>>1 嫌韓厨(国家主義的な差別主義者)の思想的背景、思考原理は次のようなもの。
1 実生活上の無力感に起因する権力志向(これは、「現実主義」と自称される)
→(自己は実生活上権力的にふるまえない、能力が低いため)権威主義を選択
(権威主義的言説を学習する)
→国家主義(国家のために、ではなく、国家の位置で語るために)を選択
(国家主義的言説を学習する)
→反動的に個人主義の敵視(権利の濫用への原理的批判を「理想主義」と称して軽視
したり、要求が要求であることを指して「わがまま」「自己中心主義」「利己主義」と
したりする。あくまで敵視であって、理論的批判ではない。例えば、嫌韓厨は個人主義
を前提とするはずの表現の自由を、方便として多く用いる)
→国家と同化し、実生活上の他人を軽視できるため、無力感が克服されるかに感じるが、
実際に無力感が克服されるには、自己満足を越えて、実生活で負けている相手を
国家主義的に馬鹿にできなければ駄目なため、機会があれば、意見することになる。
すると、絶え間ない論理的批判に晒されることになるため、また無力感に陥る。
その克服のため、さらに国家主義への傾斜を深めていく。
2 目的は無力感の克服にあるため、社会不安、特に戦争・テロ・その他の暴力事件・
法的取り扱いの暴力的な側面・暴力的な書籍などを好む。それは、暴力が自己の代わりに
実行され、それが広く行われるならば、自分より実生活上優位に立っている人間も、
脅威を感じずにはいられないからである。また、暴力的な取り扱いを好むことは、
一般に否定されるが、犯罪者に対して暴力を振るうことは、公的に自己の趣向を正当化
することに繋がるため、すすんで盛り上げようとする。例えば、マスコミで殺人事件が
報道されると、その犯罪者を殺せ殺せと書き込むことを、楽しんだりする。
社会が平安だと、個人の資質が適切に評価される目の前の現実が嫌でもクローズアップ
されてくるから好まない。例えば、平和・福祉などに対しては、その内容と無関係に、
言葉が現れた段階で敵意を剥き出しにする。酷いのになると、意味上結びつきようがない
事例を「平和」と呼ぶなどして、混乱を引き起こそうとする。
また、国家主義的だという批判に対しては、後に挙げる平等概念の誤解に基づいて、
他国も国家主義的だから「自分が自国民や他国民に対して」国家主義的なのは当然だ、
と応ずる(そうとしか、応じられない)。「」内は、常に省略される。ここでもまた、
酷いのになると、国家主「権」の国家法人説的な理解を展開したり(実質的な内容は
変わらない)、ルソーの「一般意思は常に正しい」のテーゼに、民主主義的にでなく
国家主義的に固執したりする(ここは、苦笑するところ)。
2 一般的と目する権力的・国家的でないと捉えやすい価値観の軽視・敵視・反抗的態度
(反道徳・反倫理・反人権)。それらを軽視する理由は「現実的でないから(=権力的
でないから)」である。
1は、無力感そのものの克服が目的であるが、2は、無力感を感じさせる要素の否定が
目的である。
この点を正当化するために、しばしば制定法(に関する誤解)が、持ち出される。
制定法は、権力的でない価値観が、権力的でなければ守られないから、定められると
考えるべきなのだが、国家主義的差別主義者の手にかかると、制定法は制定法以外に
社会を規律するルールを認めないためにあることになる。制定法は、個人主義・自由
主義を前提として、国民の代表者を通じて国会で制定され、それが合憲である
(国民の権利に反しない)ために、権威があるとは考えられず、国家(実は自分の考え
に一致する場合、その自分の考えを国家と呼ぶのである)が「決めたから」、権威が
あると考える。また、憲法は法律の上位にあって、法律の制定を国民の権利(人権)の
観点から限界付ける働きを営み、国家(自分)の意思を妨害するから、敵視される
(しかし前述の通り、自分が発言する際に都合がいい規定は、ご都合主義的に援用する)。
3 平等概念の誤解。例えば、差別的取扱いがあるなら、差別的取扱いが同じように
されなければならない、など。正しく平等原理を理解しているなら、差別的取扱いは
個人主義に基づき是正しなければならないはずなのだが、差別主義者は、自分からの
差別が目的であり、他人によっても、それが平等になされるべきだと考えるのである。
>>25は、典型的な嫌韓厨の論理。
>>30は、「現実主義」者(丸山真男)のきらいがある。
権威主義的言説の例:
「あなたの意見は社会が認めない」「あなたは他の人のことを考えない」
「(意見が対立しているときに、根拠なく)あなたは自分ばかり正しいと考える」
「あなたの理屈は社会では通用しない」
国家主義的言説の例:
「国のために、というと、すぐに怪しむ風潮が充満しているが、国のために生きることに、
生き甲斐を感じる人間もいるということを、忘れないで欲しい。国のために生きた人間
たちの思いを、忘れないで欲しい(戦争の美化。国のために生きた人間たちを個人的に
見ず、全て国家を支える機能的観点から、同じとみなす)」
「憲法は、権利ばかり主張して義務を軽視している」
※憲法は、国会が国民の権利を侵害しないように、守られるべき権利に
ついて規定したのだから、権利が多く定められているのは当たり前である。
「憲法には、国民が憲法を擁護すべきだとは定められていない(憲法第99条を挙げる)」
※憲法第12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力に
よって、これを保持しなければならない」とある。憲法は国民の権利を守るための
ものだから、これは当然の規定である。第99条は、何もないところにいきなり定めら
れたのではなく、国民の権利を侵害した歴史を踏まえて、国民の権利を侵害しない
ようにせよ、という意味で定められた規定なのである。
一見、嫌韓厨から離れ、憲法論にずれすぎのようではないかと思われる向きも
あるだろうが、嫌韓厨の本質は、「国家主義的」な「差別主義者」であり、
過去のナチスドイツにおけると、思考は同じということで、そのような観点から
彼らの思想的背景について、書かせてもらった。
>>41 そんなたいそうなもんじゃねえって
誰だってキチガイじみた粘着は気持ち悪りぃって思うだろ
そういう素朴な感情から来てるんだよ、嫌韓ってのは
43 :
考える名無しさん:03/10/19 15:09