たかが人生か?それともされど人生か?

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1三浦 ◆K8EfEbyWG6
このいずれかを「選択」することによって
この世は天国にも地獄にもなる。

2考える名無しさん:04/03/31 16:59
たかが
3考える名無しさん:04/03/31 17:00



           お  地

           ち  獄

           ろ  へ

           ∫

            !!


4三浦 ◆K8EfEbyWG6 :04/03/31 17:04
人それぞれの人生態度はこのどちらしかないということだ。
それが私が万巻の書を読んで発見した結論である。
5考える名無しさん:04/03/31 17:05
態度はね。
6三浦 ◆K8EfEbyWG6 :04/03/31 17:12
大抵の人はたかが人生さ、と一度は思うことだろう。
しかし、これから何十年も生き続けていくことを考えると
その人生態度では弊害が大きくこれでは駄目だと考える。
そして開き直り、たかが人生、されど人生さと人生態度をシフトする。
それができないものは自殺する。
早い者では思春期で、人生態度をされどにシフトさせる。
しかし、思春期の若者の大半はたかが人生派が多い。
この世界の理不尽や不平等が耐えられないのである。
大体それが大学生頃まで続くことが多いと思う。

7三浦 ◆K8EfEbyWG6 :04/03/31 17:16
しかし学生時代を過ぎて定職を持つようになる頃にまでは人生態度をシフトさせなければならない。
これが「大人への階段」を昇るということである。
これができないでニヒリズムに陥る者は「負け犬」である。
大人未満子供以上とでもいうべき半端者である。
8三浦 ◆K8EfEbyWG6 :04/03/31 17:19
このように生き方の戦略としては、されど人生派の方が賢い。
現実適応能力が高く、人生に対してポジティブな態度をとる。

9考える名無しさん:04/03/31 17:21
>>8
お前の言っていることは、つまらん。
10考える名無しさん:04/03/31 17:25
昼寝はしような。
11三浦 ◆K8EfEbyWG6 :04/03/31 17:29
661 :名無しさん@3周年 :04/03/31 16:41
「第2章 神の民について」の16節において、ある条件の下で、キリストの福音
ならびに教会を知らないが、聖寵の働きのもとに努力する人々は、
永遠の救いに達することができると述べられている。

これは、トリエント公会議において、「洗礼は救いのために必要ではないと
言う者は排斥される」と宣言した、「秘跡一般および洗礼、堅信についての教令」
(1547年3月3日)と矛盾している。

また、「第3章 教会の聖職位階制度、特に司教職について」の29節では、
「聖職位階の下位の段階に助祭があり、・・・」と述べられている。
これは、トリエント公会議の副助祭を上位聖職位階に属すると定義した
「叙階の秘跡についての教令」(1563年7月15日)を改正するものである。
しかし、このトリエント公会議の教令では次のように宣言している。

叙階または聖職への叙階は、主キリストによって制定された真かつ固有の秘跡ではない。
または、教会の事柄について無知な人によって考案された、
人間の虚構の一種である;または、神の言葉と諸秘跡の奉仕者を選出する儀式の一種に過ぎない、
と言う如何なる者は排斥される。


12考える名無しさん:04/03/31 18:26
>>三浦

同感だ。
13考える名無しさん
>>1
ガイドライン違反です。

http://info.2ch.net/guide/adv.html#saku_guide
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