1 :
考える名無しさん:
哲学用語を使わずに哲学に挑戦する試みの復活祭。
>>1 いいねぇ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・アーゲトコ
4 :
考える名無しさん:04/01/08 18:36
復活でつね
5 :
考える名無しさん:04/01/08 18:38
ヨサコイみたいなもんかね。
6 :
考える名無しさん:04/01/08 18:38
ついでに2ちゃん用語も使わないでクダサイ。
7 :
考える名無しさん:04/01/08 18:39
アーゲトコ
なめとこ山の熊といえば、・・・
アゲゾコ
知床
11 :
考える名無しさん:04/01/08 18:42
CCさくらを哲学せよ
12 :
考える名無しさん:04/01/08 18:43
1よ、まずは入門書読め。
んでテーマは何?
14 :
考える名無しさん:04/01/08 18:44
出店はないのかね?
アゲゾコ
このスレは、時間芸術です
17 :
考える名無しさん:04/01/08 18:45
18 :
考える名無しさん:04/01/08 18:46
能動的エンテレケイヤキボーソ
このスレは
>>1の逃亡によりグズグズになりました。
20 :
考える名無しさん:04/01/08 18:47
ええじゃないか
ええじゃないか
ええじゃないか
ええじゃないか
おいど おいど♪
ゴハンゴハン。
逝ってきます。
アーゲトコ
23 :
考える名無しさん:04/01/08 18:52
煎ってらっしゃい
24 :
考える名無しさん:04/01/08 18:54
意味がわかんない
ごめん。
哲学祭り明日だった!!
(´・ω・`)ショボーン
27 :
考える名無しさん:04/01/08 22:10
おいど おいど おいど おいど♪
つーか、この板の8割以上はすでに哲学用語使ってない「何でも哲学」じゃん。
なにをいまさら・・・
「おいど」とはなにか♪
30 :
考える名無しさん:04/01/08 23:20
あと一人 あと一人♪
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
32 :
考える名無しさん:04/01/09 18:45
ええじゃないか
ええじゃないか
おいど おいど♪
祝 復活
34 :
考える名無しさん:04/01/09 19:12
Yoi Yoi Yoi Yoi!!
35 :
考える名無しさん:04/01/09 19:13
,.、,、,..,、、.,、,、、..,_ /i
;'`;、、:、. .:、:, :,.: ::`゙:.:゙:`''':,'.´ -‐i
'、;: ...: ,:. :.、.∩.. .:: _;.;;.∩‐'゙  ̄  ̄
`"゙' ''`゙ //゙`´´ | |
//Λ_Λ | |
| |( ´Д`)// <おいど おいど♪
\ |
| /
/ /
36 :
考える名無しさん:04/01/09 19:18
おいど!!
\\ おいど!! //
+ + \\ ワッショイ!!//+
+
. + Σ;;;;) Σ;;;;;)Σ;;;;) +
( ´∀`∩(´∀`∩)( ´ー`)
+ (( (つ ノ(つ 丿(つ つ )) +
ヽ ( ノ ( ノ ) ) )
(_)し' し(_) (_)_)
37 :
考える名無しさん:04/01/09 19:20
,: ' " `丶
, :´ . `、
. . ' . ; .丶
. ,:´ . ' ' `、
, ,:=・=:、,:=・=:、 ; `. / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. . ■■■■ . ' ';゛ < おい おまえ! おいど おいど♪いってみろ!!
! . ■■■■. ' , ;: \____________________
ヽ、..._,._._,._■■.,,....__,.,,.ノ.,..
___ノ:: 人_
, --ー ̄ :: ::::::::::::::::: ̄ノ ̄ー-- ,,.__
/:::::::::::::::::::: ー-- .,, ..::::,, --ー " :::::\
/::::::::::::;;;;;;; ヾ ソ :::::::: :::ヽ
⊂二 ̄⌒\ ヽ/ /⌒ ̄ニ⊃
)\ ( | ::::::::: | ) /(
/__ ) | :::::::::::::::: ミ: | ( __\
//// / .|::::::::::: ミ:::: | \ \\\ヽ
/ / / // |:::::: ヾ:::: | \\ ヽヽヽ
/ / / (/ |:::::::::: ミ: | \) ヽヽヽ
( / (/ | ::::::: ノ ヾ | \) ヽ)
( / ヽ)
38 :
考える名無しさん:04/01/09 19:21
\ エエジャナイカ! / +
\ エエジャナイカ! /
+ +
/■ヽ /■ヽ / ■ヽ
(( ∩,,・д) (,,・∀・) (д・,,∩ ))
+ ヽ ⊂ノ (⊃ つ (⊃ 丿 +
(__(__) (__ノ__ノ (__)し' +
39 :
考える名無しさん:04/01/10 03:02
40 :
考える名無しさん:04/01/10 03:07
31うざい
39w
わたしはなぜそれを思うの?
age
突然ですが放置スレッドのようなのでお借りします。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1072100496/ の169に対する返答です。
e1さんのご意見を私なりに解釈させて頂きますと、
解釈には「自己理解」と「他者理解」の二側面があるということかと思います。
つまりガダマー的なアプローチということかと思うのですが、
客観的な真理というものはあり得ないので、解釈においてまず重要なのは、
自分がいかなる先入観を持っているのかという自覚であると。
次にそうした自覚をもとに、「他者orテクスト」に対して問いを立てて、
他者から答えを導き出すという弁証法的な運動が求められると。
で、さらに他者を理解することによって、自分と他者との差異を知ることによって、
より自己理解が深まるという意味合いもあるでしょうし、
それはリクールに言わせれば「他者理解は自己理解の鏡である」となるかもしれません。
ただ個人的には、解釈において「自己理解」を特権化・強調しすぎるのは疑問です。
解釈を1つの「行為」として考えた場合、
「行為」に「自己理解」という人格的なものが要請されるのは行為論的な必然で、
というのは、ベルクソンを経由したならば、
人格が持続的に変化し更新されていくことに対して意識を払うのは当然であると思うので、
つまり、あらゆる行為に対して、
「この行為は私にふさわしいのか? 私は自由に行動しているのか?」
と自己反省するのは当然であると思うので、
敢えて解釈において「自己理解」を特権的に強調する意味合いは薄いように思うのです。
むしろ、解釈において強調されるべきなのは、解釈という行為の実践的側面だと思います。
「自己理解」と「他者理解」に還元することは、理論的次元に留まるように思います。
つまり、ガダマーは「ディアロゴス運動」としてしまうのですが、
「ディアロゴス運動とは何か?」という精神的態度のほうがより重要だと思うのです。
つまり、私が考えるのはブーバーの「我−汝」という実践的な対話思想です。
自己と他者の関係性の中に、自己と他者の出会いを重視する立場に、
より実存に根ざした「他者理解」のあり方があるように思えてなりません。
九鬼周造に関しては、彼は独仏に留学して「他者理解」を試みる傍ら、
日本語での詩作に励むなど、孤独に自らのアイデンティティを探していたように思います。
日本が政治経済的にも文化的にも後進国と見なされていたであろう異国で、
日本人としての「自己理解」を「いき」に見いだした九鬼は、
「他者理解」よりも「自己理解」に力点を置くカタチで、
「いきの構造」を完成させるべく企図したのではなかろうかと、
邪推するのが私の先入観的な限界でしょうか?
それから、ガダマー的「伝統」への批判は、確か加藤尚武あたりも言っていましたね。
例えば音楽や絵画のような美学が、解釈学に還元されるのはおかしいとかなんとか。
で、ガダマーは「テキストを読む」ことによって文化が成立する、という考えを取りますので、
やはり対話相手としての「実存」という他者よりも、
「文化」というより抽象的な他者への志向性のほうが強いように思います。
解釈学の理論には同意できるのですが、実践面において掴みきれないものが残っています。
>あげぞ様
大変真摯なご回答をいただきまして、ありがとうございます。
ただし、私の論点はもっとシンプルなんですよ。
私は解釈と理解とをもっと別けて考えたいと思っています。解釈については、
なるほど「他者理解は自己理解の鏡である」という論も成り立つでしょうが、
理解とは、極論を言えばパソコンにソフトをインストールするがごときものと
思っています。数学の公式を理解するという際には解釈の余地もなく、ただ
理解するとでもいうような作業があると思うのです。記憶を元にして、それを
応用できることが理解とでもいってしまえば、わかりやすいでしょうか。
このように考えると、解釈とは、自らの実存を他者に投影することによって
自らを再確認するという、とても不自由でまわりくどい行為のように思えて
くるくらいです。自己と他者の関係性とおっしゃいますが、この実存的交わり
とは、私にとっては、自らの業のなせる技としか思えないくらいです。
では、貴方がおっしゃられるとおり、九鬼周造は、私の言葉でいうなら
自らの業にしたがっていきの構造を書いたということもできます。
自らの業とは、文化的歴史的なものを前提としつつ、自ら作り上げてきた
私自身であり、であるからこその自由と不自由とをはらんだ存在であると
思います。つまり、私が私であるがゆえに許される自由と、そうであるが
ゆえに許されない自由とがあり、これは自覚するにせよ無自覚であるにせよ
自らのすべてを規定しているものです。
しかし、私に許される自由において描き求められるものが、私において許され
ないということだってありえます。ここにおいて、自らの自由が自覚され、
私それ自身の揺らぎが、すなわち動揺する自分が現前化するのです。
多少ロマンチックにいえば、鏡と相談せず容姿端麗な女性を好きになるのは勝手、
現実はフラレて落ち込むということですね。
しかし、九鬼が単なるナショナリズムに沈降していったとは思えないんですよ。
それは真の対話の宿命でもあります。
多少、下卑た言い方をすれば、日本人はやっぱり最後はイカの塩辛でいっぱいが
一番ほっとするということかもしれません…。
答えになってますでしょうか…。