読書会やりたいなと思った。でも俺にできるんかいなって思った。
今まで読んだのは薄っぺらな哲学書ばかり続けられるか不安だった。
読書会っていろいろ大変そうだ。そうだ、青空文庫の本を読もう。
前から気になっていた西田幾多郎を読もう。そうしたらなんか、
絶対矛盾的自己同一が面白そうだなって思った。
ふむふむ、確かにおもしれえぞな。俺にも理解できるかもよ。
踏む踏む、ああこりゃおもしれえな。西田幾多郎いけるかもよ。
西田幾多郎ちゃん、
今からあなたの本で読書会スレ作らしてもらいますからね。
よろしく頼みますよ、幾多郎ちゃん。これから、ちょっとあんたの脇腹、
つつかせてもらいます。よろしくお願いしますね。
○作品について
昭和14年(1939)3月、岩波書店発行の「思想」に掲載。
「西田幾多郎全集」には九巻に収録されている。
西田自身が「私は一応私の根本思想を明〈あきらか〉にした」と言うとおり、
この論文には、「善の研究」以後続けてきた哲学的格闘のすえに勝ち得た
極相状態の思索が刻印されている。
この後、西田は突然の死に至るまでの六年間に、経験科学や物理、芸術、
論理と数理、生命などを「矛盾的自己同一の場所的論理」の立場からとらえ
直す論文を次々と書き上げていく。
○人物について
にしだきたろう 1870‐1945 (明治 3‐昭和 20)石川県生まれ。
96 年に金沢の第四高等学校講師,次いで教授となった。
1911年(明治44)に発表した「善の研究」で、その西洋哲学と
充分比肩しうる独創性で日本の思想界に衝撃を与える。
その後も西田は「善の研究」の〈純粋経験〉の立場に長年に
わたり厳しい批判を重ね、ついに〈場所の論理〉に到達する。
その後、マルクス主義の台頭を睨みつつ〈歴史的現実世界〉
の問題と取り組み、〈場所〉を〈弁証法的世界〉として具体化し、
〈絶対矛盾的自己同一的世界の自己限定〉として〈歴史的実在〉
の世界をとらえる立場を展開した。
近年になって脱構築の流れに乗って世界的な再評価が進んで
いる哲学家の一人である。
4 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/05 23:47
とりあえず今から本文をコピペする。
5 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/05 23:48
絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎
一
現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。
現実の形は 物と物との相互関係と考えられる、
相働くことによって出来た結果と考えられる。
しかし物が働くということは、
物が自己自身を否定することでなければならない、
物というものがなくなって行くことでなければならない。
物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、
逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。
例えば、物が空間において相働くということは、
物が空間的ということでなければならない。
その極、物理的空間という如きものを考えれば、
物力は空間的なるものの変化とも考えられる。
しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、
働く物というものがなくなることであり、
世界が静止的となることであり、
現実というものがなくなることである。
現実の世界は何処までも多の一でなければならない、
個物と個物との相互限定の世界でなければならない。
故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
(改行1終わり)
(改行2)
かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。
それは従来の物理学においてのように、
不変的原子の相互作用によって成立する、
即ち多の一として考えられる世界ではない。
爾(しか)考えるならば、
世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。
またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。
もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。
それは多の一としても、
一の多としても考えられない世界でなければならない。
何処までも与えられたものは作られたものとして、
即ち弁証法的に与えられたものとして、
自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。
基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、
また個物的多というものを考えることもできない。
8 :
考える名無しさん:04/04/05 23:50
う〜ん、ちょっと待った!!
著作権は?
現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、
右の如き世界でなければならない。
現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、
それはまた何処までも作られたものとして、
変じ行くものであり、
亡び行くものである、
有即無ということができる。
故にこれを絶対無の世界といい、
また無限なる動の世界として
限定するものなき限定の世界ともいったのである。
(改行2終わり)
10 :
考える名無しさん:04/04/05 23:51
>>8 青空文庫のは、著作権フリーのはずなんですけど……
駄目だったら、予定変更して、所々抜粋しますが?
ごめん。「青空文庫」をよく知らないや。
(改行3)
右の如き矛盾的自己同一の世界は、
いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。
それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、
即ち多の一ではない、
また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、
即ち一の多でもない。
元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、
また未来から考えられるものでもない。
現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、
現在というものはなく、
従ってまた時というものはない。
過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、
未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、
現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、
時というものが成立するのである。
而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、
時は過去から未来へ、
作られたものから作るものへと、
無限に動いて行くのである。
(改行3終わり)
(改行4)
瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。
しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、
時は非連続の連続として成立するのである。
時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。
具体的現在というのは、
無数なる瞬間の同時存在ということであり、
多の一ということでなければならない。
それは時の空間でなければならない。
そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。
しかし多を否定する一は、
それ自身が矛盾でなければならない。
瞬間が否定せられるということは、
時というものがなくなることであり、
現在というものがなくなることである。
然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、
それでは時というものの成立しようはなく、
瞬間というものもなくなるのである。
へーおもしろいね、ぴかー
時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。
これを多の一、
一の多として、
現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。
現在が現在自身を限定することから、
時が成立するともいう所以(ゆえん)である。
時の瞬間において永遠に触れるというのは、
瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、
それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる
永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。
時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、
かかる考を逆にいったものに過ぎない。
(改行4終わり)
>青空文庫は、利用に対価を求めない、インターネット電子図書館です。
>著作権の消滅した作品と、「自由に読んでもらってかまわない」とされたものを、
>テキストとHTML形式でそろえています。
なるほど。失礼。
>>16 俺はぴかーじゃないけど、なんか面白そうでしょ?
>>18 じゃ今度は、本文も読んで。
けっこう面白いよ。
あと、青空のテキストはそのままだと、ちょっと読みにくいから
ちょっと読みやすいように工夫してみたんだけど。
(改行5)
現在において過去は既に過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らざるものであり、
未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているというのは、
抽象論理的に考えられるように、
単に過去と未来とが結び附くとか一になるとかいうのではない。
相互否定的に一となるというのである。
過去と未来との相互否定的に一である所が現在であり、
現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立するのである。
而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、
過去と未来とはまた何処までも結び附くものでなく、
何処までも過去から未来へと動いて行く。
しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、
時間的空間として、
そこに一つの形が決定せられ、
時が止揚せられると考えられねばならない。
そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、
我々は時を越えた永遠なものに触れると考える。
しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものであり、
時は現在から現在へと動き行くのである。
一が多の一ということが空間的ということであり、
多から一へということが機械的ということであり、
過去から未来へということである。
これに反し多が一の多ということは世界を動的に考えること、
時間的に考えることであり、
一から多へということは世界を発展的に考えること、
合目的的に考えることであり、
未来から過去へということである。
多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、
現在から現在へと考えられる世界でなければならない。
現実は形を有(も)ち、
現実においてあるものは、
何処までも決定せられたもの、
即ち実在でありながら、
矛盾的自己同一的に決定せられたものとして、
現実自身の自己矛盾から動き行くものでなければならない。
その背後に一を考えることもできない、
多を考えることもできない。
決定せられることそのことが自己矛盾を含んでいなければならない。
(改行5終わり)
青空で落とせるなら読みやすいように各自エディタで編集すればいいだけで
本文まで貼る必要はないと思うんだけど。。。
漏れにはこっちのほうが読みにくい。
>>24 まあそこら辺は好きずきでしょうね。
一文ごと集中して読んでみたかったので、
こういう形式にしました。
でも、自分で編集するのも楽しいよね。
ちなみに自分はこの本をそうやって読んでみた。
そういうやり方でも理解できた。
字がたくさんあるとくらくらしちゃうタイプなもんで。
26 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 00:39
>>6 (改行1まで)について
序文だ。
つまり、重要なことを語っているのだろう。
論の骨格になる部分がここには隠されているに違いないのだ。
で見てみると、どうやら現実という世界をここで設定して
物と物との働きの中から世界が構築されるという風に捉えてよいと思う。
物理次元世界の時間と空間から展開されるってことはなんつうか、
唯物的世界観みたいなものがここでは、前提になっているようである。
> しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、
> 働く物というものがなくなることであり、
> 世界が静止的となることであり、
> 現実というものがなくなることである。
ここって、なんだか不思議な感覚がしますね。
世界が静止的になるってどういうイメージなんだろう?
現実がなくなる?
27 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 01:02
>>6 > 現実の世界は何処までも多の一でなければならない、
> 個物と個物との相互限定の世界でなければならない。
> 故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
おおう、さっそくでました、絶対矛盾的自己同一。
で、絶対矛盾的自己同一とは、つまり現実の世界のことを指していた。
そうか現実世界のことをこれから幾多郎ちゃんは、語るのだな。
あと、はて?と思ったのが「相互限定の世界」ってなんだろう。ちょっとよくわからない。
また、「何処までも多の一」とは?
現実の世界とは、つまり「多」ではなくて究極的には「一」だということなのか?
少なくとも現実の世界を「一の多」としなかったのにはわけがあるんだろう。
28 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 01:19
えーと、ちなみに自分がなぜ絶対矛盾的自己同一を選んだかというと
「多」という言葉にあります。
この「多」という言葉を多用している幾多郎の文章を見て、
読書スレをやってみようと思い立ちました。
多様性とか、全体論とか、そういうものに自分は今興味を持っているのです。
そして、この「多」を「全」と混同している人をよく見かけます。
おそらく「多」は「全」とは相交わらないものだと、今のところ私は見ています。
そこら辺の理解を少しずつ解きほぐすことができたらなあと、今のところ思っています。
はっきり言って、この本は西洋的な形式論理的哲学とは言えないかと思います。
幾多郎の思想体系がここにあるだけです。論理基盤については、おおよそ
ベルクソンやらヘーゲル、ライプニッツ、マキュベリなどを頼っているところを見ると、
そこら辺の論理性は弱いかなという印象は拭い切れません。
でもわかりやすいです。それにすっきりとして味わい深い文章がたまりません。
ですから、一文、一文じっくり読む方法を今回はとらせて頂きます。
おそらく、みなさんにもきっとお気に入りの一文が見つかるやもしれません。
そこら辺のところを念頭に入れて頂くと助かります。どうぞよろしくお願いします。
29 :
考える名無しさん:04/04/06 01:27
多様性は大事だね。
俺は思うんだけど象徴界というものは確かに時代時代で洗われている
ものであって例えば戦前の日本人と戦後の日本人と現在の日本人の
シンボリックとしての意味付けはかなり変化していると思う。
だから日本人としてあるべき姿という場合今は昔と違う。「象徴界の
力が弱まっている」ということから右翼的な共通項を日本的伝統に
乗っ取ってもう一度回帰しようということには無理があると思う。
だけどもっと奥底の目に見えない部分で我々は日本人としての血を
抱えているわけで言語にしても記号が氾濫している今でも日常的に
文化による恩恵を受けているわけだ。それは象徴界が安定的な言葉
によって機能しているのとは別にもうすでに否応なく日本人はもはや
日本人的である。そういった側面に預かって生きている。ということは
本質というものがある。「粋の構造」で「いき」の内包的側面を
「媚態」「意気」「諦め」というものによって表されている。
「いきは媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味
をもった意識である」(意気地)
「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。いきは
垢抜けがしなくてはならない」(諦め)
この3つのものはそれぞれに内面によって均衡を保ち外延的な
「いきの構造」に通じている。「垢抜けして(諦)張のある(意気地)
色っぽさ(媚態)」という内面に映し出された美徳を異性に対して
対自、対他的に保って生きる。近づきすぎは「いき」ではなくその
ちょうど良い距離、結合―分離のそのちょうど良い距離。こういった
距離というものは日本人の血は覚えている。お笑いの間もそうだし
野暮が嫌われるのもやはり今も昔も変わらない。こういった美徳を
無意識に行使しようとする意識を「データベース化」人間にしてしまう
はよくないわけだ。
まあ話は逸れたがやはり言語を覆っている意識も覆っているものが
あってそれについてやはりあるべき空間というものがたぶんあるように
思うのだが。横に人間を辿っていくというのとは別に
「いきの構造」面白いから読んでみ。本当に
>>27 西田は「善の研究」をかじり読みした程度(しかも挫折)なので誤解かもしれないけど、
おそらく「相互限定の世界」とは、或るものが或るものであるのは、それ以外のものがあるから。
私が私であるのは、私以外のあなたや彼などがあるから。
つまり、個物はそれ自身のみで存在しうるものではなく、
その個物以外のもの(その個物を否定するもの)が存在することによって存在しうる、
ってことでしょうか?
この解釈が正しければ、「何処までも多の一」とは究極的に「一」に還元されもしなければ、
「多」にも還元しえず、「一」と「多」の両方があって「現実の世界」が形成されている、
「一」=「多」という矛盾しつつも同一であるように「現実の世界」が形成されている、
ということかな?
34 :
考える名無しさん:04/04/06 01:54
そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。
しかし多を否定する一は、
それ自身が矛盾でなければならない。
ここはベルグソンの持続を思わせる。多くの瞬間に分割された時間(多)を
否定する一(持続)は、それ自身が変化を含みつつそれ自身であるという矛盾
を本来的に持っていると云えよう。
35 :
考える名無しさん:04/04/06 02:03
そもそも一なるもの(例えばある一つのリンゴ)自体が常に自己同一に
留まるのではなく、絶えざる変化のうちにある。一昨日買ったリンゴは
明日には腐っているかもしれないのだ。
36 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 02:06
>>7>>9 (改行2)までについて
>作られたものから作るものへと動き行く世界
これをすぐに理解するのはおそらく無理だろうね。
>爾(しか)考えるならば
ちなみに、この「爾」っていう言葉は、この後でもよく見かけます。
『自己自身を形成し行く世界においてのみ、爾(しか)いうことができるのである。』
『物理現象においても爾(しか)いわなければならない』
『単に個人の働きによって爾いい得るのではなく、』とか
いったいこの漢字の意味はどういう意味だろう?
とりあえず、推測してみる
「〜(A)〜しか、できない」
というよく使う「限定的」、「可能的」、「否定的」、構文形態なのだろうか?
でもここでは「限定的」、(「可能的」)、「肯定的」な構文を取っている。
(可能的は省略所々抜けている部分もある)
むーん、ちょっと混乱するなあ。
なんか矛盾している感じがする。
37 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 02:08
で辞書を引いてみる。 goo辞書より
『爾』(副)しか
(1)そのように。そう。
「このころは千年や行きも過ぎぬると我や―思ふ見まく欲りかも/万葉 686」
(2)感動詞的用法。相手の言葉を受けて、あいづちを打ったり、
承諾の意を表すとき用いる。そうだ。はい。
「生むこと奈何(いかに)とのりたまへば、伊邪那美命、
―善けむと答へたまひき/古事記(上訓)」「童、―、
五六たびばかりは見奉りたり、と答ふ/今昔 20」
むーん、なんか、わけがわからなくなった。
(1)の「そのように」、というのはまあ前述の文を「限定」してかつ、
それを「可能的」に肯定せしむるようなニュアンスだと言うことはわかった。
では(2)はどういうことぞ?
感動的用法とは?
なにい? 幾多郎先生はもしかして感動を頼りに文を構築しているのだろうか?
いわゆるひらめきってやつか?
そこで、『相互限定の世界』(
>>27)を少し理解することができる。
つまり限定というのは、前の文(論理)を肯定しているのであって、
つまり、「線」、もしくは「道」を表している。相互限定的と言うのは
つまり後述でもでてくるが、線が円環した形態を表しているのだろう。
イメージとしては、輪っかに二つの対象(物)があるイメージ。
原子モデルとしては、水素H2の電子の関係。
いちおうそういう風にイメージしてみる。
38 :
考える名無しさん:04/04/06 02:09
「さように」「そのように」だよ。
39 :
考える名無しさん:04/04/06 02:12
西田哲学は天皇制の存在論だよ。
40 :
考える名無しさん:04/04/06 02:13
爾は然と大体同じ。しかり、しからば etc
41 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 02:14
なんか知らんまに書き込み増えた。
みなさん、ありがとぅ
とりあえず、返事できそうなやつから。
>>32 了解しました。
42 :
考える名無しさん:04/04/06 02:16
一と多は、例えば一台の車を考えると「一」だが多くの部品から成り立っている
ので「多」でもある。
43 :
考える名無しさん:04/04/06 02:19
80年代のニューサイエンスを、はるか昔の明治時代に既に先取りしていた西田
は天才かもしれない。
44 :
考える名無しさん:04/04/06 02:22
45 :
考える名無しさん:04/04/06 02:24
>>44 誤爆です。申し訳ありませんでした。陳謝いたします。
46 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 02:26
>>33 それだと、「多」じゃなくて「全」の方がいいと思ったんですよね。
当然、幾多郎氏は「全」という観念をご存じです。(のはずです)
多と全の援用が、ちょっと自分の中では新しいなと思ったのですよ。
もちろん、あなたの理解は正しいと思います。
まあ幾多郎ちゃんが絶対正しいってわけでもないので、
ほんとはどっちでもいいですが。
47 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 02:28
>>43 私の私見では逆に明治から現在まで
科学はまったく何も進歩していないなと見ているんです。
科学ではなくて、ただ技術が発達したんですよ。
おそらく。
48 :
考える名無しさん:04/04/06 02:30
ところで、「絶対矛盾」てどういうの?
49 :
考える名無しさん:04/04/06 02:34
西田は一と多、全体主義と個人主義どちらにも還元できないもの考えていた。
だからそれは矛盾とはいえる代物ではない。
それは状況への埋没を意味する。
考えてもみれば、処女作の善の研究の経験とは状況への没我的のめりこみ、
ぶっちゃけ、没頭以外のなにものでもなかった。
西田のフッサール理解もそのレベルでしかなかった。
しかしここから、西田にとっての天皇制は歴史的な天皇制とずれて、純文学
の様相を呈する。
50 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 02:35
51 :
考える名無しさん:04/04/06 02:36
49が答えだろ
52 :
考える名無しさん:04/04/06 02:39
西田が竹田の『現象学入門』を読んでいれば、日本の哲学史も
皮って居たかも痴れねー。
53 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 02:40
>>49 >西田のフッサール理解もそのレベルでしかなかった。
どんな風にフッサールを理解していたんだろうか。
フッサールってちなみに何を言った人なの?
54 :
考える名無しさん:04/04/06 02:41
多分だが、毛虫を観察するとして、「そいつ」は「そいつ」なのだが
(対象同一性、対象恒常性とかいう)いつのまにか「蝶」になったりする
わけだ。そこらへんのことかな?
55 :
考える名無しさん:04/04/06 02:46
西田のフッサール理解はかなりひどい。
56 :
考える名無しさん:04/04/06 02:49
西田は弁証法だからね。
57 :
考える名無しさん:04/04/06 02:52
ところで、「絶対矛盾」てどういうの?
一般論:矛盾=あり得ない。
西田論:矛盾していないものはあり得ない(存在し得ない)
こんな感じじゃないの?
58 :
考える名無しさん:04/04/06 02:54
天皇制がなくなったらどうしる?
59 :
考える名無しさん:04/04/06 02:55
生成、変化に関わるわけか・・西田には疎外や外化はある?
60 :
考える名無しさん:04/04/06 02:55
天皇制は最高の弁証法
61 :
考える名無しさん:04/04/06 02:57
屁だよ屁
62 :
考える名無しさん:04/04/06 02:59
状況への埋没が天皇性によって根源的になるんだよ。
63 :
考える名無しさん:04/04/06 03:01
天皇より長嶋茂雄
(改行3および改行4までの考察)
えーとここでは、過去と未来、あと時間の一瞬など、
時間的世界の考察がなされているようです。
おそらくベルクソンあたりを、念頭に置いているのでしょう。
ここらへんは、ベルクソンの「時間と自由」を読んだ方が
いいのかも知れません。
さて、ここで、過去と未来を幾多郎氏は対比させていますが、
一つ疑問に思うことがあります。そう簡単に、過去と未来を
対比させていいものなのでしょうか? ということです。
例えば、幾多郎氏はここで「今」という「一瞬」に拘りたいのだと
思います。まったくベルクソン的です。しかし過去と未来の間に
今がある、そのような誤解をこの論理展開は受けかねません。
この論理は正しかったものなのでしょうか?
おそらく、「一瞬」を本来は「純粋持続」であったものを
幾多郎氏は絶対的な「純粋持続」として括弧にくくってしまったの
ではないかと思うのです。
私の考えでは、過去と未来は対比しません。
過去と今が同一のものであり、括弧でくくることができ、
それが未来と対比するような形態です。
そして過去と今の間で、
意識は「純粋持続」化し未来を志向すると言えるのではないかと、
私は考えています。
決して過去と未来の間に「今」の「一瞬」があるわけではないのです。
などと、私は考えています。ちょっとここの過去と未来の対比が鼻に
ついたのでつっこんでみました。
66 :
考える名無しさん:04/04/06 03:44
西田の場合、「多」は個物や部分で、「一」は普遍や全体なのでは。
だから「多」を「全」に変えなくても、「全」はもともと「一」に
含まれて考えられていると思う。
>>66 >「一」は普遍や全体なのでは。
なるほど。
68 :
考える名無しさん:04/04/06 04:00
>>65 自分の呼んだ感想だと、西田は「一」としての「現在」すなわち「永遠の今」のうちに、
過去も現在も未来も同一のものとしてありながら(「連続」)、
やはり過去も現在も未来もそれぞれ異なるものとしてある(「非連続」)。
過去と未来の間に「今」の「一瞬」がありながら、しかもない(絶対矛盾的自己同一)、
と言いたいのだろう。
過去・現在・未来はそれぞれ異なりながら(対比されながら)、しかも同じである
という時間の絶対矛盾(異なり)的自己同一(同じ)的事態を述べていると思う。
69 :
THE グル:04/04/06 04:13
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< ていせつていせつ!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩∧ ∧∩\( ゚∀゚)< 定説!定説!定説!
ていせつ〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
 ̄
>>68 ほうほう、了解です。非常にわかりやすいです。
ちょっと思ったのですが、幾多郎氏は西洋思想の
解説者としての前駆者的存在だったのでしょうか?
そういう西洋思想の紹介の仕方としては彼の文章は
抜群に上手いなあという感想を持ったのですが、読む
人のレベルが、庶民的だなあなどと思ってみたり。
まあその、絶対矛盾VS自己同一
という対比、もしくは円環論理の適用は、うなずけるものがあります。
ちょっと、私はその円の輪っかをちょん切ってみたいなあと考えております。
前もって言っておきますと、いちおう私の考えと、西田氏の考えは違います。
とりあえず、今の、私の思想の底本は養老孟子氏ということになります。
彼の論法では、今も過去もなく、未来しかないという論法を取っているわけでして。
で、おそらくですが養老猛子氏は、どうやら西田哲学を読み込んでいるに
違いないのです。たぶんかなり、影響を受けているんじゃないかなあと。
そういった私の思考の念頭に置いて頂けると助かるなあと思います。
まあ、どうやら日本の保守派の思想は、西田氏から影響を受けているのは
間違いないでしょうね。そういう人には、西田氏の本は一読の価値がある
のではないでしょうかね。
ちょっと思っていること、いろいろ語ってしまいました。
誰かまた詳しい人がいたら、いろいろ書き込んでください。
>68さん
ありがとう
>>69 グルさんこんにちはwww(挨拶だったんですよね)
西田哲学についてなんか知ってたら教えてください。
72 :
THE グル:04/04/06 04:38
>>71 いいですか、
簡単に一言で言ってしまうと、
ずばり、日本人的霊性ですね。
ちなみに、彼については、面白い話がありまして、
西田幾多郎に「禅」に関して質問すると、「鈴木大拙に聞け」と言うくらい、
こと、「禅」に関しては鈴木大拙に道を譲ったみたいですね。
彼らは互いに切磋琢磨していたことが解るエピソードですね。
どうかしましたか?
>>72 鈴木大拙って誰ですか?(すみません無知で)
あと日本人的霊性ってどういう感じのものでしょう。
日本人的霊性と西洋人的な霊性(神性?)の違いはなんなんでしょう。
>>21-22 (改行5までの考察)
> 而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、
> 過去と未来とはまた何処までも結び附くものでなく、
> 何処までも過去から未来へと動いて行く。
やっぱり、過去と未来を対比させていた。
> 抽象論理的に考えられるように、
> 単に過去と未来とが結び附くとか一になるとかいうのではない。
>
> 相互否定的に一となるというのである。
抽象論理的ってなんだろう?
『過去と未来が“相互否定的に一となる”』
これもなんだか、うーん奥が深いですね。
> しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、
> 時間的空間として、
> そこに一つの形が決定せられ、
> 時が止揚せられると考えられねばならない。
ほう、なるほど「現在」とは「過去」と「未来」の止揚した概念だというわけか。
ああこれは、うなずけるものがありますね。
(改行5まで、つづき)
>>22 > 一が多の一ということが空間的ということであり、
> 多から一へということが機械的ということであり、
> 過去から未来へということである。
ここら辺よくわからない。機械的、空間的は対比する概念なのか?
> 一から多へということは世界を発展的に考えること、
> 合目的的に考えることであり、
> 未来から過去へということである。
世界が合目的、発展的ってなんだ?
あと、『現実は形を有(も)ち』のように『有』を『持つ』を援用しているのが
後述でも目につく。
つまり、「有」とは「所有」のことでいいんだろうか?
ちなみに「無」の大家であるグルさんはどう思われますか?
76 :
考える名無しさん:04/04/06 05:05
>>75 おそらく「抽象論理的」というのは、矛盾的自己同一という論理ではない論理だと思う。
過去と現在と未来とを絶対につながらないものと考えるか、
すなわち時間の流れを否定してしまうか、
もしくは過去と現在と未来の区別をなくしてしまって、直線的に時間を理解してしまう、
瞬間を否定してしまうか、
のどちらか一方のみを認めるような論理であると思います。
この考えを受けて「相互否定的に一となる」というのを解釈するならば、
過去と未来とは異なるもの、その意味において相互を否定する、
すなわち過去は過去であって〈未来ではない〉、未来は未来であって〈過去ではない〉
というかたちで否定しあう(「相互否定的に」)のだが、
ここにとどまってしまうと「抽象論理的」であって、
この相互が否定しあうことをもって各々が各々自身として成立し得る、
したがって、相互に依存しあいながら存在するから切り離し得ない、
すなわち「一となる」、という点をも加味することによって
「抽象論理的」ではない「絶対矛盾的自己同一」という論理(?)となり、
この事態を「相互否定的に一となる」と表現している、ってことだろうか。
なんだか説明になってんだかなってないんだか分からないような文章ですまん。
77 :
THE グル:04/04/06 05:13
>>73 いいですか、
鈴木大拙は、西田幾多郎の無二の学友ですよ。
彼らは、昔からの友人同士でして、
今世界に、「禅」がこれほど浸透したのは彼の偉業なんです。
また、彼もこの日本人的霊性については深い考察を残しています。
じゆんさんが西田幾多郎を読んでいらっしゃるなら話は早いのですが、
つまりは、日本人的死生観あるいは、独自の宗教観念なんです。
西洋的な観念論をそれらとマッチさせ、
日本人の霊性(精神)を位置づけたものがそれにあたるんです。
鈴木大拙と西田幾多郎はセットで読むことを是非オススメしたいですね。
どうかしましたか?
>>75ではなく
>>74 まちがえました。
>>75 ここでは「機械的」は「合目的的」との対概念だと思う。
「機械的」はおそらく「多」から「一」を、部分から全体を見る視点を指していて、
科学的に物質の構成要素から世界について説明しようとすることを指していると思われる。
だから「過去から未来へ」すなわち因果論的に世界を考えることになる。
これに対して「合目的的」とは一・全体から多・部分を見る視点を指して
諸部分があたかも全体の目的のために存在している、機能しているという見方で
世界について説明しようとするようなもので、
だから「未来から過去へ」、未来において実現されであろう目的のために
過去から「発展的」に生成しているといいうふうに世界を考えることになる。
あと「有」は「持つ」と読み換えていいと思う。
>>76 かなり、ナイスな説明です。
本当にありがとうございます。
そうか、抽象的な時間の観念を止揚させたのが絶対矛盾的自己同一なる
「現在」なのか。なーるほどね。胸のもやもやがすっきりしました。
>>77 グルさんもありがとう。
>鈴木大拙と西田幾多郎はセットで読むことを是非オススメしたいですね。
了解です。
こんど鈴木大拙氏の本を覗いてみます。
>>78 これもグッドな説明ですね。
そうか、ようするに、機械論的な論理展開はエントロピー化を促すが
合目的的な論理展開は反エントロピー、つまり統一へ向かうというわけですか
そして、合目的とは西田氏の言う「一と多」の論理から展開され、それこそが
「発展」の名にふさわしいと。
とりあえず今日はここまでにしたいと思います。
明日の夜は自分は仕事のため書き込めません。
でもまた本文のつづきを貼っておきますので読んで置いてください。
でみなさんで自由に議論してくださると助かります。
どうぞよろしくお願いします。
>あと「有」は「持つ」と読み換えていいと思う。
そうですか、じゃあ「無」って単に「持たない」という意味だったんですね
(西田哲学的にはですが)。ふむふむ、なるほどね。
本文つづき。
(改行6)
右の如く絶対矛盾的自己同一として、
作られたものから作るものへという世界は、
またポイエシスの世界でなければならない。
製作といえば、人は唯主観的に物を作ることと考える。
しかし如何(いか)に人為的といっても、
いやしくも客観的に物が成立するという以上、
それは客観的でなければならない。
我々は手を有するが故に、
物を作ることができるのである。
我々の手は作られたものから作るものへとして、
幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。
隠喩(いんゆ)的でもあるが、
アリストテレスはこれを「自然が作る」η φυσι※ ποιειという。
無論斯(か)くいうも、我々の製作が自然の作用だなどというのではない。
手が物を作るのでもない。
然らば物を作るとは、如何なることであるか。
物を作るとは、物と物との結合を変ずることでなければならない。
大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、
即ち形を変ずることでなければならない
(ライプニッツのいわゆるコムポーゼの世界において可能である)。
現実の世界は多の一として決定せられた形を有った世界でなければならない。
これを何処までも多から一へと考えるならば、
そこに製作という如きものを入れる余地がない。
これを一から多への世界と考えても、
それは何処までも合目的的世界たるを免れない。
唯自然の作用あるのみである、
生物的世界たるに過ぎない。
この世界の根柢に多を考えることもできず、
一を考えることもできず、
何処までも多と一との相互否定的な絶対矛盾的自己同一の世界にして、
個物が何処までも個物として形成的であり物を作ると共に、
それは作られたものから作るものへとして、
何処までも歴史的自然の形成作用ということができる。
(改行6終わり)
(改行7)
時が何処までも一度的なると共に、
現在が時の空間として、
現在から現在へと、
現在の自己限定から時が成立すると考えられる如く、
世界が矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということは、
個物が製作的であるということであり、
逆に個物が製作的であるということは、
世界が作られたものから作るものへということである。
我々がホモ・ファーベルであるということは、
世界が歴史的ということであり、
世界が歴史的であるということは、
我々がホモ・ファーベルであるということである。
而して絶対矛盾的自己同一の世界においては、
時の現在において時を越えたものに触れると考えられる如く、
作られたものから作るものへとして、
ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。
いわば過去から未来への間に意識的切断面を有つ世界である。
作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、
そこに映すという意義があるのである。
我々は行為的直観的に製作するのである、
製作は意識的でなければならない。
絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、
製作的自己は思惟的と考えられ、
自由と考えられる。
我々の個人的自覚は製作より起るのである。
(改行7終わり)
(改行8)
世界の底に一を考えることもできない、
多を考えることもできない、
多と一とが相互否定的として、
作られたものから作るものへといえば、
多くの人にはそれが実在の世界とは考えられないかも知れない。
多くの人は世界の底に多を考える、
原子論的に世界を因果必然の世界と考えている、
物質の世界と考えている。
矛盾的自己同一の世界は一面に何処までも爾(しか)考えられる世界でなければならない。
しかしそれは現実の矛盾的自己同一から爾考えられるのでなければならない。
現実とは単に与えられたものではない、
単に与えられたものは考えられたものである。
我々がそこに於(おい)てあり、
そこに於て働く所が、現実なのである。
働くということは唯意志するということではない、
物を作ることである。
我々が物を作る。
物は我々によって作られたものでありながら、
我々から独立したものであり逆に我々を作る。
しかのみならず、我々の作為そのものが物の世界から起る。
私のいわゆる行為的直観的なる所が、現実と考えられるのである。
故に我々は普通に身体的なる所を現実と考えているのである。
作るものと作られたものとが矛盾的に自己同一なる所、
現在が現在自身を限定する所が、現実と考えられるのである。
科学的知識というのも、かかる現実の立場から成立するのでなければならない。
科学的実在の世界も、かかる立場から把握せられるのでなければならない。
また我々の身体が運動によって外から知られるといわれる如く(Noiré)、
我々の自己というものも、歴史的社会的世界においてのポイエシスによって知られるのであろう。
歴史的社会的世界というのは、作られたものから作るものへという世界でなければならない。
社会的ということなくして、作られたものから作るものへということはない、
ポイエシスということはない。
我々が考えるという立場も、
歴史的社会的立場に制約せられていなければならない。
(改行8終わり)
(改行9)
哲学の出立点については多くの議論があることであろう。我国の今日まででは、
大体において認識論的立場とか現象学的立場とかいうものが主となっている。
かかる立場からは、私のいう所が独断論的とも考えられるであろう。
しかしかかる立場も、歴史的社会的に制約せられたものでなければならない。
我々は今日、元に還ってローギッシュ・オントローギッシュに歴史的社会的世
界というものを分析して見なければならない。かかる立場から、私はなお一度
ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。
主客対立の認識論的立場というのも、なお一度吟味して見なければならない。
知るということも歴史的社会的世界においての出来事である。
私は古い形而上学に還ろうというのではない。
私はカント以後にロッチェがオントロギーの立場に還って認識作用を考えたと思う。
しかしロッチェのオントロギーは私のいう如き歴史的社会的ではなかった。
(改行9終わり)
(改行10)
多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、
主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと
考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。
しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、
それは形相が質料を形成するという如きことではない。
個物は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、
働くものでなければならない。
働くということは、何処までも他を否定し他を自己となそうとすることである、
自己が世界となろうとすることである。
然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、
自己が世界の一要素となることである。
この世界を多の一として機械的と考えても、
または一の多として合目的的と考えても、
いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、
かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。
しかし機械的と考えればいうまでもなく、
合目的的と考えても、個物は何処までも自己自身を限定するものではない、
真に働くものではない。
真に個物相互限定の世界は、
ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。
モナドは世界を映すと共に、
世界のペルスペクティーフの一観点なのである、
表出即表現である(exprimer = répresenter)。
しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、
自己自身を形成するものでなければならない、
表現作用的でなければならない。
(改行10終わり)
(改行11)
その底に一を考えることもできず、
また多を考えることもできず、
絶対矛盾的自己同一として、
作られたものから作るものへという世界においての個物は、
表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。
多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、
個物が世界を映すという時、
個物の自己限定は欲求的である。
それは機械的に働くのではなく、合目的的に働くのでもない。
世界を自己の中に映すことによって働くのである。
それを意識的というのである。
動物の本能作用というものでも、
本質的には、かかる性質を有(も)ったものでなければならない。
故に我々の行為は、固(もと)行為的直観的に起る、
物を見るから起るというのである。
行為的直観とは作用が自己矛盾的に対象に含まれていることである。
多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという時、
世界は行為的直観的であり、
個物は何処までも欲求的である。
私の形というのは、
静止する物の形という如きものをいうのでなく、
多と一との矛盾的自己同一として、
作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。
プラトンのイデヤというのも、固此(もとかく)の如きものでなければならない。
(改行11終わり)
(改行12)
自己矛盾的に物を見るということなくして欲求というものがなく、
形というものなくして働くということはない。
動物的生命においては見るといっても、
朦朧(もうろう)たるに過ぎない、
夢の如くに物の影像を見るまでであろう。
動作が本能的と考えられる所以である。
本質的には表現作用的といっても、
真に外に物を作るということはできない。
動物はなお対象界を有たない、
真に行為的直観的に働くということはない。
動物にはいまだポイエシスということはない。
作られたものが作るものから離れない、
作られたものが作るものを作るということがない、
故に作られたものから作るものへではない。
それは生物的身体的形成たるに過ぎない。
然るにモナド的に自己が世界を映すことが
逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという人間に至っては、
行為的直観的に客観界において物を見ることから働く、
いわば自己を外に見ることから働く。
作られたものが作るものを作る、
作られたものから作るものへである。
故に人間はポイエシス的である、
歴史的身体的ということができるのである。
而して表出即表現の立場から働くとして、それは論理的ということもできるであろう。
(改行12終わり)
(改行13)
右にいった如く、個物は何処までも個物として創造的であり、
世界を形成すると共に、自己自身を形成する創造的世界の創造的要素として、
個物が個物である。
矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、
形から形へと考えられる世界でなければならない。
始に現在が現在自身を限定するといった如く、
形が形自身を限定すると考えられる世界でなければならない。
多と一との絶対矛盾的自己同一の世界は、
かかる立場からは何処までも自己自身を形成する、
形成作用的でなければならない。
かかる意味において自己自身を形成する形が、
歴史的種というものであり、
それが歴史的世界において主体的役目を演ずるものであるのである。
私の形といっているのは、
実在から遊離した、
唯抽象的に考えられる、
静止的な形をいうのではない。
形から形へといっても、唯無媒介的に移り行くというのではない。
多と一との矛盾的自己同一として、実在の有つ形をいうのである。
生物現象というも、何処までも化学的物理的現象に還元して考えることができるであろう。
しかしその故に生物現象を単に物質の偶然的結合というのならばとにかく、
いやしくもそれ自身に実在性を認めるならば、
それは形成作用的と考えられねばならない。
生物の有つ形というのは、機能的でなければならない。
形と機能とは、生物において不可分離的である。
形というのは、唯、眼にて見る形の如きものをいっているのではない。
生物の本能という如きものも、形成作用である。
文化的社会という如きも、形を有ったものでなければならない。
形とはパラデーグマである。
我々は種の形によって働くのである。
而(しか)してそれは行為的直観的に見ることによって働き、
働くことによって見るということでなければならない。
作られたものから作るものへということでなければならない。
(改行13終わり)
とりあえず本文のコピペはここまで。
グルさん。それに76さん。
本日はお付き合いどうもありがとうございました。
あと他のみなさんも書き込みも大変よく参考になりました。
それでは失礼させて頂きます。
98 :
THE グル:04/04/06 06:13
>>97 いいですか、
そういえば、じゆん ◆bYRNL78mlE さんて、
確か「無」についてのスレで見た記憶があるのを思い出しました。
まあ、どうでも良い一人ごつですがね。
どうかしましたか?
>>98 いいですか?
あの時の私が、今の私なんですよ。
(確かあのころとトリップは変えた気がするけど)
どうかしましたか?
100 :
THE グル:04/04/06 06:27
>>99 いいですか、
やはりそうでしたか、
いえ、ただの独り言です。
どうかしましたか?
101 :
考える名無しさん:04/04/06 09:35
じゆんよ機会があればもっと議論をしよう
青空の下か…
いいですね
僕も参加させてくださいね
よろしく!
おいおい、大拙知らないで、このスレやってるのかよ・・・(;´Д`)
104 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/06 16:43
105 :
考える名無しさん:04/04/06 22:32
じゆんにはその道をまっとうしてほしいね。おりゃそんな悪いジョークはいわんよ。安心せい
106 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/04/06 22:34
今晩わ!
107 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/04/07 00:40
今日はなし?
108 :
考える名無しさん:04/04/07 00:50
「行為的直観」ってどういうこと?
誰か教えて下さい。
今日はなしみたいですね。
養老タケシの論理も一面においては円環的ですね。
円環的というよりは螺旋的とでも言った方がいいかも。
主体と環境との相互作用を強調している点も西田と同じだし。
でも西田の場合においても単に円環的なだけではなく、直線的でもある(矛盾的自己同一!)。
円環的なだけだと時間性、創造性が抜け落ちてしまう。
円環的は論理は空間的な論理とも言えるから。
西田も養老と同様に螺旋的な論理と言えるんじゃない。
>>110 >養老タケシの論理も一面においては円環的ですね。
>円環的というよりは螺旋的とでも言った方がいいかも。
おそらくそのようですね。最近養老猛子氏の論を知ったんですが。
まあなんというか、すごく腑に落ちるんですね。腑に落ちるって言うことは
つまり、円環的、論の収まりがいいと言うことになります。秩序があって、
均整がとれている。まったく逸脱したところがない。そういう人の論をみると
私は安心します。いきなり突飛なことをいう人よりも、よっぽどいいですね。
当たり前のことをちょっといつもとずらした認識の仕方で見つめる。あの人の
本はそういう読み方ができる人です。
(つづき)
あと私が養老猛子と西田幾多郎の接点を見出したのは
> 隠喩(いんゆ)的でもあるが、
> アリストテレスはこれを「自然が作る」η φυσι※ ποιειという。
> 無論斯(か)くいうも、我々の製作が自然の作用だなどというのではない。
このあたりになります。例えば養老猛子の言葉にあるのは、例えば豊穣な自然の美の形を
作り出すためには人の手が入っていなければならない。そのようなことを言っています。
森をそのまま放っておけば、苔が木を蝕んでいく。それを手入れするのは人間の役目だ。
「育てる(手入れ)」とまた「作る(都市化)」という感覚が共通しているわけです。
>でも西田の場合においても単に円環的なだけではなく、直線的でもある(矛盾的自己同一!)。
そうですね、おそらく月は地球の周りを円を描く軌道を進んでいるとは思っていなくて
まっすぐに進んでいるつもりなんだと思います(永遠という概念すら認識せずに)。
(つづき)
まあでも螺旋と限定しなくても、他にもあるかと思ってしまいます。おそらく西田は
螺旋的にはなろうとしていないと思います。何処までも円環的であろうと、とまあ
ただの空想ですが。そこら辺を自分は見極めていけたらいいですね。円か、それとも
螺旋なのかについてね。
実は、私は円のままでいいような気がするんですよね。螺旋の概念はは基本的に他力になります。
それじゃ、たぶん哲学じゃないような気がしますので。
まあ、止揚+円環=螺旋という論理は実は私も好きです。ちなみに「円環」という語をを最初に使用
したのはヘーゲルなんでしょうか? 知っている方がいらっしゃったら応答願います。
ちょっとマイ哲学にはまってしまいましたね、すいません。
>>30 >それは象徴界が安定的な言葉によって機能しているのとは別にもうすでに
>否応なく日本人はもはや日本人的である。
これは同意します。日本人が日本人であることの唯一の証明が日本語を
使えると言うことなのだと思います。とりあえず私はそういう風に定義してみます。
日本語の構造こそ、非常に日本人的だと言うことです。日本語はひらがなと漢字
によって成り立っています。ひらがなは「音声的」で、漢字は、「記号的」な表象形態
です。どちらも言葉の重要な構成要素です。それを日本語は分離してしまったわけです。
しかし、日本語の文の平仮名の部分はほとんどの記号的な部分を排除し、むしろ論理的な
構成形態を表すことができます。であるからこそ、日本語の文の構成は他国の言語と比べて
比較的自由なのではないかなと思われます。私のイメージでは英語はかちかちな構文という
イメージがあってまったく苦手です。ちなみにドイツ語は構文が自由に作れるのだそうです。
まあいいや、そういう自由な構文を、つくることのできることがおそらく日本人の思考に現れ
るのではないかなと思われるのです。そういう意味では日本語を使用している限り、日本人は
日本人的であるのではないかなと思われます。とりあえずそんな日本人観を持っています。
>>31 >「粋の構造」で「いき」の内包的側面を「媚態」「意気」「諦め」というものによって表されている。
(省略)
>この3つのものはそれぞれに内面によって均衡を保ち外延的な「いきの構造」に通じている。
>「垢抜けして(諦)張のある(意気地)色っぽさ(媚態)」という内面に映し出された
>美徳を異性に対して対自、対他的に保って生きる。
>近づきすぎは「いき」ではなくそのちょうど良い距離、結合―分離のそのちょうど良い距離。
>こういった距離というものは日本人の血は覚えている。
うーんあなたの言葉(思考)はなんて素晴らしい直観と、理性があるんだ。
そのように思いました。実はあなたの文章を読んで本当に面白くて、うん感動しましたよ。
ちょっと自分は感性的なものに頼りすぎるきらいがあるのであなたの言葉はとても参考になります。
とても勉強になりました。あなたの文を読んで「いきの構造」を読みたいって本当に思いましたから。
どうも、ありがとうございました。
>>33 >私以外のあなたや彼などがあるから。
いちおう
>>47のちょっと続きを、考察してみたいと思います。
「私」と「あなた」が向き合っている構図をイメージしてください。
「私」=「全」また「あなた」=「一」とします。
おそらく今の議論の中ではそういうことになっているかと思います。
それを包む彼がつまり「多」なのではないかなと思うのです。
まあ別に「多」が「私」でもいいし、「全」が「彼」でも構いません。
しかしそれでもなおそれらを「包む」という観念があるというのが
おそらく西田の哲学の神髄なのではないかなと私は考えています。
絶対無とはおそらくそういうことなのかなと今のところ考えています。
いちおう絶対無の「包む」というのを以下のコピペで説明できたらと思います。
『私と出会うための西田幾多郎』 中岡成文著 p46より
<絶対無>
無の論理は幾多郎が創出し、彼以降の京都学派が使用し、展開したものである。
幾多郎によれば、世界はいかなる実体にも支えられておらず、自己の中に自己を
映すという「関数」的な仕方で諸個物として、またそれらを媒介する「場所」たる
絶対無として現れる。それなのに西洋哲学は対象(有)に囚われ、無を無として
考察することができない。知性的原理を最大化して叡智的一般者に至ったとしても
それでは、まだ包めない最後の矛盾を「包む」ところのものが、絶対無の場所である。
「自己同一なるもの、いな自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むものすらこれに
おいてある場所が、私のいわゆる真の無の場所である」。この絶対無は、有のような
支配を個物に対して及ぼさないので、個物は自由を保てる。
幾多郎の無の論理は多元性を忠実に把握ししようとするもので、現代思想の一つの
方向性を先取りしたと言える。これに対し、田辺元は「無」性の不徹底や瞑想性を批判
して「絶対無即愛」の概念で乗り越えようとし、西谷啓治は「空」(直接経験による確証)
の思想へとそれを展開した。
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< 西田幾多郎面白い〜
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩∧ ∧∩\( ゚∀゚)< みんな読んでみ?
ていせつ ていせつ〜>( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
 ̄
>>34 > そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。
> しかし多を否定する一は、
> それ自身が矛盾でなければならない。
>ここはベルグソンの持続を思わせる。
ちょっとだけ言わせてもらえば、このような「多」の概念を使用する時間の観念は
私の私見では、まったくベルクソン的ではないと思っているのです。ベルクソンは
あくまで科学の延長として、論理的に時間から空間への延長を試みているが、
西田のは(もしくはあなたの論は)最初から時間を分割できるというか、思わせる記述の
ような気がします。基本的にベルクソンは時間は分割できない。だから分割できると考える
こと、それ自体が無意味であると言っているのです(もちろん私の解釈ではですか)
ですから、西田の論はベルクソンの論を間借りしてはいますが、今の時点では、
まったく別のものと私はみているのです。例えばベルクソンの純粋持続と西田の
純粋経験はまったく違うものですよ。西田がベルクソンを啓蒙していたのはわかりますし、
おそらくベルクソンの理解もあったのだと思うのですが、私の私見ではまったく別のものを
もしくは違うアプローチの仕方として論の展開を試みたと思うのです。おそらく西田の哲学を
みても、ベルクソンを理解することは出来ないんじゃないでしょうか? そのように私は見て
おりますが、いかがでしょう? ご批判お待ちしております。
できれば西田とベルクソンの時間論の違いなど考察できるかたがいましたら、そちらもどうぞ
よろしくお願いします。
>>35 >そもそも一なるもの(例えばある一つのリンゴ)自体が常に自己同一に
>留まるのではなく、絶えざる変化のうちにある。一昨日買ったリンゴは
>明日には腐っているかもしれないのだ。
これってむしろ、現象学チックだなあと思うのですが。。。
歴史とか発展とかそういうのを西田が言っているのを見るとなんか逆に現象学っぽいかなあと
思ってしまいます。いや、いいかげんですよ。
>>39 >西田哲学は天皇制の存在論だよ。
まあ、基本的に円環的論法を使うのはどうみても
存在(論的)に言及しているとしか思えませんね。
西田哲学は絶対無からも考察できるとおりむしろハイデカー的な存在論と
似ているような気がするのです。どう思われます?
まあ天皇がどうとかと言うのはまだ読み込んでないんでわかりませんが。
まあできたらそういった西田の思想の経緯のことも教えて頂けると助かります。
122 :
THE グル:04/04/07 11:51
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< ていせつていせつ!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩∧ ∧∩\( ゚∀゚)< 定説!定説!定説!
ていせつ〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
 ̄
>>49 >没頭以外のなにものでもなかった。
没頭、これこそ現象学的実践だとちらりと思ったのですが違いますかねえ。
そういう意味では、西田は現象学を好意的直観によって自ずと得ていたような気が
しないでもないのですが。西田の文を読んでいくと、ときおり概念が浮かび上がる
ことがあるのです。まあどの哲学書も大概そうだったりするのですが。
そういう認識仕方ってたぶん現象学そのものだと思うのだけどな。
やっぱり、違いますかね?
あと、フッサールってたしか現象学の人でしたね、思い出しました。
まだ原典は読んでない入門書レベルの知識ですが(もち竹田氏の『現象学入門』です)
半年前に読んだ哲学書だったような気がします。
最初に読んだときは挫折して、というか。この本は、なにを当たり前のことばかり言っているん
だろうかと腹が立ったのが感想だった。で二回目に読んだらよく理解できたのだけど、その直前に
たしか『フッサールの「デカルト的省察」を読む』のスレを覗いていた時期だった。
そこで確か現象学についての議論がなされていて、おおよそ現象学について理解したつもりなん
だけどなあ。現象だから立ち止まることを許されない。そういった中での行為的直観て、
ずばり現象学のことを指しているのだと思うのです。うーん。。。 ど う で し ょ う ?
>>54 たぶんこれが純粋持続なんですよね。
で実はまだ自分は本当に純粋経験を理解していないと言うことがわかった。
純粋経験とはなんぞですか?
あと思ったのですが、「絶対」、「超越」、「純粋」
この三つの違いを説明することのできる人はいるでしょうか?
この三つの概念をすらすらと言えたらその人は本当に天才だと思います。
↑ ↑
☆上記は哲学板のみなさんへの問題とします。ぜひ上の質問に答えてみてください。☆
今日の夜も、仕事なので書き込めません。
あしからず。
127 :
THE グル:04/04/07 12:01
>>125 いいですか、
質問が散逸しているので、
「絶対」、「超越」、「純粋」とやらと、
純粋経験についてご説明いたしましょう。
どうかしましたか?
>>127 よろしくです。
楽しみにしておりますよ。
自分は一旦落ちます(眠いのです)
ほいじゃあ ね。。。。。。。。....
129 :
THE グル:04/04/07 13:06
いいですか、
簡単に言うと、「絶対」とは、
その係るところのモノ、
多くの場合はその後に続くモノが、
他からの一切の相関や因果等から独立したところのものなんです。
ちなみに、絶対的完全は無限にこれに接近しえるも、
現実には到達し得ざる極限概念でカントに当たりますね。
「超越」これは、誰に依るかで異なるのですが、
まあ、代表的なカントによる「超越」とリッケルトやフッサールの現象学的それがあるんです。
前者は、内在性に対する語でありまして、
或る領域を超えてその外に或いは上に位することなんです。
形而上学的には有神論や理神論において、
神の世界に対する関係について言われるんです。
即ち、神は世界の創造者乃至原因として世界を超えて上に位するということなんです。
また、
この語は、カント以来経験や意識を超えるという認識論的意味合いが強まりましたね。
ご承知の通り、「理性批判」における先験的は超越的の意に近い(ほぼ同意)ですね。
後者は、
認識の対象としての超越的当為(Oughtness、Sollen)が経験的主観の規範であるが、意識一般の相関者だということ。
つまり、認識が当為として承認され得るということなんです。
「純粋」は、カントにおいては経験乃至感覚を混じえず、全くの意味において先天的に可能であるものをこう呼び、
経験に先立つものとしてのものを純粋とするんです。
これが定説です。
どうかしましたか?
130 :
THE グル:04/04/07 13:24
いいですか、
前の文はテーマが多くて読みにくいでしょうから、
「純粋経験」は簡潔に行きます。
普通に言う経験が常識的、自然科学的に解釈が付加され、
主客の対立、時空的規約などの因果律を含む制約があるのに対し、
こうした立場を離れて、一切の付加されるものを排して、
直接与えられた経験の純粋な姿を捉え、
こうした、根源的経験から主客の対立や時間空間の構成、
因果律の根源等を理解しようとする試みのこと。
西田幾多郎を読むなら重要なキーワードのひとつですね。
まあ、そんなのはサイババの勝手ですけどね。
これが今では定説です。
どうかしましたか?
>>119 ベルクソンの時間論だと純粋持続としての時間を根底において
空間化された時間を純粋持続の変容態として考えられていると思うのですが
(受け売りです)、
もしそうだとすると、ベルクソンの時間論は西田からすると連続性のみを強調していて、
非連続性の重要性が看過されていると答えるのでは。
ベルクソンももちろん純粋持続における質的な差異についても論じているが、
連続性、分割不可能性を強調しすぎていて、時間様相の区別が曖昧になってしまっている
といえる(ここら辺はほぼ妄想です)。
西田としては、時間の成立には純粋持続だけではなく時間の空間化も必要である
(「瞬間の同時存在」
>>17、「時間的空間」
>>21等の表現参照)と考えるように思われる。
というのも、過去と現在と未来の成立、これわの関係の理解は空間化を前提とするから、
すなわち、既に存在しないはずの過去と未だ存在しないはずの未来とが
現在において了解されていること、その意味において過去と未来とが
現在において存在し、並置されて考えられていることによって
過去、現在、未来の関係が了解されることになるから。
う〜ん、上手く言えません。
簡単に言ってしまうと、ベルクソンは連続性の重視、
西田は連続性も非連続性もともに同じく重視って感じになりますかね、
そんな印象です(やけくそです)。
誰か詳しいひとの教えを求む。
132 :
考える名無しさん:04/04/07 23:41
今日はやらないの?
133 :
考える名無しさん:04/04/08 05:47
質問。
>>84 「ホモ・ファーベル」って何のこと?
>>85 >絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、
>製作的自己は思惟的と考えられ、
>自由と考えられる。
思惟的だと自由だとはどういうことでしょう?
これは個人が自己を個人として自覚することが即ち全個人の中の一個人、全世界の一要素
として自覚することで、この個人が個人を超えた意識を持ちつつやはり個人である
という自覚が単に多でもなく一でもないから自由であるってことでしょうか?
あと「形」ってのがよくわからない。
これは一と多の絶対矛盾的自己同一なあり方において、
たとえば或る主体が環境によって作られるとすると
その主体は作られることのいわば反作用として環境を作り返す。
この運動・生成における「作られたものでありながら作るものでもある」という性質を
「形」と呼んでいると解釈してよろしいか?
またこの「形」が「プラトンのイデヤ」(
>>92)と
同じであるってところもよくわからない。
質問ばっかで申し訳ない。
>>133 >「ホモ・ファーベル」って何のこと?
『ホモ・ファーベル』→(制作的人間/道具を使用する人/工作人)
道具を作成し、それを用いて世界を変えていく存在。
特に人間の行動的・実践的な側面を強調した人間観。
どうやらベルクソンが唱えた人間観のようです。
ちなみにその他の『人間観』は?
○『ホモ・サピエンス』→(叡知的人間/思考する動物/理性的人間)
○『ホモ・ルーデンス』→(遊ぶ人)
実用性を離れて、自由に想像し、遊ぶことこそが人間性であるとした
ホイジンガによる定義。
○『ホモ・デメンス』 →(錯乱する者)
自然から外れ、本能の代りに文化を発達させた動物。
それに、カッシラーが定義した『象徴をあやつる動物』としての『人間観』というのもあるそうです。
>133さん
ネットで検索するとこんな感じになってました。
○西田幾多郎について
にしだきたろう 1870‐1945 (明治 3‐昭和 20)石川県生まれ。
96 年に金沢の第四高等学校講師,次いで教授となった。
1911年(明治44)に発表した「善の研究」で、その西洋哲学と
充分比肩しうる独創性で日本の思想界に衝撃を与える。
その後も西田は「善の研究」の〈純粋経験〉の立場に長年に
わたり厳しい批判を重ね、ついに〈場所の論理〉に到達する。
その後、マルクス主義の台頭を睨みつつ〈歴史的現実世界〉
の問題と取り組み、〈場所〉を〈弁証法的世界〉として具体化し、
〈絶対矛盾的自己同一的世界の自己限定〉として〈歴史的実在〉
の世界をとらえる立場を展開した。
近年になって脱構築の流れに乗って世界的な再評価が進んで
いる哲学家の一人である。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person182.html#sakuhin_list_1 ここで氏の本が読めます。
ちなみに今日の夜もお休みします。
明後日はまた夜にやるつもりです。
あと
>グルさん
>>131さん
>>133さん、どうもです。
137 :
考える名無しさん:04/04/08 21:12
今日もやらないのage
>じゆん
いや偽ものとはいってないぞ。
>じゆん、久蔵
筋書きのないドラマを語ろうよ。
140 :
考える名無しさん:04/04/09 15:30
>>131 夜空の星ぼしを、眺めるてるときに届いてきている星ぼし(太陽以外の恒星)
の光が飛んできた距離を表す場合、距離の単位は「光年」で表すから「時間的空間
」のこと考えます。
142 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/09 23:27
幾多郎(・∀・)イイヨイイヨ〜
青空なんとかをするときは、ぜひ私も参加させてください
144 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/09 23:30
>>143 いまからするよ。
好きに書き込みましょう。当然、絶対「絶対矛盾的自己同一」
も読みながらね。自分これが幾多郎初体験なんで。
そゆことなんでよろしく。
145 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/09 23:36
>>140 うん、小学生のとき「光年」って単位に出会ったときすごく不思議だった。
へえ、「時間」で「距離」を測るのか〜って、そういう回帰的な発想が科学に
あることなんて知らなかったし、思いもよらなかった。
☆を見つめて我を忘れるとき、過去を思い出していて、知らぬ間に時間が
あっという間に過ぎ去っていくとき、それは純粋持続。また未来に思いを馳せる
ときなどは、純粋持続を意識している状態なのだと。西田の言っていることは
そゆことなのかな?
あら?
おともだち?
なういじゃない。
147 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 00:00
あとスレ進行自体は本文の上から順に行っていますが、せっかく青空文庫で
読めるんだから、質問や意見はここに掲載されているスレなどを意識する
必要はありません。私の感覚では哲学書というものは上から読む必要はなく、
どこからでも読めるものだという意識があるからです。当然、上から順に
読破するのが望ましいとは思うのですがね。まあスレ進行に囚われず自由に意見が
交わせるといいかなと思っています。私自身はここで西田を理解するための
基本的知識の獲得と、あとそれと西田が何を見つめていたのか、ベルクソンや
ヘーゲルやフッサールなどをどのように見つめていたのか? カントについて
どういう風に思いを馳せていたのか? そういう西田の思想の原点などを勝手に
空想していきたいなあと思っております。もちろんその他のプロパーによる高度な
議論は求めるところです。どぞみなさまよろしくお願いします。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
152 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 00:16
ちなみに鈴木大拙(すずきだいせつ)とは
*****鈴木大拙(1870-1966)明治3-昭和41 ******************
仏教哲学者。本名貞太郎。金沢に生まれる。同郷の西田幾多郎,藤岡作太郎と親交を結び,
加賀の三太郎と称された。22歳で上京,東京専門学校から東京帝国大学選科に進んだ。
学生時代,鎌倉円覚寺の今北洪川(こうせん),釈宗演(しやくそうえん)に参禅,大拙の道号を
受けた。1897年渡米し,イリノイ州の出版社オープン・コートに入り,哲学者ポール・ケーラスを
助けて東洋学関係の出版に従事するかたわら,《老子道徳経》《大乗起信論》を英訳し,《大乗
仏教概論》を英文で出版した。1909年帰国し,東京帝国大学や学習院で教鞭をとったが,21年
大谷大学教授として京都に移った。やがて東方仏教徒協会を設立し,英文雑誌《イースタン・
ブディスト》を創刊して,仏教や禅思想を広く世界に紹介した。49年文化勲章を受章。英文,
邦文による著書,論文はおびただしい数にのぼるが,それらは《鈴木大拙全集》(30巻,別巻2)に
おさめられている。
****************************世界大百科事典より********
いちおう掲示板のコピペから引っ張ってきました。
あぼーん
154 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 00:18
お願いだから、荒らさないでね。
なうーーーーーーーーーーーーい!!!
好き好き。
あぼーん
157 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 00:35
(改行5まで)
> 物を作るとは、物と物との結合を変ずることでなければならない。
そうか、物を作るとは物と物との組み合わせを変えてみると言うことか。
そしてそれ創造的なのだと言っているわけだな。
> 大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、
という風に物の性質を見つめるのだと。ほうほうなるほど。
で
> 手が物を作るのでもない。
と言う西田がいて
それは、つまり現実の世界はすでに多から一への合目的な世界である、と言いたいわけだ。
その合目的な世界を変ずること、機械的になるがすなわち、人間の作るという感覚なのだと。
ここでは西田はそういっているわけだな。了解した。
そして、我々人間はすでにある自然を変容させているだけに過ぎないのだと。
> 我々は手を有するが故に、物を作ることができるのである。
> 我々の手は作られたものから作るものへとして、
> 幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。
ここでなお、手を自然の進化の過程にある物と言及している。
つまり人間の手は「合目的」であり「機械的」の絶対矛盾的な自己同一の形態なのだと
言っているわけだろう。うーん大体西田の思考パターンが読めてきた気がする。
158 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 00:43
あぼーん
160 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 00:44
あぼーん
┌|∵|┘
あぼーん
あぼーん
┌|∵|┘ヘラヘラ
あぼーん
167 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 01:00
改行7(
>>184-185)は
改行6とつづきですね。
> ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。
この形とはつまりビジョンのことを言っているのだろう。
現実と照らし合わせる形を所有している感覚。
> いわば過去から未来への間に意識的切断面を有つ世界である。
> 作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、
> そこに映すという意義があるのである。
やはりそうですね。
> 我々は行為的直観的に製作するのである、
> 製作は意識的でなければならない。
ここは、うん難しいことをいっているなあ。
意識的に製作せねばとは。
> 製作的自己は思惟的と考えられ、
> 自由と考えられる。
>
> 我々の個人的自覚は製作より起るのである。
腑に落ちる西田の文章の素晴らしさを思いました。
あぼーん
169 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 01:01
>>133 そういえば、
>>133さんが思惟的な自由に言っておりましたね。
おそらくただ前文の形を見る姿に、思惟的な自由があると言っているに
過ぎないのでは、と思います。
もちろん西田の論は多義的で、連関的、且つ円環的ですから、
>>133氏の
ような個人と社会の関係においての自由に置き換えてもいいのではと思います。
>あと「形」ってのがよくわからない。
おそらく頭の中に未来の設計図を描くその形のことを言っているのではと思います。
そしてそれは当然「プラトンのイデヤ」に通じるものだと思われますね。
170 :
考える名無しさん:04/04/10 01:07
┌|∵|┘ベツニー168 ヘラヘラ
あぼーん
172 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 01:32
>>86-87 (改行8までについて)
> 世界の底に一を考えることもできない、多を考えることもできない、
これはやはりイデアのことを言っているのだろうと思われます。
> 多くの人は世界の底に多を考える、
> 原子論的に世界を因果必然の世界と考えている、
> 物質の世界と考えている。
そしてここで西田はイデアを一とも多とも考えてはいけないと言いたいのではと思われるのです。
> 矛盾的自己同一の世界は一面に何処までも爾(しか)考えられる世界でなければならない。
> しかしそれは現実の矛盾的自己同一から爾考えられるのでなければならない。
つまり制作的な矛盾的自己同一な自分(ホモ・ファーベル)は現実を考えるのであって、
それは世界が多であるとか一であるとかを考えるわけではなく、ただそのイデアの世界がある、
それを見つめる。また行為的直観に自分はある。それが人間なのだと西田は言いたいのでは
ないかなあと。。。
> そこに於て働く所が、現実なのである。
そしてそれが人間の「働く」であり、現実なのだと。ふうむ、納得した。
とりあえず、改行8はここまで。次はちょっと難しそうだ。
173 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/10 02:00
あぼーん
(改行8まで、つづき)
>>86-87 ここではやはり、西田哲学の思想体系が集約されている
のではと思われます。
A『我々は普通に身体的なる所を現実と考えているのである。』
B『科学的知識というのも、かかる現実の立場から成立するのでなければならない。』
C『我々の自己というものも、歴史的社会的世界においてのポイエシスによって
知られるのであろう。』
D『我々が考えるという立場も、歴史的社会的立場に制約せられていなければならない。』
このようにまとめてみました。
A行為的直観によって私の『身体』を私の現実として見ている。
B『科学』は現在の及ぶ範囲のところにある現実によって構築される。
C『自己』は歴史的社会的に作られる。
D『立場』は歴史的社会的に制約される。
(改行9まで)
>>88 ここは自己言及的な弁明であるので深くは考察しない。
わからない用語だけ調べて終わりにする。
でドイツ語で以下の用語を調べた。
『ローギッシュ』は【論理的】という意味のようだ。 [logisch]
『オントロギー』は【存在論】という意味 [ontologie]
『オントローギッシュ』は【存在論的】 [ontologisch]
そうか西田はやはり存在論への言及をしていたわけだ。
しかしロッチェのオントロギーがなんなのかわからないなあ。
わかる人がいたら教えてキボン
『私はなお一度ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。』
ふと思ったんだけど、これってハイデカーと同じ考え方のような気がする。
確かそういったことが竹田青嗣著の「ハイデカー入門」に書かれていた(ハイデカーの原著は
読んでないが)
西田幾多郎=天皇制の日本
ハイデッカー=ナチスドイツ
うーん意外と面白い接点だなあと思った。
なるほどね。そういった時代考証を踏まえて、読み進めると面白そうかも知れない。
(改行10まで)
>>89-90 ライプニッツもモナドもわからなかったので調べてみる。
モナド
《単子論(仏 monadologie) ライプニッツの形而上学のシステム。広がりも部分も
持たない単純な実体を、ライプニッツは「単一」という意味のギリシア語 monas に
ちなんで「単子(モナド)」と呼ぶ。しかし、物質的な原子ではなく、むしろ表象能力
を持つ自我をモデルとした精神的な点のようなもので、そうした無数の単子から世
界はできている。それは一つとして同じ単子はなく、個々に欲求と表象を備えており、
ちょうど無数の鏡のようにそれぞれの視点から宇宙を時空の遙か彼方にまで映し出す。
単子どうしは神によって互いに照応するよう前もって定められており、相互の交渉な
しに一つの全体性が保たれている(予定調和)。そのなかには、はっきりした表象を
持つものから混迷した表象しか持たないもの、つまり天使や人間から動植物・無生
物までさまざまな段階の単子があるが、そのどれもがみな、いわば自分にしか当ては
まらない無限の述語を含む一つきりの主語である。従って単子はすべて宇宙と同年
齢であり、宇宙とともにしか滅びない。》(『哲学基本事典』執筆者:上野修)
一応以下のページを参照した。
『ライプニッツ略歴』
ttp://www.wikiroom.com/tetsurin/?%A5%E9%A5%A4%A5%D7%A5%CB%A5%C3%A5%C4%CE%AC%CE%F2 (つづき)
今日はこれだけでもかなり勉強になった。
「宇宙の生命論」は神学的な基盤が強いけれど、形而上哲学、形而上論理としてこれ
以上の説明はいらない感じがした。ライプニッツか、よさそうだなと思った。
(改行10)までを要約すると
個物はモナド的な『表出即表現』ではなく(形而上概念ではそうではあるが)、
むしろ『表出即作用』でなければならない。
ということかな。
(改行11まで)
>>91-92 改行10までのつづきなのでそのまま続ける。
世界の底にあるモナド的の世界は『世界を形成する』のではなく、
あくまで『自己』を形成するものとして存在する。
そして『欲求』という原理によって自己は行為する。
またそれは『欲求』は自己が映した世界の中で限定さされる。
この行為的な働きを含めて西田はその自己の活動を「意識する」と言っているようだ。
行為的直観というものが次第につかめたような気がした。
(改行12まで)
>>93-94 ここは動物と人間の違いについて述べているようですね。
○『動物にはいまだポイエシスということはない。』
と言っているけど、そうなのかなあと思う。
言語的な区分ぬきで動物と人間の違いを述べているけど
動物だって巣を作るし、合目的で、かつ機械的作用だと思うけどね。
どうもここの論理が弱い気がする。この時代の人が今のチンパンジーが
獲得した知識を見たら驚くかも知れない。
○『動物的生命においては見るといっても、朦朧(もうろう)たるに過ぎない、
夢の如くに物の影像を見るまでであろう。』
動物になったことがないのでわからないけど、そんなものかなと思えたりする。
個体差における認識の違いへの言及は難しい。クオリア的な話だからな。
どうも苦手である。
180 :
考える名無しさん:04/04/11 00:50
生命の誕生にせよ進化にせよ絶えざる「ポイエシス」なんだが。
>>180 たしかにそうですよね。
でも、ダーウイニズム的な考えがあったからこそ人格神によって俯瞰された「ポイエシス」の概念が生まれた
のではないかなと思えるのです。この意味の捉え方は難しいような気がします。難解ですね。
『生物』と『人間』の違い、これが実は不明瞭だなあと思われるんです。科学の進歩の差なのかな?
でも『倫理』はずっと昔からあった概念だし、となると歴史的な時代状況の差異だったりして、、、
そんな感じがしますね。別に天皇制がどうのではなくて、第二次大戦中の世界情勢、および日本の
気運などを踏まえると。。。ちょっと自分、暴走気味かな。歴史を語るのは自分にはちょっと苦手
なのでこの辺で。
質問!!
パラデーグマってなに?
やはりなんだか西田の思想にはなんらかの欠落感がある。もちろん今現在
からの私的な視点なのだけどね。むーん、、だね。現代と過去の接点が難しい。
ちなみにこのころのバイオ技術は充分に発達していた。まあ化学から展開
された意味合いが強いのけれど。
毒ガスとか人体実験とか普通に行われていたし、あと関係ないけどアフォー
ダンス理論なんてものは、飛行機乗りを選別するための職業適性テストから
生まれたものだし。戦争っていろいろなものを生み出しているな(哲学も含む)。
(改行13まで)
>>95-96 このあたりのことは前に言ったことの繰り返しである。
> 生物現象というも、何処までも化学的物理的現象に還元して考えることができるであろう。
『〜できるだろう』というよりは、その当時がそういう生命科学が化学重視であっただけに
過ぎないのではないかなと思えてくるなあ。そう思ってしまうのは気のせいだろうか?
少なくともこの時期というのは毒ガスに代表される化学兵器の開発が主眼に行わ
れていたわけだから。こういった還元は生命倫理が欠けた状態であることは確かだろうね。
つか生命倫理が最近の新しい概念なのかな。うーん、ちょっと脱線しすぎたね。
> 生物の有つ形というのは、機能的でなければならない。
> 形と機能とは、生物において不可分離的である。
このあたりはむう、とうなる部分がある。わりと当たり前の考え方だけど
この当時からこんな考え方をしていたのかとため息が出る。
右の如く作られたものから作るものへと無限に動き行く絶対矛盾的自己同一の世界は、
形から形へとして何処までも形成作用的である、即ち主体的である。
これに無限なる環境が対立する。
而して主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。
しかし絶対矛盾的自己同一の世界において環境というのは単に質料的なものではない、
形相を否定するものでなければならない。
一から多へというに対して、多から一へということでなければならない。
主体は自己否定的に環境を、環境は自己否定的に主体を形成するのである。
形相が質料となり質料が形相となるとか、
形相と質料とか形成の程度的差異とかというのではない。
多から一へというのは、世界を因果的に決定論的に考えることである、
過去から考えることである、機械的に考えることである。
これに反し一から多へというのは、合目的的に考えることであろう。
しかし単に合目的的というのは、生物的生命においてのように、
なお空間的たるを脱せない、決定論的たるを免れない。
真に一から多へというには、
何処までも時間的なものと考えなければなるまい、
ベルグソンの純粋持続の如きものを考えなければなるまい。
何処までも創造的ということは、いつも未来からということであろう、
つまり過去からということはないのである。
純粋持続が自己自身を否定して自己矛盾的に空間的なる所に、
現実の世界があるのである。
一瞬の前にも還(かえ)ることのできない純粋持続の世界には、
現在というものもあることはできない。
これに反し空間的なるものが自己否定的に時間的なる所に、
即ち自己矛盾的に自己自身から動き行く所に、
現実の世界があるのである。
故に絶対矛盾的自己同一として現在から現在へと動き行く世界の現在において、
何処までも主体と環境とが相対立し、
主体が自己否定的に環境を、
環境が自己否定的に主体を形成する。
而して現実の世界の現在は、
主体と環境と、
一と多との矛盾的自己同一として、
決定せられたもの即ち作られたものから、
作るものへと動き行く。
それが過去から未来へと動き行くということである。
作られたものというのは既に環境に入ったものである、
過去となったものである。
しかも(無が有として、過去は過ぎ去ったものでありながらあるものとして)
それは自己否定的に主体を形成するものである。
(改行14終わり)
世界を多から、あるいは一から考えるならば、
作られたものから作るものへということはあり得ない。
世界を機械的にあるいは合目的的に考えても、
かかることがあることはできない、
否、作るという如きことも入れられる余地はないのである。
然るに多が自己否定的に一、
一が自己否定的に多として、
多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、
主体が自己否定的に環境を形成することは、
逆に環境が新なる主体を形成することである。
時の現在が過去へと過ぎ去ることは、未来が生ずることである。
歴史の世界においては単に与えられたものというものはない。
与えられたものは作られたものであり、自己否定的に作るものを作るものである。
作られたものは過ぎ去ったものであり、無に入ったものである。
しかし時が過去に入ることそのことが、未来を生むことであり、
新なる主体が出て来ることである。
かかる意味において、作られたものから作るものへというのである。
歴史的世界において主体と環境とが何処までも相互否定的に相対立するというのは、
時の現在において過去と未来とが相互否定的に対立する如く対立するのである。
而して現在が矛盾的自己同一として過去から未来へ動き行く如く、
作られたものから作るものへと動き行くのである。
而してそれは同時に個物がモナド的に世界を映すと共に
逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという如き、
多と一との絶対矛盾の自己同一の世界であるということである。
かかる世界において作られたということから、作るものが出て来る、
而してまた新に作り行くのである。
(改行15終わり)
それで多と一との絶対矛盾的自己同一として、
自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、
いつも現在において自己矛盾的である、
現在が矛盾の場所である。
抽象論理の立場からは、矛盾するものが結合するとはいわれないであろう、
結合することができないから矛盾するというのである。
しかし何処かで相触れなければ矛盾ということもあり得ない。
対立が即綜合(そうごう)である。
そこに弁証法的論理があるのである。
矛盾の尖端(せんたん)としては、時の瞬間の如きものが考えられるであろう。
しかし瞬間が時の外にあると考えられる如く、
それも対立を否定すると共に対立せしめる弁証法的空間の一点と考うべきであろう。
時というものを抽象概念的に考えれば、
過去から未来へと無限に動き行く単なる直線的進行と考えられるであろう。
しかし歴史的世界において現実的に時と考えられるものはその生産様式というべきものであろう。
作られたものから作るものへということでなければならない。
それが過去から未来へということである。
時の現在の有つ形というのがその生産様式の形である。
(改行16終わり)
歴史的世界の生産様式が非生産的として、
同じ生産が繰返されると考えられる時、
それが普通に考えられる如き直線的進行の時である。
現在というものは無内容である、
現在が形を有たない、
把握することのできない瞬間の一点と考えられる。
過去と未来とは把握することのできない瞬間の一点において結合すると考えられる。
物理的に考えられる時というのは、かかるものであろう。
物理的に考えられる世界には、生産ということはない、
同じ世界の繰返しに過ぎない。
空間的な、単なる多の世界である。
生物的世界に至っては、既に生産様式が内容を有つ、
時が形を有つということができる。
合目的的作用において、
過去から未来へということは逆に未来からということであり、
過去から未来へというのが、
単に直線的進行ということでなく、円環的であるということである。
生産様式が一種の内容を有つということである、
過去と未来との矛盾的自己同一としての現在が形を有つということである。
かかる形というのが、生物の種というものである。
歴史的世界の生産様式である。
これを主体的という。
生物的世界においては既に場所的現在において過去と未来とが対立し、
主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。
而してそれは個物的多が、単なる個物的多ではなくして、
個物的として自己自身を形成するということである。
しかし生物的世界はなお絶対矛盾的自己同一の世界ではない。
(改行17終わり)
真に矛盾的自己同一的な歴史的社会的世界においては、
いつも過去と未来とが自己矛盾的に現在において同時存在的である、
世界が自己矛盾的に一つの現在であるということができる。
生物の合目的的作用においては過去と未来とが現在において結び附くといっても、
なお過程的であって、真の現在というものはない。
従って真の生産というものはない、創造というものはない。
私が生物的生命においては作られたものが作るものを離れない、
単に主体的だという所以(ゆえん)である。
然るに歴史的社会的世界においては何処までも過去と未来とが対立する、
作られたものと作るものとが対立する、
而してまた作るものを作るのである。
生産せられたものが単に過去に入り去るのでなく
また生産するものを生産するのである、
そこに真の生産というものがあるのである。
世界が一つの現在となるということは、
世界が一つの生産様式となるということであり、
それによって新な物が生れる、
新な世界が生れるということである。
それが歴史的創造の生産様式である、
唯環境から因果的に物が出来るというのでもない、
また単に主体的に潜在的なるものが顕現的となるというのでもない。
創造ということは、ベルグソンのいうように、
単に一瞬の過去にも還ることのできない尖端的進行ということではない。
無限なる過去と未来との矛盾的対立から、
矛盾的自己同一的に物が出来るということでなければならない。
直線的なるものが円環的なる所に、
創造ということがあるのである、
真の生産があるのである。
(改行18終わり)
歴史的世界においては、過去は単に過ぎ去ったものではない、
プラトンのいう如く非有が有である。
歴史的現在においては、
何処までも過去と未来とが矛盾的に対立し、
かかる矛盾的対立から矛盾的自己同一的に新な世界が生れる。
これを私は歴史的生命の弁証法というのである。
過去を決定せられたもの、
与えられたものとしてテージスとすれば、
それに対し無数の否定、無数の未来が成立する。
しかし過去というものが矛盾的自己同一的に決定せられたものであり、
過去を矛盾的自己同一的に決定したものが真の未来を決定する、
即ちアンティテージスが成立する。
世界が矛盾的自己同一として創造的であり、
生きた世界であるかぎり、
かかるアンティテージスが成立せなければならない。
而してその矛盾的対立が深く大なればなるほど、
即ち真に矛盾的対立であればあるほど、
矛盾的自己同一的に新なる世界が創造せられる、
それがジンテージスである。
現在において無限の過去と未来とが矛盾的に対立すればするほど、
大なる創造があるのである。
新なる世界が創造せられるということは、
単に過去の世界が否定せられるとか、
なくなるとかいうのではない、
弁証法においていう如くアウフヘーベンせられるのである。
歴史的世界においては無限の過去が現在においてアウフゲホーベンされているのである。
人間となっても、我々は動物性を脱するのではない。
(改行19終わり)
過去と未来とが自己矛盾的に現在において対立するというには、
現在が形を有(も)たなければならない。
それが歴史的世界の生産様式である。
個人的立場からいえば、我々はそこに行為的直観的に物を見、
また作られたものから作るものへということができる。
逆に我々がポイエシス的なる所、行為的直観的なる所が、
歴史的現在であるのである。
生物の形というのは機能的である。
生物が機能的に働くということが、形を有つということである。
而してそれは矛盾的自己同一たる歴史的現在が、
生産様式として一つの形を有つということである。
しかしさきにいった如く、生物的生産様式では、
なお真に過去と未来との矛盾的対立というものはない、
真の歴史的現在というものはない。
矛盾的自己同一として現在が現在自身を限定するとか、
形が形自身を限定するとかいうことはない。
従って生物的動作は行為的直観的ではない。
ヘーゲル的にいえば、それはなおアン・ジヒの状態である。
世界が一つの現在として、無限の過去と未来とが現在において
対立する歴史的社会的生産様式においては、
現在が矛盾的自己同一として、
何処までも動き行くものでありながら、
現在が現在自身の形を有し、
現在が現在自身を限定するとか、
形が形自身を限定するとかいうのである。
現在というものを唯抽象的に考えれば、
現在から現在へなどということは、
飛躍的とか無媒介的とか考えられるかも知らぬが、
弁証法においては、対立が即綜合、綜合が即対立ということであり、
対立なくして綜合はないが、綜合なくして対立もない。
綜合と対立とは何処までも二であって一でなければならない。
而して実践的弁証法においては、
綜合というのはいわゆる理性の要求という如きものではなく、
現実の世界の有つ形、
現実の世界の生産様式というものでなければならない。
無限の過去と未来とが何処までも相互否定的に結合する
絶対矛盾的自己同一的現在の世界においては、
それはイデヤ的ということができる。
ヘーゲルのイデヤとは、此(かく)の如きものでなければならない。
綜合は対立を否定する綜合ではない。
故にそれはまた矛盾的自己同一として自己矛盾的に動き行くのである。
(改行20終わり)
過去と未来との矛盾的自己同一として
自己自身の中に矛盾を包む歴史的現在は、
いつも自己自身の中に自己を越えたもの、
超越的なるものを含むということができる。
いつも超越的なるものが内在的であるのである。
現在が形を有(も)ち、過去未来を包むということ、
そのことが自己自身を否定し、
自己自身を越え行くことでなければならない。
而してかかる世界は、個物がモナド的に世界を映すと共に
ペルスペクティーフの一観点であるという如き、
表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。
現在が自己自身の中に自己自身を越えたものを含む世界は、
表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。
過去と未来とが相互否定的に現在において結合するという世界において、
我々は表現作用的に物を見、
表現作用的に物を見るから働くということができるのである。
それは機械的でもない、合目的的でもない、
而してそれが真に論理的ということである。
矛盾的自己同一的に自己自身によって動き行くもの、
即ち真に具体的なるものが、論理的に真なるものである。
時が単に直線的に考えられ、現在というもののない世界においては、
我々が働くということはない。
私の過去と未来とが現在において結合し、
作られたものから作るものへ、
現在から現在へという矛盾的自己同一は、
我々の自己意識によっても分るであろう。
我々の自己意識は、過去と未来とが現在の意識の野において結合し、
それが矛盾的自己同一として動き行く所にあるのである。
単なる直線的進行において自己の意識的統一というものが可能なるのではない。
私の意識現象が多なると共に私の意識として一であるというのは、
右の如き意昧においての矛盾的自己同一でなければならない。
矛盾的自己同一などいうことは考えられないという人の自己は、
矛盾的自己同一的に爾(しか)考えているのであろう。
しかし斯(か)くいうのは我々の意識的統一の体験によって客観的世界を
説明しようとするのではない。
逆に我々の自己は多と一との絶対矛盾的自己同一の世界の個物として
即ちモナド的に爾あるのである。
(改行21終わり)
右の如くにして、歴史的世界において、主体と環境とが対立し、
主体が環境を、環境が主体を形成し行くということは、
過去と未来とが現在において対立し、
矛盾的自己同一として
作られたものから作るものへということである。
歴史的世界においては単に与えられたものはない。
与えられたものは作られたものである。
環境というものも、何処までも歴史的に作られたものでなければならない。
故に歴史的世界において主体が環境を形成するということは、
形相が質料を形成するという如きことではない。
物質的世界というも、矛盾的自己同一的に自己自身を形成するものである。
絶対矛盾的自己同一としての歴史的現在の世界においては、
種々なる自己自身を限定する形、即ち種々なる生産様式が成立する。
それが歴史的種と考えられるものであり、即ち種々なる社会である。
社会というのは、ポイエシスの様式でなければならない。
故に社会は本質的にイデヤ的なものを含まなければならない。
そこに生物的種との区別があるのである。
イデヤ的に生産的なるかぎり、
即ち深き意義においてポイエシス的なるかぎり、
それは生きた社会である。
(改行22終わり)
私のイデヤ的生産的というのは、歴史的物質的地盤を離れて、
単に文化的となるということではない。
それは形成的主体が環境を離れることであり主体が亡び行くことである、
イデヤがイデールとなることである。
主体が環境を形成する。
環境は主体から作られたものでありながら、
単に作った主体のものではなく、
これに対立しこれを否定するものである。
我々の生命は自己の作ったものに毒せられて死に行くのである。
何処までも主体が生きるには、
主体が更生して行かなければならない、
絶対矛盾的自己同一の歴史的世界の種として世界的生産的となって行かなければならない。
歴史的世界のイデヤ的構成力となって行かなければならない。
生産した所のものが世界性を有たなければならない、
即ち世界的環境を作って行かなければならない。
かかる主体のみ、いつまでも生きるのである。
主体が歴史的種として世界的生産的となるということは、
主体がなくなるということではない、
その特殊性を失って単なる一般となるということではない。
無限の過去と未来とが何処までも現在に包まれるという
絶対矛盾的自己同一の世界の生産様式においては、
種々なる主体が一つの世界的環境において結合すると共に、
それぞれがポイエシス的にイデヤ的であり、
永遠に触れるということができるのである。
すべての主体的なもの、特殊的なものが否定せられて、
抽象的一般の世界となるということでもなければ、
すべての主体が合目的的に一つの主体に綜合せられるということでもない。
種の主体的生存ということと、
文化とは必ずしも一致せないと考えられるが、
何らかの意義においてイデヤ的生産的ならざる主体は
世界歴史において生存することはできないであろう。
イデヤは主体的生命の原理でなければならない。
但(ただ)、作られたものとして既に環境的となったもの、
而して作るものを作るという力を有せないものが、
主体から遊離した文化である。
世界を唯作られたものとして見るのが、単なる文化的見方である。
(改行23終わり)
一項、読了。。。
205 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/13 12:24
「絶対矛盾的自己同一」を読め!!
206 :
考える名無しさん:04/04/13 12:35
なんで?教えて。
俺が噂のインテリヤクザだけど
何か質問ある?
208 :
くろしろ社会学白痴断見教教祖 ◆U6chzhlKNI :04/04/13 19:25
勇気ある仕返しリスト候補者は
躊躇わず挙手して。
210 :
考える名無しさん:04/04/13 19:30
163 名前:考える名無しさん :04/04/13 19:27
708 名前:考える名無しさん :04/04/13 19:15
436 名前:くろしろ@社会学白痴断見教教祖 ◆hhhB7.B.co :04/04/13 18:59
アホに、以下略
437 名前:くろしろ ◆0XzG1ReVKg :04/04/13 18:59
トリップ変えテスト。
438 名前:くろしろ@社会学白痴断見教教祖 ◆hhhB7.B.co :04/04/13 19:05
たかが2ちゃんでいじめられた事がそんなに悔しいかね。
わからんもんだ。
211 :
くろしろ社会学白痴断見教教祖 ◆bZr/Js8Pj. :04/04/13 19:36
【哲板荒しの厨房コテ】
■ Sophia ◆8ADoZCl6.k (菊千代 ◆X/npAQtXKwほか)
言わずと知れた自己中女。ストレス解消のためだけに出没し意味不明な罵倒やコテ粘着を続けている。
■ じゆん ◆bYRNL78mlE (久蔵 ◆nHHFfUj/w6 議長 ◆nHHFfUj/w6ほか)
自演荒しで自治議論を演出するDQN。重度の虚言癖だが本人はバレていないと思っているらしい。
>>185-186 (改行14までの考察)
まずわからない用語があったので調べてみた。
【質料】 しつりょう ―れう 2 【質料】
〔(ギリシヤ) hyl; (ラテン) materia〕ある形式を備えたものの
材料・素材となるもの。アリストテレス以来、形相と相関した
ものとして用いられ、例えば家の機能や構造形式が形相で、
その素材である木材が質料。個々の現実に存在するものは、
形相が質料を限定することで成り立つ。ヒュレー。⇔形相
【形相】 けいそう ―さう 0 【形相】
(1)物のかたち。すがた。
(2)〔(ギリシヤ)eidos〕ある事象を他のものと区別させ、それを
存在させるのに不可欠な事象の本質的な存在構造。エイドス。
⇔質料
(つづき)
> 多から一へというのは、世界を因果的に決定論的に考えることである、
> 過去から考えることである、機械的に考えることである。
> これに反し一から多へというのは、合目的的に考えることであろう。
これは、どう理解していいのかちょっと判断に迷った部分。
でもまあ、因果論的に、と西田がいうのだから『多→一』とは、過去の多くの経験や知識(多)を
利用して、ある一つの行為(一)を選択する、と言う意味だろう。
また『一→多』と言うのはある一つの現象(一)から、一番理想的な回答を得るために
様々な可能性を選択する(多)。そのような解釈でいいんじゃないかなと思われる。
まあいまさら言うようだが、幾多郎の文章はそのままでは意味が伝わりにくい。
意味を咀嚼するために、ちょっと考える必要がある、そういう風に意味を解体しなけ
ればならない。
その作業を楽しむのが西田の哲学と関わる味と言えば味なのかもしれないが、
面倒と言えば面倒でもある。読む作業にかなりの葛藤が必要だと感じた。
でも哲学書と触れ合う醍醐味というのは基本的にこういうものなのかも知れない
と感じた。
(つづき)
うーん、この部分だけでも西田の文意の策略にはまっているような気がする。
「一→多」の考える形式が「多→一」の決定論および因果論を免れる行為となるとき、
それは創造と呼ばれ。
「一→多」この形式を創造の基本因子と西田は見ているようだ。
また創造する世界の過去と未来の間には、どうやら創造する場としての
現在の姿がある。
しかし
> 何処までも創造的ということは、いつも未来からということであろう、
> つまり過去からということはないのである。
と言うように創造的なものは、未来というものが当然開示されていなければならない
とも西田は言っている。確かに自分自身、納得する部分はある。
でもしかしだ。一つ気に入らないことがある。
それは『現在』についてである。
(つづき)
> 一瞬の前にも還(かえ)ることのできない純粋持続の世界には、
> 現在というものもあることはできない。
当然この理屈はわかるのだけどあえて聞いてみたい。
過去を意識しない、未来を意識しない自己の形式を、『純粋持続の世界』と言っている。
ここに現在はないという。なぜ西田はそう思ったのだろうか?
そもそも過去も未来も必要としない状態とはいったいどういう状態なのか?
それはプログラムされたことだけをするロボットのような行動のことだろうか?
もしそうなのだとしたら、どうして、そのような行為に【現在】がないと、彼は判断した
のだろうか? さっきも言ったが、この理屈はわかるのだ。
しかし私にはこの問いが非常にアマチュアな思想であるようにも思えてくるのである。
『純粋持続の世界』があると仮定しての疑問。
また『純粋持続の世界』が本当にあり得るのかという疑問。
ありうるとしたらどのようなものでどこまでそれを認識できるのかという疑問。
ちなみに『一瞬の前にも還ることのできない純粋持続の世界』とはつまり西田哲学の
大事な要素、『純粋経験』にあたると思う。
>自己否定的に主体を形成するものである。
あ、でもこれは、非常にいいですね。納得です。
217 :
THE グル:04/04/14 12:46
いいですか、
西田幾多郎の哲学は本物の哲学でありまして、
この選択は間違っていないと言うのが定説です。
どうかしましたか?
>>216 そうですね。西田幾多郎は本物の哲学者だと思います。
ちょっとその西田の哲学の真髄に入りたいというのが今回の批判の
理由でもあります。「純粋経験」これへの考察を試みてみたいと思いました。
ご意見があればよろしくお願いします。
>>214 西田の言う「因果的」「機械的」とは、この論文でも述べているように
出来事等が「過去から未来へ」連続的に進行していく事態を、
過去の一出来事が生起すると因果律に則って未来の全出来事が決定してしまう
という事態を指していると自分は思う。
したがって、
>過去の多くの経験や知識(多)を利用して、ある一つの行為(一)を選択する
ということのない事態を指していると思う。
つまり主体的な自由が存在しない事態のことを指していると思う。
「合目的的」というのも同様に、或る目的が設定されるとそれに基づいて
すべての出来事が決定されてしまう事態を、
「未来から過去へ」あらゆる物事が決定されてしまう事態を指していると考えられ、
この事態においても自由が存在しない。
もちろん西田も世界は「機械的」にも「合目的的」にも考えることができると
述べているが、それは世界についての一面的な見方であると断っている。
単に「多→一」でも「一→多」でもなく、「多→一」かつ「一→多」的に、
すなわち矛盾的自己同一的であるときに「創造」というものがあると
西田は言っていると思う。
過去からの影響を引き受けつつ(「作られたもの」)、未来へと働く(「作るもの」)
ところに「創造」があり、この「創造」の場が「現在」であると述べていると思う。
>>216 純粋持続の世界とは、純粋な持続、非連続なき連続の世界であり、
したがって現在もなければ過去も未来もない世界である。
なぜなら、過去・現在・未来は非連続であるから、
すなわち過去・現在・未来はそれぞれ絶対に異なるものであるからである。
だから、単に持続のみ・連続のみがある世界は
これらの区別が存在しない世界・非連続なき世界であり、
したがって現在なき世界である。
だから、
>過去を意識しない、未来を意識しない
ということは現在をも意識しないということであって
>そもそも過去も未来も必要としない状態
ということではなく、端的に過去・現在・未来という区別が存在しない、
と西田はここで述べているのではないでしょうか。
自分は以上のように解釈しました。
とするとおそらく、純粋持続の世界は「認識」を受け入れない世界ではなかろうか
と思われる。
というのも、もし「認識」というものが何かを認識することであるならば、
認識されるところの何かが他の何かと区別される必要があり、
この区別が純粋持続という事態にそぐわないから。
もしそうであるなら純粋持続の世界は「認識」されるのではなく、
単に「直観」される、全体が一挙に感じられるのみであるとも考えられる。
ただ「直観」も何かを直観することとして考えるならば、以上のような考えは成立しませんが。
>>139 133さんへ (因果的、機械的について)
どうもです。
まあ私の意見は意訳だから、なんとも反論しがたいのだけど
多即一、一即多の連関の中ではいくらでも真理は反転する
ものだと思っています。
>>過去の多くの経験や知識(多)を利用して、ある一つの行為(一)を選択する
>ということのない事態を指していると思う。
>つまり主体的な自由が存在しない事態のことを指していると思う。
ここら辺は、ちょっと自分の説明が足りないかなと思いました。
『創造の中という現在の中ではある一つの行為しか選べない』ということを補足すべきだと
思いました。私の言及していることはまったく実践的な視点によるものだと考えてくださると
ありがたいです。西田の思想は非常に実践的な観点から出されたものです。
『作られたもの』『創造』『行為的直観』これらの指す言葉の狙いは単なる哲学的知識を
希求するための哲学書ではなく、おそらく啓発的な意味を踏まえたプラグマティズムに
あると考えています。おそらく私と133さんはそれほど読み方にぶれはないものと考え
ています。私の述べていることが行為的な視点、つまり行為的直観を俯瞰するものだと
考えて頂けると助かります。私はかなりひねくれた読み方をしていると思います。
また人間(ホモファーベル)であることが歴史的身体であることを(改行12まで
>>93-94)で
> 作られたものが作るものを作る、作られたものから作るものへである。
> 故に人間はポイエシス的である、歴史的身体的ということができるのである。
と述べ、動物と人間を区別をしています。
西田が『人間』が『人間』であると思ったのはなぜなんだろうとか。
そのように考えると、『行為的に自由に選択できる』この『考える』という作業が
いかにも人間的であると私は思ったのです。(改行14まで)では西田は執拗なまでに
『考える』という言葉を多用しているようです。そういった中で自分の考察を行いました。
人間と動物の違いにこそ私は『創造』という言葉を当てはめまして、133さんの読み方だと
『人間』でも『動物』でもどちらでもよい観点になってしまうように思われます。
じゃあ次は
>>220 (純粋持続について)
>ということではなく、端的に過去・現在・未来という区別が存在しない、
>と西田はここで述べているのではないでしょうか。
おそらくまったくそのとおりだと思います。それが『純粋経験』による現実の世界だと
言えるでしょう。別にあなたの意見に対抗するわけではないのですが、このような現
実の中で、人は創造を育むことができるんだろうか? そのような問いが私にはある
わけです。
例えば133さんが
>>220の前段でうまく純粋持続の世界を説明しているなあと思うの
ですがこれはつまり禅の思想を純粋持続に援用したにすぎないだけで、(たしかベ
ルクソンは純粋持続を語るとき、過去と未来と現在という区分での説明をしていなか
ったように思うのででも、私は「時間と自由」しか読んでないのでこれも定かではない
が)この純粋持続の世界観はベルクソンの思想そのものの純粋持続と言うより、西田
の禅の思想ではないかと思っているのです。さて私の思うところは一つです。禅の思
想から『創造』が生み出せるか? 私はできないと思うのです。これはつまりどういうこ
とかというと『瞑想からはなにも生み出せない』と言うことです。つまり、禅とプラグマテ
ィズム(実践哲学)は背反(矛盾)しあうものと考えているのです。
私はあるがままに見る『純粋経験』の世界(純粋持続ではないよ)はそのような思想の
弱さを持っていると持っていると考えています。ある意味で絶対矛盾的自己同一その
ものと言えるかもしれません。
あと西田はやはり、自分の弱さに正直な人でした。
西田は30年連れ添った妻をなくし、再婚を考えました。
幾多郎は友人の和辻哲郎に手紙にてこう言うのです。
「種々たる家庭の不幸に逢い人間として耐え難き中を学問的仕事に奮励」
したが正直に言えば「今は心の底に深い孤独と一種の悲哀すら感じる」。
「できるなら今後幾年かの慰藉(いしゃ)ある暖かい生涯を送って見たい」
これはかなり女々しい発想ともいえます。
でもまあ嫌いにはなれません。
そこが西田の良いところなのかも知れません。
もう一度言っておきますが、私はひねくれた読み方をしています。
あと『純粋経験』についてはまた青空文庫で西田幾多郎の『善の研究』の
一章に収められています。とりあえずそこらへんもやはり読み進める必要
があるようですね。
じゆんさん、丁寧な返答をどうも。
なんだか自分の解釈を押し付けるような言い方をしてしまったようで。
>>222で自分の読み方だと「人間」と「動物」の違いがなくなってしまうと
言われましたが、自分もそのあたりの理解が曖昧だと思いました。
おそらく「行為的直観」がいかなる事態を指しているのかを
自分がまだよくわかっていないからだと思う。
そこで「行為的直観」について質問。
自分は「行為的直観」を、歩いている状況を具体例として思い浮かべて、
見ながら働く、働きながら見る事態と理解しています。
歩くことは景色が変わることであり、景色が変わることは歩くことであると。
でも、これだと西田の言う「物を作る」という観点が抜けてしまっているのでは、
と思いました。
でもさらに、「物を作る」時も歩くときと同じように見ながら作る、作りながら見ることである
とも考えられるので、やはりこのような理解でもいいのかなとも思ってしまう。
あと、西田は「行為的直観」的なあり方に「自由」を見ていると思うのですが、
この自由は直観によっていったん過去との連続性を切るところに、
自己が世界のあり方を見て、自己と世界をひっくるめた全体のあり様を
いったん自覚するところに、
つまり過去からの世界全体のあり方を引き受けつつ(認識しつつ)、
未来への展望を考えるといったところに見ているのかな
と思ったのですがどうでしょう。
これら点についてみなさんはどう思われるでしょうか。
レヴェルの低い質問で申し訳ない。
225=133です。変えるの忘れた。
>>133 >なんだか自分の解釈を押し付けるような言い方をしてしまったようで。
いえいえ、そんな、私こそ誤解を与えるような言い方をしてしまってすいません。
行為的直観については、これから読み進めて理解を深めていく必要もあるとは
思いますが、その前に自分の意見も述べてみます。
私もこの行為的直観の『作る』というところまでの観点までは西田自身も曖昧なん
ではないかな、と実は疑っているのです。
作るとき、つまり『創造』時の行為的直観とはどのようなものなのか、について述
べてみようかなと思います。
まず
<『動物』にとっての行為的直観とはどのようなものなのか>
>自分は「行為的直観」を、歩いている状況を具体例として思い浮かべて、
>見ながら働く、働きながら見る事態と理解しています。
>歩くことは景色が変わることであり、景色が変わることは歩くことであると。
とあるように私も動きの中で絶えず意識し続ける自己のようなものを意識します。
では人間は何が違うのか?
<では人間は何が違うのか?>
人間の創造とは私が思うには、「考える葦」さながらに、立ち止まって考える姿
にあると思えるのです。立ち止まって、いろいろな可能性を吟味し、そしてよう
やく一つの選択をえる。このときの選択は合目的でもありながら、機械的でも
あるでしょう。動物は合目的判断しかできないことを考えると、機械的な行動も
選択できる人間の姿はやはり特筆できることだと思います。
つまり私の『創造』に関する行為的直観は行為の中にあるのではなく、むしろ考え
ている自分の中にそのような直観を見出しているのではないかなと、勝手に想像
してしまいました。つまり『考える』ということを西田は、一つの行為と見なしている
のではないかと。
考えることを一つの行為としてみると、それは考えられた記憶となって、完全な
自由が生まれるのではないかなと思えるのです。考えられたことに縛られない
自由は、私はあらゆるの自由の源泉ではないかと理解しています。過去にも未来
にも縛られず、しかし過去と未来からしか与えられるはずもない、『作られたもの』
がこの世に生じるわけです。つまり、その自由の中からしか私は人間の『ものを作る』
という行為は生まれないような気がするのですよ。
ちょっと西田の思想から踏み外している恐れがありますが、まあいいや。
(とくに静止する人間の行為的直観なんて西田は言ってないものなあ。。。)
素人読みですいません。133さんどうもです。また引き続きご愛顧ください。
229 :
ボン中山 ◆PKPKs4sF8s :04/04/29 17:42
久ぁ〜!!!
230 :
ボン中山 ◆PKPKs4sF8s :04/04/29 17:43
もうここは終わり?
231 :
考える名無しさん:04/04/29 18:54
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232 :
ボン中山 ◆PKPKs4sF8s :04/05/03 00:18
定期age
233 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/05/03 00:19
234 :
ボン中山 ◆PKPKs4sF8s :04/05/03 00:20
そおなのか? 俺今ネカマにはまってさ。某板で痛いキャラをつくり
あげて大笑いしているよ。カヒミに似せようと思うんだが、そう言う服
ってどんな雑誌に載ってるの? オリーブ?
西田哲学の他にも、これは、と思うものはある。
が、何故かどれも難解。
分かるとき、部分によっては、よく分かる
ような気がするし、直感的に重要なことと。
だが、そこから踏み込んでいけない。むしろ
哲学者はわざとやっているんじゃないかと、思ったりする。しかし
むしろそれは、説明できるものではないのだろう。