◆形而上学的な命題には何の意味も存在しない◆

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演択法は三段論法である。


  大前提(経験的命題) / 人間はいつか死ぬ。
  小前提(事実的命題) / わたしは人間である。
  結論 (演択的命題) / わたしはいつか死ぬ。
 演択的命題は、日常的経験則に基づいたものであれ、物理的法則に
基づいたものであれ、それ自体としては蓋然性を逃れられない。経験
的命題に基づいた、外れる可能性のない完全な予測は不可能である。

 私はいつか死ぬ。

 この命題の真理性は蓋然的であるから、疑うことは可能である。死
の不可避性についての通俗的な観念は、この演択的真理である。この
ような場合、死は一般論から導き出された抽象概念に過ぎない。
75考える名無しさん:04/03/11 05:06
>>46
なんか変な感じ。

>数学の特徴である厳密な証明による真理保証のシステムは、それを厳密かつ完全に
>しようとすればするほど、その結果として不完全性を露呈する。(第1不完全性定理)

完全性の意味、わかっていますか?
「完全にしようとすればするほど」「その結果として不完全性を露呈」?

>厳密な証明による真理保証のシステムが安全であるということを、それより安全と
>思われるシステムを使って証明することはできない。(第2不完全性定理)

「それより安全と思われるシステムを使って」ではなく、
「その体系内で形式化できる論法だけでは」無矛盾性を証明できない、でしょう。
実際、ゲンツェンは超限帰納法を用いて自然数論の無矛盾性を導いています。
「人はいつか死ぬ」という「事実」は一般論であるが、現実の死は事実命題の
地平にある。演択的命題には検証のためのものと、応用のためのものがある。

>>46
数学的命題は経験的だから、どっちにしろ真理値の担保は系の外にあって帰
納的に参照された事実命題、ということになる。
訂正、>>75
78考える名無しさん:04/03/12 01:26
>>53のような考え方は、小学生に直観的理解をさせるための方便。

数学は帰納的科学や実験科学ではない。
純然たる演繹科学。
2つの泥団子を柔らかいうちに合体させて、結果的に1つの泥団子ができたからといって、
「1+1=2は一般には正しくない」ということにはならない。
自然数の加法において「1+1=2」はつねに正しい。

一般に理論の基礎概念や、出発点となる公理を設定する段階で、
経験からある種の規則性を抽象する。
(経験の源泉は、物理学をはじめとする人間の思考活動全般。
とくに既存の数学理論も含まれる)
その後は、思考実験や直観により命題を予測はするが、
公理と基礎概念の定義から純然たる演繹によって証明されない限り、
定理とはみなされない。単に予想(Conjecture)と称される。

逆に数学における真理性は、ある体系内で演繹的に証明されたかどうかによってのみ決まる。
各体系を含む全域的な無矛盾性の保証には、超限帰納法など担保を外に求めているが、
数学における各種の定理は、公理(使用可能な推論規則も含めて宣言される)の範囲内で
形式的に演繹できるかどうかによってのみ真偽が判定される。
そして自然数論を含む理論を形式化して得られる無矛盾な体系内には、
上に述べた意味での真偽 を判定できない命題(論理式)がある、というのがゲーデルの示したことの一つ。

>2つの泥団子を柔らかいうちに合体させて、結果的に1つの泥団子が
>できたからといって、

離散体(個数)と連続体(量)の加算は、本質的に異なると思う。

> >>53のような考え方は、小学生に直観的理解をさせるための方便。
は、
>一般に理論の基礎概念や、出発点となる公理を設定する段階で、
>経験からある種の規則性を抽象する。
ね。


80考える名無しさん:04/03/14 10:43
>>75
> 「それより安全と思われるシステムを使って」ではなく、
> 「その体系内で形式化できる論法だけでは」無矛盾性を証明できない、でしょう。

<無矛盾清性があきらかな単純なシステム>の中で<より複雑で無矛盾
性が疑わしいシステム>の無矛盾性を証明することはできない、という
方が、不完全性定理の意義の説明としては正しいだろう。



81考える名無しさん:04/03/14 10:58
>>78
数学理論が演繹体系であることは、それだけでは数学が経験科学である
可能性と両立し得る。物理学の理論も演繹体系として構成されるのが普
通だが、物理学は経験科学だろ?
82考える名無しさん:04/03/18 11:28
演繹的に記述されていることと、それが経験科学であることは別。
しかし、数学を純粋に自己定義的な記号体系と見なせば、
応用への着地点を失ってしまうんじゃないか?
84考える名無しさん:04/03/21 11:41
言語自体を自己定義的記号体系とみなしながら、
それでも日常生活している人たちもいる。
応用には、役に立てばいい以上の根拠はいらないでしょう。
しかしそう振舞えない論理学者は多いね。
現実世界との接点がないんじゃ、文字通りの机上論でしかない。接点があると
すれば、譲歩するのは現実世界ではなく数学の方だろ。
理論と現実では、理論は現実に譲歩する。理念と現実では、しかし関係は
逆転する、と。
87考える名無しさん:04/03/21 20:16
>>79

> >2つの泥団子を柔らかいうちに合体させて、結果的に1つの泥団子が
> >できたからといって、
>
> 離散体(個数)と連続体(量)の加算は、本質的に異なると思う。

泥団子の話は、連続量には全く着目していないのでは?
まさに泥団子の個数を、くっつける前後で比べて、1と1が結果として1に落ち着いた、
しかしそれをもって自然数論に対する反例とみなして自然数論を書き換えよう、という話にはならん
ということでしょ。

88考える名無しさん:04/03/21 20:24
>>81
経験科学という言葉をどういう意味で使っているのかにもよるけど、
物理が数学と決定的に違うのは、観測された事実によって正しさが決まるところ。
それに対して数学の定理は、その定理が定式化された公理系内では未来永劫正しく、
新たな観測によって修正されることがない。
それに物理学は、定義のはっきりしない概念でも平気で用いる面がある。
超函数も最初はそうだったように、形式的に便利だからとか、
そうするとある局面で上手く現象を記述できるから等の理由で、
演繹的にも不備があっても気にしない面がある。

>>85
すでに数学は現実世界を記述するものではないでしょう。
解析学や数理物理ですら、それを目的としない研究がある。
現実と接点は当然あるけど、それは出来上がった理論の応用であって、
現実が数学における真偽の判定に関与することは皆無でしょう。

89考える名無しさん:04/03/21 22:25
このスレの議論は論理実証主義以降か?
90考える名無しさん:04/03/21 22:38
今この時点で議論してるってことは、以降ってことだよ。
>>87
この反論は「アキレスと亀」ばりの詭弁だと思うがw

>>88
数学は、現象世界の量的問題を記述するために特化した特殊な
記号言語、もしくは論理絵と考えられるんじゃないか?
92考える名無しさん:04/03/21 23:26
>>91

反論?大丈夫?
> 離散体(個数)と連続体(量)の加算は、本質的に異なると思う。

これ自体にはなんら異存はないですよ。反論したつもりはない。
これ自身、泥団子を持ち出したもともとの主旨からしたら的外れじゃないのかってこと。
自然数の体系は、起源はどうあれ、今では現実世界とは独立だということでしょ。
だいいち、起源にしたって個数=基数だけでなく、序数も起源となっているみたいだし。
どっちが先かはわからないけど。

あと、数学の記述する世界は量的問題に限らないです。
たとえば幾何的な構造や、各種の空間構造を代数系に投影する話もあるし。
93(゚д゚):04/03/22 00:28
ヽ(`Д´)ノ
94(゚д゚):04/03/22 00:29
(´C_` )sage
ま、出発点としてはそうだって話。数学における言語論的転回ってのも
あるな・・・。幾何学は、図形が命題記号ではなく、事実そのものであった
りして、また別な話かも知れないが。
泥団子の話自体が的外れだろ。我々の自然体の認識では、もともとの泥
団子の「一つ」と、二つをあわせた後の「一つ」を同一のものだとは見
なさないからな。
言語論的転回っていや、ヴィトゲンシュタインの論考の
現象論的態度に対する論理実証主義の立場もそうかな?
97考える名無しさん:04/03/22 20:34
そろそろ可能世界について語れや
あー、俺、それピンと来ないんだよな。何か重要な問題が隠されてる
ような気もするが、今ひとつ、明晰化出来なくて。夢見ない方だから
かな?w
幼稚園の頃のことだが、俺は夏休みとかに田舎の祖父母の家に行くのが
何よりの楽しみだった。積み木で一人遊びをしている時、ふとしたキッ
カケで、俺は積み木を使って目の前に、祖父母の家のある田舎の町を作
り始めた。ほんの一瞬、その世界に没頭して、次の瞬間、それがただの
積み木の集まりに過ぎないことに気付いた。あの瞬間の、言われようの
ない空しさ、あの感覚に似たものを今でも時々、味わう。俺は抽象思弁
の世界に溺れるのは嫌いなのさ。
100考える名無しさん:04/03/23 03:34

> 泥団子の話自体が的外れだろ。我々の自然体の認識では、もともとの泥
> 団子の「一つ」と、二つをあわせた後の「一つ」を同一のものだとは見
> なさないからな。

ええっ?
ものを数えることから、数という概念を「抽象する」ということは
まさに異なっている点を無視して、共通点のみに着目するってことでしょ?
バナナとリンゴ1つずつ、バナナ2本、リンゴ2個、このどれもが
等しく2という概念を共有する。

既に出来上がった数の体系というのは、
「我々の自然体の認識」を起源や直観的背景に持っているとはいえ、
本質はそれらと独立な観念上のものです。
そのへんを心底わかっていないと、例えば複素数に実数と同じようなリアリティを感じられなくなってしまう。
実数体だって、自然数から一定の手続きを経てつくられた人工的な創造物だという面も理解していないと
微積分をごまかしなく展開することができなくなってしまう。
逆に複素数体だって、十分に現実感を感じられる直観的源泉を持っている。
101箜間桐孤 ◆TIGERSM8e. :04/03/23 13:14
言語と世界は切り離すことができない
 世界そのものが言語
 「2.12 像は現実のモデルである」
「写像理論」 
 私たちが言語化しているもの(命題)はすべて像をもっているのであり、それはこの世界の論理空間の組み合わせをそのまま表している。
          ↓
 さまざまな哲学的命題は記号論理学によって言葉の使い方を分析すれば、正しい命題と間違った命題がすぐに明らかになる。
          ↓
 「神の存在」「人生の意味」など、現実の像としてはありえない。(正しく言語化できない)
 観察不可能な事象については、意味のある命題をつくることができない。
          ↓ 
 問い自体が無意味
 「4 思想とは有意義な命題」
 「4・114 哲学は思考可能なものを限界づけ、これにより思考不可能なものをも限界づけなければならない」
 「7 語り得ないことについては、人は沈黙せねばならない」

 言語化できないものは存在しないのか?
 「6・522 だがしかし表明しえぬものが存在する。それはみずからを示す。
  それは神秘なものである。」
>>100
>ものを数えることから、数という概念を「抽象する」ということは
>まさに異なっている点を無視して、共通点のみに着目するってことでしょ?

認識における抽象化作用というのは、自覚的な意識レベルで「概念を抽出する」、
というのとは、少し違うような感じだと思うが。しかも、それは長い文明の歴史
の中で我々の中に徐々に生成して来たものだ。


>逆に複素数体だって、十分に現実感を感じられる直観的源泉を持っている。

人は空想に没頭していれば、周囲の現実のことなんかキレイに忘れて
しまうことは当たり前にある。あらかじめ整った理論を基盤に形成さ
れた観念連合体系なら、それはキレイな感じはするだろう。
>>101
言語はコミュニケーションの最も重要な手段だ。言語化されていない
対象は社会生活の中では「話題に上らない」。
104考える名無しさん:04/03/25 14:28
>>103
言語化され意味は理解できるが、言語化することで的はずれとなるものも存在する。
例えば独我論など。
それは孤独なる者にのみ許される秘密、ってわけやねw

http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1075393944/485-494
スレタイから逸れて来たから、コッチでやろ。
いかなる事実も、何らかの「場」において成立する。「場」は語り得るもの
であっても対象ではない。「私は今、ここ(哲学板)にいる」という命題に
おいて、哲学板は対象化されてはいない。しかし、「この板」という形式で
指示した瞬間、「場」は対象化され、「場」としての地位を失う。
ともかくも、対象化可能なものは明らかに対象化されうる。対象化不可能な
ものは認識することも不可能である。つまり、事実は形而上学的前提なしに
成立不可能なのである。「世界はどのようにあるか、ということが神秘的な
のではない。世界がある、ということが神秘的なのである」(論考6.44)。
・・・「この板にいる」、でも別に対象化はされていないか。
まぁ、「この板は〜である」って命題にすりゃ対象化され
るってだけだな。
構成的命題は経験的命題を、
経験的命題は事実的命題を、
事実的命題は先験的命題を、

各々、前提とする。・・・理論って何だぁっけ、何だぁっけ♪
>>106はホーリズム(全体論)でもあるな。
場について訂正と補足、

場は事実の前提である。

場は周縁を持たない。乃至、周縁を意識しないことによってのみ、場は場で
あり得る。境界付けられた全体として把握された場は、その時点で対象化さ
れ、場ではなくなる。私は自分の現在いる場について「ここは〜である」と
語ることは出来る。一見、私は自分のいる場について、その場にいながら語っ
ているようではある。しかし、「その場」について語ることは、「その場」
に対して距離を置くことである。
我々は、雰囲気("atmosphere")に呑まれることによって、その場に登場し、
その場について語ることによって、雰囲気を壊す。
・・・「呑まれる」、と主体性を剥奪されてしまうな。「疎外」という
ヤツだろうが。人は大抵は、仮面の下に主体性を確保しながら雰囲気
に「溶け込む」、大抵は。
112箜間桐孤 ◆TIGERSM8e. :04/04/06 18:30
保守
あ、ご苦労様w 今、チョイ休憩気味でね。
いかなる事実命題も、先験的命題の前提抜きに成立することは不可能である、
ということは、いかなる事実命題も、その真偽については、最終的には「信
じるか、否か」という決着の付け方に依らざるを得ないことを意味してもい
る。これは、事実命題における直感的検証についての問題であって、経験科
学における手続き上の厳格さとは全く関係のない話である。
自身の、あるいは他者の、その世界を形成している形而上学に
ついて全く無関心、乃至、無自覚な者らの間で取り交わされる
議論ほど、空しいものはない。
117箜間桐孤 ◆TIGERSM8e. :04/04/14 00:56
                     ⊂二⊃
          ⊂⊃
≡ ( ̄ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       ⊂二⊃
  / ̄ ̄                            \
=∈=∋        マルチ&葵号             〉
  \__≡§⊃                       /
≡ (_ノ \_________________/
          \   _ '´   ヽ,  .'´`⌒ヽ、    /
           \ 、ヽノノ)))) 〉/ ,ノノハヘヾ  ./ 
     はわわ〜  \リ0);´(フノl ゙'v(!゚ ヮ゚ノ'゛ /頑張ります!
         ≡§⊂| ̄∪∪ ̄ ̄∪∪ ̄|
             └───────┘
age
119考える名無しさん:04/05/01 22:49
イラク板から誘導されて来ました。スレタイの意味がわからん。。。
そりゃ、いきなりじゃ分からないだろ(ゲラ
121考える名無しさん:04/05/01 23:42
>>119
あ、俺はもともと宗教板のキリスト教関係のスレから2ちゃんねるに
入って来た。一応ね。