なのだった。
そしていよいよ来年は2005年だ。 今年の「災」による時代転換が一気に表面化するとともに、 60年周期の変革も重なり、1945年のような大転換の年になるのは間違いない。
言語の進化は余計な要素を削り落とすことで達成される。 クロマニヨン人の言葉はつねに固有の対象と結びついていた(=固有概念)が、 言葉を特定の対象から分離して抽象化したのが理想概念(=文字)だ。 この「言語の理想化」は「言葉から感情を除去すること」と言ってもよい。 また、デカルトはある数の2乗や3乗を面積や体積と切り離すことで解析幾何学を創始した。 そして実は「科学」というものにも余計な要素がまとわりついている。 それは「進歩」というイデオロギー(感情)だ。共産主義はその最悪の結果だ。 科学から進歩という感情を除去したものこそ高度な思想なのだ。 そしてその思想的転換は最近よく見る「メタ化」という言葉で表面化しつつある。
パフォーマティブな言語=固有概念 コンスタティブな言語=理想概念
1990年代の世界的な反疑似科学運動(日本では「と学会」)も、 科学にまとわりついた余計なものをそぎ落とす作業だった。
106 :
恐竜 :04/12/21 23:31:11
ヒルベルトに代表される数学の公理主義や、ケルゼンの法実証主義も一種のメタ化で、 これは構造主義レベル。しかしそれを批判するポスト構造主義レベルというのもある。 たとえばケルゼンは自然法を否定するけど、人間が下等な動物から知的な存在にまで 進化できたのは自然の摂理という一種の自然法に従ったからであり、 一切の前提を取り払う法実証主義は行き過ぎた普遍主義である、というものだ。 そうは言ってもポスト構造主義的態度は一種の妥協であり、根源的発見を目指すためには あらゆる前提(=自明性)を拒否しなければならないのも事実だ。 しかし今やあくまでも自明性を否定して根源に迫ろうという人間はいなくなった。 時代全体が世界と妥協してしまった。そういう俺自身もそういう作業はもうやめた。 21世紀というのはそういう時代らしい。 まるで恐竜絶滅後の哺乳類の繁栄を見ているようだ。
紀元前3000年=【新しいメディア】文字 → 紀元前500年=哲学意識 西暦1500年=【新しいメディア】活字 → 西暦1750年=進歩意識 西暦1950年=【新しいメディア】TV → 西暦1975年=メタ意識 という流れなわけだが、俺は最後の段階(西暦1975年=メタ意識)を誤解していた。 人間はメタ意識を獲得して最終的には「メタ意識の楽園」というべきものが出現すると 信じていたのだ。そのときは物質も生命も社会も言語もすべてなくなる。 しかしそれらがすべてなくなったら世界は存在不可能なわけだが、 そういう常識的なことは一切考えてはならないと思った。 しかし本当は80年前後の「意識のメタ化」とはそういう「次の段階への進化」 などということを考える必要もなくなるような究極の変化だったのだ。 1985年で意識のメタ化は終了し、あとはその視点から社会を改良していくだけ。 それ以上の意識や世界の変容を目指すのは一種の革命幻想であり無駄だった。 1980年前後、時代はモダン(近代)からポストモダンに移行したと言われるが、 まさにこれは前近代から近代への移行と同等かそれ以上の巨大な変化だった。 ところが今、この時の変化はなかったことになっている。 しかしやがてメタ的思考を身に付けた世代が社会を根本的に作り変えるだろう。
>>107 >しかし本当は80年前後の「意識のメタ化」とはそういう「次の段階への進化」
>などということを考える必要もなくなるような究極の変化だったのだ。
「考える必要もなくなる」っていうか、「進歩」という余計な感情を卒業するということ。
紀元前3000年=【新しいメディア】文字 西暦1500年=【新しいメディア】活字 西暦1950年=【新しいメディア】TV 西暦1995年=【新しいメディア】インターネット(進歩意識の崩壊=オウム真理教事件) 1975年ごろにメタ意識は出現していたのだが、その当時はまだ進歩的風潮が支配的だったので、 俺みたいな先端的人間(笑)はさらに次の段階を夢見てしまった。 しかし1995年、社会の進歩的風潮は崩壊する。この年はインターネット元年とも呼ばれ、 文化のデータベース化が表面化した。さらに小室哲哉がブレイクし、大衆音楽は過去の 遺産を組み合わせるだけでいいことになった。また、オウム真理教の崩壊はニューエイジ的 進化思想の妄想性を強く印象付けた。というわけで1995年という年は人間が「進歩」を 卒業する象徴的年だったわけだが、まだこの時点では俺の進化幻想は崩壊しなかった。
関係ないけどこの2ちゃんの文章を書き込む「窓」、いつの間にか大きくなってるな。 以前は窓の外10文字くらいオーバーしても一行に収まったのに、今は3文字までだ。
俺の進化への確信が崩壊したのは1998年だった。 今でもよく覚えているがこの年の7月12日、どうにも精神的に崩壊しそうになって 急いで缶ビールをガブ飲みしたことがあった。そしてその酔った状態で、 今までの進化への確信はどうもウソじゃないかという気がしてきた。 その時は一時的にそう感じただけかと思ったが、 それ以来もう進化は信じなくなったのだった。 その後1998年は自殺者が激増したり、グル柄谷に思想的変化が起きたりと、 大きな転換の年だったことが明らかになる。 しかしそれ以降6年間さらに俺は不可能な進化を追い求めることになる。
1985〜1998年は無邪気に人間のニューエイジ的進化を信じていたからまだラクだった。 しかし98年以降は感情としては進化は信じられないが、 理性はまだ進化の可能性を捨て切れないという状態になった。これは苦しい。 俺の考える「進化」とはすべてが今とは異なる状態になることだが、 となるとあらゆる存在や認識もあってはならないことになる。 しかし存在や認識のない世界なんてはたして可能なのか。 そんな世界は想像できない。想像はできないが、 そうでなければ進化したとは言えないので探究は続けなければならない。 というわけで俺は世界を極限的に否定するためどんどん自分を不健康な状態に 追い込んでいったのだが、まあ確かにいろいろ成果もあった。 しかしやはり次の段階への進化はなかった。
しかしここにきて、メタ意識の発生(俺の場合は1977年)というのは実は進化 (または進歩)という感情を切り落とすような変化ではないかと思うようになった。 そう考えればいろんなことが腑に落ちる。 まあこれが最終的結論になるかどうかはわからんが、 もしそうならこれは俺(あるいは人類)にとって巨大な解放だ。 まあ柄谷が哲学の終わりを宣言したり、「最後の哲学者」デリダが死んだりと、 今年は近代的意識が終焉を告げる年なのかもしれん。
たぶん来年は北朝鮮の体制が崩壊する。 なぜなら来年は1994年の逆回転の年だが、 2005年3月あたりに94年10月の米朝核開発枠組み合意が崩れて緊張が激化し、 さらに6月あたりに94年7月の金日成死去に対応して金正日が失脚するだろう。
■最近とうとう中国が世界経済に悪影響を及ぼし始めた。 石油輸入量が世界一になった影響で原油価格が高騰したり、自動車販売が500万台 (日本とほぼ同じ)になって日本メーカーは鋼板不足になったり、ビール消費量も 世界一になるしで来年はかつての石油ショックのような資源危機になるのは間違いない。 もう中国特需とか言ってる場合じゃないのだ。 それもあって最近はドル暴落が公然と語られはじめた。 実はこれは95年3月の1ドル80円突破の逆回転でもある。
■最近中国は明らかに日本に喧嘩を売ってきている。 サッカーでの反日行為とか潜水艦の侵入、 ODAをやめたら報復するとか李登輝来日反対などなど。 北朝鮮の崩壊に絡んで来年は第三次日中戦争の始まりかな。
ことし窪塚洋介がマンションから飛び降りたのは岡田有希子の呪いではないか。 1986年=岡田有希子 1992年=尾崎豊 1998年=hide 2004年=窪塚洋介 と、6年周期で若者のカリスマが死んだりしてるから。
いや、今年死んだ若者のカリスマはいかりや長介かも。 葬儀には1万人集まったらしい。
「フォーサイト」という雑誌によれば、 ドルの暴落は中国が外貨をドルからユーロにシフトするのが原因で起こるらしい。 中国はいくらアメリカとの貿易で黒字を稼いでも、 日本のように従順にアメリカ国債を買ったりはしないのが問題のはじまり。
アメリカという国は自分の都合のいい時はおだてておいて、 都合が悪くなると手のひらを返したように徹底的に叩くからな。 かつての日本がそうだし、イラクやビンラディンもそう。 中国も確実にそうなるね。
素粒子物理のストリングという考え方は典型的ポストモダンだ。 それは最初から物質の存在を認める考え方であり、 不毛な探究を続けなくてよくなるのだ。
>>120 まあビンラディンはちょっとちがうか。9・11テロがあるから。
【ニュース速報】 ただ今をもちまして今後5年以内の人類滅亡が確定しました。 もう人類に未来はありません。5年後、まだ二足歩行して言葉をしゃべる生き物が 地球上に存在していても、それは人間ではありません。ただのサルです。 実は人間の歴史は1985年には終わっていたのですが、 今まではそれが究極の進化への序曲ではないかという希望が捨て切れませんでした。 しかしとうとう今月になって答えが出てしまいました。次なる進化はない。 1977〜1985年のメタ化が究極の意識進化であり、それ以上はなかった。 進歩を目指さない人間は人間ではない。すでに若い世代のサル化はかなり進んでいる。 まあ、こういう「人間の終わり」を見届けることができたのはラッキーだったとも言える。
ルパン、ださー
オブジェクトレベルが地表で、メタレベルが高度1とする。 もしメタメタレベルが高度1.5でメタメタメタレベルが高度1.75とすると、 無限メタレベルは2に収束することになる。 ということを昔考えたが、このメタ化スパイラルでは世界は無意味なままだ。 むしろメタレベル=モダンとメタメタレベル=ポストモダンの2つだけで 考えたほうがよい。つまり人間が物質的存在を卒業するということはない。 これ以上の進化を断念したら人類滅亡かというとそうでもないかも。 もともと観念的意識の進化論は中世の思想であり、 それを断念したところから近代は始まったわけだから。
中国語で歩行者のことを「行人」という
今のアメリカの人口2億9700万人。 2006年には3億を突破する。 日本は2006年をピークに人口が減少する。
共産革命などは革命でもなんでもない。ただの政治ごっこだ。 本当の革命とは生活環境が変わることに伴う意識革命のことだ。 たとえば経済的に豊かになることで日本人の意識は変わった。 1977年、立身出世より趣味に合う生活を望む人のほうが多くなったのもその一例。 また熱帯や亜熱帯の人間はのんびりしているが、冬に雪の降る地域の人間は勤勉だ。 環境により人間は変わる。 20世紀後半の経済成長に伴う生活環境の変化によって人間はほぼ10年ごとに 大きな変化を遂げてきた。1956年、1968年、1977年、1985年、1995年あたりがそうだ。 そろそろ次の変化が起きてもいいころだ。
もちろん次の変化といってもニューエイジ的進化はもう信じてない。 そもそも1995年の変化がそれまでとは逆向きの収縮的なものだった。 となると次はもっと収縮するのかな?
なんか最近大きなテロでも起きそうな空気があるな
と言ってたらその5時間後に大きな地震が起きた
津波に呑み込まれて2万人以上死亡
なんだか近未来の人類を予言してるみたいだ
いま人類はインターネット・ケータイ・DVDなどの情報洪水に呑み込まれている
この情報環境の激変によって人間の意識は大きく変容せざるをえないだろう
そして重要なのはこれが最後の変化だということだ
1968年、1977年、1985年あたりも大きな変化だったがまだ終わりではなかった
i-modoケータイやADSLの普及はほぼ最後の巨大な波といってよかろう
その結果としての変容がたぶん来年おきる
歴史の60年周期とか北朝鮮の崩壊とかドル暴落とか中国の暴動とかも重なって、 来年はお祭り騒ぎの年になるんじゃないかなー。
どうせなら切望的変化がいいなー
正しくは「絶望的」だ
日本人の過半数が生きる気力を失うくらいの
そしたらたぶん自殺が合法化されるぞ
俺は別に死にたくはないけど死ぬのは全然こわくない
生きててもたいして面白くもないからな
しかし死ぬ時に苦しむのはこわい
だからその危険が迫ったらクスリでラクに死にたいのだ
小学生の半数は生きてても楽しくないそうだ。 佐世保のネバ子もそんなこと言ってた。 今年はニートも社会問題になったし、 もう若者は苦労してまで生きたいとも思わんだろ。
そんな状況で中国か北朝鮮と戦争にでもなってみろ。 特に長期戦とかになったら、 「もう生きていなくてもいいから早くラクになろう」とかみんな絶対言い出すって。 そうなったら本当に日本滅亡、ハルマゲドンだ。 ああ、こんなふうに世界は終わるんだな。
テレビは人間の意識を究極のメタレベルに張り付ける
その状態では真理の探究にのみ意味があり、それ以外はすべて下らないことに思える
全世界を支配する独裁者になってもつまらない
なぜなら支配の対象である自分以外の人間がみんな ルーチンワークで生きているだけの何の価値もない存在だからだ
しかしそうなると、何のための真理探究なのかという問題が出てくる
やはり真理は社会の役に立ってはじめて意味がある
根源的真理を求めて徹底的に世界を否定していくと、 やがて真理の探究自体が無意味に思える状態になる
これを俺は「意識のブラック領域」と呼ぶ
だからそのブラック領域に入るギリギリ手前のところで考え続けねばならない
しかしそのギリギリ手前の場所でも世界否定感情はかなり激しい
まあ世界の独裁者くらいならなってやってもいいかなと思うが、 ふつうの仕事なんかあまりにバカバカしくてとてもできない
例えば最近ITベンチャー企業の経営者がもてはやされているが、 なんであんな下らない仕事ができるのか不思議でしょうがない
だって真理の探究が数学の最先端だとしたら会社経営なんて算数じゃん
まあ意味があるとしたら経済活動はおカネになるということだろう
なんでそんな下らない目的だけのために 肉体的・精神的エネルギーを使わねばならないのか
と、今までは思っていたがこれはバランスを欠いた考え方かもしれん
いや、真理の探究のためには常にギリギリの状態に追い込んでいなければならない、 というのは間違いではないと思うのだが、 はたしてそんなことこれ以上続けて意味あるのか、ということかもしれん。
まあちょっとした心境の変化かな。 もう俺に発見できる真理はだいたい発見し尽くした、と。
しかしこれが心境の変化だとしても、大きな意志に操られているようでやだなあ
できれば世界に対するいやがらせとして今すぐ死んでやりたいところだが、 それができないのもまた大きな意志にコントロールされてるからなんだろうな
あ〜あ、俺は救世主なんかなりたくねえよ
どれだけ酷い目に遭わされたと思ってるんだ!
俺が権力を握ったら人類を破滅させてやるからな
そんなわきゃねえか
まあ妄想患者だと思ってくれ
今回の地震が原因で大戦争でも起きねえかなあ
インドネシアやスリランカで内戦が起きて、中国やインドがそれに介入するとか
中国はどさくさに紛れて北朝鮮にも介入してそこにアメリカが参戦して・・・
スリランカにはパキスタンも派兵してインドと戦争になって、 それが核戦争までエスカレートして・・・
中国とアメリカの戦争ではロシアが中国についてこちらも核戦争になって・・・
というわけで日本とヨーロッパだけが戦争を免れるのでした。めでたしめでたし。
60年周期でいえば来年は核戦争が起きてもいい年なんだがな
少なくともなんらかの大虐殺は起きるはずだ
なぜなら来年は1994年の逆回転の年だが、1994年にはルワンダで大虐殺が起きている
また1994年のルワンダ大虐殺は1940年代のユダヤ人大虐殺の繰り返しでもあった
ついでに言うと来年は日本で大きな政変も起きるだろう
もちろん1994年の自社連立・村山政権を意識しての予測だ
そしてその村山政権は1947年の片山哲・社会党政権の繰り返しでもあった
となると来年成立するのは自民と民主の改革勢力が大結集した政権の可能性が高い
郵政民営化問題が引き金になるのかな?
となると小泉が賛同者と共に自民党を出て、民主党と連立を組むのかもしれん
おお、話が具体的になってきたぞ!
となると民主党の若手が続々と入閣することになるな!
そうなったら一気に社会革命だ
消費税50%にするか、ハイパーインフレでも起こすか
北朝鮮への経済制裁は即実行
それでミサイルでも撃ってきたらピョンヤン爆撃
それに怒った韓国が東京爆撃
それに対して日本もソウル爆撃
北朝鮮と韓国が軍事同盟を結び、北の核を韓国が戦闘機で運んで東京に投下
東京人100万人死亡
ドル暴落。世界経済大混乱。
なんてことにならねえかなー(^^)
>>151 で俺は「テレビは人間の意識を究極のメタレベルに張り付ける」と言った
これを高度1としよう
意識が世界の外に出て、何もかも無意味になった状態だ
これはモダンの極致でありケルゼン法学はこの段階だ
この状態に意識が張り付いてしまうのが「ひきこもり」の原因である
しかしその状態は絶対的に正しいわけではない
「意識が世界の外に出た」というのもテレビという物質に規定された感覚にすぎない
このように自分が物質世界の住人であることを徐々に認めていかねばならないわけだが、 これを俺は「ポストモダン=メタメタレベル」と呼んだ
しかしこの「メタメタレベル」という表現は誤解を与えるかもしれない
「ポストモダン=メタメタレベル」の高度は1を越えるわけではない
全世界が無意味化してしまった高度1の世界から少し地上に戻った状態が ポストモダンであり、その最も適切な高度を探究しなければならない
これを仮に黄金分割(=0.618)とでも呼んでおこうか
早いもので、もう二千零年代も後半か
まちがえた。「二千零十年代」だ。
2000年代最初の十年を「ゼロゼロ年代」と呼ぶやつがいるが、俺は反対だ
だったら最初の100年はどう呼ぶのか。 ゼロゼロゼロ年代か? おかしいだろ。
最初の100年は「二千零百年代」でよい
ついでに言うと未確認動物の略称「UMA」もおかしい
なんで「ミステリアス」みたいな主観的な言葉が入るのか
じつはその「ミステリアス」という言葉は実際には存在しないデッチ上げという意味だ
UMAが実際に確認された例はない。 また、確認されるようなUMAはUMAではないのだ。
だから今後は「未確認マユツバ動物」の略としてUMAと呼ぶことにしよう!
しかしスカイフィッシュの正体がハエだったのには笑ったな
まあ2000年代最初の100年は「21世紀」で代用するつもりなんだろうな
まあもっともナントカ年代と呼べるのは1980年代までとも思うがな
しかもその前半(1980〜84)まで
すべてが終わった1985年からもう20年か。早いもんだなあ。
買いたい新書
結局ソクラテスは間違いでソフィストのほうが正しかったってことだな
いやまてよ。ソフィストのほうが相対主義だからむしろモダンなのかなあ。
とりあえず中国は老子より孔子のほうが正しいとされた
孔子は悪しき相対主義を克服したポストモダニストである
ニューエイジ的精神進化論はメタ意識が原因である
それは「人間は肉体のくびきを離れて純粋に精神的な存在になる」と説く
なぜそう思うかというと、まずテレビ世代は極端な意識の客観化が起きて、 世界を外から眺めるような内的体験を積む(いとうせいこう氏の言う「衛星の視線」)
そして、そういう精神状態にやがて物質も追い付くと思うのだ
しかしそれは錯覚である。物質なき純粋精神などというものはない。
たとえば生身の芸能人を見ると意外と小さいと感じるのはなぜか
それはテレビに出る人イコール巨大な人という観念が生じるからだ
それではなぜそういう観念が生じるのか
それはこういう論理による
テレビに映った人間は日本全国どこからでも見れる
そんなあらゆる遠い場所から見えるものは巨大なものでなければならない
ゆえに芸能人はみんな巨大であるはずだ
精神的錯誤の例をもう一つ挙げよう
走っている新幹線から見える山は小さく見える。なぜか。
それは新幹線のスピードで移動するのが普通であるような大きさの 人間になったような気がするからだ
暴走族の快楽もこれと同じで、 バイクのトップスピードで移動するのが普通であるような大きさと、 エンジンから出る大音響が普通の声の大きさであるような大きさの人間に なったような気分になれるのだ
×普通の声の大きさであるような大きさの人間に ○普通の声の大きさであるような人間に
だから意識がメタ化した人間が、 純粋な精神的存在へ進化するのではないかと思うのも無理はない
無理はないが間違いである
しかしこのような霊的進化論者を一般人は批判できるだろうか
戦後民主主義も空虚な観念論という意味ではいっしょだ(念仏平和主義)
また「自由恋愛」も物質的基盤を無視した観念論である
かつて韓国は本家の中国以上に儒教に忠実であろうとした(小中華)
それと同じように戦後日本もアメリカ以上に自由恋愛を推進した
その結果、日本の若い女はアメリカ人からイエローキャブと呼ばれている
簡単に乗れるという意味だ
しかしイエローキャブと呼ばれても日本人は態度を改めなかった
気軽にセックスすることが性の解放であり人間の解放であると信じて疑わなかったからだ
国家全体でそう信じていたのだ
だからそういう国民にニューエイジ思想を笑う資格はない
俺は今まで妄想的人間として扱われてきたが、 そういう扱いをするやつらのほうこそ何も考えてないバカであることは明らかだ
だから俺は思いきり腹が立つのだ
まあよい。見てろ。もうすぐ俺の正しさが証明される。
西暦2000年を過ぎて歴史は逆回転している
1990年代に性の解放は一気に加速したが、 2000年代に入って急降下現象が起きている
小倉千加子「結婚の条件」とか酒井順子「負け犬の遠吠え」もその表れだ
とうとう憲法の「結婚は両性の合意による」という部分も削除することになった
これは大変なことで、下手すると戦前そのままの性道徳になるぞ
俺の「自由恋愛禁止法」(つきあった男女が別れる時は必ず男が金を払う)は もっと自由になることを目指したものなのだが、今のペースだとそうなる余裕がない
まあしかし一時的に針が逆方向に極端に振れるのもしかたないかな
元旦早朝の朝まで生テレビで今の国民の最大関心事は圧倒的に北朝鮮だったのには驚いた
やはりみんな北朝鮮の崩壊が近いことを無意識的に感じ取ってるんだな
俺の逆回転理論も北の崩壊を予言しているが、どうも当たりそうだな
しかし小泉と民主の連立なんかはさすがに誰も予想してないようだ
そのためにはまず小泉が国会を解散して新党を結成する必要があるわけだが、 こちらの予言はどうなるかな
テレビを見る人間は芸能人を巨大な存在と感じる一方で、 自分自身も巨大な存在であると思ってしまう
なぜなら世界の隅々まで(テレビを通して)観察できるのは、 地球以上に巨大な存在にしかできないことだからだ
ひきこもりは自分が世界一偉い人間だと思っている
だから下らない仕事をする気がしない
この「自意識の肥大」はテレビが作り出したものだ
俺もその患者の一人だ
しかし自分では誠実に生きているつもりなのだ
俺は大富豪になるより、目立たない数学の定理でも発見したほうが価値があると思う
そして、テレビがもたらした「メタ意識」の性質を究明することは、 どんな重要な科学の発見より価値があると思う
なにしろ「メタ意識」というのは生命40億年の歴史上、 テレビ世代のみが初めて体験するものだからだ
しかも1970年代生まれにはもうわからない
だから俺がこれを探究するのは全人類に対する責任なのだ
と思っている人間が俺以外にもたくさんいるはずだ
といっても、もうほとんど答えは出ている
メタ意識というものが、テレビの作り出した錯覚だったというのがそうだ
これは実は、共産主義とは何だったのかという問いの答えでもある
共産主義は活字が作り出した錯覚だった
共産主義とニューエイジに共通するのは一切の現実的なことを認めないという点だ
共産主義は一切の「改良」を認めない
議会制も認めない
だから社会民主主義とケンカになる
ニューエイジも一切の現実を認めない
すべてが根本的に変化すると信じている
しかし大きなちがいもある
共産主義者は変革を夢見る主体は不動のものだと思っているが、 ニューエイジャーは主体そのものが進化すると思っている
実は「純粋に精神的な存在へ進化する」と考えるのは初心者で、 何かを認識するという精神の形式自体が根本的に変革されると信じるのが 徹底したニューエイジ主義である
しかしそれだと自分が何を考えているのかわからなくなる
認識を超越した状態を認識しようというのだから矛盾している
そして探究すること自体が無意味なブラック領域に落ち込んでゆく・・・
まあこれは時間と共に変化する現実が解決することだろう
この世界は変わらないと思う世代のボリュームが増していくことで、 俺のようなテレビ世代も現実を認めざるをえなくなる
例えばモーニング娘。のメンバーがふつうにしゃべる。 これだけでも俺には大きな衝撃だ。
なぜなら俺は1985年以降に生まれた人間がふつうにしゃべるわけがない、 という思いがあるからだ
まったく異なるコミュニケーション能力(例えばテレパシー)を獲得しているか、 さもなければまったくコミュニケーションできずに滅亡を待つだけの存在しか 考えられなかった
ところがモー娘に限らず、 85年以降生まれも平成生まれもまるで1970年代の若者のようにしゃべっている
進歩意識というものが完全になくなっている
この調子でいくと西暦3005年の若者も今と同じようにしゃべっているだろう
例えば70年代ファッションというのがあって、 今の若者にとってそれは一つの選択肢である
しかし70年代の若者にとってそれは唯一絶対の超越的ファッションであり、 60年代以前のスタイルを否定して理想の未来につき進むための手段でもあった
しかし今の若者は70年代の若者も今のような感覚で70年代ファッションを 身にまとっていたのだろうと思ってしまう。
これは遠近法的倒錯である
これと同様に今の若者は千年前の人間も今と同じようにしゃべっていたと思うだろう
しかし今の若者(に限らず大人もだが)のしゃべりは 歴史のある時点で成立したものであり、 それはだいたい1977年くらいである。
実はこの1977年あたりで人間がふた手に分かれたのだ
より高い進化を目指す人間と何も変わろうとしない人間とに
まあそれでも世の中の勢いで、後者の人間も1988年ころまでは上昇の機運に乗ってはいた
しかし1988年に三宅裕司や上岡龍太郎が出てきたあたりから時代は一気に後退する
そして1995年あたりから完全に開き直ってしまうわけだが、 まあこれも必然的な流れなんだろうな
そして1977年が永遠につづくことになったというわけだ
まあもともと(究極の)進歩という観念自体が妄想的なものだったわけだから、 今の状況は当然と言える
共産主義者もニューエイジ主義者も 主観と客観の区別がつかないという点で共通している
といってるうちに本当に霊的進化が起きたりしてな
インド洋大津波は現地では神の怒りとか言われてるようだしな(^^)
【【【 哲学の解消 】】】
「マツケン」というのは商品名ではないのか
テレビ世代のすべてがニューエイジ主義者になるわけではないし、 ひきこもりになるわけでもない。 テレビの意味を内面化し、意識的に正当化した人間だけがそうなる。 漫然と見ているだけなら大した害はない。 お金の価値を否定しだしたら要注意だ。
哲学の目標は哲学的なことで悩まなくなることだ。 ただし最初から何も考えないというのではダメで、 基本的な問題をすべて自分の頭で解決してこそ 「哲学の解消」が達成されたと言える。 お金の価値を受け入れたら哲学は解消されたといえる。
しかしこの世界のフラット化はものすごい。 進歩的、あるいは精神的超越性というものが完全に欠落している。 たぶんこれはモダンモードで世界を認識することの限界で、 これからは物質的超越性で満足するしかないのだろう。 (たとえばお金を最高の価値として認めるとか、女や子供を愛するとか)
「究極の進化」などというものはない。 人間が物質を卒業して精神的存在になるということはない。 というのが正しいとは思うんだが、 どうして精神的存在にはなれないと言い切れるのかわからない。
究極の進化を遂げた人間は言葉を使用しない。 なぜなら究極に進化した人間はあらゆる面倒なことから解放されているはずなので、 言葉なんか発さなくてもテレパシーで自由に意志疎通できるはずだからだ。 というのがおかしいのは証明できるぞ。 よし、テレパシーで他者と自由に交信できるのは認めよう。 しかし、人間があらゆる苦痛から解放されて常に快楽を味わっている、 ということはありえない。 快楽とは日常の苦しかったり退屈だったりする状態あってのものだからだ。 特に精神的快楽は日常の個別的・物質的対象から 普遍的・理想的対象に脳の状態を切り換えた時に感じるものなので、 個別的対象のない普遍的快楽はありえない。
平凡な日常があってこそたまに楽しいことがある
全知全能の存在に意識はない。 なぜならすべて予想済みのことだから。
それをアカシック・レコードという
人間は低能だから音楽に感動できる。 なぜならあらゆるメロディーのパターンがシミュレートできてしまうと、 どんなメロディーを聴いても経験ずみの二番煎じでしかないから。
実際、1986〜88年あたりはいろんな音楽が二番煎じに聴こえた時期だった
岡田有希子はそういう状況に絶望して自殺した
不完全な仕事はしたくないし、不完全な人間とはつきあいたくない
しかし完全な仕事なんてないし、完全な人間もどこにもいない
不完全な世界は受け入れられない
しかし完全な世界なんか存在しえない。何かしら改善の余地は残っている。
最大の素数が存在しないように、完全な世界もありえないのだ
言葉の使用も耐え難い。どうして言葉なんか使わなくてはならないのか。 しかしテレパシーですべて通じればそれでいいかというと、 それだけだと意識というものが成立しないだろう。 やはり言葉(特に文字=理想概念以降の)にすることで意味意識は成立するのだ。 そしてたぶん何らかの心的状態を言語化する過程で人間は意味を感じるのだ。 言語化の作業がわずらわしいからといって、それをなくすと意味自体がなくなる。 空気抵抗が邪魔だからといって、空気がなければもっと速く飛べると思う鳥は愚かだ。
意識がテレビ化すると世界の意味がなくなる。なぜか。 それは、意味というのは物質と精神(正義と悪、快と不快)が混沌とした状態から 言語作用によって理想的観念状態へ上昇する時の落差によって成立するものだが、 テレビという理想的な世界があらかじめ意識の刷り込まれると、 上昇するどころか元の意識のほうが理想的で、 現実の世界が実に下らないものに思えるようになってしまうからだ。
ちなみに「テレビの世界が理想的」というのは美男美女が みんなおしゃれな仕事についていて、とかいう話ではない。 文字がコトバを理想化する(特定の対象から離れて普遍的観念と化す) という意味で世界を理想化するのだ。 文字によって言葉が理想化されるだけなら問題ないが、 映像や音声まで理想化されると意識全体が理想状態に硬直してしまうのだ。
あ〜あ、死ぬほど退屈。
きのうの教育テレビの人間講座で正高信男氏が言ってた。 知らない街でタクシーを拾おうとする時、GPSケータイがあれば現在地を 説明しなくてもタクシーが来てくれるが、そんなことしてたら人間の知能は 退化してしまう。なぜなら困った状態をどう切り抜けるかを考えることで 人間の思考能力は維持されるものだからだ。 まったくその通り。テクノロジーの発達で便利になればなるほど人間は退化する。 知能ばかりか意欲もなくなる。例えばこの2ちゃんねるがなかったら、 自分の意見を世に問おうとすればしっかり原稿を書いて本にして流通に乗せないと いけないが、そういう面倒な人間関係や手続きがあってこそ発表する意味もあった。 しかし今、2ちゃんにどんな画期的理論を発表しても全然無意味な感じがする。 自由恋愛、テレビに続いてケータイやインターネットも禁止すべきなのかも。
しかし、それではどのレベルのテクノロジー水準が最適なんだろう。 メディア技術の水準だけ落とせばいいのかなあ。 俺はジャンボジェットの旅客機でどこへでも行けるのも問題だと思うんだよね。 かといってプロペラ機だけは許可するというのも変だから飛行機は全面禁止。 ていうか飛行機という乗り物が可能であるという知識も禁止。 となるとラジオも電信も禁止か。しかし電気を禁止すると夜はローソクで 生活しないといけなくなるぞ。それはつらいなあ。
まさか、かまどでメシ炊いて五右衛門風呂湯を沸かして 井戸から水汲んで、なんて生活には戻れないよなあ。 よし、基本的な電気、ガス、水道はいいことにしよう。
訂正→「五右衛門風呂で湯を沸かして」 しかし「ケータイのない生活は考えられない」という発言はよく聞くから 今の若者はケータイとかネットといった環境に見事に適応してるんだろうな。 適応できない人間が文句を言ってもしょうがないか。
そんなにテレビやネットが有害だというなら 本人が見なきゃいいだけだよな。 何も社会全体に廃止を強制することはない。
かつてはあらゆる認識対象を否定することで 超越的意味を感じることができた。 しかし、すべての対象を否定することに成功してからは、 世界のすべてが無意味になった。 だからやはり物質の存在くらいは無条件に受け入れないとまずい。
何に対しても快楽が得られない状態を退却症というが、 この「退却」というのは面倒な現実を拒否して 自分の観念の世界に退却するという意味だ。 この病名をつけた人はなかなかよくわかっている。
俺は今までよく「意識が世界の外に出たから意味がなくなった」 と言ってきたが、これは少しちがったかもしれない。 意識の一点のみが世界の外に出たのではなく、 意識が構築したバーチャルな理想世界全体が 意識と共に現実の物質世界から離脱した、と言ったほうが正確だろう。
実はメタ意識というのは単に客観的に世界を見るということではなく、 もっと実体的な超意識のことなのだ。 そして、この超意識界を制する者が世界の支配者になるのだ。
1976年以前 現実>虚構 1977年以降 現実<虚構
368 :
参考 :05/02/05 03:12:46
■離人というのは世界を過剰に意識することから出る症状だと思う。 例えば呼吸や歩行も無意識的にやってるぶんには問題ないが、 いざ意識してやろうとするとぎこちなくなるように。 さて、離人症者は人間の感情というものがわからないという話があった。 これも意識の過剰で説明できる。 そもそも感情とは動物の行動を駆動するものだが、 これは本能に組み込まれたもので、理性の介在する余地はない。 例えば歩いてて、いきなり誰かがぶつかってきたらカッときて睨み返す。 そして相手が強そうだったらサッと目をそらし何事もなかったかのように 立ち去るが、相手が自分より弱そうだったら睨んだまま威嚇して、 それでもひるまないようなら喧嘩になる。これが正常な動物の行動だ。 しかし理性が発達した人間の場合、少々誰かがぶつかってきても、 最初から気にしないと決めてる場合が多い。相手が上だろうと下だろうと、 いちいち勝負することに意味を感じないからだ。 このように理性で行動を制御すると感情は必要なくなる。 そこにはただ機械的な情報の入力と行動(や言動)の出力があるだけだ。 1980年代以降、すべてはパロディでしかない、人間の行為は演技でしかない、 という感覚が蔓延するようになったが、これはテレビによる情報量の爆発 によってすべての人間行動がパターン化されたからである。 つまりテレビは形式的にも内容的にも人間の「意味」を破壊するのだ。
1976年以前 感情>理性 1977年以降 感情<理性 この逆転がやがて1987年に至り「未来」を完全に崩壊させることになる。 つまり「輝かしい未来」とは単に観念的幻想に過ぎなかったのだ。 そしてその未来の崩壊が2年後の1989年、 共産主義を崩壊させることになる(東欧革命&ベルリンの壁)。
1977年から1984年までは面白い時期で、この期間は現実と観念の関係が 逆転したこと自体が新しい進化ではないかと盛り上がったのだった。 しかしその精神的バブルは1985年に一気に破裂する。 ただしこの時もバブルの破裂自体が進化なのではないかという 一縷の望みは捨て切れなかったが、1987年あたりでどうも未来は 灰色らしいというあきらめムードが支配的となる。
しかしそれでも俺はまだ1998年までは人類の進化を信じていたから、 人間というのはあきらめが悪いものだ。 そしてさらに1998年後半以降の6年間がまたきつかった。 これだけ現実的希望が絶たれたのならもっとほかに何か非現実的な 希望はないかという極限の探究をしなければならなかったのだ。 しかしここ半年くらいでようやく終わりが見えてきた。
>哲学には二種類ある。それは無限の精神的自由を目指す哲学と、 >有限の世界の中でどこまで自由になれるかを目指す哲学だ。 しかし「無限の自由を目指す哲学」のほとんどは 世界の存在を無条件に認めている。 それではまだまだ哲学しているとは言えない。 あらゆる存在や認識を認めないという態度で臨んでいなければ哲学者ではない。 しかしそういう態度だと何も考えてはいけないことになるから 矛盾も出てくるのだが、そこは適当にごまかす。
できることなら史上もっとも偉大な知的業績を上げたいと思う。 しかしそれでは「意識の発生」を越える知的業績なんてあるのか。 あるわけない。知的業績は大きな範囲のことから順に達成される。 アリストテレスの論理的思考の上にガリレイの科学的思考はある。 さらにガリレイの土俵の上にアインシュタインの自己含有的思考はある。
そして今の時代にできることといえば、 進歩の限界を自覚するくらいのものだろう。
そしてそういうブレーキ役を果たすのが 日本という国の伝統的機能のような気もする。
もうこの先、根本的な知的革新はないだろう
インド洋の大津波は戦後体制をきれいに洗い流す予告なのかなあ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 【1960年代以前】 対象←→意識 【1980年代以降】 意識2 ↓ 対象←記号→意識1 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (この図式は5年ほど前に考えた)
人類史上もっとも大きな知的業績を上げたのはガリレイである。 そしてガリレイの業績は誰にも越えられない。なぜなら何を考えても それはガリレイが創始した科学の中の一つにすぎないから。 という考えに俺は長いあいだ縛られてきたが、 最近そうでもないような気がしてきた。 我々の歴史はたまたまガリレイが先行したものの、 ふつうは産業革命が先じゃなかろうか。 またガリレイといえどもまったく何もない状態から落体の法則を 発見したわけでもなく、当時はそういうふうに自然現象を数理的に 解明するムードは高まっていた。例えばデカルトも落体の法則に ついては数理的に考えている(間違ってたが)。
つーか、落体の法則くらい紀元前に誰か発見しててもいいのに
■旧体制と一人で戦うホリエモンは平成の高杉晋作です。 去年の第一次長州征伐(球団買収)には敗れましたが、 今回の第二次長州征伐では幕府軍は腰砕けとなり、 ホリエモンは平成維新第一の功労者となるでしょう。
赤ちゃんをテレビ漬けにすると言葉や社会性の発達異常が起きる。
(「テレビ自閉症」)
また、
>>378 の図式で意識1の意味が成立しなくなるのもテレビのせいだ。
そして、そのメカニズムで生きる意味を喪失したのがひきこもりだ。
よってテレビ放送は法律で全面禁止するのが望ましいのだが、
それができないなら、ひきこもりをテレビによる公害病患者と認定し、
一生困らないだけの障害者年金を支給すべきだ。
もちろんその財源はテレビメーカーやテレビ局・広告代理店に負担してもらう。
苦痛には2つのレベルがある。 レベル1=けっこう苦しい状態ではあるが普段は適当にやりすごしている。 レベル2=適当にやりすごせない。意識はその苦痛に耐えることに集中。 それではレベル3とか4というのはないのかと言えば、ない。 それはレベル2に含まれる。まずレベルを2つに分けるのが重要なのだ。
ところでよく「株を51%以上取ったら」とか言うけど、 50.1%でも50.01%でもいいわけだからこの表現はおかしい。 そこで俺は提案する。「未満」の反対語として、 「満上」(まんじょう)という言葉を作ろう! これなら「株を50%満上取ったら」で無問題。
>>378 の下の図式では意識1と意識2の関係が示されているわけだが、
それではその図式を認識している意識は意識3なのかというとそれは違う。
現実の我々の意識は意識1と意識2の混合だが、
意識2の割合が高すぎると意味の喪失が起きるというわけだ。
■■■■■ 動物 ■■■■■□ 幼児 ■■■■■□□ ヤンキー ■■■■■□□□ 普通人 ■■■■■□□□□ インテリ ■■■■■ □□□□□ 離人症? ↑ ↑ 身体的自己 精神的自己 離人の感覚はよく「幽体離脱」と表現されるが、図式化するとこんな感じか。 精神があまりにも普遍的であろうとするあまり、 特定の世界を受け入れることができない。
あらゆる可能世界が一つに凝縮しているのが現実世界である
ニオイに過去の記憶をよみがえらせる作用があるのはなぜか。 それはかつてヒトが野生動物だったころ、 ニオイで行動していい範囲かどうかを判断していたからだろう。 ふだんとはちがう過去に経験したニオイがするのは行ってはならない場所。 (ただし人間は、かつて経験したニオイに危険を感じるのではなく、過去をなつかしむ)
1.今とはちがう歴史的世界(例:日本がアメリカに勝った世界) 2.今とはちがう物理的世界(例:原子がクォーク2つでできた世界) ふつう可能世界といえばこの2つのことだと思うが、 3.今とはちがう言語化不能世界 というのもあると思う。
もっとも「無からの宇宙の歴史」という意味では、 今とはちがう物質形態の世界も、 今とはちがう歴史的世界のうちに入る。 それでは今と同じ世界で、主観の場所が異なる世界 (もし私が私以外だったら)もパラレルワールドと言えるのだろうか。 もしそうならこの世界は63億のパラレルワールドということになる。
2ちゃんは私的メディアである
100万人が騒いでも公的には存在しないこととされる
それに対し書籍は公的メディアだ
たとえ発行部数が千部でも
しかしこういう状態はそう長くは続かないだろう
かつて封建時代に支配者に異議を唱えるのは制度外のことだった
一揆は公的には存在しないものとされた
2ちゃんの言論が公的に認められたら日本は一気に変わるだろう
そういう意味でライブドアの功績は大きい
曲がりなりにもネットの存在を公的に認めさせた
昨年はライブドアの登場のほかに『電車男』という事件もあった
しかし社会の2ちゃん化がいいことかどうかはわからない
公的権威がなくなって大混乱に落ちいるかもしれないから
しかし少なくとも俺にとってはいいことだ
今が最悪だから
早く大変革の時がこねえかな。1933年のドイツのような。
電脳世界に浸ると現実世界がものすごいことのように感じることがよくある
「スター」とは社会意識の変化を代表する存在である (しかしそういう時代は1984年で終わっている)
「言語ゲーム」という言葉があるが、哲学とは「言語化ゲーム」である
言語や数学はそれだけではシステムとはいえない。 生命や経済はシステムといえる。物質的内容があるから。
哲学が何かなんて永遠にわからないしわからなくていい
政治・経済・文学・芸術・恋愛なんかも全部そう (自分が何をやってるかわからない)
世界は囲碁のようには理解できない
414 :
角川思軒 :2005/04/04(月) 05:15:47
>そして、次の111番のローマ教皇は、「オリーブの栄光」と表現されている。 >そして、最後の112番には、次の言葉が記されている。 > >ローマ聖庁が最後の迫害を受ける間、ローマの人ペテロが教皇の座に就く。 >ローマの人ペテロは多くの苦難のさなか、子羊を司牧する。 >この苦難が去ると七つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人びとに下される。 マラキの予言によれば、次の法王の時代に最後の迫害が始まるわけだな。
らやま はなた さかあ り み ひにち しきい るゆむ ふぬつ すくう れ め へねて せけえ ろよも ほのと そこお 3回 2回 1回押す 携帯電話の文字入力はこういう形のほうがよい。 ボタンは3×5で、「あ」のところを1回押せば「あ」、 「あ」を2回押せば「た」、「あ」を3回押せば「ま」という具合だ。 ここの携帯電話は左手で本体を持って右手の人差し指でボタンを押す。 ひらがな/カタカナ/英字などのモード変換は、 本体側面のボタンを左手で押すようにする。
×ここの携帯電話は ○この携帯電話は
−−−−−−−− |は|あ|6|1| −−−−−−−− |ま|か|7|2| −−−−−−−− |や|さ|8|3| −−−−−−−− |ら|た|9|4| −−−−−−−− |わ|な|0|5| −−−−−−−− 携帯電話のボタン配列はこれでいいじゃん これならほとんどの文字はボタンを2回押しただけで出る。 「あ」「3」⇒「う」、「か」「8」⇒「ぐ」、「や」「0」⇒「ょ」 「は」「6」「6」⇒「ぱ」(P音だけは3回押す) 「た」「1」⇒「っ」(これだけちょっと例外)
419 :
訂正 :2005/04/07(木) 08:40:54
−−−−−−−− |6|1|は|あ| −−−−−−−− |7|2|ま|か| −−−−−−−− |8|3|や|さ| −−−−−−−− |9|4|ら|た| −−−−−−−− |0|5|わ|な| −−−−−−−− 携帯電話のボタン配列はこれでいいじゃん。 (ケータイの主な作業は文字入力だからカナが左側だな)
420 :
訂正 :2005/04/07(木) 08:42:44
×カナが左側だな ○カナが右側だな
まず自分の脳を少しは進化させてみろよ。
手は脳の一部であり、手で扱う道具も脳の一部である。 ゆえにケータイを進化させることは脳を進化させることなのである。
−−−−−−−− |6|は|あ|1| −−−−−−−− |7|ま|か|2| −−−−−−−− |8|や|さ|3| −−−−−−−− |9|ら|た|4| −−−−−−−− |0|わ|な|5| −−−−−−−− こういうのもありかもよ
424 :
■ :2005/04/09(土) 06:55:21
−−−−− |は|あ| −−−−− |み|き| −−−−− |ゆ|す| −−−−− |れ|て| −−−−− |を|の| −−−−− たったこれだけで全てのひらがなは2回押せば出る 「あ」=「あ」「あ」、「ぁ」=「あ」「は」 「き」=「き」「き」、「ぎ」=「き」「み」 「ぴ」=「み」「き」(P音は、ま行を借りる) 「わ」=「を」「は」、「ん」=「を」「み」、 「っ」=「を」「ゆ」(小さい「っ」は、わ行を借りる) 「や」=「ゆ」「は」、「ゃ」=「ゆ」「あ」
■世界の終わりが近づいている。 その証拠に中国の経済発展が世界の調和を破壊しはじめた。 例えば世界の粗鋼生産は1970年から約30年間ずっと7億トン前後で 推移してきたが、2000年あたりから急増し、去年は10億トンを越えた。 原油価格も高騰しているし、もうすぐ資源争奪戦争が始まるのは確実だ。 ここで注意すべきは中国が経済発展したから世界が終わるのではなく、 世界が終わる時が来たから中国が破壊的影響を与えるようになったということだ。 ていうかもう世界は終わっている。今はみんなで21世紀ごっこを演じてるだけだ。 文学も芸術もアイドルもお笑いも恋愛も家族も実はすべて死んでいる。 さいきん中国や韓国の若者が反日で騒ぎ出したのは、 自分たちには未来がないことを悟って、ここ半世紀のあいだ日本が繁栄を 享受しつづけたことに猛烈に嫉妬し始めたのだ。 最近ローマ法王も死んだし、人類の意識状況は終末へどんどん加速している。
これからの時代は問題がたくさん蓄積しており、 世界がより良くなっていくと感じる人と、 より悪くなっていくと感じる人との2つに分かれるでしょう。 どちらの意見も、一見世の中のことを言っているようでありながら、 実は自己の内面のことを言っているのであります。 豊かな心を築いていこうという理想を持っている人が、 よーーーく自己の内面を見つめることが出来れば、それが分かるはずです。 世界の新しい動きは、実はここにあります。 世界を肯定できる人が、世界を動かしていくのです。 それは人類の進化の鍵となるでしょう。
20世紀後半は進化が加速した時代だと思われていたが、本当は退化だった
上海の反日デモは江沢民の悪あがきだろう
新法王(オリーブの栄光)は多分ヒトラーユーゲント出身ということで、 さっさと退位させられるぞ。わくわく。 そうなったらその次が最後の法王だ。
ゲームに興ずることに意味はない。 「すべてはパロディだ」という言明は実はゲーム批判だった。 しかし新しいゲームを作ることには意味がある。 これをメタゲームと呼ぼう。 今までは生命活動(とその延長の経済)全体が一つのゲームにすぎないとして、 世界全体は無意味で死んだものと思ってきたが、 そう簡単に切り捨てるもんでもないかもしれない。 人間の自由はその創造性によって担保される。
俺なんかはやれ77年に意識はメタ化しただの85年に世界は死んだだのと盛んに 言うわけだが1970年以降に生まれたやつらはそんなことは全く気にしてない。 これは俺が天皇制や共産主義を全く気にしてないのといっしょだろう。 つまり俺はどうでもいいことにこだわってるのかもしれん。 実際俺も1930〜40年代の意識の変化なんて調べようとも思わんし。 まだ世界は終わってないらしい。やれやれ。
小泉首相が靖国神社に参拝するのは当然だ。 なにしろこの国では政治のことを「まつりごと」と言うのだから。
昔の西城秀樹やドリフターズには価値があったが、 今の歌手やタレントには有名人としての価値がまったくない。 これはテレビというメディアが飽和して、 すべてがフラットになってしまったということだろう。
カーブを曲がり切れずに片輪走行から滑空、激突、死者多数 というJRの事故は近未来の日本を予言してるようだ。 今後日本は時代のカーブを曲がり切れず、多数の犠牲者が出るのかも。
1985〜87年ころ大きな意識の変化があって、未来が灰色になった。 1995年の変化ではそんな進歩意識なんか捨てて今までの文化の反復で いいじゃんとなり、1970年代的文化が再演されることとなった。 ところが今回の変化ではその再演さえ不可能になりつつある気がする。 つーかもう何もかもどうでもよくなってきた。
■「世界にはもともと意味がない」にもかかわらず、 意味があると思っているやつを笑うというのが80年代前半のパロディ文化。 しかし80年代後半になると無意味を笑うことにも意味が感じられなくなり、 「そもそも意味があるとかないとはどういうことか」と問う段階が来た。 しかしその問いにも完全な解答が与えられ、もう考えることはなくなった。 だから若者の動物化(ネオテニー)は起きた。 東氏は情報が脳の容量を超えたから動物化が起きたというが、 そもそもメタ化自体テレビの情報が脳の容量を超えたから起きたもの。 1968年に爆発した「若者文化」というのが実は単なる退行(幼児化)で、 動物化のはじまりなのだった。
■大昔の人間は宇宙の歴史を実感することができた、 とルドルフ・シュタイナーは言っている。 つまり自分が体験したわけでもない経験をすべて思い出すことが出来た。 だから彼らは歴史を書く必要がなかった。 人間が歴史を書くようになったのは歴史を思い出せなくなったからだ。 そういう意味で古典古代(BC5世紀〜)とは大いなる退化の時代だった。 そして、それと同様の大いなる退化が今も起きている。
■1970年代生まれには「メタレベル」という言葉はもう通じない。 なぜなら元々のオリジナルな状態からのメタ化体験がないから。 まあしかしこんな体験はしないほうが幸福だ。 無限のメタ化を目指して際限のない意味除去運動に走って とんでもない苦痛を味わうことになるから。
■メタゲームの限界は伝言ゲームの限界なんかじゃない。 自己言及的限界のことだ。 例えば文化相対主義が多文化主義へと発展した時、それでは民主主義を 認めないやつらを民主主義のゲームに参加させてもいいのか、という問題。 あるいは「○○には意味がない」という言明には文化を相対化させる 意味があるが、「「○○には意味がない」ということには意味がない」 となってしまうと何も考えられなくなる。 そこで意味の根拠として生命を持ち出す必要が出てくるわけだが、 これは一定の大きさ以下には意味がないとして 理論の発散を防いだ超弦理論とパラレルな現象だ。 ■人間は14〜15歳のころ世界を客観視するようになる。 これを個体意識のメタ化と呼ぼう。 それとは別に1977〜78年ごろ社会意識のメタ化(ポストモダン化)も起きた。 そして1977〜78年ごろ14〜15歳を迎えた人間はこの2つのメタ化を 同時に体験することで奇妙奇天烈な意識状態を生きることとなった。 すなわちオリジナルな意味の世界から一気に完全な無意味の世界へ 飛ばされてしまったのだ。 たとえばオタク第一世代の代表たる1958年生まれが14〜15歳を迎えたのは 1972〜73年なので個体意識がメタ化してもまだオリジナルな意味は 生きたままだし、その状態は一生維持される。 また、東や北田のような1971年生まれが14〜15歳を迎えたのは1985〜86年だが、 この世代はものごころがついた時から社会意識はメタ化していたので、 それほど世界が変わったとは感じなかった。 1962年生まれ(宮崎勤、佐藤宣行、上佑)が不可解な犯罪を起こしたのは 彼らが奇妙奇天烈な精神世界を生きているからだし、 1986年の新入社員が「新人類」と呼ばれて異星人扱いされたのも 前年までに入社した人間とは明らかに異質だったからだ。
世界の歴史は物質の歴史である
80年代には消費も思想も犯罪もすべて面白文化に統一されたという議論があり、 世界は平準化され突出したものは何もなくなったように思われた。 しかし実際はテレビというメディアが突出したのだ。
テレビには世界を終わらせる作用がある。 だから国民の7人に1人がうつ病になるのだ。
財産の共有は人類の解放である(共産主義) 意識の共有は人類の進化である(ニューエイジ)
ニューエイズ
「自由」という言葉には二つのレベルがあると言った人がいたが、 「進歩」(あるいは「未来」)もそうだな。 実無限的究極の進歩と、とりあえずの進歩。 共産主義者やニューエイジ主義者が実無限的進歩の信奉者だ。 俺は「今とはちがう世界が実現するはずだ」と仮定して、 現状を何もかも否定する態度をとり続けてきたが、 そうするうちに政治経済がすべて無意味に思えてきた。 今まではそれでいいと思ってきたが、 どうも政治経済という枠組みはこの先もずっと変わらないらしい。 つまり政治経済がすべて無意味に思えるというのは病気だ。うつ病だ。 そろそろ俺も生活態度を改めんといかんな。
究極の進化などというものはない
2050年にも人々は普通に本を読んでいるだろう
私有財産がなくなればこの世の悪は消滅する(共産主義) 物質形態がなくなればこの世の悪は消滅する(ニューエイジ)
昔のテレビは素晴らしく面白かったので みんなそっちの世界へ行きたいと思った。 一部の人間は実際に芸能界に入ることを目指したが、 そういう現実的テレビ界ではなく、 テレビが与えるユートピア幻想を目指したのがニューエイジだ。 しかし今のテレビは無惨なまでにつまらない。 これならニューエイジ幻想にハマるやつもいないだろう。
共産主義の私有財産否定が実は社会の退化でしかなかったように、 ニューエイジの物質否定、書物否定も実は 幼児的全能願望という退化でしかなかった。 (コトバも食事も勉強も仕事も必要なく、病気や老化もない世界。 ってそりゃ「ゲゲゲの鬼太郎」だろっ)
ニューエイジ≒乳幼児
なんか最近いよいよ江戸時代的になってきたなあ。 人間は千年先も今と何も変わらないだろう。
柄谷行人は去年、場所の感覚がなくなってきたと言っていた。 東京にいようがニューヨークにいようが何のちがいもない。 これは柄谷にとって衝撃的事態だろう。自分の本に 『差異としての場所』というタイトルをつけるくらいだから 場所の差異の感覚は人間にとって根源的と考えているはず。 そして場所の感覚がなくなるということは 「哲学界」とか「芸能界」といったそれぞれの文化界の 感覚もなくなり、哲学者とか芸能人という特別な人間の感覚も なくなるということだ。いずれは一人々々の人間が個性を持った 存在だという感覚も失われるだろう。
455 :
考える名無しさん :2005/07/05(火) 11:24:06
■「メタ意識」は意識のガンだ。 すべてを無意味化して最後は個体を殺してしまう。
■ひきこもりとは親に対するデモンストレーションである。 ちょっとでも外出すると遊んでいるのではないかと思われるので 部屋から一歩も出ないことで 自分は遊んでいるわけではないと証明しているのだ。
文化には水平な文化と垂直な文化がある。 これまで垂直文化の虚構性を解体する時代が続いてきたわけだが、 そろそろ力を抜いてやはり垂直な文化というのもあると認めても いいんじゃなかろうか。 例えば将棋は水平文化だが囲碁は垂直文化だ。 文学は水平で数学は垂直。しかし数学の中でも幾何は垂直だが、 離散数学のようなパズルの類は水平だ。つまりわずかの原理から 体系が演繹されないような不純な文化は一切認められない。 しかし例えば人間の心理が一つの原理から全て演繹されると 人間の意識は成立しなくなるだろう。あるいは一人ひとりの人間を 別々の個性ほ持った人間として認識するのも演繹的態度を拒否しているからだ。 つまり人間は演繹的(=科学的)に生きることは原理的に不可能なのだ。 しかし今の態度はやめたくてもそう簡単には妥協できないだろうなあ。
×個性ほ持った ○個性を持った
女:男:哲学者=99:100:10000 0000 0000
俺は今までメディアを特別視しすぎてた。 メディア(技術)だけが超越的とは言えない。 軍事技術、生産技術あるいは政治技術なども 人間の生活(あるいは意識の成立)にとって不可欠だろう。
そもそも文芸批評家が一番偉いという考え(小林秀雄)がまちがいだ。 批評家は究極のメタレベルを目指すがそんなものはない。 しかし大昔から究極のメタレベルのない分野がある。ケンカや戦争だ。 1の攻撃に10の反撃が来るかもしれないし、それに対してまた 100の再反撃をするかもしれない。究極の安全というものはない。 (ついでに言うと究極的に安全な財産もない) このような暴力的現実に思想はどれほどの意味があるのか。
さすがに2000年代も5年半経って この世界はもう変わらないものとして 受け入れるべきではないかという気がしてきた。
「恋愛は世代交代の手段で世代交代は進化の手段」というのも 悪しき目的論のような気がしてきた。 生命は進化のために世代交代するのではなく、 単に世代交代する生物種が結果的に環境に適応して変異しただけ。
意味=物質システム
科学思想、技術思想、芸術思想、歴史思想、言語思想、宗教思想、教育思想 などと列挙した文章を見たがこんな文を書くやつはバカだ。 一人の人間にとって思想は一つしかない。まさに「哲学は一つ」だ。 俺の場合は技術思想だけでいい。つかそれ以外の思想は考えられない。
観念論というのは単に面倒なことにかかわりたくないだけだが 単純な問題がすべて解決されれば 面倒なことについても知的に扱いたくなるだろう。 ちょうど科学が線形から複雑系へ進んだように。
普遍は特殊に宿る
469 :
◆EvilehrjfI :2005/09/10(土) 20:21:59
470 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2005/09/11(日) 04:55:45
いつになったら人間に羽が生えるの?
不明です
472 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2005/09/11(日) 12:50:09
>>470 まず前段階として、腕を4本にしなきゃいけないよ。
人間が空をとべるためには羽の長さが片翼20mをこえなきゃいけないらしい。
それもただ滑空するだけだそうだ。
鳥類のように骨を空洞にするとか、胸筋や背筋を異常発達させるとか、
いろいろやらなきゃならない。
473 :
凡人 :2005/09/11(日) 14:48:31
>>1 番さん
同様な意識を持って十数年、人の心の隅々まで探求をし誰でも分かる心の仕組みを捜し得ましたが一般の人は
関心が薄く哲学板の人は通人よりも遙かに純真な心が稀薄で猜疑心が強く有りどうしたものかと思案中です。
もしも貴方なら心の目の見えない人にどうしたら宇宙の宝庫に繋ぐ道を見せるにはどうしたら良いと思いますか?
それには心の目を開いてあげれば良いのですがその方策まで思惟を深めていませんでした。
人類史上、僅かな者達が越えた山の隣にまた山が有るとは思いも付かなかった私の思慮不足でしたね。
474 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2005/09/11(日) 16:34:03
今地球上にいる動物の中に何らかの進化の兆し或いはその過程が認められるものは存在するでしょうか? 例えば象やライオンや鷹やイルカや鮭やチョウチョや蜂などはこの後どんな進化が考えられるでしょう?また今現在どんな進化の途中なのでしょうか? それとも最早生物の進化は終了したのでしょうか?
475 :
ぬえ :2005/09/11(日) 17:29:13
たしか何かの魚が進化のしようとしているって見たことある。 その魚の突然変異種が増えているんだそうだ。 新しいカタチを模索しているんだとよ。 あと数百年で完了するみたいな事きいたな。 まあ、しらねぇけど。
476 :
凡人 :2005/09/11(日) 17:47:13
人の心は数億年も前、既に進化を遂げています。 人は心で聞かず、心で見ず、心で話しをしない為に己の素晴らしい心に気が付きません。 抱えきれない心の宝を持って居ながら、その事に気づかず宝を探しています。 自分の弁当を手に持っているのに俺の弁当は何処だ、と言われたら貴方はどうしますか?
477 :
ぬえ :2005/09/11(日) 17:48:53
ここはそんなスレとちがいますよ。
478 :
考える名無しさん :2005/09/26(月) 17:47:06
細菌がひょっとしたらこの宇宙では大数派なのかも知れない・・・ と悲観的になってきました・・・
人間の知能の進化を最近は「心の理論」で説明することが多い。 相手の人間にも自分と同じような心があって、 その中にまた自分の心があるという入れ子構造の話だ。 しかし入れ子構造の次にさらに質的な飛躍がある。 それは自分の心を他者の心として想像する 普遍的第三者(神)の心の導入だ。 この普遍的視点の獲得とともに自意識は誕生した。 (5000〜1万年前)
いつもパソコンで文章を書いているとよく漢字を忘れるが、 これは漢字を書くことを前提に記憶する脳内中枢と 単に読むだけのために記憶する中枢がちがうからだ。 (俺はきょう「鹿」という字がなかなか思い出せなかった) まあ思い出せないのが漢字だけならいいのだが、 俺は最近歌を口ずさみながら時々歌詞が出てこなくなった。 これは漢字を忘れるようになったことと密接な関係があるのではないか。 つまり日本人にとって漢字を記憶するということは記憶メカニズムの 基本であり、それが壊れると全ての記憶があいまいに なってしまうのではいかという気がするのだ。 だからやはり普段から文章はできるだけ手書きで書かないといかん。 学生の学力低下の原因も授業のノートまでパソコンに入力すること かもしれん。
人間の意識の状態とは神経回路のオン・オフの順列組み合せだ
例えば昭和30年代の流行歌を聴くと異次元の世界と思う
それは唱和30年代は ●●●●●●●●●● と10個の神経回路がオンだったのが、今では ●●●●●●●●●○ こんなふうに一つだけオフの状態になったというようなことだろう
さて進歩とは次々と神経回路をオフにしていくことだ
そして1985年にはその進歩意識自体がオフになった
別の言い方をすると進歩とは雑音を消していくことだ
例えば普通の人間の意識は性欲という雑音に支配されている
しかしこの雑音を消すとそれまでは聞こえなかった音が聞こえるようになる
そしてその音の響きや由来を分析するのが哲学なのだ
しかし雑音を消すのにも限度がある
すべての神経回路をオフにする以上の静けさはない
すべての神経回路をオフにするといっても 生命の維持に関する回路はオフにはできない
あらゆる意味を削ぎ落とすためには極限の努力をしないといけない
しかし生命の危険を感じたら一時中断して回復に専念するしかない
ということはつまり自分が生命体であるということは 無条件に認めるということだ
われ苦行を中断する。ゆえにわれ生命体なり。
デカルトが到達したコギトというのは結局こういうことだろう
進歩の過程においては特定の順番で神経回路はオフになっていった
しかし進歩が終わってしまえばもう歴史にとらわれる必要はない
これからはオンオフのあらゆる順列組み合わせを試してみて 一番いい状態で生活すればよい
いったん獲得されたオフ状態は二度とオンにしてはならない というのが進歩主義だが、もうそんな態度に意味はないのだ
もう禁欲的生活を続けることに意味はない。 すでに意味の構造はクリアに解明できている。
「すべては中心なきシステムである」 「自己意識も生命システムが作り出した幻想にすぎない」 この考えはまちがいだ。少なくとも最初に生命が誕生した時は 生命意志と生命システムが同時に発生したはずであり 生命システムだけが本物で生命意志は幻想とはいえない。 今まで生命意志というものを否定しすぎた。 科学的態度としては必要なものかもしれないが、たぶん その態度を厳格に守りつづけたから世界が無意味になったのだ。
超越×超越=日常 「俺は普遍的哲学を樹立した」 「あんたみたいな人間をDSM−3類型というんだよ」 これは宮台が「全体の部分化」と呼んでいるものだが、 メタレベルのメタレベルは日常レベルであることがわかる。
アニメのキャラクターにしか魅力を感じない二次元コンプレックス という言葉はよく聞くが、テレビなんかによく出る有名人にしか 魅力を感じない有名人コンプレックスというのもあるよな。 有名人以外は無価値という意味で「パンピー」という言葉は生まれた。 しかしテレビに超越的魅力があった時代は有名人に感じる魅力が特別に 強かっただけで、身近な人にも普通に意味はあったが、テレビが日常化 すると身近な人は日常以下の存在になってしまい誰ともつきあう気が しなくなる。だからひきこもりやニートが増えるのだ。 テレビ放送を全廃せよ。(それとポルノも厳しく取り締まれ)
■『限界の思考』p279で宮台が面白いことを言っている。 >たとえば、引いた視線から見れば「<生活世界>の一部にテレビ >(を見る生活)が組み込まれている」というのが実態なのに、 >当事者の視線から見れば「(テレビがもたらす)広い世界の一部に ><生活世界>が組み込まれている」という転倒的感受性が >自然になります。 この「転倒的感受性」によって意識のメタ化は起きた。
あると思えばなくなるが、ないと思えば出てくるもの。それが意味。
508 :
凡人 :2005/11/09(水) 12:54:56
>>1番 今こそ進化の時 同意見の基での探求結果です C我々大衆が智恵を会得すること。「誰もが生まれ付き備えている潜在知能を呼び起こす」尤も古く尤も新しい脳 B物事の理を悟ること。「物事の正否、善悪を見極める心」真の道徳、倫理観に依って産み出される。 A真の道徳、倫理観を会得すること。全ての力を崇拝する蒙昧意識の支配する社会に依って育てられた者達にとって 最も乗り越える事の厳しい心の壁です。 @無数の確率を潜り抜け得る事と成った己の命と関連の全てに深い思いやりと感謝の念を探求し育てること。 「@番の心が人の知能を育て智恵を産みだす【物事の理を悟る】唯一の道です」
宇宙飛行士と言えばかっこいいが実態は宇宙作業員だ。 テレビのバラエティと言えばかっこいいが実態は大衆演芸だ。
テレビを見ている時、脳は非日常回路で認識しているが、 この時日常回路との落差が意味として認識される。 しかし幼少期から毎日テレビを見て育つと 日常生活も非日常回路だけで認識するようになり意味は死ぬ。 これはちょうど腹筋運動しなくても電磁的刺激だけで腹筋を鍛える 装置を毎日つけてたら、その装置をつけなくても腹筋がピクピクして 止まらなくなる異常状態といっしょだ。
1970年代ファッションというのがあるが、1990年代以降のワンオブゼム のアイテムとしてのそれと本当の70年代ファッションは意味が違う。 すなわち70年代における70年代ファッションというのは唯一絶対の 超越的ファッションだったのだ。 それと同じことが70年代音楽についても言える。 今の若者はサザンオールスターズを単に若者向けの音楽を作る職人 だと思っていて、サザンの70〜80年代の作品も単なるワンオブゼムの 職人芸としか思わないが、実際はサザンの70〜80年代の作品は 唯一絶対の超越的アートだったのだ。 だからといって今の若者の認識が間違っているとは思わない。 それはそれでよい。今はもう超越的価値を追求すべき時ではないから。
「松本人志には男気スイッチがついてない」 と言った島田紳助にはメタ化スイッチがついてない。
麻木久仁子は1962年生まれ(11月12日)だったのか
レイザーラモンHGの「フォー」は究極の笑いである
何を議論するべきかについて議論するのが哲学である
いじめ問題は簡単に解決できる。 小中学生のいじめっ子を犯罪容疑者として警察が取り調べれば 自分がやったいじめ行為を洗いざらい自白するに決まってる。 なにしろ大人の凶悪犯罪容疑者が簡単に自白するくらいだから 日本の警察はよっぽどすごいノウハウを持っているに違いない。
なんか今度という今度はもうダメじゃないかという気がするなあ。 まあ俺の体調がよくないというのが一番の根拠なわけだが、 体調が悪いだけなら今まで何百回もあった。 しかし今度という今度は今までとは違う気がするんだな。
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なんか最近奇妙な事件がいろいろ起きるよなあ。 日本の戦後民主主義の崩壊が近づいている証拠かも。 サヨクの西村真悟逮捕に対抗して 自民と民主の保守派が連合してクーデターを起こすという展開か。
サブゲーム(囲碁、将棋) 人間ゲーム(政治、恋愛) メタゲーム(哲学、批評) この3つの中で意味があるのは人間ゲームだけである
1976年から見た1956年は想像を絶する大昔だったが 2006年から見た1986年はついきのうだ。 しかし今の小中学生にとって1980年代は想像を絶する大昔なんだろうな。
1985年=NICs 2005年=BRICs
「新人類世代」という呼称はもう実態に合わない。 歴史の終わりを体験してしまったという意味で 【究極の世代】 と呼んでほしい。
★コンビニでのコンドーム販売派の主張 ・急に必要になったとき買えるので性病や妊娠を抑えることができる ☆コンビニからコンドーム撤去派の主張 ・24時間買えるという環境が若年層の安易な性行動を煽っている ・コンビニという小学生も出入りする日常空間に18禁指定もなく 置かれることでセックスは日常的なものという意識を植え付ける ・今の社会に蔓延する「同意があれば婚前交渉は自由」という 誤った常識に対する批判を何らかの形で示さねばならない ・緊急時に購入できるというメリットを考慮しても不道徳な性行為の 全体数が増えるので(その中の)装着なしの行為によって性感染症や 中絶という不幸な目にあう人数はむしろ増える ・クラミジア感染者や(男に捨てられたことを直接の原因とする) 女のリストカットの激増がこれまでのやり方の間違いを証明している なお薬局でのコンドーム販売は否定しません。 「コンビニでのコンドーム販売は行き過ぎだ」という一点にだけ 賛同できれば是非この運動に参加して下さい。 恋愛や性道徳の細かい話で同意できない部分があっても 雑談だと思って無視して下さい。
自由恋愛(によるセックス)はレイプである。 対価を払うセックスは正当で、払わないセックスはレイプだ。 ゆえに売春は正しい男女関係である。 自由恋愛は無法状態であり一部のDQNがかわいい女の子を食い散らす。 それに対し結婚は性を万遍なく分配し社会に秩序を与える。 しかし俺は昔に戻れと言っているのではない。 とりあえず最初のカップリングだけは平等にしろ。 男は複数の処女を奪ってはならない。 そして男と女が別れる時は常に男が慰謝料を払うことにする。 ただし結婚しても仕事をやめないキャリア女には払わなくてよい。 このルールを導入すれば日本は見違えるような国になるだろう。 そもそも恋愛感情とは経済的なものだ。 男は女を守りたい(経済的庇護)と思い、 女は自分を(経済的に)守ってくれる男にその代償として愛情を注ぐ。 ところが今は男女平等で男は自由に女を捨てていいという。 こんなバカな話があるか。 今は世界中が自由恋愛という凶悪な思想に洗脳されているのである。 女性の社会進出は進歩ではなく退化だ。 男女分業によって恋愛感情は成立しているのであり 男女が同等に働くようになれば人間は類人猿に戻るだけだ。 ていうか類人猿(=DQN)になり切れない人間は狂った社会を拒否する。 それがニートやひきこもりと言われる人たちだ。
■ヒヨコは殻を破って最初に見た動くものを母親だと刷り込まれる。 処女に価値があるのもこのメカニズムによる。 つまり女は最初にセックスした男に愛情を抱くよう刷り込まれるのだ。 これは生物進化の過程で獲得された機能で、 この刷り込み現象がなければ何百万年もヒトという種が続くわけがない。 そして無理矢理でも犯してしまえばその女は自分を愛してくれると わかっているから男は処女に魅力を感じる。 「結婚まで処女を守るなんて何の意味もない」という言説が まかり通っているが、そんなことを言うのは処女を犯すことに 欲情する人間である。処女に魅力を感じなくなった男は性欲自体が 減退するのでそんなセリフを吐く機会もなくなる。 そりゃ「処女なんて意味ない」と言いつつ処女を犯しまくった 団塊世代とかDQNは気持ちよかったろうよ。 悲惨なのは「処女なんて意味ない」という言葉を額面通り受け取って 性欲も生きる意欲もなくした人間だ。 ■スーフリの和田サンは 「女なんて無理やり突っ込んでしまえば、あとは奴隷だよ」と言った。 処女は最初にセックスした男を特別な存在として刷り込まれる、という 性質がある以上こうなることは必然だ。 しかしこの機能は人間の男女がつがいになるためのものであり 恋愛とはつがいを成立させるため人生の一時期にだけ味わうことが 許されるものだ。しかし自由恋愛という妄想思想はこの一時的なものを 生涯にわたって味わおうとするから無理が出る。 男とつきあって捨てられた処女はそれだけ恋愛ポテンシャルが 低下するので次につきあった男は最初の男ほど愛せない。 だから相手の男にも捨てられやすくなって結婚へ至るケースは激減する。 つまり自由恋愛にいそしむ男の大多数はスーフリの和田サンと同じ事を しているのであり和田サンを非難するなら自由恋愛も非難しないとおかしい。
>149 :いい気分さん :04/08/29 14:03 >コンドームの仕入れ値は安い。伝票見て驚いた。 >定価の3割くらいだった。 コンドームって儲かるんだ ■フリーセックスは人間としての存立基盤の否定だ。 人間は家族を作ることでチンパンジーなど他の類人猿から分かれ、 人間となった。ここで配偶者以外の個体と性行為をしてはならない という道徳意識が発生する。本来はオスはより多くのメスに 自分の精子をバラ撒きたいと願い、メスはより強いオスの精子を 受け取りたいと願うのが生物的本能だろうが、人間はなぜか家族 という単位を形成することを選び、特定の異性に対する愛情も この家族という形態を維持するために発生したものだ。 そして人間の恋愛感情や性的欲望はこのような「やりたくてもできない」 という両義的意識、タブーの感情に基づいて成立している。しかし、 結婚という枠組みを取っ払ってなんでも自由だとなってどうなったか。 性的欲望の減退=セックスレスの増加だ。今ふつうに欲情できるのは もともと理性や道徳意識のないDQNだけだ。DQNだから平気で 女を捨てる結果、一人の「モテ男」が何十何百という女を独占するように なっている。どうしてこういう狂った状況が肯定できるのだ。 またフリーセックスが成立するためにはオスとメスが同等にエサを 自分で調達しなければならないが、こんな行動様式では男らしさや 女らしさは生まれず恋愛も成立しない。今回見つかったハーレム男が 犯罪なのは自分が恋愛できるのは大多数の人間が道徳的生活をしている からなのに自分だけ非道徳な快楽を味わおうとするからだ。
■さっき教育テレビでも言っていたが セックスする相手が多い男ほどコンドームはつけない。 つきあった女が一人か二人という男はきちんとコンドームをつける。 つまりコンビニがコンドームを置いても 多くの女とやりまくるDQNはコンドームなんかつけやしない。 むしろコンビニという公共的性格の強い店がコンドームを置いて 若者の不特定多数とのセックスを公認したのが性病蔓延の元凶だろう。
■「性病予防のためセックスする時はコンドームを使いましょう」 という言説とコンビニでの販売を合わせると社会が不特定多数との セックスを容認(あるいは奨励)していることになり、不特定多数の 女とセックスする男はどうせ女も不特定多数の男とセックスしてるんだろ と思い、仮にデキても誰の子かわかりゃしねーよと判断して コンドームなしの行為がはびこることになるのだ。
■(コンビニに売ってないことで中絶に至るケースはごく稀だ。なぜなら) >俺は普段はキチンと避妊するが、たまたまなくて妊娠したようなケースの >ことを言っているのであり、自宅にコンドームを買い置きできる環境に >あっても生でやるほうが気持ちいいし出来たら出来たで堕ろせばいいと >思ってるようなDQN夫婦のことを言っているのではない。 >40代の中絶件数が多いのはこういうDQN夫婦のせいだろう。 >こういう倫理観の麻痺を招いたのがフリーセックスの風潮なのだ。 > >それと非婚化で40代未婚女性の中絶も多いだろうから結婚外の >性交渉をタブーとする意識が高まればそういうケースは減少する。 >(40代の未婚女性も減るだろうし) > >今でも生でするやつはコンビニで売ってても生でするわけだから >コンビニが撤去したからといってどれだけ生が増えるというのか。 >そんな微々たる増加を心配するより安易な性交を奨励するような >社会環境をなくすほうがはるかに有効なことは目に見えている。
蓮実重彦が1988年ごろこんなことを言っている。 「19世紀が19世紀らしくなってくるのが1830年ごろで 20世紀が20世紀らしくなってくるのが1915年ごろだから 21世紀が21世紀らしくなってくるのは2007〜08年ごろだろう」 磯崎新はコンピュータデザインの面からこの予想を肯定しているが 俺は「未来から来た男」の「2008年からアメリカで始まった内戦が 2015年の全面核戦争の始まりだった」という予言(回想?)との 符合が気になる。この男は2001年の段階で2004年のオリンピックが 最後のオリンピックになると言っていたが、 2006年の冬季五輪は含まなかったようだ。
「文学が展開しなくなったのは世界が展開しなくなったからだ」 と高橋源一郎が言っている。しかし本当は 「これまで文学が展開していたと思っていたのは錯覚だった」 と言うべきではあるまいか。
世界は幼稚だ、と最近思えてきた。 しかし、そういう結論が出たこと自体は進歩だ。
イラクやフィリピンなど急に世の中がキナ臭くなってきたぞ。 ハルマゲドンよ始まれ!
認識の水準をゼロに揃える。 生きる意味がないのはそういうフラットな認識を求めるからだ。 しかしその目標は最近達成された。 そんなものが達成されてもどうということはなかった。 まあフェルマー予想といっしょで、問題が解決されるまでに いろいろと発見するのに意味があるということだろう。
ひなまつり ひまなつり
537 :
考える名無しさん :2006/03/05(日) 19:32:41
マイ・リバー・サイド 今、始まる おとうちゃん ヤラシカッタころの私
1985年は進歩がなくなったのではなく 純粋進歩時代に突入したと言うべきかもしれない。 なぜなら進歩とは動物的欲望を否定して 純粋に形式の革新を追求するものだが 1984年まではまだ進歩という動物的感覚が残っていたと言えるから。
やはり「愛がすべて」というのは正しいかも。 愛とは世代交代の手段であり世代交代は進化の手段だから 進化(進歩)こそ究極の目的である、と今までは言ってきた。 まあそれ自体は正しいのだが進化と愛では主体のレベルがちがう。 進化を究極の目的とするのは社会で、愛を求めるのは個体だ。 個体は単に愛を求めて盲目的に振る舞ってればよい。 そうすれば結果として社会が進化する。 しかも進化を求めて完全に愛(意味)を否定できるかといえばできない。 なぜなら「あらゆる意味を否定する」というのも一つの意味だからだ。 それまで否定してしまうと個体意識自体の否定になり何もできなくなる。
それに西暦2000年になっても世界は終わらなかった。 人間精神の進歩の果てに超越的ジャンプはなかった。 そういう超越的変化がないのなら何も必死こいて努力することはない。
まあ「あらゆる意味を否定する」という意味が崩壊しない ギリギリのレベルに踏み止まって今までやってきたように 今後も探究を続けるという考え方はあるが これ以上続けて成果が上がるか疑問に思えてきた。 ていうかもうギリギリまで世界を否定できなくなった。 俺は今まで世界の存在も自分の認識をすべて受け入れない という態度で考えてきたが、やはり自分に感情があるのは 動物的身体に由来するんじゃないかと思えてきたのだ。 そして感情が動物由来なら理性も動物由来と言わざるをえない。 だったら肉体を超越した純粋に精神的な存在に進化するのは無理だ。 精神自体が肉体に依存して成立しているものだから。
×世界の存在も自分の認識をすべて受け入れない ○世界の存在も自分の認識もすべて受け入れない
「人間精神の進歩の果てに超越的ジャンプはなかった」 ということは、そういうジャンプがあると想定していた 進歩の観念自体が錯覚だったということだ。 自由恋愛が根拠のない犯罪思想だったように 1970年以降、人類は夢を見ていたのだ。 確かに進歩は心地のよい夢だった。 しかしそれは共産主義者にとって共産主義が 心地のよい夢だったのと同じことだ。 具体的な不自由から解放されることはあっても 人間の解放などというものはない。 俺も所期の課題(人間はどう振る舞うべきか)は すべて解決したわけだし、これ以上いまの生活を続ける意味はない。
どれだけ努力して成果を出しても誰も認めてくれないしな
きのうのNHKスペシャルに出てた 中国の自動車会社の社長は すごいキャラクターだったなあ
何もかも拒否するという方法は常に正しいとは限らない
なぜなら今後1000年間、すべての有能な人間がその方法で考え抜いたら もう新しく発見できるようなネタは残ってないだろうから
ていうかもう考える気もせんわな
超越的進化がないとわかってたら
しかしだからこそ俺が徹底的に考える必要があったとも言える
渡辺貞夫がナベサダなら重松清はマツキヨだ
性欲がすべての人間活動の根本だというのは本当だ
性欲を極限までなくす実験をした俺が言うのだから間違いない
単に意欲がなくなるだけではない
意欲という言葉の意味がわからなくなる
例えばテレビに女子アナが出てるとしよう。 この人こんなことして何の意味があるんだろう、と思う。 似たような代わりはいくらでもいるのに どうしてこの女子アナでなければならないのか。 あるいはお笑いタレントでもそう。 どうしてこのタレントはテレビに出るのか。 テレビに出るということに意味があると思っているのか。 というふうに意味基盤としての人間個体の価値が どこかに行ってしまうのだ。この人はこの人であって この人以外の何者でもない、ということがわからなくなるのだな。 しかしそういう状態も普遍的なことを発見するためには 必要なものだったのかもしれない。 まあそんな状態はそう長続きするもんでもないがな。
性欲というのは特定の人間が意味のあるものと化す作用だが そのときは特定の人間だけでなく 世界全体が意味を持った物語空間と化す。
よく下半身は別人格というが 性欲というのは通常の意識とは別の次元で成立しているのは確かだ。 そしてその別次元の回路が世界に意味を与えているわけだ。 これはもうブラックボックスであって そのメカニズムを解明するなんて不可能だ。
というわけでもう努力するのやめた
今は大きな時代の変わり目なのかもしれない
「進歩」の崩壊は巨大な進歩だった
アナザーワールドは存在しない
普遍は特殊に宿る 超越は日常に宿る
現実否定が昂じてくると地球の独裁者になってもつまらないと思う
極大のこと以外は無意味と考えると その極大にも意味が感じられなくなる。
実際はどんな小さなことにも意味はある
>564 あるいはどんな絶世の美女を手に入れてもつまらないと思う
離人症のテレビ原因説を否定することが離人症の症状である
どうして世界の存在を受け入れていいかわからない
どうして言葉をしゃべっていいかわからない
どうして政治などという生ぬるいことができるのかわからない
どうして小説を書くなどという生ぬるいことができるのかわからない
どうして働くなどという生ぬるいことができるのかわからない
世界の中にあるもの(図)の意味もないが 背景としての世界(地)の意味もなくなる。 (これは極端な生活を長期間続けた人しかわからないだろう)
世界の独裁者になってもつまらないというのは病気だ
ヒトラーは軍事的独裁者だった
毛沢東は思想的独裁者だった
麻原彰晃は宗教的独裁者を目指した
んじゃ俺は道徳的独裁者だな
世界中が信じて疑わない自由恋愛をひっくり返すわけだから
それとテレビ放送も大幅縮小する
テレビ局はNHKと民放一社のみ
放送は一日3時間(午後9〜12時)
先日も集団自殺で20代の若者6人が死んだ
テレビに殺されたのだ
1998年以降の自殺(&うつ病)の激増もテレビのせいだ
どうしてこんな巨大な犯罪を放置してるのか
『脳内汚染』が大ブレイクしてほしいものだ
『文藝春秋』最新号で著者が対談している
『子どもが壊れる家』もいい本だった
『なぜその子は腕のない絵を描いたか』という本もあったな
あとガン医療も巨大犯罪だったが最近NHKがようやく採り上げはじめた
まあ高血圧とか高脂血症、糖尿病なんかも大問題だがな
裁判員制度も裁判官があまりにも狂ってるのが導入理由だ
『電波男』が今の狂った恋愛を正面から批判したのも画期的だった
大きな流れとして変革の時は近づいてきていると思う
日銀の量的緩和解除もその一環だろう
ていうか最近の俺の心境の変化もその前兆だろう
今まで一切の現実を拒否してきたのは自分の境遇を合理化した面もある
これは本当の世界ではなくいつかまったく別の世界が実現するのだ、と
しかし、そういう状態に終わりが来るとは夢にも思わなかった
日本が変わるとすれば世界資本主義が崩壊する時だろう
『資本主義は花火のように爆発する』という本もあった
アメリカの住宅バブルの崩壊が近いという話もある
中国で集団抗議事件が頻発しているらしい
鳥インフルエンザも少しずつ広がってきた
何よりライブドア事件が時代の転換を示している
いくらなんでも今年中には大きな転換が起きるだろう
といってもなかなか変化って起きねえからなー
俺は世界経済の崩壊は1987年から期待してるからなー
まあ世界経済は崩壊しなくても俺が自由になるだけでもいいがなー
まあこんな書き込みしてるうちは病気は治ってないけどな
後期ウィトゲンシュタインという言葉がある
だったら俺は後期松田聖子と言おう
『赤いスイートピー』以降のことだ
別に俺はファンではないが
やはり松田聖子の登場は画期的だった
70年代前半に第一次アイドルブームというのがあった
確かに当時のアイドルは魅力的だったが完全に納得していたわけではない
例えば共産主義者が現実の社会を否定するように 人間の世界認識には常に否定の要素が伴う
プームであることは認めるが、そのブームに乗って活躍してるのは あくまでB級の連中であって、本物は未来のいつか登場するだろう
その期待に応えるスターが登場しなかったから 70年代の後半にはブームは下火になった
つまり、新しいスターへの期待のハードルはかなり高くなっている
そのような状況でなお松田聖子はスーパーアイドルとして大ブレイクした
よほどの意識の変容がなければこんな現象はありえない
しかし1980年前後にはそういうよほどの変化があったのだ
マンザイブームがその大きな現れだ
批評用語も80年をはさむ数年間で一変したと柄谷行人が言っている
しかしその80年代アイドルもまだ最終的本物だとは思ってなかった
究極の本物は90年代に来ると信じた
しかしその前の1985年に文化の死という大事件が起きてしまった
進歩というものが意識されはじめたのは1830年あたりからだろう
俺はそれを「有感進歩」と呼んでいる
それは古いものを次々と否定していく作業だった
すべてを否定し尽くしたとき人類は新たな段階へ進化するはずだった
ところが実際は現実認識の回路が切断されて障害者になった
これは笑えない悲劇だ
人類は純粋に精神的な存在へ進化する、などと信じてたのだから
江原啓之はいまだに宇宙人は精神的存在かもしれないと言っているアホだ
この前ベッキーの回でそう言ってた
しかしベッキーが言ってた裏切られた体験というのはやっぱり男だろうなー
それは自由恋愛という思想がそもそも狂っているからです
プロレスでロープに振られたレスラーが跳ね返ってくるのは演技である
それは長い間知らなかったなー
しかしバラエティ番組でお笑いタレントやアイドルが バカのふりをしているのはいまだに知らない人が多いと思う
実は俺も最近それにはっきり気がついた
ネプリーグという番組に出てた山本梓というアイドルを見てだ
むかし堺正章がなんかの番組でお金は貨幣価値が変わると値打ちが なくなりますからねえ、と発言したときものすごい違和感を感じた
堺正章というお笑いタレントが「貨幣価値」などという言葉を 知っているのが意外だったのだが、失礼な話だ
そりゃ知ってるって
しかし大方の子どもはテレビでバカを演じてるタレントは 本当にその程度の頭だと信じているだろう
これって実は大問題じゃないの?
俺が人類の精神的進化を信じたのもそれと関係がある
つまりテレビの世界とは活字的教養の世界とはかけ離れた世界なのだ
また、現代人のほとんどが自由恋愛に騙されたのも テレビの世界ではそれが当然のように成立しているからだろう
たぶんテレビ草創期の制作者は自由恋愛がウソとわかってたはずだ
ウソと知っててお茶の間に自由恋愛というファンタジーを売っていた
ところがテレビを見て育った世代はそれを素直に信じてしまった
全共闘世代のことだ
かれらが起こした60年代後半の文化革命によってそれは不動の真理と化した
それ以外にもテレビの世界は精神的進化を遂げた世界に似てる所がある
たとえばテレビの中の人間はみんな知り合いだ
みんなテレビに出る有名人なんだから当然ではある
しかしニューエイジ主義者の考える理想世界も やはりみんな知り合いなのだ
なぜかというと未来の理想世界では人間関係も理想的になる
そして理想的人間関係とは全員がどういう人間か知った上で 一番好きな人とつきあうものでなければならないのだ
実はケータイの出会い系サイトとはその理想を実現するためのものだった
出会い系サイトの原型を発明した俺が言うのだから間違いない
しかしそれは安易なセックスの手段へと堕落してしまった
こうなった以上、出会い系サイトは一刻も早く禁止すべきである
あとテレビの中の人間は常ににこやかである
テレビの世界では誰もケンカなんかしない
それを真に受けた少年は現実生活でケンカができなくなる
今の子どもはふつうにケンカもできないと非難するのは間違いだ
それは大人がテレビで子どもを洗脳したからそうなるのだ
あとテレビの中の人は働かない
まあ実際はテレビに出ることが仕事なのだが子どもにはそう見えない
それにテレビの中の人は死なない
実際に死んだという報道はあってもそれはドラマと区別がつかない
実際に死んだという人も再放送とかで何度もテレビに出る
まとめよう。テレビの世界において人間は
みんなバカで、自由に恋愛して、みんな知り合いで、ケンカもしなくて、 仕事もしないし、死ぬこともない。
これは何だ?
ゲゲゲの鬼太郎だ。つまりテレビの世界とは霊界なのだ。
「ニューエイジ主義」は別名「霊的進化論」ともいう
つまりそれは新しいようでけっこう古いイメージに依っているのだ
共産主義の描く理想もこの霊界のイメージに近いものだろう
まあ俺がニューエイジ的進化を信じてたのは1998年の7月までだがな
苦労したのはそっから先だ
進化を信じてた時はまだ世界の枠組み自体は否定しなくて済んだ
しかし安易な進化がありえないと思うようになってからは 可能性を求めてあらゆる対象を否定しなければならなかった
まあそのおかげで自由恋愛とかテレビについて理解は深まった
ミニ将棋の発明というおまけもあった
気持ち悪いほど順調だ
まあこれが選ばれた人間ということだろう
というわけで俺がヒトラーを超える指導者になるのは確実なわけだが
しかし賞賛されるのは死んだあとかもしれん
まあ病気ですから
ていうかまさか2006年まで生きているとは思わなかった
1999年も見届けたことだし、もういつ死んでもいいな
田中れいなは惣流アスカ・ラングレーに似てる
仲正昌樹 中川雅也(リリー・フランキー) ともに1963年生まれ。昨年から今年にかけてブレイク。 名前も似てる。同じ星の下に生まれた双子のような存在。
広島県と福岡県からは同じ時期にスターがよく生まれる
吉田拓郎と井上陽水
西城秀樹と郷ひろみ
吉川晃司とチェッカーズ
奥田民生とKAN
アンガールズとカンニング
そして仲正とリリー
実は有名人は古い歴史のある土地からよく輩出される
明石家さんま=奈良
島田紳助=京都
中曽根康弘と福田赳夫の群馬は古代関東の中心(巨大古墳あり)
福岡が有名人を多数輩出するのは古代日本の中心だったからだろう
最近は岡山が元気だが前方後円墳はもともと吉備が発祥の地
岡山出身=メグミ、次長課長、B'z稲葉、橋本龍太郎・・・
広島は毛利元就か原爆関係か
お笑いタレントは東京の北東方面に多い
ビートたけし=足立区
山田邦子=北区(十条は俺も2年半ほど住んでた)
古館伊知郎=北区滝野川
石橋貴明=板橋区成増
片岡鶴太郎=日暮里
山口県宇部市も最近多いぞ
庵野秀明、西村知美、福永法源
かっこいいアニメ主題歌
バビル二世
マジンガーZ
デビルマン
海のトリトン
マッハGO!GO!GO!
サスケ
ジャングル大帝
アタックNo.1
印象深い80年代ヒット曲
時間の国のアリス
恋の予感
晴れときどき殺人
恋人たちのペイブメント
天国に一番近い島
ホールドミーナウ
君はtooシャイ
アイライクショパン
ロンリーハート
青春のいじわる
プロフィール
全部1984年だ。80年代は84年がすべて。
1983年、アルフィーは『メリーアン』でブレイクした
しかしそれ以前の2〜3年も出す曲出す曲すべていい作品だった
しかし不思議なくらい売れなかった
それは日本人の集団的意識がアルフィーを拒否していたからだ
アルフィーが体現していたのは自由恋愛だった
その証拠に高見沢も坂崎もいまだに結婚していない
しかし83年、ついにダムは決壊してしまった
1958年生まれはおたく評論家が多い
しかし玉置浩二、飛鳥涼、小室哲哉も揃って58年生まれだ
83年から98年くらいをこの3人でつないでいった印象がある
約15年間も同い年の人間が音楽界を引っ張ったのはすごい
似たようなことは山田邦子と久本雅美にも言える
1960年生まれの2人が四半世紀も女性お笑い界をリードしている
松田聖子と麻木久仁子はともに1962年生まれ
1962年生まれには脳科学者が多い(例:茂木健一郎)
1965年生まれにはミュージシャンが多い
1966年生まれにはAV男優が多い
1968年生まれには作家が多い
1970年生まれには将棋指しが多い
1971年生まれには批評家が多い
1976年生まれにはIT企業家が多い
特定分野の人材が特定の年に集中するのはチョト不思議
マクスウェル→1879年→アインシュタイン
ガリレイ→1642年→ニュートン
マルクス→1883年→ケインズ
ニーチェ→1889年→ヒトラー
このリレー現象も不思議だ
ニュートンが85歳で死んでから偉大な科学者はよく85歳で死ぬ
プラトンが80歳で死んでから偉大な哲学者はよく80歳で死ぬ
今こそ道化の時!
現代は錬金術が実現した時代である
中国の歴史は日本の3倍長いが 面積(や政治的中心)は10倍あるので合計30倍だ
小泉が靖国に参拝するのは中国で新幹線を作りたくないからだ
21世紀の歴史は『アニマトリックス』をなぞっている
「日本人初」という言葉には「人間初」と言ってるような響きがある
1750年代=宝暦
1760年代=明和
1770年代=安永
1780年代=天明
江戸時代だとこのへんが一番好き
つーぎーのーよーるかーらあー
かーけーるーまんげつよりー
じゅーうーよーんーばんーめのー
つーきーがーいちばんすきー
囲碁で黒番はタスキ星に構えるのがよい
なぜなら白の配置が4通りしかないから(ただし星と小目に限る)
白が2手目に左上隅星の場合は事実上一通りしかない(右下白は小目)
白もタスキ星にするのはさすがに打ちづらいだろうから
黒のタスキ星を嫌って白左下隅星なら当然ミニ中国流にする
つまりミニ中の前提としてタスキ星の研究が必要なのだ
韓国囲碁年間という本を見たら韓国の若手棋士がすげーカッコよかった
「囲碁年鑑」のまちがいです
韓流ブームの起きる理由がわかった気がした。 韓国では日本でとっくの昔に死んだ物語が生きている。
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かつて企業の中に労働組合を作ったように、すべての中学校で 「一般生徒を校内暴力団から守る会」 を結成しなければならない。誰が標的になってもおかしくないいじめが 学校に蔓延したのは教師が学級管理を放棄したからだ。 だいたい教師は反権力を大義名分に生徒管理を放棄するわけだが 実際は自分の能力を査定されるのを拒否して今の高給な地位に 安住したいだけだ。(かつて勤評闘争という実に身勝手な運動が あって教師は上司に勤務評価されるのを拒否した) そんな理由で無法状態に放置される生徒こそいい迷惑である。
「いじめ」という言葉がよくない。「ストレス発散暴力」にすれば?
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○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○● | | | | | | | | | ○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○● | | | | | | | | | ○●─○●─○●─○●─○●─○●─●●─○●─○● | | | | | | | | | ○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○● | | | | | | | | | ○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○● | | | | | | ○ | | | ○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○● | | | | | | | | | ○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○● | | | | | | | | | ○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○● | | | | | | | | | ○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●─○●
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ベルーソフ・ザボチンスキー反応
戸田格子
箱玉系
イジング模型
ハイゼンベルクの強磁性体モデル
バクスターの6頂点模型
視点論点で小浜逸郎がいいことを言っていた
少子化対策で男女平等の労働環境を整えても効果はない、と
それよりも自由恋愛を見直して結婚のインセンティブを高めろ、と
おお、まさに俺がずっと主張してきたことだ
まあ遅かれ速かれ自由恋愛という発狂思想は全面否定されるだろう
しかしそれは歴史的に必要な段階だったような気もする
第二次大戦で日本とドイツが勝ってたらそこで歴史は終わってた
しかし米英が勝ったおかげで自由恋愛という展開があった
自由恋愛がなければビートルズも松田聖子もなかった
マンガやアニメもなかった
ビデオやテレビゲーム、インターネットもなかったかもしれない
それらまずエロ情報から普及したから
テレビ文化やテレビCM文化もなかっただろう
それはたとえばポルトガルという国のような状態だ
ポルトガルはサラザールという独裁者が戦後も君臨した
しかし経済発展はなく遅れた農業国に止まった
ソ連が遅れたのもすでに理想社会を達成したと思ったからだ
理想社会はそれ以上発展も技術革新をする必要もない
まあ究極に進歩した社会を見たいという人類の欲望のなせる業だろう
それは西暦2000年を目標とする千年王国思想だった
西暦2000年を千年王国実現の年とするユートピア小説は 19世紀ヨーロッパで山ほど書かれている
代表例『かえりみれば』(1888)エドワード・ベラミー
まあこれはアメリカだがな
しかし最近は本当に世界が変わったと思う
20世紀までは常に最先端でなければ無意味だった
それは垂直の超越を目指すものだった
しかし、そんな超越なんかないということになった
となるとあとは水平に拡大していくだけだ
かつてはそんな水平の拡大なんか意味がないとされていたものだ
しかし今はもう水平の意味だけでいいんだということになっている
もはやこれに適応するしか人間に生きる道はないだろう
しかしはたしてそんな世界が持続するのだろうか
人間が人間たりえたのは垂直の進歩を目指したからではなかったか
まあそれはいくら考えても結論は出ないだろう
しかし自由恋愛やリベラルのウソがバレたらもう世界はもたない
イラクのような内戦になるか超監視国家になるかだろう
精神疾患で退職する教師が多いのは自分の思想のウソに気づいたからだ
まあ日の丸・君が代に反対するなんて明らかに狂ってる
しかし実は社会の進歩という考え自体が狂っているのだ
リベラルが崩壊した日にゃあとんでもない数の精神疾患者が出るぞ
それがわかっているから朝日新聞は狂った路線を修正できない
まあしかし水平世界は実はとんでもなくいい世界なのかもしれない
それは一言で言うと女の世界だ
今までだって垂直世界という男の世界に女も住んでいた
だったら水平世界に男が適応するのも不可能ではあるまい
そもそも近代以前に垂直意識なんかなかった
「新しい中世」と言ってる人もいるしな
まあそうなるとしても社会や国際秩序の激変は避けられない
だからその激変を見物して楽しむ以外にないな
かつて東京のイメージといえば西新宿だった
今はレインボーブリッジ周辺の光景だ
かつて日曜午前10時といえば『笑っていいとも増刊号』だった
今は爆笑問題の『サンデージャポン』だ
サンデージャポンは新人類世代の感覚で作っているのがよい
爆笑太田は安易に文学と妥協しているのが少し不満ではあるけどな
まあタレントとして活躍するにはそれしかなかっただろう
爆笑田中は太田より学年が一つ上だけあってテレビ文化べったりだ
ここらへんは一歳ちがうと精神文化が大きくちがってくる
つまり爆笑問題というのはテレビ人間を文学人間がバカにするコンビだ
しかし80年代はテレビ人間が文学人間をバカにした時代だった
それではどちらが正しいのか
テレビも文学も両方客観化できる知性の登場が待たれるところだ
ピンクレディーの事務所は株の仕手筋だったそうだ
まあやくざだな
だからピンクレディーは毎日3時間しか寝れなかったんだな
やくざに金のなる木として馬車馬のように働かせられた
しかもミーは借金漬けにさせられている
やくざがよくやる手段だ
こんなひどい人権侵害はない
ほかにも人気絶頂のアイドルの給料が5〜8万円という話はザラだ
いったい左翼は何をしていたのか
「芸能界は怖い世界だと親に言われましたが実際はちがいました」
とアイドルは言うが「本当に怖い世界でした」なんて言えるわけない
実際は怖い世界なのだ
岐阜県高山市は大阪府や香川県や東京(本土のみ)より大きい
マンションの耐震偽装というが今まで震度5で倒れた例はない
1981年以前の基準と比べないと本当の危険性はわからない
上海のある場所は千年前は海だった
十条の前はやはり2年半ほど荻窪に住んでいた
まず最初に駅前の富士銀行に入って口座を作った
と思ったらそこは第一勧銀だった
「東京のまちは把握できない」とタモリが言ってた
地方出身の人間は自分の故郷のまち全体を把握しているからそう思う
俺は東京を把握したくて明治通りも山手通りも環七も環八も全部歩いた
環状道路だけでなく主要な放射道路もすべて歩いた
それでやっと東京というまちは完全に把握しなくていいんだとわかった
駒沢通りをずんずん歩くとダイナミックな山道が鉄道と立体交差してた
日本橋の上の首都高撤去絶対反対
首都高のない東京なんて東京じゃない
そんなに昔に戻したいなら超高層ビル全部ぶっ壊せっつーの
ビル街の中を高架道路が駆け巡るのが未来都市なんだな
俺は江戸城の石垣の上に首都高が乗っかってるほうが違和感がある
しかしそれでも撤去しろとは言わないんだから日本橋の上も撤去するな
しかし江戸城は一日も早く復元してほしい
離人症の原因はテレビである
離人症者は自分と世界が透明な膜で隔てられているという
この透明な膜の正体がテレビのブラウン管というわけだ
乳幼児期のテレビ視聴によって脳にテレビ認識の回路が組み込まれた
こんな有害なテレビを人間はやがて拒否するはずだ
だからテレビの視聴率はどんどん落ちていくと俺は思った
しかし最近テレビの週刊視聴率トップ10は軒並み20%を超えている
【訂正】週刊→週間
どうやら日本人はテレビに適応してきたらしい
まあテレビが組み込まれても離人症にならない人間もいるからな
理性のない人間のことだ
離人症というのは常にメタレベルから世界を見降ろそうとするからなる
与えられた環境を丸呑みにするような人間はならない
つまりテレビには人間をバカにさせる作用があったということだ
たぶん「透明な膜」というのもバカにとっては快感として作用している
もともと言語自体、透明な膜として世界を認識する装置だった
すなわち言語が作り出す理想世界と現実世界の間に膜がある
どうもこのテレビ適応と自由恋愛の横行は並行関係にあるようだ
自由恋愛とは人間としての基盤の否定だ
なぜならそれは家族の否定であり類人猿への退化だからだ
となるとテレビに適応してしまった人間はもはや人間ではない
やはり人類は滅亡しつつあるらしい
しかしそういう意味では人間は1994年の時点ですでに終わってた
1995年以降歴史が復活したのは退化という最後の手段によるものだった
95年はインターネット元年でありオウム事件の年でもある
しかしその延命策もそう長続きするものではなかった
自由恋愛体制が崩壊したら人間は終わりかも
いや、それは理性的人間が思うことで歴史は普通に続いていくだろう
しかし30〜40代の男はテレビをあまり見ないとNHKで言ってた
だから理性的人間も普通に生き残るのかもしれん
いわゆる二極化だな
ホントはテレビを見ない人間を人間とは呼びたくはないのだが
まあそれは人間概念のオーバーランで、むしろ非人間的なのだろう
どうもそういうところに落ち着くようだな
現代思想なんて政治経済の現場では影も形もないと岩井克人が言ってた
『インターコミュニケーション』の座談会で
古典的な形而上学が幅をきかす世界
まあ物質を超越するとかしない限りそういう枠組みは変わらんよな
そういうふうに見切ったのも一種の思想的進化だろう
ほんま近代終わったわ
モーニング娘のメンバーが普通にしゃべるのを見てそう思う
ホントなら21世紀にはテレパシーが実現しているはずだった
まあエアカーも実現しなかったし、そんなもんやろな
10歳上はものすごい年上だが10歳下は自分とそうちがうとは思わない
10年後はものすごい未来だが10年前はついこのあいだだ
いま5年後の未来を怖れているのも30年後から見れば笑い話だろう
テレビおじゃマンボウが終わる。 松本紳助も終わる。 爆笑問題ノススメも終わるのかな? この春はけっこういろいろ終わるなあ。
ウィニーが違法ならインターネット自体が違法だという話がある
いろんな情報が流せちゃうからな
日本人は制度を最初から完成したものと思いこんでいる
しかしあらゆる制度は誰かが勝手に始めたものだ
なにしろ遣隋使以来染みついた性格なのでなかなか脱却できない
だから同じ日本人が何か新しい提案をしても受け入れない
日本人に新しい提案なんかできないと決めつけている
ていうかそもそも「新しい提案」というものが理解できない
だから欧米から輸入した自由恋愛を疑うことができない
多重人格症の幼児期性的虐待原因説もな
歴史の反復説では柄谷行人でさえ拒否される
俺が何か言ったところで相手にされないわけだ
まあ最近やっとコンテンツを評価しはじめたがな
しかし日本人って創造性ないよなー
新しい文化や思想を創造したことがない
浮世絵や落語などといったレベルではなくもっと普遍的なやつな
20年ちょっと前、柄谷が自己言及の線で挑戦したが成果はなかった
しかし歴史の60年周期説はまずまずの創造だ
もっともあれの主要部分は俺の理論のパクリなんだがな
「主要な世界商品の交代」という部分だ
歴史の反復要因が各サイクルごとに変わっていくという発想
これは俺の反復理論の「要因としてのメディア進化」で初めて登場した
5万年前=概念
5千年前=文字
5百年前=活字
50年前=テレビ
5年前=インターネット
というやつだ(50億年前まである)
これは少なくともアインシュタインに匹敵する業績だろう
ではどうして俺は認められないのか
それは俺には世間にアビールする能力がないからだ
×アビール ○アピール
つまり本を書く能力がない
しかし本を書く人間は誰も俺の理論は発見できなかった
つまり本が書けるような人間は世界を疑う能力がないのだ
そういうどうしようもないバカが俺をバカにしやがる
だから俺は腹が立つのだ
ふつう俺くらい巨大な発見をしたら誰か協力者が現れてもいいものだ
それがまったく現れないとはどういうわけだ!
いや、実はそれには有力な説明もある
それは俺の理論が世界に広まっても意味はないというものだ
といっても理論自体に意味がないわけではない
理論はすばらしいのだが社会に広まる意味はない
つまり世界の終わりが近いということだ
そういうことなら俺もしかたないなと思う
しかし本当にそうなのか(次スレにつづく)
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