前スレ
>>736 カオルさん
>カオルさんにとっては苦を引き受けながら哲学探究の生を駆け抜けること。
>これは天命もしくは肉体的精神的限界に至って死ぬまでということですよね。
>はい。
>ボクにとっては「あなた」への応答が、あてがわれた生への抵抗であり、
>「わたし」を引き受け「わたし」として生ききることなのです。
>人間ですからそのような在り方しかないのだと思います。
以上につきましては、改めてお受けいたしました。
前スレ
>>746 ハルカさん
>神様はとてもとても残酷なのです。
>人間や動物たち。
>それこそ無数の命が食らい合うのを見てるのが何より面白いのです。
そうですね。
あと、やっぱりハルカさんにはハルカ流が素敵です。
>…はっきり言う。
>いい加減にしなさい!
>たかだかその程度で身を引くならば最初から手を出すな!
>泥を被ろうが、血を流そうが、無様に地を這いずり回ろうが…
>やりぬく覚悟がなければ…
>本気で命がけでなければ…
>ただの『暇潰しの遊技』でしかない!
>貴方は何をしてるのだ!
>愚か者が!
前スレ
>>710より補足
ボクは a (神=倫理)
あてがわれた枠組みとしての世界を否定するのです。
単にそのようであるというだけの無垢なるエゴ(個体の維持展開)。
そこに価値は生まれない。そこに基づく規範は倫理なんかじゃない。
けれど b (存在者=倫理)
存在者として引き受ける世界として肯定したい。それが倫理(価値)。
「わたし」は「わたし」であろうとするのです。
その肯定を突き詰めると自然に「わたし」ではなくなってゆくでしょう。
図らずも「わたし」の脱却につながるのだと思います。
結局aとしてのあたがわれた無垢なる世界だけが残り、bは敗れるでしょう。
しかし舞台で演じた名もなき痕跡(叫び)は残ります。
そうして自己という回転する糸車は存在者の悲しみを紡ぎ続けました。
倫理(価値)は「わたし」と「あなた」のかけがいなさを示そうと、ただ行為されます。
それがaの模造に過ぎなくても、倫理の果てが脱却であるとしても。。。
「わたし」は波間に飛び散った飛沫。
海原は「わたし」の手ぐすねを引き、天空は愚かな「わたし」を諭します。
けれども「わたし」は拒むのです。それは「わたし」じゃないから。
「わたし」は一寸、波間に飛び散ったイレギュラー。
「わたし」は手足をばたつかせます。
となりの「あなた」は悟りきっています。
となりの「あなた」は途方に暮れています。
「わたし」もつかれました。
そうしている間にも、「わたし」たちは波間へ堕ちてゆくのです。
それでも、「わたし」はまだ「わたし」。
ここは海原でもなければ天空でもない、「わたし」と「あなた」の世界。
「わたし」を苦しむことは「わたし」の証しです。
そう「あなた」は教えてくださいました。
そして「わたし」たちは不自由だけれど、こんなにも、「自由」。
どこまで辿り着けるかも、「自由」。
「あなた」に伝えたいこと。
「わたし」はここにいるよ。
>みんな大好きというのと、あの人は特別というのは次元の差で両立するのではないでしょうか。
>両立するなら、その人は神さまじゃないかしら?
>だから、マザーテレサとかがノーベル"平和"賞もらうんでしょ?
如何なる形式の者であれ、世界内として存在者は世界そのものを生み出せはしません。上位下位に
際限なく遡及される入れ子の構造が連環するのみで、相対世界は神さま(絶対者)とは切り離されています。
神=倫理という視点で、神さま(絶対者)こそは想定すら連関すらしない絶対の「他者」です。或いは
連環なる連関世界の総体そのものをして神さまの「痕跡」といえると思います。連関すらしない絶対の
「他者」は、もちろん「みんな大好き」も「あの人は特別」もないでしょう。絶対の「他者」を切り離すなら、
神さまの「痕跡」すなわち連環なる連関世界そのものが、単にそうであるというだけの事態=神であり、
相対的に移りゆく事態に「みんな大好き」も「あの人は特別」もないでしょう。ヒトならヒトという個体化の
現象形式に従って作用するのみ。それは原理として、たとえ上位存在者すら同じでしょう。いずれにしても
「神の愛」なるものはどこにもなく、どこにも倫理(価値)なるものはないと思います。
存在者=倫理という視点で、「わたし」という思惟し反省する存在者が自覚すればこそ、無根拠なる
無窮の抗争を繰り広げる回転する糸車を乗り越えて、そこにあらたなる関係仕方を再構築せんとするの
です。それが存在者の倫理(価値)です。もしも存在者の愛が「みんな大好き」の上に立脚しなければ、
連関する存在者は如何なる関係も構築できないでしょう。「みんな大好き」は存在者としての一方の絆
であり、不可欠な「眼差し」なのだと思います。だからと言って、有限なる「わたし」はみんなに「応答」する
ことはできません。有限な関わりの中で関わりの濃度もまた異なります。「あの人は特別」は存在者として
のもう一方の絆であり、不可欠な「行為」なのだと思います。倫理(価値)は、どちらが欠けても成立しない。
そして、もしもただひとりの特別な「あなた」に、際限のなく「わたし」が応答するとしても、倫理(価値)が
成立しているなら、それはマザーテレサに等しいと思うのです。それがボクの思う存在者=倫理。
「わたし」は「あなた」の「痕跡」に際限なく無償の「応答」をし、「わたし」(あなた)は「あなた」(わたし)の
「痕跡」に際限なく無償の「応答」をする。越えられない「わたし」と「わたし」(あなた)の溝は、認め合う不可欠
な溝でありながら、接近しつづける。無償の「応答」は如何なる障害をも乗り越える。ふたりは倫理(価値)に
よって永遠に結ばれる。もしも「わたし」が「わたし」でなくなるなら、「わたし」(あなた)も「わたし」(あなた)で
なくなる。ボクの思う究極の愛。
>>4の
>神様はとてもとても残酷なのです。
>人間や動物たち。
>それこそ無数の命が食らい合うのを見てるのが何より面白いのです。
の神様は上位存在者としての神様。つまりハルカ論の「誰か」に当たります。
自己自律論の「自己」から切り離された神さま(絶対者)=「何か」は
>>8に当たります。
倫理(価値)はただ行為によって純粋に示されるのであり、
マザーテレサにノーベル"平和"賞なる社会的な価値づけは無用なのだ、とボクは思います。
名もなく紡がれた悲しみ、そして応答する無償の行為によって、倫理(価値)は示されるのだと。
12 :
カオル ◆BBBRv/ousU :04/03/22 22:30
Sさんの思想は、わたしやハルカにだけ話すのはもったいないと思います。
すでにわたしには反論する気持ちがないですし、おそらくハルカも同じでしょう。
もっと他の人たちにオープンでもいいのではないかと思います。
他の人たちがどう思うのか聞いてみたいですしね。
なので、掟破りのage進行。(笑)
あいたたたた・・・・
こうゆう自分探し系ってアホらしいというか微笑ましい。
三浦、時と場所を考えような。
15 :
カオル ◆BBBRv/ousU :04/03/22 23:11
上位存在者としての神さまがいるのかいないのか?
どちらにしろ、神さま仏さまの戒律が倫理や道徳に反映されていると考えるのは自然なことでしょう。
倫理や道徳に普遍性を求めるのは、結局のところ超越へのまなざしからなのではないでしょうか。
本来神さまがいるのかいないのかなんて人間にとってはどうでもよいことなのではないでしょうか。
普段は身体の生理的欲求に拘泥しているばかりのケモノにどうして宗教心が芽生えてしまうのでしょう。
もしわれわれに宗教心というものがなかったらどうなるのでしょうか。その人は人間なのでしょうか。
>>13 ステキな微笑みをありがとう。
ところで神さまが行方不明なのです。
どこにいらっしゃるか知りませんか?
>>14 あなたのおかげ様で存在が許されています。ありがとう。
>Sさん
あっちのスレからエクソダスしてきます。
わたしのせいで分割されてしまったスレをひとつにしたいと思います。
3 名前:コンガラ 投稿日:04/03/22 01:13
前スレ
>>529 カオルさん
苦は、どこかにあやまちがあるから、起こるお知らせのようなものだと、思います。
あやまちとは、自然な状態から外れている事を言います。
自然な状態とは、例えば、陽があれば、熱があり、土があれば、草木がある、貴方
や私の意識や、思惟や、気や、身体の状態といった流れが、風が吹き、水が流れるよ
うに、すんなりと流れて豊かである状態を言います。
こうした自然な状態に逆らおうとする事を、一応の矛盾としておきます。そして、
この矛盾は解かれ結ばれる事により、解消されます。ここに苦の介在する場がありま
す。もし、ここに苦が存在しなければ、矛盾が矛盾として認識されません。苦のない
世界とは、生きているのであれ、死んでいるのであれ、同じ状態がいつまでも続けて
しまいやすい世界です。それは、今現世のこの世界で言う肉体が、無くなった世界に
似ているのではないでしょうか?あ、でも死んだら苦がなくなるとか、肉体の役割を
果たすものが全く無いとか言っているのではありませんよ。
では、矛盾が矛盾として認識され、解消され、それだから当然に苦が無くなって行
く体験は存在するのか。と言う事ですが、あります。しかもそれは、非常に簡単な事
です。これは、いかに苦行をしたり、瞑想をしたりしても上の事を無視していれば、
いつまでも、同じ状態にいることにも気付かず、苦も相変わらず去りません。それは
一応の矛盾でさえ、解消できていない証左に他なりません。多くの人は価値付けをし
たがりますから、それなりの行の末、仏教の言う苦という言葉に自己の体験を当ては
め、適用し、理屈上矛盾が無いか確かめる事が主な自己の仕事であるかのようなし方
で、何ら変化の無い自己に止まろうとします。仏の言う苦とは決してその様な苦では
ありません。今は、その事については、言及しません。
4 名前:コンガラ 投稿日:04/03/22 01:13
続き
ところで、一応の矛盾とは、人のする価値判断です。従って、苦とは価値判断が生
むものです。価値とは、相対的なるものに絶対性を求め、何がしかを定めた気になる
と言う事です。従って、私のこの言説も実は相対であって流動的なるあるものである
ということになります。そして、一応の矛盾とは、貴方や私の深層意識(があるとし
て)が顕在意識と意志と言葉と行いとが、相矛盾していると言う事です。これは、唯
の一つでも違えば、すぐに必ず苦がやってきます。何となれば、矛盾を矛盾として認
識し、自然な状態から外れてしまっているという事を認識することによって、自然な
状態から、自然と合一するためです。それが、一応悟るということではないかと思っ
ています。
ですから、貴方が、社会的な何かの事情で自らを何らかの仕方で無理に曲げて行き
続けていると、それが矛盾となって何らかの内容を持った苦が訪れる事は、自然な事
なのです。だって、それは自然な状態ではないからです。別に、仏教にこだわる必要
など全くありませんが、釈尊が仰った八正道を実践しようと思ったら(苦悩を抱えた
人が自ら救いを求めたなら)、心と言葉と行いが一つになっていなければなりません。
この三つそろったまことをわが国ではみことというんですよ。これは、戒律じゃない
んですよ。だって、これが本来の自然な状態だからです。
5 名前:コンガラ 投稿日:04/03/22 02:14
>>カオルさん
つまり、私が言いたいことは、貴方の求めておられる答えを、私が持っているのでは、
ということです(笑)。苦が去る方法とその結果と、目的と意義について。一応のもの
ですが。当然、これは、私の体験によるものです。だって、絶望とはどんなものか。い
やと言うほど、思い知らされましたから。苦とは、救いに他なりませんよ。本当です。
6 名前:コンガラ 投稿日:04/03/22 02:31
よろしいでしょうか?わたしの言っている事は、本当はあらゆる事に当てはまる
こととして、申し上げています。あらゆることと言えば、それはあらゆる事なので
す。学の進むべき道にも、人の道にも、仕事のあるべき仕方にも、国のあらゆる方
策来し方行くべき道にも、軍事政治経済、武術、恋愛、教育福祉、つまりあらゆる
道にも医学、育児、セックス、夫婦あらゆる道に当てはまるつもりで申し上げてお
ります。
なぜなら、それが、悟ると言う事だと思っているからです。
>>17に「カオル」が入ってしまいました。すみません。
21 :
カオル ◆BBBRv/ousU :04/03/24 04:18
>コンガラ童子さん
どうして矛盾が生まれるのでしょうか?
さかのぼってみるなら宇宙の誕生にも生命の誕生にも矛盾が介在しているように思えます。
まるで矛盾こそが存在のそして生の原動力のようにして。
矛盾のない世界とは完全な世界なのでしょうか?
完全な世界は存在しているのでしょうか?
存在しているとしても存在しつづけることができるのでしょうか?
わたしは、『リング』というコワーイ小説をシリーズの最後まで読んでみて
なるほど!と納得したことがあるのですが、それは「多様性」についてでした。
あらすじは、貞子が他の人間との生存競争に勝ちつづけて、貞子が自分自身(貞子)を
産みつづけて、地球上には貞子しかいなくなってしまうというもの。
で、結局は「多様性の生態系構造」がくずれてしまうので貞子も生き残れないという、
そんな内容だったと思います。
コンガラさんのおっしゃるように「苦とは価値判断が生むもの」なのでしょう。
たしかに、論理空間に存在できる価値は相対的なものだとわたしも思います。
けれど、この価値の多様性こそが「人の心」に活力を与えているとも考えられます。
もしかしたら価値の多様性は、心が生き残るために必要なことなのかもしれません。
コンガラさんのおっしゃる「本来の自然な状態」に価値判断は存在するのでしょうか?
「心と言葉と行いが一つになって」しかも、そのことが世界や他者にたいしても矛盾
しないということがあり得るのでしょうか?
こんど来た時
仲間に入れて下さい。
やっぱりmacはダメ。
エゴとエゴの衝突。心の葛藤。2つの立場に、たくさんの立場に引き裂かれた意見のせめぎあい。
1つの思いと他の思いのぶつかりあい。それが、苦です。
なぜ、このようなことが、起こるのでしょう。
単純なことです。よく見ないからです。
でも、苦はお知らせアラームでもあります。
意見の衝突に気が付きませんから。
気が付かないと矛盾したままになります。
>>25 存在にまつわる苦とは別種の苦から話がスタートするわけですね。
>カオルさん
前スレの続きだけど、ドーキンスっていう人の『利己的な遺伝子』のことを言っていたんだね。
>>21のレスでコンガラさんに問題提起しているのも、やっぱり根源的苦についてだ。
で、発言の経緯から言って、こうした「存在の苦」にコンガラさんがいま答えるのは難しいと思うんだけど。
「仏の言う苦に、今は言及しない」と発言している点から。
それとは別で、
>>532の「??−物質−生命−心−神」の鳥瞰図と上の説明は非常にわかりやすかった。
これについては近日レスを返す。勉強してんだ。
というのも、素粒子の「あったり」「なかったり」が何のことを言っているのか、初心者には分からないからだ。
>>皆様へ
今回、唐突な展開でしたが、向こうのスレを引き受け、事実上の統合という運びとなりました
ので、これまでのこのスレの簡単な総括ならびに今後の展開について私見を書いておきます。
まずは簡単な総括から。ご承知のように、このスレは悟りの広範な議論から特化して、
ハルカさんの悟り-解脱論を中心に、脱却志向を真剣にぶつけ合って来ました。それは今も
中途にありますが、これまでの展開で各々の志向の一応の目処は付いたように思います。
ハルカさんは体験知(ハルカ論)の概略開示、悟り‐解脱(虚無への移行)による脱却
Nさんは体験知の概略開示、悟り‐解脱(存在への回帰)による脱却
Sは存在者の自律(自己自律論)の展開、倫理の極限(無私化)としての脱却
カオルさんは主に哲学探究を通じての私の確立、脱却の拒否
以上は乱暴な纏めですが、それぞれの脱却への関わりはほぼ明確になったように思います。
悟りにせよ倫理にせよイコール実践でしょうから、まだ詰めるべき点は残されているとて、この
転機をもって一旦の締めとしてもよいのではと思っています。議論そのものは任意に継続しますけど。
次に今後の展開について。たとえルーツが同じでも別様の展開をして来たスレが統合するに
あたり、これまで特化してきたこのスレの趣旨が転換するのは確かだと思います。また、そう
でなければ闊達な議論は望めないでしょう。ということで、悟り・自律スレならびに悟り・苦スレ
はこの統合をもってリセットされ、より広範な議論を展開するということになるのだと思います。
また、SHスレ以来継続してスレを束縛して来た「ハルカ・カオル・S」という呪縛霊から、スレは
一旦解放されると思います。また名目上のスレ主を務めさせて頂いて来た不肖Sの仕事もここ
で一段落です。もし次スレが継続されることがあっても、別の有志の方が相応しいでしょう。(^.^)
あと、これまでもそうでしたが、これからも、スレ参加並びに実践行為はすべて各個の(社会的
な意味での)自己責任にてお願いいたします。(念のため、これだけは是非。。。m(__)m)
という思いを持つボクは、一層の闊達で広範な議論が遠慮なく行われますよう、願っております。
何かご意見がありましたら宜しくです。特にNさん、ハルカさんには申し訳なく思っておりますけど、
兄弟が緊急に駆け込んで来たのに締め出すようなことは、貴方がたも望まないと思ったのです。
これまでの呪縛が解けて新たな展開がなされることは、それもまた有意義なことだと思います。
読み返して見るとなーんか偉そうで嫌な感じですね。(^_^;
ま、ともかく遠慮なく自由にやっていきましょうということです。
悟りと苦スレからの方も宜しくです。(^.^)
>Sさん
どうもありがとう。
愚かな妹を許しください。(今日から妹になりますw)
>>30 訂正 許しください。→許してください。
前スレ754 Nさんへ
>考えすぎちゃ暗くなるZE〜。(誰だ?)
もっと頭が良かったら無駄にならないのにって思います。
カラカラ音させてるだけで引っ掛かりがないんです。
頭の歯車がひとつ外れててそれで噛み合わないのかも。
いくら頭を振っても元に戻ってはくれないんです。
機械だったら良かったのにって思います。
>祈りは知らないし、瞑想もほとんどしたことないので。。。
祈りに祈りの対象があるときは願いなんです。
それは祈ることじゃないのだと思います。
>価値の優劣をつけているのが私で、すべての存在に均等に、
>かけがえの無い価値があるのです。
わたしは、すべて「かけがえのない」という感覚を持てません。
価値には優劣があるから価値なんだと思います。
優劣を問えないのなら、わたしは判断不能になってしまいます。
前スレ754 Nさんへ
>倫理も1つのエゴなんですけどね。
>良心とか倫理が神だという人がいるけど、自身が描いた理想(エゴ)なんです。
ええ、神は人間の理想なんだと思います。
神へのまなざしが、「より良くより高く」の志向性なんだと思います。
しかしそれは、既存の価値を脱ぎ捨てていく行為なんです。
頂にはだれもいないのかもしれません。
>誰も苦を取り除くことはできません。
>それは実在するもの、存在するものではないからです。
実在と存在のちがいは?
生物学的な苦のことですか?
息ができなくなれば苦しいとか。(笑)
自分の存在感に吐き気がするのは実在苦でしょうか?
>感じることはできるでしょう。
>それは、無理難題を求めるからです。
思い通りにならない。これでしょ?
>苦は解決できるし、答はあります。
>苦しくても生きていれば見つかります。
>どうか見つけてください。m(__)m
ほんとう?
わたしの寿命が120歳だとして
120歳で死ぬときに解決されてなかったら
どうやって責任とってくれますか?(笑)
>>26 鉄冠子さん
>前スレの続きだけど、ドーキンスっていう人の『利己的な遺伝子』のことを言っていたんだね。
はい。俗っぽくてごめんなさい。
>で、発言の経緯から言って、こうした「存在の苦」にコンガラさんがいま答えるのは難しいと思うんだけど。
>「仏の言う苦に、今は言及しない」と発言している点から。
自分勝手なので気づきませんでした。
コンガラさんにお任せしたいと思います。
>これについては近日レスを返す。勉強してんだ。
楽しみにしています。
わたしみたいなバカ相手にありがとうございます。m(__)m
前スレの532をコピペしておきます。
532 名前:カオル ◆BBBRv/ousU 投稿日:04/03/12 01:20
>>525 鉄冠子さん
>人間という生物におけるDNAの生き残り戦略システムが、理性的意識の強制的稼動でいいのかな?
「利己性」を還元主義的に遡源していくと「個別的生命」に行き着きます。・・・ @
「個別的生命」を還元していくと「素粒子」に行き着きます。・・・ A
「素粒子」って「あったり」「なかったり」するそうです。
「あったり」したとき「存在」するっていうみたいです。
だったら「存在」することが「利己性」の根源なのかもしれない。みたいな話。(笑)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
@には、心と生命の断絶があります。
なぜなら、脳科学の知見をいくら積み重ねても、
なぜ「意識」が生成されるのかには答えられないからです。
Aには、生命と物質の断絶があります。
なぜなら、物質をいくら集めてみても、生命は誕生しないからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
で、この還元を「心」でストップさせたのが、
>>466です。
物質系、生命系から心系を独立させて「世界」を分けたわけです。
生命系の原理 ⇒ DNAのふるまいを心系から眺めると"自己中だよねー"
と思うので、DNAは「利己的遺伝子」などと呼ばれたりします。(笑)
ハルカ論の連環(入れ子)世界のイメージでいうと、
「??<物質の世界<生命の世界<心の世界<神さまの世界?」という感じかな。
で、それぞれの世界は「通底している」というのがハルカ論です。
>海上に出ている小島が各【世界】(【実存】)、で海面下で繋がっている岩盤が【虚存】。
悟りたいとか自律したいとか(2)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1063709757/485-486 を参照してください。
わからないよ、カオル姉ちゃん。
「虚存」って集合無意識みたいなものかな、
物質にも「意識」のようなものがあると仮定した場合の?
>愛染童子ちゃん
>「虚存」って集合無意識みたいなものかな、
うん。ハルカはそう説明してるよ。
あなたの上にあるリンクをクリックしてみて。
>物質にも「意識」のようなものがあると仮定した場合の?
「意識」については前スレ読んでみてね。
まぁなんだかわからないという位置づけだけどね。(笑)
よかったらあなたの意見も聞かせてね。(^.^)
Viewer、持っていないんだよ…。
僭越ながら
485 名前: ハルカ ◆0tZOcyVq86 [sage] 投稿日: 03/10/30 00:39
>479 Sさん
>個々の【世界】内部では自、連環【世界】では他
ここまでOK…なのに、何故に
>連関として包括できる「世界内」が成立する
こんなになるかなー!(怒)
>>473に書いたでしょうに!
単純化してもう一回書きますよ?
a.b.c.d.e.f... これが各【世界】を現しているとしますよ?
これらの【世界】は全て【実存】なんですよ。
分かります?
【存在】そのものじゃなく【実存】(秩序として顕現した形態)なんですよ。
そして、これらと全く表裏一体の関係に【虚存】(混沌として顕現した形態)があるの。
【実存】と【虚存】−この二つは切り離せないものであって【存在】の両極なの。
言い換えれば【存在】というものは必ず【実】【虚】の両形態で顕現するって事なの。
【世界】=【実存】というのは【存在】の一面でしかないの。
だから a.b.c.d.e.f... は全て『完全な独立はしていない』って事です。
これの説明には『集合的無意識のモデル』がちょうど良いかな?(世界『構造』についてだけ、ね)
海上に出ている小島が各【世界】(【実存】)、で海面下で繋がっている岩盤が【虚存】。
で、こっからが問題。
小島から海面下の岩盤を直接認識する事は『通常では』不可能。
それこそ『特殊技能』でも無い限りは(潜水艦とか音波探知とか…)無理。
(【世界】レベルで言うと『特殊技能』は霊能力とか超感覚とか)
だから『普通は』海面下の岩盤が繋がっているのか、それどころか浮き島じゃないのか?なんて思うんですね。
(同様に『普通は』この世界が唯一の世界だ、なんて思ってたりする)
でも、この『見えている小島』=【実】と『海面下の岩盤』=【虚】を共に有してこそ【存在】と言える訳。
貴方の言葉を借りれば、『包括される』のは…
【存在】という大きな枠内での【世界】という【実存】と混沌としての【虚存】。
486 名前: ハルカ ◆0tZOcyVq86 [sage] 投稿日: 03/10/30 00:56
(続き)
んでもって無数の小島(【世界】)があるわけだけど各島の間には橋は架かってないわけ。
仮に 【世界】b > 【世界】a というレベル関係だとしましょう。
このa島からb島は普通は見えないわけです。
でも、中には望遠鏡を作ったり気球に乗ってみたりでb島の存在を知る人も稀に居ます。
更にb島にアクセスしようとする人もいるでしょう(瓶に手紙を入れて投げたりとか…)
それでも、やはり大部分の人は自分の居るa島だけが【世界】の全てだと思っています。
対してb島の人は…a島の極々少数の人が苦労してやった事を当然のようにやってます。
ですから、皆が知っている。
ワザワザ向こうにアクセスせずとも『在る事は知っている』から気付かれないように行き来すればいい。
そんだけの話です。
そもそもが『自律』だの『自己』だのと言い出すから…(苦笑)
>>コンガラさん 悟り・苦スレ
>>3-4 > ところで、一応の矛盾とは、人のする価値判断です。従って、苦とは価値判断が生
>むものです。(
>>4)
> ですから、貴方が、社会的な何かの事情で自らを何らかの仕方で無理に曲げて行き
>続けていると、それが矛盾となって何らかの内容を持った苦が訪れる事は、自然な事
>なのです。だって、それは自然な状態ではないからです。(
>>4)
これは同意です。
つーか、私が過去から言ってきた事と何処が違うの?(苦笑)
『各人各様の価値観に固執しすぎる事が【苦】の原因の一つだよ』と何回言ったでしょう?
第一が『自然な状態』って何なのさ?
この文脈で行くと『各人の価値観に沿う判断が可能な状態』の事…
ごめん。今気付いた。
私の言ってる事と全然違うわ。
貴方の言う【苦】は『価値観に逆らった(自然から外れた)状態』だよね?
つまり、私は『価値観の固執が【苦】の原因』=『価値観を放下すれば、価値観に基く【苦】は消失』と言っているのに対し
貴方は『価値観に逆らうのが【苦】の原因』=『価値観に沿えば【苦】は消失』と言っているんだよ。
個人だけに限定された条件下ではそうだろうさ。
だが、対人ではどうなる?
aが『価値観に沿う行動』をし、対するbも『価値観に沿う行動』をする。
ここで対立が起きるわなぁ?
『(aの)固有価値観』 対 『(bの)固有価値観』 … こうなる事は自明だろ?
で、この対立に伴って新たな【苦】が発生する−何だ、全然解消されてないじゃない。
>>コンガラさん
更に…
>何となれば、矛盾を矛盾として認識し、自然な状態から外れてしまっているという事を認識することによって、自然な
>状態から、自然と合一するためです。それが、一応悟るということではないかと思っています。(
>>4)
これは…無茶苦茶胡散臭いと言うか、『本当に何言ってるの?』と問いたくなるんだが。
呆れるわ、正直。
いい?
『外れていることを認識する』というのは『外れていない状態を知っている』のが大前提になるの分かる?
ここで『外れている現状』から『外れていない状況』に移行したがるのは何故?
それは、貴方が【二項判断】【二元対立】−ハッキリ言えば【価値判断】に縛られているからだよ。
『外れていないのは【善】』『外れているのは【悪】』という【善/悪】のね。
>一応の矛盾とは、人のする価値判断です。従って、苦とは価値判断が生むものです。(
>>4)
と言っておきながら、自分で【苦】を生み出してるじゃないさ(苦笑)
も一つ言うなら、貴方の発言は『火事場の火消しの理屈』でしかないの分かってる?
ちょっと『火消しの理屈』で言い換えてみようか。
>矛盾を矛盾として認識し(出火を出火であると認識し)
>自然な状態から外れてしまっているという事を認識することによって(異常な状態であるという事を認識する事によって)
>自然な状態から、自然と合一するためです。(消火して正常な出火していない状態にするためです)
>それが、一応悟るということではないかと思っています。(それが、一応『火消し』ということではないかと思っています)
…私の言いたい事、分かった?(苦笑)
『価値判断が【苦】の原因』とまで分かっていながら、何故『発生する【苦】の根本』を見ない?
どうして『発生した【苦】の消滅に心を砕く』のではなく、『【苦】そのものが発生しない為にはどうしたらいいか』を問わない?
>>38-39 感謝します (・∀・)イイ!!
前スレは、ちょっとずつ読んでいます。
>>27 Sさんへ
>Nさんは体験知の概略開示、悟り‐解脱(存在への回帰)による脱却
『悟り』‐『解脱』なんて考えてませんよ。
ましてや『存在への回帰』とか『脱却』とかも考えてません。
それは、見込み違いってもんです。
苦悩が大きければ、求めるのでしょうが、
残念ながら、それほどの苦悩は持ち合わせておりません。
苦悩や怒りをあまり感じなくなった、ただの凡庸です。
敢えて言えば、すっきりしないものが残っているので、見に来てます。
>>32 カオルさん
>実在と存在のちがいは?
同じじゃないんですか。
>自分の存在感に吐き気がするのは実在苦でしょうか?
心の葛藤です。(だと思います。)
>思い通りにならない。これでしょ?
そんなところです。補足しますと、
心の葛藤です。
もちろん、一方が弱ければ、葛藤なんか起きません。
両方が同じくらいの時に葛藤します。
葛藤は矛盾した心、一貫していない心を現しています。
なぜ、矛盾するのか。
それぞれの違う立場に立つからです。
なぜ、それぞれの立場に立つのでしょう。
それぞれの立場に愛着を持っているからです。。。
なぜ、それぞれの立場に愛着を持っているのでしょう。
ん?不思議ですね。なぜでしょう。
>>41 怖い方のお姉ちゃんは「マッチ=ポンプ」といいたかったのかなあ?
「火元はおまえじゃないか!」と。
欧米人には肩凝りがなく、エスキモーには凍傷がないと聞いたことがある。
それぞれ「肩凝り」「凍傷」という言葉を持たないから。
そして、「肩凝り」「凍傷」と言葉を覚えた途端に、肩が凝り凍傷になると。
では、「苦」という言葉を持たぬ狗子にも、環た苦、有りや?
苦は物質、生命、心のどの連環において生じるものなのか?
怖い方のお姉ちゃんが、どう考えているのか、興味があるな。
>>47 愛染童子さん
『怖い方の〜』ってのは止めて(苦笑)
で、本題。
【苦】という言葉を知らぬ者にも【苦】はあります。
但し、その【苦】を認識するか否かは全くの別問題なので混同しないように注意。
細かく説明すると…
先ず、私は 【苦】=静止し続けられない(強制動作命令を受けている)状態 としてます。
んで【存在】が存在する限り、以下に示すような【苦】からは逃れられません。
【存在】としての【苦】=【有】に起因する『時空間限定』
【実存】としての【苦】=【個体化】に起因する『個別化分離』
【生命】としての【苦】=【体】に起因する『維持目的動作』
【自我】としての【苦】=【記憶】に起因する『価値観衝突』
まぁ、全ての【苦】は上記の四種から派生するんですけどね。
>先ず、私は 【苦】=静止し続けられない(強制動作命令を受けている)状態 としてます。
なぜ苦がその状態なんだ?
「強制動作命令」は誰が出してる?
>んで【存在】が存在する限り、以下に示すような【苦】からは逃れられません。
そう決めたらそのようだ。
あんたの独断で決めたこういった定義を他人に話してどうしようというんだね。
馬鹿かね。
>>48 >【存在】としての【苦】=【有】に起因する『時空間限定』
>【実存】としての【苦】=【個体化】に起因する『個別化分離』
>【生命】としての【苦】=【体】に起因する『維持目的動作』
>【自我】としての【苦】=【記憶】に起因する『価値観衝突』
なるほど。。。
このように整理していたのですね。
過去の投稿はあまり知らないので。
>【自我】としての【苦】=【記憶】に起因する『価値観衝突』
これはその通りですね。
分断された心の葛藤と言うヤツです。
>【生命】としての【苦】=【体】に起因する『維持目的動作』
これは、いわゆる、痛みですね。
痛みから、「私の体」という自我を通して苦になりますね。
でも、自我が無いとき、苦に変わりましたっけ?
>【存在】としての【苦】=【有】に起因する『時空間限定』
>【実存】としての【苦】=【個体化】に起因する『個別化分離』
これも、自我を通した苦ですね。
自我が無いとき、これも苦に変わりましたっけ?
どうでしょう。
>>50 Nさん
>自我が無いとき、苦に変わりましたっけ?
…注意報出しといたのに『見事に!』混同してますね(苦笑)
私は何と書いたでしょうか?
>【苦】=静止し続けられない(強制動作命令を受けている)状態(
>>48)
としてますよね?
私の言ってる【苦】は『ある状態』を指示しているんですよ。
に対して、Nさんの指摘した『苦』は『苦という認識=精神活動の結果物』を指示しています。
この『精神活動の結果物』は、所詮『価値基準に左右される一過性の産物』ですから、結局は私が
>>48で言った
>【自我】としての【苦】
でしか無いのですよ。
僕は、
>>48を読んで、Nさんとは別の方向に暴走してしまった。
苦は価値判断によって生じる。
→なるほど、素粒子が「あったり」「なかったり」するのも価値判断だ!
→とすれば「素粒子にも意識がある」という表現とも齟齬はないな。
>>51 …価値判断によって生じた苦は「自我としての苦」なんだね。
きっと、これらは散々いままで話していたことなんだろう。
わざわざ書いてくれて。ハルカお姉さんは優しい人だ!
>>21 カオルさん。
あなたは、みずみずしい感性を、お持ちですね!わたしはそれを、とても嬉しく思います!
そして、あなたのご質問に感服しました。わたしも、そのことをご説明したくてしかたなかっ
たのです。ただ、そのことを説明するに至るまでに、本当にたくさんの事柄をお話したくて、
うずうずだったのですが、先刻ご承知のように、わたしはそれに全く慣れていませんので、嬉
しい悲鳴をあげています。それでも、わたしは無謀(?)とも見えるレスをしてみたいと思い
ます。その時節が来たからです。正直ドキドキです。
そして、一つご注意頂きたいのが、わたしが今申し上げているのは、「一応」の矛盾につい
てであると言う事です。前にも申し上げましたが、まだ、お話は、ほんの極ワズカナ「入り口」
にさしかかったばかりに過ぎないのです。
>>21 カオルさん。続きです。
矛盾がなぜあるのか。完全な世界があるとすればなぜあるのか。
ということですが、端的に申し上げて、全ては、生まれつつあるからです。
ここで、このことばだけで、それとお分かりになられる方がおられましたら、わたしの以下
の説明など、お読みにならないで下さい。そして、特にわたしは、あなたとの交流をお願いで
きたら、とても有難いと思っております。
では、続きです。生まれつつあるというのは、わたしの中では、非常に多義的です。ですが、
それを、説明のためにあえてこの場でのみ対応するように、使ってみます。
全ては流動的です。矛盾も他と同様、流動しています。それは、観想している人も流動的で
あるからです。なぜなら、自由とは、意が現前することだからです。意とは、イキシチニヒミ
イリヰのはじめのイ、ある意識の発現のイ、意志、意思のイと仮にしておきます。そして、矛
盾が、なんらかの原動力になるのは、矛盾が自由の範囲内に生まれるからです。これは、人に
とって、全ては意が現前しているということが、与えられてあるものに他ならないからです。
そして、これらすべてが、さらに流動していきます。そして、さらにこれらを含む全てを見る
ことができたとき、すべては脈打っているのみであるのではないか、ということです。そして、
それは、過去、現在、未来についてもそうだということです。だって、全てと申し上げたのは、
全てのことだからです。
>>21 カオルさん。続きです。
矛盾はどのように脈打ちのなかにありうるのでしょうか?
完全な世界はどのようにして、あるのでしょうか?
これは、あなたやわたしが、平面的世界にいることを選択している限り、これこそ矛盾に見
えたり、不可能/可能や、平面的なリクツやそろばんの堂々巡り、自己の自家撞着が自己の現
前に見たりしてしまうことになってしまうのでは、ないでしょうか?少なくとも、人は平面的
世界に、ない答えを求めて、いつまでも迷っているのではなく、平面の世界から立体の世界に
入らなければ、自己のうちに生じた矛盾をも解決することは、できません。矛盾が、矛盾でな
くなる世界。矛盾が、矛盾でなくなったものが、更に矛盾に成り行く世界。があるが故に、完
全な世界は、存在し、その完全な世界は、それを超えた完全な世界があり得るのであり、さら
に、超完成の世界が、超々完成の世界へと永遠に弥栄つぎに弥栄発展していくということです。
これが、現在も、過去も、未来も、全ては生まれつつあるという意味です。
全ては移り行くと言う時、意識するしないにかかわらず、人はこのことを言っていることにな
ります。
>>21 カオルさん。続きです。
分かるように申し上げますなら、
例えば、世界を円に描きます。○の円周上の一点に、なにかの矛盾があります。流動は円周
上の運動です。そして、それはあなたや、わたしです。わたしたち矛盾は円を描きながら流動
しいつまでも堂々巡りの同じ世界を空しく空回りをして世界を苦だと実感して、脱却を試みて
もいつも適わず、これこそ不条理だと自らの発見を嘆き、この様な世界を造った創造主を呪い
罵ると同時に、救いを求めて止みません。これが、平面的な世界です。二次元的な円の中で、
自己完結的な答えを求めようとすることから生じています。リクツとそろばんの無矛盾性に振
り回され、そこからこぼれた事柄を不条理と括ってしまう誰人によらぬ自己の姿に、気付いて
いる事を認められない、苦しい世界です。これが、地獄的世界は、本来無く、吾人の地獄的想
念が、ない地獄をつくってしまっていることの証左なのです。なぜなら、この円こそが、あな
たやわたしの意が、現前した姿に他ならないからであり、アリ地獄の様に、自ら作った墓穴に
自らが嵌り、にっちもさっちもならんようにしておいて、その不条理の原因を他に求めている
自己の姿に気付く事さえできない世界を自ら望んで作っているということであるということで
す。わたしが、カオルさんに申し上げたいことは、これが、人に与えられた自由であるという
ことです。
続きは後ほど。 おやすみなさい。
>>51 ハルカさん
どのような「苦」もすべて「自我」を通してみることから派生していることに気づかなかったでしょうか。
私がこのスレに来た時に同じ議論をしました。
議論しても、無意味に思えたので、打ち切りましたが、少し、続けてみましょうか。
>206 :ハルカ ◆0tZOcyVq86 :03/11/11 03:12
>私が用語として使用している【苦】は
>>動作強制により完全静止不可』な状態を指している。この『動作』ってのは物理的、心理的問わずね。(
>>136)
>って書いてるでしょーが。
>
>じゃ、逆に『極論』で問うよ?
>『苦』が『我執』による『幻』だというならば、『我執』を消せば『生老病死』の『四苦』が『現象面』で消え去りますか??
>即ち『不老不死』になりますか??
『生老病死』を『苦』と捉えるのは、『自我』を通した心の葛藤です。
例えば「死」は「苦」ですか。「喜」かもしれないじゃないですか。
「自我の死」はどうでした?「苦」でしたか?
といったところで、また、「現象面では残っている」となりそうですね。
>>【苦】=静止し続けられない(強制動作命令を受けている)状態(
>>48)
うーん。どうしてこれが「苦」なんでしょう。「苦」とも「喜」とも取れますよね。
>>51 >自我が無いとき、苦に変わりましたっけ?
もっともな疑問だろ。
>私の言ってる【苦】は『ある状態』を指示しているんですよ。
んなこたー誰でも読めばわかる。
そういう状態が苦といってんのはあんただけじゃん。
あんたじゃない、その状態になってる奴の自我がなかったら自分が苦の状態かどうかわからんから
どういう意味があんのかな?ときいてんじゃないの。
あんたがみんなにおまえの状態は苦だー!て教えてまわるのかね。
あんたの意見はあんたのもん。どうしたいのかね。みんなに同じように思ってもらいたいわけ?
人が楽しそうにしててもそれは苦だーといいたいんだろうな。
カオルさん、たいへんたいへん。別スレの仕事が二つ入った。
「このスレで何しようとしていたか」が、引き止めがたい力で後退したんだ。ひと月くらい遅れると思う。
>>33が、「やれるもんならやってみやがれ」みたいに挑発的だったら、こっちが先だったんだろうけれど(なんてね)。
でも、このスレも、昨日の近所の公園くらい賑やかになると見た。
>>47 愛染童子さん
中島敦『文字禍』みたいな面白い話しだ。メモメモ…。
>コンガラさん
すげぇ。『中論』第二章の「運動の否定」の翻り的な応用かな、と直観が走った。
生じたものは、もう生じない。未だ生じないものは、もちろん生じやしない。生じつつあるものは、生じ切らない。
だから一切は脈打っている。みたいな。
でも、自家撞着としての矛盾は、過去スレでも何べんも繰り返されていたような…。
なんにしても、続きにも期待だな。
>Nさん、58さん
何か思ったんですけど。同じ「苦」という言葉で綴られていても、ハルカさんのは何か違う気がします。
ちょっと意味を空洞化して考えてみたんですけど、ハルカさんのは「凶」とか「禍」という感じじゃないでしょうか。
これだったら、自己本位的な「苦」から若干離れ、どこかに他の介在が加わるでしょう?
どういうことかの一例を挙げると、
人間、鏡の前に立つと自分の姿を認めますよね。「自分が増えた」と思うのを避けられない。
んで、ためしに実家の犬っころに等身大の鏡を見せてみたんですけど、自分を見ているというような反応がないんです。
一分くらい待っていたんですけど、ない。終いには腰を降ろして、欠伸をはじめる始末でした。
あと、赤ん坊が最初に鏡を見たとき、最初に「これは何者か」と疑問があってから、自己認識に至ったと考えられます。
それが、人間、いったん鏡に自分を認識したら最後、二度と「自分が増えた」からは逃れられない。
鏡に自分が映るのは、まぁ悪い気はしないでしょう。苦しくない。苦しいとしたら、不細工すぎるとかの別の理由でしょう。
でも、光の法則だとか踏まえて、鏡による自己認識の生はあっても滅はないっていうのは、
ちょっと不吉なものを感じないでしょうか…。おおよそこの世のものには生滅があるというのに…。
>>57(Nさん)
>>58 うーむ…
ですから、私の指している【苦】は貴方達の言ってる『苦』と違うの。
『精神活動の結果物である認識としての苦』ではないの。
認識するそれ以前を指して【苦】と名付けているの。
いい?
我々【存在】は、一瞬足りとも停止する事が許されない状態にあるという『限定条件でのみ』始めて顕現可能になっているんだよ。
それこそ極微の世界で言うなら『原子』だって『素粒子』だってそう。
それは即ち『停止を望むモノがいたとしても決して叶えられない』という事を意味しているの。
そんな『動き続けねばならない』という【枷】をつけられた上でしか顕現を許されていない訳。
その【苦】=【枷】が先にあるの。
その後にそれを『喜』と認識しようが『苦』と認識しようが関係ないの。
洒落や間違いで【】と『』を使い分けてる訳じゃないんだよ?(苦笑)
>>61 ふむ。そうですか。とても不思議です。
かつてこんなレスがありました。
>83 :N ◆XEvUT1ciAM :03/12/19 02:05
>誰でもエゴイストだ。
>誰でも内面を観察すれば、ものすごいエゴイストだということに気づくだろう。
>誰もが振り返らないから気づかないだけ。
>だから、少しでもエゴに気が付いたなら、落ち込む事は無い。
>もっと良く見ればいい。
>それは自分を見失ったのではなく、一方のエゴに流されたという表現が適切だろう。
>84 :ハルカ ◆0tZOcyVq86 :03/12/19 03:40
>
>>83 >>Nさん
>心底同意。
>人間…つーか【生命】は全てエゴイストでしかない。
>ただ、そのエゴの表面化する部分の大小の差だけだってば。
>まぁ…表面化するエゴの基盤になっている各個体固有の価値観。
>及び、その価値観に沿ったエゴの表面化度合。
>結局この二つが『個性』とされるモノの正体なんだけどね(苦笑)
このレスで、あのエゴを知ってるのかと、思ったのですが・・・・
寂しがりやで、自分だけが偉くて、いやしい、あれです。
それでも、別に『苦』があると・・・そうですか。
ま、私の知らない世界ってことで・・・
>>62(Nさん)
…いや、だからね。
>寂しがりやで、自分だけが偉くて、いやしい、あれです。
って、これ…(-.-;)
こいつ、私の言ってる
>【自我】による【苦】(
>>48)
と何が違うの?
私は同じだと思うのだけど、違うと言うなら教えて下さい。
卑屈になってるとかじゃなく、素で分からないので説明求む。
固体化が【苦】だから、【虚無】に還ろうというのですか?
でも、それって確か、人知を超えた【恐怖】ではなかったですか。
【苦】から【恐怖】へ行こうとして、また【苦】へ戻って。
堂々めぐりじゃありませんか。
>>63 いやどうも、すんません。
>>51の>【自我】としての【苦】でしか無いのですよ。
「でしか」にちょっと引っかかってしまいまして、なんで「でしか」になるのか
ちょっと絡んでみました。
>>63 >>寂しがりやで、自分だけが偉くて、いやしい、あれです。
>って、これ…(-.-;)
>こいつ、私の言ってる
>>【自我】による【苦】(
>>48)
>と何が違うの?
もちろん、同じです。
知ってるのに、なんで「でしか」なのかなと。。。
疑問に思いまして。まあ素で解らんのです。
>ハルカへ
>ですから、私の指している【苦】は貴方達の言ってる『苦』と違うの。
もっとはやく言って欲しかったです。
わたしは今春爛漫でハルカから遠いところにいますけど
解脱志向と悟り志向のちがいくらいはまだ認識できています。
>>64(Nさん)
そうです。
前から言ってますよ。
『極限の恐怖』『最低の行為』『凶悪なルール違反』etc…
だから【存在】が【実存】が【生命】が好きな人はそのままでいいんですよ。
(まぁ、悟ろうとかする人は、その時点で【自我】が嫌いな人だろうけどね)
私が死後に【存在】(【絶対の有】)から【虚無】(【絶対の無】)に消滅(【解脱】)したいと願うのは【存在】が嫌になったという『単純なる個人的エゴ』なんですよ(苦笑)
その『極限の恐怖』を乗り越えたいとまで思う『強烈な意志=願い』を持った、というだけなんです。
>>45 Nさん
>同じじゃないんですか。
>心の葛藤です。(だと思います。)
ハルカ参加以前のSさんとわたしの一番最初の定義が「存在=苦」でした。
もちろん、これは「わたし」の苦ではないです。
そもそもSさんとハルカは最初から「存在=苦」からの脱却を志向しています。
わたしは「わたし」の苦がなくなればそれでいいという程度です。
ただ「自分の存在感に吐き気がする」というのは単なる心の葛藤ではないように感じます。
前スレでも少し言いましたが「自分の存在感に吐き気がする」というのは、
「存在」と「わたし」の分離現象にともなう感覚なんだと思います。
言いかえるなら「自明性の世界」からの「わたし」の独立です。
わたしは「わたし」のこの独立にプライドを持ちたいので
「存在に回帰する」=「悟り」を嫌悪してきました。
今わたしは春爛漫で浮かれていて生きたいと思っていて
哲板に来てはじめて「生きてるって素晴らしい!」とかカキコしちゃってて・・・
だから、ハルカやSさんを裏切っているような気持ちなんですけど・・・
今はハルカよりNさんに近いところにいるような気がしますけどね。(笑)
>コンガラ童子さん
少し考えてからレスさせてください。
>鉄冠子さん
>カオルさん、たいへんたいへん。別スレの仕事が二つ入った。
楽しそうでなによりです。
べつに興味がなくなったらレスの必要ないですから無理しないでくださいね。
また興味が出てきたら来てください。(^.^)
>今わたしは春爛漫で浮かれていて生きたいと思っていて
>哲板に来てはじめて「生きてるって素晴らしい!」とかカキコしちゃってて・・・
>だから、ハルカやSさんを裏切っているような気持ちなんですけど・・・
こころの赴くままに、、、呪縛は解けたのですから。。。
>ハルカさん
俺の
>>60は無視なんですか!?
これはフォローにも見えますけど、同時に「こんな具合かな?」という自分なりの試行錯誤の紹介でもあるんですけど。
俺はこのスレに現れてまだ数ヶ月。共通の認識なのかどうか手探りしかないでしょうよ。
スルーなんぞで、ビビらせないでくださいよ。
怖い方のお姉ちゃん…。
>>69 >今わたしは春爛漫で浮かれていて生きたいと思っていて
そりゃ、よかった。
>今はハルカよりNさんに近いところにいるような気がしますけどね。
私の場合は、単なるテクニックです。悟りとは関係有りません。(たぶん)
10のものが1にしか感じなくなっても、やっぱり、1はあるし、何の解決にもなっていないのです。
(と思えてきた・・・)
>ハルカ参加以前のSさんとわたしの一番最初の定義が「存在=苦」でした。
そりゃ、悟りを考えたらそうなります。
そのルートしかないようにも思われます。
>「存在に回帰する」=「悟り」
そうなんでしょうか。
たぶん「自我の死」=「悟り」です。
なーんだ、自我が死ぬだけか。なーんて考えたら大間違いです。
「自我の死」とは死を決意して永久にお別れを言うということです。
ほんとに死んじゃだめですよ。必要なのは、決意だけです。
>>72(鉄冠子さん)
いや、無視とかスルーって言うより…
ただ、どう突っ込もうかと迷った(苦笑)
>「凶」とか「禍」という感じじゃないでしょうか。(
>>60)
>>61でも言いましたけど『各個人の主観に左右される一過性のモノではない』という点では貴方の言う通りですね。
人間前提ではない『それそのもの』が先に在るんですよ。
>>70 カオルさん。
よかった!適当なところで、止めてくださいね。細かいところをすっ飛ばしてて、
フル回転しそうだったんです!わたしは、あなたの感性が大好きです!はあぁ〜よかったあ。
また、わたしがお答え、言及できていない点がありましたら、再度お尋ね頂けますか?そうし
ていただけると、とっても有り難いのです。
>>70 カオルさん。
>>56 の続き。
例えて申し上げますなら、こうした、世界を円○に描いた、平面的世界こそが、人へ与えら
れた自由であるという事を名実ともに、悟ることができたところから、立体的世界への、道す
がらを辿るさらに深い内奥への道を、悟ることとなるでありましょう。これも、分かるように
例えて申し上げますなら、平面的な世界、円、○であったあなたとわたし=「一応の」矛盾で
ありましたが、上記の通り立体的世界への道すがら目の当たりにさせられる光景は、平面的世
界内ではそれが、円○であった、それこそが無矛盾であるすなわち現実のまごう方無き体験で
あった「存在」あることそのものであった○の世界の現実のことごとくが、全くの逆立ちした
ワレの世界であり、180度といわず、360度といわず想像だにしなかった、位相を異にす
る変幻自在、自由闊達の世界であった、別にそれが何かであるのでなく、平面的世界それ自身
が、そのまま本当は全く別次元のものであったという体験を実体験を嫌というほど見せられな
がら、歓喜のうちにさとらさせて頂くということです。あり得ない事があり得る、矛盾が矛盾
で無くなる、無矛盾が矛盾と鳴り成り、生成派生していくことをさとる今のきわであることを
実体験する歓喜であるということです。
>>70 カオルさん。
>>56 の続き。
>>56 の続き。
例えば、その平面の円、○は、実は螺旋の形をした立体構造をもつ、DNAそのものであり、
わたしやあなたが、ずっと○の円周上をグルグル回るだけの閉塞状況で永遠の苦だと思ってい
た自らの運動=存在は、螺旋を昇り行くなにかであったことを知ることとなるわけです。ここ
において、来し方を見ますならば、そもそも、意が現前するという事を悟ることなしにことこ
こに至ることはなかった事を、歓喜のうちに悟ることとなります。申し上げるまでもないとは
思いますが、ことここに及んでは、平面的世界において、いかなるのっぴきならない矛盾も、
自ずから解かれ結ばれ根本から変容、元に還り、平面的な世界においてのいかなる苦も、その
本性を元に還し、歓喜それ自体となるということがあります。これは、わたしの体験からも申
し上げております。これが、少なくともその時には、口と心と行いが、少なくとも一つになっ
ていなければ、一つでもウソがあっては成らなかった体験であることも申し添えておきたいと
思います。
>>78 コンガラさん
>平面的世界において、いかなるのっぴきならない矛盾も、
>自ずから解かれ結ばれ根本から変容、元に還り、平面的な世界においてのいかなる苦も、その
>本性を元に還し、歓喜それ自体となるということがあります。これは、わたしの体験からも申
>し上げております。
今でもそうなんですか?それとも一過性のことですか。
>>79 Nさん。
はい。どうにでもなります。どなたにもできます。わたしは、瞑想で上記を
経験したわけではありません。普段の日常の仕事とか、その他なんでもない生
活をしている時にふと瞬間的に何事かをさとることがあるわけです。常に、歓
喜に満たされる様に、なっていきます。そして、なにごとかをさとる速度と量
と質が難易度の高いもの(?今までにできなかったことができるよう)に成っ
ていくように思われます。望むなら、わたしにできるということは、あなたに
できるということだと、思っています。
では、おやすみなさい。
>>コンガラさん
あのさぁ。
>>40-41の指摘はスルーかい?
まぁ…そのつもりならそれでいいけど。
それとも指摘内容が遠回しすぎて理解出来なかった?(苦笑)
じゃ、ハッキリ言うわ。
貴方がカオルさんに向かって言っているのは(現時点では)【悟り】でも何でもない、ただの『生存の為のテクニック』であって『如何に楽に生きられるか』の小技集でしかないよ。
何処ぞの教典に書かれていたような事(私はそういう意味では教典を否定します)だものね…
そもそも
>>80で
>そして、なにごとかをさとる速度と量と質が難易度の高いもの(?今までにできなかったことができるよう)に成っていくように思われます。
って言ってる自体が『上手な生存の為』なんだよね(苦笑)
指摘するのもバカらしいけど【悟り】って『より良い生存の為に有る訳じゃない』よ?
段階を踏んで『より悟る訳じゃない』よ?
何かが『以前より良くなった』『以前より出来るようになった』…こんなのは『生存の為の小手先の技』だよ?
貴方『【悟り】ってこういう事だろう』みたいな見込みだけで語ってない?
>>41で指摘した通り
>何となれば、矛盾を矛盾として認識し、自然な状態から外れてしまっているという事を認識することによって、自然な
>状態から、自然と合一するためです。それが、一応悟るということではないかと思っています。
↑の発言見ても『見込み語り』だよね?
誰だって他人の事には無責任なもの。そのくせわかったようなご説をあげつらう。
だからね、ボクはそんな形ばかりの言葉なんざ、今更どうでもいいのです。
他人がどうだとか、定石はこうだとか、尤もらしい理由なんぞも関係ない。
いま「わたし」は何を志向しているのか、本心はどうなんだってこと。
たとえばボクは自己自律/存在者−倫理という行為そのものにボクの全存在を懸けています。
たとえばハルカさんは悟り−解脱という実践そのものにハルカさんの全存在を懸けています。
そしてカオルさんはようやく決心しました。脱却なんてしたくない。生きたい、生きていたい、と。
ここまで真剣に言葉を交わしてきて、反転したから裏切ったとか、そんな捉え方は的外れです。
ボクがボクの志向によって「生きる」ように、ハルカさんもカオルさんも各人の志向によって「生きる」。
そこにいい訳が入りこむ余地も後悔が入りこむ余地もない。予測なんてつかない。
「生きる」ってそういうことだと思う。。。 「わたし」は今「わたし」を駆け抜ける。
>>81 ハルカさん。ものには順があります。これを、わが国では数魂と申します。
また、順とは神です。あなたの場合は、順をお守りになれば、自ずと解ることです。
今のあなたの境遇も、全てあなたの望んでなられたことなのですよ。他人のせいや、
自分のせいにしてばかりでは、ますますワケの分からない事に成って参りますよ。
苦はますます、増すばかり。いくら待っても、悟りも解脱も歓喜も無も、あなたの
望み全てがのうになっていくのですよ。わたしからの、お答えは、カオルさん!へ
のレスをお読み頂ければ全てよいと思います。
>>81もね。あまり、おおき取り違い
を致すと、大変なことになるから、あらかじめ気付けておくぞ。嚇しではありませ
んよ。本当のことですよ。
>>83(コンガラさん)
いや、ね。
だからさ…
そんな『何処ぞの抹香臭いクソ坊主』みたいな言い方して何がしたいの?
その目は、耳は、頭は飾りですかい?(苦笑)
人間的な認識の『苦』は問題にアラズって何度言ったよ?
境遇?何言ってんの?
日常生活の『苦』なんざ誰も問題にしてないってぇの。
そんなもんが問題だと言うのなら、宗教板か人生相談板に行っといで!
いいか?
第一『順序』というものが『逆』なんだよ。
先ず【死】が先だ。
【生】はその後だ。
貴方の発言は全て【死】の後の問題だ。
如何にして【死】ぬか‐これが先に問題にすべき事だ。
そこら辺に転がっているだけの『半可坊主』と同じような迷い事言ってるんじゃない!
>>83(コンガラさん)
更に言おう。
確かに、地球上の人間という【実存生命】として生まれてくる事を望んで選択したさ。
だが、それは【存在】という形式に縛られた上でだ。
【存在】を止めたくても、その選択肢は許されていないんだよ。
だから、何処に何として生まれるかを選んできただけなんだ…分かる?
この【存在】であるというのは望んだ訳じゃない。
気付いたら【存在】であったというだけだ。
それなのに【存在】の舞台から下りる事は許されない。
例え自殺したとしても、再び何処かの宇宙の何処かの【生命】として生まれるだけだ。
この舞台に『何時の間にか』上がっていたが、さて下りようとしても無理なんだよ。
【存在】になったのは『望み』では無いんだよ。
>>コンガラさん
もう一つ指摘しておくわ。
これで分からなきゃ勝手にしなさい。
>何となれば、矛盾を矛盾として認識し、自然な状態から外れてしまっているという事を認識することによって、自然な
>状態から、自然と合一するためです。それが、一応悟るということではないかと思っています。(悟り苦3スレ>>4)
貴方言うところでは『自然な状態から外れた状態』と『自然な状態』とに二分される訳だ。
確かにそれは事実だよ?
だけどね…
何で『自然な状態』=『中心』から外れた事を大前提にして語る?
外れたのを当然として戻そうとする?
何故『中心そのもの』になろうとしない?
何故『1→2→1』ではなく『1そのもの』を言わない?
順序の問題じゃない。
『1→2→1』と『1そのもの』は全く違う上に繋がるものじゃないんだよ。
全く違うものを語って、何が『物には順があります』だ?
『1→2→1』を幾ら語っても『1そのもの』にはたどり着かないのを分かってないのか?
『1→2→1』を語りたいだけなら、別の場所で新スレでも立てて語りなさいな。
>>80コンガラさん
私がレスを返す前に大量のレスがありますが、まあ、気にしないでいきましょう。
>ふと瞬間的に何事かをさとることがあるわけです。
「何事か」って具体的に何でしょう。
「さとる」が「悟る」なら、明確になったはずですよね。
>常に、歓喜に満たされる様に、なっていきます。
毎日、つらそうですね。
>そして、なにごとかをさとる速度と量と質が難易度の高いもの(?今までにできなかったことができるよう)に成っていくように思われます。
ここでいう「さとる」って何でしょう。
速度と量と質と難易度をもったもの。「さとる」って具体的になんですか。
>望むなら、わたしにできるということは、あなたにできるということだと、思っています。
「望めばできる」って具体的に何がですか。
>>皆様へ
スレ統合後、ここまで展開してきて思ったことがあります。それは
>>27-28の私見に、もっとも
重要な観点が抜け落ちていたことです。それはSHスレの最初から、或いは2つのスレに跨って
来ても、今においても、この一連のスレはハルカ論の真剣な問いに応える形で進行していること。
カオルさんの関わりも、そこから派生する関わりも、もちろんハルカ論に対峙する形で展開してきた
自己自律も、すべてはハルカさんとその論抜きには語れない。その観点において、統合しようが
スレ趣旨は微動だにしてはいない、ということです。一般的な悟り議論なら、今も昔も続いている
悟りスレで行えばよいだけなのですから。子葉を気にするあまり、大切なことを忘れていました。カ
オルさんが従来から主張してきたことも、尤もなのです。
今の展開から何かが変わるわけではないです。ただ、このスレがハルカさんと共に展開する以上、
ボクの責任も終わらないし、投げ出すわけにもいかない、ということ。一貫してスレを守ってきた責任
上、じゆんさんが放棄した今となっては尚更、可能な限りハルカさんに随伴してゆきます。また、スレ
主として不肖ながら務めてきた責任も、可能な限り全ういたします。そのことを決意いたしました。
ハルカさんには大変失礼なことをして来てしまいました。カオルさん、そして皆様に対してもお騒がせ
してしまいました。どうかこれから先、宜しくお願いいたします。何かあればご意見ください。
それと、これまでもそうでしたが、これからも、この特化したスレへの参加並びに実践行為はすべて
各個の(社会的な意味での)自己責任にてお願いいたします。(念のため、これだけは是非。。。m(__)m)
(自己自律/存在者−倫理)
>>9にてマザーテレサを引き合いに出しましたが、もちろん彼女の実践の重みを独善的に取りこむ意図
はありません。また、彼女は神への信仰に基礎付けられた無償の愛を実践しましたが、それはボクの
思う存在者−倫理とは異なります。ただ、その無償なる他者への奉仕という実践そのものに、ボクは
価値を見ます。また、たとえ彼女のような分け隔てない愛の「眼差し」をもつ者であっても、有限なる関わり
の中は「行為」は限定されます。その意味で、もしたった一人の大切な「あなた」に応答するのだとしても、
数多くの大切な「あなた」に応答するのだとしても、「眼差し」と「行為」が成立しているならそれは等しい
と思ったのです。ご存知のように、彼女は貧しく虐げられた「あなた」に「応答」し続けました。それが有限
なる彼女の選択した関わりです。
「貧しい人々と同じように暮らすことなしに、どれだけあなたは貧しさについて知ることができるでしょう?」
実践においてそう語った彼女の言葉は重いです。倫理は言葉遊びでも富裕な者の施しでもいい訳(免罪符)
でもない。そう思います。もちろんボクもここで語って悦に入ることが倫理ではないことは自覚しております。
ボクが今もここに留まっているのは、ハルカさんとカオルさんの真剣な問いに「応答」したからです。
>>89 × 有限なる関わりの中は
○ 有限なる関わりの中では
>>ハルカさん
他者への「応答」の極限としての、「無私化」による「脱却」はありえないとの、
ハルカさんのご指摘はボクなりに理解しております。「我−私」の構図が変わらない
なら、たとえどこまで「他者」へ傾注しても反って圧縮された反動に至るだけだ
というのは尤もだと思います。また、中庸を心掛けてもそれは同じであると。
あくまで「点」による静止以外に「脱却」はないということも。
また、「愛の実践」なるものが所詮は偏愛でしかなく、本当の「愛」は静止した存在
そのものから溢れ出るということも。
それでもボクは「わたし」に踏み止まり、存在者として足掻いています。つまり、「苦」
を引き受けながら、「苦」に対応しようとし、「苦」を生み出しているわけで、悟りの側
からすれば、全く愚かとしか見えないでしょう。それでも、、、と今は踏み止まっています。
>>91(Sさん)
えっと、正直に言いまして…
貴方に対して言う事は何もありません。
ただ一つ『ご健勝に』とだけ(微笑)
『苦』を引き受け『苦』を解消する為に動き、新たな『苦』を発信する…個体である限り、このサイクルから脱する事は出来ません。
根本に【苦】=【枷】がありますから(苦笑)
ただ、この不毛とも言えるであろう無限循環を『自覚して覚悟の上で引き受ける』のなら…
その生き方は『素晴らしい』ものとなるでしょうね。
人間として、【生命】として掛け替えのない美しいものではないでしょうか?(微笑)
>>85 ハルカさん
議論が活発になってきたところで、ふと、疑問が有るのですが。
>確かに、地球上の人間という【実存生命】として生まれてくる事を望んで選択したさ。
これって、ホントですか。
どう頑張っても、赤ん坊の時の断片しか憶えてませんが。。。
これって、生まれる前を憶えてるととれますが・・・んー、気のせいでしょうか。
それとも、言葉のあやってやつですか。
>例え自殺したとしても、再び何処かの宇宙の何処かの【生命】として生まれるだけだ。
これも、ホントですか?どうしてわかるのです?
この2点が引っかかります。
先日から連続してレスしていますが、ハルカさんの投稿は具体的でわかりやすいので、レスをしやすい。
どうも、抽象的なのは、さっぱりわからないので、レスを返しようがない。
だからキレないで、気が向いたら、返答ください。
>>91 Sさん
「偏愛」ってなんでしょうね。
・私を認めてくれる人を必要に思うこと。
・私の思いとよく似ていて、結果、私の思いに賛同して気持ちよくしてくれる人を必要に思うこと。
・私を必要としてくれる人を必要だと思うこと。
・私の欲や自尊心を満足させる人を必要だと思うこと。
・私の寂しさをを満足させる人を必要だと思うこと。
・私の分身とか、私の考えに近いとか、私の物であるとか、それを必要だと思うこと。
こんなところでしょうか。
>>93(Nさん)
んー…
本当だと言っても証明不可能だしねぇ(苦笑)
まぁ、いいけど。
ちょっと回答が前後しますけど…
>自殺したとしても〜生まれるだけだ(
>>85)
↑は本当。
証明不可能だけど『消え去れない実感』があるからこそ【死】は全然怖くない。
姿形を一時的に変容させるだけって『実感してる』から。
(尤も【死】の際の『痛み』は嫌だから自刺とかはしたくない)
この『実感』から導き出されたのが
>確かに、地球〜選択したさ(
>>85)
の発言。
飛躍してると思われるだろうけど『この宇宙で【生命】があるのは地球だけ』と考える方が不自然じゃない?
実際に霊界やら何やらという『異世界』『異次元』は在るわけだしね。
だったら『数多ある世界から地球を選択した』と考える方が自然でしょ?(苦笑)
「私のもの」
私のものとはなんでしょうか。
「これは私のものだ。」
これが意味するのは、この「もの」は、私の管理下にあると思っている現象のことでしょう。
しかし、実際はどうかというと、そのいわゆる「もの」をどうにかできるわけでもない。
食べ物だとしたら、放っておくと、カラスが持っていくだろうし、犬が食べるかもしれない。
良く考えてみると、このわたしの「もの」というのは、人間社会での取り決めでしかない。
人間社会で、ルールを理解してそれを守る人にしか通用しない。
その他の動物や、自然がそのルールを守ってくれるはずもない。
だから、自分のものというのは、実際には存在しない。という結論になります。
>>95 ハルカさん
>証明不可能だけど『消え去れない実感』があるからこそ【死】は全然怖くない。
>姿形を一時的に変容させるだけって『実感してる』から。
これは、わかります。
どこを見ても、空気中も、机もテレビも、何でも、実態は「それ」でした。
今まで、失ったことも、生まれたことも、増えたことも、減ったこともない。
どこにでも「それ」がありました。それがあったというより、実態は「それ」でした。
「それ」は形もなく、不変だとの実感があり、私もこの「それ」に違いないとの確信はあります。
しかし、これ以上は、わかりません。
ま、つまり、
私のもの⇒実際には存在しない。
すべては、「それ」であった⇒私という個は、実際には個ではない。
「それ」は生まれたり、死んだり、増えたり減ったりしない。⇒実際に生まれるとか、死ぬとか、生れ変わるとかあるのだろうか
という方向が導かれます。
だったら、今いる私は何なんだ?
バカなことを・・・(失笑)
と考えるわけですが・・・
そこなんです。自我のすごさは。。。
実際にはいるはずのない。私がいると思う。
存在はありますよもちろん。
でも私という個がいない。
自我のないとき、生まれるもの、死ぬものが、ありましたっけ。。。
うーむ。
書いているうちに、もやもやの結論が出てしまいました。
ということで、100番突入です。
>>97(Nさん)
そこまで『実感してる』なら。
【死】は決して終わりではなく『道の途中』という事が分かっているなら。
あとは少し手を伸ばせばいいんだよ。
貴方の言う『それ』がこの地球にしかないと思う方が傲慢じゃありません?(苦笑)
>>98-99(Nさん)
そう。
本来ならば【個】は無い。
在るハズが無い。
しかし実際に【個】は在る(と思い込んでいる)。
何故だろう?
それは【自我】の仕業だ。
【個体化原理】の仕業だ。
【我】の仕業だ。
>>74 Nさん
>>「存在に回帰する」=「悟り」
>そうなんでしょうか。
>たぶん「自我の死」=「悟り」です。
うん。
昔からそう言ってるよ。
だからわたしは「わたし」に拘りたいってずっと言ってきたの。
わたしは「わたし」をもっともっと凝縮して確かなものにしたいの。
それがわたしの目標です。だからわたしにとって悟りは敗北なの。
>>87 Nさん。
>私がレスを返す前に大量のレスがありますが、まあ、気にしないでいきましょう。
ごめんなさい。思わず、笑ってしまいました。そうですね。彼は、なぜこんなにも
混乱してしまっているのでしょうか。どのようにレスしてあげるとよいのか、考えて
います。彼は、とてもけな気な方だと思います。ログしている方の中には、何が、倫
理だと、礼法が全くなっていない小人、馬鹿者だと、そんな哲学モドキゴロなど相手
にするな、レスなど還す必要はないと思っておられる方々もおられるようです。が、
気にしないで行きましょう。という意味です。
>ふと瞬間的に何事かをさとることがあるわけです。
>「何事か」って具体的に何でしょう。
>「さとる」が「悟る」なら、明確になったはずですよね。
わたしが、このスレで言っている様なことをです。
>>87 Nさん。つづきです。
>常に、歓喜に満たされる様に、なっていきます。
>毎日、つらそうですね。
そこには、度合いがあります。わたしの場合は、強度の歓喜ではないので、
ツライどころか、ものごとすべてが生き生きとして、見えます。神の気で全
身の隅々まで張らすような清々しい一点のくもりもないかのようなとても嬉
しい気持ちです。例えば、いい感じの初詣に行った帰りがけの気持ちとか、
遠足に行く前日の気持ちとか、大切な方や愛しい人に会う前の気持ち、赤子
を見るときのそれ、に似ています。やめなければこれが、ずーっと続きます。
つらくはありません。
>そして、なにごとかを>速度と量と質と難易度をもったもの。「さとる」って具体的になんですか。
気付くという意味です。そして、それは即、行うということです。例えば、存在
でなくなることは、可能だ。と気付き、それを確かめて納得しますが、そこに至る
までには、とても沢山のことに、気付きことわりを理解します。例えば、この世に
二度とない苦を体験しなければならないだろう。とか諸々の事柄です。
>「望めばできる」って具体的に何がですか。
平面的な世界での「一応の」矛盾が、立体的な世界に入ると矛盾ではなくなると
いうことです。いついかなるところからでも、だれにでもできるということです。
>>104(コンガラさん)
…それ、本気で言ってる?
私が混乱してるって。
>>84-86で【ソレ】の事を直接言葉で表現してるのに分かってないの?
…確かに、言葉では表現に限界があるよ?
あの言葉だって『正確ではなく、限りなく近似な表現』でしかないさ。
でもね。
あの表現は【ソレ】そのものを指してるんだよ?
それすら分からない?
更に、誤解を恐れずに言うならば
『【死】が先【生】が後』
『1そのもの』
ってのは、ぶっちゃけ『【秘儀】の開示』だよ?
これを読んでも、あんなレスにしかならないの?
>>94 Nさん
ボクはまず、「わたし」が「あなた」へ向ける一方通行の思いを総じて「偏愛」と思っています。
これは構造的なものですから、個体化の原理という現象の形式下では避けられぬこと。
だからもしもこれを乗り越えるには個体化の原理の看破と脱却により、「わたし」という
拘りそのものが消えることが必要と思います。その者はもはやひとの形をしたひとに
あらざる者、拘りなくすべての関係を無条件に許容してしまえるのだろうと思います。
これが無条件の「愛」なのだろうと思いますが、しかしそれはひとの「愛」ではない
です。あくまでひと(「わたし」)の「愛」は「偏愛」。
では所詮「偏愛」なら何でも同じとは思わないのです。まず、あてがわれた個体化形式
のもと、盲目的にエゴイズム(個体の維持、展開)を発すること、それが「神−倫理」。
Nさんが挙げてくださった「偏愛」の具体例にもあてはまると思います。
「わたし」でありながらエゴイズムによる無窮の抗争を乗り越えようとする試み、それが
「存在者−倫理」です。個体化の原理をせめて認識レベルで看破し、或いは認識を越えて
個々の現象が決して侵せない他者であると看破すること。「わたし」は「あなた」であり、
「あなた」は「わたし」ではない、という「同胞」と「畏敬」のかけがえのない「眼差し」に基づく、
「あなた」への無償の「応答」(「行為」)こそが、ボクの思う、エゴイズム乗り越えんとする
「偏愛」です。「あなた」との関係ではじめて成立する「わたし」は、「あなた」への「眼差し」
と「応答」を通して、あてがわれた盲目の「わたし」から、引き受け自律する「わたし」にな
れるのではないか、そう思っています。
しかしその限界については、いま悩んでいます。
>>92 ハルカさん
最近ハルカさん優しすぎます。
せいぜいいい作物になってくださいね、で十分です。
でも、有難う御座います。。。
〉カオルさん
敗北でも勝利でもなんでもいいですが、
一度でも自分のエゴを感じたら、【私】に拘ろうなんて思わないでしょうね。
なぜかって、ひどい二枚舌だしね。
>>109 Nさん
>一度でも自分のエゴを感じたら、【私】に拘ろうなんて思わないでしょうね。
意味がよくわからないけど。詳しくお願いします。
>>110(カオルさん)
御指名のNさんじゃないけど。
『エゴが二枚舌』ってのは言い得て妙だね(笑)
本来、エゴは『自らの生存に有利なように周辺環境を操作しようとする』って特性があるからねー。
操作の為になら『自』にも『他』にも嘘を吐く…つーか、嘘を吐くのが当然なんだよね。
逆に嘘を吐かない方が稀だから(苦笑)
>>110 カオルさん
ハルカさんどうもです。
二枚舌ってのは、エゴは本心をほとんど表さないからです。
『自分』にも『他人』にも、嘘をつき通すからです。
エゴは見られるのを嫌います。見られようとするとなんとか逃げます。
ま、一度、味わって見てください。
それには、自分自身の思いを観察してみることです。
観察には2種類ありますが・・・
1つは、歩いているとき、電車に乗っているとき、何でもいいのですが、起こっている出来事そのままを、
良いとも悪いとも判断せず、言葉にならない「思い」を、出てくる「思い」を観察することです。
でも、これは、はっきりとはせず掴みにくいかもしれません。
次の方がわかりやすいです。
1つめは、起こっている状況に応じてどう思うかでしたが、
2つめは、すでに起こった「思い」に対して分析する方法です。
怒ったり、悲しいとき、嬉しいとき、不安なとき、なぜそう思うのかを追求する方法です。
例えば、どうして怒ったのか、違う状況だったらどう思ったか、また、状況が逆だったらどう思ったか、
等、いろいろな角度から見て分析する方法です。
そうすると、本心が見えてくるのです。
これは、頭でわかっているのと、実際に感じるのでは、大違いです。
自己流の秘儀、自己観察でした。
>Nさん
興味ないや。17さんと同じだね。(笑)
エゴを強化する方法が知りたい!
誰にも耳を貸さず自分だけを信じられるエゴが欲しいのです
前にも言ったけど、わたしは誰にも関心がなくなったとき、
他人にはまったく感情を感じなくなったときに
最高の気分になれるのです。
自由だし思考はスッキリクリアなのです。
とりあえずこの状態をキープする方法が知りたいのです。
>>116 だから見られるのを嫌うって言ったでしょ。
お好きに。
どうしてみんなエゴを大切にしないの?
エゴほど大切なものはないじゃない。
人間なんだから人間であることを否定するようなもんじゃない。
見下すようなこというならさっさと死ねばってカンジ!
エゴにしがみついて生きてるくせに偉そうに!
>>119(カオルさん)
エゴを強めたいなら逆をやればいい。
全てに対して『二元対立』をしてけばいい。
『善/悪』『好/嫌』『快/不快』…etc
ついでに『価値観』を多く持てばいい。
更に、その『価値観』の源泉を外部に取れば尚結構(苦笑)
>>124 やってます。
それが道徳、倫理です。
でもこれは他者がしつこく介在してくるわけ。
強力なの。どうしたものか。
価値は他者がいないと成り立たないです。
エゴが拡散してバラバラになっちゃう。
>>122(カオルさん)
だから、エゴを大事だと思うならそれでいいんだって(苦笑)
大多数の人はそれなりに生きてるでしょ?
私やNさんは、エゴを見下げてるんじゃなくて、エゴに拘るのが苦しくなっただけ。
>カオルさん
うーん。何か怒らせましたか?
エゴを強めていく。
お勧めしますよ。
単純です。
全てに優劣をはっきりとつけていけばいいんです。
そして、決して自身を振り返らないことです。
すべての責任は他にあるからです。
しかし、エゴが熟せば、その実は独りでに落ちます。
>>127 生命に価値はない。
自我にこそ価値がある。
虫の命には価値はないけれど、
人間には価値がある。
>>125(カオルさん)
尚のこと簡単。
『自=正/他=邪』という価値を持てばいいだけ。
そもそも『エゴ』は『自他区別による他者関連性』がないと存続出来ない。
>>129 「邪」扱いしているその相手によって「正」なる「わたし」が存在します。
それが気に入らないのだけど。(笑)
>>130(カオルさん)
だからぁ(苦笑)
そうやって『比較』しないと『エゴ』が存続出来ないんだって。
>>130(カオルさん)
だからぁ(苦笑)
そうやって『比較』しないと『エゴ』が存続出来ないんだって。
サイコパス(死語?)に興味があります。
わたしを一番ドキドキさせた人間?なんです。
なんなのでしょう。
あの徹底した生のあり方。うらやましい。
>>132 わかってるさ。
さんざんSさんに説明したのはハルカよりわたしが先なんだし。
>>130 そうそう、エゴを強力にする大切なエネルギー源を忘れていました。
寝かけたけど、起きて、書いておきますね。
それは、希望です。
目的をはっきりさせて、希望をたくさん持つ事です。
目的は紙になんか書いたり良く確認して、明確にして、
強く夢を持って、希望を持って、ポジティブに前向きに、
これが、エゴの強化策です。
>>135 うん。今がんばってる。
少しずつだけど評価もされてる。
でも評価される側じゃ駄目だよね。
上にいかなくっちゃね!
>>133(カオルさん)
サイコパスの人にとっては『自分の価値観が絶対』という確信を持ってます。
即ち『自分が神』なのです。
尚、こういう類の人は先天的に脳に疾患(物理的欠損)を有してる事が多く、通常人がサイコパスになったという事例は(現在まで)未確認です。
>>137 逆だよ。
器質的欠陥が認められないから犯罪を犯したサイコパスはみんな刑に服してるんだよ。
それにサイコパス=犯罪者じゃないよ。社会のあらゆる分野で活躍しています。
>>137 >即ち『自分が神』なのです。
これだ!
>>138 ちゃうちゃう。
『器質的欠陥』じゃなく『物理的欠損』。
他者に対する感情移入能力を『極端に』欠いてる人がサイコパス。
脳内神経系の配列欠損だから『心神喪失』には当たらない。
だから、罪を犯せば当然刑に服さねばならない。
>>140 >脳内神経系の配列欠損だから
それって病気じゃないの?
病気なのに病気じゃない?
世間の正常者が許さないから?
納得いかないな。
こじ付けじゃないの。
異常=病気、欠損・・・なんか間違ってる。
>>141 病気じゃない。
その人が『たまたま』そう生まれついたというだけの事。
『顔の造作』や『体格』と同じ『個』の違いなだけ。
社会に適応するのが正常(と言われる多数の)人に比べて、+αの労力が必要なだけ。
第一、私はサイコパスを全て犯罪者扱いはしてないし、異常者とも言っていない。
あまり、人をバカにしないでくれる?
>>142 言ってしまえば『盲目』とか『四肢欠損』と同じ。
単純な『肉体的個性』ってだけだ。
>>142 >あまり、人をバカにしないでくれる?
じゃぁ、
>脳内神経系の配列欠損だから
↑の科学的根拠を示してください。
(文献その他を紹介してください。)
わたしはサイコパスについての本は何冊か読んでいるけど
一度もそんな説にはお目に掛っていません。
>>144 まず謝罪。
以前どこかで読んだ記憶は在るのだが、あやふやなため根拠の提出は出来ない。
申し訳ない。
しかし、だ。
私が言ってるのは『(知識が無いと)バカにするな』じゃない。
『(人を差別主義者のように語り)バカにするな』だ。
貴方は私が一度も言っていないに関わらず
>>141のように『正常/異常』『病気』などの評価に拘っている。
私が『サイコパス=犯罪者』の 『偏見を持っている』かのように書いている。
だから『バカにするな』と言ったのだ!
>>145 >脳内神経系の配列欠損だから『心神喪失』には当たらない。
>だから、罪を犯せば当然刑に服さねばならない。
わたしは、↑についていったのです。
もちろんハルカの判断じゃないでしょ?
でも上のような記述をサイコパスに興味をもって
調べたりしているわたしの目に留まらないのはおかしい。
で、上のような判断、解釈を行う人の心性を推測して疑問を呈したの。
あっ、こっちか?
>それにサイコパス=犯罪者じゃないよ。社会のあらゆる分野で活躍しています。
ごめんなさい。
これは世間では、サイコパス=犯罪者って誤解されやすいので
そうとはかぎらないという情報の提出です。
この話しをするときにいつも言うことなの。(ROM人向け)
社会のあらゆる分野で活躍しています。
まあ、ハルカは知ってると思うけど ← が足りなかった。
>>146 法的処置に関して言えば『心神喪失』状態にある場合、罰が軽微(もしくは不問)になる。
簡単に言えば、主に『責任能力の有無』が問われる訳。
(もっと知りたければ専門家に聞いて)
対して『サイコパス』の者は『責任能力』は有る。
自分が何をしたかは自覚している訳だ。
自己正当化なのか、他の理由があるのか…その行為を『罪』と認識してないだけで。
つまり『行為の自覚』はあっても、その行為に対しては『社会的規範違反には当たらない』と考える。
何故なら『自分の行動は正しい』(と思っている)から。
だから『心神喪失』とはならない。
寝ます。おやすみなさい。
>>149 寝たのか…
まぁいいや。起きた時にでも。
引用部分からして
>>148としか答えられんが?
『脳内神経系の配列欠損』→『各人固有の肉体的特性』→『心神喪失に当たらず』→『犯罪時は服役当然』
の流れの引用部分に対して
>もちろんハルカの判断じゃないでしょ?(
>>146)
と問われてる訳だから。
この質問には、法的解釈でしか答えられない。
違うのなら、質問の要旨を簡潔に纏めて。
とりあえず一呼吸いれたい気持ちです。
法律で功利的にどう対処されているかという点よりも、人として等しいということ。
ハルカさん自身の倫理観としてもそうでしょ?ということだと思います。
文脈から、それはカオルさんもハルカさんも認めるところだと思いますので問題なし。
また、同じく文脈から、法律上も正常と判断されるから犯罪を犯せば刑に服すわけで、これも問題ない。
誤解を受けやすいデリケートな事案だから、すれ違いがあったように思います。
ボクは「わたし」認知したいのです。
たとえ迷妄でも「わたし」は機能してる。生まれた子は認知したいのです。
でも素直なa「わたし」はあんまり狂暴だから、多くの血が流れました。
「わたし」は悲しかったのです。好きに暴れたのに、悲しかったのです。
だからa「わたし」の対極としてのb「わたし」=倫理が生まれました。
a「わたし」があんまり強いからb「わたし」も必死です。
a「わたし」が大切だからこそ、b「わたし」も必死です。
a「わたし」は強過ぎるのです。だから後追いのあだ花b「わたし」は贄(ニエ)にすらなります。
幾千のb「わたし」が刃を受けたら、もしかしたらa「わたし」とのバランスは回復できるかもしれない。
a「わたし」が大切だからこそ、b「わたし」も必死なんです。
b「わたし」は「応答」します。
>>152-153(Sさん)
まぁ、カオルさんの言い出した事は『悟り』とも『自律』とも全く関係無いから、放っておいてもいいんですけど。
少しばっかりエキサイトしちゃいましたねー(苦笑)
ううん、関係ないとは思わないのです。
だってカオルさんの問いは「わたし」が確固として自律せんとすることだと思うのです。
そこから派生してエゴの強化→例えばサイコパスについて、となるのだと思います。
そして倫理は「わたし」の大切な価値ですから。
たぶんね、本来なら悟りの側と自律の側は犬猿だと思うんです。
だって悟りの側から見れば、自己自律なんてエゴに躍らされた迷妄な訳でしょ?
今は批判しつくした感があって、並行線でなんとなくぬるま湯みたいだけれど。。。
逆に自律の側から見れば、いまだに「わたし」に留まっているくせにという批判が出ます。
「わたし」が迷妄なら、なんで未練がましくここにいるのさ、「わたし」を大切にしてよって。
もちろん悟りを得られない、解脱できない苦しみというものは、理解していますけれど。
そんな感じで以前は激しく突付きあっていましたよね。
レスする度に一期一会の緊張がありました。ボクなんか何回さよならを言ったでしょう。
でも、それは今も同じ覚悟でいます。
>ハルカへ
Sさんが代弁してくれた通りです。
でも昨日のレスはちょっと困ったちゃんですね。(^_^;)
ごめんなさい。
>Nさんへ
Nさんにも失礼なレスしてしまいました。
ごめんなさい。
>Sさんへ
どうもありがとう。
>>156 カオルさん
気にしないでください。文字で傷は付きませんから。
でも、何を言いたかったのか、良く解りました。
>>119 >とりあえずこの状態をキープする方法が知りたいのです。
どんなコツをもってるかは、人によるのでしょうね。
>>122 >どうしてみんなエゴを大切にしないの?
確かにエゴがないと、どのような立場もとれないし、
喜び、悲しみ、苦しみ、怒りが湧いてこないし、
妄想に耽ることができない。
>>139 >>即ち『自分が神』なのです。
エゴが強烈に強くなると、最後は、自分が、神か仏のような絶対者になりたいのです。
もちろん、悪いなんて、いいません。
>>155 >たぶんね、本来なら悟りの側と自律の側は犬猿だと思うんです。
>だって悟りの側から見れば、自己自律なんてエゴに躍らされた迷妄な訳でしょ?
そりゃ、誤解です。
エゴが強力に、より強烈になったために、エゴが成長して、より完成されたために、
実が熟して、一度、落ちた現象、これが起こったのです。
味わい足りなければ、エゴを充分に味わえばいいんです。
>>157 Nさん
>味わい足りなければ、エゴを充分に味わえばいいんです。
うん。たぶんわたしはそれが言いたかったのだと思います。
汚い言葉でしか言えなかったけど。(^_^;)
>>153 Sさん
サイコパスってのは、aだけがいてbがいなくなった人なんでしょう(たぶん)。
もしかして、これを説明しようとして、書いたのですか。。。
深いなー。
>>138 カオルさん
>それにサイコパス=犯罪者じゃないよ。社会のあらゆる分野で活躍しています。
いわゆるエゴaに相対するエゴbがいないので、aは自由なんでしょうね。
>>144 >>脳内神経系の配列欠損だから
>↑の科学的根拠を示してください。
>(文献その他を紹介してください。)
********************************
http://profiler.hp.infoseek.co.jp/p.htm サイコパスの定義 (ロバート・ヘア)
饒舌で一見魅力的
過大な自尊心、自己中心的
異常なほど嘘をつく
後悔/罪悪感が全くない
冷淡で共感がない
行動の責任を取れない
80-90%のサイコパスは言語能力を司る認知機能に障害があり、
通常左脳で行われるはずの言語処理が右脳で行われていることがある。
********************************
Don't mind!!!
Puuー (゚ε゚) ミ・3・)<Please keep encouraging us NE(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
= ◎――――――◎
>>157 Nさん
>そりゃ、誤解です。
>エゴが強力に、より強烈になったために、エゴが成長して、より完成されたために、
>実が熟して、一度、落ちた現象、これが起こったのです。
【我】−【私】という形式のまま幾ら自律だなんだと唱えても、【私】は【我】に踊らされているだけ
なのだと、ハルカさんに指摘され続けてきました。だからこそ悟りの側としては【我】を落とそうと
するのですよね。
でもそれは、特定の個人に限られます。ボクのような多くの凡俗は、【我】−【私】という形式に
留まったままです。或いは好んで留まります。そのような形式のままにあって足掻いているのが、
自律の側。
それぞれの志向を認めるのはいいのだけれど、馴れ合っても互いの志向を鈍化させるだけのよう
に思うのです。そんなんじゃ悟り−解脱も自律も叶わないって思ます。
エゴを味わったら自然に落ちるという捉え方が悟りの側だとしたら、エゴを引き受けたままで足掻く
という捉え方が自律の側なのだと思います。
>>159 Nさん
>>153のabについては、存在者内としての葛藤と、存在者間での葛藤をごったにして書いてしまい
ました。一存在者内にabの強度とその葛藤があり、存在者間においてそれぞれに総合されたabの
度合いがぶつかりあう葛藤があるのだと思います。あんまりよく表現できない。全然深くなんてないです。(^_^;;
bのみの者はいないと思いますが、aのみの天真爛漫な存在者は当然いるのでしょう。aだけの者は
有限性を除けば神様と同等だと思います。
存在者間での葛藤、例えば戦車を駆るaの暴力を前にした時、戦車を止める可能性があるのはより
強いaの暴力ではなく、bの応答なのだと思います。暴力はより強い暴力を呼ぶだけだからです。
その連鎖を止められる可能性があるとすれば、それは暴力に頼らない応答であり、或いはその結果
としてaの刃に倒れた無数のbという贄(ニエ)なのだろうと。
>>155(Sさん)
>>157(Nさん)
うーん…
お二人とも、ある意味で『正解』なんだけど『不正解』でもあるんだな…これが。
確かにNさんが言うように『エゴを味わい尽くして我を肥大化させる』という行程を経ないと『我を落とす』のは無理です。
尤も、この行程は必ずしも『今世で』行う必要はありません。『前世で』十分に肥大化していればいいだけの話です。
かと言っても、Sさんの言うように所詮は『迷妄』(悪いモノという意味ではなく、唯一物ではないという意味)ですから『落ちるモノ』なのですけど…
しかし、問題なのは『幾ら肥大化して熟しても、決して自然に落ちる事はない』んですよ。
ずっと落ちないでいると実は腐ります。
そして、腐臭を放って『自』だけでなく『他』にも多大な影響を与えます。
【我】という実が完熟したとしても、木を揺すってやらないと落ちないんです。
この『木を揺する行為』が【冥想】であり【坐禅】であり【観賞】であり【意識的実践】であり【狂気思考】なんですよ。
>>160 Nさん
ありがとうございます。
サイコパス好きのわたしは当然知っていたのでした。( ̄ー ̄)
で、
>80-90%のサイコパスは言語能力を司る認知機能に障害があり、
>通常左脳で行われるはずの言語処理が右脳で行われていることがある。
がよくわからない。というかあやしい解釈というのが定説です。(笑)
『精神的な成長を回避する為なら、あらゆる手段を講じることを厭わない人』
彼らは、自らの自由意志で精神的な成長を回避するような人たちです。
「神−倫理」にも「他者−倫理」にも真っ向から逆らいます。
追記
でも『落とそうと思って』揺すっても、完全には落ちないんですよ。
実の熟した『果肉』の大部分だけは落ちます(つーか剥がれます)。
が、枝から繋がっている『種』とその周りにこびりついた『果肉』は落ちないんです。
こうなると『実』は再度育ちます。
それも『意識的に揺すったおかげで傷付いたまま』で…
この場合に育った『実』は『歪んで』ます。
俗にいる『似非導師』や『腐れ坊主』はこの類ですね(苦笑)
場合によったら、木を強く揺すりすぎて木が折れたりするしね(苦笑)
かと言って、揺する力が弱かったら落ちやしないから、力一杯揺すらなきゃなんない。
だから『運良く落ちればいいや』程度。
と言うより、正確には『木が折れる前に落ちればいいな』『落ちないで当然。落ちたらラッキー』くらいに確率の低い事なの。
>>166 ハルカさん
そうなんです。「実」は落ちても、いつでも再生可能なんです。
またすぐに「実」はできるわけです。
でも、落とそうと思っても、力技じゃ決して落ちないんです。
なぜかって。エゴの力でエゴを落とそうとして、足掻いているだけになります。
それは、左腕と右腕でけんかしているようなものですから。
たぶん、理解することしか、知ることしか道はないのだと思います。
>>164 >【我】という実が完熟したとしても、木を揺すってやらないと落ちないんです。
>この『木を揺する行為』が【冥想】であり【坐禅】であり【観賞】であり【意識的実践】であり【狂気思考】なんですよ。
不思議なことに、落とそうという行為がまた、「実」になるのです。
落として悟ろうという追求が「実」になるわけです。
しかし、落とそうという追求がなければ、この「実」は落ちないでしょう。
こうなれば、もはや永久ループ状態です。
しかし、抜け道があるように思います。
・悟ろうという追求でなく、苦を取り除こうとする行為の場合
・もはや何もこの思いを満足させることはできないと実感する場合
です。
>>168(Nさん)
そうそう(苦笑)
エゴで落とそうとしても落ちないのね。
だから、チョット変な言い方だけど…
『木を揺らして落ちるキッカケだけ与えて、落ちるか否かは実に任せる』
しかないのさ。
『落とそう』としても落ちないの。
無理に落とそうとすれば『果肉だけ剥がれ落ちて種に傷が付く』って(ある意味)最悪の結果になるわけ。
【悟り】で『何かを得られる』とか『より良く生きる事が出来る』とか思ってる奴は、この『エゴでエゴを落とそうする』って事をやってるだけなのさ。
運良く『落とせた』としても、歪んだ形で『実』が再生するだけなのにね(苦笑)
>>169(Nさん)
うんうん。
だからね…
『【悟り】を得よう』として『実を落とそう』としても無理なんよ。
【悟り】という報酬を『獲得しようとして』たら無理なの。
【我】という実が落ちた『結果として』【悟り】というモノになるだけなのさ。
これがとっても美しい『【悟り】のパラドクス』なんだよねー。
>>Nさん
今まで書いた事があるからね。
つい最近、他板の某スレに出向いて喧嘩売ってきたの(笑)
宗教板だっつうのに『悟りってのは新しい価値観だろ?』『より良く生きる為の道具以外に悟りに何の価値がある?』とか言ってたり、果ては『学んだり積み重ねたり…段階的に重ねていけば悟れる』と思っていたりで。結局『悟れば何かを得られる』と思ってる輩ばっかりでした。
最後には呆れて発言止めたけどね(苦笑)
実、落ちないのか。
がっかりのようなうれしいような。
腐るのは嫌だけど。
乾いた空気に触れていれば腐らない?
天才は乾いた空気のところにしか生まれないとか。
仏陀は天才じゃないんだね。
>>172 ハルカさん
良く知ってますよ。あの、スレの前々々スレあたりで、書き込んでましたから。
前々スレでは少しだけ。
で、久しぶりに覗いたら、ハルカさんがバトルしてたので、興味深く見ていたのです。
で、知ってる椰子だったので、少し小突いときました。
(間違ってハルカさんに届いたようですが、すいません。あれは私です)
でも、あの助教授って誰だったのでしょう?
本題に戻すと、彼の主張は、悟りというより、
悟りから戻ってきてからの、苦を感じないテクニックのことだと思います。
ま、テクニックだから段階があったり、より良く生きるためのものなんです。
言ってみれば、価値観の捉え方を使って、どう感じるかをコントロールしてるのでしょう。
>>173(カオルさん)
残念ながら(人の側から見れば喜ばしい事に)自然には落ちません。
更に言うと
>乾いた空気に触れていれば腐らない
って事にはなりません。
実を完熟させた後にもズット実らせておけば腐ります。
嫌が応でも(苦笑)
だから『乾いた空気に晒す』っていうような『外的な要因』で腐敗を防ぐのは不可能です。
腐らせない為には『完熟させない』か『完熟させた後、キッカケを与えて落ちるのを待つ』かのどちらかしかありません。『完熟させた後に落とす』ってのは、実は落ちきらないわ、種は傷付くわ、また実が育つわ、育った実は歪んでるわ…最悪です(苦笑)
>>174-175(Nさん)
なんだ、アレNさんだったのかぁ(苦笑)
いやいや…
お騒がせしました。
でも、あのマスタード(…だっけ?)っての。
非常に『抹香臭い半可坊主』の臭いがしたなぁ。
あれを師と仰いでる彼が哀れだったよ…
他の輩も大同小異で。
ま、あのスレの話題は止めよう(苦笑)
>>176 ハルカへ
なんかわたしのことイジメてない?
死んだら終わりなんだからそれでいいけど。
>>176 あ。
『実が落ちる』と『実を落とす(落とそうとする)』の違いは分かってね。
『〜落とす』ってのは『落とそうとする者がいる』訳ね。
その時点で、その者には『得よう』『獲得しよう』って魂胆があるって事なの。
つまり『報酬を求めての行為』になってる訳。
これはエゴの最も好物とするものなのね。
やればやるほど肥大していくんだ(苦笑)
だから落ちない。
仮に落ちたとしても『完全には落ちない』し、歪んだ形で『実が再生する』だけ。
対して『〜落ちる』ってのは、そこには誰もいないんだよね。
キッカケを与える為に揺らして運良く折れなかったら、後は放っておくの。
もう『手を離れた』状態に‐完全な『お手上げ』状態にしちゃうの。
後は見てるだけ。
そうして、もし運が良ければ『実が落ちる』のさ。
『落とす』のではなく『落ちる』んだ。
>>178(カオルさん)
それ、勘ぐり過ぎ。
Sさんの癖が写ったか?(苦笑)
『実が腐る』ってのはねぇ。
うーん、何て言うか…
エゴ自体は悪でも何でもないのさ。
逆に大切なものだし。
それを『味わって肥大させる』のは薦める。
ただ、肥大させ過ぎて『腐る』と『精神的な【苦】しか招かない』のさ…自他問わず。
いや、他に【苦】を招く方が多いかな?
何しろ価値観が『自分=絶対正義』『自分=絶対善』『自分=絶対強者』になるからね (苦笑)
『自分の益の為なら社会正義も何も関係ない』って、全て分かった上で貫き通すからね…ある意味立派だよ(大苦笑)
>>180 ハルカへ
いまどういう状態にあるのか正直わからないの。
わたしはたぶんもともと肥大してないと思うのだけど、
存在とつながれないためにエゴだけが世界にあらわになっている感じというか・・・
あらわになってて丸見えで恥ずかしくて頼りなくて・・・小さなエゴなんですホントは。
だからもっとしっかりしないといけないって思ってて
たぶんつながれないというのはサイコパスも同じような感じがしてて
それなのに彼らは強いでしょ?
どうしてなのかなぁーって・・・脳のせいじゃないと思うんです。
今日ポールさんがこのスレのことほめてくれました。(^.^)
>悟りスレもハルカさんという中心がいるから
>続いているのではないかと思います。
>僕は悟りスレは哲板議論スレの一つの理想ではないかと考えています。
>読書スレも本当はあのような形がベストではないかと。
>ただ、ハルカさんのような”カリスマ”がいないと難しいでしょうね。
サイコパスにもカリスマ性あるんだよね。どこが共通してるのかな?
確信に満ちた強い性格かしら?
おやすみー
昨夜の話に関連してふと思い付いた事を少し。
私はあちこちの【悟り】関連のスレを覗いている。
例外無くほとんど全員が『ちょーだいちょーだい』と『限度を知らない幼子』のように【悟り】を『手に入れたがってる』(苦笑)
『耐えきれない苦悩があった』→『結果として悟った』というならともかく…
何故そうなる?
シッダルダはどうだった?
彼は王族の、しかも王位継承者だった。
金も地位も名誉も女も望むものは(その時代地域では)全て手に入れられた。
たが、それでも解決しない苦悩があった。
生老病死の【四苦】だ。
【苦】の『現象面』だ。
幾ら価値観を変えてみても『生老病死は止められず、生老病死の意味が分からない事には変わりなかった』からだ。
『耐えきれない苦悩があった』から『救われるべく修行』して『結果として悟った』だけだ。
『苦悩』‐【苦】というものを一足飛びに修行だけして、結果としてもたらされる【悟り】だけを欲しがる。
まるで、基礎を知らないまま必死に応用問題だけ丸暗記して満点を取ろうとしている様に。
【悟り】は『足し算』じゃない。
『引き算』だ。
【我】が落ちた結果として【苦】が消えたるだけだ。
>>177 あの駄洒落マスター「ど」を師と仰いでる彼、
彼がつかんだのは、「わら」だったのかそれとも・・・
「わらしべ長者」をめざしているのか。。。
彼は2chに来たときに1地番最初に話したヤシだった。
だから「ど」についていくのが心配な成り行きではあるけれど、
ま、それも致し方なし。
あのスレでも、まともな者もいます。
「全ては今 今は無意味 歩くと道ができる」
こんな感じの書き込みだったと思いますが、いやーきれいにまとめてます。
芭蕉みたいなヤツです。
>>181(カオルさん)
うーん。
まぁ、会った事無い訳だから確証を持ってはいないけど、恐らくは…
あなたの『実』はまだ熟してないんだろうね。
と言うより『実』を育ててはいなかったんじゃないだろうか?(過去の書き込み見てもそんな感じだし)
エゴだけが【世界】に露わになっている点では『サイコパス』と似てるけれど、決定的に違う点が一つ。
あなたは『まだ【世界】に足を踏み入れてないから浮いている』のに対して、サイコパスは『【世界】に踏み入れた足を持ち上げたから浮いている』って事。
サイコパスの人々のエゴは『育ってない』どころか『腐る寸前』か『腐っている』かのどちらか。
『自分が大事』ってのは『自分以外がいてこそ』だからね。
周囲との比較で『自分』を優勢に置こうとする事‐これが『実』を育てる栄養なんだよ。
そういう意味じゃ、冷淡に聞こえるだろうけど『何より【我】を育てて、先に【人間】になって下さい』と言っちゃいます(苦笑)
>>184(Nさん)
へぇ、綺麗だねー。
芭蕉かどうかは知らない(苦笑)
けど、ちょっとばかし飾り過ぎの様な気が…
綺麗に見せよう見せようとしてる様な感じ。
確かに、全員が全員マトモじゃないなんて事は無いよ?
実際何人か『引き算』を分かってる人も見かけたし。
だけど大多数が『足し算』としか見てないのも事実だしね…(嘆息)
もう一度、言っておきますと、
ハルカさんが舌戦していた相手が言おうとしていたのは、
悟りではありません。悟りから戻ってから、
苦を理解して軽減するテクニックのことを言っていたのです。
だから、「学んだり積み重ねたり…段階的に重ねていけば」とか
「新しい価値観」とか「より良く生きる為の道具」とか言っていたのです。
つまり、習得があり、段階があり、効果が期待できると言っていたんです。
要はコツを掴んで、技術UPということですから。
それは悟りじゃない。(苦笑)となるわけですが、
その通りなんですが、「苦」の軽減には有効です。
>>187(Nさん)
別にあの方法を否定しやしないよ。
それどころか『苦』(精神活動の産物としての『認識による苦』)の軽減にはいい方法だよ。
ただね。
困った…と言うか、苦笑するしかない点が二つ。
一つ。
あの方法がイコール【悟り】だと勘違いしている輩が圧倒的に(!)多い点。
二つ。
あれは『【悟り】から帰ってきてからの方法』じゃない。
私の様に『【悟り】の寸前から逃げ帰って来た人』や『【悟り】だと思って見当外れの方向に進んだ人』が『生きる為に取りうる最善だと考える方法』 だという点。
【悟り】とは全く違うんだよ(苦笑)
>>185 >冷淡に聞こえるだろうけど『何より【我】を育てて、先に【人間】になって下さい』と言っちゃいます(苦笑)
自分で言うのはかまわないけど、他人のあなたに言われたくない。
そもそもあなたはまともな人間なの?
倫理も道徳もあらゆる価値を認めないのでしょ?
そんな人間が「人間になってください」ですか?
あなたは人間として生きる価値ないと思うよ。
何様なの?
>>189(カオルさん)
その反論、言われると思った(苦笑)
何か根本的に勘違いしてるよ?
いい?
私は『【我】を育てて〜』と言っているだけなんだよ?
今まで、エゴを十分に味わって『実』を熟させてはいなかったでしょ?
最近になって『生の喜び』を書くくらいだから。
だから『実を育てて下さい』と言うの。
『【我】を肥えさせて下さい』と言うの。
『【人間】としての【生】の喜怒哀楽を甘受して下さい』と言うの。
『【生】を楽しんで【人間】として生きて下さい』と言うの。
何も『立派になれ』『倫理的になれ』『より良くなれ』なんて一言も言ってないんだけど?
ハッキリ言って、カオルさんがどんな生活送ろうが一切興味有りません。
仮に『犯罪者』だろうと『極悪人』だろうと関係無い事です。
人様の生き方なんか、知ったこっちゃ有りませんし。
それに、私だって世間の基準から見たら『下の部類』の人間ですよ(苦笑)
だから『良く生きろ』なんざ口が裂けても言いませんて。
私は単に『【人間】として、存分にエゴを味わって生きて下さい』って言ってるだけです(苦笑)
>>189(カオルさん)
まぁ、確かに…
感情を逆撫でするような発言でした。
それは謝罪いたします。
でもね。
カオルさんの言うようなニュアンスは一切含まれてない事は分かって下さいね。
(存在者−倫理 「罪」 )
「わたし」が「わたし」を引き受け「わたし」の暴力に気付くこと、それを「自覚」と称すなら、
「自覚」に至って初めて「わたし」は逃れることのできない「罪」そのものであると見出す
でしょう。たとえ「わたし」の暴力を「自覚」し「存在者−倫理」の眼差しと行為を為したとして
も、「わたし」の「応答」もまた「わたし」の暴力という構図を脱せないからです。「わたし」が
「わたし」であり、「わたし」を「自覚」する限りにおいて、「わたし」は「罪」そのものなのだと
思います。
ですから、例えば途方もない献身行為を続けた者がいたとして、その者が「自覚」している
ならば、その行為者はどこまでも「罪」を負っているということ。そしてその「罪」を見出して
いないとすれば、彼の献身行為も結局は独善にすぎない。つまり単にエゴの要請として
の「神−倫理」に基づく無垢なる行為者であるということです。
(存在者−倫理 は神−倫理に還元されるか)
個体化存在者は総じて生み出された者であり、かつ既存の世界に投げだされ連関しあう
ことによって個体形式を維持、発展させます。そして個体化存在者の誰も世界そのものを
生み出すことはできません。個体化存在者が、ア・プリオリにもア・ポステリオリにも枠組みに
規定されている意味において、「わたし」の独自性は皆無であると思います。際限なく遡及
できる連環なる連関世界において、その独自性は連関世界そのもの、若しくは絶対者に還元
せざるをえない。つまり源泉としての「神−倫理」によって世界は成立していると思います。
「存在者−倫理」と称している「わたし」の「自覚」による倫理ですら、その源泉は連関における
エゴ(個体の維持、展開)の要請に過ぎないと予測します。人類が発生する以前の更に遡る
原生生物において「わたし」の「自覚」なるものがあるはずもなく、進化の系統樹にあって、
「わたし」の「自覚」も、後発として展開して来たエゴの末枝であろうからです。源泉を問うなら、
「存在者−倫理」もまた「神−倫理」に還元されるのだと思います。
しかし「わたし」の暴力を「自覚」し、「わたし」そのものを「罪」と規定し、「わたし」を許さない果て
において「わたし」を焼き尽くすまでに高められた「存在者−倫理」を、一元的に「神−倫理」
=エゴに還元できるか、それは否だと思います。「存在者−倫理」はエゴ(個体の維持、展開)
に全く反すること。にもかかわらず、「わたし」において何者にも要請されない「自覚」に拠らねば
成立すらしないこと。これらから、たとえ源泉は「神−倫理」=エゴであっても、「存在者−倫理」
は、既に独り歩きしている存在者独自の「自律性」なのだと思います。
存在者はあてがわれた「神−倫理」という束縛にありながら、「存在者−倫理」を自覚する「わた
し」に至るように、「自律性」をも持つのだと思います。また、万物が進化の系統樹によって連関
しているのならば、その「自律性」の萌芽は、既に連環なる連関世界が成立している時点で、
個体化存在者に等しく秘められていると思います。「わたし」は「神−倫理」と「存在者−倫理」
のふたつの側面を持って自律している、若しくはその潜在可能性を持っている、ということです。
(存在者−倫理 その要請理由)
倫理は神に保証されたものではなく、存在者の自覚に保証されたもの、というのが存在者−
倫理。その理由は以下。
1 存在者共通の絆となり得る因子が、単純に存在者として共に世界の内にある、ということ。
2 神に保証された存在者には責任がなく、自覚する存在者にのみ責任を問うことができる。
1は、森羅万象に貫かれる唯一の絆が、連関する共存在であるということ。またそこから万物に
対する共感と畏敬の眼差しが生まれます。例えば、決して人間だけが神の似姿ではないということ。
2は、もしもすべてが神に保証されるなら、あらゆる行為が無限定に許されること。或いはエゴ
の要請に基づく打算によってしか行為は規定されない。また、異なる「わたし」において、共通の
神などはなく、神の威を借りた暴力や神をめぐる闘争は果てることがない。それらのどこにも
存在者自身の責任を問うことはできず、暴力の連鎖を加速させることはあっても、抑止することは
できない。あくまで存在者自身の等身大の自覚のみが自らを律し、暴力と対峙することが可能と
なるのだと思います。
以前は想定すらできない絶対者への眼差し(絶対の超越への眼差し)によって、自己自律のバラ
ンスを考えていました。「存在者−倫理」にまで展開するにあたり、「他者」への眼差しを組み込む
ことでそれは補完しています。引き受けた「わたし」が小さき者であるという「自覚」は、入れ子の
連環における共感と畏敬の眼差しによって十分「自覚」できるものと思います。そして相対世界と
は隔絶した絶対の「他者」(絶対者)への眼差しは、宗教とは切り離した純粋な眼差しにおいて
のみ、「他者」への眼差しとして「存在者−倫理」のバランスを支えます。
なぜこうまで神による保証を避け「存在者−倫理」に拘るのか。それは各種の宗教や有神論無神
論に関わらず、それぞれを尊重しながらも共有できる、唯一の価値だと思うからです。止まること
を知らない宗教対立、民族紛争、他存在者への無制限の支配・搾取・改造、、、それらの暴力の
連鎖に唯一対峙できる絆、それが、「存在者」という誰しも例外なく当てはまる絆だからです。
もしも異邦人と遭遇した時分かち合えるのは、結局は人間としての、存在者としての、共有の絆
なのだと思います。或いは差異を受けとめる寛容さと差異を認める住み分けができるのは。
>>191 ハルカへ
>でもね。
>カオルさんの言うようなニュアンスは一切含まれてない事は分かって下さいね。
うん、わたしもひどいこと言っちゃった。許してください。
わたしのハルカとハルカ論への気持ちは変わらないよ。
>>53-56,
>>76-78 コンガラ童子さん
大変レスが遅れてしまってすみませんでした。
すばらしい内容の充実した書き込みなので
すなおに納得しているというのが正直なところです。
反論や疑問が湧いてこないという、わたしとしては希有な状態です。(^_^;)
これが「ほんの極ワズカナ入り口」というのがにわかには信じられません。
あなたの文章になにかをいうこと自体はばかれるのですけど
それもまた失礼になってしまうと思いますので、
恥を覚悟で、少し視点をリアル側(平面の世界)に引き寄せてレスしてみます。
♪〜全ては流動的〜♪
(1) 平面の世界では、すべては流動しているようにみえる。
(2) (1)のすべてをみることができたとき、すべては脈打っている(とわかる)。
(3) (2)は過去、現在、未来を別けることなく貫いている"ありよう"である。
すべてが流動するために、時が流れているのでしょうか。
なぜなら、なにも変化しないなら、なにも変わらないと思うからです。
時が流れることで、変わる(差異)/変わらない(同一)の契機が開示されるでしょう。
けれど、(2)において流動は「脈打つ」に変わっています。
さらに、(3)においてテンスを超えていることを考慮するなら
「脈打つ」とは、流れる時のなかに雲散していく事象の様相のことではなくて
たとえば、脈打つ鼓動(生命活動)としての運動そのもののことを指すのでしょうか。
199 :
考える名無しさん:04/04/08 01:28
面白いんで、あげちゃおう
♪〜イの現前その1〜♪
(1) 自由とは、イの現前である。
(2) イの現前により生まれる矛盾は「力」である。
イが現れるために、空間の広がりがあるのでしょうか。
なぜなら、なにも存在しないなら、空間もないと思うからです。
空間が存在することで、ある(有)/ない(無)の契機が開示されるでしょう。
けれど、どうしてイの現前が矛盾を内包するのでしょうか。
たとえば、科学の大原則「エントロピー増大の法則」を信じるなら
秩序(生)から無秩序(死)へまっしぐらのローリングストーンがわたしたちです。
わたしたちが存在することは秩序なのでしょうか。
イの発現が矛盾を内包するのは、
イが無秩序から生まれたからなのでしょうか。
たとえば、生命をもたない物体(無生物)の、
その無秩序(死)さゆえの存在充実を無矛盾と仮定するなら、
その完全性ゆえの調和から生み出された生命のかかえる矛盾は、
生命の本質なのではないでしょうか。
♪〜イの現前その2〜♪
矛盾は、秩序(生)を自己形成していく力を与えるけれど
その力は、無秩序(死)に向かうための運動にしか使われないという
さらなる矛盾をかかえています。
イの発現は、どこまで生命的(or身体的)な存在形式から独立しているのでしょうか。
イの現前から生まれる矛盾は、イの現前性にあるのではないでしょうか。
ビックバンから無生物が生まれ、無生物から生物が生まれ、生物から精神が生まれ・・・
わたしたちは、螺旋階段を登っているのでしょうか。
わたしたちが、無生物のことを、あるいは生物のことを語れるのは、
わたしたちには、それらを超えたもの=精神があるからではないでしょうか?
ビックバンはどこから生まれたのでしょうか。
精神からは、いったいなにが生まれるのでしょうか。
♪〜矛盾が、矛盾でなくなる世界〜♪
ひとり自転車をこぎつづけるのが人間の生なんだと思います。
つねに変化し続けていないと倒れてしまうからです。
人間が人間である証しが精神の有無にあるのだとしたら
精神活動(自転車をこぐこと)の停止は人間としての死なのでしょう。
その意味で、人間には肉体の死を超えた死があるのだと思います。
あらゆる事象や価値は、右でも左でも上でも下でもないのでしょう。
わたしたちは、そのことをアンチノミーや不条理を経験することで十分に知っているし、
それが人生なんだとわかってもいます。
わたしたちは、変化し続けることで螺旋階段を登りつづけます。
やむことのない懐疑をいだきつつ信じることでしか生きられないのです。
信じること(価値の選択をする)と懐疑すること(価値を捨てる)との
くりかえしのなかにわたしたちの生はあります。
パラダイムシフト、あるいはアウフヘーベンによって矛盾が解消されても、
あらたな矛盾は、はじめからそこにあったかのような顔で笑っています。
それでもあきらめることなく完全な解釈、至高の真理をさがす物語は続きます。
完全な世界は、超完成の世界へ、超々完成の世界へ・・・永遠のパズルは解けるのでしょうか。
♪〜平面の世界から立体の世界へ〜♪
平面の世界を超えるためにはメタレベルの視点が必要になります。
けれどその視点は生物にとっての人間のように人間にとっては神の視点なのではないでしょうか。
人間が神の視点をもつことは可能なのでしょうか。
たとえば、イは立体の世界に入り込めるのでしょうか。
もし入り込めるのなら、イははじめから立体の世界に入り込んでいることになります。
わたしたちの住む平面の世界から、その生の形式の外部である立体の世界にいくためには、
外部であるはずの立体の世界が、ほんとうは外部ではなく、はじめからイがその次元とも
接触していると前提する必要が出てくるでしょう。イははじめから超越しているのです。
しかし、入り込んでいるのだと仮定すると、今度はイの現前性が問題になってきます。
なぜなら、イが現前しているとして、その認識が可能なのだとしたら、
イはすでに平面の世界にとらえられていることになってしまうからです。
イはどのようにして認識されるのでしょうか。(どうして現前しているといえるのでしょうか。)
つまり認識といってしまうと、途端に生物学的な枠組みにとらえられてしまうのです。
イの現前を認識するためには、少なくてもその痕跡が確認できなければなりませんが、
痕跡を確認するためには、どうしても記憶が必要になってきてしまうのです。
もし、イが平面の世界から立体の世界へ入る込めるのだとしたら、
イは、はじめから立体の世界と接しているのだけれど、わたしたちはそれを認識することが
できない、と考えるのが妥当なように思われるのですが、いかがでしょうか?
♪〜自由について〜♪
(1) イの現前(自由)は、与えられてあるものである。
コンガラ童子さんのおっしゃる自由とは、
イの現前とイの現前の痕跡認知としての自我の生み出す世界の様相が、
まさに独我論的なものであることを指しているのでしょうか。
また、自由が「与えられてあるもの」というのは、どういうことなのでしょうか。
(存在者−倫理 「応答」の必然)
有限なる「わたし」は全方位から「他者」の呼びかけに包まれています。
あらゆる存在者の痕跡。単純な事物から動植物、そして人間。
「わたし」の有限な「応答」は、「わたし」の暴力を生み出す不条理を脱しえない。
それは如何なる「応答」であろうとも、痕跡の向こうの超越としての「他者」を冒涜すること。
そしてその有限なる「応答」は、対象となる痕跡以外の「他者」を無自覚に冒涜すること。
有限なる「わたし」が「誠実」に「応答」するほどに「責任」も「罪」も増してゆきます。
「わたし」は「応答」しなくてもよい。そして多くの「わたし」は「応答」を避けています。
そこにあるのは、圧倒的な「無関心」と「無責任」です。「神−倫理」、エゴイズムに
基づく無垢なる「わたし」は、「わたし」自体としてそれだけで肯定されています。ですから
わざわざ「自覚」し「応答」してまで「罪」を背負う必然はない訳です。もしも万人による
万人の闘争が、個々のエゴに不都合を生じさせるならば、エゴに基づく功利的な契約
を結べば足ります。殺伐とした万人の闘争が個体化存在者にあてがわれた形式なら、
それに則るのが自然なこと。「存在者−倫理」の出る幕はないはすです。
それでも単にあてがわれたエゴを越えて(存在者−)「倫理」が生まれたのは、エゴに
よる無際限の闘争、無窮の抗争を繰り広げる「自己」の糸車に「不条理」を見出した
からなのだと思います。そしてその不条理はエゴに基づく功利的な契約では、何も変
わらないのだと。。。(存在者−)「倫理」は、あてがわれた形式に踊らされ続ける存在者
が発する自律の叫びであり、「神−倫理」に束縛されたシジフォスの労働から価値を
生み出そうとする、存在者の抵抗なのだと思います。
「わたし」が単に「モノ」と捉えて我有化してた「痕跡」の向こうに、同胞としての、侵す
べからぬ畏敬としての、「他者」を見出したとき、現前するすべての痕跡にかけがえの
なさを自覚するのだと思います。隣人と対面する時、路傍の花と対面する時、踏みしめ
ている大地と対面する時、そのすべてに生き生きとした存在者の関わりを見出します。
自覚した「わたし」はその呼び声、かけがえのなさに「応答」せずにはいられない。
なぜ?「わたし」があてがわれた個体形式、個体化世界を越えて、「生きて」いるから。
いえ、「生きよう」としているからだと思います。「わたし」も「あなた」も「モノ」なんかじゃ
ない。十把一絡げの人形なんかじゃないんだと。
そして、「わたし」という存在者は、命というあてがわれた個体形式に依っているから、
かけがえないのではない。「わたし」は「わたし」として自律せんと、「生きて」、「生きようと」
しているからこそ、かけがえなく、そして唯一なる者なのだと。そう、思います。
イラクにて民間活動をされていた邦人の方が拘束されました。
暴力の応酬の前に贄として巻きこまれた、全く他人事ではない現実です。
日本はこれまで米英のイラク侵攻に追従して、理念なきまま泥縄式に足を突っ込んで
きたように思います。フセインの代わりにブッシュという暴力にすげ代わっただけの
現実は、まさに「わたし」の暴力の応酬です。そして、圧倒的な米軍の軍事力に対し、
手段を選ばないゲリラ戦、テロリズムによって抵抗、報復するという暴力の連鎖の現実。
ブッシュに追従する形で米英支持、自衛隊派兵まで行った日本も、当然その当事者です。
今回のテロに関わらず、ボクは自衛隊は撤退すべきだと思います。もちろんテロ行為は
これを断固否定します。米英軍の暴力に追従する形を取りながら人道支援などといった
ところで欺瞞以外の何物でもなく、日本は日本独自の理念をもって行動すべきであると
思います。もしも日本が中立の立場から人道支援を表明するならば、事態は全く違って
いたでしょう。目先の利害計算(アメリカに追従しないと経済も防衛も立ち行かないとか
拉致問題を天秤にかけたバーターとか)を理由に暴力の応酬に荷担することは、全く愚か
であると思います。
ボク個人の思いとしては、日本は今回のテロ行為に断固抗議を表明すると共に、全く別件と
いう形で、自衛隊の派兵、並びにイラク侵攻支持を取り下げることを表明すべきであると
思っています。
日本は小さくてもキラリと光る国であってほしいです。その輝きは経済がどうとか軍事が
どうとかいう類ではなく、倫理的に、国民として、政府として誇れるということだと思っています。
209 :
S ◆4Ijqvx1jbw :04/04/09 01:24
今日は掟破りですけど、ageたい気持ちです。
日本政府はもう一度仕切り直しをして、理念ある行動をとって欲しいです。
他国の干渉がどうだとかに流されるよりも、自律した一歩を踏み出して欲しいです。
欺瞞を排して、人道を重んじる姿勢をもっと前面に掲げて欲しいです。
>>209 テロリストの要求を呑めと?
昔「人命は地球より重い」って言って、
テロリストに屈した総理大臣がいたけど
世界中から笑われ者にされたよな。
テロリストに屈する腰抜け国家でいいの?
もっと現実主義にならなくちゃ。
口だけならなんでも言えるけど現実の政治はそんなお子様の理想主義にかまっている暇はないんだよ。
>>210 三浦さん
要求を呑むのではないのです。
しかしボク自身は今回イラク侵攻支持、派兵には正当性を見出せません。
ですから、日本は今回のテロ行為に断固抗議を表明すると共に、全く別件と
いう形で、自衛隊の派兵、並びにイラク侵攻支持を取り下げることを表明すべき
だと思っています。
S、久しぶり
ちらっとみたがだいぶと進歩したな。
ハルカは相変わらず、悲しみのニヒリストだね。
ある意味、ソフィよりも大変そうだな。
>>212 Яさん
えと、済みませんがどなたですか?そのコテ名はちと記憶にないので、、、
恥かしながら、進歩はほとんどしていません。ひよっこです。
ぴかぁ〜だよ。
いや、理性主義は性格からして仕方ないとして、
思想の中に「他者」が現れただけでも大進歩。
>>211 言いたいことは分かりますよ。
僕も自衛隊派兵には何の大義名分もなかったと思いますよ。
それが、一般的な国民の認識でしょうね。
しかしですね、イラクに自衛隊派兵したことで日本にもメリットがあったのではないでしょうか?
北朝鮮問題などでアメリカの助けがいる日本としてはアメリカに貸しを作っておく必要性があったんですよ。
日本としては最後までアメリカと付き合わなければ駄目なんです。
アメリカとの揺ぎ無い信頼関係を結ぶことが日本の国益に直結するからです。
だから、アメリカが言いと言うまで、自衛隊は絶対撤退させては駄目ですね。
今、ここで自衛隊を撤退させればアメリカとの信頼関係は崩れ、テロリストの思う壺です。
もっとはっきり言いますと、現地の日本人の血が少しくらい流れた方がいいと思っています。
>>215 Яさん
ぴかぁ〜さんお久しぶりです。以前お世話になりました。
>>216 三浦さん
目に見える国益重視で地獄まで米国に追従するのが日本にとって最良の選択なのか、
は見解の相違と思います。ボクは日本独自の自律の道を模索すべきだと思います。
こういう話題は政治思想板ですよね?
そうですね。もし哲学にこだわるなら、
哲学で語れる限界は知ることは大切ですね。
哲学の思考の延長線上でこのような問題を正当化することは
とても危険ですね。
>>218 カオルさん
そうですね。スレから脱線しますのでここまでにします。
けど、ボクの問題意識とリンクしてはいるのです。
「存在者−倫理」はあくまで個人が示す倫理(行為)ですけれど。
おやすみなさい。
SがぴかSだろうと、ハルカがぴかSにトコトン向き合うなら納得する。
そうでないなら、悟りスレなんて現実逃避するための茶番。
アンタの書いた通り、ぴかの稚拙なパッチワークだよ。
ぴかS、名無しでビクビク探ってるんじゃないよ。
ばれたくないなら鉄版の管理人にでもなりなw
ハルカ、いい?SがぴかSだろうと向き合いなさい。これが始まりだよ。
>>221 カオル。ぴかSに最後まで向き合いなさい。
(存在者−倫理 「他者」からの暴力)
「わたし」自体も世界に投げ出された、事後承諾せざるを得ない被暴力であること。
しかしながら「わたし」を引き受けるという「自覚」によって、「責任」は「わたし」以前
には遡らないこと。「自覚」した「わたし」が、たとえ「他者」への「応答」をもってしても、
「わたし」は「わたし」の暴力から逃れることができないこと。ここまでは以前に書きました。
しかし「わたし」が連関のただなかに存立するということは、「わたし」が「他者」に
暴力を発していると同時に、「わたし」もまた「他者」からの暴力に晒されてるという
ことになります。現前する「痕跡」の向こう、「わたし」を包む全方位から、「わたし」は
不意に暴力を受ける構造にあるのだと思います。
神−倫理、エゴイズム(個体の維持、展開)要請に則った暴力の応酬、もしくは社会
規範による強制執行力の発動では、本質的に暴力の連鎖を止めることはできない
と思います。だからこその存在者−倫理なのですが、では如何に「応答」するのか、
それは難しい問いです。
はっきりしていることは、如何なる「他者」の暴力であろと、それを受け止め判断する
のは「わたし」であるということ。従って、これまで繰り返してきたように、「他者」の暴力
を暴力として囲い込むのも「わたし」の暴力であり、「自覚」することによって「わたし」
以前には「責任」を遡らない「わたし」にとっては、連関事象のすべてが「わたし」の
「責任」における「わたし」の受苦となります。ですから厳密には、「自覚」した「わたし」
にとって「他者」の暴力なるものはないのだ、ということになります。「自覚」した「わたし」
にとって、それらは隔たりなくすべて、現前する「痕跡」の向こうからの「他者」の呼びか
けなのだと思います。
従って結局は、「自覚」した「わたし」が如何に「応答」するか、に収斂されるのだと思い
ます。ここから先は全くまとまっていないので、とりあえずここまでです。。。
>>186 ハルカさん
>実際何人か『引き算』を分かってる人も見かけたし。
>だけど大多数が『足し算』としか見てないのも事実だしね…(嘆息)
そうなんです。エゴは『足し算』しかできません。
『引き算』ができない片手落ちです。
なぜなら、そうやって、『足し算』したもの、身についたもの自体がエゴですから。
『引き算』したら、エゴが無くなってしまいます。
せかっく、エゴの実がすべて落ちても、また、すぐに『足し算』を始める。
また、何かを身につけてゆく。
「霊的に成長した。チャクラが開いた。能力が目覚めた。」とか
「新しい価値観が生まれた。」とか
前よりも増して大きな戯言になって、前よりも一層大きな『実』になってゆく。
結局のところ『足し算』をしているだけなのです
本当は『引き算』しかないのですけどね。
『引き算』は、決してニヒルとか悲しみとかではない。
身についた妄想を見つけることです。
その妄想の原因を、『足し算』の原因を見つけることです。
『引き算』してゆくと、何もなくなってしまう。
と考えているかもしれません。
それは『空虚』『無』と考えるかもしれません。
しかし、それはエゴの発想です。
実際には、何もなくならないし、何も失わない。
妄想が無くなり、妄想を失う。ことになる。
実際には、何かを持っていた。という妄想が消え、
何も持っていなかった。ということがわかる。
だけです。
>>95 >>101 ハルカさん
『霊』や『生まれ変わり』、があることを前提に話していますね。
私はあるとは思っていないのです。
それが見つけられないからです。
その確信はどこからきているのでしょうか。
確信している、その考えの経緯を聞いてみたいです。
かつての私は、生れ変わりや霊の存在を70%ぐらい信じていたことがあった。
それは、
1)金縛りや、
2)金縛りのときに、たびたび何かの手に触られる感覚があったり、
3)勇退離脱が何度もあった
ためであった。
しかし、疑問もあった。
1)なぜ、いつも眠っているときに起きるのか。これは、夢ではないのか?
2)現実感を伴なっていて、はっきりと感覚があるが、いつも、すぐに眠りに落ちてしまう。
やはり、夢ではないのか
3)もし、霊が体に宿っているとすると、なぜ、通常は離れることができないのか?
このため、残りの30%は、信じていなかった。
またこうも考えた。
もし、霊魂があるなら、生れ変わりがあるだろう。、
もし有るとすれば、人間は人間に生れ変わるのか?
動物から人間、人間から動物もありえるのではないか。
あるとき、「私」という妄想があったことを理解したときから、
どこにも、霊を見つけることができなくなった。
こうも考えた
それに、その霊魂はどうやって生まれたのか。
生まれたなら、死ぬことも有るだろう。
そうすると、この世の肉体と何が変わるのか。
この世と同じとすると、様々な成分から生まれているに違いない。
(この世であれば、たんぱく質、水分、脂肪から合成された肉体)
そのどれをとって私の霊魂といえるのか。
もし、霊魂は永遠とするなら、死ぬことはないとするなら、生まれることも無い。
生まれることがなければ、何かを身につけたり、成長したりすることもできない。
霊魂が成長も何もしないなら、他の霊魂とも同じはず。
同じなら何をもって私という線引きをするのか。
結局のところ、実際にも、考えても、霊魂が見つからないのです。
結局のところ、『私』というエゴの延命策
それが、霊魂とか霊界とかの正体ではないか
と、このように考えているわけです。
>>227-231(Nさん)
まぁ『体験』はおいておいて『理論』からいきましょうか。
何故に『霊』の存在を確信しているか。
私は【生命】の構造を 【芯】−【我】−【私】 の三層構造としました。
この【我】が問題なんです。
私の言う【転生】は一般的に言う『生前の人格を備えた【霊】が転生する』ではありません。
ただ単に『人格ではない【我】=【個体化原理】そのものが転生する』という事です。
【個体化原理】…もっとぶっちゃけて【生命】といってもあながち間違いじゃないでしょう。
【生命】そのものが【輪廻転生】するんです。
【個体化原理】には【虚存】に蓄えられた【集合的記憶】を引き出す力があります。
極稀に『私は〜の転生だ。生前の記憶も完全にある』という人がいますよね?
そういう人は【集合的記憶】から『ある人物が生前に得た記憶』を全て引き出して有しているんです。
『自己同一性』の確認は『記憶の照合』によります。
言い換えれば『記憶の照合』が不可能ならば、今の『私』と以前の『私』が同一であるのか確かめる事が出来ません。
これを逆に考えて下さい。
別の個体であっても『照合された記憶』が完全に一致するならば、それは同一の『自己』です。
同一の『個体』ではありませんが、同一の『自己』なのです。
だからこそ『私は〜の生まれ変わりだ!』なんて思うのです。
エネルギー保存法則ではないですが、全【世界】で【生命】の総量は一定であろうと思われます。
(この【世界】とは、この宇宙だけではありません。【実存世界】=秩序顕現した全次元・全空間を指します)
ですから、ある意味では『生も死も無い』のです。
>>227-231(Nさん)
で、【霊】ですが…
これは構成成分が異なるだけの【肉体】を纏った【生命】だと考えています。
纏う【肉体】の構成成分が異なるからこそ、分かる人分からない人が別れるのでしょう。
その『異成分』を感知出来るチャンネルを有していなければ、一切の感知が不可能なのでしょうね。
そして、この【霊】も【肉体】を纏った【生命】ですから永遠では有り得ません。
必ず【肉体】が滅び分解されることでしょう。
ですから、ある意味では『断見』も正解だと言えます。
『その人そのもの』が【転生】するのではなく『【生命】そのもの』が【転生】するだけですから。
同一の『個体』ではないのですから。
(記憶によって『自己』の同一性は図れますが、それはあくまで『自己』だけです)
永遠なのは【霊】ではなく【生命】そのものだと思われます。
【生命】そのものは『生まれる事はなく死ぬ事もない』のです。
成長したり、進化したりするのは『記憶』であり『個体』です。
【生命】そのものではないのです。
この『【生命】そのものの永遠性』が『輪廻の輪』であり、この『輪廻の輪』から外れる事が【解脱】です。
二度と『生まれる』(個体化存在として顕現する)事がなくなる−【生命】からの卒業。
これが【解脱】です。
【悟り】とは全然違います。
これは【生命】にとっては『反逆』『大罪』であり、【我】にとっては『極限の恐怖』です。
だから『逃げ出してきた』のです(苦笑)
この
>>232-233は所詮後付けの理論です。
『先ず体験在りき』で『体験に矛盾しない論を組み立てたらこうなった』というだけです。
ですが、これは100%ではないにせよ大筋ではあっていると思います。
>>227-231(Nさん)
追加。
【霊界】というのは
形の違った【生命】である【霊】が顕現する基盤となる【実存世界】の一つ
−といったところでしょうか。
あ、言い忘れてた。
前述の理由により、私は…
漫画にありがちな『前世からの使命』だとか『〜の因縁』だとか『〜の運命』だとか『〜の愛』だとかは、全て否定しますから。
『自分は〜の生まれ変わりだ』っつーのは否定しませんけど…
だからって『〜の生まれ変わりの私には〜の使命があるのだ』とか『アナタと私は前世で恋人だった』とかの妄想世迷い事に対しては『馬鹿?』の一言のみです(苦笑)
【我】の実の成熟度合いだけは『次回生誕(=個体化顕現)時の設計図』に影響します(言わば、実の成熟度合い=【我】の許容量のようなもの。一番最初の限界値。生存中に許容量up可能)が、それだけです。
だから『前世の因縁で〜云々』言う輩は『馬鹿』と断言しちゃいます(笑)
『自分は〜の生まれ変わりだ』言う輩は『馬鹿』と断言しちゃいます(笑)
>>232 ハルカさん
【霊】あるとすれば、この【我】しか可能性がないのですよね。
この【私】という元、または『エゴ』、または『自我』、もしくは、『因果を繋ぐ鎖』、つまり『輪廻の輪』
これらは、はっきりと認識できるものです。
※輪廻:輪廻転生の意味ではなく、『自由』の束縛、執着、迷いという意味。
この【我】が【霊】というなら・・・
うーん。ここは、すらすらと、書けないね。
>>233 ハルカさん
>この『【生命】そのものの永遠性』が『輪廻の輪』であり、この『輪廻の輪』から外れる事が【解脱】です。
>二度と『生まれる』(個体化存在として顕現する)事がなくなる−【生命】からの卒業。
>これが【解脱】です。
>【悟り】とは全然違います。
>これは【生命】にとっては『反逆』『大罪』であり、【我】にとっては『極限の恐怖』です。
うーん。これは、解釈が違いますね。。
勝手にアレンジしますけど・・・
この『【我】そのもののシステム』が『輪廻の輪』であり、この『輪廻の輪』から外れる事が【解脱】です。
二度と『執着する』(個体化存在として顕現する)事がなくなる−【我】からの卒業。
これが【解脱】です。これが【ニルバーナ】であり、これが【悟り】です。
これは【我】にとっては『反逆』『大罪』であり、【我】にとっては『極限の恐怖』です。
>ハルカさん
『極限の恐怖』は恐らく『虚無』への帰還のことでしょう。
これは、私には【我】が感じる恐怖だと認識しました。
違っていたでしょうか?
【芯】が恐怖したでしょうか?【生命】が恐怖したでしょうか?
なぜ、聞いているかと言いますと、
もちろん、認識の違いがなぜあるか?が発端です。
私の認識していないことをハルカさんが認識したのか。。という点です。
ま、ここに興味がそそられるのです。
私の認識は、いたってシンプルです。
全ての原因は【我】ですから。
話が脱線しちゃいましたが、
「この【我】が【霊】というなら・・・」以降、
何とも、書けないってことです。
いやもうほんとにだいじょぶかと。
おいおい。しっかりしろよと。
>>240(Nさん)
>『極限の恐怖』は恐らく『虚無』への帰還のことでしょう。
そうです。
まぁ『帰還』という言い方も何なんですが。
>これは、私には【我】が感じる恐怖だと認識しました。
>違っていたでしょうか?
【我】が感じる恐怖ってのも違ってはいません。
でも、それだけじゃないのですよ。
>【芯】が恐怖したでしょうか?【生命】が恐怖したでしょうか?
そもそも【芯】には『人格』は存在しません。
恐怖を感じる事もありません。
何せ『認識され得ない認識主体』なのですから…
つまり、『【虚存】そのもの』であり『【意識】を顕現させる座標』でしかない−言ってみれば『部品』なのですから。
しかし【生命】は違います。
【生命】は『意思』を持ちます。
至極単純な『在り続けたい』という『強烈な欲望』を。
『無に消えたくない』『無から逃げたい』という『恐怖』を。
【生命】は【絶対の有】です。
【虚無】は【有】の対極−【絶対の無】です。
この二者−【絶対有】と【絶対無】は、それぞれ『ある境界』で分割されています。
その境界を超えて行こうというのだから『極限の恐怖』があるのはある意味当然では?
ですから、私の味わった恐怖とは【我】と【生命】が同時にあげた悲鳴だったのでしょう。
(今から思えば、私は直に【解脱】方向へと歩んだのだと思います…先に【我】を落としとけと言うに)
私のと少し違うようですね。
私の手順は次のようなものです
絶望⇒私が消えかかる⇒静寂⇒恐怖⇒諦め⇒帰還⇒無思考⇒我が消える⇒主客一体⇒慈悲の心
⇒伝えようという願いと希望⇒我の再構成⇒再び輪廻へ
補足説明しておきます。
望みが絶たれることによって、私という感覚が数日かけて、消えかかっていった。
私が消えかかるとき、静寂が訪れた。静かな心地よさが漂っていた。
望みがないとき、動機がなく、思考も静かになった。
とても、心地よかった。
しかし、まだ、感情が渦巻いていた。
私が消えかかることに恐怖と痛みを感じたが、それを了承した。
すると、静かになり、思考自体が消えた。
ただある。ただ存在する。何も無い。無思考になった。
再び静寂が訪れた。
しばらくして、突然、我が消えた。主客の区別が全くつかなくなった。
そして、慈悲が生まれ、伝えようという意志と願いが生まれ、
それにより、我が再構築され、再び我の鎖につながれた。
247 :
考える名無しさん:04/04/17 13:29
>246
!
248 :
考える名無しさん:04/04/17 13:55
>244
?
249 :
THE グル:04/04/17 14:08
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< ていせつていせつ!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩∧ ∧∩\( ゚∀゚)< 定説!定説!定説!
ていせつ〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
 ̄
250 :
考える名無しさん:04/04/18 22:36
エヌさんの悟りをもって、このスレは終了しました。
皆様、長らくのご清聴ありがとうございました。
ち〜ん! 南無・・・・
なにが「ち〜ん!」だ
この痴女が
あれ松虫が、鳴いている♪
ちんちろちんちろ、ちんちろりん♪
やっと埋もれてきたかな。
>>245-246(Nさん)
ん。
違うようですね。
えぇと…
前にして貰った分類で言うなら、Nさんは『菩薩的』で私は『声聞的』ってとこですか。
『最初に自分が【楽】になる』って一点は共通してるけど、その後が違う。
Nさんは『慈悲心から伝えたい』
私は『他人なんざ知ったこっちゃない』
ま、これは完全に好みの問題ですからね(苦笑)
254 :
考える名無しさん:04/04/19 18:09
>253
ぼんぶですけど、そんなに、冷たくしないでね
>『慈悲心から伝えたい』
んー。好みじゃないんですね、これが。
慈悲が意志とは関わり無く勝手に出てゆくのです。
コップに水が満ち足りた。でも、水は流れていってくれればよいが、流れていかない。
仕方なく水を撒くが、撒いても撒いてもすぐに戻ってくる。
仕方なくたくさん受け取ってくれるひとを探すわけです。
でも、誰に撒いても無反応なんですよ。これが・・・。
今じゃなく、昔の話です。
>>197-204 カオルさん。
何ということでしょう!わたしは、今心から感動しています!わたしは、あなたという
一つの天才に出会っています!本当に感服致しました。貴方は、中心を掴みつつあると思
います。わたしは、本当に神様に心から感謝します!貴方は、貴方の質問への答えを既に
持っているのですよ!ある貴い方が、わたしのあり方をご存知でこう仰ったようです。本
当に大事な事を、まだ言い得ていない。それは、もう一人の貴い方が、真実の言葉を生む
のに、未だ苦心されているからだと。全てが、明らかにされる秋が必ずまいりますよ。全
ての人々が、心から改心し、納得も得心もゆく真実の真の愛と真理がヒトスジのマコトを
もって満天下に明らかに示される秋が、必ずまいりますよ!それは、食ということですよ!
>>カオルさん。
それに、貴方のお返事下さいました日は、とても大切な4月8日なのですよ!
48は、いろは48音、母を示しますよ。4月8日を調べてみてご覧下さい!
きっと、素晴らしいお気持ちになられることでしょう!貴方は、共時性という
ものを、お信じになりますか(笑?共時性をわたしは、とても重要なことだと
思っております。
大変失礼しました。お許し下さいね。
ハルカさんの気の強さに萌えました。
もうちょっとしたら彼女の「ハルカ論」を論破する予定です。
そこでここのみなさんに質問です:
「ハルカ論」はどこで参照すればいいのかな?
>私は『他人なんざ知ったこっちゃない』
そんな奴がなぜ他人にちょっかい出す?
その発言は自己陶酔だろうが、自分の行動と矛盾していることには気づいてるんだろうな。
知ったこっちゃないなら一人で解脱しろよ。
っていうかここにいる意味がわからん。
みんなと関わり合いたい自分をどうとらえるよ。
>>259 それは表情の "誇張" だよ。259 は他人の心理状態しか表していないステートメントを
攻撃すべきではない。
もし A が体のある任意の場所でならば、「あーーーー、A が死ぬほど痛てーーーーー。」
と一度はおまえも逝ったことがあるだろう? その時お前は自分自身が「死ぬ」などとは
夢にも思っていないはずだ。それと同じようなものだよ。
そんな駄レスするのならば俺にまず彼女の「ハルカ論」をどこからで参照すればいいの
か教えろ!!
ちなみに俺も『(興味のある人物をぬかせば) ここの板の人物なんぞ知ったこっちゃな
い』。
昔のやつだけど…。
《人間の構造》
[A]精神
【芯】⇔『決して認識され得ぬ認識主体』
----->『虚存』としての混沌である『ただの存在』。
意識の根源としての中心点。
【我】⇔『強制事項としての個体化原理』
----->『実存』としての『生』の形態の原理。
思考・感情等『意識活動』の原点。
【私】⇔『自律自己と盲信されている影』
----->【我】の原理を『言語化』という過程を経て表象化した『個性』。
『現象』として表面化する『意識』『思考』『感情』『記憶』の総体。
[B]身体
【体】⇔『個体化原理により顕現した場』
----->【我】の原理を『物質』に宿らせて表象化した『肉体』。
【我】と【私】を接続する橋渡し的な『場』であり【我】を現象界へと顕現させる道具。
《各部詳細》
『決して認識され得ぬ認識主体』とは?
ただ『在る』という存在そのもの。
何者でも無い存在意識の『本体』である『意識体』。
中心に在って不動のものであり、全ての知覚認識の対照となる反象。
『強制事項としての個体化原理』とは?
『個体化原理』とは『虚存』を『実存』へと変化させ『生命』へとシフトさせる『因』である。
以下の特性の総体を『個体化原理』と称す。
○秩序性 … 自己を『実存』として『虚存』(混沌=無秩序)から分離する。
○稼動性 … 本来不動である『意識』を中心点から分離し稼動させ『知覚』とする。
○分類性 … 『言語化』という『認識手段』を経て知覚情報を各カテゴリーへと分類する。
○蓄積性 … 知覚配列物を『記憶』として自己の内部に蓄積する。
○照合性 … 記憶配列物を比較対照し『思考』活動を行う。
○多動性 … 複数の思考配列物を『意識』が往復し『感情』を発生させる。
○閉鎖性 … 時間的・空間的に『境界』を想定し『自他』の関係性を成立させる。
○合理性 … 【体】(身体系)を基盤とした非言語的な維持回路。
○生命種 … 『物質』と『生命』との壁を越える根源力となる何か。
更に最も重要な点だが…
『実存』として存在を続ける為には一瞬足り共『完全な静止』は許されない。
これは『止まるな。動き続けろ』という至極単純な命令が組み込まれている事を意味する。
その命令は完全に『強制事項』であり、尚且つ『強迫観念』的な『本能』として刻まれている。
『自律自己と盲信されている影』とは?
【芯】(『認識主体』)を【我】の有す『分類性』によって客体化する事で発生する『自己意識』。
更に【我】の『個体化原理』をも『分類性』によって現象化させ『個性』として加える事で表象化する『意識』。
それは『私が』『私は』等の『自我意識』に繋がる。
と同時に『個体化原理』の有す『知覚認識』『記憶』『思考』『感情』が表面に顕在化する。
(無論、その全てでは無く【我】(『個体化原理』)のサブセット的なものに限定されるが)
【私】は【我】に隷属し【我】は【私】を支配する。
『個体化原理により顕現した場』とは?
『生命』として現象界で活動を行う為に必要となる道具としての『肉体』。
その基本はあくまで【我】(『個体化原理』)に在る為、その支配下にある。
【私】の命令よりも【我】の命令の方がプライオリティが高い。
『生存本能』などは良い例であろう。
【静止】(=『悟り』)とは
『個体化原理』そのもので在る所の【我】を滅し、【芯】−【我】−【私】の多層構造を【芯】−【私】の二重構造に変える事を意味する。
これにより『個体化原理』による心理的二元分類(ラベリング)から脱する事が可能。
と同時に、【我】に含まれる『生命種』の消滅により永劫の輪廻からの脱却=現世が【生命】としての【存在】の終わりとなる。
つまり、存命中は『心理的な【静止】』が表面化し、死後に『物理的』『存在的』にも【静止】が行なわれ『完全なる【静止】』となる。
―ここまで。いつのものかもわからない。とっておく俺も俺だ。
これは、明らかに部派仏教とか上座部仏教とかの教えに拠っている、っつーのが俺の見解だった。
しかし、まぁいろんな人がやってくるものだなぁ。
トリップを変えてみた。
どうもありがと、鉄冠子君。まあ、これだけの情報じゃかなり説明不足のような気がす
るが暇な時、ハルカに攻撃でもしてみよう。
ハルカも自分の今の理論と
>>262-264 に記述されている内容が相違するようであれば、
ここにポストして頂戴。
>>266(☆さん)
相違点一切無し。
(鉄冠子さんありがとう!ただ、上座部を参考にしたんじゃない。逆に相似を指摘されて驚いた位)
が、以前は不明だった【芯】の【意識点】について考えがある程度纏まったんで追記。
○【芯】とは
まず【英知界】において【虚存】と【意識】は不可分のものとして混じり合っている。
そして【現象界】に関係性を持つ際の接点として【意識点】がある。
この【芯】内部の【意識点】は【英知界】と【現象界】を繋ぐワームホールの出口=ホワイトホールのようなもの。
(同様に【英知界】側にも【意識点】がある。こちらは、ワームホールの入口=ブラックホールのようなもの)
【意識】は【現象界】に顕現すると球状に『凝縮』するものだと思われる。
この『凝縮』した【意識】を仮に【意識極】と名付けよう。
この【意識極】は本来【芯】に固定される筈だが【個体化原理】の作用によって遊離稼働し、各種の精神活動が行われる。
しっかし、ハルカ論て何?って言ってる人が『反論』ねぇ…
私が言ってきた内容を知らない内から『攻撃する』ってかい。
『まず攻撃ありき』で、どこを攻撃するかは考えてない、と。
何だろうねェ…(苦笑)
> しっかし、ハルカ論て何?って言ってる人が『反論』ねぇ…
フフフ、ほぼ全てのリアルシステムには矛盾、多義性が含まれているもんだよ。それが
ハルカの語りたい形而上学的理論であればなおさらだよ。
でもここでの「攻撃」は悪い意味で逝ったわけではない。もしあんたが Paraconsistent
Logic を受け入れる (はたまた、あなたはそれを受けいれざるを得ないかもね、ウフ)
ならば、矛盾はあんたの理論を強めるものになるかもしれんし・・・。
>>269(☆さん)
えーと。
勿論、矛盾点があったりして追求される事は覚悟していますよ。
だけどね。
まず『反論』なり『攻撃』なりが目的で、後付けで論の矛盾点を探すって態度が気に入らないだけ。
>>260 >その時お前は自分自身が「死ぬ」などとは夢にも思っていないはずだ。それと同じようなものだよ。
まったく馬鹿ばかりそろって・・・仲良しこよしかい。あなたの指摘は的外れ。
あんたの大好きなハルカちゃんはここで誰が読んでもわかる形で『他人なんざ知ったこっちゃない』
と書いてんだよ。「同じ」かよ。
ここにいるのは誰かに(おまえとかな)自分を褒めてくれる(ハルカ論信者だろうけど)ことを
期待しているのかどうかあたしゃ知らんけど、現実にそうして他人に気を使われ他人に気を使っている。
ひとりごとなら日記に書けばこういう駄レスもつかなくてよ。
自分のことを気に入ってくれる人だけ相手にしたいんだから
『あたしに関心のない他人なんざ知ったこっちゃない』
とでもするんならとてもよく理解できるね。
他人のことに関心があり、自分のようになって欲しくないのか、もしくはこうあって欲しい理想像があるのか、
はたまた今模索中でよくわからないけど思いつきで書いてんのか、さっぱりわからんけど、
他人のこと知ったこっちゃない人間の行動じゃないのは明白。
あんたはなんでハルカ論が気に入ったの?
>>271 > 仲良しこよしかい。
俺はここでお前が逝っている「仲良し」は「1つでも同じ概念を所持している」と受けとっ
た。もしそうであれば、それは何だよ? 俺はハルカのステートメントを表現の誇張と言っ
た。しかし、ハルカ自身はそのことについて何も述べていないだろ? おまえはそれにつ
いて勝手に「ハルカもたぶんそう思っているだろう」と仮定し、そこから「仲良し」を
推論したんじゃないのか? そうであれば、おまえがあまりにもアホでわかっていないよ
うだから、言わしてもらう: 「仮定は事実ではない」。 脳にそれをタトゥーしとけよ。
> あんたの大好きなハルカちゃんはここで誰が読んでもわかる形で『他人なんざ知ったこっちゃない』
> と書いてんだよ。「同じ」かよ。
うん、「同じ」。 おまえが俺の言ってることを理解してないだけ。つーかおまえは俺の
言った「表現の誇張」がおまえの主張していること自体は否定していないということに
気付くべき。
> ここにいるのは誰かに(おまえとかな)自分を褒めてくれる
ん? 俺が何時ハルカの思想を褒めた? そんなこと一度もないようなのですが? 実際、俺はハ
ルカの理論自体が穴だらけのシステムだと思ってるし。
あと、お前がうっせーーからここではっきり言ってやろう: ハルカの言った『他人なん
ざ知ったこっちゃない』、つまり「自分以外の全ての人間はハルカの思考外」はたんな
る表現の誇張であり、ハルカは実際には多かれ少なかれ他人を気にしている。これが俺
の言ったこと。わかったか?
> あんたはなんでハルカ論が気に入ったの?
あなたはマジで俺の前レスを読んでからここに書き込めよ。俺が何て言いながらこのス
レに来たか覚えてるか?
『 「ハルカ論」はどこで参照すればいいのかな? 』
// しかし、ここまで他人のレスを理解しないで書き込む輩も天然記念物並だな。w
> まず『反論』なり『攻撃』なりが目的で、後付けで論の矛盾点を探すって態度が気に入らないだけ。
んー? ハルカは本当に俺が「攻撃」のみの目的でいちいちハルカ論を学ぼうとしている
と思ってるのか? ある予期、もしくは期待、があるからこそ 国は戦争を勃発する。そ
のように、普通 (攻撃するものが理性的であれば)、「攻撃」には期待が共なうものであ
る。その傾向は俺にも (すくなくともこのスレ内では) 合てはまる。
『反論』の部分:
俺は「反論」とは言っていない。「論破」すると言ったんだ。
275 :
考える名無しさん:04/04/22 23:37
文字は踊るされど悟れず
>コンガラ童子さん
素敵なお話しを聞かせて頂いてありがとうございました。
(初対面での失礼をどうかお許しください)
人類に、いえすべての生きとし生ける物と世界に平安が訪れますように。
>>222-223さん
貴方の言動にずっと心を痛めていました。でもそんな貴方も受けとめます。みんな大好き。
没我的な断罪妄想の向こうを見出せたら、またお話しましょう。
哲板は哲学カテに惹かれて集まったみんなに等しく開かれた自由な場。
貴方の奔放な言動も、そうした自由と多くの方の寛容さに支えられているのだと思います。
かけがえない隣人への眼差しを持って関われたら素敵ですね。(^.^)
>>88 再記します
>今の展開から何かが変わるわけではないです。
ということですので、宜しくです。
追伸
鉄冠子 さんもどうか遠慮なさらないでください。今話せなかったら二度と話せないかもしれない。
ハルカさんがここにいること。カオルさんがここにいること。あなたがここにいること。
刹那の時は二度と還らないから。
(自己自律/存在者−倫理 「応答」)
有限なる「わたし」にどこまで「応答」できるのか、あからさまに敵意や怨恨を剥き出しに
している呼び掛けにどう「応答」できるのか、「応答」すら利用されるなら一体何ができる
のか、ずっと悩んでいました。それはやっぱり言葉で気安く語れることじゃない。
言葉に溺れている間は没我的な欺瞞に浸っているだけ。例えばナイフを突き付けてきた
隣人に対しどうこうと雄弁を延々書き記しても、それは倫理じゃない。ただの虚栄です。
倫理は「自覚」した「わたし」が「他者」(超越)へ向かう「眼差し」と「行為」と書きました。
そして際限のない「責任」と「罪」を背負うものであるのだと。
それだけで十分、というか、その先は語れない。ただ示されるものなんだと思います。
この一連のスレもハルカさんの真剣な問いをボクが受け、応えることから端を発し、現実に
直結した関わりがリアルタイムに進行しています。それは雄弁したり誇示するようなこと
ではないし、相対化もできない。引き受けた「わたし」の「あなた」への「応答」、、、存在者
間の自律的な交わりがそこにあります。だからこそ、この特殊なスレそのものが「倫理」
(価値)であったのだと、そう過去に書いたのです。
そして変わらず「わたし」は「あなた」に向って「応答」するのです。
「わたし」はここにいます、と。
「あなた」の苦しみは「わたし」の苦しみであるのに、「わたし」は「あなた」に代われはしない。
いえ、代われはしないからこそ、個々の存在者は超越に向き合う自律者として独り立つのです。
瞬間、自律する「わたし」が個体化の原理を越えて「あなた」に関わる時、
その無償の行為はあてがわれた「わたし」も「あなた」も越えて、倫理(価値)を生み出すのだと思います。
名もなく生まれ儚く散ってゆくすべてのものへ祝福があらんことを。
ありがとうございました。m(__)m
>Sさん
ハルカはエゴを極限まで肥大化させたから、そういったことを考えるよう
になったのかな?
あと君はいつからなぜこのような事を考えるようになったの?
おれはEOの本とか読んで「ああこの世の仕組みってこんなんなってんだー
なんか頑張るの馬鹿らしいな」とか思って世間の目を気にせずにダラダラ
生きるようになった。でもなんかつまんないんだよね。俺は何かを努力して
人に認められる事に生き甲斐を感じる人間なんだと改めて思った。
それが何の価値もない事は百も承知だけど。
だからSさんとかハルカみたいな人を見ると、よっぽど何かに努力した事が
あり、それで成功したとか取り返しのつかない失敗をしたとかで、ここで
語っているような思想をするようになったのかなーと思う。
いずれにせよ、俺はもうちょっと成功するか失敗するかしないと本当の意味
でここで語られているような事は理解できないんだろうなと思う
>>277 他のスレも含めて、書き込みをしなくなって数週が経っている。
何か魂が抜けたようで、レスすることに情熱を感じない…。
日常生活でも、
他人の言葉に聞き捨てる以上の価値が見出せない。
おのれの他者への言葉も吐き捨て以上のものになっていない。
哲学のことを考えるのも見事に減った。
俺は君と違って誰も好きではないのかもしれない。
あー、でもこんなことを書いていると、自分がマスクを脱ぎ捨てている気分がする。
同時に、こんなことを告白するのに用いる勇気の大きさにも気付く。
今まで一人で対処してきたのだし、この掲示板では誰もこんなことを相談していないから。
…要するに、意欲を失ったことに自分でも困っているってことなんだけど。
>>281さん
>それが何の価値もない事は百も承知だけど。
わたしはEOの著作は読んでいないのだけど
HPを読んでみたかぎりでは、EOは
精神と肉体をフルに使って「全力で生きて」みないと
「なにも見つけられない」っていってるように感じました。
なにもしないで人生に「何の価値もない」といってしまう人を
毅然と叱っているように思えました。
たとえばあなたが愛とは何かの答えを教えてもらったとして
あなたは全身全霊でだれかを愛したこともないのに"それ"を
さとることができるでしょうか?
ハルカやSさんは命懸けで人生を駆け抜けている最中なのです。
〜だから〜の「結果」じゃないと思います。
EOは命懸けで生きてみて「あぁもうこれで死んでもかまわない」
という状態は、すでに死をこえているといっています。
まずはこのような事態にまで自分を追い込めるかどうかだと思います。
EOやハルカのいう解脱は、この精神死の先の話なのではないでしょうか。
またSさんのいう自己の自律は、このような精神死に満足しないで
さらなる理性によって自己を呼び戻し、くりかえし反省していくことで
もっとその先の他者にポジティブにかかわって(応答して)いく行為のなかで
徹底して自己の欺瞞や利己的心性を排していくという決意のことで
どこまでも自己を純化(自律)させていこうとする志向性のことではないでしょうか。
>鉄冠子さん
わたしたちはマスクを脱ぎ捨てて話し合ってきました。
スターダストにも命のメモリーはあるということを。
一期一会のときに論理ではなく命の言葉の応答を。
死にたい 生きたい あなたの死を覚悟しながら
この悲しみは胸の奥からまっすぐあなたにそそがれます。
あなたがいるからわたしは応答できます。
あなたがいるからわたしは愛することができます。
あなたがいるからわたしは生きていくことができます。
あの人に恋したときあなたは意味を求めていましたか。
意味をこえて抱きしめていたのではないですか。
わたしの生きることの意味、あなたに応答できること。
あなたは?
必死にしがみついているのです。叫んでいるのです。それだけなのです。
何度も挫けました。裏切りました。
それでもあなたのおかげで、ボクは今も「生きて」います。
>>281さん、鉄冠子さん
ボクに何かわかったようなことは言えない。というか今もわからないんです。
過去、何度か「我有化妄想の剣を突き立てないで」とはいいましたけれど、これはボクの実感として、
「あんたはこうだ、あんたはやめろ、あんたは罰をうけろ」というようなお仕着せや排他姿勢に反発で
きたから言えたのでした。
わたし(たち)が生み出されなんらかの仕方で現象しているということは、それ自体、即自的に
肯定されている絶対の価値(神−倫理)なのだと思います。個体化現象として相対的に移ろう、
「わたし」不在の絶対の価値です。わたしであろうがなかろうが、何をしようがしまいが、自体として
成立しているであろうこの世界総体はびくともしないし、「わたし」として自覚(存在者−倫理)した
ところで、それも神−倫理に回収され、掌で踊っているだけ。上位存在がどうとかよりもっと根源的
に、すべての存在者は無垢なのだと思います。
わたしは食らう。わたしは欲情する。理由は不在です。でも無垢のままではいられなかった。だから
苦しいです。きっと神様から即自的に祝福されているのでしょうに、「わたし」として自覚したらその
祝福が存在苦に変わってしまう。
ボクが「みなよく生きている」とか「みんな大好き」とか言って必死にしがみついているのは、神−倫理
、世界の無垢なる即自性に対する反抗です。でも神−倫理の前では常に空しくて、そして引き受ける
にはあまりに罪深くて、「わたし」が崩れてしまう限界に立っています。相対的に移ろう円環が螺旋を
描いて上昇するような、そんな実感なんてどこにも感じられない。それでも応えてくださる「あなた」が
いてくれて、辛うじて踏み止まってられてます。「わたし」として連関世界から脱することもできず、虚無
へと解脱することもできないボクにとって、「あなた」とのか細い絆、存在者間の絆が、この相対世界の
砂漠での、ボクの唯一の希望です。
(存在者−倫理への疑問)
大切な価値を「みんな」に広げれば、差異を認め許し合えば、暴力の連鎖は止まるでしょうか。
「わたし」が蒙る暴力(呼び掛け)は「わたし」が引き受けるとしても、
隣人が隣人によって暴力を振るわれるのを前に、「わたし」に何ができるのでしょう。
その暴力を代わりに受けること?
その暴力を排除する(暴力を振るう)こと?
傍観すること?
大切なひとが殺されようとしているその時に、その暴力を「わたし」が受けて、
それで何になるのか。倫理は成立するかもしれない。「わたし」という贄によって
悲しみは示されるかもしれない。人は少しずつ学ぶかもしれない。
けれど「わたし」が身代わりになって、残された者が嬉しいはずもない。その
大切な人はどんな選択よりも、「わたし」と一緒にいられる選択を望むのではない
だろうか。大切な人のいない世界に残って、その者にとって意味なんてあるのだろうか。
倫理は示された。法は整備された。それが一体なんだというのか。個人にとって大切な
あのひとの代償なんてない。不当な暴力を叩く正当な暴力こそは倫理を越えるのだろうか。
>>284、
>>285 俺の、裸の顔を見るのはやめろ。
仮面を被っているのでないのを互いに確認できたら、もう充分でしょ。素顔には探るに足るものはないと思うから。
『愛するということは、お互いの顔を見つめる事ではなく、一緒に同じ方向を見つめる事だ』―サン・テグジュペリ
どうだ、違うか? 今までの人生で、人はどうだったろう?
…というわけで話を進めましょう。(調子よすぎの仮面に見えるかな? クソッタレメ)
>>283 カオルさん
>EOは命懸けで生きてみて「あぁもうこれで死んでもかまわない」
>という状態は、すでに死をこえているといっています。
>まずはこのような事態にまで自分を追い込めるかどうかだと思います。
>EOやハルカのいう解脱は、この精神死の先の話なのではないでしょうか。
これ、すごく同意。
前者が俗に言う「悟り」で、後者が極少数の人が追求している(結果、「小乗」という蔑称をもらったりもする)「解脱」だと思う。
>またSさんのいう自己の自律は、このような精神死に満足しないで
>さらなる理性によって自己を呼び戻し、くりかえし反省していくことで
>もっとその先の他者にポジティブにかかわって(応答して)いく行為のなかで
>徹底して自己の欺瞞や利己的心性を排していくという決意のことで
>どこまでも自己を純化(自律)させていこうとする志向性のことではないでしょうか。
ふんふん、なるほどね。以下のレスの為に、丸ごと頂戴するに足る内容だ。
>>285 Sさん
>ボクが「みなよく生きている」とか「みんな大好き」とか言って必死にしがみついているのは、神−倫理
>、世界の無垢なる即自性に対する反抗です。でも神−倫理の前では常に空しくて、そして引き受ける
>にはあまりに罪深くて、「わたし」が崩れてしまう限界に立っています。
もしかして、「世界の無垢なる即自性」…この発言に君のニヒリズムが篭っているの?
砂漠の只中で、「みんな大好き」と言っておきながら、背負いきれない重みに、苦しんでいるということ?
無理して背伸びした杭は、目立つが故に、さぞかし強く叩かれるだろうからね。
こっちは別の手を打った方が無難だろうね。
>>287 >隣人が隣人によって暴力を振るわれるのを前に、「わたし」に何ができるのでしょう。
>その暴力を代わりに受けること?
>その暴力を排除する(暴力を振るう)こと?
>傍観すること?
小規模なネタを例として披露していいかな?
この前、仕事中、顔だけ知っているAさんが、馬鹿馬鹿しい感じの理由でBグループと口喧嘩しているのに出くわした。
両者、直情が理性を支配している状態なのが、主張を譲らないその態度から容易にわかった。
そのうちに、Bグループの一人が、俺が黙って傍観しているのに気がついて、「あんたは気にすんな」と言ってきた。
この時点で三者にハッキリしているのが、
・三者とも言葉を交わすのは初めてであり、今後もそういう機会はありそうにない
・三者とも、めいめいの仕事の時間に、この奇妙の時間が割り込んでいる状態である
要するに、長引いても三者に利はない、なので、
「俺は、どうにも口が下手糞なので、仲裁に入ることができない。でも殴り合いになりそうなのを無視することもできない」
みたいなことを言って、ジッと両者を見ていた。
とにかく、硬直的な考え方を改めて、軟体生物になってもらいたかった…。
それで、ほとぼりが収まって、両者が別れた後、その日じゅうに機会を見つけて、両者の言い分を流すように聞いた。
どう?! この例? ただ単純に「現場を共有するとか、おなじ見地に立つ」姿勢を示すこと、
それ以外の一切は、もう自分だけの秘密であること。傍観ではない、観照であるような方法。
とりあえず結果は、
・暴力沙汰はなし
・三者とも残りの仕事を怠ける時間を失った、…くらいだったんだけど。
でも、昨今のニュースで騒がれるような国家規模の悶着に、個人が同じ見地に立つというのは不可能だろうねぇ。
>>S ◆4Ijqvx1jbw
Lo, ye the self-tortured individual!
あなたは自分を抱えきれずに自己を蟻地獄の巣に身を放り投げだクジラである。
そのまま底に落ちてしまえば良かったものを・・・。
否、あなたは天に出口を求める。 -- 未だ天には必ず出口があると信じながら。
故にあなたはその妄想に首を締められもがき苦しむのだ。
いまだに倫理とは滑稽な・・・。
ここで一言いってやろう:
「出口」 などないんだよ!
あんたはただ、妄想に救いを求め、それに縛られ、それに苦しめられているだけなんじゃ
ないのかい?
その「妄想」を解いてみれば、あら不思議;
あんたが今いる地獄の巣から抜け出した自分を見つけれるだろうに・・・。
Thus, as is often the case, let this be said: "At night all cows are black!"
>>290 鉄冠子さん
エゴイズム(個体の維持、展開)のための、無垢なる無窮の抗争。それを自覚しなければ苦しむ
こともなかったでしょう。けれど悲しみを覚え、自らの醜さを知った「わたし」は無垢ではいられない。
いえ、目をつむることはできるでしょう。無責任、無関心を装えば、世はこともないのですから。
無難、、、とは総じてこのようにあてがわれた形式に埋没することなのだと思います。「仕方ない」
それで済ましてしまう「わたし」も「あなた」も不在の世界。
もしも無窮の抗争、暴力が暴力を呼ぶ連鎖に楔を打つことができるとすれば、それはそれを生み
出す当の者、「わたし」の自覚においてより他にないでしょう。だからこそ、この苦しみは神にあて
がわれた不条理ではなく、「わたし」が引き受けた「わたし」の苦しみなのです。ただ、有限なる
「わたし」、まして格別の能力をもつわけでもない、吹けば消し飛んでしまうようなボクは、常に
限界状況にあります。それでも諦めない。そして諦めないで立っていられるのは、耳を傾け「応答」
し、叱咤してくださる「あなた」がいてくれるからです。
>>291 鉄冠子さん
鉄冠子さんの挙げてくださった例は、それほど緊迫した(生死に関わるような緊急事態)ではない
状況において、鉄冠子さん自らが関わってゆき、やんわりと「応答」したのだと思います。面倒なこと
に巻き込まれるリスクを負いながら。それは無関心、無責任、という傍観とは明らかに異なります。
>「現場を共有するとか、おなじ見地に立つ」
個体化の原理を看破して「あなた」の苦しみは「わたし」の苦しみであるということ。
にもかかわらず我有化の傲慢を看破して「あなた」は「わたし」の触れえざる「他者」であるということ。
同胞と畏敬というかけがえない倫理をもって他者と関わることと思っています。
>>292 ☆さん
出口はない、から踏みとどまっています。
天にも底にも救いを求めないので、「わたし」として関わりに責任を持ちます。
もしも出口を求めるなら、その試みがハルカさんの解脱なのでしょう。
『CASSHERN』観ました。紀里谷さんの思いに共感します。
>>287 つづき
けれど、暴力の連鎖にあっては、「わたし」も大切な「あなた」も残りはしないだろうな、
と思うのです。暴力の果てに残るものは、血まみれのワタシとアナタ。そして変わり果てた
痕跡。報復の応酬。幸せになんてなれはしないのです。
分かち合うこと。認めあうこと。箱庭に共に住まう我々にとって、これ以外に何がありましょうか。
>>294 S ◆4Ijqvx1jbw
答えに強みが感じられない。 あんた俺を恐れてるのかい?
なんで自分を倫理などという縄に吊そうとするよ?
なんで自分の自由を自ら捨てさろうとするよ?
なんで「真実」を見ようとしない?
「分かち合うこと」? そんなことそこらじゅうの宗教家が
数世紀前からスローガンにしていたよ。
それでも戦争も殺戮も中傷も存在するんだ。
世界中の全ての人間と分かちあいたいだ? そんな妄想捨てさりなよ。
なぜなら人間は理不尽な生き物であるからね。
そして「人」というものは一つのシステムに収まってしまうほどの小さな生きものでは
ない。例えば、現にいまここにいる君でさえ、君の持つ複数の仮面の中の 1 つを着用し
ながら、君の人格、思想を披露しているにすぎない。この多義性が時に想像力を、時に
美を生むのである。それを考えずにそのすばらしい「システム」を探してみなよ。あん
たはただ路頭に迷うだけだ。 現に今のあんたがそうだろ?
>>288 鉄冠子さん
サン・テグジュペリはいつも大地の上を飛んでいました。
自分の心もとない存在感を確認するためなのでしょうか。
存在の顔(戦争)にもかかわろうとしたけれど
かかわりきれないまま空の彼方へ消えていきました。
>『愛するということは、お互いの顔を見つめる事ではなく』
彼は「肉」の顔を見つめられなかったのです。
相手が美人ならまだしもそうでなかったらどうしてくれるんだ!
というのはもちろん愛ではないけれどw
その心さえ彼のお眼鏡にかなう人はいなかったのでしょう。
>『一緒に同じ方向を見つめる事だ』
おなじ風景が見えていることを応答し合うかぎりは
ふたりの愛の絆は切れないということでしょうか。
でもそれは自分自身しか好きになれないというナルシシズムなのでは?
>>297 ☆さん
多義性というか、連関する事象の一つとして「わたし」がいます。
「わたし」は「わたし」として関わるだけです。
多義性の中に暴力もあれば慈愛もあります。
「あなた」が何を志向するのか、「わたし」が何を志向するのか、そのせめぎあいで
連関の総体としての事象(自己自律の自己)が自律的に推移するものと思っています。
そしてボクの拘り(志向)は倫理なのです。
,.-‐ """''''''- 、
/ \
/ ノりノレりノレノ\ i 株価暴落による損失 ¥13,000,000,000,000
i ノcニつ ⊂ニュ ミ | ヨルダンからの債務免除要請額 ¥200,000,000,000
ノ | <@ ミ @ヽ. | | 人件費及び調査・機密費 ¥2,000,000,000
イ | (o_o. | | 三馬鹿がイラクで得た自己満足 Priceless
ノ ! ノ u 丶. ! ヽ
彡 ! (つ ! ミ
>>1 乙!
ノ ノノノヽ )─ィ /ノヽ ヽ
/ \ \ヽ. / \
. r‐-‐-‐/⌒ヽ-ーイ `、
ヽ、 |_,|_,|_,h( ̄.ノヽ ビシッ ヽ
ー-ヽノ| `~`".`´ ´"⌒⌒) ヽ
ノ^ //人 入_ノ´~ ̄ )
>>291 鉄冠子さん
>ただ単純に「現場を共有するとか、おなじ見地に立つ」姿勢を示すこと
これが応答し合うということだと思います。
「共有するとか、おなじ見地に立つ」という気持ちがないのに
そのようなフリをしてみせる人に偽善を感じてしまうのは
それが他者にたいする応答ではないと感じられるからです。
このような人にとって他者は自己と同格ではないし眼中にないです。
「共有するとか、おなじ見地に立つ」ということの限界を知りつつも
そうすることの姿勢そのものが他者への応答なのではないでしょうか。
どうにも我慢できないできないことは我慢できないのでしょうけど
それでもお互いが相手にたいして反発や嫌悪の気持ちだけではなくて
相手を人間(他者)としてしっかり認めていることや気遣っていることが
伝わるのなら、その瞬間からあれだけ理解できなかった相手のことが
お互いに突然理解できるようになったり、意見はちがっていても
それが我慢できるようになったりするのではないでしょうか。
まず相手を二人称で認めることが大切なのではないでしょうか?
>>293 Sさん
>無垢なる無窮の抗争
世界の無垢なる即自性=自己自律においては、(
>>286)
無窮の抗争も無垢なるものとして世界に回収されてしまうでしょう。
そして醜いものも無垢なものも等しき存在なのかもしれないけれど
ひとりの人間として無垢なものは生き残れないという淘汰が働くのが
近代というシステムです。
無垢なものは普遍と永遠のなかに生きています。
もし彼らが最後まで無垢なままでいられるのなら
たとえ彼らの無残な死をわたしたちが観察したとしても
彼らに死は訪れていないでしょうし不幸でもないのでしょう。
と、思うことでしかやりきれないわたしたちの傲慢な自我にとって
彼らはいつでも三人称なのですね。
わたしたち醜いものは彼らに応答することすら許されないのです。
わたしたちの抗争は生まれ持ったプログラムの実行なのでしょうか?
>>302 カオルさん
世界の無垢なる即自性(あてがわれた視点)を「わたし」に連関する自律的な視点で捉えなおそうとするのが自己自律です。
で、アニマとかは抜きにしても、連関としての万物に等しい眼差しを持ちたいとするのが存在者−倫理です。
みんなに等しく、「あなた」という眼差しを持つのは無理なのでしょうか。
たとえ理解不能でも、それこそが他者の他者性であり、受けとめ、住み分けることができるとか。
人間中心、同等の理性保持者中心とか、そうした関係をなんとかしたいのです。
>わたしたちの抗争は生まれ持ったプログラムの実行なのでしょうか?
とにかくも食さねば個体形式を維持できない。そのように生み出されたことが超えられない問題なのだと思います。
抗争もまたひとつの志向であり、調和もまた然りです。
ただ、無垢であるにはあまりに人間が暴走しているので、倫理を強く要請してしまうのです。
まず実現などされませんが、調和だけの世界も窮屈でしょう。
存在者−倫理において書きたいこと、
「わたし」が搾取する「罪」は消えないが、その痛みを忘れずに関わること。
もっと噛み砕くと、食事の前に焼き魚に手をあわせていただきますって挨拶すること、みたいな。
それはエゴの要請としての許される倫理ではなく、エゴと倫理の緊張のうえに成り立つもの
と思っています。
>>293 Sさん
君の真っ白な精神を見ていると、
俺が、「これで済む」という安堵を求める小さな智略家で、それだけ野卑で無神経で…、という反省心が湧いてくる。
一方で、何で君が限界状況なのかがよくわからない。倫理についてのレスを(気長に)待つ。
>>298 カオルさん
男と女がキスするとき目を閉じているし、俺も目のやり場に困るからそれに倣っている。
目を閉じながら人間はどこ見ているんだろう?
真っ暗ななかで、唇の刺激からくる自分の歓喜だけを見ているんだろうか。
明日とか未来とか、ぜんぜん見ていないんだろうか。
それに男女のことだけを念頭に置いて言ったんでもない。「応答」の形式のも当然含んでいる。
「共有する、同じ見地に立つ」とは言っても、正対することではなくて、肩を並べることなんだ。
でも、人間同士には圏外絶域がある。互いの「わたし」だ。世界の限界だ。
この人間の限界である「わたし」なるものを互いが見極めるには、逐次、正対することが必要だけど、
でも、正対ばかりで、「今後」とか「未来」とかに視線を移すのを放っておいては、いけないのではないか。
…というふうに考えている。
>>303 Sさん
>世界の無垢なる即自性(あてがわれた視点)を「わたし」に
>連関する自律的な視点で捉えなおそうとするのが自己自律です。
>で、アニマとかは抜きにしても、連関としての万物に等しい眼差しを
>持ちたいとするのが存在者−倫理です。
よくわかりません。即時性がなぜに「あてがわれた視点」になるの?
【即自】〔(ドイツ) an sich〕
〔哲〕 物の在り方が直接的で自足しており、無自覚で他者や否定の契機をもたないこと。
(goo国語辞典)
>みんなに等しく、「あなた」という眼差しを持つのは無理なのでしょうか。
自己自律がよくわかってないから的外れかもしれないけど
「世界の無垢なる即自性」を超えて「わたしの」という視点を持つから
もともと等しき存在である生きとし生ける物と世界から「わたし」を区別してしまうのでは?
「あなた」が「わたし」でないのは「等しくない」からではないですか?
>たとえ理解不能でも、それこそが他者の他者性であり、受けとめ、住み分けることができるとか。
住みわけの問題は、相手を認めることしかないと思います。
歴史、文化、伝統、宗教、言語・・・のちがうもの同士が住みわけるのですから
容易ではないですけど。エネルギーや食料や経済や環境の問題もありますしね。
>とにかくも食さねば個体形式を維持できない。
>そのように生み出されたことが超えられない問題なのだと思います。
ライオンがシマウマを食すことは「世界の無垢なる即自性」なのでは?
もし生きとし生ける物の命が平等であって、しかも命に価値があるのなら
そして食すことを罪と考えるのなら、それは日々無差別大量殺人の罪を
おかしているのと同じことになります。
わたしたちがそれでも生きていていいことの言い訳はひとつしかないです。
「わたしたち人間は他の生物より優れている」から「許される」という
>人間中心、同等の理性保持者中心
の思想を持つことです。
何によって優れているのか? それが「わたし」という心です。
ここに至ってはじめて倫理や道徳が人間にとって
かけがえのないものであることがハッキリするのだと思います。
倫理や道徳、あるいはそれらに類する慣習のなかに
>食事の前に焼き魚に手をあわせていただきますって挨拶すること、みたいな。
ものがあるのは「わたしたち人間は他の生物より優れている」が
じつはこのような「生きとし生ける物」にたいしての畏敬の念なしには
成立しないことを意味しているのではないでしょうか?
>>306 鉄冠子さん
>明日とか未来とか、ぜんぜん見ていないんだろうか。
サン・テグジュペリは、明日や未来ばかり見ていたのでは?
目の前にいる相手の体温や息遣いや視線や手触りのリアリティには
あまり関心がなかった人のように感じます。
>「共有する、同じ見地に立つ」とは言っても、正対することではなくて、肩を並べることなんだ。
うん。だから愛することが比肩することになっているから、それは愛なの?
ということです。どうして愛する人が自分より大切な人にならないのかな?
>正対ばかりで、「今後」とか「未来」とかに視線を移すのを放っておいては、いけないのではないか。
うん。どうちらも大切という表現なら納得できるんだけど
彼は「愛するということは正対することではなくて同じ方向をみつめること」
といっているのだから、やっぱり大地(リアルな手触り−過去)を離れて
空(夢−未来)ばかり飛んで(見て)いる人に感じられたのです。
>>306 鉄冠子さん
☆さんが指摘してくださったように、これはボクの一面にすぎません。真っ白なんてことはありえないです。
いえ、きっと人一倍やましい人間だからこそ、倫理を強く志向するように思います。
有限なる「わたし」にはとても「応答」しきれない、そもそも解決しようもない呼び掛けに晒され
ていること。「責任」「罪」が「わたし」を限界に追い込みます。
>>307 カオルさん
>即時性がなぜに「あてがわれた視点」になるの?
「わたし」にとって、受肉し投げ出された「わたし」と「わたし」に開示された連関世界は、それ自体として既に
成立している、預かり知らぬ現象の形式(個体化の原理)です。これが「あてがわれた」視点。即自世界。
「わたし」が「わたし」を自覚し、連関世界を「自己」として引き受ける。自律する「わたし」と一如にあり連関し
せめぎあう「自己」の運命には乖離が無く、「自己」は「自律」して回転してゆく。これが「ひきうけた」視点。自己自律。
>「世界の無垢なる即自性」を超えて「わたしの」という視点を持つから
>もともと等しき存在である生きとし生ける物と世界から「わたし」を区別してしまうのでは?
>「あなた」が「わたし」でないのは「等しくない」からではないですか?
「あなた」が「わたし」でないのは「等しくない」からです。個体化の現象形式に従って個々の存在者は差異を
持っています。そこで他者を「モノ」化せず、連関としての万物に等しい眼差しを持とうとするのが、みんなに等しく
「あなた」という眼差しを持つ、ということです。わたしあらざる者は「モノ」、ひとあらざる者は「モノ」、生命あらざる
者は「モノ」、、、というような「わたし」の傲慢を超え出ようとする眼差しです。
>住みわけの問題は、相手を認めることしかないと思います。
>歴史、文化、伝統、宗教、言語・・・のちがうもの同士が住みわけるのですから
>容易ではないですけど。エネルギーや食料や経済や環境の問題もありますしね。
はい。とてもむずかしいことですけれど。 そしてそれは独善的な隔離行為とは異なります。
>>308 カオルさん
ライオンがシマウマを食すことに留まらず、人間のあらゆる行為それ自体も、善悪の彼岸にある無垢なる
即自性(神−倫理)だと思います。際限のないエゴの抗争が無自覚に無条件に肯定されます。なんでも
あり。あてがわれた個体化の現象形式に則っているだけなのですから、責任も罪もありません。或いは
「わたし」がエゴの要請としての人間中心、同等の理性保持者中心の自己正当化の倫理をもつことも含み
ます。また近代社会だろうが現代社会だろうが、人間のあらゆる行為それ自体を総じて含みます。
>「わたしたち人間は他の生物より優れている」から「許される」。
>何によって優れているのか?それが「わたし」という心
という自己本位、自己正当化の倫理では、際限のない無自覚なエゴの抗争を超え出ません。
人はあらゆる行為を正当化するでしょう。万物をモノ化し、支配し改造し搾取するのみでなく、他人をモノ化し、
支配し改造し搾取し続けるでしょう。「わたしたち人間は他の生物より優れている」という傲慢からは、
「生きとし生ける物」にたいしての畏敬の念は生まれないと思います。
そうではなくて、「わたし」が「わたし」として連関世界に関わるのと等しく、あらゆる存在者はその分をもって
関わっているのだということ。個体化形式の個性として、存在者は優劣ではない比較を超え出た等価な価値を
持つのだと思います。命や形式に価値があるのではなく、その存在者が「生きて」いる(現象している)ことに
価値があるのだと思います。「わたし」が実存しているならば、「わたし」と一如にあり連関しているあらゆる存在
者もまた、等しく実存している。にもかかわらず個体化世界において我々は互いに侵食しあい食らいあうことを
避けることができない。それは自覚した「わたし」にとっての引き受けた罪なのです。なぜわざわざ罪を引き受け
るのか、「わたし」が無垢なる「わたし」に暴力を見出したから。「わたし」を自ら律する必要を覚えたから。
それが存在者−倫理です。倫理は「わたし」の暴力を許さないが、「わたし」としてのエゴと倫理の緊張において、
焼き魚に手をあわせていただきますと食事するようなバランスが、辛うじて生まれるのだと思います。
存在者は存在者間で支えあってはじめて「生きて」(現象して)いるんだと。
倫理や道徳が人間にとってかけがえないかはいえません。自覚した「わたし」にとってはかけがえないと思い
ます。そして倫理は強制されるものではなく、ただ自覚した者によって示されるものです。
あと、自覚した者がなぜ醜いかといえば、その自覚にその者の行為が追いつけはしないから。その者は常に
欺瞞者なのです。また、それを仕方ないといい訳にした瞬間、倫理はエゴの免罪符となり果てます。
>>カオルさん
自己自律の繰り返しの説明になってしまう点は申し訳ありません。
これ全部わたしが教えたことじゃないという点は常に感謝しております。
で、意味不明、デンパな点は遠慮なくぶった切ってください。
>>309 降参だな。俺は空ばかり見ている夢想家だ。ネットでも当然同じこと言われるわけだ。
残酷な運命が落とし穴でも仕掛けてきたら、まっさかさまだ。
それでも夢想を止めないかもしれない。
でもそのとき、隣を歩く人は、俺にそっぽを向かれるし、一緒に落とし穴に落っこちるしで、踏んだり蹴ったりだな。
俺の話に耳を傾けるような人は。
>>311 Sさん
>これが「あてがわれた」視点。
表現としては「あてがわれた視点」というより
「あてがわれた存在形式」のほうが適切だと思います。
>「わたし」が「わたし」を自覚し、連関世界を「自己」として引き受ける。
>自律する「わたし」と一如にあり連関しせめぎあう「自己」の運命には乖離が無く、
>「自己」は「自律」して回転してゆく。
運命? 回転? サッパリです・・・
ともかくここでいわれている「ひきうけた」視点というのは
あくまでSさんの「ひきうけた」世界の解釈が成立するための
Sさんの「視点」ということですね。
>個体化の現象形式に従って個々の存在者は差異を持っています。
>そこで他者を「モノ」化せず、連関としての万物に等しい眼差しを持とうとするのが、
>みんなに等しく「あなた」という眼差しを持つ、ということです。
いえ、ですから他者に等しい眼差しを持とうとする
主体としての意識そのものが傲慢さの根源なのではないですか?
わたしよりあなたの価値が優位になることは日常的にありうることです。
母が子を守るように、Sさんが恋人を愛するように・・・けれど問題は
このような事態も「わたし=主体」という存在形式から生成されている
現象なのだということです。
「わたし」は変化(差異)を生成することでしか、その特殊な存在形式を
維持できない存在なのです。もし等さがそこに現前しているのなら
等さは解釈されたり気づかれたりすることはないのだと思います。
>>312 Sさん
>際限のないエゴの抗争が無自覚に無条件に肯定されます。
無条件に肯定するのは誰なのでしょう?
どのような肯定にたいしても否定は可能なのです。
ライオンやシマウマの世界には言語はありませんから
事象を肯定したり否定したりする尺度はないのです。
その意味で自足的です。つまり即自的です。
>なんでもあり。
「なんでもあり」にもなにかしらの価値の選択があったはずです。
大脳が働いているにもかかわらず、どのような価値の選択もしないで
行為の決断をすることは不可能ではないでしょうか?
なにかしらの価値の選択をしたということは
その人にとって「より良き」選択をしたのでしょう。
そして「より良き」の選択は「より高き」へのベクトルを示しているはずです。
なぜなら、より苦しい/痛い/悪い/醜い…をこころざす人はいないでしょうから。
価値を相対化するためにもなにかしらの価値の基準が必要なのであって
人間が「より良き、より高き」の方向に顔を向けているかぎりにおいて
その価値の基準が「なんでもあり」ではないことは必然だと思います。
「なんでもあり」は「なんでもあり」でないライオンやシマウマの世界
にしかないのではないでしょうか?
>あてがわれた個体化の現象形式に則っているだけなのですから、責任も罪もありません。
世界がみずからを特殊化した存在がわたしたちなのだとしても
そのことと責任や罪の問題はまったく別です。
責任や罪は「人間の世界」での問題なのであって
責任や罪など認識することのできない「ライオンやシマウマの世界」と
同次元におくのはまちがっていると思います。
責任や罪のある世界に住んでいながら「責任も罪もない」というのは
それこそ神になったつもりの人間の傲慢な解釈ではないでしょうか?
「責任も罪もない」のは「責任も罪もない」世界に住まうものだけです。
>人はあらゆる行為を正当化するでしょう。
いいえ、まったく反対です。
あらゆる行為を正当化しうるのは心の優越性への無自覚からです。
無自覚なために無責任になるのです。
>「わたしたち人間は他の生物より優れている」という傲慢からは、
>「生きとし生ける物」にたいしての畏敬の念は生まれないと思います。
Sさんの論理からは「なんでもあり」はでてきても
「わたしたち人間は他の生物より優れている」という論理はでてきません。
なぜだかわかりますか?
それはSさんに「生きとし生ける物」にたいしての畏敬の念がないからです。
「わたしたち人間は他の生物より優れている」という論理は
「生きとし生ける物」にたいしての畏敬の念が必然の前提なのです。
>>313 Sさん
>その存在者が「生きて」いる(現象している)ことに価値があるのだと思います。
わたしは「生きていること」それ自体に価値があるとは思いません。
>「わたし」が実存しているならば、「わたし」と一如にあり連関しているあらゆる存在者もまた、
>等しく実存している。
等しく存在しているということと存在の価値は別だと思います。
>焼き魚に手をあわせていただきますと食事するようなバランスが、辛うじて生まれるのだと思います。
心の優越性を否定した上での「手を合わせる」という行為の偽善と欺瞞にわたしは耐えられない。
>倫理や道徳が人間にとってかけがえないかはいえません。
わたしが人として生きているかぎり倫理と道徳はかけがえのないものです。
なぜならわたしに価値を与えてくれるからです。
>それを仕方ないといい訳にした瞬間、倫理はエゴの免罪符となり果てます。
心の優越性を否定した瞬間、人は「仕方ない」といって「生きとし生ける物」を殺すのです。
>>314 >自己自律の繰り返しの説明になってしまう点は申し訳ありません。
>これ全部わたしが教えたことじゃないという点は常に感謝しております。
「悟りたいとか自律したいとか(2)」を読んでみてください。
以前Sさんが消えてからわたし風に自己自律論を説明しています。
おそらくまったく的外れなのだと思います。
Sさんともっともかかわってきたわたしになぜ理解できないのでしょうか?
自己自律論を理解できている人はいるのでしょうか?
>>315 鉄冠子さん
>降参だな。俺は空ばかり見ている夢想家だ。ネットでも当然同じこと言われるわけだ。
困ったなぁ。そういう意図でレスしたんじゃないのに・・・
サン・テグジュペリは、空飛んでる方(フィロバット)だから
夢想家とはまたちがうのかもしれないです。
わたしは妄想家だから夢想家がうらやましかったりします。
妄想はあんまり美しくないのです。
相貌が醜いので論理モドキでカタチを整えたり必死です。(笑)
わたしは聞き上手じゃないけれど
よかったらあなたの夢想を聞かせてください。(^.^)
ここ数レスにおいて俺は、現実のキャッチボールで言う、
直球でいいものを、変化球でも試そうとして大暴投してしまい、
走って追いかける相手の背中を見ながら、
「帰ってきたらどんな顔して返事すりゃいいんだろう」と、顔を両手で覆いながらアイデアを練る、という状態だった。
…のだが、結局、「何か述べよ」というふうになった。そのアイデア通りだったりして(なんてね)。
明日から家を開けるのだけれど、今夜中に間に合うかなぁ。
>>316 カオルさん
>表現としては「あてがわれた視点」というより
>「あてがわれた存在形式」のほうが適切だと思います。
そうですね。無垢なる者にとっての決して自覚されない存在形式。
あてがわれたと意識しているのは、既に自覚している者からの視点ということになるのだと思います。
>運命? 回転? サッパリです・・・
「わたし」と切り離せない連関世界は、「わたし」の自律せんとする関わりと乖離なく、「わたし」と世界は
運命共同体なのだということ。もしも「わたし」が自律しているならば、連関世界を見立てた「自己」も
単にあてがわれた形式を超え出て変容する(回転する)のであろうということをして、「自己」も「自律」
するのではないか、と思うのです。加えて、「わたし」が連関世界から生み出されたならば、その萌芽
は連関世界にあるということであり、世界は潜在的な自律性を持つのではないか、という思いも込めた
「自己」「自律」です。
>ともかくここでいわれている「ひきうけた」視点というのはあくまでSさんの「ひきうけた」世界の解釈が
>成立するためのSさんの「視点」ということですね。
はい。そのように自覚しているS単独の視点です。「あてがわれた」も「ひきうけた」もそう解釈している
Sの視点です。そして勝手に示しているに過ぎないです。
>>316 カオルさん
>いえ、ですから他者に等しい眼差しを持とうとする
>主体としての意識そのものが傲慢さの根源なのではないですか?
「わたし」の価値と同等に括ってしまうこと(我有化)は傲慢なのだと思います。けれどそれなくしては
同情もまた成立しないのではないでしょうか。差異から他者を認識するが、そこに存在者としての共通
性をも見いだせばこそ、他者へ共感をもって働きかける。血を流している小動物をみれば痛みを共感し
て手当てしたいと働きかける。これはエゴ(個体の維持、展開)の要請による我有化ではなく、倫理の
要請による同情(共苦)なのだと思います。もちろんそれが傲慢であるゆえに、「他者」は「わたし」の
超越なのだ、という自覚も必要となるのだと思います。言葉が欠けましたが、等しい(共感)眼差しと
超越(畏敬)の眼差しが倫理に必要なのだと思います。
>このような事態も「わたし=主体」という存在形式から生成されている現象なのだということです。
はい。
>もし等さがそこに現前しているのなら等さは解釈されたり気づかれたりすることはないのだと思います。
はい。
とはいえ、この個体化世界ではそれぞれの生物がそれなりの仕方で差異を判別していると思います。
>>317 カオルさん
>無条件に肯定するのは誰なのでしょう?どのような肯定にたいしても否定は可能なのです。
肯定/否定するのはエゴ(個体の維持、展開)要請に基づく「わたし」です。エゴを超え出ていない
という点で、やはり無自覚な「わたし」は無垢なのだと思います。実際、「わたし」という多くの人間は
そうして生きています。「わたし」とその価値範疇にある者のために、その外なる者は「モノ」化され、
エゴのために正当化(仕方ない)とされています。例えば家畜を飼い人工授精し遺伝子加工し病気
が発生すれば処分する。でも自覚なしの無垢なる「わたし」なら仕方ない、当然、で終わり。或いは
否定するのはエゴにとって不都合、不利益と判明すればこそです。あてがわれた形式(個体化の原理
=エゴ)に無自覚で自足的。(倫理的)自覚なしの人間の生そのものは即自的なのだと思います。
>ライオンやシマウマの世界には言語はありませんから事象を肯定したり否定したりする尺度は
>ないのです。その意味で自足的です。つまり即自的です。
はい。
>「なんでもあり」にもなにかしらの価値の選択があったはずです。
エゴ(個体の維持、展開)要請に基づく価値の選択です。無自覚な「わたし」にとって「より良き」選択
はエゴにとってであり、「なんでもあり」とは「わたし」とその価値範疇にある者のための、その外なる
「モノ」化された「他者」に対する「なんでもあり」なのだと思います。エゴというあてがわれた形式に
おいて、無自覚な「わたし」もライオンも同じく「より高く」であり、「なんでもあり」なのだと思います。
また、「なんでもあり」といっても、エゴ(個体の維持、展開)要請に基づき、且つ、その個体に可能な
行為選択ということです。
まだレスを書いている最中ですのでここで一旦途切れます。。。
>>318 カオルさん
>世界がみずからを特殊化した存在がわたしたちなのだとしても
>そのことと責任や罪の問題はまったく別です。
生そのものと「責任」「罪」は別だと思うのです。前者は「無垢」であり後者は「自覚」を契機にするからです。
>責任や罪は「人間の世界」での問題なのであって責任や罪など認識することのできない
>「ライオンやシマウマの世界」と同次元におくのはまちがっていると思います。
>責任や罪のある世界に住んでいながら「責任も罪もない」というのはそれこそ神になったつもりの人間
>の傲慢な解釈ではないでしょうか?「責任も罪もない」のは「責任も罪もない」世界に住まうものだけです。
はい。
これまでもエゴの要請の範疇で、功利的に社会契約、社会規範として責任や罪は強制されて来たと
思います。ただ、それはどこまでも我有化の閉じた倫理なのだと思います。他者に開けた倫理はエゴを
超え出んとする自覚が必要なのだと思うし、それは強制されても変わらない。自覚した者によって示さ
れるものだと思います。
>>318 カオルさん
>あらゆる行為を正当化しうるのは心の優越性への無自覚からです。
>無自覚なために無責任になるのです。
「わたし」は思うままに行為したのに、たとえば鳥を絞め殺して食せば鳥を憐れみ、気付かずに花を踏め
ば花を憐れみます。確かにこれはエゴの要請から外れつつある人間特有の心の優越性なのだと思い
ます。エゴに対峙する形での心の優越性なら同意します。そうでなければ倫理的契機による自覚、自律
などできませんから。
>「わたしたち人間は他の生物より優れている」という論理は
>「生きとし生ける物」にたいしての畏敬の念が必然の前提なのです。
これわからないです。説明していただけると助かります。
>「生きとし生ける物」にたいしての畏敬の念
というのは、もともとは無知無力なる人間にとって開示された世界そのものが、理解をこえた神秘であった
ことから来るのだと思います。わたしは未知なる「他者」に生かされているのだと。それは人間の世界理解
(我有化)が進むことで現代社会では有名無実になっていると思います。優れた「わたし」によって世界は
解明され自在に関われるという我有化の暴力を自覚して、存在者に決して触れ得ざる他者性を発見する時
無知であったころの畏敬とは異なる、変わることのない畏敬の念が自覚されるのではないでしょうか。
それがあてがわれたエゴの要請を超え出た、倫理の要請なのだと思います。そうせざるを得ないのは、
人間が優れているからというより、自らの行き過ぎたエゴの暴力、それを律せねばならないと自覚するに至
るほどに、人間が醜き者だからなのだと思います。無垢でいられたなら、苦しむこともなかったでしょうに。
>>319 カオルさん
>わたしは「生きていること」それ自体に価値があるとは思いません。
あてがわれた個体形式を引き受けて自律せんすること、それが「生きる」ということだと思います。
そうした自律者の関わりに価値が生まれるのだと思います。
またそうした「わたし」が連関の中から生み出されたなら、個体化存在者は総じて潜在的な自律可能性を
もっている、人形は人形自身として独り歩きする可能性をもっているのではないか、と思っています。
>心の優越性を否定した上での「手を合わせる」という行為の偽善と欺瞞にわたしは耐えられない。
エゴに対する心の優越性は認めます。
>わたしが人として生きているかぎり倫理と道徳はかけがえのないものです。
>なぜならわたしに価値を与えてくれるからです。
Sにとってもご承知の通りかけがえないものです。
ただ、自覚なき、エゴの体現者にとってはそうではないだろうな、と思うのです。
社会規範も強制的に仕方なく従っているだけでしょう。
>心の優越性を否定した瞬間、人は「仕方ない」といって「生きとし生ける物」を殺すのです。
心の優越性(倫理)を否定した瞬間、エゴによって人は「仕方ない」といって「生きとし生ける者」
を殺す・・・でいいですか?
>Sさんともっともかかわってきたわたしになぜ理解できないのでしょうか?
>自己自律論を理解できている人はいるのでしょうか?
どこか論理破綻しているからなのでしょう。カオルさんが理解できないなら他の人はもっと
理解できないでしょうね。デンパな点はどうか叩いてください。
少し考えてみました。
(こころの優位性について)
「わたし」は世界を対象化し意図して働きかける。「わたし」は「わたし」をも対象化し内省する。
前者はそうできない存在者と比して、明らかに優位にある(より強力な行使力)と言えます。
実際、この能力によって人間はその生存圏の支配的地位を確立したのですから。
後者は倫理的契機となり責任や罪を引き受ける契機となる特異性と言えます。優位とは異なると思います。
このこころの優位性は前レスまでの「こころの優位性(倫理)」とは別にしておきます。
このこころの優位性が畏敬や倫理を前提にしている、とは全くいえないのです。
なぜなら、無垢なるエゴに追従するのみの人間を往々に目撃しますし(そういう方は倫理的行為に対
して所詮エゴとしか判断しないです。それでわかります。)、「わたし」の我有化能力に溺れ畏敬など
微塵もない人間も往々に目撃します。(そういう方は利権の為に造作なく森を切り崩し干潟を埋めたて
ます。それでわかります。)人間はエゴイズム、或いは意図した暴君に往々にしてあるのだということ。
こころの優位性はその行使力に過ぎないままにあります。
倫理がエゴの要請を脱した共感、共苦、利他にあること。畏敬が我有化を超越した他者にあること。
もともとあてがわれた個体化形式(エゴ=個体の維持、展開)にある無垢なる人間にとって、倫理や
畏敬は自覚なしには生まれないです。そして倫理や畏敬なしで人間は存在できるということは、倫理
や畏敬が人間の必然条件ではないと言わざるをえない。実際、エゴの要請による功利的な契約や規範
だけで折り合いをつけることが可能ですし、エゴの要請によってこころの優位性を無際限に行使でき
もするのですから。
纏めるなら、他存在者に対してこころの優位性はある。畏敬や倫理はその前提にならない。
(倫理のかけがえなさについて)
たとえ人間の生そのものは無垢なるエゴであっても、こころの優位性をもつ人間は自然を超え出ている
と思います。だからこそ「わたし」は「わたし」をも対象化し内省することでその暴力性に気付き、倫理や
畏敬の契機を持つのだと思います。人間にはその責任と罪があると思います。
ただしかけがえなさも責任も罪も、自覚しなければ無垢なるエゴにとっては無関係なまま。エゴの要請に
よる功利的な契約や規範とは全く別ですし、倫理的行為が示されたとしても倫理が感化される必然もない
です。自覚する人間以外にそのかけがえなさを思う者はいないでしょう。
倫理のかけがえなさは価値を生み出すことにあると思います。あてがわれた個体化形式(エゴ)に則り、
際限のない抗争に追われた存在者は、たとえこころの優位性(行使力)を持っていても、単にそうである
以上の何の価値も生み出さない。人間が生命を合成する力を得ても、宇宙に進出しても、物理法則を
どんなに把握しても、不老不死になったとしても、それ自体に何の価値もないです。単にエゴの行使力が
増すのみです。それに比して、倫理とはそうしたあてがわれた個体化形式(エゴ)を超え出ようとする、
いわば存在者の自律的な価値創造行為なのだと思います。
個体化世界では「わたし」は「あなた」と関わることで存立します。その連関について自律的に働きかける。
あてがわれたエゴの無窮の抗争を越え出て、他者への眼差し(共感と畏敬)をもって連関するなら、そこ
に新たな価値を創造できるはずです。自覚した「わたし」の心的葛藤において、エゴと倫理の対峙によって
自律的な価値判断ができるはずです。
倫理のかけがえなさは、こうした自律的な価値創造にあるが、自覚せねば生まれないという稀少さにある
のだと思います。
(自己自律について)
「わたし」に連関する世界をして「自己」と見立てるのは、喩えれば宇宙船地球号というような運命共同体
です。もちろんそれぞれの連関は階層レベルの断続(連環の非連続性と連続性)を持ちますし、直接の因果
関係を見出せるのは直近の事象に限られるでしょう。ただ、箱庭内でのある連関はそれ単独で存立している
のではなく、連関する限りにおいてどこまでも影響可能性を持つはずです。「わたし」と連関世界は切り離せ
ない意味でそれを「自己」と捉えています。この「自己」はわが身ひとつで「わたし」が存立しているのでは
ない、という眼差しを自覚するための観念です。
「わたし」が「わたし」を引き受け自覚し、自律自由であろうとする。連関世界にただひとりでもそのような
自律せんとする「わたし」が関わるならば、「自己」もまたその自律連関を受けてあてがわれた現象形式を
変容させうる可能性を持つ。個体化世界の連関にとって「わたし」の自律は「自己」の自律として連関するの
だと思います。それゆえに「自己」もまた「自律」している。これはあてがわれた個体化世界が存在者の自律性
によって非決定的な可能性をもつのだという観念です。
Sさんのファンです。下記の文章を理解した後にSさんの言葉で、つまり私の
好きな言葉で換言してみてください。お願いします。アイラブS。
想像力が「タイムマシーン」――すなわち「幻想[イメージ]」を作り出す。
われわれが 想 像 す る こ と が無ければ、そこはすでに「時空の
埒外にいる」のだ。想像すること、それは[自ら]タイムマシーン「 の 一
部 」となることである。時空機械の伝統的な観念(個別的イメージ)を
「 人 間 が 」超えたとき、タイムマシーンは 現 実 の
も の となる。
つまり、彼は『 完 全 な 時 空 機 械 』になるのである。
こうしてタイムマシーンは『相対的に』達成[ 実 現 ]される。いいかえると
人 間 の 意 識 と は 、 タ イ ム マ シ ー ン そ の
も の なのだ。
―――個別的な思考(哲学的省察)は、この「純粋な実現」を阻害するだけで
ある。「意味性」は――『概念(時空性)』によって、止揚されなければなら
ないのだ。意識は 感 情 と 思 考 の関係で成り立っている。
このような概念を 両 者 で 経験しなければならない。二元性としての
対立する「概念」を意識しなければならない。例をあげるならば、
テ レ ビ ジ ョ ン と は タ イ ム マ シ ー ン の
別 形 体 で あ る 。
テレビジョンの内部に存在する人間(光としての)は、
テレビジョンの外部に存在する人間とは、「存在する時空」が異なっている。
――こうして『タイムマシーンの完全実現』は不可能と証明され「人」の
現実性自体が[つまり 意 識 が]タイムマシーン(時空機械)となるのだ。
――時空機械は人間[つまり『関係』]なのだ。
相対性理論に基づいて思考すれば――「光の速度」以外の――
われわれの経験も相対的であり、タイムマシーン(時空機械内部)での出来事
である。正に『時空』は「関係として 意 識 的 に 展 開
させることで」
――― 非 常 に 微 小 に 変化しつづけているのである。
つまり――タイムマシーンはもう[人間の 意 識 として]「実現している」。
ここは 未 来 時 代 (統一場)だ!
(存在者倫理について)
神は誰も助けない。善いことも悪いこともない。弱い者も強い者もない。
神の愛は公平。だから誰にもあって誰にもない。神の愛は人を幸せにしない。
神なんて信じない。神なんていらない。神になんて頼らない。
けれど「みんな大好き」という倫理はまるでおんなじ。それは人の愛じゃない。
好き嫌いがはっきりしてるから誰かを特別に愛せるんです。それが偏愛。人の愛。
>等しく存在しているということと存在の価値は別だと思います。
その通りだと思います。カオルさんの愛は正しいよ。人として。おかしいのはボクだ。
けれど今のボクでは
>>8-9で書いたことが限界なのです。どうしようもなく。
>>332さん
時空機械は人間[つまり『関係』]なのだとか、なんとなくわかるような、でも難しいです。
>>332さんの方が知識あるからそのままでいいと思います。
>>ハルカさんへ
ハルカさんはハルカ流が素敵です。ボクも約束は守りますから。
>…はっきり言う。
>いい加減にしなさい!
>たかだかその程度で身を引くならば最初から手を出すな!
>泥を被ろうが、血を流そうが、無様に地を這いずり回ろうが…
>やりぬく覚悟がなければ…
>本気で命がけでなければ…
>ただの『暇潰しの遊技』でしかない!
>貴方は何をしてるのだ!
>愚か者が!
Sさん、機械的成功法というテーマで貴方の私見を述べてください。
機械的や成功の定義をどのように定めるのかは、貴方の独断で構いません。
よろしくお願いします。
>>335 直子さん
ボクとしては自身の志向を貫いている途上にあって、やはり自己自律/存在者−倫理に沿って考えたい
と思います。レスの質と継続については保証できる状況にありませんが、宜しくお願いします。
成功法ということは、何らかの目的がありそれを達成させる方法ということなのだと思います。で、その
世界観が機械的ということは、個体化世界が形式のみに存立し、物理的な因果法則の必然に則り、
なんらの自律性をも有さないということ。即自世界(神−倫理)を更に限定した世界観なのだと思います。
世界が即自的に成立し、更にあてがわれた意志(神)の介在すら認めないとするなら、そこに目的
なるものがあるのだろうか、と思います。つまり成功なる概念がそこにはないのではないかと。
すべて因果的必然のもと、あるがままに在るだけ。無垢で無機質なその世界観に成功法は必要
ないように思います。というか、成功法なるものを欲する「わたし」はいないはずだと思います。
或いは、即自世界(神−倫理)にあって、何らかの目的を達成せんと志向する「わたし」が、物理的な
因果法則にその確実性を求めるとするなら、それは可能なのだと思います。しかし発見した因果法則
=即自世界ではなく、法則は常に結果をもって類推するという後付けに過ぎないこと。現実の因果連鎖
は世界の内なる者には捉えられないか、そもそも必然的に連鎖しはしないのだということ。これらを
踏まえなければ、とある特殊な法則をもって世界を再定義し、更にはその定義をもって予測未来を
決定づけ、自ら自律的な可能性を放棄するということに繋がるように思います。最も危惧するのは、そう
した機械的な世界観によって存在者が完全に「モノ」化され、物理法則のみによる世界の解体(我有化)
は、即自世界(神−倫理)を更に形式的で無機質な模造世界にすり替えてしまうのだ、ということです。
その模造世界の中で「わたし」はニヒリズムに陥り、自ら信奉する成功法で窒息するように思います。
(高貴なる者の倫理について)
「わたし」が「わたし」を引き受け自覚するにしても、それは存在者−倫理のように「みなよく生きている」
「みんな大好き」という類の倫理と、却って神−倫理に立ち戻り、自己本位的に「わたしだけがよく生きて
いる」という類の倫理に分かれるのだと思います。前者は等しき者の倫理、後者は高貴なる(優越なる)
者の倫理と称することにします。前者については存在者−倫理でだいたい触れたと思います。
高貴なる者の倫理ですが、これは個体化の原理(エゴ=自己保存、展開)を自覚的に引き受けることを
高貴とし、自らの意志をもって無窮の抗争に参画、その優越性をもって君臨せんとする倫理です。自らの
優位性を誇示するのですから連関における位階を必然とし、他者とは支配せんもの搾取せんものであり、
我有化を極めんと闘争する阿修羅の倫理と言えるでしょう。
>>329で書いた意図した暴君を指します。
優越性にこそ他者への畏敬はあるとカオルさんは指摘されました。それは、高貴なる自覚者が自らを貶
めることなく是認すること、高貴なる他者を是認すること、矮小なる者・弱者・卑怯者を蔑むことこそが、
包み隠さず他者を認知し畏敬することに繋がる、ということなのだと思っています。しかしこれが畏敬なの
かは疑問なのです。なぜならそれは常に強者にとっての視点であり、他者を高貴なる同属者、矮小なる
弱者と囲いこむのは、現前する痕跡をもって我有化する「わたし」の暴力に過ぎないからです。他者は
たとえ如何に痕跡を残そうと、決して「わたし」から捉えることのできない触れ得ざる超越であって、その
他者性ゆえに、「わたし」にとって畏れ敬う存在なのです。それを我有化の価値のみで囲いこむのは、
いえそれだけでなく自分を「優越」なる高みに置いてしまうこと自体、畏れ敬うこととは無縁でしょう。
適者であるとか力の強弱というものは「他者性」とは関係しないことです。
高貴なる者の倫理は価値を創造するか。これも疑問です。そもそもがあてがわれた現象形式(個体化の
原理=エゴイズム)に追従するというだけですから、如何に「わたし」が自覚しようと、エゴを越え出ること
はないです。というかそれ自体目的なのですから、これは何を意味するか。預かり知らぬままお仕着せら
れた個体化の原理を我がモノと強弁して、道化を演じ続けるだけなのではないでしょうか。適者生存、弱
肉強食の世界を彼は支配しているつもりなのでしょうか。いえ、単に躍らされているだけです。「わたし」は
高貴だ、という仮面で自分を欺きながら。
ボクが思うのは高貴なる者の倫理といった類の倫理は、所詮は神−倫理に自ら回収されてしまうだけ
の倫理に思います。もしも存在者独自の倫理(価値)を求めるのであれば、それは神−倫理に対峙する形
でしか提示できないと思います。そしてエゴと倫理の緊張においてのみそれは可能なのだと。
けれど、人を幸せにするのは高貴なる眼差しなのでしょう。
等しき眼差しはすべてを愛し、それゆえに誰も愛さない。
何もかも引きかえにしても、たとえ他のすべてが滅しても、守りたいと思うこと。それが人の愛。
実際ボクは、愛することのほんとうの意味がわからない。それこそが罪なのかもしれない。
あの人は(ボクの知っている)誰よりも愛を知っているのです。
>>339 直子さん
ありがとう。
341 :
考える名無しさん:04/05/09 20:09
最近は、半悟りのエヌは来ないのか?
もう悟りは止めたのか・・♪
世界に放擲された孤児にできることは泣き叫ぶことだけです。
泣き叫んでいるあいだ、孤児はその声を聞くことができるでしょう。
やがてカオルという名前が孤児に付されたので孤児はカオルになりました。
回帰するべき自己をもたない孤児にとって回帰する場所はカオルだけです。
意味するものとしてのカオルが意味されるものとしてのわたしを誕生させました。
根拠をもたない孤児が、自由という不安の恐怖から逃げ出そうとして
やっとつかんだ存在の手触りがカオルだったのです。
わたしは神によってではなく、ロゴスによって存在しています。
わたしは、神を現前させてしまったのです。
意識されるものとして、わたしの支配下に置いたのです。
小さきものへの情愛と善意は、わたしに人としての相貌を与え
わたしの夢と希望、世界とわたし自身の、そして生と死の創造者として
かつて神のいた場所へと、わたしを導くでしょう。
わたしは、その玉座に郷愁さえ覚えてしまうのかもしれない。
そうしてわたしは、あったものとしての尊厳を取り戻すのでしょう。
わたしは、わたしの意思の行方さえ知らない創造者です。
永遠にめぐりあえない自分自身を追って影ふみをくりかえします。
けれど昨日にわたしがいなくなるなら、わたしはどこにいればいいのでしょう。
できごとの偶然性のリアリティは、突然やぶられてしまう約束のように
思考の外からやってきて、わたしを不安と恐怖の限界状況に追い込みます。
だからやめてしまってもいいと思うわたしは哲学へと導かれたのでしょう。
まるでそれは尊厳を背負うものの使命のようにして。
わたしの創造した世界は、わたしを傷つけたでしょうか。
世界に夢や希望を抱いたのが、まちがいだったのでしょうか。
いまわたしを圧倒し、わたしを畏怖させる空虚なそれはそこにあります。
いえ、世界などどうでもいいのです。
世界が何であるかという本質と、わたしの実存はかかわらないからです。
わたしは、独りいまここに存在します。
もちろん、わたしは思うことをやめられないけれど
わたしが、どのような科学的な探究の客観的な手法をとろうとも
その視点のもたらすものは、わたしの実存とは何の関係もないのです。
わたしの思考は、ものごとの真のリアリティにかかわれないからです。
ものごとの本質は、リアリティにはかかわれないし
科学の真理は、何ひとつ人生の問題を解決することはないでしょう。
わたしは、思考します。思考について思考します。
わたしは思う、ゆえに思考するわたしは証明できないけれど
わたしは思考されたわたしを発見するでしょう。
わたしのもっともはじめの創造、それがわたし。
わたしは嬉しさのあまり、その無根拠性を無視してしまいます。
わたしの不安はここからはじまって、やがてそれに耐えられなくなる。
わたしが実存しているという事実は、わたしに帰属します。
わたしの真理は、わたしだけのものです。
真理の探究は、実存するわたしにかかわっているのであって
わたしの魂や自由や世界を客観的に指し示すことはできないでしょう。
これら非意味的なものの真実は、あなたのものにはならないのです。
真理は、単独者としてのわたしのみが把握しうるのです。
真理は、わたしの側にあるからです。
にもかかわらず、真理に永遠という属性が含まれているとしたなら
わたしは実存しているかぎりにおいて真理にかかわりようがないのです。
永遠なるもの普遍的なるものが、わたしとともにありつづけているのに
わたしはわたしの有限性と特殊性から、それにかかわることができないのです。
けれどわたしが孤独の純潔を守るなら、それは逆説としてわたしの内実になります。
ですからわたしの独りであることの不安は、決してわたしの消滅のそれではなくて
わたしの無根拠性にあるのだと気づかされるのです。
わたしが、わたしである必然性がないということは
わたしが、有限で特殊な単独者であるかぎりにおいて
永遠の真理も普遍的な真実も、わたしには関与しないということです。
それでも真理や真実の存在を証明できるのは、わたししかいないのです。
このわたしの構造は、全てのわたし・匿名の誰か、という次元において
はじめて、永遠の相を開示するのでしょう。
>Sさん
Sさんとわたしの考えにちがいはないと思います。
> 根拠をもたない孤児が、自由という不安の恐怖から逃げ出そうとして
> やっとつかんだ存在の手触りがカオルだったのです。
そうだね、あなたはかつて作られた。 だれも完全な自由に耐えられる人なんかいないよ、コメディ
アンとかじゃなければ・・・。 でも、あなたには全てを笑い飛ばす勇気なんてないもん
ね。
> わたしの夢と希望、世界とわたし自身の、そして生と死の創造者として
> かつて神のいた場所へと、わたしを導くでしょう。
そして自分から離れていくってか・・・。 滑稽だね。
> できごとの偶然性のリアリティは、突然やぶられてしまう約束のように
> 思考の外からやってきて、わたしを不安と恐怖の限界状況に追い込みます。
> だからやめてしまってもいいと思うわたしは哲学へと導かれたのでしょう。
哲学ねー。 哲学は盾にしかならないよ。 ユーモアの方がいいんじゃない? 自分の内か
ら吹く風になるよ。
> わたしのもっともはじめの創造、それがわたし。
> わたしは嬉しさのあまり、その無根拠性を無視してしまいます。
ハハハハハ。
> わたしが実存しているという事実は、わたしに帰属します。
> わたしの真理は、わたしだけのものです。
ふーん、そっちを選んだんだ。
> にもかかわらず、真理に永遠という属性が含まれているとしたなら
てゆーか、その前になんで「永遠」を求めんの? あんたは永遠の良さなんてわかるわけ
ないし、そんなの仮定する必要ないじゃん。「そっちを選んだ」んだから。
> ですからわたしの独りであることの不安は、決してわたしの消滅のそれではなくて
> わたしの無根拠性にあるのだと気づかされるのです。
あなたはまだ論理を捨てるにいたってないんだね。それがある限り、たとえ「土台」を
自分で創造してもそれは外のそれにだんだん似かよってしまう。
あなたは一つの世界に固着するからそんなに不満足な結果で終わってるんじゃないの?
ですから、いいこと教えます。 世界を跨いで旅をするようにしなさい、俺のように。
境界を越えて歩くんだよん。
We feel that even when all possible
scientific questions have been answered,
the problems of life remain completely unanswered. -- LW
あっそうそう、ハルカごめん。 なんかあなたのシステムについて何も言ってなかった。
目を通したよ。微妙におもしろかったかも。
あと 2 週間は自己催眠にかかるから 2ch にこれないけど、その後は必ず
そのシステムについてレスします。 またー。
> カオル ◆BBBRv/ousU
もうちょっとユーモアを持てばいーんじゃない?
356 :
考える名無しさん:04/05/10 12:57
>351
こんなこと書いてる貴方はとても愚かで空しい。いいかげんに人への壁から自由になったらどうですか。
ばかの壁より高い壁なんかさっさとスルーしなさい。貴方の哲学志向は何も新しいものへと繋がらないわ。
よいと思うこともなくただやみくもに自分の思いを書いても、それは時代の哲学的要請には応えられないのよ。
貴方の目指す哲学はもっと別のところにあるんじゃなくって?私は貴方の言葉を使う力をもっと自覚してほしいわ。
これから、もっとこころと意識を広げて時代の哲学的要請に視点を注いで欲しいな。今までのは、哲学的吐露にすぎない。
もっと、新しい視点があるはずよ。応援してまーす。
>カオルさん
Sはカオルに胸いっぱいの親しみと愛しさを感じます。
とても言葉にし尽くすことはできない。
許されぬ罪に責め立てられながら、あなたを誰よりもかけがえなく想うのです。
358 :
考える名無しさん:04/05/10 21:34
なんでも哲学なんだろ
Sさん、いつもありがとう。
彼らは、揶揄する人には放って置かれたいが、認めてくれたり褒めてくれる人は受け入れる。
悩んでいる人には手助けしてあげたくなるが、押し付けでしかないことの自覚が足りない。
それが人間だろうし、身をもって体現しているかのようだ。
傷の舐め合いや批判しあうのも、生きているものの行為として何かしら意味がありそうに見える。
そうして意味を自分で見出す作業を悩みながらも遂行している。
哲学とはそういうものかもしれないね。
というより、人はそうして意味を見出しながら生きるしかない。死にたくなければね。
その意味でハルカとは生きるスタンスに大きな食い違いが生じている。
それを自覚しつつ影響しあいたい願望が双方にある様子。
誰もが似たようなことをしていそうだね。
(高貴なる者/等しき者の倫理について)
自覚せる者にあって、たとえ高貴なる(優越なる)者の倫理であっても等しき者の倫理であっても、それだけで
はいずれも我有化の暴力を超え出ないことは同じなのです。エゴの肯定/否定という葛藤において2つの倫理
は同じ地平に立ちせめぎあう。我有化として、「わたし」は「あなた」でないという個体化の原理の自覚的な肯定
と「わたし」は「あなた」であるという個体化の原理の自覚的な否定。闘争と調和を求める「わたし」の葛藤がそこ
にあるのだと思います。
その我有化の葛藤とは決して関わらない、超越としての「わたし」は「あなた」でないという断絶。それが決して
「わたし」から捉えることのできない触れ得ざる「他者」という畏敬なのだと思います。我有化と畏敬の葛藤がそこ
にあるのだと思います。
纏めるなら、2つに分けて考えた倫理は我有化としての闘争/調和の葛藤、そして我有化/超越の葛藤という
構造において統合できると思います。
Sはみんなを愛しカオルはみんなを愛さない。Sはエゴに批判的でありカオルはエゴを大切にする。こうした点が
違いとしながら、それでもどちらも他者を尊重していて、しかもお互いに畏敬がないと批判し合ってしまうのは、
こうした構造を混同していたからなのだと思うのです。
(我有化としての闘争/調和の葛藤、 我有化/超越の葛藤の組み合せ)
(1)我有化/超越の葛藤
畏敬(超越への眼差し)を持ち、責任と罪を自覚的に引き受ける、存在者の自律的な倫理。
(1a)闘争の志向−超越への眼差し
畏敬を持ちながら、本来的なエゴの闘争に立ち還っている倫理形態。
(1b)闘争/調和の葛藤志向−超越への眼差し
畏敬を持ちながら、エゴの肯定/否定の緊張において葛藤している倫理形態。
(1c)調和の志向−超越への眼差し
畏敬を持ちながら、エゴの完全否定へ突き抜けた倫理形態。
純化された無私なる行為瞬間においてのみ具現されると思われる。
(2)我有化に留まる闘争/調和
エゴの肯定/否定如何に関わらず、自らの独善に気付かない点において、いずれも無垢なる
「わたし」の暴力を出ず、神−倫理に回収される。他者は「わたし」のモノとしての対象に過ぎない。
それでも(2b)では葛藤による歯止めが掛かるが、(2a)(2c)に至っては他者なき狂信的な行為
へとエスカレートしてゆく。なんでもあり。
(2a)闘争の志向
(2b)闘争/調和の葛藤志向
(2c)調和の志向
祭りのあと
たとえわたしを自覚的に引き受けたとしても、わたしの無根拠性は変わることはないです。永遠では
いられないわたしにとって、祭りが途切れることは避けられない。どんなに夢中になっても、価値を
創造したとしても、わたしがわたしであることが永遠から切り離されている事態であって、わたしである
以上、わたしは普遍なる世界から放擲され環ることができないのです。
(おそらく)動物達は永遠の中に住まうけれど、わたしはそこには環れない。しかしその永遠が根拠なる
ものなのか。根拠/無根拠とは無縁であるゆえに永遠なのであって、その永遠に還ることはわたしの
根拠ではない、と思うのです。例えば狂気によって、悟りによって、わたしの消失とともに永遠に誘われる
のだとしても、(わたしの消失)故に、その永遠はわたしの居場所ではない。
わたしの無根拠性は永遠から飛び出したわたしの自律を証してくれるのだと気付くけれど、神でもない
有限なるわたしはその重みに耐えられはしない。それでも限りにおいてわたしはわたしを貫くのです。
なんかこのスレではコミュニケーションが成り立っていないようですね
自分の思った事をそのまんま書き綴って、
それに反する意見には目かたむけないみたいな。。。
それじゃ哲学じゃないですよ、みなさん
>>364 >それじゃ哲学じゃないですよ、みなさん
あんたにもいえるし、ここ覗いてる連中はあんたがいう哲学の枠は見て見ぬふりだよ。
>なんかこのスレではコミュニケーションが成り立っていないようですね
その通りなんだけど、それが好きな奴らとしか思えないね。
ここは自分の気に入ったことをわかり難く書き込んでとりあえず満足する場のようだな。
人とのコミュニケーションは大事なんだけど、自分をわかってくれた風が見えないと
なかなか受け入れられない。
そして謝ったり、感謝したり、反省したり。
素晴らしいスレということだね。
人が語りだすことのできぬ回答に対しては、人は問いをも語りだすことはできない。謎は存在
しない。ともあれ問いが発せられる以上、その問いは、答えることのできるものでもある。 (6.5)
いま、仮に、可能なかぎりのすべての科学的問いが回答されたとせよ。そのときにも私たちは
やはり、生の問題は依然として手もつけられないままであるかのように感ずる。もとよりそのとき
には、もはやどのような問いも残ってはいないであろう。そして、もはや問いはないということが、
じつはその回答でもある。 (6.52)
生の問題の解決を、人は、その問題の消失という形で気付く。(このことが、長い疑いのあとで
生の意義を明らかにした人は、その意義がそもそもどのようなものであったかを語ることもでき
ない、ということの理由ではあるまいか。) (6.521)
もとよりことばにはだせぬこともある。それはみずからを示す。それがすなわち、神秘的なるもの
である。 (6.522)
(世界の名著 ウィトゲンシュタイン 論理哲学論 )
わたしに現前する世界はわたしの世界であって、それは言語によって対象化されたわたしの
世界なのですから、それは語ることのできる世界。そして現前する世界の痕跡それ自体は、
即自的な対象に過ぎず、単にそうであるという以上の何も意味しはしない。だからこそ謎もまた
存在しない。すべての科学的問いもまた、語ることのできる問いであり、もちろん謎もない、と
なるのだと思います。
問題なのはわたしが永遠なる者を越え出て、生や存在に驚き戸惑い対峙せんとする形而上の
志向に至っていることなのですが、どのような問いも残ってはいないというより最初からそこには
(生の問題の)問いも謎もないということなのだと思います。
生の問題の解決。解決を求めるならば、それはわたしに現前する境界を越えることなのだと思い
ます。で、永遠へ回帰することがそのひとつの方向であり、もうひとつは語れない痕跡の向こうへ
眼差しを向けること、いずれも神秘なるもの(語りえないもの)へ向って境界を跨ごうとすることなの
だと思います。前者が悟りであり、後者が倫理なのだと思いますが、倫理については、解決さ
れることのない未完なる試みなのだと思います。
或いは形而上の志向を切り捨てるという選択もあるでしょう。境界を跨がずに跨ごうとする志向
を消失させるということです。そのようなことが可能なのか、は疑問なのですが。
>>364-365さん
コミュニケーションについて言えば、関わり仕方は多様なのだということです。
それと、ボクのレスの大半は特別なひとへのものですが、負担を掛けたくないのでなるべく宛名を
付けない形で自由に応答して頂けるようにしています。
そしてあなたの言葉も受けております。(^.^)
>コミュニケーションについて言えば、関わり仕方は多様なのだということです。
ええ。それは間違いのないところでしょうね。
そしてコミュニケーション不成立を認めないで切り抜ける手段として「多様」という
表現を用いているようです。
互いのやりとりだけに関して言えば
>そしてあなたの言葉も受けております。(^.^)
これもコミュニケーションの形骸でしょうか。
それが楽しいのでしょうから誰にも止められませんね。
内容はどうでもいいようです。
もう私が書く必要は無いんじゃないかな…
書いてやれば。
スレ主はあんたを待っているんだし、あんたが書きたけりゃ。
書きたくなきゃやめなよ。
一体誰に意見もとめてんのかいな?
>> ハルカさん
ハルカさんの思うままにお願いします。
とはいえ、今はそれぞれに方向を打ち出し、それぞれに歩むに至っていますね。
ハルカさんが一応に書き終え、伝え尽くされたなら、不肖Sの役割も終了です。
悟りの側から言えば道は独りゆくもの。自律の側から言えば単独者として立つということ。
語りあった真剣な言葉はそれぞれの胸に。
前へ
ミ・3・)なにいってんNO
おまえのものはおれのものおれのものはおれのも
ハルカさんはおれのもNO ほう勇気あるじゃN ほう
ショーペンハウエルについてなんか言ってください
悟ったよ!!俺悟ったよ!!
悟りたいとか自律したいとか
どなたか親切な方、上記のスレをビューアなしで読めるログを
貼り付けていただけないでしょうか?
とても面白そうなので、どうかお願いします。
> カオル ◆BBBRv/ousU
そう!! それを待っていた。
そのまま、孤独の純潔性を広めていきましょう。
どうせなんだからこのまま S ◆4Ijqvx1jbw すら拒否してしまいなさい。
さすればあなたはあなたになれるんだから。
> S ◆4Ijqvx1jbw
おもしろくない
もうちょっとユーモアを持てばいーんじゃない?
ハルカヘ
==========
> 【芯】(『認識主体』)を【我】の有す『分類性』によって客体化する事で発生する
> 『自己意識』。
【芯】とは『決して認識され得ぬ認識主体』。つまりそれはブラックボックスであり、
何もその内部を観察することができない。それ以上に、何者も芯の存在を確かめること
すらできない。 なぜなら、ある何かが【芯】の存在を確かめるには、その何かはそれを
まず認識しなければいけないからだ。よって【我】は【芯】の存在をたしかめることが
できない。故に【我】は【芯】の内部を知ることもその存在を知ることもできない。で
は、【我】はどうして【芯】を「客体化」することができよう? ん、ハルカたん(久し
ぶりだったけど元気だった)?
* Statements that lead nowhere...
おまえの芯の定義は例えば、昔のCatholic教の「神」の定義に似ている:
「God is that which is greater than anything conceivable」
(神は全ての認知可能な物以上の存在である)
これを俺は「カンニング」と呼ぶ。人間が何を考えようが、何を言おうが、神はその上
をいくということになるからだ。つまり、神は人間には認知され得ないものということ
になる。これにより昔のCatholic教徒達は論理という剣から逃げ回っていた。
まあそうしたいんならそれでいいんだけどな。
ただ、俺はそういう奴等とは違って答えを求める。
「秩序性」 -- 【芯】がアクセス不可能なのにどうやって『虚存』から自己を『実存』
として分離すんだ?
「稼動性」 -- 『意識』は本来【芯】にある。ではどうやってそれを分離し、稼動させ
『知覚』とさせれる?
> ○分類性 … 『言語化』という『認識手段』を経て知覚情報を各カテゴリーへと分類する。
> ○蓄積性 … 知覚配列物を『記憶』として自己の内部に蓄積する。
: ちかく 0 【知覚/▼智覚】
: (2)〔心・哲〕〔perception〕感覚器官に与えられた刺激作用を通して、外界の事物・事
: 象を、ひとまとまりの有意味な対象としてつかむはたらき。知覚を構成する基本的要素
: が感覚で、こちらは物理的属性との関係で部分的なものとして捉えられることが多い。
上の定義を知覚とすれば(goo)、このモデルはおかしい。知覚情報 (外界の事物・事象か
ら得た情報) のまとまりは記憶であるならば、俺が昨日見た夢を俺がしっかりと覚えて
いるのは記憶ではないのか?それともハルカの知覚の定義は別のもので?
> ○照合性 … 記憶配列物を比較対照し『思考』活動を行う。
おかしい。 俺の『思考』は記憶だけに頼っているわけではない 。 俺の『思考』は感情
にも、体の状態にも左右される。
> ○多動性 … 複数の思考配列物を『意識』が往復し『感情』を発生させる。
ここはもっとはっきりさせた方がいい。
> 『意識』が往復し
どこをどう往復するか。『感情』はハルカのモデルでどこに格納されるのか。
それと、もし『意識』を中心点から分離し稼動させたものが『知覚』であるならば、
思考配列物は必然的に【芯】内に格納されなければならない。であれば、この多動性は
【我】ではなく【芯】に位置づけられるべきだ。
> ○閉鎖性 … 時間的・空間的に『境界』を想定し『自他』の関係性を成立させる。
『自他』の関係性ってなによ。あいまい。
> ○生命種 … 『物質』と『生命』との壁を越える根源力となる何か。
これはかなり曖昧。『物質』と『生命』でタイプミスマッチ説も流れてるし、
その
> 根源力となる何か
って言われてもさっぱりわからない。何か例とかないの?
> まず【英知界】において【虚存】と【意識】は不可分のものとして混じり合っている。
> そして【現象界】に関係性を持つ際の接点として【意識点】がある。
> この【芯】内部の【意識点】は【英知界】と【現象界】を繋ぐワームホールの出口=ホ
> ワイトホールのようなもの。
ここら辺の定義がまったくされてなく、批判のしようもない。せめて【】内の言葉は
定義を提供してほしいものだよ・・・ね、ハルカたん!!
書き疲れたからまた今度。
でもこれでちょっとはハルカの書く必要性ができただろ?
またな、ハルカ。
>>377-379 面倒だから回答は一度だけ。
既に書いた事も多いし。
【芯】は『ブラックボックス』とは違う。
『ブラックボックス』のように『内部が確認出来ない物』ではない。
『外部』も『内部』も元々『ない』。
『ただの存在』―形にも成らない『実相』があるだけだ。
それそのものには『意識』も『個性』も『人格』もない(だから『認知されない』とは言っても『神』とは性格を異にする)
ただの混沌とした『存在そのもの』だ。
これを【虚存】(混沌化した【有】)としている。
そして【我】(【個体化原理】の作用によって、秩序化した【有】=【実存】)は【芯】(【虚存】)を内包している。
これは、【実存】同士の【相互認識】の為に、【実存】の背景に【虚存】が絶対必要であるだけだ。
言わば黒の背景の上に黒い紙を置いた所で判らないように。
【我】は【芯】の存在を『知っている』。
【芯】の存在を知った上で、自らの認識の為に『利用している』。
ただ、それが『意識上に上がってこない』だけだ。
(信じられないだろうし、証明せよとか言うかもな…でも放っておく)
そのものを捉える事は【実存】という『限定された【有】』では無理。
我々の意識に上るのは精々『【芯】の影』くらいだ。
しかし、この『影』も余程注意深く精妙な意識の元にしか顕れない。
通常の意識状態では『決して認識され得ない』が、この【芯】がなくては何物も認識出来ないから『認識主体』な訳。
(何十回同じ事言ったか…)
【個体化原理】が【実存】を分離した【虚存】は【芯】ではない。
同じ【存在】=【有】の中の【虚存】(混沌とした無秩序な【有】)に方向性・秩序性を与えて【実存】としている。
(これも過去に記述済み)
(鬱陶しいから書きたくないけど一応続く)
(続き)
記憶についてはこれを読め。
(過去発言より)
『記憶』とは大まかに言って『記録』と『再生』の二大作用を有します。
『記録』は『意識の稼動』の一連の流れの中の三箇所で行われます。
知覚 → 記録[1] → 思考 → 記録[2] → 感情 → 記録[3]
この[1]の部分で『記録』が行われます。
ここで行われるのは
・転写(知覚情報を脳に書き込む)
・保存(転写された内容を維持する)
更に[2]の部分で再度『記録』が行われます。
ここで行われるのは
・銘記(認識情報を事実として脳に書き込む)
・保存(銘記された内容を維持する)
そして[3]の部分でもう一度『記録』が行われます。
ここで行われるのは
・追記(思考結果より得られた感情結果を印象として銘記保存された情報に追加する)
・保存(追記された内容を維持する)
つまり記録は三段階で行われるんですよ。
記録[1]で行われるのは『写像記録』−言い換えれば『未加工の情報』の記録です。
記録[2]で行われるのは『事実記録』−言い換えれば『ラベリングされた情報』の記録です。
記録[3]で行われるのは『印象記録』−言い換えれば『派生情報』の記録です。
この三つが合成されて始めて『記憶』となります。
しかし通常は『写像記録』は殆ど作用しません。
いえ、作用してはいるのですが殆どにおいて(意識的には)有名無実と化しています。
何故ならば大抵の場合は『写像記録』が意識上に昇る事が無いからです。
(生得的、あるいは訓練により得られる能力で『写真記憶=フォトグラフィックメモリー』というものもありますが)
(続く)
(続き)
『記録』された情報=記憶では『事実記録』より『印象記録』の方が『再生』が容易という特徴があります。
いきなり『事実』を『再生』しようとするよりも『印象』を『再生』してから連なる『事実』を『再生』する方が容易なのです。
よく『音楽を聴くとその当時の感情が思い出される』とか言うでしょ?
アレは『事実記録』(何時何処でどんな状況で何の音楽を聴いた)より『印象記録』(何の音楽を聴いて何を思った)の方が『再生』し易いからです。
例えば『忘れている時期の記憶でも、音楽を聴くとそれを聴いていた当時だけは思い出す』という状況。
これは
音楽を聴く(知覚) → 当時何を思った(印象再生) → その時の状況(事実再生)
となっているからなんです。
『再生』は『意識の稼動』の一連の流れの中の二箇所で行われます。
知覚 → 再生[1] → 再生[2] → 思考 → 再生[3] → 感情
この[1][2][3]の各部で記憶の『再生』が行われます。
『再生』とは以下の二行程を経ます。
・再生(『記憶』された情報を読み出す)
・再認(読み出した情報が間違いないか確認する)
行程は同じものの[1]と[2]と[3]では読み出される情報が異なります。
[1]で再生される内容は『写像記録』です。
得た知覚情報と記憶に在る『写像記録』を比較対照して『自己同一性』を確認します。
[2]で再生される内容は『事実記録』です。
得た知覚情報と記憶に在る『事実記録』を比較対照して『思考』が発生します。
[3]で再生される内容は『印象記録』です。
産出された思考配列の結果物と『印象記録』を比較対照して『感情』が発生します。
つまり、『意識の稼動』の流れは
知覚 → 写像再生・確認 → 写像記憶 → 事実再生・比較 → 思考 → 事実記録 → 印象再生・比較 → 感情 → 印象記録
となります。
(更に続く)
(続き)
>それと、もし『意識』を中心点から分離し稼動させたものが『知覚』であるならば、
>思考配列物は必然的に【芯】内に格納されなければならない。であれば、この多動性は
>【我】ではなく【芯】に位置づけられるべきだ。
…『思考配列物』などの『情報』は全て一定の方向性・秩序性を有する【実存】なの。
【実存】を【虚存】内に格納?
馬鹿じゃないの??
何も解ってない。
>『自他』の関係性ってなによ。あいまい。
『個体化・個別化による【自】【他】区別』と言っちゃろうか?
そこまで言わんと解らんようだから(笑)
【生命種】については『曖昧』と言われてもそれ以上は言えん。
平たく言っちまえば、【実存】なら必ず含んでいる。
この【種】の大小が【生命】と【物質】(と呼ばれている物)を分ける。
(実際は【実存】全てが【生命】であり【物質】とされる者も【生命】の一種)
ハルカはどうしても物事のgistが掴めないらしい・・・。
あと、おまえ俺の指摘してることほとんど無視してるだろ?
まず、「【芯】は『ブラックボックス』とは違うか」どうかなんて俺の言っている
中ではあんま重要じゃねーだろ。
> 何もその内部を観察することができない。それ以上に、何者も芯の存在を確かめること
> すらできない。...
> では、【我】はどうして【芯】を「客体化」することができよう?
ここが大事なんだよ。関係ねーこと書く前にここんとこすっきりさせろよ。
でなきゃおまえの論はただのお遊び、もしくはマスタベーション。
> 【我】は【芯】の存在を『知っている』。
だからどうやって知るんだよ。ここが問題でしょ?
それとも、ハルカたんはお姫さまだから勝手に根拠なしに何でも仮定してしまっていい
んですか? では、このハルカ特有の権限を以後「ハルカ独定権」と呼ぶことにしよう。
> 【我】は【芯】の存在を『知っている』。
> 【芯】の存在を知った上で、自らの認識の為に『利用している』。
> ただ、それが『意識上に上がってこない』だけだ。
> (信じられないだろうし、証明せよとか言うかもな…でも放っておく)
ここでもハルカ独定権を利用したね。 俺は証明しろなんてバカげたこと言わないよ。だ
れもできるわけねーし。
我はどうやって認識不可能なもの(芯)とのコミュニケーションが可能なのか、そこが問
題なんだ。つまり、我はどうやって芯を
> 自らの認識の為に『利用している』。
か。ここの説明ぐらいはハルカ独定権を使用せずに少しはそれっぽい理由を言いなちゃ
い。ハルカ独定権の使用によるステートメントがある限り、外部の人達はおまえの論に
対して沈黙せざるを得ない。 おまえはそれを望んでいるのか? もしそうであれば、お
まえがここにいる必要はなくなるな。
> 我々の意識に上るのは精々『【芯】の影』くらいだ。
質問だが『【芯】の影』ってどんなもんなんだ? ハルカたんは『【芯】の影』を認識し
たことがあるのかな?
あと、記憶関連のログ貼ってくれてありがとな。
なかなかおもしろかった。おまえは
> しかし通常は『写像記録』は殆ど作用しません。
と言うが、俺は冗談ではなく『写像記録』での記録が結構多いけどな。
> …『思考配列物』などの『情報』は全て一定の方向性・秩序性を有する【実存】なの。
> 【実存】を【虚存】内に格納?
> 馬鹿じゃないの??
この辺、ハルカっぽさまるだしって感じだな。 そこは俺の意見を述べたんじゃなくてそ
れまでの仮定による必然性を述べただけなんだがな・・・。 っていうかおまえは「過去
に .... をすでに書いた」とかよく言うけど、俺はこのスレ以外なんの過去ログも持っ
ていないということを少しは考慮しろよ。まだ html化されてねーわけだし。
あと、元気かってきいたんだからハルカもそうとかそうでないとかぐらいは答えること
ができただろ? ハルカお姫さまはあいさつすら満足にできないようだな。ま
あ、ここのキャラ的問題もあるんだろうが、少しは人間的になれよ。
☆ ◆qghsbP9EHg はどうやって写像記録できるようになったの?
私はいま、右脳開発法により、それをマスターしようと奮闘中
☆ ◆qghsbP9EHg はどうやって写像記録できるようになったの?
私はいま、右脳開発法により、それをマスターしようと奮闘中
>>☆さん
もうアンタの質問に答える気は更々無い。
逃げたと取ってもらって結構。
そもそも、あくまでも『体験知が先にある後付け理論』なのだから。
頭で理解不能であっても『こうだったから、これしか考えられない』という風に『根拠は体験知のみで論理的には説明不可能』の部分も多い。
その部分を『独善』と言われてもねぇ…
『あ、そうかい』と言うしか無いね。
元々『誰かに認められようとした訳じゃない』しねー(苦笑)
ついでに『その道を求めている人にしか語る意味が無い』から。
多分、アナタに語る意味は無いと思うよ。
今までのレス見てもね。
大体、私を論破して『参った。私が間違っていました』とでも言わせたいのかな?
『アナタの方が優秀です。もう許して下さい』と。
それとも頭撫でて欲しいのかな?
もしそうなら言ってあげようか。
『すいませんでした』
無論、本心を全く込めてはいないけどね(笑)
結局のところ、悟るってのは事実はこうであったと知り、その場での問題解決をもたらす。
この事実は事実でしかなく、何か順序だてて、確固とした法則性があるわけでもなく、
それを理屈にして整理して、小奇麗にして、本人に役立つものだろうか。
その整理が、まだ、見ぬ誰かへの説明のための理屈ならば、有効かもしれない。
しかしながら、どんなに優れた理屈であっても、それが伝わっているかは疑わしいようです。
そもそも各人によって迷いがそれぞれ違うのであるから、それにあわせて自ずと悟る事実も違ってくる。
事実を理屈立てて説明するとしても、そのヒト特有の悟りの事実になり、裏を返せば、そのヒトが持っていた特有の迷いの説明になるのです。
>>391(Nさん)
それはそうなんだけどね(苦笑)
事実、最初は『思考好きな自分を満足させる為』に始めたんだもの。
尤も途中からは、前に言った様に『同じ様な状況になった人』に向けて書く様になったけど。
『大丈夫。アナタは狂った訳じゃないんだよ』『それは〜〜なんだよ』という意味の『指標』としてね。
何故なら…
私は迷ったもの(笑)
『なんだコレは』『とうとう狂ったのか?』ってね。
だから『そうじゃないんだよ』ってね、書いてたの。
>>392 ハルカさん
はい。役に立ちました。
「なんだ、俺だけの変な妄想じゃなかったのか」ってことが。
>>342-
>>350 名演説ですね。
これがあなたの認識だとするとすばらしいです。
エヌさんのファンです。
エヌさんが最近解説役ばかりでつまんない。
何か喋ってぇ
エヌさんが精神世界に興味もった動機とか聞きたいな。
396 :
考える名無しさん:04/05/30 05:53
ハルカさんは、ヤフーチャットで精神世界の部屋をつくってる
MONさんですか?
397 :
考える名無しさん:04/05/30 05:59
精神世界なんて哲学じゃないよ…
398 :
考える名無しさん:04/05/30 06:14
>>390 『体験知が先にある後付け理論』…っていってもね…
その『理論』とやらが哲学ではないってことを分かっているのかな…?
分からなければ、まず『純粋理性批判』を読んでくれ…
399 :
考える名無しさん:04/05/30 07:49
そろそろ行き詰まりぎみになってきたようなので
なんでも哲学かましてよかですか?
_________
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|∴∵∴| | < 正気かね?
>>399 |∵∴∵| / \_____
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どーも。元気か、ハルカ?
おまえもよくそんな時間に起きてられるな。
しかしとうとうハルカに拒絶されちまったか。
悪かったな意地悪して; おまえの言っていることの多くは語りえないことだから、切り
詰めていけばハルカの言語が途切れる、つまりおまえが答えられなくのはわかっていた。
しかし、それはハルカ自身も気付いていたはず; 故におまえはこんなにも早く俺との討
論を断念した -- 早ければ早いほど良いと思ってね。
俺はハルカを否定しているわけではないよ。 俺はおまえのように生きる奴がむしろ好き
なくらいだ。ただ、そのような奴等は自分の作りだした世界に固着しすぎるが故に一つ
大事なことを忘れがちだ。それは 「世界は小世界の集合により成り立っている」という
こと。
個々の世界にはそれぞれ良い所もあれば悪い所もある。
ある世界(システム) W1は特定のシチュエーションS1においては善を齎すが、別のシチュ
エーションS2においては悪を齎す。この二面性は人間がここまで複雑に進化した以上
避けられない必然と言える。では、この世界の成り立ちを無視してまで自分の世界に固
着し、そのドグマに従っていくことは最良の生き方と言えるのであろうか?
俺はそんな小さな限られた生き方はしない。俺は前にも言ったが、世界を跨いで歩く旅人だからね。
☆ ◆qghsbP9EHg はどうやって写像記録できるようになったの?
私はいま、右脳開発法により、それをマスターしようと奮闘中
>世界を跨いで歩く旅人だからね
どこの国でのどんな事が、あなたにとって面白い事だった?
よかったら聞かせてよ。
ま、あれだ。
どこに行こうとも矮小な自我が世界を大きく見せたり小さく見せたり、
自身を大きく見せたり小さく見せたり、
どのようにも見れる自由が与えられている。
しかしながら、矮小な自我が一緒に、お供している限りにおいては、
世界のどこに行こうとも、不自由も、問題も一緒についてくる。
間違いない!
ここにいるみんな大好き!!
ホモロリショタの俺はフィロソファー合格でつか?
月は欠け、オアシスは乾き、砂丘に息吹は蘇る
ごぶさたしておりましたが、再開します。
>>373に書いたように一定の区切りはついており別スレの立ち上げも考え
ましたが、書き込みの継続性を大切に思い、このまま続けます。
悟りの側の論については、かなり出尽くした感もありますが、新たな境地を
見出されましたら、書き込みを継続ください。ただ、kさんのスレなども覗き
ましたが、揶揄するような書き込み自体が目的化している感があります。い
くらエゴと自認していても、悟りとは縁遠い固執でありましょうし、まして、
ありえない虚無への解脱など、そのような惰性で望むべくもないと思います。
自律の側の論については、未だ倫理を模索する状況ですので、以前の継続
となります。カオルさんの語る倫理と対峙する必要も、強く感じています。
簡潔に申せば、たとえ自覚しようとも、エゴの要請によるいかなる志向も倫理
ではないということ。許される倫理、つまりエゴに頭を垂れたいかなる倫理も
エゴに回収されてしまうのだということ。そうした志向を否定しているのでは
なく、エゴの体現者こそは無垢なる神の子、ただしそれは倫理ではなくてどこ
までもエゴなのだと思うのです。
何かあればよろしくお願いします。次レスからまたゆるりと進行していきます。
(優越なる者の倫理について)
以前に他者への眼差しをもつ優越なる者の倫理について書きました。しか
しそれが(存在者の)倫理であるのか、やはり疑問です。たとえ自覚したと
しても、それは強者・適者の語れる倫理、あてがわれた個体化世界、個体
形式に追従するにすぎないと思うからです。つまり自覚し、コントロールして
いるように気取っても、実質、神−倫理に回収されている。
優越なる者が他者を位階で囲い込むならば、たとえ善意であっても”して
やっている”という傲慢でしかない。そしてそれは、自らがあてがわれた形
式をおしつけられて世界に投げ出された暴力と同じことを、隣人に実践し
ているということなのです。そうした罪を自覚した上で行為したところで、押
し付けられる側にとってはご都合の自己正当化であり、無思慮な暴力以外
の何物でもない。適者生存、弱肉強食的な正当性を平気で語れるのは、或
いは自分はこれだけ努力しているとか能力が優れているとか悦に入れるの
は、それが全体の割り振りにあって、たかだか偶然そのような環境や関わ
りに恵まれているに過ぎないことに無頓着なのです。
こうした無頓着な生存レース、パワーゲームこそが、あてがわれた個体化
世界の神−倫理に回収されるのだ、ということ。それが優越を語ってしまう
者の、より良く、より高くの正体であり、自覚しているようにみえて、実際に
は存在者不在の道化芝居なのだと思います。結局のところ、エゴに突き動
かされるだけのいかなる志向も、なんら価値を創造しないし、あてがわれた
形式に追従する奴隷でしかないと思います。
もしもより良くより高くの可能性があるのだとしたら、それはエゴの要請を
超え出た、存在者独自の関わりにあるのだと思います。なぜなら、いかなる
エゴの要請も、畜殺台がごとき個体化世界の現実を変えられはしないから
です。
>>409-
>>411 Sさん
久しぶりですね。
今日はちと高級そうなホテルの宿泊なので気分がいいです。・・・
いままで、何百回と泊まったけど今日のが一番だな。明日も泊まろうっと。
で、ちょっと一言。
結局のところ、あなたは、パワーゲーム(エゴの争い)に見えましたか。
今まで、何をここで話し合ってきたのです?
感じていたのは「道化芝居」だったのですか。
どうして優越感に浸って書き込んでいると感じるのでしょうか。。。
不思議なことです。
結局、あなたでさえ、エゴの争いの世界でしか物事を見ていないのですね。
伝えられないし伝わらない。よーくわかりました。
いづれにせよ、誰がなんと言おうと、迷妄すれば、その解決を求めるだろうし、
それゆえ、もつれた糸がほどけるように、理解がもたらされるであろう。
運が良ければ。そして導く声が聞こえるなら。
私もたった1冊の本だけで導かれたのだから。
えっ、何だって?
知ったかぶってる?
そう見えているでしょう。
致し方なし。
俺はエヌの言葉を信じるよ。他人の心の広さというか、深さは自分の心のそれを
基準にして推し量ってる場合が多いと思うから、自分が幼ければ他人も幼く見えやすい
、例えるなら「人は自分の鏡」のような感じだと思っている。
だから人と人との間に、著しい相互理解の差が生まれるのは必然的でもあると思う。
しかし、心を深く深く突き詰めていくと同調意識というか集合意識と言うべきか、
とあるものが見えてくる感じがする。俺はエヌの心がそこにあるのだと思う。
エヌって金持ちなんだね。もう隠居しても十分に暮らせるほど持ってるの?
それとも仕事柄なのかな?ちょっと気になる。
エヌさん、おつかれさま。
>>412 エヌさん
う〜ん、困りました。優越とか道化と自分を揶揄されているように感じて反応
されているのはエヌさん自身なのだと思うのですが。。。
ここで書いた他者への眼差しをもった優越なる(高貴なる)者の倫理のつい
ては、
>>361-362に書いた区分のひとつです。エヌさんはあてはまらないでし
ょう。なぜなら、優越を自覚する者にとって個体化世界の闘争から逃避して
形而上の世界へ没入する宗教や悟りなどは、最も嫌悪する弱者のルサンチマン
であるからです。
ところで、主客の合一といった内的な体験をいかにしようと、「わたし」の実体
を否定しようと、個体化の現象レベルにおいて語っているエヌさんは「わたし」
です。体験を想起したり、存在レベルの繋がりを語ろうと、そう語っているエヌ
さんは「わたし」に留まっています。そして「わたし」によって解釈された世界を
生きているのです。たとえこだわりが消失したのだとしても。
また、たとえばエヌさんはお気に入りのホテルに泊まり料理に舌鼓をうったこと
でしょうが、「わたし」がどのような解釈をしようと、たとえこだわりがないのだと
しても、エヌさんが未だに個体を維持し、ホテルを所望し、食事をする、それ自
体がエヌさんの発する暴力なのです。たとえ「わたし」が内的な入れ子の構造
に支配されていても、エヌさんという「わたし」が判断し、個体の行使力を発揮
すればこそのこと。エヌと呼ばれる個体から発せられる暴力に変わりはないで
す。自覚しようとしまいと、我が消失して頓着せずとも、個体化の現象世界に留
まる以上は。そして「わたし」がいないとするなら、エヌさんはここで語ることもな
いでしょう。
これが繰り返してきた、自律の側の論です。悟りの側とは視点が逆になるでしょ
う。しかし留意して欲しいのは、エヌさんが何らに悩み苦しみ、悟りを求めたのも、
そのような問いを発した「わたし」がなければありえないこと。「わたし」がいなけ
れば、どんな状況におかれていようと、永遠の中に住んで問いを発することす
らなかっただろうということ。言葉を語るエヌさんは、どこまでも「わたし」の世界
に住まうのだということです。しかも好んで。そうでなければ、エヌさんはさっさと
存在に溶け込んで、もはや語ることもないはずです。
悟りを語り続けることの欺瞞について
個体化世界における存在者の暴力性とは、世界における固有の領域を
個体の帰属で占有していること、その個体の維持・展開をせめぎあうことに
あります。それは生み出された者としての強制(被暴力)でありながら、同じ
く被暴力によって生み出された他の存在者に対して暴力を振るう関係に
あります。存在者の苦しみは存在者を規定する強制から発し、存在者自身
の暴力によって際限なく連鎖してゆく。
悟りにおいて固執がなくなったのだとしても、依然として個体形式を維持して
いるのであれば、その暴力は全く変わらない。とはいえ、主客が完全に合一
しているのであれば、その者は永遠に溶け込み、苦しみから開放されること
でしょう。しかし、例えばここで言葉を語っているということは、「わたし」が残
っている訳であって、「わたし」の世界に留まっているのですから、その者が
永遠を生きているはずもないのです。「わたし」である以上、永遠を生きること
はできない。軋む脳に苦しむボクも、未来や希望を感じないというカオルさん
も、勿論、悟りを論じているハルカさんもエヌさんも。
と、いうことをここの皆は承知して、好んで「わたし」に留まっているのですか
ら(なぜなら個体の死も、瞑想に留まり続けることも選択できるにも関わらず、
「わたし」を選択している)、個体維持・展開の責任、個体の加害性は「わたし」
に帰属しています。一方で存在レベルでの繋がりや、現象レベルでの迷妄を
語りながら、もう一方で世界を対象化し、肉を食らい、存分に「わたし」を楽しみ、
苦しむ。そこに悟りを語り続ける者の欺瞞があります。
存在レベルの繋がりや現象レベルの迷妄を語っても、ではその者は流れるま
まに生きているかといえば、相変わらず日常の価値に拘泥しているのであっ
て、価値観を否定しながら依存しているわけです。ときおり、主客合一という
非日常を楽しみながら。そしてそれらを志向し判断しているのは「わたし」。禅
問答を発し、楽しむのも「わたし」。そしてそのような「わたし」が維持されること
によって発せられる個体の暴力は、如何に存在レベルの繋がりや現象レベル
の迷妄を語っても変わりはしないのです。そしてその迷妄を語る者自身、現象
の迷妄を本気で信じてはいない。なぜなら、その者は未だに迷妄である首を削
ぎ落とさず、個体の生に固執している。道を諭すと根拠づけながら、そうして偽
りながら、生にしがみついているのは、その者の方なのです。手段が目的化
したとき、悟りはその者と無縁となるでしょう。道はただ自ら求道し行為によって
示されるものです。
個体化の現象世界に留まるならば、そこでの主体はどこまでも「わたし」です。
存在者の繋がり(一如としての存在基盤や連関として繋がり)や他者への眼差
しを持てるのも、たとえ「わたし」が内的な入れ子の連環に支配されていても、
「わたし」が自覚し判断すればこそ。自己自律や存在者倫理に込めて来た、悟り
の側の方への、ボクの想いです。
>>409 Sさん
>エゴの要請によるいかなる志向も倫理ではないということ。
>許される倫理、つまりエゴに頭を垂れたいかなる倫理も
>エゴに回収されてしまうのだということ。
自我は、エゴイズムの巣窟ではないと思います。
自我は、他我によって相対的に存在するものです。
つまり、自我は他我を内包してこそ成立するのです。
倫理は、自我に回収される単一の価値観ではなくて
自我を構成するさまざまな要素のあいだでくりひろげられる葛藤の証です。
自我を構成するさまざまな要素のあいだでの矛盾を総合する力があるとき
その人は、自律していると言えるのではないでしょうか。
もちろん、矛盾が解消されることはないのかもしれません。
けれど、だからこそ「より良くより高く」への志向性があるではないでしょうか。
>>410 Sさん
>優越なる者が他者を位階で囲い込むならば、たとえ善意であっても”して
>やっている”という傲慢でしかない。そしてそれは、自らがあてがわれた形
>式をおしつけられて世界に投げ出された暴力と同じことを、隣人に実践し
>ているということなのです。
”してやっている”ではなくて、”何ができるのか”です。
形式を押し付けることになってしまうのは、相手のテリトリーに
入り込んでいないからです。
”してやっている”から”何ができるのか”になるためには
<わたし>と<あなた>とを隔てている境界を超えないとなりません。
境界は、<わたし>を成立させている「常識」であったり「論理」であったり
しますから、<あなた>と向かい合うということは「命懸け」のことなんです。
Sさんは、赤ちゃんを抱いたことありますか?
わたしたちは、赤ちゃんの世界もコトバも知らないのに
それでも”うんうん”とうなずいてしまいますよね。
ここに他性と向かい合う倫理の根源があるような気がします。
赤ちゃんを抱いたSさんは、もうそのとき命懸けなんです。
自分の命も顧みず赤ちゃんを守ることになってしまっているでしょ?
>Sさん
まだまだレスしたいのだけど、超スローペースで行きたいと思います。
音沙汰なくても心配しないで下さい。かならずレスはします。
>>414 >同調意識というか集合意識
ユングの世界観だっけ。
>>415 はい。どうもです。確かに休みなしで働いて少し疲れてきました。
>>417 舌鼓を打てればいいのだけど、うーん。コンビニのパンだと打ちにくい。
リゾートホテルだったので、なかなか良かったのだけど、
12時すぎて入ったら、何にも楽しめないし、
いいホテルといっても、しょせんは、12畳ほどの、狭苦しい部屋です。
次の日は、空いてなかったので、暗くて狭い、ウサギ小屋。
なんで、ビジネスHは、こんなに部屋が暗くて汚いのか。
うーむ。脱線したけど、質問です。
1)なんという動物だったか。
半分に切ると、下半分から上半分を再生し、上半分から下半分を再生するやつ。
さて、どちらが「わたし」ですか。
2)芝生は、秋になると枯れ、春になると生えてくる。
根っこがあるから。その根っこを切ってもそれぞれに生えてくる。
さて、どれが「わたし」であり、暴力ですか。
3)「いちご」は実をつけたあと、茎をのばして、小さな根っこをたくさんつくって、数が増える。
さて、どれが「わたし」?
4)河原に落ちている石は、1つづつが、「わたし」であり、暴力ですか。
あたったら暴力になるけど。
>>421 カオルさん
>自我は、エゴイズムの巣窟ではないと思います。
>自我は、他我によって相対的に存在するものです。
>つまり、自我は他我を内包してこそ成立するのです。
はい、そう思います。問題なのは、他者(他我)への相対の仕方です。そこ
に利己/利他、優越なる/等しき、我有化/超越という差異が生まれるのだ
と思います。そしてそのどれもが自我(我ー私)の働きであって、
>自我を構成するさまざまな要素のあいだでくりひろげられる葛藤の証です。
>自我を構成するさまざまな要素のあいだでの矛盾を総合する力
となっているのだと思います。より良くより高くがどう志向されるのかは、
>>362に書いたような分類を考えています。そして内(自我)外(存在者間)
それぞれにおける葛藤(せめぎあい)の総体を、「自己」「自律」と考えています。
>>422 カオルさん
> <わたし>と<あなた>とを隔てている境界を超えないとなりません。
というのは我有化を超えた、「他者」(超越)への眼差しです。これが倫理の条件
になることはボクもカオルさんも同じ思いでしょう。「わたし」の暴力を超えて、
触れ得ざる「他者」に”何ができるのか”ということなのだと思います。
ただ、「他者」(超越)への眼差しを意識しても、「わたし」に捉えられる痕跡
はすべて我有化されているのであって、そこに優越なる/等しきといった自覚
の差が反映されます。赤子や子猫を抱いた時に、個体間の力関係で上から
見下ろすのと、それを超えて同じ目線を持とうとするのとの違いです。
カオルさんがニャーさんに対して「かわいそうとは思うけど、、、」という目線に
対して、ボクはリブ(うちにいた猫)に対して「頑張ってるんだね」という目線で
関わってました。位階か、共感か、という違いに思うのです。
カオルさんが赤子を抱いた時、どういう目線で”うんうん”とうなずいていた
のか、守ろうとしていたのか。そこが、「してやっている」と「ともに」との分岐だと
思います。
赤子を抱いたことはないけれど、甥っ子をあやす経験はあります。
>>423 カオルさん
了解です。
>>424 エヌさん
>>419に書いたように>禅問答を発し、楽しむのも「わたし」、、、つまり「わたし」
とは
>>424を記述しているエヌさんです。(たぶん)
また、その手の禅問答は受肉せるエヌさん自身をスパーンと真二つにしてみたら確かめ
られると思います。エヌさんならできそうな感じがします。
>>425 Sさん
>問題なのは、他者(他我)への相対の仕方です。
>〜そしてそのどれもが自我(我ー私)の働きであって、
ちょっとだけ。
自我に内包される他我というのは、主体としての自我が認識する他我ではなくて
他我そのもののことです。他我そのものが自我を構成してもいるということです。
というのもそのように考えないと「他我問題」は解決しないように思うからです。
わたしは「他我は理解できる」と思っているのです。当り前のこととして。
どうして理解できるのかといったら、はじめから知っているからです。
>>426 Sさん
>カオルさんが赤子を抱いた時、どういう目線で”うんうん”とうなずいていた
>のか、守ろうとしていたのか。そこが、「してやっている」と「ともに」との分岐だと
>思います。
”うんうん”というのは、全面的な受容と肯定のことです。
それから意識して「守ろうとしている」でも「ともに」でもなくて
赤ちゃんを抱いた瞬間から全面的に「そうなってしまっている」です。
>Sさん
今までのわたしの意見からすると
信じられないこと言ってるように思うかもしれないけれど
もともとわたしの意見には一貫性はないのだから
以前のわたしの意見との整合性は期待できませんので、あしからず。
>>429 カオルさん
他者からの呼びかけは、「わたし」が判断する猶予を与えずに、強引に「わたし」
に入っています。それが切羽つまった呼びかけであればあるほどに。瞬間、「わ
たし」は「あなた」にシンクロし、「わたし」と「あなた」の境界を越えているのだと思
います。赤子の泣き声、道を尋ねる異邦人、川に流された少年の叫び、、、耳を
塞ぐことすらできず、それらの呼びかけは全面的に「わたし」であるを放逐します。
倫理の瞬間なのだと思います。
赤子に”うんうん”応答しているのが、そうした倫理の瞬間であるならば、それは
「わたし」の判断に先立った関係であるし、>全面的な受容と肯定、>全面的に
「そうなってしまっている」、、、なのだと思います。カオルさんの言う、他性と向か
い合う倫理の根源なのだと思います。
ただ、その瞬間は継続せず、主体としての「わたし」が回復し痕跡の我有化が始
まると、同じ”うんうん”応答しているように見えて、その契機は異なってくるのだと
思います。例えばエゴイズムの要請による様々な打算によって、その”うんうん”
はもはや「あなた」を向いていなかったり、次の瞬間には拒絶されたり虐待された
り遺棄されたりもします。赤子を殺せる母親はいるのです。そうではなくて、
>>426 のようなことが自覚されたなら、根源的な倫理瞬間とは異なるけれど、”うんうん”
は十分に倫理にかなうのだと思うのです。
>>428はもう少し考えさせてください。
>>430 カオルさん
痕跡を辿って他者像を押し付ける、勝手な一貫性(物語)を捏造する。
これも我有化の暴力です。その非はボクにあります。
それでも、時にはこうして不しつけに確かめるほかはないので、
どうかご容赦ください。
>>431 Sさん
>そうではなくて、
>>426のようなことが自覚されたなら、
>根源的な倫理瞬間とは異なるけれど、”うんうん”は十分に倫理にかなうのだと思うのです。
426のようなことってなんでしょうか?
「根源的な倫理」の形式みたいなものがあるのでしょうか?
いうまでもなく”うんうん”は「倫理」にかなうとされる
なにか特別な<わたし>の事態を指すのではないけれど
まず、このように自然的な事態の方が先行していて
そこから「倫理」が導かれていったのかもしれないって思ったりしています。
もちろん”うんうん”を「倫理」と呼ぶには無理があるのかもしれないけれど
なにかしらの「規範」の起源ではあるように思うのです。
♪ 瞬間 ♪
赤ちゃんの温もり(命)が<わたし>に現前するのは、つねにその瞬間なのではないでしょうか?
>その瞬間は継続せず、主体としての「わたし」が回復し痕跡の我有化が始まると、
わたしは、Sさんとはちがった意味で「瞬間は継続せず」だと思うのです。
そもそも「瞬間」は「継続するもの」という前提は【個体化の原理】ではないでしょうか。
<わたし>は、つねに「瞬間」において「超越」(たとえば、Sさん的の他者)に接している
という可能性は考えられないでしょうか。
また「痕跡の我有化」とは、「わたしの時間化」のことなのではないでしょうか。
>>434 >「超越」(たとえば、Sさん的の他者)に接している
「超越」のとらえかたは、Sさんの解釈が論理的には正しいと思います。
ですから、わたしの使用する「超越」は、本来は「超越論的〜」の方が良いのだと思います。
あとあとこじれるのは嫌なので最初にことわっておきますね。
それから「超越」と「現前」については、
>>203のレスも参照してください。
今までのわたしからすると「もう話すことはない」っていうところに突入なのかな?
かなり強いデンパが出そうな気配です。(^_^;)
>>433 カオルさん
>426のようなことってなんでしょうか?
>>426より、
<わたし>と<あなた>とを隔てている境界を超えないとなりません。
というのは我有化を超えた、「他者」(超越)への眼差しです。これが倫理の
条件になることはボクもカオルさんも同じ思いでしょう。「わたし」の暴力を超
えて、触れ得ざる「他者」に”何ができるのか”ということなのだと思います。
以上は主体としての「わたし」に求められる倫理の条件だと思っています。
これなくしては、如何なる行為も独我世界から発した独善に過ぎない、つまり
他者がいない=倫理ではない、ということになると思うからです。その条件を
課すと、多くの行為が実は倫理に適っていないように思います。
>「根源的な倫理」の形式みたいなものがあるのでしょうか?
>>431上段に書いたように、「わたし」であるはずの「わたし」が「あなた」にな
っている瞬間、、、悟りの側の方のいう主客未分のような状態が、多分主体
としての「わたし」が放逐され「あなた」へ純化された倫理であろうと思います。
「わたし」である以前のより根源的な、という意味において根源的な倫理瞬間、
その、主体としての「わたし」が放逐され「あなた」へ純化された状態を根源的
な倫理形式と考えています。倫理のルーツがどうか、という意味ではないです。
倫理のルーツを考えるのはとても難しいです。>自然的な事態の方が先行し
ていて、、、と考えるのが(倫理に限らず)妥当と思われますが、それが何か
はボクにはわかりません。カオルさんの説を詳しくお聞きしたいです。
>>434 カオルさん
>赤ちゃんの温もり(命)が<わたし>に現前するのは、つねにその瞬間なの
>ではないでしょうか?
そのはずなのだと思います。けれど、純然と「今を生きる」ということは、「わた
し」にはできないです。カオルさんのご指摘のように、「わたし」に認識可能な
個体化の原理の世界でしか生きられない「わたし」は、瞬間を感じることができ
ないです。もしかしたらカオルさんは「今を生きる」ことにより近いのかもしれな
いけど、やっぱり違うと思う。例えばカオルさんも過去や未来を語れるからです。
> <わたし>は、つねに「瞬間」において「超越」(たとえば、Sさん的の他者)
>に接しているという可能性は考えられないでしょうか。
可能性というか、接しているはずなのだと思います。そうでないと根源的な倫理
形式は成立しませんから。
「瞬間」とは永遠の現在のことだと思いますが、永遠から放逐された「わたし」に
は捉えることができない。そして仮に根源的な倫理的瞬間に還っても、その瞬間
は語られることがない。「わたし」に立ち戻って想起する体験は、もはや「瞬間」
ではない。ゆえに「他者」は「わたし」には触れ得ざる「超越」なのだと思います。
>「痕跡の我有化」とは、「わたしの時間化」のことなのではないでしょうか。
そうだと思います。
>>435 カオルさん
了解です。
たぶんこじれないように思っているんですが、楽観でしょうか。
あまりズレは感じていないです。
439 :
考える名無しさん:04/06/17 21:30
ナニヤッテンノ?
「わたし」は「わたし」の構築する統一された独我世界に閉じこもり、痕跡を
我有化するが、痕跡は他者(他我)との接点であり、根源的にはその境界
は混沌として、未分なのだと思われる。赤子が恐らくそうであるように。
もしも或る者の、「わたし」の自己同一性がより混沌へ開放されているので
あれば、その「わたし」は混沌と引き換えに、他我をより感じることができる
のではないか、と思います。それは内在における自我(我-私)の関係にお
いても言えると思います。外的連関としての自我-他者(他我)、内的連関
としての自我(我-私)は相互連関して始めて存立している。混沌とした根源
形式において、その境界はない。
>>428については、まだ考えています。
441 :
よって終了:04/06/17 22:02
明らかな板違い。
→宗教板
→お花畑板
>>436 Sさん
>他者がいない=倫理ではない、ということになると思うからです。
>その条件を課すと、多くの行為が実は倫理に適っていないように思います。
「他者がいない」というのは、社会の安定や維持にかかわるものとして、
個人へのプレッシャーとしての働きをする倫理にもとづく行為、ということでしょうか。
たしかに、そのようなものとしての倫理の運用に長けた人はいます。
倫理を大切にはするけれど、その人の目的は利殖ですものね。(笑)
>「わたし」である以前のより根源的な、という意味において根源的な倫理瞬間、
>その、主体としての「わたし」が放逐され「あなた」へ純化された状態を根源的
>な倫理形式と考えています。倫理のルーツがどうか、という意味ではないです。
<わたし>が放逐されてしまったなら、それは倫理ではないと思います。
なぜなら、<わたし>に内在する<あなた>との、あるいは<全体>との
葛藤がないなら、倫理の要請される理由がなくなってしまうからです。
<わたし>と<あなた>との境界が消失してしまうような
あるいは、<わたし>による選択の審判がくだされる間もなく
倫理(行為)が先行してしまうようなとき、たとえば先に挙げた例のように
赤ちゃんを抱いた瞬間、もし赤ちゃんの身に危険がせまったなら
多くの人は、自分の身を賭して赤ちゃんを守るのではないでしょうか。
はたしてこの行為は、<わたし>の自己了解のもとにあるのかどうか。
自己了解していたとしたなら、それは何によってもたらされたのでしょう。
倫理(行為)は、思考の外から、合理のもっと底からやってくる何かに
突き動かされているようにも感じられるのです。
443 :
考える名無しさん:04/06/18 03:36
どこからどう考えても、
常識的に考えて、間違いなく板違い。
444 :
考える名無しさん:04/06/18 08:49
>>442 >赤ちゃんを抱いた瞬間、もし赤ちゃんの身に危険がせまったなら
>多くの人は、自分の身を賭して赤ちゃんを守るのではないでしょうか。
それは本能的行為。
純然たる本能的行為には、善悪はなく、倫理もない。
本能に対して善悪の判断をするのは全くのナンセンス。
「自分の身を賭して赤ちゃんを守る」という本能的行為を
「自分の身を賭して赤ちゃんを守るべし」という倫理に
してしまうことほど馬鹿げたことはない。
445 :
考える名無しさん:04/06/18 10:44
いきなりで悪いんだが、本能というものは本当にあるのか?
どうも本能という言葉を万能ネギのように使いすぎているように思えて仕方がない。
反論不可能の、言い訳の最終兵器として本能を考えてはいないか?
議題が深まるにつれて、本能を盾に武装されたら抵抗のしようがない状況に陥ってしまう。
>>445 生物の行動要因としての本能はあったかと
理性>学習>>>>>(超えられない壁)>>>>>本能>反射>走性
だったかと
447 :
考える名無しさん:04/06/18 11:11
>>446 チョイト検索してみたらそのような事が出てきました。
本能的行動を言うのに、生得的にプログラムされた、という記述があったのだが
それは(己の)意志の届かない領域と捉えるしかないということなのだろうか?
>>447 本能を変える等は意志でどうこうできることでもないだろうけど、意志で本能的な行動
を制御することは十分可能だろ。
空腹な犬が目の前の餌に飛びついて食べる。これは本能だろう。いい匂いでもさせていれば
なおのこと。
でもほとんどの犬は「マテ」のしつけが入ればかなり我慢する。
つまり餌を目前にしたら食べたいという本能的な欲求が生じるが、どういう仕組みか
知らないが、飼い主の「マテ」という命令に従ってしばし欲求を抑制していることになる。
最愛の飼い主に先立たれた犬が他の人からは餌を食べず餓死する例もある。
こうしてみれば、本能的とされる行為に対して意志が関与してそれを抑制することは
日常にいくらでもあることではないか。特に人では。
449 :
考える名無しさん:04/06/18 12:37
>>448 確かにそうだと言える。
しかし、生死に関わる問題の場合、
「生きたいというのは本能である、よって、死ぬのはいけない」
といった結論の持っていき方をする者がいる。
これは、答えられないまたは答えるのが困難である、という状況で使われる言い訳に
しか私にはとれない。感情論を避け、学術風な物言いをしただけで何も言っていない。
この本能と
>>444にある本能は違うものなのか?それとも同じと考えていいのか?
>>449 >という状況で使われる言い訳にしか私にはとれない。
まあそうだね。本能だと結論付けることで、その議題を終了させられる気になる人はいる。
ただし
>>444に書いてあることはもっともだと思う。
そこに書いてあるのは、本能と考えられることに倫理的思索を当てはめようとする行為に
対して、それは意味がないのでは?と指摘だろう。
本能的な行為も理性により調整可能だろうが、しかしそれを倫理というとらえかたをするのは
どうかな?といった疑問じゃないかな。
>>450 >本能と考えられることに倫理的思索を当てはめようとする行為に対して、
>それは意味がないのでは?と指摘だろう。
うん、これはよく理解してるつもり。
本能とは何か?ということがはっきりしていない(と思う)のに、本能という言葉を使って
「それは本能だから」。理性、学習との境界、曖昧な部分を「本能」で言い逃れようとする
動きがあると、本能である事が確からしいと言えるものでさえ実は違うのではと疑ってしまう。
スレ主のSさん、みなさん、こんにちわ。お邪魔します。
>>Sさん
私も自分の存在が無根拠であることにかなり苦しみました。というよりは、社会の価値
基準を受け入れることが困難で、社会が幻想なのか自分が幻想の中にいるのかわからな
くなっていたのです。楽しいこと追求を最優先の行動原理にすえてからは、けっこう楽
しくやってきたのですが、はずみで大切な人ができてしまってからは、ある程度自分の
行動に制限をかけざるを得なくなって、思い出したように苦しくなっては、なにやって
るんだろって思います。
>>ハルカさん
私は唯物論者なので、自分の体が一個体でなくなる時、私もほどけてもう二度と現れることはないのだろうな、
と思っています。でも、ハルカ論で語られる事象は自分の中に認められることばかりです。
最近、私の唯物度に切れた知人に、「ひとつひとつの素粒子にさえ意識が無いなんてなんで言い切れるんだ?」
言われてみればそれを認めてみれば面白いなあと、別に私の世界観と互いに矛盾するわけではないし、なんて
思っていたところなので、
>>232 >>233 など、とても興味深く読みました。
ただ、ハルカ論の世界だったら、輪廻転生続けたいな。地球以外に行ってみたいな。違うスケールの世界に行
ってみたいな。(て、この意識を持っていくわけではないのですよね。でも、なんかわくわく。)
453 :
考える名無しさん:04/06/18 18:55
ダレカ ナイヨウノ アルコト カケンノ?
>>453 無理を言っては駄目。
それに内容が「ある」とはどういうこと?ってことになる。
こん〜 <all
はつよろ〜
これから、遊びに来るつもりです〜
さとりって、仏教の悟りで、
自律って、・・・
過去ログ、読まなきゃいけないんだろうけど、何も分からないまま、ご挨拶だけ〜
>>442 カオルさん
他者がいないというのは他者(超越)への眼差しがない、ということです。
カオルさんのいう内在としての他者についてはまだ考えています。ただ、
「わたし」にとって他者をどのように捉えているか。我有化に留まるなら、
それは他者性なき他者の所有、「わたし」の暴力にすぎないということです。
それは(他者)倫理ではなくて、独善(エゴイズム)なのだと思います。>
その人の目的は利殖ですものね、というような方の功利的な判断もまた、
エゴイズムでしょう。
>その条件を課すと、多くの行為が実は倫理に適っていないように思い
ます。というのは、世に見られる多くの行為、たとえ一見利他行為に見え
て、厳密にはエゴイズムに留まるものが多いだろうということです。
>>442 カオルさん
> <わたし>と<あなた>との境界が消失してしまうような
>あるいは、<わたし>による選択の審判がくだされる間もなく
>倫理(行為)が先行してしまうようなとき、
これを=根源的な倫理瞬間と考えています。他者からの切羽つまった呼
びかけに晒され、「わたし」が「わたし」である以前に「あなた」へと純化して
いるからこそ、無我夢中で「応答」するのだと思います。
ボクが書いた倫理形式は2つ。主体としての「わたし」が他者(超越)への
眼差しをもつ「自覚する倫理形式」と、「あなた」へシンクロする「根源的な
倫理形式」です。で、前者は当然葛藤にありますが、後者は葛藤の余地
なく即応しています。後者を倫理と呼べるか。「わたし」の自己了解のもと
にはないと思いますし、「わたし」の合理のもっと底からやってくる何かに
突き動かされているとも思いますが、それは内在としての他者(他我)が
関係するように思います。本能と括るのは避けようと思います。また明日
にでも考えをまとめられればと思っています。
>>452 多摩さん
はじめまして。
ボクを苦しめるのは、単に生み出されただけの無根拠な存在者が、にも
かかわらずそれぞれの個体形式に強制され続けることにあります。どこ
まで遡って想定しても根拠はなく、にもかかわらず個体維持、展開のため
に食らい合わねば存立できない構造にあること。出口がないこと。これは
社会が、自分が、というよりどちらも含まれています。
この状況を「わたし」が主体として自律的に引き受けつつ、不毛とも思え
るあがきを模索しているのが、自己自律、存在者倫理です。ボクのレス
レベルは御覧の通りですが、よろしければ多摩さんの問題意識や考えを
ぶつけてください。
>>455 あは氏 パシルさんもよろしくです。
>ダレカ ナイヨウノ アルコト カケンノ?
>無理を言っては駄目。
そかなあ?それぞれの考え方、すごく面白いよ。
自分の書き込みは読み返したら馬鹿丸出しで嫌になっちゃったけど。
浅はかだなと猛省。今後ROMに留めます。
>>452 はスルーでお願いします。
Sさん。
お返事ありがとうございます。
どうしよう。
>>458読まないで、今後ROMに留めるとかスルーでお願いとか書いてしまいました。
みなさんのレスをもうちょっと読み込んで、書けるようなことができたらまた来させて頂きます。
>>458 S さん
よろしくです。
過去ログ、少しずつ、読むことにして、なにやら難しそうなお話しでツネ。
仏教の 禅の 見性の 話しが できればいいな と 思っています。
462 :
考える名無しさん:04/06/18 23:39
>>457 >ボクが書いた倫理形式は2つ。主体としての「わたし」が他者(超越)への
>眼差しをもつ「自覚する倫理形式」と、「あなた」へシンクロする「根源的な
>倫理形式」です。で、前者は当然葛藤にありますが、後者は葛藤の余地
>なく即応しています。後者を倫理と呼べるか。「わたし」の自己了解のもと
>にはないと思いますし、「わたし」の合理のもっと底からやってくる何かに
>突き動かされているとも思いますが、それは内在としての他者(他我)が
>関係するように思います。本能と括るのは避けようと思います。
倫理は自由意志にもとづく行為を前提としてるのでは?
本能として括るのを避けるにせよ、
<無我夢中>でかつ<葛藤の余地なく>なされる行為を
倫理に関連付けるのは無理がある。
自他の区別が消失する方向で考えるのであれば、
倫理について語るのはやめたほうがいい。
「慈悲」ならいいのだが。
463 :
THE END.:04/06/18 23:43
完全な板違い
→宗教板
→お花畑板
へどうぞ。
>>463 THE END さん
(・_・ )))) 巡回 (((( ・_・) ご苦労様です。
お疲れでしょう。
どぞ〜 ( ^-^)_旦~~ _(^^ ) ども〜
>>456 Sさん
>他者がいないというのは他者(超越)への眼差しがない、ということです。
超越的対象としての他者が、<わたし>の意識において現前するとき
その現前性に生の様相をみいだすことは、自然なことのように思いますし、
言語のフィルターを通過したなら、人格的なものとしても把握されるのでしょう。
(社会から個人への圧力として作用する倫理は、非人格的なものだと思います。)
たいして、超越的対象としての他者そのものは、論理空間の外にありますから
そこに、<わたし>の意識を成立させる「時間の連続性」、たとえば痕跡として
の過去を持ち込むことは、「瞬間=永遠」の様相を持つ他者の超越(イデア)性に
抵触することになるのだと思います。
「瞬間=永遠」の様相において開かれる超越性には、死の様相がかいまみえます。
もしそこに同一性の維持をもとめるにしても、それを「瞬間」の「連続性」に期待する
ことは出来ないでしょう。なぜなら、現前し得ないものとしての他者の現前性を
「記号」によって反復させようとすることが、<わたし>の「時間化」であり、
(他者の現前の)「痕跡の我有化」に他ならないと思うからです。
今日はこれだけ。
>>465 痕跡、現前、他者、超越・・・という用語から察するに
これは、レヴィナスの思想ですか?
デリダはハイデガーの「現前性」批判を受け継いでいますが、
レヴィナスは「現前性」を肯定的に考えているのでしょうか?
そうだとすれば、それによってレヴィナスはハイデガー批判をしてるのでしょうが、
レヴィナスを読んだことがないので、そのへんについて教えてください。
ハイデガーやデリダが「現前」を批判するのは、「主客対立」の文脈において
だと思います。たとえばハイデガーは、「恒存性が立ち続け性を根拠づけるが、
それは『対向』ということが再-現前作用を通して本質となるや否や直ちに、
対-立性としての現前性と一緒になって立ち続け性を根拠づける。
それは何時のことか。思惟するものとしての我としての基体が
立ち上がることに於いてである」と書いているように、
現前性は、デカルトによって確立された主客対立構造と結びついていると
考えていると思います。
レヴィナスはどうでしょう?
>>461 >なにやら難しそうなお話しでツネ。
そうでもない。
せっかく興味持ってレスくれた人には対処しろよ。
ふたりおなにーならご勘弁。
レスがほしいなら書けるように言え
>>460 多摩さん
了解です。でもスレ主になってるボクは、ど素人のひよっこなんですよ。
>>461 あは氏 パシルさん
見性の お話 となると、ハルカさんやエヌさんが中心になりそうですね。
ボクは「わたし」の自律だとか言って悟りの側の方に噛み付いてる立場なんです。(^_^;)
>>462さん
ご指摘についてはわかります。ただ、ボクは、根源的な倫理形式が「わたし」
と無関係に発せられるのでもないだろうな、と思うのです。本来的には「わた
し」は全方位から他者の呼びかけに晒されています。にもかかわらず何らか
の切羽つまった呼びかけにのみ即応したり、無数の呼びかけを取捨している
ところに恣意性を感じます。そしてその恣意する者は「わたし」以外に考えられない。
或る者は赤子の叫びに即応するだろうし、或る者は悪臭を放つ無宿人にも
即応する。または飼い猫に即応する者もいるだろうし、今踏みつけられんと
する蜘蛛に即応する者もいるでしょう。そうした差異に見出される恣意性から、
根源的な倫理形式は、「わたし」である時の自覚的な倫理形式のありようと
不可分に思うのです。
まず「わたし」が成立してのちに自覚的な倫理形式が成立し、その変容は
根源的な倫理形式に連関している。根源的な倫理形式は、自律自由なる
「わたし」が研鑚した自覚的な倫理、それが「あなた」へ向かって純化され
て放たれる瞬間の形式なのだと思います。だからそれは単純な本能では括
れず、倫理の瞬間なのだとボクは思うのです。
>>465 カオルさん
>超越的対象としての他者が、<わたし>の意識において現前するとき
>その現前性に生の様相をみいだすことは、自然なことのように思いますし、
>言語のフィルターを通過したなら、人格的なものとしても把握されるのでしょう。
はい。
>(社会から個人への圧力として作用する倫理は、非人格的なものだと思います。)
倫理とは「わたし」と「あなた」の対面としての関係と思います。制度化された
圧力は倫理とは思わないのです。勿論それは非人格的なものと思います。
>たいして、超越的対象としての他者そのものは、論理空間の外にありますから
>そこに、<わたし>の意識を成立させる「時間の連続性」、たとえば痕跡として
>の過去を持ち込むことは、「瞬間=永遠」の様相を持つ他者の超越(イデア)性に
>抵触することになるのだと思います。
はい。
>>465 カオルさん
>「瞬間=永遠」の様相において開かれる超越性には、死の様相がかいまみえます。
>もしそこに同一性の維持をもとめるにしても、それを「瞬間」の「連続性」に期待する
>ことは出来ないでしょう。なぜなら、現前し得ないものとしての他者の現前性を
>「記号」によって反復させようとすることが、<わたし>の「時間化」であり、
>(他者の現前の)「痕跡の我有化」に他ならないと思うからです。
はい。
以前、倫理の果てにおける脱却を書いたことがありますが、それは死の様相ゆえ
と思っています。
で、「わたし」が自覚する倫理形式における「他者」(超越)への眼差しとはなにか。
我有化したならばそれはもはや「他者」ではないし、「他者」の様相とは無縁の他者像
でしょう。にもかかわらず、「わたし」は痕跡の我有化においてのみしか「あなた」に
対面できず、我有化によって「わたし」は常に「あなた」に暴力を振るっている。それを
罪として自覚すること。これが「他者」(超越)への眼差しと思います。
>>457下段で書いたことは、まだまとまらないです。
>>470 S さん
> 見性の お話 となると、ハルカさんやエヌさんが中心になりそうですね。
> ボクは「わたし」の自律だとか言って悟りの側の方に噛み付いてる立場なんです。(^_^;)
そうだったんですか、・・・(−−;)汗
では、ハルカさん や エヌさんと 会話が出来ますね、【藁
「わたし」の自律、マターリと学んでいきマツ・・・キッパリ!
>>471 >まず「わたし」が成立してのちに自覚的な倫理形式が成立し、その変容は
>根源的な倫理形式に連関している。
何が言いたいのかよくわからない。
『「わたし」が成立する』とはいかなることか?
括弧つきの「わたし」とは何者なのか?
「根源的な倫理形式」とは何なのか?
「瞬間の倫理」とは何か?
その「瞬間の倫理」は社会性を持ちうるのか?
社会性を持ち得ないものを「倫理」と言えるのか?
倫理の成立について論じる以前に、
善悪の成立について論じなければならないのではないのか?
まずはこれぐらい。
倫理を価値と言い換えて、恣意性ということを書いているところを見ると
Sさんは、価値の相対性を問題にしているのでしょうか?
価値の相対性という観点から倫理を考えれば、各人はそれぞれの視点から
価値評価しながら生きているわけなので、各人にとっての相対的な善悪を
持つわけで、その個別的な善悪と、社会的な善悪との葛藤が生じるわけですね。
そういうことを問題にしているのでしょうか?
それから、エゴイズムという語が多用されていますが、エゴイズムからの
脱却について書いているのか、それとも、各人のエゴイズムを調和させるような
倫理を模索しているのか、そのへんがよく分かりませんでした。
いずれにせよ、エゴイズムという概念は、非常に抽象化された概念であり、
実際はエゴイズムにも無数の形態があるわけなので、エゴイズムかそうでないか、
という二分法の議論は、私はあまり意味がないと思います。
477 :
考える名無しさん:04/06/20 10:16
テーマがズレてると、ズレたのが集まる?
ズレてますか?
>>477 哲学は言葉遊びではないのだから、自分と同じルール内の人との対話よりも、互いに異なる
見地に立っている人との対話の方が豊かな実りを産むと、私は思っています。
つまり、「ズレてる」と感じる相手の方が貴重なのです。
だから、私は
>>477 さんに話しかけるのですが。
このスレのテーマがどの様にズレていますか?世界のあり方を考えて、その中における自分の
あり方を追求することは、哲学の守備範囲だと思うのですが。
>>475さん
>括弧つきの「わたし」とは何者なのか?
>『「わたし」が成立する』とはいかなることか?
人が生み出された直後の自他が未分化な混沌とした状況から、
やがて自他を分離し、言語によって対象化し自己同一性を保つ主体、
その主体が確立されること、、、と想定しています。
>「根源的な倫理形式」とは何なのか?
>「瞬間の倫理」とは何か?
>>431 >>436 >>457 あたりを参照ください。
>その「瞬間の倫理」は社会性を持ちうるのか?
>社会性を持ち得ないものを「倫理」と言えるのか?
もしも社会制度化されうるものと考えてらっしゃるなら、その枠には納まらな
いです。むしろそうした我有化ですべて包合してしまおうとする暴力を越えた
関係を(他者への眼差しをもつ自覚する倫理形式も、根源的な倫理形式も)
想定しているからです。倫理は「わたし」と「あなた」の対面する関係と捉えて
います。それは(人間を対象にする)社会性に留まらず、他存在者との関係
をも含みます。
>倫理の成立について論じる以前に、
>善悪の成立について論じなければならないのではないのか?
善悪は特定の個人、集団においてうつろう相対的なものと考えています。
個々の正当性をめぐって無窮の抗争が繰り返されるわけですが、そうした
エゴイズムに基づく関わり仕方こそが暴力の連鎖と捉え、その克服を模索
しているのが、存在者−倫理で書いてきたことです。
>>476さん
ボクが多用しているエゴイズム(エゴ)は、自己の維持・展開を至上として、
他存在者と関わろうとすること。利己的という意味です。これは形態は様々
でも個体化存在者に見出せる共通の志向であり、個体や特定の集団間で
の無窮の抗争を生み出す当のものと捉えています。個体化存在者として生
み出された者は、そのように存立することを強制されている意味において、
存在苦としても捉えています。こうした苦への対応、或いは苦からの脱却が、
そもそもカオルさんやハルカさんと始めた議論で、今は一方は倫理に、一方
は悟りにという形で平行進行しています。
エゴイズムに対応できるのはエゴイズム、つまり個々のエゴの相互利益的な
結節点を計ろうとするのが功利的な発想ですが、それは特定の者が定める
最大多数の〜式の括りが、そこから洩れた者を迫害するような暴力をまたま
た生み出す不毛でもある訳です。
では、「わたし」はこうしたエゴによる無窮の抗争にどう対応できるのか。エゴ
に対峙できるのはエゴの要請に拠らないもの、つまりまったき利他の志向と捉
えています。「あなた」と対面する倫理の基本形式において、「わたし」が如何
に「応答」するかこそが関係を左右するのであり、利己に対する利他の、その
葛藤(せめぎあい)こそが大切に思うのです。エゴは個体化存在者を存立させる
ものですから消えることはないでしょうが、エゴによる無窮の抗争を調和させる
方向にあるのはこうしたせめぎあいによるバランスしかないと思っています。
で、利他は利己を許さぬ志向で対峙しますから、利他が極まるような事態に
なれば、それは計らずも個体を維持できなくなるような脱却へと繋がると、捉
えています。
>>476さん
価値について。個体化存在者として生み出されエゴによる無窮の抗争を強い
られている事態を、(自分で望まずにそのように規定され世界に投げ出された
)あてがわれた形式と捉え、神−倫理と称しているのですが、それは存在者不
在の無根拠性の温床と捉えています。もしも無根拠を乗り越えて存在者独自
の価値を生み出せるとするならそれは、自己を引き受けること、エゴを焼き尽く
し自らをも否定してしまうような利他性を自覚すること、利己/利他の葛藤という
個体内・個体間でのせめぎあいによる存在者独自の関係を志向すること、に
あると思っています。
長くなってしまいましたが、ボクが今模索している存在者−倫理は、存在苦へ
の対応と、無根拠性への対応という2点において、同時に志向している、という
ことです。
>>カオルさん
内在としての他我についてはまだ理解できてないのですが、自分なりに考えた
ところまで書きます。
そもそも「わたし」が成立する以前の赤ちゃんは、自他が未分化な混沌状況に
あったと想定されるのですが、自他を分化する契機は自ら発するのではなくて、
他者(他我)との接触により否応なく引き剥がされる形になるのだと思うのです。
そして例えば狼に育てられた子は、狼という他者に影響されて、狼であるかの
ように意識するようになると思うのです。「わたし」は「わたし」自体として「わたし」
に成るのではなく、その成立から構成する意識内容に至るまですべて他者(他
我)に拠る。それが内在としての他我ではないか、と思うのです。根源的に、未
分化な自我は他者(他我)からの呼びかけの受動者として、存立していると思い
ます。
そうは言っても、他者(他我)を他者(他我)として受容するのは、混沌とはして
いても赤ちゃんの自我の側ですから、先験的に他者(他我)を受容できる
働きが、自我にはあるように思います。
こうした、他者(他我)への根源的な受動性が、たとえ「わたし」が成立した後でも、
「わたし」が独り歩きして構築した合理の底から、「わたし」を「あなた」へ応答させ
る元となっているのではないか、と思うのです。
>>カオルさん
ただし「わたし」が独り歩きして構築する、痕跡を我有化した独我世界は、次第に
強固になってゆき、往々にエゴイズムの走狗に成り果てます。ゆえに他者(超
越)への眼差しや利他性を自覚しなければ、「わたし」という主体における(他者
を意識した)倫理の形式は生み出せないと思います。そしてその自覚する倫理
の形式の変容によって、
>>471に書いたように根源的な倫理形式にも影響する
のではないか、と思っています。
カオルさんが想定する内在としての他我や、合理のもっと底からやってくる何か
とは違っているかもしれないけど、こんな感じで考えている最中です。ご意見よろ
しくです。
Sさん
私はずっと自然科学の視点を借りて、全ての事物を眺めてきたから、自分の内部を内側から
見る目で体系化してきた経験が乏しいのです。
それでも、みなさんのレスを読んで、ああ、これを言うには、この言葉を使えばいいのか、
と、だいぶ現状を整頓することができました。
>>484 はカオルさんへのレスですが、言いえて妙なので使わせていただきます。
>「わたし」は「わたし」自体として「わたし」 に成るのではなく、その成立>から構成
する意識内容に至るまですべて他者(他我)に拠る。
この段階で私は「わたし」のものの見方として自然科学の視点を採用した(採用させられ
た)わけです。「わたし」が成立してからは、そのものの見方によってすべてを見たけれ
ど、その視点からは存在させられてしまった「わたし」には決して迫ることができなかった。
また、その視点自体の確かささえ、その視点からは説明ができなかった。
私が>独り歩きして構築した合理は、合理だけで成り立とうとする、その実根無し草だった
のでした。
しかし、最近ひょんなことから、その、ものの見方が目をつぶった瞬間、
>>440 で「混沌」
と言われているものが、私の内部にあることに気がついたのでした。
それを通して世界を秩序立てて把握する、ものの見方の目をつぶったのですから、未分化
なままの内部の状態を見てしまったのでしょう。
ああ、あそこ(混沌?)を自覚的に使えれば、もっと様々なものの見方ができるのかもし
れない。そしてその様々なものの見方を再統合すれば、あそこ(混沌?)(成長に伴って
制限をかけてしまった、脳の生得的な可能性?)のイメージがつかめるかもしれない。
というのが、現時点での私の関心の方向です。でも、どうやったらこの方向に進んでいけ
るのか、まだよく分からず、材料集め中なのです。
あら?なんだか記号が変な風に入ってしまいました。
>>486 >「わたし」は「わたし」自体として「わたし」 に成るのではなく、その成立から構成
>する意識内容に至るまですべて他者(他我)に拠る。
>独り歩きして構築した合理 ←この言葉も引用であることを示したかった故の「>」。
ついで。何故自然科学の視点からは「わたし」に迫ることができないか、というと、
自然科学が対象としているのは既に存在させられてしまった状態にあるものだから、と
いうことと、自然科学の視点で「わたし」像が得られても、客観的にものを見る見方の
性質として、その「わたし」像は「わたし」の外部に結ばれてしまうので、「わたし」
と「わたし」像を重ねるには、結局非論理的な飛躍(思い込み)が不可欠な為。
>>482 >ボクが多用しているエゴイズム(エゴ)は、自己の維持・展開を至上として、
>他存在者と関わろうとすること。利己的という意味です。これは形態は様々
>でも個体化存在者に見出せる共通の志向であり、個体や特定の集団間で
>の無窮の抗争を生み出す当のものと捉えています。
「無窮の抗争」の中で生きているという実感は、私にはありません。
たしかに小さな争いごとは絶えませんが、それを「無窮の抗争」として
強調することには違和感を覚えます。
争いごとのまったくない世界を夢想するのではなく、
こぜりあいを繰り返しながらも、お互いを許しあって生きることが肝要だと思います。
>では、「わたし」はこうしたエゴによる無窮の抗争にどう対応できるのか。エゴ
>に対峙できるのはエゴの要請に拠らないもの、つまりまったき利他の志向と捉
>えています。「あなた」と対面する倫理の基本形式において、「わたし」が如何
>に「応答」するかこそが関係を左右するのであり、利己に対する利他の、その
>葛藤(せめぎあい)こそが大切に思うのです。
私にとって、他者が他者として対立的に迫ってくるのは、
自分自身が小さくこり固まって、精神状態の悪くなっているような場合です。
心身ともに健康で、自分自身が充実していれば、
他者を『他』者として意識することも少なくなります。
他者を他者として意識して、「利己」と「利他」とを対立的に
考える必要はないのではないでしょうか?
『二利円満』という言葉が仏教にあります。
『利他』ということによって、初めて『自利』が全うできるということだと思います。
自己の生が充実したものであれば、人の幸福をも自分の幸福と感じられるし、
また、他者を幸せにするには、まず自分自身が充実していなければならないでしょう。
>>多摩さん
>>476さん
レス有難うございます。
なんか今日はまるで頭が回らないです。(いつもだろというつっこみはなしで、、、(^_^;)
>>489 さん
> 『二利円満』という言葉が仏教にあります。 『利他』ということによって、初めて『自利』が全うできるということだと思います。
> 自己の生が充実したものであれば、人の幸福をも自分の幸福と感じられるし、 また、他者を幸せにするには、まず自分自身が充実していなければならないでしょう。
自利 利他 円満
と言う事であれば、自他の区別がなくなっている状態の事でしょうね。
>>486 多摩さん
>その視点からは存在させられてしまった「わたし」には決して迫ることが
>できなかった。また、その視点自体の確かささえ、その視点からは説明
>ができなかった。私が>独り歩きして構築した合理は、合理だけで成り立
>とうとする、その実根無し草だったのでした。
わかる気がします。「わたし」が「わたし」を考える自己言及については、
以前にボクも悩みました。そして今も「わたし」とは何かについて途方に
暮れてます。根無し草感ですが、じゃあ「わたし」のルーツは?と問うてみて、
例えばハルカさんの言う「芯−我ー私」という構造とか、さらにその起源を
類推しても、やはり根無し草感は変わらないです。自らが主体として生み
出した構造ではない(感じがする)からです。
>>487 多摩さん
>その、ものの見方が目をつぶった瞬間、
>>440 で「混沌」
>と言われているものが、私の内部にあることに気がついたのでした。
あ、すごいですね。ボクは体験が全く追いついてないです。あくまで「わたし」
の世界から想定しているレベルです。
>ああ、あそこ(混沌?)を自覚的に使えれば、もっと様々なものの見方が
>できるのかもしれない。そしてその様々なものの見方を再統合すれば、
>あそこ(混沌?)(成長に伴って制限をかけてしまった、脳の生得的な
>可能性?)のイメージがつかめるかもしれない。
潜在意識を顕在化させる方法は、確かだいぶ前の方のレスでエヌさんが
書いてらっしゃいました。また詳細な論からして、ハルカさんはもっと知って
いるように思います。でも今のボクはあまり興味がないです。「わたし」が関
わる個体化の現象世界で、能力等に関係なく「わたし」に何ができるのか、
が等身大のボクの関わりと思っているからです。
>でも、どうやったらこの方向に進んでいけるのか、まだよく分からず、
>材料集め中なのです。
悟りの側の方にお尋ねするといいと思います。ボクでは全くの役不足です。(^_^;)
>>488 多摩さん
内在的な体験は論証不可能ですし、いくら体験知とは言っても「わたし」から
遡行した体験ですから、それを想起する「わたし」にとってどこまで「わたし」の
世界で刷りこまれた情報か、どこがオリジナルの潜在世界の情報なのか、
「わたし」にも判別不可能なのだと思います。往々に体験知が自然科学の知
識と類似してしまうのは、ちと笑えないです。それでも、唯物的な世界観であれ
内在的な体験知であれ、「わたし」を引きだすには、多摩さんのおっしゃるよう
に、>結局非論理的な飛躍(思い込み)が不可欠、、、なんだと思います。自己
自律、なんてのはただの>非論理的な飛躍(思い込み)、なんですけどね。(^_^;)
>>489 (476さん)
「わたし」に開示された世界にも、どう解釈するかにも差異があるわけで、476
さんの実感をボクは否定しません。たとえ生物の連関する世界が、個体や種
の維持・展開のために食らい合う構造だとしても、地球圏での覇者と成りえた
人類による他存在者への搾取や改造がエスカレートする一方なのだとしても、
人類間の上は国家から下は個人に至るまでの抗争が止まることがないのだ
としても。
>争いごとのまったくない世界を夢想する、、、のではなくて、こうしたエゴ(個体
の維持・展開)の終わりなき抗争において、如何に主体的に関われるか、を模
索しています。
>こぜりあいを繰り返しながらも、お互いを許しあって生きることが肝要、、、
とは言っても、エゴイズムを前面に出しておきながら相手に許しを求めるなど
ということは無理があると思います。いえ、そもそもエゴイズムは相手を許して
すらいないですし、その上に相手に許せと要求するのもエゴイズムなんです。
許しあうという関係には成りえないです。
また、エゴの打算による許容というのは、許しあうこととは違うと思います。少し
でも条件が崩れればその合意は簡単に破棄されますし、功利の範囲にない者
はまったく疎外されるだけですから。
個体化存在者において「許す」ことの如何に縁遠きことか、ということがボクの
実感です。自身を含めて。
>>489 (476さん)
>他者が他者として対立的に迫ってくる、、、というのはエゴとしての「わたし」
の捉え方だと思います。>他者を『他』者として意識することも少な、いであろ
う476さんは利他性に優れているのでしょう。まさに他者を他者と意識せずに、
「あなた」は「わたし」、として関わってしまうのが利他であり、存在者-倫理で
書いてきたことでもあります。
>心身ともに健康で、自分自身が充実していれば、、、というのはちとわから
ないです。
>他者を他者として意識して、「利己」と「利他」とを対立的に考える必要はな
いのではない、、、というより、意識しなければ往々にして利己性が前面に出る
のだとボクは思います。利己と利他は対立するもの。例えばボクと476さんが
どちらか一人の生存できる条件下に置かれた時、「わたし」と「あなた」のどちら
を優先するかが利己と利他の対立であり、その葛藤こそが自律的な判断となる
のだと思うのです。
>>489 (476さん)
>『利他』ということによって、初めて『自利』が全うできるということ、、、という
のはエゴイズムに回収されると思います。利他の志向にとって自利は無縁で
す。
>自己の生が充実したものであれば、人の幸福をも自分の幸福と感じられるし、
>また、他者を幸せにするには、まず自分自身が充実していなければならない
>でしょう。
やっぱり>自己の生が充実、というのが、ちとわからないです。また、>自分
の幸福、という観点もエゴイズムに回収されると思います。また、他者を幸せ
にする、という感覚は「わたし」の傲慢だと思います。「わたし」が「応答」した結
果を価値判断するのは「他者」ですから。
「あなた」の呼びかけに向かって純然と「応答」することが利他の志向だと思い
ます。そこには駆け引きも報酬もないです。「わたし」という存在を維持するには、
むしろマイナスなことです。だからこそ、利己の志向との葛藤因子ともなり得る
し、エゴの無窮の抗争によって虐げられし者(適者生存や弱肉強食の世界で
常に生み出される敗れざる者)の呼びかけに関わってゆけると思うのです。そ
してそれは、自身が人生、心身ともに健康で充実しているとかとは無縁だと思
います。
>>492さん
相手にしてもらっているのはボクの方なんです。
情緒不安定とか、レスポンスが遅くなってしまうのは、ボクの側の能力的な問題です。
いつもご迷惑お掛けして申し訳ございません。
>>496 >「わたし」に開示された世界にも、どう解釈するかにも差異があるわけで、476
>さんの実感をボクは否定しません。たとえ生物の連関する世界が、個体や種
>の維持・展開のために食らい合う構造だとしても、地球圏での覇者と成りえた
>人類による他存在者への搾取や改造がエスカレートする一方なのだとしても、・・・
他の動物と違って人間の欲望は増大しやすいので、行き過ぎないように
気をつけることは、重要だと思いますが、
どこまでが自然でどこからが行き過ぎかとなると、これは難しい問題でして、
鯨を食べることが自然に思われる人もいれば、そう思えない人もいるわけで、
そういう問題は、明確な線引きができない問題だと思います。
>>こぜりあいを繰り返しながらも、お互いを許しあって生きることが肝要、、、
>とは言っても、エゴイズムを前面に出しておきながら相手に許しを求めるなど
>ということは無理があると思います。いえ、そもそもエゴイズムは相手を許して
>すらいないですし、その上に相手に許せと要求するのもエゴイズムなんです。
>許しあうという関係には成りえないです。
それは、極端にエゴイスティックな場合を想定しているのではないですか?
人は通常、許しあって生きていると思います。
許しあうというのは、許しを求めることでなく、自分が許すことです。
お互いが許すことで、結果的に、許しあっている…。
絶対に許せない相手がいるという人(たとえば愛する我が子を殺された人)
が存在することは分かります。そういう不幸な例外を除けば、です。
私自身、許せない人というのは思い浮かびません。
>>497 >心身ともに健康で、自分自身が充実していれば、、、というのはちとわから
ないです。
自己と他者の関係において、自分が変われば、その関係そのものが変わると思います。
自己の心身が健康でないときは、関係そのものがうまくいきにくいです。
ポイントは自己自身の在り方であって、それによって、
関係が敵対的なものになってしまったり、そうでなくなったりもする。
自己の在り方の違いによって、『「あなた」の呼びかけ』も違って見えてくると思います。
>例えばボクと476さんが
>どちらか一人の生存できる条件下に置かれた時、「わたし」と「あなた」のどちら
>を優先するかが利己と利他の対立であり、その葛藤こそが自律的な判断となる
>のだと思うのです。
それは違うのではないかと思います。
アウシュビッツの一人のユダヤ人の身代わりとなって亡くなった神父がいましたが、
その神父が人の身代わりになって死ぬことと、死なずに生きて世の中のために働くことと、
そのどちらが利己的でどちらが利他的か?
そういう事柄は、答えられない事柄だと思います。
>>498 >>『利他』ということによって、初めて『自利』が全うできるということ、、、という
>のはエゴイズムに回収されると思います。利他の志向にとって自利は無縁で
>す。
自利が利他と無縁であるかどうかは、自己の在り方次第でしょう。
自他が完全に分裂した状態における自利、つまり、最も極端なエゴイズムにおいては、
自利は利他と無縁であるのかも知れません。
またその反対に、
>>491で、あは氏パシルさんが書かれた
「自他の区別がなくなっている状態」においては自利=利他であるでしょう。
しかし私はこの両極(自他が完全に分裂、あるいは完全に合一した状態)は、
理念としてのみ存在するものなのではないかと思います。
>「あなた」の呼びかけに向かって純然と「応答」することが利他の志向だと思い
>ます。そこには駆け引きも報酬もないです。「わたし」という存在を維持するには、
>むしろマイナスなことです。
駆け引きも報酬もない「応答」には、「わたし」にとっての「マイナス」面しか
ないわけではないでしょう。
「人はパンのみにて生くるにあらず」です。
他者との関わりにおいて、何をマイナスと感じ、何をプラスと感じるかも、
その人の自己の在り方次第でしょう。
もっと根本的なところを言えば、自他分裂の方向に傾いた自己は、
自己にとってのマイナス・プラスということを強く意識するのに対して、
自他合一の方向にある自己は、自己にとってのマイナス・プラスということ自体を
意識しなくなるはずだと思います。
>>492 >>499 横レスですが、まったく気にならないので、いいのです。各自のレス、各自のペースが
あると思えばこそ、私も勝手に書き込みができているのですから。
現状である上記の内容に思い至るまででも、周りに疑問をぶつけつつ既に数十年なので、
急ぐ理由は持ち合わせていません。
>>Sさん
私も自分に自覚的に課した行動原理として自己自律を採用しています。
存在の根拠がどうであれ、現状のわたしをわたしの責任において「わたし」として引き受ける。
そのことを、生きる上で「わたし」が「わたし」でありつづける根拠に位置づけています。
いくら覚悟をしても、やっぱり現実の行動では勝手が狂いますね。この世界に属する限り、他
の人、モノと、作用反作用を及ぼしあうのは避けられないなあ、というのが実感です。
それが面白くもあるのですが。
確かに潜在意識が気になってはいますが、他の人の目に映る外の世界も同じくらい気になるの
です。どちらも今まで目を向けてこなかった、貴重な材料です。例えば、倫理的な観点もね。
潜在意識については、急速に理解を深めすぎて、バランスを崩す人もいるでしょ?それは望む
ところではない。のんびり、世界と自分について、理解を深められればいいのです。
久々に書いとこうかな。
>Sさん.>カオルさん>多摩さん(始めまして!)
自己自律とそれに連なる『倫理』というもののヒントとして。
一人の方の書物を提示しておきます。
その方は『中村 元(なかむら はじめ)』博士。
日本の仏教学界に当たれば、この方の書物に必ず突き当たります。
素晴らしい方ですよ。
まぁ、私的には共感は欠片も出来ませんが(苦笑)
『あぁ…【生】の世界から仏教を語ればこうなるんだろうな』って程度ですが。
一読をお勧めします。
505 :
考える名無しさん:04/06/24 09:02
「…」。
>> (476さん)
ボクの印象だと、これまで交わした476さんの言葉からは、まったき利他の
志向は感じられないのです。そのことを以下に書きます。細かくレスしてし
まったので長くなってしまいましたが、書いていることは同内容です。
>>500 (476さん)
>他の動物と違って人間の欲望は増大しやすいので、行き過ぎないよう
>に気をつけることは、重要だと思いますが、どこまでが自然でどこからが
>行き過ぎかとなると、これは難しい問題でして、鯨を食べることが自然に思
>われる人もいれば、そう思えない人もいるわけで、そういう問題は、明確な
>線引きができない問題だと思います。
「鯨」というように対象を限定するのも「わたし」の都合ですし、その行為が「自
然」か否かと根拠づけしようとするのも「わたし」の都合ですし、明確に線引き
できないとしながら、476さんは「わたし」の都合で例えば「鯨」ほかを食するの
です。線引きは明白です。鯨がそう望んだのではなく、すべて「わたし」の都合
で望んでいるのです。すべて利己に回収されると思います。
行き過ぎないように気をつけるのは自分を含む生態系が崩壊云々という話
なら、「わたし」にとっての功利判断にすぎず、それも利己に回収されると思い
ます。そして476さんがそうでない可能性は見出せないです。なぜなら、続く
「鯨」の書きこみで、476さんからは「わたし」の都合しか、ボクには見出せな
かったから。
>>500 (476さん)
>許しあうというのは、許しを求めることでなく、自分が許すことです。
>お互いが許すことで、結果的に、許しあっている…。
許しを求めないとしながら、476さんは>「お互いが許すこと」、、、つまり相手
も許すことを求めています。結果ではなく、前提とされているのです。それを
望むのは「わたし」の都合です。利己に回収されると思います。
>絶対に許せない相手がいるという人(たとえば愛する我が子を殺された人)
>が存在することは分かります。そういう不幸な例外を除けば、です。
>私自身、許せない人というのは思い浮かびません。
不幸な例外として恣意するのも「わたし」の都合です。そして「不幸な」許せな
い人は476さんにはいらっしゃり、そうした対象は例外、、、つまり問答無用に
「わたし」にとって許せないわけです。その根拠づけをするのは、「わたし」の
都合です。利己に回収されると思います。
エゴイズムは極端かどうか(を恣意するのも「わたし」ですが)ではなく、「わたし」
の都合か否か、という線引きだと思います。例示したのはそれを明確にする
ためでした。
>>501 (476さん)
>自己と他者の関係において、自分が変われば、その関係そのものが変わる
>と思います。自己の心身が健康でないときは、関係そのものがうまくいきにく
>いです。ポイントは自己自身の在り方であって、それによって、関係が敵対的
>なものになってしまったり、そうでなくなったりもする。自己の在り方の違いに
>よって、『「あなた」の呼びかけ』も違って見えてくると思います。
自己の心身が健康であろうが、自己の在り方の違いとか、たぶん自身の状況
について語ってらっしゃるのだと思うのですが、そういう、「わたし」の都合によっ
て恣意されてしまうことがすべて、利己に回収されると繰り返しているのです。
>アウシュビッツの一人のユダヤ人の身代わりとなって亡くなった神父がいまし
>たが、その神父が人の身代わりになって死ぬことと、死なずに生きて世の中の
>ために働くことと、そのどちらが利己的でどちらが利他的か?そういう事柄は、
>答えられない事柄だと思います。
もしもその神父さんがまったき利他の志向として利己/利他の葛藤をされた、或
いは呼びかけに即応されて行為されたなら、それは間違いなく利他です。利他
行為に手段の選択、結果は無関係です。その行為が自分の救いや信奉する教
義や名誉などといった「わたし」の側の都合か否か、それで同じ>人の身代わり
になって死ぬことと、死なずに生きて世の中のために働く、、、行為も、利己、利
他いずれともなるでしょう。それから、利他行為が誰かに幸せをもたらす因果必
然はないです。
>>502 (476さん)
>自利が利他と無縁であるかどうかは、自己の在り方次第でしょう。
自利というのは文字どおり利己の志向です。「わたし」の都合で算段してい
る関わりのすべては、利己に回収されると繰り返しているのです。利他は
自利の手段ではないのです。また、根源的な倫理瞬間においては、自(「わ
たし」)という認識が消えていると思いますので、自利が入り込む余地すら
ないと思います。これは理念でしかないというより、即応する形式として具
現されうると思っています。
>駆け引きも報酬もない「応答」には、「わたし」にとっての「マイナス」面し
>かないわけではないでしょう。「人はパンのみにて生くるにあらず」です。
>他者との関わりにおいて、何をマイナスと感じ、何をプラスと感じるかも、
>その人の自己の在り方次第でしょう。
何をマイナスと感じ、何をプラスと感じ、、、て算段するのは「わたし」の都合
です。それは駆け引きも報酬もない「応答」ではなく、利己に回収されると思
います。そうではなくて、利己とは無縁な利他の志向は、「わたし」という(受
肉せる)存在を維持することは、確実にマイナスになるということ。「わたし」
でない「あなた」に傾注するのですから当然です。だから神父さんだって亡く
なったのだと思います。
>>502 (476さん)
>もっと根本的なところを言えば、自他分裂の方向に傾いた自己は、
>自己にとってのマイナス・プラスということを強く意識するのに対して、
>自他合一の方向にある自己は、自己にとってのマイナス・プラスということ
>自体を意識しなくなるはずだと思います。
もしも476さんが「わたし」を維持した上で自他分裂"の方向"なる程度を語って
いるなら、それは「わたし」の恣意に過ぎないです。そもそも「わたし」は自他
が分化しているから成立します。その「わたし」内の利己/利他の葛藤と、利
己の算段による葛藤は全く違います。また、自他合一の"方向"にあるという
のはありえなくて、「わたし」内の利己/利他の葛藤(自覚的な倫理形式)と
「あなた」へ純化された状態(根源的な倫理形式)は異なる形式と思います。
>>503 多摩さん
「自己自律」で使っているキーワードは、実存系の書をあされば出てくるような
新身のないものですし、そもそもカオルさんを中心にしたご指摘に導かれた
ものです。でも関わりの中で、ボク自身が考えて組み立てたり修正したり実
践することに意義があると思っています。
あと、「自己自律」の「自己」は、「わたし」と一如に「あり」、相互に連関する、
連環なる連関世界を総じて、「自己」と見たてています。>この世界に属する
限り、他の人、モノと、作用反作用を及ぼしあう、、、という切り離せない関係
をして「自己」と受け止めています。
勝手が違うのは、「わたし」が内的な連関において葛藤するのと同じように、
外的な連関においてもせめぎあうからで、この誰にも責任転嫁できない逃げ
場のない連関を、自覚して引き受け関わってゆくことで、「わたし」が自律する
のと遜色なく「自己」も自律すると捉えています。因果連鎖の必然は確認でき
ませんから、>非論理的な飛躍(思い込み)、なんですけどね。(^_^;)
>>504 ハルカさん
お久しぶりです。中村さんの著書は一度読んでみます。でも仏教関連の解説自体
はあんまし興味ないです。ヒントというかご指摘なら、ハルカさんの直接の考え
をお聞きたいです。以前の自己自律に関する苦言は受けております。
ハルカさんの実践に差し支えなく、機会があればよろしくです。
>>466さん
>これは、レヴィナスの思想ですか?
いいえ。
レヴィナスならSさんの方が詳しいと思います。(^.^)
>ハルカへ
ハルカおススメの本より、ハルカの共感できない倫理について聞きたいです。
ハルカの言葉は何冊もの希有(価値のある)な書物と同じです。
ハルカが、倫理=おそらく人間的価値創造の源泉、について共感できないことは
わかるのだけど・・・それでも聞きたいです。気が向いたらお願いします。
哲学徒に現前する最大のアポリアは倫理だと思います。
わたしは「生の倫理」と「死の倫理」があるような気がしてます。
ナントナクなので説明できないけれど・・・人間らしく許されて死にたいのかしら?
>>466さん
>ハイデガーやデリダが「現前」を批判するのは、「主客対立」の文脈において
>だと思います。
>〜現前性は、デカルトによって確立された主客対立構造と結びついていると
>考えていると思います。
>レヴィナスはどうでしょう?
たとえば、あなたが「カオルは人間である」と判断したとき
<カオル>は、 <人間>の内に包含されています。
言い方を変えるなら、<人間>という類の自己分節が、<カオル>です。
おなじように、<存在>が自己を特殊化して「場を得る」(現象化する)ことを
<現存在>とするなら、つまり「現存在は存在する」という判断が
妥当するような世界を仮定するなら、<現存在>としての<わたし>の
根底に<存在>を想定することは、論理的にもおかしくないと思います。
このような解釈における意味での「存在と現存在」にたいしてなら
レヴィナスも反論はないのではないでしょうか?
「存在そのものは現前しない」
(基体的主体としての主観=近代的自我に「ある」は現前しない)
については、3人とも同意見だと思います。
ちなみに、わたしはこのことを一番言いたかったのはデカルトその人だと
思っているんですけどね。(^.^)
ただ、デリダの批判は「現前しないとか言ってるのに現前させてるし…」
というものではないでしょうか。
たとえば、レヴィナスにおける「他者」は「倫理」の根拠として
<わたし>に”それ”を命じる「かお」として登場しますけど、
それって「実体化(現前)していることにならないの?」みたいな。
>>516 >たとえば、レヴィナスにおける「他者」は「倫理」の根拠として
ここでいう「他者」とは、有限なる全体性を超克するものとしての
無限的他者のことです。あくまで「外部(性)」としての「他者」です。
>>506-511 Sさんのレスの主旨は、「わたし」の思考や行為のすべては「利己に回収される」
ということだと思いますが、そのような考え方は、一切の行為の否定に帰結する
のではないでしょうか?
疑問点を2つほど挙げますと…
まず、「利己」と「利他」との二分法で考えている点。
そのような二分法は、「自己」という確固とした存在者を前提としている
と思いますが、既に書いたように、自己というのはそのような確固とした
ものではないだろうということです。
自己は、>502に書いたように『自他が完全に分裂あるいは完全に合一した状態』
の両極の間にある未確定のものです。
なので、「利己」と「利他」の二分法で考えること自体が恣意的であると思います。
さらに、そのように二分したうえで、「まったき利他」というものを考えることは
できないだろうということです。
(というより、「まったき利他」ということ自体が語義矛盾だと思います…
なぜなら、「他」が存在するためには「自」がなければならないのだけれど、
行為を「利己」と「利他」に二分するならば、「利己」に無縁な「自」は
存在しえないだろうから…)
もう1つは、「利己に回収」されない行為を理想とすること自体はよいのですが、
倫理は実践的なものなので、理想を基準にして現実を論じてはいけない場合が多い
ということです。
親鸞の言葉にもあるように、「聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、
はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」です。
「まったき利他」は「きわめてありがたし」です。
困難であるから放棄してよいということにはなりませんが、しかし、
「まったき利他」という理想を基準にして、それ以外を十把一絡げに「利己に回収」
してしまっては、倫理は成立しないと思います。
Sさんの、すべてを「利己に回収」しようとする姿勢は『五十歩百歩』の故事を思いおこさせます。
ゼロという「理想」を基準に測れば、五十歩も百歩も同じだということになってしまいます。
しかし、五十歩と百歩は大いに異なると考えるところにしか実践的倫理は成立しないと思います。
>>513(Sさん)
まずは読んでみてからだ。
んで。
何が書かれてるのか―
私が『共感出来ない』と言っているのは何故か―
中村博士の言葉の何処が気に入って何処が気に入らなかったのか―
また、そんな風に『区別』をするのは『何を基準にしている』のか―
そういう色んな事を考えなさいな。
私の指摘はそれから。
>>515(カオルさん)
一言で表すなら『生の倫理』に共感出来ん。
簡単に言うなら、中村博士のよく使う『我も人なり、彼も人なり』が『青臭い理想論的倫理観』に見えるっつー事った。
単なる『感情的反発』じゃないよ?
私は『死の倫理』の立場から見てるから『生の倫理』が…馬鹿らしいだけ。
『生側の倫理』『死側の倫理』の詳細は又後日ね。
>>518 (476さん)
すごく単純なことなのです。
例えば476さんが牛を殺めて食す。という行為が、
自としての476さんにとってどうか、対象となる他としての牛にとってどうか、
或いは476さんが円満とおっしゃるとき、それはどちらの都合か、という違いです。
個体化の現象世界の関係において、この立場の違いは必ず生じるでしょ?ということ。
詳細なレスは後日にさせてください。
あとね、対話が継続しそうなので
>>476さんのこと愛称で呼ばせて頂きたいな、
とボクは願ってます。
>>519 ハルカさん
>簡単に言うなら、中村博士のよく使う『我も人なり、彼も人なり』が『青臭い
>理想論的倫理観』に見えるっつー事った。
みたいなことならボクの書いてる存在者ー倫理も鼻につくでしょ?等しき眼差し
とか、相手の立場にたつとか。
直接批判して欲しいです。中村さんよりハルカさんと対話したいです。
最後にゃ人も食われるのよ。
なにがお好みかしら…
>>518 (476さん)
>Sさんのレスの主旨は、「わたし」の思考や行為のすべては「利己に回収
>される」ということだと思いますが、そのような考え方は、一切の行為の否
>定に帰結するのではないでしょうか?
>>506-511で執拗に書いたのは、「わたし」の志向が往々に利己に回収され
ていることを例示したかったのです。「わたし」の視点ではない「あなた」の視
点、それが利他であり、「わたし」はそうした視点も持てるのです。それから、
利己を否定したことは一度もないのです。
>まず、「利己」と「利他」との二分法で考えている点。
>そのような二分法は、「自己」という確固とした存在者を前提としている
>と思いますが、既に書いたように、自己というのはそのような確固とした
>ものではないだろうということです。
476さんは自分を476と名乗り、ボクをSと認識していることに、いえ、開示され
た世界を対象化し、個体化存在者として分節了解していることに気づいてい
ないのだと思います。
>>518 (476さん)
>自己は、>502に書いたように『自他が完全に分裂あるいは完全に合一した
>状態』の両極の間にある未確定のものです。なので、「利己」と「利他」の二
>分法で考えること自体が恣意的であると思います。
個体化世界のありようは、「自己自律」の「自己」で書いたように、連関として
切り離せない側面と、個体化の他者としての側面があると思っています。しか
し、その前提となっているのは、「わたし」が自他として対象化した世界であり、
そうした個体化世界像に呼応するように反応する、個体化世界の実在性です。
そして476さんは例えば無数の細胞で構成されながら、「476」という特定の個
体形式を自として関わります。それ以外に476さんは受肉せる「わたし」という
個体化存在者を維持することはできず、恣意というより、それが「わたし」の関
わり仕方なのだと思います。
>さらに、そのように二分したうえで、「まったき利他」というものを考えることは
>できないだろうということです。
自/他という個体化世界の関わりについては以上までで書きましたが、わざわ
ざ「まったき利他」などと強調しているのは、往々に利己に回収される志向との
違いを明示するためでした。
>>518 (476さん)
>というより、「まったき利他」ということ自体が語義矛盾だと思います…なぜなら、
>「他」が存在するためには「自」がなければならないのだけれど、行為を「利己
>」と「利他」に二分するならば、「利己」に無縁な「自」は存在しえないだろうから…
たとえ「わたし」が「あなた」の視点を持てるのだとしても、それはどこまでも「わた
し」に現前する「あなた」の痕跡を我有化認識するに過ぎません。その意味なら
語義は矛盾するでしょう。しかしそうした「わたし」の有限性と、利己の打算を超え
て利己/利他の葛藤をし「あなた」に「応答」できることはまったく別だと思います。
>もう1つは、「利己に回収」されない行為を理想とすること自体はよいので
>すが、倫理は実践的なものなので、理想を基準にして現実を論じてはいけ
>ない場合が多いということです。
単に利己に回収されない行為を理想としているのではなくて、利己/利他の葛藤
から自律的な関わりが生まれると主張しています。また、実践的というなら、如
何な関わりも実践的です。では476さんは、Sは、「わたし」としてどう関わって
ゆくのか、ということ。そのせめぎあいがボクの書いてきた「自己自律」です。
親鸞がどうとか慈悲がどうとか理想に過ぎないとか、関係ないです。五十歩で
も百歩でもかまいません。「わたし」がどう関わるか、です。
…アホらし。
要は食い違ってんだ、二人とも。
Sさん言うところの『利己』ってのは『動機』だ。
『規模の大小如何を問わずの自己満足』という『行為の発生前』を問題にしている。
何の行為でも動機の根本は『大なり小なりの自己満足』だろう。
対して、476さん言うところの『利己』ってのは『結果』だ。
『自のみに利益があり他には利益が無いどころか損害が発生するやも知れぬ』という『行為の発生後』を問題にしている。
この意味で言ったら『如何なる利他の行為にも利己が関わってくるから【純粋な利他】は存在しない』つー事になる。
何してんの?
>>526 ハルカさん
もしも結果云々の話なら、、、
結果については「わたし」も「あなた」も感知しないのであり、自他という関係に
おいてそれぞれにどのように反映されるかは誰もわからないのですし、また、
自他相互に連関するのですから、結果を先取りするようなハルカさんの言う
【純粋な利他】も或いは【純粋な利己】もありえぬことです。「わたし」の捉える結
果と「あなた」の捉える結果、を利己/利他と勘違いしているように思います。
というか、何も言ってないのと同じです。
528 :
考える名無しさん:04/06/26 22:11
とりあえずどうなってるんだ?
だれか解説して欲しい。
>>523-525 私は、はじめからSさんのいう「わたし」に疑問を感じていたので、
「自己の在り方の違い」ということについて何度か書いたのですが、
なかなか理解してもらえないようです…
私がSさんの「わたし」で連想したのは、デカルトの思惟実体(res cogitans)です。
Sさんは自分自身の自己についても「わたし」として一般化し対象化することで、
他人事のように語るとともに、私(476)の自己をも「わたし」として、
たとえば
>>507では『476さんは「わたし」の都合で…』とか、
『476さんからは「わたし」の都合しか、ボクには見出せなかったから。』のように書いています。
そのように一般化され、対象化された「わたし」について語ることに私は違和感を覚えるし、
そのような「わたし」について語ることに意味があるのだろうかと疑問に思います。
デカルトが「思惟するものres cogitans」を実体とみなしたことによって、
近代的自我が確立されると同時に、世界は自我に対する対象として客観化され、
主観と客観とを対立させて見る考え方が定着したわけですが、それとともに、
心身問題や自由と必然の問題という解決困難な問題も生じました。
現代思想において「近代の超克」とよく言われますが、その場合の「近代」は、
デカルト的自我、そしてそれによって確立された主観-客観の対立図式だと思います。
現代思想でたとえば、無意識の領域が注目され、ニーチェ、メルロ・ポンティ、
西田幾多郎などが身体的自己を重視したこともその流れの中にあるし、
ハイデガーの「世界-内-存在」もそうでしょう。
「実存」もその流れの中にあります。「実存」は、一般化され普遍化された「わたし」
とは対照的な、対象化され得ない主体です。
このような近代以降の思想を経た今日、「わたし」という一般者を想定することに疑問を感じます。
また、自分自身の自己を「わたし」として一般化、対象化して他人事のように語ることによって、
Sさんの「実存」としての切実さが隠されてしまっているように思われます。
>476さん
あなたの文章は理路整然とし、かつ論点をずらさずに対話を成立させようとする意志
が感じられて好感が持てます。あなたの書き込みが楽しみです。
>>504 ハルカさん、紹介ありがとうございます。ぜひ1度読んでみます。本読むの苦手なので、
「これを読んどけ。」というアドバイスはすごくありがたいです。しかも、自分は共感
できなかったけれど、っていうの。いいと思った本を一方的に勧められるのとも、古典
だから読めっていうのとも違って、いい!
>>512 Sさん、>非論理的な飛躍(思い込み)、なんですけどね。(^_^;)
って、論理的であること=正しいこと、が論理体系内で証明できないこと自体が根無し草
なのですから、その断りはいりませんよ。
532 :
考える名無しさん:04/06/27 17:41
まったくもってプププだね。
529 (476さん)
「わたし」を<わたし>と表記しても、或いは無意識領野の入れ子に納まる
確定しえないものだとしても、開示された世界を連関としての了解構造だと
しても、常に連関相互の影響下にある変容する不安定なものだとしても、
それは何らかの主体(または主体意識を生み出す働き)から把握される同
一化の世界です。そして、内的連関としての無意識も外的連関としての存在
者も、主体の捉えうる痕跡をして了解しているに過ぎないです。対象化され
ないと言いながら、実のところ、どこまでも主体の対象化しうる関係しか把握
できないし語れない、、、それが今こうして現前する世界を把握し語っている
何らかの主体の限界と思います。逆にそれなしには、ボクはこの文すら書け
はしないでしょう。
内的連関にも外的連関にも、「他者」はその向こうにあって決して触れえざる
のであって、主体の捉えうる「無意識」も「存在者」も「他者」ではない。476さん
がどんなに否定しようと疑問に思おうと、まさに476さんがこうしてSの書いた
文面を批判している自体が、批判を発していると思われる主体からの把握す
る対象化世界を超え出ていないのだと思います。と書いているボクもまた。
そのようにしか世界を把握できず、語れないのが「わたし」という主体と想定
しています。
>>529 (476さん)
蛇足ですが、「わたし」も自身の捉える対象化像ですから、何らかの主体で
ある「わたし」とは何かは、これまた「他者」であって、反省する痕跡しか見出
せないです。つまり何らかに確定して把握できるものなどどこにもない。すべ
ては「他者」なのだと思います。(この拠り所のどこにもなさが無根拠性の温
床なのだと思います。)
また、Sの把握する「わたし」をして、476さんの発する言語表現から類似の主
体を想定することはまさに我有化の暴力です。しかし、「あなた」の痕跡しか捉
えられない「わたし」は、そうした暴力を発しながら「他者」を追いかけるほかに
術はないです。せいぜいできるのは、「他者への眼差し」を意識し自戒すること。
>>529 (476さん)
で、単純にお尋ねしたいのですが、
牛でも豚でも鶏でもいいのですが、476さんは(恐らくですが)殺めて食すでしょう?
それは476さんが望むことですか?それとも(恐らく抵抗したであろう)彼らが?
「円満」とおっしゃるとき、それはどういう根拠なのでしょうか?
>>531 多摩さん
そうですね。
牛や豚や鶏は嫌々喰うって事はなさそうやな。
貴方も最後にはしっかり喰われないと駄目だよ
>>535 >で、単純にお尋ねしたいのですが、
>牛でも豚でも鶏でもいいのですが、476さんは(恐らくですが)殺めて食すでしょう?
>それは476さんが望むことですか?それとも(恐らく抵抗したであろう)彼らが?
(命の問題について「単純に」答えることはできませんが、
同じ問いを繰り返されたのでできるだけ「単純に」答えます…)
「実存」ということとの連関からいえば…
他の命を食べることによって生きている自分自身を見つめ、疑い、問題にしている自己が、
Sさんの実存であり、私の実存です。
自己(実存)は、他の命を食べて生きている自分自身に対して常に一定の態度をとって生きており、
その自分をいつでも否定することができます。
肉や魚を食べる自分を否定して、菜食にするのも一つの決断であり、
他の命を食べる自分を否定して、自らの死を選ぶのも一つの決断です。
実存はこのように自由であり、現に自由な決断をしつつ生きているがゆえに、
不安でもあり、孤独でもあるのだと思います。
どのような事柄であれ、事柄に対して真剣な態度を取ろうとすればするほど、
それが自己の決断にかかっていることを自覚させられると思います。
親鸞が肉を食べたことも一つの決断ですが、それは、全人類をありのままの姿で
助けるという弥陀の本願を開顕される意味をもっていたといわれます。
食に関する私自身の決断は…(簡単には説明しにくいことですが…)
まず、太古の昔から受け継がれてきたこの命のつながりを後代に受け渡していこうという思いがあります。
つまり私は、他の命を食べてることによって成り立っている生命そのものの連鎖を肯定しています。
その上で、生命力そのものである「欲」が、分をこえた「欲望」にならないようにすること
(この違いは明確に線引きできるものではありませんが)、
そして命を提供してくれる食材を無駄にせず、感謝する気持ちを失わないことを心がけています。
Sさんは他の命を食べて生きている自分自身に対して
どのような態度をとって(決断して)生きていますか?
>「円満」とおっしゃるとき、それはどういう根拠なのでしょうか?
自利利他については、大乗仏教の根本思想の一つであって、
簡単に説明することは難しいので、道元の言葉を引用しておきます。
「仏の行は、尽大地とおなじくおこなひ、尽衆生とともにおこなふ。
もし尽一切にあらぬは、いまだ仏の行にてはなし。
しかあればこころをおこすより、さとりをうるにいたるまで、
かならず尽大地と尽衆生と、さとりもおこなひもするなり」。
ここで「さとりもおこなひもする」自己は、尽大地自己といわれるものです。
自利利他円満ということが言えるためには、
自己がいかなる在り方における自己であるかがポイントになります。
また「円満」というのは迷いの中にある凡夫の目から見た円満ではなく、
仏の目から見た円満なのだと思います。
☆ 二種類の【悟り】―【留生悟】と【溶死悟】
【悟り】という語は一つであっても、その指示する内容は二種類ある。
これには正誤や真偽、更には善悪などの区分は『全く』無い。
一つは【生】の【悟り】―これを【留生悟】と呼ぼう。
一つは【死】の【悟り】―これを【溶死悟】と呼ぼう。
この【生】【死】は『肉体』ではない。
『精神』だ。
もっとハッキリ言うなら『我』だ。
『我』が【生】きているのか【死】んでいるのか。
その違いが同じ【悟り】という語に大きな差異を生み完全なる別物にする。
『世界との関係性を持つ際の双方の立脚点』が異なるのだ。
まず【留生悟】だ。
これは『我』(『個我』とされるもの)をそのままに『如何に己が生き易くなるか』を徹底して追及した結果として到達する。
『我』がそのままに存在するという事は『二元分別』から離れていないという事だ。
そこには必ず『比較対象』があり、その結果としての『価値基準』が発生する。
この『比較対象』とは『自己の価値観』であり、『価値基準』とは平たく言えば『〜までは快だが、それを超えると不快』というものだ。
では、その『価値観』とは何か?
それは『各事例に対しての【自己の記憶】を大本とした主観的判断の集積体』である。
つまり、簡単に言えば『思い込みによる独り善がりの客観性皆無の判断事例集』なのだ。
この事実に気付いて、状況などの諸条件により自動的・機械的に喚起され得る『価値基準』を自覚の元に比較的自在に操作可能な者が【留生悟】を『得た』者だ。
そう、それは『我』が『得る』のだ。
『我』が『今まで有していなかったモノを新たに取得する』のだ。
それはある意味『技術』(テクニック)や『技能』(スキル)だと言える。
だからこそ、日々の精進を積み重ねていけば『いつか』は【悟り】を『得る』事が出来るのだし、悟後も精進する事で『より高度な【悟り】を得られる』訳だ。
【悟り】を『得た』者同士の間でも『どちらの境涯が深い』だの『どちらの方が優れている』だのといった『比較』が発生するのはこの為だ。
(続く)
(続き)
古くからの禅用語で言うならば【漸悟】という事になるだろうか?
常に極め続け精進し煩悩を振り払って『いつか』は到達する。
【留生】の名の通り、彼は【生】に『留まって』いる。
彼は世界から『独立』し続ける。
常に『個』として在り続けるのだ。
そして【溶死悟】だ。
これは『我』を死滅させた後に世界に戻ってきた結果として現れるものだ。
つまりは【生】から【死】へと移行した後に再度【生】に帰還した場合―『どうやら生きてしまっているようだ』という状況だ。
この場合には最早『我』は存在しない。
存在しないが故に、既に離れているが故に、『我』を―『二元分別』を纏う事が出来る。
『正誤』を『真偽』を『善悪』を『遊ぶ』事が出来る。
この者が得たモノは何もない。
それどころか、大いに『失って』いる。
何かを『得る』主体となる『我』を『失って』いるのだから、何も得たりする事はない。
この『失う』というのは精進でどうにかなるものじゃない。
【肉体】という【物質】を『失う』ならば精進で何とかなるだろう。
例えば『今日は目を潰す』『明日は腕を落とす』『明後日は…』という風に。
要は『自殺』だ。
しかし、ここで『失って』いるのは『我』だ。
『失おう失おう』と思えば『我』はますます意識される。
それは形を変えただけの『我執の強化』だ。
『失ってやろう』などという小賢しい計算は通用しないのだ。
【溶死】の名の通り、彼は【死】に『溶け込んで』いる。
彼は世界と『一体に』なっている。
最早彼には『個』という意味はない。
541 :
考える名無しさん:04/06/28 20:44
「目が痛い…」
542 :
考える名無しさん:04/06/28 21:07
dempa
>>537-538 (476さん)
自身の真剣な覚悟を示してくださったあなたに感謝します。
あなたの想いを重く受けております。
476さんとの相違点は、神(仏)の視点を取り入れて語っているか、個体化
存在者(凡夫)の視点から語っているか、に思います。476さんは「わたし」
と「あなた」という視点を語らないし、「円満」を語れる。ボクは「円満」はとて
も語れないし、代わりに「わたし」の「自律」と「責任」と「罪」を語ります。です
から、476さんが示してくださった多くの覚悟にボクは共感しておりますが、
同時に、似て非なるものだとも感じております。それでよいのだと思っており
ます。
ボク自身がどのように葛藤し覚悟してきたかは、これまで展開してきた
自己自律の記述と多くの方との関わりの中に詰まっています。
受肉せるボクは、利己/利他の葛藤の中で、ギリギリに保てています。
>>539-
>>540 ハルカさん
カキコに燃えてますね。
なんと言えばいいのか。
よく分析してますね。
前者は、テクニックなんですよ。
執着するか否かどちらも選択自由という自覚です。
それゆえ、生きるために役立つものであり、
ポジティブやら前向きやらになる。
しかしながら、我は依然としてあり、限度内での選択自由というもんです。
後者は、『失って』いるのは二元対立による認識から来る「執着」や
現状の不安定からくる思いが我を通して発することにより、
現状を変えようとする「望み」を「失って」いる。
ゆえに執着から自由というものです。
しかしながら全く異なるものですね。
訂正
>二元対立による認識から来る「執着」や
→二元対立による認識から来る「一方への囚われ」や
不思議に思い書き込みします。
>それは476さんが望むことですか?それとも(恐らく抵抗したであろう)彼らが?
というSさんの問に対して
476さんは
>私は、他の命を食べてることによって成り立っている生命そのものの連鎖を肯定しています。
と自らの望みであると受け取れる書き込みをしています。
これはSさんがすべてが「利己に回収される」事に関する理解を476さんに促す質問をし、それに応じた
答えになっていると思います。
しかしその問いかけは476さんに対してのものであり(抵抗した彼らにきく術はありません)、
食する476さんの一方的な見識で答える他ないものです。
つまりその問いかけをしたSさんには必然的に476さんの返答は予測できるものであり、
それは476さんにとっても自明です。またあまり感心する問いでもありません。
その上でこたえた476さんの見せた誠意を考えるとき、
>Sさんは他の命を食べて生きている自分自身に対して
>どのような態度をとって(決断して)生きていますか?
という476さんの問いかけに
>受肉せるボクは、利己/利他の葛藤の中で、ギリギリに保てています。
という返答では誠意があまり窺えません。
人は他の生き物を利己的に殺し食することで自己の生存を為しえています。
その意味でSさんのいう「利己に回収される」という認識は理性を有する「人」において
は、自己の生存や他の生命体の生存を考える上でなくてはならないものかもしれません。
「わたし」の存在から派生する全ての事象は利己的である側面があります。
話し合うなら、それに関して本質的な部分で議論し合えるような質問をされたらいかがでしょう。
また、
>「円満」とおっしゃるとき、それはどういう根拠なのでしょうか?
というSさんの問いに関して
>仏の目から見た円満なのだと思います。
という476さんの返答がありました。
これに対して
>476さんとの相違点は、神(仏)の視点を取り入れて語っているか
というSさん。
ここで疑問が生じます。
>>489において
>『二利円満』という言葉が仏教にあります。
という書き込みで476さんは「円満」を仏教用語から引用した旨を明らかにしており、
それ以外でことさら「円満」を主張したり書き込んでいません。
つまりはじめから476さんは、Sさんの指摘した「神(仏)の視点」で引用しています。
これを見ると、476さんは書き込みにあるとおりのことを素直に書いているように見えます。
また、Sさんの「円満」に関する質問の意図がわかりません。
>476さんが示してくださった多くの覚悟にボクは共感しておりますが、
>同時に、似て非なるものだとも感じております。それでよいのだと思っております。
確かにそうですが、あなた方のやりとりは、互いの覚悟を示し合いそれが「似て非なるもの」
であることを確認するためのものだったのでしょうか。
不思議です。そのような結論ではSさんによるその2つの質問を論じ合う意味が見出せません。
理由はそのこたえがはじめからあまりにも明白であること、また誠意をもってこたえた476さんに対して
質問した側のSさんの対応が釈然としないことによります。
>>Sさん
貴方、『自利(利己)』と『利他』の関係を『デジタル的』に捉えてない?
まさかね。
解っていると思うけど、『自利』と『利他』は『溶け合っている相互不可分な関係』なんだよ。
『自利』と思ってやった行為でも、ふとしたきっかけで『利他』に成り得る。
逆もまた然り。
『利他』と思ってやった行為も、実は『自利』でしかなかった…なぁんて。
(ま、世に溢れる『自称ボランティア命!の輩』がこれこのものだね)
もう一つ。
貴方は『利他』=善、『自利』=悪、の『固定観念』に縛られているように見えるんだわ。
言っておくけど『自利』でなけりゃ何も食せない。
肉・魚は言うに及ばず、野菜・果物何れも駄目。
『自分の生存という勝手な都合の為に他者の生命を奪っている』のだからね。
唯一の例外として食せるのは『生存している生態から自然な状態で出る分泌物』か。
『乳製品』に代表される『子孫を育成する目的で分泌する物』だね。
こんな風に『繰り返し他者を強奪して生存していく』のが【生命】。
これを『罪』と捉えるのは自由。
だがね、この『罪』は『誰かに許される』性質のものではないよ。
(それこそキリスト教に代表される西洋一神教では『神は人間が食す為に動植物を造られた』なんて馬鹿な理屈付けをしているが)
我々に出来得るのは『持ちつ持たれつ』だけ。
もしも、動物に食われそうになった時。
そして(少々SFチックではあるが)人間を『餌』とするような『捕食者』が現れた時。
(異星人とか怪物とか未知の生命体とか…)
そんな時に『お互い様ですなぁ』と言って、抵抗もせずにそのまま素直に食われる。
我々も【他生命】を食し生態を維持しているのだから…『捕食者』と『被捕食者』の関係が逆転しただけ。
その時に『これも自然の働き』と『心底思う事』―これしか出来ないのだよ。
まさか…
これを『罪』としていても、いざ食われる段になったら『嫌だ!』って逃げ回る?
もしそうならば、貴方には【生存】を『罪』と言う資格は無い!
>>544(Nさん)
なんかね。
前々から思ってた『違和感』がやっと言葉になったって感じ。
こうでもしないと【悟り】=『新しい価値観』『素晴らしい生き方』と感じてる奴らを黙らせらんないでしょ?
『はいはい、アンタラのも確かに【悟り】だ。認めましょう。でも…決定的に別物だけどね』
550 :
考える名無しさん:04/06/29 19:04
「目が痛いだけ…」
2行以上読む気にならないの、俺だけか?
俺もだ。
とてもじゃないが読む気になれん。
というか、彼らは初めから部外者にも分かりやすいように文を書くことを放棄している。
スレの閉鎖的利用であり本来なら削除されてもおかしくない。
552 :
考える名無しさん:04/06/29 19:49
三浦、確変入ってるぞ(ww
どういう意味?
554 :
考える名無しさん:04/06/29 19:54
>>555 読み手の親切に甘えてるってことだな、鈍クサァ !!
そうかな?
>>540 ハルカさん
こんばんわぁ〜♪
こちらのほうで、がんばってるんですね。
これから、時々、寄らせていただきます。
(。・_・。)ノよろしく
ごあいさつ、しました。
>>556 無用な摩擦を生まないことを祈るよ。
私のように『摩擦が起こるのを予測して』ではなく、貴方は『完全に親切心から』だからなぁ…
余計に性質が悪い。
>>546 (530さん)
476さんが仏の視点を取り入れている立場と書いたのは、別様にいえば、連関
としての世界を俯瞰して語っているということです。ですから単に仏典を引用し
ているとか、他者にきけないから云々、、というようなことではなくて、連関を自
他という視点からは線引きしないという俯瞰を貫いているということです。そして
それ以上には踏み込まないことまで、あの質問でボクなりに確認することができ
ました。自己自律で書いてきたようにボクは連関を肯定していますから、476さん
の観点自体に異存はないのです。
ボクが存在者の立場と書いたのは、勿論連関にあり切り離せない相互依存関
係にありながら、俯瞰する視点ではなく、個体化存在者の立場としての「わたし
」と「あなた」の対面する視点で語っているということです。そして、「わたし」の志
向はすべて「利己に回収される」と書いているのではなくて、自覚的に、利己/利
他の葛藤ができると書いているのです。利他の志向についての、他者への眼差
しと我有化限界の問題については、可能な限り今後も詰めてゆきます。
以上につきましては、530さんが指摘される前提を捉え違えているように思い
ます。対話については常に到達点であり、今後どう展開するかは、476さんと詰
めてゆくものと思っています。
誠意がない、と感じられたことについては、一層に精進したいと思っています。
>>548 ハルカさん
>貴方、『自利(利己)』と『利他』の関係を『デジタル的』に捉えてない?
連関についてはこれまで自己自律で書いたように、相互依存の不可分な関わり
です。しかし個々の存在者として、まして「わたし」を引きうける自律者の立場と
して、行為する側(「わたし」)とされる側(「あなた」)の視点は異なます。例えば
なぜ他人を殺してはいけないか、それでは牛を食するのは?と問う時、「あなた」
の視点をもつことが、「わたし」と「あなた」の関係、すなわちボクの思う倫理です。
結果については
>>527に書いた通りです。
>『利他』と思ってやった行為も、実は『自利』でしかなかった…なぁんて。
それゆえに我有化の暴力を超え出ない「罪」なのです。
>貴方は『利他』=善、『自利』=悪、の『固定観念』に縛られているように見える
そのように書いたことは一度もないです。「わたし」という世界を対象化して関われ
る存在者の、「利己」の対立軸として「利他」を当てています。
>言っておくけど『自利』でなけりゃ何も食せない。
そうですね。ではどうして「利他」を対峙させる必要があるか。それは自律者として
「わたし」を引き受ける責任からであり、「利己」のみの功利算段のバランスから
必ず外れる疎外者へ眼差しを向けるためであり、「利己」とのバランスをまさに
「自律」するためです。
>>557 ハルカさん
禅のスレなので、何とか皆さんのお話にも、ついていけるだろうと思います。
時々、レス、入れさせてください。
m(_ _)mペコリ
>>548 ハルカさん
>これを『罪』と捉えるのは自由。
ボクが書いてきた「罪」は「わたし」を引き受ける立場としての、自覚的なものであっ
て、誰かに強制されるものでも許されるものでもありません。宗教とも無縁です。
そして『これも自然の働き』というようなあてがわれた形式に埋没する志向と対峙
するものです。これは神ー倫理/存在者ー倫理で書いてきました。
>西洋一神教では『神は人間が食す為に動植物を造られた』なんて馬鹿な理屈付
>けをしているが
これは「利己」に回収されます。
>『持ちつ持たれつ』だけ
と自律者が語れるのは、利己/利他の葛藤においてと考えています。
>いざ食われる段になったら『嫌だ!』って逃げ回る?
>もしそうならば、貴方には【生存】を『罪』と言う資格は無い!
『嫌だ!』という利己と、呼びかける相手の立場に立つ利他。その葛藤において
行為されるでしょう。ボクの生が今も保てているのは、そのギリギリのバランス
にあるからです。なお、以前書いたことを繰り返せば、たとえどのように「応答」
しても、「罪」は消えませんし、真剣に「応答」すればするほど、「責任」も「罪」も
増します。それが「わたし」を引き受けるという重みだと考えます。
>>557 >私のように『摩擦が起こるのを予測して』ではなく、貴方は『完全に親切心から』だからなぁ…
どっちもどっちだって。
>>561 解ってない。
『持ちつ持たれつ』『お互い様』ってのは『自利』でも『利他』でもない。
ただ単に『自分のしてきた事を自分がされる』だけだ。
巡り巡って返ってくるだけだ。
『自分』が『他者』の【生命】を奪う。
『他者』が『自分』の【生命】を奪う。
単純な鏡像だ。
食う方は『自利』ではあるが、食われる方は『利他』ではない。
そんなもんと無関係に殺される。
それだけだ。
これを嫌がるようならば貴方に『罪』などという資格は無い。
>>563 ハルカさん
日本では、 「持ちつ、持たれつ」 と言うのは、リアルな日常生活だろう。
そこにあるのは、
そう言う現実があるだけだね。
それは、悪い事でも、唾棄すべき事ではない。
むしろ、日本社会が、長年培ってきた、美点であると言える。
一寸、視点が違うかもしれないが、
言ってみる。
>>563 ハルカさん
>食う方は『自利』ではあるが、食われる方は『利他』ではない。
「わたし」は食う側の「利己」と、食われる側の「利己」つまり「わたし」の「利己」
と対峙させる「利他」と葛藤ができるということです。その志向は、すでに世界を
対象化して働きかける力を持つ、「わたし」という存在者を自律するための対峙
です。ハルカさんの言う、「わたし」よりも強大な搾取者についても同じです。
またそもそも弱肉強食、適者生存の自然状態を良しとするなら、また、自分
もそこへ埋没するなら、その方がボクの語るような倫理の類を自覚をされること
もないでしょう。ハルカさんの倫理観をボクは否定しません。(ハルカさんが否定
しても。)ハルカさんが自らの志向を持つように、ボクはボクとして自律的に関わ
り、示して(行為して)ゆくだけです。そうした個々の志向のせめぎあいが、まさに
自己自律ですしね。
巡り巡って返ってくる連関の中で、自らを引き受けるということは自他の非対称
の責任を負うということになります。それが他者への眼差しと不可分な、利他の
志向です。責任と罪が増大すれば、必然的にその者は「わたし」ならざる者にな
るでしょう。
>>561で一箇所撤回します。
>『持ちつ持たれつ』だけ
>と自律者が語れるのは、利己/利他の葛藤においてと考えています。
これを自律者は語れないです。
>>565 >
>>564 > 視点が違う。
> 黙れ。
↑に レスしようとしたら、
1時間、イヴェント企画せよ、とか、言われた。
カキコ、めるかな ?
ものを見る視点は、言わずもがな、360度。
タカビーな物言い、
哲学板、なのかな、ここって。
ためしに カキコ !
強肉弱食。
既に罪はあてがわれているように思えます。それ以外にはないように思います。
僕が入る棺には蛆虫が呼ばれます。
Sさんが言う罪は在り方に依ると思います。
>>569さん
>既に罪はあてがわれているように思えます。
あてがわれた個体化形式は身に憶えのない罰とはなっても、そのあてがわれた
ままにエゴを展開することは罪には帰結しないように思うのです。
>Sさんが言う罪は在り方に依ると思います。
そうだと思います。「あてがわれた」から「引き受ける」へあり方が転換したとき、
無責任から責任へ、無垢なる者から罪を背負う者へと転換されると思うのです。
そしてこれはボクの自覚するあり方に過ぎません。
>>558 >以上につきましては、530さんが指摘される前提を捉え違えているように思います。
指摘した前提を捉え違えていたとしても、指摘したことは事実として厳然とあります。
つまり、そうこたえる他ないといった質問をされたことです。そこには相互理解を図ろうとする意志が
見えにくいと感じました。
>>566 >ハルカさんが自らの志向を持つように、ボクはボクとして自律的に関わ
>り、示して(行為して)ゆくだけです。
とあります。
これを見る限り、あなたのここでの活動の目的はあなたの自律に関する決意表明のようです。
自己の生をどのような視点で捉えるかはその人次第であり、あらためて語るまでもないことでしょう。
あなたがどのような覚悟で生きるかをここに示し、それをわれわれに見守って欲しいということがこのスレの主旨なのですか。
あなたが罪を背負う覚悟をしたことは文面で見てとれます。
>受肉せるボクは、利己/利他の葛藤の中で、ギリギリに保てています。
この文章を書いたあなたの覚悟がどれほどのものかは我々にはわかりません。
ただ、あなたがこうしてここに書き込むことで、「S」と称する人物の存在を確認するのみです。
あなたはここにおいてあなたの覚悟を多くの人に知って欲しいのでしょうか。
それともその覚悟の必要性を説いているのでしょうか。
もしその覚悟が人が生きる上で重要なことであるなら、一人でも多くの人がその覚悟を
することはこの世にとって有益となるかもしれません。出来たらその方向でお願いしたいと思います。
572 :
考える名無しさん:04/07/01 16:52
ハルカちゃん
こんなところでご活躍かい??
なかなか素晴らしいじゃあありませんか
私なんか頭痛くて読む気もしないぜ
じゃあね、 サリンでもかがしてやろうか??
573 :
考える名無しさん:04/07/01 16:58
ここは、哲学板なのか。。
難解な哲学をひもとく連中には
インテリぶって、他人を低能扱いするのにたまらない快感を覚える連中も
あるんだなあ。。
>ハルカ ◆0tZOcyVq86 :04/06/29 21:32 ID:CwSastg9
>>86 ありがとう、じゃない。
いいか?
お前さんの言ってる事は全て受け売り、実感など何一つも無いだろうが。
実感があるなら
>自己の内側を探索し、そこにくずれない幸福、安定を見出す。
なんて台詞は死んでも吐けないはずだ!
この大馬鹿者が!
頭かち割って出直せ!
似非仏教徒が!
、、ずいぶん、いいたいこと言っていただいて
楽しく拝見させていただきましたわ
ときどき、こちらも拝見させていただきますよ
ではね
574 :
考える名無しさん:04/07/01 16:59
えらそうな男
575 :
考える名無しさん:04/07/01 17:01
つーか、ハルカとかいう池沼をどうにかしてくれ。
576 :
考える名無しさん:04/07/01 17:02
573の 86ってのは、ここの86ではないわ。
こっちの86よ
果たしてオウム(アーレフ)の教義は完璧か?25
86 :名無しさん@3周年 :04/06/29 21:28 ID:0T5T884O
>82
ありがとうございます。
あなたさまが、つまらないいいがかりだけつけにこられたかと
思ったものですから、勉強不足なのに説教をたれて、恥をかいてしまいました。
それだけしっておられればつまらないいいがかりは必要ないでしょう
そうですね、教組の言葉ですが、不幸でないという意味で幸福なのだ、と
いっていましたよ
幸福幸福と求めて迷いが生じるわけですから
そして、苦から逃れる、これも正見解をもってしないと
何が本来苦で、苦ではないのか、まちがってしまいますね
すみませんね、 低能で
577 :
考える名無しさん:04/07/01 17:17
あんまり頭よすぎると自殺したくなるらしいわね
昔から小説家みたいのにそういうのよくいるわ
なんか、死にたいとか、俺は悩んでいるんだ、とかいうと
かっこいいと思っているみたいね
先生方の真似かい
でね、悩みのないやつはみんなアホっての
そんで、うんうんいいながら、小説書いて、頭ボリボリかいてフケ飛ばして
最後に喀血して、むずかしい顔して死ぬのよ
好きで悩んでいるんだから、幸せなんじゃないのといいたくなるわ
ま、お釈迦様も若年性うつ病だったそうだけど
最後は平安を見出したわ
578 :
考える名無しさん:04/07/01 17:29
哲学やってる男ってのは
女性をどうみているの
あんまり高尚なこといってしまうと
女の裸みてムラムラなんて、プライドにかけていえないのかしら
それとも、それとこれは別なの
別にハルカちゃんじゃなくても、皆さんどうよ?
>皆さんどうよ?
これを聞いてあなたはどうしたいの?
そもそも【悟り】と言うものはですね。【苦】の原因を立つ事だった。
だから【生】が苦しければ【生】を絶てばよい。
でもこれは奇妙な事に【喜び】も絶ってしまう。
だから【悟り】とは【苦しい生】を絶てばいい事であって【自殺】
ではありえないわけです。
では【苦しい生】とはなにか?
581 :
考える名無しさん:04/07/01 20:17
>>578 哲学を高尚なもんだと思ってる奴いんのかねぇ?
ついでに
>>577 >あんまり頭よすぎると自殺したくなるらしいわね
自殺したくなるかどうかなんてのは頭の程度と関係ねーんじゃないのか?
言うなら頭使った具合だろ。どれだけ考えたか。悩んだ苦しんだってよ。
582 :
考える名無しさん:04/07/01 23:00
>>581 頭悪そ〜なことばっか、言ってんじゃねぇよ、タコ !!
【苦しい人生】とは難しいんですね、まず感覚的に苦しいもの。
これはいずれか喜びに変わる種が隠されていたりする。
だから判断が極めて難しい。
584 :
考える名無しさん:04/07/01 23:34
【自律】と言うのも自明じゃない。例えば我々がここにいるには
【世界】が必要【世界】なしに自律なんてありえないこと。
用は多極的な【因果】から逃げないという事じゃないことでしょうか?
ここにいる人たちは悟って【聖人】になったひとはいないようですし。
【苦しみのない生】とは何でしょうか?
それはセックスで満ち溢れた生活の事です。
588 :
考える名無しさん:04/07/03 02:39
ハルカさんは、悟りについて詳しいようだけど、
何故そこまでネガティブなの?
589 :
考える名無しさん:04/07/03 04:29
板違い
→宗教板
へどうぞ。
これは非常な秘密なのですが、私の中の一番初めの記憶は死なのです。
だから私は生まれ変わりは絶対あると思っていたんです。
しかし、この前従兄弟に言われたんです。地球上で死ぬ奴と生まれる奴の
数が合うかって。そういわれたら何もいえませんでした。
あれだけ悪口雑言吐きながら正義の味方然としているところはなかなか成長が見えず
頼もしい限りだ。
他人を放って置けない自分に気がつかないのかね。
洗脳されている人を救いたい気づかせたいと思うなら、他人から自分が同じように見えている
事実も考慮したらどうだ。
人に働きかける前に自分の行動が自分にとってどんな位置付けなのか考えたらどうだ。
人のことを放って置けないおまえは、その人たちより「なにか」が「まし」なのか?
人が幸せそうに洗脳されている様子はおまえにとって「苦」なのか?
おまえを求道者と見る人もいれば、馬鹿にしか見えない人もいる。そしておまえはおまえでしかない。
何を焦って馬鹿を晒す?
>>591 言いたいことがあるのなら、どこのだれかはっきりしろ。
こそこそ隠れてみっともねーぞ。
>>591 おまえはだれで、だれに向かっていっているのか。
それに何がいいたいのか。
わかるように書け。
そういう会話の基本は守ろうね。
>>594 このどこが馬鹿発言かわからぬようだから言っってやろう。
まず、誰から誰に言ってるのか。こんなこともできないのかね。
>あれだけ悪口雑言吐きながら正義の味方然としているところはなかなか成長が見えず 頼もしい限りだ。
まず、誰の?そして どこの悪口なのか?はっきりしろ。
何か過去を引きずっているようだけど・・・
あほな文章をここから2つ。
「悪口雑言吐きながら正義の味方然としている」
悪口雑言を吐いたら、正義の味方 にはならないだろ。
「成長が見えず 頼もしい限りだ」
おまえはあほか。成長がみえなかったら 頼りない だろ。
>他人を放って置けない自分に気がつかないのかね。
他人を放っておいたり放っておかなかったり、他人との関わりは持ったり持たなかったりするわな。
それで何が言いたいの?
>洗脳されている人を救いたい気づかせたいと思うなら、他人から自分が同じように見えている
>事実も考慮したらどうだ。
だから何が言いたいの?
事実?本当にそうか?
そっくり返すと
おまえが書いている内容を他人から自分が同じように見えている事実も考慮したらどうだ。
となる
何がいいたいのか。きみ要点をまとめてから書こうね。
【つづき】
>人に働きかける前に自分の行動が自分にとってどんな位置付けなのか考えたらどうだ。
考えないヤシがいるのか。きみだけではないのか。
きみへんだ。へんすぎる。
とてもおかしい。
なにか当然していることをしていないと思い込んでいる。
>人のことを放って置けないおまえは、その人たちより「なにか」が「まし」なのか?
また、わけのわからないことを。知るか。おまえの疑問はおまえ自身で答えなさい。
>人が幸せそうに洗脳されている様子はおまえにとって「苦」なのか?
疑問形で終わるな。
そのあと、なぜ疑問形で尋ねたのか。その理由がないと ただの訳のわからない質問になるのだよ。
>おまえを求道者と見る人もいれば、馬鹿にしか見えない人もいる。そしておまえはおまえでしかない。
おまえはおまえって。またへんな発言だな。
>何を焦って馬鹿を晒す?
まず、このへんな文章を見直して、おまえの馬鹿さかげんを修正しようね。
ここまで書いたらわかるよね。
>>594 このどこが馬鹿発言かわからぬようだから言っってやろう。
まず、誰から誰に言ってるのか。こんなこともできないのかね。
>あれだけ悪口雑言吐きながら正義の味方然としているところはなかなか成長が見えず 頼もしい限りだ。
まず、誰の?そして どこの悪口なのか?はっきりしろ。
何か過去を引きずっているようだけど・・・
あほな文章をここから2つ。
「悪口雑言吐きながら正義の味方然としている」
悪口雑言を吐いたら、正義の味方 にはならないだろ。
「成長が見えず 頼もしい限りだ」
おまえはあほか。成長がみえなかったら 頼りない だろ。
>他人を放って置けない自分に気がつかないのかね。
他人を放っておいたり放っておかなかったり、他人との関わりは持ったり持たなかったりするわな。
それで何が言いたいの?
>洗脳されている人を救いたい気づかせたいと思うなら、他人から自分が同じように見えている
>事実も考慮したらどうだ。
だから何が言いたいの?
事実?本当にそうか?
そっくり返すと
おまえが書いている内容を他人から自分が同じように見えている事実も考慮したらどうだ。
となる
何がいいたいのか。きみ要点をまとめてから書こうね。
>人に働きかける前に自分の行動が自分にとってどんな位置付けなのか考えたらどうだ。
考えないヤシがいるのか。きみだけではないのか。
きみへんだ。へんすぎる。
>>598 ゴラー
あほんだらーー
哲学でなぜ もてないくん を救えるのじゃーーーーーーーー。
あんぽんたん。
哲学で誰かを救えるなどと思い上がっている。
へんなガキ。
ククク、悟りだ自律だと片腹痛いわ!!
十年田代の下で修行しろ!
Sだのカオルだのハルカだのはこの喪男様の壮絶な生き方に
んか言ってみろ!
まずですね、ハルカさんのモデルはそれなりに整理されているけど、
じゃあ、脳のどの部分? って唯物的な話になった時に示す事が出
来ないんですよ。あまりにも言語プロパーになりすぎて。だから実証
と言うのが出来ない。結局霊界だとかそこら辺の疑似科学で、言葉だ
けでやっていける場所でしか通用しないんですね。
それよりも彼女(彼)らがなぜこういう風に世界を語りたがるのか?
の方が面白いと思うんですよ。非常に興味深い。言葉だけの世界を作って
引きこもろうとするって言うのは昔から良くある事なんだろうけど、
やっぱりネットがあって増殖している。それは間違いないですね。
だから僕は言葉に入る、言葉から出る、2種類の悟りがあると思うんです。
どっちもある種の境地がある。でもやっぱり伝わりやすいのは言葉に入る
方だと思います。これは皆さん、もうご存知だと思うけど、でもこの世には
言葉にならない悟りがある。とは断言できませんが、あってもおかしくない。
やっぱりみんな、好きなことしかしない。
>>473 Sさん
>で、「わたし」が自覚する倫理形式における「他者」(超越)への眼差しとはなにか。
>我有化したならばそれはもはや「他者」ではないし、「他者」の様相とは無縁の他者像
>でしょう。にもかかわらず、「わたし」は痕跡の我有化においてのみしか「あなた」に
>対面できず、我有化によって「わたし」は常に「あなた」に暴力を振るっている。それを
>罪として自覚すること。これが「他者」(超越)への眼差しと思います。
我有化された他者への暴力を自覚することによって、他者(超越)への眼差しは確保できる
のでしょうか。罪の自覚こそが、最大最高の<利己>の確認作業なのではないでしょうか。
その意味では、他者(超越)からもっとも<自己>を遠ざけることになるのだと思います。
<あなた>とは、我有化された<わたし>のことなのだと思います。
<わたし>が<あなた>への暴力を自覚し、<あなた>のかけがえのなさを知るとき
<わたし>は、<あなた>への愛に目覚めているのではないでしょうか。
ひとりでは存在することの許されない(自足することのできない)<わたし>が
たったひとりの…という「かけがえのなさ」との出逢いによって
みずから(の利己心)を最大最高に否定すること(倫理の実践)ができて
しかもそのことで、逆説(内在)的にみずからの存在意義をもっとも高めること。
それが「愛」と呼ばている現象なのではないでしょうか。
<あなた>のためなら世界が滅びてもいいと躊躇なく思えること。
究極のエゴイズムが愛なのだと、わたしは思います。
♪ 死の倫理 ♪
宇宙は、どうして<存在>するのでしょう。
混沌から生まれたコスモス(秩序と調和)は、神の<力>の誇示なのでしょうか。
たとえば、わたしが<わたしの存在>することを<嫌悪>できるのは、
<わたしの存在>が、神の力の証だと<気づいている>からかもしれないです。
<存在>しようとした<神の意志>こそが、<原罪>なのではないかと疑っています。
神の意志から生まれたわたしは、その<罪>を自分のこととして背負わされています。
だからほんとうは、わたしは、神の<罪>を責めるべきなのかもしれない。
<存在すること=苦しみ>の虚空に<うちすてられた>ことを憎むべきなのです。
なぜなら、それが神とともに在る<わたしの倫理>だからです。
だから、わたしは神に巣食う<ガン細胞>になって神を滅ぼそう。
そうして神とともに消えてしまいたい。
>
>>607 原罪は人間の罪で神の罪じゃないよ。イエスによって償われた。
>>587 ハルカへ
オウムは、オウムなりの正義というか倫理にもとづいて行為したのだと思います。
そのオウムの正義なり倫理なりを真っ正面から否定した論を聞いたことがないです。
今の社会に、あるいはそれを代表している権力者や知識人、そしてわたしたちにも、
オウムを否定するだけの倫理や論理は存在してないのでしょう。
けれど、オウムの教義がどんなものであっても、たとえば「ポア」にしたって
「より良き生」を前提としているのですから、オウムもまちがいなく「生の倫理」に
従っていました。要するに、オウムの論理を否定できないでいる原因は、コレだ!
と、わたしは思っているのです。
「生の倫理」における差異(力)の衝突でしかない議論そのものの中に
オウムがまかり通る可能性が胚胎してしまっているのを見てしまいます。
お姉ちゃん、生の倫理も常見と断見でぜんぜん違うよ。
それより
>>598に答えてやれよ。
>♪ 死の倫理 ♪
不快な表題の書き方だな。
>そうして神とともに消えてしまいたい。
神が道連れでなけりゃしねませんか?
今の自分を楽しめないのは神のせい。あなたは何も悪くない。
いろんな妄想してすっきりさせて、さあ今日もとりあえず行き続けるかってこと?
かけがいのない私探しはそろそろやめにしないか?
>>571 (530さん)
捉え違えているご指摘は厳然とあるように思います。
>>585さん
自明でないというのはスタート地点だと思います。
切り離せない連関にあって、「わたし」がどう関わってゆけるか、を模索
しています。そんなボクはもちろん凡俗な者です。
>>587 ハルカさん
ハルカさんの望むままに・・
揶揄について、ボクの想いは以前書いた通りです。
>>606 カオルさん
>我有化された他者への暴力を自覚することによって、他者(超越)への眼差し
>は確保できるのでしょうか。罪の自覚こそが、最大最高の<利己>の確認
>作業なのではないでしょうか。その意味では、他者(超越)からもっとも<自己>
>を遠ざけることになるのだと思います。
そうですね。他者への眼差しは、「あなた」は「わたし」ということを示すのではなく、
如何に関わろうと「あなた」は「わたし」でないという溝を示しますから、それは「わ
たし」の限界を常に厳しく糾弾し、それ故に「わたし」の領域を確保することにもな
るでしょう。「あなた」に関わることで罪を意識するほど、「あなた」からは遠ざかっ
てしまうと思います。
><わたし>が<あなた>への暴力を自覚し、<あなた>のかけがえのなさを知るとき
><わたし>は、<あなた>への愛に目覚めているのではないでしょうか。
はい。
>>606 カオルさん
>ひとりでは存在することの許されない(自足することのできない)<わたし>が
>たったひとりの…という「かけがえのなさ」との出逢いによって
>みずから(の利己心)を最大最高に否定すること(倫理の実践)ができて
>しかもそのことで、逆説(内在)的にみずからの存在意義をもっとも高めること。
>それが「愛」と呼ばている現象なのではないでしょうか。
><あなた>のためなら世界が滅びてもいいと躊躇なく思えること。
>究極のエゴイズムが愛なのだと、わたしは思います。
それはひとつの愛なのだと思います。
でもそのことで、他の多くの者をないがしろにするでしょう。
すべて「あなた」への「かけがえのなさ」を想うこと、等しき眼差しに基づく愛。
二つの愛に引き裂かれるのが、利己/利他の葛藤なのだと思います。
そしてたとえ特別な「あなた」のために世界が滅びてもいいと躊躇なく思えても、
「わたし」は「罪」を負っているのだと思います。
>>607 カオルさん
ボクが「ボクの存在」することを「嫌悪」できるのは、
「ボクの存在」をボクの生み出したのではないこと。「誰か(神)」に操られた人形に
過ぎないこと。>神の力の証だと<気づいている>からかもしれないです。
ボクはボクの意思に関わらず、あてがわれた形式(現象形式、存在形式)に組み込
まれています。それは身に憶えのない「罰」。「誰か(神)」の><罪>を自分のこと
として背負わされて、いるのかもしれないです。
<存在すること=苦しみ>の虚空に<うちすてられた>ことを、引き受けることも
打ち捨てることも、ボクが自律して選択したいです。「誰か(神)」への崇拝も憎悪も、
ボクの意思じゃない。結局「誰か(神)」に操られているだけ。どこにもボク(存在者)
の意志はないです。
ボクは意志の肯定も否定も自律したいです。「誰か(神)」に囚われたまま、自らの
生死を左右されたくない。カオルさんもボクも人形なんかじゃない!
生の倫理も死の倫理も、自己自律は認知します。けれどその倫理は、「誰か(神)」
の呪縛に抗し、存在者とともにあります。
>>549 ハルカさん
遅レスになった。
前者は執着、無執着の選択自由を知る。
まだ終着には至らぬことを知りつつも、
実際のところ、
気をつけていれば、囚われから自由であるために、
これだけで充分と感じるのだけどね。
S ◆4Ijqvx1jbw は10代?
自分の悩みは特別なもの、と思いたいのが人間だけど
>カオルさんもボクも人形なんかじゃない!
これは正直、きもいです。
女の子なら、まだなんとか許せる
だがもし君が男なら・・・
・・・
>結局「誰か(神)」に操られているだけ。どこにもボク(存在者)
>の意志はないです。
誰かに操られていると感じてしまうのは、君の個人的な問題。
君が宗教的素質のある人間であることを告白しているにすぎない。
自分の意志を神の意志に転化するのは、君の自由。
転化→転嫁
>「ボクの存在」をボクの生み出したのではないこと。
「あなたは自分の力で生まれてきたのですか?」
宗教勧誘の常套句だよ。
>「わたし」は「罪」を負っているのだと思います。
それは宗教的な罪?
宗教的な罪とは、
「信ぜぬ者はすでに裁かれたり」
「すべて信仰によらぬものは罪なり」だ。
それとも道徳的な罪?
なら、<「あなた」への「かけがえのなさ」を想うこと>は、
悪であるということだな?
馬鹿・・・
>「わたし」は「罪」を負っているのだと思います。
>どこにもボク(存在者)の意志はないです。
まずはこの二つの文の矛盾について考えてみろ。
>>613 >捉え違えているご指摘は厳然とあるように思います。
このレスにあなたは誠意を示していますか。「捉え違えているご指摘」とはなんでしょう。
あなたがどのように感じたかわかりませんが、質問をすべて無視して上にある意味のわかりにくい文章
のみでレスをされたあなたに誠意は感じられません。
「自律」とは気に入らない質問は排除するというやり方を含むのですか。
>>571にはあなたがこのスレでされていることに関しての根本的な部分に抵触する質問
を書きました。
あなたがそれを無視するのは何かしら都合が悪いのでしょう。
あなたの覚悟はあなたのものであり、他人と共感でき得るものではありません。
それを承知でこのスレを継続しているのですから、やはりあなたには覚悟の宣言だけではない
他の目的があると思います。
それについて聞かせてください。
Sさんに質問があります。この世の全てのものを【世界】といいます。
そして神を信じるものならば世界は髪に動かされていると知るでしょう。
でも、あなたはそんな【世界】から自律したいという。つまりは新しい神
になって自分を動かしたいという事ですか? 論理上はそうとしか取れな
いのですが?
あははは、神→髪だって、でもあえて直さないでおきます。
やっぱり直します。
髪→神
>>621-622さん
罪についてのボクの考えは、
>>561>>570あたりを参照してください。
>>623 (530さん)
530さんが>指摘した前提を捉え違えていたとしても、指摘したことは事実として
厳然とあります。 と繰りかえされるので、
捉え違えているご指摘は厳然とあるようです、としかお答できないです。
対話については以前書いたように、常に到達点であり、今後どう展開するかは、
例えば476さん本人と詰めてゆくものと思っています。別に固定した形式はない
ですし、論が噛み合うとか、相手の姿勢を受け応えるとか、同意するとか、批判
するとか、相手の視点に納得するとか、それぞれが任意に関わり影響し合いな
がらマターリ進行していると思います。
>>624さん
「わたし」はふいに連関世界に投げ出され、無意識や他存在者といった内外の
切り離せない連関に侵食されながら浮かぶ頼りない主体です。そして、連関あ
ってはじめて「わたし」が存立しているのだと思います。脆弱な「わたし」は絶対
者などにはなりえません。
そんな「わたし」が連関世界にあってどのように関わってゆけるのか、を模索
しています。神になる!ということではなくて、主体としてどこまで引き受け、責
任を持って関わってゆけるかを考えています。既に世界を対象化して関われる
能力を持つ「わたし」は、無垢な自然状態を越えていると思っていますから。
切り離せない連関を「自己」と捉え、「わたし」が主体的に関わってゆこうとする
のが「自己自律」であったり、ではどのように関わってゆくかを模索しているの
が「存在者ー倫理」であったりします。
>>626 直さないでください。その方が面白いってなぜわからないの?
Sさんへ
>切り離せない連関を「自己」と捉え、「わたし」が主体的に関わってゆこうとする
>のが「自己自律」であったり、ではどのように関わってゆくかを模索しているの
>が「存在者ー倫理」であったりします。
その切り離せない連関が他律であり、すでに世界に含まれた自律ではありえない
となぜわかりませんか? あなたは自己を言うものが自立的に存在すると思って
いるみたいだけど、釈迦がすでに喝破したように、この世に真に自律的なもの
はありえません。全てが全てを支えあう他律的な世界であり、今これを書いてい
る私も他律的なものです。あなたはなぜありのまま見ないのですか?
まあ、私にはどうでもいい事なのかもしれませんか。
なぜ私は口を出したくなるのでしょう。
ハルカさん見ていたら一つだけ教えてください。
ぶっちゃけ、悟るとどうなるのですか? 停止、つまり死んでし
まうのですか?
それとも、涅槃寂静の世界に入るのですか?
僕はあなたの造語能力がすごく好きです。
多分答えてくれないと思うけど期待しないで待っています。
うけいれるだけが能じゃないでしょう。げんに貴方は否定してますし。
釈迦がどこまで想像できたのかわかりませんけど、釈迦ばかりいたらとても馬鹿げてるなと思いますね。
つまり、システムとしての連関、此の世を全てのつながりとしてみると、
全ては連関しており自分と言うものは見方によっては本当にありえません。だからSさんの自律
に僕は深い疑問を感じます。ただ。ある範囲を自分と呼ぶことはありえること
それと他人の差をどこで感じるのかと言ったことには興味があります。
ひとり「わたし」が悟ったところであまり意味がない気はする。
自己満足、自慰として哄笑されるがオチ。
634 :
毎日つれえだろ:04/07/06 21:19
/\___/ヽ
/'''''' '''''':::::::\
| -=・=-∴-=・=- .::|
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .:::::|
| `-=ニ=- ' .::::::::|
\ `ニニ´ .:::::/
/`ー‐--‐‐―´\
635 :
考える名無しさん:04/07/06 21:29
マッタクモッテプププがでてまつよ。
636 :
考える名無しさん:04/07/06 21:48
悟りたい ← 悟る気のない者のスタンス (ノ_ _)ノ ダミダ コリャ
自律したい ← 自律と縁のない者のタワゴト (o_ _)o ドタ
(スレ 削除シタホガ イ〜カモ w)
>>540 ハルカへ
>そして【溶死悟】だ。
>これは『我』を死滅させた後に世界に戻ってきた結果として現れるものだ。
>つまりは【生】から【死】へと移行した後に再度【生】に帰還した場合―『どうやら生きてしまっているようだ』という状況だ。
>この場合には最早『我』は存在しない。
>存在しないが故に、既に離れているが故に、『我』を―『二元分別』を纏う事が出来る。
>『正誤』を『真偽』を『善悪』を『遊ぶ』事が出来る。
例の詰めてない問題がこれです。(わかる?)
正誤、真偽、善悪を「判断」するには、人間の「言語」能力が必須です。
人間の精神は、言語なしには考えられないし、
物理主義的なことをいうなら、身体(脳)なしには存在さえできないです。
以前、ハルカ論の「我(個体化の原理)」と「私(精神)」の境界を
「言語」によって区別した方がいいと言ったのもそのためです。
>【溶死】の名の通り、彼は【死】に『溶け込んで』いる。
>彼は世界と『一体に』なっている。
「生」そのものと「一体」になるというのは、一匹の虫の生の原理とまったく同じ。
地上の生命を何回も絶やしてしまえるほどの
殺人兵器を手にしたのに使おうとさえしない。
実験で2回ほどイエローモンキーに使っただけ。
神さまが怖くてボタンを押すことができないのだ。
神さまは生き残るための知恵しか与えないから
生き残るための殺人兵器なのだ。
自分で死ぬこともできない弱虫。死ねない虫。
それが人間。
唯一神がこの宇宙を創造した。
唯一神はこの宇宙の「外部」=神の国(時間が存在しない世界ニルヴァーナ)の王である。
神の国は資源が無限にあり時間も存在しない。
そして争いも存在しない。
それはなぜか?
それは神の国へ入るとあらゆる煩悩が消滅するからである。
「内部」の世界では煩悩から解放されるのは非常に困難である。不可能と言ってもいいかもしれない。
だが神の国ではあわゆる災いのもとである煩悩から解放される。
つまり真の意味での自由と幸福が得られるのである。
今までの宗教では人類は救えない。
今望まれているのは革新的な宗教の誕生である。
既存の宗教に幻滅した者、彼らを救うのが私の使命である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同じく私は唯一神を信仰する。
自ら預言者となり神のメッセージを全人類に伝える。
それが私の使命である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も信じる神は造物主といことで一致しています。
ただその神の言葉をどう伝えたかにかということについての解釈が違うのです。
ユダヤ教はモーゼに代表される数多くの預言者からいろいろと神の言葉を聞いていて、
唯一神エホバというのはユダヤ民族だけを助けると信じている。
一方キリスト教は、ユダヤの中から発生したイエスという男が、実は人間ではなくて神の化身であって
全世界を愛で救うと信じている。
そしてそのためにイエスは罪もないのに十字架の上で死を遂げ罪深い人類の罪(原罪)を贖ってくれたと考えています。
最後にイスラム教は、その造物主を信仰する点ではユダヤ教、キリスト教と同じだけれども、
それをアッラーと呼び、アッラーの声をムハンマドが聞いたという解釈を持っています。
したがってイスラム教からすると、ユダヤ教、キリスト教というのはイスラム教に発展する前段階の信仰であり
まだ完全なものではないということにあります。
イスラム教ではイエスは神の化身ではなく預言者だとします。
その点では私の考えと同じです。
だけれども私も神に選ばれし預言者の1人ですから分かることですが
ムハンマドによる神の言葉の解釈は明らかに間違っています。
イエスを神の化身(正確には言えば神と同一)ではなく優れた預言者に過ぎないということを
見破ったことは素晴らしいことです。
イエスの呪縛から完全に解脱したのがイスラム教徒であります。
その意味でイスラム教徒が考えるようにキリスト教は前段階の宗教であり完璧ではないという点で
私はイスラム教徒と同じ考えです。
しかし、私から言わせればイスラム教でさえ完璧ではありません。
確かにムハンマドは天才的な預言者でした。
彼の神の言葉の解釈はかなり10%ほど正しいです。
なぜイスラム教は完璧ではないのか?
それはイスラム教徒がムハンマドこそが「最後」の預言者であるととんでもない思い違いをしているからです。
そして彼らはムハンマドこそが、完全な言葉で神の意志を啓示したのだと考えています!
ここに大きな間違いがあります。
ムハンマドが「最後」の預言者であると考えているのはイスラム教徒のエゴであり欺瞞です。
_
ミ ∠_)
/
/ \\
ウイーン Γ/了 | |
ウイーン |.@| | | ガッガッガッ
| / | 人
|/ | < >_∧∩
_/ | //.V`Д´)/ ←タコ
(_フ彡 /
ハルカよ
>そして【溶死悟】だ。
一度何かの事故で死んでそして組成したらそれは悟りか?
>>629 (624さん)
自己自律の「自己」はまさに「わたし」がわが身ひとつで存立しているので
はないことを自覚するための観念です。ですから624さんの>あなたは自己
を言うものが自立的に存在すると思っているみたいだけど、ということには
あたらないと思います。
連関についてはボクも自己自律で肯定していますが、>今これを書いてい
る私も他律的なものです。とまで書いてしまうと、無理があると思います。仮
りに「わたし」もすべて他律なら、もはや他律云々を悩むこともなく、他律世界
に溶け込んでいるはずだからです。釈迦さんがこの世に苦を見出せたのも、
神(仏)の視点を持てたのも、釈迦さんの自律性あってのことだと思います。
>>632で、>全ては連関しており自分と言うものは見方によっては本当にあ
りえません。と奇しくも624さんが書いてらっしゃるように、そういう「見方」もで
きるのが、「わたし」の自律性なのだと思います。どうでもいいと思えるのも、
なのにレスしてくださる選択をされたのも、「わたし」の自律性だと思います。
それすら他律なんですよ、という「見方」ができるのも。
>>638 カオルさん
核兵器すら(相手より優位に立って生きぬこうとする)生の倫理から生み出さ
れたというのは同意です。そして、たとえキューバ危機のような深刻な事態に
陥っても、自分(や自分の所属集団)が生き残れないような全面戦争の危機を
巧みに避けるのが生の倫理なのだと思います。
生の倫理とはなにか、とボクなりに考えれば、あてがわれた個体形式を是とし
てこれを維持・展開する倫理。まさに神ー倫理で書いたようなことです。「あて
がわれた」から「引き受ける」へ転換した存在者ー倫理も、利己/利他の葛藤は
「わたし」と「あなた」が立脚している生を活かすことになりますから、結果とし
て死という事態を迎えたとしても、それは生の倫理なのだと思います。
「わたし」は自己目的の自殺を選択できたり、ハルカさんのように虚無を志向す
ることもできますから、死の倫理は成立すると思います。が、それが連関全般
への波及というような全面的な否定となると、生の倫理の優位性ゆえに>ボタ
ンを押すことができない、でしょう。死の倫理を望まない他存在者を巻き込むこ
とは人外の否定志向が必要と思われますし、そのような者は生を是とする多く
の者に排除され、ボタンにすら近づけないでしょう。また、どんな独裁者でも生
の倫理に従っていたでしょうし。その意味で、>自分で死ぬこともできない、に
同意です。
ボタンを押したくらいでは現有の地球の生態系が崩壊するだけで、連関世界総
体が消滅するわけでもないと、ハルカさんに苦笑されてしまいそうです。(^_^;)
ハルカのような驢馬を基準にしているようじゃ
犬に吠えられただけで小便漏らすようになるぞ
Sさん、確かに自己と言うのは有るよね。だから観点の違いだと思う。
全てを他律と思う観点はあって、還元主義だとそうでしょ。
でも自分と言うのも確かに存在するよね。
死ぬのも怖いわけだし。
暇だから書きこさせてもらいます、。まい哲学もいい。
本当の宗教を知らない日本人が何いってんの?
イスラム教とキリスト教の違いがわからんヤシは寝てろ
651 :
考える名無しさん:04/07/08 01:03
>>650 宗教と言えば、本質から逃れられるとでも思ってんだろか…。
あわれだな♪
>>647 Sさん
「goo国語辞典」(いつもお世話になります)を見ると、
【自然】
(1)おのずから存在してこの世界を秩序立てているもの。
(3)〔哲〕他の力によるのではなく自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。
と、あります。(これってそのまま「神さま」の定義に使えません?w)
さらに、こんなことも書いてありました。
「人為によってその秩序が乱されれば人間と対立する存在となる。」
で、「人間と対立」を「知性と対立」と読み替えてみたら
人為(知性)による(生への)反乱を阻止するために本能が知性に仕掛けたワナが
畏れとしての神さま(妄想)の、あるいは倫理の起源である。(たしかこんな風)
という、ベルグソンの意見が思い出されました。
>>652 >ベルグソンの意見が思い出されました。
『 道徳と宗教の二つの源泉 』 ( 森口 美都男 訳 中公クラシックス)です。
>>652 >カオルさんへ
横レスしますね。
お久しぶりです(w
>倫理の起源
つまり、自然への対立の構造が、人間の倫理の起源だと
いうことでしょうか。
(自然=秩序)そのものに対して、(自分自身=人間)は秩序へと
収まるように自律するべきだということなのでしょうか。
対立から葛藤を経て、そして迎える自分自身の秩序という
理念のために、神さまは人間に倫理の枠を作ったのでしょうか。
そのために、神さまが倫理をこしらえたのであれば、倫理の
上に人間が立つことを、神さまは決してお許しにはならなかった
のではないかなあと私は思います。
倫理を超えて、立つのではなく、倫理の中にその人が収まる
ように生きていくことが、肝要なのではないかなあと思うのです。
これは私の、完全な神への敗北宣言ですけどね。
もちろん負けた気になって負けたから自分は負けたとは思って
ませんけどね。
(つづき)
あと、カオルさん、今度ハイデカーについて語り合いましょう。
今けっこう、性根を入れて「存在と時間」を読み進めている最中です。
なんで、あなたのハイデカーに対する意見を聞いてみたいなあと
思っています。どこに共感するのかとか、こういう風に自分は読んだとか、
そういう話が聞きたいです。
ちなみに自分は、ゆっくりと真剣に読んでいて、本当にハイデカーに
なったかのような錯覚を覚えております。こういう思いこみは私はわりと
強いのです(w
難解な言葉に囚われないように、その著者を俯瞰しながら、読み進めて
います。今、第一部 一章の最初のあたりまで来ました。
もちろん、著書全体を俯瞰する眼は、まだまだありえないけれど、
(たぶんそれが見えてしまうと自分が神さま(ハイデカー本人)になって
しまうような気がしますが) どのようにこの人は思いながら書いているの
だろうか? この人は次に何について書くのだろうということが、わりと想像
できるようになりました。問題意識が彼と重なる部分がわりと多いのかも
しれません。
自分は何がいいたいのかよくわからないけど、まあそんな感じです。
カオルさん、お体には充分、気をつけてください。それでは。
>>637(カオルさん)
んーと…(苦笑)
納得出来ないのは勝手だけどねー。
前に『言葉では限界がある』って言わなかったっけ?
言葉を使用するって言うのは、結局は『根本に二元相対を持ってくる』という事。
そういう『言葉を使用した二元相対』を『まず離れる』事が【溶死悟】なんだよ。
>正誤、真偽、善悪を「判断」するには、人間の「言語」能力が必須です。
>人間の精神は、言語なしには考えられないし
ここら辺が『言語』の限界だね。
>「生」そのものと「一体」になるというのは
おいおい。
何を勝手な解釈をしてるの?
一体になる対象は『【生】そのもの』じゃなくて『【世界】そのもの』なの。
だから『【我】と【他】の二元相対が無意味に成る』訳だ。
(【我】と【他】がなくなる訳ではない。依然として在るが、最早それは無意味に成る)
そして『彼』は『【死】に溶け込んでいる』んだよ。
もう『彼』にとっては『【生】と【死】の二元相対も無意味に成る』訳。
(注意は同上)
>一匹の虫の生の原理とまったく同じ。
前半は違うけど後半はその通り。
一匹の猫、一匹の虫、一本の樹になる。
名も無き【そのもの】に成る。
それが【溶死悟】だよ。
>>630(624さん)
>ぶっちゃけ、悟るとどうなるのですか?
ぶっちゃけ『役立たず』に成る(苦笑)
『漂うように、無為自然に生きる』だけ。
そして『自分独りが【楽】に成る』っていうだけだよ。
後は
>>540の【溶死後】とか
>>656を見たらいいでしょう。
大体語り尽したんじゃないかな?
>>645(k)
相変わらずの馬鹿だね。
普通に『臨死体験』すれば。
『私はまだ生きている。いける。やれる。出来るんだ』と『生命執着が強固に成る』だけ。
んでもって『世間の価値基準』が『霊界やら魂やら神やらにシフトする』だけ。
私が言うのは物理的な【死】じゃない。
精神的な、【我】の【死】だ。
まぁ、お前さんにゃあ理解出来ないだろうが。
まだあんなスレをやってるようじゃ。
精々【留生悟】(
>>539-540)でも極めてな。
みんなは何故悟りたいの?教えて
>>657 ハルカさんはそうなった事があるんですか?
俺は近いことになった事があります。
まあでも【我】は消えてないかな。
相変わらずと言うことは私が誰かわかるのかな。w
しかし物騒なものを求めてるね。
ハルカは悟りたいの? 悟ってないんでしょう?
でも要するに
グランドイメージとしては
留生梧=生きながらにして快をコントロール可能【オウム的】
容死梧=廃人にして快のみあり
>>659 悟りたいと言うのは楽したいから。【苦しいのはイヤ】
俺がここにいるのはここにいる連中がエーテルを求めてるから
>>660 時折『成る』。
私の場合、何か【我】が明滅してるようだから。
【我】が点けば『こっち』に戻るし。
【我】が消え(若しくは薄まれ)ば『成る』し。
さとりに、生も、死も、ないよ、
おなじ 地平に 立つもの同士だよ。
肩を組んで、踊ってるもの同士だ。
楽しい ばかりで、笑い 転げて、歌いまくってる、それが、さとり、だ。
何ものも、区別しない、ことだね。
人生余裕だな。悟ったら。勝ち組みに違いない。
ウラヤマシー!
>>666 その『言葉だけ平等主義』は何とかならんか?
論点が全く違う上に、物凄く『臭い』んだが。
>>667 勝ちも負けもない。
でも、強いて言うなら『負け組』かな(苦笑)
何故なら『【悟り】は社会の発展には無益』だ。
『【悟り】は欲望の達成には無益』だ。
『【悟り】は人間関係には無益』だ。
>>668 ハルカさん
>
>>666 > その『言葉だけ平等主義』は何とかならんか? 論点が全く違う上に、物凄く『臭い』んだが。
悟る、
それは、平等、と言う事。
同じだ と見ることだよ。
>>670 >悟る、
>それは、平等、と言う事。
>同じだ と見ることだよ。
その通りですね。
色即是空空即是色、また、
不二といい、一如といわれるように、
二つに分かれる以前のところを見ていなければ
悟りとは言えないと思います。
なぜならば、分けることによって
かならず囚われが生じてしまうからです。
ハルカさんは分けるのがお好きなようですが、
悟りの見方は、あは氏のおっしゃる通り、
生即死ですね。
生に囚われ(こだわり)、あるいは死に囚われて
いたのでは、悟りからは遠いでしょう。
ハルカよ、
悟って体大丈夫? 相当やばくない? それって
>>669 安心して死ねるという心理状態は立派な勝ち組みだと思うよ。
動揺や不安もなくなるわけだから
恐いものがなくなるんでしょ?
(違うのかな?)
ハルカ。悟ったのって【溶死悟】それとも生きてる奴?
675 :
チャナソンクラン:04/07/09 14:20
悟りもただの名前です。
名前を増やしてもしょうがないです。
ハルカさんはいい線行っているように見えますがパラノイアですね。
これからぼくはk2と名乗ろう。悟ってみたいが負け組か?
677 :
考える名無しさん:04/07/09 16:47
ハルカさん、教えてください。
人生(命)とは意義があるのですか?
無から生まれてきた我々存在は意味があるんでしょうか?
未来は決定しているものなんでしょうか?
意識が物質を顕現させているのなら肉体(脳)の死後自我はなくなるのでしょう?
個々の意識が融合すれば自分はどうなるのだろう?
私たちは永遠に同じことのループをしているような恐怖に感ずるときが
あるが、どうなんだろう?
悟りを得たいとは思うが、非常に恐ろしく思う。なんでだろう?
孤独感を感じてしまう。
私たちの肉体の細胞や形作っている物質から見れば私の意識は
それらにとって神のようなものと言えないか?
簡潔にでも良いので答えてもらえませんか?
別のレベルに行きたいのです。
ハルカの悟りのモデルには2種類ある
【留生悟】はコントロール系だ。ハルカ自我モデルは吉外の僕には
受け入れられないが(さんざん生理的他律的な状況を経験しているので)
そこに何らかのコントロールを見つけることはおかしくないと思う。
【溶死悟】は他律系だ。ただ本当に死んだわけじゃない。そう言ったらおばか
なのか?
出来たらレスくれ。
679 :
考える名無しさん:04/07/09 20:44
自分が神様と思っている絶対的な存在が実は自分自身であり、逆に
自分の体の中にミクロな世界で自分が存在しているのではないか?
合わせ鏡のように無限に自分が存在しているのではないか?
全ての謎は自らにあるというではないか。
永遠のループは地獄である。しかし、睡眠があるという事実が
私を救う。思考は止められるのだ。しかし、必ず目覚めてしまうが。
ループに陥ったら止める手段はあるのか?自己を消滅させることは
できるのか?永遠のループ、(永遠とはいわなくともかなり永く)のなかに存在していると悟ってしまうのは
危険だなあ。。知らぬが仏か。そもそも時なんぞあるのか?
>>673 >安心して死ねるという心理状態は立派な勝ち組みだと思うよ。
勝ち組み、なのかねぇ(苦笑)
にしても『何に対しての勝ち組み』なのだろうか?
そういう『勝ち負け』ではないが、強いて言えば…と言ったはずだが。
>動揺や不安もなくなるわけだから
>恐いものがなくなるんでしょ?
>(違うのかな?)
『恐いものがなくなる』のじゃなくて『必要以上に恐がらなくなる』だけ。
だから、自分から危険に飛び込んで行ったりはしない。
…そりゃそうだ!
無鉄砲になる訳じゃないんだから。
『恐れ』というのは『何かへの執着の反動として発生』するものだ。
【生】への執着、【価値観】への執着、【社会】への執着、【物質】への執着…
それらの執着物を『外部の影響から守ろう』という『保守欲求』が『恐れ』だ。
何もかも失った者に、何か『守るべきもの』が在るか?
そういう事だ。
>>680 ありがとう。
しかし俺みたいな凡人も悟ることなんて可能なのかなと思った。
執着しちゃうな。いろんなことに。自分が傷つきたくないて思てしまうよ。
ハルカよ例えば我が死んで、物事に自然に執着するとする。
食欲とか、性欲とかな。
それは悟りか?
>>677 よかったらsageておくれ。
メル欄に半角で sage って書けばOKだ。
リクエスト通り簡潔に。
いや、実感しない事には『御伽噺』だからさ(苦笑)
>人生(命)とは意義があるのですか?
>無から生まれてきた我々存在は意味があるんでしょうか?
人間の絶対普遍の真理という意味で言うなら『無意味というのが意義』だ。
人間『外』から言うなら『生存時の苦悩葛藤による精神稼動が意義』だ。
>未来は決定しているものなんでしょうか?
そんなん知らんし、私の知ったこっちゃない(笑)
>意識が物質を顕現させているのなら肉体(脳)の死後自我はなくなるのでしょう?
む、唯識論か?
唯識論は『ある意味で正しいがある意味で間違い』なんで…(苦笑)
それを除いても、死後の世界は『知ったこっちゃない』(笑)
>個々の意識が融合すれば自分はどうなるのだろう?
『個か全か』という【二元相対】だとそう思うね。
しかし、それは『一即全、全即一』という【二元を超えたもの】なんだ。
どんなものかは…成ってのお楽しみという事で(苦笑)
>私たちは永遠に同じことのループをしているような恐怖に感ずるときが
>あるが、どうなんだろう?
無意識の内に『輪廻という監獄に囚われた奴隷』である自分(【生命】)に気付いてるから。
>悟りを得たいとは思うが、非常に恐ろしく思う。なんでだろう?
後は死ぬだけで何の発展性も創造性もないから。
>孤独感を感じてしまう。
文脈が解らん??
>私たちの肉体の細胞や形作っている物質から見れば私の意識は
>それらにとって神のようなものと言えないか?
逆に『お荷物』でしかない(苦笑)
684 :
考える名無しさん:04/07/09 21:16
恐怖は執着だけで起こるものか。本当の恐怖とは違うと思うが。
感情に似たようなものではないのか?
どうでもいいが恐怖を取り除くのはどうすればいい?
>>678 ほぼ正解。
だが >【留生悟】はコントロール系だ。 は、ちと違う。
正確に言うならば
『絶対的他律状況にある中で、それから半ば無意識的に目を背け【自律可能】という欺瞞に落ち着く擬似コントロール系』
かな。
>【溶死悟】は他律系だ。ただ本当に死んだわけじゃない。
そうそう(拍手)
>>682 執着はせんよ。
『執着』を所有する者(【我】)がいないもの(苦笑)
ただ、肉体的欲求は出て当然。
肉体ってのは『極端に言うと』精神とは別の生物だから。
肉体存在である限り、その手の『本能』は消えないよ。
ただ【我】が無いから執着しないってだけ。
『無ければ無いでいいやぁ』となる。
>>681 『聖』も『凡』も無いんだけどね(苦笑)
ある意味で誰でも【悟れ】るよ。
本当に『【生命】が嫌になったら』こっちにどうぞ(笑)
ハルカよ、口の悪いのは許してくれ
>『絶対的他律状況にある中で、それから半ば無意識的に目
>を背け【自律可能】という欺瞞に落ち着く擬似コントロール系』
じゃ、【留生悟】って自己満足じゃん。
こういうのはどうなんだ?
ライフルで狙われているという妄想【絶対他律】のなかで
俺は窓から離れているから大丈夫と言う自己満足は【留生悟】?
689 :
考える名無しさん:04/07/09 21:28
偏桃核をとれば悟りと同じ状態になると思うのですが
>>686 むう、あくまでも、精神的な【我】からでるものが執着、
それ以外の肉体的欲求とは分かれているんだな。
では、悟りとは主観的(と言うか主観を持つ【我】がないから、
主体的?)というべきものなんだな。
例えば執着から出る食欲でも、肉体的欲望からでる食欲でも
食べられる魚【客体】から見れば同じだからな。
>>688 >口の悪いのは許してくれ
OKOK。
私も悪いからお互い様だ(笑)
>じゃ、【留生悟】って自己満足じゃん。
その通り!
『自己満足の究極の形』とでも言おうか。
『世間や社会の中で自己の対外的価値を高め【二元相対】の世界に留まり、その価値の上位を目指す事』
って言い換えてもいいね。
>ライフルで狙われているという妄想【絶対他律】のなかで
>俺は窓から離れているから大丈夫と言う自己満足は【留生悟】?
それもある意味【留生悟】だよ、間違いじゃない(笑)
ただ、問題にしている【留生悟】は『己の生存がより容易になる様にする技術』だから。
ちょっと微妙、かなぁ…(苦笑)
692 :
考える名無しさん:04/07/09 21:34
深淵なり。
極端にいって精神とは物質の変容または物質そのものではないのですか?
物質以外のものがこの世界にあるのか?
私が私を意識できるのは脳そのものが意識体といっていいんでしょうか?
意識の変化体がよくいわれる霊というものか?
神はただ一つなのか?その一つである神との合一は他者がいないので
寂しくならないか?私たちは神の一部分といわれている?が
なぜ合一を求めるのか?それが幸せなのか?
。。。結局はそうやって何だかんだ言うのが
どうでも良くなったらそれで悟ってるって事なんじゃないの?
いつまでも考え込んでるのってあんまり進歩がないです。
>>692 …何故にageる?
頼むからsageておくれ。
そしたら答えるから。
メル欄に半角で sage と書いておくれ。
申し訳ない。2チャンネルというものは初心者でよく分からないのです。
sageとかageとかもよく分からない。
これで良いんだろうか?
あなたの思想を知りたい。本なんか読めば分かります?
696 :
ハルカ ◆xj.rC2FmTM :04/07/09 21:45
>>695 __,, , , , _ 、 ,,, ... ,, _ ..,_
ー=、 、ー-、`ヽ、、ヽ`!i' , ,i",r'",-'"=ミ
`ヽ`ヾ`、 ! ヽ ! l! i! !_i_/_<'ヽ``
,.‐' ´ `‐.、
./ \
,i ヽ
./ ,...,.,,,,) ( i、
,i _'ー‐'ノ゙`セ'}〕 l
| |
l ,--'""ヽ l
. ゙i //二二ノ""^ソ i
ヽ ヘ`\┼┼┼ ,!ヽ / そうかな?
\ \"ヽ-;:,,,,,,ノ /' /
`‐.、 \,,,,,__,,,ノ .‐'´
`:‐.、. _ -‐''"
:人 `ー――''''' / ヽ
l ,--'""ヽ l
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ヽ ヘ`\┼┼┼ ,!ヽ /そろそろ勝利宣言してもよかですか?
\ \"ヽ-;:,,,,,,ノ /' /
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l ,--'""ヽ l
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ヽ ヘ`\┼┼┼ ,!ヽ /そろそろ勝利宣言してもよかですか?
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ヽ ヘ`\┼┼┼ ,!ヽ /そろそろ勝利宣言してもよかですか?
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ヽ ヘ`\┼┼┼ ,!ヽ /そろそろ勝利宣言してもよかですか?
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>>691 レスありがとう。
ライフルの件は【留生悟】といってもいいだろうな。
何故なら、その本人の中では確実に生きやすくなっているのだから。
ハルカよ
>『世間や社会の中で自己の対外的価値を高め【二元相対】
>の世界に留まり、その価値の上位を目指す事』
の【二元相対】の意味が良くつかめないんだが、おぬし
の前のレスから見て「言葉」のことか?
>>695 んー、惜しい(笑)
『半角で sage と書く』のだよ。
大文字じゃない事に注意。
よろしくお願いしますね。
>>698 【二元相対】ってのは簡単に至極単純化して言えば【比較】の事。
『あれは良いこれは悪い』『あれが好きこれは嫌い』『あっちが優れてるこっちは劣ってる』などなど…
そういう『全ての事象を二元に分類してから比較をする』事だよ。
勿論『言語』もそう。
『言語化』=『ラベリング』の時点で必然的に『比較』が発生する。
それは『言語』の持つ『根本性質』なんだよ。
>>701 ありがとう。よくわかったよ。
んーハルカよ。今日最後の質問。
君はどちらかというと【溶死悟】の方を、【留生悟】のほう
を上に見ていないか?
それとも悟っているのだから【二元相対】たる比較などもは
や無い?
すまん。間違えた。
君はどちらかというと【溶死悟】の方を、【留生悟】のほう
より上に見ていないか?
>>700 んでは
>>692に。
>極端にいって精神とは物質の変容または物質そのものではないのですか?
人間の【自我】に限って言えば【物資】に巣食う寄生虫です(苦笑)
>物質以外のものがこの世界にあるのか?
構成物質の違いだけで【精神】も【物質】の一形態。
だから、極論では『この世に在るものは全て【物質】と言って過言ではない』となる。
>私が私を意識できるのは脳そのものが意識体といっていいんでしょうか?
>意識の変化体がよくいわれる霊というものか?
脳は【意識】というソフトウェアを現前させる為の表示デバイス。
言ってみれば『モニター』のようなもの。
意識本体は『別の箇所』にある。
『霊』は【意識】が『構成物質の異なる肉体を纏ったもの』であり、所詮『構成が違うだけの人間』だ。
>神はただ一つなのか?その一つである神との合一は他者がいないので
>寂しくならないか?私たちは神の一部分といわれている?が
>なぜ合一を求めるのか?それが幸せなのか?
神…人格的な唯一神も『生存レベルが異なるだけの【生命】体』。
奴らも『【死】ぬ』し『生存の為に稼動して』いる。
合一するのは『そいつら』じゃないよ。
>>703 どっちが上も下も無い。
この世で心地良く生きていたいなら【留生悟】を目指せばいい。
【生命】として生きるのに飽き飽きしてきてるなら【溶死悟】を目指せばいい。
(実は『目指す』ってのは間違ってるんだけど…)
どっちもどっち。
すまん、嘘をついた、どうしても聞いておきたいからもう一つ
>(実は『目指す』ってのは間違ってるんだけど…)
ってどういうこと? 向こうから訪れるっていうことなのか?
>>704訂正
× 【物資】に巣食う〜
○ 【物質】に巣食う〜
>>706 『欲しい欲しい』と要求していたら駄目だって事。
最初は『欲しい欲しい』でいいが、途中からはその欲望さえ邪魔になる。
…あ、これは【溶死悟】の話。
【留生悟】は『目指す』で合ってるんだよ。
どーぞ、頑張って『技術』を磨いておくんなさい(苦笑)
ハルカへ
質問タイムはおわり、じゃ感想書くね。
ぶっちゃっけ【留生悟】はなんかただの生存スキルって感じで、なんか魅かれなかった。
それならば悟って無くても同じ、日常生活を生きやすくする生活の知恵と変わらない気がする。
でも、【溶死悟】は魅かれるものを感じる。本当は死んでもいないけど、なんかただよっている。
自分にはこっちのほうが合う気がした。
脳の別にあるとはどこに?
それは俗に言う魂なのか?
霊も人間。確かに形は違えどそうですね。霊または魂は永久なのだろうか?
自我は受け継がない?
そいつら というのが分からない。ブラフマンも消滅するのか?
宇宙の創造主は宇宙以外に在るのか?宇宙が自らを創ったのではないのか?
悶々とした揺らぎに私は還っていくのだろうか。
オカルト的な質問ですみません。
人生がゲームだとしたら、こういうことを求めていくのが
わたしにとってのゲームなものですから、今時点で。
711 :
考える名無しさん:04/07/09 22:38
仏教の悟りは、どちらかといえば
【溶死悟】^^; に近いよ。
【留生悟】なんてないんじゃない?
たぶん禅とかの自力道を連想してるんだろうけど
自力といっても、結局は他力なのさ。
仏教の基本は諸法無我。
我を捨てるんじゃない。
我はもともとないの。
それに気づくのが悟りだよ。
ペルソナとは惨めなものだな
>>710 例え話。
***************
ある化学者が画期的な培地を造った。
『この培地はな、化学反応を異常促進させるんだ!』
『へー。それで?』
『だから、この中に一つだけ細菌を入れておけば数日後には異常繁殖してるって寸法さ!』
『ほーう…』
『それだけじゃない。未知の細菌なども誕生するかも知れない!』
『本当だったら凄いなぁ。俺たちの研究に大いに役立つじゃないか』
『だろ?』
とある宇宙のとある惑星のとある実験室での話。
その培地の名は【地球】と言いましたとさ。
***************
715 :
考える名無しさん:04/07/09 22:54
>>713 はぁ ?
「居る」と「我」がどういう関係があるんだい ?
果たしてオウム(アーレフ)の教義は完璧か?25
http://life6.2ch.net/test/read.cgi/psy/1088337729/ に書いたレスより引用。
670 名前:名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/07/07(水) 21:08 ID:pilzW6fB
>>599>>601>>602 …ちゃんと【真我】を調べてから書こうね。
そもそも【無我】ではなく【非我】と言ったのは『仏教では【我】そのものは否定していない』から。
だから『【我】が【無】い』ではなく『【真我】に【非】ず』なの。
【真我】というのは、ヨーガでは『永遠不変の実体』とされている。
『純粋たる観照者』であると。
『純粋観照者』なのはいい(仏教でいう【空】もタオでいう【道】も之)。
だが、それは『名も無き者』であるからこそ、最早『私ではない』んだ。
(ここで【真】の【我(私)】は否定される)
それにこの『観照者』は『永遠不変』ではない。
そういう意味で『【真我】に【非】ず』=【非我】と言ってるの。
つまり。
仏教では『【我】そのものを否定してるんじゃない』んだよ。
確かに【我】を肯定するのだが『【真我】とされる永遠不変の観照者を否定してる』んだ。
解ったかい、坊や達?
671 名前:ハルカ ◆0tZOcyVq86 [sage] 投稿日:04/07/07(水) 21:08 ID:pilzW6fB
>>670は私です。
名無し失礼。
これで解るかな?
718 :
考える名無しさん:04/07/09 23:02
719 :
考える名無しさん:04/07/09 23:05
諸法無我という仏教の根本思想も知らないのかなぁ、君たちは
720 :
考える名無しさん:04/07/09 23:09
>>719 と言いながら教えることすらできない知ったかぶり
721 :
考える名無しさん:04/07/09 23:15
>>720 三宝印の一つなんだから自分で調べればすぐわかるんだけどね
「あらゆる事物には、永遠・不変な本性である我(が)がないということ。」〔大辞林〕
722 :
考える名無しさん:04/07/09 23:20
シッタカブリ ニモ ナッテナイ… (ノ_ _)ノ
723 :
考える名無しさん:04/07/09 23:21
724 :
考える名無しさん:04/07/09 23:25
>>723 わかりません、が言えないか…ぶははははははははは♪
尻尾だしまくりの狸さんたちだな。
いいか全体で見れば確かに我は無い。しかし個別に見れば我はある。
ここでいう我とは自我のことな。
726 :
考える名無しさん:04/07/09 23:32
>>725 自我はもともとないということと
諸法無我は、同じことなの。
つまり、君が「個別に見れば我はある」と思っているのは
もともと無いものを、あると思っているに過ぎないということ。
全体システム的にいえば、世界そのもので言えば我などただの一部
にすぎない、それは他のシステムによってたつものであり、この視点
で見れば自我はない。しかし、公開手も自由にレスを返さないお前ら
と言う存在は確かに存在する。だから自我が在るのか無いのかとは
視座の問題に過ぎない。そして対極的な視座は時に人生にはまるで
役に立たない。そもそも釈迦など、全世界の民を救うといって、救
えなかった愚か者ではないか? そんなものの言う事を聞いて何に
なろう。
>>726 では聞くがお前がレスをしてお前の自由にレスを返さない俺は何だ?
俺は釈迦の視座は認めている。確かに自我が見えなくなる視座は存在
する。しかし、今ここでそんな事がお前の役に立つか?
誤字だらけだ許せ。
730 :
考える名無しさん:04/07/09 23:39
>>728 いいたいことが、よくわからんが、
悟りは視座に還元されるものではないでしょう?
視座ということをいいだしたら、
悟りなんて、ナンセンスだよね。
>>730 よくわからないという事がお前の限界を示しているのではないか?
それこそがお前の言う無我の限界だ。何の役にも立たん。
その限界の集合が我として現れる事を理解せよ。それが我の視座だ。
我にも見え、無我にも見える、ただそのことがあるだけではないのか?
それに悟りなぞナンセンスなものだ。
言ってしまえば。
『諸法無我』という言葉に拘っている時点で違うよ。
それに『諸法無我』の解釈も違う。
『永遠不変の実体が無い』と言うだけで『人間の【我】の有無』には言及してない。
【我】はね。
『有る』と言っても間違いだし『無い』と言っても間違いだよ。
例えば無我の視座は遠景の山に似ている。人は自由に景色を楽しむ。
だが我の視座は山の中だ。人は苦しんでそこを登らねばならない。
このこと一極が有るわけにあらず。ただ、境地が並存するのみ。
734 :
考える名無しさん:04/07/09 23:49
>>731 わからないと婉曲に言ったんだけど
はっきりいっちゃえば、君は「我がある」という前提でしか
考えていないから、諸法無我ということが理解できないわけで、
個別的我の視座から考えようとするということだね。
まぁ、それも一つの視座として私は認めますがね。
735 :
考える名無しさん:04/07/09 23:52
>>732 >【我】はね。 『有る』と言っても間違いだし『無い』と言っても間違いだよ。
諸法無我は「諸法」だからね。すべてのものにあてはまるの。
>>734 よくレスが読めていないようだが、俺は我ああるときと無いときがある。
それは視座の問題だといっている。諸法無我を理解しないわけではなく
それ以上を理解しているのみ。両方の視座があるということ。
その意味ではハルカが
>【我】はね。
>『有る』と言っても間違いだし『無い』と言っても間違いだよ。
と言うのは誠に正しい。
737 :
考える名無しさん:04/07/09 23:55
ネムイ
738 :
考える名無しさん:04/07/09 23:58
>>736 我があると考えることはもちろんできるし、
普通の人はそう考えてるの。
でも、仏教ではそういう考え方は、悟りとは
縁遠い、迷いであるとされるわけ。
>>736 では仏教のほうこそ悟ってない。遠景の山を眺めるのは易し、
実際に山に登るのは難し。
>>738 そういう『言葉の解釈に拘っているお猿さん』には百杖だな。
(百杖:ひゃくじょう … 杖で百回打ち据える事)
『ならば、この痛みを感じているのは【誰】だ?【我】がいないのなら【誰】が感じている?それとも【我】はいないのだから、この痛みは【幻】とでも言うつもりか?』
という言葉と共にね。
741 :
考える名無しさん:04/07/10 00:09
>>740 >『ならば、この痛みを感じているのは【誰】だ?』
そういう疑問に逐一「私だ」「私だ」と答えるところに
すでに我執が生じているわけですな
根本的には、「誰だ」という問いをすること自体がね。
しかし、我の世界に入れば、そこではハルカのいう【留生悟】のような
生存スキルの競争になる。
当然【溶死悟】のようなものの需要も出てくる。
でも死にながら生きるとは誠に難い道だと言わねばならない。
俺も求めると求めざるにしろ【留生悟】を生きざるをえない。
人生とはそう言うもの。
>>741 お前さん、もう百杖追加だ。
『この痛みは【幻】か?【幻】と言うならば一切の弱音を吐くな。血が吹き出て歯が折れても文句を言うな。何せ【幻】なのだからな』
と言ってやろう。
我に生きること難し、我を消す事難し。
745 :
考える名無しさん:04/07/10 00:18
>>742 悟りが技術だというのは、とうてい納得できないね
方便としてならわかるけどね
746 :
考える名無しさん:04/07/10 00:21
>>743 問い自体がわるいのだと言ってるのに。
そういう問いも、自我がもともと無であることに気づくための
方便としての価値は認めるがね。
>>746 そういう『【我】は無い』と言う言葉に『固執しているのは【誰】か』と聞いておるんだ。
この戯けが!!
>>745 納得できないならせんでよし、もともと無我だけを追い求めるお前
には理解できまい。
日が変わったからハルカにもう一度質問しようか?
【溶死悟】って始めはどこから入って、
どういう風に求めなくてもやってくるようになるわけ?
750 :
考える名無しさん:04/07/10 00:28
751 :
考える名無しさん:04/07/10 00:29
>>748 >『固執しているのは【誰】か』
問い自体がわるいと言ってるのに。
何回言わせる ??
752 :
Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :04/07/10 00:31
「問い自体がわるい」自体に固執してるのは誰だ?
753 :
考える名無しさん:04/07/10 00:31
>>749 無我を追い求めるんじゃないよ。
もともと無我なの。
それが諸法無我。
何回言わせる ??
754 :
考える名無しさん:04/07/10 00:33
>>752 >「問い自体がわるい」自体に固執してるのは誰だ?
さて、誰ですか ??
>>750 ほーう。
その『技術』を追い求めてるんじゃないのかね?
やれ『こっちの師の方が境涯が深い』だの『どこぞの師は野狐だ』だのと『比較』しておるだろう?
【悟れ】ば『何か常人よりも優れる』と思っておるのだろう?
【悟り】を『新しい価値観』だの『大いなる救い』だのと思っておるのだろう?
まぁ、あんたの事は知らんがな。
今まで話してきた大抵の『自称修行者』はそうであったが?
757 :
考える名無しさん:04/07/10 00:36
>>755 >やれ『こっちの師の方が境涯が深い』だの『どこぞの師は野狐だ』だのと『比較』しておるだろう?
そんなレベルでは、もちろん仏教の悟りからは縁遠いよ。
>>753 その割には良く喋る。この尾俺の出来ない限界、これこそが
我ではないのか?
くだらない、無我とはこのスレ自体を見るようなことだよ。
それがわからんかね?
そして我とは一つ一つのレスだ。
何でこっちの板で『あっちの板の様な振る舞い』をしなくちゃならんのだ…
ったく…
ハルカよ無駄だよ。もぐらたたきだから。
それより、いつでもいいから
【溶死悟】についてもっと教えておくれ。
何いってるんだ、君たちは? 我なんか在るはずないじゃないか。
そもそもが無我なの。当たり前じゃないか。何いってるんだ。
763 :
考える名無しさん:04/07/10 01:08
なにかを得て悟るわけじゃない
『一切衆生悉有仏性』なんだから。
ただ、ゆがんだ見方をしないようにすればいいだけだよ
765 :
考える名無しさん:04/07/10 01:13
>>765 いつでも感謝の心を忘れぬように。久立珍重。
767 :
考える名無しさん:04/07/10 01:22
生かされて生きていることに、感謝。
たしかに、【溶死悟】というのの方が、仏教の悟りに近いようですね。
禅では「大死一番 絶後蘇息」などと言いますし、十牛図の第八図は
「死」を表しているとも言われます。
さて、皆さん寝る時間だ。
931 名前: ハルカ ◆xj.rC2FmTM [age] 投稿日: 04/07/09 21:52
m n _∩ ∩_ n m
⊂二⌒ __) /\___/ヽ ( _⌒二⊃
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\ \ |(●), 、(●)、.:| / /
\ \| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::|/ /
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\\ |,r-r-| .::::://さあ、どうかな?
\`ー`ニニ´‐―´/
/ ・ 人 ・ /
/ 三 三 /
771 :
あっちの566:04/07/10 04:26
>>760 おいハルカ、君がやり合ってた名無し君はわしじゃないからな。
飲んで帰れば、こっちは大繁盛だな〜。
一通り読ませてもらったけど、お勤めご苦労さまです。
わしとのチャンバラと同じで、名無しもK2も君も、
同じものを別の角度から述べているだけじゃないのかな。
説亦無盡、各自著力、珍重。
おっ、そうだその【溶死悟】ってのわしももちょっと聞いてみたい。
聞いたことない言葉だしな、それ君の造語なのか?
772 :
考える名無しさん:04/07/10 04:28
>最近新鮮で端麗なうーんガンダム 投稿者:ふま萌え 投稿日:2004/07/08(木)18時59分15秒 ■ ★ ◆
> > id:onigirinonotanもいじめてやったらid:guideや今漏れが無視してハミゴにしてる
> > ふまさんのような立派なキチガイになるだろう
> > おいこら!ふま!、サンクスのバニラミルク早く買ってこい!
> amegriffはメディアリテラシー論を説いて!早く!
> そうしたら罵倒するから!笑い
そんな事よりエアコン壊れたよ(;´Д`)動かないよ
なんか電源のLEDがチッカチッカするだけだよ(;´Д`)暑いよ
参考:2004/07/08(木)10時56分16秒
おはよう、そろそろお目覚めの時間ですね。
言葉だらけでなに遊んでんの。
死体に鞭打って楽しいの。
言葉の上で胡坐をかいたら仏像になるの。
せいぜいがんばってね。甘えんぼちゃん。ウフ。
まあ、そういきりなさるな。朝起きて、夜寝る。それが重要だよ。
自分の中にスペースを作っておく。そうしなければ何も入らない。
そうしていきなり全てが解決されるわけではない。だから日々の
生活の中で、少しずつ自分を変えていくことくらいしか出来ない。
俺は悟りについてだけいっているのでもないよ。文学を書くのも
、経済学を勉強するのも、風俗を変えようというのもみなそう。
一度に成果は来ない。
又それを続けていけるとは限らない。でも、今できることはやると
いうこと。そのために自分にスペースを常にあける努力をすること
、そして毎日の一日をきっちり生きていくこと。これが大事。
この自分にスペースを作るというのが難しい。自分はいつも自分の考えで
埋まってしまう。寝るときはその冷えた知識がなかなか寝させてくれない。
自分の中にスペースを作る事が容易ならば悟りは、どんなにやさしかろうか?
スペースを作るには、坐禅でもすればいいんじゃない?
最後に【苦】を消したければ死ねばいいだけのこと。又死ねば【苦】は、
終わるのだから、【苦】については解決策がでている。
だから問題は【苦】ではない。釈迦が輪廻を説いたのは、彼は昔の無知蒙昧
の人間だったからこそ。現代では死はただの無への回帰をもたらす
【個人的には】
>>778 釈迦は、死後の世界に関しては、認識できない(無記)という
立場だったのではないでしょうか?
輪廻は仏教思想ではなくて、インドに古くから伝わる信仰でしょう。
>>777 大当たりですね。でも時間の問題がある。座禅をして10分でスペースが生まれ
ればいいけど、果たしてそんなにうまく行くか?
さて、【苦】については考えたように見える。しかしこれは一つの解決策でしか
なく実際には困難である。それに、問題は【苦】ではない。問題は【生】と
いうこの奇妙なできごと。それは山の中を歩くに似ている。諸法無我など
といって、自我を消し去ったような、状況でボーっとしていられるほど、
人生は楽ではない。だから人は山の中を歩き、自分の限界を知り、その限界
から【自我】を感じねばならない。その【生】の中で生まれる様々な問題、
それを解決する事が問題であり、悟りである。しかし悟りは本来ナンセンス
な問題で、一部の人にしか来ない。
>座禅をして10分でスペースが生まれ
>ればいいけど、果たしてそんなにうまく行くか?
それはなんとも言えないでしょう。
人生は、自分の力だけでは、どうしようもないことがほとんどですよ。
人事を尽くして天命を待つしかないんですよね。
>>779 確かにそうですね。しかし彼は涅槃寂静も説いてしまっている。
これは全ての輪廻転生から解き放たれること。無記の立場とは
矛盾が出ます。もともと彼は方便の人だから矛盾が出て当然で
しょう。
さて、【生】が問題なら、そこには当然【苦】が又でてくる、
死ねばイイと言う解決策はある。しかしそれはおかしい、もはや問題は
【苦】ではなく【生】なのだから、【生きるために】我々は何かを
しなければならない。【苦】はもはや副次的な問題である。
>【苦】はもはや副次的な問題である
仏教でも、苦からの解脱が中心にはなっていないと思います。
我執によって生じる苦は、なくなったほうが良い。
でも、それでも苦が全くなくなるわけではないから、
その苦を、苦として、あるがままに見、あるがままに受け入れていこう
というのが、仏教の考え方だと思います。
では【生】とはなにか? 【生】とは価値や言葉より前にある【存在】
である。我々は動物として、産まれ、数々のライフイベントを行い、
種を残して、又死んでいく。これはもはや決められた【運命】である。
だがしかし、このようにうまく行く人生ばかりではない、時には病気に
なたり、うまく生きれない人間がでてくる。彼らを救ううにはそれなりの
【装置】が必要だ。この恩恵がうまく行けば問題はない。しかし、
うまく行かない。ではどうするか?
【装置】?
>>783 そうですね。でもそうすると結局物事は【生】の問題に戻ってしまった
ということではないでしょうか?
だから私は普通は【留生悟】の世界に生きている。よりよき職をもとめ、
よりよき色をもとめ、よりよき食を求め。よりよき文学を求め、よりよき
共産主義社会を求め、よりよき・・・うんぬん、
だけどもそう言うのは時にすごく疲れる。だから【溶死悟】などがあるとな
ると、それを知りたくなる。私の【溶死悟】への需要はそういうものだ。
>そうですね。でもそうすると結局物事は【生】の問題に戻ってしまった
>ということではないでしょうか?
どういう方向に人事を尽くすかの問題です。
よりよき○○を求めるという、欲望増大の方向へ人事を尽くすのかどうか・・・
>>785 例えば、あなたの言う仏教や、社会福祉政策なども【装置】の一部でしょう。
それに様々なスポーツ・文化・遊び、人がライフイベントだけでは生きていけ
ないからそれを【補完】する【装置】が必要なんです。
システムということなら、
完璧なシステムなどはあり得ないのだから
そういう完璧なシステムのようなものは想定しないほうがいいでしょうね。
いまよりちょっとは「ましな」システムを模索するしかないのではないでしょうか。
>>787 確かにそうですね。私は仕事である研修にでましたが、そこで求められて
いる自己啓発は発展、更なる欲望の増大なんです。それではいけないと思った。
私たちはもっと死ぬ事も学ばなければならないんです。
>私たちはもっと死ぬ事も学ばなければならないんです。
現代文明は死を切り捨てた生存にだけ価値を置く文明だったのだと思います。
(梅原猛がそう言ってます。あまり好きじゃない人ですが、その点については全く同感)
>>789 しかし、そのマシなシステムと言うこと自体が怪しい。
そこは自明じゃないんです。だからみんな苦しんでる。経済なんか
特にそうでしょう。
システムは終わるときもあるし、死についてもっと考なければならない。
さて、話は長くなりますが【生】が有れば【死】もある。これは【生】
の一部(種族としてみれば)何ですが、いずれにせよいずれは自分は
【死】ぬんだとおもって、【死】に対して準備しなければいけない、
これもさっき言った【ライフイベント】の一環です。しかしもちろん
そこから落ちこぼれる者はいるので【ライフイベント補完装置】が
必要です。でも【死】について考えれば我々【人類】にもいずれ【死】
があるんですね。現在の宇宙論だとどう考えても人間の生きていく余地
は無い。だから人類は自らの【死】についても備えなければならないと
思うんです。
>死についてもっと考なければならない。
それはもちろん。
それを考えるために哲学も宗教も始まったと言えるんじゃないでしょうか。
だからといって、私に何かできるわけじゃない。お昼にしましょうか。
人間食べる事も大事だ。
ただ、死について考えることは重要ではあるけれど
死後の世界とかいう方向に考えが行ってしまうと危ないですね。
そうなってしまうと、そういう認識不可能な問題について、独断的に断言してしまう人が出てくる。
死というものを特別なものと考えすぎることからくる危険ですね。
諸行無常。生あるものはすべて死す。
そのことを、あるがままに見て、あるがままに受け入れられるような方向に
考えるのが良いと思います。
久しぶりに来たら、カキコするメンバーも内容も変わってスレは大変身だね。
全部読むのと大変なので、手近なところから・・・
>>786 K2さん
【留生悟】(おそらくハルカ氏の造語)は、よりよき生き方を得ているのであって、
それ以外の「よりよき職をもとめ、 よりよき・・・」などのよりよき云々を求めているのではないのですよ。
よりよき職を求めることもできるし、それに拘らないこともできる。
つまり、こだわりから自由なんですよ。
何か出来事が起こったとする。
その出来事に対して、怒ることもできるし、悲しむこともできるし、喜ぶこともできる
つまり選択できるしそれに拘らないこともできる。
執着を認識しつつ、そこから自由でもある。
それが【留生悟】のことです。
一方、テクニックとかコントロールという言葉が出てくるのは、
心を深く覗きこむ事によって解明した一種のコツのようなものだからです。
>>796 外部を求めるのではなく、内部の価値判断に留まるという事ですか?
【留生悟】というのは。
ではわたしのは【生存スキルの外部への発展】とでも名付けておきますか。
>>796 >つまり選択できるしそれに拘らないこともできる。
>執着を認識しつつ、そこから自由でもある。
>それが【留生悟】のことです。
執着も、執着からの自由も、人それぞれで、程度問題です。
完全な執着も完全な自由もないわけですから。
そういう意味では、悟っていると言えばみんな悟っているし
悟っていないと言えば、誰も悟っていない。
そういうものでしょう。
だから、○○悟とは、こういうものだ、と定義づけることには
あまり意味がないのではないかと思います。
うーんこれはハルカ用語だからねえ。俺も詳しくはしらないよ。
だけど彼女はなんらかの言語体系を創った事は麻痺がいない。
俺はそれに強く魅かれるんだ。
現代文明は「死を忘れた文明」(梅原猛の言葉)で、死が隠されてしまったから、
我々は、死に対する免疫みたいなものを失ってしまっているんですね。
死を自然なものとして受け入れる土壌が失われてしまった。
システムを考えるとすれば、その辺から考える必要がありますね。
理系の人に多い(怒らないで^^)ような、宗教的なものに対する免疫がない人が
信仰宗教にひっかかりやすいのと同じように、
死というものに免疫のない現代人が、死後の世界とか、死を美化した考えに
惹かれるのはわるけど、それはとても危険な傾向です。
>>797 そうでしょうか? 種としてのライフイベントの終わりに絶滅があるなら、
当然、それに備えるべき【ライフイベント側の装置】が必要でしょう。
それは別に危険な事では有りません。私はといえば生に魅かれています。
私はいくらでも生きたい。でもそれはかなわぬ事。だから自分の望む
死の形を目指してがんばる。これは死後の世界を信じないものの立場から
見れば当然の考え方です。それはとても社会的な行動で反社会的な行動
ではありません。そもそも社会がいとなまれるのも、その前に、この世の
全てとしてのライフイベントを行い種の繁栄をおこなわなければならない
【端的な運命】があるからです。
失礼
>>800 でした。
ところでここの過去ログどうやってみるの?
ギゴナビを使っても見ることが出来ない
>>652 カオルさん
>【自然】
>(1)おのずから存在してこの世界を秩序立てているもの。
>(3)〔哲〕他の力によるのではなく自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。
>と、あります。(これってそのまま「神さま」の定義に使えません?w)
はい。 ただ、おのずと存在しているか/否か、自らのうちに始源をもつか/否か
という思惟では捉えられない「そのもの」に、「自然」あるいは「(内在)神」はある
のだと思います。「わたし」の定義する、「わたし」の世界ではないところに。ボク
なりの定義は「自然」も「(内在)神」も「わたし」の世界が未だ始まらず、また、
終わるところ、と思っています。
>「人為によってその秩序が乱されれば人間と対立する存在となる。」
>で、「人間と対立」を「知性と対立」と読み替えてみたら
>人為(知性)による(生への)反乱を阻止するために本能が知性に仕掛けたワナが
>畏れとしての神さま(妄想)の、あるいは倫理の起源である。(たしかこんな風)
>という、ベルグソンの意見が思い出されました。
で、ボクからすると、すでに「わたし」は「自然」を越えていますから、好むと好ま
ざるとに関わらず、>人為によってその秩序が乱され、る関係にあると思うの
です。>本能が知性に仕掛けたワナ、というより、「自然」にぽっかり浮かぶ頼り
ない主体「わたし」の側の発する、対「自然」、対「人間」への不安が「倫理」という
バランス志向を生み出したのではないかと。「自然」も無垢としての人間の「生命」
(=本能、「自然」)も泰然としていて、「わたし」がただ暴れて(自律して)トラブルを
自作自演しているのだと思います。
「わたし」が「わたし」でいることを引き受けること(自己自律)も、「無為自然」になる
こと(悟り)も、「わたし」あっての、「わたし」の自律性に端を発しているのだと思いま
す。「わたし」にならなかった狼に育てられた少女は、言葉を話さず狼として生き、
「悟り」志向にも「自律」志向にも無縁なのですから。
>>805 >「悟り」志向にも「自律」志向にも無縁なのですから
あんたにそう見えるだけ。
姉の方は言葉も覚え、指導した学者になついた様子も見せた。
人にはいろんな可能性がある。あんたが他人をあんたのやりかたで括るのは自由だが
そいつはあんたの中での話。知りもしないことを例え話に語るんじゃなくて、あんたの言葉で
語れよ。
あんたの預り知らない奴のことをさもわかったように「わたし」にならなかったなどと
こいてる場合じゃないだろ。このスレの主としてがーんとかませよ。
>>806さん
>姉の方は言葉も覚え、
というのが言語によって対象把握できる「わたし」になる過程なのだと思います。
今マーヤーにいる中で悟ったんだが。私とはなんぞや?私とはちんこと
まんこから出来たものではないか。私は私を既に知っている。いや
私は私なのだ。私がそれを持っているではないか。ちんこを。
遺伝子を。自分で自分を創ってるではないか。
子供は自分ではない。半分は自分だが。男女の意識が融合変化して
子供になっているから私とは全然違う。
私は空想の世界で思いつくもの全てを表せる。この世は、今は、
その空想の世界を実感として、体感するために在るのかもしれない。
肉体に宿っていることもすばらしくもあるが束縛在る故
イメージの世界におった方がさらにいいかと。
しかしイメージも飽きるのでたまには実感したいと思い、
現れる。(生まれる)
そしてこんな世界(悟り)で遊ぼうよ、みんな一緒に、共有しようぜ、
そこに相対性とかはない、とにかく一人よりみんなでしたほうが
おもしろいよ、 とかおもしろくないよとか。
ハルカ様が叱責なされたりしているのもこんな理由?
違うのだったら一人で遊ぶな、混ぜてくれ(導いてください)といいたい。
この世には何もない。在るのは矛盾だけ。矛盾だらけ。
しかし、その矛盾がこの世を成している。
この矛盾の辻褄合わせを探求しようとしても無意味だ。
矛盾の上で成り立ってる世界なのだから。
他者がいないとやはり寂しい。しかし、私は空想の中で他者を
存在させれるではないか。空想の世界では全てが可能ではないか。
すばらしい。
肉体ばかりに執着していると可能性を忘れてしまいます。
しかし、空想を創っているのは肉体なのだが。矛盾してるように、
感ずる。聖なる2分法と呼んでいる方がいた。神聖なる2分法。
なぜ愛がすばらしいとか愛が全てなのか。私たちは愛から生まれてきた者で
あるからだろう。両親の愛から。そうでない人もいるとは思うが、
少なくとも私の場合そうだったのではないのだろうか?憶測なのだが。
愛から生まれてきたから愛を知り愛を求める。みんな愛から生まれた。
人類皆兄弟。
輪廻転生なんてあるのか?物質面では何かに変わるだろうが。
私も物質ではあるのだが。生まれ変わったら私が私でなくなる。
私でない者に転生したって意味がない。解らない。体感できない。
転生なんてあるとしたら私自身に、私の幻想の中に在るだけではないか。
悟りを得るためには宗教用語、専門用語、学問的知識が
必要なのか?そんな言葉で表さなくたって出来るよね?私は出来ないが。
なぜそうも難しく語るのだろう?みなさん。私にとっては難解すぎる。
考えれば解るんだろうが、なぜにややこしく語るのだ。
私も含めてみなさんに理解できるよう記してもらいたい。
理解できる人には不要となろうが。
ああ、そろそろ幻も終わりか、現実に戻ってきた。
くせにならないよう気をつけようっと。
体に悪いからね。
>>484 Sさん
>そもそも「わたし」が成立する以前の赤ちゃんは、自他が未分化な混沌状況に
>あったと想定されるのですが、自他を分化する契機は自ら発するのではなくて、
>他者(他我)との接触により否応なく引き剥がされる形になるのだと思うのです。
はい、そう思います。
>そして例えば狼に育てられた子は、狼という他者に影響されて、狼であるかの
>ように意識するようになると思うのです。
狼には、狼である「自分」を「意識」するための「自分」はないでしょう。
なぜなら、「生きている」ということと「存在している」ということの観念を
持つことができないと思うからです。
>「わたし」は「わたし」自体として「わたし」に成るのではなく、
>その成立から構成する意識内容に至るまですべて他者(他我)に拠る。
>それが内在としての他我ではないか、と思うのです。
はい、そう思います。
この場合の「内在としての他我」は、思考の形式に準拠するところの論理空間に
存在する<わたし>の一側面としての「他我」ということになるのだと思います。
>そうは言っても、他者(他我)を他者(他我)として受容するのは、
>混沌とはしていても赤ちゃんの自我の側ですから、
>先験的に他者(他我)を受容できる働きが、自我にはあるように思います。
個体としての生命として誕生してくる以上、
否応無しに身体的には自他を区別することになるでしょう。
養老さんではないですけど、生物学的には個性の根源は身体ですから。
>こうした、他者(他我)への根源的な受動性が、たとえ「わたし」が成立した後でも、
>「わたし」が独り歩きして構築した合理の底から、「わたし」を「あなた」へ応答させ
>る元となっているのではないか、と思うのです。
なるほど論理としてはストレートで理解しやすい論だと思いますし、
まちがっているとも思わないですけど、これだと応答はできても
理解するとか、わかる、ということまでは論理的に導けないですね。
けれど「わかる」ということには「意味」の理解を超えた何かが
あるように思われてなりません。単に経験による学習効果として、
あるいは、習慣の遺伝としての能力(あるとして)だけで「わかる」
ということが説明できるものなのでしょうか。
818 :
チャナソンクラン:04/07/11 01:41
>>813 >なぜそうも難しく語るのだろう?
今も迷いが多いから、もしくはセンスが悪いから。
迷いから離れてそれなりに噛み砕けた人は
自分の言葉で&簡単な言葉で語れるんじゃないの?
ブッダもすごく簡単な言葉で語っています。
ハルカさんは断言型だけど、あの人、本当は自信がないんだよ。
それかものすごく狭い世界で生きてきた人だと思う。
迷いは悟りの種だけど、人の数だけ迷いの形もあるし、
種の種類が違えば咲く悟りの花の形も違います。
分かりやすい答えは求めないで、ゆっくりゆっくり行きましょう。
自分を導けるのは、自分だけです。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る (ダンマパダ)
>>656 ハルカへ
>納得出来ないのは勝手だけどねー。
>前に『言葉では限界がある』って言わなかったっけ?
はじめにハッキリ言うね。
言葉では限界がある、に逃げるなら哲板で語る意味はまったくないです。
わたしは、まだまだ理論的に整理されていないという指摘をしているのです。
>そして【溶死悟】だ。
>これは『我』を死滅させた後に世界に戻ってきた結果として現れるものだ。
(
>>540)
ハルカは、『我』(個体化の原理)に「生命種」も仮定しているのだから、(
>>263)
肉体的な「死」をともなわない『我』の「死滅」は、(原理的に)ありえないことです。
もちろん、生命を生命たらしめている「原力(ウルクラフト)」の正体はわからないけれど
「生命種」は、そのようなものとして仮説されていることも顧慮してください。
>【生】から【死】へと移行した後に再度【生】に帰還した場合
>―『どうやら生きてしまっているようだ』という状況だ。
>この場合には最早『我』は存在しない。(540)
『どうやら生きてしまっているようだ』という状況・・・は、「存在」しています。
『我』(個体化の原理)は、「存在」するものに働く原理なのだから
『どうやら生きてしまっているようだ』という状況が、「存在」するかぎり
「存在」していることになります。
しかも「個体としての生命」(肉体)が、そこ(空間)に「存在」しているのですから
なおさら、『我』は存在しない、ということにはならないと思います。
>存在しないが故に、既に離れているが故に、『我』を―『二元分別』を纏う事が出来る。
>『正誤』を『真偽』を『善悪』を『遊ぶ』事が出来る。
>この者が得たモノは何もない。(540)
この一文には、「主体」が前提されています。
『二元分別』を纏う・・・の、
あるいは、『正誤』を『真偽』を『善悪』を『遊ぶ』・・・の
「主体」は、どこにいるのでしょう。
どこにいてもかまいませんけど、「いる」のなら「存在」していることになります。
存在しないがゆえに・・・何が存在しないのか?
すでに離れているがゆえに・・・何から、どこから、離れているのか?
(このような問いにたいして、できうるかぎり説明づけたいのです)
かりに、この「主体」を、いわゆる(個別的)「自我」=<わたし>と区別して
たとえば、「形而上学的主体」としての「観念の集合」として仮定してみます。
つまり、「観念」によって「客観的対象」としてとらえられているものこそが
じつは、それ自体として、おのずから「実在」し、生成変化している・・・とか。
ようするに、<わたし>なる「実体」をしりぞけるには、このような手続きが
たとえ、仮定の話しだったとしても必要になってきます。
>>カオルさん
あなたはハルカ理論にくわしいようですね。
ならば【溶死悟】について教えていただきたいのですが、
それは一体どのようなプロセスで起こることなのでしょう?
>『失おう失おう』と思えば『我』はますます意識される。(540)
ここでも「意識する」主体が前提されています。
『我』を意識するのは、誰なのでしょう?
もし、それが『私』なのだとしたら
ハルカ論における『我』と『私』の区分は明確でないと思います。
>最早彼には『個』という意味はない。
どのような事態を示すのでしょう?
もし「言語を持たざる者」、たとえば「虫」に「個」という
意味がないのとおなじことなのなら、ハルカ論の『我』には
「言語的」な要素が含まれすぎていると思います。
言いかえるなら、『我』と『私』を区別する理由が不明確です。
わたしは、言語的動物である人間と人間以外の生物の境界を
『我』(個体化の原理)と『私』(言語的精神)の境界にした方が
理論としての整合性がでてくると思います。
>>656 ハルカへ
>おいおい。
>何を勝手な解釈をしてるの?
>一体になる対象は『【生】そのもの』じゃなくて『【世界】そのもの』なの。
>だから『【我】と【他】の二元相対が無意味に成る』訳だ。
”おいおい”は、わたしのセリフです。(笑)
>一匹の猫、一匹の虫、一本の樹になる。
>名も無き【そのもの】に成る。
>それが【溶死悟】だよ。
一匹の猫、一匹の虫、一本の樹・・・は、存在してるし生きています。
だから、【溶死悟】は「一匹の虫の生の原理とまったく同じ」といったのです。
そしてそれは「生そのものと一体になる」と表現できてしまうことの指摘です。
もしそうなら、「存在」=「苦」というハルカ論の大前提が崩れてしまいます。
なぜなら【溶死悟】は、いまだ「生」のなかにあり「存在」の肯定だからです。
だからわたしにとっては【溶死悟】も当然「生の倫理」に含まれてしまいます。
もし、存在の仕方(=溶死悟)によって、「存在=苦」の前提がくつがえるなら
ハルカ論における「苦からの脱却」(=解脱)の必要性はどこにあるのでしょう。
いえ、わたしは【悟り】と【解脱】のちがいを明確にして欲しいだけなのですが。