●●西田幾多郎博士!!!●●

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85考える名無しさん:03/11/28 16:06
純粋経験=無の自覚=逆対応/平常低=愛=神=命
全即無 無即全
否定即肯定=絶対矛盾的自己実現=真実在
先に禅行等で確信した宗教的な感性を論理で表現しようとするもがきが西田の文章。
宗教的感性を持つ人には理解できるが、単に文章のみで真実在を理解するのはむずかしい。
理解できると感じる人は、何らかの行による先行イメージがあるはず。
学生で理解できるとすれば、かなりの苦労人か宗教的天才のどちらか
86考える名無しさん:03/11/28 23:29
清水幾太郎はしみず・いくたろう、と読むんです。
87考える名無しさん:03/12/15 10:44
西田幾多郎は、バークリーと似ていると思いませんか。経験を崇拝していると思ったら、突然、その根底に神様が居ると断言するあたり。
88考える名無しさん:03/12/15 20:19
場だな
89考える名無しさん:03/12/20 23:13
初心者ですが、西田幾多郎さんの本で最初に読むべきものはなんでしょうか?
90考える名無しさん:03/12/23 16:00
>>89
上田閑照氏の解説書から読んでみては。
いきなりじゃ西田哲学はわからないと思う。
西田自身の書いたものなら、
「思索と体験」「続思索と体験・思索と体験以後」なんかの
エッセイがわかりやすくておすすめです。
91Public enemy No.1:03/12/23 21:32
西田幾多郎て老子に通じるところがある気がする漏れは考え浅いですか?
92考える名無しさん:03/12/24 00:44
>>91
西田幾多郎の思想の根っこにある禅宗は老荘思想の影響を受けて成立し、
また反対に禅宗のほうからも老荘理論に浸透していったわけだから、
その考えは正しいと思う。
93考える名無しさん:03/12/24 02:42
スレタイトルもそうだが、
弟子筋が尊称付けまくっているのを見ると、
批判的研究の進展を望むのが無理そうに思える。
94考える名無しさん:03/12/27 13:47
西田は、新たな道の一歩を切り開いただけで、まだ全容を表現しきれていない。
批判的研究より、追認のうえの発展的研究が望まれる。
宗教、哲学、科学を統合しうる可能性を含んでいる。
95考える名無しさん:04/01/02 23:51
西田先生万歳!西洋哲学撲滅!
96考える名無しさん:04/01/11 02:47
>>94
>宗教、哲学、科学を統合しうる可能性
それは凄い。さわりだけでも教えていただけまいか?
97考える名無しさん:04/01/11 02:54
西田は『絶対矛盾的自己同一』から入ることをお勧めします。
このテクストは西田にとっては
『善の研究』を発展させたものなのだけど、
実際上は、あまりに図式的で、哲学的とはいえない。
でも、逆に、西田の思想の概略をつかむのには好都合。
だから、『絶対矛盾的自己同一』から『善の研究』へと
遡ってみると、西田の全体像がなんとなくみえてくると
思います。
ちなみに、ご存知かもしれませんが、
両方とも、青空文庫で入手可能です。
98考える名無しさん:04/02/02 14:23
留学生が研究対象にするときは大変だろうね。
読みにくくて。
99。。。。。。。。。:04/02/04 18:39
日本人的霊性
100考える名無しさん:04/02/13 23:07
青空文庫に感謝
101考える名無しさん:04/02/15 19:51
横山ノックに一票。
102考える名無しさん:04/02/26 00:05
「当時の学生としてのわたしの皮相な印象では、西田教授の授業はあまり面白いものではなかった。
むやみに人数ばかり多い教室で、順番にあたった学生が訳をつけるのだが、
それがまったく何もわかっていないままに、ただ機械的に難しい訳語をあてていくやり方であって、
「ハイト」とか「カイト」とかいう語尾の名詞が出てくれば、なんでも「なになに性」と訳し、
前置詞はすべて「における」と訳すと言ってもいいようなものであった。
 むろん文章のあやも論理の筋もわからないわけである。
「学生があまりしどろもどろの訳なぞをする時には、先生は遠慮なしに大きな欠伸をされた」(高坂正顕)
とあるが、わたしもすっかり退屈し、こんなだらけた演習に腹をたてなければならなかった。
学生が訳をつけたあとで、先生の説明があるわけだが、これも原文のテクストに即したものではなくて、
たまたま先生が思いついたことを話すというだけのものであった。
 わたしが顔を出したのは、ヘーゲルの『精神現象学』とフッセルの『イデーン』であったが、
後者では先生のすきな円をいくつも描くやり方での説明だったが、途中でうまく話がおさまらなくなってしまい、
「今日はどうもいけない」というような意味のことを言って、さっさと演習をやめて教室を出ていってしまった。」

(田中美知太郎『哲学入門』(講談社学術文庫)p.62.より)
103考える名無しさん:04/03/11 01:18
>>102
ダメダメじゃんw
104考える名無しさん:04/03/11 02:52
この前読んだけど こいつとデリダって同じ事言ってないか?引いては鈴木大拙。 大拙は分かりやすかった分なんとなしカミュとかぶった。あとニーチェとか。
105キモリタ:04/03/11 02:54
キモリタ殺人事件
106考える名無しさん:04/03/13 21:19
勿論ガイシュツと思う香山リカと山内志朗で「善の研究」を
再版したのはなんで?山内はわかるとしても。

山内先生は一年の教養でウィトゲンシュタインあたり
をモグリで聴きに行ったが、髪型が印象的だった、
履修生が多かった。しかし私語も多かった。
107じゆん ◆bYRNL78mlE :04/03/31 12:40
               『私と出会うための西田幾多郎』 中岡成文著 p46より
         
                 <絶対無>

無の論理は幾多郎が創出し、彼以降の京都学派が使用し、展開したものである。
幾多郎によれば、世界はいかなる実体にも支えられておらず、自己の中に自己を
映すという「関数」的な仕方で諸個物として、またそれらを媒介する「場所」たる
絶対無として現れる。それなのに西洋哲学は対象(有)に囚われ、無を無として
考察することができない。知性的原理を最大化して叡智的一般者に至ったとしても
それでは、まだ包めない最後の矛盾を「包む」ところのものが、絶対無の場所である。
「自己同一なるもの、いな自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むものすらこれに
おいてある場所が、私のいわゆる真の無の場所である」。この絶対無は、有のような
支配を個物に対して及ぼさないので、個物は自由を保てる。
 幾多郎の無の論理は多元性を忠実に把握ししようとするもので、現代思想の一つの
方向性を先取りしたと言える。これに対し、田辺元は「無」性の不徹底や瞑想性を批判
して「絶対無即愛」の概念で乗り越えようとし、西谷啓治は「空」(直接経験による確証)
の思想へとそれを展開した。
108考える名無しさん:04/04/05 08:14
ここで、西田幾多郎の本が読めるよ。

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person182.html#sakuhin_list_1
109考える名無しさん:04/04/05 08:51
           絶対矛盾的自己同一
           西田幾多郎



     一

     現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。
     現実の形は 物と物との相互関係と考えられる、
     相働くことによって出来た結果と考えられる。

     しかし物が働くということは、
     物が自己自身を否定することでなければならない、
     物というものがなくなって行くことでなければならない。
     物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、
     逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。

     例えば、物が空間において相働くということは、
     物が空間的ということでなければならない。
     その極、物理的空間という如きものを考えれば、
     物力は空間的なるものの変化とも考えられる。

     しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、
     働く物というものがなくなることであり、
     世界が静止的となることであり、
     現実というものがなくなることである。
     現実の世界は何処までも多の一でなければならない、
     個物と個物との相互限定の世界でなければならない。
     故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
110じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/05 23:30
えと >>107-109は実は俺なんだけど(当然)

実は今から、西田幾多郎の読書会スレを立てたいと思うんだけど、誰か参加する人いる?

まあ自分かなりレベル低いけどさ。
111111:04/04/05 23:31
川〜
112じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/05 23:46
こちらでやらせていただきます。

青空の下で幾多郎「絶対矛盾的自己同一」を読め⇒
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1081175900/l50

113考える名無しさん:04/04/05 23:56
じゆんはなかなか偉いやつだね。率先して労力をはらうという・・・
114考える名無しさん:04/04/06 03:42
なんかいろんな原語の本をさらっと読みこなしてるのはすごい
と思うけど、やっぱ独自性が薄というか、始めから目指してるものが
最大公約数的なものでしかないと思った。
(客観性という言葉を軽軽しく使いまわしているので・・・
115考える名無しさん:04/04/16 03:57
さげちゃいます。
116考える名無しさん:04/04/19 18:41
このスレのびないなあ。
西田君は面白おかしい男の子なのになあ。
絶対矛盾的自己同一なんていう、すっごーい現実的なことを言っているのに。
117考える名無しさん:04/04/25 22:38
西田の個物とホワイトヘッドのアクチュアル・エンティティーの違いについて
誰か語ってくらはい。
118考える名無しさん:04/04/27 21:36
>>116
未来と過去を作成していく過程に矛盾がうまれる。しかしその矛盾を否定しない
ことによって自己同一の秩序が得られる。そんな感じかな。
119考える名無しさん:04/04/27 23:16
絶対矛盾的自己同一とは人間の意志によってどうこうできるものではなくて
ありとあらゆる存在者が従ってしまっている普遍的ロゴスみたいなもんでしょ。
120考える名無しさん:04/04/28 01:50
>>119
普遍的ロゴスにまで展開できるかというと、ちょっと疑問だなあ。
121考える名無しさん:04/04/30 06:15
>>120
でも、西田自身は現実世界の論理、存在・生成形式として絶対矛盾的自己同一という言葉を使用しているように
思われるのだが。また読み直すとするか。
122考える名無しさん:04/05/19 22:43
単に新カント派の亜流じゃん
123考える名無しさん:04/05/22 04:33
絶対矛盾的自己同一
悟っていないと分からないという罠。
124考える名無しさん:04/05/22 04:43
純粋経験ていう、一切の余計なものがない、意識の頂点のような状態では
精神面の統一作用がよく働いて、絶対矛盾的自己同一なんだろうな。
けど、そんな見るもの、から働くものに、ってほどの経験はほとんどないっす。
125考える名無しさん:04/05/22 05:00
自分は思うんだけど絶対矛盾的自己同一って、矛盾する選択肢を二つ持っている人で
その矛盾に付随する現実が現れた時に即座に選択肢の一方を選べる状態なのではないかと
単純に自分は考えてしまうんだけどなあ。いちおうその矛盾を常に意識できる状態っていう
限定つきの行動論理だけど。
126考える名無しさん:04/05/22 05:03

絶対無の場所ってなんだろう?
色即是空、空即是色、意識の流れが生まれてくる根源のような場所だろうか。
意識はその頂点において無意識に限りなく還流する。
いきてかえりし場所、始まりにして終わり。何にとってか、誰にとって。
自己発展的に分化し、人格に統合されていく。うーん、マズロー?
理屈だけでも、分からなくなる。
127考える名無しさん:04/05/22 05:24
>>125
>即座に選択肢の一方を選べる状態なのではないかと
現実世界が絶対矛盾的自己同一だというから(対象面・ノエマ)
絶対自由意志による絶対無の自己限定が精神面・ノエシスの統一作用として働くのだろうか。
意識経験において一体となって働く表と裏なのかな

>いちおうその矛盾を常に意識できる状態っていう
>限定つきの行動論理だけど。
なぜそういう限定がつくの?
128125:04/05/24 17:32
>>127
そこまで複雑に考えなくてもいいと思う。おそらく純粋経験を
現象学的に捉えているみたいだけど、むしろ西田の哲学は一切
の現象学的思考の現場を否定しているように自分には思えるんです。
絶対自由意志ではなくて、不確定な自由意志の現場を直視すること
つまり意識することで、展開される矛盾の解消の中で絶対無の存在を
西田は見ているんじゃないかなと、

例えば絶対無は、弁証法による否定の連続の場所(媒質)として
作用しているように見えるけど、つまりそれはライプニッツの
モナド(単一性)の希求に他ならないわけで、そのモナドを構成
しているものが、実は絶対無だったり。

>なぜそういう限定がつくの?
意識が精密でないと、まず純粋経験の現場には立ち会えないという思いが自分にはある。
純粋経験は意識に立ち現れるものではなく、過ぎ去るものとして存在する。自己を限定
しないとそういった作業は体験できない。これが現象学との大きな違いだと自分は思う
ので。現象学って私にとってつまり網羅主義なんですよ。単純な箇条書きで済んじゃう
レベルです。ヘーゲルの弁証法、西田の論理は僕にとっては構成的なんです。
建築で言うなら、材木の種類を揃えて家を造るのではなく、家が成り立つ仕組みを
工事の現場から吟味していって建てていくイメージがあるんです。
ちょっと今回も放談に近いことばかり言ってしまいました。批判があればよろしくお願いします。
たぶん私の現象学理解はある意味で正しいですが、ある意味で正当ではないと思いますので。
129考える名無しさん:04/05/26 16:24
 人生行路とは是即ち不断に続く非連続の連続であり、
統一的或者の表現点に於いて生きると言う事でなけ
ればならない。
 自己成立の根底を見出す作用が直に行為的自己の
発露に繋がり、我々は主客を超えた先験的主観の立場に
立脚できるのである。
130考える名無しさん:04/05/26 20:15
>ちょっと今回も放談に近いことばかり言ってしまいました。批判があればよろしくお願いします。
哲学の知識とかはないので何も言えませんが、とても参考になりました。現在の限定の極致については、同感です。
批判というか、引っかかってる箇所があります。

>絶対自由意志ではなくて、不確定な自由意志の現場を直視すること
俺は、絶対自由意志であると思うのです。

>つまり意識することで、展開される矛盾の解消の中で
矛盾は解消されるといえるのか、というのが俺の中にあります。
自覚することで本来の自己を取り戻し、自由に自己を限定していくことで無数の個物が、
、絶対無の場所において非連続の連続として現在に、永遠の今、死して生きるに続いていくのだと思えます。
つまり、絶対矛盾的自己同一です。

>矛盾する選択肢を二つ持っている人で
>その矛盾に付随する現実が現れた時に即座に選択肢の一方を選べる状態なのではないかと
生か、死か。肯定か、否定か、どちらか一方だけではないように思える。
二つ以上の行為の可能性を、それも環境の中に無数に実在し、むしろ自由なのだと、思えます。

自分はあまり器用な方だといえない、一般的な意味の、物覚えがあまりよくないタイプなんですよね。
125サンは、よさげだな・・。なんとなく思いました
131考える名無しさん:04/05/27 00:24
西田幾太郎はある種の(宗教的ともいえる)悟りを得てないと理解しがたいだろ
う、というのが今の結論。それかまったくのでたらめだろう。

純粋経験はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に似ている。でも純粋経験は
我を問題としていないところが違う。フッサールの純粋意識にも似ている。で
も超越論でないところが違う。もっと深いものだろう。
132考える名無しさん:04/05/27 01:57
「誰それの哲学は宗教であって哲学ではない」
よく聞かれるこの言葉は
実はこれ明治期日本が宗教を無視して近代哲学を輸入した弊害であると思う。
脱亜欧入、富国強兵政策のもとに
近代的な学問は受け入れたがキリスト教神学などの伝統的要素は排除していた。

宗教と哲学はもともと関係が根深いもの。
自然と言い回しが宗教的になったとしてもそれは当然のことなのだ。
ドイツ観念論は真理を独占しようとするキリスト教会勢力との対抗軸として発展した。
ヘーゲルは6年間も神学を勉強していた。哲学者であるとともにキリスト者であったわけだ。
普通に考えても神の概念なしに「絶対者」や「統一者」とかいわれてもわかるはずなかろう。
しかしヘーゲルの哲学を「あいつのは神学で哲学じゃないよ」なんて論評する奴はいない。
当然である。そういう物言い自体が誤ったものであるのだから。
133125:04/05/27 05:40
この前読んだ本に、ニーチェがヘーゲルを評価できる点として、『生成』と『発展』の
概念を生み出したこと、そしてそれがなければ、ダーウイニズム(進化論)が生まれな
かったと言っていたそうな。へえって思った。そうか生成を前提にすると発展や進化は
当為目標となるしかないしなと。

あとこれは非常に圧迫した考えだけど、自由になりたい自己を抜け出すには次々と矛盾
を解消、追いやるしかないわけで。(これは矛盾を内在させる自己の状態を苦として捉
えた観念です)いつしか矛盾もパターン化すれば、その矛盾を事前に予測(預言)でき
る、それが展開の作用(基本原理)だと信じることができる。展開することによって、
矛盾を疎外化する。自己は矛盾を吐き出すから、(つまり記憶容量と言う認識能力に限
界があるということ)基本的には増大しない。だから自己における矛盾だけを疎外化する。

限定された自己というのは、疎外からなる矛盾を自然そのままとして捉え、自然を隔離す
る行動様式ではないか、と考えてみます。自己は自然から疎外されるのではなく、むしろ
自己が自然を疎外する。それを意思する行為として認識作業をみてみる。
そうやって考えてみると、矛盾は解消されるわけではないのに気づく。自己を通して矛盾
が吐き出されるだけだということに、そして矛盾が疎外される。よくよく考えてみれば分
かることだ。解決したと思われた行為が実は全然解決されていなかった。
134125
(つづき)
そして自然(世界)の様相が発展するだけではないか? なぜならその時の自己は何ら
複雑化しないので、むしろ単純化という意志によって、無数の単純化された自己を生み
出す。まあ、これを状況のカテゴライズと呼ぼう。

僕は矛盾を内包したままの自己の状態が割と好きですね。もしくはそこから言葉という
矛盾した存在を展開していく。

えと、またもや放談してみた。130さんのように面白がって話を聞いてくれる人がいて
くれて嬉しいです。批判があれば承ります。あと、そんなに僕は器用じゃないです。
そう言ってくれるのはかなり嬉しいのですけどね。それでは。ちょっと今回は西田
関連を吹っ飛ばして、ヘーゲル観の妄想を飛ばしてしまいました。まあ初心者なんで
許してください。間違いの指摘はばしばしとお願いします。
なんか今回と前回の放談ははプラモを作っているような感覚でしたね(w 
それでは。