ついでに、
名指しではないが、別のスレでわたしに対して批判をしていると思われるようなレスを発見しました(ピカではない名無し)
わたしがここで行っていることが他ならぬ彼のような者に対する批判であるとだけ書かせてください
>ポールさん
>>258 失礼、遅くなりました
いえいえ、こちらこそ、お付き合いお願いします
>>283 >近々ヘーゲルに関しての批判をばかぁ〜さんに対して行いたいと思います
お待ちしております。「絶対的相対主義者の態度」というのがよくわからないので、
そのへんの解説もいただけるとありがたいです。また、>ばかぁ〜さんは弁証法を
「破棄可能性」と表現しましたが、とありますが、僕は弁証法のことを「破棄可能性」
と表現したことはありません。では、お待ちしております。
こしあんさんて、のなめさん?複数固定持ちだとしたらかなりがっかり。
>のなめさん
遅くなりました。
(おそらく知っての通り)僕はこのスレの主旨にはあまり関心がなく、のなめさんとの
「客観主義−主観主義」の議論を望んでいます。ですから、またもやスレ違いになりますが、
性懲りもなく同じことを繰り返させてもらいます。のなめさんの御寛容を願います。
まず、のなめさんは現象学について誤解をしているようなので、そちらを先に訂正させてもらいます。
>わたしは、このような者は「主観は確実で、疑いようがない」という思考をしているためと考える
>>174 ここでいう「主観は確実」とは、「(私の主観に現れる)経験世界は確実」という意味だと思いますが、
経験世界は絶対的に確実であると現象学は言っているのではありません。そうではなく、
「(絶対的に正しいかどうかは断定できないが)正しい、確かだ、と我々が確信する最終的な根拠は経験世界しかありえない」
という意味で「経験世界こそが我々の最も根源的な根拠である」と述べます。
ある入門書では、「超越論的主観性とは信念システムである」と(確か)述べられていました。
あくまで「信念」「確信せざるを得ない」であり、「確実で疑いようがない」と積極的に肯定しているのではありません。
科学も、「実証」というまさにこの原理に従ってその信頼性が保たれています。
例えば万有引力の法則が正しいことを最終的に「確信」するのは、各自の経験世界のうちでの実験結果や
計算結果、そしてそれを他者の経験世界とのすり合わせるという経験世界内での手続きを経ることにより
それは正しいに違いないと我々は確信し、むしろ確信せざるをえません。
現実と全く接点のないような抽象理論でさえ、経験世界での論理性に頼って理論の正しさを確信するという意味で
経験世界をその基盤にもっています。
その上で、
>わたしは実在の設定を倫理的要請に頼っています
>実在の設定は謙虚な行為であり、独我論は謙虚ではなく傲慢な行為です
>>188 に対して反論させてもらいます。
僕が現象学の、「全世界が開けてくる場としての超越論的主観性」に共感を覚えるのは、
僕の日常の世界観に非常に即しているからです。
世界の存在者をその様態で分類すれば、「物質−概念」「人間−動物」等様々な
分類の仕方があります。しかしこれは客観主義的な見方からみた世界の区分であり、
実際の僕の実感とは異なっています。
世界には無数の存在者がありますが、その中で唯一根本的に異なった在り方をしている
存在者は僕です。僕以外の全ての存在者は──他者も犬も数学理論も時間も──僕の世界に
現れる対象物として存在しています。しかし僕だけは、僕の世界のどこを探してもみつかりません。
もちろんここでは僕の身体も僕ではなく、他者の身体と同じく、僕の世界に現れる対象物にすぎず、
僕ではありません。「僕」とはもちろん、「世界が開かれてくる場」超越論的主観性です。
「現存在とは、世界が開けてくる場である」というハイデガーの人間の定義に、客観主義者であった以前の僕は非常な感銘を受けました。
客観主義的世界描写では、この実感を説明できません。
なぜなら、そこでは僕ものなめさんも全く同じ在り方をする存在者として一くくりにされて
しまうからです。
客観主義者から見れば、ポールものなめさんもばかぁ〜さんも人間という同じ在り方をする
存在者にまとめられますが、僕の実感をよく振り返ってみれば、僕だけが他の存在者とは
全く異なった在り方をしています。
その違いは何かと言えば、先ほど述べた「世界が現れてくる場(僕)−その場に現れる対象物」
という対立項で表現できます。
僕に与えられた世界は、僕という場に開かれた経験世界だけであり、その各自の経験世界を
お互いにすり合わせたとき共通する経験・知──誰が見てもコップに見える等──から、
各自の経験世界の外に共通する客観世界や客観知が存在するだろう、と便宜上推測したことから
客観主義が生じます。
客観主義とはこのように、各自十人十色の相貌で現れる主観的世界から構築されたものです。
その意味で、客観主義を含む全ての知は、主観的世界のうちから生じると考えることに論理上
間違いがあるとは思えないし、ましてや、「独我論は謙虚ではなく傲慢な行為です
>>188」は全く的外れであり、
むしろその「自然主義的態度」を実践上の要請を根拠に信じることこそ、哲学徒としては誤った行為ではないでしょうか?
僕にはのなめさんの客観主義は、科学擁護のための理論、科学的方法論の基礎付けであると感じます。
もちろん科学のような客観主義的語りは必要であり、(その世界が客観世界だろうと、共同主観的世界であろうと)
一つの客観的な世界描写として正しい方法論ということはもちろん認めています。
その基礎付けも重要な仕事であると考えています。
しかし、ここが科学でなく、哲学の場であるならば、科学万能の現代の世界観から排除されがちな主観主義的語り
──これこそ哲学の重要な仕事だと僕は思っていますが──を否定するのなめさんに不満を覚えます。
繰り返せば、「世界は僕をも一点景として含む客観的世界である」とする客観主義的語りと共に、
「世界とは僕という場を起点に開けてきたものである」という語り方も同様に正しい世界描写だと思っています。
そして、「独我論を徹底すれば、純粋の実在論に合致する」のではないかと考えています。
もう一つ。
のなめさんは主観主義的語りを否定する根拠として、以下を挙げています。
>もし我々の主観しか存在しないのだとしたら、我々のもつ知識はすべて我々の内部において発生したと考えられる
>しかし、多くの科学理論をわたしが自ら考え出したと考えれるほどわたしの頭は賢くない
>1、本に書かれたことからも我々は知識を得ることができる(その著者が意図しなかったことさえも)
>2、数学者ピタゴラスがタイルに描かれた図形を見て新しい数学を発見したように
>我々の思考からも、我々は新しい知識を発見することができる
>>188 至極もっともな反論でありますが、逆にのなめさんに問いたいと思います。
「のなめさんは『全ての知が私の主観の内で生成されることは”できすぎ”だ』と言われますが、
『世界が数学で成り立っている、もしくは我々は数学的に世界を解釈できることが”できすぎ”だ』と
同様に考えないのですか? なぜ前者だけ『できすぎである』と可能性を排除するのに、後者では
その可能性を事実として受け入れるのですか? 単に実践上の要請以外の何物ではないのではないですか?
もし実践上の理由であるならば、それを客観的な知、真理(に近い)と考えることは許されるのですか?」
ある意味屁理屈を言っているのは僕も承知しています。
しかし僕が言いたいのは、独我論に限らず哲学的に世界を観察すれば、世界自体ができすぎに、不可思議に
成り立っているのであり、その不可思議さに客観的に正否を付けられるのか、ということを問いたいのです。
のなめさんは「客観的に正否をつける必要はない」と反論するでしょうが、今までの議論から読み取れば、
明らかに何らかの客観的真理を要請し、それを想定すること求めているのなめさんがこの言動を根拠に
僕の主張に反論するのは矛盾していると感じます。
客観知を要請しながら、それと具体的な知との照合の適否を拒否しているからです。
>>ポール
>>288-293はちと難しい。
>ある入門書では、「超越論的主観性とは信念システムである」と(確か)述べられていました。
具体的書名キボン
ポールさんへ
(僕は「イデーン」も「論理学研究」も読んでないです。すみませんがそれを前提に生意気なレス。)
「客観主義」とは「僕」と「僕の世界に現れる対象物」に関する知を固定、つまり主観と対象を
分離してしまい、のちにその一致を目指すもの、と言えると思います。デカルトから始まった近代
の知のあり方。しかし、ヘーゲル、ハイデガーはそれに執拗に抵抗し、近代によって捨象された
ギリシア哲学やロマン主義を持ち出してその問題構成自体を攪乱しようとする。主観−客観の分離、
そしてその再一致という問題は、「世界を産出しつつその産出されたものに従う」という存在の
襞性(つまりは世界内存在)を忘却した上での偽の(もしくは仮の)問題としてカッコに入れる(否定
するわけではない)。そうなると「語りうるもの」と「語りえないもの」の峻別は解除される。ここで、
大陸哲学に対する分析哲学、科学による批判、「言葉遊び」「文学化」「ジャーゴン化」などが出て
くるのですが、これは実は大した問題ではない。ハイデガーは世界内存在を考慮し、語ろうとする
「哲学」に「厳密性」、世界内存在を考慮せず対象知だけを語ろうとする「諸学」に「精密性」を
与えているからです。つまり彼はそんな批判は百も承知なわけです。哲学板においても、この「厳密性」
と「精密性」の区別を百も承知な連中が話せばまともな議論になると思う(おそらく、のなめさんも
ポールさんもそのことは「百も承知」だと思うので)。なので、僕は、議論を「語りうるもの」に限定し、
「議論」を確保する消極的精密主義よりも、「語りえないもの」も包摂し、かつ「議論」からその都度、
「ただの詭弁」を排除していく積極的厳密主義を支持します。
>>295の訂正
文中の「精密」という言葉は全て「精確」のまちがい。
>ばかぁ〜さん
>>286 >>287 絶対的相対主義者とは「相対主義の態度をとる自分は絶対的である」という態度です
ファイアアーベントですら拒否した態度です
それと「こしあん」はわたしです
このHNはその日につけたものです
わたしは複数の固定もちというよりは、気分に応じてコテを変えてるだけです
コテをつけている時は基本的に同じコテで通しています(スレ内で人物の特定が必要な時のみ古いものを使用)
「のなめ」も適当につけたものです 「NO NAME」をローマ字読みしただけ
ほんとは女性のふりをしようと思ってました
コテを変更する一番の理由は他人と議論をしやすくするためです
同じコテで続けると議論がしにくくなりますので
わたしは議論に人格は必要ないと考えてます
たいてい、ピカと絡む時に新しくHNを更新しています
HNを変えてもわたしの文章はクセがあるのでたいてい理解していただけるでしょう
今のところ使用したHNは全部看破されてます
>じゆんさん
>>240 >この点を追求すれば、“論戦”と捉えるいわれはないものと考えるのです。我々は演舞
>(議論)によって、思索(舞)を深め合うことは可能であると考えますし、また協力体制を作
>ることも、可能であると考えます。そのように考えた場合、議論は倫理自体を天秤に掛け
>るよりも、もっと奥深まって、議論を儀式化することも可能であると考えるし、その状態を
>維持することが(つまり演者としての自覚を持つことが) 議論の質を上げることは必然
>だとも考えています。
じゆんさんは「論戦」という言葉を、「決定的な終わりがある」という意味で使用しているように思えます
わたしは議論は原理上終わりがないと考えますし、それゆえに、議論によって結論を一つに絞りこむことは(論理的には)できないと考えます
しかし、議論は何一つ結論を出せないかというならばそれは異なります
結論を一つに絞り込むことはできませんが、いくつかを排除することはできます
(論理を採用する限りにおいては、矛盾は常に排除される)
思索を深めるとは、その問題に関連する問いの関係を理解し、思索とそれとは両立しないものとの関係を理解していくことです
どちらを選ぶかということは議論そのものには直接は関係しません
どちらを選ぶかという問題は我々が何らかの立場を否応なしにとらざるをえない時に生じる問題であり(そのような状況に全ての人は置かれているでしょう)
そして、そのような立場を抱えたまま我々は議論に臨まざるをえないのです
わたしは議論を儀式化することは議論に何の影響も与えないと考えます
議論によって問題となるものは議論の内容、すなわち理論的なものです
そしてこの理論的なものは相互否定という関係によって明快にあらわれてくるものです
>>240 >そして、今のところそれを哲学板においてまさに体現しているのは、THE グル氏と言え
>ます。(ご存じでしょうか?)
ええ、知ってます、彼は・・・時折驚嘆する文章を書きますが、わたしは彼が知恵者だとしても真摯な議論の参加者とは思いませんね
それに時折的外れな、その場に即していない文章を書いている時もあるように見受けられます
対話や議論において問題点は常に移り変わるものですし、発言する際の個々人の抱える問題がずれている時も多々あるでしょう
そのような中で、議論を続行する真摯さのみが問いの共有を果たす唯一の方法であり
THE グル氏は端的な表現しかできないためにそのような問いの共有を果たすことができないように思えます
このご時世に、解の共有、思想の一致を唱えるほどわたしは愚かではありません
(わたしは「各個人がそれぞれ異なる意見を持ってよい」と考える多元主義「Pluralismus」の立場です
しかし、ルーズに「何でもあり」を認めるのではなく、真理(truth)の理念によって不適切な理論の除去を主張する立場です)
わたしが重要と考えるもの、そう主張するものは、問いの共有です
多くの異なる立場、多くの異なる意見が、同じ問いを共有し議論することで、
真理や実在の理念のもとにいくつかの不適切さが排除されること、
これがわたしが知る最も信頼に足る方法であり
科学はこのような習慣や文化、伝統の中にあることでこんにちの発展を得、
哲学は逆にそのような伝統を失いつつあることで消えつつある
わたしはそう考えています
>>240 >一応言っておきますが、議論が演舞であるからと言ってそれが“真剣さ”を失うもの、倫理的
>基盤を破棄するものではないものと考えています。議論に面白さではなく、確実さを求める
>ことは必要なことであるし、また経験や信念も、必要と考えるのが肝要と言うべきでしょうから。
わたしは議論においては確実さを求めるべきではないと考えます
なぜならば確実なものなど何一つ提出できないからです
また、経験的でなければならないとも思いません
ピタゴラスの三平方の定理のように、数学自身から我々が数学を学べるように、経験以外からでも我々が学べるものはたくさんあります
そして信念も必要ないでしょう、議論に必要なものは何らかの立場であり(何の立場にも立たずに発言することなど不可能でしょう)
その立場を指示する理由と、その立場の否定を支持できない理由であると思われます
(その理由を表明することは、逆に言えばどのような理由があれば立場を変更できるかを表明することでもある)
>ポールさん
>>289 >ここでいう「主観は確実」とは、「(私の主観に現れる)経験世界は確実」という意味だと思いますが、
>経験世界は絶対的に確実であると現象学は言っているのではありません。そうではなく、
>「(絶対的に正しいかどうかは断定できないが)正しい、確かだ、と我々が確信する最終的な根拠は経験世界しかありえない」
>あくまで「信念」「確信せざるを得ない」であり、「確実で疑いようがない」と積極的に肯定しているのではありません。
失礼しました
わたしは現象学を誤解していたでしょうね、もともと誤解を覚悟で批判してました
しかし「信念」を問題にしているならば、それ以上「確実さ」を問題にすべきではないのです
我々は、この一点において「確実さ」への信仰、神話を追放すべきなのです
ポールさんはニュートンの万有引力の法則を挙げましたが
万有引力の法則は間違ってます、現在の物理学では通用しないものです
したがって、それは「実証」と言われながら、決定性をもってない反駁されうるものです
これが科学の実証主義解釈に対するわたしからの第一の批判です
ニュートンの万有引力の法則にはマッハが当初から否定的でしたが、万有引力の法則は正しいと考えられてました
しかしアインシュタインの一般相対性理論によって万有引力の法則はとどめをさされたと言っていいでしょう
しかし現存する科学者でもアインシュタインを否定している科学者もいます
彼らは多くの科学者からは笑われるかもしれませんが、れっきとした科学者です
この問題に限らず、量子力学のコペンハーゲン解釈、多世界解釈など科学では多くの異なる解釈が存在しています
それは「実証」と言われながらも、複数の異なる解釈を持つ
これが科学の実証主義解釈に対するわたしからの第二の批判です
・科学の経験主義解釈批判(ベーコン批判)
科学は経験を純化することでつくられるでしょうか?
わたしは経験に反する科学理論を多く知っています
(もちろんわたしはこのようなことを真剣に言っているわけではありませんよ)
・わたしの体験では地球は平らである、誰に聞いても地球の球性を経験している者はいないが
科学では地球は丸いと言われる
もし経験世界での検証によって理論の強度が増すというなら、地球は平ら>地球は丸い、となりそうなものである
結論から言えば、検証によって理論の強度は増しません、せいぜい心理的な強度が増すぐらいです
また、ハンソンの「観察の理論負荷性」というものがあります
「我々は観察をする時点で何らかの理論をもっていて、その理論に合わせた解釈をすでにして行っている」というものです
わたしもまたそう思います
純粋な観察、純粋な経験とは、文章にすることもできないものです
わたしが何かを見ている時、その「何か」には焦点があたりそれ以外は意識から外れます
その時点でもはや「純粋な経験」とは呼べないでしょう
>>291 >各自の経験世界の外に共通する客観世界や客観知が存在するだろう、と便宜上推測したことから
>客観主義が生じます。
>客観主義とはこのように、各自十人十色の相貌で現れる主観的世界から構築されたものです。
いいえ、他の客観主義はどうか知りませんが
わたしは思考が逆です
わたしは実在については不可知だと考えております(
>>160)
わたしは他者の主観世界から構築されたものを客観とは考えておりません(わたしは間主観も批判している
>>188)
>その意味で、客観主義を含む全ての知は、主観的世界のうちから生じると考えることに論理上
>間違いがあるとは思えないし、ましてや、「独我論は謙虚ではなく傲慢な行為です
>>188」は全く的外れであり、
わたしは客観世界を設定しています、実在を設定しています
これはわたし自身の設定であり、漠然とした何かからわたしが知を得ているといったものではありません
わたしは模写説でもありません
>むしろその「自然主義的態度」を実践上の要請を根拠に信じることこそ、哲学徒としては誤った行為ではないでしょうか?
よって、わたしは自然主義ではありません、どちらかというと反自然主義になります
わたしは自分の知覚そのものを信じておりません
わたしが実在を設定する理由は、わたし自身の無知と無力さを動機に、
他者との間に同一のものを設定することによってそのような何かを知ろうとする態度から来ています
他者の主観から客観とはそのようなものであろうと推測するのではなく、
他者の主観をわたしの主観と同等にするために客観を設けるのです
従って、わたしの客観主義はこのように言えるでしょう
「実在を設定した独我論」と
>>292 >繰り返せば、「世界は僕をも一点景として含む客観的世界である」とする客観主義的語りと共に、
>「世界とは僕という場を起点に開けてきたものである」という語り方も同様に正しい世界描写だと思っています。
それはあなたにとっては正しいかもしれませんが別の者にとって正しいかどうかは分かりません
主観的語りは主観の数だけ存在します
それらを統制し吟味しそして思推を深めるためにも客観的語りは必要不可欠と思います
>そして、「独我論を徹底すれば、純粋の実在論に合致する」のではないかと考えています。
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』でそのように考えましたね
その結果、挫折したと言われています
わたしも「対象は無色である」というのが実在論の立場であるならばまったくもって無意義なものと思います
>>293 >「のなめさんは『全ての知が私の主観の内で生成されることは”できすぎ”だ』と言われますが、
>『世界が数学で成り立っている、もしくは我々は数学的に世界を解釈できることが”できすぎ”だ』と
>同様に考えないのですか?
それに対するわたしの回答は至極簡単なものです
そもそも世界は数学で成り立ってない
世界はまったくもって秩序だっていない、混沌としていて、我々がその全てを把握することは不可能である
しかし、それが世界を数学的に解釈してはならない理由にはなりません
それこそ素朴なまでの自然主義的態度と言えるのではないでしょうか?
我々は混沌としている世界を秩序だった形式にのっとって見ることで世界の混沌さを理解するのです
(わたしはここで混沌と秩序を相対的な関係と理解しています)
世界は秩序だったものが何一つないような「完全なる混沌」(この言葉はすでにしておかしいが)ではない
世界は混沌としているが、それゆえにどこかには秩序がある
我々は数学的ではない混沌とした世界を数学を覗いて見ることによって世界を記述する
そして世界のどこかにほんの少しでも秩序があるのなら、それは「できすぎ」ではない
これは変化を例にとってみれば分かります
我々の周辺には変化しないものは何もないものばかりですが
その「変化」には必ず変化しない部分があります
変化しない部分があるからこそ、それが変化であると我々は理解できるのです
もし全てが完全に変化するならば、それは言葉にすることは不可能などうしようもない状況になるでしょう
まさしく「世界は矛盾している」と言えるような状況です
>>293 >客観知を要請しながら、それと具体的な知との照合の適否を拒否しているからです。
ええ、わたしは客観知そのものと具体的な知との照合を拒否しています
わたしが客観知に与えたものは形式的なものです
そして具体的な知そのものを客観知と照合するならば、具体的な知はその形式のみで不適合とされるからです
(どうでもいいですが、ヘーゲルはそのような態度を批判していますね)
わたしはある具体的な知識が真理かどうかを考えることに興味を感じませんし、そのような真理を設定していません
ばかぁ〜さんが「統制概念としての真理」(
>>122)と言ったように
真理とは多くの具体的な理論同士の間で問題になるものです(つまり議論する時に問題となる)
これは、わたしが、学問の目的は「真理の獲得」ではなく「真理の探究」である(
>>148)と言ったところからも問題ないと思われます
>>306 修正
「形式的なもの」って言い方が良くない
「形相」というか、「問い」というか
とりあえず、「形だけのもの」に修正
今日はこのへんで
>ばかぁ〜さん
>>295 明快な説明ありがとうございます。
僕も「主客の分離」を、世界を解読する為のひとつの手法だと考えれば強力な方法論であることは認めますが、
「それが事実、世界の成り立ちである」とすることには疑問視します。
もっと正確に僕の心情を言えば、科学的世界観の下にある現代人の例に漏れず僕は、
「主客分離」の客観主義を信じていた(そして今でも信じざるをえない)からこそ、
「それは違う」と反論する哲学に非常な関心を持ちます。
「どこがどう違うのか説明してくれないか」と。
そこで、客観的語りとは異なった主観的語りをする哲学、客観的語りに反発する哲学に惹かれるわけです。
哲学が、「世界への驚き」から始まるならば、主観的語りを排除することはできないでしょう。
なぜならその驚きの多くは、主観的語りによって描かれた世界と客観的語りによって描かれた世界
との差異、つまりそれらの関係性に関わっているからです。
>ハイデガーは世界内存在を考慮し、語ろうとする
>「哲学」に「厳密性」、世界内存在を考慮せず対象知だけを語ろうとする「諸学」に「精密性」を
>与えているからです。
>>295 客観的な語りが「精密」、主観的語りが「厳密」にほぼ該当するでしょう。
僕も、「積極的厳密主義」抜きでは哲学の根幹的なものが骨抜きになるのではないかと考えます。
ハイデガーは、「本質的な問いは必ず循環論法になってしまうが、その循環から出ようとするのではなく、
そこに留まり、問い続けることが重要である」と言ったそうですが、哲学とは本来そのようなものでしょう。
>>309補足
>僕も「主客の分離」を、世界を解読する為のひとつの手法だと考えれば強力な方法論であることは認めますが、
>「それが事実、世界の成り立ちである」とすることには疑問視します。
>>309 >>291において、僕は世界の成り立ちを「世界が現れてくる場(僕)−その場に現れる対象物」としましたが、
客観主義は後者の「(客観的に見られた私を含む)その場に現れる対象物とそれらの関係」を解明する
ことには成功しましたが、それらと「それが現れてくる場(僕)」との関係は説明できません。
そして今の僕にとって「事実、世界の成り立ち」を描写する理論とは、この関係を説明できる理論
でなければならないと感じています。
>のなめさん
>ピタゴラスの三平方の定理のように、数学自身から我々が数学を学べるように、経験以外からでも我々が学べるものはたくさんあります
>>300 数学の哲学に全く無知なのを顧みず、以下述べてみます。
数学の体系とは、純粋に理念的なものではなく、経験から導かれたある原初的な経験法則を元に、
普遍的に構築したものだと思います。
具体的に言えば、「1+1=2」は経験から導かれた原初的ものであり、その法則性を基盤に経験を超えて
「12345*6789」といった理念的体系を構築します。
この経験を超えた(経験に戻って検証できない)数学体系の拡張性ゆえに、数学とは経験とは
別の何かだと考えられますが、元はといえば、経験を基盤にしたものだと思います。
また、この構築されていく過程で経験世界から乖離した数学が経験世界を規定する逆転現象を
指摘したのがフッサールではないかと勝手に解釈しております。
以下質問ですが、
最先端の数学は、数学体系という理論構築物内部での整合性だけが問題であって、経験世界との
合致には関知しないと聞きますが、本当なのでしょうか?
また、物理学的世界(宇宙論等)はこのような経験から隔絶された数学を用いて、経験世界(宇宙)を
解明しようとしているのでしょうか? もしそうであるならば、そのような逆転現象についてどう思われますか?
>この問題に限らず、量子力学のコペンハーゲン解釈、多世界解釈など科学では多くの異なる解釈が存在しています
>それは「実証」と言われながらも、複数の異なる解釈を持つ
>これが科学の実証主義解釈に対するわたしからの第二の批判です
>>301 「実証」(経験に戻って確かめること)と、「解釈」(与えられたデータを意味付けすること)は別物です。
たとえ、解釈において一致が見られずとも、それが実証という方法論の杜撰さを指摘するものではありません。
我々が世界を解釈する時、その正しさを判断する最終的な根拠を求める場は、いつでも与えられた経験世界
でしかありえず、それゆえ実証という方法を抜きにして、我々は物事に判断をすることは出来ないということは
度々指摘しているところです。
完全な抽象理論でさえ、その抽象理論が産まれてくる原初の場は経験世界であるというのは、
前述の数学の例と同様です。例えば、多世界解釈がいかに経験世界から乖離していようとも、
量子の観察という”経験”を元に構築された理論です。
>万有引力の法則は間違ってます、現在の物理学では通用しないものです
>>301 すみません。基本的なことなのでしょうが知りませんでした。
物理学が描く世界とは、「あるモデルを通してみた世界」であって、人間の認識から独立した客観世界を
描写した世界でないことは知っていました。ですが、万有引力すら否定されるのですか?
ある条件(例えば、地球上の人間の立場)においては正しいのではないですか。
とまれ、僕が興味を持つ分野は科学哲学とも関連するのではないかと気づきました。
僕のような科学知識欠如で科学批判をするのはアフォですから。勉強してきます。
>カントは理論理性による問題と実践理性による問題を分離しました
>>215 のなめさんが「倫理的要請」を持ち出す理由がわかったような気がします。
この区別を理解したうえで、自分がどちらの領域を基盤に語っているのか把握して哲学問題を
語るなら良いのですが、多くの人は、己が語っている基盤を混同したまま実践理性による解釈で
あるところを、理論理性による客観的な言明であると混同する場合が多いのではないでしょうか?
本来はある実践的要請によって正しいとされた言明が、いつのまにかそれが「客観的に真である」と
一人歩きし、その理念が我々の生活を規定することが多々あります。
たとえば、「客観世界は存在する」「人を殺してはいけない」といった言明です。
哲学の面白いところは、そういった祭り上げられた言明(常識)の原初の場に戻って、
その言明の真の意味を暴くことだと思います。
実在世界についての言明でも、実践理性の領域で語るならのなめさんの意見に反論はありません。
>他者の主観から客観とはそのようなものであろうと推測するのではなく、
>他者の主観をわたしの主観と同等にするために客観を設けるのです
>>303 これには「なるほど」と感心しました。
>すべての問題は実践理性による問題を含むのです
>>215 そうでしょうか?
理論理性で解明できない問題は実践理性による問題を含む(実践理性的に判断せざるを得ない)
とする考え方に僕は賛同できません。
「大森さんの凄さは、役に立たないことにこだわったこと」と永井さんが述べたように、
哲学者とは、実践的要請を判断基準とせず、論理的整合性だけを武器に世界を「見取ろう」とするからこそ
哲学者なのではないですか?
>主観的語りは主観の数だけ存在します
>それらを統制し吟味しそして思推を深めるためにも客観的語りは必要不可欠と思います
>>304 確かに、主観的に語られた世界は主観の数だけ存在します。しかし、
「『世界とは、我々の認識から独立した唯一の世界ではなく、世界自体が十人十色に現れる』と考えてはいけないのか?」
というのが、大森から影響を受けた僕の自身への問いです。
以前クワインの有名な『経験主義のふたつのドグマ』を読んで妙に納得しました。
「(科学的命題から日常的な言説まで)われわれのいわゆる知識や信念の総体は、
周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である。あるいは、別の比喩を用いれば、
科学全体は、その境界条件が経験である力の場のようなものである。
周縁部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす」
「ある構築物に参入を許されない言説でも、別の構築物においては参入を許される。
それら構築物同士の真偽を客観的に判断することは出来ない」とする、この相対主義に陥る危険性のある
クワインの主張をのなめさんはどう思いますか?
>のなめさん
久しぶりにまとまった自由時間を持て、とりとめもなく書き連ねています。
初歩的なことを連呼しているだけでしょうから全レスしなくていいですよ。
重要な間違いと思われるところだけで。申し訳ないですから。
>>309 >客観的な語りが「精密」、主観的語りが「厳密」にほぼ該当するでしょう。
うーん、この言い方にはいまだ首肯し難いところがあります。誤解しないでほしいの
ですが、これは多分に僕の勉強不足を原因とする「判断保留」です。すみません。
それと、ポールさんお勧めの「あるとない」のスレッド、読みました。単なる良スレ
というだけでなく、まさにこのスレで議論されている問題が凝縮されていると思う
(特にOFW氏とハイデガー派?の名無しさんの議論は素晴らしいと思った)。僕は
OFW氏のいわば戸坂潤的なハイデガー批判に肯定的であるため、ハイデガーの主
観的語りはかなり警戒的に読むべきだという気もしています。あのへんの議論をこ
この議論に繋げられたらかなり生産的な対話になりそうだなあ、などと勝手に思っ
ております。では。
> のなめさんへ
えー、、、
途中で議論を放り出してしまって申し訳ありませんでした。実は今までパソコンが
壊れてしまって全然、哲学的考察をする気になれなかったのです。いちおう説明を
とも思ったのですが、しないでおくそういう判断でいることにしました。
またお付き合いできればと思うのですが、よろしければご意見頂ければと思います。
>>246 >矛盾を突きつけられた時どのように回避するか、が、理論の良し悪し、
>我々が理論選択時にどちらを選択するかの道徳的判断の目安になるのです
>それが自らの理論を空論となる方向に回避するか、それとも、
>より具体的な矛盾の渦の方向に回避しながらも矛盾しない状況をつくるか
>わたしは後者を選択しますし、それが「合理的」と呼べると主張します
もし私が合理的である判断をするのなら、私はそこに「矛盾」があると叫ぶことが
まず大事なのではないかなと思いました。
そこに論理を展開させる『必要性』があれば、矛盾を突き進みながら、つまり空論で
ありながらも問題を回避(無視)させて、次なる問題の答えを展開するように働きかける。
そうやって歴史の中で多くの理論が生まれたのではと思われます。
つまり真空の観念を展開させた『パスカルの原理』のような科学的な『理想状態』は
すなわち『空論』そのものであるということです。しかしそれを『空論』とは呼ばず、
厳密性を無視してもよいものとして今日では認識されます。つまり『パスカルの原理』
なる理論の空論性を否定する者は誰もいないし、その必要もないのだと言うことです。
そして矛盾があると叫ぶことが哲学徒の存在意義なのだとちらりと思いました。
ちょっと古典科学で責めてみました。 (パスカル 1623-1662)
(つづき)
>>247-249 理論の権威主義批判の説明本当に分かりやすいものでした。
しかしもしその権威が民主的な採決によって導かれ、そして権威の所有者が
民の最大普遍を包括するような言明、または理論を簡潔な形(あるいは言明)で
提出されたらそれは、合理的なのではないかと言うことです。合理的には無駄が
ないという意味があったかと思います。つまりそれは十徳ナイフのようにオールマイティ
な理論を一つの言葉(シンボル)で保持する様を思い描くことができます。
実は今、私がここで念頭に置いているのはユングのタイプ理論、または無意識的元型へ
の科学的態度なるものです。タイプ理論は非常に簡明な言葉で人格をカテゴライズする
ことによって合理化を促しているように見えるのではないでしょうか?
また心理学理論そのものは、語弊がなければおそらく、科学的な権威付けが頻繁に行わ
れているのではないかと思います。しかしユングは元型という最大普遍の人格像などを臨床、
または個人の経験により抽出することにより、理論化することに成功した。権威あっての理論
を初めて体現した人だと言えます。しかしその価値は臨床的には有用的で理論としても失わ
れておらず、また元型という概念は心理学の発展に力を与える実践的な意味合いが強いも
のと考えます。
たしか「果てしない探求」という著書ではポパー氏はフロイトの批判は声高に
痛烈に掲げていたけれど、ユングに関しては沈黙していたように思われました。
いや、もしかしたらどこかでユングの批判をしているのかもしれません。
この差異はいかなる意味を持つのか?
(つづき)
たしかポパーが批判していたのはフロイトの『エディプスコンプレックス』だと思います。
それこそ『エディプス理論』と呼んでフロイトの理論すべてを棄却していたものと思います。
またそういったフロイトのエディプス理論への批判はもはや社会通念的なものであり、
性にすべてを還元するフロイトの人格批判にまで行われるのが当然のようです。
彼の理論の継承者であるエーリッヒ・フロムも『愛することについて』でフロイトのリビドー
理論を、すなわち愛の観念の即時否定としていとも簡単に切り捨てました。
しかし、ユングの元型に関しては今もなお人々(科学者、心理学者)に広い指示され
ている気がします。なぜ神話という非論理の極致のようなものを採用したユングが支持
され、自我を性衝動の固まりと捉えたフロイトがこんなにも不遜に扱われるのか、ちょっ
と私には分からなかったわけです。無意識を発明したからフロイトは偉い。それだけじ
ゃないと私は思ったのですけどね。他にも凄いところはたくさんあるし、、、とね
ポパーの論理なら、理論の反証可能性が理論における神話(物語)の導入によって
いとも簡単に達成されたとみることが、おそらく一つの見識を得る手がかりかと思いま
すが。これでは理論における美しさは、アインシュタインの相対性理論にはとても及
ぶものではありません。
しかし神話とは権威そのものではないのか? そのような問いがあなたの権威主義批判
によって私に生ずることになりました。心理学を科学か似非科学か見定めるのもよし、
科学であるのなら科学的態度を要請させるものはなんなのか、それについて考えてみる
のも面白そうだと思ったら、ポールさんの客観的態度、主観的態度なる表現である程度
説明されているように思われますので私はこの辺にしたいと思いました。
(つづき)
ちなみにいま私は量子論批判、アインシュタイン批判、弁証法、ポパーの唱える『理論
の反証可能性』の批判にに手を付けてみたいと考えていますがなかなか
手を付けにくいです。ただ単に私の力不足です。哲学的知識の他に科学的知識の不足を
痛感しています。相対性理論の批判なんかかなり面白そうだなと思ってはいるんですが。
ちなみに私はポパー氏のアインシュタインへの賞賛の部分はほとんど盲信の部類に入る
のではと思っています。しかし物理的知識が高校で終了している私が思わず批判してしま
いそうな状況もいくらかまずいかなと思っています。昨今ではアインシュタインの相対性理
論をトンデモ科学と評する輩もいるくらいです。それに比べて量子論の理論展開の慎まし
さには涙ぐむものがあるわけです。あれから百年経った後でも量子論がなんなのかさっぱり
分からない人が大勢いるくらいですから。もちろん私は「よくわかるシリーズ」で量子論を勉強
しましたから、素人の概念の模倣レベルなわけですが。科学への不信、懐疑はやり出すと
きりがないですね。まあそこが面白いんでしょうけどね。
いまポパーの『果てしない探求』岩波現代文庫の下巻の半分までざらっと読んでいる途中
なのですが、ちょっと読み込みが足りないかなと思いました。そこら辺の誤解はびしばし指摘
して頂けると助かります。
いちおう読んだ感想はポパーはけっこう面白い哲学者だということでした。私は結構好きな
哲学者の部類に入りそうです。なんだかひょうひょうとしている様はいいなあと思いました。
神経質なんだけど神経質じゃないように、すらりと述べる様は確かにある種の哲学的素質を
持っている曲者なんだなあと感じられました。ちょっと偉そうな物言いでごめんなさいです。
それでは。
私はポールさんとのなめさんの議論も面白く見させて頂いております。結構奥が深いところで
二人は議論されていて見る方も緊張感があって良いなあと思っています。
またばかぁ〜さんを巡る弁証法の議論の流れにも自分は乗りたいとは思っているのですが
まだまだ力、読書の質が及ばない感じがしますね。近いうち(ん、いつかそのうちにしておこう)
にそこら辺の議論にも厳しくつっこむつもりではありますので、そのときもまた、どうかよろしく
お願いします。
>>321 (補足)
>ポパーの論理なら、理論の反証可能性が理論における神話(物語)の導入によって
>いとも簡単に達成されたとみることが
ちょっと補足します。ユングの理論の反証可能性の実践の達成とは、神話の導入によって
批判そのものを封殺した、つまり反証することを不可能にした状態と捉えてくださると分かり
やすいと思います。まず神話を否定することがナンセンスである。もう一つ、神話そのものの
権威化によって反証を封殺した。そういう意味での反証可能性の実践の達成だと言うことです。
ちょっとこの辺りのことはまだ説明しづらいですね。もう少し今度は言葉をまとめようかと思
います。
遅くなってすみません
私的に別の議論をしていたため、こちらを少しお休みさせてもらいました
熱くなるとテーマの異なる議論でもついついそのような話題にうつりがちなので・・・
>ポールさん
>>311 >数学の体系とは、純粋に理念的なものではなく、経験から導かれたある原初的な経験法則を元に、
>普遍的に構築したものだと思います。
わたしは数学は経験を基盤にしたものではないと考えます
もちろん数学を学ぶのに我々が経験を通じて学ぶということに異を唱える気はありませんが
(産まれた時から数学能力をもっているわけではない)
それは数学が経験を基盤にしているかどうかとは無関係です
現在の流行的な考え方は、数学の正しさはその社会性、公共性に由来する、というところではないでしょうか?
数学が経験を基盤にしないことに関しては、無理数や虚数について考えてみたり
さらには、非ユークリッド幾何学やカントールの集合論について考えてみるといいかもしれません
>最先端の数学は、数学体系という理論構築物内部での整合性だけが問題であって、経験世界との
>合致には関知しないと聞きますが、本当なのでしょうか?
わたしも数学の哲学については軽くレポートを書いたことがあることと数学基礎論を学んだことがあるだけで
最先端の数学については何も知りません
しかし思うに、おそらくは整合性だけが問われると思います
というよりは、経験世界との合致に関知する数学とはどのようなものでしょうか?
小学生が内角の和が179°の三角形を発見したと言ったら何と答えればいいのでしょうか?
(もちろんユークリッド幾何学での話です)
そもそもわたしは数学的実在が物理的なこの現実世界に存在するとは考えられません
>>311 >また、物理学的世界(宇宙論等)はこのような経験から隔絶された数学を用いて、経験世界(宇宙)を
>解明しようとしているのでしょうか? もしそうであるならば、そのような逆転現象についてどう思われますか?
わたしは、物理学を含めて多くの科学理論は経験の畜産物ではないと考えています
ですから、経験から隔絶された数学を用いることは何ら問題ないと考えます
(何より、経験から隔絶されていない数学などないでしょうから)
重要なことはそれが合理的に、明快に表現できているかどうかということに思えます
空間の歪みに沿って直進する光の動きをユークリッド幾何学で表現することは可能かもしれませんが
理解しにくいでしょう
しかし非ユークリッド幾何学を使用すれば明快に表せるのならば、そのような表現を使用するべきです
わたしは科学(物理学や宇宙論を含めて)、それらは経験世界に内在する法則を抽出するといった作業ではないと考えています
科学は我々人間が問題とするところを解決し説明する方法でありその試みであると考えます
そもそもこの世界には法則など存在しません、ただ法則を世界に押し付けているだけです
仮に世界に法則が存在するとして、科学をそのような世界に内在する法則を掘り出していく行為とするならば
我々の認識能力のあまりの低さ、宇宙の一部である人間が宇宙全体を理解する困難さの前に挫折するだけでしょう
もしくは挫折を知らない傲慢な態度により多くの科学の芽を摘むことになるでしょう
過去にも多くの科学者がそのような信念の前に科学を捨て修道院に入ったり、科学の終焉を唱えたり、科学の排斥を唱えたりしたものです
彼らは科学にあまりにも多くを望みすぎているのです
科学は信仰の拠り所ではありません
科学は間違いだらけです(高校までの理科の教科書を読めば書いてあることはほとんど間違いです)
間違いない答えを知りたい人、杞憂を払拭したい人、不安を取り除き安心したい人は科学ではなく宗教団体に入るべきなのです
何かを絶対に正しいとしてくれる教典、ないし、何かに絶対的反駁を与えてくれる経典が欲しい人も科学ではなく宗教団体に入るべきなのです
そこでなら彼の希望は叶えられるでしょうから
わたしは物理学が宇宙の法則なり宇宙の真理なりを解明することは無限の年月を重ねても不可能だと考えますが(ましてや近づくことすらできないでしょう)
彼らの成果は宇宙についての理解を大きく促していると感じます(その理解の深度は年月を重ねることでより深くなっていくだろうと考えています)
>>312 >「実証」(経験に戻って確かめること)と、「解釈」(与えられたデータを意味付けすること)は別物です。
>たとえ、解釈において一致が見られずとも、それが実証という方法論の杜撰さを指摘するものではありません。
法則を経験と照らし合わせることは不可能です
経験とはせいぜい次のようなものです
「2004年5月27日0時34分、温度17度、湿度・・・、わたし『のなめ』がディスプレイに『ポール』の字を発見する・・・(永遠に続く)」
こんなものをいくら集めたところで法則にはなりませんし
このような経験を法則と照らし合わせることで法則の真偽を判断することなどできません
法則ないし科学理論は経験を超えたものを語っているのです
もし前提条件と補助仮説がいくらでも改ざん可能であるならば
あらゆる科学法則ないし言説はすべての経験を語りうるのです(唯物機械論スレの決定論を見れば明白です)
わたしがピカのスレで例示した光の波説の否定も、エーテルの風によるテーブルの縮小を導入することで全てを語りうるのです(正直、このあまりにも馬鹿げた補助仮説は発想だけはすごいのでわたしは評価してますが)
わたしも科学理論の真偽を判断する根拠は経験世界に求めます(その点はポールさんと同じ立場です)
しかし、科学理論と経験との間にはカルナップが主張するような一対一関係はありません
経験と理論との間に真偽が明確に現れるような形で論理を適用することは不可能なのです
>我々が世界を解釈する時、その正しさを判断する最終的な根拠を求める場は、いつでも与えられた経験世界
>でしかありえず、それゆえ実証という方法を抜きにして、我々は物事に判断をすることは出来ないということは
>度々指摘しているところです。
わたしも科学理論の根拠は経験世界について語っている情報の真偽にあると考えます
問題は、「正しい」と考える根拠がどこにあるのかということについて
わたしはそれは経験ではなく合理性にあると考えるということです
これは、わたしが経験論ではなく合理論の立場をとるということです(もちろんポパーもカントも合理論です)
>>313 >万有引力
万有引力が物理学で否定されるのは
万有引力とは「遠くに離れたもの同士がお互いに引き合う遠隔作用をもった力」であるからです
ニュートンは万有引力の法則を発見した時、自分の頭が狂ってしまったと考えたそうです(ガウスもロバチェフスキーも非ユークリッド幾何学を発見したときは公表するのをためらったそうですが)
遠くに離れたもの同士が直接に引き合うなど魔術的力は物理学とは程遠いものと感じたのでしょう
物理学でも問題になるのは近接作用ですから(わたしは物理学部出身ではないので間違っているかもしれません)
遠くに離れたもの同士に直接作用する力は付き合ってすぐの恋人同士だけで十分です
>>314 >>315 >本来はある実践的要請によって正しいとされた言明が、いつのまにかそれが「客観的に真である」と
>一人歩きし、その理念が我々の生活を規定することが多々あります。
これは往々にしてあるでしょうね
一般社会で「悪魔が騙している可能性」を指摘すれば、憐れな目で見られるのが落ちです
しかし、それは我々の生活を規定するかもしれませんが、我々の行動や我々の自由な思考を規定することまではできません
いかなる事実があろうとも、わたしがどのようなものに価値を見出し、(物理的に可能な範囲で)どのように身体を動かすかは自由です
>「大森さんの凄さは、役に立たないことにこだわったこと」と永井さんが述べたように、
>哲学者とは、実践的要請を判断基準とせず、論理的整合性だけを武器に世界を「見取ろう」とするからこそ
>哲学者なのではないですか?
「哲学者」とは本来はそのような意味なのかもしれませんが、わたしはそのような哲学には興味を抱けないのです
しかし、論理的整合性を武器に世界を見取ることなどできるのでしょうか?
そもそも論理的整合性とはどのようなものでしょうか?
それは世界について何も語らないことではないでしょうか?
・世界について何かを語ると論理的には不整合になり、論理整合的に語ると世界については何も語れなくなる
わたしには論理と経験にはこのような関係があるように思えます
>>316 ◎現象学批判
>確かに、主観的に語られた世界は主観の数だけ存在します。しかし、
>「『世界とは、我々の認識から独立した唯一の世界ではなく、世界自体が十人十色に現れる』と考えてはいけないのか?」
>というのが、大森から影響を受けた僕の自身への問いです。
現象学に対するわたしの批判は
1現象学においては世界は矛盾しないのか?
わたしは「矛盾は間違っている」と考えますから、世界に矛盾が含まれるような世界観を肯定することはできません
個々の主観を見ると世界を正反対に見る人もいるでしょう
「それはカモであってウサギではない」「それはウサギであってカモではない」
「世界は決定している」「世界は決定してない」
「わたしはufoを見た」「君が見たのはufoではなく飛行機だ」
それら個々のあい矛盾する主観が、統一された世界として語られる時に矛盾は発生しないのでしょうか?
2現象学は矛盾の解決について具体的にどのように語っているのか、それは世界について語ることができているのか
3「現象学は間違っている」という主観を発する者に対して現象学はパラドクスを生じさせるのではないか
>クワイン
クワインは『経験主義の2つのドグマ』と『ことばと対象』を読まされたのですが
いやー、すっかり忘れてましたね
>「(科学的命題から日常的な言説まで)われわれのいわゆる知識や信念の総体は、
>周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である。あるいは、別の比喩を用いれば、
>科学全体は、その境界条件が経験である力の場のようなものである。
>周縁部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす」
同意します
>「ある構築物に参入を許されない言説でも、別の構築物においては参入を許される。
>それら構築物同士の真偽を客観的に判断することは出来ない」
同意しません
判断することはできます
おそらく、クワインはそれを「客観的」とは呼びたくないのでしょう