使用テキスト
『ブリタニカ草稿(最終草案)』 (『ブリタニカ草稿』所載(p78〜125)、せりか書房、田原八郎訳)
誤り、見逃し等がありましたら、ご指摘、ご指南ください。
基本的にsage進行です。
で、始めますが、その前に一言。
もしこのスレを見て、「よし、俺も」と気合を入れた初学者の方は、この論文から入らないほうが
いいと思う。フッサールは悪文とよく聞くが、特にこの論文は極度に内容が凝縮されているので、
いきなり読み始めても絶望し悪態をつくだけで終わる可能性が高い。入門は、
『デカルト的省察』 (岩波文庫、浜渦辰二訳 or 世界の名著、船橋弘訳)
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 (中央公論社 or 中公文庫、細谷・木田訳)
がいいと思う。前者は第4章まで(名著版で100n弱)、後者は1、2部(単行本で120nほど)を
とりあえず読んでみては? 特に後者は理屈抜きで面白かったし、人によっては世界観が変わる。
あと、独学でフッサールを学ぶものにとって、『現象学事典』(弘文堂)は必携です。
【まえがき】
現象学は、厳密な学としての哲学(1)を可能とし、あらゆる諸学問の方法論を
革新する。この試みは、それと内容的にも方法的にも平行するアプリオリな
純粋心理学(現象学的心理学)を生じさせる。この心理学は、従来の経験的
心理学に確実な基盤を与える。
また、現象学的心理学は、より哲学的かつ厳密である哲学的現象学
(超越論的現象学)へと至る予備段階でもある。(2)
《解説1》
フッサールが、厳密な学としての哲学(第一哲学)を志した経緯を説明します。
彼が哲学を学んだ19c末〜20c初頭は、いわゆる「科学の危機」が叫ばれた時代です。
数学に例をとると、非ユークリッド幾何学の樹立は、従来直観的な真理だと考えられたユークリッド幾何学
の公理が単なる仮説にすぎないことが明らかになりました。当初は、この幾何学は、単なる論理的構築物に
すぎないとされていましたが、アインシュタインによって、重力現象の説明にはこちらの方が有効であることが
証明され、現実とも関連があることがわかりました。すべての数学の理論は、任意に選択される公理群からの
整合的な推論の体系にほかならないことすら証明されました。これは、最も厳密だと考えられた数学によって
自然を記述する自然科学に大きな衝撃を与えます。
また、物理学の分野では、量子論の発見により、我々を離れて客観的に存在する世界を問うことが不可能
であることが証明されました。
これは、しょせん科学の理論体系は主観的な性質のものに過ぎず、世界を認識する一つの道具に過ぎない
ということを意味します。このことから、科学の相対的実用主義的な見方が提唱され、絶対的な真理(世界認識)
を追求することは無意味な行為という風潮が生まれます。
上は、自然科学における危機ですが、人文科学においても同様の危機が訪れます。
心理学は、19c中葉のフェヒナーらによって、自らの意識の内面を観察する従来の内観法を捨て、自然科学に範を
取った実験的方法を取り入れます。これはめざましい発展を遂げます。その結果、あらゆる認識、学問は意識の
構造によって規定されるという所謂「心理学主義」が生まれます。この心理学主義から見れば、論理的法則も
われわれの心理作用に過ぎないことになります。それは全ての論理や数学といった客観物は、所詮人間における
真理であるという相対的な人間中心主義に帰結します。この立場では、普遍的な学を確立するのは原理的に
不可能となります。
(この心理主義、加えて心理学との戦いは、現象学もが同じように誤解されることが多かったことから、初期から
晩年まで形を変えながら執拗に続けられます)
同様に、社会学ではあらゆる思想、認識、学が社会的な起源を持つことが主張され、歴史学では「歴史主義」──
全てが歴史的状況に規定される──とされました。
これらに共通するものは、学の普遍性を放棄した相対主義的立場です。
フッサールは、哲学こそがこうした諸学問の危機を救わなければならないと考えます。
宙に浮く諸学に確実な基礎づけをすることにより、学の絶対性の復興──それは理性の復興でもあるのですが──
を企てます。生涯思想を変貌させていくフッサールに最後まで流れている信念は、この学(理性)の復興ではないかと
思われます。
余談ですが、客観世界の崩壊は生物学にも大きな影響を与えます。
一つの客観世界に様々な生物が住むという従来の環境構造はユクスキュルによって破棄され、全ての有機体は
それぞれ特有の空間性・時間性、内容的性質を具えた環境構造を持つとされました。
この世界観は、後にハイデガーの世界内存在の概念にも大きな影響を与えました。
《解説2》 「三つの心理学」
経験的心理学 ─ 現象学的心理学 ─ 超越論的現象学
(純粋心理学)
これは心理学の進化でもあります。
それぞれの心理学はその左の心理学に基礎づけられます。
(経験〜は現象学的〜によって、現象学的〜は超越論的〜によって)
1 経験的心理学 :実証科学の方法論を模範に生みだされた心理学。外部世界(身体)と心との因果関係を探究する。
2 現象学的心理学 :外部世界を想定したまま、現象学的方法(還元)を用いて、純粋な心的自我の領域へと立ち戻り、
そこでの純粋な心的経験を記述する。
3 超越論的現象学 :外部世界の実在を判断停止し、還元により世界がそこから構成されてくる心へと至り、そこでの心の構造
を解明する。
1,2が対象とする心は、世界がまず存在しそこにその一部として在る心(心的主観性)を扱い、
3のそれは、(外部世界の存在を認めずに)世界さえもその領域で構成されるとする心(超越論的主観性)が
主題となります。
この二通りの自我は異なったものですが、けっしてどちらかが一方の第二の自我として補助的に
あるものではありません。超越論的自我での経験は、心的自我での経験へと変換できることにより、
両者の同一性が保たれています。(9節で詳述)
まずは、この二つの自我(主観性)の違いを理解することが大切です。
心的自我とは、通常私たちが心と呼んでいるもの(心身二元論の心)、超越論的自我は、一般に独我論と
批判されることの多い心、と「とりあえずは」イメージしてもらってかまわないと思います。(もちろんこれは、
「世界は私の心の中に生じる幻である」という独我論を主張しているのではありません。詳細は後述)
>>2 ポールさん、わたしは、「「よし、俺も」と気合を入れた初学者」のひとりです。
『デカルト的省察』『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のスレを
立てる予定はありますか?
>>9 いえ、ないです。
9さんが立ててみてはどうでしょうか?
全くの初学者でも、その2冊なら解説書片手に読みこなせると思いますよ。
知ってると思うけどブリタニカ草稿って
現代思想特集でも木田さんだっけ訳してるよね。
おれも田原訳と両方持ってるけど。
>>11 いや、知らなかった。
何月号? 欲しい・・。
今、本棚にある臨時増刊のフッサール号見てみたら・・・あった!。
灯台もと暗し・・・。
情報ありがとう。感謝してます
なんだ。知らなかったんだ。書いてよかった。
あと知ってると思うけど浜渦さんのHPは結構いいよね。
いろいろ論文が読める。
15 :
考える名無しさん:03/10/13 00:29
フッサール研究っていつまでたっても代り映えしないね。
現象学は運動ってか?
E・フッサール.木田元・宮武昭訳「現象学「ブリタニカ」論文」
『現代思想1978ー10臨時増刊 総特集=フッサール 現象学運動の展開』
青土社、p.50〜p.67
>>10 ポールさん、
『デカルト的省察』(世界の名著 船橋弘訳)と、
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫 細谷・木田訳)は、
古本屋さんで買いました。
『ブリタニカ草稿』は、みつからなくて、、
『現象学事典』(弘文堂)は、高かったので、
まだ手に入れてません。
わたしは現象学どころか、哲学自体をまだよく知りません。
だから、ポールさんのように解説することはできません。
少しづつ読んで、わたしなりにまとめることならできると思いますが、
それでもわたしが立ててよいでしょうか?
立てるとしたらどちらの本からがいいでしょうか?
スレと直接関係ない話ばかりですみません。
ageてすみませんでした。
2冊の本を少し読んでみたんですが、わたし自身は高校の倫理の授業で、
デカルトの「われおもう ゆえに われあり」のことを聞いたことがあるので、
『デカルト的省察』の方が、わたしにとっては分かり易いそうだと思いました。
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』キボン
百科事典って、門外漢にもある程度わかるようにやさしく
書きそうなもんだと思うんだけど、ほんとに活字になった
フ先生の文章は(そのようなものがあれば)、厨にも
分かりやすいんでふか?
もちろんおいらが一方的に誤ってる可能性もある
「ブリタニカ」=百科事典(「ゲンゴロウ」の次に「現象学」が載ってるとか)
(《解説2》続き)
では、なぜ一見独我的と思える超越論的主観を想定するのでしょう?その想定は、《解説1》のフッサール
哲学の動機とどのように関連しているのでしょうか?詳細は本論で明らかにされますが、そのさわりだけ
述べておきます。
フッサールが現象学においてやろうとしたことは、相対性に陥った学の普遍性の復活です。彼はそれらの学の
混迷原因をそれらの学が立脚する地盤が確実ではない、具体的には曖昧なまま使用された概念やカテゴリー
にあると考えました。では諸学の地盤のどこが不確実で、絶対確実な基盤とはどこに存在するのでしょうか?
フッサールはデカルトにヒントを得ました。
デカルトは徹底的な懐疑──彼は目の前の机の実在さえ疑います──の末、「全ては疑えても、その疑っている
私が存在していることは疑えない」(我思う。ゆえに我あり)を発見します。デカルトはここに、これ以上疑うことが
できない絶対的な基盤を見つけます。「目の前の机は幻かもしれない。しかし、私がその机をみていること自体は
疑えない」というわけです。その「机をみていること自体」が起こっている場が主観です。
一方、諸学が基盤とする客観世界、及びそこに含まれる事物の存在はドクサにすぎません。日常の経験から
「外部世界はあるはずだ」と思いこんでいるだけで、それが証明されたわけではないのです。
全ての存在者は「主観の内において」その存在意味、存在妥当(確信)が生じます。それ以外にはありません。
存在者を決定する全ての源泉である主観(超越論的主観)こそ、デカルトが看破したように絶対的な基盤だと
フッサールは考えたのです。
《解説1》補足 「厳密な学」という理念について
現代に生きる我々、特に日本人にとって、この学の理念は理解しにくいのではないかと思います。
木田元氏も著書の中で述べております。(『現象学』p38)
フッサールに限らず、近代西洋の哲学者にとって、「学」とは神のロゴス、ないしその現れともいうべき
世界の理性的秩序の探求です。世界が神の創造物である限り、その構造は互いに根拠づけの連関をなし、
最終的には究極的な根拠に支えられた厳密な体系をなすはずです。そして、神の表象としての人間には
神の理性の「出張所」である「(人間)理性」が備わっています。それを正しく用いれば世界の構造を解明
できる、という信念が西洋の学を支えていました。
しかし、前述のように、客観世界を人間が認識することの不可能性が原理的に発見されました。それは
たんに学問の限界を示すだけでなく、神の存在の否定、世界の理性的秩序の否定、神の表象としての
人間理性の否定につながります。これは、理性(神)への絶対的信頼を基盤に形成された西洋精神文化
の根底を揺るがすことになります。
しかし、彼らと異なり我々日本人には、もともとそのような絶対的なもの(真理)を基盤に文化を創る歴史が
ありません。それゆえ、それを失う恐怖も理解しがたいのではないでしょうか。
私が西洋の哲学書を読んだ時、知的には共感するのですが感覚的には感情移入しにくいのはこの辺りに
原因があるのかもしれません。
これから本論に入りますが、現象学という「方法論」に対する私自身の疑念を先に挙げておきます。
理論的には「なるほど」と私も思うのですが、実践においてはどうなのでしょうか?厳密でありえるのでしょうか?
現象学は還元により意識の内面を記述するわけですが、その記述が客観的であると判定する基準は
果たしてあるのでしょうか?確かに人は、主観の内で存在者の存在意味や確信を構成し、それ以外に
ありません。しかし、その心を内省(還元)した時導き出された記述に、どのようにして客観性を持たせる
のでしょうか?各自還元を行い、その成果を他者と比較するしかないのでしょうか?それこそ相対的では
ないでしょうか?加えて、無意識の領域はいくら還元を行っても表には出てこないのではないでしょうか?
読書会を通じ、これらの疑念もおいおい考えていきましょう。
T 純粋心理学、それの経験領野、それの方法及びそれの機能
【1】 純粋自然科学の純粋心理学
自然科学は、世界を「物的事象」と「心的事象」とに分離した物心二元論を
前提とする学問である。その最初の出発点である純粋自然科学は、心的
事象を問わず、物質自体そして物質同士の物理的因果関係のみを考察の
対象とする純粋に物理的な学問である。
経験心理学は、爆発的な成功を収めたこの純粋自然科学から発生する。
この学問は世界の残る一要素である心を扱うが、その目的は、動物や
人間の一要素としての心的現象の解明である。心的現象を精神物理的
連関の中に位置づけて考えようとする。したがって、この心理学は純粋
自然科学の一分野である。
この心的なものを純粋自然科学から取り出し、それと対置させて主題化
しようとする心理学が、純粋心理学(現象学的心理学)である。
自然科学 ─┬─ 純粋自然科学(物的世界連関を対象とする) ─ 物理学、生物学、経験的心理学等
↑ └─ 純粋心理学 (心的領域を 〃 ) ─ 現象学的心理学
↓
(超越論的)現象学
さしあたり、純粋自然科学と並行する純粋心理学が、どの程度可能かを
問わねばならない。
《解説1-1》
純粋自然科学の一分野として経験心理学が産まれ、そこから分離した純粋心理学(現象学的心理学)は
経験心理学を基礎づける基礎学でもあります。のちにこの心理学は不完全であることが言及され、より
哲学的かつすべての諸学問を基礎付けるべき厳密な学としての心理学、超越論的現象学への道筋が
描き出されます。
【2】 『自己経験及び共同経験に関する純粋に心理的なことがら、志向的体験の全体的記述』
純粋心理学としての心を解明する上で手がかりとなるのは、我々自身の純粋な
経験の固有性である。この経験の分析を通じて、意識の構造、性質に迫る。
(ノエマの分析を手がかりにノエシスに迫る)
我々自身の経験に目を向けるとは「反省」、つまりそれまで他に向けられていた
意識を意識それ自体へと向ける行為である。
人は非反省時、そのつど意識している対象──コップといった実在的対象や、
思考、概念といった観念的対象など──へと向かっている。それが、自らの
意識を反省することにより、心理的体験そのものが捉えられる。(1)
この心理的体験はすべて「現象」と呼ばれ、その本質性格は「〜についての意識」
(「志向性」)である。(2) 志向性を本質性格とするこの現象が現れる領域を解明
する学問が、現象学的心理学である。
「あるものに関する意識は、このあるものを空虚に所有することではなく、むしろそれぞれの現象
はそれ自身の志向的な全体形式をもつのである」 (p83)
「意識はすべて何ものかについての意識である」
この志向性の構造は、知覚の場合に限らず様々な類型──想起、想像、判断、
価値づけ等々──にも当てはまる。何かを思い出すときもその「何かに向けて」
意識は働き、何かを価値づける時もその「何かに向けて」意識は向かっている。
それぞれの在り方(実在、空想物、価値等)で存在するためには、それぞれに
対応した志向的な構造(知覚、想像、価値としての意味付与)が働かねばなら
ない。(3)
さらに、普遍的な心の解明のためには、自己経験だけでなく他者の経験にも
よらねばならない。それゆえ後には共同存在としての心(「間主観性」)が主題と
なる。
《解説2-1》 「現出」「現出物」について
非反省時には我々の意識には「現出物」があり、反省によって初めて「現出」が捉えられます。
この違いをサイコロで説明します。
普段の非反省時、我々がサイコロを見ているとは、目の前の物体がサイコロであること意識して、つまり、
それをサイコロとして見ています。このサイコロという意味を伴った事物全体が「現出物」です。しかし、
そのときの意識をよく反省してみると、その瞬間瞬間にはサイコロの一面しか見えていないはずです。
意識の一瞬一瞬にそこに現れるサイコロの一面としての現象が、「現出」です。
《解説2-2》 「志向性」について
この「現出」と「現出物」をつなぐ意識の本質性格が「志向性」(〜についての意識)です。
我々が事実経験しているのは現出で、現出物であるサイコロそれ自体ではありません。サイコロそれ自体を、
全面から一度に認識することはできないからです。にもかかわらず、次々に流れゆく現出の経験(サイコロの
一面)から現出物(サイコロそのもの)を理解しています。これは、今見えている一面と今は見えない裏面という
二通りの現出を総合し、サイコロという一個の存在者に向かって意味付けできる性質を意識がもっているから
です。その性質を「志向性」といいます。(今は見えていない裏面も現出の一種です)
つまり、意識はそのつどの多様な現出を、ある現出物へと総合的に統一する働きがあり、その働きが志向性
なのです。
「反省は、多様ではあるが総合的に統一された志向性へと導く」 (p83)
このような意識の働きに気づくのは、自らの意識を「反省」したときだけです。
反省によって、「現出ー現出者」「志向性」という意識の構造、さらには事物の存在意味(事物が持つ意識によって
付与される意味)、存在妥当(事物が実在しているという確信)の構造を明らかにすることができるのです。
注)以上、非反省時は「現出物」を、反省時は「現出」を捉えられるとして説明してきましたが、
もしかしたら非反省時は意識に作用している意識作用、反省時はそこでの意識内容を
把握できるとフッサールは述べるつもリだったのかもしれません。
《解説2-2》訂正
やはり間違っていました。
テクストに沿えば、注)の「正反対」(非反省時は「意識対象」を、反省時は「意識作用」を)が正しいようです。
(上の「現出」「現出物」の説明でも間違ってはいないのですが・・)
非反省時、意識内に存在するのは意識が向かっている対象(現出物)です。反省によって、意識の作用
である志向性が捉えられます。意識を自らの意識に向けることにより初めて、志向の対象の代わりに
志向そのものが把握できるわけです。
【3】 『純粋心理学的なものの孤立した領野 ─ 現象学的還元および真の内的経験』
現象学的心理学は、あらゆる外的な影響から切り離された純粋な心理経験と、
それが生じる領野(主観)を研究対象とする。しかし、従来の心理学(経験心理学)
では、経験を純粋に捉えることはできない。なぜなら経験心理学における心的経験
とは、外部世界(身体、他者等)との連関、因果を考察するため、否応なく外的経験
が混入するからである。(1)
そこで、そのような不純物(外的経験)が混じらない純粋な経験を取り出すために、
客観的にそれ自体として存在している(と確信している)外的世界の存在を一旦
括弧に入れる判断停止(エポケー)が必要となる。(2)
そこでは、目の前に存在するコップの経験は、志向性に基づいた「このコップ
に関する」意識に変換される。つまり、非反省時に存在する対象としてのコップは、
「現出ー現出者」「志向性」といった意識の作用から構成される意味形成体としての
コップへと変換される。
このように、外部世界に対するエポケーは我々の主観から超越して存在する
外部世界を意識の内部から消去するが、それによって、純粋意識が内容空虚
な領野となるわけではない。なぜなら、意識の本質が「在るものについての意識」
という志向性である限り、還元後に現れてくる純粋意識には「志向的相関者」が
現れてくるからである。その志向的相関者とは、「意味としての存在者(世界)」
である。純粋意識とはすなわち、「世界を意味として構成する意味付与の領野」
(超越論的主観性)である。
エポケーの後に現れる世界は、世界のうちに存在する私の意識、世界内部的な
心的意識でなく、世界さえも志向的相関者としてもつ超越論的意識(純粋意識)に
ほかならない。この純粋意識の志向的構成作業を反省し、そこからいかにして
世界という意味が構成されていくかを見極めようとするのが現象学的還元の目的
である。
<経験心理学 ─ 心的主観> <現象学 ─ 超越論的主観>
《通常の態度(自然的態度)における世界》 《現象学における態度(超越論的態度)における世界》
(それ自体で存在する)客観世界 → (私の主観のうちで形成される)意味としての世界
(還元)
現象学が考察する対象は、実在する自然的世界でなく意識に現れる意味形成体
としての世界である。あらゆる存在者が意味として把握される。
この純粋な経験──意味形成体としての世界──を取り出すには「現象学的還元」
が必要となる。現象学的還元とは、
1 意識の中で無反省に措定している客観世界をエポケーする。
2 それにより現れる純粋経験から、「ノエシスーノエマ」の構造を取り出し、描写する。(3)
この還元は、自己経験から他者経験へと移行され、さらには個別化された領野(主観)を結合する
共同主観(間主観性)へと還元される(間主観的還元)。(4)
ここに、現象学的心理学の完遂される。
また、主観には、「自我極」と「対象極」が属している。(5)
《解説3-1》 「なぜ純粋意識を取り出すことが必要なのか?」
フッサールは前述の学問の危機の原因を、諸学問に確実な基礎づけがなされていないからだと考えました。
科学が用いる基本的な概念やカテゴリーは、通常、日常的経験から無反省に持ち込まれたものです。
日常的経験とは、素朴な世界確信の上に立つ経験です。この世界確信というドグサ(不純物)を取り払って、
全てがそこから生まれる原初の場(超越論的主観)で、もう一度それらの概念を基礎づけようとします。
>>23
《解説3-2》 「なぜ外部世界の存在をエポケーするのか?」「エポケーは外部世界の実在を否定するか?」
現象学は無前提性から出発します。そのとき世界の存在は確実と言えるでしょうか?世界が実在するという
私たちの確信は、日常的経験における明証性(知覚)に基づきます。しかしその経験は、デカルト的懐疑には
耐えられません。そのことは、世界の存在はもはや自明な事実であるいうことはできず、単に確信された現象
に過ぎないことを意味します。それゆえ、その不確実なもの(世界確信)の判断を保留しなければなりません。
そのような不確実なものを徹底的に排除することによって、絶対確実で純粋な領域(超越論的主観性)を取り
出すことができます。エポケーによって始めて、純粋な経験とそれが生じる純粋な領域の本質的な構造を分析
できるのである。そのとき、世界の意味もその存在の妥当性も、私たちの主観のうちで構成されていることが
わかります。
よく聞かれる現象学への批判に、「世界をエポケーするとは世界の実在を否定することなのか?」があります。
しかし、エポケーによって世界が消え去るわけではありません。世界はそっくりそのまま「意味として」主観のうち
へと移行されるだけです。木田元氏がうまい例えを挙げています。
「超越論的還元は、自然的態度(外部世界を自明とする態度)の
一般定立を否定するものではなく、ただその遂行をストップし・・・
そこに反省の目を向ける・・。
彼はまた、その定立を『括弧に入れる』とかその定立作用を
『スイッチを切る』などという言い方をしている。
スイッチを切ったからといって、そこにある配線が消えて無くなる
わけではない。ただ、日頃無意識に行っている定立作用の電源を
切って、そこに敷設されてある配線の具合を反省しようというのである。
当然そこで定立されていた世界の存在も否定されるわけはなく、
括弧に入れられた形で、つまり世界という意味形成体としてそのまま
そこに保存されることになる」 (『現象学』p46)
現象学という学の内では、外部世界を否定もしないし肯定もしません。あくまで「判断停止」なのです。
もう一つ、メルロ=ポンティの言葉を引いておきましょう。
「我々は徹頭徹尾世界と関係していればこそ、我々がこのことに気付く
唯一の方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、
あるいはこの運動との我々の共犯関係を拒否すること(フッサールが
しばしば語っているように、この運動に参与しないでそれを眺めること)
であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。
それは常識や自然的態度の持っている諸確信を放棄することでなくて
──それどころか逆にこれらの確信こそ哲学の恒常的なテーマなのだ
──むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として<自明な
ものとなっており>、それと気付かれないで通用しているからこそそう
するのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させるためには、
我々はそれらを一時差し控えなければならないからこそそうするのである」
(『知覚の現象学』p12)
メルロ=ポンティや木田元氏のこの引用箇所は非常に明快です。世界をありのままに見るために、世界
の確信を一旦括弧に入れようと言うわけです。エポケーはあくまで「方法論として」行うといったニュアンスが
強く感じられます。しかし私が読んだ限りでは、フッサールの場合のそれはかなり倒錯しています。
後に9節で「自然的態度」における経験と「超越論的態度」におけるそれの平行性が語られますが、それゆえ
外部世界を認めているとは単純に言えないようです。私もよくわかりません。追い追い考えていきましょう。
《解説3-3》 「ノエシスーノエマ」
ノエシスは意識の「作用的側面」、ノエマは「対象的側面」です。
ノエシスとノエマは意識の必然的な相関者でノエシスの必ずノエマを持ち、ノエマはノエシスによって思念されます。
サイコロの体験を例に挙げれば、「ノエマ」とは現出者(サイコロそのもの)の意味、「ノエマ的意味」が現出(サイコロ
の一面)がもつ意味です。「ノエシス」は様々なノエマ的意味をノエマへと総合する意識の働きです。
1 ノエマ的意味 : 直接経験が持つ現出が持つ意味。
2 ノエマ : 諸現出と一体になって捉えられた限りでの現出者(=意味形成体)。
もろもろのノエマ的意味が一つの基体に収斂しているという一体構造、あるいは
一つの基体がもろもろのノエマ的意味をまとっているという一体構造をもつ。
一つのノエマは、もろもろのノエマ的意味がひとつの基体に収斂させられることによって
構成されている。還元によって対象はノエマとなる。ノエマはノエシスのように意識には
実際には属さないが、意識にとって存在するものである。ノエマのこのあり方が意識への
「志向的内在」といわれる。
この構成を遂行しているのが志向的体験(直接体験)である。この意識の働き(志向性)がノエマと
対比させられるときノエシスと呼ばれる。
3 ノエシス : ノエマを構成する意識の働きの側面
《解説3-4》 「間主観性」
「間主観性」とは、複数の主観がそれぞれ主観のままで共同で築きあげる一つの相互関係(の確信)です。
間主観性によって、個々人の還元によって現れる世界は各自的な世界に尽きるものでなく、常に多数の
主観による共同的構成に基礎づけられています。この相互関係(確信)は、世界の客観性の基底をなします。
他者をも私の意識によって構成される志向対象とする現象学は、間主観性によって自我と他我(世界)を
結びつけます。
しかし、自我と他我の関係は間主観性によってうまく説明されておらず、現象学が独我論と非難される一因
となっています。
1 他我を自己の変様態とするフッサールは、間主観性の前提である自他の等根源的な共存を説明したことにはならない。
2 各自の自我の意識によって構成された世界は、各自それぞれの世界であり、これは「唯一存在する世界」という我々の
信念に反する。
これらの批判への反駁はとりあえず置いて先に進みましょう。
《解説3-5》 「自我極」「対象極」
意識の志向性がもつ二重の極性です。
意識の流れの中で、様々な体験は「対象極」へと収斂されます。一方、それらの体験自体は同一の自我
における体験です。自我は同一のままにとどまります。この同一性を担うものが「自我極」です。
たとえばサイコロを認識するとき、次々に現われるサイコロの現出はその都度流れ去っていきますが、
サイコロという一つの体験としての統一性を失うことはありません。いわば、この(サイコロ)体験はサイコロ
という一つの「対象極」へと向かっているのです。一方、このような体験自体も次々と流れ去っていきますが、
それらはすべて「私の」体験です。すなわち「私」はもう一方の「自我極」として成立しています。
【4】 形相的還元および形相的な学としての現象学的心理学
現象学的心理学には、(これまで述べた)事実的な領域を扱う方法
(現象学的還元)と、アプリオリで本質的な領域を扱う方法がある。
後者が「形相的現象学」である。現象学においては、事実性の探求
よりも本質性のそれがより重要である。心理学的現象学は、この
「形相的現象学」によって基礎づけられねばならない。(1)
現象学的心理学 ─┬─ 心理学的現象学(事実性を扱う)
└─ 形相的現象学(本質を扱う)
現象学的還元が、現実的、かつ可能的な内的経験の諸現象に至る
道を与え、形相的還元は、純粋に心的な領域の不変的な本質諸形態
に至る道を与える。
《解説4-1》 「形相的還元」
形相的現象学における還元が「形相的還元」です。
これにより、事物の本質形式(形相)を取り出すこと(本質直観)が可能となります。
現象学的還元 − 意識体験の領域をその個別的事実において探求。
形相的還元 − 意識体験の領域の普遍的な本質形態(形相)を探求。
形相的還元とは、ある事象内容を持った個体(具体的な一匹の犬等)から出発して空想的な自由変更を
つうじ、それの形相(犬の必要不可分な本質)を抽出する作業です。本質直観と言ってもいいでしょう。
(本質直観:変化の中で普遍である本質を捉える操作)
このような本質学、形相学をフッサールは「存在論」と呼びます。存在論は対象の領域によって二通りに
分けられます。
領域的存在論 − 世界のうちの諸領域には、それぞれ経験的事実学が対応しているのと同様に、
本質学の対応がさらに要請される。これが領域的存在論である。たとえば幾何学は
空間的世界のそれである。
形相的存在論 − 適用範囲が領域的に限定されないもの。算術、代数、一般論理学。
44 :
考える名無しさん:03/10/25 03:39
よそでも書いたけど、現に見えているコップが、風景が、他者がそのままノエマなのだよ。
で、コップのノエマ的意味は、その(コップとしての)道具的性格であり、
知覚している<私自身>がノエシスなのだよ。
で、コップの形相的還元をやると「コップ的相貌とそれに見合った道具性」になるのだが
それはコップのイデアとほとんど同じだ。
>>43 最近(他スレでも)書き込みが見られず残念に思っています。
プレッシャーをかけるつもりはありませんが、時間をかけても構いませんので
続けてください。
特にポールさんの見解が見られる解説が楽しみです。
【5】 精密な経験的心理学に対する純粋に現象的な心理学の原理的な機能
純粋自然科学を範とする経験的心理学は、現象学的心理学によって基礎付けられ
ねばならない。さらに純粋自然科学そのものも、そこで使われるあらゆるあいまいな
概念と規則をこの学によって根本的に検討し直されねばならない。
現象学的心理学の体系化のために、次のことがらが明らかにされなければならない。
1 志向性 :志向的体験一般の本質構造(総合)の解明。
2 総合 :志向的体験における個別的諸形態の究明。諸総合の様々な類型の解明。(1)
3 意識流 :心の深底において多様に流れ去る経験を統一し、一つの意識として統合するもの
(意識流)の本質記述 (2)
4 受動性 :自我に属する習慣性の探求は、新たに受動的次元を開く。(3)
4において、従来の「静的現象学」から受動的次元を扱う「発生的現象学」への移行が
なされる。(4) 発生的現象学において、対象を構成する超越論的自我の能動的な
働きに先立つ、受動的先構成の次元が明らかにされる。そこで働く作用が「連合」で
ある。(5) 能動的な経験は自我の受動的次元へと沈殿し、習慣化され、自らを形成
しつづける人格的自我として解明される。
≪解説5-1≫ 「総合」
意識経験は多様な個別的体験(現出)であるにも関わらず、それを一つの経験として結びつける能力を
持ちます。その能力が「総合」(「流れ去る多様の統一」)です。総合には幾つかの種類があります。
a 多様な現出を一つの統一した対象としての現出者への総合
b 想起された事物と過去に知覚した事物とが同一であることを結びつける総合
また、作用する次元により「能動的総合」「受動的総合」に分類されます。
能動的総合はすべて受動的総合を土台として行われます。ある対象が能動的に構成される時、同時に
そこでは、受動的次元(3)において蓄積された過去の経験が材料として提供され、能動的構成を補完
します。この原理ゆえ、サイコロの一面を見た瞬間にサイコロ全体を一挙に理解できるのです。
受動的総合の基底をなすのは、「内的時間意識」による時間構成と「キネステーゼ意識」による空間構成
です。これらが総合の形式的条件です。
能動的総合
↓
受動的総合 ↓:意識の深層へ
↓
内的時間意識(時間を構成)
キネステーゼ意識(空間を構成)
内的時間意識 − 意識のあらゆる諸体験そのものを内的に意識しつつ、それらの時間的持続を構成する
最も根源的な場。あらゆる構成の根源的な場です。個別的意識体験の総合が可能なのは、
もともと意識全体が総合的に統一されているからです。この普遍的総合の根本形式が
「内的時間意識」です。
キネステーゼ意識 − 運動感覚(位置与件)と対象の現出の感覚(アスペクト与件)との不可分の統一態を
「キネステーゼ」と呼び、意識にはその性質が備わっています。身体の移動(視点を変える
こと)は多様な現出を意識にもたらし、一個の現出者が呈示されることを可能とします。
事物の現われ(総合)とは、この「運動」と「感覚」が一体となっているがゆえに可能となるのです。
≪解説5-2≫ 「意識流」
意識とは、さまざまな事物や事象が現れては消えていく一つの流れです。この意識の在り方が「意識流」です。
意識流は現在と共に「過去地平」「未来地平」を有します。過去・未来の両方向に延びるこの流れはそれらを
包括する一つの流れへと統一し、それが純粋自我となるのです。
≪解説5-3≫ 「受動性」「習慣」
超越論的自我によって構成されるノエマは、その能動的な作用に先立つ受動的次元においてすでに規定されて
います。(1) 受動性の次元には次の二通りの働きがあります。
1 受動的志向性 :自我の能動的構成に先立って、ある原理(「連合」(5))によってノエマを構造化する働き。
2 触発 :連合によって構造化されたノエマが、能動的総合に際して働きかけること。
自我の能動的作用によって獲得した意味(ノエマ)は自我極に沈殿し、「習慣」として受動的次元に保存されます。
習慣は第二の受動性としてより高度な能動的総合の土台となります。
≪解説5-4≫ 「静的現象学」「発生的現象学」
さまざまなノエマ・時間・空間・自我といった諸成分の出来上がった状態を分析するのが「静態的現象学」で、
それら諸成分が生じてくる発生の過程を分析するのが「発生的現象学」です。
発生的現象学において、対象を構成する超越論的自我の能動的な働きに先立つ受動的先構成の次元が
明らかになります。
静的現象学 :構成的意識(ノエシス)と構成された対象(ノエマ)との関係を、その本質類型によって記述するもの。
発生的現象学 :対象が主観性の能動的な作用に先立って、意識の能作の所産としてすでに生成し形成されている
受動的次元を明らかにする。
「意味は自我に先立ってすでに構造化されている。意味は自我を触発し、自我の能作を覚起する」
「受動性の次元は自我の能動性に先立つ次元であり、かつ、能動的能作が可能であるための基盤である」
≪解説5-5≫ 「連合」
ノエマ的意味の構成に影響を与える受動的次元の原理が「連合」です。
連合とは、あるものを見た時にそれに類似した以前の経験を結びつける能力です。
例えば私がリンゴを見た時、そのリンゴ自体は私が初めて体験するリンゴですが、それが何であるか一から思考
し直すわけではありません。以前のリンゴの経験を呼び起こし、目の前の物体を(過去に経験したリンゴと同一
であると意味づけて判断するからです。連合の中で、始めての体験における連合を「原連合」と呼びます。原連合
によって一旦獲得された意味は、受動性の次元に類型として蓄えられ(習慣)、次回の経験に影響を与えます。
つまりある経験(の意味)は、その背後に蓄えられた膨大な意味地平との連関の中で決まります。
連合はフッサール他我構成における主要概念でもあります。(後述)
>>44 わかりやすい例えですね。
>現に見えているコップが、風景が、他者がそのままノエマなのだよ。
この部分は自然的態度における客観世界とどういう関係の上で述べられているのか
少し気になります。このままだと誤解を受けそうな・・。
まあ、私も未だよくわからないのですが。
>>45 ありがとうございます。
余裕ができたら、また参加したいと思っています。
特に兄氏との基礎づけ議論は、僕自身勉強になりますし。
2 現象学的心理学と超越論的現象学
【6】 デカルトの超越論的転回とロックの心理学
現象学的心理学は経験的心理学を基礎づけるだけでなく、
超越論的現象学の前段階でもある。超越論的哲学はデカルト
に始まる。(1) 超越論的問題が生じるに及んで、主観は二重
の意味を得る。(2) その二重性はそのまま心理学の二重性
(現象学的心理学、超越論的現象学)に相当する。
≪解説6-1≫ 超越論的哲学の始祖としてのデカルト
(
>>23で述べたように)デカルトによる純粋に思惟する自我への還帰は、超越論哲学への道を切り開きました。
デカルトは、すべての存在意味と存在妥当がそこから発生する主観にたどり着きます。しかし、その発見の
本来の意味を理解できなかったため、真の超越論的哲学へと入ることができませんでした。
数学的自然科学への信頼を持つ彼は数学的演算で、つまり純粋な自我という公理から客観的な外部世界を
演繹的に推論できるとします。取り出された純粋自我に本来備わっている諸原理に従って正しく推論を進める
ことにより、世界のその他の部分が解明できると考えたわけです。その時彼は、出発点となるべきその純粋
主観を客観世界と因果関係を持つ対置された一実体とみなします。これが主観と客観の分離を導き、彼は
(超越論的哲学と正反対の)二元論の父となります。
≪解説6-2≫ 主観の二重性
現象学的心理学の主観 :世界に存在する主観(心的主観)
超越論的現象学の主観 :世界を意味として構成する主観(超越論的主観)
超越論的現象学によれば、世界のみならず心的主観すら超越論的主観によって構成されます。
「純粋な自我とそれの意識作用(超越論的主観性)とが、世界・・・の自然的存在(含む心的主観)に
本来先立つ存在として、それに先行している」(「デカルト的省察」8節) (( )内ポール)
いよいよこれから「超越論的現象学」が述べられますが、もう一度これら学の違いを確認しておきましょう。(
>>7参)
(ただし時折、両概念が混同して使われている場面もあるように私には思えます。)
<意識の捉え方>
現象学的心理学 − 心を実体的なものとして捉える
超越論的現象学 − 意識の根本構造を「ノエシス−ノエマ」という志向性に見る
<対象の捉え方>
現 〜 − 意識が向かう対象をあらかじめ存在するものとして前提する。
超 〜 − その志向対象は意識によって構成されるものと見る。
<意識作用の捉え方>
現 〜 − 意識作用を記述するときも、単に意識作用(ノエシス)の事実的記述にとどまる。
超越 〜 − ノエマとの相関関係においてノエシスの機能の本質法則を記述。
【7】 超越論的問題
自然的態度によって我々の日常生活が営まれ、それを基盤に
実証諸学問が構築される。超越論的現象学はこの自然的態度を
エポケーし、超越論的態度へと移行する(1)。それにより、存在者
の意味形成と存在妥当の場が、外部世界から主観性へと移る。
「意識主観性の意識生命において世界は、そのおりそのおりの意味を持つ<この>世界として立ち現れる」(p99)
「世界の意味と存在妥当は主観のうちで与えられる。」
世界存在の解明は、主観のうちで構成される志向的対象としての
世界に向けて問われねばならない。この態度変更は、従来の哲学
問題は次のように変換する。
「世界は存在するのか?」
→「世界の確信はいかにして主観の内で生じてくるのか?」
「事物Aとは何か?」
→「主観の内で構成される事物Aの意味の構造はいかなるものか?」
また、超越論的主観性の作用は、現実に実在する世界に限らず
可能的(可能性として考えられる)世界をも射程においている。
通常可能的世界は、潜在的背景として意識の背後に退いている。
その潜在的背景を地平と呼ぶ。(2)
≪解説7-1≫ 「世界に対する3つの態度」
自然的態度 :世界の存在を自明とする日常的態度
自然主義的態度 :科学によって理念化された客観世界を自覚する科学的態度。外部世界の存在を自明とするのは前者と同様だが、
自然的態度における世界とは主観的相対的なそれで、こちらは客観的、普遍的な世界である。
超越論的態度 :外部世界をエポケーし、世界の意味形成の場である超越論的主観性へと考察の場を移行する態度。
≪解説7-1補足≫ 「還元の二つの途」
フッサールは前期(『イデーン』)と晩期(『危機』)で、還元の方途を変化させます。
前期における還元 :自然的態度から超越論的還元により一気に超越論的主観性へと至る。(デカルトの道)
晩期における還元 :自然的態度と自然主義的態度を区別し、後者をエポケーして生活世界(自然的態度)に一旦立ち戻った上で、
さらなる還元により超越論的主観性へと至る2段階のステップを踏む。(新しい道)
なぜフッサールはこのように変化したのでしょうか?
前期において混同されていた自然的態度と自然主義的態度を明確に分離し、還元において越えられる
べきであったのは、自然主義的態度の方であるのだとフッサールは悟ります。科学的世界観である主客
二元論を基礎づけながらも、それによって覆い隠されていた本来の自然的態度こそ還元によって顕わに
しなければならないと考えます。
この転換によって還元とは、「客体的なものの意味の生成を主体の構成作業に遡って明らかにするもの」でなく、
「世界を主体−客体の相関関係においてみようとする客体化的な意識の態度一般を判断停止するもの」と位置
づけられます。こうして還元によって科学的客観世界は排除され、我々が日常に生きる生活世界がそこに現れ
ます。自然的態度とは他の態度と並ぶ一つの態度ではなく、それらの一切の態度に先立ってそれらを可能と
する原初的態度に他ならないのです。
つまり現象学的還元の目的は、前期における「全ての意味や存在妥当を根源的に産出する超越論的主観性の
立場へと身を置く」のではなく、晩期の「我々の素朴な日常的経験、自然的態度を振り返ること」へと転換される
わけです。メルロ=ポンティは述べます。
「最初の哲学的行為とは、客体的世界の手前にある生きられる世界に立ち戻ること」
「真の哲学とは、世界を見ることを学び直すこと」
この生活世界への帰還は『危機』において主題化され、この隠し覆われた生活世界を顕わにし、そこに再び
科学的客観世界を基礎づけることにより、諸学の、加えて人間の危機を救うことができるとフッサールは考え
ます。
≪解説7-2≫ 地平
地平の基本的意味は、視野のうちに現れず注意されず、それでいて潜在的に存在しいつでも顕在化する
可能性を持った背景のことです。私は今モニターを見ていますが、その瞬間にも意識はされていませんが
机の上のテキスト、鉛筆、ノート、といった潜在的背景が控え、私の意識に上るのを待っています。
地平とはこの潜在的背景全体のことです。
現象学における地平の意味は、上述の個々の知覚的現出者の背景という意味を越えて、「別様の仕方で
ありうるものの(可能性としての)全体」と拡大されます。あるものの現れが、指示性や連想性の連関を介して
他の現れを喚起するように、ある地平は他の潜在的な地平を喚起するといった開放的な指示連関を持ちます。
すべての指示連関の結合によって究極的に想定された地平が「全体的地平」すなわち「世界」です。
「世界」とは現にある世界のみならず、可能性としての世界全体をも含む概念です。
個別的経験に先立って「世界」はすでに与えられており、個別的経験は世界との関連性の中で経験されて
います。この全体的地平としての「世界」は、受動的次元においてすでに存在しています。「世界」とは、
ハイデガーの「Woraufhin」(すべての存在者がそこから理解され、そこへ向けて理解される基盤)に近いの
ではないでしょうか。
【8】 超越論的循環としての心理学的解決
超越論的現象学の主題は、可能的な世界一般、つまり潜在的地平を含んだ
全体的地平(「世界」)における多様な志向的関係性を具体的かつ体系的に
解明することにある。「世界」の完全かつ全体的な存在意味が、普遍的に
そしてかかる世界に対する構成的な諸カテゴリーに関して解明される。
この解明は超越論的主観性を舞台に行われる。
科学が対象とする客観世界は「世界」に包括されている。それゆえ、あらゆる
実証的な諸学問は、それが対象とするすべての対象領域と共に超越論的に
判断停止のもとにおかれねばならない。
超越論的現象学が問題としている主観性(超越論的主観性)は、現象学的
心理学(や経験心理学)が問題とする主観性(心的主観性)とは異なっている。(1)
≪解説8-1≫ 超越論的主観性と心的主観性
この辺りくどいですが、もう一度「心的主観」「超越論的主観」の違いを確認しておきましょう。(
>>7-8 >>56参)
日常の我々にとって世界が実在することは自明です。私の心とは、物質と対置された心的実体として世界の内に
存在しています。この世界の一部としての心が「心的主観」です。世界は物質と心の二つの実体で構成されています。
科学もこの世界観の上に成り立っています。それゆえ、科学が対象とする心は、一方の実体である物質世界との
精神物理的連関のうちにある「心的主観」です。
しかし厳密な学を標榜する現象学にとって、世界確信の自明性は受け入れることはできません。その自明性とは
所詮我々の主観のうちで生じているものだからです。客観世界はもちろん、心(心的主観)すらも我々自身の意識
においてその意味と存在妥当(自明性)を獲得されたものです。ゆえに現象学が対象とする心は、「そこからすべての
存在者が意味づけられる主観(超越論的主観)」なのです。
【9】 超越論的−現象学的還元および二重化の超越論的仮象
では我々の主体は二つ(心的主観性、超越論的主観性)に分離
しているのであろうか?
もちろんそうではない。
心的主観性(及びそれと対置して存在する世界)の存在は超越論的主観性
を前提とする。たとえば知覚体験は、心的主観性においては外部の存在者
から与えられた所与性として捉えられる。一方、超越論的主観性における
知覚体験は、外部世界の徹底的な判断停止により、志向的作用によって
構成された単なる現象(意味)として捉えられる。このように、超越論的主観
における領野と現象学的主観のおける領野は平行する。超越論的経験の
領野は、観点を変更することにより、心理学的な経験領野へと変換される(1)。
これにより、自我の同一性が保たれる。
心的主観に現れる心的経験を純化するために現象学的還元が必要で
あったように、超越論的経験を純化するためには超越論的還元(2)が
必要となる。
そして、この平行論の主題は、間主観性へとつながる(3)。
超越論的な間主観性は、そこからあらゆる超越が存在意味を得る基盤である。
≪解説9-1≫ 「現象学的心理学と超越論的心理学の平行論」
「あらゆる超越的な現象学的教説を、自然的な実証性の教説へと変換する可能性を明らかに示す」(p112)
「この経験的な現象学は、実証的な諸学問の完全な体系的全体と同一である」(p116)
ただし、超越論的経験を心理学的経験へと変換させることは可能だがその逆はできない、とフッサールは
考えているようです。(ある次元が、それより根源的な次元を基礎づけることはできない)
これは、心理学的経験によって取り出されるものと研究対象の重なる実証科学を超越論的哲学(現象学)が
基礎付けることは可能だが、その逆、つまり実証科学の成果を超越論的哲学の基礎とすることはできない
ことを示しています。
「もしそれが自然的見方において心理学として、すなわち眼前の世界に関係づけられる実証的な学問
として受け取られるならば、それは全く非哲学的な学問であることになり、他面において、<同じ>
理論的内実が超越論的味方において超越論的現象学として理解されるならば、それは哲学的な学問
である」(『イデーン後記』p144)
この節を読む限り、現象学(超越論的態度)において外部世界のエポケーは必然だが、現象学徒自身が
外部世界の存在を否定する立場に立つわけではなさそうです。(現象学徒といえ自然的・自然主義的態度
で世界と接することを否定しない)
≪解説9-2≫ 現象学的還元と超越論的還元
現象学的還元は心的経験を純化するため心的主観性へと立ち戻る還元、超越論的還元は超越論的経験を
純化するために超越論的主観性へと至る還元です。(ただし、現象学的還元=超越論的還元とする場合も
あるようです。その場合、心的主観性への還元は心理学的還元と呼ぶようです)
現象学的還元において取り出される純粋経験は外部世界との相関関係を持ちますが、超越論的還元における
純粋経験は、超越論的主観性によって構成される外部世界と関連のない志向的対象です。
68 :
考える名無しさん:03/11/08 10:36
うわー、すごいね。がんばって、応援するから。
《解説9-3》 「超越論的な間主観性は、そこからあらゆる超越が存在意味を得る基盤である」 (
>>39参)
現象学は、あらゆる存在者の意味を超越論的主観という領域で獲得します。
我々が通常自明のこととしている「心的主観」「他者(他我)」「客観世界」も同様です。
「現象学は独我論である」という批判は、現象学では他者や、我々が属する唯一の世界を説明できない
ということであり、それは間主観性の概念に関わっています。少し詳しく説明します。
a 現象学における他我の問い方
b 世界の意味の現れ方(総論)
c 他我の意味の構成
d 客観世界の意味の構成
《解説9-3a》 「現象学における他我の問い方」
「他我という意味は、いかにしていかなる志向性によって、いかなる総合において、そして
どのような動機付けに基づいて、私のうちで形成されるのか?」 (『デカルト的省察』「世界の名著」42節)
「客観世界をあらかじめ前提とするのではなく、自我にとってのみ存在する<単純な自然>
から出発して、この単純な自然から他我や客観世界がいかにして構成されるかを解明する」 (『省察』44節注)
現象学は科学のように、世界の因果の網の目に組み込まれている客体としての他我(他者)を問うのではなく、
超越論的主観性において、いかにして(客体としての)他我の意味が構成されていくかを、主観の能作を基に
明らかにします。
《解説9-3a》 「世界の意味の現れ方」
意味の発生段階を大まかに分ければ、「(1)(固有領域における)単純な自然 → (2)自我 → (3)他我 → (4)客観世界」です。
1-1 意味が生じる以前の固有領域において、何らかの物体(「単純な自然」)が現れる。
2-1 そこに現れる他とは異なった性質を持つ特殊な物体が「私の身体」として把握される。
2-2 その身体を操る私の心が想定され、身体・心を合一化した私の「精神物理的自我」が把握される。
3-1 私の精神物理的自我(以降、自我と略す)の外側に、私の身体と同様の振る舞いをする物体が現れる。
その物体を私の身体との類比において、他の身体として把握する。
3-2 「対化する連合」という根本形式において、対をなす「自我」と「後に他我となるもの」との間で意味の移し入れが行われ、
「後に他我となるもの」が自我の意味にしたがって統覚され、他我となる。
4-1 モナド的自我と他のモナド的自我とによる自然の共通化。(間主観的自然)
4-2 他我が、客体的な精神物理的実在として把握される。
「他我の身体を物体として捉える根源的呈示の層(3-1)」と「その物体を介して他我の精神を間接的に呈示する層(3-2)」
との直接的総合統一によって。
4-3 自我と他我、それぞれが属する自然の同一化。
「私が知覚する第一次領域」と「他我の知覚する第一次領域」の二つの層の連合によって、この両者の自然の同一化が起こる。
4-4 客観世界の構成
このように客観世界の存在意味は、固有領域(1)の基盤の上に、第一次領域(2)を始め幾つかの層を重ねることによって
構成されます。その最初の層が、他我を構成する層(3)です。(私にとって本来最初の他なるものは他我である)。
他我が、すべての他我と私を含む客観世界の構成を可能とします。客観世界がまず存在し、そこに他者が現れて
くるのではありません。
《解説9-3b》 「(3)他我の意味の構成」
固有領域(a)では、他者は単なる「物体」として現れます。
その物体の振る舞いが私の身体と「対化」(b)するような「連合」(類比的統握)(c)が働き、そこに身体という
意味が移し入れられます。そこで私の自己移入が作動し、それによって他者の経験が私に「付帯現前化」(d)
として呈示されるというふうに「他我」が構成されます。このように他我が構成されると、その他我は、私自身の
世界が経験している世界と同じ世界を経験するものとして与えられるから、あらゆる人にとって現存する
世界、つまり「間主観的世界」を経験することとなります。そこに属する主観は、我々の日常的な事物が
そこで様々に意味付与されているという意味で「超越論的間主観性」です。この世界が、客観世界の意味の
産出を可能とするのです。
a.固有領域 :超越論的主観性において、世界が最初に現れる原初の層。そこに現れる物体にはまだ意味が伴わない。
b.対化 :固有領域において現れたある物体が私の身体との類似性によって対をなすこと。
c.類比的統握 :対関係をなすもの同士の間で意味の移し入れが行われること。
d.付帯現前化 :それ自身では現前することができない間接的志向性。(間接的呈示)
他者の経験、世界を私は直接経験することはできないが、類比的統握により、
間接的に他我の現前が可能となる。
《解説9-3c》 「(4)客観世界の意味の構成」
他我の意味が産出された後、私の「第一次自然(e)」と他我のそれとの同一化が、「モナドの共同化」(後述)
という志向作用によって起こります(4-1)。その後、意味としての他我を、自己統覚機能によって世界内部の
存在とするような実在として客体化し(4-2)、その客体化された自我と他我が所属する世界も同一のはずだ
と把握されます(4-3)。最終的にその同一化された世界が、客観世界として意味づけられるわけです(4-4)。
e.第一次自然 :私の超越論的主観に現れる意味としての自然(世界)。客体としての自然の意味は、
この自然の客体化により現れる。
「自我は、自己自身の存在を完全に超越させる(客体化:ポール)ような存在意味を備えているそのような
新しい種類の志向性(モナドの調和)を自らのうちに持っている」 (『省察』48節)
「私自身の自我のうちで構成された他我の行う構成作用を介して私に対して我々すべてにとって
共通する世界が構成される。」(『省察』41節)
私の第一次自然)と他我のそれ(間接的呈示)との同一化は、現前する事物と想起の内の事物(想起的呈示)
との同一化と同様の構造を持っています。
《解説9-3c補足》 「私の第一次自然と他我の第一次自然はなぜ同一といえるのか?」
自我に「モナドの共同化」という志向作用が含まれているからです。「モナドの共同化」とは、モナド(≒主観)は
自分達の間で一つの客観的世界を構成し、その客観的世界の中で自分たち自身を、動物存在、とりわけ
人間存在として空間化時間化し、おのれを実在化・客体化する働きのことです。なぜそういえるかと言えば、
二つの間主観性は、共に私によって構成されたものであるかぎり、それらを構成する原初モナドとしての私と
必然的な共同関係の中に立っています。したがってあらゆるモナドの唯一の共同体だけが存在し、それが唯一の
客観的世界、つまり一つの自然だけが存在することができます。他のモナドの共存を含む構造が私に備わって
いるとすれば、この一つの唯一の自然が必ず存在”せねばならない”と考えられるわけです。
《解説9-4》 「心的主観性と超越論的主観性の関係」
心的主観性も、超越論的主観性で意味を獲得された二次的なものです。(《解説9-3a》 4-2の層において)
すべてに先立つのは超越論的主観性ですが、その自我は、私を世界内部の存在とするような自己統覚機能
が固有領域において働きます。それにより心的自我の意味が構成されるのです。
「超越論的自我としての私は、私に対して存在する世界を志向的相関者として構成した・・・(中略)
・・・他方において私は、その世界構成に対応する構成的総合によって自己を、構成された世界全体の
内部にある人間的で人格的自我という、普通の意味での自我(心的主観:ポール)という名のもとに、
世界内部の存在とする自己統覚を行った」(『省察』45節)
それゆえ、
>心的主観性(及びそれと対置して存在する世界)の存在は超越論的主観性を前提とする。
>>65 と言えるのです。
《解説9-4》 「心的主観性と超越論的主観性の関係」
心的主観性も、超越論的主観性で意味を獲得された二次的なものです。(《解説9-3a》 4-2の層において)
すべてに先立つのは超越論的主観性ですが、その自我は、私を世界内部の存在とするような自己統覚機能
が固有領域において働きます。それにより心的自我の意味が構成されるのです。
「超越論的自我としての私は、私に対して存在する世界を志向的相関者として構成した・・・(中略)
・・・他方において私は、その世界構成に対応する構成的総合によって自己を、構成された世界全体の
内部にある人間的で人格的自我という、普通の意味での自我(心的主観:ポール)という名のもとに、
世界内部の存在とする自己統覚を行った」(『省察』45節)
それゆえ、
>心的主観性(及びそれと対置して存在する世界)の存在は超越論的主観性を前提とする。
>>65 と言えるのです。
【10】 超越論的現象学に対する予備学としての純粋心理学
超越論的現象学の体系的な展開は、純粋心理学(現象学的心理学)の
それから独立してある。他方、純粋心理学は、超越論的現象学の予備学
として有用である。哲学と心理学の歴史は、哲学の最終形態である
超越論的現象学に至る道程であった。(1)
自然的見方(科学)と対立する超越論的哲学を、それ自体で独立する体系
として構築し、そこにおける超越論的教説を純粋心理学や自然科学の教説
へと変換する可能性を示さなければならない。
V 絶対的な基礎づけのうちにある普遍的な学としての超越論的現象学と超越論的哲学
【11】 存在論としての超越論的現象学
超越論的現象学は、アプリオリな諸学の体系的統一を可能とする
普遍的存在論を実現する。現象学は、客観的存在者だけでなく、
あらゆる可能的な存在者(存在者一般)に関するアプリオリな学である。
というのも存在者一般は、その存在意味と妥当とを、対象と相関的な
志向的構成から汲み取られるものだからである。
このことは超越論的主観自身にさえも妥当する。
それゆえ現象学は、実証科学の存在論と異なり、普遍的な存在論を
形成しうる。(1)
【12】 現象学と精密諸科学の根本的危機
自然的態度を基とした実在論を放棄する理由は次の通りである。
1 あらゆる存在者の意味と存在妥当はそれ自体で存在しているわけではない。
2 それらは超越論的主観性の能動的・受動的能作に従って規定される。
実証科学はもちろん、数学や論理学は、研究対象──実証科学では
客観世界、数学や論理学は数や論理──がそれ自体で意味を持って
存在しているという素朴な確信(独断論)をやめ、その前提自体を現象学
によって基礎づけねばならない。それによって初めて、諸学問は厳密な
学問となりうる。
諸学問は、現象学による形相的な普遍的存在論を構成する一領域として
存在する。
《解説12-1》 「独断論」
通常言われる「独断論」とは、
「理性の能力を吟味することなく、経験の内部においてのみ妥当する概念を経験を越えた対象へと適用すること」
です。そしてこのカント的な定義において、世界の実在とは経験の内部において妥当するものです。
しかし、フッサールはそれすら独断論であり、吟味し直さなければならないと考えるのです。
【13】 事実学と経験的現象学との現象学的な基礎づけ
それぞれの経験的な諸学問は、現象学によって基礎づけられることにより、
真にアプリオリである普遍的存在論へと統一される。実証科学の真正の
形態は、超越論的還元によって基礎づけられた現象学的な形態──
経験的現象学──である。
この経験的現象学は、形相的現象学によって基礎づけられることにより、
可能的な超越論的主観性一般に関する学となる。(経験的現象学は、
事実的な超越論的主観性に関する学である)
この限りにおいて経験的現象学は、実証的な諸学問の完全な体系的全体
と同一である。
【14】 全体的哲学としての完全な現象学
ここにおいて伝統的な哲学──普遍的な学としての哲学──が復興される。
この哲学は、次の二つの領域に分かれる。
1 第一哲学 :形相的現象学(普遍的存在論)
2 第二哲学 :経験的現象学。事実の全体を総合的に包括する超越論的な間主観性に関する学。
第二哲学は第一哲学によって基礎付けられる(1)
全ての学問は、普遍的な学である真の哲学を充実させる目的で存在する。(2)
《解説1》補足 「>宙に浮く諸学に確実な基礎づけをすることにより、学の絶対性の復興を企てます」
>>4 実証科学は、あらゆる存在者の究極的源泉である意識の志向的能作は知られないまま、それによって
構成された結果(その学問が扱う根本概念)だけを扱います。それでは、その概念の周囲に拡がる地平を
捉えることはできず、その概念の存立基盤(地平)の不確実性が残ります。それゆえ学の基礎的問題や
逆説や不可解な事態が生じます。現象学はあらゆる概念を意識の根源的能作から汲み取り、それが
含まれる地平を解明することにより、あらゆる概念の意味と起源を明らかにします。そこにおいて見いだ
された概念が諸学の真の根本概念とならねばなりません。現象学は、あらゆる学問的領域の根本的意味を
規定する概念体系を構築します。実証科学において十分吟味されていなかった根本概念が、現象学において
いかなる疑いの余地を残さない明晰判明さを持って現われます。たとえば、世界、自然、空間、時間、人間、
心、身体、社会的共同体、文化等の概念です。これが現象学による諸学問の基礎づけということです。(『省察』64節要約)
《解説7-2》補足 「自然の理念化(数学化)」
>>62 知覚対象は、その周囲に未だ規定されていない地平に取り囲まれており、経験はそれを充実させるべく進行して
ゆきます。しかし、絶対的・十全的に対象が与えられることはありません。なぜなら、知覚経験の本質はそのパース
ペクティブ性にあるからです。にもかかわらず、認識は現実には決して与えられない絶対的十全性を目指して進行
します。この原理を「目的理念」と呼びます。知覚経験の底層に働いているこの目的論的構造に含まれる
1 脱パーステクティブ性(我々の視点が特定の位置に拘束されることから脱却しようとすること)
2 立ち止まる今=永遠の今 (意識の絶えざる時間的流動性から飛躍せんとする動向)
を読みとり、そこに理性の目的論の発生的起源を求めます。
自然の数学化による自然科学の成立も、この理性の目的論に導かれた理念化の一形態として捉えられます。
(『現象学事典』<目的理念>参)
《解説2》補足 「>存在者を決定する全ての源泉である主観(超越論的主観)こそ、デカルトが看破したように絶対的な基盤」
>>23 現象学が舞台とするのは超越論的主観性ですが、現象学が解明すべきはそれがもつ「構造形式」と、その構造形式
による志向的対象の与えられ方です。
「自己解明によって、絶対に必当然的な明証をもって現われてくるのは、私が
その中において自我として存在しているところの、すなわち、私がその中において
のみ、自我としての普遍的本質を備えて存在し、それなしには自我として存在する
ことのできない、普遍的な構造形式だけである」(『省察』46節)
「そのような構造形式は・・・自己自身の体験を、普遍的時間の内部において、時間的な
ものとしてたえず自己構成するという形式での存在様式が含まれている」(『省察』46節)
(単なる地盤としての主観ではない)この絶対的必当然的「構造形式」を解明することが、現象学の目的です。
この構造形式ゆえに事物の本質(経験の限界)が規定されます。普遍的地平(世界)はこの構造形式を持ちます。
世界とはこの構造形式に則って現れるものです。
【15】 現象学的問題としての最高かつ究極の問題
全ての理性的問題は、現象学のうちにある。
伝統的な哲学問題は、現象学における超越論的経験(1)と形相的直観という
絶対的な源泉によってその基礎づけと解決の道程を得ることができる。
現象学により、主観の目的論的構造が捉えられ(2)、さらには、実践を行う時の
理性の自己省察機能、普遍的理念の理解は、理性が目指すべき方向性を
明るみに出す。
理性の構造、目的を知ることは、実践的な理念の実現を可能とする。
形而上学的な目的論的問題、倫理的問題、歴史哲学的問題は、それを判断
する理性とともに現象学のうちにある。
《解説1》 「超越論的経験」
現象学おける「経験」とは、客観物や客観的自体についての主題的・客観的な「判断」と区別され、それらの
判断に先立ち、それらを可能としている基盤としての前述語的な「経験野」のことです。(『経験と判断』)
経験はたんなる事実経験でなく、本質的・形相的な性格を持ちます。
この根源的な経験野は、すなわち超越論的主観性の構成作用が機能する基盤です。超越論的経験野の
根本構造として、世界地平、時間意識の総合、同質的および異質的連合などが特記されます。
【16】 あらゆる哲学的対立の現象学的解決
具体的な直観的所与性から抽象的な本質へと至る現象学は(1)、古くからの哲学的対立を解消する。(2)
1 合理論(プラトン主義)と経験論 :経験論は、最も普遍的な経験論(現象学)によってのみ克服される。(3)
2 相対主義と絶対主義 :相対主義は最も普遍的な相対主義(現象学)によってのみ克服される。(4)
3 主観主義と客観主義 :主観主義は最も徹底した主観主義である超越論的現象学によってのみ克服される。
そのような主観主義は、同時に客観主義でもある。
還元によって得られた経験は、絶対的な明証性の源泉である直観に基礎付けられており、
それらを他者のそれと比較、一致したものは真性の客観性を得ることができる。(5)
4 実在論と超越論(6)
5 心理学主義と反心理学主義(7)
6 実証主義と形而上学(8)
7 目的論的世界観と因果的世界観(9)
《解説16-1》 「具体的な直観的所与性から抽象的な本質へと至る現象学」
特定のアプリオリな原理を前提にし、そこから演算的に体系構築を試みる「上からの」哲学に反し、
「事象そのものへ!」をモットーとする現象学は、「真」の顕現の場である経験野に与えられる現象を
本質直観することから始まります。
《解説16-2》 「古くからの哲学的対立を解消する」
それぞれどのように解消しているのかは今後の私の課題です。
《解説16-3》 「現象学の客観主義と、実在的な客観主義」
あらゆる経験の源泉に基礎づけられていない実在的な客観主義(自然主義的態度における客観主義)は、
真の客観主義ではありません。真の客観主義とは、絶対的な明証性の源泉である経験野に基礎づけられた
── 一見、主観的にみえる──超越論主義です。
とりあえず、以上で『ブリタニカ草稿』読了です。
今年いっぱいはこの論文をはじめ、参考文献を読み直し、
足りない箇所を補充しつつ現象学の理解を深めたいと
思います。とりあえず『現象学の理念』『イデーン後記』を、
できれば新田義弘『現象学』にも目を通すつもりです。
まとめ
http://www12.ocn.ne.jp/~n_naki/
ポールさん、乙です!
ありがとうございます。
素直に嬉しいです。
まとめサイトかっこいいね
98 :
考える名無しさん:03/12/12 06:48
理念がいいなあ
99 :
考える名無しさん:03/12/14 20:29
現象学上げ。
100 :
考える名無しさん:03/12/14 20:30
ええじゃないか!
101 :
考える名無しさん:03/12/23 00:42
このスレはこれで終わり?
102 :
考える名無しさん:04/01/11 23:42
「ブリタニカ草稿」、ついに文庫本で刊行!!!!!!!!!
ちくま学芸文庫から2月10日にでます。
えらい時代になったなあ。
「ブリタニカ草稿」ってめっちゃ短くなかったっけ?
いいよなあ、現象学は。
「デカルト的省察」も「ヨーロッパ諸学の危機」もと思ってたら「ブリタニカ」もかあ。
近頃フロイトもばんばん出てるし。
ニーチェは全集がだいぶ昔にでた。
それにくらべ分析は「論考」がやっとでたところだからなー
105 :
考える名無しさん:04/01/11 23:51
>>104 チザムって読んだほうがいいかな?教えてください。
わたしは単に「好き」なだけでまだまだウィトとか教科書みたいのとかを読み出した程度です。
だからチザムってオモシロそうではあるけど、、、、
むしろこっちが教えて欲しい。
107 :
考える名無しさん:04/01/12 00:30
チザムって現象学の人?それとも西部開拓時代の伝説的ガンマン?
108 :
考える名無しさん:04/01/12 00:37
2月にブリタニカ草稿が文庫本で出るんだろ
てことは
デカルト的省察 岩波
ヨーロッパ諸学の危機 中公
ブリタニカ ちくま
って感じだな、
二月には
フッセル/池上鎌三訳 『純粋現象学及現象学的哲学考案』
も重版されるし
しかし谷徹の訳なんて使いものになるのか?
ちくまでブリタニカですか。楽しみですね。
しかも値段見たら、1300円。
二郎さんの『ヒューマニズムについて』が1200円で400p。
ブリタニカの最終稿はおそらく30pぐらい。
草稿合わせて100p。
あとは解説で300p!!
その情報どこでわかるんですか。おしえてください。
sage
114 :
考える名無しさん:04/01/24 11:48
115 :
考える名無しさん:04/01/24 12:26
誰かもっと面白いこといってくれ!哲板滅亡!
116 :
考える名無しさん:04/01/24 12:28
哲 板 滅 亡 !
117 :
考える名無しさん:04/01/24 12:32
いやしかしまぢに風邪ひいたぞい。
文庫は288Pか
本文+注+解説=288P
119 :
考える名無しさん:04/01/28 23:59
発売前保守あげ
あぼーん
121 :
考える名無しさん:04/02/02 21:19
hosyu
122 :
考える名無しさん:04/02/03 07:36
谷徹「現象学」めちゃめちゃ分かりやすいね。
ちくま学芸文庫の「ブリタニカ草稿 現象学の核心」も谷徹が訳してるから、
読んでみようかな。
入門書としてどうですか?
二幽門書だったら減少額の理念かな
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
,へ / \ ,ハ百
\ \ / ヽ ム.只
/へ/) l:::: ::::|
∧_∧∩ )( . |::::: (●) (●) :::::| =夫=_
(#´〜`)7 ( ! ____ |::::::ノ'""ゝ.\___/ :::::::| フi三iヽ
゚ .冂つム゚_」 Y (_ ____) ':; \/ ::::::::ノ '─'
゜ ム_」」」」ゝ 人 ___) (__∠__ \
(,_,,ノ `ー´ ( '; (__________) ~':;,,.
,' . / .' ヽ (_ ,,;::'~ ~':::;;,,,_
/ / ' \ヽ. __,,,,-‐''"~ ∧_∧ ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)
'0 __,,..l⊂Z_).⊃! ∬・∀・∬  ̄ ̄ ̄ ̄) (二二二二二...... 0
0Π0- ‐‐'''"" |;;:.:. ヮ . .:::;| ,べヽy〃へ ( ̄ ̄ ̄ 0Π0
HΠH ∩.∧_∧∩ ∧∧/ :| 'ツ' | ヽ  ̄λ_λ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧∧ ̄ HΠH
EEE (◎´∵`◎) (*・_・). o |=デ=! o | (0´く`0)ヮ [`Д´] EEE
|l|lil|ili| 瓜ゞッ=Lく ,くリ=ッ=[ゝ.__」「「「「L_.」 厂〉=ッ冂づ ヌ Oヮ⊂[]ヨ |l|lil|ili|
,,.<卅卅ゝ.__.,.,.,___.__.,.,.,(__)ヾZ)'_.,.,_じ(ノルハ)Jつ」」」」」⊂ソ.,_.,_.(入ム]つつ.__,L!__. (_」つ.,<卅卅ゝ
院生以外は読む必要ないよ。
てす
127 :
考える名無しさん:04/02/14 02:18
もう買った人いる?
買ったよ
>>122 立ち読みで流し読みしただけの素人なので、的確なことは
言えませんが、入門書としてはお勧めできないかと。
今回出版された『ブリタニカ草稿』は、草稿自体は
短いのですが(むしろ凝縮されているからこそ難しい)、
非常に難解な上、解説もあまり詳しくありませんでした。
そして何よりも退屈です。当時現象学は心理学と混同
されることが多かったらしく、この論文も、二つの学問
の相違に多くの字数を費やしています。
そもそも『ブリタニカ草稿』は、ブリタニカ大事典のために、
師のフッサールと弟子のハイデガーが共同で執筆した
ものですが、その途中で二人の現象学解釈の違いが
判明し、結局フッサールはハイデガーとの共同作業は
諦め、一人で書き上げたものです。
そのためこの論文は、二人の現象学解釈の違いを探る
研究者のための貴重な資料として価値のある論文であり、
入門者向きではないかと思われます。
谷さんの『これが現象学だ』を読んでいるなら、
『デカルト的省察』の第4省察までを読んでみては
いかがでしょう? いや、『これが〜『を読んでいるなら、
ブリタニカの方がいいのかな?
ともあれ、読んだ人、特に研究者の人の感想を聞きたいですね。
>>129 >そして何よりも退屈です。
今読んでる途中だけどスゲー面白い。
非常に密度が高い論文だから読んでて面白いよ。
謎解きしてるみたいでさ。
入門者にはお勧めしない。
木田元の本を読んでからなら
充分理解できるよ。
どうでもいいけど何故エトムントなんだ。
エドムントよりもそっちの方がドイツ語の発音に近いのか?
フッサールだったら岩波文庫から「純粋現象学及現象学的哲学考案」が復刊されるよ。
>>134 されるけど、戦前に訳された超直訳調らしいからなぁ…
第一草稿わかりやすい。これなら初心者でも読めるんじゃないか。
谷徹って若手の研究者だと思い込んでたが
50歳なんだね
139 :
考える名無しさん:04/02/16 00:14
クソスレあげ
あぼーん
あぼーん
あぼーん
まじで?『イデーン』、文庫で出るの?
あぼーん
あぼーん
ああ、もってるけど訳は古いよ。上巻が224ページで
下巻が350ページ、別に解説はついてないから
今度もつかないと思う。
言葉使いは 従つて とか 現はれたのである とかさ。
純粋現象学及現象学的哲学考案 (下) -- フッセル (著), 池上 鎌三; 文庫 価格:¥699
純粋現象学及現象学的哲学考案 (上) -- フッセル (著), 池上 鎌三; 文庫 価格:¥553
フッセルか。
厳しそうだな。
イデーンが700円ぐらいで買えるのか。
これはいいニュースでした。
挫折率の高そうなイデーンだな
みすずいくらなんでも高すぎる
古本でも値が落ちない
153 :
◆I/MiG5ooSQ :04/02/16 02:13
1
154 :
考える名無しさん:04/02/16 03:31
kusosure
155 :
考える名無しさん:04/02/16 07:16
フッサールも大学では数学を勉強した。
だからさー
おまいらも、まず、数学やれよ。
ちくま学芸文庫で『算術の哲学』もそのうち出るんだね
がんばってるなちくま
157 :
ヒモでヒキコモリ:04/02/16 17:13
イデーン、文庫で出してくれないかな。主著だし。
岩波のは持ってるけど原書を読む気がしないのと同じで読まない。
復刊は10年位前にもなかったか?
みすずとは違う新訳で出してくれたら偉業だろうな。
というわけでいまから彼女におねだりして買ってもらいます、ブリタニカ草稿。w
考案でしょ、草稿でしょ、危機でしょ、あと何が文庫になってるんだっけ?
経験と判断もおもしろかったな。
初心者には危機を強く勧めます。おもしろいから。
158 :
ヒモでヒキコモリ:04/02/16 17:15
岩波のデカルト的省察忘れてた
159 :
考える名無しさん:04/02/16 17:42
フッサールの文はナンデモアリでつw
つまり、なんでも引き出せますw
なんでも哲学の典型的見本でつ。
162 :
考える名無しさん:04/02/16 18:04
柄谷が「幾何学の起源」に遡行的問いを読み込んでいたのは面白かった。
ここで柄谷はニーチェとフッサールを重ねると同時に背馳させた。
そして、「危機」でフッサールをニーチェに再び近づけたわけだ。
柄谷経由でフッサールをやようとた人は多い。
ふーん
柄谷って文芸批評家でしょ
『幾何学の起源』っておもしろいの?
本文より長いデリダの序説が面白い、かも。
166 :
考える名無しさん:04/02/16 18:30
客観世界を否定しといて
最後に「共通のw」構造をとりだすってむじゅんでつねw
かもなの?フッサールって最初読むのは何がよいの?
>>167 現象学をあまり知らない人だったら、いきなりフッサールの著作から入るのは勧められないかも。
>>166 ロールズとかもそだね。個々の独自性とか言ってるのに、共通の正義の原理とか言う。
>>168 『フッサール 機嫌への哲学』は読みますた。
170 :
考える名無しさん:04/02/16 18:38
現象学的還元=自分の世界への引きこもり→ヒキコ哲学
でつ。
>>167 あえて挙げれば『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』かね。
ただ、その前に入門書や研究書とか読んでから入ったほうがいいと思うけど。
なにせ、フッサールの著作は砂を噛むような感じのものが多いから…
>>171 ありがとやんした。砂食べたことあるけど、あれすごく舌にくっつくんだよね。
沢山うがいしないと口にすごくのこる。あの感じ尋常じゃなく気持ち悪い。
もっと現象学勉強しよー。
173 :
考える名無しさん:04/02/16 18:58
デリダはフッサールをロゴス中心主義と批判したが、柄谷は超越論的
主観をフッサールはどのよに確保しているのかに注目する。
ここからメルロ・ポンティをはるか格下の単なる思想とみなす。
ブリタニカ草稿読み終わった。
いいね、これ。現象学の内容がコンパクトにまとまってる。
フッサールのだから内容も信頼できるし。
でも正直ハイデガーが書いた部分の方がわかり易かったw
解説もまあいいんじゃないかな。ブリタニカ草稿を読もうと言う人間なら
解説に書いてあることはほとんどわかってるだろうけどね。
>>174 >フッサールのだから内容も信頼できるし。
それゃ創始者だからなw
176 :
考える名無しさん:04/02/16 23:15
クソスレあげ
フッサールは彼の問題意識を共有できていないと
何読んでもさっぱりなんじゃないか?
少なくとも概観はつかんでないといきなりは厳しいだろうな。
フッサールってかっこいいよね
現象学の研究者でも
「フッサールの著作は捉えどころがないから、読んでる時はつらい」
っていう人は結構いるね。
フッサールの著作は捉えやすいだろう
あまりにも捉えやすすぎて味気がないということはあるが
捉えどころがないのはむしろハイデガー
モッタイブルナヨこんちくしょうめ
>>178 http://members.at.infoseek.co.jp/maruheso/aadic/ha.html#husagiko ,,,,,,,,,,,,,,,∧,,∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜′,,,,,,,,,,ミ,,゚Д゚彡< 俺様に惚れたか!ゴルァ
UU"""" U U \_________
http://fusare.at.infoseek.co.jp/ ミ,,゚Д゚彡 < こんなページもあるぞゴルァ(゚д゚)
フッサールの著作以外で発生的現象学を詳しく扱った本知りませんか?
知りません
だよな
186 :
考える名無しさん:04/02/20 01:04
来週の「お厚いのがお好き」は『イデーン』だそうです。
新田義弘の本は皆読んでる?
俺いま『現象学とは何か』を読んでる最中。
発生的現象学にも1章あてられてるよ。
アマゾンで現象学で検索したら売れ行き10位だった>新田現象学とは何か
189 :
考える名無しさん:04/02/22 10:25
>>182 山口一郎『現象学ことはじめ』が良書。
わかりやすいし、かつ今のフッサール研究の水準を示しています。
現象学入門としては
谷徹の『これが現象学だ』と並んで現在最もお薦めできます。
山口は海外を見ても最も深く発生的現象学研究を進めている一人です。
もちろん彼の解釈に反論のある人はいると思いますけどね。
新田義弘の著書も名著です。
木田元
「フッサール 起源への哲学」なんかもよいという噂だけど?
フッサールは入門書を読まずにいきなり『危機』から読み始めるのがいいと思う。
講演を元にした本だから読みやすいし、他の本と違って緊張感がある。
イデーン読んでるよ今
194 :
考える名無しさん:04/02/23 05:54
『デカルト的省察』はどう?
ところで、「省察」のよみは、
ふつう「しょうさつ」なの?「せいさつ」なの?
ちなみに、うちのガッコのセンセは「せいさつ」って言ってた。
>>192 私は2回挫折しました。でも3回目で成功しました。
>>195 どっちでもいい。両方あってる。おれは「せいさつ」と呼んでるけど。
197 :
考える名無しさん:04/02/23 11:54
>>192 私は7回くらい挫折しました。
7年位前に買って、まだ全部読みきってません。
>>197 1年に1回挫折してるんですね!もはや年中行事です!
ブリタニカ草稿、ゲットしますた。
これから読みます。
弐百もらった
「イデーン」の最初の第1章を詳しく解説した本はないですか?
201>>
レスが止まってしまいましたね。
ひょっとすると未だに、邦訳についているリクールと渡辺二郎の註が
手頃な資料なのかもしれません。
203 :
考える名無しさん:04/03/06 11:00
岩波文庫で復刊されたが・・・あれはどう?
>>203 やばすぎ。超読みにくい。旧字読みにくい。
だからといって、みすずのは高すぎ。
205 :
考える名無しさん:04/03/06 13:05
ブリ挫折しそうでつ。
よび知識は竹田の2冊だけでつがだめでつか?
>>205 やっぱり、オーソドックスにフッサールを理解するための
入門書として最適なのは谷徹『これが現象学だ』だと思う。
彼は本当にクリアに整理できる人でフッサールの理解についても正当派。
『これだ』は彼のブリタニカ巻末の解説よりもわかりやすいから、
『これだ』を読んでから解説読めば、翻訳に当たれるのでは。
編集者の意向でついたみたいなことが書いてありましたよね。
確かに、ご本人がつけたとは思えない。
羊頭狗肉だもんなw
212 :
考える名無しさん:04/03/14 23:06
あげ
谷さんてまじめそうだよね。
sage
hosyu
216 :
考える名無しさん:04/04/12 00:32
age
新田義弘『現象学とは何か』講談社学術文庫(後期フッサールの紹介者、ヘルト本の共訳者)
山口一郎『現象学ことはじめ』日本評論社(フッサール『受動的綜合の分析』の訳者)
斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』講談社選書メチエ(ヘルト本の共訳者)
谷徹『これが現象学だ』講談社現代新書(フッサール『ブリタニカ草稿』筑摩学術文庫の訳者)
※特に山口氏と谷氏の時間論についての解釈に相違があるので、併読することを御勧めします。
山口・斎藤・谷、各先生の書を併読後に新田先生の書を読まれることを御勧めします。
218 :
考える名無しさん:04/04/13 04:00
クセジュの「現象学」もいいよ。
絶対的時間化=絶対事実(新田氏)=原-事実性=事発性(山口氏)=「存在」(ハイデッガー)=絶対無(西田)
(本質と事実、主語と述語、一と多、同一と別異、流れと止まり、の源)
フッサールと対比される、唯識(佛教哲学)的には、
有為=虚妄分別=縁起=依他=異熟(器世間・有根身・種子)=究極の独自相(述語化しない主語)=虚妄分別と
無為=空=円成=究極の共相(主語化しない述語)との関係の問題です。
あぼーん
221 :
考える名無しさん:04/04/13 04:12
仏性はどうなってんの?
222 :
考える名無しさん:04/04/20 11:35
age
67j5
224 :
考える名無しさん:04/05/05 02:49
ピエールマンセーアゲ
あぼーん
226 :
考える名無しさん:04/05/18 21:50
age
227 :
考える名無しさん:04/05/31 18:10
【描いた夢を信じたい、情熱のすべてを賭けた挑戦。】
クソスレあげ。
229 :
考える名無しさん:04/06/03 06:14
プププ
フッサールなんてしょせん、数学者くずれですが、なにか?
まったく、かってに(自然科学の)危機をつくりあげて、勝手に解決したのがフッサールw
ププププププププププ
科学の目指すのが客観的真理なら、現象学の目指しているのは主観的な真理だろう。
絶対的な真理なんて知りようがないからね。
hoshu
232 :
考える名無しさん:04/06/24 00:41
>>230主観の真理と他の主観の真理は
一致するのか?
233 :
考える名無しさん:04/06/25 23:26
234 :
考える名無しさん:04/07/28 16:36
hoosh
235 :
考える名無しさん:04/07/28 17:20
>>230 目指すのはいいが、到達するのか? 目指しているってだけで偉いのか?
236 :
考える名無しさん:04/07/28 18:19
目的論的ですね
237 :
考える名無しさん:04/08/30 20:06
保守
test
もう終わりにしましょうぜ〜♪
240 :
考える名無しさん:04/09/05 14:34
ポールさんは新しいスレッドをたてないんですか。(ミラクル大作戦とかいうやつ)
デカルト的省察やりませんか
危機書でも可
242 :
在日外人参政権付与反対:04/10/09 08:02:13
243 :
考える名無しさん:04/10/23 23:52:16
あげ
246 :
考える名無しさん:04/11/26 12:46:35
次は『論理学研究』か『イデーン』か『危機』か。それとも『厳密学』か。
sage
248 :
考える名無しさん:04/12/18 18:38:23
246よ、テメーで考えてスレたてろや、このスットコドッコイが。
糞スレ上げるな、このカスが。
250 :
考える名無しさん:04/12/21 12:10:06
いいじゃんかよ、糞スレ、うんこスレ、まんこスレ、なんでもありよ。
それあっての2ちゃんじゃんだぜ。
そんな基本が和姦ねー249は頓馬よ。
おーい、ガンガン、ドンドンと糞スレで楽しもうぜ。
251 :
考える名無しさん:04/12/21 12:16:15
ふっふっふ、249殿は見事に釣られましたね。
そして見事に糞スレのお手伝い。
250殿ではありませんが、やはり249殿は
頓馬です。
252 :
考える名無しさん:04/12/21 12:19:00
わーい、わーい、わーい、糞スレに食いついた頓馬の
249、250及び251に、来年も糞福があります
ように。
253 :
考える名無しさん:04/12/26 15:41:01
おーい、オレにも糞福くでー。
254 :
考える名無しさん:04/12/27 15:48:17
糞スレいっぱいしたら糞福あげゆ。
前半力作、後半ウンコ
ひとりよがりの当然の帰結。もう沈めろカス。
257 :
考える名無しさん:04/12/29 14:14:26
そうよ、もう沈めや、この糞スレといっしょにな。
前半ウンコ、後半バカによる保守
259 :
考える名無しさん:04/12/30 14:57:38
このスレ死んだな。
またバカによる保守
さらにバカ
もうひとつ
263 :
考える名無しさん:05/01/21 19:17:11
age
またバカによる保守
266 :
考える名無しさん:05/02/04 04:05:20
267 :
考える名無しさん:05/02/26 00:22:45
俺はこれから論理学研究読んでみるよ。
しかしフッサールって、「当り前のことを当り前に書く」人だよなあ・・・
俺にはフッサールを読むことの快楽が全く感じられない。
「これは『学問』だ。厳密なものだ。娯楽じゃねーんだよ」
って感じ。
フッサール読んだ人それみんな口にする言葉だな。 >フッサールを読む快楽がない
「砂を噛むような」って誰かが形容してたが、なるほどな、と思った。
厳密に書こう厳密に書こうと努めた結果、おそろしく禁欲的な文体になってしまったんだろうな。
269 :
考える名無しさん:05/02/26 01:58:52
文体もそうなのかも知らんが、内容がね。
どんな問題に対しても、常識的な、理に適った答えを出してくる。
読みにくいわりに、読んでいて意外性がない。
そんな感じだよね。ある種のヌーボー・ロマンだな。
ひたすら砂を噛み続けることの反復をやっていると
あるリミットを越えた瞬間、これまでの世界が反転した
異様な光景が広がり出す。
その瞬間の到来を待ち続けて、こつこつ読むといい。
>>270 それが哲学書を読むことの面白さ、なんだろうな。
フッサールで「異様な光景」が広がるか??どうなんだろ
例えば、カントだと「経験より先にアプリオリなものが存する」と言われて、
「ああそうか!」と思う。カント自身が言うようにそれはコペルニクス的な転回であり、
哲学的に認識の転換、世界の反転が経験される。
逆に、日常の経験に実は深く根ざしている「思い込み」を露呈することにより
認識の転換を図るような哲学もある。
或いは、いつか一度は考えたけれども日常の生活に埋没して忘れてしまったような問題を
再び取り上げるような哲学もある。
しかしフッサールは、上記のようなものとは異なる。
例えば事物の本質にしても、それをアプリオリに想定するようなことは勿論しない。
逆に「本質などというものは存在しないよ」派でもない。
単に対象の志向性を分析し、そこから本質というものを取り出す。
(これは要するに、単に
「我々は日常、事物の本質を想定して生活している。だから、本質というものは存在する」と
言っているのに過ぎない。)
そもそも世界はなぜ存在するか?とかそういうDQNな疑問には答えないのは勿論、
そこで「語りえないものについては沈黙しなくてはならない」などという芝居めいた科白も吐かない。
ただ、ここにあるものをひたすらに記述し、ここに生じてきた問題のみに対して妥当な解答を与える。
・・・こういう態度を「妥協的」と見るか、「大人の態度」と見るか、の問題だよね。
(まあ最低、幾分妥協的であると評されることは免れないと思うけど)
273 :
考える名無しさん:05/03/09 02:05:19
からあげ
h
275 :
ローカルルール審議中:2005/04/04(月) 08:01:05
『経験と判断』はどうですか?
276 :
ローカルルール審議中:2005/04/05(火) 22:41:43
現代思想「特集=ハイデガー」の当該箇所を読み始めたのでage
277 :
ローカルルール審議中:2005/04/06(水) 00:36:56
フッサールと大塚愛は同一人物である。
終わったスレッドを無駄に揚げて延命させるのってローカルルールで禁止した方がいいんじゃないの。
>>278 フッサールスレがないのから
別に目くじらを立てなくてもよいだろう。
280 :
ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 23:46:36
三上真司氏の論文集を
ケイソウ書房あたりに公刊してホスィ。
疲れたときに聴く音楽はこれに限る。ジョージはこういう優しい闇に生きていたんだなあ
ポールや〜い
283 :
ローカルルール審議中:2005/04/26(火) 13:24:04
284 :
ローカルルール審議中:2005/04/26(火) 14:31:09
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jsshama/WADA/ma.htm 三上真司
フッサールとハイデガー - 事実と本質の関連をめぐる相剋と交錯
横浜市立大学論叢人文科学系列 1994.03
タルスキー・フッサール・絶対主義
横浜市立大学論叢人文科学系列 1996.03
言語の問題と現象学の解釈
哲学雑誌(東京大学) 1989
『算術の哲学』に関する批判的考察
論集(東京大学) 1985.01
起源への問いの起源
論集(東京大学) 1986.01
真理・関数・志向性 - フレーゲとフッサールとの連関について -
論集(東京大学) 1987.12
285 :
考える名無しさん:2005/05/09(月) 11:47:02
age
286 :
考える名無しさん:2005/05/19(木) 17:13:18
大森荘蔵はフッサールのぱくりだよねw
287 :
考える名無しさん:2005/05/25(水) 05:32:37
せめて批判的継承と……
岩波の哲学思想事典のボルツァーノに関する項目は、
大体三上氏だった。
sage
救済
sage
291 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 03:54:10
292 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 03:55:51
フッセルなんか、大森の前では犬の糞だね。
なにげに古参スレ
294 :
象 ◆GUGENiOq0w :2005/10/02(日) 12:41:44
しつこく上げてる馬鹿がいるからね
じゃあsageで
「中島君、いい勉強法を教えてあげます。
フッサールを読むのです。朝から晩まで読むのです。
9時から始めて、お昼までで1ページ。
ご飯を食べて晩まででまた2ページ。これをずっと続けるのです。」
(故・大森荘蔵の言葉。 中島義道『哲学の道場』(ちくま新書)より)
298 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 17:01:15
age
暇だがね
300
300
暇だがね
304 :
ジョン:2005/12/08(木) 23:12:20
ポールはどこいった?
?
暇だがね
307 :
考える名無しさん:2005/12/09(金) 22:33:43
↑
頓馬なタン純一だな。
余談だが
新田義弘が『現象学とは何か』で
フッサールは実際にやっている分析と、自分自身の仕事に対する解釈に
ズレがあるみたいなこと言ってた
それゆえ(『ブリタニカ草稿』読んだことがないが)いくらフッサール自身の手になる
入門書だからといっても鵜呑みにするのは危険かも
なるほど
310 :
考える名無しさん:2006/03/12(日) 14:08:25
そうかな?
311 :
考える名無しさん:2006/03/12(日) 16:08:07
>>297 その語り口には綾小路きみまろが入ってるな
312 :
考える名無しさん:2006/04/07(金) 13:24:44
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
313 :
考える名無しさん:2006/04/07(金) 13:28:00
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
z
zzz
314 :
考える名無しさん:2006/04/12(水) 02:25:08
哲学やってる奴って実質高卒だろwwwwwwwwwwwww
315 :
考える名無しさん:2006/04/12(水) 13:16:09
サラリーマンやってる奴って実質奴隷だろwwwwwwwwwwwww
316 :
考える名無しさん:2006/04/13(木) 07:38:05
大森荘蔵はフッサールのぱくりだよねw
317 :
考える名無しさん:2006/04/14(金) 09:48:40
大森哲学のブームはまだですか
318 :
考える名無しさん:2006/04/17(月) 14:20:59
『算術の哲学』か……
誰も読まないから上げんな
320 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 13:58:46
´(´)`
321 :
考える名無しさん:2006/06/09(金) 20:13:16
超越論的相互主観性と日常的相互主観性の違いが分からないのですが
どういうことだかわかりますか?
(’A`)
323 :
考える名無しさん:2006/08/14(月) 15:44:54
糞スレ上げるな、このカスが。
324 :
考える名無しさん:2006/08/14(月) 17:05:09
ポール巻き
325 :
考える名無しさん:2006/10/06(金) 03:34:37
(’A`)
326 :
.:2006/10/09(月) 20:12:51
漫湖age
327 :
考える名無しさん:2006/11/02(木) 01:39:34
売名行為は下品だぞ
328 :
考える名無しさん:2006/11/03(金) 02:47:09
いい加減落としちまえよ。こんなクソスレ。一ヶ月以上レスねーじゃねーかよ。
構うの禁止
330 :
考える名無しさん:2007/01/25(木) 08:13:46
オール・ハイル・ブリタニカァァァァァァァ!!
sage
333 :
考える名無しさん:2007/04/25(水) 12:22:29
age
334 :
考える名無しさん:2007/04/25(水) 23:44:57
>>321 「超越論的相互主観性と日常的相互主観性の違い」はだね、
相互に超越しあう真摯かつ困難なる対峙的対話の結実としての共同的成果と
安易な同調に流れる空疎な日常駄弁的共同性との違いなのだね。
sage
「竹田を読めばフッサールは読む必要なし」
と最近マジで思えるようになった。
「フッサールは読む必要なし」と思うにも、フッサールは読む必要がある罠
>>336 確かに。オレも
フッサールと竹田の両方を読むと、
何故か竹田の凄さだけが印象に残ってしまう。
正しいジャッジなのか?
or
洗脳されてしまったのか?
読まなきゃ
ねっ!
341 :
考える名無しさん:2007/08/10(金) 20:39:50 0
ねっ!
しつこく上げてる馬鹿がいるからね
>>338 お前の脳味噌が腐ってる、に一票入れた。
344 :
考える名無しさん:2007/08/12(日) 00:38:46 0
それは評価が高すぎ。
単に頭が悪いだけだろう。
あるいは、単に哲学的に未熟なだけという可能性もある。
竹田思想は日常思想としては別に悪くないが、
そもそも哲学といえる水準には達していないから。
素人が陥りがちな「哲学」にかんする体系的な誤解として読むとけっこう面白い。
sage
竹田はノーベル賞候補になってるみたいだな。
↑afo?
sage
349 :
考える名無しさん:2007/11/25(日) 10:18:17 0
谷徹と斉藤慶典は慶応の院生のころ永井均らと一緒ににずっと『イデーンU』などを読んでいたよ。
350 :
考える名無しさん:2008/01/12(土) 12:26:07 0
糞スレでもカラ上げしてんじゃないの
↑afo?
糞スレをカラ上げしてる奴が?
糞スレをカラ上げしてる奴が?
>>355 糞スレカラ上げなんて珍しくないじゃんこの板では。
このスレだけ反応する馬鹿がいる。
この糞スレだけカラ上げする馬鹿がいる。
>>357 このスレが残ってたら、なんか拙いことでもあるのか?
>>358 この糞スレをカラ上げしないと、なんか拙いことでもあるのか?
>>358 拙いことなんかなにもない。
ただ、おまえみたいなのが釣れるので
面白がってやってるだけ。
お前みたいな糞スレをカラ上げするバカが?
362 :
考える名無しさん:2008/01/14(月) 13:42:56 0
お前みたいな糞スレをカラ上げするバカが?
364 :
考える名無しさん:2008/01/14(月) 13:49:32 0
366 :
考える名無しさん:2008/01/14(月) 13:55:48 0
>>365 お前が釣れる限りカラ上げにはならないわけだが?
この糞スレをカラ上げしないと、なんか拙いことでもあるのか?
368 :
考える名無しさん:2008/01/15(火) 02:28:17 0
諸学の危機が立て直せる!とかフッ扱いたフッサールが読まれなくなって、
21世紀の現在危機になってるのは哲学だけで自然科学は普通に発達して
東ヒロキは「もしかして哲学って社会学の下位学問に思われてる?」
って12/27あたりのブログに書いてて哲学者でそこいらのチンカス現象学者+
フッサールより竹田の本が一番売れている現状を考えると、
やはり竹田現象学だけ読めばいいということになる。
370 :
考える名無しさん:2008/01/15(火) 11:25:52 0
考える名無しさん :2008/01/13(日) 18:42:38 0
間違ったことでも断定的に書いていいなら
誰でもわかりやすそうな感じの本は書ける、
ただ、まともな学者はそんなことするとむしろ害が大きいからしないだけ
巷にあふれる自己啓発本とかわらない。
文庫なら同じ値段でデカルトやフッサール、
古代ギリシア・ローマの哲学者達の叡智を学ぶことができるのに
わざわざ、金や自己満足のためだけに書かれたクズ本を読む必要があるだろうか?
371 :
↑:2008/01/15(火) 18:51:09 0
わざわざ2ちゃんねるの駄文を読んでるバカが粋がっても説得力ないでしょ
372 :
ぽーる:2008/02/08(金) 23:49:33 0
驚き! まだこのスレあったのか!
今読み返してみたら、
よくわからずにまとめているのがわかる。
自分で言うのもなんですが、苦労しましたw
373 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 12:28:40 0
↑あほw
この糞スレをカラ上げしないと、なんか拙いことでもあるのか?
375 :
考える名無しさん:2008/03/15(土) 13:36:28 0
この糞スレをカラ上げされると、なんか拙いことでもあるのか?
376 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 13:55:20 O
日本のフッサール研究では東洋大の山口一郎が最高峰にして世界水準。
「山口一郎」と書いて「じゅどうてきそうごう」と読むので要注意。
『フッサール研究会』に行った人いないの?どんな感じ?
378 :
考える名無しさん:2008/03/23(日) 00:19:11 0
いないんじゃない
379 :
考える名無しさん:2008/03/24(月) 01:00:18 O
このスレにはいない
sage
ぴ〜ぴゃろぴゃろぴゃろぽろ〜♪
ふっ、やあ、純一ですよ。
このスレの
>>1であるスレ主ポールは、
かなり汚い人間でね。
私も人生のかなりの部分を、
この糞ポールの様な友人と一緒に過ごしているのです。
しかし、改めて見ると、
>>9-14は明らかにポールの自演ですね。
これは今見るとバレバレの自演ですね。
386 :
養老武:2008/04/26(土) 19:29:26 0
悔改めろデブ
ポール『哲学について語りたい奴は、とりあえず認識論の基礎付けでもやれよ。
大半の哲学者だってそれが主なんだから。』
この『認識論の基礎付け』=フッサール
という訳です。
389 :
養老武:2008/04/26(土) 19:36:59 0
手前はいい加減にしろよ
分析哲学の基礎付けとしての認識論 = フッサールの受動的総合
と言えば、多少専門的になりますがね。
専門的な事を言うと、これを読んでいる一般の人は
分からないかもしれませんから、つまり、こういう事です。
ポールは特に理系が得意だった。
数学が得意なポールは、自分が他のクラスメイトよりも、
何故低い地位とされているのか納得できなかった、
何故なら、数学とは疑いどころの無い真理であり、
その真理を誰よりも体現している自分が、こんなにクラスごときで
低い地位に居ようとは、ポールにはそれが我慢出来なかったのです。
そこで、ポールは考える。
なるほど、ポールの得意な数学を基礎付けて、
真理という事にしてしまえば、
ポールは天才で他は馬鹿というのは、
公的に証明され得るとね。
あれ?無事に帰ったのね。 てっきり5人の一人は純一かと心配してたんだよ。
いやはや、ご心配お掛けしました。
さて、今日も始めましょうかね?
さて、
>>372のこれですが、
> 372 :ぽーる:2008/02/08(金) 23:49:33 0
> 驚き! まだこのスレあったのか!
>
> 今読み返してみたら、
> よくわからずにまとめているのがわかる。
> 自分で言うのもなんですが、苦労しましたw
この文章は、私のリアル友人もこんな
『驚き!』とか、わざとらしい言い回しを使うのですが、
リアルでは、ポールの言葉とのイメージとは反対に、
全くの不細工なのです。
おもしろいのは、ポールの様に、
『文字上の世界だけイケメンになる』という症状は、
ポールの様なオタクにも結構多い、という事なのです。
私の下衆な友人も、
フリーターでありながら、
なにやら『俺は夢を持っている』というでも
言いたげな感じで過ごしておりますが、
何といいますか、やはりその姿は下衆なのです。
まず、ポール似の私のリアル友人は、
中年太りの次期に入っておりまして、
私の友人となると、三十前後が多いので、
丁度そういう時期に入るのですが、
問題なのは、ポール似の友人が、
『己(ポール)が中年太りである事を前提にしていない』
というおもしろい症状があるのです。
私が、
純一『ポール、お前、太ったなぁ…』
とか言うと、
ポール『はぁ?太ったってどこが?』
とかケロッと言うので困りものです。
まあ、確かに太ったと言われる事はつらい
→太ったと前提して喋られる事を拒否する
→ポール幸せ?
という事なのかもしれませんが、
ここのところが『腐った大人としてのポール(似のリアル友人)』
という感じが際立っているところだと思う訳であります。
ところで、ポールの様なリアル友人は、
確かに文字上では如何にもエリート、という感じですが、
これは思うに、ネットばかりやってるから
文字のスキルが上がるのかもしれません。
しかしながら、私の友人で数人統計をとると、
大体、中年太りなのに文字上手という人が多いですね。
私も何故、ポールが文字上の世界だけ、
いかにも、
ポール『俺は完璧だ!』
とでも言いたげな文章を書きますが、
問題なのは、ポールの文字上のキャラと、
現実で、第三者的な立場から見たポールの
ギャップが激し『過ぎる』という点なのです。
思うに、これはポールが、
テレビや漫画、特にポールの場合アニメ、
ゲーム等にどっぷりと浸かった結果、
『ポール自身が主人公だと思い込む』症状が顕著になった為、
ああいう、文章上でキャラを完璧に勘違いする、
という症状が出てくるのだと思われます。
こういうメディアの主人公というのは、
まず、こうやって純一に議論で負けたりはしない
という設定ですからね、ポールにはそういう具合に、
現実世界で負かされるという経験をした事が無いのでしょう。
やあ〜
ポールと私のポール似の友人との間では共通点が
『かなり』多いと思うのですが、
友人とポールで特に似ているエピソードが御座いますね。
まあ、ポールがああして風俗に通っている点は
私の友人とも良く似ているのですが、
ポール『風俗嬢を無邪気に語る俺の方が、
風俗に行ってる事を隠している人間よりもマシだ』
と、ポールが言っているのが印象的でしたね。
しかし、私が思うに、ポールという名を冠して
ポールが、
ポール『俺は風俗に通っています』
と言う訳じゃないですからね。
捨てハンを維持したままじゃなければ言えない訳です。
風俗嬢を無邪気に語る、というのが、
捨てハンでなければ出来ないポールというのは、
やはり、無邪気に風俗嬢を語っている、
という状態ではない訳でして、
つまりは、
『ポールは捨てハンじゃなければ、
ポールというメインコテで風俗を無邪気に語る事は出来ず、
つまりは、ポールというのは綺麗なコテのまま、
捨てハンを使って、悪い事をするキャラ』
としか言えないのではないか?と私は思いますがね。
ぴ〜ぴゃろぴゃろぴゃろぽろ〜♪
少なくとも、下のスレの展開を見る限り、
また、
>>385で私が指摘した展開を見る限り、
どうも、ポール=自演屋というのが正確な様ですね。
> 19 名前:小陰唇博士 :02/10/31 09:47
>
>>18 > 時間がある限り付き合いましょう。しかし、翻訳は「世界の名著」版の、
> 渡辺氏の訳の方が分かり易い。あと、ハイデッガーの『シェリング講義』も
> 必読です。レクラム文庫の注釈がなかなかいけるので本当はそれがあったら
> 一番いいのだが。
> 20 名前:寅=18 :02/10/31 23:06
> >小陰唇博士
> 世界の名著は手に入りしだい、そちらに移行します。
> 『シェリング講義』は最近出た新書館のやつですね。
> なかなかいいお値段するようですが(笑)、思い切って買ってきます。
> かの小陰唇博士の第一講義ですから仕方ないですね。
> レクラム文庫は独語ですよね?
> すみません。独語全くできないです(汗
> 日本語訳で勘弁してください。
> あと、僕は社会人なので気長にマターリ進行にしてもらえたらうれしいです。
> つけ加えると、全くの初心者です。
> 百戦錬磨の博士から見れば物足りないでしょうが、
> そのうち人も集まってくると思います。
> とりあえず『人間的自由の本質』を読まねば話にならないので、
> 一週間後にまたレスします。
> とても期待しています。
> これからよろしくお願いします。
> (sage進行の方がいいですか?)
私が
>>410と
>>385で指摘した展開の仕方は、
つまりは、『ポールの自演の仕方』として
理解すれば事足りると思います。
ところで、私がちょっと気に入らないのは、
>>372の様に、
ポール『驚き! まだこのスレあったのか!
今読み返してみたら、
よくわからずにまとめているのがわかる。
自分で言うのもなんですが、苦労しましたw』
と言ってる点ですね。つまりは、
『ポール自身良く理解していなかったのに、
かかわらず、結局、人を馬鹿にしつつ、
しかも自演しながら、哲学板でスレを占領していた』
という事なのですから。
ところで、
『ポールの様によく分かっていないながらも、
俺は理解しようとしているという点を楯に
偉そうに振舞う奴』
というのは、哲学板でもよくいる人種であります。
それはkyrieとかそうですね。
ところで、私が思うに、
これは、なるほど、
ポール『純一の様に、学ぼうとしない人間ではなく、
ぴかぁ〜の様に考えようとする人間の方がマシだ』
等とポールは言ったりしますが、
この考えようとする姿勢というものが問題ですね。
ポール『純一の様に、学ぼうとしない人間ではなく、
ぴかぁ〜の様に考えようとする人間の方がマシだ』
等とポールは言ったりしますが、
それは結局、
『ポールは現象学から分析哲学の基礎付けを目的としており、
そのポールの考え方に同意し、かつポールの弟子として振舞う人間』
のみを学ぼうとする奴とポールは名づける訳ですから、
つまりは、
ポールにとって学ぶ姿勢のある奴とは、
ぴかぁ〜の様に、知識のありそうな人間に媚を売る人間
全般の事を指す訳であります。
つまり、本当に学ぶ姿勢のある人間をポールは見分ける事ができない。
ところで、ポールの様に、
『ポールの様によく分かっていないながらも、
俺は理解しようとしているという点を楯に
偉そうに振舞う奴』
というのは、勿論、ぴかぁ〜等もそうですが、
問題なのは、世の中にもポールみたいな糞はいるという点ですね。
ちなみに、ぴかぁ〜が明らかな自演を
自分のスレでやったりしますが、
例えば、「メタP」と「第三の波平」は
同じぴかぁ〜の自演ですが、
私はこれがつまりは、太郎とポールを、
それはつまり、博士と寅を両方自演するポールの
方法の真似ではないかな?と思うわけでありまして、
つまりは、
『ぴかぁ〜はポールの自演の方法も学んでいる』
とも言える訳であります。
『ポールの様によく分かっていないながらも、
俺は理解しようとしているという点を楯に
偉そうに振舞う奴』
ところで、糞ポールの様な人間は
何度も言ってる様に、私純一の友人にも多い。
私が、
純一『ポール、お前、太ったなぁ…』
とか言うと、
ポール『はぁ?太ったってどこが?』
とかケロッと言うので困りものです。
中年太りの友人ポールに、
純一『ポール、お前、太ったなぁ…』
ポール『はぁ?太ったってどこが?』
私も、
ポール『はぁ?太ったってどこが?』
とケロッと言われると、
確かにどうにもできないな〜と思う訳であります。
ところで、この『太ってる事を認めないポール』と、
『議論で純一に負けた事を認めないポール』というのは、
要するに性格的に同じなのです。
以前、私もポールと対決した時があったのですが、
純 一『ポールのこことここは矛盾していますね〜』
ポール『さて、君の負けは確定だよ、哲学板から出て行ってもらおう』
純一がポールの矛盾を指摘した途端、
急にポールが(何の根拠も無く)突如、勝利宣言を行う訳であります。
つまり、私が言いたいのは、
『ポールがこういう具合に、理屈で負けても、
己のプライドでいくらでも正否を捻じ曲げられる限り、
ポール自身が論理的な存在であるとは言えない』
という事です。
さて、ポールもkyrieもぴかぁ〜も
己が議論に負けた事を認めない。
しかしながら、これは、
男に一般的な傾向であり、
つまりは、哲学なぞ関係の無い、
男のプライドの問題であり、
また性格的な問題であるというのは
分かると思います。
つまり、
『ポールやkyrieやぴかぁ〜が
純一に理屈で負けたとしてもそれを認めないのは、
哲学は関係なく、彼等の性格の問題である』
と言える訳です。
今度はそれを分析してみましょう。
ポールの性格的問題を分析して、
>>403の様な結果を出した訳ですが、
ここで色々と問題が出てくると思います。
それをいくらか問題にして出したいと思います。
@つまり、ポールの様に
>>417-418の様な、
つまりは『白を黒と言いくるめる』方法を使われては、
そもそも、哲学という理屈で成り立つものが成り立たない。
Aまた、ポールの様に、理屈が間違っていても
その間違いを認められない人間の方が何故か、
『正確な解釈』『文献を重視』等と言ったりする事。
(これでは理屈の意味がない、白を黒と言いくるめられるのに)
ところで、この@〜Aの理屈の仕方、
つまりは、『ポールの様に、白を黒と言いくるめられるのに、
正確な解釈や文献重視の様に振舞う人間』、
つまりは、『ポールの様に、白を黒と言いくるめられるのに、
まるで、自分が真面目であるかの様に振舞う人間』
というのは最近多いですね。
まあ、私が思うに
>>403の様な影響もあるでしょうが、
根本的には人の業と言えるのかもしれません。
つまり、ポールの様に己のエゴに流されてしまい、
本来の哲学を見失ってしまう者は多い訳です。
そこで、文献の権威にすがって、
白を黒といいくるめられるポールの癖に、
まるで真面目に文献を読んでいる様に振舞われてはね。
この様な、
そこで、文献の権威にすがって、
白を黒といいくるめられるポールの癖に、
まるで真面目に文献を読んでいる様に振舞う人間
を私は『俗物』と呼ぶ訳ですが、
こういうのは、政治界や学問界、産業界にも無論多いと言える。
例えば、産業界でも、
仮にポールの様に、明らかに理解していないのに、
ぴかぁ〜に媚を売られるだけで
ポール『ぴかぁ〜は純一よりも考えようとしている』
等といってしまう姿勢は、
つまりは世の中の仕組みをよく表しているいる訳です。
つまりは、何故、実力よりもコネが重視されるのか?
それはこのポールの発言によく現れており、
これが世の中の腐敗の一般的な形式だと言えるでしょう。
やあ〜
ところで、このポールの様な、
『ポールの様に、白を黒と言いくるめられるのに、
まるで、自分が真面目であるかの様に振舞う人間』
というのは、哲学板でも、ある時期を境に現れた
症状であると言えます。
と、いうのも、最初期は少なくともこんなポールの如き、
汚さを持ったコテはそうそう居なかったからです。
それも、おそらく太郎=ポールとぴかぁ〜の登場次期はほぼ同じです。
これは現代的なオタクの登場と時期が重なるからでしょうね。
ぴかぁ〜は現在29歳ですから、ポールもおそらく
そんなところでしょうね。
そして、ぴかぁ〜のレスで現在確認出来るのは、
ぴかぁ〜が22歳の時のレスです。
つまり、今から7年前のレスですね。
ここから換算すると、ポールの年齢は、
やはりぴかぁ〜と同じくらいなのではないでしょうかね?
私が思うに、ぴかぁ〜とポールの登場は、
即ち、情報化によるオタクの誕生だと言えるでしょう。
ポールは即ち、この症状が顕著なサンプルとして生きている訳です。
まあ、一番分かりやすいのは
私のポール似の友人ですね。
この友人は風俗通いでありまして、
現在のポールの状況と重なります。
しかしながら、使い方がまた汚いものでありまして、
今ではその友人とは音信不通なのですがね。
ところで、何故、ぴかぁ〜やポール、kyrieの様な、
馬鹿が生まれるに至ったのか?ですが、
それは情報化社会にあるのではないか?
というのが私の説ですね。
例えば、光市母子殺害事件は、
精神性に関しては、ほぼポールやぴかぁ〜と同じ
考え方を犯人は持っています。
ポールがこういう事をして捕まった場合、
同じ様な手紙を書くのかもしれません。
ところで、何故こういうポールの様な、
身勝手な人間が作られたのか、その点を見ていきましょう。
>>1のポールは、つまりは、
『フッサール現象学で認識論の基礎付け』
をしたいらしいのですが、つまりはこういう事です。
『ポールは数学が出来る自分自身を
哲学で基礎付けしたい』
という事です。
これだけでもかなり鳥肌ものですが、
ポールのこのキモさはまだまだこんなものではないのです。
ポールの場合、興味深いのは、
風俗に行こうが、犯罪を犯そうが、
基本的にポール自身が悪いとは全く考えない、
という点に特徴があります。
何故、
『基本的にポール自身が悪いとは全く考えない』
のか?と申しますと、
ポールは、さっき言った様に、
『ポールは数学が出来る自分自身を
哲学で基礎付け出来る、あるいは出来たと思い込んでいる』
からなのです。
ところで、この流れでは、
次のポールの発言も皆さんにも意味が理解できる筈です。
ポール『純一、ほら、カント哲学について解説してみろよ?』
これは、つまりは、
『ポールは数学が出来る自分自身を
哲学で基礎付けしたい』
のですから、
即ち、こういう事ですね。
『ポールは数学が出来る自分自身を
カント哲学で基礎付けしたいから、純一に解説させる』
これはかなり鳥肌もんですね。
『ポールは数学が出来る自分自身を
カント哲学で基礎付けしたいから、純一に解説させる』
ところで、こういったポールの卑怯な手に
誰が乗るというのでしょうかね?
440 :
考える名無しさん:2008/04/29(火) 19:22:57 0
「南京大虐殺はなかった」論は、
「アポロの月着陸はなかった」「ユダヤ陰謀論は事実」
「政府は空飛ぶ円盤の秘密情報を隠している」
「2008/04/05(土) 18:43:20 0
まだビビってんのかw」
「量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。 」
「Hannibal専用スレはこちら」
「過去に行われた全ての観測の結果がイコール決定論が正しいことの証明である」
「『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です」
「二子山部屋の力士だけは八百長しない」
「「算出可能性」は決定論のキモだ」
等と同レベルの、所謂 白痴的ピャ・チンチン思想なわけです。
ところで、なるほど、
光市母子殺害事件の様に、
仮にポールの様に、
『ポールは数学や分析哲学が出来る自分自身を
カント哲学やフッサール現象学で基礎付けした』
と思い込んだらどうなるのか?
それは光市母子殺害事件の犯人と同じ様に、
自分が全く悪いとは思わず、なるほど、
理系が出来るポール自身を認識論によって基礎付け、
つまりは、自分が全く正しい人間であると証明されてしまう事になるでしょう。
例のフィリピン女性の殺害事件も同じでありまして、
犯人の客はポールと同じ風俗通いですが、
犯人の印象は、クールで頭が良さそうなお金持ちだそうですが、
こういった上辺の印象はポールが最も演じようとするイメージであります。
つまり、ポールの様な下衆は今世の中にわんさか溢れているという
事でもあります。
『ポールは数学や分析哲学、即ち理系が出来る自分自身を
カント哲学やフッサール現象学で基礎付けできたと思い込む』
症状は一体何がこの実感の下敷きになっているのか?
と申しますと、それは
『情報化社会の実感』であります。
なるほど、仮に、
『理系ができるポール』が、
『理系の自我を基礎付ける』事に成功したとなれば、
『いつでも正しい真理の自分』である事になり、それは結局、
『犯罪をやろうが反省しない自我』を生み出す訳です。
そして、それがポール、君自身なのです。
そして、
『理系ができるポールが、理系の自我を基礎付けて、
いつでも正しい真理の自分であると思い込み、
犯罪をやろうが全く反省しない自我』
というポールに顕著な症状は、
結局は光市母子殺害事件や、チャーリーによる
フィリピン女性殺害事件と同系の精神が成り立たせているものであり、
つまりは『現代の症候』と言えます。この下敷きが情報化社会である
事は私が説明しました。
では、何故、情報化社会が進むと、
ポールの様に、『全く反省しない自我』が生み出されるのか?
それはこういう理由によります。
現代はなまじ、情報化社会であります。
情報を制するものが世界を制するとも言えます。
そこで、情報に関する全ての関連項目がピックアップされる。
インターネット、プログラム、それを構成する数学、
論理学、プログラム言語と言った具合です。
それら新しいもの達は、今のところ時代の寵児であります。
そこで、ポールはこんな勘違いをする。
ポール『情報技術の得意な俺は頭脳明晰だ』
とね。
だが、現実の事件を見ると、
チャーリーも福田も、言わば、
『自分が論理的であると思い込んで、
言い訳をしているに過ぎない主体』
であるという事がよく分かると思います。
特に福田は、低いクラスの地位から配管工という負け組みの
レールです。しかし、犯罪を犯せば人権というものに
守られているに過ぎない。
チャーリーも福田も、
現実での写真等を見れば、
『不細工な負け組みのオッサンだが、
プライドが高いのでそれを認められない』
という性格である事はよく分かります。
ところで、何故、高いプライドが生み出されたのか?
と申しますと、以下の理由によると思われます。
@ 学生の頃、理系が得意だったがクラスでの地位は低かった
A プログラムが得意で時代の流行であるのに地位は低かった
B 知識は豊富なのに地位は低かった
他にも色々あると思いますが、
主な理由はこんなところでしょう。
おそらく、そんな理由でポールは以下の様な感覚を持ちます。
つまり、
ポール『俺は頭が良いのに認められない』
という感覚です。
なまじ理系が得意だとそうなるのでしょう。
ポール『俺は頭が良いのに認められない』
という感覚は、つまりは、
ポール『認識論の基礎付けで俺を認めさせてやろう』
という隠れた願望が働いている訳ですが、
もっと言うと、つまりは、
『ポールは世間では認められないが、
本当は俺は頭が一番良いんだと思い込んでいる主体』
であるという事です。
まあ、こんな人間はわんさかいるでしょうがね。
『ポールは世間では認められないが、
本当は俺は頭が一番良いんだと思い込んでいる主体』
ところで、フィリピン女性殺害事件を起こしたチャーリーも、
光市母子殺害事件を起こした福田も、
このポールの様に、
『ポールは世間では認められないが、
本当は俺は頭が一番良いんだと思い込んでいる主体』
であった筈なのです。
チャーリーは前回の事件の裁判の時も、
聞かれてもいないのに自分の事を喋りだすらしいですね。
『ポールは世間では認められないが、
本当は俺は頭が一番良いんだと思い込んでいる主体』
ところで、この様に思い込んでしまった主体は、
福田やチャーリーの様に、自分が正しい主体であると
思い込んでいる為に、反省はしないのです。
何故なら、自分が理系が出来るから頭が良いと思いこんでいるからです。
しかしながら、私がさっきも言った様に、
彼等は負け組みに過ぎません。
言わば、理系というものが
負け組みの彼等にとってのルサンチマンとして存在しているのです。
そして、それがポール、君自身なのです。
ポールと以前のような関係に戻りたい。
ポール御免な。反省してるよ。でもお前も判ってくれよ
ところで、ポールや泰斗は良く
人間中心主義を批判しますが、私にはこれは
笑える冗談ですね。
というのも、実は、
こういうポールの様に、己がメタだと
正当化する姿勢が実は本当の人間中心主義だからです。
まあ、殆どの人はこれを知らないのですがね。
皆、分かっていないのですが、
ヒューマニズムの代表格は、分析哲学や言語哲学です。
まあ、これは公にはそう言われないのですがね。
大体、分かると思いますが、
批判される主義主張が出ると、
矮小な人間程、自己の中にその批判される主義主張が
無いかの様に身代わりの早い人物がいるものです。
例えばポールであり、例えばぴかぁ〜であります。
なるほど、ヒューマニズムが批判されると、
そうだ、ヒューマニズムが悪いんだ、とポールやぴかぁ〜は
他人を批判するが、これで大事なのは己の中にそれを
見出して反省するという事が出来る人間だけにそういう批判が
許される訳です。いつまでも哲学で話題にされる主義主張が
己を省みる上で自分自身の中に見出せないのならば、
哲学で扱っている主題の意味等わかりゃしないのですよ。
ところで、私がヒューマニズムを上手く解説してあげましょうかね?
ポールはまあ、大森を読んでいるので
実質大森なのですが、フッサールとしましょう。
ところで、重要なのは、太郎やポールが支持する
フッサールというのは、実際、超ど真ん中の
人間中心主義に陥っている思考なのです。
そして、そんなポールっぽいメタさを
感じ取った弟子のハイデガーやデリダは、
フッサールの人間中心主義に嫌気が差して、
それを批判するのですが、
あくまで人間中心主義を守りたい糞ポールは、
批判を影響と言い換え、また、
どれもフッサールからの影響関係がある、
フッサールが源流だ、と言ってそれを隠してしまう訳です。
つまり、言ってみれば、
ポールというのは人間中心主義という
イデオロギーの保守者であります。
まあ、本人はそれに気がついていないのですがね。
最新の思考を纏っているつもりです。
ポールや泰斗はなるほど、
外国人を見て、
ポール『ほら、黒人にも優しくしてあげないといけない』
といえば、ヒューマニズムを乗り越えた、と思い込める人間なのです。
まあ、確かに上のポールの言葉は、
ぴかぁ〜に言わせれば、異-他なるものに開かれていると言える?
のかもしれませんが、何か胡散臭くありませんか?
ポールのヒューマニズムを乗り越えた、という宣言は、
所詮その程度なのです。
ポールの様な、汚い、大人な、
そんな言説が哲学という名を冠されて語られている偽物、
それがこのスレであります。
ところで、おもしろい動画を見つけました。
純一は大笑いでしたよ。
469 :
考える名無しさん:2008/04/30(水) 20:25:07 0
前にも上げてたみたいですが まったくもって何がおもしろいのか理解できませんね
MADは素材の良さを引き出さないとただのノイズになるのがオチなんです
笑いのツボを哲学的でも大衆的でもいいから解説してもらえませんかね?
ポールと以前のような関係に戻りたい。
ポール御免。反省してる。だけど俺の気持ちも判ってくれ。
さあ、スレッドを続行してくれ。
あいかわらず劇がすきなんだね 君は
472 :
考える名無しさん:2008/04/30(水) 20:50:13 0
じゅんいち、
体の、ためにも、哲学日記と、妄想日記は、完全に、分けて、書いた、方が、いいよ。
>>469 > 前にも上げてたみたいですが まったくもって何がおもしろいのか理解できませんね
> 笑いのツボを哲学的でも大衆的でもいいから解説してもらえませんかね?
貴重な御意見ありがとうございます。
>>471 > あいかわらず劇がすきなんだね 君は
これも貴重な意見ですが、
実は、発言している貴方は大して考えている訳では無い筈です。
>>469 > 前にも上げてたみたいですが まったくもって何がおもしろいのか理解できませんね
> 笑いのツボを哲学的でも大衆的でもいいから解説してもらえませんかね?
私が大笑いしたのは、特に後半になるにつれて笑ってしまいましたね。
音楽と融合した時、おもしろさが最高潮になりました。ふふふふ、
私は多分、ブラックなネタに笑ってしまうのだと思いますね。
それは、たまに下衆の趣味と同じになってしまうので、
私自身、自己嫌悪に陥る事が多々あります。
例えば、私は『苺ましまろ』の一巻はとても好きなのですが、
同じ様に一巻はどうか分かりませんが、下衆も
苺ましまろを推していた事は嫌なものです。
しかしながら、私とその下衆はおそらく何かが決定的に違うのだと思いますね。
私が大笑いしたのは、下衆の趣味と哲学的でも大衆的ブラックなネタに
ところで、おもしろい自己嫌悪に最高潮になりました。ふふふふ、
私は、根本的にシュールなネタに笑ってしまうのですが、
苺ましまろ一巻の場合、最初の雰囲気が随分良いな、と
思ったものです。
さて、ここから苺ましまろを推していた下衆との切り離しが
出来るかどうかが見ものですな。
下衆は何に反応したのか?と考えると、
それは、苺ましまろの反社会性にあるのだと思いますね。
主人公がタバコを吸う、原付に乗る、
飲酒する、等々を含んでいますからね。
しかし、根本的にはこの作者はばらスィーというのですが、
この作者が松本人志ファンである事が関係していると思います。
私はダウンタウン系の笑いは受け付けませんから、
その辺が、苺ましまろ好きな下衆と私を分かつ点なのだと思いますね。
私が好きな笑いは、笑う犬系、
大田光系が多いですね。この辺を挙げると女らしいと言われます。
恐らく、松本好きな下衆とはポールやハニ丸をはじめ、
ぴかぁ〜も居ますから、おそらくこの層であると思います。
おそらく、萌え系にも反応し、ブラックな反社会的なギャグにも
反応した、おそらくそういう事でしょう。
しかし、私は多分、もう一つにも反応している。
それは多分、フェミニズムであると思います。
下衆はおそらく、第一巻も含めて、
ぴかぁ〜の言う、『無垢への欲望=ロリコン性』を
感じているのだと思いますが、
おそらく、私はそこにフェミニズムを感じている点が
また、違うのだと思いますね。
松本系は言わば、『男の笑い』だと言えましょうね。
しかし、下衆というのは例えば、ヒデックスが
フェミニズムを自称するのと同じくらい嘘臭いものでありまして、
本当は、それは下衆にとっちゃ、ぴかぁ〜の言う、
『無垢への欲望=ロリコン性』じゃないんかと。
私は昔から、スタジオ六花の作品が好きなのですが、
最新作はイヴの時間というものらしいですね。
予告編が出ています。
おもしろそうなので、見るのが良いでしょう。
こういった良い映画を作る吉浦さんも、
思想の上では分析とほぼ同じです。
それが残念ですね。
環ロイも下手ではないのですが、
やはり嫌いな部類になってしまう。
その点を分かつ点が足りないのです。
487 :
純一:2008/04/30(水) 22:08:12 0
ところで、環ロイと吉浦の思想と、
また、picopicoリョウという私の好きな絵柄を
合わせてみても、それを構成しているのは、
相変わらず、分析です。
それが気に入らない、作品は別としてもね。
系統は彼等芸術家としても見ても、
やはり、分析や言語哲学は鬱陶しいイデオロギーとして
ある。そこが根本的に私を苛付かせる原因であり、
そこが決定的に別れるのです。
例えば、『食べたものを淡々と記録するブログ』などが
あって、それを見て、確かに綺麗な写真だと思う訳ですが、
しかしながら、所々嫌味な写真があったりすると、
この全体が壊れてしまう、というよりも、
作者の精神の汚さが見え隠れする訳であります。
それは言って見れば、
>>1のポールとやってる事が同じだからでしょう。
フッサール現象学で認識論の基礎付けをやれば、
綺麗なままで、後ろの汚いポールを隠したままできる?
それはやはり出ると言わざるを得ないでしょう。
そうなると、私はある意味では、
『芸術の危機』に対応して現れた哲学者なのかもしれませんね。
芸術の危機
492 :
考える名無しさん:2008/05/01(木) 12:40:07 0
>>491 絵画趣味が増えれば何とかなる。
音楽はもう下がり気味
こういった自然な笑い方は、
大人になるともう出来なくなってしまう。
それは言葉による縛りが大きくなってくるからでしょうね。
環ロイのラップや吉浦の綺麗なアニメーション、
picopicoリョウのイラストの背後にすら分析がいる
というのは確かに芸術の危機ですね。
まあ、picopicoの絵はとても綺麗なんですがね。
それと思想はまた違うというところでしょう。
吉浦さんというのはここですね。
スタジオ六花
http://www.studio-rikka.com/ 映像もとても綺麗だし、ストーリーも良い。
しかしながら、言葉を上に持ってくるところが、
kyrieと重なり、この作者の思想は私とは全然違う。
ここがまたおもしろいところですね。
ちなみに、私はスタジオ六花の中では、
特に水のコトバというアニメが好きなのですがね。
予告編がありますから、見てみれば良いでしょう。
食べたものを淡々と〜というのは、これですね。
食べたものを淡々と記録するよ
http://tabetan.2log.net/ これは一見、綺麗だが、
プロフィールのところを見て下さい。
と、おや?消えていますが、
以前は身長と体重が記してあったのですよね。
これはかなり嫌味だと言えますから、
私がかなり嫌いな作者ですね。
ま、綺麗なブログではあるのですが、
作者の主体がそれを全部台無しにしますね。
501 :
山本まさお ◆3t2N8j3gE2 :2008/05/01(木) 13:25:00 0
哲板のレベルが分かるスレですね^^
吉浦さんの新作、『イヴの時間』のトレーラーは
とても綺麗ですよ。
皆さんも見てみて下さい。
私の好きな水のコトバと同じ世界観を舞台にして、
リメイクした感じですね。
ふふふ、高レベルでしょう?
芸術と哲学が一体となる、そんな純一が奏でる歌声(咳)です。
今、食べたものを淡々と〜の馬鹿作者のインテリアブログを見ています。
まあ、この人は地が出ると、精神性の汚さが出てしまうので、
あんまり出しゃばらない方が賢明ですね。
大人しくインテリアでも紹介してろってこった。
しかしながら、このブログの作者の様に、
現代人は皆、アーティストになりたい病にかかっていますね。
過去から、権威に依存して、
己を格好良く見せる人達は存在しました。
このブログの作者もそんな一人です。
綺麗なものを集めれば、己自身が綺麗になるのか?
いやいや、体重と身長を記入して、
『俺はデブではないぞ!?』とわざわざ強調するその姿勢、
それが俗物の証拠であります。
消したって無駄無駄。
ところで、私はおおじろうの様に、
こんな都会的な、つまりは贋物だらけでも、
人生が謳歌できる、というところに病的なものを感じますね。
東京は、テレビの世界と同一と思われている。
だが、イメージの中での都会と私が実際あるいている
東京はやはり違いますね。
東京は言ってみれば、ゴミに近い、
その中からなるほど、ゴミを集めてこれをつくりました。
だからこそ、カップ麺の中で貴重な肉なプレミアを持ったりする。
その肉をありがたく頂戴している、それが都会の商品ですね。
私が危惧するのは、おおじろうの様に、
贋物だらけでも生きていけるのなら、
極端な話、カップ麺の肉を、
一生本物の肉だと思って過ごせるのではないか?
という事です。
特に秋葉原のビックカメラは、
特異な感じがしますね。
勿論、こういった店は溢れているが、
つまりは、部屋の中で成立しているものが、
都市を構成している成分と同じなのです。
つまり、外にあるべきものを一生見なくても、
ある地帯にいる人間はそれが全てだと思ってしまう。
これは不幸な事ですね。
カップ麺の肉は色んな薬品が入っているほぼ肉とは言えないものですが、
ぴかぁ〜なんかもマクドナルドでのパテを本物の肉だと思っている筈です。
そして、ぴかぁ〜はハンバーガーを頭上高く掲げ、
ぴかぁ〜『これが世界最高の食いもんや〜!』
と叫ぶ訳ですが、
なるほど、マクドナルドの椅子から権力を感じ取ったりとか、
初音ミクやたかだかアニメ作品の一つに過ぎないハルヒから
世界を感じ取ったりとか、つまりはあまりにも個有の事象を
おそらく、ただ単に東京だというだけで中心化し過ぎてませんか?
ぴかぁ〜の知らないもんなんざ、私の故郷でも色々あるのですがね?
ところが、こういう事を
都市にいる人間は、中華思想の様に、
見る前から、全てのものは都心に集中しているという幻想で見る。
だからこそ、私の様に外から来た人間に関しては、
薬品漬けの肉を有難がっている人間の様に見えますがね。
例えば、保存の長く利く商品は、
その実用性を離れて、都市部ではそのイメージ、
つまりタフであるとか、そういうイメージで売られる様に、
服に関しても、売られているのはイメージだけで、
元の繊維や布が良い訳ではない訳です。
これらはつまり、根本的には『物の良し悪しをよく分かっていないまま
消費している』という事を示している訳です。
それから、東京を歩いていて感じるのは、
ある種の『空気の篭り』です。
これは部屋に居る時に、
換気をしない部屋にいる感覚と同じです。
私のポール似の友人も、
というか、ぴかぁ〜にも似ているのですが、
つまりは、ITによって、自分が世界の標準だと
思ってしまった人間ですね、そういう人が都会に
埋もれる時、それは本人が思っているイメージとは全然違うのです。
まあ、ぴかぁ〜やポールの様な友人も私の周りにいますが、
彼等は現実的には、彼等自身が思っている自己のイメージとは
かけ離れています。
そこらへん説明するのが難しいのですが、
まずもって、ぴかぁ〜やポールの現実での姿というのは、
ハッキリ言って、私の周りの友人の傾向として考えると、
非常に勘違い率が高い、つまりは格好悪いのに頭では
格好良いと思い込んでいる人が多いのです。
まず、特徴的なのは、やはり体型ですね。
ぴかぁ〜の様な中年太りも居り、ポールの様に
キモイガリもおりと、極端な体型が多いのです。
それに加えて、パクった様な服装が多いのです。
つまり、その体型やイメージに合わない服を着ている
というのが、私のポールぴかぁ〜似の友人の共通点ですね。
それから、もう一つ特徴的なのは、
その特異な体型に合わない服を装着していますが、
加えて、喋り方や文体も、
その容姿と合わない為、ちぐはぐな印象が強くなります。
例えば、私が知っているポールと全く同じ
文体を書く、つまりはおそらく『ポールと同タイプのオタク』
が友人にいるのですが、
この友人の場合、まず、中年太りで
ハンチング帽を装着し、つまりは、
その帽子だけが何かしらこだわりがある様なのです。
そして、喋り方等はどうも、流行ったアニメ版
デスノートの主人公や反主人公の口調を真似して喋ります。
ですから、容姿と喋り方や文体がまるで合ってない訳です。
しかも、ポールと文体同じという事は、
やる事も似ていまして、風俗通いですね。
それで、その風俗通いのポール似タイプの友人は、
風俗で如何に安くするかという事を終始考えているタイプですね。
無論、哲学っぽい事を語ったりする訳ですが、
実生活がそれなので、どうしても、
功利的印象、つまりはモテる為のキャラ作りの為の哲学、
という印象が拭えない訳です。
なるほど、それは、
クラスで馬鹿にされ、運動もできないが、
理系一般はトップクラス、趣味はプログラムにネットサーフィンでした
というキャラが、なるほど、
デスノートの主人公、反主人公と同じ頭が良いキャラという自己認識、
同一化して喋る
そして、滑稽なオタクが出来上がるという構図になっております。
そして、そういう理系が得意で、
IT一般に強いオタクというのは、大体、
プログラム言語に近い、分析哲学が得意になります。
そんで、なるほど、
俺は論理学や言語学、数学まで得意な頭の良いキャラだ
→俺はデスノートの主人公、反主人公だ
→格好良いキャラ
という頭の中の計算な訳ですが、
ここで滑稽さは最高潮になる訳です。
ところで、何故、
格好の良いアニメキャラを真似ても、
実生活ではぴかぁ〜やポールは格好悪いのでしょうか?
それはまず、アニメキャラというのは
基本的な部分、つまり体型がしっかりしているからですね。
無論、顔もですが、まずそこが違う訳です。
これと同種なのが、ポールの使う『☆』マークですね。
これもまあ、小池徹平君みたいな可愛い男の子が使うと、
確かに、デスノートのLっぽいイメージと同じなりますが、
やはり、彼等とポールやぴかぁ〜といったITオタクでは
体型や顔のつくりが違います。
ポールが『☆』を使う事を、小池徹平君と比べると色々と差異があります。
@まず、歳が違う、いい歳のオッサンに突入しているポールと小池徹平
Aそして、顔や体型が違う、ポールはおそらく小島よしおやエスパー伊藤系の
顔をしており、(私の周りにも多い)それが『☆』を使う事の気持ち悪さを
第三者的な視点で見れない。
無論、ネット上では、
ポールのブサ面は見れない為、
『ネット上のみでのイメージ』というのを喚起させる為に、
なるほど、可愛いイメージを作る為に☆を入れるのも結構ですが、
そもそも、こういう手法で出会い系の文章作っている
似た様なポール文体の同種のオタクが何人居ると思ってるんでしょうかね?
少なくとも、ポールのこういう嫌味ったらしい
文体を書く人間はかなり多いし、
また、自分が頭が良いと思い込んで、
なるほど、卑怯な事をしても自分は頭が良いから
許される、と思っている人間が多いのですよね。
例えば、
ローカルルール議論でいつも通り自演で進めるポール
↓
ポール『他の奴は馬鹿だ、気がつかないのは頭が悪いからなんだよ』
と言ってしまうので、純一に自演をバラされる訳です。
そして、ぴかぁ〜も、
無料プロバイダでホスト偽装して削除依頼
↓
ぴかぁ〜『気がつかないのが馬鹿なんや、わしは頭が良いから許されるんや』
と言ってしまうので、純一にホスト偽装をバラされる訳です。
ところで、私の友人には、
他人の、主に純一の格好をパクる友人が多いのです。
奇妙だったのは、私が髪を染めたのが良かったのか、
オタク系の友人が急に金髪に染めたのです。
しかしながら、彼はぱっと見池沼です。
その中年太りの池沼が無理にブランドものを着て、
更に他人の私から髪型をパクったところで、
そのものにはなれません。
しかも、手入れが出来ないので、
段々プリンみたいになっていきます。
彼はばっと見中年太りの池沼っぽいのに、
合わない服と髪の色にするのです。
そして、更に合わない事にタバコをわざとらしく吸うのです。
それにデスノートを真似たっぽい喋り、
そして、女子高生の文体をそのままパクッタ様な文体です。
ポールの『☆』みたいな感じですよ。
ここまで、来ると周りにもこういうタイプが
いると思うのですが、
意外だったのは、そういうタイプは
大体、私から言わせると空気読めないのですが、
そういうぴかぁ〜やポールタイプ程、他人に空気読めと
押し付ける傾向があります。
以前、ぴかぁ〜ポール似の友人と、
B級アイドルの握手会に連れて行ってもらった時なのですが、
ぴかぁ〜ポール似の友人はアイドルとの会話が
非常に長く、他人が待ってるのになかなか退かない訳です。
そういう場面はもちろん私から言わせると、空気読めてない訳ですが、
ぴかぁ〜やポールから言わせるとその場では自分達は空気読めていない
訳ではないらしいですからね。
つまり、空気読めというのは、誰か、
空気の読める人が言ったのでしょうが、
ぴかぁ〜やポールはその自分達が怒られた言葉に
権威を感じて、その言葉をそのままパクリ、
他人を叩く為に使ってしまう。
だから、本来空気を読むべきはぴかぁ〜やポールなのに、
彼等下衆がパクってしまう事で、
空気読めという言葉も胡散臭い言葉のガラクタになってしまう訳です。
ところで、そのB級アイドルも、
何かしら粘るぴかぁ〜ポールタイプに
熱意を勘違いして感じてしまい、
喜んでいましたが、もうちょっと考えないといけませんね。
ところで、厄介なのは、
特にポールに関しては、こういう具合に
抽象的に書いても、反省しない事です。
ポール『なるほど、それは空気読めてない奴だ』
いやいや、ポール君、君の事ですよ。
反省しないので、直接言うしか無い訳です。
それが私がポールやぴかぁ〜を名指しする理由ですね。
彼等に関しては、抽象的に公的に言っても、
他人事にしてしまい、責任転嫁するので、
具体例を挙げて、直接攻撃しなければならなくなる。
まあ、その辺が私が一々ポールとかぴかぁ〜とか
名前を連呼する理由ですね。
名前を書かないと他人のせいにするので駄目なのです。
まあ、そこが下衆であるポールやぴかぁ〜の幼稚なところですね。
例えば、この様に注意を喚起した話を、
ポールという名前抜きで書くと、
ポール『いるいるwそんな奴w』
とか言い出すので、駄目だこりゃ、と思い、
純 一『ポールの様に、粘る行為は迷惑ではないのですか?』
と名指しで言うと、当然ポールは反発してくる訳です。
純 一『ポールの様に、粘る行為は迷惑ではないのですか?』
と注意するとしましょう。
すると、先程は、
ポール『いるいるwそんな奴w』
と言っていたポールも他人事ではなくなり、
名指しされたので逆ギレしてきます。
ポール『はぁ?何言ってんだよ、アイドルも喜んでたろうが!』
とか言い出すのでしょうがない、
スレ、埋めるか、という結論に達する訳です。
純 一『粘る行為は迷惑ですよね?』
ポール『いるいるwそんな奴w』
純 一『では、ポールの様に、粘る行為は迷惑ではないのですか?』
ポール『はぁ?何言ってんだよ、アイドルも喜んでたろうが!
もうちょっと空気読めよ、純一、友達無くすぜ?』
純 一『で、それは空気読めてないとは言わないのかい?』
ポール『はぁ?だからさっきも言ったろ?
向こうも喜んでたってな、だからな…』
まあ、こんな流れですね。
現実的には。
まあ、ですから、
昨今の空気読めは殆どポールの様な下衆が
都合よく使っている言葉でしか無いですね。
つまり、空気の読めないポールやぴかぁ〜が
他人にだけ空気読めと押し付けている。
こんな所に籠もって、お前ぴかぁ〜から逃げてるだろw
やあ〜
>>540 > こんな所に籠もって、お前ぴかぁ〜から逃げてるだろw
ぴかぁ〜は勝手にスレを埋めてくれるので、
私が書くまでもなく、自分で自分のスレを埋めていくので、
私は不要ですね。
では、今日もおっぱじめるとしましょう。
最近もまあ、音楽についても考える。
しかしながら、芸術の危機に現れたこの純一には
何かしら使命めいたものがある、と、そういう事でしょう。
358 :メタP ◆p1AdJ397o. :2008/05/02(金) 15:07:06 0
資本主義様式の安定性は、人々ではなく、商品を洗脳してきたことによるのだろう。
人々の認知系は移ろいやすいが、商品は裏切らず、祈り続ける。
これは画期的な方法である。
では近代以前にはなぜ行われなかったのか。
それを妨げていたのが、自然環境だろう。商品は人ではなく、自然のしもべであった。
近代における技術発展が、商品を自然から解放した。
その代わりに、資本主義へと改宗することを約束するという協定が結ばれたのた。
それ以来、商品は資本主義様式のために祈り続けているのだ。
この様な、認知系/行為系というのは、
所謂分析哲学系の考え方に拠ります。
つまりは、ここではぴかぁ〜は、
分析哲学のツールを使い、資本主義を分析しよう
という訳です。
ぴかぁ〜は自称ポスト・モダンですが、
この認知系/行為系という、即ち、
認知/行為という対立構図は、かなり、
大陸系から言わせると『古い』概念であると言わざるを得ません。
この認知系/行為系という概念自体、
つまりは、
『分析哲学が新しいと思って使っているが、
実際は大陸系で既出の概念』
であるという点が大きいと思いますね。
それと、
『認知系/行為系という対立構図は
そもそも近代以前の概念である』
という結果にならざるを得ません。
つまりは、
@『分析哲学が新しいと思って使っているが、
実際は大陸系で既出の概念』
A『認知系/行為系という対立構図は
そもそも近代以前の概念である』
という事です。
まとめましょう。
@とAを合わせますと、
『ぴかぁ〜は資本主義を、近代以前の
古い対立構図を持つ概念を、最新の概念だと思って、
その分析哲学の、実際は古い近代以前の概念を使い、
資本主義をポスト・モダン的に分析できると思っている』
という訳です。
もうちょっと簡単にまとめましょう。
『ぴかぁ〜は資本主義を、近代以前の
古い対立構図を持つ概念を、最新の概念だと思って、
その分析哲学の、実際は古い近代以前の概念を使い、
資本主義をポスト・モダン的に分析できると思っている』
これを簡単にするには、
皆さんも好きなOSの話題に喩えましょう。
ぴかぁ〜は言わば、見掛けだけvista風にカスタマイズした、
ウィンドウズ95を使っているとしましょう。
ぴかぁ〜はなるほど、それで、
最新のゲームが動く、と思い込んでいる。
しかし、それではOSが古いのでゲームは動かない筈です。
しかしながら、ぴかぁ〜は最新だと思っているので、
バグっているのにもかかわらず、
ぴかぁ〜『おお!これが最新のゲームか、何かグチャグチャやな(バグです)
このグチャグチャ(=バグ)の画面が新しいんやな!語りえぬものや〜』
とテンションが上がってしまう訳です。
しかしながら、私の様に、
ちゃんとアップデートしていれば、
ゲームは正常に動く、
下手にバグを神秘化して楽しむよりは、
ちゃんとOSをアップデート(=学ぶ)して、
vista風にした95(=分析哲学)なんぞに手を出さない事ですね。
しかしながら、本当に、
彼等分析哲学徒は認知/行為というルーマン的な
概念で、そんな近代の焼き直し理論で、
本当にポスト・モダンを分析できると思い込んでいるのでしょうかね?
つまり、近代以前(=モダン)の古い概念である
認知/行為という古い概念で、
新しいポスト・モダンの現状を分析する
ツールとはなりえないという事です。
さて、そんなところで、
『芸術の危機』に現れた哲学者、純一の話に戻りましょうかね。
芸術は先程前の方で申した様に、
分析哲学の様に、情報化に支配され過ぎている。
理系への過剰な信用、
それによる倫理観の低下、
それによる特殊な現象、それも一過性の、
こういったものが多過ぎます。
そして、それは光市のあの事件や、
チャーリーの事件、先程触れましたが、
こういった事件の引き金ともなっている。
これではいかん訳であります。
そこで私は危機をパロディー化し、
この芸術の危機を乗り越える
新しい概念を制作してみようと思う訳であります。
が、余談。
ぴかぁ〜の哲学の理解に仕方に似ているのは、
私達が外国語を辞書で調べる姿勢に似ています。
例えば、
純 一『もしも、という言葉を使って文章を作って下さい』
ぴかぁ〜『もしもし、こんにちは〜?』
純 一『まあ、間違っちゃいないんだけど、
辞書的に調べてたらそうなるよね?
でも、実際はそういうのは違うんだよ』
と言いますが、
ぴかぁ〜も言葉尻を追うだけの受け答えが多いのです。
↑の流れを見て、このぴかぁ〜の言葉をどう思いますか?
435 :メタP ◆p1AdJ397o. :2008/05/04(日) 19:13:09 0
人工知能「純一」はフリーズしたようですね。
人工知能の様に、辞書的対応でしか答えられていないのは、
ぴかぁ〜だと思いますがね?
例えば、この様に、
純 一『では、〜なら、という言葉を使って文章を作って下さい。』
ぴかぁ〜『奈良に行きました』
純 一『まあ、間違っちゃいないんだけど、
それは実際には使えないな〜
おもしろくはあるんだけどね〜』
という感じです。
実際では、
ぴかぁ〜『パロリチュールや!』
純 一『混ざるもんじゃないんだけどな…』
みたいな感じです。
つまり、ぴかぁ〜は辞書的に意味を調べれば、
その内容が分かった、と思い込んでいるのです。
作品とその哲学は、内容とあまり合っていない、
むしろ、その哲学とは密接な関係があるのかもしれない。
ここからは未知の世界です。
まあ、メジャーな曲から言えば、
おそらく皆さんの感覚では、
『消えていった音楽』でありましょう。
では、馴染みのドラゴンボールの、
『ロマンティックあげるよ』からいきましょう
>>569
彼女は最初は幼女だったのに、
最期の方では現実での歳月もあり、
皺々のおばあちゃんになってしまいました。
これもある意味我々がそうさせた様なもんですがね。
>>569から見れば、彼女は勿論、
ヒロインという位置づけです。
普通のキャラはこうした『若いまま』維持される。
そして勿論、チヤホヤされる。
しかし、時間の関係から、
彼女は最終的にお婆ちゃんになり、
『神龍に頼んで若くしてもらおうかしら』
と言う訳です。しかし、そのままですがね。
プロフィールを見れば、
分かる様に、彼女はある意味、
運命的な恋愛相手に出会いながらも、
実に『現実的な』結婚をする訳です。
これも何か哀愁を感じます。
>>569の映像は見た当時も哀愁を感じましたが、
それはこういう理由に拠ります。
つまり、彼女の知らない面がこの映像には出ています。
何か物思いに耽る一面とかアニメではつまらないので描けないのです。
しかしながら、よく考えると、当然、そういう側面も
キャラとして持っている。それを見せ付けられている感じがしました。
シナリオとしての軸は勿論あるのですが、
一遍、それを取り払って考えてみましょう。
ドラマでも、その役者には現実での物語りがあり、
皆、その中を生きている。
それと同じ様に、エンディングのキャラも、
ストーリーとは別の軸で生きている、そんな印象を受けますね。
そんで、私は、
>>569の様な映像を見て、
『彼女は本当は何が夢だったのかなぁ…』と思う訳であります。
色々あったでしょう、夢とかあれがしたい将来とか、
それを全部ドラゴンボール探しというトピックに注ぎ込んで
良かったのかなぁ…とかなまじ年数が長いだけにそういう
具合にも考えられる訳です。あまりにも長過ぎるんでしょうね。
ところで、我々は、彼女が結婚に至る経緯だとか、
十二年連れ添った彼氏を捨てる気持ちとか、
その悩みの内実を知る事は永遠に出来ない訳です。
何故ならそれは、格闘メインだから知れないのです。
しかし、現実と同じ様に、そこには何かしらがあった訳です。
そこが深いですね。
我々も、恋人ならともかく、
結婚相手となると、好きな相手と結婚する、
というのはありえない筈です。
むしろ、現実的な与件に関して、
それに屈服する形で、結婚という形をとる筈です。
私はそこにある意味で、『夢の終わり』を見る訳です。
当然、彼女にもそういう複雑な経緯があった訳で、
それを知らないまま、我々はそれを楽しんでいる
というのが今から考えれば、おかしいですね。
エンディングは、台詞がない分、
そこで示されている内容が大人っぽくなります。
まるで、それは演じているという事を前提に、
エンディングで気を抜いて、元の姿を取り戻した姿の様です。
こういったエンディングでのリアルさは、
次の世代のアニメを作り出す布石になります。
こうしたエンディング映像は趣味が出る分、
どうしても製作者側の趣味、つまりは製作者側の
心理描写が転写される訳です。
つまり、芸術作品としての映像、
作りたかった映像になる訳です。
>>584-585 いいこと言うね。エンディングはいいなーで終わってしまうのだけど、なるほど、視点をかえると楽しめるね。
それ考えると571みたいな歌詞字幕は余計ですね。字幕に気が行って物思いなんてできない。
逆に569なんかは字幕がないから、ロマンチック??るよ〜? は寝るよ〜? 寝るよって何?
って大人になるまでずっと疑問でしたね。
ところでニコニコをリンクするのは純一らしくないですね。
万人に開かれた図書館で、閲覧するのに
「あ、個人情報登録してID入れないと開らけませんよ」
とか、入館するのに
「あ、登録して身分確認しないと入館できませんよ」
っていってるようなものです。
もう少し分かりやすい例でいうと、本読んでて、いきなり「このHPに解説図がのってます」
とか書かれてて一々パソコン立ち上げないといけないようなものですね。
パソコン持ってない人はどうするんでしょうね。
やあ、
>>586 > それ考えると571みたいな歌詞字幕は余計ですね。字幕に気が行って物思いなんてできない。
> 逆に569なんかは字幕がないから、ロマンチック??るよ〜? は寝るよ〜? 寝るよって何?
> って大人になるまでずっと疑問でしたね。
字幕なしもありますよ。
>>586 > ところでニコニコをリンクするのは純一らしくないですね。
> 万人に開かれた図書館で、閲覧するのに
> 「あ、個人情報登録してID入れないと開らけませんよ」
> とか、入館するのに
> 「あ、登録して身分確認しないと入館できませんよ」
> っていってるようなものです。
それは確か、私がポールを批判する時に使った言葉ですね。
つまり、君はポールである確率が高い、という事です。
まあ、いつもの事ですがね。
>>586 > いいこと言うね。エンディングはいいなーで終わってしまうのだけど、なるほど、視点をかえると楽しめるね。
ポールやぴかぁ〜はアニメの話題か、ITの話題だと反応しますね。
人工知能とか、
しかし、受け手がこの様に現代のオタクの話題しか受け付けないのなら、
私の哲学の内容もそれに関係ある事しか聞かれていない、という事ですから、
これも困ったものです。
ヒトミ『ぴかぁ〜君、ほら、チョコあげる〜』
ぴかぁ〜『ヒトミちゅわ〜ん、わし…わし〜〜〜!』
笑ってしまいますね。
しかし、パピルスで販売しても、
そう売れる訳ではありませんが、
反ってホームページやブログでやってしまっても、
それは閉じたものの共同体にしかならない部分があります。
ある意味では、ぴかぁ〜もブログにかんしては、
はてなでやっても哲学板に来る訳ですから、
ブログだけでは満足できないのでしょう。
私なんかもサイトで出したり、
電子書籍で出したりする次期もありましたが、
結局、哲学板が一番使い易いという結論に達しましたね。
ただ、この場合だと、まとまった
文章をパッケージングする事は出来ない、
そこが味噌ですな。
何かしら、売るのか、
はたまた公開するのか、それはウェブの行く末も
考えながら、ゆったりやっていく事にしましょう。
こっから先は、ゆったり、ゆっくり、かも
しれませんな。
ふっ…分かりませんな。
戦士のしばしの休息です。
ところで、哲学板の皆さん、
私純一と休日を過ごさないかね?
私と一緒なら、美味しいコーヒーとケーキを
御馳走しよう。
何なら、私の哲学のフリースタイルを
皆さんと歩きながら披露しても良いのですがね。
逆に言えば、何故ラップが現実的な力を持たないのか?
それは哲学とも同じでしょうね。
>>599 コア2デュオを経験してしまったものがi486環境に戻れるのでしょうかね。
きっと耐えれないとおもいますね。ふふふ。
純一はネタのストックがなくなったので引退だそうです。所謂スランプですね。
(・◇・) こんにちは、僕、純一〜
(・◇・) 僕の趣味は御人形さん遊びだよ〜
(・◇・)今度の日曜なんてどうだい?僕はバイトだけどね〜
さあ、元に戻ろうか。
哲学者、つまり、
学者という名の分析哲学とかではなく、
哲学をする者としての、
者になるには、
ある種のストイックさが必要です。
つまり、禁欲的な態度ですね。
ポールやぴかぁ〜、kyrie、ハンニバル、
つまり、ここの哲学板に於けるほぼ全ての
コテがやってるのは、つまりはこういう事です。
『分析哲学からの歪んだ大陸哲学理解』
という事に尽きますね。
例えば、こんな感じです。
ウィト 語りえぬもの
↓ 投影
カント 物自体
↓ 投影
ラカン 現実界
ハッキリ言って、この図式での理解は単純だと言えます。
原型としてのウィトの語りえぬものがあり、
まず、これが雛形となるメインの思考、
つまりは、最終的にはウィトしか理解していないのに、
同じパターンを無理矢理大陸哲学に当てはめて、
カントもラカンも理解した、大陸哲学全てが
ウィト方式だ、と言う訳ですが、
これは大きな勘違いですね。
分析哲学を何でもかんでも
大陸哲学に無理矢理当て嵌めて、
こじつけ同然で理解していては、
哲学というのものの真の意味は永久に理解出来ません。
それは理解を押し付けている訳ですから。
ウィト 語りえぬもの
↓ 投影
カント 物自体
↓ 投影
ラカン 現実界
ところで、この図式を逆転させると、
ぴかぁ〜やポールの浅はかさが分かると思いますが、
そもそも、これを一言で言うと、
『ラカンやカントを理解したつもりでも、
それは結局、分析哲学の浅はかな哲学理解を何でもかんでも
当て嵌めているに過ぎない』
という事です。
ところで、分析哲学がコテに以上に多いのは、
おそらくはこういう事だと思います。
ポールやぴかぁ〜等を見ていても分かる様に、
そもそも下衆が多い分析哲学ですが、
この俗っぽさがどこから来るのかと言うと、
理系というところから来ます。
子供が一番手を出しやすいのは、
まず、理系が得意な子供がその延長線上で、
分析哲学というのものに目覚める訳です。
一応、哲学という名が付いていますが、
分析哲学はそもそも哲学ではありません。
それは、社会学や言語学、
語学、数学、心理学、遺伝子学、物理学、
と言ったものが哲学とは言えないのと同様であります。
分析哲学は各分野としては成り立つものの、
それを中心に据える事は出来ない。
無論、世の中には数学や言語学を真理と疑わない人もいますが、
それは各分野としてのみ成立する訳であります。
それと分析は同じ事であります。
各分野というものは、
ある範囲のものは捉えるが、
その根本を問う事はしません。
だから、分析は主体を分析しない為、
大体、分析哲学を使うポールやハンニバルは、
これ以上無いくらい、俗っぽくなります。
626 :
ポール:2008/05/07(水) 19:02:38 0
ツタヤのバイト、もう終ったの?純一?
何故ツタヤ、なのですか?
まあ、確かに、
この人の様に、
『これはこれはお代官様』
を文章で書けば成り立ちますが、
これをリアルで見た場合、やはり何かしら
おかしいものを感じると思います。
こういう人が私の友人には多いですね。
ところで、リアルの私、純一はどうか?
と、言うと、これまた全く喋らない人なのです。
つまり、無口、無感情、無表情なのです。
今日、思ったのですが、
ポールやぴかぁ〜は結構一人で喋れるタイプなのだと思いますね。
私は聞き役に回る事が多い、
今日も私の友人を見ていて、
最下層に位置しているにもかかわらず、
上昇志向があるのだな〜と感じました。
ポールやぴかぁ〜はまあ、
最下層に位置している自覚は何となくであれ、
あると思いますが、これまた最下層で更に人を利用しようとか
考えているタイプですね。
私は全くの逆で、やる気が無いので、
最下層に落ちたのですが、別に実力が無い訳では無い。
つまり、やる気が無いだけなのです。
何故、純一はやる気が無いのかと言うと、
主に倫理的、美学的な問題です。
ポールやぴかぁ〜のやり口を見ていると、
ともかく汚い、やり口も汚いし、
結果も汚い、汚い事だらけです。
それはまあ、人を安易に利用しようとする事、
また、安直かつ下世話で低い目標の為に、
何でもやる、という汚さが行動の中で目立つ為です。
まあ、私は持ち前のやる気の無さから、
ポールやぴかぁ〜の様な、下衆と関わる事が多い。
私から言わせれば、
ポールやぴかぁ〜程最下層に落ちたのならば、
それは、ポールやぴかぁ〜の汚さに拠るのですが、
それはもう、諦めた方が早いと思うのですがね?
まだ、何かしら逆転劇がある、と思っているのでしょうか?
私もポールやぴかぁ〜みたいな下衆を
常に相手にしていますが、
何故、主に性、金、権力といったものに対して、
何でも汚い事をやって確保しようとするのか?
というのは疑問ですね。
まあ、彼等の場合、そこまでしてもそれが欲しいのでしょうがね。
ポールも確か、
ポール『自分も最底辺からの逆転、これを企てているんですよ☆』
とか馬鹿みたいな事を言ってましたが、
それは無いでしょう。
ポールにコネとか人脈とか、
家柄とか、ツテがあるなら別ですが、
それを持っていないのならば、
逆転劇なんて無理だと思いますね。
まあ、それはポールの人生で証明して戴くとしましょう。
しかし、ポールやぴかぁ〜の様な友人が、
小さな、本当に小さな権力、金、性に関して、
ほぼ卑屈とも言える策略を立てる姿はとても醜いものです。
私は友人の頼みなので、はいはい応じますがね、
私から言わせると、ポールやぴかぁ〜っぽいタイプの友人が
そこまで最底辺まで堕ちたら、もう良いとか思わないのかな?
と思いますね。
それとも自分達が位置している位置が最底辺であると分かっていないのか?
そんな事も考えます。
例えば、私の周りでも警備員とか、
ぴかぁ〜も警備員の経験があるのですが、
そういう誰でも出来る仕事が多いのですが、
やはり、そういうところは言ってみれば、
一時的なバイトを除いて最底辺だと思うのですよ。
では、最底辺じゃないところは何か?
と言うと、それは勿論、資格が必要な仕事ですね。
これは誰にでもできる訳ではない。
しろうとの様に司法試験というのは高すぎると思いますが、
もっと手に職というレベルで必要ですね。
ところで、実際にリアルで役に立つ資格というのは、
実際限られている。
ヒデオの様に、色彩の資格を持っていても何も役に立ちゃしません。
役に立つ資格というのは、教員免許、
介護師、看護師、美容師、運転免許、等々です。
公務員も良いですね。
ところで、こういった役に立つ資格というのは、
取る時期も限られている。
それは『学校』という存在が大きいのです。
必要な資格というのは、まず、最初の初期から
そういう学校に入らなければ合格しないシステムになっています。
という事は、今更司法試験等を受けてみても確率は低い、
という事を意味します。
フランスのグランゼコール等を見ても
分かる通り、リセの段階から、
選ばれていなければ合格は難しい。
つまり、生まれる前から選択していなければ
ならない。
そして、それは結局、
ぴかぁ〜やポールの親の段階から、
よし、子供を弁護士、ないし政治家にしよう、
という意気込みがなければならない。
そして、それを数世代間で維持して
意志を持ち続けるのは難しい。
ポールやぴかぁ〜もせいぜい、
弁護士や政治家になって人生を一代限りで楽しもう、
という考えなのでしょうが、
対して、実際、弁護士や政治家で儲けている人というのは、
一世代のみではなく、数世代の蓄積である場合が殆どです。
それは、つまりこういう事を意味します。
ポールやぴかぁ〜の様な、最底辺に生きる人間から、
仮に上級職の者を出そうとするのなら、数世代間の
準備が必要だという事です。
つまり、逆に言えば、ぴかぁ〜やポールは今からではもう遅いのです。
それを自覚しなければならない。
ところが、ぴかぁ〜やポールは、
理系学問が得意だった自分という自我、
即ち、アイデンティティーを捨てる事が出来ない為、
自分を優秀だと思ってしまい、
ここでクダを巻くという人生を送るしか能が無くなってしまっている。
つまり、ポールやぴかぁ〜は、
理系学問が出来た自我によって、
己が優秀であるという幻想を捨てる事が出来ず、
現実では、もはや時期を逃しているという事実を
直視できない訳です。
こういう人は私の周りでも沢山います。
例えば、さっきの映像もそうです。
彼も筆記試験は受かる、と言っていましたが、
つまり、頭は良いのですが、
実際、世の中で働いている力というのは、
そういうものではない訳です。
ポールやぴかぁ〜はその辺を自覚できず、
勉強が出来た自分が優秀な筈であるというプライドを捨てきれない。
だから、確率的に低い、逆転劇等を夢見る訳です。
実際、世の中というのは、
こういうちゃんとした学校を出て、
その学校に拠る資格を持ち、
どこへ行っても使える資格を持って、
職を持つ、こういう事でマシな生活というものが成り立ちます。
そこらへんを自覚しないと、マシな生活というものは
出来ないと思いますね。
ところで、私純一はどうか?と申しますと、
私は敢えて資格は取りません。
しかしながら、自動車免許くらいは持っておりますが、
私も皆さん知っての通り、
ニート期間が長かったのですが、
その間に様々な事を考え、試しました。
特に試したのは、ネグリのアウトミノア運動に関する事です。
自由ラジオや空き家占拠、と言った分子的反乱運動、
こういう事のうち、アウトノミアの意義を掴もうとした訳です。
ところが、アウトノミア運動を、
アソシエーションへと昇華しようとすると、
ぴかぁ〜やポールの様に、頑張っても下衆に堕ちてきた人間と
一緒になる事が多くなり、理念の失われた運動へとならざるを
得なかった訳です。
これは、NAM、だめ連、ロフトプラスワン、あかね
等々、数々のアソシエーションを渡り歩いてきた結果、
出された結論であります。
ですが、ポールやぴかぁ〜の場合、
こういう実践というのものを一切してこなかったと
思われるので、どうしても現実感覚がありません。
理論だけの理論という感じです。
そこが弱いところですね。
659 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 20:21:33 0
デリダも最初はフッサール研究から入ったんだよな
まあ、結論としてはですね、
ぴかぁ〜もポールも良い歳なんですから、
自分達が大人しく最底辺の負け組にならざるを得ない事を認め、
覚悟して生きていくしかないでしょうね。
やあ
532 :メタP ◆p1AdJ397o. :2008/05/07(水) 17:10:55 0
そして、純粋な等価交換=定価販売を可能にするには、商品が標準化され、価格統制がと
れ、それが消費者に信頼されるというかなり高度に管理されたシステムのもとでないと成立
しません。
だから厳密な意味で、定価を重視したのは、近年、コンビニや、ファーストフードの普及から
でしょう。コンビニ、ファーストフードでは、市場(いちば)などのように店員と直接価格交渉
はできません。これはコンビニの店員に価格交渉の責任を持たせられないということでは
なく、積極的に純粋な等価交換がめざしているからです。
自販機と価格交渉ができないように、店員は機械なのです。店員が機械となり、客へ干渉
しないことがコンビニ、ファーストフードの魅力なのです。価格交渉や継続したつながりなど
を排除した他者回避の場を提供することで、客はくつろぎと安心を感じます。
深く考えずにただ道を進めば、ある程度の満足した結果に到着するという「ハイウェイの快
楽」があります。そしてこのような場を作ることは、商品やサービスの標準化という高度なマ
ニュアル化されたシステムを、意図的に作り上げることで可能になります。
547 :メタP ◆p1AdJ397o. :2008/05/08(木) 09:15:09 O
このようなデータベースの束をコード呼ぼう。
生活手段はコードにより生産されることにより分業を可能にする。
そして高度にコード化された交通がハイウェイである。
マクドナルトが特徴である。
・自由であるぼとの選択肢を用意することで正しさへ誘導する
・動員が重要
・安全が保障されている、予測可能性が高い
・自動的にすみやかに処理され、他者回避される。・疎外を忘れさせる高度でな疎外論
・安価で利用者を選ばない。経済的リベラル
・適度なイベント性を備えることで興味をひく
・自立した生産物としてある。
510 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/05/01(木) 13:50:21 0
カップ麺の肉は色んな薬品が入っているほぼ肉とは言えないものですが、
ぴかぁ〜なんかもマクドナルドでのパテを本物の肉だと思っている筈です。
そして、ぴかぁ〜はハンバーガーを頭上高く掲げ、
ぴかぁ〜『これが世界最高の食いもんや〜!』
と叫ぶ訳ですが、
なるほど、マクドナルドの椅子から権力を感じ取ったりとか、
初音ミクやたかだかアニメ作品の一つに過ぎないハルヒから
世界を感じ取ったりとか、つまりはあまりにも個有の事象を
おそらく、ただ単に東京だというだけで中心化し過ぎてませんか?
ぴかぁ〜の知らないもんなんざ、私の故郷でも色々あるのですがね?
511 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/05/01(木) 13:53:05 0
ところが、こういう事を
都市にいる人間は、中華思想の様に、
見る前から、全てのものは都心に集中しているという幻想で見る。
だからこそ、私の様に外から来た人間に関しては、
薬品漬けの肉を有難がっている人間の様に見えますがね。
512 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/05/01(木) 14:01:08 0
例えば、保存の長く利く商品は、
その実用性を離れて、都市部ではそのイメージ、
つまりタフであるとか、そういうイメージで売られる様に、
服に関しても、売られているのはイメージだけで、
元の繊維や布が良い訳ではない訳です。
これらはつまり、根本的には『物の良し悪しをよく分かっていないまま
消費している』という事を示している訳です。
という訳ですな。
>>659 > 659 名前:考える名無しさん :2008/05/07(水) 20:21:33 0
> デリダも最初はフッサール研究から入ったんだよな
これはポールだと思いますが、
結構やらしい事しますね。
461 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/04/30(水) 18:54:46 0
ポールはまあ、大森を読んでいるので
実質大森なのですが、フッサールとしましょう。
ところで、重要なのは、太郎やポールが支持する
フッサールというのは、実際、超ど真ん中の
人間中心主義に陥っている思考なのです。
462 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/04/30(水) 18:57:12 0
そして、そんなポールっぽいメタさを
感じ取った弟子のハイデガーやデリダは、
フッサールの人間中心主義に嫌気が差して、
それを批判するのですが、
あくまで人間中心主義を守りたい糞ポールは、
批判を影響と言い換え、また、
どれもフッサールからの影響関係がある、
フッサールが源流だ、と言ってそれを隠してしまう訳です。
分かり易くするとこうなります。
ポール『デリダも最初はフッサール研究から入ったんだよな 』
(名無しで自演中)
純 一『弟子のハイデガーやデリダは、
フッサールの人間中心主義に嫌気が差して、
それを批判するのですが、
あくまで人間中心主義を守りたい糞ポールは、
批判を影響と言い換え、また、
どれもフッサールからの影響関係がある、
フッサールが源流だ、と言ってそれを隠してしまう訳です。』
まあ、糞ポールは自演が得意ですからね。
626 :ポール:2008/05/07(水) 19:02:38 0
ツタヤのバイト、もう終ったの?純一?
ところで、この発言もどこをどう調べたのか?
疑問ですね。
ポールの事です。
復讐心に萌えながら、PCに齧りついて調べたに違いありません。
ところで、ポールはアニオタっぽいところがありまして、
一時期、語尾にだおっ☆とか付けてた記憶があります。
この元ネタが分かりません、何ですか?
しかしながら、いつも捨てハンを使って
ポールという名前を綺麗な状態のまま使い、
捨てハンで荒らしまくっていたポールの事です。
今回は純一がツタヤにいるという点に
メインコテを使うならば、相当自信があったのでしょう。
しかし、どうやって調べたのでしょうね?
疑問です。
676 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 19:40:17 0
『デリダも最初はフッサール研究から入ったんだよな 』
これは事実。
批判する為の研究ですからね。
支持してるかの様な詭弁はよしてもらいたいですね。
最近見ないと思ったら、こんな所に引き籠もってやがる
ほんとは直接対決して、ぴかぁ〜に負けるのが怖いんだろw
何をまた
さてさて、
今日、思ったのですが、
ふふふ、まあ、良いでしょう。
今度にしてあげましょう。
今度らまっさーにこんとら正に、
うっかた泡沫のほう茉のフォーマット、
にんにんにん、るんるんらんてけーと
しかし、ポールの様な友人は多い訳ですが、
逆に言うと、ポールの友人にも
私と同じタイプの友人がいる筈なのです。
動揺してるw
居ませんか?私純一の様に、
無口、無表情、無感情な人間が、
それが私と同じタイプの人間ですね。
ふっ、アニオタ的な要素をポールから感じ取るのは意外ですね。
無論、ポールの弱さは、
環境的な不幸に根ざしている事は間違い無いでしょう。
ぴかぁ〜も捨てハンを良く使いますが、
いや、捨てハンというよりも名前を良く変えるのですよね。
最近でもポールはNAS6というくだらない名前を付けた捨てハン
使ってますよね?
691 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 21:23:28 0
心の声(純一に友人いるの?まさか・・・嘘だろ絶対)
困ったものです。
バレなきゃ良いという発想なのでしょうか?
疑問ですね、ふっ…
私にも友人が居ますが、
ポールやぴかぁ〜の様な下衆が多いですね。
しかしながら、逆に言えば、
ポールやぴかぁ〜の場合、
権威に擦り寄る事に対して、媚を売る事に
全く抵抗が無い様なので、逆に上手くいくかもしれませんよ?
中間管理職タイプかもしれませんね。
あるいは、下級役人か。
ポールやぴかぁ〜のやり口を見ていると、
たまに下級役人の姿を思い出します。
しかしながら、ポールのこの中間管理職的
汚さというのは、人間の遍く業でありますね。
ポールが知識ありそうな人に媚を売る姿なんて、
上司に媚を売りつつ、部下を怒鳴り散らす中間管理職そのものの
俗っぽい汚さですね。
698 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 21:28:36 0
心の声(『友人』って言葉で妄想スイッチ入るらしいな)
ポールがこんな感じで、文献学的な事を言い出すと、
お前は分析哲学しか知らねーだろ?と思いますね。
妄想?
701 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 21:31:35 0
心の声(哲学に知識を基軸としたカースト制なんてねぇよ中二病)
妄想?
>>701 > 哲学に知識を基軸としたカースト制なんてねぇよ中二病
まあ、君はおそらくポールでしょうが、
何もわかってないみたいですね。
2 :ポール:03/10/11 06:47
で、始めますが、その前に一言。
もしこのスレを見て、「よし、俺も」と気合を入れた初学者の方は、この論文から入らないほうが
いいと思う。フッサールは悪文とよく聞くが、特にこの論文は極度に内容が凝縮されているので、
いきなり読み始めても絶望し悪態をつくだけで終わる可能性が高い。入門は、
『デカルト的省察』 (岩波文庫、浜渦辰二訳 or 世界の名著、船橋弘訳)
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 (中央公論社 or 中公文庫、細谷・木田訳)
がいいと思う。前者は第4章まで(名著版で100n弱)、後者は1、2部(単行本で120nほど)を
とりあえず読んでみては? 特に後者は理屈抜きで面白かったし、人によっては世界観が変わる。
あと、独学でフッサールを学ぶものにとって、『現象学事典』(弘文堂)は必携です。
例えば、これ、
何故、ポール自身が初心者という位置づけなのかも
かかわらず、何故か他の者よりも自分が上だという位置づけを
譲れない、これがポールの幼稚なところです。
そして、中間管理職も似た様なものです。
まあ、思うに、私がアソシエーションに失敗のも、
何故かこういう具合にポールの様な人間が居たからなのです。
まあ、ぴかぁ〜も同じですが、人間の業と言えましょう。
典型的なポールのパターンはこれですね。
専門家役『○○は××でありまして…』
ポール『いやはや、読書会に参加させて戴きます
質問なのですが、○○の××概念に対しての…』
専門家役『はっはっは、ポール君は勉強熱心ですね』
ポール『いやいや、僕をそこらへんの知ったかぶりと一緒に
しないで下さいよ。はっはっは』
まあ、つまりはこれと同じですね。
上 司『○○は××でありまして…』
ポール『いやはや、パーティーに参加させて戴きます
噂はかねがね、我が社の××に対しての…』
上 司『はっはっは、ポール君は仕事熱心ですね』
ポール『いやいや、僕をそこらへんの低レベルの奴と一緒に
しないで下さいよ。はっはっは』
どこでも生きていけるじゃないですか?
ポール君。ゴマ擦り上手だよ。
ところで、こんな事をやっていては、
真理性というのものは、歪んでいくばかりなのです。
権力というものがやはり問題なのです。
711 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 21:50:18 0
心の声(人間を必要以上に醜く描く被害妄想型は自己評価が低い)
私は、あかね、NAM、だめ連、ロフトプラスワンと、
様々なアソシエーションを試しましたが、
やはり、どこにでもこんな派閥関係は存在する様に
なってしまう、そして、真理性ではなく、
派閥の論理で動く様になってしまうのです。
これが真理ではなく、イデオロギーである事、これは周知の事実です。
まあ、結局はぴかぁ〜やポールによらずとも、
人間は大体、権威に弱く、
真理によって動くではなく、強そうなものに媚を売る事で生きる訳です。
714 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 23:40:33 0
心の声(露悪は諸刃の刃、純一は脆い)
715 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 00:52:57 0
ブリーダーズカップ各種は違う
G1ではないBCレースも存在するから
芝
英国ダービー
キングジョージ
凱旋門賞
ダート
ケンタッキーダービー
ドバイワールドカップ
BCクラシック
こんなもんだよ
やあ、
ポール『露悪は諸刃の刃、純一は脆い』
これも結構やらしいですね。
ポール『人間を必要以上に醜く描く被害妄想型は自己評価が低い』
これもまたやらしいですね。
ポール『露悪は諸刃の刃、純一は脆い』
ポール『人間を必要以上に醜く描く被害妄想型は自己評価が低い』
つまりは、
ポール『俺を批判しないでくれ〜』
という事でしょう。
まあ、ポールの様に自演で議論を進めるなんざ、
本当に誰でもやりますからね。
別にポールに限った事じゃないのは事実でしょうね。
しかし、私の場合は、ポールのそういう
ポール『皆もやってるから大丈夫だろう』
という俗っぽい思考に関して疑問を挟んでいる訳です。
仮にポールの様に、卑怯な事が許されるとしましょう。
となると、論理的には全ての卑怯な事が許される事になってしまう。
すると、純真無垢なポールの甥は騙されまくりになり、
なるほど、ポールやぴかぁ〜の俗っぽさから言えば、
騙された方が悪い、という言い方になってしまう訳です。
特に、ポールやぴかぁ〜タイプかは知らんのですが、
ロフトプラスワンやあかねでは、
こういう下衆は割とメンヘラーの女性ばかりを狙う、
という事が定番となっていまして、そういう卑怯さもありますね。
まあ、私はそういう所謂、
弱者が集まる空間にて、
更にぴかぁ〜やポールの様に、
人を利用しようとか考えているのがアレですね。
弱者同士、協力という事が
ポールやぴかぁ〜には考えられないのです。
弱者同士、協力という事が
ポールやぴかぁ〜には考えられないのです。
で、何故こうなるのか?と言うと、
ポールやぴかぁ〜の様な下衆は、
パッと見池沼ですが、まだ自分が頭が良いと思い込んでいるので、
弱者だけのアソシエーションの空間ですら、
人を利用しようとする訳です。
これが更に汚い。
彼等は自分達が最底辺に居るという自覚があまりない、
というか、外部からの環境のせいのみだと思い込んでいる訳です。
729 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 09:13:10 0
/;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;ヽ.
/;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;ヽ.
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i;:;:;:;:;:/ノ-'-''"ヽ;:;:;ヽ'''-ヽ、;:;:;:;:;|
{;:;:;:;:ノ■■■ ■■■ヽ;:;:;}
ヽ;:;{ _ _ |;:;:{
};:;|三/ ●),. 、(● ヽ三 |〈
ヽ| " ゙='"/:::ヾ='"゙ | } すぅどぅすぅ
{ |∫ ∴ (,.、::,. ) ∵ |/ わだすぅが
ゝ::●. ...:人:人:::..... ...! づぅんうつぅどぅす。
{;;ヽ:.:.:.:.:.:.:.<Ξ>:.::.:.:.:.:.:.:/;}
/ ヽ:.:.:.:.::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:/ \ だっふんだw
/ |ヽ:.:.:.:.:.:.:.:.:.:/| \
ヽ ̄ ̄ ̄ /
ヽ___/
そして、そのあかねやロフトプラスワンに現れた純一、
最底辺にいるポールやぴかぁ〜を見て、
なるほど、現実的だな〜と思う訳であります。
彼等は発想の力が無い為、
実際、思考すら金や性という所謂言語に規制されている
と言えます。そこを自分の言葉で切り開いていく力が無い。
/;;;::::---,::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
/:/ ヽ;;;;;;:::::::::::::::::__:::::ヽ
. {/ ,..---_ ヽ:::;:-'"r''ヾ、:ヽ あーあ、あ、あ、あ、あ、あ、
l r=''" `' }= ノ.l:::::', 板違い!
,!,,、 ' ´ ,..ノ:::::::l,. いちおう通報します。
. i r,i ヽ.._ `'" l;:-'''ヽ
〉~l =..ノ`ヽ、 t-l"il.
. i ヽイ r、ゥマフ` /-!、/;;;;;;;;;ヽ
ヽ ヽ`f_/ ノ ,.....,/rァ 〃-、;;;_;;;;;;;`、
\ヽ / /r'ア/ / /| .:::/ |\::::`、
\ /〃//,..-‐''!::::`、. ヽ ヽ:::::`、
ヽ .,_ ノ/
下衆の集まりの中、純一は綺麗なものをつくれる訳ですが、
それは下衆には興味が無いものでしょう。
彼等はそこでウダウダやるのが満足な訳ですから。
性や金という言語から逃れる事が出来ない
彼等ぴかぁ〜やポールはそこしか目標が無い。
だが、同じ場所に居たとしても、
純一はその性や金という言語からの解放を模索している訳です。
そこが同じ場所にいながら、私と彼等下衆を分ける要ですね。
ふわあぁ〜〜ぁ・・・ <ーsー>。zzz
736 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 23:28:49 0
フリーターズフリー
737 :
考える名無しさん:2008/05/10(土) 00:12:56 O
ブリタニカってかわいいですか?
738 :
考える名無しさん:2008/05/10(土) 00:47:59 0
おそらくはウンチラッチョリーナ枢機卿の陰謀なのでしょう。
パンドラの箱が開いてんじゃん(笑)
オロオロ オロオロ (笑)
740 :
考える名無しさん:2008/05/10(土) 14:11:44 0
純一のつまらない口癖にも飽きたので 私がポールさんの代わりにスレを進行しましょう。
むろん、代わりと言ってもあくまで臨時と言う意味であり、内容的には稚拙かもしれませんが、
あくまで代理ですので私の代行レスがポールさんの思想ということでは全くございません。
それでは始めましょう。
私がこれから何を行うかといいますと、それは哲学者の分析であります。
哲学は哲学者がするものです。学問ですから万人がバラバラの主張をするようでは
いけませんね。しかし、かといって人の顔色を窺った主張をするのでは駄目です。
コンセンサスをとらないといけません。学問は思想ではないのですよ。
わかっていない人が多いみたいですので学問について少し説明しておきますが、
学問は自分個人を満足させるものではありません。教養でもありません。
学問は権力を揺さぶるものでなくてはならない、といえるかもしれません。
宗教が権力の座に就いていた時代には宗教観をゆるがすこともありましたし
戦争が権力を支配していた時代には戦争に貢献してきましたし
ビジネスが権力を席巻していた時代にはビジネスとともに興隆衰退してきました
学問は、世の中、つまり人間、動物、地球、社会、の役に立つ為にあるものではありませんね。
おそらくは。 そういうのは隠れ蓑的必要条件にすぎません。
さて、哲学者 ですが、第一にめざすものの性質は同じものです。一つの性質です。
しかし、それに対するアプローチ、もっと大まかにいえば「方法」は千差万別です。
別にルールがあるわけではありませんね。ところが正しくない方法をとってしまっている
自称哲学者が昨今、哲学界に跋扈(バッコ)しているのです。なぜそういえるのかというと
それは先に述べた第一に目指すもの、の設定がくるっているからです。
言っていることが分かりにくいでしょうが、それはこの後明らかにしていきますのでご安心を。
目指すべきものは同じ性質のものです。そしてそれを達成する「方法」は様々に採られている。
そこで、この「方法」をいくつかのカテゴリーに分けてみます。
私の目的は哲学者、の分析であり、哲学界には自称哲学者が跋扈している、というのは
先に述べた通りであります。
したがいまして、ここでは、あえて「くるった設定」をしている哲学者が採っている「方法」
も含めてカテゴリーに分ける試みをしてみます。それが実用的ですから。
そして、この諸「方法」を通して哲学者なるものを分析するという試みであります。
さて、まずは手近いところで 某アルバイターの採っている方法からみてみましょう。
実はこれは非常にヤッカイなことなのです。・・・何がヤッカイかは追々分かると思いますが、
その人も哲学者を名乗っているわけですから、例外にするわけにはいきません。
しかし実は、例外視したい哲学者ほど私の分析の対象たりえるのです。
分かるでしょうか?ありきたりな方法を採ってる哲学者がいるとしましょう。ありきたりの
定義は難しいのですが、まあ、当り障りないとか、迎合的とか、周囲が共感できるとか、
といった意味です。一方、某アルバイターはこの反対に位置しています。
ここで742の前置きがいみじくも役に立ってくれるようですが、前者は権力の役には立ちません。
見込みなしです。学問の要件から外れてしまうのです。
ところが後者はそういう点では見込みがあります。
権力を揺さぶる可能性のある者が哲学者の資質がある、ですね。
ちょっと言い忘れたのですが、私が哲学者を分析する試みにある心境の一つには
カントに似た見地があります。哲学者の基礎付けです。
分かりやすい例を出しましょう。昨今道路族の不祥事が話題となっています。
例え話です。巨額と〇十年の歳月を投じて作ってきた、北海道のA市とB市を結ぶある路線があります。
実は需要ゼロだと判明したとしましょう。 するとその路線の建設を中断してしまいます。
需要がないのに続ける意味はないですからね。 こうなるとその道路は使い道なしです。
これは作っていた道路族としては虚しいですね。また、国民は税金の無駄遣いだと激怒しますね。
元々は道路族の長が「これはいい」という方法で採用した道路政策ですが、一度流れに乗ると
中断できるのは不幸な問題が発覚してからです。
このような将来的に誰が見ても不幸な事態を招くことがデファクトスタンダードになってはいけません。
なる前にツブす必要ありなのです。 まあツブすといっても、消し去るという意味だけでなくて、
往なして方向付けしてやったり、妄想というオデキを取り除いてやるのでもいいわけです。
さて、某アルバイターの採っている方法ですが、これは正しい方法ではありません。
なぜか?743を読んでいただければ分かりますですね。
・・・、先程やっかいといった意味がわかりましたでしょうか?
この者の採っている方法は、哲学として"見込みがあり"、哲学として゛正しくない"方法なのです。
そして、746で述べたように、見込みのアル方法だからこそ、ここでツブシておく必要があるとも言えるわけです。
やりがいは十二分にあります。
∫壱> 某アルバイターの方法 <●O●>
わかりました。
連投規制ですね?私がレスするので書けるでしょう。
奴が帰ってきたかな?
751 :
考える名無しさん:2008/05/10(土) 19:58:35 0
ポールのスレもったいねー
早く埋めろよ
753 :
苺:2008/05/11(日) 06:56:27 0
>>751 もったいねー のなら自分でうめればいいでしょうに
もったいねー → 他人に使われてない、捨てられたものに対して抱く感情
→その他人にとっては不用のもの→もったいねーと思ってる人にのみ価値がある
です つまりもったいねー と思いつづける限りもったいねー 状態は続くのです
おそらくポールさんにとってこのスレは完結したのでしょう。しかしもったいねー と
利用価値を見出した純一が3Rしたわけでしょう
754 :
苺:2008/05/11(日) 07:00:54 0
>>753 しかしもったいねー と 利用価値を見出した純一が3Rしたわけでしょう
それは幾分違いますね。なぜなのかは後日明らかにするつもりです。これは「方法」に関わることなのです。
コテを変え忘れましたね。754から入る予定だったのですが。ある哲学者(Paとしましょう)の方法をなぞってみようとしたのですが、失敗です。
指摘するのは簡単ですが、なぞるのは難しいということが少し分かりました。これは目指すものの設定が違うからでしょうか。
私は今時間に追われているというのもありますが 哲学者の分析のために書いている文章に意識を集中しています
ところがPaは見せることに意識を集中しているのです。その差が効いているのでしょう。
さて、では改めて某アルバイターの方法の分析をしましょう
それよりむしろ第一に目指すものの設定を先に述べて、その後に方法をメインにもってくる
説明の仕方をしましょうかね。
この者の哲学が第一に目指すものは、人との触れ合いですね。曖昧な表現で恐縮ですが、
まあこのあたりが第一でしょう。
次にその方法ですが、これは多次元的に多角的です。だんだん面倒になってきましたが、
まあ適当に説明しましょうか。A,B,C,・・・という命題に対して、a,b,c,・・・というアプローチの
仕方をとっているのですが、命題に対してというよりはアプローチが命題に触れた時点でなぜか立場が逆転し、
そして多彩なアプローチに対して命題がついていけていない、という状況ができています。
この者は大陸哲学という立場を公言しているのですが、実は別の場所でアメリカ哲学哲学や印哲的なアプローチもとっています。
またそれ以外にも、わけのわからない∇Θ■な立場も頻繁にとっています。これはネット哲学ならではのアプローチであり、人格移動です。
このような方法は健全です。これは所謂学界という位置に所属してしまった者には手が出せない
非常にスペシャルな方法です。 『あんた、前に言ってることとちがうじゃねーの!』
って感じですが、これはニーチェ的です。
健全なのは確かですが、いかにネットと言えども同じコテでこのような方法をとれば誰も付いてきません。
哲学をするにはコンセンサスが必要だと前にいいましたが、コテ内でコンセンサスなるものが見えないのに
他者とコンセンサスを採れるわけがありません。そこで人格移動です。
コテを使い分けるのですね。
ここで補足ですが、コテを使い分ける=自演=卑怯 というのは短絡的解釈です。
方法自体は、それがどんなでもいいのです。
しかし、第一に目指す性質に拠って、同じひとくくりにされがちな方法でも違った意味合いと効果をもたらします。
ここが重要です。
755で少し触れたPaと目下の某アルバイターではそこらが全く違うようです。
また、ひとくくりにされる方法と言いましたが、内実はその方法にはわずかな違いがあります。
さて、いいかげん面倒になってきたのでサラサラっと進めて行きましょう。
この者は凡人には思いつかない、いや思いついても躊躇してしまう、第二の壁を越える方法
をも採っています。超越という方法です。まあ名称はなんでもかまいませんが。
どういう方法かというと、哲学者自身は歳月とともに変化や成長していきます。
よって立ち位置も変わるはずなのですが、ネットにおいてさえ、ほとんどの者がコテに縛られているのです。
分かりますでしょうか?つまり、成長は何も上乗せばかりではありません。
いわば破壊と創造の協奏であることが自然なのです。ところが同一コテでは破壊はできない。
コテの乗り換えでは人格移動するだけ。前コテで採っていた立ち位置を捨てるようなものです。
捨てることと破壊は違います。創造もありません。ネット上のアプローチにも方法的問題はあるのです。
コテを新たに作って別人格で演じるのはどうでしょうか?
実はコテを変えても、過去のコテの性質に縛られているのです。
コテはいわば肩書きのようなものです。いくらそれを変えても本人のパーソナリティは連続しています。
つまり古いコテAと新しいコテBは裏でつながっているのです。
思ったより全然つまらんな。
これじゃあ、純一と変わらん。
まあまあ、いいじゃないですか。
>この者の哲学が第一に目指すものは、人との触れ合いですね。曖昧な表現で恐縮ですが、
>まあこのあたりが第一でしょう。
>
>次にその方法ですが、これは多次元的に多角的です。だんだん面倒になってきましたが、
>まあ適当に説明しましょうか。A,B,C,・・・という命題に対して、a,b,c,・・・というアプローチの
>仕方をとっているのですが、命題に対してというよりはアプローチが命題に触れた時点でなぜか立場が逆転し、
>そして多彩なアプローチに対して命題がついていけていない、という状況ができています。
>この者は大陸哲学という立場を公言しているのですが、実は別の場所でアメリカ哲学哲学や印哲的なアプローチもとっています。
>またそれ以外にも、わけのわからない∇Θ■な立場も頻繁にとっています。これはネット哲学ならではのアプローチであり、人格移動です。
>
>このような方法は健全です。これは所謂学界という位置に所属してしまった者には手が出せない
>非常にスペシャルな方法です。 『あんた、前に言ってることとちがうじゃねーの!』
>って感じですが、これはニーチェ的です。
>健全なのは確かですが、いかにネットと言えども同じコテでこのような方法をとれば誰も付いてきません。
>哲学をするにはコンセンサスが必要だと前にいいましたが、コテ内でコンセンサスなるものが見えないのに
>他者とコンセンサスを採れるわけがありません。そこで人格移動です。
>コテを使い分けるのですね。
>この者は凡人には思いつかない、いや思いついても躊躇してしまう、第二の壁を越える方法
>をも採っています。超越という方法です。まあ名称はなんでもかまいませんが。
>
>どういう方法かというと、哲学者自身は歳月とともに変化や成長していきます。
>よって立ち位置も変わるはずなのですが、ネットにおいてさえ、ほとんどの者がコテに縛られているのです。
>分かりますでしょうか?つまり、成長は何も上乗せばかりではありません。
>いわば破壊と創造の協奏であることが自然なのです。ところが同一コテでは破壊はできない。
>コテの乗り換えでは人格移動するだけ。前コテで採っていた立ち位置を捨てるようなものです。
>捨てることと破壊は違います。創造もありません。ネット上のアプローチにも方法的問題はあるのです。
さて、連投規制が効く訳が無いのですが、
まず、もって色々な前置きを書いて置きましょうかね?
まず、多分、キャロルはポールですね。
苺とキャロルの自演が上の方でバレバレになってますが、
早くもポールの自演癖が出た様ですね。
>この者の哲学が第一に目指すものは、人との触れ合いですね。曖昧な表現で恐縮ですが、
>まあこのあたりが第一でしょう。
ところで、この上の文章はポールが私の哲学での目的を上手く理解出来ず、
適当に、人との触れ合いという口当たりの良い言葉でお茶を濁す事しか出来なかった、
という事を意味します。
>このような方法は健全です。これは所謂学界という位置に所属してしまった者には手が出せない
>非常にスペシャルな方法です。 『あんた、前に言ってることとちがうじゃねーの!』
>って感じですが、これはニーチェ的です。
>健全なのは確かですが、いかにネットと言えども同じコテでこのような方法をとれば誰も付いてきません。
>哲学をするにはコンセンサスが必要だと前にいいましたが、コテ内でコンセンサスなるものが見えないのに
>他者とコンセンサスを採れるわけがありません。そこで人格移動です。
>コテを使い分けるのですね。
第二に、この点も何か、ポールが私純一に自演をバラされたから、
そのまま言い返している様に見えます。
大体、上の方で苺とキャロルの自演がバラバラなのに、
コテ付けたまま荒らす純一を自演というのは的が外れている感じがしますね。
>この者は凡人には思いつかない、いや思いついても躊躇してしまう、第二の壁を越える方法
>をも採っています。超越という方法です。まあ名称はなんでもかまいませんが。
>
>どういう方法かというと、哲学者自身は歳月とともに変化や成長していきます。
>よって立ち位置も変わるはずなのですが、ネットにおいてさえ、ほとんどの者がコテに縛られているのです。
>分かりますでしょうか?つまり、成長は何も上乗せばかりではありません。
>いわば破壊と創造の協奏であることが自然なのです。ところが同一コテでは破壊はできない。
>コテの乗り換えでは人格移動するだけ。前コテで採っていた立ち位置を捨てるようなものです。
>捨てることと破壊は違います。創造もありません。ネット上のアプローチにも方法的問題はあるのです。
おそらく、このポールの言い方だと、つまりこういう事を言いたいのでしょう。
ポール『つまり、純一は精神分裂病であり、
病的に分裂した精神でのみ可能な、
全く違う立場を同一の脳内に宿らせる事で、
多種多様な人格が同一の脳内で同居し、
かつ、バラバラな思想、哲学を同一人物が語る事が可能になる』
こんなところでしょう?
しかし、この結論はチープと言えます。
そもそも、私は自演をしておらず、
荒らしすら同一のコテで行っています。
しかしながら、ポールはキャロルや苺というコテを使い分けているが、
それを純一のせいにしてしまう。
>この者の哲学が第一に目指すものは、人との触れ合いですね。曖昧な表現で恐縮ですが、
>まあこのあたりが第一でしょう。
ポール『つまり、純一は精神分裂病であり、
病的に分裂した精神でのみ可能な、
全く違う立場を同一の脳内に宿らせる事で、
多種多様な人格が同一の脳内で同居し、
かつ、バラバラな思想、哲学を同一人物が語る事が可能になる』
この二つの予想を組み合わせると、
以下の様な予測が付きます。
ポール『つまり、純一は精神分裂病であり、
病的に分裂した精神でのみ可能な、
全く違う立場を同一の脳内に宿らせる事で、
多種多様な人格が同一の脳内で同居し、
かつ、バラバラな思想、哲学を同一人物が語る事が可能になる』
@ 純一は統合失調症であり、
人格がバラバラであるからこそ可能な哲学である。
>この者の哲学が第一に目指すものは、人との触れ合いですね。曖昧な表現で恐縮ですが、
>まあこのあたりが第一でしょう。
A 純一は病気であるが故に、人との触れ合いを求め、
優秀そうなポールやぴかぁ〜に構ってもらおうとしてレスをする。
@ 純一は統合失調症であり、
人格がバラバラであるからこそ可能な哲学である。
A 純一は病気であるが故に、人との触れ合いを求め、
優秀そうなポールやぴかぁ〜に構ってもらおうとしてレスをする。
しかし、この様なポールやぴかぁ〜による、
『純一の精神分析』は滑稽であります。
@ 純一は統合失調症であり、
人格がバラバラであるからこそ可能な哲学である。
A 純一は病気であるが故に、人との触れ合いを求め、
優秀そうなポールやぴかぁ〜に構ってもらおうとしてレスをする。
第一に、@は、哲学は理屈でのみ成り立つものに対して、
宗教じみた丸投げとも言える、考える事を放棄する為の方便たる『病気説』、
また、Aは、理解できない批判に対して、構って欲しいだけだと解釈する『煽り説』
この二つがまた滑稽であります。
つまり、ポールやぴかぁ〜の純一分析(批判)の要点は二つ、
@ 純一は統合失調症であり、
人格がバラバラであるからこそ可能な哲学である。
→ 病気説
A 純一は病気であるが故に、人との触れ合いを求め、
優秀そうなポールやぴかぁ〜に構ってもらおうとしてレスをする。
→ 煽り説
@ 純一は統合失調症であり、
人格がバラバラであるからこそ可能な哲学である。
→ 病気説 = 理解できない説に対して
『異常者だ』と理屈でレッテルを貼る行為
A 純一は病気であるが故に、人との触れ合いを求め、
優秀そうなポールやぴかぁ〜に構ってもらおうとしてレスをする。
→ 煽り説 = 理解できない批判に対して、
『構ってもらいたいだけなんだな』と理屈でレッテル貼りする行為
@ 病気説 = 理解できない説に対して
『異常者だ』と理屈でレッテルを貼る行為
A 煽り説 = 理解できない批判に対して、
『構ってもらいたいだけなんだな』と理屈でレッテル貼りする行為
つまり、これはこう言い換えられます。
『これら、@Aの方法はいずれも、
「理解できないもの」に対して、人間が蓋をする場合に
採る態度、及び方法である』
とね。
・ 「理解できないもの」に対して、
人がレッテル貼りする主な方法
@ 病気説 = 理解できない説に対して
『異常者だ』と理屈でレッテルを貼る行為
A 煽り説 = 理解できない批判に対して、
『構ってもらいたいだけなんだな』と理屈でレッテル貼りする行為
上から結論を出すと、
つまり、こういう事です。
『ポールやぴかぁ〜は、まず純一の説が理解できず、
とりあえず、病気という事で理解可能なものにしておき、
また、純一に激しく批判されるも、批判の意味が理解できず、
とりあえず、構ってもらいたいだけだ、と自分達に言い聞かせている』
こんなところでしょう?
これが滑稽なのです。
何故、
>ポールやぴかぁ〜は、まず純一の説が理解できず、
ポールやぴかぁ〜は純一の説が理解できないのか?
そして、
>また、純一に激しく批判されるも、批判の意味が理解できず、
何故、純一の批判の『意味』が分からないのか?
その点に根本的な原因がある訳です。
そこを変に逆転しないでもらわないでいただきたいものです。
ところで、何故、こんな事が起きるのか?
>ポールやぴかぁ〜は、まず純一の説が理解できず、
>また、純一に激しく批判されるも、批判の意味が理解できず、
皆さん、分かりますか?
>ポールやぴかぁ〜は、まず純一の説が理解できず、
まず、純一の説をポールやぴかぁ〜が理解できないのは、
基本的に彼等が大陸哲学だと思ってやっている哲学が、
実際には、分析を齧ったものが無理矢理自分達用に解釈した
実質分析哲学である変形大陸哲学を学んでいるからです。
それは外国で売られている、砂糖入りの緑茶を、
本物の日本茶だと思い込んでしまった外国人と同じです。
>また、純一に激しく批判されるも、批判の意味が理解できず、
これも同じです。
商品として本棚に並べられている哲学書というのは、
実質分析哲学である変形大陸哲学なのですから、
それと違う解釈を出されると、途端に批判の意味が分からなくなってしまう。
例えば、東周辺の哲学書の解釈は、
データベースをほぼネットと言い換えても通用するものです。
つまり、世代の自己主張の為に哲学用語を使っている現象を、
本物の哲学だと思い込んでしまった訳です。
それはまた、ファーストフードのハンバーガーのパテを、
本物の肉だと思い込んでしまったぴかぁ〜と同じようなものです。
薬漬けの肉は本物の肉とは違いますが、
そうなると、『本物』に接した時、
贋物に接した場合、本物の肉に接しているにもかかわらず、
『不味いな、こいつは贋物の肉だ』等と言ってしまう現象が起きる訳です。
これが分析しかやってこなかったぴかぁ〜やポールが、
純一が語る本物の大陸哲学を理解できない理由です。
786 :
メガネ歴80年:2008/05/11(日) 19:16:32 0
純一は統合失調じゃない可能性が出て来たな。
定義を間違っている。
バラバラの人格が一所に収まっているのは多重人格
右脳と左脳の機能連合がうまくいかないのは統合失調
医者はなんて言ってるの?
つか全部フリだったの?
帰宅しましたので続きを書き込みましょう。内容は午前中に出来たのですが、連投規制でレスを諦めてました。
午後は買い物しに市街地に行っていました。どうも外食の料金も値上がりしているようですね。
さて、続けましょう。
コテを乗り換え、新たに作り、捨て去る、そんな方法だけでは駄目、というわけでこの者が採った方法は。
コテの破壊です。ぴかぁ〜、kyrie、ポール、等は、じつは乗り越えられるべき目下の彼なのです。
この者自体のパーソナリティーは無論、破壊と創造を繰り返す、もしくはそれを望むのですが、そのネット上の表象であるコテがそれを出来ない。コテ内で破壊と創造をやって新しいアプローチをホイホイ入れていくとコンセンサスが取れない。取って貰えない。
そこでコテの破壊です。人格の一部であるコテを自分で批判し、否定し、破壊する。昔の自分の表象を積極的に止揚し、これにより名実ともに変化、成長ができるわけです。いいでしょうか?自分の表象を破壊するのですよ。
どうです、グーの音もでないですか?
ニーチェもあの世でびっくりでしょうね。
>バラバラの人格が一所に収まっているのは多重人格
>右脳と左脳の機能連合がうまくいかないのは統合失調
知ってます。
要するに、なんでも良い訳です。
相手を病気と言ってレッテル貼りできる病名ならね。
まあしかし、これはマゾですね。オルタナティヴはあることはあるのに敢えてこの方法を採るのですから。
この者は壁をいくつも乗り越え得る非常に有効な方法を結果的に採っているのですが、目指す性質のものが触れ合いでありマゾヒズムである為、哲学としては成長していないのです。
>コテを乗り換え、新たに作り、捨て去る、そんな方法だけでは駄目、というわけでこの者が採った方法は。
>コテの破壊です。ぴかぁ〜、kyrie、ポール、等は、じつは乗り越えられるべき目下の彼なのです。
>この者自体のパーソナリティーは無論、破壊と創造を繰り返す、もしくはそれを望むのですが、そのネット上の表象であるコテがそれを出来ない。コテ内で破壊と創造をやって新しいアプローチをホイホイ入れていくとコンセンサスが取れない。取って貰えない。
>そこでコテの破壊です。人格の一部であるコテを自分で批判し、否定し、破壊する。昔の自分の表象を積極的に止揚し、これにより名実ともに変化、成長ができるわけです。いいでしょうか?自分の表象を破壊するのですよ。
なるほどね。
にしても、これに似た方法は権力の世界ではとても有効です。しかし、用い方(方法)が確立していない為、不用意に用いて失敗する例が多いのが実状です。
彼の哲学の方法は権力と馴染みがよく、それ故、いずれ権力を揺るがすものと成りえるのです。
ところで苺さんの指摘に対する答えもこの辺りでしょう。破壊し、超越しようという意志です。古いコテが立てたスレが落ちて初めて破壊が完遂される、といったところでしょうか。まあ、単に目障りなだけかもしれませんが。
しかし、何かおかしい気がしますが、
それはこれから批判していくとしましょうかね。
一言でまとめると、
ポール『純一は自己批判によって成長する』
という事ではないでしょうかね?
それにしては文章量が多いですがね。
796 :
回転寿司の猛者:2008/05/11(日) 20:23:37 0
オルタナ系でも2ちゃんイズムに染まりすぎなんだよ純一は
2ちゃんイズムに対して受動的に応答する事しかしていない
創造はたまぁ〜にチラッ、チラッとやるだけ
この者はまだ別のアプローチを採ることもあり、それらを総括していくと最終的に劇場的だとか分析できるのですが、もう面倒なのでこれくらいにしておきましょう。
私、今日は久々の外出でちょっと精神的に疲れました。また気が向いたら別の哲学者の分析を試みてみます。
2ちゃんイズムに染まってるのは一位はぴかぁ〜でしょうね。
二位がIT系に強いポール、三番目が私ぐらいでしょうね。
>ところで苺さんの指摘に対する答えもこの辺りでしょう。
まず、この辺りですが、
キャロル=苺だと思うのですが、
その辺は違うのですか?
キャロル=苺だとしまして、
>ところで苺さんの指摘に対する答えもこの辺りでしょう。
この発言は不可解ですね。
上の方でコテ変え忘れた、ぴかぁ〜の真似して
ポールも自演してみました、とカミングアウトしていませんでしたか?
つまり、何故、ポールは先程、
ポール『おっと、コテを変え忘れたが、
これはぴかぁ〜の自演の真似で俺ポールのミスじゃないよ』
と言い訳していたのに、
その下の方では、
ポール『ところで、苺さん(=ポールの自演キャラ)の指摘もこの辺りでしょう』
等としれっと言えるのですか?
802 :
ニートを超えるニート:2008/05/11(日) 20:35:34 0
三番目でもひどいもんはひどい
それに、批判ってもさ、なんでぴかがレス受けつけてるとき何も書かないの?
それやらないなら、ここでうだうだ悪口書くより
創造による批判をする方が質的に高いと思うけどね
つまり、
苺(ポール)『純一は…』
キャロル(ポール)『おっと、コテを変え忘れましたが…』
と流れでは、一応、苺=キャロルな訳ですよね?
まあ、ポールであるかどうかは保留するにしても、です。
つまりですね、
苺(ポール)『純一は…』
苺(ポール)『苺さんの言う通り…』
キャロル(ポール)『おっと、コテを変え忘れましたが…』
キャロル(ポール)『ところで、苺さん(=ポールの自演キャラ)の指摘もこの辺りでしょう』
この流れはちょっとポールっぽい自演ですが、
それにしても、自演がバレた現象をぴかぁ〜の自演を真似した、
と言って誤魔化すポールもちょっとね。
>オルタナ系でも2ちゃんイズムに染まりすぎなんだよ純一は
>2ちゃんイズムに対して受動的に応答する事しかしていない
>創造はたまぁ〜にチラッ、チラッとやるだけ
創造は毎回やっているのですが、要するに、
君等は分析系の商品哲学の言葉で語らないと理解できない。
つまり、デリダなら、認知/行為で語らないと分からないが、
これはデリダのタームではない訳です。
そんな分析しか知らない人に創造と言われても
創造したところで、そこまで深く読み取れないでしょう。
大体、ポールやぴかぁ〜の言ってる『エクリチュール』等を
とってみても、そもそも本来のデリダとはかけ離れている訳です。
ポールやぴかぁ〜が消費しているのは、
そもそも、
エクリチュール=ネットの文字カルチャー vs リアル世界=音声
という図式で、ネット・カルチャーの方に軍配をあげる、
というつまらん争いの分析哲学な訳です。
大体、ポールやぴかぁ〜の考え方は決まっています。
@ エクリチュール vs フォネー でエクリチュールの勝ち
→ネットの文字文化 vs リアル世界 でネット文化(オタク=ぴかぁ〜やポール)の勝ち
A データベース社会の不可視性=ポストモダン的現象
→グーグル等のネット検索ではデータがバラバラです
→ネット社会のみに当て嵌まる構造で、オタク固有の現象
809 :
腐った豆腐のような体:2008/05/11(日) 20:53:19 0
できるできる言うならもったいぶんないで
読者の理解を拒むくらいの論理展開すればいいじゃん
B 否定神学(ゲーデル)的脱構築→郵便的(デリダ?)的脱構築への進化
→そもそも最初の脱構築からして分析側から見た脱構築で
本来の脱構築の意味とはズレている
ポール『純一は自己批判によって成長する』
で、続いてこのポールの言葉ですが、
何かおかしいと思ったのですが、
要するにこういう事でしょう。
ポール『純一は弁証法によって成長する』
という事でしょうね。
ポール『純一は弁証法によって成長する』
しかし、これだけでは、自演屋ポールが何言ってんだか、
サッパリワカランのでもう少し考えてみましょう。
813 :
考える名無しさん:2008/05/11(日) 21:03:09 0
純粋悲性批判について解説してください
ところで、『マゾ』という言葉は便利な言葉です。
これを『病気』という言葉に変えてみましょう。
ポール『まあしかし、これは病気ですね。代案はあることはあるのに敢えてこの方法を採るのですから。
この者は壁をいくつも乗り越え得る非常に有効な方法を結果的に採っているのですが、
目指す性質のものが触れ合いであり病気である為、哲学としては成長していないのです。』
これで多少読めると思います。
で、このポールの言葉に対して、
先程私が書いた、理解できないものに対して人がレッテル貼りするパターンを
当てはめてみましょう。
・ 「理解できないもの」に対して、
人がレッテル貼りする主な方法
@ 病気説 = 理解できない説に対して
『異常者だ』と理屈でレッテルを貼る行為
A 煽り説 = 理解できない批判に対して、
『構ってもらいたいだけなんだな』と理屈でレッテル貼りする行為
早く埋めろよ
わかりやすくする為に、言葉を統一してみましょう。
ポール『まあしかし、これは病気ですね。代案はあることはあるのに敢えてこの方法を採るのですから。
この者は壁をいくつも乗り越え得る非常に有効な方法を結果的に採っているのですが、
目指す性質のものがコミュニケーションであり病気である為、哲学としては成長していないのです。』
・ 「理解できないもの」に対して、
人がレッテル貼りする主な方法
@ 病気説 = 理解できない説に対して
『異常者だ』と理屈でレッテルを貼る行為
A コミュニケーション説 = 理解できない批判に対して、
『構ってもらいたいだけなんだな』と理屈でレッテル貼りする行為
818 :
少年から大人に変わりかけのレディオ :2008/05/11(日) 21:08:53 0
●持ってる純一にとっては
あと200レスなんて僅かなもんなんだろうけど、
ここ埋めたらまた統一理論再開すんの?
つまりは、
『ポールやぴかぁ〜は、まず純一の説が理解できず、
とりあえず、病気という事で理解可能なものにしておき、
また、純一に激しく批判されるも、批判の意味が理解できず、
とりあえず、構ってもらいたいだけだ、と自分達に言い聞かせている』
となる訳です。
それで、何故、ポールやぴかぁ〜は純一の説が理解できないのか?
と申しますと、そもそも理解している説が解釈が間違っている訳です。
デリダ一つをとってみても、
@ エクリチュール vs フォネー でエクリチュールの勝ち
→ネットの文字文化 vs リアル世界 でネット文化(オタク=ぴかぁ〜やポール)の勝ち
A データベース社会の不可視性=ポストモダン的現象
→グーグル等のネット検索ではデータがバラバラです
→ネット社会のみに当て嵌まる構造で、オタク固有の現象
B 否定神学(ゲーデル)的脱構築→郵便的(デリダ?)的脱構築への進化
→そもそも最初の脱構築からして分析側から見た脱構築で
本来の脱構築の意味とはズレている
つまりですね、
@ エクリチュール vs フォネー でエクリチュールの勝ち
→ネットの文字文化 vs リアル世界 でネット文化(オタク=ぴかぁ〜やポール)の勝ち
A.デリダはネット文化の事等、念頭に置いていない
A データベース社会の不可視性=ポストモダン的現象
→グーグル等のネット検索ではデータがバラバラです
→ネット社会のみに当て嵌まる構造で、オタク固有の現象
A.デリダはネットの検索社会の事等、念頭に置いていない
B 否定神学(ゲーデル)的脱構築→郵便的(デリダ?)的脱構築への進化
→そもそも最初の脱構築からして分析側から見た脱構築で
本来の脱構築の意味とはズレている
A.デリダはネット社会がポストモダンだと主張したい訳ではない
という事です。
つまり、ポールやぴかぁ〜が主に誤解しているのは、
ポストモダン=ネット社会
という図式は間違っている、という事です。
ポールやぴかぁ〜は、まず、
ポストモダン=ネット社会
と定め、
ポストモダン=ネット社会に生きるオタク=ポール、ぴかぁ〜=新人類
という図式で話を進めていますが、この定義は間違っています。
デリダはそんな事言う為にポストモダンと言ってる訳ではありません。
つまり、ポールやぴかぁ〜は、
ポストモダン=ネット社会に生きるオタク=ポール、ぴかぁ〜=新人類
という誤解を招く商品哲学を摂取している為、
本来の解釈で語る純一の説を、いわば邪道と見る訳です。
本当は逆なのですがね。
なにこれぴかぁのパクリじゃん
826 :
意気込みは福山雅治 :2008/05/11(日) 21:23:56 0
ネット社会を定義しろよ
ポールは純一の『方法』を『ヘーゲルの弁証法』だと言う訳ですが、
これもおそらくは、
ポール『おいおい、また俺の悪口言ってるな〜
全部、純一が自分の事を自己批判する様に言ってみよ
そうすりゃ、俺の悪口も全部純一の自己批判になるしな』
翌日、
ポール『そうだ、純一は自己批判して、
自分自身を批判して成長していったのか〜』
という下らない流れだと思いますね。
つまり、ポールが責任転嫁の結果、生まれた論ですね。
ところが、純一の『表面的な方法』は分かっても、
(そりゃ、見たままを見れば弁証法でしょうよ)
その根本的な『動機』がポールには分からなかった。
だから、わかりやすい『病気説』や、
『コミュニケーション説』に頼る訳です。
つまり、
ポールには純一の本質的な方法、及び動機が
さっぱり理解できない
ので、
見たまんまの表面的な印象を記述し、(それが弁証法)
ありきたりな動機(病気、コミュニケーション)を設定して、
分かったつもりになっている
という事でしかない訳です。
つまり、
理解できないから、適当に説明をつけてみる
という悪しき方法である訳です。
で、ポールやぴかぁ〜が何故理解できないのか?
と言うと、
@ エクリチュール vs フォネー でエクリチュールの勝ち
→ネットの文字文化 vs リアル世界 でネット文化(オタク=ぴかぁ〜やポール)の勝ち
A.デリダはネット文化の事等、念頭に置いていない
A データベース社会の不可視性=ポストモダン的現象
→グーグル等のネット検索ではデータがバラバラです
→ネット社会のみに当て嵌まる構造で、オタク固有の現象
A.デリダはネットの検索社会の事等、念頭に置いていない
B 否定神学(ゲーデル)的脱構築→郵便的(デリダ?)的脱構築への進化
→そもそも最初の脱構築からして分析側から見た脱構築で
本来の脱構築の意味とはズレている
A.デリダはネット社会がポストモダンだと主張したい訳ではない
分析が適当に大陸を理解した、商品哲学を摂取しているからです。
832 :
封印されっぱなし :2008/05/11(日) 21:34:29 0
じらすように一つ、また一つ上着のボタンを外していく純子・・・
あらわになった白い首筋からこぼれる妖しい輝きが、
彼を釘付けにした
@ ネットの文字文化 vs リアル世界 でネット文化(オタク=ぴかぁ〜やポール)の勝ち
A.デリダはネット文化の事等、念頭に置いていない
A グーグル等のネット検索ではデータがバラバラです
ネット社会のみに当て嵌まる構造で、オタク固有の現象
A.デリダはネットの検索社会の事等、念頭に置いていない
B そもそも最初の脱構築からして分析側から見た脱構築で
本来の脱構築の意味とはズレている
A.デリダはネット社会がポストモダンだと主張したい訳ではない
つまり、こんな感じでポールやぴかぁ〜はデリダを誤解していますね。
@ エクリチュール vs フォネー でエクリチュールの勝ち
→ 有名な哲学者のデリダも、
ネット社会のオタク(ポール、ぴかぁ〜)を新人類と学問的に認めた
A データベース社会の不可視性=ポストモダン的現象
→ 有名な哲学者のデリダも、
ネット社会のオタク(ポール、ぴかぁ〜)を新人類と学問的に認めた
B 否定神学(ゲーデル)的脱構築→郵便的(デリダ?)的脱構築への進化
→ 有名な哲学者のデリダも、
ネット社会のオタク(ポール、ぴかぁ〜)を新人類と学問的に認めた
@ エクリチュール(ネット) vs フォネー(リアル) でエクリチュール(ネット)の勝ち
→ 有名な哲学者のデリダも、
ネット社会のオタク(ポール、ぴかぁ〜)を新人類と学問的に認めた
A データベース社会(ネット検索社会)の不可視性=ポストモダン的現象
→ 有名な哲学者のデリダも、
ネット社会のオタク(ポール、ぴかぁ〜)を新人類と学問的に認めた
B 否定神学(浅田)的脱構築→郵便的(東)的脱構築への進化
→ 有名な哲学者のデリダも、
ネット社会のオタク(ポール、ぴかぁ〜)を新人類と学問的に認めた
@ エクリチュール(ネット) vs フォネー(リアル) でエクリチュール(ネット)の勝ち
A データベース社会(ネット検索社会)の不可視性=ポストモダン的現象
B 否定神学(浅田)的脱構築→郵便的(東)的脱構築への進化
→ 有名な哲学者のデリダも、
ネット社会のオタク(ポール、ぴかぁ〜)を新人類と学問的に認めた
ところで、これは大嘘です。
『有名な哲学者のデリダも、
ネット社会のオタク(ポール、ぴかぁ〜)を新人類と学問的に認めた』
これをポールやぴかぁ〜は『哲学』だと思い込んでいるので厄介なのです。
『有名な哲学者のデリダも、
ネット社会のオタク(ポール、ぴかぁ〜)を新人類と学問的に認めた』
これは言ってみれば、ルサンチマンに当たります。
つまり、
『社会的弱者であるオタクたるポールやぴかぁ〜は、
理論上、その立場を逆転させる理論としての哲学、
即ち、ポールやぴかぁ〜の様なITオタクをまるで新人類かの様に
語る理論を欲しがっていた』
という事なのです。
839 :
もう40歳なのに人見知り :2008/05/11(日) 21:54:33 0
上着をぱらりと床に脱ぎ捨てると純子は、
「あなたは私の何を見ていたの?本当の私はここにいる」
眼を伏せてつぶやいた。
瞼の奥に映る彼を、悲しげに睨みつけながら。
今度はスカートに手をかける。
今日このとき、今という状況でなかったら、
キャラにも合わないこんな大胆なアプローチがいつ出来よう。
今しかないのだ。だけど・・・
手をかけたまま、純子の中である思いがリフレインしている。
その思いが何なのか、自分でも判らないけど、
それは純子の手をしっかり掴んだまま離さない。
彼女は止まっている。やっぱり、ここで止まってしまう。
『社会的弱者であるオタクたるポールやぴかぁ〜は、
理論上、その立場を逆転させる理論としての哲学、
即ち、ポールやぴかぁ〜の様なITオタクをまるで新人類かの様に
語る理論を欲しがっていた』
ところが、さっき言った様に、
そんな理論は無いのですが、商品哲学はまるで、
情報化社会に影響されたポールやぴかぁ〜が選ばれた人間で
あるかの様に、現実での社会的地位を理論上だけ逆転させてしまう訳です。
つまりは、私はそんなデリダ解釈は分析が下手に解釈した
大陸哲学だ、と再三言ってる訳ですが、
まだわからない様ですね?
つまり、もっと現実を見て下さいよ。
ポールやぴかぁ〜が、商品哲学が解釈する様に、
時代の寵児だとするのなら、ポールやぴかぁ〜が無収入な訳ないじゃないですか?
商品哲学は君等のそういう上に上がりたいという欲望につけ込む形で、
ITオタクがまるで選民かの様に、現実を歪めて解釈してしまう訳です。
ところで、そういうルサンチマン的な幻想に
身を委ねている様では、本来の哲学の解釈は
受け入れ難い、何故なら、ポールやぴかぁ〜が受け入れる説とは、
自分達ITオタクが、実は選民であり、新時代の寵児なのだ、
と『救い』を保証するものだからです。
つまり、そういう宗教しか彼等は受け入れられない。
私はぴかぁ〜やポールを負け組だと言ってしまうし、
また、上に上がれる可能性も無い、と言ってしまので、
『受け』が悪い訳です。
しかし、哲学とは受けるかどうか、という事ではなく、
真実を突きつけるものですから、そういうものになる訳です。
はいはい、お薬だしておきますからね。
ファンの方々はいろいろ気になってしょうがないようなので、
今日は特別にできるだけ質問に答えてみましょう。
プライベートな質問もOKとします。
食事をしますので、聞きたいことを書き込んでおいてくださいね。
精神病院行けよ、きちがい
いやぁ〜純一さん、久々にはりきってますね。
ところでちょっと小話をしましょう。
ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て万有引力を思いついたと云われていますが、
じゃあ事象を注意深く観察すれば何か発見ができるのかというと、そうではないでしょう。
これは問題意識の問題です。彼はおそらくずっと以前から惑星運動を自然科学的に解明したかったのです。
頭の中はそれでいっぱいだったのでしょう。りんごはただのきっかけです。
私は実は理系出なのですが、所謂ブレイクスルーも幾つか成し遂げました。
よく面接で人事が質問してくるあれですよ。それは何をしている時かってね。
先程ちょっと検索したんですが、アルバートはベッドでうたた寝していて相対性理論を思いついたそうですが、
私も正に同じスタイルでブレイクスルーを成してきました。だからその状況は容易に想像がつきます。
おっと、そこの君、今スタイルを真似したって何も出てきませんよw。
さて、何がいいたいかといいますと、問題意識と一人きり、これがポイントだと思うのでのです。
前のレスで、昨今、多くの哲学者が正しくない方法をとっている、と言ったのは、実はこれに関わっています。
彼等は何を欲し、何を考えているのでしょうか、という話です。
ファンの方々はいろいろ気になってしょうがないようなので、
今日は特別にできるだけ質問に答えてみましょう。
プライベートな質問もOKとします。
食事をしますので、聞きたいことを書き込んでおいてくださいね。
850 :
考える名無しさん:2008/05/11(日) 22:57:12 O
ブリタニカはブリトニーよりかわいいですか?
ファンの方々はいろいろ気になってしょうがないようなので、
今日は特別にできるだけ質問に答えてみましょう。
プライベートな質問もOKとします。
食事をしますので、聞きたいことを書き込んでおいてくださいね。
ファンの方々はいろいろ気になってしょうがないようなので、
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ファンの方々はいろいろ気になってしょうがないようなので、
今日は特別にできるだけ質問に答えてみましょう。
プライベートな質問もOKとします。
食事をしますので、聞きたいことを書き込んでおいてくださいね。
暇ですね。
いつまでポールはキャロルという捨てハンで書くつもりなのでしょうか?
しかし、そう考えると、
キャロルという捨てハンで書いていても、
コテから逃れられない、とポール自身書いてる訳ですから、
ポール本人もバレてるという事を薄々分かっているかもしれませんね?
しかし、バレていても、捨てハンを
捨てて、ポールというコテ名を使わない。
純一に負ける可能性があるからですね、
ここが捨てハンばかり使う自演屋ポールと、
自演を一切しない純一との違いですね。
ファンの方々はいろいろ気になってしょうがないようなので、
今日は特別にできるだけ質問に答えてみましょう。
プライベートな質問もOKとします。
食事をしますので、聞きたいことを書き込んでおいてくださいね。
861 :
考える名無しさん:2008/05/11(日) 23:22:07 O
おいくつですか?
34です
ふっ…
こんなことに毎日長い時間を費やしてむなしくないですか。
ポールは名無しでも自演しますが、
何故か、やはりプライドが高いのでしょう。
何らかの名前をつけて目立ちたい、という自己顕示欲が強い訳です。
アルバイトしていますので
ポールの文体を見ていると、私の知り合いを思い出します。
その知り合いはアニメの影響で、
口調とその中年太りした体型がまるで
合っていないタイプなのですが、
おそらくポールもそんなタイプなのだと思いますね。
アルバイトとこんなことだけで毎日一日が終わってむなしくないですか。
その知り合いから推測するに、
ポールも勘違い野郎である確率が高い、と言えます。
アルバイトとレスだけで一日が終わる訳ではありませんよ?
アルバイトと荒らし以外になにがあるというのですか。
色々ありますよ。
私も一応、人間ですから。
色々ある人が毎日荒らしに長時間費やすとは思えませんが。
長時間といってもごくたま〜にの事ですよ?
名無しでのレスも含めて最近レスしたスレッドはどこですか。
何の事だい?
レスする時はいつもこのコテさ
やあ、
879 :
考える名無しさん:2008/05/12(月) 09:34:24 0
早いね
ぴかぁ〜が鉄板の上に居るとしましょうかね?
いや、まあ、それは良いのですが、
最近、ポールが私の方法を丸々パクってる感じがしますね。
『おまえ、さっき言ってた事と違うじゃねーか!』
と、ポールに言われた時、違和感を感じたのですが、
つまりは、これは私が最初、ポールを批判する時に使った言葉だからですね。
パクられました。
そう考えると、新たに獲得した新しい方法を、
ポールが身に付けている様に見えても、
実際には、私純一に批判されて悔しい、
悔しいからポールが丸々純一に言われた方法を
パクってみる、そうなると純一の批判を丸々パクる訳ですから、
純一の実力が跳ね返ってくる?という単純な思考ですね。
期待し過ぎましたね。
ポールは全然進化してないじゃないですか。
元のテーマに戻りましょう。
時間の無駄でした。
一つは芸術の危機、
そして、都市の機能としての商品哲学というものですね。
この商品哲学は分析哲学とほぼ同義です。
エクリチュール等で説明した通り、
商品哲学は理系出身のオタクを称揚する目的しかありません。
ですから、デリダとは実際、全く関係ありません。
それは結局、原典を参照しても真意を掴んでいない、
あるいは非常に単純な図式に当て嵌めているからこういう誤解が
生まれる訳です。デリダはネット社会の事等語っていませんよ。
こう言うと、ポールが俺はオタクではない、
と言うかもしれませんが、ポールはオタクです。
それに何でもかんでもフッサール最強にしたがるので困り者です。
『ポールは数学が出来る自分自身を
哲学で基礎付けしたい』
これだけがポールのオタク精神の基礎付けである訳です。
しかし、そんな自我の確立は出来ない。
>一つは芸術の危機、
>そして、都市の機能としての商品哲学というものですね。
>この商品哲学は分析哲学とほぼ同義です。
これを逆転させれば、つまりは、
『都市の機能としての商品分析哲学によって、
芸術アートは危機に陥った』
と言えますね。
純一は知っての通り、芸術の神、
芸術の哲学者であります。
環royもラップはまあまあ上手いのですが、
しかし、思考は古いままであります。
吉浦もアニメは最高ですね。
しかし、思考は言語哲学と古い。
しかし、こういった分析哲学というポールや
ぴかぁ〜という下衆を生み出す哲学を摂取していながら、
あれだけ上手い芸術品を生み出せるのですから、
大したものです。
これは糞分析がアートを作り出しているのか?
いや、違いますね。
少なくとも分析はアートには関係無い。
分析はアートに手を出すトトンデモの一部にしかなりませんからね。
やはり、そうなると、都市の機能か。
ところで、ポールが、
ポール『一日一ページか…』
と、呟いた時のキモさを今でも思い出しますね。
こいつ(=ポール)がどんな顔で言ってると思います?
エスパー伊藤とか、小島よしおとか、
田舎っぺ大将がわざとらしくブランド服着ている様な
顔で言ってる訳です。
つまり、この台詞を通して、醜い姿が透かして見れる訳ですよ。
まあ、私の友達も、
タンクトップ着せたら田舎っぺ大将だろ、
みたいな感じなのですが、
ハンチング帽とか被ってデスノートを読み、
都会人っぽい訳ですが、
ハッキリ言ってそんなに洗練されてない訳ですよ。
ただ単にオタクっぽい訳ですが、
やはり、ネットのやり過ぎで口だけの男になってしまい、
いやいや、俺はオタクではなく都会人だ、
とでも言いたげなのですが、中年太りでブヨブヨな友人に
都会人を自称されても、それはやはりオタクである事を
口当たりの良い言葉に言い換えているだけなのでは?
と思う訳であります。
ポールも文字上ではまあ、
ネット慣れしてるな〜という感じですが、
このパターンは私の友人にも数多い為、
現実ではどんな姿をしているかの予想が付きます。
格好良いという感じではなく、
おそらくは、勘違い野郎だな〜という印象だと思いますね。
ポールはまあ、ネット上での自己イメージを高く設定し過ぎなのだと思いますね。
例えば、頭が良くてお金持ちとかね。
ところで、ポールやぴかぁ〜はその、
頭が良くてお金持ちというイメージと
現実でのイメージがかけ離れていると思います。
というのも、現実ではポールもぴかぁ〜もニートだからですね。
プライドばかりが大きくなってしまったポールやぴかぁ〜は、
現実でセコセコ稼ぐ事は出来ない。
それはそうだと思いますね。
というのも、おそらくポールやぴかぁ〜が受け入れる収入とは、
おそらく一発逆転型だからでしょう?
ぴかぁ〜はオタクというカテゴリーが東と同じな為、
ぴかぁ〜自身も東の様に対談とかで食っていける、
という甘い幻想を持っている訳です。
ポールも確か、
ポール『私が狙うのは一発逆転ですよ☆』
とか言ってましたが、何度も言ってる様に、
ゼロアカに挑戦しなければそれはないですね。
このゼロアカも怪しいもんですが、
顔バレをおそれて、おそらくはぴかぁ〜やポールは応募していないでしょう。
つまり、ポール達は有名になりたい癖に、
その度胸が無い訳ですな。
つまり、非常に都合の良い幻想を抱いている訳ですが、
これもおそらくはニートという、私はモラトリアムと言い換えた方が
早いと思うのですが、そういうモラトリアムの期間だけ可能な幻想ですね。
誰でも宝くじが当たったら、とか、
人とは違う人生は〜とか考えるものですが、
それはある程度立てばなくなってしまう訳です。
そういう下手な幻想を歪んだ形で維持しようとして、
おそらく、ぴかぁ〜やポールは色々と卑怯な事をやるのだと思いますね。
例えば、ぴかぁ〜は削除人に媚を売り、
自分のブログ宣伝スレだけ残して残りは削除しようとします。
その為には自演も含め、卑怯な事をやる訳ですが、
つまりは己が一番頭が良いという設定を崩したくない訳です。
ところが、ポールやぴかぁ〜は何だかんだで、
自分が一番頭が良いという設定を崩すものを避ける訳です。
ですから、全く鍛えられておらず、
飲み屋スレの様に仲間で傷をなめあったりとかしてるばかりなので、
外には出ない訳です。
ですが、現実ではぴかぁ〜やポールはむしろ
池沼扱いでしょう。
それは良い歳して無職というのもあり、
また、その割に言い訳が多いというのは社会人としては
やはり使いにくいというところから来るのでしょう。
飲み屋グループという分析のみが真実だと思ってる
グループでハニ丸とクダを巻いていては、
結局は使いにくい人間というカテゴリによって、
益々、現実には出られなくなり、反社会的なネット文化に
自己同化を進めるだけなのです。
さて、これでポールやぴかぁ〜が
現実には出られないという理由が分かったと思います。
ところで、私の恋の話でもしようかと思います。
私は及川奈央が好きなのですが、
ある日、彼女のインストアライブに原宿に出かけたのですが、
そこで、私は
純一『奈央ちゃ〜ん!こっち向いてぇ〜!』
と額にハチマキ、胴体に衣装を着て叫んでおりました。
そこで、私は彼女に尋ねました。
純 一『奈央ちゃん、彼氏いるの?』
とね、自分でもとても恥ずかしかったのを覚えています。
しかし、自分でも抑え切れませんでしたし、
それで聞いてしまった訳です。
分かりきっている答えをね!
すると、奥から親衛隊のニーチャンが出てくる訳です。
ポール『おいおい…誰に断って奈央様に告白してんだよ!ボケが!』
と不細工なオッサンが出てきた訳です。
すると、その後ろで小柄な気弱そうなオッサンが
強気で来る訳です。
ぴかぁ〜『そうや、ポール様に逆らうと怖いんやで!』
と、お前が前に出てこいよ、とか思いつつ、
その場を去るしかなかった訳です。
そして、そのままポール親衛隊に守られた及川奈央に
告白できずに終わった恋という話だったのサ。
そして、ある日、私は長谷川京子に恋してしまった訳です。
しかし、
チケットを買おうとしたある日、
ニトリ『オニーチャン、チケット買わない?
規定の三倍の値段だけどね、へへへ』
と怪しいオネーチャンが話かけてくる訳ですよ。
, ´,・‥’ 彡彳 ,ζ;∴ ヘ ̄"ル‐ハ_
_/∴‥ ノ⌒ヾ/ ノ | ミリルノハリ`.、
, ´ ● / /ゞ、・’ノ ,|ヘ ∴‥‘ヽ
,/'',', .,|□■リル ',', '/ /∴  ̄ o゚(◎) \ ヘ
と,-‐ ´ ̄■■リξ',','巛彡/ / ノ゚⌒ | `' ヽ ’・,)
(´__',,',', 、■ / / (_人_) l。ノ ,ヘ 乙三冫 ‥ノ
 ̄ ̄`ヾ_ し'" 。o゚(◎) ノ ’∴ノ にゃん
,_ \ (● ゞ、_@γ⌒ヾ `' /ルリ-‐リ´
(__  ̄~" __ , --一~ ゞ:_・ノ__,r-‐'リ"ル
純 一『普通の値段なら買うよ、はいこれ』
ニトリ『おいおい、ニーチャン、金払わないのは犯罪やで!』
と言われ、おいおいチケット転売は犯罪って視点は無視か?
とか思いつつ、相変わらずの偽善っぷりだなニトリ等と思いつつ
しかたなくチケットを買った訳です。
帰りの電車、ハニ丸がお尻を触っていましたが、
どうも相手の女性の恋人にバレたらしく、
ハンニバル『いや〜マシュマロみたいだな〜と思ってね他意はないよ〜』
と言い訳したものの、彼氏に右ストレートを喰らい、
涙を涎を垂らして終点まで倒れていました。
933 :
にゃん:2008/05/12(月) 10:51:16 0
, ´,・‥’ 彡彳 ,ζ;∴ ヘ ̄"ル‐ハ_
_/∴‥ ノ⌒ヾ/ ノ | ミリルノハリ`.、
, ´ ● / /ゞ、・’ノ ,|ヘ ∴‥‘ヽ
,/'',', .,|□■リル ',', '/ /∴  ̄ o゚(◎) \ ヘ
と,-‐ ´ ̄■■リξ',','巛彡/ / ノ゚⌒ | `' ヽ ’・,)
(´__',,',', 、■ / / (_人_) l。ノ ,ヘ 乙三冫 ‥ノ
 ̄ ̄`ヾ_ し'" 。o゚(◎) ノ ’∴ノ にゃん
,_ \ (● ゞ、_@γ⌒ヾ `' /ルリ-‐リ´
(__  ̄~" __ , --一~ ゞ:_・ノ__,r-‐'リ"ル
そんな恋であり、
私は突如、沢尻エリカ様に告白したのですが、
沢尻様からビンタを喰らった訳です。
ビンタを喰らうなんて、痴漢して捕まったハニ丸じゃあるまいし!
とかおもいながらね。
, ´,・‥’ 彡彳 ,ζ;∴ ヘ ̄"ル‐ハ_ 俺は考えている
_/∴‥ ノ⌒ヾ/ ノ | ミリルノハリ`.、 ここ三日こうして裸で
, ´ ● / /ゞ、・’ノ ,|ヘ ∴‥‘ヽ 俺は醜い身体をしているが
,/'',', .,|□■リル ',', '/ /∴  ̄ o゚(◎) \ ヘ それでも考えてしまう
と,-‐ ´ ̄■■リξ',','巛彡/ / ノ゚⌒ | `' ヽ ’・,) 最悪な人生、最悪な日
(´__',,',', 、■ / / (_人_) l。ノ ,ヘ 乙三冫 ‥ノ それでも俺は生きている
 ̄ ̄`ヾ_ し'" 。o゚(◎) ノ ’∴ノ まわりのオタク仲間は風俗に通って
,_ \ (● ゞ、_@γ⌒ヾ `' /ルリ-‐リ´ それなりに楽しくしている
(__  ̄~" __ , --一~ ゞ:_・ノ__,r-‐'リ"ル だが、俺はそうはなれなかった
, ´,・‥’ 彡彳 ,ζ;∴ ヘ ̄"ル‐ハ_ 俺は思考の中で考える
_/∴‥ ノ⌒ヾ/ ノ | ミリルノハリ`.、 綺麗な精神を維持する事の難しさを
, ´ ● / /ゞ、・’ノ ,|ヘ ∴‥‘ヽ オタク仲間も昔は気概があった
,/'',', .,|□■リル ',', '/ /∴  ̄ o゚(◎) \ ヘ 最底辺同士の友情を信じた時もあったっけ
と,-‐ ´ ̄■■リξ',','巛彡/ / ノ゚⌒ | `' ヽ ’・,)
(´__',,',', 、■ / / (_人_) l。ノ ,ヘ 乙三冫 ‥ノ
 ̄ ̄`ヾ_ し'" 。o゚(◎) ノ ’∴ノ にゃん
,_ \ (● ゞ、_@γ⌒ヾ `' /ルリ-‐リ´
(__  ̄~" __ , --一~ ゞ:_・ノ__,r-‐'リ"ル
, ´,・‥’ 彡彳 ,ζ;∴ ヘ ̄"ル‐ハ_ 消えてなくなってしまった
_/∴‥ ノ⌒ヾ/ ノ | ミリルノハリ`.、 あの時の友情
, ´ ● / /ゞ、・’ノ ,|ヘ ∴‥‘ヽ 風俗は自信をもたらしたのか?
,/'',', .,|□■リル ',', '/ /∴  ̄ o゚(◎) \ ヘ 友人、なあ友人よ
と,-‐ ´ ̄■■リξ',','巛彡/ / ノ゚⌒ | `' ヽ ’・,) おまえは世界に飲み込まれてしまったなぁ、おい
(´__',,',', 、■ / / (_人_) l。ノ ,ヘ 乙三冫 ‥ノ
 ̄ ̄`ヾ_ し'" 。o゚(◎) ノ ’∴ノ
,_ \ (● ゞ、_@γ⌒ヾ `' /ルリ-‐リ´
(__  ̄~" __ , --一~ ゞ:_・ノ__,r-‐'リ"ル
, ´,・‥’ 彡彳 ,ζ;∴ ヘ ̄"ル‐ハ_俺は今でもこうして
_/∴‥ ノ⌒ヾ/ ノ | ミリルノハリ`.、 グダグタやってる
, ´ ● / /ゞ、・’ノ ,|ヘ ∴‥‘ヽ なあ、友人よ
,/'',', .,|□■リル ',', '/ /∴  ̄ o゚(◎) \ ヘ 稼いで風俗行って
と,-‐ ´ ̄■■リξ',','巛彡/ / ノ゚⌒ | `' ヽ ’・,) それで楽しいのか?
(´__',,',', 、■ / / (_人_) l。ノ ,ヘ 乙三冫 ‥ノ 言い訳して、自分誤魔化して
 ̄ ̄`ヾ_ し'" 。o゚(◎) ノ ’∴ノ それで生きてるっていえるのかい?
,_ \ (● ゞ、_@γ⌒ヾ `' /ルリ-‐リ´
(__  ̄~" __ , --一~ ゞ:_・ノ__,r-‐'リ"ル
そんな夢の話だったのサ。
人の夢と書いて儚い、か…ふっ
夢を維持する事は難しい、
ポール似の友人なんか、
働かない理由を、
ポール『夢があるからね☆』
とか言ってますが、これは寒いですね。
何故なら、風俗通いで何が夢なのか?
夢を社会に食いつぶされているだけじゃないですかね?
ところで、私の好きな漫画の台詞があるのです。
無職だった頃、私はその台詞をよく読んでいたものです。
グリフィスはこう言います。
自分自身の成す夢です。
とね。
風俗とは夢の破壊であり、
現実への従属です。
夢はそんな事をすると壊れてしまう。
それが彼等にはわかっていない。
白紙の紙の重要性すらわかっていないとは、
そこに絵が書き込まれてはもうそれしか考えられなくなるのです。
946 :
考える名無しさん:2008/05/12(月) 11:15:01 0
____
/ \
/ rデミ \ あと、いちおう
/ `ー′ /でン \ にゃん
\ ヾニァ' /
ノ \
/´ ヽ
| l
____
/ \ 君達は人類の進化を、
/ rデミ \ 考えた事があるだろうか?
/ `ー′ /でン \
\ ヾニァ' /
ノ \
/´ ヽ
| l
948 :
考える名無しさん:2008/05/12(月) 11:27:16 0
.,ーi、 ,,,,_ ,,,,_ .|~゙\
.| ゙l ,,,,,-‐''"` `,! .,='i、_,,,,,-ヘ、 .| \ .| │ _,,-¬、、
゙l |r'"゙ヽ ゙l 丿 .| ` ゙l │ | ._,! .゙‐'゙''i、 _,/゛ .)
_,) .丿 `-i、 /'''" / ,r‐'1 │ ._| ""` .) l゙ ,,,ィ 丿
.l""` ,-',_ .| |_,,,―-、 ,l゙ ,l゙ / 丿 ,/"^ _,,,-, /'''''" `ー" ,l゙ /
`ヽ _,r、 .゙‐' ゙l ,,l゙ ゛ ゙l 丿 ,/ ,l゙ │ ゙l、 _, | | .| 丿 ,/
``,,7 .,,! .r‐‐″ ._,,,,,--" .,i´_,/′.l゙ 丿 `'''" | | | ,l゙ 丿 (
..,ー''″ ,-'" .゙l、 _, .,i´ ゙‐'` 丿 丿 |、 | | | ,i´ 、 .\
: ヽ .,,i、 ゙l ゙'‐'"| { ,l゙ ,l゙ ‘・" .| ,! 丿 ,/ヽ .ヽ
`''"` |、 ゙l | { ,/ ,i´ │ .l゙ 丿 ,/ .ヽ ヽ
│ |、 | ゙l,,,,,--=@ 丿 .,/′ l゙ 丿 丿.,/ .ヽ ゙l
゙l ゙l ゙l .| .丿.,/ l゙,,i´ 彡" ヽ │
゙l. 丿 \,,,,,,,,,-'" レ'"
>アクア説 (Aquatic Ape Hypothesis: AAH, Aquatic Ape Theory: AAT) とは、
>ヒトがチンパンジー等の類人猿と共通の祖先から進化する過程で、
>水生生活に一時期適応することによって直立歩行、薄い体毛、厚い皮下脂肪、
>意識的に呼吸をコントロールする能力といった他の霊長類には見られない特徴を獲得したとする仮説。
意識的に呼吸をコントロールする力というのは、
実は『喋る』という事に深く関係して来ます。
呼吸を操る能力がなければ言葉を喋るという行為はできまへん。
・ミッシングリンクの時代には海水面が高く、アフリカ大陸は北部の大部分が沈んでいた。
人類の祖先はこの時に海辺で生活し、海水面が元通りになると陸生活に戻った。
・体毛が薄く皮下脂肪が多いのは、水中で温度を保つのに都合がよいからだ。
これは他の水棲哺乳類と同じ理由である。
海水中生活に適応した人類の祖先は、海水を離れた後も川辺で暮らした。
川辺は失った水分をすぐに調達できる環境であったため、発汗のシステムは都合が良かった。
女性の頭髪が長い(伸び方が早い)のは、体が水に浸かっている時に子供を頭髪に掴まらせるためである。
妊娠中に頭髪が太くなるのもこれが理由である。赤ん坊が好んで女性の髪の毛を掴んで引っ張るのも、
かつて水中で子育てしていた頃の名残である。
953 :
考える名無しさん:2008/05/12(月) 11:33:37 0
ri|ソi  ̄ ̄/
乂リ /
_.......l__}_
/ ̄ ` 、 / ̄ ̄/
r7⌒ ,. / r‐ , r‐ 、 ヽ. / ̄ ̄/
[:::// j l `'' r‐, `'''゙ i |
i'/ r‐{ ', (_........_, / ‐─┼‐
l.l / } ヽ `'''''" / /
l.l /-ィ >、__ノ|` ──── ' |
. ヾ__/ ヽノ /.ノ! [ ] [ ] くヽl、 | |
 ̄ ! メ/ヽ. |
>‐┬┬──┤ ヽ人 /
/ / ! } { }
(___ノ ヽ__...ノ
・発涙のシステムは海棲哺乳類・鳥類にのみ見られる特徴である。
海棲鳥類は塩分を排出するために涙を流すが、海棲哺乳類の場合感情が激した時に涙を流すことがある。
・直立二足歩行は、海水に浸かった時に顔だけを出すのに有効である。
また他の水棲哺乳類やペンギンも同じ姿勢をとる。
・他の水棲哺乳類と同様に頭から尻まで一直線になっているため対面性交の形をとった。
洗練されたバランス感覚と柔軟な背骨は、水中という視覚などによる指標のない世界で泳ぐのに必要だった。
水棲哺乳類には人間よりも鋭いそれらがあり、アシカやイルカの芸は水族館でお馴染みである。
・水中に入ると心拍数が減る現象「潜水反射」が人間にも備わっている。
・一時期の胎児には名残が残っており、全身を毳毛(ぜいもう)と呼ばれる毛で覆われているが、
この毳毛は泳いだ時に水が流れる方向と一致している。
・現代の人間でも水中に長時間いて助からないと思われていても助かった例がいくつも報告されている。
・胎児の手足に一時的に水かきが発生するのは、かつて水棲していた頃の名残である。
手足に水かきの痕跡を持つ人がいる。
・生後間もない幼児は水を怖がらず、水中で反射的に息を止める能力を持っている。
通常、人類の進化は草原と森林の間で考えられます。
気候の変動によって、森林が島の様になり、
その森林と森林を移動する手立てとして、
木から降り、二足歩行が可能となった、という説です。
しかし、二足歩行がそれだけで成り立つ訳ではない、
というのがこのアクア説が出てくる根拠ですね。
その間にもう一段、水棲であった人類の可能性がある
という事です。
しかしながら、呼吸の操縦から
言葉を操る能力を獲得している事から見ても、
やはり水との関係は多いにあると考えられます。
直立二足歩行は脳の肥大をもたらしたと言われます。
そして、水生による呼吸の操りは言葉を喋る能力を獲得した。
後は文化です。
どうした?ゆっくり深呼吸しろ。
鼻と唇の間にある溝を人中と言うのですが、
これは鼻の穴を塞ぐのに適した形をしています。
トリビアなどでも一回紹介されたのですが、
実はこの人中で鼻の穴を塞ぎ泳ぐ方法がありますが、
この方法はある特殊な筋力が退化したものではできない。
人でも、舌を遺伝的に三つに折りたためる者と、
そうできない人とハッキリ別れます。
これは下戸と上戸がハッキリ別れる様に、
ほぼ遺伝的なものです。
ところで、人類はアフリカのある地域の特殊な猿が
全国につまりは、元々我々はアフリカ人なのですが、
それがとっとこと日本にまで歩いて移動してきた、
という訳です。
大体、ヨーロッパにはネアンデルタール人という
今の人類と殆ど変わらない人類が居ましたが、
それは全滅しました。
つまり、現在の白人は元々全部アフリカから来た訳です。
ここで水生となる特殊な環境が形成されたと思われます。
サバンナ説もあるのですが、私はこの辺りで
サバンナとプラスして水生もあったのではないかと思います。
まあ、いずれにせよ、確実なのは以下の様な事です。
『つまり、人類はアフリカのある特殊な大地溝帯に
閉じ込められて奇怪な進化をしてしまい、
その奇怪な進化によって、余計な呼吸をコントロールする方法、
無駄な直立二足歩行によって脳の肥大、そして言葉を獲得し、
文化をつくる存在となった』
という事です。
バタイユによると、ネアンデルタール人は
言語を持っていましたし、死者を埋葬するという意識がありました。
体型はドワーフの様にずんぐりしており、
素早い動きは得意ではなく、それでサバンナが増えた後では
新人類にとって変わられる事になります。
ネアンデルタール人は森で待ち構え、
槍で獲物を仕留める生活をしており、
化石骨格には右腕だけに強い力がかかった跡が残っています。
しかし、森が気候の変動によって無くなくなると、
素早い獲物を素早く追いかける能力が必要となり、
強大な筋力で獲物を仕留めるネアンデルタール人は絶滅していく事になります。
人類は水が生活に必須であり、
初期の文明もほぼ、川と密接に関わった状態で発見されています。
ところで、我々が当たり前に思っている事でも、
実際、まだこの段階では逆である事がかなり多いのです。
例えば、この時代の結婚というのは、
男が女の家に通う妻問い婚という形です。
宗教的にも地母神信仰であり、それがゆくゆくは逆転していくことになります。
現在のイラクは、人類の交通の要所でした。
ここから人類は色々な人種に分かれていくのですが、
ここはエデンの園やバビロンの塔、ユダヤ、キリスト、
イスラム等の古代宗教の舞台でもあります。
エデンの園というのは、実際メロポタミアの事を指しますし、
バビロンの塔はウルのジックラトを指すと言われています。
さて、この次期に対して、
大体、世界史では、ギリシア単一文明説を出す訳ですが、
ここではやはりエジプトやメソポタミアを
影響の範囲に入ってるだろうという意見が
最近多いですね。
画像で見ると、最初の鉄器もこの辺りで生まれています。
鉄器の独占は強大な軍事力をヒッタイトにもたらしました。
まあ、こんなところでしょうかね。
まあ、結局、いつもの芸術の話に戻ってきた訳ですな。
芸術の復活は分析哲学によって足止めされている、
というところが結論になりそうですね。
分析が邪魔をしているのかもしれませんね。
むしろ、分析=情報化社会のありがちな先入観
とも言えます。
しかし、それだけで果たして芸術は衰退するのか?
わかりませんね。
私も最近、自分の芸術が出せないのです。
やってもあまり反応する人がいないというかね。
どうしてこんな事になってしまったのか?
それがメインテーマです。
しかし…
かかし
この扉を開く、キーを私は持ってる訳です。
思想は中心ですからね。
後はこのキーを差し込み、
ブルルルルッっと、
エンジンをかけるだけです。
しかし、かかるのか?
そこが問題ですね。
キーはあっても車が無い、
そんな状態ではね。
私が、結局は歌を作るしかない。
それしかなさそうですね?
しかし、それが上手くいかない。
しかし、いずれは答えが出る。
その時、新しい純一をお店できるでしょう。
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。