参考までに前スレからSさんの『自己自律論』についての説明を抜粋させていただきます。
6 :S ◆4Ijqvx1jbw :03/09/16 20:03
<世界内としての「自己自律」の内容について>
ボクが自己自律としているのは単に個体化された個体としての自己のみを対象としているのではなく、
世界として一如に成立しているあらゆる連関、そのすべてをして自己自律としています。我々は現象
の形式として個体化を選択しているだけです。その自己自律としての世界=一如としての個体はどの
側面も他律ではないと捉えています。生命という形態は自己自律の一側面です。
不条理とは何を指しているのか。無根拠なのは自律する自己そのものだから。個体化しているのは
その形式が到達点だから。詳しくは前スレ
>>413-419 >>444-446 >>451 しかしこう捉えても自己自律として躍動するベクトルしかないなら、それは拷問でもあります。(
>>501)
ですから、沈静としてのベクトルも自己自律のもとに等価に確立されて然るべきとなります。
個体化の形式の中で「自己の相対的価値を高めていこう」は自己自律としての躍動として、
「自己価値を相対的最低位置に置く」は自己自律としての沈静として捉えています。
そして我々は個体化の形式そのものからの移行をも志向することができます。
それらすべては世界内自己自律として成立し、個体内で、個体間で、存在者間で攻めぎ合うことで
了承されます。その他補足説明は前スレ
>>540-541 >>597-602 >>625
297 :S ◆4Ijqvx1jbw :03/10/19 04:09
<二つの提示論の比較>
[共通点]
上位下位に想定される連環なる(出口のない)世界
世界における「ある」という存在基盤。
脱却=個体化の原理の看破・個体化の原理の脱却=悟道=「ある」への接近、帰順。
[相違点]
ほぼ共通した認識である連環なる世界をどう捉えているのか。視点の違い。
A[ハルカ論]
連環世界は上位互換の入れ子関係の世界である。
連環世界を不条理な連鎖構造と見る。(一方的な利用−他律的な連鎖)→嫌悪
生命体個々の自由は認めるが、それすら不条理構造下の限定に過ぎない。
不条理の根源は個体化の原理である。
現存在の選択
1 無頓着なままでいる。諦めて受け入れる。
2 抵抗する(脱却を試みる)
B[自己自律]
連環世界は相互依存の連関関係の世界である。
連関世界を自己到達・承認構造と見る。(攻めぎ合う繋がりとしての自律構造)→気付き
生命体個々の自由が限定されているのは個体化ゆえで、世界内としての自律に還元される。
不条理とは自己到達点を指した自己言及の迷妄である。
現存在の選択
1 自律の躍動 個体化世界での相対的価値肯定のベクトル
2 自律の沈静 個体化世界での相対的価値否定のベクトル
(A1はB1に、A2はB2に対応しています。)
314 :S ◆4Ijqvx1jbw :03/10/20 03:47
(連関について)
存在間の差異や時間・空間の隔たりは連関には無関係です。何らかの関係が(一度でも)
生じているということは互いの個体化形式のありようそのものを変化させるものであって
もはやどちらも切り離せないということ、その相互依存関係を連関というのです。つまり
関係=連関なのです。個体化形式の不連続性はあっても、連環として、連関としての不連
続性はありません。それがあるならその対象は世界内ではないし想定も認識もできないと
いうことです。
(個体化の原理について)
>>147でも少し書きましたが、個体化の原理とは本来は、現象世界の時間・空間の形式に
よって生まれる差異が個別の存在形態を発生させているということと、個体化性質の維持
・展開という二つの基本原理に基づく全存在に貫かれる現象の形式だと理解しています。
その各々の個体化形態の視点から捉えた原理が、例えば人間について言えばハルカさんや
カオルさんが列挙したような諸条件として顕れてくるのだと思います。だから人間原理と
そうでない形態の原理が違うのは容易に想定できますし、しかしそれは個体化の原理の各
特殊形式でしかないです。
(嫌悪について)
「誰か」の話の発端で、牛が搾乳されたり肉にされる比喩をハルカさんがした時、ボクは
我々人間が利用(搾取)される被害者であると同時に利用(搾取)する加害者でもあると
指摘しました。それは全ての連関者に言えることであって、カオルさんのフォローのよう
に自身への自己言及と理解しているなら、嫌悪は一対象に過ぎない「誰か」へは向かない
はずです。そしてそれが全生命への嫌悪に向けられても、その根源が個体化の原理にある
と看破するなら、
>>153は理解されるはずです。連関についても、一方的な利用と断ぜら
れるということは、連関の意味を捉えていないように思います。そしてそれらが、理解し
ていながら脱却の為の補強として根拠づけているのだとするなら、それこそ本道を逸れる
迷妄にしかならないと思います。
479 :S ◆4Ijqvx1jbw :03/10/29 20:47
>>ハルカさん、カオルさん
それではまとめて説明します。
以前書きましたように、個体化の原理とは本来は、現象世界の時間・空間の形式に
よって生まれる差異が個別の存在形態を発生させているということと、個体化性質の
維持・展開という二つの基本原理に基づく全存在に貫かれる現象の形式と解釈して
いますが、これは相対的な対象にすべて当てはまります。そして対自個体としての
自律側面と対他個体としての他律側面をして個体化の原理となし、それは世界内
としての「自己」に還元されると「自己自律」で説明しました。(
>>240>>314参照)
つまり我々の一連環世界内にて個体としての自他、そして連関としての「世界内」が
成立するように、相対的な上位の一連環世界が想定されるなら、ハルカさんの言う
ように個々の【世界】内部では自、連環【世界】では他、そして連関として包括できる
「世界内」が成立するのです。そのように想定できる限りにおいて、連環世界はどこ
までも「世界内」に包括されうる。ハルカさんが一連環世界に留まって連環を見渡す
のに対し、包括的な「世界内」という視点は連環をも俯瞰しなければ想定できない。
そしてハルカさんのように我々が相対的に連環世界を想定できるのであれば、それ
を俯瞰想定するところまでは可能なのです。なお、【世界】の定義から逸脱するなら
別の言葉で置き換えて構いません。包括的な抽象概念として理解されることを望み
ます。(
>>450>>461も参照して下さい。)
480 :S ◆4Ijqvx1jbw :03/10/29 20:49
我々の上位存在と想定される「誰か」は、我々のような,、存在を強制され相対的で
しかありえない脆弱な存在者と関係するような上位存在に過ぎません。つまり彼らも
また相対的な存在者でしかなく、贋神様でしかない。そして我々が想定できるような
上位下位存在とはどこまでも相対的な者。連環の連鎖の輪はそれ自体として円環
とする循環認識に到達するのです。本当の神様、つまり絶対者は我々では想定も
できないし、相対的な円環世界との関係など想定もできないのあって、円環世界は
絶対者から切り離された永遠の孤児、存在を強制され相対的に移ろう脆弱な世界
でしかない。だから円環世界はそのように孤立して存立しているが、自律成立して
いるというよりは、してしまっているというほうが近い。原点に戻って表現するなら
これがパッケージとしての箱庭であり、相対的な対象を嫌悪して駄々をこねてなど
いられない、絶望的な自己言及の気付きなのです。
「自己自律」の初期説明で絶対者を切り離して設定したのは、絶対などを我々が
想定すらできず、我々の相対世界との関係も想定すらできないのであって、エポケ
ーすらする余地がないのです。切り離して設定したのは絶対者への畏敬そのもの
であり、それはこの相対的で脆弱に自律成立せざるを得ない、この小さき円環世界
の自覚、そのまた下位に規定された小さき一連環世界の自覚、そのまた小さき個体
としての自覚に反映されることを理解して欲しく思います。神を設定していない=
神なきルサンチマンとはあまりの短絡と思えます。ここまで書いて、まだ理解されない
のでしたら、ちとお手上げ状態です。
508 :S ◆4Ijqvx1jbw :03/10/30 21:04
「自己自律」についてはほぼ説明しつくしましたが、焦点である連環における連関に
ついて補足しておきます。ハルカさんの想定のように生命体が「誰か」に生成された
のであれば、我々は誰かの志向をもって存立し、「誰か」はその志向を為すことで
変質している−つまり現象においてそのような具体的な切り離せない変化を関係が
もたらしていること、それが連関なのです。次元が異なろうと一方的であろうと(とい
うより一方から見れば常に一方的なのですが)です。もちろん相対的な関係を想定
できなければ連環に関係を見出すこともないのですが、現にハルカさんはそれを
見出しています。そうした想定において「誰か」と我々は互いの存立形式に切り離せ
ない変質をもたらしている意味で、連環もまた等しく連関しているのです。
私が関係を一方的なものだと捉えるとき、私はその対象と関係して互いに変質して
いることに無頓着なのだと思います。形式としての個体化の境界、ここで焦点になっ
ている連環の次元の違いも、そうした関係にあって曖昧で実体のないものになるの
です。
「誰か」に対し苦の根源を見出すとき、そのような相対的な対象はそのまた上位の
「誰か」に対し苦の根源を見出すことに繋がりますが、そのような相対的な対象に
苦の根源を見出そうとしてもそれは永遠に把握することはできません。苦の本質は
その奥に隠れていますよ、ということを指し示すのが、包括的な抽象概念として
「自己自律」を提起した目的です。
以上、
>>479-480と併せて読解してもらえれば、納得はされなくとも理解はされる
ものと期待しています。そうであるなら、ボクはこれまでの貴方との真剣な交わり、
批判点を互いに活かせると思っていますから十分です。あとは心置きなく脱却を
志向するだけです。
>>481は共に脱却を志し真剣な言葉を交わして来た貴方への
想いです。
523 :S ◆4Ijqvx1jbw :03/10/31 07:04
>>ハルカさん
ボクがこの論を組み立てるに当たる原点はボクやハルカさんやカオルさんがそれ迄
露わにしていた憎悪にも似た不条理への反動を批判的に活かすことでした。それは
自己自律の初期説明に書いてあります。しかしこの論を組み立てた上でなお、ボクが
ハルカさんの論をも受け入れているのは、やはりかつてのボク自身の叫びを論理的
整合性だけでシフトさせるには未だ至れず、何が脱却に必要なことなのかは、実践
して行く中でしか確かめられないからです。
苦の根源は個体化の原理そのものからさらに言及すれば存在という原理そのもの
に至るとボクは考えています。つまり方法論は変われど、SHスレからのボクの原点
であった虚存−実存のパッケージ=箱庭そのものからの脱却なくして苦の脱却は
ないということです。ハルカさんは虚無への移行を掲げていますから、共有できるもの
を感じ、苦の本質が相対的な対象に貫かれる個体化の原理、その奥の存在原理に
あることの示しとして包括的な抽象概念を示し構図を単純化したのです。
>>481はそうした観点に立った貴方への批判点です。しかしかつて書いたように意志
の沈静ベクトルの究極がもしも存在原理を超えて虚無に至れるなら、意志の躍動ベ
クトルの究極も存在原理を超えて虚無に至れるという理屈も成り立つかもしれない。
だからやはり何がとは断定できないとも思っています。因みにカオルさんの言う沈静
が虚存を超えられないという指摘はあくまで仮想体験レベルに留まるものと解釈して
います。もし沈静の究極が虚無に至れないのであれば単にベクトルが違うだけの
躍動もまた虚無に至れるはずもなく、我々が到底虚無を想定できないように、無が
ありえぬものなら、カオルさんの言う死に至るだけですから、それならそれで良しと。
あとは自ら実践して確認することにします。これまでご叱咤ご批判有難う御座いました。
Sさんの文章の礼儀正しさなどからも
非常に学ぶものが多かったです。
彼がどこかの空の下で元気に過ごしておられる
事を祈ります。