932 :
考える名無しさん:2008/09/19(金) 13:01:08 0
「私とあなたは別の主観」とか言わないか?
「それは主観的な見方に過ぎない」と言ったら、
「個人的にしか通用しない普遍性のない見方だ」という意味だろう。
933 :
考える名無しさん:2008/09/19(金) 17:38:26 0
>>931 なんだよォ、前よりわかんなぞ、と。
あのさぁ、そのOFWってシトに来てもらえないかな?
595:08/14(木) 10:48 0
意志と恣意の違いは何か?事典で調べるなよ。
意志と随意の違いは何か?
叡知的性格と経験的性格の違いは何か?
そもそも直観とはなにか?直感とどう違う?
667:09/19(金) 09:21 0 [sage]
>>595 要するに恣意だろうが随意だろうが経験的だろうが、それらは個物を通して表出ー感知される末端の現象。
それに対して意志や叡知的と呼ばれるものは現象に通底する世界の本質。
直感とは感覚によって前者を、直観とは理性によって後者を捉え得る能力。
935 :
考える名無しさん:2008/10/22(水) 11:12:15 0
省察あげ
sage
937 :
考える名無しさん:2008/12/15(月) 23:33:28 0
「疑っている」ということを疑うことはできない。
この意味をわかりやすい例で教えてください!
938 :
名無しの学生:2008/12/16(火) 15:10:46 O
「認識の客観性」をデカルトはどのように説明したか?ご存じの方、教えていただけませんか?お願いします。
939 :
考える名無しさん:2008/12/16(火) 23:40:12 0
俺のレポートもヤベエエエエエエエエエエエエエエエ
941 :
考える名無しさん:2009/01/26(月) 02:03:19 O
省察で懐疑することの
メリット(なぜ重要か)と結論についてくわしくおしえてください。
来月ちくま学芸文庫から出る『哲学原理』は完訳なの?
943 :
考える名無しさん:2009/03/15(日) 16:12:52 O
デカルトは必読
944 :
考える名無しさん:2009/03/15(日) 16:40:02 0
>>941 独裁を否定し、何事も懐疑で決めるのが民主主義の原則w
すみません。
以前からちょいちょい哲学の本を読んでいたのですが
昨年末にE・O・ウィルソンの『人間の本性について』を読んで以来、
自分の中のくすぶっていた哲学熱が爆発し、
これはガンガンハマっていくしかないな、と思って
数日前からデカルトの『方法序説』(in 中公 世界の名著 22)を読み直しているのですが、
ウィルソンなんか読んでしまったせいか、
四章後半以降の"神の存在証明""心臓熱機関説"
がまったく(いろんな意味で)読めません。
で、こういうのはぱっぱと飛ばしてしまってもいいのでしょうか?
どうでもいい問題かもしれませんが、真剣に悩んでいます。
みなさんはデカルトの古臭いところはどういうふうに読んでいますか?
方法序説第5部の医学について書いてあるのは読み飛ばした
あと、
「我思う、ゆえに我あり」
っていう有名なアレについて考えているうちに
混乱してしまいました。
「我思う」と「我あり」の「我」って、何のことなんでしょうか?
僕は思考や自我やらは脳の働きに還元できると思って、
「我(脳)思う、ゆえに我(脳)あり」
→「我思う(=脳が機能してる)、
ゆえに我あり(少なくとも脳が健全に機能する程度には、体全身もちゃんと機能してる)」
みたいな、で?何?
という解釈をしてしまったのですが…
948 :
考える名無しさん:2009/03/23(月) 00:32:48 0
そんなDQN解釈に何の根拠があるのだ
根拠はあります!
思考は脳でやるわけで、
思考が成立しているということは
その人は生きている、
少なくとも人が生きていける最低限の状態が整った
三次元の空間にいる、
ということになりませんか?
>思考は脳でやる
そもそも、この出だしから君の思い込みであるなら、
後に続く文章は全て的外れと言うことができるね。
でも、肉体のなかで思考が行われていることに変わりはないと思うんですが。
>>947 > 「我思う」と「我あり」の「我」って、何のことなんでしょうか?
そのまんま、「我」ってこと。自分を指してるだけ。
今現に懐疑を行っている自分のことね。ほんっとにそれだけのこと。
んで、そこまで来てる間に君が言ってる解釈の根拠みたいなものはデカルトに拠ればもう捨てられてるわけよ。
ってか、君ホントに『方法序説』読んだの?
問題はそこなんですよ
脳にしろ脳でないにしろ
「問う」という思考がおこなわれている事象を事実としないことには
全て成り立たない
その我思う「心」が間違いなくこの世、この世界に有るのか無いのかは、また別の問題ですが
954 :
し:2009/03/23(月) 21:45:37 O
四国海物語 → パチンコ海物語 → 下|四国グリーンプロジェクト
>>952 読みました。
僕がわからないのは、その"自分"の範囲なんです。
感覚による想像が否定され、推理が否定され、
精神に入ってきたものすべてが否定され、
さらには全部否定されうるみたいなことまで書かれていて、
でもそう考えている"自分"は"在る"、と。
これはもう、"自分の中にある考える機能"程度のものでしかないんじゃないか?
と思ったんです。
少なくとも肉体の話じゃないわけじゃないですか。
956 :
考える名無しさん:2009/03/24(火) 01:05:09 0
あたりまえ。
957 :
考える名無しさん:2009/03/24(火) 05:24:56 0
デカルト学者は、
不要になったデカルト哲学を、不要なものとして、
解説できなければ意味なし。
958 :
考える名無しさん:2009/03/24(火) 05:26:32 0
既に無用の長物なんだから。
デカルトに限らず普通に生きていくだけなら、
哲学は逆にその足枷になる場合が多い。
何故なら哲学は己を省みる必要が多々有るからである。
人間は己を省みた瞬間、弱く脆くなる。
そしてその場に長く踏みとどまると、
自ら死を選択する局面に陥る危険を有している。
大げさな…
苦しんだ経験の少ない人や猪突猛進タイプの人とかなら、「考え過ぎだろ」「君、頭大丈夫?」か「フッ 大げさな(笑)」で終わりだね
それこそが、まだとことん自分自身という存在を追及しきれていないという事の証明になっているからね
二通りある。
経験からくる深い苦しみや絶望などにより追及するタイプと、
そんなものは無くても純粋に興味だけをもって追及するタイプ。
行き着くところは同じと思われがちだが、
前者は脆く後者は些かも動じることはない。
興味だけをもち追及する者は、
単に己の知識欲を満たしたいという想いであるから。
僕はいじめられたり、鬱になったり、今も友達がいなかったりして、
人より幾分内省的で偏屈な性格を自覚してますけど、
自分の弱さにゼツボーすることはないですよ。
むしろ
>>961さんは、哲学に興味を持つまで
徹底的に内省したことがなくて
それで「うわぁ、なんか哲学すごいわぁ」
となってるだけなんじゃないですか?
そんな暗い人間はみんな自殺に向かいつつある、
みたいなしょーもない話を信じているということについて
どういうことなのかよく考えてみればいいと思いますよ。
問題は
>>961の文章と
>>963の文章のもつ本質の「重さ」だな。
961は男性の持つ感性を強く感じるし963は女性のそれを感じる。
これまでどう生きてきたかも如実に文体に表れている。
哲学は両刃の剣であることを知れ。
前者は後に己を傷つけることが考えられる。
後者は後に知識によって得た理論で武装し相手を糾弾することが考えられる。
哲学は有益な面だけではない。
薬にもなる毒なのである。
>>965 毒にするか薬にするかは哲学じゃなくて自分の問題でしょう。
傷ついたなら治るまで待てばいいだけです。
理論武装したらフェアプレーを心掛け、
無防備な人に武装した状態で挑まないようにすればいいだけです。
哲学に有益な部分と無益な部分があることは賛成ですが、
>>965さんは何を有益だと思っているのか、よくわかりません。
答えは既に書いてあるんじゃ?
>
>>965さんは何を有益だと思っているのか、よくわかりません。
哲学を学んで得た知識や理論が己にとって だろ?
そんな簡単な問題すらよくわかりませんって・・ 君・・
>毒にするか薬にするかは哲学じゃなくて自分の問題でしょう。
この1行目からあまり賢明ではないことが解るがそれにしても酷い。
この21世紀に、
あの頭の悪いデカルトをスレタイにするなんて、あんたら・・・・
>>967 実は池沼なんです…すみません(*_*)
>>962でいけば僕は普通に後者です。
高校のときは前者でしたが、哲学は知らなかったので、
ただかたわ同然な自分をどう環境に適応させるかについて考えていました。
そしてそんな感じで安定したところに哲学がでてきて
ガツンとハマりました。
そんな感じです。
池沼という言葉に逃げてすみませんでした。
子供の頃から今までに一度でも「生まれてこなきゃよかった」と真剣に悩んだ事がある人なら
哲学を学舎で正式に学ばなくてもその人の言葉には哲学を感じることができる
「生まれてこなきゃよかった」と真剣に悩んだり思った経験は無いが、
家族や自分にとって大切な人がそんな言葉を吐いたら、
彼(彼女)は、何故そんなことを言うのか?何故そこまで自分を責めるのだろう?と知りたくなるだろう
両方の視点から考えることができるならそれが最も良いのではないかと思える
>>969君へ
「頭は下げても、腹の中まで卑屈にならなくていい」 学びたいと思う気持ちを大切に
小説 路傍の石の一章節より
俺は以前ここじゃない板のコテハンと言い争ったことがある。
そのこともあり基本的にコテは好きじゃない。
しかし範馬ぱき ◆GLfrs1vFEE (*⌒▽⌒*)ってコテに関しては
至ってまともな奴だと思う。
>>960までの書き込みを見ればわかる。
>>963の書き込みは
>>961に対してであり、初めて感情を露にしている。
つまり
>>961のレスの内容に「フッ 大げさな(笑)」という一文があり
まるで960を煽っているかのような文章に成っている。
960はただ、「大げさな…」と書き込んでいるだけ。
「フッ 大げさな(笑)」とは書いていない。
こんな誇張をすると読み手側の印象が大きく違ってくる。
691がそういう類の思いをしている奴全員に言ったのかも知れないが。
どちらにしろ961が960を指して言ったことと同義。
これは「大げさな…」とだけ書いた960より
「フッ 大げさな(笑)」と誇張した961に
そもそも問題がある。
と言うか意地の悪さを感じる。
とりあえずデカルトの神の捉え方がいまいちわからないので
パスカルの『パンセ』を読みつつ『哲学の原理』を読んでいこうと思います。
「デカルトについて疑問に思うこと」
が自分のなかでまとまったので報告します。
まず1つは、
『少しでも疑えるものは偽としてこれを退ける』
というやり方で物事を考えていく限り、
それは必然的に
『われ思う、ゆえにわれあり』
に到達して、他の答えにはたどり着かないのではないか、
ということ、
2つ目は、となると
『われ思う、ゆえにわれあり』
という一見行き着いた答え、唯一無二の"真の第一原理"に見えるものも
『少しでも疑えるものは偽としてこれを退ける』
という思索形式の"1過程"でしかないのでは?
ということで、
3つ目の疑問は、それならデカルトは結局、
『少しでも疑えるものは偽としてこれを退ける』
という自分で決めた思索形式の中をぐるぐる廻っているだけ、
その指し示す方向に正確に突き進んでいるだけなのではないか?
ということです。
974 :
考える名無しさん:2009/03/26(木) 13:36:27 0
>>973 >『少しでも疑えるものは偽としてこれを退ける』
この格率こそ疑わしいから真っ先に退けるべきだろ。
デカルト避けてないですよ
976 :
考える名無しさん:2009/03/26(木) 21:01:15 0
977 :
考える名無しさん:2009/03/26(木) 21:30:52 0
>>973 文脈がちょっとわかりずらいね。
さて、1つ目の疑問に関しては、彼は数学等もコギト同様に真だという答えも得ていたと記憶してるけど。
だから他のいくつかの答えにもたどり着いているといえる。
よってそれに続く疑問への回答もこれですむわけだけど
ところで、デカルトは「真理を発見することが目的であり、だからコギトの名文を発見したことを真理として主張している」というわけではないと思うよ(人によって意見は違うかもしれないけどね。)
彼はできるだけ頑丈な基盤をみつけて、そこから学を組み立てていく、そういう方法の模索と確立を第一目標にしてそれを実際に試みた人で、
本を書いたのは、同じような試みをする人の為にこういう方法もあるから参考になる人は参考にしてねという意図だったらしいよ(これも人によって意見はちがうだろうけど、でも方法序説でこういう趣旨をちゃんと明記してたと思うけど…。)
だから、デカルトが参考になる人は参考にすればいいんじゃないかと。方法は使ってこそ意味があるもので、方法を述べた文だけを吟味しても空疎な試みだと思います。
>>977 じゃあデカルトは古典だからとりあえず読んで、
自分なりに頭に入れればOK、
みたいな捉え方が主流だということでしょうか?
そういう事情をあまり知らないので…
大学の図書館にヤスパースという人の『デカルトと哲学』という本があったので借りてみました
980 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 13:43:00 0
デカルトと同じような試みをする人が必然的に
『われ思う、ゆえにわれあり』
に到達するとしたら、
それは「必然的真理」だといっていいものでしょうか。
でも人間の考えごと指数?
みたいなのはそもそも計れないし、
もっとそもそもそんなことあえてやりたがる人は少ないわけだし…